ぜんぶ秦恒平文学の話

家族・血縁 2022年

 

* 二階では、もっぱら「創作」と関連の記録や年表や歴史書や詩歌集を読みあさりつつ、機械クンに恭しく付き合って貰っている。
我が家の現状、いたるところに繪や写真が貼りめぐらしてあり、人様が観られれば「ウエッ」と唸られる。しかし仕方が無いので多めに観て欲しい。我が家は概して和風の造り、したがって戸障子・襖の殆どが「紙」です。それをめがけて「マ・ア」兄弟の徹頭徹尾の攻撃、「無残」とは文字通りで。
で、仕方なく、各種美術や大相撲カレンダーの用済み写真や、「沢口靖子」の大小顔写真や、京都市街の大地図などを、なに新釈のいとまも無しに糊ややピンやテープで貼りに貼り回してある。「こういう家なんだ」ともうとうからあきらめて満足している。瀟洒な紙障子が子供の頃からすきだったけれど、いっさいを諦めている。子供達の元気な方が心温かい。

* 五時前に建日子が来て呉れて、機械を種々点検して呉れた。百に余る知友からの受信メールを認識することが出来、ざっと走り読むことが出来た。有り難く、また発信して下さった大勢サンに感謝しつつお詫びも申し上げる。不要メールも多かった、みな消去した。
ネットの回復は結局成らなかったけれど、機械事情に判明のいくつかも在ったようで。建日子も、さぞ疲れたろう、感謝感謝感謝。ありがとう。母の雑煮やお節料理にも箸をつけていって呉れた。顔を見せてくれただけでも嬉しく。ありがとう。

* 十時半。疲れもした。
2022 1/2

* つつがなく三が日のお雑煮を美味しく祝った。海(削り鰹) 山(小芋) 里(大根)を餅に添え、京の白味噌雑煮にして祝うのが久しい秦家の習い。これを建日子が大好きで、よくお代わりしている。建日子には有り難い嬉しい「母の味」なのだろう。
2022 1/3

* 七草粥を祝った。今年は、ごぎょう、はこべら、仏の座にいたる七草を揃えて美味い餅粥で祝えた。ありがたし。

* 妻は,今年初の歯科通い。雪のあと。足もとに気をつけて無事にお早うお帰り。
2022 1/7

* 建日子の誕生日をこころより祝う。怪我なく 心身堅固に 心ゆく仕事を心ゆくまで成し遂げて行きますように。一段と「よく読み調べ」一段と「よく確かに書き」」そして年齢にふさわしい心身の栄養に「豊かに確かな古今の読書」で充実して欲しい。太れというのでは無い。

* 朝の音楽番組で、バイオリンの耳慣れた曲、また三人の、現代日本を代表するテノールの幾つかのみごとに美しい合唱を聴き、涙あふれたのに、てビックリした。
いま「やそろく翁」にして感受性のまだ乾いてないことにも感謝した。嬉しかった。
秦の祖父鶴吉は、敗戦直後にたしか七十九歳で亡くなった。おそるべき「年寄り」哉と十一歳に成るならずの少年は驚嘆していたが、その幼少であった私が今は「八十六(やそろく)翁」であり、斯く生きて働けている。感謝。誰にも、何にも。
2022 1/8

* 暖房だけをと二階へ来たのに、そのまま書いていた。戴いた温かな膝掛け、肩掛けで体を覆っている。柔らかな毛の帽子をかぶり、膝にも手首にも厚い毛編を巻いている。手には左右とも「指出の」手袋をし、終日、就寝中もマスクはとらず、寝入る前には眼帯している。私は、子供の昔から「寒がり」だった。栄養失調の戦時中はこどもはみなそうだったが、私も両脚によく「くさ」をつくって包帯が取れなかった。丹波の山村への疎開は農家でもらい物の果実や根菜に助けられていた。
2022 1/11

* 年に一度の銀行通いで、次年一年の「家計」等の算段をつけてきた。
快晴なれど、ごく寒く、無駄に歩かず往き帰りタクシーを遣った。
「湖の本 156」の「要再校の、初校済みゲラと追加稿も送った。次巻の編集もあるが、さしあたりは仕掛かり仕事を先へ押したい。が、何から手をつけるか。
2022 1/14

* 子供の頃、「明治」は遠いむかしに属してみえた、蔚然とした秦の祖父鶴吉は明治二年に生まれていた。そしていま、私の生まれた「昭和」を少年らは遠いむかしに感じまた知識しているだろう。
わたくしは、幼少来「大正」よりはるかに「明治」に関心していた。本を読むなど「極道」と云う父より、口はきかないがたいへんな蔵書家であったその恩恵を、子供心に痛感していたのだ、そして「やそろく」」の翁と成っている今にしてなおである。「明治」に向かう関心はなおなお今もなお深まっていて、それは祖父の蔵書から生まれる。

* 「末は博士か大臣か」と明治の人は目標にしたという。おおなんと「令和」の今日「博士も大臣」も紙のように薄く軽い,吹けば飛んでなにふしぎもない虚名に近づいている。明治の夏目漱石は、「文学博士」になってくれと国に頼まれても「御免」と払いのけ、受けなかった。そういう明治人漱石を私は敬愛した。東工大教授に聘されたとき、いつなりと、何なりとけっこう、「博士」にすると大学の持ちかけるのを、私も「無用」のことと辞退した。さらに紙衣をまとうほど心寒くは無かった。

* 明治の人たちは「教養」に眞実飢えていて「勉強」に心から励む人がどの世間にもいた。秦の祖父は息子から「学者や」と謂われていたが、商売は「餅つき屋」で、芝居小屋の南座へ下ろす「かき餅」などを製していた人であった。本は読まない父にしても、芸妓舞子らの錺職から、一転して日本で初の「第一回ラジオ技術認定試験」に合格し「ラジオ屋」になった。昭和初年から戦時中の「ラジオ屋」は晴れがましい技術職としてなかなかの存在だったのである。私がそれを嗣がず、というより機械バカで嗣ぐにつげず歌を詠み文章を創作する方へ傾いたなど、ひとによれば「もったいない」「不心得」なことと想われていた。
このアトを書き続けて私の「明治」を論じてみたい意欲が、じつは、あるのだが、「寄り道するな」と戒める気もある。なににしても、またまた早起きしたことだ。
2022 1/15

* (歯で噛んで食べにくいので)冷えた缶ビールと熱い甘酒と摺り下ろした山芋汁で、横綱照乃富士が阿炎に負けたのを見たまま、酔って寝入って、八時過ぎ。機械を閉めに上がってきたが、閉めようにも依るか、機械に変調がある。建日子は強いて機械を閉める必要ないはず、と云う。このごろ、閉めないで夜を越すことも。願わくは、今の創作を無事に押し上げて押し切りたい。
2022 1/22

* 朝のテラスへ、大きいの、ちっちゃいの、鳥がきて妻のようしてやる餌をつついていく。それを硝子戸越しに「マ・ア」と見入る。
今は,仕事前に、というより朝食ぬきに、金の鈴をふるように美しいピアノ曲を聴いている。
オミクロン感染は都で一万人を超えて当分は増え続けるだろう、政治家・専門家らの姿勢も意見も右往左往している。可能な限りは家でぢっとしているにしくは無いだろう。古池都知事の懸命なタクトに期待する。内閣は外交に忙しい。外交とは「悪意の算術」にほかならぬという私の確信によく学び給え。
2022 1/23

 

* 「湖の本 156 老蠶作繭」の再校分が届き、即座に校正し始めている。生母を語り継いで、生涯に思いの籠もった一冊となる。
2022 1/25

* 郵便局は「お休み」流行りで手紙も届けてくれないし、機械故障と知れていてメールも来ない。コロナ禍はとても下火にとは行かない、とないだけでも「万」台の感染巣が日々に延びあがっている。歯医者通いもお断りした。建日子も帰ってくるのを敢えて遠慮して呉れている。あ。右で鼻血、危うく膝へ真っ赤に落ちかけた。もう休まねば。
2022 1/30

* 感染の蔓延、猖獗は度を増している。妻ともはなしだが、私は、われわれはとうに早くに感染しているモノと自覚の上で万全を期して、検査を受けて引用を強いて決するよりも、相成る限りの事故対症に知恵を用いようと。
私は、喉の、熱の、痛みの、鼻汁の、倦怠の、といった在来経験豊富な状況には、何の躊躇もなく、売薬ながら、喉、咳、発熱専用薬、風邪薬、龍角散のようなのど薬、を適宜と即座とに用意して即、服用している。 加えて、酒もビールもウイスキーも、日本茶も薬用と信頼して日々に愛用している。そして指先を洗い続け、マスクも、寝ている間も外さない。ごく近所への外出にも手にはビニールの手袋をし、帰れば即、棄てている。すべて、自分は既に感染しているかも知れないが、断乎として自宅で対応して、間違っても入院して家庭の破産には向かわないと。
自分は感染していないという過信よりも、すでに感染しているかもしれないという予測に即して日々の暮らしを護ることに留意している。正しい用意だと考えている。
2022 2/3

* 機械「大小」の近辺片片の山なみなれど、如何とも遺憾とも如何にもならぬ中に。二センチ三センチ、厚み七ミリほどの紙函に「徽章と」と。私は徽章など縁無き衆生。明けてみると径二センチとないまん丸の、たしかに富士山を刻した徽章で、「日本進学教室」と。いよいよ私にはかつて無縁世間。建日子が早稲田中学を受験のおりにでも、どこかで貰ってきたか。だが、何でソレが我が雑物の山に隠れてたか。人生はかかる無意味な奇妙を何時知れず嚥下しているということ。いや、朝っぱらにヒマなはなしだ。 床を抜けて手洗いへ起ったままが、膚寒い。着に降りる。
2022 2/4

* ごく初歩的と思われる操作手順を忘れかけていて、試行錯誤に転じてよりややこしくしている。大老の老中のと若年寄も威張っていたが、はたして善かったのだろうか。あまりに何も鴨を鋭敏に判って、権力で采配されては迷惑も生じたろう、其処の微妙を老耄、耄碌がうまく緩和して、若年当たりの健常が政治を動かしたのだと想像できる。「翁」や「大老」はめでたい存在として祭り上げ押したい申してこと安穏に人の世が働いたモノと私は昔から思っていた。「やそろく老」のボケ加減、多めに眺めながら、時に杖を与え大目に見てやって貰いたい。と願いつつも家に今若年寄も若い衆もいない。四月には二人ともの「やそろく老」夫婦となる。無事にありたい。
2022 2/5

* 終夜、尿意と便意とになやまされ、床を立つこと四度。便座の傍へ、もちこんで備前焼の勉強をしている。茶の湯を叔母の稽古場で習いかけた少学校頃から、一井戸、二楽はもとよりとして、三の唐津にならび備前焼に心惹かれていた。
あれは、医学書員での岡山大へ出張の折りか、それとも出雲への旅の往きか帰りか乗り換え「駅売り場」ではじめて備前の堅い徳利を買った。のちに人から火襷きの大きな徳利と盃とを貰って、人にあげた。また備前の佳い花器や碗を戴いたこともあり、叔母のもちものにも佳い茶器が三、四も在って、やはり焼き物としては楽とともに一等備前に馴染んでいるのかも。友にの縁は永久荼毘のから戸朝
唐津となるとちょっと地理的に遠いが、幸い九州中の焼き物を探訪して本にする平凡社企画で編集の出田興生さんと二人旅の折り、繪唐津の可憐な壺なりの花生けなど買って帰った。あの旅では、「おんた」でも薩摩でも、諸方の窯で、大皿や酒器や、日用陶器など佳い買い物がたくさん楽しめた。本は沢山は売れないが、体と筆とは猛烈なほどに売れて稼いでいた。
2022 2/7

* なんだか、朝から機械が狂ってる。メールで、繪の話を、絵描きとさんと思う人に送ったつもりなのに、繪と縁の無いクリスチャンへ送ったことになっている。参るぜ、朝から。

* 機械のためとももう云うまい。なにかと「私語」してボヤイたり怒ったり惘れたりし通していたのだが、それすら機械的にあれこれ行方不明となった。なにをか云わん。諸計測を記録した手書きメモまで無くなった。
2022 2/7

○ お便りありがとうございます。
生活と意見を読ませていただくことができるようになっていましたとは、露知らず、開けても見ない日々でした。ただただ嬉しいです。
私の方も、新しいPCになってから、思うように扱えず、秦様のHPも読めないと、ついついPCから離れがちでした。これから、じっくりと読ませていただきます。
お尋ねくださった謡曲の方は
6日の日曜日に、謡の先生の 、門下生だけの新年会=研鑽会が矢来の能楽堂でありました。
私は「巻絹」のキリを舞いました。謡は練馬のお稽古仲間で「巴」を連吟いたしました。
コロナ禍のなかですが、ある時はリモートでのお稽古だったりしながらも、細心の注意を払いながらも、少しづつではありますが、お稽古を続けています。
おしゃべりをする相手もないまま、いつも心の中ではみち子様(=妻、少女来の親友)相手につぶやいています。ちょうど、若いときに離ればなれになった頃のようです。
夫も毎晩の少々の(本人曰くです)晩酌を欠かさず、食欲旺盛で元気に過ごしています。
みち子様ともにお二人の ご健康を祈っています。   晴

* 快いご勉強の近況が知れた。この人、妻と同級の親友、もうすぐ八十五歳。私の六十余年もの実感で、この人ほど、人生を豊かに満喫し成長された人を識らない。ごくごく普通の高卒生から銀行勤め、結婚し、上京して以降、何が機縁であったか目を見張る自覚的な勉強で、殊に熱心に「謡曲」を習い始めた。
謡曲と一言でいうが、途方もなく深く豊かに遙かな、いわば異世界。
謡曲という独吟・連吟による古文藝の味読が在り、独自の唱歌音曲の世界が在り、独自の歩行と仕舞が在り、装束や能面への親近がある。
どう見てもまるまる無縁と思えた境遇から、まさに一念発起、それも興趣を全身で楽しんで打ち込んで行く勉強ぶりだった、すばらしい一人生と、はために敬服している。地位とも名誉ともすがすがしく無縁に楽しめて、眞実、興味津々なのだ、羨ましいほど。
2022 2/8

* 今日は「おやじどの」と機械のうちで対話していた。「はは」と母という了解の儘対話した一度も体験していない。「ちち」とは、すくなくも一度だけ、私から声を掛け川崎まで会うべく出向いている。しかし対話した中身の記憶は絶無で、寿司を食い、腕時計と金属製のネクレスを貰ったが、手もとには残っていない。縁のうすい父子だった。
2022 2/13

* 「おやじどの」と向き合っている。この歳になってなおいろいろと視界が動いて行く。
2022 2/14

* 「おやじどの」との向き合いに、発見と刺激が加わって来そう、この歳になって、なおいろいろと視界が動いて行く。
2022 2/15

* この二、三日。とうに亡い、生涯ただ三面に終えた実の「おやじ殿」との対話に気を入れてきた。生涯を懸命に戦い抜いて果てた生母「ふく」にくらべ、実父「恒(ひさし)」へ私の思い入れは終始浅く薄かったのを、大きく反転させえようかと、莫大な父自筆の書き置きに読みふけって、熱を増している。
2022 2/16

* 今日はもう一つ深い感銘を味わった、川崎に暮らしている異母妹二人の妹の方が、おそらくまだ少女の昔、「最愛の」父(私の父でもある)に宛て懸命に書いた、「どうか心して聖書を読んで欲しい」と「お願い」の手紙だ。すぐさま此の妹が何歳ころと断言できないが、いかにも少女の筆でこころ籠めて書き、かつ願っていた。すがすがしい筆致だった。今も一家をあげて熱心な基督者と聞いている。
2022 2/17

* 早起きし、いつものように暖房し、ガスで湯と茶を沸かし、その前に体重を量り、そのアトで血糖値と血圧を測る。他へ者の残りを温め、猪口に数杯の清酒で独り朝食する。「マ・ア」の朝食は八時と決まっているので、妻は、それまでは寝かせておく。こんな早朝にはつとめて海外ニューズを聞いておく。西欧もアジアも昏迷に喘いでいる。
2022 2/18

* 実の父の像をたくさんな筆録等を介して探訪しているが、えも言われぬ感想に、いま、びっくりしている。このまま押して探索して行く。こんな思いをするとは予期できなかった。
2022 2/18

* 早く起きた。今今の体調では、午前を永く用いるのが佳いか、と。キッチンをガスなどで温め、湯・茶をたてながら血糖値など測り、着替えし、服用の夥しい数の錠剤等を揃え、熱い茶に好きな梅干しや紫蘇を含ませて呑む、清酒も、一勺猪口に、一献。朝食は、妻が起き「マ・ア」が食事時間の八時に、階下へ降りてとる。私の希望で、だいたい、白い丸餅を二つ、白味噌或いは鰹出汁で煮て食するのが、決まりのよう。
2022 2/19

* 今日も、父の資料と向き合う。二十二日に納品される「湖の本 156」発送用意は出来ている。次巻入稿を念頭に仕事している。
2022 2/19

* 父・吉岡恒の長文を読んでいて、心底、おどろいている。派手に言えば一部の隙もまた私に異論も無い。よく斯くも書いたものよと敬服する。久しく久しい實父「おやじ殿」への批判が誤解として蹴散らされそう。敬服している。嬉しいほどの出逢いになろうとしている。
2022 2/19

* 亡実父吉岡恒が昭和三十年の『建国記念日』に書き下ろして時の内閣総理大臣鳩山一郎に為していた「提言」には、仰天した。「あばれ親父のたぶんたわ言」と予期していた、それとても亡き「おやじ殿」の実像理解に遺児の一人として向き合わざるを得まい、ままよと或いは泥濘に踏み込む心地だった。
まったく違った。戦中戦後そして昭和三十年と限られた時点を顧慮し回顧しつつ見た、読んだ筆者の長文には揺らぎがなく相当に広く永い視野とともに言句の無様など一抹もなく、清心誠意の論旨としても、驚くほど揺らぎも晦渋もないのに、感心という前に仰天した。まことに嬉しいことであった。
2022 2/20

* 六時半には起きた。今日も「湖の本 156」発送に取り組む。建日子が一夜泊まりに行きたいがと、私等も衷心願っている申し出でを、やはり慎重に制してしまった。悔しい事だ。
2022 2/23

* 世間のいわゆる「作家」を生業とし看板を掛けている人の暮らしは、一つには「依頼原稿」への「稿料」、一つには「著書」の売れ行きへの「印税支払い分」そして「講演」料やテレビ・ラジオ等への「出演」料などで暮らしている、その余は、「副業」として教授や講師や教員としての給料が加わる。団体への「名義貸し」もタマにある。ま、そんなところが精一杯の財源として普通であり、実情から謂うなら、依頼原稿が「降る雨」のように来る作家など滅多にはなく、著作として、低俗な売り物は知らず、まともに文学文芸の著作者として「本」の幾らも出版できて売れる人は稀も稀で、生涯に一冊「本」が出せたよなどと喜ぶ人のほうが多い。まして講演や出演など、名義貸しなど、給料の出る副業など、ふつうは有るワケが無い。
大方の、殆どの文士・作家の「貧乏」は、「出版」という営みが世に現れて以来の当然の常識に類していた。「作家」で飯を食い家族や子女を養ってきた人数は「作家志望者」の万分の一だと識っていた方がいい。

* 幸いに、私は、太宰賞作家として文学の世間に送り込まれて以来、時節時代にも恵まれたのだろうが、上の条件の全部をほぼ思うままに手にしながら生活して来れた。
年譜にすべて詳しいが、出版した著作は共著も含め
百冊にあまり、原稿依頼は矢玉のように飛んできて、書きに書き、書きに書いて原稿料を稼ぎ、それらから又さらに沢山な本の出版が出来た。各地各所での講演だけでも数十度イヤそれ以上も話して来たし、放送での古典や歴史や美術の講座体験も繰返した。働きに働いての「挙句」然として定年までの東工大教授や、20数年ものあいだ京都美術文化賞選者もつとめ「功労賞」までもらった。
私は根から金銭的な吝嗇のない、同時にバカな散在などしない男で、自動車も運転せず、世界旅行もしない。余分な者を勝って狭い家をさらに狭苦しくする愚もなさず、しかも幸いに妻も家庭的で無用に出歩くこともせず、つまるところ、豪勢に著作『選集』を編もうが、35年に余って155巻を越す『湖の本』を売り続けてきたのを、ピタッと無料「呈上本」に切り替えて制作費はきちんと支払いつづけても、大病しなければ、まだ「寄る年波」に脅かされずに済むのである。
いわゆる「ベストセラー作家」さんのことは、縁もなく何も言わないが、私は、多産で豊作の作家として希有にまた素直に生きて来れた、ああよかった生き甲斐だったと文運に感謝している。
威張って言うのではない。「秦家」に育てられ、「京都」に養われ、こころして日本の文化と歴史その他に熱いほど学んできた「御陰」と思っている。深く深く感謝している。
2022 2/23

* 父の『宗教界の指導者へ』と題した長文は、批評や要請や提言であるより、「信仰と宗教」を自然科学として理解し直そうとする「長編」の論攷で、意図は理解できる。背後ないし下敷きにある前世紀おそらく中葉来の、世界における在来の宗教学ならぬ「宗教科学」乃至「信仰という自然科学」が、ためらいも致命的な揺れや混乱もなしに円繪と語られている。父吉岡恒の信仰を、ないし基督教への親和や接近をかたるものとは違っている、と思われる。誰にもできる思いつきの議論や主張では亡い、その意味では慎重を欠いてもいない。
何にしても書き写すも苦労な長文で在り、でたらめの言いたい放題とは見えていない。
2022 2/24

* 信仰は科学的に説明が付くか。父吉岡恒による是非は如何。
2022 2/24

* 父 吉岡恒が、次女ひろ子(恒平の年若い異母妹)に最愛を込めてて贈られた堅固に厚い帳面に、父は、長短四篇の述懐ないし論攷を書き入れている。
その最後の最長篇『宗教界の指導者へ』は、まこと驚嘆ないし仰天の、希有かつ強硬独自の論述であり、のけぞってる。筆致は緊迫し形成で、言辞に激越も乱暴もない、ひたすらに指導的立場の宗教権威者がの「信仰指導」の根拠の無さを「科学」的に衝いている。
予感はできていた。父は無数に断片的に 「主」や「神」に訴え頼み伏し従う言句を書き置いているが、私はそれらの浮薄または空語の気味を覚え続けていた。これは「ことば」であっても「こころ」とは受け取りにくいなあと。
上記の長広舌には、父の捨てがたい実感が爆発している、しかもかなり冷静に。

* 父恒の (私からすれば)祖父誠一郎の「基督者ぶり」を軽侮し非難し続けてきた性向が、かかる論の基盤に死灰のように溜まっていたのではと察しられて傷ましい気がする。
2022 2/25

