ぜんぶ秦恒平文学の話

心について 2007年~2008年

 

 

* 難儀な「検討」を夢の中でせっせと繰り返していた。「議論」でもあったし「反省」とも言えたが、いま再現することはできない。覚えていない。

 

* わたしは「批評」という行為が人間日常のありようであると、朧ろにであるが学生時分からほぼ信じていた。思考・志向も行為も、自ずと外へ働き、その働き方は、割切って云えば多くの場合、いや殆ど総ての場合、「分割しておいて選択する」という順序でなされる。パンか飯か、食うか喰わないか。飯にしよう。あいつかこいつか。あれかこれかそれか。あいつにしよう。それにしよう。

事の大小にかかわらず人はそのように「物、事、人」の状況をまず「分別=認識」し「選択=判断」している。これがいわゆる「批評」行為であることは、明らか。

四六時中、このように、何をする、何をしない、何を取る、何を取らない、どうする・こうする・そうすると「分別」して「選択」している。選択の推力が、思考であったり欲望であったりセンスであったりするが、基本形は同じだ。人は批評しながら生きている。批評は大事だ、そしてすぐれた批評もドジな批評もある。

ま、ながいあいだ、わたしは「批評」の信奉者で「批評的に思考」することを自身に許容、いや要請していた。つまり「マインド」という名の「心」派人間だった。

だがわたしの仕事が証明するように、わたしはその「心=マインド=分別」への疑念や不審や不信を軸に、いわば「自己批評」を重ねてきた。

「心は頼れるか」「心は頼れない」「心は不安の根源」だと。

そして「静かな心=無心」を願うようになり、最大最深の批評でありげな「抱き柱」への依拠を放棄しようとしてきた。「抱き柱は要らない」と云ってきた。どんな抱き柱にしがみつき、縋り付くかは、人それぞれの何より深い意味の選択だろうが、その選択がつまり分別の最たるものであり、しかし、それでは実はほんものの安心や無心はえられないだろう、ようするに単に「選択の結果」にしがみつくに過ぎないのだから、と感じてきた。

 

* イギリス人はいまでも国教、カソリック、新教のいろんな分派の存在で国を成しながら、いずまいわるくお互いに身じろぎしているし、国外からはそれゆえのテロ行為にもさらされたりしている。中東では現に見ているような「宗教」というよりしがみつく「抱き柱」としての「神」のありようを理由に、悲惨な生死劇がむちゃくちゃに繰り返されている。最高で最深であると信じている「抱き柱」の選択そのものが理由での「不幸と悲惨」が、おそらくこのまま行けばほぼ永遠に繰り返されるのだろう。分別する「心」の批評性の悲劇である。誰かにゼッタイに正しいはずの選択と抱き柱とが、他の誰かには悪魔の所業になる。「選ぶ」からそうなる。選んでしがみつくから、そうなる。

「分別」という、いかにも賢そうな「心=マインド」の愚痴がこれらを招いている。

 

* わたしたちは、「心、言葉」を過信した悲劇を日常的に目のあたりにしている。自身の内側に眼をむけるつど、なにより危ないのは「思考過信の選択とその固執」だと気づくようになってきた。批評の信奉者として生きていることの「暢気な自己肯定」を危惧するようになった。そんな批評も選択も、生死の大事には厄介な躓きになるだけ、難儀になるだけだとかろうじて気づいてきた。

二言目に「心」を持ち出す知識人や宗教者にであうつど、わたしは眉にツバをつける。

 

* ああ、今はこの辺にしておく。

2007 1・24 64

 

☆ 心の評価   昴

「道徳」の時間が「徳育」という時間になるかもしれない。

今まで「教科外」だった道徳の時間と違って、徳育という時間は「教科内の授業」になるらしい。

ということは、授業時間「以外」の子どもの生活態度をも見て評価(○△×)していた道徳的行動の部分は、「授業の中だけで」見ればいいということだな。

ということは、授業中教師が「ごみはゴミ箱に必ず入れましょう」と言ったことに対して、「ゴミ箱に必ず入れなくてもいいじゃないですか」と発言し、放課後、廊下のごみを拾ってゴミ箱に入れているような、なんでも反発したがる思春期の子どもの心を、「授業の中だけで評価」すればいいんだな。しかも五段階で。

それでいいなら、いくらでもやってやるよ!

……ではないんだろうけど、極端なことを言えば、そういうことなんじゃない?

思春期の子どもの心は複雑だわ。厳密に評価なんてできないよ。

 

* 誰が誰に対して「心の評価」などできるものか。

自分自身の「心」に謙虚で謙遜でない者に、他人の「心」を支配目的で評価されてはたまらない。心ほど頼りにならないものは無い、だから心とは大切に付き合うしかないんですとだけ教えて欲しい。

そもそもいまの日本に、空洞化したむかしむかしからの儒教道徳を半端に強いるなど、アナクロも甚だしい。政治家のだれがどれほど儒学に触れているというのか。漢字すらまともに多くは読めない連中が国会に集まっている。代議士の顔をみれば、大方は、知性も感性も胴欲に摩り切った、だるい表情で脂ぎっている。そういう人たちが「教育」をさわり放題にいじくりまわして、手あか・手あぶらで汚してくれる。きちんとした国語を先生が立派につかい、ほんとうにすぐれた美と藝術とにちいさいときから多く触れあう機会をつくってあげるよう願いたい。「徳育」などと謂うから間違う。わたしの『日本を読む』の巻頭の一文字は、「徳」です、関係者は読んで欲しい。

2007 4・2 67

 

 

* 鈴木大拙の角川文庫『無心ということ』を音読していて、さすがにバグワンの話と符合することの豊かさ、嬉しくなる。大拙さんは禅人であり、しかし念仏の妙好人にも理解の深い世界的に著名な深い深い境地の宗教者であった。

その大拙さんが、宗教の極地は「畢竟浄の受容性」にあるというのは当然至極で、バグワンも常にそれを「女性性」に喩えている。帰依とか、バグワン独特の語彙でいえば「降参」や「明け渡し」などもそうだ。

我=エゴを完全に落とせずに無心とか空とかは、ありえない。努力したり、自意識で強いたり、理に落ちれば、無用の知識も割り込んできて、「本性清浄の受容」のあり得るわけがない。宗教性にふれるもっとも基本の理解は、これ。

バグワンはそういう我執=エゴの根底を「心」と睨んで徹底批判するが、大拙さんも、アッシジの聖フランシスの言葉をかりながら、「今のキリスト教者(= 宗教者)はみんな<心>がありすぎて困る」と言い、この先はわれわれへの出題のように読めばいいが、「死人のように、死んだ人のように、死骸のようにならないと駄目だ」と。

「死骸になれば、どこかにもって行って、立てておけばそのままに立っている。しかし推し倒せばまたそのまま倒れる、そのままになっている。人が何を言っても怒りもしない、笑いもしない」と。

また聖ロヨラの言葉を借りてこうも話している。「今、神様が出て来て、そこの海辺にある、櫂もない帆もない捨小舟、それに乗って大海に出よと命ぜられるなら、即座に出てゆく。なんら躊躇することをしない。後は神のままにされて動く、波間に沈むなら沈む、大洋に浮かび出るなら浮かび出る、どこへどうなるかわからぬが、それでよいというのです。宗教生活にはそういうところがあるのです」と。

「ところが、困るのは人間には分別意識(心)というものがある。知識というものがある、そうして何かにつけて理屈をつけたがる、そこから始末におえぬということが出て来る。」「宗教には、何のかんのと、理論はこうだとか、論理はそうでないとか、そういうことを言わぬところがあるのです」と。

 

* カソリックの教会が歴史的にやってきた教義の穿鑿や儀式化が、みな、それだ。南都の仏教も、天台・真言も、念仏ですらも同じようなことをやってきた。

バグワンはいかなる宗教宗派にも属さず、ひろく見渡してかつ端的に宗教性を抱いた人間の深い安心と無心とを語り続けてきた。わたしはただただ聴き続けてきた。あたりまえな話だが、大拙さんもしかり、優れた達者・覚者は、究極するところ同じ境地にいておなじ理解を語ってくれる。そう分かってくる嬉しさは喩えようもない。

 

* 五木寛之氏がテレビで「林住期」について話していた。

この仏教徒の生活観や修行段階のことは、山折哲雄さんなどしきりに解説・啓蒙し、自身実践さえしたいふうに言われていた。

五木氏の思いは、しかし、山折さんのいわば生硬な「直訳」より、よほど柔軟に「意訳」にちかい『林住期』のようで、その点わたしの思いに遠くない。

この日本国の現況下、「林住期」の直訳的境涯など、言うはやすくも、行なって実のともなうわけがない。五木氏のテレビでインタビューされていた限りで聴けば、同感するところが多い。部分的にうち重なる実践部分もむしろ少なくない。

むろん我々は五木夫妻のようには別々に生きていないけれど、男女の友情は老夫妻にこそありうるという理解はほぼ共にしているし、仕事の多産という点でも、方面も意思もずいぶんことなるけれども、豊穣感はじつは六十以前よりもむしろいまの生活にある。ここへ達するための五十年六十年を生きてきたという実感があり、それがわれわれの「林住期」であり、現実に山林に分けいって暮らすなどはアナクロニズムに過ぎない。バグワンが、よく、ヒマラヤに入って行く行者のエゴと俗とを嗤っている。「無心」は、「静かな心」は、街にあり市にあって、しかも得られる。五木氏は林住期をあっさりと年齢・老境に即して言われているようで、それにもわたしは共感した。

また人間関係を年賀状の枚数にたとえながら、死ぬときは一枚もこなくていい、少しずつ少しずつ減らしていきたいと五木氏は話していたのも、分かる。世間と他人とはどっちみち老境の進むに伴い遠のいて行くし、それでよい。

ま、わたくしの謂う意味の「身内」として誰がわたしの臨終にまでのこるのか、五木氏のようにひとりもなくて良いとは思っていない。ただ必然に減って行くものと思って、黙へ黙へと沈みゆくだけ。

2007 4・11 67

 

 

* 大拙さんとバグワンとをあわせ読んでいると、覚者の「覚」たるゆえんがレンズの焦点を一つに結ぶかのように、みごと重なり合うから感動する。ことばは異なってもまったく同じことが話されている。

もし異なる点を謂うなら、大拙は宗教を語って「信」を口にしている。講演の聴衆が主として真宗の僧侶たちらしいからそれが話題になるのだろう。

バグワンは宗教性をたいせつに語るが、めったに「信」の一字に言い及ばない。無や空を謂いつつ、大拙のいわゆる「本性清浄」を話してくれる。何かを信じて救われようと謂うところからバグワンは離れているし、たぶん禅人である大拙もそうだろうと推測できる。わたしの言葉でいえば「抱き柱」を彼らは抱かない。抱けば「抱く」「抱きつく」という「我」がのこる。のこれば信は全うできないのではないか。大拙の謂う信には、抱きつけ、縋れと謂うニュアンスはない。そういう我は一切なく、帰依し、基督者のよく口にする「みこころのままに」にある、あれる、かどうか、だ。

 

* 只管打座(しかんたざ)と禅の人は謂う。ひたすら座って居よと。アッシジのフランシスの、心が邪魔をする、死骸かのように在るがいいというのは、それだろう。死骸はなにもサマをしない。良い格好をしようなどとしない。大拙はこれを生き物の猫にたとえて謂うている。

猫はなにをされても超然として、されてよし、されなくてよし、在るも去るも何に構うという気もなく在る。人間はああは行かない生き物だが、そういう生き物のママで宗教の境地には至れるものでないと。

バグワンもまるで一枚の紙に裏貼りするように同じことを話している。このとうてい渡れそうもない白道を、渡れば向こうは「彼岸」だなどといちいち言う人間は、学者であって、すべてを受動的に明け渡している者はそんな理屈は言わずに、ただ渡って行く。渡れてしまう。つまり「摩訶不思議」とはそれだと、大拙はさらりと話している。

2007 4・13 67

 

 

* こっちは「此岸」あっちは「彼岸」この橋をわたればあっちへ行けるが、なみたいていでない難しい橋である、などとチエ・分別をつけるのは、哲学者や宗教家のやること。それを「知識」と受け取るから此岸と彼岸の距離は心理的にもはなはだ乖離してしまい、所詮どうにもならず橋の前で立ちすくむか、途中で猛火・毒水のなかへ落っこちる。落っこちるのを懼れるだけになる。

そういう理屈・チエを一切うけつけず、無心にまるごと(totalに)受け入れているものは、水の上、火の上でも、地をふむようにすたすた歩んで行く。「摩訶不思議」というしかないが、そんなものだと、実例は『新約聖書』にもあり、鈴木大拙氏も話している。

つい一両日もまえか、『チャンス』という映画を観た。チョンシー・ガードナーと呼ばれている、もとは大家の庭師であった男の物語で、シャーリー・マクレーンに愛される。少し頭の働きの尋常でない、心からの一庭師に過ぎないのだが、その無心に語る(客観的には通常世間の知恵の働かない)言葉が、「智者・覚者」のそれかのように光って聴かれ、一度その「思いこみ」がエスカレートしはじめると、大統領やマスコミをも畏怖させるようになる。しかし本人はなにも覚悟などしていない、ただ無心に暮らしている。

終幕では、彼は、恩義ある友の葬儀を背にし、しずかな池の上をなにごともなくさらさらと向こうへ歩いて渡って行く。持った傘で水をさぐると深く沈むけれど、彼はなにごころもなく水の上に立っていて、歩いていて、微塵も危うくない。「摩訶不思議」だが、それは俗人の眼の謂うことで、ガードナーにはそこが水の上とも、水の上には立てない歩けないなどとも、微塵も思っていない「だけ」のはなしだ。

「分別」と「無分別」といえば、一にも二にも人は「無分別」を嗤い、「分別する心(マインド)」を褒めそやし、頼り切って、人間の歴史をつくってきた。が、何の、そんな「心」のじつはちっとも頼りにならないフラフラしたものだとは、誰よりも、一人一人の「自分自身」が、日々数え切れないほど思い当たっている。

「ほら、みなさい。ごたいそうに心、心という君が、たったそれだけのことですぐ心乱れているじゃないか」と、漱石『心』の「先生」は学生の「私」を窘めていた。しかもあの「先生」ほど、「静かな心」の難いのを誰よりよく知って苦しんだ人はいなかった。

2007 4・16 67

 

 

* 「渡驢渡馬」のことを案じている。

驢馬もわたる馬もわたる虫けらも象もわたる。日本人もインド人もわたり王さんも子供も何の区別なしにわたる、女人禁制とも言わない、橋銭を払えとも言わない、そんな橋。

そんな橋のようで人があれば、その人は無心であるだろう。静かな心であるだろう。そんな橋は涅槃像にも似ている。しかし、その橋には涅槃も煩悩も無い、木石の橋だ。橋ですらないのだ。

2007 5・11 68

 

 

