* 以下に、二月二日第三回の会議に初めて参加する情報処理学会・文字コード標準化検討委員会の委員として、自己紹介を求められるのが分かっているので、序でながら、送られてきた議事録等を読んだ「所感」もとりまとめ、「委員会各位」宛て、事前に送信したものを転載しておく。パソコン・インターネット上で使用する「日本語・漢字」が絶対数にしても少ない・足りている・偏っていて根拠がない、増やして行けばよい、漏らしてはならない等々のややこしい議論が無統制になされてきたが、「文字コード」問題を少しでも国際的に妥当なものにすべく発足した委員会である、らしい。
所感
遅れて委員参加の、秦恒平(日本ペンクラブ理事・電子メディア対応研究会)です。
会議当日に余分の時間をとらずに済むよう、「縦書きの文章表現」で多年生活してきた立場から、簡単な自己紹介と、議事録等を読んだ当座の感想を伝えておこうと思います。
ペンクラブから出ておりますが、申すまでもなくペン全体の見解を代弁する立場になく、概ね私一人の思案を、今後とも発言させていただきます。最初に、私自身にもことわって置きたい、この委員会に参加するに当たって、いったん頭をリセットして臨みますことを。
(自己紹介は略)
以下、順不同、いかにも門外漢の「感想」を述べます。誤っていればすぐ改めます。ご批正ください。
* 完璧な標準一本化は、あまりに現実離れ。公的と特殊との棲み分けや相互運用も、ここへ重点が来過ぎれば、結局「しまりのない」現状容認に陥る。「文字が足りて」いて、妥当な「異体字も共通して使える」ような「一本化」を、なるべく断念しないで済む方角へ意図し努力して歩まねば、議論のための議論になり意義が薄い。有効性が無い。最初から「分散開発」「分散保守」を言うのでは早すぎないか。現実無視の理想論は困るが、最善を忘れ拙速を急ぐ現実論は、もっと困る。
* どうあるのが「最善」かを想定し、引き算して行くセンスが欲しい。「残念ながら、今は無理」なものは無理として割愛し、しかし将来無理でなくなる可能性への「道」も推測して後へ伝えて行くのが、現代の「責務」というものであろう。とかく「今」の便宜本位に議論が終始しやすいが、ことが「ことば」「文字」に関係する限り、数千年の過去と未来へ、現代人として「責任」を感じながら考えたい。「困ったことをしてくれる」と「歴史」に顔をしかめられない「大度」と「視野」で臨みたい。
* 日本人が「日本語・日本文字で、考えたり書いたり表現したりする」ことを、基本に据えて考えたい。ことが国際性のある問題なので、いかにも狭い国民的エゴに感じられるかも知れないが、日本人としての「最善」をヴイジョンとして確認もしないまま、議論が半端に国際的に拡散するのは、かえって迂路に過ぎる。「日本人の日本語表現は、器械上こう在りたいのだ、これが日本の望みだ」と世界にしっかり持ち出せるものを、我々はまだ持っていない。それを欠いたままで、妥協的な「棲み分け」方向へ我から重点を傾けて行き過ぎては、順序を誤らないか。
* 漢字の問題が突出しているが、上の問題に絡めていえば、「表現」には言語だけでなく、どの民族も多彩な「記号・符号類」をもち、日本人も例外でない。漢文表記、芸能台本、音譜、訓詁、建築、工芸等々。その採集とコード化が「有る」と「無い」との実際的・学問的な意義と便利の差は計り知れない。
漢字に意識が集まるのみで、それだけで文字コード問題の主題は「上がり」のようになると、「ひらがな」「カタカナ」「変体がな」問題も含めて、日本語表現や、関連の業務・研究に従事する者は実に不利を強いられてしまう。
記号・符号の機能が文字に劣るものでないことは、皆が意識しないで済むほど実は承知の筈である。ところが「文字コード」的に完備していないどころか、無いに等しい。
* 多彩な日本的「表記」に腰を引いて、頭から、いろんなジャンルの文字や記号を特殊なボランティア規格にし、公的に排除してしまうのは、どんなものか。一切合切の記号・符号・かな文字の変化を採集しても、数量的には知れたもので、漢字の何万、十何万とは比較にもなるまい。しかも日本人にとって、日本の研究や表現にとって、それを「ヒエログリフ」なみとは、断然、言われたくない。日本の文化を謂うのなら、それらは、世界へ向けて主張したい、希望したい、「コード化」が自然当然の機能言語である。領域領分ごとに、ばらばらのボランティア規格として分散簇生していなければならぬ理由があろうか。こういうところをこそ、「公的に」大きく掬い採る姿勢が必要だと思う。「漢字」以前に、ないし並行して、記号・符号・かな文字も、漢字なみに「セット」化を視野に入れたい。
* 漢字については、目下、こう考えている。
先ず、漢字に限らず「この字は存在して良い、この字は要らない」と言える権能者はいないし、いてもならない、と。数千年前にその字を使っていた「人と実績」を否定することは出来ず、数千年後にその字を使いたい「人と意図」を封殺することも、「現代」人は決して許されていない。「文字」に対面する、これが一つの原則でありたい。それを忘れ、文字を勝手気ままに「いじる」のは軽薄かつ傲慢に過ぎる。
* 私一人のことなら、現在の文字セットで、今も、今後も、書いて行くことは大方出来るだろう、が、二十年三十年前にすでに書いたものを、きちんと「再現」するとなると、困る面が現に幾つも生じている。現在の、現代の「問題」としてのみ片付けられないのが「言語」「文字」の問題であり、過去の筆記者の業績や未来の筆記者の可能性を殺してしまう権利を、我々のだれ一人も持っていない。「今」を考えるだけでいい問題ではない。
* それにもかかわらず、歴史は保存されるだけでなく、変動する。上の原則をよく承知の上で、謙遜に現実に「対応」する必要が生じる。「手直し」可能な「手順・手続き」として歴史に「手を加えてきた歴史」をも我々は持っている。現代にもそれは許される。
* 文字コードに関連させて言うなら、今日までの議論は、「足りない」から「足し増す」という、つまり「足し算」式の是非論だった。それは正しい原則ではないと思う。
過去に在った、未来にも在り得る一切の文字を含め、完璧に残り無く採集・保存・利用できるのが、最善の原則であると承知していたい。
ただ、それは言うべくして不可能である。だから、これは、ないしこれらは割愛する・割愛して差支えない・割愛したほうがいい、というふうに理想的完満から余儀なく「引き算」して行くのが原則なのである。同じ事のようで、実は「文字」に対する敬愛の基本姿勢がちがう。思想も違う。
何をどれほど、全体から「引き算」して行くかが、即ち議論の対象になる。そして「引いた」もののことも、責任をもって確認し、記録ないし別途の方法で保存することも、「歴史」への責任として忘れてはならない。
「青天井」議論も、この「足し算」「引き算」の差によっては、現代人の浅知恵が露出しかねない。従来の文字制限や文字認定には、残念ながら「当座の間に合わせ」的な「足し算」姿勢が見えていた。足し増すのではない。余儀なく、全体から割愛し、文字数を引いて行くのである。
* もとより技術的・経済的な問題が伴う。出来ないことは出来ないとし、しかし出来る工夫は尽くさねばならない。小幅の手直しなど利かない以上、担いうる負担は担うしかない。金の問題だけではない。技術的な進展にも期待がかかる。
* 標準語に著しい長短があったように、「標準字」指向にもプラスマイナスが大いに有ると心得ていたい。さもないと、いたずらに「文字」を私し、凌辱することになる。そんな権利はだれも持たない。しかも、
* 中国・台湾・朝鮮半島等との漢字の差異に関しては、ひとまず「日本の漢字」本位に、意識して整備しないかぎり、あるべき国際間の調整も計れない。しかもなお彼の「地名」は、省・県・郡・市区水準までの漢字を網羅したい。日本の地名は、町村の大字小字レベルまで、必ず採集したい。「氏姓名」は、代表的な史書、文献、古典、武鑑等のものを優先網羅し、極端な特殊例については「採集・記録」に重点を置いて、「コード」上は割愛の対象にするかどうかを検討考慮してよい。
* 漢字を採集するのに、いきなり内外の著名辞典や字書に拠るのは安易である。むしろ、大蔵経、四書五経、史記、唐詩選、資治通鑑、三国志、あるいは古事記、日本書紀以下の正史や吾妻鏡等、また道真、白石、山陽らの漢詩集、頼長、兼実、定家らの日記、空海、最澄ら以下高僧・祖師、また禅僧らの著書、江戸の儒学者らの著書、平安遺文や大寺保存の文書類、絵巻類の詞書や代表的な古典物語・小説・詩歌集等々、また近代以降の露伴・・鴎外・鏡花また柳田・折口ら古典に近い全集等々、具体的に重用度の高いものから、使用漢字の異同を地道に認めて行く地に脚のついた方式が望ましい。
これらは、工業や経済や行政や一般日常の書記用からはたとえ逸れようとも、「日本」「東洋」の文化的享受の根を成しているものであり、欠いてよいとは言えないのである。先に謂う記号・符号・各種かな文字も含めてである。
* 今日の表記以上に、貴重希少な過去の文字遺産の可能な限りの「保存・継承」を、私個人は大切に考えている。活字化出版の不可能な稀覯本や文書の、「映像的保存」に加えて、現代人にも通読判読の可能な「電子文字」による確保を、本の破損・劣化・消滅以前に急ぎたい。そのための国の支援体制も欲しい、が、世界にそのまま通用する「文字コード」がなくては「世界の財産」にならない。「日本のものとして完璧に、世界中が無条件に利用できる日本の電子的な文字資源・文字資産」を、持ちたい。それを世界中の誰が利用するかというのは、別問題である。
* 異体字、私造字、勝手字などあり、毛筆の筆癖によるものまである。原則的には、日本の市場や学界や専業者の世間で、従来「活字表記」され問題の生じなかったものは、歴史が許容していたと緩やかに認めて、およそ器械の上では準拠してよいのだと考えたい。過度にここに拘泥していると、前に出られない。
ただ原作・原典ではこういう表記であったという事実を、文字コードとは別の次元で記録し記憶されて行く方策も忘れてはならないだろう。
いわゆる活字体に準ずるという、やや乱暴ではあるが、いささか伝統ともなりえてきた方式を活用するなら、かなりの問題が同時にかたづく道もあろうか。
* 何時代の字は「もう要らない」などと言ってはならない。今後電子メディアを最も効果的に生かして欲しい人のかなりの率は、学者・研究者であり、彼等によって底上げされて行く文化的な成果をまた電子メディアが有形無形に享けて行くと考えれば、実は「ヒエログリフ」ふうの「青天井」系の議論も、はなから軽視してはいけないと思う。有意文字は、原則として「代用が利かない」のであり、過度に「包摂」や「標準」を間違えてやり過ぎると、結果、天に唾する事になりかねない、それは、どの時点でも心得ていたい。
* 文字については、私は、デザインの美しさよりも、漢字本来の形を漢字学的に優先したい気持ちでいる。美しいに越したことはないが、デザインのためには字形を少々変えても差支えないという考えが、もし在るならば、言語道断である。いわゆる三跡時代、文字の優美を書記の正確以上に重んずる余り、誤字も誤字のままという例があった。藤原定家は、書としての美より言語・思想の実を重んじ、「手をばなにとも思は」なかった。そこから中世の学芸の実は伸びて行ったといわれる。統一的に公共化されるであろう「文字コード」のフォントには、この点を大切に考え、学者の協力を得てほしい。
* 思想・歴史・文学等の日本語による「学問・研究・創作・表現」に耐える「文字コード」かどうかに関心せざるをえない。今までのままでは痛く不十分なのである。また近代以降かなり強権的に行われがちであった、安易な文字制限の行政的・便宜的処置には違和感があった。その延長上で、電子メディア上の「文字コード」まで左右されてはならない。技術的に可能な事であれば、文字を「殺す・省く・減らす」ためにでなく、より「生かせる道」へ導く「規格」や「標準化」でありたい。
その意味では、この委員会に、日本語や日本の文字の専門家といえる文系学者・研究者、司書、編集者・記者また作家や詩人たちの参加があまりにも数少ないのは疑問が大きい。
* これは国際的な議題であり、また日本語で書いたり考えたりしている者は、簡単に身を引いていられない。しかも「実装」ということになると、英語圏企業の実力や意向は壁であり、そこまで行ってなお頑張るためには、通産でも文部でも、工業でも文学でもなく、それを越えた外交課題にまで位置づけねばならない。そっちへの方途も見通しをつけて行かねばならない。その方面の委員も欠けているのではないか。
* 文字を、営利的・政治的思惑や個人的な立場上の材料にすることを、極力避けて、なるべく「平たい」「明るい」「広い」場所へ持ちだしたい。また議論が中傷や怪文書の乱舞に変質せぬように是非心がけねばならない。
日本ペンクラブでは、会員の意識調査を始め、最初の結果はホームページの「電子メディア対応研究会」の頁に掲載している。初歩的な感想をまだ出ないが。
思いがけず長いものを書いてしまいました、お許し願います。漏らしたところは、会議で随時に申し述べます。 新委員 秦 恒平(作家)
1999 1・23 3
* 二月になり、もう明日から会議がつづく。この私が忙しい合間をさいて勉強するより無いのが「文字コード」問題だとは、驚かざるを得ない。筋違いとは言わないけれど、いわばあまりに時代の先端に触れた、やっかい至極、きわめて難儀な問題であることに我ながら意外な思いをもつ。
正直に言って莫大な資料が読み切れないし、理解に余るところも多い。ただ、何と言っても「ことば」「文字」「日本語」の問題なので、難しいコンピューターの技術的な面から離れれば、それなりに自分の意見も持てる。合点したり疑問を感じたり、反発したり賛成したりできることが、ある。先日公開した「所感」などその一部であるが、感想も意見も固い動かないものではあり得ず、むしろ、よく「聴いて」考えを練らねばならぬと思う。 当分「文字コード委員会」では、「耳」をよく澄ますようにして出ていたい。とても役に立てそうに無ければきれいに辞任する。
* 資料の中で、ああ分かってもらってないんだと、一作家として慨嘆するところはいくらも有る。「表現」ということが殆ど考慮されずに「国語」が「情報」の手段としてもっぱら扱われている。ひどい人になると文学の解釈や研究を、音楽家が楽譜を解釈して演奏するのと同じ事だといったようなことを、得々と言あげしている。楽譜は音符で表現されている。解釈は強弱や長短をもって表現されるけれど、けっして楽譜を変改してよいのではない。しかも音符には概念的精神的具象的意味はない。漢字にはそれがある。文字の組み合わせには複雑にそれがある。その正しい解釈には及ぶ限りの正しい原典把握が必要であり、それは必ずしも原著者の意図にすら束縛されない。「ここにもひとり月の客」の句の、作者の解釈を、芭蕉は、踏み超えて解釈し、その解釈が多くの尊敬を受けている。音楽の解釈をそういう文学の解釈と同じにみるのはおかしい。文学の解釈を音楽演奏の解釈と同じように見るのはもっと滑稽な間違いで、そんな間違いにのせて、原典の用字にこだわる研究をあたかも蔑視した公言は、かなり筋を逸れている。こだわるのではなく、そこから始まるのであり、それにも重い軽いは付き添う。重いも軽いもひとからげに葬り去るのでなく、そういう微妙さのある学問的な事実に配慮した意見陳述が必要だと思う。
* 現在JIS第一第二水準で拾われている漢字は、かなり感心するほど周到である。しかもそれから漏れ落ちている字を探すのも、そんなに難しいことでなく、現在の読書からでも一時間のうちに幾つも拾い上げられた。その文字は、この私には「無くてもいい、使わなくても済む」と強いて言ってしまうことも可能だが、例えば芭蕉の研究に、例えば『詩経』や『般若心経』の受容には無くてはならないし、そんなことにコンピューターは必要あるまいというのは、大きなお世話なのである。井上靖の解説を書かねばならない中に『鬼の話』という佳作が入っている。「鬼」の文字を含んだいろんな鬼や星の名が漢字で頻出するが、殆どが文字コードをもっていない。
