ぜんぶ秦恒平文学の話

家族・血縁 2021年

 

* いい、寝覚めであった。

* 妻と二人で祝った元日は初めてではないか、三月に新婚の翌年は京都へ帰っていたろう。以降は子供たちが生まれていた。

* 建日子の好きな母の白味噌雑煮を、一緒に祝いたかったが、コロナ用心はお互いに欠かせず。大晦日の都の感染者数、一気に千三百を大きく越していた。用心は、欠かせない。

* 年賀状も例年のように貰っている。

* 仕事も、やすむ気はなく、いつものように過ごす元日、口を衝いての歌も出ないが、常なりで宜敷く。
2021 1/1 230

* 建日子が、メールで新年の挨拶。一緒に彼の好きな京の白味噌雑煮を祝いたかった。
今年も盛大にお努めあれ。
2021 1/2 230

* 「マ・ア」の運動会にはあまりにちいさな我が家、紙という紙の戸は裂かれてゆく。去年のカレンダーの幸四郎が、塞いでくれる。それがまた見栄えがする。

* さてさて、仕事。

* 16年 愛用を尽くしてきたちいさなコニカ・ミノルタがついに電池切れしてお別れとなった。小さいがほんとうにいいカメラだった代わりに買っておいた ソニー20.1というのが、全く使い方が分からない。「使い方」と付属部品との相応とが全く理解できず、なんたること手元にカメラが無くなった、胸ポケッ トに入る機械に慣れると、建日子の譲ってくれた大きな重いキャノンには、使い方も含め手も足も出ないが、別の新機を買いに有楽町の大きな店へ出向ける昨今 ではない。カメラが無いとずいぶん寂しい、高校三年頃に叔母に買って貰ったニッカの上等品は残っているが、フィルム写真機でもう何十年もつかっていない。 六十余年、手にカメラの無い初めて時期に入った。参りました。

* 食欲乏しく、妻がせっかく心遣いの用意の料理のいろいろに手が出ないのは、気の毒、申し訳ない、戴いて取っておいたシチリアのワインが 美味い。日本酒は名酒がたっぷりとあり、熱量は十分足りていると謂えよう、ただ自転車でポストへ走っても、ややユラリと危ない。幸い人出には会わないが。
校正に疲れたので、しばらく横になる、と、云いながら、録画しておいた、日本列島の地学的検討の見事な映像に魅入られていた。夕食も済ませたので、休みたい。
2021 1/2 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 血縁の愛

★ 叔父の遺児引取りて店に働かす
吾もこの年齢(とし)に父を憎みき    針ケ谷 重義

☆ この愛は苦しい。事情を察するのはたやすいが、わが「店」で働かせている甥は容易に叔父の思いに気がつけないだろう、この叔父にして「今」それに気がついたばかりなのだから。「父を憎」んだというのは、おそらく「父」の死とそれに由る孤独とを憎んだのだ。
かつての自分と同じ苦痛を押し殺して働いている甥に、今よりラクをさせてやる余裕もすべもない叔父のつらさが、よく出た。 「短歌研究」昭和三〇年八月号から採った。

★ 心許す人無きままに守銭奴と
言はれつつ叔母は長く生きたり    東村 鈴子

☆ 小説にしてもいい。しかしまた、小説に長く書く必要なしに、これで言い尽くせていてよく首肯けもする。「長く生き」の文字に私は、ため息のような濃い愛を感じた。伯父ではない「叔母」であることにも首肯けた。
「女」が一人ながく生き抜く厳しさを、私も、同じようにわが「叔母」の上に見てきた。見ているしかないのも、つらいものとも知っている。 「アララギ」昭和五〇年七月号から採った。
2021 1/3 230

* フイと眼前の書架に手を伸ばし、明治四十年十月に七版の博文館蔵版「支那文学全書 第廿四編」城井壽章講述の『史記列傳講義 下巻』712頁をみて、上巻にも無い「目次」が下巻にも無い。なにもかも、しきなり始まるのだ、下巻本文最後の一行は
太史公曰。余述歴黄帝以来至太初。而訖百三十篇。
と。
いま上巻前半の「蘇秦列傳」の途中まで読んでいるが、上下巻で千数百頁の完讀は、成るとしても今年中でとはとても謂えそうにない。しかし、興趣尽きない史書であり人物評伝であり、なにより支那人のとてつもない懸命で頑強な気象が知れる。
それにしても、目次のない本が明治ものには時々あるのは、不親切です。
わたしが買い置いた本ではない、明治二年生まれの秦の祖父の旧蔵書を私が京都からみな運んだもの。「老子」「韓非子」「唐詩選」「古文眞寶」「左氏春 秋」はじめ、引っ張りだせば目を剥く。よほど長生きしないととてもとても読めない。有り難いのは大枕になるような事典・字書など。それでも見つからないほ どの字を、いま取り組んでる明治人は平然と遣って呉れている。私の頭、割れてしまいそう。
2021 1/5 230

* 建日子 誕生日を祝います。 元気に注意深く 頑張って下さい。
母さんと二人で建日子のお祝いをしました、赤飯で。

コロナ禍は、熾烈という認識で 一分の油断もなく、躱して行きましょう。
今は、机で、小説の力作に努めてはいかが。 わたしも、そうしたい。

怪我無く 日々 大切に。 父

古備前の「餓鬼腹」水指 どっしりと可愛がってやって下さい。
2021 1/8 230

☆ (誕生日を祝います 建日子 元気に、注意深く 頑張って下さい。 一月八日。父)

ありがとうございます。

最近は、岐阜のお酒と、父さんからいただいた備前のぐい呑みで、メンタルの調整をしています。

コロナ、用心に用心を重ねて、仕事をしていきます。

保谷もどうか お気をつけて。  建日子。
2021 1/9 230

* 歌舞伎座初春興行の玉三郎の踊り、高麗矢三代での「車引」また愛之助、松助らでの「らくだ」などをテレビで楽しんだ。十代目松本幸四郎の誕生日は秦建日子のと同じ一月八日、お祝いのメールを送っておいた。
歌舞伎の舞台に、コロナ禍の及ばぬ事を切に願っている。なにしろ、代わりが、ちょっくらちょいとはいない、出来ない、世間なのだ。藤十郎が亡くなり、片 岡我当が健康を害したまま永く舞台へでられずにいる。白鸚、菊五郎、秀太郎、吉右衛門、梅玉らに何としても歌舞伎の大時代を次へ豊かに繋いでもらいたい。
2021 1/10 230

* また一つ興ある一文を 祖父の遺蔵書に見つけた。書き写すのは骨だけれど。 九時半
2021 1/10 230

* 高校校舎の長い廊下の一等西の端へ出ると、京の街が一望できた。きっちりわたしの目の高さで、ま西に、東寺五重塔の高くトンがった尖がくっきり見え た。西山までまおもにくっきり見えた。小雪のとびそうな真冬の寒気に痛いほど顔を晒したまま、よく独りで、じーっと遙かな塔の尖を眺めていたのが、昨日今 日のように思い出せる。市立日吉ヶ丘高校が好きだった。「ああひんがしの丘たかく、松の翠りのわが姿」と歌う校歌も好きだった。学校からすぐ東の山辺に、 泉涌寺があり、「慈子(あつこ)」の「来迎院(らいごういん)」があった。日吉ヶ丘から下みちをやや南へ寄ると、通天橋(つうてんけう)や普門院のある東 福寺だった。岡井隆さんが『昭和百人一首』に採ってくれた短歌はそんな或る真冬日にそこで詠んだ。授業中に教室を独り抜け出しては、来迎院へ、通天橋へと よく通った。

* 旧臘冬至に満85歳になったが、昔の「数え歳」でいうと、さきの元日にはもう86歳であった。昔から、おまえは「十日一年」、誕生の師走二十一日から十日間して元旦にはもう二歳(ふたつ)になってたんやと、年寄りは、よく云うた。
数え年なら五歳になっていたか四歳か、秦の家へ連れられ、貰われたのか預けられたのか、初めての「お正月」の箸紙にわたしの名は恒平でなく、「宏一」 (ひろかづ)と書かれていた。お茶お花の先生をしていた叔母が、「こういちとも読めるえなあ。隣りの孝一ちゃんと、おんなしやなあ」と笑ってくれたのを声 音までよく覚えている。三畳の中の間に、黙ッと怖そうな祖父と、まだ馴染まない中年の父と母と、そして未婚の叔母とちっちゃなわたし、五人で、まるい黒い 塗りのお膳を囲んだ。食べ物の何も記憶にない、祖父と父とのあいだに、大きな瀬戸物の火鉢で炭が赤く燃えていた。温かだった、が、わたしはどんな顔つきを していたのだろう。

* ああ。もう、八時になって。なんと…。八五老の目が濡れている。
2021 1/12 230

* ちいさな、しかし烈しい争闘の物音でめざめた、ときどきお決まりの「マ・ア」争議。ともすると外へ出たがるアコを、用心ぶかいマコが止めようとして起きる烈しい取っ組み合い、巻き込まれて妻が脚に怪我したこともある。

* わたしはというと、八時すぎに目覚めたが、そのまままた寝入っていた。正体の崩れそうな体調の違和に、やがて一時になろうというのに衰弱のまま、い る。トーサン好きなマコは、この部屋へ連れてきてある。ソファの「巣」から、わたしの背中をみている。いつものジャズが静かに、わたしは左側頭部にかすか な不快感のまま、キイを押している。地球にはコロナの悪風が吹き荒れ、日本國のウスノロめく失政は恥しらずに紙風船よりかるい言葉で言い訳すらロクに出来 ない。
2021 1/13 230

* 七時半。手を伸ばしたら、書架のはずれに明治版の本が四冊あった。
以下三冊の偉業館本は頒価は不掲だが、
元・曽先之編次 日本・大谷留男訓點『十八史略(片假名付)』大阪岡本偉業館蔵版 明治二十九年十月發行
梅崖山本憲講述『四書講義』上下巻 大阪偉業館蔵版 明治三十一年四月二十八日再販
梅崖山本憲著『図解説明 文法解剖 全』 大阪文陽堂蔵版 明治二十七年二月十二日第三版 定価二十銭

『四書』とは「大学」「中庸」「論語」(上巻)そして「孟子」(下巻)。なんと有り難い。韓国ドラマをみていても世子や王子らはきちんと習っている。この「八五老」とて奮起あるべし。
『十八史略』は「略」とはいえ、まさしく太古、三皇以来の神話から人史の元朝にもいたる『史略』なのだから、それも片仮名ですべて漢字のよみにルビ付きだから、ま、宝石のような一冊である。
遅いというなら遅すぎたが、早くに呼んでいたからどうという人生行路への影響や支障はなかったろう。籠居の日々に 創作の脚をとられぬ限りで、西洋の小説と共に東洋中国の歴史を原語で読んで楽しみたい。

医学上 人身解剖の例にならった「文法の解剖」となるとちょっと手が出ない、が、前三冊は有り難い。云うまでもないこれらも秦の祖父鶴吉の遺蔵書の一部である。目下愛読中の『史記列伝』上下冊を読み終えたら是非手にしたい。
昨夜であったか、おお感傷的に秦家へ入った初のお正月のことを書いたが、黙ッとして怖そうな祖父の印象自体は祖父が昭和の敗戦後半年で亡くなるまでかわ らなかったが、父でも母でも叔母でもない祖父の堅い教養的旧蔵書がじつに多彩にあることはよくよく認知していて、何構うことなしに幼かったわたしは引っ張 り出して読めるワケのない漢籍・漢詩集などでも日本の古典でも、とにかくも目に触れしめていた。
中には1000頁もの『日用百科寶典』や『文法詳解 増補明治作文三千題』などもあり、幼少恒平クンを様々にコーフンさせたのだった。
「「湖(うみ)の本」前冊の『山縣有朋の「椿山集」を読む』も、次冊も、あの「お祖父ちゃん」の蔵書でこそ書き出せたのだ。感謝感謝感謝。
2021 1/13 230

* 小豆粥の雑煮を祝った。お正月さんが行かしゃる。
2021 1/15 230

☆ 今日(昨日)の朝日新聞の夕刊に建日子さんが。
「オトコの別腹」欄にコメント。映画「クハナ」の監督をされていたときに地元の皆様がいつも差し入れしてくださった「安永餅」を推薦されていました。写真も、作家紹介も。
小正月に嬉しい話でした。
6月には3作目の映画も公開とか。それまでにコロナ騒動も治まって欲しいものですね。
静かに、元気でいましよう。      練馬  晴美   妻の親友

* 作家には、「書く」機会は寶もの、無駄にせず、心ある文章を大事にのこし置くこと。山となればそこから視野も広がる、深まる。
2021 1/15 230

* コロナ罹患の拡大、若い人たちのわがままな鈍感が家庭内感染へ影響している怖さはとうてい否定できない。そして、いま、家庭内で罹患重篤化することは 死への短距離と思わねば済まない。「死」という人生最大の難関へいまや日本中が当面している現実から、だれも顔を背けられない。恐ろしいことだ。
いま、あの賢かったやす香が生きていてくれたら、どう振舞いどう語っているだろうと想う。
2021 1/18 230

* 遊んでいるうち、定時の病院診察から、妻帰宅。四時前。安堵。
2021 1/19 230

* 九時になる。次の「「湖(うみ)の本」の用意に。一冊に入る分量と、すでに用意のある分量との均衡が問題、後者は、前者の少なくも何倍もあるだろう。アタマの痛むほど考えて取りかからないと途中で立ち往生してしまいそう。
用事はイヤになるほど有るのに、仕方なく放置されてある、大方は郵便に類するのだが、今はボストへも局へも行きたくなく、宅急便を預けにも行きたくな い、極力人と顔を合わさず言葉も交わさないようにしている。夫婦二人くらしだと或る程度それが徹底できる。それに退屈と云うことが全然無い。有り難いこと だ。
これで、建日子の顔を見ながら話せるような設備が出来るといいのだが、手が回らない、そんな設えも出来ない。幸いこの書斎は、じつにさまざまに賑やかで心温まる。ときに「マ・ア」が来る。鰹節を用意して、ちょっとずつご機嫌をとる。
2021 1/19 230

* 胸痛む問題が起きた、の、かも知れない。この三日ばかり「アコ」が排尿していないという。便はでており、元気ではあるけれど、近くの獣医さんの電話では、油断の成らない容易ならない体調なだそうだ。明日夕方にその獣医院へつれて行くが、さ、どうなるか。
これまで、 ネコ  ノコ  黒いマゴと、ともに暮らし育てそして見送ってきたが、排尿と謂うことは分からなかった、分からなかったけれど、ネコとノコとの場合は何が何とも分からず重篤のまま見送った。
大事に至らないことを切に祈る。

* 書斎にアコ、マコ、私、三人で入って、ソファに腰掛けてやると「アコ」も「マコ」も両脇へ安楽に寝そべりまことに大人しく満ち足りている、ときにちら ちらと私に甘える。すこしずつ削り鰹を摘んでそれぞれにやるとそれは嬉しそうに食べる。真ん中で私が校正の仕事などしていると、安心しきって両側から私に 触れ合うて転た寝している。いつまでもこの愛らしき二人、斯く在りたい、在って欲しいと切に祈る。
2021 1/21 230

* 「マ・ア」の写真を撮りたいのだが、手慣れた小型カメラが電池切れで遣えず、家の中でだから建日子が以前私の手元へ呉れていったキャノンカメラは大き く思いのだけれど、肝心の機械の操作も分からず、シャッターを押しても、撮影分が私のこの機械へ取り込めないのではお話にならないが、そういうことは建日 子クン、やりっぱなし、置いてけ放り出しで機械としての妙や法を解説も指導もしてくれない。重い機械を戸外へ持ち運びはハナからする気ないが、家でならた かがカメラの重さぐらい問題にならない。
どうするとカメラから此のパソコンへ撮影ものを移転できるのですか。

* ああ、もう九時。昨夜はバイデン就任を見終えて午前三時、それからが朝八時まで全く眠れぬままの苦夜であった。休まないと私が潰れる。
あす夕方には獣医院へアコを連れて行ってやらねば。無事に、通り抜けられますよう。祈る。
2021 1/21 230

* 都内、コロナによる医療逼迫ないし崩壊は顕著で、いま感染が疑われても救急車ですら受 け入れてくれる病院をみつけるのに汲々とし困難を極めている。罹ってはいけない、用心には用心を、冗談でない現状と、羽鳥番組は事実と資料をあげて切言し ていた。都は、しばらく他を措いても対策を急ぐべきだろう、場所がないなら、実現しそうにないオリンピック用の広大な駐車予定場など、急いで医療対策に実 用すべきだろう。

* 異様な一年だった、去年は。

* 四時、「アコ」を近くの獣医院へ。幸いに排尿不全、異常ということなく、ワクチンをうってもらい、爪を切って貰ってきた。良かった、不安に怯えた。何事もなく、良かった。
私にも、しっかり元気が出て欲しい。今日の仕事もかなり捗った。「マ・ア」一段と私と仲良く、書斎のソファで寝入ったり、削り鰹をせがんで舌鼓打ったりしている。
八時半、やすむ体勢に入って良い。
ケイタイ電話でも「撮れる」という写真を試みかけている。写ったかも知れぬモノはまだ観られてない。「電話を掛ける」というのは、先方の現状が見えていない、ので、昔のように仕事なら躊躇わないが、今は、わたしは掛け渋る。向こうサンが独り者ならまだしも。
2021 1/22 230

* アコ、昨日医院で受けたワクチンが多少身に応えているのかも。大丈夫。がんばれ。 2021 1/23 230

* 「アコ」回復かと見えて胸を撫でている。感謝。
2021 1/24 230

* ホンの一段落で、八時。まだ休めない。九時。「マ・ア」がそばへ遊びに来た。削り鰹を一つまみずつ上げる。
2021 1/25 230

* 昭和七年(一九三二)八月末に發行、そして十三年十二月に出た第五版本468頁の『古事記』(送料拾銭、定価八拾銭)を手にしている。
文部省蔵版(日本思想叢書第五編)文学博士次田潤校訂解説と表紙にある、が、奥付では、著作者「文部省社会教育局」 發行者「財団法人 社会教育會」 そして發行頒布は「大日本教化図書株式会社」ともある。
まちがいなく、これは私が国民学校一年生を終える前後の昭和十八年春先に、何用があったのか秦の父に連れられ訪れた山城山田川にお住まいの「担任』吉村 女先生のお宅から、帰り際の玄関で手渡しに頂戴した一冊である。そして永い生涯でこんなに耽読し、ほぼ暗誦もしてしまった本は、他に無い。古事記「解題」  古事記「序解釈」、そして「口語訳」の 古事記上巻 中巻 下巻 が続き さらに「直訳」全部が収録されている。口語訳で内容をすべて覚え、さらに直訳 で「神話」古文を音楽のように音読して楽しんだ。少なくも「神武東遷」までの神話をこよなく愛読し記憶した。その照り返しであったろう、私は子供向けの絵 本(講談社絵本)や漫画本を好まなかった。絵本の繪を怖がったし、漫画は面白くなかった。「のらくろ」を断片的に、そして「長靴三銃士」という物語漫画を 記憶しているだけ。『古事記神話』の洗礼をまっさきに受けた感化は大きかった。今でも、少なくも「神武東遷」までの「神話」を日本人として信愛し親愛している。
天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかまのはら)に成りませる神の御名(みな)    は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に
いまも子、供達には読んだり聴いたりしてほしいと思っている。
ともあれ、そんな生涯を決めるほどの「出会い本」がいまも手にできる有り難さ、遙かに、吉村女先生に心より御礼申し、大切にしたい。まさしく「日本古典のナンバー・ワン」を手渡されたのだった。
2021 1/28 230

