* もう一度二階へ来たのは、旧冬の続きのバグワンをもう少し書き写してみたかったから。訳者さん、めるくまーる社さん、聴(ゆる)して。
* 「意識」は、最後には「死」を意識するようになる。もし意識が最後に死を意識するようになると、ひとつの恐怖が(あなたの心に)湧き上がってくる。その恐怖は、あなたの中に絶え間ない「逃避」をつくり出す。そうするとあなたは「生」から逃げ出すことになる。どこであれそこに「生」があると、あなたは逃げ出してしまう。
なぜならば、どこであれ「生」があるところには、「死」のヒント、一瞥、がやって来るからだ。
あまりにも死を恐れている人たちというのは、けっして「人間」に「恋」をしない。彼らは「物」と恋に落ちる。物というのはけっして死なない。それは一度として生きてもいなかったからだ。
物ならいつまでもいつまでも「持って」いられる。しかも、そればかりでなく、それらは交換可能だ。もし一台の車が駄目になっても、それはきっかり同じつくりの別な車で埋め合わせられる。しかし「人間」は埋め合わせられない。もしあなたの奥さんが死んでしまったら、彼女は永久に死んでしまうのだ。別の奥さんをもらうことはできる。が、ほかのどんな女の人にも、彼女を埋め合わせることなどできるものじゃない。良きにつけ悪しきにつけ、ほかのどんな女の人も同じ女性ではあり得ない。
もしあなたの子供が死んでしまったら、養子をもらうことはできる。が、どんなもらい子でも、自分自身の子供と持つことのできた、その同質の関係は持てないだろう。その傷は残る。それは癒やされ得ない。
あまりにも死を恐れる人たちというのは、「生」をも恐れるようになる。そうして彼らは「物」を貯め込む。大きな宮殿、大きな車、何百万ドル、ルピー(インドの通貨)、あれやこれや、不死のものごと……。ルピーというのは薔薇よりずっと不死だ。彼らは薔薇などお構いなしで、ルピーばかりを貯め込みつづける。
ルピーはけっして死なない。それはほとんど不滅だと言ってもいい。しかし、薔薇となると……。朝、それは生きていたのに、夜までにはもうおしまいだ。彼らは薔薇を怖がるようになる。彼らはそれを見ようとしない。あるいは、ときとしてもし(薔薇がみたい)その欲望が起こってくると、彼らはプラスチックの造花を買い込む。造花ならいい。造花ならあなたは安心できる。それは不滅性という感覚(錯覚)を与えてくれるからだ。造花は、いつまでもいつまでもいつまでもそこに咲いていられる。
本物の薔薇……。朝、それはなんとも生き生きしている。夜までに、それは終わりだ。花びらは地面に落ちている。それはその同じ源に戻っている。大地からそれはやって来て、しばらくの間花開き、そして、その香りを存在全体に送り出す。そうして使命が果たされ、メッセージが渡されると、それは静かにふたたび大地に戻り、一滴の涙もなく、何のあがきもなく消え失せてゆく。
花から花びらが大地に落ちてゆくのを見たことがあるだろうか? どんなに美しく、優雅に落ちることか……。何の固執もない。ただの一瞬といえどもしがみつこうとなんかしない。一陣の風が吹いただけで、花全体が大地に落ち、源に帰ってゆく。
「死」を恐れる人間は、「生」をも恐れるだろう。「愛」をも恐れるだろう。なぜならば、「愛」とはひとつの花なのだから……。愛はルピーじゃない。生を恐れる人間は、「結婚」することはあるかもしれない。が、けっして「恋」には落ちまい。
結婚というのはルピーのようなものだ。恋はバラの花のようなものだ。それはそこにあるかもしれない。それはそこにないかもしれない。しかし、あなたはそれについて確信は持てない。それは何ひとつ法的な不滅性など持ってはいない。結婚というのは何かしがみつくことのできる(抱き柱のような)ものだ。それには証明書がついている。裁判所が後に控えている。その背後には警察や社長の圧力がかかつている。そして、もし何かがおかしくなったりすれば、彼らが全員駆けつけて来るに違いない。
ところが愛に関しては……。
バラにももちろん力はある。しかし、バラは警官じゃない。それは社長さんじゃない。パラの花には身を守ることなどできないのだ。
愛は・来てはまた去ってゆく。結婚はただただ来るだけだ。それは死んだ現象だ。それはひとつの制度にすぎない。
人々が「制度」の中で生きたがるというのはまったく信じ難いことだ。恐れて、死を恐れて、彼らはあらゆるところから「死の可能性」を一切締め出してしまっている。彼らは自分たちのまわりに、何もかも「そのまま続いて」ゆくのだという「ひとつの幻想」をつくり出している。何もかも「安全で、安定」している。この安全性の陰に隠れて、彼らは「ある種の安心感」を抱く。
だが、それは馬鹿げている。愚かしい。何も彼らを救えるものじゃない。死がやって来て、彼らの扉を叩けば、彼らは(そのまま)死んでしまうのだ。
「意識」というのは、二つの展望(ヴィジョン)を持つことができる。ひとつは「生を恐れる」こと。なぜならば、生を通じて死がやって来るからだ。もうひとつは、「死をもまた愛しはじめる」くらいに、「深く生を愛する」ことだ。なぜならば、「死は生の内奥無比なる核心」なのだから……。
最初の姿勢は「考える」(=思索する)ことから出て来る。
二番目の姿勢は「瞑想」から出て来る。
最初の姿勢は「過剰な思考」(=過剰な分別=マインドという騒がしい心)から来る。
二番目の姿勢は無思考のマインド、〈無心=ノーマインド〉から来る。
意識は、思考にまでおとしめられてしまうこともできる。反対に、思考はふたたび意識へと溶かし去られることもできる。
ちょっと厳冬の川を考えてごらん。氷が張りはじめて、水の一部分はいまや凍りついている。そうして、もっとひどい寒さがやって来て気温が零度を割ると、川全体が凍りついてしまう。もうそこには何の動きもない。何の流れもない。
意識というのはひとつの川、ひとつの流れだ。そこに「思考」=心」がはいり込めばはいり込むほど、その流れは凍ってしまう。もしそこに、あまりにもたくさんの思考(=分別)が、あまりにもたくさんの〃思考障害〃(=動揺、迷惑、邪推、疑心暗鬼)があったら、そこにはどんな「流れ」(静かな心=無心・虚心)の可能性もあり得ない。そうなったら、その「川」は完全に凍りついている。あなたは、もう死ん(だも同然)でいるのだ。
* ある大学教授にバグワンの話をすこししてみたとき、バグワンは全否定ではないかと案じられた。たちどころにわたしは結論を持ち出そうとは想わない。「なぜ人は生きるのか」とか「生きている意味は何か」とかいう問いに対し、過去に地球上にあらわれた覚者は、その手の質問に対してみな「沈黙」で応えたとバグワンは云う。そもそもそのような問いにこそ意味はないか、誰にも答えられないと云うより答えるべきではないとバグワンはそこまで云う。そんなことで分別したり錯乱したりするのは無意味だと。今・此処に生きていることを大切に、そして大切な大切なことがある、それに気付くのだ、目覚めて知るのだと云う。
死を敵視してのたうちまわるのでなく、死を友として生を慈しみ生きよと。
そういうバグワンをわたしは全否定の人とは想いにくい。何が大事か。バグワンはそれを語り続けている。目覚めてしまえば大事なものなど、何もない。が、目覚めて気付く迄には何が大事かは在る。大事なのは「目覚めて気付く」ことだ。それまでは如何なる聖典も修業も役に立て得ようがない。だが、はっと目覚め気付いた瞬間から聖典と貴ばれるほどのものが、初めて自分は覚めたんだ、気付いたんだと正確に知らせてくれるとバグワンは云う。
どうすれば目が覚め、どうしたら気付けるのか、その方法論をバグワンは語っているだろうが、わたしはそのような「方法」を覚えたいとは今は想わないのである。ひたすら「聴く」だけでいる。聴いて待っている。「間に合う」かどうかは知らない。だが、それより大事で大切なことが、少なくも自分に在るとは思っていない。わたしの腹心にいて一度も立ち去らなかった友である「死」に、わたしは静かに手を執らせていたい。現実にあれやこれや熱心にしている、つまり仕事も用事もいろんな営為はみな、だからこそ楽しめるし遊んでしまえる。それだけのもの、と、云うしかないからだ。
2005 1・1 40
* 入浴後、たっぷりと蟹を食べてビールを楽しんだ。前夜寝ていない。脳天から鼻柱の右筋へ縦にながい針を立てたような感触有り、寝るが勝ち。 日付は変わっている。
* 新年来、というと大げさになるが、いいことも、気の重いことも、半々にある。なにしろ新年へカウントダウンを終えていきなり、賀詞「同報同送」の手続きをまんまと間違えたぐらいだから、お話しにならない出だしであった。が、べつに昨夜から今日へ、気分を沈ませる、わたしとしては酷いほど辛いことが起きている。ま、「闇に言い置く」ことだから、この辺は闇の向こうでは、どうか耳を塞いでいてほしい。腹膨れての吐瀉のようなもの。
* 昨日、嫁がせた娘朝日子の「メール仲間」であると名乗る未知の人から、「朝日子さんは元気にしていて、いまは自分たちの仲間の掲示板に小説を毎日少しずつ書いています」と、わたしにメールが届いた。
えッ、小説…。
朝日子が「ものを書く」のは、弟の建日子が書くのよりも「よく分かる」と云いたいほど、もし姉弟でものを「書き出す」なら、100対0で姉の方がと、我々も思い、そう観てくれている編集者も何人もいた。姉娘の作の一端は、「e-文庫・湖(umi)」に示されてある。必ずしも身贔屓で載せたのではない。
* 現実は、まざまざと「逆」になった。弟の方は、すでに舞台の作・演出から、テレビの連続ドラマの脚本から、今度は真ッ当にカッコよく処女小説まで出して、好調に版も重ねている。
親しい人たちの誰の思いにも、もし姉の朝日子が書いていたら、また異なる方面で落ち着いた作品へ向かっていただろうにと、想いも、言いも、し続けてきたのである。父親のわたしが、そうしたかったのでは、ない。本人がそうありたいのなら、「本気で書きたい」のなら、心行くまで書かせてやりたいなあと想っていた。むろんそんなもの「書かなくても」よろしい、構わない、イイ、のである、「人生いろいろ」なのだから。ちなみに娘達は東京都の神奈川寄りに暮らしている。
* ところが「小説を書いて」いると、わざわざ、知らせてもらった。
気になるのは、「某掲示板」に、「毎日少しずつ」書いて公開していて、「仲間たち」はけっこう読んで楽しんでいる、というのだ。仲間とは、文学・文藝の仲間ではない。全く別の、或る趣味仲間なのであるらしい。メールは、こう書かれていた。
* 私、現在でも彼女とはメール交換しております。彼女のお家にも平和な正月がやってきております。
お二人のお子様もお元気なご様子です。
今、朝日子さんは小説を書いております。「書いている」といっても、某電子掲示板に毎日少しずつです。その電子掲示板に集う皆さんと楽しく拝見しております。***好きの仲間が集う掲示板です。
やはり血は争えないものだと感心しております。
以上、簡単ではありますが、彼女の近況報告まで。 メール友達 関西
* 「掲示板」に書かれる「小説」なるもののおよそ実状が如何なものか、関心のあるわたしは、少なからず知っている。「編集者」の濾紙を経てこない創作まがいの無惨さを本気で嘆息するところから、わたしは、自分の「e-文庫・湖(umi)」という文学雑誌を始めていた・いるのだから、朝日子の「某掲示板」を心配したのは、あたりまえである。せめて何かの同人雑誌にに加わったとかいうならまだしもと、真実ヒヤリとした。
娘の、多少なりとまともな文才を知っている父親、(実は安んじて二度ほどわたしの名前で代筆すらさせてみた経験のある父親)としては、雑文は知らず、「小説」ばかりは、まともな姿勢で書いて欲しい、誰よりも「本人の為に」と愕いたのはムリではないだろう。その気持ちが、こういう返信になる。
* 朝日子が何をどう書いているか、書けているか、読みたいと思います。作品をダウンロードして、そのまま「転送」して下さいませんか。題材によって気になさるかも知れませんが、「読み手」としてもプロです、私情で動揺することはありません、安心して下さい。
此の「小説を書いている」一件に関しては、作を「読まないうち」にともあれ率直にいうなら、朝日子のためには、そういう場所に、毎日「小出しに書く」という「方法」は、極めて危険だというの、わたしの実感です。そんな技量は簡単には持てないものです。
よく「書く」ためには、孤独と挫折感に耐えて堪えて書き抜かねば、初心者ほど所詮は浮ついた作文で終わりかねない。立派に小説を「書く」気なら、風船の空気を針の先で少しずつ空気抜きするよなな方法ほど、危険なことはない。場合によると、自己満足だけを増長させ、無意味に傲慢に陥らせ、その域から抜け出せなくなってしまうのです。心配です。
孤独に耐えて書く、一つの作をしっかりと先ずは密やかに孤室で書き抜く、べきで、半端な段階から人目にさらす不用意は、かえって焦りにも繋がり、うぬぼれだけにもなり、作品を推敲し推敲し推敲して仕上げて行く課程がすっ飛んでしまう。
「書こう」と、本当にもし思い立ったのなら、その時こそ軽率に慌てないで、むしろ手で、原稿用紙に彫り込むように孤独に書いて欲しいものです。文学には、文学の踏まねばならぬ「足場」も「順」もあるのを、朝日子にもう一度も二度も思い出して欲しい。
よろしければ、このメールを「転送」してやって下さい。健康で、何より柔軟に素直に、優しく生きていて欲しいと想います。
お心遣いに感謝します。 秦恒平 2005.1.2
* 今朝その未知の人の返事が来た。
わたしは一読、暗澹とした。おそらくこの「仲介者」を以て任じているメールの人には、わたしの「暗澹」は分かるまいと想う。わたしは、娘と、日常的・生活的に交通を回復することなど、とくに望んでは居ない。そんな為にわたしが動いたことは、娘の結婚後、長い間に一度も無い。そもそも、われわれと嫁いでいった娘とは、彼女の結婚後一度も「争った」りしたことがない。「事情」やむを得ず、双方で「離れ」ざるを得なくなっただけ。そのことは、別に詳しく書いたモノがある。
* しかしながら、今や、その朝日子が、弟に刺戟されてか無関係にか、それはどっちでもいいが、こと小説を「書く」気になって現に「書いている」というのでは、無関心でいられない。少なくも、読みたい。
わたしは朝日子の文才を、或る程度公平に肯定している。小説はともあれ、優れたエッセイや、かなりの批評・評論は「書ける」と感じていた。敢えて、代筆までさせてそれを心見たこともある。
わたしだけではない、何人もの人が、今でも暗に彼女が「書く」ことを期待してくれているのを、私も妻も知っている。
そして誰より朝日子自身、彼女がいちばん望んでいたのは、はっきり言って、「世に認められる」ことだった。そのための才能は、「書く」より以外に、たぶん無いとすら知っていただろう。
* だが、いざ「書く」となれば、文学・文藝は安直には行かない。幾百回の挫折と失望に堪えねばならない。安きに逃げだしたら、元へ戻れず、戻れないことに「言い訳」をし続けねばならないのである。「言い訳」は大概他者へのなにかしら転嫁に流れ流れて行く。弟の建日子は、そういう「言い訳」から、ほぼ脱却した。
* 下記のメールの文章が、あたかも朝日子の「理解者」のつもりで、親切に書かれてあることを、わたしは疑わない。
しかし、わたしは、父として、作家として、批評家とし、て編集者として、、これでは朝日子を、より痛ましいところへ追い落とすようなもの、スポイルするものと感じ、「暗澹」とするのである。
朝日子の気持ちを、この人はやすやすと「代弁」しているつもりらしいが、メールだけの付き合いにはヴァーチャルな限界がある。それもわたしはよく知っている。
* 朝日子さんが書かれる文章についてなのですが、お父様の言われておりますような『立派に小説を「書く」気』というものとは全く違った性質のものだと思います。これを本にして出版するだとか、本気で小説を書く(プロのように)というものではなく、気楽に日記を書くように書いていらっしゃいます。ご自身、楽しみながら書いていらっしゃいます。登場人物を私たちの仲間にして楽しんでいらっしゃいます。おそらく、お父様のお考えになっている「小説」とは全く違ったものです。
以前、朝日子さんは文章を書くのを極端に嫌がっておりました。「文章を書く」ということを恐れていらっしゃいました。その朝日子さんが電子掲示板に文章を書き始めたのです。以前の朝日子さんなら、文章を書く前にお父様の仰るような難しいことを考えてしまい、旨く書けなかったのだと思います。
今、朝日子さんは、そういった、小説を書く上での難しい、いろいろなことから解放されて、自由気ままに書いていらっしゃいます。誤字脱字も一向に気にしないで、推敲もほとんどせずに、自分の気のおもむくまま書いていらっしゃいます。私はお父様とは違い、それでいいと考えております。彼女は小説家でも脚本家でもありません。
普通の我々が作文するように文章を書けるようになったのです。それはむしろ喜ばしいことだと思います。
とんでもなく失礼な物言いになってしまいますが、朝日子さんが普通に文章を書けなくなってしまったのはお父様の影響が大きいのだと考えます。彼女は、ようやく、そこから解放されたのです。彼女は小説家になる気はさらさらありません。断言していらっしゃいます。
* 「お父さんや弟さんにならんで、あなたも小説家にならないのですか」と、仮にこの人がもし尋ねたとして、「なる気はさらさらない」と答える以外にない谷間へ、上のメールを読むと、まさしくこの人達が「親切」に引きこんでいるに過ぎない。
「普通の我々が作文するように文章を書けるようになったのです。それはむしろ喜ばしいことだと思います。」
ところが、朝日子の自負と喜びとは、まちがいなく、例えばわたしが「e-文庫・湖(umi)」に載せておいたエッセイや詩(「ジャン・ムーラン公園に革命二百年の風が吹く」 「詩集小さい子よ」 「ねこ」)にある。それらは、「文章を書く上での心構えとかテクニックとかにとらわれずに」はとても書けない「才能」の片鱗を見せていた。
「朝日子さんが普通に文章を書けなくなってしまったのはお父様の影響が大きいのだと考えます。彼女は、ようやく、そこから解放されたのです。」
朝日子にわたしは、このメールの人と同じ程度の、「普通に文章を書け」などと、一度として勧めたことがない。それでは、「いい書き手」になり「いい文章」を「書きたい」であろうと察していたから。
もし朝日子が、そういう暗黙の教えから今は「逃げだそう」としているなら、(それは前も前からかも知れない。)それが彼女の「幸福」に結びつくのなら、むろん自分で決めたり選んだりすればいい、それもまた、逃げだす「言い訳」のひとつでないといいがと願うばかりだ、他者の強いていいことではない。
「解放されて、自由気ままに書いていらっしゃいます。誤字脱字も一向に気にしないで、推敲もほとんどせずに、自分の気のおもむくまま書いていらっしゃいます。私はお父様とは違い、それでいいと考えております。」
朝日子の、まだ、何をするにも「間に合う」人生を、上のような「それでいい」と断言できる、どんな足場をこのメールの人は、もっているのだろうか。明らかな、安易なスポイルではないのか。かけっこをするとか、将棋をうつとか、カラオケで歌うのならそれでもいい。だが朝日子には、ほぼ唯一自負の拠り所かも知れぬ「書く」ことで、此処に言われてある「ありさま」は、やはり、わたしには、(親バカであるが、)ただもう痛ましいのである。
* 「本になる」「プロになる」などということは、本質的にメではない。それは努力と幸運との一つの結果に過ぎない。素人が書こうが玄人が書こうが、「いい作品」はいいのであるから。そんなこと朝日子はイヤほど知っている。そしてその上で朝日子は、成れるものなら「小説家」や「脚本家」や「エッセイスト」などに、誰よりも誰よりも、成ってみたい人であった。
だが、ただ「成りたい」「成りたい」だけでは作品も生まれず、幸運も未だ来ていないのは、当たり前。
もしいよいよ「書く」気がホンモノなら、朝日子は、ひとり、ひそかに、ワードでも一太郎でもいい、今から十年、努めて向き合った方がいい、と、わたしも、母親は、思っている。応援は惜しまない。
* この、顔も知らない、住所も何も知らないメールの人は、明らかに「親切な人」であろう、こういうことを言ってきている。
* 解っていただきたいことは、私が中途半端な物言いになってしまうのは、朝日子さんが、私がお父様とコンタクトをとるということに強い拒絶反応をしめされているのです。
それでもなお、私がお父様に朝日子さんの近況をお知らせするのは、「これは正常な親子関係ではない。朝日子さんにとってもご両親さまにとっても不幸な事だ」と考えるからです。お父様が朝日子さんのことを案じていらっしゃるのなら、今は、朝日子さんをはじめご家族が健康で幸せに暮らしていらっしゃるということをお知らせしたかっただけのことです。
だから、彼女のプライバシーに配慮しながらぎりぎりの選択をおこなっているということです。私自身、つらい思いをしながらメールしております。
よけいなお世話だったのかもしれません。差し出口、申し訳ありませんでした。
ただ、朝日子さんは、お母様とは連絡をとってもいいような口ぶりでした。そっとしてあげれば、時期が来れば、お母様にはメールをされるのではないでしょうか? 私からも、お母様と連絡を取るように、折を見ては言うように心がけます。
* ああ、これに似たことを、この何年、何人も何人もがわたしたちに言い掛け、しかし、わたしたちは、わたしは、全く取り合わなかった。
なるほど、上のわたしの「物の言いよう」からも知れるように、はっきり言って、「書き手」志望の朝日子に、はわたしが大きなプレッシャーだったのは分かるだろう。てんで「書き手」になるなど思いもよらなかった弟建日子ですら、「おやじにポロカスに言われる」のを「いつもいつも一番気にされてました」と彼の担当編集者は笑っていたし、わたしも笑った。
しかし、わたしは終始コウヘイだったと思う。ダメなものはダメといい、いいときは快く褒めている。褒められることが現実にふえて安定してきたから、弟の方は今ではとても和やかに、自信すら持ってオヤジの批評をむしろ「アテ」にしてくれている。ひょっとすると、誰の批評よりも、かも知れない。父親はそうありたいと考えてきた。そう言う意味でわたしは甘い父親なのである。
わたしが安直に甘いことを平気で言うか、それともてんで無関心だったら、彼秦建日子は、否応なしに業界のいいかげんさにわるく安易に泥(なず)んで行ってたかも知れない、それがアタリマエなんだ、と。
せめて、「自分に恥ずかしくない、本気の<仕事>をしてくれよ」とだけ、わたしは、いつもいつも「お願い」してきたのである、基本的には。「普通」の「尋常」な創り手にはならないで、と。
* 「正常な親子関係ではない」?
それは、私には、たぶん朝日子にも建日子にとっても、「大きなお世話」なのである。「不幸なこと」とは、人に言われて知るのでなく、また人目には「不幸そうなまま」、が微妙にとても大切なことも、場合も、有る。そんな人間の機微を無視した、ムリに割り切ったこの人達のこんな割り込みを、わたしは、逆に「どうしてそうなるの」と、腹の中で反問してきた。愛憎は、表裏でトータルなのである。幸不幸も同じである。
そもそも「私がお父様とコンタクトをとるということに強い拒絶反応をしめされている」など、当然のハナシで不思議でも何でもない。そうすることで朝日子なりにバランスをとり、わたしたちにバランスをとってきた。その必要があったし、それはこの人には分からない。「ご親切」は感謝するが、なんで又…と、これにも怪訝な思いが、ある。
少なくも「書く」ということについて、上の程度「の考」えでただ仄めかすようだけに、わたしの耳に入れ目に入れては欲しくなかった、それは、酷い、ただ暗澹とさせることだった。それは朝日子自身がするかしないかの問題だ。
* むしろ、それぐらいなら、朝日子のメールアドレスを教えてもらえれば、先ずは母親が、喜んで娘と毎日語り合いはじめるだろう。その辺が普通にいちばん具体的な親切というものではないか。
かなり世間とは度はずれている「もの書き親子」の「仲介」など、お気の毒であった。無理なことで、ほとほと申し訳なかった。
2005 1・3 40
* 快晴。「日の光」きららか。
* あけましておめでとうございます。メールありがとうございました。
志位委員長が新年のあいさつを申し上げております。
http://www.jcp.or.jp/2005_newyear/index.html
日本共産党は、くらし・憲法・平和-希望のもてる政治に、2005年も奮闘いたします。
今年もよろしくお願いいたします。日本共産党中央委員会
* たまたま同報するアドレスのなかに日本共産党のがまじっていたので、こういう返信も来た。で、委員長の映像と声の入る年頭所感を聴いてみた。耳新しいことは何もない。そして感想は、ある。
日本の歴史を、近代史を、今まさにわたしのように気を入れて復習している者には、いまの共産党でも社民党でもほんとうに物足りないのは、党勢がこんなに無惨に壊滅状態にある理由をよく掴んでいないらしい一点だ。
歴史を丁寧にたどってみるがいい。ことに私民や働く人達に密着しなければ成り立たない政治運動や、いわゆる市民運動の場合、いくら一過性に盛り上がったとて、すぐにアトカタもない泡のように潰されてゆくのは、「組織」的に運動エネルギーが構築されていないからで、「団結がんばろう」と拳をふりあげるあの姿勢が、ただの形骸、ただの空洞に化してしまったからである。いくらイデオローグを羅列してみても、その意欲を、国民が団結して持たねば、力にならない。
そのことを一番よく知ってきたのは、大久保利通や岩倉具視以来の藩閥や専制明治政府の保守主義者であり、伊藤博文や山県有朋や、桂太郎や、政友会系の体制支配主義者たち、平民宰相といわれた原敬も、がそうであった。その伝統をまともに嗣ぐ自民党政権の人間達は、陣笠に至るまで優等生並みにそれをよく知っている。昔の伊藤や山県等よりも賢く、ムリはしないで、徐々に、国民の政治エネルギーが横並びに手を繋いで団結しないための方策を、万全なほど時間をかけてとり続けてきた。その効果が、たとえば社民党の潰滅になっている。
この三十年の日本の保守政治家達のみごとに成功した際だった一例が、いわゆる組織政党である社会党潰しであった。完璧に成功している。
なぜそうなったか。社会党や共産党自体が、上澄みのイデオロギーを叫ぶだけで、それを支持して押し上げる組織の構築をあっけらかんと手放したからだ。その意味では、二代続き女性党首を戴いた社民党体制は、上澄みインテリののんきなカーサンによるお遊び飾り物政党にちかいのである。利敵に徹してしまった、無思慮の敗残であることにいまだに気付いていない。
共産党の志位さんの挨拶は歯切れがいい、が、自分たちでやれます、金づるとしての「赤旗」だけ買ってくれ、と言うているに過ぎない。第一、われわれのことを「草の根」と呼んでいる。支持してくれ、党と党員でやるからと言っている。
できるものかと言いたい。
私民を政治的に手を繋がせてゆく地道な努力を欠いて、上に乗っかっているだけの革新政党なんて、そのまま自己矛盾でしかないし、期待は持てない。志位さん、福島さん。むかしの革新運動に粉骨砕身した先輩たちの「方法」をより改善して、「団結がんばろう」の声に実体を蘇らせなさい。
大正の恐慌あとにも、完全に潰されてアトカタもなくなりかけた労働者の力が、また蘇ってゆく力強い段階も、歴史は教えている。もうバブルから抜けだしていい時機、それを保守政権におんぶにだっこで批評していても仕方がない。農民とサラリーマンと女性と私民と、何よりも学生の力を、また掘り起こすのだ、分裂していないで。
2005 1・4 40
* 花粉の本格的に飛散しはじめるのは、例年ですと二月下旬くらいですが、今年は多いそうなので、早まるかも。
わたしの昨年からひきつづいての関心どころは、「日本の近代」です。
酷い世の中に見える今は、ぽつんと存在しているのではなく、過去と未来があります。明治維新という革命の精神が、どうしてその後の時代に繋がっていかなかったのか。
フランスやイギリスとどう違うのか(フランスやイギリスがすべていいわけではありません。悪いところもたくさんあります)。明治より前の時代に理由があるのか。みんなで力を合わせるには、理論ありきでないとダメなのか。
今は川端康成やドフトエフスキーを読んだり、永井荷風の小説はなんでこんなにおもしろいんだろうと思ったり、『三島由紀夫vs東大全共闘』という本を借りたり、『資本論』やヘーゲルを読んでみたいなあと思ったりしています。
ごちゃごちゃしているようだけれど、わたしの中では一つの要でまとまっています。花
* 康成、荷風、ドストイェフスキーにしても、作品の名前が出るとこのメールも生彩をもつのだが。大きな名前だけが漠然と出ている。
「日本の近代」とはわたしの目下の関心と軌道が揃っていて頼もしいが、関心のきめこまかな実感は、これでは何も見えてこない。「日本の歴史」を近代以前つぶさに一万頁ぶん読み進んできたので、「日本の近代」がほんとうに生き生きと問題多く、時に血が煮えるほどに感じ取れてくる。
学生時代から二十歳代は乱読でいい。三十代は、乱読や多読の中に、貫く棒の如き太い関心の筋道が立った方がいい。大きな題目が漠然と頭の中で転がっているだけでは身についてこない。
2005 1・6 40
* とりあえず、以下紹介する。
* 風として接してくださるときと、作家・先生になるときとありますね。その切り換えに、わたしは戸惑ってしまうダメな不器用です。
関心ごとを述べます。メール用のパソコンのある部屋が寒いので、手がかじかんでうまく動きませんが、なんとか。
関心のあるのは「日本の近代」と言いましたが、これは「日本の現在」に由来しています。
以前にも書いたと思いますが、三十五年ほど前のイギリスの或るコメディ番組を見たとき、
「彼らはどうして体制批判やら差別批判やら、何から何までアンチの言動をテレビでできたのだろう」と驚き、不思議でした。茶の間に届く日本のテレビ映像では、とうてい不可能な、過激な内容だったからです。総じて日本の、権力に対してもの申す空気の希薄さが、歯がゆく感じられました。
イギリスは「議論」の国だと思います。 国会の質疑応答のとき、議員たちはメモなど見ないで、その場で議論しているそうです。相手の主張を聴き、それをふまえて自分の主張を述べるのが、イギリスの民主主義だ、という記事を新聞で読んだとき、日本の国会のように、あらかじめ提示された質問にただ型どおり答えて、それ以上はガンとして口をつぐんでしまう応答態度は、民主主義ではない、と思いました。イギリス人は普段から議論して鍛えているのでしょうが、それにしても、日本とのこの違いは何なんだ、と。
貴族の権利ではありましたが、一番の権力者である王に認めさせた「マグナカルタ」は、1215年にできています。産業革命が早い時期に起こったイギリスでは、労働者の環境が改善されたのも早かった。先進国であったイギリスには、世界中に「帝国主義」の力をのばしていった負の要素もあり、いいことばかりでは決してありませんが、あの反権力の姿勢を許容する空気は、日本にも欲しいものだと思いました。
もちろん、権力の側も老獪なもので、アンチの態度をとる人には勲章をあげて体制側に引き入れてしまいますし、議論といっても、それがガス抜きていどになってしまって、反対運動をしても、ブレアはイラク戦争に参加してしまいました。
創作を試みながら、自己の鬱々とした内面を吐露するだけの、自然主義の私小説みたいなものを書いてどうなるのだろうという気持ちがわたしの中に起こってきました。藤村の「新生」や花袋の「蒲団」などは、おもしろいのですが、わたしは、創作の中に何かしら現在に対する主張を織り込んでいきたいと思いました。
今、取り組んでいる最中ですが、言うは易く、行うのはとても難しいです。大言壮語みたいになると嫌なので、なるべく言わずに、創作で示したいと考えていました。
個人情報保護法や有事法制の整備がすすみ、官房長官が核の保有を考えてもいいと発言する今日、毎年終戦記念日に特集される悲惨な過去をどう思っているんだ、と腹が立ちます。
政治家には政治の論理というのがあって、平和一辺倒ではやっていけない、という中曽根康弘の言うこともわからないではありませんが、個人の発言の自由まで管理されるような(ちょうど今のアメリカがそうなってきていると思いますが)世の中にはしたくないです。
わたしのこういう思いは、決してわたし独自の特殊なものではないと思っています。でも、それをわたしの言いようで、創作に、書き表したいと思ったのです。
明治維新は「革命」だったと思います。でも、それがすんなり「民主主義」に繋がってはいきませんでした。今日においても、「似非民主主義」の臭いがプンプンします。維新を成功させた「下級士族たち」が、権力を握った途端、無情な為政者になりました。
いろんな理由があったと思います。
ヨーロッパの列強に追いつかなければならないと、帝国主義に手を染め、そのための軍備には国費を惜しまず、国民の生活は二の次でした。そうでもしないと、あんまりな「不平等条約」の改正を切り出して、列強と張り合えなかったのかも知れません。島国である日本の歴史も、諸外国との関係の上にあり、国内情勢だけ切り離しては考えられないのです。
ドフトエフスキーの「罪と罰」を読もうと思ったのは、北村透谷が「罪と罰」について書いていたからです。透谷に関心があるのは、明治二十年代に、自由民権運動に直接関わった唯一の文士だからです。
伊藤整の「求道者と認識者」で、透谷は求道者に入れられていましたが、わたしは透谷の認識者の部分に関心があります。思索的な性格の透谷は、強盗したり爆弾をしかけたりする過激な運動についていけず、途なかばで民権派と袂を分かちました。
彼はその後創作へと方向転換しましたが、民権壮士の親友を裏切った卑怯者として自身を責めていたのではないかとわたしは想像しています。それが、彼の書く動機の一つだったのではないかと。
透谷には闘士というイメージがあるのか、全共闘のときも、ヘルメットに「自由民権」などと書いていた学生がいたとか。色川大吉さんの「明治精神史」が、当時の学生に読まれていたのが理由らしいです。
色川さんは、いろんなところで透谷について述べています。
当時、色川さんが透谷について講演すると、大勢の学生が興味を持って聴いていたそうです。でも、全共闘の学生たちの理論はマルクス主義が主でした。
わたしは当時を体験していないので、あの頃どうして学生たちが団結して「大学粉砕!」なんて叫ぶことができたのか、関心があります。
アメリカの学生たちによるベトナム戦争への反対運動はどうだったのでしょう。マルクス主義抜きで、「平和」という合言葉だけで団結できたのでしょうか。
連合赤軍のような事件があり、日本赤軍もあり、社会にマルクス主義アレルギーといいますか、学生運動アレルギーといいますか、そんなもののあるのを、その後に生まれたわたしは感じます。
シラケというのでしょうか。
選挙の投票率の低さも歯がゆいです、昔の人がどれだけ血を流して獲得した選挙権かと考えると。
「それじゃあ、お前は何をしている」といわれれば、何もしていない、と答えるしかありません。
以上述べたように「思っている」だけなのですから。
でも、一人一人が「意識」を持って生活することが重要なのでは、と思うのです。
政治小説や社会派小説を書こうというのではありません。根っこのところにある心構えとして、今現在、ということを忘れずにいたいのです。
それにしても、わたしは歴史についても社会についても知らなすぎるので、今ごろやっと、関連する書籍を読んだりしているのです。二十代にしておくべきことだったのかも知れませんね。 花
* 東工大のわたしの学生たちが卒業して、もう大半が「家庭」をもってきている。このメールの人は、ほぼ同年代であるから、こういう一気呵成に書いてきた文章にふれると、教室で、またその余のおりおりに学生諸君、卒業生諸君が提示してくれた「アイサツ」を思い出す。むろん、上のような文章には、惜しげなく高点を配した。
* 「創作を試みながら、自己の鬱々とした内面を吐露するだけの、自然主義の私小説みたいなものを書いてどうなるのだろうという気持ちがわたしの中に起こってきました。」
よく分かる。谷崎愛のわたしは、若い頃、まったくこのように思っていた。だが自然主義の私小説にも極めて優れた作品、秋声や藤村や他にもいろいろ在ることに敬意とよろこびも持っていた。心酔すらした。わたしは、私小説の方法は採らないと決めていた。必要なら私小説の方法を活用し利用してやろうとは考えた。大事なことは、作品が真にファシネーションをもち、あたう限り静かにブリリアントでありたい、と。それが出来れば、題材は、「戦争と平和」や「カラマゾフの兄弟」のような広大な世界小説でも、漱石「こころ」のような家庭小説でもいいと。
「わたしのこういう思いは、決してわたし独自の特殊なものではないと思っています。でも、それをわたしの言いようで、創作に、書き表したいと思ったのです。」
これに対しても、すぐ上に云ったことで答えていいような気がしている。本当に生きている人と思いと行為を深く描き切れれば、題材はずいぶん違っても同じ所へ答えて行けないだろうか、感動とか感銘とかいう。
* さて明治維新は「革命」であり「民主主義」が期待されていたか。それはわたしは、はっきりノーと思っている。大変化ではあったけれど革命ではなかった。また慶應から明治への交替期にある種の合議政治を思った人も、天皇という「玉」を否認どころか利用することだけが考えられていた。民主主義ではなく、天皇制絶対専制主義国家へと新政府を壟断していた薩長も岩倉具視も積極的にその方向へ国の舵取りをしていた。
次に、維新を成功させたのは、或る面では「下級士族」たちのようであるが、彼等下級武士に本当の政治エネルギーを与えて後ろ支えしたのは、いわゆる「草莽」=主として農村の知識も文化も余力もあり国家改革をぜひに必要と望んでいた豪農・地主層たちであった。昨日の俳優座の芝居のパンフに誰かが「草莽」を下級武士層のことと書いていたのは間違っている。下級武士は下級武士、草莽は草莽。藤村の「夜明け前」にはそうした「草莽」たちの維新への燃える熱意と、維新後に裏切られてゆく悲しみや憤懣が書かれている。藤村の父に擬せられた青山半蔵はそれゆえに狂うのである。
しかしいかなる下級士族も草莽の民も「民主主義」は考えていなかった、辛うじて可能性があるとすれば、殺された坂本竜馬と「徳川にかけそこなひし一ッ橋」の退隠した慶喜ぐらいか。
維新日本にのしかかつていた圧力は列強の帝国主義と不平等条約。幸いに維新の元勲達は必死にこれだけははね除けようとしてくれた。しかしその方法として富国強兵で日本列島をガードするよりなかった。天皇を神聖犯すべからざる「玉」「現人神」として国民に拝ませ、そうして国対を統制管理して帝国主義日本国に一致させなければ、たしかに日本は危なかった。「民主主義」など少なくも天皇と藩閥政府周辺には有り得なかったし、板垣退助等の自由党も民主主義を叫んだわけではない、自由民権の許容される立憲帝国主義であった、当初は。主権在民ではなかったのである。
だが新政府の圧政は反撥を生んだ。「自由民権」が私民の声となり、その勢いを支えたのは、もはや衰え果てた士族エネルギーではなくて、またもかの「草莽」であった。そこからより下辺へひろがった。自由民権の運動が鍛えられた民意の表現になって行くのは、東京や京都のような都会からとはいえず、秩父や群馬や土佐や熊本やであった。そこから草原を焼く炎のように拡がった。
* 昨日の舞台の一つの悲歎の声は、発布された待望の憲法が、やっぱり欽定憲法であり日本国は天皇が統治すると第一条に書かれていたことにあった。裏返せば「主権在民」「民主主義」に憧れる私民の声も思いも芽生えていたということである。
だがそれは容易に成らなかった。成させまいとする明治藩閥政権の鞏固な意思を嗣いだ保守政権がガンとして生き延びてきたからだ、あれだけの戦争を跨ぎ越して。
* 北村透谷へ目がいっている。「ペン電子文藝館」やわたしのこの「私語」もいくらかお役に立ってきたのだろうか。
「わたしは当時を体験していないので、あの頃どうして学生たちが団結して『大学粉砕!』なんて叫ぶことができたのか、関心があります。」
わたしも実は何も事情が分かっていない、知りたいと思う。現にその渦中にいたはずの猪瀬直樹などが書いてくれてよさそうなものだが、彼等もひろい意味で「転向」したのであった、ろう。