* 午后、ふたりで知覚の「セイムス」へ買い物に。私はのミリ乏しい薬など買い足し、ひそかに目当てのスコッチを一本。安直なカップのきつねうどんも二つ。
「マ・ア」たちの食事や砂が嵩高くて、重く。自転車で助かるが、風が強くて危なかった。」
2022 2/27

* 妻が 眼球を痛めている。新聞を、遊びの頁までいつも克明に見ているのは負担になろうと案じつつ傍観していた。私はもう久しく新聞は一切読まない。ニュースはテレビでおおよそは解る。目は、老耄、ますます大切にしないと。
2022 3/1

* 私には父方祖父になる吉岡誠一郎が、兄恒彦や私の単立戸籍造作に関わって父恒に与えた自筆の呈書を、長時間、苦心して読み且つ書いた。疲れた。ぞつとしないモノだった。九時半。
2022 3/1

* ひな祭りも ほんとうに遠いことになった。朝日子は元気に、幸せでいるのだろうか。
2022 3/3

* 「虚幻焚身」とでも謂うか、実の父が敗戦の生涯におよそ泪しつつ,一まづは取り纏めた。生みの母を書いたよりも苦渋を呑むしんどい仕事では、あったけれど。
是ともあれともなく、川崎に暮らす異母妹ふたりの妹「ひろ子」に初めて電話で話した、七十にもなっていよう、近年に夫を見送っていると聞いていたが、元気で、正真正銘「神」に護られた深甚の基督者だった。少女以来、一貫して毫末の崩れもない、ほんものの信仰に生きていると聞こえた。そういう生き方を私、自分は出来ないが、感嘆して受け入れるに吝かでない。我々の父親は終生「神」を頼みにしていたようであるが、空疎に逸れていた。妹に聞いてみた。「成りきれてなかった」と即答され、頷いた。
亡兄恒彦をうみ私を産んだ「母・ふく」に関しては、「父を誘惑した、うらんでいる」とハッキリ。正、その頃の父も母も、後年父の妻に、妹達の母親となる人の、毛筋一本の知識も絶無の時期であったし、母ひとりが必ずしも誘惑したとは謂えないとわかっている。私が芥川賞候補に挙げられた作品「廬山」の掲載発表とちょうど同時に雑誌「展望」に、なだいなだ氏が、当時フランスで沸騰したの「ガブリエル・リュシェ(の恋愛)事件」を批評し周到に論攷していた「小さい大人と大きい子供と」を読むのが、私や兄恒彦を生みの両親のためには至当であり、「實父・吉岡恒」は、当時親族らに精神病院へ監禁されながら、「時の人」息子の小説より以上に、同じ「展望」の、なだいなだ氏論旨に深く大きく救いまた癒やされたと、その「感動」を興奮気味に書き置いている。ガブリエルははるか年長の女教師で、リュシェ少年はハイティーンの生徒だった。世論と検察とに追い詰められガブリエルはひとり自決したが、我々の生母は生涯を闘い抜いて、なお「生きたかりしに」と呻木中きながら病死した。父の方にはそんな闘志はなく、崩れ去るほど孤独に、膨大な「落書き」めく述懐を大和積んで「敗戦」死した。
いま、実の弟である私は、人も讃えた市民活動家でありつつ実兄の北澤恒彦が何で自死したのかと、胸痛めつつ想い思っているのだが、その兄のまだ若い快活だったラガーの次男もまた、はるか年上の外国女性の死を追い追うように、異国のウイーンで傷ましく自殺したと伝わったのも、ごく近年で。生きる難しさに頭をたれながら、かつがつ「実父・吉岡恒 焚身虚幻」の「敗戦」としか謂えない生涯をスケッチし終えたのである、今日に。 2022 3/4

* 昨夜に、新作「父の敗戦 虚幻焚身」をともあれ一稿脱稿できた。「はは」を追うよりはるかに難儀な道のりであったが、私 従来の八十余年、の出ようの無かった実父像のともあれ素描であり、実感、一先ずはほっとしている。
2022 3/9

* 昨夜に、新作「父の敗戦 虚幻焚身」をともあれ一稿脱稿できた。「はは」を追うよりはるかに難儀な道のりであったが、私 従来の八十余年、の出ようの無かった実父像のともあれ素描であり、実感、一先ずはほっとしている。
2022 3/9

* 妻と散歩かたがた、郵便局から、頼まれていた藁谷敏晴さんに『親指のマリア』など、また読書家と聞く丸山宏司くんのお嬢ちゃんに文庫本など、送る。日和り明るくもう寒くなく、梅、桃、水仙、早咲きの桜など目も楽しみ、近くのローソンで米の美味いと以前に感じた握り飯など買い、ゆゆると帰ってきた。

* 明日はまた聖路加へ。遠い。人出とも行き交いたくなく、折角出るのだとも思う。明日済めば聖路加は両科とも六月になろう。コロナ禍の安心な鎮静をひたに願う。

* 郵便やメール等々への謝辞はこの際失礼させて貰い、一気に、もう仕掛かりの次の創作へ踏み入りたい。  と、謂いながら、ローソンで手に入れたスコッチに凭れこんで、五時過ぎまで寝入っていた。体が固まって、頸や背が痛む。
2022 3/10

* 目が覚めたので早起きした。体重を量ってから.番茶をたて、血糖値と血圧を計り、ウクライナ・ロシア情勢を視聴しながら、今日一日の為の多種多量の錠剤を小皿に用意して小枡で伏せておく、そして二階の機械へ来た。「マ・ア」も来て朝の削り鰹に満足して降りて行った。

* 二十数年もの聖路加糖尿診察を終えた。血糖値は計り続けたいので計測用のを処方して欲しいと頼んだが聞かれなかった。糖尿に関する限り、また他の計測値も十二分に良いのだと。血糖値の高下はあり得るのでそういうときは計測して対応してきたが、その道も外されてはもう通うのは無意味と諒解した。気をつけるか、近所に開業医を探すか。

* ま、それより何より、しっかり仕掛かりの作や創作へ立ち向かうのに健康の停頓が邪魔にならぬよう、在来以上の注意を払わねば。

* 「湖の本」全巻で「生みの母」を私の内に決定づけ、従来むしろ打ち捨てたような「実の父」を今回、有り余る父自筆の材料等を選別しながら、批評的にも情意としてもかなり突き詰めて書き置いた。「父・吉岡恒」ととうとう不孝の息子は出逢い、そして最期を「お父さん さようなら」と結んだ。善し悪しの評価は自分で出来ない、通り抜けるしかない道を通り抜けた、ほっとしたと謂うこと。

* 暑さから一転、背などうすら寒い。冷えてきたか。
2022 3/12

* 久々に 手書きの二通を投函した。「湖の本 157」への口絵写真も送った。「頼朝と十三人」撮って置き最近分を見て、二時過ぎまで熟睡。
明日は、六十三年目の結婚記念日、余念無くつとめつとめ歩いて来た。そしてワクチン三度目の接種を受ける、無事に終えたい、無事是好日と。
2022 3/13

* 山なす亡父資料をようやくまた大きな風呂敷包み二つに片付けたと思った。と、机に掌に握って収まる小さな、しかし部厚い前頁に様々に書き入れの手帳が残っている、手荒なほど書きッぱなしの筆跡は様々に乱筆ながら独りのもの。それが実父のそれとは全く異なる。実父吉岡宏の筆跡は、こっちが恥じ入るほどのよく整った達筆で、厖大な書き置きの、時に乱文であろうと乱筆は無かった。
なら、誰の手帳か。「松岡洋右全権の帰朝の際發したるステートメントの一節」など書き出した頁もあれば、「ヱホバ言ひ給ふ 人我に見られざる様に密なる處に身を匿し得るか、ヱホバ言ひ給ふ 我は天地に充るにあらずや  ヱレミヤ記23-24」などとも。優に戦前へ遡れる大人ないし老人のおおかた走り書きで、しかも基督者めく引用や言辞が混じっている。
「説くよりも見せよ」とか
「變といふ逃げ道 醫者は明けて置く」とか、 皮肉めく見解も無数に混じっているようだ。
ふと開いた頁に、明らかに「當尾村社」なる四文字が見えた。「當尾村」は実父が生まれ育ったの岡本家が大庄屋を務めた南山城の一画で浄瑠璃寺などを抱えている。父の父、私には祖父の吉岡誠一郎の筆記帳を長男恒が手に入れておいたのか、確認は出来ないが、やはりこれも父恒所縁の遺品一冊と謂うて良いように思われる。当分机辺に置いて個人の口吻に馴染んでみよう。古人述懐の和歌なども随所に書き置いてある。なかに自作もあるか知れない。面白いものを亡き「おやじ殿」は私に遺して逝った。目から鱗の落ちるような新発見があるやも知れない。
2022 3/13

○ やそろく様
ご結婚記念日 おめでとうございます! 仲良くお元気で今年も迎えられて 本当に良かったですね。お仕事も順調に続けておられて 何よりのお幸せだと思います。
お母様の短歌は 並々ならぬ才能と感じました。私は短歌には疎い人間ながら胸打たれました。この短歌集がひとつの小説のようにも感じられます。さすが親子だと思いました。
遺書のお歌は 今もあにうえ様の創作の源だと感じます。
今日はワクチンも済ませて
楽しいお祝いの1日となりますようにと願っています。 いもうとより
2022 3/14

* 小学校で会ったか青嵐中学の頃か朝日子が自分の頸というか顔を石膏で創ったのがものかげに成っていたのを救出し私の部屋の本棚に余裕をつくって据えた.谷崎先生の写真と並んでもとは松子夫人と並んでた場所へ置いたのだから特等席である。なかなかふっくらと立派な雑煮出来ていて、朝日子が家に遺していったいろいろの中で傑出している。なかなか宜しい。元気にしているといいが。
2022 3/18

* 昨夜に、新作「父の敗戦 虚幻焚身」をともあれ一稿脱稿できた。「はは」を追うよりはるかに難儀な道のりであったが、私 従来の八十余年、の出ようの無かった「ちち」像のともあれ素描であり、実感、一先ずはほっとしている。疲労しきっている。
2022 3/30

* わたしは、京も祇園町のまぢかで育ち、祇園町のまんなかの中学生で「先生」無用の茶道部を立ち上げて作法を指導し、高校は泉涌寺の下、東福寺の上の日吉ヶ丘に在り、学校にあった「雲岫」と名付けられた佳い茶室に「根」を生やし、茶道部員に茶の作法を熱心に教えていた。
秦の叔母は生涯、裏千家の茶道(宗陽)、御幸遠州流生け花(玉月)の師匠だった。私は小学校五年三学期からこの叔母に茶の湯をならい、高校を出る出ない内に茶名「宗遠」を受けて、のちのち上京就職結婚まで、叔母の代稽古もつとめ続けた。つまりわたくしはまさしく「女文化」に育っていた。親しい男友達は、指折り数えて大学までにせいぜい十人か。友達とは言わない叔母の社中も含め、わたしが教え、また互いに親しんだ女性、女友達は、今日までに優に百人どころでないだろう。
「女文化」という言葉を発明しながら、京や日本の歴史や自然や慣行をゆるゆると身に帯びてきたのは、必然の、ま、運命の賜物のようなものだった、「好色」「女好き」というのとは、まるで違う。それが、私の「生活」なのであった。
秦の父は,素人ながら京観世の能舞台で地謡にも出る人であったし、日頃、謡曲の美しさ面白さを家の内ででも当たり前に「聴かせ」てくれていた。
祖父鶴吉は、一介市民「お餅屋」さんの家としては、異数に多彩な、老荘韓非子・史記列伝等々の漢籍や「唐詩選」ほか大小の漢詩集、大事典辞書や、また『源氏物語湖月抄』や真淵講の『古今和歌集』『神皇正統記』また『通俗日本外史』『成島柳北全集』『歌舞伎概説』等々の書物を、幼い私の目にも手にも自由気ままに遺していってくれた。
言うては悪いが実父母と生活していても、とてもこんな恵まれた素養教養の環境はあり得なかったろう、じつに秦家へ「もらひ子」された幸福の多大なことに、心の底から驚きそして感謝するのである。
その意味では、私は、作家秦建日子や娘の押村朝日子に、何ほどのかかる教養・素養を環境として与えてやれたかと、忸怩とする。もっとも、当人に「気」が無ければどんなものも宝の持ち腐れなのは謂うまでもない。宝は、だが、その気で求めれば広い世間の実は至る所に在る。しかし、それもまた、ウクライナのようなひどい目に遭ってはお話にならぬ、とすれば、今我が国の「為すべき備え」は 知れてあろうに。
2022 4/2

* 建日子が新しい機械をもって帰ってくるというのを、残念きわまりないが、なお用心したいからと押しとどめた。逢いたい、話したいは山々だが。東京の感染者はまだ日に「万」へ近い。せめて「五百」未満にまで沈静するまで慎重にガマンしなくては。
2022 4/3

* 「やそろく」の妻となる朝の手をとりて盃かはす我も「八十六」 恒平

* 元気は過信してならず、弱みに逃げても危ない。川の流れのように、大きな川でなくてよいのだ、ただ確かに温和に変わりなく流れて行ければ良い。
2022 4/5

* 朝、赤飯で祝い、 晩はワインで海老、貝、蟹を食しながら、谷崎先生の名作市川崑監督の『細雪』を岸惠子、佐久間良子、吉永小百合ら豪華版で、松子奥さんもしみじみ懐かしく、なにもかも懐かしく、堪能した。
昭和十三年の頃を描いていて、時代は未曾有の戦時へ傾いて行く寂しさと切なさを見事に描き尽くしていた。同じ大阪ものでも、『暖簾』などとは根から視野が変わっている。吾々にはあまりに縁の遠い豪奢なくらしだが,余計に時節の傾きが胸に迫る。
2022 4/5

* 一つ異を唱えてしまうが、こと私に限つて「葬儀」も「墓」も無用と家族に言い聞かせてある。遺体はよく灰にして、ひとつかみ庭の「ネコ・ノコ・黒いマゴ」達の奥津城に同居のていに撒けと。他は、それとなく京都のゆかりの場所へそれとなく撒いて呉れと。位牌が欲しいなら、仏寺を頼まず、「秦恒平 宗遠」とだけ業者に注文し簡明に「刻」して貰うように、と。「私の墓」は、すべて自身の著書・著作以外に無いと。
2022 4/6

* 「湖の本 157」の前半再校、後半初校が出てきて午后はそれにもかかっていたが、早めの夕食の儘に撮って置きの映画、今日は『台所太平記』を森繁谷崎先生を囲んだ淡島千景松子奥さんをはじめ懐かしいいろんな女優が演じる女中達の活躍を笑って過ごした。『細雪』とはえらい違いの映画世界だが、わたくしも、かすかにはこんな谷崎家を建日子と二人で訪れたことがあるのだ。
2022 4/7

* 能管とバイオリンのコラボを愉しく美しく聴いた。中学であった、高校のろか、「笛」が習いたいと父にいうと、「胸が悪ぅなる」と一蹴された。なんとなく納得できて諦めた。能舞台の地謡にもかり出されていた秦の父には、何かしらそう思う知見があったのかも知れないと、今し方、変容をきわめて美しい笛の音色に感嘆もしつつ妻と話し合った。 2022 4/23

* また故障かと疑うほど、外からのメールが無い。いや、朝には一通来ていた。返事も送った。
自転車を楽しみ、湯に浸かり、夕食後に、「頼朝の十三人」を観て、そしてまた寝入っていた。八時半。マコが、機械に向き合う手居る私の腕に抱きつくように伸びあがって来る。
このところ読書で楽しんでいるのは、ル・グゥインの『ゲド戦記』第一巻。浴室へも持ち込んで。もう一冊は『水滸伝』。上等の読み物です。
コロナのあまりに永い逼塞も害になりさまざまな疲れが五体に寄せてくる。寒さがにわかに暑さへも動いて障りになっている。自転車で三十分か小一時間も走れていたのは有難い。脚腰のためにも過剰にならぬ程度に習慣化したい。
と、謂いつつ。眠気が波のように寄せている。
2022 4/25

* 建日子が母親へのパソコンを持参、マスクをだれも放さぬまま、機械の設定などしてくれてまた仕事先へ帰っていった。ゆっくりと話し合える日がはやく易々ときて欲しいもの。お互いにまだ用心しよう。
2022 4/29

* 夕過ぎから撮って置きの映画を二つも見た。さきに『遺恨あり』と。幕末から明治初期へ跨いでの、両親を惨殺された若い武士の、まあまあな「仇討ち」映画だった。
も一つは小津安二郎監督の名作『麦秋』を原節子、淡島千景、三宅邦子、東山千栄子、杉村春子、柳智衆らが好演した。原節子ものでも名篇というに値いした。
昭和二十六年の映画で、わたしの中学三年のとし。ラジオ屋だった我が家の店には、東芝だか日立だかの宣伝ポスターに原節子の美しい大きな写真があり、日々機嫌良くこの(?_?)かの美女を心底賛美していた。「青い山脈」「東京物語」「山の音」ほかなどなどの原節子映画には魅入られつづけた。
2022 4/29

* どうにも、今「卯月尽」明日が「皐月朔」に思えてならないが。機械は今日が「五月一日」と出している。「いしだあゆみ」や「寅さん」「先代仁左衛門」を映画で観たのは昨日なのか、今日なのか。自分の「ボケ」を容認し甘やかしてはいけない。建日子が母親へ新しい機械を持参したのが、ふと、昨日か一昨日か、曖昧になっている。ま、どうでもいいのだが。

* 何日何曜日の何時頃を生きて暮らしているのか、寝入ってしまって記憶が途切れ、目覚めた事典での自覚がボヤケている。暢気で佳いではないか、何月何日何時ときめてかかるどんな必要が今の自分にあるのかと居直りたい気になる。生活に拘泥せず、生存を受け容れでいればよろしいでは無いかという心地なのか。けがと病いとに用心してれば、あとは気ままに生きて居よということか。
2022 5/1

* ウクライナでのプーチン・ロシアの蛮行・愚行といいコロナ禍の延々継続といい、どうしようも無く地球のこんにちはガタカセタし続けて、人はみな、安泰の歩みも得られない。ほとほと迷惑、まるまるマスクを顔からはずさず、旅はオロカ街歩きもしない二年半になる。あの戦時下でも、幸い京都は空襲も九割九分免れたし、丹波へ疎開しても半年未満で敗戦集結した。列島に空爆を浴び始めて敗戦までと同じ長期間をなんと一感染症に祟られ行動と暮らしを束縛されていて、先はまだ不透明。命を縮めている点で戦争と変わりない。
十連休にも用心を云われていながら、京都など嵯峨嵐山も清水寺も文字通り満杯に人出で溢れていた。その上に外国からの入国を水際で緩めると。
「愚や愚や ナンヂを如何にせん」

* こんな際に岩波文庫で『旧唐書倭国日本伝 宋史日本伝 元史日本伝』を書架から抜いてきて、禍何時をも愉しみ読みながら簡潔をきわめた古史の本文をフンフンと読み始める。興味深く、憂き世離れもして、いっそ風流めく。風流の愉しめる性と才とを、生み・育ての親に感謝する。
2022 5/10

* お庭の広そうなこと、花の沢山なこと。
我が家では東西に家二軒が棟をくっつけていても、東にテラスと西に細いみじかい射干が今満開の文字通り狭庭。細長ァくて上は土庭にした十数メートル鉄筋の書庫が東に場を占めている。西棟の戸外、曲がり角で先日から「大紫」が溢れるように豪勢に満開だったが、もう五月半ば。
2022 5/11

* 十一時半。大相撲で横綱が力強く勝ち相撲をみて、少し、酔いのまま横になったら寝入って、「九時」に妻に声を掛けられながら、寝続けて今に。五時間余も睡魔に身を預けていたことになる。入稿原稿「着」と報された安堵もあった。
機械前の此処へ上がってきたら、「マ・ア」も喜びい③手でついてきて、静かに背後のソファで抱き合うようにし私の背を見入って、「鰹」を待っている。よしよし。上げるよ。

* 日々に老い衰えの深まり行くのが感じられる。体力や脚力のそれであるより、記憶と脳力の沈下と。幸いに、しかし「読み(調べ)書き(書字・文章)読書」も大過なく不自由なく出来る。たいした段数でないが二階への階段上下も、まだ苦痛でも負担感もない。生命欲とでも謂うか、まだまだ挑む活気をもちつづけたい、「老い」とはむしろ競って生きたいと思う。老境を気取ることは無用と。「孤立無援」では無い、久しい読者が日本の広範囲からみてくださる。ときに手伝ってもくださる。
それにしても、ま、深夜のこの六畳書斎の「雑然」よ。これで善い。これが安心でこれが嫌いで無い。

* 十二時になる、日をまたぐ。明日の日記を起こし、階下へ降り、もう少し寝床で「読んで」から寝よう。明日も穏和にとねがう。
2022 5/11

* 床を起ち二階へ来て、ちょうど一時間。「マ・ア」も、私のあしもとで削り鰹を喜んで階下へ。「ゴハン」の時間ようと今度は妻に催促しているだろう。
戸外は五月雨、しとど。
2022 5/14

* 詰め込みの抽斗の一つから、大学ノートに「 1984 昭和五十九年元旦 より 1988 昭和六十三年元旦 まで」の日記が現れた。四十年近い過去で、記憶からは遙かに遠のいていたが、日記を見ると、目の前のように記憶が蘇る。なにもかもが善かった出なく悪かったでもないだろうが、浦島太郎の玉手箱のように想われる。1988 昭和六十三年元旦の記事をそのまま書き抜いてみたが。

(いま、参照までに)
◎ 1984年  昭和五十九年 元旦 日曜日
今、新年を迎えた。天神社の太鼓が急に威勢よく、お囃子も聞こえてきた。建日子が 寒い中を とび出して行った。 朝日子はまだ湯にいる。迪子は、去年の初出本記録のカードを作ってくれている。

無事に新年を迎えられて嬉しい。ネコが暮に容態わるく だいぶ泣いて心配したが、幸いもち直して よく鳴いて甘えてくれる。よかった。

昨冬は、総選挙で久々野党の旗色よく よかったが、その後の与党の収拾のうまさにも 呆れながらかんしんしてしまった。

カレンダーを新しくし、時計の針を正し、さて酒でも呑んで、ゆっくり寝よう。だが、めざめてからは、元日も暮もない 私の戦場だ。仕事は山積みだ。けっこうなことだが、それは 仕事が済ませて行ってこその けっこう。

新年早々というのは 緊張がきつい。ダレて居れない。いつになっても私は若い学生のような気分だ。私は今年、少年に帰るだろう。さあ起とう。平静心で起とう。いろんな事があるだろう。

