* 歌の意味がわからない、だから昔から文学なんて嫌いだったと、中学時代の一年後輩がやけくそのような「悪態」をついてきた。笑った。京大の理系を出た「傲慢無礼」が昔からウリの後輩である、東工大生のほうが相当優秀だぞと笑ってやった。
もっとも、二つ目の歌はけっして理解のやさしいうたではない。
ありとしもなき抱き柱抱きゐたる永の夢見のさめて今しも 六七歳
この述懐まで、遠く久しくわたしは歩いてきた。まだ、わたしが間違っているのかもしれない、が、ひょっとして、その辺の、身の回りの大勢の人のとうてい思い至りもしない境地であるかも知れない。
抱き柱として「鰯」を抱かない、「神仏」にも抱きつかない。そんな好都合な抱き柱は有るぞ有るぞと教えられて縋ってきたが、「ありとしもなき」幻影である。その見極めがブッダでありゴッドなのであろう、此の「寒」の極みのような自我の放棄に、どれほど深く入って行けるか、わたしは今はただもう「寒い」なかに佇んでいる、卒塔婆小町のように。
2003 1・1 16
* 「あすなろう」という詩を、むかし読んだ。そういう名の、木もあると。明日には幸せになろうとの寓意が人に感銘をよぶらしく、わたしは感動するよりも、うら悲しかった。
「あす怒れ」と、万葉仮名で書いた扁額を、叔母は稽古場の欄間にかかげていた。御幸遠州流のお花の家元から、稽古場を開いたときに戴いたと聞いた。何と書いてあるかと聞いて、なるほど「あす怒れ」か、言えているなと幼い心地にも教えられた。
怒る怒らないのはなしではない。「あす」というのは「無い」のだと教えられたのにわたしは承服し、幾万回見上げて独り読んでいたかしれない。「あすなろう」などと、なんとハカナイことをと思う気持ちが、あの額の五文字により植え付けられていた。「あす」なんか無いのにと。
「あすなろう」などと、いつもいつも今の今日を、明日の心用意に費消していたら、いつまでも何も成りはしない。「明日」というのは絶対に来ないものの確かな一つである。「今日」だけが来て、在る。明日と思っていた日は「今日」であり、「明日」はただの幻のようにつねに向こうにある。「いま・ここ」をむざむざ、幻の明日には「成ろう」と費消していて、何が成るだろう。思うはいいが、努めるのは、生きるのは、「いま・ここ」しか無い。「明日」は絶対に無い。「明日ありとおもふ心のあだ桜」なのである。
裏千家の名乗りは「今日庵」である。なぜ今日庵なのか、妙な名前と、わたしも小さい頃に何度も思った、子供だましのよう名だと。それにしても気になる名であった。
「不期明日」と某僧の一喝し揮毫した伝説を識ってからも、胸の内でそれがこなれるのに時日を要した。
「明日」をたのみ、「明日」にはと望んで、若い日々を生きたことはまぎれもない。そのくせ「明日」ではない、「いま・ここ」だ、「今日」だとは、ほぼ信じていた。日に日をつぐことをこそ大切に思ったから、例えば一字一句でもいい小説を「書き・次ぐ」ことを以て「今日」を刻印しつづけていた日々が、今の「今日」に繋がっている。「今日」はやすんで「明日」にとは思わなかった。「あすなろう」とはうら悲しく、思わなかった。
けさ雑煮の前に読んで聴いたバグワンも、また、「明日」とは言葉だけがあり、永遠に実態がないこと、人間には「いま・ここ」だけがあると語っている。その通りだ。明日への言い訳は、永遠の言い訳。
2003 1・2 16
* ロサンゼルスから電話がきた。四十五年前の写真は、いかがでした、と。チョコちゃんの声、今も若々しい。アメリカから日本への電話はアメリカ国内電話よりもよっぽど「やすい」そうで、一分間が「三銭」という風に聞こえたから、これにも仰天した。電話だものと、ハラハラしていたのがウソのようで、世間の狭いことを痛感した。
Mrエディ(チョコちゃんのハズバンド)が、我がいわゆる「電子の杖」を愛用して、盛んに勉強中で、その余波・余録があの伊勢参拝の写真の転送に成ったらしい。わたしより少なくも五つ以上年長だ、適格者である。池宮家と電子メールが使えるようになったのも、ごく近年のこと、うんと近くなった。
千代子夫人は裏千家ロサンゼルス支部古参の人で、大先生である。いつまでも日本の風を忘れるどころか、楽しみ育てて、ときおり日本へ遊びにやってくる。
お姉さんがわたしの叔母の稽古場に通っていて、わたしは、茶室の中では「権威者」然として、よく代稽古をした。わたしは茶の湯が好きでよく学んでいたし、稽古もした。叔母にならうだけでなく、自分でも大人の手をとって教えていたことも役に立った。大谷良子さんは稽古場ではわたしにも畏まっていた、が、一歩外へ出るとわたしは根っから「三四郎」クンで、おはなしにもならなかった。
* 筋も人も、むろんまるきりのフィクションだが、しかも大谷さんを懐かしく思うわたしの作品に、「月皓く」がある。ことに大晦日に、叔母のもとへ永いお別れの挨拶に来たヒロイン薊子と語り手と三人の除夜釜のあと、若い二人は連れだって、除夜の鐘の鳴る圓山から清水寺まで初詣に行ったことだけは、間違いなく大谷さんとわたしとの二人の場面であった。その場限りでいえば、わたしは、青春の有るひとこまを記念したい気持ちで、ありのままの気持ちでありのままに書いたのである。
その当時、叔母宗陽の稽古場に来ていた、少なからず異色の社中がおおたにさんでなく別に一人あり、いわゆる街娼婦であった。わたし自身は、ああいう時代ではあり、稽古の場でなに一つ他人と別扱いにはしなかったが、ムズカシイ小母さん方には、とかく噂をする人がいた。三十すぎに感じていたが、もっといつていたか、若かったのか本当のところは分からない。むろん大谷さんとは何の関係もない別人だが、後年小説にするときに、二人のイメージを、輪郭を重ね焦点を結ぶように融和させ、あえて、サマの変わった一編を趣向した、それが「月皓く」であった。好きな大谷さんのイメージにかりて、もう一人の社中に、稽古場で辛い思いをさせた思いを、わたしは償いたかった。せっかく熱心に稽古に通ってきたその人を、とうどう来にくくさせてしまう空気が稽古場にあった。叔母はこだわる人でなかったし、わたしも随分気を配っていたが、防ぎようがなかった。
その気分の負い目を、後々に、わたしはあの小説で、清めたいと願ったのだろうか。
それとても、除夜釜のあとのあの初詣デートが、大谷さんとの間になければ、ついぞ思いつかなかったであろう。小説のモチーフは、やはりアレを懐かしく書き置きたかったのだ。
この間、「ペン電子文藝館」のために、加能作次郎の「乳の匂ひ」を校正しながら想っていたのも、あの除夜の清水参りだった。場所も似ていた。加能の小説など知りもしなかったが、どこか、かすかに似通うモチーフの秘めてあるのが思われた。
大谷さんは、五つ六つわたしより年上であったから、わたしはただ純真に慕わしく想っていたにすぎないし、ほかにも何人も稽古場で好きな人はいた。だがプライベートに交際のあった叔母の社中の、他にあるべくもなく、大谷さんとそれが出来た一要因は、妹である池宮さん夫妻の存在と、その家庭に出入りしたからだ。そこには、世間知らずなわたしがカルチュア・ショックを受けるハイカラで豊かな暮らしと、明らかに「アメリカ」の匂いがしていた。エドワード池宮氏の仕事は、よくは分からないが、米軍内で、何というのだろう物資調達のようなことと関わりがありげだった。そして千代子夫人も茶の湯のお稽古に熱心だったし、姉妹は揃って扇雀(いまの中村鴈治郎)や鶴之助(いまの中村冨十郎)の熱々のファンだった。
わたしが強い洋酒や、例えばティシュペーパーにすら初めてお目見えしたのは、池宮家でであった。妻との結婚を、誰より早く相談したのも、家に連れて行ったのも、まず大谷さんのいる池宮家であった。妻にも、最も古い親しい友達なのである。
* アメリカに渡り、結婚されて、そして信じられないほど早く大谷さんに我々は死なれてしまった。ながく、信じられなかった。面影も声音なども忘れようがない。その懐かしい人と、仲良し池宮夫人とのあいだに挟まって、風にそよぐ一筋の蘆のように頼りなくひょろうと細いわたしの混じった写真が、二枚も、太平洋を超えてわたしの機械に飛んできたのだから、ビックリしたのは当たり前。だが、懐かしかった。嬉しかった。胸に波打って溢れくるものが有った。Mrエディの「電子の杖」に、心から感謝と喝采を送りたい。
いやいや、思いも掛けずいろんなことを書きおいたものだ、「闇」になれば、こそ、だ。思い出すことは幾らも有る。
2003 1・2 16
* 昨日と一昨日、ジャック・マイヨールによる「グラン・ブルー」と、リノ・ヴァンチュラ、アラン・ドロン、ジョアンナ・クロクスの「冒険者たち」を続けてみた。二つとも秀逸の名画。とても寂しかった。「上の世界に戻ってゆく理由がない」と海深くに潜っているジャックのつぶやきの、あの畏れの深さ。そして深海に棲むべき男達はもう帰ってこない、地上の女に忘れ形見をやどさせて。
「冒険者たち」の生のシンボルのような愛おしいレティシアも一瞬に死に、愛し愛された二人の男に見送られ、深海に帰って行く。「海は恋人」ということばを男達は信じた。
あきらかに二つともが「死なれて死なせて」の哀切であり「身内」として一つの島を共有した者たちの底知れぬ幸せを描いている。
身内――。死なれて 死なせて――。ほぼ一切の創作の、物語の、この二つがいつも真の動機になる。それがわたしの、理解である。把握である。
2003 1・3 16
* 西行の歌、宗祇の連歌、雪舟の繪、利休の茶といい、そのあとへ芭蕉の俳諧と言いたげであった彼の真意は、どこにあったろう。わたしはつとに、中世の流れには、明白に定家の歌、兼好の文、世阿弥の能があり、もし光悦の書も宗達の書も近世だといいたいなら、狩野の繪をあげてもよく、なぜ、これが芭蕉の風雅には叶わなかったのかと問うてきた。また不十分にも答えようとしてきた。七百枚ちかい『中世の美術と美学』はその試みでもあったが、その答えのまた新たな試みを新年以来思案していた。書いていた。もう一息で、許された紙数を超えそうだ。
2003 1・7 16
* 靖国の霊の、合祀の分祀のという議論があったし、今年もあるだろう。
蝋燭一穂の燈明は、しかるべき手順で、千にも万にも分けられる。分けたものが、分ける前の千分万分の一になったわけではない。どれには何が移りこれにはあれが移ったというようなこともない、そんな議論なら、無意味なのだ。
逆に言えば、千の万の燈明を一つの光に集めてみても、万倍千倍になったわけではなく、ただにその一燈明なのである。もし燈明の明かりのようなものと「霊魂」を譬えるなら、魂に「分ける」も「集める」も、無意味である。そういう議論からは、何も生み出せない、具体的には。魂を権勢を争い合う口実にするなとだけ、さらに、言い置く。
今言いたいのは、それではない。光と闇の関係を考えていた。
光は、在る。光は「在る」から「無く」なる。光はエネルギーである。だから減ってゆく。そのかわり「補う」ことも可能である。はかない恋心のようなものか。
闇は、「無い」。一点の光がくれば忽ちに消散する。闇という何かが「在るのではない」、光がそこに在るか無いかだけのこと。だから闇は光より、広大で深遠なのだ。無限なのだ。在るものには限界があり、無いものは、無いだけだ。光は、加えればより明るくなる。闇は、足して幾らに「増やす」奪って幾らに「減らす」ということが出来ない。闇は数量をもたない。光がちかづけばただちに退き失せてしまう。在ったのでないから、無くなったのでもない。何らのエネルギーでもないから、闇は無限で、分割されない。「無限界のトータル」ということが真に考えられるのは、明るい昼間の大空の広さなんかよりも、光のない狭い一室の闇の方が完璧だ。無量の闇は静かにただ抱き合っている。平面でも立体でもなく、縦横無尽に闇は闇だ。
夜よく戸締まりし、枕にあたまを置いて、完全に消灯しアイピロウで眼をふさぐと、そういう静かな闇に沈んでゆく。しばらくは眼の上に冷たさや香りがあり、からだや手足にも夜具に触れた感覚が残っている、が、いつしれずそれも失せる。在るのは意識だけだ、その意識も沈静してゆく。闇そのものにしみ通ってゆくような、闇がそのまま眼のような。ああ、此処から来た、此処へ帰って行く、と、思う。
暗きより暗き道にぞ入りぬべき遙かに照らせ山の端の月 和泉式部
式部は、法華経化城喩品の「冥きより冥きに入り、永く仏名を聞かず」によって歌い、一首の内の二つの「暗き」を、浅い数々の迷いからさらに深い暗い迷いへと「嘆いて」いるのだと、学者たちは解釈している。法華経の「永く仏名を聞かず」に引きずられている。便乗している。愛欲からより深い愛欲へ、式部遍歴の嘆きと懼れである、と。「性空上人のもとによみたつかはしける」という詞書きにもひきづられている。そしてこの解釈は上べに無難である。
わたしはそんな風にだけは読んでこなかった、「思い」があって。前世の「暗き」より後世の「暗き」へ、必ず通って行かねばならぬ「短き此の世」を、せめて月のような御仏よ、あはれんでこの険しい道を平らかにお導き下さいと、願っていると読んできた。それでこそ「花心」の和泉式部が得た「成等正覚」であったろう、と。法華経の詩句を直訳して三十一文字にしたのでは、ない、と。
闇きより闇き道にぞ入りぬべき、とは、誰もが覚悟するより無い。「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる」という古歌を、わたしは白梅の説明などにしか読んでこなかったのを、この頃悔いている。この香ばしい「闇」が懐かしいのである。
2003 1・11 16
* おとといだが、「葵」の巻をよんだあと、床に脚はいれたまま、しばらくものにもたれてぼうっとしていたが、もう少しと思い、目に付いたある編集モノの全集一巻をもってきた。わたしの「秘色(ひそく)」が入っている。
で、巻頭に出ていたある小説を読み始めたが、三十行と読めない。文章がぐさぐさで、ゆるゆるで、お話にならない。わたしの百倍千倍売れる人ではないかと思うが、文学の香りの一と垂らしもない。気分わるくイヤになって、気を変え、自分の旧作をのぞいてみた。「秘色」を書き始めたのは、「清経入水」が太宰賞の最終候補に挙げられています、応募したことにして欲しい、と筑摩書房から通知が来たころ、一九六九年五月ころだ。結果的にこの作品が、雑誌「展望」への事実上の受賞後第一作になった。
読み始めて、先の作者にわるいけれど、雲泥の差とはこれだなと思った。我褒めで気恥ずかしいが、ほんとうに文学の分かる人なら、すぐ分かる。心底、こういう小説が読みたくてたまらないという作品を、他に無いので、自分で書いたという作になっている。先の作との一のちがいは、「文体」だ。そして、構成。絵空事を書いているのに細部のリアルは作品に静かな空気を満たしている。冒頭の一章を読んだだけでわかる。
自作を褒めたいのではない。世にはびこる、有名だの売れっ子だのという作品の、あまりにふやけたものである例の多いのを、ひたすら呆れるのだ。久しい友の馬場あき子が、この作品を発表してしばらく後に、「秦サン、『秘色』は名作だよ」と、あの独特の表情で、一瞬こわいほどの目で言ってくれたのを思い出した。あれは嬉しかった。新潮社の池田雅延氏が、或る大家の「『額田姫王』も顔色なしですね」と真顔だったのにも励まされた。『みごもりの湖』へ強い跳躍板になった。
おとといの夜、琵琶湖の、みごもりの湖の、ながいながい夢をみていた。
2003 1・13 16
* 福田英子の獄中述懐は、本人は十九歳としているが、正しくは明治十八年、二十一歳烈々の発露である。岸田俊子の女権演説に発奮したのが、十八。翌年からは自らも人間平等を説いて演説の場に活躍し始め、板垣退助らの自由党志士たちにちかづき、やがて朝鮮改革運動を計画、自ら爆薬運搬や資金募集等に協力して、渡鮮の直前に逮捕投獄されている。その時の「獄中述懐」を、明治三十七年に出版の、自伝『妾の半生涯』から、前後を稍含めて抄出した。
英子の生涯は、この自伝の後になお多岐を加えてゆくが、ともあれかくもあれ、女性の権利と参政の意向を推進した大きな先達であった。投獄に堪えるどころでなく、政治活動に「一死」を覚悟していた青春であった。
いま、送稿した。
2003 1・13 16
* 「誰もいない教室と、誰かひとりがいる教室。誰も感じるようにそれらはまったく別の空間だ。電荷のない空間と電荷がひとつある空間でも同じこと。電荷のある場合を『電場が存在する』と言って区別すると思えばいい。電場にまた別の誰かがやってきた場合、だれもいない教室に入ったときとは違って、緊張感のような違和感のようなものが生じる。それを力だと思えばいい、」とか。
人の「気配」と謂う。映画のウソには気配無視が露骨で、ときに嗤ってしまうが、人のいない部屋にも「気配」の残っていることがある。この説明も聴きたいと、以前から思っていた。
それと、「目が光る」あの光源は何なのだろう。
2003 1・14 16
* 今の世間を眺めていると、目立つのは藝能人と政治屋。彼等が電波をほとんど私有し、図に乗っている。偏跛は、度を超している。
歴史に即して考えれば、ともに人間社会に不可欠の機能である。だが、過剰な肥大が、人間社会を、少なくも日本の社会を、いままさに不幸と汚濁へ誘っている。悪しき平和のシンボルである。平和にいいわるいがあるのか、平和はいいものだという説も有ろう。言い直しておくか、悪しき安逸のシンボルである。テレビカメラの前へ身を投げ出しても世にはびこりたい芸能人と、保身の政局にのみ関心のある私利私欲、「顔」のない政治屋とは。
* はじめて「不浄観」という言葉に出会ったのは、谷崎作「少将滋幹の母」が毎日新聞に連載されていた時で、新制中学の二年生から三年生になろうとしていた。毎朝の新聞で、小倉遊亀の挿絵の小説を待ちかねて読んだ。そのなかで、美しい若い妻を権勢ならびない甥の藤原時平に奪われた老大納言が、荒廃した姿で夜中墓地に通い、腐乱した死骸に眼をさらしつづける。悟りへの階梯として書かれていたが、妄執ともみえた。不浄観という言葉の意味は具体的に子供心にも伝わった。
誇大の物言いかも知れないが、テレビを見ていると、時として自分がいままさに「不浄観」を行じているかに思える時がある。しばしば有る。
だが、別の視点からすれば、事は簡明で、見なければいい、と謂える。電子メディア委員会の責任者の言う事ではないかも知れぬが。
むかし新婚のころ、新婚ゆえにでなく、必ずしも当時極貧のゆえにでもなく、テレビも新聞も、自覚的に拒絶していた時期が続いた。それも長かった。朝の目覚まし代わりにラジオだけ置いて、めったにそれも聴かなかった。寒いほど清々しかった。「寒」という自覚が「わび」や「さび」という境地の根底にあることを感じていた。
あの清々しさ、懐かしい。
好んで不浄観に耽るなど、それも妄執の一であろう、悟れるものかと中学生のあの時にも、かすかに観じ、もの哀れであった。
見て見ないフリは、よくない。フリは所詮は欺瞞。見て、見ない。拒絶は、斯く、在りたい。
* 昔の教室で、これは訊かなかったが、学生諸君に訊いてもよかった。(この頃の人のいとも気軽に連発している)何が、「スゴイ」のか、と。
凄いには、凄惨の原意が読み取れる。いったい、われわれにとり、何が本当に「スゴイ」だろう。そうだ、人の心を不浄観へまでひきずりこむ凄さの一つには、身を噛む「嫉妬」があるだろうな、と思う。
そういえば「何に嫉妬するか」とは学生諸君に訊いた。男女の性的関係にと答え、他者の才能にと答えて、折半されていた。まともな答えだと思った。他の裕福、栄達、権勢などに嫉妬するのはつまらない。
性的関係の嫉妬は、あまりに一般ではあるが人間が生身の弱い人間であるうちは、おおかたのがれがたかろう。だが愚かしいモノの一つではある。
他の才能への嫉妬心は、時に必要な場合がある。才能というのは必ずしも絶対に尊いモノではないが、これまた普通の人間には頭から離れない痛い弱点。他の才能への嫉妬は、痛みからのがれえない普通の人間(健康な人間)には、自身への鞭ともなる。鞭打たれて痛いと嘆くか、激励になるかは、人により異なる。しかし嫉妬心の中では、強いて喪わなくてもいい一つのように思われる。
嫉妬するに足るほどの他の才能に出逢えないことは、不幸の一つかもしれない。自身の才能を深いところから見付けてくるためには、通らずに済まないのが、他の才能へのまともな嫉妬である。自分のそれを見出し磨き込んでゆけば、必ず失せてゆくのが他の才能への、ゆえ無き嫉妬である。
そうしたいのなら、そうしたいことに、本格に取り組むことだ。
2003 1・16 16
* 眼を閉じ、静かに息をひき、静かに吐く。すうっとからだが闇に沈む感覚がある。脚先から順に、数十度も繰り返していると、アタマのてっぺんまで沈んでゆく。このままがいいなあと想うきもちすら失せてゆく。ジャック・マイヨールではなく、このまま上へ「戻ってゆく理由が」無いとはまだ言えないので、渋々眼を開く、と、深い闇と明るい目の前との間にまざまざと落差と亀裂が実感されて、いつも愕く。
* いま自分はなにを真実望んでいるだろう。ほとんど、何も、望んでいない。枝をはなれ、地へ散りはじめている一枚の花びらのように生きてきたではないか。しづこころなく。せめて静かな心でというのが望みである。安心してというのが。抱き柱は抱かないと覚悟した。頼めるなにもない。木食しようの乞食しようのなどと、出来もしない修行は少しも考えない。深い山へものがれない。なまぐさい生身のママ腐れ行くにまかせて、市井で生きる。北朝鮮、核、靖国、イラク、不良債権、貸し剥がし、殺人、詐欺、オヤジ狩り、援助交際。かぎりなく問題はある、が、どの時代にもあった。じっと観て、見ないこと。したいことはすればよく、したくないことは、しないこと。善であれ悪であれ。
2003 1・18 16
* 出久根達郎さんの小説を抄出した。なるべく佳いところを選んだと思っている。柔らかくよく書けている。仮サイトに校正が出て、詩人委員から「堪能した、ぜんぶ読みたい」という微笑ましいメールが来ている。
スキャン原稿を一字一句校正したわたしの思いで、具体的なところの感想を書いておく。こういうところを、なみの読者も、気を付けて欲しい。
例えばこんな所がある。トーシローの若いあとつぎ娘が、亡き母からひきついで古本屋の店をあけた。葬式の後ながく閉めていた。ものの分かる永い贔屓の客が来た。
* 秋水氏は三冊ほど選んで澄子に包ませた。
「以前はあたし好みの本が、もっとたくさんあったのだがね」と気の毒そうに弁解した。
皮肉ったのではない証拠に、客は続けてこう言い添えて澄子を激励した。
「古本屋さんという商いは、よその物売りの数倍、商品に愛情をもたなくてはいけませんよ。店主の本への思い入れの深さが、客を呼ぶんです。客は本の身内ですからね。本を邪けんに扱う店には寄りつかない。それと、売れなくても店は開けること。本が窒息するからね。本は生きものだから。いや本当。ためしに話しかけてごらんなさい。顔が輝きます」
「ありがとうございます」
澄子は素直に感謝した。
秋水氏が帰ったあと、真剣に考えた。
* ふつうの読者には、申し分ない成り行きであろうか。わたしは、だが、プロとして欲張る。欲張るとは、削れる限りは削りたい、余分な言葉を。
すると、先ず「澄子は素直に感謝した。」と「ありがとうございます」とは、お互いに「説明」になっていて、どちらかが全く余分、次の一行に「真剣に考えた」とあるのを、薄めてしまうのである。このどちらか一行をトルと、そこに佳い間が籠もり、「秋水氏が帰ったあと、」も、引き立つ。「澄子は真剣に考えた。」として前の直接話法をとるもよし、逆でもいい。
作者は手拍子でここを二行に書いたことで、無駄な蛇足がついた。行文が緩んだ。「ありがとうございます」の真率や実感を、書き手自身が信じていたなら、こんなつっかい棒の余計さにはすぐ気が付く。
いわゆる「読み物」にいちばん多いのが、この余分な「説明」であり、筆に実意があれば省けるものだ。初稿で書いても推敲では削れるものだ。
むしろ、それより悪いことに、ここまで書かないと読者は分かるまいという悪い親切の(実際は読者を下目に見た失礼なのであるが、)つい出てくるのが、いけない。この余計な親切こそが、大衆小説の質を、だらだらと落とすのである。
出久根さんには、こういう疵が少ない。現にこの抄出分では、せいぜいもう一二箇所有るか無いかで、わたしは、感心した。氏はまた、こういう不躾な批評をわらって受け容れてくれるお人のように感じている。だから、これも、肩を借りるように書かせて貰っている。他の作家の作品でこんなことを書き出したら、際限がないことになる。
* ついでに言えば、此処で少し前の、「皮肉ったのではない証拠に、客は続けてこう言い添えて澄子を激励した。」も、わたしなら、こうは残さない。
「皮肉ったのではない証拠に」など、読者を明らかに下目に見た説明で、著しく文品を損じている。前の行末へ続けて単に、「こうも言い添えて澄子を激励した。」で足りている。わたしならそれも省くかも知れない。また決まり文句や慣用句や慣用語をわたしなら容赦なく削除してゆくだろう。
* 自分で書いた地の文や会話や内心を、すぐその場で、こういう意味ですと得意そうに説明している著名な大衆作家は、今も大勢いる。平気で慣用句に頼って、微妙なところを雑に乗り切ってゆく例もいやほど有る。「文学」的にわたしは、そういう妙なパフォーマンスや、読者を下目に見た物書きは、小説書きは、極力してこなかった。
2003 1・18 16
*「ひとりッ子」だったし、大人の中で「ひとり」在ることは自然多かったから、わたしはひとりで出来る遊びを創り出すのが、比較的上手だった。余念無く一人で遊んだ。寝そべって「畳の目」を見据え、畳み目一つの幅に「世界」大の広さを想像していたりした。はためには退屈と見えたろうが、想像は最大の遊びであった。
読書、知識欲。それらも「ひとり」を癒すために役立つ「遊び」の一種としてわたしを占領した。確かに、あるところまで、読書や知識欲は、わたしの想像をよく刺激した。
だが知識は増えすぎると、本は読みすぎると、想像力を抑圧する。わたしのあそびの最大のモノが想像であったなら、いまのわたしは、本当に楽しいあそびを喪失しているのかも知れない。成熟か、衰弱か、それが分からない。
京都の、人っこ一人行かない古寺や古社の境内を、もとおり歩いて、とてつもなく寂しかった。だが、イヤとは少しも感じなかった。楽しんでいたか。そうも言いにくい。とりとめなく、冴えた寒さの底の方で、わたしは浮かんで揺れていた。
わたしのこの闇に言い置く「私語」列を、特徴づける語彙の一つは、久しく、「楽しい」であった、それはずうっとそうであったと、今も思い出す。ところが今、わたしはその「楽しい」を喚び起こせないという自覚がある。このまま前へ歩いてゆくと、わたしは死者の顔ばかり見てしまうかもしれない。
2003 1・22 16
* ウソとホント むかし「誘惑」という、少しカタリツクリのややこしい小説を書いた。二つの物語を綯い交ぜながら、どっちがホントでウソかが分からなくなってゆくように書いた。その始めに、短大の教室で、前置きに、今朝大学へ来る電車の中で体験した偶然の事を学生達に話していた。みな、熱心に聴いてくれた。
話を終えかけて、「で、今話していたこと、ホントと思いますか、ウソだと思いますか」と訊いた、その反応がおもしろく、その日の授業を、そこから「私小説」や「事実と虚構」やへもっていった、と、小説は、そういう運びになっている。そこから二筋のストーリーが捩れて行く。
だが小説でなくても、この、マクラの「教室」部分は、その通りのことが一年だけ勤めた東横短大で、現に、有った。東工大でも、似たようなことがあった。
短大の学生達は、今しもおもしろく聴いていた話は、「ホント」であってほしい、でないとツマラナイと、熱いぐらい求めていた。「ホント」と思えばこそおもしろいのだ。もし「ウソ」だとわかれば一気に「なーんだあ」と落胆し、興味も失せてしまう。世界的なことは知らないが、日本に「私小説」がはびこった理由が感じ取れそうな、これは事実・現実である。
ホントですか、ウソですかと、いやほど訊かれ続けた、作者として。むろん答えない。が、どうしてもとなると、どっちの質問にも、一律「ええ」と頷いておく。やっぱりそうなんだという顔をする。それは相手の勝手で、私の知ったことではない。
日本人は概して、これは「ウソ」ですよ「ウソまじり」ですよと前提された話を、歓迎しない。インテリといって似合う知的水準の優れて高い、上品なおばあさんと娘であるおかあさんとが、口を揃えて、「小説はウソを書く」ので読みませんと明言するのを学生時代に聴いた覚えがある。わたしが小説など書き出すより、はるか以前である。
まして「ウソ」を書くかもしれないと前提されると、どんなにおもしろ可笑しくホントを書いて見せられても、もう容易に人はつられない。信用しない。タネの知れた手品を、書き手ひとり楽しんでいると、シラケるのである。どうせウソなんだからと時間つぶしに使われる。時代物、読み物、未来物。その多くは「限定」つきで楽しまれるけれど、多くは信用されないし敬意も大きく省かれている。
そして、此処が微妙だが、この先へ進んで実は、「ウソ」だから「絵空事」だからこそ真に面白いのだという境地も現出する。読み巧者の世界である。優れた書き手はいつ知れず其処へ向かっているのが普通だ。
たしかに、ウソをうまく書くにはコツがある。が、それより何より、(普通のレベルで)ものを書く前段階に、ウソも書くよと前置きすると、さきの短大生の多くがガッカリしたように、ある種の読者は、はなから去ってゆく。コワイのである、この辺が。
ホントのことをホントに書いたからといって、人が皆ホントと思ってくれるわけではない、ホントを「ホントのよう」に書くのは、でたらめなウソより遙かに難しい。ホントのつもりがウソにしか読めないのである。この機微を、力のある作者は縫い取ってゆく。だが、楽屋はあまり曝さない方がいいだろう。
2003 1・24 16
* 繰り返しの一度一度を生涯の一度かのように。一期一文 一期一日 一期一人 ですね。
よく読み返して、きちっとした文章で書きおく姿勢がいいと思います。文章というのは手を抜き始めると自堕落になって行くのは早く、元へ戻すのは不可能なほどに至難です。これら書き起こしは、とても清潔感のあるあなたらしい知性と感性です、初心を常心に。
四つとも読みました。わたしの気持ちでは、小闇誕生の思いです。豊かな光を生み出す光源としての闇が無限に息づくこと。非科学的かな、うまく言えないが。
文章で自分を呪縛しないこと、いつも文章に対して自分自身が自在に自由であること。それが文章を生かします。書き過ぎると、その過ぎた分に言い訳をはじめたり義理を感じたりするようになり、だんだん自分を窮屈に追い込みますので、のびのびと柔らかに。匂いのいい、香りのいい闇の深みを発信してください。
とても嬉しく。とりあえず祝電。
こちらの小闇さんが、別に、読んだ本と観た芝居も書いています。あなたには希望があります。一期一語 日本の私たちが、バルコニからの小雨におどろくように、きっとあなたが接触して印象的だった「スペイン語」の単語や物言いが有るに違いない。一つ一つずつ、あなたのおどろきや笑いや感嘆・憤慨などの気持ちをのせて、短く紹介し続けてくれませんか。別項目を立てて。短くていいのです。
このスタイルが簡明・清潔で、「十分」と、私も思っています。
* いま、心親しい何人もの若々しい顔が想い浮かぶ。きみも、あなたも。一日のわずかな時間、ひとりの「闇」に降り立ち、極く短い選ばれた言葉を「言い置く」のは、どうですか。読者を意識せず、身内の闇に自身の言葉を光る矢のように響かせて。
2003 1・25 16
* 木花開耶媛と岩長姫とのことは、『花と風』を書いた三十年も昔から、繰り返し繰り返し語ってきた。「時」の性質の違いとして。人の時間と神の時間として。繰り返す時間と、持続する時間として。点線又は鎖線の時間と実線の時間として。
むろん神話では、以後の天孫たちの寿命、ひいては人間の寿命の問題として、この姉妹の寓意が語られている。父なる山の神は、天孫にむかい、美しい花の妹だけでなく常しえの岩の姉をもともに娶れとすすめた。だが、ニニギは、あえて花の妹だけを妻にした。父と姉は天孫達の寿命の短かからんことを呪詛した。
わたしは、だが、この天孫の選択を、「人」としてした最初の英断と見た。彼は永遠持続の神の時間ならぬ、花のように咲いては散りまた咲き返す繰り返しの時間を人間のために選んだ、と。命の新鮮と美とめづらしさとを、そういう「花」の時間にかりて確保したと。散るとは「風」の意義を生かすことである。世阿弥らは、この神話に多くをまなんで、例えば『風姿花伝』をつたえたであろう。
もっとも、この神話は、南方世界でいわゆる「バナナ型」伝承として普及していたモノと酷似している。やはり、それらも、人間の寿命とからめられている。永遠の石を拒んだので、替わりに神はバナナを与えた。人間の寿命はバナナなみになった、などと類似の伝説は、数多く南の国で採取されている。そういうことは承知で、しかし、花と岩との示唆するところをわたしは「時間」の質差に認めた。
むろんこの花と岩の姉妹は、美と醜という面ももって対立していた。それを、四谷怪談の基になった「四谷雑談」などの実録は、巧みに転用していた。学者達はそれには触れ得てこなかった。高田衛さんの周到な四谷怪談論のなかで、そういう視線はついに紹介されていなかったけれど、わたしは、紛れもないと眺めている。
今一つ言えば、岩長姫の「醜」に、岩の上にとぐろを巻いて影向する蛇体の神の寓意の在ることも、ぜひ読み取らねばならぬ。長虫とは蛇の意味であり、「ナーガ」とは東南アジアの信仰の主要なモノの一つ、蛇であり蛇神の意味である。「長い」という日本語の語源も明らかにナーガに発している。ここに現れる山の神も、転じては一本足の案山子となって現れるように、日本では蛇体の神霊である。そして花といえば桜であるが、「サクラ」という言葉にも、例えば近代の鏡花は、遠い蛇影を託しているのである。岩と花の姉妹もその父山神も、本体は水神でもある蛇であり、日本の古い由緒の神社は九割九分が水神海神山神を神位としている。皇室起源の神話には、水の海の山の蛇神がつねにまとわりついたことは、古事記が、日本書紀も、正確に語っている。
忘れ得ないのは、蛇神には火の神の横顔もある。イザナミのホトを焼いて生まれたカグツチは火の神とされているが、「カグ=カガ」も「ツチ=チ」もカガシやオロチとあるように蛇と同義である。イカヅチやタチの「チ」もそうである。イザナミの死体にたかっていた八種の雷=イカヅチも、八岐大蛇の尾からあらわれたタチ=剣も、また同じである。
* 京都で三宅八幡へ詣ってきたが、八幡様の紋は向い鳩である。大概の古社の紋は蛇鱗の六角や変形が多いが、鳩は、八幡の縁起にあらわれる。やはり蛇で、ある時鳩に変じて天に翔びたったと社伝に在る。
能登島で八幡社の火祭りをみたが、火と燃え立つ高い高い竹の先で、炎とともに御幣が鳩のように夜空へはじけ飛んだ。竹は、鞍馬の竹伐神事にみるように、明らかに蛇体を示している。言い出せば際限のないことだが。低い次元にとどめて時たまの新聞記事にする程度でなく、人間の文化と社会と歴史の基底部にある「蛇」形象の意義がもっと体系的に科学化されないものかと思う。わたしには出来ないが。
* 古事記で、日本の神話で、いきなり「天御中主神」が現れたときは、さすが子供のわたしもなんだか理に落ちた話だなと、感心もし素朴ではないように感じた。のちのち、切支丹の徒がこの神様を持ち出して信仰の宥和を計ろうとしたり、古学や国学の連中に西洋の知識とのアレンジふうにこの神様の名を利用する例があったりするのと、出会った。大陸起源の元始天帝の知識を受けており、原初の神話とは言えまい。
天の岩戸前の神楽を、わたしは「葬儀と甦生」の初例と見て、「遊び」の起源をそこに置いてきた。天若日子の死の場面でそれが繰り返されている、と。「遊び」とは死者の慰霊行為であり、「芸能」の起こりだと。遊び部から遊び女にいたる芸能と売色との久しい伝統をそこに見て、だから久しく芸能の徒が「差別」を受けてきたのだと。根底に死屍と霊魂とがあったからだ。
井上氏の「神話から歴史へ」で、だが天の岩戸の遊びをそういう風にまでは捉えていなかった。むしろ素戔嗚尊の天津罪の法が詳しく解説されていて、それはそれで興味深いものだった。
2003 1・25 16
* 自分のながい小説の主人公と、このところ対話をつづけている。
このところ、気がつくと眼をとじている。とても、ラク。すうっと闇の底へ引き込まれ、寝入っていることもある。寝ていても起きていても同じだと感じたりし、少し慌てる。ヘンな人。
2003 1・26 16
* 寝ながら、かなり執拗に「今、此処」ということを考えていた。
先日来、「明日」は永遠に来ない、在るのは、「今日」の、「今・此処」だけだと繰り返していた。その通りだと思う。
「昨日」のことは棚上げしていたが、昨日も、記憶のなかにあるだけで、地滑りするように消失している。明日以降は、バーチャルな影のように向こうに見えている気がするに対し、昨日は断崖絶壁のように踵に接して奈落へ崩れ落ちている。富士山ほどの高みの「今・此処」に身を置き、踵に接して背後の過去は垂直に裁ち落とされて「無い」ということ、それを想像するのは、相当怖い。しかし事実はそのように譬えていいものであり、回顧・懐旧・追憶はあまい夢であるが、時間的現実は刻々に千尋の谷よりも無残に毀たれ喪われている。いつか、そういうイメージの映画映像を観て震えたことがあった気がする。アトのない歩み。それが「時」の残酷さ。
だがマエはあるのか、無い。「明日」は来ない。その意味で、やはり、足のつま先の先は、断崖絶壁のように断れ落ちていて、どこにも見あたらない。過去を夢のように記憶するのと同じく、未来も夢見て期待しているだけである。しかも、その断れ落ちた断崖絶壁の空へと、刻々足を踏み出し踏み出しして我々は生きている。
自分の足ひとつを載せうるだけの小さな島に、一人一人が「生まれ」ると、わたしは「海」という世間に浮かぶ「島」の思想を語り続けてきた。
もし「時」の世界を謂うなら、われわれは、足一つを載せうるだけのカプセルに乗り込んで、太虚の空をすすんでいる。後ろは崩れ去り、前に道があるのでも堅い大地が用意されているのでもない。天涯に聳えた断崖(まるで足幅だけの高い高い衝立か屏風)の上に立つと譬えたが、じつは、後ろも前ももともと無い「闇」のなかを歩いているのが「時」の旅なのであろう。
石川淳は、小説を書くのは、闇の中へ足をふみだすのと同じだ、踏み出すよりほかに無いと言っていた。芥川龍之介はまるでべつのことを実践できた。彼は書くべき小説のすみずみまでアタマに入っているので、途中からでも、前後してでも書けると。軌道を書く芥川と、闇の奥でしなうような作品を書くべしとした石川淳と。むろんわたしは、石川淳に聴く。
人生も去った「昨日」は絶対取り返せず、来てもいない「明日」の幻影にしたがうことは愚かだろう。在るとすれば過去の記憶も明日の期待も「今・此処」でしか意味を持たない。
かぎりもない空を、透けて無いも同じ「身」一つしか包まぬカプセルにのって、足下に何の支えもなくしかも前へ前へ踏み出て出て行かねばならない、われわれ、一人一人が、此の世に犇めいている。喪ったもの、獲ていないもの。昨日と明日。過去と未来。このバーチャルな「時」の魔術に翻弄されてはならない。そんなことを、あけがた、ずうっと寝ながら考え続けていたようだ。
2003 1・31 16
* 逢いたい人が、有る。それは、いわば人として生き甲斐のひとつであるが、人が人と具体的に出会うには、いろんな事前の取り決めや手順が要る。東京のような、ぶざまに広々とした都市荒野で、時と所の一点を定めて出逢う難しさ、だから携帯電話が爆発的に利用されているのだと思う。携帯しようとは決して思わないわたしも、人が電話を携帯していてくれると、凧の糸の繋がっている感じで、半分がた安心する。何時に何処で、なんてことがわたしは苦手。ひとつには、東京をあまりに知らない。
で、ひとり足任せに歩いて、店に入って、飲んで気楽に好きな本を読んでいることが多い。そういえば、今年はまだ一度も日比谷のクラブに行っていない。
2003 2・6 17
* 三、四日ばかり、左の肩・首・顎・耳・眼・コメカミ・頭が連動して痛んでいる。はれ上がっているような自覚。睡眠で緩和をこころがけても効かない。仕方なくロキソニンで和らげるが、薬効には限りがある。運動不足なのだろう。ときどき、こういうのが繰り返される。いまは眼がはれぼったい。自然、眼を閉じ、ジイッと闇に沈んでいたくなる。闇の奥をどれほど遠く深くたずねても、何も無い。痛みもない。何十年も、在ると思ってきた「自分」なんてものは、全く存在しない。自分とはこの闇である実存の、仮面なのだ。
2003 2・7 17
* 岩石は堅い。まさしく物そのものだと思う。だが、現代の物理学は、そういう意味の「物」など存在しないと云うらしい。莫大なエネルギーの流体でこそあれ、それは物とはいえない。無数の線が引かれ交叉し廻転して出来る「線と点の塊」が堅いと感じさせ、結果として「岩石」を成しているだけだ、と。素粒子的な電子的なところまでいうと、そういう説明で意味を成すのだろうか、科学的にはわたしは分からないが、仏陀が、自身の内をふかく覗くがいい、何もない、空だと教えているのは、すばらしい洞察だと思う。体内に心臓がある胃がある、骨もあり血も流れていると謂ったとて、その事実より、眼を閉じてのぞきこむ闇のなかに、ほんとうに自分であるような何も無い。意識しかない。意識も薄れてゆく。澄んでゆく。現実の肉身はその「闇なる空」がかぶっている仮面なのだ。それを自分であると自我は云いたがるけれど、何の確証も無い。いわば堅い岩石といえども、無数のエネルギーの線と線が織りなす莫大な点の結晶したような集積であるのと同じく、この私も、本質的に空の肉身なのである。エネルギーの点と線の集積が、たとえ堅固な或る状態を成すといえども、所詮実質は究極の空をさまたげ得ていない。堅固な岩石の実態は、仏陀が云う前から、元始本来、空の存在だと、現代の物理学も確認しているというから、呻かれる。
本来空なものが、どんな実質を失い得るというのか、失う物などなにも持っていないのである、と。仮面としての自我や私がたとえ「在るかの」ようでも、実は無いと気付くか、いつまでも気付かないか。この差がとても大きいと、わたしは漸く気付いてきている。
空なるモノがいったい、どんな神に抱きつき支えられて、どう救われようと云うのか。生まれる前はどうだったか。眼を閉じて闇にかえれば、そこに生前の死が在る。死んでからに馴染むにも眼を閉じて闇に入れば、そこに死後の生が在る。闇と云うから昏いと思うが、さ、それはどうか。光に溢れた闇が不可能なのではなく、空に気付かないでいるから闇が昏いだけなのかも知れぬ。まだ、わたしには分からないが。
* 俄にこんなことを言い出して、おまえは、おかしいと思われるだろう。
そうではない。
今から三十年もそれ以上かも知れぬ前に、「光」という、こんな掌説を書いていたのを、いま、わたしは思い出す。
* 光
ああ愉快、愉快──と、こんなふうに言ったことがただの記憶のかけらになり切っていた。男の子らしいいたずらをまんまと仕了せた時、また男の子らしい生真面目な仕事を成し遂げた時、すこし胸を張って、こんな言葉を使ったものだった。
男は、久しく愉快を感じたことがなかった。
毎日毎日、男の心には不等記号が愉快より一層多く不愉快の方に開かれ、もはや頑なに生活の下絵をつくっていた。
一、二、三、四──、歩けば男は歩数をはかっていた。一段、二段、三段──、昇れば階段の数をかぞえていた。
一人、二人──、道行く人影を男は意味なく数えていた。そして一日の暮れてゆくのを二時、三時、四時と、呟き呟き見送っていた。
数えられるものばかりが多く、数えても数えても、あまりに虚しくて男はしかとした印象を何事からももたなかった。俺は何をしているのだろう──、そう考えることもあった。答えは見当たらず、男は自分が無数の数の一つであることだけを朧ろに知った。
数の内か──。それは救われたような空々しいような気もちだった。
男は眼をつむることを覚えた。
眼をつむってしまうと、たちまち何一つ数えようがなかった。濃い闇の中では凝り堅まって確かな手ざわりで自分が自分に生き返った。静かな秩序が、整然と歩調をとって男の中で高らかに活躍した。
男は眼をつむって嬉しそうに歩いた。 だが、十歩も行けば不安がはっと捉えてきた。眼をあけてみて、男の胸はときとき鳴った。男はほぼ真直ぐ歩いていた。危なげはなかったのだ。
十五、二十、三十歩とやがて安らかに男は自分の闇を支配して進めるようになった。歩数をかぞえることもやめて、男は大きな充実にとり包まれ、むさぼるように一足一足愉快に歩いた。
走ろうとすれば走れた、だが眼をあけて見る外の世界は、あまりと言えば狭苦し過ぎた。
広い場所、人のいない場所を探ね歩いた。そのような場所があればふっと眼をつむって、男は自在に足早に確実に、あたたかい陽ざしへうつつに顔をふりむけ、悠々と愉快に歩きまわって過ごした。眼をあいて暮す世界より、眼をつむって確と手に触れてくる世界の方が男には親しめた。安らかで、美しかった。ただのくらやみだったこの世界にあざやかな光と色彩が満ち溢れていて、紛れもないものの像を日ごと男の眼の底にかたちづくって行った。
或る日も男がこの新しい領分をのどかに満ち足りて歩いていると、一人の少女に出逢った。遠い以前、男が男の子らしい清々しい声で、ああ愉快、愉快と言っていた頃愛していた、その少女だった。昔通りの微笑を優しくふりむけ、少女は、あら、あなたもいらしたのと叮嚀に挨拶をした。あたくし、もう二年になりますの。それから、もっと早く来て下さると思ってたわ、と言った。
男は少女の傍を少年のように歩いた。ああ嬉しい、と少女は昔のように可愛く甘えて男を見上げた。
男は黙っていたが、幸福だった。闇にぱっと光が射して、なにもかも明るく、はっきり見えたーー。
崖を踏み外した男の死体は直ぐ見つけられた。
引き取り手のない死顔が愉快そうに微笑っているのを、人は無気味だと思った。
* バグワンのバの字も識らなかった遙かに遠い昔の、だが、これは、わたしの自覚であった。ただの虚構でも妄想でもなかった。ただの思いつきではなかったのである。わたしが今も、歴代天皇だの、海外の映画男優や女優だのの謚号や名前をせっせと数え上げて歩くクセは、家の者は知っている。知っている読者も少なくない。
同じ頃の掌説に少し手を加えて、新聞小説『冬祭り』の中へたたみ込んだ、「日」という作品でも、わたしは「闇」への愛憎・確執つまり生き苦しい思いを書いていた。
これらのわたしの掌説は五十編に余るが、ただのお話ではない、私自身のとんでもない怖ろしい索引を成している。わたしが自分に対する批評家なら、これらの作品がにじませているモノから先ず味わうだろう。
* 日
男は日と争った。日を罵り嘲った。
日は男を地獄へ蹴落とした。地獄の底を、男は無二無三に走った。走りながら日を憎んだ。
足もとに、いつか一条の光る細い道が闇を裂いて延びていた。道の両側に、数限りなく男を見つめる青白い顔があった。発光体のように、顔は闇からにじみ出ていた。端正で、無表情で、虚空にうかんで、微塵も動かぬマスクの、眼だけが生きて男を見つめていた。
