* ペンの古参理事の一人から、「ペンの力を信ずるのは、どうも楽観的にすぎる気がしてきました」とある。日本列島に只今只一人の真の「文豪」もいやしないのに、ペンの力の信頼できる道理がないでしょうと返事を書いた。このような状態のもとでペンの力を過信するほど危険なことはないのである。
文豪と呼んで差し支えない人が確かにわたしの若い頃までは存在した。しかし川端康成以降に誰がその名にふさわしく活動していただろう。もういない。大江健三郎。とてもわたしの目には文豪ではない、僥倖に恵まれた思弁の作家であるに過ぎない。文藝家協会を率いてきた吉村昭、高井有一、黒井千次。みな小粒な作家で、何が代表作として国民の心に食い入っているかと問えば、ゼロである。日本ペンクラブを率いてきた人達を見ても、文豪など、川端康成以後にはだれ一人いない。人気の売れるのということを別にすれば、わたしと、チョボチョボである。器量はみな小さい。ほかにも有力そうな名前はいくらか思い出せるが、なにほどでもありはしない。「ペン電子文藝館」のような歴史的な視野の中で仕事をしていると、否応なくそれが分かる。
小泉八雲が東京帝大で漱石より以前に講義をした最初は、真に「文豪出でよ」であった。世界の世論は文豪こそが創るのだと云い、プーシキンやトルストイやドストエフスキーやチェーホフが出ない前のロシアが、西欧社会ではただの野蛮国としか見られなかったのに、彼等の出現は一夜にしてロシアへの真の敬愛を産み出した、いかなる外交や学問よりもその力は偉大であったと。
日本の現代文学が大江健三郎でのみ海外に知られているような現不幸は大きい。泉鏡花、谷崎潤一郎、川端康成らで語られる日本文学であるのが本筋だ、もし源氏物語への世界的な尊敬が真実ならば。文豪というか、真のフェイマスとは彼等のことだ。その意味で志賀直哉は日本語文章の神様であるとは躊躇無く認めるが、文豪ではない。むしろ島崎藤村が文豪だ。夏目漱石が世界でさほど認められない不思議については考えてみる必要が有ろう。
ともあれ、今、文豪はお留守である。
* 「ずいひつ」新年号に書いておいた「リッチとフェイマス」とを再録しておこう。
* リッチとフェイマス 秦 恒平 (ずいひつ)一月号
図書館と著作者とが、へんに角突き合って二年ほどになる。私も所属している日本ペンクラブが、平成十四年、去年、であったが図書館にもの申す声明文を公にした。図書館は無料貸本屋である、また人気の同じ本を多数冊買い込み貸し出すので著作者の権利が多大に侵害されている事実がある、といったモノで、それは逸まった推測ではないかとわたしは声明を出すことに賛成しなかった。引き続いて、やはりわれわれの主催で「激突!著作者VS図書館」というシンポジウムまで開いた。討論を聴いていると、どうも図書館側の発言に共感できて、著作者側の一人として閉口した。
一年経って、またシンポジウムをやるという。推理作家やマンガ作家たちが前に出て、うしろから不景気な大出版社が尻押しして、やはり図書館が本の貸し出しに躍起なために著作者は損害甚大、「損だ損だ」と云い募りかねない。私は、もはや両者激突の時機ではないと主張し、シンポジウムの題に「著作者・読者・図書館」と、少し強硬に「読者」の二字を挟んでもらい、読者棚上げの子供っぽい議論に視野をひろげさせた。
だいじなキーワードの一つなのに、多くの作家からも出版からも洩れているのは、「読者」への愛や誠意である。読者層の市場調査ということはウルサク云うけれど、それは市場の「買い手」としての「頭数」調査であり、「読み手」の頭の中を探索し感謝したり配慮したりは、二の次にも三の次にも無く、無くて当然、のようなことになっていたのが日本の「本」をダメにしてきた。わたしは、そう思っている。大量に買わせる目的一つで、読めるレベルを探るものだから、どうしても、マンガか不出来な推理や浅い読み物になる。紙屑出版といわれるワケである。
キャンディス・バーゲンとジャクリーヌ・ビセットとが仲良く喧嘩した、邦題「ベストフレンド」の原題は、「リッチとフェイマス」であった。
キャンディスは売れに売れる読み物作者として大金持ちになり、ジャクリーヌは寡作でも優秀な藝術文学によって名を高くし、敬愛されている。そういう題だ。
この場合の「リッチ」は、精神ぬきのお金持ち、お金だけは有り余るという意味で使われ、この場合の「フェイマス」は日本語でいう有名・知名人の意味でなくて、作品そのものの価値高さや内容の豊かさゆえによく識られている、という意味に使われている。あまりお金儲けはできていそうにない。
日本の出版が、リッチな作家を多くもつことで経営的に安定出来るという大事さ、これは否定しないし、否定出来ることではない。しかしながら日本の出版や編集者のあやまりは、リッチをフェイマスと錯覚して、真のフェイマスを置き去りに見捨てて行く経済利得感情の優先傾向にある。
昔はそうでなかった。それがそうなりはじめ、近時ますますそうなってきたのは、フェイマスな作者も少なく乏しくなり過ぎているのだろうが、それだけではない。と云うより、フェイマスを敬遠というよりむしろ排除し、リッチにばかり走りすぎた結果として、売れる読み物作家の団体が圧力団体かのように世にも訝しいことを平気で主張したり要求したりするようになってきた。背後の黒幕に、有力な、しかし経営不安の出てきた大出版の有ること、誰でも知っている。フェイマスだった文筆家団体も、そういうリッチ感覚に今や占領されて行く気味がつよい。
井上ひさし氏が会長になり、報道人たちと懇談した場所で、「直木賞作家に成りたい人は日本ペンクラブに入会されるといい、日本ペンの役員や理事には直木賞作家が五人もいます」とジョウダンを云っていたが、そういう意識である。そういえば井上氏は歴代会長の中で、初の直木賞作家である。賞創設以来の会長では、第一回芥川賞の石川達三、以来、井上靖、遠藤周作が芥川賞作家であり、先の受賞者も含め、川端康成や中村光夫らは芥川賞の選者であった。フェイマスがともあれ柱になっていたように見受けられるが、リッチ傾向に転じていることは、理事会の話題の大半が「金稼ぎ」に傾きやすいこの五年六年を体験しただけで、言い切れる。
金は大切なものでわたしも軽視はしていないが、文学・文藝となると、やはりフェイマスが心から懐かしい。固定した熱愛読者が「五百人」いるといって他の作家から羨望され、ときに憎悪もされたという泉鏡花の伝説は極端であるにしても、フェイマスとはそれであった。リッチな文豪になどお目にかかったことがない。
* いま「ペンの力」を過信していいわけがない。ジャーナリスティックな勘やセンスでは、素早くも冴えた人はいるが、要するに商売勘としてしか働いていない。
2004 1・3 28
* 建日子の芝居、大入り超満員で好調らしい。やはり、芝居に精神面の重きを置くことで、脚本にも重みがつくことになる。当人が芝居を見放しかけるつど、どう赤字であろうが大変であろうが、やはり芝居は書いて演出し続けた方がいいと奨めてきた。
今は、ま、昔風にいえば小芝居をやっている。今の舞台、狭いうえに四角い函様のもの二つを使っているだけで装置は全くない、いつものことだ、大体。客席もあまりにあまりなほど超満杯につめこんでいるが、一回公演の客数は知れている。そうとうお断りを出しているらしいが。
はたして大舞台に転じて行けるのか、行く気があるのかという「壁」が、問題だ。今までは徹頭徹尾秦建日子の内部世界を舞台化してきた。観念的な心境短編のようなものだ。小劇場ではこれがほぼ通例かも知れない。だが演劇はそれだけではない。歌舞伎や能・狂言はともかくとしても、わたしが観てきた芝居ですらいろいろある。そこへ同じる必要は少しもないが、いずれは舞台でもドラマでも「超えなくてはいけない課題」として、例えば「脚色」があるだろう。人の作品を演出しなくては成らぬ場面もあるだろう。そのときものが「読める」のかが厳しく問われる。「読み込む」力を鍛えねばいけない。
* 勤めていた会社をやめたいと言ってきたとき、わたしは留めなかった。わたしでも同じことをしてきたのに、どうして留められるだろう。彼が退社したときは、正直わたしの退社時よりもはなはだ基盤は脆弱で、前途に何の保証もなかった。よく伸び上がってこれたなと思う。がまんづよく、続くように。
猪瀬直樹氏が、わが息子の悪戦苦闘を聞いて、「何が何でも泥水を飲みに飲んででも辛抱して書き続けるように言うて下さい」と激励してくれたのを、感慨深く覚えている。あの忙しい限りの猪瀬氏は、なんと建日子の「ペイン」を事務所の人と一緒に観に来てくれている。彼は「奮闘」と「勉強」の人である。この「勉強」の方も建日子には学んで欲しい。持ち前の才能だけでは必ず涸れてくる。清くても濁っていてもいい、泉は、泓々(おうおう)として湧き続いていたい。才能の泉は奮闘と勉強とで湧き続ける。
2004 1・9 28
* 昭和の敗戦ではたしかに他律的に世の中が変わった。わたしは子供であったから責任のある感想とはいえないが、あの大変化を待ち迎えたことに深刻で意外で足場を喪うような凄い失望はあまりなかった。むしろ希望と期待がもてた。敗戦が国民学校の四年生、疎開先の丹波から京都に帰り少し落ち着いてきた頃に、思春期そして中学生。素直に民主主義と新憲法とを歓迎できた。アメリカから押しつけられたという現時のいろんな声は、むろん当時は、京都市井の新制中学生には聞こえても来ない。そして、由来はいかにあれ、それが憲法という国是として国民的に了承し受容していた重みを、やはり何より大切に感じていた、大人になっても。
が、そんなことが、今言おうとしていることではない。この昭和敗戦の変動よりもはるかに質的に大きな変革であったのが明治のご一新ないし明治維新であったらしいのを、藤村の筆は木曽馬籠宿と青山半蔵(藤村の父にあたる)の運命を通してひしひし伝えてくることに、深々と胸うたれているということが云いたかった。
こういう筆あとに揺すぶられたあとで、翻訳物のミステリーは、その文章の索漠一つのゆえにも、とても読みつげたものでない。おはなしにならない。
* かなり多く続けて、このところ明治の文語文と付き合った。凛々たるものだ、膝をうつ名文にも幾つも出逢えた。それらはみな、時代と対峙して必然の感慨をこめ、迸る正心誠意で書かれていた。むろん、時代が変わり日本語が変転して、誰にも読めるとはゆくまいが、同じ日本語であり、漢字が使われルビも豊富で、その気になれば平安の古文よりはるかにやさしい。それらは、論説もまた、評論もまた、随筆も当然ながら「文藝・文学」であるという魅力をおしえてくれる文章だった。
対比して今日の、現今の、総てをナミして云おうなどとは決して思わない。同じように、文藝・文学の魅惑に、ファシネーションに溢れていると喜べる作にも出逢えるであろう、それを、大切にしたい。時代を乗り越えて行く新しい真に優れた文体の創造は、若い書き手の天才に期待するしかない。前衛の沸騰は、「現代」がいつの時も常に直面した運命であり、運命に淘汰されて金無垢の作品があとへのこることを「歴史」はいつも期待してきた。僥倖は一時のもの、結局は何が大事かは、書き手の、また読み手のちから次第となる。鋭い鞭撻が聴かせるあのヒュッと撓い鳴る生気。あれが無くては「かびくさく」腐り出す。腐っていない、ただ不幸にして忘れられかけている作品を、一つでも、一人でも多く「ペン電子文藝館」に蘇らせておきたい。それがわたしの、又一つ現代への「批評」だ。
2004 1・14 28
* 秦家に、たぶん祖父鶴吉の蔵書としてあり、むろん現在もわたしが所蔵している古典に、「湖月抄」の木活字本がある。わたしが「湖」と便宜に名乗っているのは「みごもりの湖」に拠るけれど、まだ国民学校の昔から手に取ることもあった名著、二つの帙入り八冊か十冊の源氏物語注釈の表題が、脳みそに刷り込まれていたのかも知れない。
それと並んでわたしは「春曙抄」と聞いた本の題にも、ながく見果てぬ夢を、今ももっている。佳い本が欲しいなと思っているが、手にしていない。
春は曙。日本語でこんなに美しく完結された批評を、他には知らない。「あけ・ほの」「明け・仄」という日本語自体も美しい。そしてわたしは、紫上びいきであるから当然に春派である。今は花粉に悩まされ、かつては春闘に悩まされたけれど、桜咲く春の曙は絶対のもの。
曙 あけぐれのほのかにひかり生(あ)るるときいのちましぶきひとにみごもれ 湖
そういえば与謝野晶子の歌集に「春曙抄」をよみこんだなまめいた歌があった。あれはかなり気取っていた気がするなあ。
2004 1・18 28
* 今朝、客間兼寝室兼書庫兼物置の本棚にならんだ新版の岩波志賀直哉全集を見ながら、半数以上が「日記」と「書簡」なのに改めて気付いた。わたしは、それも全部読んだ。それだけのことはある、と思った。
わたしの仕事がもしも何かの形で残りうるとして、この電子版「闇に言い置く私語」は、秦恒平といういささかならず狂を発していたような作者が、それでも日々に断然生きて在ったことは示してくれるだろう。とても誇りになる日々ではないが、非力な一人の言葉は此処に生きていて、ひょっとして最大の作品となるのかも知れない。その意味で、ここに慎重に選んで採り上げられる多くの他者の声々は、じつは、わたし自身の生の照り返し(失礼)なのである。有り難いと思っている。
2004 1・21 28
* 人は、われ一人しか立てない小島に立ったまま、広い海原に投じられた存在であり、どう呼び交わしても、無数の島から島へ橋は架からない。
ところが、そんな狭い孤島に、二人で、三人で、五人十人で立っていると実感するときがある。おそろしくも貴重な「錯覚」であるが、その錯覚ゆえに人は孤独の地獄を免れる。真の「身内」とはそれほどの錯覚を共有しあえる同士のことであり、血縁も地縁も俗縁も、何の身内をも保証しない。むろんそれも夢であり錯覚に過ぎないが、貴重な錯覚であり、唯一今もわたしが抱いている「抱き柱」があるとすれば、この錯覚一つだろう。
人間には、「自分」のほか、「身内」と「身内崩れ」と「他人」と「世間」の四種類以外に無い。親子・兄弟・夫婦など、いかなる「関係」の名で呼ばれる間柄も、つまりは他人である。他人とはたんに「知っている」人のこと、世間とは名前も「知らない人たち」のこと。それだけのこと。だが、「身内」は、他人から、「他人」は世間から、生え出てくる。錯覚が過ぎて「身内崩れ」も出る。あたりまえである。
政治も社会も経済も、決して人を幸せにしない。国と国の交際は悪意の算術以上に決して出ない。平和も戦争も、「身内」という「島」の思想抜きには虚妄・虚仮でしかない。極めてチープな「抱き柱」の一本一本に過ぎない。
生身の人同士だけでなく、幸い、人は優れた藝術、優しい自然とは「身内」の仲に成れる。だが其処へだけ逃げこむのは、同じ夢に過ぎぬとはいえ、やはり不幸であろう。
あらゆる意味で政治家、聖職者、教育家、知識人が人を不幸へと惑わせる。彼等は無責任な「抱き柱」の強引な売り手になる。平気でなる。しかし生きている間にただ一人の身内をもつ幸福の方が、他の何より、深い。身内ひとりいない平和、教養、富裕。なんでそれが幸せなものか。
そういう自覚を、わたしは、多くの古典からも学んだのである。どんな人との出逢いにも丁寧・的確であることで、自覚したのである。
秦の母が享年をもし言うならば、わたしはなお二十八年の生を待たれている。わたしに必要なのは、無意味な平和でも無道な戦争でも、無益な知識でもない。もう一人でもいい、二人三人ならさらにいい、一人しか立てない「島」に「身内」と立ちたい。他人と世間とへ放つわたしの視線が、なおさら明るく健康であるようにと願わずにおれない、あれは狂っていると嗤うものが無数にいようとも、もう一人、もう一人の身内と出逢う為に。
2004 1・21 28
* 年にだいたい三百日近く家で過ごしている。かりに百度外出するとして、理事会・委員会・会合と通院・受診と観劇・食事、仕事の旅が、主たるほぼ全部。観劇と食事は、全部に近く妻と一緒。会合の殆どが文壇・美術の関係と東工大卒業生達との歓談。マンツーマンで人と逢って食事したりは、年に十度とない。こう眺めてみるとずいぶん淡泊に暮らしているなあと驚く。淡泊というのではない、それは、メールなどのパソコン環境で描いたヴァーチャルな賑わいに満足しているのだろうという、批評・批判がありえよう。その通りだろうと思う。そういう賑わいは「虚仮」と知っているが、拒む必要も考えていない。むしろとても大事な真実とも膚接していると思っている。
とはいえ、メールだけで例えば恋物語が書けると想うのは、かなり情けなく侘びしいことではなかろうか。本気でそういうことを想う人も、無いではないらしいが、恋こそは金無垢でなければ光らない。「子猷訪戴」風雅の故事は真実をつたえているのかどうか、わたしはかすかには疑いを挟んでいた。今は。さぁ…、と瞑目する。闇は深い。
2004 1・24 28
* 会わずして帰る
先日は当方のお願いを御快諾いただき有難う御座いました。
ふとした御縁でお書きになっているものを、時々拝見するようになりました。東工大でのお話、日中の作家の交流での御発言、「闇に言い置く」の持つ意味など、色々な感想が沸いてきますが、いずれ折を見て申し上げることができればと望んでいます。
一つだけ、友と会うことについて。
訪ねて会わずに帰るという故事のお話を読ませていただきました。その境には達しませんが、「何処かで健在に息をしているだけで良いのだ、それが古き友情なのだ」という一節を見つけました。偶々見つけた詩の中にあったもので、訳をつけてみました。
古き友情
ユーニス・ティーチェンス
美しくも豊かなり古き友情
親しくして永くあること
有り難き古代の象牙の手触り
年を経たワインの滑らかさ
煌きの残る綴れの光沢のごと
涙あり情けあるこそ古き友情
もはや勲の証しは無用
いや如何なる証しも要らぬ
何処にか友の健在に息ある限り
古き友情、歌のごと (柳沢正臣・訳)
加えて、メールの交換も、友と心が繋がっていると感じさせる不思議に便利な手段です。
それでは又。どうぞご自愛下さいますよう。 英国
* 光沢は「つや」 勲は「いさをし」 何処は「いづく」 と訓んだ。「子猷訪戴」の故事の指し示すところと、微妙には逸れて感じられる、が、西欧的な友情とはこうなのであろうなと思わせる。
「子猷訪戴」の故事を著書から教わった小林太市郎という美学者・神戸大学教授は、まことにユニークな碩学であり、達人であった。この人が裏千家の雑誌「淡交」に藝術論を連載されていたあたりが、わたしのあの雑誌熱中愛読のピークであったろうか。その連載からわたしは「畜生塚」「加賀少納言」という好きな作品に、つよい力を得ている。小林氏の他の論文からは、「あやつり春風馬堤曲」も生まれている。雑誌淡交のいろんなちょっとした記事からは、「蝶の皿」「青井戸」「隠沼」が生まれている。
わたしの創作を刺激したものとして「学術論文」がかなり重いことを、思わずにいられない。恩賜土居教授の論文集がなければ、「閨秀」「糸瓜と木魚」は書いてなかったかも知れない。「秋萩帖」も東博から出た小松茂美氏らの優れた論文に恩恵と刺激を受けているし、幾つもの作品が民俗学・歴史学の諸論文に莫大な刺激と恩恵を受けている。角田文衛博士の論文集はたくさん読んできて、「風の奏で」「夕顔」などは大きな示唆を得ている。
古典そのものから展開していった作品の多いこと、いうまでもない。
処女作「或る折臂翁」も、そのまま白楽天の詩を入り口にしていた。育てられた新門前の家の暗い梯子段の上がりぎわ、古い黒い箪笥にもたれて祖父の蔵書の中から小振りな白楽天詩集を持ち出し、るびを頼りにはじめて兵役忌避の反戦詩「新豊折臂翁」を読んだ衝撃を、わたしは今もそのときのように思い出す。国民学校の生徒だった。兵隊さんになりたくなかった、しかしあの時代は兵役にぶつかることは決定的な未来図であった。いややなあとほとほと辟易して、それを想像していた或る寸時の幼い記憶もある。その時自分がどんなポーズでものにもたれて憂鬱であったかも覚えている。意識下にすでに白楽天の詩は忍び込んでいた。
* だが、なんでこうわたしは、今、懐古的・回顧的なのだろう。根の根の根のところを何かしら病んでいるのか。衰えているのか。それともこれはわたしなりのインスパイアなのか。
2004 1・26 28
* 青山半蔵は跡継ぎ宗太に迫られ、涙を流して黙って手を縛られ、俄に造った座敷牢に閉ざされてしまった。祖先が開山した菩提寺松雲寺を無用であると障子に火を放ったのだ、半蔵の無垢の魂はぼろぼろにされていた。そして明らかにあれは酒毒にもあたっている。妄想と幻覚と絶望とモノの影に対する恐怖と反撥。可哀想な小説の主人公とは無数に出逢ってきたけれど、青山半蔵のようにわたしに迫ってきた人はいない。つらいわたしの頭痛をともなって、「夜明け前」を喘いでいる青山半蔵の、ゆらゆる傷つき果てた魂が、身のまぢかに来る。
「終章」へ来て、もう今夜にもすべて読み終えてしまうだろうが、いま、わたしの眼には、秦テルヲが遺した「絶望」と題された絵が迫ってくる。あの絶望につっぷした女は、半蔵とは遠く無縁な、近代の苦界にうちひしがれた女。だが絶望という苦痛においては半蔵もあの女も同じだ。わたしは。いやいやいやいや。ただこの闇の底までかくもこまやかに充たしている寒さは何なのか。
* 半蔵は、抱き柱を捨てることが出来ない。平田国学、復古の理想。神の御心であらうずでござる、と。「夜明け前」をはじめて読んだ昔、一言にしてこれは「神と仏との戦」だと思った。それがこの大作への印象だった。こんど、こんなに丁寧に嘗め味わうようにゆっくり読み進んできて、もっと他のいろいろな感想を持っていたが、ここまで終盤に来て寂しい極みへ荒廃して行く半蔵をながめ、そしてついに松雲寺放火の挙にまでくると、まぎれもなく「夜明け前」の歴史的・精神的側面を一語で尽くすならやはり「神と仏との戦」としか云いようのない堪らなさの厳存しているのを認めざるをえない。藤村の、父半蔵の狂を発して行く経緯を書く筆つきは、おそろしいまでに精確で印象的で粗忽が無い。こういう神業は、鴎外にも漱石にも、ましてその後の作家達には有りうべくもないと、驚嘆、たたそれのみである。半蔵は柱に抱きついて放せなかった。そんな「柱」は時代遅れだと嗤われ嘲けられて狂うしかなかった。深酒の毒が手伝った。彼はしんから酒が好きで、酔ったようには顔へ出なかった。弟子達は深い愛情から師の半蔵に酒をえらんで土産にした。半蔵の喜びようにわたしは泣かされた。朦朧の夢中、ひとり酒を買いに深夜家を忍び出て行く半蔵のあしどりの危うさ。夢から覚めて自ら妻にそれを告げる半蔵の弱り…。
* テルヲの「絶望」の女は、抱き柱を、はなから持たない、何とかして抱きつきたい神も仏も金も人も、一切をもとうにももたない絶望を描かれている。わたしは、その女の前から動けなかった。
* わたしが、たぶん半蔵にも、絶望の女にもならずに済むだろうと思うのは、「抱き柱」を離れて捨てる以外に、人間としての自由は得られないことを、少なくも分かりかけているからだ。わたしは、抱き柱をむしろ何種類も持ってとぼとぼと来た人間だ。だが「抱き柱はいらない」と思うようになり、大方は捨ててしまった。いま何をまだ抱き残しているとも直ぐには謂えないほどだ。
サルトルは謂った、自由とは刑罰だと。言い直して、自由とは凍えそうに寒いものだと謂えるかも知れない。しかしサルトルの自由が、自由な自分を見つけようという意味であるかぎり、つまり自分以外の何か桎梏から自由になりたい意味であるかぎり、自分という「抱き柱」からはやはり不自由にのがれ得ていない。
自分=自我=自己自身からの自由でなければ、何の自由であろうかと、わたしは震えそうに寒々と予期している。その寒さを経て行かないと自由自在はないだろう。何のアテもないが、願う自由は、サルトルのそれではない。自分自身からの自由である。
2004 1・26 28
* 書いたこともあろうか、わたしが「湖」というありようを意識した最初は、盆の仏壇を母が飾ろうとしていた時だ。仏前の蓮の葉に、みづみづしく野菜やほおずきが盛られる、その前に母は蓮の葉に、潔く清水をそそいでそして外へ流した。葉には無数の露が珠と散り、それも瞬時にひとつにたまり、葉の底に小さな湖水を成した。ああ美しいと、わたしは少年の眼も魂もをそこへ吸い取られた。「みづうみ」 それは無数の珠の、個の、かがやきの静かな裂け目のない集結であった。わたしに独特の「身内」という発想は、あの息をとめたような感動に、もう、みごもっていた。
いま「みかた」という語を漢字になおすと、見方、御像はべつとして、同じ意義で味方、身方、御方と辞書に出るのが普通だが、なぜか味方を採る例が多い。しかしわたしの「もらひ子」の意識で身をすこし硬くして暮らしていた幼来の実感では、絶対に「身方」であり、しかも身の回りを見回しても「身方」が見つからないという寂しい実感こそ原点であり、トラウマであった。わたしの謂う「身内」 独りしか立てない島に一緒に立っていると実感をかわせる存在とは、当然にわたしの「身方」にほかならなかった。欲しいのは「身方」だった。
ものを書いて創りたいと、国民学校の二年生頃には思いついて、秦の叔母が寝物語に教えてくれた俳句に関心をもち、ついで百人一首から短歌(わたしの場合は明らかに和歌)により強い興味を覚え、小説にも。書くことを介して得られるかも知れない「身方」ないし「身内」とは、謂うまでもない。面識も相識もない全国の「読者たち」にわたしは支えられている。作品を通してながくわたしは読者に見守られ、時に痛烈に批評も受ける。
2004 1・27 28
* まっしぐらにボールを追いあって激突、大怪我をする選手がいる。野球の守備に多い。その一方でポテン・ヒットと称して、双方で譲り合い譲り合い、ボールが野手同士の間に落ちて安打や塁打に、時にはランニングホームランにもしてしまい試合に負けることがある。盲目の恋と臆病な恋とに似ているだろう。どっちもどっちだが、お互いに見送ってあたら大事なものをフイにするのは、かすかに滑稽な感じがする。
人間の選択では、明らかに「見送る」という選択や姿勢もある、大方の場合、そうしているのが常識人のつねであろうと思う。あえて火中の栗は拾わなくても、それほど空腹ではないというわけだ。おかげで人生にある種の安全が生じる。安全を常に常に選択することで、いつのまにか退屈してしまい、そのためにまた新たな危機に迫られている人生は少なくない、それも真実のようである。怪我はせぬよう大胆に機会を生かすということを、人は生涯に何度か繰り返しているのかもしれない。
給料が二、三万円もあったかどうかという時期に、前後四回、五十万円ほどつかってわたしは私家版を四冊造り、むろん売れるわけはなく、バラまいた。妻はひと言もヤメテと言わなかった。その四冊目が人手をまわりまわって、わたしの目の前へ「太宰治賞」と文壇への招待状を運んできた。あのとき、わたしは賭けていたのではなかった。したことは、バカのようにただ本を知らぬ人にまで送っていただけだ。文学の先生もなかったし仲間もなかった。書いて応募したり投稿したりということすらしていなかった。見ようでは途方もない怠け者であった。いわば勘定を度外視した浪費であったからは、ま、ケチでは出来ない怠け方であった。売れて欲しい買って欲しいという努力は何一つしなかった。ほんの少し自負というものだけが有った。
わたしは子供の頃からものに怯えるこわがり屋であった。暗闇など、しんそこ怖かった。それが今は、ともすると闇へ沈もうとする。無類の安息だ。
ま、それはそれとして、この「私家版」出版と似たような「つっこみ」を、ここぞという時には、自覚して何度か繰り返した。大学院を捨て京都を捨てたのも大きい一つだが、会社勤めをやめたのも、ガンとして自分のしたい仕事以外は受けなかったのも、湖の本の敢行も、東工大教授の就任も、コンピュータへの認識と実践も、ペン理事会入りや電メ研・電子文藝館の創設運営も、みな、一つ間違えば「大衝突」してわたしは潰れていたかも知れぬ。いやもう実は潰れ潰されているのかも知れないが、怠け者の図太い本性か、潰れているとは思っていない。なによりもその一つ一つで躊躇していたら、打球は「それら」とわたしとの間でバウンドして遙かに遠く逸していただろう。人生は退屈したことだろう。
とてもとても多くのいろいろを、つまり安全に見送って見送っていたからこそ、「それら」はキャッチ出来たのだという判断も、むろん、可能である。たぶん、そうだろうなと思う。どうでもいいことは見送って良かったのである、時に冷静に、時に怠けて。時には甚だ冷淡だったこともあろう。
だが、やはり、見送るに見送れない大事なボールは、幾歳になろうと人生のフィールドを襲ってくる。飛んでくる球は踏み込んでキャッチし逸らさない、そういう気力が、意欲が、守備力が無くならないように。気の衰えがちに足の縺れることのどうか無いように。その自覚が、つまり「今・此処」ということだろうと思う。
2004 1・29 28
* 深夜に笑ってしまった。少し湿っていたのが、元気になった。
「大人像」 ?
大人になってみると、そんなものに三文の値打ちも無いことが分かる。
大人の値打ちは、いかに「子供」を精神に保存しているかで決まる。子供のように感動し子供のように喜べない、悲しめない、怒れない大人が、どんなに多いか。また、変に大人に早成りしたがってじつは大人になど成れない若者達を眺めていると、自身のうちなる子供を見失っている例が多すぎる。根が、無いのだ。
人にもよるだろうが、あややを好きになれる大人は、一般にはヘンタイでもなく幼稚でもナントカ症候群でもなくて、弾む若い命をきちんと嘆賞し佳い意味で羨望し感動できるという、それだけのこと。
小闇の「私の描いていた(あの頃の)大人像」というのが、要するに今となれば妄想に近く、アヤシくてアヤフヤなのである。そんなイリュージョンは捨てるにしくはない。
あややでもひばりでもマダム・キュリーでも紫式部でもマリア・アテレサでも、はかる物差しはいろいろあり、或るものさしではかれば、何の区別があるわけでない。とても大切な意味で言っている。
若い東山紀之を公然と愛していると明言する、わたしよりもずっと高齢の女優森光子をわたしは肯定し、尊敬すらしている。あの魂は、生き生きと弾んでいる。ゲーテは八十すぎてハイテーンの少女に本当の愛と敬意を抱いていた。わたしはあややのサインなど欲しくない、が、あややと逢って話せる機会が有れば外さない。卓球の愛チャンにも同じような気持でいる。人間的に魅力を覚えるし、それだけ私の中に、まだ、ものに憧れて感動する少年の気持がある。今も、ある。それを喜んでいる。恥ずかしいと思ったことは無いですねえ。
2004 1・29 28
* エンゾはジャックに抱かれて海の深みへしずかに帰って行く。そしてジャックは決定的な潜水病に。ジョアンナは妊娠、しかしもう助からぬ命と覚っているジャックは海の底へ帰りたがる。「いいわ、行って。わたしの愛をたしかめるたに」と妊娠を告げたジョアンナは、愛するジャックを手づからグラン・ブルー、深海へ放つ。
ジャックは愛していながらジョアンナに三度痛い目を見せている。いちどは、愛を買わしたそのベッドから、ジャックはいるかとの戯れに夜の海へ溶け込んで、ジョアンナを浜辺に置き去りにしている。二度目は、海中のことをジョアンナに聞かれて、海に入ってしまうと上の世界へ「戻る理由がない」と言い放ち、妊娠を告げようとするジョアンナに耳をかさない。かろうじてジョアンナも、そんなあなたのそばに自分がいる理由が見つからないと悲しく呻く。そして三度目は、海へまさに逝ってしまうのだ、ジョアンナに決定的に手伝わせて。
むごい、悲しい、しかも底知れぬ懐かしさにひたされてしまう。「戻る理由がない」別世界をもったジャック・マイヨール。それはジャックの大きな創作世界でもあるのだろう。創作する人間は別世界を胸に抱き込んでいる。ジャックの懐かしさはそのままわたしの懐かしさである、別世界への。
海の底でジャックを迎えて「すべるように」海の闇に欣然と消えていったいるかは、憎むべきなのだろうか。
2004 1・30 28
* 新潮社創業佐藤義亮の『出版のおもいで』は読むに従い興が増してくる。こういう文章を「ペン電子文藝館」が或る程度取りまとめて保存する「意義」を感じる。得難い証言をさすがにその道に命賭けた人達は豊富にもっている。出版や編集は人間と人間の関わりに於いてすることであり、昔は、今よりもその「人間」「才能」にかける重みが大きかった。今はどうしても売れての金高本位が度を過ぎているから、「人間」はあとまわしになる。
* 新声社を売却し、わずかな元手から新潮社をまた興して雑誌「新潮」が創刊されたとき、広告のことて行き詰まり難渋して町を歩いている途中に、「大日本国民中学会」という看板につきあたって縁が出来た、それをキッカケに新潮社と新潮は滑り出していった、という。その中学会というのは講義録出版を主なる仕事にしていたようで、その「講義録」の何冊かこそが、わたしを読書家にも、国史好きにも育てた原動力であったことを、あらためて佐藤義亮の「おもいで」で知った。今日まで、それは秦の父が勉強したのだと思いこんでいた。しかし新潮が創刊され、佐藤が中学会に出会ったのは明治三十七年で、その頃の父は数えで七つ八つ、とても「講義録」のお世話になったわけがない。わが秦家で好学の人は、明治二年生まれ、わたしに多くの和漢の典籍をのこしてくれたやはり祖父の秦鶴吉であったと明確に判定できる。わたしはこの仮綴じに近いような大日本中学会の講義録を、ことにその「日本国史」を戦争で丹波へ疎開以前から、国民学校の低学年から無二の愛読書にしていたのだった。
フーン、と、わたしは今感慨に唸っている。
2004 2・2 29
* アル原 2004.2.2 小闇@TOKYO
アルコール原理主義ではありません。
アルバイトをすることになった。原稿を書くのだ。普段も書いているがそれは給与のうち。しかし他の媒体に書くと稿料が入る。その原稿をアルバイト原稿略してアル原と呼ぶ。
ついついいつもより気合いが入る。そして締め切りよりだいぶ早く書いてしまう。推敲も丁寧。その媒体の作法が判らないので苦労もしたが、楽しく書けた。
普段書いているものがつまらないとか手を抜いているとか、そういうつもりはない。けれどこの、気持ちの違いはなんだろう。
思うに学生時代のアルバイトは、アルバイトという名の本職で、それでしか稼げなかったし、その収入がなくなるとかなりダメージが大きかった。楽しむ余裕はなかった。今度のアルバイトは違う。小銭稼げて嬉しい、ではない。楽しい。
ああもしかして、こういうことなのか。普段書いているものとは他のものを書く面白みというのは。ついでに原稿料も入ったりして。そりゃ取り憑かれもするか。
その意味ではアルコールに近い。
* 東京の小闇に、危険信号がともった。
初心もいいときに、原稿を「書くことと稼げること」を一つの地平でとらえ、小銭稼ぎのアルバイトが楽しい、と。私にもかすかな遠い記憶はあり、分からぬではない。だが、「書く」ことを、みくびっている。コラムや小さなエッセイを書くことはこの筆者には、今の力なら出来るだろう。だが、そこで「調子」に乗ると、まだ未熟な筆は、そのまま固まり、例えば優れた創作の世界や犀利な批評の世界へは、自分の手で手枷をはめ足かせをはめてしまう。文章・文体は魔物であり、みくびっていると器量が固定し、飛翔も変身もできなくなる。本当なら、今こそ辛苦して、我慢して、より大きなモノへ地道に無欲に取り組んだ方がいいのだが。アル原に「取り憑かれ」るなど、「アルコールに近い」など、コトの危うさに半ば気付いているのだから、よけい危ない。棒ほど願って針の世界だ、「書く」とは。はなから針を握って、棒になることは、まず、無い話。
* 医学書院にいたとき、わたしの部下にすでに大学時代いらい推理モノの翻訳などして世に出かけている人がいた。わたしは、もう小説をひとりで書き始めていたものの、彼のように下地も仲間もなかった。彼とは向かおう方角もちがった。
その彼から、秦さん、ものを書きたいのならアルバイトしないかと、まさに「アル原」の話が来た。話を聞いてみて、断った。それはわたしのタメになる仕事ではなかった。原稿料よりも、わたしは、自分の或る大きな希望の方を大切に感じた、たとえ、それが生涯世に出なくても、と。
わたしは「アル原」で筆を傷めるよりもと、東大国文科の書庫に隠れて徒然草の文献を書き写しまくった。そして「慈子(あつこ)」の原作と、論文とを書いた。自分の文章を探り求めていたあの時に、自分の人生へ願いをこめていたあの時に、おもしろおかしげな依頼の「アル原」には向かわなかった判断を、わたしは今も、危なかったなあと思い出す。
むろん、小闇には小闇の道があり、それは自分で選ぶのであり、わたしは、今、一つの「懸念」を表明しつつ、健やかに行くようにと声援するだけだ。
* 太宰賞の先輩吉村治さんに、授賞して一年ほどした頃、それとなく助言していただいた事を記憶している。自分の道を行こうとして、道遥かな思いに心屈するときがある。そういう時に限って、うまそうな仕事のハナシが脇から持ち込まれてくるものです、覚えがありますよ、と。それを断るのは、いろんな意味でキツイ判断だけど、自分は断ったし断って好かったと思っている、と。一度逸れた線路で小さな味をしめればしめたほど、本線へは容易に戻れない。二度と戻れないかもしれない。吉村さんが例にあげられた脇の仕事は具体的に覚えている。引き受けて、好評をえればもう元へ戻りにくそうな「うまい」ハナシであった。人ごとながら、聞いていてわたしの心も身も戦いだ。幸いなことにそういう誘惑には声をかけられずに済んだ。わたしは念願の「谷崎論」へ向かい「みごもりの湖」へ苦闘を重ね、会社をやめるために会社勤めにも励んだ。わたしには妻子があった。一文の原稿料も稼げなくても、会社での貯金で家族を何年養えるだろうかと、それを念頭に、機を狙っていた。その間に、今にして自分で驚くほど「勉強」した。船に「底荷」を積んだのだ。
* 歯を食いしばって秘し隠しても、がんばらねばならない時も、事も、有る。そんな時そんな事は、胸の底の闇に畳んで、外へ書き示したりしない方がいい。誘惑の魔物にえさをやるようなものだ。
書きたい、書いている人は、わたしの近くに何人もいる。息子ですら「小説」を「アメ原」気分で安請け合いしかねまじい気配で、苦笑している。書く以上は、優れた文章で書いて欲しい。小手先の藝では済まないだろう。
2004 2・3 29
* 斎藤野の人という批評家がいた。かなり長編の代表論文「泉鏡花とロマンチク」を書いている。ロマンチク論よりも泉鏡花論に相当する箇所を抄出し校正中だが、手放しのきもちのよいオマージュで始まっている。採り上げている作品が、「誓の巻」と「照葉狂言」とくるから、微笑ましいし嬉しい。これらを読んだとき、魂もとろけそうに感銘した。すこし照れるけれど、これらこそは、おそらく当時古今東西に未曾有の作であった。如何に紹介する、こんな按配こんなふうに鏡花を語っていた人が、早くに有った。同感だ。
* 鏡花の人物では女が不思議な程優ぐれて居るから、先づこの女を一通り研究せねばならぬ。世に鏡花の小説の女ほど、美しく優しく燃ゆる様な情があつて、而かも涼しい程透き徹る様な少しも濁りけのない智慧をもつて、さばけて、意気で、粋で、而かも照り輝くばかり品が可い女は無からう。そして銀杏(いてう)返しや島田が尤も能(よ)く似合つて居る、つまりこれ程日本趣味に出来て居る女は無い。予の知れる範囲では西洋などには勿論居ない、今迄の日本文学にも見当らぬ。遠い昔は知らぬ事、西鶴にも京伝にも馬琴にも紅葉にもこんな女は見当らぬ、まして現代の非日本式の写実主義や翻訳主義や基督教主義の小説家などには思ひも寄らぬ。予には白百合の花にも譬へられたつゝましげに清らかな日本の女が、初めて今日生れた様に思はれる。
予の第一に好きな女は、「誓の巻」のお秀である。「振仰ぎ見返れば、襲着(かさねぎ)したる妙(たへ)なる姿、すらりとしたるが立ちたりき。其(その)美しさ気高さに、まおもてより見るを得ず、唯真白なる耳朶より襟脚にかけ、頬にかけ、二筋三筋はらはらと後毛(おくれげ)の乱れかゝりたる横顔を密(そつ)と見たるのみ」にて、読者も新次と共に恍然たらざるを得ない。お秀は母の無い十四歳の新次に非常に同情を寄せて可愛がる。さうして是からこの新次がお秀を懐かしがる愛情は、誠にたとしへなく美しい。「誓の巻」は実はこの美しい愛情を描いて居るのである。一体鏡花の人物は他の小説家のと異つて居る様に、男と女との関係が世の常の恋と云ふものと甚だ違ふ。それで鏡花はまだ幼い男の児が若い娘に対する愛情を能く描く。「誓の巻」はこの好適例である。併しこの男の児が若い女に対する愛情も、決して世の常の異性の間に成立つ恋とは全く別物である。世の常の恋とは茲(こゝ)に詳しく説く迄もなく、純済問題実用問題と、更に異性間の愛情とが縺(もつ)れ合つて成立するものである。故に家庭とか新生涯とかが其理想となる。併し鏡花にある男と女との関係はさうでない。先づ第一に注目すべきは、男の児は大抵お母さんが無い事である。それで母なる女性に対する憧がれと懐かしさの情は非常に強い。さうして自分を可愛がつてくれる純潔な処女に対して、初めてこの亡き母に対する憧がれと懐かしさが具体的に起るのである。鏡花の愛情と云ふのは、此(かく)の如くにして成立する。即ち哲学めいた詞で云へば、萬有を愛護する所謂マリヤの様な慈母の女性に対する憧憬が、鏡花の愛情の根柢を為すのである。故に鏡花の愛情の目的は、夫婦になることではない、家庭を作る事でもない。つまり母と子になるのである、姉と弟となるのである。あゝこの小児の無邪気と其母を慕ふ心と、更に処女の純潔と、其愛憐の情とが相結ぶ時は、どんなに美しい仲となるのであらう。世の家庭を理想とする愛情は、兎角(とかく)我執の念と利己心に充ちて居る。だから恋の裏面は嫉妬である。又家庭の道徳なる貞操も、多くは悋気(りんき)や嫉妬の上に建てられる。だから暑苦しい、飽き果てられる、時には醜悪である。よしこんな世俗のものでないとしても、あのロマンチク文学の描いた恋、例へばクライストのトゥースネルダのアシレスに対する恋や、グリルパルツェルのメヂヤのヤソンに対する恋や、それからダンテのパオロとフランチェスカとの恋、ワグネルの詩作に於ける大方の恋などは、如何にも先天的な超世界的の磁石力の様な魔力から成立して居て、真に人を魅する、痛切に感ぜしむる、感激せしむる、果ては恐ろしく成る、宛(さな)がら夢見ながら魘(うな)さるる感じがする、苦しさ例ふるに物ない。吾等の弱い心は最早こんな激烈なデモニックな感情に堪へられない。鏡花のは少しもこんな恐ろしさがないと同時に、我執の念もない。経済的乃至(ないし)世俗的の観想をも件はぬ。全く清い美しい姉と弟との関係に外ならぬ。我執の念と利己心と、更にあらゆる悪徳の上に将(は)た暑苦しい熱情の上に超然たるは云ふ迄もない。併し姉と弟との関係と云つても、決して世にある家庭内の姉弟の関係ではない。そは精神的である。而して一切の悩みや罪や煩ひから自由にしてくれる所謂(いはゆる)「久遠(くをん)の女性」としての姉との関係である。そしてこの姉は血もある涙もある活きて居る女であることは勿論である。故に鏡花の女は単に姉や又は母たるのみならず、あらゆる秘密を罩(こ)めてゐる女らしい女である。だから鏡花の愛情とは、母の慕はしさと、姉の懐かしさと、更に女の恋しさとに依りて成立する。あゝ之を愛と呼ぶも未だしである、恋と呼ぶも猶及ばずである。この愛憐の心持ちを何と呼ぶべきか、予は固(もと)より適切の文字を知らぬ、恐らくは日本にはまだ無いのであらう。西洋の辞書にも無論なからう。
新次がお秀に対する感情も、正しくこのまだ無名の心持ちである。新次がお秀と別れて帰る時分に、
……と背後より裳を軽く捌きつゝ、するすると送り出でしが、「宜しく」とばかり云ひ棄てて、彼方向きたまひし後ろ姿、丈は予よりも高かりき。
と云ふあたり。それから鳩の時計で鳩が鳴くのを、新次はどうしても鳩が鳴くのとは思へない、お秀が鳴く真似をするのだと云ひ争うた時に、お秀は「そんなら私の口を圧へなすつて居らつしやいな」と云つて、
熾ゆるが如きわが耳に、冷たき秀の鬢鯛れて、後毛のぬれたるが左の頬を掠むる時、わが胸は彼が肩にておされぬ。襟あしの白きことよ。掌は其温き脣を早や蔽ふたり。雪は戸越しに降りしきる。
と云ふ一段の如きは、至情言外に溢れて慥(たし)かに読者の魂をとろかして了ふ。こんな美しくも可憐な哀感は又とあるまい。かくて新次のお秀に対する愛は、命と共に痛切になる。お秀は最早お嫁に行つた。併し新次の愛は決して失はれたる恋を悲むのではない。つまりはお秀と兄弟の様にして暮せば、新次の望みは足るのであらう。併しこんな事は、とてもこの世の中に出来るものでは無い。殊に母とも思つた新次の師なるミリヤードは、基督教の立場から固く新次にお秀の事を思ひ切る様に命じた。彼は臨終の刹那にも新次にこの事を云つた、果ては母の心を以て叱つた。
秋に沈める横顔のあはれに尊く、うつくしく気だかく清き芙蓉の花片、香の煙に消ゆるばかり、亡き母上のおもかげをばまのあたり見る心地しつ。いまはや何をか云はむ。
「母上」とミリヤードの枕の元に僵(たふ)れふして、胸に縋がりてワッと泣きぬ。誓へとならば誓ふべし。
あはれお秀を忘るる様に誓はねばならぬのか。こんな悲しくはかない心細い哀れさは又世にあるべきか。この一段は真に人をして泣かしむる。思へば基督教の文化は、新次の心持ちを解するに適しない、否、今の世の道徳は大方こんな感情の独立と存在を許さぬのであらう。つまりはまだ何ものたるかを知らぬからである。(以下・つづく)
2004 2・4 29
* わたしはかつて、一人の新次だった。お秀にもまさるお秀がいた。幸せであった。新制中学の二年生だった。お秀は三年生で卒業していった。卒業後は転居していった。わづか半年。だが、今もあの当時とおなじようにお秀に感謝している。彗星がちかづくように歳月をへてお秀へわたしは少し近づき、すぐ、また遠のきあって、今は行方も知れないが、むかしのお秀をかわりなく慕っている。鏡花の新次が終生お秀を慕っていたように。そういうことも、実際にあるのだ。新次と同じわたしの気持は、斎藤野の人が書いているそのままだ。じつは、はじめて野の人の、上に上げた箇所を読んで、わたしは心底ビックリした。六十八のジジイが、瞬時ボウとなった。そういうことがあるのだ。
生まれて初めて、わたしの所謂「身内」という思いを完全に満たされたのは、あの新制中学のお秀であった。ま、そんなふうにわたしは、常識世界からはへんに見えそうな人なのである。
2004 2・4 29
* 歯、一段落。帰りにまた「リオン」で昼食、一番奥の隅の壁際に席をしめて、自作の手入れに余念無く一時間ほど。とにかく机と纏まった静かな時間が必要なのである、作品の推敲には。静かとは事実問題ではない、うちこんでいればすぐ隣の席の客の話し声もまるで気にならない。勤めていた頃はもっと騒がしい喫茶店で書いていたのだから。
知った人の声がいちばん集注をさまたげる。家のダイニングではダメなのだ、創作は。
2004 2・5 29
* いま、なにひとつ義務感がない。そんな自覚は、初めてではないか。
義務感がないのは責任感がないのとは似て非な、べつごとである。しかし責任感も自覚していない。誠実であれば義務感も責任感もいわば余計な拘束にすぎない。理事も館長も選者も委員も、いまは透き通って枠のない水面かのように感じている。無いのではないが有るのでもない、なるべく誠実に任じていればいい。言葉。文章。そして日々の「今・此処」の暮らし。人。十二分だ。
みまわすまでもなく、いま、わたしは約束の原稿を、文債を、ただの一つももっていない。それは売れなくなったからだと人によれば嗤うだろうが、ちがう。売らなくなったのである。必要がない。
作家以前、わたしは、いつか自分の書く文章が売れることを願っていた。その頃のわたしは、言うまでもなく何の仲間も師もない一人の孤独な書き手でしかなかった。それなのに、自分から売り歩いたことはなかった。自分のお金で私家版をつくり、人にあげて読んでもらうのを願った。東大医学部の或る女先生がただ一人、五百円下さった。それだけだった。わたしは満ち足りていた。
だが、それはいわば誕生前であった。生前の体験であった。やがて幸運にわたしは新たに生まれた。誕生。そして夢中に書いた。売った。買ってくれ注文してくれる先は、多くはなかったが、少なくは決してなかった。一年に五冊も六冊も本が出た。一日五枚。一年に書いた文の全部が、あとからあとから本になっていった。うそのようであったが、ほんとであった。
わたしが最も幸せであったと感じることは、ああこれはイヤだ、したくないと思う嫌悪感に囚われそうな注文が、ほぼ全然無かったこと、かりに有っても、わたしはそれを断れた。断れないまま恥ずかしい仕事をしてしまったという記憶は、ま、一度もない。そして、石川県金澤の前の文学館長、心友井口哲郎さんの今年の賀状に刷り込まれたことばを借りれば、わたしは「さるも木からおりる」ことを、ある種の「理想」として胸に抱き続けているのに気付いていった。いま「湖の本」の裏表紙に、創刊の時に井口さんにお願いして彫ってもらった印は、「帰去来=帰りなんいざ」である。
誕生前の、作家としては生前の状態に似た、しかし実質はまるでちがうああいう無欲の新生を、わたしは自分に授けたかった。そして、今朝、ふうっと気が付いた。なあんにも義務的な仕事をもたないで居る日々が、もう、来ていたのだ。安心してそこへ到着したかった其処へ、わたしは着いていた。
しかも今もしたい仕事は山のように有る。それが出来ている。退屈どころか。そして幸い、一病息災の夫婦の家があり、子や孫も、それぞれの場所に元気にいる。逢いたい人が有る。逢いたがってくれる人もいる。なにより、しょうもないものを沢山書いてみてなにになるだろう、金はいらない。好きな仕事でしっかり稼いだ金があり、尽きようともそもそもごく貧しい新婚時代から、食卓もなかったようなアパート暮らしから、毎日歩んできた四十五年であり、そもそもあの時代は不幸であったか、とんでもない。
で、元へもどるだけのことだ、劇作家秦建日子もいるし、娘朝日子や孫娘達もいる。
2004 2・7 29
* 野の人の「ロマンチク」論を耽読している内、ホフマンの「黄金宝壺」に触れてあり、懐かしかった。この岩波文庫で星一つだった中編の作品は、想像を絶してわたしを感化した。わたしは、時あり事あるごとに内心に此の美しい幻惑の物語を呼び戻しては、ま、その世界へ隠れたものである。
この物語がいきいきと蘇ってわたしを魅了したのは、モスクワのジェルジンスキー公園の朝早やの散歩のときであった。ホテルで早く目覚めたわたしは、独り外へ抜けだして、ちかくの公園に入っていった。中国でのように、あとについて見守るような人影はなかった。わたしは、ジェルジンスキーというのがかの恐怖の存在ソ連の秘密警察創始者の記念公園であるなんて、滴ほども知らなかった。美しい森と、森の奧の池と。わたしはホフマンの小説のアンゼルムス青年と同じ気持ちで歩いていた。いたるところにきらきら光る者達の声が聞こえていた。
帰国して初の新聞小説を依頼され、「冬祭り」を書いたが、そのなかでこの時の微妙な体験も書いた。こうもいえば、なぜ「冬祭り」がああいう作品なのか、わたしがいかにカレンに美しい蛇たちを優しく書いたかがわかるだろう。あんなに恐れ嫌いながらわたしが「蛇=セルペンチナ」を神話的にも文化史的にも民俗学的にも文学的にも美術的にも大事に考えてきたかの、一つの太い根は、ホフマン「黄金宝壺」に在った。いまもわたしは読みたい。とても読みたい。野の人には心根を洗われているような気がする。
* 狂いそうに、なにかしら忘れていたいと願うことがあるものだ。そんなとき、わたしはアンゼルムスになる。セルペンチナにちかづく。忘れかけていたとは思わないが、斎藤野の人は、わたしのどうしようもない「闇」から生えて出たロマンチクを洗い出してみせたようだ。やれやれ。しかし、それは今のわたしに恰好のアジールでもある。
2004 2・8 29
* すうっと冷たい霧の這い寄るように、それを死の影とまではっきり言えないけれど、なにかに迫られているように感じる。そうであろうとなかろうと、そう残り長いとは思えない余生の、なにごとであれ、一度一度の機会を、こころからいとおしみ大切に活かしたい。これまでよりももっと丁寧に、あわてずに、道のない道を行きたい。
2004 2・8 29
* 時代と共に生きるしかない人間には、時代に膚接し感染した、おできのようなものを創っている。時代を「抱き柱」にし迎合していれば、なおさらその病症は烈しくなる。保守といい革新といい、それが一つの時代の表と裏とであって、強く結びつけられた同じ一つの二つの表れに過ぎないと一度識ってしまうと、思わず苦笑いが出る。
男と女は異なるではあろうが、じつは男も体内に女をもち、女も男をもっていることは生物学や遺伝学が明示している。両性具有はむしろ本来であり、それが男寄りへ、女寄りへ、不等記号を圧倒的に開いているから仮に男になり女になっているに過ぎない。保守にも革新にも「時代」を介してそれがあり、だから転向も生じて、共産主義者が超保守主義者になったり、全学連や全共闘のメンバーがみちがえる体制側戦士に変貌してもいる。逆もある。本人たちはそれを改進改正の選択だ、声調進歩だと言うだろうが、「抱き柱」のどっち側から抱きついているかの差でしかない。自由でないことでは同じであり、そうなると、要するにどっちに投票するかだけの選択がのこされる。選挙権とはそういうものだ。
菊池寛はえらい人であったけれど、時代の病原を苦もなくのみこんでいた。菊池寛はそれで済んだろうが、エピゴーネンには菊池寛ほどの容量がないままだから、歪みに歪んでゆく。菊池寛その人を「抱き柱」にしてしがみつく人が多いという意味であり、それが自信のなさと不安とのあらわれなのである。菊池寛に限らない。小泉総理に抱きついているものも、いまだにマルクスに抱きつく者達もいる。
何という「柱」ばかりの現世であろう。いろんな名前の柱が無数に立っていて、人はどの柱に抱きつこうかとうろうろしている。キリストにしようかマホメットにしようか観音さんにしようか。赤にしようか白にしようか。金にしようか、地位にしようか。つまりそれほどに現世は不断に激震している世界なのだ、「抱き柱」を抱かないでは独りで立ってもいられないほどに。
しかし、柱のあること自体が錯覚である。そんな柱を離れ、独りで立ち歩くことはできる。自由な人にはそれが出来る。そういう人達が手をつなぐこともできる。愛し合うことも出来る。
「柱のある世界」が現実で、「柱のない世界」が虚仮なのか。さあ、この認識、この判断、興味がある。「柱のある世界」は夢で虚仮で不安の、現象世界。「柱のない世界」は無で自由で実存・本質の世界。わたしはそう思いかけている。そっちへ歩いている。おそろしい選択をしているとも自覚するが。こんなに不自由に生きていながらと、呆れもするが。その自覚や呆れが、闇の彼方へ「悲鳴」のように届くようだ。
2004 2・9 29
* 平凡社創業の下中弥三郎氏とは、二三度お目にかかり言葉も交わしている。一度などは丹波篠山の窯場で出会っている。亡くなった下中さんは此処で焼き物の家業に従事し、小学校教員になり、上京し、信じられないほどの独学勉強から読書の成果を著述し、ついに「や、此は便利だ」という自著本を、事情有って余儀なく自身平凡社を興して出版し、これが売れて売れて、成功の端緒をつかまれたのである。この人の知識欲はもうもう際限というものがなかった。それが行き着くところは知れている、平凡社を世界的にした「大百科事典」へ到達する以外になく、下中さんは最高等の理想と最高等の決意と最高等の用意とで、平凡社の代名詞となった事典を、日本中の一流の学者達を駆使して完成完結大成功させたのである。
平凡社の全集は高等であった、どの分野でも。また良書の多いことは有数であった。良い出版社としては、人は岩波を最右翼に置くが、わたしはひと頃の平凡社はその上を行っていたと思う。或る年の平凡社は、入社に六百倍の志望者を集めている。
岩波、筑摩、平凡社というくらい、質に於いて敬意を払った三社であったが、筑摩書房は、マンガに取り組んで転落し、破産した。しかも理想と志とが出版の邪魔であったのだと結論したかのように、当のマンガ社長をかついで凡百のレベルへダウンしていった。
下中さんが成功したのか失敗したのかは分からないと、今の出版の潮流は冷ややかであろうが、わたしは、下中さんのような出版人がまた現れないかぎり、紙屑出版時代はカサカサに乾いて砕けると思う。砕けてしまえと思うこともある。とにかくも下中さんの回想録、おもしろい。この人は、読みたいものに、生きるに必要なものに飢えに飢えていたその思いのまま、自分が飢えたものには人も飢えているだろうという発想で事を興している。「読者」のために。成功した創業者の頭にはいつも「読者」があり、しかし二代目三代目雇われとなると、読者より金嵩に意識が固着する。ひどくなる一方だ。
2004 2・9 29
* 小説を読んで、「あれは、まさか、ウソでしょう」と聞く人には、「ホントですよ」と答え、「びっくりしました、ホントなんですね」と言う人には「まさか。ウソですよほんと」と答える。そもそも、そんなことは書いた本人にも分からない。分かるのは質問者の好奇心の向き方と、いわば善意(?)のしたり顔だけ。「作」者とは、相当に悪意(?)のもちぬしであることが多い。
* お話にならないという。お話だなという批評もある。お話としては面白いとも云う。話が出来すぎているとも云う。話し方がわるいよとも云う。つくり話とも。話せば分かるとも。
今昔物語は、まだ前の前の方のえらい坊さん達のお話であるが、話して聴かせるいわばメモのようなものとも読める。おもしろい話の満載された、近代現代の小説家達のネタ本でも飯のタネでもあったことは、芥川龍之介を最右翼に、うまいへたは別として、その例は多い。わたしは出来るだけ、そのようにはこの本に近づくまいとしてきた。説話を利用したのは、撰集抄の恵遠法師から、「廬山」を書いた一作だけ。そして、あれはわたし自身の作品になっているはず。
2004 2・10 29
* 著作権は基本的人権であるか。著作者としては、そうあって欲しい。基本的人権という憲法で学んだ枢要な語義も、いざとなると難しい。或るサイトにはこう解説されている。
* ――人間が人間である以上、人間として当然もっている基本的な権利で、近代市民(ブルジョワ)革命(フランス革命の成果としての人権宣言やアメリカ独立宣言等)の過程で18世紀の自然法(人間の本性そのものに基づいて普遍的に存立する法)の思想に基づき、国家権力といえども犯すことが出来ないものとして、実定憲法上認められたものであり、単に基本権とか人権とかで呼ばれる場合もある。それは、「国家以前から存在する権利」、つまり人類が社会を構成する以前、つまり自然の状態で、個人が生まれながらに有する権利であり、国家といえどもこれを奪うことができない永遠不滅の権利を意味する天賦(てんぷ)人権思想を背景としている。
日本国憲法は、思想・表現の自由などの自由権、個人が同等に取り扱われる平等権、健康で文化的な生活が出来る生存権などの社会権、国政や自治体の選挙に参加できる参政権、国や自治体の行為で損害を蒙った場合には、国や自治体に対して賠償を請求することができる権利などの受益権を基本的人権として保障している。ただし、それは無制限・無制約に認められるものではなく、「公共の福祉」に反しない制限的なものである。
* さらに平易にこういう解説もある。
* 人間らしい生活には、必要なものが二つあります。それは「自由」と、「平等」ということです。
人間がこの世に生きてゆくからには、じぶんのすきな所に住み、じぶんのすきな所に行き、じぶんの思うことをいい、じぶんのすきな教えにしたがってゆけることなどが必要です。これらのことが人間の自由であって、この自由は、けっして奪われてはなりません。また、国の力でこの自由を取りあげ、やたらに刑罰を加えたりしてはなりません。そこで憲法は、この「自由」は、けっして侵すことのできないものであることをきめているのです。
またわれわれは人間である以上はみな同じです。人間の上に、もっとえらい人間があるはずはなく、人間の下に、もっといやしい人間があるわけはありません。男が女よりもすぐれ、女が男よりもおとっているということもありません。みな同じ人間であるならば、この世に生きてゆくのに、差別を受ける理由はないのです。差別のないことを「平等」といいます。そこで憲法は、自由といっしょに、この「平等」ということをきめているのです。
国の規則の上で、何かはっきりとできることがみとめられていることを、「権利」といいます。自由と平等とがはっきりみとめられ、これを侵されないとするならば、この自由と平等とは、みなさんの権利です。これを「自由権」というのです。しかもこれは人間のいちばん大事な権利です。このいちばん大事な人間の権利のことを、「基本的人権」といいます。あたらしい憲法は、この基本的人権を、侵すことのできない永久に与えられた権利として記しているのです。これを、基本的人権を「保障する」というのです。
しかし基本的人権は、ここにいった自由権だけではありません。まだほかに二つあります。自由権だけで、人間の国の中での生活がすむものではありません。たとえばみなさんは、勉強をしてよい国民にならなければなりません。国はみなさんに勉強をさせるようにしなければなりません。そこでみなさんは、教育を受ける権利を憲法で与えられているのです。この場合はみなさんのほうから、国にたいして、教育をしてもらうことを請求できるのです。これも大事な基本的人権ですが、これを「請求権」というのです。争いごとのおこったとき、国の裁判所で、公平にさばいてもらうのも、裁判を請求する権利といって、基本的人権ですが、これも請求権であります。
それからまた、国民が、国を治めることにいろいろ関係できるのも、大事な基本的人権ですが、これを「参政権」といいます。国会の議員や知事や市町村長などを選挙したり、じぶんがそういうものになったり、国や地方の大事なことについて投票したりすることは、みな参政権です。
みなさん、いままで申しました基本的人権は大事なことですから、もういちど復習いたしましょう。みなさんは、憲法で基本的人権というりっぱな強い権利を与えられました。この権利は、三つに分かれます。第一は自由権です。第二は請求権です。第三は参政権です。
こんなりっぱな権利を与えられましたからには、みなさんは、じぶんでしっかりとこれを守って、失わないようにしてゆかなければなりません。しかしまた、むやみにこれをふりまわして、ほかの人に迷惑をかけてはいけません。ほかの人も、みなさんと同じ権利をもっていることを、国ぜんたいの幸福になるよう、この大事な基本的人権を守ってゆく責任があると、憲法に書いてあります。
* 異存はなく、異議を申し立てる用意もない。が、さて、これらに「著作権」が入るとすると、自由権なのか請求権なのか参政権なのか。
参政権とはべつなのはすぐ分かる。思想表現の自由が基本的人権なのは、間違いない。
その一方、上の理解によれば、いわゆる経済・財産・利害の問題は上げられていない。それらは、裁判による判決を請求する権利のなかに包含されている。
著作権には、明らかに人格権と財産権とが認められていて、より基本的・根底的に犯されてならないのは著作人格権であり、財産権のほうは、それに比して商慣習の範囲内に在るとも言える。著作者は、現在も概ね自分の著作物を勝手に変害されることには断然抗議し裁判にも訴えるけれど、他方、その著作物の財産面に属する原稿料などは、買い手である出版編集の言いなりに委ねて、権利を明確にしまた主張して断然希望の代価を得ているとは、とても言い難い。強いられているとも言えるが、なんら請求すらしていない現実・慣習の方が大きい。
また著作権保護に関しても、著作者は、それを五十年期限で放棄することに同意している。それ自体にも大きな問題が絡まっているが、一つには、著作なる文化意思の表現は、どこかで個人の所有から「パブリックドメイン」即ち社会人類公同の資産・財産・文化財に変転してゆくべき性質を持っている。それが恩恵になっている。
こういう点から観ると、少なくも著作財産権は、いわゆる基本的人権とは別の権利資質をもつものと云わねばならない。現に、著作財産権を基本的人権であると真っ向説いている学者はいない。たぶん、蔭ではそのように著作者を使唆して混乱させている官僚はいるだろうが、また現にそれに影響されてブレーキの利かない作家達もあるだろうが、そんな官僚も学者の顔をするときには、決して著作権は基本的人権であるなどとは、言っていない。言えるわけがないからである。
* 著作権は基本的人権であるという足場から、公貸権などを言い過ぎていると、足場を失ってしまい、動きが取れなくなる。与えられてしかるべき財産権として適切に「請求」することが出来る。それは広義の商習慣・商取引の問題であり、高飛車な基本的人権論をふりかざしていると独り相撲になるだろう。それを、わたしは、三田誠広氏らのために心配してきた。主義主張しているときでなく、話し合ってお互いに自省しつつ前へ出て行かないと。ちいさな意地を張り合ってムキになって自説を撤回すまい批判されまいと「頑」張り合っている図は、見よいものではない。
2004 2・10 29
*「はかないことを夢もうではないか、そうして事物のうつくしい愚かしさについて思いめぐらそうではないか」と、むかし「畜生塚」のなかに、天心の「茶の本」から引いた。桶谷秀昭氏がその引用に目をとめて、批評、好評、いや新人には滅多にない絶賛を下さった。あのころ、もう、わたしは「作家さよなら」を考えていた。桶谷さんに背中を押されたのである。
ものの考え方や感じ方でも、遠い道を歩いてきたと思う。あの頃読んだ源氏物語といまの源氏物語。繋がってもいるし、ちがってもいる。あの頃のはかない夢といまの夢とも、ちがうけれど、同じ一つの川の流れではある。ガンジスが一秒にどれほど莫大なものを流し去っているか。それを想えば、人の一秒とて、同じこと。まったく同じ自分はどこにも無い。だからまったく異なるとも言えない。夢が儚いのだろうか。そうではあるまい、夢とも気付かず夢の此の世を頼んで、眼をそらに遊ばせている人がはかないのだ。
2004 2・12 29
* 十三日の金曜日。そういうことには囚われない。自分で自分自身によく気付いていないのに、どうして神や魔物に気付けるだろう。イエスが本当にいつどうして生まれたか知るわけがないのに、どうして降誕を本当に祝えるのかと思う。それは釈迦でもマホメットでも同じこと。だれかが、このわたし自身のことなど何一つ念頭になくて、こうしなさいああしなさいなどと「信仰」的に決めつけてくることに、どうして本気で従えるのだろう。知らねばならないのは、気付かねばならないのは、自分がいかなる存在であるかであり、いかに何も気付かないでいるか、だ。それなしに、アーメンもナムアミダブも何の意味もない。
* 自由自由自由。知識人は自由とさえ云っていれば自由になれる気でいる。日本の中世で、近世で、「自由」といえば我が儘が出来る意味を越えなかった。いま知識人や文士タチの唱える自由はそんなに低級ではなく、高邁に聞こえるけれど、本質的にはたいして変わっていなくて、基底は「我=自分」であり、それは捨てずに他を顧みてその拘束や桎梏を棄てたいと言うだけの、高尚そうな我が儘に過ぎない。狂言に登場する太郎冠者や大名の自由気儘への願望と質的には変わっていない。そんな「我=自分」から自由になろうという自由の希望ではない。ブッダもイエスもそんな我の強い自由を自由と思って説いたわけがない。
2004 2・13 29
* 人間の弱さは、もっともっともっとという願望拡大が、所詮は満たされなくて、露呈する。
世の中の経済が右肩上がりに上がっていた頃、たとえば会社の中で前年同期比何パーセントアップという毎年度始めの目標設定を、わたしの勤めていた、コチコチの医学研究書出版の会社ですら強いた。そんなこと、いつまで続くだろうと疑問に感じ、それでも、適切な程度の目標設定をしておいて、その上を行く結果を毎年出していた。そして、退社した。その後のバブル崩壊がどんな風に会社に響いたか、わたしは知らない。しかし、もっともっともっとという欲望の、願望の拡大がもたらす頭重感は、いつも、何事にも、感じていた。物欲も名誉欲も、もっともっともっとと醜くなる。愚かしい。
2004 2・23 29
* 人の日々にあって、意識からは漏れ落ちていて、しかも、人の心をうごかすことの小さからぬ嘆きは、あるいは楽しみは、「待つ」ということであった。「人とはなにかを、待っている存在である」と定義することさえ出来る、それがよいことか、つまらないことかは、別として。『蜻蛉日記』の著者の、本人は否定するかも知れないが読者からみれば、主題は「待つ」ひたすらに夫兼家の「訪れを待つ」ことであり、待てども来ないことにじれて夫から果ては離れてしまう。
道綱母がひとり「待つ」のではない、牽牛と織女も「七夕を待つ」しか逢うことかなわなかった。万葉の男女も、古今の男女も、室町小歌に哀歓をのべていた女も男も「待つ」ことに悩み、はずみ、涙している。
むらあやでこもひよこたま
待つ恋の絶唱は、これであろうか。ささがにの蜘蛛のふるまひ に人の訪れを予感して胸を苦しませていた古人の思いも、ひたすらに懐かしいではないか。
* わたしの待っているのは何だろう。その時、その瞬間である。そのために何かに努めてはいない。ただバグワンに聴いている。繰り返し聴き入っている。死の転帰を謂っているのではない。アッと、enlightenment に出逢い、思わず哄笑するその機を、である。来ないかも知れない、そうは来るモノではない。諦めてもいないし恋い焦がれてもいない。だが「待つ」というのなら、待つのはそれである。
2004 2・24 29
* することが何一つなくなった状態が来ると想って、それ自体をわたしはどう楽しめるようになるだろうか、ときどき想像している。あなたこそ、そんな時間には絶対耐えられないだろうと笑われるが、判らない。「今・此処」を生き続けて自然にそうなる日がきっとあり、待ってこそいないが、「閉塞感」なしに受け容れる気がある。自分の裏千家茶名を自分で「宗遠」と選んだのは大学にはいって間もない若い昔であった。「遠」という思いも年を経てなかみは動いているだろう。「遠く」に魅入られまいと、わたしはいま自戒している。自戒しなくても、そもそも望んでいない。遠くも近くも何のちがいがあろうか。
2004 2・24 29
* 若い人から「恋」という語彙により述懐されるのは、この頃では寧ろ極めて珍しい。おやすい「つきあい」でつい済まそうとし、あっけなく「つきあい」をやめたりもしている。たくさん見聞してきた。
いのちみぢかし恋せよをとめ と昔歌われていた。せっかちに付き合ってないで、恋をしなさい、一度の恋は百冊の読書より多くを運んでくるだろうよと東工大で学生に話してきた。
恋は甘くない。遊びでもない。万葉のむかしから、恋は、苦痛と悲哀であがなう深い歓喜ときまっている。天地を支えるほどのものである。勇気を持たない現代が、「つきあい」という擬似恋愛を安直に発明したのは、恋とは性的関係であるとのみ都合良く早合点しているからだ。性は、生きていることと同等の重いものであるが、維持の難儀な所詮は有限の心理的熱量であり、それだけに頼っていれば、安価な「つきあい」の終焉は、目と鼻との前にいつももう到来している。天地の重みに堪えられない人に恋は出来ないだろう。堪えられるかな。
2004 2・26 29
* 三輪山をしかも隠すか雲だにもこころあらなも隠さふべしや 額田姫王
* ただし、わたしの「三輪山」は額田姫王を書いたのではなく、雄略天皇と引田の赤猪子とを書きながら、わたしの「母恋い」にふれた。雑誌「太陽」のあれは「織物」の特集小説であった。小説で、何をどう織るか。夕暮れ、妻と保谷野を散歩しながらはっと思いついた。この作品は府県別文学全集の奈良県の巻に収録された。
額田姫王はむしろもう一つの「秘色(ひそく)」に書かれている。姫王と後の天武天皇とのなかに生まれた十市皇女がいわばヒロイン、だがそれもわたしの根の悲しみに触れた現代の幻想小説になっている。「故国」または「湖国」と題してもよかった。これも同じく滋賀県の巻に収録されている。近江京を守った崇福寺址が幻想の舞台になっている。
ああいう手のかかった組み立ての小説は、体力勝負でもある。
「秘色」取材にはどうしても崇福寺址へ行く必要があった。近江神宮や三井寺を経て長等の山にひとり分け入ったあの日、わたしは源氏物語も毎日一帖ずつ読み進んでいた。太宰治賞選考の日まで心さわぐのを静めていた。そして「秘色」は、事実上の受賞第一作として「展望」に発表できた。第一著作集の表題にもなった。「ひそく」とは、渡来の美しい青磁を意味している。それが幻想の芯であった。
2004 2・27 29
* enlightenment ムズカシイ言葉ではない。「明るくなる」こと。
譬えて謂おうか、わたしのよく謂う「闇」は漆黒の無際涯であるが、あの深い平安と思慕と無私の世界が、そのまま静かに春の「あけぼの」のように一瞬に明るむ。そういう意味でかまわない。信仰というと宗教じみる。わたしは今、宗教・宗団への関心も希望もすべて「落とし」ている。エンライトンメントとは、禅でいえば悟りであろうが、悟れるとも悟りたいとも想わない、かなう力をわたしは持たないから。ただ眼の底のこの澄んだ深い闇が、そのままの静かさと深さとで、何一つを写さない無限大の鏡=青空のように「あかるんでくる」かと、「待つ」有るのみ。抱き柱ではない。ただ「待っている」だけ。哲学でも信念でもない。哲学も知識も信条も、それはエゴの抱き柱に過ぎぬ。
2004 2・27 29
* ようやくオーム真理教麻原某に死刑判決。当然。とはいえ、同時代の我々には課題が残されている。なぜ、あんな男に多くのエリートが惹きつけられたのか。
麻原が卓越していたからでなく、時代が腐蝕していたからである。
おそらく、彼の身辺に蝟集した秀才達は、「で、何なんだお前の誇る秀才とは」と反問され、絶句したにちがいない。彼等が身に帯びていた学校社会での秀才だの英才だのという誉れが、人間として生きて死んで行く不安や恐怖や不可解の解決の何に役立つというのかと反問されては、立ち往生したであろう事はすぐ察しが付く。麻原はそれぐらいは突きつけ得たのであろう。賢い者ほど、それを突きつけられれば、いかに学校秀才や天賦の知的能力もそれ自体の無意義な脆弱さに気が付くはずだ。彼等が持っていたその手の強みは、まず今日の日本の社会では称賛されるばかりで、疑問符を突きつけられないように出来ている。だからこそ、是でいいのかなと自問自答し始めている者に対し、お前の持ち物は何の役にも立たないぞと指摘するだけで、彼等は屈服した。屈服しそうな不安を彼等はもう持っていたのだ。
* そこまではよかった。その後がわるかった。彼等は、新たな抱き柱を、知識や才能から、麻原某に抱き替えただけで逆上せてしまった。何であれ意味のない抱き柱にしがみつくことこそが、人間を囚われ人にし、自由をみうしなう根源になると悟り、麻原からも自由になるべきであったし、自分のそういうけちな思案から自由になるべきであったのだ。おそらく一度は enlightenment に近づきながら、抱き柱から脱却出来そうになりながら、結句、また替わりの、より良くない麻原という抱き柱に無二無三に抱きついて、自身を、その餌食に与えてしまった。サリンだのポアだのという愚の骨頂へ酔いしれたように歩み寄った。
* 彼等がどうしようもなく愚かしかったからといって、われわれの時代はなにも誇れるわけではない。われわれの社会は、学歴だの地位だの権勢だのを尊崇して若い魂の純粋を汚し歪め続けてきたのだし、社会が望んでいる都合の良い才能人達の、根の深みに抱いている生死の不安になど、政治家も教育者も哲学者も宗教人も、全くといえるほど愛ある顧慮は与えていないのである。
* おそらく真の自由にいたる徹底した生き方は、禅、がもっとも近いように想われる。じつは、禅をさえ忘れていた方がいい。あらゆる聖典、あらゆる教義、あらゆる言葉は、人を「枠組み」に「条件づけ」してその奴隷にするに過ぎない。愚かに、有りとしもなき「抱き柱」にしがみついてはつまらない。自分で自分にしがみつくのも、いけない。麻原は、一つの反措定でありえたかもしれないけれど、あれは、ただ独善的な支配欲の権化でしかなく、それを見破れなかったのは、弟子達の知性が、偏差値的にのみ高くて、叡智の域になかったことを示している。叡智の人は愚にも付かない幻の柱などを信仰しない。まず宗派的な信仰から遠く離れてしまうがいい。政治的な打算からも離れてしまうがいい。哲学的な無意義からも離れてしまうがいい。科学的な論理や結論からも能うだけは遠のいていたがいい。
2004 2・27 29
* メールに、泣き顔や笑い顔や、あれこれ記号っぽいシンボルを挿入してくる人がいる。わたしへのメールにはそれは少ないけれど、高校生のメールには自然に出てくる。そういうのを多用すると、必然電子メールの文体になるか、文章になるか。否。それはもう問題を少しズレている。それは現象差ではあるが、文章差ではなく、まして文体差でもない。ましてましてや表現差でも実は無い。
表現は、文章でだけ変わるのでも、言い表せるのでもない。内容の「書かれ方」にもよる。その「書かれ方」にかかわって、新しい表現が、文章と内容との両面から新規にどう熟して出てくるか。外側を飾る記号のようなものでだけ示せるわけなんかない。
盛り場の少年少女の隠語のような物言いで書かれれば、即ち新しい表現か。その辺で短絡すると、新文学という看板も、提灯も、太鼓も、みな間違ってくる。見当が違ってくる。調子はずれなだけですんでしまう。
ペンをにぎって人に手紙など、まして文章など、絶対に書かなかった老人が、女性達が、電子ツールにふれて、思いの外に自分の胸の奥の奥の方から言葉を紡ぎ出してくるようになった。信じられないような「書きもの」体験を重ねて、まるでウソのように毎日毎日書いている。そこで培われる言葉と感情とは、一見年相応に古めかしいようでも、新しい息吹なのである。言葉が発見され発掘されて行く、一人一人の身内から、わき出すように。電子メールやホームページだからこそ書かれうる日本語がある。表現の新しみが期待されるなら、そういう生活体験の変化から、に期待がかかる。現象ではない、生理が変わるのでもない、いわば精神が変わってくるのである。
* 例に取り上げては迷惑かも知れないが、「e-文庫・湖(umi)」に掲載されている藤江もと子さんの「新宮川町五条」といい「灰色の家」といい、いかにもわたしと同年配の人の言葉であり文章のようではあるけれど、もしこの人が電子メールに触れず、パソコンを知らなければ、百パーセント書かれなかったであろう所産であったと、ご本人も述懐されている。
たとえばわたしは、パソコンが今消え失せても、ペンをとって書くことが可能であるが、いまではパソコンだから書ける、電子メールだからこうも謂えるああも言えると思い、しかしペンではよう書かないと云う人が、世界中にどれだけいるか知れないのである。そういう広い範囲の「時代の意識」が機械に反映し浸透し、「新しい表現」が可能になって行くことを、わたしは見通している気でいる。
だが、もう少し、もっと継続して、考えて行きたい。
* 文章も言葉も時代の枠組みに、想像以上に縛られている。文学の言葉とはいえ、明治でも、前半と後半でおどろくほど異なるし、大正となるとまた変わる。昭和の戦前、戦中、戦後昭和、平成。みなそれぞれに違う文章感覚に育まれている。だが文章生理はどうか、それは同じ日本語として質的に通有する素質を大きく分かち持ち、べつものではありえない。「ペン電子文藝館」で、各時代の作品を一字一句句読点に至るまで校正していると、よく分かる。現象は大きく異なり、しかし素質は同じである。平成のセンスで明治の文章を常識校正して貰うと、びっくりするほど単純なところで委員達も躓かれる。句読点がまるで打たれない文章に出会うと、仰天されてしまう。宛字やアテ読み、ふりがな、みないろんな時代の「顔」をして文章は書かれている。それは文章が違うと云うほどのことでなく、文章に表れる現象が時代差をもつに過ぎない。
2004 3・1 30
* 花々を揺らし、揺さぶってきた風は、いまひともとの花に、「くだけてものを思ふ」ことなど、ありますか。
* 朝一番にこんなことを問うてきた人がいる。遠くの遠くの若い人であろう。古稀に手をのべた見る影ない男に向かい、何というロマンチックな問いであろう。それでもわたしは、こう答える、「かくとだに」と。花はものの映えであり、光であり価値であると、昔々に書いた。絶えるそのときまで、花を愛する風でありたい、そよ風であろうとも。
2004 3・2 30
* アンナ・カレーニナをどう思うか、不潔な女と思うかと問うてくる人もいた。これには、とりあえず答えておきたいものが、私の中にあった。アンナを通俗の道徳で非難するぐらい容易いことはないから。
* 藝術文学としての円熟からいえば、「アンナ・カレーニナ」は「復活」「戦争と平和」より巧緻に優れています。筆力も描写力もすばらしい。
でも、あなたの聞いているのはその方面ではない。あまり「良い」問い方ではないけれど。
アンナは、現代日本の女ではない。彼女は旧ロシア貴族社会の、欺瞞に満ちて腐敗した結婚制度と結婚生活と脆い家庭とに息苦しく生きていた女性で、その不自由さは、フランスの「椿姫」よりも苛酷でした。そんななかでアンナがほとんど命がけで無謀なほど烈しい恋をしたのは、彼女の心身が、当時の社会にあって純なもの無垢に燃え上がる焔と勇気を持っていたからでしょう。ブロンスキイの期待していたのは、肉欲の満足と虚栄と金銭的な実益であり、それは彼一人の放埒であり、しかし時代の男達の共通した遊戯的な放埒でもあり、わるいことに、それが悪徳とはされていなかった。アンナのように燃え上がることのほうが、悪徳として、彼女は夫からも社会からも罰せられた。
いかに時代と男とが次元の低い欲望の前に身を守り且つ飾っていたか。いかにアンナがそんな腐敗した時代の中で、一人の女としての純真を破滅的に貫いたか。
そういう物語です。アンナは絶対に抜け出せない袋小路で自爆するほど、愚かにも気高い金無垢を身に抱いていた。絶対に勝てない戦線で蜂の巣のように撃たれて死んだのです。その時代と社会のがんじがらみの拘束や傲慢や硬直を無視して、常識的にアンナを汚らわしいと罵れる人は、おそらくマグダラのマリアを石で打ちのめすような人ではないでしょうか。
アンナは、「嵐が丘」のキャサリンたちに似ていて、彼女らよりも気は弱く優しく、しかも恋をして恋を捨てなかった。捨てて逃げ帰れる道は、卑怯なほど執拗に夫から提供されていたのに。
ま、とっさに、わたしは、そのようにわたしのアンナを思い出しました。アンナを石で撃つということは、その時代と社会の道徳にしたがえば出来たかも知れませんが、そのこと自体が滅び行く時代と社会の腐臭です。
顧みて平成日本の女の眼から見ればどうか。それは、あなたに問うことです。
アンナが烈しく訴えているのは、あらゆるあやまれる世間の道徳的抑圧を、どうはね返してぎりぎり自身の生死をともあれ全うするか、いかに偽りなく自身の誠意と欲望とに殉じたか、それがあまり見事な勝利とはみえない自滅であっただけに、そこに作者トルストイはむしろ「無垢な反逆性」を認めて、あのように「結末」したのだろうと思う。即ち、反基督教的な「自殺」をアンナにさせて、ふりそそぐ罵倒と侮蔑を満身に受けさせることで、アンナはそういう「欺瞞を批評」したのだ、と。
2004 3・2 30
* だが人の世は良き価値あるものを正しく見抜くことに、屡々躓くものでもある。書き込ませて頂く次の手紙は、思わずわたしを唸らせた。知る人は知るであろう。
* 前略 湖の本第七十八冊、ありがたく頂戴いたしました。今回の御本では「秋成生母の死と京の袋町」の章は私にとって痛切な文章です。生母の死についてはおそらく御説の通りと思います。これらの問題についてはなお考えてゆきたいと思っています。
もう半世紀近くも前の小著『上田秋成年譜考説』は、実は刊行の一年半前に完稿していました。しかし、どこの国文学出版社からも、自費出版を申し出たに拘らず拒否されました。原稿を風呂敷に包んで持ち歩いたのですが、預ってさえくれなかったのです。門前払いでした。貴重なものはお預りできないと各社で口を揃えました。そういう時代だったのですね。出版してくれた明善堂さんは実は侠気の古書店です。費用は私の持ち、取り次ぎ屋とコネがないので、私がチラシを作って、お一人お一人に売り歩いたのです。百部売るのに三年かかりました。その後の重刷のお誘いはおことわりしています。これが小著の運命だと思います。
* この『上田秋成年譜考説』という大著は、国文学研究の成果を十選べば一つに入っていい画期的な名著で労著なのである。秋成研究がここから急角度に上向きに大展開していった、それだけではない、「年譜」なるものの方法論と実践において、これほど徹底して実験的な成果はそれ以前には皆無の、おそらく以後にも数少ない成果であり、わたしはその革命的な価値に心底驚嘆し、感化され、学ばせてもらった。著者は云うまでもないが都立大学名誉教授の高田衛さんである。すばらしい先生である。まさかあの方のあの記念碑的名著がそんなありさまで世に形を得たのかと想うと、暗澹としてしまう。「運命」と呻かれる高田さんのお気持ちが胸に痛くて、それは今日一日の、心にささった棘であった。くやしい。
* 待てど暮らせど……と趙非のうたごえが耳に鳴っている。人は「待つ」ものだ、と、自分に言い聞かせる。何を待つかは人によりちがう。「来ぬ人」を待った人は多かったけれど、宇宙からの声を待っている科学者もいる。火星に水と微生物の可能性がみえたという報知も、大勢があんに待っていたモノかも知れぬ。人は「待つ」ものだ。わたしは、今…。
2004 3・2 30
* 「それでも、われわれは戦争に反対します」という、あまり佳い題でない分厚い本が、日本ペンクラブ編で、にわかに平凡社から出た。そんな題の本とも知らず、編集担当の吉岡忍氏の頼んできたままに原稿を出した。今日見本が届いた、ま、寄せ集めに編集した「俄かモノ」で、なんだかお祭り騒ぎのデモ行進のような本である。賑やかだが、「横顔厳し」という風情かどうか。
わたしの原稿は、読み手によっては苦い味がするだろう。いま、平和論の悩ましい難しさが露呈している。それを端的に指摘しておいた。清水幾太郎と山口瞳。ひところ対照的な平和論者であった。むろん心ある人は山口の平和論にくみし、清水の、力の均衡以外に平和は保てないなどという議論は、唾棄されるぐらい嫌われていた。わたしも清水の煽り方は嫌いだった。ところが、今の日本の、ときめく若い論客達は、ほぼ例外なく往年の清水と同じことを語っている、大方。あちこちで。その「悩ましさ」に直面した、踏み込んで新しい、傾聴するに足る「平和論」が出ていない。みな、なにかしら誤魔化している。悩みたくない議論ですり抜けている。こういう「時代」は、下心のある陰険な「為政者」には、やり易い。
2004 3・3 30
* 自分が、息をしていないのではないかと思う瞬時がある。眼をとじると茜の空がみえる。血圧が高いのか。
* 和歌が、いま、懐かしい。古人のいい歌を読んでいると、こころ沈透(しず)く。
むかし、新制中学生は親にも秘して学校鞄の中に、四冊の帳面を隠していた。一冊に自由詩(その頃はそう謂ったものだ。)を、一冊には俳句を、一冊には短歌を、もう一冊には散文を書いていた。そのうちに短歌以外の帳面は、白い頁をのこしたまま、書きこんだ頁はみな捨てられた。短歌の一冊だけが残り、そのうち高校に進むと帳面はやめて、父の店にあまっているウラの白い電器の広告(B5判程度の)チラシを貰い、四つに折り、小さい字で一首を二行書きに、無数に書いた。きちんと書いた。
それらから選んで詞書きしてまた帳面に書き写したのが二三冊に整理された。のちにそこからまた厳選した。それが、大学の頃に最初に編集された、歌集『少年』の原型だ。それは、今も「湖の本」31(1600円)として在る。「e-文庫・湖(umi)」をあければ、無料で公開されている。この歌集『少年』は豪華本二種を含めて六種類の冊子ないし単行本になっている。
そのようにわたしは短歌を愛してきた。歌を愛してきた。百人一首はもとより、記紀歌謡も万葉も八代集も梁塵秘抄も閑吟集も、わたしは骨まで愛している。最も好んでいるかもしれないのは、平安物語に鏤められた無数の和歌であろうか。源氏物語を音読しつづけていて、相聞の、応酬の、和歌があらわれるとひとしお胸ときめいてしまう。引歌でさえ頭注や脚注を頼みつつ愛読する。その呼吸を呼吸するのである。
* だが、自分の暮らしを、世捨て人のように美しい趣味判断の場へとうち投じているだけではない。わたしは山林抖櫢(さんりんとそう)の境涯や乞食捨世 (こつじきしゃせい)を理想にするような理想の抱き方はしない。市井に生きて「今・此処」の現実を受け容れ、たとえストラッグルがあろうとも、世の尖端の沸騰にも向き合って生きようとしている。十牛図が、八図から最後の二図を描き加えていたことを、わたしはとても尊いことに思っている。平安の男女の和歌もいとおしい、同じようにたとえばテレビ映画の「ホワイトハウス」にも手に汗して見入る。佳い絵もやきものも身近に日々愛しているし、しかし不浄観にまかせ、ろくでもないインターネットの醜悪な写真を、動じないで見ているときもある。泥中の蓮の花のようにそれはそれは美しい清純な写真に出逢うこともある。それもまた楽しい。
2004 3・6 30
* 藤江さんや高木さんに続いて、自分史のスケッチをこころみようという人が現れている。間違っているかも知れないが、およそこんなふうに助言している。五十五歳以下の人には奨めない。
書いて直ぐ満足しないで、推敲を重ねることが大事だが、また、同じ所で足踏みして推敲ばかり重ねていると前へ進まない。するとイヤになる。或る程度はどんどん書き進めて調子をつかむこと。幸いパソコンは、推敲のらくな編集機械だから、編集機能をフルに活用したい。
書き出しは、印象的な具体的な場面からスパッと入るのがいい。一行アキを上手に使用。会話も使用して。
理屈や解釈や自己賛美は無用。われながらイヤなところほど、しっかり堪えて書いておくと、そこが重みになり、浮ついた調子を抑える役をする。批評精神は、他へ向けずに何より自身へ厳しく向けること。ただし自虐的になるとイヤミなので注意が肝要。これを書くとひとにわるい、自分の恥、といった顧慮が過剰に働くようならスケッチ自体が意味を失うので、はなからヤメタ方がいい。意地悪はいけないが、率直と正直を喪っては書く意味は無い。
袋町の四季 懐旧下保谷 そんなおおまかな題を念頭に、現在からの回想というより、書きたいその頃その時代にズブと戻ってしまって書くこと。
2004 3・7 30
* 小説を、なにの目的があって書いてきただろうと、時として、ふと思い沈むことがある。小説家は小説を書く、書いている、ことに人それぞれのかなりいろいろな自負をもっていて、持ちすぎではないかと内心わらっていることもあるが、わたしにもわたしの願いというか思いがあったに違いない。金ではなかった。或る意味では名誉でなかったとはいえない、本当にいい意味のフェイマスが理想である以上は。
しかしそれは、結果。やはり作中にヴィヴィッドな「身内」を望んでいたか。こういう「身内」をと確かめ確かめして来たか。
2004 3・8 30
* 有楽町で途中下車。帝劇下での「きく川」で鰻と菊正。いつものキャベツ塩もみの他に、骨まで愛して「骨揚げ」をかりこりかりこり噛んだ。一年分のカルシウムを摂取した心地。長い小説を落ち着いて読んで、直してゆく。書くよりも推敲の方がむずかしいのだ。時間もかけるのだ。
2004 3・9 30
* アクティヴなお人のよく現れているメール。昔々のクラスメートの夫人であるが、杉並住まいで遠くもないのに一度も顔を見たことがない。この言語学の先生は、知らない。
それよりも此のメール、大事なカンドコロに幾つも触れている。文章を書く人、推敲する人には示唆に富んでいる。書く文章に、その人の日頃の物言いが自然反映する。アバウトな人はアバウトに書き、がさつな人はがさつになりやすい。音楽に造詣があるようでいて、いっこう「文章もまた一種の音楽」である意義の掴めない人もあり、メール文とすこしちがう文章文のセンスを見逃している人もいる。「壁」という言葉が使われているが、この壁は、高いし分厚い。ことに、エッセイふうの文章と小説の文章との間にたちはだかる「壁」は、よく気を付けた方が佳い。似ていても、ちがうのである。
2004 3・10 30
* 福田恆存先生の夫人のお手紙に、こんな懐かしい「私的な思ひ出ばなし」一つがあった。七十年余も昔とある。この方から、わたしは、先生ご存命の昔から今なお「湖の本」刊行にお力を戴いている。
* 七十年余も昔の事、名古屋の街なかにありました母の実家へ遊びに参りますと、店の子どもが祖母のことを「ごっさま」と呼んで居りました。子供心にどういふ意味かと思つて居りましたが、後年古文に接して、あゝ、女御、御達、の「御」と同じなのだと気附いて何とも嬉しかつた事がございます。 店の横からお勝手を通り抜けて奧へ入り、池をあしらつた坪庭も蔵座敷も、といふ 落ち着いた町屋は 昭和二十年の春に消えて了ひましたが、あの懐しい言葉、 今もあの地方のどこかに残つて居りますでせうか。 寒暖常なき頃日、何卒御自愛くださいますやうに かしこ
* 豊臣秀吉は、小田原長陣にさいして愛妻おね夫人にあて、あまり退屈ゆえどうか淀殿をこちらへ寄越してはくれまいかという、微妙に面白い手紙を書いた。その宛名が「五さ」となっているのを、東大のえらい学者がおねさんの侍女のことと解釈し、以来、孫引きが続きに続いて、国立東京博物館の大きな「日本の書」展にわたしが講演を依頼された時も、展示にはまだそう解説されていた。
わたしは、柳田国男に教わって、それはとんでもない誤解だと知っていた。「五」という文字は宛字であり、「ごさ」とは、「母ちゃん」「奧ちゃん」ふうの妻への敬ったような照れたような呼び方なのである。秀吉は言うまでもない尾張中村、今の名古屋市にゆかりの出自。あの地方では「ごっさま」また「ごうさま」は既婚女性へのうやまった物言いなのである。まさしく女御や御達や、またはのちのち姉御だの、さらにひろがり良家の娘を「ごんしゃん」と呼んだ白秋詩にも懐かしい用例のあるように、決して侍女の名前などではないのだった。「ごさ」の「さ」も、「かかさ」「あねさ」の「さ」で、「ちゃん」に近いのである。
わたしは例の講演の際、それに触れて安易な孫引き反省を関係者にうながし、一つには「ことば」というのを、「文字」に引き寄せられてのみ読みまた聞くべきでなく、日常の言語生活を発音・発生・発語からまずよくよく「聞きこむ」べきであることを言い続けてきた。『古典愛読』にも触れていた。福田夫人のお手紙は、まことに美しい情景と共に佳い傍証を成して下さって、嬉しい。
2004 3・10 30
* 今度はパソコン画面の前に私のプリント済みの原稿を持ってきて、手を入れて下さった箇所に、前回同様赤を入れて行きました。
それにしても、筆を入れて下さったあとを読み返すと、少し変わっただけなのに、私が書きたかった事がきちんと書かれていて、どうして秦さんには、あの時、あの頃のことが、実際に体験した私以上に、わかってしまうのだろう?