活字印刷ではできたことがコンピューターでは出来ないのでは、それが新世紀の社会基盤を成すといえるのか。工業的・技術的・経済的な「情報処理「「規格」「標準」のためだけの「言葉」でも「文字」でもない。「表現」を忘れて「文」が、「文化」が、成り立って来たか、人間の久しい歴史にあって。東京工業大学に「文学」の授業が要るのかという声を、在職中にちらほら耳にした。それがいかに浅い誤りかを私は教室で、それとは言わずに語り続けていた。教室は学生で溢れ返っていたのである。
* 創作のために地図を参考にする。当然の手続きだが、歴史的な作品の場合、それが近代のものであろうと、注意しないと、道路は、消えたり増えたり変わったりしている。京都の体験で言えば、誰でも祇園の花見小路は知っているが、新橋と三条間の現在の花見小路は戦時中の疎開により出来た。それ以前は四条と新橋の間に現在の半分以下の細道としてあり、新橋通でつきあたりだった。廓の境であった。吉井勇の歌碑のある白川沿いの
並木道など無かった。疎開で出来た。
東山通りも大正はじめ頃に開通したので、昔は無かった。都大路なんかではなかった。三条通りも、現在の南よりに旧街道があった。
こんな例は時代が遡れば例は幾つもある。だからといって、それらを調べずに現代の地図を頼って歴史物を書く人がいたら、どうかしている。
辞書辞典も、いわば各時代の「文字」の地図帳に該当する。昔の地図に今日的には不備が多いように、昔の辞典にも今日の目からは過不足等の問題は有ろうが、その時代の文字事情や言語事情は概ね証ししてくれる。
ハイテクの進歩を誇るコンピューターが、それらの基本辞書を器械として収録したくても出来ない、出来てもしないというのでは、言ってみれば、現代の地図で古代も中世も書きなさいというに等しい。こういう事実の前にも謙虚に対策しようという配慮を欠いた「標準化」は、いわば思想の欠陥と言うよりも欠落に近い。
1999 2・1 3
* 二時から五時過ぎまで、「文字コード委員会」の会議。五時半から七時頃まで懇談会。懇談会ではだいぶ平服で話し合えたが、会議のほうは苦労した。今はまだ纏まらないが印象で言えば、もう七年あまり前に、初めて東工大の工学部教授会に出て紹介されアイサツをした日の感じに似ていた。あの日、学部長に感想を求められたとき、別世界に、言葉のちがう国に来たようですと返事したのを忘れない。あの感じにとても似ていた。言葉が違い、向きが違っていた。
* だが、今度のこの仕事は、大学の機構改革でも人事でも学内勢力地図の塗り替えでもない。私は定年退官まで一度もその後教授会に出ず、決まりの欠席届を正確に提出し続けて合法的に参加しなかった。その時間はきまって学生たちとの談笑や議論にあて、相談も受けたしものを見に出かけたりしていた。
しかし、今度の仕事は「文字」「言葉」に関わっていて、いかにお互いの言葉や向きが違っていようとも、ペンクラブや文芸家協会の一員としても、文字表現によって生活し、文字表現を介して読書も楽しみ思想のめぐみもたっぷり受けてきた者としては、言うべきは言うために参加したのであるから、たとえ孤立無援に近いことになろうとも恐れていては済まない。それに、結論としてけっして私が飛び離れたへんなことを考えているわけでもないことは、わりに理解できたのである。
* 決定的に困ったのは、日本語や漢字の問題が、やはり、優先的に「情報処理」の「規格」として「マーケット」論理優先で処置されようとしていることで、「表現」の面での創作や享受や研究や学問のことは、優先順位としては下位に置かれ、「特殊」ニーズとしてみられていることであった。情報処理上あまりメリットのない特殊な文字表現などは、あたかも被差別対象になりかねないほど、関心の外縁におかれてかろうじて引っ掛かりうるかどうかの程度だった。
いやいや、もう少し整頓してから極力冷静に公正に伝えねばいけないから、今は、この辺にしておこう。一月二十三日の「所感」や二月一日の所見に、現在ただ今のわたしは拠っている。
1999 2・3 3
* 夜になって帰宅したら、文字コード委員会関連のメールが幾つも届いていて、朝にもあったが、夜のはすべてわたしの陳述やメールによる意見への、非難に近い議論ばかりでヘキエキした。ま、どんな受け答えをしているか、前後の事情が分かりにくいとは思うが、それなりに読みとってもらえると有り難い。
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* 三通のメールを拝見しました。理解できたかと決めつけられると怖じ気づくかも知れませんが、かなり理解できるお話で、そんなに私の思っていたことと違うようには思いません。ただ、今は、もう二本の文債をすぐ処理しませんと尻に火がつくので、とりあえず拝見したということでご勘弁下さい。
一つだけ、「この文字にコードを与えたコンピュータが欲しい」という様な話は皆無であったと思いますとあります部分、これは意識に無いどころか、文筆家の間での議論や希望は、文字どおりここに終始しているぐらいで、その一つの極端なものが「一切の文字を文字コード化したコンピューターが欲しい」といった希望になって現れます。しかも、今すぐにそれが可能とも欲しいとも言ってはいない。現在の水準を、よりリーズナブルに改善し得た有能ないい環境が欲しいし、「表現」や「研究」のために是非必要、ぜひ欲しいと考えています。自明なこと故、わたしの発言に無かったのだと思って下さい。
要するに事実上の漢字「完満」は、ビジョンはもてても実際の確認などできません。だからそれは机上の空論かといえば、そこへ走るのは短絡です。文字に大切に敬意を払ってきた少なくもわたしから言えば、あたかも神話から歴史へ出てゆくように、完満からの余儀ない賢い「引き算」こそ、現実的実際的だと思っています。手順手続きを言うにはあまりに弱い足場からの「足し算」こそ本当は頼りないものであった、そこに従来の大混乱の一原因であった、のは確かで、その理由の一つには、検討や審議に、純然たる文字「表現」者が加わって来なかったことも考えられるでしょう。
わたしや、狭い範囲ながら仲間の希望は、「引き算」という基本軸に沿って、当面余儀なく(痛みを感じながら)引き算した文字群を(莫大な異体字なども含め考慮して。)も、遠からずまた足し算し復元の利く可能な「箱」だか「棚」だか「入れ物」だかを作っておいて貰えまいか、それは技術的には可能だろう、というふうに言い表せるのです。具体的な不足文字を挙げることは個々人に優に可能でしょうが、それよりも、活字で出来た程度は器械でも保証されたい、そういう器械環境が欲しいものだというのは当然の希望なのです。検索の煩わしさを言う人が多いですが、その辺にこそ技術の参与や寄与があり得ようと、まじめに期待を掛けていますし、期待は酬われるのではないかとも。
ともあれ今すぐ在りまた在りうる全部の文字にコードをつけるなど、現実性をあまりに超えている。器械を使っている者ならば、少なくもそれは知っています。ただ、本来はやはりそうあるのが原則だという強い認識です。文字を割愛しまた削除しうる権限は今日誰一人にも付与されてはいないのですから。しかし余儀なく「大胆に引き算」をしよう。しなければ済まない。そして「世界的公共」の、日本の文筆家としても現時点で許容可能な「コード化の限定」は、しなくては済まないと考えています。
その際に、くどいようですが、もうそれ以上引き算をせずに済むように、それどころか後々に条件が整えば、またさらに足し加え足し増し、より完満へと近づいて文字コード化へ繰り込める、いわば「辞書編集」と「コード繰り入れ」技術の用意は是非しておきたいということです。
で、少なくもコードを振れる用意なら、もう十二分出来ていると言われるのでしたら、その点を、「知りもせずに言うな」ではなく、「ギャップ」を埋める努力や責任の多くは、久しく「文字いじり」をかなり一方的に先行し対策し推進されてきた、仕切って来られた方たちに親切に取って貰いたいと思うのです。少なくも技術面のギャップ、組織の展開面に関する知識のギャップは相当有る。当たり前の話です。理解したかと問われる筋ではない。理解して欲しいという説明の段階自体が、何と言っても著しく欠損していたのは事実です。わたしたち文筆家もむろん努めて問題点に近づこうとしているし、それどころか、従来関係者に大きく欠損していた半面についても、ものを申したいから、聴く耳は持って欲しいと願っています。そのギャップも、昨日の会議ではかなり痛感しました。
わたしは、日本や東洋の文字が、「情報伝達、情報処理」の「規格化や標準化」の中で、「マーケット」感覚主導に偏向して論議されているのにも、基本的には賛成ではなく、まして、あたかも「日本」を「代弁・代表」しているかのように、一直線に情報処理関連の誰かだけがポンと「承認」のハンコを一つ捺して、「世界」に対し「漢字」「記号」「かな」などの運命を決しうるかのような、現段階の事の進めようにも莫大な憂慮を覚えていることは申し上げておきたい。誤解であればご説明を会議で聴きます。
憂慮は、「文字」が情報処理のマーケット的利便にのみ流れて、あまりに一面的に考慮され処理されようとしていると見受けられる点にも根拠しています。文字による「表現」の可能が、優先順位として当然のように被差別対象にされていないか。その心配をもって会議に初参加しましたが、憂慮は拭われなかったと申し上げておきます。
文字や言葉は、器械上の情報処理にだけ関わるものではない。より根元的文化的に、「表現」された芸術や思想や学藝を支え、またそれら文化が歴史の少なくも大きな一面半面を、いや全面に近くを支えてきた。理学工学また技術すらも、深く「文」に根底を支えられ体系を得てきた筈です。数学の「數」一字の原義を読みとるだけでも分かる人には分かるはずですし、その背後思想には、単なる情報処理程度にとどまらない深いものが伝統化されています。そのことをわきまえた上で、「日本語表現」の可能性を、殺がずに「より豊かに守る」方向へ、もっと広範囲な組織で「文字と言葉」とは検討するのが本来でしょう。文部省や文化庁などは何を考えているのか知りたいものです。
わたしは、二十一世紀を記念する「現代漢字大辞典」の国民的な新編集を、こうした議論と併行して立ち上げたいものだと理想として大いに願望しています。辞典はいわば時代乗れ通行を保証する大地図帳ではないでしょうか。一方にそういう基盤づくりがあればこそ、大胆な適切な「引き算」が成り立つのではないでしょうか。
その他具体的な着想も用意していますが、今しばらく、基本を問うて行きたいと思います。思わず長くなり失礼しました。言うまでもありませんが、見解や感想は納得すればこだわらずに改めます。また率直に過ぎたところがあれば、ご寛容下さい。
* 「足し算、引き算」が分からないと言われることについて。
一度原則として分かってしまえば、そう足をとられなくても済む、簡単な話ですが。
閉じられた「全体」が確認できなければ、「引き算」など成り立たないと言われるのは、単純な数学によるだけの話で、完満が想定できる限りは、引き算の想定も可能なのです。これも一つの論理であり、妄想ではないのです。現実に完満が把握できなければ、そこからものの引きようがないではないかという議論のように思われますが、想像力があれば、我々は把握できない全体の完満像を、あたかも閉じられた全体かのように何でもなく想定可能なわけで、漢字に限って言っても、決して青天井どころか限度は在る。有限なる「全体」を在ると想定するのに何の問題もないのです。人間が作ったかぎり字数は無限ではないのです。ただその把握は、現実に難儀、いいえ不可能でしょう。
しかし在るものは在り、人知の踏査の及ばない「閉じられた全体」はやはりあるのです。その「全体」への、いわば畏怖と敬意とから、ことは出発すべきでした。出来ることならそれらの一切を容認したい、しかしながら、やむを得ず、またもろもろの状況を考慮に入れて、リーズナブルな引き算をあえてしようというのが、文字を「私」しない、凌辱しない、勝手に割愛したり抹消したりしない、自然で当然の謙虚な原則だというのです。
たとえ結果として同じか、似たところへ落ち着くにしても、足らなかったら無原則に足して行くという足し算とは、根本の発想がちがうということです。文字に多くを恵まれてきた現代文化の、とるべき基本の文字への礼儀だと思う。その上で「対策」は在るべきであったのです。
過去の豊かな具体的な文字表現遺産を、丁寧に、傷つけること極力少なく継承も再現もし得るように、そして未来へ引き継いで行けるように、「文字コード」への、器械への接近を、何段階もの含みももちながら、現実に段取りを探って行くことが、国家的にも実に大切な現代の責務です。そのためにも、もはや「文字コード」を、「情報処理」の規格化標準化に資するだけではなく、過去の文字の文化を極力傷つけずに再現し得る、また未来の文字表現の可能性を極力狭めないで済む、そういう「文字コード」へと、実装された器械の可能へと、誠実に国際社会において主張もし実現すべく頑張る、前進して行く、ということです。
引き算によって当面文字コードから漏れたものが、そのまま、歴史的に抹消されるということになっては、断じてならない。大胆な引き算の一方で、周到な文字の採集とその成果としての平成大辞典のような事業が、国家の面目として腰を据えて起こされることを私は希望しています。それでこそ、引き算に現実の意義が生まれるのであり、ただの文字数の足し算また足し算で頼りなく事を進めてきた向きとは、似て非なる原則だと思っています。
けっして従来の批判を事として発言しているのではありません。現実的な落としどころへ、思案も協力も惜しんではいないということですから、率直に過ぎた点があってもご容赦願います。
* 失笑を買うかも知れませんが、事実の問題として、 10646 といった数字の意義はもとより、そのような存在を知っている文芸文筆家は限りなくゼロに近いと言えます。私とて同じでした。
そのような者ではあっても、広義の文芸文筆家は「文字表現」によって文字の世界で広範囲に活動してきたし、している。これからは器械を用いて活動する人数はますます増えて行きます。そんな中で、大丈夫かなと、器械の上の「文字」に心配している現状です。
今は、少なくも当面 10646 なるものへの平静な接近と理解から始めるべきなんだなと知りつつある。そんな地点に立っているのです。遅れてきた者への懇切な手引きをお願いしたい。
小池さんの「鬼の仲間」についてのメールなど、なんとなく、ホッとして拝見しました。
とりあえずの報告に、ペンの専務理事から、「問題点が分かります。日常の通信の規格化と文化としての漢字をどう両立させるか、それは無理なのですか?」というメールが来ています。
「文化としての漢字には『ご辛抱願おう』というところでしょうか。優先順位ないし経緯において『工業規格マーケット利用度』がはるかに『表現と文化』より先行して事が運ばれてきた、我々はあまりに乗り遅れているらしい、ということです。まだ不十分にしか私にも理解できませんけれど。」と、返事しましたが、この返事自体も、みなさんのメールのやりとりを経たり見たりしている間にも、是正され変転もして行くように感じられます。
当分は、トンチンカンにもおつき合い願いたい。じつのところ配られた資料も、かなりの部分、ムズカシイ。申したいのは、日本語でものを考え、日本語で「ちゃんと書ける」器械、さらに「ちゃんと、昔のものも読める」器械が、我々には必要というハナシです。通信すれば事足るだけの器械でなく、例えば「鬼の仲間」も呼吸の出来る器械です。
* 棟上様 (委員会の主宰) 二月五日夜 外出から戻りまして。
メール上のお話は、伺っておきますが、なにか、しっくりはしません。
一つには、この畑への参加があまりに遅れたので、或いは初めからほぼシャットアウトされていたので、手順手続き抜きの苦情沢山にとかく我々がなりやすかったとしても、文筆家の側からは、ある程度は自然の勢いなのです。