* 二十代でなく、これらの問題意識に沿った勉強は、まさに三十代から意欲とある種の怒りすら持って取り組まれていい物と思う。ただ、その勉強は勉強、だから政治小説、だから社会小説、だから歴史小説でなければならない理由はないとは、この人もそう云っているから安心できる。恋愛小説でも小家庭内小説ででもこの問題意識は表現し昇華して行ける。
2005 1・6 40
* ていねいに云うつもりで、「おりました」「おります」「致しました」が用いられていると、わたしは勝手に直している。「居る」は膝を折って畏まる、侍 (さむ)ろう位の原意であるから、只の丁寧のつもりであまり多用しない方がいい。「致す」「致します」も、クセ意味の卑下になりやすく、丁寧のつもりで軽用しない方がいい。「が」という助詞と「の」とは、微妙に使い分けが利いたり必要だったりする格助詞である。「が」には敬意薄く、「の」は、やや敬う気味のあることを心得ていると便利。「私が致します」「あなたのなさることなら」
2005 1・13 40
* ゲーテやバルトークのように藝術家にして指導的な地位にあった政治家もあり、一概には云えないけれど、わたしは物書きとしてはいつも野党的な精神を大事に喪いたくないと思っている。だからだいたい野党に支援し、与党には批評批判の視線を向けている。しかし日本の野党はなんとも頼りがいがない。社会党にはタダタダ、ガッカリさせられたし、共産党は、このメールの人の嘆くような、見放すような、何とも言えない臭い頑迷さがつきまとう。柔軟な知恵者がいれば、いい勢力の野党になれるリキをもてそうな党なのに、ひからびたチーズのように固くて臭い。
大体に於いて保守の政治家が本気で怖れてきたのは、野党なんかではない。国民大衆の怒りである。明治以来、藩閥政権も保守本流政権も、民衆の政治的なエネルギが結集することを最も怖れて、その兆しが有れば素早く弾圧し、分断離間をはかり、愚民政策にひそかな力をそそいで絶大の効果を上げてきた。
何を小泉政権等が喜ぶかと云って、韓流だのよんサマだのブラピだのキムタクだのと云ってくれている間は、大安心の大安泰なのである。あのピーピー・キャアキャアのエネルギーがあれらのアイドルから眼を背けて「国会」を睨み始めたら、どんなにビビるか知れたものではない。保守政治の知恵者達は、いかに革新政党に国民を組織させまいかと、最高の悪智慧を使い続けてきたのであり、それをこそ「政権政治」とハッキリ心得ていた。
野党が、労働者の組織が、市民活動が、大きく山を動かしかけたことは、この日本の近代史にも何度となく有り、それはすべて「大衆が横に手を広げて繋いだ」ときに限られている。野党の自力で何かが出来たことは、まず絶無。社民党も共産党もそういう過去から少しも学ぼうとしていない。
憲法。それは大切だ。だが憲法だけでは何も動かない。憲法が大切だと思う国民が動かなければ、憲法そのものは一票にも成らないのである。福島瑞穂も土井たか子も口を開けば、憲法。彼女達は自分のちからで憲法が守れると思うのだろうか。共産党も同じこと繰り返しのアホダラ経を唱えるけれど、国民に向かいどうか自ら動いてくれとは云わない。アカハタを買ってくれ、あとはわたしたちがやりますから、などと云っている。オケヤイ。
こんな野党である間は、日本に野党の力はのびない。保守勢力の渾身必死の悪宣伝で、総評を潰され、日教組をつぶされ、国労を潰され、あれもこれも完膚無きまで潰されて、それこそが「保守政治」の実体であったのだと、志位も福島もまるで分かっていない。もうそろそろ本気で目覚めて「日常の組織活動」を、観念でなくオルグで培わねば、大衆は動かない。大衆が動かなくて政治は変わらないよ。
「九条を守る会」もおなじこと。壇の上からえらそうな人達が説法して大衆が動く力になるなどと思っていては、お話にもならない。
* わたしはかつて左翼陣営に身を寄せたことも活動したことも、一度もない。根から源氏物語や能・歌舞伎や茶の湯や和歌俳句や文学の人間である。そのような人間でも、歴史から学べば、ものは見えてくる。野党のすべき事は一つしかないのだ。「よんサマ」騒ぎなどをただの風俗と観ているようでは、政治家は務まらないよと云いたい。愚民化政策はもののみごとに的を射続けている。ついでに野党をまで愚民にしてやったと政権与党は頬笑んでいるのが、共産党も社民党も見えていないみたい。アホやなあ。
*『あたらしい憲法のはなし』という小冊子を文部省が昭和二十二年八月に発行している。わたしが小学校五年生の夏休みに刊行されている。この年の五月三日に日本国憲法は施行され、この日が憲法記念日になっている。日本国政府が新憲法にどんな理解をもちどんな価値を感じていたかが、ハッキリする。
その小冊子と「日本国憲法」とを「主権在民史料」特別室に併載することにした。これは特に大事な史料である。
2005 1・13 40
* 「逢ひたい人がいつでも有る」とは、わたしの数十年の「ちから」であった。「はげみ」であった。いまでも、有る。「逢ひたい」と「逢ふ」とは、だが、次元を異にしたべつごとである。めったなことで「逢ふ」ということは有るもので無い。「逢ひたい」とは、つまり「逢はない」「逢へない」とほとんど同義語なのである。リクツを言えば、いくらすばらしい人でも物語中の人とは、逢ひたくても夢でしか逢へない。距離が遠くても逢へない。
「逢ふことの絶えてしなくばなかなかに人をも身をもうらみざらまし」とは、じつは「逢ひたい」という願いの裏返しの絶望感なのである。和歌は、不思議な表現をする。
「逢ふ」ことには危険もつきまとう。「安全に逢ひたい」と本気で考える人がいて不思議はない、たぶんダレもがそうだろう。だが、悲劇の女達はそれを敢えて冒して、身を捨てた。愚かかも知れぬ、が、不思議に人はどこかで(自分には出来ない)貴いこととも感じて、そういうヒロインの物語を幾つも書いた。「アンナ・カレーニナ」「ボヴァリー夫人」「チャタレー夫人」など。最近の日本ではこの手の傑作が出来ない、が、西鶴や近松の描く女には、強烈な、優しい女達が烈しく身を捨てて男と逢っていたし、万葉集にはことに優れた「逢ひ」の歌が多い。高市皇子の宮に在る時、ひそかに穂積皇子と逢ひ、事すでに現れて作ったと云われる、但馬皇女の、
人言(ひとこと)を繁み言痛(こちた)み己(おの)が世に未だ渡らぬ朝川渡る
など、あるいは嗤い侮りあざける者もいようが、この下二句の意気の澄んで響くことは、世に稀である。
悲劇を好んで演じてみようというのは、やはり愚であろう。その意味では、そういう愚なヒロインをほとんど書きのこしていない日本の近代現代は、ずいぶん「カシコク」なっていると云うべきか。(わざと、男のことは書かない。呵々)
2005 1・14 40
* 文部省が刊行し、憲法施行直後の八月、主に全国生徒児童を対象に配布した『あたらしい憲法のはなし』は得難い「主権在民史料」の特級ものである。校正して行くにつれて感動が蘇ってくる。たしかにわたしたちの世代はこのように「憲法」と民主主義を学んできて、今なお、信奉している。文部省が内容を十分精査し確認して刊行している此の冊子の「憲法」尊重と遵守の精神は、今の政府与党により、むちゃくちゃに勝手気ままに拡大変義解釈されて、高手小手にねじ上げられていることがよく分かる。
しかし日本国政府は、新憲法を成立させてその精神をこの『あたらしい憲法のはなし』のように理解し解説し、国民の一人一人に、また首相以下の政治家の一人一人に遵守を求めていたのである、決してコレは民間に発生した解釈でも主張でもない。
あえて此所に「一 憲法」をあげてみる。
* あたらしい憲法のはなし 文部省著作発行 昭和二十二年 (1947)八月
一 憲 法
みなさん、あたらしい憲法ができました。そうして昭和二十二年五月三日から、私たち日本國民は、この憲法を守ってゆくことになりました。このあたらしい憲法をこしらえるために、たくさんの人々が、たいへん苦心をなさいました。ところでみなさんは、憲法というものはどんなものかごぞんじですか。じぶんの身にかゝわりのないことのようにおもっている人はないでしょうか。もしそうならば、それは大きなまちがいです。
國の仕事は、一日も休むことはできません。また、國を治めてゆく仕事のやりかたは、はっきりときめておかなければなりません。そのためには、いろいろ規則がいるのです。この規則はたくさんありますが、そのうちで、いちばん大事な規則が憲法です。
國をどういうふうに治め、國の仕事をどういうふうにやってゆくかということをきめた、いちばん根本になっている規則が憲法です。もしみなさんの家の柱がなくなったとしたらどうでしょう。家はたちまちたおれてしまうでしょう。いま國を家にたとえると、ちょうど柱にあたるものが憲法です。もし憲法がなければ、國の中におゝぜいの人がいても、どうして國を治めてゆくかということがわかりません。それでどこの國でも、憲法をいちばん大事な規則として、これをたいせつに守ってゆくのです。國でいちばん大事な規則は、いいかえれば、いちばん高い位にある規則ですから、これを國の「最高法規」というのです。
ところがこの憲法には、いまおはなししたように、國の仕事のやりかたのほかに、もう一つ大事なことが書いてあるのです。それは國民の権利のことです。この権利のことは、あとでくわしくおはなししますから、こゝではたゞ、なぜそれが、國の仕事のやりかたをきめた規則と同じように大事であるか、ということだけをおはなししておきましょう。
みなさんは日本國民のうちのひとりです。國民のひとりひとりが、かしこくなり、強くならなけれは、國民ぜんたいがかしこく、また、強くなれません。國の力のもとは、ひとりひとりの國民にあります。そこで國は、この國民のひとりひとりの力をはっきりとみとめて、しっかりと守ってゆくのです。そのために、國民のひとりひとりに、いろいろ大事な権利があることを、憲法できめているのです。この國民の大事な権利のことを「基本的人権」というのです。これも憲法の中に書いてあるのです。
そこでもういちど、憲法とはどういうものであるかということを申しておきます。憲法とは、國でいちばん大事な規則、すなわち「最高法規」というもので、その中には、だいたい二つのことが記されています。その一つは、國の治めかた、國の仕事のやりかたをきめた規則です。もう一つは、國民のいちばん大事な権利、すなわち「基本的人権」をきめた規則です。このほかにまた憲法は、その必要により、いろいろのことをきめることがあります。こんどの憲法にも、あとでおはなしするように、これからは戦争をけっしてしないという、たいせつなことがきめられています。
これまであった憲法は、明治二十二年(=1889)にできたもので、これは明治天皇がおつくりになって、國民にあたえられたものです。しかし、こんどのあたらしい憲法は、日本國民がじぶんでつくったもので、日本國民ぜんたいの意見で、自由につくられたものであります。この國民ぜんたいの意見を知るために、昭和二十一年四月十日に総選挙が行われ、あたらしい國民の代表がえらばれて、その人々がこの憲法をつくったのです。それで、あたらしい憲法は、國民ぜんたいでつくったということになるのです。
みなさんも日本國民のひとりです。そうすれば、この憲法は、みなさんのつくったものです。みなさんは、じぶんでつくったものを、大事になさるでしょう。こんどの憲法は、みなさんをふくめた國民ぜんたいのつくったものであり、國でいちはん大事な規則であるとするならば、みなさんは、國民のひとりとして、しっかりとこの憲法を守ってゆかなければなりません。そのためには、まずこの憲法に、どういうことが書いてあるかを、はっきりと知らなければなりません。
みなさんが、何かゲームのために規則のようなものをきめるときに、みんないっしょに書いてしまっては、わかりにくいでしょう。國の規則もそれと同じで、一つ一つ事柄にしたがって分けて書き、それに番号をつけて、第何條、第何條というように順々に記します。こんどの憲法は、第一條から第百三條まであります。そうしてそのほかに、前書が、いちばんはじめにつけてあります。これを「前文」といいます。
この前文には、だれがこの憲法をつくったかということや、どんな考えでこの憲法の規則ができているかということなどが記されています。この前文というものは、二つのはたらきをするのです。その一つは、みなさんが憲法をよんで、その意味を知ろうとするときに、手びきになることです。つまりこんどの憲法は、この前文に記されたような考えからできたものですから、前文にある考えと、ちがったふうに考えてはならないということです。もう一つのはたらきは、これからさき、この憲法をかえるときに、この前文に記された考え方と、ちがうようなかえかたをしてはならないということです。
それなら、この前文の考えというのはなんでしょう。いちばん大事な考えが三つあります。それは、「民主主義」と「國際平和主義」と「主権在民主義」です。「主義」という言葉をつかうと、なんだかむずかしくきこえますけれども、少しもむずかしく考えることはありません。主義というのは、正しいと思う、もののやりかたのことです。それでみなさんは、この三つのことを知らなけれはなりません。まず「民主主義」からおはなししましょう。 つづく
* 中でも此所で重要なことは、「憲法は、この前文に記されたような考えからできたものですから、前文にある考えと、ちがったふうに考えてはならないということです。もう一つのはたらきは、これからさき、この憲法をかえるときに、この前文に記された考え方と、ちがうようなかえかたをしてはならないということです。
それなら、この前文の考えというのはなんでしょう。いちばん大事な考えが三つあります。それは、『民主主義』と『國際平和主義』と『主権在民主義』です。「主義」という言葉をつかうと、なんだかむずかしくきこえますけれども、少しもむずかしく考えることはありません。主義というのは、正しいと思う、もののやりかたのことです。」
この国際平和主義の中に「戦争放棄」の思想の盛り込まれてあることは、云うまでもない。この冊子は一から十五章に及んでいて懇切である。そして刊行の時期よりして、憲法制定のまさにその同時期の精神と理解とが書かれているのだから、憲法の議論はまずは此所へ立ち戻って考えるのが至当で妥当だろう。
わたしは今、日本國憲法の前文以下全条文をスキャンしおえた。これを対にして「ペン電子文藝館」の「主権在民史料」特別室の根幹にしたい。最も願っていたことの一つが、任期切れ前に果たせそう。
2005 1・14 40
* 制定当時のままの「日本国憲法」を逐条読み直しているが、これほど興味深く有り難く胸にしみる読み物は、他に、めったに有るものでない。他の何をおいても「憲法」条文だけは、日本人でいる限り我が身と生命財産権利の安全をはかる意味でも、難しい文章ではないのだから、一度通読しておいて、得こそ多けれ絶対に損をしないだろう。「国民の公共財産」としてこれほど価値高き何が他に有るであろうか。
憲法を読まずに自己の安全や権利を願うことは、むろん不可ではないけれども、自己の足場立場を弱くしているのだけは、正真正銘事実である。少なくも「前文日本国憲法」「第二章戦争の放棄」「第三章国民の権利及び義務」は、「我が事」として、即座に読んでおきたいと思う。
* 日本國憲法 前文
日本國民は、正当に選挙された國会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸國民との協和による成果と、わが國全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも國政は、國民の厳粛な信託によるものであって、その権威は國民に由来し、その権力は國民の代表者がこれを行使し、その福利は國民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本國民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる國際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の國民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの國家も、自國のことのみに専念して他國を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自國の主権を維持し、他國と対等関係に立たうとする各國の責務であると信ずる。日本國民は、國家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
第一章 天 皇
第一条 天皇は、日本國の象徴であり日本國民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本國民の総意に基く。
第二条 皇位は、世襲のものであって、國会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
第三条 天皇の國事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第四条 天皇は、この憲法の定める國事に関する行為のみを行ひ、國政に関する権能を有しない。天皇は、法律の定めるところにより、その國事に関する行為を委任することができる。
第五条 皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその國事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。
第六条 天皇は、國会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。天皇は内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、國民のために、左の國事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 國会を召集すること。
三 衆議院を解散すること。
四 國会議員の総選挙の施行を公示すること。
五 國務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七 栄典を授与すること。
八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九 外國の大使及び公使を接受すること。
十 儀式を行ふこと。
第八条 皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、國会の議決に基かなければならない。
第二章 戦争の放棄
第九条 日本國民は、正義と秩序を基調とする國際平和を誠実に希求し、國権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、國際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。國の交戦権は、これを認めない。
第三章 國民の権利及び義務
第十条 日本國民たる要件は、法律でこれを定める。
第十一条 國民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が國民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の國民に与へられる。
第十二条 この憲法が國民に保障する自由及び権利は、國民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、國民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第十三条 すべて國民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する國民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の國政の上で、最大の尊重を必要とする。
第十四条 すべて國民は、法の下に平等であって、人権、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
第十五条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、國民固有の権利である。
すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。
公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を間はれない。
第十六条 何人(なんぴと)も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待近も受けない。
第十七条 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、國又は公共団体に、その賠償を求めることができる。
第十八条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してならない。
第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、國から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
國及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
第二十二条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。何人も、外國に移住し、又は國籍を雌脱する自由を侵されない。
第二十三条 学問の自由は、これを保障する。
第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
第二十五条 すべて國民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
國は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
第二十六条 すべて國民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
すべて國民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
第二十七条 すべて國民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
児童は、これを酷使してはならない。
第二十八条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。
第二十九条 財産権は、これを侵してはならない。
財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
私有財産は、正当な補障の下に、これを公共のために用ひることができる。
第三十条 國民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。
第三十一条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
第三十二条 何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。
第三十三条 何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつている犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。
第三十四条 何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。
第三十五条 何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第三十三条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。
捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ。
第三十六条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
第三十七条 すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。
刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、國でこれを附する。
第三十八条 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
第三十九条 何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の貴任を問はれない。
第四十条 何人も、抑留又は拘禁された後、無罪の裁判を受けたときは、法律の定めるところにより、國にその補償を求めることができる。
* 「日本国憲法」は昭和二十一年(1946)十一月三日公布 昭和二十二年(1947) 五月三日施行。此処に挙げたのはその時のままの表記。憲法が、旧仮名遣いで書かれていたことがわかる。それでいて、で「あって」などと、促音は意図して表示してある。
* これを読めば、おやおや、今の政治は、大事なところで相当な「憲法違反」ないしそれに近いことをイケシャアシャアとやっているらしいことが、いやでも見えてくる。いや、しっかり見据えて是正したい。
憲法に基づいて政治を監視し是正するのも国民人一人の義務であることを最高法規である憲法は明記している。小泉純一郎や自民党が「最高法規」なのではない。「憲法」が最高法規なのである。
いま一章を是非此処に書き写しておきたい。、
* 第十章 最高法規
第九十七条 この憲法が日本國民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の國民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
第九十八条 この憲法は、國の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び國務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
日本國が締結した条約及び確立された國際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
第九十九条 天皇又は摂政及び國務大.匡、國会議貝、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
* 小泉純一郎や石原慎太郎は、此の誇るべき「日本国憲法」を、しみじみ読んでいるのだろうかと疑う。
2005 1・16 40
* 「上等」という言葉が途方もなく佳い重い響きをもっていた、子供の頃。「上等え」というのは、それ以上にない褒め言葉で、けっして価額でなんか換算されなかった。
品物にだけいわれたのではない、人物や、人間関係についても、創作についてもむろんいわれた。篤い敬意が捧げられた。
上等と思った相手がそうでなかったりするのは、「上等」の責任ではない、眼をすった当人に不足があっただけ。滑稽な失敗を重ねながら眼鑑きに成れる者は成ってゆく。よく通俗なドラマや読み物や歌謡曲に、男運のわるい、女運がわるかった、などと嘆き節を聞くが、要するに上等に出逢えなかったのである。
しかし上等がやたらいるわけはないのだから、嘆き過ぎても仕方がない。上等でないと感じたら早めに手放したらいい。別れたらいい。その思い切りが出来るか出来ないかだけである。一般に、出来ないものらしい。わたしは、出来る。
骨董の類も同じこと、容易に上等には行き当たるまい。だが、この世間では、好きなら好きでほどよく済ませられる価値観の不思議な音楽が鳴っている。贋物と分かっていても気に入っている品はあるものだ。
骨董に限らないか。好きならことさら上等でなくてもいい、贋物に類していてもいいと、大抵の世間では、ほどよく互いに手をうち納得し合っている。そういう融通を、人間は、男女は平気で利かす。腐れ縁を人はそう嫌ってもいないらしく、「くさや」の珍味を賞味しているような間柄も少なくないらしい。ほめたことか、ほめたことではないか、分かりにくいが、誰もかも上等主義になると、絶望して死人が沢山出るだろう。
わたしは、腐れ縁は持たない。心身に、幼い頃から聴いた「上等」への信仰がある。疵はあっても珠は珠、腐っても鯛、そこの真価を一に考える。佳い物は佳いのである。
* 好天。千葉まで清水焼「六兵衛代々展」をみにゆきたいが、今日はゆっくり休息し、明日か明後日に。
2005 1・18 40
* 十時には建日子のドラマが二回目。妻は録画の手配をして出掛けた。建日子から電話があり、芝居は超満員つづきで、わたしたちがもう一度行く土曜の席は、離れ席で辛抱してくれと。けっこうです。
ドラマの方もまだ一回しか放映していないが、東京新聞の朝刊では記者たちの座談会で、倉本聰のドラマについで第二位にラクンされ、「ラストプレゼント」よりもまだ佳いと褒められていた。金八せんせいなどを書いてきた小山内美江子さんも、コラムで、建日子の脚本を特にとりあげ褒めてくれていた。本も増し刷りしているし、いい書評も出て来ている。ここは、彼第一度めの「噴出期」だ、この期を逸せず真剣に努めてくれるといい。
井上靖は、私に、人にはだれも生涯に二度の「噴出期」があるものです、その時機にタイムリーに噴出するかしないか、が分かれ目です、と。建日子は噴出しかけている。こういうときにこそ健康の維持がなにより大切。病気や怪我や事故に万全気を配りながら力限り気持ちよく精魂を注いで仕事することだ。
2005 1・19 40
* バレーボールは一人では出来ないので、お友達が出来るかも知れませんね。上手に楽しんで、くれぐれも突き指しないように。花粉を一所懸命アタックしてください。
三島由紀夫は初期にファシネーティヴに読み応えのある作品があり、しかし中頃の「金閣寺」あたりに、本当の実力のヤマがありそうです。晩年の絶筆になった五部作は、いかにも意識過剰に乾いた造花のように感じました。力のある人でしたが、みずみずしい生命感に溢れる人間というより、巧緻に創られたアンドロイドの書いた物のようでも有りました、殊に晩年に近づくほど。でも、三島を手に入れておくことはいい、大きな作家でしたからね。近代能楽集など戯曲がよかった。
疲れていましたが、もう残り時間が無くて、観るとご当主に約束もしていた京焼、「清水六兵衛歴代展」を千葉市立美術館まで行って、観てきました。予期したとおりなかなかの展覧会でした。観て、すぐ、舞い戻りました。大事に毎日を過ごされるよう。 風
2005 1・20 40
* 柳田国男の『日本の祭』を読んでいて、かすかにかすかに記憶を呼び覚まされるときがある。夜に夜をついで日々の数えられていたことは、知識としても納得していた。王朝の物語を読んでいて、一日が朝から始まるなどとはとても思われない。そういう、実感とまではいかないが予感ないし推知は、たとえば祇園祭の「宵山・宵宮」でもう体感していたのだ、あの祭りのもっとも華やいだ時間は、祭礼当日の鉾巡幸以上に、前夜の宵山・宵宮にあることを、子供心にありあり感じていた。(遠い異国の例をあげて正しいかどうかいささか危ぶむけれど、クリスマスは暮れの二十五日と承知しながら、イヴの二十四日を盛大に祝いあうのも、それに等しくはないのか。)
正月用に蛤を買いに行くのが、わたしの恒例のお役であることは何度も書いているが。新門前の秦でも保谷の秦でも、その蛤汁を大根人参紅白の酢なますなどとともに「お祝いやす」と家族一礼して祝うのは、きまって大晦日の宵の食事からであった。お正月サンは大晦日の夕暮れにはもう訪れているのである。
柳田は言う、前夜の夕暮れから翌朝までが一続きの正月の年霊迎えの祭りであったと。だが、なんとなく、前夜と早朝とにいつしかに二分されてきた。それでも気持ちはどこか、もとのまま「一続き」に、この除夜から元朝へは床に入って寝ることもごく短くか、またはなにとなく通夜のうえで、極く早朝から「祭」の気持ちで雑煮を祝う風が、いまも多い、広い、と。
たしかに我が家でも、今でこそ平気で元朝を日が高くなるまででいぎたなく長寝しているけれど、新門前の秦では、「なんでやの」と子供心に堪らないほど元旦だけは、とびきり早く起こされ、ガチガチ身震いしながら顔を洗い、かなり厳粛に雑煮を祝ったのを憶えている。あれは、前夜の宵から元旦早朝まで「一連の正月祭」をしていたのだった。そういうふうには、なかなか思い至らなかっただけで、おそらく秦の父も母もそんな意識はなかったろうと思う。意識が有れば、あの父なら一席弁じて、説明してくれるぐらいはあったろう。
一つの証拠とも謂えるだろうか、昔から「初夢」とは元日の晩から二日の朝へかけて見る夢だと教わっていた。なんで元朝に見る夢ではないのだろうとまでは、子供なりに不審に感じた。そうなんだ、大晦日から元旦へは、寝ないで大歳神を祭る、それが古来本然の「祭」であったのなら、夢など、見ようがなかったのだ。
* 柳田は、「まつり」とは、「まつらふ」だと謂っている。その日ばかりは神霊の「お側にいて、なにかと奉仕する」のが「まつらふ」「まつる」意味だと。「まつはる」「まつはりつく」とも繋がっていようか。よく分かる。そして「祭」と「祭礼」とは、歴史も形もちがう。祭はいわば近親者が「お側にいて何かと奉仕する」が、祭礼には無関係な見物が参加する。
* いろんなことを思い出すものだ。が、ふしぎと、心身が澄んでゆく気がする。
2005 1・24 40
* 夜中に二度三度起きてしまう日がつづくと、いやおうなく寝床の中で真の闇にむきあうことになる。わたしはこの機会を、むしろ、珍重している。ふしぎな体験ができるから。
ほぼ完璧な闇であるから眼は明いていても閉じていてもいい。「闇」には、深さを感じても、限定された広さは感じない。無際涯に広いし、深い。闇って、なんて美しいんだろうと鑑賞しているときもあるが、ふつうは何も考えないようにして、じいっと闇に向き合っている。
すると、いつ知れず自分の「体」感覚が尽く消滅消尽し、内蔵は愚か語感も体感も無くなっている。体というものがなく「意識」だけがまだ生きている。「生」とは「意識」のことで、必ずしも「意識」に「体」は係わっていないのだ、「体」はもともと空無なのだ、と、そう分かる。意識そのものにだけ、成る。成れる。わたしはそれが嬉しいので「闇」の中にいるのが好きなのである。闇の宇宙=全体=トータルに、「体」という個体としてでなく、「意識」として溶け込んでいる安心と静謐。
この「意識」も、いつか失せるだろう、それが「生」「死」の転帰。「体」もまた生死には関わっていない。まして頼りない「心」なんて。
* ま、わたしはそんなふうに眠れない夜中を「闇」に包まれて過ごしている。
* 体をそのように見切ることによって、わたしは断然心より「体」に親しい。体の望むことは叶えたいと思う。体にしたがっている方が、心=分別=マインドにしたがうより、同じ「しくじり」でも軽くすみそうな気がしている。つまり体と意識とをハートフルに仲良くさせ、分別に縛られずに自由に過ごしたい。心に振り回されるのはマッピラだ。
2005 1・24 40
* 感動を得て美点に讃嘆するのは大切なことです。が、ものを「創る」人間には、全面降伏などということはなく、どんな仕事にも、それなりに批評を受ける点のあるのが普通です。全面讃美で卑下の度合いを強調しておくというのは、時には巧妙で狡い自己弁護になることもあります。
江里佐代子は、わたしが「美術京都」の対談へ引っ張り出して紹介し、その勢いで美術文化賞も受けたのが大きなブレークに結びつき、一気に噴出して人間国宝になりました。それだけの力があるからです。
あの人は、はるか以前に「畜生塚」という、(年代がまるでちがいますけれど、)まるでそっくり江里さんがモデルかのように「きりがね高校生」を小説にしておいた、その跡を精緻に踏んできた人なんです。
あなた、あんまり簡単に感嘆ばかりしていないで、批評すべきはしないといけません。褒めあげておいて、その陰に小さく隠れてはよろしくない。創作者というのは、世界的な天才の作品にすら、自分ならばという批評をもっていいんじゃないでしょうか。厳しくシビアに見て批評し、それをまた自分の仕事の批評眼に養いたい。
そうそう、あなたには「図案」専攻というもともとの根があるから、江里さんの工藝に感じることも強かったのでしょう。それは、それです。 湖
2005 2・2 41
* なにしろ大学の一般教養時代に、或る先生から、まるまる一年「ファウスト」と「トランツェンデンタール(先験)」と「本質直観」とを聴かないことはなかった。それしか憶えていないが、それで十分でもある。
古代文学の先生からは、「ものがたり」の「もの」とは「ものすごい」「ものあわれな」「ものものしい」鬼・霊にこそ通じて、物質の物ではないと聴いて、眼からウロコが落ちた。この先生からもこれだけを覚えた。
社会学の講義からは、のちにわたしが盛んに書いた「位取り」にあたる、不思議な力関係・緊張関係が人間同士には生じていると、ただそれだけを覚えた。
美学の先生からは、「鐘が鳴るか撞木が鳴るか。鐘と撞木の間(あい)が鳴る」と聴き、「事態」という構造で主客の和を観じるようになった。あれで、美の観照だけでなく、趣味の茶の湯も見えてきた。
日本美術史は京の寺々へじかにモノの前へ行って障壁画の講義を聴いた。これは嬉しかった。
西洋美術史は西洋へ一度も行ったことのない先生の、ルネサンス画家たちの講義に信用がならず、フイリッポ・リッピだのと、やたら大勢の名前だけを覚えた。
大学(学部)での勉強というのは、わたしのような真面目な優等生でも、この程度だ。大学を出て、小説を書き始めてからの勉強の方が、はるかに充実したと思う。「花と風」「女文化の終焉」「趣向と自然」「谷崎潤一郎論」などの文化論や美学や作家論は、みな三十代の仕事だが、今でもオリジナルをはらんで古びてなどいない。ただし、それらの根に、はっきり「京都」のあることは動かせない。「京の昼寝」はバカにならなかった。
2005 2・5 41
* 風邪の見舞いは一杯来ている。申し訳ない。それに寝ていろと言われても寝ていられない。わたしの日々は川の流れるままに流れ流れ流れている。わたしの流れているそばをわたしの風邪も流れている、それだけのことだ。風邪はやがて流れの水に溶け込んでしまうだろう。わたしと一緒くたに流れている数え切れないいろんなモノがある。コンピュータも家も黒いマゴも妻も湖の本も文藝館も美術京都も、あれもこれも川の流れの中ではただもうひたすら一緒くたに流れている。流れながら瞑想すると、自分が雪景の枯木に凝然と動かない鴉にも見えるし、そいつを魔法の玉で覗くと、寸暇もなくいろんなことをやっていて、けっこう楽しそう。ときどき、カアカアと啼くのも妙なみどころになっている、という次第。
2005 2・10 41
* 前の戦争で待ったなしに夫や恋人を戦地へ拉し去られて永別した女性達が孜々としてその体験を書き継いでいるのを、テレビの映像がレポートしていた。どうみても、ものを書くのが天性であったという人達ではないが、書かずにおれなくなった「血しぶきのような文章」を綴っている。みなもうわたしよりも高齢のおばあちゃん達であるが、その一人が、こういう体験を「書く」以上は、はだかに成った気で書かねばかえってウソがまじる、「腰巻きもはずした気持ちでなければ」と言っているのに、わたしは首肯いた。なにもむりむり何もかも暴くように書くべしと言うのではない、必要ならソレにたじろがない覚悟で書くのである。
この覚悟が容易に、世の「書きたい、書きたい」人達にもてない。その覚悟ができてない著述はツマリ概して綺麗事におわり、つまりどこかで浅いウソから出来上がってゆく。