ほっと目醒めたのが 九時半だった。雑煮を祝ってから、建日子にベートーベンのシンフォニイをレコード3枚で、迪子にはハイドンのバイオリンコンチェルトなど1枚、朝日子には トマス・ア・ケンピスの「キリストに倣いて」(岩波文庫)と ブーツとを。建日子には他に岩波文庫で短いのを5冊。
谷崎松子夫人からのプレゼントが 朝日子にハンドバッグ、私にネクタイ。なんと!
十一時に天神社へ初詣でに。すばらしい快晴、うらうらと。静かで。佳いお正月だった。

年賀状は元日だけで、私の分だけで300枚を超えたろう。一日がかりで返礼の宛名書きをした。昨冬の父(実父・吉岡恒)の死があったので、賀詞は今年は省いて、ただ、賀状の来た人にだけ 返礼の出来るように用意しておいたのだ。それでも200枚余りしか書けなかった。晩おそくに、歩いてポストへ入れて来た。

除夜の鐘を聴いてから、一本、「ジャッカルの日」という映画を独りでみて(tv)、そのあと、「最上徳内」の手入れを開始してから、床に就いた。一時半に、電話が必鳴った。すぐ切れた。
徳内の 第一回分を読んだ。「四度の瀧」を1枚分ほど追加した。エッセイも1枚分ほど打ち初め(ワープロ)た。

朝日子が腰を痛め、豊福君のデートの誘いを 結局 断るハメになったのが 元日の残念となった。

さて、あれもこれも着手してみたかったが、やはり賀状に時間をとられてしまった。まァ かっかしてはいけない。確実に。今年は時間の配分と併行作業とが大事な配慮になろう。

お年玉を渡してから、 キリストに倣いての4巻57章を読み、お祷りをした。

* 幾つか、思い出せる。
キリスト教と「お祷り」にびっくり。 シドッチを書く心用意だったかか、あるいは実父教会葬の縁か。
松子夫人のお年玉。 懐かしい。
朝日子と豊福君。 結ばれてたら、親は、どんなに嬉しかったか。
年賀状の300通。 「新年」の発進に障ると、年賀状一切「おやめ」と決心した。。

* 此の、上の日録ノート、一年分取り纏め書き起こして置くと、いわば私の「中年・働き盛り」の色合いが、分かりよく見えるのかも。ま、この先々の仕事優先が当然です。
2022 5/14

* 書庫で、まえから気に掛け探していた、明治二十六年二月一日初版、三十年四月十八日三版発行、正價 金三拾錢 東京日本橋 博文館發兌の『明治歴史』上下二巻を見付けた。「従二位東久世通譆伯爵題辭」「坪谷善四郎著」で古色蒼然の外見だが、ずしっと重い。二年生まれ秦の祖父の三十歳前の旧蔵だが、「読みたい」と私も久しく身構えていた本であり、明治開創のころの文章へ見参、枕元へ、他の、毎日読み進んでいる他の十冊と並べて置いた。堂々の大著であ。
2022 5/15

* 雨。懐かしいネコ・ノコ母子、黒いマゴの奥津城間近に根ざして、隠れ蓑が天を仰いで大屋根まで枝葉を密に広げ、テラスを青々と美しい蔭で覆っている。
メールも無く郵便も来ず、さびさびとした日頃だが、「読み・書き・読書」は十二分に豊か、そして「撮って置き」の映画200以上、選抜きのクラシック演奏盤も100を越し手の届く處にある。古今亭「志ん生江戸物語」まである。六畳間の西半ばの壁き堅固に見栄えの作り付け書棚は、私三十三巻の『秦恒平選集』33巻も含んで、大事典の各種、敬愛の全集も数えれば八種に満たされてある。刊行半ばの「秦恒平・湖(うみ)の本」157巻も揃い、大小諸機械8台が働いている。秋艸道人筆『学規』 井泉水揮毫『花・風』の大字額、南洋の大豆鞘に一字ずつ書かれた『鴛鴦夢園 潤一郎 書』と夫妻のお写真、グルジアの旅で貰って帰った美しい巨角盃の吊りもの。朝日子が頭部を石膏自造の「顔」。妻の描いた亡き「やす香」ネコの娘「マコ」の小肖像。 そして

* 敬愛久しい医学書院金原一郎社長が、自身私の仕事席ヘまで持ってみえた「秦恒平君 社長 (ご自身の、そして自筆で=)写真一枚 お贈りします お受取下さい」と添えて下さった「温顔の自影」一葉。
これは、信じがたいまでの驚嘆だった。ほぼ岩波書店と同規模、医書の業界では抜きん出ていた「医学書院の金原社長」といえば業界でも著名、社内では「怖い極み」「(愚図と不届きを真っ向)怒鳴る社長」の代名詞で社員はみな兢兢・恐々の方であった。
私は、しかし在社十五年半、只の一度も怒鳴られも𠮟られもしなかった。側へ寄って行きもしなかった。ただもう、高度の医学・看護学の研究書・教科書の企画編集者としては文字通り「猛烈」に成果を積んで倦むを知らず、平社員の間から毎週一度「社長主宰の企画会議」に目次と筆者・監修者を具体的に用意の「出版企画」をひっさげ、ほぼ年柄年中出ずっぱり、社長・編集長の決定・認可で次から次へ企画を通していった。むろん専門の研究医家やナースに執筆依頼し、取材・製作・出版した。
企画書を持たずに平社員は出席できない企画会議だった。そして、そのうちには突如、筑摩書房の「太宰治賞」作家にも成った。社長は祝って授賞式にも出て下さり、他社の社長達に金原社長までが口々に「祝われ」て、見たことも無い大にこにこだったのが、今もしみじみと嬉しく、忘れられない。
医学になど全く無縁の美学芸術学で院を中退、妻と上京して、とにかくもと就職した医学書院だったが、手も出せない「医学」と「医家」という堅い高い壁がむしろ「幸い」し「向き」もして、医学看護学に敬意も好奇心も持って熱中気味に各界・各科の「先生」がたと付き合い信頼もして貰った。出しゃばらず、ただ手堅く企画・取材に携わって「企画会議」に企画書を出しつづけた。
手も届く間近い『金原社長』自筆添え書きの写真は、今もこの部屋の宝もの。社長はこの自影像を「告別」の用に撮られたのだった。葬式は無用と云われていた、私も同じ事をはっきり言うている、私のために葬儀は一切無用、墓も無用、雑然と謂わば雑然を極めたこの「六疊の仕事場」の何処へなり遺骨であれ遺灰であれ、小さく置いて欲しい。この部屋、あまりきちんと片付けたりしないで欲しい。それほど、此の書斎が私は居心地善く大好きなのである。妻と建日子のほかは入ってきて欲しくない。

* ひとつ付け加えねばならない、この暖かなほどものの溢れた書斎に、帝劇の舞台や楽屋へも招待してくれた沢口靖子の、清潔に美しい笑顔が、大小いろんな写真で、四方から私の仕事振りを見てくれている。ひょいとテレビへ初登場の日から、最良の日本の美女と愛して憚らない私であるよ。
2022 5/16

* 昭和五十九年元旦から春の日記をほぼ終日書写しつづけ、感慨悲嬉の動き無き表現に胸衝かれ続けて、先は長い。妻とこそ分かち合える。往時の愛ネコを回顧し涙していた、今、私背後のソフアでひしと抱き合うて「マ・ア」兄弟が嬉々と寝息を交わしている。わたしより永く元気に生きよや。
2022 5/17

* 夏至の朝までは、いま、四時過ぎには戸外明け白んでいる。私は、早起き三文のとくと謂うたのを、やそろくの老いにして得ている。「マ・ア」もすかさず私を追って来る。削り鰹を嬉しそうに賞味して、つぎは妻を起こしに寝室へ駈けて行く。
2022 5/19

* 今朝には湖の本157『虚幻焚身 父の敗戦』が出来て玄関へ積まれる。三日ほどは発送に追われるが、済めば「次」へ元気に進んで行ける。午前に妻は定期的な診察を受けに近くの病院へ。どうぞ無事でと願っている。

* このところ、まんざらにサボッテいるのではなく、1984年(昭和五十九年)から翌年への克明な「(私語でない)手書きの日記」を「読み」返している。目的あって、ではなかったが、前年の内容は凄まじ迄の私の文筆・作家活動なのだ、次の年へ移ると、我が家のある意味容易ならざりし、愉快とは言いかねる疾風怒濤に襲われている。その破壊的に不快な余波余風は、世紀をまたいで四十年近く今も「秦家」を曇らせている。部厚い大学ノートにペンの細字で半ばを埋めている。決して愉快でも懐かしくもない。

* 父の吉岡恒は、もの凄い嵩のさまざまな書置きを遺して逝った。その「父の敗戦 虚幻焚身」の生涯を、私も結句は続演し焚身してきたのか。
2022 5/23

* 削り鰹のふくろを、「マ・ア」にまるまる、かっぱらわれていたり。
2022 5/23

* 二日目の発送を、三時半頃に一休みとし明日もう一日で終える。「やそろく」夫婦とも疲労を溜めると先々へ障る、ゆっくり遣ろうと申し合わせている。第157巻を送っている。大勢でいろいろの「雑」誌ではない。「157巻」各巻を通して、「単行本」並みの分量と「秦恒平」独りの創作や著述で編み続け、創刊依頼36年間、途切れたことがない。読者は各界の各地に幸い散開していて、有難い。「創る」「書く」「出版刊行する、三つとも出来ねば「続く」ワケがない。真似したい人はたくさんいると漏れ聞いているが出来ている独りもしらない。
それも、もう何年続くか。本の中身に不自由しないが、夫婦して八十七歳へ歩んでいて、もう体力が限界へ来ており、手伝ってくれる同居の若い家族がない。今は破損して稼働していないが、あの東工大田中孝介君が目の前でまこと手早に仕上げてくれた魔法出来のようなホームページ『秦恒平の文学と生活』のようなのが「新建築」できたら「それで」ともと思うことはあるが、やはり電子文字で読む文章と、本の体裁も美しく備えた活字編集は「チガウ」なあと妻と苦笑し合うことではある。

* と言うてるところへ、もう、次の『湖の本 158』初校が届いた。微細なまでをかけて創った創作を巻頭に、部厚い初校ゲラ。このお置き路のパソコンのデスクトップには日々の日録のほかに、創り始めて書きかけの小説や記録が五つも轡を並べている。我ながら難という忙しいお爺さんか。『閑事』と二字、茶の家元の軸をさしあげた石川の懐かしい井口哲郎さんにわらわれているだろう。

* 食べたくない、のには妻が困り私自身も困惑している。秦の父は炊きたての白い飯が「美味い」「美味い」白飯だけもよく食べた。米そのものに差があるのかとも想うが私自身の口中衛生が宜しくないのだ。
2022 5/24

* すこし心地よく朝寝して、起きて二回へ来て、仰天。廊下からのドアも襖もあいていて、小引き出しの幾つもが引き落とされて原稿類もモノもしたに散乱、狼藉かつてなくこの上ないありさま。小引き出しにしまってて置いた「削り鰹」のまだ手を付けて間もない袋が全部食い破られていた。「マ・ア=プーチン」めの惨虐な侵攻侵略暴である。片付けだけで手間暇堪らない。ウヌっ。もう、やらんぞ。

* それにしても、侵略者たち 実に狙うべき近辺を集中して放埒に荒らし好餌に縁の無いところへ立ち回っては居ても無差別にはかき回していない。そこが、ニクい。

* 被害波及、ちらかったかみくずを断裁機に入れたらビニ袋がくっついていた。噛み込んで断裁機がストップ、この回復に延々と掛かって十一時、まだ回復しない。マイッタよ。
2022 5/26

* 義妹の琉美子、妻へメール、本が届いた、と。その歳で、夫婦して「ようやる」わねえと。褒められていると思うことに。

*京都古門前の、同い歳、幼なじみの踊りの「お師匠はん」からは朗らかな電話があった、十分ほども朗らかなおしゃべりを楽しんだ。欲しいモン 送る送ると言う。何が欲しいとも思いつかないほど、私に元気生気が無い。

* 或る一、二年配の男歌人さん、本の礼の手紙をくれ、付け加えて自分はもう歳で衰えたと。「あなたももう先は短いでしょう、日々お大事に」と。恐れ入りました。しかし、そういう気分になっているのも事実で。

* 新刊の『父の敗戦』を読み返していた、もう何の遠慮も為しに書き抜いている。生涯の縁薄き両親、生母を先に書き、実父を今度書き、「最後ッ屁」ではないが、書き置いたぞと言うている筆触・筆致ではあるなあ。もう先は短い、のだろう。
2022 5/26

* なぜか手近へこぼれ出ていたようなも大昔の雑誌「思想の科学」を手にし、亡兄北澤恒彦のかなりな力編と謂えようか「革命」を語った長い論攷と、この兄が、私恒平の昔の作『畜生塚』のヒロイン「町子」の名を、生まれてきた娘に貰ったよと手紙で告げてきていた北澤「街子」が連載途中のエッセイを、朝飯前にさらっと眺めていた。この「思想の科学」は今は亡い鶴見俊輔さんを中芯に結集した人等の大きな拠点であったようで、兄恒彦はその中核の一人、老いの黒川創もその「編集」等に参与していた、、ま、一種の京都論派の要であるらしかった。京都で盛んにウーマン・リヴを率いて後に東大教授としても活躍した上野千鶴子さんも仲間のようであった。姪の街子はオーストラリアの学校へ遊学していたのを下地のような、長い連載エッセイを書いていた、らしい、健筆のちからを見せている。創や街子の従兄弟にあたる私の息子秦建日子も、いささか八面六臂に杉目ほどの小説作家・演劇映像作家として多忙に過ごしている。
近年にウイーンで「悼ましい死」をとげてしまったと聞く下の甥北澤「猛」が文藝・文章を書き遺していたかどうかは知らない。聞いていない。彼かあとを慕って追った人はよほどの年長であったと聞くから、我々の実父母、彼には実祖父母に当たる間柄に似ていたということか。
私たちの娘で建日子の娘である押村朝日子も、謙虚に謙遜に続ければ、また夫の理解があれば、けっこう達者な物書きへの道へ入ってたろうに、早くに潰えた。心柄と謂うしかないのだが。
とはいえ、こうしてみると「私たち兄と弟」を奇しくも此の世に産み落としていった亡き実の両親は、文藝の子らを、少なくも二た世代は遺して行ったことになる。
「北澤」という家を皆目というほど私は知らないで来た。今も知らない。
私方では、妻の父は句を、母は歌を嗜み、息子は「保富康午」の名で詩集を遺し、テレビの草創期から関わって放送界で創作的に働いていたし、妻の妹は『薔薇の旅人』という自身の詩集を持ち、画境独自の繪も描く。妻迪子も、実はしたたかに巧い絵が描ける。

* たまたま、とも謂うまい、意図して私は「湖の本」新刊の二巻に、恒彦・恒平兄弟実父母の、いわば「根」と「人としての表情」を、ならび紹介し得た。出逢って忽ちに天涯に別れて生きた男女、恒彦と恒平とを世に送りだすためにだけ出逢って忽ち別れた母と父とのため、私の思いのまま、それぞれの墓標を建てたのである。
2022 5/31

◎ (坪谷善四郎著『明治歴史上巻』第一編 維新前記)
維新の革命は開闢以来の大革新なり (以下 抄出す 秦)
慶應三年十月十四日は實に我日本帝国 歴史上に於て最も重大なる革新を招致せる日なり 徳川幕府が二百七十年間握有せる政権を捧げて之を朝廷に還し奉り久しく虚器を擁して實權を有せさせ給はさりし皇室に於て親から萬機の政務を行はせ給ひ 普天率土王化周ねく施し及す端を發したる日なればなり

* だいたい私は幼来 祖父鶴吉所蔵の旧本に先ず親しんだため おおよそはこういう文体をのみ音読また黙読して幼稚園 小学校 新制中学の頃を過ごした。父は少年の読書を目を痛める極道と厭い、本を買ってくれることの絶えてない人だった。幼稚園で提供された「キンダーブック」が唯一外来の新刊だったが、それを祖父の重たい本の数々よりも愛読したという思いは記憶に淡いのである。
しかし、講談社の絵本の比較的揃っていたご近所の家へ上がり込んで読んだ生々しいまでの繪と物語は、ふしぎなほど私には怖い怕いと思われた。万寿姫も百合若も阿若丸も、一寸法師ですら、なまなましくて怖かった。貸して貰った漫画のたぐいも「のらくろ」は楽しんだが、「長靴三銃士」などは怖かった。そして漫画は好かなくなった。敗戦後の京都へは戦火を避けたり海外から引き揚げてきた家族や少年少女が多くて新鮮な文化革命を実感したのは、彼や彼女らがみたこともない「本」のもちぬしたちであったこと。少年少女小説という分野が有り、菊池寛 川端康成 吉屋信子 佐藤紅緑などの名は何よりそれらで覚えた。しかし、大病が幸いして入院していた町医者の家の敷いた寝床の頭に書棚があって、漱石全集も ああ無情も モンテクリスト伯も そこで手にしていた。甘味に寄る有りのように私は本という本に魅されていった。ご近所のおじさんが呉れた蒟蒻版『一葉全集』すら中学の初年には愛玩していた。いやもう「本」をめぐる想い出には際限が無く、もっと知付いて一度順序立てて書いておきたい。
2022 6/2

* 妻に延々と書写して貰っていた原稿が、昔の単行本の中の一生に当たると知れて、申し訳もなく、ガックリもしている。不用意というか、ボケたというか。
2022 6/3

* ことに漢字・漢語を覚えそのおもしろみに馴染むのが、和語・やまとことばの其れより覚えやすく分かりよくことに幼少時には「得意」であった。いま「湖の本」のなかみにまま漢語を用いているのは、なにもその由来に知識が行き渡ってのことでなく、字面に於いてオモシロイなと自ままに流用している程度である。
そういうところから、老荘の孔孟のは恐れ多くも、ことに漢詩の五絶、七絶また律詩にははやくに惹かれ、祖父鶴吉の蔵書のなかでも唐詩選、ことに白楽天詩集は、むろん解説や語釈つきであるが、まことに早くから親しんだ。ことに「新豊折臂翁」など感動し、感化され、将来小説を書くならこれに就いて書きたいと殆ど決意して、その通りに「或る折説臂翁」を処女作に持った。一九六○年の頃であった。自然(返り点がついてだが)漢文には親しみやすく、高校国語でも「漢文」を選択し、教科書などみなすらすら読めて岩城先生に驚いてもらったりした。同じ教室で返り点の漢文でも苦もなく読める一人もいなかったのを思い出す。但し現中共中国のあんな新体字はだめ。読めない。

* なにより漢字漢語には「熟語」があり、これが親しんで教えられ面白い魅惑の手がかりとなった。祖父は、いわゆる小説の類は蔵してなかったけれど、老子莊子韓非子また四書五経の類、歴史書、詩集に加えて漢字漢語の大冊の事典・辞典を何種も遺してくれていた。今も史記列伝を愛読最中で、四書講義や十八史略もありがたく、書架に場所を塞ぐけれどもな大事にまもって時に教えて貰う。辞典・事典の好きな祖父であったのは実に実に有難かった。
それでいて、いま「湖の本」の書題に借用している四字熟語などもべつに原意や由来にそくしてなどいないで、字面を好き勝手に愛用している程度。
老蚕朔繭 水流不競 哀樂處順、優游卒歳 流雲吐月 濯鱗清流 一筆呈上 虚幻焚身 等々、なにも難しくは考えていず文字面に感興を覚えている程度。和語ではこうは締まらない。
2022 6/4

* 午後、たまたま九段初老の男性白番と、若いと謂える女流碁聖黒番の囲碁を、本当に久々にじっと観戦した。打ち手が能く納得できて面白く、途中で立てなかった。懐かしかった。

* 囲碁は父が店先で客と、またご近所の小父さん等と隣の抜け路地で打つのを始終よく見ているうち父に手ほどきされた、中学時代。井目四風鈴からはじめて、果て果てはその父に四目置かせるほど上達した。勤めの頃、筑地産院の竹内院長のよくお相手をして、負けたり勝ったり均衡していた。その後は、相手もなく、書く方も忙しくなり、ふっつり遠のいて半世紀にもなるか。まだ勝負勘はのこってるようだと、烏鷺を争う男女の勝負に引き入れられていた。盤面が右往し左往する将棋は、テンでダメなのである。
2022 6/5

* 久しくも久しく、まったく心ならずも朝日子との、みゆ希との縁が絶たれている。なすすべも無い哀しみのママに過ごしているが、私には生母と実父とを忍んでの新刊が出来たこととて、ともあれ、何を期待するでなく、實の祖父母のことというだけだが、朝日子宛てに送っておこうと思う。届くのかどうかも分からないが。みゆ希のことは、何処で暮らしているか、結婚したか子をなしたかなど、一切分からない。亡きやす香は、身を挺しても母と祖父母の仲へ橋を渡そうと心から力めてくれたのだが。
2022 6/15

* 夜前は低血糖の再来を虞れ、結局、午前二時を回るまで、新たに『イエスの生涯』など、数えれば13冊の文庫本等を読み継いでいた。『フアウスト』やルソー『告白』が如何に成っていったかなど、興趣大。読書には疲れを覚えないとは勝手な不健康と云うべきか。しかも三時間余しか寝ていないで、起きて二時間、「マ・ア」とも付き合ってやりながらここまで書き置いていた。
2022 6/19

○ 獺祭で祝ってくれて 感謝 ありがとう。
「獺祭」は、詩文を創るのに多くの参考書をひろげならべる意味でもあります 獺が捕った魚たちをひろげ並べるのを、転じて、「祀る 祝う」とみたらしく。我々書き手、創り手には、ま、縁のある「祝い」ごと、謝謝。「獺祭」は最高に美味い酒と思っています。しかも、とびきりを選んで呉れて。感謝。
實は 昨日桜桃忌に届いてて、しかし、そのまま棚に飾っていたのだが、真夜中に、ひそとキッチンへ入り、独りで、静かに荷を開け、勺枡で二杯、じつに美味しく戴きました次第。ありがとう。
今日二十日、カーサンと厚生病院へ。ふたりとも、目下は、しいていえば何かしら弱点も無いわけでないが、ま、「ほぼ健康体」と謂うに同じと。カーサンはやや前かがみになり、トーサンは食べないための、栄養失調と。
ヘトヘトに疲れながらも、必要なら長時間「仕事」をつづけています。ただし視力は衰弱、眼鏡新調が必至、そして上下とも歯の無い有様、何としても二人とも歯科通いしなくては。
心行く 仕事を重ねられるよう。 元気でね。
何としても もう永くはないよ、トーサンは。
建日子として、聞いておきたい、知っておきたい、相談しておきたいこと有れば、早い内に。カーサンの体力不足を、若い助力で、なんとかして支えて遣って欲しい。
2022 6/20