* 昨日村田珠光の「我慢・我執」が第一悪ということを此処に書いた。

この一文は、世に『心の文』と謂われて、茶の湯の歴史でも最も珍重し帰依されてきたものだが、この文、「心の師とはなれ、心を師とせざれ」の一語を「古人も云はれし」ことと挙げて、結んである。かねてわたしの久しく書きついできた、「心は頼れない」「心を頼らない」思いとむろん符合していて、深い。

昨今の「心」一点張りの論や説は、みな「心」をあたかも師として頼って従えといわんばかりに、無差別の心尊重になっているが、「心は誰のもの」と反問すれば、すぐ分かる。自分の心に自分が従っていて、どうして的確で確実であり得るか、四六時中その自分の心に振り回されているのが自分なのだから、自己矛盾・撞着も甚だしい。

此処に謂う心は、しかし「マインド」の意味である。思考、頭に属している。優秀であると同時に、危険な毒を満載した爆発物でもある。聡明な者にはそれが見えている。だからそんな「心」を師としないで、そんな「心」の師と成らねばならないと、珠光ら優れた古人、大方、禅に達した人たちは見抜いてきた。

 

* 此の『心の文』の、一つ、おもしろい一点を読み取らねばならない。

彼は云う、「ただ、我慢・我執が悪きことにて候。又は、我慢なくてもならぬ(珠光には茶の湯、私には文学の=)道なり」と。そして先の結びの言葉が来る。

此の「我慢なくてもならぬ道なり」を、どう読むか。いまの我々は「がまん」が無い、出来ないのを「辛抱が足りない、堪えてガンバレない」意味に用いている。そういうことか。

此処を「辛抱」と同義にとると、冒頭の第一悪き「我慢・我執」との比例が取れなくなる。「ガマン」では無い漢字の意義を体した「我慢」であり、「我執」とは異なる一つの態度、姿勢、心事として珠光は用いている。一点守りきりたい「個性の自覚・自負・自信」をも、珠光はこの二字に籠めているのではないかと私は読んできた。そこにまた人間の「光る」芯のところを認めて励ましているのだとも。

だいじなだいじな一点として、公案のように私の頭にいつも在る。

2007 9・29 72

 

 

* 八時過ぎ。血糖値の高いせいであろう、今朝は胸苦しい。半ばはわれからと謂うもいい、ストレスを自身に強いているこの数日だから、安定剤の厄介になった方がいいかも知れぬが、海外から建日子に頼まれた所用もあり、市役所へ、自転車で走ってみよう。その前に眼科に寄っておこう。

行きたいと思いながらインフルエンザの予防注射も受けていない。からだは正直に反応している。からだは、こころよりも頼みがいがある。こころはアテにできない、もともと千々に乱れたり砕けたりコロコロするからココロなのだ。静かな心になるとは、こころを無くすること。そんなモノは、この家に、この「体壁」の中に生息していないと思えるように暮らすことだ。心を友にしてはいけない。

2007 11・9 74

 

 

* 宗教、信仰、修養といった方面に気が行かない。へたをすると人に「抱き柱」にせよと奨めてしまうのと同じ結果になると、本意ではない。

「人と、抱き柱」とについて、落ち着いて、やや取り纏めて書いておくことはしたいなと思うのだけれど。

「mixi」を始めたとき、冒険だなと思いつついきなり『静かな心のために』を一ヶ月ぶっつけ、ぶっつづけに書いてみた。あれの吟味がまだ出来ていない。

2007 12・26 75

 

 

* 「心は頼れるか」とは久しいわたしの論題であった。言い直せばこれは「人は頼れるか」の意味にもなるが、「心は頼れない」けれど「人は、さまざま」というのが正しかろう。「人ほど頼れるものはない」と思うほどすばらしい「人」との出逢いがあり、その真っ逆さまもあるのが「人」である。

だからこそ「小説」とか「文学」が成り立つ。

 

* 人生とは「人づきあい」の連鎖である。独りでは生きて来れなかった。人づきあいは潮合いよりも、しかし、はかない。潮合いには規則正しいほどの繰り返しがあるが、人づきあいには無い。

人から「名刺」をもらいはじめたのは、半世紀前の就職以来。私の場合、結婚以来とも謂える。

編集者稼業は、人さまと出会ってナンボの仕事であり、著者だけでなく、出入りの業者たちともかわした名刺は山ほど残っている。その九割がたは顔も関わりも忘れかけている。

転じて作家になれば、これまた各社の編集者・記者、同業の人たち、そして読者たちとの接触が自然増えてゆく。増えていなければ、ものの譬えにも「湖の本」は出来ていない。人のフルネームと住所。その記憶がなければ成り立たなかったのが「湖の本」だ。湖の本で出逢った大勢と、出逢ったが縁で湖の本の読者になってもらえた人と、数え切れない。しかもそれにも消長あり推移あり、川のように流れ流れてもう行方知れない人数も、数え切れない。

文藝家協会に入り、ペンクラブに入り、委員や委員長や理事などを多年務めている内にも、多くの出会いがあった。地位と便宜とを念頭に近寄ってくる人も多い。だが人間的な交際でないその手の利用者は、委員を辞め、委員長をやめてしまうと、とたんに水の漏れるように、葉の落ちるように、ばらばらと消え失せる。消え失せるであろう顔も名も予測できて、掌を指さすように正確であるのがいっそおもしろい。人とは、そういうものである。だから頼みにならないし、だが、真っ逆さまの貴重な友人たちもたくさん残るのである。それは打算的な心=分別のつきあいではなく、もっとハートフルな共感による。魂の色がいつしれず似ていると互いに感じあえる人たちが必ずこの人間の世間には実在する。だから人は絶望もしないで生きていられる。

2007 12・29 75

 

 

 

 

* 「よく考えなさい、分かるまで」と云われた。「考えてみろよ、バカだな」とも云われた。「考える」ことは良いことの最たる何かだった、長い間。

考えるフリすら出来ないと、「バカか、おまえ」と怒鳴られた。この叱咤のことばは、わたしのむしろ好んでよく我が子に向かっても用いたものだけれど、だが、それを、「よく考えなさい、分かるまで」とか「考えてみろよ、バカだな」という意味には使わなかった。自分の胸に手を置いて、聡明に胸の鼓動の教えるところを「聴いてみよ」と云いたかった。子ども達の引き起こす問題は、いつも、算数の問題を解くとか国語の読解を求めることとは、まるで別ごとだったから。

自分のこざかしい「考え」に固執するな、と言いたかった。

幸い人間には「考える」迄もなくわかっている(この言葉はあまり好かないが、カントの謂うがママに)道徳律を、先験的に実践的にもっている。少なくも大概のことはじつは落ち着いて思えば、「わかっている」のである。。

 

* 「考える」のは、誰なんだろうか。あなたでも、わたしでも、ない、「頭」だ。「頭」が、考える。

「頭」とは、ほかならない「自分自身」の意味のようにほんとうに久しく人は考えてきた。今でも考えている。ほんとうだろうか。

考えた「考え」が、ほんとうに自分自身のものかどうかは、曖昧すぎて、ちっともわからなくなるときが有りはせぬか。よくよく考えた結果が、じつは他人様の言い分を納得したか押しつけられたかに過ぎなかったり、世間の常識や社会の枠組みに不承不承に同調しただけであったり、自分の欲望を満たしたいために都合良く容認したに過ぎなかったり、する。

 

* ただし「考え」は、けっしてバカにならない。「考え」という機能には一面実にすばらしい能力がある。能力の成果が、太陽系の果てまでロケットを送ったり、ミクロのミクロの究極から法則性を発見したり、とうてい治らないと思われた病気に克服の道がついたりする。そういう「考え」は素晴らしい。賛嘆せざるを得ない。

しかし「考える」という働きには、機微の真実を技術的に追究して人間未踏の成果を導く、高級で非人情の「考え」とはまるで別に、きわめて人情に纏綿し膠着した日々の欲望充足の補助手段として働くだけの「考え」が、莫大に在る。地球上でふつうの人間のする「考える」はそれで、前者の、高級で価値ある素晴らしい「考える」とは、同じ頭の働きでありながら、全然ちがう。量的に云うても、価値ある方の「考える」は億に一つの程度。

億からたった一だけを引算した残りものの「へたな考え」は、「休む」に似たという以上に、人間のエゴ・私欲に媚びて、刻々に「心」をずたずたにしてくれる。

いや、これはむしろ逆に謂えばよい。すなわち、心(マインド) こそがじつに無責任にナマクラに「考える」のであり、それは、常に「分別」という働きようで全体を細切れに切り刻んでゆくことしか出来ない。「分別くさく」あればあるほど、「よく考える」と謂って世間は称賛したり容認してくれるけれども、それはその「考え」が、他者や目上や社会や権勢の邪魔にならないからであり、ひとたびそれらに抵触すれば、すぐさま「間違った考え」「わるい考え」として非難され処断され処罰される。

何よりも誰からよりも、生半可に考えて得たことや、したことは、たいがい自分自身の中で本当は落ち着きが悪く、むしろ悩みの種になりやすい。

むしろ何も考えあぐねたりしないで、自然の思いに投じた方がすっきりし、「後悔」という名の難儀で新たな「考え」にとりつかれることが少ない。無い。「無心のすすめ」は、端的に「頭」で「考えるな」に在る。「don’t mind=ドンマイ」である。

 

* ただそれだけのことが、しかし、出来ないから可笑しく悲しい。斯くの長広舌また休むに似た「へたな考え」を出ない。ウフッ。

2008 4・8 79

 

 

* 何とも言えず口を利くのも億劫な感じで弱っていたが、体調不穏、虫の知らせのような物であったらしい。このまま安静にし様子を見てみる。熟睡をはかってみる。朝起きてすぐ型どおりにさっさと家を出ていなくてよかった。

 

* どうということは、ないと思っている。所詮、からだのことはからだが知っているだろう。わたしが慌てても仕方がない。しんどければしんどいで、仕事を続けていると忘れて行く。用心は必要だが、過度に意識はしない。したいだけ、やれ。したくないこと、億劫なことは避けるしかないのである。わたしが避けなくても躰の方で避けている。心より、よほど賢い。

2008 6・5 81

 

 

* それまで全く存じ上げなかった方に、ある日「mixi」に誘い入れていただいた。登録にもていねいに手を引いて戴いた。「Lyuka」さん、ありがとうございました。

すぐわたしが始めたのは、かねがね気にしていたテーマで「書き続けてみる」ことだった。『静かな心のために』と題し、ためらいなくその一ヶ月を毎日書き継いだのは今想えばかなり冒険だった。書きっ放しだから熟していないだろう、じつは読み返したことも無い。読み返してみようかな、静かな心のために。

「静か」というのは、わたしが多年の関心事であった。漱石の『こころ』は静かな心の持てない「先生」の告白でもあった。ウン。読み返してみよう。

 

☆ この原稿は二○○○年(平成十二年)五月に最初の部分のみ寄稿して、置いてあった。今年、二○○六年(平成十八年)二月、おもいがけなく MIXI に紹介され、そこの「日記」を利用できることになったので、「静かな心のために」と仮題し書き継いでみようと発起した。書き置いた文章を最初に掲示したのが、二月十五日、以降なるべく毎日書き継いで行く。

*    *

 

 

靜かの文化を論ず                           秦 恒平

静かな心のために                    西暦二千年五月一日 起稿

 

「美しい」という感嘆を漠然と自覚したいちばん最初が、何に向かってであったか想い出そうとするとき、あれだったろうと容認できる記憶は、一つしかない。

花でもない、景色でもない。そういうものに自然と目が行くには、幾らか年齢が必要になる。

吸い寄せるほどの魅力や威力があり、言葉で置き換えようのない、わたしの場合、それは、仏壇の灯明であった。そんな気がしている。

狭い、綺麗とはいえない、貧しい家の奥の襖内に仏壇は据えてあった。襖をあけ、真塗の観音びらきの扉をひらき、御飯を新しく炊くたびに、母は金色したちいさな高坏に熱い白飯を高く盛り、わたしに、仏壇へ供えさせた。そのつど幼かったわたしは、ぺたんと仏さんの前に正座し、チーンと鉦を打ち、形ばかり手を合わせ頭をさげた。そうせよと教わった。南無阿弥陀仏とは唱えなかった。家の宗旨も、本尊の如来がどなたかも知る由ないほど小さかった。

そのような家常の習いに、一度一度お蝋燭を立てて火をともすほど我が家は裕福でも信心にまめでもなかった。灯明の立つのは、養父の母親か、養祖父の両親らの命日ないし盆と正月ぐらいのことで、だからこそその火の色はめずらしく、あたらしく、もの畏ろしげにわたしを捉えた。ありていにいえば、かなり怖かった。こわごわ、美しいと見入って、ゆらゆる炎の静かさに身を縛られた。

炎は必ずしも静かなものではない、絶え間なく揺れ動いていると見え、それなのに、微動だもしないと見える永遠の刻がある。そんなとき、炎の色は透明感を増しながら、底知れない深みを想わせる。美しいものは、かくも静かに清いかと子ども心に感じていた。畏怖しつつその感じを楽しみ悦んだ、深々と。

炎ほど清浄に美しいものはないといえば、事実に反する例が多いはずだ、業火あり猛火もある。黒煙にまみれた紅蓮の炎を、静かに美しいとはいえまい。

それはそれ、原体験として、清くて静かなことは美しい極みかのように想わせてくれたのが、仏壇の灯明であったことは、今にして仏恩のごときものであったと言いたくなる。

この感覚は、だが、体験とはいえ異色・異態のもので、火は、不動明王が背に負うた火炎も、絵巻の中で応天門を焼き落とす炎も、金閣炎上の猛火も、地獄変の火相も、また瞋恚の炎も、心清しいものばかりではない。それどころか心清しい火などに出逢ったといえる体験は、他に…無かった。だから仏壇の蝋燭の灯が印象にのこった。その灯は、いつ見てもわたしのちょうど目の高さで、いかにもいかにも静かだったのである。 (一)

 

* いま付け加えたいことは、無い。

2008 7・12 82

 

 

 

* 静かな心のために 二

 

夏目漱石作の小説『こころ』で「先生」の「奥さん=お嬢さん」は、作中ただ一人実の名を「静」「静」と夫から呼ばれている。「先生」にも「私」にも「K」にも名は書き込まれていない。あれだけよく読まれよく語られた小説なのに、この不思議な事実に言い及んだ人が少なかった。

不思議には両面がある。他の主要な登場人物が揃って「名」無しという一面と、それなのに、「奥さん」ひとりが「静」さんである一面、である。

実の名前には、IDともいわれるように、インディビデュアルな、それ以上分割不能に特定する働きがある。代名詞ではない、固有の所有である。「奥さん」「お嬢さん」など呼ぶのと「静さん」と呼ぶのとでは、印象もつよく局限されてくる。作者漱石が、一つには「先生」「K」「私」などと記号化し「普通」の存在として読者に親しみやすく働かせる一方で、「お嬢さん=奥さん」には或る特別の意義をもたせたかった、だから只一人「静」と名付けたのであろう、と、そう想わせる。