2005 2・11 41
* 病気で凹んではいたが、胸に溢れる感慨や思索を強いてくるつよいモノに幾度も幾つにも触れていた。バグワンも、耳に鳴り響くハナシをしてくれていた。
柳田国男は「日本の祭」を語りながら、「木を立てる」という事の、遠く深く広い意義をつぶさに実例を挙げながら話し続けていてくれた。イザナギとイザナミとは柱をめぐって国造りをしている。諏訪の祭りはあの有名な御柱を建てることから始まる。ありとある日本の祭りの悉くが何らかの形で、木ないし御幣を以て祭場をさだめ、うつし、神を迎えて人は潔斎する。よく見ていれば気が付くのに見過ごしているうちに、それゆえにずるずると変貌し他と習合して、根源を見失うことになる。「祭り」の根源を安易に見失うことと「日本」の頽廃とが軌をともにしないかと、柳田は真剣に憂えているが、それからすでにまた半世紀が経ち、「日本」は日本の心根をむしろかなぐりすてて平然とした根無し草に漂い行こうとしている。
人は、そんな柳田国男の警告と、たとえば沼正三の「家畜人ヤプー」とが、関係有りとは思いにくいであろう、が、わたしは、柳田は原因を抉り、沼正三はその無反省なための結果を見せつけていると感じている。わたしは今、『家畜人ヤプー』の完結三巻本の第三巻の半ばを読み進んでいるが、日本人の家畜人ヤプーとしての末路のすさまじさは、言語に絶していて、しかも彼等はその境遇に完全に馴致飼育利用されている。そのことに信仰の歓喜をすら覚えている。
日本人が「日本の祭りの根底」を見失い、白人崇拝と、模倣を重ねた愚痴と傲慢の「末路ぞこれは」と、著者は提示している、そう読める。徹底的な「侮辱による批判」である。その一つの証拠に、作者は、日本人の大御神とあがめたアマテラスとは、じつは白人アンナテラスの神話的置き換えであり、日本の神話も伝統もイース国の貴族にして総督であるアンナテラスのジャバン国支配の行政手段なのである。現在の(過去の)地球からふとした事故と偶然に導かれ、未来の (現在の)、イース帝国貴族社会に迎え取られたドイツ人女性クララ・コトウィックにむかい、当の地球総督アンナテラスが、さまざまな実例と証拠とでそれを語っている。そのクララの側には、昨日まで最愛の恋人で婚約者であった日本人男性瀬部麟一郎が、イース国の絶大の科学力により強制強圧で家畜ヤプー化され、去勢され、電磁支配に四つ這いに拘束され、忽ちにイースに馴染んで行くクララの足下で、従属犬として引き回され、次なる運命に怯えながら、はやくも迎合的な期待もかけている。何の期待か。それは此処には書くまい。
柳田国男と沼正三などという観点をもった論者はいなかった。だが「日本」の「根」を確かにしようと努めた柳田の警告を安易に無視していると、沼が描いている家畜人ヤプーの飼育牧場としての邪蛮国が現前し、日本人は白人帝国イースのありとあらゆる道具家具便具に加工され使用され使い棄てられて行く。そんな因果関係を想い描かせられるのは愉快ではない、が、いかにもあり得そうに(毒々しく精緻にリアルに)警告しつづけているのが、天才の奇書『家畜人ヤプー』なのである。
* そして「ファウスト」そして「デミアン」そして「今昔物語」のファルス(笑話)に吹き出し、まさに私の生まれた「昭和十年」に至る、わが近代史の現代史と成り変わりゆく「ファシズムと大恐慌の時代」。今まで心づかなかったが、わたしを「預け子のちに貰ひ子」として南山城当尾の大庄屋吉岡家から預かるまでの、秦の両親たちは、明治三十年以来、ああ、いったいどんなに窮乏と苦辛との庶民生活を生き凌いできたかと、想えば思えば息がつまってくる。
貨幣の価値変動ひとつをとっても、とてもわたしらの想像を絶した、いやおうなしの体験を父達はして生き延び、そしてわたしを迎えて育ててくれたのだ。ああ。
2005 2・11 41
* 最も上等の人士が道(TAO)を聞くと、 上士聞道、勤而行之
一生懸命にそれに従って生きようとする…… 老子
ただし、一生懸命に精進することによって、人はだんだんと、変身の最終段階においては努力それ自体がひとつの障壁(バリヤー)であるということを感ずるに至る。あなたが一生懸命に〈道TAO〉に従って生きようとしているとき、その生は自然な生ではあり得ないからだ。それはひとつの強いられた現象でしかあり得ない。統制ではあっても、自由じゃない。あらゆる努力はすべて自我(エゴ)のものにほかならないからだ。〈真実〉を達成しようとする欲求すらもエゴから出て来る。人はそれを落とさねばならなくなる。
ただし、覚えておきなさい。人が努力を落とせるのは、その最大限まで努力をしたときに限る。「もしそうなのだったら、一番初めから努力なんてやめにしよう。なんでそんなことをする?」などとは言えない。無技巧と言えるほどの技巧を持つことは、どんな規律も通ってこなかった者たちにとっては不可能なことだ。
最終的には、藝術家は、自分の藝術を完全に忘れるようにならなければならない。それが何であれ、彼は自分の学んだものを忘れ去るべきなのだ。しかし、忘れることができるのは、それまでに学んだものに限る。
最初にひとつのことを学ぶのも難しい。しかし、いったんそれを学んでしまったら、それを忘れるのはもっと難しい。その第二部はとてもとても不可欠で重要なところだ。さもなければ、あなたはテクニシャンではあってもアーティストではあるまい。
完壁な絵描きは、筆やキャンバスなど必要としない。完璧な音楽家は、シタールやヴァイオリンやギターなど必要としない。いいや、そんなものは素人のものなのだ。
私は、ひとりのとても年取った音楽家に出会ったことがある。彼はもう死んでいる。彼は一一〇歳だった。ラヴィ・シャンカールは彼の弟子だ。彼はどんなものででも音楽を生み出すことができた。本当にどんなものででもだ。彼が二つの岩のところを通りかかれば、彼はそれで音楽を作ってしまう。鉄のかけらを見つければ、彼はそれで演奏を始める。そしてあなたは、いままで一度も聞いたことのないようなューティフルな音楽を耳にする。あれこそ本当の音楽家だった。そうなると、彼のひと触れまでが音楽的だった。もし彼があなたに触れようものなら、あなたの内なるハーモニーと音楽の、内奥無比なる楽器に触れたということを、あなたは目のあたりにする。突如として、あなたは振動しはじめる。
最も上等の者たちは、一生懸命(真実)に従って生きようと、大変な努力をする。そうして、だんだんとあなたは、自分の大変な努力が、少しは役に立つものの、大いに妨げにもなるということをも理解する。 ―バグワン―
* わたしは、瀧に打たれたり、身を焦がしたり、峯々を渡ったり、穴に籠もったりというような難行苦行が「悟り」を「獲得」する行為であるなら、悟った人が本当にいるのだろうか? と想ってきたし、今でも疑っている。わたしには山林抖薮や断食への同情が余りなく、その辺が山折哲雄氏との対談でまともにぶつかった。わたしには、あれは悟りへの道であるより、疲労の極の朦朧という無心類似の境地のようなもので、座禅で得られる静謐な内奥とは似て非であろうと想われる。
普通に人為の日々をすごしながら、人為に拘束されたり束縛されたりしないで平静に「そのとき」を待てばいいと、そうわたしはバグワンに教えられている気がしている。勝手にしているので、正しいともあやまちともわたしは知らない。「今・此処」に文字通り一所懸命に、一期一会に在ること。一会一切会、一新一切新、一斬一切斬。努力して出来ることではなかろう。
2005 2・11 41
* 言葉には宿命的にウソがある。過不足なくものを言うことも書くことも、絶対にムリなのだから、言葉の素質はむしろ、ウソになる、という点にある。言葉に頼りすぎた行為が、とかく信頼しきれないのはムリもない。口先を飾るからだ。そう疑われやすいからだ。言葉の不足は冷えた誤解をまねきやすいが、誤解は誠意が在れば解ける。しかし過剰な物言いはどう慇懃であってもニンを損ない、いやみな印象、軽々しい印象を改めにくくする。
2005 2・11 41
* わたしは自認している「ミーハー」であるから、人への興味は人一倍、ふだんには平気で好き嫌いをハッキリさせている、わざと口にすることはしないけれど。ただ、一定の印象を固定しておくほうでなく、よく眺めて、新ためていく。眺めてというより、鏡のように写しておいて、見定める。
「モノ」は財産ではない、出逢う「人」が或る意味で宝であるから、甘いことは考えない。
2005 2・14 41
* 「試みる」という言葉のもともと本義は「心見る」であるらしい。相手の気持ちを「ためす」のであり、それが戦の前であったり交渉であったりするときは「腹藝」や「胸三寸」まで加わってくる。北朝鮮がいまも盛んにアメリカ相手にそれをやっている。
もっと露骨に親しい人や恋人などの「心を試そう」とする場合もあり、「心見る」もっとも露骨なやり方になるが、日本の社会には、公家社会このかた風雅の一環として「心み」「心競ひ」の伝統がないわけでない。おもに言葉をなげかけて反応をみるのである。枕にも徒然にも、いろいろの本にも、実例はある。和歌の相聞や唱和に実例は夥しい。
しかしもっと露骨に人の心をこころみようとする例があり、舞台で二度つづけざまにみた綺堂歌舞伎の「番町皿屋敷」のお菊がやっている。いじらしいけれども、いささか愚かしい女のやりそうなことだ。実話のことはよく知らないが、もとは怪談であろうか。しかし岡本綺堂は相愛の主君青山播磨と侍女お菊の物語に巧みに書き換えている。
ひと言で言えば、男の自分への愛をこころみるために家重代の宝の皿をわざとお菊が割って、そうして播磨の自分への愛のふかさを「心見た」のだが、はじめ、粗相で割ったと思いこんだ播磨は笑ってゆるし、問題にしない。しかし柱に打ち当てて皿を割るお菊をみていた朋輩のうったえで、それが意図した愛の「心試し」であった知った播磨は、涙をのんで残る皿をことごとく自身で打ち割ったすえに、お菊を斬る。播磨の愛情は真実であっただけに試みられた無念は深い傷になり、彼は愛する故にお菊を斬ってしまう。
むかし映画でも「青山播磨」というのを観た、映画館で。たしか青山京子という可憐な美女がお菊役だった。播磨のことは忘れたが、歌舞伎ではわたしはお菊のしていることに納得しなかった。こういうことをもし自分がされたならどんなにイヤだろうと思いながら、ことに中村梅玉の播磨には共感した、というより中村時蔵のお菊があわれまれた。
恋する相手の心根をみたいとなげく恋人は、世に溢れているだろう。それでもなお、そういう「心見」は心根に於いてゆがんでいる例が多い。罪なく無意識のうちにすることもあろうが、意図して、たくんで、人のまことを「こころみる」のは美しいことではない。
2005 2・15 41
* 興味ある理事会であった。
あらかじめ、こういう文書で「電子文藝館委員会」としての報告を、理事会に提出しておいた。三項を用意していたが、その第一を掲げてみる。
* 昨年十二月理事会で新設を報告し諒承された「主権在民史料」特別室には、以降、下記、
藤村操「巌頭之感」 田中正造「足尾鉱毒天皇直訴」 北村透谷「精神の自由」 色川大吉「自由民権請願の波」 幸徳秋水「自由党を祭る文」 堺利彦・幸徳傳次郎「万朝報退社の辞」 徳富蘆花「勝利の悲哀」 文部省「あたらしい憲法のはなし: 日本国憲法全文」 植木枝盛「日本國國憲案 附・大日本帝国憲法」
その他をすでに展示し、今井清一「関東大震災」等々、次次にいまも手がけている。
標題を「検索」するという読み取り手段からも、系統的な目次構成の必要はなく、目に触れ手に触れた史料から随時に集積してゆくのが効率がいいのは、他の諸展示と同様である。収拾は、「直接史料」に限定せず、趣意において深く鋭く「主権在民」の思想や理想に触れてゆくもの、さよう時代を刺戟したもの、を大小となく取り上げて行く。委員会に一任されたい。
試みに一点の別添史料「日本皇帝睦仁君に与ふ」を、予備稿の体裁で理事会に提示する。率直に、(此処に加えて掲載するかどうか、等)理事各位のご感想を参考にうかがいたい。(前文は、秦が書いている。)
* この史料は、無署名であるが、中央公論社刊『日本の歴史』第22巻「大日本帝国の試煉」のP422以降に歴史記述の一環として掲載されているもので、その限りで根拠のないものではなく、まともな歴史学者のまともな意図に於いて大多数読者に早く(昭和四十九年)に提供され版も重ねていたモノで、わたしが勝手気ままに創出したモノではない。紹介のために仮に書いた前文も、史料を歪曲することなくごく普通に書いてみたモノである。
以下に、そのまま紹介してみる。
* 主権在民史料特別室
掲載の史料は、明治天皇の誕生日(天長節)を期して米国サンフランシスコ総領事館の入り口に貼られ、現地でも、日本へも、多数配布された「天皇への公開状」。天皇制への正面切った批判として画期的な一文は当局を震撼した。米国では「不敬罪」が適用できないのを利したテロリズム・アピール。この年明治四十年(1907)は、株式大暴落を皮切りに暴動・争議相次ぎ、「日本社会党」結社禁止、「平民新聞」発行停止、さらに桂太郎内閣は韓国皇帝の退位を強行、苛酷な不平等条約を押し付けるなどの挙に出て、帝国主義の拡大に奔命していた。この情勢がやがてフレームアップ(政権のでっちあげ)される「大逆事件」へ結びついて行く。民主主義へむかう最も暗澹とした時代の、本史料は不健康な「時代の病症」の一露出であった。日本ペンクラブと電子文藝館はかかるテロリズムを決して容認しないし、自由と人権の抑圧政治にも断乎抵抗する。
日本皇帝睦仁君に与ふ
「暗殺主義」第一巻第一号 明治四十年十一月三日
日本皇帝睦仁君足下 余等無政府党革命党暗殺主義者は、今足下に一言せんと欲す。
足下知るや。足下の祖先なりと称する神武天皇は何物なるかを。日本の史学者は彼を神の子なりといふと雖も、そは只だ足下に阿諛(あゆ)を呈するの言にして虚構也。自然法のゆるさゞるところ也。故に事実上彼また吾人と等しく猿類より進化せる者にして、特別なる権能を有せざるを、今更に余等の喋々をまたざる也。
彼は何処に生れたるやに関しては、今日確実なる論拠なしと雖も、恐(おそら)く土人にあらずんば、支那或は馬来(マライ)半島辺より漂流せるの人ならん。
今は足下は、足下の権力を他より害せられざらんが為めに、而(しかう)して其権力を絶大・無限ならしめんが為めに、其機関として政府を作り、法律を発し、軍隊を集め、警察を組織し、而して他の一方には、人民をして足下に従順ならしめんが為めに、奴隷道徳、即ち忠君愛国主義を土台とせる教育を以てす。而して其必然的結果として生じたるは貴族也、資本家也、官吏也。如斯(かくのごとく)にして日本人民は奴隷となりたる也、自由は絶タイ的に与へられざる也。足下は神聖にして侵すべからざる者となり、紳士閥は泰平楽をならべて、人民はいよいよ苦境におちいれり。
自由を叫びたる新聞・雑誌記者は、入獄を命ぜられたるにあらずや。単に憲法の範囲内に於る自由を主張したる日本社会党すら、解散を命ぜられたるにあらずや。こゝに於而(おいて)吾人は断言す。足下は吾人の敵なるを。自由の敵なるを。吾人徒(いたづ)らに暴を好むものにあらず。然れども、暴を以而(もつて)圧制する時には、暴を以而反抗すべし。遊説(ゆうぜい)や煽動の如き緩慢なる手段を止めて、須(すべから)く暗殺を実行すべし。
睦仁君足下。憐なる睦仁君足下。足下の命や旦夕(たんせき)にせまれり。爆裂弾は足下の周囲にありて、将(ま)さに破裂せんとしつゝあり。さらば足下よ。
* わたしは、さきに、電子文藝館委員長としてこれを委員会(二月七日)に提示し、率直な意見を請うた。わたしの予測にはすこし反したぐらい、委員会では、当然「主権在民史料」特別室に掲載すべきであるとの意見が多く、逡巡を表明した一人もなかった。わたしはさらに慎重を期したいと思い、と言うよりも、この際日本ペンクラブ理事諸公の反応が知りたくて、今日の理事会に上のような趣旨で提出した。だれがどんな意見を言うかに強い関心があった。井上ひさし会長がいみじくも言い当てたように、リトマス試験紙を、ないし一種の踏絵をあえて突きだしてみたのである。
* 真っ先に井上ひさし会長が、積極的な賛同を示された。井上さんなら当然だと思い、それでも「ほおっ」と思い、さてと続く賛同意見が有るのだろうかと見ていると、中西進副会長からつよい反対意見が出た。以下、浅田次郎氏や数人からも、日本ペンクラブが誤解を受けるといった反対論が出た。いずれも、奥歯にもののはさまった理由らしきものが語られた。しかし、とはいえこれは稀有な好史料であり、何らかの形で是非活かしたいというような史料への賛同はついに誰からも出てこなかった。いろいろ条件をつけ、つまり「慎重にしよう」という意見であった。井上さんが言うように、「すこし自己規制」のかかった、ま、危うきには近寄らぬがいいと聞こえそうな意見ばかり。工夫をこらしてでもこの史料をぜひ活かしたいというのは、井上ひさし会長一人であった。このことは、現在の日本ペンクラブを指導している気の「理事会の空気」を、そのままあらわしていて、多くは沈黙して意見を述べなかった。述べるにも値しないつまらぬ問題だとも誰一人言わなかった。
* とくにわたしを驚愕させた中西副会長の二つの意見は、記憶に値する。
一つは、この史料と出会った中央公論社刊の『日本の歴史』は、ある特殊な時期の最低レベルの歴史記述で「学問」の名に全く値しないヒドイモノであると極言されたこと。
これに対し、わたしは即座に、歴史叢書をわたしも何種か瞥見しているが、この全二十六巻の日本の歴史は、逐一通読してきて実感している、誠実な姿勢で「各時代」をよく読んでいて、むしろこれ以降の歴史ものにこそ、後退また後退の体制妥協が露わではないかと反論した。中西氏は苦笑いして黙った。
今一つ、中西進氏は、上の史料に反対する一つの理由は、「無署名」であることだと。
これにもわたしは即座に、古代学者の中西さんらしからぬ暴言ではなかろうか、上古来の童謡(わざうた)や歌謡や落書は、悉く「無署名」であるが、その史料性を否定されるのか、と。
中西氏はヘキエキし「無名」と「無署名」とはちがうとか、上古と現代とではちがうとか、口の中でいうのが隣席ゆえに聴き取れたが、まともな議論とは思われない。中世の「このごろ都にはやるもの」という落首にしても、江戸にも、明治にも、大正昭和にも「無署名」のまま優れて光った批評的史料はいくらもある。むしろ、署名も出来ない命がけで弾圧の手をかいくぐって「主権在民」への道を、やっとやっと築こうとした国民の意向のあらわれではないか、この史料は、と。
明治四十年当時、こんなものが日本国内で出されていたら、フレームアップされてどれだけの弾圧ないし虐殺の被害者が出たか知れない。アメリカからの海を越えた投書で政府にも手が出せなかったことにこそ、無道な「時代」が表現されているのだった。
しかも幸徳秋水の帰国を待ちかねたように、日本の政府官憲がやってのけた大でっちあげの国の犯罪が、即ち「大逆事件」であったことは、堂々たる歴史大事典等でも明記しているのである。
* これだけのことは、此処に参考までに「書き置く」ことにする。各新聞社の記者達も傍聴取材しているペンの理事会であり、秘密会でも何でもない。参考意見を知りたかった目的だけは達した。
井上会長は会の後、「きわめて有効なリトマス試験紙でしたね」と言葉をかけてきて、いい工夫を加えてぜひ取り上げましょう、と。ま、それで、足りている。
次いで、もう一項目の「提案」も挙げておく。
* 「憲法改正」問題はこれからの日本の最重要急務となってゆく。「会員」の「声」をも電子文藝館「広場」に多く迎え入れる工夫をしたい、と同時に、電子文藝館委員会は、理事会に「提案」する。
「憲法改正問題」で、日本ペンクラブの見解や主張を、具体的な問題点とともに広く表明できるよう、また会員に伝え得るように、実質的な「小委員会ないし検討会」を設け、継続取組みの姿勢を明白にしてもらえないか、と。
ペンの月例会でも随時に報告し、例会を単なる懇親会だけに終わらせず、臨時の「会員討論会」にも転用できるフレキシブルな道もぜひ開かれたい。
* 現執行部体制も理事任期もやがて終わり、新しくなる(かもしれない)ので、此の件は「承っておく」と、阿刀田専務理事の約束で、無審議に終わった。これはこれでよい。「提案」は理事会に記録されねばならない。
* 珍しく大岡信氏が出席されていた。大岡さんの顔を見ているうち、わたしは反射的に竹西寛子さんを思い出していた。また亡くなった中村真一郎さんや山本健吉さんなどを思い出していた。みなさん古典から現代文学までを通じて日本文学にほんとうにくわしい。しかしこういう人の名も顔も、めったに日本ペンクラブの催し物で見ない。ことに海外の来客との文学的な催し物で、ほんとうに日本文学のひろく深く分かっていそうな人が責任ある発言や発表をしているのだろうかと、ふと、うそ寒い気がした。
* 例会は失礼。というのも印刷所から「校了」待ちの督促を受けていたし、食事しながらゲラを読みたかった。ひさしぶりにクラブの、自前の酒も飲みたかった。新しい年会費も払い込んでおきたかった。
おかげで、明日中には責了できそうな按排。暖かい日でたすかった。街にも電車にも風邪気味の人の多いのにおどろく。
2005 2・15 41
* さてこれで三月十日まで、カレンダーにいわゆる「予定」がない。もう一週間かければ発送用意は大方終えられる。
いったいわたしの日々は忙しいのだろうか、ヒマなのだろうか。稼ぎ仕事を全然していない点からすれば、稼ぎ自慢の人達からは、おまえはヒマだと言われるだろう。稼ぐだけが仕事ではないという見方からすれば、わたしのこの数年はおっそろしく忙しい日々である。カレンダーに「予定」があろうと無かろうと忙しさに変わりない。だれか代わってよといえば、みな逃げ出して行く。忙中にどう閑をさぐるか、根が働き人(ど)に出来ていたわたしは、忙即閑のように観じて、忙しいのにもヒマにも対応している。いまのわたしたちには、どう忙しくてもしゃにむに「急がねばならぬ」何一つない。「いい老後」とすんなり思っている。悪しき安住とそしる人には、あなたには出来まい、とは言わずに低頭するだけ。
安住どころか、わたしはまだ不安である。その不安の前で、藝術もあまり力がない。まして宗教に力は無い。わたしはただ「待って」いる、日々することをしながら。一心にしながら。
2005 2・15 41
* 井上光貞「神話から歴史へ」 直木幸次郎「古代国家の成立」 青木和夫「奈良の都」 北山茂夫「平安京」 土田直鎮「王朝の貴族」 竹内理三「武士の登場」 石井進「鎌倉幕府」 黒田俊雄「蒙古襲来」 佐藤進一「南北朝の動乱」 永原慶二「下剋上の時代」 杉山博「戦国大名」 林屋辰三郎「天下一統」 辻達也「江戸開府」 岩生成一「鎖国」 佐々木潤之介「大名と百姓」 児玉幸多「元禄時代」 奈良本辰也「町人の実力」 北島正元「幕藩制の苦悶」 小西四郎「開国と壊夷」 井上清「明治維新」 色川大吉「近代国家の出発」 隅谷三喜男「大日本帝国の試煉」 今井清一「大正デモクラシー」 大内力「ファシズムへの道」 林茂「太平洋戦争」 蝋山政道「よみがえる日本」
* 以上が、責任執筆制、中央公論社刊「日本の歴史」全26巻の陣容である。ことわっておくが、わたしはこの中ではただ一人奈良本辰也さんとは、何度か祇園町北側の路地中にあった「梅鉢」という、当時人気の飲み屋で並んで酒を汲み、歓談し、またわたしの著書もお送りしていた。その他は、ごく最近色川大吉氏と手紙で二度三度交信しただけで、それも色川さんを存じ上げていたわけではない。この中の一冊を読んで、電子文藝館にご助力をお願いし快諾して頂いたというに過ぎない。
但し、ここに並んだ歴史学者の名前にも、幾らかずつの仕事にも、わたしはかなり親しんできたから、まるまる知らない人達というのではない。中にはとても親しく著書に学んで、学生時代から多々教わってきた先生方の名前が、井上、直木、北山、竹内、石井、佐藤、永原、林屋、岩生、児玉、奈良本氏ら、軒並みに並んでいる。
わたしは上の、各巻ほぼ五百頁に及ぶ文庫本シリーズを、第一巻からはじめて、各巻隈なく毎日欠かさず赤いペンを片手に、この二年読み継いでいる。随時の感想は、「私語」にも繰り返し繰り返し書き込んでいる。わたしはこの厖大なシリーズを、幼来「歴史好き」「歴史読み」の、いわば私なりのキャリアを全投入し、「現に、読み続け」てきて、今、第24巻半ばに到っている。わたしはこれを、「読まず」に言うのではない。
* 昨日の日本ペンクラブ理事会で、中西進副会長が、この「中央公論社版」日本の歴史シリーズを、はっきり名指し、指さして、(本が其処に置かれていた。)「此のシリーズは、過去最悪最低の時期の最も程度の低い、学問とはとても言えない歴史記述であり」、そういうものに参照して日本ペンクラブが「史料」を得ようとするのは、極めて危険な、間違った方法だと発言されたことは、電子文藝館のこととは離れて、当節の学者を代表する一人であり、文化功労者でもある見識あるべき人の「放言」として、ちょっと我が耳を疑うところがあったし、その思いは、強まりこそすれ、少しも弱まらない。
氏は、どういうつもり、どういう認識と覚悟あって、上の人達の仕事を、ああも罵倒に等しい物言いで葬り去ろうとされたのか、あらためて、ぜひ伺ってみたい思う。氏は、はたしてこのシリーズをみな親しく「読んで」発言されたのか。それほど侮蔑的に「評価」される歴史学的力量をお持ちの上で、各社取材記者もいる公開の席で発言されたのだろうか。わたしは氏の専門領域での業績に久しく敬意をもち、もう三十年来親しくお付き合いを願ってきた。同じ理事の中では最もお付き合いの長いお一人である。
が、昨日のああいう罵倒発言には、なにかしら冷静な学者らしからぬ感情的な偏見、それもモノは読まないでする先見的偏見が働いているように観じられ、苦々しかった。
*「歴史」は魔の領域で、時代により観点により思想基盤により、いろいろ変動をみせることなど、百も承知している。だからこそ、それに応じてものを見ることもあるにせよ、安易には同調せず、どのような歴史観や歴史認識に敬意を払いまた学ぶか、を、読者は、自力でも判断しなければならないと思っている。その点わたしは、近時歴史教科書がらみに評判の、いろいろな歴史いじりの風潮に深くは関わろうとしなかったし、うさんくさい、思惑の多いもののようにも感じてきたのは事実である。
但しわたしは学者でも研究者でもない一私民であり、歴史好きな一読者に過ぎないから、自分なりの理想や願望も「主観」として持しつつ、いろんな歴史記述から有益な示唆を得ようとしてきた。そういうことは、戦前の「国史」にも本をボロボロにするほど親しみ、高校の頃には「京大日本史」というシリーズに学んだ昔からの、わたしの多年自然な姿勢である。そういう歴史書・歴史研究遍歴の末に、「徹した通読」というかたちで改めて第一巻から読み直していった、上の中公版「日本の歴史」は、一般読者対象の啓蒙参考図書でありながら、一人一人の責任筆者の誠実な筆致で、なかなか優れた感銘を与えてくれると、わたしは観察し「推服」してきた。つまり中西進氏の「侮蔑的な評価」とは、ほぼ正反対であった。
わたしは、今はやめているが、吉川弘文館の研究雑誌「日本歴史」の久しい購読者で、研究論文を読むのを、なまじな小説などより遥かに楽しんでいた。そうして接した現代の研究水準から推しても、さすが、上に挙げられている学者達の歴史記述と歴史観には、研究の実状とおおきく齟齬するところのない、むしろ悠々ツボをおさえ、つとめて「正確」を期しものとた印象づけられていた。どこからも、中西氏のような罵倒は出てこなかった。
* おもうに、歴史学の世界にも、「右」の「左」のという渦巻や学者間の抗争はあったかも知れない。国文学の研究でさえ、しつこい喧嘩沙汰が場外にまで見えてこなかったわけでなく、まして、ことが魔物の「歴史」理解となれば、あり得たに違いない。わたしは局外の門外漢だから詳しくは知らないが。
中西氏ほどの学者も、そういう色眼鏡にわざわいされて、日頃のなにかしら嫌悪感を、此処に挙げられたような「学者」「研究者」達に対し思わず叩きつけられたのかも知れない、が、氏は、歴史学の専攻ではあるまい。しかしまた歴史学と無縁には進みえない学問領野を専攻されてきた筈でもある。どういう尺度と良心から、一人の、此の、代表的な栄誉をすら与えられた一科学者として、ああいう聞き苦しいことを、大声で公開の理事会で口走られたか、わたしは、しんそこ驚いた。困ったお人だと思った。その辺に、掃いて棄てたいほどいる凡々とした教授先生ではないのである、氏は。学問の自由と品質とを先頭で守って欲しいお一人なのである。わたしは氏の暴言には、同じない。氏のためにも、あれは失言であったろうと惜しみたい。
そしてわたしは、今の時節なればこそ、多くの読者が、若い読者たちが、今一度此の中公版「日本の歴史」シリーズに立ち返って、現代の悪政にもみくちゃにされている日本国民の足下を、自己の足下を見直して欲しいと願っている。
* 昨日の理事会では、「漢字」問題も話題になっていた。此の件はおいおいにまた書くことにする。
2005 2・16 41
* 昨日の理事会は、なにやら「漢字」問題でえらくハッスルし、これから、ペンは深く熱意を持って関わって行つもりだと会長からも専務理事からもご託宣があった。それは大事なこと、いいことである、一応は。同じく漢字とはいえ、日本の漢字と、中国の、香港の、台湾の、韓国の漢字には微妙な違いが多々ある。そういう問題としても漢字が国際的に語り合われ調整されることは大切な懸案なのである。
そもそも、漢字に、知的関心から面白いと飛びつくことは、誰にもある。わたしにも『一文字日本史』の著があり、その他にも、漢字の字義に託して「日本」を語り「自身」を語ることは屡々であった。「花と風」もしかり、虫食いの場所に漢字をうずめさせ、東工大の学生達を詩歌の実践で刺戟し続けた「青春短歌大学」にしても、しかり。
しかし、忘れてはいけない、日本には、漢字などほとんど一字も用いず書かれ表記された(古今和歌集のような)文学もあり、源氏も枕も、漢字にほとんど寄りかからず書かれている世界的な文学作品だということも、同時によく考えていなければいけない。
ましてや、日本の文学文藝にかかわる日本ペンクラブほどの団体が、そういう文学史の根の特色を忘れ果ててしまって、ただ現象的に漢字いじりや漢字あそびに知的好奇心を持ちすぎるだけでは、わたしには甚だ幼稚な偏頗な、流行に投じたにすぎぬ結果が案じられもする、それを、わたしは、とにかく発言しておいた。
わたしには、日本語とその表現力の機微に関心がある。漢字もかなもその手段なのである。漢字だけで日本の文学が書かれることは、もう、ありえない。
今一つ、漢字には、活字やフォントとの関係で、明治このかたは特に、もの凄く「利権」が絡んでくる。それに巻き込まれて見苦しくならないようにしたいと思う。
さらにもう一つ、今や日本の漢字も、近隣諸国の漢字も、問題点の大きなところは電子メディア上での「文字コードによる標準化」問題である。これを抜きに漢字は語れないし、この問題では漢字だけでなく、軽視され置き去りにされている多彩な記号等の問題も絡んでくる。
「漢字」感覚を、旧来の活字漢字のレベルだけで考えていては、とんでもない時代錯誤に陥る。これも、その際、発言しておいたが、電子メディアに殆どの理事が触れていない理事会では、いつもと同じ、かなり空しくはあった。おそらく発言趣旨は記録すらされていないのでは無かろうか。
2005 2・17 41
* いまの人類は、ほとんど九八パーセントの人々が凡庸であり、一パーセントが天才で、一パーセントが白痴だ。人類の大部分は凡庸なのだと現代の科学は指摘している、とか。バグワンはこう話している、
* 「その凡庸な部分は」と、老子は言う、「(真実に)気づいているようでもあり、気づいていないようでもある」と。もし真のマスターが「真実」のことを語ると、凡庸なマインドは、知的にはそれを理解する。が、トータルには理解しない。彼(ら凡庸の徒)は言う。
「はい、あなた(マスター)のおっしゃることはわかります。けれども、なおかつ私は何かをのがしています。あなたの言うのは、どういう意味ですか?」
マスターの言葉は聞かれる。だが、意味は(聞き手の中で)失われてしまう。彼(ら凡庸の徒)は、自分が知的に理解できるということはわかる。彼は教養のある人間だ。もしかすると大学卒、ことによったら博士かもしれない。彼は、それが何であれ、マスターの口で言っていることは、理解できる。「言葉」は理解できるからだ。が、彼はそれでも何かが失われているのを感ずる。彼は言葉は理解できる。が、言葉自体はメッセージじゃない。メッセージというのは何かもっと微妙なものだ。それは言葉と一緒にやって来ることはできる。が、それは言葉としてじゃない。
言葉というのは花のようなものだ。そして、意味というのは、それを取り巻く「芳香」のようなものだ。もしあなたの鼻があまりよく利かなかったら、私はあなたに花をあげることはできても、その香りをあげることはできない。もしあなたのマインドが全面的に機能していなかったら、私があなたに言葉を与えてあげることはできても、意味を与えてあげることはできない。なぜならば、意味はあなたによって探知されねばならない、あなたによって解読されねばならないものだからだ。
私はあなたに「花」を与えてあげることはできる。それは難しいことではない。しかし、どうして「香り」を与えてあげられる? もしあなたの鼻が利かなかったら、もしあなたの鼻が死んで、無感覚だったとしたら、そのときにはどうすることもできない。私はあなたに千と一つの花を与えることはできても、その「香り」は伝わるまい。
中等の人間は、「言葉」は理解する。が、その意味をのがす。彼は(道TAO)に耳を傾けつづけはする。もしそこに道の人(マスター)がいれば、彼はその人に一定の魅力を感じはする。彼は「何か」がそこにあるのを感じはする。少しは覚めていて、彼はそこに「何か」があるのに感づきはする。しかし、彼には「確信」が持てない。彼は理解して、しかも理解しない。
大勢の人たちが私(バグワン)のところへ来てこう言う。
「私たちは、あなたがおっしゃることを理解はするのですが、何ひとつ起こりません。私たちは、あなたのおっしゃる何もかも理解しています。私たちは、数えきれないほど何度も何度もあなたの本を読みました。ほとんどどの行にもアンダーラインを引きました。ところが、何ひとつ起こっていません…」
* これが98%だとは考えにくい。これがやっと10%か15%だろうと思う。その余は、この手の話題に当面するだけで笑いとばす。バグワンは中等の人士はせいぜい民主主義に辿り着くと言う。また大多数の下等の人士は独裁するか独裁にしたがうと言う。含蓄に富んだ指摘だ。では上等の人士の世界ならば。そういう言葉は用いていないがバグワンはそのときはじめて「法三章」世界が可能になるという。
わたしは、バグワンからでなく、もっともっと小さかった頃にはじめて「法三章」と聴いたとたん、その理想にさながら電気に打たれるほど憧れた。
だが、わたしは、かろうじて、せいぜい凡庸な中等の人士であるに過ぎない。
2005 2・18 41
* ファシネーションとは何だろう、と、いつも考えているが、譬えば、花が即ち、ファシネーションではない。花だけでファシネーションはうまれない。花の、香や、匂いこそが、ファシネーションになる。花の色やかたちではない。
「身内」とおなじだ。それだ。りくつや言葉でどう穿鑿しても、ファシネーションも身内もわかるわけがない。匂い合うように、わかる。
2005 2・20 41
* バグワンは言う。(スワミ・ブレム・プラブッダ訳)句読点などすこし補う。
* ときとして、あなたがそれをやっているわけではないのに、何かがあなたに起こることがあり得る。(あなたの入っていく)まさにその場所自体が、ほかの誰かの磁力であまりにも充満していて、あなたはその中に包まれてしまい、一種の受容作用を引き受けて何かがあなたに起こりはじめる。そして、自分の「しわざ」なくして何かが起こる、ということの「美しさ」を知ることこそ世の中で最大のものだ。その至福の感覚を知ること。恵みがあなたを満たすその感覚を知ること。あなたは何もしていないのに、すべてが起こっている……。
さあ、老子の経文に耳を傾けてごらん。
〝世の中で最も柔かいものが、最も堅いものを通り抜ける……”
天下之至柔、 馳騁天下之至堅
世の中で最も柔かいものというのは何だろう? 外側の世界において、最も柔かいものは水だ。
内側の世界で最も柔かいものは愛だ。
そして、水と愛の二つは、数えきれないたくさんの点で似通っている。それらが理解されねばならない。水はくぽんだ場所を求めて行く。愛もまたくぽんだ場所を探し求める。
もしあなたがエゴイストだったら、愛はあなたに達することができない。それというのも、あなたが自我(エゴ)の頂点、ひとつの絶頂(ピーク)だからだ。あなたはあまりにも自分自身でいっぱいになっていて、愛はあなたまで達することができない。愛は、あなたがひとつの(空=くう)、何ひとつ邪魔もののないひとつの空間(スペース)であることを必要とする。
水もまたくぽんだ場所を探し求める。そうやって、それはヒマラヤから発し、どこまでもどこまでもどこまでも、それが海にたどり着くまで進んで行く。海というのは世界で最もくぼんだ場所だ。水がそこに到達するのは、そういうわけなのだ。川は決してグリシャンカール(エベレスト)に向かっては行けない。それはヒマラヤの最高峰に向かって行くわけにはゆかない。ちょうどその反対のことが起こる。
川は、ヒマラヤの最高峰で、氷河の中で生まれ、そしてどんどんと低く低く低く流れて行き、世界で最もくぼんだ最も低い場所である海にたどり着くまで止まらない。その海が川のわが家となる。
愛もまた虚ろさ、空っぽさへ向かって動いて行く。エゴイスティックな人たちが、愛せず、そして愛されることもできないのはそのためだ。彼らは多くを望む。彼らは愛を「求め」る。彼らは、愛を「得る」ために必要なことは何から何までやってのける。ところが、彼らは失敗者のままだ。彼らは完全に失敗する。というのも、肝心なことは、どうやって愛を「得る」かということではないからだ。ポイントはいかにして「虚ろになる」か、いかにして「空っぽになるか」、 (なれるか、)なのだ。
愛というものは、直接的に追い求められるべきではない。直接的には追い求められ得ない。ただ 非直接的にのみ、あなたはそれに対して有効に(的確に)なる。あなたはただ虚ろになるだけでいい。するとどうだろう、千と一つの流れがあなたに向かって流れはじめる。見ず知らずの人たちがあなたに恋をするに違いない。人間ばかりじゃない。星たちも、石たちも、砂も、海も、樹々も、鳥たちも、どこであれあなたが行くところ、突如として愛があなたに向かって流れはじめることだろう。愛が、水のようなものだからだ。それは休むことのできるくぼんだ場所を探し求める。
あなたが一本の樹のそばを通り過ぎる……。もしあなたがくぼんでいたら、不意にその樹の愛が、あなたに向かって流れはじめるだろう。それは自然なことだ。それは何も奇跡のようなものじゃない。それはちょうど水のようなもの。水を流せば、それは休むための一番くぼんだ場所を見つけ出すだろう。愛とは、内なる実存の水なのだ。
老子は言う。
〝世の中で最も柔かいものが、最も堅いものを通り抜ける……″
聞くところによれば、七〇〇〇年のうちにナイヤガラの滝は、そのまわりの山を全部完全に崩してしまうだろうと言う。いままでのところ、七マイルの山と岩がそれによって崩されてきた。七〇○○年のうちにナイヤガラの滝は消え失せるだろう。なぜならば、そこには落ちるべき山がなくなってしまうからだ。最も堅い石が、最も柔かい水によって消されてしまう。だが、それ(水)は、けっして「何も」しやしない。それは本当のところ、「何も」しようとしているわけじゃない。それはただただ流れるだけだ。
生まれて初めて滝が岩にぶつかっているところを見たら、あなたは必ず、この岩が消えるはずなんかないと言うだろう。こんなに堅いのに……。しかし、海の中のすべての砂粒は、過去のヒマラヤ以外の何ものでもないのだ。水がそれらを動かし、土にまで砕いてしまった。
数々のヒマラヤが消え失せ、そして、水は流れつづけている。実に柔かい。が、実に根気強い。あんなにも柔かい。が、大変な持続性をもっていて、だんだんとそれよりも堅い物が消え失せてしまう。何が起こっているのかもわからずに……。
どういうことだろう? なぜ柔かい要素が、堅い要素を解消してしまうのだろう?