○ 夏至の朝を愉しむらしきおとといのアコとマコとははや駆けるりをり
2022 6/21

○ 湖の本ありがとうございました。丁度その頃「秘色」を再読し始めた時でした。そしてその頃TVで太宰治の娘さんが出て居て話をしてゐました。何か御縁があるのですね。何か手紙の話もして居て川端康成の事など話をしてゐました。そしてTVで「corekiyoTo」番組で京都の庭の話もあり 美しい苔寺の庭を写してゐました。こんな風にこちらに居てもTVのおかげで美しいものをよく見られ そんなときは胸がドキドキする位いです。
桜の咲く頃京都を歩いてみたいと思ってプランをたてたのですが、お友達がコロナの事があるからまだ無理だと言われて中止しました。京都の河原町通り四条通りを歩きたくて夢にも見ますよ。何もかもがコロナをつけて来てちょっと不便です。
でも私の生活は割と楽しい毎日なんですよ。
今矢張りお茶の稽古は中止ですが その時の生徒さんが家にお手伝いに来て呉れてゐます。とてもよく気の付く人で助かってゐます。この人も京都生まれの韓国人「朴さん」と言ひます。うちでお茶のおけい古に来てゐた人でその上美人です。もう一人来て下さってゐます。週に一回づつです。͡此の人は、埼玉県の人で話好きで明るい人です。二人とも60歳台です。こうして私は一人暮らしですが毎日を退屈しないで楽しく暮らしてゐます。
梅雨のジメジメがあまり好きでないので、こちらは年中暑からず寒からずのよい天気なので気に入ってます。家もベッドルームが四つあったのですが二つをお茶室八畳に、そして水屋もあります。時々小人数でお茶を楽しんでゐます。
そうそう野球の「大谷君」も近くに住んでゐるらしく、一回マーケットで見かけましたが、かわいい人ですね。近くの日本のレストランにも来たらしく写真が一杯かざってあります。此の頃はおいしいおすし屋さんも出来たし 私は此方の気候が気に入ってます。
便箋が足りなくなりました。これみんな日本京都で買って来たものです。
今家の中の整理をしてゐます。よくまあこんなに物を買ったものだとアキレてゐます。友達が「これみんなお金よ」と言って二人で大笑いしました。そりゃ本当ですね。お蔭様で今もなを何とか生活してますので エデイにカンシャカンシャです。
ほんと お伊勢さんへ行きましたね。あの人は車の運転が好きだったのですが、こちらでもニューヨークやらずっと廻りました。アメリカ横断も二回しました。インデアナに居た頃です。
インデアナ500も見て来ましたよ。事故があって車が火を吹いて飛び上がるのですよ。モノスゴカッタです。次の年も行ったのですが無事故だったので皆今年はツマラナカッタと言ってました。びっくりしました、人間ってね、、、、
ま、こんな風の毎日です。体が丈夫なのかあまりお医者さんのお世話にもならず、お友達が皆アキレてゐます。
まあ多分秋頃にはお会い出来る事と思ってゐます。
どうぞよろしく
コーヘイちゃん
みち子さんへ
6月13日 ハッピーバースデーです。      チョコちゃんより

91歳の池宮千代子さん。河原町三条、朝日會舘脇 高瀬川沿いに住まいがあり、私がまだ大学生の頃、同居していたお姉さんの大谷良子さんが叔母のもとへお茶、お花を習いに通っていて、私と仲良しだった。それで池宮さん夫妻とも親しみ、池宮氏の運転で、私も誘われ四人で、伊勢志摩までもドライヴの旅をしたこともあった。自動車などまったく縁の無い私の日常だったので、まして仲良くドライブなど、とても珍しく、愉しかった。年齢で言えば私は、ま、半世代若い弟分、一方ではすでに宗遠と裏千家での茶名ももった厳格な茶の湯の師範でもあった。妻との出逢いや、上京就職して結婚というきもちなども早くこの姉妹には告げていた。
2022 6/24

* 午前十時半、朝食後の睡魔、急。暑い。妻に代わってセイムでの必要品買い出しに行ってきた。「マ・ア」の食べ物、強壮剤、薬品など。酒は買わず、いただきもので十分。
2022 6/25

* 『明治歴史』胸を衝かれてつい詳記してしまうが、能う限り原文ママに執着するとえらく時間をとられる。しかし仮名遣いはもとより。明治人の文体と佳い口気といい、わたしは秦の祖父明治の人鶴吉が多く蔵書の感化を過剰にも受けてきたと頭を搔く。
2022 6/26

○ 秦先生
“私のこの頃です” 、じっくりと拝読いたしました。
マルクス・アウレリウス『自省録』は私も愛読書です。ただし、日本語で読みました。東洋思想に共通するところが多々ありますね。
私の「ギリシア哲学原典講読」の指導教授、荻野弘之先生が、
『マルクス・アウレリウス 「自省録』-精神の城塞』(岩波書店、2009)
を上梓しています。『自省録』をさらに深く読み込むための名ガイトブックと言えます。
p.s.映画「グラディエーター」にマルクス・アウレリウスが登場します。
リチャード・ハリスが好演です。 篠崎 仁

○ 篠崎さん ご無事の快癒をと願い、祈ります。気強くまた一と山をお越え下さい。
マルクス・アウレリウス『自省録』は それはあるまいかと思いつつも 日本へ渡った最期の伝道師シドッチのはるかな旅立ちに,師として友としてと親が授け持たせたと新聞小説『親指のマリア シドッチ神父と新井白石』に書き入れました。そういう「本」と思って来ましたよ。
また いろいろ お話を 聴きたく 致したく。心より。  秦恒平

* 吉岡の父 実の父を「湖の本157」に書き下ろして、漸く、いいことをしたなと胸を撫でている。私の小説『廬山』掲載を新聞広告で知りその雑誌「展望」を、親族に監禁されていた「精神病院」で小遣いを割いて買い、しかも『廬山』ではなく、たまたま同時掲載されていた「なだ いなだ」氏の『小さい大人と大きな子供と』を読み、「この内容は私が六十才の今日まで心の奥深くしまいつづけて来た所信の半分ほど代弁してくれているので意を強くしました。私がいえばまたしても病院に押し込められる危険が多分にありますが、この人(なだいなだ氏)は精神科の医師らしいので共感を表明しても強制拘束の心配が無いので安心です」とノートに書き付けていたのを読みかえし、思わず、初めて私恒平は、此の父のため声を放って泣いてしまった、生みの母のためにも泣いた。大勢の読者が両親のためにいい墓標を建てられたと云って下さることばに、ようやく、独り頷けるように成った。群れを嫌い、権威を嫌い、束縛を嫌って自立してきた「湖の本」なればこそ出来たこと、私自身のためにも墓標であるな、と、しみじみ頷く。今回の口絵の父「吉岡恒」像は、どう見ても誰が見られても「恒平」そのままと。
2022 6/26

○ 岡百合子さん 家妻へのお手紙
お手紙有難うございました。
最初 びっくり致しました。
私共 以前 北沢さん(=恒平の実兄恒彦)に大変お世話になったこともあり 私など学校の教員をずっとして居りましたが 修学旅行が奈良・京都方面と決まっていたような時期 夜になると生徒を放ったらかしにして「ほんやら洞」にかけつけ 大抵夜はそこにいらした北沢さんのお顔を見るとほっと安心するという時期がありました。
ですから 秦さんが太宰賞でデヴューなさって 北沢さんとご兄弟と知った時はびっくりし 何か深い因縁を感じたことでした。夫(=コ・サミョン氏 作家)も およそものを書く人間ではなかったのに 共産党で色々あった時 政治的言説ではどうしても表現出来ない苦しさの中で 考えもしなかった文学でその苦しさを表現しようとしました。党員と共に歩むことは覚悟の上だったのですが まさかものを書く人間になるとは思っていませんでしたので本当にびっくりしました。でも私は 自分で書くことは出来ませんが文学を「読む」ことだけは大好きだったので たちまち秦さんのファンになり 今までお書きになったものは多分大部分読ませて頂いて来たと思っています。ただ立派な感想を申し上げる力もなく まともにお礼を申し上げたこともなかったと思いますが いつも意識していて 息子の死を縁として仏教、本願寺とかが〇〇が出来 京都にうかがう機会が多くなった時期、東福寺や周辺のお寺をただウロウロして 秦さんのお書きになったものを後 追いしていた時期があったように思います。そして北沢さんもそうでしたが 稀有な生い立ちのお二人のことを知るにつけこれは普通のことではないと思って参りました。
でも私も筆不精で本質をとらえた感想を申し上げる力もない人間でしたので 結局通り一辺のお礼を申し上げることしか出来ず 失礼を重ねて来たという思いがいつも申し訳ないとばかり考えていたように思います。
でも時を経るに従って思いもしなかった「生みの父」「生みの母」のお話が出るようになって これは何だろうといつも思っていますが、本当に事実は小説より奇なりですね。ただ貧しい朝鮮人の子として貧乏や差別と斗って来た夫などと違い まさに小説の題材のような事実の洪水で、その中で溺れもせず 見事に斗ってご自分の世界を創られて来た秦さんに 単に尊敬というのではなく脅威のような存在と感じて来たことも事実です。
そしてその厳しい秦さんの生活に いつも奥様の存在があり 決して大げさには書いていらっしゃいませんでしたが 奥様と一体になって道を拓いていらしたということをいつも感じ、自分達の結婚を「結婚サギに合っちゃってー-」など冗談にまぎらわせながら不平を言っていた自分を反省したことでした。
基本的には優しく正しい方ですけれども 普通の人とは違う神経を持たれた秦さんと共に生き、普通の人間には出来ない、あの膨大な出版のお仕事を全面的にたすけられ 義理のお父様、お母様はじめ叔母様まで立派に見送られー-あまり表面にお出にはなりませんでしたが、そのご苦労は その一端しかわからない私にも想像のつくものでした。
でもこの度 直接奥様のお手紙を頂き、最初に見事な筆跡にびっくり致しましたが、全く無駄のない文面にも恐縮すると同時に ああやはりこういう方だったのだと納得いたしました。そして今はそういう自分が恥ずかしくなり どんなお返事を書いたらいいのかわからなくなっています。でもこんな素敵なお手紙を頂いたことに素直に感謝し これまでの至らぬ私共の対応をお詫びするしかないと思っています。
秦さんも歳をとられてご苦労が増えているようですが 私共も自分達では長生きしたいなどと思ったこともなかったと思いますのに うかうかと日々を過ごし 昨年の七月に気がつきましたら九十歳を迎えておりました。夫は私より半年下ですので今年の一月に九十歳になりました。
元々体は頑健な人でしたが 健康を余り意識せず生きて来たツケが来て 私が九十歳になったとたん白内障の目の手術で一週間入院しただけなのに 夜中、二時間おきにですが目薬をさしに病室を訪れる看護師さんの対応に親切にして頂いたのですが 不眠症の私は殆ど寝られず 退院したとたんに家の中でスッテンスッテンと転び 余りおかしいので病院で検査してイタダイタら足の力が衰えていて 軽いのですが脳梗塞を起こしてしまいました。それで介護保険のお世話になるようになったのですが、最初にいらした訪問看護師さんが 夫が 前立腺癌にかかっているのに気付かず放っていて 自力で排尿が出来なくなっているのを見つけて下さいました。
それを皮切りに夫も私も病人ということになり、夫は入院絶対嫌やというので 通いの看護師さんやヘルパーさんのお世話になっています。でも点滴とか消毒とか毎日あるので、毎日二、三人の人が出入りして 我が家は一寸した野戦病院のようになってしまいました。ですからもうどこへも出られず、夫は仕事をする気力も失い、ほこりをかぶったままのパソコンをよそに 毎日テレビなど見ています。歳をとるということがこういうことなのかと驚いている状況です。でも 今の所まだ呆けているという状況でもなく、必要な時にまともに受け答えをしているのですが もう二人とも耐用年数が切れているという自覚はあり ただ介護の方達が皆真摯な方達で心からの親切でよく面倒を見て下さっていることに感謝しつつ その方達のためにも残りの一日一日を大事に過ごそうと考えています。
秦さんも厳しい八十の坂を登られているのですね。大事にお体 年齢にあらがうことは大変ですが 少しでもお大事に奥様共に生き抜いて頂きたいと切に思います。
歩けなくなり 後見人についてくれた元大月書店の編集者が 同じ大磯の五分位離れた所に住んでいて 丁度 社長と意見が合わず会社を辞めて浪人生活をしていたので 五十台の独身女性ですが「任意後見人」になってくれて私共 実務的にうといヨロヨロ老人を助けてくれています。でも買い物も全部その人達にしてもらっているので、レターペーパーも切らしてしまって 申し上げたいことが次々あって長い文になってしまって このように見っともない手紙になってしまいました。まさか最初のお手紙が こういう無様なものになるとは思っていませんでしたが 書き直す気力がないのでお許しください、とても恥ずかしいのですが仕方ありません。
最後に お二人の生活の一日でも長く続きますことを心から念じて だらだらした便りの終わりにいたします。
本当に有難うございました。不順な天候の日々、政治の状況も落ち着きませんが お二人がそれらを乗り越えられることを信じているとだけ申し上げます。

* 妻へ戴いた岡さんのお手紙。私も、感謝。
2022 6/20

* すこしは食も増えたか体重が戻って、にわかに58kg台にもと思っていたが、昨日、つくづく両脚の「浮腫んで太い」のに不審し、妻が投薬されているという薬を気休めほどの気で一錠貰って服した。とにかくもこのところ尿意しきりで感覚が短すぎると閉口してもいた。
で、一時間も経ったか、ふと観ると両脚がしゃきっと堅く細くなっているのに驚いた。浮腫んでいたのだ。「このところ以前」の、しかと細い脚に変わっていた、有難し。
今朝の体重は、56.3kg ほぼ2kも減っていた。腕も、手指も、自分で云うのも変だがほっそりと気もがいい。想い出すが、就職した年か翌年か、会社をあげて熱海か伊豆かへ一泊しに行った晩、どうも宴会が苦手で、独り抜け出して近くの飲み屋の暖簾を潜った。小さな例の L字を囲んだ止まり木に三人も客がいたか。わたし極韓ソに普通の酒・肴を頼み、黙然と独りで飲み食いしている内、急に女将がこえを掛けてきた、「きれいな手をしてるわねえ」と。赤面モノの世辞だが意表に出てわたしは、思わず日本の手指や袖を抜けた腕を見た。間違いない自身のソレであった。そだけのことだか、忘れない。女将の世辞をかすかにも受け容れている意識があった、理由もあった。
私は、敗戦からまぢかな小学校五年生正月ころ、同居していた秦の叔母、宗陽社中の初釜に加わって以來、猛烈に熱を入れ日々に稽古し、勉強してモノもたくさん覚え、いつしかに土曜の稽古日に通ってくる自分よりも年嵩なひとや小母さんたちに叔母の代稽古を勤めて、叔母ならただ点前作法の手順をおしえているのに、少年の私は茶道具の手での持ち扱い、運び・歩き、その姿勢を、見られて美しく、自身はごく自然に作法出来るようにと、ウソ゛なく、思いを籠めた。むろん社中におしえただけでなく自身も好き好んで機会ごとに稽古した。腕と指と、それは、重くはない華奢な茶道具を持ち扱って遣う絶対のまさに「手段」、それを繊麗に磨いて身につける、それが茶の作法を稽古する大なる意味となる。
新制中学でも、高校へ進んでも、佳い茶室の在ったのをさいわい、すぐ、率先茶道部をつくり、指導できそうな部長先生よりも生徒の私に任せた方が早いとみられて、稽古の指導は一切私が差配して過ごしたのだった。
「きれいな手…指」と熱海の飲み屋の女将が世辞とも本音ともつかぬ声を掛けてくれたとき、のちのち思えばあの女将からなにか免許を授かったように思い出せて、他他田大事に忘れなかったのである。
いま、機械のキイを終え蘭で押している私の手・指は、いわゆる熟練の「機械上手」のあの手早さとはまるで違う。私は文章を「速く」打ち出す必要を持たない。思案しながら作文して行く。細い、比較的長めな十本の細い指は 左右 相い逢い相い別れるようにキイを求めて黒い鍵盤上をむしろ躊躇いがちに静かに舞う。茶杓や棗や袱紗を扱うほどの気でわたしたしかに自分の手・腕・指をだいじに感じている、いまも。浮腫んではいけない。
2022 7/5

* 朝の八時になった。階下では「ま・あ」ズが「ごわん」を貰っているだろう。私も降りようか。
2022 7/5

* 明日、建日子が車で来て、参議院選挙の期日前投票所へ載せて行ってくれると。コロナ感染はむしろ激しくブリ返していると聞いていて案じられるが、投票当日に投票所へ歩いて出向くのは、ことに天候したいでシンドいのが知れている。建日子の配慮にまかせると決めている。酷暑でないように願う。
2022 7/7

* 梅若万三郎いえからは能のおさそい、高麗屋の松本白鸚さんからは十月歌舞喜佐へのおさそいがある。俳優座の岩崎加根子さんからも。感染コロナの方は果然 感染の勢いをこの日々倍々化していて、なんともハヤ。
今日午後には建日子が、車で、参議院選挙の期日前投票所へ運んで上げると。

* ここまで書き置いて、午前九時半。朝食に降りる。
2022 7/8

* 爽やかな朝の晴れ。きっちり七時間、寝ていた、夢らしきも見ず。しかし。例の唱いつづけで、「はーるが来れば」「べかこも溶けて」と。「べかこ」とは方言で、氷とか。うろ覚え、まちがえているかも。「ま・あ」ズも喜び勇んで二階へ。鰹を少しずつ貰って食べ終わると音も無く階下へ退散するのが、決まり。
2022 7/11

* 早起きと謂うより、熟睡できずに少なくも数回手洗いに起きつづけ、夢も見ず、夢とも謂えず、ただ、「山小屋の灯は」はとばかり寝入ったまま終夜口ずさんでいた。
疲れはとれた、とは謂えないが。二階の窓をあけ、「ま・あ」ズに鰹を上げた。
2022 7/12

* 23時過ぎて、今西祐一郎さんへ一先ずの返信をした。凄いほどの雨の音。
「アコ」の体調やや良くないか、吐き気味。
2022 7/12

* 逸の城が横綱に完勝したのを見て、そして体調不良の「アコ」と横になり、寝入って目覚めて十時。もう寝入るしかあるまい、寝過ぎるのが宜しいと謂えないが、からだがそう望んでいるのだから。メールも無く郵便も無かった。何を焦ることも無い。
2022 7/14

* この二、三日「アコ」が体調を崩して下痢の気味そして吐き気もみせ、心配している。夜は私の頭の方で寝入っているが、夜中には独りで排尿便にも行くらしいが、途中で失禁したりかるく吐いたりもしている。意志的に便の場所へとは心がけていると見える。食欲がゼロとは謂えないが、量は食べていないし、食べて佳いのか悪いかも判らない。階段を上がり降りして私の仕事の側へも来るし、高みへ跳び乗ったりもしていたが。暑さに中ったのではとも心配している。暑さもひところの激烈は感じない此の数日なのだが。
2022 7/15

○ 鴉 お元気に
メール嬉しく、ありがとうございます。
朝早くお目覚めで、もう一眠りでしょうか。
昨日は湖の本、お母様の歌碑の事や大和での歌集を読み直していました。安楽寺を思い起こします。
お父様お母様の事を書き、次は何をお考えでしょうか。
明日シンガポールから娘が帰ってきます。コロナで往来が困難になり久しぶりの一週間の帰国です。
保谷の鴉、くれぐれもお身体大切に、ご自愛くださるよう。 尾張の鳶

○ (安楽寺のことなど 昨年霜月九日の 尾張の鳶メール部分)
一昨日、京都からの帰りに能登川で降りました。お寺への登り路は両側から樹木が覆いかぶさり暗いほどの道。女性一人で出かけるには・・と言われ、住職さんの気配もなく、表門らしきところから石段を下がると、道はそのまま集落の方に続いていました。墓に参ることなく帰ってきましたが、いずれ訪れたい。鴉に叱られそうですが、決して軽い興味ではありません。
お母様の女としての熱く烈しい生き方、不器用でもあり、人を傷つけることも、それでも誇り高い生涯だったと敬意を抱きます。そして何よりも・・あなたを産んでくださったこと。
この辺りの集落は現在も安楽寺と呼ばれています。駅への帰り道に歌碑に気づきました。
此の路やかの道なりし草笛を吹きて子犬と戯れしみち
「その歌碑の前で建日子と列んで写真が撮ってある。」とHPにありますので、鴉ご自身が行かれたのでしょうか。
この冬はエルニーニョの影響で寒くなるとか、まだまだ穏やかな秋の日で、コロナも落ち着いています。
どうぞ静穏な、そして精力的なお仕事の日々でありますように。元気に、なによりお身体大事に大事にお過ごしください。 尾張の鳶

* 有難う。ありがたい「身内びと」よ。

* 建日子との、大和へ、大阪へ、京都へ、そして近江へ。忘れも得ない長い親子旅であった。歌碑とも会った。生母の長女とも初めて逢った、能登川の母の生家前にも立った。 行っておけて良かった。
2022 7/15

* 自転車で、ポストとローソンへ走ったり、「アコ」を獣医院へ受診に連れて行ったり。体調はよろしくなく、「寒い」と寝覚めてしまうほど。
2022 7/16

* このところの「毎日読書」の数に加わってわたくしを惹きつけている一冊は岩波文庫の高橋貞樹著『被差別部落一千年史』と、元の蘆陵 曽先之の著に、日本の大谷留男が訓点し、明治二十九年十月五日、大阪の岡本偉業館蔵版になる『十八史略(片仮名附)』とで、ともに新古双璧の名著。

* ことに前者は、私より三十年早い一九○五年に生まれ、私が誕生の昭和十年(一九三五年)には亡くなっていた一青年が、それも弱冠「十九歳」でみごと書き上げているまこと瞠目の「一千年史」、全頁くまなく揺るぎない希代の「名著」なのである。
私の生まれ育った京都市には各所に散在して「被差別部落」余部地区が在り、小学校ででも中学高校ででもなんら気疎い事実でなかったが、大人の口から漏れ聴いてきたいわば「耳学問」での「差別」の伝承や実際はただただ凄まじモノに聴いて取れた。
それにしても「十九歳の著者高橋貞樹」のその「歴史的考察」といい「現状と水平運動」の精緻なまでの追求・考察・筆致といい、しかも参考著書論文の渉猟、舌を巻く見事さである。私は此の文庫本一冊を、なにかの関心や問題意識にかられるつど、繰り返し読んできたが、いわば「日本人」ならば誰しも必読必携、岩波文庫の一冊で容易に手に入る名著なのだからと、今も推して憚らない。一千年来の日本人ならば、ひとりとしてこの本の伝える歴史と無縁な人はいない筈。