事の経緯のそもそもから、蚊帳の外におかれていたことに起因しており、今までの大勢のご努力があったはあったとして、ほとんどそれが外からは、遠くからは、よく見えなかった。見てくれとさえ言われなかった。情報も取りにくかった。情報を伝える働きかけも特に親切とは思われなかった。また、せっせと聴きに行こうともしていなかったわけで、双方に、問題があったということです。
しかし良い変化は見えてきているではありませんか。
今回、文筆家団体の意見参加を求められたのも、進んでその辺のギャップを埋めたい、双方から埋めたいということではなかったのですか。
おまえたちは何をしてきたか、我々はこれだけしてきたという事だけを、ここで言われては困惑する。同じ土俵へやっと上がった側からは、それ相応の知りたいことも訝しいことも不案内なこともあり、先行した人たちの思いからはトンチンカンもあるだろうなと、自意識すらもつているわけです。数字と英語と符号とが立ち並んだ文書が、配布されてたちどころに読みとれる用意も、まだとても持てない。なんじゃ、これは。
そこを聴き取って、問題点を辛抱よくナラして行くのでなければ、何のための参加であるのか意義が薄れてしまいませんか。そんなのんきな時間の余裕がないと言われても、それまた困惑あるのみです。
棟上さんにすればクリアに見えている「事の次第」なのでしょうが、たとえば私に限って言えば、近視の眼鏡を外してものを見ているぐらい、まだまだ曖昧模糊とした視野なのです。べつに恥じ入らねばならぬとも思わないし、それでも苦労して配布資料を読み読み、ふんふん、なるほど、そうかそうかと、やっと少しずつ学習可能になりつつある。考えも変えたり進めたりしようとしている。そして、努めてものも言うことで、手引きを得たいと思っている。それは、その程度でも、まだ仕方がないではありませんか。
我々は確かに「文字コード」については素人そのものの知識しかまだ持てません。一方我々も、「文字」「言葉」については、それで生業を立てている者たちです。その方面からの意見参加をして欲しいと言われたと思っています。文句を付けに出ているのではない。協力出来るるだろう、協力したいとおそるおそる出て行くのですから、あまり居丈高に腹など立てないで下さいませんか。
学会の経済基盤のことなどは、ハナから何の説明も受けたわけでなく、経済の範囲でものを言うようにとも聞いてはいませんでした。それはまたおのずと別の問題で、わたしの立ち入れる問題ではなさそうです。
参加だけして黙っておれということなら、ハナシは別ですが。
通信の文字と文化の文字との「両立」問題については、棟上さんの言われる意味が分かって来ています。メールの後の方に書いているように、後から来た者は刻々と学習が効く。苦労して配布資料を読み読み、ふんふん、なるほど、そうかそうかと、やっと少しずつ学習可能になりつつある。考えも変えたり進めたりしようとしている。そして、努めてものも言うことで、手引きを得たいと思っている、と、さっき書いたのもそれなのです。それでもまだまだ鵜呑みにしていいとは思っていない、もっとよく聴きたい、と思っています。
誤解を罪悪のように言う人がいますが、過不足のある人間の仕業では、存外に誤解からの理解の方が一般でまた結果がいい場合が多い。誤解は、した方もさせた方も解いて行く必要があるのです。 秦 恒平
もう一通、足し算引き算のメールが入っていました。
これは、明らかに噛み合わないと思うので、分からないなら分からないままで仕方なしとします。
「數」は、明確なるものの最たる単位だと考える人がいます。ところが「數」は、不明確の最たる状態に生まれたと、この漢字の成り立ちは教えています。
論理だけで想像が働かなければ、論理そのものも浅く果てかねません。だからこそ、「數」は「運命」に意味が等しいと、昔の人は考えた。算數とも言った。算も數も、ただの論理では無かったのです。乱れに乱れて数えようもない混乱を「數」とまずは謂った。その混乱から、本質に触れた引き算を、つまりは整理をしながら、科学の大系は整えてこられたということでしょう。混乱し散乱していても、しかし、全体は想像により意義を整え得るのです。木で打って乱された女人の髪は、數々(サクサク)と乱れていても、或る閉じられた全体と見なしうるように、文字も、人工のもので在れば、まずは全体を想定してもなにの不思議もなく、そんなことに拘泥して論理を謂ってみても始まらないのです。どうしても論理と謂いたければ、論理の向きということにしては。
山を低く、つまり漢字の数を少なく、限定したいのならば、山は上から下へ取り崩して行く、引き算をして行く、のが自然の趨でしょうと思うばかり。これは基本の原則をいうのです。
文字のつかみどりのように、まず千でどうだ、足りなければ二千にしようという積み上げの「足し増す」式は、人知の所産である漢字の全体に対する、いかにも軽い向きかたではなかったかというのが、わたしの基本の批判なのです。そこには文字の存在を左右することへの痛みの思いが乏しかった。選択の根拠も機械的に流れなかったわけでなく、当然の混乱を招いたのではなかったでしょうか。 秦生
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 以上
黙っていては役にも立たないだけでなく、すべてに賛成票を投じたと見なされても迷惑する。えらいことを引き受けたものだ。うまい鰻を食って帰ったのが、味気ない晩になった。クリント・イーストウッドとメリル・ストリープを観ればよかったのに、メールを開いてしまったのがウンの尽きであった。
1999 2・5 3
* 個人宛のメールで、委員会のメーリングリストを通さずに、親切に次のように教えて下さった方があった。印刷史研究家の小池和夫さんである。
(名前は遠慮すべきかと思っていたが、差し支えないとお許しがあったので記載する。)会議でたまたま私に現在用のある、井上靖作「鬼の話」に鬼の仲間、星の名前が沢山出てくるが、少なくも今のワープロでは殆ど全て再現できないが、コンピュータの上で井上文学中の佳作が再現できないのでは困る、どうなっているでしょうと質した。それはたぶん皆、文字コードの対象になっているでしょうといった話であった。それに関連した貴重な興味深いメールなので、紹介したい。
秦さんのおっしゃった『ローマの宿・道』は、絶版なのか、書店では手に入らず、図書館で『井上靖全集・第七巻』所収の「鬼の話」を読みました。この短篇で使われている鬼部の字は「鬼」「魂魄」を除いて31 字ありました。小説中にも、「諸橋さんの漢和辞典の鬼の部」とありますね。実際、この小説は漢和辞典に載せられた字を見ることで、思惟を巡らして書かれたもののようです。
この31字は,従ってすべて諸橋大漢和にあります。つまり『今昔文字鏡』にもすべてあるわけです。
ところが、JISには「魁」だけです。補助漢字にもない。つまり30字は、日本語レパートリには入っていません。
さらにこの30字は,新JIS(第3・4水準)の選定のためのデータベース(約 12000字)にもひとつも入っていません。
「鬼の話」は1970年の初出以来、少なくとも3回は,組版・印刷されているのですが、印刷所は常に作字して間に合わせてきたのでしょうね。
とりあえず、30字を解字して示します。(「魄」を「白鬼」のようにして表します。上下の場合は「上/下」とします。鬼が左にある場合は「魁」「魑」のように「きにょう」になりますが、「鬼斗」「鬼離- 隹」で表します。)
解字、諸橋番号、読み、UCS、備考
鬼勺,45770,シャク,,
方鬼,45777,ホウ,,
鬼勸-力,45950,カン,,
鬼畢,45905,ヒツ,9B53,
鬼夕45763,セキ,,
鬼少,45781,ユウ,,
此/鬼,45807,シ,,
殺鬼-殳,45838,サイ,,木の上の点は諸橋にはある
甲鬼,45800,コウ,,
鬼登,45913,トウ,,
或/鬼,45859,コク,4C25,
者鬼,45884,シャ,4C29,
鬼虎,45865,コ,4C27,
儡-イ/鬼,45945,ライ,,
幾/鬼,45924,キ,,
鬼殺,45893,サイ,,
鬼員,45895,ウン,,
鬼率,45900,リツ,,
鬼深,45911,ユウ,,
歴-止/鬼,45921,レキ,,歴は旧字(禾禾)
鬼察,45940,サツ,,
漸/鬼,45942,サン,9B59,
強/鬼,45903,キョウ,,
女/鬼+口/鬼,45946,キ,,
鬼或,45860,ヨク,9B4A,
夢鬼,45934,ボウ,,
鬼行,45824,コウ,4C22,
鬼孚,45842,フウ,,
鬼甫,45844,フ,,
鬼票,45904,ヒョウ,9B52,
10646でも、統合漢字に4字、Extension A に4字の計8字で、後は第2面に入るわけです。
* 正直のところ、靖の「鬼の話」はとても近未来のパソコンでは作品通りに再現は出来ないらしいということが分かる、が、その余の説明はすぐさまは手に負えない。「10646でも,統合漢字に4字, Extension A に4字の計8字で,後は第2面に入るわけです。」という文意の読みとれる文士は、ひょっとして一人もいないかも知れず、しかしわたしの初めて参加した文字コード委員会では、それらが、当然ながら周知の事実として飛び交うのである。「理解しましたか」とやられても、お話にならないほど用意がない。知識がない。分かるのは、井上さんの小説も、いまのところお呼びでないことだけが分かる。
これは、辛いではないか。
さっきも『日本続紀』を調べながら、つい、この漢字はどうだろうと危ぶまれる文字が次から次へ出てくる。
* 辞書のような文字ソースから漢字をつかみ取ってきて、その結果またつかみ足すやり方は愚であった。初めから、せめて中国と日本との具体的な文字文化財を徹底して精選し、こんな漢字がこれだけ拾ってあると苦労を誇るよりも、この本、この作品、この文献の用字はみな拾えています、大丈夫ですと、利用者に安心を与えるべきなのであった。悲しいかな、そのような発想ではなく、工業技術上の規格化された標準字さえ揃っていれば足ると謂ったやり方に、結果、なっていた。文学、思想、歴史、宗教、文化。そんなことは二の次になっていた。役人仕事にもなっていて、私の謂うように「文字」「言葉」の世界の狭い一面の用に足ればという目的だけで事が運ばれ、豊沃な裏面だか表面だかの世界に配慮が遅れた。また我々もウカツに、器械で字が書けるか、ものが読めるかなどとヘンテコにうそぶいていたし、文壇のエラソウナ人ほど関心をもとうとしなかった。自分にはもう残り少なく、いまさら関係ないよという発言が、ペンの理事会で、平然と優勢をしめてしまう。これでは、あまり我々も大きな口は叩けないのであり、痛いほどそれは分かっている。ウーン。
* いま問題殺到の文字コード委員会は、情報処理学会の情報規格委員会に属していて、その棟上会長が、文字コード委員会を主宰しているらしい。議論の結果が出てその会長がハンコをポンと捺せば、それが世界のしかるべき場へ日本の「提案」のようにして持ち出される仕組みのように、会長自身のメールに書かれていた。よく理解できないから誤解しているのかも知れないが、そう読めた。ちょっと信じがたいほど安直に感じられるがどんなものか。規格委員会の上に情報処理学会がある。学会長は誰なのだろう、どういう組織なのだろう。経済的にはいろんな企業の寄り合い負担でなされていて貧しい所帯であり、大がかりなことは出来ないと会長は私に告げている。そもそもこれは私的な組織なのか。どこかもっと大きい組織の下部組織なのか。私的な機関なら、どういう資格で日本語や漢字の問題で過去現在未来を壟断する権能が持てるのだろう。うかつにも、ペンクラブ事務局は、そういう点の確認をしなかったようだ。知りたい。
1999 2・6 3
* こんなメールを親しいペンの仲間から貰った。「余談」として、考えさせられる甚だ意味深い記事が添えてあり、ぜひ紹介したい。
* 漢字に文字コードを与えるということと、文字コードは与えられていなくてもコンピュータで使える、ということの重点の置き方に認識のずれが感じられ、若干(文字コード委員会での議論が)錯綜しているように思うのですが。この若干の認識のずれは、結果大きな差となって現れる危惧が大いにあります。
秦さんが仰るように、コンピュータが紙に代わるツールとなるなら、紙と同等以上のレベルを保持することが責務だといえます。紙以上のツールとしての役割を果たすものなら、紙以上のレベルを保持すべきであることは当然です。でなければ、文芸面に限って言えば、紙以上のツールとして何の意味があるのでしょう。
デジタルというものが民族を超えた普遍的な符号であるなら、異文化交流を促進するためにも、デジタルによる最大限の文化の保存は必要です。でなければ、自動的に過去の文化的財産が博物館入りすることになります。
漢字の「完満」はビジョンはもてても実際の確認などできないということですが、「現代漢字大事典」の編集作業にあわせて行うというのは全く同感です。このあたりをどうしていくのか、どう働きかけていくのかを抜きにして、漢字コード問題はなかなか解決しにくいように思います。
●以下余談ですが。
お読みになったかとは思いますが、金曜日の朝日新聞の夕刊に、イギリスの街角で、すでに推計30万台の防犯カメラが据え付けられており、映像を前歴者と照合するシステムも登場したとあります。一方でパスポートや免許証のデジタル化が進められ、防犯カメラとネットワークされれば、国家による個人の監視も不可能ではない、と指摘されています。ジョージ・オーウェルが小説「1984年」で描いた監視社会が現実のものになるのではという懸念が指摘されている、と記事中にありますが、今上映されている「トルーマンショウ」という映画はまさにそれで、ある男性が生まれてから結婚後までずーっと監視され、本人だけはそれに気づかないのですが、それを町の人々はドラマとして楽しんでいるというものがあります。
上記の記事によると、ある機関が自治体の防犯カメラを検証したところ、黒人は白人の2倍以上の監視対象になり、若い女性を興味本位で写した映像も多い、ということです。
すでに日本でも銀行やスーパー、その他のビル等で防犯カメラが設置されており、防犯のためとはいえ、自分の姿が無断で撮影されているということに常々不愉快に思っていたわけですが、イギリスの照合システムが日本に入ってこないとも言い切れません。私は漠然とですが、デジタルの恐ろしさはそれ自体が生き物のように一人歩きすることにあるのではないかと思うのです。多くの未来小説ほどではないとしても、まさにメディア、media、medium、霊媒です。その兆候を、インターネットによる毒物事件に見るのは早とちりでしょうか。すでにインターネットは電話のようなツールではない様相を帯び始めています。
余談ですが、私の家から会社の編集部のパソコンにアクセスして、家のパソコンの操作で会社のパソコンの電源を入れ、会社の仕事を家でできるようになっています。家から会社のプリンターでプリントもできます。この逆、つまり会社から家のパソコンを操作することもできます。普通のNTTの電話回線を使用し、電話番号も自宅の電話番号です。勿論暗証番号が必要ですが。これは私が自分の利便のために自分でできるようにしたのです。ビデオカメラを設置すれば室内の監視もできます。私のようなパソコンに素人の者でさえ、これくらいのことはできるのですから。新手のストーカーもそのうち登場しそうです。
メディアが人間の心と精神にに与える影響は看過できないものがあるように思います。メディアによって人の心と精神はどのように変質するのでしょうか。
1999 2・7 3
* 昨日受けたメールの冒頭の、「漢字に文字コードを与えるということと、文字コードは与えられていなくてもコンピュータで使える、ということの重点の置き方に認識のずれが感じられ、若干錯綜しているように思うのですが。この若干の認識のずれは、結果大きな差となって現れる危惧が大いにあります。」のところに問題が、私の錯覚と言うより理解不足があったようだ。今朝一番にそこを指摘したメールをコード委員の一人からもらい、参った。「文字コード」のことはムズカシイ、実に。手探りなもので、すぐ躓く。私は、私見にこだわらない、むしろよく聴いて覚えたい。誤ればすぐ改めたい。