これまでの論者には、作中にも書かれている乃木大将夫妻の殉死に関係づけて「静」は乃木夫人静子に通わせたと説く人も二人三人ではなかったけれど、それを謂うなら「先生」にも希典とは謂わずともそれらしい実名をもたせることは出来た。乃木夫妻に関係づけるならその方が有効だし、漱石は自身に相当する作中人物に「ソウスケ=宗助」と名付けていたこともある。

だが『こころ』で漱石は自決する「先生」に実の名を与えていないし、「静=奥さん」は、乃木夫人静子のように夫とともに自決などしていない。

夏目漱石は、『心』を岩波書店の開店第一冊として初版の際、(この初版本には、本の、函や表紙や背表紙や扉などで「心」と「こゝろ」とを無造作なほど題名として混用してある。)広告用にと、こう書いて書店に与えていた、作者は人間の「心」を研究し「心」とは何かを究めたと。このことには後に触れるであろう。

また、希望して自身でこの本を自ら「装幀」していた。読書人なら『漱石全集』のあああれかと独特な装本を思い出すだろう、が、じつは『こころ』に限って他の作品のそれとは異なったところが在る。

表紙に、四角い窓を設け、中国の事典が載せた荀子「心」の説を「解蔽篇」から抽いてはめ込んだのである。これに初めて言い及んだのは、わたしの東工大先任教授であった江藤淳であった。彼は、だが、そう指摘しておいて先へは踏み込まなかった。

「解蔽」とは、襤褸を脱ぐ意味である。人間の心はむやみに襤褸に蔽われ本真を喪っている。襤褸は剥がねばならないと荀子は説くのであるが、その「心」の説の核心は、「虚」を説き「壱」を説き、そして「静」に至るに在った。       06.2.16

 

* やはりわたしは、此処から話し始めた。安心だった。

 

* 朝六時十五分の血糖値、96。たいへんケッコウ。

 

* 戯曲 こころ(夏目漱石・原作 秦恒平・脚色)  開幕冒頭部  湖の本第二巻

書き下ろし 昭和六十一年八月

 

以下のように場面を作る。随時、舞台に適切・印象的なシンボル・

ボードを上下させて、場所と季節を指示する。装置は極く簡素に、

各場面は流れるように推移する。

A・1 大正二年、秋。「先生の奥さん=静」が、お手伝いと二人

で暮している。小日向台町の静かな家。

A・2 1と同じ家。明治四十年代。「先生と静」夫婦とお手伝い

が暮している。

A・3 1、2と同じ家。明治三十三、四年頃に、「先生」夫婦と

「奥さん=静の母」とで引越して来た家。

B  小石川源覚寺裏の坂上の家。明治三十年過ぎた頃。「奥さん」

と「お嬢さん=静」との家。

C 「先生」の故郷新潟の家。叔父一家が住んでいる。

* 他に随時、戸外の場面が季節感のあるシンボル・ボードを添え

て挿入される。

 

第一幕

 

* 音楽…。

* 幕、あがり…舞台中央の闇に、下手へ斜めに机に向かう「先生」の、静かな姿が浮きあがる。奥を隔てて、障子二枚、真正面に立てる。

年齢四十にやや老けた感じ。白無垢 にちかいかすりの単に、素足。九月とはいえ夏の名残りの遠い物音など……。

* 舞台上手に正座して…斜めに、「先生」を無表情に正視している「K」の姿、および下手にやはり正座して解き難い微笑をうかべ、但しこれは「先生」にうち背いた格好の妻「静」の姿も浮かびあがっている。「K」は年齢不詳、質素な濃い影じみた着物姿。「静」は夏ものながら、幾らかはんなりした(外出着めく)姿で、三十にやや若い感じ。

* 「先生」…書きつぎ…また書きついで…ちいさく息してペンを置く。 目読ー。

(「先生」の声) 『…私は今、自分で自分の心臓を破って、その血を、何千万といる日本人のうちで、ただ…あなた一人の顔に浴せかけようとしているのです。さよう……この手紙が、あなたの手に落ちる頃には、私は…もうこの世にはいないでしょう…。妻は、十日ばかり前から…(この辺で舞台の「先生」は先に読み終え、書いたものをすべて机の上にきちんと揃え…文鎮を置き、一呼吸…静かに起ち…、障子をあけ…奥へ入る。照明が追う。…声は、その間も…)…市谷の叔母の所へ清(きよ)やもつれて病気見舞いに行っています。私が勧めて行かせたのです。そしてその留守に、この…長い書き置きをおおかた書きあげました。時々妻が帰ってくると、私はすぐ…隠しました。妻には、…そうです妻には何も、知らせたくないからです。あなたにはこうして話してあげた私の過去を、妻には知られたくない。知られたく…ないのです』

* 「声」がにわかに衰える…と、短い…が、すさまじい叫びとともに障子に飛ぶ血しぶき…。瞬時にうち重ねて、無表情だった「K」はくわッと目をみひらき…、「静」は笑みをひそめて水のように無表情……。

* 切っておとしたように…闇。突如…大地の底から湧く物音……と聴こえて、無量無数、言葉にならない人間の声が暗闇を大きく噴きあげる。

* ぷつりと、静謐。間髪を容れず緩急と大小ととりまぜて、ものの雫する音。その雫に乗るように、さまざまな人の声が、降るようにエコーする。エコーの間に闇は静かに薄らいで行く。

(声々)……「心」…「心根」「心意気」「心づくし」(間)…「心ひそかに」「心に余る」「心が動く」  (間)…「心がはずむ」「男心」「女心」「親心」…「恋心」 (間) 「人心」 (間) 「心が通う」「心をひらく」「心をとざす」「心…移り」「心…変り」「心にも、なく」「心を鬼に、する」(… 間…)「心…せよ」「心ない」「心の…奥」「、心残り…」「心寂しく」「心、しおれて…」 (間) 「心から」「心から…」「夏目漱石作…『こ」ろ』…… から」(舞台さらに明るんで…)

* 下手舞台の袖に「私」登場。二十七、八歳。服装は簡素。だが若々しくすこし改まった表情で、観客席へ…

私 …私は、「その人」を、いつも…「先生」と、呼んでいました…。だから、ここでもただ…先生…と言うだけにしましょう。それが…そう…自然だから、です。その先生が…、ご自分の切ない過去を私ひとりに書き置いて、…自殺なさったのです…(この間に舞台小日向台町の家になる。かなめ垣の小庭。

奥は木深い。大正二年の秋九月末、一面にコスモスの花。夕暮れて…)

* 「私」、そのまま舞台に入り、仏壇の前へ。香華。灯を入れる。黙然。

* 未亡人「静」、喪服のままねぎらいの茶を運んで来る。丁寧な、改まった挨拶。

静 おかげさまで…無事、一周忌をさせていただきましたわ…

私 いいご法事でした。思わず泣けて……。市谷の叔母さんも…ずいぷんお年齢(とし)をとられましたね。

静 はい。もとからそう丈夫な方でない人でしたけど…うちの母より長生きしましたわ。

私 ……。清やは、(家の内をうかがうように…)いつまで暇をやったのですか。

静 いいんですの、近いのですもの。使いをやったら、すぐ帰って来ますわ。

私 疲れませんか…お着替えになったらいいでしょう……

静 疲れちゃいませんけど…そうしましょうか。…私……ご相談したいこと、あるの。

私 そうですか。私も…お話ししたい事があるから、

静 じゃ…(立ちかけて)失礼して…

私 (思わず口にする…)五年…いや、六年…(茶の方へ手を出す)

静 (行きかけていたのが…)え…。なにか…おっしゃって…

私 いぇ…、先生のお留守に初めて、ここへ…うかがったでしょう。もう六年になります、ちょうど…。最初も、二度めうかがった時も、めったに出られない先生がお留守だった…

静 ご縁ですわ…

私 あなたに、雑司ヶ谷へお墓参りに出られたとお聞きして…それで追ッかけました…

静 ええ…。元気な書生さんでしたわ。

私 高等学校でした…まだ。二年の秋でしたから…二十二位か……

(注 明治四十年頃の学制による)

静 …じゃ、やっぱり…ちょいと着替えて来ますね。このままだっていいんですけどね。

*「静」去る。私、仏壇の方へ向き直る。暗くなり、燈明が揺れる。

(「私」の声)(追いすがる)『先生…』(若々しい)

(「先生」の声)(ギョッとしている)『どうして……どうして…。アトを付けて来たのですか。……』

*いちょうの樹々の墓地。シンポル・ボードが高くあがって…そこだけ明るい…。

*「先生の声」の間に、「私」は旧制高等学校の生徒に変り、墓地へ来ている。舞台明るみ…、「先生」棒立ちで私を迎えている…。

私 (ほがらかに)いいえ。、お宅へうかがったんです。お留守だったもので、奥さんにこちらへと、私が聞いて、来たのです…

先生 誰の墓へ参りに行ったか、妻(さい)がその人の名を言いましたか。

私 いいえ。

先生 …そう。言う筈がありませんね、初めて会ったあなたに。…

私 (けろりとして…)どなたのお墓があるんですか。ご親類のですか…

先生 ……(渋い顔で)友達の…です…

 

* この戯曲は、登場人物の綿密な年齢証明にもとづいて、それまで漠然としていた人間関係を、ほとんど「革命的」に理解し直した作として、あらわには「私」と「静」との関わりにおいて、騒然と議論を巻き起こした。この長編のレーゼドラマ(読む戯曲)から舞台用の台本をまた創って、俳優座が、加藤剛・香野百合子・立花一男らで『心 わが愛』を上演、連日超満員だった。主演の加藤さんが、たしか大きな賞を受けたのではなかったか。その記念パーティにわたしは欠席し、大いに叱られた。そういうパーティが苦手で億劫でもあったけれど、ありようはひとごとか茶飯事のように思っていた、今思うと気の毒であった。

主演の加藤剛が、進んで受け容れてくれた脚色主調は、わたしの「島の思想 わたしの身内観」であった。あの「先生」は彼の受けた遺産を、「身内」の名で私消した叔父一家を、生涯ゆるさない人だった。なにを「ゆるさず」なにを「ゆるす」か。『こころ』とはそういう文学でもある。

2008 7・13 82

 

 

*  静かな心のために 三   秦 恒平

 

「心が揺れる」と謂う。心は絶え間なく「揺れる」もの、ホンの些細なことで「揺れて、傷つく」とは、だれしもイヤになるほど気付いている。現世への厭悪という吐きけに悩み、遁れどころは無い。在るとすれば「静かな心=無心」にしか無い。

わたしは、とりわけて無心になれる人ではない。充満する「ことば」を身に抱いたまま無心になるのは矛盾であり撞着であると、内心の声にいつも嘲笑されている。

漱石先生は、どうだったろう。

晩年の「則天去私」は、ついに達した境地であったのか、達したい願いに止まっていたか。後者であろう。達していたら「無私」と謂うたであろう。

漱石は「静かな心」を望んで望んで得られないことを、全作品に示していた。そういう自身の表象かのように漱石は『こころ』の「先生」を書いた。その直前には『行人』の兄「一郎」を書いた。「一郎」は狂を発し「先生」は自ら死んだのである。

「先生」の心中にはいつも願って止まない「静」一字があり、その象徴のように「奥さん=静」の在ったことは、1985年以降、著書『漱石「心」の問題』で詳しく論証した。

「先生」は、親友「K」を死なせてまで獲た妻「静」の深い愛と信頼とが、ついにわが身に得られないのを嘆じ、登場した青年「私」を信頼のあげく、安んじて「静」を「私」に託し、自決したのである。

「先生」自決ののち、「静」と「私」との結婚ないし出産にいたることも、わたしは小説の本文に即して論証し、いささか学界をさわがせたが、いま、わたしの説は否認しがたいものとして受け容れられているのではないか。

だがここは作品『こころ』を再び論じる場所でない。

ただ「先生」と「静」夫人との端的な不協和、および『こころ』出版に作者漱石が意識して表紙の装幀に取り込んだ荀子「心」の説、なかでもその説の内の「静」一字の重み、を、ともあれ持ち出してあとの布石にしたい。

繰り返して言う、人の「心」は、いつ知れずたくさんな襤褸をまとって金無垢純真の本来を蔽われてしまっている。その蔽いを努めて解き放たねばならない。荀子は『解蔽篇』にそう説いていた。さもなければ「大理に闇」いまま「心術の患」「蔽塞の禍」にまみれて、人はよく本性の純真を得ることを得ないと。さらに説いた、「何を以てか道を知る。曰く、心なり。心、何を以てか知る。曰く、虚壱にして静なり」と。

「心」には「虚」と「壱」と「静」という三つの性質があると、荀子は力強く説いた。分かりよく謂うと、こうなる。

「心」は、無尽蔵になんでも容れることができる一方、いつでも「虚」つまり、からっぽにもなれる。

また、あれへこれへと八方に働きながら、また、たった「壱」つの事に集中することも出来る。

そして「心」は、その中心のところに、実に「静」かな一点を、しっかり抱いているものだと。その、「静」一点の真価が「心」の命、「心そのもの」だと。

われらが漱石先生は、これを識っていたのである。だから「心」を究めたと自ら言挙げした小説『こころ』の装幀に、ためらわず「荀子解蔽篇」の挙がった「心」の記事を、わざわざ、表紙に窓を明けて、嵌め込んだのである。   06.2.17

 

* 静かな心で書いていたわけでないことが、苦笑するほど分かる。思っているより考えている。考えていてはダメなのである。分別に落ち込むからだ。

2008 7・17 82

 

 

* 静かな心のために 四   秦 恒平

 

「虚」や「静」を大切に謂うのは、なにも荀子に始まったことではない。

はやく、老子にすでに「虚静」の説があり、「虚を致すこと極まり、静を守ること篤ければ、万物竝び作(おこ)るも、吾、以てその復(かへ)るを観る」と言うている。心を虚しくし静かに保てば、どのようにモノ・コト・ヒトが雑踏しようとも、本性の根源を見喪うことはないと謂うのである。荀子の「虚壱にして静なり」と言うのと変わりない。

「静」の字は、もともと農具(ないし農事・農処)を祓い清める農耕儀礼に謂われをもち、「清らか」「靖らか」「静か」へと意義をひろくしてきた。

ことに「静」と「清」とは、我が国ではほとんど最良至醇の「美」の意義を帯びた。「きよら」で「しづか」であることが「美」であった。源氏物語等で最高に美しい人物や情景は、かならず「きよら」と称讃され、それに次ぐものは、「きよげ」と区別された。「うつくし」は、むしろ「愛し」の訓みであった。

やや話の向きをかえるが、小学生のうちから、わたしは裏千家の茶の湯になじんでいた。叔母が町屋で師匠をしていて、わたしは、好きこそものの門前小僧であった。叔母は、遠州流のお花の先生でもあり、生け花にはとくに優れた技倆をもっていた。