* 三時半  いくらか検討の余地はのこしたが、追加挿入原稿や 序 など書き、挿入箇所指定を終えれば、初校了 要再校として返送できるまで「「湖(う み)の本 151」 こぎ着けた。まことにご苦労なことであったし、再校段階で、尚お 幾苦労もあろうけれど、遅くも三月半ばには送り出せようか。但しこ れは現場仕事先のコロナ事情でどうなると見通せない。最悪は、桜桃忌の記念という、まる一年目の出版にも成りかねない。それでも、期待に応えるいい一巻に なるようにと手を抜かない。
ま、引き続き分の新規入稿、これは、量は嵩みそうでも、手慣れた作業で進むだろう。
それにしても、何という私の生理的視野の混雑悪化。左眼がひどい。しかし、今は眼科も歯科も、聖路加へも、とうてい動けない。コロナ感染は決して軽視で きない。85老二人の共倒れになる。のは避けねば。建日子も気を遣ってくれて、あえて此処へは帰ってこない。こっちにテレワーク設備があれば顔ぐらいは見 られように。
2021 1/28 230

* 建日子の呉れた大きな重い「キャノンカメラ」の周辺付属器具に触るうち「電池充電」という手に思い当たり充電してみたら、曲がりなりに写真が撮れた。 これで持ち歩かぬまでも家の内外では撮影可能になった気がする。今度は、それらをどうこのパソコンへ取り込めるのか、それが是非に出来るようになりたい。

* この「私語の刻」の冒頭部は、ちいさな、私写真展示の「自愛」館の役をしてくれている。沢山は載せられないが、いま、土牛と薫の「牛」といい、良平の「少女像」冨子の「浄瑠璃寺夜色」といい、月替わりだけで取り替えたくないなとおもってしまうほど。
「私語の刻」ずうっと下欄へ画面を運ぶと、なぜとも知れず今は顔もあわせられない娘・朝日子らの思い出多い懐かしい写真も、建日子のも倶に何枚も置き、「貌が見たく」「逢いたく」なると其処へそっとキイを降ろして行く。
2021 1/29 230

* 古新聞を積み入れて口は閉じてない故紙袋へ「マコ」が跳び込み、お風呂から顔出したように、真っ黒に金いろの両眼。その写真が階下の妻からメールで届いた。
この子、あの、 今も恋しい亡くなった「黒いマゴ」の小さかった頃に生き写しで、私にしんじつ懐いて呉れる。「マ・ア」を、老いた両親の我が家へもたらしくれた建日 子の親孝行、謝謝です。
2021 1/30 230

* 今朝は、八時前に、妻や「マ・ア」が起きて行ったナと承知してゆっくり寝入った。寝起きのすこし前の夢の一画へ、突如 愛くるしく穏和な沢口靖子の笑 顔と、ガラス窓を距ててふと直面した。靖子は戸外にいてわたしは何かしらビル住宅の内にいた。「ここにお住まいでしたの」と靖子ははんなりと且つまじめな 笑顔だった、この機械に蓄えられた数十枚の顔写真のどれよりも佳い笑顔だった、帝劇の楽屋で、妻も一緒に、「細雪の雪子」衣裳で写真に撮られたときより若 い青春顔をしていた。夢は、三十秒ほどで霞み、やがてわたしも床を離れた。

* こんなふうに、私は、いつも「夢・現」の前後左右に「ただよひ」生きている。「ゆめ」世界はますます賑わい「現つ」の日常はいまや繪に描いた籠居であ るよ。仕事していると「マ・ア」が椅子のきわへ訪れてくる。「削り鰹」をホンの一とつまみを楽しみに階下からとことこ訪れるのだ。「方丈」という居室はな にも閑散と孤独にいる場所ではない。いろんな懐かしいモノや写真たちで、騒がしくはなく静かに賑わっていて心温まる「方丈」なのです。「綽綽有悠」と此処 に暮らしつづける。

* 十時半をまわる。時間と疲れを忘れ、頑張っていた。
2021 2/2 231

* 一時 郵便箱を見に玄関外へ出た、その瞬時にドアを推して出たか、「アコ」が、以来、どう探しても帰ってこず、六時半をまわって外は真っ暗。暗澹とし た思い。私がドア外へ出る時も、アコは玄関上の廊下にいて、最近は外へ出ないとも聞いていた。気が付いたらドアがやや緩んで開いていて、家の内に姿なく、 もう戸外を声かけ声かけて呼んで探しても現れず、相当遠くまで自転車で廻ってみたが見つからない、
暗澹とし嘆いている。出て行く姿をチラとでも見ていればと思うが、かき消すように「アコ」は消え失せたかのよう。「マコ」も寂しそうに甘えてくる。私が、ウカツだった。帰ってくるのを、じっと待つ。待つ。

* 仕事はたいそう捗ったけれど。
気は重く、哀しい。朝にもしっかり抱いてやったのに。帰ってこい、アコよ。

* 八時半。アコ帰らず。泣くのをこらえ、鳴き声に耳を澄ましている。マコは出歩くのを嫌い、アコは出歩きたがり、そのつどマコがアコに怒って何度も叫びながら取っ組み合っていた。可哀想にマコが案じに案じて鳴いて呼んでいる。弱った。

最愛のアコ 無事に 無事に 無事に 早く帰ってきて 帰っておいで

* 神隠しに遭ったように、ちいさな痕跡一つ目にも耳にも無い。ただ泣いて待つばかり。こういう時節に我々が感傷のまま過剰に無用心に外歩きするのも軽率になる。ただひたすらに無事帰宅を祈るばかり。
2021 2/3 231

* アコも、怪我無く、無事で、早く帰っておいで。トーサンも カーサンも待っているよ。待っているよ。
2021 2/3 231

* アコ家出失踪の悲しさに殆ど睡らず、順に10種も和漢洋の本を読み、最後に建日子の文庫本『サイレント・トーキョウ』を一冊、朝七時半ごろまでに読み 切った。停頓もなく読み終えた。めずらかな読書であった。目下わたくしの仕事と関心または意向・論調でふれあって交錯しそうなのは、「戦争」の一語だった と思う、それも意向の向かい先はちがっていて、それはそれなりに受け取っておける建日子の現代世界のテロリズムを見通した理解・主張であろうし、私のそれ は現代を見越しながら明治から昭和へ通じた戦争観への一つの異議申し立てである。コロナ禍ののちに、ゆっくり話し合える日の早いのを待ちたい。

* アコ不在の悲しさ淋しさは、だれより弟のマコに露わで、われわれ両親も耐え難い。わたしのウッカリ・ドアがアコ飛び出しを誘ったのだし、それが不思議なほど、そのまま一晩も、朝になっても、帰ってこない心配と哀しみ……何とも…、泣いている。

* ひるまえ、妻と、近在を歩き回って「アコ」を呼んだが、甲斐なし。出かける前、家の中でマコが留守しているのは確かなのに、お隣とのあいの塀の奥に 「マコ」が座ってこっちを見ているのに仰天。ところがやはりマコは家にいて、塀うえの真黒いじつにマコそっくりの顔・身体の子は、よく似た別猫だと分かっ た。双子でもこれほど綺麗に似た子はいるだろうかと驚いた、が、「マコ」と「アコ」とはまったく良さで生まれた兄弟で建日子が我が家へもたらした。この近 所で生まれた子ではないのだ。
胸の鳴る不思議である。しかし、アコに帰ってきて欲しい。
2021 2/4 231

何処にでも入る アコ ちゃん

* 夕方前、もう一度、近くの竹藪に沿った小公園の方へ空しく妻とアコ捜しに歩いてみた。

* 「「湖(うみ)の本 152」の入稿原稿が、八割がた仕上がってきた。アコを想い想いのガンバリである。マコが、寂しそうに甘えてくる。マコのためにも、とんでもない私はシクジリしてしまった、謝りようもない。ごめんよ。
2021 2/4 231

* 記憶の薄れないし喪失、また認知症的な傾向は、或る程度この歳のことやむを得ぬと思い又傾向はややに顕著化して行きそうなのが自覚出来ている。ヒトや モノの名を忘れるのは、ま、良しとして、困るのは機械操作の手順にふと迷いが出たりする時は困ったなと思う。順調に老いを積みつつあるらしい、余儀ない自 然の成り行きと諦めている。

* 「アコ」「アコ」と呼ばわって妻と、二度にわたり近在を歩いた。心身の疲労余儀なく、明日は、駅の方まで交番へ届けるという。バスを避けるので、いまの我々の足取りだと駅まで片道三十分は歩くだろう。腰が痛まないのを願うばかり。ロキソニンのお世話になる。

* 幸いに、ゲーテの「ファウスト」 ミルトンの「失楽園」 「宇治十帖」 「史記列伝」 「柳北全集」 が断然 興味深く心に響く。千数百枚は下るまい 長谷川泉先生の「鴎外ヰタ・セクスアリス考」も読み出すと止まらないほど。老境の私を質的に助けるのは「良い読書」だろうと念願している。

* 八時半だが、前夜はほとんど寝ずにいた。建日子の文庫本をはじめて一気に読了もした。
疲労をしつこいものにしないために、もう休もう。アコは、飢えているのでは、怪我していないといいが、帰ってきて呉れるのを、祈って待つ。
2021 2/4 231

* アコの声がしたかと 早い朝いちばんに近所を一回りし アコ アコ と呼び廻ったが。空しく。帰っておいで。

* アコを呼んで家の中をはせまわるマコの声を聞いていると、悲しさに、わたしは、潰れそう。一瞬のすきにアコは外へ出た、決して遠くへ行くような子でなく臆病でもあったのに、神隠しに遭ったようにかき消えてしまい、帰ってこない。

* 仕事にかかり、十一時。
午後、駅の方の交番へ失踪を「届け」に行くと。無事でいて欲しいが。飢えてもいよう、寒かろう。

* むかしは駅まで十三、四分とかからなかった駅まで、三十分は優にかけて、銀行と交番と駅の売り場まで妻と往復、へとへと。アコと呼び呼び歩いても返事は無く。疲れた。体力も気力も、夫婦とも、へとへと。
2021 2/5 231

* アコ(猫の)の写真に「帰ってきなさい」と滾々・懇々と呼びかける。

* 八時前、だが、疲れきってながら仕事は捗らせた。この部屋で仕事に没頭していると、脇のソファへアコとマコとがいつものように来て「削り鰹」頂戴と行ってくる気がする。
階下で休息し、そのままもう床に就いて本の世界へ没頭してもいい。
いま一に惹かれて懐かしいのは「宇治十帖」でわたしのむもっとも愛する「中君」が、匂宮の妻として二条院へ引き取られて身ごもり、匂宮は右大臣夕霧の六 の君の婿にもなったあたり、薫中納言が中君に恋慕してしまっている。何度も何度も何度も読んできたげんじものがたりだが、ゲーテの「フアウスト」ミルトン の「失楽園」という世界史的な大の名作と向き合って、凌ぐほどの文藝の魅力に溢れているのだ、感嘆のほかない。「ファウスト」も「失樂園」も、溜まらなく 魅されて面白く読める。
そして、魅されるというのではないが、「史記列伝」の凄まじいまでの権謀術策のまさに「列伝」に怖毛だつほど。中国人というのは、日本列島ひとがまだ貝 塚を積み、どんな言葉を話してたかも知れないほどの大昔に、もう合従連衡など戦国のたくらみで闘いあい、勝てば相手の「首を切る」こと「何萬」「何十萬」 と数えている。凄い連中、そこから抜け出て、中国中原に、初の「統一帝国」を建てるのが「秦」ですとさ。
日本の作家代表の一人として中国に招かれたとき、大会堂へ招待主として出席の、当時死去間もなかった周恩来(毛沢東に次ぐナンバー2)夫人(副首相)か ら、「秦センセイは、お里帰りですね」と笑顔で挨拶されたとき、「秦の國」へ来て居るんだなと、ちょっとフクザツな心地だったのを思い出す。二度目の訪中 では、バイオリニストの千住真理子さんらと超巨大な始皇帝陵を「見物」した。仰天モノであった。
いま二階では、機械の脇へ出している「四書講義」と片仮名付きで「十八史略」を読み始めている。寝床脇へはちくま文庫「荘子」雑編も持ち出して読み進んでいる。中国の読み物では「水滸伝」と「三国志」をみているが、むしろ詩に親しんできた。
それに比べると朝鮮半島の本というと「古代史」をよんだだけで、他はもっぱら韓ドラです。

* と、振り向いても 「マ・ア」の姿が、無い。やがて、九時。心凍えるように、悔やまれる。アコ、ごめんよ。マコ、堪忍しておくれ。

☆ アコ 帰った!! アコ 帰った!! 帰って来た。 夜九時。

* 機械閉じて、電氣消して、階下へと靖子ロードへ出て、もう毎度のように外の路上の見下ろせる窓を開けて。マコ、マコと呼んで、薄明かりの路上を見下ろ して …… と、うちとお向かいとの路地真ん中に、何か、影が動かない…が、目を凝らすと、アコが蹲っているかと。すぐ階下の妻を呼び、表へ出した。また 真ぢへ戻ると、路上の影は失せていた…が、鳴き声がした。妻が見つけてくれた。アコの帰還!!  よかった よかった よかった よかった。 妻が抱き 帰って、すぐ、削り鰹をやり、予想通り マコ はアコに唸って怒っていた。マコは、従前から アコがともすると戸外へでようとすると、烈しく制止して怒る のだ。
よかった よかった。
2021 2/5 231

* 両手の指先が鳴りそうに痺れている。「マ*ア」はもうこの部屋で「削り鰹」を嬉しそうに食べて、階下へ。家族の揃っている宜しさを喜んでいる。
今回の「アコ」喪失一件でしみじみ思うのは私は何ら意志的理性的人間でなく、過剰なまで情、感情、感傷の人間だということ、そんなことはとうの昔から自 覚も承知もしてきたし、それを羞じたり嘆いたりすることは無かった。そう生まれついているなら、それで生き通すと思ってきた。
同時に、だから意志的に生きたい、いきると自身に励ましつづけてきたと思う。
一切の大學受験など放擲して、好成績を利してあっさりと無試験推薦で同志社へ入ったのも、学問的学問をして「教授へ」の道など棄て、家を棄てて、恋人と 東京へ出て極貧の新婚に甘んじ勤めながら一人学びに勉強を積み増しながら念願の「小説家」へ全身で逼りつづけ、私家版本を四冊も作っている内に、突然とし て、四冊目の巻頭作『清経入水』に太宰治文学賞をという有り難い申し出に会った、まさしく文学の世界へ招待してもらった。これら経緯一切は、すんりに意志 的なガンバリであったが、それも内実は情緒的に自身を濡らし濡らしの「夢見がちな時代」だったのだと思われる。
同じ事は、以降、猛烈なほどの原稿を書き、本を出しつづけたあげく、こんどは「秦 恒平・湖(うみ)の本」など思いつくと「騒壇余人」と自称し、突如として國から「東工大教授に」と招聘されて六十定年までつとめ、その後もほぼ文学世間か とは付かず離れず今日にも至っている。自身をある種の「感傷」「情緒」「夢想」に委ねられない人には真似はできないと思う。わたしは、それをやり遂げてき た、作家・文筆家として。百冊の単行本をもち、三十三巻大冊の「特装選集」をもち、とめどもなく「自作自編のシリーズ本」を150巻も世に送り出し続け、 今もとめどない。こういう隙勝手な人は、日本中に一人もいないし、世界のことは知れないが稀有と思う。理性と知性の人たちには不可能な「夢と感傷と情緒」 の所行・所産だったとつくづく自覚する。
だからこそ、猫の「アコ」が二三日失踪失跡しただけで、身も心も折れそうに泣いて嘆けるのである。京都での少年のむかしから、きまって、「変わっとる」「変わってはる」と言われつけてきた。そうかも知れないが、自分では、ただ「情のまま」に歩いてたんやと思う。

* こんな見極めが出来てきたのは、もう残り少ないなという予感であるのかも。
ま、やれるだけは狂気じみた情趣を身に抱き、恰好にも行儀にもなんら構わず、どう笑われながらでも今暫くとぼとぼ歩きつづけたい。
2021 2/7 231

☆ 昼目歌(ひるめのうた)  催馬樂

いかばかり良き業(わざ)してか
天照(あまて)るや日孁(ひるめ)の神を暫し止めむ
暫し止めむ

何処(いどこ)にか駒を繋がむ
朝日子(あさひこ)が映(さ)すや岡邊の玉笹の上に
玉笹の上に

* 何という胸の奥の奥に遠い懐かしい「神います昔」の歌声か。
「末」うたの、「玉笹のうえに映(さ)す「朝日子(あさひこ)」は、私たち夫婦が初めて抱いた娘に、愛情に溢れて名付けた名。

ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこに
うづ朝日子の育ちゆく日ぞ
「朝日子」の今さしいでて天地(あめつち)の
よろこびぞこれ風のすずしさ     一九六○年七月

その娘・朝日子(アコ)に、そして孫娘みゆ希にも(ひょっとして曾孫等にも)、あまりに年久しく、いまも、我々両親・祖父母は、「出会うこと」すら叶わない。わからない。わからない。

* 夕方まで、仕事 はかどる。ホンの一部ではあるのだが。そばへ時折「マ・ア」が連れて様子を見に来る。「削り鰹」を二た色の革のペン皿に分けてやる。仲良く食べて行く。
2021 2/7 231

* いろいろと読んでいるが、いま一等の感嘆は『史記列伝』。 七十全編中の最要最佳といわれる「孟子荀卿列傳第十四」へまで到達した。何となく読み進んできたが、叙述簡明の筆に導かれてじつはヴィビッドに多く多く「戦国」を学んでいたと気づく。「簡潔に書く」凄いようなお手本である。
策士策士策士そして死と死骸の山を見続けてきたが、入れ替わって、「孟子」と出会う。
読み始める前は、続くかなと想っていたのが、誘われ惹かれて上巻五百頁の三七○頁まで来ていた。下巻へまで、信じられない、なんと「楽しみ」になってい る。城井壽章の講述に導かれながら、漢文が楽しめている、そして世界は戦国、ついに秦始皇帝が立ち二代までのまさしく合従連衡のドサクサ続きであった、こ こまでは。一度の決戦で何万何十万と「頸」斬られ殺され、八つ裂きにもされ、秦に至っては三十万人を一時に「坑殺」してもいる。日本史ではついぞ見聞に及 ばない惨虐の國であったのだ、中国は。だからこそまた、老子や荘子が、孔子や孟子が登場した。はて、今の中国に老荘・孔孟が現れれば忽ちに投獄ときに暗殺 されているのではと怖気ふるう。もう何十年かまえ、井上靖を団長に中国へ招かれた時は、毛沢東なく周恩来もなくなり、四人組が投獄された直後だった、が、 「孔子」の名を口外するのも禁じられた。大岡信と私とに配されていた自動車で、付き添いの一人が、「一言堂」という言葉を知ってますかと問いかけてきた 「オドロキ」を忘れない。中国での天下統一とは、即「一言堂」国家の確立を謂うのであるか、さもあらん。