まるで秦さんのお話を私が聞かせてもらっているような気がするのです。
正直に言って、とっても不思議な気分です。
自分の下手な料理が、最後のひと味を素晴らしい手で加えてもらって、とってもおいしくなって、もっと食べたい、もっと食べたい、とそんな厚かましい欲求がわいて来ます。すみません。
うまく言えないのですが、とっても嬉しいです。
これからどうなって行くのか、私はどうすれば良いのか。こわくもなって、ため息をついています。
変なメールですが、御礼の気持ちで一杯です。
*「推敲」とはそういうもの。そういうものと気を入れて、繰り返し推敲し納得したときが脱稿であると分かって欲しい。一度目の書き上げなどは未完成も極まっていると、よく自分の目の前の文章を睨み返すこと、かな。
2004 3・12 30
* 待っている。待っている。何を待っている。宇治中君は宇治をはなれて京へゆく。匂宮の二条院へ迎え取られてゆく。この時代、重々しい妻はみな親の邸にいて、夫は通っていった。だが、光源氏は若紫を二条院に迎えた。正妻葵上は父左大臣の邸で夫光源氏を迎えていた。源氏の妻紫上も、匂宮の妻中君も、世の慣わしをはずれて夫の邸に引き取られて共住みした。革新的な出来事であり、同時代の人達はこれを軽い扱いの結婚と見なしていたが、物語作者は、敢然と、作中「理想の妻」「恋妻」の身の上にこれを実現して憚らなかった。この作者も何かを「待って」いたのだ。
2004 3・14 30
* 描きたい人が描き、書きたい人が書き、それが好結果に繋がるのは、やはりそこに人間の謙虚と努力があるからのことで、どのような者も、それ以上の手助けは、はたから出来るものではない。
助言に応えて、自分は「意識して硬い感じに書いていました。まあ、並の婆ちゃん、付け刃で一朝一夕に書けるものでもないでしょう」というぐあいに反応してしまう書き手もある。謙虚のつもりかも知れないが、そうは伝わらない。そもそも意識(意図)して「硬い感じに書く」なんてことは、プロなみの台詞であろうし、そんな「意識(意図)」になど、何の意味もない。素直でない。一朝一夕に書けるものでないぐらい分かり切ったことだから、口にしても始まらず、逆に、それを弁明めかしく口にすることで、或る過剰で余分な自意識を露呈してしまう。書く文章にもそれが露骨に出てくるからこわいのである。努力する素直さを、自分の手で押さえ込んでしまう。硬くなりやすい人ほど、「自分」を表へ出して書くよりも、顧みて適切に他(人)を書いて行くことで、自然と自身の影像 (シルエット)が文章中に立つようにするといいのではなかろうか。
2004 3・16 30
* 平凡社の新刊、日本ペンクラブ編『それでも私は戦争に反対します。』は数十人の共著で、創作、手紙、批評、エッセイで描く<二十一世紀戦争 >のリアリティ! に迫るとしてある。表だって戦争に賛成する人間は少ないので、この題は思い切って「イラク派兵に反対します」などと絞って良かった気も有るが、ともあれ、実に素早く作られた本で、編集担当した吉岡忍理事の尽力に感謝している。大冊だが、1600円。わたしは下記の一文を送っている。「ペン電子文藝館」の「反戦反核室」を紹介しつつ批評をとの依頼であった。
* 葛藤する平和論の悩ましい行方 秦 恒平
日本ペンクラブが「電子文藝館」を開館したのは、二○○一年、創立六十六年の「ペンの日」であった。島崎藤村初代会長はじめ、正宗白鳥、志賀直哉、川端康成、芹沢光治良、中村光夫、石川達三、高橋健二、井上靖、遠藤周作、大岡信、尾崎秀樹、そして当時の梅原猛会長まで、歴代会長の作品、ほか、約三十篇をもう展示していた。(現会長は井上ひさし氏。)
以来二年余。今、約五百の人と作品が、国内外に無料公開され、日に新たに発信の数を増している。心豊かに、多彩な「植林」の持続。十年で、少なくも千人の千作を植え育てたいと、関係者は、やすみなく起稿、そして校正、に従事している。
現会員、物故会員の作品だけではない。合わせて三千人に近いが、その余に「招待席」と「特別室」を設けている。幕末明治の河竹黙阿弥・福沢諭吉に始まり鴎外漱石一葉らはもとより、大正・昭和を通じて惜しみなく人も作品も精選されて、平成の若き創作者や評論家・編集者らにいたる、近代文学・文藝の歴史は、自ずから呈示されている。小説、戯曲、詩歌、評論、随筆等、あらゆる文藝ジャンルを拒むことなく、この文学の森は、日々に大きく美しく拡がり育っている。
開館して一年の記念に、「反戦・反核」特別室を新設した。開館二年には、「出版・編集」特別室も新設した。今、此処では、この本の主題に応じて、二○○ 四年一月末現在、順不同、「反戦・反核」室に展示された人と作品に触れて、少し、述べたい。緒についたばかり、まだ期待する百の一、二にしか当たらない。著作権の関係で、また作家自身や出版社の事情で、例えば渇望している、太田洋子「屍の街」、野坂昭如「火垂るの墓」など、手の届かない作品が数多く有る。中には阿川弘之氏のように、会員でなくても即座に快諾出稿して戴いた嬉しい例もあった。根気よく依頼し編成して行きたい。
与謝野晶子「あゝをとうとよ戰ひに(詩)」 原民喜「夏の花(小説)」「廃墟から(小説)」 アーシュラ K. ル. グウィン「American Wars(詩・戦争に戦争を重ねるアメリカ=高橋茅香子訳)」 芹沢光治良「死者との対話(小説)」 阿川弘之「年年歳歳(小説)」 伊藤桂一「雲と植物の世界(小説)」 梅原猛「王様と恐竜(戯曲)」 菊村到「硫黄島(小説)」 結城昌治「軍旗はためく下に抄(小説)」 三原誠「たたかい(小説)」 小田実「玉砕(小説)」 大岡信「原子力潜水艦『ヲナガザメ』の性的な航海と自殺の唄(長詩。Janine Beichman英訳)」 山口瞳「卑怯者の弁 抄(随筆)」 森本哲郎「戦争と人間 抄(評論)」 神坂次郎「今日われ生きてあり抄(ノンフィクション)」 木島始「予兆(詩)」 三島佑一「地球タイタニック(詩)」 池島信平「狩り立てられた編集者(回想)」 花森安治「見よぼくら一銭五厘の旗(詩的マニフェスト)」 吉岡忍「鹿の男(小説)」 松田章一「花石榴(戯曲)」
与謝野晶子の詩は、有名な「きみ死にたまふことなかれ」である。原民喜の二作は、奇跡的に占領軍の眼をのがれて敗戦直後「三田文学」に初出の、世界史的な原爆悲惨の証言作である。「ゲド戦記」で名高いル.グウィンの原詩は、「戦争に戦争を重ねるアメリカ(高橋茅香子訳)」への叡智の抗議である。芹沢光治良元会長の小説は、人間魚雷回天で果てた教え子へ語りかけ、知識人の言葉と責任を鋭く衝いた敗戦直後の胸に迫る感銘作。阿川弘之氏の小説は文壇処女作で、原爆地の広島へ復員した元兵士のしみじみと深い生きの命への感動を表現した屈指の秀作。伊藤桂一氏の作は、愛馬と共に大陸を転戦した兵士の底知れぬ美しい孤心と執心を描き切り、底光りしている。梅原猛前会長の戯曲は、哄笑の底に痛烈・痛切に地球と人類の先途を憂えた米日諷刺の快作で、新刊と同時に電子文藝館に寄附された。菊村到の芥川賞受賞作は、意想外の角度から玉砕の島に生き残って故国に帰った一兵士の、謎めく死を追及した昭和三十二年の力作。結城昌治の作は、昭和四十五年直木賞受賞作から戦場の悲惨と我執と恐怖を抉って痛切な、第三話「司令官逃避」一編を抄出してある。三原誠は在野に終始し惜しく果てた小説家で、「たたかい」は芥川賞候補。飄々軽妙の間に戦争に揺すられた兵士と民間人の感応を描いて異色の反戦秀作を成している。小田実氏の小説は、戦場の絶望的な死闘を描いて根こそぎに兵士という人間の呻きと粘りとを追究した、正に力作。大岡信元会長の長詩一編は米原子力潜水艦の無残な自爆をあざやかに諷刺して印象深い。森本哲郎氏のエッセイは戦争と人間の文明史的な考察を通して未来に警告してやまない。神坂次郎氏のルポは、戦場の慟哭を哀情豊かに叙して涙を誘う。木島始氏三島佑一氏の詩作品は、ともに核の悲惨、戦争の無道を哀悼し警告し諷刺して、それぞれの詩法を駆使し秀逸である。池島信平の回想、花森安治の詩的マニフェストは、編集者の戦中戦後を通じて時代と体制の欺瞞に迫り、全く別様の表現に託して編集者魂を高く鳴り響かせている。池島は横浜事件を簡潔に証言し、花森は一銭五厘で私民たちがどう無謀な政治により翻弄されるかを指弾し警告してやまない。吉岡忍氏の小説は、太平洋戦争後にもなお戦争世界が持続したまま、いかに人間を深く蝕み続けるかを、象徴的な手法で鋭く切なく物語っている。そして松田章一氏は、一幕の戯曲で満州棄民一夫婦親子の絶望と潰滅をつきつけつつ、男と女の本性を無残なまで諷して譲らない。
限られた紙数ではこの程度に紹介するのがやっとであるが、一つには、触れ残した山口瞳の平和論に関して、この人気連載が週刊新潮に発表当時と、昨今の世界情勢とを併せ観ながら、ぜひ批評と観想とを書き添えたかった。いや、この山口作品を、今しも「ペン電子文藝館」に展示しようと励んでいた当時(二○○三年三月)の、私の日記をそのまま再録しておきたかった。観想は、今も基本的に変わらないからである。
* 新「平和論」時代が来ている。 一部でか、もっと普通にか、わたしには読めない。が、北朝鮮の「核」廃棄に関して、アメリカはこれを断念した上で、その「核」行使を封じ込めるように政策を「限定」したとの情報を、テレビが伝えていた。筑紫哲也の番組であった。特別のコメントはしていなかった。
いま、ポーカーフェイスで、実は綱引きに熱中しているのが「日米」でもあることは、少し注意していれば見える。北朝鮮の「核」がある以上、国際・国内「世論」がどうあろうと、日本政府与党は金縛りにあっていて、言えること・出来ることは一つだけ、アメリカの機嫌を損じない、こと。しかし露わに追従の姿勢と観られまい為に、何と云われようと「沈黙が金」を演じているし、アメリカもこれに一定の評価をして、時にリップサービスは返してくる。訪米した北朝鮮拉致被害家族への歓待などもそれだが、一方では、北朝鮮の「核」保有は仕方あるまい、「持たせておいて使わせない」ようにしようなどという、日本政府ないし国民の肝をひやさせる情報も、ほぼ意図的に発信している。
そして云うまでもないが、日本を完璧に支配するためには、後者の選択肢でもアメリカは平気なのである。その方が本音に近いのだ、北朝鮮に恐怖している限り、日本はアメリカの言いなりになる。
北朝鮮の「核」力の評価はなおマチマチなのは悩ましい限りだが、過小評価しタカを括るのが危険なのはいうまでもない。最悪の事態に対応できる対策が必要なのは、人事のあらゆる場面に云える。それなくして「道はひらけ」ないと説いた本が、敗戦後に流行った。わたしも読んで影響されている。
* 山口瞳の「卑怯者の弁」を校正し入稿した。おそろしく時宜にかなった掲載になる。ピタリだというのでなく、エッセイの書かれた時機が昭和五十五年 (1980)、イラ・イラ戦争の頃であり、いましも平成十五年(2003)、二十余年を経て、世界情勢は、西に米英のイラク撃滅攻撃が一触即発、「反戦」の声日増しに高く、東では、北朝鮮の「核」脅威に揺れて「有事」の思いに日本は困惑もし怯えてもいる。まさかでは済まなくなり、対岸の火事では全くなくなっている。
もう若い人は知るまい、清水幾太郎という、はではでしい「平和論」者の声高に日本中をアジっていた時機が永かった。
平和論ならけっこうではないか、と。ところが彼の国家平和論は、明瞭な再軍備・軍事依存の均衡平和論なのであった。一言で言えば、平和とは戦争していない状態、その状態は各国軍事力の均衡・緊張で辛うじて保たれている状態の意味であり、国家を愛するなら、平和のために力で備えねば成らず、国民はそれに意欲的に挺身すべきだというのである。
この清水の論に反対する声は、敗戦から年数を経ないうちは、なおさら、いとも燃えやすく沸き立った。山口瞳の「反戦」の、論も、情も、じつによく分かる。情味に優って訴えてくる。心ある者は、みな、こういう山口の論調で反戦を訴え続けてきて、実はいましも少しも変わらないのである。
では清水は完敗かというと、悩ましいことに、彼は平和を「有事」の緊張・均衡状態ととらえて、「反戦」であるよりも「有事の平和」を論策していたと言える。少なくも清水が現在も存命であったなら、見たことかと大声で政府与党を煽っていたかも知れない。
そんな必要もなく、先日の「朝まで生テレビ」に登場していた、まさに清水が、山口たち戦前・戦中派を切って棄てて、大いに心中、登場を期待していたような戦後派うるさ型論者たちは、こぞって清水の期待にまさに応えるように喋っていた。
「反戦」の真情なら、断然山口瞳に票が寄るだろう。「有事」の議論となると、むしろあの頃よりも現状にあって、清水は、公然と胸を張るのではないか。
山口瞳は大岡昇平の『俘虜記』にならって、自分はまたもし戦争ともなるなら、「撃つ側でなく断然撃たれる側に立つ」と明言している。さて、撃たれるとは鉄砲に撃たれるだけではない、占領され支配され、もっと危うい目もみるということである。
具体的にいま北朝鮮の核攻撃と侵攻と占領支配を前提にし、日本人の何人が「撃たれる側に立つ」「敵を撃たない」という「平和・反戦」に手を挙げるか。四半世紀前と違い、そういう事態が、あながち仮定・架空の空想ではなく、眼前に迫っている。
山口と清水の論は、あの時と少しも変わりなく「反戦」と「有事」との衝突を分母にして、分子に「平和」の二字を据えている。少し乱暴に要約したけれど、まず、間違いはあるまい。「有事に堪えて反戦」可能な「平和」論が、新たに強力にどう起きうるか。
校正していて、何度も何度も立ち止まり、唸った。パソコンの「闇」の彼方へ問いかけたい。あなたは、自分の心中をどう読みますかと。 (平成十五年三月七日)
2004 3・17 30
* そう。「変えられるんですね!」なのだ、日本でも変えなくてはならない、此処で一度は。
田島泰彦さんや天方直人氏らのイラク派兵を衝くシンポジウムの纏めにも、「とにかくも政権政府を変えること」が第一の方策だとしてあった。選挙で変えるしか日本の国は変えようがないし、誠実に考えて行為すれば、「変えられるんですね!」と手が拍てるのだ。東工大の教室でも、わたしは事あるつど選挙には行こうと言い、正しい選挙が出来るじつにその基本は「日本語=国語教育の適切」さにあると解いた柳田国男の言説を口にした。良い判断は、「よく国語を理解して駆使し思索し発言できる」かにかかつていると柳田は説いていた。賛成である。そう信じている。「文学教授」の基本の確信であった。本質において優れた、万葉集も源氏物語も徒然草も、たけくらべも心も暗夜行路も細雪も伊豆の踊子も、子規も白秋も朔太郎も、晶子も茂吉も、虚子も登四郎も、そのために読むのだと考えていても間違いではない。美しい深い国語の駆使能力こそが、正しい選挙判断を可能にし、少しでも良い政治と私民の幸福を招きうるのである。類型的に右へならえし、卑俗に媚び、ながいものにただ巻かれ、リッチをめがけてそれゆえに口当たりのいいだけの低級な日本語では、いけない、ほんとにいけない、のだ。
だれがどんな意図で情報を操作していて、それがどれほど欺瞞に溢れているか、その判断を、選挙で活かさなくてはならない。変えられる!
2004 3・17 30
* 秦です。 さて、あなたは書き継いでいますか。
受け取っているほぼ終わり近くまで読んであります。基本の感想は、説明されていて、場面の描写がほとんど無いということです。
映画や芝居に喩えると、ナレーションだけが聞こえてきて、ト書きばっかりが書かれていて、登場人物達が交わす会話も行為も聞こえてこない、目に映じてこない。事実にだけとらわれているので、事実を効果的に伝える工夫がされていない。誰かがあなたに好意をもった・もっていたとして、それをストレートにそう書いても面白くも何ともない。場面にと、シーンにと、その人やあなたの言葉や表情で行為で表現しなければ、「場面」は、立ってこない。その時、あらわなウソをつくのはどうかと思うけれど、真実をつかむための「創作」はむしろ必要なのです。
盛んに「かくありし事実」を説明しているから、場面を欠いた、感興の湧かないト書きばかりになる。「かく在るべかりし真実」を、うまい脚色もまじえて「表現」するのです。
ある日のその時、事実は湯呑みで番茶を呑んでいたにしても、それをティーカツプで紅茶を飲んでいた程度には替えてもいい、但しほんとうにその方が「真実感」を効果的に伝えうるならば、です。
それと、自分が知らぬ間に同級生から「慕われていた」とか、自分のおばあさんは「上品」であったとか、そういうことほど、もっと間接的に「他」をもって語らせるようにしないと、イヤミになってしまう。自分へ話題を引き付け過ぎずに、むしろ話題や描写の重点を、他へ、他へ、他人へ、他のコトやモノへ、うまく手渡してしまい、そちらから回り回って自然と「自分」が現れ、表されてくるように、
謙遜に、謙虚に、するように。自分の実生活は、謙遜で控えめでいつも人のうしろにいた、なんて書きながら、文章の初めから終いまで、ひたすら「自分」の説明と肯定以外になーんにも書かれていないのでは、ジコチューの地金が露出も甚だしいわけで、これは、ものを書き始めた人の先ず真っ先に落ちこむ落とし穴ですから、あなた一人が恥ずかしがることではありません。
ま、それぐらいを素直に聞いておいて、どんどん書くように。
「自分」史とは、「他人や他のモノゴト」によって証言してもらう歴史なのです。だから、自分をいきなり書こうとせず、例えば、家族や友人や、関心を持った事件や感動した自然や芸術や、憎いアンチクショーなどを、ありありと書く内に、自然と立ってくる自身の影像(シルウェット)を、辛抱よく「待つ」ことが大切でしょう。十度も十五度も書き直してみる根気が大切です。むろん、そんなことをするどんな意味があるかと批評的になってみるのも、実は大事ではあるのです。必然的な仕事とは、それを超えて成り立ってくるからです。
* その、十度も十五度もの仕事をそろそろ手放さねばならなくなってきた。
2004 3・20 30
* テレビのニュース番組やどたばたのバラエティ番組、一面であれ三面であれ新聞記事、週刊誌の社内吊り広告、その手ののあれこれから、今、何が伝わってくるか。即ち、不愉快。愚劣な、目も耳も汚れる話題ばかり。
それからすれば、この「闇に言い置く」記事のほとんどが、オアシスのように心嬉しい。オアシスにばかり抱きついてはいられないが、大切にしたいと思う、心から。
2004 3・20 30
*「文藝館」に送った庄司肇さんの「純文学と文芸誌」は、新潮編集長だった坂本忠雄氏のインタビュー記事に反応された批評的な随感随想である。このインタビューはわたしも坂本さんから贈られ、感銘も覚えて「私語」にいろいろと書き連ねた記憶がある。
おもしろいことに庄司さんは概して「文芸誌」に関心をあつめ、わたしは「純文学」を介した感想へ傾いた。氏は同人誌体験がながく、わたしにはそれがない、ただ文学に直面してきた。あれ、坂本さんはそんなことを云ってたかしらという不審箇所が少なくも一つあったけれど、それは云わない。面白く感じたのは、坂本さんが「純文学の場合一番まずいのは自作を模倣することだと思います」と云うのに対し、庄司さんが「最高のショック」でこんな批評は初耳だったとしていること。わたしには、こんなことは日常の覚悟のようなものであって、強く肯いたのもつまり同じ考えをほとんど捨てたことがなかったから。自作を模倣するぐらいなら「書かない」というほど、わたしは自身を縛ってきたように思うし、それでいいのである。
「原稿は耳で読む」というのにも庄司さんは「どんな批評家からも聞いたことがない」と感嘆しているけれど、文学とはひとつの「音楽」であると多年言い続けて、初期には文章をテープに吹き込んで、聞いて、推敲していたたわたしには、あたりまえのことであった。原稿だけではない、もともと「ことば」とは文字を目で読む以前に耳で好く聞いて語感を身につけるべきもの、これもわたしの信念に近い。庄司さんの反応にむしろわたしはビックリした。
坂本さんは、純文学を定義的にこう謂っている。「執筆の動機、主題、表現などの課題を、自分のヴィジョンに照らして最も正確に表す」「正確をめざすもの」と。これはかなり玄人感覚の至言で、そのように志してきた書き手の以外には、意味も取りにくいかもしれないが、「把握が正確に強ければ、表現も正確に強くなる」という常々のわたしの物言いに、ほぼ等しいのである。庄司さんは純文学とは「再読に耐える作品」と云われている。再読三読何度でも親しみ読めるような作品でなければ、読むたびに慕わしくなるような作品でなければ、藝術である文学作品とはけっして云えないのである。だから自己模倣してはならず、だから不正確ではいけないのである。
2004 3・22 30
* 関係なげに話題が飛ぶけれど、「今昔物語」が日一日と佳境にすべり入っていて毎夜一語ずつが二語三語も読み進むようになった。話のなかみとは必ずしも一致しないで気付いたことの一つに、なになにのこと「限リ無シ」という表現が一語ごとに必ず必ずのように頻出する。めでたくても、おそろしくても、つらくても、うれしくても、ありがたくても、とにかく表現は「限リ無シ」と強調される。どういう心理が働くのか考えてみたい。
そんななかに、悲シキコト「限り無シ」があり、さらに嬉シク悲シキコト「限り無シ」もある。このあとの「悲」は漢字がこうであり、註を読んでいると「悲哀」ととってあるのが普通。嬉しく悲しいことも限りがなかったなどと現代語訳してあるのにも出逢う。だが、あれは、ほんまやろか。ちがうのとちがうやろか。大慈大悲と謂うではないか。悲の文字は、必ずしも普通に謂う悲しく辛いことばかりは意味すまい。「かなし」は「愛し」とも書き示せる。今昔物語の特色ある物言いとして「悲シ」を浅く読み流さないで欲しい気がする。これまた「心の苗」を愛おしむように育てていい語感と触れ合っている。
* 今一つついでに書いておくが、源氏物語「総角」巻で、薫が、匂宮を二条院に訪ねてゆくと、宮は梅の咲いた庭面を愛でていた。そのときに、ことにこの梅を愛されている宮でありといった本文に対して、注釈者は、匂う宮といわれるほどで、この宮は梅香がお好きなのであるという説明をつけていた。それに相違はないとして、本文が「殊に」というほどの限定的強調を帯びていっているのは、ただに「梅」が好きというのではない、この二条院とあわせて、亡き紫上が、ことさらに紅梅と樺桜とを「わたくし(紫上)」と思い季節ごとに愛おしんでくださいよと遺言していた、この二人だけに生きている背景を読み取らねばならないはずである。そしてそういう紫上の魂の宿った二条院へ、此の宮は、宇治中君を連れてきたいと、いましも思っているのである。「おもふやうならむ人をすゑて住まばや」と呻いた光源氏の根源の願望を、紫のゆかりの末に、いましも光世界を嗣ぐ匂宮がその祖父の願望を擬似的に果たそうとしている。そういう劇なのである。
2004 3・22 30
* 若い人もほんとうにいろいろである。男も女も。そして老人だっていろいろであるに違いない。よくよく見ていると、みな、それぞれに闘っている相手は、孤独、か。孤独はいいのである、すばらしいクスリだ、が、孤立してはいけない。
恋というのは心でするものだと、ある人は云う。そうかも知れぬ、が、違うのと違うやろかとも思う。心が人を幸福にすることはない。無心なら、べつだが。
人は痛々しいまでに求めるけれどけっして「静かな心」なんてものは無いのだ。無い、と確信したある瞬間に無心が来る、かも知れない、永遠にそんな境地は来ないかも知れない。わたしは、いまいちど「風」を考えてみたいと思う。「日本の美学」に書いた「風」の説は半端であった。
* 風は、吹いたり、やんだり、するものです。吹こうがやもうが風に実体はない。無いものです、存在としては。風は、待ってもいないし、わすれてもいない。花を咲かせ花を散らせ、しかしそれもまた新たに花咲くために、です。花は繰り返しのシンボル、風は実存の譬喩。
花はすなおで、美しい。ねじけていなくて、やわらかい。
花は、いま、幸せでしょう。
胸の内に、思いの底に、懐かしく静かに深い闇を知ったことは花のいのちを久しくすると思う。すこし強くなり、無用の柱に抱きつき泣きつかずに独りで立てるように、歩けるように。
少なくもあと五十年が花を、それこそ待っている。
ごく自然に、常のママに風に抱かれて美しく花咲きますように。無心に。
2004 3・23 30
* 角田光代という若い作家が活躍している。この人が、早稲田文芸科のゼミ教室で、いきなり作品がとりあげられ褒めて貰ったと、よく人にも話し、最近もものに書いていたそうだ。「アエラ」であったか。その「とりあげ」た先生は、私である。担当教授が外遊の間、助けてくれませんかとゼミ指導の依頼があったのは、東工大へ行くより幾年か前であった、そうそう建日子が早稲田法科に入学した年であった。つまり「湖の本」を出し始めた年だ。結局、二年間付き合ったのである、文芸科とは。角田光代はその二年目のゼミ学生であった。どこかにその原稿が残っているかも知れない。いま、彼女一人が志望を伸ばして行っている。ほかに、研究者になり教壇に立って、いまも「湖の本」を支えてくれている平澤信一君や、社会人として地の塩のように努めている優しい女子卒業生もいて、おつき合いが続いている。若い人こそ伸びて欲しい。
2004 3・24 30
* 頭の中で、ことばが沸騰するようにストラッグルしているのを感じる。なんだかむちゃくちやに混乱し廻転している。液状のも筋状のも粒状のも板状のも、ぶつかり合うように攪拌されている。狂うような自覚はない、それを眺めている基点とも支点ともいえそうな位置でわたしは眼を開いていて、意識は騒がしくない。なんだか、とても寂しいとも表現できる。おととい、泉涌寺にいたときの気持ちに似ているが、あのときは頭の中に沸騰はなかった。懐かしい声のような情愛にわたしはひたっていたと思う、あの数時間。
即成院の阿弥陀、戒光寺の丈六釈迦、悲田院の大空に吸い上げられそうな遙かな眺望、観音寺の日だまり、来迎院の静謐、金堂わきの大桜の漫々と頌えて漏らさない咲き盛り、後堀河陵の裏山で聴いた鴬、母校の校庭、東福寺僧堂、通天橋をのぞむ一瞬のめまい、東福寺伽藍の交響する明浄。人と出会ってもそれと認められない深い現実喪失の澄んだ闇。あそこで、わたしは鬱ではなく躁ではむろんなく、静であった。願わくは清でありたかった。
* 落とせとバグワンはいう。道元の心身脱落とか、放下とか、そんな意味かも知れない、持ったり縋ったりしているむいみなものから手をはなすだけでいい、よけいなものは落ちて行く。何が、よけいなのか。何がほんとうによけいなのか。なにで「ありたい」かが、その「よけいな」ものを決めるのか。ま、いい。
* 京都の人にいわれたことがある、あのあたりは、あなたの「すいば」と。
「すいば」とは、京都の子供達の少し秘密めかしい、ひょっとして今は死語かも知れない、たぶん「好い場」の意味。「粋場」の意義ももっていよう、我のみの「お宝場」であろう。
泉涌寺・東福寺をとりまとめて「好い場」は余り広大すぎるけれど、わたしには、確かに、そうである。絶対に他人と共有していない別次元に、容易に成り変わる、いや父母未生以前にそうであったようなほんものの「好い場」だ。
誰しもが、「そこ」へ行けば、忽ちに他の世界へ「浸透」し「溶解」してしまう「好い場」を抱いているはずだ。わたしは、目をまじまじ近づけて見入るどんな「畳の目」ひとすじもが、そういう不思議世界に成り得た幼時を、忘れていない。
* その人の言葉が、どうしても「本気」とは聞こえないような人が、いるものである。ものを言うとき、だれしもが本気で言うとは限らないのは、こんな悲しげな事実・現実は無いのだが、概して人は「本気の言葉」ばかりを話しているものではない。それどころか本気で話す者は愚かだ、バカだ、という価値判断すら現世ではかなりの力をもっている。本気でばかり話していると世間は狭くなるぞと、どれほど、声ある言葉でも聴かされ、声なき言葉で嘲笑されてきただろう。
やはり子供どうしで群れて遊んでいた昔、よく、「ソレ本気か」と問いただし、問いただされる場面に遭遇した。本気の反対語がなにであったか、「ウソ気」というような不熟な語であったかも知れない、人はたいてい「ウソ気の言葉」を表へ出すことで、世渡りの瀬踏みをするものらしいと覚えた。「じょうずにウソを言わはる」人がむしろ褒められていた社会が、身の回りに、ひろい世間に、明らかに実在していたのである。
* 「その人」のことがほんとに好きなのに、その人の「ことば」が、浅い薄いかざられた「ウソ気」のものとしか思われない、そんな不幸な体験を一度もしなかったわけではない。いや、何度も有ったかも知れない。そして、みすみすだまされると知ったまま、そこへ落ちこんで行く人もいないわけでない。物語世界には、まま見かける主人公である。山本有三の「波」の女、谷崎潤一郎の「痴人の愛」のナオミ。男をあやつるために生まれたような女の、おそろしいほどの魅力。わたしなどは臆病だから、そういう女にはたぶん近づかないけれど、知らぬうちに近づいてしまってたら、どうするだろうかとは、想ってみることがある。そういう女ほどたぶん美しいのであろうから、厄介である。
室町時代の絵巻に「狐草子絵巻」があり、愛した女の正体が「狐」と分かり、男は恐れ厭いニゲに逃げるのだが、あの雨月物語の名作「蛇性の淫」でもそうだ。
妙なことに、わたしは、それらを読んだとき、それらに類似の伝承・伝説を読んだとき、「えぇやないの、狐でも蛇でも」と想った。だから「信田狐」の伝説にも、それが歌舞伎になっても、「狐でもいいじゃないか、なぜイヤがる、バカらしい」という感想を大概持ったし、今も変わらない。だから『冬祭り』のような絶境の恋も書いたのである。
これを、さきに書いた「本気」「ウソ気」という意味に絡めて言うのなら、人間の「ウソ気」よりも、獣たちの「本気」のほうが幸福に近かろうかと想っていたわけである。つまりは人間の女の、男の、「ウソ気」のほうがイヤであった。
その人の魂に、とても根ざしているとは感受しきれない綺麗な浅い「ことば」を表情も平然と並べたてる女も、むろん男も、いる。自分自身がそうでないというのは厚かましい限りと認めた上で、そういう「ウソ気」のことばを普通に使って生きている人間とは、「お友達に」なりとうないと、わたしは永く思ってきた。
まわりくどくいえば、泉涌寺を歩いているとき、一切のそういう軽薄な危険や穢れた情けなさから解放されていることが出来る、そんな総てが「落とせて」いると思える。だから、わたしはあそこでは本当に「幸福」なのである、かなり寂び寂びとした幸福感ではあるけれども。
* あ、わたしは、いったい何を書いてきたのだろう…、今朝は。なんのことはない、本気で人をだまくらかそうと予行演習していたのではないか。分からない、自分自身がなによりも分からない。分かっているくせに、分からない。
2004 3・28 30
* 東京の桜は満開という。花だよりには、なぜか胸ふくらみ、そして気が騒ぐ。泉涌寺でそうだったように、一人の花見もいい、それにあれは、ほんとうは一人でなく、肩先には終始羽のように人の影が、感じが、あった。花見はやはり人といっしょが楽しい。去年は花どころを避けて、地元の武蔵野を、ゆるゆると妻と探花の散策で桜への思いを満たした。東工大へも行かなかった。
* 一日に茅場町へ行く。三時から会議。朝から時間早く家を出て、大岡山へでも行ってこようか。三日にも所用で出掛ける、花は残っているだろうか。開花、満開、残花。どれも佳い。あんなにはかないはかないと眺めながら、磐石の重きをみるように年々歳々の花には変わり無く、歳々年々に人はうつろう。花も愛おしいが、人はもっと愛おしいものである。人がみな花のようであれば、どんなに此の世は優しいことであろう。殺し合い欺き合い奪い合い、人のしたたかさとはそういうことと観じている人も少なくないが、それもはかないうつろいの思想でしかない。はかなさのシンボルのような桜の方が、よほど真実たしかに美しく、無残な変貌をみせない。散ってはまた、変わりなく季節を得て咲いてくる。
あけぼのを染めて盛りの櫻子に添ひてぞみばやみばやみせばや
2004 3・29 30
* 今昔物語の一つの記事がぐんと長めになり、全集本で一語数頁になってきた。記事が豊富になり物語的になって、つまり話が面白くなってきたのである。識った話も初めて知る話もある。源氏物語も「ユリシーズ号」もどきどきするほど面白い。
しかし、こういうことも、わたしは聴いている。
アメリカを代表する大学で実験されたそうだが、被験者に或る眼鏡をかけさせる。そのレンズは強烈に歪んだ像を送りこんでくる。あらゆるものがマトモには見られない。ねじれ歪んでいる。当然に被験者は立っても居ても堪らない。頭痛になやみ狂いそうになる。当然だろう。だが、四日五日めになると、なんとその眼鏡のママ、なにもかも元の通りに普通にものが見えてナニ不自由が無くなってしまうと謂う。
なにを意味しているのか。人が見ている物は、見ているとおりの物ではないし、他人の視覚・感覚など絶対に共有できないということか。
ある指導者は、人に対して常にウルサイほどこう注文をつけていて、あまりの執拗なそのうるささに去って行く人も多かったという。ナニを注文するか。たとえば、ものを言う最初に、必ず、こう言えと。「私の見た(聴いた・感じた)ところでは」と。「(私の見た所では)この林檎は赤い色をしています」「(私の聴いた所では)小泉首相はブッシュ米大統領は絶対の存在であると言いました」「(私の感じたところでは)このトンカツは美味しいです」と言うようにである。あらゆるものごとが虚妄で有るかもしれず、すべては「私(その人)」の見たり聴いたり感じたりした以上のことでは無いからだ、と。そしてその「私」なるものが根底から虚妄の幻影に過ぎないとしたら。
2004 3・30 30
* 人と人とは同じモノを同じとは見ていないものである。モノの大きさも色も、形も重さも。そんな個々のモノ・コトだけでなく、もっと微妙にいろいろなことが当然の異同を生じている。ことに言葉の場合にそれが、起こりそうでなくて起こりやすいのは、一つの文章なり作品なりの読みに幅や差がでることでも、よく分かる。
メールの字句にひきづられて諍いをする例はよく聞くが、すべては「ことば」に曳きづられるからだ。大事なことほど、言葉では伝わらない。釈迦も老子もイエスも、みな真理・真実は、それを言葉に置き換えたときに喪われるといっている。そうに違いないと思う。言葉だけを信じ頼って人間関係は安定するモノではない。深い価値のある人間関係ほど、言葉や目に見えるモノは二義的である。目と目とでいちどうなづき合ったことほど、確かなモノは無いと思うべきである。言葉はウソにつながりやすい。目に見えない指輪でも交換したようにかわした指切り(約束)の重みといったことを、もう少し人はよく受け容れてみてはどうか。
「私の見たところでは、」「私の聞いたところでは」と限定しないと本当のことは有るのか無いのかも分からない現世にあって、なぜ捻華微笑となり、心身脱落となるのか。
2004 3・30 30
* 茶の湯にしたしみ、関連の著述にもしたしみ、多くを享受してわたしはほんとうに幸せであった。その幸せにより、わたしの日々が構造化されてもきたのは明らかである。一期一会という言葉にもわたしはわたしの血潮をそそいだ。茶の湯びととしていえば「一期一碗」と先ず喝破していた武野紹鴎の教えが大きく、それとの共鳴で、井伊直弼の「一期一会」も鳴り響いた。
もし今一つを、とならば、偽書かもしれない「南方録」のなかで利休の説いている、「かなふはよし、かなひたがるはあしし」が、ある。
底知れぬものをもってこの短い指摘は、津浪のようにわたしにいつも襲いかかる。これほど多く豊かに深くものを想わせ、イメージもクリアに厳しい教えは、他にそうは無い。
人間関係のこれは真諦。さらに放埒なものいいを敢えてするなら、人間関係にあって動物的でも霊的でもある「性的関係」にも、みごとに妥当するであろう。性こそは「かなふ」性でありたいではないか。
人と人とが、精神的にであれ性的にであれ社会的にであれ、自然であるか、不自然か。その岐れを利休はピシャリと言い切る、「かなふはよし、かなひたがるはあしし」と。人と人の「かなふ」自然あって茶の湯は成り立ち、茶の湯に限らないのである。至言である。「かなふ」とは、思考や分別の無用に介在しない親和である。柔らかい無心の親和である。花と風との恋に「かなひたがる」ものは、ない。一瞬が永遠になり、永遠が一瞬になる。「かなふ」のである。
* 弥生尽。穆々和春。前田夕暮はこう高らかに歌った。この歌声のすばらしさは、微塵の「かなひたがる」もないところに有る。
木に花咲き君わが( )とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな 前田夕暮
こんなおおらかな名歌を、当今、絶えて眼にも耳にもしない。世をあげて「かなふ」ことを忘れているのである。春四月はどこから来るだろう。若者達よ、胸を鳴らせ。
2004 3・31 30
* 詳しくはいえないが、ここ十数年、そして近来とみに顕著に、幽明の境が取り払われたように、小説に、映画に、ドラマに、マンガに、生者と死者とのありありとした交感や接触や関係が書かれ・描かれていて、もう誰も奇異に感じていない。表現のハバやソコが広く深くなったと感じているらしい。
モノノケは、源氏物語にも歴然と書かれている。かぐやひめでも現実の女人とはちがっていた。能・謡曲の詞は世界にも比類ないその手の総結集であった。伝統は久しく久しい、そして江戸時代三百年を通じて、そういう不思議を「名作」の名にふさわしく書いたのは、上田秋成がやはり傑出し、只一人と頌えたいほどである。お化けはぞろぞろ出ていたが。
明治以降で、そういう不思議に関心を持ち表現しえたのは、泉鏡花がほぼ只一人で、自然主義写実主義の旺盛な近代では、そういう「手」の出し方は、他界への関心は、誰もむしろ避けて持ちたがらなかった。鏡花と潤一郎との差は、作品世界に鏡花は「他界」をもちこみ、潤一郎はもちこまなかった、と読み取ることも出来る。
わたしの「清経入水」が1969年(昭和四十四年)に太宰賞を受けたとき、選者の中に「現代怪奇小説」と呼んだ人もいたのは、鏡花なきあと、まことに久しぶりに幽明の境を往来する物語であったからである。他界と現世とを自在に往来する作家と批評した人もいた。当時の作品世界では稀有であり、極めて孤立した作風であった。そういう作品は、わたしにはその後も幾つも有り、「蝶の皿」「初恋」「冬祭り」「北の時代」「四度の瀧」「鷺」「秋萩帖」「加賀少納言」など、みなそうであった。
狭い範囲でしか読んでいないが、目配りしていた限りでは、そういう傾向の作品が出始めたのは、だいぶ後々のことであった。小説にも出始め、テレビドラマで特徴的にそういう傾向が目に付いてきた。
いまは、少しもめずらしくない。不思議なようであるが、ワケは何でもない。現世への「不快」が深まっているのだ。現世だけでは狭苦しく息苦しいのだ。
2004 4・1 31
* 大神神社 中野美術館の、華岳、波光、麦遷、竹喬、浅井忠をうっとりと見たのち、花盛りなのに人すくなな、秋篠寺、法華寺、押熊の小さな寺を彷徨い、三輪サンの月次祭に。
日は暮れかかり、露店は仕舞い支度。参道の店のおばあちゃんは「かえってゆっくりお参りでけて、ええわ」。
なで兎を撫で、巳ィさんの杉にお御酒と卵をお供えしてきました。
「これでしまいやから、押、し、売、り」と、おばあちゃんから、ゆで玉子を七つ二百円で引き受け、月うさぎという名のお酒を買いました。
あったかい地の玉子が、おいしかったですわ。
* ここへ来ると、もう皮膚呼吸のように世界が間近に在る。「人すくな」と濁音を避けた物言いにも好感をもつ。濁音は音韻上の語勢で余儀ない言葉の力学ではあるが、避けられるかぎり避けたい。むかしの本文で「かかやく」など珍しくない。「かか」が本来だからで、洞穴の奧に光った蛇の目の大神の発光のさまを「かかやく」と謂った。それが「かが」となり、「山かがち」などというヘビの名にもなった。濁音が効果をもたぬ限り、語源の確かな場合は清音を尊重している。
2004 4・1 31
* うまくすると今夜のうちに、多年手に掛けてきた小説が、一段落迎えるかも知れない。もう数枚を読めばラストに辿り着く。まちがいなく、此処までは問題はない。少なくも小説作品としての問題はなく、ただ読者の中には歯が立たないと文句をつける人があるかも知れない。だが、いやいや、それはたぶん克服してもらえる歯ごたえのうちで、「風の奏で」や「秋萩帖」にくらべたら、分かりイイ、分かりよすぎるくらいの小説ですと宥めたい。ただ、もう数枚、慎重に読みたい。
2004 4・2 31
* さ、気を入れてもう一度小説に返る。そして、今日もあまり遅くならずに安眠したい。香りの良いアイピロウを眼に載せ、すうっと闇に沈んで行くときが、とても幸せ。
* 納得した。これで脱稿とする。題は、思い切った。「お父さん、繪を描いてください」となる。平成十六年、四月三日の日付に変わっている。よし。
2004 4・2 31
* 仮名遣いに関しては、心情からも理論からも主張からも、わたしは、福田恆存さんの意見に全面的に賛成である。福田さんの日本語の仮名遣いに関する著書は、とりわけ『私の国語教室』は驚嘆の名著。何としても復活へ導きたい仮名遣いの「正しさ」を説いて情理相伴っている。このメールの人の嘆きは、わたしの嘆きでもある。
2004 4・5 31
* 見舞ってくださり、ありがとう。わたしは、いまも、眼を閉じてふうっと暗闇のなかに沈んでいたりします。それが安息です。
むかし、あれは『北の時代=最上徳内』(湖の本32 33 34)でした、「部屋に入る」と謂っていました。こちらから襖を開けて入ると、向こうから襖をあけて人が入ってくる。向こうは一人でないときもある。時には光源氏と紫の上であることも、後白河と建礼門院とであることもある。香のくゆる茶室ほどの部屋で、なに変わりのない普通の知人のように普通の言葉で歓談し、またそれぞれの襖から出て行く、そんな「部屋」を書いています。どうもそれは今謂う「闇」に似ていましたね。おそらく、その作品の中にも書いていましたが、それは前漢の人趙岐が生前に墓をつくり、墓室の四面に信愛する四聖を描いて、生前から好んで其処に入っては聖人達との対話を楽しんでいたとかいうのを、わたしか識ってての発想だったかと思われます、もうよく覚えていませんが。むしろ「清経入水」序の夢が原型かも。あそこではまだ部屋は虚しかった。
わたしの「部屋」にはわたし以外の主人はなく、客は自在。今もそうです。部屋へ私が呼び入れるほどの人は、実在と非在とをとわず、それが「身内」です、私の。その「部屋」は、私のよく謂う「島」に相当して居る。そして「部屋」の簡素に白い襖は、どんな喧噪の場所ででも、どんな時でも、たちどころにわたしが願えば目の前にあらわれます。入れば、鉄壁の清明他界です。
別の言葉でいいかえれば、その「部屋」はまた、「遠山に日のあたりたる枯れ野」とも同じですね、わたしには。この「枯れ野」は、現実という娑婆世界のほんの地下室かのように、少しの下方に、ひろびろと、さびさびと拡がっています。上の俗世で「ナンジャイ」と思うと、すうっとこの広い枯れ野に独り降りてしまうのと、むかし、そのようなことを私に呟いた年下の少女がいました、中学に。
このごろは、「ナンジャイ」と云いたくなることの多すぎる世の中ですね。
秦恒平は半身を他界に隠して好きに往来しているような作家だと、とうに亡くなった文壇批評家が言いました。その人がわたしに加えた批評の中で、幸か不幸かいちばん的確であったのかも。彼は、あいつは半分死んでいると云ったのでしょう。ま、確実に半分は生きているわけです。呵々
よけいなおしやべりをしてしまった。適当に忘れてください。
2004 4・12 31
* いやなことばかり世の中で起きているようだが、それはアバウト過ぎる慨嘆である。しかし、いいこと、嬉しいことの、多くはない、のも確かだろう。ヤワラの谷亮子選手、ピンポンの愛チャンらの活躍はむろん心を明るくするし、そんなことばかりでなく心励ますことは間違いなく有る、誰にもいろいろ有ると思いたい。
その上で、此の世での窮極の時点で、真実人の心を満たして励ますものは何だろうと想像の限りをつくすと、たとえば「悟り」のような無上の平静=平成は、不出来な一人として断念に近い気持で見送るにしても、最後は敢えて俗語を用いて「恋=愛」だろうと思わざるを得ない。政治家の欲も宗教家の欲も実業家の欲もけっして彼等を究極の場面では安静にはしない。安心させない。そんなものは口きたなく謂えば「屁のつっぱり」にもならない。そこで満たされている人は、年齢の如何に、関係の如何に関わりなく、親子でも兄弟でも知友でもそんなことには関わりなく、つまりは「恋」というにたるほどの「愛」を感じている人だけだろう。そこへ落ち着いてくる。それを本当に知らない人はあわれである。憐れまれねばならない人がいるとすれば、そういう人達であろう。富も名声も死ぬときには何の役にも立たないというのは、本当だと思われる。人を真実鼓舞し感動させるのは「恋・愛」だと、過去にも、ものの見えた人は識っていた。死と対等にバランス出来るのはそれだと。
* ちょうどそんなことを思っていたときに、映画「マトリックス」を三部まで見終えた。わたしは、この映画が結論のところでっつと同じ理解を示すに違いないと信じながら見ていた。作品が基督教を下敷きにしているのだから見やすい道理であったが、わたしは基督教だけでなく、別の方面からでも同じところへ近づいて行くだろう、それ以外にどんな結論があり得ようかと思っていた。いまもわたしはそう思っている。
「身内」の愛。人が内心、どんなにそれを渇望しているかは分かりすぎるほど分かっている。どんな情況もそこへ収斂される。死と直面するしかない人間の哲学は、そこへ落ち着く。われら俗人の安心は身内の愛からしか、身内の恋からしか来ないのである。
* その奧をもし願うなら、だれかのメールに触れてあったが、大きな ○ を突きつけられて思案する図が、次に来る。
しかし思案などしてはダメ。○のなかに大きな×を墨くろぐろと書いてみても、所詮は肯定と否定とのはてしない連続が、つまり妄執が待っているに過ぎない。梅原猛の哲学など、その程度にもともと破産していることがよく分かる。こどもだましならともかく、バカげている。
○という限られた世界を、×では否定も克服も出来ない。○そのものが、無意味にではない、無に、溶けいり無際涯であらねばならない。それが実存、それが本然の ○ の真相なのである。澄んだ鏡も、真澄の空も、枠が、地平が有る間は有無の相対を免れていないが、それでも × と書く道化からは免れている。
2004 4・12 31
* 高田欣一さんから、いつもの「エッセイ通信」が来て、今回は「月の西行」と題されている。批評せよと手紙が添えられていた。
* 早くに「花月西行」を書いて以来、西行は、何度か書いてきました。「月の定家」と謂う小説では、西行と俊成と定家とをそれぞれに書き分けてみたりしました、定家の思いから。そんなこんなで、今回の「通信」に興味を覚えたのは当然です。
いま、やや気ぜわしく過ごしている最中で、落ち着いた感想には成りませんが、読んでいて、微妙なところで認識の違う面も感じ取れました。「きわめて哲学的なストイックな歌人」というような断定には、わたしは相当な距離を置きたい気持ですし、「月」なるもののとらえ方でも、やや性急に寸足らずではないかなあと謂う思いがありました。神秘的は神秘的として、「月」をかなりエロチックに眺める視線も視野も、古典世界には豊かなかさをひろげていないでしょうか。月経といえば女のものですが、「月」の肥痩を男性とみる目も、元気な男を満月と喩える例も、あり得たよ
うに記憶しています。「花籠に月を入れて」は性の態様そのものとも想われます。
西行は恋を多く知っていた人であると想われますし、西住のような、同性愛者に近い存在も知られています。芭蕉にもありましたね。また西行の親友に大賢門院堀川や兵衛のような美女たちのいたことも、待賢門院思慕も、ウソではないと思われます。なによりも近親に、和歌ならぬ歌謡と愛欲とに耽溺した人もあり、悪左府頼長にもそれがあった。二人の意外な近縁はその辺が関係していると学者もみていたようです。西行はおそらく「絵解き」などもしていたでしょう。花の歌も月の歌も、柔らかに読んでいると、その価値は、かえって、ストイックでなく哲学的では「ない」ところに感じ取れるかもしれません。
世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる 俊成
ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき 清輔
夜もすがら物思ふころはあけやらで閨のひまさへつれなかりけり 俊恵
なげけとて月やはものを思はするかこち顔なるわがなみだかな 西行
「百人一首」の草稿段階かもしれない「百人秀歌」では一対でも、「百人一首」で、定家は、西行と俊成を対にはせず、俊成のは清輔のとならべました。この二つは、かなり放埒なスケベー歌として読めるような一対で、ソレについても書いたことがあります。西行のは俊恵のと対にされ、これは好一対です、ストイックでも哲学的でもなく、強いて読めば男の不如意に泣いていなくもない、色濃き色気歌になっています。わたしも、西行のなら、もうちょっと他に、と謂いたい気分でしたが、趣向としては俊恵と西行の歌は似合っています。
すこし実の西行よりも、高田さんの論調の方が哲学的でストイックな感じを持ちました。
西行は歳久しくにわたり「虚像」しか知られていなかった。偽書である「撰集抄」と絵巻程度のものに虚像が膨らまされてきた。わたしは、むしろそのことを西行を論ずるときには、価値ありとして対応したいのですが、実像が見えてきたのはほんとうに近い時代になってからで、少し前までの近代文学者の西行観は、「山家集」から離れてしまうと放恣になるという印象でした。その放恣をまた魅力的にクリティクすることが、うまみでもあり大事なのではないでしょうか。
花も月も古代の高尚でしたが、高田さんの謂われるようには、古代歌人は花なら任しておけと謂うほどの花の秀歌が多いわけでなく、むしろ概念的な花の歌が多い。それを西行は実情を添えて歌った。古代人はいくらか月の歌の方がうまいのかもしれません。そして西行を「花と月」にふれて眺めますとき、もう一方の極に、西行ならではの「風」の感性、中世の感性を聴きとりたい気がします。
当座の思いつきのようなものですが、「花と風」の著者としても、そのような思いはまだ抱いています。書きっぱなしです。 秦 恒平
* こういう議論の出来る仲はうれしいもの。
2004 4・12 31
*「生きる」とは、山で限りなく「滑落」するように、もの・ごと・ひとへの「失恋=片思い」の連続だ、必死にビッケルだか何だかを岩肌に打ち込んで束の間の息をつく、それがいわば脱失恋ではあろうが、長くは続かない。また滑り落ちる、あらゆる片思いを満身創痍繰り返す。
本当に人を魂から癒すのは、真実の「身内」に逢い得て、一人でしか立てない父母未生以前本来の小島に複数で起つと確信できたときだけだ。それなしには、財も地位も仕事も権力も、究極の時点、死に立ち帰る時点では、ただの無意味な虚しさに乾燥しきっているだろう。
2004 4・13 31
* それにしても女の子のスカートの下へ鏡をしのばせて捕まる類の先生が、何人も何人もいる世の中だ、それも世に時めいて次の財務大臣かもしれないなんて謂われた男が捕まっているのは、情けない。それぐらいなら、道であろうが道ならぬ恋であろうが、恋をすればいいのに、バカだなあ。
教授時代、わたしは、あの大学には数少ない女子学生の大勢と仲良しだったけれど、そんなバカげたことは毛筋もしでかさなかった。わたしは、男子でも女子でも、一視同仁、贔屓しなかった。どの学生も、かなりに、ホメた。女子学生のほめ方は、陰でも日向でも本気がいちばん。ウソはすぐ分かる。
教授でなくなってからは、普通にいえば男と女の間柄になれ構わないんだけれど、幸か不幸か、なにも起きていない。一緒に歩いていて、色気がないなあ、手を繋ごうかと両方から手を繋いで街を歩いたことは何度かある。不幸や淋しさに沈んでいる人だと、せめてもう少し刺激的に慰めてやりたいと想うことも、たまに無いではないが、そんな必要はまず無い。若いから、そのうちに立ち直り、そして、そのうちにまた「滑落」するものだ、人生であるからは余儀ないこと。
スカートに鏡。病気だね。何が見えるわけ。見るとどうなるわけ。ま、病気なんだ、理屈を言い掛けてもしょうがない、そんなもの見たければコンピュータにはゴマンどころか十万でも二十万でも(強調して謂うだけ、)おっそろしく露骨に陳列されていて、しかもみーんな同じ、あっけ無いほど性器も性行為もバリエーションは少ないから、忽ちばからしくなる。なんだ、誰も彼も、あれもこれも同じじゃないか、アホらしいとなる。不浄観にはもってこいだが、その効果はたぶん死骸の腐乱したのよりは上がらず、たんに麻痺的に禁欲的になるだけだ。若い人達がやたら禁欲でも困るのである、だからやはりああいう汚いサイトは極めて毒なのである。
そのバカげた病気の先生に言ってみても始まらないが、本当に愛する人のなら見ても触れても愛しいけれども、さもなければ、そんなもの文字通りの不浄処にすぎない。アホかと思う。
公平に一つだけは付け加えておくが、その手のサイトから泥中の白蓮華のように清らかな印象の美しい写真が、まるで優曇華に出逢うように稀に見つかることが、ある。単に写真効果であるのはいうまでもないが、わたしは、むろん無料を確認し数枚コレクトして、ときどき眺めている。ミロのヴィーナスやロダンを観る態度と少しも変わらない。だが、写真という幻影に過ぎない。藝術とも思わない。綺麗なものが綺麗なだけである。
2004 4・14 31
* 拙文へのご批評有難うございました。
本来なら、書面にすべきところ、メールにて失礼させて頂きます。
西行については、まだわからないことがいっぱいあります。ご指摘のことは、いちいちごもっともと思いました。
「私語の刻」における百人一首一夕話の中納言朝忠のところのご興味の示しかた、紫式部の「めぐりあひて」の歌のご感想など、そのひとつひとつがわたくしどもと違う、小説家の観かたと感じ入っております。色好みの西行、性的象徴としての月なども、今後考えるべき課題として有意義に受け止めました。
実はお作「月の定家」も、また辻邦生「西行花伝」も読んでおりません。わたくしの西行は、小林秀雄「無常といふ事」の「西行」と、高橋英夫氏の「西行」、白洲正子氏の「西行」、さらに饗庭孝男氏の「西行」などのほかには吉本隆明氏の「西行小論」というように、みな批評家の西行ですし、目崎徳衛、久保田淳両氏の世評の高い西行論も読んでおりません。
このうち、わたくしがもっとも強く受け止めたのは、小林氏のほかは吉本氏なので、「哲学的でストイック」すぎる西行というのは、こうした偏りのせいかも知れません。しかし、小林秀雄についてもそうなのですが、評論とは、その人の作品が自分の内面に残した痕跡を書くものだと思っておりますので、今後もいくぶんこうした偏りは、避けられないかなと思っています。
長い目標としては、道元に関心を抱いております。
また、最近「古今集」をひもときながら、あの四季の歌にも、恋歌にも見られる厳格な配列に、紀貫之という人はじつに几帳面な人だなと感じました。もうすでに誰かが言っていると思いますが、「目にも見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」と仮名序で言っていることに、胸を衝かれました。ふつうは鬼神は作者の中にあり、それがふつうのひとの心を動かすのに、逆に普通の人が作った歌が鬼神を動かすとは。
小林秀雄は『本居宣長』二十七で紀貫之を評して、「彼の資質は、歌人のものといふより、むしろ批評家のものだったのではあるまいか」と言っているのを、むべなるかなと思いました。
その意味で、わたくしが「百人一首一夕話」のなかで心惹かれるのは、死の直前源公忠に寄せたといわれる、
手にむすぶ水に宿れる月かげのあるかなきかの世にこそありけれ
という歌に出てくる「月」です。
以上、また勝手な事を書きました。
なお、今回の拙文は、時間的なこともあり、発表を焦ったせいか、「大きな大自然」など措辞に見苦しいところがあることをお詫びします。 高田欣一
* 此の場が、或る意味で交流・交感の共用「場」の観を呈していると思い、あえて此処に掲載させて戴いた。こういう交際に参加して話題をひろげようと云う人も、有れば加わってもらいたい。
わたしはわたしの所謂「M教授」こと亡き目崎徳衛さんや、久保田さんら、学者・研究者の西行を主に読み、近代の批評家の西行論は参考ていどに読むか文藝として鑑賞してきた。研究に学んでそれへ小説家でもある一人の愛読者として何が付け加えられるだろうというのが、わが文藝のありようである。小説にすることもエッセイにすることも、ある。そして結果として「自分の内面に残した痕跡」から、何が、新たに自分に生え出たか、芽吹いたかを表すのが、創作者の「書き物」だと考えている。きつく謂うと、わたしには西行も後白河も、紫式部も清少納言も究極では問題外で、彼や彼女らを通過し吶喊してわたし自身が、どう、どこへ、来ているかだ。わたしが研究者・学者を名乗らないのはそれ故であり、わたしが清経や資時や白石や徳内に「化(な)る」というのが、はそれである。歴史の時代や人物を書いて、現代やわたしが小説世界を成して行くのも、それである。そういう方法を用いるという意味で、じつはわたしは「創作的な批評家」でも「批評家的な創作者」でもある。そう明確にではなくても、それが何となく分かるからだろう、わたしを教授に招く大学もあり、純然とした学会の役員に招こうという人事も起きるのであろう。
* 高田さんらと同じに、わたしも紀貫之に興味がある。それも古今集を撰し仮名序を書いた歌人紀貫之にだけでなく、歴史的に謂う「藝人」世界に近接して芽吹いていた複雑な出自、独自の才能・個性が、なんで原拠にうるさい源氏物語の繪合巻で、「竹取物語」繪の詞を書いているのか、彼の能筆はどう育まれたのか、なんで彼はある種の怨霊かのようにある種の神社には祭祀されているのか、などをもう年久しく想っている。
お互いに、少しずつでも、関心を彫り込んで、また掘り進んでゆきながら、幾重にも言葉の迷路で出逢ってみたいもの。
* 今一つ、道元の名が上がっていて懐かしい。
とはいえ、わたしは今では「禅」の祖師に、知識や批評で向き合う気、微塵も無い。不立文字を言葉と文字とで穿鑿するなんて。それならば、世界史的な大きな存在だと思える和尚、バグワン・シュリ・ラジニーシにひたすら聴いていたい。バグワンは禅僧でないが、禅にも透徹し巨大に感じられる。禅はわたしにはもう理知の対象でなく、「今・此処」に自立して生きていられるための、非在の基盤。懐かしいと謂えば、今の私には一休が慕わしい。いずれにしても「知」の抱き柱も「信」の抱き柱もいらない。
出逢いも別れもみんな幻影であり、わたし自身も、「在る」とは日々に思われなくなっている、実感に近づいて。その暫定の理解の上で、楽しんだり嬉しがったりプンプンしたり情けなかったり満腹したり酒を飲みたがったり寂しがったりしているわけだ。
そんなもの青空の下を去来する「雲」たちにすぎず、鏡の前を往来する「映像・演戯」にすぎない。それらが在ろうと無かろうと、青空は青空であり、鏡は鏡である。空で無である。実存とは、そういう非在の真如・真実。肉体など無数の線で画いた影(虚像)にすぎない。生きているわけでも死んでいるわけでもない。無い存在だ。
2004 4・14 31
* 高齢婦人たちですらこういう気持の昨今。しかしこれが、若々しいつよい世論にまで盛り上がらない。なぜだろう。
一つの日本事情に、恥ずかしいほど「学生」が無力で因循なことが挙げられる。いまほど日本の学生が、非社会的・背政治的・脱力状態の時代は、明治以来初めてだろう。歴史的に見ても、多くの国で、なにか天下分け目の大事に際会すると「学生」という力が、少なくも発言し、行動し、世論を刺激した。正しい機能であった。学生の分際でなどという考え方がまちがいなのであり、時代をひっぱってゆこうとしているインテリジェンスの「世代」として、学生サンは、昔からそれなりに世人に認知されていた。今は別だとニゲをうつほどのなネックが有るわけではない。学生達があまりに怯懦に、しみったれ、ジコチューで勇気を欠いている、それだけの話。
こういう時代へ傾斜し崩落するであろう予感どころか、目前の現実が、わたしの東工大教授の数年にも、日々まさまざと実感できた。大学当局は学生運動と自治の姿勢に対し、ほぼ全力でブレーキをかけようとし、学生達もいっそ同調していた。恥ずかしいことだ。わたしは何度も彼等に疑問を呈したが、火の消えた炉の灰のように学生は発言すらしたがらなかった。大学というのは、本来自治の精神でこそ成立し、それがヒューマニズムを世界的に鼓吹した。
ところが大学人が率先そこから撤退して、学生たちの頭を勉強机にのみおさえつけて事足れりとしてきたのである。大学当局が文部省の子分に甘んじた。質的低下は当然だ、質とは、見識であり意志の意味だから。
また「不幸」なる一つには、かつて学生運動で活躍した先輩達が、社会に出るとやがて身をひるがえして支配陣営の側に寄り添い、そのような学生エネルギーを抑圧する言論で、自分達だけの自由と声誉と実益を、マスコミ社会で手中にし、利便と実益を確保しようと狂奔した。なんとその「手合い」が多く、今もテレビなどに顔を売っていることか。バブルの黄金と代償に政治的エネルギーを売り渡しただけでなく、自分のあとから蜘蛛の糸を頼んで登ってこようとする後進を、学生や働く人達を、みな無気力の沼へ蹴落として彼等は恥じなかったのである。あげく、卑怯にも「撃つべきには媚び」、本来「守るべき無辜を罵倒し虐める」ような思慮せぬ愚民を列島にはびこらせた。
スポーツと芸能とだけをおいしく与えておけば、若者は政治的な力にはならないと賢く踏んだ政権与党の知恵者に、かつての闘士たちもまんまと載せられ、私民の政治力を根こそぎ抜き取るべく粉骨してきた。社会党のみじめな現状は証拠だ。久米宏を追い払い、その後任をなんとか久米の二代目にすまいと、はや叩き屋があちこちに顔を売り出したのも証拠だ。
むしろ海外からのジャーナリストの声に聴くことが、大切になっている。彼等は、意見の内容はべつとし、媚びずに率直である。今の日本がほんとうに「自由」の国だとは思われないと呆れていた声音と表情とに、わたしは消え入りたいほど恥ずかしかった。
* 今日午後は言論表現委員会。みえみえの「週刊文春」擁護委員会では、いやだぞ。言論表現の自由は死守したい。しかし、その「責任と義務」について発言することもわたしはやめない。垂れ流しの自由だけがあるのでは、中世「狂言の自由」にすぎない。太郎冠者や大名達が用いていた「自由」の二字は、ほぼ例外なく「好き勝手、我儘勝手、したい放題」の意味であった。文化の名に値する自由にはセンスが必要だ。コモンセンスとは謂わない。ハイセンスが必要なのである。
2004 4・15 31
* 遠来の親しい「批評家」氏と逢い、小説の話題で、たっぷり楽しんだ。繪を洗うというと驚く人もいるが、この頃は繪の清拭や修復はテレビ的に珍しい話題でなくなりつつある。繪もほこりや日射しでけっこう汚れるが、汚れはかなり修復できて見違える新しさになる。新しくなるのではない、元々にちかく蘇るのであるが、実際にはよりよい地層の深くが表れたような気持ちになる。文章の推敲もそれだ、丁寧に推敲するとまるでより深い地層が清潔な顔をして立ち現れる気がする。過度に繰り返すと本然にきずをつけてダメにしてしまうことになるけれど、よい推敲は文学の一つの決め手になる。その際、何といっても第一稿の骨格と構想とがかっちりしているとどんなに推敲が映えてくるかしれない。骨格が歪みすぎていたり構想がまずいと、推敲に手が附かないような難儀に陥る。
そんな話をたくさんしていると、清泉泓泓、思わず互いに同感や共感の声が出る。楽しい。
2004 4・16 31
* 昨日の言論表現委員会は、もっぱら「週刊文春」と言論の自由の意見交換であったが、委員の中には、言論表現の自由とは「何でもあり」で、「いかがわしい」ことも「いやらしい」ことも何もかも報道でき発言できるのが本来である、「人権よりも絶対」であると言い切る人がいた。わたしは、いかがわしいこともいやらしいことも容認しているばかりか、その手の人間かもと自認すらしている。しかし、それが、好き勝手な表現是認には結びつかないことも自明である。
わたしは、その小嵐某委員にむかい、言論表現の「自由」とは、あなたの理解では「権利」なのだろうなと、当然のことを聞いた。当然に「権利」だと答えられたので、では権利には必ず伴う「義務と責任」について聞かせて貰いたい、それは無視して無制限に好き勝手でいいと言うことかと、重ねて聞いた。二の句もなく、もごもごと、それはまあ「書き方」「云い方」でなんとかと、さしたる考えも持っていない。
こういう「絶対権」論者に権利が手渡してあるのでは、迷惑千万なことも起きるというものだ。「言論表現の自由」は「人権」と表裏して絶対的な守り守らるべき「権利」なのであり、当然に「義務と責任」に裏打ちされている。義務も責任もない、したい放題の「自由」などというのは、フリーダムでもリバティでもない、江戸町のやくざや、狂言の大名や太郎冠者が放言していた「我が儘勝手・気儘放題」の意味でしかない。そういう人に権利を振り回されると、われわれの「真に大切な権利」を、何とかして制限してやろうと目論む官権・公権からの「規制や抑圧」を招いてしまい、私民としては、たいへんな「メイワク」になるのである。
言論表現の自由とは、長い歴史の過程がかちとってきた、私民の、私民による、私民のために「権力者や強者の放埒をチェックすることの出来る自由の権利」なのである。
わたしは猪瀬委員長に、こころみに「言論表現の自由」の「自由」を英語でいってくれと問い、彼は、結局憲法の英文とも照らし合わせ「フリーダム」だと答えた。そしてこの「自由」には「責任と規律が当然のつきもの」だと言い切った。
こういう認識が必要なのである。
「週刊文春」問題では、委員の藤原伊織氏は、文春の記事にくらべ「百万倍も」司法の最初の差し押さえ決定は悪いと云った。だが、わたしは即座に、その「百万倍」を咎めた。そんな「有限」の数字で「相対化」なんかしてはいけない、百万倍どころか、あれはもう全く問題にもならない不当判定であったので、そんな不当なものを「文春の記事」と比較して、記事内容や編集権の「質」を「相対的に擁護」するなんて、とんでもないミスマッチだと云った。
出版編集者を「会員」として擁している日本ペンクラブなればこそ、「編集権とは何か」の基盤に立ち、言論表現の「自由の責任と義務」とを反省する時機にあるはずではないか、と。それを全くしていないではないか、と。