* 漢土の『太古』 まず「天皇氏」が「木徳」を以て「王」となり「無為にして化」してる。兄弟が十二人、各「一萬八千歳」。
ついで「地皇氏」が「火徳」を以て樹った。やはり兄弟が十二人、各「一萬八千歳」。
ついで「人皇氏」は兄弟九人、國を「九州」に分かち、いらい「一百五十世」「四万五千六百年」。
「人皇」以後は「有巣氏」が、構えて「木を巣とし木の実を食と」した。また「燧人氏」が、初めて「燧をきり」人に「火食」を教えた。すべては「書契以前」文字で書き表す事の無かった史実で、年代も国都も解りようが無い、と。
それにしても「木」といい「火」といい人の暮らしように賢く連繋している。
そして「太古」は「三皇」の世へ移るが最初の、「燧人氏」に代わって出た「太昊伏羲氏」が「蛇身人首」と怖いよ。しかし為政は理にあい「書契」に道が付くなど、そして以下続々としてゾクゾクするような「炎帝神農氏」「黄帝軒轅氏」らの時代へ展開して行く、こういう中国の神話や歴史からみるとわが『古事記』のつたえる神話は、ままおとぎ話のように温かいお話ではある。

* 『十八史略』はむろん尽く漢文、それも大部。しかし優れて「知的」に感じられて「訓点」の深切に率いられ読み進めるのが頗る楽しみの、歴とした史書である。読み終えるには日時を多くひつようとするが、日々の愛読書に選んだ。謂うまでもない、これも秦の祖父「鶴吉」の旧蔵書の一冊である。「もういいかい」と呼ばれても「まあだだよ」と手は横に振る。
2022 7/25

* やす香が私たちを見守っているのは判っている。安香の声を聴かない、やす香と語り合わない日は無い。
朝日子が、痛みにも似て心惑うているだろうとも、父の私は識っている。
2022 7/27

* もう一寝入りしても良かったが。そおっと階段をあがったら、二階廊下の階段ぎわで寝そべった「アコ」が待ち受けていた。窓のカーテンを明けている内に「マコ」もはせ参じて、産人で部屋に入った。むろん。削った鰹頂戴である。はいはい。
2022 7/28

○ 如何お過ごしでしょうか?
再び感染者数の急激な増加で、お家に籠られていらっしゃるかと思います。夏の暑熱を避けて体調にはくれぐれも留意なさってください。
お兄様、北沢恒彦氏のこと、同志社卒の友人に聞いたりしましたが、年代のズレもあり、直接的な良い情報は残念ながら得られませんでした。ネットで検索購入できる範囲で幾らかお役に立てそうなものを送ります。
べ平連に関係したことなどは鶴見俊輔氏などとの関連で調べられると思いますが、「實兄」という存在を鴉が語るという観点から、脇に置いておきます。
これまでHPに書かれた記述から、お母様に関して「階級を生きなおした」と恒彦氏が述べておられるのは、いかにも彼らしい述懐と思いました。戦後の時機を生き抜いた・・
十年遅かった私は「戦後の意味や重さ」を身をもって分かっていないと痛感します・・。
高校生での政治活動、そして起訴など耐えがたい重さと誇り。以後生涯にわたって影響し続けたと思います。かなり後々でも京都の高校での闘争は語られていました。京都を中心にした文学世界の本に幾らかの記載があったと記憶しているのですが、本を探し当てられません。
『遊仙窟』はまだ読んだことがありません。手元にあるのは漢詩を除いては『史記』『大唐西域記』くらいのもので、何故か『官場原形記』、これは清朝の時代を「勉強」していたので。
さまざまな事、テレビで報じられるさまざま。ウクライナ情勢もまだ不透明ですが、プーチンの思うままにはなって欲しくない。民主主義の在り方が問題を抱えていても、独裁国家体制が世界を占めていっては欲しくないからです。20世紀のナチの独裁国家、共産主義の国家・・そして21世紀の様相を凝視します。
鴉から「幕末」についてい問われて、不勉強を意識しました。今は半藤一利氏の『幕末史』を読んでいます。
もう一冊は『ホモサピエンス』の著者ユヴァル・ハラリの『21Lessons』21世紀の人類のための21の思考。
娘と孫が京都の暮らしをたたんで、同居を始めて二カ月。振り返ってみても時間が長く感じられます。保育園の送り迎えが仕事になりました。と言っても、車の運転をやめた私は補助的な役割にとどまっています。食事の支度は幾らか大変ですが、これも日常になりました。
およそ、同居、大家族がいいとは思わなかった私が、三世代家族の暮らしに。長い間、三十年近く三世代で暮らしてきた姉は、夫婦二人の生活に。妹は夫が五月に亡くなり独居に。
人生は思うようにはいかない、様々なことが勃発するものです。
コロナ感染者の数は恐ろしいほどですが、注意深く暮らしていくしかありません。
どうぞくれぐれもお身体大切に、重ね重ね願います。  尾張の鳶

* 近来受け取れた便りのなかでも最も生き生き呼吸まで聞こえて、励まされた。感謝。深く感謝。
2022 7/29

* 尾張の鳶、私の「兄恒彦」を書いておきたいという思い爲しに、甥の恒が編成した「父」を主題の本二冊を手に入れて送って下さった。感謝。
とにかく、識らない「兄」なのである。今から見ればほぼ同年の兄弟なのだが、鮮明に異なった人生をあゆんで、兄は、自死した。どう死んだのか知るよし無かったが息子の「恒」は躊躇いなく「首を吊って」と語っている。言葉を喪った。識らなかった故のショックがあるにしても、それに拘る気はない。理由があってか無くてか、兄は、江藤淳の自死の半年後に自ら首を吊っていたと。
生母を書き、実父を書いた。兄も書こうと決めている。母にも父にも幸いに私のもとに厖大と謂えるほど生な資料が在ったが、兄のことは、實はほとんど知れていない。それでも駆けるだろう、明らかに、短期間では在ったが兄晩年に、淡いが懐かしい兄と弟としての接点や折衝はあったし、それは、子供達も識らないままの一面に相違ない。どこまでその一面が表現できるか、遣ってみようと思う。
2022 7/30

* 父母を倶にした実兄「北澤恒彦」でありながら、一つ屋根の下で暮らした只半日一日の記憶も私には欠けている。同様に一つ屋根の下で暮らした只半日一日の記憶も欠けている「母」を書き「父」を書いたので、「兄」のこともと思うが、なまじいに同じ世代を似た世間へ名も顔も文章も出して「生き」てきただけに、しかも兄の生涯にたった二度三度しか逢って言葉を交わしたことが無い。兄の著書は尾張の鳶さんの好意と配慮とで、甥の「恒」の編著二冊をふくめて、やっと四種四冊手に入っているが、内容で、「兄弟の触れ合う記載」のありそうな箇所は希有というしかない。ただ、初めて顔を合わす以前にも数通手紙を貰った記憶があり、出逢って以降「兄の自死」までの短期間には、書簡そしてメール往来の記録が、やはり数多く歯無いが幸い残っている。「書く」程のほどの何があり得ようか、識っているのはいわば接点の無い「風聞」なのである。兄の自死後の「想い出を語り合う」らしき会への呼びかけにも私は応じなかった。「なあんにも識らないで」離ればなれに生きてきた兄の、大勢の「他者」の口から聴かされる「想い出」にはとても私は耐え得ると思わなかった。「識らなかった」ことを人の口からでも識りたいか、「ノー」であった。そんなわたくしを「水くさい人」と謗る「甥・姪」を含めて大勢のあったらしいが、「私」の悲痛には無縁のものの心ない軽率の罵声にすぎない。
で、どうするか。私が手持ちの、抑も戸籍謄本にはじまる「内容ある」資料を手もとへ揃えること。すでに妻は兄の晩年の書簡を「清書」朱修してくれているが、兄恒彦の自認の「悪筆」は、これはもう、もの凄いのであるよ。兄が、パソコンに触りはじめ、初牛久メールを暮れ始めたのは、あれは自死以前の半年餘もあったろうか。あの年の六月に江藤淳が衝撃の自死を遂げ、半年後にきた澤恒彦もまた自死して逝った。「湖の本 20 死から死へ」はその慟哭の時機を記録している。「一九九九 平成十一年 七月二十二日」闇に言い置く・私語の刻は、「江藤淳氏自殺の報で夜が明けた」と書き起こしている。そして十一月二十三日 早朝 兄のこと として「兄北澤恒彦が死んだという」と書き起こしている。二十四年の昔ばなしと成っている。
さ。書けるかなあ、そんな「兄」を。毀誉にも褒貶にもモノがない、私の手に。
2022 8/3

*「恒彦」の関連本など、 尾張の鳶の親切で手に出来た、感謝。
この「兄」のこと、しかし、私には「理解が届くまい」かと思う。似た、感じがしない。懐かしがるほどの「つきあい」がなかったし、「理解の手づる」がみつけにくい。やってきたことが「互いに違いすぎる」のか。
書いたものを読んでも、文体もそうだけど、呼吸づかいがちがう。私に気をつかい気を配ってくれていたとよくわかっているけれど、呼吸している「世界」がちがう。「感覚」もちがう。知的に理解するのは不可能で無いが、いわば「女文化」の花がまったくこの兄には咲いていない。だから「懐かしさ」が湧いてこない。生母にも実父にも感じ得た「一体感」が湧いてこない。寂しい情緒でなく、淋しい無縁を覚えているのでは、と我が身を抓っている。
2022 8/6

〇 昨日メールを戴いていました。
煩雑な原稿処理など、その幾らかはわたしにも分かりますが、「今しがた、通過できました。」とあり、直後にメールを書いてくださっている・・。感謝。
もういいかいとしきりに呼ばれている気が・・そして「まあだだよ」とこれまでにも何度かメールに書かれているのを、わたしは間違った解釈こそしないものの、やはり言及してきませんでした。まあだだよと言い返せるうちはまだ大丈夫。鴉にはまだまだ残されているお仕事があるのです。わたしも言います「まあだだよ」

北沢氏に関して、鴉は全く理解が届くまいと感じ当惑されている。世界が違う、感覚も違う、女文化の欠如、懐かしさがわかない・・
北沢氏の本、わたしは全く読んでいないので、彼に関して述べようがないのですが・・。
(京都)大学で部落研に入り「挫折」した自分の経験から言えることは、筋金入りの活動家の人とどんなに話しても理解し合えなかったということです。
一番大事なことは階級の打破、経済的な問題の解決。宗教はアヘン。社会主義国の現状にある問題や矛盾は資本主義社会の悪影響によるもの、理想社会に至るプロセスに過ぎないと、中国の農業政策の失敗による飢饉餓死、ソ連のスターリンの粛清恐怖政治などには目を瞑り、際限なく彼らは「力説」しました。更に組織とか政党の中での個人の在り方など。いずれにも絶望的な「隔たり」を感じました。
北沢氏は高校生の時、既に確信に満ちた活動家で裁判にかけられた、彼にはその時点で他者の眼からも自分自身としても「立ち位置」が定まってしまったのだと思います。どんなに矛盾や困難を抱えても彼は責任感や義務感、そして身近にある人々との連帯感(活動から離れた場合には諸刃の剣になって強かに打撃を与えるものですが)の枠内で呼吸していたのかもしれません。連帯感や同志愛は孤独と背中合わせです。
生涯の長きに亘って一すじの道を歩んできたと自負できると同時に、プライベートでは孤独だったのでしょうか。彼にとっての家族・・。
自殺した知人、その人たちにとって家族は どんな意味をもっていたのか、理解できない場合も多いです。自殺という行為のその瞬間に何を感じ思っていたのか、死ぬ勇気? エネルギー? わたしにはあるでしょうか?

途中でごめんなさい、今はここでストップ 勝手なことをとりとめなく書いたかもしれません、
保谷の鴉  くれぐれも くれぐれも お身体大切に大切に 元気で   尾張の鳶

* 正直に言い切るが、私「やそろく」人生に、「鳶」さんの用いたような「批評」「言句」はゼロであった。こういうふうに批評できる心地・心事・言語を知らなかった。謂われている「活動者」ふうの誰一人とも事実出逢わず、識りもしなかった、例えば鶴見俊輔さんのような文筆の大先輩や、かつての労組での執行委員のような人達の他には。まっささきに想うべきは私自身が 甚だしい「現代のハンパもの」「我れ勝手な孤立者」であったのだ。

* どうだろう、生母や実父を「書いた」と同じ感触で、兄の生きて生活・活動していた「埒の外」からの視線と感想とで「私の兄」を書き綴っては。いま、そう思いついている。
2022 8/7

* 「女文化」と無縁かのように兄「恒彦」を謂うていたが、概して謂えば間違いなく和歌にも物語にも絵巻にも歌舞伎にも寺社や風物や茶や花に遠い人であったけれど、明らかに一つ例外がある、京舞の井上流、それも今の三世井上「八千代さん」への、執着に近い熱情が履歴に記録されている。これには、実はびっくりした。来歴は知らない。八千代さんはいわぎ私には同じ新門前通りの「仲」と「西」の御近所同士で在り、同窓の後輩であり、親しい専攻先輩の妹であり、現に私「読者」の一人で在り、実は今日明日にもお宅へ届くであろう小堀遠州子孫の筆になる閑雅な「雪」「月」「花」歌軸三幅を進呈したばかり。とくべつの意味も無い、戴いた厚志へのお礼というよりも、床の間というものの無いわが家には掛けたくても掛けられない長軸なので、井上さんん家なら床の間は在る在ると、まあ持ち場所を替えさせて貰ったという気軽さ。お宅へ出向いて舞の稽古を眺めたり、公演があると遠路を出向いたり等はしたことはない。それを、だが兄恒彦は「していた」のである、コレには驚いた。舞の美妙や微妙のわかる生地のないあにに相違なく、おんなぶんかであるよりも女性で在る「井上八千代」にともあれ執心した時期があった、という事可。恒彦は、高校生で恋を知っていこう、履歴にも、風聞にも何人かの「女」に意を示していたのが読み取れる。八千代さんか、あの北澤と近所やった「秦ハン」とが実の兄弟と今は知っているかどうか、あるいは知ってビックリするのかも知れない。「ものがたり」になりそう。
2022 8/8

* 能動という推力が発動しない。寝入ったように凝然、目は明けて。こんな時は逆らわぬがよく、しんんの気ままに任せるのがよい。生きるのを励ますビタミンのような何かと出逢いたいが、この時節、私の健康や年齢からして、やはり書物世界から「力」を見つけるのが順当か。なにしろ人とは出会わない出逢えない、郵便は愚かメールの往来も微かになっている。何とやらの「解除」で目を見張って呆れる程の人出が報じられる。所詮はあんな洪水並みの人出に加わるスベも気も無い。「読み・書き・読書」とはレながら「決めた」ものだ、他にナニも無いのだ。
知識は、もう欲しくない。観たことも聴いたことも無い誰かに本の中で声を掛けられたり掛けたりしたい。漱石なら苦沙弥先生がいい『心』の「先生」は要らない。芥川や川端は要らない、藤村や潤一郎がいい。直哉が佳い、太宰治は要らない。自殺という手段で人生の幕を切って堕とした人とは話したくない。平然として傲然として生き抜いてたじろがなかった人と出会いたい。神や仏は要らない。たりまえに浩然と生ききった人の手を掴みたい。
わたしの身内・身近には、なんと自殺した人が多いか。生母は闘いきって病床に自ら死んだらしい、が、実兄の自死は、得も謂いよう無く何かしら自身で追い詰めて崩折れ死んだとしか思えない。話からない。妻の父は母に死なれアトを追った、育ち盛りの三児を遺して。甥の一人はいこくの地で愛おしい人のアトを追い「傷ましく」自ら逝ったという。
新門前で育ったあの「秦家」の父も母も叔母も祖父も、ぶち殺されても死なないほど平然と頑強だった、私はいま、この育ての親たちの心身のふてぶてしいほど健康に憧れて敬愛し信愛し感謝している。自殺者には学びようが無い。

* 十一時になっている。寝入る爲に「生きて」いた一日、午過ぎ杉から断続して寝入り、夕飯前に入浴して、食後は寝に寝ていた。妻が,二階仕事部屋のドアが開いていると云う声に撥ね起きた。
この鍵盤が床へ堕とされ踏まれて、小説原稿に無用の書き入れが生じていた。屑籠が倒され、幸い大過なく復元出来た気はするが、明日の点検に。
いよいよ、わたしの不用意も、末期症状か。メールもナニも無かった。
2022 8/11

* 好天、だが風が鳴る。階段を上がった其処、二階廊下の東よりの窓。カーテンを寄せるとめざましい朝日が「朝」の美しさを路上に家並みに耀かせる。ガラス戸をあけ乗り出して手をのばすと、快く伸び上がった笹数本の葉の翠に触れる。道のお向かいには紫の花が木に群れ咲いている。
この家を建てて53年暮らしてきたか。建て増したのは南側に敷地幅一杯の長い鉄筋の書庫、役に立ってくれている。キッチンと浴室とだけ模様がえしたが、ほかにはナニも。和風家屋は幸いかっちり立っていて呉れる、が、妻のためにはナニもしてやれていない。申し訳ない。

* 『十八史略』の「禹」の時代の溌剌として怪奇な面白さ、『史記列伝』知謀の各位が丁々発止「悪意の算術」を闘わす凄さ面白さ、さらには「宋」の世を代表した「講談」文藝の長大代表作『水滸伝』の魂消た面白さ。視野を日本へ転じて『明治歴史』で徳川将軍家茂が大坂城に客死の前後、幕府と長州との軋轢・葛藤・悪意の攻防そして戰闘区々のありよう、まこと刺激的に而も説得十分に興味津々。強力なビタミンを確かと、而も大量に口に含む心地。
いまどき、こういう超然と当今現世を抜けて出ての「読書」を愉しむ人は、ま、めったに居まいなあ、まず、手近にそんな本が、ふつう、無い。みな、秦の祖父旧蔵の本に恵まれる「身の幸」である。いい「家」に「貰われ」「育てられ」て佳かった幸せだったとしみじみ感謝する。
祖父も父も母も叔母も、「秦家」の大人らは、頑強に堅固な、かつ目の前大切の普通の町びとであった。謂わば、微塵も「我から死ぬ」など衝動の無い「健康な」人たちだった。
2022 8/12

* 祇園花街と三条裏とに南北を挟まれた、浄土宗總本山知恩院前に「新」「古」二筋の「門前通」、その新門前通りは、北を白川の清流に画され川向こうの古門前通りと隔てられていた。新門前通りはおおよそ東大路から西へは外国からの旅行客相手の和漢の美術骨董商のショウ・ウインドウがならび、西の縄手筋から東向きには静かな和風の家が並んで、京観世・井上流京舞の家元や、超級の仕出し料理で聞こえた「菱岩」などがある。懐かしい佳い「花屋」もある。わが「ハタラジオ店」は、そんな新門前通りの中程に店を開けていた。すぐ東お隣に京都植物園長の、また清水焼六兵衛家の奥まって静かな門屋敷や露地や土蔵が並び、北の古門前通りへ抜けた脇道には、白川を渡して今では名の聞こえた「狸橋」が、幼時私らの遊び場・集い場であった。橋した白川の流れから、時に長い蛇があがってきて仰天もした。白い飾り石の橋桁に凭れ込み、川波の流れにじいっと見入るのが私の夢見時であった。有難かった。生みの母一人にか、実の父一人にか、所定まらずうす暗く貧しく育てられるより遙かに遙かに、結果私は新門前でとても幸せであった。

* 京都大学に間近い吉田辺の「お米屋」北澤家へ貰われた実兄恒彦は、どうだったのだろう。気の毒に、結果、不運であった。養母は亡くなり、実母にはまとわりつかれ、戦後の学生闘争にいちはな立って爆走した京大生たちに「高校生」の内に身近に感化され、火炎瓶を投げ、追われ、牢に入り、前科として判決され、それはそれとして兄恒彦の「身にも力にもなった部分」もあろうが、闊達なごく当たり前に普通の大人には、あたかも成り損じ、自身に「市民」「社会」「家」といった丈高い表札を建てて、才能ある三子を得ながら、妻とは離別し、自らは「市民活動家」という自負からいろんな世間を右往し左往した心の瘠せや疲労の蓄積か、何かしら不満足や重い負担や所労があってか、死病の養父の枕元で首を吊り壮年にして自死したとは、長男が克明に記録した「履歴」に明記されてある。妻子は誰も最期のその場近くに居なかった。
視野の確かな、思想や思索を重んじて、一見豪快に「身働き」の効く活躍の知識人には相違なかった、が、思いの外に健全健常な「生きる喜び」に支えられないまま、結果「斃死」に等しい自死へと墜ちた。
アトを追うようにして、次男「猛」また、異国ウイーンで「いたましい」と人の伝える自死を遂げた。ほがらかに、無邪気な、ラグビー好き、大学までにもうドイツ語自在で外務省がやとったという、心優しい可愛い甥っ子だったのに。

* 兄の、わが子等への命名に、私ならしない或る風があった。長男にはあのフクザツに人生を追った実父の名とまったく同じ「恒」一字を与えている。次男の名にあのの「梅原猛」氏の「猛」をもらったと、兄の口から一度ならず聞いた。娘「街子」にはどちらが先であったか、「きみの小説『畜生塚』の町子と通い合うたよ」と父親は私に微笑していた。
何れも、私ならしないことだ、私は久しく実父「恒」をいとわしく見棄てていたし、梅原「猛」さんにそんな敬愛は感じてなかった。梅原猛と北澤恒彦と。私にはよく見えない景色であった。自分たちの子供の名は、親が愛しく新しく名づけてやりたかった、姉は朝日子と、弟は建日子と。ちょっとかわってるねえ私は兄の「子に名付け」のセンスが妙に訝しかった。

* 私は、いま、しかと心する。,此の自死に墜ちた兄や甥の足跡を決して追わない、踏みたくない、と。
私は、はっきりと、京・東山新門前通りの「秦」家が、「ハタラジオ店」が堅固に持して愉しんでいたと思われる「文化と生活」をこそ受け容れ、健常に生きたい。
大量・厖大な和漢の書籍・事典・辞典を秦の祖父鶴吉は孫の私に譲り伝えた。やわい読み物など一冊もなかった。
父長治郎は、女向きのの「錺職」から、一転、日本で初、「第一回ラジオ技術検定試験」に合格し、当時としては最先頭にハイカラな「ラジオ店」を持ち、電気工事技術も身につけ、戦前戦中をむしろ世の先頭で技術者として生き、戦後は、真っ先にテレビジョンで店先を人の山にし、電気掃除機も電気洗濯機も真っ先に商った。しかも観世流の「謡」を美しく私に聴かせ、時に教え、囲碁や麻雀も教えてくれた。一時の浮気や金貸しで母とも揉めたりしたが、私に此の今も暮らす家屋に費用の援助もしてくれた。九十過ぎて、その東京の家で、吾々の看取る前で静かに亡くなった。二軒ならびの西ノ家には今も「秦長治郎」の陶磁の表札が遺してある。
同居の叔母ツルは、若くから九十過ぎて東京で亡くなるまで、裏千家茶の湯、遠州流生け花の師匠として多勢の女社中を育て、少年以來の私のために花やいだ環境や親和親交を恵んでくれた。文字どおりのまさに「女文化」を目に観、耳に聴かせてくれた。.
母のタカは、私を連れて独り丹波の奥に戦時疎開生活をしてくれ、私の怪我や病気にも機転の対応で二度、三度大事から救ってくれた。今思えば家事万端に私の妻よりずっと種々に長けていた。弱げでいながら、夫や小姑よりもなお健康に、百に届きそうなほど永生きし、吾々の看取る前で亡くなった。
秦家には「死の誘い」を感じていたような大人は一人も居ず、居たと想われず、それぞれ亡くなる日まで「当たり前」のように頑強に死ぜんんに自身を生きていた。父も母も叔母も、少年の私の目の前で「組討つ」ように躰ごとの大喧嘩をしたこともある、が、誰も、一言も「死ぬ」などと口走ったことは無かった。