町屋の稽古場だから、社中といえば、近在のおばさんや娘さんが大方で、叔母はお茶の稽古場でも、侘びの寂びのと、難しい理屈はほとんど言わなかった。和敬清寂ともめったに口にしない。

その是非はともかく、「和敬清寂」は茶の湯の看板のような四文字であるが、和も敬も、また寂もよいとして、三字めの「せい」を、ときに「静」と書く人がある。利休七則には「清」とあり、「しずか」な静寂では、意義が重なってくる。一文字ずつに重きをおくなら、やはり「清い」方がよいと、子供心にわたしも感じてきた。

しかしまた、清いも静かもよみは同じ「せい」で、もともと親密な親類のような文字であり言葉であることは、先にも触れた。静かなものは清く、清いものは静かで、そして清らで静かなものが美しいのだ、と。美しいものは、静かで清らである、と。

逆に、騒がしく汚く濁ったものは、醜く、悪しきものであるという裏向きの価値観も、これまた我が国の通念であった、少なくも、時代を遠く遡れば溯るほどそうであった。天つ神々の目に下界なる葦原中国はまるで蒼蠅のブンブンと騒がしく汚く見えたので、静穏に静謐にと天孫を降されたのも、そう。 「ええい騒がしい、静まりおろう」などと水戸老公の家来が悪人ばらに一喝するのも、そう。

しかも静かも清いも、おそらく山や水の自然から深く受け入れた「日本人好み」とも、そこに形成された「古神道的な元始の美意識」とも推察して、大過ないものと思われる。   06.2.18

 

* 手探りするように書き進んでいた気持ちが甦る。新たな思いと馴染んだ体験とをミックスして思索の安定を図っていたか。分量のことなど少しも決めた気持ちはなかった。なんとかたどり着いたところで区切っていた。

2008 7・18 82

 

 

* 静かな心のために 五  騒がしいのはいけない

 

叔母の話をまたするが、叔母が生け花を教えるときに、生け花を挟んで弟子と向き合う場所から、というのは、つまり活けられた花の、真裏側から自分は手を出して、弟子の活けぶりを、ちゃっちゃと手直ししていた、わたしはいつもわきで眺めていた。これはたいした技であって、しかも、ぴしぴしとサマを成してゆく。

そういう腕前だった叔母が、生け花でも茶の湯でも、平生ほぼ唯一口にした批評語は、「騒がしい」のはあきませんえという、それだけだった。言外に「静かであれ」と言うていたのだろう、が、そうは口にしなかった。ただ、「騒がしい」のはいけない、よくありません、と言うていた。

ところで、日ごろ暮らしの別場面では、叔母に限らず身の回りにいた京都の大人達は、なにかのおりに、よく「お静かに」と口にした。たとえば父や私が外出のさい「行ってきます」と挨拶すると、打ち返すように、「お静かに」と、母も叔母も言うのであった。来客の帰って行く際にも、そう言った。なにごとも起きないで、お平らかにと願う呪祝の言葉かのように私は聞き覚え覚え育ったが、さて、自分は、どう実感しつつ同じ「お静かに」と言ったかどうか、はきとしない。言わなかったのかも知れない。

しかし、「騒がしい」のはよくない、「静か」がよい、静かでいるとき、人は、ある「清まはり」の祝福を受けるのだという、ほとんど無言の教えを、霧の降りつむように身内に蓄えてきたに相違ない。その体験が、およその根拠となり、体内に落ち着いてしまっていると言えば、多少言い過ぎかも知れないけれど、実感は身内に今もある。

「花は櫻木」と謂う。櫻の好きなわたしは、「人は武士」とつづくのに賛成しなくても、日本の花は「櫻」で有難い。『細雪』のヒロインの好きな「魚は鯛」にもむろん共感する。櫻は美しく、鯛はほんとうに美味い。

しかしもし日本人の坐法を「正坐でしょう」と謂われれば、「何が正しいか」「どう正しいか」と即座に異論がある。それも、姿カタチはどうあれ、「静坐」なら、分かる。

脇へ逸らす気はない、日本人が、明治以降に「正坐」と称した坐り方は、いわゆる罪人の「土下座」と変わりがない。韓国の人から、「なんで日本人はあんな罪人の坐り方をするのですか」と首を傾げられたこともある。朝鮮半島の人は、片膝立てで坐り、自在に身を働かせる。だが、だからといって日本人は上古来正坐してきたわけでない。いまでは長時間正坐できる日本人など人口の一割もないであろう。

歴史的事実として日本人は、江戸の元禄時代より以前、裁きの場の罪人や極度の服従者以外に正坐を常とする者などいなかった。師宣や光琳描く百人一首の百人像を観れば分かる、いわゆる「正坐」の図像・画像も彫像も、美術史資料や史料類にほとんど全く見つからない。茶の湯の行儀は「正坐」と思いこんでいる人は多いが、あの茶聖利休の画像・彫像に正坐の遺例は一つもない。閻魔の前の亡者や裁きの場の罪人以外に、天子も大臣も朝臣も僧も神官も平民も女も、極端な例外をのぞいて日本人は上古このかたほとんど正坐などしてこなかった。

元禄時代からあとに正坐例がみられるようになった理由の一つには、家屋と衣服との変化もあるが、むしろ支配と被支配との関係が強引に制度化された近世江戸時代ならではの理由がつきまとったのであり、それを「正坐」と称したのは、藩閥強権政府の明治時代以降であった事実が、あまりに多くを示唆している。

決してそれが「静坐」だから「正坐」なのでは、なかったのである。

だが、「静坐」という認識はべつに無かったわけでない、有ったのである。

たとえば座禅の「坐」は、まさしく「静坐」であった。   06.2.19

2008 7・19 82

 

 

* 静かな心のために 六  秦 恒平

 

座禅の坐が「静坐」なのはあたりまえだが、じつは座禅の「禅」が、まさに「静」の意味であった。ディヤーナ。「禅那」と訳された。寂静、静寂。

座禅は静かな境地にまず没入する。

天台の『摩訶止観』もまず寂静を説いて開巻している。その境地を慕い、例えば藤原定家は法名に「寂静」を得ている。寂もしずか、静もしずか。まず坐して静寂になろうとするのが座禅であると説明しても、大きなあやまりは無い。

まえに名をあげた荀子は、「耳目の欲を闢(さ)け、蚊虻(ぶんぼう)の声を遠ざけ、閑居し静思すれば則ち通ず」と、やはり「解蔽篇」の中で言うている。

問題は、どこへ、または何に「通」じるのか。「通」じるとはどういうことか。ものごとがうまく行くことか、それともよく聞く「悟り」にでも至ると謂うのか。

後漢の名士陳太丘は世事に退蔵し、つまり世間の栄誉を拒み避け、ただ「四門に礼を備へて閑心静居」した、つまり賢良の人の訪れは歓迎しつつ閑静の日々を過ごしたといわれる。五柳先生こと晋の詩人陶淵明また、「閑靖にして言少なく」栄利を慕わずに世を避けて暮らした。

こういう隠棲閑居の日々に可能であることが、「則ち通ず」の意味なのか。

荘子は「それ虚静恬淡、寂寞無為は、天地の平なり、道徳の至なり」と説き、「虚」はすなわち「無心」の意味としている。

管子もまた「心を虚にし意を平らにし、以て待ち須(ま)つ」と言うている。この管子の「待ち須つ」とは、陶潜(淵明)のいわゆる「則ち通ず」への予感や期待であろうと思われる。

このように中国の哲学が、多く「虚=無心」「静=禅那」を重んじてきた伝統には、佛教、ことに大乗仏教、わけても禅の教えの東漸がたいへん大きく影響していた。ほとんどインドをむしろ逐われてきた佛教、大乗仏教が、西域をへて滔々と中国に流れ入り、長安・洛陽の両都をふたつの芯に、大唐国にいたる栄枯盛衰大小さまざまの王朝により、異様なまでに尊崇支持されたのは顕著な史実であった。ことにボーディ・ダルマ(達磨)により伝えられた禅は、「心」の洞察において革命的な視野を中国人にもたらしていた。「虚」も「静」も、「心」において何であるのかが問われることになった。

人の「心」とは何か、大切なのか、頼れるのか。

わたしは、さて、自分の「心」を信頼し帰依しているだろうか。あなたは、どうか。

こんなことのあったのを、わたしは忘れていない。

日本ペンクラブの理事会で、政府与党による「教育基本法」の安易な改正意図が危惧されていたある日、当時の会長で理事会を主宰する哲学者梅原猛氏が、慨嘆して、「大切なのは、学童生徒にもっと心の教育をすることだ」と発言した。

またかと思った。

即座に、「あまり安易に<心>を無謬の価値かのように謂うのは危険であり、或る意味で<心>こそが諸悪の根源であると心得て発言して欲しい」とわたしは言い、一瞬ざわついた、が、たまたま京都から会議に参加してわたしの隣にいた瀬戸内寂聴尼が、間髪をいれず「それは秦さんの謂われるとおり」と発言されたので、「心」の話題は一気に他へ押し流された。それきりだった。

だが、一場のたんなる話柄では済まぬことであった。

思えば梅原氏発言の前後左右、世をあげてどこでもかしこでも、新聞・テレビ・ラジオ・雑誌・広告にも、「心」一字の魔術的なほどの氾濫は目に耳に有り余っていたし、今も少しも変わらない。

「心」さえ持ち出しておけば、あらゆる場面であだかも免罪符か「ひらけゴマ」のようであったし、今もそうなのである。

わたしに言わせれば、これは、あらくれた意馬心猿を解きはなって世間を奔走させているのと同じ、じつは暴挙のようなモノであり、反省の時機はとうにとうに来ているのに、だれも知らぬフリをして、同じ旗棹を無責任に振っているのだった。哲学者も教育者も政治家も科学者すらも、口を開けば「心」であった。宗教者、まして佛教者ですら、瀬戸内さんのような人を例外に、テレビの講座などで、とくとくと仏典や文献のただ口うつしで「心」を説いている。 06.2.20

2008 7・21 82

 

 

* 静かな心のために 六

 

三十年このかた「からだ言葉」についてわたしは発言し続けてきた。近年は三省堂から『からだ言葉・こころ言葉』を出版し、今月には『からだ言葉の日本』を「湖(うみ)の本エッセイ」の一冊として出版した。次の『こころ言葉の日本』も用意しているが、此処では、直接に「こころ」を問題にしているのだが、それでも、「こころ言葉」の紹介は、前提に、無くては済まない。

「心」は目に見えない、とらえどころが無い、が、「こころ」と付き合わずに済む日常はない。「心」って、何? という自問自答をつい余儀なくされてしまう。

 

人の心は知られずや 真実 心は知られずや   (二五五)

浮からかいたよ よしなの人の心や   (九二)

うらやましや我が心 よるひる君に離れぬ   (二九一)

文はやりたし 詮方な 通ふ心の 物を言へかし   (二九二)

よしや頼まじ 行く水の 早くも変はる人の心   (三◎◎)

恋の中川 うつかと渡るとて 袖を濡らいた あら何ともなの さても心や   (三◎二)

花見れば袖濡れぬ 月見れば袖濡れぬ 何の心ぞ   (三◎五)

 

目に付いた『閑吟集』(数字は集の中での番号)から室町小歌をひいてみたが、万葉集このかた、人はかように「心」を問うて問い続けてきた。あげく「物」と対極の「心」に、まるで物と同じ属性を授け、例えば「心根」「心の底」「心構え」「心の奥」「心の闇」のように、また「心を砕く」「心を痛める」「心を抱く」のように、また「赤き心」「清き心」「濁った心」「心の鬼」のように、また「広い心」「狭い心」「偏った心」のように、「心細い」「心丈夫」「心頼み」のように、また「熱い心」「心冷える」「心温もる」のように、また「心得る」「心付ける」「心掛ける」のように、あたかも物に触れたり、物を使ったり、物の大小・色彩・冷熱などと同じ何かが、さも「こころ」にも在るかのように「こころ言葉」を用い、ようやくに「心とは何」かに或る見当をつけてきた。推知・推量してきた、そういう「日本」「日本人」が目に見えてくるではないか。

わたしは、「からだ」にしても「こころ」にしても、出来合いの観念から入って難儀な哲学や生理学や心理学を持ち出す、その前に、日本語の中に莫大に現に存在し、何の難儀もなく日々常用している「からだ言葉」「こころ言葉」への理解や洞察から、より具体的・生活的に、より日本的・日本語的に、「体」や「心」のことは考えた方がいいと説き続けてきたのである。

だが、今この場でのわたしの(可能ならばのはなしであるが)追究は、今度初めてやっと「こころ」を、「ことば」は念頭にしながらも、直接に端的に考えてみたかった。大胆すぎるが、待ったなし直かに「心」へ向かってみようというのである。  06.2.21

(この「mixi」の「日記」という場は、秘め事なみに狭い範囲の知人にだけ発信するブログとちがい、夥しい会員の目に、触れれば触れる仕組みになっている。しかし会員の全員に近くをわたしは知らない。その意味で、「日記」は覗かれていると頭で知っているだけのわたしの「孤室」である。

そもそも「匿名」でものを書くのは、(筆名ですら同じと思うが、)「ラクガキ」に同じで、だれより自分自身に対して無責任に流れやすい。わたしは無責任な書き手ではありたくない。日記の公開に危惧する人はときどきいるけれど、密室の日記は(よほど優れた人間を例外として)概して飾られている。人によるとはいえ、日記を実名で公開していると、(サカサマに思われるだろうが)恥ずかしくてウソは書けない、極めて書きにくい。

「秘める」という本能は、当然生物であり人格である人間には或る程度許されているし、必要なことでもある。だが、匿名に隠れてひゃらひゃらした日常や言葉を書き散らし垂れ流してあるものを見ると、自分はそんな真似はしないとあらためて思う。自分自身に恥ずかしくなるのは御免である。

この『「静かな心」のために』は、『静かの文化を論ず』と仮題し、数年来予定していた仕事の一つなのだが、難しくてなかなか取り組めないで来た。たまたまご厚意に出逢い此処へ招かれ、そうだ、此処で「見切り発車」しようと思い立った。用意も何もないエッセイとして、此の場にふさわしいかふさわしくないかなど考えもせず、いきなり書き始めた。

立ち往生のおそれもあるが、腹をくくっている。

「孤室」が好き。テレビに出るよりわたしは「ラジオ」の孤室に抛り込まれる方が、いつも気楽であった。スタッフから終始覗かれていても、である。)

2008 7・23 82

 

 

* 静かな心のために  六 安心せしめよ   秦 恒平

 

「静か」が佳いとは、たいていの人が思っている。だがこれは、「静か過ぎて」寂しいとか怖いとかいうのと同じ地平の思い入れである例が多く、「静」の内奥に、人生の、ないし生死の境涯を求めるほど突きつめた感受でも、悟性でもない。「静かな心」などと謂うても、ごく平凡で日常の物言いに過ぎない、「静かな」は単なる形容動詞の一つで「騒がしい」とのただの一対語だと人は思いがちである。無理もない。