驚いたことに、「自由とは何でもあり説」の小嵐委員は、あの司法判断による差し止めで、他の筆者やその記事の読者の権利が阻害されたのだから、筆者や読者は「田中家」に対し損害賠償を求めるべきだと云いだしたものだ、正気か。それを云うなら、原稿売買の商取引当事者は「週刊文春」であり、田中家や裁判所に被害を弁償させたいなどは、あまりに的ハズレで、わたしは、あきれ果てた。さすがに誰もそれに同調する者はいなかったが。そもそも関係者は、被害を感じたら擁護を申し立てる法的な権利と根拠を得ている。そういう問題に遭遇する記事をのせて躓いたのは、編集室の権利拙用責任なのである。
会議の始まる前に猪瀬氏は、わたしに「秦恒平様」と墨書して著書を献じてくれていた。その『心の王国』は、ほかでもない「文藝春秋と菊池寛」とを面白く興味深く書いてあるのだが、その連載第一回にあたる個所で、「文藝春秋」が昔、ある看護婦宿舎の内情をおもしろ可笑しく書き立てた号を出したとき、社長の菊池寛はかんかんに怒りだし、こんなくだらん興味本位の記事が読んでられるかと怒鳴り散らして、編集長以下五人を即座にクビにした、とある。もう一度云うが、ほかでもない「文藝春秋」のことである。わたしが一般に「編集権」の「質の低さ」をつねづね云うのは、まさに是れ、まさに此処なのである。この「質的チェック」が出来ていないでいて、事を起こすと「居直る」のである。今度でも、菊池寛ならまさに怒鳴ったであろう程度の記事で「大問題」を起こした事への「反省」はなにも表明されず、問題をまんまとすりかえ、裁判所の判断は「百万倍もわるい」などと云う。最初の裁判官判断の方など、百万倍どころか全くの論外なのであり、それと「比較」して自己の正当化をするなど、それは面の皮が厚いと私は云うのである。猪瀬氏の著書の該当記事を読み直して欲しい。そのように真っ当に怒鳴ってくれる「人間」を欠いていた編集「権」には、権利に先立つ義務も責任もまるで感じられない。言い訳があるならわたしは聴きたい。
彼等編集者は明らかに「問題」を惹き起こした。問題とは何か。不当な官権・強権の介入に口実を与えた、今後も与えかねない、という事である。権利を真実守るためには、この介入を封じ封殺する聡明な判断が欲しいと私は願うのである。
* 会議に出ていた阿刀田専務理事が、執行部へのわたしの理事提議を受け容れつつ、じつのところ「週刊文春」問題よりも、むしろ東京都知事の国歌国旗にともなう教育現場や個人への不当な介入と抑圧のほうが、より深刻なことではないか、場合により石原氏の会員除名すら視野に入れていいのかも知れぬという、わたしもビックリしたほどの強い認識を示されたのには敬服した。
わたしは石原知事のこの陰険な強権発動に不快を禁じがたい。
このことで、猪瀬委員長は失言した、石原氏は日の丸君が代が「好き」なんであり、ま、それは「彼の自由なんだからさ」などと血迷ったことを云いだした。これは、文句を言わずにおれない。石原氏のそれが「好きで自由」なら、それとは「逆の好きと自由」を望んでいる職員・教員にむかって、現場へカメラマンまで送りこんで「不服従」写真で証拠集めし、当局へ呼び出して事情聴取したり現に処分したりとは、明らかに不公平な、基本的自由と人権の侵害ではないか、不当ではないか、と。
あのアメリカでは、政策に反対して国旗を燃やすことですら、一つの政治的選択の表明・表現として認められるとする思想がある。
石原氏のやり方は文字通り一律右へならえ・例外は許さぬという、「ファッショ」そのものなのである。
そして同じことを小泉総理も平気で云い出してきた。それが、さきのメールの「怒り」を誘っている。
* 言論表現委員会は、もう図書館問題は休もうよと云うわたしの提案を容れて、別課題でのシンポジウムを開こうという。正面から言論表現の自由を話題にしようとも方向が決まっている。人寄せパンダの総花的なあなあの云いっ放しシンポにならないことを望む。 2004 4・16 31
* 暖かくなった。昨日などかるく汗ばんだ。清泉泓泓、気持ちよかった。
* 秦さんは識語などによく「清泉泓泓」と書かれるが妙にエロチックですねと云ってきた人がいて、軽く胸をつかれた。フーン、ほとばしるのかと、感じ入った。創作力や産出力、また処世の姿勢や思想を念頭にしていたのは当然だが、若い成熟した美しい女体が「清泉泓泓」なのは、なるほど、これほど自然な賛美はないかもしれぬ。ただし、そう思ってしまうとうっかり相手構わずものに書いたりしにくい。それに、男の方はとてもこういう語感には合わないのが残念だ。ちなみに、たいてい「こうこう」と読まれるが「おうおう」である。盛んに湧くのである。
2004 4・17 31
* 青山緑雨 一昨日は津から名古屋へ出ましたの。わずかに昇る道の先、閑静な住宅街のなか、桑山美術館は、ありました。
幾種もの燈籠が印象的な庭を、秋になれば京ほどに紅く染まりそうな、小さな葉のもみじが、あおあお透す初夏のような光を浴びながら、歩む先に、茶室。
洋風の建物の二階にも茶室がしつらえてあります。屋上は展望テラスです。まるで別荘にお呼ばれしたよう。
展示は、栖鳳ほか、明治以降の水墨画で、落ち着いた声音で、奥から言少なに応えた受付の男性のほかは誰も居ず、しばし、夢のなか―。
* この落ち着いた目配りと語感のままに、もしなにか新たな物語がはじまれば、静かな別世界が創り出せるだろう。ここまでを書き出しに、滾々と場面や人影が動き出しそうな衝動を覚えなくはない。むかしむかしの私自身の文学世界が再現されるかもしれない。ただし「再現」に、わたしの興味は薄い。自己模倣こそはマンネリズムの同義語であるから。
2004 4・18 31
* 日付が変わり、一時をもうまわっている。今、細田民樹作「多忙な初年兵」を校正し終えて入稿した。
明治二十五年(1892.1.27)東京府南葛飾郡に生まれている。明治四十五年(1912)早稲田大学在学中の十九歳で小説「泥焔」を書き、翌大正二年(1913)七月「早稲田文学」に発表し、早稲田派の新人として激賞された。卒業して三年の兵生活を体験し、「或る兵卒の記録」を構想し書き継いだのが陸軍当局に厭戦姿勢を嫌われ圧力を加えられたが、その記録性も含め、大正期を代表する反戦文学を積み上げた。日本軍隊の内部機構や兵卒の教導の陰湿さなどの鋭い露呈は、野間宏の『真空地帯』に遥かに先駆して忘れがたい。掲載作は、改造社より大正十三年(1924)刊の上記『記録』の一編である。
* 比較的自由の空気のあったとされる大正時代に、すでに軍隊の内務斑体質はかくも無残で苛酷であったが、昭和期に入って軍国主義が謳歌されれば、ますます酷いことになっていたのは、野間宏の『真空地帯』に明らかであった。今の若い青年達は、ああいう優れた文学によって抉り出された、戦時・非戦時を問わない兵営生活の残酷さを、読んでいない。普段に暮らしている空気と習慣と体力を身に帯びて、ひょこひょこと軍隊へ入れるかも知れないと想ったりしている。二度とあんな暴虐は出来まいと想って、たかもくくるであろう。とんでもない、現にある種の国民は足下に弱者を創り出し踏みつけ虐めたくて堪らないようではないか。
徴兵制度の復活はまぢかいのではないかと、心底から危惧する。しかしながら日本の反動化の仕上げは、一つは徴兵制復活、もう一つは華族制の復権であろうと、二十年以上も前から、わたしは予測してきた。恐れてきた。まさかと想うであろうが、最も可能性はある。それらが具体的に動き出そうとするとき、今の総務省は「内務省」に化けるのではないか。あらゆる法制定の動きはそちらへそちらへと動いている、私はそう眺めている。
自衛隊はすでにはっきり攻撃軍備とともに軍隊の顔をしている。しかも違憲海外派遣ももう既成事実となり「前例」と化してゆくだろう。
徴兵も特権階級の復権の動きも、怖ろしいことだと、もっと早く実感で対応してゆかないと、気付いたときは遅い。
2004 4・18 31
* 二時。ふうっと眼をとじ闇のなかへ静かに降りてゆくと、自分の肉体がすっかり無くなっているのに気が付く。そんなものは無かったのだ、もともと、と気が付く。それでいて、たとえようもない花びらのような感触に出逢う。感触というのは不思議に懐かしいもの、わたしは眼(色)耳(声)鼻(香)舌(味)身(触)の五感のうち、触感・触覚をいちばん信頼している。愛していると言ってもいい。川端康成という作家もたぶんそうであったろうと想っている。卒然として、ああ、だれもだれも幸せにと思う。
2004 4・18 31
* 一期一会、つまり一生に一度「かのように」毎々新鮮な「繰り返し」というのは、誠実な自己留意がないととても続かない。価値逓減の法則に負けまいと、安易に、言葉もしぐさも過剰に、もっともっととやっていると、どこかで破産してしまう。一期一会が、平静に、ピュアに、熱く熱く、まっすぐに保つ聡明とは、たぶん、人間のもちうる最高の達成なのかも知れない。
2004 4・19 31
* 実験と論理とは科学的・哲学的な認識の方法として大事にされているが、真理とか真実といった理想の前に、どの程度の力かと言えば、遥かに至らないもののようである。真理や真実は立言できるものでないから真理であり真実なのであると、仏陀もイエスも老子も達磨も言っている。それに近づきうるのは「隠喩=メタファ」という詩の言葉以外にはない、宗教が最も優れた瞬間を示唆しうるのは、隠喩が生彩を放ったときだといわれる。
この際の「詩」は、いわゆるその辺の詩人達が走り書きしている日記なみの作品と同じではない。電光に似た虹であり、西天を奔る一箭である。知識ではない、分別ではない、つまり心ではない。優れた直観に磨かれた感性と意識が「詩」をとらえる。理性がいじくりまわす論理ではなく、有限のからくりに翻弄されやすい実験でもない。静かに花を捻じて微笑するような詩。批評ではないし知識でもない。
* われわれはたやすく迷う。惑う。そういうとき、詩の闇へ踏み込めず、退いて論理や実験の場に安全や確実を求める。一見明るい場所だが、なにも本当は照らし出さない。安全や確実どころか、自分で自分をせまい袋小路にオイコムのは、そういうときだ。
2004 4・19 31
* ある作家が「作品の中で、家族でない登場人物を実名にして、事実でないことを書いたと、今訴えられているそうですが、これはやり過ぎなのか、覚悟として大切なものか、どちらなのでしょう」という質問があった。これだけの文面に限ればわりと簡単に答えられる。
たとえば村上華岳や浅井忠や上村松園を書いたとき、フイクションでかつ実名を用いた。もし不出来に書かれていたら、関係者から文句が出ただろう。しかし私の場合、ご遺族とも、ずうっとうまく仲良くしてきた。愛情と敬意と誠意が必要なのだ。それがないのに実名を出すのは避けたく、ことにごく普通の人の場合はヤメタ方がいい。
私も、露骨に突き当たられた事はないが、結果として向こうに辛抱させてしまった体験なら、両三度も無かったわけではない。それが、たとえ実名でなくても、だ。問題にならなかったのは、私の方が逆に愛されていたからだと言うしかない。
人を故意に傷つけてはいけない。しかし小説の書き手のまわりにそういう被害者のいない例は、ほぼ絶無かもしれないのである。
またその種の斟酌に過度に腰が退けていては、藤村の作品は全滅。太宰治も大方ダメ。あの細雪でも瘋癲老人日記でも、みんなダメ。その意味で問題をひどい結果へ導かないためには、極端なはなし、名作秀作を書くしかないのである。書かれてしまったた人から許して貰えるほど優れた作品を書かないと、佳い作者にはなれない。つまり、誰に見せても無害で済むようにと気配りして書かれた作品では、力が出ない。
放埒な云い方をすれば、作家の肉親や親類縁者は、余儀なく、作者と作品の餌食に成りかねない存在なのである。まず、完全には避けて通れない、いくらフィクションにしてみても。
ただし、無関係な人達を故意にであれ無意識にであれ傷つけるのは、まともな作者なら避けている。そうあって自然である。そこに藝が生きるだろう。
* ただ、別のこういう事例や事態がある。身よりの中に、そもそも「小説」の如きを創ったり書いたりすること自体を、許容も容赦もしないような人がいる、それは、まま有る。芸能人になるのと同じか、似ているか。
そういう無用な軋轢を忌避し回避すべく、そのために本名は世に秘め、筆名で、せめて気兼ねなく自由に書くという、これはケースとしても、存外少なくない。そして理解されていいケースだ。よく有った、昔ほど。今でも、しっかり有る。わたしでも、多少その種の圧力を覚えた体験がないではない。だから私家版の頃は筆名を使ったということでも無いのだけれど、わたしの「e-文庫・湖(umi)」のような地味な場所にでも、エッセイや創作を「筆名」で出している人はいる。難しくも、興深くも、すこしは憮然とする話でも。ある。
2004 4・22 31
* 繰り返すが、わたしは、新井満氏のいうことと、わたしの危惧とは、別のことではないかと思ってい。それで、後刻、新井氏と少し懇親会の席で話し合った。
彼は、子供の頃の読書が大切であった、それを思うと子供のために書くことに意義があると言い、そんなことは、釈迦に説法であろう、それ自体は否定する気など在るわけがない。だが、しかも、ちょっとちがうと思われた。わたしの考えはそんなことではない。譬えて謂ってみよう。
いま、わたしは昔の同窓生に貰ったディスクで、戦時の音楽を時々聴いているが、中に、「隣組」というのがある。とんとんとんからりと隣組 あれこれ面倒ミソ醤油 といったあれである。心は一つの屋根の下 というあの八紘一宇そのものの宣布である。
その歌を、事実まったくその通りであったのだが、大人(センセイ)がまず一節歌う。そして歌い終わるや、「ハイ」と、あたかもキューを出すように促す、と、今度は同じその一節を、可愛い声で子供達が一斉にまねして歌うのである。ありありと記憶しているが、低学年の音楽の時間はそんなぐあいであった。
先の問題に鑑みてわたしが比喩的に心配するのは、この、「ハイ」という促しである。大人が示して「ハイ」と合図指図すると、そのまま子供がまねる。それが佳いときはいいが、悪いときはたいへんひどいことになる。そういうひどいことをやってしまって、日本は悲惨な時代へ転げ込んだ。大人や指導者や権力者が、そうすべきものと盲信し、向こう見ずな、見識もセンスもない「ハイ」を、子供に、若者に、私民にむかい乱発されては堪らない、それは少なくも若い人達には「よけいなお世話」である、しなくて済むというよりも、むやみにしては絶対ならぬことである、とわたしは考えている。それよりは大人は大人の最善と誠実を尽くしていればいい。若い人はそれを「是非」しつつ大人になる。
新井氏の言うようにそれをもし「文学」で云うならば、文学団体である日本ペンクラブが、概念的観念的に若い世代に向かい「指導や教育や説教」するなんてのは大間違いであり、そういって良いなら、一人一人の会員が「名作や秀作」を書くことで感化すればいいのである。新井氏の云うように、もう大人向けには書かない、子供向けに書く方がいいという議論は、よく考えればとんだ的はずれなのである。新井氏自身の子供の頃に読んで感銘を受けた文学を、彼は下村湖人の「次郎物語」だった、あれが自分をつくった、ああいうのが子供に必要だというが、それは好き思案であるし、しかしまたそれは人さまざまの話であろう。わたしも「次郎物語」も「風の中の子供」も「善太と三平」も愛読した。しかしもし「わたしを感化した文学」を上げるなら、源氏物語や平家物語や谷崎の細雪や漱石の心がわたしを創ったと云えるし、これらの作者達は、なんら「子供のため」に書いていたわけではない。それが名作であった、感化する力があった。大人の子供のといった問題では全然ないのである。なにも「秦さんと正反対」でもなにでもなく、見当がまるで違っている。
2004 4・26 31
* メールの交換を通じて擬似恋愛を進行させ続け、それが自ずから一編の創作された恋愛小説になって行かないものでしょうかと、相談ではないが、示唆した人もいた。大分以前だ。必ずこういうことを思いつく人がいて、それどころか実践している人たちも、世間に少なく有るまい。携帯電話のメールが写真入りでこんなに蔓延し氾濫している社会現象が、この示唆または思いつきに「場」のあることを示している。それらしい擬似作品が、広い世間にはもう出ているにちがいない。或る意味の精神的衰弱現象。或る意味で先進時代のさらなる先取りも可能な現象。ただ作品が成されるためには、烈火の如き才能が先行しなければダメだ。さもない限り、オリジナルは不可能である。
2004 4・27 31
* 更級日記をともだちと三人で輪読し始めたのは高校二年だった。「高校二年の少年」が、孝標女の少女心に理解を示して「浮舟」というかなり頼り無い女性に愛顧の一票を投じる気がしなかったのは、自然だろうと思う。今のわたしの評価ではないと一応ことわっておくが、今も少年の心はそうは失っていないと思う。いまから恋もし、いつか家庭をもとうという高校少年である、出逢う女が浮舟のようにゆらゆらでは叶わないと思っていた。だから反対に桐壺、紫上、中君ないしは明石上や玉鬘のような、聡明で愛も豊かでシッカリした女人を年少の読者として愛し、葵も六条御息所も、その余の女達も、二の次とわたしは思っていた。孝標女が少女らしいのなら、女らしいのなら、わたしはかなり音なの聡さに対して求めるところ多き少年らしかったのではないか。
では、と、なる。次の項にも出てくるのだが、では光源氏は理想的な男なのと反撃が来る。いつもそうだ。
谷崎潤一郎は「光源氏嫌い」だと晩年に書いている。どの辺まで本音だったろう。谷崎ほどは云わないが、わたしも源氏を批判し非難できる。
では嫌いか。嫌いではない。理想か。理想でないことは、ない。伊勢物語に仮託された在原業平ないし昔男は好色の男の代表のようであるが、よく読んでいると、業平は女に対して無道であったことは殆どゼロである。紫式部がこの伊勢の昔男を光源氏造型一の理想的な下敷きにしていたことは、充分考えられ容認できる。但しリアルな小説世界に生きた光源氏は、歌物語の伊勢の昔男ほどには無難には行っていない、達していない、至らぬ隈々も数々見受けられる難儀な男性ではあるが、多くの場合、男と女との一対一の絶景において想像すると、出逢いにこそ無残な力が使われたことも想像せざるを得ないけれど、男女の双方に酌量されていい愛と配慮とは、思ったよりよく行われている。源氏は棄ててはならぬ女をまず棄てていない。わたしは、谷崎ほど光源氏が嫌いではないのである。
まして、わたしのように現代語訳での少年時の初読みこのかた、「物語の主筋」を、「母に死なれた子が母に似た人を愛して生涯を遂げた物語」と思っている者には、共感は、たいへん深い。共感させるそれは人格である。「半神的な人格の魅力」が、多くの女を惹きつけたと結果的には読める物語として、紫式部は充分書ききっていて、朝顔の宮のような源氏拒絶に、必ずしも強い快哉などは示していない。作者は聡明で安定した女を他の誰それよりも美しく書いている。少年のわたしはそれに賛成だった。「浮舟」はことに危なっかしい女と映じた、少し酷な物言いだとは今は思っているけれど。
* さて「藤壺中宮=薄雲女院」を「幸と不幸」というはかりではかるのは、少し見当が違うと思う。同じ球技だからと、ピンポンと野球との技術を比較検討するような次元の違うことになる。それに人は概して不幸でも幸福でもあり、その面では縄を綯うような存在である。
なにより藤壷の物語に於ける絶対使命は、「王権」の天子に、光源氏(と)の子を即位させることにあった。「王朝」の女の私的な恋の幸福よりも、「王権の地位を確保し実現するのが幸福たる最大の証」であり、それを「恋人光源氏と力を協せて成し遂げたことが最高の幸福」であった。輝く日の宮、若く魅力的な女人藤壺が、桐壺帝よりも遥かに若々しく美しく才能にも神秘にも恵まれたたんなる源氏の継子を「男としても」深く高く評価していたのはむろんであり、しかし、それとても王権の神秘を一致の意志により「二人して確保」した幸福とは、この時代として、他とは比較にもならぬ重大事だった。現代ではない。それぐらいの覚悟と認識は生きていた。それほどにも藤原系王権に対する皇(宮)系王家の王権奪回と確保には、時代の底意が働いていた。紫式部は終始其処を批評していたと思われる、それが「源氏物語作意の最大のもの」だったとすら読める。
だから光源氏や紫上の二条院も六条院も、「王権の拠点」としてものすごく深く意識され機能していたのである。その要の位置にじつは藤壺の「愛と意志」が働きかけていた。わたしはそうこの物語を読むわけで、彼女を女としてすら不幸であったなどとは考えない。藤壷は「比類なき幸福をこそ隠した」のである。余りに重大に幸福であったからである。世間は藤壺を「幸い人」とは云わなかった、逆にその一事からも、いかに「隠し通された幸福が大きかった」かが、分かる。ちがいますかね。
「幸い人」と物語の中で名指しで呼ばれた二人のチャンピオンは、「紫上」と「宇治中君」とであり、もう一人は「明石尼君」である。この三人の幸せとても、やはり非藤原氏からの王権の奪回や確保を根深い下敷きにした「幸い」なのであった。宇治十帖での、藤原系夕霧と薫との、光系匂宮に比して何ともいえずくすんでいる在りようも、むべなるかなと思わせる。
* はい、これが「少々の異議」への補足説明であります。呵々。ありがたい嬉しいメールであった。どなたか、さらに闇の彼方から、新たな「異議」のもたらされることを楽しみに望みたい。
* 風吹く夕方に。 「補足説明」を読んで、思ったままに書きました。見当違いばかりでしょうが読み過ごしてください。
絶対の使命、と言われてはもう反論の余地などないのですけれど、藤原系王権からの皇系王家の王権奪回・・それこそが物語全体を貫くテーマ、これは以前から理解していました。
二人の絶対使命、作者が、源氏、藤壺二人に課した絶対使命ですね。
ただし、殊に藤壺個人の意識の中では、絶対の使命と居直るわけにはいかなかったでしょう。あくまで二人の愛の形見の子を育てること、しかし「罪の意識」の方が強かったと思います。「比類なき幸福をこそ隠したのだ」と書かれていますが、わたしにはまだ理解できません。
藤壺は女として、「罪」によって身ごもった子を、その胎に孕んだ時間をどう紡ぎ、どう思い続けたか、男性には理解できない部分があると思います。生まれた子が源氏に生き写しと言われ、どれほど胸苦しく薄氷を踏みしめる思いを感じ続けたか・・やはり単純に幸せだとは思えません。苦しみの方が大きかったでしょう。・・単純な幸福ではないのですよ、比類なき幸福なのですよ、と繰り返しおっしゃる声がします。
少なくとも「公明正大」な人たちの幸せから吹き飛ばされたところで、本心は誰にも明かせず、悩みを秘し続けなければならなかっでしょう。源氏もそうでした。「比類なき幸福」という覚悟した苦悩と絶対の使命ゆえに、決定的に結ばれた二人だったのでしょうか。
その意味でも比類なき幸福・・なのですね?
輝く日の宮・藤壺は世の人の目からみた輝かしさの中だけでなく、二人の領域で闇を抱いたからこそ、いっそう源氏にとって輝く日の宮なのでしょうか。
「幸い人」たちの幸いは世の中に明らかにされ、場所を、位置、地位を得たものです。
隠された愛や意思には、付きまとう「寒さ」があります。これは現代とて同じ。現代の方がいっそう一夫一婦制のもとに形式上では厳しいものです。いとも簡単に不倫と言われますから。婚姻制度そのものへの問いかけになってしまいます。ただしそれは源氏物語について書き始めたことからはまた違った方向の問題意識ですし、それに物語で作者が書きたかったこととは恐らく全く次元が異なる問題なのでしょう。
* 先の「補足」の際に、わたしは意識して、「半神的な人格の魅力」と書き、「神秘」という言葉もあえて二度三度つかった。これがメールでいわれている「罪」の意識に関わってくる。
「光る君」と頌えられた源氏と、「輝く日の宮」と頌えられている藤壺とは、物語の構想上も、神話の元始の神々が、たとえば、いざなき・いざなみがそうであったように、「対」構図の男女になっている。源氏物語の原構想に「輝く日の宮」巻が予定されていたと云われる所以であり、この二人は、そして藤壺中宮は、紫上や明石上や宇治中君のような普通の人間の女を超えた存在として、物語の「動機」自体の中で要請されている。一つには、藤壷という人は、桐壺更衣が自身の死に代えて後宮へ呼び寄せた、しかも桐壺に生き写しの高貴の女人であり、源氏には生母ではない継母・義母であった。これは意味深い。藤壺は子への母の愛とともに、母に本来内在する息子への女としての愛をも桐壺から引き受けていた。花の色から「紫のゆかり」といわれる所以であり、二人は太い強い線で直結している。そういう二人の女のバトンタッチを必然の可能にしたのが、夫であり父である桐壺帝の、やむにやまれぬ桐壺更衣への強烈な愛欲であったことは、桐壺の巻にしっかり書き込まれてある。よく読み取れる。
* したがって、源氏と藤壺の「罪」の意識は、半分の人間としては「心理的に」悩ましくも苦しいものであったけれど、神秘の世界に半身を根ざしている半分の「神的意識」においては、常識を遥かに超えた罪障への対処がありえたし、それが直に「王権」の神秘とも膚接し得た、と、わたしは考えている。
一つの顕著なあらわれとして、普通の心理的人間としては二人の男女とも再三冷や汗をかいて「罪」をおそれているけれど、不思議なほどそれが最も口うるさい宮廷社会でほぼ全く表面化しない。隠してもバレる世間である、宮廷も都も。ところが、けろりとして誰も咎めていない、噂にもなっていない。これは面白い事実である。
須磨明石への流謫すらも、この「罪」によるものではなかった。それどころか、問題のさなかに在った桐壺帝自身が、妻藤壺をも子の源氏をも、生前と死後にあって一度も二人を罪人として咎めていない。この事実は、じつに雄弁なのである。
物語の動機としては、父帝にこそ子の源氏に対し生母更衣を「横死」せしめた負担があり、それを「補償」するために、藤壺入内の後にも光君と后との接近を、公然と許していた。須磨や明石で、亡き帝が不思議を示して窘めたのは、むしろ罪もなげな宮廷の天子朱雀帝に対してであった。
こういう基底のレベルでの「物語意志」を読み取らないと、大きな前提や構想を見落としてしまう。つまり光君と藤壺とのことを、「人間の世間」レベルでのただの男女の「不倫」「罪」「苦悩」「不幸」などでだけ解釈してしまうのは、二人の関わりを、単に心理的な日常的な恋愛や情交のレベルへ押し落として受け取ることになってしまう。あまりに常識、それも今日的な常識や良識で割り切ってしまうことになる。むしろ、そんな方面は、深い宿世の道理や衝動や運命の前では、少なくも此の二人に関して云うと、「薄すぎる」のである。「王権の行方」をめぐって父帝と母后=理想の恋人と源氏とに「神秘の契約」が交わされたかのように、物語はあたかも進んだのである。
もとより後の女三宮事件は、この「罪」へ下された「罰」と読む説が在ったには相違ない。わたしは、だが、あまりそんなことは考えてこなかった。むしろ藤原系の朱雀帝とその愛娘三の宮に、藤原嫡系の柏木と不倫させることで、「皇系源氏と藤原系との対立」構図を、その以後にも鮮明に新たに提示したのだと読んでいる。それが宇治十帖での「薫大将と匂兵部卿との象徴的な対立構図」になって、物語はさらにドラマチックに盛り上がる。
紫式部は、おそらく彼女が愛しつつ描いた「紫のゆかり」の女たちや、明石上らに、いわゆる「不倫」をさせていない。光源氏の多情好色の恋を作者はやんわりと非難はしつつも、それが不倫だという方面からは指弾していない。これは、何を意味しているのだろう。いわば源氏永遠の「理想の女人藤壺」にだけ、今日でいう不倫を行わせた。それは男源氏が暴力的に藤壺をレイプしたのだといった言い訳を、そもそもの最初から「まるで無用」にしている物語の構想や要請があったのであろう、と、わたしは考えている。
それについて、上のように、わたしはさらに「補足説明」を重ねてみたのである。現代との直の類推は大方の人物には利くけれど、光源氏と藤壺と、もう一人光直系の物語世界の相続人である匂宮とには、あまり短絡使用しない方が穏当であろうと思う。
2004 4・28 31
* ルンペンさん? より
東京ブラリ、原稿ゲラを外で校正されるのを楽しまれている様子が目に浮かびます。
いつの間にか、わたしはルンペンさんになってしまいましたね。おっかさんは目下かなり休業中、連休も子供たちは戻ってきません。おくさんは最低限、低空飛行でしょうか? ルンペンさんといっても本当のルンペン、漂泊者になれないことが徹底しない弱さ・・まあ、そこまでい「いじめないで」下さいな。昨日は深い赤の薔薇の木を買って幸せでした。
むくれているかと懸念? された理由はなんでしたろうか・・? わたしの感想に対して書かれた事柄を読んでわたしがむくれたと思われたのでしょうか? むくれていませんよ、HPを読んだ後も。
むくれようがないのです。それどころか感謝ですね。わたしの愚かな浅い読みにこれだけ答えてもらえたのですから。嬉しいです。
源氏物語の世界の必然を現代の一人の女がどのように解釈しても、それはそれ、不足な解釈に終始するしかないのは、もう分かりきったことで・・仕方がないから我流の解釈、現代の自分たちにひきつけて理解していくしかないから。女たちは源氏を読みながら皇統継承の必然を考えるより先に、源氏に係わった同性の女たちの人生をわが身に引き寄せて喜び悲しんで、生き方の一つの指針としているのが大方ではないでしょうか。源氏という古典から精一杯汲み取りたいことは同じですけれど。
若い日にはただ浮舟が匂宮に宇治の川船に乗せられていくロマンチックな逢瀬の情景を夢見たかもしれない、紫が源氏と初めて契りをもった翌朝のことを想像しながら顔赤らめたかもしれない・・そして中年、老年と歳を重ねていけば自然にまた違った読み方を見出していきます。
源氏と藤壺との間に関しては深い宿世、神秘の契約とあらためて姿勢もあらたに考えてみたいと思います。・・源氏は女と契りを結ぼうとする時、嫌な言い方をすれば女をレイプする時、前世からの縁、宿世などという言葉で口説きますけれど、レイプかどうかは微妙です。当時の男女が近づく方法も、また恋愛という近代になって作られた言葉、あるいは概念とも異なる心理に動かされていたことも事実ですから。源氏にだったら「レイプ」されてもいいと多くの女は思うかもしれませんが、でもそれだけでは哀しいですね。
深い宿世に生きたいものですが、さて一生かけていったいどれほどの人がそれを感じ取れるか・・茫洋としてはかりがたいものです。恐ろしい問いかけです。
円地文子氏は現代語訳を出来る限り忠実にしたいとの態度で作業を進めたが、薄雲の巻では藤壺が三十七歳で亡くなる時どうしても彼女の思いを書かずにはいられなかった、敢えて敢えて自分は書き足した・・というようなことを語っていました。
それにしても藤原道長、彰子中宮に仕える紫式部が皇統継承を基底骨格とする物語を書いたということは凄い、凄絶、と息を呑まずにはいられません。
元気に、大切にお過ごしください。
* 現代の「女たちは源氏を読みながら皇統継承の必然を考えるより先に、源氏に係わった同性の女たちの人生をわが身に引き寄せて喜び悲しんで、生き方の一つの指針としているのが大方ではないでしょうか」とは、大方それに相違ないと思うし、それは、それで構わない。奨めてもいいことかも知れない。
絶対に容認できないのは、円地さんが、「現代語訳を出来る限り忠実にしたいとの態度で作業を進めたが、薄雲の巻では藤壺が三十七歳で亡くなる時どうしても彼女の思いを書かずにはいられなかった、敢えて敢えて自分は書き足した・・というようなこと」である。それは「なまみこ物語」のような名作の中でなさるべきことで、源氏物語の「現代語訳」の中では、決してしてはならないこと、現代や後世に対して源氏物語を故意にねじ曲げかねない仕業なのである。エッセイや創作の中でなにをどう解釈されてもいいが、それはむしろ望むところだが、現代語訳は成ろうなら成るべき限りを忠実に願いたい。解釈して私物化してはいけない。大恩ある円地さんには申し訳ないが、こういうことこそは「女の賢しら」である。牛売り損なうの伝である。
* 親しい「いい読者」と古典や藝術や時事に触れ合うてこうして話し合えるのは、楽しいこと。「湖の本」には「いい読者」がいっぱいで、そんな中から、もうどれほど大勢に日本ペンクラブの会員にもなってもらったろう、そういう有資格者も数えきれずおられる。わたしの幸せであり、遠慮も容赦もない話題の此処への提供を「闇」はいつも待望している。おそらくは「闇」を連日連夜覗きこんでくださる皆さんも歓迎されていることと想像したい。それも含めて「闇に言い置く私語」なのだから。「創作」であり、おそらくはまた一つわたしの「代表作」として遺されるものなのだから。
2004 4・30 31
* 昔なら、こんな休みに東京にはいなかった。わくわくする思いで京都の家へみんなで帰った。そして一日半日でも永く京都にいたくて、東京になど帰りたくなかった。
妻はどう思っていたか。両親を喪っていた妻には帰る里がなかった。新門前をそのように思い、わたしや子供達に同じてくれていたのだろう。落ち着ける場所が新門前にあったかどうか、深い気遣いをしてやれていなかったかもと、今頃、思う。
帰洛は、ほんとうに待ち遠しい嬉しいことであった。「京都」を貪り食べて過ごした。その感動がわたしの書く「京都」を輝かせた。秦さんの書く京都は、ふかふかした贅沢な絨毯をふんでいるようだと云われた。あれは、あの京都体験の照り返しであった。創作の泉そのものの京都であったとしみじみ思う。
親たちもなく家もなくなった。いま、京都に帰っても、根がない。トンボ返しに東京へ帰ってきてしまうのは、寂しいからだ。一日でも半日でも永くいたかった故郷。わたしたちは、それを、ほぼ喪失している。
2004 5・3 32
* 吉田絃二郎作「島の秋」を起稿・校正して、入稿した。現会員の翻訳文も手入れし形を整えてから入稿した。
「島の秋」は絃二郎文学極めつけの代表作として愛読者の記憶に永く残った佳作である。しっとりと書いてあり、哀愁に充ち満ちて胸を濡らす。加能作次郎に「乳の匂ひ」という秀作があり早くに「ペン電子文藝館」に収録したが、一抹似ている。抑えに抑えた筆致で、微塵の逸脱もないなかで、隠し繪のように、あることが漏らされている。そう読める。それをどの一文からはっきり読みきるか、なかなかの課題。掲載されたら、ぜひ試みてみて欲しい。
さすが大好評を博して作者の文壇での地位を一気に固め得た創作で、読後にも優れて佳い余韻がある。むろん、時代の容赦ない浸食もないとは云わない、しかし、印象は古めかしくない。かびくさいなどと思わない。
* 只一度だけでずいぶん昔になるが、わたしの小説を読んでくれた人が吉田絃二郎の「島の秋」をおもいだしましたよと云ったことがある。その頃わたしは此の作品を知らなかった。読んでみて、ああ「姉さん」かと思った。「乳の匂ひ」でもそう思った。わたしの「姉さん」は元気だろうか。今は何処でどのように暮らしているのだろう。離婚されたという噂は、本当のことなのだろうか。気の毒なことをしたような気持ちが、いまも胸に残っている。
* 連休。まだ二日間もある。もういい。日付変わり、もう一時が過ぎて行く。少し静かにピアノ曲でも聴いて本を読み、やすむとする。
2004 5・3 32
* おもしろい話題。
ただ推敲がきびしく、話題にくらべて、かえって少し叙事の文章が痩せている。もっとふっくらでいい。勝手にかなり改行を入れた。すこし様子が見えやすくなっていると思う。
作者におつき合いの出来たころ、相当きびしく推敲を強いた。少し度が過ぎたかな。
この人は茶人。それに寄せて分かりよく云えば、利休の逸話に、露地に塵一つ無く、拭ったように清めていた親しい席主にむかい、黙って少し木を揺り、風情の葉を落としたという。風情の葉であり、ごみではない。ごみは取りのけたい…が。
またこうも言えようか。生き物にはある種のヌメリがある。脂気というときたなげだが、生きているあかしのようなもの。それもみなごしごし拭い去ると、度が過ぎると、生き物の感じが冷たく硬くなる。すっきりしたようで、じつは痩せる。ファシネートな魅惑は存外にそのぬめりのような、あぶらけのようなものに在る。それをごみや汚れとして取ってしまうと、文章がややこわばる。
この仏隆寺辺は、おなじみの囀雀さんの地元である。彼女の短いメールは、短さが加えてくる不自由がありそうで、しかも今いう、ぬめりやあぶらけ風の「生き味」を殺していないので、清い風に吹かれるようなよろこびを覚えることがある。全部とは云わないが。ひょっとして短さの制約を、述語部分や形容などの思い切りの良い節約で相殺している効果かもしれないのであるが。
さすがにMAOKAT氏は理系研究者、ものは具体的に観ている。観たものを整頓して行く。その整頓という推敲の段階に、呼吸の余裕をのこされると、観察がさらにやわらかにふくらんでファシネーションを呼び込むのではなかろうか。
2004 5・5 32
* さきの松尾さんのことに触れて早速、こんな反応のメールがあった。
* 世に出たいとは、思わなくなりました。
以前は、例えば文学賞のようなところで認められないといけないのではないかと思っていました。
今は、せめて書けるようになりたいという気持だけです。
金井美恵子という人が、「太宰賞に応募したのは石川淳に読んで欲しかったからで、ワープロのある今だったら、読んで欲しい数人にプリントして渡す」と言っていて、当時のわたしは、「この人、また何を強がっているのだろう」と思ったのですが、今は同感です。
* > 世に出たいとは、思わなくなりました。
これは一種の「退歩」かもしれない。松尾さんのメールに、「若いときから、ずっと書いています。小説もいくつも書いて、同人誌に発表してきました。コピーライターまがいのことをして、生活費を稼いできましたので、自分の好きなことを書くのは、自前(自費出版)でいいと思っていました。でも、いつか、自分の好きなことを好きなように書いて、<それが売れるようにならないかな、と>希望していました、が、最近は(世の中が厳しくて)アキラメの心境です」と書いています。この人は、「これからでも打って出る覚悟」で書く気です。
はやくに厳しさを断念していては、いいものは結局書けない。鬱勃たる野心は、若き創作者にはものすごい力です。エネルギー。
> 以前は、例えば文学賞のようなところで認められないといけないのではないかと思っていました。今は、せめて書けるようになりたいという気持だけです。
賞に執着するのは禁物ですが、世に認めさせてやる気概無しに質の高い志は続きません。
> 金井美恵子という人が、「太宰賞に応募したのは石川淳に読んで欲しかったからで、ワープロのある今だったら、読んで欲しい数人にプリントして渡す」と言っていて、当時のわたしは、「この人、また何を強がっているのだろう」と思ったのですが、今は同感です。
いわば成功者のホザク、罪深い発言です。こんなのに共感していては、棒ほど願って針のまたさらに低い小さい水準で自足してしまうことになります。つまり「じぶんなりに」という弁解をもう用意しているようなもの。
おそろしい瀬戸際にいますね、あなた。
* 常識的に賢く云えば、わたしでも大抵の文学志望者に向かい、金井さんと同じに云うかもしれない。が、本気の人にはこんな残酷な水はぶっかけない。同じ残酷なら、やってやってやっての失敗をでも、奨める。これは残酷なことであるが。分かっているが。
わたしは受賞までの七年、「太宰賞」の存在も「展望」という雑誌すらも知らなかったぐらいで、文学賞にありつきたいなど試みもしていなかったが、三十前から、せめて四十歳までに一作でもいいから「売れて」原稿料というものがほしいものだとは考えて、その考えに励まされて一日と雖も書かないことはなかった。世に出てやるという気概は持っていた。世に出ている人達より劣るなどとは思わなかったのである、作柄がひどく孤立しているとは悩ましかったけれど。
2004 5・6 32
* 『ネットの中の詩人たち』 3 が送られてきた。大阪在住のペン会員が紙の本に編んでいる。収録されている一人のコメントに「詩のようなもの」だとあった。「詩」を書いて欲しい。「それぞれの愛 それぞれの心」と副題してある。どうして日本人の現代詩はこういう発想になる。表現よりも日記にちかづく。「隠喩=メタファー」の神秘のちからにより、論理=哲学でも実験=科学でも、とうてい近づけないところへ近づいて行ける、そういう「詩」の把握へは、ほど遠い満足に終始しててしまう。すると「詩のようなもの」で済んでしまう。「詩」は深い。厳しい。美しい。
やはりペン会員の主宰している口語短歌の撰集も贈られてきた。出来上がっている表現は安易なほど容易そうであるが、これまた途方もなく難しい。内在律を美しく確かに響かせないと「詩=うた」にならないが、大方はそんなことは考えに入っていなくて、詞で示した意味内容にもたれかかり、あたかも思想が詩であるかの顔付き。ここに無残な落とし穴がある。散文に近い詞で内在律を把握するのは、律によわい日本語では容易でない。この容易でないとの自覚が底荷になっていないと、口語短歌はただの自己満足におわりかねない。ここでも「詩」性の金無垢が厳しく問われ求められるのである。
2004 5・7 32
* 午後、茅場町のペン本館へ。三階会議室で、「ペン電子文藝館」委員会。議題がたくさんあった。五時半までかかってしまった。
木下尚江の「火の柱」のどこを採用するかでは、尚江作品ないしその時代背景などから離れ、一般に長編を抄録するときは、やはり原則「冒頭」から一部分を紹介するのが妥当と。木下作品の場合もそれに従うか、全編載せるかだが、相当な長編でありディスクで提供されるわけでない長編のスキャンと校正は、勢いわたしのうえにかかってくる、それは容易ならぬこと、無理と云うしかない。
冒頭の数節をとり、こういう作者があり、こういう筆致と内容で書き起こされていると、興味を喚起する文章で紹介するにとどめざるを得ない。「金色夜叉」のように部分をうまくつまめるタチの作品ではない。
そして、あくまでも、作者の意図には後半だけで読まれて余儀無しとするものは無いはず。故人に抗議や拒絶ができないぶん、文筆家の団体としては礼を失してはならぬと思う。
* 時間の多くは、「ペン電子文藝館」の一角に、「PEN」と称する投稿受け容れの雑誌部門を附設・併設する件に費やした。
作品は小説・評論に当面限定し、枚数は六十枚未満とする。
投稿された作品は、厳重に審査される。
審査は委員会内の小部会(委員長主宰で二、三人程度。随時に委員長が指名。)でまず一致した賛同を得、さらに外部の然るべき相当の二人(随時委員長より委嘱)に審査を依頼し、ここでもその二人共の賛同が得られたときに、はじめて作品を採用し掲載する。
検索は、「PEN」の目次によるが、「ペン電子文藝館」内掲載であるから、明治大正昭和の作家・評論家達と同じように其処で読まれることになる。
投稿し審査を受けるためには、なにがしか規定の手数料を支払ってもらう。掲載料はとらない、審査を受けてみることに費用を支払ってもらう。べらぼうな高額は考えない。
本来の願いは、新人の才能に「場」を与えて文学の振興に少しでもペンが寄与しようと云うのである。歴代の会長作品や多くの大きな作者達とならんで、読者達から作品を品隲評価される晴れがましい場、文壇や出版からも注目されてゆく場を設けて、逼塞気味の新人達のために道を開いておきたいのがわたしの切望なのである。登竜門の一つになってほしい。
どの程度の厳選をするかと委員に聞かれたので、「井上ひさし」程度と答えておいた。わかりいいように。えっ、それはまさかと声があがったが、わたしに言わせれば認識不足である。まだ出ない新人とは、もともと年齢に関係なくそういうもの、そういう才能が世に現れてくるのである。今度の芥川賞の二人でも、そうなのである。各賞の選考関係者が目をつけてくれるような力有る無名新人の作品が、月に一つ、三ヶ月に一つでも出れば、しめたものだ。これで金稼ぎをする気ではない。奮発して投稿してくる書き手の未来を期待するのである。「PEN」といえば新人の腕を摩する場所、という風になって欲しいのだ。そうしたいのだ。わたし自身に慾はないのである。そして、これは、たしかに幾らかの手間は掛かるけれど、金はほとんどかからない。「e-文庫・湖(umi)」を観れば分かる。
2004 5・10 32
* 人により差はあるが想像力という火種を誰もが抱いている。恋が想像力の一種であることを、スタンダールはその「恋愛論」の早いところで書いていた。それにより火力は衰えずに燃え上がる。
だが、想像の画像が精確であるかどうかは、いつも問題がある。恋慕が優勢だと、塩鉱に投げ込んだ枯れ枝が玉の枝に結晶するに似て過度に美しく飾られて行く。イマジネーションのなかで、ファシネートに嬉しさが、恋しさが、高まりすぎると、リアルを熱く包んで溶かしてしまいかねない。
逢いたくて逢いたくて想像の限りを楽しんで訪れていったけれど、友の門前で想像が極まり、もう逢ってみてもこれ以上ではありえまいと、くるりと向き直り帰って行く、あの「子猷訪戴」の故事が、適例だ。あれは風流や風雅の極致と云うよりも、じつははるかに怖い怖い説話なのである。佳い想像ばかりが過ぎて行くと、リアルを断念し諦念して行く底なし沼に呑まれる。精神の、そして肉体の衰弱現象とも云える。
想像という映像のほうが、実物より良くなりすぎても、逆に悪くなりすぎても、人間関係のリアルは損なわれやすい。生身の心とからだとできちんと触れ合っていることの大切さ。だが前提には聡明な愛が必要。賢いの愚かのという次元ではない。携帯映像と言葉だけの氾濫は、まさに時代の衰弱と爛熟に拍車をかけている。
* 言葉が荷重にうめくほどそれこそ過重に言葉に頼っていると、形骸化はすすんでしまうものだ。百度文字に書いた愛ラヴYOUよりも、一度心から手を握り合った方がはるかに健康なのである。
2004 5・11 32
* 三時半に寝て、五時に黒いマゴに、外へ出してと頼まれた。これが利いて、効き過ぎてそのあと延々と熟睡した。気楽な稼業と冷やかす人もいるが、正直のところ稼業なんかしていない。開き直って云えば気楽な筍、いや玉葱暮らしである。筍ならまだ小さくても奧に本尊が蔵われている。玉葱の芯は空。皮をむくだけでも泪はにじむ。だれの泪でもない、自分の泪を自分で流すのだ、気楽な気儘なことである。
そういう老境で、真実、ありたかった。働けるときによく頑張っておいてよかった。まだ老後ではなく先の不安がないではない、が、所詮は経済と健康の不安である。医者はあと十年と云い、大負けに勝手に負けてあと廿年、なら、何とかなるだろう。ならなくても構わない。妻も稼いで下さいなんて云わない。書きたいように書けばいいと云う。
老境の不安には経済より健康より深刻な、処生処死の覚悟がある。稼業など、もうイヤ。書いたり創ったりがイヤなのではない、このホームページは旺盛にそれを示していよう。原稿依頼は今日も来ている。ぽつりぽつり印税様の送金もあるだ、が、流し目に見送っている。原稿は書きたければ書く。ムリには書かない。
* 夕食前に入浴。湯の中でもとろとろ寝ていた。機械の前へきてからも、とろとろ寝入る。からだの好きにさせている。酒は呑まない。それでもとろとろ、うとうとするのは、どうやら今は何もしたくないのらしい。よしよし。
2004 5・12 32
* アルカイダによる米民間人の首切り写真だとか、アメリカ兵によるイラク捕虜の陵辱写真だとか、民主党の混乱、公明党の欺瞞的な年金対応とか、小泉内閣の対北朝鮮おろおろ外交とか、皇太子の切実よくよくの抗議会見とか。ゲンナリとしてヤになることばかり。
* それで玉三郎監督の「天守物語」前半を観て、気分直しをした。鏡花にも、見せて上げたかった。そう想うとしきりと目頭に煮えるものがある。この今や著名な鏡花劇の代表作は、作者の生前、ついに舞台にならなかった。
とても簡単に実現できる作ではない、玉三郎のまさしき天才がなければ、ああは見事に実現ならない難しい幻想劇。美しくて怖くて、したたかな幻想劇。
南美江という力強い名女優の表現力を活かし、市川左団次の柄を活かし、そして、ふっくらと初々しい宮沢りえを起用した玉三郎の配役が生きた。むろん主役の富姫は、玉三郎。そればかりか舌長の姥と二役で。
超現実の場面場面に、鏡花ならではの精緻で奇妙な演劇言語。これを活かせる才能が、玉三郎出現までに実に一人も期待できなかった。鏡花は、地下で辛抱よく坂東玉三郎の天才を待望していただろう。よかった。鏡花に見せて上げたかった。
観ていて、ほんとうのカタルシスを覚える。すかっとする。うっとりする。鏡花はたんなる藝術至上主義の唯美派ではない。それだけではない。彼は生理的に「権力が嫌い」であり、従ってこの物語の時代でいうと、大名や、偉ぶった武士たちが、大の大の大嫌いである。その好みが痛烈に表現されていて、現世でなら、姫路城天守の富姫や、はるばる五百里の空と雲を踏んで猪苗代から遊びに来た宮沢りえ演じる亀姫も、みんなみんなみんな化け物で、播磨の太守は地上の権威なのであるのに、みごとその価値関係を逆転して書かれている。吐いて棄てるようにあしらわれて、播磨の太守は雨に濡れ、名鷹を奪われ、秘蔵の兜を嘲笑われ、それのみか、実の兄弟の猪苗代の城主の生首が、亀姫から富姫へのご馳走の土産にされている。それが実に、この私にも痛快。わたしは、徹底して鏡花の徒であり、単に文学においてのみでなく、その思想や憎しみに満ちた偏見の類にまで賛同を惜しまない。世俗虚飾の権威は大嫌いなのである。
イヤなこったの毒消しか吐瀉の特効薬として、わたしが殊更に選んだのは泉鏡花であり「天守物語」のフィルムであった。クスリはよく効いた。佳い藝術は、嬉しい。嬉しい。
2004 5・12 32
* 繪を描くにしても小説を書くにしても、創作には人それぞれのスタイルもあろうけれど、通有の苦痛も歓喜もある。苦痛や歓喜の受け取り方にも人により温度差や落差がある。ながいこと「絵描き」の小説にとりくんで、辛かった。
* こともあろうに、文藝館のメールへ、秘かに進行させている電子メール小説の一節を、「コビー」の処理ミスで、丁度使おうとしていたアドレスにりこんでしまい、出回ってしまった。前にも創作ではなかったが、用事のメールを間違えて電子文藝館に送り回したことがある。なにしろ電子文藝館はほとんどひっきりなしに使用しているアドレスでいつも口をあけているようなもの、ひょいとそこへコピーが間違って呑み込まれてしまう。「乱心」ものである。電子メールの特性をいかしたE-OLDの恋物語を構成してみようとするのだが、なかなか、むずかしい。思い切りセクシイに書いてみたく、しかし通俗に落ちない設定もほしいと手さぐりしている。遊び半分ではないが。
やれやれ。思わぬ事から手の内をさらけてしまった。
2004 5・13 32
* 風が、羨ましい。風のようにふらり吹いて、向かいの席に座って、お顔を見ていたいな。
「パッション」というキリストの映画を見ようと思いつつ、予告編での痛そうな磔場面に怖じ気付いています。
「トロイ」は二十二日から。
その前に「ギリシア」という本を読んでおきたくて、昨夜は、その本を持ったまま眠ってしまいました。
* こういうふうに電子メールの恋は表現できる。しかし電子メールでなくてもこのままたとえば堀辰雄のような小説の場面に組み入れて、違和感、あるだろうか。無いと思う。無いと思えるところに電子メールの恋表現の実は可能性が生まれている。文藝批評家は、新しい電子時代の表現に対応できるE-経験を積んでおかないと的確な批評や鑑賞が出来なくなるだろう。
2004 5・14 32
* 卒業生の、またも「片思い」に疼きつつ希望を持っているメールが来ていた。美しい言葉で語られている。美しいというより、上古の物言いでなら、うるはしい、か。「希望」は、人間の持つ最良の強みであり最悪の弱みである。そしてうるわしい言葉は、リアルとの間に隙間を生みやすい。餅を焼くと、焦げて硬い皮とやわらかい中身との間に浮き上がった隙間が出来る。自分のうるわしい言葉に酔ってしまわず、「今・此処」に一つの肉体としてシャンと立ってモノを見詰めたいと、わたしは、自分に課している。自分の心がいかに瞬間瞬間にゆすられて右往し左往し定まりがたいモノかを、わたしは悲しいほど痛感している。それは波打つ波頭に過ぎない、心理に過ぎない。
2004 5・15 32
* 頼りない心理に身を任せて恋をするから、恋そのものも危うくなる。ハートとは「からだ」であると信じ思い、ハートとからだとの親密な相談を大切にすること。「静かに定まる意思・意識」が、そうして人を活かす。そうわたしは、いま、思っている。言葉は美しくしたい、が、自分の言葉がうるわしいと感じたら警戒警報ではなかろうか。うるわしい相貌を持ちやすいのは「理」と「言葉」である。理に落ちれば実とのあいだに無用のスカスカの隙間をよびこみやすい。それが怖い。ことばで生きていながら、わたしが、ことばを(自分のことばをすら、)全面的には信じも認めもしないのは、それだ。
2004 5・15 32
* 円地さんの「解釈追加」について「女の賢しら」とした「女の」は、わたしの瞬間の怒りが発した言い過ぎで、賢しい男も遣りかねない。円地さんの理解はこの理解でも成り立つとして、それは絶対に他の、自身の随筆や批評や創作のなかでなさるべきことであったと、よろしくないこと、と今も改めて思う。紫式部はけっしてそういうことは書いて説明などしていないのであるから。後世の読者を「創作」により魅了してもいいが、「現代語訳」に追加するのは、今風に云えば明らかな「著作人格権」への侵害であり原作への越権・越境である。
このメールの人の京都時代とは、主として京大在学時代の京都なのだろうが、わたしはその頃はもう東京で暮らしていた。その頃の京都、じつに懐かしい。あの頃の京都がわたしに小説を書くようにと唆してやまなかった。いま、わたしを唆しているモノは、何であろう。インスパイア。それは神の息吹にひとしい。それが「ハート」なのではなかろうか。
2004 5・15 32
* 小闇に、主婦之友創刊の石川武美の「言葉」を読んで貰った。八割方賛成。編集者に金と力のあった昔のことか、と。今では広告がいかに取れるかで雑誌はまかなっているようだ、と。ま、よけいなお節介とは思ったけれど。
* 編集者にお金と力があったというより、創業経営者=トップに、志と行動力と覚悟があった。たいていは金なども無かったのです。
現存社では、岩波、講談社、新潮社、改造社、平凡社、主婦之友社、淡交社、中央公論社など、また第一書房の長谷川巳之吉のような理想的な出版人も(「ペン電子文藝館」出版編集特別室で)取り上げてきましたが、みな、なまなかの作家批評家の文章よりも迫力をもっています。創業者はつよい。
本来出版社は一代で店じまいし、志と意欲の人がまた創業して苦労するという行き方が望ましいのでしょう。平凡社の下中弥三郎や岩波茂雄や新潮社の佐藤義亮など、読ませます。時間のある折、読んでみてください。瀧田樗陰も。
技術系の雑誌などは別にしても、日本のオピニオン雑誌のジャーナリストが、八割九割も広告スポンサーの前に腰抜けになっている現状です、新聞はもとより。明治の新聞も、やはり創業者の烈々の意思が強く、むろんそれだけでは長くは続かない。しかし長く続けばいいというものでないのが、ジャーナリズムの牙城です。楠木正成のようなゲリラ精神が薄く、みせかけの繁栄を追うているように見えます。ジャーナリズムが健康で烈火の意思を示していたら、ここまで悪くせずに済んだろうと思える問題が、日本の問題が、あまりに多いですね。 秦
* 実感である。
2004 5・16 32
* なんでそんなに「心」が有り難いだろう。きれいもきたないもない、動揺きわまりない実態のない影の去来に過ぎないのに。
わたしも昔、判断という二字に大人の自負をかけていた。判断に、自信が欲しかった。
だが「わかる」という言葉の虚しさ空しさを知っていった。例えば繪は「みる」もので「わかる」為に観ることの浅さや薄さを語ったことがある。わかる(= マインド)とは、無限にし解剖し分断・分割し分別することに他ならないが、そうして行って何が残るのか。空疎な結果だけがリクツとしてのこるのだ。心という「分別の聖職者」は、切り刻んで、無くなってしまうだけの空疎へ空疎へと人を唆す。似非(えせ)の道徳家だ、心とは。
マインドは、ソウルでもハートでもない。ところが巷間の「心の教育者たち」は、若者にいい分別をつけねばならぬ、ならぬと言い立てるマインド教徒だ。彼等はうっかりハートやソウルをもちだせば、それがからだ=BODYと直結していることを知っている。だが彼等はからだを恐れている。きたないと思っている。きたないことでは、分別心という自己中心慾の心の方が、もっとたよりなく、きたないだろう。
からだは人をだまさない。こころは人をだますためにリクツを産み出す、分別があると称して。
* とても孤独な少数意見なのである、わたしのこういう「心」批判は。笑えてしまう。三十分「同じ静かな心」でいるような人をわたしは殆ど見たことがない。くるくるくるくる変わる心の人なら、吐きけのするほど大勢知っていて、残念ながらわたしもその一人。どうか私のこころなんか、だれもアテにしないで欲しい。わたし自身がわたしのマインドなんぞアテに出来ないのだから。それなのにわたしは自分が不幸でも孤独でもないと思えているのは何故だろう。大海の一人しか立てない孤島の上にたち、しかも高貴な錯覚に謙遜に身をあずけ、人と倶に立つと信頼しているからだ。
2004 5・19 32
* たぶんわたしは、まわりの人を疲れさせるよほどイヤな何かを持っているのだろうと思う。碌なものではない。大学の頃の、専攻もなにもちがう或る知人が、はるか後年に何かの機会に、一読者としてわたしに漏らしたことがある。大教室などで一緒だったらしい。彼は云った、あなたには何というか、あたりを払って独り在るというか、謂いようのない威力があった。気軽に隣の席へ座れなかった。みんながそうであったかのように、あなたはよく一人で座っていた。そういうあなたを、みなが知っていたと。
話半分に聴いても、それはわたしの徳でなく不徳が謂われていたのである。聞きながらわたしは、それを否定できなかったのを覚えている。わたしは人を疲れさせる。そして一人になる。あの頃からわたしはそんなわたし自身を知っていた。他の人なら「身内」などと難しいことはいわなくて済むのだろう。
2004 5・20 32
* わたしが「実務」に長けているかどうかはあやしいけれど、なにしろ不器用なんだから。
しかし実務的に頭の働く方であるのはたしかだと、幾らか苦々しく自覚している。例えば会社員時代(十六年)のわたしは、どうすると、自分の、ないし係や課の仕事が、楽に、機能的にうまく行くかの工夫と提言の連続だったといえる。
医学書院では、月刊誌も、ものによると一人で(たったの一人で!)二誌担当させられた。一人で一誌は普通、「胃と腸」とか「看護学雑誌」とか開業医向けの啓蒙的な総合医誌だけが二人担当だった。幾つかの課で分けて二十数誌を発行していた。その他に主力の書籍部門があった。わたしは、両方の編輯職をたっぷり体験した。
月刊雑誌の至上命令は「定日発行」だが、労使交渉の激しかった昔は、これの守られている例の方が少なかった。抗争の具にされやすかった。わたしは、雑誌は読者のものであり、定日発行は呼吸するのと同じほどの前提だと考えていたから、少なくも自分で担当していた雑誌を、ただの一度も発行遅れにしたことがない、大闘争のさなかでさえも。第一、発行遅れを慢性化すれば、その取り戻しにも慢性的に苦労しなければならず、わたしのように自分自身の時間、「小説を書く」ための時間の渇くほど欲しい者には、エゴイズムではあるけれど、無用の時間のロス、体力のロスは絶対避けたかった。間違いなく効率的な仕事をする実務上の工夫が、わが為に、必須であった。
雑誌だけではない、わたしは雑誌を担当しながらも社内制度の許す限りは「書籍企画」に猛烈な興味を持ち、企画を出しに出し続け、通しに通し続け、従って自分の企画した単行本や共著や叢書を、いつもしこたま自分の「担当」として抱えていた。どんどん本にしていった。出来ないじまいのものもあったが、数えてみると二百冊は刊行してきた。
義務でも何でもない、しなくても済む仕事を、「好きで」人の倍も三倍もやって行くわたしの気合いは、べつに人に手伝わせるわけではないのだが、それでもハタの者を自然に煽って疲れさせていたに違いない。いまの「ペン電子文藝館」もまさにその類だということになるだろう。電子メディア委員会にしても電子文藝館にしても、もともと日本ペンクラブの仕事とは夢にも想われてなかった。わたしは、まるで余分なもの(と思われたもの)を創唱し実現したのであり、今でも理事会にはいくらかそんな空気がある。
会社・企業というところは実績主義で、ことにバブル風の右肩上がりの時期には、何のためらいもなしに前年同期何パーセント増、十何パーセント増、というノルマを社員に押しつけてきた。それに相応した年間企画を提出させた。これにどう「対抗」して柔軟に年間企画を建てるか、そして確実に数字を達成するか、その判断は、かなり難しいが可能であった。わたしはそういう業務企画でも、必ず百パーセント以上の結果を出した。絶対に出来るはずのない無理な数字ははなから掲げたりしなかった。背伸びしても足を払われれば倒れるだけのことだ。
こういう「実務」上の「実績」がサラリーマンのわたしを守って、小説を書き続けさせた。人一倍の仕事を確実にしているのだから、上にも下にも横からも指はささせなかった。わたしほど仕事時間を盗んで、(東大や喫茶店に隠れ、)時間中に自分の関心事にも没頭していた悪い社員はいなかったろう。わたしは小説こそが自分のしたいことと覚悟をもう決めていたから、その悪事を遂行してなおかつ仕事もきちんとやるためには、工夫するしかなかったのである。まったく医学書院では超多忙であった。そのさなかでわたしは「慈子」も「清経入水」も「みごもりの湖」も「墨牡丹」も書いた。すべて喧噪と多忙とのまっ只中、昼休みの喫茶店で見知らぬ人との相席で覗きこまれながらでも書いていた。あのとき、わたしはさぞ生き生きしていたたろうと、今にして思う。
* 自分がある種の理想家であるのを否定しない。ある種の実務家であることと理想とは表裏していた。わたしはロマンチストであるだろうが、リアルな自覚と方法なしにたっぷりしたロマンなど味わえないことを知っていた。
* だが、そういう者の耳目にふれるかぎり、大抵のわれわれ文壇的な会議は、時にあまりに世離れて上滑りにみえてしまう。仕事をするための会議よりは、引き延ばして結局はしないための会議のように感じることが多い。オイオイオイと内心でつぶやいているが、大抵はどうでもいいことなので黙っている。だがこういう人間は、知らず知らず周囲の人を疲れさせている。そのことで困惑するのは、ほんとはわたし自身なのである。やれやれと肩をすくめる。はやくそういう巷から抜け出たいと想う。
2004 5・21 32
* 眼をあいて暮らす世界より、眼をつむって確と手に触れてくる世界の方が男には親しめた。安らかで、美しかった。 (光)
これはあなた。何を見ていらっしゃるのかしら……。 あなた、さあ眼を閉じて……おやすみなさい。
* こんな深夜にこんなものを読んでいる人が空の彼方にいる。一瞬例の不正メールかと思うほど心当たり無くてわたしは戸惑ったが、まちがいなく「光」とは、わたしの初期の掌説の一編である。
* 光
ああ愉快、愉快――と、こんなふうに言ったことがただの記憶のかけらになり切っていた。男の子らしいいたずらをまんまと仕了せた時、また男の子らしい生真面目な仕事を成し遂げた時、すこし胸を張って、こんな言葉を使ったものだった。
男は、久しく愉快を感じたことがなかった。
毎日毎日、男の心には不等記号が愉快より一層多く不愉快の方に開かれ、もはや頑なに生活の下絵をつくっていた。
一、二、三、四――、歩けば男は歩数をはかっていた。一段、二段、三段――、昇れば階段の数をかぞえていた。
一人、二人――、道行く人影を男は意味なく数えていた。そして一日の暮れてゆくのを二時、三時、四時と、呟き呟き見送っていた。
数えられるものばかりが多く、数えても数えても、あまりに虚しくて男はしかとした印象を何事からももたなかった。俺は何をしているのだろう――、そう考えることもあった。答えは見当たらず、男は自分が無数の数の一つであることだけを朧ろに知った。
数の内か――。それは救われたような空々しいような気もちだった。
男は眼をつむることを覚えた。
眼をつむってしまうと、たちまち何一つ数えようがなかった。濃い闇の中では凝り堅まって確かな手ざわりで自分が自分に生き返った。静かな秩序が、整然と歩調をとって男の中で高らかに活躍した。
男は眼をつむって嬉しそうに歩いた。だが、十歩も行けば不安がはっと捉えてきた。眼をあけてみて、男の胸はときとき鳴った。男はほぼ真直ぐ歩いていた。危なげはなかったのだ。
十五、二十、三十歩とやがて安らかに男は自分の闇を支配して進めるようになった。歩数をかぞえることもやめて、男は大きな充実にとり包まれ、むさぼるように一足一足愉快に歩いた。
走ろうとすれば走れた、だが眼をあけて見る外の世界は、あまりと言えば狭苦し過ぎた。
広い場所、人のいない場所を探ね歩いた。そのような場所があればふっと眼をつむって、男は自在に足早に確実に、あたたかい陽ざしへうつつに顔をふりむけ、悠々と愉快に歩きまわって過ごした。眼をあいて暮す世界より、眼をつむって確と手に触れてくる世界の方が男には親しめた。安らかで、美しかった。ただのくらやみだったこの世界にあざやかな光と色彩が満ち溢れていて、紛れもないものの像を日ごと男の眼の底にかたちづくって行った。
或る日も男がこの新しい領分をのどかに満ち足りて歩いていると、一人の少女に出逢った。遠い以前、男が男の子らしい清々しい声で、ああ愉快、愉快と言っていた頃愛していた、その少女だった。昔通りの微笑を優しくふりむけ、少女は、あら、あなたもいらしたのと叮嚀に挨拶をした。あたくし、もう二年になりますの。それから、もっと早く来て下さると思ってたわ、と言った。
男は少女の傍を少年のように歩いた。ああ嬉しい、と少女は昔のように可愛く甘えて男を見上げた。
男は黙っていたが、幸福だった。闇にぱっと光が射して、なにもかも明るく、はっきり見えた――。
崖を踏み外した男の死体は直ぐ見つけられた。
引き取り手のない死顔が愉快そうに微笑っているのを、人は無気味だと思った。
* この掌説を、わたしは昭和四十二年(1967) 二月に書いた。連日書いた九日九編、の二日目に、光でなく「闇」と題して書いている。そして第四冊目の私家版『清経入水』の巻頭掌説集「繪」の一編として活字にした。いうまでもないが此の私家版をアテズッポーに送り出したのが、まわりまわって「清経入水」が、知らぬうちに第五回太宰治賞の最終候補に差し込まれていた。
それにしても原題が「闇」であったとは忘れていた。そしてこれは、畏しい作品。たんなる咄嗟の思いつきのお話しのようでいて、実は書いたときはそれに相違なかったのだが、わたしのよほど深い根の部分から生まれていたことは、私が今も「闇に言い置く」ことを文学の、創作や執筆の姿勢にし覚悟にしていることでも明白。この何処の誰とも知れないたぶん女性は、さながらこの作中の「少女」の呼びかけるようにわたしに眼をとじて眠れと誘っている。