* いま手元へ引き寄せて随時に読み進めている他の漢籍は、「大學」に始まる『四書講義』上下巻、元の曽先之編次になる『十八史略』 そして『孫子講 話』。国民学校の頃から秦の家に祖父鶴吉が蓄えていた数多い漢籍や字典や古典や事典や古書を、傘寿もすぎて私は愛読愛玩している。繰り返し返し寡黙に怖そ うだった「お祖父ちゃん」に感謝感謝。「湖(うみ)の本 150」で公にできた山縣有朋の家集『椿山集』もしかり、そして次巻にも、当節とても手に入らぬ 一冊を介してモノが言えます、深々と、感謝。
2021 2/8 231

* 日光がまぶしいほど明るい。嬉しいこと。
「マ・ア」ふたりして、革の「ペン皿」ふたつに頒けた「削り鰹」を嬉しそうに食べに来る。わたしたち大人もきつい体験(アコ失踪)だったが、かれらにも身に沁みるものが有ったよう。
3032 2/9 231

☆ 随分と長い
ご無沙汰でした。コロナに暮れコロナに明けてしまいました。
そしたら大雪です。それも二波、三波、しかしコロナと違い、雪はすっかりとけて 昨日なんか冬晴れの一日でした。ただこのまま春に向かうとは思うわけではありませんが。
秦さんのご様子は、H.P.で拝見して、お変わりないことと安心しています。私の方は、コロナも大雪も関係なく、相変わらずの閉じこもりめいた毎日で、刻字や篆刻なんかもこのところお留守にしています。これでいいのかと自問することもあります。
身に近い変化といえば、去年の暮れ近く、二歳年下の弟に死なれたことでしょうか。銀行員だった弟は、定年前に脳梗塞で倒れ、三十年近く半身不便の病との 共生でした。晩年は子供たちの住まいの近くにと、横浜に移り、そこでなくなりました。甥から家族葬との案内を受け、いろいろの不都合で、参列できないおわ びを告げたことでした。
このころは遠出するどころか図書館へも本屋へも向うことが少なくなっています。子供たちが車で出掛けることを気遣い過ぎるからです。そこで身の回りにあ る本を無作為に引っ張り出して読んでいます。先日、文庫の棚から取り出したのは、立原正秋著『日本の庭』でした。作者にも、もちろんその内容にも引かれる ところがあったのでしょうが、「解説」の頁にしおりが挟んでありましたので、解説者が気になって買い求めたのだった
のかも知れません。「解説」を読み返して納得、あとはゆっくり本文の頁を繰っています。
この作者が気になったのは、もちろんその作品のせいですが、立原正秋をあつく語るお弟子さんを知ったせいでもありました。宮城谷昌光さんです。文学館に いたころ、宮城谷さんにかかわる小さな展覧会を開いたときお会いしました。ご自分のことより師匠(そう呼んでいらっしゃいました)について語る時間が長 かったようです。こんなお弟子を持った師匠は幸せだなあと思いました。
作品とのかかわりあいは、地元の新聞が「北陸・名作舞台」というシリーズを企画し、私にも何編かの執筆依頼があって、そのなかのひとつが立原正秋の「恋 の巣」だったのです。舞台は「金沢・長町周辺」ということでした。執筆にあたって、他の立原作品にも目を通しましたが、『日本の庭』はその時に手に入れた ものだったかも知れません。
このところ元気ではありますが、去年の秋頃から五十肩?が再発して診てもらったところ、お年だからねと言われました。二週間に一度、注射に通っていま す。もう一つ、眼鏡の調整に行きましたら、眼科検診を勧められ、それに従ったところ、白内障の診断が下され、六月に手術することに
あいなりました。これも「お年」のせいなんでしょう。なにかにつけ、年齢を思い知らされる「今日このごろ」ではあります。
お二人ともお大事にとお祈りしています。
2月8日         井口哲郎  元・石川文学館館長・県立小松高校校長先生

* なんと心温かな佳いお手紙かと、お元気を心より喜びながら 懐かしくて 逢いたいなあと痛嘆する。無事これ好日と お互いに 「お年」と付き合って行 きましょう 奥様ともども 文字通りお平らにと願います。 私からも 井口さんのように 自筆の手紙が書けるといいのだが、痺れる指先でペンが踊ってしま う。昔に、萬という枚数「秦用箋」つまりは原稿用紙を刷ったのに、やがて機械クン登場、原稿紙は200字のも400字のも埃をかぶった。あの升目の大き な、大きな400字原稿用紙へ万年筆で手書きの手紙を、字はいいから、送り出したらどうかと思うこともある。
とはいえ、送り出したい先が、もうよほど寂しくなってきて、心痛む。「湖(うみ)の本」の久しい読者が列島にまだ大勢おられる、そういう方々に「お電 話」で話しては思ったこともあったが、電話で話すのは苦手でもあり、何より先サマにご迷惑かとたじろぐ。老境というのは、よほど自分で囃し立ててやらない と寂しくなる一方。妻は、わたしが何もかも「私語」しすぎて見苦しいと叱るけれど、「私語の刻」ぐらいは好きにさせろよと自分で自分の鼻を摘んでいます。
2021 2/10 231

* 「十八史」がドレドレかアタマにないが、手にしている「片仮名付き」原文のままの『十八史略』は漢文が読み良いし、興味津々、面白い。編者の曹先之は「元」の人、あの「太古」から「唐・宋・元」までの歴史が大略語られていそう。
いま、秦の祖父から頂戴の明治の漢籍本にはきまって「目次」が無い。これは、なんでやろ。
2021 2/11 231

* 朝からなにも書き込まないで、首を突っ込むように仕事していて、夕方四時になる。二、三度も「マ・ア」の訪問があった。「鰹」を少しずつ。古い革のペ ン皿が役立っている。分けてやって、取り合うことは全く無く、うるわしいまで仲良し兄弟。弟のマコがアコを唸って叱るのは、不用意に戸外へのドア近くへ兄 貴の寄る時。
2021 2/12 231

☆ 天岩戸 神楽ノ條
あはれ
あな面白
あな樂し
あな清明(さやけ)
をけ

* これが「生きる」「生き(息)づかひ」というもの。人間はあくせく惑うて馳せまわっているが、うちの「マ・ア」は一日中、仲良く、さやかに神楽を楽しがっている。
2021 2/14 231

* なにとなく ほっこりし、三台の機械をそれぞれにイジッて、休憩していた。オソロシイほど大量のコンテンツの、どう眺めていても何の解決にも改善にもならないのに呆れる。
さすがにこの数日の濡れたような疲れに、夕食もそこそこ、暫く寝入っていた。疲れは妻も「マ・ア」も同じらしく、いつか寝入ってまだ起きてこないが、八時には「マ・ア」決まりの食事時間。

* なんとなく機械に触れながら、芯の疲れにならぬうち、今夜は終業としたい。
機械に向きながら顔を左右へ振ると、書斎六畳の西壁、作りつけた大きな書架や障子戸へ少し伸ばせば手先が届く。そんな一と側の、ありとある余地へ小物や写真などの「静かな・賑わい」です、 呵われるだろう、が、わたしは咲っています。
書架に接した右脇に、南洋の産か大きな豆鞘が吊ってあり、鞘の一つずつに 「鴛」「鴦」「夢」「圓」そして「潤一郎」「書」と墨書されてある。谷崎論へのご褒美だった、いつかは、誰方かに、何処かに、差し上げねばならない。
その直ぐ右、白い障紙に架かって、まだソ連時代のグルジア(ジョージア)を旅した時、首都トビリシで歓待の政治家ノネシビリさんに、お土産にもらった洒落た酒器が飾り金で吊してある。優に50センチもの弓姿りの角(牛か、鹿か、羊か)そのままの酒器で、葡萄酒やビールを満杯に注がれると飲み干さねば下に置けない。
ノネシビリさんも通訳でていねいに案内してもらったエレーナさんも、その後に政変がらみでか亡くなられた。賑やかに楽しかったトビリシでの一夜は今もありありと懐かしく、目をあげて太い大きな角盃を見上げては想い入れに沈むのだ。
まだ小さくて愛らしかった、あの亡きやす香を妻が鉛筆描きした肖像にもじっと目がとまる。
社員という社員からまるで獅子吼に畏れられた医学書院の金原一郎亡き社長、私はただ一度も叱られなかった、そして葬式はしないんだ、写真をもらって呉れ よと仕事の席へまで自身で届けて下さった「温容」の一枚には親しく「秦 恒平君 社長」ほかの献辞も添ってある。入社前の面接の日、金原社長は私の戸籍謄本を手にしたまま、「きみは、この謄本(の記載)を気にしているかしれな いが、わたしは、何ら気にもかけないからね」と。以来十五年余、この社長が相談役として退かれたその日に作家としての道へと医学書院を退社した。作家代表 団に加わり井上靖さん等と中国から招かれたときも、伝え聞かれて金原社長は長谷川泉さんを通して餞別を届けても下さった。書かれた文章なども何度も戴いた のだ、とてもとても忘れられる方ではないのです。

* 十時になる。
2021 2/16 231

* 谷崎先生には年がら年中此の角度で睨まれている。松子奥様になだめて戴い ている。若い若い日の{娘}靖子に笑われている。妻の描きおいてくれた亡き愛猫ノコがいつも見守ってくれる。囲まれた黒い角い機械は建日子が「トーサン」 に呉れて、日々音楽を愉しんでいる。今は、カラヤン指揮で、ディヌ・リバッティがグリーグのイ短調ピアノコンチェルトを弾いていて、ついでシューマンのそ れに代わる。書き仕事にはなんら邪魔にならず、そして「マ・ア」が、ふっと思い出したように足もとへ顔をそろえる。二枚の革ペン皿にわけてやる「かつお細 削り」をきれいに食してカーサンの階下へ帰って行く。
稚心可咲、わらふべし、八五老。
2021 2/17 231

☆ *子おばあちゃま   馨 (亡きやす香の親友)です
ステキなプレゼントありがとうございます!
荷物が届いた時、ゆい佳にかな~?と思ったけど、
私へのお誕生日プレゼントだったなんて!
最近は忙しさからか、自分の誕生日を忘れることが多くなってきてしまいました。
ステキな絵本と、かわいい靴下たち!靴下の履き心地、最高です!
自粛中なのでなかなか買い物に行けず、穴の空いた靴下にダーイングの刺繍をして何とか履いていたので、嬉しさ倍増でした。
お腹の子も私も元気です。
もちろん、ゆい佳も主人も。
お腹の子、どうやら男の子らしいんです。
私が姉妹なので、姉妹を育てることになると漠然と思っていたけど、おばあ様と同じになるようです。
どんな生活になるか想像がつかないけれど、夏が来るのがとても楽しみです。 馨

* みなみな揃って お元気に。やす香に生まれた曾孫を抱いてやりたかった。結婚もさせてやれなかった。うちの玄関で ハイ ポーズの五歳頃の写真を京都の私両親の写真とならべて、いつも声を掛けている。亡くなった前の、大学生(成人直前)の写真は つらくて見られない。
2021 2/18 231

* 朝は「ま・あ」にサンザン「もう起きよ」と攻撃される、抵抗していると眠けが募る。曾 孫がふたりいると、よろこんでいる。ふたりとも私の仕事部屋であちこち探索するのが好きで、ときどきモノが高いところから転げ落ちたりする。二つのペン皿 に削り鰹をひとつまみずつもらうのが何よりらしい。
2021 2/20 231

* 機械のなかを散策中に、「ひばり」という短編のあるのにぶつかった。アレレと思ったが、『選集 11』に収めていた。口絵をみると、懐かしい、京・新 門前の父がくつろいだかっこうでちっちゃな建日子を膝に抱き、母もそばへしゃがんでいる写真が上段に載っていた、下には幼稚園頃か建日子と私で我が家の門 のまえで撮った写真と、そのわきに、一年生の建日子が「父の日」に教室で書いてきたという、
お父さんへ、

いつでも日の出づる人に
なていて下さい。
建日子
とあるのも 同じ選集11の口絵に遣っていた。嬉しくて、しばし見入っていた。
「ひばり」か。懐かしいなあ。こんな短編をひばりの「唄」と合わせ合わせ十も書いて置きたかったが。美空ひばりもまた わが青春の花であったのだ。
2021 2/20 231

* もしタクシーを傭って京都まで行くのに、どれぐらい運賃がかかるか、往復分支払うのかなどと建日子に訊ねて叱られた、「絶対に、ノー」と。なにより身体がもたないと。そやろなあ。
ときどき、こんな夢をみるのであるが。

 

* 建日子、医学書院の社宅で生まれた頃は、こんなに、ちっちゃかった。五十数年が駆け去っていった。
2021 2/21 231

* 外へ迎えだしていた 紀略 や 実録 が巻違いという勘違いだった、寒い書庫へ入らねばならない。
もう、コロナ も ワクチン も 忘れていたい。建日子は新幹線はガラガラだよというが、新幹線までに、バスと 西武線と 地下鉄 がある。まだ人とは 触れ合いたくない。感染者数の単純な減少には、前段階の検査数の大幅な削減という人為が先行している。パーセンテージで説明するようだが、やはり検査数を減らすという基本のサボは気に入らない。
わたしらの特高齢者へワクチンの廻ってくるのは初夏にもなるのではないか。そのころになってなおなおゴタゴタしてるようならオリンピツクはヤメになるだろう。もう、コロナ も ワクチン も 忘れていたい。
2021 2/21 231

* 朝寝していると、きっと「アコ」の方が、黙って、二度三度と寝顔を見に来る。起きよとつつくのではない。ただ黙って、生存を眺めに来る。きまって「アコ」である。
2021 2/23 231

2006-2-24 まさしく 15年前の今日の今時刻 娘朝日子の生んでくれた孫娘二人(押村
やす香・みゆ希)の手でこの雛祭りがされていた。姉やす香は、不幸にしてこの年の七月、
母朝日子の誕生日に二十歳成人を目前に病死した。妹みゆ希はもう三十歳前後、姉やす香
の死以降、まったく会えない。朝日子とも会えない。なんという不可解に寂しいことだろう。
もしみゆ希にいま女の子があれば、この雛飾りは曾祖母である妻からごく自然に曾孫へゆず
られているであろうに。 やす香も、哀しい思いでこの両家不可解の事情を歎き眺めていよう。

やすかれと呼びて笑まひて手をふりてやす香は今し歩み來るなれ  令和三年二月二四日
姉 妹  2020-2-24 秦祖母ちゃんのやす香
2021 2/24 231

* この週あけにはいよいよ「湖(うみ)の本 151」の再校ゲラが出来てくる。これがまた初校と変わらぬほどの難儀な校正に成るだろうと覚悟したがよい。ま、籠居に徹している現状を逆に利して、難儀なことを楽しむぐらいに受け容れたい、が。ハテ。
バカをやってしまい、ほとほと気が草臥れた。七時前だが、やすんでしまおう。「マ・ア」がときおりを狙うように鰹節頂戴と寄ってくる。美味そうに、互い の皿をあらそうことなく食べると「アコ」は階下へ、「マコ」は私の近く、ソファにおいた巣舎(とや)で熟睡して行く。この「ふたり」のいることにどんなに 我々老境は慰められていることか。「アコ」がウカと家出の二外泊三日は、われわれ、身に堪えて寂しかった。
2021 2/26 231

* 気持ちよく晴れた。寒いよりも、こころよい晴天を先によろこぶ。ともすると思いのみ重く暗くなる時節だもの。
テラスへ、毎日 繰り返し 鵯や 目白がきて、妻のふたつに切って置く蜜柑を しばしつついて行く。それを尾を振り振り「マ・ア」が窓から、廊下から、 観る。襲いたい気でなく、いかにも嬉しそうに、である。仲間気分なのなら、それも、私たちに嬉しい。生き物たちの愛らしく生きてある姿に心励まされ、人間 もいっとき嬉しい。
2021 2/27 231

* 書庫うえのほそながい草はらに、背丈のない一樹の白梅が、日盛りに満開。むかし、だれであったろう誰か読者から頂戴した鉢植えを、鉢のママに書庫うえの小庭に埋めたのがそのままで毎年真っ白い花を元気に咲かせてくれる。
家にある 何にも彼にも それぞれの歴史がある。そんな無数の歴史を一つ一つ折に触れ懐かしく想い返す。やがてそれらとも別れて行くだろう。

* 高城由美子さんの手で、いかにも重厚に美しく織りあげて戴いた膝掛けに、この冬は、有り難く嬉しく膝下の冷えを温めてもらった。
この部屋には、谷崎潤一郎の松子夫人が手づから珍しい柄の着物地幾つもで創られ、頂戴した、ふわーッとふっくら美しい大きな座布団が、いつもソフアに置 いてある。尻を置くのは謹んで遠慮してきたが、観た目の美しさは高城さんの織り膝掛けと一対で、目にふれ手にふれるつど、日々萎えやすい思いを励まし慰め られる。
私は決して孤独に寒々と八十余年生きてきたのではない、むしろ逆と喜んでいる。無数に覚えていたそんな大勢との温かなふれあいと名前とが、しかし、少しずつ記憶から洩れこぼれて行く。
ゴーン アザー デイズ。

* 考えようでは、これはまったくコロナ禍のせい、モトイ 届け物 かと思えるが、おかげでこの十日ほど、なんとなし怠けた日々を ままよと受け容れ費やして来れた。
来週からもとへ戻って追われそう。
2021 2/27 231

* 妻や「ま・あ」が起きたなと気づいてからの朝寝はこころよい熟睡になる。 朝酒というほどでないがちっちゃな角の桝で二つほど呑んで、朝飯は入れない、午にま近いのだから。こころよいテレビ番組には恵まれない、いきなり不快にな り、二階へ来て、手をついて待っている削り鰹をふたつの革ペン皿にわけてやる。感心するのは、お互いにおとなりの皿へ手や口を出さない、しっかり礼を心得 ていて、呉れる物なら何でも構わず飲み食いしてくる安官僚どもとは大違い。

* カマロンの熱い叫び歌に私を鞭打たせている。

* 過剰なほど下半身が冷たく寒いと感じるのは、蛋白脂肪炭水化物みな栄養を摂ろうとしないからよと妻は云う。ちがいない。からだが求めてないのもその通 りで、いろんな意味で不順なのだ。妨げているのはほかならぬ「私」にちがいない。バカげている。カマロンの叫ぶ歌声を瀧に打たれるように聴きながら、目を つむる。黒いマコが、階下へ降りましょうと脚をつつきに来た。正午。
2021 2/28 231

* 物干しに出ると、書庫まえ、テラスのわずかな外地に生えた「隠れ蓑」 もともとは私の腹までほどの小さな植木であったのが、いまでは書庫のうえどころ か二階の大尾根を超えんまでに大きな枝葉を手廣くひろげ栄えているのに驚嘆する。根もとには、恋しいまで懐かしいネコとその子のノコ、そして愛おしかった 黒いマゴが睡っている。超大に繁栄した「隠れ蓑」は、三人の愛し子達のちから強く生き延びてくれる姿にほかならない。ネコ、ノコ、黒いマゴ。いとしい思い 出は尽きない。
2021 2/28 231