しかし、いわゆる宗教ではなく、「宗教性」という面から求めるなら、「静かな心」ほど望ましく、「静かな心」ほど求めても求め得られない難しい境地はない。われとわが心に問えばわかるだろう、「静か」どころか、瞬時に心は乱れ、心は騒ぎ、心ここに無くなっている。「不動心」「無心」「平常心」「安心」「自在心」などと気安く謂うけれど、その状態にどれほどの永さでも到底いつづけられないのが吾々凡夫である。

わたしは旧臘七十歳になったものの、孔子の謂う「心に従ふ」その静かな心は天涯の理想にひとしい。「七十にして、心の欲するところに従ひ、矩(のり)を踰(こ)えず」と孔子はわたしをきめつける。「心の欲する」ことは旺盛で無道、やみくもそれに従うこともしばしばであるが、そればっかりだが、「不踰矩」つまり決してはみ出ない、などはなかなか願っても出来ない。荀子の謂うように、やくざに充満した思考や欲望のすべてを一気に「虚」に、からっぽにすることも出来ないし、ある時たとえ「壱」事に集中できたにしても、「無心」「白心」どころか、それ自体がたいへんな執着=エゴトリップである方が多い。だからこそ何度でも問い返しながら、わたしは進まねばならない、「心って、何」と。

雪舟に、『慧可断臂図』がある。面壁九年といわれた師達磨のそばへ、自ら手先を切り落として捧げる弟子慧可。彼は禅の第二祖といわれた。インドで禅は大成しなかった。

この慧可が、いつの頃となく、達磨にむかって歎いた、「弟子(ていし)は心未(いま)だ安からず、乞ふ師よ、安心せしめよ」と。

達磨はこう答えている、「心を持ち来たれ、汝がために安んぜん。」騒ぐ心にそんなに悩むなら、ひとつ、そのお前の心とやらを此処へ持ってお出で。静めてあげるから。

慧可はどうしたであろう、師の前でさらに愚痴った、「心を覓(もと)むるに了(つい)に得べからず」と。いくら探してもその心が見つからないのです…。

間髪をいれず達磨は弟子に告げている、「汝の為に安心し竟(おは)りぬ」と。ほうらみろ、ちゃんと安心させてやったぞ、と。

「答」は、慧可の愚痴の内にすでに在った。「心」は、探しまわっても在るモノじゃない。求めてかかずらわっているから「心」は騒ぐのだ。

待った! と、声がかかっていいところである。

おそらく誰もが一連のこの問答に、すこし引っかかるだろう。「心」の一字に、異なる意義が与えられてはいないかと。

慧可の、最初に師にもたらした未だ安からぬ「心」とは、謂わばナミの、吾々のと同じような「心」と読み取れる。言い直せば「安心」でない、「揺れて騒ぐ心」の意味になる。これに応えて達磨の持ち来たれと示唆した「心」も、ここは同じく、弟子が己が身内にもつと思っている彼自身の「心」を、ということになる。

しかし達磨が、「安んぜん」と謂い切った「心」は、弟子慧可が「安心せしめよ」と切望した「心」のことであり、それこそ「静かな心」つまり「無心」「不動心」に同じいであろう。つまり、僅かな問答で前後して謂われている「心」は、前と後で文字通りモノがちがっている。

では、慧可が、師に、持って来て見せろと言われた「心」は、どちらなのか。かりにも二祖となる断臂の慧可である、まさかに常凡の、騒ぎ乱れる「心」ではあるまい、まさしく「静かな心=無心」のことであろう、けれど、まだ弟子は師の達磨と段がちがっていた。慧可はそんな「無心」を、懸命に探し「覓(もと)」めていた。エゴトリップである。そこのところを、達磨は軽く一衝き呉れた。「ほうらみろ、ちゃんと「安心」させてやったぞ、」と。もう一度、少し言い換えてわたしは謂う、「答」は、慧可の愚痴の内にすでに在った。「無心」は、探しまわっても在るモノじゃない。求めてかかずらわっているから「心」は騒ぐのだ、と。

われわれが多くの仏典や聖典を読んでいて、最も危険なことが少なくも一つある。仏陀にせよイエスにせよソクラテスにせよ、達磨もまたしかり、彼等は自分で何も書きのこしていない。書きのこしたのは教えを聴いた人であり、当然微妙に聞きちがいや、誤解や無用の解釈が付け加わる。それを読みつつ、テクストクリティクが出来るか、真意に突き当れるかどうかで、読者の「宗教性の深度」が測られる。聖典を鵜呑みにして伝え廻る宗教者の無自覚は、おそろしい誤解をいっぱい世に振りまく。

なかでも「心」は、間違いなくあまりに微妙な、そういう一字なのである。「心」と「無心=静かな心」とは似て非なる最たるものと、史上最良の禅者、達磨大師=ボーディ・ダルマは説いていた。だが、それが耳に入っていない人ほど、軽率に「心」「心」と言い過ぎる。   06.2.22

2008 7・30 82

 

 

 

* 静かな心のために  承前  秦 恒平

 

「心根」「心得る」「心安い」などは間違いなく日本語だが、また「安心」「決心」などは中国ふうの表現でも、日本語でも、ある。わざわざ「心を安んじる」「心を決する」と読み直さなくても通用する。

しかし漢籍に書き込まれた「こころ言葉」と思える数多くの熟語も、この際は、日本語ふうに読み直した方がわかりよい。そのわかりよい例を、少し纏めて順序もなく列挙することから、中国語ふう「こころ言葉」に、日本語ふうの印象を得ておこうと思う。そう難儀な話ではない。

「心閑(しづ)か」「心平らか」「心知る」「心怡(たの)しむ」「心遠し」「心に従う」「心に知る」「心にねがう」「心甜(あま)し」「心清し」「心死す」「「心欲す」「心厭う」「心随う」「心転ず」「心泰(やす)し」「心曠(ひろ)し」「心広し」「心感ず」「心安んず」「心和す」「心を照らす」「心を抗(あ)ぐ」「心に希う」「心を洗う」「心を協す」「心集う」「心を一にする」「心を動かさず」「心を治む」「心を同じくす」「心合わす」「心留む」「心を擬す」「心隔たる」「心を白くす」「心を静かにす」「心を正す」「心を尽くす」「心を操る」「心を蕩かす」「心を放つ」「心を開く」「心を深くす」「心を追う」「心を見る」「心を縦(ほしいまま)にす」「心を観る」「心愉しむ」「心を遊ばす」「心を虚しくす」「心を覓(もと)む」「心養う」「心を易くす」「心邪ま」などが、わりと、簡単に物の本から拾い出せる。見当もつかないそんな難儀な物言いは此処には少ないのである。大方察しはつく。

大雑把に言うなら、これら一語一語の「根」の所で、中国人は「心」なるモノを受容していたし、だが、日本で常用されてきたいわゆる日本語の「こころ言葉」に比して、「モノ」の具体に端的によそえた・触れた表現は少なく、かなり抽象的・観念的な物言いに傾いている。

同時に中国人の説きまた思慮する「心」には、儒教の孔子・孟子系と、道教の老子・荘子系と、佛教(天台・禅)系のそれとが、緩やかに歴史的に混在し、儒と、道・佛との間には、同じく「心」と謂いつつ歴然と質的差が感じ取れ、韓非子ら法家もまた少し異なる気味の「心」を念頭に支配していたに違いない。

孔子らは、「心」が粛(つつ)しんで荘(おごそ)かであるならば、容貌・容姿も、伴って舒(しず)かであり人に敬われると言う。

この「心」は、社会的な現実に寄り添っている。人の、行儀を支える心であり平常・平生心である。

佛教の人は、これに対し「慈心三昧(ざんまい)」などと言う。例えば尊者が他を「慈しむ心」に成り切るとき、梵王帝釈(ぼんおうたいしゃく)および諸天衆が倶に飛来し、礼拝すると。このような大乗の「心」は、儒者のと異なり、はるかに内的で超越的に読み取れる。ブッダの境地を理想としている。

儒では「心は体を以て全し、また体を以て傷(やぶ)る」と「心・体」の二元を観ているが、禅では徹到「身心一如=性相不二」の生とし、一元徹底の「本性」に即ち「無心」をの境をみている。

だが、このような経緯に逐一立ち止まり、古人の言説に拘泥し批議していると、その上に日本の「心」思想もあれもこれも合流してくるのだから、ついには何が何ともしれず、肝腎の「心」は千々に乱れて収拾つかなくなる。そんなていたらくが、わたしのような凡庸凡夫のくり返し結局は落ちこんで遁れられない錯綜であったし、混乱であった。

しかり、今も心細く覗き込んだ此の道は、「心って、何?」とバカ正直に真っ直ぐ問うには、どうも適切でなかったというのが、久しい我が慨嘆なのである。       06.2.23

2008 8・5 83

 

 

* 静かな心のために   承前

 

わたしは、喜怒哀楽に歯止めのきかない感情人間であり、そこそこ理窟屋でもあり、頑固に意地をはって生きてきた。百冊余も大小各種の著書を出版しながら、しかも出版世間を向こうに回すかっこうで、私版「秦恒平・湖(うみ)の本」を、創作・エッセイあわせてもう二十年、八十六巻も国内外の読者に手渡し続け、まだまだ続くなどは、近代日本の文学史で稀有の実例を成している、それというのも、よほど人間として我執がつよいからであるだろう。

そんな私であるから、よけいに、これで「静かな心」のどう保てる日が来るだろうかと、歎いてきた。エゴトリップの塊のようであっても、近づく死期をまえに、どうかして静かな「安心」を得たい気持ちは、日増しにつよくなり増さる。あげく、「心は頼れるか」と問い続けてきた、夏目漱石や、彼が書き表した『心』の「先生」のように、である。

できれば「先生」のようには自殺したくない、が、事情つまびらかではないが、産んで・生まれて、そのまま生別を余儀なくされた生母は、不治の病牀で自殺したかも知れない人である。人手を経てわたしに伝えられた母が最期の歌は、

 

十字架に流したまひし血しぶきの一滴をあびて生きたかりしに

 

とあった。

この母と、同じ父とから生まれ、わたしとは一日も一つ家に暮らすことなく他家へ別れ別れ養われていった実兄も、還暦過ぎて、病に冒され自殺した。妻の父親も、愛妻に先立たれ半年後に自らあとを追っている。自分はどうなるのであろうと、わたしが想わなかったわけがない。そして問いつづけた、「心って、何」と。「心は頼れるか」と。

もう十年余の昔になるが、東工大に教授室をもち、作家生活の道草を喰っていた数年のうち、或る年の或る日、大勢の学生達に、(或る年など、わたしの講座に九九七人が登録し、学生もわたしもすさまじい思いをしたことがある。それほど大勢がわたしの教室に集まってくれた。) 「頭脳」「心臓」と書いて示し、どちらかに「こころ」とルビを振るよう求めたことがある。同時に、身の回りの同窓諸君がこの問いにどんな割合で答えるかを予測もせよと求めた。

東工大の学生諸君である、たとえば漱石の『心』を「鑑賞」せよといってもロクに反応しないが、『心』の「先生」が自殺したとき、彼はいったい何歳であったか「論証」せよと問うと、噛みつくように飛びついてくる。

あらかじめ、同僚教授にも上の「こころ」一件で同じことを問うてみると、「あったりまえですよ、圧倒多数が「頭脳」こそ「こころ」と答えるでしょう」と予測してくれた。

結果は、だが、真っ逆さまであった。十人に七人以上が「心臓」に「こころ」とルビを振ったのである。その一方、同窓の仲間達の十人に七人以上は、まちがいなく「頭脳」こそ「こころ」と読むに違いありませんと答えてきたのである。

この回答には、理系優秀校の学生らしく「頭脳」が「こころ」なのは自明にしても、少なくも自分はそれをあえて認めたくない、むしろ「心臓」のほうに、「こころ」の温かみ、柔らかさ、優しさを認めたいという、渇くほどな願望が働いていた。  06.2.24 つづく

2008 8・6 83

 

 

* 静かな心のために   承前

 

「頭脳」と「心臓」と一対にしたとき、「MIND」と「HEART」との異なる二語が胸中にあったのは言うまでもなく、さらに後者に類する「SOUL」も念頭にあって、この一対を同じ「心=こころ」と呼ぶには、双方に差異の幅が大きすぎるという気持ちがあった。当然な前提のようにわたしに有った。

小説家になるまえ、なってからも数年、わたしは医学専門書の出版・編輯に携わり、公衆衛生や保健学にも担当の仕事があった。しばしば関わったその畑の専門家達の、当時盛んに口をついて出た、いわば一つの旗印に、「public minded」という価値観があった。非常に大切な、しかし容易に満たされない目標のように唱えられたのである。

なるほど、と思った。そして思いだしたのである、わたしのように敗戦直後に六・三制の新制中学にすすんだ者の記憶には、耳にタコの「社会性をもて」という先生方のまあ四六時中の大声を。あれだあれだとわたしは思った。ちょっと皮肉っぽかったけれど、裏返しにいえば、戦後二十年経てまだまだ日本は「public minded」の成果にも成熟にも到っていないわけだ…。そして少し顔をしかめた。「public minded」の「minded」といういわば「躾の仕方・受け方」の誰がどんな立場でどっちを分担するというのだろう…。

 

ところが、また年数を経てとうにわたしは小説家としてとぼとぼ生きるようになっていた中で、今度も耳にタコのように聞くハメになったのが、「mind cotrol」された若い知性たちの、悲劇的なオーム真理教帰依と暴発の大事件であった。

いや逸まってはならない、気が付けばオーム真理教だけがそうではなかった。あらゆる方面、政治的な支配傾向にも、教育現場の管理強化面でも、企業のバブルも怖れぬ貪欲泥のような過剰経営でも、総中流志向の社会と家庭とでも、日本人はあまりに容易く「mind control」を受け入れていたのである。平べったくではない、社会という大斜面を上から下へ下へ下へと水の落ちて行くように「コントロール」の手口も幅も微妙な較差はもっていた、だがそれは急流でもせせらぎでも水は水、質の差はないのだった。

だが、そんな日本の状況も世界的に溯れば、ナチスドイツの覇権主義に発した強硬な宣伝戦や、その背景に見え隠れしてフロイドらの新たな精神医学・精神分析学などが既にあり、その禍々しい系譜上に、今ではアメリカやイスラエルその他の容赦なき政治的マインドコントロールが、厖大な利己主義もおめず臆せず厚顔に傲慢に現代世界を制覇しようと横行している。

いまや、少し者の見える目には、隠しようもない事実だが、わるいことに彼等はいささかもそれを隠そうともしていない。何もかも何もかも好き勝手に理屈を付けてゴリ押しに押し通してアメリカのしていることは、自国の利益のみを確実に守るという独り勝ち世界制覇の覇権主義。イスラエルは、その尻馬にみごとに乗っている。