2004 5・22 32
* 六月中旬、高校の同窓会をやると前から案内があり、今日、出欠を確かめる催促状が来た。むりやり行けば行けるかも知れない、出席予定と知らされた中には逢いたいと想うヤツが何人もいる。ヤツというぐらい全員が男性というのもおもしろいが、少し前には授賞式や対談で京都へ出掛けているので、折り返してまたというのが辛い。
人に逢うというにも「行為」と「行動」の区別がある。逢いたくて堪らない逢いもあれば、いかにも会うのがしんどい会いもある。先のは「行為」の逢いで、あとのは「行動」の会いである。この同窓会などは義務でも何でもない懐かしい方の逢いではあるが、会議・会合・会談の類は、概して余分な行動であり、余儀なく努力する。そして疲れる。しかし楽しい逢いは待ち遠しい。
2004 5・24 32
* じっと眼をとじ、見えないものを観ている。
2004 5・25 32
* ところで、わたしの場合、その待ち遠しい「楽しい逢い」であろうとも、とても「しんどい」「つらい」ことがある。
わたしへの礼儀や配慮だと思う人が多いらしいが、「時間も場所もどうぞ決めて下さい、その通りにします」と言われると、情けないほど立ち往生してしまう。忙しい時ほど、頭の歯車が瞬時に錆びつく。何事にもほぼ即決派のわたしが、三時間でも五時間でもどうどうめぐりして、決められない。「ほとんど病気」で、あげく綿のように疲れる。音を上げてしまう。なんという珍な病気だろう。
あの王献之は、戴安道に対し「音」を上げたのではない。逢っての楽しみを、逢う前に想像し尽くしてしまった、だから逢う必要がもうないと、門前からくるりと引き返して帰って行くのだが、たしかに、逢いたい人と逢うまでの「想像」は、それは楽しかろうではないか。わたしの病気は、だが、そんな風流とはまるでちがう。一種の失語症か。離人症かも。サボタージュかも。いやいや幼子がこねるダダのようなもの。
* それでどうなるか。そういうことを押しつけない人を、作品に、書いてしまう。現実に甘えられないことを、作品の中で甘える。早くそれに気が付いたのは、いい目をいためるほど原稿を清書してくれていた、妻であった。生まれながら母親からもぎ放された子の、強いられていた自立心のよわい反乱だろうと。なるほど。
2004 5・31 32
* 朝一番のメール。源氏物語とは痛み入るが、女性のメールに多少は「化粧」をしていましょうが、艶、とは鋭い。文章=言葉とは、過不足なくということの出来ないサガをもっている。それが化粧になる。とても濃い化粧もあり、あまりに淡泊な化粧もある。だからおもしろく、だからよくもよくなくもある。それが女の筆に多く出ることは、ま、そういうモノのようである。出た方がいいか、出ない方がイイか。出ないわけには行かないのである。だから文章は、表現は難しい。E-OLD、鋭い。
2004 6・1 33
* チャットの縺れから幼い女の子同士の間に殺人が起きてしまった。幼い小さい年齢から機械を玩具代わりに与えて野放しにしてきたこの手のツケは、まだまだ、さらに烈しく増加してくる。
わたしは繰り返し昔から云ってきた、この手の機械は、年寄りにこそ有り難い「電子の杖」となり、「E-OLD」の社会的健康に役立つけれど、幼少年には、少なくも小学生にインターネットの無際限な開放やまして奨励は、全く無用のことだと。わけわからずのIT奨励政権は、景気浮揚策の一環としてのみ、幼年の小学校にまでインターネットをもちこんで、その恐ろしさについては何も顧慮してこなかった。
そのくせ、空念仏に過ぎない、むしろ明らかにまちがった「心の教育」などという言葉遊びで、不誠実な無定見を覆い隠してきた。そんな教育は、心ない政府筋や政治家や教育者に出来るほど生やさしい話ではないのだった。優れた宗教者なら、けっしてそんな「心」になど安易に触ってはいけない、心はむしろ「落とせ」と、歴史的に、訓え続けてきた。「心」を何かの役に立てようとして政治的に語る「心」こそが、かえって諸悪の根源であった。
インターネットほどの「ごった煮」を無制限に与え続けながら、そのブレーキ役に「心」を考えてきたのなら、そんな滑稽な錯誤はない。「心」は、ものの悪しき深みへ人間を誘い込んで行く魔物に過ぎないのに。心の欲するままにしている人の「至らなさ」には、越えてはならない「矩」の厳しさが見えていない。そういう「矩」を自覚するのは、むしろ健康な「からだ」なのだ。健康な「ハート(心臓)」なのだ。
チャットとか掲示板というのは、危険で俗悪な盛り場を、ゴマンと密集させたような汚穢の場所になりやすい。わたしがホームペジを立て、ペンクラブにも立て、また電子文藝館を公開したときにも、何人ものワケ分からずがチャット可能にしては、掲示板を併設してはと云ったけれど、断じて無用とわたしは退けた。それどころか時分のホームページに併設していたそれを、いわば命からがら「撤去」した例なら、幾つも知っている。すべて賢明な撤退であった。
子供達がいずれ問題を起こしそうなことは、明々白々であったし、これからもそうだ。携帯電話のあの狂態を、また嬌態をながめて、アレが尋常普通と思える人はいない、商売人以外は。日本ではそういう悪い商売も、政権が擁護しその「あがり」をかすめ取って延命しているのであるから、政治に「誠」が無いのだから、その事実は総理大臣自らが国会答弁で腐った蛙のつらを晒してシャアシャアしているのだから、なんともハヤというしかないが。
それにしても、とんでもないモノを「総理大臣」にしてしまった。国民はいっそこぞってあの総理大臣のように勤務し、あの総理大事のように年金をくすね、あの総理大臣のように詭弁を弄して、天にツバしながら生きてゆくのが良かろう、か。
* 痛ましい殺人事件にからめていえば、機械で表現する「ことば」の問題が、意味深長に大きい。わたしのメール友達はけっこうな大人たちであるが、時にメールの言葉にきつく躓いて、事実以上にわたしが不機嫌と思ったり、こっちからの通信にムクレたりする。大の大人ですらそうなので、「機械言語」のある種の性質が理解されていないと、無用のトラブルを子供達や恋人達がひきおこすことは重々ありうる。メールは「優しい恋文のように」書くのがイイと、わたしがずいぶん以前から発言し実践しているのは、それだ、それでも、足りないときがある。
いささか「演戯性」の加わるのが問題を含みやすいけれども、本当に親しい同士ならば、お互いの名乗りを、本名にしないで、換え名をつけあうのも、表現を非常にラクにスムースにする。こころみていいことだ。メールは、本の姓名でのつきあいから解放してやることで、かえって穏和になる。誤解の多くを融和するのに役立つだろう。お互いにだけ通用する「メール雅号」をわたしは奨めたい。わたしは、めったに、親しい人とのメールでは「秦」の「恒平」のとは名乗らない。「湖」はもっとも通用しやすいし、茶名宗遠の「遠」もつかいやすい。大事なのは、しかし、むしろ相手方を「どう呼ぶ」かなのである。「囀雀」さんのようにこっちから渾名を呈してしまうと、先方も実名から解き放たれ、気楽に「雀」と自称されている。こうなると少々とげとげしい言葉が出ても、吸収されやすい。いつのまにかほんものの恋文になってしまうこともあり得ようが、それはそれで放っておけばいいのである。年の功である。ヴァーチャルな限界を承知して「演戯の他界」がそこに生じるとき、新しい「文藝の世界」も見えてくる。それが、新世紀だ。
2004 6・3 33
* 帰宅早々、またお仕事漬けの一日でいらしたのでしょうね。「湖の本」で新作が読める読者は誇らしいし最高に幸せですが、力仕事と雑用をさせてしまう日本の貧しい出版事情が情けなく悲しくて……。
どうぞお身体痛めませんように。あまり夜ふかしなさらずにおやすみください。東京
* むしろ、これは秦の生き方でしょう、志のひくい出版に屈従したくないだけのことです。そういう、おばかです。
2004 6・3 33
* 物書きの誰もがそうかどうか知らないが、作品に創り出す人物の名前には必要の度をこえても気遣うことがある。作中、役回りというか人柄というか行動の上でも問題のない人物は平気だが、ある種のきわどさを帯びて活躍する人物の名前は気にする。ことにわたしのように自分の読者の氏名・住所まで諳んじているような書き手には、人の姓はまだしも名前の方は当然気を使う。余計なことのようだけれど、なにも、わざわざ人の気持ちを暗い方へどうこうする必要はないからだ。
わたしの名前を使ったと、よくてもわるくても存外に人は気にする。わたしだって気にする、テレビドラマに「コウヘイ」君が変な役で出てくると。ただ、それを自分と同一化するようなことは無い。しかし、よく聞く例だが、これが、有るのだ。公然抗議されたというボヤキも同業から聞いたことは何度もある。
避けて使うことはできても、ことさらにそれで行きたいという名前がある。気に入った名前が出来ることと創作がスムースに進展することには、曰くいがたい深い関連がある。名前に惚れていないと書けない、書き渋るのである。
* あれは私を書いた積もりかと、とんでもない見当違いで怒られた覚えも、過去に何度か、無いとは言えぬ。テレビドラマのおしまいに、(たいていの人は何を無用なと想って見ている)「このドラマは架空の創作で、現実の事件とは何の関わりもありません」などと、一々断りをつけているのは、この手のトラブルが想像以上に現に多いことを示している。あれは必要な断りなのである。ドラマに「コウヘイ」君が現れようとも、私自身とは関係なく、ただ「偶然」に過ぎない。あたりまえである。
* とは謂え、少しのけぞるようなコトが無いでもない。
以前某局の連続ドラマで、祇園に近い電器屋の息子が、恋をして、東京へ出て行くという青春ものを放映した。祇園に近い電器屋の息子で、恋をして、東京へ出て行ったというのでは、ドラマは高校生、わたしの場合は大学にいた違いこそあれ、酷似していて、まだまだ有る、名前が主役の「コウヘイ」君である上に、その電器屋は少し西の切り通し、仕出しの老舗菱岩の向かい辺りに位置していたが、撮影ではわたしの育った家の二軒東、狸橋から来て突き当たりの土蔵を、印象的に繰り返し写していた。わたしがゴマリなどを壁に当てては一人遊びしていた土蔵である。今度の小説に出ている花見小路にむき出しだった土蔵ではない、「糸瓜と木魚」に書いている「あざい」サンの土蔵、ヒロイン鶴子のいた家の土蔵である。あの土蔵は今もあり、あれが再々写されて、電器屋の息子で「コウヘイ」君では近在の者ならだれでも「わたし=秦恒平」の行状に重ねるだろう。現に美術賞の財団理事会に出たとき、ずいぶん冷やかされた。しかしそれは何もわたしのことを描いていたのではないのである。
ややこしいことにドラマの原作者は、四条縄手辺のやはり電器屋の息子で、作家になっていた。わたしよりは一回りほど若い。はなしが本当にややこしいのだが、現にそういう立場に立たされたことはあり、気持ちの佳い青春ドラマであったからいいが、少しドッキリしたのはたしかだ。
* もの書きはそういうめに人をあわせやすい。気は使うけれど、わるく遠慮もしない。何が肝腎かを知っているからだ。少々の抗議には、まして見当を遥かに外れた抗議にたじろいだりしていられないのである。今度の小説でも、はっきり現実のママの人物に働いてもらったのは、著名な実名人はべつに、三人か四人。みな渋いワキ役ばかりである。
2004 6・11 33
* 鳩が、しきりに鳴いている。西行終焉の地を訪れる道すがらに、鳩のなく声のしきりに身にしみた昔をふと思い出す。
2004 6・14 33
* 学士院恩賜賞授与の記念宴があったと報じられている。その中に、『賀茂別雷神社境内諸郷の復元的研究』という研究題目が出ていた。鴨社にはよく知られるように上賀茂と下鴨とがある。別雷社と御祖社である。それにしても境内諸郷の復元とははるかな京都以前を想わせて、秦氏の一人としては胸とどろく悠遠の境涯である。研究とはそういうものである、どんなジャンルであろうと。
2004 6・14 33
* 秦さんの「レイタースタイル」という感想が届いていた。その前夜、妻がそういうことを口にしていた。そうなんだと迂闊な作者は、今にして気付いていた。読まない人には意味も分からないだろうが、全く新しいスタイルでわたしは今度の長編小説を書いた。自己模倣をきらうわたしの願いは果たされている。それが今度の出版の大きな収穫だった。そして例えば「みごもりの湖」や「慈子」や「冬祭り」の時代を経て、晩景を行く現役作家としての新たな足跡をはっきり一つ残すことが出来た。糟糠を嘗めてはいけないと思っていた。ホームページで書き始めた頃は、人も我もこれはどうなる作品だろうと心許ないあてどなさに悩み続けていたが、諦めて投げ出さなかった。よかった。
また新しい仕事に根気よく取り組んで行ける。「小説、まだまだ書ける」とエールを呉れている人にも感謝して応えねば。
2004 6・26 33
* この友人の感想の中で、「お父さん、繪を描いてください」という処にまた一つ問題点が出て来た。ある人はこれは究極山名の妻の「愛情」の発露と云い、ある人はそれを否認している。この青年はあっさりと「山名さんが絵を描くこと、描き続けること。啓子さんにとって、それに勝る幸福はなかったろうと思います」と読んでいる。この辺で、作品の懐がむずむずしているようだ。題の選定は少なくも的につよく触れているようだ。
小説家が書き続けることも難しく、画家が描き続けることも難しい。継続は力であるというが、継続とはいろんな意味でのエネルギーの持続であり、いわば火を継ぎ足し風を送り続けることが大切になる。気が絶えては続かない。「考え込む」ことがムダではないにしても「ヘタな考え休むに似て」くる事もたしかに有る。
「抽出し」にものを蔵ってあることでは、何の心配もないが、その抽出しを「明けてみる気力」が失せてしまえばどうにもならない。意欲というか気力というか、必然の動機というか。それがなくては蓄えも役に立たない。
* 人をギョッとさせるほどの動機や題材が生身の奧に疼いている、その自覚はあるが書き示せば済むというふうには思わない。やはりどう表現できるのかの自問自答は繰り返すよりないが、「へたな考え」に落ちこまないためには見切り発車の蛮勇も必要になる。ただ、わたしの年齢と体力からすれば、量的に多くを望まない。わたし自身から生え出てこざるをえないその呻きのようなモノを書き表せればそれでよい。短篇を幾つもということは、もうあまり考えていない。先のことは分からないけれど。
2004 6・26 33
* 描いている、書いている、だから絵描きであり小説家や詩歌人や脚本家である、ということになるのも、それは問題が多いという気がしている。自称画家の繪も、自称文藝家の文藝も、その大多数というか殆どがどう評価していいのかに困惑する現実もあるからである。作品で評価することになると、世の中にほんものの画家やほんものの文藝家はめったにいないというのが、実はわたしなどは実感している。幾万の凡な画作をのこした人と、数点の名画をのこした無名の人とを、どのように評価しわけるのか。「絵を描く人には、色や、形、その組み合わせや、さらに手を動かしているといったようなことに、多かれ少なかれ魅入られているようです」のは確かだろうけれど、それは「お絵描き」をただ楽しむレベルにもあり得る、むしろそういう人ほどそんなものであろう。「山名」は描いていないのではなく、無数に描いて満足できないほど苦しみ抜いているのだと、作中の「わたし」も作の外の私も、ほぼ察している。
* 「線は、1本しかないと思っています」という見解が、何に触れて云われているのか少し分かりにくいが、「肖像」への批評ないし批判であろうか。この辺はいろんな画家にも聴いてみたい。「山名」が「無限定空間」を意図していたこととも絡めて。「山名」のあのような洞察は、ただ考えて頭で思慮したものとはとても思いがたい、無数のスケッチやデッサンの誠実な体験が辿り着いた非凡な発明であろうと作者は考えている。この辺の物言いはいきおい甚だ微妙になるが、あの「肖像」が大勢の読者・識者に与えている衝動は、作者の予想を大きく上回っている。それを置いた場所が的確であったこともあるにせよ。「山名」のこの際に把握していた「線」への洞察は、よほどのものだと想われる。あれは「一本の線」で描くべきを、くちゃくちゃとかき混ぜ誤魔化して描いたといったシロモノでは、全然ないのだから。
ま、こんな見方も、あるには、ある。
2004 6・27 33
* 国立京都博物館館長、京都文化博物館館長から相次いで「お父さん、繪を描いてください」に懇篤の礼状が届いた。他に幾つもの中に、驚かされたのも有る。「自分」と育ててくれた父母を初め家庭・家族のことを小説に仕立ててもらえないだろうか、全面協力するから、妻ともよく話し合い「承知」しているから、と。動機など手紙にかなり詳しく、それはかなり私を動かすちからが有る。ただ、これもまた精力の多くを取材に注がねばならない、この人が東京近郊ではなくて相当の遠方に住んでいることも難しい障害になる。驚いている。たしかに身内にシュウシュウと反応の泡が意識の水面へもう沸き立ってきてはいる。落ち着いて考慮したい。
2004 6・28 33
* あとがきにも書き、この「私語」では繰り返し書いている「抱き柱はいらない」について質問してくる人も、ちらほらある。
> 「抱き柱」はいらない、宗教を信じないと
わたしは幼来、宗教的感性のつよいタチだと思っている。わたしが抱こうとしないのは、「宗教的な生」ではない。むしろ日々宗教的でありたい。バグワンに無心に聴き続けているのも、それだ。抱き柱にしないのは、教団組織と職業的な聖職者である。特定の宗教も抱かない。
> でも、抱き柱、信仰などはないほうがらくで、自由に生きられるかもしれませんね。
これは全く見当違い。抱き柱に縋らずに「自由」に生きるほど難しいことはなく、それの出来る人などめったにいない。しかし抱き柱を抱かずに生きることこそ、じつは宗教的生の精髄なのではないかと、わたしは理解している。しかもその自由から、たいていの人は恐怖して逃げだしている。それほどその自由は容易でない。人はふつう、抱き柱無しには一人で立てもしないのだ。ありとあらゆる理屈を付けていろんな柱に抱きついて、やっと立っている。やっと生きている。そのために、大事な生の本質からますます遠くなり惑うのではないか。
大事に言い添えざるをえないことは、わたしはそこまでは理解しているといえども、わたしが抱き柱を一切棄て得ているかは、まだまだ保証の限りでないこと。たんに「要らない」と自覚してそうあろうとしている段階でしかない、わたしは、それが心細い。
2004 7・1 34
* 絵筆を持つ画家に言葉をつかわせたのは、言葉で生きる作家であったのでは。画家が描けなくなったのは作家の存在・誘導によるのではないか。鋭い一つの指摘である。反駁も可能か知れないが、兎に角も一つのくっきりした指摘として、作者は耳を傾ける。
山名が、妻をなぜ描かないかという提言は、どうか。妻の死後に、けわしかった思い出を何故描かないかという指摘か、それとも、妻が存命闘病のさまを何故直視して描かないかという意味か。
この後者は、あまりに苛酷に過ぎるように思われる。観念の作家芥川の「地獄変」を思い出させる。岡本綺堂の伊豆の夜叉王も。批評的な観念としては言い得ても、実地に「描く」という「創作の現場」が、アトリエもない広くもない、介護以外に余力のない、しかも子供もそばにいるマンションでの、言語を絶した「看護・介護のさなか」では、物理的にムリであろう。重度リウマチのものすごさと来ては、身内であれば尚更、とても正視すらきつい。そんな場で成立するものが、「藝術」であるのか、それこそ「技術」だけの域を出ないのではないか。日誌のように字を書くならまだしも、絵筆で、妻の身をよじっての激痛苦悶のサマを直写できる「絵画」とは「創作」とは、やはり、わたしには思いにくい。
では、死後に。
さ、それはもはや「記憶」を再構築することになる。画家によりフクザツに変化する「姿勢の差」があるだろう。画家はどう想われるだろう。
* 湖の本には、画家である、繪を描いている、画に関心の深い、絵画以外の創作に打ち込まれているかなりの数の読者が居られる。現に大勢をわたしはペン会員に推薦してきた。
まだまだこの小説には、感想や、場合によれば議論すらありえそうに想われる。松尾さんは、「藝術家小説」を書いたという作者の立言に、真っ向目を向けて感想を下さった。この批評の目が、またべつの批評の目と、魅力的に光り合うことを作者は厚かましく心から希望している。
2004 7・3 34
* 森鴎外の「身上話」は、鴎外にははなはだ珍しげな静かな色気の匂う、さて、なにでもない小品であったが、女言葉が美しい。鏡花ならよろこんで賛嘆したかもしれない軽妙でしっとり、しかも淡泊な筆致で、これはもう「読ませる」のが魅力の文章文学。
鴎外作品には言外に何かしら観念や批評や意向が託されているが、これはそんな深読みをすら誘わない。しかも「ヰタセクスアリス」の欄外の一編めく嬉しさも微かに感じられる。入稿した。
文学は書かれていることもむろん大事も大事、大切であるが、それがどう、どんな文章で書かれてあるか、それが魅力に溢れているかどうかで価値が決まる。文学は筋書きではない。筋書きだけなら読み物でしかない。
* 徳田秋聲の「和解」は興味深い。秋声は金澤の出、泉鏡花も金澤の出、二人とも入門の時期と師への親疎はべつとして、尾崎紅葉の門下であった。そしてまた秋声と鏡花との藝術は両極端である。いずれもそれぞれの極端において天才的であった、鏡花の徒であるわたしは秋声の優れた文学性にも傾倒して憚らない。そしてこの二人は師の生前からも、師の没後はことに、仲が悪かった。
鏡花の弟も作家志望であった、いくらかの作品も残っているが、兄鏡花に比すべきものは持たない。その鏡花の弟が、わけあってむしろ秋声に親近していた。秋声はアパートを経営していたが、鏡花の弟は此処へ転げ込んできて、しかも重篤の脳膜炎を発してしまう。秋声は困惑する、鏡花に知らせないわけには行かぬ。
「和解」はそういう小説である。二文豪の気質的なぶつかりようは、やはり文学の愛読者には無関心に通り過ぎがたい。そういう作品があるのなら、読んでみたい。一文学史上の点景であることに相違ないのである。
いま、校正している。
2004 7・3 34
* 一日、校正などしていた。校正して少し休み、また校正して少し休み、休む都度いやしんぼすると、血糖値にも体重にもよろしくない。
徳田秋聲「和解」は、校正し終えて、なんでもない小品でありながら、独特のファシネーションに感じ入る。この作家ならではの散文の魅惑、さらさらと乾いた綺麗なこまかい砂に手を触れているよろこばしさ、ここちよさ。直哉の名文ともちがう。潤一郎のともちがう。あたりまえである。文体・文章は作家の指紋。優れた書き手の文章なら、ほんとうに生きている。まぎれもない顔をして生きている生き物である。むかし、杉森久英さんにある女性の書き手がまとわりつくようにして助言を求めていた。杉森さんは、ひと言「文体をもつこと」、と。容易ではないが、優れた文学にはあり、そうでないものには無い、備わっていないのが、文体の妙。絶対に必要な妙味・個性。これは真似ても仕方がない。亡くなった手練れの批評家亡き安田武が言ってくれた、秦さんの作品は苦手だった、それが今はアヘンのようにボクにとりついちゃったと。それは、物語のことではない。文体・文章のことだ。
* 鏡花と秋聲。これぐらい両極端な文学の魅力に溢れた、一対の文豪はいない。二人とも金澤で生まれ育ち、二人とも尾崎紅葉の門に入り、しかも秋聲は自然主義散文文学の最高峰をきわめ、泉鏡花は幻想と伝奇と日本語表現の魔術的極致を示して師を超え、潤一郎や康成や三島由紀夫らのよく成しえない文学の他界を燦然と書き表した。この秋声と鏡花とが文学的主張の点でも、師紅葉の文学と存在をめぐる傾倒や讃美の度においても、衝突が生じるのは必然であったろう。その久しい確執を緩めたのは、鏡花の弟が、ひょんなことから秋聲のもっていたアパアトで、脳膜炎ならぬ敗血病で急死した事件であった。
こんなことを知ろうと知るまいと秋聲作「和解」をしみじみ読むよろしさに、ほとんど影響しない。そこには作者ならではの散文がさらさら、さらさらと流れていつのまにか虜にされている。ふしぎなほどだ。
2004 7・4 34
* 日曜らしく、すこし放心ぎみに一日を過ごした。そういえば、六月の「私語」がまるまる放ってあったのを、読み直して二十一日分の文章を日付順に点検し訂正した。書きっぱなしのわたしの日録は、ときにはめちゃくちゃ転換ミスがある。ま、とれたての機械書きの文章にはツキモノだと居直って、内心、少し気にしている。ゆるされたい。手を入れつつ読み直していると、ま、ここまでよく言うよと我ながら頬笑ましい文章もあるし、けっこう発明の文章もある。とにもかくにも、わたしの言葉である。
2004 7・4 34
* 夜前、阿川弘之作『母や』を読了。いわば、ルーツもの。これは容易な仕事ではない。どうしても、混雑し混乱し、自身ないし家族・親類の間だけの関心や興味にしかうったえ難い。一般の読者は、ややこしく混乱した特定のルーツものに惹きこまれることは、滅多にない。阿川さんは悪戦苦闘されていた。そしてまた刺戟を受けた。
わたしは、自分の人生なかばに、実は九百枚にもおよぶ我がルーツの追求をしている。書きっぱなしで置いてある。この作品が、わたしの作家人生の道を、幸か不幸か知らないが、分けてしまった。そう感じている。何にしてもアレは、あのままにはしておけないなあと思わせられた、それが阿川さんへの感謝である。書庫の奧から、埃をかぶった九百枚を、全く新たに料理すべく、持ち出してこなければならない。材料は、寝るだけは十二分に、優に四半世紀は寝かされてきた。
2004 7・4 34
* 電子文藝館の委員会は、大原さんに司会進行を頼んで、今日は、主として各種の意見交換で終えた。あと八ヶ月は奮闘やむなしと思っている。真剣にわたし自身のさきざきを考えねばならない。
老いの名のありとも知らで四十から 小鳥の四十雀に呼びかけながら、四十からは老境だと芭蕉は吟じたが、この時代ではまさかそれは有るまい。にも関わらず、わたしは「四十から」の「齢四十」は不惑の意味でなくても、とても大切だと考えている。その辺で人生の何かが「向き」を固めてくる。成ろうならいかに大器晩成といえども、この辺では大器の基盤がつくられているのでなければ。四十にして「翁」「老」などと尊称されたのはそういう意味に相違ない。そして、次は六十五歳がホップの次のステップを踏む関門だろう、今の世の中なら。年金支給の年齢である。そしてもう二十五年の九十歳が、文字通り「卒」寿のジャンムプを終えたところ、即ち寿の「卒」える時。それで
満願でよかろうと思う。わたしは、もう六十五は過ぎて来た。五十の賀に記念出版の『四度の瀧』を出したときに、福田恆存さんからまだまだ頑張りなさいと云われた。そして「湖の本」時代にとびこんだ。そういう、ま、風変わりな頑張り方をしてきた。
早大にも東工大にも道草を食い日本ペンクラブにも道草を食ってきた。それぞれに佳い糧に成ってくれた。だが、いつまでもこのままで佳いとは思わない。
わたしはわたしの晩年を、他のしがらみに拘泥したり遠慮したりすることなくきっぱり構築すべきであろう。わたしは、誰の持ち物でもなく、誰にしがみつくわけでもない。抱き柱は要らない。ただ妻と、行けるところまで一緒に歩いて行く。それが自然の約束事であり、その余、わたしは不自由に生きてはこなかった。むろん人の自由も奪ったりしない。無用の干渉もされたくない。
2004 7・6 34
* ここへ来て、『お父さん、繪を描いてください』の「阿波野千繪」の受けとり方で、声が届く。前にも少し読者間で応酬があり、作者の介入することではなかったが。
妻のある男の、妻でない他の女への向き合い方を、わたしは、処女作に近い「畜生塚」以降「或る雲隠れ考」「慈子」「清経入水」「みごもりの湖」「誘惑」「四度の瀧」等々、はなから「必須の設定」として書き継いできた。今の言葉でいうと「不倫」であるが、ところがそういう設定の作品群が、いつも「美と倫理」の名において批評されてきた。「身内とは」という特異な問いかけから、揺れ動く人間関係を追い続けていたからだ。
それは今度の「お父さん、繪を描いてください」にも引き継がれていた。
今回はしかし、動機や主題が他に明確であったから、「阿波野千繪」という女を「性」の極限の場面につよく引き絞ることで印象づけるよう意図した。やや挑発・挑戦的な便法であった。たぶん読者はかなりいずまいわるく気になって仕方がない、さりとて無視し難い、そういう存在であることで、この設定された女阿波野千繪は「役割」を果たしてくれた。同じ一人の女を二人(千繪と京子)に分割してみせた、闇の底の光のようにして。
ま、好き嫌いはあるだろう、この女は「嫌い」と確言する読者もあり、黙っている人の中には、男女ともつよい羨望や自己同化さえしてしまう人もいたか知れない。着飾って取り澄ましている美人もいるだろうが、こういう極限の魅力と美をそなえた女人も、居て欲しいではないか、男でも女でも、そう思わないだろうか。
ところで、この「女」をきちんとして極くまともな「妻」と置き並べて考えねばならなくなると、そこでかなりの波紋が起きる。起きよと思って書いているから、作者の手の内ではあるが、解釈を大きく分けて、妻に足りないものを阿波野千繪で「埋め合わせ」ているという「読み」と、その読みをわらって軽く退ける読みとが、対立する。
最初期の作品からの久しい読者ほど、作者に於ける「もう一人の女」の持たされている意義を、むしろ重く汲まれる。「性」の問題なんかでなく、むしろ「人間」が内在的に持っている二つの「世界」の問題として読むのである。
(もう少しあとを書くが、午前中に済ましたい用事が出来た。)
読み直してみると、とくに書き足すこともない。まだ紙の段階で読んで貰った文藝春秋の寺田英視さんは、「作家」側の私生活部分をもっと割愛してもという感想だったし、筑摩書房の中川美智子さんは「作家」側はとても佳いと思うが、此の「画家」はとても好きになれないという感想だった。失礼ながらどっちも壺に嵌った的確な感想とは思われなかったので、湖の本の読者に委ねようと決心したのだった。
2004 7・8 34
* 昨夜、基督教の聖職者から届いた教導目的のメールを、参考までに、此のわたしにも転送して下さった方がある。
基督教の説教を聴いた体験が一度もない。どんなふうに聖職者はおしえるのだろうと、関心があった。不自由極まる言葉環境に置かれたまま、シドッチがどれほど熱心に基督教なるものを新井白石らに向かって概説したか、『親指のマリア』を書いたときも想像を尽くした。
聖書研究会のような催しがあり、聖職者兼指導者からの、いわば出席と勉強を督励のメールと読める。一応、ここに転記させてもらう。
* ○○さん 研究はテクストの5章 (神はどんな人の崇拝を受け入れますか)13節までで中断しています。
13節までで、神は、霊と真理をもって崇拝するよう教えていること、それは神のご意志を行うことであり、人間の命令が教理とされることがあるので、正確な知識は保護となることが説明されていました。
次の副見出しは ”神の怒りを買わないようにしなさい”というものです。
14節からは、使徒ヨハネの例から、自分の崇拝がどんな偶像礼拝にも汚染されていないことを確かめる必要があることを教えています。
15節では、パウロもガラテアのクリスチャンがエホバに受け入れられない宗教上の習慣を行なうようになった時、ガラテア人の手紙で問いかけています。
16,17節から、今日の私たちが避けるべきことを学べます。
・中立の原則に反する儀式や祝日
・ヨハネ第一2:15-17によると、「世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば,父の愛はその人のうちにありません。すべて世にあるもの―肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと―は父から出るのではなく,世から出るからです。さらに,世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります。」
以下は、テクストの本文です。 神の怒りを買わないようにしなさい。
14 注意しないとわたしたちは,神に受け入れられないことをしてしまうかもしれません。例えば,使徒ヨハネは、み使いの足もとにひざまずいて,「彼を崇拝しようと」しました。しかし,そのみ使いはこう警告しました。「気をつけなさい!そうしてはなりません!わたしは,あなた,また,イエスについての証しの業を持つあなたの兄弟たちの仲間の奴隷にすぎません。神を崇拝しなさい」。(啓示 19:10)
ですから,お分かりになるでしょうか,自分の崇拝が、どんな偶像礼拝にも汚染されていないことを確かめる必要があるのです。―コリント第一 10:14。
15 一部のクリスチャンが,神に喜ばれない宗教上の習慣を行なうようになった時,パウロはこう問いかけました。「どうしてあなた方は,弱くて貧弱な基礎の事柄に逆戻りし,再びそれのために奴隷になろうとするのですか。あなた方は日や月や時節や年を細心に守っています。わたしは,自分があなた方に関して労苦したことが無駄になったのではないだろうかと,あなた方のことが心配です」。(ガラテア 4:8‐11)
それらの人たちは神についての知識を得たものの,その後,エホバに受け入れられない宗教上の習慣や聖日を守るという間違いを犯しました。パウロが述べているように,わたしたちは「何が主に受け入れられるのかを絶えず確かめ」なければなりません。―エフェソス 5:10。
16 わたしたちは,神の種々の原則に反する宗教的な祝日や他の習慣を避けているかどうか,確かめなければなりません。(テサロニケ第一 5:21)
例えば,イエスはご自分の追随者たちについて,「わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません」と言われました。(ヨハネ 17:16)
あなたが属する宗教団体は、この世の事柄に対する中立の原則に反する儀式や祝日に関係していますか。あるいは,その宗教団体の信者は,使徒ペテロの述べているような、行ないが関係する習慣や祝祭に時々あずかっていますか。
ペテロはこう書いています。「過ぎ去った時の間,あなた方は,みだらな行ない,欲情,過度の飲酒,浮かれ騒ぎ,飲みくらべ,無法な偶像礼拝に傾いていましたが,諸国民の欲するところを行なうのはそれで十分……です」―ペテロ第一 4:3。
17 使徒ヨハネは、わたしたちの周囲の不敬虔な世の精神を反映する慣行は、一切避けなければならないことを強調しました。
ヨハネはこう書いています。「世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば,父の愛はその人のうちにありません。すべて世にあるもの―肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと―は父から出るのではなく,世から出るからです。さらに,世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」。(ヨハネ第一 2:15‐17)
「神のご意志を行なう」人たちは永久にとどまるということがお分かりでしょうか。そうです,神のご意志を行ない,この世の精神を反映する活動を避けるなら,永遠の命の希望を持つことができます。
* 少し意味の受け取りにくい個所もまじるが、偶像崇拝に傾かざれというのも、非本質の俗信や慣習行事に足を取られざれというのも、よく分かる。それはそれとして、神のご意志 霊と真理 正確な知識 その他むずかしい語彙が続出してきて、徹してそこに人格的に支配意思をもった神が在るという足場が透けて見える。
わたしは、基督教に関心の疎い方ではなかった。中学時代にジャンヌ・ダークの映画を観る以前の小学生頃から、度の家の大人の持ち物であったのか、もうまるで放置されていた、手帳大ハードカバーの『新約聖書』をわたしは「愛読」していた。マタイ マルコ ルカ ヨハネ伝は繰り返し読んでいたし、あの程度の文語文にひるみはしなかった。般若心経はチンプンカンプンでも、聖書はハイカラで「知的」満足を満たしてくれた。信仰心は湧かなかったけれど、教科書的には尊信した。
以来、ことに基督教各派の歴史的展開と展望とに興味をもった。知識も持った。つよく受け容れるものとつよく反撥するものとをわたしは自分の中で分別し選別してきたのだと思う。キリスト教徒になろうと思ったことは一度も無い。
* それにつけて思い出すのに、以前、カソリックの加賀乙彦氏と対談したときに、なにか微妙な判断を要する話題で、「わたしたちカソリックの立場では」と前置きして意見を述べられ、たいへん異な思いをしたことがあった。信者というのはそういうものなんだな、立つべき「立場」でものを言いものを考えるのか、と。
上の教えや見解などを丁寧に三度四度と読んでから、わたしはメールをくれた人に返信した。
* 基督教の聖職者が、つねづねどういうふうに語るのかは、聴いた体験が無くとても興味を覚えていたので、メール、繰り返し読んでみました。それなりに興味が湧きましたけれど、「抱き柱」にして抱きたい縋りたい確かな教えとは感じられません。
人格神にはもう何の感覚ももてません、ウソも方便として以外には。
やはり「禅」にちかいものを、自身の内なる闇の奧からつかみたい。つかめるような何かが有るわけでないことを透徹して確信したいと思います。バグワンと対話を続けながら、日々をありのままの「今・此処」として受け容れ受け容れ。
それが楽しいなら楽しく、それがしんどいときはしんどいと感じながら。
今日はたいへんな暑さでした。夏は涼しく、冬は暖かく。 利休を懐かしいと思います。
2004 7・8 34
* 「一瞬元気になっても、まだ塞いだ気分がどっかり胸に居すわっていて……。気分転換の極意というものがありましたら是非教えてください。睡眠は足りていないのに、なかなか深い眠りにつけません。」こんなメールが、今頃に飛び込んでくる。「イエスの存在が魂の根幹にあります」と言える人である。
わたしにそんな秘訣のあろうわけがない。だが、少しもの思っているところに関わったことなので、自分の思いを少し整え気味に言ってみよう。
* 気分転換 それは、 降参 することです。
降参 というと、普通は恥辱的な屈服の意味でしか日本語では使いませんが、これが宗教的心性の 極意だといったら怒りますか。怒るわけがない、べつの物言いをすればクリスチャンのみなさんがよく言われる 「みこころのままに」 に似ています。同じです。
すっからかんに無用の拘りを棄てきって、カラッポになる、気障も見栄も飾りもプライドも、また習慣も、なにもかも、すっからかんに投げ出して、バケツをぶっちやけて、カラッポで ほんとうのソレそのものになるのです。自分(エゴ)を棄てるのです。
棄てて惜しい程のモノなんか持ってはいない、大抵。ひきずるとは拘泥するということ、襤褸(蔽)をまとっているだけのこと。
解蔽 人は「静かな心」をわざわざ襤褸で蔽っている。「解蔽」が大事だと荀子は言い、漱石はそれで「こころ」を書いたのです。
「心身脱落」 という四字は 禅の優れて大切な境地のようですが、これもまた すっからかんのカラッポで 真理のまえに 降参 する意味の筈です。
ひきずると云ってますね。まさに。自認している。しかし何をひきずっているか、よく観てごらんなさい。ロクなものはない。誇りという名のホコリ・埃。その他もろもろの拘り。襤褸。真の価値あるモノはほとんどなく、エゴの餌食になりそうなモノが安っぽくぴかぴかしている。誰もがそうなんです。
引きずっているから一新しない、理の当然です。 降参する 降参出来る これが真実の宗教的天成であり天性なのではないでしょうか。
真実 「みこころのままに」 と。 イエスに 降参しているといえますか。降参出来ずに 魂の話などしても うそくさいですよ。少し この 降参 という深い意義を思ってみませんか。
* むろんこれはおこがましいだけの駄弁であるが、わたしが、「降参」と語られていることに魅されていることだけを、此処に私語したに過ぎない。
2004 7・9 34
* 高田欣一さんから今度の作への興趣に富んだ感想を頂いた。感謝します。これも冥界の「友」山名くんに早速読ませてやりたい。
* 秦恒平様 御作を拝読しました
「お父さん、繪を描いてください」読了しました。というより、第一回の通読を終えたというべきかも知れません。
じつは、読んだあと、わたくしは言葉を失っているので、最低限の感想だけお伝えしたく存じます。
読みながら、この「山名武史」という画家は、実在の人物なのか、それとも作家秦恒平が生み出した幻なのだろう
かと、つねに考えました。
E.W.サイードという、秦さんがふだん使われる人名語彙の中にはない人の名や、その絵画、特にデッサン論
をみると実在の人のようだし、何よりの証拠は、下巻の「見事な」幸田さんの肖像です。
しかし、読み終ったあとに、やはり、これは幻にちがいないと、思い出したのは、藝術家(作る者)が強いられる、現代における「孤独」の相が、「幸田さん」と「山名さん」には通じるものが強すぎることで、これは、間違いなく秦さんの自画像にちがいないと思った次第です。
ポオの「ウィリアム・ウィルスン」という作品を思い出しました。お作の唐突ともいうべき主人公の消し方には、ポオ
の作品のドッペルゲンゲルの消し方に通じるものがあるようです。
ただ、わたくしが気になるのは、幸田の「阿波野千繪」との、やや造りものめいた関係、幸田にとっての千繪が、山名の「檜さんの娘」三輪京子であることが下巻で明かされてゆく過程、山名の死を幸田に伝えるのが彼女であることなど、この作品を「小説」にするための手立てが、逆にサイードの「レイター・スタイル」というキーワードが重要な意味を持つ、現代における作家のあり方という強烈なメッセージを、薄めてしまうのではないかということです。秦さんは、その出発点からレイター・スタイルの作家であることを認めるに吝かではありません。私見では太宰治はレイター・スタイルの作家ではありません。彼はやはり青春の物語作家です。
月並みなことをいえば、やはり西行、芭蕉というのがそうでしょうか。近代では誰がここに入るか、考えてみるのも
一興かもしれません。(意外と誰も入らなかったりして)。
ただ、わたくしは現代の「孤独」に対する受け止め方に、いささか違和と不満を感じます。現代人は(わたくしも含めて)、孤独を必要以上に有難がる傾向があるのではないでしょうか。
西行の晩年は、わたくしたちが考えるほど孤独ではなかったのではないかと思っています。それは「友」の存在です。
もうひとつは、孤独な心(ハート)を支える詞という躰(ボディ)への信頼が、いまよりずっと厚かったからだと思います。
現代人は「友」を失うとともに「詞」を失っている。
「友」というのは、小林秀雄と河上徹太郎、志賀直哉と武者小路実篤のように、異質性を持ちながら、根底に於いて相互信頼を貫ける存在です。彼らを結びつけたのは詞に対する信頼でした。
あるいは、西行における藤原俊成もまた、「友」かもしれませんね。また森鴎外と渋江抽斎も、この世では決して
会うことのなかった「無二の友」なのでしょう。
どうも要らざることを書きました。
ご健筆をお祈りいたします。
エッセイ通信三十五 西行をめぐって(三)は、まもなくお届けできると存じます。
七月十日 高田欣一
* 一つ二つだけ、E-OLDの会に出掛ける前に「私語」しておこう。
* 高田さんの 、「現代人は(わたくしも含めて)、孤独を必要以上に有難がる傾向があるのではないでしょうか。」という観測が、何に基づくのかはよく分からないが、わたしは異なる見解をもっている。
東工大等での、今も続いているかなり大勢の、それも生活の状況ではむしろ恵まれてある「若い人達」の、じつは「孤独」を有り難がるどころか、寒々と恐れている、むしろ恐れ過ぎている実情を、わたしはありあり思い出す。
大学内にいて、孤独・病気・兵役・貧乏の順が示す通りに、彼等は深刻に「孤独」を恐れていた。わたしは驚愕したが予期もしていた。彼等が社会に出て七八年、その度はむしろ進んでいる。
東工大より数年早くに接していた、早稲田大学で文学の「創作や批評」に勤しむ学生達の、書いて来る作品等にも、同じ傾きは露骨なほど強烈で、彼等は、孤独感を恐れつつ、その実は孤立感に恐怖していた。寒い風のように、いや冷えた黴のようにそれが文章をこわばらせていた。彼等は「友」を大勢持つようで、実はほとんどお互いに深いところで信頼し得ない様子が、あまりに多く、いつも、作品に窺えた。特徴的には、友情よりも「付き合い」で成り立っている人間関係であったからは、これも当然だわと感じとれるものが多々あった。
学生たちや若い人達だけではない。わたしの知る限りではあるが、わたしに通信してくる多くの大人の読者たちにも、「友」らしき付き合いはいくらもありながら「孤独」に「孤立」に怯えている人、少なくない。多いと云いたい。
「孤独」をもし有り難がっているような「現代」ならば、おさない子供達同士にまで、あのような犯罪や凶行が及んでいる意味を、どう掴めば良いのか。わたしには掴めない。その意味で、「友」のもつ意義や観点は、深いし、重い。
日本の社会では、「友」との関係があまりに軽薄すぎることは、むしろ常識であった、伝統的に。友情の信頼はいつの時代にも例が少なすぎる。秋成が雨月物語に書いたような信頼の「友」「友情」は、一般には意識すらも希薄で、古川柳など、明らかに、「親の闇 ただ友達が友達が」とすり替えた。友達とはむしろ社会的には「悪影響」の源泉かのように思い入れる世の中。「友情」という言葉の成立基盤を大きく元々欠いていた日本ではなかったかと思わせる。
まして、今では世を挙げて「付き合い」社会にしてしまった。その実情も、男女の公然当然な性的関係を容認する意味に、拡大希釈されている。だから「友」たる或る意味で最良の「恋」が、若い人達に成立しにくく、幸福をもたらさず、男女の相互不信がもたらす「結婚出来ない症候群」の蔓延と孤立・孤独感は、深刻に深いのである。
高田さんの「孤独」理解は、いささか「文藝的」に過ぎないだろうか。
* 今一つ、要注意なのは、「詞」への信頼、という鍵の表明。「ことば」でも「言葉」でもなく、「詞」と書かれている点をどう吟味するかはともあれ、あげられている良い「友」同士の「詞」の信頼は、もっと基盤深くで、彼等が、そもそも「ことば」なる魂めくツールが如何に頼り切るに値してくれないかの、深い絶望体験に基づいていることを、見忘れてはならないだろう。
ことばは頼りになるモノだとやすやすと本気で思っているような文学者は、むしろニセモノに近い。無条件に頼れる詞であるなら、それと格闘し、苦吟し、苦闘する必要はなく、「表現」に命を削る必要も薄い。頼りたくても頼れないと真実分かっていて、しかも駆使し表現する以外に「命生き難し」と思えばこそ、まともな文学者は悪戦し苦闘する。それを投げ出した書き手達が世に時めくのは、彼等の相手が、「ことば」へのほぼ無意識の安直信頼者たちだからであり、つまり安直読み物にしかならないのである。事実は示している。
高田さんが挙げているような人達は、「詞」への姿勢の厳しさや嘆息の深さにおいて、辛うじて、お互いにお互いが「分かり合える」という稀有の幸福の意味であろう。
2004 7・10 34
* 明日の参議院選挙のために建日子が帰ってきている。三時間ほど、いろいろと話す。云うことが少しずつ堅実に変わってきている。苦労はしてみるものだ。おおそういうことを云うのかと、ひそかに頷かせることもある。
「きわめて誠実だが堪え難き凡庸」は困るけれど、非凡な人の非凡な仕事には深く下りた根がある。太く、有る。根を養っていないと非凡も凡に乾いて行く。いつも自身のことを考える。
2004 7・10 34
* 千葉のE-OLDは昨日の展覧会で 仙厓の「布袋指月図」の飾り手拭いを買っておられた。「を月さんいくつ 十三七つ」 と。これは出光佐三の仙崖への「初恋」の作品で、佳いモノである。
お返事に少し触れたが、たとえば「茶道指月集」などとよくものの題に好まれるのが「指月」の二字で、たぶんこれは唯の風流ではない、禅の風儀であり諷喩である。みごとなメタファー(隠喩)である。
美しい天上の月。ああお月様と指をさす。月の存在を示す指先ではあるが、それは月そのものではない。とかく、月そのものをみないで、月よと指している指の方だけをみて「月をみた」と思いこむ。指し示す指に相当のただ指導書、啓蒙書を読んで、ただ聖典を読んで、真実に触れた真実に成り合ったと錯覚してしまう。ほんとうに月に達するには、ここから先の深みを瞬時に渡り超えて徹底せねばならないのだろう。
「指月」はそうであり、もう一つ図に題された「十三七つ」が、これまた広大な背景を蔵した歌謡なのである。それだけを題材にした民俗学・民族学の本がある。ただ日本だけに生まれて愛されている歌謡ではなかった。
愛らしい図であり歌であるが、仙厓の境地はさらに奥ゆかしい。
2004 7・11 34
* ある世界史的に最大といわれる近代の哲学者が、「哲学が役に立つのは、哲学など何の役にも立たないと云うことをハッキリ分かるため」、と言い切っています。ハシゴの最上段まで昇ることは哲学で出来るかも知れません。しかし真に大事なことは、ハシゴのテッペンより遥か先へ高くへ飛翔できるか(メタファーとして謂えば)です。
あれが明月です真如の月ですと指さすこと、それが「哲学」や「論理学」の限界です。しかし指している「指」が月ではない。「月」は、べつにある。「降参」「みこころのままに」「心身脱落」「不立文字」など、みなそれぞれにその辺に触れているのでしょうよ。
> 女のもっとも苦手な学問は「哲学」ですが、心にとめておきます。
これは浅い居直りのようなもので、エゴの分別です。後生大事に誇らかにエゴを抱きこんでやっと立っている。
そもそも「心にとめてお」くようなものを持たないのが、「降参」「みこころのままに」「心身脱落」「不立文字」ではないでしょうか。
とても佳いことを云いましょう。
E-OLDのお一人は、平均八十歳のボケ、半ボケ老人達とスキンシップのつきあいをしているお医者さんですが。
ある日、そういうオバアチャンの一人の手をじいっとにぎって、「おばあちゃんは、なにを考えていますかねえ」と話しかけた。ながぁい間かけて反応なく、それでも、「なんも考えてへん」と小声の返事。それから暫くしてオバアチャンからドクターが離れて立ってゆく、と、オバアチャンの低いひとりごとが確かに耳に入ったのです。
「考えてどうするねん…」と。
そのお医者さんも、聴いたわたしも、沈黙しました。おどろいたのです。おばあちゃんは「降参」し「無心」に近くなっている。ブッダにまぢかくなっているのではないかしらん。これは「哲学」ではない。「哲学無用」ですね。
2004 7・12 34
* そうかそうか、船便で送っている「お父さん、繪を描いてください」はまだ届いていないののだ、バルセロナには。その前に航空便にした何冊かの分が届いたらしい。小説らしい小説を書いた「畜生塚」は事実上の処女作かも知れない、私家版第一冊の表題作である。截金(きりかね)という伝統工藝をはじめて知った感動が動機になり、また身内に生えていた強い動機に催されて無心に書いた作品であった。上の意匠も、むろんわたし自身の好みから創った意匠であった。日本橋の三越百貨店本店に豪奢な「天女像」が出来た、あれを観たのも、タイムリーであった。
受賞後に「新潮」に発表したこの作品は、桶谷秀昭さんに強く称讃され、また亡くなった立原正秋にも人づてに讃辞を送られて、文壇になど出渋っていたわたしの尻を痛いほど叩いてもらった。
あんなもの、幾らでも書ける。しかし似たものを幾ら書いてみても始まらない。そう本当に思っている。
2004 7・13 34
* 或る人から、新聞に書きましたという文章を送ってもらったが、その元原稿のファイルが、機械で開いても読めなくて、困惑。
メールの本文には、何かしら、純文学と読み物とに優劣があるのではなく、良いモノが良いのだと云うようなことが書かれていた。それはその通りである。
同時に、読み物に、良い・優れていると言えるほどのものが、本格の文学作品との比較では格段に数少ないこと、良いと思えるほどの読み物にはめったに出会えないこと、は、確かなようだと、わたしは体験的に確信しているので、そう思うと、返事だけしておいた。だが、ジャンルが優先する、モノを言うとまでは考えていない。
「ペン電子文藝館」の物故会員・招待席の作品は、掲載分の殆どを、わたしが責任をもって選んでいる。招待席では、物故会員のでも、その人の最優秀作という目当てで選んではいない。問題作、異色作、力作、その時代において特異な作という風に選び、人に関しては、湮滅させ忘却されてはならない「人と作品」を大切に選ぼうとしている。そういう作業を二年半、やがて三年続けてきて、確信をもって云えるのは、「ただの読み物はつまらない」という一事である。筋書きだけでは、二度読む気もしない。
文章のファシネーションが魅力の光源になっていてこそ、文学で作品あり、「文の藝」である。その意味では、やはり読み物は段違いに劣ってしまうのである。
むかし、露伴の「連環記」を読んだとき、また鴎外の「渋江抽斎」を読んでいたとき、毎夜、その文体が夢に現れて、うねりにうねったことを忘れない。むろん作品を「読む喜ばしさ・嬉しさ」がさせた威力であり、魅力である。
それには、しかし、「読む才能と感性」も、大きくものを言う。それを忘れて貰っては困る。書いた文章の推敲もロクに出来なくてえらそうなことを言う作家・批評家では困るのである。そんなのが、文壇には有り余っている。
ただ「おもしろい」という、「良い」という、そんな単純な批評語だけを用いていても、お話しにならない。人により歴然とそこには差がある。ものの譬えにも、漱石より鴎外より直哉や潤一郎よりも、その辺の通俗的な一度読めば二度とは必要のない読み物作家の作の方が、「良い」「おもしろい」と言い切る読者たちもいるに相違ないし、それどころか、そういう読者たちの方が、遙かにその逆を云う読者たちより人数は多いはずである。つまり売り本にすれば沢山売れる。
しかしそんなこと、文学文藝の価値の優劣からすれば、問題にも比較にも成らない、ただのたわごとに過ぎない。
しかもなお、「ジャンル」として純文学が良いとは決して限らない。大衆読み物が良くないとも決して限らない。当然である。当たり前である。それは、「ジャンル」の問題ではないのだから。良いモノが良く、ツマラヌ物はつまらない。明白なことである。しかし、たんなる大衆読み物(エンタテーメント)にツマラヌ物の圧倒的に多いことも、論を待たないと、ま、言いたいところだが、そこまで押し込まないにしても、少なくも「ペン電子文藝館」の掲載内容からいえば、それは「明言」できる。異論のある人は、簡単なこと、読み比べて試みてみられれば良い。特に現代現存の会員等のものを。
読んでみて、有名であろうが無名であろうが、良いモノは良く優れていて、それが読み物作家であろうが純文学作家であろうが、クダラン物は実につまらないのである。有名や虚名は全く関係がない。著名な理事であろうが著名とは言えぬ会員であろうが、関係ない。
もろに、だれでも比較・吟味・批評が出来る。それが「ペン電子文藝館」のすばらしい「土俵機能」である。読者は辛辣に作と作とを、作者と作者とを相撲取らせて、聡い行司役がおもしろく楽しめる。書き手はその審判を逃れられないのである、もはや。
ハッキリ言って知名の人の作品にも物足りない物がかなりまじっている、が、「電子文藝館」に出したのは、じつは力作でも代表作でもいい作でも「ないんだよ」などと言い訳をしてはいけない。そう言うのなら、自負・自愛の作を追加すれば済むのである。
自分で選んだ作品を、現会員は出す約束になっている。物故会員や招待席作品には、理由も確かに、わたしは責任をもつが、現会員の作品に責任は持てない。無審査であり、会員が会員の責任で出稿しているのであるから当然だ。
* 急によみがえってきた昔の思い出について、つらつらと考えてしまったりするような小説がいいのです。菊屋太麻子。ライター -後略‐ とあります。
春、松園展から帰って「母の松園」を読み、「猿の遠景」から「秘色」「蘇我殿幻想」。くぎりをつけて「罪はわが前に」を積み上げ、(上)を、くすぐったい気持で読み進めていたところに、伊能忠敬展。帰り途で、断然“部屋”と楊子(ヤンジャ)さんが懐かしくなって。そのうちに、「新作」が届きましたでしょう。
こンな贅沢で心地好い悩みは、謎ときだけの「徹夜本」にはありませんわ。
「100冊の徹夜本」というリストが、何年か前にありました。始めたきりすぐ行きづまり、未送信のままひからびそうなメールが一通ありましたの。
先日、タウン誌をぱらぱらめくっていて、「あっちゃァ! 先、越されたぁ」という文をみつけましたので、以下に一部書き写します。
* よい小説とはどんな小説でしょうか。
人によって違うのでしょうが、私にとっては、なかなか読み進まない小説がそうです。思わず寄り道をしてしまうような……。おもしろくて一気に読んでしまう小説も悪くないのですが、少し読んでは本をひっくり返して置き、前に読んだ別の本と結びつけて考え―― 囀雀
* 「湖の本」そのものが大勢の読者には単行本との二度買いなのである。それはその作家に「全集」が出来るときに、また「文庫本」になったりするときに自然そうなるのと変わらない。明らかに「湖の本」はいまでは著者自編の作品全集として進行している。
こういうケースは、かって皆無であったのではないか、これは趣味の出版でなく、ごく特異な市販本なのである。読者が維持して下さった本である。十八年続き八十巻に達したのは読者の皆さんから戴いた勲章にほかならない。わたしはよろこんで自讃したい。
2004 7・16 34
* だれもが、多少の差はあれ「生き直してみたい」願望はもっているのだろう、妙な譬えだが人生を「校正」できればいいのにと。そうは行かない。生き直すには現在只今からしか可能ではないが、若い人に似合う言葉ではなく、中年過ぎた者の嘆息のようなもの、ましてのこり少ない老境の者にそれはつらい覚悟である。
「冬子さん」とはわたしの『冬祭り』のヒロインで、作者が「慈子(あつこ)」にもおとらず愛した真実優しくて聡明な未生の女である。幻影であり実存であった。生前の愛を死後の限られた時間に男と「生き直した」と云えば云える女であった。しかも男の尤も恐れているモノの化身ですらあった。化身は男とのなかに子をさえ産んでいた。
* 誘い出されたように、わたしは、秘するが花の問わず語りをしてしまおうとしている。
* 時系列でいうと、わたしの処女作は「或る折臂翁」とそれを書いていた間に書いた短篇「少女」であるが、こういう小説が書いて行けるであろうと「覚悟」をもった最初の小説は、「畜生塚」であった。
わたしは、いわゆる私小説は書こうとも書きたいとも思っていなかった。しかし、初心で、師も仲間もないわたしに作品世界の或る程度のリアリティを保証してくれる基盤、仕組み、仕掛けのようなものは、欲しかった。絵空事を書くのなら、逆に絵空事とは思われない世界の組成を工夫しておかないと、不安であった。
それで、家庭を書く場合、語り手家族にわたし自身の家族の実名を使用した。妻も、姉娘と弟息子も。ただし息子はもっと後に生まれたので、初めのうち語り手の家族は妻と娘との三人。そして京都の実家にもリアルに父と母と叔母とがいて、この基本をフルに「利用」した。何のためにどう利用したか。
わたしは、家庭という社会的な契約基盤にだけ根の生えた物語では、目がまだ一目しかない碁の勝負のようなものだと思った。それで、「畜生塚」から「雲隠れの巻」をへて「斎王譜(=慈子)」へと書き進むうち、わたしの「語り手」のために、一つの特異な「過去」を与えようと思った。
妻(子)ある男は、過去に、妻でないべつの女をも愛していて、子をすら妊らせまた生ませ、さらにその女にも子にも、死なれ・死なせていて、その女達との現世の断続する共生を運命づけられている、と。
これがわたしの「不壊の値をもつ絵空事創作上の大設定」になった。いい読者であれば、直ちに頷いて、その作品の系列を次々に挙げてくれるだろう。新聞小説『冬祭り』が単行本になったときも、野呂芳男氏は、新聞の批評でこれを「名作」としつつ、また今後に冬子が法子が、どのように作者の世界に蘇ってくるかを待望したい、と書かれていた。
創る小説の幅や奥行きが、普通の身辺私小説のように狭く縮かんで痩せがちになるのを、わたしは、この設定で防いだ。それだけでなく、この設定により、人と人との関わりの本質を「身内」の思い・思想にもちこみ、人が生きるのは現実だけでなく、もっと神妙な他界との交渉をもっているとした。
しかも、そこに「性」の苦悩もかかわると。さらに時空を自在に超えて走り回れると。それだからこそ真に美しいモノ・コト・ヒトに対しても希望が持てるのだと。反現実的、反社会的、反政治的な没入になるだろうが、それはそれで構わぬと考えたのである。
わたしが、『死なれて・死なせて』という思いを一つの文学上の主題に据えていたのは、こういう意識からであった。作品世界では、わたしの主人公=語り手は、露骨に云えば或る「殺人者の立場」を引きずって生かせられていた、そんな「凄い立場」を引き受けていたのである。
ただ、女たちを嫌い憎んで死なせていたのではないのだった。『清経入水』では紀子(女)や和子(娘)を畏怖して逃げていたが、終幕ではかぎりない懐かしさと愛とに思いを深くしていて、それが『みごもりの湖』やことに『冬祭り』では、ひしと結ばれた相愛になっている。死んでいる女の愛が生きている男に、現世をよく生きよと励ましている。そのために冬子は「生き直し」に現れ出ている。冬子はもう一度、またも『四度の瀧』の京子になり姿を見せている。
そして、また……老境の作者に「性」の問題を突きつけてくる、とびきり新世紀的なかかわりかたで、紀子や冬子や京子が「生き直し」に顕れる予感がある。すでにもうそこまで来ているか。
2004 7・22 34
* 東京の「小闇」が「闇に言い置く」私語を休止して、もうだいぶん経つ。休止そのものには大闇は賛成した。才能の小出しになるのは惜しかったから。何かしら「他」の方面へ、書く意思と意欲とを振り替えたいという話だった、それは私の思いと一致していた。「私語」の聞けないのは、日々の楽しみであったから大きな寂寥感はあるけれど、新たなどんな挑戦の結果と挑発とで再登場してくるか、わたしは、じっと待っている。
まったくおなじ事が、バルセロナの「小闇」にも言える。彼女も書いて考えているさなかである。
はやりのブログに、わたしは必ずしも全面共感はしていない。とくに若い人達のものには。蓄積すべき「時」の、空気漏れのようなブログは、かなり自慰的な小出し現象に堕して行く危険もあるからだ。ブログは、これまた、むしろE-OLDのものだと言いたい。
2004 7・25 34
* 早春譜「下」は、書き始めてまだ本の少しで中断し、推敲も未了としてあるが、わたしとの出会いの場面もある。自分が人目にどう映じていたかなど、誰もそうそうはこうして知れるものでないから、うわッと思う。なるほど、そういう思いをわたしはどれほど人にさせてきたことかと、今更に恐縮する。
わたしの『客愁』では、友人達も大事な人達もみな仮名で通したように記憶しているが(記憶違いかも知れないが)、この作者は、自分一人は仮名に、他はすべて「実名」としている。それで、わたしには実に分かりやすい。
* クリーム色の光沢を放つ化粧煉瓦を張りめぐらした弥栄中学校校舎は一階から始まって上階へ一、二、三年生の各クラスが入る。誠は学年に五組ある中の二組にクラス分けされていた。
新学期の第一日目が始まる。わが教室はここかと見定めて入室すると授業開始にはまだ時間があり、運動場に面して開いた窓際に三人の生徒がたむろしていた。いずれも見知らぬ顔でどうやら有済小学校から進学してきた連中らしい。テレ半分の曖昧な笑顔で近付くとそのうちの一人が愛想よく声を掛けてきた。その後、半世紀を超える付き合いとなる秦恒平との出会いだった。人懐っこい笑みに両八重歯をのぞかせて秦が口数の少ないあとの二人を辻幸男、大野耕太郎と紹介してくれた。けっこうおしゃべりと見えて秦がこう続けた。
「一時間目は国語やけど、この寺元先生ちゅうのは有済校から来やはったんゃ。最初に手ぇ上げて本(教科書)読んどくと覚えがようなるで」
授業が始まると、前言に違わず秦がひるまずいちばん先にさっと手を上げた。ためらいなどとは一切縁のない外向性の少年と見える。ひきずられる形で誠が二番手に続いた。
学業全科に優れ、何かにつけて目立つ存在の秦のことを有済校時代から同級だった女生徒たちはなぜか「宏一(ひろかず)さん」と呼んでいた。宏一から恒平へ・・・その改名に小さな疑問を抱かぬではなかったが、誠は穿鑿するでもなく、自分とはおよそ性格の異なるこのクラスメートを新しい友人の筆頭に数えていた。
それからというもの、秦は週に一、二度の頻度で柚之木町の誠宅に顔をみせるようになった。いつも大きな大人用の自転車にまたがり、現れるたびに「なんか、本、持ってぇへんか」と僅かに残った我家の文芸作品を次々と借り出していった。実のところ、戦前の文学作品を揃えていた読書家の兄の書庫は既にほとんど空に近い寂しさだったが、それでも復員後に改めて買い求めたものだろう、まるでザラ半紙に辛うじて印刷のインクが乗ったような河出書房版「川端康成全集」や、姉の蔵書から佐々木邦のユーモア小説などを選んで荷台に積むと秦は意気揚々と引き揚げていった。川端全集は「伊豆の踊り子」のほか「禽獣」「花のワルツ」「十六歳の日記」などの小編を収録していた。
* ハッハッハッと笑ってしまうしか収まりがつかないほど、さもあろうなあと納得する。「誠」君はまさに個対個で見ているから、前後左右へひろがり拡がっているわたしの世界の全部はとても見えていない。人が人を見るとはそういう営為である。
(一)他人も自分も知っている自分、(二)自分は知り他人は知らない自分、(三)他人は知り自分は気付いていない自分、(四)そして他人も自分もまだ知らない自分。
この四つで「自分」は出来ていると、東工大の教室で、学生の一人が書いていた。受け売りかも知れない。が、わたしもそれをときどき使う。
云うまでもないが、自分では、(二)の自分 をいちばん自分に近いと考えているものだ。そして(三)にも少しずつ気付かせられて、ヤバイなと自覚するものだ。分かりの良さそうな(一)は、存外に誤解に近く、自分の自分像と他人からの自分像とは逸れたりズレたりしているもので、アテにならない。付き合いの上での妥協像が此処でかなり捏造されるものだ。
いちばん大事なのは、無論(四)であり、まだ中学高校大学ででも、みな、銘々にこれを「可能性」の名において所有している。その暗闇の可能性をうまく引き出せるか、そのままに死蔵してしまうかは、その先の長い人生にものを言うだろう。中学時代にこれがみんな外へ出てしまうことは、天才かそれだけの者かどちらかであろう。晩成の人はこのあたりでは、とても「自分」を小出しにしかしていないものだ。