それは、堅い物は「抵抗する」からだ。堅い物は「戦う」からだ。堅い物は一番の初めから「守備を固めている」からだ。それが「疲れ」を呼ぶ。
柔かい物は、ファイターじやない。一番の初めから、柔かい要素の心の中には、誰かを消したり破壊したり(抵抗したり対抗したり)というようなことがない。」それはただただ、くぼんだ場所に向かう自分自身の道に従っているだけだ。それだけのこと。それ(水のように柔らかいあなた)は、そもそもの初めから、「敵」なんかじゃない。
ところが、堅い要素の方はいつも「意識し」(あれかこれかと懊悩し)ていて、油断もすきもなく戦闘体勢(防衛体制)を固め、抵抗し(拒絶し)ている。まさにその抵抗(や拒絶や懊悩)が、エネルギーを消耗させる。まさにその抵抗が、息の根を止めてしまう。(それは元気に生きることに背を向け、死んだように生きているのと同じだ。)
* またバグワンはこう言っている。
* 「求め」ているとき、あなたはのがすだろう。まして、もしあまりにも一心に求めていれば、それこそ確実にのがすに違いない。しかし、もし、ただリラックスしているだけだったら、あなたは(彼)に出会うかもしれない。というのも、神は、あなたがとりたてて(彼)の後を追いかけていない(無心=ノーマインドの)ときに、あなたのところへやって来るからだ。(彼)の尻をつけ回しているときには、あなたは少々攻撃的だ。神は、あなたが男性的なマインドであるよりも、女性的実存のようなものであるときに、あなたの所へやって来る。それが「老子の、女性的実存」の意味するところなのだ。あなたは「待つ」。(追い求めればのがしてしまう。)
西洋において、今世紀のごくごくまれな女性のひとりであるシモーヌ・ヴュイユが、『神を待ちのぞむ』という本を書いている。これが正しい姿勢だ。ほかに何ができる? ほかにあなたは何を知っている? あなたはただ「待つ」。「待ち受ける」ことができるだけだ。あなたは「迎え入れ」る。「出向いて行って襲いかかる」ことなどできるものじゃない。
* 基督教のもっとも美しい言葉は「みこころのままに」だと、わたしは思ってきた。「求めよ、さらば開かれん」という言葉を受け入れるためには、人は、よほど無心に生きてなければならないだろう。「求めよ」に、人は最も多く誤解して、それへ抱きつくが、どう「求め(=例えば難行苦行、修業勉強、聖典読経等々のエゴ)」ても「得られはしない」とは、あの法然の、また親鸞の「度=さとり」でもあった。
2005 2・11 41
* 日付が変わる。さ、もう、今夜はやすもう。一つずつ、一つずつ、喪って行くのが人生だろうかと、高校時代に感じていた。間違っていたか的確であったのか、いまも正直の所わかっていない。
ほんやり目をむけている、このディスプレイの上に、村上華岳の「裸婦図」とモジリアニの「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」が並んでいる。首都圏パスネットの使い古しだが、なかなかよく仕上がっていて小さいけれど、気品は喪われていない。同じディスプレイの下には上村松園の「砧」立像と速水御舟の「炎舞」とが並んでいる。やはりパスネット・カードである。名刺大の小さな画面でも、名作は名作である、わたしのとかくうつろな気持ちも、優しく吸い取って元気にしてくれる。四枚ともたまらなく美しい。それだけでなく気品に溢れている。ほんものだなあと感じ入り、感じ入っているとだんだん力づけられる。絶対に、ライヴドアなどの話題からはこういう嬉しさは湧いてこない。
山種美術館の送ってくれるカレンダーの一月二月はやはり速水御舟の繪で、紅梅の花や蕾の枝を思い切り左に控え、悠々と墨の水輪をはらんでみごとな鯉が豊かなすがたで力強くしなっている。鯉が本当に泳いでいる鯉の繪なんて、めったにお目に掛かれない。寝に行く前に、佳いなあ…と眺めている。
ライヴドア事件にこだわるようだけれど、筑紫哲也のような年寄りや大人達までが、「秩序を乱す」というような物言いで若い堀江氏を叩き始めているのにも、わたしは呆れる。秩序などという言葉が出て来ればどんづまりもいいところだが、今の時節、正しい意味で最も秩序を乱している筆頭人は、国の憲法を踏みにじっている小泉総理だということを先に言った上でのことに願いたいものだ、政治こそ秩序の番人であり、国民は、自分たちの秩序を時代に合わせて動かして行く当事者で権利者であるはず。お忘れか。
2005 2・22 41
* 保田與重郎や佐藤春夫に傾倒していた今は亡い筆者からの遺著を贈られていた。わたしは、この人たちのことを識らない。あまり近寄らずに通してきた。何故かと聞かれても困るが、たぶん文体であろうか。わたしは谷崎や漱石円熟期の文学のように、仰々しくない、自然に豊かななだらかな文体が好きなのである。
2005 2・23 41
* 自殺は罪ですか。
自殺は、癌や心臓病などの病死の一つと考えます。なぜなら、これは医師も言うことですが、正常な人間には自殺は出来ないのだそうです。精神的に病的な状態、たとえば鬱状態でなければ、自ら死を選ぶことは人間の本能として不可能ということです。つまり自殺は病死ですから、当然罰せられるような罪とは考えません。
もし万が一、精神的にまったく健常な人間が死を選ぶとしたら、罪であると思います。ただし、その罪は、「死」を招くものであっても、殺人とか中絶のような種類の罪悪とは思いません。人生への愛が不足していたという罪であろうかと思います。今のところ、わたくしは、人生はどんな苦くまずい味のものでも、最後までとにかく飲み干さなければならないと信じています。最後の最後まで生ききることが人生や命を真実愛することだと思います。また、自殺は「みこころのままに」という受容を拒否する姿勢でもありましょう。
キリスト教会は自殺を罪としますが、これは神の法の番人みたいな役目のところですから致し方ありません。教会には偽善臭もつきまとうのですが、中絶ダメ、離婚ダメ、同性愛ダメという頑固一徹も、現世の幸福追求に傾く人間への「壁」として存在する必要がありましょう。
でも、聖書の主役イエスは自殺した人をとっくに許していると思います。このあたりはわたくしがいい加減な信者であるせいですが、イエスは、自分を裏切って許しも乞わずに自殺したユダのことも、たとえば、「心」の先生やKのことも許しているでしょう。 春
* わたしの触れた西欧の文学で、自殺とわかる稀有な例の一つは「若きヴェルテル」であり、時代の古い新しいとは言いにくいが「ロミオとジュリエット」も結果的に二人とも自殺して果てるのではなかったか。愛読した本の中でいうと「モンテクリスト伯」のなかでは、エドモン・ダンテスを陥れてその許嫁であったメルセデスの夫となるフェルナン、アルベール子爵の父であるモルセール伯爵が、最後に自殺したように憶えている。「アンナ・カレーニナ」も鉄道に身を投じて自殺している。失恋あり、愛の極みあり、贖罪あり、絶望もある。
日本の武士では、賜死の自殺も刑罰としての切腹も覚悟の切腹も身代わりの切腹も、白虎隊や城山の西郷たちなど追いつめられての自殺と、枚挙に遑がない。精神的に病的な状態の自殺はむしろ数が少ない。
大黒も恵比須も神隠(みごも)りの自殺だったし、同母兄妹の軽命と軽媛との自殺もある。いわば異所心中であったろうが、心中死はもっとも哀切な自殺の例で、近世に入り一挙に増えている。中世には補陀落渡海のような宗教的自殺の流行があったし、入定という宗教的自殺もあった。乃木大将夫妻も自殺、古くは爆弾三勇士らの自殺があり、この前の戦争では、真珠湾の九軍神をはじめとし、ひめゆりの塔など、玉砕投身死自爆死は数え切れない。戦犯と目された人に服毒などの自殺があり、芥川龍之介も太宰治も三島由紀夫も川端康成も自殺だった。「こころ」の先生やKも言うまでもない自殺であり、彼等が「病」「鬱」の極であったと、言うことも出来るかも知れず、そうではあるまいとも見れば十分見られる。
これらの中で精神に異常を来していたといえる例もたしかに有ろう、が、そうは言いにくい例もたくさんある。自殺は、一概には言いにくい一種の「文化」的複合現象であり、これを禁制すること基督教会ほど厳格な例はむしろ珍しいのではないか。そもそもモーゼが与えられた「十戒」に「自殺するなかれ」と言われていただろうか。自殺は、人間の究極の「自由」の行使だと考えられなくもない、と、東工大の若い学生達の中にも、そんな風に言う者がいたのである。イエスと基督教会との紐帯の方をわたしはむしろ信用できないでいる。ブッダと宗派とにも同じようにわたしは言いたい。
* わたしは「自殺」というカードを最期まで大事に手にしていたいと思っている。自由というか、権利というか。よほどの全身全霊をあずけるにたるトータルな何かが、さあ、そんな自殺のカードは手放してわたしに預けなさいと言ってくれば、喜んで手放すだろう、が、かたくなにそれが悪とか善とかましてや道徳的な理由で「是非」する気はすこしもない。ほんとうにそうしたければ、少しも躊躇なく、そうするだろう。だれかにゆるされる事ともゆるされない事とも思っていない。
* 「今のところ、わたくしは、人生はどんな苦くまずい味のものでも、最後までとにかく飲み干さなければならないと信じています。最後の最後まで生ききることが人生や命を真実愛することだと思います。」とまで、わたしは堅くは考えていない。もういい、もう十分と言い切るのはエゴの声であろうけれど、もういいよという内奥の声が聞こえることもあろうではないか。自殺は、「みこころのままに」という受容を拒否する姿勢でもありましょうとは、正しい認識のように思うものの、その「みこころ」が「もういいよ」と決して言わぬでもあるまいとわたしは予感している。わたしが本当にこころから待っているのは「もういいよ」のゆるしではなかろうか。
* 日本ペンクラブ、「もういいよ」とは言ってくれなかった。これから、わたしが意思表示しなければならぬ。
2005 2・26 41
* 朝起きて、積ると知らでつもる白雪を見ました。数日前から体調が今一つでしたが、昨夜から鈍い腹痛があります。病院に行くほどではありませんが、心地よくはありません。おとなしくしています。
お好きそうな言葉を見つけました。
「力とは裸の真実である」スタンダールです。裸にならなくてはいけませんね。 春
* ならなくてはいけなくて、裸になど、なれるものでなく、気が付いたらなっているものです。意欲自体がウソであったりハンパであったりするうちは、ムリ。本名であらゆる風を真おもてに受けて立つ気概の出来たときが、やっとものを書くスタートラインです。
* 「プチブル」というのは差別語になるかと聞いてきた人がある。わたしの勝手な思いを書いておく。正して欲しい。
* 「ブルジョア」は、もともと、元手をもったモノの生産販売階層です。日本の近代では、いつとなく特権をもった富裕者、徳人、大資本家・大所得者の意味に転化していますが、マニュファクチュア社会に根のある階層です。
そのブルジョアの、擬似的な、実際には生産もしない販売もしないおこぼれ中産階層「意識」者が、「似非」ブルジョアの意味で「プチブル」と指さされています。意識だけは中流並みのように思っている単に消費的な、被使用立場にある存在です。上級給与所得者層にほぼ該当しますが、バカげた意識をもたない、プチブルではない健常な人達の方が数多いのも、事実です。「プチブル」の呼称自体は、差別でもなにでもなく、単に「批評」です。
「尊農卑商(工)」の昔は、幕府はブルジョア層の金は穢れていると、表向き課税もしないで、農民だけを絞り上げていました。ブルジョア層は支配層にはとうてい割り込めなかった。
しかし幕末から近代現代へ、三井三菱はじめ政商が多大の利権と巨富を獲得するにつれ、大ブルジョアから、原敬とか渋沢栄一とか池田成彬とか、政権の中へ縁故の人材を次々に送りこむようになり、彼等は、支配階層にしっかり食い込みます。「政治権力」をもはじめて持ってきた。
その「権力意識」だけの、実(じつ)のない照り返しをもらって、錯覚的に、擬似ブルジョア「意識」を勲章かのようにぶら下げだしたのが、プチブル層というもの。泉鏡花や夏目漱石がもっとも嫌った意識層ですね。
2005 3/4 42
* むかし教室の中で、祇園甲部の茶屋の息子が、乙部の茶屋の息子を、甲部は藝妓だ、娼妓の乙部といっしょにするなと盛んに罵り巫山戯るのを、愉快でなく聴いたことがある。そういう「甲」感覚をわたしは嫌った。同じように、ぼくの母の旦那は某財閥と吹聴している甲部売れっ子藝妓の息子の阿呆さに呆れたこともあった。その吹聴が、同級生、で大阪辺から通ってくるしがない「旦はん」の息子への自慢高慢とあっては舌打ちで済まないいやらしさであった。
それが少し世間をひろげると、元華族だの士族だの社長会長だの、その縁戚だとか何だとかが、さも意味ありげなステイタスかのように、自慢げに、ぞろぞろ出て来る。「育ちがいい」などと、自分で口にもする。家が広いとか、墓がでかいとか。わたしが僻んでいるからだと嗤われるかも知れない。そやろか。ちがうのとちがうやろか。
シェーネ・ゼーレ(美しき魂)は、この手の無意味にお高い世間からは、まず生まれない。樋口一葉のまわりにうじゃうじゃいた育ちのいい、裕福に恵まれ育った令嬢インテリたちから、あわや高利貸しに身を売ってもと覚悟した貧と病気の一葉をファシネーションでしのいだ、只の一人も出はしなかった。たいしたことは誰も出来なかった。しかし、生まれ育ちのよかった宮本百合子も岡本かの子も、そういう意味では、バカげたプチブル風の抱き柱を自慢にするどころか、徹底して世と人との本質を書いた。だから書けた、のではなかったか。
2005 3/4 42
* 黒井千次氏の「時間」を起稿し、丁寧に読み返しているところ。氏は言うまでもなく日本文藝家協会理事長であり、いわば今日日本の文藝界頭取である。黒井さんには、このまえお願いして「ネネネが来る」という小説を文藝館にもらった。
第二作をと何度かの立ち話で承諾してもらった。前の作品も佳いものだった。今度の「時間」はおそらく氏の前半期の一代表作たるを失わないのであろう、その小説の方法はかっちりと意識的で知性的で、佳い意味で観念的である。ディテールの表現は手触りもほどよくあらいめで、感性にうったえるよりも、読者からの思考参加をいざなうように、問題提起の連鎖して行く書き方である。わたしの印象をすなおにいえば、よく出来たコンクリートうちはなしの構造性のある小規模建築のようである。私小説であり、しかも構想された実験性に魅力があり、通俗なたるみは少しもない。意思と意図の目立つ純文学で、こういう作品を一字一句読んでいると、世の通俗読み物のつまらなさがハッキリ見えてくる。
こういう現代文学が一本一本堅実に植樹されることで、ペンの「電子文藝館」という山は、質実に美しく価値あるものと成ってゆく。わたしの何よりの希望は、他の理事作家達が、例えば黒井さんのようなこういう優れた作品の出稿で、此の独自のペンの文化事業を、質的に、よりみごとに盛り上げてくれること。
歴代会長はみな優れた作品を寄稿されているではないか。名前はあげないが、読んでみれば直ぐ分かる、なんだろうこれはという程度にただお茶を濁したような薄味な理事作品がけっこうある。まるで出そうともしない理事達もいる。現代文学のいわば「サンプル」サロンである意義が、理事諸公に浸透していないのはまさに責任者であるわたしの力不足だが、その挙げ句はやはり作と作者当人への読者からの失望や批評として、厳しく跳ね返ってくる。現に来ている。それがその人や作のためにも、わたしは残念でならない。
佳い作品、自愛の力作をこそ理事達は此処へ持ち出し、「存在」を示して欲しいのである、名ばかりの作ではなくて。
2005 3/5 42
* ゆうべ観たショーン・ペン演じる「アイ アムサム」は佳い映画だった。ミシェル・ファイファーがスマートに助演していた。わたしの生まれる一年前の「或る夜の出来事」も楽しかった。クラーク・ゲーブルが粋で、また滑稽で、若い。クローデット・コルベールの独特な美貌も見応えがする。
先日無声映画のクララ・ボウを初めて見たが、クララ・ボウといい「或る夜の出来事」のクローデット・コルベールといい、またマレーネ・ディートリヒといいJ・ゲイナーといい、ははあん、谷崎潤一郎が映画熱にとり憑かれた原動力はこういう女優達だったんだと、妙に嬉しく納得した。
しかし案の定、抵抗していたBSテレビを、とうどう茶の間に取りこんでしまったので、わたしたちの映画好きは、いささか締まりなくこの機械に魅せられている。文学文藝ではわたしは低俗通俗な読み物をほぼぜったい許容できないけれど、逆に映画ではそういう通俗低俗に通じるストーリーでも、映画手法や表現が卓抜でさえあれば、藝術性のある魅力の仕事として、十分堪能できる。通俗のお話を娯しみ楽しむうえで、映画をおおいに「活用」しているわけである。
うじゃじやけた通俗読み物は時間の無駄。しかし映画的に良くつくられた通俗作品なら安心して「映画藝術」として楽しめる。「ダイハード」「リーサル・ウェポン」「ランボー」「ダーティ・ハリー」「ターミネーター」「エイリアン」のような類のいわば読み物シリーズでも、映画的によく仕上がったものは、映画的に理解し納得して、たっぷり楽しめる。ヒッチコックやジョン・フォードでも、キャロル・リードやエリア・カザンや誰それでも、映画的な力では差がない。
そこへ行くと、日本文学の世界では、読み物しか書けない人には文学たる表現性が低い、というより欠如している。読み物を五百万人が愛読し、たとえば黒井千次を三千人しか読まなくても、その文学文藝としての大差、いや比較を絶していることは断然変わらないのである。
* いい作品とつまらない作品とは、必ずしも読み物と文学というふうに分けられるとは限らない。いい文藝作品は、題材の如何に関わらず、ファシネーションを湛えて「読ませる」佳い文章で書かれている。この「佳い」を言い換えれば、即ちその散文に独自の「文体」と「表現」とが、天来の音楽として刻印されてあるということ。
2005 3・5 42
* 思いがけず太宰賞を貰い、真っ先に書いた手記は、「作家さよなら」という走り書きであったが、もののみごとにそういう道を三十数年独り歩いてきた。根っから自由な素人でいたかったのだ。漱石にも潤一郎にも「素人と玄人」の論があり、ふたりとも素人の藝術家を尊重していた。その無意識の感化にしたがってきたのだろうか。
2005 3・6 42
* わたしが、新勘三郎の息子の七之助が、父の晴の三月襲名の舞台に立てないというのを気の毒に感じたことに、つよい異議があらわれた。
* 藝人なら許せて、大名なら、というのはおかしな話ではありませんか。大名に生まれたことに罪はありません。藝人にも大名にもよい人間悪い人間がいるというだけではありませんか。権力があることが悪いのですか。
以前に「私語」に勘九郎の息子の七之助でしたかの泥酔暴行事件を弁護していたのを読んだ時にも変だと感じていました。
これが政治家の息子でありましたら、あのように庇いはしなかったでしょう。偏見があるのです。逆差別です。政治家は悪で歌舞伎役者は善という。どちらも特権にあぐらをかいてはいけない点では同じではないですか。
私は歌舞伎藝術を尊敬しますが、現在の梨園の役者たちは不必要に崇められすぎていると思います。彼らの藝を認めるだけで充分のはずです。
梨園の名門の息子たちの素行には正直呆れています。あまりに甘やかされ、思い上がっています。染五郎にしろ、海老蔵にしろ、まだ二十代の独身での愛人、隠し子騒動です。梨園以外の世界では、あのようにしれっとして「藝の肥やし」とは認められません。人間として恥ずべきこと、許されぬことでしょう。いばりくさった医者でも責任とって、できちゃった結婚する時代に、何様かと言いたい。遊ぶだけ遊んでポイ棄てをして、心の痛みもなくまた新しい女では、そんな人間に真実心を打つ藝が極められるとは思えません。梨園ならしかたないと妙に庇う世間がおかしい。一度は責任とって結婚して妻子と別れたホリエモンだってあれだけ叩かれているのにです。 一読者
* 興味深い問題をこのメールは幾つか抱えている。例えば菊池寛の書いた「藤十郎の恋」が容易に割り切れない問題を抱えているように。おりしも勘三郎についで大物襲名にその坂田藤十郎を中村鴈治郎が、という前評判はすでに路線上を走っている。藝術院会員で人間国宝鴈治郎の夫人が、当代の参議院議長で、暫く前までは小なりとも一政党の党首政治家で国交大臣でもあったことは知られている。典型的に藝人と政治家とが一対になっている。そして鴈治郎丈が艶福に富んだ役者であるらしいことは、ときどき派手な噂やスッパ抜き写真になっている。
もし扇千景氏に政治家として不審な問題が生じれば世間は赦さないだろう、幸いそういう事実は表沙汰になっていない、贔屓の成駒屋のためにも有りがたい。
わたしのいわば政治家=権力に対する、「逆差別」ということが、上のメールで言われている。「権力を持って悪いのですか」とも詰問されている。わたしは、こういうふうに考えている。
* 「差別」というのは「セクハラ」とも同じで、ふつう、社会的に優位者・強者・権力者から劣者・弱者へのものです。天皇や皇族や大名や社長や政治家などへは、痛烈な「頬笑み」を伴う「批評」「批判」「毛嫌い」「白眼視」はあり得ても、「差別」はあり得ない、なし得ないのです、弱者、下位者には。したくても出来ないのでね。
かりにも大名華族と藝人とを平たく並べて差別とか逆差別とかは、言わないし、言い得ない、有りえない、のですよ。
あなたの藝能人への怒りは、わたしもより広く一般化しての話、かなり強く共有している方で、藝能人の増長ぶりへのわたしの怒りがあまり強いので、あなた差別へ逆戻りよと妻に笑われるぐらいなんですが、彼等がどういう立場にいやほど長く久しくいたか、その実態も熱心に調べ、こまごまと知っていましてね。
それに、何よりも社会的な弱い弱い立場から、われわれをどんなに楽しませてくれてきたか、それを政治家や独占資本家ら世の強者たちの強悪・偽善ぶりと同列に比べるのは、その方が恥ずかしい。一度落ち着いて、幕末から少なくも太平洋戦争までの「日本の歴史」を見直してみられたら、軍閥・財閥・藩閥・閨閥の権力と強欲とが、どれほど無辜の国民生活を惨憺たるものに蹂躙してきつづけたかを知るでしょう。
弱者から強者への「逆差別」なんてものがもし可能なら、それは素晴らしい「恵み」ですが、そんなことは不可能でした、千年も二千年も、変わることなく。今も。
* 偏見であれ無かれ、わたしは適切な権力の設定を社会的に余儀無しと思っているが、その権力を天与かのように私有して放さない権力者達の存在を、とうてい肯定し容認する気には成らない。権力は、まわりもちに活かされるべき機能であり、少数の人や階層の私物になってはならない。そういう連中が権力をもつのは「悪い」のであり、大名の子に生まれた以上仕方あるまいなどとは考えない。まして、藝人と大名を横並び平等に観るような人間観は持っていない。
はっきり言えば、もし在るとして藝人の特権は歴史的・世襲的に強いられた負の特権・特色であった、が、例えば大名や独占資本家の特権は、国民から強引に苛酷に奪い取った特権である。同列に観るのは間違っている。その上で、当節藝能人の「批判や非難」をするのはなんら差し支えないし、それはそれ、必要ですらある。それならわたしにも沢山な思いがある。
坂田藤十郎は、女形の藝をつかみたさに偽りの恋をしかけて、お梶という女性をついには死に追いやったと、菊池寛の小説は書いている。「藤十郎の恋」をどうみるか、わたしはこの話を知ってこのかた、正直、さだかな結論が得られていない。
しかし、あの程度のほぼ余儀ない泥酔の過ちに落ちた少年中村七之助、それも輝く才能を感じさせる有為の少年を、晴の舞台から追い立てる必要は「無い」と観ていることは、もう一度ハッキリ言う。そんなことに警察や検察がおおく手をかけているなら、橋本龍太郎らの「一億円」問題を、堤義明の「コクド」問題を、ぬかりなく徹底追究して欲しいと思う。少なくも七之助問題とこれらとを同列にみて、一方を庇うならもう一方も庇わないと「逆差別」の偏見だというような理窟は、全く成り立たない。軽犯罪も極重犯罪もおなじ犯罪であり同列にものが言えるなどというのであれば、これをこそモノを観ない歪んだ悪平等というしかない。
2005 3・6 42
* 黒井千次氏の「時間」を起稿し校正し入稿した。この作品が「文芸」二月号に出て、わたしの「清経入水」が「展望」八月号に出た。そして「新潮」九月号に黒井氏ら新人賞たちの特集があり、わたしは事実上の受賞第一作「蝶の皿」を出したが、他の人達とのものすごい作風の差に仰天した。たまげた。他の人達もわたしの作品には唖然としたことだろう、呵々。
2005 3・9 42
* ペンは早速、人権擁護法案の過った起案に反対の声明を送った。まだ確認出来ないが、メディア規制も削除せず断乎通過させるという政府与党の方針に、民主党も抵抗しそびれているという報道があるかと思うと、民主にも自民内部にも反対意見が膨らみ、不成立またも廃案という報道があったようよと、妻は横へ来て、言う。そうだといいのだが。
人権擁護法案を政権側がもちだす一つの足場には、差別問題があり、此処に立脚するかぎりこれに反対する理由などあるわけがない。しかし、言論表現委員会でわたしが繰り返し発言したように、これは巧妙な立法口実の足掛かりとして政権側は利用し、ダシにして、その実は、橋本龍太郎・鈴木宗男のような悪政治家や、堤義明のような悪企業家たちの人権擁護が本当の狙いであり、その擁護を従来阻害してきた報道メディアなどをつよく規制しようというのである。
しかも更に奧があり、本当に彼等が恐怖して止まないのは、制御の難しいインターネット上での圧倒多数の国民の、また国外からの、批判や追究をどう免れうるか、電子通信メディアの規制・制圧に遠い「的」を絞っているのである。新聞や雑誌や放送なら抑えられるという自信を、もう政権は早くから持ちかけている。そういう表向きのメディア規制は、事実上の陽動作戦めいており、攻撃の本丸は、組織団体や、あなたやわたしの、インターネット利用そのものになっている、それを理解していないと、ラチもないレベルでの反対声明に終わってしまい、政権側の彼等からはお笑い草で終わってしまうのである。
わたしは、専門家でも情報屋でもないが、いくらかは一人の人間としての直観があり、過去の日本の政権がいかに狡知の限りを尽くして、人権を、擁護どころか抑圧し潰滅させてきたかの「歴史」を承知しているので、こういう推測はたんなる床屋政談では無いのである。わたしの発言に委員会でいちばん肯いて賛意をみせていたのは、こういう法律の内情にもっとも通じている日弁連の弁護士たちであった。以前にも、「秦さん、それ、正解ですよ」と、常日頃ほとんど縁のない弁護士が耳打ちして帰っていった。
* これは例のあることだが、WWW(world wide web) というのは、たんなる形容ではない。極端なことをいえば、ある事案に関して三十人が一斉にある立場からの主張と結論をメールで述べて、知り合いのメーラー十人ずつに送り、賛成ならばあなたのメルトモのせめて十人に同じように送って欲しい、つぎつぎにその様に送り続けて欲しいと発信すれば、事柄と使用言語とによっては、たちまち world wide に素早くそれが拡がってゆく。まして日本語で日本国内に発信すれば、うまくすると政府を倒せるかも知れない意外な影響すら立ち現れうるのが、インターネットの威力なのである。これを政権が懼れていないわけがなく、「敵」は電子メディア通信にあると、制圧の目標を「悲願」ほどに立てているのが、この数年来の瀬踏み的な「悪法」成立を積み重ねてきた、本当のねらいに違いないのである。
ブログ流行の時節である。やがて、インターネットの低劣な毒害部分の規制を口実にして、一般私民のパソコン活動、携帯メールなども規制する管理すると表だって言いだしてくるだろう。その時にも、かならず、ちょっと反対しにくいようなジャンクメールの制圧やポルノグラフィの禁圧を持ち出してくる。そして必ず「保護」とか「擁護」とか「人権」とかの美しい名前で悪法を飾ろうとする。それは、明治この方の権力立法の常套手段なのである。
* このわたしの発言ないし預言が、できれば良識あるジャーナリストや批評家の眼へも届いて欲しいと切望する。
* 自民党の現職衆議院議員が、酒の上といえ路上女性の胸につかみかかったという話は、ばかな話だが、本人辞職と除名とで決着させるらしい。おかしいのは武部幹事長談話。遺憾の弁が、ごく当たり前に「党改革を実現したい」と来たものだ、セクハラはもとより、性犯罪は冒さないように「党改革」が必要とは、はてさてお行儀のわるい政権党じゃなあ。
* 昭和十五、六年ごろの松岡洋右外相の外交は、日独伊に加えてソ連との四カ国提携であった。それにより米英との均衡を守りつつ、世界を米ブロック、ドイツ中心の欧州ブロック、ソ連ブロック、日本を指導者とする大東亜ブロックという構想であった。
ブロックという考え方はもっと早くからグローヴァルに通用していて、もっぱら経済圏という概念であったが、これが政略的な覇権ブロック化していた。
ところがいまも、アメリカとロシアとEUとの「政経」ブロックに加えて、この間まで日本が指導的位置を自認していたアジアが、中国ブロックとして世界的に公認されつつある。日本はもう目でもなくなろうとしている。それがいいかわるいかまではわたしには分からない。しかし、嬉しい望ましい事態のようには思いにくい。極東粟散の辺土日本国は、またしても世界史的に孤立への道半ばにありはしないか。なぜなら、韓国も北朝鮮もロシアも台湾もおそらくフイリピンですらも、日本国にあつい愛情などとてもとても持てまいからである。またも烈しい革命でも起こらぬ限り、中国外交の「悪意の算術」は確実に成功をおさめつつある。
* 国民投票法案にいたっては、よくもまあ此処までやりたいかと、絶息しそうなヒドイものである。
2005 3・10 42
* 谷崎作品で最初に三作をと推奨作を聞かれたら、やはり「細雪」「蘆刈」それに「夢の浮橋」を、さらには「少将滋幹の母」「蓼喰ふ虫」や最初期の短編を薦める。「刺青」「少年」「秘密」「麒麟」「幇間」は天才の作である。異色作としては「小さな王国」を。しかし「猫と庄造と二人のをんな」は大傑作である。
2005 3・16 42
* 自分の意欲からほんとうに勉強し始めたのは、大学を出て何年も経った、二十七歳ぐらい、小説を書き出してから、であった。今度「湖」版で出した「谷崎潤一郎論」を書いたとき、わたしは三十五歳、受賞して作家になっていた。いまの息子より二つ若かった。この七、八年に、自分で意識して身につけたものは何であったろう、自分の言葉と文体であったろう。それは小説や評論のためだけに役立つというものではない、まさしく日々日常の「白兵戦」を吶喊する武器であった。マインドという力であった。だから、その力にはどこかで自身をいつか危うくするかも知れない毒もひそんでいたことが、今だから分かる。わたしはいろんな意味での成功という落とし穴をトクトクと掘り続けていなかったわけではないのだ。
ま、それはわたしのこと。
若い友人達には、(文筆家というような意味とは全く関係なしに、)やはり、本当にいい意味での「言葉と文体」を発見するようにと奨めたい。ものの見え方、視線の差し込み方が変わってくるからだ。そして、元気に。
* 教育者だったことは一度もない、わたしはやや無頼なまで一人の物書きとしてのみ生きてきたから、ときにハチャメチャも平気で云うかも知れない。
昨日であったか、容易に職場に適応しないで休職を繰り返しながら、しかも絵画創作の道へ歩み出して通学したり、藝大を二度も三度も受験してきた卒業生が、さていま何をすればいいのか休職しながらぼおっとしていますというので、夫や男ではなく、存外、あなたは子供を持って母親として戦い生きようと考えていい人かも知れないね、などとメールを返していた。確信があって言える何の根拠もないけれど、ふと、強くそういう気もした。秦さんはときどきとんでもない強さで刺戟してくるからコワイという卒業生達もときどきいたのであるが、コワガルたちの学生達には、ある種共通点があった。
2005 3・18 42
* インタネットのサーフィンなどしていると、ヘドの出そうな不快なことにも、おやおやと思う興味あることにも出逢う。人の世に不快は愉快の大体三倍以上ある気がしているが、それとて、こっちが目をむける相手により決まってくることであり、腐って臭いと思われる方面に顔を向けなければいいようなものだが、そうばかりしていると臭い物に蓋をして知らぬ顔でいることになる。これがコトをいっそうひどくする。兼ね合いがむずかしく、ほとほと生きているのもイヤになるときがある。
もうはるかな昔であるが、「大平洋戦争 総力戦と国民生活」のあまりな疲弊と非合理の戦時政策を逐一追跡していると、物悲しくなってくる。また加えて、ナチスドイツの酷薄な暴虐のまえになすすべなく一家悲惨な最期へ追いやられたり、かろうじて子供達だけがイギリスへ送られて辛い思い出を抱いた生涯を老いて追懐していたりする映像を見ていると、からだが震えてくる。ああそれでいて、なんで今が今、イスラエルとパレスチナは、あんな苛酷な闘いに多くの命を我から差し出しているのか。
2005 3・29 42
* 大戦末期の、極度をなお超えた国民の困窮。学徒動員。米機による無差別絨緞爆撃などを克明に歴史記述を介して辿っていると、それ自体他人事(ひとごと) でなく、国民学校の生徒で田舎に疎開していたとはいえ、小なりとも渦中にわたしも生きていただけに、身を刻むように、読書が痛い。キツい。もう少し、もう少しと息を喘ぐようにして一字一句校正している。凄い! とはこういう体験にのみ謂いたいと思う。
だが、日本の銃後にいた子供もたいへんであった、その何層倍も苛酷に、命を刻々ナチの人種迫害に脅され曝されて生き抜いてきたユダヤ人児童達の映像はもの凄いというしかない。つらいと分かっていてわたしは機会が有ればそんな映像にも眼を曝すのを半ば義務のように観じている。
* どこへも出ない。今日イッパイは、この線上の仕事を二つ三つ廻しながら各個に進めて行く。
* 「大平洋戦争総力戦と国民生活」の無惨なかぎりを読み終えた。ああ親たちは、大人達は、たいへんだった、よく育ててくれたと頭がさがる。それにしても、苛酷な軍国ファシズムの準戦時体制から無策極まる総力戦へ、そして原爆投下二発、とは、ひどかった。だが過去完了のこととは思われない。「有事」を予期した準戦時体制の準備を政府与党は明らかに考えているし、そのためにこそ支障のない、都合の良い「憲法改正と新国体」を、既に中曽根もと首相等をはじめ、具体的に模索している。
憲法を適切に、箇条によっては改めねばならないことは、制定後の時久しきを経て当然だろうが、そのどさくさに、改めてはならない憲法の生命線はぜひ守らねばならないのだが、だれが守ろうとしているのか。
学生はいないも同然、労組は無いも同然、野党は消えたも同然、知識人はただ個人の良心にだけ頼んで、つまりは亀の子のように首をすくめて安全で事足れりとしている。ああ若い人達よ、君達の子や孫達を悲惨な地獄へ向かわせるな。
* 孫のやす香は、指折り数えて今年は、この春は、大学へ入学する。どんな学生になりどんな学問に向かって行くのだろう。よき船出せよ。
2005 3・30 42
* 価値観しだいで、こんなわが述懐を、軽蔑こそすれハナもひっかけない政治屋や企業人や医者や弁護士や科学者がいるだろうと思う。そしてそういう人達が、かさかさに乾いて罅の入った心臓を酷使しつつ、そういう敢闘自身を自慢にしているという場面はいたるところに有るだろう。たしかに「日本という機械」を動かしている担当者は彼等であるに相違ないが、人間のレベルに横並びに並べてみたとき、そういう人達の疲労と消耗と減衰のサマは悲惨なほどのものであるとも予想できる。想うにそういう戦士たちの日々には、このメールに現れている「文化」の相は干上がっている。それを犠牲にして生きている。
文化だけで人は生きられないが、文化をみすてた日々の生きる戦争には、たいていロクな目的がないのも事実である。
2005 4・1 43
* 「横浜事件」のことは、此処でも時折触れてきたが、某新聞から、四枚ほどで書いてくれないかと頼まれた。ややこしい事件なので、事件の説明など始めたら紙数はすぐさま尽きる。お互いにそれを承知で頼み頼まれたのだから、何とかサマにしたい。言いたいことはヤマのようにあるが、新聞原稿はむずかしい。
だが横浜事件は過去完了の言論弾圧事件ではない、むしろまた新たな人権の苦難時代、主権在民の圧殺されて行きそうな時代の一つの端緒として記憶されかねないコワイ事件である。そうならないためにも忘れてならないこれは「国の犯罪」であった。
2005 4・3 43
* 谷崎松子夫人が、生前に、どんなに谷崎文学記念館の実現に奔走されていたかを、わたしは、ご本人の口からも何度もうかがい、また激励もさせて貰ったが、奥さんの、また私の希望も、本当は東京の中央区日本橋界隈に、つまり谷崎の生まれ故郷の地に出来て欲しかった。谷崎と芦屋ないし関西の縁はあまりに深いし、松子夫人ももとより関西の方であるから、現在芦屋にある記念館はよき所を得ているには相違ないにしても、これを「谷崎文学」「谷崎研究」という観点から見ると、ぜひ、東京の地の利とともに、単なる資料展示を超えた文学研究の拠点としての活動が願われたのである。奥さんはよく分かってられた。だが、残念にも機運がうまく動かなかった。
* 長谷川泉のような巨人がいたので森鴎外や川端康成研究は、豊かな実績を積み上げてきた。それは泉鏡花研究における村松定孝氏にもあてはまる。また相次ぐ新保千代子・井口哲郎館長の尽力よろしきを得た石川近代文学館の、重厚なほどの文学研究の実績にも同じことが言える。
そういう例からすると、谷崎潤一郎記念館から発信されるものは、まだまだいかにも薄いし軽い。大学院生レベルの同好会を、質量でも意欲でも、出ない程度のちいさな「囲い込み」状況に陥っている。全国の学究を蔽って学会にまで、せめて研究会にまで立ち上げていける、そういう大物の「谷崎学者」が各地から出揃ってきて欲しいものである。そうでなければ、いつまで経っても完璧な谷崎全集は出来ないだろう。早稲田の千葉俊二君など、学生の頃から再々我が家へ顔を見せに来た谷崎専攻生で、師匠の紅野敏郎さんにも頼まれ、ことごとに声援を送り続け期待してきたのだが、教授になってしまうと世渡り煩雑なのでも有ろう、看板の「谷崎学」実質はむしろ薄まっていないか。
2005 4・4 43
* 高田欣一様
今度の(通信の)西行論 ひときわ面白く、今までの中でも突出して面白く読みました。西行という人は歌が佳いので、自然、その歌を引用されての議論は読み手を惹きつける徳があるのでしょうか。かなりの分量の論ですが、長いとも煩うことなく、花粉症の眼をしょぼつかせながら一気にずんずん読みました。ありがとう御座いました。
和歌で用いる「人」ということばは恋人のような「特定の人」をさす、とばかりは言いにくいと思います。
「ひと」は、だいたい「他人」「他者」を意味していたように思います。「世をうぢ山と人はいふなり」「夢の通ひ路人目よくらむ」「人に知られでくるよしもがな」「人目もくさもかれぬと思へば」「ものや思ふと人の問ふまで」「人づてならでいふよしもがな」のように。「他人事」を、「たにんごと」などとばかげた読みをこのごろの人はしますが、むろん「ひとごと」ですね。例の谷崎の、「われといふひとのこころはわれひとり」などと「人を我と」示す例は稀少のようです、いえ、めったに無い。「人をも身をも恨みざらまし」のように、自分のことは、「われ」のほかは「身」が普通でしたから。そして、この「人」など、特定の恋しい誰かに宛てて読むのがむしろ自然ですね。
高田さんのいわれるように、「ひと」を読む魅力はなかなかのもので、可能性も、実例も「いでそよ人を忘れやはする」「うかりけるひとをはつせの山おろしよ」「来ぬ人をまつほの浦の」など多々あり、和歌を読む楽しみが増えます。「人には告げよ海士の釣舟」「人知れずこそ思ひそめしか」「人こそみえね秋は来にけり」「人こそしらね乾く間もなし」「人もをし人もうらめし」などを、恋しい人かのように読むと、がぜん歌の面白さが物語めいてきますものね。
おなじように、「世」も、根は、男女の仲にあると、私は、読んできました、好色一代男の「世之介」という名にまで伝わる伝統としても。「よのなかはちろりにすぐる ちろりちろり」の「世間」もそう読んでこそ、幾重にもこの室町小歌は面白く生きてひびくものとも。
いろいろ想って、楽しんで読みました。
またまた読ませて下さい。 お元気で。 秦 恒平
2005 4・6 43
* この尾崎紅葉が弟子泉鏡花に与えた叱咤激励の書簡は、胸に響くものがある。小説を書き続けようと覚悟の人に、(むろん、わたし自身にも)この上ないものと、あえて書き写しておく。改行もモトのままに、漢字も正字にしてみたが、もし化けるようなら、また読み下しによみがなが欲しいようなら、アトで加えよう。一字だけ「門ガマエ」に「韋」の入る字が機械で出せないので、便宜に「閨」の字を宛てておいた。圏点傍点などは太字にし、一字だけ二重○のついていた「脳」にだけカッコを伏して太字にしておく。
*「夜明まで」は「鐘聲夜半録」と題し例の春松堂より借金
の責塞に明日可差遣心得にて此二三日に通編
刪潤いたし申侯巻中「豊嶋」の感情を看るに常
人の心にあらず一種死を喜ぶ精神病者の如し
かゝる人物を點出するは畢竟作者の
感情の然らしむる所ならむと私に考へ居候ひしに果然今日
の書状を見れば作者の不勇気なる貧窶の爲に
攪亂されたる心麻の如く生の困難にして死の愉快
なるを知りなどゝ浪(ミダ)りに百間堀裏の鬼たらむを冀ふ
其の膽の小なる芥子の如く其心の弱きこと
苧殻の如し。さほどに賓窶が苦くは安ぞ其始
彫閨錦帳の中に生れ来らざりし。破壁斷軒
の下に生を享けてパンを咬み水を飲む身も
天ならずや。其天を樂め!苟も大詩人たるものは
その「脳」金剛石の如く、火に焼けず、水に溺れず
刃も入る能はず、槌も撃つべからざるなり、何ぞ
況や一飯の飢をや。汝が金剛石の脳未だ
光を放つの時到らざるが故に天汝に苦楚の沙
と艱難の砥とを與へて汝を磨き汝を琢
くこと數年にして光明千萬丈赫々として
不滅を照らさしめむが爲也汝の愚癡なる箇寶を
抱くことを曉らず自悲み自棄てゝ
隣人の瓦を擎ぐる見て羨む志、卞和に
して楚王を兼ぬるものといふべし。
汝の脳は金剛石なり。金剛石は天下の至寶なり。
汝は天下の至寶を藏むるものなり。天下の至寶
を藏むるもの是豈天下の大富人ならずや。
於戲(あゝ)天下の大富人汝何ぞ不老不死の藥を
求めて其壽を延べ其樂を窮めざる?!
貧民倶樂部はまだ手を着けず。少年ものは
賣口あり。十分推敲しておくるべし。
近來は費用つゝきて小生も困難なれど
別紙爲替の通り金三圓だけ貸すべし
倦ず撓まず勉強して早く一人前になる
やう心懸くべし
明治二十七年
五月九日 紅 葉
鏡花 君
2005 4・10 43
* 中日新聞・東京新聞の、北九州でもおそらく、今日の夕刊に、「横浜事件再審決定に思う」と題されたわたしの一文が出ている。広く読まれたいと願うので、此処にも掲載しておく。
* 反・主権在民国家 秦 恒平
「国(公)の犯罪」は、まちがいなく有り得る。「私」の犯す罪より罪深く、歴史的に、事実、幾度も有ったのである。開戦や敗戦をいうのではない。例えば国権を笠にきた弾圧やフレームアップ(でっちあげ)のテロリズムがあり、最たる一つに明治の「大逆事件」が思い出され、また昭和敗戦前の「横浜事件」が思い出される。横浜事件のほうは、粘りづよい運動と法の手続きにより、戦後六十年、最近、やっと再審査の細い明かりが見えた。だが、往時の被告たちは、もう、一人もこの世にいない。
大逆事件も横浜事件も、官憲の事件捏造と不当裁判の経緯はあまりに錯雑、詳細はしかるべき歴史事典などをお調べ願いたいが、ともに大規模な弾圧事件であり、国権による犯罪という暗部を多分に持っていた。ことに横浜事件では、神奈川県特高により、「中央公論」その他の筆者・編集者たちが、何の根拠も証拠もなく約五十名も検挙され、凄い拷問と自白の強要で、力づく「事件」に作り上げられていった。表向きは共産主義思想の猛烈な禁圧とみせて、実は、「戦争政権」背後の勢力争いに陰険に利された、著作と編集への「テロ」の疑いも持たれてきたのである。
この数年関わってきた日本ペンクラブ『電子文藝館』に、故池島信平の「狩りたてられた編集者」という一文が掲載してある。大意、こんなふうに書き出されている。
<昭和二十年三月十日の空襲は壊滅的で、私は雑司ガ谷の菊池寛氏の家に転げ込み、居候した。或る日、本郷の焼跡を通りかかると、当時、『日本評論』編集部員の渡辺潔君と出遇った。「いま『文藝春秋』をやっているんだ。君等に会ったら、聞こうと思っていたんだが、やたらにこの頃、編集者が横浜の警察へ引っぱられているが、いったい、なにがあったんだい」と聞くと、渡辺君は、「実はぼくにもよくわからないんだが、うちでも美作太郎、松本正雄、彦坂武男の三人が引っぱられた。こんどは僕のような気がするんだが、なにが当局の忌諱(きい)に触れたのか、わからないんだよ」と、深刻な顔をしている。これが世にいう「横浜事件」で、前年あたりから、『中央公論』『改造』『日本評論』の記者諸君が続々検束されていた。身に覚えのないことで引っぱられるという恐怖は相当なものであった。>
私は、これが「過去完了の事件」とは言いきれないのを、今、懼れている。昨今の政権与党の政治手法や法の制定は、個人の「保護」とか人権の「擁護」とか美しい文字をことさら用いながら、その実は、言論表現や報道取材の自由を、また私民の基本的人権を、またもや専制と監視下に抑圧する意図を、ポケットに隠した銃口のように、国民の方へ突きつけている。権勢保持の「公の犯罪」を、そのようにして法の名の下に「国」として犯しかねないのを、私は強く懼れる。「反・主権在民」政治の、津波にも似た不意の来襲を、心から懼れるのである。いましも用意されている国民投票法案のごとき、明治八年の讒謗律(ざんぼうりつ)や新聞紙条令などジャーナリズムの徹底監禁政策をホーフツさせる、信じられない条文に溢れている。
だが、それ以上に私の気にかけ懼れているのは、物書きはもとより、新聞・雑誌の記者・編集者、出版人に、あのような「横浜事件」の悪夢再来を阻もうとする、自覚や意思や方策が、声を揃え手を携えて立ち向かう気概が、有るのだろうか、という一点。
罪無き言論人や編集者を無惨に巻き込んだ「横浜事件」は、決して過ぎ去った過去完了の弾圧事件ではない。うかと油断すれば、即座に、また新たな基本的人権の苦難時代、主権在民のなし崩しに圧殺されて行く時代の、一序曲として位置づけられかねない、コワイ事件なのであった。忘れてはなるまい、横浜事件は、私民の平和を侵す「公の犯罪」、主権在民を阻む「国のテロリズム」なのであった。「国」という権力機構は、国民に禍する「罪」を、じつに容易に犯し得るのである。公と称して国を「私する」からだ。
監視されるべきは、国民が公僕として傭っている、「政権」「政治」の方である。
2005 4・12 43
* 午前中は「金八先生」と付き合っていた。
ひとやすみしたところへ、高田欣一さんのメールをもらっていて、よろこんで拝見。楽しいメールの交換とは、こういう落ち着いた息づかいから出て来る「述懐」であろう。演劇少年であったこと、谷崎戯曲とのご縁など初耳で、すこぶる興味をもつ。高田さんの優れて文学的な、文学そのもの、の「通信」最新号が、このところ続いていた西行論の新たな展開で、ひとしお面白く読んだお礼を伝えてあった。
* お礼と谷崎潤一郎のこと。 メールありがたく拝読しました。
落ち着いてパソコンに向かい合える土日が、先週は所用の為、ほとんど家に居られませんでしたので、お礼が遅れて申し訳ありませんでした。
何度も書き直してゆく過程で、次のために取って置く心積もりで省いてしまった部分に、西行と谷崎潤一郎の比較がありました。
『藝談』やご文『人と作品との索引』にも見られるごとく、近代の文学者の中で西行の心がいちばん良くわかっていたのは、谷崎潤一郎であろうと思いました。
それは、西行も谷崎氏もともに「生活者」であったというところに共通性があるのでしょう。
実は高校生の頃、私は文学青年というより演劇青年で、小学生の時に狂言の『神鳴』を脚色した劇で、藪医者の役をやり、さらにどう見ても子供歌舞伎劇としか思えぬ『石童丸』で口紅を塗り、薄化粧をして頭巾をかぶった苅萱同心を演じて以来、俳優になるのが夢で、高校になるとまっさきに演劇部に入りました。
最上級生になったとき、一番やりたかった役は谷崎潤一郎の『お国と五平』の池田友之丞で、まず台本を顧問の先生に読んで貰ったとき、その先生は、まじまじと私の顔を見つめて、「君、本気かね」と訊かれました。
「もちろん、本気です」というと、黙って眼をそらされました。
もちろん、不許可で、それどころかものの考え方に偏頗なところのある危険な生徒ということで、そういう人物をリーダーにする演劇活動も制限しようということになりました。
自分としては、小幡欣治や八木柊一郎の書く、いかにも安手のヒューマニズムを盛り込んだ高校演劇用台本が気に入らず、それならばと思ったのですが、そうした思いが、チェーホフやテネシー・ウィリアムスに行かないで、谷崎潤一郎へ行ったのが、不幸といえば不幸でしょう。
もちろん『欲望という名の電車』が許可されたとも思いませんが。
私の谷崎潤一郎とは、『細雪』で、妙子の恋人の板倉が死んだあと、「正直のところ死んでくれてよかった」と、ぬけぬけと云う幸子で、社会的身分としては板倉に近いところにいたので、この言葉はショックだったけれど、「ああ、これが生活なのだな」と思いました。
そういうところから目をそらさないところが、谷崎のえらさだと思います。
欲望に支配されて、欲望のままに生きたいと思うのが人間、それを「忠義」とか何とかの化粧で隠しているお国と五平の主従を、討たれながら糾弾する友之丞、そして彼を殺したあとで、自分たちも欲望の子であることを告白す
る二人、その後味は爽快でした。
大正期の谷崎をもっとよく見直すべきであるという御説は大賛成です。
昭和に入ってからの王朝風文化の影響を強く受けて、花開いたかに見える世界の根元に、大正時代の、たとえば『異端者の悲しみ』に描かれたような世界があること、こういうところに光をあてることが必要と、いま感じております。
中央公論がああなってから、もう三十年以上も新しい谷崎潤一郎全集が出ないのは、大変残念です。
今回の「湖の本」はその意味で、楽しく読み、勉強もさせて戴きました。
ますますのご健筆をお祈り申し上げます。 四月十三日 高田欣一
* 創元社といういい出版社が大阪にあり、わたしは東京に出るか、この創元社に人のお世話になって就職するか、で一時期迷った。社長に面接して貰い、相談した。そして東京へ行きなさいと親切にすすめられた。
創元社からは、創元選書という、充実した、当時でいえば東京の筑摩書房ににた雅なインテリジェンスの香りのする本が出ていて好きだった、が、何といっても高校生のはじめごろ、六、七巻の「谷崎潤一郎の作品」という選書が出始め、懐かしい優しい手触りの四六版、これを頑張って買いそろえたのが、谷崎との出逢いを深める決定的動機であった。
それ以前は、新聞で「少将滋幹の母」を読み、一冊本で「細雪」を耽読し、岩波文庫の星一つの「吉野葛・蘆刈」を溺愛していたが、かなり揃って谷崎の読める創元社企画にはぞっこん惚れ込んだ。
「無明と愛染」など戯曲をおさめた一冊もあり、わたしはこの作に夢中で、何とかして高校の文化祭だか演劇祭だかで上演できないか、演出メモを一心不乱に書き出したほど。しかし芝居は一人では実現しない。高校時代のわたしは、小学・中学時代の生徒会長の反動で、群れるより孤独にいるほうを好んでいたから、仲間を募って「無明と愛染」を舞台に乗せて行くまでの気は無かった。
出演でなく、「演出」を考えていたのは本音で、高田さんとちがい舞台に立ちたい気持ちではなかった。ただ芝居は好き。中学一年生の時、クラス対抗演劇大会で演出役を引き受け、猛烈な稽古の甲斐あって全校優勝をかちとったのは懐かしい思い出だ、今も京都へ帰ると語りぐさになるが、二年生の時にも、演劇部を作ろうと云いだした万年先生の選で、坪内逍遙「桐一葉」の本読みをはじめたりした。「桐一葉」とは、だが、敗戦直後の腹ぺこ新制中学生には見当違いな選択であった。上級生ばかりの中で、わたしほどもセリフの読める生徒は誰一人もいなく、演劇部はすぐつぶれた。
あのころ、中学二年生の頃、わたしは創作意欲旺盛で、通学鞄のなかには、詩と短歌と俳句と散文と日記のための帳面がいつも隠されていたし、ほかにもたわいない友情ものの戯曲も書けば、国語の先生が慌てて没収した土地柄の差別問題に触れた小説も書いた。よほど「書き」表すことが好きで、戯曲や映画好きも例外ではなかった。
* 谷崎は晩年まで映画が好きだった。美学者では中井正一が、映画など軽蔑されていた頃に慧眼にも映画独特の美学・藝術学を積極的に認識していた。が、谷崎は専門家の中井以上に栄華フアンとしてよく映画を識っていた。映画と演劇を分別し、片方ずつ好き嫌いをいう人もいるけれど、わたしは谷崎のように両方好きである。テレビへ衛星放送を取り込むのに随分抵抗してきたけれど、案の定映画が多く、そちらへ向かう時間が増えている。殆ど海外映画しか観ないが、たまに市川雷蔵の「大菩薩峠」なども観ている。海外女優の名前は今では百十人ぐらいはすうっと挙げられて、就寝時の眠り薬のかわりに数え上げている。楽しむ余りに眼が冴えることも。とにかく出逢った新しい名前をずんずん覚えて行く。レイチェル・ウォード、キャサリン・ゼタ・ジョーンズ、ニコール・キッドマンなど最近出会って、綺麗だなと思った。
2005 4・13 43
* 今朝のメールありがとうございました。育ってきた文化のずいぶんちがうことが、今さらながら痛いほどよくわかりました。
カトリックの学校でどっぷりキリスト教会の教育を受けて育ちました。わたくしの環境と血脈DNAには代々キリスト教が根深く入りこんでいることをご理解ください。
受けた教育は、魂は肉体の牢獄に閉じ込められているというような思想です。魂と肉体が分離しているようなわたくしの感じかたは、教会にとっては決して非常識なものではないのです。肉は罪悪、死によって魂は初めて肉体から解き放たれ神の栄光と至福に包まれるというのです。
育てられた教育者は神父とシスターで、ともにセックスをその人生から徹して排除してきた人たちです。修道院ではお風呂に入るに際しても、入浴用パンツをはかされたという笑い話のような事実を教えてくれた神父さまもいました。聖職者の大半は偽善の塊でしたが、真実崇高な教育者もいました。その数少ない人間愛溢れた神父さまやシスターにわたくしは憧れたのです。
『狭き門』は一時期カトリック教会で禁書だったとか。この作品はそれほど致命的にカトリック教会の問題を抉り出していたのだと思います。ジイドの実践した性なき結婚が示すように、カトリック教育を受けた人間にとって、性と魂の救済の問題は、途方もない難問なのです。吹けば飛ぶような知性と信仰の持ち主にとっても、です。
よくご存じでしょうが、カトリックの本山では中絶はもちろん、避妊でさえ禁じられています。男女の性は子どもを生むというのが目的で、それ以上のものではありません。この教育の良し悪しを今ここで論じてもしかたありませんが申し上げたいのは、この宗教の人生への影響の広さ深さのはかり知れない実態です。ローマ法王の史上空前の葬儀を見てもわかりますように。
性は罪悪とか中絶は悪魔の仕業という条件反射が、どうしてもこびりついたシミのようにあるのでしょう。性の愛は精神の愛に劣る、エロスとアガペの格の違いのようなものは、常に頭の中にあります。当然、その価値観に反発する気持も強くありますが、しかし、どちらが根深いか厄介かといえば、長年の教育でしみこんでいるもののほうです。性愛では真実の愛に至らないという思い込みです。夏目漱石の『行人』にこういう文章がありました。
自分は女の容貌に満足する人を見ると羨ましい。女の肉に満足する人を見ても羨ましい。自分はどうあっても女の霊というか魂というか、いわゆるスピリットを攫まえなければ満足が出来ない。
クリスチャンでない夏目漱石も肉と魂を分離して捉えていたように思えるのです。夏目漱石に同意見を見つけたように思いました。もっともこのセリフの主は、「恋は罪悪です」と言った人のように、やはり不幸でしたれど。 春
* 魂と肉体とは別物だという立場で愛のなやみを語ってきた人に、わたしは、そんなことをいっていると、肉の何ポンドかを要求して、肉だけでいいと言い張ったアンクロシャイロックのような滑稽さに陥らないかと、朝の出がけ前に、慌ただしく返辞したのだった。
ジイドのことは、もう少し別方面で考えたい。
漱石の「行人」はたぶん兄一郎の物言いであり、漱石の思想の進行では、これをこう書いて一郎を狂気に追いやることで、克服しなければとあがいていた。静かな心の研究が続かねばならなかった。それでもまだ漱石は、幸福であるべき不幸な一対の男女を書いて、静かな心を見失ったまま先生を今度は自殺させた。魂と肉体との引き分けなど、考えられない。
* アンクロシャイロックが頑強に肉(からだ)何ポンドかを要求したのに対し、では血(魂)は一滴もとってはならぬと言われて絶句したのを思い出して下さい。あなたの曰く、魂と体とが分離されている、と。ナンセンスです。
健康な体に健康な魂は宿ると。真理でしょうね。しかし逆さには、謂いようがない。魂は、肉体を生かしている血に等しいもので、分離してはいない、溶けあっている。分けて考えるなど形式的な空疎なあやまりを犯しているのです。アンクロシャイロックのように。
わたしは、健康な肉体から分離して抽出できるような魂の存在を信じないから、そんなものは、ひとから貰いようもなく、ひとに上げようもない。愛がある・ないの次元でなく、もし真実の愛を謂うのなら、肉体と魂とが生き生きと融和し溶けあい離れがたいものという、健康な認識から始まらねばならない。
ふつうの感性、ふつうの知性、ふつうの理性が大切です。言い換えれば「夜出来」の考えは狂いがちで、大切な思いほど、昼間に日光の下で育てねばダメだということです。真夜中に魔性と隣り合って思想を育てるのは不健康。夜はさっさと寝て下さい。
魂は健康なからだに宿り、生きている間は、人のからだは健康な魂といつも一つであらねば。それ以外に魂はなく、からだもないと思います。有りうべくもない分離など空想してはいけないなあ。
2005 4・15 43
* そうです。
> 鴎外は、あれで、今いまの若い人の文章かというぐらい眼も覚めるようなきれいな
> 現代文が書ける人なんです。
そうなんですよね!