(後日注・ この辺がいちばん当初段階でのわが混乱点で、「参った」などと言いつつ何が「参った」なのかも自分では説明できなくて、ウロウロしていたのが現実だった。「文字コードは与えられていなくてもコンピュータで使える」文字を現に使っていながら、それは「文字コード」が与えられているものと混乱していた。混乱でなく、知らなかった、分かっていなかったという方が正確だ。文字コードによる使用と、文字セットからの図像貼り付け使用とのことが認識分け出来ていなかった。そこで何かを言われて、分かりもしないで「参った」のは、知的怠慢だった。
だが、ここが大事なのであるが、文字コード無しでも文字は使えるのだからいいではないか、という議論がわたしの目の前に在ったわけだが、そして「今昔文字鏡」のようによく出来た文字セツトを現に見せられると、それで間に合うではないかと、われわれの仲間でも一時は、なんだか安心してしまったような空気もあった。私は、そろそろモノが見えて来るに連れ、「そうかな」という気持ちが拭えないままだった。現に使ってみたら、やはり「物書き」としては実に使いにくいことが分かり、やはり「文字コード」での公共的に均等に標準実装されねばというところへ仲間の気持ちもまた元へ固まっていった。私の当初来の、頑迷とすらみられた「基本の希望」がやはり大事な「本丸」になることが確認できていった。文字セットによる図像貼り付け操作は、文字コードによる操作への階梯でこそあれ、それが解決策ではないと、やはり分かってきたのである。)
1999 2・8 3
* 昨日文字コード委員会の幹部の一人である東京学芸大学松岡榮志氏から、雑誌に発表した文章を二つ、コピーして送ってきた。委員会の日に、読んだか、読んでいないのかと言われ、送るからぜひ読めと言われていた。
読んでみた。いわば自分たちのしてきた事へ「悪意に満ちた」と言える悪質の誤解で「マスコミ煽り」をしている人たちへ、激しい抗議を軸にした文章だった。悪質の誤解なる四箇条がこう掲げてある。
ユニコードは、現代の「黒船」であり、アメリカの日本への経済侵略の先兵である。
欧米人は、漢字について無知であり、日本の伝統文化や漢字文化の破壊者である。
日本の委員会は、ユニコードに追従している怯懦の徒である。
中国やアジアの国々では、コンピュータや情報処理の理解については日本よりかなり遅れていて、話にならない。
少なくもこんな事に関連してマスコミで発言してきたことは、私には一度も無かった、そんな機会もなく気もなかったと信じているから、「ユニコード」なるものへの知識すら今なお必ずしも十分でないくらいだから、この四箇条の誤解も抗議も、何ら私には触れあいようも無い。その意味では拍子抜けのした話であった。
むしろ、それとは別に、どうにも釈然としない筆者の「姿勢」が見えたので、一文を草して送ろうと思った。「普通の日本人には一万字以上は必要でないことは自明」と繰り返し強調されているのだ。
「普通の日本人」とはどんな日本人か。中国古典や中国語学の専門家である松岡氏は普通の日本人なのか、特別の日本人なのか。松岡氏の目からこの私は普通の日本人なのか、そうではないのか。
私にはこういう発言にこそ「悪意に満ちた」「マスコミ煽り」の危惧を覚える。こういうことを公然と言い放てる人を、わたしは、エライものだと唖然とする。私の所感は、以下の一文(二月十九日に移す。)で明らかにする。
* 会議後の懇談会で言っていたことだが、私は、ずいぶん以前に国語問題協議会が出していた『実用漢字辞典』の、一基本漢字に一略字というのは簡明ないいものだったと思うし、ユニコードにも同様な行き方があると教わっている。一略字、または一異体字でなく例外的に複数を採用したい字もあろうけれど、当面の原則でその辺に落としどころがあろうかと。ただ、繰り返し言うように、そういう便法が横行したまま過去の文字を暗闇に埋没させてしまうことのないような、別方角からの網羅的文字採集と保存も、ことに関わってきたこの「時代」の当然在るべき大事業ではなかろうか。
1999 2・13 3
* 不思議なことが起きるものである。今朝メールをあけてみると、文字コード委員会の委員長と幹事のメールが来ていた。海浜幕張で昨日から開幕のMacworld Expo へ東工大の学生君と出かける間際であったため、とにかくこの二通を早読みしてみた。
委員長のメールは尋常なもので、よく分かり、感謝して手短に返信した。
もう一通は、読めば読むほど奇妙な内容だった。自分の書いた文章をぜひ「読め、」「まだ読んでないとは」と、先の会議の席でつよく勧められ、もし読んでいたなら、それをめぐって質疑なり対論のありそうなムードだった。さもなければ、半年以上も昔の旧稿を、だれがそんなに熱心すぎるほど勧めるであろうかと、私には思えたのである。現に追っかけて送ってこられたのである、その文章を、二本も、コピーして。これはもう会議の延長と思うより仕方がなかった。
じつは、あの時、会議室の暑さに耐えかね、口舌の渇きをなんとか癒したくて室外に飲み物を求めに出ていた。部屋に戻っていきなり、名指しで、自分の今言っていたことを「理解したか」「理解したか」と壇上から一幹事に聞かれ、中座していたのだから、聞いていないものは理解もなにもなかろうにと苦笑して答えなかった。その時だった、この幹事は、中央公論に書いた自分の原稿は「読んだか」とまた問いかけ、私は読まないと正直に答えたのである。なんだ読んでないのか、ぜひに「読め」と迫られた。
このときの幹事の出方に、いささか気にくわない失礼なものは感じたが、承知したと答えた。会議のために必要ならば必要なのだろうから。
そして封書で文章のコピーが家に送られてきた。私は読み、感想をメーリングリストで発信した。明らかに「会議の席での発言や勧奨」に応じたのであり、私がそれを「読め」と勧められているさまは、他の出席者全員が聞いて知っていたのだから、これは単に筆者だけに私的に答えるものでなく、会議での「議論」の一環として「どう読んだか」を委員諸子にも伝えるのは当然だと私は考えていた。メーリングリストを用いて、委員やオブザーバーの意見交換は公然となされ、往来は活発だった。メーリングリストの効用はそこにあり、また利用について何の説明も規制も受けていなかったから、当然「意見開陳の場」として機能していると思っている。意見には、きわめて具体的な手続き上のものから、解説風のものも感想もあり、むろん有り得て当然自然なメーリングリストの役目だと私は考えている。
ところがそんな場で答えるのは「失礼」だと言ってきた、その幹事は。あげく、「幹事」も「委員」も、二月十四日で「辞任」したと言う。二月十四日とは、私が、「所感 松岡榮志さんに」という感想をメールに入れた翌日に当たる。そして今日、五日間を経て、辞任したという松岡幹事の上のようなメールが届いたのだから、不思議なことがおこるものだとしか言いようがない。
どんなに変なメールか、挙げてもいいならここに挙げるけれど、かえって気の毒である。とにかく私は、走り書きのようにして、こう返信して置いた。
* 松岡榮志様 秦です。 二月十九日
失礼があれば云々ときちんと断りながら、遅れてきた者の不審や疑念や意見を、丁寧に落ち着いて、話したつもり。あなたの人格に触れた話など一行もしていない。ことを分けて話しているのはお分かりの筈。失礼なのは、どちらですか。
メールで答えたのは、会議の際に強調して「読んでいないのか」「読め」と何度も発言されていたからです。この件に関しては「私信」でなく、明らかに会議関連の、しかも一委員たる私に対しての意見陳述を求めての勧奨と解釈しましたから、それほどのものならと、一委員としてメールに入れました。同席された他の委員の方へも、秦が「読んで」の私見を伝えてしかるべき、会議上の経緯であったはずです。私人たる松岡さんについては何ひとつも言っていない。議論を避けて、こんな抗議を受けるとは心外です。
もっと「普通の」の大人の話し合いが必要なのでは。失礼なのはあなたです。公私も、議論の仕方も心得ています。話にならない。せっかくのお招きゆえ、努めて話題に参加し、協力したいと思っていましたのに。
* 私が「松岡榮志さんの文章を読んで」どう考えどう書いていたか、念のためにもう一度挙げておく。これに対して一言半句の議論もない。それでいて「辞任」とはどういうことか解せない。つぶさにかみ砕いて、私のような或る一面の事情には甚だ暗い人間の不審にこたえながら、長短を補い合うべく委員会に「参加をお願い」されたのだと理解していたが。その幹事役が悲鳴のような「辞任」を口にされるのは解せない。議論のための委員会では無かったようだ。何しに私は忙しい中でこんな時間を割いてきたのかバカらしい。
* 所感 松岡榮志さんに。 秦恒平 二月十三日
二月四日の文字コード委員会でとても熱心にお話のあった、中央公論「漢字の危機は杞憂にすぎない」文藝春秋「電脳時代でも漢字は滅びない」のコピーをわざわざお送り下さり恐れ入ります。読みましての少々の感想を述べます。
もっとも、これら「表明」の強い「抗議」気味の行文は、少なくも私にはあまり触れ合って来ません。特記されている四箇条の「悪意に満ちた批判」につき懸命に抗議されているわけですが、先日の会議に初参加以前に、私にはかつて「ユニコード」で此の手の発言をする知識も不十分なら、機会も、気も、なかったのですから。挙げられたこの四箇条など、実にラチもない興味もないことで、それに関する松岡さんの発言にも一定の関心以上は持てません。去年一月の文芸家協会のシンポジウムも、「文字コード」の何かも分かっていない人の立場で出よという人選に応じたわけで、それ以降ペンクラブに電子メディアの会を作ったのも、これから勉強、それも著作権関連の勉強を急がねばと私などは思っていたぐらいです。
コピーを読み、知識をいくつも持てたのは幸いでした。感謝します。その余の松岡さんの「反省」や「提案」の中には、とてもいいことも書かれているなと教わりました。そういう点はもっと発言して欲しいものです。
その上で松岡さんの論調から、これは見逃してはならないなと思ったことがあり、それを言います。
あなたは「普通の日本人には一万字以上は必要でないことは自明」と書き、もう一つの文章にも、大きな字で、「ふつうの日本人には漢字が一万字あれば十分」と強調しています。
伺いますが、松岡さんは「普通」「ふつう」の「日本人」なのですか、それとも「特別の日本人」なのですか。揚げ足を取るのではありません、根底の態度を問うのです。
前者なら、あなたは漢字一万字で「中国古典文学と中国語学」の研究を全う出来る研究者だというわけだし、しかもそういう専門家であるあなた以外に、漢字一万字以上を必要とする「特別な日本人」を想定していることになる。それはどういう人のことで、どこがあなたとは違うのでしょうか。
後者であるなら、あなたの「普通の日本人」とはどんな人で、どれほどの人数になるのですか。委員会に出ている人はみな「特別の日本人」なのか「普通の日本人」も混じっているのですか。「普通の日本人」とは何なのですか。かくいう私はあなたには「普通の日本人」なのか「特別の日本人」なのか、それを正確に言えますか。あなたは莫大な人数の日本人を「自明」なほど代弁できる足場を持っているのですか。
私から言えば、この私は、普通も特別もない「ふつうの日本人」です。松岡さん、あなたも「ふつうの日本人」です。しかも、あなたも私も「一万字では足りない」方の日本人でありましょう。だが「一万字で足りる」人を即ち「普通の日本人」だという言い抜けは利かない。それは、この際、論理の循環、理屈のすり替えでしかない。
松岡さん、日本人を分けて「普通」だの「普通でない」だのという足場に立つのは、それは少なくも不正確です。不正確の上に立って主張を妥当そうに見せかけようとするのは困ります。「一万字で十分足る日本人」も「一万字では不自由な日本人」もいて、両方とも、普通の、普通でないの、と他人に言われる必要のない、同じ日本人同士です。屁理屈でないことを、今少し付け加えます。
私はいつも言っている。私は、今使っている器械の第二水準までで、自分の文章を書こう、表現しようとすれば、その自由をかなり持っています。不可能ではない。私が現に生きて用字の判断も取捨も出来るからです。その意味では「一万字」もあればけっこうな「日本人」であり得る。
しかし分かりやすく喩えましょう、あなたの専門の方の中国古典の筆者、孔子や鳩摩羅什や司馬遷らや、また敦煌変文等の貴重な文献類の、名も知れぬ筆者たちは、今更自分の書いたものを変え得る魔法を持っていません。そういう中に「一万字」を漏れた漢字や符号文字がいっぱい出てきたら、一字一字はたとえ希少例とはいえ、まさか無かったことにしてあなたの研究が満足にできるわけではないでしょう。彼らはもう書き直せないし、書き直せないまま伝わってきたことが大切な学藝研究の対象になる、享受鑑賞の対象になる。学者だけではない、私のようなただの日本人読者もそれらから学びたければ学べるべきです、そしてその際の私は、「一万字で足りているのは、自明」などと決して言えません。
言うまでもなく、この際は、器械がいわゆるインフラとしての基盤性を確立して行くであろうと仮想の上でものを言っています。そしてユニコード感覚で言っています。どこの地球上で、誰もが、いつでも、問題なく、と。
井上靖の「鬼の話」を私はたまたま話題にしました。つい近年の現代作家の全集にも選ばれる佳作が、もののみごとに再現不能と分かりました。現状、作品解説のために私は作品の芯になっている鬼の名や星の名も、目下のプランでは器械に書き表せない、再現できないのです、ユニコードでも、その他でも。一万字以上でも「足りていないのが自明」を、現に露呈しています。井上さんの小説は、まさに「普通に」廣く日本人に読まれてきたのですが。こんな例は他にも続出するでしょう。
文字コードに私の知識も理解もまだ不十分ですが、漢字や仮名や記号符号を「情報交換用」にでなく、「日本工業規格情報交換用」にでなく、それも十分必要ですが、また聖徳太子の経疏このかた「日本語」として用いている人はいっぱいいて、しかも「書く」だけでなく「読む」「引く」「調べる」「味わう」も含めていっぱいいて、そんな大勢の日本人を、松岡さんのように単純に「普通の日本人には」などと分別してもらっては迷惑なのです。どの程度の常識として言われているのか察しはつくけれど、「ふつうの日本人」の感覚で、「大きなお世話」なのです。私は、他人を目して「普通の人には」この程度だといった立論には、生来我慢がならないタチです。
さて、そうなれば、議論の場は、われわれの元の場へ自然に戻ります。あなたのおっしゃる「文字が足りないとマスコミを煽ってきた一部の作家のみなさん」に私が含まれていないことを信じますが、現実に「足りない」のは確かなようですね。松岡さんの文章を読んでいると、煽っているのは実は松岡さんのように読めましたが。
「アジア各国で使われている漢字を、コンピュータの上で共通に利用するための統一コード化を行って」きたと言われるのはその通りでしょう、が、正確には「使われている漢字の極く限られた少数を」というところから「文字コード化」が始まったわけですね。そして無理と不都合で、だんだん「足し算」せざるを得ないのが現状だと見られます。そこまで辿り着いたご苦労を多として感謝することにやぶさかではありません。本当にご苦労でした。
最後に申し添えますが、「一部の好事家による趣味的な日本語ではなく、簡潔でしっかりした日本語を書き表わすための漢字がどうあるべきか、今こそ私たちはまじめに考えるべきです。コンピュータは、私たちの社会生活を豊かにするための道具にすぎません」といった、浅々しい発言は、どんなものでしょうか。
「一部の好事家による趣味的な日本語」というのが「表現者」の根底を愚弄する発言でないことを希望します。察しが付かぬではないものの、誤解も招きかねないこういう物言いは、さっきの「普通の日本人には」と通底した嫌みもつい感じられ、愉快になれません。