* 北澤の兄の書いた、また北澤の兄に触れた都合四冊の本を、私は堅くものの下へ封じた。私は秦の「恒平」であると。敢えて感傷のママに「読む必要は無い」と思い切るのである、少なくも「令和四年真夏」の現在、只今。
2022 8/12

* 観ていた夢は、忘れた。思い出せそうで思い出せない。
敗戦の日。想い出は多々、疎開していた丹波の山奥へ走る。南桑田郡樫田村字杉王生。初めは山上の田村邸を借り、耐えがたく街道脇の長澤市之助邸の隠居を借りて母と二人で暮らした。多くを良く覚え忘れ得ない。敗戦の詔勅は長澤の前庭で、ラジオて聞き知った。飛行機のように手を広げて駆け回った。負けたことに何も負担は無く、京都へ帰れるかと胸を弾ませた。あれから、早や77年。いい意味での生きる緊張を忘れ得ない戦中の、また永い戦後の日々であったよ。
2022 8/15

* 妻に聞くと、昨晩は七時にもう、私、寝入っていたと。朝かしらと目覚めても外は真っ暗、時計は九時と。変な時計だと思いつつまた寝入って目覚めて、時計は11時、しかし真っ暗なのだしとまた寝入って次は一時。バカみたい、とまた寝入って、なんと、亡き秦の母と高校の頃の村上正子と三人で、東京だか大阪だか大都会へ夢に旅していたからビックリした。なんぼ何でも朝だろうと目覚めてもまだ外は真っ暗、五時になってない。ママよと床を起って、二階へ来た。とんど十時間も寝入っていたのだ、少しはアタマすっきりしていて貰いたいが。珍しく空腹を感じている。
秦の母と高校時代の村上正子に接点は全く無い。村上は私の「短歌愛」に賛同しノート作りにまで手を貸してくれた今も懐かしい佳い友達だった。消息が知れていない。元気だといいが。
2022 8/17

* 六巻まで興趣に惹かれ読んできた『参考源平盛衰記』の続き、七から十巻を手もとへ出した。目録に、「丹波少将併謀反人被召捕事」から、「内大臣召兵事」此下舊有幽王褒姒烽火事今除之とあるが、除かずにおいて欲しかった。この書、巻之一から巻之世四十八まであり、その「引用書」は日本紀以降「通計一百四部」に及んで、通行本の岩波文庫『平家物語』上下巻の和漢混淆文とさま変わって、無数の異話異伝をはらんで往時の新聞記事かのように面白い。
古門前通りに根生いの骨董商林弥男氏が秦の叔母つるを介して「恒平ちゃんなら読まはりまっしゃろ」と、桐箱入り全冊をポンと呉れたもの。いま踊りの「おっ師匠はん」をしている同年の貞子実父だった。私の嫁にという話も内々にあったとやら、なん十年ものちにその超級の美形「おっ師匠はん」から笑い話として聞いた。如何にも、あったそうなことであった。世の中は、おもしろい。
2022 8/17

* 冊子「日本橋」などを拾い読みながら、枕元の灯を消したのはもう一時前だったろう。なにやら多彩に競い争う感覚で夢見ていたが、もう思い出せない、いろんな人影の交錯する夢であったのに。

* すぐ二階へ。愛くるしいほど足先を連れて先立つ「マ・ア」ズと部屋に入り、まず「削り鰹」を奮発した。泪がしおからく目玉がひりひりする。
2022 8/18

* 早く起きた。「要事」は積まれてある。
独り跫音も謹んで階段を二階廊下へ上がりきった窓の下に、書架に凭れて建日子がまえに呉れた「獺祭」一升瓶の佳い木箱が立ててある。胸には「感謝」という大きな書字があり、わたしは、決まって箱の頭へ掌をおいてくる。ここに建日子が居る、ありがとうよ、と感謝するのである。そして窓のカーテンをサッとあけると、早朝の朝日が東西まっすぐの路へま東からまっすぐ射している。お向かいはまだ寝静まっている。この「朝日通り」と呼びたいわが家の前の路が大好き。朝日子や建日子とキャッチボールしたりしたナと懐かしくもある。明るい陽射しの美しさを、こころから愛する。

* 労らねばならないのは「視力」と思う。この暑さにそくッと膚寒い。
2022 8/20

* 夢は見なかったが、気づいた不審を、調べる手立て無いまま考えていた。私の生まれは1935年師走も余す十日しか無い歳末。兄北澤恒彦の出生は、長男恒作成の恒彦履歴で確認できるように前年1934年4月下旬、当然に懐妊はさらに前年初秋へも遡る。父と母とは,私が生まれて歳越えの早い時期に生木を裂くように父方の手で引き離されている。数えれば、それより以前じつに二年数ヶ月も以前から、父と母とは若い学生と一女三男をもう産んでいた寡婦とに「性の関わり」が出来ていたことになり、それは近江能登川の旧家である母方親族からも、南山城の旧家である父方親族からも好ましいことでなかった。父方がそれと知って、嗣子でもある長男の奪還と幼兄弟を戸籍から「峻拒」の対策を強硬に嵩じたのは、昭和十一年1936年早々であった。それにしても、様子に気づくのにそんなにも永く気疎かったのか、高みの見物めくが驚いている。恒彦誕生から恒平のそれへほぼ20ヶ月も「無事!!」に我らが両親は京都の西院辺に隠れ住めていたとは、経済も生活者としても、いささかならず想像し難いナ、と、夢うつつに想いまわしていた。
何の役にももう立たないが。ま、私なりに両親の墓標は立てたよと、もう、この辺で、私ももう今年冬至には「やそしち」歳の爺になる、永く握った掌を開いてやろうと思う。
2022 8/22

* 京舞家元へ呈上の「花」「月」「雪」一字に和歌一首を添えた長尺、小堀遠州系の筆になる三幅對が行き着いた。お舞台の床に掛けて戴けると。安堵した。ついに床の間の無い家に暮らし終えるわが家に死蔵しては、軸たちに気の毒と、気に掛けてきたのだ。たにもまだ軸物や茶道具がかなり有る。建日子にはそれらを見定める趣味も目も無い。それらの処分にもまだまだ頭が痛い。「道具」として生かしてやりたいのだ。

〇 今朝方も、和歌山ではおどろくような雨が降りましたようで、不順なことでございます。
先日は,久方ぶりの東京でのおさらへ会を終えて今日に取りましたら、思いもかけぬ御立派な贈り物 御礼も申さぬまま、山の日をはさんで、上高地へ出向いてしまいました。
まずは、月の季節、三幅並べて、舞台の床へ掛けさせていただこうと思います。心よりの感謝をこめて   井上八千代

* あの丈高い かつ簡明に美しい三幅が一つ床に並ぶまはさぞや閑雅にうつくしいことであろう。よいことをした。仲之町で茶の湯生け花の師匠だった叔母も、あの三幅が西之町の「八千代はん」の宅に婿入りしたと知れば満足してくれるだろう。よいことをした。、
2022 8/22

* 三方狭苦しい機械前で横転し腰で支えたが、転ぶのは何よりよろしくなく、骨が弱っているので、油断ならない。正直なところ、なにもかも投げ出せたらいいのにと弱音がでかけて居る。休息と愉快とが必要なのだ、ぜんしゃなしに後者はありえない。しかしコロナ禍すこしもホンモノの快方へ向かわない。
充分な費用と軽い手荷物とだけで旅したいが、さて案内も無い。学生時代にはあてどなく、いきなり汽車に乗ったモノだが。秩父へなら西武線で行ける。さきの案内が無い。せめて地図でも土地案内でもあればいいが。妻と「マ・ア」ズに留守させるのは、妻の体調太鼓判とは行かず。そもそも私が保谷駅まで歩けのかどうかも危うい。
明日四度目のワクチンを無事接種できれば、ふたりとも、歯科へこそ通いたいのだ。が。
2022 8/24

* 昨日、接種のため近くの厚生病院へタクシーで出向いたとき、運転手に、このまま京都まで走れるかと訊いた。京都はむりだと。しかし熱海、静岡、水戸、仙台、新潟、秩父奥なら問題ないと。ともあれ「視野」が開けた感じ、まして都内、浅草、上野、銀座へも混雑の電車を避けられる。
もう金銭の支出をなるべく顧慮せず、行き当たりばったりも勘弁して貰おうと想う、幸い建日子は親の持ち前を、まったく必要としていない。朝日子のことは考えない。

* それはそれ。昨日妻が、想いも寄らなかったものをテレビで見つけた。あきらめきれぬ亡き孫の「押村やす香」の妹、もとより私たちの実の「孫」の「押村みゆ希」がテレビで話している写真を見つけたのだ。姓名ともに齢恰好も相違なく、細面のそれも大人の容貌だが、まちがいあるまい、いま目に、また写真にのこった中学高校ころの「みゆ希」との「最後」の対面はまだ年少、姉と二人して嬉々とひな祭りのひな壇をわが家で立て飾って帰っていったいった、あの二月二十五日が、この愛おしい孫姉妹との最期になってしまった。姉やす香は思えばあのときもう体調に違和を秘めていて、だるそうだった。そのままの夏七月、母朝日子の誕生日の二十七日に、亡くなってしまった。
その後両家の不快極まるすったもんだと絶縁については想い出すも厭わしい。しぜん、みゆ希とも絶えて会えなくなっていた。
私たち祖父母には此の世で唯一人の血を継いで呉れている孫娘なのだが。
その子を、テレビの画面で妻はみつけたのだ、偶然かどうかは知らない。かねがねみゆ希の幸せを願って妻とも哀しみ続けてきたが、すべては「みゆ希」自身の自発的な智慧と理性に任せようと思ってきたし、いまも同じ。それでも無事成人の「姿や声」を目に耳にしたのは嬉しい安堵で。せいぜい世の中へ出て働きたかった「亡き姉」の分もしっかり努めて欲しい。必要なら応援も惜しまない。
姉やす香は、結句亡くなるまで、いつも自発的にわれわれ祖父母を訪れ来ては、うれしい和やかな時を績み紡いでくれた。途絶えている押村と秦との無意味な紛糾に橋渡しをしたいと「やす香」は懸命だったのだ、恥ずかしい。わが家にはそんな聡明で優しかった「やす香」の面影が、あちこちにかざられ、わたしは日夜「対話」を欠かさない。

* 妻に、ワクチン熱かと想うかるい発熱が暫時あったが、、ま、おさまったよう。私にはこれという後遺症状は何も無いが、「骨皮筋」右衛門のかなしさ、猛暑と謂うに、冷房が効くとむしろ膚寒さに肩をすくめる。
2022 8/26

* 朝はいちばんに、煎茶を惜しまず、茶を点てた。朝一番の美味い茶は、新門前の昔から秦家では「ならわしごと」。夏には母がかならず障子を張り替えていた。観るから涼しくて好きだった。狭いながら泉水の水を替えて金魚をはなすのも、笹が青青とそよぐの浅賀の作のも好きだった。昔のわが家には小さいなりの爽やいだ文化があった。母にも叔母にも、たとえ漬け物漬けにしても毎年観られる生活上の年中行事があった。好い物だった。
今のわが家では障子の張り替えなど想いも寄らない、ありとある障紙「マ・ア」ズに攻撃されて失せており、妻にも張り替える手技が無い。家政と謂うことでは年寄りや男の沈黙の目に見られて、母も叔母も、想い起こせばいろいろな「ならわしごと」をを手早にきびきび遂げていた。掃除と洗濯と食事の用意だけでは無かった。それらにも「機械」の手助けなどナニも無かった。

* 「ならわしごと」と書いて、胸の痛い想い出に触れてしまった。

よのつねのならはしごととまぐはひにきみは嫁(ゆ)くべき身をわらひたり

謂うまでもないがここで「まぐはひ」とは目と目を合わせての意味に歌っている。上皇を謂う「みとのまぐはひ」ではない。あの、祇園石段下、屋さん中学の前、四条大通り路上での、のこり惜しい、よぎない、ただ数分に満たなかったまさに「立ち別れ」だった、いまも手を結び合うた「あのとき」のままに思い出せる。いらい、七十年怒濤の人生はいまにも静かに濤を退こうとしており、あの「ねえさん」もすでに亡いと、妹、またその義妹により、あたたかな心遣いと共に伝えられている。

あなたとはあなたの果てのはてとこそ吾(あ)に知らしめて逝きし君はも
2022 8/27

* 掌も指先も鳴るほど痺れていて、とても自筆の手紙はどなたにも差し上げられない。ル・アドレスをよろしくばお預け下さい。
ナニとしても腹をくくってホームページの電送を回復したいもの。この超絶雑然の部屋へ人様を迎えるのは身が縮んで困惑当惑だが。建日子にそれが出来るのだろうか、機械の原状や現状までも奔逸混乱させられては堪らないのだが。
2022 8/28

* 東隣の樋口家が家土地を売却して転居され、新たな地主家による新築がはじまるに就き、申し合わせ承引の手続きが必要と。幸い、東地境いのわが家の立てた塀は地所内のりに正しく沿っており問題なしとなった。が、屋根が東土地内へ入り込んでいると。わが家は旧樋口家が建築される以前から建っていて、爾来53年只一度もそんな問題の生じた事は無かった。
東西の隣家で不快な問題が起きるのは、ぜひ事前に防いで置きたい。そんな思いから、目覚めて、二階へ来た。東工大出の国交省m君や,同じく竹中工務店設計家のy君らの見解や智恵や助力を頼まねばならないことにならぬよう願いたい。
2022 8/30

■ 某、大工務店の設計家柳君 国交省の建築経管理職 へ助言を求めて
端的に。
わが家の東隣家が家土地を売り払いどこかへ転居されます、わが家を建てたときは空き地でした。従って境界のブロックは敷地「内のり」に建てました、そのことは、今回介在の業者も「確認」し、但し玄関の植木一本の枝先が稍越境しているとの指摘で、その件を確認の「覚書」にサインをと求められています。家屋はまだコワされていません、買い手があったのかも、まだ、不明です。
わが家、私としては、もし新築工事が始まったときに、ごく隣接の途方平屋部分の「屋根」を、建築資財の置き場や、工事の人の往来に使われては困るな、イヤだなという気分です。
また表札入りの煉瓦の門柱が、両家分で密接して建っているのも、取り毀すでしょうが、無事で済めばいいがと案じたりしてます。

こういう際には、当方、どんな心用意と、申し合わせ(ないし覚書)が必要になるモノでしょうか。そんな件でアタマを悩ませるには、「書き仕事・小説等」の方が大切な境へ来ているだけに、憂鬱なのです。何もしなくて済めば何よりなんですが、夫婦とも「やそしち」歳の爺と婆、ボケて来てもいまして、動揺もし、心配なのです。

こういう際への「助言」あらば どうかお願いします。
2022 9/5

〇 秦先生、
東隣家が解体されるとのこと。
インターネットの衛星写真の地図で秦先生の家の周り 確認しました。
確かに近いですね。
秦先生が心配されるのも理解できます。
「隣接の平屋」というのは、秦先生の家の平屋の部分を指していますね。
工事を隣地に越境してすることは 基本的は行わない、というのは
一般的なルールですので、秦先生の家の屋根の上を使用することは、
基本的には考えられないと思います。
ですので、
解体の挨拶に来た場合、
1)こちらの敷地に入らずに、作業をしてください
2)重機を入れての解体時に
秦先生住宅を破壊する可能性があるので、
〇 事前に現況写真を撮って、両者で事前確認する
のお願い2点をやってみてください。
こうしておけば、
壁にクラックひびが入った場合、対応してもらえると思います。
ただし、
あまり強く出て、以降、住みづらくなることも良くないので、
相手の様子を見てください。
門柱の件は、
写真で見る限りは、お互い独立して立っているようですし、
既に先方の門扉は倒れ掛かっていて、秦先生の家と逆側に傾いているようなので、
解体する時に秦先生の門柱が破壊されることは無いと思います。
業者が何かを確認するとか、説明したいということがあれば、
私が同席するのは問題ありませんので、お声がけいただければと思います。
出来れば、土曜日がいいですが。

添付は最近設計し竣工した建築です。
お見せしたいです。  櫻
追伸)残業は減りませんね。
秦先生のようにうまくサボらなければ!と思いながら
20年以上経ってしました。

* 感謝。

〇 秦先生 ご無沙汰をしております
下記の件、私の方で少し調べさせて頂きます。
なお、私の方で調べるのは、
「先生のご自宅及び隣家の敷地が”境界確定”をしているのか否か」
です。これは登記簿等を調べることで分かりますが、住所さえ分かれば日本全国何処の土地でもインターネットで把握可能です。
ちょっと状況を調べた上で改めてご連絡致します。
それほど時間はかかりませんので、明日中にはご連絡できるかと思います
取り急ぎご連絡いたします   〇

* 心強いこと。
2022 9/6

*腰早起き図が過ぎたかも、しかし五時二十分でもう一寝入りするとしちじをすぎるだろう、今朝は厚生病院へ約束の診察日、妻と出向く。歩ける距離だが、少なくも雪はタクシーを呼んでいる。忙しなく無く出かけたいので、心持ち睡かったが起きて二階へ。「マ・ア」ずも、喜んで付いてきて、いやいそいそと先回りして「削り鰹」の朝振舞を喜んだ。もう、完璧に家居の同家族で、割れモノを落としたり毀したり傷つけたりしない限りは、殆ど止め立てせず、好き勝手もさせている。御陰でわが家にもはや紙の障子は実在せず、襖も穴だらけ、食卓をすら安息の昼寝床と心得ているらしいが、大目に見ている。
小さな空き箱が有れば、めいめいに好んではよく丸くなって昼寝も宵寝もしている。
弟のマコは、ダンボールの筺や切れ端とみると容赦なく飽く無く爪を磨ぐ。兄貴のアコは、私の脚に絡むようにまとわりついては、便所へも入ってきてアタマを撫でて貰う。親と子、ではあるまいが、純然の家族なみ、信愛の身内と成り切っていて、もう戸外へも敢えては出たがらない。家中の窓という窓から戸外を眺めながら、そのまま眠っていたりする。観ていて、気も和む。病気すなよ、怪我すなよと眺めている。出逢い触れあうつど、アタマを触ってやる。

* 近間の厚生病院へ約束の診察日、妻と。格別の問題なく、二人なから決まりの処方投薬で終えて、病院から繪駅前のスーパーへ車で。わたし、初めての店。たつ゜り買い物して、保谷駅繪からまた車で帰宅。
2022 9/12

* ここまて生きてくると 「血縁」ということを時として深刻に思う。「実の父」と「生みの母」との血をうけた者の意味で有る。
朝日子 私の 一人娘  押村家に嫁いで、もう何十年 絶えて交渉無し
建日子 私の一人息子  作家劇作家映画作家として自立 健康
結婚せず ながく同棲中 子無し
押村みゆ希  私の孫 朝日子の次女 没交渉 姉(長女やす香、病死)現在何歳とも     覚えず、最期に生前の姉とひな祭りに来訪以後、もう久しく無音、住所その他     一切不明、今何歳とも、結婚したか、子があるかも不明
北澤 恒 作家黒川創 亡き実兄北澤恒彦の長男 生年月日不明 鎌倉市に在住か
結婚・家族も不明 相互に自著のやりとり程度の折衝 日常の交際無し
北澤街子 作家 亡き実兄北澤恒彦の長女 生年月日不明 京都市に在住か 日乗の交     際亡し

* いかに貧寒と侘びしく寂しい「血縁」かと 我ながら慨嘆し呆れる、が、一つにはむろん私に「問題」がある。「血縁」は頼めないという生まれながらの断念、拒絶に近い断念か有る。
京都の新門前で全く血縁ない「秦家」に育てられた幼少以来、「眞の家族」はと思い定めて、それは自分独りしか立てない小さな島に、いつしか二人で三人で、五人でも十人二十人倶にでも立てている、そういう愛した「身内」のことよ、と決して来た。「妻」がその一人だったのはいうまでもなく、中学いらい指折り数えて「身内」と心許せた人は、人生八十やがて七歳で、老若男女の十数指には優にあまるだろう、遺憾にもしかしその多くがすでに亡き人の数に入って、あの「オールド・ブラックジョー」を呼び招くように天上から「おいで」と誘っている。

* 繰り返すが、幸いに私には、自身の著作・著述を介して 多年に及んで親しみ愛し信じ合ったかななりの数の「身内」にほかならぬ人たちがある。私を昨日も今日も明日も力づけ生かしているのはただ「血縁」より以上に、常に「身内」の人との信愛‥親愛である。心底感謝している。いまからでも、なお、一人、二人、三人と出逢って得られないとも限らない。私が案じるのは、それよりも、私自身の「生きる」意欲、「自殺」という誘惑なである。
ことに理解の行き届かない、実兄北澤恒彦の自殺。
重病の養父を一つ家に寝かせていながら、遺書もなく、独り首を吊っていた。それほどに自身病んでいたのか、私には分からない、が、一両日前には東京の私に電話は呉れていて、妻が受けていた。死の当日には離別していた妻、三人の子の母親を久しぶりに呼び出して逢って別れて独り病父の家へ帰宅し、自決したのである。父恒彦の死をウイーンで報された次男北澤猛は、すぐ東京の私へ電話で報せてきた。
ところが、なんと、この若い甥の猛が、ウイーン暮らしで思慕していたという年長の女性の死を、追い慕うように「傷ましく」自殺したとは、事情通の京都のあ0有る人が私に伝えて呉れた。
妻の父は、妻の母の死を切に悼んで跡を追ったのである。
私人で作家でもあった妻の兄は、遺書らしきも遺さず、はたと急に死んだ。自死と謂う。
生涯を倶にすべくなかった、恒彦・恒平の生母阿部ふくも、病床で独り0自死したかと親しかったらしい若い神父が伝えている。
実父は、川崎市に老いて独り暮らしのある朝、近くに住む娘(私の異母妹)らに「死んでいる」と寂しく見出されていた。
葬儀に呼ばれ、一日として倶に暮らしたことものない次男の私は、恒彦や私を遂に父生家戸籍から「峻拒」した親族らから「弔辞」を強いられた。バカげていた。