新鮮な印象は、そこからきています。
鴎外の頃に現代文は完成していたのだなと思いました。
わたしは今朝方、あんまり喉が痒くて眼が覚めました。
スギよりヒノキの方が酷いみたいです。風、花粉お大事に。 花
2005 4・16 43
* > 採りたいものも推敲が追いつかなくて棄てて、妥協してしまったかと、いささか恐れます。
これはいけない。推敲は徹底的にすべきだし、採りたいものは生かすべく努めるべき、妥協でお茶を濁すのは反対。期限があるわけでなく、作者に根気がなく、テキトーな甘え心があるだけ。
今回は、ごくプライベートな真情をはらんだ述懐詩、断片詩も点綴して、生かす、ことを考えられよ。ぜんたいにツクリモノになりがちな詩篇に、生命感の匂いをうつすでしょう。
成功(仕事の進み)を焦らず、空白はつくらず、作品に真向きにぶつかり、詩に沈潜。
花粉はだいぶラクになってきました、だいたいスギ花粉型なので。もうヒノキに移行しているみたい。 湖
2005 4・19 43
* あちこちで作事の物音が。それも春たけなわを想わせる。
* 怪異ということが少なくなったか、ひとがあまり関心を持たないか、そうではあるまいその手のテレビ番組はあるし、ホラー小説だのホラー映画だので世渡りしている人達も多いのだから怪異への興味は、相変わらず、あるのだろう。
左大臣高明の住んだ寝殿の柱に節穴があいて、夜な夜なそこから小さな子供の手が出て招くということが続いた。怖じ懼れた人達は穴の上に経を結い付けたり仏像を懸けたりするが、相変わらず。
或る者が思いついて、征矢(そや)つまり鏃の鋭い戦にもちいる矢をズブと刺し込んだら、ちいさい手の招くことは無くなった。鏃だけを節穴の奧に残しておいた。絶えて怪異はなくなった。
だが時の人達にはべつの怪訝も生まれたというのが、おもしろい。
「心得ヌ事也。定メテ者ノ霊ナドノスル事ニコソハ有ケメ。ソレニ、征箭ノ験マサニ佛経ニ増リ奉リテ、怖ヂムヤハ。」
経や佛で効験無く、武張った征矢を突っ込むと怪異が失せた。こりゃサカサマではないのかと。ドライに観ていて、相当深読みの利く説話に思われる。今昔物語には、こういう、型にはまった・はまりこんだ常識や価値観を平然と覆しているお話が満載されている。芥川のような批評の利く小説家が此処に題材を生かし得たのは、当然だった。
2005 4・19 43
* 神の問題に毛筋ほどでも触れたことのある人間は、一生そこから逃れられません。神の介入は、人生のどんな場面にも、どんな人間にも起こり得ることです。試練とも言います。カトリックからこぼれ落ちて、信仰心などなく、罪に塗れた人間も、過去に一度でも素地があれば、あるきっかけで劇的に変わっていきます。宗教は人の根の部分に入り込むので簡単に棄てられるようなヤワな存在でないことはおわかりのはずです。人間は弱いものですが、神は強いのです。キリスト教から自由になろうともなれるとも思ったことはありません。
宗教を「抱き柱」とみて必要ないと感じるのは自由です。すばらしい自由です。でもこの抱き柱は世界から絶対になくなりません。また抱き柱の力は必ずしも害悪とは限らないのでは。この抱き柱で成し遂げられた仕事の中に、もっとも崇高な仕事があるのも真実ではないでしょうか。「天にまします」のキリスト教の祈りは「我等を試みにひきたまわざれ、我等を悪より救いたまえ」で終わります。神が天罰を与えるとは思っていませんが、神が誰かを深いはからいで選ばれて、その人間を愛してあえて「試み」られることはあると恐れています。たしかに色々なことを怖がりながら生きています。世界は猛獣いっぱいのジャングルなのです。 春
* かなり疲れる。
神にも仏にも「毛筋」どころでなく触れてきたし、神仏から「逃れ」たいなどと毛筋も思わないわたしだけれど、この春さんのような神観や、恐怖や、世間観・人間観は、わたしのものではない。こんな捉えようは、みな自身の「外」がわへものを求める雑念であり、雑念にとらわれて怯えることを「惑い・迷い」と謂うのではないか。真実の大事は、自身の「内」に在る。
「抱き柱」ゆえに成し遂げられた崇高な仕事。事実は、しかし、こうではなかったか。神・佛をただの「抱き柱」にしない帰依のゆえに、それは、崇高で豊かな仕事になった。
真実の信仰は、エゴでしがみつく「抱き柱」から、自由に手を放した深い帰依・無私にある。抱き柱はただの迷信。信仰と迷信とはちがう。迷信を売りまくっているのが教団宗教ではあるまいか。
2005 4・19 43
* 何かが通りすぎると、入れ替わりに何かがやってくる。もの心付いて六十余年、そういうことが何度もあって、不思議だと感嘆したり慨嘆したり歓喜したり驚歎したものだ。自分を一枚の明るい「鏡」にすると、だが、そんなことは何の不思議でもない。往くものは勝手に往き、来る者も勝手に来る。往くなとも来るなとも言わないのが「鏡」だ。
2005 4・19 43
* スワミ・プレム・プラブッダ氏の訳にまなびながら、バグワンの老子を語り継ぐ、そのごく一部に、聴きたい。
* 言語というのは人間的なものだ。明らかに、大きな限界を持っている。それは客観的なものにはいい。が、内なるもの、内側のものには、まったく用をなさない。
言語が何かを言い表わすことはできる。が、すべてを言うことはできない。食卓に坐っていて「塩を取ってください」と言うには、言語は役に立つ。便利だ。使い道はある。が、(真実)を言い表わすことはできない。なぜなら(真実)とは便利でも実利でもないからだ。(真実)は何か客観的なものでもない。あなたの外側にあるのではない。それは、どこか、あなたの存在の最も深い核心において起こるものなのだ。
あるものを何と呼ぶことにするか、決めることはできる。それはあなたと私の間のことだ。一種の取り決めだ。もしも双方がそう望んでいるなら、言語は完全にオーケーだ。
しかし、もし私の内深くで何かが起こったとしたなら、それはあなたと私の間のことではない。私にはそれが何で
あるか指し示すことはできない。たとえ指し示したとしても、あなたにはそれが何であるかわからないだろう。だとしたら、そうした事態に取り決めなどは不可能だ。
宗教は言語を超えている。ぎりぎりのところ、言語には、それが何でないかを言うことしかできない。言語には(真実)が何であるかは言い表わせない。が、(真実)が何でないかは言える。ぎりぎりのところ、それは打ち消しでしかあり得ない。
われわれは神が何であるかを言い表わすことはできない。そんなことをしてみても、われわれの限られた言葉、
概念によって、神を限定してしまうだけのことになるからだ。ぎりぎりのところ、われわれは神が何でないかを言えるだけだ。そして、あらゆる経典類の言っているのは、神が何でないかということにほかならない。それらは誤ちを除去する。が、けっして(真実)を開示してはくれない。
しかし、誤ちを除去しつづけてゆけば、ある日、突然、<真実>はあなたに明かされることだろう。言語を通して明かされるのではない。それは、静寂を通して明かされるのだ。
だからして、ごく深く理解されるべき最初のことは――もし理解しないと、それは大きな落とし穴になってしまうからだが――言語は危険なものでもあり得るということだ。人はそれに惑わされかねない。
「神」という言葉はあなたも知っている。が、「神」という言葉は神ではない。「神」という言葉の中に神々しいものは何もない。「神」という言葉は、虚ろなだけで空しい。中には何もない。何百万回それをくり返してみたところで、あなたには何ひとつ起こるまい。それは空っぽの抜け殻だ。その中は中空なのだ。言葉に、内なる経験を伝えることはできない。
イエスがある言葉を使ったとき、それは真実だったかもしれない。それは彼にとっては何らかの意味を持っていたかもしれない。が、彼の話を聞いた者たちにとってはそうではなかった。このことが理解されねばならない。
もし私が「サマーディ(三昧)」と言えば、それはあることを意味している。私はそれを知っている。しかし、あなたが「サマーディ」という言葉を聞くとき、それは耳に聞こえてくるひとつの音にすぎない。せいぜいのところ、あなたは辞書に載っている意味がわかるだけだ。だが、辞書は存在ではない。それは存在に代わるものではない。サマーディは、あなたがその中にはいっていったとき、あなたがそれになりきったとき、にしかわからない。ほかにそれを知る道
は何もない。
老子が口をすっぱくして、〈真実〉は語られ得ない、語られるものは真実ではない、と言うのはそこだ。しかし、それでも彼は語る。ここまでは言われ得るからだ。これはひとつの打ち消しにほかならない。
彼は言う。
〝知る者は言わない、言う者は知らない……″ 知者不言、言者不知
ここまでは言われ得る。それでもなおかつ、老子は現にそれを語っている。彼が認めようと認めまいと……。彼自身の原則に従えば、もし知っているとしたら、彼は語るべきじゃない。もし語るとしたら、そのとき、彼は〝事情″に通じていないことになる。そのとき、彼は知らないことになる。そうなると、あなたは解けないナゾナゾにはまり込んでしまうだろう。もし知らないのだとしたら、どうして彼は、かくも大変な真実を口にすることができるのだろうか?
〝知る者は言わない、言う者は知らない……〟
もし彼が知っているのだとしたら、なぜ彼は語っているのだろう? もし知らないのだとしたら、彼にはかくも深遠なことをほのめかすことすらできないはずだ。
このパラドックスを理解しようとしてごらん。彼はただただひとつのことを削除しているのだ。彼がこの二行で――深い意味を孕んだ、とても重要なものだが ――言おうとしているのは、言葉に惑わされるな、ということに尽きる。言葉は(真実)ではない。それらは(真実)のように見えるかもしれない。が、そうではない。生きられた瞬間は表現され得ない。生きたものは、それを生きることによってしかわからないのだ。
あなたが恋に落ちる。そうすれば、それが何かはわかる。ところが、愛について千と一冊の本を読みつづけていっても……。それらは本としてはビューティフルかもしれないし、ちゃんと自分で愛したことのある人たち、愛が何であるかを知った人たちによって書かれているかもしれない。が、それを読むだけでは、けっして愛の何たるかを知るには至らないだろう。
愛とは、理解されるべき〝概念″ではない。それは、それによって支配される〝体験″なのだ。愛が乗り移ったとき、あなたは中心から投げ飛ばされてしまう。あなたはもうそこにいない。愛が存在し、あなたはいないのだ。あなたが愛を操ることはできない。概念なら操作できる。それにどんな意味を持たせるかはあなたの自由だ。しかし、愛となると? 愛は操作され得ない。
愛とは、あなたが愛するということではない。それはあなたがやるようなことではない。それは何かがあなたに起こることなのだ。突如として、あなたはつむじ風に巻き込まれている。あなたより大きな力が、あなたを支配してしまった。あなたはもうあなたではない。あなたは支配されているのだ。
人々が、恋人たちのことを狂っていると思うのはそのためだ。恋人たちというのは確かに狂っている。愛とは、美しき狂気にほかならない。狂気のようなものだ。狂気の性質を備えている。というのも、人はそれに支配されるのだから……。
世に「愛は盲目」と言う。当たっている。愛は実に盲目だ。なぜなら、愛には愛なりのべつの眼があるのだから! 普通の眼では通用しない。愛には独特の見方、感じ方、あり方がある。普通のやり方は一切放棄されてしまう。問題外だ。愛には愛の世界がある。愛する者のまわりには、ひとつK新しい世界が生まれている。彼は、ほかのみんなには盲目に見える。が、彼自身の中では盲目どころではない。実際には、生まれて初めて、彼は眼を、視力を、洞察を得ているのだ。
愛は、恋に落ちることによってしかわからない。それになることによって……恋人になるばかりじゃない、愛そのものになりきることによってしかわからないのだ。もしあなたが愛する者であったとしたら、愛はまだ起こっていない。あなたは依然としてコントロールを、ハンドルを、握っている。そうしたければ、あなたは相手を変えることもできる。そうしたければ、あなたは立ち去ることもできる。そこにはまだ選択がある。愛はまだ起こっていない。あなたはまだそれに支配されていない。それでは愛はわかるまい。
もしかしたら、あなたはあるパターンに従って、あるいはいかに愛するか、いかに愛さないかという理論に従って動いているのかもしれない。あなたは、ある条件づけに従って動いているに違いない。愛はあなたのハートになりきっていない。それはあなたの中で脈打っていない。それは依然としてあなたの心(マインド=思考・分別・選択)の一部でしかない。言葉はマインドのものであり、体験・経験とはハートのものだ。そして、ハートにはそれなりの世界がある。愛にはそれなりの次元がある。だから、愛は容易に表現され得ない。言葉では謂えない。そして(真実)は、そんな愛よりもまださらにさらに深いもの。言葉で、安易に把握も表現もできるなどと誤解してはならない。
* 其処までは言い得るかも、という限界を、バグワンも示唆している。言葉は生かされるべきだが、塵芥の枯葉にも等しいという懼れを忘れて、用いてはならない。いつも、それを胸にして、わたしは「私語」をやめずにいる。
何度も触れたかも知れない、ホフマンの「黄金宝壺」という好きな小説の中で、ありとある書き物を水を張ったその器にひたすやいなや、無意義に無意味な値なき文字・言葉の悉くが、溶けて流れて消え失せる怖い場面が書かれてある。あれを初めて読んだのは相当の昔だ、なにしろ岩波文庫の星一つ(三十円くらい) だからやっと買えたほどわたしの財布にお金の入ってなかった頃のことだ。だが、あれを読み、また何度も以後読み直し、わたしは頬に粟立つ思いを重ねてきた。わたしは、言葉には頼れない。静寂、無言での雄弁な体験が内深くに起こることを、と。それは努めて成ることでなく、静かに無心に待つあるだけ。
2005 4・21 43
* わたしたちの暮らしている保谷の今日など、どの道を通っても花がいろいろに目について、わたしは立ち止まってはデジカメにおさめつづけるのだが、いかにも都下の「郊外」という風情で、ああ下保谷も歩きようでは佳いなあ、などと初めて感じたような次第。
この郊外の「郊」という語は、紀元前はるかな周の昔の、城内・郷(城門外)・郊外の別を言い伝えている。
モンテクリスト伯とは、むろん伯爵。モルセールは子爵で、ダングラールは男爵。トルストイの「戦争と平和」には、公爵、伯爵など掃き捨てたいほど出て来る。亡くなったダイアナ妃の実家は古い伯爵家だったらしいが、トルストイの家もたしか伯爵である。幸い日本ではこういう爵位の華族が消え失せてくれて、それだけでも敗戦の洗礼は有難かったが、戦争前はうるさいほど華族や新華族がウジャウジャしていて鼻持ちが成らなかった。
こういう公・侯・伯・子・男爵という爵位の名の淵源も、やはり周の独特の封建に在った。封建主義は臣下を各地に封じて支配させるが、周では臣下でなく一族を配して、その大小により公・侯・伯・子・男を名乗らせた。おっそろしい大昔のはなしだ。
百人一首にもあらわれる菅公・貞信公・謙徳公だの、あるいは江戸城に参集する諸侯だの、そういう言い方にもその余翳が見えている。上の例など忘れても差し支えないものだが、それにしてもいろんなものを、われわれの世間は、はるか昔からうけていて、すっかりそれを忘れている。働き盛りな壮者ほど傲慢にそれを忘れることで自己主張の我が世の春を謳歌しがちだが、しっぺい返しはすぐに来る。
2005 4・23 43
* 訳をしているスワミ・プレム・プラブッダ氏に感謝し、バグワンを少し読みたい。
* 老子いわく。 〝知る者は言わない……″
知った者たちはみな語っていない。あなたはそれを信じないだろう。仏陀は四〇年間休みなく語ったのだから……。来る日も来る日も、四〇年の間、彼は語りに語りに語った。しかしそれでも、仏陀を本当に知った人たちは、彼はけっしてひと言もしゃべらなかった、と言う。私は毎日のように休みなく話をしている。しかし、あなた方のうちで私を本当に知るであろう者たちは、私がただのひと言もしゃべっていないのを知るだろう。
なぜならば、語られることの一切は、「ただのヒントにすぎない」からだ。その中には何も語られていない。それはひとつの網、自分の頭で生きている者たちを捕えるための、漁師の網でしかない。いったん彼らがつかまれば、「言語の役目は終わり」だ。今度は彼らのハートが脈打ちはじめる。マスターと弟子との間で彼らのハートは同じリズムで鼓動しはじめる。そうしたとき、彼らは同じリズムで呼吸する。何を言う必要もない。そうなったら、何も言わずして理解されてしまう。
あらゆる「話」は、あなた方に「静寂」への用意をととのえさせるものだ。そして、ただ「静寂」の中においてのみ、(真実)は、起こる=あらわれる、のだ。
ある禅マスターの臨終の折に、こんなことがあった。
彼は最愛の弟子を枕もとに呼び寄せ、こう言った。
「時が来たようだ。私はお前に、長い間守ってきた経典を渡さねばならない。これは私のマスターが死ぬときに私にくださったものだ。今度は私が死ぬ番になった」
彼は一冊の経典を取り出した。枕の下に秘めていたものだ。そのことは誰もが知っていた。が、誰ひとり見ることは許されなかった。
「大事にするがいい、細心の注意を払ってこれを保存しなさい。貴重な宝だ。一度なくなったら、何世紀も得られるものではない」
弟子は言った、「それほどおっしゃるなら、いただきます」と。
それは冬の夜で、とても寒く、部屋には火が燃えていた。と、弟子は、経典を手にしてまだろくに見もしないうちに、それを火に投じてしまった。
マスターは叱った。
弟子の方はそれよりもっと大きな声で叫んだ。
「老師は何ということをおっしゃるのですか。経典を守れですって?」
マスターは笑いだし、こう言った。
「合格だ。お前があれを大事にしまい込んだりしたら失格だった。あれには何も書いてなかった、白紙だったのだ。これはただ、お前に、「静寂」を理解する力ができているか、あるいは、まだ奥深いところで、言葉や概念、理論や哲学にしがみついているかを見定めるためだった」と。
あらゆる哲学、「語られ得る一切」は、ちょうど宮殿玄関の「柱廊」のようなものだ。私は毎晩、玄関のところであなた方とダルシャン(面接)をする。あらゆる質問は、玄関のところでしか解決され得ないからだ。ひとたびあなたに用意ができれば、もう、質問などというものはない。そうしたら、あなたは「宮殿」にはいることができる。
ギリシアの賢人ゼノンの名前を聞いたことがあるかね? 彼はストア哲学の創始者だった。私と同じょうに、彼も玄関のところで教えるのをつねとしていた。「ストア」というのは、ギリシア語で「玄関の柱廊」を意味する。一生の間、彼は玄関で教えていた。人々はこう言う。
「あなたはこんなに立派な家をお持ちなのに、どうして玄関などで教えるのですか?」
彼が答えていわく。
「あらゆる教えはちょうど玄関のようなものなのだ。<静寂>に耳を傾ける用意ができたとき初めて、あなた方は神殿に足を踏み入れる。そうすれば、もう話などありはしない」と。
ストア、玄関の柱廊という言葉から、彼の哲学全体がストア哲学として知られることになった。
あらゆる言葉は、ぎりぎりのところ、玄関の柱廊になり得るだけだ。それらはあなたを内なる神殿へ導いてゆく。だが、もしそれらにしがみついたりしたら、あなたはいつまでも玄関にしかいられない。玄関は宮殿ではない。
老子は何か、ちょうど玄関のような、扉のようなことを言っているのだ。もしそれを理解したら、あなたは、あらゆる(タダの)言葉を、(タダの)言語を捨てるだろう。実際には、マインド全体を……を。玄関で靴を脱ぐところに、あなた方はあなた方のマインド(=タダの分別、タダの知識、タダの思考)も置いてくるべきだ。そうして初めて、あなたは実存の内奥無比なる「社」に足を踏み入れる。
〝知る者は言わない……″
たとえもし語るとしても、老子たちは、ここまでのことを言うために語るにすぎない。たとえもし語るとしても、彼らは語ることに否を言うためにしか語らない。彼らはそれによって何かを言いたいわけではない。彼らはただただあなたの中にある一切の(空疎で賢しらなダケの=)言葉を破壊したいのだ。
知者たちによって用いられたあらゆる言葉は、あなた方の中に根をおろしてしまっているほかの(タダ口先のしたり顔な=)言葉を取り去るためのものだった。一度あなたが「空っぽ」になったら、(= もうそこに、本質=静寂=禅定=enlighten が溢れるほどに起きているのだよ。そうだ。しがみつくな。)
* バグワンのこの言葉をわたしはもう数度は読んでいて、この個所では気付いていなかった、が、わたしが「抱き柱」と繰り返し謂うのは、ここで譬喩としてもかたられた「玄関の柱廊」のその「柱」なのであったと想う。その柱に抱きつきしがみついて、奧へ入って行く気がない。勇気や元気がない。「抱き柱」にしがみついているのだ。
2005 4・25 43
* 此の「私語」に聴くほどの人は、斯く臆面なく書かれる「私語」の全部が、書き込まれた「メール」風の総ても、即ち闇の「創作」と読んでいただきたい。登場する誰も彼もが、闇の奧から現れる言葉の「幻像」だと眺めて欲しい。闇のスクリーンに浮かんで実在する架空の影像と眺めていただきたい。
ただしウソではない。絵空事ゆえになまなかの現実にない生彩が表われてくる。私はただ一枚の鏡となり、写し出している。
2005 4・29 43
* 京都近代美術館の「村上華岳展」大図録が贈られてきた。「鳶」さんのブレゼント。
告白するが華岳について初めて原稿を頼まれたとき、わたしはまだ華岳を知らなかった。依頼された原稿を断るような「もったいない」ことのとても出来ない駆け出し作家は、手に入れた某画廊の小冊子図録ひとつをにらみ据えて原稿を書いた。そしてそれからわたしの「華岳勉強」が始まったのだ。まだ会社づとめをしていた。
出張の用をつくって兵庫県美術館の展覧会や、また千葉市美術館の華岳展にも行った。河北倫明さんのを始め参考書も幾つも手に入れ、耽読した。華岳にわたしは心酔していった。華岳に化(な)りたいと思い、三百枚の「墨牡丹」を書き下ろして「すばる」に発表したのは、会社をやめた翌日、昭和四十九年九月早々だった、新潮社新鋭書き下ろしシリーズ『みごもりの湖』初版は、その数日後だった。わたしは、あの頃、一度目の噴出を体験した。
「墨牡丹」の頃、まだ華岳は世間的な知名度はひくかったが、彼こそ日本一の日本画家というほどの高い評価の人が、何人もいた。梅原猛さんとの出逢いも「墨牡丹」であった。立原正秋との嬉しい出逢いも「墨牡丹」であった。有名な画家達とも「墨牡丹」を介して知り合ったし、祇園の何必館主梶川芳友との少年来の再会も、華岳が縁であった。
NHK日曜美術館が放映を始めた五回目ぐらいに、「華岳」がとりあげられ「私の華岳」を話しに出演した。以来華岳と国画創作協会関係の仕事は、いつもわたしに集まるような時期がながく続いて、麦僊も波光も日曜美術館ではなしたし、国立東京近代美術館の大回顧展でも特別講演し、新しい読者たちに多く恵まれた。
「熊」「二月の頃」「平野の夜桜」などに始まり絶筆「墨牡丹」に至る華岳の藝術は、じつに深い。わたしの人生で華岳との出逢いを欠いていたら、どんなにか寂しかろう、それも最初は未知の画人に過ぎなかった。原稿を依頼されなかったらわたしは、出逢ったとしても、もっと遅れていて、そしてあの以降のような道は歩けなかっただろう。
出逢いとは、まこと、運命である。そういうことを十分心知ってわざわざ高価で大切な、自分用に買われたのだろう図録を頂戴したのである、ご厚意、有難し。なかを見ると、どの頁からも「線の行者」華岳の精神が噴射してくるようだ。わたしも、また観たい。東京へは来ないで、次はどこだか日本海の方へ展覧会は移動するらしい。
2005 5・3 44
* 気儘に夜中の三時頃までいろんな本を読み、予定がなければ自然な目覚めで起き、予定がなければ、ほとんど着の身着のまま好きなだけ仕事をし、好きに映画を見、欲しいものがあっても隣棟へも探しに行かない。
メールが出来て以来、郵便局へ自転車で走ることも少なくなった。
性本来の「三年寝太郎」癖がわたしをとらえていて、少なくも今は、なんとラクだろうと歓迎している。勤勉火の玉とか猛烈なんとかと言われてきたのも、こういうふうに日々を過ごせるようにと願っていたからだろう。宿題は七月中に、八月はほんとの夏休みにときめていた少年時代のきまりが、七十人生にも適用できたとは言えないけれど、ま、長い人生の三学期をまさしく遊び半分以上で過ごして行くだろう。
2005 5・4 44
* 松浦喜一さんの「生き残った特攻隊員、八十一歳の遺書」と副題のある『日本国憲法を護る』を委員会校正していて、一女性委員から、「女性天皇を認めようという末恐ろしい作業」という箇所が引っ掛かりました。女性としては、削除を求めたい心境です。/そのほかの趣旨には、概ね賛同するものですが、「反戦・反核」あるいは「広場」に入れるのはよしとしても、これが「主権在民史料」になるのかという点は、疑問に思います」と。
一応もっともにも思われるが、私の見解は、やや異なっている。
* 委員の主観と短絡はともあれ、「削除」を求めるべき発言ではないと思います。これは、女性差別の問題でも発言でもなく、天皇制存続に疑念と忌避感をもつ筆者の、歴史的未来を見込んだ主張なのでしょうから。
「女帝」問題そのものにも、かなり深刻な歴史の教訓や将来への危惧混乱の懸念は在るわけですが、筆者はそういう意味からよりも、安易に天皇制の延命を手続き的に希釈拡散して行くことへの不安を抱かれていると思われます。「女性としては」はという短絡から、言説の「削除」まで求めたいというのは、性急な一種の言論の抑圧や逆差別にならないでしょうか。
また、文部省がかつて出した「新しい憲法の話」の史料性を疑う人は、現在、無いでしょうが、刊行された昭和二十二年当時すでに「史料」という感覚の持てた人は少なかったでしょう。しかしそれは「史料」でした。歴史の経過の中で確実にそう「成った」のです。
この松浦さんの「遺書」も、おそらく数年内に「史料」的意義を持ちうることでしょう。
「ペン電子文藝館」の作品は、「今・現在」の視点だけでなく、それが半永久存続なかで、どう成り行くかを予測する「先見や洞察」を持たねばなりません。それが吾々担当に期待された見識でもあるでしょう。
八十過ぎた一私民による「学徒出陣・特攻・生き残り」等の歴史的な「足場」に立った、時代と未来への「遺書」が、「主権在民への悲願」を湛えているのですから、まちがいない「史料」性の「証言」を成しています。
しかしまた「史料」という二字に拘泥するよりも、弘通性をもって、むしろ「主権在民」の「願いを結集」して行くところと「主権在民史料室」を考えて下さい。この特別室設置の趣意は、其処に重く在るのですから。 秦
2005 5・4 44
* いい作品と知っていて、往年には感銘を受けた、戦後直ぐのイタリアン・リアリズム映画などが、今はもう、少ししんどい。「自転車泥棒」「壁」「ひまわり」「屋根むなど。
ポーランド出来の「大理石の男」も、意欲作であるけれど、この私にして、この労働者世界からの強烈なプロパガンダが重く感じられる。社会的な意欲作が時代と時間に侵蝕され、ロマンスはらくらく時代を超えてゆく。この機微はじつに厳しい。
わたしは、創作生活に入った頃から、それに気付いていた。
「或る折臂翁」の道をすぐ切り替え、「畜生塚」「或る雲隠れ考」「慈子」「清経入水」「蝶の皿」「廬山」そして「みごもりの湖」「初恋」「親指のマリア」などへとつづく道を通った。時代と時間の「錆」をはねのけたかった、と、そう思っている。
その現在・現時の時代をすなおに「背景」に置いて書かれている、今日的な私小説や心境小説は、いかに今は現代的と思われていようと、作者が死んでしまうと、その日からもう過去完了へ古び始めるこわさ。これを、わたしは多くの実例で意識している。「ペン電子文藝館」での読み返しでも、身にいたいほどそれは感じた。プロレタリア作家の優れた文学作品の多くが、もう今日性を喪失したかのように湮滅直前にあるのもそれだが、同じことは新感覚派にも言える。川端が力づよくのこり、他の大勢が忘れられつつあるのは、力の差ではない、創作と時代とのかかわりようの問題でもある。
あれほどの天才的なライバルであった鏡花と秋声も、いかに双方とも優れた、いや文学としては秋声の散文のすばらしさには感に堪えるのだが、一見古い表現のはずの鏡花文学はますます光放ちつづけるだろうが、秋声文学ですら、じりじりと時代に侵蝕されてゆく。
譬えていうと、秋声世界では、ラジオであらざるを得ない、テレビは出てこないことが、ガンとしてそのリアリティ自体から限界化されている。それがリアリズムの時代基盤に置かれている。テレビやケイタイ世代からはすくい取りようのない古さが出来る。
鏡花世界では、現象からするともっと古くさいが、そんな古さは作品の中で無意味化される、いわば、みごとな逃げ道が出来ている。そんなのはノープロブレム、もっと大事なリアリティーが別に言語表現や物語や超現実性のうちに確保されている。
現代を書いているという錯覚のもとに、単に作家自身の生身をめぐる「現在」しか書いていない作品は、どんなに現世では栄誉を与えられても、時代と時間が容赦なく呑み込んで早々と失せてゆく。「現代」文学と過称し自負する、じつは単なる「現在」文学、「現代」人であるとトクトクと時めいていながら、実は只の「現在」人に過ぎない名士たちが、なんと多いことか。
現代文学と、現在文学とは、決定的に異なることが理解されていない。それはそれで余儀ない、いや必然の理由に基づいている。優れた批評家にはその視野が求められる。
2005 5・5 44
* 『戦争と平和』で、ロシア軍総司令官の副官の一人アンドレイ公爵が、フランス皇帝ナポレオン軍との決戦の前線で、瞬時に敵兵の手で倒される。その瞬時の「感慨」が懐かしい。また、敵ながら敬愛してきたナポレオンその人により、危うくフランス軍営に救助された彼アンドレイの「感慨」が、また佳い。
*『あいつら何をしているんだろう?』とアンドレイ公爵は二人を見ながら考えた。『どうしてあの赤毛の砲手は武器も持たないくせに、逃げ出そうとしないんだろう? どうしてあのフランス兵はやつを刺さないのだろう? ここまで逃げ着かないうちに、あのフランス兵は銃のことを思い出して、あいつを刺し殺してしまうだろう。』
実際、いま一人のフランス兵が銃を提げて、相争える二人の方へ駈け寄った。依然として自分を待ち受けている運命を悟らず、揚々として洗桿を(敵の手から)もぎ取った赤毛の砲手ほ、風前の灯にひとしかった。しかし、アンドレイ公爵は、その結果がどうなったか見なかった。ちょうど、だれかすぐそばにいる兵卒が、堅い捧で力いっぱい彼の頭を擲りつけたような気がした。彼は少し痛かったが、それよりむしろ不愉快であった。それはこの痛みが彼の気を散らして、二人の兵卒を見物する邪魔をしたからである。
『これはどうしたのだ? 俺は倒れかかっているのか! なんだか足がへなへなする!』とアンドレイ公爵は考えると、たちまちあおむけにぶっ倒れた。彼はフランス兵と砲手の争闘の結果がどうなったか、赤毛の砲手が殺されたかどうか、砲門は鹵獲されたか助かったか、それを見るつもりで眼を開いた。が、なにも見えなかった。彼の眼の真上には高い空――晴れ渡ってはいないが、それでも測り知ることのできないほど高い空と、その面を匐ってゆく灰色の雲のほか何もない。
『なんという静かな、穏かな、崇厳なことだろう。俺が走っていたのとはまるっきりべつだ。』とアンドレイ公爵は考えた。『我々が走ったり、わめいたり、争ったりしていたのとはまるっきりぺつだ。あのフランス兵と砲手が、おびえた毒々しい顔つきをして、洗桿をひっぱり合っていたのとは、まるっきりべつだ。この高い無限の空を匐っている雲のたたずまいは、ぜんぜん別なものだ。どうして俺は今までこの高い空を見なかったんだろう? 今やっとこれに気がついたのは、じつになんという幸福だろう。そうだ! この無限の空いがいのものは、みんな空(くう)だ、みんな偽りだ。この空いがいにはなんにもない、なんにもない。しかし、それすらやはり有りゃしない、静寂と平安のほかなにもない。それで結構なのだ!……』(第二巻第三編一六の末尾)
* この最後の一段落には「覚え」がある。こういう思いで広い広い「空」を見たことが、何度もあった、わたしのような戦場など知らなかった者にも。だから、小説の此処へ、最初から素直に入って行けた。この段落は、さながら老子そのままの言葉で書かれている。ただ、一個所「みんな空(くう)だ」だけが、正しくは「みんなでたらめ(=錯覚・幻覚・無価値)だ」の意味であることをのぞいて。それで「みんな偽りだ」に繋がる。
勝れた先人達はこの、隠喩(メタファ)としての「空(そら)」と真実の「空(くう)」とをほとんど同義語のように話してくれる。その空を、「雲」という分別や思考、つまりマインド、を見事に払拭した無限にひろがり無限にふかい「青空」としてイメージしてくれる。人によっては澄んで広大無辺な青空を、そのまま、「鏡」のようにも譬喩している。
わたしがただ映すだけ「鏡」になりたい、来るモノは拒まず去るモノは追わない、即ち一枚の鏡であるような静寂な「湖」で在りたいと願うのは、そのためだ。眼を閉じ、闇に沈透き、闇が即ち鏡のような青空に転じる瞬時を、わたしは焦らず待っている。
アンドレイ公爵は、宮廷や貴族社会や戦争や平和の一切よりも貴い、真実の、静寂と平安のほか何もない「空」を、瀕死の瞬時に初めて見知った。トルストイは、さすが老子らにちかい視野を、覚悟を、得ていたのだ。アンドレイ・ボルコンスキイ公爵は、そのまま「軍旗を持って倒れたプラーツェン高地の一隅に、滾々と流れ出る血をそのままに横たわっていた。そして、低い、哀れな、子供らしい声で無意識にうなりつづけた。」
* (フランス)兵士らはアンドレイ公爵を運んでくる途中、妹のマリヤが首にかけた金の聖像が眼に入ったので、そっととりはずしておいたが、俘虜にたいする(ナポレオン)皇帝の優しい態度を見ると、急いでその聖像をもとへ戻した。
アンドレイ公爵は、誰がどうしてかけてくれたか気づかなかったが、思いがけなくも、軍服の上から細い金の鎖のついた聖像がかかっていた。
『ああ、どんなにかいいこったろう。』妹が心をこめて、うやうやしげに首へかけてくれたこの聖像を眺めながら、アンドレイ公爵は心に思った。『もしいっさいがマリヤの考えるように簡単明瞭であったら、どんなにかいいだろう。この世ではどこに救いを求め、あの世では――墓の下ではなにを期待したらいいか、それがすっかりわかったら、さぞいいだろうなあ! もしいま「神よ、我を憐れみ給え……」と云うことができたら、俺はどんなに幸福で、平穏な気持でいられるかしれないのだが、しかし、誰にそれを云うのだ? 漠然とした、理解することのできないカに向かってか? いや、俺はそんなものに祈ることができないばかりでなく、偉大だとも無価値だとも言葉でいい現わすことができない。』と彼はひとりごちるのであった。『それともマリヤがここにこの守袋の中に縫いこんでくれた神様だろうか? 何もない、何もない。俺に理解のできるいっさいのものが無価値でなにかしら意味のわからない、しかし、非常に重大なあるものが偉大である――ということよりほか、正確なものは何もないのだ!』(第三編一九終末ちかく。)
* アンドレイは「抱き柱」の無用と無価値を悟ってしまった寒々しい孤独の中で、よりはるかに大きな確かなものが、しがみつく「外に在る柱」としてでなく、自身の「内なる天空」のような何かとして予覚できたのではあるまいか。おそるべく大きな体験を、彼は瀕死の重症の奧から掴み出しかけている。そう感じ、そう読んで、わたしはアンドレイと作者トルストイに共感した。このように深いところを書き得ているトルストイの大いさ、それに出逢う幸せ、を覚えた。明日からは第二巻第四篇に入って行く。
* 犬養健、佐々木茂索、十一谷義三郎、今東光、菅忠雄、池谷信三郎の短編小説を読み選んで、スキャンした。倉田百三の「出家とその弟子」を加えて、この辺までをペン総会までに入稿しておきたい。今は、よほどその気を起こしても作品が見当たらないような書き手だが、その時代時代には活躍した書き手ばかり。
* 雨が来ているか、今晩は肌寒い。湯をつかいはやく休んで「ファウスト」「戦争と平和」や鏡花の春陽堂版第二巻を読もうと思う。貝塚さんの世界史は、ゆうべモヘンジョダロの遺跡を辿っていた。西印度にあれほど優れて完璧な都市性を抱き込んだ都会が造営できていたのだ、西紀前はるかに。
鏡花の二巻には「琵琶傳」「海城発電」「化銀杏」「一之巻」から「六之巻」を経て「誓之巻」等、さらに「照葉狂言」「龍潭譚」「化鳥」等の秀作が居並んでいる。
* 物故会員佐佐木茂索の「おぢいさんとおばあさんの話」は作者初期の代表作で秀作である。おぢいさんとおばあさんのいる日だまりの部屋の暖かさも静かさも或るさびしさも、それを癒すだけの情味もじつに自然に書けていて、ああ此処にも一つのお手本がある、見ようによれば横光の「春は馬車に乗つて」の若い二人よりも落ち着いた幸せと、しかしやはり拭いがたい寂しみとが伝わってくる。もし短所と云うなら、そうした宜しさの伝わりすぎてくる寂しさにあると云える。校正も終えた。
2005 5・6 44
* ウイーンの甥北澤猛の久しぶりメールが届いた。研究生らしい大学生活が続いているらしい。姉街子とは親しい連絡があるらしいが、兄黒川創(北澤恒)とはもう二年も疎遠なまま、と。運命の致すところ余儀なく兄北澤恒彦とわたしとは、一緒に暮らした半片の記憶もなく、別れ別れに育った秦家の「ひとり子」体験者なので、いわゆる兄弟間の軋轢や葛藤も知らないし、言うに言われぬ親愛の情も知らない。親という扇の要がはずれてしまうと、いずれ、いろいろ起きるのが世の常なのかも知れないが。
先日古いメールの整理をしていて、そしてウイーンの猛に、こんなメールを送った。
* 猛 このメールが届くのかどうか、分からない。
ここ七八年のメールを整理していて、99年12月に、きみが、たぶん海外から呉れていた長いメールを、初めて読んだ。初めてというのは、そのメールは完全に化け文字でしか届いていなかった。だからそのままにしてあった。
それが正しい日本字で読めたのは、パソコンという機械の奇妙な奇蹟なのだろうと愉快に思います。
そのメールは、わたしが、兄(恒彦)の葬式に出なかったことから始まっていて、父上(恒彦)の思い出などが書かれていた。父上が「変わっている」のだから、弟の私(恒平)も「変わっていて不思議はないか、」という口調になっている。もう昔のことで、褪色した写真を見るようだが。
兄の葬式に(京都まで)出かけなかったのは、少しも特別なことではなかった。葬式というのは好きでなく、育ててくれた父のも母のも叔母のも、(知人のただ一人もいない東京では)葬式らしいことをしていない。大切な先輩作家達の葬式にも、ほとんど行かない。行くときもあるが、それは、行っても苦痛なほど気持ちに差し込んでこない程度のお付き合いだった人で、「とくに親しかったり、あまりに大事だったり」した人の葬式ほど、(あえて)出て行かないことにしている。
兄とは、葬式に行けばどうで、行かなければどうというような、そんな世の常の二人ではなかったし、葬式に行かないからと、わたしを薄情扱いするような兄では全く無かった。葬式になど、行かない方がいいに決まっていた。わたしは、ひとりで、死んだ兄と何時も話していたからね。向き合っていたからね。今もそうだ。
兄の知人達に、わたしは殆ど関心がなかった。私には兄が大事で、生きていて欲しかったが、死んで仕舞われれば、それも、兄だった。葬式や偲ぶ会に、その「わたしのもの」である兄は、たぶん存在していなかったろう。そんなことが失礼とか薄情とかいう感覚は、わたしは全然、いつでも、持っていないんです。むろん今も。
恒や街子たちが、ぷつりとものを言ってこないのは、そのためかね。
恒は「湖の本」は全部毎回受け取っているはずだが、兄に関する本も全く送ってこない。見たこともないよ。先に「カネを払って買え」という意味かな。本の題も金額も分からない。えらいもんだ。
わたしは元気です。おばさんも、ま、むりさえしなければ、元気です。
建日子は、劇作と脚本と小説と作詞と演劇塾の経営とで、いまや活躍しています。