 

「マインド」という名の「心」だけが「心」でないのは、狡猾に承知していながら、「頭」や「脳」で賢く(聡くではない)世渡りしている秀才型エリートたちは、取り憑かれたように、「マインド」こそ「心」であり、それだけが世の中で役に立っていると、うわべの科白はどうあれ、頑強に思いこみ、自分より弱者や下位者を都合良く「マインドコントロール」すべく、どす腹黒く常に常に目論んでいる。それさえ成功すれば「コマーシャルコントロール」も「ポリチカルコントロール」もラクに出来るという確信の道を決して立ち止まらない、それが即ち人間の持ちたがる「覇権」というものであり、国家も団体も個人も、大なり小なりそいう覇権がもちたいと憧れる。出世とか、成功とか、地位とか。みな同じことだ、ジョージ・ブッシュだけが覇権者なのではない。だが、いま地球上でブッシュ率いるアメリカが、頭抜けてそういう統制と支配との頂点に居座り、永久にそうあろうと画策してゴリ押ししていることは、世界中の誰しも知っている。そして国際的には、あわよくばアメリカに替わって独り勝ちの覇権を誇りたい野心国家やその追随国家の多いのは現実であるにせよ、実は、そればかりではない「非覇権主義」の底流か潜流もまた静かにねばり強く動いていることを見逃したくない。

この地球上の人類平和と良い共存とは「非覇権」の広い道を拓く以外にないこと、「アメリカ抜き」の世界を考えつつ手に入れるしかないことを、粘り強く説き続ける優れた政治家たちもこの世界にいることを忘れてはならないし、耳をよく傾ければそういう政治家は、人間の「心」すなわち「ハート」や「ソウル」へ静かな期待をかけている。

アパルトヘイトの無惨からあざやかに南アフリカを一新したデ・クラーク元大統領や、イスラム世界のさなかで叡智を傾けて「非覇権主義」の普及に奔走し発言しつづけるヨルダンのハッサン王子、同様に、EU加入選択の中でチェコスロバキアの独特な「非覇権主義」を鮮明に具体的にひろげようとしてきたハヴェル前大統領、たち。

アメリカの強烈なフレームアップ(でっち上げ)も含む情報戦略に政府ぐるみ巻き込まれた日本では、こういう優秀な世界の人材の、姿も言葉も容易に見えず聞こえないが、『「アメリカ抜き」で世界を考える』(堀武昭著・新潮選書・2006.1)のに、どれほど貴重な存在であるか、貴重な証言や論評はすでに着々出始めている。彼等の行動や言説は、それぞれの押し出す波紋のひろがりが、さも輻輳してゆくように広まらねばならずまた拡がっているけれども、それを支援し効果的にするその為には、人の一人一人で考えたり為したりする力にも真に力の在ることを、もっともっと一人一人が聡明に信じて信じて、自分の手に胸に在る思いや願いを、安易に失望落胆して投げ出してはいけないのである。

 

麹町に外務省系といわれた霞友会館という静かなホテルが昔あって、わたしはそこで何度もカンヅメを喰った。つまり部屋に閉じこめられて原稿を書きに書いたのであるが、窓のすぐ下に、大妻という女子大や女子校のテニスコートがあり、対抗試合のようなことをよくしていて、そんな興奮のさなかいちばん多く叫ばれるのが、「ドンマイ」「ドンマイ」であった。「don’t mind」つまり選手のちょっとした失策を、「気にしない」「気にしない」と励ましていたのである。

ああそうなんだ、「マインド」とは「気にする」「気になる」ことなんだと、仕事の合間になんども思った。

「気にする」「気になる」とは、別の言葉へ敷衍すれば、「気にかける」「思考する」「分別する」「探求する」「論考する」「論策する」「研究する」というふうに、いろんな階段を上りながら、視野を拡大したり、逆に縮め絞り一点へ突き詰めてゆくことではないか。荀子らの説いた「虚」「壱」という方面で働く「心」とは、そういう「マインド」の性質を持っていたんだと、思わずも、思い到ることになった。

「虚」「壱」が「マインドする」働きであるなら、「静」は、その芯のところに支点、始点・原点のように、前二者とは異質に働いている「ドント マインド」を謂うのではないか。そうなんだ、「静かな心」とは、つまり決して「マインドではない心」なのだ、と。

「頭」「脳」の働きとして心理学的に精神医学的に分析され判別されうる「心」とは、絶えず綜合したり分割=分別したり思考したり、それ故に当然のように刻々に変貌・変容・変異という名の「揺れ」や「乱れ」や「砕け」や「騒ぎ」を余儀なくされている「心」なのだと。   06.02.25

 

* この日付をみると、上の一文は、一昨年。やす香と行幸が最期にわが家を訪れた日に書いていた。

2008 8・7 83

 

 

☆ 静かな心のために  承前

 

まさかと思いかねない、が、漢字の「心」は、象形文字として「心臓のカタチ」に象ってある。古代の釈義にも、「人の心なり」また「胸」とも定め、五行の諸説で、心は「火」に配し「土」にも配している。

金文になると「心」用例が見えるが、卜文ではまだ「心」という字は出てこない。ただ聖化儀礼で「寧」や「慶」の字中に「心」のカタチを見せはじめている。「徳」や「愈」など「情」性の表出にも含まれてくる。

そして、言うまでもないが、漢字の世界に、「心」に準じ類する他の文字は幾らも有る。精・神、霊・魂、意・気、感・情、知・識、智・慧、頭・脳さらに道・義、思・惟、等々。また迷・惑、煩・悩、愛・欲、懺・悔など、負の心情にも、「こころ」ざまを擬した文字・漢字は少なくない。

もし、分別し思考するのが英語の「マインド」と謂うなら、これら漢字の中で、「知・識・意・頭・脳」などがそれに類している。他の大方は、むしろ形而上の範囲におさまるのかも知れない。

それにもかかわらず「心」一字は、すべてを統べるほどに普及し、もともと「心臓」を象ったはずが、近代ますます「頭脳」と同義語かのように当たり前に広く意識されてきた。現に、自分はあえてそう吐露しないのに、逆を謂うのに、同じこの大学に学ぶ仲間達の大方はきっと「頭脳」の方を迷わず「こころ」と訓むに違いないと、東工大のたいへん「よく考える」学生諸君はわたしに答えていたのである。

漱石『草枕』の書き出しは、こういうとき、必ず恰好の話柄として引き合いに出る。「知に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ」と。『心』を書くまでに間があるが、この頃から作者はもう「こころ」の研究に向かっていたと読める述懐であり、人口に膾炙して衰えないのは、読者の大方がもっともに思ってきたからだ、漱石先生に「代弁」してもらったという気があるのだろう。

この辺までは、吾々の常識で、およそ話が通る。分かった気になれる。

だが避けては通れない、もう少し難儀な本丸に攻め掛からねばならないのは、この思考の先々で、またそれとの関わりを持ち出さねばとても話が進まないと予想するからであり、書きながら、此の急な道を行くのは、かなりきつい。

佛教では、「心」はむしろ諸悪の根源じゃないですか、と、わたしはペンの理事会の席で、哲学者梅原猛氏に噛みついた。幸か不幸か瀬戸内寂聴尼は言下にわたしに同意されたものの、それより先の道をわたしたちが覗こうとした、考え合ったわけではなかった。

佛教の語彙として、「心」は、どんな風に熟語化し論議されているのだろう。問うのも途方もない、およそ現世にそれほどの密林は在るまいにと、思わず自分の頬を抓ってしまう。やめろ、やめろともう一人の自分に小突かれる。

半端で熟さないのは覚悟して、だが、吶喊する。

「心意」という語が先ず謂われる。こころ、乃至こころに思うこと。「心意所止」と熟し、念処、念慮の意義になる。心意を止め休(や)めよという否認の意味はこれには無いらしい。

「心意識」と謂う場合は、「心=こころ」と「思慮」「認識」との、精神活動の三つの側面を示している。それぞ「マインド」の働きそのもの。

「心猿」とは、俗耳にも届いた「意馬」と一対語で、心欲・我執を制御ならず、さながら猿や馬の騒ぎ暴れ乱れるさまを謂う。「心狂(しんおう)」も、心の惑乱し狂を発しやすい性質に触れた怖い物言いである。

なぜこうなるか。

「心縁」と謂い「心境」と謂うとき、心の、ともすれば外界の事物へ事物へ殺到し拘泥し執着して、あげく「心垢(しんく)」にまみれ「心下劣(しんげれつ)」に惑溺してしまうハメにもなる。分別には分別違いがあり、考えにも考え違いがあり、思惑には思惑違いはつきものであるから、知能の優劣や高下にもたいした違いはなく、すなわち人は「心」ゆえに「迷惑」しがちになる。

外へ外へ憧れ向かう「心幻」は、貪欲や瞋恚や誤算に惑い、迷い、しばしば瞬時に「心錯乱」し、「心違乱」しつづける。「心清浄」根源の「心界」や「心海」の明浄処から、我からまざまざ、むざむざと遠ざかり、「心行」ついに懊悩して「喪心」「乱心」してしまう。病院に逃げこんでも、医薬はほとんど「心根」に届かない。妨げている心の垢や心の襤褸が多すぎ、つまりはそれが「慾心」なのであろう。

「心行処」つまり心の働きを、「心外(しんげ)」ならぬ「内心」の本性に深く向け、「心行尽く滅」する言語道断・静謐の「心空」を得ようとしないから仕方がない……と、所詮身も蓋もない仕儀に到る。人はまだしも未練に「修羅場だもの」と嘯(うそぶ)いたりする。

じつに夥しい「心」観が、久しい歴史と倶に生まれた。ことが「人の心」のはなし、何不思議ないむしろ当然の現象であり、その全容を、乱暴に簡略に一纏めにしてしまえば、「心」は外向きに乱れ騒いで果てしないモノだが、深く内向きにひきとめ、本来本性の「清浄心」「常心」「不動心」として自覚する大切さを、いろいろに謂うて説いているだろうことは、ほぼ間違いがない。

ただ、此処で一つ、怖ろしいほど大切な、或る疑念や不安に逢着する。

「こころ」という言葉一つに、とんでもない混同が、したがって迷惑な撞着があるために、吾々凡俗はもとより、哲学者も宗教学者も、高僧も凡僧もが、外向きにも内向きにも無神経に、同じ「心」を濫用するハメに陥っている。

例えば「心地(しんじ)」という基本の「心」認識にそれが露出する。

「心」は、万象・諸事象を生じる根源である故に「心地」と譬えて、誰一人にも此の「心地」は備わると謂う。「心地」のことはわかる、「仏性」とも「本性」とも言い換えられている。

だが、例えば荀子らの「虚」「壱」と説いたような、外界を場として大活躍する「マインド」と、深奥の「心海」に本性・仏性の生地(きじ)として在る「静かな心」とを、そんなに曖昧に、同じ一語の「心」と呼んで、間違わないのか。それで良いのか。

それならば、なぜ余りにしばしば、「滅」という一字と倶に「心」を説きかつ語ることが佛教世界に多いのか。

「滅」とは、強い否定である。「心を滅する」と謂えば、つよく「心を否認し・排除し・滅尽する」意義になるではないか。清泉泓泓(おうおう)の「心地(しんじ)」とは、「心」ならぬ「無心」の静まる明浄処の意義ではないのか。

「心=外向きに分別・思考・論証・欲望」と、「無心=本性の心・静かな心」とが、まるで異なるのは、少しでも原初の佛教や、また達磨以来中国へ伝わり日本へ渡った禅の実践や、はたまた老子らの「道=タオ」の教えに、はっきり認められている。

それなのに、なおかつ、禅宗の師家ですら、しばしば無頓着に「心」の大事を、只その一字一語で以てすべて話されるために、凡俗は大いに惑い、奧深い本来を聞き違えてしまうのではなかろうか。  06.2.26

2008 8・11 83

 

 

* 静かな心のために  承前  秦 恒平

 

「みこころのままに」と祈るのは、キリスト教信徒の、もっとも深いもっとも純な帰依の気持ち、信仰心であろうと想う。この「みこころ」は、カソリックふうには「神の愛」という「御大切」にあたるのだろう。そして「仏の慈悲」とも通いあうのだろう。

ただしこの「愛」一字が、一つ間違えばまた「心」と同じく、佛教では「諸悪の根源」になりかねない。愛執・愛染・愛欲の意味にたちまち成り変わるのが「愛」なのだから。

慈悲心を即ち「愛」と説く僧侶もいるかも知れない、耳ざわりではない、が、危ない橋を渡ることにもなる。説教にほころびが出やすくなる。

キリスト教があれほど積極的に「愛」を言うのに、僧らしき僧であればあるほど「愛欲に陥るな」と説いても、「愛せよ」とは、ふつう言わない。言いにくいのである。言うときは、必ずのように「慈悲心」に同じい意味で言う。

むろん「愛育」「愛果」のような良い意義へ向かう愛も無いワケでないが、「愛海」は愛欲の深さを海の深さに譬えているし、「愛鬼」は愛着の人を害するおそれを謂うている。「愛行」の第一義は貪欲や歪んだ分別を指さしている。愛はおおかた瞋恚や執着の義にべったり附着するのであり、「静かな心」という明浄の心地(しんじ)とは、とて結びつかない。

日本へ渡ってきた佛教は、主に、西域を通り、南北朝や隋、唐での大繁栄を経た、密教も禅もふくめた大乗仏教であった。

大乗の義に、凡俗衆生を度する、つまり彼岸の理想国へ大きな船に皆ともに乗り込んで渡ろうという、広義か極めて狭義か、ともあれ大きな「愛」がある。これ以上の「愛」があろうかと有難くて、勿論その愛は、執着・愛着の愛でも、肉欲・肉親の愛でもなく、愛欲とは大いに異なる大慈・大悲の愛であると、それぐらいは吾々でも言葉の上で理解しているし、広く遍く知られてもいるだろう。

キリスト教の専売のような「愛」とても、「エロス(肉の愛)」と「アガペー(聖なる愛)」との分別はされてあり、これもおおよそ常識の範囲内である。

カソリックの謂う「御大切の愛」とは、一つに神の愛であり、更には神への愛でもある。「みこころ」なる恩寵と裁きの愛であり、それへ感謝と信仰・帰依の愛である。阿弥陀の本願という慈悲心や、衆生の念仏という回向心とも通い合うかも知れない。

だが、「愛」と謂い「心」と謂い、要するに決して簡明な字義でなく言葉でないことだけは、「静かな心」との、「心地無心」との、かねあいでよく心得ていないと甚だ無頼に騒がしいことになる。「心」は根が乱れ騒ぎやすい上に、安易に「愛」が絡みつけば、ほとんど収拾がつかない。愛には貪欲も瞋恚も嫉妬もつきものだと、どんな高邁で深甚な説法に聴くよりも、人はみな暮らしに生き、体験してよく心得ている。