男は走った。前にも後ろにも数えきれない自分の影が飛んでいた。
光る道の奥に、真黒い扉が見えた。扉は押すとも引くとも知れぬ一枚の厚い板にみえた。
扉ではなかった。暗黒のはじまる所だった。男は倒れこむように、頭から闇の底へ底へ落ちて行った。落ちながら、もがいて虚空を蹴った。
逆流する血が脳漿を潜りぬけ、足指の一本一本をぼってり脹れあがらせる。下半身が寒く、顔は生ま温かく、落体の恐ろしい速度に鼻をちぎられ、を引き裂かれて、男はやがて落ちる速さを、暗黒のただなかにふと忘れていた。
と、男は硬いよそよそしいものに支えられて、音もなく横たわった。
部屋ーーというのもあたらない厚ぼったい濃い闇が、男を隙間なくとりこめていたが、やがて、身ひとつをきっちり闇間に浮かばせて、物憂い微光が泥のような己れの姿を男の眼にみせた。
男を支えていたのは、無愛想に、冷たく堅苦しく、いっそ、ただの「場所」と呼んだほうがいい、そっけない、気味のわるい場所だった。
物惜しみするように男の身に触れて、まるで皮膚ほどにその場所は「在る」とみえたが、その先は濛々と昏闇に呑まれ、男は己れを泥のようにみたまま、闇黒の重さにひしがれて、ただ横たわっていた。
「暗いなあーー」
男ははじめて口をきいた。
どう追い求めても洩れる微光のふしぎなかたちが探れない。身を揉めばこぼれるようにものかげが揺れ、手をのべてまさぐると、いっとき、ほうっと光の粉をまいたように明るみ、またすぐ闇に沈む。
男はようやく起った。
やたらぐるぐる手を振った。歩きまわった。
すると、男の身に添っていたほの明るさが幾重にも闇ににじみあい、淡い色で流れ、そして、消える。
男はなにも考えず、ただただほんのすこしでも多く、すこしでも時間長く、身のそばに明るみをひきとめたいばかりに、一つ所を、輪を描いて、無二無三に手を振り足を躍らせ、走りはじめた。
息づかいのほか足音すら響かぬ闇黒地獄の底の底で、男は、そこから逃れ出たいとも考え忘れて、ひたすら、無限の円環を有限に返そうとでもするかのように、息を吐き、黙々と、無表情に一つ所をぐるぐると、それでも日の世界の傲慢を憎みながら、走りつづけていた。
* わたしの、ものを言い置く「闇」とは、パソコンのスクリーンが孕んでいる電子世界の闇に尽きるわけでは無いのである。言い置きたい一つである。
2003 2・8 17
* 率直に言うと、長谷川伸の後進を導く「小説・戯曲の作法心得」は低調で、たとえば石川淳の短編小説の覚悟を書いたモノや、その他の優れて藝術的な仕事をしてきた人達の作法や心得にくらべると、むろん頷けることの多いなりに、うわついていた。取材の仕方など、手練れの書き手の用意がみえて敬服もするが、文学の根底をなす文章表現の厳しさにでなく、また作家の動機の深さについてでなく、要するに、蓄えた話材の処理の仕方ばかりが大事そうに語られる。要するに、その作品は、作品の材料は、誰が書いてもかまわないのである。自分はこういう風に料理するという話である。
作家の甲乙丙丁が、甲は甲の、乙は乙のやむにやまれぬ内面をどう作品に迸らせているかの話題では少しもない。手練手管のたぐいになっている。せいぜい手法である。
* むかし、「群像」の鬼といわれた大久保房男編集長が、歴史小説は所詮だめだと喝破した。歴史小説はいい、時代小説はくだらないと、わたしもやはり思う。もっと昔に、近松秋江が谷崎潤一郎の書いた歴史物語を、こういう書き方なら誰にでも幾つでも書けると切り捨てて、谷崎を鼻白ませた。その時、谷崎の盲目物語にせよ武州公秘話にせよ聞書抄にせよ、まして少将滋幹の母にしても、その辺の安手な時代読物と一緒にしては困るよと、寧ろ秋江の言をわたしはそのままは受け容れなかったし、大久保さんのいわくにも、わたしなりの限定をもうけ、苦情すら言ったことがある。鴎外あり藤村あり鏡花もあり谷崎もいる。すべて作品の根底に卓越した動機と文体・文章表現の妙味がある。通俗読物には手あかにまみれた類型表現や字句がうじゃうじゃとぼうふらのように作品の水を濁している。気稟の清質がどだいチガウのである。
* 同じ長谷川伸の「大衆小説の誕生記」というエッセイを読むと、講談社の沿革が語られていて、大衆小説の淵源が、「講談や浪花節の筆記」であったこと、まさしく「ペン電子文藝館」がその近代文藝の流れの最も古いところに三遊亭圓朝の「牡丹灯籠」を据えたのが正確であった事情を証言している。
時代読物は、最近評判のいい藤沢周平にいたるまで、要するに講釈や人情話の筆記の延長上にあり、それは現代読物の場合でも、素質として全く一緒なのである。大久保さんがダメといい、例えば前の「新潮」編集長の坂本忠雄氏が、繰り返し、優れた文章・文体による動機のつよい作品でなければと説きつづけているのも、それなのだ。
読み物は読み捨てのおもしろづくだから、程度低く読まれて、売れる。それだけのことである。「講談」社の名乗りのもとになった雑誌「講談倶楽部」は、「初め講談落語の速記を載せそれによつて売る雑誌なり」と、実地に関わっていた股旅物の手練れ長谷川伸がハッキリ書いている。いま中里介山の「愛染明王」を校正しているが、この人も関わっていたようだ。
介山の小説は、だが、ただの読物の域を抜けるか、抜けよう、としている。谷崎が「三人法師」や「二人の稚児」などを書いていた感じにちかいとも言えるし、この「愛染明王」に限って謂えば高山樗牛の評判作「袈裟と盛遠」の線上にあるとも見える。校正は中途だが、親密に読み進めている。
直木三十五「南国太平記」五味康祐「喪神」中山義秀「碑」円地文子「なまみこ物語」室生犀星「かげろうの日記遺文」田宮虎彦「落城」芥川龍之介「地獄変」泉鏡花「天守物語」真継伸彦「鮫」辻邦生「安土往還記」など、鳴り響くような時代物秀作はいくらもあり、すべて文学の命を輝かせている。近松秋江も大久保房男も言い過ぎている。が、やはりかなりのところを峻烈に言い得ていたのも確かである。
* これも「言い置い」ていい。意図して、かなり数多い、プロレタリアや社会主義者の抵抗文学や文章を「ペン電子文藝館」に取り上げてきた。彼らの作品や取材、或る意味であらけずりで粗雑・雑駁かもしれないが、股旅物や人情話などのノーテンキな講釈まがいと比べると、生きるか死ぬかの、のるかそるかの、瀬戸際の「生活と人間」を真剣に追及した作品が多く、他をして閑文字と読ませかねないほど、辛い訴求力をもっている、むろん、優れた作の場合は、と即座に断らねばいけないが、である。文学へ向かう姿勢は、純。
2003 2・9 17
* ふしぎなことで、ことばを喪失した気持ちで、茫然と、何かをただ感じている時、至福が訪れていたりする。ことばは魔物で、言ったり書いたりしたとたん、シンのところが虚しく流出していることによく気が付く。ほんとうに記憶がしっかりしていて、感じたままを忘れずに済むなら、書かない語らないのがむしろ「本来」のようにすら思うが、そうは行かないので、口にして確かめ(た気になり)、書いて保存し(た気になり)、している。「言い置く」とはそういう行為であり、限界がある。限界を承知してするうえは、より良いことばと表現が有ろう、有るはずと考える。これまた「言い置く」意義である。
2003 2・10 17
* はや「須磨」の浦を通り過ぎた。「明石」に入る。弥生上巳の海の異変は臨場感豊かに書かれている。
春の海終日のたりのたりかな
蕪村の此の句は、本により、「須磨」の句と詞書き明らかである。三月上巳は、いわゆるひねもす先祖波ののたりのたりと打つ日とされている。古典にくわしい蕪村の念頭に「須磨」巻の海辺の異変が頭になかったはずなく、いわば光源氏の運命のまた大きく動こうとする前兆であった。
ここでいう「上巳」とは三月の最初に来る「巳」の日の意味で、この日には先祖波に打たれて祓をする。禊をする。源氏はそれをしていて、竜王に見こまれた。「みそぎ(身削ぎ)」とはあの脱皮由来に他ならず、「巳」の日の意義が活かされている。「上」の召すのになぜ来ないかと、それとも見えぬモノの影に、光君は夢中威嚇されている、この「上」とは、都の主上ではない、海の底なる竜宮の龍王を謂うのである。この意味は深刻で、のちのちに盛大な「住吉詣」のあるのと繋がってくる。
光は、海神に愛され、その手に自ら身を投じなかったものの、その導きと加護とにより明石へ移り、また都へも戻って行けるのである。明石上がのちの明石中宮を出産できるのにも竜王への願いは関わりあり、根に、明石入道の海王にかけた深い不思議の大願があった、謂わず語らず、そのお礼参りが、住吉詣ということにもなる。
蕪村もそういう意味合いを感じたまま、先祖波の「のたりのたり」の底にひそむ神意を、一句にみせていたものと、わたしは読んで、楽しんできたのである。「のたりのたり」が効いている。
2003 2・11 17
* 制約が多いから、どうせテレビだから、視聴率がとれなきゃダメだから、とか、テレビドラマも自分で自分に言い訳の首かせをはめるばかりでない、人の無条件に頷く冴えた職人芸をみせてもらいたいもの。
後白河院のころに、いかなる上手の繪にも、まこと反抗しがたい精微なケチをつける「繪難坊」と渾名された批評家坊主がいたと、ものの本に出ている。そういう批評に鍛えられる形で、写実の傾向の深まるのが、鎌倉期以降の造形であるが、そういう「繪難坊」を一人、あらゆる作者は、自身の身内にもしっかり飼っておく必要がある。甘える作者は、甘えに甘え、それにも気付かず自己満足してしまう。創作の才能は、自己批評の才能にほぼ等しいのである。
2003 2・12 17
* 中国へ行ったとき、人民大会堂で、先方の国会議長に当たる人と公式に会っているときにも、足下に「唾壺」が置かれていて、はじめのうち、何だろうと思っていた。実際に唾する場面は記憶にないが。
ああいうものは、日本の日常にはない。だがそれに類する何かを人が漠然と欲していないでもない。物言わぬは腹ふくるる心地と兼好はいい、言えないのなら穴を掘って穴へ叫ぶとも聞いている。腹をふくらませているのは「唾」であり、穴は「唾壺」に他ならないが、たとえば「日記」をそういう風につかう場合もある。「闇に言い置く私語」もそうだといえばいえて、なるべく「唾壺」にはしないように心がけている、が、さ、どんなものか。鏡のようなもので、結局は我が面影をそこに観ている。言葉を飾ることは出来ないが、「心化粧」という思い習いは昔から有る。語は、心の苗ともいう。
言葉は惰性慣性を際限なくうみはじめ、過剰に増殖する性質を持っている。唾ばかり吐き始めると、唾のほか出なくなる怖さを、言葉は抱きかかえている。そういう魔物に自分を委ねてしまうまいとわたしは、相応に心がけている。悪貨がいちど良貨を駆逐し始めると、もう戻れないのだ言葉に譬えると、特に。自分の言葉で、さきざき、より大きな豊かな表現を望んでいる場合は、ことに心して良貨をこそよく磨き蓄えていたい。
2003 2・13 17
* むろん、ものを書くのに、ひるんではいけない。筆をまげてもいけない。意気を喪ってはそれよりも多くを喪うことになる。
2003 2・14 17
* 何度も書いてきたが、学生諸君は、三年経ち五年経ち十年経つにつれて、かつてわたしの突きつけた「問い」への「解」を、「応答」を、いろいろに改め改め、或る緩やかな旋回体験を持ち続けるだろうと予期していた。その時その時にむろんリアリティーはあるのだ、が、それが一定(いちじょう)のリアリティーでなく不定(ふじょう)のものであるというわけ。言い換えればその時時の感想でり、そう簡単には「思想」にならない。
それでいいのである。なまじな「思想」など抱きしめてしまうと、川浪に逆らって上流へ泳ぎ続けるような人生の愚と不自然を演じてしまう。
思想という言葉をわたしは久しく尊いものの一つに数えていたフシがあるが、今はちがう。思想で守れるのは小さな「我=エゴ」の「思考」に過ぎない。感想であろうと思想であろうと所詮は「青空」を覆って流れる「黒白の雲」のようなもの。雲のきれめに眩しく光る澄んだ「空」がみえるとき、あ、そうなんだ、あの無窮の青空が本来の自身であり、雲は、自分を何かから覆い隔てているはかない思考や思想の芥のような、執着のようなものだと感じる。
そんなことを、だが、若い日々を一心に生きている人達に云ってみても、奇妙な誤解や蹉跌を強いるだけかも知れない。六十七は六十七で、三十ではない。だから老若の会話が生きて緊張しうる。
* 愕いたことは生涯に何度も何度もある。感嘆したことも呆れたこともある。新制中学から高校へ進んだ頃か、それより前か、わたしは、やや窘めるようにわらって教えられたことがある。「孤独て、えぇモンえ。なんで孤独がいややのん」と。
翻訳すると、それは、「人はいっつも逢おてばっかりいんかてえぇの。逢おてのうても、逢おてるのとちっともちがわへん気持ちて、あるやろ」と。
一つ年上の人であった。少年のわたしは愕いた。それは公案のようにわたしの胸にその後もいつも突き立っていた。この人は、わたしに漱石の『こころ』を与えて新制中学を卒業し、いつか家の事情でか、わたしの知らない遠くへ、日頃の居を転じていたのである。
* 『こころ』の先生は孤独で自殺したのではない、孤立して死んだ。孤立したら人は死ぬかもしれないが、孤独は孤立ではない。
わたしに孤独はいいものだと教えた人の、わたしより一つ下の妹は、またべつの不思議なことをわたしに教えた。独りになりたいときは「地下室」へ降りると。むろん譬喩である。
よほどイヤな辛いことがあっても、この妹は、「なんじゃい」と呟いてその「地下室」に降りてゆくというのだ、地下室とはすなわち、高浜虚子の有名な句の、「遠山に日のあたりたる枯野」にひとしい世界の意味であった。「なんじゃい」は、何ともいえぬ現実への寂しい捨て台詞とも聞こえるが、「地下室」である「枯野」への「開けゴマ」でもあるのだった。
大事なのは、妹のいわく、その孤独な別世界に、あたかも遠山がひらけ日も柔らかにあたっているという「懐かしさ」であった。先の一文で「私にとって孤とはすべてから解き放たれるイメージ」とは、そういう「孤独」のよろしさを謂っているのだろう、しかし骨を噛む「孤立」とはそれは異うものではないか。人は「孤立」の意味で多く「孤独」と謂っている、便宜的に。孤独は、孤立ではない。
わたしにそれを教えた姉と妹は、元気でいるだろうか。
2003 2・23 17
* 直木三十五の「討入」で、討ち入った浪士四十六人(直木は、寺坂吉右衛門は直前に逐電したと、数に数えない。たしか吉川英治は、本懐後に、吉右衛門ひとりは各地の遺族に報告を命じられて泉岳寺への列から離れたと書いていたように思う。)の姓名が拾えた。どうしても二十九人どまりしか思い出せなかったので、深夜に直木作品の原稿コピーから一々拾った。
覚えていた二十九人の思い出し方は、まず左衛門、右衛門とつく浪士をあたう限り思い出し、十二人を確認した。次ぎに大石内蔵助・主税父子のように父子、兄弟の分かるのを拾ってゆくと、堀部弥兵衛・安兵衛、間父子兄弟らがいる。ついで講釈や映画でよく出てくる連中を拾うと、大高源吾や赤埴源蔵や矢頭右衛門七や前原伊助などが拾える。そんなふうに二十九人までそらで思い出せた。
わたしは、人の名前・名乗りに、小さい頃から興味を禁じ得なかった。神々の名乗りや天皇の謚号にも及んでいた。
清和・陽成・光孝と続いてきたのが、なんで急に、宇多や村上や一条・三条・白河・堀川になるのか。そんな中にまた安徳・顕徳・順徳などがまざるのか。そして桜町・後桜町・桃園・後桃園だったのが、俄にまた光格・仁孝・公明・明治・大正・昭和などと何故元へ戻るのか。
逆に、馬子の不比等の仲麻呂のといってたのが、なぜ急激に、それも天皇さんが都の内外の地名を名乗りだした頃から、公家や武士は良房の基経の道長の頼朝のという厳めしい名前になり、正成や義貞や義満や信長や秀吉・家康から、隆盛・利通にまで至ったのか。
もっと関心のあるのが、庶民の名乗りであり、また赤穂浪士のような下級武士の名乗りで。左衛門・右衛門だの、兵衛だの主税だの内蔵助だのという官職を当たり前のように彼等は名乗る。
これは以前「e-文庫・湖(umi)」に、同僚委員の森秀樹氏に原稿を戴いているのと同じ関心事なのであるが、民百姓に至ってなお、衛門さんも兵衛さんも太夫さんもいたが、みなれっきとした律令制の官職名に由来している。中には国司名儀の山城とか伊賀とか丹波とか越前とかを名乗る庶民すらいた。下級武士もいた。
そういうことをひっくるめて、四十六七人の赤穂浪士の名乗りは、別途の関心をいつもわたしに呼び起こすのだった。いっぺんまともに拾い上げ納得しておこうと思ってきた。
* 気楽な稼業をしているなと思われるだろう、わたしにはもう稼業は無いも同然で、その日その日を成り行くように流れている。そのようにありたいと繰り返し願って書いてきた、そのようになりつつある。しかも「つれづれなるままに」とも言えず、けっこう仕事があって忙しい。世間の毀誉褒貶の外へ、さっさと抜け出てきた効果がきれいに現れている。
2003 2・24 17
* わたしは「立ち読み」して知っていたし、文化人や雑誌の「心ない」一例として、しょうのない連中だが放っておく気で、もう日にちを経てきた。
それと知らず、今日家人が外へ出たついでに、思いついて「文藝春秋」を買いこみ読んだらしい。特集の中で、養老孟司氏と立川昭二氏が、「からだことばって、何」とか題した「対談」をしているのだが、わたしの名前にも、つい最近出したばかりの三省堂刊『からだ言葉・こころ言葉』にも、また、もう久しくはなるが初めて「からだ言葉」ということばを提唱して筑摩書房から出し、放送でも書評でもいろいろ取りあげられた『からだ言葉の本 附・辞彙』のことにも、全く触れていない。そんなことは、ままあること。とはいえ、「からだ言葉」とは、わたしの造ったいわばオリジナルの固有名詞なのだ。
だから「からだことば」としてあります、これはボディラングェージの話題ですよぐらいに弁明は用意できているのだろう、そうでしょうともと、放っておく気でわたしはいた。事実放っておいたのだ。だが対談は「ボディラングェージ」でなく「からだ言葉」を話しているのだった。
立川昭二氏の方は、ひょっとしてわたしの謂う「からだ言葉」なんて「知らない」とも言えるだろう。しかしもう一人の養老氏はそうは言えない。養老さんという脳学者とわたしとの縁は、この人の書いていたある文章を読み、それならこういう見方や考え方はどうでしょうかねと、前述の『からだ言葉の本』を謹呈し、感謝の手紙をもらったことで始まっている。氏は別の著書にもわたしの本と名前を引用して書いていたし、そうしたご縁から、わたしは日本ペンクラブ会員に養老氏を推薦し、氏は入会してすぐ理事にも指名されている。わたしの湖の本もとも以来贈ってきたから、最新刊の三省堂本のビラも挟まれていた。
世間に出ている本を見渡すのは、容易でない。だが「からだ言葉」という名辞は、昔から用いられていたものではない。少なくも「日本語」学の世間では、ま、わたしのオリジナルに近い造語・用語として国語学者の間でも認知されてきたと思っている。国語学者柴田徳衛氏と如月小春さんのテレビ番組にも招かれ、「からだ言葉」の提唱者・認識者としてまともに出演もしている。
そういうことからすれば、雑誌広告にその「対談」の題をみて、わたしが少しにんまりしたのも自然だろう。何をどう話しているだろうという気持とともに、わたしの旧刊や新刊にも少し触れていてくれるか知らんと期待するのは、当然だろう。だが、全く無し。そんな話ではないのです、と、強引にニゲは打てるかもしれない。それならまぎらわしい「からだことば」と名詞化していうのは、節度を外していないか。
ま、そんなことどうでも宜しいよと、わたしはもう忘れて一人黙殺していたが、おくればせに家人からは、まっとうに「オカシイワ」と云われた。相手が学者として「からだことば」を話題にするなら、ことに同じ「からだ言葉」に目配りや礼儀があって当然、万一知らないでいたのなら、そもそもその話題で公衆の前に語りだす資格があるでしょうか、と。
気持は分かる。なるほど。
ま、こういうことは、ありがちと云えばありがちで、他にも例はいろいろ有るのだ。また、無意識と不作法とで、おなじようなことを自分もしでかしている可能性は低くなかろう。家人の気持ちを静めながら、だから、これだけにしておく。学者というのは、わりと平気で、「おれだから」許されているかのように、他者の仕事に冷淡で厚かましいトコロは、だが、感じている。谷崎学でも、ほとんど剽窃ではないかといえる論点の勝手な利用例を見つけたこともある。、
* 何より、わたしに云わせれば、対談を企画した雑誌編集者に勉強が足りない、出版社にも節度が欠けている。さらにいえば、こんな雑誌広告が大きく出れば、「自分の仕事」として内容をチェックすべきは、わたしの新刊を出した編集者(や出版社)である。編集担当者として大事な義務でもある。わたしが編集者なら、一言クレームを相手へ入れる。「編集道」というものがあるかどうか、その方面の質的な低さにつきあたるつど、うすら寒くなる。電子メディアに「編集」不在を憂える声などあるが、従来出版にすでに地を払ったものが、どうして電子メディアに生まれ得よう。
2003 2・25 17
* 上野千鶴子さんの『学校化社会、さよなら』とかいった題の本は、シャープな批評と論点背後の探索の広さとで感心した。印象いまも新たである。
「学校化社会」というこの五字だけで、著者の云いたい大方がわかるほど、この一語の爆破力は大きかった。いま就職試験でどこの大学を出たかなどは問題にもしない、東大を出てきたなど云うのもむしろマイナス要件ですよ、などと関係の識者が明言していても、そう簡単に信じも、愕きもしない。
それよりも、至る所に「学校化社会」型の判断や評価基準が残存しまだまだ跋扈していることに、感心し慨嘆してしまう始末。学校時代の成績をあらゆる場面にもちこんで平気な社会。むろん、それをやるのはいわゆる優等生に多いのだが、裏返しにすると、学校生活の苦手だった者からも、反動で「学校化社会」の陰画が氾濫してくる。みーんな、そこでの価値観を無反省に世の中へ持ち込んでいる。つまり真の意味で「卒業」出来ないでいるのだ、人間たちの世間は。
わたしは大いばりできるほどの優等生ではなかったが、そこそこ大学を出るまでカッコウは付けていた。だが東大でも東工大でもなかった。同志社だった。事情こそあったものの、選んだ勤め先も、ちいさな出版社だった。文化人として知られていた一人の重役は、入社早々の新人や先輩達を前に、「どうせ一流のヤツは入ってこない会社だ」と口にした。そこがオカシイが、新入りのわたしは即座に抗議したのである、人間の「資質」に関わることを軽々しく云って欲しくない、編集長の発言には根拠がない、と。そして、一日も早くこの会社を「出て行ける」ようになりたいと、秘かに腹を決め、切望した。いい意味の人生予定表が胸の内に置かれたわけだ、当然予定を満たすには順序というものがある。順序を踏んでゆこうという気が出来た。努力し粘った。それは、幸せなことであった。
東大出のその上役の曰くが、「学校化社会」にどっぷりつかっての発言であったか、その辺の見極めは、わたしにはどうでもよかった。わたしは自分を信じていたけれど、「学校化社会」のものさしなんかで計られたなら、ひとたまりもない程度と分かっていた。だから東工大教授に指名されたときも、お国の方で「間違えよった」とわらいながら引き受けた。学生達の理数の能力を想うと、自分はその真っ逆さま人間であることに、素直に戦いたものだ。わたしは、算数や理科が大のきらいであったし、「学校化社会」で絶対の秀才として進むには、どうにもぐあいのわるい不足な能力であった。早くに断念し、断念のママに東工大を引き受けたのだから、ま、はじめからわたしは「お国に対し甚だ横着」であると同時に、学生には謙遜であった。
俺の知らんことばっかり知ってて「出来る」ヤツらとは、太刀打ちしてもはじまらん。
その気持が、結果としてあの大学でわたしが「幸福」に過ごせた下地であった。そのうえで、そんなわたしから何が手渡せるだろうと、思い、思い、工夫して楽しんだのである、学生達との日々を。
お国はやっぱり人選を「間違えた」のであろうが、わたしの方は、間違えなかった。学生達はたしかに勉強家だし優れていたが、それとはまた異なる優れたモノも持っているだろうと、辛抱よく付き合う気持を、わたしは持っていた。間違えなかったのは、其処であったと思う。
2003 2・28 17
* 「崇」だけでなく、謚号の「徳」にも、歴史的に問題があるようだとわたしは思ってきた。仁徳はいいが、聖徳から、孝徳、称徳、また文徳、崇徳、安徳、顕徳(後鳥羽)、順徳天皇に、みな問題がある。この多くに、非運と非業死が絡んでいる。それかれ有ってか、江戸時代の改元で「正徳」時代ができるとき、幕閣主流の新井白石と冷や飯を食っていた林家とに、烈しい議論があった。林家は「徳」字を避けよといい、白石は博識を駆使し徳川を背後にしてはねのけ、正徳の治を実現した。文字に拘泥したというより、上代の人は文字に意義をおっかぶせたのであり、わたしは「文字占い」など一切信じない。
* 祇園町甲部の真ん中にある崇徳院御廟は、意外に知られていないし話題にされない。弥栄中学からものの三分も掛からない近くにあった。わたしはその不思議に心惹かれて、『風の奏で』という建礼門院を書いた現代小説のヒロインの家を、その奥隣に設定した。懐かしい。
2003 3・4 18
* フィリピンでテロかと。いやだなあ。
街頭で、マイクをむけて「いま、幸せですか」と聞いてまわっていた。思わず笑った。即答を強いれば、自分は不幸ですと応える人は少ない。幸福である事象を「捜し」て応えるからだ。少し、己の闇におりて、独りでしばらく自問し自答しなければ答えは出ないし、また質問は、こう、すべきである。「いま、真実、幸せですか」と。わたしの学生達がぐっと息をつまらせ考え込んだのは、この「真実」の二字にであった。
この問いから、しかし、ほんとうに知らねばならぬコトは、不幸ということぬきに幸福はなく、逆もしかり。したがって幸不幸は表裏してつねに在るという認識と、幸も不幸もそんなものはともに無いという認識との、どちらに行くかを迫られていること。
「かなふはよし。かなひたがるは悪しし」と利休は云った。幸福も不幸も、陥りやすいのは、とかく幸せ「がった」り、不幸せ「がった」りして、とらわれてしまうこと。「捜し」て応えているというのは、それである。それは「心」のなせるわざにすぎず、だが「心」はあまりに強い力をもった「諸悪の根元」であるから、そのような幸福も不幸も瞬時の投影、流れ走る白雲や黒雲をながめているに過ぎない。「有」情の境涯であり、それは、いつまでも変転する。変転しないのは、雲が覆い隠したその奥の、澄んで「無」窮の「空」だけ。
* がる、のは何かにつけて悲しい自己満足。かなふはよし。かなひたがるはあしし。
2003 3・5 18
* 操觚者(そうこしゃ)ということばがある。「觚」は、文字を書き込むための木簡・木札で、紙以前に紙の役をした木材片。それを専ら手にしたのが操觚者で、つまり文章を書く行為や書く人の意味である。携帯メールやパソコンのスクリーンがいま「觚」の役をしているとすれば、いまの日本は、一億操觚者時代である。むろん、書く文字や文章によりピンからキリがある。
中野重治に、「作家か、文学者か」という一文がある。わたしは、まったく代弁されているという実感を持つ。
* 文学をやろうとは思つていたが、私のなかで「文学」は小説を書くこととは少しばかりちがつていた。
私にしても、「文学者」というのを文学の学者のことだとは思つていなかつたが、小説書きというのよりは範囲のひろいもの、性質のややちがつたものとして考えていた。考えていたといえば言い過ぎになるが、もうすこし操觚者流といつたような気味を含んだものとしてそれを自分に受けとつていた。(略)私は「作家」というよりも「文学者」として生きたいと思い思いしながら来てしまつたようにまずまず思う。
(略)
専門の詩人、専門の小説家、また専門の学者を私は尊重するが、またそういうタイプの人たちがうらやましくてたまらぬ瞬間があるが、ほかにしようもなく、私のような混合型、混雑型のものもあつていいようにも私は大いに思う。そうして、そう思つてしまえば或る種のよろこびもないではない。
* 知られているように、中野重治は短歌を作り詩を書き小説を書いた。何より数多く評論や批評やエッセイを書いたが、書き方は無造作で題の示すように走り書きやノートや覚え書きや雑談ですらあった。それがまた極めて俊英かつ尖鋭であった。
じつは中野の云うような例えば「専門の小説家」つまり小説だけを書いていた人は、優れた書き手では、ありそうで、ごく少ない。無いに近い。尾崎紅葉ら硯友社系の作家たちはどうか、鴎外も漱石も露伴も藤村も鏡花も花袋も潤一郎も、小説だけを書いていたわけでなく、他のジャンルをしっかり手がけて、跡をのこしている。ただ、意識に於いてどうかとなると、中野重治流の意識や自覚は、やはり特異であるだろう。今挙げた中でも藤村や鏡花や潤一郎や、また川端も三島も、操觚者流ではなかったと思う。かなりに専門の小説家であった。中野の敬愛した鴎外もそうだが、むしろ志賀直哉などに操觚者流があったかも知れない、直哉は書いたものが小説として読まれようが随筆として読まれようが拘泥しないとすら明言した。
わたしは直哉のように融通無碍ではない。小説は小説、戯曲は戯曲、短歌は短歌、エッセイはエッセイである、この闇に言い置く「私語」も、私語として、何れも、文藝・文学と心得ている。操觚者でありうれば幸せで、蔵は建たないものと、はなからそういう追求は見捨てている。
* 唐木順三先生が、中野重治に思い遺された文学者としての期待がいかに大きかったかを知ったとき、感銘を受けた。中野さんは唐木先生の告別式に身動きもせずおられたのを思い出す。最近もだれであったか、中野重治へのいわば思慕の情を吐露しているのを読んだ、おお、そうだ山口瞳の「男性自身」に書かれていて驚いた。
操觚者流は、必ずしも日本的伝統では、孤立した存在ではない。江戸時代にはむしろ掃いて捨てるほどもいた。ピンからキリまでといったことを、もう一度確認しながら、あたりを見回すと、電子メディアのなかで、ピンをめざしたのもキリで甘えているのも、まさに一億操觚者列島の観があるのを、どう評価するか、後生の歴史家は忙しいことだろう。 2003 3・6 18
* 安保理の報告と演説を聴いていて、寝るのがおそくなりました。あけがた、寝入りばな、に猫に一度起こされて、また寝たものの安眠できず。こめかみに軽い痛み有り。
蜂の巣のように、心・身、いろいろに、わんわんと、騒ぎ立とうと。ペンの仕事にしても、なおこの先、時間をやりくりしながら相変わらず忙しいことでしょう。ですが、公私に義務感も習慣性もあえてもたず、流れにまかせて逆らわないだけのこと。何か一つにだけ向かう贅沢が許されていない以上、一つ一つから、いちばんここちよい「もの・こと」を受けとれるようにとノホホンと願っています。限られた僅かな残り時間になにが出来るか。何が受けとれるか。一つと限られたら一つをどう選ぶか。自然に定まるところを受け容れるつもりです。あれもこれもという年齢では無くなっていますから。
2003 3・8 18
* 人間を二つに類別せよと強いた日の学生達の反応は、実り多かった。
なかで、これは成年に限る類別だろうが、「大人になれない子供、子供にもかえれる大人」というのがあり、面白いなと教えられた。かなりのことが謂えている。他にも唸らせる理解が相当数あった。これとはちがうけれど、今朝読んだ「小闇」の私語は、「若さと幼さ」を語っていて、差は「意識の有無」だと言う。
* 若さと幼さは何が違うか。切り方はいろいろあるだろうが、私は意識の有無がそれらを分けていると思う。
善悪は別にして、成人式や卒業式で何かやらかすのも、「夜の校舎 窓ガラス壊してまわった」りするのもそうだろう。酔って大声を上げながら夜明けの幹線道路を渡るのも、夜の2時に思い立って海を見に行くのも、そうだ。
意識があれば、それは若さの現れ。それがなくただ「したいからする」なら幼い。 以下略
* 言うまでもなく「意識」は双方に有る。「気持ち」も双方に有る。「同じことをしても、もうこれで最後かもしれない、という気持ち」は、『細雪』で京の春の花見に酔う蒔岡家を持ち出すまでもなく、無常の風に吹かれた、もう若くない大人や老境に、古来屡々訪れる「気持ち」であるから、上の「定義」からは「老・若」の差異が見分けられなくなる。単に「幼稚と自覚(ないし分別)の」差を語っていると取れる。敷衍して、「大人になれない子供」同然の大人も、「幼さ」に数えなくては、やや、意味をなさない。つまり「意識の有無」とは、いわゆる理性有る「自覚」の有無を謂っているように取れる。語彙がアイマイに選ばれている。
老境に進むにつれ、幼さも若さもますます大きな「輝く」価値に思われるが、それとて一瞬にして「愚劣」の代名詞になりかねない。どの世代にも、幼にも、若にも、壮にも、老にも、いつまでも輝いた可能性と無残な自己閉塞がついてまわる。ただそういう「型・枠」のある認識にとらわれればとらわれるほど、本性の青空は、思考の雲により無意味に暗くされることも、根の深みでよく分かっていたい。マインドの力量は世を覆うほど莫大だが、また諸悪の根元であることも、然り。たちかえり、「意識」よりはるかに「無意識」が貴いとも思えることは、ブッダフッドの基であろうか。
2003 3・8 18
* 眠れぬママにも、暗闇の中に静かにしていた。そして何か、わかってきた。今頃そんなことをと、嗤われようが。
澄んでムラのない「闇」が在った。「私」を指摘できる何一つも闇に見いだせない。比喩的には途方もない「空=闇」だけ。だが、何も「無い」のではなかった。そういう私の「意識」が在った。意識を可能にしているのであろう私の「呼吸」もまぎれもなかった。闇にも在るのはつまり「呼吸している、意識」それが「生・命」なのだ。空なる闇に「私の生命」が呼吸し意識しているが、同化できる肉体は一切感じられない。このまま呼吸が止まり意識が果てれば「死ぬ」のだ。呼吸と意識とでは、呼吸がより起原の「生・命」なのだろう、意識の失せた時は「半死ないし仮死」なのだろう。
この意識とは、思考のことではない。ただ「命」に気付いている、「生」を感触している。闇の中では、空の中では、私はただ透明な無垢の実存である。自己同一化の便宜のために肉体を感じ思考を受け容れているのは、いわば投影された虚の像影なのだろう。肉体も思考もなんら「私」ではなく、そういう意味の「私」など無いのである。
「命」のシンボルまたは源基は「呼吸」だといえば、分かり切ったことをと誰もが嗤うかも知れないが、無限の闇に溶け込んでなお意識を持して在る、とは、つまり「呼吸している」ということだと、明瞭に、やっとわたしは実感できてきた。「命とは呼吸している意識」なんだ……。もう一度確認しておくが、意識とは思考ではない。生を感触している無垢の「実存」のことだ。
* そんなことを思っていて、眠りを失したのだろうか。眠れなくても少しも不安ではない。機械が凍るともっと困る。迷惑する。さしあたり機械的に進んでいる仕事が多いからだ。
DELLか何ぞに買い換えるべき時期ではないかと声が届いている。馴染んだディスプレイで、操作的に慣れてきた組み立て機械だけに、できれば仲良く付き合って行きたいが。
2003 3・10 18
* 日本の歴史が第四巻「平安京」に入った。筆者は北山茂夫。一冊平均が小さい活字での四五○頁ほどある。二十数巻、先は長いが、きっと読み通すだろう。読むのは苦にならない、視力さえ助けてくれるならば。啓蒙書ではあるが、記述は、研究成果をはばひろく汲み取りながら準専門書に近いほど本腰を入れて書かれている。一巻ずつを、名の通った良い学者が自分で書き下ろしてくれているのが宜敷く、各巻競演の体で興深く、力が入る。学風が人柄に溶け合い、記述は個性的である。啓蒙の一般書であるのを利して、部分的に筆者も興にのるべきは乗ってくれている。楽しく、読みやすくなる。
平安京への第一歩から不安な怨念の渦が巻き始める。わたしは、長い間、井上内親王つまり光仁天皇の妻であった皇后の、また皇太子の、異様な最期に関心を抱いてきた。それが作品として実現しないで、別の「みごもりの湖」に成った。根の遠い深いことを、わたしの読者は分かってくださるだろう。
不思議なモノというか、書きたいメインのものを「攻め」ているうち、それを逸れて副産物がモノになる。そういう創作の不思議を、何度か体験した。「清経入水」も「風の奏で」も「初恋」も、じつは承久の変を書こうとしていたすべて本命・本願を逸れての「副産物」ばかりであった。文字のママの副産物とは言うまいが、太い根から新しい根を別に張っていった。創作の面白さ、である。
だからこそ、わたしは、注文されて「これ」を書けと言われても、単純には従わなかった。まるで別の、しかし必然の緊張から新作が形をなして行くこともあるのを、ビビビと感じるからだ。書きたいモノを書きたいように書きたい、路線を決められるのはイヤだというのが、私の本音で、これでは出版主導の作家にはなれないし、ならない、ということである。損な性格であるが、トクもしている。むりに書かされた作品がわたしには無いのである。
2003 3・13 18
* 結婚して四十四年になる。わたしの東工大の学生達は、ほぼ三十前後、その間にすぽりとはまって、泳げるほどだ。年を取ったものだ、結婚も早かった。囲碁でいえば結婚と就職で目が二つ、つまり「死なない」と思っていたから、安心して貧乏も平気だったし、勤めながらよく勉強した。学校や大学時代の勉強とは断然ちがう、そこに或る「欲」があった。意欲だ。絶対に会社勤めの現状から抜け出したい願望があった。家庭という基盤と、生活資金の確保で買えたのは果たして何であったか。安心して打ち込める「若さ」という時間であった。十年十五年先ということを遠いとも不安定とも思わずに済む力が、心身に溢れていたから、たとえ、ひらかなや漢字の一字ずつでもいい、毎日毎日書き継いで書き継いで必ず「もの」になると思うことができた。
今すぐ、今年に、来年になどという無茶は考えなかったし、ジタバタとは投稿したり応募したり仲間を求めたりしなかった。釣り糸を黙って垂れ、ただ佳い餌は、自分で心して創らねばならなかった。そして針はあてずっぽーに投げた。針はわたしも知らぬ波の下を流れていたのだ。
まず雑誌「新潮」という大物が餌を噛んでくれた。ついで思いも寄らぬ遠い瀬から、今度は筑摩書房の「太宰賞」が泳ぎ寄り、餌を食ってくれた。投稿も応募もせず、同人誌も体験せず、わたしは作家になった。結婚して丁度十年目であった。
三十四年経った。まだ少しわたしの学生達より長生きだ。おもしろい人生であったが、なにも晩景を早足になる必要はない。電子の杖は愛用しているが、まだ、ホンモノの杖の必要はない。
2003 3・13 18
* 人に向かって話しかける言葉は、手紙やメールはともかく、こういう場所では容易に出ない。なにかを人に向かって言うと、大概過度になるか過少になる。媚びるようになる。だからわたしは「闇」に「言い置く」のである。自分で自分に言い聞かせるように書く。人が読もうが読むまいが、それは闇の彼方の人様のご都合と思っている。その方が率直になれるし、へんな諂い心や「かなひたがる」悪しき言葉をむり出ししなくて済む。また見えを切ったり、飾ったりしなくて済む。
* ときたま、あまり家庭内のプライベートなことは読みたくないという声を聴く。めったには無いが。わたしには筋ちがいな話で、物書きとしても私人としても、「闇に言い置く独り言」である。故なく腹ふくるるは健康によくないから、吐瀉しているというと話がキタナイけれど。それでよい。
ある、この業界の新人から、ものを書かせてもらうのは有り難いが、編集者の注文が多く、とどのつまりは「よいもの」でなくても「売れるもの」をと強いられる、秦さんもそうでしたかと電話口で聞かれた。ざあっと思い起こして、そう露骨なことは言われたことはないが、時代が進むに連れて、暗にそんな声を囁き続けられた気はしていた。幸い、それまでに相当量の仕事は積んでいたので、それ以上そういう無理な注文は避けて通る気だった。避けられなければ身を引いても惜しくなかった。売れる物が書きたいと思って文学を愛したワケではなかったからである。
わたしの基本は、わたし自身で読みたいほどのものを、人が書いてくれればよし、叶わぬなら自分で書いて読もうというものだ。これでは大衆的な物書きになるわけがなく、そんなものには一度も成りたいと考えたことがない。
「偏屈」というあだなを小さい頃から貰っていた。自分ではそうは思わないが、人の思う分にはご勝手にと。それでやってこれたのだから、幸せ者だ。不徳ナレドモ孤立セズに済んでいる。
2003 3・15 18
* 現役学生クンの投稿に。
* 小説、ゆっくり読みました。これは、言わねばならんことが、山ほどある。わたしが文藝編集者の場にいて投稿されてきたこの作品をみれば、純文学としても読み物としても、即座に「没」です。その理由を挙げると、つまり山ほど有る。ま、いきなりサマになるということは、難しいのだから落胆しなくていいが、自信作の積もりだったら冷たい水で顔を洗った方がよろしい。
書かれてあること、これまた学生たちの書く小説では山ほど有る、ごく普通のありふれた中身です。それは構わない、それならそれなりの魅力を別のことで発揮すればいい。一つは、文体と文章で。一つは、展開の妙で。一つは生
き生きとした情景や状況の表現で。一つは、読後に残る深い共感と余韻で。つまり作者ならではのモチーフで。そして、佳い題で。
その、どの一つも及第していない。文章は無数に推敲の余地がある。
展開は平凡な経時的報告で、小説としてはいちばんのポイントになる「合い鍵拒絶」の心理的生活的な面はなにも分からない、ただ彼が二度と来なくなったという意志表示だけ。
これは、「あたし」という女の側からしかモノが書けない不自由さにより、彼の内心や行為に筆が使えないのだから、彼が喋らぬ以上は当然の結果です。ここに語りの視点・立場という問題が出てくる。一人称の物語は、意外に難しいのです。これは物語なのです、作者が神の立場には立っていない。「あたし」の語りだけで終始してしかも面白く深くというのなら、もっと強烈な把握が必要です。
冒頭に「列車」とある。「電車」ではない。アパートが車内から見えて、駅にも近いとある。例えば環状線内的な都会なのか、アパートのほかには田園的風景の拡がる郊外電車の眺めなのか、新幹線列車の沿線なのか。一例が、こういうトコロも把握していないか表現されていないか、「列車」一語の語感に、責任が取れていない。その他、此処でほんの半行一行あると情景が具体化して物語が生きるのにという描写が、たくさん落ちている。
なにより、短編小説は、作者の動機からなにが感銘として、或いは問題として投げかけられてくるか、それはモノゴト的具体でも、カンジ的気分でもいいが、つまり何を書いたの、ということ。むろん演説の必要もなく、つまりはそう
いうモノの何も無いことの表現でもいいけれど、作品であるからは、話が面白かった、話の筋はとくべつ面白くないけど作者の書き方に胸打つモノは有る、読んで良かった、といったどれかが読者に届いて欲しい。上手だなというだけ
でもいい。
このカタカナの題は、いまどきありふれて新鮮でないから、読み物としても惹かれないし、純文学にもなりにくい題です。題は、頭のはげるほど思案します、書き手は。大事です。
どっちかと言うと、これはとてもエンタテイメントでなく、私小説的独白です。それならそれで文学としての藝が大切。
最後に重いこと、一つ。男性作者が「あたし」で書くには、「女」が見えていない。それはまずいきなりは無理です。男が「男」として物語ることを避けず、そこで表現の技術を磨く方がいいかも。
私は、私小説ふうにフィクションを書くことで作品にある種の安定したリアリティを確保したかった、書きかけた頃。だから妻子の名前は実名をあえて用い、立場の揺れを防ぎました。妻子は迷惑したけれど。
未熟な習作時代は、自分からあまりかけ離れると、ウソもまともに書けない。女の「あたし」にしてみたら、うまくフィクションになれる、という簡単なモノではないからです。新潮の昔の編集長は、筆名で書くことすら作品を弱くすると私に禁じました。ずばっとハダカになったと見せて思い切った別次元を創り出せということです。人からは、よくもあそこまでホントのことをと、言われるほどのウソが書けるには、それなりの仕掛けと覚悟が要るのです。「あたし」へ逸れて斜に構えると、「あたし」の「あたし」らしさの表現にふりまわされ、他がみんなお留守になる。この作品はそうなっています。そしてごくありふれた普通の若者の普通の付き合いと普通の別れとになっている。これでは感銘は残らない。真っ向から自分(の何か)を彫り込むように。私小説を書けという意味ではない。
というわけで、これはかなりマジメに胸におさめて欲しいし、落胆する必要は少しもない。いきなりは書けない。
「付き合い」小説でもいいが、それは「恋愛」小説ではない。新世紀の恋愛小説が、どういう傑作をもたらすか、それを読んでから死にたいモノです。たとえばの話。
2003 3・20 18
* 老境をあるがまま自然に送り迎えていて、いったい「うきうきする」楽しみがあるのかと人に聞かれた。
この尋ねてきた人は、もう此の世に残り少ないからこそ、「もっともっと」新しいことに触れて、識って、したいし、遊んで楽しみたいと言われる。旅も一人旅なんて寂しくてつまらない、数人で連れて行けばこそ、はじけるように楽しいと。それでいいと思う。
わたし自身は「もっともっと」とは、もう思わない。六十年の間に楽しみ身に帯びてきた同じものを、叶うなら、静かに繰り返し味わいたい。本も、だから、新しいものをもっと読みたいというより、既に身に刻まれたものを、読み返して楽しみたい。残り少ないからこそで、退嬰的だとは考えない。繰り返しの新らみを説く谷崎『藝談』に学んだ感化は、深い。
今更に新しいもの・ごと、未体験のもの・ごとを、「もっともっと」と追ってみても、たいていは食べ散らかすような、浮いた薄いものになりかねない。いま、源氏物語を、思い立って連夜音読しもう「薄雲」の巻まできているが、これが、どんなに「嬉しい」日々の楽しみになっているか、数重ねた源氏読みの体験の中でも、とびきりである。積み重ねたものが有ればこそだろう、ま、それにばかり固執する気でなく、新しい好奇心もあるからインターネットにもペンの活動にも打ち込んでいるが、基本は、「もっともっと」ではない。また「ひとり」をツマラヌとは考えていない。一人旅や一人酒はそれなりに心よく、二人酒も二人旅もいい、が、それ以上は五月蠅くて叶わない。
「少しはお付き合いです。世の中それで潤滑に回転するのです。キラクとんびだと云われれば、ソレまでの事」と、そう覚悟のある人はそれでいいのである。
「育った家庭環境と想像力豊かなあなたならこその日常なのでしょう。強い人、言い換えればガンコな人、と言えば云えます」と。そうなのだろう。人、それぞれでいい。「ある高名な女優さんは『生涯学ぶ』を座右の銘としている」とあって、それはエライことであるが、「学び方」も、人それぞれ。フィロソフィーは誰にもあり、誰にもあるものは、それだけのもの、拘泥には及ばない。