* サテ私はどうこの生を完うできるか。批評家で詩人の林富士馬さんに、「ホンマ、小説を書くためにうまれてきたんだよ、秦さんは」とわらわれた昔を、いま、カラッとした気持で懐かしむ。
2022 9/13

* やや高めに画面の大きめの機械、一段下に、機械と繋げてない横長のキイボード。これの向こうにやや上段に凭れて二枚の絵はがきが立っている、左に、2020日展に杉本吉二郎が出した彩色「ろーじの風」が京の川ひがし、祇園町も北側街に覗き見かける「ろーじ」の風情で風の動くさまもさながら克明の筆遣い。半開きの扉そとに藍染めに白い〇が風にそよぐ暖簾の様も、部分的に赤のきいたちいさな子供乗り自転車も、さりけなく奥のみぎへ逸れて行く「ろーじ」の息づかいも、左右の塀も奥の屋根瓦も敷石の路も、すこしもうるさくなく克明に描かれてあって、つい今し方自分も通ってきた抜けロージのように実感される。
もう一枚はわが友の洋画家池田良則クンの手になって独特濃淡の墨が美しい、これもやや奥深い「ろーじ」の覗けるいりくち、の繪、京都では珍しくない造り独特の入り口が描いてある。わたくしなどひとしお見慣れ遊び慣れていた瓦屋根天井の「ろーじ」入り口が懐かしくも描いてある。
こういう「ろーじ」入り口は、雨降りの日も子どもらのかたまって、めんこでも、おはじきでも出来て遊べる安全に嬉しい世界であった。屋根天井のその上は左右へ渡った民家の二階になっている。屋
入り口屋根の下、「ろーじ」の軒には奥何軒かの住人の表札が並び架けてあって、ズーンと「のぞきこめる」ろじ奥は青天井、左右に奥にまた奥にまで小家が建ち並んで、もし「抜けろーじ」でもあるならもっと家は多く存外に陰気ではない。

* こんな京の「ろーじ」二枚の絵葉書の間は、むかしもむかし、まだ建日子記せいぜい中学生、姉の朝日子は院へも進んでいた頃か、そしてわれわれ両親も横並びに、にこやかに、なんとバー「ベレ」のカウターで、ままに写真に撮られているのが立ててある。わが家の親子四人の一等和やかに幸せであった頃の写真一枚。私はいつもいつも京の「ろーじの風」をなつかしみながら、家族の幸せを想い想い、手したのキイを叩いては文章を書き私語の刻を重ねている。誰にも干渉されない、私の「場所」である。
2022 9/14

* もう六十近い人が、はじめて女子大の教壇に立つと。
とほうもない知情意と時間との空費になるのでは。真摯に「習う」「学ぶ」のは老人にも必要だが、無差別に人に「教える」意義と必然など空しく、やがた失望落胆して果てる、それが常だ。
真剣に仕て残したい自身の主題があるなら、真っ向立ち向かえばいい。
とはいえ、其処に「生活費」という壁があり、若くも、中年、初老でもそれが普通だろう。要は、教える習うどころか、「金」に困る。
幸いに私は、意識し意図して、生涯備えてムダにハミ出た散財などせず、ただ自身の仕事に向き合った。妻に経済の苦労を掛けていたのは東京で就職結婚して数年間ほど。やがて生活費を大きくはみでた「私家版本」も立てつづけに数冊造って行けた。それは確実に大きく役にも立った。そのかわり、車も持たず、飛行機にも船にも乗らず、物見遊山もめったにはしなかった。金は、眞実遣うべく、まずはだから不必要に遣わなかつた。若い頃の給料は生活費として遣うしか無いが、賞与(ボーナス)というものは「無い」ときめ、すべて全額積み立て蓄えておいた。例外なかった。原稿料講演料出演料が入る頃も一切手はつけなかった、日々の生活費としては「一年分に足りる高」を年初に纏めて妻に渡した。むかし新門前の家では、母がよく「お金が無い」とまことに慎ましくも情けなくもそのつど父から渋々五十円、百円ずつまさに「貰って」いた。こういう暮らしは御免だと子供こころには母が気の毒だった。
東工大での教授収入も、ただ一円といえど、手を付けなかった、その必要が無かった。金のために自身の志と時間とを「無に」「痛める」のは、私にはただバカげていた、それだけのことだった。私たちに出任せの遊興費は無用だった、ただ街へ出たとき、これはと気に入ると妻に衣服や佳い持ち物を買って帰ることが、まま、あった。歌舞伎や外食も、妻とは何度でも度重ねてきた。それは贅沢な無駄遣いでなど無かった、当たり前であった。今も、そのように暮らしている。

* 雨脚が激しく屋根を踏み続けている。
2022 9/18

〇 温泉なら、
10月中でしたら、ぼくが車で送迎して、ご案内できますよ。
秩父でも、箱根でも、一番近くだと深大寺にも温泉がありますね。
草津も、関越自動車道に乗ればそんなに遠くないですよ。
10/31から舞台の稽古なので、それまでなら日程の調整できるかも。
本当に行くのでしたらご相談ください。猫も 一泊二日程度なら余裕で留守番できますし。  建日子

* 不調のまま、ほとんど寝入っていて。
建日子に感謝。「湖の本 161」の納品と、発送とがまだいつと決まらない、多分よほど遅くも十月早々と待機しているが、事前連絡、未だ受けていない。それが、せめて済んで欲しい、が、重い本包みを「荷づくり」して「かためて」持ち運べるか、脚腰の回復をぜひにと待つ。右脚の痛みこしは和らいだようでも執拗に時に衝き刺すように膝上のふとももで痛み続け、横になるしかなく。

* 寝て治りを待つばかり。
2022 9/21

* 夫婦も体調宜しく無く、休息と謂うより、終日ダウンのまま、食べるものも食べないで過ごした。妻は寝込み、わたしはせめて巻き寿司でも注文しようかと思ったが電話番号が分からず、食べないまま映画『地獄の黙示録』をひとり観ていた。初めて見たときから気になる作手、マーロン・ブランドの登場が底知れず凄いのだが、りかいしたともまた言い切れぬまま独りで観終えた。
2022 9/22

* ひどい夜通しの雨降り。前夜、うかと黒いまこをここに締め込んで階下に降りた間に、出入りの襖の下へ猛烈な破れ穴が出来ている。私も出たと慥かめてやらなかったのだし。しかし、今後其処から「マ・ア」ズ「出入り自由」では、この雑然とモノ、小モノの多い仕事部屋の安危が気遣われる。気遣われることばかり多く、しかも右上脚の苦痛は褪めない。
2022 9/23

* 前夜寝入り前の体調は疲れの残る程度、幸いに右脚の苦痛は、入浴と、局所のムヒ塗布と貼り薬の狙いうちが効いてややラクなまま寝入れた、と思う。夢の記憶は無く、ただ毎夜と同じく唱歌の断片を終始背景か下敷きのように唱い続けていた、妙ななしだがそれは毎夜なのである、そして思案したりしている、たとえば、
「月がとっても蒼いから 遠回りして帰ろ」までなら 佳い詩句になっている。「あのすずかけの」以下がくっつくと通俗に堕するなどと批評していたりもする、もとより嫁の内である。人のことは分からないが、私は、このように寝入っていても起きているらしい、間歇的に。ま、それらはそれとして、突如、右鼻腔へ、衝き上げるように強烈に苦い鑒い粘体が急襲、跳びはねて起き手洗いへ駆け込み吐瀉と含嗽とを繰り返して苦痛を凌いだ、不思議なことに、右脚の昨日までの不快極まる苦痛を、忘れ得ていた。それが嬉しかった。
寝床へ戻って、これまでにも十度ほども体験した「急襲」で有ったのを、例の如く「喉の痛みと熱を「抑える・ジキナ三錠、乳酸で腸を労る錠剤三錠を服して、加えて決まりのように喉の苦痛を散じる粉の「龍角散」を一匙 喉の奥へ撒いた。これは、もう、こういつも決めて、相応に鎮静させ得ている処置。
時計は、五時前。幸いに脚の不快な痛みや冷えが消えたように微かにしか感じられないので、「起きる」ときめて、ヒソと二階へ来た。「マア・」ズはちゃんとついて来た、が、さ、何処にいるやら。
膝は、架け毛布や温かい柔らかいモノで庇っている。露わな痛みはどこかへ微かに沈んでいるよう。振り向くと「マ・ア」はそふぁで寝たり醒めたりのまま、いずれ「削り鰹」にあずかる気でいる。わたしが寝起きて常のように機械に向かっていると、さも「安心」なのだろう。どうか、体苦の方、このまま穏和に静まっていた欲しい。ウム。かすかに空腹を感じている。体重、また減っているだろうが、まだ測ってない。栄養失調を「うまい御飯」でとりあえず回復したい、怖いのは、歩けない脚になってしまうこと。

* 五時、四十五分。仕事は、創作、校正、刊行、発送用意等、まさに山積。疲労は疲労、乗り切って行くしか無く、ここ数十年、そう暮らしてきた。
「マ・ア」ズの微かな寝息がしている背後のソファで。
2022 9/24

* 私はこころして、メール不可能な知友には、せいぜい手紙を手書きしたい、書字が乱れても。せめては機械の文字を印刷して送りたいが、機械画面を院先へ連動させる筋道を忘却している、らしい。成功しない。教わるスベも見失っている。  今、「マ・ア」ズに「早朝食」を上げた、六時十五分。 私は、空腹感。幸いに、ありがたいことに 右脚の苦痛がごく軽微に落ち着いている。
2022 9/24

* 脚の痛みはごまかすように凌いでいるが、躰の空虚感はどうしようもなく、排泄は続いて、食事が摂れてないのでは体重が減る一方、体力は目に見え失せて行くのも、当然。失神、そして、死、があり得る。妻も弱っていて、賢い対応が出来ない。しかし「入院」はぜひ避けたい。入院は本人だけのことでない、家人の対応と見舞いの負担がどんなに重いか、何度もの体験で、重々分かっている。この下保谷の厚生病院といえども、是以前なら平常に殆ど問題なく自転車なら数分、しかし徒歩では今の体力・脚力では耐え得まい。まして妻は歩くしか無く、最近はタクシーを呼んで通院しているのだ。それを思っても私は、「入院」より、何が起きようと「この家の中で」凌ぎたい。ダメなら、終えたい。這ってでなり機械ともせめて向き合い続けたい。
師走の冬至、八十七歳の誕生日が、この十月まで来て、易々とは迎えられるか、危ぶむ。幸いアタマは悪いなりに、この筆致なりに認知も認識も出来ている、但し、今は。実のところ、こんなふうに「書いている」のを頓服の薬用かと感じているのだが。疲れる…。

* 此の「私語」の日録を毎日のように一日先ヘまで「用意」しておくのは、今日で一切「済んで」了っては、なにかとアトが面倒と危ぶむから…、バカげているが。
2022 9/25

* 目覚めはしたが腹不穏のまま温めながら横になったま、校正など。何かしている方が不可いいから気を散ずることが出来、そしてやっともう十一時まえ、機械の前へ来た。「マ・ア」に鰹を遣って。さて、どう体違和を躱しながらすごすのか。佳いメールでも来ていると気が弾むだろうに、このところまた故障かと危ぶむほど、無音。
2022 9/26

* 『ラ・ロシュフコー箴言集』はふらんす革命の頃の高級貴族で軍人で文章家、その謂うところの「箴言」はかなり辛くね時にヘキエキする、が、「よう謂うよ」と脱帽もする。ローマ皇帝マルクス・アウレリゥスの『自省録』は、時代はるかに先立っているが傾聴、愛読してきた。
私の読書は、おもしろい小説、物語ならいい、というものでは、ない。いま、枕元に常備の{文庫本}5冊のうち、物語は『源氏物語』五四帖、全九冊、これはむしろ選ぶと謂うより殆ど手放したことがない。もう一つ『水滸伝』全十巻は、小説でも物語でも無い、中国での、日本で謂う「講談・講釈」なのである。豪傑の豪腕勢揃いでまことに面白く、『源氏物語』とは比較を絶したべつものであるかが、ともに愛読に値して古典に属する。
もう三冊の文庫本は、順序なく、ジャン・ジャック・ルソー『人間不平等起源論』 十九歳高橋貞樹の超絶の名著『被差別部落一千年史』 そしてニーチエのまこと狂気の真言といえよう『この人を見よ』 しみじみと愛読・耽読している。
他に小型版でと謂うなら和本、和字・和綴じの『史籍集覧 参考源平盛衰記』全五十冊の第八冊、清盛に嫌われ絶海の小島へ流された丹波康頼、少将成経、俊寛僧都らの悲嘆のサマを読み耽っている。この本は、異本異文集でもあり、同じ事績の様々をその場その場で聴かせてくれる。なにとも言えぬ貴重な本なのである。ポンと、仮名箱入りの全冊を、「コヘちゃんに上げまひょ、お読みやす」と、大学生の頃、ご近所の小父さんから頂戴したのである。手放さずに読み継いでとめど無い。

* 枕元へ今揃えて読んでいる単行小説の大冊は、なによりもドストエフスキー『悪霊』がどっしりと手にも重い。
他は、凡てが、秦の祖父鶴吉の遺して呉れた有難い明治期旧蔵本の中から、
東京博文館蔵版・従二位東久世通譆伯題辭・坪谷善四郎著『明治歴史』上下巻、維新前の日本史から表裏を尽くし活写し論究していて実に優れている。
併せて愛読中が、
大阪偉業館蔵版の漢文全書、梅崖山本憲講述『四書講義』上下巻
東京博文館蔵版の支那文学全書中の『史記列伝講義』上中下巻
大阪岡本偉業館蔵版 元 廬陵曽先之編次 日本 大谷留男先生訓點『十八史略』片仮名附  加えて
中世物語全集から 17巻『夢の通ひ路物語』上下巻
トールキン作『ホビットの冒険』
以上が、現今、毎日夜に少しずつ読み継ぎ愛読して已まない私の いわば日常。読んでいる間は病苦も疲労もやや忘れていられる、そしてアタマが混乱など決してしない。読み終えれば次からまた次へ、幸せなことに私の書庫には、多くを処分してまだ数百冊、文庫本も千冊に及んで、東と西の棟で出番を待ち受けてくれている。コロナの逼塞籠居にも耐えて来れているのは、「読む本」「読みたい本」が家に溢れているお蔭である、まちがいなく。
建日子は此の系の読み手では無い。私が居なくなれば、ま、文庫本のいくらかの他は「場所ふさぎ」棄てて了われるだろう。鶴吉「祖父」に「孫」恒平のあったような、そんな「孫」という存在に、ついに私は恵まれなかった、生涯の残念である。
2022 9/29

* この籠居逼塞の三年に、「読み・書き・読書」は私の暮らしでは必然として、もし他にテレビが無かったならどんなに鬱屈したであろう。ニユーズにはさして気は動かない私だが、「撮って置き」の、また新放映の「映画」や佳い「ドラマ」にどれほど心慰んだか、数え切れない。誰方にとは分かりませんが、アタマをさげ、感謝しておく。
京の新門前通り「ハタラジオ店」に、初めて「テレビジョン」が「商品」として入り、店頭で放映して見せたときの、文字通りに「山のような」人だかりの凄かったこと、怖いほどだったのを、昨晩のことのように覚えている。投手で監督若林、三塁藤村、外野に金田らがいた関西で大人気の「阪神タイガース」と、川上、青田、千葉ら強打者の居並んだ「巨人ジャイアンツ」とのナイトゲーム、また、空手チョツプ力道山のプロレス、大相撲など「放映」と知られて、店外へ向けて「見せる」と、店ヤウインドウが毀れやせぬかと、道路は人山で塞がれ、狭い店内にまで老若男女が犇めき充満したものだった。「時代が変わる」とあのとき、ありありと実感した。
2022 10/3

*坪谷善四郎の力作『明治歴史』の上巻は、井伊直弼やペリー来航の昔から、明治維新前夜の国情を実につまびらかに且つようりょうをおさえて丁寧に懇切に多くの文献や記録を引用しつつ詳細に解き明かして行く、じつに見事な論攷で有り史実の展開と彫琢を為し得ていてほとほと感じ入るが、維新の大業なり明治早々の五個条ご誓文にいたるまでの草創期国家大成の組上げ組立て職制と人材の配置等々の詳細をつぶさに明記していて呉れる。是までの明治維新への知識など、その詳細の①割にも遠く達していなかったと分かってほとほと「降参」の思いがしている。そして、うろ覚えながら私少年以来の感心にとどめていた人材の詳細を究めた政権への配置を見届けて、のけぞるほどに感じ入っている。ことに「大久保利通の遷都論の意義」の大いさなど、何ほども知らず関心もしてなかった事実の疎さに恥じ入ってしまう。
まだ上巻の半ば。下巻までを通して「明治」の意義を強かに、したたたかに、私は初めて教わることになる、胸が鳴るとは、これ。八十七歳になろうとして、私ほど「歴史」に重きを認め続けてきた読書人にして、かかる莫大に新鮮な知育にあずかるとは。まこと、最敬礼するほど祖父鶴吉「おじいちゃん」の知的遺産はすばらしい。感謝に堪えません。
2022 10/3

そんな夕食を挟んで、夕寝、晩寝して、十時に床を起った。すこし疲れからもちなおしたろうか。
寝入る前の読書は先ず、『悪霊』しかしまあなんと掴みづらいおはなしであることか、ただただ独り人の人柄や言葉や行為や、場面の対話や事変転変の謂うなら「ロシア」っぽさをに驚嘆しているばかり。それらはみな異様にしつこい執着力と此処の性格で書かれている、が、ハナシの流れはどんよりおもくるしくて、何を謂いたいかは無条件の共感でうけいれるしか無い、あらがえば、世界からはじき出されるだけ、か。
もう一冊、進んで手にとり読み耽るのが琉他に善四郎著の明治に書かれている詳細に徹底した、しかも筆致は確実に高揚した『明治歴史』の、幕末、維新前夜の波瀾万丈を越え来ての、まさに明治維新の新政体の具体的に精緻な証言、胸の鳴るほどの興趣と共感と感銘。こんなにも惹かれる書物とも思わずに書庫から持ち出したが、いま、一.二のまに「愛読」書。残念なことに、数百頁の「上巻」だが、古書と手、製本が崩れきて、頁を繰るごとに本がほどけて行く。ま、それもそれほどの古書故といとおしみ大事に読んでいる。まだ「上巻の半ば。いまから「下巻」にも期待が湧いて軽く興奮気味。日本の「歴史書」には『古事記』『日本書紀』このかた数々、じつに数々読んできたが此の『明治歴史』の充実感と精緻に正確なことには驚嘆している.鶴吉祖父の旧蔵。おじいちゃん、ありがとう。もう八十七歳になろうというこの孫は、そもわが子や孫に何が遺してやれるのかとおもうと、「貧寒」ただ恥じ入る。
2022 10/5

* いまも保ちきれぬまま正午を挟んで二時前まで寝入っていた。妻の従弟の濱敏夫さんから届いた葉書が、名にしおう大観の富士、もう蒙の白雲から突と顕れた黒い霊峰富士の頂容、素晴らしいのに見入って、俯きがちな思いを励ましている。佳いものは佳いなあとと嬉しい。

* それにしても、なんと苦痛にけだるく力無いのだろう、夕食のすきやきも一片として食せなかった。青い紙に▼に包んだチース片を一つだけ食した。甘酒を少量呈されたが、吐き気がした。いま、七時過ぎ。せめて、ぐっすり寝入りたい。横になり、せめての「読書」だけがクスリめいて効く、か。
井口さんに返信したいが原稿用紙に手書きの根気がない。
「ホンヤラ堂」が写真集を。小さい頃の「恒」「猛」そして「北澤の兄の顔」も出ていたが。兄も、甥の猛までもすでに「自死して」此の世にいない。「そっちから、呼ばないで呉れよ もーいいかい などと」「まあだだよ」「まあだだよ」 だが、なんという疲労困憊の「グタグタ」か。
2022 10/8

〇 みづうみ、お元気ですか。
昨日、159巻を無事に頂戴いたしました。ありがとうございます。毎回頂戴するばかりで、本当によろしいのでしょうか。申しわけない気持ちです。『花筐』読みたかったのです。繰り返し読むことで少しでもご恩返しになるとよいのですが。
たまたま、みづうみの「九月の私語」のなかで、ご自宅の大量の荷物等をどうするかという話題を拝読。
家財処分で全部廃棄などは絶対おやめくださいますように。
これは身勝手な読者わたくしの提案ですが、将来、建日子さんに、ご自宅を「秦恒平」文学館・文学資料館として保存、活用していただきたいと思います。
書斎もそのまま、蔵書も、可能なかぎりそのままです。本に埋もれてつぶれそうなお部屋があるとしたら、本好きはアドレナリン全開で胸がキュンとします。
谷崎松子夫人の見事な巻紙のお手紙なども是非展示していただきたいと思いますし(管理が大変と思われましたら、近代文学館に寄贈なさるという方法も。文学史的価値ある資料でございましょう)。
もし「湖の本」にまだ在庫などございましたら、来館者にも販売する場所にしていただけると嬉しいです。
大真面目に実現を願っていますので、どうかお笑いになりませんように。
急に肌寒くなりましたが、身体がまだ暑さの記憶を残していますので変な調子です。お風邪など召されませんように。 秋は ゆふぐれ

* わが家は、家屋にして「二軒」が左右に繋がっていて、隣家を買い取った西の家の階下は「湖の本」在庫で埋もれている。二階は使用しないでいる。是を取り毀し、現状をほぼ遺したままの東の家に西の家を繋ぐように簡素で堅固な洋風の建物が建たないかと、夢は観ていた。上記メールでの提案にほぼ一致している、但し建日子に任せられるかどうか。ありたけの蓄えをはたいても、これは私生涯の仕上げと思ってきたが、この今にも千切れそうな生命力・不健康ではと、残念至極。設計なら、東工大建築出の現役バリバリが力を貸してくれるだろうに、時機、既に遅いか。
2022 10/9

* ここの家二軒を繋いで 私のモノやモチモノの整備と所蔵に宛てたいという意向を妻にも建日子にも漏らしてあるが、現状「無視・無反応」 予期の通り。
2022 10/10

* 午までに、と、危ぶみながら妻と郵便局へ、其処から、タクシーで駅前の銀行へ。妻が家計の通帳へ三年分に余るだろう金額を移しておいた。私自身が、いつ、どうなっても当座妻も私も安心していられるように。あとは建日子に依頼する。
疲れはしたけれど、往き帰りにタクシーを使ってかえってこれた。
2022 10/11