述懐  恒平・令和三年(2021)三月

* ここに「恒平」三年としてあるのは、
私・秦恒平の死期をかぞえる三年目であるという気持ちを示している。他意はない。

 

たのしみはふたりのね子に「待て」とおしえ削り鰹をわけてやる時

たのしみは好きな写真のそれぞれに小声でものを云ひかける時

☆ 此のごろの仕事疲れの癒しです  恒平
2021 3/1 232

* 此処までに、「方丈」以下、「顔」繪や「寒山」畫やピカソ「平和の鳩」 さらに「書斎書架」 土佐光貞畫「雛」 小磯良平畫「D嬢」 高城冨子畫「浄瑠璃寺」の 写真版が挿入してある。が、妻の機械にも建日子の機械にも写真が出ないという。
私にはドウしようもないことで、楽しんでいるのが「私」だけであれ、それはそれで仕方ない。私が楽しめないのでは処置無しだけれど。
これにもいろんな理由や故障が有るのだろうが、私には分からない。
むかしこのホームページは、マイ コンピューターの「C」に設置していたが、量の配慮から「D」に強いて入れ替えた。その影響なのか、どうか分からな い。大事なのは、私の楽しみに入れる写真が私に見えないでは困るということ。幸い、それはない。これからも気が向けば自分の好き勝手に写真を交替したり増 したりする。写真分空白の隙間が妻や建日子の機械では空いているらしいが、私には手の施しよう無く、そのままにしている。訪れて下さる他の方々でもそうな のだろう、ごめんなさいと謝っておく。
2021 3/3 232

* なんとなし呆然と過ごして夕方も六時近く。 セイムスへの買い物に付き合い、マコと仲良しして、お酒を呑んでいた。「獺祭」の一升瓶を、ま、四日ほど飲み干したか、或いは三日だったか。佳いお酒。

* 「マ・ア」が鰹を頂戴と。いま足元で食べている。わたしも、なんとなし機嫌がいい。
わたしは、人中へまじって付き合って、人にも良く思われて…という意図的な暮らしをしてこなかった。「作家」としても、ある時期、「湖(うみ)の本」創 刊の35年ほど以前から「騒壇餘人」と看板をあげ、独りで親しい読者達とだけ向き合い、老境へ向かい向かいながら膨大といえる執筆や創作を重ねてきた。妻 がそばにいてくれる。 そういう一生で終える気だ、それが良い。
2021 3/3 232

* 「マ・ア」が鰹を喜んで、また階下へ行った。わたしも、遊び疲れを、すこし癒したい。

* この年齢になり、東京へ出てきて六十二年にもなりながら、今なお、生まれ(は分からない、識らない)でなく、養父母らに育てられた京都市東山区知恩院下新門前通り での二十年近い日々の、近隣地域へのまお不審ないし識りたい心地が、少しも失せていない。いま「西東京市」の一画にいたままでは、なかなか不審も晴らせないが、昔の友 達に問いただすことも、もう殆ど不可能になった。
東京に、昭和三十四年の二月二十八日に出てきて、六十二年が過ぎた。京都には物心ついて二十年ほど暮らした。それなのに、東京をいまだによく識らない。 おのぼりさん風にあちこちへ出向いた記憶の程度で、地元の保谷も、都心の繁華も、ほとんど心身に刻まれていない。所有されていない。
京都となると、いまも記憶に頼るまでなく、わが街として、地元として、したしく歩いて山ほど思い出せる。至る所に歴史と結ばれた問題点に気づいて、さら に探索したくなる。そういうことには、人間味との関わりがぜひ必要で、東京ではそれが無いに等しく、京都ではありあまるほど有る。今はそれを、思い出に耽 るようにただ費消していて、「もったいないなあ」と思う。
仕方なく身の回りのものを処分に掛かっているが、兄恒彦の遺書や便りなど、どうすればいいか、胸にせまるばかりで、途方に暮れる。美術骨董のたぐいはあ との人で何とでもなるが、どうにもならないただ私にだけ莫大に意味のあるものや記憶は、私の手で始末をつけておきたい、だが、途方に暮れる。なんとかも少 し長生きし、納得にちかい手当ないし処置をして逝くしかないが。むりだなあ。
2021 3/4 231

* 百巻に及ぶ古典全集と 私の選集三十三巻で我が家の貧しい玄関を整えてもらっている。「秦恒平さん江」と署名の沢口靖子の笑顔に玄関番を頼んでいる。たいていの来客は本よりも「靖子」に敬礼するのがおもしろい。

* 土佐光貞は、江戸中頃か、歴代でも巧者であった。蛤に、雛のめおと。色気もあり、筆もじつに優しい。亡きやす香の一等親しかったお友達に赤ちゃんの出来た時、お祝いに差し上げた。
2021 3/5 231

* 高木さんの『浄瑠璃寺夜色』は 実父生母ともにその墓所を知らない私の、いわば心の菩提寺のようにいつも見入っている。胸にしみる「夜色」の美しさ。
2021 3/5 231

* 「ま・あ」嬉々として、決められたそれぞれの革ペン皿の「削り鰹ひとつまみ」ずつをそれは綺麗に、あまさず食して行く。それぞれの皿をきちんと守り、 互いの分に手の一つも出さない行儀は、見上げたもの。バッハのフーガを静かに聴き鳴らしながら、「湖(うみ)の本」の校正をかなり快調にすすめている。
コロナの緊急事態は二週間延長された。この先にはさらなるもう一度二度の延長を要するかと想われる、ここは医学専門家の観測と要請とにこそ従って、イー ジイな姿勢でズルズルと病禍を先へ引きずらぬようにありたい。国民的な不幸を軽くしコロナ禍を無へ押しやるには、根気の持久戦に決然と堪えるが勝ちになろ う。二十三十歳台の半大人の聡明な持久と要慎に期待したい。街での声を聞くと寒気のする失望を覚えることもある。決して「今はまだまだ」落ち着いてなどい ない。
2021 3/6 231

* 私の妻は 九十過ぎた私の父を見送り 九十三の私の叔母を見送り、最後に九十六の私の母を見送ってくれた。今も 有り難うと思っている、心より。
それにしても みな 長生きだったなあ。われわれの八五老など、物の数に入らないではないか。
2021 3/7 231

* 「マ*ア」 顔を揃えて鰹を頂戴と来る。とりわけて遣ると嬉々としてご馳走になり、けっして互いの料をかすめ取ることもなく、嘗めたようにきれいに革 のペン皿二つをからにして、しづしづとどこかへ帰って行く。お行儀よいこと、アタマを撫でてやりたい。私も楽しんでわずかに一息つく時。生きの命と付き合 う嬉しさ、ほっこりと胸温まる。
2021 3/8 231

* 籠居 蟄居の 陰気が高じてきたか ついつい、夫婦して弱音を吐いている。「ま・あ」が慰め励ましてくれる。
新宿河田町の六畳一間のアバートへ京都から直かに入って新婚生活を始めてから、まるまる六十二年になる。三月十四日に、荻窪の 妻の田所宗佑伯父宅で、妻の側の親類に寄って祝って貰い、一泊させて貰った。あの日の昼間に新宿区役所へ結婚届けをしたのだった。
疲れは溜まっているけれど、元気を奮い立て、手を携えて二人ともガンバッテ行こうよ。
2021 3/9 231

* 嘉永三年(一八五○)三月に、十三歳の秀才が書き残した『海警録』なる著述とその「自序」を今も読むことが出来る。日本列島は、曾ては「海」を警戒し 守備すれば列島が守れた。飛行機も潜水艦も長距離弾道弾も無かったから。だから明治日本の國軍は、軍艦の建設と保有と教練に特に力を入れた。結果として  紅海でも旅順でも日本海でも「海戦」して負けなかった。
それより遙か以前には日本は海戦で二度の手痛い敗北を経験していた、一つ天智天皇の日本水軍は朝鮮白村江の海戦で惨敗していた。一つは元寇、蒙古の来襲 だった。前の時は這々の体で逃げ帰った。後の時は颱風・暴風雨で向こうが退散してくれた、さもなければ西国、九州は惨害に遭ったろう。
三度目は西欧列強の、海からのまさしく戦艦の威嚇に遭った。攘夷どころか、かずかず不平等条約を強いられながら「開国」しつつ「尊皇倒幕」の成功裏にか ろうじて「維新政府」が起って、対外に堪えた。「富国」と「強兵」とは、文字通り余儀ない「国是」となり、それに日本はともあれ成功していった。それなけ れば、どうなっていたろう、昭和の敗戦よりも惨憺の隷従を欧米の、一国ないし数国に強いられなかったではないだろう、実例は洋の東西、世界中に多々みられ たではないか。
十三歳の『海警録』は、あるいは現在日本政府の優柔と躊躇を嗤うほど、的確に「時代」へむけ警告し激励している。こと、現在日本の問題は尖閣諸島問題に 限定されているのでなく、果てて対中国との「武力」衝突に及びかねないことにある。中国の主張と対策は、いわば明瞭率直で日本人にも分かり安い。ところ が、日本政府と国民との、少なくも対中国の意思や用意や決意は、まるで分からない。
「平和」はただ座談の種ではない、「護る決意」で現に起って確保すべき寶である。昭和の「戦時」そして「敗戦」の惨苦を思い出せる人が少なくなった。マスコミは、もっともっと映像や記録を掘り起こして提供して欲しい。
秦の父は口癖に云った、「戦争は 負けたら仕舞い」と。その通りだった。

* 足踏みに似ながらじりじりと仕事は進んでいる。 コロナ禍は変異株を呼び出し呼び起こしてモーレツにしつこい、油断はならない。ああもしてみようか、こうもと思いつきはしてもどれも遠慮して、ただ精神衛生と体力維持をだけ考えたい。
幸いに私には退屈ということが無い。ものが書けて、本が読めて、音楽が聴けて、酒が飲めて、よく眠れて、「マ・ア」とも至極の仲良しである。テレビはめったに観ないが京はチャプリンの名作『独裁者』に胸打たれた。
いま一つ、退屈しのぎでなく、ぜひにも処分や処置の肝要な、片づけるという用件がある、が、これは捗らない。
今日もあらためて仰天したが、背中の側のものかげに、堅く縛って嵩高い風呂敷包みが、二つ。あああと唸りながら渋々開いてみた。案の定、とうに亡い実父 の「書き物」が、途方にくれるほどぎっしり詰まっていた。父の恒は、この私がのけぞるほど能く「書く」人だったようで、ノートブックも帳面も原稿用紙も、 押さわって密着するほど膨大に遺していた。亡くなった直後、私と母のちがう二人の妹は、ほぼ即座にこれらの「書き荷物」の山を私に送ってきた。
私の夢にも知らなかったことが、無数に書かれてある。しかも感じからして父が得意の書き物でなく、生涯不如意であったろう失意や不満や怒りの記事にも満 ちていて私はそれらを『父の敗戦』と頭に表題してきた。父のためにも少しでもかたちにして上げたく、少しは書き始めたことも有ったけれど、まさしく手に余 る文物なのである。
これは、兄恒彦が存命なら渡したいが、息子の、私には甥の北沢恒(作家・黒川創)に委ねるしかなかろうかと思いあぐねている。
川崎で暮らしている妹二人は、ことに下のひろ子は熱心なクリスチャンで、この子の熱烈な勧めでか父の書き物にも基督者めく字句や言葉がおおく用いられている。父方吉岡家はそういう空気を私たちの祖父のころから持っていたように推し量れる。
何にしても、抱えるに力に余る書き物の大荷物にバンザイの気味で。棄ててしまうこともとても私には出来ない。
2021 3/10 231

* 八時前に ちょうど目覚めたが 妻や「マ・ア」は起きているなと安心して 朝寝を貪った。妻の惚れている松平長七郎君に付き合って、二階の機械へ、電源を入れにきた。もうはや正午まえ。なにも 慌てることはなく 仕事も ま、落ち度なく運んでいる。
バッハの「フーガ」集は 絶妙の室内楽、聴いてなくても美しく聞こえ続ける。いい絵や美術も、観て触れていなくてはならない、音楽は耳があれば聴ける。
彼の
* 歴史調査研究所が、早くに、『「秦王国」と末裔たち』という「日本列島秦氏族史」という大著を出していて、浩瀚な目次内容の中に、「古代近江國愛知郡は、小さな『秦王国』」として、そこに「作家秦 恒平家の家系」なる項目が挙げてあり、今更にビックリした。
「秦氏」が古代以来巨大な名字であること、源平藤橘をも凌いで歴史的に古くまた分派の全国にひろいこと「秦王国」とまで謂われるほどなのは、ま、私も識っていた。
聖徳太子に信頼された「秦河勝」なる朝廷内実力者の余翳は、国内広範囲に散点し、彼を祀ったという京都でも名高い「広隆寺」 あの美しい弥勒菩薩像と倶 に記憶している人は多い。彼の墓礦、大和で著名な亀塚をさらに凌ぐ、全長八十メートル、石室十七メートルという巨大な京太秦の古墳「蛇塚」辺に河勝邸も 在ったという。私ごとを離れても、「秦氏」は中國の秦始皇帝をも抱き込んで、壮大に面白い内実を抱えている。私が、井上靖さんに連れられ中国に招かれた時 に、人民大会堂での会合の際に、出迎え側の主人役トウ・エイチョウ(国会議長格)女史から、「秦先生はお里帰りですね」と笑顔の諧謔があったのも、必ずしも故 なしとしないのである。

* そういう「秦氏」ものも書いてみたいと、上記のような本も手に入れていたのだったが、放ってもあった。なかなか面白く記録的に取材された大冊で、久し ぶりに手にしたわけ。建日子にこういう方面への開拓意欲もあるととわたしは楽しみにしたいが、もう諦めている。「秦」を棄ててしまった朝日子に期待しても 仕方なく。命あらば、短いものでも書いて置きたい。
たしか、もう一冊、書庫に「秦王国」の三字を表題に含んだ小冊の研究書もあったと覚えている。持ち出してみよう。

* 初めて読む気で読み始めた『「秦王国」と末裔たち 「日本列島秦氏族史」』 という大冊に向かい合って、その、読みやすさ・分かり良さ・調査の詳細・しかも整理整頓された具体的記述にいきなり惹きこまれている。なにも鵜呑みにはし ないが、「秦氏」を勘考する視野は十分に具体的に与えて貰えそうで、実は、オドロキながら共感し依頼する気になっている。
2021 3/11 231

* 62年前、昭和三十四年の今日、河田町12の新居「みすず荘」から、新宿区役所に結婚届に出向いた。

朝地震(あさなゐ)のしづまりはてて草芳ふくつぬぎ石に光とどけり  恒平
夕すぎて君を待つまの雨なりき灯をにぢませて都電せまり來(く)   迪子

この唱和を葉書に刷って 知友に報せた。
そして六十二年後の、今朝の

たのしみは誰(た)が世つねなき山越えてけふぞ迎へし有為(We)の奥山

たのしみは割った蜜柑をひよどりの連れて食ふよと「マ・ア」と見るとき

* うろたえず こころ冷えず 残年に灯をかかげて、悔いなく。

* 心して 為し 為し遂げて 功は願はずに

待てば成るかも 待たねば成らぬ何ごとも
待たねば 何も 成らぬなりけり   それで良し

* 夜前 『史記列伝講義』上巻を読み終えた。明治四十一年正月十五日發行の九版本(東京日本橋  博文館)で従七位城井壽章講述とある、この人のことは何も知らない。明治本の特徴か知れない、大冊でも巻冊でも 目次 の無い本が多いのにオドロキも不 便もするが、こうして読めるのが有り難い。いまどきこんな漢字ばかりの原典などやすやすとは手に入らない。秦の祖父「鶴吉」の學恩である。
見出しだけを後の参看のため挙げておきたいが、伯夷列傳第一(二頁)  管(仲)晏(平)列傳第二  以下  信陵君列傳第十七  春申君列傳第十八  まで 実に多般多勢に過ぎるので 此処では作業しない。大きく謂わば 私の造語である「外交とは 悪意の算術」の まさしくお手本のように多彩多弁多様の「策士」たちが遊説・跳梁する世界であった。「外交=悪意の算術」なる私・秦 恒平造語が 「春秋・戦国」時代、二、三千年前にも遡る秦始皇帝の統一まで 中国中原にめったやたらと繰り広げられていた。それのみか、『史記列傳講義』は、さらに分厚い「下巻」が待ってくれている。読まずにいられない。

* で、下巻を手にして巻をひろげると、「張丞相列傳第三十六」とある。あれれ。「列傳第十九から第三十五」を講じた「上巻」につづく「中巻」があり、それをどこかに見落としているらしい、書庫へまたもぐって捜索しなくては。いやはや。
ま、「下巻」はそれとして是非読み継いで行きたい、はや早々に あの「股くぐり」で名高い「韓信」の名が見えるではないか。「韓信の股くぐり」のお話なら、私が国民学校(戦時中の小学校)のころにすでに聞かされ、教訓的な逸話として親しく承知していた。
はて、それもこんな『史記列傳講義』と謂う本のあった「秦」の家で聞かされていたのだろうか、あの二次大戦勃発のころ、昭和初年には日本の世間にも服膺されていた故事であったのか。

* 『史記列傳』講義 の 中巻、すぐ見つかった。その余に、『春秋左氏傳』など、少なくも二十数冊が見つかった。
そのほかに頼山陽関連の本が何冊も見つかった。秦の「お祖父ちゃん」は頼山陽にかなり惹き込まれていたようだ。わたしは、なかでも「通俗日本外史」一冊を「大声で読み上げ」ていた少年時代を持った。その文体には或る程度惹かれていたと思う。
ともあれ「秦鶴吉祖父」由来の古典や古典講義の諸本は、漢詩集や鑑賞もふくめ、五十冊に及ぶ、ないし超えることが確認できた。いま私の目にも貴重と思わ れる本が驚くほど多い。私の為に、貰い子されて行った「秦家」がいかに有り難い「先」であったか、今にして、只だ頭を下げる。
久しく「秦」の文化と教養の恩恵は 父「長治郎」の謡曲、碁、叔母「つる」の茶の湯・生け花・茶道具と思いこんでいたが、何倍もして祖父「鶴吉」の夥しい和漢の蔵書があったこと、有り難さ、言葉もない。
2021 3/14 231

* 午には、ささやかに無事結婚62年を自祝、吉備の人に戴いて愛蔵、今日を待っていたもう一升の名酒「獺祭」で乾杯する。「マ*ア」 にもたっぷり削り鰹をあげましょう。

* 昼食を 妻と、削り鰹の 「マ・ア」ふたりとで、ひっそりと、祝いかつ味わった。赤飯、獺祭酒、それだけだった、が、それで佳い。雨も上がって明るく、暖かい。
2021 3/14 231

* 二人と 「マ・ア」ふたり とだけの ささやかな午の祝儀だったが、お酒が旨かった。

* 夕食には 和加奈の寿司と刺身を 破格の値でいいからと頼んである。いちばんのわたしの願いは、新鮮な脚長の蟹か大きな伊勢海老なのだが、そんなのは此 の保谷のお寿司屋さんには頼みにくい。コロナ禍が過ぎれば、銀座か日比谷へ出かけて「きよ田」か「すし幸」でと、今は夢見ておこう。