2003 3・21 18
* 好天で暖か。郵便局から先へ少し自転車で走ろうとしたが、昨日もそうだったが、すぐ息が上がって疲労する。信じられないほど体力が落ちている。
「保谷武蔵野」という、保谷には珍しく佳い中華料理の老舗があったのに、すっかり庭園もろとも更地になり、スカイラーク風のファストフードっぽい店舗に変わるらしい、ガッカリし、よけい元気が失せてすぐ家に帰った。
京都の平安高校が甲子園で山口県宇部のチームと対戦するというのを待って見始めたが、簡単に平安が勝ちそうで、中途でやめた。
郵便局へ走る前にふとビデオでみはじめた、ルート・バウアーと大好きなミッシェル・ファィファー共演の、「レディ・ホーク」が佳い映画で、その感銘が、どうやら今日のわたしの気分の、ベースになっているらしい。至純の恋愛映画。幻想的・浪漫的・神秘的な物語。邪悪な司教の横恋慕から呪いをかけられた美しい恋人同士が、女は、日の出とともに鷹にされ、男は、日没とともに狼にされ、人の姿ではほんの数瞬をしかお互いに認めあえない。鷹と狼とが力を尽くして呪いを解こうと苦闘する中世物語が、静かな田園や林や城下町や、城内で繰り広げられる。どこからどうみても、これは、わたしの好み。「ダイハード」や「リーサルウェポン」のような活劇だけが好きなワケではない。愛蔵の一つで、永久保存用にビデオの爪も欠いてある。
やはり心を洗われるのは佳い恋愛物で、有りそうでなかなか無いのも恋愛物。いまどき「恋愛」しているらしき若者も、聞いてみると「付き合っている」のが多い。
われわれ年寄りの「付き合い」とは、昔から近所づきあい友達付き合い親類付き合いのそれであったが、いまどき「付き合ってください」とは、ほぼ正確に「性的関係になりましょう・なっている」の意味なのは、わたしが早稲田文藝科のセミで学生たちの小説をたくさん読んでいて分かったことだ、もう十六七年も昔から、そういう気配が若い人間関係に浸透し始めていた。「つき合って下さい」「お友達から」という断りようが、交際の始めに使われるのも、性的関係への容易な移行を前提にしている。全部が全部ではないが、しかし「付き合う」には、お互い其処までの覚悟をしているようだ。そして飽きたら「付き合うのをやめた」仲になる。モトカレとかモトカノジョとか謂っている。みながみなではない、が、そうのようである。
そういう時節だから、恋愛映画や恋愛小説の質のいい作品は、所詮、期待しにくい。「嵐が丘」「椿姫」「若きヴェルテルの悩み」「狭き門」「戦争と平和」「復活」「谷間の百合」のような十九世紀風大恋愛はいまや容易でない。いまは「結婚できない症候群」の時代の前に「恋愛できない症候群」の時代なのだ。
そこへ行くと、この「レディ・ホーク」はエッセンシャルな恋物語であり、しかしその表現には、これだけの神秘的世界を先ず設定する必要があった。
日本の創作で、匹敵する恋愛物の大作・名作というと、どの分野でも、じつはとても寂しいものである。鴎外、藤村、漱石、谷崎、川端、思いつく限りの大作家に、ほとんど至純な恋愛の大作品が無い。
2003 3・23 18
* わたし自身の小説作品も、腰を据えて、ほぼ思うように輪郭を大きくしつつある。自分で読みたいから「読みたい」作品を書いている、そう言えるように仕上げて行きたい。もう少し放っておいて欲しい。わたしは少しも急いでいない。
2003 3・23 18
*「文語の苑」とか、文語文による交流のためのウェブサイトをと、六十人ちかい人が連名で、旗を振ってきた。いまどき、文語できちんとものの書ける人など大勢いるとはとても思いにくい。六十人ほどの中には石原慎太郎やなんやかやと並んでいるが、はて、だれが書けるのだろうと思った。
そもそもその「趣意書」が、文語の積もりらしいが、すこしマシな高校生なら書くぐらいの平凡そのもの。推して知るべし。
「それ文語文は、口語の俗に比すれば雅、冗長ならずして直截に、筆者が思考、感情を伝へ、しかも読む者をして筆者が心中の陰翳をも感得せしむ。
然れども、文語の廃れて既に久し。近時の日本語文の冗長低俗なるを見るにつけ、往時の文語文に、達意にして雅趣ある文章少なからざりしを想ひ、これを後世に伝ふるすべなきやを思ふ」などと、ある。この程度の文語ではきびきびした現代語の方がマシで、へたをすればアナクロに過ぎなくなる。
文語で書く、もしや創作的に書くのであれば、各時代の文体を再現できる語感と研鑽が先ずは必要で、この趣意書冒頭のようなのは「雅」でも何でもない、蕪雑至極の悪趣味に近い。
藤原定家は『松浦宮物語』を書くにあたり、歌風において、上古のそれを稽古するほどの気持ももっていたやに推しうる。文語とは何ぞやと考えれば、いったい、どういう時代・時節の文章文体に習う気か、考慮が必要になる。
* 私の読者はご存じであるが、私に「竹取翁茶を點つる記」という戯文がある。雑誌「なごみ」に初出のものだが、文語で書くとすれば、主題と趣向に応じ、その時代も髣髴としなければならず、さきの趣意書の如き書生の手紙の粗末なようなのとは同日に語れないのである。かすかに校正の疎いところも有るかも知れないが、御覧に入れる。読み仮名は途中までふってみたが、途中でやめたので、馴染まない人は読みにくいかも知れぬ。
* 竹取翁なごりの茶を點つる記
いまはむかし竹取の翁の茶を點てしを、みづから誌せしといふあり。めづらしと人のまた書き写せるをみるに夢かとぞ思ふ。信じがたきものから、なつかしくあはれなれば、おのれまた書き写さんと乞へり。とぞ本に…とあるがわりなし。そも由あり。あなかしこ。
平成乙亥 かむなつきの望のよる 無位 秦忌寸 恒平 写す
よにためしなき一会を、ゆめに見むとてするなり。かぐやひめ月夜に空たかく参(ま)うのぼりたまひて一とせすぎぬ。あかずこひし。月をがみて泣くことかぎりなし。たよりありと聞けど、不二のやまは遠くけはしく、え行かず。都のほとり竹の林にのみあり経つつ、かしこき御めぐみ給(た)うばりて、くさぐさに竹編みなどす。わが編む籠(こ)をみればかなし。かのきみ籠(こ)にいれ養ひつ。竹の節(よ)より取(と)うでしかゞやく御子なりしよ、あめつちがなかに、かくうるはしきは、ゆめ、おはせじ。かぎりありてこの御世に久しくまさずなりぬるも、うらめしけれど、ことわり無きにあらじかし。御みかどにもしたがひたまはで、さすがに文などはかよはし給ひき。あてに、らうたきこともかぎりなく、翁、手をすりまもりゐたり。媼もほたほたと笑壷に入り手も足も舞ひまひ抱きはぐゝみつ。いつしかに月いと明かき夜のさらぬ別れとはなりつる。血の涙もかひなし。をめきて空にわれもあがらんとすれど地に伏しただまろびつ。あひたきを、かぐやひめ。いまひとめ逢ひたきを、いかにすべき。
帝も忘れがたきよし言ひつづけたまふ。今宵しも、え忍びたまはで、かりの行幸(みゆき)にことよせ竹の宿(やどり)に駒とめたまふ。翁をうな、かしこみ泣き、伏して下にゐる。
みかど、近う召したまふ。いとふまでもなき時雨を、かこち顔に。あめやみぬ。月高し。かの君こよひ天降(あも)りて来ずやあらむ。宿直(とのゐ)つかまつれ、湯などもてこ。翁うちしはぶき、申す。このごろ茶といふものを得てさぶらひき。ねむたきわざを癒すにかひあり。御あやしみたまはであれよ、奇しきみわざはかのかゞやく人の伝へ給(た)びたりき。時・世をこえ、思ふまま道具ども取合はせて、えし茶のいと甘(うま)きをすゝめたてまつらむ、かぐやひめかならず参(ま)うでたまはむなどゝ、いと口疾(くちど)なり。みかど、ほゝゑみたまふ。
さてとよ、さべき御しつらひのうちに招じ入れたてまつる。のどやかに、帝の御姿かたち、ねびまさりてうつくしくいます。まおもてのすこし高き壁に大きなる草(さう)の字を掛けたり。天地(あめつち)とよませたまふ。手は良寛なる清き僧の書けり。いと温和しく筆つけしものから、とぎれなく勢ひつく。いとよし。天(あめ)なるかれも見たまふべし、地にあるはたゞ目守(まも)れり。良寛よく胸懐に日月を招けり。近ごろの貫之、この頃の道風朝臣にもおとらず。みかど、うれしとのたまふ、礼(いや)ありてかたじけなし。蓋を脇立てて、黄色き土の小壼に薫りたるは月のしづくとや、香りてかすかに家(や)ぬちを満たせり。井戸香炉なり。塩笥(しほけ)の形(なり)したり。うかれめなれども歌のみちに二となき和泉式部が今ひとたびのとせちに嘆きけるをあはれみ、此世と銘(な)のあるがなつかしく、みかど、われからさうの掌(て)につゝませ給ひ御ほゝをすりて此の世のほかの思ひ出になきたまふ。
翁、厚畳(あつじょう)敷きたてまつり上座を帝にすゝめたてまつれども、今宵はさらであらむ、月せかいより参うでたまふらむかぐやひめに譲りて待ちまうけむ、ひときざみ下にゐむよと仰せたまふ。老い人らうなづき涙ぐむ。とのもの月かげ、いとまばゆし。浮かぶこゝちして仕(つか)うまつる人々翁が家をめぐりありく。風落ち虫いたくすだく。雑仕(ざふし)の秋草あまた採りもて、口七寸(ななき)がほど懐ひろき竹籠に盛りたるを、香炉やゝかたよせつ、をうな抱きとりて天地の字のかたはらに置く。名知らぬ花のさと色めくを。この籠はむかし竹取の翁手づから作りたるを。よくしたりとて帝、月代(つきしろ)とその籠(こ)にいまし名づけたまふ。かぐやひめそのなかに生ひたち給ひし御形見なればなり。漆すこし刷きて、佗びたれど色よくいとなつかし。いとちひさかりし君がらうたき御面影も、かへすかへすいとなつかし。
やつれし板囲ひの風炉といふに、筒なりの古き釜をかけたり。天明(てんみやう)ときくもつきづきしき釜の胴には、野の残月をかすかに刻めり。後の世の大将軍義政といへるが愛で用ひしよき釜と見ゆる、あはれ情け知るものかな。
主はしやう客がかたへ風炉釜をちかよせ、秋冷えをふせげり。古き備前の名を青海とかや古き銅の色したる水指は、さも桶とみえて壁のかたへ翁出し置く。色うるはしき水指など華やかにしなしたてまつるべく思うたまへども、佗びしき宿の風情となにも御覧じゆるさせ給へ、時の帝を迎へたてまつり、いと事そぎたる薄茶たてまつる。麗しきも過ぐせば余波とぢ言痛たかりなむ。みな、かの姫君の光来をものの映えにせちに待ちたてまつらめ。御覧じたまはれよ、町の者の作りしこの黒き町蚤とかや、銘は再来と申して、千利休なる大導師のいと愛でられし器なるが、身にしみ色の栗に透きて形もこゝろよげにいといと情けあるはと、翁、しづかに涙おさへて砧のきぬのやはらかきを畳みつ折りつ拭ひ清めをり。
帝、翁の膝ちかき秘色の茶碗に御目とゞめたまふ。よによき色したり。はなびらのにほふごとく、うるめる碧なり。蓮臺に露けく咲ける花といひつべし。かほどの品もちひ給ふは、帝をおきたてまつりて、かぐやひめならであるまじ。ゆめかと見ゆるがうつゝなるはと帝は手を畳につきたまふ。いさとよ、惜しきは疵あり、さればぞ翁の手にも入りぬる。黒くちさき鎹もてつぎたるが、かへりて秋野の虫と見え、馬蝗絆などいひ比へて、うるはしきうへの景色を、世人いよゝ愛でたふとめり。翁よきものを手に入れたり。秘色はかぐやひめにふさはし、蝗は翁にふさはしと帝こゝちよくゑませたまふ。
いま一わんは、何ぞ、誰がぞとゆかしくしたまふ。光悦といへる上手のつくれる、こはすくよかに気高き陶ものなり。不二と名づけけるが、二つ無きものとも、不二山ともきこゆる、いとをかし。かぐやひめのこし置かれし貴き薬など、天に返しまゐらすべしと富士が嶺に上げられしこと思ひ出だされ、帝しほたれ給ふ。この国に二人無き身はこくわうなれば、不二の茶わんにて茶を給へ。よに雙びなきひそくは、姫にたまへ、めづらしと、帝はせちにかぐやひめを待たせたまふ、御あはれなり。
茶杓といふは、姫宗和と人のほむるが削りいでし、いとほそき竹へらなり。いとよくしたり、しぐれと謂ふめり。いまは雨明かれども降るもよしなど、をりに合ひていふもいとをかし。むらやまに秋風さそはれいづらむかし、竹のはやしの戦ぐは。
蓋置、竹ひき切りて。おきな讃岐のみやつこ麿なむ、竹取のをのこなるを。わざと中に節あるは、さむくなり行くをやゝに待つこゝろなり。おもてにツボツボのしるし朱き漆にて描きおく、花ありといふべし。水こぼしには音よき金銅の細き筋きざめるを持ち出でたり。
このときみかど、風炉の先にすゑし葉つきの竹いと青きまゝ割りて太きを、然りや、媼して、御身が上にひとつ隔てゝ置き直させたまふ。かぐやひめ、穢土の人とひとゝころによもおはすまじ敬せむとて、ところ避り給ひしなり。おもひなしや月の光、いと冴えてありがたし。御こゝろの深きは天にかよへり。媼、ちさき餅に添へて里のくだものをたてまつる。すゝきなど穂にいでゝ、天地もよほしさやげるを。釜の鳴りまつ風にゝて、しのびやかに炉の火あかし。人のこゑ、と絶えたり。
いかにぞや、おとなふものしなけれど、さと、ものうごきたる。ほのくらきなかにしろかねのいと薄くひろごり揺りて、天の楽きこゆるこゝちすれば、みかど、隔ての竹に御身をすべらし給ひ、斯く、あはれこのおもひのたけのへだてなく逢ふ世てらせよきみがみ光とうめき出でたまふ。また、わがこひはたけのよごとにつきもせで忘るまもなく天をこがしぬ、と。あまりなるや。
かぐやひめ、み姿をあらはしたまふ。なつかしう光りかゞやきたまふさま、いふもおろかなり。手づからへだての竹をおしやりたまひつ。みひかりのなごり慕ひて月しろの都はなれて逢ふがうれしさと、髪いとうつくしくかたぶくまゝに御返し和したてまつる。翁媼を手まねぎ手をとらせたまひ、恩愛のきづなかたみに涙しぼりて、たしかめたしかめし給ふ。あかずいと嬉しや。天地のよろこび竹取が家に悉つに占め、のこり無くぞみゆる。
姫、礼あり。はぢかはしつつ秘色の御茶をいと清らにまづのみたまふ。帝、ひかへて居たまへり。ゐのこの餅いとうましときみは母にあまえ、はぢらひ給ふ。
さて不二の茶碗の丈高う貴きを、かぐやひめ翁にかはり、帝の御ため、よに二つとあらざる御茶點てたてまつる。帝、姫のみ手にこぼれたる玉露とかや、口に甘しと笑みふくませらる。月光屋に満てり、和敬足りてこゝろなごみぬ。清寂夜を深くす、哀情余りてなごり漸く尽きん。みだりに慕ふ勿れ、再来あるは天地自然の慈愛ぞ。帝、光悦の茶碗をいたゞきて喫みたまふ。御薄茶といへど味はひふかし、かゝるもの地に満てらんことをと言祝ぎたまふぞ有り難き。
かぐやひめは、いづれより取う出たまひし、合甫とかいへる謂れめでたき刷毛目の碗にて、取り返さむたまの逢ひを言よさし、重ねて帝に御茶すゝめ給ふ。てのうちの珠にと帝は恋慕やみがたくおはしませども、よく忍ばせたまひ、清らにひらきたる土目うるはしき御茶碗に、たふとき御口をつけてゐたまへり。翁には、楽といへる家に伝へし面影なつかしやとて、うちしほれつつ姫は黒き茶碗に緑映えて御茶たてたまふ。媼も待ちかねゐたり。母ひとには鉢子とて、赤き絵のいと景色華やかにうつくしき唐物をたてまつると、色よくこゝろこまやかに御茶をすすめ孝養したまひき。翁も媼も、端により肩よせて畏まりをるものから、またも逢ひ見たてまつる嬉しさ、夢さめずあれと、たゞ目守りてすくみゐる。すこしばかり戸をかこはせ、いつしか帝も釜ちかく円座したまひつ。尽きぬものがたりあり。歌ども幾返りあれども、かぎりなければ、畏まり記さず。
夜更けたり。時雨れしともなけれど、さすがに月かげ冴えてひえびえ見ゆるを、飛ぶ車まつまでもなし、なごりは尽きじみまからむ、みすこやかにといふ声して、御光のみ、ほ、と匂ふばかりにて、正身は月のみそらにはやみ失せたまひぬらむ。あなと嘆けども、情けなしと泣けどもかひなし。帝は端に出でさせたまひて、ただ、かぐやひめと呼ばはり給ひぬ。竹むらをとよもし、遠山に喬き一本松のあな影やとそびゆるまで、御声は響きぬ。まつとし聞かばいま帰り来むとうたへるは誰そ、こころにくし。松、松と心そらにつぶやかせ給ふ。老いしはただ膝つき天を仰ぎて声なし。風さそふ村雲、三五夜中の白玉を曇らする勿れ、かならず待つと、え耐えで満月をろがみ給へるを。翁も媼もひしと掌を合はす。
あはれ、おほぞらにかぐやひめのみ歌、いと遠く澄みわたれり。
逢はゞなほ逢はねばつらき人の世のなごりの秋は情けありけり、とぞ本に。
とき、ところ、定めむに由なし。あるがまゝ写してやみぬる、とがめ給ふな。秦 恒平
* 会記と取り合わせについての解説は割愛しておく。
どんな「苑」が出来るものか、勇気あってこれぞ「文語文」ですと、サイトに、誰が何を真っ先に掲載されるか、期待したい。日常の必要文をいまどき文語で書いてみてもアナクロが過ぎる、やはり創作性のあるもの、文藝であるものが望ましく、意味もある。また似合う似合わぬもあるだろう。石原慎太郎の書く文語・文藝、想像が付かない。
2003 3・27 18
* うららかなので、丸ノ内線で本郷三丁目で降り、わたしの通勤していた昔からすると驚異的に様変わりした駅や本郷通りにびっくりしながら、めざす向丘の光源寺まで、近かろうすぐだろうと思い思い、延々と散歩。おかげで、途中倫理学の東大竹内整一教授とパッタリ。また漱石が「猫」を書き、それ以前に鴎外も住んだ住居跡を発見したり。ま、よく歩いた。
吉岡忍らが主催の反戦テントを覗いてきた。この手の催しに多くは期待できないけれど、やらないよりはいい。お寺の境内にテントを張って、ちょうどその時間は、各誌の編集長が、講談社元木氏の司会で順ぐりに喋っていた。
二人目に、岩波「世界」の編集長が話した。編集とは「デフォルメ」ですと。もう少し翻訳して話して欲しいなと思った。取りようによれば「色眼鏡」で見ることにもなる。「力点」を置く意味でもあろうか。それがたとえばアメリカは「傲慢」という評価に結びつくとして、人により「傲慢ではない」という意見や立場がある場合、それは編集に反映させるのか排除するのか、それは「デフォルメ」とどう結ばれるのか、言語も姿勢もアイマイだなとわたしは聴いていて感じた。
編集者が「デフォルメ」という姿勢で読者に「力点」を押しつけるのか、とすると、読者自身の「判断」は「右にならえ」となるのか。読者を啓蒙するのが編集者なのか。すると筆者からの議論は、編集者の「デフォルメ」という「色眼鏡」を通して発信されているのか。つまりは語義がクリアでなく、つまりは把握の弱い表現のように感じられた。
今は雑誌は天下国家を論じるときだと言うので、試みに、今、「一つ」だけと絞って、編集長として何が天下国家に大事な課題になるかと尋ねてみた。
むかし我が家に原稿取りに通っていた「世界」の編集者は、そんな質問に言下に「教育」でしょうと言い、教育問題は言い古されて立ち往生している、わたしは「世襲」ということが、難儀な事態を今後の日本にもたらすだろうと指摘した。十六七年も昔の話だ。今や政界、学界、芸能界、企業。みな世襲で、血潮は混濁し脆弱に貧血してきている。
今日のテントの中の「世界」編集長は、わたしの質問にグズグスと前説を吐きながら、とどのつまり、「グローヴァリゼーション」ですね、と返辞してくれた。
おお、またしても外国語か。日本語では言えないのかね。そしてあまりに一般論で、視線が具体の深みへ差し込めていないんじやないか。
こういうときの「デフォルメ」にしても「グローバリゼーション」にしても、「翻訳」によりいろいろに変わってくるし、結局は答えていないのと同じ、なんでもありの答えようになってしまう。厳しい「問一問」になっていない。
わたしなら、そうだな「サイバー問題」だ、と答えたい。サイバーテロ、サイバーポリス、サイバー政治、サイバー犯罪。これからますます法律や規制や国際問題がらみで大きな迷惑も利便も危険ももたらすだろう。
編集者は、大見出しをいつも中見出し、小見出しに適切に素早く置き換える用意を持っていないといけないだろう。
要するに、著者という「牛若丸」を、七つ道具で追いかけ回せるだけの力量有る弁慶のような編集者が必要なのだ。弁慶は、最後は牛若丸に勝たせてやる。弁慶が自分を主役にしては洒落にもならず、行き詰まる。
おれのやりかたで勝つと言い出す編集者は、危ない。強い可塑性と可能性のあるライターに「ここぞ・これぞ」という良い仕事をさせられる大力量の弁慶役が務まらないから、いまの「編集」は貧弱になっているのだ。その反省がない。
2003 3・28 18
* 思案に沈むのを一概に悪くは思わないが、「考える」だけでは仕方がない。それなら「考えない」方が清々しい。「考えている」のをよほど大事な価値あることに思っている人は多いが、そういうのの大方は「考えない方がマシ」なようである。身を働かせることをそうしてサボッテいる。下手な考え休むに似たり。うまい批評である。
およそ考える主題の中で無意味に愚の極であるのは、「人は何故生きるか」とか、「人生の意義は」とか。釈迦でもイエスでも、この手の問いには沈黙して決して答えなかった。こんな、考えてもどんな答えが出るわけもないことを「考え」に「考え」て日々を空しくしてしまうなんて、なんてこったと思う。断然放擲して、うまい茶でも一杯ゆっくり飲むがよろしい。生まれたからは生きればいいだけの話、意義は有れば有り、無くても有る。それだけのことだ。せっかくの「今・此処」を休むに似た考えでムダにするには及ぶまい。
今日、「思い切って改名」してみたという卒業生のメールが来た。秦さんは「よせ」と言ったけれども、と。生まれる前から本然の名前があるというのならともかく、われわれの名前など、生まれてきたときには無かったし、与えられたときにも責任は無かった、選択も出来なかった。便宜に役立っているにすぎず、だから換えてもよく換えなくてもよく、漢字の意義やら字画やらに意義を持たせようとしても、所詮はムダで無意味である。親の付けてくれた名前だと思い、親の気持ちをくんでやるだけのことだ。「抱き柱」のなかでもひときわひよわい意義のかるいのが名前である。そんなことで日々の苦難をかわせるわけではない。それで気が一新されるわけもない。役者が襲名して化けるのとは少し違うのである。
*「考えのない人」は困りものだが、ある意味「考えすぎる」人はもっと困りもので、一番の困りものは「考えている自分」をそれゆえに高く評価している人。無意味である。「なにも考えない」で平和に怪我無くいられる方が遙かに貴い。
2003 3・29 18
* 『ゲド戦記』第五巻をまた読み始めたが、やはり再読は必要なことだし、清水をのどに引き込むようにすてきに心地よくよく分かって読み取れる。
むかしむかし、本を買ってなどもらえず人に借りてしか読書出来なかったおかげで、一度読み終えると、直ちにくるりと最初に戻ってもう一度読み返した習慣、これで本の内容が身内に刻まれたのである。「読書」と謂うに値するのは、少なくも「再読」以降というわたしの持論は動かない。二度目を読むのが嬉しくて堪らないような本にこそ出逢いたいし、そう読まれるものを書きたいのだ。
2003 3・31 18
* 小説を待望の声が読者からぱらぱら、ぱらぱらと「湖の本」の読者からも届きだしている。待ちきれないらしい。わたしは慌てない。
2003 3・31 18
* 夜前、梅原猛氏に贈られた「京都発見」を読み始めた。豪奢の感にたえない前書きでのプランで、その一つ一つの目論見にわたしはわたしなりのイメージが有る。梅原さんもすばらしいが、それほどの探索心を惹き起こしてなお余りある「京都」の底知れぬ文化的埋蔵量に、いまさらに感嘆する。
法然の「一枚起請文」にかかわる問題点を、「謎」として整理した一文を真っ先に読んだ。へんな過信から離れてその成り立った日付などを読み取れば、当然の疑点が当然取り上げられている。もう朦朧としていた遷化直前の法然により書かれたか、もっともっと早い時期に書かれたか、問題にされ始めた時期から推して後生の偽作か。
そういう事も事として、しかし「一枚起請文」は法然の念仏の精髄を絞った金無垢の一滴であることは間違いないと、わたしは信じている。それを法然が書いたり言ったりしていなくても構わない、まぎれもない法然の到達であり、日本の浄土教の簡潔な頂点である。わたしはこれ在るが故に法然を慕い感謝する。これ在れば長大な「選択念仏集」の難解をも要しない、いやそれが更に宜敷要約されてあると信じている。この「一枚起請文」の前には、知恩院をはじめとする大法城はなにやら空しくも思われる。お寺さんのしきりに薦めてくれる旧態依然の宗団的儀式や事業には少しも心動かない。ほとんどムダごとのように思うこともある。
2003 4・1 19
* こんなことばかり書いていないで小説を書きなさいと言われている、のかも知れない。これは、だが「こんなこと」程度の筆記であろうか。分からない。この「闇に言い置く」私語を書き始めて数年、まだ試みたことはないがその全部を収めても、CD一枚に、MO一枚に優に収まるはず、わたしの作品として最も長く最も生き生きとした仕事が其処に在るだろう。百冊に及んでいるわたしの創作やエッセイの、これは作者自身が付けた索引と批評と解説に当たっているだろう。人生行路のこれがアンカーになる。底荷になる。
2003 4・1 19
* 滑るように昨日が今日になる。それが「常」の日ということか、それが「無常」なのか。
2003 4・2 19
* 「それがどうした」という気持が、いつでも、何に対してでも、有る。世界の大混乱とバランスする一滴の花の露の真実在を信じているし、小さく絡ませた指と指のようなものでも、優に不幸な世界と拮抗する。深く闇に溶け入ってあとを絶つ気になれば、如何なるモノゴトもヒトも意味を薄めてしまう。
だれもが身内に底知れぬ闇を抱いている。闇と闇とが溶け合えば行方知れず、ブッシュやフセインや金正日の算術も遠く及びはしない。だが難しい。
2003 4・2 19
* 若い人は試行錯誤を楽しみ日々に努めるがいい。しかし六十すぎた、いや七十に近い大人達は、ましてそれ以上の老人達は、知識への渇望などもう洗いすて、財欲への奔走も脱ぎすて、政治と地位とは若い世代に譲り渡して、ゴントの「ゲド」いやハイタカのように、生死の美しい均衡を胸にしたまま、落ち着いて生きてはどうだろう。
このごろわたしは、ときどき、ああ、こんなにラクでいいのだろうか、これはわたしに許された境涯であろうかと、半ば怖く感じるほど、(そんな風に感じるのはわたしがまだまだ到らぬためだが。)開放されている。したいこと(行為)は沢山あるが、しなくてはならない(行動)殆ど何一つも無くなっている。腹が空けば飯を食う。それは自然な「行為」である。ブレーキをかける必要はない。空腹でもないのに求めて食欲を満たすのは身毒に繋がる「行動」であり、この危険で悪しき行動のことを、即ち「活躍」だと思っている最たる愚者が、今の時代、たぶんブッシュであるのは明白である。政治家や金持ちや坊主達は、また我が世の春のテレビ人間どもは、まさしく「行動」に酔った五体の隅々にまで、目に見えぬ黒いピンをむやみと刺し込み、その痛みに追われて奔走している阿呆な魔物に近い。
2003 4・2 19
* 群馬大学の先生から、学生による漱石「こころ」論一編が送られてきた。この人は水村美苗の『続明暗』にならい、自身「こころ・その後」を書いてみたい気があるのだろうか。
先生は妻にだけは自分の遺書を見せてくれるなと言って死んだ、だから遺書は奥さんの目に触れていないと此の筆者は書いている。「妻が己の過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたい」からだと先生は遺書の中身を妻にだけ秘密にしておくように頼んでいる。
「記憶の純白」が、漠然と「過去」でなく、先生とKとお嬢さん=奥さんたちの「過去」に限定されるのは、小説の力学や美学からして当然で、恣に過去一般に拡げはできない。が、そうなると、そもそも、先生の妻の頭は「純白な過去」だといえるかどうかを問うべきだろう。お嬢さんの母親、母子家庭・軍人遺族の母親である「奥さん」は、早くから「先生」の人柄と財産と係累を捨てた天涯孤独と帝大生の身分に着目し、先生を優遇し身内扱いしている。娘一人の母親がそういう姿勢の時に、思春期に進んでいるお嬢さんと母親とが、一つ屋根の下にいる婿がねの青年の噂一つしないなどという禁欲的な母娘が、世間にいるものではない。ことこの件に関して女達は最初から「純白」ではありえない心理に自身を追いやり容認している。
だからこそ、先生が、Kを自分の賄いで同じ家に連れ込んだときに、奥さんは(お嬢さんも後に「奥さん」と呼ばれる意味で、一心同体が作意されていると読んでよい。)躍起になって制止し「よくないことが起きる」と予言している。すでに事件の核心は女達により予期されていて、先生よりもよほど賢いのである。
そしてKは、案の定自殺という変死問題を起こし、この時も奥さんはテキパキと処理した。なぜ事件は起きたか。奥さんにとって、つまりお嬢さんにとっても、問題はかなり明白で、その限りにおいて如何に先生が事情を知られたく無かろうとも、世知に長けまた聡明な奥さん達母娘は、すべて察したまま、だから、かえって先生との結婚をさっさと急いだのである。
そこまでは、どうしてどうして女達の過去を悟っていること、察知していること、「純白」だなどと信じたがっていたのは、先生の独りよがりに過ぎない。彼もまたそんなことのあり得ないことは知っていただろう。遺書を渡した「私」に対する先の勿体らしい制止は、およそ「私」への型どおりのアイサツに過ぎない。
だから、先生の奥さんが、遺書を実際に読む読まぬに関わらず、私が遺書の存在を告げれば、奥さんは「なかみは、みなわかっているわよ」と十分に言いうるのである。
つまり奥さんに隠しておく意味が何も無くなり、いっそう奥さんと私との「一体感」を強める物証にすら此の「遺書」はなるのである。
奥さんに遠慮して奥さんには隠したまま公開するような不自然な必要は、「私」には無かった。奥さんの頭が「純白」であると決めつける方が、不自然なのである。わたしは生き残った若い二人には「遺書公開の自然な合意」があり、先生の制止は意義を失っていると読んでいる。其処にこの二人の強い新しい立場が出来ていると。
* この学生の論考を送ってくれた大学の先生は、作中の先生自殺後、奥さんの生存は容認しつつ、「死に準ずるような境遇の変化(例えば、尼になる、あるいは狂気に陥るといった)があったのではないか」と解釈されているそうだが、これは作品の力学や美学に対して、恣な逸脱が過ぎる。そういうことがあれば、私は礼儀としてもそれを巧みにほのめかすであろうが、そのような内証は具体的に小説本文中に一カ所として指摘できない。
作品論は、行間や紙背を読むにせよ、あくまでも本文に即してその力学や美学を放恣に逸脱することはゆるされない。「お嬢さん=奥さん」の作中の造形は、どう見ても尼になるの発狂するのという兆候とはほど遠い、現実的な力ある生活者に書かれている。あの母親である「奥さん」の世馴れて沈着な性質が受け継がれている。Kの自殺に際していかにこの奥さんが冷静であったかを読むべきだろう。
第一、そんな出家の発狂のと心配のある限り、先生は愛する奥さんをおいて自殺はしない。性格的にも、私のいる状況からも、先生は安心して死ねるからやっと死んだのである。自殺出来たのである。
* ほんのトバ口のところで、送られてきた「論」はすでに立論の基盤が崩れている。しかし、もう少し続きも読んで行きたい。
わたしの「こころ」論は、先生の死後、奥さんと私の愛は結婚や妊娠(出産)にも及び、先生はそのことをむしろ自殺に際し二人に期待していた、という思い切ったものであるが、それは本文の表現に即して正確に論証でき、事実論証したのである。
いま、「こころ」はおおかたこの私の読みにちかづけて読まれていると、自信をもっている。容認論は有っても、論破された論には一つもわたしはまだ出逢っていない。
2003 4・6 19
* 加島祥造さんに戴いた『漢詩』の後半は、案の定、あの「袁枚」訳詩のダイジェストだったが、昨夜も読んでいるうち、いわゆる学校の教授や博士達のお人のつまらなさをうたっている、面白い詩があった。
教授や博士にも、まこと碩学といえ人格高いすばらしい人のいるのは何人も識っている。敬愛している。
が、じつにツマラナイ人の多いのもその通りで、当然ながら、学問のとんと出来ない人、大学内の政治や力関係に卑屈で如才ない人に、甚だしい。二言目に忙しがる人も、つまらない。「忙しい」が名誉のような人をみていると、途方もない考え違いの軽薄さにびっくりしてしまう。たいしたことは、何もしていないのだ。
それと、「大学教授」なる地位を、天狗の鼻のように心得ているのが、男にもちろん、女の先生にも、いる。何のエラクも忝なくもない人が、けっこう平然と教授になると途端に傲岸なお山の大将に成り上がったりする。顔を見て声を聴いて、へろっとした足許をみて、クツクツ笑えてしまうことがある。
肩書きなんてものは、風に吹かれて寄ってきた時たまの紙くずに等しいのに。わたしには太宰賞も東工大教授もペン理事も、みんなそんなものであった。望んで手に入れたものは一つもない、ただ舞い込んできた。だから、その摂理のようなモノの手前も、きちんと心して辱めないよう付き合ってきたのである、自然と思うままに。
2003 4・7 19
* ゆっくりと長いあいだ取り組んできた長編小説を、今日一応脱稿した。今少し手を入れるにしても、ほぼ来るところへ来て「脱稿」を納得した。原稿用紙で六百四十枚ほどか、「みごもりの湖」「罪はわが前に」ほどで、作風はよほどこれまでとは異なっている。題は、プリントした原稿をよく読み直し、今しばし思案したい。
どの社もおいそれと出しては呉れまい。妥協の余地のあまりない作品に思われる。それはいい。大きな一歩を踏んだと思い満足している。書かねば済まなかったわたしの小説である。
そもそも「頼まれ」て書いた小説は何だろう。「みごもりの湖」や「墨牡丹」の頃まで、わたしは注文を受ける前に作品を書いていた。書きたい作品をすでに書いておいた。「清経入水」も「畜生塚」も「秘色」も「廬山」もそうだった。今度のこの小説も頼まれたから書いたのではない、書きたくて、ひとりこつこつ書いてきた。それでいい。
2003 4・9 19
* 川鵜の繁殖が多くの害をしていると報じていた。川鵜は樹上に巣づくりする。テレビのレポーターは盛んに「巣を作る」と語り、土地の人は鵜が「巣をする」と言っているのが対照的で。「巣をする」なんて、なんて懐かしい物言いか、わたしでもそうだが、父や母や叔母達の世代はまちがいなく「巣をする」と話していた。「鼠が巣ゥしよるやろ」とか「燕が巣ゥした」とか。
「巣をする」はそれでいい。が、会議をする、抗議をする、演説をする、主張をする等々の「を」が、わたしは嫌い。動詞の意義のある漢語に「を」と、説明「を」する必要なく、会議する抗議する演説する説明すると言ったり書いたりしてはどうか。推敲の眼で文章を読んでいて、この手の緩みや鈍さはいつも気になる。
2003 4・9 19
* 話題がわるく変わる。
便所へは、なにをしに入るか。きまっている。が、きまっていないかのように、まず大にせよ小にせよ排泄の何たるかを弁じ、注意点を箇条に数え、色や匂いはこう点検せよと励行するような「便所」であったなら、本末転倒、何をしに入ったかも忘れてしまうだろう。指折り数えて、そのまま出てきてしまうかも知れない。
気持のいい譬えではないが、こういうバカを、いろんな所でじつはやっている。便所で排泄するまでは自然の「行為」だが、今謂うその余は余計な「行動」であり、しかし健康法としても処世法としても、このての「行動」が溢れんばかり「売り物」にされている。マインドコントロールされている。行為に先立ち、知識や見聞や賢しらが行動開始する。
眠ければ眠るのは、「行為」の自然である。事情がゆるすなら眠ればよい。だが、無理にも習慣として眠ら「ねばならない」となると、強いられてする「行動」になる。リラックスとは謂えない。「ねばならない」「ねばならない」「ねばならない」と誰でもつい其処へ落っこちて、逆に「ねばならない」がこんなに沢山と自慢にする者も現れる。
2003 4・10 19
* 「心」の先生がどんな死に方で自殺したか、それほどわたしは気にしていない。死の事実だけで足りているのではないか。血走った見苦しい死に様を奥さんに見せたくないのは分かるが、所詮は自殺である。「心」の判断では、いや「奥さん」の判断では、自殺は「変死」である。きれいもきたないも、本質の問題ではあるまい。そんな憶測からこれは入水死に相違なく、それも先生と私が出会ったあの鎌倉の海での入水死だという本気での推察が、学者達の間でされているのには驚く。
あの先生は人波を通り抜けて一人沖へ出て、あおむけになって「愉快」を感じられるほど「水心」のあった人である。水練に長けていたという平家の総大将宗盛と息子清宗をもちだすまでもなく、よく泳げる人は感嘆には水で死のうとしても死ねない。宗盛たちも死のうとしつつ泳いでしまい、むざむざ源氏の手に引き揚げられた。他の死に方よりも水死は最もあの先生には無理な一つであったろう。維盛の熊野沖入水は舟をあやつって太平洋の沖遙かに出てのこと、所詮は泳ぎ帰れなかったが、鎌倉の海に舟を借りて沖へ出たとしても、舟はそこにうかび、泳ぎは達者では、どんなものか。
どっちにしても、そういうことは本筋からは末の穿鑿ではないか。
2003 4・10 19
* 逢いたい人がいつでもいる、というのは豊かな糧である。大切にフォロウしていないと、時間の算術に翻弄されて、永遠にすれ違いもせず、別れて行く。時間は誰にもたっぷりあるようで、ちがう。二人で三人での組み合わせとなると、時間とは貴重な薬剤のように手に入りにくくなる。
2003 4・11 19
* 過剰な褒美ではあるが、感謝する。結果としてはそのように読んでもらえるのを一つの願いとして書いているのであるから、ことさらな否認はしないが、自分でも不十分は分かっている。だからこそよけいこういう言葉の前にわたしは謙遜でありたいし、強く鞭打たれているに等しいと堪えてもいる。
書き上げた新作に過剰な期待の寄せられてくるのを、苦痛にも感じている。申し訳ないが、という気持ち。読者には、明らかに批評や評価の厳しい物差しと、人により異なる目盛幅とがある。しかし書くとき、それは一切気にしない。わたしが「今」書きたいように書いている、十年前、二十年前とは、むしろ異なった作品、似ていない作品、ちがう書き方で書きたいと思っている。あの作品に似ていると真っ先に思われるようではならない。その意味では、過去の作品の理解者や愛読者の好みに逆らうかも知れぬ結果になってむしろ当然なのが「新作」というものであり、とくに今回はと、いつもいつもそう思いながら提出してきた。
よぎなく、というより、心して私が創作中も意識してきた読者(代表)はといえば、むろん一致して太宰賞を下さった選者――石川淳・井伏鱒二・臼井吉見・唐木順三・河上徹太郎・中村光夫の諸先生であり、瀧井孝作・永井龍男先生であり、吉田健一先生であった。この人達にはわたしは答案を書き続ける義務があると思ってきた。だが、どんな具体的な編集者の顔も読者の名前もわたしは思い浮かべようとはしないで来た。仕上がった作を最初に読み通すのは何十年来たいてい妻の仕事であったし、今回も難儀な関所は通して貰ったようだ、むしろわたしの方で、先は急ぎませぬ故と、まだ関所の中で赤ペンを握ったまま勧進帳の読み直しをしている。勧進帳のあらばこそと、真っ白な巻物に書き続けてきたわけだ、推敲は念入りにしたい。待っていて欲しい。
2003 4・14 19
* 真の力は「闇」にしかないのではないか。「ゲド戦記」第一巻『影との闘い』の末尾に近く、そう書かれてある。
ゴント島に育った少年ハイタカは、生来の強い力を大魔法使いオジオンに育てられ、真の名「ゲド」を得て、さらに大きく成るように魔法の長たちの学院があるローク島に送られる。研鑽著しいゲドは、しかし学友からの烈しい挑発に負けて、太古の死者を呼び出す術に力を振り絞ったあまり、閉ざされてあるべき隙間から己が「死の影」を解きはなってしまう。この「影」との険しく危険な執拗な闘いが繰り広げられて、ゲドの己を全うする道はついにただ一つという瀬戸際へ追い込まれて行く。多島海(アーキベラゴ)の海から海へ孤独で危うい孤舟の旅を重ねる戦士ゲドの決闘は感銘深い。
* 少年時代、怖いものの筆頭は「闇」であった。くらいところに一人いるのが怖かった。光が在ればどんなもののけの影像も、怖さは霧消しそうに思われた。闇の意味をわたしはこども心に思いつづけ、闇に親しむ気持がもてないと、怯えて生きねばならぬ時間が長いと覚悟した。闇の中でこそ安全だという逆説をわたしは自身に育てていった。育ての親の一つは、笑い話のようであるが戦時の厳しい灯火管制であった。
空襲警報が鳴り響くと街の中に一点の光も消え失せた。空襲からの安全を守る闇。まこと、星明かりもない闇の中では我が鼻先においた自分の指先も見えなかった。
七つ八つまで闇に怯えて泣いたわたしが、十になれば空襲警報下に体験する真如の闇に「自由自在」な不思議な解放感を覚えるようになっていた。電灯の明かりの下では尋常な国民学校の生徒が、闇に溶けいると、「可能性」そのものかのような大きな意識を感じた。丹波の山奥に疎開すると、警報など発令されなくても「闇」は夜にさえなればじつに容易に得られた。闇色の美しく深いことに魅されたのは、丹波体験のなかでも大きかった。
* 割符というものがある。たとえば三関を固める朝廷の使節は、「木契」という割符を持って不破や鈴鹿の関へ走った。割符は割られぬ前の或る「全きもの」の実存を示唆する仮幻の物証である。電灯の下の一生徒は割符の一片であった。闇に溶け込んだ意識のなかに全体(トータル)を感じた。
わたしは、闇の奥に溶けている自身のもう半分の割符を此の世に引きずり出す魔法は持てなかったが、またそういうことが人間にゆるされているのかどうか分からないが、ゲドは少なくも、過って、ないし少年らしい傲慢の故に、それを犯してしまい、我と我が死の影に、生ける己を、喰い殺されようとする。そういう「闘い」の記として『ゲド戦記』は幕を開けている。またゲドがどう打ち克ったかが大事である。われわれは、所詮割符の半片として生きているのだ。その通りだと私は思う。バグワンが、全体(トータル)というときにもこれが無関係ではない。
アーシュラ・ル・グインのこの作品に出逢ったのは、娘朝日子が高校から大学への頃のこと、そう遠い昔ではない。しかしこの連作の世界は、もうグインの作品なんかではなく、わたし自身の原故郷として、実在している。アースシーの広大な多島海地図が頭に入っていて、わたしはゲドの行く先々に同行できる。
そういう感覚で、わたしはまたわたしの「闇」との間柄を育ててきた。コンピュータのウエブとして目に見える「闇」もまたその派生であった。
これは、だが、一度で語りきれることでない。
2003 4・16 19
* 書く、というのは、或る意味では闇の底から解き放つのであり、純然と創作された作中の人物であれ、書かれてしまえば、まして作者との繋ぎ目堅固に良く書かれてしまえば特に、身の傍の普通の人達よりも根強い身内として生き始めてしまう。それだけの責任を作者は背負わねばならなくなる。繰り返し呼びかけてくる更なる己が「表現」を求める深い声に作者は聴きつづけねばならない。一人の書き手のよく書き表した人物たちが、どこか似通っているのはそういう意味である。通り一遍にしか書かなかったものは、そういう甦生の欲求は無い、か、微弱。
2003 4・17 19
* 昨日、会長を退任の梅原猛氏より『王様と恐竜』という題の「スーパー狂言」なる三編その他収録の一冊を頂戴した。猿之助の「スーパー歌舞伎」に茂山一家の狂言というところか。評判の「噂」のかげ程度は耳にしていたが原作ははじめて見た。舞台はむろん知らない。
もう何十年になるか、「冷えた情念」と題して、現代の狂言への失望落胆を書いたことがある。「コント55号」のなかにむしろ今日の狂言を瞥見しうるのではないか、などとも。狂言ほど、「型」に嵌ってしまえば根底を失う藝はなかろう。歌舞伎は批評を喪失しても、ノンセンスの野放図な拡大によってでもかえってセンス生命は保てる。狂言は風刺という批評行為である以上、現代や今日を忘れれば、ただの型の踏襲という以外には、冷えた笑いを窺うのみ。そこにうまいとへただけが鑑賞されるのでは、ま、考古学資料のようなものだ。
梅原さんの新作狂言はその意味で破天荒に「今日」のグロテスクを衝いている。その是非や成否は舞台をみて判断する以外にない、活字で読む限りは、特別の感興もなく、当然ながら「蕪雑」な印象は否めない。つまり「読んで嬉しい」花いちもんめでは全くない。茂山一家がどんな舞台を創っているかであり、これはその舞台台本である。本来が「本」にして読ませて評価されようとは思うべきでない、台本レベルである。
武者小路でもそうだし、ことに正宗白鳥の戯曲がそうだが、舞台に再現されると水際立つ効果をあげるのに、活字で読んでいると砂を噛む感じがする。面白くも何ともない。戯曲とは文字で読めば本来がそういう物だ。舞台を想像できる力のある人にはかろうじて面白さが読み取れる。
ところが「読む戯曲」の書き手の台本は、読んでいれば小説のように面白いが、そのまま舞台に置くと冗漫も甚だしい。谷崎は戯曲を一時期多作していたが、このギャップに悩みつつ、逆手に取り、「レーゼドラマ」と「台本」とを書き分けてゆくようになった。だが概して「読む戯曲」「戯曲の体裁の小説読み物」を谷崎は書いていた。
梅原さんのこれらの台本は、「読む戯曲」としてははなはだザッパクで感興というものの殆ど一滴もないが、仰々しく舞台化すると笑わせることだろう。その段階で成功すれば佳いのである。こういう仕事を遮二無二世の中へぶち込んで行ける「地位」を梅原さんは獲得してきた。地位の力を生かして時代の前線を切り開かれるのは立派なことであり、地位が出来ると権力へ転じたがる有力者たちの方が多いのである。敬服する。
2003 4・18 19
* ただの根無し草の「評論」というのは、つまらない。そんな「顧みて他を言うだけ」の評論家なら、一億総評論家のように幾らでもいる。評論の対象はかぎりなくある。生きるということ自体、他への批評なしにありえないのだから。
評論や批評の対象は、先ずは、自分自身。自己批評から発進しない無責任なうわごとは、綺麗事かむちゃくちゃかのどちらかで、人の胸に響かない。
たとえば「正義」という二字は同じでも、それを語るにふさわしい言葉もあり、まるで石ころナミの言葉もある。言葉がどこへ根をおろしているのか。評論していることと自分との正当な関わりが、結び目が、ちゃんと意識されているか。自分は圏外においた評論では、しようがない。
* 世の中でいちばん生きにくく自分を追い込んで行くのが、「狼がでたよ」と繰り返したピーターであるのは言うまでもない。人が信じてくれなくなったから、ではない。自分の中で自分がかき混ぜられてしまい、自分で自分に用意した蟻地獄に落ちて行くからだ。光り輝く一分のウソは、九割九分のマコトに支えられている。名作は、すべてが、そうである。
* 奮闘した。一つ大きな気がかりを解決し、仕事が前へ進んだ。集中力を取り戻したようである。
2003 4・21 19