家は、本とモノとで狭い上に狭くなり、老夫婦は、黒ネコをマゴにして可愛がりながら、小さくなって寝ています。きみを泊めてあげられないのは、もうライチが無く、おばさんも疲れてしまうから。
しかし日々は楽しく、おっとりと過ごしています。歌舞伎をいちばんよろこんで毎月のように見ています。そして糖尿病もものかわ、よく喰いよく飲んでいますから、長生きは出来ません。
では、元気で。 恒平
* 結婚は大勢で祝ってあげたいが、死者とは、親しければ親しいほど、大事な人であればあるほど、一人で向き合いたい。それがわたしの考えだ。
わたしが死んでも葬式など無用と言ってあるが、それでも葬式らしいことをされたにせよ、情愛を分かち合えたと思える人ほど、棺桶の見送りになど絶対に来て貰いたくない。銘々がひとりで、静かに語りかけて欲しい。桜桃忌にわたしは太宰賞作家として何度も会席していたが(今はもう失礼しているが、)こういうのって「いいなあ」という気分ではなかった。人を偲ぶ会にも何度か出ているが、自分のためには、こういう会は願い下げたいという気が、いつもした。
死んだ兄の言葉でいちばん印象深かったのは、付き合いは「個対個でいいよ」という一事。恒や街子や猛とも「個対個」で好きにしてくれ、と。人間関係とは、究極はこうなのだ。恒彦も恒平も「変わっている」だろうか、これが「自然」だとわたしは思っている。それが分かった上で、葬式にも偲ぶ会にも出てよければ出ればよいだけの話だ、わたしの考えはそうだ。
妻はいつも言う、「あなた、藝能人にはなれないわねえ」と。
2005 5・7 44
* 問題は小さな内に処理し、大事は大事に至る前に処置せよ、聖人はすべてがそうしたから、真に大きな事をあたかもやすやすと成し遂げたと見えるのだ、と、バグワンは、その前に老子は、言っている。
そうだと、わたしも思う。思いながら、わたしは問題をかかえたまま、大事至って破裂するのを日々待っているような生活を現にしている。その自覚はもう何年ごしできかない。
2005 5・8 44
* 長い連休が終わりました。夢には湖を胸に夜々過ごしていました。静かでした。
日のある現実の生活では、元気に、そして食べ過ぎというより、家族に食べさせ過ぎという日々。大好きな紹興酒と赤ワインと、日本のロマネコンティをめざしているという日本酒を飲んで、少しばかり酔っぱらっていました。さっぱり活動的ではありません。遊ぶ場所の二時間半、三時間待ちの大行列を見て、出かけるのが億劫になったのです。家に居ついていました。お蔭で買ったまま埃をかぶっていた未読本の山が少し減りました。
ご無沙汰していたので、連休中の読書雑感を送ります。長くなりそうなので、お暇な時に、どんなことを考えていたのか覗くつもりで、笑いながらお読みいただければしあわせです。 (中略)
泉鏡花が神楽坂に住んでいて桃太郎という藝者と仲良くなり同棲して、その体験が「婦系図」になったとは知りませんでした。
泉鏡花の書いた「ひと里」という曲は神楽坂藝者がお座敷で踊る十五分ほどの風情のあるものだそうです。
ひと里は
神楽に明けて
神楽坂
玉も甍も 朝霞
毘沙門様は護り神
結ぼる胸の霜(紐)解けて
空も小春の町並みや
雁の翼の陰日向
比翼の紋こそ
うれしけれ
この踊りに興味があるので、いつか神楽坂の藝者さんに見せてもらいたいと思いました。
ノンフィクション系を五冊も読めば、この文藝ジャンルの限界をしみじみ感じて、もう結構。読み捨ての多くのミステリーと同じです。連休後半は最高の文藝の世界に遊びました。濃厚芳醇な美酒の泉鏡花。すっかり酔い痺れて時を忘れました。
泉鏡花「化銀杏」「海城発電」「琵琶伝」をそれぞれ二度ずつ読み、湖の本「谷崎潤一郎の文学」も再読です。
鏡花は偶然同じところを読んでいたのにびっくりしました。持っているのは筑摩書房の泉鏡花集成第二巻ですが。「貧民倶楽部」の続きです。
「貧民倶楽部」はある種、勧善懲悪の結末で、読後爽やかでしたが、「化銀杏」「琵琶伝」は雨月物語を思い出しつつ、怖さにぞくぞくしました。とくに「化銀杏」のヒロインお貞の、夫への生理的嫌悪のさま、「死んでくれりゃいい」と願う凄まじさ。そして夫の恐ろしい最期の反撃に圧倒されました。名手です。魔物を無意識の深みに抱く人間の業を描く作品は、現実の屍体を切り刻む殺人犯の本などよりよほどおそろしく震えました。お貞は私のことだと、そう思わぬ読者がいるでしょうか。
「海城発電」の恐怖も衝撃的でした。五味川純平の何巻もの「人間の条件」や「戦争と人間」といった作品でも、森村誠一の七三一部隊を描いた『悪魔の飽食』などでも、戦争犯罪はいやというほど読んできましたが、それでもこの短篇のほうがはるかに戦争や軍隊の無気味で巨大な怪物を描くことに成功していて、読みながら呻きました。女の
私にはこの結末はあんまりで、躰に痛みを感じるほどでした。
「琵琶伝」でも感じたことですが、泉鏡花は軍隊や軍人を、その政治を蛇蝎視しているようです。無気味なこの世界の暗闇や人の心の深淵を、泉鏡花のように妖しい美しさで描いた作家を今まで殆ど知らなかったことを恥ずかしく思います。仰言るように、貪り読みたい作家です。どうぞお導きください。
『谷崎潤一郎の文学』は何度も読んでいたものですが、読むたびにため息のでるほど素晴らしい。あれだけの内容をあれだけの日本語、文体で描ききった作品は文藝批評の絶巓として読み継がれていくでしょう。
「小説を読むように面白く書きたかった」と仰有る谷崎論は、読み始めたらもうとまらない、まさに文藝の香気溢れるミステリー小説の味わい。さらに今回印象を強くしたのは、秦恒平の谷崎論は、谷崎を語りながら秦恒平自身を何より表現しているということでした。これは秦恒平自身による秦恒平論でもあるのです。
細かい感想はまた別の機会に書くとして、湖が今後の谷崎潤一郎の作品研究に望む点を読みながら、再び、日本の抱える評価機能不全の問題を感じたことをつけ加えさせてください。
谷崎ほどの文豪にして、なお十全な全集が出ていないことに驚き、また優秀な谷崎学者の出そうな気がしないことを憂えます。日本の出版社は呆れるほど、評価システムが欠落していないでしょうか。とくに最近は売れる、売れそうだ、というだけです。
消費者はTシャツも買いますが、ダイアモンドも買います。読者は、安くて手頃なものだけを求めているのではありません。文化という最高の贅沢をこそ求めているのです。
今日中に書き上げようと急いで書いたので、色々うまく書けなくて不充分ですが、早くお送りしたく、今夜中に送ります。おやすみなさい。
気に入った小唄を見つけました。
水の出端を ふたりが仲は
せかれ逢われぬ 身の因果
たとえどなたの意見でも
おもい おもい切る気は
さらにない
どんな小唄がお好きですか? ご自分でも小唄なんかサラサラと、いくつでもお作りになりますでしょうね。作ってくださいな。舞ってみせましょ。
今夜は、「黒百合」の続きを読みます。 春
* 鏡花の奥さんはその藝者その人で、琴瑟相和して添い遂げた恋女房だった。あのホンモノの母恋い鏡花の母親と、名も同じ「おすずさん」であった。
* 「今回印象を強くしたのは、秦恒平の谷崎論は、谷崎を語りながら秦恒平自身を何より表現しているということでした。これは秦恒平自身による秦恒平論でもあるのです。」これは、射抜かれたように精確な批評である。そのつもりで書いていたのだから、みな。
谷崎愛をあれだけ語りながら、語れば語るほど、しかし谷崎とは似ていない、鏡花のほうによほど近いと言われることは、それもまたわたしの本望に近かった。だから谷崎は論じられたし鏡花については論じる気がしなかった、読んでいたかった。
* 鏡花の「化銀杏」は、締めくくりこそ少し苦しいが、鏡花好みの人妻(姉さん)と血縁のない年少の弟との、言葉を絶した愛(「義血侠血」の瀧の白糸と苦学の判事欣弥に重なるし、このパタンは鏡花世界の重要な下絵の一枚として繰り返し活用され、秀作が多く生まれている。鏡花の現実にそれに見合う深い思い入れの素地が在った)、それにひきかえ、その妻の、夫に対する絶対的な奉仕と従順の内心では、叫ぶように「こんな夫、死んでくれりゃいい」という願いが叫ばれ叫ばれている。鏡花のこの凄みは、ほとんど彼の体質に近いか。
「節操など、破れるだけ破ります」と婚礼初夜の床で、夫たる男に、愛する他者への愛を楯に凛然言い抜く花嫁の凄さは、「琵琶伝」冒頭の身の毛よだつ描写である。
こういう鏡花に心惹かれ始めたら、もういかなる論議や批評も関係なし、美だの倫理だの伝統だのも関係がない。
2005 5・8 44
* MAOKATさんの紀行文は日記体の長文で、私的な書留めでもあり、一時に此処へ紹介することは難しい。わたしが、ひとり、休息時に楽しんで読んで行く。
ペンの仕事が少しでも空けば、「e-文庫・湖(umi)」をまた充実させて行こうとも思っている。「ペン電子文藝館」にほとんどの精力と時間とを奪われ、余儀なく放ってあった。目をみはるような小説の書き手、感嘆する勝れた批評や文化論の書き手が現れ出て欲しい。併行して、わたしも、仰天モノの「わが瘋癲老人日記」を書きたいぞ。呵々。
* 三人の作家でソビエト作家協会に招かれて旅に出たとき、三人の一人で仲良しだった一人から、改まった顔で、「この旅でのお互いのことは、お互い書かないでおきましょう」と提案され、ビックリした。
物書きが、自身筆をおさえたり、時に曲げたりする事は人によりあることだろうが、申し合わせてまで規制するのは、少し道を逸れやせぬかと危ぶんだ。だから、そうしようとは返辞しなかった。特別書きたいほどのことも、書いてよくないことも、有りそうに思われなかったし、ところが帰国してすぐ、新聞小説『冬祭り』の話が来て、自然ロシアへの旅が大きな意味をになってきたので、少しずつは同行者らしき人影へも触れて書かざるを得なかった。そういう企画は、出かける前には無かったのだけれど。
ときどき、創作者・文筆家であるわたしに、「私語」といえども、アレは書くな、ソレに触れるな、と注文する人たちが、親戚にも (これは、そういう集合体であり仕方がない、但しわたしは遠慮したことはない)、年来の知人友人にも (これまた確かに多少の差し障りが出やすい)、また、ほかならぬ秦恒平の「読者」にも、いる。人を不当に「傷つけ」て書くことだけは、細心の注意でしないよう努めているが、「傷つく」もいろいろで、わたしに責任の取れない、取れるワケもない、ことも有る。「もっと上手に書け」なら有難い激励だが、例えば「慈子」のことは、もう書かないで、もう言わないででは、ヘキエキどころか、わたし自身を否定されたように傷つく。
2005 5・10 44
* 鬱は上手に宥めるしかないけれど、厄介なものです。どうぞ明日診察の後は大いに気分転換されますように。ただし、大食漢はいけません。老婆心、しつこい老婆心で申し上げます。お体本当に大切に。
友人と外にいました。家に戻ったのは五時過ぎでしたろうか、勝尾青龍洞さんをインターネットで見ながらついつい時間をつぶしてしまいました。外はまだ明るく、子供たちの遊ぶ声がしきりにします。
椿も桜も山吹も藤もみな咲き終わって、今は薔薇とラベンダー。
日曜日に園芸店でスノー・ボールという、花は大手毬に、葉はアジサイ? のような花木を買いました。ボストンの家々によく植えられていて楽しんだ花ですので、懐かしくて、思わず買い求めてしまったのです。とうもろこしやオクラ、ズッキーニも順調に育って、あまり広くもない庭はもう満員御礼の状態です。それでも何かしら買ってきてしまう・・。 鳶
PS 大事なことを書き忘れていました。
五月九日の「春」さんの指摘 「今回印象を強くしたのは、秦恒平の谷崎論は、谷崎を語りながら秦恒平自身を何より表現しているということでした。これは秦恒平自身による秦恒平論でもあるのです。」に対して、「これは、射抜かれたように精確な批評である。そのつもりで書いていたのだから、みな。」と書かれています。
そのことは源氏物語に関するさまざまな論についても、言い得ることでしょう・・そして他の小説や論考にあっても勿論言えるのです。
鏡花世界・・「もういかなる論議や批評も関係なし、美だの倫理だの伝統だのも関係がない。」・・そう言い切る、その鏡花の世界と近接しているであろう、秦恒平自身の世界を書くこと。(なんと下手なわたしの表現か)そのことだけが秦文学の終に遂に目指すもの・・なのでしょうか?
鏡花の凄み・・についても大いに考えさせられます。
「節操など、破れるだけ破ります」と言い切る女には、深く明確な道筋がある。そういう強さ、凄さに目を見開かれる思いがします。 鳶
* 遂に目指すもの――。たぶん、そうではなかろうと想っている。はためには、なんだ巫山戯てと叱られるような。次回「湖の本」の跋文で、すこし、わたしは答えている。まるで別のことを答えたのかも知れないが。
2005 5・10 44
* 快晴。
* 起きがけ、難しいことを夢のように考えていた。
われわれは普通ものごとを「分別」し、行為したりしなかったり、受け入れたり拒んだりしている。善か悪か、得か損か、欲しいか欲しくないか、などなど。
主義主張の傾向があまり既にハッキリ分別されている雑誌など、それにほぼ賛成していても、どうも分かり切った気がして手が出ないことがある。(割付がヘタだったり凝りすぎていて読みづらいこともある、が。)二元分別がきまりきっているから、興がかえって殺がれている。雑誌の編集など、存外この「分別」にリードされるのでなく、味噌もクソも一緒くたの中で、もの・こと・ひとの行儀わるいまで突出してくるような編集手法の方が、より面白いのかも知れない、などと。
「人」にも謂えて、「分別」の固まり、決まり切ったことしか、しない・言わない人はおもしろくない。へ、と驚くような一面、多面をまさに面白く出してくれる人が興味深い。きまりきったモノ・コト・ヒトには怠惰の腐臭がつきまとう。でたらめがいいのではない。が、デタラメにも見えながら、浮薄な迎合でなしに芯が通って「今・此処」に生き生きとかなう生き方をする人が面白い。
2005 5・16 44
*『戦争と平和』では、ピエールが、隠遁したように世に背いて暮らしているアンドレイ公爵を訪ねて行く。広大なキエフの自領で、農奴たちにみごとに幸せをわかち与えてきた気でいる、その実は狡猾な支配人の思いのままに操られてきたに過ぎない、大の大の富豪であるベズーホフ伯爵つまりピエールと、アンドレイ・ボルコンスキイとが、深い友情の基盤の上で辛辣に議論をかわしている。この二人がわたしは昔から好き。作の中心人物だから当然そうありたいわけだが、もう一人アンドレイの妹のマリヤにも注目せずにおれない。
世界文学や世界の映画演劇のなかから、「マリア」の名を持った十人ほどを選んで、わたしの「マリア」像を結んでみたいと企画して、出版企画も進んだことが二度あるが、わたしが怠惰で放りだしてある、その、最初の動機は、『戦争と平和』の、アンドレイの妹マリヤに得ていた。わたしが、なお気力と根気と体力をもっていたら、これは魅力あるテーマなのだが、もう、そういう思いも希釈されている。だれかやらないか。
印象的な「マリア」は、たしかに、何人もいる。映画『ウエストサイド・ストーリイ』の「マリア」もいる。ヘルマン・ヘッセのたしか『知と愛』にもいなかったか。十人ぐらい、すぐ拾える。この名にかけて作者がいかなる「マリア」世界を観じていて、総合して行くとどんな「マリア」なる世界が現れ出るものか、『親指のマリア』の作者としても、今更書くよりも誰かに優れた構築=論考で読ませて貰いたいと願っている。
2005 5・18 44
* 何の番組であったか、図書館のはたらきについて特集していて、わたしはテレビの前にいなかったのだが、妻が来て話すことに、コメンテーターとやらに出演の或る若い若い女作家が、「図書館」について司会者に聞かれ、一言、「敵です」とだけ答えたと。ああ、何をか言わんや。
2005 5・19 44
* いろいろ「する」「している」のではない。なーんにも実は「していない」のである。していても「していない」のである。闇にいて透き通った無辺の青空の下にいるのと同じ境涯を待っているだけのこと、動いているのはわたしのものらしきカラダでありフンベツではあるが、それは、わたしではない。わたしはもう、手を、何からも放していると謂えぬまでも、放そうとしている。
* 明後日は一月おくれの今年の日本ペンクラブ総会。執行部へ強く希望しておいたとおりに、「ペン電子文藝館」委員長の職から解放してもらえる筈である。理事はもう二年勤める。文藝館からすっかり身を退いてしまうことは、むろん出来ない。何らかの役目は負い続けねばなるまい。
同じ委員長がながながと席を占め続けることに、わたしは利点よりも弊害、ものの饐えてゆく弊害を思うから、委員会を二つ新設し(こんな例はペン七十年の歴史に全く無かったこと。)二つとも委員長を進んで人に譲った。委員会に潮が満ちてくれば、自然、新しい力と意欲とが、その潮を新鮮な勢いに盛り上げて行かねばならない。手慣れた仕事は、安定もするが、気が付かぬうちに停滞もするものだ。
2005 5・21 44
* 歌舞伎座で「髪結新三」を観てから、三遊亭圓生の独演をいろいろ聴いた。芝居咄、人情噺、それに「三十石船」のような、圓生がみごとに唄う音曲ものもほんとうに感嘆しつつ聴いた。
いまでは妻も大の歌舞伎好きで、そこそこ「通」にもなってきているから、その縁で、昔ならとくに聞きとめてもいなかった「中村仲蔵」や「猫忠」さらには「三十石船」でもとても喜ぶ。たっぷり時間を掛けた圓生一大の名演には、思いがけない多くの知識も授かってしまうのである。
* なんでもかでも、からだをハスにしてやり過ごす姿勢で観たり聴いたりしていても、なにも深くは得られない。真っ向顔をむけて、わたしは心から楽しむ、映画でも読書でも音楽でも藝能でも。人にもそうありたい、誰にも彼にもとはムリだけれど。
2005 5・21 44
* なんで「清経入水」を書いたのだろうと、書くにいたる必然は十分自覚していながら、ときおり、楽しむように穿鑿していることがある。
あんなものは書かなければ良かったという作品を、わたしは、幸せにもほとんど持っていない。しかも小説を書く、書き続けるとは、怠惰なマンネリズムに陥らなくてそうなら、一種「狂」を発しているのである。尋常な神経で狂言綺語を書き続けられるわけがなく、恩寵のもたらす狂気としかいいようがない。そういう狂気の作品ならどこか輝いているが、凡庸に普通の、たとえば功名心やただの好奇心でだけで書かれる創作に、力は漲らない。物狂い、ぜひ必要になる。
* 飛行機がすべるように音響の尾をひいて遠のいて行く。鳩もないている。静かな朝。わたしは、まだ眠いのかいくらか朦朧としているが。十一時頃、有楽町まで出かける。今日から『戦争と平和』文庫本の第四巻に入る。十九世紀ロシアの宮廷や貴族社会などわたしには何の縁故もない、のに、からだの一部かのように日々わたしのなかで躍動している。トルストイの生き「生きとした狂気」が発揮している。
2005 5・23 44
* 東京新聞が「憲法」の小冊子を出した。いい的を射て、よく要領を得ている。東京新聞(中日新聞)は憲法の諸問題を読者に提供しようと、よほど頑張っている。目に見える。私たちは東京新聞のこの点の姿勢を嬉しく受け入れている。
各新聞社や雑誌編集部が、平静に「憲法」問題で意識キャンペーンを展開してくれること、とてもとても大事なことである。ほんとうに、JR西日本福知山線の危険な急カーヴにまさる「危険な曲がり角」へ日本は差しかかかっていて、一つタイミングをずらしてしまうと、取り返しのきかない急坂へ日本国は転げ落ちて行く、大げさな物言いではない、真実だ。総理大臣に自覚がなく、政権与党は政権を「私」することに躍起であり、野党はボロクソの状態にある。国民が此処で先途を見失えば一蓮托生の、大厄必至。
私民の一人一人も大事だが、マスコミに籍を置いた編集者・記者・出版人の健康な知性が、今ほど覚醒を望まれているときはない。
2005 5・25 44
* ただ何事もかごとも 夢幻や水の泡 笹の葉に置く露の間に あぢきなの世や
* 室町小歌のむかし人は、このように、云ってのけた。わたしの思いも同じ。だから「意識」して楽しむのである、所詮意味のないことも。おそらくバカげたことも。絵空事が不壊の値をもつのは、その先だ。ほんとうに花の咲くのも。匂うのも。その先。
2005 5・28 44
* 勉強についてですが。
少し前の風のご指摘、「創作のほかに、もう一つ打ち込めるもの」というのは、ハードですが、必要且つ大切なことかも知れないと思うようになりました。
これまでわたしは、自分の中の領域の多くを「創作」に割り当ててきました。あくまで足場は「創作」に置くのだ、と自分に言い聞かせることで、「創作」以外の関心事の雑多になるのを、ゆるしてきたきらいがあります。雑多なりに「創作」を支えるのではないか、という気持ちがありましたから。
でも、風に指摘されまして、もう片方の足の置き場を考えるようになりました。もう片方の足を地面につけてこそ、「創作」に置いた足と共に、しっかり立てるかも知れないと。両足で立っていれば、得たいもののところまで、しっかり手を伸ばせるかも知れない。
初心の関心事に立ち戻ってみます。 花
* 一本足の「T」型は、案山子のようで動けないし、倒れやすい。二本足の「Π(パイ)」型は、ともあれ二足歩行が出来る。例えば創作と家庭または趣味とのように。三本足になると安定するが動きの制限されるところが、よしあしである。わたしが思うのは、創作に志のある人の場合、落ち着いた家庭生活は当然の前提として、創作と両翼をなす「もう一つ」の地力。趣味でも良い、つよい「こだわり」でも好い、隠し技でも隠し藝でもいい、ある種の行動力でも好い、現れたときに人のおやおやと意表をつく蓄積された力が有ると、必ず創作を下支えて連動すると思う。
花の「関心事」がどう蓄えられて行くか、楽しみ。
2005 6・3 45
* 鏡花の「照葉狂言」には思い出がある。学研版の「明治の文学」で鏡花の巻を担当したとき、どの作品を選ぶかは任されていた。金澤の新保千代子さんほか鏡花については一家言有る研究者は多かった。「高野聖」「歌行燈」の二作はまっとうではあるが、これを外すにはしのびない問題をわたしは感じていた。どちらかを外して「照葉狂言」という声も編集部にあったかも知れないが、「照葉狂言」では感傷的な気がすこしわたしに有った。おなじ清冽な感傷を是とするなら、また少年ものでなら、わたしは結局「龍潭譚」を選んだのだった。その三作を通して、わたしは鏡花の「水」ないし「水神=蛇」へも的を絞ったのだった。
「照葉狂言」は、いかにも懐かしい作に相違ない。しかも少年貢の極端にウブな無垢さも、それを愛する隣家薄幸の広岡雪や照葉の藝人小親(こちか)の貢に対する徹した優情も、此の世のものでない不思議を纏綿させていて、自分の手で今一度世に出すのが心持ち気恥ずかしかったのである。「龍潭譚」を選んで良かったという気持ちにかわりはない。あのとき、できれば「化鳥」も入れたかった。好い作だと心惹かれたのである。
2005 6・3 45
*「ペン電子文藝館」の開館と充実に打ち込む以前、ごく売れない物書きのわたしも、大きい会社の部長級かそれ以上を稼いでいた。それが、この三年、年間の収入を百万円台(上が抜けているのではない!)に落として、落ち続けている。もはや「自然収入」という程度に等しく、つまり「稼いで」はいないのである。
零落したのではない、たいがいな仕事は手を振って断ってきた。よほど新しい内容ならともかく、似たような中身で売文するより、電子文藝館やその他で、わたし自身の人生をゆっくり味わおうと思ってきた。息子はもう独り立ちして頑張っているし、老夫婦ふたりと黒いマゴとが地味に暮らせればよろしく、二人とも医者から長寿の保証は得られていない。
湖の本がわたしの「考え方」を体現している。もともと「売る」のが主眼でなく、仕事が、作品が、人の目により広く触れること届くことが望ましく、これは経済活動ではない、文学活動なのである。
むろん、使っただけの原資が回収できて次の一冊の役に立ってくれないと、維持出来ない。幸いそれが満十九年、八十数巻までも持続しているのは、その程度に資金回収が出来てきたわけである。さもなくて続く道理がないし、わたしの性格では、それで足りている。儲け仕事でないからだ。この事業も、いま流行の経営コンサルタントを煩わしてでもいれば、今少しべつの展開が有ったろうけれど、どだい、そういう気働きは、わたしの趣味にも主張にも、ない。ほんとうに有難い「いい読者」に応援され支持されて、毎回の配本を心待ちにしてもらえる、それで足りている、それが有難いのである。
大勢の中には、むろん、誤解も行き違いもたまに起きないではないが、わたしからの挨拶には、必ず「ご不用のおりも、送り返してもらう必要はありません、適宜にご処分ください」としてある。売れることより、「いい読者」の目に触れて、読んでもらえれば第一義は酬われるという態度に終始してきた。「武士の商法」かなあ、「浪人の傘張り」みたいと自分で笑いながら、これにはこれの喜びがある。
深い社会の機構においては知らず、すくなくも日々の暮らしの上で、わたしは「奴隷」のようには暮らしていない。「自由な現代人」として好きなことを我勝手に好きにさせてもらっている。さ、このまま無事に死んで行けるか、先のことは分からない。「今・此処」の連続が「何処」へ行き着くかなど、「妄想」に類している。
2005 6・5 45
* 小田実様 お手紙と毎日新聞の二つのエッセイをいただき、読みました。ありがとう御座います。その一つ「『文史哲』のすすめ」につきながら、近況を書きます。
東工大にいた四年半、大学当局や全学教授への私のいくさは、「文」(西洋史的な人間学)がいかに基本において大切かを、倦まず、おめず臆せず説きつづけることでした。
中央公論社がむかしに出しました二十六巻 全一万数千頁のシリーズを、一行余さず、神代や先史以来この戦後まで、年数かけて毎日読んで通読し終えたのが、この春でした。少年の昔から人間の歴史に興味をもっていたからですが、老境、ひとしお、いろんな角度から歴史に眼をむけている日常の必要を覚えつづけてきた、一つの記念事業のように、同時に日本の「近代現代」になるべく深く視線をさしこむために、あえて神代から読み降ってきたのでした。その一つの結果が、「ペン電子文藝館」の「主権在民史料室」にあげた「主権在民への荊の道」七編の編成です。今は「世界の歴史」を読み継いで、ギリシアの民主主義を勉強中です。
日本の哲学と哲学者には、おおむね失望していますが、自分でよく考え、よく思い、よく感じて、よく生活していれば、自分のフィロソフィーは創れると。フィロソフィーではありませんが、その少しを上下巻で編んでおこうと思いました。上巻を、幸便に送らせて下さい。
憲法についても、電子文藝館にいろいろいれました。憲法を繰り返し読み、私も小田さんのお考えと同じく「前文」こそ、珠玉不壊のものと思ってきました。第九条とともに、「前文」そのものを、国民は、わたくしは「私民」と呼びたいのですが、不滅の宝としたいのです。
またお目に掛かるときがあるでしょう。 お大切に。私は元気です。 05.6.14 秦恒平
* 氏の手紙の主なる目的は、もう一つのエッセイ「『玉砕』が今意味すること」であった。小田さんは、日中戦争こそそうは言えないが、大平洋戦争に日本が突入したについて、またサイパン等で日本側が玉砕したり飛行機で特攻出撃したりした、それを「狂気」だったかのように一概にはいえないし、イラク等での自爆闘争をも、たんに「狂気」の沙汰と云うべきではないと説いている。聴くべき意見である。『玉砕』全編が「ペン電子文藝館」にも掲載されていて、これは近くBBCでラジオドラマになるという。
小田さんは東大を卒業しハーバード大の藝術科学大学院に「留学」した。このハーバードがアメリカのどんな地位の大学かはいうまでもないが、今もいろんな寄付を願ってくるけれど、一方で実にこまめにいろんな資料や記録を送ってくるそうだ。ところが東京大学にはそういうことは皆無だという。これは示唆に富む面白い事実だとわたしは聴いた。
* 小田実氏ともこうして、また真継伸彦氏は湖の本の有りがたい継続全購読者で、今度も下巻を待っているよと手紙を貰っている。二人はむかしの筑摩書房が出した、雑誌「人間として」の編集同人であった。他に故高橋和己もそうだったのではないか。そしてこの雑誌が、死んだ兄北澤恒彦を呼び出し座談会をしていた。筑摩の人や同人達はこの時に初めてわれわれが両親を同じくする二人兄弟であったことを、しかしこの兄と弟、まだ顔を合わしたこともないと知ったらしい。原田奈翁雄編集長から知らされて、じつはわたしもはじめて、兄がそういう場所へ顔を出すような「働き」をしていたことを知ったのだ。小田さんからも真継さんからも、兄の生前、兄にについて聴くところ少しだけあったけれど、二人ともたいへん強く北澤を評価されていて頼もしかったのを覚えている。
2005 6・14 45
* 気が付くと拾っておく、メモに、備忘録に書き留めておくことが、あるいはもっと励行したいことが、わたしにも有る。一つは歴史上にも現代人でも、「秦」さんに関するメモである。「秦氏のこと」といつた歴史解説ではない。姓が秦さんであるいろんな人のこと。統一した凡例の用意なく心掛けたので、ぐちゃぐちやなのが惜しい。
もう一つ辞彙を成そうとしている面白いプランがある。「からだ言葉」「こころ言葉」はわたしの専売特許のようになっていて辞彙集もあらまし成っているけれど、いまもなお拾い集めているのは、これまたなかなか面白い興味深い日本語なのである。
2005 6・14 45
* 理事会は珍しくはやばやと三十分も早く終えた。家に帰ってしまおうかと思ったが、どうも食い物の用意がなさそうなので、日比谷の「福助」でいつもの寿司と酒の夕食にし、帝国ホテルのクラブで、さらにヘネシーと響を飲み、口を冷やしたくてこれもいつものアイスクリームを貰い、それから歩いて東京會舘へ。第二十一回太宰治賞の授賞式へ加わった。
ちょうど授賞式が終え、宴会が始まった。受賞者にお祝いを云って上げようと、はでな飾りを胸に付けた若そうな女性に「おめでとう」を云ったら、四人の選者の一人の小川洋子だった、わたしは選者ですと聴いて、頭を掻くよりも失礼ながら笑ってしまった。まるで知らない人だ。ウーン。失礼しました。
わたしの太宰賞は第五回。しかもこの賞は筑摩書房が経営破綻で行き詰まった頃に相当年数空白の歳月が逢った。今年第二十一回とはいえ、もっと年限に差がある。今の選者は高井有一、柴田翔までは分かるが、若いもう二人は小川洋子も知らないし、もう一人のたしか若い批評家もすぐ名前が思い出せない。ははあ、年をとったもんだなあと真実時代後れを確認する。わたしを送り出して下さった選者、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫の各先生は、あの当時日本を真に代表する作家で批評家で最高の知性であった。名前を聴くだけで地響きがしそうだった。みな、もう亡くなられた。
驚いたことに、あんなに大勢人が寄っていながら、わたしの見知った作家らしい顔が会場にいっこう見当たらないのも淋しかった。
なにより太宰賞の歴代受賞者 (古い時代の)が誰一人見つけられなかったのも淋しかった。筑摩書房自体がもう昔の筑摩から大きく様変わりしているということだろう。筑摩書房の昔の知り人に二三人には逢った。若い編集者など、ぜんぜんお互いにわからない。
先日来メールでいろいろ質問を受けていた若い小谷野敦氏と筑摩の山野氏と三人で、小卓にすわりこみ、谷崎周辺の話をした。小谷野氏はわたしを待っていてくれたらしい。谷崎の伝記を書く気らしい。
2005 6・15 45
* 明日は母校のインタビューを受けるために、都内へ出る。
* 大学の若い同窓で太宰賞受賞者でもある福本武久氏が久しぶりのメールをくれた。
太宰賞のパーティーに来ていたらしい。そしてわたしと似た感想をいつももつらしい。
ま、あれぐらい元の受賞者も年輩作家や批評家や他社編集者たちの姿もない文学賞パーティは珍しい。
昔の太宰賞パーティーは、オーバーにいえば綺羅星のように著名作家や批評家や大手出版社の社長会長や、もう歴史的な存在であるほどの人も、大勢見えていて、会場の雰囲気が、雅であった。先夜のアレでは、福本君も言うようにシラケルのはあたりまえだ。あれでは受賞した人も索漠としないだろうか、ビックリするような先輩達に祝われ励まされる嬉しさがまるきりないようなもんだもの。
挨拶のつまらなさ、非文学的なことも、目に、いや耳にあまる。共催の三鷹市派遣の人数が、どかどか固まっていたりして。それかあらぬか最近の太宰賞受賞者からあまり頭抜けて出ている人がいない。
筑摩書房もどうかしている。出版社がいちばん大切にしなければいけないのが、何か。忘れ果てているようだ。
2005 6・16 45
* おかえりなさい。 今日は梅雨の晴れ間でしたが、気は晴れませんでした。今書いている小説が猛烈に滅入るものだからかもしれません。
以前に、今どきの小説がどのようなものかわかっていますか、とお訊ねだったので、時々文藝誌を買います。先日「新潮」を買って、今日パラパラとめくって読んでいました。まだ全部読んだわけではありませんが、掲載されている小説数編には刺戟を受けませんでした。
地下鉄の構内を吹き抜ける風は、今日もまた死体のように無抵抗で、車両に突き飛ばされて暗がりを抜けたあとは、その広さというよりも、むしろ明るさの方を持て余して、行く手を失ってしまったという感じだった。
平野啓一郎氏の新作の書き出し。作品はカミュやカフカの不条理の世界を思いきりなまぬるくした感じで、そこそこ面白くは読みましたが、あの衝撃的デビューにしては、その後の開花を感じません。湖にはお若い頃から駄作は一つもないのに、この作者、迷路に入りこんだか、才能あるのに竜頭蛇尾にならないかと危惧します。新潮の巻頭を飾る小説の書き出しのこの文章は、私には「いかんなあ」と感じられました。翻訳調のせいでしょうか。それとも私の感受性が鈍いのか。
続く二つも実験的短篇。とくに「母と子」と題された作品は内容がほとんど同じ1から4までのパターンがあって、その数字がさらに15くらいに分かれて頁順ではなくバラバラに配分されパズルのように読んでいくらしいのです。作者の意図がさっぱりわからなかった。現代音楽でピアノを腕で弾いたりする作品を思い出しました。
三島由紀夫賞の発表がありました。
受賞作鹿島田真希さんの「六〇〇〇度の愛」の書き出しはこう。
女は混沌を見つめている。なにか深刻で抽象的なことを思いついてしまいそうになり急いでそれを中止する。やがて我に返る。彼女は努力する。正気に返ろうとして。その努力は並大抵のものではない。表面に細かい泡ができては割れていく。
冒頭部分だけではよくわかりませんが、二十八歳、史上最年少の三島賞とのことでした。
愉快(おもしろ)いな、愉快いな、お天気が悪くって外へ出て遊べなくっても可(い)いや、笠を着て、蓑を着て、雨の降るなかをびしょびしょ濡れながら、橋の上を渡って行(ゆ)くのは猪だ。
たとえばこんな書き出しの泉鏡花(化鳥)を読んでいるほうが私は新しいと感じます。
新潮の中で印象に残った言葉。まず宮本輝さんの三島由紀夫賞の選評。
言い換えれば、最近の新しい書き手が、歴史や時代の変化とは無関係に読みつがれている作品に触れることもなく、小説に手を染めてしまったという現実がはっきりと浮かびあがってくる。 /
えらそうな言い方をさせていただくならば、小説家として基本的な勉強をせずに、小説を書き始めた人たちが、新しい書き手としてもてはやされているということになる。
車谷長吉さんのエッセイも痛かった。
大学生だった頃、私の周りには小説を書いていた人がたくさんいた。腐るほどいた。ごまんといた。併し私を除けば、誰も作家にならなかった。なれなかった。いま思えばそういう人に欠けていたのは「必死さ」である。私をふくめて、みんな「慰み」で小説を書いていた。…… /
人は必死になるのが恐いのである。自分の命と引き替えにしてもいい、とは思えないのである。だから面白半分、真面目半分に書くのである。「真面目一途」にはなれないのである。「真面目一途」「必死」になれば小説のために「人生を棒に振る覚悟」が必要であり、時と場合によっては「命を落とす」こともあるのである。その覚悟がないところで、いくら俳句を作っても小説を書いても、駄目なのである。 /
私はいくたのその例を見て来た。いまも見ている。死屍累々である。世には「まず自分のことを安全地帯において」その上で他人の小説を批評している人が多い。それでは他者の書いた作品からは何も学び取ることが出来ない。まず、自分を安全地帯から追放することが必要である。文学のためならば、たとえ牢屋に繋がれようと、神経衰弱になろうと、気違いになろうと構わないという気力がなければ、駄目なのである。夏目漱石が鈴木三重吉宛の書簡に、そう書いている。それが「文士の魂」である。
わたくしという女は書くことにも恋にも愛にも「安全地帯」にいる気がします。自分の命と引き替えにしてもいいという度胸がない。恐いのです。安全地帯を手放したら、本当に野垂れ死の末路しかないので。でも必死になろうと願って、怯えて、もがき苦しんでいます。 春
* 宮本輝の指摘はそのとおりと言うしかない。
それにつけて、或いはそれとは異なるけれども、昨日の晩、テレビの前に足をとめられ立ったまま見ていた番組は、少女三人をすわらせて、現代のギャル言葉を丁寧な(ご丁寧すぎるけれども)別の美しげなことばに置き換えさせたり、ことわざをあげてほぼ同じべつのことわざを挙げさせたりしている、初めて見るクイズ番組をやっていた。
或る状況を文で与えてそれを漢字で書かせ、その読みをもいわせていた、例えば静寂を「しじま」と読んだり、一入を「ひとしお」と読んだり。
優勝戦まで行って、あけがた、まだあかるむということもなくしらみそめた刻限を何と云うか問い、いま一歩で優勝しそうだった少女が、追い込まれて同点の状態のママ最終のその質問に「あけぼの」と答え、不正解。もう一人がただしく「東雲 しののめ」と正解して逆転優勝していた。
かならずしも、わたしはその種の「知識」を称讃ばかりする気はない。辞書を読んでよほど勉強しているとは分かるけれど、その文章力はさほど才能を感じさせるとも思えなかった。だが、それはこの際の話題ではない。
この熾烈な激戦で勝ち残って行く、ま、ある意味では驚歎できる成り行きを、スタジオで傍観している連中がいたのだが、その中には「小説家」「作家」として名や顔を売っているらしき一人の若い、みるから小生意気な女性がまじっていた。ほんとうなら、彼女は職業柄そんなクイズですいすい勝ち登っていてもいいのだろうが、そこまではとても求める気もしない。しかも驚いたことに、その作家サン、ごく普通、ごくありふれた諺を、スタジオの司会者に聞かれて答えたことが、途方もない、つまりあまりにケッサクな不正解の方角ちがいなのであった。もともと分かっていないのである、わたしも妻も、オオウと声をあげてしまった。
この何とか、ユヅとやらウズとやらいうらしいその若い女作家こそが、それより前のある日に、あなたにとって「図書館とは」どういうものかと聞かれるや、ニベもなくひと言、「敵です」と答えていたのだと(それは、わたしは見聞きしていなかった。)いうのである。それを伝え聞いたとき、なんという内側の貧しく干からびた女だろうと呆れた、が、ま、「虻蜂とらず」程度の諺の意義を、コッケイを通り越して、まじめくさって且つ全く誤解してくれるのには、もっと呆れた。
この辺が、宮本の言うことに繋がってくる。
こういう恥知らずな作家にこそ、図書館で勉強してこいと言いたくなる。
* 車谷長吉のいうことは、もっともらしく、おおかたはその通りであるが、かならずしも文学の創作の、すべての人や状況に当てはまると言えるかどうかは、わからない。それよりも、こういう一概な一般論は、ときに通俗なミスリードを引き起こすかもしれなくて、やや危ない。聴き手の器量次第で、筆者一途の意味が捩れてくる。その辺は気を付けて話したいし、気を付けて聴くべきだろう。おおかたは氏の言うとおりである。
2005 6・17 45
* 李恢成氏から大冊上下の新刊小説を贈られた。李さんとも、わたしはせいぜい一度立ち話をして、しかも李さんは別の人物を思っていたらしかった、そんな程度の面識だが、文通はなんどか有り、お互いに作のやりとりは永く続けてきた。なにということなく、信頼と親愛とが出来ている。