また「表現者」がみな「簡潔でしっかりした」日本語だけで創作したり思索したりしているわけでなく、饒舌も、冗漫をすらも文体にしている人もいるのですから、私個人は「簡潔でしっかりした日本語」大好きですが、この辺も「大きなお世話」に部類されるでしょう。いろんな「表現」もあることを、李白も杜甫もあることを、尊重して下さるように。
さらに、「書き表わす」だけが漢字の問題でなく、大切な文字遺産の大切なところが「正しく再現できる」ことも、思案に是非入れられるよう希望します。
大事の点ゆえ敢えて繰り返します。今日只今のわれわれだけが「書き表わ」して事が済むなら、話は、簡単かもしれない。しかし未来の人も書きたい筈です、自由に。そして過去の人は、書いてしまって書き換えが利かない。その人たちのいわば本意や著作の尊厳を、現代のわれわれが気ままに扼殺はできないでしょう、古典の研究家ならよくよくお分かりの筈です。
現在から過去が、なるべく原典に近く再現して「読める、書ける、理解できる」という重大さを、「ふつうの日本人」として、ぜひ忘れないでいただきたい。「一万字で足りているのは自明、では、ない」ことが、この辺で言い切れないものでしょうか。未来から来たような若い作家最新の芥川賞作品の漢字も、よく調べてみたいものです。
「コンピュータは、私たちの社会生活を豊かにするための道具にすぎません」というのも何が言いたいのか。 私や私の仲間たちは、コンピュータが近未来に、かなり圧倒的なインフラとなり、活字や紙での「表現」の場は、激減ないし解消してしまう場合をも一応仮想の上で、「日本語表現の未来」を憂慮しているのですよ。「社会生活を豊かにするための道具にすぎません」とは軽く言うものですが、むろん道具に違いないのですが、私など、自分の文学生活を表現するのに、おおかた不可欠に近い大切なものとして現に既に日夜器械に親しんでいます。社会生活だけでなく、精神生活においても大事だから、真剣に「文字」「漢字」のことも考えたいのですよ。
こういう議論があまり出来なかったまま、文筆家が、やっとおそまきにここへ登場し初めてきているのです、どうぞ、よろしく。但し、ここ当分、この手のこのメールでの議論は、休ませてもらいます、日々の仕事に相当響いてきましたので。
失礼な言い過ぎがあろうかと、お許し願います。以上
* なお委員会参加に先立ち「所感」をまとめたものは、「一月二十三日」のところに記載してある。
1999 2・19 3
* 文字コード関連の山のような資料をひっくり返しているうちに、東大の「六万四千漢字」への批評、あるいは問いかけという小冊子に行き当たった。そのなかに「文字はどこから、どのような規準で集められたのか」というパートがあり、冒頭に、豊島正之という人の書いていることが、かねがね私の願っている通りの話をしているのだと分かり、ああこれなんんだ、これを言うんだと思った。
過去の辞典を「一次資料」と考え、そこから「つかみ取り」のように無原則に漢字をやたら掴みだすやり方には「落ち」が出るのは知れたことである。辞典にはその時点・時代の案内・見取り図ふうの価値のあるのは事実で、軽視はしてならないが、また多くの決定的な誤差や誤謬や事大主義にも禍いされている。大事なのは貴重な「文字文化遺産」である「二次資料」つまりは古典その他の具体的な文献文書から文字を拾う地味な具体的な努力をして行く方がムダがない、それも基本的文献を拾えば裾野資料は必ず覆える。おそらく二万字もあれば、中国日本半島台湾の漢字文献の大方は、その「本」その「本」に即して「これは大丈夫再現可能です」とハンコをおせるだろう、というのが私が言ってきた基本の考え方だった。それと同じと思われる事を、豊島氏は明快に発言されていて、感心した。「収集資料某の文字は、全部で何文字であり、これを全て含む」というリストづくりが必要なのだ、私がそのリストをと、ペンクラブでの会合でも何度も口にしていたのは、「これが遂行されれば、これは空前の業績であって、長く後世に残る偉大な学問的達成である事は論を俟たない」と豊島氏の言われる通りに感じていたからだ。前回の委員会でもそう発言しているし、メールの交換でもそれを繰り返していたつもりだ。
私のような希望は、世迷い言かしらんと孤独感も感じていたが、豊島氏のまとめには驚いた。また当然こういう考え方の人がいていいはずだと安堵した。
* 辞典は大切なもので、どれも、その限りにおいて大切にしなければならないが、途方もない今日的には「ムダなもの」ものも抱え込んでいる。それも文字の歴史に相違ないから割愛も排除も出来ることではないが、無差別に器械に取り込む必要はない。整理はすべきであり、だが整理とは、廃棄削除の謂ではない。それも何かの形で保存しなければ歴史への顔向けが出来ない。そのためには二十一世紀の網羅的辞典を大成しておけばよく、活字文化の最後の花道には、それが、何よりふさわしいと。器械には豊島式のまさに私の言う「引き算」を確実にした方がいい。無原則な、過去の辞典類からの「つかみ取り」方式
は漏れ落ちが出て無駄なことも多く、際限ない不足からの「足し算」を繰り返すだろう。本質的な向かい方ではない。
1999 3・1 3
* 昨日は五回目の「文字コード委員会」に、ペンクラブの電子メディア対応研究会の三人の仲間にも参加して貰った。二時から五時半まで。相変わらず、なかなか難しく、必ずしも話し合われる全部には理解が届かない。何のために、誰のために、どうするために、いつまでに、話し合っているのかが微妙に掴みきれない。いつまでも皆で納得できるまでとことん話し合おうと言うのでは、どうも、無いらしい。そこが不安定で、会議に身をおきながら、役に立っているのだろうかと安心できない。膨大な組織の末端で話し合っているのだと察しもつくし説明も受けているのだろうが、膨大な組織らしいその全体が、そのまま人間の言葉、文字、表現を左右したり決定したりしていい公的な権威を持っているとは思われず、存外に脆い権力機構や営利意志に簡単に操作されてしまうだけで終わるのかも知れない。そうではなく、やはり立派な歴史的な検討と研究を続けているのかも知れない。
それにしても、「線引き」という言葉がかなり強く出てくる。もともと人間の言葉やその文字表現に「線引き」はそぐわない行為だと思う。「段階的に」完成された理想へ近づくのであり、理想的に取りこぼしの無い方向へ進みます、しかし一時には無理、段階的にということなら、いかようにも段階は踏んでよい。しかし、なにかしら、ややこしい別方式の混成で姑息にかわしてゆこう、すり抜けて行こうという隠れた意図もありげに思われてならないのが、つらい。
なにしろ「十年も前から」或る立場建前でやってきた人と、昨日今日に首をつっこんだ我々とでは、呼吸がちがう。加えて機械的な標準や現代にさえ間に合えば良さそうな人たちと、私のように遠い過去の遺産と遠い未来までの表現の可能性を守りたいと願う立場の者とでは、価値観そのものが差をみせてしまう。せめて私たち表現者の気持ちを伝えるだけのことはどう反発されようとも伝えたいと、冷や汗もかきながら出て行くのである。
* 会議のあと、四人にもう一人が銀座で合流して、わたしの好きな「ピルゼン」で話し「ベレー」で飲んだ。五人が五人ともまるでちがう畑にいるが、たまたま出逢って、お互いに気が通ったというわけだが、メールやホームページが大いに役に立ってきたとはいえる。意志疎通がじつにすばやく、くどくどと言う必要がない。みなが物書きであり文字や言葉で生活しているから、気楽であるならば疎通の表現にはこと欠かない。そしてこの段階での疎通になら、実はもう「文字コード委員会」は必要ない程度の漢字は実装されもし、準備もされている。
しかしながら、新世紀になり、器械はますます重きをなすであろうし、紙の本と活字とで用の足りていた段階に自足しておられないような時期が予測される。その予測にも対応して、これからの研究者・学者・表現者、さらには高度の意欲をもった読書子たちが、世界のあらゆる場所と場所とで、双方向で、東洋の、日本の文字文化財を、何らの例外もなく自在に共有し享受できるような「段階的」対策を、ぜひとらねばならない。
中国では四庫全書七億の文字にコードをと、既にやっているとか出来ているとかいう向きもあるが、中国人には百年河清をまつという皮肉な自己批評もあり、対岸の噂の域をでていない。日本は日本で、こうあるのが理想という理想を曲げない根気が要る。奇態な妥協の産物へすり寄りすり寄りしてきたからの混乱が無かったとは言えないのである。
* 私の便宜のために日付をつけ日録の体にしているが、これは「闇に言い置く・私語」の分を守ったものである。それだけに、本音である。幸い器械の奥は闇深く、インターネットといわれながら双方向感覚を忘れていられる。露出感などすこしも無くて、表現し発信している。原稿用紙であり、ノートであり、個人の雑誌であり、本である。営業していないだけで、原稿料や印税が有ろうが無かろうが、ここに表現するものは私の作品であり文芸だと思っている。人生の記録でもある。 1999 4・13 3
* 文字コード委員会の討論メールの往来がまた繁盛している。大方の議論は細かくて仲間内の言葉と記号と了解の元に進んでいるから、何年も遅れてきた者には意味も取れないことが多い。
だが、だから様子が分からないかというと、そんなことはない。細かな詮索は詮索で、やっていてよい。要するに、どうなって欲しいか、どうあっては困るのか。素人も素人の私にでも、それだけは言える。はっきり言える。一作家・一読者として、私が、私のためを思い、考えれば、答えは自然に出てくる。多くの同業者とて、大きくは逸れまい気がする。
書いて読んでの立場で器械をつかう者の希望は、かなり明快。アーキテクチュアを根から理解したい、自分で構築したいなどと高望みはしない。
希望とは即ち、従来ひどく足りなかった漢字や記号が、煩瑣にでなく、どんなパソコンからも、どの場所からも、誰でも、多方向に自在に、グローバルに交換できれば有り難い。それが必要だ。
それが可能なら、「大丈夫ですよ」と約束されるのなら、「有り難う」と信頼しその後の器械のことなどはお任せする。
現に四万の、六万の、中には中国の四庫全書の七億字ぜんぶが「可能」になるだのと言ってくれている。七億など現在論外で、忘れていよう。
それにしても、私の拾い上げる難しそうな珍しそうな漢字も、「それなら**に入っていますよ」と、現にいろんな説明で大方保証されている。そこまでは、有り難い。
しかし、それが「どんなパソコンからも、どの場所からも、誰でも、多方向に自在に、グローバルに交換」可能なように一本化して「入って来る」のか、我がパソコンのどこに、どう「入って来る」のか、が、今一つも二つも分かりにくい。なんだか、闇の腸のようなものがいろいろに隠されている感じである。
無数に別のソフトを交換しながら、必要に応じてあれこれ使い分けよと言われているようである。これも勘違いの理解不足かも知れない。が、万一そんな話なら「理想的な百年の計」とはとても言えず、合意も同意も出来にくい。是非、何でも出来る器械の特性を発揮し、明快に、無条件に、「国際的な一つの標準」で、数万字とも言われている、本当に必要な漢字・正字・基本的な略字に、必要な文字コードを振って貰いたい。ここがよく分かって、納得ゆき安心もでき使いよいモノになるのなら、あとは餅は餅屋にしっかり預けたい、そんな気が私はしている。
お恥ずかしいが、だがチンプンカン。まだ、預けにくい。
1999 4・15 3
* 文字コード委員会のメール討議の中で、こういう発言があり、こう答えた。ここは私だけでなく、研究者・読者にとってかなり大切なところだと思われる。発言者は私の信頼しているメンバーの一人で、実名をここに出していいのかどうかは分からないので、今は避ける。委員会大勢の一人何方かとしておいて差し支えなげな一般論とも思われるので。
*『鬼の話』の不思議な文字たちは、そう簡単には使えるようにはなりません。今生きている我々にとって、「字書にしかない文字」だからです。井上靖さんにしても、字書にあったから、初めてそういう文字があることを知り、それを文章にしたわけです。決して初めから知っている文字を書いたわけではありません。
こう仰る。けれど、これは困ります。そして、こういうことが不安で不満で切言しているのだということです。その理由を重ねて申します。
井上さんが「字書にしかない字」を「字書」で見つけて書いたにせよ、彼が一作家として作品に書き、大勢の人が優れた現代小説として現に読んでいると言うことは、これらの文字はすでに、「現代から未来へ生きていく」日本文学の読者、批評家、研究者には現に「眼前に生きている文字」なのです。この作品を軸にして井上靖論を書き、これらの「鬼や星の名」を引きながら作者の思想や死生観にせまらねばならない研究者、批評家も後を絶つとは言えず、ましてその漢字が使えないので論じにくい・論じられない・論じないとなっては、絶対に困るのです。
これは他に広く類推してよくお考え下さい、一のこの作品に限ったことではない、たとえばの事ですが山海経であれ日本書紀であれ、ピカピカの新人の平野啓一郎の作品であれ、同じなのです。「字書」でも、私などはその時代の地図なみの「作品」として、検索だけでなく「読書」の対象にもするのです。井上さんもきっとそうしたのであり、それらの漢字が、たんに好奇心から偶発的に使われたのでは決して無いはずです。それは「創作」「表現」「文学」なのであり、こういう創造行為や思想表現の手段が、「そう簡単には使えるようにはなりません」と簡単に突き放すように言われて、そのまま放置されかねないのを怖れるのです。だからこそ私が文字コード委員会に参加した最初の、「所感」から、最近の、「要点」「本丸」まで、敢えて壊れたレコードのように繰り返して、私ないし私も含めた大勢の文学者、研究者・学者、読者たちの不安と希望とを伝え続けているのです。
はからずもあなたの今度の「メール」に尖鋭にその不安を裏書きする字句が出たために、ここで、さらに申し上げておきたい。
念のために言います、これはパソコンが圧倒的に紙と万年筆等での筆記を減殺し駆逐したような「近未来」を半ば憂慮しつつの「不安と希望」であります。我々はそれを仮定せざるをえぬものとして、将来に備えようとしているのですから。ペンクラブ 秦恒平
* どんな漢字が問題にされているのかを、ここに「引用」して示すことが頭から不可能なのである、現在の文字コード事情では。要点はそこにあり、紙とペンの時代は仮に去ってしまったとし、キーボードの文化が世の中を覆うようになってしまったとして、なおこんな事では、通産型情報世界や商取引世界は維持できても、「思想や表現や研究や愛読や引用の文化」は、これでは、成り立たなくなる。
1999 4・25 3
* あんまり「私」過ぎるのかも知れず、文字コード委員会の棟上昭男会長に「仏の顔も三度」とやられてしまった。私の、ないし文筆家の立場での発言が、よほど気にくわないらしい。私だけでは無いらしく、作家委員が憤然として一人辞めた。私も辞めたいが、好奇心があり辞めない。
1999 4・29 3
* 文字コード委員会のメンバーから、名指しで質問が来たり啓蒙的な解説が届いたりするつど、できるだけ丁寧に反応するように努めている。いかに自分はなにも知らないかを確認するために、困惑したり迷惑したりしながら、「途上の認識」や「途上の立場」を伝えるように努めている。それが、討議の場に出遅れてきた文学者の代表として、精一杯の誠実というものだろうと、壊れた器械のように、恥ずかしながらガアガアと同じ事ばかり言っている。
前へ前へ走っている人には困った飛び入りだろうが、分からないのに分かった振りをして迎合していては何の役にも立たない。こんな私を、よってたかってどこか確かな岸へ運び上げることが出来ないようでは、癇癪を起こして「仏の顔も三度まで」なんて変な威嚇をしているだけでは、「market relevance」の要望にさえ応え得れば済むような「日本語感覚」では、所詮は文筆家・研究者の要望は活かせないだろう。