* 孫悟空は神通力をもってして「仏の掌」から出られなかった。孫悟空だから仏の掌である。われわれ凡人は「自分の掌」からも容易にはとび出して行けない。ときたま、お、と思わせることを云う人でも、半年も一年もみていると、そうは行かない、おおまかに謂って、同じようなことを繰り返している。思考の、発想の、話題のパタンがその人なりに動かぬ限界をもっていて、もちまえの結界のなかでモノを言うよりなくなってくる。「飛躍」という言葉が、たまに使えたときに、少しその人の掌も大きく広くなるのである。
常に新鮮で常に変化して行くためには、自分の掌を豊かに拡げて行く「何か」が必要で、それが仕事であるか恋であるか知識であるか新たな地位であるか趣味であるか親になるか仲間になるかなど、いろいろにせよ、いずれにせよ、自分の掌は狭くて、しかもそこからはみ出て飛躍して行くのは容易ではないが、そうありたくもある。
十年一日・無事是貴という理想と、この掌の旧態依然とは、似て非なる、まるでべつごと。
人生の曲がり角というのは、向こうから現れるとも、自分で創り出すとも謂えるけれど、曲がり角の有無が問題ではなく、角の曲がり方に、人それぞれが現れるのではないだろうか。
なにをやっても、なにを思っても、なにを書いても、毎度同じだとふっと自覚したときがマンネリである。自覚が有ればまだ脱出できるが、ただ漫然と余儀なく繰り返していると、ふうっと自分で自分が見えなくなるから、怖い。
2003 4・22 19
* 土田直鎮氏の「王朝の貴族」は浄土教の章で閉じられた。空也(市聖)、寂心(慶滋氏)、源信(恵心)、そして往生伝。夢中で「往生要集」を読んで、浄土教の感化は小説を書き始めてからもわたしから離れなかった。法然に、親鸞に、また一遍に、のちのちの妙好人たちにまで思いはひろがり行き、浄土三部経を繰り返し繰り返し翻読し読誦し、そういう中で法然の「一枚起請文」に尽きてゆき、親鸞の「還相廻向」に気が付き、そして、私自身の看破である「抱き柱は要らない」というところへ到達してきた。バグワンに、そして不立文字の禅に、いまのわたしは深く傾斜し、自分の課題を眺めている。
2003 4・26 19
この祖父の手元で、今の澤潟屋猿之助は育てられた。父は家で芝居の話になるのをうるさがる人だったが、祖父は芝居の話ばっかり、そこへ各界のエライ人も来て談論風発、それが孫には嬉しくて面白くて堪えられなかったという。この祖父にしてこの孫あり。
祖父猿翁は、大きく分けて、孫に二つ教えてくれたと。
古人の跡(=したまま)を求めず、古人の求めた心(=姿勢や覚悟)を慕うように。
また、優れた人によく接し教わり、優れたものをよく観て教わり、優れた自然や書物に教わるように、と。それなしに大成することはないと。
平凡。とんでもない、これぞものを創る者の金科玉条である。安直にその日暮らしをしていると、底荷のない軽薄な舟になり、転覆する。聴いていて、ビビビとからだが引き締まった。
2003 4・26 19
* 肉体は慣習としても焼かれて土に帰る。さて魂の不死をわたしは願っているだろうか。少なくも魂と肉を「分割」して不死の魂の行く果てが、ル・グゥインの描いたあんな灰色に漂うだけの冥府ではイヤだ。肉も魂も一つのママに土に帰り水に帰り空に帰りたい。グゥインのキリスト教的「分割」死生観等への痛烈な批判に、わたしは賛同している。ブッダの、禅の、バグワンの透徹に惹かれ、導きを得たいと思う。アーシュラ・ル・グゥインもそうであったのではなかろうか。
2003 4・27 19
* そうそう、朝一番に読んだ「東京の小闇」の、編集者と書き手との「論」には、少し考えてみたいことが、ある。トロくて無責任な書き手のせいで、連載にアナがあきかけ、編集者として代わって記事を書いた、その後も書き続けた、その方がトロイ無責任な書き手に好き勝手されるよりよっぽどいい、と考えているらしい。よく読み返して間違いの少ないように思案したい機微に触れている。
編集者にもいろいろある。小闇の場合は技術系の専門誌であり、本人もその専門なので「書ける」蓄えがある。そういう例は特殊であり、一概には言えない。私は医学研究の出版社で編集者だった。医学とは程遠いわたしは美学専攻の卒業生であったから、また、そうでなくても、代わりに書いちゃうとなんて不可能だった。不可能だからしないのか、出来ても「編集者」だからしないのか。
雑誌には「雑誌記者」という言い方もあり、週刊誌などそうだが、編集記者が原稿を書いている例はいっぱいある。ややこしいのである。だが、考えてみたい刺激を感じた。
2003 5・9 20
* 花粉はまだ少し飛んでいますが、秦さんは大丈夫ですか。わたしはいろんな花粉に反応するようで、まだ外出を控えています。そんなわけで、春は、屋内にこもっています。気分の鬱々となってしまうのは、人とあまり逢わず、変化の乏しい毎日のせいかも知れません。
そんな折、友人が出産祝いのお返しを持って訪ねて来ました。生まれたてのときは、細くて、しわしわで、何と言って褒めようか困ってしまうような赤ちゃんだったのですが、一月経ったら、ぷぅっとふくらみ、美人の母親にも似て、とてもいい顔になっていました。長い睫のまぶたを閉じて終始眠っていましたが、つぶつぶと白くて、ときどきおもしろい顔をしました。ずっと見ていたい赤ちゃんでした。
踊りの先生の、やっと歩き出したお孫さんも、頬のぱんぱんにふくらんだ、まんまるい赤ちゃんです。今まで接することのなかった小さな人たちを、この頃、かわいいなと思います。こういう角度から、わたしの恋の、変化しそうな、しなそうな。
以前、柳美里さんの裁判のとき、(どうしても書きたいなら)「牢屋に入る覚悟で書く(べし)」とおっしゃっていましたね。最近わたしは、書くことで、周囲の人の心を悩ませるかもしれないという恐れを、少し抱いています。既に書いたものは、母が読んだら、胃に穴の空くくらい悩むかもしれません。これから書きたいと思っているものも、近しい人との関係の変わってしまう可能性をはらんでいます。創作に向かう気持ちを、理解してくれる人と、してくれない人といるでしょう。近しい人たちが、そのどちらなのかはわかりません。幸か不幸か、周囲に読書好きの人はほとんどいませんし、わたしの創作に興味のある人もいませんので、今すぐどうこうという話ではありませんが、秦さんは、これまでどのように折り合いをつけて来られたのですか。書きたいと思う者の気持ちは、同じように書きたい(描きたい、撮りたい)と思ったことのある人にしか理解してもらえない気もして。
軟弱な悩みですが、あえてお訊きしました。一人で考えて結論を出してしまうのは、わたしの悪い癖だと思いましたので。でも、今のわたしには、伝えたいことを伝えられるようになることの方が、先決ですが。 群馬
* この問題にぶち当たらない人はいないだろう、が、概して読み物の人は、この問題から迂回し、立ち向かわずに背をむけているように思う。敢然とだか、気をつかってだか、韜晦してだか、とにかくストレートやカーブやドロップやスライダーやチェンジアップで投げ分けても、この問題に向き合っているのは、藝術的な仕事ないし私小説的に真剣な人に多かった。藤村も花袋も漱石も鴎外すらもこの問題とは濃厚に縁があった。それが「文学」なのだから仕方がない。
ただ、モデル問題をよく起こした藤村の時代と違い、今は法整備が人権の保護へ厚く優先的にすすんで、昔ならアイマイに見過ごされた表現も、今では法が出てきて制約する。私は、それ自体は当然で必要で、そのように人権が守られるようになったのは成果だと考えているから、それ自体に反撥はしない。その上で、どうしてもこう書かねば済まぬと美や真実や藝術の前に殉ずる気持があるのなら、それはつまり「牢屋に入る覚悟で」と思うばかりである。じつは、現にわたしはその問題に突き当たっているのである。
ただわたしは、わたしの配慮や工夫を、藝としての工夫を怠らぬように努める、いつも。真正面から火花の散るように衝突しないで来れたのは、その為かも知れないが、それだけではない。わたしが、作中のモデルらしき人に手痛いかも知れぬ表現を敢えてするのは、わたし自身その人を深く敬したり愛したりしている人に限るのである。だから敢えてするのであり、勝手な思いかも知れぬが、そのために起きても仕方ない問題にまでは、達したことが無かったのだと思っている。ま、キレイゴトに近いことを言っているとも言われよう。憎んでいるが故に烈しく攻撃し、傷を与えたいとすら煮えたぎるモノを、今の私はもうサッパリうち捨てた……などとは、やはり言えないのである。なまぐさいのである、まだまだ。
しかしまあ、イヤナヤツのことなど何故わざわざ作品として書く必要が有ろうか、とは確実にそう思っている。訴えられそうなまで露わに書くとすれば、それは対象を敬愛している場合だ、深く。
この気持は、上に上げた人たちの中で、島崎藤村に近いように思う。藤村は、たしかにヘンな妙な文豪ではあったけれど、本格の人であったし、偽善者呼ばわりした芥川に比べても、もっと険しい人生と闘って生き抜いた人であった。漠然とした不安を、嘆息しながらでも乗り越えて行ける健康な脚力を持っていた。彼の筆の前に、普通の意味では傷つけられたどれほど大勢が居たか知れないが、その加害から来る痛みにも、藤村は被害者のように耐えぬいた。その辺に「偽善」かぎつけられる妙な分別があったのだ。
2003 5・10 20
* 黒井千次氏の「ネネネが来る」を起稿し校正し、「ペン電子文藝館」に入稿した。昭和四十四年の秋に発表されている。わたしの「清経入水」が太宰賞を受賞した年だ。
氏は三歳の長者である。「内向の世代」と括られている作家たちのなかで年長の方か。わたしは内向の世代といわれる人達とは、かけ離れた作風で来た。黒井さんの小説を一字一字校正して行きながら、作家のスタイルというのは、面白いものだなと実感した。
日本の文壇には、いつしかに純文学、藝術(本格)的文学、読み物の大きな三つが分かれてきた。
純文学とは即ち私小説であると、今も確乎たる考え方の人が文壇周辺に多い。広い範囲の読み手といえる読者は、文学的・藝術的な小説なら即ち広く「純文学」として受け容れている人が多い。
そして読み物である。大衆小説とも通俗小説ともエンターテイメントとも謂っている。出来にバラツキはあるが、質は同じである。
内向の世代の作家たちは、おおむね文壇的に謂う純文学つまり「私小説」風である。そして、同世代には、と謂うより文壇にはそういう「風」の作家が伝統的に多く、かつ主流を成している。島崎藤村や田山花袋が、志賀直哉が、あるいは葛西善蔵らがそういう畑をしっかり耕して来た。
他方に大きく見て、漱石系の文学と、紅葉・一葉・鏡花や潤一郎・川端・三島らの流れが出来ていた。だが大きく見て、私小説という純文学と、漱石・白樺系の文学とが、ゆるやかに大同していって日本の文壇を束ね、人気はあつても鏡花や潤一郎や川端や三島の流れは、決して主流にはならなかった。その作風の差異は大きい。「ネネネが来る」と「清経入水」を読み比べてもらえれば、歴然として互いに断然異色である。
* 昭和四十四年九月号新潮に新人賞作家が何人も特集され、わたしは受賞ほやほやの第一作の体で、「蝶の皿」を発表した。新刊の雑誌が手元に届いたときに、ざっと他の作家のモノをみて、わたしは、文壇的な「作家」をやめようかしらんと深刻なショックを受けた。阿部昭、黒井千次、坂上弘、宮原昭夫といった人達が、ことごとくいわゆる私小説の純文学であった、へえ、これが現代日本文学の盛んな新芽なのかと、自作とのあまりの違いに呆れた。渡辺淳一も入っていたが、この人はのちのち読み物に転じていった。
あのときの深刻な戸惑いは、ながく消え失せなかった。今も、そうだ。だが、文学・文藝には本当にいろいろあるのである。わたしは直哉の短編も谷崎の長編も、芥川も菊池寛も、葛西善蔵も梶井基次郎も、島崎藤村も田山花袋も、泉鏡花も徳田秋声も、夏目漱石も森鴎外も、一葉も露伴も、なにの問題もなく尊敬して愛読できるのだから。
その愛読の心からの体験が、いま、「ペン電子文藝館」の「招待席」に凝っている。物故会員の作品にも凝っているのである。つまり、ジャンルだか何だかは別にして、読み物であろうが文学であろうが、よく書けていればそれで足りている。よく書けていなければ、だいたい意味はないのである。有名も無名もない。先人も後輩も関係はない。作品次第である。
2003 5・11 20
* 東京へ出てきた頃、同じことでわたしも「途」惑った。わたしの生まれ育った京都市では、「通り名」だけは克明なほど完備していた。住所としては、区名の次に先ず必ず「新門前通」とか「花見小路」とか「四条通」とか「松原通」とか、次いで町名番地がきた。あの街では住所さえ聞けば家の在る位置まで見当がついた。だから、いきなり「日本では」というように出されると誤解も起きる。東京が「日本」ではないとぐらいに伝えて欲しいものだ、海外にいて日本紹介の筆を用いる著述家たちには、特に。
厳島や、その他各地の「神祭」「奇祭」を興味深く伝えた番組があった。そこまで不思議をいわないまでも、まこと「東京が日本では、ない」という根幹を忘れないでいたい。「白装束」のキャラバンが延々と行列して山から山へ移動している。ああいうことをして、ほぼ列島をどこへでも、どこまでも行ける、その事実を見せつけられていると、日本は山国なのであるとつくづく思い知らされる。東京が「日本」と思いこむ危険は深い。新聞小説だった『冬祭り』でわたしの言いたかった大きな一つはそれであった。
2003 5・12 20
* 雨の午後、四時になろうとしています。庭の薔薇はほぼ咲き終わり、草取りは蚊に悩まされる頃になりました。郵便物と夕刊を取りに行く以外、もう今日はじっと部屋に。
朝から食器を漂白して、徐々に次の食器に・・とけっこう時間を計りながら作業しています。思い立ってするのですが、本に飽きたら台所にという程度で、でも後はすっきり実に気持ちいいものです。
図書館から「アースシーの風・・ゲド戦記V]を借りて読み始めました。が、これまでのストーリーを改めて読み直さないといけないかもしれないと思っています。
同志社のキリスト教の精神は、ここに学んだ人にどのような影響を与えているのか、・・先日宗教関係のボランテイアの人の話を聴いたのですが、その人が同志社出身でしたので・・ふっとお聞きしてみたくなったのです。 兵庫
* 同志社のキリスト教には、何の知識も関心もなかった。むしろ新島襄のなかに根付いている、明治の第一次知識人に共通の姿勢、即ち軽輩武士の上昇の生気や儒教的な素養から来ている意志力、凛烈の寒気に堪えてひらく梅花のような意気に、惹かれていたかもしれない。
わたしは子供の頃から、家の人にもない仏界の異薫に惹かれるタチであったし、それも超えて、ただ生死の道に雪ふりしきるような人生と思うにつれ、宗団宗教にははっきり背を向けてしまうようになっていた。あげく宗教的な信仰・信心とは、つまり身勝手に抱き心地の良い都合の良い「抱き柱」を抱いて、当座の浅い安心を得ながら、あえて無明長夜の永い夢見から覚めるのをただ怖れて逃避しているだけのこと、と、思い切るようになってきた。
2003 5・26 20
* その人の「母港」ともまた航海の良き「底荷」とも読める、追憶と述懐の長文を読み終えた。ながいものであったが、すらすら、ずんずん、引き込まれて読んで、こころよく終えた。まさに「自分史のスケッチ」であり、細部の具体をしっとりと描写して場面を豊かに再現していたら、文藝感は増したであろうが、そういうことをして立ち止まるより、ともあれ一気に吐きだしておきたい動機が強かったのだろう。この先で、いろいろに筆を加えてより豊かにしたいと思うだろうが、それはまたべつのモチヴェーションということになる。
出来不出来とかかわりなく、こういうスケッチは、記録ないし記憶の保存は、いったん筆をおいてみると、不思議な安堵に満たされるものだ、ああよかった、「間に合って」よかったと。
藤江もと子さんの「新宮川町五条」もそのような良いモノだった。すこし別物だが妻の、秦迪子の「姑」もそういうものであった。この人のこの「根」と題されたものも、本当は人目に触れてその良さと思いとをつたえ、そしてもう一度も二度も自分で読み直すべきもののように、わたしは受けとめている。
こういうふうに、書ける過去と書きたい思いを持った人は少なくない。これは、自分で自分につきつける「挨拶」なのだ。問いかけなのだ。それなら、この人達の場合、それへの自答がまだ先に残されてある。人生の弁証法のまず一揺れを起こしたようなものだ、人としての誇り高く。
* 関西は暑い日だとか。ま、そろりと参ろう。
2003 5・28 20
* 「私民」である。 2003.5.31 秦 恒平
今日、私は、この「私語の刻」に於いて初めて、「市民」という言葉に代わる「私民」を用い始める。「公民」という言葉のあるのは少年の昔から識っているが、「公・私」が上下関係に同義語化している日本の現実で、「公の(支配する)民」かのような「公民」は遠慮したい、いや拒絶したい。
かといって、「市民」をながく使ってきたが、都市感覚にどうしても流されて、例えば疎開していた丹波の山村の知人たちにあなたたちも「市民」だとは云いにくくて困っていた。
こういう「市民」への困惑を示してきた人はいくらもいた。佐高信氏にもらった『面面授受』は氏の熱愛し思慕した久野収へのモゥンニングワークの一つであるが、この本の中でも、「市民」の語に困惑している場面が出ていた。
そこを読んでいて、「私民」ではどうかと閃いた。民俗学者は「常民」と云っていたが、常に対する非常を想起するとき、民俗学的基盤はよくつかめるが、いまいち熟さないと思い、我々仲間のことを「常民」呼ばわりはしてこなかった。「庶民」もいけない。「国民」も少し場合が違う。
わたしは『私の私』という著述の作者であり、「公」と「私」とを問いつめてきた。現にわたしは「私語」の二字をもってこの日録に冠している。小泉純一郎は只今は「公」そのもので「私民」ではないが、わたしのおつき合いする大勢は、まさに「私民」諸氏ではあるまいか。それは北海道にいる読者も、沖縄の離島にいた読者にも、大勢の各県の読者友人知人についても等条件で謂える。「私民」として生きている。その気持で、これから「市民」ではない似た意味もこめて、わたしは改めて「私民」秦恒平になろうと思う。この言葉が拡がって、「私の私」より自覚する人々の増えてゆくこと、そこに、日本の向かう方角を見定めたい。「私民の思想」こそ堅固かつ柔軟ででありたい。
* ペンの電子メディア委員会(今後、電メ研と書く。語彙登録してあり簡単なので。)委員として、いま、気になり気になり何とかしたい急務だと感じているのは、住基ネットのことである。今朝も同僚委員の加藤弘一さんから適切な示唆に富む情報が委員会MLに届いていた。また呼応するように、東京の小闇も、この問題に触れていた。触れ方は鋭い、そのためにわたしらのような素人には今少し言葉を添えて欲しいほどだが、闇を超えてさらに遠くへ広く転送していいものと思う。
小闇たちのおかげで、わたしのこのサイトが、ある種の単調を免れていることを嬉しく感謝している。わたしは教授室の頃から、学生たちのわたしのとても手も出ない耳も及ばない「研究余話」を聴くのが、楽しみで好きであった。今でも、なお、それを期待しているのである。
* 電波暗室 2003.5.30 小闇@TOKYO
電波暗室。実験などのため、外界からの一切の電磁波の進入を防いだ部屋。またの名をシールドルーム。
昔、物理の教官が校舎の一部を電波暗室にしようとしたことがあった。出来合いのものを買うと、高い。教官は出入りの業者にいちから造ってもらうことにした。
工事が始まって暫くは忙しさにかまけて工事を業者任せにしていた。ある日現場を見に行って唖然としたという。電波暗室になるわけがない、と。
可視光は遮蔽するけれどそれより波長の長い電磁波に関しては何の威力もない建材を指摘しても、業者の理解はまるで得られない。業者はこう言ったという。「大丈夫です、壁はものすごく厚くします」。そういうことじゃなくて、と、膝から力が抜けたそうだ。
住民基本台帳ネットワークは総務省と役所の間の閉じたネットワークである。そのネットワークの端末は、限られた人しか触れなくてしかるべきで、インターネットにつながっていてはならない。端末が文字通りコンソールとしての機能しか持たないなら問題ない。しかし現世のOSには必ずバグがある。不特定多数のアクセスできるインターネットから、その端末を踏み台にして、住基ネットにつながってしまう可能性はゼロではない。
役所の方々、その納入にかかわった業者の方々のどれだけがそれを認識しているか。見えないものを見えないものから守ることの難しさをどれだけ理解しているか。
このまま日本にSARSが上陸しないままだとしたら、それは潔癖気味の国民性でも運でもなく、その意識が水際にあったということだ。
電波暗室になるはずだった部屋は、校舎のどこよりもラジオが鮮明に聞こえる部屋になったという。素通りしたのが公共の電波なくて私のパーソナルな情報だったら。もはや笑い話ではない。
* 加藤さんの情報は「現場」に即して具体的である。今こそこういう情報がひろく「私民」世界に浸透しなければならないと思うので、転写させて頂く。
* 加藤@ほら貝です。住基ネット関係の最近の動向をまとめた文章です。
◇ May28
長野県本人確認情報保護審議会は、県下の27自治体で、住基ネットとインターネットが物理的に接続しており、早急に分離することは困難として、住基ネットからの離脱を勧告する中間報告を発表した。
この問題はかねてから指摘されいたことだが、実地調査によって確認された意味は大きい。総務省の住基ネットシステム調査委員会の12日の報告でも、全国の自治体の一割は「セキュリティに不安」をもっていることが明らかになっている。
しかし、本当に危ないのは不安を自覚していない自治体である。
中でもOS管理については不十分な自治体が目立った。ログオン失敗履歴を記録しているかは56.6%、パスワードの有効期限を設定しているかは51. 4%が不十分と答えた。また、数が少ないとはいえ、システム管理者を任命しているで4.3%、アクセス管理規定を作成しているで15.0%が「不十分」と答え、セキュリティー意識の低い市町村のあることが浮き彫りとなった。
多少とも知識のある人は、上の一節を読んで嘆息するだろう。長野県だけの問題ではないのである。総務省側は「いたずらに不安をあおることは極めて遺憾だ。住基ネットは極めて安全なシステムであり、これまでも何も問題は生じていない」と言い訳しているが、12日の報告を忘れたのだろうか。
日弁連住基ネット自治体アンケート結果を見ると(特に「トラブルの内容」と「自由な意見」の項)、いかに危なっかしいか、よくわかる。
8月に公布がはじまる住基カードにしても、22日の報道によると、売物の多機能を盛りこむのは群馬県では二つの市だけで、それ以外の自治体は住民票番号しかいれないそうである。他の都道府県でも似たようなものだろう。
◇ May29
住基ネット接続を見あわせている杉並区では、区長の諮問機関、「住民基本台帳ネットワークシステム調査会議」が、住基ネット参加を住民自身が判断する選択制の導入も視野にいれるように答申している。
今月12~23日に杉並区が実施した区民アンケートによると、参加した方がよいが9%、参加しない方がよいが67%、選択制にした方がよいが14%だった。杉並区は住基ネットで本人確認をおこなうパスポートや年金の申請では、住民票を無料で発行するなど、区民の不利益にならないような対策をとっているが、9%にせよ、参加を希望する住民がいる以上、選択制は一応考慮に値するだろう。
「選択制」は、横浜市が粘り強い交渉の末に総務省に認めさせた方式であるが、自治体は依然として住基ネット維持費を負担しつづけなければならず、住基ネット利権が生き残る点は忘れないようにしよう。
総務省側は不完全ながら、アクセスログの開示を準備しているそうである。
地方自治情報センターは、新たなアクセスログが生成されるごとに、住民の居住地の都道府県に、そのログを住基ネットで送信する。同センターは、ログを送信後、そのログを直ちに消去する。都道府県は、送信されたログを
一定期間保存し、各々の個人情報保護条例に従って開示する。
住基情報は市町村サーバー、都道府県サーバー、全国サーバー(なぜか一財団法人にすぎない地方自治情報センターが管理)の三つに重複して保存されているが、上でいうアクセスログは全国サーバーのアクセスログであろう。
驚いたことに、セキュリティ上の理由から、開示されるのが「総務省」「○○県」など、検索した省庁名と「恩給事務」のような利用目的に限られるという。不正利用の疑いがある場合は、都道府県は操作した人間のIDをふくむ、より詳細なアクセスログの開示をもとめることができるというが、どの部署かわからければ、疑わしいアクセスだという根拠にはなりにくいのではないか。根拠薄弱という理由で、詳細なログの開示が拒否される事例が起きそうである。部署を開示したからといって、セキュリティが危うくなるとは思えないのだが。
そもそも住民票を管理する責任は市町村にある。管理責任をもつ市町村が、住民票にどんなアクセスがあったかを知ることができず、都道府県に問い合せなければならなかったり、詳細なログを見せてもらうために、都道府県を通じて、地方自治情報センターにお伺いをたてなければならないというのはどういうことか。全国サーバーなどという、本来あってはならないものを作るから、こういうことになるのである。
また、住基ネットには過剰な検索機能が組みこまれていて、ワイルドカード検索と同じことができるのだが(「不明」という選択肢まである)、住民票の中をのぞかなくても、検索画面に出てきただけで、同居家族がいるかなど、かなりのことがわかる。検索に引っかかっただけの場合も開示すべきだと思うが、そのあたりはどうなっているのだろうか。
* これだけの情報でも、適切に読み取ることは、なみの「私民」には難しいけれど、重要な指摘に満ちている。「他人ごと」だと「他人任せ」にしていると、いつか、自分の首がにっちもさっちも行かないまで締め上げられているだろう。間違いなく。今、何に向かい何を見据えて行為すべきかを、示唆し教導して欲しい、識者に。
2003 5・31 20
* 文章の魅力は、やはり文藝にあらわれる。
事務的な伝達本位の文章、目的あって書かれる雑誌などの記事、私的に書きトバされている日記文、メールその他の私的な手紙文、そして論証本位の論文や論説。こういう文章から得られる文章としての宜しさは、たいてい書き手一人の自己満足であり、それはそれで用がたいてい足りている。だが、こういう文章がたとえ自己評価で「うまく」書け、本人としてはいかに快適であろうとも、「わたしは上手」などと仮に謂えるとしても、そんなままでは、決して「文藝の文章」には転じて行けないのである。
普通の手紙や日録様のもののとびきり上手な人でも、いざ小説めく文章を書き出すとなると、たいていは、おはなしにならない「ギクシャクもの」を書きだしてしまう。凄い壁に塞がれてしまう。不思議なほど、これが事実である。よほど考えてみなければならぬ不思議な秘儀が此処に働いていて、気付くのは至難なのである。
わたし自身を棚に上げて云うけれども、小説や文藝作品が書きたいのなら、雑文書きに馴染んでしまわぬことだ、そこで身に付いた独善の「上手・下手」観が、垢のようにボロのように「文章」にまといついてしまい、気が付いたときは剥ぎ落とせなくなっている。
新聞記者や雑誌記者から文藝作品の作家になった人は少なくない、が、現場で長くやっていた人ほど、仔細にみれば、かなり筆の荒れた痩せた、雑な「文の藝」を抜け出せていない。よくまあ、こんな雑駁でありきたりな表現や叙事で商売になることよと呆れるけれど、よくしたもので、商売になるならぬは、それだけでは決まらない。そういう人はもっと別の、世渡りの如才なさに長けているとも言える。しかし、作品の品質は、最終的には、思想の内容や書かれてある事柄を超えて、文章表現の本質的な魅力・魅惑=ファシネーションにおちつく。文学文藝は言語の藝術なのである。
* 世の中には、漱石・鴎外や、秋声・鏡花や、直哉や潤一郎や、太宰や梶井や、川端や小林秀雄を、読み煩って近づきも得せずに、通俗読物の通俗な手垢まみれの文章の方が、口当たり良くて快適に感じている人が、数にすれば断然多いと謂える。富士の裾野である。テレビドラマでいえば、例えば「阿部一族」「風たちぬ」なんかは厄介に感じたり退屈したりするけれど、「水戸黄門」や「大岡越前」なら喜んで観るようなものだ。そして、後者のようなものでいいなら、ちょっとした達者なら書けるのである、文章に対する敬虔なほどの謙虚さと修養を積まなくても。置き忘れ果てていても。
それもけっこう。だが、所詮は時間つぶし、昔からいう消閑の具にすぎない。消閑の具にもそれなりの価値や意義は有る。そんなことは分かっている。わたしも御厄介になっている。だが、それだけのものだ。
句読点の一つや二つに、語尾のおさめの少々の不備や不適切に、なんでそんなに慎重でなくてならぬものか、と、思ったときから、もう文藝・文学の文章や文体からは、歩一歩遠のいて行き、いつしかに、幾ら望んでももう其処へは近寄れも戻れもしなくなる。文章表現とはそういう怖いコトである。舐めてはいけないし、ちいさな上手下手に驕ってもいけない。
* 或る歴史上の人物で、わたしなど昔からたいへん興味を覚えながら調べきれなかった一人を、精力的に追いかけていった一冊を著書からもらった。資料などかなりことこまかに引いてあり、載せてもあり、或る意味では便利に二次利用など利きそうな探索が出来ている。だが、それにも拘わらず、文章はただただ書き殴ってあり、評論としても小説としても論考としても史談としても、もう雑然・雑駁を極めていて、当然、読み煩うし読みにくい。なんでこんなふうにガサツに焦って書いてしまうのだろう。達意の文章で筆早なのを得意がっているわけでもなかろうに、達意でも何でもなく、要するに書き殴りなのである。これでよいと、その著者は自己満足している。ひょっとしたら「うまいもんだ」と胸を張っているかも知れないが、とんでもない。「その人の勝手デショ」とも、それは謂える。それは否定できない。ただ、文学にも文藝にもならぬまま、雑駁な故に人の胸には届かない。あたら良い材料がまた埃に埋もれてしまう。
* エッセイや随筆を頼まれても、わたしは、そのエッセイの文章がそのまま自分の小説世界に落ち着けるかどうかと、考えてきた。代表作の一つにいつもあげられる『みごもりの湖』の書き出しは、ある新聞に頼まれて書いた随筆そのままを用い、それが一つの「基調」を成した。そういう例はほかにもある。文学の文章と、その他の文章とに、違いのあることの信じられないまま、ついに佳い小説は書けなかった志望者たちは、死屍累々と多いのである。明察が必要だ。
2003 6・1 21
* 分かるなあと思う。
ところで、この一文中、少なくも「換言すれば」という一語だけは、出来ればべつの物言いにして欲しかった。
大学で、講義を筆記させる美学の二人の先生が、とくに助教授先生が、ひっきりなしに「換言すれば」をやる人だった。それを思い出した。「換言センセイ」と内心呼んでいた。なんで「言い換えれば」とか「いわば」とか、ほかにももっと適切な耳に馴染む物言いが出来ないのか、そこからこの文章が錆をふくんで仕舞わないかと、講義を清書しながらいつも思っていた。ほかにも、こういう例がいつも幾つもあった。漢語の効果的な使い方は難しい。
井上靖は「夕方や夕暮れといういいかたが好きだ、薄暮や黄昏ではなく」とものにも書きつける作家であったが、此処ぞというときは、薄暮や黄昏を躊躇なく上手につかう人でもあった。
ベースに、日本語の、和語ふうの表現を置きながら、突出の効果にうまく漢語がつかえればいい。無意識に慣れてしまった漢語の多用も、気張って意識しての多用も 、文章の息の根を縮めてしまう例がおおい。なだらかに息をするように文章は書きたい、基本的には。
2003 6・3 21
* 六時前に起きた。夜前は、承久の乱。京方が鎌倉の怒濤の寄り身に完敗するまでを、その歴史的な意義や評価を、つぶさに読み終えてから寝た。
そもそも、わたしが本気で小説を書こうとし始めたときの題材は、承久の変後の平家物語が世に懐胎され育って行こうかという波瀾の物語だった。それを「昭和の青年」自身の物語として書き出すことであった。保元の乱から承久の乱までが、いわばわが創作のホームグラウンドであった気がする。数多くは書かなかったが、小説では「清経入水」「風の奏で」「初恋」「絵巻」「月の定家」など、その結果・結実であった。
さて此処から先になると、南北朝頃まではややわたしは暗いし疎々しかった一時期に入る。なぜかなら、この時期では農村の構造、つまり荘園経済の現地・現場に密着しないとモノが正しく掴めないと感じているからだ。そこはわたしは手薄だった。だからこそ、今回、そこへ深く読み進んで行くのが、楽しみ。
2003 6・4 21
* 今日もいろんなことをした。あんまりいろいろで、忘れてしまいそうなほど。忘れてしまっても、ちっとも構わないのである。覚えていなければいけないような、何ほどのことが有ろうか。
道元は、日本の仏教に愛想を尽かし、禅の本道を学ぼうと宋に赴いた。そして、天童山に入ったある日も、一心に古人の「語録=本」を読んでいた。ある坊さんが何のタメにそんなものを読むかと尋ね、道元は、古人が修行のあとを知って学びたいからだと答えた。坊さんは「何のタメに」とまた聞いた。郷里に帰って衆生を教化したいからだと道元は答え、さらに「何のタメに」と聞かれて、道元は衆生のために役に立ちたいと答えた。「僧のいわく、畢竟してなにの用ぞ」と。道元はついに窮して答え得なかった。
禅を「言葉」に学ぼうとしていたからだ。それは「行」ではなかった。彼はついには「只管打坐」へと極まって行った。
親鸞にも似た話がある。彼は念仏の多念一念論議でも、徹して「一念」がよしとした人だ。南無阿弥陀仏のただ一念で足ると人に教えてきた。ところが、ある時に、衆生救済の奮発として浄土三部経を千度読もうと発起した。すぐ、恥じてやめた。南無阿弥陀仏の一念でよいと信じていながら、なぜに経典の読誦にこだわったろうと。親鸞は生涯にこういう「惑い」に二度襲われたと反省している。
* バグワンは、経典や聖典に頼ってそれを「読む」行為に甘えてしまうのを、著しいエゴの行為として、いつも戒める。わたしは、つくづくそれを嬉しく有り難く聴く。何かの功徳を得ようと読む聖典などは、ただの抱き柱に過ぎない。それあるうちに打開はあり得ないと思うからだ。バグワンは聖典や経典は、真に打開し「得た」人にとってのみ意味のあるもので、そうでない者にとって真実の導きには決してならぬどころか、そこでエゴがあらわれて躓きを繰り返すに過ぎないという。全くその通りだとわたしは思う。
それでいて、バグワンを繰り返し「読み」つづけ、大部の源氏物語を毎日「音読」しつづけ、夥しい量になる「日本の歴史」を欠かさず「読み」続けたりしているのは、迷妄・執着のかぎりのように思う人もあるか知れないが、全くちがうのである。わたしは源氏を読んで心から楽しんでいるだけで「畢竟してなにの用」とも関係がない。それは「日本の歴史」についても同じであり、ましてバグワンはただもう読む嬉しさで読んでいるのであり、一時の道元のように、バグワンの教えを「学ぼう」「識ろう」としてでは無い。学んでみても始まらないことをわたしは知っているし、覚悟している。わたしは、ただ待っているだけである。待っていて間に合うとも間に合わないとも、わたしには何も分からないが、それは仕方ないこと。バグワンの声が耳に届くのが嬉しくて楽しいから読みやめないのであり、他の本もおなじこと。何も求めていないから楽しいし、何もいまさら覚える気もない。自然にゆったりと、無心にしたいことをして楽しめればよく、まだまだそんなところへわたしは達していないけれど、達しようとして達しられることでもなく、恥じてみても始まらない。
2003 6・6 21
* 生きて日々を暮らすことに困憊している人が、パニックに陥ろうとしているほどの人が、一人や二人でなく、いる。真っ黒いピンを五体にハリネズミのように刺して呻いて奔走している。それが生きることだといえば、それまでだが、余分なものを背負いすぎているともハタからは言いにくい。そんなことをいえば、わたしなど、人が嗤うだろう。わたしは、いまのところ、何でもない。誰がわたしをどう遇しようと冷笑しようとそれが何だろうと思っているから、その実感もない。
京都から、先日の理事会や授賞式場で撮影された写真が数葉届いたが、めったになくよく撮れているのにびっくりした。妻に、やっとこういう顔で写真に写るようになったのねと言われ、それはないぜと言いたいが、そんなところなのである。
映画「マトリックス」の言い分ではないが、存在している物なんか何もない、要するに「夢」の世に生きていて、「覚められ」ればいいなと「待って」いる。あの映画の中で、人類を縛り奪い滅ぼしている「マトリックス」とは、きわめて複合的な概念のようだが、どうどんな言葉に翻訳できるかと考えてみて、例えば「欲望」と「迷妄」と「支配」などと謂うことも可能ではなかろうか。人間として「自由」になるには、マトリックスに打ち勝ち、自分の実存に目覚める以外の道はないのだろうと思う。救われたいというような気持では、ものにしがみついてしまい、所詮は迷妄のなかでのたうつことになる。もっともバーチャルな世界とは「現世」なんだと実感で思い当たれば、黒いピンは失せる、かもしれない。わたしは、まだ、どうとも成っていない半端な男だが、落としていいものは落として行きたいのである。すると、落とさずに持っていたいものごととは何かという所へ突き当たる。だが、そんなモノゴトは滅多に見あたらない。
それならそれでよい、夢も迷妄も楽しんでおいてやり過ごせれば佳いではないかと思う。
2003 6・7 21
* 同じキアヌ・リーブスの別の映画を観ていたが、これは何のラチもないつまらないものだった。だが「マトリックス」は奇妙に気になり、立て続けに三度目を観ながら、考えている。
この映画の作者は、あるいは原作者は、たしかに東洋的な、ないしはバグワンなどの理解に親しんだ人ではなかろうか。人間が真の自分に「目覚めた」時、現世が迷妄仮象の世界、虚仮であったと気付いている。脱却している。現実だと思いこんている全てが脳による電気現象であるといっている。何も無いのだ、空だと思ってしまえば、何かが、例えば飛躍できると謂っている。体から出た血をみて、それも心が知っているだけで、心は虚妄だと謂っている。わたしが今・此処でパソコンのキーを打っているのを私の心は知っているが、それが「夢でない」という保証は私には出来ないし、「夢」に違いないとの確信がずうっと育ちつつある。眼を閉じて静かに暗闇に入れば、たちまちに現実中の現実として自覚していた自分の五体が、まっさきに何一つない透明な闇に溶け失せて無いことに気付く。気付きの意識と、意識を支えている静かな呼吸としか、存在しない。生きているから呼吸しているけれど、呼吸が止まれば死んでいる。死んでも意識は有るかどうかは知らないが、死んで行くことこそ「夢でない生命」へ「帰る」ことかも知れない。
今日も画面を観ながら、映画の謂う「マトリックス」を別のフレーズやワーズに言い換えるとしたら何だろう、何であっても無くてもいいが、映画では「支配」という言葉をしきりに使っていた。
* いよいよ、このホームページのなかで、わたしは本気でバグワンとの対話を始めた方がいいのだろうか。そうは、まだ思わない。「闇に言い置く」だけでいいだろう。
2003 6・8 21
* じつは深夜のキッチンでバグワンと源氏を読んで、次ぎにベッドで日本史を読む前に、映画「マトリックス」の後半を見終えて、見ながら、沢山なことを考えていた。床に入って電気を消してしまってからも考え続け、朝目覚める前にも夢うつつに考えていた。
この感覚、この思考、この行為。この感覚に触れてくる、物、物。みな「本当の自分」から逸れている。実の自身とはべつの仮象・虚仮として感じられる。
「五薀皆空」と心経は最初に教えているし、子供の頃に仏壇を開いてそこでもうその文句は覚えていたが、「空」の実感は、ながくながく持てなかった。知解はできても、何の役にも立たない、もっと深いところに根を置いた自覚でなければ。
それが、そうでなくなりかけている、気付き始めているという意識がある。枠のような限界をもたず、何一つ写していないひたすら澄んだ「鏡」のような意識=自分。今生きてあると思う一切のモノ、コト、ヒトは、その鏡がたまたま写している、来ては通り過ぎて行く仮象の影、影、影。
映画「マトリックス」のネオたちは、その鏡の中から、影の、夢の、仮象で虚妄の世界へ「入る」という言い方で出入りしている。そうして人類をマトリックスの地獄から救済しようと闘うらしい。かれらは、自覚してそこから「出た」そういうマトリックスを「落として」きた人達として描かれている。
映画の中では、言うまでもなく「ネオ=新しい」キリストが描かれ、彼を愛するマリアが描かれ、人類の救済に不退転の意志で闘おうとするモーゼのような存在がおり、予言する大天使やエンゼルたちも出てくる。それを読み取って行くと、あだかも基督教的でありながら、基督教の世界観とは質の違う東洋的な、わたしにいわせればバグワン・シュリ・ラジニーシや、その遙かな先達であるティロパのような把握に似せて「汝自身を知れ」と示唆している。この映画では救世主は語られているが、「神」の影は無いとすら謂える。人間が覚者=ブッダとなれると教え、そこに大乗の場を暗示している。それが高度のハイテク環境で説話化されている。
そういう思いで観ているから、映画の筋書きや映像や戦闘は捨象されて、じいっと映画の表現との間で「挨拶」を交わしている。立て続けに三度観たが、おそらくバグワンに聴いているかぎり、幾十度でも観るだろう。第二作を観たいとも思ったが、とくにそんな必要はない。わたしには、この映画のもたらす刺激がつまり「有効」なのだ。だから、いまも、映画を論じているのではない、ただ私の内なる「闇」をさぐって見詰めているだけのこと。
2003 6・9 21
* もう店じまいして階下にと思っていたところへ、嬉しいものが飛び込んできた。此処に謂う「幸福」とは、「ペン電子文藝館」に掲載したホヤホヤの湯気の立っているような中島敦作『幸福』のことである。そして「幸福」とは、何とはなしに東工大のわが卒業生と元教授秦サンとの間に置かれた、気付け薬のような二字にもなっている。「生きているだから逃げては卑怯とぞ幸福を追わぬも卑怯のひとつ 大島史洋」という短歌からこれは発している。
バルセロナの小闇にいまわたしは一喝を喰ったほどの気分で、シャンとした。中島敦のこの「幸福」という面白い小説は、「ペン電子文藝館」 http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/ の「招待席」または「小説」欄で、すぐ「無料」で読める。まして嬉しいことに、わたしが「今・此処」にいて日々心血を注いでいる「ペン電子文藝館」に遙かな小闇は、すかさず眼を向けてくれていた。
* 自身・自信 2003.06.12 小闇@バルセロナ
中島敦の『幸福』が面白かった。私には図らずも「今の今」をゆくテーマで、ここ数週間頭の中を反復していた思考が、筋と輪郭を与えられ、少し極端な形で目の前に放り投げられた感じだった。ほら、こういうことだよ、と。
まったく、作中の「下僕」には先を越されてしまった観。
人と人との位置関係とはこういうもの。私が一昔前には理解できなかった人間関係の構図を、中島敦は分かりやすく説明している。
この「下僕」のように、どんな言いつけにも従順にひたすら働けば、評価されるか。病気になれば、それまでよく働いたと言って、負担を軽くしてもらえるか。
「彼の主人は哀れな下男が哀れな病気になつたことを大変ふさはしいと考へた。それで、此の下男の仕事は益々ふえた。」
世の中には、こういう理屈も存在する。
例えば、善意でもってへりくだれば遜るほど、知らぬ間に他人からは「その様」にしか扱われなくなっている。おどおどすれば「その様に」、罪悪感を持てば「その様に」、自分をダメなやつと思えば「その様に」扱われる。そんなことって、ないだろうか。
上下左右関係を越えて、自分を相手に尊重させる。これが案外大切で、難しいことに、気づいていた。「おりこうさん」によく仕事をこなせば、善意で親切に人に接すれば、自動的に得られる類のものではないことも。
人の評価ばかり気にしているうちは、ダメ。人の目を恐れているから。
人がどう思うかなどは少しほっておいて、まずは、自分がどう考えるか。自身の地盤が固まってゆけば、逆に、ちょっとやそっとの批判や賞賛にも、足元が躍らされることはない。自信とは、そうやって自ずと表れてくるものだろう。
人の評価ばかり気にして生きてきた私も、どうにかそのことに気付くようになった。「周りのことを考えて」を、「周りが自分をどう思っているか」気にして、と履き違え、反省を自己批判と勘違いして育ってきた私には、自分がよいことをしていたと思っていた分、修正も難しい。
でも考えてみれば、今の私に、他人を恐れる理由があるだろうか。よくよく考えれば、そんなものなどほとんどないことに気付く。そして気付いた分だけ、今私は自由だ。
痩せ衰へた・空咳をする・おどおどと畏(おそ)れ惑ふ・哀れな小心者ではなくなっていた中島が描く「下僕」、自信に満ちた鷹揚な敦の描く「下僕」、を前にした作中の「主人」はどうであったか。誰よりも「恐れ」を抱いていたのは、実は、失うものの多い「主人」ではなかったか。
夢の世界と昼間の世界と、何(いづ)れがより現実か、とは。現実とは、そんな夢のようなものなのかも知れぬ。しかし男の夢も、また待っているだけでは訪れない。それを紡ぐのは、自身。
* 「でも考えてみれば、今の私に、他人を恐れる理由があるだろうか。よくよく考えれば、そんなものなどほとんどないことに気付く。そして気付いた分だけ、今私は自由だ。」と。言い切ったものだ。わたしも、平生これに近い気持ではいるけれど。。
ふと思い出すのは、捨聖の一遍智眞。元寇の頃に諸国を念仏一途に遊行し、稀有の達成を得ていたこの宗教者は、同時期の日蓮が声を限りに法華経こそ唯一の神典、これに拠らねば国難は眼前にと、だれでもない北条時宗や幕府の権勢、また朝廷貴族に対し説きまくっていたのとは真反対に、元寇にも権勢にも権威にも全く見向きもしなかった。一遍には「南無阿弥陀仏」だけの徹底した信と行があり、私民・民衆との踊躍念仏に没頭、いかなる奇跡や自力の迷妄も、すげなく明晰に否認していた。彼一遍が一心に念仏すると、よく紫雲がたなびいたり花が降ったりしたといわれるが、「花のことは花に聞け、われは知らず」と一瞥も一顧もしなかったという。
一遍は、そういう点では中島敦の描く「下僕」の基底部分で生きていたのではなかろうか。真に自由な存在であった。彼は阿弥陀如来に呼びかけていながら、特に極楽も地獄も謂わない人だった。空也が市聖といわれ、一遍は捨聖、なにもかもを清潔に捨ててしまっていた。バグワンふうにいえば何かに偉大に「降参」し、エゴをすべて落としきっていた。禅の「心身脱落」に同じ境地で「南無阿弥陀仏」を、わたしふうに謂えば「楽しみ」切っていた人だ。