わたしが『廬山』で芥川賞に辷ったときの受賞者二人の一人が李恢成だった。
2005 6・17 45
* 今日は街で、好きな鰻を食べました、おいしかった! 名古屋から帰り電車の降り際、小さな男の子がわたしに手を振るので、わたしも「バイバイ」と振り返してきました。
今年受賞の、女性二人の太宰賞作品を読んでいます。感想は、もう少し読みましてから書きます。
三島由紀夫の話、少しだけ。
最近読んだ中では、『仮面の告白』が面白かったのです。あれにいちばん興味をひかれました。
でも、文学者が抱えている狂おしいほどの苦悩が、別の立場からは、脳内物質の分泌で説明できるらしいのです。大学で生物の研究をしている知人の話がとても刺戟的で、わたしは特に性的倒錯を主題にしている文学に関連づけ、おもしろく聴いています。
いつか風にお逢いできることを楽しみに、花はいつも元気、元気。
* 三島由紀夫の初期作品ではわたしも「仮面の告白」にひきこまれた。
角川から出た昭和文学全集は「昭和」と冠したのが新鮮で、第一回配本に横光利一の『旅愁』がずしんと一巻で出たのにとびついた。高校生のわたしは一日十五円の昼飯代を全部喰わないで溜め、この全集を買った。三島の一冊に『仮面の告白』や『愛の渇き』が入っていたと思う。大岡昇平と二人で一巻だったかも知れない。
あの全集に、太宰治が一人で一巻しめていて、少しビックリしたのも思い出す。それほどわたしは太宰に気疎かった。吉川英治の『親鸞』が全一巻で入っていたのが嬉しかった。吉川英治を加えていたところにもあの全集の個性があった。あれこそ全集全巻買い揃えて全部を読んだのである、いい根性をしていた。そして妻と東京へ出て結婚する間際に、売り払ってきた。
だが、同じ全集中の谷崎潤一郎二巻だけは、わざわざ古本屋で古本を買い、新婚生活の数少ない蔵書として大切にした。テレビもなく、わたしは、毎晩毎日谷崎作品を音読し、妻はそれを聴いていた、六畳一部屋の新宿区河田町のアパートで。
三島作品では、いつも言うが、『金閣寺』の完成度に感心し、『潮騒』は三島らしからぬ優しさに一票を投じ、晩年の『豊饒の海』などは豪華に乾いた紙の造花のようで感心しなかった。戯曲は才気に溢れておおかた面白く読み、感嘆した。
「脳内物質の分泌で説明できるらしい」話は、ちょっとおもしろそうだけれど、ほぼその手の「解説」にわたしは「折角ですが」と背を向けることにしている。
むかし、親が愛蔵のピカソだかマチスだかのデッサンを、その家の女の子がひらひら振り回して、「でも、これって、唯の紙でしょう」と言ってのけたのを聴いたある日本の知識人が、いたく「感心」して書いていた。わたしは馬鹿馬鹿しいと思い読み捨てた。花が、この話、もう少し詳しく書いてきてくれるといいが。
2005 6・22 45
* 「完全燃焼」という言葉は、心象をいうときは概していい方の表現にされている。ネガティヴな意味で「燃え尽きた」というのとは少しちがい、明るさと軽みの快さがある。明るいのと軽いのとは英語では同じなようだ。
長い過去を顧みてあれは「完全燃焼」だったと思い出せることは幾つかある。そう難しく言わなくても、有るといえば有って思い出すと快いモノであるが、そういう快さも少しずつ減ってきているかも知れない。
自分ひとりで完全燃焼するのではない、かならず、モノ・コト・ヒトとの一体感において完全燃焼してきたと思う。年を取り、モノ・コト・ヒトをなるべく整理整頓しようとしているのだもの、そういう意味の完全燃焼の機会の減って行くのは自然の数である。
2005 6・23 45
* 新人の文学賞というのは、よかれあしかれ、今日的な文学風土の一つのサンプル。結果を絶対視する必要は少しもない、ただ、運転する(創作する)ための道路標識程度には眼に残ることだろう。要するに、超えて行かねばならない無数の相手の、やや有力なサンプル。
文学賞という戦場が、文学する唯一の戦場ではない、あれは一つの出版界の「興行」のようなもの。意表に出た状況(極限状況)設定と、そのリアリティーを守り抜く独自の「花ある文体」、が武器になる。
文学賞を競うということ自体、やや特異特殊なので、そういう舞台を一度も踏まずにデビューする書き手もいる。甥も息子もその方。どう出て行くにも、つまるところ才能は当たり前として、運と根気。ひるまず、わるく身構えず、誠意と愛を創作に根気よく集注した人が運をつかむのだろう。
自然で新鮮。それは何に於いても大切、大切。一期一作。そう思う。
2005 6・24 45
* ショーン・コネリー、ロブ・ブラウン、アンナ・パキンらによる「小説家を見つけたら」という映画を、ゆっくりビデオで観た。異色といえる、そして興味深い映画であった。ウイリアム・ウォーレスという生涯にたった一冊しか本にしなかった伝説的な大作家、まさしくフェイマスな老作家と、天才的な作文力と柔軟な感性、技術に対応できる頭抜けた才能の、十六歳、貧しい地区に育ってバスケットボールにも目を瞠る力を持った黒人少年との、まさしく「身内」としての出逢いと緊密な日々。
作家は世間に背を向けて隠遁したように黒人街のビルに引きこもっているが、少年との出逢いを経つつ、この老境の人も部屋を出て新たな旅先へ、故国スコットランドへ帰って行き、少年はその才能の開花により、若い自立の基盤を得て行く。
文学・藝術、それもラチもない通俗読み物を通じてリッチに流されるのとは違い、厳しい、しかし暖かい人間理解を通して独自の表現を確保し確立して行くのである、老作家の愛のもとで、少年は。その成長の質実さに眼をみはる。
こういう心温かな師弟物語も、決して数少なくはなかった。だが、「小説」が主題という所に異色があった。納得できるところ深くまた多かった。
* 文学は美術と違い、なかなか教え・教えられるものではないが、真に優れた出逢いがあらば、成り立たぬモノではない。一人しか立てない小島に、二人でも立てると信じあえるならば。
2005 6・24 45
* 下巻のなかに「身」一字を入れている。平凡な唯の一字としか思わない人が多いだろうが、これは日本人の意識に働きかけている興味津々の一字である。なにしろこれは「心」と切り離せない対の一字だから。
心と対なのは体だろうと今の人は思うだろうが、なかなか。ことに詩歌のことばとして「からだ」は用いられない、滅多に。「から」は屍骸にむすびついて、文字通りに極めて具体的。今少し抽象され象徴化した「からだ」認識の結晶として「身」が用いられた。「身」はまさに自身・自称であり、むしろ「人」とは他人・他称をあらわしていた。
ま、そんなことはわたしの本を読んでもらえばいいが、その「身」の項で、わたしは最も美しい言葉の一つに、意識してか無意識にか、触れなかったと思う。それは「身を任せる」という、優しくなまめかしい一語であった。日本史というより、この語は男女の「世の仲」に触れて、機微悉く至る物言いであるからだ。
「身をまかせる」とは、あらわにいえば、女が、男に裸身をゆだね、一切を忘れて没入できている状態を云う。わたしは今、「出来ている=able to」とわざと言ったが、当今の「世の仲」にあっては、これの出来ない(can not)な女性がずいぶん多いのでは無かろうか。「身を任せる」なんて屈辱だと思うのではなかろうか。
何の映画であったか、世にすれたアメリカのマスコミ渦中に働く女性が、口を歪め、「あの顔でベッドを仕切る女よ」と友人の噂をしているのを聞いたことがある。なるほど、「ベッドを仕切る」ことにも女世界の拡張と主張があるんやなあと思い、「身をまかせる」などという「稀有の時空」は、今の女性達の多くから雲散霧消しているのではあるまいかと感じた。
ハッキリ言ってわたしはその時、「お気の毒に」と感じていた。
この、男であるわたしの感じ方は、女性の大方を憤激させ失笑させるであろう。にもかかわらず、おそらくは希望も大いに持って言い切っておく、「身をまかせる」豊かな美と昂奮と歓喜を覚えている幸せな女人たちの存在を、わたしは、むろん確信している、それがいかに少数かは知れないけれど、その女人も、また愛し合う男も、いかなる財宝にも勝って幸福を得ているであろうと。
神代の女イザナミは、最初のベッドを「いち早く仕切った」ために、あのベランダから我が子を投げ捨てる女のように、最初の子を、産み損じ育て損じたと「古事記」も「日本書紀」も口を揃えている。神代の女神すら男に「身を任せ」得なかった失敗を、高天原の「みおや」の神々はイザナキ・イザナミに対し指摘し、ふたりは、「やり直し」た。
「ベッドを仕切る女」と「身を任せる女」と。女の人はすべて前者を願い、男だけが後者を願う、などというのは大きな誤解であろう。するとすぐさま、中を取るように、「ベッドは協力するものよ」という俗論が、したり顔をするのだろうが、そんな男も女も、さぞ味気ないことだろう。マインドという心偏重時代のわらえる薄さである。「身をまかせる」女のハートの優しさに男も全身全霊で応えてゆくから、二つの炎は一つに溶けあい、匂いあう。「身をまかせる」という巨大な能力を徹して喪失しかけている「女時代」が来ているのではないか。それはまた男が男を徹して喪失仕掛けている証左にもなる。
どうだろう、最近の男達の性的魅力のなさは。韓流男に日本の女がキャアキャア言うのは、「身をまかせたく」ても任されようすら知らない日本の男ばかりだからではないかなあ。だから焦れて暴力男がはびこる。
2005 6・25 45
* 「恒平」と名付けてくれた親(たちであろう?)は、わたしより一年半ほど早くに、兄に当たる「恒彦」を産んでいた。彦根で生まれた「(父)恒」の子の意味で、わたしの場合は「平安京」で産まれた恒の子の意味であろうと、そう聞いた気がする。事実でもある。
ゆうべ「日本書紀」で、素戔嗚尊が姉天照大神の高天原でいろんな悪行・乱暴をするくだりの「一書(あるふみ)」第三を読んでいて、もし「恒平」が元号ででもあるならさしづめこういう典拠を指摘するのも可能か、という記事に遭遇した。少年以来のかすかな記憶に生きていたように、弟素戔嗚尊の狼藉に対し初めのうち姉日の神はいとも寛大で、多くは咎めなかったのである。その所をその「一書」にはこう記述してある。
「然(しか)りと雖(いへど)も、日神慍(いか)りたまはず、恒に平恕(たひらかなるめぐみ)を以ちて相容(あひゆる)したまふ。云々(しかしかいふ)。」「雖然日神不慍、恒以平恕相容焉。云云。」
およそこういう意義を体しているかと、命名の根拠は知らなかったものの、「恒に平らか」とは自分でも観じ、そんな名を、よく体していそうにない自分自身に忸怩したり羞じたりしてきた。だが、此処の記事には一度も気付かずにきた。
鎌倉時代の藤原氏に摂政か関白かというほどの男が「恒平(つねひら)」という名で一人居る、それ承知していた。この男などは命名にいずれこういう所を探っていたのだろうなと、今、思い当たる。中国の文献にも在るかもしれない。
元号というのは、日本製の文献で定められることはなかった。みな中国の古典に拠っている。数ある日本の元号に「恒平」もありそうでいて、気付かない。中国になら、さも在りそうな気がしている。一度見つけたような記憶がある。
いずれにせよ我が実父・生母が、日本書紀に当たって「恒平」と命名したと云うことはないだろう。やはり「平安京で産まれた父恒の子」だったろう。
2005 6・27 45
* ゆうべは、明け方まで読書。つまり、どの一冊もおもしろくてやめにくかったから。大きに寝坊。
旧約聖書が、かなり古い文語訳で句読点も節約されていて読みやすくはないのだが、そのぶん、いかにも簡古におもしろく、引きこまれている。いま、ヤコブ=イスラエルの子のヨセフが、兄たちの手で売られたエジプトにいて、神に保護されエジプトで枢要の地位にある。そして七年の大豊作と七年の大飢饉を預言し、賢明にこれに備えて飢饉を凌いでいる。そこへ食糧を買うべく、父の命をうけたヤコブの子らがやってくる。
鏡花も、トルストイも、ゲーテも、日本書紀も。すべて、みな本当の本物で、読んでいるのが、はんなり(=花あり)と幸せ。こういう真実佳い「いのち」とともに、一日も長く、静かに、生きていたい。成ることは成り、成らぬことは成らない、仕方がない人生だから、よけい大切にしたい。
2005 6・28 45
* 白川静の『漢字百話』は、新書なのに、頭の悪い私には読みにくくかなり苦労していますが、面白い発見がたくさんあります。
湖の人生のキーワードである「闇」の漢字の意味について、初めて知って、呻くほどの驚きでした。博覧強記の湖は勿論ご存じで(用いているので)しょうが、「闇」は、神に関係してできた漢字なのですね。色々と複雑な説明を私なりの解釈で思いきり簡単に要約してしまいます。大胆粗雑なことお許しください。
*
神は幽暗を好み、闇こそ神の住む世界である。漢字の「問」と「闇」を並べて考えるとわかりやすい。「問」の中の門は神の住むところの廟門で、「問」は、神に申す言葉、神意をたずねるの意。それに対(こた)える神の応答が「闇」、「門」に「音」と書きます。
神はみずからものを云うことはない。その意を示すときには、人に憑(よ)りついてその口を借りる。いわゆる口寄せである。直接に神が臨むときには「おとなふ」のである。「おとなふ」「おとづれ」は神があらわれることをいい、それは音で示される。神にことばはない。ただそれとなき「音ずれ」によって、その気配が察せられるのみである。
「闇」は本来神の「おとなひ」を感じさせる状態である。無声に声を聞くということである。「闇」は幽暗というよりも「黙然たり」というのが本義であろう。
湖が日頃、「闇」という言葉に、漆黒という視覚だけでない、ものの気配という聴覚や触覚までも意識して使われていることを感じます。こういう漢字の意義にも感応していらっしゃるのでしょうか。愛読者として興味の尽きないことです。また、湖の「闇」から源氏物語の「闇」にも思いを馳せる時、日本文学の伝統にある「闇」の無限夢幻の広がりに陶然といたします。
「闇」の「おとなひ」をいつも感じ、「音ずれ」をいつも待っています。 春はあけぼの
* この世は闇とか、闇に迷うとか、これとても悪いことに思いこむのは、気が早い。もう少し深く読みかつ聴くべきだ。そのとき上のメールの「解説」も役に立つ。
光が無くても闇は先在するが、闇が無くて光はあり得ない。闇は光に場所をゆずるだけで無くなりはしないし、光はいずれ尽きて闇にかえる。人と神との仲は、そのように出来ている。闇を魔の世界、光を神の世界に想うのなど、見当が逸れ過ぎている。
無限の闇がつねに有限の光を支えているに過ぎない。静かに本質の声を聴き、静かに本質の肌に触れ得るのは「闇」に溶けて手探りに存在の神秘にちかづくときだけだ。その意味で、眼をとじて「闇」を慕う習いは、心さわいでいる人をも、懐かしいまで直ちに鎮めてくれる。
闇は「くらい」のではない。「闇」は闇のママにいつか明るむ不思議をはらんでいる。「闇」を無意味にコワガル人はまだ幼稚なのである。いかなるバカらしさも、猥雑も、喧噪も、眼をとじ「闇」に入れば消散する。五体も失せる。
「闇」は愛と、悟りを得ている人は、必ず云う。神の声がかぎりなく満ちていて、こんなに安全なところは他にない。心頭を滅却するとはそういう「闇」に、即刻に成る、ことを云う。遺憾にもわたしは、まこと「恒以平恕」を体するまで闇の妙を聴くに至らない。
* 伊勢物語に名高いもののまぎれに「おとなひ」の恋の場面があり、夢かうつつかと相聞の応答がある。
2005 6・28 45
* 正午前から正味九時間半、夕食をはさんで、ぶっつづけ、腰骨も曲がりそうに本を荷造りしては運び続けた。体験的に疲労がどう襲ってくるか知っている。疲労を出し抜いて一気呵成に作業をつづける、さもないと疲労に追いつかれてしまう。疲労に追いつかれては、とても気分的に凌ぎきれない。だから万全に日数をかけて用意もしておくのだ、それが利く。それほど、わたしは性のわるいナマケモノなのである。
わたしは「政治家」ではない。如才ない要領の良さは中学を卒業した頃から棄てていた。要領よくトクをするより、ソンをしても自由でいたい。作家生活をしていよいよそう思った。団体や組織で仕事をするようになり、ますますそう思った。ますます嫌われイヤがられるけれど、仕方がない。わたしは、政治家であるより、不徳であっても自由でいたい。不徳であっても、かならずしも孤ではない。「徳、孤ナラズ」とうそぶく世間での、そんなのはエラソーなマヤカシに他ならぬ実情を、見聞すればするほど、そう感じている。
2005 6・29 45
* 風のむかしの私語を見ていたら、こんなのがありました。
> なぜだか、にわかに「娼婦」というものに興味がわいている。現実に縁をもった・もっている、わけではない。永井荷風の世界、吉行淳之介の世界。そういうのとは、わたしのしてきた仕事は、いわば対照的な地点にあるように人には言われてきた。
むかし、村上一郎が歳末のアンケートの中で吉行とわたしの名を挙げて期待を寄せながら、理由のひとつに、「女」の捉え方が対照的と書いていた。どう対照的だか、村上さんに聴くひまもなく自決されてしまった。
「女」の捉え方が対照的、というところ、花も同じことを考えていたので、ビックリしました。
花の狭い読書範囲の中から吉行と風とを対比させるのは、あんまり放恣にすぎて、勝手すぎるかな、と思ったのですが、同じことを、過去に、云った人がいたなんて。
村上一郎という人について、わたしはほとんど知りませんが、興味がわきます。
> 永井荷風の世界、吉行淳之介の世界。そういうのとは、わたしのしてきた仕事は、いわば対照的な地点にあるように人には言われてきた。
わたしは、誰かが風について書いたものをあまり読んだことがありませんので、上のように言われてきたことを知りません。
荷風や吉行淳之介の世界と、風の世界と、とても対照的ですが、わたしにはどちらも魅力的です。
「吉行淳之介と秦恒平の『女』」について、もっと考えてみたい。
おしごと、進んでいらっしゃいますか。 花
* この人が私の文学にじかに触れてモノを言うてくるのは、むしろ珍しい。
村上一郎さんは、三島由紀夫の事件があって、後に割腹自決した一の「無名鬼」であった。詩人であり志操の士であった。太宰賞から暫く後に馬場あき子さんが紹介してくれた。そのとき桶谷秀昭さんとも出逢いか有った。お二人は盟友のようであった。わたしは、この二人から信じがたいほどよくしてもらい、引き立ててもらった。わたしが、早くも文壇への忌避のおもいをもった、あれはまだ「蝶の皿」から「畜生塚」あたり、で桶谷さんは「畜生塚」を、また『慈子』を、とても大きく褒めてくださった。つまりわたしは文壇に引き留められたのである、が、村上さんもまた毎年末の各種アンケート等でわたしを推奨してくださった。
私的にも批評家と作家といった関係であるより、人として愛されたというよろこびをわたしは感じていた。自決される直前には、ひょっこりと我が家ヘまで徒歩で訪れられ、たまたま朝日子のために雛人形を壇飾りしていた前で、わたしの点てて上げた抹茶を、それは嬉しそうにゆっくり美味しそうに一喫され、そしてにこやかに帰って行かれた。わたしたちは、何の異変も感じていなかった、のに、すぐ覚悟の自裁があった。
仰天しまた悲しんだ。通夜に参じたとき、朝日の論壇時評で、当時わたしの連載していた某誌の「手さぐり日本」を採り上げられた鶴見俊輔さんと初めて逢った。今想うに、あそこに鶴見さんがおられた道筋などはわたしには到底察しられなかった。
* 上のメールで花さんの触れている「娼婦」へのわたしの興味というのは、今少し内心に温めておきたい。娼婦とは必ずしも無縁にきたわけではない。わたしの育った家から抜け路地一本で背中合わせだった祇園乙部は、小さい頃は娼妓たちのいる町だった。わたしは、小さい頃から彼女らの昼間の暮らしのうかがえる環境を通学などで往来していたのである。中学区主催の団体バスで琵琶湖へ水泳に行ったとき、いちばん湖の中で仲良くキャッキャと遊んだのは、そういう若い若い女性たちとだった。わたしは、いまでもああいう彼女達がなつかしい。性的な自覚がまったくない年頃ではなかったにしても、性の対象として眺めるような視覚は全然もたなかった。それでいて、不思議なほど親愛感をもった。わたしは、文学的には「母」なるものを時に高貴な、時に娼婦のようなものとして幻想する自由を持っていた。「月皓く」という短編など、それに近い感じのツクリになっている。
荷風や吉行さんの方へ今から近寄ろうという気でもないのに、一つの課題のように「娼婦」を感じている。
2005 7・1 46
* わたしの内側を「私語」するのは難しいことではないが、単調ないし偏執に流れても、わたし自身がつまらなくなり、興味を失い、只の秘匿日記に引き退きたくなるかも知れぬ。届くメールの中から、(わたしの創作だろうと疑われているぐらい)何処の誰とは(わたしとその人以外には)分からないように書き込んでいるのは、それがそのまままた一つの生活と意見になり、柔らかにハバをつくってくれるからだ。それは秦の「私語」ではあるまいと聴く人はトバシテもらって差し支えない。しかしそこにもやはりわたしは隠れている。いや表れている。私自身の言葉で同じ「こと」を表すのは難しい以上に不正確な飾りになる。
2005 7・3 46
* 死者の良き世界は、生者のためにこそ必要。そうなのではなかろうか。
死者がその死後にどう在るのか、正直のところ、見当もつかない。ながいながい人類の歴史上、恒に変わりなく生者のみが思い描いてきた死後の世界は、さまざまな文献や文学や伝説や信仰や乃至ある種のからくりによっていろいろに想像されてきたが、ほんとうにそれが証言された例は無いのだと、わたしは思うことにしている。在ると思いたがってきたのも生者である。生者だけが、死者のために死後の良かれと心から願うのである。願い方も千差万別、悲哀の仕事も千差万別。しかし死者が真実死後を語った例は、一例も実在しないのが真実の事実ではなかろうか。
わたしは鎮魂慰霊という生者のまごころほど、胸をうつものはないと思う。その一方で、屍は、おそらく物理的な物体を超えた精神的・霊的な何かであるという確信はもてない。しかるに、わたしたちは、愛したネコ、ノコの骨を、朝夕に眺めるまぢかい庭の植木の下に埋めている。
わたしは、死んで骨にされて墓の下になど入りたいと全く願わない。妻や子が生きている間、あのネコやノコたちと同じようにすぐそばに埋めて置いて欲しい。妻子の声の聞こえるところで、その笑ったり泣いたりする声を聞いていたい。そんなことを想像するのは、生者としての自分で、もう死者としての自分の「良き世界」を想っているのだなあと気付く。しかし万が一、わたしの骨など残らない死に方をしてしまったにしても、生きている妻子に骨の心配などして貰いたくない。「記憶」のなかに生きていると想ってもらえば十分だ。
妻子に限らない。「記憶」して下さる誰にでも、そう願う。思い出して読んでくだされば、すうっとそばへ寄っている。たぶん墓の下にはいないだろう。
2005 7・4 46
* 文藝春秋の寺田英視さんの電話をいただく。去年か一昨年から、総務を大きく束ねる役におられ、いまは出版・編集から離れて。「湖の本」成立のいちばんの恩人の一人が、この人。最初に紹介された業者の仕事がヒドくて、泣かされ、はやばやイヤ気もさしていたのを、見かねた寺田さんが、申し分なく誠実で有難い印刷製本との仲立ちをして下さった。創刊十九年のうち十八年を付き合い続け、親切によくしてくれる凸版印刷には、感謝で頭があがらない。
湖の本は、さように、わたし一人の力でやれてきたのではない。なにより読者だ、また妻だ、が、それ以前にも、朝日新聞や北海道新聞や日経新聞やいろんなマスコミが声援してくれただけでなく、実務面での不動の態勢づくりに寺田さんやもと筑摩の日比幸一さんらの援護や助言や紹介にどんなに助けられてきたか。鶴見俊輔さんはじめ何人もに陰に日向に応援して戴いた。
* 本は、全国の大学の研究室・図書館等二百数十に寄贈している。同じほどを各界に寄贈している。いま、わたしが「湖の本」を十九年余も、八十五巻も刊行し続けていることは、だから、広く知られている。
しかし、また、幾つもの出版社からは面と向かって一作家の「反逆行為」だと謂われてきた。わたしがキレイに干されて多くの仕事を喪ってきたのは明瞭で、「秦さんのものは、どうも」と馴染んだ版元からも、ハッキリ言われてきた。文庫本の話もみな砕け散ってきた。自分の仕事を鎌倉幕府や六波羅の両探題をにらんだ赤坂籠城だとわたし自身が明言している以上、「反逆」は、その通りなのだろう。
ふしぎなもので、つづくものかと謂われた「湖の本」が軌道に乗り、しかも亡くなった江藤淳さんのあとを襲い東工大教授に就職がきまると、わたしの眼の前に、工学部研究費と称する資金と、パソコンと、優秀な学生達とが揃って現れた。わたしの文筆・著述は、紙媒体から一気に電子メディアでの誰の拘束も受けない「広場」を得た。金の稼ぎには少しも結びつかない世界であるが、わたしは、ムリに稼がなくてもいい程度には紙の作家生活で稼いできた。贅沢をしない普通の勤勉さで足りていた。「湖の本」をはじめた頃までに出した本の種類は、信じられないほど多く、原稿依頼も、書いた原稿量も、やはり信じられないほど多かった。赤坂籠城は、その意味で背水の陣ですらなかった。わたしは干されなかったのである。より豊かになれたと思う。
* しかし、赤坂城を明け渡して千早城に退くときが近づいている。今回の作業でわたしは杖が欲しいほど右脚を全く傷めてしまった、筋肉の強い炎症かと思われる。
もうあまり身体的なムリはしないほうがいい。この一年、半年、日に日に「なにもしない」ことに、どうかしてわたしは慣れて行こうとしている。わたしのような「はたらきど」にこれは容易でないことだが、わたし自身の身内にひそんだ「なまけもの」が、ゆっくりとそこへ導いてくれるだろう。
このサイト「作家・秦恒平の文学と生活」をある日、コトッとキイの音させて「削除」あるいは「不更新」してしまう日の到来を、いくらかは恐れ、いくらかは楽しみにしている。わたしの死んだアトに機械が「どんな創作や文章」を保存し記録しているか、どっちにしても、わたしにはもう関係がない。
2005 7・5 46
* hatakさん
> 聯想が連鎖するように書いていますので、予想以上に、貫いて行く紐帯というか芯棒があるようです。その読みの方が「秦恒平の思想」を、繋げて引っ張り出しやすいかも知れません
なるほどsequenceにも意味があるのですね。それを考えながら読んでみることにします。
> お元気にされていますか。戦争と平和はうんと進みましたか。 hatak
昨夜は第四巻の第一部を読み終わりました。(今日は眠くて大変です)。アンドレイ公爵が死を前にして『そうだ、あれは死だった。おれは死んだーとたんに目をさました。そうだ、死はー目ざめなのだ』と気づき、「生から目ざめ」て厳
粛な死を迎える場面です。
生きることが夢で死ぬことで目ざめる、という東洋的な考え方はトルストイが生きたキリスト教時代にはどのように受け取られていたのでしょう。
しかしそんなことを考える余裕もなく、物語の大きなうねりの中に身を任せています。
私が今読んでいるのは工藤清一郎訳新潮文庫版です。現在入手できるものとしては、北御門二郎版もあるようですが、訳者で内容も違うものでしょうか?
源氏物語の例では、私は谷崎以外は潤いがなくて読みすすむのに苦労しますが。
「湖の本」 先の十冊分をまとめて振り込みました。送料を別途カンパします。未来の十冊は私にとっては楽しみですが、「闇」に言い置かれている過酷な発送作業に心痛みます。無理をせず大切にされてください。 maokat
* わたしは米川正夫訳の岩波文庫版で読んでいる。海外文学の翻訳は、どの版を底本にして訳しているかで少し、時にかなり変化があるだろうと思う。今では無いはずだが、明治の翻訳では、英語訳からロシア文学を重訳した例などよくあったと聞いている。わたしの持っている森田草平訳ドストイェフスキー「悪霊」はたぶん英語訳からの日本語訳のように思われる。
源氏物語の現代語訳は、大胆に纏め訳をした与謝野晶子の訳にはそれなりの効用もあった、読者を源氏物語に「招待する」という意味では。国文学者の訳は、文法や逐語訳に重きを置いて日本語にならない拙劣さがでるのは致し方ない。谷崎以後に女の作家が三人か四人訳しているのや、完結したかどうか川端康成の訳など、すべてわたしは目に触れていない。可能ならわたしがほんの少し試みたように「京ことば」で全訳してみると面白いし、それ以外にあの原作の辛辣な写実と心理劇とは現代語にならない。谷崎先生のですら、すこし取り澄ましている。
2005 7・6 46
* 医学書院の編集者・課長時代のわたしの忙しさなんて、誰も信じてくれないだろうが、月刊雑誌五冊の刊行責任者で、ほかに単行本の発刊企画と取材を、多いときは百二三十点はいつも抱えていたといえば、出版社勤めの人なら、信じられなくても分かるだろう。いい医学書を出すのはそれなりの価値があるから、わたしはあれらの仕事に満足して、イヤだったどころか、そういう企画の仕事もみな自分から創りだしていたのだった。創らねばヒマでおれた。しかし、わたしは、別段ヒマが好きではない。ヒマなら小説が書けるのにとは思わなかった、この忙しいママの、更にその上で、小説や評論が書きたかった、事実そのようにして「畜生塚」も「慈子」も「秘色」も「蝶の皿」も「みごもりの湖」も「墨牡丹」も書いた。「女文化の終焉」も「花と風」も書いた。
社会的・政治的な事象の一切をこそげ落とした無垢の小説世界と、桶谷秀昭さんらは批評して下さった。そうとも言えるが、会社の仕事では、「新生児学研究」「免疫学叢書」「出生前小児医学」「医原性疾患」「膠原病」「リウマチ」「母性保健」「農村保健」等々、また「胃と腸」「呼吸と循環」「公衆衛生」等々、真っ向現代医学や厚生行政に触れていた。だが、価値は価値として、その忙しさからはわたしの魂の問題はイヤされない。
その頃から、ものごとには、魂の問題に触れてくるモノと来ないモノとがあると思っていた。いかに忙しくまたそれが有価値的であっても、自分の魂、ひいては死生に触れてこない問題は、二の次に置いていた。
たとえば「茶の湯の世界」には、遊びのようでも、床の間の花をはじめ、美しいモノが溢れている。背後には、自然もあり信仰や藝能や藝術や文化があり、源氏物語も古今集も能や俳諧とも具体的に手を結んでいた。遊びどころか、それは魂に溶けいるだけの不思議と美とを包み込み、その世界に胚胎した言葉をとおして文学・文藝・批評もわたしをとり包んできた。その遠景には世界の文学・世界の文化も望めた。そこに、人間の端正なたたずまいがあり得た。
会社でも、就職した大学でも、文藝家協会やペンクラブの委員会でも理事会でも、わたしにすれば、魂に触れてこない部分の大きい世間なのは、みな同じことである。むろんその世間で行われる多くが大事なことは、よく分かっているので、もとめられれば一心に努めるけれど、根底の所では自分の死生とは浮ついて離れた、ややこしい世間であることに変わりはない。「ペン電子文藝館」のように文学を通して魂に嬉しさの湧く仕事はありがたいけれども、正直の所「電子メディア委員会」などは、現代人の自覚が見つける価値でこそあれ、わたし自身の死生に大きな意味は所詮持てない。価値がないのではない、その価値ではわたしの内なる不安が「安心」に転じることはなく、その満足ではわたしの「命」に火はつかない。理性や知性の認めているだけの現在なのである。わたしの「今・此処」は、わたしの魂と一緒であらねば意味がない。
2005 7・10 46
* 「批評」の大切なところは、自分より大きい高い強いところにいる対象へぶつかることかと思う。
この前中国へ行ったときに、『作家の批評』という著書を持参した。あるところである中国の要人が、わたしにこう話してくれた。
中国の「批評」とは、たとえば、江澤民主席が、故国を「逃亡」した音楽家ヨー・ヨー・マのような、目下の小さい存在を、叱って指導することを謂うのですよ、と。
中国は中国でお好きになさいませ。
わたしは、わたしが漱石や谷崎や鏡花を批評してこそ、批評精神も生きると思っている。目標にする対象をあまり小さく低く下げない方が、し甲斐がある。意義も生まれる。批評は大きな学習になる。
伊藤整の「近代日本人の発想の諸形式」は大論文で、明晰の大批評家の代表作である。長編だけれど、うまくスキャンして、しっかり進めたい。読んで行くだけでも楽しい、教えられる文章だ、大勢に読んで欲しい。
2005 7・10 46
* わたしのこの、「闇に言い置く 私語の刻」に、「闇」の遠い彼方から届くこういう「声」が、むろん心して選んでいるが、こう書き写されていることに、異様の思いを持つ人も少なくないだろう。千万承知で、やっている。
わたしの立場からだけ云えば、今朝掲げたこのような「雀の囀り」は、わたし自身でとても今すぐ出来ない、すぐには行けも味わえもしない内容をもっていて、多くの読み手の方々にも、たぶん同じだろう。こういう「声」の聴ける我が日常をわたしはこのように記録して、自分の貧しい単調な日々を潤わせ、飾っている。雀さんと同じにはとても自身で動けない、体験もできない、今の今の自分の暮らしであるが、こういう人の、こういう体験を、幸い「味わう」ことも「理解する」ことも「批評する」ことすら、わたしには出来る。つまり、それもまた「わたしの日々」で、また「体験の範囲内」なのである。だから半ば我がことのように楽しんで書き写している。
仮に上のメールをわたしが独り黙って読んで、こんな風に書き写さず秘めて置いたとしよう。「闇」の彼方の読み手の方々は、わたしがこういう「世界」を楽しんだこと、それで憩ったこと、は、知らずじまいに誰にも分からない。自然そういう楽しみも憩いも無いわたしの日々だと思われてしまう。むろん思われようと少しも構わぬといえば言える。しかし誰のとは分からぬよう配慮して無数に書き写してきたもしそれら全部が、無かったものとして書き込まれていなかったら、わたしの「生活」は、幾分索漠として花のない野原のように見えたでもあろう。
選んで書き写された人達の、内心の迷惑には深く詫びねばならない、が、必ずしも無神経にしているつもりはない。
たしかに初めのうち、ビックリする人がいた。叱られたこともある。しかしわたしが相当に配慮していることを知るにつれ、また別種の「様子」も見えてきている。メールをくれた人達の「生活」や「感想」のごく一部とはいえ、此処に転載されて、さて、誰の文とも知られず、思いがけない多くの人にそれが読まれているうちには、また同様に他人のそれらを読んでいるうちには、わたしサイトを介して、思いがけない遠く広くへその人達の「言葉」「思い」も拡がってゆき、その様にして又一つの「生きている」感覚がもててくる。
maokatさんも雀さんも波さんも鳶さんも、「闇」の奧に存在して生きているのである。迷惑かも知れないが、そういう風になってきている。わたしからすれば、そういう「闇」がまた生活世界の「表現」になってくる。勝手かも知れない。しかし、そうして「一緒に」暮らせているとも言える。つまり一人でしか立てない筈の「島」に何人もで立とうとしているのかも知れないのである。
2005 7・13 46
*「凄い」という言葉が大好きで、で使います。私は「凄い」という言葉が大好きで、英語のGREAT(大きい、重要な、偉大な、優れた、崇高な、深遠な)と同じ意味合いで私は使います。
そう、またメールを呉れた高校の後輩で文学の友人がある。なるべく、安易に「凄い」は、よした方がいいよと「闇」に書いたからだろう。
たしかに、この人のような使い方が「凄い」に全然許されていないとも言えない。
新潮国語辞典に、「凄い」は以下の四つの用法を指示している。
一、恐ろしい、気味がわるい、すさまじい。 二、ぞっとするほど物寂しい。 三、恐ろしいほどすぐれている。すばらしい。 四、程度か甚だしい。ひどい。
この「三」に近い意味合いとしてこの人の挙げた「英語のGREAT(大きい、重要な、偉大な、優れた、崇高な、深遠な)と同じ意味合いでは、僅かに「崇高な、深遠な」はある種の「凄い」の用例に重なりうる。それは、だが、ふつう音楽の拍子や音色のすばらしさを謂うときによく使われる。古典の中で、うつほ物語や源氏物語等で、楽器の演奏が、音色が、あまりに崇高で深遠で、霊が来て演奏者を天涯に奪い去りかねないような奇跡的な状況で、よく使用される。それはどこかしら「一」「二」ないしは「四」とすらも通い合った「凄い」なのであり、いわゆる英語の「GREAT(大きい、重要な、偉大な」とは、やはり意味合いは異なっている、ことに日本語としては。
* じつは、これをこう此処に採り上げてみたいのは、他のところで、わたしとしてはよくワケの分からない理解できない「事例」にぶつかったからである。
ある極めて著名な、大きく顕彰されてきた現在詩人(中村稔氏)の表現の中に、わたしには、いかに詩人の特異な用法かも知れぬにせよ、それでも理解しかねる漢字の、熟語の使い方に出くわしたのである。わたしは共に誤植であろうと推察したが、そうではないと謂う。
以下は無連絡な書き抜きであるが、まえ二聯の「逼いり」「逼い」「逼い出て」はどう訓むのだろうか。
また最後の聯のなかの「眺瞰」(鳥瞰という熟語はよく用いられるが。)は、ほんとうに適切なのだろうか。
その一角から内部に逼いりこみ
投げだされるように逼い出て一日を終える
芋虫のような逼い方を覚えたばかり……
城壁は泥土の上に連なって聳え
眺瞰する陰湿な低地の隅々に
迷路にみちびかれた夥しい人の住家がある
*「逼迫」という熟語があり、パソコンで「せまる」と引くと「逼」の字が出て来る。「せめる」ともいう。しかし実際の詩作品では、その送り仮名からしても、「せまる」「逼迫する」意味でなく、どうも匍匐を意味する「はいり」「はい出て」「はい方」のように想像される、または、他の読み方に見当がつかない。
「はう」は、機械では「匍う」「這う」としか出ない。しかし逼迫の「逼」に、匍匐の意義は白川静博士の『字統』を参照しても、無いのである。まさに「せまる」「せめる」なのである。
いましもわたしは日本書紀を毎夜音読し続けていて、昨日もウミサチ、ヤマサチの兄弟げんかのところを読んでいたが、海神(わたつみ)はうしなわれた釣り針をさがそうと「大小の魚を集へ、「逼(せめ)問ふ」と有った。もう少し後には弟ヤマサチが兄ウミサチを「逼(せめ)悩まし」と有った。これが神代の物語以来今日までの、「逼」の字の通常の用法であり、いかに詩人が突飛な言葉遣いを「喩」の意義で使うにしても、これは適切とは言えない、つまり誤植であろうとわたしは好意的に解そうとした。
そして今日も日本書紀を少し前に進むと、こう有る。海神の娘でヤマサチの妻になったトヨタマヒメが、海宮から海岸へお産に来て、夫ヤマサチに産室を造らせて入り、決して「見るなのタブー」を与え、お産をする。しかしヤマサチは「見るな」の禁をまんまと破り、妻が、「八尋大熊鰐(やひろくまわに)に化為 (な)り、匍匐(は)ひもごよふ」のを見てしまう、と。
文字通りに「匍匐」を一語と見て「はふ」と読んでいる。少し似た漢字の組み立てだが「逼」と「匐」は、読みも意義も明瞭にべつのようである。
* 次の「眺瞰」は、眺めて見おろす意味だと謂えば謂える。しかし「鳥瞰」はより佳い常例にわたしには思われる。前者の突飛が後者の通例に「詩的に勝る」とは思いにくい。一行前に「聳え」とあるから立脚点は高く在り、鳥瞰してふさわしい文字面での聯想をすら誘い出す。前の例ほどではないが、これまたわたしは誤植であろうと推察した。
しかし、両方とも「ペン電子文藝館」では看過・許容されるようだ、わたしは詩人に直接確かめて上げた方が、その名声に対しても親切で礼儀にかなう気がするのだが、どんなものか。
詩人だからこそ「許される」天与の表現もある。詩人だからこそ「許されない」杜撰ということも、また有る。詩人とは、国語を豊かに正し育てる天分に対し与えられる名誉の名乗りなのであるから。委員会で、委員長また委員の考えを聴きたい。
* 小栗風葉「寝白粉」に、二人の意見がメーリングリストに現れた。ともに参考になった。これについても、委員長は次回委員会で討議したいとのこと、こういう討議が、委員達の落ち着いた冷静な考えようを引き出してくれるならば、願ってもない。
* あああと思うまに、一時半。もう階下に降りる。今日は、脚の痛みもなんとか抑えて、あれこれ、とても楽しかったのである。
2005 7・13 46
* ワケが分からないが今日は、「休日」だという。フーン?