1999 5・2 3
* そんな私が、文字コード委員会で、技術的にコンピュータに詳しいらしい大勢の理系情報系委員に混じって、まるで彼らには世迷い言のようなものを並べる運命にいま在るのは、これは往事に父を嘆かせた天罰に類している。
万やむをえず、文芸家協会の電子メディア対応委員会との意見交換や意思疏通をはかりたいと願ったところ、その前に、専門家の講話を一度しかるべき機材も揃った場所で聴きましょうとなった。東大坂村教授のお弟子筋だとか、どういう話が聴けるのか「楽しみ」と言うには、流石に気も張り肩も凝るであろうが、幸い我々ペンの仲間も何人も参加したいとのことで、これはもうサボレない。
1999 5・7 3
* 最近の文字コード委員会のメール討論で、この私とも関係して出てきた話題がある。同じく文字とはいえども、「論述対象になる文字」と「論述手段となる文字」があり、その間になんらかの線引きが必要なのではないかと役員の一角から問題提起されたのだ。
前者を稀にしか使わない難しい字、後者を日常の意志疎通に普通に使う字というぐらいに意識されての問いかけと読めた。私は、「途上の思案」として、以下のように答えた。
* メール拝見し、ご返事します。倉卒の思案ゆえ、また教えて下さい。知らないこと、分かっていないことは、そう書きました。笑わないで下さい。
両者の違いは、文章表現をする上での使い方の問題です。必ずしも両者の境界は明確 に定めることはできないと思いますし、「論述手段としての文字」であっても、その 文字自身について論述することは可能だと思いますから、「論述手段としての文字」 はすべて潜在的には「論述対象としての文字」にもなりえます。
同感です。
「論述対象にしかなり得ない文字」に対し、「論述手段として使われる文字」と同じ重 み付けを行うことが適当でしょうかと問いかけているのです。
やや逸れた方角から申しますと、おっしゃる「論述対象にしかなり得ない文字」「論述手段として使われる文字」には、厳密ではありませんが、体言と用言とぐらいの差がありましょうか。文章家にも概して体言型の人と、用言型の人がいます。広げて言い直せば、堅苦しく文体を作る人と平易に語ろうとする人です。「薄暮」「黄昏」型と「夕方」「夕暮」型と言ってもいいでしょうか。後の方が好きだと公言しつつ、必要に応じて前の方をどんどん使う作家もいます。それも「表現」の必然に応じて咄嗟に、または熟考して、選択するのであり、あらかじめ文字群に重み付けの仕分けをして置いてから、そうするのでは有りません。
例が文字との関連で適切かどうか、文字は意義・概念に付いてまわるものなので類推して戴きたいのですが、「観念」「無心」と「観念する」「無心する」では、相当な用意の差がありますね。むろん使い分けて行きます。この場合ともによく使われている文字ですから、例としては苦しいのですが、押し広げて言えばこういう場面もあり、論述対象「にしかなり得ない」文字がはなから限定されて有るというのは、自在な「表現」を大切に考える立場からは、大事な表現手段が、やや機械的に最初から排除されてしまう不満感が残ります。言い換えれば、千田さんの二分法を書き直せば、「概して論述対象になりやすい文字」 より体言風 「論述手段に多用される文字」 より用言風 ぐらいが適切かと。比喩として言えば、名詞ばかりで文章は書きづらく、動詞や形容詞や副詞ばかりでもものごとは伝えにくい。
つまり誰が何の意図や必要で「重み付け」をするのか、いわば主体の立場差についての前提が指摘されねばならず、例えば「market relevance」だけを考慮する立場でなら「論述対象にしかなり得ない文字」も優にありえましょう。それは、しかし、実に狭い範囲内で文字を限定利用するわけで、それで十分だ足りるのだというインダストリアルな世間も存在しているのは分かりますが、言語や文字は、もっと広やかないわば「民主主義」の前に在り得ていいものと、一文筆家としては希望せざるを得ないのです。少なくも私から希望すれば、文字には、「概して論述対象になりやすい文字」より体言風と「論述手段に多用される文字」より用言風とが在るけれど、「どちらも、使いたい時に、使いたいように、使いたい」のです。読みたいのです。誰との間でも再現したいのです。(誤字なみの異形字・同類字をこれに含めていないのは従来の発言でご承知下さい。)
こういうふうに言うと、原則論、観念論と言われやすい様子がメール往来に見えますが、それにも立場差があるでしょう。私は、「market relevance」主導優先に無条件に賛意を表すべく委員会に参加したのではなく、文筆家としての意見、私的意見でもありまた仲間の意見、を聴いていただこうと願っているのですから。ご理解下さい。
私は「論述手段としての文字」は、コミュニケーションのため、多くの方が共通の 前提として事前に持つことが期待されている文字であり、「論述対象としての文字」 は、コミュニケーションよる知識移転の結果、共有されるべき情報だと思います。
明快によく分かります。上に話しました私の論述と矛盾するところは無いように思います。
「論述対象としての文字」については、どのような文脈で出てくるかに応じて、移転
すべき情報の内容が異なるので、前以てコードを付与しておくことが有効かどうか
わからないということです。
誰のために何の意図で「有効」かどうかが問題であり、例えば「market relevance」だけを考慮する立場でなら「分からない」度合いがつよく、表現の自由と自在をいつも得ていたい立場からも「わかる」などとは言いませんが、「分からない」からという程度の理由で差別区別分別ないし排除する理由も無かろうと思います。つまり全く同じ理由で、「どのような文脈で出てくるかに応じて、移転すべき情報の内容が異なるので、前以てコードを付与し、」表現上の自在を損なわぬように、「前以てコードを付与しておくことが有効」という論理も可能なのではありませんか。
特に、今まで、お聞きした事例に出てくる「論述対象としての文字」では、文字の
字形を伝えることは必須のようですが、これらにコードが付与されて共通の知識に
なっていることまでは要望されていないと思います。この私の認識に誤りがないか
どうかを知りたいのです。
ここでは、恥ずかしいことですが、「文字の字形を伝えることは必須」と「これらにコードが付与」というのの器械の上での違いを、私はたぶん正確に承知していないように思います。これは教わりたい。その上で申すことなのでその点お含み下さい。
井上靖の作品『鬼の話』はたまたま仕事で触れていた例で、太古上古の稀有のものでなく、まさしく「現代」の平易に「論述」された文学の好例なので取り上げただけです。その他には例はまだあげていなかったと思います、個人的に小池さんにうかがった程度で。『鬼の話』は極く象徴的に分かりいい例として口にしてきました。私が関心を持っているのは、例えば古事記や六国史や中国文献で、また仏典で、その当時には「論述手段」に部類される文字で書かれ語られているものにも、その中の文字がたとえ三字でも五字でももし現在器械の上で(平等の条件では誰も)使えなく読めなく書けなくなったら、辛いなということです。井上さんの鬼の名や星の名はおっしゃるとおりあまりにも珍しい文字に相違ないが、使われてしまった以上は、それをも「論述手段」にし、例えば井上靖論をものする人の登場する可能性が出たことを意味しますし、そんなことは無用だと遮ることはゆるされるでしょうか。もうそこから思索を始めたり夢想したり何かを表現している別の詩人が現れているかも知れない。きっと、いる。
まして例えば古事記のような日本書紀のような万葉集のような、日本を理解する基本の本の中の或る文字を、「これらにコードが付与されて共通の知識になっていることまでは要望されていない」と、果たして誰が判定できるでしょう。この場合もまた、たぶん「market relevance」だけを考慮する立場でなら、たぶんそれが出来ると思います。
しかしコンピュータは、近未来、いや現在もはやインフラとして社会の基盤に広範囲に位置を占め威力を発揮している。そんな時節に、「market relevance」だけを考慮する立場で、人間の共有財である文字のなかのある種の文字を、「分からないまま」限定したり排除したりするのは、歴史に対して聡明で謙虚な姿勢ではないような気がしてなりません。
「market relevance」だけを考慮する立場が世に在るのでなく、例えば私の友人知人仲間には、歴史・宗教・思想・文学・詩歌等々の研究者がいますし、彼らの日々の仕事には、現在ただ今の一般市民の関心や文字生活からかなり離れた特別のものが多いでしょう。さりとて彼らは、すでに、ないし、やがては器械を最も「有効な」手段としながら研究し、論文を書いたり読んだりしなければなりませんが、そういう立場の器械活用者が、「market relevance」だけを考慮する立場の前に、この時点で、置き去りにされていいものかどうかと深く危惧するのです。
「これらにコードが付与されて共通の知識になっていることまでは要望されていない」と無制限に、無限定に断定なさるのは、立場差を見過ごしていて、危険ではないかと思います。どちらが多数か少数かは別にして、文字についてはより広い基盤からの有効性を考慮するのが本来であり、「制限」思想からは脱却の好機ではないかと思います。器械の能力は優にそれに応えうるとの証言もあるのですから、機械技術にうとい私たちは「それはお任せします、希望はこうです」と繰り返し申し上げるのが一つの立場であろうと思っています。それを我が儘のように捉えるのは、「market relevance」だけを考慮する立場を我が儘ときめつけるのと同じほど間違っているでしょう。立場の上のすりあわせの最中なんだと思っていますから。
「稀少用例漢字」や「稀少用例和記号」について、前もってどこまでの知識を仮定し
ておくべきとお考えでしょうか?
広い世の中には、自分のまだ知らなかったことが山ほど在るものだと思える人には、「知識を仮定」的に前提しなければならないとは思えませんが。ある人にはあまりにも自明な知識も、ある人にはチンプンカンプンのあることは、この委員会でも分かります。かつて存在した基本的な文字は、いつまたどう使われて目の前に現れるかは予測の付かない、周期的な彗星のようなものです。井上さんが珍奇な星や鬼の名を蘇らせて呉れたのは、一
つの文化的恩恵かも知れませんから、その前では「よかった」と思うだけです、それでいいことではないでしょうか。謡曲や和音曲の符号記号など不要と言える人が在れば、それは只知らないからと言うしかない。自分には無用だがある人には絶対に必要という文字や記号の実在の前に謙虚でいたいと願うばかりです。
これらについては、文字コードが付与されていなくても字形の情報が伝達できれば
十分ではないのでしょうか?
これはご免なさい、先に触れましたように、どういうテクニックか理解できていません。
ただ、私のこれまで繰り返した希望をまた繰り返しますと、
要するに、「文字化け」に類するともいえる「障害」が、漢字やかなや日本の記号を用いての発信や受信に起きないようにしたい、世界中のどの場所でも、どの人と人とでも、どの器械同士でも。「文字化け」に類する「障害」などが姑息な妥協ゆえに起きずに済み、豊かな日本語で自在に書ける、基本的にも学術的にも大事な漢字文献が大丈夫電子的にこれは読めますこれも書けます、ということになれば、文筆家・研究者・読者は有り難いわけです。願いたいのはそれです。技術のことは任せます。
という次第です。実を言うと、こんな「分かり切った筈のこと」しか言えないほど、器械の中の構造や技術のことには触れられないのです。しかしこの「分かり切った筈のこと」が危なそうなので、つい繰り返す。三回目と五回目の委員会に二度出ただけで、以前は何も特別に勉強していなかった私の限界と承知していますが、「要点」は要点なんですね。
私は、個人的にも、豊かな日本語が自由自在に扱えるコンピュータ環境を手にいれ
たいと思っていますが、一寸見ただけでは違いのわからないような文字を正確に使
い分けるよう強制されるのは願い下げです。
全く同感です。私の戸籍の誤字同然の姓字など要りません、「秦」なら「秦」で十分です。千寿も万寿も無用です。「壽」と「寿」があれば結構です。「恒」と「恆」は併存していいと思っています。一正一略を軸に、略字というか重要で深く馴染んだ同類・異形字に慎重な考慮を払っておおよそは済むかと期待しているぐらいです。幸いなことに、辞典はやみくもに入ってしまっていますが、研究者の訓詁の点検をえて活字化された文献は一つの理解を示しています。辞典で文字をいじらずに、文献により具体的にコード化文字を当たった方が急がばまわれであったろうと思っています。はるかに安心感も大きいと。根拠はありませんが、その式でやれれば、思いの外に文字数は多くなくて済むのではないかと勘が働きます。
情報の受信側としては、できる限り発信者の意図を読み取りたいとは思いますが、
「稀少用例漢字」のコードを送り付けられて、これを理解できないのは、お前(の器
械)が悪いのだと居直られてはかないません。
これは千田さん個人の感懐だろうと思いますから、分からなくはありません。「お前(の器械)が悪いのだと居直られて」は「かないません」のは同じですが、そういう「障害」の出ない器械条件・器械環境があれば有り難く、その辺のことは分かりませんので教わりたいことの一つです。
コンピュータで文字を自由に扱うということと、これら「稀少用例漢字」にコード付 与を行うこととは違います。
これは理解していません。文字にコードを付与しなくても、どんな文字でも私のパソコン上で「自由に扱」えるとおっしゃっているのでしょうか。それは、思っていませんでした。知らなかった。そんなことが自在に可能なら、べつに何を言うこともないのです、が、本当ですか。先ほどから断っているように、この辺のことは教わらないと私には分かりません。
文章を生業としている方にこそ、発信側の過度な要求が、受信側での過重な負担強要 につながることもあるということをご理解頂いた上で、
漱石の小説でも難しいという人は、また外国語では「過重な負担」に思う人は、つまり読まなくて済むわけです。テレビのチャンネルを切るのと同じです。「過重な負担」か「至福の受信」かは、人により異なるので、「文章を生業としている」者が「受信」者に「過重な負担」を強いているなどと言われると困惑します。そういうことになると、弘法大師にもお釈迦様にも孔子老子にもそれを言わねばならなくなります。そういう問題では無いんじゃないでしょうか。人間の能力や関心を一様平板に理解してはならないし、器械はいろんな人々が使っているし使おうとしている以上、発信者も受信者も、一般市民も専門家も、たちどころに立場を替えねばならぬ存在であると把握すべきでしょう。無理難題を文筆家は強いているなどと思わないで下さい。
自由に日本語を扱うということはどのようなことができることかという課題を一緒に 検討して行きたいのです。
全く同感です。とくに「自由に」という点に望みを持ちたいものです。出来れば、例えば「market relevance」だけを考慮する立場を強いられないで、一緒に「言葉と文字とコード」のことを検討して行きたいのです。
ざっとお答えしました。他に急用があり仔細に読み直さずに送り出します。変な表記や失礼があればお許し下さい。べつに反論のための反論などをしたつもりは少しも有りません。間違っていたら、教えて下さい。
* 私のこのメールに関連して、また棟上会長から指摘があり、それにも下記のように答えておいた。
* ちょっと気になった二点でのみ、棟上さんにお答えしておきます。
1.「Market Relevance」に関して
「market relevance」だけを考慮する立場” という表現が、
繰り返し何回も登場しますが,それがどういう「立場」を
指しておられるのか今一つ判然としません.