けれどもその「愛」から凡夫の誰一人として見放されたくないのが人間の執着というものであり、この世間に「愛」の占める座は、いつも、いつの時代にも、想像以上に高位に在る。うかとも「愛」の悪口など言えたものではないのである。「愛」は、ほとんど良き「心」の同義語のように人間社会に存在を認められている。愛され尊敬されている。二つながら、いつもこれを唱えていれば、免罪符か関所札かのように、不思議に世の道義にかなって尊重される。

なんという、ややこしい此の世であることか。

身の回りをよく見廻してみると分かる。あの先生もこの先生ももののわかった先生の顔をして、あまりに大雑把に、軽率なほど無意味に「愛」と唱え「心」と挙げて、その先が出てこない。そして案に違い世の中は俗悪に軽薄に成り行くままである。

老子は言った、どのような真実・真理も、一度「言葉」で語られると、その瞬間からウソになると。わたしは言う、その最たる一対に、「愛」があり「心」があると。まさしく、それは悪しく悪しく語られてしまうか、ただ無内容な「ひらけゴマ」なみの呪文として流布された、好一対のことばなのであると。

言うまでもない、大事なのは、この「先」である。   06.2.27

2008 8・13 83

 

 

* 静かな心のために  承前

 

「心」の科学と挙げられる何があるか。精神医学か、心理学か。前者には精神病理学も精神分析学も精神身体医学も大きく含まれる。心理学には久しい発展史があり、人格や動機や図形や記号等々の心理学が含まれている。宗教心理学も社会心理学も行動心理学も教育心理学等々もあり、うそ発見器も範囲内にある。神学や哲学や倫理学も「心」の学問である側面を持っている。何のことはない経済学も法学も歴史学も、むろん文学・藝術学も、ありとあらゆる学問分野が「心」との関わりをもち互いに輻輳し関連していると謂えば、即ち元の杢阿弥で、ああそうでしょう、そんなものでしょうと言って歎息しておしまいになる。

つまり「心」学という専門学は、科学として単立できるものではない。

だが遠く中国に「心学」の二字がなかったのではない。日本にも近世初期にすでに『心学五倫書』が存在した。事実、系譜をとくに言うことは控えるが、我が国にははっきり「心学」を名乗る教学が、在った。勢力もあり、「道学」とも謂われた。だが老子の「道=タオ」教とは異質で、あくまで庶民、ことに商人階層へ日常の倫理を鳴らした啓蒙・教育・指導の色が濃かった。

石田梅岩に肇まる「石門心学」には、少なくも近世日本人が、我が「心」や人の「心」とどう交渉したか、日本の「心」の説としての特色が、はっきり見えるのが、梅岩に流れ出た日本の「心学」であった。

商家に奉公しながら儒教を学んだ梅岩は、一七二九年(享保十四年)京都で町人を集めて聴講無料、広く道義を訴えて、いわば社会教育の始祖となった。彼は商人を「市井の臣」と位置ずけ社会的職分を強調しながら、商業道徳の確立へ一心に説いたのである。

梅岩の後継者となった手島堵庵は梅岩思想を一段と平易にし、同志が切磋琢磨の組織と場とを、自宅五楽舎のほか、明倫舎、備正舎、時習舎などの「講舎の制」へ仕立てて行った。この三舎が「心学」の本山となり、「本心」を「発明」した者に「断書」という一種の免許状も発行している。

次いで堵庵印可の門弟中沢道二が一七七九年(安永八年)に江戸へ下ると、播州山崎藩主本多忠可をはじめ十藩の藩主が道二の門下に入った。町人の学問が上流武家へ浸透したのである。

この道二から、比喩や諧謔で笑わせ考えさせる「道話」の形で、時には三千人もの聴衆を集めている。

しかし、此の後にあらわれた堵庵養子の上河淇水は、すすんで「心学」の朱子学化を意図した。

鎌田柳泓も、儒佛老の三教一致を支持して「心学」の宋学への一致を主張、知情意の根源を求める方へと向かった。

「心学」の哲学化と、「道学」の俗談平語による大衆の道義的啓蒙とに、なにがなし分断の傾向が見えてくると、柴田鳩翁・奥田頼杖ら「道話」の大家の人気も、いつしれず強弩の末勢へ下降して行くのは余儀ないことだった。「日本の(石門)心学」というい個性が、近づく明治維新をまえに、味わいを薄めていた、いや変調しかけていたのであろう。

「心学」の平俗を跳び越え、いきなり「核心」はと問えば、要は「本心」に立つことであったろう。「心行」を滅した「無心」に帰するよりも、「まごころ」という誠の道へ、人間の心理・世間の道義から「心」が論理化されていた。根に武家社会の秩序に身をよせた町人の道徳心を置き、良い意味の分別心を実践的に問い求めていた。

つまりは、勝れた「マインド」の実践的活躍が期待されたと言えようか。

だが、「心」が、良くも悪しくも「分別=マインド」だけで尽きているか、その不審が一度加われってくれば、論理の補強のために、既成の宗学・教学がつっ支え棒として持ち出されるのは、自然の趨であろう。この稿の求めている「静かな心」とは、おのずと行く道をもともと分けていた江戸の「心学」なのである。   06.2.28

2008 8・16 83

 

 

* 千葉のe-OLDさんに戴いている「阿弥陀経ノート」を読み、「アイヌの舟(二)」で彼岸に、ゆっくりゆっくり渡る。無念・無想。わたしの座禅・瞑想。

阿弥陀経は般若心経とならんで少年来もっとも多く親しみ、心経のように暗誦はできないが、手にしていればほぼ目をむけなくても「お経読み」でラクに、そして或る程度までこまやかに感受できる。千葉の「兄さん」は、つとに般若心経の現代語訳もされているが、一句一句「表覧」にし現代語訳も添えた此の労作は、もの柔らかな境涯を想わせてじつに有り難い。

ただし「今・此処」のわたしは、自身をむなしく投げ出し捨身飼虎することは、出来ないというより、してはならぬと思っている。

逢花打花、逢月打月。

「無行為」により安心が得られるのではない、「今・此処」に貫通・尽力して真の「捨身飼虎」に至れとバグワンは説く。バグワンに教えられている。バグワンはヒマラヤへ去れとも山林へにげよとも決して言わない。仏陀も云わない。此の地獄の巷にいながら安心せよと。

右し左し大きくローリングしながら静かな「目」を深奥に持し、はげしい嵐のように、台風のように分別を捨てて進めと。花に逢えば、月に逢えば、花を月を即心痛打せよと導く。

私の胸の芯には心経も阿弥陀経も在る。無いのではない。千葉の人が絵解きで示してくれているように、いましもわたしは、妻とであろう彼岸への舟を感謝して静かに漕いでいるのである。

2008 8・17 83

 

 

* 静かな心のために   承前

 

「明治」はよくもあしくも大時代であった。

ながい鎖国のあとの、足早なというより足元もよろよろの開国で、荀子の心の説ふうにいえば、むやみと外のものを飲み込んだ「心=マインド」に似ていた。吐瀉して「虚」や「壱」にもどすことも不可能だった。やたらトントン、ガヤガヤと騒がしかった。

鴎外は日本はいま「普請中」だといい、漱石は「危ない危ない」と警告した。混沌そのもののなかで、強引に秩序づくりが忙しかった。

 

ご一新で、なにより「言葉」が混交した。まず舶来の概念が、盛んに翻訳・造語された。廃仏毀釈の惟神道(かんながらのみち)は勢力を逆転され、キリシタンのマリア信仰は、プロテスタントの「聖書のみ」に道を譲った。

四民秩序の急がれる中で、「土下座」のカタチがそのまま「正坐」と定まった。

青年は「ラブ」といい、作家は「肉の悩み」をうったえ、学生は「不可解」と遺書して滝へ身を投じた。知識人は「和魂洋才」と唱え、藩閥政府は「神聖にして侵すべからず」と聖域を利した。

「自由民権」「憲法発布」「議会開設」の請願の波は国に溢れ、強権は大弾圧をもって普く応えた。

国は西欧の「不平等条約」に歎きながら、しかも倍する同じ歎きを近隣国には強要・恫喝した。

「漢文」は消え去り「ローマ字」で日記が書かれ、「ハイカラ」が好まれ、しかも「戦争」が国策となり、「大逆」は闇に屠られ、「ああ弟よ君を泣く、君死にたまふことなかれ」と歌人の姉は歌った。「アカ」が憎まれ、「時代」は閉塞し、「乃木さん」が殉死、「静かな心」の得られぬ『心』の「先生」も自殺した。

この「明治」で、もし、この稿の要請するまま、唯一人を拉し来り「静かな心」のために静かに問うならば、誰に…と、わたしは、やや佇んで思案する。

 

新井奧邃(おうすい)――。

奇を衒うか。だれが今、此の名を憶えているだろう。

奧邃は弘化三年(一八四六)仙台に生まれ、江戸遊学の後、慶応四年二十三歳で脱藩、函館にのがれてキリスト教に接し、明治三年、二十五歳のとき横浜から渡米。サンフランシスコへ、さらにニューヨークへ、そしてハリスに師事しテカリフォルニアに転じた。帰国したのは慈母の死をしったあと、明治三十二年であった。五十四歳の今浦島であった。

生まれて無一物、貧の生涯であった。キリスト教に傾倒し、然も純真。帰国した彼を迎え入れた明治女学校の校長巌本善治は、この新井を擁して日本のキリスト教界に新風を興そうと期待したが、奧邃は、そのためにはほんの少しも動かなかったのである。

 

奧邃の思想の根は、「学は行に従う」すなわち義理明快な孔子の説、また熱心な孟子の徒であった。老子荘子の教えは朦朧とし混沌として、人間界の価値判断を混乱させると有害視した。反対だった。人格化されない知識は生きた知識ではない。大志を口にしながら小事の務めを軽んじる口頭の徒を常に奧邃は警(いまし)め、平生の常倫を明らかにするのが哲学のつとめだと言った。老荘は懐疑と不安とニヒリズムを催迫するほか能のない妄説だと真っ向批判していたのである。

奧邃は、人間界の現実に即して、その場の倫理と道徳とを重んじた。誠の一字を大切に語った。彼に江戸の「心学」との系譜はみとめられまいが、人の満ちたる誠を説いた石門、堵門の心学が、窮まるところで、また新たに儒学の補強を目論んだことで知れるように、奧邃のいう「誠」にも儒学の感化は著しかった。

彼はキリスト教に深まる以前、慶応二年末、先代の藩校養賢堂の貢進生として江戸に留学し、昌平黌を経て、古学派の安井息軒に専ら「孟子」を教わった。「根底に孟子あり」と自ら言うている。彼新井奧邃は、「儒」の教えが、西欧の民主思想に学ぶさいの根底・基盤でありたいと想う人であった。

ただし明治の知識人として、必ずしも異例ではない。ほとんどが下級武士の出であった明治第一期の錚々たる知識人は、おおかた、根に、少壮にして朱子学・陽明学ないし古学の薫陶を得ていた。そしてそれは概ね「経世の見識」として活かされ、「現実のモラル」に接して働いた。それが「明治」という時代の要請であった。

奧邃はしかし、儒学の本来政治学でありがちな現実性・合理性とはことなる個性を持っていた。かなり変わり種であった。彼は霊性の神秘を、函館でであい受洗していたギリシア正教会の信仰に受けていた。老荘の神秘主義を胡乱(うろん)とし退けながら、東方教会の「静寂主義」には崇拝感化されていた。神の「至静」において無限に進化する、とびきりの霊性主義を彼は早くから受け容れていたのである。

儒学は「マインド」を精神の基軸と建てている。

老荘は「マインド」をただ夢にみて、玄の玄たる門に入れという。真理は言外にこそあり、言葉にした瞬間に真理ではなくなると老子は真っ先に警告している。

奧邃は訥弁の人であったが、また徹底した筆の人、「書いて表す」ことを大切に勉めた。しかも明治三十年より後に帰国して、なお人の驚く滔々たる「漢文」「漢文体」で書ける人であった。キリスト教を講じるより、孟子を講じた。時代は、もう漢文など、忘れ去っていたのだが。

わたしがそんな彼新井奧邃にいま問いたいのは、彼の実践し推奨した、謙遜で「静かな心」を、である。彼が帰国して巣鴨の杜に建てた小さな謙和舎の舎則は、五時起床、火の用心のほか、「静黙を守る」の、ただ三点であった。  06.3.1

 

* ああ、むずかしい。

2008 8・27 83

 

 

* ビルの七階であるマスターが講演していたとき、烈しい地震が来て参会の聴衆は一斉に逃げ出した。恐怖に駆られた幹事役も逃げだそうとしたが、話していた人はモトの席に微動もしないで目を閉じているので、責任上動けず、隣に自分も座ったものの動顛していた。

地震は去っていった。マスターは、誰もいないのに話しやめたところから正確に次をまた話し始めたが、幹事は聴くどころでなく、話をやめてもらい、しかしこう聞かずにおれなかった。「みんな怖くて飛びだして行きました、自分もそうしたかったが。あなたは怖ろしくなかったのですか」と。

マスターは言った、自分も実は逃げ出したんですよと。ただし、あなた達は「外」へ逃げた。自分は自分の「内」なる深みへ逃げ込んだ。「外」へ逃げても地震はどこも地震、危険は同じ。しかし「内」なる奥の静寂は、地震も脅かすことなどできないからね、と。

 

* 求めてやまないのは、この「内」なる静寂境。そこに立ちたい。そこに居たい。「外」が嵐でも地震でも懼れずに済む。だが、この境地がじつに遠い。

2008 8・29 83

 

 

* 静かな心のために  承前

 

明治時代、「静かな心」をと求める、これが存外に流行りであった。「座禅」には漱石も通った。森田草平の恋人平塚明子(らいてう)も「参禅」していた。参禅のようなそうでないような「静座」の行が神妙そうに流行った。そんな一々に触れていても、わたしの思っている「静かな心」へは、なかなか近づけそうにない。

それならば、あえて「新井奧邃(あらいおうすい)」と、たとえ二日三日でもわたしは対座してみたい。

臼井吉見先生の長編小説『安曇野』にも「奧邃」は現れる。野上弥生子も書いている。奧邃は「世ノ文明ハ一大廃墟ヲ作(な)サン」と謂った。今日、同じ危惧を抱く者は、とても明治時代の比ではあるまい……。

上昇史観と下降史観とが、ある。世の中は、上向きか下向きか。歴史をどっちの視野と視線でつかむか。

およそ信長・秀吉の安土桃山時代まで、日本は下降史観に導かれていた。制度・身分的には天皇制と位階にしばられ、堅く頭を抑えられていた。精神的には佛教の末法・末世観があまねく視野をふさいだ。その上、土地所有を基本の資産・権勢と願望しつつ、大洋に鎖され山岳に蔽われた日本は、あまりに狭い島国で、とても上昇の欲望は満足されない。