どんな時期にも、(三)の自分を他者から気付かされるのは、コワイものである。しかし勝れた人がそれを見つけて教えてくれるという教育は、此処の自分に関わってくる。ここで謙虚でないと大きく成らない。それはまた(四)の自分を掘り当てて光らせることに繋がる。
その意味で、自分のことは自分にしか分からない、自分のことは自分だけが知っている、一番よく知っていると言いすぎる人を、あまり信用しない。そんなことは、むしろ有り得ないと思っているし、それでは(四)の自分が、よかれあしかれ、現れてこない。
* さしあたり「上」を「e-文庫・湖(umi)」に入れたいが、それでも、配慮を要する表現や個所に少し手をかけざるを得ない。
2004 7・30 34
* 明日は隅田川の花火。今年も太左衛さんにお招きを得ている。花火の季節が来ると、「死から死へ」を書いていた頃を思い出す。
2004 7・30 34
* 最近度肝を抜かれて、それを読み合って妻とも驚いたことがある。ある短歌雑誌の中で、主宰が、会員に、電話で呶鳴っている言葉がそのまま録されていた。短歌に向かう姿勢を叱咤し激励し、面罵とは電話のことであたらないにしても、それに近い。「君は何のために歌を作っているのだ。誰のために作っているのだ。自分のためではないのか。短歌を通じて己を高めようとしているのではないか。」結社のために歌を作るのでは結社がつぶれたら君も潰れてしまうではないか、見下げはてた野郎だ、だから君は駄目だ、けち臭い。「文句があるなら顔を洗って出直してこい」とある。
この大方にわたしも異存はない、ただ一つ所、「短歌を通じて己を高めようとしているのではない(の)か」に驚いた。
この言句中の「短歌」を「小説」と置き直してみて、世にいろいろの小説を書く人達が、「己を高めようと」書いているかどうか、反射的に比定して、いやまずわたし自身を省みて、びっくりしたのだった。
わたしは小説の前に熱心な短歌制作者であったし、歌集もあり、幸いに愛読者たちにも恵まれてきた。短歌に関して、「自分のために」作っていたのはその通り、当然だと思う。誰かのために作ってなどいなかった。しかしまた「己を高め」ようと「短歌」を作っていた記憶はさらにない。「小説」を書いて「己を高めよう」など、まして考えたことはない。「見下げはてた野郎」だとわたしも呶鳴られるのだろうか。
2004 8・1 35
* 朝書いていた問題に戻るが。
「短歌を通じて己を高めようとしているのではない(の)か」に驚いた。この言句中の「短歌」を「小説」と置き直してみて、世にいろいろの小説を書く人達が、「己を高めようと」書いているかどうか、反射的に比定して、いやまずわたし自身を省みて、びっくりしたのだった。
少なくも、書こうと思う、創ろうと思う最初の意図や動機にそんな意識は無かった。書かずにおれないモノがあるから書いた、創った、自分の為というほども「為に」は書かなかった、書きたくて書いた。
たしかに高いとか低いとかいう境地はある。「丈高い」創作と「気の低い」創作とがあり、気の低い、書いて恥ずかしいようなモノは敢えて書かない書きたくない気持ちは、わたしの場合とても強い。「己を高める」つもりはなくても「己」を低くはしたくない。それは、ある。
しかし創作が奉仕するとすれば、それは動機(モチーフ)に対してただけでは無かろうか。そう思って、この歌人先生のさながら修道的な言説にわたしは驚いた。
さこからまた「太鼓たたいて笛吹いた人間が反戦意識に目覚めるのと、信綱、茂吉、晶子といった立派な歌人たちが戦争賛美の歌を詠みつづけ、知らんぷり? していることと、どちらが罪深く、人間として誠実なのだろうか、と」という委員の提起に向かってみて、まず「人間としての誠実」ということに立ち止まりたい。
創作者(という人間)の「誠実」とは何だろう。依頼され約束したら期日までに書き上げることだと思っている書き手もいよう。思想信条の揺るぎなさだという見方もあろう。
そもそも創作の前に「人間としての誠実」が必要なモノかと考える余地もある。
はからずもわたしは「お父さん、繪を描いてください」に、二人の創作者(繪・小説)を書いた。繪の方が主人公であったが、この画家は、「誠実ではあるが堪え難き凡庸」を痛切に排撃していた。この言葉は、おなじような創作者であるこの作の読者達を極めて激しく打ち据えたように感じている。
誠実が問題ではない、凡庸が問題なのだと、創作者には。
わたしは、これに同感している。
* 娘がもう生まれていたかどうか、一夜、夫婦で大げんかになった。島崎藤村の、その自費出版の犠牲で幼い子達やついには夫人まで次々亡くなった「破戒」や、姪との度重ねた肉体関係を告白的に新聞に書いた「新生」等をめぐってである。
それでもその作品は有り難いというわたしに、妻はケシカランと、かんかんに怒ったものだ。妻の思いは芥川龍之介らをはじめとする書き手の藤村批判にちかかった。わたしは、創作者の業であり運命であり、作品の命が問題だが「破戒」も「新生」も生まれてくれて良かったという考えであった。藤村が誠実であったか無かったかなど問題ではない。そう今でも思っている。誠実ではあるが堪え難き凡庸こそが問題だ、と。
斎藤茂吉の「神軍」という歌集をわたしは所蔵している。完全な太平洋戦争と日本軍讃歌の集であり、それについて書いたこともある。だが、それゆえに茂吉の人間的不実を語ろうなどとは思わない。茂吉の短歌にはげしく高揚した、震動した少年・青年期の感動・歓喜をこそ思う。茂吉が人間として誠実であったか、彼が「己を高めよう」として歌を創っていたかなどとい詮議にはほとんど意義を感じない。作品があり、時代により動揺した、それもまた茂吉なのであり、茂吉の戦後はまた「神軍」制作と拮抗して精一杯の人間的バランスを取っていたのである。決して茂吉は「知らんぷり」などしなかったのだ、それは高村光太郎も同じである。与謝野晶子のいわば針のブレも、彼女のひたむきに果敢な充実した業績の総てにおいて観るべきであり、晶子の真実は作品により業績により読み取れる。人間的誠実など問題ではなくと言いたいほど、晶子は作品を多く積んで、それにより読者と文藝に酬いている。
劫初より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の針一つ打つ(晶子)
という創作者の非凡な気概、それだけで好い、創作者は。わたしは、そういう考えなのである。まして「罪」なんてものは無い、勝れた創作者の自己矛盾などに。当然ありそうな属性の一つや二つに過ぎない。
ふつうの生活者の社会的常識からすれば、啄木でも芥川でも川端でも太宰でも三島でも、ほとんど「お友達にはしたくない」変な、はた迷惑な人間たちであったろうが、それでも日本文化のためには彼等が創作してくれてよかったと断言できる。確実に言える。それで足る。
従って茂吉や晶子等のある種の逸脱と、撞着や矛盾とみられうるような創作に関連して、電子文藝館の一委員のいわく、「だれであっても、その時代の流れのなかにしか生きられないあさはかさ、かなしさを、つくづく思うしだいです」というような感想を、わたしは持たない。創作者はみな、「今・此処」を懸命に生きるのであり、前後の撞着や矛盾もまた魂の発現と、覚悟の上で創作する。
それは人間としての誠実さ不実さで現れるのではない、創作そのものの出来不出来として顕れている。許す許されるの問題でもない。ましてや言われるような「あさはかさ、かなしさ」という卑下や非難とは毅然として無縁である。読者は、自由に接して取捨していいのである。それは読者の問題。彼等創作者がいつも真実恐れたのは、何時の場合でも「誠実ではあるが堪え難き凡庸」だけであったろうし、そうありたい。
* ま、この辺にしておく。
2004 8・1 35
* 「夜の蝙蝠傘」が文藝館ではまだ読めないようです。岡本かの子「家霊」芥川龍之介「一塊の土」堀辰雄「ふるさとびと」読了。
岡本かの子、芥川龍之介、さすがです。短編とはこうあるべきなのですね。お見事と深い深いため息をついているところ。「ふるさとびと」は一読してやや散漫な印象でした。病状が悪かったのでしょうか。
作品選びの切れ味に脱帽です。作家の力比べをしています。これでは現役の作家の方々はビビリますでしょう。 電子文藝館の読者 1
* 私はあまり迷わずに、岡本かの子の「家霊」のほうに軍配をあげます。この二作の比較に限ってのことですが、岡本かの子は豊かで濃厚、林芙美子はどこか貧しく薄いと感じました。この二人の育ちのちがいというものだけではなく、人間性や文学観のちがいで、私は豊饒なもののほうを好むということだと思います。
林芙美子の「夜の蝙蝠傘」は面白く読みました。改行のない文章には驚きましたが、書き出しなどじつにうまいなあと感心しました。この作品ももちろん私にはお手本の短編です。
冷めた夫婦のやりきれない雰囲気がよく出ています。腐った人生、煮え切らない男の一風景がねちねち描かれていました。でも、オリジナリティーに欠ける、どこかで似たような話を読んだという印象を受けてしまいます。記憶がまちがっていなければ、私は昔読んだ、戦後の生活を描いた椎名麟三作品などの薄まった感じを思い出しました。
岡本かの子の作品には潤沢に溢れるもの、より強い個性の輝きを感じます。女流の持つ花もあり、よさも出ています。文体も艶があり好きです。泥鰌の食べ方など秀逸だと思いました。
岡本かの子にはその文章や食べ物の扱い方に谷崎潤一郎の影響などを色濃く感じますが、心酔していたのでしょうか。よく影響を取り入れたと思います。
林芙美子のように、同じ生活の桎梏をテーマとしていても、かの子には救いや明るさやユーモアがあります。作品のイキのよさもこちらのほうが数段上かと思いました。
瀬戸内晴美の「かの子繚乱」は大変面白くて、夫の他に愛人二人と同居生活をしたというかの子という人物には興味がありましたが、作品は食わず嫌いでした。林芙美子のほうも放浪記の印象が強すぎて読んでいませんでした。しかし、まあどちらの女流文学者も、大したものです。あらためて、不勉強を恥じています。佳い読書の機会をお与えくださいました。 電子文藝館の読者 2
* 読者としての好みからも、かの子勝 としたのはイイと思うけれど、芙美子の読みに不確かなものも残っている。朝からも関わっているように、いま「ペン電子文藝館」委員会では、この作品が「反戦」作品として読まれていいのでないかと議論が起きている。この短篇の芯が、戦争で奪われた「脚」一本に置かれているという読みである。ただの冷えた夫婦ものではないオリジナルが、奪われ失せた「脚」の、本来そこに在るべきであった空虚空間自体のむずむずした痒さ。その辺に戦争の痛みもひっかかっている。モノを言っている。
芙美子が、妻の「町子」側から書かず、わざわざ良人の英助から書いているのは、「巡査」との場面が書きたかったからかも知れない、ここの会話は重要だ。作品の真実感を成している。ありそでなさそなリアリティーを把握して好い表現をつかんでいる。
芙美子もかの子も手垢の付いた表現をしていない、全く。文学の香気。放浪記の女と大個性の女とのちがいはあるけれど、芙美子も勝れている。此の読者の判定で「かの子勝」に異存はないが、「持」に近いか。「数段上」とまでは思わなかったが、こういう鑑賞の仕方も読者には自在に許されている。
2004 8・1 35
* 画期的日付の一つになったのかも知れない。秦建日子が「初めて」父親の小説を読んで批評してきたのである。
* 建日子です。暑い日が続きますね。
「お父さん、絵を描いてください」読了しました。
ガキの頃に、ちんぷんかんぷんなまま「清経」を斜め読みしたのを除けば、真剣に父さんの小説を読んだのはこれが初めてかもしれません。親不孝な話ですみません。
感想は―――書きにくいですね。今の私に一番興味深いテーマであり、また、細部にドキリとするリアリティがあって、非常に胸痛く読みました。
と同時に、しかし、共感・賛同できない部分も多く、複雑な思いにもとらわれました。
最近、私は、「俗な成功に何の意味があるのか」ということをよく考えます。
と同時に、「芸術家を目指すことに、何の意味があるのか」ということもよく考えます。
すべては、コインの裏表であり、人生が滑稽なものであることに変わりはないのではないかと。その滑稽さを甘んじて受け容れたうえで、人はどう生きていくべきなのか、と。
「お父さん、絵を描いてください」には、「俗な成功にはたいした意味がないが、芸術に身を捧げることには意味がある」という大前提で小説が紡がれているように思え、その「硬直さ」が、私の心に今ひとつ染みなかった一番の理由ではないかと思います。
私としては、あの画家に、小説家に、せめてそのどちらかひとりに、自分らが人生を捧げている「芸術」というものへの懐疑が少しでいいから欲しかった気がします。
また歳を経てもう一度読むと、違う感想を持つのかもしれませんが……
では、続きはまた保谷にうかがったときに。 建日子
* いい批評であり、建日子から出て来て十分頷ける視点である。
* 以前にも、ジャクリーヌ・ビセットとキャンディス・バーゲンの映画、題は「ベストフレンズ」だったか、に触れて、この映画か原作かの原題、「リッチとフェイマス」について、書いたり話したりしたことがある。
リッチとは、俗受けの、金と大量とにつながる成功者のことであり、キャンディス・バーゲンはそういう読み物作家として華麗に生活していた。フェイマスとは金にも大量にも容易に結びつかないが、敬愛される藝術家の意味で、ジャクリーヌ・ビセットはそういう小説家だった。ジャクリーヌは親友キャンディスが泣いて欲しがる評価高い「賞」の早くの受賞者であり、今は選者でもある。
どちらが良い悪いの問題ではない、人生の選択に過ぎない。
* 建日子がまだ中高校生だったある日、芥川賞を受けていた某作家が、或る夕刊新聞に、おっそろしいポルノを常連で書いているのを知り、「本人、恥ずかしくないのかなあ。家族は、さぞ、恥ずかしいだろうなあ」と言った。「あんなこと、よく書くなあ」とも。他にも、似たことをしている元純文学作家が、少なくも一人二人もいて、すでに著名なリッチであった。
わたしは、その人達の純文学上の仕事も少し知っていた。「事情」もあるのだろうし、出来ることをしているだけさと、他人のことであり「判断中止」していたが、建日子の率直な感想から、もし、父親であるわたしが同じようなことをして稼ぎ出したら、やはり息子として「恥ずかしい」と思うんだな、「そんなことしてくれるなよオヤジ」と言いたいのかなと、感じた。ま、そうは思わせてやりたくなかった。
リッチな仕事に走り出すか出さないかの意志決定には、わたしの場合なら、それを「will not」だけでなく、「can not」の場合もあるのを認めめねばならない。たぶん、わたしには「出来ない」藝当だろう。
だが、長い作家生活の間に、もし二者択一せよとあらば、躊躇なくフェイマスを志望し、どっちにしても「恥ずかしい」ようなリッチには、「can not」よりハッキリと、「will not」だった。
むろん本は売れて欲しいし、読者も多いに越したことはない。今度の作品にも書いているが、それを考えない創作者はいないだろう。
その上で、わたしは自分の物書き人生を、願わくはフェイマスにと期し、かつ決心していた。というより、少年時代に、源氏物語や百人一首や漱石や藤村や潤一郎や茂吉や白秋を読んでいて、それ以外に考えようがなかった。
* だが、それは「我が事」であり、他人がリッチであれ、恥ずかしい垂れ流しをいくら書いていようと、その人達の身過ぎ世過ぎであり、わたしの知ったことではないとも思ってきた。尊敬しなかっただけのこと。
それに対し、真にフェイマスな創作者には、作風の違いなど度外視して「尊敬」し「信愛」した。その具体的な表れが、まちがいなく現在進行中の「ペン電子文藝館」、その「招待席作者」や「物故会員作品」へのわたしの深い敬愛に、如実に示されている。「湖の本」に見せてきた姿勢も、また、同じこと。
建日子はそういうオヤジの姿を、とにもかくにも見続け感じ続けて、いま、劇作や、テレビドラマ作家になっている。わたしが、彼に恥ずかしい思いをさせつづけて、わたしの日々をそれ故に軽蔑し慨嘆していたのなら、彼は創作への道には踏み込めなかったかも知れない。少なくも息子の反面教師としてわたしは或る意味頑固な存在であり得たかとやや自負している。違うかな。
* わたしが、リッチ系の作品にもたくさん触れてきて、いっぱいの「時間つぶし」にも熱中してきたことは、ゴマンと家に積まれた海外ミステリーやサスペンスの文庫本だけでも、証言している。映画なら、もっと露骨にわたしは二流三流の娯楽作品でも観てきた、建日子ですら呆れるぐらい。通俗ものには、それなりの効用のあることをわたしはよく知っているし、否定したこともない。小説家として、物書きとして、自分からはそれに手を染めないだけのことである。
* では「藝術」「藝術家」を高く評価して「懐疑心」をもたず、わたしはそれ故に「硬直」していたのだろうか。判断は人に委ねるしかないが、次の二つは言っておきたい。
* 七十年近く生きてきて、勝れた多くのジャンルでの「藝術作品」と出逢ってこなかったなら、わたしの人生、どんなに味気なかったろう。そんな勝れたものが、ほんとにそんなに沢山あるものかと反問されれば、日本のと限っても、かけがえのない藝術作品の実例を、多くのジャンルから、すぐさま百も百五十も挙げられる。何でもない。海外の文学からも美術からも、数多くの素晴らしい作品に出逢えた、魂を養ってもらった。その感激と感謝はジンジンと鳴るように今現在も身内に生きている。
* 建日子は、「藝術」「藝術家」に対して、おやじに一抹の「懐疑」はないのか、それを書いていないのが不満だと言って来ている。
昨日の「私語」の「誠実」云々にも関わってくるだろうが、それを措いても、こんな風に言える。
勝れた「藝術作品」への愛好や信頼は動かない。いわば持って生まれた生理のようなもので、懐疑以前のものだと。しかし、「懐疑したい」「拒絶したい」藝術への態度・姿勢というものが、一般論として厳に存在するとも、わたしは思っている。
あの「山名」画伯のように、「藝術」なる観念を尊ぶ余りに、「藝術」意識を概念的につつきまわして、あげくドツボに陥ちて行くのは、明らかに「硬直」であり、「懐疑」せざるを得ない。そういう非難・批判の気持ちが、わたしにはいつも有る。リクツで「藝術」をいじくり回すのはイヤだということ。わたしが「美学藝術学」という晦渋に過ぎた学問よりも、「書かずにおれないものを書きたい・藝術小説家」をめざして、大学を捨ててきた理由はそれだ。
* そして最後に、もう一つわたしの足場をさらけ出すなら、わたしは、人生も藝術も政治も、そして人類も、地球も、決定的な終末・絶滅の時を待って、そこへだんだん近づいているという、いわば科学的な理解も一応持っている。しかし、そんなことより、もっと決定的な「懐疑」と「諦念」とをわたしは、この現世一切に対し、持っている。
自分のしている一切が「夢」そのもので、そこから醒める瞬間を自分は渇くように待っている、ということ。つまりは、夢と知りつつ、だからこそ夢が夢である間を楽しんで、しかし「早く醒めたい」とその時を切望し待っている、ということ。ぜーんぶ、どうでもいいことと思っていつつ、演戯として、自分はこのまま藝術家を演じていようかな、と。それにすら特別の拘泥はしない、と。「今・此処」の生に自然でゆったりとした「楽しみ」有れよ、と。
それは、あの「お父さん、繪を描いてください」の作中「作家」の思想ではないかも知れない、が、作者である秦恒平の思想であり、その思想だって「夢」に過ぎない。そう、思いつづけている。
「闇」に言い置く、みーんな、花火のようなものさ、と。
* 建日子が保谷へ帰ってきたときの、また楽しみができた。
建日子は自作のどの一つ残らず、わたしに「観て」欲しいと言ってくる。残らず観てきたのである、わたしは。
しかし彼が告白しているように、全くとは思わないけれど、殆どわたしの書き物を彼は読んでいない。わたしが「清経入水」を書いたとき、建日子はまだ生まれて間なしであった。その後「父」として三十数年批評はして来ても、「小説家」秦恒平のことはまるで識らないできたのである。わたしの元気な間にこんな「批評」が貰えるとは、とうに諦めていた。
(昼の食事に呼ばれながら書き飛ばしていた。いま、少し文章として見直しておいた。) 2004 8・2 35
* ニューヨーク公演の大成功を持ち帰った中村勘九郎の「自己評価」に、文句をつけているコラム記事をみたが、この筆者のセンス、ボケている。勘九郎の称えている「江戸」の風情に勘九郎自身が反して、「自慢」も甚だしい、と。
ニュヨークでの平成中村座の成功は、歌舞伎の歴史に確実に残るのではと彼の云うのを、わたしなど、むしろまっすぐ称讃した。歌舞伎のためにも彼の苦労のためにも祝福した。それだけのことを、やっている。
本当に言いたいことは、他人の口を借りずに、自分で言えば宜しい。彼の中村座は「平成」中村座で、何百年も大昔の「江戸」浅草の中村座ではない。現代の最先頭で沸騰している伝統を、彼は、また少し前へよいしょと精魂込めて押し出した。本人がその意義をいちばんよく体感している気なのだ、当然だ。
言うべきは言えば宜しい。それが「今・此処」を自然にゆったりと、且つ精一杯生きている証明だ。政治家の自慢はアテにならない、陰でこそこそやっているから。しかし勘九郎の企画と実践は、天下公開。舞台を奥深くぶち抜いて、ニューヨーク市街からニューヨーク市警のパトカーや警官達が、舞台「浪花」の暴れ男どもを追跡し観客の目の前へ突っ込んでくる、そんな公開ぶりだ。まさに歌舞伎の「夏祭」り。その演出が、観客総立ちの歓迎と称讃をえた。なにも、へんに謙遜し卑下してかかる必要はない、それではイヤミだ。
イチローや野茂のような寡黙に精励するタイプも大いに好ましく、勘九郎の陽気な「花」気分も、わたしは大好きだ。彼はそう生きて佳い有資格者だ、フアンは絶対的に支持している。国際感覚に徴しても、謙遜の美徳とともに、すべき自己主張は晴れ晴れとすればよろしいのである。むしろ、それをしないから世の中が変に捩れてくる。
兼好法師でもちゃんと「自讃」している。
「江戸」の学者は、当然褒められ認められて然るべきに、人が褒めねば、さっさと自身で褒めるのを「自讃」というのだ、と。少しも否定していない。いわれなき「自慢」とは異なるのだと言っている。勘九郎のは適切な自讃であり、今後の発展に責任をも公言した重い自己主張であり、趣向に富んだ企画者のセンスである。歌舞伎ものとは、もともとそうでなくては生き延びられなかった。誰が助けてくれるのでもない、彼らは自力でやってきた。政治家のような、滑稽で愚劣な自慢は願い下げだが、自賛できる何を自分は持っているかと問い直している人もいるだろう。
自賛も自慢もない、無為自然の、自然法爾の日々の尊いことも、又、自明ではあるが。
2004 8・3 35
* こんにちは。昨夜の酒の肴のお味はいかがでしたか。
今日は少し陽射しが弱まっています。昼食のあとに郵便局など近所の用事をすませてすぐ帰宅する予定。家の中の雑用が片づかないので、今日は気合をいれて頑張ります。
二つ質問です。
* 写真も見せてもらった。谷崎の絶賛が「わかる」美貌である。祇園の藝妓にはこういう感じの人が何人もいたと思う。クラスメートの母親も、背丈のある見るからに位のたかい祇園の藝妓だった。うちの東町に住み、そこから我が家の西の抜けろうじをとおってお座敷へ出ていた。都踊りで忠臣蔵ものだと、籤とらずのように由良之助の役をしていた。旦那は鴻池だと息子は自慢していた。
時々この「籤とらず」という言い方をなさいますが、私の知る限り当地ではこのような言い方を聞きません。広辞苑にも出ていないので、言葉の意味、ニュアンスといったものを教えていただけませんでしょうか。
それから、もう一つの質問です。「旦那は鴻池」という自慢は当時の祇園独特のものですよね? 祇園以外の京都の庶民感覚ではこういう「旦那」をもつ女に対して、軽蔑のような評価、陰口などなかったのでしょうか。
「祇園の子」で甲部と乙部の間の格の違いなど描かれていました。しかし、もう少し世間を広げると、祇園の甲部も乙部も関係なく祇園そのもの、藝妓自体への蔑みはどの程度あったのか、なかったのかお教えいただけると幸いです。
とても気になることなのです。
* こういう質問が来るのではないかと予感があった。
* 祇園会の鉾巡幸では、まいとし神意をうかがう神事の籤引きがあり、それで数ある鉾行列の順番を決めているが、稚児を乗せた「薙刀鉾」は籤を引かずに例年第一番の先頭を堂々巡幸する。「籤取らず」に決まっている。京の大人なら無意識にも常用してきた言葉で、「広辞苑」等が挙げていないのはむしろ杜撰であろう。
* さて祇園の藝妓と旦那のことは、わたしとて通ではない。ただ、祇園と抜けろうじ一本で背を合わせた新門前通りで育ったし、新制中学は祇園花街の真ん中にあって通学していたのだ、知識でなく肌身に感じていろんなことを覚えている。なにしろ戦時下の国民学校=小学校に入学したたちまちから、教室の中で男の子等は「好きやん= 好きな相手」を物色するようなしないような、けしからんかどうかは知らないが、そういう心的環境に相違なかった。国民学校時代はとなりの祇園町の学校は異国なみであったにせよ、親たちとの日々では、いやも応もなく祇園はご近所でありお馴染みであった。秦の父は若い時分御茶屋の台所にいすわってくるような道楽者で、母を泣かせていたという、聞いただけの話だが。わたしが貰われてくるより昔のことだ。
親たちは祇園の、当然ながら甲部の方の藝妓の名前など知っていた。母は、そういうことにかけてはミーハーで、皇室の閨閥も、祇園の藝妓の噂も、文士達のスキャンダルも、きれいに平均して、ぽろりぽろりとわたしにも喋った人だ。俗っぽい耳学問は父よりも物知りそうな母から来ていた。
* 戦後の、祇園町に新設された新制中学に通い出すと、今まで以上に地域の極めて独特なカオスに驚いたものだ、それを此処では蒸し返さない。『丹波』『もらひ子』『早春』などに、その他『祇園の子』や『風の奏で』などに出て来るから。
外から見れば祇園は祇園、遊郭は遊郭、甲部も乙部も同じだろうと、よその人は云う。わたしも内心のリクツとしてそう云ってのける気持ちがなかったわけでない。しかし現実には差があって、厳然としていた。甲の女の子と乙の女の子とが、あまり口も利き合わないことに、入学して比較的早く気付いていた。三年になると、乙部のお茶の息子と甲部のお茶屋の息子とが、仲は悪くないのに、わたしも含めて修学旅行では仲間同士に班をつくっていたほどなのに、甲と乙との差異を露骨によく言い争っていた。まぢかに観ていた。また旦那の違いが藝妓の勢いの差になるのも当たり前で、露骨な物言いとして「大阪のだんはん」「鴻池のだんはん」という対立も傍で観ていた。大阪のとは、大阪から通ってくる普通の「だんはん」の意味であった。わたしたちはその「だんはん」など見たことはないが、息子達の母親は見知っていたし、いやでも比較できたのである。甲と乙とのちがいは、親たちはいとも端的に「藝妓」と「娼妓」とわたしに教えた。それ以上の説明は中学生にも無用だった。
むろんわたしには甲乙の差別は無い。乙部にも甲部にも今でも仲良しがいる。
中学区域は、三つに大きく地域分けされていた。大きく祇園花街と、わたしたちの新門前のような普通の町屋街と、というふうに。その意味では甲も乙も祇園であったけれど、その祇園をうちの親たちが軽蔑したり差別したりなどはしてなかった。甲部一流の藝妓など、腹の底では知らないが名士なみに名前を口にしていた。「きれいにしたはる」のだ、その余のことは玄人でも素人でも窮極大差なしという合理的な分別があった。たしかに、そうだ、要するに「性」にまで及んで理解するなら、藝妓でも娼妓でも素人女でも何の差も有りはしないだろうから。女の売り買いということでいえば、明治からこちらの市民社会でも、大方女は売られたような嫁ぎ方をした人は無数であったのだから。
叔母の茶や花の稽古場には、文字通りいろんな人が稽古に来ていた。中には可哀想な差別を受ける少女も来ていて、わたしなど、それとなく庇ってそうはさせまいと気にかけたものだ。だが廓の人に対しては、だれも差別しなかった。極端にいえば『月皓く』のヒロインのように街に立っていた人もいたが、それにもあまり気にしなかった。一つには戦争に負けて占領軍が街々に浸透してきた頃の風俗の変容甚だしく、それが沈静してきても余波はまだあった時節。生きるに苦しい大人達の社会であったから、みなが殊更には口をひらかなかったとも謂える。
廓の文化というものにも、われわれは眼を背けていたわけではない。佳いモノがそこに在ると分かっていた。
そもそも、ま、職業でそうごたくさとえらそうに他を貶めてみても、所詮はおんなじようなシロモノという自覚がある。いうなれば、おんなじ京都人やワイといった大層な敷延の仕方を知っているのだ。父などにすれば、店の品を買ってくれる人は、買ってくれない人より甚だ親しむべき人種であった。
よく母も父も「神も仏もあるかいな」と言い切ってわたしをビックリさせた。それは京都の町ぜんたいにもたぶん多少の程度の差で謂えたことだと思う。乳の気分で翻訳すれば「紳士も乞食もあるかいな、奥さんも藝妓もあるかいな。お客さんならその人が上や」となる。
その点、泉鏡花の花柳界もので、狭斜の巷の女達が被差別感に堪えて凛然と立とうとしている悲壮感に初めて触れた頃、わたしなどは、やや意外に感じたほどだ。
但し誤解されてはいけない、京都は貴賤都鄙の集約されたやはり強烈な差別都市には相違ないのであり、その差別が歴史的にあまりに苛酷であることだけは、今もなかなか問題が大きすぎる。海外からはるばると届いた『早春譜』の「e-文庫・湖(umi)」掲載に悩んでいるのもその配慮からである。それから較べれば、秦の母ではないが、皇室や宮家も伊藤博文も祇園の名妓はつ子も上村松園も谷崎潤一郎も世間にごろころの妾も旦那も、みな同じ地平線にならんでいた。それだけに、そこから洩れ落とされた差別の実在に、わたしは愕然とし、それが文学へ向かう一つ懸案となったのである。(うまく謂えたかわからない。あとで読み直す。)
2004 8・3 35
* 昨夜の従妹のメールに、まさか無いだろうと思う反応がもう有り、ビックリもし苦笑している。
従妹のメールの最初の挨拶に、「厳しい暑さの毎日ですが、ふうふう言いながらも元気にしています。」とあった。この「元気にしています」を見咎めた読者がいたのだ、冗談にしても、すばやい。
『お父さん、繪を描いてください』下巻のうしろの方で「作家」が女性と別れる場面がある。別れ際に、こう告げている。
「元気でいろよな。それから、どうしても思いあまる気分になったら、『元気にしています』と、メールにそれだけ入れるといいよ。わたしからは、何も言わない…」
これを捉えて、この「従妹」という人は、実は…ですか、と推測してきた。思わず、吹いてしまった。
「兵隊さんお元気ですか。僕も元気にしています。」戦時中、戦地の兵隊さんへの「慰問袋」には、必ずこう書き出すようにと先生に教えられた。
手紙や、メールでは、この二つのゴアイサツほど数多い決まり文句はない。真率にいわれていても、あまりに頻繁なので、つい其処は読み飛ばしがちになる。
で、逆手に取り、今度の自作の中で、「元気にしています」を、いわば恋文の暗号と化してみせた。「思いあまる気分」にもいろいろあるが、いろいろに読めるのは、尋常すぎるただのゴアイサツより、よほど佳い。作中一度も実用されていないけれど、作者の遊び心であった。
こういう遊び心が、わたしには有る。実の姓名ではどうしても堅苦しいメールの人には、好き放題に替え名をつくってしまう。すると、ちょっと意外なペルソナが生まれて、匂うようにメールが優しくなる。
従妹の注文してきた『冬祭り』では、高校時代、クラスメートの誰一人にも知られず親しいという設定の、同級生男子女子の意思疎通に、幾つか珍な工夫をさせている。わたし自身がそんなことをしていたわけでは無い、作品の中での遊び心であるが、その暗号が、作の展開に大きな役をしてくれた。
此の「元気にしています」はそれと同じではない、が、あまりに陳腐な挨拶語に、双方納得の濃い意味を持たせてしまうと、艶な別効果が生まれてくることは期待できる。若い人達の繪記号などにもその役が有るのかも知れない。
それにしても、この「従妹」という人は実は…という追究に、一度は笑い、そして少々困惑した。何十年も会っていない養母方の姪、従妹、に相違ありません。
しかし、こう此処に書き表してしまうと、この先、すべてのメールからの「元気にしています」を読むとき、かなりくすぐったい気分になるかも知れない。ま、いッか。幸か不幸か、そんな取り決めは誰ともしていない。メール文藝を予期しているわたしの言い分は、こういう決まり切ったゴアイサツはなるべく抜きにしていいのでは、ということ。
2004 8・4 35
* この「私語」のサイトに触れて下さるかなり多くの方が、すこし首を傾げて容子がすこし変わってきていると思っておられるかも知れない。
白状しておくが、闇に言い置く私語の主体である私が、瘋癲老人になってきているのである。演じているのではない、事実、瘋癲を発している。より谷崎に借りて謂うなら、鍵の老人から瘋癲老人へのあわいの道をとぼとぼと歩んでいる。中村光夫は、文学は老人の藝術と説いていた。谷崎は老境の性を書いて最後まで鳴り響いた。わたしの関心も、老境の性ないし非性に向かっている。つまり瘋癲の性ということになって行こうとしているが、ま、幸か不幸か年だけはまだ谷崎晩年よりいくらか、一世代ほど若い。さ、その若さがメリットになるか途方もないデメリットでへたばるか。判らない。
なにかしら、それでも秦のやっていることが「文学」とかかわっていること、察して下さる方はあろうかと願っている。
とても大事な告白をしているつもりである。
2004 8・6 35
* 深夜にあらわれた息子建日子と二人で、小一時間「お父さん、繪を描いてください」について話し合った。建日子とまともに私の作品で話し合ったのは初めてである。
創作者としての彼の現在になにか刺戟の、示唆の、啓発の有る作かと思って読んでみたという。あの一枚の繪にいたって、彼もまたゾクゾクっとしたそうだ。一編の長い小説と一枚の繪とが均衡したと感じたらしい。
絶妙の位置にあの繪は必然のかたちで置かれた。小説はもともと原稿一枚のものではない。繪は何百枚も描くものではない。もし作と繪とが均衡して緊張をはらんでいるならば、それは画家山名と小説家幸田との均衡と緊張とが成って、書かない画家は一点の肖像を描きのこして、去っていき長編は結ばれた。結ばれたアトに後日のことが添えられた。そういうツクリになっている。
建日子は、画家も作家も二人とも「藝術」に拘泥した「藝術家」だが、「藝術」なんてと相対化する視点が欲しいなと云っていた。山名の家庭はそうではないのかとわたしは答えたが。
わたしの意図は、むろん「藝術」という観念にはない。「創作」という行為に於ける質と覚悟と煩悶にある。そして何もかも入れ込んでは書けない、主役は画家であり、作家は引き出し役にしておかねば、作の求心力が割れてしまう。二人を繋ぐ工夫に同じ一人の女を「二人」に分割して関わらせ、紐帯の役をしてもらった。天才と謳われた描けない画家の行く先は、一枚の「肖像画」になって、そして悲しい先があった。「ひよひよと無意味に死んでしまわせた」のではないかと建日子は批判していた。「死」より前に作品をエンドに結んで置いたの、そういう批判をいくらか防禦したのだが、そのあとが蛇足か必然かの議論はこれまで出ていなかった。
二人とも眠い眼をこすりながら話していた。建日子も今度新たに小説を書いて、本になるという。そんな創作の間に彼は彼なりの何かを考えたり求めたりして、常は読まない父親の作品を読んだらしい。創作にふれていえば、この私の長編は六十を過ぎ七十を間近に見ている画家と小説家の、通るところを通ってきたあとの創作への姿勢が出ている。三十代を漸く半ば過ぎるか過ぎたかの建日子の創作とは、当然、ちがうだろう。もっと「若い」時期の作品を読むべきだったかなあと建日子は少し苦笑していた。お前の年頃に苦心し五年かけて書いたのが『みごもりの湖』だよと云っておいた。創作に触れてというなら、『墨牡丹』もまさしくピタリと創作者たちの思いを主題にした「藝術家小説」であった。
2004 8・8 35
* 昼食後に建日子と三人でまた四方山の話をした。
話し合えることは何にしても嬉しい。彼はいつも車なので、酒は酌み交わせないが。
だんだん実のある話題に応えてくるようになった。年齢からして当然だが、父親への照れや距離感が、自信もついて落ち着いてきたのだろう。志賀直哉は、息子さんとの共感や対話をたいそう大切にされていたように思われる。阿川弘之さんも佐和子さんとの丁々発止を好かれているように思われる。
朝日子がちかくにいれば、もっともっと多くを娘からも得、娘にも話してから逝けるのにと思う。身の回りにいただれもかもが、朝日子が、いまの建日子のような創作・文筆の生活に入って行けるだろうと期待していたのだった。正直の所、建日子の今日は(まだまだ、小さいものだけれども)両親共に夢にも想っていなかった。ああ、そうかなあと想うのは「ハタ・タケヒコ此処にあり」というようになりたいと小学校からホラばかりふいていた、あれが「力」であったんだなあ、ということ。
とすると、明らかに彼はわたしの遺伝子を濃厚に伝えもっているのである。滑稽なほどの話であるが、高校でも、大学でも、会社でも、「俺はお前達とはちがう」と、はっきり思いつづけていたのが、わたしだ。文壇に迎えられて三十余年、今でも、かなり本気でそう思っている「形跡」がある。滑稽な話である、が、真実かも知れない。建日子が承けついで、朝日子に実は欠けていたのが、どうやら「コレ」であったのか。
こんな「ばか話」が書いておけるのも「闇に言い置く」この場であるから。犬の遠吠えにちかい、ひとりごとである。
2004 8・8 35
* 団彦太郎君のメールが転載されていました。懐かしい限りです。50年を超える昔、花見小路の角にあった(今もある)「ノーエン」という軽食喫茶の店の二階に彼の住まいを訪ねたときのことや、「ひこさん・・・」と呼ぶ母上の声など、今も耳の奥に残って・・・。
藤江さんからの事実誤認のご指摘は汗顔のいたり・・・こちらではこういうのを Embarrassment といっています。「お恥ずかしい」といった意味におとりください。(井上君も末っ子ではありません) 秦兄は作品の中で ”人の記憶というのはあやしい、いや、大いにあやしい・・・” と言っています。実名で書く時の危険はその辺にもあります。書かれたご本人にとっては不愉快なことでしょう。孝夫兄とは入学の小1(矢守学級)から一緒で、5年(近藤学級)、6年(島田学級)まで同クラスで睦んだ忘れがたい旧友です。
例の問題は私の小学校時代を振り返るときに、避けては通れないデコボコ小道であり、キレイごとで済ましてしまってはウソになります。ところが弥栄中学時代になるとその Interaction は陰を潜めてしまいます。(下)を書き進めてもあまり出てきそうにありません。
こうした作品は実名で通すと、結果的に旧友のプライバシイに踏み込んで、心ならずもその人を傷つけてしまう恐れがあり、その辺の Maneuvering をどうするかですね。/// カナダ
* 「キレイごとで済ませてしまってはウソに」といわれてある点、悩ましい。済ませてしまわない、しっかり触れて行く側は、わがことと考えていないからそれが出来る。済ませるという表現は措くとしても、触れて欲しくない、まして「キレイごと」の逆の仕方でなんか吾が身の上に触れられたくない心情は、厳然とあるだろう。歴史的な斟酌や理解を欠いた、置き去りにしたままで、たとえば地域差別の実情などを性急にもちだすことは、やはり心ないあやまちを深めることになる。おそれるのでなく、わたしにはそれを「敢えてする」資格も気もないということである。「表現」の問題としてもよくよく気を配りたいし、当然の配慮だと思うのである。問題は少しも改善され解決されていないならなおさらである。むずかしい。
2004 8・8 35
* 大学受験を控えた高校生の、むしろ優秀な生徒たちの中にである、例えば、あえて偏差値50程度のラクな大学に入学し、そこで「余裕」ある大学生活をしながら、周囲に流されず大きな志望へむかい独自の研鑽が出来ないものだろうか、などと夢を見るけれど、それは本当の「余裕」というものではないし、またよほどのど根性がないと、そんな甘い勘定で「研鑽」は出来ないものだ。
たとえば東工大のような優秀大学で、一日が三十時間ならいいのに、一週間が十日あればいいのにと真実嘆息するぐらい勉強の時間に追いまくられながら、なお、いつ知れず意志的につかみ取っている「文化」の「余裕」が、本当の余裕なのである。退いてつかむ「余裕」は、ほんとうの余裕とは言いにくい。踏み込んでかちとる「余裕」に、輝きがある。
わたしは、どちらかというと、病気を口実にあっさりと退いて「余裕」の大学生活を送った一人であるから、なにもえらそうなことは言えないけれど、同志社程度の大学で「余裕」を本当に生かすには、それこそ不退転の意志力が必要であったし、結果として世の中に出てのハンデは小さくなかったと今にして思う。同じ専攻の一年先輩で、あんなに活躍している筒井康隆にして、これと似た嘆息とウップンを吐いていたのを読んだことがあり、思わず苦笑した。あの大学では、仲間との切磋琢磨はなにも無かった、将来への暗い不安と懊悩とだけ。
もし切磋琢磨というなら、その不安や懊悩と自己切磋であり、自己琢磨であるしかなかった。
気の迷いに負けてしまわず、日々の重圧と闘うしかないなら、闘い抜いてゆくのが若い時期のライフスタイルというもの、俗なことでも卑しいことでもない。理屈をつけて退いてゆく弱さの方にかえってある種の卑俗さは、ある、といえるだろう。
2004 8・10 35
* だれもが「逃げこみたい場所=アジール」を内心に願っています。いわば「抱き柱」です。抱き柱=アジールと「聖域」とは同じではないけれど、「アンタッチャブル」という意味の聖域は、往々にしてそのまま逃げこめる安全な場所=アジールになります。あなたは、そういう「聖域」を一方で批判したいけれど、他方では、危なくなれば抱きついて逃げこめる「柱」「アジール=逃げ場」の意味にもしている。
言葉の意味を用いて創造してゆく文学では、この「聖域」を棄ててかかる覚悟が要請されている。それあるが故に筆が曲がるとか及ばないとかいう「聖域」をもった文学は、妥協の産物なのです。強いて書けという意味ではない。書かなければいけないなら自己責任で書くということです。その責任が作者の名前でもある。
発表するしない、出来る出来ないは時の運としても、草稿の段階から書くべきは書くという「聖域排除の覚悟」が必要だというのが、自分を「晒す」という意味です。趣味藝なら晒す必要は無いのですが。
誰がどう言おうと、どう描かれてある中身が醜かろうと、それが真実に肉薄しているのなら、キレイゴトの何百倍もいい。自分を守っているものはダメなんです。人間は醜い存在かも知れないから、書かれることが醜いのは自然かも知れない、が、そこに徹底があれば、逆転して美しくなることもある。四谷怪談の南北は、言語に絶した醜悪で強悪の人間を描きながら、一種凄絶な美と感動とを書き上げています。あなたの身近な人が「醜い」と批判する批判がどう当たっているか、躊躇わずに長い作品を送ってくれるといいと思います。書かれている作中の女の醜さでも構わないし、作者であるあなたという女の醜さであっても、ちっとも構わないし、驚かない。
「泣きながら書いている」とありますが、いけません。書き終えてから泣くのはいいが、書いているときは炎のように熱く氷より冷静に、鬼のように聡明でなければ。泣いている分、その泪は、自分を甘やかし、いたわり、飾る泪に変質してしまいやすい。すぐ泣き止めて、自分の仇は自分だと思い、自分自身を攻撃に攻撃し締め上げなさい。すっ裸になりなさい。そのつもりで書くことです。
2004 8・18 35
* 誠という字はそれなりの意義をつたえてくれるが、真言を、まことと訓むと、それも意義を成している。ことばは大切なツールであるが、どうしても過大・過少に流れやすく、その「過」の部分から腐ったり錆びたり空気が抜けたりする。過とは文飾であり、質実の逆意である。上のメールなど、少しも気張らず淡々と自分の言葉を呼吸するように送り出してくれている。こういうふうに「まこと」がふつうに話せて書けるのに、人間関係は、たくさん時間をかけねばならない。馴れればいいのでもない。しかし飾っていては「かなふはよし」と行かない。むずかしい。率直に自然に呼吸するように。むずかしい。
2004 8・19 35
* なつかしい、という言葉をわたしはここぞと言うときに、よく用いる。少年時代が、故郷が、昔の人が、なつかしいというふうに遣われるので、いつもそこには回顧的要素がからむように思いがちだが、当然ながらわたしはもう少しニュアンスを広く汲んでいる。なつかしい、とは、対象に「なつく」気持ちを、すすんで我から持ちたい感動であろう。必ずしも懐古的な気分でなく、初対面の人やものに対してもさしこむように懐かしいという気持ちが持てるのが普通である。わたしは、むしろこのようにこの言葉を用いることが多い。なつかしい人やものの多いことが、一方ではほだしになりがちなものの、幸福ということにもつながる。なつかしい気持ちが生き生きと浮かばない魂は渇いている。
2004 8・20 35
* 死んでいった兄は、まだ元気だった頃に、人付き合いは、「個対個」で行こうとわたしに言った。家族同士といったおおまかなことは斟酌しないでいいと。初めて聞く言葉だったが、わたしも賛成した。兄とはそうそう数多く逢わなかったが、郵便でもメールでも、いつも兄との時は兄のことだけ思っていた。
わたしは、今も、「個対個」に徹し得ればこそ「懐かしい」という純真も保たれると思っている。一人しか立てぬ筈の小さい島に二人で、二人だけで立つ気持ちだ。むしろ謂わばそれに「堪える」気持ちだ。ピュアとは、「個と個」に堪えることだ。
2004 8・20 35
* バグワン、徒然草、今昔物語、日本の歴史、みそひと文字の抒情歌、恋路ゆかしき大将、田辺・唐木往復書簡。いまこの七冊をかならず少しずつ読み進めて一日一日を送っているが、稀有の充実。この上に「ペン電子文藝館」の作品が加わる。なにのために読むのでもない、純然楽しんでいる。
それでも派生して、あ、これを追いかけて調べてみようかな楽しみにと思うテーマにもぶつかる。露伴は、これはと思う材料は十二分に寝かせて寝かせて寝かせておくことが大事だとエッセイに書いていた。どれだけ寝かせておいても鮮度の落ちない材料ならば生きると言っている。もうそんな余命には恵まれそうにないが、寝かせてあるモノと、ときおりこっそり対面して思い交わすのはとても楽しい。おお、まだそんなにも元気でいるかとお互いに久闊を叙するのである。後白河院、清経、資時、建礼門院、徳内、白石とシドッチ、紫式部、東子、赤猪子など、また浅井忠や子規も、松園も華岳も、みんな、いつもいつもわたしには「逢いたい人」であった。わたしの部屋で寝て待って貰っていた。そして小説に。あの「山名」君も、「久慈」三姉妹も、そうであった。
2004 8・22 35
* 小松英雄氏の『みそひと文字の抒情歌』にウロコの眼を激しく洗い流される。万葉集は漢字で表記されている。古今集はすべてひらがなで表記されている。言語表現においてまるで性質の違うのを理解することは出来るが、しかも訓釈しまた漢字交じりに書き直すことで、その差異が均されているのが現状である。
わたしは古今集等の和歌の「現代語訳」に反対で、一時期トクトクとその手の仕事がされまた持て囃されていたときも、わたしは冷たく眺め、必要ならば批判していた。幾重にも読めるように意図して創られた独特の和文表現を強いて一つの読みに無理読みして訳者の解釈を原作にも読者にも押し付けてしまうからだ。小松氏のポレミークな議論はつまりこのわたしの不信や不満や憤慨に論拠を与えているのである。当然にわたしも気付いていた幾つもの点に、しっかり論及している。
なぜひらかなだけで書かれてあるかという一つからみても、よく言うように まつ は松でも待つでもある。はな は 花だけでなく、端も鼻も洟も洟も意味している。ものうかる と書いて もの憂かる とも もの憂がる とも読み取れる。古今集に濁点はまったく無いのである。古今集だけではない、上代和文には濁点はほぼ全面に無いのであり、そこに表現の複線化がむしろ意図的に巧妙神妙に意図されるのだから、それを視覚的に読者は複線化して読み取る、読みを構築する楽しみや権利をもっている。後世の研究者学者は或る意味で勝手気ままに、それに漢字を当てたり濁点を振ったり、また勝手に改行したりして、もとの表現を「解釈」の名の下に破壊している。
たとえば散文としての地の文に巧妙に表現性豊かに和歌が書き入れられてあり、散文と韻文との微妙な相乗効果を露わには言わずに実現しているにもかかわらず、後世は、暴力的に和歌部分を改行して別立てにするような本文を現出させて顧みない。親切でしているつもりで、原作本文の表現意図をお構いなしに破壊している例は、むしろ通例になっている。
小松氏の憤慨は、いわばコロンブスの卵なのであるが、学界はなかなか体質の古い因習世間であり、小松氏のようないわば専門外の専門家から当然の指摘がされても、なお、益々従おうとしないから困る。専門家というのは時に老害に似た大障碍物になりかねず、固陋の妄念を抱いて放さない。
まだまだ読み始めであるが、読み進める楽しみは夜ごとに深まる。
2004 8・23 35
* 困るといえば、メールで「質問」される中に、困惑することがときどき混じる。
尋ねられることには数種ある。
事務的なこと、たとえば「湖の本」の入手方法とか、京都へ行くがどこを見てくればいいでしょうなど、事務的・日常的な問い合わせ、これは全く問題ない。すぐ返事できる。
ついで執筆仕事や作品に就いて。これも、すでに出ている作品の「読み」のことや書誌的な質問には、だいたいすぐ答えられる。次に何を書くか、今は何を書いているかなどは、返事できない。小説のこれは事実か事実でないかなどという質問にはむろん答えない。ご想像に任せるのである。また他の同業作者達の人や仕事に関する質問は、まして現存の場合、事務的なことでない限り、軽率に返事はしない。
その人の日常や心情上の悩みを聴いたり助言を求めたそうであったりするときは、わたし自身圏外にある場合は、あたう限り何かしら思いついた返事を差し上げている。気休めにもならないか知れないが。
困るのは、数多くはないが、わたし自身への、心情的・個人的・私的な質問。質問する方は簡単だろうが、困惑し時に迷惑する。メールの領分をはみ出ている。メールが有効なのは「述懐」まで。探索や議論はむり。なぜなら、メールは、所詮は言葉に過ぎないから。
言葉で生きているわたしが「所詮は言葉」と言うのである。言葉を頼みすぎては、あやまつ。無論、勿論、論外、言外、言語道断、言はぬが花、言ひおほせて何かある、言はで思ふぞというところがあるから、人間は人間の分にかろうじて踏みとどまれる。
2004 8・23 35
* 百人一首やましてひらがな表記の「みそひともじ」を現代語訳するなんてトンでもない愚行だと思い云いつづけてきた。わたしにはおこがましくも「秦恒平の百人一首」という著書(平凡社)もあったが、そこでも私の好き嫌いを「うた=音楽」の観点から私判はしても、翻訳は避けた。複線で表現されてある一首の中のいくつもの読みの可能性を、幅を、魅力を殺してしまうからだ。
ところが、大概の本は研究の終着点は現代語訳であるとばかりに、無理読みに一つの翻訳へ原作を圧殺して恬としている。詩人として高名なひとが、とくとくと自身の現代語訳を以て古今集鑑賞を成し遂げたなどと思い、それがまた学界ですら追従されていたものだ。わたしは白眼に冷笑し、賛成したことがない。
このわたしの一素人の立場での頑固な姿勢に、ものの見事に学問的科学的な基盤と保証を与えてくれているのが、小松英雄著の『みそひともじの抒情歌』であることが、夜毎の読書で、じつに明快に分かって行く。痛快なほど分かって行く。この言語学の専門家からする国文学や文法学への批判書が、学界でどう受け取られてきたかわたしは全く知らない。ぜひ反論があるなら読んでみたいものだ。
2004 8・25 35
* 吉野熊野というと敗者の政治エネルギーが、とぐろを巻くように隠れるまさに「隠国(こもりく)」の体であった。十津川道への入り口のようなあたりで凄惨に殺された光仁妃や皇太子のことをわたしはながいあいだ想いつづけ、結局書けなかった。その頃に能面の「生成」にかなり脅かされた。
西行の旅といい、掌説に書き留めた熊野道での無惨といい、なにかしらわたしはあの世界に置き忘れたままのモノを持っている。
2004 8・26 35
* 機械を通して数百枚の小説が送られてきた。あたまの三、四章を読んでみた。推敲という点では甚だ雑な書きっぱなしであるが、或る、底知れないマグマが感じられ、かなりどす黒いけれども可能性の大きい音響が(これが音楽に変わればすばらしい)胸板を叩いてくる。ところどころに目をむくような異色の表現や観察や字句が燦めく。しかし何ともまだ雑草の原っぱのように荒れている。荒れというのは、必ずしもマイナスであるわけはなく、「荒れ」の魅惑も有るものだ、それを美味く温存しながら徹底的に推敲し文藝としてすっきりと仕上げれば、ある種、こわい創作になり咆吼するかも知れない。まだ少ししか読まないのだから多くは謂えない。
書かれてあることの実と非とにかかわらず、思い切った仮構を介して、作者は思い切り「自画像」を露表してはばかりなく、そのすさまじい意気込みが、この後に成功するのか惨敗するのかはまだ分からない。しかし、こういう意気込みからモノは立ってくるものだ。きれいごとの生ぬるさは無い。ひょっとして醜悪を極めるかも知れないほどだが、醜悪も惨虐もまた美の範疇にあることを作者がよく自覚し統御しているかどうか、だ。題されてある「悲惨愛」とは、あまりにあまりで、別の好題を工夫したい、が、根気よく没頭して推敲するに値している。期待する。
* 四分の一ほど読んで、物語の先行きに或る程度の見当がついてきた。展開に勢いがあり、言葉が言葉をたぐり寄せて行くので、表現のいいわるいを言うより先に事が運んで行く。「読ませる」とは一つにはそういう意味であり、長編らしい構造を持っていて展開は三重奏のかたちをとっている。自分の大胆さにたじろがず、なにか目に見えない者をねじ伏せるように挑みかかっているのは作者の性格や生地が出ているのだろう。
あらっぽい印象で言うと、谷崎潤一郎の、大正期の、書き殴ったようないくつもの長編の執拗な展開ぶりに近いかも。谷崎は、たとえ駄作でもずしんずしんと地を轟かすように書いた天才だと三島由紀夫は追悼していたが、大正期の谷崎は、秀作でなくても実に勢い猛にこってりと書きすすむことで読ませた。活字に唇を添えて啜りたいとわたしは谷崎愛を表明したが、この作詩屋の場合、むろん比較になどならないけれども、この送られてきた長編にはそういうつくりものとしての体臭が漂い、強引さで拙さを隠蔽しながら力走しているところ、可能性であろう。
大正期ではないが、谷崎昭和初年の『卍』は或る種の堪らない作品であり、だから文藝の凄みがあり、古典的な作品よりもいいと臼井吉見先生は評価されていた。
なににしても谷崎作品は分厚い。「分厚い」とは何であろうか。わたしは、谷崎愛といいつつも作風としてはむしろ鏡花に近いと何人かに言われてきたが、それはわたしが谷崎の『卍』タイプの分厚さを、意識して避けてきたこととも関係する。
しかし谷崎の文章と文体が与える安定した華やぎは、駄作でもずしんずしんと地響きがすると三島の言った「大きさ」と直結している。
だから、この作者の場合、叙述の勢いを殺さずに、文章に対し如何なる自己満足に陥らない冷静無比の推敲が出来るか、勝負はそれだ。それが必要になろう。その上でごっつい駄作で終わるか、血の臭いのする美しい秀作になるか、だろう。
2004 8・29 35
* モーパッサンを読んだことがありますか。短編小説の真の名人。長編もあり、それぞれ凄い。微塵の甘さもなく苛酷なほど人間のとらえ方が厳しく正確です。それでいて縮かみません。ロレンスは代表作の「チャタレー夫人」を座右に置くこと、イイと思います。いいと思うモノは必ず繰り返し読むこと、薬のように。書く手もとめないように。二百五十枚前後の作品に挑戦してもいい。
2004 9・1 36
* 大きな何かを胸に抱いて、静かに深呼吸し、今日一日を終えて明日一日を迎えよう。 2004 9・2 36
* 「幸福」の題の短篇は、あれで仕上がりです。
が、読者が「幸福」を受け入れるのは、十人が十人、この語り手が次に迎える「日々」です、それが書かれるだろうから、この「幸福」という巧い題の短篇を許容する。次が書かれないなら、此処に書かれてあることは、アタマで書ける程度の物、特別の発見ではない、というでしょう。だれもが、このアトへたぶん苛酷なほど孤独に展開する「出産」への日程を、作者は、いったいどう「書ける」のだろうと期待するわけです。
あるフクザツ微妙な「幸福」という題の一章は、ちゃんと書けた。しかし「別の題」のつづく第二章が提供されて初めて、この一章は、このまま「立てる」かどうかが評価される。読者は、同じこの主人公の「決意」の、明日や明後日を見届けたいわけです。
ほんとうにこの語り手の若い女性は「出産」しうるのか、別の選択を余儀なくされるのか、また何か別の出会いが有るのか、「長谷」との家庭があるのか別離があるのか、自覚はあるが孤独な女一人が、父なる男をすでに他界へ見送ったまま「その、わが子」を予期しながらの日々が、どう可能で、勝利するか挫折するか、さあその覚悟の程を見せて欲しい、見せる「約束」になっているぞと、読者たちは、作者に要求してくる。
そういう意味の作品「幸福」なのです。
これは「最初の一章」だけの題にとどまります。次は「希望」か「苦闘」か「寂」か「悲惨」か「歓喜」か、どんな題で書き切れるか。それが作者へつきつけられた、実は作者が自分自身に突きつけた課題・約束なんです。
そして多分、その一章「幸福」二章「**」とが合体して、いわば作者なりの長編「女の一生」第一部が出来るというわけですが、そこまで今は手をつけなくてもいい。しかしもう一章を、せめてそこまで書いて、初めて短篇「幸福」は小説として生きるんです。それを省くと、此の「幸福」は、アタマで造った、アタマでも造れる、それだけのおはなしに終わり、作者の力量も認識の深さも測られなくなる。
この作者、このままで次の章が書き継げるでしょうか、というのが、大方の好意ある読者の激励であり期待であり、一抹の不安です。わたしも、同じ。
意識を散開せず、ここは集注して自身を深く問うところです。ここで満足し立ち止まってはいけないでしょう。
* 結婚という制度のなかで日本の少子化傾向が改善されてゆくか、可能性はかなり険しく厳しくなっている。若い人達に結婚という制度の空洞化が感覚され、また家庭の女性にも男性にも「子を産む」ことへの深いためらいが出来ている。単線の不安でなく複合された制度と感覚・感情との齟齬が錆び付くように進行し、世の若い夫にも妻にも孤立の毒がまわりはじめている。しかも結婚よりは恋、とまでもなかなか心理も生理も成熟していない。結婚は惰性からも出来るが、恋には勇気が要る。そんなことを言わねばならない時代になっている。まして恋から孤独な出産が結果されてくると、現にその子を腹を痛めて生む女性は、まるで別の多様な問題を抱え込むのは目に見えている。それでも結婚するよりは良いと判断し行為できる基盤がすでに出来ているとも、なかなか謂えるわけがない。例えば、上の「幸福」という小説では、宿した子の父親をもう目と鼻とのさきで死のかなたへ見送らねばならない。しかも断乎「出産」すると自分の母親にも告げ覚悟はしていると言うが、その覚悟に迫り来る現実との対決は悉く「これから」の問題なのだから、この時点での覚悟表明だけでは、読者はとても説得されないのである。で、どうなるのか、と既に問うている。
少子化時代に「一人」の誕生が意味をもつのは分かる。誕生から成長・自立への道は遠い。その遠さに一人の女としてどう同行出来るかで、覚悟の中身は具体化する。先のことは分かるわけがない。しかし、「生む」ところまでは分かっていないとキツイことになる。作者が問われているのは、そこだ。
* 読み上げた別の作者の長編「マーラーの恋」は、「e-文庫・湖(umi)」に収めるなら、直ぐにも出来る。長編だけに隅々まで原作が完成され調整推敲されてはいないけれど、傷だらけの此の原稿のまま読者に呈しても、問題なく読み通させる「力」はついている。現に妻は読みふけりながら、「痴人の愛みたい」と言っているが、妻は大正期谷崎ではこれぐらいしか知らない。むろんそれは「過褒」であり、谷崎で言うなら「金色の死」とか「愛すればこそ」とか「愛なき人々」とか「友田と松永の話」とかに印象的にはちかい。徹したツクリ話に近い。
それであっても、わたしが文藝ものの編集者なら、(わたし自身の好みではないけれど、)この作品にはとにかく立ち止まって手にすると思う。結果としてモノにならなくてもモノにしてみたいと手がける。まだガナリ立てている大音響にすぎないにしても、手入れ次第でそこから或るシンフォニイが彫り起こせてくるだろう。そういう作品なのである。だから、ウカとは「e-文庫・湖(umi)」に公開しにくい。へんに悪意の人に持って行かれてはならないからである。
妻は、作者を知らない。「分かった、東京の小闇さんだ」と言っている。小闇が「私語」を絶って、もう半年にはなるだろうか、別のモノを「待望する」声はちらほら聴いている。だれよりも、わたしが待っている。だが「マーラーの恋」は東京の小闇の仕事ではない。
作品には、しかし東工大のオーケストラらしいグループが、主に男たちが現れている。わたしはこのグループの学生達を、今では卒業生達であるが。わりと多く知っていて親しかった。第一バイオリンやフルートの青年には「恩師」として結婚式に招かれているし、学生として愛していたすてきな女性が少なくも三人いた。うちの二人は今も湖の本を読んでくれている。読み進めていておやおやおやと思った。但し作品の世代とははっきり異世代で関係はないのだが。だが彼や彼女たちの演奏会には少なくも三度は上野や練馬やお茶の水へわたしも「先生」として招かれていた。「マーラーの恋」はそれだけでもわたしには奇妙な思いを強いてくる作であった。
わたしは音楽家の「マーラー」を意識して聴いたことがない。シンフォニイ五番というのを手に入れ聴いてみた。わたしの仮に附けておいた小説題「マーラーの恋」は作者のつけていた「悲惨愛」よりは文藝的で、音楽と小説との臍の緒を掴んでいるかも知れない。しかし作者の執着した「悲惨愛」にも苦笑しながら頷けるものは有る。
* ハタさん、なにをやってるんですか、あなたは。そんな声が無暗と聞こえて来そうだ。わたしは眺めているだけだ、わたしと称する心や体が動いて、今・此処でしていること、したがっていること、を。彼等は「わたし」でもあるが、実はわたしではない。わたしは、わたしの心でも躰でも「ない」のだから。
2004 9・4 36
* 「今回の学校立てこもりの結末どう考えますか?」と、若い若い人からの問いかけである。
答えられない。
人が人を「死なせる」ことに、こんなにも痛みを欠いているとは。憤りもこえて、全身全霊が萎えてしまいそうなのが情けない。
己が神への狂信と、異なる神(徒)への憎悪。それどころか、ともに同じ神を信じながら、同じその神の名にかけて、何の痛みもなしに為しうる惨虐。信仰という抱き柱を凶暴にふりあげて、不毛の残虐が為されてしまう。
我(我々)と彼(彼等)との、容赦ない乖離と、殺傷をことともせぬ利害衝突。バベルの塔の不遜に対し、さまざまに言葉を異ならせてしまった神の罰は、あまりに苛酷に過ぎたとわたしは思っている。
はっきり言う、人間の不幸は神の意志に胚胎している。人間の愚かも又、同じ。
神は在るであろう、が、人間はそれを忘れた方がいい。人間は己の足で立つのだ。歩むのだ。手を繋ぐべきは神とではない。隣人とである。それも偽善クサイかも知れない。わたしは「身内」を願った、神よりも仏よりも。バグワンは、もうきみはブッダであるじゃないか、気が付いていないだけだと、言ってくれた。まだ気付けないし目覚めないが、その時が来ると思う。待たずに待っている。人を愛しながら待っている。人のためにも待っている。
* エックハルトにも、聴きたい言葉がある。
2004 9・4 36
* エックハルトは、最初の説教で、神殿から商人達を追い出すイエスにふれている。神殿とは神の己に似せて創った人間の「魂」のことで、魂をからっぽにし、そこには神だけがあるべきだと言っている。「商人」という措定にエックハルトは「取引」という言葉を引っ掛けている。「商人」に、あれこれをことばの質にして神に願い出る者たちをエックハルトはアテツケている。そんな「取引」に神はまったく応じないと。そういう取引に奔走する商人なみの人間どもは神殿に無用であると追い出すのである。
祈願という言葉の虚しさにわたしが漸く気付いたのは、数年ほど以前からか。願い祈りたいのは人間の真情の尤も赴きやすいところだが、だからわたしは自分自身にも悉くは否認しづらいのだが、すくなくも吾が為にいろんな誓いを差し出して願うことはしないでいる。他者の為にはまだ祈り願うことは容易に止められない。
2004 9・5 36
* 「今回の(ロシアでの)学校立てこもり(虐殺)の結末、どう考えますか?」 これは、わたしからすれば孫のように若い少女の詰問であり、以下は少女の意見である。この意見の前では、わたしのブツクサの愚痴は何の意味もなさなかっただろう。
* 人間は弱い生き物です。あらゆる神の存在は、私たち人間に安らぎを与え、支えとなったことも確かなのです。その神々ですら争いの原因としてしまう私たちの愚かさといったら…。
戦争を考えるとき、互いの国の宗教、歴史を知ることは大切なことです。しかしそれ以前に、人間として、人の死を悲しむことをやめてしまってはなんの意味もありません。いくら事件背景を知ったところで人の死になんの感情もいだけなければ、その人が平和を目指して動くことはないのです。
ことの悲惨さを犠牲者の数でしかはかることのできない今の社会では、悲しみはいつのまにか怒りとすりかわり、その怒りもまた他の利益を手に入れたいがための戦争の理由と化しているのです。事件の被害者はもちろん、テロリストたちでさえ犠牲者なのです。彼らが亡くなったあと彼らの死は報復の理由として利用されるのです。ブッシュをはじめとする報復だなんだと言っては戦争を正当化するいわゆる国のトップが、一番人の死を実感できていないのです。それを国民に正義だなどとと言いまわり、彼らの悲しみまでもを利用している。報復による被害者は民間人や兵士です。報復をうけた国のトップは再び彼らの死を理由に戦争をおこす。常に私たちは利用されているのです。
こんな悲しいことありますか?