議論の際は,皆さんできるだけその意味について合意の取
れた用語を使うようにしていただきたいと思います.
英語からの翻訳ないし意訳の意味範囲をはみ出たような、別段の「合意の取れた用語」とは思っていませんが。棟上さんが認められる通り、まさに「きちんとした定義が与えられているわけではありません」まま、それでも盛んに皆さんが口にされてきたので、あまり通常こんな言葉を意識もせず口にもしない「立場」の者としては、「判然としない」まま不安感も不審感ももってこの言葉に対応してきたのです。「だけ」は論旨の強調と受け取って下さい。いずれにせよ、これは「合意の取れた用語」ともそうで無いとも言える、しかし「market relevance」だけを考慮する立場」でもし優先的優位にないし圧倒的優位に議論が進むだけになっては、「困る」という現在の認識を述べたもので、趣旨は明白です。
2.「論述対象」と「論述手段」に関して
千田さんの意識は,もっと普段利用されるのか,されない
のかのレベルの話をしておられるのだと解釈しています.
ですから比喩としては,
論述手段: 英文アルファベット,JIS第1/第2/第3水準,...
論述対象: 甲骨文字,ヒエログリフ,西夏文字,サンスクリット文字,...
灰色領域: 上記2領域の中間領域のすべて.
千田さんの分類上のお立場は「学問的」で、棟上さんの言われるレベルの世間話ではなかったと理解し反応したものです。「灰色領域」のことは今は脇に置きますが、棟上さんの「手段」「対象」のご理解なら、千田さんはわざわざこんな難しい言葉を改めてもちだされなかったでしょう、最初から棟上さんと同じように言われたのではないか。
「論述対象になる漢字」「論述手段になる漢字」と、ことを「漢字」の場合に限定して議論すれば、それはそんなふうには容易に分別できないのではと答えたのです。
「無む」「空くう」「徳」「美」「善」「気」「天」ないし「家」「道」「花」「風」など、すべて「論述対象」となる極めて意味深長の漢字であると同時に、そのままでごく普段に「論述手段」に用いている漢字です。文字がつかわれる現場では、こういう転移はないし転位はしばしば起き、概念として学術的には分けられるけれど、実地に於いて「空」は「無」は「道」はどっちとは決められない。どっちにも成りうる。「論述対象の漢字」だから省くとか「論述手段の漢字」だから採るとかいう議論は、適切でもなく有効でも無いのではというふうに答えたのです。
論述対象: 甲骨文字,ヒエログリフ,西夏文字,サンスクリット
などというのは千田さんの分類の前提を逸れている気がします。「漢字」の線引きが話題になっていた際の問題提起であったことを想起していただきたい。
日本人には、漢字は、たいてい「論述対象」たりうる存在として、興味と関心を寄せつつ国民的な所有化を進めていったものです。漢字からひらがなやカタカナを獲得していった過程にすらそれが言えます。かつて「学鐙」に三年間連載し本にした私の『一文字日本史』も、文字通り「漢字三十六字」を個々に「論述対象」にした実例ですが、それらの漢字を、記述の中では自由に普通に「論述手段」に使っていたことも、当然です。「海水は切り分けられない」ように、難しい漢字易しい漢字はありえても、「漢字」としての質に、組成に、甲乙はつけられないのです。どんなに難しくても、どんなに易しくても、必要だった漢字は漢字なのです。古代のトウテツ文を帯した青銅器には恐ろしく難儀な漢字で名が付いていて、根津美術館でも出光美術館でも東博の東洋館でも、いちいち漢字で観客に示しています。中国人や日本人には、大きな文化遺産であり、それらの名を示す漢字を、「論述対象」だから、「難しい」からと、排除して済むものかどうか。それを「済む」と言い切れるのかも知れぬ立場として、私が強烈にその偏狭と独善を危惧しているのが、即ち、「market relevance」「だけ」を考慮した前提や立場なのだと、こう、ご理解下さい。
* 委員会に派遣されている立場でいえば、如才なくしたり顔して首肯してばかりいられない。よく納得のゆくことに頷くのはやぶさかでないが、まだよく分かりかねているのに「分かりました」は言えない。言ってはならない。それに、どう逆立ちしても力及ばぬ範囲が厳然としてある。相手はハイテクノロジイであり、私が、知ったかぶりをして首を縦にばかり振ってなどいたら愚かしいことになる。しかし、私にでも言える話題も有るし、どっちにしても、およその原則的な希望や注文は、たとえ壊れた器械のようであっても呆れるほど根気よく繰り返して伝えて置かねばならない。
1999 5・11 3
* 九大の今西祐一郎さんから、とても面白い、興深い、「論考」のお手本のように切れ味さわやかにムダのない論文が贈られてきた。一気に読まされたが、残念なことにパソコン上には書き出せない。主題が、古文でいう「踊り」記号に関係していて、「く」の字の二倍大のこの「踊り」は器械では出せない。いよいよ、やすやす、ことことなどという時に弓なりの二倍記号をつかうのだが、文字パレットでいくら記号を拾っても見つからない。無い、らしい。
無関心な人は踊りなど使わず「やすやす」と書けばいいと言うだろうが、今西助教授の論考は、それでは意義を発揮出来ないのである。書けないのである。お腹が痛いと、源氏物語で「あなはらはら」と従来読まれてきた箇所は、二つ目の「はら」が踊りになっている。だがそれは「ちがう」と今西論考はじつに適切的確に論証して行く、すなわちここの踊りを直ぐ上の二字分を繰り返す二倍踊りと読むのでなく、「あなはら、あなはら」と大きく繰り返す記号であると、文脈に従い理解すべき事を、多くの事例により解き明かして眼の鱗を落としてくれる。
さ、そうなれば、時と場合で「二倍踊り」の指し示す範囲は二字分を含め、場合によると数字からもっと長い字数も指し示しうる記号なのだということになる。
私は文字コード問題に口を出した最初から、こういう「日本の記号」が「market relevance」の議論の前に閑却されては困ると言い続けてきた。
記号などというのはいわば「論述手段」そのものである。「論述対象でしかない漢字」が掃き捨てられかねない不安と共に、これも言い続けねばならない。
1999 5・14 3
* 一日中大忙しで働いてからメールを開くと、下記のような怪文書が届いていた。名乗りが無いのだから、これは私信ではない。怪文書である。ここに転記し、何処の誰とも分からない者に、あげた返事も添えて置く。ペンクラブの電子メディア研究会宛になっていて私の所に届いているのは私が研究会の座長役を命じられているからだろう。
* 差出人 :INET GATE kana@nihongo.com.jp
送信日時:1999/05/20 17:37
題名 :ペダンチックなゴギロンをみておもうこと
Date: Thu, 20 May 1999 17:36:04 +0900
From: kana <kana@nihongo.com.jp>
Reply-To: kana@nihongo.com.jp
To: fzj03256@nifty.ne.jp
ハイケイ デンメケンさま
ごギロンをよんでみたのですが,ペダンチックなディレッタントたちのおはなしばかりがつよくかんじられました.おおごえをだしていられるのだけはよくリョウカイできました.10マンものモジをよみかきするにはそれだけのためにひとはイッショウをささげねばならないでしょう.まったくバカげたおはなしですね.でも,ひとつだけたのしいことがあります.そのようなひとたちがくだらないことにかかわっていることはかれらのちからをそぐのにはよいことだとかんがえられますから.ニンゲンのイッショウはみじかいのです.モジのことはこどものうちにシュウトクしたいものだとかんがえます.セイジンしてか
らいちいちジショでモジをしらべねばならぬようなゲンゴはそれだけでいきのこれないでしょうね.まことにアクマのモジとはよくいったものです.むつかしいモジなどはいくらでもムスウにつくれますから.さかさまのギロンをこれからもせいぜいおつづけください.
どうもほんとうにシツレイいたしました
返信先 :kana@nihongo.com.jp
題名 :RE:ペダンチックなゴギロンを聞いて思う事
当人も「シツレイ」と思ってものを言ってくるのに、答える必要はそもそも無いのですが、名無しの、名乗るによう名乗れない気弱なあなたの、ベダンティックで口からでまかせの浅いギロンに呆れ、せめて一つだけでも、とんでもない箇所を指摘してあげようと思います。怪文書と議論する気はありません。
10マンものモジをよみかきするにはそれだけのためにひとはイッショウをささげね ばならないでしょう.まったくバカげたおはなしですね.
どこの世界に、一人で十万の文字を読み書きする人間が何人といるものですか。
「一人」なら、多くても一万字もあればたいてい足り、私ならそれで十二分です。
しかし、人間の数は、どの時代の人も、現代の人も、未来の人も含めて、「一人」では無いことぐらいは分かるでしょう。
「一人」「一人」が無数に集まって十億できかない、その十億もの「一人」「一人」が、各々の一生に触れ、かつ用いる漢字は、むろんかなりの量で重なり合いながら、また、時代により、国により、個々の関心により、必要によっても異なることを、あなた、気づいていませんね。
医師には医師の用語があり、哲学には哲学の用語があり、孔子には孔子の、毛沢東には毛沢東の、万葉集には万葉集の用字用語がある。だれも、おのれ一人で「十万字」を駆使するのではなく、その一人一人の必要は知れた数であっても、漢字を使ってきた・使っている・使って行く歴史の全容からみれば、自然と想像以上に多数の漢字が必要とされ用いられてきたのです。その総人数は凄いものでしょうが、一人一人が十万字を必要としたなどと、いったい誰がどこで言っているのですか。あなたの妄想による思いこみでしょう。そんな間抜けたことを盾にして、ものを言ってくるあなたの「ゴギロン」こそ、軽率を絵に描いた、「ベダンチック」で、底の抜けた笊同然の「まったくバカげたおはなしですね。」まっとうな議論なら議論しますが、なにしろ名無しの怪文書なのですから、投げられたことばを、迷惑千万、返しておきます。
あなたも「一人」わたしも「一人」ですが、だからといって、あなたの必要とし読み書きできる漢字と、わたしの必要とし読み書きできる漢字が、みな同じであるわけも、数が同じであるわけも、ないではありませんか。しかし、あなたのつかう漢字のどれこれは私には必要がなく、私のつかう漢字のあれこれはあなたに必要がないということは十分ありえます。だからと言って私に必要なく、あなたにはぜひ必要な漢字を、わたしが一方的に断固排除せよと言ったら、あなたは迷惑でしょう。
かりに「一人」五千字で済むと仮定しても、十億人の「一人」「一人」の一生に使う五千字が、ぜーんぶ集まれば、どれほどが重なり合いまた重なり合わないか、あなた、想像もしたことがないのでしょう。あなたは、上の発言だけで、軽率な二重ねの思い過ごしを平気でしていて、それは、事実に全然合っていないのです。
戯れ文で高みから物言う風情でも、実は、名乗りもできないほど軽薄な自信なさから、間違ったことを得々と言っている、あなた。ハタ迷惑ですね。
顔を洗って出直しなさい。 秦 恒平
ついでに言えば、あなたなら「一生」を費やす必要があるでしょうが、ある時代ならば、十万字を読み書きするのに、必要な人は、意図してから五年で足りたでしょう。そういう人にはそういう人の、幼来の基盤があったからです。
現代のわれわれ、少なくもわたしにはそんな必要はまったく無い。あなたも含め今日のわれわれ「一人」「一人」に、そんな必要が、あるわけ、ないではないですか。辞書を引く引かぬなどは、人の勝手で、どっちにしても大きなお世話なのです。これもまた人それぞれで一概には言えるわけがない。
漢字の文明が生き残れるか生き残れないか、一度は死にかけた孔子もまた復活している昨今の中国事情をみているだけでも、誰が軽々に文明や言語の脳死診断がくだせるものか、ましてや、あなたには無理。
今後は,名無しの「シツレイ」自称者は、軽蔑して黙殺します。せっせと、よそで喋りなさい。
* こんなのと、なぜ付き合わねばならんのか、ここへ首をつっこんでいるのだから仕方ないが、百鬼夜行の世界らしい。それも面白いではないかと小説家は平気で思う。
* そんなことだろうと思っていたとおり、 kana@nihongo.com.jp で返信したメールは、「宛先無し」で舞い戻ってきた。素性も知られたくないのだ。私は記紀歌謡の昔から今日まで、いわゆる童謡などの匿名性を支持しているから、匿名じたいは驚かないが、「シツレイ」の何のと気取るばかりで、ラチもない軽薄なことを言わんでくれと希望しておく。
1999 5・20 3
* 戸越銀座まで出かけて、文芸家協会、ペンクラブの電子メディア委員会・研究会のメンバーが住谷満氏の講話を聴いた。よく用意されていて聴きやすく見やすく、また自由に質問もでき議論もできて、極めて有り難く有益に面白かった。私は、自分がいかほどトンチンカンな恥ばかりを文字コード委員会でかいていたか、それが露わになる会合だろうと恐れをなしていた。
ところが、よくよく聴いていて、また質問して確かめて、いやいや、そうではなかったようだ、私は私流に、見るべきは見ていたぞと自信を与えて貰った。何よりも、アーキテクチュアつまりコンピュータの中での「文字コード」関連の構造・構築に関しては、これは、私のような文士が口の挟める問題ではない、任せるしかないしその方がいいということを確認できた。しかしながら、文字コードをめぐる本質論に繋がる問題は今後にも深く読み込めて、そこでは我々も発言して行かねばならぬことが多々あることも、巧く整理してもらえ、再確認できた。
そして大事なことであるが、漢字はもう足りずるほど足りている、それもある、これもある、みんな入っているというような話は、いくつか有る「文字セット」での問題であり、特殊な個々の営為であり、「文字コードむが与えられて多方向的に誰にも等条件で用いうるものでは無いという、かねての推量ないし認識がすこしも間違っていないことをまた確認できた。
「文字コード」の付与されていない「文字セツト」は、例えば私個人では利用できるが、条件の整っていない他者の器械とは情報を正確に伝え合えないのではないかと思っていた。その通りだと専門家に確認してもらえたのは、よかったわるかつたの問題でなく、大事であった。要するに、文字はある、山ほど在る、もう不足はないないと言われる話は、大方は「文字セット」での話であって、「文字コード」がどの文字にもついているわけではない。字は、まだまだ、私の謂う意味では「もう足りている」などとは言えないのだった。そう思っていた通りの話であった。
「トロン」の話も聴いた。私は、もっともっといろんな立場の人の話も聴きたい。「あの人はおよしなさい」と言われているような人でも、利害だけでものを言う人でなければ話を聴く機会を電メ研でつくって行きたい。また怪文書が入るかな。
帰ったら、議事録修正で石崎委員長からメールが入っていたので、こう、返信した。
* 石崎委員長からのご連絡により、議事録の次の箇所に補正をお願いします。
石崎:秦さんに質問だが、異形字に関する資料5-4では、符号化をする漢字と
符号化はしないがサポートする漢字に分類している。このようにコンピュ