* 書庫に入って座り込み、かなりな時間、本を並べ替えていた。読んで欲しいという声が鳴り響くよう。ごめんごめん。そんな中から坪谷善四郎著『明治歴史』下巻を手に持って,出た。文久二年(1862)生まれ。東京専門学校(現・早稲田大学)政治科に学びながら博文館に入社、編集局長を経て、取締役、著名な雑誌「太陽」を創刊初代の主筆,編集主幹、世辞かとして東京市会議員7期、東京市立図書館(現・日比谷図書館)を建設に尽くし、日本図書館協会会長という「実力」の人の主著のひとつが、この大著上下巻の『明治歴史』で、私はかなりに歴史書には触れてきたが此の博文館蔵版坪谷善四郎の『明治歴史』は、感嘆、第一級の名著にして充実と謂わねばならぬ。祖父鶴吉旧蔵遺産のなかでもこの書に出会えたのは、まことに有難かった。著者にも祖父にも敬意を惜しまない。
2022 10/12

* 家の内・外の「直し」仕事に職人が入っていて、「ま・あ」ずがヘキエキしている。
2022 10/12

* 一昨日來、二階隣室の「天井」養生に職人が入って作業、やはり落ち着かない。午を挟んで、妻と戰闘映画のめいひん、四時間近くもの映画『ライアン』を観た。まず三度目ほどであろう、歩兵の戰闘映像としては抜群の迫力と哀しみに面満ちた静かな感動感銘、共感すらも。
2022 10/13

* ピアノのある二階隣室(子供部屋というていたが、今は妻が用い、他に繪や茶道具や本など、諸々の物置場)「天井の養生」工事は今日で終えるだろう。工事のめ多くが廊下に出され、私ひとりの通行が真横向きに背と腹ですり抜けているありさま。

* ねむけか微かにのこっている。ボーゼン、独り機械の前に温かにして腰掛け、ピアノを聴いている。
2022 10/14

* 午過ぎて。 二階一室の天井張替工事も無事終えた。ヤカマシイい雨樋からの雨漏りも防げた。やれやれ。
2022 10/14

* 機械のある二階で、ひとしきり用がある。「マ・ア」ズはお行儀よく倚子の足もとで待っている。「削り鰹」を嬉しそうに食して、階下へ、今度はカーサンを起こしに行く、これは難儀。彼ら定時の朝食は、正八時。
2022 10/15

* 坪谷善四郎の大著『明治歴史』の上巻・
第一編「維新前期 従米艦来航至政権返上」ほぼ300頁
維新の革命は開闢以来の大革新なり
維新革命の原因
我国の革命を促したる外国の形勢
嘉永癸丑米国使節の來朝
幕府外交談判の失擧
修交条約の締結、米使登営
養君治定並に井伊直弼の性行
安静戊午の大獄
井伊直弼の横死並に水戸烈公の性行
安藤對馬守の施政
薩長両藩の動静
勅使東下の始末
勅使再度の東下将軍上洛
長藩攘夷の開始並に英艦鹿児嶋襲撃
廟議變更七卿西竄始末
将軍再度の上洛
長藩の陳情
水戸藩の内訌
長藩士禁闕に砲撃す
四国連合軍下ノ關砲撃
長州征伐
外国軍艦兵庫入津、将軍辭表を呈す
薩長の秘密同盟
長藩處分長人梗命
長州再征討幕軍敗刔将軍薨去
幕吏郡縣制施行を謀り英佛二國日本を賭せんとす
一橋慶喜將軍宣下並に主上崩御
將軍慶喜の施政
倒幕密勅始末
三條岩倉兩公の合躰
大政返上始末
政権返上後關東に於ける諸藩の意見

* 第一編に、是だけの目次が出てある。これら本文は、もう読み終えて莫大に学んだ。

第二編「維新實記 従維新大號令発布 至外国公使始朝見」
王政維新の大號令
長藩兵士上京始末
徳川内府下阪の事情
徳川内府辭官納地の始末
幕府江戸の薩摩藩邸を襲撃す
伏見鳥羽戰争始末
大に政躰を更革す
維新當初の財政始末
諸外國公使の参朝並に癸丑以來の外交始末
維新に伴ふ宗教の變革

* ほぼ150頁、上の第二編を読み終えたところ。以下「上巻」の第参編「維新後記 」ほぼ120頁ほどへ読み継いで行く。

第二編「維新實記 従王師東征至廃藩置県」
王師東征、江戸城の軍議
徳川慶喜恭順罪を待つ
王師江戸城を攻む
上の戰争始末
東北戰争始末
箱館戦争始末
版籍奉還始末
諸藩石高並知事家禄表
廃藩置県始末

* 実に精緻に正確な記録・文書を収攬しつつ卓越の見識は「説得」の力と妙とに富んで,頗る歴史が面白く、かつ詳細に亘っていて興味津々尽きない。
さらにこれへ『下巻』が続いて、總千百頁を超えている。得も謂われない感動と教訓とに充ち満ちている。もっとも識りたい一つの「明治・前半史」が此処にある。祖父「鶴吉」遺産旧蔵諸本の中に実在している。感謝感謝。
2022 10/16

* 寝起きて、空腹を感じていた。ちいさなパンを持って二階へきたが、機械に向いている内に「マ・ア」ズに囓られていた。ま、いいか。
2022 10/22

* 大相撲十一月場所はあす始まるか、もう一週間あとだろうが、妻と何度か、四人桟敷を二人で、時に「客一人」を招いて出向いたが、久しくなった。狭い我が家はなぜか、いやワケあって「お相撲さん」たちで溢れている。根本の理由は「ま・あ」兄弟の前、愛おしかった「黒いマーゴ」からかとも思うけれど、総じて我が家にありとある障子や襖を壊滅じょうたいにしたのは「ま・あ」君らに相違なく、その暴虐無惨を隠すには何かしら貼らねばならない、その貼り紙に「大相撲のカレンダー」用済みの写真が利用される。大横綱白鵬席のみごとな土俵入り写真もあれば、平幕理端全員の並んだのもあり、それも此処何年分もの用済みカレンダー写真が「破れ隠し」の貼り紙に愛用されている。相撲茶屋の呼び出し「タケ」ちゃんと、自然といつからか懇意になっていること、更にはまったく理由も覚えぬまま幕内「照強」關からも毎年カレンダーを頂戴していのだ、世の中は不思議に温かにも出来ている。むろん「根」に夫婦二人ともお相撲好きにある。本場所の「桟敷」を不祟りで閉めるあの大らかな快さったら、無いのである。
領国までの往復、西武線、山手線、総武線の乗り物を思うと居間はとてもとてもと尻ごみしているが、それでも私はもう一度と希望している。帰りの満員電車が大変なら、ハネたあと両国のあの辺で一泊してくるのはどうか、などと考えはじめている。「タケ」ちゃんの智恵、借りられないかナ。本気を謂うと、實は何部屋であれ何処かで一度「稽古場の稽古」も観てみたいなあ。
2022 11/5

* また一冊、秦埜祖父鶴吉遺贈の『漢文学講義 第二 詩経講義』 東京 興文社蔵版明治三十年十一月五日発行 林英吉講義 を手に執っている。「詩」一時の中国の原義に触れることになろう。「詩」一字一語が久しく私は苦手だった、明瞭に字義を理会し侘びてきた。有難い。いま手に触れてやはり祖父蔵書であった『四書講義 上巻』 また坪谷善四郎著の『明治歴史 上巻』が在る。日々に「必要」の重いと傾倒とで読み進めている。
我からは口もきけない沈黙がちにこわい「お祖父ちゃん」であったが、数えれば百に余るほどの貴重な「明治本」や大事典 大辞典 それに唐詩撰、漢詩撰の何種類もをあたかも倭宅のために遺して呉れたのだ、ご恩莫大と謂うにも過ぎている。感謝感謝。
2022 11/5

* 朝五時前に目覚め、すこし惑ったが、起きて二階へ。「マ・ア」もきっといつも着いてくる、「鰹・ちょうだい」と。
2022 11/8

* 明治二十六年二月の発兌、三十年四月「三版」の坪谷善四郎著『明治歴史』上巻580頁を読了。井伊直弼の討たれ、ペリーの来航等々を経て、慶応三年將軍慶喜の「大政奉還」、明けて明治二年の「版籍奉還」、四年七月十四日全国の「廃藩置県」で、明治維新の差し詰めの大改革は、かくて成った。
字義通りに、莫大に教わった。有難い大著で有難い學恩であった。
すぐ下巻に転じる。秦の祖父鶴吉おじいちゃん、良い本をたさん、ありがとう、心より、。
2022 11/11

〇 お元気ですか? 先のメールでお酒は召し上がらないとのこと、大好きだったお酒が飲めないのはつらく残念でもあり、お身体がアルコールを望まないかとも、お寂しいと察します。
選集の『雲居寺跡』を読み進めています。218ページの「星夜空を衝くあの一本」と書かれた個所では雲竜院の庭で見た落雷した老立木を連想しました。九条頼嗣などそのつど辞書など調べて読んでいるとなかなか・・この著述を鴉は早い時期に書き、世界を構築されている!!!
菊谷・菊渓の地名も懐かしく読みました。昨夜ちょうど後白河法皇の番組を見ました。
清閑寺あたりから将軍塚、蹴上へ、比叡への足取りも改めて意識しました。京都トレイルの道も思い起こされます。
一週間後、シンガポールから四年ぶりに娘一家がやってきます。11月下旬から「冬休み」に入り新学期が一月、日本の正月元旦から始まります。学校では英語、中国語の授業なので日本語が殆ど話せなくなった孫たちにひたすら日本語を話すよう頼まれています。
今日からさまざまな準備を始めました。が、さて8人の食事やら 些か大変、娘たちはそれぞれに仕事があるので・・。わたしも幾らか年齢を意識しています、どこまで頑張れるかなと少し気に懸かっています。五週間の滞在です。
昨日、地球の人口が80億人に達したと。アフリカなど飢餓線上に生きている人たちの事、ウクライナのように戦争に苦しんでいる人たちの事、常に意識して暮らしています。
冬に向かう時期、オミクロン感染増加のニュース、とにかくお身体大切に大切に。
長いメールが書けなくてごめんなさい。  尾張の鳶

* 佳いメールが読めて良かった。このところメールも誰からも無く。ポツンとした気分だったが。ありがとう。羨ましいほどの賑やかさようで。
我が家は、読者の皆さんとの交流在って幸い生きのびている。それがなかったら、老夫婦とネコちゃんず、だけの、ひっそり閑。朝日子も建日子も、愛しい「孫」を「呉れない」仕舞い。寂しい。今日も、妻は、静岡市の女性読者と楽しそうに長電話していた。一度家へも見えたことのある、久しい人。
わたしは電話で楽しむというヘキが無い、向こうサンがご迷惑だろうと遠慮もするし、シャベリ下手。

* サ。階下へ。明日の労働のためにも、寝床へ。
2022 11/18

◎ 【お知らせ】吉岡家主屋(=実父吉岡恒の生家。恒平も実父母を識らぬまま数歳まで預けられていた。)が、登録有形文化財となるそうです 南山城 岩田孝一・従弟
〇 to: 秦恒平 様
ご無沙汰しております 山城の岩田孝一です お元気でしょうか 「湖の本」新刊送っていただいてますこと ありがとうございます。
昨日の 文化庁の文化審議会の答申で
https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/93791601.html
https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/93791601_03.pdf
当尾の吉岡家主屋が
建築物 基準2 で登録されるよう答申がなされました
お知らせまで
また コーヒー豆送らせて貰います
追伸
昨年 内藤湖南の終焉の地である恭仁山荘のある木津川市内の 内藤湖南先生顕彰会の事務局を引き受けたのですが、
現在の関西大学恭仁山荘の周りの様子を確認しに行って 秦テルヲの作品の何点かが恭仁山荘のすぐ近くから見える情景を画いたものであること、一点には恭仁山荘の書庫であった白壁の蔵が画かれていた事に気づいて、過日 (今日・三條粟田口=)星野画廊を訪れた際に星野桂三氏にその地点の風景の写真を報告、過去の図録と突き合わせ
「これは間違いない、今もあるんやな」
と 喜んでいただけました。

* 当尾の実父生家、恒平祖父母の本家 の写真を一葉持っている。長い高い石垣が立派。幼い日の印象も比較的はっきり残っている。もう亡い叔父(父の異母弟)の家族が今は暮らしているはず、一度だけ叔父叔母存生の昔に訪れたことがある。文化財と言えば、ま、文化財らしい邸宅とは謂えよう。もう、とてもとても再訪はあるまい。
孝一君は比較的近くに暮らしていて、コーヒー豆の専門家。
2022 11/19

* すこし元気の無かった「アコ」が、鰹の利きか、恢復。安堵。
2022 11/24

* 午前であったか午後か、足を速めて寒さが加わるに備え、西棟二階から妻とまさしく「協力」して超重たいパネルヒーターを階段一段ずつ懸命におろし。玄関外の路上へだして、東母屋の玄関から、辛うじて廊下へまで持ち上げた。やるもんだ。だが一つしくじれば大けがに成る作業だった。
2022 12/4

* 赤飯と、近藤聰さんに戴いた「杉並木」という大吟醸純米酒を、妻は朱盃で、私は井口哲郎さんに戴いて好きな、干支のイノシシを綺麗に描いた加賀の名盃で、一献ずつ祝い合う。
六十五年前、夕ちかく、真如洞の宏大な山坂墓地を一緒あちこちしていて、付けた見事な黄葉のまだ生き生き美しい一枝を戴いて新門前の家に帰り、裏の茶室に湯を立て、大きな水盤に清水を張り、持ち帰った冴え冴えと黄葉みごとな一枝を横たえた。炉端に盤を置いて、わたしが茶を点て、妻は一亭一客の席にいた。
茶のあと、求婚し、即、容れられた。美味い茶、佳い釜の鳴りであった。半間の床には十四世裏千家家元揮毫の軸『語是心苗』四文字が架けてあった。
2022 12/10

* 聖路加病院しきトコロでなんだかタンカをきってるような珍な夢を見てたらしいが安穏裡にまた寝入って忘れた。夜中の手洗いへは三度で済んだ。「マ・ア」はう鰹を貰って、階下へ。私の朝が始まる。体重の藻度が慥か。食欲の戻りと同調している。
2022 12/11

* 当尾の、(固有名詞の「忘れ」早さは凄いほど。認知低下を痛感させる。)コーイチ君から珈琲豆を沢山戴いた。
副えて、「國の有形文化財に指定」されたという本家吉岡邸写真(実父吉岡恒の生家。私も極く幼少來「両親非在」のまま預けられていて、此処から京都の秦家へ「もらひ子」に出されている。秦の母が受け取りに来た日を、かすかに少しく記憶している。)の大きに綺麗な数枚も色々と送られてきた。ふえーッとびっくりの大邸宅が高い石垣に囲われて田園のお城のよう。存在地に託して謂うんら城の名は、南山城とでも。
べつに、表裏して「奈良笠置歴史自然歩道マップ」が二枚も。この欄外の注意が、霞んだ目で読んで、怖い。絵馬でちっちゃく副えて、「道が荒れている時は引き返しましょう。ルート指定されていても点線(茶)の道は荒れていることがあります。」「マムシ、マダニ、ヤマビルに注意 ! 夏期は(5-10月)は、殊に長袖、長ズボン、上下スポーツタイツ水晶」とシロヌキのマムシ、マダニが漫画風に。怖や。が、視力さえあればこの写真地図は観て楽しめそう。
その余に、コレが眼目と謂うべきだろうが、吉岡菩提寺とも聞いた「浄瑠璃寺来年の一枚カレンダー」に「住職拝」とあり、
「今回のカレンダー」は 九体阿弥陀仏の中尊像の胎内に納められていて 明治期の修理の際にとりだされたとされている仏像(阿弥陀仏)版画です。
十二体一版の印仏(押す形式)と 百体一版の刷仏(刷る形式)があります。また年号の判る仏像版画で日本最古(長治二=一一〇五)とされています。
多くの人々が版画という形で阿弥陀さまの制作に関わったのだろうと推察しています。 浄瑠璃寺 住職  拝

* 深く 感謝 感謝。  父についても母についても 為せるまま書き成し終えていて、いまは、関わって何に拘泥も残していない。
2022 12/11

* 耐えがたいほど濃密に重たい「憂鬱」が私を多年とらえて放さない。ひろい世間からその憂鬱な重たい霧が、いま此の家に割り込んでくるのでは無い。家には今、妻と私と(マ・ア)しかいないし、望みうる最良の「家庭」を成している。
しかし、私の人生をここ三、四十年と顧みて、「夫婦」ならぬ、「家族」からみて、とてもとても平安で幸福とはいえない「不幸せな憂鬱」を抱き込んでいる。
最愛の、聡明にして心温かな初孫「やす香」は二十歳を待たず死し、眞実愛育した娘朝日子と今独りの孫「みゆ希」とは、父母・祖父母に冷たく背いて、母・祖母の「病状のあわや」危ないと報せたときも、声一つ無く「拒んで」病院へも来なかった。妻の實の「思い・胸の内」は聴いてない、語りもしないが、今、わたくしがこのまま果てたとして、唯一果たせなかった「残念の望み」は、血を分けた「曾孫」の「ただ一人」をも抱いてやれず逝くことだ。孫の「押村みゆ希」に可能性はあろう、が、氷のように冷えた「空気」は温まるまい。
息子建日子からの「曾孫」は。どう望んでも、それが私たちの過剰な望みであるわけはない、が、建日子には戸籍上の妻がなく(無いらしく)、日常には不可欠らしい久しい内縁の「人」のみあり、もう出産は不可能な年齢。この「人」、病院へ一二度の見舞いの他は、吾々保谷の家庭に、正月「年賀の雑煮と初詣で」に、また他にも建日子と連れて時に車で訪れる以外には、老妻の手伝いを含め、一度として記憶が無い。かと雖も、建日子がまるまる「他所」で「私たち両親の曾孫」を生産などしては来れない。

* なんという薄い淡い「血縁」に、私は生まれながら見放されてきたか。
「夫妻」で無かった實の父と母とに生まれ、共に無縁の他家に育てられた「實兄」は、世間へ出て活躍していながら、五十にして自死し、「甥」の一人も、若くしてはるかなウイーンで自死したという。
もう一週間と待たず満八十七歳になる私は、もとより「自死天上」を望んでいない、が、満たされた幸福を心合わせて共有できずそれぞれ天外に果てた「実父吉岡恒、生母阿部ふく」のためにも、二人の血をついだ子孫の一人、私たち夫婦には「曾孫」の「便り」を携えて逝きたいとは思い続けてきた。
もし私、字義どおり「活そして躍」の生涯に「満たされない失望」があったとせよ、それは上記一事の濃密な「憂鬱」一つであると「明記」しておく。
どう払いようもなく「憂鬱」である。
2022 12/15

* 毎朝、って「マ・ア」ズが、機の足もとへアイサツにくる。ことに「アコ」は膝に手を掛け伸び上がって鼻と鼻のキスを儀式のようにして行く。「マコ」は元気。有難し。 2022 12/18

* 頂戴しているお酒で乾杯し、赤飯を祝う。はるばると歩いて来た。
這ったのでも駆けたのでもない。歩いて来た。並んで歩いていた筈のあまりに大勢の姿が、もう、ない。そして「まあだだかい」とも聞こえる。小声で、「まあだだよ」と返事している。「まあだだよ」

* 八十七歳の朝を、妻と、祝った。赤飯。そして小滝さんに頂いていた「松竹梅」特別大吟醸酒での乾盃がじつに美味かった。妻のいもうと、琉っちゃんからのお祝いも、一入嬉しく。
2022 12/21

* 妻の妹の琉っちゃんから、手編みの襟巻きや、誕生日ワイの手紙を貰う。有難う。会いたいがなあ。

〇 あにうえ様 今日は87歳のお誕生日おめでとうございます! 良いお天気で、ポストまで行かれたとのこと、ほっとしています。いつも頑張っておられて、もう87歳になられたなんて改めて驚いてしまいます。
冬のお誕生日、私はあにうえ様のお母様のことを思いました。あの人形のお歌、「フランネルに…」で始まる短歌、母の悲しみが深く私の心に残っています。
メールも有り難うございました。お言葉に胸打たれました。「いもうとよ/病むなかれ/転ぶなかれ/胸の内でも/いつも好きな歌を唄いたまえ/こうへい あに」
私もいつも歌を忘れず、明日を創れる人間でありたいと頑張っていきたいと強く思いました。
どうぞくれぐれもお体大切に、87歳の一年も素晴らしい年を創って下さいね。
るみ いもうとより
2022 12/21

* こまぎれに寝ては夢見て起きて手洗いに。邪魔くさくなり、四時に床を出て二階へ。

* なんという此の六畳間の賑やかさ、にぎやかさ、狭苦しさ。
沢口靖子の写真が8枚。障子の破れ隠しに、大相撲のカレンダーから切り出した白鵬、照ノ富士らお相撲さんたちが5枚、絵画・書跡等の美術系が大小20点ほど、家族や知人の写真が大小13枚、大きな京都市街地図が2枚、むろん書架にも机にも大小の書跡が、「選集」「全集」「辞典・事典」等々優に300冊以上、そして、さまざま、いろいろの必要品・飾り・投げだしの小モノ等々、数え切れない。機械に類する物も当然に、6機。
とても「雅」でない、雑多な音響の中に塗れているよう。
「わがものと思へば軽し笠の雪」 此の部屋でこそ、私は落ち着く。
2022 12/23

* よく想えば、落ち着いて安堵の息のつける歳末でなかろうか。これでいいのかと想うほど目前の難題も不始末も無い。つかれてはいるが、これは、老耄の平常と謂うまで。
穏和に歳をこしたい、そう願ながら、すべきをして、明日歳末を、あさって正月新年を迎えたい。
コロナを案じて、かつて無かった、新年の雑煮をたけひこたちと祝えない。あえて,仕方なしと諦めて、それよりも無事を祈り願うのみ。妻と二人だけでのお正月、想えば東京へ来た明くる年、まだ朝日子の生まれる前の春だけか、いやいや、あの年も新門前へ帰っての両親や叔母と一緒のお雑煮だったろう。と、全く初めての二人だけのお正月になるか。ただただ誰も皆の無事安堵の春を祝いたし。
2022 12/30

〇 カーサンいてタケヒコがいて「マ・ア」ズいて 天地神明 幸せであるよ
2022 12/31

* もう八時、夕飯後、寝潰れていた。
暮れとも正月とも、過ぎゆき迎える,それだけをそのままに見送り、待つばかり。特別に並べ立てたい感慨無く、普段のまま。願わくは,願わくは、平和に。普通に、そしてなんとか健康に、迪子も建日子も、朝日子も、そして「ま・あ」ズも。成ろうなら,、私も。

* 大晦日。「ツアラトゥストラ」に聴いて、歳を送る。
2022 12/31

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