* 妻が、贔屓の大相撲春場所。われわれには、あの大声で贔屓の力士へ呼ばわれる国技館と、あの幕開き前のぞわぞわっと嬉しい特等席の歌舞伎座とが、しんじつ寛げて嬉しい場所。はやく、また、ぜひぜひ出かけたい。

* 贅沢なほど選んでもらった「刺身」のいろいろで、満腹し、こころよく酔った。
2021 3/14 231

* 今朝も、四人 「マ・ア」兄弟と夫婦で、大きくなった隠れ蓑づたいにテラスへ舞い降りては、二つに 割った蜜柑を余念なくついばんで行く鵯たちをガラス戸こしに眺めていた。昨年までは我々の影がさすと翔んで逃げていたのが、もう、全然気にかけていない、 それも心うれしいワケで。
2021 3/15 231

* 妻、経常の診察、血圧など尋常のママ動悸がやや早いと、薬処方を増されてきた。大体が雨期へへかけて故障が出やすいので要心したい。
働かなかった血圧計を点検。計れたが。安定して働いて貰いたい。
2021 3/16 231

* maokatonのお子さんは「尚平」クン。訓みは定まっているが、文字だけをみると私の「恒平」と再接近のお仲間。
このごろひとしお気づいているのだが、昔は「*平」と書かれる男子名はじつに実に寡かった。大人になるまでに知名の人で「*平」さんは、順不同というほ どもなく先輩ないし同輩級では「森田草平」「草野心平」「大岡昇平」「火野葦平」ぐらいしか覚えがなく、国民学校に入学以来、友達から、「へい・へい」 「新兵」「工兵、橋つくれ」などと囃され笑われ、「へい口」してきた。
ところが、である。この近年、テレビ画面や新聞雑記等に出会わない日はないほど「*平クン」の多いこと目立つこと、まこと、ご同慶。意気盛んに「平の會」でも組織されるのではないかと思うほど。

* とはいえ「*平」の名乗り、何と謂おうと「平安」の京都で、摂政・関白・太政大臣・左右の大臣、内大臣、納言級の公卿に限っても、時平、仲平、忠平、兼平、恒平、行平、等々数え切れず、源氏の「義」や平家の「盛」や北条の「時」や徳川の「家」に匹敵する藤原氏大切の嘉字、祝字であったと謂える。藤原氏以外にも美男子在原業平も目立つ。
以前に漢学者である京大名誉教授で京博館長さんだった興膳宏さんに、秦さんの「恒平」はむろん「恒久平和」ですと教わった、平は平安・平和の「平」で、戦する「兵」とはちがう。殖え行く「*平」クンらが盛んに活躍するのを慶びとしたい。

* 今日は とうに亡い実父に掴まっていた。ひょっとして私は、いくらか、或いはよほどこの「ややじ殿」に似ているのかなと感じながら。
2021 3/17 231

* ウカと部屋をあけたまま出ての留守に、「マ・ア」のどっちか、既往よりして「アコ」が、書架へ手をかけ、モノを落としていた。幸い大過に至ってない が、貴重の古本に爪のかかるのが困る。宅急便で届いたまま階下で「湖(うみ)の本 151」三校にかかっていた。引用原本をとりに上がってくると、ドアも 襖も開いていた。叱るわけに行かない。

* 寒いわけでなく、それでも妙に背がゾワゾワとしている。体調、宜しとは云えない。校正は、卓のある階下でする。私の書斎は機械部屋で、書架と書類ケースのほかに卓机が無い。置く場所がない。

* 三校ゲラが届いて、それへ向かいながら、どうも体調が変で。しかし妻も右にならへの状態で、妻を寝させ、わたしはキッチンで仕事をゆるゆる、疲れれば テレビを。すると東北へ強い地震と津波。関東でも、永く揺れていた。昨日か一昨日か仙台の遠藤恵子さんへお見舞いのメールをしたばかりだった。 日本列 島、なべてことなきを願う。とりわけて原発の事故を懼れる。
2021 3/20 231

* 花盛りらしい。この下保谷でも、か。散歩しましよと誘われている。二、三日早いか。
テレビの伝える世間図は乱れざまに汚れがち。つきあう要はなく、「マ・ア」にせがまれて二階で削り鰹をすこしずつ二枚の革ペン皿に平等に分けてやり、わたしはピレシュのピアノを聴いている。椅子での脚もとが少し冷える。膝かけすっぽり蔽う。

* 大學で英文学教授を務めていた大叔父の吉岡義睦と学生の頃ただ一度偶々出会い、三条河原町辺の店でごちそうになったとき、「音楽も聴くように」と云われたのだけを長く記憶していて、今では私の日々にクラシックの器楽曲、ことにピアノは欠かせなくなっている。
美術品と出会には身をはたらかせて出歩かねば済まないが、音楽のための機械はまことに重宝、ありがたい。なによりも、仕事に障らないのが有り難い。音楽 ゆえに書きちがえることはない。ときに眼をとじていても音楽は聞こえている。良い音と ことばを紡ぐのとは、邪魔をし合わない。
いやいや、騒音のなかでさえ、言葉へはいい感じに集注がきいて、たとえ喫茶店での他のおしゃべりがどうあろうと気にならなかった。わたしの初期作品は、ほとんど全部、勤務時間中の喫茶店で書かれていた。
勤めた医学書院で、わたしらの編集長、社の外では国文学研究の碩学であった長谷川泉教授は常々曰く、「編集者は24時間勤務」、どこでどう時間を使って も生かしても「仕事」が成るなら良い、構わないと。わたしは、有り難く拳々服膺して、いたるところの街なかで小説も書いていた。騒音が邪魔などと感じたこ ともない、ときには喫茶店でや昼食の店で人と話しながらでも書いていた。文章が「雑」になるなど、全然なかった。昭和三十七年七月末に「或る折臂翁」を書 き始め、昭和四十九年八月末に退社したが、それまでに脱稿し、九月早々には新潮社から「みごもりの湖」、集英社「すばる」で長編「墨牡丹」が一挙掲載されたまで、みな「原稿用紙に手書き」の全作、家でよりほとんど街なかで書いた全作が、それを証している。
むろん、さらさら書き放しでなく、用紙がまっくろになり、自分でも読みづらいほど徹底推敲していた。街なかでしていた。そして、妻が、全作、新しい原稿用紙に清書してくれた。出版社は、私の書き文字でなく、たいてい妻の文字原稿を読んでいたのだった。
私は思っている。作家の才能とは 「推敲の根気と力」にあると。書き損じ用紙をまるめて捨てたりせず、即、そのまま推敲した。必要なら同じ原稿で何度も重ねてした。
コンピュータは、文学の味(こく)を機械的な走り書きで薄めてきたのではないかと感じている。

* 気晴らしに、すこしく 上下階の模様替えをした。バラついて散乱したあれこれを仕分けて不要分は捨てた。靖子ロードのあれこれが少し整ったかも。
2021 3/23 231

* 秦の母は九十六歳まで長命した。叔母は九十三、父は九十一歳で亡くなった。生前にいちばん虚弱と見えていた母が長命した。さしあたり私たちもこの秦の 母を文字通りの目標に起てて、そこまでは歩いて行く気で日々を迎えたいと思っている。日本は、世界は、どんなに変わって行くのか、人類は存続し得ているの か。無責任だがただ好奇心で眺めながら好き勝手、二人三脚の旅路でありたい。
2021 3/24 231

* 昨日、相当量の雑多な古物に目を晒していた中に、京博蔵「守屋コレクション」の『隅寺心経(般若心経)』を何方かに戴いたのが仕舞われていた。少年の 大昔に秦の家の仏壇で馴染み。高校一年、角川文庫の『般若心経講義 高神覚昇』を夢中で傾倒愛読して以来馴染み続けたお経だ、いまもほぼそのまま誦するこ とが出来て浅はかながら主意は概念・観念ともに承知し親しみ続けている。とても清明な書であり、狭いながらもどこかに場をつくって額装しておきたくなり、 幸いに簡素ながら恰好の額が在ったので、埃をはらい、妻に収めて貰っている。常時に目に触れ得るとは、嬉しいことだ。
2021 3/24 231

* 「湖(うみ)の本」創刊第一巻の『清経入水』の奥付にただ一度だけ遣った 「秦」 の大きな丸印を、たまたま大泉辺での用事から、車で、顔だけ見せに来てくれた建日子に遣った。家には入らず、路上で数分の立ったままの対面だったが、顔を見せてくれて嬉しかった。
老々してくると 顔もまともに合わせられないコロナ禍が憎い。
2021 3/25 231

* 妻は近所を花見に歩いてきたらしいが、すこし早いと。櫻は、四月と想ってきた。
法政大学の前のお濠土手うえのはなやかに咲き満ちて静かだった櫻が、想い出される。一年生の内に亡くなった孫やす香は、敢えて「法政」と選んで願って入学したのだった。
東京の櫻は やはり千鳥ヶ淵を見渡しの櫻だろうか。
このホームページ冒頭へ写真で添えた、京の祇園 辰巳橋から白川へ枝垂れて優しい花櫻が懐かしい。我が家から下駄をかたかた二分もかからずに此処へ行けた。松湯、鷺湯。花街の湯へ通うにかならず此の橋を渡った。橋ぎわに、こぢんまりと辰巳稲荷社があった。劇映画の場面に舞子らとさかんに撮られて、多くの人は見ているはず。

* 東工大の 豪快な大櫻並木を観たいがなあ。
2021 3/26 231

 

☆ お江戸は
興味ありませんでした。(まえの高層の住まいからの=)スカイツリーもビルの林立する窓外の風景も 私の心からは想像以上に隔たっていたといっていいでしょう。
お体お大事にお過ごし下さい。
いまなお小さき鳥
ちぢこまりつつ生きながらえて

* 引っ越しが趣味かと思えるほど日本列島を動いて行く人で、よほど世に憚る女大盗でもあるか、よほどの富豪かと想うほど。繊鋭な語感で蜃気楼のような詩 を書く人、のようであった。この前は濹上を見渡せそうな高層ビルの高いところに暮らしていて、花の頃は櫻堤十数丁が見晴らせるのかしらん羨ましいと想って いたら、花の季節を見捨てて惜しげなく繁華の街なかへ、越しましたと。
わたしは京都から東京へ出てきて、六畳一間の新婚二年のあと北多摩の社宅三階へ、太宰賞後、社宅に身動きを制されたくなくて今のこの家を建てて移った。 社宅の窓からはまだしも廣く多摩野が見えたが、今のこの家屋は、ただこぢんまりと小さなテラスを抱いただけ、眺望はゼロ、もう半世紀も手一つ加えずに暮ら している。「ちぢこまりつつ生きながらえて」とは思っていないが。

* 酒が切れ、セイムスへ走ってちょと仕入れてきた。洋酒をダブルで二盃ていどで、機械の前で行儀良く寝入っていた。
2021 3/29 231

* 今年はてらすに鳩が来なかった。鵯と目白とが日々にしげしげと来て妻が用意の割った蜜柑を食べていった。「マ・ア」はガラスと越しにいつも歓迎して眺めていた。鳥たちも遁げなかった、ときにはガラス戸近くまで寄ってきた。
そんな鳥たち日々の来訪も、季節というものか、終わろうとしている。また来年を願って、元気な「マ・ア」たちと一緒に、待とう。とは言えど、

人が失いうるものは現在だけなのである。彼が持っているのはこれのみであり、なんぴとも持っていないものを失うことはできないからである

と、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスは二千年前に云い置いている。
2021 3/30 231

☆ 秦恒平様
音信ありがとうございます
私、姉家族ともに元気で過ごしております
ただ昨夏は 吉岡嘉代子伯母(吉岡守夫人)が亡くなり コロナ禍の続く中で 寂しい見送りとなりました
それでも春は暖かくなってくれています
この日曜日に久しぶりに星野画廊(京都・粟田口)に行ってまいりました
河合新蔵の東海道五十三次 大正10年頃の東海道が広重の五十三次とどちらも複製ではあるものの、並べての展示で「日本の昔」をみせてくれていました
星野桂三さんもお元気でした
河合新蔵の竹林の一つが原画で展示されてありました
今 山城南部は孟宗竹の筍のシーズンで もうすぐの新茶に向かっての慌ただしも始まっています

恒平様 皆様  お元気で    孝一   実父(恒)方従兄弟

* 懐かしく。当尾の吉岡本家を単身訪れた時、守叔父に 浄瑠璃寺へ連れて行って貰った、忘れない。孝一君のお母さん(吉岡家でのいっとう若いけい子叔母)は、たしか孝一君も一緒に、この保谷の家まで訊ねて見え たこともあった。幼來ひさびさにこの叔母を訪ねた日の嬉しい再会を「けい子」と題して書き置いてある。南山城の筍と新茶か。当尾の本宅には大きな柿の樹が 聳えていた。

* こうして、まだ、私は実父方とも実母方とも曲がりなりに「縁」を繋いでいる、が、建日子も朝日子にもそんなことに何の思いも動きもない、あり得そうに ない。私の世代ではまだしも「家」のつながりは念頭にあった、とは謂え、私の場合は、根から父方とも母方とも「縁の絶たれた」生まれたての私ひとりの本籍 が造作されていた。実兄の北沢恒彦にも同じだったようだ。かろうじて実父「恒」の名一字をわれわれ兄弟は伝え持ち、恒彦長男は吉岡の祖父そのままの名を (父恒彦の思いが籠めてあるのだろう)与えられている。
私の場合、娘朝日子とは、不幸にも、おそらく死に目にも互いに会うことはないだろう。両親が大病時の見舞いも朝日子は電話口で即拒絶したと聞いている。
このようにして、人は世代をへつつ昔とも血縁とでも自ら縁を絶ち打ち棄てててゆく。今に始まったことか、人や、家に、よるか、もうそんな穿鑿も無意味になってきている。
それよりも、私も心親しい京・粟田口の星野画廊主と南山城の従兄弟孝一君とは親しいらしく、こういうのも「心ぬくもる縁なのだな」と思う。こういう縁の方が心に親しく伝わり合うのかな。

* 幼少を秦家に養われてガンとして生母と実父を忌むほどに遠のけて成人した。兄とすら、四十五十近くまで受け容れなかったが、自ら最期をはやめた兄の晩年とは、沢山な文通ちちもに懐かしく結ばれたのは嬉しいことだった。
私の境涯を一語にこめれば、「もらひ子」だった。それを真に救い上げた鍵は、「身内・真の身内」一語に尽きた。私の生涯最高の不動の創作は、「真の身内」だった。
母にははやく死なれていたが、母のあしあとを追って、その「生きたかりしに」と呻いて歌った辞世歌を慕うように長編『生きたかりしに』を書きあげた。そ していま実父の苦渋と失意に充ち満ちたような「遺筆また遺筆」のうず高い山に「子の思い」で私も登りかけている。そのためにももう少しく命を賜れよと天を 仰いでいるが。
2021 3/30 231

 

* 目の前のちいさな置き時計、の、針がどの辺なのか、見えにくい。八時を過ぎて行こうとしている、らしい。
この時計、昭和五十五年(一九八○)三月 朝日子がお茶の水高校を卒業の時、PTA会長を押しつけられていた私への記念品としてPTAからも贈られた金ピカの、小さいが重量のある置き時計で。
朝日子は四月から同じ女子大へ進んだ。お祝いに銀座でもとびきりの寿司の「きよ田」でご馳走してやり、まもなく私に中国へ行かないかとグループのお誘いの あった時、私は勘弁ねがうことにし、朝日子に進学祝いに行っておいでと出してやった。西安だか洛陽だか、いろいろへ行ったらしく、旅中だいぶ大人達の中で はしゃいでたらしい。指折るまでもなくもう四十年も昔、朝日子も還暦とか。どんな顔をしているのだろう、想像もつかない。
2021 4/3 232

* 今日は妻の誕生日、85 同い歳になった。
心身を労りながら実のある老境を怪我無く元気に過ごしてくれますよう。
どこへご馳走を食べに出ることもならない。
朝いちばんに赤飯と、戴いた若筍などで、一献祝いました。
2021 4/5 232

* 発送分への追加分の宛名書きなど、終えた。もう少し もう少し と先へ事を運んでいる。

* そのあいだにも、「ま・あ」は「削り鰹」をいそいそと分けてもらいに私の傍へ来る。
「あこ」は神妙に待ち 「まこ」はせき立てる。二つの革のペン皿に分けてやる。
感心に、けっして取り合わないし、向こうへ口を突っ込むことはしない。神妙で、心得た兄弟です。しかし、以前、「アコ」が二日半家出して家中で心配した のが「マコ」にはよほど堪えたようで、「アコ」が外へのドアへ近づくと、毛を逆立て唸って吠えて兄貴を叱る。「出てはいけない」と言うのだ。
賢いではないか。
どっちがイタズラか。ま、「あこ」の被害が多く、書架へ伸び上がり谷崎先生夫妻の写真の上へ手を掛けに来る。もう、家の中で破れていない障子も襖も無 い。ちょっとした隙間へ二人して潜ろうとする。襖も障子もドアも明ける。破れは放ってあるが、それでもさまざまに対抗処置はして、懸命に知恵比べの日々で す。
2021 4/9 232

 

* 幼稚園でも、国民学校でも、丹波の戦時疎開さきの山暮らしでも、戦後も一年余に病気で京都へ帰ってからも、わたしは、目立ったあだ名で友達に呼ばれて なかった。近所では幼児のママ「ヒロカズさん」と呼ばれ、学校では「コウヘイ」「はたクン」「はたサン」だった。それでいて戦後京都の小学校では率先生徒 会を率いて生徒会長をしていた。中学へ入ってからも生徒会でガンバリ、三年生で生徒会長に選挙で当選し、当時の吉田茂総理のあだ名だった「ワンマン」と同 じく秦の「ワンマン」と呼ばれていた。運動場でも講堂でも、いつも演壇に立って号令していたし、教室では、先生に代わって教壇で国語や社会の授業を進めた り、ま、活躍目覚ましい校内でのまさに主将だった。
それなのに 今日久々に、つまり七十年ぶりに読み返した修学旅行前夜の短歌の「めそめそ」したひ弱さは、自身で否認がしにくい自己露呈に相違なかったのだ、どっちが本当なのか。
ひ弱いのが「ホンマ」で、目覚ましい活躍は「ガンバリ」であったと謂わざるを得ない。
そんなことを七十年後の老耄に自認させてしまう幼く拙い「短歌ひと」として歩み出していたのだった。マイッタ。が、性根から出るモノが滲み出ていたの だ、そんな歌集『少年前』が、三冊のノートを719首と拙い詞書とで満たしていた。「文藝」としての価値はないからその多くを、ほとんどを、うち捨てて、 そしてあの処女歌集『少年』を世に送り出したのだった、幸いかなりに好評を得て、「昭和百人一首」にも選ばれ、「国語」教科書にも紹介された。今にして余 分なそれ以前の習作を持ち出すことは無いのだが、私独りには、やはり無視しきれない「根」がそこに在った、暴露していた、と謂うしかない。短編「祇園の子」などの紙背にまさしくこれら幼稚の短歌たちは貼り付いていたのだと思う。思わざるを得ない。
「あんたが そのまま小説なんですな、小説を書くか、小説になるか、それしか生きようのない人ですな」と、詩人の林富士馬さんら何人かに謂われ、笑われてきた。このあまりに幼稚な三冊は、その意味では、資料いや肥料にはなっていたのだろう。
2021 4/10 232