ーターで使えれば良くて符号化するかしないかは関係ない、とにかく仕事
上使えればよいと思って宜しいか。
秦:「ある特定の漢字について符号化をするという話と、符号化はしないがサポートすると書いてあるが」の受け取り方に誤解が有れば恐縮だが、というのは「符号化」を「文字コード」を付する意味に一応取っているので。「符号化」とはそんなことではないとなると、やはり何のことか理解できていない。
「文字コード」をつけるのか、つけなくて「サポートする」のか。(「サポートする」意味もまだ私にはアイマイだが、)およそを、こうお答えしたい。
「今昔文字鏡」のような「文字セット」があり、それで例えば私は欲しい文字が拾える、つまり「サポート」されている。けれど「文字コード」はついていない。アーキテクチュアとして組み込まれていない。自分一人は利用できても、ソフトをもたない他者に自在に文字が転送できない。そういうのも「いいか」というお尋ねなら、そうでは「ない」とお答えする。
何度も申してきたが、個人的には、漢字の文献あるいは文化、そういったものが双方向的に世界中で同じ条件で使えるようになってほしい、という気持ちが基本にある。それが可能であるのであれば、(私自身言うことが曖昧なのだが、つまり)程度の「違うやり方」を、あまり簡単に安易に妥協的に、器械の中へか外へか分からないが、ややこしく導入して欲しくない。せずにすむのならば、なるべく簡明な操作で器械が使え、漢字や記号が使えるようにと希望している。技術や金との折り合いのことは、正直、私には分かりかねるが。
* 土地勘はいい方なのでそう迷わないのに、今日は戸越銀座駅からまんまと逆方向へ延々と炎天下を歩いてしまった。参った。参った感じのまま会議後に一つ電話をかけ人の声を聴いた。それで落ち着いた。池袋まで戻ったら駅構内に八十代かも知れない恰幅のいい紳士が、大きな柱の前で細いステッキの先を床につるつる滑らしながら、起つに立てず、坐るに坐れず、膝からくずれそうに、ゆらゆら、ぶるぶると揺れていた。
眉をひそめ一度は通り過ぎたものの、気になって、改札から後戻りして、辛うじて支えたが、支えていなかったら後ろ向きに柱の脇に転倒して後頭部を強打していただろう。やっとのことで、リウマチだという老人を座らせ、柱にもたれさせてみたが、それも危なかった。人も手伝ってくれて、やっとのことで駅員にきてもらったが、わたしも駅員に預けたところで切り上げてきたが、十年か十五年せぬまに、自分もこうなりかねないと、つくづく実感した。その怖さがわたしを後戻りさせたのだろう。
1999 5・22 3
* 今日の電子メディア対応研究会は、後半に、文字鏡研究会から谷本玲大氏を招いて話を聴いた。今昔文字鏡の経緯と特色と長短が実例をあげて話され、研究会にはなかなかの勉強になった。おまけに『パソコン悠々漢字術』という本を全員にお土産にいただき、今昔文字鏡も一部研究会に戴いた。どんなものかも試みたく座長権限を行使して持ち帰ってきた。じつに根底的な仕事であり、創始された古家時雄氏に敬意を表する。素人にどの程度日常操作できるものか、慣れてみる必要がある。
それにしても「文字コード」ではない。「文字セット」である。単漢字八万字、コードが振って有るのではなく、そこに短もあり、説明によれば長もありそうだ。原則的には可能な限り「コードが与えられて行くのが原則」としての方向だと思う。ただ一気に行かないと言われれば分かる。とにかく「文字鏡」ソフト、使ってみようと思う。面倒すぎればいやだなと思うし、原則から目を背けたくはない。
* 漱石の『草枕』を読んでいると、これは「文字鏡」にもどうかなと思うくらい、いろんな難漢字が出てくる。少なくも現在の文字コード漢字には入っていない、したがって、作品を引用しながらの論文や批評などはとても自在には書けないおそれがある。確実にある。何万が必要なのではない。こういう個々の無視できない文献や作品が、再現できることが肝心なので、知識と情報を多量に持つあまり、自分でああ言い、またこう言い、一人芝居を演じてかき回してばかりいる議論から早く脱却し、これは大丈夫、これも大丈夫と、迂路のようでも着々とした「具体的検証」で必要な漢字や記号を確認したいと、私は思う。やはり思う。漱石の『草枕』みたいな、グレン・グールドのような外国のピアニストも愛読した古典でもあり現代普通の名著すら再現できない状態では、話にならない。
言っておくがマーケットで通用するような文字でない。しかし『草枕』の文字である。工業規格だけでものを言われては堪らない。 1999 6・9 3
* 文字コードに関係して以来、古典を読むときには鉛筆をもち、JISに入っているとは思いにくい漢字に丸印を付けていく習慣ができた。漱石の『草枕』にも随分あったが、志賀直哉には無い。このところ読んできた古典では、『日本霊異記』など、夥しい数、そういう難漢字が現に使われている。今の器械の文字コードではとうてい再現できない。『近世説美少年録』ともなれば、空恐ろしいほど莫大に難漢字が次から次へと平然と使われている。今昔文字鏡のソフトでも使わなければ、器械に書き込めない。それでもどうかと思う。その「今昔文字鏡」の類の漢字ソフトは使いよいかというと、途方もなく難儀である。音をあげる。しかもその文字は無条件には送れないようだ、送って化ける。やはり、日本の代表的な古典全集に入る程の作品の用字には、もれなく文字コードが欲しいと痛切にまた思いかけている。ややっこしい極めて特殊な手順でしか文字が再現できず転送出来ないなんて器械は、どう理屈をつけても不備なのである。
国文学者たちは、どう考えているのだろう、今、新世紀を目前に迎えて。文字セットから砂浜の小さな落とし物をピンで拾うようなやり方で、必要不可欠な漢字を一つ一つ拾い続けてよしとするのか。
また日本の記号はどうなるのか。記号のことがいっこうに考えられていない気がする。 1999 7・4 3
* 「今昔文字鏡」を使ってみた電子メディア研究会の仲間の感想は、一言で、「とても使いづらい」であった。文字セットとしての完備度には敬服するが、実際に使ってみて使い良いかとなれば、何とも使いづらくて、「外字を作るよりはマシ」というぐらいが実感だと声が揃った。
文字セットが十分便利に駆使出来るのなら、文字コードに過分に期待せずこういうソフトを利用していいのかも知れぬと、姿勢の傾きかけていた人も、この使いづらさでは、やはり「文字コード」による完備がぜひ望ましいと、我々の「元々」の希望へ、また意向が揃った。過渡期だからと姑息な妥協をすべきではないのだ、日本語表現と日本語での「日本」研究のためには。
1999 7・7 3
* 文字コード委員会の第一ステージが終了した。ほほうと感じ入るようなうまく纏められた報告書が出来た。私が意見を差し挟めるような何もないし理解の届かないところもむろん有る。報告書に掲載する委員「意見」を求められていたので、おそるおそる一文を提出した。
* 文字コード委員会報告書に附する、「委員」意見
日本ペンクラブ 秦 恒平
参加当初に申し上げたように日本ペンクラブを「代表」する立場にはない。精到な報告書の成ったことに一委員として敬服し、感謝している。
委員会に参加していながら、報告書の全面にわたって理解が及んでいるとは言えない。問題の所在や性格により、一文筆家の知識や理解の水準を超えた点があり、参加の遅れたことによる従来経緯への斟酌の及ばない点、理解未熟な点も、多く残っているからである。そういう点に関して、この段階での「意見」は、差し控えたい。
それでも、なお、つよい「希望」に属する「意見」が無いわけではない。
奇警なことを言うようであるが、もし今、自分たちの使っている万年筆やペンが、或る種の文字や記号は書けるけれど、何倍・何十倍する他の文字や記号は書き出せないというような魔術的制限を強いられたなら、文筆家たらずとも、大いに不自由するであろう。
現在のコンピュータによる文字筆記能力は、まさに、そのように不備不満足な筆記具に等しい。これでは電子メディア時代に活躍できる器械とは、とうてい言えない。
不備不満足を改善すべく多くの努力が進行中であるのを心強く感じつつも、なお一層の改良改善が広範囲に、また操作上も平易に、公共的に実現するよう希望し続けたい。
言い替えれば、文字検索の便宜が、技術的になおなお探求されてゆく中で、可能な限り「文字コード」によって、誰にでも、何処ででも、一字でも数多く「筆記」し「転送」「再現」できるよう、事が国際的に妥当に折衝されて行くことを切に希望する。歴史の過去を尊重し未来を担保する、これは根底からの大きな希望、文化の名による希望である。
そうはいうものの、悩ましい問題もある。いわゆる「金がかかる」ではないかと言われると、一個人の判断や配慮の埒を越えてしまう。だが、事は「日本語」表現の根底と全面に深く食い込んだ大事であり、電子化の要請も普及も、新世紀には格段に飛躍することを予想すれば、関係省庁の協力による「国の予算化」が考慮ないし追求されていい時機ではないのだろうか。目前の偏跛な便宜にのみ拘泥して、「漢字・記号」の未来を誤ってはならないと思う。
現実に、日々の読書や執筆活動の中で、公的な標準「文字コード」では、なお再現できない漢字や記号に、頻々として出会っている。使用しているATOK12を活用すれば、敬服に堪えないほどの難漢字も拾えるし有り難く利用しているが、それでもなお近現代の作品にも、まして古典籍においては、まだまだそこから漏れた文字は、現に拾い出せる。或る意味で当然のことであり、また半面の不便と苛立ちも決して小さいモノではない。
単なる一例を挙げて置くが、最近の読書から平安初期の『日本霊異記』と、近世半ばの『近世説美少年録』(途中)から400字余を拾い、ATOK12の文字パレットで一々検索してみて、ほぼ10パーセントもの漢字の漏れていそうなことが分かっている。ごく普通の古典文学全集作品にしてこれである。決して稀覯の珍文書でものを言うのではない。
加えて、その周辺になお当方の理解不熟もあり、例えばATOK12で拾える文字は、あれらが皆公共の「文字コード」文字なのか、たんに市販私営のよく出来た文字ソフトで、しかも図像の貼り付けをしているだけなのか、恥ずかしいが分からずにいる。分かる必要もなく使用できていたのである。文筆人における一つの「例」として、敢えて恥を忍んで付記しておく。
また、かなりよく完備され充実した「文字セット」のあることは承知しているが、その図像的な取り込み利用は、操作煩雑の一点からだけでも、共通の「文字コード」による文字使用とは、大きな差がある。創作や思考の途中での煩雑手順による停滞は、文筆家にとっては時に致命的な痛手となる。
以上の意味からも、何とかの一つ覚えじみるのは覚悟の上で、「漢字・かな・日本の記号」が、最大限「文字コード」により、自在にーー世界中の誰もが、世界中のどこででも、同一条件で、双方向的にーー利用できることが、窮極、望ましい。その理想を見捨てることなく、限りなく戦略的に理想に接近して行くことを希望する。
かりにも思想や研究や創作の「表現」「再現」に、制約や不便の生じるような、安易な口実・安易な論理・安易な便宜による「文字コード」文字数の制限には、賛成しない。
結局、以上の「希望」を粘りづよく述べることが、「文筆家」委員として肝要の「意見」となる。そこへ落ち着く。技術面については専門家に期待をかけるしかない。
今一つを加えるなら、ことは「世界における日本語の問題」であり、通産官庁だけでなく、文化官庁・外交官庁も積極的に加わった、より大きな基盤からの国際展望をもたねば、どこかで大きく「日本語」を世界の真ん中で誤るのではないかと危惧している。 以上
* 昨日一日かけて「四百」難漢字を二冊の古典から書き抜き、独特の訓みを添え、さらにその一字一字を厖大な量の「文字パレット」に有るか無いかを検索した。
疲労困憊したが、こういう実践抜きに「字がない」ということだけを言っても分かって貰えない。これを持参のかたわらで「意見」を提出したので、およそすんなりと受け取って貰えた。私の調べた限りでは、ATOK12の文字パレットに「有った」「無かった」のであり、ここには約二万字近くが含まれている。すべてが「文字コード」を与えられているわけでなく「文字ツール」に「文字セット」されているだけの文字の方が圧倒的に多いのだと理解している。私の意見はそれを踏んで書いているつもりなのだが、間違っていたら訂正したい。
* 会の果てたあとNECの伊藤さんと一緒に新宿に移動し、いろんなお話を聴きまた著書もいただいた。第二ステージがまだ続行されるのか、たぶんこのままでは問題の積み残しが多いので続くのだろうが、私は、もうこれまで以上に役に立たない気がする。おもしろい経験をさせてもらい、勉強した。有り難いことであった。こんな事がなければ、まずは決して出会わないであろう委員たちと出会えた。自分の考えをよほど相対化出来たと思う。
1999 7・19 3
* 古典の研究者は写本や原本から読み取って行く。影印本が刊行されているのは当然の話である。しかし影印本をありがたいと思える一般の読者はいない。わたしも、平家物語などごく限られたもので影印本にも手に触れてきたことはあるが、常平生は必要としない。活字化された刊本で十分楽しんでいる。古典全集は各社のものを何種類か揃えている。源氏や平家はいろんな刊本が揃っている。それで足りている。そして思う、これらの活字刊本とせめて「同じ」ものは電子化テキストとして世界中でだれでも、どこででも、自在に読みとれるような図書館化が進んで欲しい、文字コード標準化が進んで欲しい、と。
研究者は、しかし、存外そんなことは考えていない。研究は原本や写本からするものであり、活字化されたものにはその段階で関係者の主観が入っていて、研究という意味からは、歪んだ素材なのだと。だから、どっちみち活字本でどうこうは言えず、ゆきつくところは影印本などと同じに、原本写本を図像で貼り付ける事になるのだから、あまり「文字コード」にはこだわらなくてもいいのだと。
言い替えれば研究者個人の研究事情や便宜好都合を言おうとしている。それだけで「自分は済む」と言っている。
とんでもない話である。こと古典となれば、研究者の研究のためにのみ存在するのではなく、愛読者の国民的・世界的遺産であり、しかもそういう日本人も外国人もそれらの貴重で面白くてすばらしい古典は、活字や写植文字やフォントによってしか享受できない。研究者から見ればいろんな理屈は有ろうけれど、「刊本」は刊本なりに文化的に機能してきた。漢字の宛てようなど、かなの宛てようなどに、なるほどいささかの整理・統一・解釈による変化は有ろうけれども、それにより古典の意義や形態が必ずしも著しく損害されてきたわけではないのであり、また研究にも多彩な角度や方面があるから、必ずしも原本写本の図像的占有や映写だけが価値あるわけでもない。
研究者がかりに不要だと言おうとも、読者層では活字の場合と同じ程度に電子文字でも自在に入手し鑑賞し読書できる便宜は確保しなければならない。文字での再現、刊本状態のパソコンにおける全面的な確保は、こうなると国文学研究者のためにという以上に、はるかに大きく一般市民読者の文化財確保のために、声を大にし揃えて行かねばならない。
古典は研究者の私物ではなく、よりよい本文と刊本で我々市民に提供して行ける義務をも研究者は負うているのである。勘違いしてもらっては困る。
1999 9・4 4