だが、信長は西欧へ視野をひろげ、キリシタンの存在を知って、仏法の本拠、強大な財の私有者である比叡山延暦寺を焼くのを躊躇わなかった。秀吉は無惨なまで一向一揆と闘い、さらに朝鮮や明国を吐呑し支配して、その王となり、宏大な領土を切り取ってみせると豪語した。

人は、そういう志望や希望もほんとうにあり得そうだと驚きながら、生きて上昇への頭をおさえていた堅い蓋が、抜けて行くようにも感じた。期待すらした。

家康等の徳川政権はこの期待を、秩序維持には危険と感じ、また鎖国の蓋でおさえた。江戸時代とは、そんなゴツい蓋が、都合よくは働いてくれなかった三百年の謂でもあった。「作新」は抑えられ、基本は「保守」であった。武士も町人も朝廷も、なにより将軍以下諸大名すら、上昇史観にはとんと乗れなかった。

そのような世の中から、遠眼鏡でかすかに世界をうかがい得る知識人と、貧窮・平伏を制度的に強いられ続けた下級武士とが、急速に接近し、輪郭を重ね、一体になってゆく過程で、江戸時代はついに終焉を迎え、ご一新して、強引であれ何であれ上昇史観に切り替える以外日本の立つ瀬はないと腹をくくった明治政府による、「富国強兵・和魂洋才」そして「神聖天皇制の国体思想」が強硬に強行・宣伝された。

それらが森鴎外の目に日本は「普請中」と映じ、夏目漱石の日本は「危ない危ない」になり、新井奧邃のように、儒学とキリスト教と特異な人間性とを孕みもった一種の覚者からは、「一大廃墟」へ転げ落ちる「文明」ないし「日本」の下降史観が呟かれていたのである。

奧邃は、まず古学の安井息軒に儒を学び、なにより孟子に、心行の根底を得ている。しかも武家社会幕末の険難な隘路を、脱藩して函館にのがれ、ほどなくキリスト教に心惹かれ、受洗し傾倒したとき、いったい何が、彼を、そうも惹きつけたのか。

安井息軒は『論語』の人だった。「王道」を説く人だった。人性の善を堅く信じたのである。奧邃もまた推服し、生涯確信した。

だが師息軒は有名なキリスト教を排撃の人であった。批判の著『弁妄』は、言も論も微細を尽くしている。

ところが奧邃は進んでキリスト教に投じ、しかも孟子の性善説を生涯棄てなかった。キリスト教と孔・孟の儒教とに、接点というよりも、いわば「融点」を察し、それを強く把握したからにちがいない。彼は人の性善が「天愛」に因ると信じた。「天」とは、怪力乱心を語らない儒教でも、重要な語彙、思想の原質であったし、また「天にまします神」を仰ぐキリスト教思想の原点でもある。「神の愛」の人に向かう天は始原でもある。

奧邃は、知行一致を地上の倫理に据えて放たぬ儒学を、みずから高くはみ出て、超越的な霊のキリスト教世界へ我から飛翔した。そこに、彼の大きな「批評」が生まれている。アメリカへ渡る前にすでに奧邃は基督者だった。アメリカでハリスに出逢い、キリスト教の実践と研鑽とははるかに深まったと観られる。ところが彼は、三十年ぶりに日本語もたどたどしく帰国すると、すぐさま請われれば『孟子』を講じ、さらにまた現代の諸矛盾に向かい敢然と漢文調の健筆をふるった。

例えば鉱毒事件で孤独に闘う田中正造を、彼は熱く支援ている。勝れた明治現代人達――野口米次郎、高村光太郎、萩原守衛、柳敬助ら――とも交際しているのに、著名なキリスト教の名士たちとは全く同席すらしようとしなかった。奧邃が謙遜で熱烈なキリスト教徒であることに少しの疑いもはさめないにかかわらず、彼の聖書を手にした姿を人は一度も見なかった。聖書の引用から発語することもなかった。宗派の教義になずんだ儀式めく何一つせず、新井奧邃は、厳冬にも五時に起き、火の用心のほかは「静黙」そして独り謙和舎の二階で瞑想し祈祷していた。明治女学校の校長巌本がどう請おうとも教師にならず、講演も引き受けず、わずかに二三の子弟の「世話」を謙和舎で引き受けていた。しかし原稿は旺盛に書いたのである、野上弥生子ら女学生達に「難しい」「わからない」とぼやかれながらである。

「静かな心」(らしき、と一応限定しておくが、)の或いは顕著な一例を、この奧邃に垣間見ることは、ゆるされていいだろう。    06.3.2

 

* 新井奥邃はとても気になる人である。彼は孟子を尊重した。はたして性善説の故であったろうか、むしろ孟子の革命を容認した思想に奥邃は頷いていたのではないか。

「孟子は日本に入らず」という考えがあった。江戸時代にあり、雨月物語の秋成は、巻頭作『白峰』でそれを西行と崇徳院とに語り合わせている。奥邃は、「天愛」を重く見たが、天皇制に身を寄せてはいなかったろう。

2008 8・30 83

 

 

☆ 静かな心のために   承前

 

新井奧邃(あらいおうすい)の自得、興味をひく自得に、儒学とキリスト教に通底する民主主義的な理解がある。

彼は平民主義、万民平等、権貴を排して、少数支配を拒絶した。偏頗にはしる権力政治は絶えず是正し革新をはからねばと、奧邃は海外の社会主義の潮流にもくわしく、国内の時局にも、非戦論、反戦・平和論、女性問題、鉱毒事件等々に、尖鋭な論陣をつねに張った。根底は孟子や管子の民主的な革命思想にあり、「天愛」への深い信に生まれていたのである。

念頭には必ずしも「日本」なく、「明治」もましてなく、人間の平等を確信していた。「衆人の言を個別に聴けば愚なるも、集合して聴けば聖」と説いた管子の言に頷く奧邃だった。人の真意も、また行為の結実も、小さな一つ一つをゆるがせにせず大きく積めばこそ成ると云い、平民大衆の総意・大意は、少数の知識人の知恵よりもはるかに常に正鵠を射るに近いと言い切った。

平民主義に徹していた孟子、人間の平等主義に徹したイエス・キリスト、これを奧邃は「真人の愛」と謂い、その愛には革命を認める思想が脈打つとし、心服した。

新井奧邃は静黙・慎黙の日々に徹し、世に顔を出さず名と業績を死後に残そうとせず、しかも「筆の人」として詞藻は芳醇、文体は活躍、意見は凱切、明治の高名な文人の多くが、陸羯南も三宅雪嶺も田中正造も高村光太郎も、刮目し讃嘆した。ただし殆どすべてが見事に熟した漢文か漢文体であった。

(昨夜は床についてのち、つねの読書に時間を掛け、さらに奧邃を思い思い、明け方になった。落ち着くために上体を起こし数十分暗中に静座し、平静をえてから二時間あまり眠った。今日は病院で指導があり、体調は、わたしの自覚如何とかかわらず芳しい結果を示していなかった。大好きな酒を禁じられた。奧邃は季節にかかわらず五時に起き、一箪の食、一瓢の飲で足りた。だが、睡眠の助けに名酒太平山をやることがあった。

疲労を増さぬ為、今日はこれだけにする。 湖 06.3.3 )

 

* 晩の七時半。欠かさぬ妻の宵のピアノが鳴っている。わたしの「朝の一服」は根気よく続いている。

もう今日は機械を閉じていいだろう。明朝早くに聖路加へ出向く。大過ないことを願い、帰りに機嫌良くしばらくぶりに美味いものを昼飯に喰って帰りたいが。

2008 9・4 84

 

 

☆ 静かな心のために  承前

なぜ、此処へ新井奧邃(あらいおうすい)の登場を求めたか、この辺でけじめをつけ、前途の目処をえたい。

わたしは、とびきりの、一の人材を、主題への或る対照例、良き対照例かのように念頭に置きたかった。もとより此処は奧邃その人を論じる場所ではない。ただこのおそらく湮滅というにちかく現代日本から忘却されている、とびきりの一日本人、一明治人に、もう一つ「静かな心」ふうの典型を、わたしは見確かめておきたかった。「ふう」というのは、奧邃の「静」は、わたしが此の稿に手探りしている「静かな心」とは明らかに異質に想われるからである。

筆を駆使することをべつにすれば、奧邃の日常の挙止は、あくまで静黙であったと、どんな証言も一致している。彼奧邃が静寂に意識して身を置いたのは、東洋の先達、主として孔孟の謙虚に学んだとともに、またキリスト教のなかでも密教の神秘を想像させてやまない東方キリスト教・ロシア正教に早く函館で接していた感化を言いうるだろう。ただ奧邃の意思は、あくまで「現実」の人間や生活や時局や世界へ向けられていた。それらと向き合う姿勢として謙遜と静黙とを大切にしていた。それは明瞭だった。その意味で彼の「静」は、禅の「静」とは異なり、儒者の「静」に加え、生活と信仰との謙遜が生きた「静」であった。端的には、騒がしく音を立てない「静」かな人であった。

奧邃の現実の働き――筆墨や論説など――とは、彼自身の言句をかりて謂うなら、太陽光の本質的な静謐が、ときにかすかに小波立つ「瀾」に同じいもので、それは筆であり言説であり孤に徹しながらの祈祷であった。騒がしい「私心」を去って「天愛」とともに生きる自覚。奧邃は、つまり夏目漱石が、述べておそらくは果たせなかった「則天去私」を成しえていた一人であったろう。だが、あえて繰り返すが「無心」の静かさとは意味が違っていた。「私心」なき静かな人生だった。

大正十年の北原白秋に、「かそけく静かな」父と母とをうたった、こんな三首がある。

 

あなかそか父と母とは目のさめて何か宣(の)らせり雪の夜明を

あなかそか父と母とは朝の雪ながめておはす茶を湧かしつつ

あなしづか父と母とは一言のかそけきことも昼は宣らさね

 

かつてわたしはこの三首に、こんな観察の短文を添えた。

「日本の父と母との、少なくも戦前までのこれは悠久を思わせる典型的な姿であり、愛され尊敬された理想の姿であり、この静謐に美も倫理も覚悟の深さも意気の毅さすらも秘められていた。日本は、好むと好まぬにかかわらずこういう父母の国であった。子もこういう父母にまた成ろうとした。すくなくもそういう時代が長かった。むろん現代の読者は、せめてここに青い畳と白い障子との暮し、火鉢と縁側と庭先の暮し、寒くて静かで寡黙な社会の、しかも自負をたたえた厳しい空気も察して読まねばならない。作者はこの父と母とを現実の父母を超えてシンボリックに歌っていよう。慈愛の深さをただしく汲みとって、歌の格というものが備わっている。愛誦に耐えて心温かい。なつかしい。」

この父と母との先駆に、『折焚く柴の記』新井白石の父母の像へも遡れるだろう。白石は日本史上の最も優れた「人間」の一人であるが、たまたま姓も同じ新井奧邃は、そんな白石の系譜に立ちそうな日本人で、また白石が稀有の詩人でもあったように、人となりに「天愛」に想い馳せる詩人の風情を湛えていた。

白秋の父母はあくまで生活者として「かそけく」「しづか」であるが、新井白石は理想的な政治に勇猛心と稀有の雄弁とでとりくんだし、新井奧邃も、知行一致の「筆」に託して言説の働きを終生信じた人であった。しかもその断片すら没後に遺そうとは願わない人だった。私心を疎んで去り、けれど理も言葉も、神秘も想像も、身に蓄えていた。白石と似て優れた「マインド」を生涯働かせ続けた精神の人だった。振舞いはあくまで静かであった。「静かな心」の人であったと、優に謂える。

だが、わたしが手探りしている「静かな心」と奧邃のそれとは、おそらくよほど異なっているだろうと言いたさに、わたしは鄭重な慕わしさもともに、新井奧邃に、此処へ出てもらったのである。  06.3.4

2008 9・6 84

 

 

* 毛革の、踝を包んでくれる軽い沓を、いまも履いている。温かい。

グノーシス文書には、歴然と父母神思想に触れたものが在るという。新井奥邃はこの今日的にも未来的にも展開と帰依の魅力を蔵した信仰を、何から、誰から得ていたのだろうと、興味の油然と湧き起こるのを覚える。

2008 12・4 87

 

 

* 風がしきりに物を鳴らしている。植木鉢も途方なく大きく重くなったベンジャミンを、寒気の戸外から今日あたりどうしても、冬ごもりにまた家に入れてやらねばならぬ。

 

* 新井奥邃の父母神思想にさらに踏み込んでいた。奥邃にというより、古代のグノーシス思想がどんな歴史の潜流となって露表したのかに思い惹かれる。興味深い。

シェーカー教はもう消滅していると思うが、キリストとしてイエスがまず男子で世に現れ、時を経て十八世紀、英国人女性のアン・リーが女子として現れたと、教祖アン・リー歿後に、イエスとアンとをシェーカーの信者達は「一対視」していた。渡米して奥邃が心身を預けたハリスの新生兄弟社も、シェーカーやクエーカーに信仰の性格上親近していたと思われる。ハリスの感化は紛れなかったかと論者は推察している。

2008 12・5 87

 

 

* 新井奥邃の父母神・男女一体神の思想の一つ大切なところは、明瞭に男尊女卑へ反対の思想、男女平等・同権の思想であるということ。

男女平等・同権が確立されていない間は、むしろ未来に希望があるのであって、平等同権へ邁進すべきだと彼は断言している。

あまりにも新井奥邃は狭い狭い範囲でしか識られていない。基督教として異端であろうがあるまいが、それはわたしの関心にない。神は自身にかたどって「男女」を創られたと『創世記』が明瞭に言っているのだから、論理の筋としてグノーシスも、シェーカーのアン・リーもまた新井奥邃も、この点は、間違っていないはずだが、それもわたしの議論することではない。

ただ男女は平等で同権だというのは当たり前の話である。

 

* 「e-文藝館=湖(umi)」に、故永島忠重氏の『新井奥邃略伝』、またご健在の笠原芳光さんによる『新井奥邃の父母神思想』を併せ掲載できたことは、この希有の思想家にして異色の基督者新井奥邃の核心を読者の皆さんにお届けしうるものとして欣快に耐えない。

日本には一体・同体としてでこそないが「夫婦神」は日本神話にも顕在しており、道祖神もまた夫婦神ふうに目に見えている、が、奥邃のいうそれは、男女・父母という神が異体異身でなく、「一而二、二而一」である。正統を唱える基督教でこういう神観は、はっきり異端の最たるものと受け容れていない。カソリックのマリア信仰は、だが、その妥協かのようにも見えなくない。

何度も言うが基督教にわたしは拘る気はない。神というのは父だけでない母だけでない、父にして母、母にして父であればこそ具足の神であり、そこから人間社会の円満な精神土壌があり得るはずという新井奥邃の考えには、合理性が認められると思うのである。笠原さんも言われている、しかし日本の基督者からは誰一人こういう発想は現れていない、奥邃以外には。

紹介するに足ると思った。

2008 12・7 87

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