* こういう感想を伸び盛りの人に持たせてしまう人間社会、国際社会は、しかし既に制御のきかないグローバルな悪意凶暴の猛獣になっている。教団・教派も哲学も役に立たなくなった。もともと人の幸せの役に立つよりも、不幸せに目ふさぎする方が、信仰を売る聖職者多くの、たぶん哲学者も結果として同じ、役割だった。少女が嘆くような状況を改めうる力は、ほんとうは、民衆・大衆の、叡智とは言うまい、不満や恐怖から立ち上がる圧倒大多数の力でしかない。しかし民衆はあまりに十二分に政治的エネルギーも牙も爪も抜き取られてしまっている。
たとえば「学生」の蹶起しない国で、国々で、国民的な、民族的な、国際的な、世直しへ動けた例はない。
日本でもかつては学生が蹶起した。しかし一度立ったことのある学生も、保守社会に吸収されると、くるりと後ろ向きに、すぐ、民衆の衆愚化や無力化をはかる政権の走狗となり、テレビの前面へ出て例えば「コメンテーター」になる。政府へいつも顔を向けながら、こころばかりの批判意見をお愛想のように本音に混ぜておく。
戦前から敗戦後へかけて、「転向」ということが盛んに論じられた。鶴見俊輔のした仕事の大きい一つはその研究だった。だが同質同様の「転向」は、その後もインテリのなかでぞくぞくと跡を絶たず、政権は安心してそういう転向者たちを、マスコミ世間の前線に放任して代弁させている。かつては「団結」という言葉を働く人や若者や学生が叫んだが、今では民衆への支配層が大まじめに口にしている、そんな時代だ。そこから、「ブッシュをはじめとする報復だなんだと言っては戦争を正当化するいわゆる国のトップが、一番人の死を実感できていないのです。それを国民に正義だなどとと言いまわり、彼らの悲しみまでもを利用している。報復による被害者は民間人や兵士です。報復をうけた国のトップは再び彼らの死を理由に戦争をおこす。常に私たちは利用されているのです。こんな悲しいことありますか?」という少女のもっとも過ぎる悲鳴が起きる。ブッシュを助けているのは、じつは今では誰もかもなのである。
* 言葉を用いれば、だいたい少女のこういう言葉は出て来る、いくらでも、あちこちから、誰の口からでも出て来る。しかし言葉ほど今日欺瞞的なものはない。いい良さそうな言葉を口にすれば、ではどうなるか。伝染力や説得力があるか。聖職者が話しても哲学者が話しても教育者が話しても思想家が話しても、ただ言葉の死骸が山と積まれて終わりだ。言葉では、だめだと皆が内心思っているが、言葉だけをせいぜい許されていて、手足にはとうに縄や錠がかけられつつある。美しい名前のじつは苛酷に人の手をうしろでに縛り足には枷をはめる法律が、もうどんなに多く出来ていて、われわれはそれを見過ごしに甘んじてきたか。
言葉はもう役に立つにはあまりに弱くされている。むしろあのブッシュ批判の映画のように映像のほうがまだしもものを言う。
わたしは少女の深い思いが、ただ言葉により希釈され拡散されてしまうことを恐れる。怒りを胸に深く蓄えよと、おそろしい示唆をしたくなる。ものごとをあまりに一般化してしまわないようにとも言いたい。
* 「人間として、人の死を悲しむことをやめてしまってはなんの意味もありません。いくら事件背景を知ったところで人の死になんの感情もいだけなければ、その人が平和を目指して動くことはないのです」とは、たぶん、これ以上もなく正しい言葉だろう。
しかし、人間の「死」は、難しい。日々に無数の死があり、死としては同じ帰結だが、それへ至る道筋も死に様もあまりにちがう。それをひとからげに「死」「死者」と読んで間違いではないが、少しも正しくもないのである。ほんとうに「死なれた」者、「死なせた」者には、死とは特定されたもので、一般の死にも特定の死にも同じように悲しみを注げるようには人間は創られていない。もし死は総て同じと言うなら、人は悲しみの重さに即死してしまうか、それとも、悲しみを知らなくなるかのいずれかだろう。夫や妻や我が子や親きょうだいや恋人の死と、新聞紙上の報道死とが同じに人を襲うかどうかは、よぎなくも体験や経験や実感が教えている。のこすは、死を通しての深い実感がより広く深く遠くへ及ぶことの可能なように、真実に生きる、生きて死の重みを覚えることが大事なのだ。それが先だ。それは言葉では覚えられない。『死なれて・死なせて』という本を書き、自分の文学の一つの大事な主題に「死」を置いてきた、それがわたしの動機である。
言葉でものを書きながら、わたしは言葉を過信しない。それよりも悲しみなら悲しみの体験から得る真実の実感を大事に思う。ひとは「死なれ。死なせ」て初めて生きることを心身に刻みつける。
この少女には、身近な一つ一つの体験から、言葉を越えたものを具体的に掴んで欲しいと思うし、怒りは深く蓄えて、言葉に載せて蒸散させぬようにと助言したい。
* 書いている途中に少し長い地震が来ていた。
2004 9・5 36
* 暑く眩しく晴れて、風だけは残っている。
八冊の本を順不同少しずつ読み、湖の本の初校を終えて、二時に寐た。それでもいつもより早い。朝六時、なにとなく起きたがもう少し寐たほうがいいと、床の中で海外女優の名前を百人まで数えたところでまた寐たらしい。十一時前まで、いろいろ夢をみながら寝入っていた。
朝刊の一面二面、ムカッとすることばかり。
いま、自分の日々を眺めていると、わるい意味でない、むしろいい意味で無為を味わっている。無為自然とは行かない、不自然の混じるのにどう言い訳するか考え考え怠けているようなものだけれど、このラクに、どこまで心身を委ねてイイかはっきりは判らない。その気になればこのままやって行ける。それでいいのかどうか。抱く柱をみな捨てることになり、寒いほど寂しいかも知れないし、自由とはそういうものだと感じてもいる。
2004 9・8 36
* ご無沙汰しております。
ご多忙中連日と拝察しながらも恥を偲んで始めて(パソコンの)打てた嬉しさを先ず先生に打たせて戴きました。
社会の変転の凄さに震い落とされています。
けれど物書きのはしくれとして何処までも自分なりでいい。一生懸命についてゆきたくて・・。深くご自愛をいのって止みません。 愛知県
* 文学老女か中年か判らないが、若くはないと思う。小説が書きたい、自分を「物書き」と自認しているのなら、メールはもっと静かに書かないと。物書きとしては、少なくも「はしくれとして何処までも自分なりでいい」など完全に間違っている。物書きには「はしくれ」もまんなかもない。佳い作品かどうしようもない作品かだけがあり、「自分なりでいい」などと自分に都合良くバーを勝手に上げ下げしてはいけない。そんなものが仮に在るとして、トルストイや漱石や潤一郎やバルザックのかかげているバーの高さが、「あなた」のバーの高さなのであり、それを越えようとしないといけない。「どうせわたしなどは」と思うなら、あなたは物書きでも何でもない趣味の人でしかない。言葉ははではでしく大仰に用いないことだ。
2004 9・8 36
* 掌説は 言葉数を費やさないこと。簡潔に心地よく速やかに。音楽のように停滞せず。粗筋のようにならぬこと。コントではない短い小説であること。思い切って天涯や他界にも遊ぶこと。思ったことも無いようなことを、胸の奥の闇から引きずり出してやること。現れ出てくる物に驚いても、逆らわないこと。そして暫くの期間は、自分に強いてでも書き続けること。次はあれをこれを書こうと予定的に思案しないで、突如として無心に立ち向かい、信じられないような自分にも躊躇わないこと。
ラストプレゼントには、まいります。 風
2004 9・8 36
* 昨日、水上勉氏が亡くなられた。八十五歳と夕刊は報じていた。
水上さんとは、断続的なれど比較的、会えば少し話もしあう数少ない作家のお一人で、御本もたくさん戴いているし、お礼かたがたの感想も申し上げてきた。中日・東京新聞他に『冬祭り』を連載の時、あるところで水上さんに会うと、「秦さん、大胆なことを新聞に書いていますね」と言われたことは、忘れがたい。水上さんなればこそ口をついて出る感想であった。
水上勉の推理小説等はまるで知らない。「雁の寺」「越前竹人形」「五番町夕霧楼」等のほか、「一休」「寺泊」等々の純文学作品を何冊も戴いた。読んだ。
初めて水上さんに逢ったのは、京の下河原を真葛原へ抜け上がった角の、待合いの表口に、中からの人待ち顔に立ってられた、まだあれはわたしが京都にいた頃か、京都に偶々帰っていたときか。
そういえば、一人で丹後宮津へ蕪村の取材に旅した帰り、わたしは日本海沿いに敦賀へ行き、気比神社や鐘ヶ崎など訪れたあと、国鉄駅の向かいホームに二人連れで乗り物を待つ水上さんを見かけたこともあった。文藝家協会の大きな宴会で、話し交わしながら、壇上の人の話を二人して聴いていたこともある。
水上さんとわたしを結ぶ、結び目の一つには谷崎夫妻の存在も大きい。めったに若い人の作品を褒めなかった谷崎が、「越前竹人形」を新聞記事で褒めていた。中里介山「大菩薩峠」直木三十五「南国太平記」なみのとても珍しいことで、むろんわたしは注目し、作品も読んだのである。そういうこともあり、谷崎没後も水上さんは松子夫人と親しく、松子夫人を介してわたしはときどき水上さんのことも聴いていた。
水上さんというと、際だって面白い話を一つ思い出す。これは筑摩書房にいた編集者辰巳四郎氏から聴いたことだが、あるとき水上さんは声をひそめて辰巳氏に尋ねたというのだ、「秦さんは谷崎と松子さんの隠し子ではないのか」と。漏れ聞いたわたしも驚いたが、水上さんの、後日、苦笑い気味に、そういう話をしたなあと白状されたのもとても可笑しかった。
わたしは水上さんについて短い文章を一つだけ書いているが、題は「実の人」とした。ぴったりだ。こころよりご冥福を祈ります。
2004 9・8 36
* 重陽という物言いを思い出す。実感はないが。黙って、じいっと何かにむかい息をつめている。そんな気がする。寐ていても、きついほどの不安に揺すられることがある。心神五体、煩悩の巣であるらしい。にげて行く先はどこにもない。
2004 9・9 36
* 今、吉田健一というあの総理子息の「言葉」という考察を読んでいます。花はこの人のものは知らないかも知れない。まことに独特、独特すぎる旋回型饒舌体のとめどない文章なんですが、これが途切れようのない蜂蜜を掬っているみたいに美味で、また肯綮を得ているのです。わたしの「閨秀」を朝日の文藝時評で絶大に褒めてくれた批評のキーワードが、「言葉」だった。
いつも、言葉と向き合い、言葉を頼み、頼みすぎることなく言葉をいかすことを考えねばならないのが文学の創作者です。チャタレーは魅惑に富んだ言葉の藝術で、思想的にも骨太の大柄な名作です。ものの底から光ってくるようなファシネーションを感受して下さい。 風
2004 9・9 36
* 夏以来ボーゼンと暮らしているわたしは、髪ぼさぼさ、無比の老醜を全身に携えたまま、よたよたしている。一夏中、白とグレーのティーシャツ二枚を交替に着てどこへでも出歩いていた。歌舞伎座でも、会合でも、ホテルのクラブへでも。どこでも。九月になっても。
「ラフ過ぎるティーシャツ」と誰かに言われたかも知れない。ラフというより、わたしには着心地が「たいそうラク」なのだが、「ラクな恰好ほど体形を損なう」ともものの本で読んだかも知れない。それがどうした。
徒然草は印象的な段々に溢れている中でも、わたしの好きで憧れている人は、ありとあるお金を「芋頭(いもがしら)」の入手に宛てて、病んでも健康でも、どんな場所や機会にもひたすら独り芋頭をむさぼり食い、することなすこと自由自在に気儘で、しかも諸人の敬愛をうしなわない仁和寺の或る宿徳の僧都である。よく、好きなことを好きにして暮らしたいと人は憧れるが、出来る人は滅多にいない。この僧都はチャンピオンである。
閑吟集に、きびしい小歌が一つある。孤心とか恋愛とかを離れた、こういうところに此の歌謡集を支えたり編纂したりした批評家たちの皮肉な横顔がちらと見えるのだが。
人は嘘にて暮らす世に 何ぞよ燕子(えんし)が実相を談じ顔なる
孔子や孟子ではない、いまならさしづめ電線にならんでピーチクパーチクの燕たちを「燕子」と尊称してかつ嗤っている、あの軽くてお安いピーチクパーチクを、まるで「実相」を談じているつもりなのかと。「人は嘘にて暮らす世に」という喝破が凄い。「好きなことを好きなように」斟酌なげに思うまま過ごせる人もあれば、(いや、これはめったに無い。)たえず「実相」を談じていますよという身振り口ぶりのあらわな人もいる。そういう人ほど言葉遣いにも無用の硬さが出る。花さんも、硬い方だった。いっそ本名を忘れて花にしなさいと勧めてから、さまがわりにメールが自然に「恋文」に変わった。書く方もラクだろう、貰う方もラクである。肩の凝りがほぐれる。気さくにこうして転記もできる。「メールは恋文」説を、もろに誤解する人が、しかし、時に有る。
2004 9・10 36
* 郵政民営化で、また小泉首相と与党の抵抗勢力とがごたついている。この改革だけは小泉氏の多年の提唱であり、それを実現しようとして総理になり、そういう総理を再選したのが自民党であるのに、これはまた何の私利私略であるのか。改正の全貌もメリットもおかげでまだ我々にはよく見えてこないが、綿貫某ら郵政族議員等の何が何でも反対だという気勢の挙げかたなど、人品のいやしさまでが露出していて不快極まる。
新聞もテレビも、もともとニュースというものをそのように規定したうえで報じているのだから仕方ないとはいえ、こうまでも不快事件ばっかりで埋められてしまうと、やりきれなくてつい眼を背けてしまう。
ものいえば唇寒し、なかなか「芋頭」の好きな僧都のように気儘には生きにくい現世であるが、エックハルトの説教にも、人間を二つに分け「外へ」人間と「内へ」人間とを認め分けている。
自身の深い内なる奧を見定めないで、外へ外へ反応して思いわずらい、自身を悩ませているのが、むろんわたしも含めて大方の、ほとんどの、凡人というものであるが、バグワンが指さすように、「もし地上が地獄であるとしたら、その創造者はあなただ」と言われてしまうのは、つまりは「外」にこだわれば外とは地獄であるのを覚悟しなければならない。「外へ」人間は、ものごとの「はかり」を自身の外に置いている、メモリも分銅も評価も。なるほどそれでは地獄になる。「外へ」人間は、孤立を恐怖して人を外に探し求めて奔走し、しかしそんな外で見つかるのは、そんな自分と同じ「外へ」人間ばかりであるから、とても「身内」とは信じ切れない。人を求めるには「内へ」思いを沈めて闇の奧でで出逢うしかない。内なる闇は無限に拡がっていて、そこでは静かな人が静かに人を愛そうと待ち合っているものだ。わたしの謂う「身内」の「島」とは、「内へ」人間が抱いている「闇」の意味に等しい。「外」を覆っているのは暗黒・暗闇の闇、「内」の闇はそうではない、光っている「闇」なのである。「内」なる闇で、人は愛に出逢う。騒がしい「外」で出逢えはしない。
思考は暗闇のようなものだ
それは内面に光のないときだけしのび込んでくる。 バグワン
思考・分別。良いことの代表のように思っているが、それらが「外」世界を支配する「心=マインド」と称して、人をわるく愚かに利害本位にコントロールしてしまう。政治屋は、その尤も図々しい手先なのである。宗教屋と教育屋はこれに次ぐ。
2004 9・10 36
* 四時から七時半まで昏睡していた。土日は、せめてはやくやすもう。明日の日曜は、機械の前から離れて上野か竹橋かへ繪を見にゆこうか。混む休日にわざわざとも思うが。そうそう鳥山玲さんの個展が明日で終えてしまう。散髪もしたい。週明けには二月ぶりのペン理事会がある。うかうか五日の「金剛の能会」はミスしてしまった。あれこれ招待券が輻輳していて、つい、ミスチャンスしてしまう。眼精疲労でバテてもいる。妻もバテ気味。気分を新たにしないといけない。
* と言いながら、たてつづけに数本の佳い評論を読んだ。伊藤整の「求道者と認識者」は『文壇と文学』連載の一章であるが、瞠目の洞察と鮮やかな整理。
伊藤整や平野謙や中村光夫を耽読していた若い日々を思い起こす。近代文学史は概してこういう国文学者でない大きな才能により耕作されてきた。作品の読みが学者の場合どうしてもこまかくなる。大きくない。文学文藝への愛情や傾倒の深浅が結局成果を分けている。谷崎学など、どう転んでも学者達の器量が作家の前で小さすぎて、その証拠に、少しも谷崎学の成果が評判にも何もなってこない。伊藤整の谷崎論なんてものは、革命的な足場を創ってくれた。そういう仕事が国文学の学徒からまるで現れてこないのはどういうことか。すばらしい新知見、めざましい新提唱、そういう評判を耳にしない。どうしたのか。
2004 9・11 36
* 田中美知太郎先生の「古典教育雑感」は、まさしく謦咳に接して間もない頃の、どことなく一刻な言表と読ませて頂いた。
歴史記述への接し方で、われわれはどうしても通俗な時代区分に盲従しながらよんでいるものだが、いわば水平思考で発想を転換すると、ギリシア・ロマの時代と近代・現代とを「同時代」とも読め・読まねばならない展望が見えてくる。ギリシァ・ロマの古典時代に学んだ近代史家トインビーはそういう提唱をしているし、田中先生はそれを強く継承されている。
わたしはトインビーにも田中先生の著書にも残念ながら疎かった方であるが、この「同時代」感覚を非常に早く、我流でもっていた。そもそも時間を線的な延長として捉えずに、空間と時間とともに風船のような、宇宙のような「球体」にとらえて、その膨張と縮小とで「歴史」を読めばいい、そうすれば、球の大小にかかわらず歴史とは大きな大きな「同時代」なのではないかと「空想」してきた。だから、わたしは小説の時空を何千年隔てていようと同時代感覚で書くことを繰り返してきたのである。紫式部も後白河院も新井白石も最上徳内も、わたしと同時代人であると思える仕掛を「歴史観」として持っていた。物の譬えに「桜の時代」と置いて「古今集」と「細雪」とを同時代のものと読むなども、その応用であった。それは、田中先生に教わったのではない、だが田中先生の此のエッセイにもそこへ鋭く通じて行く論旨があり、懐かしかった。
* さ、伊藤整を読もう。この大先輩の「詩」が好きだった。東工大で語学の教授をされていたと聞いていて、江藤淳さんのアトヘ来てくれないかと言われたとき、伊藤整さんのいた大学だと、背を押された気持ちになったのを忘れない。伊藤さんの評論を本当に宝物のようにたくさん耽読してきたのである。
2004 9・14 36
* 夜前のメールに少し考えさせられた。
お洒落は女の「義務」なんかではない。ふだんのつまり「心がけ」であり、義務でしていただく「おしやれ」など、少なくも男であるわたしには、ばかげていると思う。そんな義務からは早々に解放してあげたい。「もし女がジャージー姿でデートなどということになったら、それは相手の男が愛されていないことと同じ」など、これほど無意味な断定はない。
いい知性とやわらかいセンス。情愛の自然さ。それが先。それが感じられれば、服装は二の次で足りている。清潔であれば十分だ。夏は涼しく冬は温かく。形ではない、生きるセンスだ。「ジャージー姿で」のデートの素晴らしくチャーミングで愛に溢れた女の人がいても、ちっともおかしくない。固定観念で身構え、謂われない思い込みで不自然に「人間」を、「他者」を、決めつけてはいけない。人それぞれに自然でゆったりなら、いい。われなべにとじぶたの幸せなデートもある。「習慣」という名の固定観念に隷属したくない。文化に似てそれは文化ではない。
2004 9・14 36
* 朝十時。伊藤整「求道者と認識者」を読み上げた。これは、「ペン電子文藝館」全体、少なくとも読み物等は除いた近代日本文学の素質や傾向を大づかみにする上でも、これ以上はないほど適切な把握である。平野謙の三派鼎立論、つまり日本近代文学は私小説派とプロレタリア派とモダニズム派で成ってきたという説が素晴らしく優勢であったときがある。だが、いまどきプロレタリアという言葉すらもう死語に近いし、モダニズムという物言いも古びてしまっている。たしかに私小説を書いている作者はまだ異様に多いのだろうけれど、他の二つが有名無実の名付けになっている昨今、もう平野の三派鼎立論は歴史的使命を終えたのである。
しかし、日本近代文学がまさにいろいろであることは、「ペン電子文藝館」の仕事をしているといやでも感じるし、読者も感じていると想う。そういういろいろを文学史として交通整理する優れた視点は、やはりぜひ必要なのである。その意味で伊藤さんのこの論説は、今もかなり、いや甚だ有効であり、代替の有力説をわたしは知らない。物故会員伊藤整のこの論文を「ペン電子文藝館」に戴く意義は、だから、莫大なのである。
これが面白く興味深くかつ実際問題として有用なのは、この中に、中野重治らによるプロレタリア文学観からする強烈な文学史志向もまた紹介されていて、それも我々は一つのものの見方として憶えていてわるくない。われわの文学の常識に、どういう段取りでたとえば樋口一葉や石川啄木が今日のあんな巨大さで定着したかが、わかる。伊藤さんはそれに厳しい疑問符もつけている。一葉など、少女小説じみた「たけくらべ」と日記への私生活上の興味以外に何があるのかと厳しく、啄木の短歌と幾つかの時勢批判の評論をのぞけばその小説も詩も読むに値しないことは、わたしもまったく同感である。そして伊藤さんは、近代に卓越した何百年に一人といえる大作家は谷崎潤一郎であると言い切り、同じことを言い切っていたのは伊藤さんも触れている正宗白鳥であり、また優れた文壇文学史家であった勝本清一郎である。
わたしは、いうまでもなく「谷崎愛」を持って自認してきた作家の一人なのである。
兎に角も伊藤さんのこの論文は、「剴切」とは之と謂えるほど、おみごとである。非常に適切で実状に好く当てはまる。願わくは通俗読み物、大衆読み物、ノンフィクション等を含めてもこれが多分謂えるであろうことを誰かに丁寧に論証してもらいたい。
* ご遺族の掲載ご了解も得てある。
2004 9・14 36
* こういう遠くからの便りに触れると、かなり気は重い。よく思い出すのは、この町で妻や一時期叔母もかかっていた原田さんというお医者さんのことで。
癌の奥さんを医師の手であえて見送られたあと、同時に自殺された。患者たちの後始末もみなきちんとつけ、子供達を呼び寄せておいて、その到着前に遂げられた覚悟の死であった。自身にも予断をゆるさぬ難しい病気が迫っていたと聞いている。
そのことを聞き知った日、わたしは黙然といた。清寂があった。一抹の羨望もあった。わたしは基督者ではないし、自殺を否認していない、それどころか実兄も生母もみずから死んだ。ほかにも有る。ときどきなぜまだ生きている必要があるのだろうと思っている自分をみて、おいヨセよと窘めることがある。わたしは自殺しない。だけど、それだけは分からないではないか。妻は、さきに死なせて上げると前から言ってくれている。その方がいいに決まっている。
2004 9・14 36
* 久しぶりにぐっすり眠り、珍しく朝寝しました。からだが要求したのでしょう。黒いマゴが二度ほど夜中に起こしに来たと感じていましたが、無視。建日子の「ラストプレゼント」が終わり、それでわたしも打ち上げた気持ちで昨夜はぐっすり寝たのかも知れない。
掌説は、たしかに生やさしくない。読んでみるとこんなのなら簡単と思えて、書くと難しい。
早稲田文芸科の学生たちに、教室で五枚、二十枚、五十枚と書かせてみたとき、五枚の作で読めるモノは一人も出せなかった。みな只の作文で、手に負えなかったらしい。
「思い切って」言葉から言葉へ飛越していく断念のようなものが必要なのですね、太鼓を打つように、音は一つ一つ区切れていて、途切れては居ない。説明を始めたら粘ってしまい、行数ばかり喰ってしまう。そして四枚ではとても収まらない。軽いコントの感覚では一遍の小説作品にならない。
わたしが、自分の「掌説」をひそかに自負してきたのは、かなり独特で、かなり作者自身を裏切っているところです。作者も知らなかった作者が露出している。そしてその気になると、どの一編からも長い小説へ成長できる要素も有るからです。
気を入れて、不退転の覚悟でまた試みてごらん。始めたら一週間から十日ほどは石にかじりついてムリにでも毎日続けること。その自虐が不思議な泥を吐かせます。
2004 9・16 36
* そう。チャタレー夫人はすばらしい。敢然と取り戻した、自然。たぐいない知性がそれを可能にしたのがすばらしい。とらわれたリクツは拭い去ったように捨ててしまえた聡明さ。それが、性への没入を、光り輝く知性と感性との宝玉のアマルガムに、玉成に、し得ている。その美しさと優しさとはあらゆる作家達の創り出した女性の中でも有数の女神。ブロンテの「嵐が丘」ふたりのキャサリンと並んで、とわたしは賛嘆する。この二人のキャサリンは、一人の女では実現しにくいほどの偉大な燃焼を、母と娘とで力をあわせて完璧に仕遂げた。チャタレー夫人は男の愛と性とをじつに見事に享けて、生彩そのものとして生まれ変わった。満たされなかったものをたまたまの出逢いで埋め合わせたというのでは、決して、ない。生きているだから逃げては卑怯とぞと彼女は完璧な自己責任で幸福を確立したのである。
2004 9・17 36
* 伊東静雄の「わがひとに与ふる哀歌」を林富士馬さんにはやくに頂戴した文庫の編詩集から抄している。関西の文学者たちにことに伝説的に愛されてきた詩人で、日本浪漫派の広い輪の中におさまる詩人なのでもあろう。かなり歌い上げている人のようにわたしは感じてきた。わたしは、保田与重郎に代表されてきた日本浪漫派の文学にはあまり感受性をもたない。パセチックなのがつらいのである。日本と言い浪漫と言い、わたしの好みのように思う人もいたけれど、むしろ対極的なところで書かれていたもっと地を這って苦しんだ人たちの文学文藝や、もっと落ち着いた物言いと心境で成される文学文藝のほうに親しんだ。日本ということにこだわるにしても、せいぜい川端康成どまりでよろしく、わけもなく偏して抱き柱にすがりついた人たちは敬遠し続けたのである。むろんそういう人のも、勝れた文章や詩は、偏見なく「ペン電子文藝館」に取り入れたい。
2004 9・22 36
* よく眠ったと思う。夏バテは眠って追い出すしかないと考えたが、当たっているらしい。
* あれこれとあり、気ぜわしい感触なれど、さてと居直ればぜひともという用事は無い。幼少来のほんものの怠け者根性にわたしは身を委ね始めている。なにもしなくていいという快適に慣れて、なにもしないことにうしろめたさを覚えないよう、自身に仕向けたい。手に一杯持ったモノを一つ一つなどと言ってないでドヒャッと全部放下していい時ではないか。
2004 9・25 36
* 萩の咲く道を通勤しています。ススキも風にゆれ、空もすっかり高くなり、季節を感じます。
不眠に悩んでいます。心が疲れて寝付けず、眠ったと思うと三時間で目が覚めてしまうのです。しかたなく起きて翌日しなければならぬことをしていると、四時 五時。もうひと寝入りするのですが、六時半には起きないと仕事に間に合わず、結局寝不足。
電車で坐れて三十分でも仮眠できれば頭はすっきりするのですが、これがないと午前中ぼーっとしています。
右肩が岩のように重いのです。磁気利用のピップバンや、貼り薬 塗り薬 マッサージ器 すべて試すのですが、本当の痛みは抜けません。運動不足かとせいぜい動かしてみるのですが、首筋に板を張ったような感じ、これも不眠と関連しているのでしょうか。
夏のうちクーラーを一時間ほどかけて寝付くようにしていました。涼しくなれば楽になるかと期待しながら。けれどもせみの声がこおろぎに変わってきても寝苦しさは同じです。私自身の季節が 秋も深まったころに近づいているからでしょうか。
憂鬱な話題で申し訳ありません。明日は十時ごろに家を出ればよいので、不眠ともこうして付き合っています。今五時。二度目の睡眠に入りたい。 川崎市
* 同じ苦痛を堪えて悩ましい人は男女ともに多いようだ、私のように明くる朝に出勤の無い者にも、似た苦痛は来ている。寝入って私の場合は一時間半か二時間でいちど目の覚めることが多かった、そして二三時間して、また。
だがこの数日、それも軽快したのは、昼夜となく睡魔の誘いに抵抗しないで寝に寝られたからであろう。そういう気楽なことが大抵の働き人には出来なくて気の毒だ。この萩の咲く道をむずかしい仕事をすべく出かけてゆく人は、いつも全身に「黒いピン」をたててその痛みに追われるようにして生きていると形容してくる。いつであったか、そういう夢をわたしが見て、私語に告白したのを、この人は以後わがことにうけとめて黒いピンの痛みを言うようになった。黒いピンは、せめても時有って抜き放たねば堪え難い。わたしはそんな夢のあと、黒いピンを一本一本抜いて捨ててゆくように、かなり意識して努めた。バグワンに背中を押してももらった。
「黒いピン」を全身にハリネズミのように立てていない人になど、めったに会えない。みな苦痛に呻きながら日々を過ごしている。中にはその黒いピンの数多さを自慢にさえして痛いまま奔命奔走している人もけっこういる。お忙し氏たちである。
* わたしが、今、もう最後の方の黒いピンをどう抜こうかと、妻とも本気で相談して工夫しなくてはならないのは、今なお身に負うている「外」世界への、職責の整理=役職と出版と、だ。それから、家中に本意なく積みに積まれて所在も知れないほど混雑した「もの」の処分だ。気持ちの清明を、それらがどんなに混乱混雑させて肩の凝りと化しているかは、計り知れない。
隠居したいというのではない。もっと軽やかに動けて老境の力を満たしたいのである。ちいさなちいさなものでありながらも、多年培ってきた自身への自負やそれに応じた職責というものが、現に在る。抛てば則ち是とも、また非とも、微妙に言い難いところがあり、いつしかにそれはわたしだけのことでなく、妻子や家庭の事とも成り切っているから、相談の必要も少なからず有るのである。時機を得ては、そのことと意識的に立ち向かい解決できるだけは解決することは不可欠であった、これまでも。これからは殊に。
2004 9・26 36
* 一連の同じムードの夢を、場面代わりで執拗にみていたと思うが、起きてみるとわらわらとものの崩れるようにわすれてしまう。映画館であったり、掛け茶屋の床几であったり、食べ物屋の平床の卓であったり。それらがみな、「慈子」的な空気であった。誰かしら大人の男がいたり、扇千景に似た二人の盛装した老女にギシギシに挟まれて坐っていたりした。優美・聡明・情愛深く親切と、何度も思い直し思い直ししていたのがおかしい。どうもこれは慈子的なイメージのようである。
春愁に似て非なるもの老愁は 登四郎
2004 9・28 36
* 今日も何かあったかしらんと、カレンダーの上での予定なども頭に入らなくなり、もう何度もあれこれ不義理の不参・欠席を重ねている。わるいことに、ま、いいじゃないかとそれを容認してしまう。
いま、一つの或いは危機的な過渡期がわたしに既に来ているのだと肌身に感じる。過去を卒業して隠居したいのではない、これからの十年か十数年か二十年かは知らないが、過去に拘束されずになにかしら青空へ身軽に飛翔して清明感に溢れた朝昼晩を迎えたいと思うのであるが、そんなことはたわことだと囁き嘲る声もするし、勇をふるって飛び込めと、それが一の奈落の境地であることを険しく示唆する声もある。
* 「慈子」的な夢を見たと書いたが、じつは「慈子」の「顔」を、あたりまえだが、作者のわたしは知らない。全体の「感じ」はよく分かっているけれども。いつでもだから「顔」は、変えて想像するか、変わって現れる。顔を「見る」と謂うことは事実上無いのだが、夢では、クリアに「感じ」られる。譬えて謂えば路上であえば、ぜったい見間違えたり見失ったりはしないだろう。そしてその「感じ」が現実の誰や彼やに重なっても何不思議も無い。創作した理想的な「人」とはそういうものであろう。
どこかに書いたように、わたしの場合と断っておくが、創作するのは「たづね人」なのである。こういう人を捜しています、ということになる。向こうの「特徴」のようなものは、ぼんやりと、いや相当にクリアに私には感じられている。私のヒロインがほとんど凡てお互いに似ているのは当然だろう。しかし、どのヒロインも「顔」はクリアである道理が、いや必要が、ない。そういう限定は不用なのである。
優美、聡明、情愛深く親切。これは紫上や宇治中君に初めて抱いた少年わたしの恋情なのであろうと思い当たる。あるいは「こころ」の奥さんにも。
わたしは、もうすぐ七十になろうというのに、こんなにも未熟な少年をかかえて歩んでいる。
* たくさんなものに、抱き柱は要らないと言いつつ、わたしとて抱きつきしがみついている。勇を奮って落としたいと思いつつ、それが恐くもある。怖さを克服しなくてはいけない、その過渡期にわたしは立ち、心はもっとがんばれと唆し、覚者は奈落へ飛べと冷厳。老いた少年は震えるのである。しかし分別顔した心の誘惑に、魅力は感じない。
2004 9・29 36
* 丁寧に、また慇懃にものを言おうとして、かえって丁寧でも慇懃でも実はない、明らかに間違った物言い。その最たる一つは、俗用され多用され、一番通用している、「とんでもございません」「とんでもありません」であろう。「とんでもない」話である。
もともと、「もしや」と用いられた物言いが、「もしか」になり、「もしかすると」になり、さらに「もしかしたら」になって、この最後の物言いが今では一番丁寧で慇懃だと思っている人も増えている。よくよく耳を用いるならば、「もしや」のあたりまえが、「もしかしたら」へまで徐々に無意味に崩されていることに気付くだろう。
今どき丁寧語の定番は ナニナニ「様」という銀行の窓口や、病院の会計や、クラブのホステスことばであろうか。わたしはこれを「サマ文化」と呼んでいて、対立して「さん文化」が存在した。
天子さん、宮さん、おもうさん、おたたさん、お父さん、お母さん、兄さん、姉さん、奥さん、ごりょんさんであったものが、明治以降に扇型展開、まるで、「サマ」一辺倒にさま変わりしてしまった。「さん」呼ばわりはぞんざい、「サマ」づけでないと丁寧でも慇懃でもないと思いこむのは、しかし、近代の一の異風。
「様参る」や「貴様へ」あたりから始まった、強いて云えば廓育ちの俗風なのである。「様参る」は、およそ名前など云うに当たらない、ないし、云うを憚る名無しの権兵衛なみ遊客への、遊女からの宛名代わりであった。
「貴様」も、幕末から維新の明治へかけ遊郭の外ヘ溢れ出てしまったが、もとは廓うちで遊女から武張った遊客への軽い敬称のようなもの。尊王攘夷、薩長土肥などの志士たちが、明治の顕官や紳商に成り上がるにつれて、遊郭で「貴様」「貴様」と昨今の「よんサマ」「タカさま」なみに呼ばれてでれでれに嬉しがり、そのまま、手前方の田舎世間に定着させて大いに喜んだもの。それが薩長中軸、ご一新以来の近代政・官・軍人たちが威張って謳歌した「貴様」社会であった。おかげで上も下もなく、なんでもかんでも「様」づけという品のないことになってしまった。
京都では、「宮さん宮さんお馬の前にひらひらするのはなんじゃいな トコトンヤレナ」と歌ったが、薩長主導の官軍が江戸へ江戸へと錦の御旗をふりかざして行軍したときは、すっかり、「宮様宮様お馬の前にビラビラするもの何じゃいな トコトンヤレナ」と変わっていた。
日本の上流社会なんてものも、この手の、いたずらに世にはびこった連中が、けばけばした鹿鳴館風俗を経て、わけわからずに押し広げていった、ま、ハダカの王様社会なのである。「ざあます言葉」などという奇妙な日本語も、慇懃と丁寧好きな彼・彼女らが生んだ、いわば「サマ」文化。根が根だけに容易に洗練されないままお上品そうに誤解されてきた文化である。
「さん」でも「サマ」でも構わない。あの愛らしい愛子さんも父殿下を「パパ」と呼ばれているようだ、なら雅子妃は「ママ」と呼ばれているのだろう、そういう時代である。ていねいはいいこと、敬語も落ち着いて使われたいし、慇懃の必要な場面も日常多々ある。言葉遣いを生かすのが形骸化した習慣でなく、一期一会の実意であればいい。ただの「位取り」目的のステイタスを厚かましく意識した慇懃などは、まさしく慇懃無礼というものだろう。
そういう人達、たしかに少なくない。そういう人たちを例えば「書く」となれば、「とんでもございません」「もしかしたら」「まあハタ様」「さいざんすか、はあ」などと書くのがやはり適切だろう。
2004 9・29 36
* 人が一本の中空の竹となったとき、天籟がそれを鳴らす、と。響かせる、と。このバグワンのイメージ、すばらしい。かぐやひめが竹にひそんでいたように、竹誕生の伝説は、南海諸島にことに豊富で、やはり、中空の竹に対する憧れが多く語られている。
今にも自身が中空の竹であり得たらと、その実感を求めて、とても強く憧れる。なにかがその竹の空洞を鳴らすように近づいてくる。闇を懐かしむのと似た感覚。エゴという余分な混雑物=フシが竹の筒からすっきり抜けきり、そうそうと風か吹き抜けて行くような、一本の中空の竹。
眼を閉じていて、いましも、しばらく眠っていた。とろとろと。いつとき、からっぽになっていた。ここちよかった。
あす、万三郎の能だったと忘れてしまっていた。行くかも、行かないかもしれない。
2004 10・1 37
* 歴史的な事実や事件に遭遇し、同時代人として「分かちもつ」ことに感慨ないし会心・歓喜の思いをする。例えば、いましもイチロー選手の一シーズン最多安打記録を何十年ぶりかに書き換えようかという瞬間を待つのも、そういう瞬間に同時代人として参加し共有してみたいからである。
アメリカにも、そんな大記録を、日本からきた華奢にも見える小柄な一選手に破られたくないと願う人はいるに違いない、が、それを乗り越えてそんなに「すばらしい」記録を自分は生きて分かちもつんだ、もちたいんだと感じている人は、遥かに遥かに数多いだろう。大げさに言えば世界中が固唾をのんで、その瞬間に出会いたいと待っている。わたしも、その一人。
もう昔だ、わたしの教授室に最も頻繁に時を過ごした東工大の一学生は、少し風変わりな才能であり、取得単位数が200単位を超えていた。彼は機会があれば同じ国立のお茶の水女子大学の教室へも出向いて女子学生とともに単位を取ってきた。東工大の学部を無事卒業するのに必要な最低ラインは、せいぜい110 か120単位で足りたのだから、彼の記録は、仲間達には信じられない大・珍記録だった。
おりからあのイチローは、日本のプロ野球で、初めてシーズン200安打を超えてゆくという信じられない新記録を樹立し沸いていたので、わたしは躊躇なくその学生クンを「イチロー」と尊称したものであった。いまでもわたしにメールを呉れる時彼は、「イチロー」と名乗ってくるから楽しい。
そのイチローは、大リーグに移ると忽ち200超安打数をかるがると毎年記録して、ついに今年は前人未踏の大記録を書き換えようとしている。こういう歴史的無害の瞬間に遭遇できる同時代人が無垢に喜んでいる気持ちは、いっそ尊いほどのものか。
いやな歴史的事件、二度と繰り返したくないと胸に焼きつけた例も、残念ながら、ある。わたし一人の記憶では真珠湾攻撃にはまだ幼くて実感も批評もきかなかったが、ヒロシマ・ナガサキの原爆には戦いた。ケネディ暗殺にも寝床から跳び起きた。阪神大震災で高速道路が横倒しのテレビ画面にも仰天したし、ニューヨークの超高層ビルの二つが飛行機のテロにより目の前で瓦解崩落する大惨事には目も眩む思いだった。
ああいうどの事件にも同時代人として参加したくはない、が、心の片隅にはああいう事件も身を以て耳目に刻んだという自覚はある。凄いことを自分は知っている覚えているという実感がある。
これらは良きにつけ悪しきにつけて「自分史外史」であるが、文字通り「自分史」にもそれなりの事件や大事件が良くも悪しくも誰にも有る。それぞれの十番を選ぼうとすれば、少し自覚的に生きてきた人なら、そう多く時間をかけずとも会心の十番、苦痛の十番は選び出せるだろう。
日本人は、それこそ飛鳥の位階制や近江朝の頃の「春秋の競い」からはじめて、「春は、あけぼの」を経て、江戸時代にともなると無数の番付を産み出したほど、そして戦後の「ベストテン」ブームまで、じつにものを選んで「順位をつける」のが好きな民族であった。それが「批評力」「趣味能力」のトレーニングでもあった。
中学の先生に、もう幾つ寝たらお正月の二学期を終える日に、出来ればこの大晦日には、今年読んだ本の、今年好きだった友達の、今年出かけていった先々の、気に入ったベストテンをきっちり順位をつけて書きだしてみるといい、何でもないようで、順位をつけるのは実は容易でない批評力を要すると知るだろうと言われたのを思い出す。そういうことを「京都」という町は千年も続けてきたんだとまでは言われなかったが、京都の文化の素質は、女文化であると同時に、この批評 (趣味能力=わる口)文化なのであったとわたしは理解している。
鶴見俊輔さんはそれを「京都の悪人性」と、私との対談の第一声にされているが、文化なのである。「文化」とはどちらの漢字も意味しているように、根は「人のわるい」ものではある。
さ、どうか。イチローの大記録は、タイにあと一本、新記録にあと二本。動いたか!
* みごと、二打席の連続ヒットで、イチローはタイ記録を超えて258安打という全米新記録、つまりは世界新記録をいとも鮮やかに達成してくれた。ただ拍手のほかはない。観客が立ち上がり足踏みして喜ぶ、場外が歓声を上げ、日本でも拍手と祝福。無垢の達成であることを誰もが歓喜する。
小泉総理のえげつなく吐き気のする「サプライズ」とは質も次元もちがう無償の営為。或る意味では、それがどうしたという議論も不可能ではないが、やはりそうではないよ。よく深く生き抜くすばらしさをイチローは見せている。それに励まされるのである、だれもが。どうだ、これ以上に素晴らしいことをお前達はしているのかと、日本人なら永田町の方へ白い目を向けている。そういうことなのだ。
イチロー君、おめでとう、ありがとう。
2004 10・2 37
* 「心 わが愛」のキイワードは「身内」だった。身内とは。
バグワンは、ヘッドトリップとハートトリップということをよく言う。ヘッドトリップとは分別心、それでは人間関係のなかで信じたり疑ったりを反復し思議しているに過ぎない。まだ他人の間だ。だがハートトリップなら身内に近いといえる。
疑いは半欠け、信用も半欠け、それは同じことの表裏にすぎないとバグワンは言う。
幼な子は父親の手にすがり
彼の行くところならどこにでもついて行く
信ずるのでもなく、疑うでもなく――
これは「父よ」とただよんでみるだけで済む「子」の全的な信頼・帰依を示唆している。信じたり疑ったりの繰り返し、それを ヘッドトリップという。父と子との譬え、それをハートトリップという。恋は所詮ヘッドトリップ、身内は全的なハートトリップだろうと思う。「恋は罪悪です。しかし神聖にいたる道だ」と心の先生は私に向かって繰り返し言う。神聖とは「身内」の意味でもありうる。先生もKも、恋の心で心騒いで静を得られなかった。彼らは「身内」になりきれなかった。ヘッドトリップの人であった漱石は。それに自身も気付いていたから、則天去私を願った。願ったと言うことはそれに達したという証拠にはならない。先生も漱石も気の毒な人であった。むかしむかし、中学前に、息子の建日子は心をわたしに読んで聞かされて、「なんて可哀想な…K」と泣き出した。わたしは今は、やはり「先生」の淋しさを気の毒に感じる。
2004 10・4 37
* 今日、おもしろい本を、久しぶりに、又あらたに読み始めた。『家畜人ヤプー』である。この本は、わたしが作家になって依頼された書評の、二冊目の本であった。一冊目は村松梢風の谷崎論『女人拝跪』だった。「家畜人ヤプー」はちょっとやそっとで内容を伝え得ない大作であり怪作であり、一種異様の名作であるが、書評せよと言われてとても困った。なんで私にと内心憤慨した。しかし丁寧に書評し、その理解は、作者沼正三に大いに喜ばれた。その作者たるや仮名らしく、実物は誰だと当時大いに大いに騒がれていた。三島由紀夫がいちはやく推奨し、その破天荒なサド・マゾが話題であった。だがわたしはこれを作者による「天地創造の神話」であると読んだ。これが作者をよろこばせ、まるで「わが党の士」かのように「秦さん」は喜び迎えられた。これにもわたしはビックリしたが、わたしのように読んで行くと、このおそろしく博大な知識学識からなる奇書が、すっくと、まともに立ってくる。わたしは今でもそう思うのである。
それにしても、人によればこんなに不快な物語は無いかも知れない。作者がついに仮名のママになっているのも、身の危険を避けていたと思われる。「ヤプー」とはヤパン、ジャパン、にっぽん人の意味なのだから推して知れよう。
だが、これは一人の天才の創作になることも間違いない。これほど壮大で華麗で徹底した神話世界の創造は誰にでも出来る藝当ではない。冗談にも「秦さんか書いたんじゃないの」と言われたとき、わたしは不快に感じることなく、むしろ快い驚きを覚えたぐらいである。
大作だが、ことに前半がべらぼうに刺激的によく纏まっている。「アンナテラス」の名でわが天照大神もおおっという驚きとともに登場する。
読み直してみようと思う。書庫には初版本も全一冊本も三冊本も漫画本も揃っている。
2004 10・5 37
* 今日は大雨の中をずいぶん歩かなくてはならず冷えました。そのせいばかりでもありませんが、躰の節々が痛んでいます。風邪をひかなければいいなと。
健康診断ではあまりに血圧が低かったらしくて計り直しされましたし、体重が一キロ増えていてショックを受けています。
> 完全に女性的に子宮のように受容的にならなくてはならない
読んだ瞬間に驚きました。バグワンほどの人物も、こういう表現をするのかとびっくり。
子宮のように受容的という表現に、男の女への思い込みや都合のいい理想化、あるいは性的な力関係の優越性の匂いを感じました。大袈裟ですか? 受容的はよい意味で使われていますが、それでもわざわざ女性と子宮と譬えるのはどこか何かが「ちがうのとちがうやろか」僻みかもしれませんが、差別を受ける側というのは重箱の隅をつつきたくなるもの。
本筋で、バグワンが女性を低く見ているとはまったく感じませんし、この本のテーマに影響のあるものでもなく、こだわるつもりはありません。でも、この表現、無意識の無神経さというか長い間の男性中心文化の厚みの壁なのかと感じました。バグワンの言葉に何度も心安らぐ想いがしているので突然のこの表現に狼狽したのでしょう。 都内
* > 完全に女性的に、子宮のように受容的に
ユダヤ教、キリスト教、回教以外はといえるほど、信仰の深い基盤は「女性性」にあるとは宗教学の常識で、いろんな女性的な、時には露骨に女体に譬えたメタファー(隠喩) が、いろんな宗教に氾濫している。一例が、老子は「谷神」と謂いまた「玄牝」と謂っている。受容、帰依、降参、みこころのままに、みなその深い意味は、底知れぬ豊かな慈悲にあふれた女性・女体的受容でしばしば譬えられて来た。バグワンの失礼な偏見というのではなく、むしろ女性的なものへの信頼と敬意に満ちたメタファと考えていいのではないか。バグワンは、どこからどうみても、最も本質的に深遠な世界の基本は「女性性」だと確言している。真実に最も近いメタファとして。
だから、暫く目をつむって、「子宮」という語をメタフアとして容認して欲しいと思う。それに子宮・秘宮という語自体にもともと深い敬意が籠められていることにも気付いて欲しい。膣とは違う。
真の宗教家に男性中心文化の人は少ないのではないか、むしろ本質的な人はみな「女性性」に対する世界観上の敬愛を持っている。キリスト教徒でも例外でなく、むろんイエスも。
バグワンは男性本位者では全然なく、彼はここぞという機微では「女性性」に頭を垂れ、それなしに世界は無かったとしている。わたしはそう読んでいる。
> バグワンの突然のこの表現に狼狽したのでしょう。
これはこの人が、本当に神的なものに帰依し信仰し降参してこなかったことを告白しているのと同じ。バグワンはここで「子宮」という一語に、愛の根源を、世界の原型を見ているのだから。信仰とは、それへの信仰であろう、どの宗教であろうとも。「母」と読み替えればいいのだ、あたかも「母に受容されたい」のが信仰の喜びであろうから。
* 子宮事件で作者自身が有名に仕立てた話は、瀬戸内寂聴さん。まだ駆け出しの頃か、小説に「子宮」という言葉をつかったのが非難されて、以後永く仕事の依頼がなくなったと、何度も書いたり話したりされている。それを聴いたり読んだりする都度、わたしは現実のこととは思えなかった。子宮は、鼻とか口とか胃とか腎臓とかとちがい、神経ともならんで、むしろ尊称にも近いのに。そして世界の生成の秘儀を創造するときに、男性原理などものの役に立たない、根源は女性的受容にこそ創成の真意は成り立つぐらい直感的に分かりそうなもの。老子の玄のまた玄、衆妙の門 と謂い、また 谷神死なず、是を玄牝と謂うというのも、その喝破である。
2004 10・5 37
* 宗教が先にあったのではない、信仰が先に芽生えた。宗教団体や組織が先に在ったわけでなく、宗教心と宗教観が先に生じていた。
わたしは、信仰心が宗教心になるところまでは容認するが、それが「特定の神」を擁した団体や組織や派閥となって人間社会に根をはったグローバルな事実を、人間のために幸福であったとは思わない。思えない。宗教心は大切に感じるが、「神」を創り出した人間は、同時に「悪魔」も創ったのだと、残念に思う。「神的なもの」を感じないではない。だが、人間が「考え」だした神には、ついて行けない。悪魔と相対化された「知的所産」に過ぎないから。
「考える」ということは、いつも相対的に対立物をも産み出してしまう。神を考え出したその瞬間に悪魔も考え出している。悪魔を考えるから、神を考えることになっているのだから。悪と善、醜と美。正義と不正。みな相対の表裏でしかない。神にとらわれている限り、悪魔の手からも逃れ得ないのは当たり前で、人間が考え出した「神」の団体や組織は、お連れの悪魔の手でまんまと人間を悪にも不正にも不幸にも醜悪にも突き落とし続けてきた。それはイエスや仏陀の本意ではない。後続した、思惑の強い「人間ども」の考えて創り出した「聖典」や、その解釈の負うべき咎であろう。
あらゆる「聖典」は、或る根源のところへ達した人には明白な真理をあざやかに確認させるだろうが、そうでない普通の人間達のためには、じつは何の役にも立たないとバグワンが断定している意味を、わたしは素直に受け入れている。容認している。
聖書も仏典も、「後の人間」の創作であり、真理は「書かれ得る」わけがない。何故なら人間の言葉は完璧ではないからだ。言葉にされた時、其の瞬間に真理は飛び去り消え失せていると言い切る老子の認識ほど、厳しくたしかなものはないだろうと思う。ことばですることは、つまり考えることは、ヘッドトリップにとどまらざるをえない。
真の宗教者は、信仰を組織したりしない。信仰を組織し始めた宗教者は、その時から世俗の権力者にほぼおなじ仕方で動いている。
孤独に直面できて、その恩寵にあずかれる、そういう「神的なちから」はわたしにも信じられる。だが、団体で、均等均質に信仰できるような「神」は、背後に「悪魔」も背負っている。それを人間の歴史は証明してきたではないか。
* ピュアな信仰に、男女の性差はない。あるとすれば「女性性」に、より本質の体勢が出来ている。なにかが宿るとすれば、宿る場が、通える空洞が必要になる。世界が生まれたときも、人間が生まれる時も、海のような、竹のような、女のような「器」が生きて働いたという比喩は、ただの比喩ではない。仏陀もイエスも老子も、それを、それだけを云っていたのかも知れない。ほかのことは、後の人間がみな「考えて」付け加えたと思っていいのでは。
男女差別、女性蔑視なんて、宗教が本来持っていたわけがなく、人間社会が歴史的につくりあげた「男的便宜」であった。すべて歴史時代の文化は、男社会の所産なのである。その多くは女が創り支えてきたにもかかわらず。わたしの「女文化」という認識も、「女の、女による、男のための文化」だと言わねばならなかった。事実だったからだ。それが「日本の歴史」だった。おそらく「人類の歴史」でもあったのだ、反省は有るにしても、だ。
* 批判を受けたい。
2004 10・7 37
* いまバグワンの「存在の詩(うた)」のうしろに、「一九九八年十一月二日 午前三時 本書を、究極の旅(十牛図)、般若心経に次いで、読誦し終えた。秦恒平」と書いているのを見た。「存在の詩」はティロパ(988 – 1069)の「マハムドラーの詩」を和尚バグワン・シュリ・ラジニーシが語った、説いた、一冊である。この三冊を相次いで初めて音読し終えた日付であるから、読み始めたのは少なくもこれより一年ほど前になろうか、「究極の旅」には書き入れがないが、今日まで少なくも七年、わたしは籤とらずにバグワンを先ず読み、読まない日は事実一日もなかったと言える。ほかにも「TAO(老子の道)」「ボーディ・ダルマ」各上下巻も傾倒して読んだ。最初の三冊もこれら四冊も少なくも各三回以上、または少なくも二回以上繰り返し繰り返し途切れなく読んできた。抱き柱にしないで、また知解しないように、まして知識になどしないように、淡い無心の読みを塗り重ね重ねて深い色にひたるように願いながら。それを「帰依」とよんでも「受容」とよんでもいいのである、多くの聖典や哲学書に接してきたいかなる体験よりも、そこでわたしは安心できるし、痛く叱られ続けて、それが嬉しい。信頼できる。
わたしはこのバグワンの実像を知らないし、知ろうともしてこなかった。そのかわり伝聞も耳に目にとどめなかった。むろん原文で読んでいるのでもない、しかるべき訳者の訳文を頼んでいる。いかようにもその限界を指摘することは出来るかも知れないが、わたしはそんな一切に全く拘泥しないで、目の前の「本」を、本当の本質的な本そのものと受け入れて音読している。
人に薦められたのでも探し回ったのでもない。嫁いでいった娘が大学に入ってものの半年ほど仲間達と読んでいたが、すぐ解散してしまい、本は我が家の物置に置き去りにされていたのを、たまたまわたしが見つけただけのこと。あいつはあの頃、いったい何を読んでマジナイのように「瞑想」「瞑想」などと言ってたんだろうと、若き日の娘にちょっと逢うような気持ちで読み始めたのが、そのまま、すうっと海にひきこまれるように、つまり帰依してきたのである。
* いまは「TAO(老子の道)」上巻に、三度目か四度目か入っている。これはわたしが手に入れた本で、娘の置いていったのは、先の三冊であった。
帯の裏に、佛教学の紀野一義氏の推薦文のあるのをいま、初めて読んだ。「この大著は『存在の詩』『究極の旅』に勝るとも劣らぬ不思議な生命力にあふれている。老子の言葉は難解だが、和尚を通って出てくると、ことごとく詩になる。詩とは存在の本質に深く関わるものなのだ。永遠について、生きることについて、悟りについて、女性の尊さについて、かくも深く、美しく、鮮烈に語った本は珍しい。人生を深く生きようとする人に勧めたい。」
帯の表にはこんな惹句がある。異議はない。「老子―存在へのマスターキー 危機の時代に現われ、魂のメッセージと意識革命によって、世界の魂(ソウル)に実存的衝撃を与え続けてきた和尚(=バグワン・シュリ・ラジニーシ)、ついに瞑想や悟りすらも止揚するに至ったこの現代インドの巨星が、全身の共感を込めて詩(うた)いあげる老子の道、それは世界史の時空を超えて、ほかならぬいまここに炸裂する真理の宇宙、究極の道であった。」
いま世俗の市場で、「老子」の「道」を書きまくり話しまくっている人達のタネ本は、みなおよそ例外なくこのバグワンの「老子」なのである。最も盛んな一人にバグワンの受け売りではないかと質問したら、そうだと率直に答えられてかえって気持ちが良かったこともある。
わたしが自分で選んでゆるされた裏千家茶の湯の茶名「宗遠」は、高校三年か大学に入って直ぐにもらったものだが、わたしはこれを「老子」本文の中から選んでいた。わたしはもともと孔・孟よりも少年自体から老・荘のほうに親愛を寄せて、祖父鶴吉の蔵書から、この二冊を比較的よく手にしては頁をめくっていたのだった。
バグワンは、自分はブッダやイエスを語るように老子を語るのではない、自分を語れば老子を語ることになる、自分は老子だとまで言い切っている。わたしがバグワンに帰依してきた秘密の一つであろうか。
(今わたしはなぜか非常に気分がわるい。全身が岩のように硬く、違和感に緊縛されている。目と鼻とのあわいを突き刺すように奇妙なきつい短い線が波動している。それでも朝飯がわりのバナナを半分口にしたところ。)
* ことのついでに「TAO(道)」の本カヴァの袖に抄出されたバグワンの言葉をここに書き置いてみる。
「そして、教えてあげよう。 老子は最も深い 誰ひとりとしてあそこまで行ってはいない 老子こそ最大の鍵だ もし彼を理解したら 彼こそマスターキーだ あなたは生や存在の中にある あらゆる鍵を開けることができる この”おいぼれ”はトータルだ あなた方は老子のなかに存在する そして何千というブッダたちも―― 彼はその両方なのだ そして、もし彼を理解できたら それ以上理解されるべきことなど何もない 何の努力もいらないと言う それは正解だ。
ただし、覚えておきなさい 人が努力を落とせるのは その最大限まで努力したときに限る 一生懸命にがんばることによって 人は、努力でさえも一つの障壁(バリヤー) ひとつのごく微妙な障壁(バリヤー)である という理解にたどり着く。
なぜなら あらゆる努力は すべて自我(エゴ)のものにほかならないからだ <真実>を達成しようとする欲求すらも 自我(エゴ)から出て来るのだ。」
* パソコンで検索すれば夥しいバグワン「情報」はあるであろうが、わたしはそれらに全く用がない。わたしは「情報」により彼を「分別」するような「ヘッドトリップ」に陥る愚は用いない。ただただ本を声に出して読むだけである。いま、「存在の詩」を手に入れて読み始めている一人とのバグワン交信がある。続くなら続けてよく、続かなくてもそれはそれ。わたしは、読み続けるだろう、少しもイヤにならず、少しも飽きない。
2004 10・8 37
* バグワンの言葉をわたくしも聴きました。
私がここにいるもうしばらくの間
チャンスを逃してはならない
……
いまのいま
あなたはためらわず魂の糧を得るがいい
それがある間にそれを求めるがいい
分別に機を喪うことなく
ああ、そうしたい。聖書の、イエスの同様の言葉にも惹かれていました。些細なことで逃してしまう、ナンセンスや心理的ガラクタにとらわれやすい自分の愚かさを知っていたから……知っているから。 春
* バグワンに、なにかの「効果」「効用」を気ぜわしく望むことなく、静かな目覚めへの詩(うた)のように、ノーマインドで聴きつづけたい。聴くだけでいい。「考え」なくていい。
彼は云う、「考える」とは選択することだ、つまりトータルに受け容れることが出来ず、偏狭に、まず、いいとわるい、美しいと醜い、正しいと正しくないなどと「分別=マインド」した上で、いいを選び、美しいを選び、正しいを選ぼうとする。だがそういう「分別」という判断は、所詮はわるいこと、醜いもの、正しくないものを表裏して必然引きずる。しかも瞬時にころころと態度や行為の中で反転し交替してしまう、と。
心=マインドは頼れない、善人も悪人もない、人間の心は瞬時に千々に乱れたり騒いだり砕けたり惑ったりするものだと、さしづめそれが漱石の把握した、「心」という頼りないシロモノの正体であった。考えて分別するのでなく、あるがままに観じながら生きたい。だが、だれにでも出来ることではない。もし仏陀を、もしイエスを、もし老子を、もしバグワンのようなマスターを「観じ」得たならば、ためらわず聴き、求め、あっというまにすれ違ってみのがしてしまうことのないようにしなさいと、バグワンは云っている。彼が正しいとか正しくないとか考えているヒマは、もう、わたしには残されていない。ほかに何も見当たらない、感じられない。だからただ彼に聴いている。抱きつきもしない、縋りもしない。ただ聴いている。
親鸞は地獄があるか極楽があるかも知らない、分かろうとも思わない、ただ法然先生が念仏すればいいと云われるのだから念仏するだけだ、それで瞞されていようが地獄へ堕ちようが、ほかにどうしようがあるものか、と云っていた。
親鸞は法然とすれちがって二度と逢えないこわさを瞬時に悟ったのだろう。
2004 10・9 37
* 相変わらず晴れやかでない。世間にもロクなニュースはなく、ダイエーの再建問題などゴタつくばかり、気色の悪い成行きだ。
あれはわたしの名付けた「もっともっと挫折」の、最たるもの。企業の欲の深さが、あたりまえのしっぺい返しを受けただけだ。金儲けに「もっともっと」とだらしなく欲をかきすぎた。
人間の所業に「もっともっと」が価値をもつことも、無いではない。たとえば藝の道など。わたしはそれをしも、そんなに潔いとも崇高とも想わないが。
自然な鈍磨にはそれなりの美があるものだ。若きより老いにいたる自然な曲線を幸いに設定されているのに、ことごとしく逆らってみることを時に勇ましくも時に愚かしくも思うのである、わたしは。
ましてたかが企業利益の、前年同期**パーセント増などという見込みを果てしなく願ってみても、壁に突き当たり奈落へ沈むのは当たり前の話。昔、管理職のはしくれで年計画のそういう提示を飽くなく上に求められ続け、あさましいなあ企業というのはと、ほとほと苦笑ものであったが、バブルの夢はあえなく世をこぞって潰れていった。
ひとによれば「もっともっと精神」こそが文明開化の幸を人間にもたらしたと思っているだろうが、それは機械文明にほぼ限られていて、その機械文明がもたらしたのもたんに「便宜・便利」という薬効に過ぎぬ事、この薬の毒性もまた甚だしいということは心得ていざるをえない。それが、ほとんど人間の精神を根から荒廃させつつあるのかも知れぬという視点を、はなから喪失しているから、世間にも世界にも、ロクなニュースがないのである。バカらしいことだ。
* バグワンは、例えば智者で哲学者であるバラモンたちを、「頭=ヘッド人間」として批判する。あまりにも多く知りすぎて、概念を、理論を、教理を、聖典をかき集められるだけかき集めて「もっともっと」とヘッドに溜め込んでいるが、それは根から「開花」したものでなく、「起こった」ものではなく、すべて外からの「借り物」であり、つまりは腐ってゆくだけのガラクタでしかない、真の無智を覆い隠す心のトリックにすぎない、と彼は言う。ほんとうにそうだと思う。
或る大哲学者は、もし「哲学」が真に「役立つ」とするなら、それは、哲学なんてものが人間の最後の最後には何の役にも立たないと「分からせる」ことだと言い切り、大事なのは、そんなヘッドトリップから、百尺竿頭さらに一歩をすすめるハートトリップであると言っている。知識では決して賄えない秘密の世界が、明快な世界が、ある。あれかこれかという分別でなくトータルにその世界を enlighten する一瞬を、「求めず」に、つまり自我=エゴ=分別=マインド=心を「落とし」て、「待て」と、バグワンは云う。「もっともっと」が、エゴの拡充でしかないトリップでは叶わない。
* 或る意味で優れた人は、たしかに、おおかた「もっともっと人間」であった。そこから綺麗に enlighten した人も、そうは願わなかった人もいるだろう。中でも政治家は例外なく「もっともっと」の欲の塊であり、だが、バグワンはその生態はつまりは「梯子登り」に過ぎないと言い切る。梯子のテッペンへ上がりたい。それが大統領、それが総理大臣、だが、それが何なんだ。それだけのことだ。「人のため」という巧言令色で権力欲という襤褸を隠した、大方がただもうあさましい無意味な存在だ。維新の政治家達も、国民を利用するだけして、政体が整うと、あとはえげつなく足蹴にしてくれた。歴史的な敗戦への素因をもののみごとに積み上げつづけたのだ。「もっともっと」の欲深さで蠢いた。
* 法然や親鸞は、優れた智者たる「もっともっと」を綺麗に棄てている。蓮如は、優れた宗教家ではあったが、法権の組織者として「もっともっと人間」で終わることを免れなかった。今にのこるそのシンボルが、本願寺だ。宗教・宗派ほど政治とくっつきやすいとは、古今東西の実例が、あまりに数多く如実に教えている。バグワンが徹底的に政治家と聖職者とを同列に批判するのも無理からぬ話。
2004 10・14 37
* 久保田万太郎というと、「竹馬や」の句のほかにわたしは深いおつき合いが無くてきたものよと、今に感慨がある。やはり戯曲、俳句そして小説も。ある出版社が現代の文学大系を百冊にあまって出したとき、私のような新人のためにも吉村昭、金井美恵子と三人で一巻を組んでくれたのに、久保田さんの巻が無くて気の毒な気のしたのを覚えている。文壇という世間にも極度に運・不運があり、優等生もいれば殆ど故意にはみ出されてしまう人もあり、文学作品の質を何より大事にとは行っていない。中河与一のような人も、わたしなどの知らないワケがあってかどうか、相応な処遇を受けていなかった。「天の夕顔」のような時代をゆるがせた代表作も今ではなかなか読めない。久保田万太郎も、中河さんほどではないが、何と無くワキに追いやられている気はする。少なくも小説世界は画壇や俳壇歌壇のように結社的に凝り固まって戦争はしていない(らしい)のだけれど、やはりその時々にボスがいて、その政治的な影響力や支配力はバカにならない。ボスが小粒になれば成るほど、全体が縮かんでくる。藝術の文学のといっても所詮人間の俗世間なのである。
2004 10・17 37
* 夜前は、明治六年の、西郷隆盛、板垣退助らの征韓論が、岩倉具視、大久保利通らの反対により劇的に潰えて下野する経緯に、思わぬ夜更かしをした。興味津々、大河ドラマはこういうところを何故やらないのか、源平だの安土桃山だの忠臣蔵だのばっかりで。新撰組など歴史ということからすれば所詮は徒労の負け方端役。徳川慶喜のドラマは大事だが、それとて維新政府のありようを「批評的」「批判的」に私民の視座から再構築して初めて意義を生じるもの。
何が何でも征韓論に没頭した西郷隆盛には、殉じて死のうという、或る意味では弱気が生まれていた。彼は死に場所を求めていた。戦争を仕掛に仕掛けて、それにより彼を大棟梁と敬慕してやまない士族たちに「働き場」をつくってやりたいと。士族独裁政権への彼のそれが熱望であった。岩倉・大久保達は、だが、国民皆兵への道をしっかり整えていた。そして新政府の莫大な経済負担であった旧大名や士族末端に到る家禄、秩録支給を廃止したかったのが反西郷の彼等だった。
国民皆兵の徴兵制度が確立されれば、士族のもつ特権身分も存在意義も雲散してしまう。士族達の悲鳴に似た焦りを西郷は背負っていた。征韓論で朝鮮征服を実現し、其の勢いで新政府を士族独裁政権に造りかえたい。だが岩倉・大久保たちは、士族の嘆きよりも、国民の一揆的反抗の方をより大きく正確に恐れていた。その為にも中央集権政府の絶対安定と確立を必要とした。外にはおそろしいほどの「不平等条約」が在り、内には財政逼迫が堆積し、へたをすれば外国の内政干渉や政治介入の不安も現実に有った。樺太には邦人へのロシア軍による圧迫や虐待があり、台湾にも問題がある。
そもそも征韓論の謂う朝鮮を一時的に征服しても、得られる経済益はしれたもので、まして民衆の蹶起があれば対応にどれだけの負担が掛かるか、すべて不可能という大久保利通の明白な反対理由に応戦できる根拠は、西郷ら征韓論者にもてるワケも無かった。
それでも三条実美は西郷等の士族の武闘におそれて、天皇の征韓論上裁を求めようとし、発狂か佯狂か、病状に陥って岩倉が俄に太政大臣代理となり、断乎征韓論を許さぬとする「天皇上裁」を確保してしまった。維新当時の言葉で言うと、岩倉・大久保は巧みに天皇つまり「玉」を手中に取り込んで、優勢だった征韓論をガンと潰したのだった。確乎とした大久保利通の道理と策とが勝利した。彼は征韓論派の領袖と西郷にくみする近衛師団その他の士族達の大量の下野帰郷を、むしろ奇貨おくべしと軍の整備をはかる一方、のちのち悪名高い国民管理の大元締めになる「内務省」新設を企図して、初代の参議・内務卿となり、ついに中央集権独裁政府の確立に大きな一歩を印した。木戸孝允もこれを支持した。大久保が勝ち木戸が支持し西郷が負け、つまり士族は行方を失い、武士達の時代は体裁の総てを一応失ってしまった。大きな大きな日本のドラマであった。
西郷の敗死におわる明治十年の西南戦争は、もはやこの征韓論勝負の後産のようなものであった。
* 木戸孝允は筆まめな元勲であった。元勲木戸孝允ではなんだか馴染めないなら、長州の攘夷志士桂小五郎で知られた男だ、彼の日記は面白いだけでなく、実に貴重な明治維新の証言集である。主観的なことは否めないにしても、ものはよく見ていた。病弱に陥った晩年は、西郷や大久保のようには一方を率いる場に立たず、ほぼ筆頭の参議でありながら今でいう大臣、卿として大蔵や外務などを統べる地位には就かなかった。おのずと副首相・副首班格であった。彼を視点に、明治維新を西南戦争まで描き出せば、真実大河ドラマとして価値高いであろう。但し、何かに阿(おもね)った偏した解釈ではダメだ。彼も「公」の大雄であり、「私」民ではない。複眼が必要だろう。
* そんなことを想いつつ夜更かしをむしろ楽しんでしまった。ま、西郷や大久保の必死の角逐からすれば、声さえ揚げておけばそれでいいんです、あとは皆さんが銘々に好きに対応されればいいんですという程度の「九条の会」なんてシロモノは、気ラクなモノではないか。
大久保と森有礼とはあわやアメリカに日本の不平等条約を倍加したまま売り渡す間違いを仕掛けて、木戸孝允は必死でこれを制した。かしこい大久保にもハヤトチリはあった。その大久保は、朝鮮に無理な戦争支配をたくらんだ西郷を断乎制止したが、征韓論が強行されていたら、日本の近代は、或いは諸外国の干渉によりズタズタにされて、又も内乱に陥っていたかも知れない。木戸も大久保も西郷もみな必死に闘って最善を尽くそうとはしていた。憲法九条ほど大事な護りたい拠点を護ろうというのに、アドバルンはあげましたよ、見上げてどうぞ銘々に考えてごらん、と。たしかに、しないよりはマシである。だが、憲法九条を何としても悪しく改定しようとしている連中のしつこさの前に、それはあまりにノホホンとした、自己満足行為で終わりそうなのを、わたしはアホラシイと言うのである。だから、しつこく「闇」に向かい言い続けるのである。
* 元気旺盛に想われるかも知れないが、それどころか、わたしの気力はかつてなく萎えている。気力さえあればと、あんなに言っていたわたしが、である。何故だか分かっている。妻もわたしも、「ほぼ病人」でなく、揃って、「ほんものの病人」にもうなっていて、未来に期する根気が無くなっているからだ。生活に張りも望みも失せている。身の回りの片づけすら、出来ないと言うより、する気が日に日になくなっている。ちょっとした外との手続き上の用意などでも、幾ら言われてもする気がしないで、何ヶ月も放りだしてある。励みというものが、よく見廻しても、どこにもない。
働いているのは知的中枢だけで、それも意志的ではない。そんなもの何になると、自分で自分にしょっちゅう問うている。思いつく何もかも、別に何にもならない。全く何にもならないし、成らなくていいと性根で分かっているから、成り行きに任しておこうと思うのだ、これは何かが萎えているというより、邪魔くさい、面倒だというよりも、ものごとを自然に終えて行くのに自然な、とてもいい状態に「入り」つつある、ということなのかも知れない。妻が生きているからは、わたしも生きていなくてはならない、が、もし妻がいなければ、わたしはあまり惜しげなく自身を抛棄して、せいせいしてしまうだろうなと思う。鬱でも躁でもでもない。なんだこんなものと、ワケが分かってきたというだけのこと。元々愚かな者が、せいぜい愚かしく怠け者らしく影を消して行く。こんなことあまり長く続けていても仕方がない。
今は森銑三の、再読どころか何度も読んで傍線を引き回してきた「最上徳内」研究を、またまた読んで校正しているのが、面白くて面白くて嬉しい、そういうこと。
* 中学の橋田先生、高校の上島先生、医学書院の長谷川編集長、東大で出会った馬場一雄先生、名古屋大の鈴木栄先生。
* 少しも心配することはありません。 譬えて言えば、わたしが、すこしずつ 誰かさん(somebody) でありつづけるのをやめ、誰でもない人(nobody)になろうとしているのでしょう。 ま、いずれにしてもこう文字にし言葉にすれば、その瞬間に只の口説(くぜつ)です。気にしてもしなくても構いませんが、理に落ちないように。人は静かなときは静かでいいのです。声を張る必要はありません。黙っていても、いいときはいいものです。たいへん変な失礼な譬えですが、烈しいセックスだけが絶頂をまねくわけでなく、不動に満ち満ちたときに最高潮が泓々(おうおう)として来る。清泉泓々とは、そういうことかも知れません。
変と失礼ついでに言うと、わたしはバグワン『存在の詩』のP52 「神は愛なり」と の辺からP54の末あたりまでを、読んでいました。
別に今わたしは、バグワンの『老子の道(タオ)』も読んでいますが、そこでも彼は「神は愛なり」に触れています。
愛とは神の世界の最低の階梯、しかし愛は人間にとって最高の階梯であり、人は「愛」のところでしか神の裾にも触れ得ない。だから、神は愛なりと仮に示されているに過ぎず、神は愛でもあっても、決して愛が即ち神ではない、ましてや愛を人間風に解して、神はセックスなりなどと翻訳して満足してはとんでもないことだとバグワンは話しています。すべてはメタファ(隠喩)でありアレゴリー(寓喩)ですが。
ま、余談です。 しんぱいしてくれてありがとう存じます。
2004 10・18 37
* 敗戦し、占領され、内閣機構に大きな変革があった中でも、最大のものは「内務省」という名前の消えたことであった。
若い人には記憶もなく念頭になにも有るまいが、事実わたしでも内務省の影響下にいたなどという実感は、子供心にゼロであったけれども、知識としては、日本の内務省がいかに強大、凶暴な存在として、国民生活をがっちり掴んで離さなかったかは識っている。それは大蔵省だの文部省だの逓信省だのとは較べようのない権力を持ち、軍国時代の陸海軍省をあわせて、優に匹敵するほどの、アメリカなら国務省なみ、日本国内ではもっと締め付けのきつい省庁であった。言ってみればあらゆる警察権力と国策遂行の機関であった。そのようなものとして是非必要視され実現を推進し、自ら初代の内務卿として近代日本の中央集権官僚支配政府の中枢に立ったのが、大久保利通だった。明らかにその当時から内務省は、他の大蔵や外務や司法や工部や陸海軍その他の内閣各省よりも、一段グンと高い位置に置かれて、頭抜けた権力と広い守備範囲を専有したのである。大久保利通の独裁権は当時の左大臣右大臣にも増して底知れぬものがあった。
その後の日本は、内務省の支配下に、太平洋戦争の敗戦までを過ごしたのだった。一番先に軍と内務省が解体されたのは、明らかに敗戦の余徳ですらあった。
だが、内務省復活の機運、ひそかに育てられているはずである。総務省はその準備態勢を着々整えている。住基ネット、個人情報法、盗聴法、国民総背番号、日の丸君が代法、いろいろのものが用意され、IT政府という姿勢には電子的な国民の統御と管理とが目論まれている。たとえ名称は総務省のままであれ、もう自民党政権の誰が「内務省」を実質復活機能させるかだけが、残されているとすら、わたしは危ぶんでいる。
まさかと思うような危険の種は「歴史」の中に、ほぼみなこぼれていて、人が暢気に忘れているだけのことだ。権力志向の人間どもは、過去に芽生えていた、咲いていた権力行使のうまみを決して忘れてはいない。タイミングを狙って何時も待機している。そこへ行くと、文化人だの知識人などという、現実的なようでお人好しのジコチュー夢想人間は、ひゃらひゃらと舞い踊るぐらいしか知らない。文化人も知識人もつまりはパフォーマンスだけで嬉しがる「模擬ゲイノー人」なのだ。
2004 10・19 37
* 森銑三先生は最上徳内をそれは高く評価されていた。ご研究の跡を読んでいっても、至当の判定だと思われる。後々の近藤重蔵や間宮林蔵にくらべて知名度は低いのかも知れないが、蝦夷地探索の実蹟や見識や及ぼした裾の高価の広さ、またその時機の早さと行動半径の厖大に広さ、アイヌやロシア人との接触の深く的確なこと、その殊功は問題にならず大きい。彼を最も優れた日本人の一人と指名して顕彰したのは、シーボルトもまた大きい存在であったし、現代ではドナルド・キーン氏も最上徳内を大きな存在として著書に取り上げられている。
村山市楯岡の百姓から江戸に出て、経世家として評価高い本多利明の門に入り、天文数学医術測量に加えて天与頑健の体躯をもって、師利明名代の体で田沼意次のとき初度の蝦夷地検分の幕吏一行に加わった。しかも一行の敬意を一身に集めるほどの働きをし、当時の有司がことごとく史上から抹消された後にも、幕府の蝦夷北方政策体行の事実上の柱、中心人物として、千島はウルップ島まで、カラフトもその北端近くまで行き間宮海峡の存在をほぼ推定し確信していた大先駆者、大冒険家であった。間宮林蔵の幕府密偵のような国粋的密告者に陥ることもなく、むしろ若年より視野を遠くロシアとヨーロッパにまで向け、実学と博物学とにも向けて、シーボルトが江戸滞在期間には、二人協力して辞典編纂にも励んだ。蝦夷地やカラフトのきわめて正確な地図が世界の学術書に表されて広く感銘を与えた最初の貢献者が、じつに最上徳内であったことを、シーボルトはその大著に徳内の頁大肖像画も掲げて特筆し、感謝している。
* わたしは江戸時代の開明的な或る面を代表する系譜として、十八世紀初期の新井白石と後期の最上徳内をとてもとても大きな太い一筋と考えて、どうしても彼等二人は小説として書き置きたいと願っていた。白石とシドッチを書いた「親指のマリア」(京都新聞)と、最上徳内及びその時代を書いた「北の時代」(世界)とは、わたしがまだまだ「誰かさん」であろうと燃えていた時期の入魂の遺産である。
「歴史」からわたしは学びたかった。森銑三先生との出会いは、まさしくこの小説「最上徳内=北の時代」の連載であった。先生の最晩年に、わたしはそのご入院の病牀にまでお出入りさせて頂いたのである。
心ある人なら誰も識っている『森銑三著作集』全十三巻のたまげるほどのすばらしさを。どんな小説全集より安心して身を預けて面白い学問的な追究が、其処に満載されてある。
2004 10・19 37
* 久々に建日子のホームページを覗いたら、少しサマ変わりしていた。「余命八年」のつもりで頑張るというのはいいだろう、あと何十年も有ると思うと、平気で道草を食ってしまう、と言うのである。八年して秦建日子は、四十五歳に達する。「青春」の期限がその辺で切れ、その先に朱夏二十五年の壮齢期が続くのは、しかしあまり考えに入れず、仕事の「質実」に深く関心したいと謂うのであろう。
その言やよし。しかしながら、下手をすると、新たに豊かに学び加えることなく、いま持ち前の得分をただひたすら消費して八年を駆け抜けたいという結果になっては如何なものか、それまた心細い点である。木彫の名匠平櫛田中翁が、百歳さらに二十年分の良材を新たに買われた逸聞は如何。八年良い仕事を積めばまさかにスッカラカンとは云わない、が、仕事というのは実践との両輪に悠々適切の勉強がやはりいつも必要だった。ちだし、勉強が実践を越してゆくと「山名」君の悲劇がきてしまう、そこが難しい手加減ではあるが、気概はよし、但しせせこましく小成に甘えないように願いたい。
* 関係するかしないか知らないが、ホームページに新設の、「ウエヤとの対話」の如き、「余命八年」の覚悟に背いた精力濫費にならぬよう。ま、常に極く極く少数派のわたしの云うことゆえ、大勢サンにはあんなのがうまみの御馳走なのかも知れないけれど。
* 九時四十五分、また揺れている。さ、今夜はもう機械の前を去って、むしろ悠々休息したい。
2004 10・23 37
* なにもなにも片づきがわるい。ものを幾ら移動してみても本質は何も変わらない。
* 気分陰鬱で不愉快堪え難い。胸の奥へ手が伸びてきて気儘にかき混ぜられるような気持ちだ。抵抗のしようがない。
最上徳内と二人旅で、北海道の東寄りを、ネムロを経て北のオンネトウまでもあるいた昔がなつかしい。ふっと気が付くと徳内さんがすぐ横を歩いていて、話しかけたりかけられたりした。
あの旅のわが留守宅には、ネコがいてノコもいた。庭に書庫を建てていた。「世界」に徳内を書いていた。
つい数日前、夢に秦の母を硝子戸越しに見て目が合った。硝子戸を入れば傍に行けたがわたしは行かなかった。兄でも、行かなかった。だがネコやノコがわたしを見て呼んだら。すこし…、あぶないぞ。
* ふしぎなことだ、計りの片方に「死ぬこと」を置いてやると、すうっと気持ちが静まる。それしか何事も相対化できない、安定しない。この暮れに、六十九。秦の母は、それから二十七年も生きた。凄い。
* 闇に言い置く「私語」の気でこういう風に書くと、折り返すように、理由があるなら吐き出してしまえと云われるがそれはムリなことで、「私語」なりに聞き流していてもらいたい。中日が逆転したのをまた逆転されたのをまた逆転して、監督落合が胴上げされれば、フイと気分は変わるかも知れないのだ。鬱気味の者に理由を聞くのは危ない。知ったことかという顔で放っておくのが無難。わたしはそういう風に付き合ってきた、人の鬱とも、自分の鬱気味とも。ごく自然にその方へ流れ寄って行き、この先をながく苦しむのであろうとは覚悟しているのであるから、わたしは、いいように好きなようにそれと戯れ合って和らげ続けて行くつもり。
2004 10・24 37
* いま有力な新聞のオーナーや社長や編集局長の名前を聞かれても、あの悪名サクサクの渡邊恒雄のほか、一人も知らない。聞こえても来ない。ナベツネにしても、あれは言論界の雄なんかではなく、ただただ新聞業界のムチャクチャ者としか誰も見てこなかったし、尊敬を払うより老害の最たる一人とのみ目されてきたと見えている。彼のことは今はどうでもよい。
新聞は、言論により社会を刺戟し、その言論は、オーナーや編集局長の見識を反映したものだ、昔は。少なくも明治時代はそうであった。今の時代、讀賣や朝日や毎日や日経やサンケイや中日の編集主幹が誰か、一人も名が知られていないのではないか。言挙げしようにもうに指名できないのが現実ではないか。顔も肉声も見えない、全く聞こえない。こんなバカげたことが世間の普通になっている。
かつて成島柳北、末広鉄腸の「朝野新聞」、栗本鋤雲、藤田茂吉の「郵便報知新聞」、沼間守一、肥塚龍の「東京横浜毎日新聞」、中村武雄の「東京曙新聞」、中江兆民と松沢求策の「東洋自由新聞」など鳴り響くような顔と肉声とがあって、自由民権運動を断乎もりあげた。やがて陸羯南、堺利彦、また徳富蘇峰ら錚々たる新聞・言論人が出て来る。
なにより沼間守一らの「嚶鳴社=東京横浜毎日新聞」を主とする各紙・各団体は、わずか一年半関東地方に限っても二百六十回もの演説会をひらいて、自由民権、国会開設・憲法制定へのつよい意向を普及した。関東の数社にしてしかり、全国的に新聞も政治結社・団体もまさに族生し、その多くは自由民権にこそ強烈な関心を表明したのだ。関東では嚶鳴社、関西では立志社を中心に、莫大に国民に声を放ち続けてやまなかったのだ。
それほど自由な発言が許されていたか、というと実は真っ逆さま。この当時は新聞に対する大弾圧時代で、「讒謗律」という、今で謂う個人情報保護法や人権擁護法や盗聴法なみにひたすら「政権政府政治家の不都合」を糊塗するための悪法と、「新聞条例」という強権発動法とが、新聞の創刊や言論も、政治演説会も、抑えに抑えようとしていた。忽ちに牢屋に持って行かれた。だが、この当時の新聞人は断乎としてひるまない。一人が牢屋へ入れば他の一人があとを守り、一紙が潰されれば忽ちに他紙を起こして、闘い抜いた。
俄には信じられないであろう、が、当時の物差しからすれば、今日の新聞や言論表現のメディアの「顔」のなさ、「政権寄り」の露骨さの方が、よっぽど信じがたい。見識もなく気迫もなく道理すらもない。
どんな国会を、どんな憲法をと、明治の彼等は国民の側から提案しようと、気概に溢れて世論を喚起し喚起し働きづめに働いた。それでも出来たのは、あのような「欽定」憲法であったのだ……。
いま、「憲法九条」の撤廃又は改悪への動きは、じっくりと様子を見計らい、或るとき一気に政権与党の思惑通りに事を成そうという「流れ」になっている。誰もがそれを知っているのだ。その意味では、明治憲法へ、明治国会へと国民の盛んに論議していたあの時代と、実は、大事さにおいてもよく似ているのである。
それにもかかわらず、新聞も雑誌も、護憲をうたう日本ペンでも、時代を代表すると自認自称の「賢人」たちも、まことにゆるふんの「成り行き次第でよろしかろう姿勢」にダレきっている。一度二度の会合に大勢人が寄りました、たいした景気でしたとは、わたしにはビックリだ。
繰り返して言うが、沼間守一等の嚶鳴社=東京横浜毎日新聞を主としてでも、わずか二年間に三百回ちかくも各地で演説会を繰り返し、新聞では論陣を拡大浸透していた。民衆が自由に読めるようにと「新聞縦覧所」は、農村にも山間にまでも置かれ、問題点を互いに揉み抜いていた。そして、いつしかに関東と関西と、各団体間にも「流れ」というものが出来ていった、不十分もたっぷり孕んでいたにしても。
いま、もし、どこかの高校生たちや市民同志が、「憲法九条」を護る運動をしたいが、どこへ声を掛けて結集の機運を探ればいいのか、きっと迷うに違いない。護憲を党是とする社民党ですら、そうした受け入れや、オーガナイザーとしての力を、意識して発揮しようとはまるでしていないのである。
わたしには、なにもかも、不思議でならない。
* 元気が無くなり、なにもかもイヤになるのは、むりではない。ま、そういう自分を眺めていることも一興とすべきか。やがて日付が変わる、さっさと寝よう。
2004 10・24 37
* 千葉のE-OLDに贈られた白いソックスの動く黒猫クン、喉も鳴らすし可愛い声で啼きもする。手を働かせて、獅子が蝶を追うようにカーソルを愛らしく追っかける。ストレッチアイの休息に最適だ。おじさんの連絡では、どうやら外国人女性の創作であるらしい。癒しという物言いがはやりすぎていて気持ち悪いが、気持ちの和むことはテキメン。デスクトップにおいて、いつでも呼び出せるようにした。