空也、法然、親鸞、一遍。この念仏の歴史は真に貴い。彼等はどこかで真の禅に通い合っていた。ことに一遍智真は徹していた。わが及び難き理想の人である。この人だけが、おそらく、「南無阿弥陀仏」をも抱き柱としてでなく、楽しみとして身に帯びていた。南無阿弥陀仏「で」成仏すると一遍は言わない。南無阿弥陀仏「が」成仏するぞと透徹し、しかも「私民」的な禅に達していた。そう思う。
2003 6・12 21
* 太宰治賞は今年で十九回目の授賞式だそうだ、しかし十九年の歴史ではない。わたしの受賞したのは、第五回の一九六九年、三十四年も昔のこと。筑摩書房が一度倒産し、太宰賞も長く中断して、五年前からやっと復活したのである。一九七八年の福本武久君が第十四回を受賞後、じつに二十一年間も途絶えていた。わたしなども役所への陳情に出向いたり、未払い印税を負けたりして、会社はやっと立ち直った。転居もした。
賞は復活して五年、過去の四年間はわたしもついぞ授賞式に出たことがなかった。この間、筑摩とは久しく表向き途絶えていた。数人ないし二、三人の好意的な編集者とだけほそぼそと繋がれていた。その人たちも大方退社した。
そんなわけで東京會舘へ出向いたものの、まるで浦島太郎。選者の四人はともあれ、他に作家らしき存在には、ただ一人福本君と出会っただけ。編集者も、今も「湖の本」で繋がってくれている女性編集者が二人だけ、社長もなにもお互いにみな知らない。
大勢がけっこう集っているのに、文学賞の祝宴とはとても思われないほど、文士が、物書きが、知った顔が、まるっきり参会していない。他社のパーティーでは見られない珍なことだ。
選者は、私の頃が、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫。あの当時、日本を代表するとびきりの小説家であり、批評家であり、すばらしい文学者で知性であった。あの当時の文学賞で、あれほど質の高い選者で固められた例は珍しかった、わたしなど、芥川賞の選者よりハイクラスだと信じていた。もう今は、お一人も此の世におられない。うたた、感無量。
今の選者は、第二回受賞者の吉村昭氏を筆頭に文藝家協会お仲間の高井有一氏、そして東大独文の柴田翔氏、若い批評家の加藤典洋氏。これは地味なだけでなく、昔の選者に比べては気の毒なほど見劣りがするのはやむをえない。現に賞が復活して四年経ち、過去の受賞者四人か五人から、確実に着地しないし飛翔したその後の優秀作や問題作が出たという噂も聞かない。野球やサッカーの例でいえば、勝ち星の出せない監督のようなものだ。
五年間、作品を見ていても感心しなかった。歯触りも味も見かけもわるいバサバサの固いパンを囓るような感じだった。今年のも、今日会場をはやばや抜け出て、クラブでひとり、二候補作と受賞作とを読んでみたが、いずれも読ませない文章、働きのない筆致と印象で、文学を「読む嬉しさ」などちっとも感じさせてくれぬ、がさつに魅力のないものばかりだった。それでも、わたしは、今年の分はせめてもう一度読んで、悪印象を訂正したいという親切心を放棄はしていない。わたしの頭も疲れていることだし。
それにしても文学賞の会場に、仕事を通して知られたそこそこの作家たちの姿がまるきり無いとは、主宰している三鷹市と筑摩書房のセンスと心配りがかなり問題にされて良いだろう。あれでは受賞者は先輩たちに祝福を受けられずに可哀想だと思った。励みにもならないではないか。
わたしの時は、佐多稲子、圓地文子、瀬戸内春美、杉本苑子といった女流も顔がたくさん揃ったし、吉田健一、中村真一郎、田辺茂一、金原一郎、長谷川泉、吉村昭、加賀乙彦、一色次郎、金井恵美子その他、数え切れないほど文壇人と出版人で溢れ、受賞者の私的な知り人などは隅の方で縮まっていた。二次会も物書きばかりで夜中まで盛会だった。
もう、すっかり、そういう雰囲気は無くなっているのか。三鷹市が副賞を百万円出しているらしく、女市長が「文学」的な良い挨拶をしていた。ところが文藝出版のかつてはあれで隅に置けない「雄」であった筑摩の社長が、終始、売れる本が欲しい、売りたい売りたい売りたいだけのおしゃべりでは、ああ、これがいったいあの筑摩書房なんだろうか。唐木先生、臼井先生、中村先生、あの頃の会長古田、竹之内社長、そして原田奈翁雄氏らがこの場にいたら、どんなにこの有様は寂しいことだろうと想われ、そぞろ意気悄沈した。
筑摩だけが変わったのではない、世の中が変わったのだ、それは当たり前のこと。ただ、変わるにも変わって行く向きというものはあり、丈高くも変われるし、気の低い一方にくずおれるように変わることもある。少なくもあまり未来に希望の持てる変わり様はしていないなということだ、筑摩書房は。出版界は。
良い本を心がけずに、売れる本を一に願うから、ますます売れると思う本まで売れないでいるのが、今の出版だ。焼け石に水のようなベストセラーが、揃いも揃ってトンデモ本かキワものだというのでは、何が文化であろう。辛抱がない、そして志も気も低いのだと思う。
加賀乙彦氏(候補作)、金井美恵子氏(候補作)、三浦浩樹氏、海堂昌之氏、三上真彦氏、宮尾登美子氏、朝海さち子氏、不二今日子氏、村山富士子氏、宮本輝氏、山口泉氏(優秀作)ら過去に何らかの形で筑摩が顕彰もし、貢献もしてもらったであろう受賞作家たちが全部会場に来ていないというような賞の運営は、やはり常日頃のある種の手抜きの結果なのであるまいか。わが「母なる港」と勝手に思い込み頼りにしてきたけれども、それにしても温かみが失せきっているなと口惜しく思っていたが、それを、本当に本当に久しぶりに顔を出してみて、やはり本当なんだと実感した。
わずかに歓談できた編集部の中川美智子さんも、来年にはもう退職と。わたしの長編原稿をぜひ読みたいと。有り難い。それだけで有り難い。その上は、だが、望めないと思う。中川さんの重荷になってしまうだろう。そしてもう筑摩とはそこまでのおつき合いになるかなあと、受賞して三十四年を、寂しく想った。そうそう、もう一人活躍中の藤本由香里さんが編集部にいてくれるので、糸一筋は残りそうだ。
もっとも若い顔ぶれの会場の人達のなかには、新人の物書きたちも編集者たちもいたではあろう。が、そういうそれらしい匂いも実は全くしてこなかった。京都での美術文化賞授賞式にでも、過去の受賞者や関係の美術家たちは幾らも参加している。
ま、わたしだって復活太宰賞には過去四年間甚だ冷淡だったのだから、えらそうに言うてはならない。
* で、ワインを二杯だけで、何も食べる気もなく日比谷へ一人で移動して、自前のうまい酒をのみ、食事をし直した。おなかも空いていたので軽く中華料理をとり、ウイスキーのほかにビールも一杯。疲労感もおおいがたく、地下鉄に乗る前に京都でいうところの善哉を一碗食べた。あまいものが、とびきり旨かった。
2003 6・17 21
*「湖の本」の久しい読者でもある東洋学園大教授の北田敬子さんから、同僚教授神田由美子さんの著書を贈られた。英京倫敦膝栗毛『二十一世紀ロンドン幻視行』とある。神田さんは漱石学者である。と書くと作品「倫敦塔」などと結びつけてあらましを推察してしまう人もあろうが、この本のユニークなのは、全部が、彼の地から北田さんらへ送られつづけた「メール」で編まれてあること。横組みの、メールそのままに仕上がっていて、そしてそこに著者の才気や知性のもたらすまこと「趣向と自然」が結実している。読んで楽しく、大いに啓発もされる。倫敦のことでも漱石のことでも、著者自身のことでも。
こういう「メール文藝書」が必ず成るであろうと予測してきた。一つ一つ書き下ろされたエッセイ・随筆と、メールとは、言うまでもなく性質がちがう。そのメールならではの性質が文藝書としての新しいジャンルを(紙の書簡文藝とはまた別に)成りたち得ることを予感しつつ、わたしは、この「私語」にも、意図していろんな方たちのメールを厚かましくも再録させてもらいつづけた。名張在住の「囀雀」さんの短いメールを莫大にわたしは保存しているが、また一つの文藝をなすであろうがなと見てきたのである。
神田さんの本は、一つのとても優れて佳い先魁である。こういうものが、また次々に生まれくるとき、わたしは、また新しい別の角度から推薦される「ペンクラブ会員」たちの可能を想うのである。神田さんにも北田さんにもわたしは日本ペンクラブに入って欲しいと願っている。北田さん等はかねてパソコンによる言説表現の問題を学問的に追究してきた学問的な実績もある。大きな刺激を与えて欲しいし、示唆もほしい。アップ・トゥー・デートな学者である。
2003 6・18 21
* 一人の男や女が、身一つ心一つで体験できることは、タカが知れているとは謂わないが、その男や女における限界をもっている。限界をこえて追体験・疑似体験したいという気があるから、人は例えば読書する。自分と似た境遇や性格の人物によりかかる人もいるだろうが、とうてい自分には生涯かけても「出来ないであろう」ような中身の本に、心惹かれることが多い。
映画の「クリフハンガー」や小説「北壁の死闘」など、わたしには絶対に体験できないし、現実にあんな体験がしたいわけでもない。だが、映画を観て小説を読めば、深く納得したり満足したりしている。擬似体験の実感がある。これらの場合、ま、普通わたしの人間性や人格などにまで感化は届いてこない。が、明らかに別に、擬似体験どころか実体験以上の感化を得たという藝術体験は有る。それが無かったらどんなに寂しかったろうと、顧みて感謝する出逢いが随分ある。いや無数にある気がする。それが人生航海のいい底荷になっている。安定を得ている。
例えば、人との「出逢い」も実に大きい、が、それは実体験であり、それとて、よっぽど顔の広い人であっても自ずから限界がある。類を以て集まるというように、大勢に会っていても自ずと類型的に把握されてしまう。藝術体験は、それを補い、時にそれに優ることがある。どう鯱ほこ立ってみても現実に光源氏や紫上には逢えないが、作品を介して出逢い、その出逢いが、そんじょそこらの現実の人間関係からはとても得られない、博大なものを呉れている。「嵐が丘」のヒイスクリフやキャサリンは、「モンテクリスト伯」は、カフカのあの男等は、鴎外の阿部一族は、「罪と罰」のソフィーは、「心」の人達は、みなだれにも優るわたしには「身内」のようである。
それとともに、今は出逢えない魅力有る人々に、歴史の記述や文献の中で出逢っている。本阿弥光悦も新井白石も最上徳内も、その他数え切れない人々と優れた記述を介して出逢うことで自分を養い得てきたことは明らかであり、実体験だけに固執していたら、そのような人生の良き底荷はとても得られず、どうしても軽薄な上に軽薄に、へろへろと生きてこなくては成らなかったろうと想う。「へろへろ人は見るも憂し」と吐き捨てていた詩人がいた。
ひとつには、そういう底荷を欠いた日々は、単調に単調に、ただの繰り返しで過ぎて行く。一期一会という、新鮮な繰り返し、繰り返しの一度一度が生涯一度かのように新鮮に力あるものとして繰り返せなくなる。マンネリに陥る。
マンネリ小説もあれば、マンネリ毎日も在る。マンネリでしか、ものの見えない人は精神の衰弱をすでに示しかけているのだ。裁ち切り裁ち落とさねばならない。それが出来ないで執着していると、大事な日々がただ費消されて行く。執着は、エゴが示す病弱の最たるものだろう。
流れ流れて新鮮に、自然に、ゆったりと。川は川である、が、岸辺の景色は一瞬と雖も同じではない。一期一会の神秘的な機微が感じられるか。
これは、若い友人たちのために書いている。そしてわたし自身に。
2003 7・1 22
* 何ということも、ない。「今、此処」に意識をそそいで、じっと自分で自分を眺め生きている。自己愛のためではない。自分だと思っている自分の本当のはかなさを眺めるのである。物心ついてこのかたの人生が、ありありとかなりの細部まで思い出せる。まず、そのことの無意味さに真実思い当たらねばならない。記憶は多くまた愛おしいが、何だというのだろう。夢に過ぎなかった。悲観しているのではない。夢のなかで、たくさん、生きてきたつもりなのだ、誰もが、などとお節介は謂わない、此のわたしは、である。医者は「あと十年の命ですよ」と、わたしをいつも威しているけれど、十年を二十年にしたくて毎日を過ごそうとは思わない。望みは、夢から覚めた虚仮ではない自分を見つけて「大笑い」したいだけだ。
これは望んで努めて出逢える瞬間ではない、分かっている。断念してはいないし、期待出来ることでもない。どんなに寂しくても、その寂しさをせめて十年、見た目はどうアクセクと映じようとも、自然にゆったり楽しもうと思っている。川の流れのように、である。書けるかぎりは、書いておく。いろいろに書いておく。人に読まれるかどうかは、もう考えない。
無理には書かない。静かに闇に没して行きたい。
2003 7・1 22
* 政治家を敬愛できないのは、やるせなく不幸なことであるが、敬愛できる政治家が何人もいる図は想像がつかない。それは政治家としても自己矛盾なのであろう。森元総理の相も変わらぬ愚鈍という以上に悪質に低能な「女と福祉」発言、太田代議士の「レイプ元気」発言。福田官房長官のそんなことについていちいち質問しないでくれと云うのは、呆れているのか居直ったのか。日本國アホウ代議士たちのていたらくを見聞きしていると、もう、そんなことに神経や大事な言葉を費消したくないと思ってしまう。わたしも川端康成のように、もう「美しい日本」のほかのことから目を背けてしまおうかと、つい退避したくなるが。そうもならぬ。
慕わしいのは、ただただ永井荷風の境涯である。
2003 7・1 22
* 携帯のメールをつかって、旅中のときどきに話しかけてくると見える。ほんとうに元気だといいが。
冬子といい法子といい、いまは、いや、とうから、いやいやもともと、此の世の人ではないが、私の中では消え失せたことのない虚仮の心妻であり愛しい娘である。安曇川は懐かしい。前夜に現実の妻と鞍馬の火祭りを見て、次の日に比良へのぼり、安曇川の浜里へ。その間も終始冬子も法子もわれわれの身近に同行していた。舟木の宿でも共寝していた。法子は身を変えて琵琶湖の波間に消えても行った。杉に囲まれた阿志都弥(あしづみ)神社には神代文字の碑石があった。
また、何時の日か行きたい。
そういえば少し気になっていることが、ある。この際に闇に言い置いておこう。娘が、神学者で牧師、私には大事の友であり読者である野呂芳男氏にむかい、自分はあの『冬祭り』の「法子」のようなものですと告げたらしい。なにかしらファザーコンプレックスに似た気持ちを表明していたのか、そういうことにとくべつ興味もなく、野呂さんに「何ですか、そりゃ」とも問い返さなかった。娘の結婚する少し前だ。娘はその頃までに、たてつづけ「魂の色が似ている」と自身云っていた二つの恋を御破算にし、人に薦められ、わたしたちも同意した今の夫のもとに、飛び込むように嫁いだ。
娘は、朝日子は、父親から離れたかったのだろうか。父の小説に自ら呪縛されていたのだろうか、此の旅をしているどこかのメールの主のように。それが幸せだったのか不幸せだったのか、分からない。
朝日子もいつか安曇(あど)の浜へ、里へ、また比良へ、深い夢をみに訪れる日があろう。一人でか、娘たちを連れてか。願わくは健康な心で、幸せを抱いて訪れてほしいものだ。
* 幻想と現実との時空をこえて交錯した小説が、幻想ではなくても、遠い過去と現在とが綯うように交錯した小説が、わたしの「作風」として知られてきたかも知れない、それに魅力を覚えて忘れずにいる人達は、繰り返し、そういう作品をと、今も望んでくる。
書きたくなれば、そうも書くだろう。しかしもっともっと別の書き方を作者としては試みたい自然も、受け容れてもらいたい。頑強な作品、噛むと歯の折れ飛ぶような作品も書きたいのである、老境に尻を据えて。
もはや、私の作品が商業出版の場で受け容れられる希望は絶えている。妥協して、「売れる」ように読みやすい短いものを次々に書くなどというサービスを、今のわたしは強いられずに済む場所にいる。御免蒙りたい。
2003 7・4 22
* 「の方が」という意見をもつことの全部がいけないとは思わない、人間差別に直結しないなら。
たとえば、わたしは、「文学作品」と「読み物」を見るときは、前者「の方が」質的に遙かに高く比較にならないと考えている。しかし、「読み物」の或る面白さや効用を否認したことはない、たとえそれが暇つぶしや退屈凌ぎにケッコウというだけでも。そして物書きで蔵を建てたいなら、明らかに後者「の方が」前者より勝っていると言うだろう。
また例えば「京都の方が東京より」と考える事例は、良きにつけ悪しきにつけいっぱい有るし、「東京の方が京都より」と肯定したり否定したりする場合もいっぱい有る。ただ、絶対的一概になど、「の方が」とは何についても言えないし云わない「方がいい」と思っている。近ごろの若い者は、近ごろの学生は、理系の学生は、文系は、などと一概に言えば言うほどその認識は硬直して間違いを拡げて行く。
だが価値観を捨てよとは言わない、むしろ自身の価値観を自身でいつも批評し批判せよ、鍛えよと言いたい。
2003 7・6 22
* 大学でも、よく、ものの「名」ということに触れていろんな話をした。襲名、家代々の名字、力士のしこ名、平安時代の色名、名利名聞、名を惜しむこと、名を諱むこと、名を贈ること、名を授けること、名を変えること、魔法のなかでの名、真言、タントラ。際限がないところを、時々に話した。ものに名があるとは、思えば不思議なことである。茶杓の銘、茶碗の銘。興味深いものである。銘をつけるのは、かなり難しい。
西山松之助さんは夥しい数の茶杓を見てきた人であり、自身削ってもおられるが、銘をつけるのも上手である。一本頂戴してあるが、銘を忘れている。やれやれ、困った無茶人になったもの。
2003 7・11 22
* 以前「東京の小闇」と話したときに、映像にはあまり興味が無く、言葉に、音楽に、惹かれると言っていた。言葉は、文藝は、本来は音楽に類している。なのに、決まり文句の類型表現に多く頼ることで「よみやすい」という売りへ駈け込んでいる通俗読み物が、所詮は生鮮で斬新で美しい言語の音楽効果をもつ道理がない。それぐらいなことは、江戸時代から講談・講釈がすでにやっている。落語もやっている。それらの方がまだしも責任のある言葉を奏でていた。
しかしながら日本の大出版社の一角を占めるのは、いまも「講談社」である。象徴的におもしろい事実である。
2003 7・14 22
* 人の心は知られずや 真実 心は知られずや 室町小歌
* このうめくほどの「嘆息」は、次に、いったい、どの方角へ身を転じようというのだろう。自棄か断念か暴発か狂気か、放埒か、無頼か。「心」などという、何とかに刃物ほども危ないものを、或いはたわいなくロマンティックに頼み、或いは小ずるく政治的に利用し、或いは偽善のために或いは打算のために或いは虚飾のために担ぎ出す。「心」が良くしてくれた現代とは、何が在るの? むちゃくちゃになった人間達の世間。いやになる、つくづく情けない。何故かなら、私自身無罪でないから。私自身むちゃくちゃだから。けちくさい心にしがみついて、口にする言葉はたちどころにウソになるばかり。
* 京の、家の近くの、白川の、狸橋の上から川波に眼を凝らして、少年のわたしはいつも時を忘れた。ちいさくするどくかすかに音たてて、わたしのちいさな視野は躍るように不変だった。不変の川波は、わたしの眼玉のまるで鱗と化し、あれから六十年、わたしは鱗の眼で生きてきた。いやだ。いやだ。だが、どうにもならない。嘆息するのは人の心ではない。わたし自身の心が知れない、あたりまえだ。あたりまえと思えるようになっただけが、終点前の、かすかな希望である。けれど、すごく寂しい。
2003 7・17 22
* だからダメなんだよ 2003.7.18 小闇@tokyo
長崎で男の子が殺されたその現場に、中学校の教師が書いたとされる手紙が備えられたらしく、それがニュースになっている。通信社が配信するほどの。
私は鳥肌が立った。その手紙の内容に心打たれたからではない。それをニュースとしてしまう、報道の緩さにである。
その手紙が本物であるという確証を、どうやって得たのか。
愉快犯はなくならない。絶対にいる。その手紙が、報道の翻弄を目的としたものでないと、どうして判断できるのか。甘すぎやしないか。
大手の新聞が投書欄に、その新聞社をからかうことを目的にした作り出された投書をそれと知らずに掲載し、物笑いになったのは最近のことだ。
もうひとつ言うなら、その手紙は全国に報ずるに値する内容なのか。「僕ら大人がこんだけまわりにいて、助けてあげられなくて、本当にごめんね」と綴られるその手紙に、私は吐き気こそ覚えるが、シンパシーは感じない。
こんなこと言ってるから、だからダメなんだよ。
間違いなく、少なくともこの後十年は、同じような事件が続く。時代の要請だ。そのたびに「僕ら大人」は謝るだけなのか。「僕ら大人」には、それ以前にすることがあるだろう。反省文の提出は、その後だ。
* もうこの卒業生に、わたしはわたしからの「卒業」証書をあげたい。もうわたしの学生でなく、少なくも一人のエッセイストになった。三百もをこうして書いた。一日も欠かさず書き続けて、アバウトな物言いをすればその七割が読むに値するモノを含んでいるし、そういう書き方が出来ている。立派に及第している。
むろん作風がちがうから個人的に気になる筆致の違和感もないではないが、それは問題にならない。むしろ作者と読者の関係として、わたしが「読者」してきた、そう出来たということである。
編集者としても優れている、姿勢が良い。畑はちがうけれど、わたしがかつて勤務していた出版社で、こういう自覚的な、シャンと立った編集者はさびしいほど見られなかった。編集者が意欲をもち自覚を喪失しないで居るのは、想像を絶して難しく、力のある人は人で傲慢になり、力の乏しい人は人で給料とだけ仲良くなる。一期一会、一期一日、一期今・此処という仕事のほんとうに難しい仕事が編集者だ、すぐ「慣性のベテラン」になる。それはベテランではない。底荷をくくっている意識がボロボロなのだ。灰の縄のように。小闇は書いて自分を磨いてきた。荀子ふうに謂うなら「解蔽」してきた。まつわりつく身のボロを念々に脱ぎ捨ててフレッシュであろうとしていた。新生していた。これはキツイことだが、不可能ではない。もう「小」闇ではない。とうに独りで立っている。
こういう若い人材をこそ日本ペンクラブにエディター会員として迎えたい。
* 上の一文で、わたしは、此処に同感する。こう言っている。
間違いなく、少なくともこの後十年は、同じような事件が続く。時代の要請だ。そのたびに「僕ら大人」は謝るだけなのか。「僕ら大人」には、それ以前にすることがあるだろう。反省文の提出は、その後だ。と。
同感する、とともに「十年」という直観に関連しては、わたしはちがうことを考えている。「百年」そして「時代の(日本の)自壊」だ、と。世襲社会が世襲し拡幅増殖させている「毒」は、解毒の手段もみつからず悪循環の脚をはやめている。「百年」という余裕をわたしが見たいのは、この若い人よりも心萎えて希望をもっていたいからで、過酷に謂うのではない。「十年」で日本は潰れるかもと予言されているようで、おそろしいのだ。わたし自身は、医者に顔を見せるつど「十年しか生きられませんよ」と言われているから仕方ないが、せめて子供達の孫達の世代を中途で葬られたくないと願ってしまうのだ。「要請」か。時代は、日本はさんな力をもう持ってはいまい。哲学、地を払ってすでに風化し、宗教、それは末期に抱きつく柱をめいめいに幻想しているだけだし、科学、それは例えば携帯メールを巷の黴にしてはびこらせるばかりだし、政治、それは無責任で汚い打算の自己中評論にひとしくなっている。
わずかに望みをかけたいのは、藝術だ。すばらしい繪や彫刻が生まれて欲しい。すばらしい演劇が興って欲しい。すばらしい映画に感動したい。すばらしい音楽に心神を洗われたい。そして……文学のことには口を噤んでおく。
* いま挙げたどのジャンルでも、圧倒的に触れてくる魅力の質とは、一言にして芯の「詩」の魅力だ。美術も映画も演劇も音楽も、根源で詩を奏でたものが勝っている。レオナルドでもセザンヌでもロダンでも。光悦・宗達、華岳・曾太郎でも。来迎図でも百済観音でも。そして「マトリックス1」や「アメリカン・プレジデント」でも、「タイタニック」や「ベン・ハー」でも、「グラン・ブルー」や「冒険者たち」でも。また「橋」でも「グリーンマイル」でも。さらに歌舞伎の「勧進帳」でも能の「羽衣」や「清経」でも、「冬のライオン」でも「野鴨」でも「ワーニャ伯父さん」でも。「アルジャーノンに花束を」でも。そうそう秦建日子の「タクラマカン」ですらも。そしてバッハやモーツアルトやベートーベンに限らず、わたしには美空ひばりの「わたしは街の子」から「愛燦々」「川の流れのように」に到る歌唱も、「夕焼け小焼け」や「この道」なども。
魅力の質は「詩」のファシネーティヴな醇と純に在り、独特の寂しみにおいて心を洗いまた励ます。そして堪え抜く力をくれる。
道に迷っているのではない、わたしは。ただ、しんしんと雪のつもるようにこの時代に生きていることが寂しい。かなり、それを興がっている自分が憎い。だが、まあ、あと十年だと言われるのなら、まあ、なんと今はおもしろおかしい時代であることか。
2003 7・19 22
* 『みごもりの湖』で作中の女子大生の二人が、祇園会さなかの祇園縄手「蛇の目」寿司に入り、涼しい庭の見える小座敷で真っ白な鱧を食べる、あの活気を書いたときの作者は、幸せだった。若い女性がそんな店で贅沢なといわれたときも、わたしはぐっと胸を高くはる気持だった。たかが食べ物ではないか、位負けして食べるのは滑稽だが、わたしのヒロインたちに何のそんな臆病があるものか、と。
祇園会の頃は、気持も凛々とした。此処は都だ、京都だと思っていた。
少し嫌われても、わたしは、そういう京都をどんなに貧しく育とうとも子供の頃から持っていた。それがないと頽れてしまってしかたないほど、現実は厳しくも侘びしくもなりがちであった。いつでも、だれにでも、おまえ元気やなあと思われるようにしていた、疎開先の丹波から京都へ帰ってきてからは。今でも、だ。
つらくなると、どうしても京都を想うが、元気なときも京都の方へおもわず視線を送る。京生まれ、あの烈々の湘烟女史が臨終にほどないころ、日記に、珍しい食べ物の土産などいらない、鴨川の瀬に洗われた石ころを掌に握っていたいと床の中から書いている。あれを読んだとき、胸が苦しいほど熱くなった。
2003 7・19 22
* 詩とは、詩を書く人には何なんだろう。
今朝、「小闇」のことに触れながら荀子の「解蔽」つまり心にかぶせた余計なボロ、それを解つまり脱ぎ捨てて新に自由に無垢にならねば、詩など生まれようもないということを、わたしは思っていた。それなのに、詩を、あたかも化粧品のように、心のお洒落のように、夢語りのようにして身の飾りにしている人もいないではない、いや、そんな自称詩人が多い。そうではない詩人。そうではない詩人。
わたしは驚くのだが、歌人俳人は結社などと称して当たり前にしているが、詩人が今や群れて動くのには驚かされる。孤独の極みからうめきでる言葉の命。それなのに、うちつれて物見遊山に出掛けたりしている。
2003 7・20 22
* 人と人とがまともに、正面衝突するようにぶつかり合うことは、ありそうでなかなか無い。ときとき大相撲でオデコが鳴り響くほど立ち会いの瞬間、ぶつかっている。真剣勝負であり、あれには勝ちと負けとが結果として出る。
ふつうの人間の出逢いは勝ち負けではない、が、それなりに押しそれなりに退くということは生じ、それが微妙に交替して、世界中にひとつしか無い色模様を織り上げてゆく。そういう体験のまるでないまま生涯を終える人すらあるらしい、が、「孤立」という本当の意味かもしれない。
こういう烈しい正面衝突は、得ようとしても得られるものでなかった、まして男女となると昔はほんとうに大変な難事の一つであった。そもそも出逢いのきっかけも掴めなかったろう、なかなか。
現代日本では、おどろくことに、すさまじい携帯電話とメールの氾濫。擬似的な出逢いは松島湾の牡蠣の殻のように山と積まれている、が、中身は容易に入ってこない。「いま、真実、何を愛しているか」と学生達につっこんで行くと、ここに此の「真実(心の底から)」という二字が入っているので答えられない、自分には「真実心」が枯れていた失せていた必要としなかったことだけが事実ですという、嘆きの声が、紙になって山と積まれた、目の前に。
メールは「恋文」であると、たしか「ミマン」に請われて書いたことがある。そのつもりで書かないとメールの言葉は破綻を誘う。冷たいし硬いし。だから若い人達は盛んに泣いたり笑ったりしている安いマークを書き込むらしいが、あれが頻発するに連れて、ますます「真実」に遠ざかって、髪の毛より軽い言葉が、ほこりのように舞ってしまう。そこからは「真実」は生まれない。生身を傷つけ合うほどこすりあわせる衝突の勇気は、現代人からはうすれ、機械の闇という安全なスクリーンの陰から、影だけを送り出してしまう。意図してそれをやってしまう。
現代の「付き合い」の最も危険な軽薄さが、メールという手段には混じる。その険悪な犯罪的結末が、出会い系サイトなどを介したメール文明の滓のように、新聞雑誌に溢れて、それも氷山の一角。
メールを介してでもいい、正面から火花の散るほどの真実の衝突が生まれるなら、現代人は、昔の人達よりは何層倍も幸福ではないだろうか。
だが、電子の影をおもちやにし過ぎると、或いは甘んじていると、自身がひどく蝕まれることも承知していないと。
つまり、それだけでは、生身の人と人との出逢いは本当には実現しない、ありえない、からだ。
「闇に言い置く」のは、あくまでも独語である。私語である。創作である。
そして実は盛んに語り合っているようであっても、メールも電話もまた質的には私語の域を、独語の域を容易に出られない、またはいわゆる類型のアイサツを出られない。風花よりもはかない消える言葉をまき散らしながら、まんまと闇の「幕」で自身を保守し、さも大胆になっている気なのだ、だがそれは小心な行為に過ぎない。
わたしが、若い人ほど電子メディアを恐れて欲しいと願うのは、電子メディアを安易に使いこなしている内に、いつも己れに対し、ただの「影を演じさせ」てしまうのに狎れるからだ。それではあまりに若い「時」が惜しまれる、二度とは戻って来ないのに。
「電子の杖」は、むしろ「e-OLD」に有益だ。それなりに年寄りはながく言葉とも世間とも付き合ってきているから。硬い殻に押し込められていたかも知れない言葉と生彩とを、年配の人が取り戻して行ける。その佳い証跡にはいくらも出逢っている気がする。わたしも、その気持ちで「私語」を紡いでいる。
だが、それだけで生きてはいないのである、それが肝心だ。
私語は真実の会話へと繋がってゆかねば意味を半減するのである。
2003 7・20 22
* 潮騒を聴きながら満月を観ようと、用意しているとか用意していたとか。満月はいいが、すこしやつれかけた月の風情も美しいと思う。海と月と。佳いにちがいない、が、心は騒ぐかも知れない。わたしは山の上の月が好きだ。京都には丹後まで行かぬと海がなかった。
2003 7・20 22
* 夏休み、ぜひぜひ、お取りなされますよう。
どこかへふらりお出かけになる。校正刷りなどおもちにならず。という夏休みでしたら、どんなによろしいかと、お忙しくしていらっしゃるのを、存じあげる者は、おもいます。
崇徳院は「流され人のうた」という題で書き始めたのですので、あと、一、二回で終らせなければと、おもっています。
待賢門院のことにも触れたいとおもっています。きっと、魅力的なひと、藝術面にすぐれた感覚をおもちだったにちがいありません。皇子三人を見ても、そうおもいます。
法金剛院のお庭は女院の指示でつくられたと、この前、あそこにゆきましたとき知りました。
のこされている青女の瀧が、女院の意向に添った、あるいは、こんなふうのと希望されたものであるとしたら、剛毅なところももっていたおひとかも知れない。
それに何より、『繪巻』の璋子。
お酒は。すぐ、「金時の火事見舞い」になってしまうのがはずかしくて。
いつでしたか、歌舞伎座の夜の部を観るのに、早くゆきすぎて近くの喫茶店に入り、コーヒーを飲んでいましたら、年配のきものをすっきり着こなした女性が、独りでビールを飲んでいました。
その様子のよかったこと。
時間になったので外に出ましたら、そのひとも外に。そして、そのひとも歌舞伎座に。いいな、これからはじまる芝居の場面のあれこれをおもいながら、ビールを飲む。外はまだあかるい――。
いつも、いかにもたのしそうに、おいしそうに、お酒を召し上がっていらっしゃるごようすをうかがいますと、こちらまで、よい気分になります。
と、冷やしてあるワインを飲んで寝ることにいたします。
* 中西進さんから、メールの人のことを、「優秀な人です」と以前に聞いた。氏の教室を聴講していたことでも有ったのだろう。
『繪巻』とは、ま、懐かしいような恥ずかしいような旧作を持ち出してくれて…。待賢門院は史上の醜聞に染め上げられたまさに「美しい人」であった。崇徳・後白河という相闘った兄弟の母であるが、この兄弟の父は一人の鳥羽天皇ではなかったらしい。崇徳院の父は、鳥羽天皇には実の祖父の白河院であったと、史上隠れもなく取りざたされていた。確かなことか、それは言えない。
「美しい人」の醜聞は、わたし一人の思いであれ雪いでみたいと、一連十作ほどの短編を繋いで言葉での「繪巻」にしてみた。豪華本にも造られた。
わたしにそういう動機を与えたのは、一枚の歌留多の繪であった、待賢門院堀川の。仕えた女房であり屈指の歌人であり、西行と親しかった。たしか兵衛という妹もいた。堀川の歌は百人一首に入っていてわたしは子供のころから愛していた。
ながからむこころもしらず黒髪のみだれてけさはものをこそおもへ
その愛していた歌留多の堀川は、見事な立ち姿で瀧のような黒髪をみせて向こうを向いていた。顔は見えなかったが、だからこそそれが女房堀川でありながら待賢門院その人の姿かのように眼にやきつけられた。こんなに「美しい人」を醜聞にまみれさせておいて好いわけがない。で、『繪巻』は書いた。竹西寛子さんとの対談でもこの作品がまず話題になったのを懐かしく記憶している。
「繪巻」の題は源氏物語繪巻にもかかわっている。いま至上の国宝として名の高いあの源氏物語繪巻の誕生に待賢門院はあきらかに深く深く関わっていたと謂えるからであり、おのずとこの小説は、源氏物語繪巻の成立秘話としても書かれている。物思い多い少年の日からもちこしてきた、それは一つのわが執念であり願望であった。
2003 7・21 22
* 生きているだから逃げては卑怯とぞ幸福を追わぬも卑怯のひとつ という大島史洋氏の歌を、数えきれぬほどわたしは学生達のために話題にしてきた。幸福は生きる目標ではないが、見捨てていいものではない。わたしは、なにを追っているのだろう。この歳にして、わからない。ただもう、惑ってふらふらしている。所詮は夢なら、せめては美しい夢に惑っていたいが、バグワンに、叱られる。
眼をとじ闇に沈んで。無。なにも無い。闇の中には静寂だけがあり、夢も無い。いま、真実、なにを愛しているか。眼をとじ闇に帰ること。一切の、「望み」という執着が其処には無い。平安とはそれか。それが実は煩悩か。
2003 7・21 22
* 瀧のことを想っていた。瀧は映像でみるだけでも、感動する。すばらしい瀧ほど、わたしの体力では訪れきれないから。まして海外の途方もない神秘の瀧など絶対に実見できないから。それでも幾らかは、那智も華厳も袋田も、その他も知っている。文字をみても分かるが、瀧は自然がひめた蛇体の神秘に通っている。自然にわたしは中村草田男の「公園で撃たれし蛇の無( )味さよ」を思い出す。虫食いには「気」か「意」しか入らないが。
公園とは何だろう。蛇とは何だろう。学生の一人は、公園は「人工の二次自然、趣向の産物」蛇は「一次自然の原住民であり主であり自然そのもの」と。その上で「撃たれ」るとはどういうことか、を、「詩」の問題として彼は理解して行った。
都会の真ん中に照明で彩られた公園が好き、ことに水のカーテンのような噴水が好きという人がいたのを思い出す。わたしも嫌いではないが、あまり感心したその手の公園も庭園もなく、ことに東京の「庭」はみなダメ。それはたいていが、浅い趣向だけの産物であり、まさに「つくりもの」で根の細い夢の一種だから。
瀧は、小さく細くても巨大に長くても「ほんもの」の自然。「人」工の噴水や公園よりも、より根源の人間の歴史を想わせてくれる自然。レニングラードの冬宮殿から、少し離れた夏宮殿へ車で走った。そこは贅を凝らした華麗な噴水庭園だったが、ロシアをいろいろ見たなかでは、あそこはごく通りいっぺんに通り過ぎてきただけだ。人工のまがいものの自然。庭園とはそれであるが、西洋庭園としては、むしろモスクワの、ジェルジンスキー公園の深い森や自然な池の方がすばらしかった。
日光の裏見の瀧の裏に立ったとき、寒さにふるえながら感動があった。あれにくらべると、東京の街中にみかけることもある水のカーテン、照明も設計も普通かそれほどの工夫もなく、どこか薄いし軽い感じの「設備」は、あれこそただの「架空の夢」だろう。真の美しさが感じられない。
絵空事こそ真実だと確信するには、莫大に人間的なエネルギーが必要になる。そういう力を獲得するのに、「架空の夢」なんか役に立たない。「現実という根底の夢」と対決していないから、最初から退避だから。
2003 7・22 22
* 昨日も、また先日のインタビューでも話題にしたのだが、わたしは、電子文藝館に「読者」層への窓口もあけたいと思っている。
いわば「読者招待席」を設けておき、新人の優秀作を、それはもう新人賞にあたるほどの優秀作、力作を厳選して、受け容れてあげられないか、と。電子文藝館の「読者招待席」に作品が載るということが、芥川賞や太宰賞にも匹敵するほどの名誉の「席」にして、いつも開けてある、というように。電子文藝へのその様なキッパリした登竜門は、まだ出来ていない。
賞金など出せる日本ペンクラブではない、しかし、「招待席」に並んでいる先輩作家達の名前を見て欲しい、あなたの力作を、漱石や鴎外や一葉や谷崎や川端や太宰や梶井らの名と作品とのすぐそばに、対等に並べて世界中に公開して上げられるのである。作家・作者としての評価を、そのようにして与えて上げられるのである。ペンクラブ会員に推薦すら出来るのである。
「招待席」という物言いが、説明抜きに「日本ペンクラブ電子文藝館賞」に受けとられるほどの環境へ持って行けないだろうか。
こういうことを、わたしが発想し期待し念願している一番の理由は、優秀な新人が出てきにくい時代になって居はせぬかという根の深い危惧である。再販制が導入されたりしたら、出版はますます売れる本にだけ力を入れて、売れるかどうか分かりにくい力有る新人の作品を紙メディアにしないだろうと、かつて、文藝家協会にそう具申したこともある。
それはそれとして、今ひとつは「電子文藝館」である、その名にふさわしい「電子時代の文学・文藝」の新風が、厳しい評価に堪えて誕生して欲しいのである。そういうことにも道をつけ門をひらいておく、われらが「電子文藝館」はその恰好の場ではなかろうか。貧乏組織の「日本ペンクラブ」でも、電子メディアにのせるかぎり可能である、ペーパーメディアの金喰いにくらべれば、ほとんどタダで出来る。
何でもない、おなじことは、美術展覧会はやってきた。「会友」にすすみ「会員」に進んで行く。
* もう一つ考えるのは、われわれの文学環境で、「読者」という大勢力をほとんど抜きにして、いつも著作者と出版とだけで大概の問題を動かしてきたけれど、(実は殆ど全部を出版主導でやってきたのだけれど。)電子時代は、より強く「読者層」がそこへ割り込んで来べき時代である。今も問題になっている「図書館」をめぐることでも、「読者」の考えや判断は、ほとんど、問われようとすらしていない。それでいいのだろうか。電子文藝館の活動に「読者層」の自然な参加がありえないだろうかという話し合いも、昨日、少しだが、われわれの委員会はし始めたのである。
2003 7・23 22
* ならばと、糖尿患者たるもの不届きな、「シェモア」のドアを押した。
赤ワイン。
いつもより静かな昼店を大いに楽しんだ。幸か不幸か読む仕事も書く仕事ももっていない。こういうときは都合良く幻想して、だれかと仲良く食べる。
今日は娘の母親と、デザートやエスプレッソまで、おいしく食べた。妻ではない。もっと年幼い別の娘の母親である。そういう娘や母親が「いる」ことにして生きていると、不思議な生き甲斐がある。どんなに育って、何を楽しんで勉強しているか、などと尋ね尋ね二人で食事をする。しかしこれは考えようで、牢獄にいて、面会に来た妻に娘のことを聞いている図に近い。此の世が牢獄なのかどうか。その妻はあの世から面会に来てくれたのか。
なーんだ、先日ビデオで観ていたニコラス・ケージの「コン・エヤ」みたいなもんだ。彼はほぼ冤罪に近い殺人罪で投獄されているが、その間に生まれた娘の、父親への手紙をなにより楽しみに刑期を励んで仮釈放になるのだ。
釈放。仮釈放。それは牢獄からあの世へかえることか。
そんな幻想をソースにして飯喰ってうまいかという問題はあるが、それはその娘の母親次第といわねばならぬ。いい母親だと想っている。
この店には、そんなトンチキな老人の男客は一人も居ない。若い、ないし中年の女客ばかり。そっちの方は全然観ない。
正気にかえって支払いし、隣の明治屋でフランス製、クリーミーなブルーチーズを一つ買い、ぶらぶらと、まだあの世へ消えていない人と、手をつなぐようなつながぬような仲良さで有楽町駅まで歩き、地下鉄に乗った。気が付くとわたしは一人電車で座談会「明治文学史」の、幸田露伴の章を、耽読していた。あわや保谷を乗り越しそうになった。
2003 7・25 22
* 或る学者に対し、或る作家でもある学者が、学問の論争ではなく、たんに無責任な(と十分考えられる)伝聞によって、ひどい誹謗中傷をしているのを或る大手雑誌で読んだ。イヤな真似がいつでもどこでも為されている、センセイと云われる程の人達の世間で。
調べもしていない、筆数もすくない、そんな形で決定的・人格的に他を誹謗し断罪してしまう、それも伝聞で、他人事を。
こういう狂犬に噛みつかれたら災難である。後遺症もこわい。
論争はしてもいい、それは論証の往来である。昔の文学者は、鴎外と逍遙でも、潤一郎と龍之介でも、昇平と靖でも、論争した。中村光夫など凄いほど論争した。論争も論点が逸れてものすごい口喧嘩になっている例もあるが、少なくも一方的に卑劣な誹謗中傷ではない。
わたしも「佐助犯人説」などで、彼が早稲田の学生時分からいつも引き立て応援してきた千葉俊二君を、やむなく徹底批判したことがある。純然、他意のない文学上の「読み」を争っただけだが、彼は、以来わたしの顔も見たくないらしい。そんなの、少しおかしい気がしているが、ま、人には器量というものがある。仕方がない。
わたしは論争相手の「人間」を論じたのではないのだから。
だが、たまたま眼にした今回の雑誌記事は、論争ではなく、人聞き一つで一人の若い学者を、人格として罵倒している。こういう暴行は、同じく文学にたずさわる者として、醜く、聞き苦しく、ゆるせない卑劣さだと思う。アテズッポーを書く前に直接当たればいい。誹謗する女性学者の名は挙げずに、大学名と地位とを挙げているなども、イヤラシイやり方で、同じ男かと情けない。
* 記紀の昔から、中世も経て、わたしは「匿名」の歌謡や落書や紙つぶての価値と意義を認めている。そういう方法で訴えねばならないコトやモノやヒトはいるのである、確かに。それは一つの原則をもっている。より強い力ある存在への弾劾や非難や批評として許される。
もう白状しておいていい時期だから云うが、わたしは、伝統的に著名な新聞の匿名欄のかなりモーレツな常連であった。文学よりはむしろ政治社会への発言が多かった。この「闇に言い置く」をはじめてから、自然、少しずつ書く量を漸減して、今はなにも書いていない。書いていた頃の原則は、権力や組織を負うて威張り返った「強き」を叩くことであった。
署名して書く原稿では、かりに批判の場合も、当然な作法がある。そんなことは考えたら分かるだろうに。
ただ一つ、もし、その相手を、命に換えても「憎んでいる」ときだけは、例外である。わたしは、燃えさかる憎しみから書くエネルギーを、決して排したりしないのである。
だがくだんの一文は、そんなものではなかった。戯文、それも全体に藝のないへたな雑文に過ぎなかった、だから狂犬だと怒るのである。もし、その男の社会的な肩書をしれば、人は、暗然と、権威なるものの情けなさに愕くだろう。
2003 7・30 22
* 和御寮 という言葉に出逢ったが、意味が分からないと、五十近いか、過ぎか、詩を書いて詩集ももっている人から、遙々メールで尋ねられて、キョトンとしている。「御寮人」「ごりょんさん」などという言葉もほんとうに識らないのか。
「ご」「ごっさま」「ゴンシャン」など、女御、姉御の昔から糸をひいた、女への、主婦や娘などへの敬辞であり、秀吉も夫人を「五さ」と、つまりは「かあちゃん」とでも呼んでいた。そういう書状がのこっていて、東大のえらいセンセイまで分からなくて、これは「侍女」の名前だなどとトンチンカンを云っていたのを、柳田国男は適切に訂正してやっている。
それなのに、東京国立博物館でのその書状の解説では、あいかわらず「五さ」侍女説の孫引きをつづけていて、呆れたことがある。もう随分昔のこと。
* 人は何とも岩間の水候(そろ)よ 和御寮の心だに濁らずは 澄むまでよ と、閑吟集三○一は歌っている。ここは男から女に、「そなた」「おまへ」と呼びかけている。
* 詩人が辞書をひかないのか、こんな解せないことはない。言葉の秘儀者、最も佳い意味でのマジシャンではないか、詩人とは。俳人達は過剰なまでに語彙に通じ文字に長けている。歌人でも、和歌にまで関心の及んでいる人達ほど深切な知識を持っている。フツーの詩人には、よく出来た辞書を食べてしまうほどひいてもらいたい。
2003 7・30 22
* 自民党総裁選、民主党の拡充、北朝鮮との六カ国会談、フセインの包囲網、そして来るべき総選挙。心弾み悦ぶような何事もない。それらを横目に、さて、わたしには何が出来るか。何をすれば心悦ぶか。ああそんなことは考えなくて好いのだと思う。
2003 8・2 23
* ど忘れというよりもハッキリ物忘れの度が、日々進行している。忘れッぷりを苦笑いしながらいっそ楽しんでいる按配だ、「藤裏葉」を過ぎると、いよいよ源氏物語は上下二帖の大山場に至ると分かっていつつ、その巻の題名が、どうしても思い出せない。昨日も思い出せなかった、今も思い出せない。ついぞ無かった椿事であるが、慌ててみてもしようがない。出てくるかな、などとチラと思おうなら、もうダメで、出てこない。出てこないための自己暗示をかけたようなもの。
2003 8・2 23
* こういう、短いと云えば短いけれど、力も意欲もなければとてもこう長くは書けないのが、まとまりのある「短文」で、へたすればタダの日記文になる。わたしの書いているような書き流しになる。