* 思えば、私の書庫に満ち溢れた本、単行または選集の小説本や詩歌本は、尽くというるほど、著者からの戴き本。手に重たい各方面の研究書も、すべて著者からじかに戴いている。
おう、こんなのがと思う、明治この方の大事典、辞典、和漢稀覯の珍冊はみな秦の祖父鶴吉の遺産。
わたしが自身の必要で買ってきたのは、大冊の歴史年表、『名月記』や「玉葉」のような公家日記、そして新編の大辞典・大事典・大地誌・地図のたぐい。そ れと、いつしかに溜まってきた美術の本とたくさんの大きな重い画集。文藝誌は残さない、雑誌は歴史もの、茶の湯もの、美学会誌だけ。
いま、それらを残すのか処分(廃棄)するのか、考えている。
秦建日子の現在の仕事柄からして、彼が欲しがりそうな本はほとんど無い、が、藤村、漱石、潤一郎、鏡花、柳田国男、折口信夫、辻邦生、加賀乙彦等々の全 集・選集その他、著名作家や批評家の業績本もたくさん戴いて在る。幾らかは建日子も欲しいと思うだろうか。朝日子のことは判断がつかず、考慮しない。
むしろ、両親からの血を事実わけもった、甥で、力有る文学作家の北沢恒が、もし必要で、大いに利用できる、手元に欲しい、という各種広範囲の辞典・事典・年表・地誌・古典・史書・漢籍などあれば、車を傭ってなり受け取りに来てくれるなら、現状、私の仕事に差し支えない限り、譲る。
私自身の著書や初出誌は 全書誌に挙げたように単行本だけで百冊を超えている。大冊の「秦 恒平選集」33巻完結、「湖(うみ)の本」はすでに150巻を超えている。初出誌となれば全部保管はしてあるが、呆れるほど膨大量。
私の本を蓄えて下さっている読者の方で、欠本分などご希望が有れば、どの本もいくらかずつ余裕があり(無いのも少しあるが)可能な限り差し上げたい。
これまでもときどき実行してきたが、東工大卒業生らのお子さんが読書年齢へ来ている。読書好きときけば、和洋の文庫本などを選んで上げてきた。ただし少 年少女の場合は、読書の「向き」をまちがうと無意味に近くなる。どんな向きのを読んでいるか親御さんから耳打ちして下されば、選べる。
私が愛読してきた日本の古典全集は大きな二種あがるが、他に、手も触れていない大きな全集に、「二十世紀世界文学全集」何十巻かがある。誰の何作が入っ ているのかも、覚えぬママ書架を埋めている。カフカが第一巻だったような。せめてリストにしておけば、欲しい方に差し上げられるのだが。これも古典全集 も、みな版元からの寄贈だった。自身の費用で買った書物は、書庫の中の5パーセントもあるかどうか。作家生活半世紀のこれもみなありがたい対価・報酬・親 交の賜なのであった。
いまは図書館も、書架に余裕がなくて「寄贈」を必ずしも歓迎ばかりはしない。ま、同じ事は個々の人によっても云える。私としては、現在から此の先々へ役立ててくれる若い世代や、とにもかくにも「読書人」「愛書家」といった友人読者らに委ね手渡せればと願っている。
2021 4/13 232

* 毎朝かならず来て蜜柑や林檎の餌をつついてゆき、おおいに「マ・ア」を喜ばせていた鵯や目白たちが、例年通り来ない時季になった。かわりに書庫うえの 庭をよその猫が通ってゆき、大いに「マ・ア」を口惜しがらせる。キッチンの大きなガラス窓からテラスも書庫も書庫うえも見える。黒いマゴにはさせていた外 出の自由をさせていない。ふたりに汚れて帰ってこられては室内の衛生にもこまると、そう決めた。ふたりを連れてきてくれた建日子からも、「出さないで」と 厳禁されている。
2021 4/15 232

* 「マ・ア」に、朝六時過ぎから起こされる。
2021 4/17 232

* 西隣の住居不可の棟は、こっちの東に書庫を敷設したのとは異なり、階下も二階も雑然と書籍で溢れている。私自身の著書も数冊以上平均で積んであるので、少なくも大小とも数え切れないが、「湖(うみ)の本」の倉庫にもなってしまっていて、夥しい本の重量で、古い家屋がかえって「安定」しているのかもしれない。
そんな中から、初期基督教を聖書に応じた論攷したという本を東へ持ってきた。『失楽園』は、胸の詰まるほどのイヴとアダムとの背教場面がまさにもの凄い筆であざやかに書かれていて、どうしてもこの神話が初期基督教教会でどう教義として再構築されていったかを識りたくなった。
私自身は、まったく基督教に心を寄せていない、むしろ世界の人類史における基督教を手に掴んでおきたいだけ。むろんそこで顕著なアダムとイヴとがいどみあう男女の力関係、愛蔑のありかたにも関心がむかう。深くは、のちの「聖母マリア」理解へも繋がる。
ま、ゆっくり行こう。
2021 4/17 232

* さてインターネット不能のために生じる不都合先への適切な連絡を。建日子には伝わっている。凸版印刷所に伝えねば。個々の人は、HPが届かないことで察してもらえるだろう。メールが使えないのは確かに不自由なことになる。機械を交替する処置を的確にし遂げないと。あまり自信ないが。
2021 4/19 232

* 「タカラヅカ」は、叔母のお茶 お花の稽古場で しきりに嘆賞の声をわきで聞いた。まだ秦の家へ預けられて間のない幼稚園以前に いちどだけ叔母と社中一同のお楽しみ会に連れられて「タカラヅカ」へ行ったことがあり、私の遙かな昔の記憶だと、真っ暗な劇場で舞台のサマが「怖く」て、叔母の着物の膝へ俯し、声あげて泣いた覚えがある。
もう大學のころか、やはり叔母の社中で私とは小学校同学年の美少女が宝塚の学校へ及第して行ったという記憶があり、その美少女もいまは私と同歳で、昔ながら自宅で日本舞踊の「おっショはん」をしている。一、二年前に突如として久々に過ぎた手紙をくれた。たまに電話で声を聴き、たまに京のご馳走やお菓子を送ってもらっている。
それより半世紀も前、「公衆衛生」という医学専門誌の編集を担当の頃、ごく親しくまた信頼して頂いていた千代田区の保健所所長先生から、ちょくちょく、近くの宝塚劇場の入場券を戴いた。「タカラヅカ」には遠い昔の記憶からも四十そこそこの中年少々ならず脅えたが、それでも一度だけ勤務のあいまに劇場内へひやかしに入ったものの、超満員で立ち見の女性達の熱気ものすごく、這う這うのテイで弾き出された。妻は一度二度ひとと一緒に行ってたかも。
海外から来演の、「マリーア」と美しく絶唱するミュージカルなども山下所長先生に座席券を戴いてこれは嬉しかった感動したことがある。八十五年も長生きしていると、いろんなことがあって、私はよく覚えているが、固有名詞から忘れつつある。上のあの有名なミュージカル、最近にも妻とテレビで見たミュージカル劇の題を思いだせない。気にしないことにしている。文章は書けている。
2021 4/27 232

* 正六時半に起きた。妻は寝入っていた。「マ・ア」に多めに「削り鰹」をわけてやった。この地域のある代議士の「読める」ちらしを、海外での烈しい危険な戦争に戦いた「体験」談を 読んだ。
2021 5/3 233

* 母の日とか、建日子から赤い薔薇の一輪を添えて、綺麗な小箱に綺麗につめた「桜桃」が贈られてきた。桜桃にも気遣ってくれて、ありがとう。
2021 5/3 233

* 妻はまだ寝ているので、「マ・ア」に削り鰹を分けて遣る。

* 昨日 所沢の藤森佐貴子さん、見栄えも美しい餅菓子の美味しい一函を下さった。
大和の画家、九十を超えられた烏頭尾精さん、画集『まほろば』にいいお手紙を添えて下さった。
精緻な銅版画を創られる岩佐なをさんの「久しぶり」の逸品を戴いた。
妻の従妹からは立派な玉葱がどっさり。野菜苦手のわたしは、玉葱は子供の頃から好きで、秦の母はよくといた卵と煮てくれた。あーちゃん、ありがとう。
休み明ければ、メールはダメだがいろいろのお便りが戴けるだろう。「メール」が今日の「生活」「交流」にいかに大きく重いかに痛いほど思い知った。
2021 5/5 233

* 母の日とか、建日子が赤いカーネーションの鉢植えを贈ってきた。
2021 5/6 233

* 京の井上八千代さん、葉山の森詠さん、町田の浦城いくよさん、北海道の山本司さん、高輪の山田さん、それぞれに来信あり、また、「三田文学」 松山大學 早稲田大学 水田記念図書館からも「湖(うみ)の本 151」受領の来信。
今回の『山縣有朋と成島柳北の明治維新』は必ずしも容易な読み物ではないが、片端でもひろく意が伝わってくれると有り難い。「湖(うみ)の本 150」の『山縣有朋の「椿山集」を読む』と揃えて、私・八五老として一の晩年作に成ってくれたように、力になってくれた秦の祖父「鶴吉」蔵書の有り難かったことを、重ねて特に記録しておきたい。
2021 5/8 233

* 秦河勝の時代を書いて欲しいと、具体的なご希望が届いていて、ウーンと唸っている、気がないのでなく、用意があるので。
書きたい小説の内案は、さっきも電話で元の文春専務さんと電話で話していた。夜中に、暗闇の底でこれ、それ、あれと思案している数は、今日モノ、歴史モノ、女モノ、怪奇なモノ、少なくない。元気と寿命が欲しいが、何よりも家族の健康が必要不可欠。怪我すまいと願う。
2021 5/12 233

* 十二時四十分  仕事続行し、そして簡略の昼食、終えてきた。「マ・ア」が削り鰹を大いに期待して来た。たっぷり遣った。
2021 5/13 233

* 由木康さんの『キリスト教新講 イエスから現代神学へ』を 興味深く熟読した。新約も旧訳もみな一読はしているが、知的な通過儀礼としてしか読まなかった。新約聖書を、ことにパウロを読み返したい。マリア関連の本はかなりの数読んできた。基督教の女性観・女性論が識りたくて。ミルトンの『失楽園」もその方面の観測を心がけていた。
ビックリしたが、ほんの手近に黒い手製の紙カバーをかけた文庫本大の手帳があって、それは実の父のモチモノだったし、殆ど手に触れたこともないまま遠ざけてもなかったのを、何気なく手にしてみると、日本聖書教会からの新約聖書に、父が手づから黒の紙カバーを付けていたのだった。それのみか、表の表紙裏には、「熱愛を受けし祖母の負托を憶ひて」と父・吉岡恒自筆が読み取れ、左の見開きには、

私の過去は凡て誤りでありました
心から神の前にざんげ致します
今後は
一、常に神に導かれていることを信じます
一、常に正しい道を歩むことを信じます
一、神が道なきところにも常に道を作ることを信じます
神と共にあればすべてのこと可能なり
一九五六、四、二一、       吉岡恒の朱丸印

父の死後に異母妹たちが大きな荷にして送ってきた父遺品の中に入っていたのだ、記憶はあった。初めて手にしたそのときも、今も、こと「信仰」という意味では特段感銘しなかったが、「こういう人」で私の実父があったことは否みようがなかった、それより感心したのは筆蹟の謹厳に美しいことだった。私は悪筆、実父母を共にする亡き兄北澤恒彦の悪筆となるとさらにじつに甚だしかった。

* 要は、あらためて読もうと思った「新約聖書」が片手延ばせば届く棚に立っていたのだ。そうかそうかという気分。
上の一九五六年、四月とは、昭和三十一年に当たって私は大學二年生になったばかり、実父のことは片端もアタマになかった。
しかこの聖書、手触りの柔らかな文庫大で、字はおそらく「7」ポより大きくはない、目には堪えるが綺麗に印刷できている。ゆっくり読んで行きたい、ただし私は基督者にはならないだろう。母の異う二人の妹は、ことに下の妹一家は熱心なクリスチャンで、父にも入信・信仰をつよく勧めていたと聞いている。
2021 5/27 233

* 汗ばむほど 蒸し暑い。この書斎、換気がよろしくない、「マ・ア」に屋根へ、書庫うえへとび出られると難儀なことになる。夏は来ぬという感じ。コロナで、さらに難儀な変異株の脅威で、とても爽やかな初夏とは謂いにくいが。
ひたすら 籠居。出るのは自転車でポストへの程度。この往来には、ほとんど人出がない。
* 心配懸けているにちがいない。電話は嫌い。せいぜい手紙を書きたいが、たださえ悪筆、痺れに手が震えて原稿用箋の升目にも字が行儀わるく収まってくれぬ。
ケイタイへ電話がきていることも有るらしいが、番号しか分からず、調べてみたが、誰の番号とも分からなかった。機械としての操作がまだ全然覚えられず、家の中で持ち歩きもしない。買った甲斐が何も無い。
2021 5/30 233

* 秦の祖父鶴吉の蔵書に、とても私の手に負えない手沢本一冊があり、歌集とも句集ともなく、筆蹟はなやかにうるわしく書かれた歌謡の集と見えていた。で、秋成研究の第一人者、東大の学生であられた頃から昵懇久しい長島弘明さん(東大名誉教授、現二松学舎大教授)に送った。今日、懇篤のお手紙を戴いた。おうと声の出たほど、懇切明快のご教示であった。いと、嬉しく。いと、嬉しく。

* もう一つ嬉しいのが、プリンターとともにこれもアウトかと危ぶんで使えないで来たコピー機も、プリンター同様にちゃんと用を果たして呉れた。長島さんのお手紙も此の機械クンへ書き写すことが出来た。感謝感謝。
こんなふうに、インターネットの方もカム・バックして呉れませんか。

☆ お送りいただいた御本について
拝啓

その後、長らくご無沙汰しております。
秦恒平選集と湖の本をいつもお送り賜り、まことにありがとうございます。
雑事にかまけて、御礼も申し上げぬまま、失礼を重ねておりますこと、ご海容のほどお願い申し上げます。

過日、ご懇書とともに、冊子一冊をお送りいただきました。
どのようなものかというご下問かと存じましたので、細かいことはわからない所が多いのですが、ごく大雑把に記させていただきます。
私は歌謡の知識もあまりなく、明治にも詳しくないので、大間違いしている場合もあるかもしれませんが、それはお許し下さい。

この本は、恐らく明治にはやった七・七・七・五の都々逸の、愛好者社中の作品をまとめたものかと思います。
潮来節くいたこぶし)・よしこの節から出た都々逸は、もともとは主に男女の恋愛の仲を謳う内容ですが、七・七・七・五の形式で、男女の仲以外の色々なものを謳うようになります。
この本の都々逸も、男女の情の作もあり、それ以外のものもあります。
なお都々逸については、
元甲南女子大の菊池真一さんが色々な論考を書いていますので、次をご参照下さい。
http://www.kikuchi2・com/dodo/index・html

この本、
最初の方に「兼題」とありますから、
予め題を出して、各自作った都々逸作品を会合に持ち寄るか、あるいは宗匠(最初の所に名前のある「僖月舎 薫」か)のところに送ったものでしょう。
これは、それを多分宗匠が評点を付け、一位から五十位までざっと順位を決めた上で清書したもの。原則として、後ろに行くほど順位が高い(巻頭句と、最巻末に追加された「追章」は少し別扱い)。
一番後ろ(絵巻軸)、「逸」とある蟇山人の「雪はおもひの 望みに降らず 逢い足りながらも 物足らで」が最高点でしょうか。
順位は、後ろに行くほど高いと言っても、ニ十位台、三十位台、四十位台は、十作-からげで、細かく分けていませんね。
それから、各作の右上に押してある朱印は、 俳諧の例と考え合わせてみれば、恐らく点印でしょう。社中の人なら、どの朱印が何点とわかるはずです。

裏表紙の内側に、お祖父様の秦鶴吉さんが
「明治四拾年五月求之」と記しておられるので、恐らく都々逸愛好家でいらっしやつたお祖父様が、古書店などで購入されたものでしょう。

以下、巻頭の序文と兼題、最初の方の作品の二つほど、また巻末の作品三つほどを翻刻しておきます。
わかりやすいように濁点を加え、各句の間は一字空白にしておきました。

(兼題)
千世経べき 松の翠の とことはに 豊坂のぼる 朝日社の みやびの嶺に  栞して 情けの海に 棹さして 此なさけ謌の あつめにぞ 根ざせし種を 言の葉の 三葉四葉と 七年を ことほぐまとひの 末永く 楽しき春の 曙の 霞に匂ふ 花になづらへ 香ほり気高く 秀でたる すさぴの数を ゑりあはし 拙きわざも をのづから あたひ/ \の 玉やならなむ
明治三十六年二月
僖月舎 薫    印(「僖月舎」) 印(「薫之印」)
兼題
旭浪に輝
花の笑顔
卯に寄る恋
降らぬ雪を恨む
日月火水木金土、ニ字以上結び

家のかぜまで 輝く御世の 浪もはるかに 朝日の出   洋月

むねのほむらの 飛火野過ぎて 角(つ)のもおとした 春の鹿 玉骨

(巻末)
(軸)雪もふらねば 待人も來ず 恨み痩寝に ひゞく鐘    壺中

(逸)雪はおもひの 望みに降らず 逢い足りながらも 物足らで  蟇山人

(追章)雪は降らぬと 暁(あかつ)き寒ゐ 言葉も恨めし 別れ際  跡丹

おかげさまで、東大定年後は二松学舎大で、何とかオンライン授業をこなしています。
会議で大学に呼びつけられ、基礎疾患持ちとしてはいやいや出校していますが、仕方ありません。
今住んでいるところは田舎で、ワクチンを打ち終わるのは、このままでは9月未になりそうです。
こんな所にも地域格差があることを実感しました。
秦様も奥様も、どうぞくれぐれもご自愛を。
五月二十六日 長島 弘明
秦 恒平 様

追啓 なお、本書はお祖父様の手沢本という貴重な物で、私はコピーをこれからとり、原本は近日中に郵送でご返却致します。
長 島  弘 明
NAGASHIMAHiroaki
(メールアドレスが変更になりました)

* もう一通戴いていた。察するに 前のメール便は私の機械故障で戻っていたと想われる。

☆ 拝復  過日はメールで失礼致しました。
大切な御祖父サマの手沢本を御返却申し上げます。雑事のため、返送が遅くなりました、ご容赦下さい。
明治には、俳句以外にも、多様な韻文創作の楽しみがありました。うらやましいことてす。
念のため、先日のメールを印字したものを、同封致しました。コピーをとらせて頂きましたので、又、何かありましたらお訊ね下さい。
電車に乗ることも極力避けています。
どうぞこのコロナを乗り切って、お健やかにお過ごし下さいますよう   敬具
五月晦日              長島 弘明
秦 恒平 様