* この機械は、電源を入れるとすぐ佳い緑色バックの中央に名刺大よりは二回りほど大きめな、澤口靖子の普段着ふう軽装斜めの笑顔が、ぱっちり現れる。超美人の靖子というよりも、ごく身近に親しめる爽やかにふだんの笑顔で、最良のビタミン、愛。気分が佳い。機械画面の深い緑と、淡い翠の写真の地色とが小気味よく映え合って。気分の重いときも、どんなに「癒され」ているか知れない。
それに「白ソックス」の黒ネコ君が加わった。あぁあ、こうして人はすこしずつ生身の人間同士よりもヴァーチャルな幻像のほうに、安堵・安心のゆかりを求めて行くのだ、機械の毒の一種である。しかしまた、周の、夢に蝶になる類とも謂えようか。
2004 10・26 37
鶴見俊輔さんとの対談
これは個人的に一番面白く感動した対談です。対談ではありますが、対談を活字にし本にした意味がいかんなく発揮されていました。
まず「京ことば」という表記に心惹かれます。「言葉」という漢字を使わず、「ことば」とあえてひらがなで書かれたことは作家秦恒平の深い配慮によるものでしょう。「ことば」でなければならない理由が、この対談をよめば読むほど、じんわり理解され嬉しくなりました。
京都について京ことばについて、今までも多くのお作で読ませていただきましたが、それでも尽きることのない日本文化論の面白みがたっぷり詰まっていました。京都と京ことばを語らせたら秦恒平の独壇場で、右に出る者はいません。
> 京ことばを考えるには、単語レベルでなく、もの言い(語り口)のレベルで扱わなければ意味がない、これが出発点ですね。……京都は千年にわたる政治都市、文化都市です。政治も文化も心直ぐなるものじゃない。
> 京都が育てた古典語ないし日本語は、ものごとを明確化するもの言いをむしろ拒絶した、おぼろげに言うことによって、場合によっては上手にウソを言うことによって、真実通じ合うところがあった。
> もってまわったもの言いが京都の語り口の基本的なむしろ特色です。
> それが、もう一つの京ことばの特色である「位取り」へ来ますね。……つまり京都の人の気持ちのなかには「春は」「あけぼの」の枕草子以来、いいものやわるいものを選び出していわば順位のようなものをつけるところがある。これが基本の美学で、同時に基本の生き方になるんですよ。
> 結論、つまり答えを求める文化ではなく、「式」を出す文化。いろんな答えがあるけれども、その答えに行きつく式をどう立てるかということだと思う。
> 京都がほかの都市とはっきり違うのは、貴賤都鄙が集約されていることです。……そのタテヨコ十文字の座標のなかで自分がどこに位置しているかをたえず気にしていなければならない。しかもそれも絶対的な評価はできないから、たえずほかの人とのあいだで相対的に評価する。だから、ほかの人についての情報を知っていなければやっていけない。わけ知りということがだいじで、そのわけをどう表現するかで、語り口そのものが武器になるんです。
> 相手を逃げ道のないところへ追い詰めた場合には、こちらのケガも大きくなることを、それこそ千年かかって知っているわけです。
> まあ、京都の人は、わたしは得と道連れだと思う。その得は徳政一揆や有徳人の徳といっしょで、徳であると同時に得、ほとんど同じ。
> ストレートでなくカーブでないと人を傷つけ、自分も傷つくかもしれないと京都人は考える。
> 京都にはこのほかに(はんなり)ほとんどホメことばはありません。これ以外は「宜しおしたなア」「ええなア」という率直なもの位で、あとはホメことばに一瞬思えても、実はジワーッと批判が入っています。
> 京都文化とは習熟なんですね。
(京都人の語り口のなかに差別と闘う力はあるんでしょうか)
> 差別をかわす力はありますがね。でも京ことばそのものが位取り、差別を基本にしているかぎり、差別をなくすのは理屈の上で矛盾したことになる。相手に勝たないまでもけっして負けないようことばを武器として生きているわけで、これでは差別はなくなるわけがない。
> 京ことばは、自分を守ることばなんですね。それが限界で、同時に日本語の限界でしょうね。
> 昔の京都はさっきの話のように、上下の序列がガッチリ決まった社会でしたが、その序列を一瞬にしてはみ出られる道があった。坊主になることです。……わたしはひょっとするとそういう出家遁世の伝統にならったのかもしれない。私家版を自分で出し続けることによって、文学の既成の枠からすっと出てしまった。
> もの書きのする批評には、文章でする批評と同時に、やはり為す批評、する批評があると思う。
> そう、よけい者の系譜がある。自らを用なき者にしてしまうかたちでの反骨というか批評というか……。そういうことをわたしは、あまり大声を出さずに、こつこつとやりたい。ある意味じゃなんでもないことです。やるかやらないかだけのことなんです。
現代の西行や兼好法師みたいですね。京都と京ことばへのアンビバレンツの愛を堪能させていただきました。面白かったア。
さらに個人的に感想を述べますと、いつもわたくしは「もっさり」「鈍なことでした」ということばの使い方しかしていないなあと、ため息をついています。
頂戴するメールの上で、文化的、京都的なもの言いの真意が読めず、よくイライラしています。目の玉に指を突っ込むように、はっきり言ってくださいと怒りたくなることしばしば。「言わぬは言うにいやまさる」のが一面の真実としても、じつは、これが大嫌い。ヨーロッパのお芝居のように語って語り尽くしてください、と、いつもいつも思っているのです。おわかりですか? つくづく、骨の髄まで京都人だと思いますわ。あからさまに悪口はいわなくても、毎回ジワーッと批判されていますもの。
そうそう、「位取り」というご指摘で、わたくしは、自分のもの言いの「基本姿勢」を発見しました。
社宅生活が十年以上でしたので、自分がいつも相手より下であること、会話の仲間うちで最低の位置にいることを、必死で心がけていました。京都の人の逆の意味での「位取り」でしょうか。相手に絶対に負けていなければならない。うっかり勝てばひどい目にあう。社宅生活を「まし」に過ごすための智恵として、相手より下に下にと話していました。
でも、この下にいようとする姿勢こそ、鼻持ちならぬ姿と映っていたのかもしれないと、社宅から解放された今振り返って反省もします。無駄な努力でした。
わたくしには、「はんなり」というホメことばは縁のないもの。どうぞ「もっさり」も許してくださいませね。
お元気で、佳い一日をお過ごしください。 東京都
*「目の玉に指を突っ込むように」ハッキリ言いすぎて所詮京都に住んでいられなかったわたしの物言いでも、東京では、そうなんだ。あかんなあ。じつは京都で年に一度は京都の人と対談してきた実感が、かなり、この人のわたしへの口撃に似ている。いやもう、なかなか本音で喋ってくれず、汗をかいた覚え何度も何度も有った。いっそ奥ゆかしいゃないのと感じ入って、ガマンしたものだ、アハハ。
京ことばについては、藤江さんも生粋の京都の人。わたしとはまた角度のちがう「京ことば観」があるだろう。
要するに、語彙の問題ではない、物言いの微妙な調子がどんな放言でも大切な味になる。何しろ京ことばは千年の日本の古典を産み出し、その感化は市民生活のすみずみから、日本列島の遠くにまで顕著であった。そのことはもっと認識されていなければならない、政治にも社会にも文化にも。「京都学」を称する大きな目次も添った企画が持ち込まれてきたとき、どこにも「京ことば」を語る章も節も見当たらない笑止さに、参加を遠慮した記憶がある。論外という気分であった。
鶴見さんのインタビューは衝くところがさすがで、質問されて毎々おもわずニッコリしたものだ。ただ、東京と京都とを比較されるときの「東京」観が、やや飲み込めぬときがあったのも覚えている。おそらく鶴見さんの深くに仕舞われてある「東京愛」があるのかなと感じながら今回も校正をしていた。
2004 10・26 37
* ひがむわけでなく、富豪ということばが嫌い。むかしき有徳人ともいった。徳があるから富んだのか。いや得をして富んだのである。得をするにも藁しべ長者のように階段を踏んだ微笑ましいお伽噺もあるけれど、九割九分九厘はよほど不徳なことをしでかした上に相違ない、と、想っていてよろしい。大富豪などというのは、まちがいなく悪徳資産の積み重ねをしてきたし現にしているものと想ってまちがいない。西武の堤義明の、土壇場へ来てもあくどく株を売り抜け、テンとして恥じる気配もないのが適例である。猪瀬直樹氏の出世作で代表作の『ミカドの肖像』はもうずいぶん昔の著作だが、すでに明確に西武、コクド、堤義明の悪徳にせまっていて、わたしは猪瀬調べに舌を巻いて西武王国にたいへん不快であったのを忘れない。
なんとかコレクションとか、なになに美術館などを遺してくれていると、それなりに文化的な恩恵を覚えないではないが、ごく稀にみごとな例外のあることは明確に承知の上で、大富豪等による著名な多くのコレクション公開等は、まず以て所謂「贖罪」にひとしいもの、彼等の見識がさせた、美徳がさせたとは、決してわたしは考えない。払うべき税金を払い惜しんだようなものであり、心根を問えばわれわれ一般庶民の切ない願望に通じている。我も人なら、やはり彼等もケチな人なのだ。
貧乏がよいとは言わない。清貧という言葉も、看板にし売り物にされるとむかつく。人みな空気を吸うと同じく平均して清富であればいいのだ。富豪などという者のあることにわたしは根から賛成でない。ことに政治と癒着して国民の財を不当不徳に、悪徳至極にあつめまくった、例えば明治の三菱岩崎弥太郎などの繁栄は徹して呪われていいものであった。三菱がいわゆる政権の「払い下げ」と称するケタもケタも大違いな濡れ手で粟のボロ儲けから、どれほど多くの汚い金をまた政権の袖の下へ送りこんでいたか、近代日本の歴史はまざまざと教えてくれる。あの福沢諭吉がまんまと三菱のシンパであったことを忘れられない、わたしは。
あの椿山荘の地を、旧大名から買い取ってあれだけの大庭園をつくり楽しんだのは、山県有朋であった。その頃の彼の給料は、年収ではない月給は、今の金額にして一千万円に相当していたという。東京中にもっとも多い店は古道具や古着や古金や屑屋であった時代に、である。
2004 10・27 37
* 小田さんの曰く「ホナ、サイナラ」は大阪弁であり、京都の人ならどういうのかと手紙で聞かれていた。これには、すぐ答えられる。わたしの耳に残り、また自分でも京都で暮らしていたら自然にそう言いそうなのは、「ホナ、また」であろう。
*「ホナ」とは、それならば、そういう次第ならば、コトはそれぞれ左様に相済みましたから、と謂うほどの含意である。その意味で、質実の所は、かなり理詰めにツメている。そして大阪の人だと、そういう「ホナ」についで「サイナラ」となる。小田さんはそう言っている。「サイナラ」が別れの「グッバイ」なのはその通りであろう、とすると、「ホナ、サイナラ」とは、「コトはそれぞれ左様に相済みましたから、お別れ申す」というようなことになる。なにも一日の遊びや仕事の最後とも限らない、訪問して帰るときも会談して終えるときも、好きあった同士が喧嘩別れの時も、互いに名残惜しいときでも、久闊を叙したあとでも、「ホナ、サイナラ」になる。
* 京都人は、これでは理詰めが過ぎて、ことが截断され断裁されて続かないと本能的に感じる。避けたいと思う。「サイナラ」は平和であれ、紛争であれ、ともあれ離別・決裂のあいさつである。たんに「サイナラ」ならそれはそれだが、そのまえに「ホナ」という納得づくが前置されていると、これは一応「アト」というものが無い。言葉の上で「アト」の「ツヅキ」は期待していない「かたち」である。
京都のセンスではこれは避けたい。で、「ほな、また」で手を振り合う。「あと」「つづき」「あした」「こんど」を互いに認定しておく。断絶や離別を確認し合わないで、つなぎを「後」に残すのである。
わたしが言葉の上で遊んで強いて謂うのではない。これがまさしく京都感覚であることは、この「また」「又」という一語一字が歴史的に持ってきた、実におもしろい、鶴見さん風に謂うなら「悪者」的なことばが示すのである。これを、しこしこと論文にしてある例も実在する。
歌舞伎役者の名に「又一郎」「又五郎」があり、京の能役者「又三郎」がすぐ思い出せて、たぶん「又」を冠した次郎、二郎、四郎、六郎、七郎、八郎、九郎、十郎も、又右衛門や又兵衛も、捜せば結局はその辺の世界に見つかるはずだ。だが、東京語感覚で謂うと「又」とはまた何の変哲も、たいした意味も無い字でしかあるまい。
ところがどうだ、上方では「又」には、或る、またとない機能のようなものが秘められてある。どこか「ひとをじょうずにだまして、しかし損ばかりはさせない」男、の意味だと謂ってみよう、ともあれ。
狂言に有名な「末広がり」で、まんまと古唐傘を「末ひろがり」だと高直(こうじき)にうりつけ、しかし、もし国へ帰って主人が小言をいえば、こんな小唄を唄い舞ってみせてよろこばせなさいと珍な歌を口伝えに教えてやる。
巷間とも文献上にとも、こういう男には「又」**(たしか、又九郎)という名が普通ついていたのである。にくみきれない悪いやつの意味である。そしてどことなく、これは京ならではの「文化的所産」かのようによそからは見えたし、内輪にもそういう男どもを京都は「飼い慣らして」容認していた。
それから離れ、ただ語彙の意味からして、「また」は、あきらかに継続の精神を含む。打ち切らないのである。喧嘩別れにもなりかねない「サイナラ」よりは「また」と言葉を濁しておく、繋いでおく。
だが、往々にして京都の人間が「また」と一度口にしたときは、「サイナラ」どころか実は完全無比の「拒絶」であることが多いのである。門口に押し売りが来る。「いらん」とは言わない、「またにして」「またおいでやす」ないしは単に「また」で済ませてしまう。これはもう絶対拒否で、言葉のうえは継続だが、その実は断裁なのである。アトはない。ただし「サイナラ」という露わな終焉終末ではない。だからもし凄みの文句が出ても、「またにしまひょていうてますやろ」と逃げ道がちゃんと繋いである。
京都では「ホナ、サイナラ」は、理詰めにこわばると感じる。オシマイの宣言になる。そうではなく、「ホナ、また」とゆるめておくのを極意のようにしている。鶴見俊輔さんも、しばしばこの「ホナ、また」を味わってこられたのであろう、だから、まっさきに「悪者」という謂わば渋い「讃辞」から「京ことば」を話題の対談は始まった。
2004 10・28 37
* あれから一年たったなあなどと思うことが、あるものだ。
三年ほど並列の日記を付けているような人は、よく簡単にそういうことを話題にする。我が家にもいるが、便利というより、おもしろいらしい。
年々歳々人の同じからぬことは年が行けば行くほどよく分かる。芥川の作にもあり、昔から大勢が同類のものを書いたのに「点鬼簿」がある。少年の頃は、なんでそんなと訝しかったけれど、昨今はそういうモノの書いておきたい誘惑にしばしば駆られる。沢山な厚意や激励をいただいたあまりに大勢が、ほとんどみな亡くなられた。わたしより年輩の遠い血縁ですらもう残り少ない。親たちも、兄たちも姉もことごとくもういない。そこそこの年になれば、珍しいことではない。何年の何月、命日はと記憶している例はまずない。もうどれくらいになるかしらんと天涯に眼と思いとを放つぐらいなものだ。
* 会者定離とは厳しい天命であるのか、自然の摂理であるのか、七十年近く生きてくればそれはさも当たり前のこととしか思われない。出逢った人のみんなと死ぬるまで長くいっしょとは行かない、家族ですら。わたしたち家族は、もう十数年も一人の娘の、建日子の姉の顔も見ることが出来ないでいる。ましていろんな人々の音信も掴めないが忘れがたい人はむやみとあるものだ。生々流転とはうまいことを言う。
* 幼稚園から大学までいっしょだった只一人がいる。いまもわたしの湖の本を講読してくれている。その男性に今度の対談集を送ったら、すぐ払い込みがあり、払込票に「下村寅太郎」は叔父です、びっくりした、と。わたしもびっくりした。そんなことは夢にも想像したことがなかった。こういう、人の縁もある。想えば、この鈴木和明君が今ではいちばん長期間の知人友人である。
たぶん前後して、幼い昔に顔を見知り昨今久しぶりに立ち現れてくれたのが、秦の母方従妹の服部道だろう。
小学校の友人で今も湖の本を支えてくれている友達が何人もある。みな男性で、あたりまえだが、みなわたしと同年だ、人生の前線をほぼ一様に退いてきている。ありがたいことに、同年代で死なれた例があまりない。高校時代にすでに死なれたのが何人かあるけれど。むろん知らないうちに亡くなっていて、風の便りに聞いた人もある。
* 人間関係には、はずむ歓喜にうち震えることもあれば、痛切な悔いをのこして離れてしまう例もある。あたりまえか。それともその時、気がつかずに、のちのちに雷にうたれたように、あ、あの時にああしていたならばと驚愕するような鈍なことが人間にはある。いや、わたしにはあると言っておく。
今一度、逢っておけばよかつたと悔いる死んだ人達をやはり何人ももってしまった。だからこそ、今も、今のうちにと内心想うような長者が何人もおられるが、そんなことを想うことすらいまいましく、つい、ためらってしまうものだ。
* エネルギーを継ぎ足すつとめが、人には、互いに、ある。大事な間柄ほど、それを欠かして甘えていると悔いをのこす。あたりまえだ。
2004 10・29 37
* 徒然草の「全」音読を夜前に終えた。久しぶりの徒然草であり、いちばん痛感したのは、わたしが年をとったということであった。全面的にではないにしても、各段の読みに昔とは明らかな差が生まれてしまっている。ああ前に読んだ頃は若かった、ものごとの味わいようが、元気または暢気または勝手であったと、いちいちに突き当たった。
わたしは兼好という人を、かつて、「従者の眼」から深まっていった人、どこかに市隠の陽気をはらんだ人、俗を俗として拒まない人、どこか「したり顔」の人とも眺めていた。その多くを訂正する気はしないけれど、深く共感でき舌を巻き教え直されることも沢山沢山あって、わたしはしみじみと兼好さんと膝をつきまじえた気がしている。徒然草を選んでよかったなあと、今すぐにも頭からもう一度黙読し直したい気がするほど。
もとより兼好は仏道への即座の帰依と信仰とを求め続けている、読者にも。わたしは仏道というような枠組みは少しも望んでいない、そのところを調節しておけば、兼好のことばに心から服することはたいへん多い。まったく興味も関心も知識もない段々もたくさんあり、今のわたしからすれば、そういう有職の知識や人物談義は割愛した本文が欲しいぐらいセッカチにもなっているが、いい場所を用意して、丁寧に本文とも兼好とも向き合いながら述懐できる「部屋」が欲しい。このホームページの中に、そういう「部屋」をつくることは何でもないわけだ。
* この「私語の刻」が、あまりに雑多すぎると思いつつ覗いてくれている人も有ろうと思う。だから例えばと、話題を部類して幾つも「部屋」に分けたなら、おそらくアクセスに不便・面倒で、こんな妙な作家一人の渾然いや混然として生きている痩せた「すがた」が、さらにやせ細って仕舞うかも知れない。整然と仕分けた「私語」よりは、雑炊のような「私語」に活気や生彩をわたし自身も求めたい気がするのである。
2004 10・31 37
* アルゼンチンより hatakさん
十月の上旬から昨日まで、アルゼンチン・コルドバ市に滞在しておりました。
仕事は、国立研究所での講義でしたが、今回楽しかったのは、講義を受けに南米八カ国から集まってきた研究者・技術者達と宿泊も移動も全て一緒に過ごせたことでした。
出勤は8人乗りのバスに12人が乗り込んで、車内は朝から笑いとお喋りの渦。騒々しいことこの上なく、しかも全てスペイン語なので、何を言っているのかさっぱりわかりません。そのうち歌を歌ったり、写真を撮ったりと、まぁ中学
生の修学旅行のような騒ぎなのです。
仕事が終わってホテルの部屋に戻ると、かならず誰かから電話がきて「何時、どこどこ」とたどたどしい英語でお誘いがかかります。日によって、行き先がクリーニング屋だったり、CD屋だったりするのですが、それは行ってみない限り私にはわかりません。夜は早くても9時、遅ければ11時頃から夕食になり、そのあと誰かの部屋で、チリ産のワインが出るとか、メキシコ産のテキーラがあるとか、酒飲みの会になります。誰の部屋へ行っても必ず音楽がかかっていて、サルサやメレンゲや、ときによってはタンゴなどを、大騒ぎしながら踊り出します。深夜のホテルで、足踏みならし拍手喝采大爆笑しても、一度たりとも、誰からも抗議が来なかったのは、さすがラテンの国でした。
一昨日も朝まで騒いで、昨日は閉講式・フェアウェルパーティー。パーティー会場から、それぞれの国へ散ってゆくときは、皆しんみりするかと思いきや、そこかしこでワーワー言いながら抱き合い、にこにこ大きく手を振ってのさよならになりました。
皆と別れ、乗り継ぎのためブエノスアイレスのホテルに一人こうしていると、この二週間がまるでこの世のものでなく、夢か幻だったのではないかと思えてきます。全く言葉は通じないのに、なぜ何の不自由も感じずに、むしろ心から楽しんで、飲んで食べて踊って、なおかつ喋っていることができたのでしょうね。
そんなことを考えながら、ぼーっとしております。
彼らのことは、かならずいつか、書いておきたいと、思っています。
あと一時間でホテルを出ます。ワシントン経由で日本に着くのはおよそ30時間後、その後すぐに静岡の国際学会に向かい、京都、九州をまわって、来月中旬に札幌へ戻る予定です。
hatakさんの本は、今頃雪の降り始めた札幌の寒いわが家のポストの中で、私の帰りを待っていることでしょう。
十月三十日、アルゼンチンブエノスアイレスARGENTA TOWER HOTELにて maokat
* わたしまで陽気な心地に揺すられる。「彼らのことは、かならずいつか、書いておきたいと、思っています。」
* これで思い合わせたのだが、森銑三先生の長い論文のいわゆる実証の「ウラ」は、同時代人たちの残している無数の日記や記録や聞書や回想や書簡にある。あの遠山の金さん、刺青判官にもたしか『耳袋』というこまめな聞書本があり、古書店のボロボロ岩波文庫で上下買って置いたのは大昔のことだが、おもしろくて、そこから一編の掌説を書いたことがある。江戸時代も後半になると、無慮無数にこういう文献が堆積して行く。だれもかれもが「書く」ことに一途な興味と姿勢をもち、むろんピンからキリまであるにしても、その時代精神の解析は興味深い深層を浮かび起たせるだろうと思う。それらは作品意識はそう高くない、記録資料性への満足度が高い。
思うに今日のエッセイ感覚や作品意識に繋がるより、遥かに古代中世以来の公家日記や僧侶の日録に近い。その時代の人にはそういう記録は後代への示唆や教育やまた伝達意識に満たされていた。その古い時代のその手の記録はつまりは「前例」「残したり確認したりして「伝統」というものにしたのである。「九条殿遺誡」のような摂関家の確立して行く頃からのものにはそれが多かった。
その意味では江戸半ば以降に簇生する記録は、また性質が少しちがい、前例を確認したり作ったりするのでなく、新奇の見聞にたいするあくなき好奇心と記録意識とが氾濫するのである。
最上徳内の名著「蝦夷草紙」なども典型的な一例であり、そういうのの聞書に貴重な大作を残した人達もおおい。
「甲子夜話」などはさきの「耳袋」を何倍もする聴書輯の宝庫である。そんなのが山ほど在る。それらを掘り起こし掘り起こし同時代の人物像を彫琢して行かれたのが森銑三の学問であった。そしてその恩恵に多くの書き手は潤ったのである。
MAOKATさんの書き置かれる一文を楽しみに待とう。どういう表現と批評とになるか。
2004 10・31 37
* このサイトが「濃密」に閉じられた時空間でありすぎ、気軽に入ってゆきにくいととも書かれたのを、サーフィンしていて、どこかで誰かが呟いているのを聞いたが、ほんとうにある種の濃密があるならば、わたしは此のサイトを公開はしないで秘めておく。「闇」に言い置くのではあれ、なに分け隔てなく(量と興味とから取捨はするけれど、)なんでも自然にとりこんでいるのは、おそらくこれほど濃密とは逆のありようはないだろう。密であっても、秘密でないからである。
むしろ此処ではかなり無遠慮に開放されてしまう、そっちの方で問題があるというのなら分かる。
2004 11・1 38
* 辷って行くように日足がはやい。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし、と。人生が非情なのか、天道が非情なのか。
あけがた、胸の苦しさに怯えるように目が覚めた。初めてではない、が、異様なものの、背後に迫ってくる気がする。今昔物語は、日本霊異記をうけながら「現報」つまり非道の「むくい」ということをずうっと語り続けている。昨夜おそくに若い若い友達から短いが印象的なメールが来ていた。末尾に、「ブッシュ再選確実?!…堪え難いニュースが続く今日この頃…」と。
2004 11・4 38
* 『日本の歴史 近代国家の出発』の担当筆者色川大吉氏にお願いの手紙を出した。
* 拝啓 私的な、しかし日本ペンクラブの一理事としても、少し改まったお願いで率爾の手紙を差し上げますことを、どうかお許し下さい。
私は、ただいま日本ペンクラブで「電子文藝館」を担当しております。そのことは後ほど話させて頂きます。私ごとから少しお聴き下さいますようお願い申し上げます。
もう昔、というほどになりましたが、中央公論社が『日本の歴史』という大部の叢書を出しましたことはむろんご存じの通りです。創作上のいろんな必要もあり、文庫本になってから全巻を買い調えまして、歴史好きの私には愛読のシリーズでした。ですが、さすがに全巻は読み通したことなく、それを妙につまらなく物足らなく感じておりました。
で、実は一昨年より、第一巻から毎日少しずつ、一行あまさずに読み始めました。失礼な言い草ですが、このシリーズが、ほぼ准専門書的な教科書でありながら、担当執筆されるみなさんの相当に個性的な筆致と歴史記述とで、十分信頼に値するもののように感じていたものですから、厖大な量でありますことなど全く苦にならず、とても興深く読み継いでまいりました。一つには、この読み方で通して行きますと、従来、どうしても読み落としてきた幕末から明治、明治以降の日本史へも必然入って行けて、それが第一の大きな期待でした。
そして事実、「尊王攘夷」から「明治維新」へ入って参りまして、私は、もう興味深くて深くて夢中に読み進み、そして今、ちょうど色川先生の「近代国家の出発」をもう三分の二ほど読ませて戴きまして、じつは、強い「催し」に迫られました。このような手紙を何としても書きたくなりました。
お忙しいなかを申し訳ございません。私はこの「日本の歴史」読書の感想を、自分の日記に書きつづり続けて来ましたが、つい二三日前には、御本に強く触発され、蕪雑ながら、こんなことを書きました。ご免なさい。
(略。十一月二日の項に。)
お恥ずかしい次第です。で、この辺からお願い申し上げるのですが、最初に申し上げましたように、私は、日本ペンクラブで現在、「ペン電子文藝館」なるインタネーットによるパブリックドメインの提供・発信を担当している自称「e-OLD」です。この事業を理事会に提案し、そして開館して、来月末の「ペンの日」で満三年になります。
趣旨は日本の近代文学文藝の「流れ」を、全分野、広範囲に視野に入れまして、幕末から平成にいたる作者・筆者たちのよく選ばれた作品を広く世界に「無料公開」して行こうというにあります。すでに、福沢諭吉に始まり、河竹黙阿弥も三遊亭円朝も仮名垣魯文も、しかし栗本鋤雲も中江兆民なども、明治の思想家達も文豪も、それ以降今日までもほぼ網羅して行く一方、歴史の地下に湮滅させてはならない優れた隠れた書き手達の名と作品も丁寧に拾い上げて、スキャンし、句読点に至るまで校正を重ね、現在もう約五百五十人、作品は六百五十作ほどを「電子文藝館」の名において公表し続けています。島崎藤村より井上ひさしに至る十四歴代会長作品はもとより、あらゆるジャンルを洩らさず、加えて蕪村研究の潁原退蔵や近世人物に詳しかった森銑三の論考なども、いちいち総て読みました上で、「招待席」に続々招き入れています、昨日も今日も明日も。つまりペンクラブ創立以前の永い歴史も洩らさない姿勢を、責任者として、私は取って参りました。
その他にも明治以来の「出版編集」「反戦反核」二つの特別室も設けて、相当の充実を見せております。
で、先生の懇切で興味津々の歴史記述を耽読し愛読しております内、感動の余り、こんな感想と希望とを持つように成りました。これも私の日録のままですが。
* 小田実氏の翻訳詩「南京虐殺(J.ローシェンバーグ)」とエッセイ「『フーブン』の詩人の重い答」とを一作品として「電子文藝館」反戦特別室に送りこんだ。ズシンと重いメッセージである。
永井荷風の珠玉の翻訳詩集『珊瑚集』をぜんぶスキャンしてみようと思う。美しい文化財である。
翻訳された文学には二つある。日本の作品が翻訳されていった例。もう一つは海外文学が優れた日本語に翻訳された例。前者はわたしの手が届かない。後者は、この『珊瑚集』もしかり、鴎外の『即興詩人』や山内義雄の『狭き門』など詩でも散文でも文化財が幾らもある。全編とは行かなくても、ひときわ優れたものを拾い上げ植え付けてゆきたい。
* 今一つ考えているものがある。近代以降の、「自由と人権のために」放たれた記念碑的な建白や発言の類である。ペンの精神に照らして素晴らしいもの、時代に先駈けたもの、時代を超えて伝えたいもの、が拾い出せる筈。
植木枝盛らの「民権数え歌」や「国会を開設する允可を上願するの書」や「日本国憲法案」や「日本国民及び日本人民の自由権利」など、また櫻井静の「国会開設懇請協議案」や松沢求策らの「国会開設上願書』等々。
時代を超えてその真実の失せないもの、永く人の胸を鳴らし続けて欲しいものを、ぜひ掲載し記念したい、特別室を設けてでも。残す理事任期をこれに絞るぐらいに力を注ぎたい。
御本を読みながら、ふつふつと湧く感銘や、実は口惜しさにも駆られまして、上のような視点から、文藝とか文学とはたとえ少し逸れましても、少なくも「ペン」を駆使した「自由と人権」への苦闘と成熟の跡が記録として此処に遺せないか、伝えて行けないか、と思い至りました。この半永久的なペクラブによる文化事業のなかへそれらを「招待」し、後生にも是非読んで知ってほしいものがある、あるに違いないと思い至ったのです。
ただ、私の今のちからで、どういう建白や上願や草案や檄文や起草をほんとうに価値あるものとして選ぶか、見つけるか、手にはいるのかに戸惑います。分からないのです。
どうか、その趣意の、資料選択やコピーの入手可能な方法などについて、お教えいただけないでしょうか。たったこれだけで済む要件にながながと書きましたけれど、私の希望をお分かり戴こうとするあまりと、お笑い、お許し下さいますよう。
お手づからがご無理ということもございましょう。こういう件でお力を添えて若い学究などご紹介下さいますだけでも、せめてお願いしたいと思い居ります。
くだくだしく申し上げて恥じ入ります、相済みません。熱意の他何の他意もございません。どうかご教示下さいますよう重ね重ねお願い申し上げます。自由民権運動このかた昭和の敗戦に至るまで、「自由と人権」に触れた主権在民に繋がる資料や文献を、たくさん此処に集めてみたいと念願しております。
自然にも人事にも、いろいろ穏やかでない世情です、呉々も御大切にと念じます。
「ペン電子文藝館」のURL http://www.japan-pen.or.jp/bungeikan/ 念の為 付記させて頂きます。
2004 11・4 38
* 幸福ですか。そう聞かれても、不幸ではありませんが、と答えるに止まり、幸福の実感を性急にあれこれ呼び出そうとは思わない。幸福感は、あれどもなきが如く漂っていてそれでいい。
2004 11・4 38
* 六十九になるぐらいで「老境」はないでしょうと励ましてくれる人達が、今度の本の払い込みのなかに、何人もいた。恐縮した。納得もした。同時に驚いた。芭蕉は「四十から」老いだと吟じていた。昔の四十賀、五十賀はそういう自覚他覚が世間に存在していたからである。四十では流石にそんな感慨はなくても、わたしも五十賀に豪華本の『四度の瀧』を三宅貞雄さんの珠心書肆に造ってもらった。お元気であった福田恆存先生にこれからですと笑われたが、それからを、わたしは意識して「湖の本」時代に身を委ねたのだった。人から見てそれはわざわざ不自由へ身を投じたと見えたようだが、わたしは自由に横へ超えて出たと、今も感じている。「湖の本」自体はもう先を見越して、収束ないし終熄へ向かって行くが、またあらゆる意味と範囲とで、わたしは、いろんな「さよなら」の姿勢を取って行くだろう。わたしのいわゆる「身内」たちと見つめ合い触れあい、今までよりももっと広い虚空で自由に、持ち物少なく、生きたいというのが願いだ。不徳にして孤に陥っていく予感も、不孤の喜ばしい期待も、いまはこもごもであるが、そんな思い煩いもだんだんしなくなるだろう。曙光はこれから来たると想っている。
2004 11・6 38
* 今日の結婚式で同席したのは今年四十九歳だという東大教授で、新郎が東工大にいた頃の指導教官であったそうだ。わたしより二十も若い。専攻される学問からみて何歳ぐらいから「老い」といえるか尋ねたら、「四十」でしょうねという返辞であった。芭蕉の老いは「四十から」という吟とピタリ符合するのに驚いた。「六十九」になるのを老境と感じるのも無理ではない。
自分が日々に「きたなく」なって行く嫌悪感に負けることがある。ときたま、ほんのときたま、若い美しい人と席を同じくするとき、わたしはそれゆえに、心楽しむよりも、さぞわたしなどと一緒にいるのはイヤだろうなあと気負けし、遠慮して、かえってよけいな乱暴な口をきいてしまう。
* 放すまいと、人をしかと掴んでいるということが、わたしには昔から出来ない。ふっと針の先ほども人がわたしから離れたそうだと感じると、どうぞと身を引いて、わたしは引き留める手綱というものを握らない。握れない。
すべて、わたしの自己嫌悪がさせることであり、人を拘束して嫌われるのがイヤなのだ。去ろうとしているのかも知れないなと予感すると、すぐに、わたしの方で気遣って、逃げ道をあけてしまう。そのために憎まれ口をわざときいたりしながら、自分の方で尻込みして行く。わたしは人に「ホナ、サイナラ」とは決して言いはしない。気持ちはいつも「ホナ、また」と深い熱い気持ちをもっていても、あやにくに、それが絶対の拒絶を含意しているかのように、あたかも人に思わせてしまう。そして、孤りとりのこされてしまい、寂しい癖に、どこか一息ついて早く諦めてしまおうとする。ねばり強い性格であるのに、人も傷つけたくなく、自分も傷つくまいとして、淡交がよしと深くは見送らないでしまう。わたしと出逢うときよりも、わたしから離れて行くときの方が人はさぞ肩の荷を軽くしているという思い込みが、いつの段階にも胸に用意してある。
* なんで「湖」という一字に意味を持たせてきたのだろう。
「みごもりの湖」と小説に題したときは、妣(はは)なる近江の国の琵琶湖を思っていた。蓮の葉の底に無数の露の凝って成るあたかも「みづうみ」をも幻覚していただろう。
それが近年には、いつしか鏡のようにものを写し出し映し込めて、しかもその気儘な去来にただ委ねて自らは動かない「湖面」なのであると、わたしは、わたしを諦念してきた。去来するものを、どうして鏡に脚が生えて追えよう、どうして湖が駆けだして雲や鳥の姿を追いかけられよう、と。
底知れぬ寂びしみに、負けそうになる。しかし来る者は、また戻るってくる者は無心に、いや喜んで受け入れても、去ろうという影、去った影は「みづうみ」には追いようがないと諦める。たとえば、わが娘のことも、そのように(娘が自分の意志で去ったとはゆめ思わないにしても。)わたしはこの十年余、半歩も追おうとはしてこなかった。凍えるように寂しくても、である。それが、孤、ということに煮詰まって行く人生のありようであり、定めであろう。
「身内」をどう信じていても、「身内崩れ」ということも実は無惨に在る。年々歳々花相似 歳々年々人というものは頼むに頼めないからである。
2004 11・6 38
* 秦様、お出かけから帰ってお疲れの所なのに早速に読んでいただき有難う御座います。感謝で一杯です。又HPの方でも”生気がある”と言っていただいて、嬉しいです。
> 共生の樹 の前まで、興味深く読んできました。 「ひまわり」は小説の感じ、これはエッセイの感じですね。それはそれで何も問題ないことです。
私には小説とエッセイの違いが良くわかっていないので、「これについてはこうとしか書けない」という書き方で書いています。
> カッコ付きの発言の所で、みな改行にしたほうが、はるかに分かりよく読みやすくなります。
わかりました。その辺り、いつも「どうしようかなあ」と迷うのです。
> のだ、なのだ は乱発しないこと。語調が無意味に強くなります。
出来るだけ避けようと思いつつ—–。更に気をつけます。
> ナニナニという のは 意味の上でも 言う ではなく、強いて感じにするなら 謂う にちかいですが、ひらがながいいと想います。 という のような のように は乱発しないこと。たいていは無くて済むことの多い物言いです。断定断言を避けたいときについ乱発するのですが、言い切られた方がいい場合が多いものです。
パソコンだと簡単にいろいろと変換が出来るので、私のような漢字の使い方がキチンと身に着いていない人間は
嬉しくて、不用意に漢字を使ってしてしまう傾向があり、反省しています。
断定を避ける言い方をするのは、どこかで逃げている、とこれも反省。
> 無くてもいい言葉は、要するに不用なのです。 たとえば、冒頭の その日、 という書き出しを外しても、なにも変わらないで、むしろ端的に入るのですね、話に。 この手の物言いはずいぶんあるものです。無くても済む物言いは、つまり無用なのです。
本当にそうですね。
初め書いたときは、もっともっと要らないものが多くありました。まだまだ目配りが足らないなあ、とわかります。こうして具体的に指摘していただくと、見直す時の元気が違います。
> 感心にそれは少ないのですが、ごく多用される決まり文句ふうの物言いは、可能ならべつの新鮮な自分の言葉に置き換えたいですね。便利でつい使いますが、使いすぎていると、つまり通俗になりすぎ、耳当たりは佳いようだけれど訴求力のない駄文になりかねないので要注意です。
> 天の啓示 必要最低限 優先順位 威勢の良い電話 とか。美味く、それしかないように使われていればいいのですよ。
これについては普段からかなり意識して文章を書いているつもりです。
昔、アメリカでふと本屋で見つけた、大学入学検定試験の国語(英語)参考書がとてもためになる本で、中でも”文章の書き方”という章に、「言い古されたたとえや表現は使わないこと」と書いてありました。私でさえ知っているような英語の言い回しがいくつか悪い例としてあげてあり、「成る程」と感心したものです。それ以来気をつけるようになりました。
> だいたい、すうっと読めて行きますのでいいようなものですが、推敲はまだまだ可能で必要だと想われます。
雑多なものを沢山詰め込んだので、こうして方針を教えていただいて、見直したいと思います。
> 全体はまだ読めていませんので、一編の感想としてはまだ云えません。感じはいいですよ。 取りあえず第一報。 秦
私は子どもときから、「作文」でほめられたことがないのですが、下手だと言われたこともないので、並みだったのでしょう。
特に読書好きでもありませんでした。
古典もなんとか入試をしのぐ程度のお勉強、同志社女子は高三まで聖書の時間が必須で、そのため時間割に制約があり古文を選択すれば漢文は選択できない。私は漢文が読めません。だから文章を書くことにまるで自信がありませんでした。
手紙を書くのは好きだったのですが。
大人になって文章を書かねばならぬ事態になり、何か書いても、これが、誰も良いとも悪いとも、言ってくれないものなんですね。しろうとさんが一生懸命書いて下さったものにとやかく言ってはいけない。そう世間では一般的に思われているのではないでしょうか。そんな頼りなさ、手応えのなさに、ずっと不安でたまりませんでした。
だから秦さんが読んで下さって、いろいろ言って下さって、ましてや褒めていただいたりすると、もう、うれしいんです。本当に有難う御座います。
秦さんに送るまで、書いただけではそんなことなかったのですが、送ってしまったら、なんだかふっと気がぬけました。いつかは、どこかで、誰かに、話したいと思っていたことを、秦さんに読んでいただけた、と思ったからでしょう。
とりあえず御礼まで。 2004/11/8 藤
2004 11・8 38
* いまバグワンの老子を読んでいたら、
弓をぎりぎりまで引き絞れば、
ほどほどのところでやめておくべきだったと思うだろう……
という言葉を、繰り返し、いろんな角度から語り継いでいた。
「老子」本文では、 持而盈之、不如其已、 の八字。 盈 とは、過剰に十分に至ろう、もっともっとと逸ることだと謂われる。わたしの手元の沢庵禅師の解ではそうである。で、そんなことは、やめたがいいというのが、次の四字。つまり、ぎりぎりにまでものごとを追いつめてしまうと、総てを喪失しかねない。バグワンは、バランスを忘れるなという。
レバノンの詩人・哲学者のカリール・ジブランは、恋人達は寺院(愛)の互いに「柱」のようであるべきだと謂う。バグワンがそう言う。柱と柱は同じ屋根を支えてはいる、けれども彼等があまり近づきすぎたら、またあまり遠ざかり過ぎたら、寺院全体は崩れてしまう、と。(あまり賢すぎるような気がして、わたしは少し不満だが。)
バグワンはこれが愛のアートであり、コツだと言う、これにも少しわたしは拘るが、バグワンは、愛し合う二人が近づきすぎるとお互いの自由を侵害し合うと警告している。誰しも自分のスペースを必要とするものだ、愛は、それが互いのスペースと共存するときはビューティフルだけれども、侵害し始めたら有害になる、と。
まったく聡明なバランス感覚で抵抗しにくいが、愛、いや恋とは、余儀なくこういうバランスを乱し合ってしまうことで、悩ましくも、愛おしくも、烈しく深くも、憎らしくもなるものでは…という思いは、感想として持つのである、わたしは。
ただ、そういう喜怒哀楽に拘泥的には立ち止まらないだろう。そういうものだと眺めて、やりすごす。所詮は「理」でも「理詰め」でもなく、文字通りの「解・決」などはつかない、ハートトリップなのが、愛や、いい意味の恋だろうなと思うのだ。
それにしても、つい、何かにつけ、弓をぎりぎりまで引き絞って、動きの取れないはめに自ら陥ることはあり、バグワンに簡単に叱られてしまう。ダメなヤツである、わたしは。
バーナード・ショウは、「ひとりの人間が愛に於いて賢明になるまでには、その人生は終わってしまっている」といっている、とか。ごく年老いた人は、愛に於いて賢明になるが、愛の可能性も終わっている、とも。憎らしいことを言うなあ。彼ショウは、しかしこんな切実なことも言う。
「私はいつも、なぜ神が青春を若者達に費やしてしまうのか、不思議でしかたがない。それは、より賢く、人生を生きてきていろいろなことを知り、ひとつのバランスに達している老人にこそ、与えられるべきものだ。ところが神は、青春を若者達の上に浪費しつづける」と。
ショウは、老人を甘く評価している。老人が「賢い」などと言えるかどうか、わたしは、我ながら疑問に感じている。
2004 11・9 38
* 六義園からの帰り、藤江夫人の「ふつうのくらし」を読んでいて、二度三度、声をもらしそうに熱い感じをもった。名文だからではないが、一途に踏み込んでためらいなく、成心もなく想うままを深く書いた文章は胸を打つものだとしんみりと納得した。ダウン症の我が子との共生を「ふつうのくらし」として成就してゆく家族のつよさ、聡明さ、はかり知れぬものがある。
* このようにして、毎日、少しずつ少しずつでもいろんなことに出逢い、いろんなことに躓いたり感動したりする。
こんなホームページにわたしは、臆面もナシにそういう自分をさらけ出しているけれど、こうして「生きている」のだなと思う。ときどき「よく、湧くように書きつづけられるものですね」と不思議そうに言われるが、なるほど世の中にホームページは無数にあるが、自分の言葉を湧き出すように噴出させ続けているわたしのようなバカは、そうそういない。書くことと書くことばと書いている感銘や感情が限りもなく身内にあることを、やはり喜びとしたい。
2004 11・10 38
* 柳田国男の『先祖の話』を読んでいると、わたしのように天涯孤独で生まれ、親族からきれいに切り離されたまま人と成った者には、気の遠くなるような「家」「家督」「一家」「一門」「まき」「とく」「分家・別家」の歴史で。
わたしは、自分が「ご先祖」になるのだと小さいときから想っていた。事実、そんなアンバイになりそうだと一人で胸を張っていたのに、息子がこどもを作ってくれないのでは、たった二代ぎりのご先祖で終わりそうである。笑えてしまう。子供が欲しいなあと、ときどき痛切に思う。育ててくれた秦の両親にとても気の毒な気がする。こればかりは、もう、どうしようもないが。
明日は何も無いので、心行くまでいろんな本を読みながら今日はやすもう。二人からお奨めのヘッセの『デミアン』は、近くの図書館で文庫本でも借りるか。
* それにしても、従妹がたまたまメールで触れてきたけれど、適当に離れて立っている「柱と柱」のような間抜けな愛なんて、ゴメンだな。考えられない。ひとりでしか立てないところにふたりで立てている、そういう熱い奇蹟を信じたいものだ。おやおや、バグワンに歯をむくのかな、このわたしが。フフフ。
2004 11・10 38
* 今日もらったメールの中に、「現実の女は嘘や噂話や鬱や愁いや浮かれて憂さ晴らしと、余計なもので出来上がっています」という一文があった。秦さんの「ヒロインたちと違い」という意味で。
そんな当たり前なことは千万承知している。だからまた、わたしに愛された「ヒロイン」たちは、わたしのために必然で大切であった。
「現実の女」など、わたしには妻が一人で足りている。そしてまた現実の「余計なもの」に、それなりの味わいの有ることも分かっている。だが、「嘘や噂話や鬱や愁いや浮かれて憂さ晴らし」等々だけがその「余計なもの」ではなく、もう少しマシな、もっとかなりマシな「余計なもの」の持てるのも、優れた女の魅力では無かろうか。
わたしのたとえ自己中心の好みであろうが無かろうが、孤立して此の世に生まれたわたしは、それゆえの強い依怙地な好き嫌いをもっているし、好きになれないものは好きになれない。だから「好きなヒロイン」だけを書いた。それがわたしの「宇宙」への甘えであり、それが個性であろう。我執と謂われてもかまわない。
人に嫌われるのが苦痛でなくはない、が、個性をうしなう屈辱の方がずっと怖い。イヤだ。だから世間を狭く狭くしても、断乎こういうふうにわたしは「今・此処」で生きている。自由に生きている。所詮「現実の女」に好かれる男ではない、わたしは。好かれたくもない。不壊の値の「絵空事になれる女」なら、たとえ悪女でも、玲瓏珠のようでなくても、化性の女であっても、いい。
谷崎文学と谷崎の生活を比較的深く見知ってきたわたしは、あの人は、生来とても佳い「芝居気」を持っていた、それが文豪の魅力だと感じてきた。千代子さんも丁未子さんも、谷崎にはあまりに現実の女過ぎた。だから芝居気も鈍で、谷崎世界からまんまと転げ落ちた。松子夫人には、谷崎の「芝居気」と向き合い、谷崎よりうまく応じるその方の天分があった。優れた現実の女と絵空事の女とを、一身に演じて、渾然として不自然でない女人だった。リクツのない聡いものを、そのままの豊かな魅力にしていた。
わたしの「ヒロイン」たちと松子さんとはちがう、当然だ。谷崎とわたしは違うのである。けれども、作家というのは、頑迷なほど頑固に自己中心的なイヤな生き物なのである。「現実の女」に好かれるわけがない。バーやクラブの女の子をせっせと手なづけ浮かれているだけの物書きは、それだけの能でしかない。いい作家は、そんな女達からも絵空事をみごと創り出しているのである。
2004 11・10 38
* 谷崎潤一郎と松子夫人の藝術的に豪奢な夫婦が成立するためには、谷崎に松子夫人の現実生活すら丸抱えする覚悟と力があり、松子夫人にもある程度経済力があったのだろうと勝手に推測しています。
松子夫人のように「優れた現実の女と絵空事の女とを、一身に演じて、渾然として不自然でない女人。リクツのない聡いものを、そのままの豊かな魅力にしてい」る女性が、現実か繪空事に現れて、秦さんを幸せにしてくれますようにと、心からお祈りしています。(もし現れたら猛烈にヤキモチも妬いてさしあげます。) 蝸牛
* そんな者、現実にも絵空事にも実在するワケがないという、これは女読者のモーレツな挑発であるらしい。おもしろい人だ。
どういう人が「身内」といえるのか、たぶんこの人には分からない、識らない、理解出来てない、ムリもない。娘の夫になった以上おれも「身内」じゃないか、と、やきもちで黒こげに怒った男もいたぐらいだ、こういうややこしい言葉を敢えて用いてきたわたしにも、少しは責任がある。でも、硬直したマインドの問題だとも思うけれど。ハートからすなおに、自然にものを見ればいいのに。
やきもちで黒こげにさせても困るので、いるいないなんかは別にして、わたしに想い描けている「身内」の幻像を、あらまし、この機会に描いておこう。ハッキリしておくが、男女の別はどこにも、無い。
「身内」は、まっさきに「空疎な言葉」を振り捨て、そんなものには頼らない。愛と信頼には、言葉や議論や問答の尻押しなんか要らない。素直に直面して、お互いにしたいようにし、思うように思い、出来ないことは出来ないと分かっている。個と個に徹し、余分な他の誰のことも、口にもしないし、気に掛けない。しつこくモノを訊きほじくったり決してしない。大事なのは「向き合っている」二人。互いに無用な所へ立ち入らない。自然に、ゆったりと静かに。現実の家族でない以上、当然のこと。身内として現世を生き、死んでからも一緒に生きて暮らしたい、そう熱望することだけ。愛し信頼するけれど、愛や信頼について無用に議論する必要など、少しもない。初対面の瞬間から、無い。天才や凡才の問題なんかでなく、お利口やおバカの問題でもない。絵空事を信じて直面した人間同士の、ひたすら「まこと」が問題なのである。そういう「人たち」を書いてきた、と思っている。
それ以外が書きたい気、じつは、無かった。
生い立ちが払わせた、それはわたしには税金のようなもの。小説という手段を利して、「生まれた」意味を問うてきただけのこと。
2004 11・12 38
* 事務局から「ペン電子文藝館」掲載文の記録が届いた。綺麗に出来ているが、手持ちの資料と克明に点検すると、相当な遺漏や誤記が出て来る。こういう記録は万全に正確であるべく努めなければ、記録の意味も成さないことになる。しかし、やってみて分かる、一個所の一人分のミスもなく創る記録がいかに難しいか。館が大きく成れば成るほど、掲載作品が多くなればなるほど、正確な記録管理はますます慎重でないと粗漏に陥ってしまい、にっちもさっちもいかなくなる。
七十年に成ろうかという歴史的な団体であるが、現在在籍の会員こそ正確に分かるけれど、「物故会員」の正確な把握が出来ていない。物故会員は難しい。入会して亡くなるまでいた会員も、途中でやめてから亡くなった会員もある。大方は、むしろ後者かも知れないのだが、それゆえに物故会員の定義的な把握は難しい。だが、コンピュータの時代であり、入会から在籍期間、ないし死亡による除籍など、見当を付けて把握していないと、例えば正確なその人の「年譜」も書けなくなる。作家研究の究極は「年譜」で極まるというのに、日本ペンクラブにどういうふうに在籍していたかも分からないのでは、やはりミジメである。今からでも分かる限りは跡づける努力が必要だろう。
作家の生年月日と死亡の年月日など、さらには生地など、年譜データの、基本の中の基本だという事が、事務局ですら理解できていないようで、困る。生まれ育った地域により文学の性質が或る程度枠づけられるといった研究も発言も有る。
とにかくこの「記録」ということ、なかなか理解して貰えないが、悩ましい難しい大切な基本作業なのである。
2004 11・13 38
* 還暦同期会
湖さま 中学の同期会に行ってきました。一クラス四十人足らずで三クラス、の過半数が出席したような気がします。中学以来の友人も数多く、海外からわざわざ帰ってきた人も数人。還暦祝賀会というのでピンクがかったドレスで行きましたが、女性もほとんど黒 茶 グレイなどの沈んだ色の服を着てきていました。男子一人が「赤いネクタイをしてきたんだけど、だれもしていなかったなあ。こういうときには一点でも赤をつけてくるというようにすると楽しいのに」と言っていました。
先生方も見えていて相変わらず若々しく、私たちの還暦を祝ってくださいました。中学時代、先生に還暦を祝って
いただくなんて思っても見ませんでした。
ふけてよろよろになった男性から、若やいだ女性まで、さまざまな六十一歳でした。中学時代「悩んで」いた人は相変わらず身内のことで悩んでいましたし、「まじめな」人は相変わらず家庭生活を正論で語っていました。
親友だったAさんが一番懐かしく、相変わらず上品でかわいらしく、3人の娘の家族とも等しく愛情深く関わっている様子がわかりました。
Sさんが中学時代に、「信じられなくて恥ずかしかった」というバスの中でのできごと。よく、Aさんと「命令ごっこ」をして、「バスのつり革を全部触ってくること」とか、「運転手さんに話してくること」とか、他愛ない遊びをしていたのを思い出しました。Aさんと私はそのころ「面白いこと」「楽しいこと」をみつける天才だったかもしれません。
バス停のポールが、学校から少し遠いところにあったので、「毎日五センチずつ動かせばわからないわよね」と、動かして、かなり近くまで持ってきて喜んでいたところ、ある日もとの場所に戻されていて、がっかりしたことも覚えています。思い出すだけで笑いのこみ上げる出来事ですが、それを話すと、Sさんは、さらにあきれた顔をして「知らなかったわ」と言いました。
中学生の「湖」だったら、こんな馬鹿なことをして笑いこける女子中学生、目のうちにも入らなかったかもしれませんね。そう、中学時代あまり男子生徒との交流はありませんでした。 波
* 還暦は干支一巡し終えた六十一歳のこと。
上京以降の新制中学「同期」会は、覚えがない。亡くなられたクラス担任西池季昭先生を囲む「同級」会には三度か四度も出たか。上京後の小学校同期会は一度も覚えがない。小学校の男性とは数人の交際が今も有り難く残っているが、女性とは一人も縁がない。中学の同期女性では、「浜作」の女将と祇園甲部に住むお茶の先生だけが今も「湖の本」をたすけてくれている。男性とは何人も親しくしている。高校の同期女性では茶道部にいてわたしから茶の湯を習い始めた二人がある。大学では、男性が二人、同期の女性とはとくに連絡はないが、一年下の妻の女友達とは何人も親しい仲間がある。学年を下めにみると小学校、中学、高校では何人か今でも親しい人たちがいる。
まじめくさっていたわけではない、が、ひどくふざけて遊んでいたとは云えない。身の外側の世間よりも、身の内側の自分と向き合っていた方が遙かに時間的にも質的にも多かった。かるい友達がたくさん欲しかった、ということはなかった。わたしの所謂「身内」にこそ出逢いたかった。つまりは、モデルのあるなしに関わりなく、「慈子(あつこ)」など、のちのち小説に書いてイメージしていった。現世で不徳ではあるが、絵空事では孤でなかった。倶会一処。
漱石その人の感化ではない。彼の作『こころ』を中学生のわたしに与えて消え失せた人の刺戟が強かった。もののまぎれは無かった、有るべくない幼い年齢であったが、この人こそ桐壺で藤壺のようであった。みな不壊の値の絵空事であった。
* 付け加えておいた方がいい、そういうふうに想い描いて自身の人生を組み立てて行く、いわばある意味の価値ある「芝居気」をわたしに感化したのが、源氏物語と谷崎文学であった。この二つはわたしのなかで関わり合っていた、緊密に。『谷崎の<源氏物語>体験』がわたしの「谷崎論」だけでなく、わたしの「仕事」の一つの核になっているのは当然で必然というしかない。
2004 11・14 38
* 「日本の歴史」色川さん担当の巻が終幕にむかい、北村透谷がこの巻ではとても大切に語られている。おそらく透谷が今日若い、いや年寄りの読者にも読まれることは極めて少ないであろうが、彼の、たんに文学というよりも近代日本の優れた魂の自立と自由とをめざす渾身の生き方とその痛ましい挫折を、もっと確実に身に受けたいものだ。
わたしがもう三十年早く透谷にほんとうに出逢っていればと、つくづく悲しい。わたしは「ペン電子文藝館」に彼の一文「各人心宮内の秘宮」を早くにとりいれたが、同じ論文に色川さんも触れている。
2004 11・14 38
* 何かを営まねば人は安心できない、そしてその営みから概して傷ついて、それも癒さねばならない。マッチポンプであるが、それを射抜いて「弁証法」という方法論も生まれたのが人の世だ。
バグワンは「道(タオ)」の中で「九九の陥穽」ということを語っていた。無心に平和に生きて悠々とした人に、強いても九十九枚の大きな金貨をやると、ふしぎにもう一枚の金貨を加えたならちょうど百枚になる、せめては百枚にしたいと願い初めて、無心も悠々もまんまと棒にふるものだ、マインドという分別で生きねばならない人間の陥穽は、せめてもう一枚、もう一寸、もうちょっと、ちょっとの果てしない「もっともつと」で地獄に堕ちる、と。
そして百枚になればそれで満足しなくて百一枚に二枚にと追いかける。それが向上だと思いこむが、必ずそれが地獄への転落になる。事実成っているのが普通だ、と。
普通かどうか知らないが、バグワンの辛辣な観測には服している。退蔵の二字をわたしが、なかなか出来ないままにも「理想」として見ているのも、「九九の陥穽」を実感として予測するからだ。
もっともっとと生きねばならない人生の坂道がある。建日子などはまさにその坂を歩んでいる。登っている。それが価値的に輝く時期(ステージ)と、それがあさましく腐朽してくる時期とが、ある。
2004 11・23 38
* ありがとうございました。
> ざっと読み通しまして、「e-文庫・湖(umi)」に置いてみました。誤記などがあるかも知れませんが。
先程から「e-文庫・湖(umi)」の方も読みました。細かく見ていただいたことが良くわかりました。
> 説明というのは、学術専門的なことでなく、たとえば 杉並 と読んで東京の杉並>区と分からぬ人も全国にはいなくもない、円山公園といっても京の円山公園とは分からない人もいる、悲しいにも嬉しいにも元気にも、微妙にいろいろ差がある、そういう何気ない隅々で、書き手や登場人物の心情や人となりや様子が自然に匂い出ると、文章は共感を誘い出しやすいという、そういう意味です。遣りすぎてもいけない、無くていいものでもない。そういう意味の説明です。説明ではなく表現なんです、それが。
読み手にわかるように、遣りすぎでなく、不足なくという意味も、具体的に、わかりました。成る程と。少し”実際”とは離れたかな、と思うところもありましたが、正確にそのままよりも、この方がより本当に伝わる(絵でもそういう事があります)ということもわかりました。
自然に匂いでる—-ところまで行けば、本当に素敵ですね。
やっと、少し文章の書き方がわかり始めた私としては、全てこれからが勉強なのに、書きたいことを大体書いてしまって当分は種切れ—–困ったなあ。
> 四つ、いいモノを書かれました。敬服します。 秦 恒平
過分なお言葉です。ただ、ありのままを書いただけです。感謝しております。
来る12月26日で息子も30才になります。良い記念になりました。 2004/11/23 藤江もと子
2004 11・23 38
* 少し考えさせられる問題提起が同僚委員からあった。即座にはどの対応がいいか確信はないが。
* 小田実氏「南京虐殺」を読んでいて、気づいたのですが、ちょっとうるさいことを申しあげます。
「蘆溝橋事件」とありますが、現在では「蘆」は間違いで、「盧」が正しいとされています。
満洲事変の起きた「柳条湖」が、長年「柳条溝」とされてきたことと同じです。
事件の起きた盧溝橋(別名マルコ・ポーロ橋)のたもとにある乾隆帝の碑も、「盧溝暁月」と写真にあります。
ちなみに、盧溝は黒い河、蘆溝は河底に生える藻ということで、意味が違うのだそうです。
知ってしまうと、とても気になります。
原文のままとするか、作者にお断りをして直すかは、委員長にお任せいたします。
* 問題提起に、感謝します。
微妙ですね。歴史記述で、誤りが踏襲されたり曖昧に未決定である例は、多かろうと思います。何が正しいか、もの・こと・ひとの「名前」には殊に「まぎれ」がついてまわります。本名と通称と渾名や字(あざな)や雅号があるように。
隅田川がいま正しくても、墨田川とも書かれ、荷風の「墨東綺譚」とも謂います。京都の「かも川」も、加茂川あり賀茂川あり鴨川もあり、どれも否認できない用例をもっています。江戸が東京になり、昔は近江国でも今は滋賀県で、しかし滋賀京とはめったに書かず、志賀の都でした。地名など、ものの名の変更はあまりに例が多く、今の地図が百年前の地図とまるで異なっているように、名前は所詮、記号のようなはかなさです。
正しいに越したことはなくても、往々にして或る時期にはこれが正しいが、これから前や後ではこれやあれが正しかったという例はあり、つまり、ものの名前には、絶対固定の正しさが無いと思っていた方が賢明かも知れません。
その意味で、「蘆溝」と書いたのも「そうでないの」も有りそうですが、一つには、事件の起きた時点でのウラをどう取るか、間違いなら何故そう間違われたままに定着したのか等の穿鑿も必要になります。伝聞は多重層にいろいろ重なりやすいからです。北京にしてもいつも北京ではなく、燕京とも謂っていたし、西安と長安もほぼ同じだし、昭和天皇の名も、彼が生きていた間は有り得なかった。
もう少し詮議し確証するか、通例を通例として受け入れるとどんなデメリツトがあるかなど、慎重に穿鑿せねばならぬとしたら、それは学者達の間で定説があらわれるに任せて、文藝作品に、ひょっとして誤記かも知れない思い込みをそのまま残しても、大過ないのではいでしょうか。ドイツ、イギリス、インド、中国などとわれわれは書いています。米国、西班牙などとも。ギョエテとは俺がことかとゲーテ云ひ という駄句もありました。ちょっと譬えが違うかも知れませんが。
日中文化交流協会の人などにも尋ねてみます。正しい、間違い というのは、なかなか決めにくいモノだなあと改めて思います。問題提起に感謝し、教えられました。
そんなところで、機会を見て小田氏にも伝え、意見をきいてみます。当座は、訳詩の表記を残しますが。 秦
* もう一つ。
* 羽仁もと子の「半生を語る」の全コピーが届きました。感謝。
読んでみると、掲載「案」で送られてきた中の、バッサリ削除されている数十頁分にこそ、著者が少女時代から成人のころへの「時代」と「暮らし」を、生活的に証言したうまみ・おもしろみがあり、のちに創刊した「婦人之友」に触れた少しだけの「懐古と展望」には、ありがちな、創業者のたかぶりが露わで、今一つ感動が薄いと感じました。食い足りません。「出版編集」特別室に入れるために中身を選んだようですが、無理はしなくて良いのでは。「エッセイ」で良いのでは。
なにより「婦人之友王国」という言葉が頻出するのは、目障りでもあります。世に出て成功した男勝りな女の人にありがちなハイな調子は構わないけれど、それでも、彼女がどういう生い立ちで、どんな時代環境であったのかが具体的に分かるのが、証言としても表現としても面白い。知性的に進んでいた明治の女学生の心意気や感じ方に触れ、「王国」の女王に成る前段階を知ってみるのが面白いようです。遠くなっている「明治」の意味が女性の側から語られています。
が、また、スキャンからやりなおさねばならない。 秦
* ご丁寧なお返事、ありがとうございます。
確かに「正しい」とか「間違い」とかいうのは、極端ないいかたで、文藝作品において、それが表現上重要であれば、拘泥するべきではないかもしれません。
ただ「蘆溝橋」は、中国における記述の変化によるものではなく、日本側が「勝手に間違えてきた」と思われます。
「柳条溝」の場合も、日本側だけの間違いであり、戦後のかなり早い時点で指摘され、「柳条湖」と表記されるようになりましたが。
「盧溝橋」のほうは、ここ10年ぐらいの間に指摘されるようになったそうで、新聞報道等でも改められています。
私自身も知ったのは昨年のことで、現在、早稲田大学で「昭和史」の講座を受けておりまして、教授から解説を受けました。ですから、前作では、私も「蘆」を使っております。
表記の揺れのある隅田川や墨田川とは違い、中国において、マルコ・ポーロの時代から、ずっと「盧溝橋」であったのだとすれば、東京を唐京と表記されたようなもので、中国に対して失礼なことではなかったかと、私自身は思っております。 「ペン電子文藝館」委員
* たぶん云われる通りだろうと想います。新しい歴史事典など、もう、「盧溝橋」になっています。定説というより、単に「訂正」が出来ているということでしょうか。
宛字の「蘆溝」もそれなりに許容範囲内であるのか、「蘆」など多く生えていて別名または渾名・通称として「蘆溝」の称も通用していたか、その辺、分かりません。
最初の公用電報や報告書等に「蘆溝橋」と過られたか、または何か根拠有ってそう表記され、多年そのまま通用していたのが、のちに単に「公称」はこうと訂正統一されたものか。我々には分かりません。東京が唐京と書かれるほど途方もない間違い、失礼な間違いとまでは感じません。鴨川が加茂川でも賀茂川でもあり、それなりに現地で使い分けているのと似ていはしないかという気も、しますが。それも分かりかねます。
「蘆溝橋」がめったにない誤用なら、はっきり間違いですが、日本側の歴史記述や、以前の委員の著書でもそうだったように、民間でもかなり広範囲に使われていたのが事実のようですし、小田実さんがそれに単純に従い、記憶の儘にこう表記しているのなら、訂正する・しないは、やはり小田さん本人の判断に委ねていいでしょう。詩のハートとは、幾らかべつごとのようです。 秦
* 隅田川、墨田川の共用や混用はマルコポーロのころより遥か古くからと想われる。
加茂川の例で云うと、上賀茂の上から下鴨社の河合まで流れてきているのは賀茂川、そこで高野川と合流してから下流は鴨川。だが鴨川ものちに桂川と合流し木津川や宇治川と合流してからは淀川となって、大阪湾に入る、淀川の全長を公式にはかるときは、木津・桂・宇治・賀茂川らのそれぞれ源流まで勘定する。だからといって、鴨川や木津川や桂川や宇治川を淀川とは云わない。
河川ほどその位置により地元独特の名称通称の流布している例は少ない、大陸ならましてそうだろう。
山岳でも、見上げる方角から名の違えてある例はあるだろう。国境をまたいでいれば尚更である。
不用意に間違えてはいけない。しかし表面間違いと見えることに、意外の深層や真相が隠れている例もあるから、それをも面白し・大事と観る視線が要る。
* 藤江さんの「ふつうのくらし」に、名前は所詮記号であり、調べれば簡単に分かる名前を無理に記憶する必要はないという議論があり、それなりに面白く同感の気味を覚えていた。
潰れたか潰れそうなのか知らないがダイエーという会社創業者の名前が、功 でなく、ツクリが 刀。これを間違えると怒り出して、ひどく拘ると聞いたときに、一応は分かるけれど、ツマラヌヤツじゃなと思っていた。それは東を唐と間違えるのと同じかというと、さ、どうだろうか。何よりも、彼氏のこだわるその「工ヘンに刀」の字は、こういう機械の上では残念ながら出せない。今もそんな字は、作字して図ではりつけるしかない。そういう文字コード環境が不足なのは確かだから、機嫌を損じるのなら、その方の拡大改善にこそ彼は社会的力量を発揮すれば良かった。
よく思うが、福田恆存さんは「恒存」さんとは書かれたくなかったろうな、と。わたしの方は、自分でもときにより、手勝手から「恆平」と書いてしまう。異体字なのだから拘らないし、正字はたぶん「恆」だろう。
なまえは大切にしなくてはならないが、その文字表記はあまりアテにならない。出雲と書いてしまうから絶えず曇天の国のように感じたりする。発声の「いづも」ですましておけば、「いづみ」「あづみ」「あども」など他の広範囲に流布する地名や名称との交渉へ想いが届くようになり、思わざる深い理解に(誤解にも、)繋がって行ける。文字は或る意味でたいへんな危険物でもあることを忘れてはいけない。
2004 11・24 38
* 話しことばをお留守にして、書きことばに頼りすぎていると、大事なモノやコトやヒトから、いつ知れず疎遠になり、冷えて、離れてしまいがちになる。ことに人間関係はエネルギー活動、補給がなければ衰える。親しければ親しいほど、親しさに怠惰に甘えていると、もとも子も失うのが疎遠という意味だ。そういうものだ。顔も見ない、手も触れ合わないで書き文字だけが氾濫する電子メール時代に、ほんものの「恋」なんぞますます育ちにくいたろう。
いま、この大事なことを、わたしは「e-OLD小説家」として云っている。ドギモを抜くかも知れない。
2004 11・24 38
* 「蘆」か「盧」か問題で、もう少し追加がある。
* 小田実氏の原稿を原文のままとされるご判断に、今までも使われてきたことですし、それはそれでけっこうかと存じます。
ただ、私の手元にある「日中大辭典」では、「盧」の意味として、「黒色」と第①番目に載っております。
> 乾隆碑を実地に見た認識は強い。日本側は、碑のレリーフか、新しい何かの写しかのそのまた写真だけを見ている印象で、その差が出てきたのでは。
早稲田大学の教授も、歴史の検証で40回近く中国を訪問され、三好徹氏も、きっと行かれていると思います。
私も実地に行きましたし、写真も持っております。
昨年訪れた友人の手元にある橋を渡るときの10元だかの券にも「盧溝橋」と簡体字で書いてあるということです。
日本側は、碑のレプリカか、新しい何かの写しかを「見ている印象で」というおっしゃり方には、ちょっと承服しかねるものがございます。
* ものを見るというのも、言葉は同じ「見る」でも、別のものを見て、お互いに同じものを見た気でいる例は多い。歴史的な原資料の場合に、ことに多い。実物は秘蔵されていて、レプリカ(模品や紹介)が展示されている例も博物館などではあること。ことに、あの極端な新簡体字中国で、最近通用の紙幣や入場券などに印刷された字で是非を云うのでは、この際のつっかい棒にはならない。萬壽寺の拝観券に、いまは万寿寺と書かれていて、萬壽寺は間違いだというのは当たらない。その手のはなしなのである、これは。
* 中国で現用の簡体字は、極力、というより、もの凄いまで、正漢字のいろんな個所や部分を割愛削除して成立しているのは、誰もが見知っていることです。いまいまの通行のものに簡体字が使われているのは当然のこと、むしろこの際問題の「盧」がもともとは「蘆」であったろうことの、むしろ強い傍証の一つであり得ると思います。
秦の推量で訂正を要するのは、「盧」には「くろい」意味が有るという点です、これは白川静さんの「字統」で今も確認しましたので、訂正しておきます。
「蘆」の声符は「盧」です。つまり「音通」が成立していますので、冠を排して簡体字に、または異体字として、替えたり通用させたりは問題なく出来ます。事態はそういうことなのであり、今の中国が、かつての「蘆」を「盧」で統一通用させていても何もおかしくなく、全然「違う意義」の「別漢字」だと「思いこむ」のは、あの厖大な漢字世界の「ありよう」からも、それは頑ななことです。
日本でも、宛字はむしろ文化的に多用されていますが、(明治の文豪達の作品にも無数にあります。)中国では、それ自体が「文化や習俗」の内なので、「これ」でなくては「間違い」だとき決めつけるばかりでは、偏狭な形骸論に陥るのです。こんな程度のことは鬼の首でも何でもない、誰かさんの悪しき口癖に便乗するようですが、まさに「漢字もいろいろ」融通や弘通や慣用や、わるくいえば「ええかげん」なところが、実態・生態として現にいっぱい在るのです。「壽」字は千壽とも萬寿ともいわれるほど異体字・簡体字があり立派に一冊の「本」にもなっています。機械や活字でなく、手と毛筆とで、時に謹格にも書けば、時に酔っぱらつても書く、その一つ一つが異体字になって残されていかねないのが「漢字」世界でした。そういう歯止めも利かないような漢字の「融通性」があるから、「蘆」と「盧」を、「間違い」だとか「正しい」とかで騒ぎ過ぎるのが、そもそも、おかしい。たんに「一指摘」で止まっていい問題なのです。どっちで「通用させる」かの問題に過ぎないのです。
中国人でもおそらく意見は分かれているのかも知れません。今は簡体字使用が当然の時代です。その簡体字が、正字の「蘆」では「ない」とか「なかった」などという議論には結びつかないでしょう。「慣用推移」はあったのです。
中国人の作家代表団で来ていた人達が、「蘆」溝橋である、草冠が有ると確言する事実は大きいし、しかし別の代表団が来たときに、簡体字の「盧」を今は使用していますよと云っても、それも何でもない自然なあたりまえなんですよ。
漢字の生態に思い致さないまま、浅いリクツを強硬に立てて、これでないと「間違い」とやっつける「学」者感覚が、わたしなどはどうも信用しにくい。漢字は、そういう窮屈ではやっていけない世界です。物名、ことにも地名の表記は、ものすごく融通性というか、時期・時代により通称や別表記のある世界。水府は水戸の間違いだと誰もいいませんし、墨水は隅田川にあらずとも云いません。まして万寿寺が正しい萬壽寺は間違いなどというのは滑稽です。
いま問題の「蘆」か「盧」かは、むしろ「澤」か「沢」かのような、「萬」か「万」かのような、「慣用推移の適例」の一つなのだろうと推します。さもなければ、「蘆」溝橋事件が起きてからつい近々まで、何十年どころでなく日本でも、まして中国内ですらも、そんなことが問題にもされなかった理由が掴めない。日中の何億人もが関わっていて、「誰も気が付かなかったんでしょう」なんてアホなマヌケた話は無いでしょう。
要するに正字と異体字ないし簡体字の問題でしかなかったし、どれを通用させるかだけの問題なのです。澤田と書くか沢田と書くかと同じく、それは本質的には何の問題でもなかったんです、少なくも過去には。
そういうことで、この議論は、議論としては委員会終了です。付帯の感想などは、賑やかにご自由にどうぞ。 秦
* よく分かりません。簡体字や漢字の流れについてのお話、わたくしには素養がなく、いまひとつ理解できないのが残念に思います。
「蘆」の簡体字は、草冠のついたもので、別にございます。
昨夜の李氏は、草冠のついた「蘆」の簡体字で「蘆溝橋」と書くとおっしゃったので、では、「盧」の簡体字はなんですか、とお尋ねしたら、その字の簡体字はないとおっしゃったのです。
でも、あるのです。
「盧」は、「蘆」の簡体字ではなく、繁体字である「盧」と「蘆」には、それぞれに簡体字がございます。
また、簡体字は、巷間における省略文字ではなく、1956年に正字と決められております。
委員会での論議は、委員長のおっしゃるように、これで終わりにいたしく存じます。
私個人としては、「中国政府が盧に統一することに決定した」ということ、NHKや朝日新聞の取材班が調べて「盧」を使うことにしたということなどで、今後は「盧」を使っていくつもりでございます。
* 「名」として通用させるという「政策」と「文字」とが絡むと、「一つ」に決めるしかなくなる。「蘆」だったものを「盧」にすると権力が云えば、それが「公の通用文字」になってしまう。しかし、文字の来歴や慣用は、政策では統御出来ないところに特徴がある。異体字、簡体字、略字、枝字、いろいろ、文字コードの標準化委員会でも煩雑極まる議論が錯綜しました。
そもそもそれらを飛び越して、「音通」「宛字」というのはとてもバカにはならない、過去久しい漢字世界の豊かな「慣行」で、現場ではこれが効果的にも横行するものだから、それでは不便だと言って、どこかの段階で、政策が「一つ」「一字」に決定する。お役所が決定したから、従来の慣行や本来は「間違い」かというと、そんな単純なものでなく、そのまま平然と使われて行く。使う人の自由なのです、カナリの重みで。委員もまた最近まで何の躊躇なく「蘆溝橋」と書いている。それを「盧」と「政府決定」されたとしても、そんなのは単なる「押しつけ統一」で、全然「正・誤」の問題じゃない。政府が決めたら「文字の正誤」が決まるなどという考え方こそ、明らかな「間違い」です。従おうと従うまいと、かなりいい加減に自由自在なところが、人間の財産である文字の伝統世界なんです。
だからわたしは、或る意味で文字使用には「毒」がついてまわる、だから言語生活は、眼で読む「文字」よりも、より深く耳で聴く「ことば」で養い、語感は眼より耳で養うべきだろうと、従来も云ってきました。「出雲」と書いてもあの地方は曇天の国とは言い切れないようなもので。人が挙って好字や佳字でものに名付けようとしてきたのは、文字で引っ掛けようとする一種のトリックです。余談ですが。
蘆と盧とは「声符音通の通用を許容」されてきた「字源」をもっている。異体、簡体よりも先に、そういう「濃厚な血縁」がある。字体を見ても草冠の有無だけの違いで、一目で融通性は濃厚親縁です。豆と荳、陰と蔭などと同じです。
委員個人がどっちを使おうと勝手で、それはどう見ても「正しい・間違いの問題」などでなく、「新しい慣行」と「中国さんの通用指示」にしたがうまでのこと。
寧ろ、こう云えます。今日の「ろこうきょう」を云うなら「盧」溝橋でいいとも云えるが、「蘆」溝橋事件の起きた「歴史的現在」を語るときは、「盧」溝橋では、はっきり「間違い」と言えるのかも、と。そう思います。秀吉の築いた大「坂」城は、大「阪」城ではないのです。かつての大坂は、今の大阪ではないのです。
しかしまた、大阪は昔にはなかったかというと、大坂以前の文献にすら大阪という表記は絶無ではないのです。ややこしいが、漢字とはそういうものです。いずれお分かりになるでしょう、と、感想まで。 秦
* 「ペン電子文藝館」委員会での「校正」作業が如何なる者であるかの実例として少しでも広く知られたいと思い、まさに格好の問題提起であり議論であったので、あえて此処に披露した。二十三人いる他委員からの声が届かないのは寂しいが。
2004 11・27 38
* 死に向かう姿勢には二つあり、死を敵とみて懼れ闘うか、死を友のように受け入れるか。敵と観ようが懼れようが、生き物に絶対と云える一つ、一つだけ、は、死。生まれた瞬間に死は決定している。闘って、懼れて、万端尽くして少しだけ引き延ばすことは可能でも、ついには免れない。いかなる権力者も、富豪も、また私も。
その上で、どう死を懐かしい朋かのように迎え入れ受け入れることで、どう新生への扉を開くか。念々死去、年々新生をどう果たすか。それにくらべれば、差し迫った課題など他に何があると云えるだろう。
2004 11・30 38
* 秦の叔母により裏千家の茶の湯になじみ始めた頃、「今日庵」という家元を示すいわば看板の意義が、すぐには、わからなかった。
叔母はなにも教えてくれなかったが、一つのヒントは提供してくれていた。
稽古場の欄間に、生け花御幸遠州流家元が、なにかの機会に叔母に与えた草仮名の五字「あすおこれ」が上がっていた。「明日怒れ」とは、「永久に怒りを発するなかれ」の義だったろう、此の世こ「明日」は絶対にない、「今日」のほかにはという含意は、子供心にも少しの示唆があれば飲み込めた。「今日庵」も同じだと分かるのにそう歳月は要しなかった。
字句を正確に調べてもいいのだが、だからいくらか間違いがあるか知れない、が、今日の約束を安易に明日のことと違えて他出していた主人の留守に、「できそこないの口先坊主め、今日を怠けて明日と云うか」と、そう、襖に大書し客僧は帰っていった。「今日」庵の名の所以で、「懈怠比丘」という言葉が確かに書かれていた。「不期明日」ともたしか書かれていた。
いずれにしても「明日」という日は実在しない。「今日」しかない。いつまで行っても「今日」だ。「来年」と「今年」の関係も同じこと。来年からする、はじめるとは、永久にしない、始めないのである。むかし、大晦日に、「さ、来年からは勉強します」とトクトクと宣言した男に、誰であったか、「除夕よりはじめよ」と一喝したという。除夕とは大晦日。なぜ来春を待つかと。
「屁理屈」だという人も必ずある。それはそれである。
先日まで徒然草を音読していた中に、ものの名で「ますほのすすき」か「まそほのすすき」か、その区別を知っているのは、今ではどこそこのだれそれしかいないと、聞くや忽ちに、雨風の中へ席を立って出掛けて行く人がいた。雨風がやんだあとで日を改めて行けばいいのにと人がわらうと、その人か自分かは知らず命の火は雨風にいつ消えてしまうか知れないではないか、みすみす一つの知識をもし見失っては済まない、と。
はじめてこれを読んだとき、少年のわたしは、その大げさな、その意義のつまらなさに失笑したが、しかも失笑しながらも、何かしら大変なことが謂われているとも感じていた。それは「あすおこれ」にも「今日庵」にも直結していた。
「明日」は、「来年」は、ふつう夢見る希望の代名詞のようであるが、そんなものはまさに「夢」であっても現実には実在せぬたわことの一つなのはハッキリしている。明日がある、来年がある、という遁辞にこそ、屁理屈が忍び込んでいる。
つべこべ謂わずに、明日を期せよ、来年を待てとは、暢気なトーサンの科白。暢気でいられるのが、若さの特権であるといえば謂える。が、若さのバカさかも知れないと昔の人は一期一会を大事にした。
2004 12・2 39
* シーボルト風に謂うと、今日は白い石で書きたい記念の一日になった。
* 秦建日子が「小説」を出版した。河出書房新社刊『推理小説』ほぼ三百頁。わたしは、まだ手にとってその重さを味わっただけ、読み始めてもいない、が、久しく小説家である父親の次から次への出版を家にいて眺めてきた建日子が、自分でも小説処女作をとにかく世に送り出したということには、さぞ感慨も深く嬉しいことだろう。私家版を除いてわたしの処女出版は、受賞作の「清経入水」や「蝶の皿」や「秘色(ひそく)」などもう一作(忘れてしまった)を収めた『秘色』だったが、記憶を呼び戻せば嬉しいよりも怖かったというのが当たっている。自分の本がどう読書界に受け入れられるのかが分からなかった、わたしの作風はあまりに孤立しているように見えていた。
たぶん、建日子も嬉しい中に或る怖さを感じて緊張しているだろう、題の通りの推理小説らしい。
おめでとう。なにはあれ、おめでとう。ほんとうに実現したんだ、編集者と出版社の関門を通ってきたんだ、えらかった。
建日子は知っているのだろうか、河出書房にはむかし坂元一亀という名高い編集長がいた(その息子が名は忘れたが世界的に働いている音楽家だ)。それより昔にも以後にも佳い編集者が揃っていた。佳い編集者と出会うことが書き手の財産なのだと覚えていて欲しい。
どんな風に書けているのか、読むのはこれからだ。読んだあとは厳しいパンチがとぶか、テレビドラマ「ラストプレゼント」の時のように手放しで褒められるか、一節(ひとふし)でも、ウーンと感心させてくれると嬉しいが。
* 小説本には普通不文律のように著者あとがきを書かない。わたしも小説ではあとがきを書かない本の方が多いと思う。小説本に関しては刊行後歳月を経てからはいいが、出た当座は作者はストイックに寡黙なのがいい。妙にはしゃいで舞い上がって色々書くのは作品の言い訳を作者が始めているようで、あまりみっともいい物ではない。テレビ業界よりはその辺がかなりシビアで、人が騒いでくれるのはいいけれど、作者は楽屋裏や謝辞や嬉しさなどを乱発しない方がいい、ましてホームページなどに。
推理小説と雖も、小説の読者と、テレビの視聴者とはかなり何かがちがうものだと思う。じっとこらえて、とにもかくにも、読んでもらうこと。
2004 12・2 39
* 深田久弥「あすならう」を起稿し校正して入稿した。作中に津軽の樹の「あすならう」にふれた個所はない。この言葉はむしろ井上靖の自伝風物語で有名になった。未来に夢を持つ言葉のようである。アマノジャクで云うのではないが、わたしは「あすならう」の美談を今でははかないと思う。だが、それが杖となり抱き柱となり人生を励ましうる一時期の有ることは信じようと思う。だが「明日」などあるものかという覚悟は、中年には持っていた。平凡で卑屈な作家生活をするよりも「抱き柱」は棄てて、寒くても寂しくてもひとりでさまよい、いつか寒気と風説に曝されて枯木に身動きならぬ季節を迎えても、自由な鴉の一羽で果てようと思ってきた。おお、なんとカッコいいせりふであることか。ま、いい。すぐ、寒さの巷に孤立するだろう。
2004 12・3 39
* 存じ上げない方から著書を戴くのは屡々であるが、今日は北海道の高等学校の先生山崎省一氏から『安岡章太郎論』を頂戴した。いきなり第一行に、「驢馬が旅に出たからとて馬になって帰りはしない」とスペインの諺。安岡さんの教育論『驢馬の学校』に引かれてあるというが、教育論から離れてもこの諺、手厳しい。バルセロナの小闇に、スペインでの諺の使われようを教わりたい。
安岡さんは「第三の新人」の代表者のような人。わたしは看板でくくられたグループ作家とはご縁がない。大体、安岡さんや亡くなった吉行淳之介らの手前の所で現代文学とは、一線を引いて以降は本の例外的な人達しか読んでいない、と云って言いすぎでない。
三島由紀夫や井上靖や野間宏や椎名麟三や阿川弘之で、急ブレーキをかけた感じ。
だが、そろそろこの垣根をはずしてみようかなと思わぬではない。そのキッカケにこの安岡論が推力になってくれるといいが。
2004 12・5 39
* バルセロナの小闇から。お返事、感謝。お元気で。
* 驢馬が旅に出たからとて馬になって帰りはしない。
手っ取り早く夫に聞いてみたところ、言いたいことは想像ついても、諺としては聞き覚えがないと言うので、インターネットで検索してみました。
Si un asno va de viaje, no regresaria hecho caballo.
