* 午後、東大法文一号館の二階階段教室で、日本学術振興会の「多国語プロジェクト」による「GT書体フォント漢字六万六千字セット」発表会があり、招かれて出かけた。去年も一昨年も会合があり、そのつど参加していた。今日は、長島弘明君の演説も聴いた。長島君などと言っていられない、今は東大教授。初めての出逢いは、わたしに、東大五月祭に講演を頼んできた、まだ学生だった。ろくな講演も出来なかったが、カレーの店の「ルオー」で長い時間お喋りしたのを覚えている。その長島君が、いつか上田秋成研究などでめざましく頭角をあらわし、文通や資料提供などで再会した。やがて名古屋大学の助教授に、そして東大助教授に、そして教授にと、みごとなドライヴ。何度も資料提供して貰ったり助言を貰ったり、あまつさえ「湖の本」を最初から購読して貰っている。顔を見たのは、五月祭以来だから三十年ほど経っているが、連絡はずうっと有った。今日彼が話すとは知らなかったので、会場へ入り、懐かしく嬉しかった。暑い中を出て来た甲斐があった。電メ研委員の坂村健教授にも、プロジェクトリーダーの田村毅教授にも会った。おみやげに、出来上がりのCD-ROMも文字表も貰ってきた。
* 漢字の数からいえば、坂村さんらのBTRON「超漢字十三万字」が多い。だが台湾で国を挙げてやっているらしい「二十五史」など、データベースに入っている漢字数は二千万字に上るから、桁ちがいだ。台湾や韓国の事業は、とてつもなく大きいが、東大で仕上げた「GT書体フォント漢字六万六千字セット」は、日本としてはまずまずの成果であろう。日本語は漢字だけで表現するわけでなく、その意味では「ひらがな」「カタカナ」「変体仮名」さらには多くの各種「和記号」の便利な「コード標準化」ないし「セット化」が、まだ決定的に不足している。長島教授の専攻の近世文学には、多くの近世芸能が付随していて、数知れない芸道上の符号や記号がある。どうか、便利なセット化をよろしくとぜひお願いしたい。
歌舞伎番付の「百画尽」の発表など面白かった。画像貼り付けだけでなく、活字版との対照が可能になると有り難い。また謡曲の上演番付も、分かる限り歴史的に完備して欲しいが。九大の入江教授の手紙では、源氏物語はすでに影印版と活字版との対照のデータベース化が出来ている。まだ検索していないが、聴くだに胸が躍る。
そんなこんなで、大変刺激を受けたいい会合だった。東大の建物の歴史を知らないから何とも言えないが、今日の階段教室などで漱石夏目先生の講義などもあったのだろうかと思いながら話を聴いていた。
ごく近くの医学書院に勤務しながら、この東大は、わが庭のように散歩を楽しみ、たくさんの医書出版の企画や取材をし、そればかりか文学部国文科の資料室に潜り込ませて貰って「徒然草」を独学した。あのことが無ければ処女長編の『慈子』は、たとえ書いてもまるで別の作品にしか成らなかったろう。 2000 7・28 6
* 『廬山』をホームページの「短編選 2」に書き込み終えた。思えば偶然ながら、これは、わたしの書いた「孫」でもあった。初期の代表作と言われた短編を、これで三つ、『清経入水』『蝶の皿』『廬山』と書き込んだ。これだけで、十分な一冊になる。それぞれに、趣は著しく異なりながら、底では作者のモチーフに深く繋がれている。まだ、あとの二作の校正が出来ていない。『廬山』に文字コードを欠いて再現できない漢字がかなり有る。文字セットから貼り付けても、?マークの出てしまう字も随分ある。実に残念だ。こんなことでは仕様がないと言うのだ。文字セットからの貼り付けだけではダメなのだ。同じセットソフトを持たない先へは送っても化けるか送れないか、どちらかだ。完全な漢字の文字コード化こそが必要なのだ。画像の貼り付けで足りているという人の場合は、目先の目的が限定されているのであり、誰にも、何処にも、平等に、不足な九という融通性をはなから諦めている。そんな姿勢は、豊かではない。
2000 8・5 6
* そして夕闇の落ちた東大構内をそぞろ歩き、三四郎の池のはたへ下りてみたり、図書館前の広場や文学部の研究室の灯りなど見上げ、五時きっちりに法文一号館の階段教室に入った。お招きを受けていたので、坂村健教授のトロンの講義をたっぷり聴いた。なにしろ主題が漢字である、面白くないワケがない。ここへ来たのは、もうGT書体の最初の発表会このかた三年、三、四回になるか。
坂村さんの話はただ面白いだけでなく、いつも一つの思想が貫通していて明快なのである。この人は電脳の超大家であり、私は超素人である。文字コード委員会などで私がまくし立てていた素人見解など、さぞ頬笑ましかったろうと思う、が、厚かましくもわたしは坂村さんと同じことを最初から言うてきた思ってきたんだと、また今夜も感じていた。