一日一日取り組んで休むことなく、この人は、三百日三百篇をとうに超えて、しかも一日一回も欠かさず休まず書き続けた。
その全部を、あるいは選抜したものを、ひっくるめた表題にするのに、これはじつに佳い題名ではあるまいか。「黒体放射」とは。こんなの、わたしが逆立ちしても出てこない。「小闇」の生活と勉強から噴き出てきた学術用語だ、佳いではないか。
人一倍忙しい職場にいて、家庭にもいて、「一期一日」を活かしきった成果が、とにかくも眼前に在る。出来そうで出来ないのは、「毎日」ということ。「続ける」ことの苦しさや難しさを、わたしもやはりこの人の今の年頃に、噛みしめるように日々堪えていた。
続けることは容易でない。一年も、纏まって体を成した短文を書き続けるのは、よほどの人でもなかなかできっこない。見返りの何もない無償の行為なのである、だが、酬われてはいると思う。この人も今は気付くまいが、いつか気付くだろう。よくやった。
2003 8・2 23
* お互いに度し難いと思い合っている友人というのは、世にたくさんたくさん在るにちがいない。度し難いの反対なんて方が、めったに無い。
度し難さの、たいていの理由の最たる者は、自己装飾のための固定観念で、この誘惑から逃れ出ることは容易でない。コケの一念、オコの沙汰、思いこんだら命がけ、で固まってしまう。では何にむかってそうなるのか、そのバラエティーこそが、「人間」のさまざまな変種をつくりだす。
そんななかで、わたしのイヤに感じる一つは、社会的なモラルにあてはめた自己の美化であろうか、わたしはこんなに人道的にいいことを自然にしているのだという確信の持ち主は、何をもってしてもテコでも動かない。わたしを育ててくれた父は、中年過ぎてから、不平の裏返しの正義派に凝り固まって、かなり周囲を悩ませた。その反動で、わたしは正義をほとんど信じも行じもしなくなったし、へんな正義派より、恥じ入っている偽善者の方がマシかも知れないと思いつつ、大人になった。なに、それは裏と表の関係で、同じシレ者なのである。お互いに度し難いと思いながら親子をやれていたのがそれを示している。
2003 8・2 23
* 藤村講演の骨子が、ほぼ手に入った。主催者も参会の聴衆も、意外に思われるかも知れない、が、この話の出来るのは、いま日本中にこの私一人しかいない、という話題になる。藤村の本拠地で藤村の人と文学を論じるようなおおそれた暴挙はしない。多年の愛読者ではあるが、かつて藤村についてタダ一度だけ講演したけれど、一本の随筆原稿すら書いてこなかった。今度は二度目の講演になる。他の人では話せないことを話してくるのが、わたしの務め。
2003 8・3 23
* 八九時間もあとの「翌朝」と錯覚して目覚めた、この八九時間をわたしは儲けたのか損をしたのか、どっちなんだろう。まだ「今日」という日が三十分ほど残っている。このまままたすぐ床について寝入ってしまうのがいちばん良いように思われる。疲れてはいない。なるほど、いまもわたしは「夢」の中にいるのかもしれず、いくら起きて現実であると認識していても、認識自体の基盤はあいまいなもので、「夢」に近い。いや起きていても寝ていても同じ頼りない「夢」にいるに過ぎず、百万千万に一人も、その「夢」から覚めぬまま夢に怯えて死んでゆくのだと謂われるのも、間違いないこと、と、わたしは感じている。この「夢」から、真に本来の自分に目覚めたときにだけ、解脱が起きる。覚めよう覚めようとしてみても、絶対に覚められるモノでなく、ただ静かに静かに待っている、夢の中にしか自分はいないのだと意識したままで。
かろうじて、そこまてがわたし自身の実感だ。
2003 8・3 23
* 源氏物語はついに「若菜」上の巻に入った。この上と下とが、光源氏の物語の、いや源氏物語全体のけわしく重々しいいわば頂上になる。この二巻だけで岩波文庫の昔ふうにいえば「星」一つか一つ半ほどの量がある。そしてそのあと、ひたすら物語は寂しく悲しくなる。「御法」「幻」など、まともに音読できるだろうか、声がつまって湿って、めためたになってしまうだろう。
「若菜」というと思い出す。
一九六九年、アレは五月に入っていたろう、突如として、何も知らない間にわたしの「清経入水」は第五回太宰治文学賞の「最終候補」に差し込まれていた。筑摩書房から、応募したことにして欲しいと内々に電話が来たのである、晴天の霹靂であった。事情はまったく知れなかった。しかし、お断りする何の理由もなかった。
だが最終候補に入っているといえど、受賞と同義語でないのも明白ななので、これは悩ましい。で、わたしは決然と、源氏物語を毎日「一帖以上」読んでゆくことを自身に命じた。つまり五十四帖読み終えるまでは太宰賞のことなど忘れていようと。それまでには決着がついているはずと。
楽な課題ではない。そのころ私の持っていた岩波文庫「源氏物語」は、現在の読みやすい玉井幸助注でなく、それとくらべると原始的な印象すらある島津久基注の本だった。とても読み煩う本だった。
長い巻に当たると、一日の相当量をこれに掛けなくてはならなかったし、やはりゲンをかついでいたからサボル勇気はなかった。行者のように烈しく読み進んで行き、むろん休まなかった。時には一日に二帖以上も読んでいった。
五月六月の医学書院は、当時、本郷台をゆるがすほど恒例の激越な春闘に引き続いて、夏のボーナス闘争の真っ盛り。管理職会議は連日で、社内に半ば身柄を拘束されていた。それでも仕事の合間に合間に、わたしは源氏物語をちからずく引き寄せるように読み進んでいた。
あの日も、夜遅くまで管理職は全員居残り。何とはなく会議室で何かを待機していた。源氏物語はなんと「若菜」にさしかかって、この一帖を一日で、上下を二日で乗り越えるのは、さながら富士山にスリッパで登山するほどきつかったのである。わたしは余のなにものも犠牲にするぐらい、夢中で長い長い「若菜」に没頭していた、夜の会社で。そして読み終えたのは、深夜に近づく帰りの西武線ではなかったろうか。
社宅のわたしたち三階の部屋に階段を上がって行き、すると玄関の鉄のドアをあけて、出迎えた妻がひとこと云った「おめでとう」と。
翌日からは、別世界に移り住んだようなアンバイであった。小説家になろう。わたしは、七年間の孤独な望みを幸運に恵まれ、遂げていたのだった、二度目の誕生であった。「若菜」とは、光源氏の「賀の祝い」の巻であった。
むろん、その後も、「夢の浮橋」まできちんと一日一帖以上を読んでいった。読み始めたからは、当たり前だった。
2003 8・8 23
* 村上春樹が世界一の小説は「カラマゾフの兄弟」だと云っていた、だから読んでみようと秦建日子は初々しいことを謂う。ま、いい。が、その程度のモチーフからあの長大作が読み切れるのだろうか。基督教への認識を或る程度以上に作品は要求してくるし、ロシアというヨーロッパでありながら世界の僻地でもあった風土の、分厚い世界苦にしみじみ触れるには、内発する自身の動機に強烈に尻を押されないと、取り組むだけでも、難しい。とはいえ、あれほどの作品をたった一度読んでなにか獲ようと云うのは無謀であり、少なくも三度繰り返し読まねば、作品世界の朧な把握すら、容易でない。
しかし、それがよいと思ったら、ためらわずしてみればいい。した方がいい。そして父と話しに来てくれるとよい。
独楽は今軸傾けてまはりをり逆らひてこそ父であること 岡井隆
<父島>と云ふ島ありて遠ざかることも近づくこともなかりき 中山明
思ふさま生きしと思ふ父の遺書に長き苦しみといふ語ありにき 清水房雄
亡き父をこの夜はおもふ話すほどのことなけれど酒など共にのみたし 井上正一
子を連れて来し夜店にて愕然とわれを愛せし父と思えり 甲山幸雄
こんな作品に出会っては東工大の教室で学生達に突きつけていた頃、わたしは、「父」なるものを持たず知らずに育ったことを、いつも、くやしく噛みしめていた。「母」もそうだが。
2003 8・8 23
* 豪雨、台風。「野分」ということばが好き、源氏物語の巻のなかでも殊に好きな一つだが、モロに来られると剣呑である。「おそれ」という語彙には、「お逸れ」願いたいという気味すらありそうに感じられる。
* 野分 死なれ・死なせた者たちの源氏物語 秦 恒平
『源氏物語』五十四帖のなかに「野分」の巻があり、いま、ふと、とても懐かしい。七十に手のとどく歳になっても記憶にある、京都の小学校に通っていた時分、台風の後というか、まッ最中ではなく雨もあがった後など、妙に心の開放される爽やかな、賑やかな、しかも寂しやかに荒れてふしぎな感銘を受けたものだ。人は秩序よりも混乱のさなかに何かしら希望の予感をもつのであろう。
「野分」の巻は、この「嵐」の風情も予感も、いかにも、よく書いている。ちょうど嵐のまッ最中に、光源氏の息子の夕霧が、まだ少年といっていい青年だが、父光の君を六条院に見舞って、そのとき、初めて、彼は義理の母にあたる紫の上を見かける。当時は、親子の間柄といえど、女はめったに顔を見せなかったし、まして光源氏が掌中の珠のように理想的な妻として大事にしていた紫の上であるから、我が子といえども決して顔など見せない、声も聞かせはしなかった。それほど箱入りの奥方であったが、嵐のおかげで簾や几帳のあれた隙間から、野分のさまに心惹かれていたか、やや端近に出ていた紫の上を夕霧は見てしまう。季節こそ違え、咲き盛りの樺桜のような、みごとな紅梅のようなと紫の上は褒められる美女であり、匂い立つ麗しい美しいその姿に、夕霧君は震えあがってしまう。
「見て逢はぬ恋」という。夕霧の父光は「見て逢ふ恋」を藤壷中宮という義理の母宮との間で遂げ、後に冷泉院といわれる天子を産ませている。その底ぐらい物語を念頭に「野分」の場面を見ると、夕霧が、いかに美しい義母紫の上に心惹かれたかがよくわかる。夕霧はなかなか律儀な息子で、几帳面で、まじめ青年であるが、魂がとろけたように茫然として、しかし見ているところを見られては気の毒と思い、怖いものから飛び退くように去って行く。しかし彼の心に一度刻まれた紫の上の優艶な姿というものは、後々までも非常に大事な深い秘密にされ、生きていたのである。
おそらくはそれと似た気持ちを、あの『竹取物語』で「かぐや姫」を見た「帝」が見せている。はじめて竹取の翁の屋敷へ強引に出かけていき、力ずくで姫を連れていこうとする、と、光は影とうすれて姫の姿も失せてしまう。その神秘に畏れて帝は一度は恋ごころを断念し、乞い願うようにして姿を見せてくれと姫に頼んでいる。また、かぐや姫は姿をあらわす。恋は断念し、帝はすごすごと宮廷へ帰っていくが、あの変幻のときの何とも手の届かない恋の悲しさ切なさ。それと似た気持ちを、おそらく「野分」の巻の夕霧はあまりにも美しい義理の母に感じたであろうと、わたしは思っている。
ところが紫の上は、後に、夫光君の此の世の極楽である六条院のすまいから、これは意味深いことだが、わざわざ二条院というゆかりの家、新婚の頃の家に帰り、「御法」の巻で、光源氏にみとられ先に亡くなってしまう。夫の光の悲しむのはもうむろんだが、義理の息子の夕霧の悲嘆もたいへん印象的に物語には書かれていて、「さもありなむ」と思わせるみごとな筆づかい。
人にとって「死なれる」という取り返しのつかない絶対状況の、猛烈な絶望と悲しみが、なまじ夫である光源氏よりも、義理の息子、そしてたった一度しか見なかった、見られなかった義理の母の死を悲しむ夕霧の描写によって、逆に読者に大きな感銘を与えている。それが、ふと、いま、とても懐かしい。
* 湖の本エッセイの、『春は、あけぼの・桐壺更衣と宇治中君』に収録してある数年前に書いたエッセイだが、ふと、ここへもう一度置きたくなった。野分がなぜ懐かしいかを書いている。
2003 8・9 23
* 闇とは、
どのような空の色も
湖の漣さえも消し
果てなくひろがる安らかさと
いまは感じます。
* こんなふうに感じてきた人がいるのは、どういう心象風景を往来してきたのか知れないけれど、「どのような空の色も」とあるのは、具象的に、「どのような空の雲も」と認知できた方がいいように想われる。
ゆったり自然にしていないと、いやが上にわたしのよく謂う「黒いピン」の痛みという傷みが、ついてまわる。
空とは何だろう。タダの空とみえているものには、雲や風や鳥影や飛行機や衛星まで、うようよしている。それらは「空」ではない、のに、それらが空だと錯覚している。ほんとうの空とは、ほんとうの実存とは、何一つをも映していない「無辺際の澄んだ鏡」と同じ。そう直観したとき、よけいなごたごたは落ち去って、それらが虚仮に過ぎなかったと分かる。
わたしのよく謂う「闇」とは、そういう、明るい真澄の「無辺際の空(くう)」の同義語であり、同じ意味での、そう、湖面。だが、われわれ凡俗の暮らしぶりを想うに、それは空ではなく、空をただよう雲との付き合い。暗雲も白雲も積乱雲も綿雲も、どっちみちただ漂って空を汚している、虚仮。その虚仮の過量が、「黒いピン」と化して痛みを招く。雲は、ほんとうの空を、覆い隠しているのだ。
漱石に「こころ」を書かせた動機と考えられる荀子の「心」論は、「解蔽」論といわれている。心は真澄の空なのに、人はボロを上に着重ねてむちゃくちゃに汚して暗くしている。その「蔽」を「解」かねば「静かな心=禅寂」はとうてい得られないと。
「蔽」とは、空を覆い包んで隠しているもろもろの「雲」のこと。ところが我々は、「雲のある空」を空だと思っている、誰しもが、同じに。言い換えれば無心の空と直面するのが恐くて、雲たちの右往左往を甘えて「詩」的だと考えている。それでは「黒いピン」の痛みも失せかねる。
それでも「闇」のやすらかさに少し気が付いたという人は、わたしも含めて、いないわけではない。増えているかも知れない。
いつか、「闇」とは、澄みに澄んで明るい「空(くう)無(む)」と同じいのであると静かに意識できる時が来て欲しい、わたし自身は切にそう願っているが、しかし、追い求めたりしない。ただ、ゆったりと自然であるのがいいと、教えられたままに「待って」いる。なかなか至れない境涯ではあるが、追い求めていない。努力してもいない。
2003 8・10 23
* 吹き降りの中、舞の稽古にゆきました。「松風」──。
『源氏物語』の「野分」のお話、よい折りに、あらためて再読、再々読のひとつ、なつかしく。
あの夕霧は、紫の上を見てしまった翌朝、祖母大宮のご返事を伝えるために、もう一度、六条院を訪い、まだ臥所にいる父光源氏が妻紫の上に何かささやいているのを聞いています。そして、父が、御方々の野分見舞いの供をして、娘と世には知られた玉鬘にたわぶれかかる父をも垣間見てしまう――。さぞや衝撃を受けたことでしょう。
野分という、人の心を妙にさわがす自然現象と夕霧の目とを通して、読者に見せてくれていた、くさぐさ。
先生の「野分」から、そんなことまで想われれたことでございました。のちには「御法」の巻で、息絶えた紫の上を、夕霧の目から隠すことも忘れて、じっと愛するひとの死に顔に見入っていた源氏も、思い出されました。
* このような感応を、はてもなく豊かに与えてくれる土壌としての、源氏物語。漫画で筋書きだけ知ってみても、とても源氏物語はよんだことにならない。たとえば「きよら」と「きよげ」という二つの語彙が、いかに精微に精妙につかいわけられているか、それは漫画では絶対に感得できない。文学はことばの秘儀である。
2003 8・10 23
* 自分で自分と思っている自分とは、自分に向けられている(と思う)他からの視線の「足し算」分に過ぎない。虚仮に過ぎない。血縁も含めて「他との関わりにおいてしか自分が存在しない」ように生きているのが、どうやら人間という非在の実態。それに気付きかけていても、その先へ半歩も容易に出られない。現実といえど、夢の夢。
ただもう、せめて、ゆったりと楽しむのがいい。黒いピン依存病をすらも。
2003 8・11 23
* 秦さんは「闇」がお気に入りのようですが、暗黒は好きでなく、ずっと恐れてきました。かがやく青空に憧れています。と、或る人のメールが来た。
それでいて自分はひそかに死にあこがれつづけてきました、とも。
わたしは、ともに賛成できない。
こう返辞を出したわけではない、が、返辞の感じに、わたしの思いを書き込んでおく。
* 死はあこがれるものではない。現に「生きている」ことが、「死んでいる」そのものかもしれないのに。
人はいま確実に自分は「生きている」と思いこんでいるが、それが、じつは「生前の死」の中にいるとも、じつは「死後の生」に在るとも知れないのに、のんきな錯覚に陥っているに過ぎません。
この世で出会っている大勢には、「生まれる前の死者たち」「死んだ後の生者たち」も、うようよと混じっていて、気が付かないだけだと、わたしは『冬祭り』という新聞小説でその様子を書いていますし、そのように今も思っています。生死一如は本当だと思う。あこがれたり、なげいたりする対象(こと)ではないでしょう。
* 涯なく澄み切った広大な「鏡」を想像して御覧なさい、それは、「高原の秋に見る高く青々とした(涯ない)空」と同義語だと分かるでしょう。それが「人間本来の在りよう=実存」ではないかな。その本来を、無数の雲や飛行機や鳥や風や、人や物や思考や分別や心の曇りが、前をよぎってかき混ぜて行く。それは、厳しくいえば余分な「迷・惑」なのですよ。そういうものをくっきりと拭い去ったのが、本来無垢の「鏡」であり「空」であるのでは。
ところが、人はへんなボロが脱ぎ捨てられない、曇りが追い払えない。あたかも「真っ黒いピン」を五体に我から無数に刺し込んで、痛さのあまりに奔走している、それが、たいていの人の「生きている」という現象(こと)ですよ。
では、「闇」を眼の奥へ呼び込んで御覧。これは簡単に出来る、眼をとじればいい。
さ、その状態は何か。
それはハッキリしている。
日の光を受けていない「澄んだ空」「無垢の鏡」の状態なのですよ。そのとき、一切のボロやゴミが失せている。本当に失せているのではなく「闇」が失せたサマを教えてくれているのだけれど。
「闇」であれ「光」であれ、本来実存の「空」や「鏡」を、いささかも壊さないし汚さない。干渉もしない。
* こんなに「説明的」にはいつもは思っていない、思わないようにしている。感じている。バグワンにすこし自分の感じを加えている。
2003 8・12 23
* 「うら病んでる」という囀雀サンの表記に、注目したい。わたしは、時に、試みる、とは書かず、心見る、と書いたりする。原意を摂ろうとして。「うら病む」は「羨む」と表記する以上にこの言葉の原意・本意を表現し得ている。「うら悲しい」「うら寂しい」「うらむ=うらめしい」などで分かるように「うら」はもともと心意・心情・魂めくモノゴトを指さしている。「もの悲しい」「ものものしい」「もの凄い」などの「もの」と同じであろう。羨むとは、そういう意味で、気分がわびしく病んでいる状態に似ている、というよりも、それその通りなのであろう。
わたしの東工大にかかわる本は『青春短歌大学』『東工大「作家」教授の幸福』『こころと春琴抄』など、他にも関連の著作があるが、きまって、この「羨ましい」が感想として伝えられてきた。ほんとうに、そうなら、わたしは嬉しく受け容れたいが。
2003 8・13 23
* 「パン」の「協会」ではなく、「般教」と即機械が変換してくる「パンキョウ」とは、大学の「一般教育」を指さしていて、いかに大学の中でこれが軽蔑と卑屈・自嘲を意味したことばかは、東工大「文学」教授、つまり一般教育の一環をになってみて、あまりのことに驚愕したほどであった。
私などは、その辺の専門バカのような人に「一般教育」なんて出来ないものだと、むしろ大学社会に入る前から想っていたのに。
そんなわたしに、はじめて「パンキョウ」呼ばわりして絶句させたのは、誰でもない、大学教授こそ「至高の職」と思っていたらしい娘婿であった。東工大がわたしに来てくれないかと言ってきたがと相談したときである、「だってパンキョウでしょ」と出てきた。わたしの息子が、大学を出て会社に就職すると聞くや、奇異な顔付きで、なんで大学にのこり「教授」にならないかと大まじめだったこの自称「人文学」者の婿殿は、「一般教育」など、唾棄すべき大学教育の余計な付属物だと考えていたらしい。そして同じ考えの人達が、いかに大学社会には多いかを、わたしは就任してすぐさま実見した。体験した。
同僚の先生方は、かなり自嘲的に引け目を感じている様子であり、それは「般教・語学」とも一緒であった。「般教」の方が上か「語学」が上かと内心で、いやむき出しに争ってさえいたから、失笑するしかなかった。亡くなったわたしの前任教授の江藤淳が、同僚だけとの内輪の教授会で、語学と般教とを「譬え」て、江戸時代の「人外」といわれた卑称をあえて宛てていたとは、一つ話のように仲間内に言い残されていた。ふぇえッと驚いた。
繰り返して言うが、ほんとうに「一般教育が出来る」のは、よほどの人材である、と。少なくも胸に卑屈な卑下を抱いたままどうしてそれが出来よう。しかも文部省も大学当局も、口をひらけば「人間教育」を鼓吹していた。それこそが「一般教育」でなければならないはずとは、思いも寄らないかのように、偽善的軽薄至極に。無意味であった。
その証拠に、わたしが専任教授として在籍した四年半、われらが人文社会群の教授会の最も熱中していた主要議題は、いかにして「一般教育」と呼ばれずに済む「地位と名称を学内機構に実現するか」の「改革」論議であった。あげく全員が、機構上は「大学院」に所属するという、ウルトラCだかDだかの「改革」が実現する手前で、わたしは、そんな学生不在で実施されてゆく「大学改革の空洞感」を肌身に感じつつ、有り難く「定年退官」できたのであった。
それでも今も大学内に、「一般教育」なる「人間教育」の必要が、無くなっているのではない。その気概が盛り上がらないだけのお話のようである。
わたしが四年間、東工大でしてきたことは、こういうお気の毒としか云いようのない当局や当人達の認識への「ポレミークな批評」であった、と云っておく。一学年に千人あまりしかいない大学で、四年間各前後期に、延べ人数にすると五千人がわたしの教室にあつまった。わたしが集めたのではない、学生が集まったのである。三万五千枚、本の百冊分もをわたしに書いて提出しつづけた。私の授業は出席し、さらに厳しい課題に答え続けなければ到底単位のでない仕組みであり、課題は容易なものではなかった。学生は、聴いて、考えて、書いていつづけた。それでも、他の先生の教室で閑古鳥がないたほど、毎週わたしの顔を見に来てくれたのである。それが本当の「一般教育」であったからだ。
2003 8・13 23
* まだ見ぬ明日への不安でいたたまれなくなる。 ……。
さもあろう。三十過ぎ。まさしく、そういう実感にさいなまれていた、わたしも。若い友人達の多くが、いままさにそう感じて、来るのか来ないのかわからない「明日」に戦いていることだろう、その年頃だ。昨日はたしかに在ったような気がする、が、明日などけっして在りはせず、「今・此処」しか無いのである。「今・此処」が苦しいと明日を幻想し仮想し焦燥するが、「明日」とは決して無かったと確信できる語彙の一つであった。明日にかける「夢」はもてる。明日が夢に他ならないのだから。明日は現実にはならない。「明日の中に身を置いてみたい。」これが「夢」の同義語である。
ひとは「今・此処」にしか生きる場をもたない。置いた脚の爪先は、億兆尺もの奈落へ消え失せた断崖絶壁で、なにの足がかりもない。しかも踏み出せば踏み出した其処が「今・此処」だ。置いた脚の爪先は、億兆もの奈落へ切れ込んだ、常に断崖絶壁。闇にひとしい。その闇へ踏み込んで行く勇気。それが「実存」の勇気だ。
石川淳という作家は。その目の真ん前の「闇」に突入して行くのが、小説を「書く」、ものを「創り出す」ことだ、と、謂っていた。
2003 8・14 23
* 「般教」を拝読して思い出したことが。近くの大学でニセ学生をしていましたとき、上代文学をご専門の先生がおいででした。その先生が「般教」としてでしょうか、医学部の学生に、上代文学を講ずることになられました。
そのとき、先生は『萬葉集』から百首選んでそれを教材とされました。先生がおっしゃるには、どうせ、古典文学に興味を持つ者など少なかろう。けれど、彼らによい医者になってもらうこともさりながら、日本人のよき心を知って、よい人間になってもらいたい。いずれ、こっちの命をあずけることになる連中なんだ。萬葉のうたに感動する心も持たない奴に、大事な命をあずけるわけにはゆかん、と。
何ということない雑談をしていたとき、三島由紀夫の名が出ましたところ、「ミシマユキオって何する人かね」と問われて仰天したことも。このスゴイ人物は某大学の名誉教授という肩書きをお持ちでした。
わが器械は遅れているらしくて「麺麭教」と申しております。
* このメールで、わたしが、つッと立ち止まるのは、万葉集で「日本人のよき心を知って、よい人間になってもらいたい」とある一行。
「よき心」「よい人間」という物言いが、この先生の正確な直接話法とは限らぬコトを承知でいえば、やはり此処は倫理的な道徳的な社会的な期待の表明に思われる、が、同じように東工大で詩歌を、文学を語ってきたわたしは、学生諸君を、上の意味での「よい人間」にしようとは、ゆめ、考えなかった。要するに、自分で言葉を求め深め拡げながら、いかに言葉には限界があるかを察知して欲しかった。
「よい人間」「わるい=よくない人間」などという区別は、行けば行くほど曖昧模糊としている。漱石作『こころ』の「先生」は若い「私」にむかい、人間の善悪の区別がいかに無意味か、そんな区別が本来在るのではなく、人はひょいとしたことから突然「よく」も「わるく」もなるものだと吐き捨てていた。よいとわるいとの固定観念と化した「分別=心」がどんなに人を底なしの蟻地獄にひきずりこむものか、悲劇的か、おのれの「心」の頼りなさと、それを誤魔化すために駆使している「分別」のあざとさを想像してみれば分かる。学生や若い人達を道徳的・社会的に「よい人間」にするために文学や藝術があるのではない。それは或る社会や政治が人々にし向けているトリックであり、ある種の鋳型化である。文学や藝術は、人を一定の鋳型になどおさめないために存在している。だから文学や藝術には原則や規則が在るようでじつは無いのだ。人を豊かにし、体験を補い、より本質的により大切なものを己のために、また人のためにも見出しうる力をつけてくれる、かも知れないのが、文学であり藝術である。
「人間教育」という言葉で、だれかに都合のいい「鋳型教育」をはじめるときは、とてつもない人間破壊の不幸が迫ってくる。荒廃である。万葉集はそんな拷問なみの道具に使われようとして在るのではない。
2003 8・14 23
* 夜前、トム・ハンクスらの映画「アポロ13号」をビデオでみはじめた。あのアポロより前、一九六九年七月二十日にアームストロング飛行士たちは人類初めて月を踏んだ。忘れもしない、一九六九・六・一九。わたしの太宰賞がきまった桜桃忌の、ほんのすぐアトであった。日本の敗戦はそのほぼ四半世紀前の今日八月十五日だった。わたしは国民学校四年生だった、母と、丹波の山の中に戦時疎開していた。
戦争に負けた、それは、山の暮らしから京都へ帰れるということでもあった。だが、もう一年余も、わたしが重い病気にかかって、母の手でかつがつ京都の懇意な医者の家に担ぎ込まれるまで、山の暮らしは続いた。その山の体験があったればこそ、わたしは後年に「清経入水」が書けた。太宰賞がもらえた。あの暑かった敗戦の日から五十八年。思えば思えばあれ以来毎日毎日が「今・此処」の生きであった。「明日」はむろん仮想したが、仮想でない「明日」など在りうべくもないのだった。
叔母の稽古場の欄間に、「あすおこれ」と扁額があげてあった。御幸遠州流の家元井上冷一風が弟子である叔母に与えた万葉仮名の書であったが、生け花の師が弟子に与えた言葉としては異例の字句だ。叔母が何と読んでいたかは知らないが、何と書いてあるのかと尋ねた社中やわたしに、「あす怒れ」とだけ読み下してくれた。「ふうん」と思いつつ「明日」の意味を感じ取ろうとはしていた。
さらに遅れて、わたしはこれも叔母が弟子入りしている裏千家「今日」庵の今日という名乗りのことも、よく思ったものである。「懈怠比丘不期明日」の偈に依って、これには、よく知られた逸話が添うている。
「明日」をめぐっては、二た色の思いを、人はもってきた。「あすなろう=明日成ろう」という希望と、「明日ありとおもふ心のあだ桜」よと、「夜半に嵐の吹」くを戒めた「今日」重視と。何事かを本当に成してゆくには、希望は希望としてその「希」にして架空の夢であるを承知の上、「今・此処」に徹するしかないと、毅い人ほど思ってきたのではなかろうか。海市ほども夢ははかない。夢は心をあやかす蜃気楼、それへ日々の力点をかけていては、影踏みのくるしみに自ら落ちこんでしまう。
* 今日、終戦記念日、あの日とこんなに気候が違うと、実感が湧きませんが、あの日はしっかりと記憶にあります。出征中で父のいない父の実家の、離れの疎開地で、照りつける外で、ラジオを囲んだ記憶。雑音のうえ理解できない玉音を聴きましたね。何しろ、住所が・・・浜というほど浜に近く、その庭の真白な砂上に松葉ぼたんが色とりどりに咲き乱れてきれいだなと感じたのだけが、妙にしっかりと連鎖します。
後に両眼を失った父が先祖の墓参をしたいと、ある夏、まだらボケの母は姉が看て家に残し、まだ元気と思っていた弟の車で東京からずいぶんな長旅をしましたが、何十年ぶりに訪れても、何の感慨もありませんでした。弟はその翌年の秋に他界しましたか。
はるかなあの当時は、近所に住む父の年老いた長姉が、優しく、空いたお腹をいつも満たしてくれ、後年のその折も、その孫夫婦が歓待してくれまして、心安まりましたが。
そんな日の今朝、以前にビデオ撮りの1956年のアメリカ映画「攻撃」を、時間がなくて途切れ途切れで、やっと観終えました。
1944年、ヨーロッパでのドイツと交戦中、話は戦地での米陸軍内部の良・悪の人間性を描いていて、いましがた残る終盤を観ながら、珍しく泣いてしまいました。
つくずくと戦争はごめんです。
すぐに巻戻して観直したい衝動にかられています。雑用がいっぱいあるのに。
* それぞれの敗戦であった。あの頃は、おおかたが「敗戦」とは謂わなかった、この人もそうだ「終戦」と謂っている。「占領軍」とはだれも謂わなかった、みな、「進駐軍」と謂った。心から敗れ、心から占領されたと身にしみていたら、われわれの「戦後」はいま少し徹したであろうに。これは「死ぬ」意味の同義語を夥しくつくってきた民族性とも関わっている。モノゴトを、ヒタと、直視したがらない。
2003 8・15 23
* リアリティーについて問うと、まるで正反対の答えがいろいろに返ってきて、複雑な、興味深い思いをしたことがある。たとえば、「本当」と「本当らしさ」という答えかたで意見が二つに割れる。
メールの人の云っている、暑い時期に熱い饂飩のことを考えなく書いている場面があるとして、よほどでないとこれのリアリティは他人には伝わらず、書き手の想像力不足としてシラケてしまう。情況をつよく把握していたら、こういうチグハグは出ない。ないしはチグハグが効果の表現になる。その意味では比喩の使い方でボロが出たり力量が出たりする。リアリティー以前の問題である。
暑い日にわざと熱い茶を好む場合もないわけではない。一見奇妙なことも、時にウソでも、把握がつよいと佳い表現でそれがリアルに伝わることは、少し苦労した人なら知っている。リアリティーとは、本当のこと、事実そのものではなくて、事実ではないかも知れないがそれらしく本当らしく掴まえられ、本当らしく表現されているときに感じられる真実感のことでしょう、と、あの東工大の研究者の卵たちの、かなりの人数が答えていたことは、忘れられないで居る。リアリティとはじつに巧みなウソであるという論法に近い。うまいウソが書きたいならホントウのことを書けばよいとは、私小説という変種を生み出した日本の近代文学の感覚であった。これは有効であり、しかし、豊かに豊かな値い貴きパン種ではないだろう。
2003 8・21 23
* バルセロナが、「京小闇」さんと呼ばれていた。はからずも、うまい呼び名かもしれない。
* 昔の風 2003.08.28 小闇@バルセロナ
日本に里帰りした同僚が、ユーミンのCDを買ってきた。貸してくれると言う。気の進まぬまま家に持ち帰り、半ば義務で聞いている。やっぱり懐かしい。
「流行りの曲など」聴く術もなかった私も、高校に入ってからは、友人の好きな曲を借りて聴くようになった。ユーミンはその一つ。仲良しのいっちゃんが、熱心にジャケットを写してくれた。
ユーミンを聴くと、あの頃のいっちゃんを思い出す。文化祭の劇で、彼女は「北の国から」のれいちゃんを演じた。私は蛍ちゃん。お決まりの如く、彼女は純君役の木村君が好きになった。二人とも、箸が転んでもよく笑った。
聴覚の記憶って不思議。昔聴いた曲を久しぶりに聞くと、その曲とは離れて、それを聴いた頃の人や心境が甦る。季節の虫の音も、何だかよく分からずに、懐かしい。だからかもしれない。CDは、当時よっぽど好きだった「ニューシネマパラダイス」しか、ここに持って来なかった。それだって、聞いていない。中島みゆきや加藤登紀子なんて問題外。理由は分かっている。センチメンタルになりたくないから。
のれんを揺らす風が、心持ち涼しくなった。CDなら聴かなければいい。でも、この秋の気配は、きっと避けて通れない。
* 短く、適切に書けている。こんなふうに、自分史を「スケッチ」してゆけて、それが文藝であり得たなら「表現」の喜びは増してゆく。二つ、気の付いたことを指摘してみよう。
「流行りの曲など」聴く術もなかった私も、…… と書いてある、前の方の「も」である。此処は三つ書き方がある。(一)聴く術なかった私も (二)聴く術がなかった私も (三)聴く術もなかった私も である。一は、感情をあらわさない事実の直叙で、二もほぼ同じ。三の聴く術もなかったの「も」にはいろんな感情が上乗せされているので、読み手次第で受けとられようが動いてくる。こういう「も」は、書き手が自然に使いたくなる「も」で、自分の置かれた、強いられた、余儀ない情況の意図的な、あるいは無意識ながら提示的な指摘ないし強調になる。読み手は、ああ気の毒にとも、ちょっとイヤミにも、自分もそうだった同じよとも、理解したり反感をもったり共感したりも、するところ。つまり、この「も」には書き手が露出してきて、読み手に評価される「も」なのである。効果もあるが逆もある。
わたしなら、一か二でさらりと流し、他の全体の叙述により読者に印象を委ねるだろう。
もう一つは、「二人とも」の二人が、女同士のれいちゃんと蛍ちゃんか、仲良しになっている男の純ちゃんと女のれいちゃんなのか。一読、わたしはアトの二人と読んだけれど、そしてかすかに書き手は蛍ちゃんの疎外感も謂ってるのかなと読んだ、が、「箸が転んでもよく笑」うのは女同士かなともすこし迷った。もつともあの純ちゃんは男の子だがよく笑う少年であったから、その純ちゃん役もそうであったか。
* 残暑、厳しそうである。
2003 8・29 23
* 新たに相当な大人の女性が、「草闇」と自ら名乗って、九月一日から日々の「私語」を書き始めたと云ってきた。最初は、叢=草むらがいかに好きかを語り、二回目は俵万智の「勝手に赤い畑のトマト」の歌に触れている。
率直に云って二つとも練れていない。勝手に赤いなど、もっと滴るような切り口の味わいが、年の劫で有ってもいいのではないか。叢にしても、千坪の別荘のそのままの草むらや草花の話では、あまりにありのままになり、読み手は自分の問題へ繋いで行けない。「私語」だから繋がらなくてもいいといえるが、そうではない。ましてホームページに公開して行くことになれば、いかに「草の闇に言い置く」「私語」にしても何かしら訴求して行く発語の勢いがないと、自己満足の日記に終わってしまう。
若い「小闇」たちは、あれで幾らか我が身の血を流して書いている。だから衝撃がある。
草は、花や幹や根とどうちがうのか。民草といい草莽といい、また博物学や薬学へ道をのべた本草ともいう。いろんな草むらが日本列島にも海外にもひろがっている。子供の頃からの「好き」から、大人になり老境にすらさしかかってその好きがどう育ったり変わったりしたか、そういう壮大な基点や起点や気転が、ものの始めにバンと出ると、連載のつよい位取りがが出来たかも知れない。
「私語」をただの私語に終わらせない年の劫を大いに期待したい。これはおそるおそる手探りでやるより、天下に我一人と想ってやることだ。「言い置く」に値する瞬間風速を期待したい。
2003 9・2 24
* 何年前になるだろう、ある画家の絵を買った。魚が二尾の絵だった。「動かなければ出逢えない」と字が書いてあった。言葉にも惹かれた。
だが、あれ以来のわたしは、変わっていった。
「動かなければ出逢えない」というのは、幾分の真実である。若い日々には、ことにそうであった。
出逢うと云うことが、大切で大事で、人生を決することもしばしば有るのはホントウのこととして、今のわたしは、もうそういう境には自ら居ない自覚がある。つまり「動かなければ」とは思わない、いや願わないのである。
鏡は、自らは動かない。真澄の鏡は、来るものは残りなく選ばず何でもクリヤに映す。往くものへは何の思いものこさない、拭ったように。そのようでありたいと、理想が、転移したのをわたしは感じている。往昔への記憶がうせたわけでなく、懐かしむ気持はむしろ今後にも深まるだろうが、「既往」であることは否まないし、そのためにはもう動くまいと思っている。それは、「今・此処」の問題ではない。
鏡である自分が、おそろしいほど多くを現に映している自覚はある。日常の生活、文学の世界、闇をへだててかわす声や言葉。社会生活。無理不自然はつとめて避けながら、鏡に映るモノ・コト・ヒトはおろそかにしていない、わたしは十分心楽しんでいる、が、手にあまれば落とすのに躊躇すまい。手に余るものは、おそらく不要なのだと思う。
生きるということ自体、「無理をすること」だと考えている人も有る、たとえ「不自然に」でも。
そうかも知れない、わたしも若い頃はそう感じていた気がする。
だが、もう少なくも十年来、わたしはべつの境に身を動かした。無理や不自然をわたしが犯していない意味ではない。そんな達人ではない、が、そうではなく在りたい・在ろうとしている、ということ。
「動かなくても出逢える」もののあるのが信じられるようになっている。「動いて」得たものは「選択した」ものである。選択するという分別が働いていた。だがその分別が、ひとを消耗させる。静かな心を失わせる。鏡のように受け容れて鏡のように離れたい。なによりもそのことを、「分別する心」をはなれて、楽しみたい。それが苦痛や煩労や狂奔のようにひとめに映ろうとも、気にせず楽しみたい。無理不自然をまぬがれる魔法は、その辺にひそんでいる。
* 率直に云うが、わたしは、分かっているのではない。じっと瞑目したときの闇の深さが明るむ嬉しさを、待っているだけである。
2003 9・3 24
* 中西進氏の「漂泊=海の彼方」を入稿した。ずうっと以前に戴いていた単行本の中の一章を、抄出。十分な長さもあり論旨は面白く、良い一樹がまた植わった。
校正していて、初校した妻も通読したわたしも、口を揃えて話題にしたのが、例えば浦島が海宮にいた「一年」が、陸なる故国では「三百年」に相当したという、その「時間の評価」で、中西さんは、地上時間の「三百分の一」の短い時間しか持たない海世界だと、二度も云われている。わたしたちは、従前からむしろその逆に、地上よりも「三百倍」もの時間をもった海の国と感じてきた。
おなじことを言っているとも云えるが、おそろしくも本質的な差異だとも云える。いま、その是非を此処では語らないが、わたしが泉鏡花の掲載第二作に戯曲『海神別荘』を敢えて選ぼうとしている根底の思いにも、この中西時間と秦時間の意識差、評価差が絡んでくるだろう。泉鏡花を俄かに「論じ」てみたい衝動をもったのも、無意識にこれが絡まっていたようだ。
今一つは、わたしは、終始鏡花世界と限らず日本の神話の根底に、水神・海神=龍・蛇を置いていることは、知る人は知ってくれている。「蛇」を主題に鏡花を語った講演録もとうに活字になっている。中西さんの論説には、きわどいところでこの視点が回避されている。触れられていない。それもわたしは、批評的に観ている。
* 見当はまるで別のことだが、ホオリ=ヤマサチヒコが海に往くときに海路を教えてくれた神が、「マナシカツマ」という乗り舟をも訓えている。これは中西さんも云うように目のつんだ「編んだ籠」なりの舟の謂いであるが、この「籠」の、意識下に遙かに遙かに言い伝えられた一例として、わたしは、『閑吟集』のなかの「籠がな 籠がな 浮き名もらさぬ 籠がななう」という籠のあることに気付く。そしてわたしは、この閑吟集の「籠」は、利休の小間の「茶室」に等しかろうという講演をしたこともある。横浜関内で、亡くなった山本健吉先生と同じ場所で話したのだった。
連想は放恣に流れることもあるが、真実への洞察に繋がることもある。中西論説を校正しながら、いろいろに連想を楽しむことが出来た。
* もう一つを挙げておこうか。「治養す」という語彙が出てくる。「ひだす」と読む。意義は漢字が示していて、神秘の領域にも行き通うことの可能な養育、療育の意味になる。しかも「水」の神秘に触れている。謂うまでもなく「ひたす」ことの威力が推察されている。清らかな神水に禊ぎし身を浸すことの不思議にかかわる。
『冬祭り』という長い新聞小説の最後の方で、今暫し此の世に止まりたい切なる情けと願いをもって、山道をひた走りとある泉に身を「ひたし」て、辛うじて夫との、父との現世での愛を確かめ得た母と娘とを書いたことがある。水に「ひたす」ことの是が非にも必要であった世界の、異界の、愛すべき女達を、である。
* 神話の世界、平成の現世界とは無縁であるなどというのんきなことは、じつは、謂っていられない。不思議のフラグメントはきらきらと輝くようにしていたるところに散らばっていて、見える眼には畏ろしくも魅力的にも生き続けている。中西さんの論説は、「ペン電子文藝館」のような尖端の場において、なお示唆に富んでとても(現代的な)興趣にも溢れているのである。
2003 9・3 24
* 「わたしのことをもっと分かって欲しい」といった物言いを、ときどき聞いたり読んだりする。なるほどそういう気持を相手に対してもつ場合もある。ことに多年親しんだ人の場合にはそういう思いが、必要、という要件のかたちで出てくる。
だが、たいていの場合、「わかる」というここと自体をアイマイでウサンくさいことにわたしは感じているから、自分のことも、そんなに簡単に「分かられて」たまるかというほどの気持も持っている。自分にも分かりかねる自分を、そうそう人さまに分かられては叶わないではないか。それにもかかわらず、人は「分かろう」「分かりたい」と思うものなのだろうか。「絵が分かる」という普通の物言いがいかにアイマイで、タマネギの皮をむくようなものだと講演したこともある。
2003 9・4 24
* 黒いマゴに起こされ、七時半に床を離れた。ながらく強度の鬱病でひっこんでいた俳優の高島忠夫が、快復し、「イェイ」と昔ながら(とは行かないが)指を立ててアイサツ。家族力をあわせて根気よく見守りつづけ励まし続け知恵を絞って今日に辿り着いたという。感動した。鬱は、われわれ老境が最も落ちこみやすく最もおそれねばならない難病。わたしの実兄恒彦の場合は他に病気もあったにせよ、やはり鬱の進行が覚悟の自決に奔らせたのだろうと思う。
おのれを無用の存在と思いそれが悩ましくなるのは、知識人のおちこみやすい弱点であろう。じつは、無用の存在に成ることこそ人間の理想という境地もある。一種治療的意義も汲んだ境涯であったろうが、ほんとうにその通りだとわたしは思う。一気には到達できないにせよ、段階をふんで少しずつ己れを「無用化」してゆくことは出来る。現に実践している。もうここ一年二年前からわたしは「稼げない・稼がない」暮らしをしている。しかも持ち出しの多いボランティアに打ち込んでいる。伊達や酔狂でできない「無用の用の己れ」を楽しんでいる。かつがつ楽しめるのは、つまり働くべきときに働きまた働かせてもらえたからである。ほんの少し、足るがままでよろしく、多く慾はかかなかった。
それでも鬱の心配はないなどと油断はしていない。こいつ、すばしこく稲妻のように身内に食い込む。知っている。すばやく対処しないと身内にいついてしまう。
無用の用をいかすこと、それに鬱退治のなにかコツがありそうな気がしている。
2003 9・8 24
* 猿蟹合戦だったろうか、囲炉裏の栗がかっとはじけて猿をやっつけたのではなかったか。「栗」というのはわたしの頭の中では、たいそうな褒め言葉で、好きな人を喩えるときにわたしはなぜか「栗の」ような人と出てくる。自然で硬質で木質の柔らかみや温かみもあり、知性的な感じを持っている。そして、火の中で熱くつよくはじける感じ。
口の中でむちゃむちゃとモノを言う人より、くりくりと明晰に温かくはなす人が好きだ。真っ白いなかにほの黄色い栗の実の飯。真っ白いなかにさみどりの豆ご飯、真っ白いなかに青のにおう七草粥。みな好きだ。
道明寺という菓子にかかわって、河内の道明寺のことを、大昔に随筆に書いたことがある。どこかの新聞であった。もともと餅が大好き、餅菓子が大好き。そのなかでも「道明寺」といわれる菓子はお米のつぶつぶ感が口触りに優しくて、ひとしお好きであるが、名前からして菅公ゆかりのあのお寺がかかわっているのだと想っている。優雅に柔らかみの美味しい餅菓子として、品のいいものである。
2003 9・8 24
* 夫が妻を語っている、という建前で、筆者=作者である妻自身が自分自身を語っている、つもり、らしい文章を何度か読んでいる。もってまわった趣向が自然なつよさで胸に届いてくるまでには至っていない。やや過剰に情況が攪拌されて届くから、読み手には、書き手が意図しているほどすらりと届いているわけではない。戯画化は、むずかしいものである。
2003 9・12 24
* 明日からの一週間、次の日曜日まで、せめて気候的に少し涼しくあってほしい。木曜の他は出ずっぱりになる、体力が欲しい。
私の顔をみると、だれも元気そうだと言ってくれるが、四肢は痛く痺れているし、違和を感じている箇所は全身にいっぱい。睡眠も足りていない。
それでいて、一つ一つの仕事や用事をしていると、つい、時のたつのも忘れている。出ずっぱりといっても、気に染まぬことは何も無いのである。しかし疲労は容赦なく蓄積してゆく。
そんな中でもやはり芝居が楽しみだ。今月の梅玉・時蔵の毛谷村も、あの富十郎・雀右衛門の喜撰も芝翫・福助の業平も、反芻するように瞼に嬉しく浮かんでくる。明治座の「日本橋物語」ですら平幹の馬の脚が思い出され、けっこう懐かしい。まだこれから劇団昴の洋ものがある。「花粉熱」これは期待できる。三十か一日には原知佐子から招待の「平家物語」の読劇がある。この頃此の「読む」芝居企画が多い。俳優座の稽古場でやった井上ひさし原作の「不忠臣蔵」もそうだった。同じ稽古場で、今度は「ワーニャ伯父さん」をやる。チェーホフの芝居で一番劇的に面白いのではなかろうか。今度のは妻は辞退したので一人で見にゆく。そして十月は、歌舞伎座が藝術祭参加の昼夜興行、出し物もけっこうであり、松嶋屋からもう座席取りそろえて送ってきた。我當は、夜の金閣寺に勇ましい役で出演する。堂々と見せて欲しい。そしてお目当ては、浅草寺境内の平成中村座が昼夜。「骨寄せ岩藤」などを勘九郎がどんなにめざましく魅せてくれるか、翫雀ら若手の同じ興行を南座で見たのがまだ頭にある。楽しみなことだ。