* 有り難う存じます。 お人柄が いかにも懐かしい。

* それにしても 都々逸会とはおもしろい。有り難いご教示、いろいろと胸に落ちた。感謝感謝。
2021 6/1 234

☆ 長島弘明様
深甚のご厚意で 思いがけぬ勉強が出来ました 嬉しく 有り難く 御礼申上げます。
私の 二十年も使用し続け「奇跡」と謂われる古機械の、ついにネット機能損失という事故に遭い お手数を更に煩わせました。 ご免なさい。ご親切 身に沁みました。
秦の祖父は 明治二年に生まれ 昭和の敗戦直後に亡くなりました。 無口な人で 言葉を交わした記憶も無いほど もらひ子のちっちゃな私は ただ「こわいお祖父ちゃん」と思っていましたが 本を読むなどは極道と口癖の父とはまったくちがい たいへんな蔵書家でした。 古典 漢籍 史書 詩集 事典 字書 啓蒙書等々 国民学校の初等期から私には 宝の山でした。祖父は 勝手次第に本に触れていても 一言も否やを謂いませんでした。私どもが 東京へ移り住みます時にも 他の何より 祖父の蔵書を荷物に加えました。「湖(うみ)の本」にもなりました 山縣有朋の『椿山集』も 成島柳北の『柳北全集』も 参照した 各種明治の事典・寶典類も みな祖父からの有難い遺産でした。 そんななかで 音をあげた一冊を送りまして ご示教を仰いだという次第ですか むろん本は 長島さんご身辺にさしあげて ご論攷の一編にもなれば 本も祖父も喜ぶのではと実は願っておりました。ご返送のお手間を懸けさせましたのは 私として 行き届かぬ事で 申し訳なく思っております。
「秋成學」に大きな大きな足跡を残され なお積み重ねられている長島さんには なに珍らかでもない 「加茂真淵講義」の『古今和歌集講義』本に 秋成が関わっていますようで そんな「上下巻」が 傷み本ですが 残っていました。 お弟子さんにでも譲って上げて下さればと。 長島さんが 頼山陽に無縁であるわけ無いでしょうが 頼山陽口授の『評本文章軌範』七部三冊 『日本外史論文講義 全』一冊 さらに 今や珍しい 頼山陽先生編選『「謝選拾遺講義』上下二巻が 書庫に死蔵されていました。
もはや どれも もう私には 手を出す余命の無い本なので というのは失礼に過ぎますが 長島さんに みな 献呈し しかるべくご処置願いとう存じます。すこしでもお役に立てば嬉しく さもなくは若い学究に貰って頂けると 本も祖父も 喜びましょう。
私は 「へんな子」と謂われつけて育ちましたが 祖父の本の中の 『通俗日本外史』と『神皇正統記』を朗読するのが楽しみで それらが のちのちまで私の文章にも 歴史好きにも余翳を残した気がしております。かえってご無礼を恐れながら 古本を 御受納くださらば 何かしら 大いに ほっとさせて頂けます。お笑い下さりご勘弁下さい。
コロナ禍 決して決してご油断無く 日々 お大切にお過ごしありますよう。
令和三年 六月二日     秦 恒平
2021 6/2 234

* それにしても、記憶のうすれとぎれの日々に数ましているのに驚く。上の、草平有名な新聞小説の題が想い出せず、雷鳥女史のこれもあまりに有名な「大陽」壮語(「元始 女陽は大陽であつた」)も想い出せなかった。ま、この思いは日々に加わって致し方ないでしょう。妻や建日子をみて「どなたでしたかな」とまで云わずに済ませたいが。しかし娘の押村朝日子(今は宙枝とか)夫妻には、夫妻して名誉毀損とやらで地裁の被告席に立たされ、仰天の賠償金を請求されてこのかた、うろ覚えだがほぼ15年になるか、顔も見忘れそうなほど会わない。還暦も過ぎたという娘の顔、もう見ることはないだろう。
生みの親たちと一度としてまともに逢ったことなく、生み慈しみ育てて嫁がせた娘の老いた顔も想像できない、どうもこうも 私の生涯は そのまま「塩ッ辛い物語」のようである。「小説家にななるしかない人だよ、秦さんは」と、詩人で批評家だった林富士馬さんに「保証」された昔昔の対談の席が、笑えて思い出される。
2021 6/3 234

* 「マ・ア」が削り鰹を「ちょうだい」と顔を揃え、倚子に腰掛けた私の脚を押してくる。やらずにおれない。そして、彼ら、食し終えると影の消えるように、只ひと声も無しに立ち去って行く。それも良い
2021 6/6 234

* 伊藤鶴松著『歌舞伎と近代劇概論』という、京都の下長者町にあった文献書院からの本が、昔むかしから、幼かった私のほぼ手の届く範囲にいつも実在した。秦の祖父や父が手にしていたのは一度も見ていない、手にするのは小学校、中学生の私だけだった。難しそうな「序説」や「内外演劇史概観」などは、また「近代劇概論」や世界の「現代自然主義作家と其思想」などはハナから敬遠したが、それでも「近代劇の先駆イブセンと其思想」「『人形の家』と近代婦人問題」とある章へは果敢に踏み込んでいた。が、何というても関心も興味も「歌舞伎」にあった。「近松の劇と人生」「近松以降の浄瑠璃作者と其代表作」「近世期の江戸脚本作者と其代表作」「江戸歌舞伎の集大成者河竹黙阿弥」の各章には、さまざまに代表的な歌舞伎劇のあらすじやなセリフ等々を含めて、私は実の舞台に接するまでにたくさんな歌舞伎知識を手に入れていた。南座の顔見世を初めて観せてもらえたのは高校に入ってからだった。期末試験の予習もしながらの師走顔見世、最初に出逢ったのは初世中村吉右衛門とまだ福助だった後の中村歌右衛門との「籠釣瓶」が印象的だった。のちの中村勘三郎がまた「もしほ」、のちの松本幸四郎(初世白鸚)がまだ市川染五郎の時代だった。だが、高校以前に私はこの『歌舞伎と近代劇概論』と親しみ、有名な芝居のあらすじはかなりの数、覚えていた。

* 本は、大正十三年師走半ばに刊行されていて、祖父は明治二年、父は明治三十一年生まれだからどっちが読んでいても不思議はないが、祖父は莫大に堅い堅い本の蔵書家だったが父が読書の姿は見覚えがない。祖父の家業はいわゆる「お餅屋さん」京風には「かき餅屋さん」だったそうで、南座へ卸していたりしたという。そういえば父は、若い時分に松嶋屋(片岡仁左衛門)の筋から弟子にと、実否はしらない、声がかかったなど耳にしたことがある。若い頃の写真を見ると父は、和服でも洋服でも軍服でも男前だった。

* 昨今の単行本の巻末に、著者と関わりない書籍の広告が入る例は少ないないし稀であるが、明治大正の本はそうでなく、しかも今今の目にはその広告が面白いとは前にも述懐した。この『歌舞伎と近代劇概論』なる堅い本の巻末にも三頁分(少ない方だ)広告があり、本の主題からして関連の濃い、一頁めには近松以降の戯曲、劇、脚本等著作の広告、二頁めにはラム原著全訳の『セキスピヤ劇二十篇が「新刊」として広告されている。歌舞伎や演劇の本として、ごく尋常、何の逸脱もない。そして三頁めには、中等学術協会編なる『明治文學選釈』成る一冊が広告されていて、おうおうと声が出る。「中等学校上級生の自修書、又上級學校入学志望者の準備書」と売り言葉があり、「内容大要」としてあるのへ、末代の一作家として目が向く。
「評論文」として、樗牛、作太郎、天随、子規、粱川、祝、逍遙、露伴、蘇峰、知泉、毅、有朋「等の作」と揚げてある。識らない名が一二まじり、「毅」「有朋」は政治家、軍人ではないのか。「作太郎」は国文学、天随は漢学の学者、今日にも聞こえて「文学」の人としては樗牛、子規、逍遙、露伴か。
では「参考文」としては、逍遙、粱川、作太郎、八束、潮風、鐵腸、樗牛、桂月、麗水、泣菫、二葉亭、露伴「等の作」と揚げてある。詩人もありジャーナリストもある。近代文学史の筆頭と聞こえた二葉亭が顔を出しているが、藤村も漱石もまだ現れない。次いで「参考・趣味」として挙がっているのが、露伴、作太郎、漱石、樗牛、虚子、蘆花、藤村、荷風、独歩、鏡花、武郎、節「等の作」と列んでいる。
いないなあと思う、一葉、鴎外、紅葉、茂吉、晶子など。直哉も潤一郎も、芥川もまだ若いのか。
昔昔の本の巻末広告は、ときに切り口を光らせて意外に批評的な時世の推移を頷かせてくれるのです。

* 八時を廻っている。今日は、これでも、いろいろと、しました、つもり。階下では、レオン・ブルムの『結婚について』もう少しで読めてしまう。『使徒行傳』にも惹き込まれている。
そういえば夜前夜中のことか、二階廊下の「文庫本書架」の一つが廊下へ倒れていた。「マ・ア」らが疾走跳躍して蹴倒したか、それならば怪我が無くてよかった。
2021 6/7 234

* 伊藤鶴松著『歌舞伎と近代劇概論』をみると、随所に、一段と小活字で、名だたる歌舞伎演目の「あらすじ」が語られていて、実際の舞台に観入るよりはるか以前、明らかに幼少の昔に、近松作(だけでも53作の題があげてある。)の「心中天網島」「冥土の飛脚」「夕霧阿波鳴戸」などのほか、時代を追って「寺子屋」を芯に「菅原伝授手習鑑」の大要や、「伊賀越道中双六」の「沼津」や、紀海音の「八百屋お七」、また並木宗輔の「刈萱桑門」 並木五瓶の「五大力恋緘」「鈴ヶ森」、また四世鶴屋南北のおっそろしい「四谷怪談」等々、ことこまかに読ませてくれて、恐がりの私には字で読むだに怖い恐ろしい舞台の筋書きや役者などが、まこと親切に紹介されていた。もう明治へも手の届いてくる黙阿弥劇の「鼠小僧」「十六夜清心」「三人吉三廓初買い」「弁天小僧女男白浪」「切られお富」等々、かぞえきれないほど多くのあらすじが巧みに小活字で語られていて、いわば小説や講談をこのお堅いつくりの一冊で、一杯読めるのと同じだった。
高校生になって初めて南座で顔見世の芝居を観るよりはるかに早く、疎開前の国民学校、疎開先から帰京しての戦後小学校、新制中学の内に、贅沢なほどたくさんな芝居の筋や役者らの名を、たとえ朧ろにも。実に面白くも怖くも、私はもう覚えていた。
これもまた、祖父か父かと限らない「秦家」に「もらひ子」されての天与の耳ならぬ目での学問だった。どう感謝してもあまりある恩恵だった。私自身は祖父にせよ秦の父や叔母や嫁いできていた母にせよしこしこと読書している図は皆目覚えがない、のに、間違いなく「寶」と呼びたい本が、少年の目に無数に近く蓄えられていた。
叔母(宗陽・玉月)は「茶の湯」と「生け花」とを私に教え、「和歌」「俳句」という歌の作り方を寝物語にも教えてくれた。父は観世流「謡曲と能舞台」への道をつけてくれた。
その有り難さを、私は八五年もかけて、今、しみじみと感謝している。
2021 6/10 234

* 歌舞伎の本を観ていると、芝居のあらすじも覚えたが、なにより要所での名セリフを我勝手に節づけて唱えるのも面白かった。

月も朧に白魚の 霞も霞む春の空、冷めてえ風もほろ酔いに心持ちよくうかうかと、浮かれ鴉のただ一羽、塒へ帰る川端で、棹の雫か濡れ手で粟、思いがけなく手に入る百両ーーほんに今夜は節分か、西の海より川の中、落ちた夜鷹は厄落とし、豆沢山に一文の銭とちがって金包み、こいつぁ春から演技はいいわえ」

舞台を観たことがないのに、声を張り上げていた。近松の「心中天網島」を「てんもうとう」と読んで大人達に笑われてもいた。「いきな黒塀見越しの松」の家に囲われたお富さんにせまる斬られ与三のせりふも覚えていた。まだ戦争中だった、のちのち戦後の盆踊りが大流行になると、「いきな黒塀見越しの松ぁつにあだな姿のお富さん」へ居直る与三郎を想いながら、夜更けまで盆踊りの輪を楽しんだりした。
面白い少年、少年前、時代であった。
2021 6/11 234

* かるい熱中症でもあったか、三時ごろから七時過ぎまで床についていた。幸いにもめったに無い嬉しい佳い夢に酔うていた。ふと起こされたが、からだは憩まっていた。二階を留守にしていた間に、また「アコ」に書架に置いて愛している布できの綺麗な手鞠を持ち出されていた。「アコ」はきまって、この、だれがいつ呉れたのか覚えない不思議に装飾化された手藝の鞠にかぎって書架へのびあがって掴みとり、勝利感に溢れて階下へ見せにおりてくる。初めのうちは本なども一緒に落としていたが、細菌は狙った手鞠だけを爪に懸け、ほぼ周囲無傷で戦果の手鞠だけを得意げに階下へ拉致してくる。どういう気なのだろう、「マコ」の方はそういう「わるさ」はしない。やれやれ。

* 涼しくなったと思ったら、冷房が効いていた。

* 印刷所へ送ったつもりのメールが機械から飛んで行かぬママ、いまも残っている。

機械不調 メール受発信不安定  秦 恒平
私からの反応が鈍いと思われましたら ケイタイへの電話をつかってください。
ホームページの発信がなぜか不能になり困惑しています。なにもなにも 困惑時節です。
日々お大切に。

* 何とせう。このままでは仕事がしごとに成りにくい。
また、ひとつおもしろい本のはなしがしたかったが、気が殺がれた。今日はこのまま、発送を無事終えて、おやすみとする。かすかすに頭痛がある。冷房を切った。
2021 6/11 234

* この機械ではネット機能が破損している、が、別の二機には何の設定もしていないのだから、仕方次第で新たにネット機能を設定できていい筈なのでは。ただ、どこからどう手を下せばよいのかまるで分かっていない。このNEC機械には分厚いマニュアルが付いていたが、建日子の呉れた小さな機械にも自分で買ったDELL機械にもマニュアルらしきが見あたらない。やれやれ。
2021 6/12 234

* と、目に付いた本があった、『死ともののけ』著者は斎藤たま、新宿書房とある、つきあいは何も無い。
明けてみると 見返しに「贈呈 新宿書房」の札があり、「北沢恒さんからの紹介です、ご高評のほど。」と。北沢恒とは、両親を共にしながらいっしょに暮らした記憶のかけらも無い実兄北沢恒彦の長男の名。へえ、こんなこともあっただ、何でや、と全くない記憶をどう探ろうも覚えがない、貰っておいてやくにたつという内容でもない。本は、一九八六年九月の新刊とある。優に三十五年むかし、「湖(うみ)の本」を始めたころ、わたしは五十歳ころ、恒は同志社を出て、東京へもう出てきていたか、まだか、記憶がない。版元の副え状からするとがあるのだから新宿書房と恒とに何かの縁があったのだろう、私は、となると記憶がまるで失せている。すきなくもそこで出版したり執筆したことは無かっただろう、それも覚えない。恒が、いまどうしているかも全然知らない、「選集」や「湖(うみ)の本」は送っていたつもりだが、受け取っているという返事もない。
兄恒彦が、江藤淳さんのその年六月の自死とは無関係だろうが同年の末に自死してから、すでに21年もが過ぎた。私は生母の死を知らない、病院内での自死かも知れなかったとは後に触れ合ってくれていた人から幽かに聴いた。実父は一人暮らしの家で、近くに住む娘二人(恒彦や私からは異母妹)にも知られずある朝亡くなっていた。私は、生涯にそれと、父と認識して只一度寿司をツマミ合っただけだが、親族達からは、そんな父への「悼辞・弔辞」を強いられた。「しのびごと」を唱えるどんな想い出も持たない息子であったのに。兄恒彦のほうがまだしも生前の生母や実父と関わり合っていたようだが、父の葬儀には姿はなかった。兄の死が先とは想いにくいが、記憶は霞んでいる。
甥の恒は 上京後、一時我が家から遠からぬ下保谷に暮らしてよくわが家へ来ていた。あのころはよく話した。頼まれて、最初の結婚に大いに力も貸し、彼女の父親から結婚の許しが出るように大いに言葉を添えた。我が家へまでお父さんは訪ねてみえた。が、結婚したかと想うまに離婚したのか別に暮らしていて、もうその後のことは私たちは何一つ知らない。
死んだ兄がただただ懐かしい。じつはどんな暮らしで何に努めていたかなども、私は殆ど何も知らないのだ、知っているのは兄弟二人きりでの対話や交信の数々だけ、大切に保存している。兄の実生活や交友家系など、まるで無縁で、今も知らない。そういう人たちとの「北沢恒彦を偲んで語りあう会」にむろん誘われたが欠席した。どんなに私には馴染みにくい寄合いであろうよと。偲んで語り合うのは当の「兄恒彦とだけ」でよい、話題は尽きない。「恒、街子、猛(甥・姪)」たちとは、またそれぞれの機会次第でよい。
2021 6/13 234

* 妻は定期の受診日だった、まづまづ無難に帰ってきたが、疲れたようで。私も疲れていた。湿気の濃い季節に妻はきまって弱く、わたくしのは、老耄の体疲労。幸い横になれると、とめどもなく本が読める。
ドストエウスキーもスタンダールもキールトンも佳い。しかし、またもや読み始めたパトリシア・マキリップの「風の竪琴弾き」には、懐かしくも圧倒的に惹きこまれてゆく。ヘドの若い領主モルゴンと、偉大なる者の竪琴弾き、デス。書き始めから、ひとつには訳してくれる脇明子の日本語の宜しさ自然さで、ぐいぐいではない、糸を引く静かなはずみで懐かしく惹き込まれる。この三巻の長篇を楽しみ終える頃に、一回目のワクチン接種。コロナへの用心は忘れてならないが、ぶざまに悪意にみちた政治の泥臭などわすれて、こころよい読書世界へ旅し続けたい。

* 夕食のあと、妻と、「ニノチカ」という珍かにおもしろい撮って置きの映画をみはじめた。題からして、漫画かなとと誤解していたが、漫画のように面白いグレタ・ガルボ主演の妙な作だった、半ばでお休みして、またからだを横にして八時過ぎ、「マ・ア」のご飯時までまた読書していた。
いま一等難しいのが、新約聖書の「ロマ人への文」で。「使徒行伝は」はすなおにすらすらと読めて感銘した、が、いわば「教書」なのか、かなりついて行くのが難しい。
2021 6/15 234

* 近々の「父の日」を祝って、建日子、「レミ・マルタン」を贈ってくれました、ありがとう。
2021 6/17 234

* 心用意もないうちに駆け込むように明日、桜桃忌、私には二度目の誕生日。翌日が父の日と。建日子が「レミ・マルタン」で祝ってくれている。さて、明日は、その「桜桃」だが。手に入っているか知らん。
2021 6/18 234

* 桜桃忌。 太宰治文学賞により「作家」として立つを得て52年になる。縦横に手足を働かせてほぼ悔いなく働いて来れたし、まだまだ先は有る。桜桃は手に入らなかったが、建日子の祝ってくれたレミ・マルタンで乾杯、とにもかくにみコロナ禍の日々とも戦い克って行きたい。宮沢明子の澄んだピアノがガルッピのソナタを綺麗に弾いてくれている。
2021 6/19 234