その一つは、坂村さんはそんなもの言いではないが、「引き算」型の発想のように私には見えていた。つまり16ビットを何枚も重ねて、文字という文字は全部取り込むのが原則。しかし全部というのは把握不可能な観念的な全部なのであり、手の届く全部ではないし、また諸般の事情から余儀なく手の届かないものは引き算し、割愛も仕方がない、しかし事情さえ許せば全部を取り込むのだというのが、坂村さんのトロンの根本のようであり、私も、原則とはそうあるべきであり、従来のように、不足を生じたらそのつど足し算型に文字数を増やして行こうなどという考えの方がまちがいだと、ガンとして喚いてきたのだった。
一つには文字セツトと文字コードとはまるで違うのだから、文字セットがいかに完備したとて、文字コード的な標準化にはほど遠い。グローバルな公共使用にたえてこそ文字文明は守られるので、文字化けや欠字が生じるようなことでは、文字セットで満足しているのでは、いかにも姑息と言うよりない、と、そう頑張ってきた。坂村さんの言われるように、器械は、能力的にそれが出来るのだ。今のJISなど、六千字足らずから僅かに足し算をなどといっているが、百五十万字でも器械は受け入れうるし、漢字の総数はそれ以上もあろうと専門家は言うのである。理想や原則を最初から卑小な現実論でまぶしてしまって見失うから、かえって遠回りになってしまう。わたしは坂村さんらの言われる原則どおりに、最初から同じように考えて来たのだ。
* 東大を辞し、もとの勤め先の建物をのぞきこんでから、本郷三丁目駅から、昨日開通したばかりの大江戸線をつかって、練馬で、西武線に乗り換え保谷に帰った。
2000 12・13 7
*とうに第一期の討議を終えていた情報処理学会の「文字コード委員会」再開の召集がかかった。師走二十二日だという。東京タワーの足元の機械振興会館会議室まで出向くことになる。先日も坂村教授の講演を聴いたあと、文字コードと文字セットのことなど、少し此処に書いたばかりだ。大事な問題であり関心はある。ペンクラブから出向という建前も有ることなので、小中専務理事には報告して置いた。
ナンボナンデモ、これで、今年の会議会合は終わって欲しい。今週は、今夜の猪瀬直樹事務所忘年会に始まって、金曜日のこの委員会まで、一日の休みなく都心へ出て行く。カレンダーを見たら、ラクになるはずだった師走の約束事が、半分以上の十七日分もあったのだから驚いてしまう。むろん楽しみ事も含まれていたのだが。寒い。よく冷える。
2000 12・18 7
* ぼんやりしていて、巣鴨駅で御成門への地下鉄をまんまと逆方向へ乗り、気が付かずに奥のほうまで。おかげで、芝の坂道を足を棒にしてなお、文字コード委員会の会議に、十五分ほど遅れてしまった。ところが、準備会の段階で、文筆家団体は「委員」に組み込まれておらず、議事の流れで「日本ペンクラブ」からわたしが「委員参加」と決まるという分かりにくい段取りであった。第一期ではいろんな委員が大勢だったのが、ぐんと人数が減っていた。ペンのような「団体」を代表する者に限定しようという意図で、坂村健氏や西垣通氏も委員名簿に名前がなかった。気息の通じやすい技術・経済・官庁・組織のものだけで組み立てられる委員構成は、どう理由がついているにしても事実上は「後戻り」の印象が拭えなかった。「日本ペンクラブ」からはわたしが発言したので受け入れられたものの、事務員が臨時に来ていただけの文芸家協会は、あわや蚊帳の外へ放り出されそうな按配だった。むしろ文芸家協会こそ第一義に委員参加の望ましい文筆家団体なのだと追加発言しなければならなかった。文筆家からは一団体で足りているではないかという顔つきをされ、招かれざる客かと疑いたくなった。個人的には面倒なお役目であるとは言え、この委員会にやっと文筆家たちの声を送り込めるようになっていたわけで、それを排除され簡単に撤退するのでは、表現者、読者の声がまったく「文字コード」問題に反映しないことになる。どんなにいやがられ、煙たがられ、邪魔にされても、今ここで協会やペンが蚊帳の外に出てしまうのは宜しくない。とりあえずは、小中専務理事の内諾を得て「日本ペンクラブ」代表委員として出席したのだが、了解を取っておいて良かった。これで、たとえ人が替わっても、ペン代表は送り込めるのだから。
* 三時間にわたって、ぎっしり用意された資料類の説明があり、今日はまだ具体的な討議・審議には入れなかった。わたしは、機会あれば尋ねたい発言したい話題を用意していたが、そのための討議に進む時間的余地は全く無かった。だが関心の話題については、今後の委員会討議にとっても無縁でない大事な課題の一つであるという言質だけは、委員長・幹事諸氏から得た。
* 会議内容にわたってここで繰り返せる根気と理解が不足しているので、この程度にしておく。
* 銀座へもどって「やす幸」でおでんを食べ、ひさびさ日本酒を少々飲んでから、有楽町線で帰宅。京都の橋田二朗先生からお電話をいただき、しばし歓談。
2000 12/22 7