日本語訳通りのスペイン語が見つかりましたが、「よく遣われている」諺には思えませんでした。
「蛙の子は蛙」のようなニュアンスなのでしょうが、スペインでは(恐らくかなりの西欧諸国でも)「驢馬」は人を小馬鹿にする第一の代名詞ですから、これを言われたら「救いなし」と思った方がよいかもしれません。
驢馬がいくら努力してもいくら経験を積んでも、驢馬はあくまで驢馬であって馬にはなれない。結局は「生まれ」がも
のを言う。それが普通の解釈でしょうか。
驢馬が馬になるためには、旅に出るだけでは足りないんだよ、とか、諺ですから、少しひねって解釈することも裏を見ることもできるのでしょうが、例えば中立的に「自分相応」を主張したいとしたなら、「驢馬」では、蔑みの意味が強すぎて不適当でしょう。
小闇@バルセロナ
* 安岡章太郎氏がこの諺を念頭に『驢馬の学校』を書かれたのは、事実らしい。そこからいろんなことが思い浮かぶが、勝手な推察は控えたい。たしかに山崎省一氏の謂うように、日本という驢馬は早く西欧並みの馬になろうと悪戦苦闘したことはあるだろう。馬になったと胸を張っている人も有るのだろう。西欧人ほど「ろば」への思い入れに実感を欠いている日本人は、なんでもなく、驢馬は驢馬でいいじゃないかというフィロソフィーもわりと簡単にもつでもあろう。スペインでさほどでないこんな物言いにも反応した安岡さんには、また安岡さんならではの哲学ができているのだろうと想う。
「驢馬が旅に出たからとて馬になって帰りはしない。」
ハタとつきあたってくる言葉ではある。わたしはそれを少しも残念がったりしないけれど。
2004 12・8 39
* 昭和八年頃の谷崎潤一郎は、『藝談』という纏まった藝術論のなかで、「様子をかへ、言葉をかへて、同一の境地に沈潜し、同一の思想をなぞってゐるところ」に西行ら古人の藝境の値打ちを見、「私は近頃になって感じるのである.が、何も殊更に異を樹てたり、個性を発揮するばかりが藝術家の能事ではない、古人と自分との相違はほんの僅かでいい、ほんの僅かなところに自分と云ふものが現はれてゐればそれでいい、或ひは又、それが少しも現はれず、古人の偉きな業蹟の中に全然没入してしまふのも悪くはないと思ふのである。」「それでも差支へないではないか。見る方は兎に角、作る方の側になると、一つ所に踏み止まつて繰り返し繰り返し研きをかけると云ふ、そのことに無限の感興を覚える。音楽家にしても『残月』なら『残月』の曲を心ゆくかぎり何度でも弾く。或ひは一生を費して漸くその曲の秘奥を会得する」などと語っている。
それまでだれも触れようとしなかったこういう発言に目を留めて、谷崎の再発見につとめたのが、三十五歳だった若き日のわたしの手柄といえば手柄であった。わたしの文運は、ほんとうは此処から動き出した。だれも「藝談」などときくとそのまま見向かなかったのである。
この中で、「人を楽しませるより先に自ら楽しむのが真の藝術であるとしたなら、」とある、何でもない発言に、今のわたしは心して目を留める。これは忘れられてきた真理であり、しかも無意識に、ことに東洋、ことに現代日本では多くの人達が、似ているか似て非なるかは別にすれば、自己表現しようとしている。たとえば今は小説の読み手より書き手の方が多いなどと揶揄されているが、一つには「自ら楽しむ」道に歩んでいると言えなくもない。
だがわたしは安易にそれを容認しないし、谷崎の云うこととは大きく質的に逸れていると思う。
だが、或る水準を超えたそれなりの製作や創作に関わって云うなら、「人を楽しませるより先に自ら楽しむのが真の藝術」といった本来の観点は、とうに雲散霧消、自ら楽しむどころか、拙速もよし、ただ売れることに腐心し、「真の藝術」などという価値観はあまりに広く地を払ってしまっているなら、やはり情けない気がしてくる。
既成のプロのことは言わない、これから世に出て来る作り手、書き手がこの根本の「楽しみ」を抛擲した俗慾からだけで現れてきては、イヤだなあと嘆くのである。
2004 12・9 39
* 正直の所、処女出版は、と限らず、自作の「本」が出版になるのは、それは嬉しいものであった。建日子はいまとても幸せであるだろう。なんともかとも自分を取りつつむ空気が温かく感じられ、自分の踏む足が、やわらかい地に沈み込んだり宙に浮かぶように感じられる、つまりふわふわと舞い上がる。そういうものだ。わたしの場合処女出版の前に太宰賞受賞や授賞式があって随分ちやほやされたから、やはりあの頃がいちばん嬉しかったのだと思うけれど、以降、百冊にあまるかという市販の出版に恵まれ続けてきて、少なくも六十七十回くらいまでは、同じように嬉しかったものだ。あとはもう慣れてしまった。その上に自分で湖の本を皿に八十数冊も出し続けてきた。出版という行為がわたしの場合半ば肉体化していた。どんな雑誌をあけてもどこかに自分の本の広告が出ているというような時期もあった。
一日の気温を克明にグラフ化してみると、比較的綺麗な釣り鐘型になる、と、昔教室で理科の先生に教わった。確認はしないが、そのグラフが、幻のように眼にある。低いところから徐々に盛り上がり、また徐々に沈下してゆく。人生の事業は、横ばいの一線ということもなければ、右肩上がりに途絶えないなどということもない。むしろ存外多いのが最初の一点のあとが続かないということ。「継続」はやはり大きい力なのである。継続の「自覚」が何よりのエネルギーになる。
建日子のこういう時機だから、恥ずかしがらずにわたしは書いておくが、受賞して、まだ最初の本も出ない、その本が出て幸い佳い書評に沢山恵まれてからでも、わたしを痛いほどとらえていたのは、嬉しさなどもう忘れ果てての、日々「不安」であった。「続く」のか…。書き続けることと、作家であり続けることとには、微妙な違いがある。前者は書いていればいいが、後者はいわば新たに構えた「門戸」の問題だ。本人は門戸のつもりでも、開店休業という門戸が多い世間である。
今日自分は「作家」として何をしたか、例えば手帖に記録出来るような、何事があったか。ただ待っていても、そうそうそれは向こうから来るものでなかった。自分でも作りだして行かねばならない。編集者から作品等について手紙や電話が来る。すると手帖に、某社の某氏来信あり電話ありと書けた。だが何も来ない日がある。と、こっちから電話を掛けたりハガキを書いたり、事を作りだして、それへ自分を乗っけて「作家生活」を向こうへ向こうへ運んで行くのだった。そうして励みを感じた。
そういう必要の全く無くなってしまう日が来るまで、三年ほどかけた。そういう、人が見れば下らないこともして、自分をたえず励ましていないと、いわゆる仲間も持たない交際もしないわたしの気は、作家でいようという気は、ともすれば萎えて行く。
書いてさえいればいいと。しかし作家になってしまうと、書いてだけ居ればいいのでは、決してなかった。あれこれ気を使いながら、勤務との二足わらじを、大事に大事に、あの頃、履いていた。
* もうそれらの全部から身を退いた、というのではない。よけいなことは考えなくて済んでいる、だけ。百冊書いた本を百二十冊にしたいなどと、もう思っていない、だけ。
* わたしの活気や歓びは、我が生彩は、いま、何から得ているか。それは、数え切れないほど多い。
いまも読んでいた二葉亭四迷のエッセイに、「僕は貞婦両夫に見(まみ)えずといふ在来の道徳主義を非とする者で、天下の寡婦(くわふ)は再婚すべしといふ論者であるのだ、事情の許さるゝものは兎も角も、いや、普通の事情位は刎(は)ね退(の)けて、再婚すべしと言ひたいのであるが、」などと読むと、わたしは、ぐっと、嬉しくなる。日露戦争直後で、十数万の寡婦を生んでしまった戦争であったから、それだけでも四迷の言をわたしはよろこぶのであるが、この発言自体が、四迷本来所信であると思うと、ふしぎと励まされるのである。明治の昔に、こんなまっとうなことをズバリと云っている。それが、近代小説の一番バッターとして「浮雲」という綺麗な大ヒットを放った、二葉亭四迷の言だということが嬉しいのである。
2004 12・9 39
* 寒さに竦んではいませんが、わたしは勉強が足りないなと思う毎日です。勉学の道は孤独なものです。 愛知県
* うまく言えないけれど、勉学には、何が勉学したいかの見極めも大事だろうと想います。なにもかもはとてもムリです。
ものを食べたいときに、和・洋・中華などと思案しますし、和にも洋にも中華にも、いろいろあります。それでも、せめて和か洋か中華か程度は決めざるを得ない。その上で、或る程度集中した一つの領域に、「得意」になってしまうことも大事です。
京都には貴賤都鄙が集約されています。差別のきつい街です。わたしは人間の心に身に巣くっている差別心に関心を持ち、「人間差別」と「藝能差別」に絞って、そこから「民俗学」の成果を貪り読んでいったものです。わたしの小説が、ずうっとその問題を追ってきたことは、久しい読者のあなたにはすぐ読み取れる事実です。
「京都」というわたしにすれば「地の利」を生かすのが、最もリアリティーのある道筋でしたから、わたしはその誘われ道へ邁進して、それ以外へわざわざはみ出て行かなかった。そこで「深く」なる方が良い、と。
勉学が孤独なのはその通りです。殊に文学の創作は、誰かと共に学べるようなことではないからです。月謝を払って教室で学べることは、知識や技術ではあるが、そこから自動的に智慧は湧いてこない。実感で体験し感得し会得するしかない。
わたしは、ある種の「道徳」に追随して一見求道的な人たちよりも、「人間」の表裏や明暗や喜怒哀楽の多彩・生彩を認識し把握し表現する人こそ、「藝術家」だと信じています。お安い「道徳家」には殊に警戒します。それは「人と社会」を鋳型に嵌めたい「お節介な偽善」に近いからです。
最近の話ですが。七十のおじいさんが、心から十七歳の少女が「好き」になってしまった。少女の方が忌避したのは自然なことですが、その老人を、すぐさまマスコミが寄ってたかってワルモノにすることに、わたしは反対です。むしろ、その老人の、「好きで堪らなくなった」真情に素直に驚いて一度は受け入れ、それが素晴らしく尊いことか、とっても愚劣なことか、少なくもそこに「認識と批評や共感の姿勢」を誰もが柔らかく持てる世の中でこそありたいと思う。
これは、飽くまでその一例に限定して言うことです、一般論ではありません。
そのような考えでわたしは居ますから、道徳的な語句を新聞雑誌などに書き散らして「聖者」のように扱われている人間などを、わたしは根で信頼しないし尊敬しないのです。そういう人達によって、人間社会はついついこぢんまりと金縛りにされて行き、人間の可能性の生彩は奪い去られるのです。それを喜ぶのは、人を支配することで儲けて行くし政治家や企業家や宗教人や教育者だけ、という結末へ押し流されるのです。
三十すぎたあなたの年齢での「勉学」は、知識の蒐集だけでは、もうダメです。生き生きした「自由な人間」でなければ、勉学も身に付かない。努力も空回りします。まず自分自身を批評しぬくことから始まるのが、大人の勉学です。便宜に型にはまろうとする勉学は、むしろ大毒です。孤独に耐えねばならないのは「自由な人間」の運命です。
2004 12・11 39
*「母親の愛は子どもにとって世界の中心」であろうか。そのようにメールで言ってきた、もう大きな子供もある主婦がある。
母が自分をこう育てた、こう躾けた、それは今も破れないと頑張っている人だが、その中には聞いてビックリ仰天の迷信そのものが往々混じる。歩いたり階段を上り下りすると脚を痛めるからと、タクシーを当たり前のように使うという。普通の家庭的な常備薬ふうのものも、一度母親が拒絶したものは自分も手を出さないという。自然それは自分の「ちっちゃい子」への育児や躾にもストレートに反映しているかと思うと、怖い気がする。知識も教育も豊富にもち又受けていて、こういうことを言う。
「母親の愛は子どもにとって世界の中心」というのは、何かしら「盲信」「思い込み」「言い訳」にわたしには聞こえる。
本当にわが子を知性と愛情ゆたかに育てている母親は、いつまでも自分の子が自分の子のままでいるとは思わず、いては困るとさえ思い、世の中へ、他人の世間へ、気遣いつつも自由に羽ばたかせている。
子が親を心から愛することと、子が親の生き方の全部を無批判に真似たり盲信したりすることとは、似ても似つかない全くの別ごと。むしろ母親をでも父親をでも、愛しつつ憎みつつ、そのアンビバレントの中で子は成長し、自立し、偉くなって行く。少なくも自分の「世界の中心」は自分の価値観で新たに築き、そこで事業や人間関係や創作や人生を産み出して行く。世界の中心に、いつまでも母親や父親の愛がどっかと居座っていたら、子供はとうてい親以上に大きくなれない。だから、子はもがくようにして親の手から飛立とうとする。
この人のように、母親の生き方を、迷信や盲信に至るまで金科玉条のように踏襲し信奉して自立できない子供というのは、実は、その母親からみても情けない歯がゆい我が子であるやも知れない。さもなければ、親はわが子を私有して放さないだけの、人生の大障碍になってしまう。そういう親もいるし、そういうのに甘えて縋り付いている子も、いっぱい世の中にいることはいるのだけれど。
わたしは、母を、二人知っている。しかし母からも、むろん父からも、本当の意味で自由になりたいと想い、しかしそれは究極彼等への愛と信頼を裏切るものではなかったように思っている。それがわが「文学」になっている。
父も母も、わたしが思う存分に生きたことを、離れて暮らしていた寂びしさは寂しさとしても、喜んでくれていた。わたしを拘束は出来なかったし、拘束される気がわたしには少しも無かった。わたしは子である前にわたしであった。
この人の陥っている「不自由」「未熟」「頑固」はわたしには痛ましいし不幸なことだと感じる、失礼ながら。反論があるかも知れない、他の方からも。だが、結局はこの人のこれは甘えであり世の中へ真向かうのが怖いのであり、母の袖の下から自立して出て歩けないということにならないか。それでいて、奔放に渦巻こうとする内奥のマグマも秘めていることだろう。それが不発になっているのは、不自然な抑制が働いていて、その抑制の力に従うことを、内心「お利口」と思っているらしい。この人に子供があるという現実の故に、わたしはこの人のこういう「母親観」に賛成したくない。
言い過ぎかも知れないけれど。
2004 12・11 39
* 母と娘との関わりについて、また一つの発言が届き、わたしの文学にも及んでいる。
* 娘と母との問題はさほど大袈裟なものにはなりませんし、かといって簡単に自由になれるという性質のものでもなく、ただ「背負っていくもの」だと思っています。母から生涯逃れられなかった藝術家もたくさんいますが、どんな家庭でも、母ほど現実で、世間で、道徳で、真実で、救いがたく、愛ある存在はないのです。どう転んでも異様で異常などという驚愕する事態になりようがありません。それが母と娘とのごく一般的な関係なのです。環境として、秦さんには未知の世界というだけでは。それに、母と息子と、母と娘との関係は、根本的にちがうものです。
もしわたくしが秦恒平文学の研究者であれば「秦恒平の文学世界における母の欠落」をテーマにして長大な論文が書けるでしょう。江藤淳の『成熟と喪失』に対抗して打って出るようなものを是非誰かに書いてほしいものです。
秦恒平の「身内」観は母の存在の欠落がなければ生まれなかったと思うのです。とてもいいテーマです。
秦恒平は生まれた環境において母が不在で、そして結婚という新しい環境においても妻を母にはしなかった。母の不在から、母の役目を担う人間を徹して排除拒絶することによって、空前絶後の孤独、孤愁、悲哀の文学世界が完成された。着眼点として悪くないと、自画自賛しておきます。お笑いください。 東京都
* 人には親があり、親には父と母ないしその亜型しかいないのだから、だれしもが親を、父母を身に承け身に負って生きて行く。あたりまえのこと。この人が、例えば私の場合「母の欠落」という、「欠落」とはどういう意味で用いられた言葉なのか、もう少し知りたい。
わたしがふと自身の廻りを見回せた年頃、わたしのいた山城当尾の祖父母の家には、父も母も、姿がなかった。それ以後わたしは、実父母と一つ屋根の下に暮らした経験を、一日としてもたない。ともに実は生別であったが、「非在」であったことはその通りで、それが「欠落」と謂う意味なら、事実である。
やがて数歳にして秦の家に移されたとき、そこには父であり母である「という」人が実在し、数歳の私には、それが「養」父母であるというような分別は出来なかった。おいおいに知らされた、近所の子供たちの口や、大人同士の囁きを通して。これが「欠落」の証明であるのだろうか。ただの「事実」に過ぎない気がする。
人は、事実だけで人生の空気を呼吸したりしない。独特の観念や理念や構想をもち育みながら創り上げて行くのが人生であり、ことに藝術家はそうである。
人は生まれた瞬間に、広大な海の上に我一人でしか立てない「島」に立たされるというわたしに固有の認識は、このメールの人の云う意味の「欠落」など、人間全般に普遍妥当しているという認識であった。親といえども、島と島とを隔てあっているレキとした「他人」に過ぎぬいう認識から、「身内」という思想をわたしは育んだ。「欠落」がなければわたしの「身内」思想は生まれなかったという、この人の指摘は当たっている「かも」知れない、だが、そういう簡単な筋道だろうかなと苦笑されもする。
* 生まれ落ちて生母を「欠落」同様に喪っていたのは、光源氏であった。その母「桐壺」に生き写の、父帝の新たな愛妃「藤壺」を、理想の女と愛慕し、ついに闇の子を産ましめたのも、光源氏であった。その藤壺と人生を共には出来ぬと断念したときに、たまたま藤壺の面差しに似た美しい姪「若紫」と出逢い、生涯最愛の妻としたのも、光源氏であった。彼には多数の女性が関わり合っていたけれど、紫上の絶対地位は終生揺がなかった。
わたしは、源氏物語に出逢う以前から、生みの母だけでなく実の父も共に完全に見失っていたが、光源氏とは違い、そういう父母を、恋しいとは、思いも寄らなかった。それほど養父母に親しんでいたかというと、それも無かった。頼んではいたが「ちがう親」だと思っていた。太郎冠者のように謂うなら、秦の親たちは「頼うだお方」であり、他方、実父母には用がなかった。無用の人達であった。その意味では「欠落」どころでなく、「排除」「拒絶」の「非在」であった。
実の親が身近にいない事実を、わたしは一度も泣かなかったような子であった。光源氏よりもその点甚だドライだった。自由な想像力で、「親」なるものは好きに創り出せると思い、かえってその境涯が愉快であった。しいて云えば、源氏物語もまだ知らないでいて、わたしは一日も早く「藤壺」に出逢いたかった。「若紫」を知りたかった。まして父親のことなど考えたくもなかったし、念頭に現れる実の父は、少年のわたしには厭悪の対象でしかなかった。秦家に頼もしい父がある以上、わたしを顧みなかった実の父親など、無用だった。わたしは、その頃から、「男は嫌い」だった。
父のことはだから云う必要もない。母について云えば、生みの母など要らないとますます思わせる事態は、新制中学の時に起きていた。
いかなる肉親よりも絶対に親しいと思える人、わたしがわたし流儀に「身内」と思い切れる人に出逢っていた。一学年年上の人であった。ちょうどわたしが与謝野晶子の源氏物語を耽読していたさなかに、その「藤壺」のような人に学校の中でわたしは出逢ったのだ、だが、出逢って半年後、その人はもう卒業し、卒業と同時にどこかわたしの手の届かない知らぬところへ去っていた。
わたしは、「姉」と思い「母」のように慕った此の年上の人の遺していった、漱石『こころ』の耽読とともに、自分の「身内」観をほぼ確実に仕上げた。次に出逢うべきは「妻」であった。
妻とは大学で出逢った。もし生母が「欠落」していたたにせよ、カッコ付きの理想の「母」なるものは、二人の現実の女性のリレーで、正確に、わたしに於いて満たされた。生身の生母はわたしには全く無用であったけれど、「母」なるものは満たされて、少しの悔いもない。現実の母ではなく、「母」なるものの重みが静かに胸に落ちたのである。
* 源氏物語にあれほど打ち込んだ谷崎潤一郎は、また、「母もの」作家といわれた。だが彼が現実に存生の母「関」を書いた筆致と、たとえば少将滋幹の母など「母」なるものを書いた筆致とは、砂と露ほど異なっている。谷崎はじつに巧緻に実母を利用し理念の「母」への愛に至った分別に富んだ「母もの」作家でもあった。構想された「母」もの作家でこそあれ、センチメンタルに生母の愛に飢えていた人ではなかった。泉鏡花がまたそうであった。鏡花はよりわたしに近い感じ方をしていた。ご丁寧に鏡花の妻は生母と名前も同じであった。
メールの人が、終生母親から逃れられなかった藝術家は数多い、と書いているが、鴎外でも漱石でも直哉でも太宰でも、みな絶妙の「距離」を勘定して、決して「逃れられない」ハメには立っていない。譬えに引くのには乱暴すぎるが、佳い意味で「母親はもっつたいないがだましよい」を実演していた。
息子と母親と、娘と母親と、は、ちがうと書いてあるが、普通の意味では息子と母親とは親しみ深く、娘と母親には深層の葛藤が凄いと云うではないか。わたしは、数多くはないが身近にもそういう例を知らないではない。徳田秋声の『あらくれ』であったか、母と娘との葛藤は凄惨なほどで、それがまた名作のリアリティーを確保していた。
どちらかというと、母と娘とがべたべたという様子は、うるわしいよりも、少し気味わるいものが在りはしないだろうか、ま、それには拘るまい、息子と母親とのべたべたなど、さらに気持ち悪いという面もある。
* で、母の「欠落」が私の文学を成している必然性、という、この人の提示のテーマであるが、これについては、私自身が云々することはない。このメールの人の問題提起に感謝するに止めたい。
私にかんする研究書には、原善君の本が一冊あるが、この人は「幻想」にいつも力点を置いた。それにも「非在の母(父)」を考察する視野は有った、けれど、やはり幻想論ではあった。「身内」観に関わって私の人間観に触れるというモノではなかった。
なるほど、このメールの人の指摘は、ちょうど原君の論の「欠落」を、適切に指摘したものと言えるのかも知れぬ。
2004 12・12 39
* いまどき、巌頭之感を大樹に墨書して華厳の滝壺に身を投じた、弱冠十八、第一高等学校生徒藤村操を語ってみても、知る人も少なし、かりに知る人もバカにしてかかるだろう。
だが日本の多くの自殺の中で、藤村操の場合ほど一つの「時代」を画した歴史的意義の大きかった自殺はなく、芥川も太宰も三島も川端もその前には顔色がないのである。敢えて藤村の辞世の遺書、ならびに同時代人の反響の声々は、優に明治にわき起こった「主権在民史料」の一つであることに恥じないと云いたい。これを読んでどうか近代現代は「世界の中心」に何を据えようとしたかを再考したい。
* 藤村 操 ふじむら みさお 第一高等学校生徒 1885 – 1903.5 明治三十六年、十八歳、日光華厳の瀧壺に投身自殺。 掲載作は、傍らの樹木を白く削って書き記した遺書であり、追随の多きをおそれた官憲はこれを削除。日清戦争後・日露戦争前の大日本帝国が、列強をおそれつつ半島大陸に権益を求めて奔命のさなか、此の一青年の自死ほど時代の空気を震撼した例は古今未曾有といわれる。辞世本文とともに、同時代の声を添えて一つの天皇制絶対専制「明治」国家への反措定と捉えおく。
巌頭之感
悠々たる哉(かな)天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此(この)大をはからんとす。ホレーショの哲学竟(つひ)に何等(なんら)のオーソリテーを価するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉(つく)す、曰く「不可解」。我この恨(うらみ)を懐(いだい)て煩悶終(つひ)に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを
「藤村君とは深い交りの歴史はない。然しあの巌頭の感はいかばかり僕の心をうつたであらう。僕の過ぎし日の苦痛は藤村君の外に知りうるものはなく、藤村君の死んだ心は僕の外に察しうるものはないといふ様な感がした。又藤村君は至誠真摯であつたから死に、僕は真面目が足りなかつたから自殺し得なんだのだと思つた。こまかい事はわからぬが、僕は藤村君の煩悶と僕の煩悶とは甚だ似てゐたものだと思ふ心は今もかはらない。羨しき藤村君の死は僕をして慟哭せしめ悶絶せしめた。僕は生れて以来藤村君の死ほど悲痛を感じたことはない。僕は死を求めて得ざるに身を倒して泣いた。かゝる思は数日つゞいた。僕の心は暴風のふきまいた後の様な感じであつた。」 (藤村友人の魚住影雄『折蘆遺稿』より。また魚住は斯く『弔辞』も書いて友の死を哀惜した。「悲惨の事伝りて満都の同情を動し遠近の涙を促ししもの真に故あり、道路相伝へて君が辞世の感慨を暗誦しぬ。君をして時代の煩悶を代表せしめし明治の日本は、思想の過渡期に当りて実に高貴なる犠牲を求めぬ。」)
「我国に哲学者なし、この少年に於て始めて哲学者を見る。いな、哲学者なきにあらず、哲学のために抵死(ていし)する者なきなり。」 (萬朝報社主黒岩涙香「少年哲学者を弔す」より)
「その頃は憂国の志士を以て任ずる書生が、乃公(だいこう=自分)出でずんば創生(=民衆)をいかんせん、といつったやうな、慷慨悲憤の時代の後をうけて、人生とは何ぞや、我は何処(いづこ)より来りて何処へ行く、といふやうなことを問題とする内観的煩悶時代であつた。立身出世、功名富貴が如き言葉は男子として口にするを恥じ、永遠の生命をつかみ人生の根本義に徹するためには死も厭はずといふ時代であつた。
当時私は阿部次郎、安倍能成、藤原正(たゞし)三君の如き畏友と往来して、常に人生問題になやんでゐたところから、他の者から自殺でもしかねまじく思はれてゐた。事実藤村君は先駆者としてその華厳の最後は我々憬れの目標であつた。巌頭之感は今でも忘れないが当時これを読んで涕泣したこと幾度であつたか知れない。」 (藤村友人で岩波書店創業者岩波茂雄の回想による。岩波は「死以外に安住の世界がないことを知りながら自殺しないのは、勇気が足りないからである」とまで煩悶したことも書いている。)
「憂鬱の日がつゞいた。それから大学を出る頃まで、われわれのクラスは自殺者を三人出した。」 (藤村と同級であった文学者野上豊一郎の回想による。)
「さながら見知らぬ曠野の中におのれを見いだした人のやうに、怪しき不安が私のうちにきざした。何か深刻な欠乏を私は意識しはじめたのである。しかしながらそれが何であるかは私自身にわからなかつた。たゞ私はさびしくあつた。
何としもなきさびしさが日々の私のうちにつのつた。目にふれ事にふれるものみながさびしく感じられた。美しい秋の日の光がさびしかつた。軒にひびく豆腐屋のラッパ、野路にほゝゑむ野花の色、一つとして私にさびしからぬはなかつた。
不安は要求を意味する。アウガスチンのいつたとほり、人のたましひはある処に憩ふまでは平安を得ないのである。」 (藤村の死んだ同年に一高に入学した藤井武の感慨。『藤井武全集』より)
そして藤村自死後一年、再び学友魚住折蘆は、「一高校友会雑誌」に「自殺論」を寄せ、或る意味で画期的な、彼覚了の「前に君国何かあらん、親と兄弟と朋友と何かあらん」の言句を吐き、国是国策である「君」でも「家」でもない、「自我」こそが世界の中心と言い切った。「明治」絶対専制国家へ放ついわば「自我」からの対決の宣明、新時代への変化の宣言であった。
「至誠の結論は天地の空白虚無を観じて自らこの世界を去つて一切と交渉を断つに至らしむ。この覚了なる、その前に君国何かあらん、親と兄弟と朋友と何かあらん。我れあに父母に乞ひて生れ来らんや、君国に誓ひて生れ来らんや。君国の恩は我等が無垢の児心に小学校教員が刻み込みたる迷信にあらずや。この迷信を脱却して自我本然(ほんねん)の純なる中心の声を聞かんがために要せし苦心はそも幾何(いくばく)なりけん。誰かなほ君父の空名を傭ひ来つて死の一念をひるがへさしめんとするや、人の尊厳はその自由にして外物の支配を受けざるにありと悟らずや。」
* 明治日本はかつて歴史上に実在したことのない神国日本の観念を絶対専制の手段で国民に浸透させてきた。天皇はまさに君父であり国民は赤子であるという擬似家庭観により、「国」と「家」との入れ子型の連繋を強化しようと躍起であった。まさに世界の中心に「君父(母)」を据えて揺るぎない社会と信仰と教育を実現しようとしていた。そのような最中での藤村操の自死は、まるで異なる価値としての「自我」そして「生死」を一気に沸騰させた。国是とは真っ向からのこれはインテリジェンス、人間の尊厳からする対決姿勢であった。
決して死にはしなかった例えばあの羽仁もと子など、この「自我」を世界の中心に置いて、あえて他のいかなる抱き柱をもきれいに排した近代女性であった。彼女の中で、大人達への敬愛はあるが、かりにも母親が何時までも世界の中心に君臨して子を導くなどということはあり得ようがなかった。
* わたしはこの次には北村透谷の「精神の自由」を、そして田中正造が足尾鉱毒事件に挺身して、明治天皇に直訴に奔った直訴文を「ペン電子文藝館」に取り上げようとしている。
2004 12・12 39
* さきほど、「闇に言い置く」を拝読し、「秦恒平の文学世界における母の欠落」という東京都の方のメール拝読し、思わずキーボードに向かいました。「欠落」という言葉の思いやりのなさ、想像力の欠如、それで「着眼点として悪くない」とおっしゃる方のご意見には、それこそ何かが欠落しているように思えてなりません。秦作品のすべてに精通しているわけでもありませんので、こんなことを申し上げる資格もないのですけど。
私のまわりにも小説家をめざしている人が3名ほどいます。3人とも、病気や離婚などの事情で実の母親と過ごす時間が少なかった人たちばかりです。
そうした人たちの書いたものにも「母の欠落」があるのでしょうか。そうだとしたら、それは作家の生い立ちをたまたま知ったから言えることはないでしょうか。小説自体を文芸論として分析なさった上で「欠落」だと指摘されるのはいいが、そうでない場合は余りに短絡的で安直なご意見だと思いました。
私の子供たち3人も夫が病死してから実の父親とは接していません。父親に代わるひとが愛情を注いでくれています。これも人生上の「父の欠落」でしょうか? 名古屋市
* 物事の「在」と「非在」は境界が定かでない。あれど無きに似、無しと見えてあるが如き「境涯」がある。生別や死別にかかわりなく現実の母や父を知らない人が、父や母に四六時中接している人以上に「父」なるもの「母」なるものと親密に生きている・生きてきたという事例は、おそらく藝術家にはことに多いように思われる。思念の親は現実には非在でも、かなり濃厚に実在感・存在感をもっていて、その度合いが私の場合など過ぎてしまい、現実の親たちをかなり粗末にしてしまったかも知れぬ。
それにしても、それだから私に独特と謂えるかも知れぬ「身内」観が育ったのだろうという、今朝の人のメールの指摘は当たっているかも知れない。具体的な「文藝論」「作品論」がその批評から立ち上がるのを待望しましょう。
たしかに「欠落」というと単純な「有と無」の次元に決めつけられ、展開する前途が見えなくなる。「非在」ではあったろうと思う。但し繰り返して言えば、物事の在と非在は境界が定かでない。あれど無きに似、無しと見えてあるが如き境涯があるからである。
2004 12・12 39
* ある京都女性の書き手から、同人雑誌が二冊送られてきて、いわば邪馬台国時期の、卑弥呼時期の小説が二編。
よくものを識っている。ただ、わたしには書けない、こうは書く気のない小説のスタイルだった。
つまり遥かに時代は溯っているが、時代小説ふうである。横光利一に「日輪」などがある、最近では三田誠広氏もこの手の味わい薄い読み物をおもしろく多産している。
私も歴史が好きで、少年来読み重ね、また創作にも何度も取り込んできたけれど、取り込み方にはかなり気をつけ、できるだけ、読んだ知識をストレートに書き込むんで構成するのは、避けた。「清経入水」でも「秘色」でも「みごもりの湖」でも「初恋」でも、その他数々、大体において、現代の語り手と交錯しながら、昔と今の物語を創り出してきた。そこのところが、この人とは方法的によほど違っていた。
そのままの古代ないし太古物語、神話物語にして行くときに、ともすると、知識に入ったものの按排や叙述に力点がかかりすぎ、創作の秘儀と叙述(文字やことばや)とのあわいに「薄い隙間」が出来、熱心に書かれるわりに何か遠いところで行われている不思議な演戯を覗き込んでいる感じになりがち、と、想ってきた。
リアリティーに感動する前に、なにかの答案を、報告を、読んでいる感じになる。
もの珍らかな字句や名辞や事柄がたくさん羅列された文章をよく読んでみると、意外と「平凡な日本語・日本文」が読み取れるばかりで、気が抜けてしまう体験もよくしてきた。
長年にわたり多くを原典や研究書等で読んでいると、作品のあれこれの場面や記述が、ああ何々を元にしたな、あれこれを使っているなと、分かることも多くなり、それが場面場面に唯単に「それだけのこと」として使われていると、やはり気が薄まり、興が削げると云うことも感じてきた。
この人のが即さようとも云われないが、ややそれに近い憾みももたなかったではない。
2004 12・13 39
* 藤村操のこと。 闇サイトはしばらく覗かないと、膨大な記事量になりますね。そのエネルギーに圧倒されつつも、いつも楽しみに読ませていただいています。
スクロールして読んでいますと、藤村操のことが書かれていました。わたしは戦後生まれですが、叔母の本棚にあった雑誌キングの付録の明治・大正・昭和絵巻(たぶん、そういうタイトルでした)を子どもの頃、絵本のように眺めていて、そのなかに、華厳の滝にまさに身を躍らせた瞬間の書生姿の藤村操の色刷りの絵があって、強く印象に残っていました。
何度も眺めていたときは、何を考えた、感じたというのではありませんが、その背景をお教えいただいて、ああ、そういう時代だったのかと思いました。
最近のネット自殺(心中?)の多発に、どのようなご意見をお持ちですか。
わたし自身は若い頃は、長く生きていれば、もっと何か納得して死ねるようになるのではないかと思っていましたが、何十年生きてきて、何もわからない、少しも賢くなれないことに呆然としています。
抱き柱を否定なさっておられます。けれども、抱き柱をほしいと切実に思います。
六波羅蜜寺の空也上人の像をたびたび思い浮かべます。口からあぶくのように念仏(=六字名号)を吐き出していらっしゃる表情を。土ぼこりの染み付いた逞しい足を。
あかつき、寝覚めして。 大阪・まつお
* 藤村操の華厳瀧自死に話題が行き、たいていの人の口から「バカみたい」という反応のあることに気付いていた。日本人が「哲学学」という知識の虜ではなく、真実「哲学する」ことに渾身の思いをこめはじめた頃、日本の近代は富国強兵に奔命していた。知識人は、もう福沢諭吉等のようには生きることが出来ず、「浮雲」の主人公のように、「舞姫」の主人公のように、薄氷を踏んでかつがつ権力に奉公しつつ生きていた。己れは何ぞ、何故に生まれ、何処へ逝くぞと煩悶し、「君国何かあらん、家門父兄何かあらん」と思い至り、行き詰まっていた。その切実は藤村操ひとりのものでなかったことが、わたしの「ペン電子文藝館」に送りこんだ僅かな証言からも察しられよう。
わたしは彼の自死を、いわば「主権在民」自覚の甚だ純粋な、純粋すぎたほどの先蹤とみて特別室に適すると考えた。
「ネット自殺心中」の多発をわたしは、中世に多く起きた「補陀落入水死」等の一種と考えている。「生きること」よりもより頼もしいと、「死ぬること」に抱きついた、無信仰に似た新しい信仰の発露であろうと。このメールの人ほどの優れた知性でも、それなるが故に真率に「抱き柱をほしい」と願われる。
昔は、また今でも、通常は抱き柱として、信仰したい神仏や浄土や極楽を頼んだが、現代の常識と情報は、世界の世相は、大方それらを無効ととして粉砕している。「ネット自殺」の人達には、神も仏もない、もっと空気のような、酸素の不足した稀薄な空気に似た「抱き柱」を思い浮かべたのであろう、それはヴァーチャルな人肌のぬくみに向かう幻覚信仰であったかも知れない。携帯電話やメールの氾濫はそれを指さし教えている。
「あかつき、寝覚めして」。 それはただアイサツの言葉ではない。
暁静かに寝覚めして 思へば涙ぞ抑へ敢へぬ
はかなく此の世を過ぐしては いつかは浄土へ参るべき
梁塵秘抄の法文歌がたちどころに蘇り、しかし、なかなか現代は「浄土」をして確かな抱き柱よとは保証しない。「ネット心中」した人達には、そういう「浄土」はそれこそ欠落して、むしろ来世「身内」の家族の新生が願われていたかも知れない、いやもっと淡泊に、徹した消滅こそ安楽という期待があっただけかも知れない。
2004 12・15 39
* 色川大吉さんにお許し戴いて『自由民権請願の波』の章をスキャンし、校正氏ながら起稿している。北村透谷の論文もスキャン追加した。一月前に親切が理事会承認された「主権在民史料」特別室に、もうつぎつぎ史料が入り始めている。
こういう事業は電光石火に進める以外、軌道に乗らない。「ペン電子文藝館」を開いてまる三年一ヶ月、これだけの莫大な仕事が可能になったのも、理論や技術は知らないが、電子メディアのメリットだけは直感的に分かっていたからだ。
三年に、「ペン電子文藝館」だけでいうと数十万円しかつかっていない。もしこれだけのコンテンツを紙の本にしていたら数千万円を費消して、むろん殆ど回収不能であるはず。「ペン電子文藝館」はウソ偽りのない「無料公開」が出来ている。インターネットの凄いような強みである。日中文化交流協会年会費の受領証が届いて、理事さんの「電子文藝館」いいですねと添え書きがあった。
* 栃木からたくさんな美しい苺が、川崎の下の妹からワインが二本、贈られてきた。あす、嬉しい客があり、その時に、と。
京都国立博物館の館長から『古写経』という大冊を頂戴した。わたしは古筆の書が大好き、古写経にははかりしれぬ夢を誘われる。わたしの『みごもりの湖』の筆が動き出したのは、京都博物館で石村石楯(いわれのいわたて)の名のある写経をみて息をのんだ、あの瞬間であった。石楯こそは近江湖上に美少女東子の父である恵美押勝を追いつめて斬った当人であった。美しい写経に眼くらむ思いのまま、興奮を静めてわたしは長い小説のはるかな前途を夢見ていた。夏の休暇か出張中の寸暇であったか。国立京都博物館は、限りなく懐かしい想像の惹きだし口であった。興膳宏館長に感謝申し上げる。
* 書も、画も、人も、ほんとうに美しい物は少しも軽薄でない。人をあつかましく挑発しないで、静かに優しく魅する。いつまでも魅する。ときに魅惑はセクシイなほどつよい。
2004 12・16 39
* 秦の叔母は人生の大半を職業的に茶の湯と生け花とにかかわって、そのまま逝った人だ。小学校を出た他は裁縫などの技藝学校程度で、本を読む姿など長い間に一度もみた覚えがない、甚だ索漠とした終生未婚の生活者であった。したたかな内弁慶であったにしても、外では徹して如才がなかったのは、女ひとりで生き抜くに必要だったのだ。なにしろ京都であり、茶も花も女の世間だ。勝たないまでも負け始めたらおしまいだった。
そんな叔母の、性格からにじみ出た批評語とは思いにくいのだが、光る一語を、わたしに遺してくれている。意図して遺したのではない、わたしが耳に留めていた。
「お静かに」とは昔人の普通のアイサツであり、その延長と思えばなんでもないのだけれど、叔母は、「さわがしい」のはいけないと、時々言った。床の花をみても、掛け物とのうつりを見ても、人の批評でも、ものごとの批評にでも、再々ではないが、時にぴしり、「さわがしい」と言った。叔母のいつ知れず身につけた美学であったろう、たいした批評語である。
優れていいものは、烈しく動いていても魅力の質に於いてきちっと「静か」で「はんなり」する。そうでないものは、言葉や態度はいくら美しげに飾っていても、仰々しいものは、隠しようもなく「さわがしい」。
褒めるのも貶すのも、静かに「はんなり」と、どこか「さわがしい」とで、おおかた足る。叔母の手厳しい遺産である。
2004 12・17 39
* 十和田操「判任官の子」を起稿し校正したが、ま、こう異色で、孤立して、面白く懐かしい作柄の作は、繰り返し云うが、珍しい。一読魅せられ惹き入れられ、「文学」の懐深さに自から思い至る秀作だ。昭和十一年(1936)同人誌「文學生活」七月号に初出、第四回芥川賞の候補作である。いま、遺族に電話で掲載承認を許して戴いた。
2004 12・18 39
* 色川大吉さんの『自由民権請願の波』は、正しくは「国会開設請願」であるが、それを云うなら「立憲政体請願」でもあり、だから「自由民権」と、当時の政治運動の称を借用した。
現在の我々は「民主主義」憲法をもっているが、明治憲法は立憲君主政体をとなえ、従って民主主義とは謂えなかった。だが憲法解釈の正当な議論として「民本主義」は云い得たのである。明快にそう説いたのは、吉野作造であった。
自由民権運動は、天皇制否定など考えに殆ど入れていなかった、つまり「民主主義」への運動ではなかった。だが、たとえ欽定憲法であれ、憲法に基づく「政治・政策の目的」は「国民」であり、「国民の」権利・福祉と安全のために憲法は機能するのだから、「民本主義」は当然で至当との議論は、説得力を持った。成り立った。自由民権運動とはこのいわば「民本主義」運動なのであった。それが大正・昭和・敗戦を経て、やっと「主権在民の新憲法」へ受け継がれ、初めて「民主主義」になれた。その価値の重さ・大切さを忘れたくない。
「請願の波」を読んでいると、やはり、今日のインテリたちの政治発言や声明や講演やシンポジウムの類が、いかに民衆の動力とは乖離し遊離した、ただの売名的平和ボケであるかが、イヤでも分かってくる。切実感がてんでうすく、例えば「憲法九条」の凄いほどの重さや価値高さや大切さ、それを喪失してしまう大変さの実感が、まだお偉い顔ぶれ達の間でさえ成っていない、のである。
あれほどのエネルギーが諸国に結集されてもなお、日本の権力は「私の民」の願望など踏み蹴散らして、ついに太平洋戦争の敗戦にまで強引にひきずっていった。いまもなお似たハメに我々は引きずり込まれようとしているのに、相も変わらぬ「人寄せパンダ」の人気講演会など幾ら開いてみても、焼け石に水に近い。会場は熱気でムンムンしていたなどと謂っても、会場を出たとたんに、帰りに何処で何を食べていこうか、飲んでいこうか程度で褪めて行くこと、つまりはカルチュアセンターなみ、わたしの理事会なみなのである。結束と継続と日常活動の伴わない運動が成功したタメシは、歴史に徴して、絶無なのである。
2004 12・19 39
* わたしのよく謂う「身内」とは、「恋人」という意味か、と問うてくる人もある。
これはまるでちがう。ふつう、恋の対象は異性であるが、「身内」は性別を問うたりしない。年齢の高下も血縁も全く問わない。その意味で、死んで生まれかわってからも、一緒にいたい暮らしたい最良の「友人」と謂うにちかいだろう。そしてわたしの本当に望むのは、恋人なんかよりも、「身内」である。
「生まれ」て、我が二つの足がやっと載るだけの小さい島に立たされる、孤独に孤立して。その孤立の島を、貴重な錯覚からとはいえ、共有し、共に立っているとありあり思い合える、それが「身内」で。
親子だから夫婦だから兄弟だから親類だから「身内」であるなどとは、わたしは考えて来なかった、それらは一応尽く「他人」なのである。「自分」でない人はみな、ともあれ本来が「他人」同士である。そして他人達の中から、終生の「身内」を見つけ出さねばならない、生きている間に。なぜなら、死んでからは、その身内たちと一つに暮らすと思うことにしているからだ。「恋人」が「身内」とも成るのは望ましかろうが、恋人なら即ち身内である、とは言えない。
* 恋人同士というのは、一種の闘い相手でもある。なにかしら闘い合い、動物的でもあり本能的でもあり、愛憎の表裏した間柄である。いわば相手と「島」を共有することより、相手の「島」を奪おうとしかねない。
「身内」は性的関係ではないが、性的関係を(事実の有無に関係なく)欠いた恋も恋人もありえないだろう。恋人が異性であるのはほぼ当たり前の話なのである。
恋人だから「身内」だとは、簡単にはとても言えない。「身内」になど成れない・成りたくもない恋人はいるだろう、それは想像できる。
AとBとは自分の「身内」だと思えるなら、究極、AとBもまた身内である。その可能性がある。だからあの世の「家」ではみな一緒に暮らせる。
たんに恋人とは、こうは行かないだろう。わたしに、もしもAとBの恋人がいたとして、AとBとがわたしの「島」に相乗りで共有出来る、あの世でも仲良く暮らせるワケは、たぶん、全く「ない」だろう。身内と恋人とは内奥の質において、似てすらいない。
2004 12・19 39
* 民本主義を明快にとなえて時世を揺るがした吉野作造にも、限界があった。かれは民衆が政権の座に着くことはよしとせず、「よき指導層」の政権を、「民衆」は監視出来るし監視すべきだという、吉野はそういう「立憲民本主義」者であった。これに対し山川均らは、政治の主導権を民衆が、国民が持たない「建前の民本主義」の脆弱さを批判し、やはり「民主主義」「主権在民」でなければならないと説いてやまなかった。よく覚えていたい。
2004 12・20 39
* 六十八歳の、今日は、名残の一日。いよいよ明日で「六九郎」となる。東工大教授から退いた六十代をわたしは、はっきり言って、遊んだ。遊ぶことで、生死の観に揺られつつ、背負っていた荷の一つ一つをいわば「無意義」に返してきた。「日本ペン理事」の仕事も、「京都美術文化賞選者」の仕事も、「湖の本刊行」も、「ペン電子文藝館充実」も。「無意義」にとは、「いいかげんに」の意味ではない。頼むべくは「抱き柱」にしないできた、しがみつかず、こだわりなく、それらを「楽しんで」「遊んで」きた。怠けていると陰に陽に叱られていたろうが、そんな声に煩わされることもなかった。
その六十代も、一年しか残っていない。ハハハと笑ってしまう。鴉らしく、カアカアカアと鳴いている。
この十年に新たに知った人数は夥しい。家の外へ出て働くことが多かった、当然だ。
* 向き合う。それだけが、いつ知れず「身内」と「感じあう」にいたる、大きな環境なのだろうと想っています。「向き合う」とは、いつもいつも顔を見合っている意味ではない。そんな人なら近在に幾らも幾らもいるはずです。
あなたが勝手に一人でそう思えば、それが「身内」だというのは、ちがうでしょう。恋なら勝手に一人ででも出来る。「身内」の実感は、双方から「匂い合う」ようなもので、そうなろう、そうであろうと独りで決めつけられない。あなたの正しく言うよう、それでは「かなひたがる」に成る。「かなふ」はよし、ですね。強いて「かなひたが」っても、どうにもならない。
いま既にかなっているのかも、十年二十年、死んでしまってから「かなって」いたと気が付くのかも、知れません、論理として分かるものではないから「絵空事」とも言える。おそろしく価値貴い「錯覚」ともいえる。けれど、「身内」は在る。聞かれればこういうふうに返辞します、わたしは。
2004 12・20 39
* あるホテルのパンフレット表紙に、「冬の語源」と刷ってあり、おやおやと確かめてみると、東大卒でエッセイストで画家という人が書いている。
何のことはない「Winter」の語源で、「湿っている」んだそうだ。「冬」の語源でも何でもありはしない。
「冬」は「ふゆ=殖ゆ」で、秋収の命・魂が季節籠もりに殖えてゆくのだと民俗学は教えている。威勢豊かな主君や家長の年玉=魂を目下が分け戴くのが「お年玉」とも。その辺でわたしの知らない何か語源説があるのかと読んでみたのに、なんじゃやら、英単語の語源とはしらけた話。
わたしはもう「お年玉」をもらう年でも、上げる勢いでもない。わたしは、ただもうやたらに美しい絵や写真を眺め、佳い本を読んで、生気と生彩とをもらっている。美しい「人」とはそうそう出会えないのが心惜しい。
明日の誕生日は終日「歌舞伎」から華やかに、景気の「お年玉」をもらう。玉三郎、勘九郎、三津五郎、福助、扇雀、橋之助、東蔵らの他に、猿之助一座から、右近、笑也や注目している段治郎らが集う。初の演目がいくつか有るなかに、大佛次郎原作「たぬき」や、大ぎりの渡辺えり子作「今昔桃太郎」が、また昼の「身替座禅」がどんな勘九郎芝居で歳末を大笑いさせてくれるか、楽しみ。
2004 12・20 39
* 佳い句集をいただいた初めの方に、「お白酒まづは女人にほがひする」という一句、少し立ち止まる。
古代の辞書や文献にも「ほがふ」「ほがひ」と濁った用例はない。濁点を打たない風はあるものの、万葉仮名にも「加」と書いてある。それよりも意義であるが、祝ふ・祭るの意味は公式の行事等に触れた用例では、辞典にも、そう有る。だが、どういう祝い方で祭り方であったかは、むしろ民俗学の究明が詳しくて、必ずしもおめでたい慶祝とばかりは謂いがたい半面がある。
「ほかひびと」は、祝言して歩く「ものもらい、こじきふうの行路の藝人」の意味であり、なにを貰うかというと、「ほかひ」の食べ物を貰って行く。その御魂に備えた食べ物にも、家の者が大事に喰う祭食もあれば、犬猫乞食のために戸外へなげ棄てるのもある。
と謂うのも、まつるべき精霊にも、家中に親しい親しい新御魂もご先祖精霊もあれば、無縁で迷い来る精霊もあり、その外精霊(ほかじょうろ)らに、大事な供物を持ってゆかれないため、別に粗末なのを用意して、みたまの棚の端の方や外や下に置く、それも先にそれを「ほかひ」しておいて、そのあとで鄭重にすべきものに祭り備える。
そんないわば精霊への差別的な扱いが、いつ知れず久しく行われてきたから、粗末な方の「ほかひ」ものを貰い歩くような世外・人外のものたちが「ほかひびと」と呼ばれ、また近世には、ならずものの「法界坊」ともなってきた。
上の句はうやうやしく親しく祭る風情の、雛の日の句であると読めるが、「ほかい」はまた行器、皿(さらか・さらき・ほとき・ほとけ)の別名であり、「ほかひ」の食べ物は、この「ほかい」に盛る、のである。それとても土器木器と限らずに、時には「柿の葉」などを代用する。「柿の葉め」と罵る言葉もあるのは、「ほかひびと」やそれに準じた世外無用の者らへの侮蔑の言であった。家にあれば笥(ケ)に盛る飯を、旅中はものの葉に盛って食べると、悲痛な有馬皇子最期のうたがある。「ほとけ・ほとき・さらき」等の「き・け」に通うのであり、必ずしも木や竹の「笥」というより、たんに「器」に等しい。
作家大佛次郎の「仏」は「さらき」の孤独な用例であるらしいが、これも謂うまでもなく、南都東大寺の大仏さんではなく、「ほかひ」のための大きめな行器の名を謂うている。死人死霊を「ほとけ」と言い習わしてきた日本の民俗は、なにも佛教由来であるよりも、「さらき」などで「ほかひ」される者タチの意味であった。大佛(おさらぎ)は貴重なその表明になっている。
上の句は、「ほがひする」の原意や遠意を、思い切りおめでたく美しく理解し転用した例であろうか。
2004 12・22 39
* 人は死を敵視し、恐れ、かつ死と闘って生きてきたと謂えるだろう。
だがこの勝負に勝った者はいない。死を「敵」と思ってしまうことが、人を不安と動揺のさなかに戦(おのの)き漂わせてしまう。
生まれた瞬間から人は「死とともに」生を歩み始め、死を身内に育みながら生きてきた。死は、「同行二人」の人生の最たる伴侶なのだ、そう思えば、死を敵視した戦闘的な不安はなくなる、と、わたしの書くこれよりもっと効果的、適切な物言いで、バグワンはわたしにいつも語りかける。
死と闘って一寸逃れに藻掻き苦しむ不安や恐怖から、人は所詮勝って逃れられるなどということはない。死は生の敵ではなく、生まれたその時から友であった。これ以上もないほどしっかり手に手をとって歩んできた、自分自身の「影」であった。
ゆうべ遅くに、こんなメールが来ていた。
* 人が<わが家>に帰り着いたとき
そこには何ひとつやることなんかない
人はただあらゆることを忘れ
そして、くつろぐ
神とは究極の休息だ
これを覚えておきなさい
482頁「存在の詩」
憧れています。でも、少し怖い。この神は死を通らないとたどり着けないのですもの。
自分はまだ中年の若者。試行錯誤して迷い惑い回り道していつかここに行きます。蝸牛
* このバグワンが云う境涯を、この人は「死後」に得られる「休息=神」だと考えるらしいが、おそらく、そうではあるまい。
「人が<わが家>に帰り着いたとき」とは、死後のことではない。「今・此処」にすでにわれわれはその「家」を持っていながら、それに気が付かない。死を敵視し不安を抱いて無理な闘い、勝ち目のない闘いに奔命しているから、気が付かない。
2004 12・28 39
* 島田紳助というタレント(藝人)が、身から出た錆とはいえ苦境にある。好き嫌いは別にして、紳助の藝は当代抜群の一つで、存在自体にオーラが立っていた。何をやらかしたのかよく分からないが、相手方女性が彼を藝能社会から永久追放してとまでを主張するなら、それが過剰な報復でないのなら、もう対等に顔も名も出して、堂々と闘って貰いたい。
抜群の「藝」は、いわばパブリックドメイン(公共財)である。政治家の悪行は永久追放に値しても、藝人の場合は藝で償わせる道がむかしから在ったし、わたしは、微妙な藝能差別かなと思いつつも、それを否定しない。
能役者の梅若万紀夫が楽屋で人のもちものであった鬘帯を盗んだことから、あの世界できつい制裁に遭い、随分長く観世流の舞台に立てなかった。万三郎の襲名など以ての外とされ絶望かと想われていた。わたしは、それが「過当過剰の制裁」になることを憂慮し、なんどか、「藝」で償えばよいと書いている。話している。彼が逸材であり、稀に見る美しい能を創れる才能だと知っていたからだ。その藝の根を断ってしまうほどのこととは考えなかった、一瞬彼はその鬘帯の美しさに惑ったのだと想いたかった。
幸い彼は随分な期間を苦労して復帰が叶い、万三郎襲名も果たしてくれた。一人の卓越した藝人は、徹底的に葬られずに済んだ。その能は、磨きを加えている。
島田紳助が何をどのように犯したのかは知らない、が、「過剰な報復」のないことを願いたい。但し実状を知らずに言うている。考えが変わるかも知れない。
2004 12・29 39
* 夜前音読したバグワンの言葉を、何と云うことはないが、今年の一つの締めくくりかのように、書き写してみたい。これは和尚の、『TAO老子の道』上巻 (訳者はスワミ・プレム・プラブッダ)の中ほど、250頁以降の数頁である。同じ個所をもう数回わたしは翻読して、そのつど何かしらを感じ、つき動かされる。
長冊の唐突な途中からであるが、それは気に掛けない。どうやら、これはとても大勢の聴衆を前にしたバグワン談話であるらしい。しかし「あなた」と呼びかけていれば、むろんわたしは自分のことと思い、聴いている。
* 意識というのはひとつの祝福にもなり得る。が、それはまたひとつの禍いにもなり得る。あらゆる祝福は、必ず禍いと連れ立ってやって来るものだ。問題は、どう選ぶかはあなたにかかっている、というところにある。それをあなた方に説明させてほしい。そうすれば、われわれはこの経文(『老子』)に楽にはいってゆくことができる。
人間には意識がある。人間が意識的になったその瞬間、彼は「終点」をもまた意識するようになった。自分が「死ぬ」定めになっているということ—。彼は明日を意識し、時を意識し、時間の経過を意識するようになる。遅かれ早かれ「結末」は近づいて来る—。
彼が意識的になればなるほど、それだけ死というものがひとつの問題、唯一の問題になってくる。どうやってそれを回避するか? (だが)これは、意識を間違った使い方で使っていることにほかならない。それはちょうど、子供に望遠鏡を渡しても、その子がどうやってそれを使うか知らないようなものだ。彼はその望遠鏡を、反対の端からのぞくこともできる。
「意識」というのはひとつの望遠鏡だ。あなたはそれを間違った端からのぞくこともできる。そして、その間違った端にもいくつかそれなりの利点がある。それが新しいトラブルを生んでしまう。望遠鏡の間違った端からでも、あなたは多くの利点があることを発見できる。短い目で見ると、たくさんの利点が考えられる。「時間を意識している」人たちというのは、「時間を意識していない」人たちに比べると、何かしら得るものだ。「死を意識している」人たちというのは、「死を意識していない」人たちに比較すれば、達成することが、たくさんある。西洋が物質的な富を貯えつづけ、東洋が貧しいままだったのはそのためだ。
もし死を意識していなかったら、誰が構う? (この東洋的な)人々は、瞬間から瞬間へと、まるで明日など存在しないかのように生きている。(それなら) 誰が貯蓄する? 何のために? 今日だけで、あまりにもビューティフルだ。なんでそれを祝わない? そして、明日のことはそれ(明日)が来たときにしよう……。
西洋(の人達)は無限の富を蓄積してきた。みんながあまりにも「時間」を意識しているからだ。人々は自分たちの一生を”物”に、物質的なものごとにおとしめてしまっている。摩天楼……。彼らは大きな富を築いている。それが、間違った端から(望遠鏡を)のぞく利点だ。彼らは近いところにある、短距離の特定のものごとしか見ることができない。彼らは遠くの方を見ることができない。彼らの目は、遠くを見ることのできない盲人の目のようになっている。
彼らは、それが最後には大きな代償を払うことになりかねないということを考えずに、いまのいまかき集められることだけしか見ようとしない。
長い目でみたら、こんな利点は、利点ではないかもしれない。
あなたは大邸宅を建てることもできる。が、それが建つまでにあなたはもう「さよなら」の支度だ。あなたは全然そこに住めやしないかもしれない。あなたは、小さな家にビューティフルに住むことだってできたかもしれない。山小屋だって用が足りたろう。ところが(西洋風な)あなたは、自分は宮殿に住むのだと心に決めた。(だが、)いま、宮殿ができてみれば、肝心の(住む)人がいない。あなたがそこに「いない」のだ。
人々は、「自分自身という代価」を払ってまで富を蓄積する。最終的には、結果的には、ある日彼らも、自分たちは自分たち「自身」を失ってしまっており、そして自分たちは、役にも立たないものを買い込んでいる(いた)のだということに気づく。その代価は大きかった。しかし、いま(「さよなら」の時)となっては、どうすることもできない。時は過ぎている。
もし(「さよなら」への)時間を意識していたら、あなたは、狂ったように「物」を貯め込むことだろう。あなたは自分の生命エネルギー全部を「物」に転化してしまうだろう。
(「時間」だけでなく、)「全領域」にわたった意識を持っている人間は、この(今・此処の)瞬間を、可能な限り楽しむ。彼は浮かび漂うに違いない。彼は明日のことなど気にかけまい。なぜならば、彼は「明日などけっして来やしない」ことを知っているからだ。彼は、最終的に達せられなければならないものは、ただひとつ、自分自身の〈自己〉だということを深く知っている。
生きるがいい。それも、「自分自身」(の実存・本質)と接することができるくらいに、本当に「トータルに」生きるがいい。それに、(トータルに生きる以外に、)ほかに、自分自身と接する方法などありはしない。(トータルに)深く生きれば生きるほど、あなたはそれだけ深く自分自身(の実存・本質)を知る。人間関係においても、ひとりでいても…:.。
“関係”の中に、「愛」の中に、深くはいってゆけばゆくほど、あなたはそれだけ深く(トータルに自分を)知る。愛がひとつの鏡になるのだ。そして一度も「愛したことのない」人は、”独り alone” になることもできない。せいぜいのところ”孤独 lonely” になれるだけだ。
愛し、そして(人間同士の本質的な)「関係」というものを知った者こそ “独り” になれる。いまや、彼の”独りであるこ
と” には(それ以前とは)全面的に違った質がある。それは(もう) “孤独” じゃない。彼は(これまで)ひとつの関係を生き、自分の愛を満足させ、相手を知り、そして「相手を通して」彼自身をも知った。(だが)いまや彼は、自分自身を「直接に」知ることができる。もう「鏡」の必要はない。
ちょっと、誰か、一度も鏡に出くわしたことのない人のことを、考えてごらん。目を閉じて自分の顔を思い浮かべることが、彼にできるだろうか? 彼は自分の顔を想像することもできない。彼はそれを瞑想することなどできやしない。
しかし、鏡のところへ来てそれをのぞき込み、それを通して自分の顔を知った人間は、目を閉じて内側でその顔を見ることができる。(人間その他との)「関係」の中で起こるのが、それだ。ひとりの人間がある関係の中にはいってゆくとき、その関係は「鏡」(の代わり)になって、彼自身を映し出す。そして彼は、自分の中に(とうから)存在していたことなど夢にも知らなかった、たくさんのものごとを「知る」に至る。
その相手を通して、彼は、自分の怒り、自分の慾、自分の嫉妬、自分の所有性、自分の慈しみ、自分の愛を初めとする、彼の実存の何千というムード(生の実況)を知るに至る。彼はその「相手を通して」たくさんの空気と遭遇する。
(そして今度は)だんだんと、彼が(我から自然に)もう「独りになれる」瞬間が来る。彼は目を閉じて、自分自身の意識を「直接に」知ることができる。私が、一度も「愛したことのない」人たちには、瞑想はごくごく難しいと言うのはそのためだ。
深く愛したことのある人たちこそ、深い瞑想家になることができる。(本質的な)関係の中で愛したことのある人たちは、今度は、自分たち自身で(自立し自覚して)いる態勢にある。いまや彼らは「成熟」している。もう(たんなる)相手は必要ない。もしそこに相手がいれば、彼らは(豊かに、自由に)分かち合うこともできる。だが、(殊更にそうしたい)その”要求”は(それ自体)消え失せている。もうそこには何の依存(関係も必要すら)もない。
* ( )内はわたしが敢えて補足した。いまぶん、その程度のわたし、だということになる。「身内」は、関係(呼び名)をすら溶解していわば「匂い合う」ような間柄だと以前に私語したのを、バグワンはより平明に、深く語っているのではあるまいか。
バグワンはこの前の辺で、死は「敵」ではない、生まれた瞬間からの「友」だと示唆していた。死と敵対すればするほど、不安と恐怖は深まる一方で、然も絶対に勝ち目はない。死を敵視して藻掻きにもがくのは聡明ではないと。
* 折しもあれ、柳田国男は『先祖の話』の、わたしが昨夜音読した六十四章で、「死の親しさ」をこう語っていた。柳田は合理性の豊かな観察と推理のみごとな民俗学を開拓し実証してきた。彼の言葉はただの観念ではなく、日本列島だけを謂っても、津津浦浦へ足を運んで見聞し調査した結果を具体的に語ろうとしている。宗教性で説くのでも哲学として思索し洞察しているのでもない。事実に足をのせている。
* 死の親しさ 柳田国男(『先祖の話』より)
どうして東洋人は死を怖れないかといふことを、西洋人が不審にし始めたのも新しいことでは無いけれども、この間題にはまだ答へらしいものが出て居ない。怖れぬなどゝいふことは有らう筈が無いが、その怖れには色々の構成分子があつて、種族と文化とによつて其組合せが一様で無かつたものと思はれる。
生と死とが絶対の隔絶であることに変りは無くとも、是には距離と親しさといふ二つの点が、まだ勘定の中に入つて居なかつたやうで、少なくとも此方面の不安だけは、ほゞ完全に克服し得た時代が我々(の日本)には有つたのである。
それが色々の原因によつて、段々と高い垣根となり、(生死の境という)之を乗り越すには強い意思と、深い感激との個人的なものを必要とすることになつたのは明白であるが、しかも親代々の習熟を重ねて、死は安しといふ比較の考へ方が、群の生活の中にはなほ伝はつて居た。信仰はたゞ個人の感得するものでは無くて、寧(むし)ろ多数の(社会)共同の事実だつたといふことを、今度の(世界大)戦ほど痛切に証明したことは曾て無かつた。
但しこの尊い愛国者たちの行動を解説するには、(昭和二十年現在では)時期がまだ余りにも早過ぎる。其上に常の年の普通の出來事と、竝べて考へて見るのは惜しいとさへ私には感じられる。仍(よつ)て是からさきは専ら平和なる田園の間に、読者の考察を導いて行くことにしようと思ふのである。
日本人の多数が、もとは死後の世界を近く親しく、何か其消息に通じて居るやうな気持を、抱いて居たといふことには幾つもの理由が挙げられる。さういふ中には比隣の諸民族、殊に漢土と共通のものもあると思ふが、それを説き立てようとすると私の時間が足りなくなる。茲(こゝ)に、四つほどの、特に日本的なもの、少なくとも我々の間に於て、やゝ著しく現はれて居るらしいものを列記すると、
第一には、死してもこの国の中に、霊は留まつて遠くへは行かぬと思つたこと、
第二には、顯幽二界の交通が繁く、単に春秋(お彼岸)の定期の祭だけで無しに、(生者死者)何れか一方のみの心ざしによつて、招き招かるゝことが、さまで困難で無いやうに思つて居たこと、
第三には、生人の今は(臨終末期)の時の念願が、死後には必ず達成するものと思つて居たことで、是によつて子孫の為に色々の計画を立てたのみか、
更に、再ぴ三たぴ生まれ代つて、同じ事業を続けられるものゝ如く、(さながら湊川討死の楠公のように、また怨霊のように、)思つた者の多かつたといふのが、第四である。
是等の信條は何れも重大なものだつたが、集団宗教で無い為に文字では(めったに)伝はらず、人も亦互ひに其一致を確かめる方法が無く、自然に僅かづゝの差異も生じがちであり、従つて又之を口にして批判せられることを憚り、何等の抑圧も無いのに段々と力の弱いものとなつて来た。
しかし今でもまだ多くの人の心の中に、思つて居ることを綜合して見ると、そ’れが決して一時一部の人の空想から、始まつたもので無いことだけは判るのである。
我々が先祖の加護を信じ、その自発の恩澤に身を打任せ、特に救はれんと欲する悩み苦しみを、表白する必要も無いやうに感じて、祭はたゞ謝恩と満悦とが心の奥底から流露するに止まるかの如く見えるのは、其原因は全く歴世の知見、即ち先祖にその志が有り又その力があり、又外部にも之を可能ならしめる條件が具はつて居るといふことを、久しい経験によつていつと無く覚えて居たからであつた。さうしてこの祭の様式は、今は家々の年中行事と別なものと見られて居る村々の氏神の御社にも及んで、著しく我邦の固有信仰を特色づけて居るのである。
少なくとも二つの種類の神信心、即ち一方は年齢男女から、願ひの筋までをくだくだしく述べ立てゝ、神を揺(ゆさ)ぶらんばかりの熱請を凝らすに対して、他の一方にはひたすら神の照鑑を信頼して疑はず、冥助の自然に厚かるべきことを期して、祭をたゞ宴集和楽の日として悦び迎へるものが、数に於て遥かに多いといふことは、他にも原因はなほ有らうが、主たる一つはこの先祖教の名残だからであり、なほ一歩を進めて言ふならば、人間があの世に入つてから後に、如何に長らへ又働くかといふことに就て、可なり確実なる常識を養はれて居た結果に他ならぬと私は思つて居るのである。
* 柳田独特の文体と学殖と実際に即して多くを、読み説かれていると、こういう言説からは、スマトラの津波を引き合いに出すのは憚られるけれども、まるで津波のように、久しい日本列島の死者と生者との互いに折り敷くような日々、年々の「暮らし」の不思議と哀歓とが見えてくる。
バグワンも智慧の、柳田も智慧の「ことば」で語ってくれる。決してただの知識ではないのである。
2004 12・30 39
*「身内」は「貴重な錯覚=愛」であると思いつづけ、書き続けてきた。「幻想」と言い換えてもいい。しかもなお「愛」ゆえにそれの「在る」ことも、わたしは知っている。「絵空事」の不壊(ふえ)の値を。現世の論理や常識から百尺竿頭なお一歩を踏み出す勇気があれば。
ひとつ、わたしには課題というか、気になる分岐点がある。
「人間のエゴ(利己性)は体から生じるものだと思っています。意識は体を保全する目的で生じたのではなかったでしょうか。」
後段の議論は措く。前半の「体」についていえば、わたしは逆に感じている。思っている。
人間を「エゴ」の苦へ誘い込み追い込みイタブるのは、「体」ではなく、「心」の方だと。モノとしての「体」など影のように実体がない。色即是空。物理学もそれは認識している。心という我執がすべて影を形にし働かせていると。「静かな心」「無心」「平生心」を久しい人の歩みが容易に得られなくて苦しんで来たのは、それかと。
2004 12・31 39