いつまでも、からだはもつまい。いまのうちに楽しめることは楽しんでおきたいと俗欲も出ている。
* 反動でかもしれない、人と逢うといったことが減っている、というより、すっかり腰がひけている。モノ・コトに付き合うよりも、ヒトと付き合う方がエネルギーを要するのは当たり前だろうが、それに見合うワクワやドキドキがあまり期待出来ない。と言うより、たとえ有ってもそういうワクワクやドキドキがさらに疲れを深くする。
いま、立原幹さんの小説も読んでいる。ヒロインは、室生寺の釈迦如来に魅了されている若い女性。日々に自身の視力をうしないつつある不安と、甘美なほどの釈迦如来像への傾倒とが、ないまぜに書かれている。わたしには、それほど超俗の欲望はないけれど、要するにわたしを魅了して已まない、仏ならぬそんな人との出逢いが、所詮はもう望めない気分なのかも知れない。いやいや、まだまだ分からないけれど。
逢いたい人がいつでも有る……のを、元気さや若い気力の象徴のように自分に言い聞かせてきたが、それは今も事実だが、さて誰とと思い至るときに、だんだんと大勢有ったそのシルエットの一つ一つが魅力の輪郭を溶かしはじめている。いっそ頭の中で逢っていればいいではないかと、これは断念というに近い老いの自覚なのだろう。作品に書いた人は作品の中で永遠に若い。ものの譬えにも還暦の現実の慈子より、作品の中で実在の慈子の方がわたしには貴い。一種の衰弱なのかも知れぬと自戒はするが。
2003 9・14 24
* 惜身命 2003.9.16 小闇@tokyo
「歌舞伎町アンダーグラウンド」を読んでいる。東京湾で遺体となって見つかったフリーランスライターが書いたものだ。amazonでも売り上げトップを独走中。本は売れないのではなく、売れるタイミングを逃しているだけではないか。
その死と著書との因果関係は明らかでない。おそらくずっと判らないままだ。誰かが言っているように、命をかけた仕事だったのかも知れない。もちろん、だからといって殺されていいわけではない。
仕事は人生の一部で、わりと中心近くに位置していて、最近思うにそれなりに素敵なものだ。うまく進めば嬉しいし、何かあれば、ほかではないほどのストレスを受ける。
けれどたぶん、捨てられる。今すぐに仕事のない生活は考えられないし経済的環境が許さないが、究極の岐路に立ったら、あっさり捨てると思う。例えば、仕事を捨てないと殺される、と相成った場合など。
そういう意味で、惜身命。明日死んでもいい、とは思ってはいるけれど、何かに殺されるのはまっぴらだ。そう、たかだか仕事なんかで。
* 貴乃花が大関か横綱かになったとき、協会の使者にした挨拶が「不惜身命」土俵を努めるという決意表明であった。で、すぐその週のうちにも、事に当たるに、あなたは「不惜身命」か「惜身命」かと学生諸君にアイサツを入れた。どちらが、どんな理由から、多かったとこの「私語」の読者は思われるだろう。
この小闇の今日のエッセイがその記憶とも触れているのは明らかだろう。
わたしは、小学校の五、六年生から叔母の稽古場で茶の湯の門前小僧となり、新制中学の茶道部では、もう部員の稽古の指導を任されていたし、高校では茶道部の運営をすべて任されていた。その高校か大学の初め頃に、わたしは生まれてはじめて原稿料に相当するお金を、裏千家の雑誌「淡交」にもらっている。学校茶道といった主題でのエッセイの募集があり、応じて賞金を受けとったのである。「を(惜・愛)しみごころ」といったことを書いたとおもうが、同時に「たかが茶の湯」とも書いたかも知れない。
少なくもわたしは茶道部のおなじ年代の部員達に、茶の湯よりも大事な何かに遭遇したとき「をしみごころ」と「たかが茶の湯」棄ててしまえることも大切だろうと話していたように思う。それでよく裏千家の懸賞に当選したと思うが、もっと後年には「淡交」に連載のエッセイのなかで、「たかが茶道具」と書いて、それを書き直せ撤回せよと編集部のさんざんな注文を聴かされた覚えがある。
「たかだか仕事」と小闇は三十の若さで書いている、が、わたしも、この思いは本当に早くからいつも胸の奥に抱いていた。太宰治賞を受けて、最も早くわたしが書いて筐底に秘め置いた(今も在る)のは、「作家、さよなら」という、既にして文壇への訣別の辞であった。そういう思いをあえて胸にしたまま、わたしはその後の作家生活へ入っていった。
わたしの云うことと小闇の云うこととはズレているかも知れない、すぐさま同じとは云えまいけれど、少なくもわたしは、一所懸命というところを超えた気持で、懸命に人生を努めてきた。よりだいじなものが見つかったときには棄てて良いと思いつつ茶の湯を習い、同じ思いで、文学・文藝にも邁進した。わたしが文学・文藝を愛していることはわたし自身が疑いもしないが、それでも同じに、今も思っている。
2003 9・17 24
* 人は人のことを、ほんとうに知らない、知ろうとしないで、自分の思いのままにならないと嘆くものだ。しかもその「自分」のことだって、実はよく知らない、分かっていない。そのこと自体が、分かっていない。雲の足場に幻覚の城を建てているようなものか。
堅実に把握しないと、なにもかも表現は、ただもう泡のように頼り無い。無反省に「こころ」を信奉している人に、晴雨ただならぬ空模様のように、それが現れる。
頭脳と心臓。この語に「こころ」とルビをふるなら、どっちにふるか。四の五のいわず、あえてどっちかを選んで見て、そしてなぜか、考えてみたい。
2003 9・18 24
* その一人の今川英子さんは、林芙美子の精力的な研究・活動で知られた人だが、ある文学館の館報に「友情」と題した随筆を書いている。
文中に、芙美子の言葉が引いてあり、林芙美子は「私の『作品』を愛してくれる人のなかにこそ本当の友人を求めたい」と語るか書くかしていた、とある。これは、まさにわたし自身の言葉でもあるかのように、痺れた。わたしの、「湖」という語のいわば原義のように感じた。
子供の頃、仏壇の燈明に「美」を初めて感じた。また蓮の葉に野菜など供物の盛られるとき、蓮葉を清めの露をうつと、珠と光る露たちがきれいにころがって忽ち葉の底に「湖」をなす、あの完璧な帰一の美しさに、声も出ないほど感銘をうけた。ひかる露の珠たち。一瞬に凝って湖をなす露の玉たち。「身内」というわたしの渇望の原義でも原点でもあったろう。「湖の本」の読者たちは、わたしには或る意味真の親族・血族にひとしい思いがある。私という鏡に無垢に映じている心親しい人達であり、どのような経緯が有ろうともひとたび鏡の前から立ち去った人は、もう私には何人(なんぴと)でもないと謂えるだろう。
ある人が、「あなたは(特定の人よりも)不特定多数の方を愛する」と暗に非難の声を届けてきたけれど、それはわたしにとっての読者や学生達の意味を、「身内」や友人たちの意味を識らない、識ろうとしない「他人」ないし「世間」からの考えなのである。
2003 9・22 24
* テンポよく、よく具象的に見ていて軽率な観念に走らない。コラムエッセイとして、藝が利いている。
これだけ書けると、では、小説も書けるか。
それが難しい。小説は、場面をつくる道具立てや背景だけでは始まらない、人と人との葛藤や関係がしっかり魅力をもって動き出さないと、いつまでもエッセイのままに終わる。エッセイから小説へ吶喊して行くのに、何が必要か。
或る意味で「我」を捨てなくては成らないだろう。エッセイは「我」の味であるが、小説は、どれだけ「我を殺して」活かせるかである。「他」としたたかに取り組まねばならない、「我」だけでドラマは生まれないからである。
2003 9・25 24
* 思いがけずこの十日ほど、「古典」なるものの、おさらえ勉強をしている。「古典」というと辟易する人は多いが、古事記から蕪村や秋成まで、優に明治以降の近代現代文学に匹敵していて、古典を見失うということは、日本文学史の半ばないしそれ以上を、はなから欠していることになる。
なるほど、言葉も文法もかなづかいも異なっていて、容易でないといえば言える、が、じつは、そんなではないのである。そして一度馴染んでくると魅力横溢、読書のよろこびが何倍にも増してくる。
外国語ではない、同じ日本語であり、その時代時代の息吹は、いまも自分の口にし書いていることばや、また生活習慣や嘱目のうちに生きていて、そう縁遠いことばかりではない。
和歌や俳句の現代語訳なんてまがいものに頼ってはいけないが、散文は、もし優れた現代語訳があると分かれば、そこから入って良いのである。わたしのことをいえば、百人一首の現代語訳などという愚なものとは付き合わなかったが、源氏物語は、与謝野晶子の優れた意訳から入って、谷崎源氏も愛して、本当によかったと思う。
いま崇徳院の話題があった。院の、あの、落語にもなっている「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川のわれても末に逢はんとぞおもふ」など、どんなに現代語を駆使して訳しても、和歌に隠され畳み込まれた妙味はついにとらえきれはない。その歌の「うた」たる調べに惹き込まれ、好きになるかどうかから、コトは、すべて始まるのである。そして舌頭に千転万遍、意義をこえた妙味に惚れ込めば、知識は、必ずアトから来て、尻を背を優しく押してくれる。
2003 9・28 24
* いま三谷憲正さんの『オンドルと畳の國』が面白い。韓国朝鮮のことを考えていて、根の問題としていつも違和感を覚える第一は、向こうの知識人達の発言だ。強硬に硬直している例にむやみと遭遇する。三谷さんも触れているが、金芝河という日本でも一時むちゃくちゃに持ち上げられた詩人の日本國の理解など、発言など、ただただ首を傾げさせるトンチキなところが、あるいは視野狭窄と思考の固着が著しい。何十年たっても一つ覚えのような「日帝」極悪だけでは、日本の私民は顰蹙する。かすった程度の批評としては当たってもいようが、かすりもしないで見えていない広大なところへは、およそ何の理解も及んでいない。不勉強なものだ。
一時、日本文化の何もかもを、すべて「朝鮮」由来ときめつけたアチラからの議論が大流行し、珍妙で強引な解釈が、とんでもなくトクトクと開陳された。興味深い指摘も中にはあって教わったが、『冬祭り』の作者としては頷けない議論が多過ぎた。
シベリアやオホーツクからの、またダッタンからの北要素が、雨に降られたように日本列島に広く認められる。また稲や蛇の文化を抱いてきた南島づたいの民俗がいかに豊かに日本列島を北上してきたかは計り知れない。渤海や南海経由の中国の文物や言葉も、直に日本を感化し、痕跡も展開もを今に残している。
いったい朝鮮半島の知識人達は何が本当は言いたいのかと戸惑い、やはりそこに「政治」が顔を出す。過去の政治的関係が顔を出す。当然であるが、そこで急激に知識が感情的に揺れ動いて、スローガン化してくる。金芝河氏の言葉はたんに糾弾のための糾弾と化してくる。三谷さんも書いているが、認識自体が固着して、機械的にある一点に縛られた言葉の連発になり、アホの一つ覚えをゼンマイ仕立てのように繰り返してくる。自国の人を煽る効果はあれども、たとえば普通に生きている日本の私民知性にうったえる中身は干からびきっている。
* 藤村の「夜明け前」は文学的に静かに精錬された言葉で、落ち着いて、身の回りと日本とをたいせつに語りつづけている。大人の文学である。韓国や北朝鮮にも、そういう文体の魅力とともに、スローガンに走らない静かなリアリズムの文学があるのだろうと思う、そういうものが佳い感じにもっともっとこっちへ伝わってきて欲しい。
2003 10・3 25
* なにごとにも過剰ということは起きやすい。過ぎたるは、たしかにロクなことはない。一言多かったり一言足りなかったり。世の常か。
2003 10・3 25
* 同じ音読もう十年余のバグワンは、今また「般若心経」を読み進んでいる。ゆうべは「知識」への本源的な批評を読んでいた。なにの花ともしらず眺めた花の美しさ、その瞬間には花と人との深い融和と一体感とがある、が、一度びその花がバラである、ナニであると知ったとき、人と花とに「距離」が生じる。この「距離」という精妙に微妙で正確な指摘をわたしは直感的に全面的に受け容れる。そのようにして我々は余儀なく大事な幸せを手放さざるを得ず生きてきたと思う。知識は、まず何より知っているモノゴトと知らずにいるモノゴトとに、分離や分割を強いる。つまり「分別」という一つの距離がいやおうなく現れる。心は、マインドとは、「分別心」そのものであり、これを高く旗印に掲げるが、人の不幸はこの旗印のもつ詐術に気付かず、大事なモノゴトを実は捨て去ったことに気付かずに、もっと大事なモノゴトを手に入れた、獲得したかのように錯覚し評価する。だが、それは底知れぬ「もっと、もっと」という蟻地獄に身を投じて、しかも本質的な関心にはほとんど何の役にも立たない・立たなかったことに、死の間際になるまで気付かないのである。
分別をのみコトとする知識=論理では、人は決して静かな無心には至れない。知識を棄てる非論理や無分別の底のトータルな静謐が大切なのだと思う、わたしも、バグワンとともに。譬えての分母はそれであり、それゆえに分子は自在に多彩に活躍してゆける。分子とは、政治への関心であれ、湖の本や電子文藝館であれ、無数の人間関係であれ、それは夢であり絵空事であり虚仮である。分かっている。分かっているから活躍すればいい。分かっているから楽しめばいい。しかし大切なのは分別や知識ではない、それらが引き裂いてきた夥しい亀裂や分裂のみせている深淵の凄さを、一気に棄て去れることである。人は嘗てに「真っ黒いピン」を我から無数に身に刺し、その痛みに耐えかねて奔走している。ピンはもともと刺されては居なかった。刺したのは自分である、それも分別や知識や打算で。
ピンは抜き去ることが出来る。だが難しい。わたしのこういう言辞もまだ分別くさいと我ながら思う。
* わたしが自分で自分を嗤い叱るとき、思い出す一つの小歌がある。この辛辣にこそ、頭を垂れ、わたしは凹むのだ。
人は嘘にて暮らす世に 何ぞよ燕子が実相を談じ顔なる 閑吟集 一七
燕子という聖人が実在したのではない、分別くさく鳴きしきる燕たちをそう呼んでいるのだ、孔子や孟子の名になぞらえて。そんな燕子たちがどんなに世間に多いか、そういう人ほど「心=マインド=分別」を云う、「実相を談じ顔」して。それこそ人を心ない浮薄と形骸化へ誘うだけの、諸悪の根源なのに。日本ペンクラブの会報に、驚いた、「心の委員会」が必要と提案している会員発言が出ていた。驚いた。だがそれを驚くわたしのことを驚く人達の方が、まだまだ絶対多数だろう。
* もう宵の六時半。戸外は真っ暗。秋になっている、深々と。遠く遠くに飛行機の爆音。ずうっと今朝から源氏物語の世界にいた。眼もだいぶ使った。
2003 10・5 25
* 松原泰道さんの話をテレビで聴き、感銘を得た。禅の人らしく、その細部に至る述懐のあれこれに矛盾がなく、透徹した理会が感じ取れて、一会一切会の人だと敬意を覚えた。それはダメということには、わたしもそれはダメだと同感できた。それが大切といわれる大切なことが、わたしもまた大切に思われた。バグワンの把握の的確なところと通っている、力づよい静かなものをビンビンと感じた。わたしの問題として、いま暫く松原さんの談話を反芻していたい。
2003 10・5 25
* 慣れて、習熟することは、その限界と、さらなる手直しの大事さとを考慮に組み入れている限り、大切な、有効なことである。だが此処で小闇のいう「慣れ」は、かなりに「習慣」の意味のように読める。
わたしは心ならずも「心=マインドほ分別」をワルモノに言い続けている、(それには色んな展開や思索が加わるので、「心」という一字一語にあまりに過剰な意義を押しつけているのが問題なのであり、一概に言っている訳ではない。)それとほぼ同様に、「習慣」になずむことの怖さにも触れたことがあり、一つの胎毒また大毒だと思っている。「一期一会」を大切に思う者からはあたりまえのことである。習慣は、ときに美服であり時に襤褸である。いずれにしても人間をハダカにしない優しい或いは怠惰な防護服である。アランはその「美学」で語っていた、人間の自然は衣服をつけたときにあるか、つけずに裸体であるときが自然なのかと。アラン的には答ははっきりしているし、わたしもアランに反対ではない。だが、習慣にひきずりまわされることの余りに多い、余りに安易にそれが好きな日常や人生では困る。真に肝腎なこと、覚悟として、「念々死去・念々新生」のハダカに直ちに戻れる「バネ=発條」のつよさがなければならない。
わたしも、意図して日々に繰り返すことを幾つも持っている、が、それが「習慣」的に流れていないことを、大切に意識し、つとめて新鮮に繰りかえそうとしている。繰り返すことは、避けられない。繰り返すことは必然である、例えば日本の自然が四季を繰り返すように。しかも繰り返しの一度一度が、生涯にただ一度「かのように」繰り返せるかと古人は問いかけた。わたしも自身に問い続ける。「分別」と同様安易な「習慣」をわたしはほぼ敵視していることを、小闇の一文は、あらためて気付かせる。
2003 10・6 25
* リンゴ 『冬祭り』には、たくさんの美味しいものが出てきますが、なかでも、袋いっぱいのリンゴは、旅程でのタイミングも絶妙で、読んでいていつも喉が鳴ります。
雑誌を繰っていて、「無間道(インファイナル・アフェア)」のアンディ・ラウ(劉徳華)を見た瞬間、あのリンゴを思い出しました。あい変わらず、いい顔です。NHK教育「中国語講座」で、インタビュー・フィルムが流れましたが、真摯でまっすぐ、引き締まっていて爽やか、味わいは濃く。
林檎の香残る籾殻あたたかし (福田邦子)。
宏ッちゃんがロシアでかじったようなリンゴが食べたいわ。
* たしかに書いた気がするが。こと左様に作者より読者の方がよく覚えていてくれる。これでたぶん健康なのだろう、作者にも読者にも。
たいていの作者は、出版社があって作者が在ると考えている。読者が、などと言うと変わった動物に出会ったような顔をされてしまう、同業者たちの中で。
しかし作者が作品を介して魂の色を分け合っているのは、読者。わたしは終始そういう作者をしてきた。夏目漱石はそういう作者であったと思う。
2003 10・8 25
* インスパイアということを、ことに大切に考える。鼓吹されない程のことは、何事であれ、つまらない。鼓吹されるためには自分を開いて、或る程度棄てていなくてはならない、難しいけれど。自分は堅くガードしたまま、インスパイアされようなど、ムシのいい話である。自分の身の丈に合ったものばかり求めていてもお話にならない。
2003 10・8 25
* 秦テルオといい、バグワンといい、また政局といい世情といい、何と多彩にわたしの脳みそをまたハートを刺激して已まないのだろう。昨日の晩、ジャック・レモンとサンディ・デニスらの「おかしな夫婦」に夫婦して大笑いのあげく、今度は「種の起原」とやら恐ろしく気味の悪いホラーに胸がわるくなったり。
これもまた非生産的な「優雅」な暮らしとみられるべきか。いやいや、ありのままということである。
2003 10・10 25
* 秦テルオの詳細な年譜をつぶさに読んだ。いい年譜が書けるといいうことは、研究が行き届いている事であり、わたしは、どんな作家論でも、年譜がどれほどおさえられているかで評価する。研究書には索引が必備、そして人物を論ずるのならどんな年譜に基づいているかが成果の分かれ目になると考えてきた。秦テルオの図録についた年譜は、なかなか優れている。関連の資料も要約や簡略化しないで載せていて、参考にしやすい。
なにしろしかし小さい字でぎっしり書かれた文献類で、視力には厳しい。しかし読んでいてわくわくするほど興味深い。
2003 10・10 25
* あるペンの現会員と話したときに、日本ペンクラブは、文学について語り合う団体だろうと思って入会したと言う。ペン憲章など読みもしていないし、思想団体であり、言論表現の自由を守り世界平和を願って人権や環境や反戦反核を守ろうとしている世界的な組織だとは、ユメにも思っていなかったと。もっとたわいないべつの夢見心地で生きているらしい、ペンを握っている人としての知性が感じられず、辟易した。知性に裏打ちされないびしょびしょの濡れそぼった感性だけで文学が成り立つわけがない。
近代日本の作家の中でもっとも感性的に天才の高みにあった泉鏡花も、そらおそろしいほど痛切な、時代と人間と権勢と歴史への批評を胸に抱いていた。
自分勝手な気儘な創作をしていれば作者は足りていると思いがちであるが、血のにじむ自己批評に欠けた、感性だけのことばや詩句など、虚しい泡に過ぎない。辛辣な霊水を張ったホフマンの「黄金の壺」にひたせば、ただただに溶けて失せることば、それを恐れるのである、わたしは。
文学者の「はたらき」とは何か。それに一人一人の答が出て来て湖水のように集まらねばと、わたしは思う。清きオトメのようなただきれいな、または批評と責任を欠いた言葉の垂れ流しではしようがない。
清き( )女なんぞと歌ふ一首ありさういふモノがゐることはゐる 島田 修三
揶揄されているのは乙女ではない。あんただ。だが、あんたより先ず自分自身が指弾されていると感じること。
2003 10・12 25
* なにかというと自分は誤解されていると嘆く人がいる。そんな人には、こう言いたい。
* 誤解があたりまえ。 人が人を正解している、どんな実例があるというのですか。誤解し誤解されるのが、正常とは言わないが、通常の人の世ですよ、分かってませんね。
例えばあなたが、どうして此のわたしを誤解せずにおれるのですか。一人一人の人間は、みな「他者からの誤解の固まり」として生きているのですよ。そのかわり自分も他者をむちゃくちゃ誤解している。そもそも自分はその人あの人を誤解していない、正解し正しく理解していますなんて、どうすれば確認できるのですか。
だから、わたしは、人に誤解されるのが普通のことだと思い、少しも嘆かないし、人を誤解しているかも知れぬことを当然の余儀ない仕儀と思って、とくべつ悪い悪いとも思わないのです。
他者に誤解されたくなかったら、ひとりヒマラヤの洞窟にでも棲めばいいのですよ。しかしその方が不健康です。誤解の海の中でひるまずに泳いでいるのが、ほんとうの健康なんですよ。誤解をおそれ嫌うのは通俗で、誤解が普通と断念してずんずん生きるのが超俗的とわたしは考えている。どうぞ、遠慮無く、いっぱいわたしを誤解して下さい。
いちばん驚くのは、人から、自分はあなたをよく理解しているつもりです、あなたのことが分かる、などと言われる時です。バカモンと口の中で言い、あまりそういう人とは真面目に付き合う気がしない。
「人に理解されたい病」というのがあります。これは重病・難病に属します。「人に理解されない病」の方がはるかに軽症で、むしろそれが普通です。
2003 10・12 25
* 日本史は、ついに織田や松平が表へ出てきた。「近世」がもう顔を見せようとしている。「中世」はむずかしい時代であった。
* ひと頃のわが現代日本は、さかんに「中世」を語って倦まず、その頃は、まだしも民衆のエネルギーが炎をあげていた。国会議事堂を揺るがすことも出来た。いま、中世のエネルギーを口にするような知識人は、一人も見られなくなった、そのことに誰が気付いているだろう。中世精神に殉じ得たような知識人は、払底した。
今、象徴的に世の中で、名と顔との現れているのは、間違いなく対立する猪瀬直樹と藤井治芳であるが、藤井が保守で猪瀬が革新などとは、とても言えない。藤井のことは言語道断でお話にもならないが、道路民営化にしても郵政民営化にしても、本質はただの「手直し」であり、その根底が、いずれにしても甚だ保守的な、いわば「近世支配」的なものであることは、火を見るより明白である。民営などという美しい言葉が瞞着の意図を秘めていて、個人情報を保護するといって侵害管理し、人権擁護といって守られるのは悪い政治家や官僚であったりするのと同じく、つまり発想の根が、幸福と平安を願う民衆のエネルギーにまっすぐ結ばれてはいないのである。最後は政・官の気儘な肥大尊大へ行こうとしている。
あの猪瀬直樹といえども、なんら革新派ではない。優れて能力に富んだ批評家ではあるが。田原総一朗にしても筑紫哲也にしても猪瀬と同じであり、彼等もまた問題点という「餅タネ」を、マスコミの杵であっちへ搗きこっちへ搗き返ししているだけの「手直し=日和見」論者を一歩も出ない。それで飯を食っているのだから、当然だ。飯のタネが搗き=尽き果ててしまえば、喰いはぐれるだろう。
それどころか、彼等こそ、現代日本の「中世」感覚や意欲を「目の敵」にして押し殺した、いわば官・公寄り下手人達である。
中世は今の日本では死んでいる。そのシンボルが、学生の無気力に見られる。今の日本の学生は、國の運命に身を挺して闘う民主主義のエネルギーをもたない、今は、だれも。大きなものに巻かれ飼われようと、そのための勉強をしている。そういう國は、ふつう、潰れてゆくのである。
なんのことはない、今の日本は、明治初年の富国強兵をしっかり引きずって、とち狂っていると見える。見えないのは、政治家も知識人も、われわれ民衆も、強度の欺瞞的白内障患者であるか、そのフリを演じているからだ。
2003 10・19 25
* ときどき人とちがうことを言う。「好異学」と自嘲し、ときには少し得意がる。「解釈」「読み」で、ちょくちょくそれをやる。また始まったと人は思っているだろう、ないし無視しているだろう。
愛する閑吟集に、 よのなかは ちろりに過ぐる ちろりちろり というたいへん有名な小歌がある。有名な割りに研究者の注釈本では、ちっとも面白みのない読み、むしろ間違っているに違いない読みばかりを読んだ。世の中のことは無常迅速、ちらっちらっと過ぎて行く、などと。抹香臭い。
閑吟集の主体はたいがいが遊女である。そんなくすんだ歌をうたうものか。 くすむものはみられぬ と人のうつつ顔を笑いに嗤うのが彼女らの常ではないか。
でもまあ、こんな夜中にこんな小歌の詮索をしてみても、あまりに、きわどい。やめて、寝よう。いい夢をみよう。では、おやすみ。湖の底でかなしばりに遭いませんように。 2003 10・21 25
* 深み お作はどれもそうですけれど、読む毎、光の角度が変わって、とっとっと渡っていた所が深くなったり、別のところが見えたりします。いま、「あやつり春風馬堤曲」の深みに、足を取られ、取られ、一段進むのにえらい難儀。うぶ、いえ、おにぶで、‘読んで’いませんでしたわ。
頭を抱え、コーヒーブレイク。
配達に来た人が、小さなリーフレットをくれました。「浦島太郎の故郷は、丹後半島の与謝郡伊根町」…て、これはやはりご縁と、再びご本に戻ります。
あさってから、池田の逸翁美術館で「蕪村展」です。 奈良
* 短大の元の「作家」先生が、大学へ転入した女子大生の「蕪村の卒論」をあやつり(指導してやり)ながら誘惑して行く。小説である、ずいぶん昔の。小説の中で展開される蕪村論には自信があり、それを言おうための趣向の小説であった。おおむかし、作家生活に入ったとたんに余儀ない仕儀で、一年だけ心すすまぬ短大の講師をひきうけたことがある。むろん何の関係もないけれど、蕪村の春風馬堤曲は、朔太郎などのいうような漫々的なのどかなおはなしでなく、蕪村のあやしいうめきに彩られているのを、きちんと読み込んで考証小説を書いたのである。かなり手応えも歯応えもある、湖の本ならではの「書き下ろし」出版であった。
2003 10・22 25
*「魂の色が似ている」から、とは、わたしの娘の、結婚前の啖呵であったが。むげに否認は出来ない、ありそうなことで。人それぞれの根というものがある。根を認めあえるかどうかは、人間関係として大事といわずにおれず、もしも譬えばなしとして、あなたは好きだけれど「湖の本=文学・文藝」はきらいですという人がいたなら、(いないワケは無いけれど、)息子の口癖ではないが、心からの「お友達にはならない」だろう。できるだけ深い佳い色を分かち合えそうな人に親しむだろう。どんなにそれが少数であっても構わないのである。人間としての、それは必ずしも強さではない、弱さであろうけれども、自然なことだ。
2003 10・22 25
* 電子文藝館、闇に言い置く-私語の刻 ともにいつも楽しく拝見させていただいております。本日は、闇に言い置く-私語の刻 の中にありましたが、泉鏡花(の戯曲「海神別荘」)の紹介について、お伺いしたことがあって、メールを書いております。
闇に言い置く-私語の刻 には、以下の紹介がありました。
* いずみ きょうか 小説家。 1873.11.4 – 1939.9.7 石川県金沢市に生まれる。 帝国藝術院会員。 日本語表現の魔術的と賞賛された天才の一人で、古今独歩の美しい幻想境を歩む一方、愛憎の念と共に日本の虚栄虚飾社会に批評の視線を鋭く刺し込み、自ら弱者との共同歩調を生涯堅持してやまなかった。その思想と姿勢とを象徴的に打ち出した世界は「海=水」であり、その主たる龍・蛇に置いた重みは生涯の作品に隠見して優れた課題性を示している。 掲載作(「海神別荘」)は、大正二年(1913)十二月「中央公論」初出。尖鋭な寓喩的批評を通じて鏡花のかかえた多彩で深い課題を集約した傑作戯曲である。
この中の「日本語表現の魔術的」は「日本語表現の魔術師」ではないでしょうか。そうしないと意味が通らないと思います。
そして、余計なことですが、一鏡花ファンとしては、鏡花の批評の視線、「海=水」のモチーフに異論はないのですが、ただそのような視点からのみ読み解ける作品ばかりではないことを、出来れば紹介して欲しかったと思います(具体的には「歌行灯」「鷭狩」など)。また、鏡花の戯曲としては「夜叉ヶ池」「天守物語」の方が完成度が高いと思います。
末筆ながら、益々のご活躍を愉しみにしております。 愛知県
* お返事します。
>この中の「日本語表現の魔術的」は「日本語表現の魔術師」ではないでしょう
>か。そうしないと意味が通らないと思います。
意味は十分通っています。「日本語表現の」の、格助詞の「の」が受け取れていないのでは。日本語表現「が」魔術的に神妙巧緻なといわれている という意味ですから。今は何ごとも説明的にかつ本来は誤法の「が」ですべて済ませていますが、落ち着いた古法では 日本語表現「の」でよろしく、また「魔術師」という露骨な云い方をあえてすこしだけ避けた趣旨をお汲み下さい。
>そして、余計なことですが、一鏡花ファンとしては、鏡花の批評の視線、「海=水」のモチーフに異論はないのですが、ただそのような視点からのみ読み解ける作品ばかりではないことを、出来れば紹介して欲しかったと思います。
どんな作家でもただ一つのモチーフということは普通無いはなしですから、その中でも圧倒的な、しかも在来わりと看過されてきたところを指摘したのは、それでいいと思います。鏡花の蛇と水とを正面から指摘して言った論考は、私の指摘以前にあまり無かったことは、例えば専門家の新保さんや田中励儀さんにも確認しつつ、書いています。
>(具体的には「歌行灯」)。
「歌行燈」の主要な場面は海で、また何よりも主題が、龍の珠とかかわる「謡曲海士」であるのをお忘れですか。学研版の大版本で、わたしが「龍潭譚」「高野聖」とあわせて「歌行燈」を選んで脚注しているのを、御覧下さい。まさしく、これも海、水、龍・蛇のからみの、鏡花ならではの世界ですし、「海神別荘」にも大きく響き合っています。
>また、鏡花の戯曲としては「夜叉ヶ池」「天守物語」の方が完成度が高いと思います。
「ペン電子文藝館」の招待席には、完成度を軽視はしませんが、珍しくて、問題を含み、異色の力作をむしろ考慮しています。「天守物語」は大好きな一つですが、現代舞台でも映像でも繰り返されています。「海神別荘」のアレゴリックな「海」思想も、玉三郎と新之助とで幸い再現されていますが、「天守物語」よりは珍しく、また大胆に踏み込んでいて、何よりも、鏡花以外には書けそうにない問題作です。そういう判断で選んでいます。私は、「夜叉ヶ池」はさほどと思いません。鏡花の戯曲としては普通作と見ています。
末筆ながら、心より感謝します。 「ペン電子文藝館」 秦 恒平
* この件、建設的にもう二三度メールを交換した。 感謝。
2003 10・22 25
* 多少の小波はたてながら、湖は、ほぼ一枚の鏡となり、来て映るものは心から映しているし、去ったものを追って映すということは、出来ない。往来という。来るものは雲でも鳥でも自然に往くのであろうし、また雲にしても鳥にしてもまた戻って来ることもある。それは湖の左右することでなく、鳥や雲のすることだ。わたしは、そのように落ち着いて「今・此処」で生きていたい。わたしは湖でありたい。鳥でも雲でもない。
2003 10・22 25
* 鏡花の戯曲は総ルビ。これを分厚い単行本から強引にスキャンしたため、惨憺たるものであった。妻が殆ど頭から書き直してくれ、ルビは必要と思うもののみ漢字の後ろにカッコに入れた。それが電子文藝館の約束なので。
しかし科白の読みは絶対で、私が「わたし」か「わたくし」でも無視するわけにいかないから、やはり全面にちかくよみがなが入った。それを、わたしは原本片手に通読して、さらに加えていったが、さすがは鏡花ということか、再現不能の漢字がずいぶん出た上に、校正室へだしてみると適宜にふっていったよみがなの仮名遣いがずいぶん間違っていた。和泉委員に厳密に詳細に訂正してもらい、大助かりした。感謝、感謝。
和泉さんも日生劇場の上演を観たという。読みながら、玉三郎や新之助の声が耳にしばしば蘇り、わたしは楽しかった。三好屋の上村吉弥が佳い役で出ていたなと思い出す。あの舞台には興奮した。今まで観た芝居の中で一番と思った。もっとも、これは、佳いモノに出会うといつもそう思うのだけれど。
* わたしは鏡花の根底には、海=水(の民)への親和が、また神話的な信仰ほどのものが働いていると、昔から考えてきた。そのシンボルとして鏡花は、処女作「蛇くひ」の昔から龍・蛇シンボルを無数に使っているし、生身のモノをも実に烈しく効果的に使った作品が多い。
鏡花には藝道ものがほかに有るという考えもあろうけれど、日本の伝統藝能の根底にもまったくおなじ淵源のひそんでいることは、したがってそれへの懼れの反転として、例えば観世・金春・宝生・金剛・喜多などの祝言藝にも、ふさわしい目出度い名乗りが出てくる。役人=役者は、背後に死ないし死者・死屍をいつも控えていたのである、その鎮魂慰霊こそが、藝能=遊びであった。祝言=寿ぎはその半面の必要であり、彼等のいわば義務であった。死の世界ないし準じた暗闇の世界に蟠るモノとして、人は、海底や水底からくる蛇を、龍を、おそれた。
「海神別荘」で、多大に恵まれた海の財宝の身の代として、強欲な父親により海に沈められた花嫁の娘は、おそろしい海の底にまばゆい理想の宮殿や颯爽として秀麗な公子が夫として待っていたのに驚き、この身の栄耀を一目陸の縁者達に見せてやりたい、自分は死んでいない、こんなに晴れやかに生きて幸せだと報せてやりたい誇りたいと、公子に懇願する。公子は制止するが、聞かない娘は、既に得ている海の國の神通力により故郷へもどる。だが、親も親族も近隣の者達も、津浪をともなうおそろしい蛇体の出現に身の毛をよだててただ逃げまどうのである。
鏡花藝道ものの名作として知られる「歌行燈」は、まさしく能・謡曲・仕舞につよく触れているが、じつはそこで大事に大事に取り上げられている謡曲は、「海士」であるという事実を忘れるわけにいかない。これは海女が地上の愛ゆえに龍宮の龍の珠を奪いに行く必死の能。しかもそれを作中で凛然と舞う娘は、海女女郎の境涯に貶められていた女であり、主人公の落ちぶれ能楽師との「海士」の舞いを介しての出会いにより、清まはり、救い取られて行く。「歌行燈」また海と藝との両面から根源の海の倫理に渾然と帰して行くような物語として構成されている、実に緻密に。
* 在来の鏡花論は観念的な美学にひきずられた高踏な解説が多くて、ほとんどがそうであったが、「鏡花の蛇」というなまなましい観点を初めてわたしがもちこんだ時は、まじめに聞いてくれる人も少なかった。だが、金澤へのりこんで、文学館主催の講演で克明に語り、また「日本の美学」に論考を提示して、また鏡花学者にも応じて展開してくれる人達も現れるようになって、海=水=蛇の世界の鏡花文学という骨子は、藝道ものでも職人ものでも花柳界ものでも怪談でも民俗ものでも、もう動かぬ指標となっているのではないか。この基底を無視して、論じ得られるような作品はめったに無いであろう、それこそ「外科室」とか「夜行巡査」とか、日清戦争前後の風俗に根ざした深刻小説などを除いては。
* 戯曲は、鏡花藝術のかがやく華であるが、「天守物語」「夜叉が池」をはじめ多くが、殆どがいわば「水」ものである。「日本橋」「婦系図」「恋女房」などでも、やはり水商売といわれる花柳界をへてはるかな海底への縁をもの凄く引いている。「海神別荘」はいわばそれらのアレゴリックな「根」を示しているので選んだのである。
2003 10・23 25
*「意志」に関して謂うなら、中曽根康弘のガンバリのことが頭にある。
わたしは、中曽根という政治家を、彼が国会の青年将校とうたわれた頃から知っている。、賛同すくなき頑固な「保守」代議士であった。日本列島を「不沈戦艦」と譬えたり、「何でも先送り・見送る」政治姿勢など、賛成しかねることばかり。ま、若い頃の「総理公選」論だけかも、実現するならしてもいいと感じたのは。
しかしエコヒイキなくいえば、彼はボケていない。ときどきテレビでインタビューされていると、なかみにあまり賛成できないのに、自分の言葉を用いてじっくり主張するところなど、参考に聴かせるちからをもち、小泉総理の上滑りした、本文のない見出しだけのような議論より、よほどマシかもしれないほど。ま、それはないが。
老人だからという切り捨てが正しいとは、わたしも思っていない。だが、老人には老人ならではの「まちがいごと」も多くなるのは、わが身に宛てても或る程度確かなので、難しい所だとは思う。
とはいえ日本は久しく、「翁」の日本であった。大老、老中、若年寄という内閣を持っていたし、藩には家老がいた。低級なドラマながらいまも水戸の「ご老公」が、ブラウン管の中で世直しに活躍し、受けている。「老」を切り捨てない、「老」を柱と立てて若い人が奮励してきた日本。そして「老」も退くときは退いた。但し引き際の難しかったことにも実例は余りに多い。
宮沢の保守本流らしい矜持の引退もよろしく、中曽根の断固拒絶にも気概はある。情けないのはやはり小泉総理の無能、簡単に玄関払いを喰うか喰わないかも確かめずにいきなり出張っている。ヤキがまわっている。要するに押し切る気なのだ。
* 文壇にしても、時めく若者の作品だけが光っているなんて事は、全く、ない。しかし老人だから良いとも言えはしない。理事会に「電子文藝館」の筆者達を「生年順」にならべた参考資料を提出してみたのは、是ほどの人達の「あと」に並んでいる我々なのだと自覚しているのか、責任を果たしているのかという皮肉な気持が、わたしに、有った。おのれたちが自力で天下でも取っているような顔をしていては見苦しかろうという気持があった。人物ではない、まして年齢でもない、「作品の質」のことをわたしは謂うのである。会長理事以下現存会員の出稿原稿と、招待席や物故会員原稿とを、だれかが克明によみくらべてみれば、なにか刺激に富んだ「感想」が現れることであろう。
* 政治にもどして謂うなら、良いモノを良く選んで自在であるのが、本来「選挙」の意義というもの。左様なすべきが選挙なのである。選挙結果がどうにも可笑しいぞ、ヘンだぞという、(遠慮していえば)無意識の下意識が、自民党による代議士年齢制限決定になっているとすると、まさに自民党は「語るにも落ちている」わけだ。
2003 10・24 25
* 同僚委員の加藤弘一氏が、めざましいニュースをしらせてくれた。広く分かち合われたいと思い、転載する。
* 加藤@ほら貝です。拙サイトの記事です。—-Oct24
アメリカAmazonが、「Search Inside the Book」というとんでもないサービスをはじめた。
アメリカAmazonで販売している書籍12万冊3300万ページの全文検索(!)ができ、無料のユーザー登録がしてあれば、さらにその語句の出てくる当該ページの画像を閲覧できるというのだ。
CNETとZDNetに記事があるが、Amazonの扉ページに掲げられているジェフ・ベゾスの巻頭言から引こう。
――本日からAmazon.comでは、著者名や題名だけではなく、本文中の語句でも書籍を検索できるようになりました。この新機能は「Search Inside the Book」と言いますが、全12万冊3300万ページ以上のテキストから検索いたします。「Search Inside the Book」は、従来の検索システムと一体化してありますから、お客様はこれまで通り、検索ボックスに語句を入力されるだけで新機能をお使いになれます。
たとえば「Resistojet」という語で検索しても、これまでは一冊も見つかりませんでしたが、新機能を使えば、この語が本文中に出てくる本を発見することができます。どうか「Search Inside the Book」を試してください、新機能がどれ
だけパワフルか、実感できると思います。――
一般読者にとっては本を買うかどうかを決める大きな手がかりになるが、引用を確認するためだけに図書館に行ったり、無駄な本を買わなければならない研究者や物書きにとっては、この機能だけで用が足りるケースが多いだろう。自由に閲覧できるわけではないが、実質的に120万冊所蔵の電子図書館がネット上にできてしまったわけである。
本の画像を使っているところを見ると、国立情報学研究所NACSIS-ELSのように、本のスキャン画像の裏側にOCRで電子化した検索用テキストを貼りつけているのではないかと思う。OCRの吐きだすテキストは誤りが多く、閲覧に供するためには人手で校正しなければならないが、検索に使うだけなら、多少の誤りがあっても差し支えない。
気になるのは日本のAmazonの対応だが、日本語OCRの変換精度は英語よりも低そうだし、それ以前に出版社の了解が得にくいだろう。一日も早く実現して欲しいとは思うが。
日本の国会図書館は明治期に刊行された書籍4万7千冊をネット公開しているにすぎない。Amazonは120万冊で桁が二つ違う。こんなことを一企業が現実にやってしまったのだから、アメリカのネット企業の実力には脱帽する。大変な設備投資をしたと思うのだが、ZDNetの「Amazon黒字、年末商戦は過去最高の業績期待」によると、今年の第3四半期(7~9月期)は総売上11億3000万ドル(前年同期33%増)、純利益1600万ドルと、これまでで最高の業績をあげている。日本のネット企業のお粗末さを考えると、ため息が出てくる。
* うなってしまう。へんな法律で国民を縛り上げることには狂奔する自民政権だが、文科大臣って、誰だったっけ。文化庁長官って誰だったっけ。学術会議って、今も在るの。政策の中に、電子メディアの大きなプラス面の反映してくる、毛筋ほどのそぶりもまるで見えないではないか。
2003 10・25 25
* 『罪はわが前に』は書き下ろした昔よりも、むしろ今より先へ行くにしたがい、私の作品史のなかで無視出来ないものになるだろう。読みやすいが、なまやさしい作品ではなかった。
2003 10・26 25
* 井上靖のことをかかねばならない締め切りが近づいている。井上靖とは、「逢う前と後と」があった。そう書きだしてみようと思う。当たり前ではないかと言うなかれ。谷崎愛のわたしは、谷崎潤一郎と逢ったことはない。小説は一人孤独に書き始めていたものの、逢ってもらうような存在でなかった。三冊目の私家版に谷崎に捧げる「蝶の皿」を巻頭に入れるのがやっとだった。
井上さんに逢う前に、わたしは一つの井上靖論を書き、長谷川泉編『井上靖研究』に載った。その論考が井上さんにたいそう喜ばれ、お宅へ食事と歓談に招かれるような縁となった。親しく中国の旅にも連れて行ってもらった。
「逢って後」は、書評や解説も含めるとたくさん井上靖論を書いた方だ。著書はほとんど残りなく、全集も単行本も戴いている。ご縁というのはふしぎなものだ。ご縁になった『井上靖の「美」と「美術」』は、読み直してみて、我ながらよく見てよく書いていた。是ならよろこんでもらえたろうなと、今更にしみじみワケがわかった気がする。もし「記念したい」となれば、この「逢う前」のただ一点、この論文だなあと思った。
2003 10・26 25
* この時節に、今は人を大勢つかっての事業が右肩上がりに展開していると洩れ聞くような人だが、日常のバランスはなかなか難しそうにも、こういうメールから察しられる。人に羨まれるような日々と窺われるけれど、心に抱いた砂漠もまた広いのであろう。「時間」というものに人は縛られている。時間を駆使ないしは使用しているようで、時間の前に餌食のように我が身を投げ出して東奔し西走し奮迅している。お金も貯まるのだろうが疲労も溜まる。仕事も疲労もあれもこれも、いずれをも「楽しんで」いるのなら、それは、えらいものだ。何をしても何の「楽しみ」もあとにのこらない、身内を癒さない、となると困るかもしれない。難しい。
わたしは静かに深い「闇」とは親しみたいが、胸をかき乱すだけのような「夢」はいらない。夢を見ずに眠りたいなあと毎夜のようにわたしは夢を憎んでいる。子供の頃から夢とは概して相性が悪い。夢のある人生、おお、いやだ。そんなものに人生を託せるだろうか。人生そのものがすでに夢・幻であるというのに。
2003 11・5 26
* いつもなら さくらの葉っぱの紅葉も楽しめる頃なのに この暖かさが残念です。
ご体調はいかがでしょうか? くれぐれもおだいじになさってください。
九月末 大徳寺(瑞峯院・大慈院)の月釜に出かけてきました。さるホームページのお仲間で、総勢十人、みなさん和服で集合。遠くは千葉・茨城から。お茶の経験も年令もいろいろ。京都の方にスケジュールを組んでいただき 大寄せのお茶会を楽しんできました。次回は来春の<明治村茶会>へ集合する予定です。
再び『罪はわが前に』『風の奏で』を読ませていただきました。
『風の奏で』は今回もやはりむずかしく 読みながら人間関係の図式を書いて見たりしました。笑われそうですが 時間をおいてまた読み直したいです。
わたしの中には、<宏>という名前が大きく存在。全く関係が無いのにもかかわらず、今でもキュンとなるのです。
ひとりの<宏>: 学生時代の、夢中になっていたほろ苦い思い出。
もう一人の<宏>: 小学四年生からずっーとおおきな存在感あり。学部こそ違え同じ大学だったことも含めて、どれほどうれしかったことか。こちらは<永遠の宏>
会うことがあっても一度もそれらしいことを伝えたこともなく。勝手にじぶんの中で育てていた宝物。この先「じつは。。。」とお話することがあるか? なしか? 大切だからそっとしまっておこう。
ここまでおしゃべりをして お終い!