* コロナ禍が五輪開催に絡み合うて、心身に疲労感をかぶせてくる。全面に自民と菅政権との自己防衛姿勢がしがみついていて、余計に疲れる。

* 十時前。 もう階下へおいでよと「マ・ア」が、キイを打っている手を掴みに来る。
2021 6/21 234

* 朝早やもまだ五時半、「アコ」のヤツ、書斎へ侵入し、書架に置いた、例の、「変わり手創り」の綺麗な手鞠とその座布団とを、階下の寝室へうれしそうに得意そうに運んできた。仕方なく、六時、二階ヘあがってみると、例の如く、書架手鞠座の前の「松子夫人」美貌温顔のお写真が下へ落とされ、あろうことか、いつも横で厳格に睨まれている「谷崎先生」の顔写真まで、可笑しそうに表情を和らげて見えるではないか。ウーン。

* そのまま機械をあけ、ピアノ曲を静かに部屋にながしてこれを書いている。「マ・ア」は私の脚にまとわりついて「削り鰹をチョーダイ」と甘えている。「遣らんぞ!」
2021 6/29 234

* 建日子の呉れたレミ・マタンのずしりと想い瓶を、少しずつ少しずつ、飲み干した。旨かった。

* 横になると、すぐ寝入る。仕事の混んでないとき、心身のためには眠れるのが何より。

* 夕食も進まず、「悪霊」「赤と黒」パウロの「ローマ人への手紙」を読んで、寝入った。
九時に目覚めた。
コロナ禍は、第四波へあきらかにリバウンドしているのに、五輪へ各国から来日入国の、水際の感染防備と安全策は、まだまだ不安に満ちている。
わたしは、ただただ疲れ、目が重い。
マコが来て、すこし鰹をもらってから、安心しきって私の足元で寝入っている。

* 十時。心身違和。
2021 6/30 234

* 横井千恵子さんの送ってくれた京のお漬物、なかで私が、煮てあれば、幼少來親の敵ほど嫌いな茄子の漬物の香のよさ口当たりのよさに惚れ惚れと旨い酒が呑めた。なんて妙なんだろう。
煮た茄子が出ると私は怖気をふるい、母に、口へ押し込まれたこともある、私は泣きわめいた。幼稚園の給食に出た時も、先生にガンとして食べさせられた。大泣きに泣きながら口に含み、呑みこんだ。
ところが、わが家の向かいに、同年で、同じ馬町の京都幼稚園に通った石塚公子も茄子が嫌い、そして「ハム子」のいわく、ポケットに隠して食べなんだ、そして捨てたわと嗤われた。二の句が出なかったそんな昔昔を覚えている。が、漬け物の茄子は好きだった、香も歯触りも味も。京の漬物を戴いたと聞くといの一に茄子があるかと妻に確かめた。旨いのだ、香も味も。千恵ちゃん、ありがとう。
2921 7/3 235

* いまさき目覚めて、階下で手洗いして二階へ来たら、あきらかに「マ・ア」の入り方で書斎の戸が開いていた。ギャッと声が出て跳び込んだが奇跡のように荒らした形跡がない、ビックリ・ポン。それともよくよく見れば何かやられてるかな。
2021 7/10 235

* いま此の私の書斎は「マ・ア」の恣まな乱行を排撃する戦闘のさなかにある。しばしの油断にも付けいって横行し、書架は蹴散らす、天袋にも侵入して、好き放題。いやはや。蟄居・籠居の退屈を慰める気か、まさか。
2021 7/13 235

* 終日 或る難儀な資料(私料)の点検と整理にかまけていた、昨日から始めた。根をつめても数日はかかりそう。

* それでも夕食前に、映画『祇園囃子』の後半を見終えた。私の記憶からするといくらか割愛・編集されていたかも。ひれでも木暮実千代と若尾文子の「あはれ」はむごいまで美しく描き切れていた。座敷にこそわたしは挙がったことはない、はじめてこの映画を観たのは「祇園町」の真ん中の新制中学を出てまもない高校生時分で、舞子になっていた若尾文子とちょうど年格好もいっしょ、それだけに身につまされた。なにしろ私の中学では舞子に出て行く女生徒が現に何人もいたし、甲部も乙部もどんな細い路地ですら知り尽くしていた。祇園町の物言いも風俗も舞子、芸妓もたくさん見知っていた。されどころか、田舎へ疎開前、国民学校三年年生まではまだ葉は揶揄と一緒に祇園町のお風呂(銭湯)の女湯へも通っていたので、「舞子さん」らと平気で一緒の浴槽につかっていた、「はだかのつきあい」は子供の時に済ましていたのだ。そんな私には若尾文子の『祇園囃子』は目にも耳にもあまりに色濃くも親しかった。 あれから六十年の爺の目にも「祇園」は懐かしくまた痛ましいまで身に沁みた。

似た映画で若尾文子には大先輩の山田五十鈴が好演した『祇園の姉妹』もあるが、時代は古く、私の見ていた当時の祇園とは空気の色もちがっていた。
思えば木暮実千代のまぶしいほどな色気が再校に映えていた時節であった。
2021 7/16 235

* 朝から凄いまでに暑い。ワクチン祭祀の接種に、午後早々に厚生病院へ行く。

* 「マ・ア」にも熱中気味が見える。家をよく冷房して行かねば。
無事を祈り、願う。
2021 7/21 235

* この同じ日付けで、娘朝日子は生まれ、孫のやす香は逝った。

「朝日子」の今さしいでて天地(あめつち)の
よろこびぞこれ風のすずしさ     昭和三十五年 誕生

このいのちやるまいぞもどせもどせとぞ
よべばやす香はゆびをうごかす
つまもわれもおのもおのもに魂の緒の
「やす香」抱きしめ生きねばならぬ  平成十八年   逝去
2021 7/27 235

* 八割がた本の送りを進めて、休息。疲労して、宵の二時間ばかり、心揺れる浅い夢見て寝入っていたが、機械も止めて、はやく寝てしまいたい。今は、この日ごろの例で、倚子のあしもとで黒い「マコ」が寝ている。この子は、いつも私にひしと親しみ寄ってくる。

* 体調、よろしからず。
2021 7/27 235

* 庭を潰してまでわたしは不相応なほどの長い書庫を持っている。家居として暮らしているこの東棟の内にも大きな作りつけの書架が二階に二つある。西の棟の一階は「湖(うみ)の本」で満杯、二階にも私の自著だけで大きな書棚はぎっしり埋まっている。それさえもこの頃は努めて減らそうとしている。みごとに揃っていた鏡花全集は母港の文学部に献呈した。源氏物語関連のたくさんな書目も或る女子大へ謹呈し、梅原猛全集におなじ梅原著作を副えて西東京市の図書館へ入れた。同じ図書館や各地の、各大学の図書館へも夥しく寄贈し続けてきた。本には、なんとかそれらしい落ち着き先を探してやり嫁入りさせたいと願っている。日本の古典に挑んだ大冊の各種研究書などがずいぶん書架を埋めている。漱石、藤村、潤一郎、直哉、鏡花、福田恒存、森銑三、柳田国男、折口信夫、さらには日本の古典文学全集、日本近代文学全集、二十世紀世界文学全集、古寺巡礼京都全集等々、みな、しかるべく嫁ぎ先を探して上げねばならない。たやすいことでない。
2021 7/27 235

* 夢は見ないが安眠できなかった。体表に痛みの火照りがあった。仕掛かりの仕事を追おうと、体重や血圧の計測も省いて機械の前へ来た。「マ・ア」も付いてきて、甘えて「ごちそう」をねだった。削り鰹をすこしずつ分けて遣り、退散してもらった。
2021 7/31 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 弥勒 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)
(釜井春夫先生追悼七首 弥栄中学・国語)

みあかりのほろびの色のとろとろと
死ににき人はものも言はさぬ

衣笠の山まゆくらく雨を吹きて
水たまりに伽の灯がとどくなり

衣笠の山ぎはくらしひえびえと
更けゆく秋に死にたまひしか

* ご葬儀に、中学三年生、生まれて初めて弔辞を読んだ。
その後も教頭の寺元先生、担任の西池季昭先生のご葬儀でも弔辞を献じた。後々には、実父である吉岡恒の葬儀にも、親族から強いるほどに弔辞を望まれ、まことにフクザツの思いをした。
2021 8/7 236

* 仙台の さん、立派な大房のマスカットを下さった。感謝感謝。社宅で、茶の湯の初歩の作法を教えていた昔から五十余年、建日子が生まれる前だった。
2021 8/7 236

* 「湖(うみ)の本 153」に幼少を幸せに愛育された京都市東山区新門前通仲之町の、東遷のため取り払われる直前の、秦の旧家屋写真と、現在八五老の近影を「口絵」にしておきたいと思い至った。
2021 8/11 236

* あすは敗戦 日本国の「いちばん長かった」苦渋の一日。昭和二十年(一九四五)八月十五日、国民学校四年生だった少年の私は、秦の母と丹波の山奥に戦時疎開していた。
2021 8/14 236

* お盆と謂う日であるのに、私には幼來あまり感触がない。感覚的には、明十六夜の「大文字」を眺めての方が身に沁みた。今年の「大文字」はどうあるのかしらん。
昔なら、十五日のお盆より、二十三日ごろの地蔵盆そして盆踊りが大きな楽しみだった。
思春期に独特な色を染めたのが、町々をあげて戦後の盆踊り大繁盛だった。とてもとても家でじっとなどしてられなかった。各町内で、長い踊りの輪ができ、いつかそれが通りを通して合流した。新門前西之町の、古門前元町や古西町の、華頂会館前の、高台寺観音前の、祇園町北側疎開跡地や新橋西での、祇園町甲部や歌舞練場内での、寺裏松竹町での等々、もう至る所で踊りの渦が巻きに巻いて、みづほ踊りや三味線ブギや、東京温度、炭坑節など、何が何でもかまわず踊ってまわった。敗戦という空気をぶっとばす賑わいであったなあ。
2021 8/15 236

* ケイタイ電話が全然使えない。あんなちっちゃなものを耳に当てて、ちっちゃな記号を探しあてて喋ったり。アカン。アンナモンは。

* この「私語」の束を USB とかで送って上げても、「一太郎」を使ってない人には読み出せないという。二十数年私のワープロ機能は「一太郎」しか知らない、他にどんな方法があるとも。しかし大概の人はべつの機能らしい。日々の私語をプリントするには、あまりに量がある。ま、此の機械にインタネットが復旧するまでは、孤独に個室に内から鍵を掛けたままのような日々になる。技術者を傭って家に呼ぶということが、感染禍の今は出来ない。
もっとも、此の古機械クンのほかに、新しくはないが、使ってないままの別機械を大小二台そばに置いている。これにはインターネット「設定」が効くのではないか、とも思うがそんな操作設定がそもそも出来そうにない。もともとみな東工大の学生君や知友が家に来てやってくれたので、ズボラにも私は門外漢のまま、仕立ててもらった設定に取り付いてきただけ。何という機械音痴か。「ハタラジオ店」を継がず美学藝術學の作家になってしまったのだ、しょうがないか。
2021 8/19 236

* 京都は昔から共産党の議員が時に複数選出される府県だった。私も、じつは私の親たちの家でも、ときの政権にいつも腹立ち紛れに「共産党に入れてきて(投票してきて)やった」とぼやいていた。私は中学高校から王朝和歌のような短歌をつくって茶の湯にひたるような少年であったけれど、私の顔も覚えない生母は、一時、共産党から奈良の県会だか市会だかへ立候補したそうな人であったらしいし、一緒に暮らした記憶のまったくない一歳ちがいの実兄北澤恒彦も、京都での高校生の頃京大系の共産党員にちかづき火焔瓶闘争に絡まって臨獄の経験も持っていて、そういうことを後々には知るまでもなく、政治的革新には親近感をいつももっていた。いろいろな感想も身内に育んできた。
それで、というしかないが、わたくしは京都選出の複数の議員に宛てて、「政権」を遠見に見物したままラチもない好き勝手を喋りまくって満足している共産党になど今日何の価値もない、政権を念頭に置いた政治活動へきりかえなさいと、手紙を書いた。委員長にも書いた。つまりは、俺が俺がではなく、他の野党と協力して少なくも国会議員の三分の一回復へ全面で力を協せなさいと勧めた。一方。立憲民主党の議員、京都選出で大學の後輩にも同趣旨をつよく勧めた。
幸いに共産党の幹部はこれへ協和してくれたと思う。共産党の我意を捨てた野党共闘協力の姿勢は、数々の選挙で野党を勝たせてきた。その報告かたがたの私信もまた党の機関誌も送って見えるようになっている。 横浜市長選挙は、あざやかな成果のまた一つになった。
「政権」を意図しない野党など、存在価値は全くない。政権へ向けて活躍しまた協同しなければ弱小野党に存在意義はない。わたくしは、このためにも共産党に目覚めて貰いたかった。目覚めてくれてよかった。横浜市長選でも、また野党協力は実を結んだ。
2021 8/23 236

* 今日は、とうに亡い実父について「書きさし」てあったモノを、読み返してもいた。生みの母についてはともあれ『生きたかりしに』と題して選集の一巻を満たす長篇を書き置いてあるが、実の父親のことは、なんども試みながら手に余る生涯の簡明な異様とフクザツにいつも突き戻されてきた。
やはり書いておかねばならぬと思っている、その思いを今日もつよく刺激されたが、私はこの父の生前に前後三度しか顔を合わせていない。口を利きあったのは一度、三度目は死に顔であった。だが、この人は、異様なまでおおくの生きていた情報を断片でたくさん遺していった。母のちがう妹二人は、父葬儀のあと、それらを大きな風呂敷包みふたつに括って、ポンと私に委ねた。量はあるが理解にはくるしむ断片の集積なのである、が、当惑しているまに私は父の寿命より永く生き残ってもう残りは尽きようとしている。参る。

* 試筆めく書きかけてある小説へのこころみが、大小を問わねば少なくも一ダースほどあるのにも、どうしてくれると躙り寄られている。参る。

* 「物書き・作者」としてケッコウではないかという考え方はある。考えていても書けないよと謂う当惑もあるのですよ。
もう一度、陶淵明に聴いておく。

窮居して人用 寡く、
時に四運の周(めぐ)るをだも忘る。
空庭 落葉多く、
慨然として已(すで)に秋を知る。

今我れ樂みを為さずんば、
來歳の有りや不(いな)やを知らんや。
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* 逼塞の屈託で酒量が過ぎ、と謂うか、寛ぐつど手を出しては、たちまち寝入ってしまう。よいことではない、が、自儘なリクツをつけてしまう。極度に食のすすまないのの埋め草ですよなどと。肉も魚も野菜も飯も口に入らない。精製された例えば讃岐饂飩や鰹をふった冷や奴などを食している。歯が、上下とも無いに等しく、大概は、呑むように食している。一流の職人顔して旨い美味いと「安売り」の味噌汁など、一度で失望した。
浅草のすき焼き「米久」上々等の肉の味を、ときどき、渇くように想い出す。あの店はよかったと、恋しいほどの何店かが記憶にある。京都なら「千花」。
東京ではことに寿司の銀座、前の「きよ田」が懐かしい。代の代わったあとは、まだ知らない。
もう そうそうは「歩き」回れないナ。近い郵便局ポストへ軽々だった自転車が、帰りの上り坂で行き詰まり、牽いて歩いて登るようになっている。家の二階・階下の上下はまだまだ苦もない。

* 建日子が顔を見に行ってよいかと母に電話してきている。私たちも建日子と逢いたい。五十代、アレルギー体質を持つ彼はワクチン接種を受けていない。要心に用心はしているようだが。
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★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 迪子   (昭和三十二・三十三年 二十一・二十二歳 同志社大学三、四年の頃)

瀬の音もさみだれがちとなりぬれば
恋ひつつせまる吾が想ひかも

遠山に日あたりさむき夕しぐれ
かへりみに迪子を抱かむとおもふ

さしかける傘ちひさくて時雨るるや
前かがみなるきみにぞ寄らむ  (迪子詠)

* プロボーズは昭和三十二年(一九五七)十二月だった。以来一年一年を積んできた。
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★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 華燭   (昭和三十四・三十五年 二十三・二十四二歳 医学書院編集部にに就職・結婚)

朝地震(あさなゐ)のしづまりはてて草芳ふ
くつぬぎ石に光とどけり

夕すぎて君を待つまの雨なりき
光りにぢませて都電せまり來(く)  (迪子詠)

* この二首をはがきに、知友に結婚(昭和三十四・一九五九年六三月十四日)を伝えた。東京新宿区河田町のみすず荘六畳一間に暮らした。東京女子医大、また出来たてのフジテレビに間近だった。テレビの現場がほぼ気ままに覗きに行けた。喫茶店セットでインタビューを受けていた番組「スター千一夜」の「無縁の相客」の躰「喫茶店」に座ってくれないかと廊下で頼まれ、夫婦で「出演」した。スターが誰だったかは忘れたが、番組後の廊下で、ズボンのポケットから掴みだした百円玉の四、五枚を呉れた。初任給一万二千円(最初の三ヶ月八割支給)の昔である、けっこうな時間給であった。
その同じ廊下を行き来しながら台本を小声で暗誦して歩いている岩下志麻と、すれ違った。放送局はちがったかも、人気の連続「バス通り裏」の頃であった。大好きだった。岩下志麻とは、ウーンと遅れて、夫君と一緒のどこかのパーティで出会い暫時談笑。建日子作のドラマにも出て貰っていて、その縁で貰ったというおしゃれで軽快なシャツは「父さんに」と、回してくれた。著名な映画監督の夫君とも映画の話題などで文通があったり、本を送ったり、「縁」は、在るモノである。
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★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 華燭   (昭和三十四・三十五年 二十三・二十四二歳 医学書院編集部にに就職・結婚)

朝つゆにくづれもやらでうす紅の
けしはゆらりと咲きにけらしな

あさつゆにさゆるぎいでしものなれば
あえかに淡しけしのくれなゐ

良き日二人あしき日もふたり朱(あか)にひく
遠朝雲の窓のしづかさ

* 一階、六畳一間ずまいの新婚新居、ガラス窓をあけると、手にふれるまぢかまで花が咲いていた。
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★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 華燭   (昭和三十四・三十五年 二十三・二十四二歳 医学書院編集部に就職・結婚)

「朝日子」の今さしいでて天地(あめつち)の
よろこびぞこれ風のすずしさ   (七月二十七日 朝日子誕生二首)

迪子迪子ただうれしさに迪子とよびて
水ふふまする吾は夫(せ)なれば

* 出血性素因があって、出産はどうかと医科歯科大で注意され、即刻に当時血液学会会長の東邦大森田久男先生にお願いした。「大丈夫、無事に産ませて上げる」と太鼓判を戴いて、予定日前三週ほども入院、一九六○年、燃えさかる安保闘争の頃、無事長女朝日子が我が家に到来した。編集職は、幸い社外活動が多いのを便宜に、遠い大森の東邦大までよく見舞った。「朝日子」という名は、結婚より以前から私のアタマに宿っていた。
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