そして『罪はわが前に』の三人目の<宏>の存在。 ふしぎです。 愛知県
* 『風の奏で』というと、笑って思い出すことがある。或る読者がはじめて文藝春秋の単行本を手にしたとき、あまりに難しい、読みにくいと腹立ちまぎれに壁に叩きつけた、そうだ。それにもかかわらず、いつしかこの作に結局は夢中で引き込まれ、熱い愛読作の一つになっていた、そうだ。さもあろう、この作品は容易ではない。平家物語の最初本成立の機微を歴史的に問いながら、東京に暮らす一人の医学書編集者が、現代の京都や仙台での恋物語を介して、いわゆる日本の「藝能」の吹き流れてきた筋道を偲び辿ってゆくのである。こう書いてみるだけでも、たいていの読者は、察しもつかないだろう。これが私の文学の組み立てだと言ってしまったら、気弱な読者はみなますます遠のいて行くだろう。
同じ保谷に安田武さんという、鶴見俊輔さんらとお仲間の手だれの「読み手」がおられた。もう亡くなってしまったが、生前、いろんな機会に私の仕事を推奨して下さったが、そもそものはじめは、とても「ついて行きにくかった」と言われていた。「それが文体に馴染んでくると、まるでアヘンだね」とも笑って、最良の読者の一人になって下さった。あの笑い話の折りにも、此の『風の奏で』が話題ではなかったか。
* 「宏」という作中の自称は(というのも変だが、)小説を書き始めてから十年余はよく使っていた。私は幼名というか、むしろ育て親たちが便宜に付けた変名を「宏一(ひろかず)」といった。幼稚園までは宏一サンだった。叔母の社中でも年嵩な人はみな永らくわたしを「ヒロさん」と読んでいた。「恒平」という本名にわたしが初めて衝突したのは、何度も書いたが、国民学校へ入学した当日の、胸に赤い名札に書かれていた二字であり、とても自分の名前という自覚がもてなかった、「しょがないわ。こういうメにあう運命なんや」と、既に「もらひ子」であることを察していたわたしは諦めた。小説を書き始めてしばらくして、「宏」を使おうと決めた。姓の方は「当尾(とうの)」とした。実父の実家が、山城の国、相楽郡当尾村の大庄屋であった、から。そこに数えか満かで四つ五つまで祖父母のもとで育てられていた、から。その家に、父も、母も、姿はなかった。その家でわたしが変名の「宏一」と呼ばれていたのか「恒平」であったのかは全く覚えがない。
わたしの「宏」は、上の読者の「宏」さんとは縁が無い。が、このメール、遠い「宏」に伝えるさりげない恋文のようなものかもしれない、物語というのは完結しないまま転々とつづくもの、先のことは分からない。
2003 11・7 26
* 投票まぢか 雨が降れば投票に行かない若い連中がゴマンといる。お年寄りはもっと足腰がしっかりしてますよ。
不在投票なんて放ったからしの連中もワンサカ、ワンサカ。
10年間に7度も奉公先を変えた与党側党首もいる、なんですかねえこれって。
私よりいくつも若いのに、政権が変わったら不安だとのたまう零細商工者とも、酒の席でガンガンやったが、頭が固くて箸にも棒にもひっかからない。
安倍幹事長の演説に2時間も待たされていた応援弁士、支援者の塊。動かぬ真っ黒クロスケのようだった。野外特設の映写を熱っぽく見つめるニューシネマパラダイスの観衆はいなかった。
秦さん、ここは一発、尻を蹴っ飛ばしてくださいな。 西多摩
* 選挙ごとに、「日本」と「日本人」について、「尻を蹴っとば」すどころか、ためいきをついてしまう。先進・保守の国なのだ日本は。いいかえれば技術・安定の国なのだ。利益に従いそれに理屈をつけてゆく国だ。経済が見合うなら問題は先送りする国だ。公を都合良く立て奉るフリして私は無残に滅ぼして行く国だ。利権が肥大し福祉は消えて行く国だ。
自民党政権への屈従はまだまだ続いて、「私」は痩せて死に絶え「日本国」は国力を根から喪って滅びるに違いない。日本人が「歴史的に」先へ行くほど下降して行くという下降史観に支配されてきたというのは、上古も中世も今も、基本的に変化していない。いま「先はばら色」と、日本人のだれが本気で思っているだろう。小泉純一郎以下の自民党代議士でも思っていないはずた。田中真紀子は自民党はもう死体にひとしいと、のがれて出た。死んだも同じ国になろうとしている国だ、日本は。
それでもわたしたちは投票に行く。忙しい息子も、投票のためにだけ、そして一緒に昼飯にだけ帰ってくるとメールを寄越した。それでよい。
2003 11・7 26
* 「泣く」という行為は、国により文化に属していた。「号哭」が一つの礼であったわれらの隣国もあり、その風は日本にも変容を経て入っていたのではないか、殯宮(もがり)では「遊部」などがさまざまに鎮魂・慰霊したが、その「えらぎあそぶ」作法には号哭が混じったのではないか、泣女(なきめ)という「役」どころのあったことは天若日子の葬儀にも明記されてある。
源氏物語を少年の昔に初めて読んだとき、大人達が、女とかぎらずむしろ貴族の男達がしきりに「泣いて」「涙する」さまに仰天した。男は人前で泣かぬもの、涙を人に見せるものではないと教え込まれた時代にものごころついていたので、まことに「めめしく」感じた。どうしてこう何かにつけて泣けるのだろうと呆れていた。
だが、光源氏たちほどでなくても平家の公達でもあらき東の武士達ですら、鎧の袖をぬらす風情はあった。後世にも「男泣き」に泣いたりすることが、必ずしも咎められていない、ただしそれだけ滅多には泣かなくなっていたのも確かで、平家物語はもとより太平記の武士達でも、まだ、ときどき泣いている。しかし織田信長とくると泣きそうにない。徳川の頃の侍達も男どもも泣くのを恥じていた。
泣くことすら出来ないのは、恥ずかしいではないかと、わたしは、年が行くに連れて思うようになった。感動してとどめえない涙は流してよいように思ってきた。今もそう思い、涙のために関所は設けていない。感動したい。やすい感傷はいやだけれど。
2003 11・8 26
* 鏡花解説のなかで、「……ゃ、はけ」という京言葉表記の語尾を疑問視してられましたが、
……や、はけ といった物言いは、ごく普通に耳にしてきました。
御所近くで育った秦の母は、
……ゃ、さかい という物言いをひどくきらっていましたが、これが、
……ゃ、さけ と同根なのはたしかとして、それより前か後でか、
……ゃ、はけ も、より温和な発声として比較的「愛用」されていたと思います。少しも耳障りでなく不自然とも思わず聴いていました。女語尾ともいえますが、秦の父でも時折、母の兄で中京の呉服屋など、「はけ」はむしろ多用する方でした。気が付いたので一つだけ。
* ご教示のメール、有難うございました。「はけ」という京ことば(語尾)が、実際に、普通に使われていたとのこと、知りませんでした。私も御所の近く、烏丸中立売(烏丸通りに面し、お向かいが御所)で生まれ育ったのですが、「……ゃ、さかい」 という物言いばかりでした。自分の感覚で「解説」を書いてはいけないということが、身に染みて分かりました。機会があれば、訂正します。それにしても、鏡花は短い滞在でも、よく京都のいろいろなことを収集した、目や耳の鋭い作家だったことを、改めて確認した次第です。取り急ぎ、お礼のみ申し上げます。 2003/11/9 田中励儀
* 鏡花の京都ものを読んでいて驚くのは、古いひと頃の京言葉、会話をまことに巧みに適切に写していることで、ああ、あやういかなと思いつつ、これで掴んでいる捉えていると納得出来る用方が、とらえ損ねより確実に多いからエライものである。
2003 11・9 26
* あったりまえのところを衝いている。誰もが感じていても、誰も本気で取り上げない。取り上げきれないほど重くて厄介なことを、我と我が心の内をのぞきこむことで、誰もが恐れつつ納得してしまっているのだ。
何度も書いてきたが、二十年余も前にわたしは、これからの日本では、たとえば教育よりも目立って、各界での「世襲」こそが社会を腐敗腐蝕してゆく大事になるだろうと、新聞にも書いた。出来ればわたしは「世襲論」を書きたかった。書けなかったのは私の能力不足でなく、むしろ内容が必然触れて行くであろう歴史的な差別問題ゆえでもあった。卑怯に避けたのではない、書くプラスとマイナスとを慎重に考えると、書いて問題の深刻さを警告しても、日本人の人性の致すところ、暖簾に腕押しに終わる割りに、不用意に傷つけかねない人と問題の深刻さを、わたしが承知していたからである。書いておくべきであった、とも、まだ思えない。政治家が、家から屋に、看板をかけ直して稼ぐのである、これからは。
当たり前に政治屋と呼ぶべきである、石原一家なども政治を私するという以上に、政治屋はうまい商売だと思っているのだろう。
なにも政治屋だけではない、企業には社長屋があり、大学には教授屋があり、文壇には小説屋の筋があり、美術や工芸では、歴史的に掃いて捨てるほど世襲の権威が乱発された。遊芸の家元など世襲の権化であり、芸能では、能も歌舞伎も狂言も、かつては世襲せざるを得なかったほど、世の中から人の外へ掃き出されるように虐げられていた。
だが、いまや芸能屋は、雨後の筍なみにとりどりに繁茂して常世の春を謳歌している。世襲必ず悪とは言えないのも確かであるが、悪のイヤな味が余りに腐臭と化しつつあるのは、今に始まったことではない。アメリカでも大統領父子は幾組か実現しているが、確実に孫大統領もそのうち出来るだろう。そもそも天皇・皇帝・王様・皇族・貴族・華族などというのが「世襲」のいいとこどりをしてきた、それを政治屋も教授屋も芸能屋も真似ているのだ。
せめて文学屋なんてのは御免蒙りたい。畑違いで育って欲しい。だがとかく蛙の子は蛙になりたがる。鳶が鷹を産めばまだしも、普通の瓜蔓には普通の瓜が垂れて、段々に小さくなりやすい。ご用心。
2003 11・10 26
* 原田奈翁雄さんの原稿依頼には、「この時代に……私の絶望と希望」を書くようにと、ある。人は、いつの世にもこういう自問自答は重ねてきたのであり、今はまたそれのふさわしい時機だと原田さん達は認識されているのだろう。でも……少し迂路迂路してみるのを許して戴こう。
* 俳優座でチエーホフの芝居をつづけざま二つ観てきた。
チェーホフ戯曲の上演は、日本では珍しくない。「かもめ」「桜の園」「三人姉妹」「ワーニャ伯父さん」など、日本の新劇のおはこに部類される。芝居の好きなわたしは機会があると、観てきた。
チェーホフ劇は好きか。好きだ。だがその先はあまり聞かれたくない。悲劇的な結末なのに原作の題の上に「喜劇」と添えてあったりする。ややこしい。軽妙な味わいのチェーホフの短編小説に慣れてから舞台を観たりすると、重苦しい違和感にまいってしまうこともある。
チェーホフの芝居は、帝政ロシア時代の風もあろう、明快でも明晰でもなく、空気は粘っているし登場人物の心情もさらさらと乾いてはいない。暗い吐息を、よく言えばしみじみと、わるく謂えばじとじととはらんでいる。チェーホフの芝居は暗鬱でもあるなあという嘆息が、だいたいいつもつきまとう。わたしの殊に好きな「三人姉妹」や「ワーニャ伯父さん」でもそうだ。むしろ、とりわけそうであると言いたいほどだ。何故。何故だろう、と永く思いあぐねてきた。
なんてイヤな一日だったか。なんてつらい毎日であることか。もうイヤ。もう堪えられない。気が狂ってしまう。チェーホフの女達はどの舞台でもそう叫んで泣く。堪えられない、もう。分かる。ワーニャ伯父さんやソーニャを、オリガやマーシャやイリーナ三姉妹を観ていると、贅沢を言うななどとは決して思わない。生きながら重い墓石に抑えられているようで、まさしく気が滅入る。そして彼や彼女らは、しかし、とか、けれどと声を振り絞るようにして言い出す。明日という未来に期待しよう、五十年、百年、二百年の未来にはきっとなにもかも明るく充たされて良くなっている、と。
これがチェーホフ劇の基調音である。そして陪音として、何百年経ったって何も変わらないさ、今のママさというほぼ全否定、絶望のつぶやきもチェーホフは忘れずに響かせる。「三人姉妹」の末の妹を愛して明日の結婚を控えながら、死ぬと承知の決闘におもむき銃声一発に斃れる醒めたトゥーゼンバッハ男爵がそれだ。だが総じて「今・此処」の不条理に苦しんで、未来に希望を託しているのがチェーホフ劇のつらい紳士淑女たちの「哲学」であり、「三人姉妹」の中の妹で人妻マーシャとのひとときの情事におちた、ヴェルシーニン中佐のおはこだ。彼はおそらくその空疎を分かっているのであり、しかし三姉妹はその「哲学」を信じるしか道がなくて、眼をはるかな未来へ送るのである。
「今・此処」の暮らしはあまりに酷い。辛い。堪らない。けれど未来は明るいだろう、夜が明けるようにだんだん良くなるに違いない。
おそらくチェーホフもそう思っていた、或いはそう思いたかった。まだ来ぬ「未来」に対するせつない恋、それがチェーホフ劇の基調であるが、その基盤は、只今現在への底知れない不信と絶望なのであり、まだ見ぬ恋より現実の方が遙かにけわしく人間を金縛りにしている。金縛りの痛苦から来る幻影かのようにチェーホフは、いや、チェーホフ劇の人物達は、「未来」に恋している。夢見ている。チェーホフこそ、「この時代に……私の絶望と希望」を、あまりにあらわに書き続けていた作者だと謂える。
* チェーホフ劇を観ていて感じる息苦しい悲しさは、どこから来るか。
チェーホフや彼の作中人物達が、明るい未来への「恋にやぶれて」いたこと、「失恋」していたこと、そんな「未来」はやはり無かったらしいことを、現に「今・此処」の日常体験により、如実に二十一世紀初めを生きている我々は「知ってしまって」いる。此の痛切な「現実」を彼等は知らずに我々は「知っている」からではないのか。
反論もあろう、こんなに「良くなっている」ではないかと。例えば帝政的絶対権力は無くなったではないか、と。だが、ほんとうにそうだろうか。また例えば、こんなに何もかも「便利になっている」ではないか、と。だが、全ての機械的な便利の徳を、根こそぎ覆い尽くすほどに、核の脅威も、サイバーテロの脅威も、大きく現に居座って、そんな便利は瞬時にふっ飛んでしまいかねない。時代の真相が良いとか悪いとかは、この事繁き巨大時代に簡単に言えることではない。
それにもかかわらず、こういうことは謂える。
今日よりも明日・未来はきっと良くなるものと希望しがちな人や国民があるだろうし、その一方、明日という未来に望みはもてない、だんだん悪くなるものと絶望しがちな人や国民もある、ということ。上昇史観と下降史観。先へ行くほどよくなる。いや、わるくなる。我ひとりの人生や我が家族・家庭の将来が、ではない。もっと広く、たとえば「ロシア人」の、「日本人」のこの先はといったマクロな判断である。
* 日本人は、どうか。日本人はだいたいいつの時代にも、人の世の中「先行きはわるい」と思ってきたと、或る日本の歴史学者は説いていた。少なくも中世の終わる頃まで、日本人は、自然環境から、また信仰上から、また政治的にも、概して前途を悲観的に眺めてきたと。
日本は島国で、余儀ない慢性鎖国環境にあったため、土地に依存した経済と社会は、どこかで行き詰まりがくる。零細私民はもとより、貴族達も武士達も土地という所領の限界にあせって荘園所有に狂奔し、知行地や領国の拡大に戦国の世を過ごした。蒙古襲来を防いだものの恩賞として授ける土地がなくて北条氏の政府は政治的にも頓挫したなど、顕著な例である。出世の可能性はあっても、どこかで茶道具の一つが一国一城に値するような不自然な価値観を創出する以外に、この鎖国的島国自然の袋道は抜け出ようがなかった。先が良くなり続ける「芽=目」はつまり無かったし、みながそれを判っていた。
信仰からいえば世は「末世・末法」に及んでいた。先は地獄であった。極楽往生の望みをもつには罪障の自覚はあまりに日常的であった。人は死後という未来をつねに恐れていた。
天皇制というヒエラルキイのもとでは、すべて袋小路の中であった。たとえ上を凌いで這い上がっても、その上とは、やはり何かの下であった。先へ行けば先へ行くほど、道は下り坂であるという「断念」が、だいたい、どの時代のだれもかもを捉えていた。道鏡でも道長でも清盛・頼朝でも尊氏でも、しかり。その下はまして、しかり。それが日本を金縛りにしていた「下降史観」であった。
そんな望みうすい悲観や断念を突き抜き、「上昇史観」ふうに日本人をめざましく刺激し舵取りしたのは、中世末期に顕れた「天下」という「観念」であったろうと、その歴史家は説いていた。
日本の國へ広い世界が、西欧文明が割り込んできて、久しい鎖国が大きく崩れ、種子島の新式銃は、戦国大名の戦術を根から変えてしまい、キリシタンの信仰は急激に日本の神や仏に戦いを挑んだ。
地球規模に「天下は広大」と知ったとき、天下布武の信長は安土の天守閣に大世界地図を飾り、天下人秀吉は本気で「唐渡り」を二度も決行した。その秀吉はまして支配階層の出でなく、それでいて天皇の権威を小さく下目に眺める「天下」として振る舞った。そんな秀吉に可能なことは他の者にも可能かと見えたとき、旧来の政治的な権威と体制は、事実上の残骸となった。天下分け目の関ヶ原に勝ち大阪に勝った家康率いる江戸の近世は、織・豊のその勢いを当然受け継いだ。
* では日本人は一気に未来に希望をもっただろうか。いや、持ちたくても持てなかった。
徳川幕府はまたしても頑なな「鎖国」を急激に強行した。「天下」の観念をみずから圧し殺し、またしても人は希望をうしない、先行きは「わるい」ばかりといやでも思い直しはじめた。赤穂浪士の討ち入りなどは、切ない下降史観へのあがくほどの反撥であったろう。しかし保守的な復古と前例主義は強烈に足並みをそろえ、蘭学や外国語の普及などに抑制をかけ続けた。
江戸三百年の太平とは、袋の中の逼塞と似ていた。未来への断念を代償にした籠居の平安であった。
農業の改善や手工業の進展で、いささかの裕福と便利とが世間に出回ったとはいえ、冨と贅沢とは著しく偏在した。絶対多数の民衆は窮屈さに藻掻くか、諦めて黙るか、無足の人外に沈むしかなかった、概して謂えばそうであった。
明治維新。富国強兵。滅私奉公。そしていつしか昭和維新と世界戦争。原爆と敗戦。復興。「電気」に全面依存した機械化の便利さを、黒い影のように、黒い雲のように常に覆っている、核爆発とサイバーテロの脅威。大国エゴの核保有に象徴されている、硬直して強引な新たな絶対権力の、世界支配。それへ追随また追随の、日本の政治。
こういう情況のなかで問われて来た「この時代に……私の絶望と希望」なのであるなと、まずは課題を受け取ったのである、わたしは。
* 原田さんらは問うて来た、「私」の絶望と希望を語るように、と。わたしは問い返したい。この問いに謂う「私」とは何ですかと。
わたしは、ずいぶん昔、「私の私」を説いたことがある。
自分という「個別の私」とともに、理念として「公に対する私」が在る。公に対峙する「理念の私」によって「個別の私」がしっかり自覚的に支えられ成熟していないと、一人一人の「私」は、自儘にただ動いてしまう。そんな「私」は真実自由な「私」ではない。
一人一人が思い思いに絶望や希望を語ることは、個々人にとり、そう難しいことではない。まただからこそ回答や思案の内容はバラついて、何かしら超えねばならぬ閾居の前で、何の力にもならず霧消してしまう。そのおそれがある。
その残念な一例が、つまり「選挙」であろう。選挙権は徹底して分割された「私」にだけ与えられている。そう思われている。ただの「個」に分散された「私」たちが、「私の私」が在るのに気が付かず、それゆえに、「公」をチェックするという「私」の大切な役割を、無責任になかなか果たせないでいるのが、われわれの、あの、選挙および選挙権ではないか。
選挙権は只の一人一人に「好きにせよ」と与えられてはいない筈だ。「公」に対比される「私」が、政治的に「意思表明」する機会が、選挙だ。ところが個別一人一人に無償配布された自儘な権利かのように誤解しているから、安易に棄権もされてしまう。「私の私」が分かっていないから、こういう結果になる。そんなことでは根こそぎ「私」を喪失してしまう危機にも気が付かずに。
原田さんららの問いかけは、此の「公に対する私」に、しかと思いが及んでいるのだろうか。さもなければ、一人一人が思うままを気儘に言い放ち、しかしそのままで済んで、次への「力」には結局ならないのを、わたしは恐れる。「私」の絶望は、まさにその点に在る。「公」は、ばらばらな「私」から好き放題に「私権=基本的人権」を奪っている。もっともっと奪いたがっている。
だが、「公に対する私」の自覚が、「国民=私民」の間で互いに手を取り合うように育ってくれば、「私」は、未来になお希望がもてるだろう。
「私」に希望のない「公」とは、絶望の同義語にほかならない。そういう「公」をお上と捧げ持ってきたから日本人は、所詮「下降史観」に我が身をゆだねるしかなかった。過去の話ではない、今まさにそうなのである。街頭に出て一人一人に聴けばわかる。「先行きは明るいでしょうか」と。この日本で、無数のワーニヤ伯父さんや三人姉妹達が、明日に望みを持てずに、今、焦れている。
* 最後に、しかし、わたし独りの思いも、小声で添えておこう。
いま、わたしは「望み」の有無など、本気ではほとんど考えていない。望みとは、未来にかけた虚仮の幻影であり夢である。過ぎた昔へはだれも望みをかけない、甲斐がないからだ。甲斐ないことでは、だが、未来も全く同じである。未来なる時間は存在しない。
過去があり現在があり未来が在るとは、便宜の仕掛けであるが、むろん虚仮に過ぎない。在るのは、「今・此処」という時空だけである。永遠に「今・此処」だけが推移する、それが、世界。過去も未来も、回顧も予測も、絶望も希望も、可能も不可能も、即ち現在只今の営みである。われわれは、背後にも眼下にも底知れぬ奈落を控え、切り立つ断崖絶壁の上に生きているのと変わりがない。しかも眼前の底知れぬ奈落へ刻々踏み出せと、猶予なく迫られている。奈落を踏むと想うとおそろしいが、ところが時空とは、不断に「今・此処」でしかありえず、足下に奈落は無い。おそれることはない。
その上、そのような不条理の闇や奈落をかき消すように、われわれの「今・此処」つまり此の世は、いつも脳の電気現象の「夢」を成している。時計は穏やかに動き、なにもかもが「在る」ように見えており、感触もある。みな刻々と移り行く「今・此処」の「顔」である。そして、それも夢。過去を思い出すのも、未来を予想するのも、現在のただの「夢」である。頼みになるのは「今・此処」に落ち着いて、元気に生きる意識だけである。ワーニャ伯父さんやソーニャが、三人姉妹がついにのがれ得なかっただろうように、「今・此処」を脱出できる者など、一人もいない。
* しかし、いくら頼みにならぬ「夢」であれ、楽しむ気ならそれは楽しめる。生き甲斐などを求める人なら、夢と知りつつ覚めざらましをと、「生きる演戯」が楽しめるのである、現実感も伴って。元気に。
浮き世は夢よただ狂へ、と、昔の人は狂ったが、狂わなくても楽しめる。その気になればいいだけだ。だからわたしは文学も歴史も美術・演劇も、床屋政談も、飲食も好色も、家庭生活も楽しんでいる。「夢」のような「影」に戯れていると思っている。希望しないし絶望もしていない。よくよくウンザリはしているが、それも楽しめる。だから選挙に行く、政談もやる、源氏物語も読む。
ニヒルを気取っているのではない。はてしもない一枚の澄んだ鏡のように、落ち着いて、写ってくる何の影も拒まずに和み楽しみ、去って行った何の影も追わないで、愛だけは感じていたい。
そのうち、涯しない真澄の空のほか何一つ映さない「鏡」になりきりたい。そうなんだ、そんな「希望」を楽しんでいるのだ、わたしは「今・此処」に生きて。
2003 11・15 26
* 陸羯南の「日本」創刊の弁に関して、同僚委員から「かび臭く」なるおそれについて意見が出ていた。一つには、今今の新聞社説や天声人語のような言葉で書かれていない、文語であり、また句読点や改行すらないという、形の上のとっつきにくさがある。それは、時代により余儀ない歴史的な所産である。中身はどうか。中身は明快で意気に満ちている。わかりにくくもない。ああそうか、そうだったろうなと深く肯かせる力にみち、それだけに記録するに値する文献になっている。何をもって文藝・文学の「かびくさい」と「かびくさくない」「親しめる」「したしみにくい」を分けるのかは、容易なことでない。ものさしが何本も必要だろう。
こういうふうに当座の考えを述べておいた。
* 電子文藝館は 美術展で謂えば、いわば 今今ごった煮の日展でなく、近代「記念」「証言」展であり 文藝「記録」館でもあります。「出版・編集」の歴史的な流れも「証言」しようとするとき、明治の思想家達の大きな足跡に触れないワケには行きません。
「カビ臭い」というのは、個々人の趣味判断能力の問題で、何が本当に「カビ臭い」かの判断は容易でないし、それは読者にまかせておいていいのです。読みたい人は読み、通り過ぎる人は通り過ぎる。それでいいのです。博物館のようなものです。しかし揃えて然るべきは「揃える」というのが記念館の性格です。
なにが「かび臭く」なにが「かび臭くない」か。それはたいへん難儀な問題ですが、作者の生きた時代の古い新しいで判定するのでは、コッケイな間違いを犯します。極端な云い方をすれば、源氏物語を超えた現代の作品は無いといわれるように。質的な水準を無視し軽視して良いとは思われませんし、そこから行くと、誰の眼にも今今の寄稿だけでは懸念されるものがあり、そこから発展して「招待席」が生まれたのでした。それ在って電子文藝館は一気に存在の意義をひろげ、存在理由を強めていると思います。
博物館というのは、そうそう誰にも「親しめる」ところではないが、敬意は持たれています。また利用価値も高い。今のあの日展では、褒める人はいない、と断言できるほどですが。
本質の価値高さを保存して行きたい、やすい貸本屋のようにはしたくない、またそれでは意義は薄いし、クレバーな読者の失笑も買うでしょう。むろん結果として玉石混淆はさけられないとしても、それをカバーするのは「意図」という芯の糸の太さ強さではないかと思います。
だいじなのは、「招待席」にヒケをとらない優れた現代作品がもっと増えることです。その手だてを焦れずに考えて行くのが先です。「カビ臭い」とあわせて「親しみやすい」とはどういうことで、どうすれば「親しみやすくなる」のかも具体的な「方法」として、提案して欲しいと思います。
ともあれ、出版・編集に関しても、現代の人を主に実現し出稿して頂ければ幸いです。
さらに議論を重ねましょう。
* 中村敬宇「人民ノ性質ヲ改造スル説」を入稿した。いま中村敬宇を読む人はおろか思い出せる人は寥々たるものであろう。しかし明治の第一期の知識人として、福沢諭吉や西周らとともに、それも政府や政界の内側から啓蒙的に優れた論説を書き続けたきわめて著名な大きな存在であった。時事新報が各界から選りすぐった「明治の十傑」つまり明治時代の人傑ベストテンの第四位に挙げられたと云えば、察しも利く。この論説は即ち、明治八年二月の演説草稿であったが、言葉こそ明治だが、その趣旨は明快で堅実で、ま、今から見れば常識のようでありながら今にしてなお中村の警告や指摘に我々日本人はまだ至らない遺憾なところを多々のこしている。自由民権の行方を、明治憲法発布より十五年もまえに示唆して揺るがない気合いには敬服する。
* 陸羯南の「日本」創刊の文章に句読点が有るようで殆ど無いのは変ではないかと同僚委員の疑点が出ていたので、以下のように答えておく。
* この『「日本」創刊』は、「日本」創刊の趣旨 という題の一文と、「日本」と云ふ表題 という題の一文とで編成しています。おそらく「創刊当日」の一面と、一両日後に「追加」した一文であることが察しられます。したがってこの二つを書いた筆者の気組みには微妙に差があり、そういうことが、句読点にも表れているのでしょう。後者にはともあれ句読点が用いられています、かなりルーズにですが。
これら二つの文の中で肝腎なのは、むろん創刊の「趣旨」であり、それは、前の原稿の後半、二行アキより以降になります。これが公式の創刊宣言です。その直前の物言いで明らかです。「日本」の趣旨を特に掲出して初刊の緒言に代ふ と明記しています。
そしてその公式の「趣旨」には、一つも句読点が無いことにご注意下さい。
この前の一文の前半と、後ろの一文とは、性質として同じ、普通の原稿、それに対し「趣旨」は晴の一文、正面切った宣言文です。こういう晴のものの場合に特に句読点といった「便宜」の記号を、敢えて、略してある気味をお汲み下さい。
明治の知識人には句読点は、ナミの人の便宜のためにうつ臨機応変の追加のもの、とくらいの気持があり、少なくもその取捨は実に気儘なものです。句読点は文章にとって必要不可欠ではなかった時期がありました。あってもなくてもよかったし、むしろ改まったときは平気で省いていいものでした。漢文のカエリ点なみでした。読み慣れた人は白文で読みましたし書きました。読めない人へのサービスのような気味がカエリ点と同様に、句読点にはあったと謂えます。
中村敬宇のような啓蒙家は、ずっと早くから句読点を打っていますが、ずっとあとの黒岩涙香でも、やがて御覧に入れますが、句読点はとてもいいかげんです、「萬朝報」の刊行の辞でも。
しかし文章そのものは立派で、志はしっかり伝わります。つまりそういう「書き方」ですね。
文章の形式は、国語教育の中で整って行き、むしろ形式が文章を緊縛したともいえます。明治の人には宛字も宛読みも圏点も傍点も句読点もカタカナも、「表現」の「手」でした。好きにしてよいという意識でしたろう。
そういうことと、お分かり下さい。そしてそういう文章の時代もあったことなどを伝えているのも、「ペン電子文藝館」の「意義の一つ」になってゆくのではないでしょうか。
そんな中から、誰が、新しい時代の新しい文体を創始創作してくれたか、も、おのずと見えてくるのです。四迷の「浮雲」藤村の「破戒」漱石の「それから」そして泉鏡花や徳田秋声や志賀直哉や谷崎潤一郎らが立ち上がってきます。みな、仔細に「現在の常識」から見ると不思議な物言いも表記もしていますが、それもその時代を魅力的に反映しています。
2003 11・18 26
*「ペン電子文藝館」には「評論・研究」とした検索ボタンが設けてあるが、自分で作品を選び校正していて、自分なりには評論・論考・論説・演説・研究などといろいろに腹の中で読んでいる。批評とも。「感じ」以上を出ない。
角田先生のいま読んでいるものは明らかに研究・論考つまり論文である。「日本の歴史」は概説であり論説である。これとても研究成果である。小林秀雄や伊藤整や中村光夫や大岡信のものを論文とも研究とも感じなくて、せいぜい論説・評論と受け止めてそれで敬意を払う。ここに「エッセイ」という感じ方も触れてくる。「エッセイ」というとき、それは随筆と評論・論説との微妙な包含であることを思わずにおれない。谷崎の「陰翳礼讃」は随筆か評論か論説かエッセイか非常に分けるのが難しく、その境界なき区別に味わいがある。
わたしは半ばジョウダンに、「論文は正しくて面白いのが宜しく、評論は面白くて正しいのがよろしい」と云ってきた。正しいの内実も面白いの内実も微妙で、角田博士の論文や伊藤整の評論はそれに当たるだろう。
少し厚かましいが、こんな風にいわれたことがある。「失礼を顧みず申しあげるのですけれど、秦さんの書かれた数々は、評論というには詩の香気がたちのぼり、犀利であるかとおもえば、ふっくらにおいやかであったり。エッセイというには、綿密で、あいまいなところが微塵もなくて……」と。それはわたしの「願う」ところをうまく代弁してもらえて、なかなかそこには達しないのであるが、念頭には、模範として例えば少年来愛読した岡倉天心の「茶の本」や潤一郎の「陰翳礼讃」などが在ってのこと、間違いがない。つまり文学・文藝の名に値するエッセイとして例えば谷崎や漱石や日本文化が語りたかった。そういうものを書いて世に出せる道としては「小説家の道」を先に掴むのが有利と観ていた。だから小説を書き受賞し、エッセイ発表の場を獲得していった。
* 先日の議論で、わたしは、読者たちによる作家論や作品論での「ペン電子文藝館」参加を認めようと提案したときに、素人の作家論や作品論には学問的な手続きが欠けていて体を成さない、参考文献の記載や所説の「裏」が取れていなかったりすると指摘があった。つまり正しさに欠けるというのであろう。
わたしは、新人はすべて最初、学問の方法者としては素人であり、その素人が学者になって行く例と、学者にならずに評論家や作家になる例があり、学者の論文にも批評家・評論家・作家の評論やエッセイとの間に甲乙があるわけでなく、特色の違いがあるに過ぎないと、先のジョーダンも付け加えた。例えば谷崎論で云えば、佐藤春夫や中村光夫や伊藤整や十返肇やその他私も含めて作家評論家の論説が本筋を引っ張ってきた。所謂「谷崎学」の学者たちは寥々たるもので、目立って記憶されるような創見も記憶にない。論文には必須の「正しい」という保証すらあやふやな議論が無くはなかった。
わたしの読者参加の願いは、学者ふうの「研究あらわれよ」ではない。おこがましい云い方をあえてするが、大学の紀要レベルの細々とした「研究」ではなく、文学・文藝に愛情をもち勉強もし感性も豊かな「素人」からの作家論・作品論の見事なのが出てこれる「場」を提供しておきたいと願うのである。いきなり角田博士のような研究は出来ない。しかし、わたしが太宰賞を受賞するやすぐさま着手し、結果としてその評価から大きく道を開いていった最初の書き下ろし「谷崎潤一郎論」のようなものなら、書ける若者は、大人でも、世に隠れているはずだ。江藤淳の漱石論もその様にしてスタートしたではないか。最初はみな素人であり、なまじな玄人研究者よりも文学的なエッセイが書ける道はある。はっきり云って小説よりも有る。
だから、創作での読者参加は求めていない。
*「エンターテイメント」(秦の云い方では「通俗読み物」であるが。)とそうでないものとの区別がわからない、そう分ける理由もよくわからないと云われるが、実物を読めば分かる。分類という意味で「分ける」のではない、成績に於いて自ずとはっきり「分かれてしまう」のである。通俗読み物は、概して、類型的ないわゆる手垢つき言辞を平気で使っている、作者のモチーフが感じられない、絵で云えばパン絵である、ただおもしろづくのおはなしである。斜めに読んでも読める程度に軽薄である。
わたしは純文学がいいとばかり云うのではない。ジャンル分けは無意味に近い。要するにいいものがよく、つまらないものはつまらない。そして、わたしの鑑識では、つまらないものに、通俗読み物の殆どが入るというそれだけの結論である。ひまつぶし以上のものではなく、しかし人間生活にひまつぶしも大切だという価値は十分認めている。
ああまた読みたいなと、たとえば直木三十五の「南国太平記」などを思う。佐々木邦も懐かしい。松本清張などわたしは藤村・漱石・潤一郎とならべて大切な文学者だと思っている。わたしの「清経入水」など、選者から「現代怪奇小説」「ホラー」とすら評されたし、あなたの小説には推理的要素が魅力になっている、推理小説も書けるのではないですかと編集者に勧められたことさえある。推理だから、ホラーだから毛嫌いするなんて事は、鏡花や潤一郎の徒であるわたしが思うわけもない。佳いものはいい、つまらないものはつまらない、しかしただの「読み物」意識で書かれた作品にはつまらないものが多すぎるという、それだけの結論。
これはいいですよ、すばらしいですよという作品をどうか「ペン電子文藝館」に導き入れたいと願っている、ジャンルなど関係ない。書き手の覚悟である。
2003 11・20 26
* ややくつろいで発送用意の作業から離れ、いま、志賀重昂による「『日本人』が懐抱する処の旨義を告白す」を起稿し、校正し、入稿した。名著の誉れ高い『日本風景論』で知られるが、まず今日、重昂の論著を読む人はめったにあるまい。そういう意味ではカビ臭いと譏る人もあろうが、この論文など、一時期文明開化に狂奔しつつその蔭で上流と官学との支配が執拗に計られていた「明治」にあり、やはり誰かが明晰に声をあげて当然な論旨を通しており、説いている「国粋保存」の四字に、落ち着いた視野と意欲とが漲っていて、敬服を誘う。
志賀重昂は日本国内に狭く跼蹐して発言していた人ではない。地理学者として西欧にもよく知られ、足跡は世界に及んでいた。むしろすぐれた西欧文明に学んで説をなしている。「日本人」刊行の第二号初出の「告白」である。出版編集人としてのまた一つの立場と覚悟とが披瀝されていて、おもしろかった。「日本」の陸羯南といい「日本人」の志賀といい、また「萬朝報」の黒岩涙香といい、こういう創始者の名前と意気とが、「時代」の若い活気を体現している。今日のジャーナリズムではあまり聞こえても届いてもこない声と言葉を彼等は用いている。
黒岩の前に、いま、田口鼎軒の「情交論」を起稿校正しはじめている。云うまでもない男女の性的な関わりが、くらい視野のなかへ追いやられ忌避されていていいわけがなかった。だが、黒田清輝の展覧会に出した初のヌード画に、布の被いがかけられた逸話でも察しられるように、封建時代の以前から男女情交はむしろ以ての外の悪事に類して取り扱われた。明治でもそれが当然のようであった中で、田口の、意を決しての議論である。これまた起こらずして済まなかった新時代、明治十九年の勇気の声であった。二葉亭四迷の「浮雲」をはじめとするわが近代文学はこの翌年よりして大いに開花し始めたのである。
「ペン電子文藝館」は、このように時代の進行に歩調を与え得たような、記念の文章、をも長く保存し展示したいと、それが館長としての私のつよい意思である。思えばあの敗戦後の性と性の表現の解放は、めざましいものであったし、良くもまた悪しくも時代を一変した。その遠き淵源が、この田口鼎軒の「情交論」にもあると改めて知るのは感慨深い。
* 黒田清輝のたしか「朝妝」といったろうか、日本の油絵で初の裸体画は、警察ないし展覧会当局による滑稽な扱いを受けた。きわどく布で隠されたまま陳列されたというが、さすがにその後そういうことはなかった。
絵のモデルというと直ちに裸体を連想させたほど、画学生も画家もヌードデッサンし、裸体画を公表した。彫刻作品ではまして裸体像は珍しくなかった。萩原守衛の有名な代表作などに観られるし、秦テルオと互いに感応した戸張孤雁の彫刻もヌードにいいものが多い。着衣の現代彫刻はむしろ少ない。
西欧の彫刻は、ミロのヴィーナスをはじめ、連綿として現代まで裸像の歴史をもっている。絵画でもそうだが、或る時代的な特色がからんでいるという。裸体画がもっぱら好んで描かれる時代と、そうでない時代とは微妙に交替しているという学説を、西洋の美術史家ヴォリンガーに学んだことがある。それから、裸体の人物と着衣の人物がさも当然のように混じる時期もあるという。そういう、戦闘する民衆の先頭に裸体の像が先駈けていたり、裸体の婦人もまじって草上になごやかに食事などしている光景の絵を、見覚えている人があるだろう。それが特に不自然でなくある種の鼓吹的な効果を持って描かれていたりする。
* 裸体を劣情の対象として描くか、また観るか。難しい問題である。日本画家の石本正も加山又造もいい裸体像を描くが、石本のはスケベーが過ぎると嫌う人もあり、加山のもなまなましいと嫌う人はいる。そのきらい、ないではない。
しかし、少なくもボッティチェリからプーサンやルノワールやマティスにいたるまで裸婦像は「美」の表現として多くを魅了して已まなかった。すばらしい裸婦像は展覧会の花である。だがどう「すばらしい」かとなると、微妙な個人差が描き手にも鑑賞者にも箇々に分かれてくる。伝えるところルノワールは絵筆をペニスのかわりに女の肉体を美しく描いたと云われる。そういう機微は否定出来ない。
* 生まれて初めてみた女のからだの美しさにまいったのは、あれで幼稚園のころか、その前かも知れないが、家の二階にあがると、着替えの最中であったか叔母ツルが、上半身をあらわにしていたその、乳房のかたち。特に色白な女ではなかった叔母は、また美女とも程遠かったのに、豊かに美しい胸乳をもっていた。稚いわたしは、実の母の乳というものを全く見覚えもせず秦家へ貰われてきていたので、また不幸にして養母の胸はあまりに薄かったので、このときの叔母の胸にはほんとうにまいってしまった。うわあっッと歓声をあげとびついて行ったのを、ありあり覚えている、むろん触れることも出来はしなかったが。
* あれは一種のすりこみ体験であったろう。女のはだかに彫像や裸像や写真で接するとき、わたしはほとんど乳房の形と美しさだけに惹かれている。母を知らないわたしのトラウマとも謂える。が、美術史的に謂っても、人類の、少なくも男子の、根の深くて遠い憧れなのであろう。ミロのヴィーナスにあの美しい乳房が欠けていたら、国立東京博物館を人は七巻半も取り巻いて観に出掛けたろうか。だが、わたしは出掛けた。レンブラントの「ダナエ」特別展にも出掛けた。劣情ではない、まさに優情であり哀情からである。
* 誰でも知っているように、インターネットの蜘蛛の巣には、すばらしい情報も多いが、愚劣極まる醜悪な画面も、底知れぬドツボの内容物となり堆積している。むろんわたしは、そんなもの知らない、見ない、覗きもしないなどと白けたことは云わない。わたしは何でも観ているし、知っている。そしてこ幸いにもそんな夥しい刺激物に、わたしは精神的にも肉体的にも殆ど反応しない。もう少し反応しないものかなあと慨嘆するほどつまらない。見ていて汚い。
わたしは、汚いもの穢れたものを直視することで「解脱」を切望し、夜ごと墓場に泣いていた老大納言国経の、いわゆる「不浄観」という修行のあるのを、生まれて初めて愛読した新聞小説「少将滋幹の母」で識った。絶世の美人妻を若い権力者時平に奪われた大納言は、墓場に腐乱した女の死骸に瞳を凝らして、苦悶からの脱却をはかっていたのである。そんなうまい手があるもんかなあと、かすかに子供ごころに感じたが、インターネットで出逢う女たちの裸ときたら、墓場の腐乱死骸にかなり似ていて、幸い悪臭のないまま見ていると、じつは、「みーんな同じ」で、曲もないバカな見せ物だとすぐ分かる。悟りが開けるとすれば、どんな人間も、裸になればみな変わりはない、という事実にだけだ。つまり、つまらないものである、この年齢にもなってしまうと。
だが、極めて稀にであるが、泥中の蓮花もかくやと清らかに匂うような女のはだか写真も混じるのである。地獄で仏のように、である。なんでこんな美しい人が、なんでこんなきたない場所に自分の裸身を曝すのだろうと、訝しい極みであるが、それほど、写真効果もあるにしても、上品で清潔な人のヌードに出逢うことが出来る。極めて極めて稀であるが。云うまでもない、たいてい乳房の清純なかたちや色に美は凝縮される。ダウンロードしてよろこんで秘匿したりする。ミロのヴィーナスを彫刻の美として喜ぶように、佳い写真として鑑賞に堪えるヌードが、たまに、ごくたまに、インターネットの泥田の蓮のようにみつかることを、わたしは、徳としている。
2003 11・24 26
* 気分がゆったりしていたので、日付が替わってから、スキャナーをつかって、大西操山「批評論」黒岩涙香「『萬朝報』発刊の辞・満十五年」それに栗本鋤雲の「岩瀬肥後守の事歴」をスキャンした。こういう貴重な明治人の、いやみな明治の以前から世にあった人達の声を、「ペン電子文藝館」は今聴いておかないと、いずれわたしが退蔵の日を迎えてからはとてもとりあげて貰えないだろうと懸念するからである。文章は文語で、たしかに今の若者には読み煩うであろうが、学徒の中には、篤学の大人の中には、読んでくれる読者があると思いたい。たとえ読者の数は少なくても保存に値する先学の先達の言葉や意思は書きとどめておきたいとわたしは思うのである。今暫くは、こういう意思を我なりに大事にしたい。
そして意欲的な人があとあと、より現代的な血潮をも注ぎ込むように受け継いで欲しい。
2003 11・25 26
* 太平洋戦争の開戦を国民が軍により告げられた日であった。日付を書くまで忘れていた。それほど遠くなったということか。昭和十六年(1941)だった、わたしは毎朝迎えのバスに乗り、馬町の京都幼稚園に通っていた。秦宏一(ひろかず)と、自分の氏名を疑ってもいなかった。
南山城加茂当尾の共は大庄屋吉岡家から、京都新門前の秦家にもらわれて来たのが正確に幾つの歳の何月何日とはもう調べようもないが、昭和十四年か五年、四、五歳までであろう。
あれから幼稚園を終えて国民学校に上がり、二年生夏休み頃までの記憶では、生活の空気が、ふしぎにからりと澄んで明るかった。昔の風儀のいいところが家庭内に習慣というより肉体化してのこっていたし、質素ななかに、祖父は祖父の位置を占め、父は父らしく務めていたし、母は主婦というより嫁の立場に精勤していた。母より一つ上の小姑であった未婚の叔母は、自立を模索し稽古事に人一倍精進していた。
世の中のむずかしいことは、我が家ではてんと話題にもならなかった、お上も我が家のことなど、ただ数の外のその他大勢であったろう。たしかにお国は戦争していたのだが、我が家の生活全部が戦争におおわれてはいなかった。幼稚園で毎月もらってくる、楽しみのキンダーブックの絵本の空気と、さして変わりない今日只今平穏無事の空気が、まだ家にも、幼稚園にも、学校にも世間にも流れているかのようであった。あの透明なエアポケットにはまっていたようなあの頃を、ときどき、とても懐かしく感じる。テレビもなかった。携帯電話やパソコンなど影も無かった。電化製品は極く数も種類も少なく、電器屋だった父は、ラジオ、扇風機、電気行火などが売れたら大喜びしていた。百円札など滅多に見たこともなく、真空管や電池や電球が貴重品であった。三十燭や三十ワットの電球で生活していた。よくて四十ワット。六十ワットは贅沢で、百ワットのでんきゅうなんて眩しくて堪らなかった。
いけない、いけない。こんな思い出にひたっていると、幾らでも時間が過ぎてしまう。
わたしたちの町内は、たった数十軒のちいさな両側町であったけれど、どの家がサラリーマンであったろうととても思い出せないほど、親が、大人が、いつも家にいた。店屋が多かったということか、但しいわゆる外国人向けの美術骨董商の多かった通りで、自然戦時中は火が消えたように静かであったが、月給取りの風は何処の家にもまるで感じられなかった。月給取りの生活というのが想像出来なかったような少年時代をわたしは過ごしてきた。
* あの頃の不思議に澄んで明るかった、なにかしら人の身動きにも暮らしにも貧しいながら整頓された清潔感のあったあの時代への懐旧の念は、当然ながら、今今の風俗の、情報の溢れかえって騒然・混濁・腐臭への厭悪感にも導き出されているのに相違ない。どうなってしまったのだろうと嘆きながら、ワケはかなり分かっている。機械化の便利と引き替えに、人らしいキマリのある日々をかなぐり捨てたのだ。便利になっているのは間違いない、それなのに世の中は快適かというと、とんでもない、不快でだらしのないさなかにある。機械がしみだしている毒に毒されているのだ、人間が。むろん、わたしも。
映画「マトリックス」の最初のバージョンに、痺れた、のはその嘆きからだ。
* 有り難いことに障子窓の外が、はればれと今日は明るい。日の光に恵まれる嬉しさ。そして目の前であの阿修羅像が息をつめて合掌している。ああ、どうしたらそうっと静かに死ねるだろう。
2003 12・8 27
* もう「古典独歩」二を選んで、読み返している。原稿依頼があって、編集室指定の意向にうまく馴染めず、気乗りしないまま自分の思うままに書いておいた原稿が、掲載されたその当時われながらイヤな気分であったのに、二昔になるほど歳月を経て読んでみると、当時の特集としては脱線もいいところであった原稿が、実に率直に自分自身を証言してくれていたと分かり、よく書いて置いたなあと思わず手を拍ってしまったりする。あくまでわたしは創作者で小説家であったので、どんなときも研究論文を書こうなど考えたことがない。書きたいのは実感であり、実感を支えた体験であった。私生活からの体験もあり、読書などを通じて得た体験もあったが、エッセイとはそういうものと思う。
2003 12・8 27
* 秦鶴吉といった祖父が七十八で老衰死したとき、たいへんな長生きに思われた。わたしの年で数えると、あと十年。フームという心地である。朧ろな記憶からいえば今のわたしの方が、その年頃の祖父より活溌な気はするが、父長治郎の六十八はどうだったろう、父は九十一まで長命した。母タカは九十六歳で卒去した。もう二十三年または二十八年ガンバラないと追いつかない。フムフム。推量のとても利かない長い歳月だ。
* 売れたのか売れ残ったのか知らないでいるが、山折哲雄氏と対談した『元気に生き 自然に死ぬ』(春秋社)は、版元の企画と希望で、仕方なく古典がらみに話題が進んでいるけれど、その辺の煩わしいのを取り外して読んでもらうと、老境の深まり行く上で、だいじなことにかなり多く触れている。いま、なだ・いなだ氏らが発言しているという「老人」の政治エネルギーにも触れて、参議院の廃止・老議院の提唱などもしている。老夫婦の問題にもかなり露わにふれている。
* 老と限るまいが、この頃の医学の話題として、ことに夫定年後の「夫在宅症候群」が老女達を悩ませているとテレビ報道を聴いた。何を言うやらとは思いつつ、そうかも知れないと感じる「よそごと」は耳にしている。正確には「夫在宅・妻出歩き症候群」と双方から言い及ぶべきだろう。
わたしなど、家に大人がいつも顔を揃えているのを暮らしの常として育った。商家だったから。そのうえに文筆業に投じたので、うちの娘息子たちも父親は家にいるものと、妻はわたしが家にいるものと、慣れきっていて、わたしの「在宅」ゆえに症候に悩んだとは見えない。健康も響いているが、わたしの妻に「出歩き癖」は昔からまったく無かった。わたしも、今日は出かけなくていいぞという日の朝寝など、ほんとに大好きな方である。出掛けるときは、芝居でも食事でも旅でも、なるべく夫婦で出掛ける。「夫在宅症候群」なんて、なんて気が悪い兆候だろうと思うが、聴けば聴き、知れば知るほど、実は我が家など少数派の最たる方なんだそうだ。
逆説が過ぎるかも知れないが、そんな夫婦だからこそ、わたしは、よその女性にもごく自然に心惹かれ喜ぶことが出来る。好意がもててももたれても素直によろこぶ。
* 老境の夫婦の不幸は、お互いが鼻についてうとましくなることだろう。ことに、存在だけが疎ましいのでなく、互いの肉体がただただ汚くおぞましいものに感じられてくることに、不幸は極まる。老いてますます美しく清潔になるワケなく、それだけに、ひとしおお互いのいたわりが無くてはお話にならない。その辺を露骨にいやに感じ、感じすぎているのが、女の方にきついか、男の方にひどいかは、よく分からない。不幸と孤独はそこから深まり夫婦の腐蝕度を深めるであろうコトだけが、分かる。よく分かる。そんなことも山折さんと話している。観念では処置出来ない、生活して対応するしかない。お互いがお互いをバカにしはじめたら危ない。
2003 12・14 27
* 昔、女一宮であった照宮内親王の、幼い頃からの学友そして宮仕えをつとめ、中世和歌研究の、また「女房」学の教授生活に転じられた、岩佐美代子さんから、新しい「湖の本」へのお手紙や「藤袴」の巻の対談などを戴いた。前にも文通があった。また国文学研究の今西祐一郎九大教授から、また在野の著名な研究者である由良琢郎氏から、また京都で盛んに文筆活動をされている河野仁昭氏からも忝ないお手紙や著書を頂戴した。「湖の本」の存続は容易でない中に、優れた多くの人との交際の輪をつくる大きな役をしてくれている。
いつの日にかスパットやめてしまうであろう「三つ」として、日本ペンクラブ理事および「ペン電子文藝館」の責任者、そしてホームページ上での「e-文庫・湖(umi)」や「私語」など、さらには「湖の本」刊行ということを、今度の跋文に書いたのへ、思いがけず反響が多く、苦しいであろうけれど「湖の本」は文学活動そのものであり、いろんな意義も絡んでいるので、長く続けて欲しいというご意見がことに多かった。有り難いことである。
そこへ行くと電子文藝館はとにかくも、理事や委員生活は、やっていて、ま、心が綺麗に成ると云うことの決してない地位に過ぎない。選挙されて地位に有る限りは努めるのがわたしの習いでありやり方であるけれど、ほとんど心は楽しまない。会議の後、大急ぎでどこかへ場所を換えて、静かな酒を飲み本を読んで心身を洗ってから帰るようなことに、つい、なってしまう。「ペン電子文藝館」は、視力や眼科所見により、とてももう長くは続けられまい。
機械のことは、まだ機械に触れない人の方が多いので、わたしの読者でも大方はホームページの存在に目を触れていない。これは、わたしと外とを結ぶ窓口・出入り口だから、わたし一人のこころがけで、出入りのハバを狭くすることは出来るに違いない。
今はもうわたしの「本」を出そうと思うような出版社は、無い、から、機械や湖の本はたしかに貴重なメディアなのである。幸いに収入をそこから得なくては立ちゆかぬということが無い。本は、もう出したいだけは沢山出して貰ったので、とくべつ気も動かない。成るように成ってゆくと考えている。
いい、親しい読者と、優れた知己に多く恵まれていて、不徳ながら孤独ではない。おろかな名誉欲に取り憑かれないで居れば、生々として清々とした日々が得られる。老境は何としても危うい。支え合ってゆくより無いのである。
2003 12・17 27
* 田岡嶺雲の「嶺雲揺曳」という代表作の文集は、裂帛の気合いで書かれている。全部は採れない抄録するしかないが、巻頭の一文から、わたしはスカッとした。嶺雲はこれを「齢三十」で書いているのだから、明治の人は凄い。こころみに、校正したばかりの巻頭文を以下にあげてみる。若い人よ、気力ある人よ。音読されたい。今将に二十世紀を迎えるという百数年前の若き明治論客の警世言である。
* 人才の壅塞 田岡嶺雲「嶺雲揺曳」巻頭 明治三十二年(1899)孟春
徳川幕府封建の制度は門閥の弊を養成して、上下人為の分(ぶん)厳に、格卑きものは才あるも用ゐられず、格貴きものは才なきも要路を占むるを得、登門杜絶、人才壅塞(ようそく)せらるゝもの三百年。而して其の弊の極まるや発して維新の革命となる。維新の革命は実(げ)に多く彼(か)の士以下下層の不平の輩によりてなされたり。彼等利器を懐(いだ)いて草廬に処(を)り、攊(れき)に伏して驥足(きそく)を伸ばす能(あた)はざるの徒、鬱勃満腔の不平、外舶突として来り幕府の紀綱弛廃の痕(あと)見(あらは)れたるに乗じて、迸(ほとばし)りて尊王攘夷の説となり、終(つひ)に倒幕復古の大業を成しぬ。幕府覆亡の原因もとより諸多と雖(いへど)も、人才の壅塞亦其一大原因たらずんばあらず。
幕府倒れ、王政建つ。維新の革命なつて封建門閥の制打破せられ、世襲の風廃せられ、材によつて人を用ひ、人材登用の途開け英俊競ひ進む、明治初政の彬々(ひんぴん)たる人材を以て満たされたる実に所以(ゆゑ)あり矣(い)。
維新革命来、茲(ここ)に三十年、世はまた人材の壅塞を見んとす。尊卑の門閥は既に維新の革命に破れたりと雖(いへ)ども、今日また旧新を別つの一新門閥をみる。旧進の者前に塞がって、新進のもの進む能はず。進む能はざるの新進は益々多ふして、前に塞がるの旧進は動かざること依然。於是乎(ここにおいてか)、新進の進む能はざるものは、相胥(あひともな)いて失意の壑中(がくちふ)に陥らんとす。新進にして稀れに進むを得るものあらしむるも、これ皆便侫利口(べんねいりこう)の徒のみ、狷介圭角(けんかいけいかく)の人の如き、璧(たま)を抱いて空しく不遇に哭するあるのみ。蓋(けだ)し今の世は巧利の世なり、器械的の世なり、唯物の世なり。今の世の風は大才を容るゝ能はず、今の世は則ち俗物の世なり、俗才子の世なり。旧進既に途を杜(ふさ)ぐ、新進にして稀れに進むものあるも、円滑軽薄の俗才子、小利口(こりこう)に非ざれば則ち得ず。翩々(へんぺん)たる俗才子を除いては、大才と雖ども終(つひ)に其才を奮ふに所なし、大才は時に媚び世に諂(へつら)ふものに非ず、刀筆(たうひつ)の吏たるは小才の事のみ。今の世終に大才を容るゝ地なし。
小才はよく鼠を捕ふるの貍児(りじ)たるのみ。大才は深山に哮(いば)ゆるの虎の如き乎(か)、一声よく百獣を懾伏(しようふく)す。今の世貍児の能にして馴らし易きを知つて、虎の威にして致し難きを措(お)く。小能を見、小技にとる、所謂(いはゆる)巧利の世なるもの此(かく)の如きのみ。
猫をして怒らしむるも牙を露(あら)はし鬚(ひげ)を竪(た)つるのみ。虎を野に放つは天下の至険なり。有為(ゆうゐ)の大才を抱いて轗軻(かんか)に沈倫する、これ虎の野にあるなり、畏るべきものは失意の大才なり。彼等意を当世に失ひ、望を当世に絶つ。絶望は人を暴にするなり、自ら其才あるを知り、而して自ら其才あつて而して用ゐられざる所以(ゆゑん)を知り、而して自ら望の今に繋(か)く可らざるを知るに至らば、彼等寧(むし)ろ何事をか為さざらんや。愚者の暴は憤を酒色に遣りて則ちやまんのみ、才あるもの憤りを洩さんとす、非常の事と雖もまた為さざるを保する能はず。
維新の革命は実に幾多不平の徒の手によつて成されぬ、家もなく位もなく而かも才ある幾多浪士の経営に成りぬ、今日の弊にして極まらば、今の天下失意の才豈(あ)にまた往日の歴史を再びせざらんや。物(もの)平を得ざれば則ち激す、革命なるものは、不平の内に激して之を外に発するの噴孔なり。維新の革命は幕末失意の士の不平の迸発のみ。革命の猛焔は一度(ひとたび)積弊を燼(や)き尽して、暫く人材の鈞衡(きんこう)を得たり、積弊再びす、今日の弊何を以てか之を拯(すく)はん、嗚呼(ああ)何を以て乎(か)之を拯はん。
沈滞は腐敗を生ず、波瀾は活動を与ふ。嗚呼今の世、人才壅塞するものは、社会に活動なければなり。内閣は依然たる元勲の内閣なり、改進党は依然として大隈(おほくま)を戴けるなり、自由党は依然として板垣を戴けるなり、硯友社は依然として紅葉を領袖とするなり。今の時一大旋風を吹起し、一大波瀾を捲起し、今の社会を一大震蕩せずんば、天下は遂に失意不平の徒を以て満たされん。旋風よ来れ、波瀾よ来れ。汝とともにあらゆる腐敗を吹き去れ、汝とともにあらゆる沈滞を捲き去れ。
三十年の泰平は姑息の風を養ひなし、苟且(こうしや)の俗を養ひなせり。人に口あつて手なく、弁あつて勇なく、粧飾あつて赤心なし。失意不平の徒と雖ども、また往日幕末浪士の熱誠と熱意とある頗(すこ)ぶる疑ふべし。僅に五斗米を得れば則ち腰を屈するを耻ぢず、啗(くら)はすに利を以てすれば払髯(ふつぜん)を愧(は)ぢず。昨日朝(てう)を攻めしの筆を以て今日は野(や)を撃ち、吏を罵りしの口を以て今日は上官に媚ぶ。天下不平の徒また小不平あるのみ、食を得ざるに不平し、職を得ざるに不平し、官を得ざるに不平し、顧を得ざるに不平す。其不平や小なり、故に反覆表裏を常にせず、此(かく)の如きの徒不平ありと雖ども、失意たりと雖ども、以て真に事をなすに足らざるなり。幕末の士は、死を決して天下後世の為めに、門閥の積弊を破らんとせり、一身の栄達は寧ろ彼等が企図せし所に非ず、彼等其一身を犠牲として一大目的に殉ぜしのみ。今の所謂失意不平の徒亦よく此大決心を有し、大勇気を有するや否や。既に一身の為に不平す、何ぞ一身を捨つるの勇あらんや。
嗚呼(ああ)天下後昆のために身を挺し、命を捨てゝ、今日の積弊を一洗せんとするものは誰れかある、嗚呼今の世に旋風を吹起(すゐき)し、波瀾を捲起(けんき)するもの天下終(つひ)に人なき歟(か)。而かも今の世旋風なかるべからず、波瀾なかるべからず。嗚呼々々誰れにか待たん、誰れにか待たん、噫(ああ)。
* この手の言動は、今日の知識人の全く顧みなくなった一つで、おそらくは嘲笑し去るであろう。そういう時節だからこそ、わたしは、「カビくさい」と云われながらも、これら明治人の声を、あえて「ペン電子文藝館」に招き入れている。いま、だれがかかる言説を拾って、一つの時代の「証言」としてくれるであろうか。図書館の書庫に眠っているだけでは意味がない。最もアップ・トゥ・デートな「ペン電子文藝館」に、いつでも誰でも簡単に触れられる「場」で、最も時代若き言説や論説や意見と隣り合わせに置いておきたいのである。読み煩う文章では有ろうが、読んで行くと、いい味わいに充たされている。 2003 12・17 27
* 何となく、ほろ苦く今年最後の「外」仕事は終えた。さて今年はどんな年であったとも感慨はない。鳥は翔んでゆくもの、雲は流れ去るもの。時は、ただ過ぎて行く。それでいい。鏡にうつる影の、一つずつ一つずつが消え失せて行くのは、尊い。理想は難いが、だから理想なのである。
2003 12・19 27