* 四時間も寝たか、六時過ぎに起き、伊藤整を読んでいた。まだ八時半にもならない。暑い。冷房のおかげで生き延びられる体になってしまった。
しなくては済まない必要な仕事を溜めるようにもなってきた。少なくも今、頼まれている、しなくては済まない仕事が三つある、のに、手が附かない。その上に一つまた依頼が来た。五十枚も書かないかといわれる題目が、いまのわたしを嗾さない。この疲労の上に真夏に格闘するには絶対に気乗りが必要だが、自分に新たな何かを加えうる題目だとまだしも、人にむかいただ何かしら与える式の原稿は、わたしの「今・此処」に少しも訴えない。「ペン電子文藝館」だと、読みたくて佳いものを自発的に読んでいる喜びがある。
前に書いたものをぜひ書き直したいと思う仕事はむしろ有難いチャンスだけれど、同じ題目を同じように書くのではイヤだという、当たり前の気持ちもある。それでせっかく頼まれながら、失礼を承知で握りつぶしてしまった仕事もある。
昔なら何が何でも書いた。それが勉強だった。死ぬまでが勉強だと言ってきた立派な創作者がたくさんある。分かる。分かるけれど、わたしは、自分の日々を、もうそんなことにはしたくない。流れを溯ろう、流れを横切って向こう岸へ泳ごうなどと藻掻く気はない。今までは岸の景色に惹かれもしたが、今は流れに身をまかせゆったり流れていたい。そういう意識で「今・此処」の仕事や人やモノゴトを、はためにどう見えようとも、楽しみとしたい。
2005 7・18 46
* 自分に、肉体なんてものは無いのだと思いなさいと、バグワンが数日前に話していた。むずかしいことを言うと一瞬感じたが、また一瞬のうちにそれは可能だと感じた。「闇」のなかではしばしばそう実感できているが、こうしてキイを敲いていながらでも、からだを自分のものじゃない、これは幻影だと感じられる。ふしぎな感覚だ。からだが、傷んだり痛んだり懶かったり疲れたりハッスルしたり、それをただ観察していることが、出来ないわけでない。「今・此処」を、おお、楽しめよ楽しめよと、よそごとに見て眺めている感じである。刹那主義ではない。むしろ永遠を流れているのである。むかしむかしに雑誌春秋に『花と風』を二年連載し、本にするとき「日本の永遠について」と副題したとき、かすかに今に通う思惟があったのだろう。
2005 7・18 46
* 添付書類を送りました。お忙しいところ恐れ入りますが、お時間のありますときに、お目を通していただければ嬉しいです。
お仕事が最優先ですから、くれぐれも、お暇なときに読んでくだされば結構です。ファイルに不備な点がありましたらご連絡ください。
創作について、ああでもないこうでもないと考えることはありますが、百の理論より、書いた方がいいと思って、書きました。
課題は山積みですが、まず、書くことから、と思っています。宜しくお願いします。
台風が近づいています。ご用心ください。 優
* おとなしい題ですね。ぶっとびそうな面白い別の題を考えついたら報せて下さい。題はたいへんな重みを持ちます。題を巧く付けるのも創作のうちです。「夏みかん」で百枚の興味を繋ぐのは容易でない。ドッカーンと題を工夫してください、中身はまだ読んでいませんが。くどいようですが「題」は作品の最初の勝負どころです。説明してはいけないが大きくはでに暗示することは題の醍醐味です。
あすから、読みます。 湖
2005 7・25 46
* 紙に出力したものが必要でしたら、送りますので仰って下さい。
題は、考えます。
お仕事のあとに、お目を通していただければ嬉しいです。
ニュースでは台風警報を伝えていますが、雨は降っていません。
ほんとうに来るのかしらん、という感じですが、油断は禁物ですね。
お気をつけください。 優
* こういう要請は世間に例のあることですが、四百字前後で「梗概」と、端的に「主題」を書いて送って下さい。作者が作品をどう把握しているかを示しますので、作者のためにも良い試みなのです。待ちます。自然、どんな題を効果的に付けられるかも見えてきます。
芥川に「みかん」蜜柑という短編があり名品とされています。題も短い内容に応じて光っていました。
颱風は、来れば、強そうですから、油断は禁物ですね。十分気をつけください。これから日本列島は颱風銀座です。雨の無いのも困るし、過ぎるとね。無事ですように。 湖
* 梗概 でした。 慷慨 になっていました。
このところ睡眠時間が短かったので、意識して今日はとことん寝ようと、寝つぎ、寝つぎしていました。午後二時半まで。からだが軽くなりました。
起きたら、録画した「東京物語」のもう後半が、テレビに映されていました。原節子、柳智衆、山村聰、杉村春子、香川京子、大阪志郎、それにもう危篤の東山千栄子たち。
気の遠くなりそうに懐かしい懐かしい顔ぶれです。あなたには実感がないだろうなあ。小津映画ではこれは最高傑作の一つでした。「人間」をまさに「今・此処」の眼で静かに深くみつめて写真にしていました。もはや今われわれの世間は、こんな静かにゆっくりとしたテンポでは描けなくなりましたが、それは、単に「時代が変わった」というだけのことでなく、我々が我々の浅はかさにより、喪ってしまった・見失ってしまった「価値」が、この映画のモノクロ画面に、漂い光っていたということでしょうか。
矛盾したことを謂うようですが、この、あなたの新しい作の題が示している、そこに生きづいている、或る静かさや、こまやかさ、丁寧さをわたしは貴重に感じています。湖
2005 7・26 46
* この間、秦さんを観ていると「文学とは絶え間ない活動のことか」と思うと、褒めたか冷やかしたか分からないメールが同業の作家から届いていて、思わず笑えた、そんな風に観ている人ばかりだろうなあと。もしそんなことなら、わたしはとうの昔に心に狂を発してぶっ倒れていただろう。こんなに日々を楽しんで生きてはいまい。
2005 7・26 46
* 甲子さんのメールにある誤記云々のことだが、思い出すことがある。わが王朝末期の能筆家たちは、古今集や人の家集や物語などを書写していて、まちがえても直そうとしなかった。書の流麗・優麗の方を自負し尊重したからだと云われている。それに対し、中世冒頭時の例えば藤原定家の字と来たら、定家流などと後代に真似る者も多く出たのは知られているが、どうみても優麗でも艶麗でも華麗でも流麗でもない、顔を顰めたいような武骨な手蹟。しかし誤字誤記をきらい、間違えばその場で書き直すのをむしろ旨としていた。美か実用か、古代と中世、花と風とを思いわかつ顕著な一事例としてわたしも『女文化の終焉』や『趣向と自然』の論の中へ書き入れている。
その一方でわたしは、この「私語」に夥しい変換ミスを平然と残したまま、暫くは読み返しもしない「悪習」をよく妻にも咎められている。だが、わたしはわりと平気で、一月ぐらいは別のファイルに日付順に置き直す機会まで、大概放ってある。甲子さんより、はるかに自堕落である。
一つには「闇に言い置く」で、腹の膨れないように闇の穴へおいおいと喋っているからでもあり、口から出て言葉となったそのときから、それはもう「思いの残滓」のようなものと思っているからである。口にして言葉にした瞬間、文字になる直前のわたしの言葉は、まちがっていない。文字になった段階でわたしの不注意と機械の無神経がおかした誤記なのである。だが、「言い置く」という趣旨からすると、もう言い終えて済んでしまった残滓が「文字」として闇に「置かれ」てあるのだ…、と、まあそんな無茶な言い訳を自分で自分にしていて、分かる人にはそれでも分かる、分からん人には書き直しても分からないだろうなどと、自堕落なのである。
わたしにはそういうアホでアツカマシイところがあるのである。
いま会いたいなと楽しみにしているお一人が、この甲子さんである。ただこの真夏には誘い出すもお気の毒で。こういう時こそE-OLDの「電子の杖」は有難い。
2005 7・27 46
* 明治十三、四年に書かれたと観られる、小田為綱ほかの執筆「憲法草稿評林」を遅々起稿している。元老院による「国憲」第三次草案を各条かかげて、それに対し小田為綱自身と観られる前後二様の、また別人と観られる今一人(あるいは複数)の、批評・評論が書かれてあって、たいへん読み応えがする。一つには、元老院といういわば国権の最高機関の意を体した「国憲」草案が提示されているのが参考になり、この各条へ加えた自由民権思想からする「評論」であることが、貴重。
ことにこの「評林」は他に例のない「廃帝」ないし「政体変更」までも視野に入れた議論を試みていて、ヨーロッパ各国の憲法へもかなり広い適切そうな目配りをしている。主権在民を冀求するものには参考になる、傾聴に価するところの多い明治初年の所産であり、こういうものを観ればみるほど、たとえば「九条の会」の努力などが、ただただ憲法改正反対のムード醸成により大きくかかわるだけに終わりかねないのを怖れる。この「評林」のような討議もまた欲しい。それも有志がバラバラに自慰的にやっていては纏まった力にならない。
2005 7・28 46
* 昨日から、ながく放置されていた長大な創作を、ともあれ電子化だけしておこうと、大判の原稿用紙五束を、書庫から取り出しておいた。五章、九百枚ちかい。
2005 7・28 46
* メールで送られてきた、ほぼ百枚ほどの小説を読んだ。読み終えてほろりとする個所もあった、きもちのいい、しかし淡泊、明らかに長すぎる額縁小説であった。或る話題で始まりその話題で締めくくられる。その間に同様・同味の思い出がタップリと経時的にサンドイッチされている。小津安二郎の映画のシナリオのようで、それは譬えが良すぎてそうはうまく行ってない。何よりも「愛おしく」書かれている人の「外形の記憶」に頼らざるをえないという、内面を端折った書き方になっていて、それも実に淡々と抑制した筆づかいであるため、人間も事柄も「活・躍」していない。
しかし、題の「夏みかん」に絞られてくる収束はけっこう綺麗にため息の出る切なさで書かれている。伊藤左千夫「野菊の墓」や嵯峨の屋御室「初恋」の息づかいに遠く繋がりそう。しかし、ああいう名作と比べられる出来には、まだ、成っていない。六、七十枚にまで絞り、物語のどこかに強いメリハリを設け、起承転結の体でいうなら、強い「転」の工夫を大小二つも用意すると、快い読後感の短編が出来上がる、かも知れない。
なによりこの作者のためにイイと思うのは、作品を下支える或る文学的な「明るさ」「光源」を見つけたらしい気のすることだ。文学・藝術はファシネーションで人を魅惑する。いかなる材料を書いて、創って、いてもである。
2005 7・28 46
* 電子文藝館で、「寝白粉」と「三等船客」を読みました。
「三等船客」では、石川達三の「蒼茫」を、やはり思い出しつつ。骨太な作品でした。おもしろかったです。
「寝白粉」には、ムウと考えさせられました。
あの「新平民」の扱い方は、当時の感覚としては普通だったのかも知れません。そういう資料として読むことはできます。
藤村の「破戒」を、「藤村という知識人にしてこのていどの認識だった時代をあらわす資料的価値しかない」と云った人がいました。
差別表現に敏感になった今日では、常識的な意見かもしれません。ですが、それがために、文学としての価値がまるでないとは、言えないと思います。
差別問題と文学と。判断基準は一つではありませんから、難しいですね。
「寝白粉」は風葉の代表作なのですか。ほかに佳い作品があれば、そちらの方が無難と思いますが。
今日はバレーをして、疲れました。
ほんとうは用事に出掛けたいのですが、一旦家に入ってしまうと、出るのが面倒になります。「中日」という物言いが身にこたえるほど愛知県の日射しはガンガンですし。
もうすぐ八月なのですね。早いなあ。
昔の暦ではそろそろ秋に近づいていますが、現代は、これから夏本番という感じですね。 花
* すっかり書き忘れていた話題を、この読者が持ち出してくれた。「中部日本」出身の小栗風葉「寝白粉」のことである。
先日の電子文藝館の委員会に、わたしから提出して、もう一年半も「校正室」に店ざらしのこの作品を、本館に「掲載」してよいと思われるかどうかの意見を請うてみた。事前に二人三人が、メーリングリストで意見を下さっていたのは、此処へも書きうつしたか、どうか。
掲載するのに大きな問題は、「今では(こんなこと)無い」のではないか、掲載していいのではないか。そういうことだった。
先日の委員会で、何人かの委員が発言された。
おどろいたのは、この作品のついに「近親相姦」にいたっているのを「あさまし」とは読んでも、近親相姦に追い込まれるまでの、強烈に社会的な「人間差別」のむごさ・あさましさには、あまり、いやほとんど、理解や感受が届いていないこと。ひどい例では、たとえば身体的ないわゆる普通の差別的表現と、この作品の書き表している、身分という以上の人外差別とを、まるで同レベルにものを云われる理解の薄さ。愕いた。
表現としての「片手落ち」の「目暗(めくら)」のというのとそれとは、比較にならない別ゴトである。そもそも近親相姦は浅ましくも厭わしい限りであるけれど、それは広い世間には起きている当事者間の悲劇でこそあれ、先天・世襲の不当差別とはまるきり問題がちがっている。「寝白粉」問題は、そんな近親相姦にまで必然兄妹を追いやって行く、社会そのものの差別意識の「あさまし」さであらねばならない。
またさらには、そんな人外の差別など、とうに過ぎ去りし明治の「昔昔」の世相や偏見によるもので、今ではほとんど問題ないだろう、知らない、と云う人までがあった……。なるほどね。だが、日本の実態はまだまだそんなワケに行かない。
作品の掲載は差し控えたほうがいいのではと云う意見も、有った。それもよく聴けば、ある種の団体的な力がその掲載を目の敵にして暴力的に抗議してきた場合に、日本ペンは、ないし文藝館の委員会は「対抗できないから」というまでの意見であり、その先へは半歩も出ない。判断がストップしている。
この風葉「明治」作品に書かれているのと全く同次元・同様の現れようで、今なお強烈に人が人に差別されている「平成」の現実の、なお多く多く日本列島に実在していることには、ほぼ誰も、誰一人も遺憾の実感や見聞を持っていないらしい事に、わたしは「ああ、やっぱり」と心から愕いたのである。そういう「幸せな人達」の討論で終始したのである。
「寝白粉」は佳い作品か。佳い作品だと思うという人が多かった、てんで分からないらしい人もいたけれど。
非常に大事な応酬もあった。文学として現に優れた達成を得ているのに、差別問題などでその評価を左右するのは本末転倒であろうという発言があった。
正論に似ている。しかし、それは狭い正論であろう、「幸せな人は不幸せな人のことは気に掛ける必要はない」という議論に繋がりかねないのも恐ろしいことだし、ま、その辺は別の議論にゆだねてもいい。しかし、わたしがこの「寝白粉」を文藝館のために選び、起稿し、校正室にまで送りこみながら、本館への掲載を長く躊躇ってきたのは、「人権」のためにも闘っている筈の「日本ペンクラブ」が、また協賛する「電子文藝館」が、いかに「寝白粉」が風葉代表作の一つであり魅力の文学表現であるにせよ、他にも作品の無いわけでないのに、このように深刻な問題含みの作品をわざわざ公に持ち出していいものだろうか、という「ペン」の事業上での配慮と不安であった。
一例を謂おう、かつての副会長であった現役の某作家から、優れた作品であるからと、「反戦反核」特別室のために推薦された作品があった。櫻井忠温作「肉弾」である。往年の話題作で、わたしも朧に記憶していた日清か日露かの戦争に取材した昔の小説であった。念のために読み直してみた。明白に戦意昂揚、侵掠も肯定、外国国民への侮蔑表現もいっぱいの、しかしながら力作に相違はなかった。
「ペン電子文藝館」はたんなる文学全集でも図書館でもなく、日本ペンクラブが国際ペン憲章に賛同した思想団体としての文化事業である。いかに力作であれなにも好戦文学を進んで世に広める役はしなくてもいいと、わたしは委員長権限で握りつぶした。当然のことだ。
文学作品として優れていれば何の問題もない、差別のどうの、戦争のどうのという外的問題に煩わされ、評価をあやまるのは間違いである、論外である、と、本当に「言える」のだろうか。作家である前に一人の人間で一人のペン会員であるわたしは、そんな文学・藝術の至上主義者には安閑とはなれないのである。配慮の出来ることは配慮してみる、それが知性ではあるまいか。
或る一人の委員から、これはかなりのレベルに達した小説で、その意味では掲載の価値は十分あるが、作者の姿勢から云うなら、「人外・制外の差別」をただ単に「手法的に利用」して物語をおもしろく創っており、その意味では、これに後続して世に出た例えば藤村の「破戒」ほどの自覚も批評も持っていないのは明瞭であり、読み終えた時の感想には「イヤ」なものが混じっていたという発言が出た。それがわたしの思い、わたしの躊躇と、しっかり重なっていた。
ちなみに、わたしが掲載候補作「寝白粉」に書いて提示した略紹介は、こうである。
* 招待席 小栗風葉 おぐりふうよう 明治の小説家 尾崎紅葉の愛弟子 此の掲載作は作者の力量を示す一代の代表作の一と謂いうるとともに、その題材の扱いや表現に、今日の認識よりして異様に不穏当な遺憾極まるもののあることは覆いがたい。編輯者はこれをつよく憎むと同時に、此の作に見せている作者文藝の才には感嘆の思いも深い。読者は心してコレを取捨されたい。作者の意識認識は愚劣である。しかも文藝の結晶度はすぐれて堅い。
* これは「委員会向けの討議資料」でもあった。普通にいつもどうりに書いていたら、誰も問題にしないで、掲載可能であった、委員長館長判断でわたしはそうしてもいっこう構わなかった。だが、一年半店ざらしにして誰かの反応を待った。何も出てこなかった。それでとうとう委員会議題にしてもらった。
その議論では、掲載問題なしの意見が多数を占め、やめたほうがいいを圧倒していた。それはそれでいい。わたしが、愕いたのは、差別される人達の身になって、この問題を考える姿勢や言葉が、ついに誰一人からも出なかった事実である。そして、関西と関東では、問題意識も現実もちがうのだと片づいた。それにもわたしは内心驚愕した。藤村の「破戒」を識らない委員もいてこれにもビックリした。それでいいんですよ、寝た子は起こさない方がイイという、毎度の声が耳の奧の闇へかすかに届いていた。そうかも知れない。
* さきに届いていた愛知県の一読者のメールは、藤村の「破戒」についても触れつつ、そして文学の価値が差別問題がらみでのみウンヌンされるのは間違いであろうと正しく言及し、しかし、「寝白粉」には、「ムウ」と絶息させるものがあると認め、もし他に良い作品があれば、それに差し替えた方が「電子文藝館」として妥当穏当なのではないかと語っている。わたしの認識を、うまく代弁してくれている。
委員会の、このような問題に対する認識を知りたくて、提題した。
電子文藝館への作品掲載には、こういう慎重な、視野のある判断がぜひ必要なのである。
会員提出の原稿は、今の内規では絶対に審査できない、する気も、権限も、資格もない。しかしその余の作品については、目の前に原作・原稿さえあればよく読まないまま、無反省にホイホイと進めてはならないのである。まして少数であれ多数であれ一つ一つの掲載作品が、謂われなく人を傷つけて良いワケが無い。電子文藝館委員会はそういう「責任」を自覚してやってきた、わたしはそうしてきたし、今後もすべきである。より良いものを選ぼうという利用者への真のサービス精神なしに、「電子文藝館」を拡充する意義など、何も無い。パブリックドメイン(公共財)なのである、「ペン電子文藝館」は。
* 一任された「寝白粉」は、館長判断で掲載を見合わせ、他に匹敵する風葉の佳作を探してみる。
2005 7・28 46
* 言論表現委員会は、秋のシンポジウムの計画で。前回にも、委員長提案の「アジアの言論表現の自由」という題には、賛成できない、もっと参加者が「自分の問題」と思える内容でないとと、わたしは終始賛成しなかった。そして、今の時代、言論にも表現にも、一昔二昔前と異なった環境は「インターネット」なのだから、そういう方面から具体的に入って行きながら、東京なりアジアなりに話題が自然にひろがればいいだろうと提案した。
結局、纏められて、「ネットで変える・活字も変わる? ――いま東京・アジアの言論表現」という仮題へ落ち着いた。わたしの思い通りである。
この先の具体化に、また八月の末に会合する。六時から始めて八時になった。
* 時間が足らなくて討議できなかったが、国会で、「共謀罪」とかが本気で見当されているという。人が寄って何か談合していたその中身次第で処罰されると云うから、あの明治の大逆事件のような、また昭和の横浜事件のような国権・官憲によるフレームアップ(でっち上げ)が公然許されかねない恐ろしい事態。どうすると、いまどき、こういうバカげた法律をつくろうというのだろう、政治屋どもは。と、こういうことをホームページに書き込んでも、場合によると罪される時代が来ようとしている。怒らずばならぬ。
* もう一つ、三田誠広委員から、文藝家協会では著作権を没後七十年に延長の案に賛成しているが、ペンクラブはどうかと。
わたしは、即座に「真っ向反対」を告げた。そもそも没後の著作権期限はアメリカ国政府の成立当時に設けられて、それはせいぜい残された配偶者と子供のための利益保護のために、十七八年という比較的半端なかなり短い年限が設定されてきた。それが三十年になり五十年になり、七十年になろうという。なぜか。
一に、たとえば国益としてまた企業益として、ディズニーの著作権を保護するために、期限が切れそうになると延長してきたのであり、アメリカではその「憲法違反」を咎める裁判が起こされたはずである。ホンのホンの一握りもない、しかし、外貨をかせぐと思われる著作の「権益をただ守ろう」と、むやみやたらに年限が国策と噛み合って延ばされて行く。それは百万千万の一つのための措置なのであり、それにより文化財である国民的・世界的著作の恩恵に、多くの世界中の人達があずかれないのである。
一人の創作者が亡くなって七十年というと、同時代の協力者だった配偶者は当然としても、たぶん曾孫にもその保護の権益が及んでしまう。しかし実情、厖大な人数の例えば小説家たちのだれが、七十年もの長きに亘ってパブリックドメインを侵してもいいほど、本が売れるモノか。あっても数人であろう。そんなことで、同国民の公共財から受ける文化的利益が奪い去られてもいいのだろうか。作者自身も、それでは、再刊復刊されて読まれるという喜びを大方が疎外されてしまうのである。
わたしは、三十年で良いと思っているが、現行は五十年。なんでそれを七十年にのばしていいものか、わたしは、こういう職集団の思い上がったエゴイズムに憤りを憶える。
* 話し疲れてもいたし、この上クラブで酒を呑んでは堪らんと思い、一直線に帰宅。一つには、「世界の歴史」のローマ帝国にキリスト教が誕生しようやくヘレニズムとヘブライズムが組み合い、そしてわたしの好きな哲人皇帝マルクス・アウレリウスが登場しようという辺りを電車で読みたくて堪らなかった。 2005 7・29 46
* 意識してゆっくりやすむようにしていましたせいか、もうほとんどイイのです。
リハビリとして、電子文藝館の十返肇評論「文壇と批評」を読んでみましたよ。
よくわかり、おもしろく、頷き頷き読み終えました。
「ん?」と首を傾げたところが少しありましたので、以下に書いてみます。
吉行淳之介の「闇の中の祝祭」について書いた村松剛の、
> 「作者はこの小説を、どうしてこのような私小説の形で、書かねばならなかつたのか。
> 私小説風に書けばモデルとなつた女たちが傷つくことは必定だろうに」
という文について、十返肇はこう述べていますね。
> 誰が傷つこうが批評家の関知するところではあるまい。
「プライバシーの権利」の存在する今日の感覚からすると、ずいぶん乱暴に聞こえます。個人のプライバシーについては、書き手、編輯者、批評家、読者、また出版に限らず、表現の場ぜんたいが配慮すべきと思います。
風がよくおっしゃっていますが、文学のために安易に人を傷つけていいはずがないと、わたしも思います。
次に、
> それが事実を題材にした作品であろうとなかろうと、それは批評家にとつて「作品」でしかない筈だ。
とあります。
とすると、「私小説の読み方」が変わってくると思います。私小説は、事実を題材にしたものとわかって読むゆえに、私小説になるのですから。この一文は私小説否定ともとれますが、このあとにつづく、
> 批評家がモデルの心配までする必要はない。
という一言を強調したいための前置辞の意味合いにもとれますけれども。
暑い盛りです、おでかけのときはお気をつけになって。
風の脚の痛いの、快方に向かっていますか。これが、いちばん心配ですよ。 花
* 十返は少し勇み足気味ですが…。彼には、例えば吉行のああいう「闇の中の祝祭」のような作品を、つとめて私小説としてでなく読める視野や視覚を…、という気があり、それなのに、何の疑問もなく事実のママの私小説としてのみ作品を受け取り、作者サイドのプライベートな心配まで批評家がしてしまうのか… と、ジレテいる気がします。
藤村の「新生」に、作者の命まで案じてオタオタしたと言われる友人田山花袋のことも想い出されます。
私小説だから優れている、優れていないという断定は難しく、そもそも川崎長太郎のような、正にその通りの私小説はむしろ文壇にも多くはなくて、虚構や趣向との、ツキとハナレとはたいてい微妙なところです。その微妙さを意図的に利用して書く道すらあります。
谷崎の「細雪」はかなり私生活の現実に密着しているけれど、私小説と読む人は少ない。直哉の「和解」などほんとうに微妙です。瀧井孝作の「無限抱擁」は厳密な私小説ですが、それ以上に、近代屈指の名作の一つです。私小説と読もうが読むまいが、あまり真価に関わりがない。
花の指摘した、
>それが事実を題材にした作品であろうとなかろうと、それは批評家にとつて「作品」でしかない筈だ。 (十返)
とすると「私小説の読み方」が変わってくる というのは、大事なポイントです。ここを追究すると、一つの「私小説論」になりうる。 風
2005 8・3 47
* 電子文藝館の「読者の庭」に、この「闇」への訪問者達からも佳い投稿があるようにと、わたしは胸を膨らませている。昨日から今日、今日から明日へ、流れている「今・此処」が、だいたいいつも新鮮であるのが喜ばしい。あとかにあとから新しい状況が寄せてくるが、いくらかは自分から創りだしている。いつまでこういう楽しみが続くだろう。
2005 8・3 47
* 「ペン電子文藝館」館蔵作品に「道案内」の「立て札」を立て始めた。簡単に書けるものでない。それだけに工夫と親切次第で、また一つの「作品集」に成ってゆく可能性もある。手はじめの「開館と構成」の案内から。
2005 8・4 47
* これから「京薩摩」対談に手入れをしなくてはならない。対談や座談会は、このアト仕事が難儀なのである。担当がどの程度に纏めていてくれるか、ひとえにそれが成否のわかれめで。
「丹波」の校正は、きれいなゲラだけれど、気を入れて読むのは芯が疲れる。読んで欲しいと遠くから頼まれた竹久夢二の原稿が、評論でなく創作的な文章なので、これまたしんどい。送られた原稿が原稿用紙の枡に小さい印字入りで百枚以上あり、唸っている。
* 竹久夢二は 研究的な論考・評論かと思いこんでいたので、創作風なのにビックリしています。あなた、こういうのも書いていたのですか。
論説だと評価しやすいのですが、小説となると俄然問題が違ってきます。文章はそつなく書かれていて読み煩うことはありませんが、小説の文章として、表現としてファシネーションの魅力に溢れているかどうか、それがみどころになります。まだ十分には読めていません。
二十一世紀の日本文学状況はかなり題材の扱いかたも変わってきていて、文壇の登竜門を潜ってくる若い書き手の文学表現は、或る意味で難解でガサツですが、なにかしら精魂をしぼって自己をさらけだしながらもがいている魅力は持っています。
あなたの竹久夢二がどれだけあなた自身の必死の生を暴露しているか、それが文学の魅力として昇華し、或る新しさに成り得ているか、その辺をわたしが編集者なら厳しく読もうとします。文学として。
あるいは読み物として、エンターテイメントとして書かれているかもと謂う問題もあります。それだと徹底的に面白いことが問われるでしょう。わたしには、その方面は分かりませんけれど。
小説を送ってくる人には、試みに、書いた作品の梗概五百字程度と、何が書きたかったのか主題・動機を箇条書きで書いてみることを薦めています。それで、作者の「把握」がどのように強くて具体的に確かかが分かります。試みてみませんか。
わたしは、ご承知のように文壇から身を逸らした生き方をしていて、母なる港の筑摩書房とすらほぼ無縁に過ごしている有様ですから、原稿の「お嫁入り」の世話はできそうにありません。わたしの名なんか出ればかえって断られかねない程ですから、その点は、見込みなしと諦めていてください。「読む」ことは、何とでも出来ますけれど。
小説で羽ばたくには、今は猛烈な気力と腕力と構想力が、昔の何倍ももとめられているようです。時代の最前線で、書き手自身が沸騰しつつ光ってないといかんようです。難しい時代です。
わたしに出来る助言はそんなところですが、作品を読み通して、また何か言えるでしょう。とりあえず。
別の話ですが、「ペン電子文藝館」の「読者の庭」に、落ち着いたいい論考を書いてくださいませんか。但し館に掲載されている作品群や作家達に触れたものに限ります。枚数は、内容次第で五十枚ぐらいまで許容しますが、審査があります。掲載料は要りません、原稿料もありません。しかし読者は多いですよ。 湖
2005 8・6 47
* 昭和二十年八月、敗戦の十五日を、秀樹は、京都でなく「丹波」の山の中で迎えた。ポツダム宣言を受諾の、天皇裕仁自らのあの玉音放送も、丹波の「田布施」で聴いた。祖父と母と三人で「隠居」を借りていた長山吉之助家の前庭に、あの日は、淡い記憶だが他にも何用かがたしか有って、人が寄っていた。玄関の式台に、ラヂオが持ち出されていた。学校は夏休みだった。
放送は、ほとんど聞き取れなかった。戦争に負けた。戦争は終わった。それだけが分かった。点ほどの終末感覚と、かるい明るい安堵感とが、揺れるように胸のうちで交叉した。興奮はすこしずつ増してゆき、ながい夕焼けの茜いろに染まりながら、終日ピョンピョンはねて走りまわって、わけの分からない声を秀樹はあげていた。国民学校の四年生だった。田布施へ疎開して来て、半年と経っていなかった。 (湖の本42『丹波』より)
* いま「客愁」三部作「丹波」「もらひ子」「早春」を自分で読み返して、これが多くの世間にオモシロク迎えられるとは少しも考えないが、よく書いておいたと、(今ふうの変な物言いをすれば)自分的にはよろこばしい。ことに「丹波」は書いておかずにおれない執心があった。此処から歩み始めていたのだと繰り返し思ってきた。文章は淡々と、しかし(ビールみたいだが)淡麗に、清明に、ほぼウソをまじえずムダなく書けている。ウソは丹波の地名そして人名にあえてしたのが少しだけである。私小説でもない。小説にするような書き方はかなり厳格に避けて通った。自伝とすら考えなかった。記録をと思った。
2005 8・14 47
* 敗戦の日であり、京都では盂蘭盆会。秦の母は、むかしは嫁の仕事として丁寧に仏壇への奉仕を欠かさなかった。一種の異界が家のうちに出現し、少し人間がうやうやしい顔つきになる日々だった、二、三日前から。
坊さんも見えた。
美しいモノの最初の体験のようにわたしは仏壇の火を畏怖して見入った。蓮の葉に散ってたまる水玉の白さに惹かれた。
いま外で鳩が啼く。あの声もわたしは佛界の声のように聴いてきた。
2005 8・15 47
* 風、ゆっくりお休みになりましたか。
三島由紀夫の「女方」は、読んだことはありません。おもしろそうですね。
六代目歌右衛門は、わたしが歌舞伎に興味を持ち出した中・高校生のとき、頻繁に舞台をつとめていたので、テレビの劇場中継でいつも見てました。ほんとうに、いっつも出てましたよね。
その後、ぱったりと舞台に出なくなってしまったので、生では見ていません。
「テレビ画面ででも、見られてよかった」と思う役者です。
「ミッドウエイ」という映画、題名は知っているけれど、見たことないですねえ。映画は、最近、「宇宙戦争」くらいしか見ていないです。見るとなると、つづけざまに何本も見るのですが。
家に大きめのスクリーンがあるのですが、プロジェクターで映写すると、ファンの吐き出す熱風で部屋が暖まるという被害が出ます。真夏のホームシアターサウナです。
でも、ここ数日、暑さが少しやわらいできた気がします。 花
* 風の助言 風が、某社でいろんな小説を書き下ろしていたとき、その社のベテラン編集者は、気に入らない原稿についていつも多くを語らなかった。もう一度読み直してくださいとだけ。原稿をみるとあちこちに、すっと鉛筆でちいさい山印がかけてありました。短い線がひかれているだけです。どうせよとも書いてない、が、なにか気に入らないのです。
花の、今風が読んだメールでいうなら、たぶん次の五個所に鉛筆の線が入ったろうと思います。
持ち出した 見てました。 生では くらいしか 見るとなると、
はじめのうち戸惑いましたが、つまり 小説の言葉でない、文章についた疵のようなもので、そこから作品が腐りかねない…という意味に感じました。より佳い物言いがないか再考せよという沈黙のチェックです。つまり、こういう物言いは、簡単にできるのでクセになり、頻用してしまって小説世界にヒビを入れるから、常日頃の、たとえメールのような場所でも覚悟して用いよということでしょう。
メールならいいんです、が、それがクセのようになり小説のなかへも無意識に安易に頻出しはじめると、佳い小説は書けないという警告でした、露わにそう言われたのではないけれど。「廬山」や「みごもりの湖」や「閨秀」など当時自作の文章は、おおかたその警告に対し誠実につとめた、と思います。
花も、見えない鉛筆の線を感じ取りながら、すぐれた推敲の習慣からいろいろ気付いてください。
2005 8・19 47
* お帰りなさい。涼しいので朝寝坊。八時間も眠った勘定。
慌ただしくパソコンで読み、何よりお元気な様子が、ウレシイ。
これからさらっと鏡を見て、すぐ出掛けます。 泉
* 七十前のおばあちゃんが、毎週決まって運動に出かけて行く。「さらっと鏡を見て」というのが至極けっこう、メールは、これでよい。真情の吐露かの如くに綿々とご挨拶が続くと押し付けがましくなる。それがクセになると、二三行で済むところが二十行にも成る。いろんな意味でそれは損である。
文学は、言い過ぎては説明に陥る。清明で的確な表現。そこを本気で理解しなくては。仰々しさはメールには不要な、真情をころす毒性の贅肉。単なるメールの問題でなく、その言い過ぎ癖、書き過ぎ癖が「創作の文章」にまで氾濫して、作品を騒がしくする。過剰な装飾感を「佳い」ものにと思ってしまうと、見るから暑苦しさに陥ってしまう。
「スカートと無地のブラウスだけで有り余る内面がうかびあがる気品とおしゃれ心。譬えれば文学のセンスとはそういうもの」だろうか。
2005 8・24 47
* 湖の質問
予め閉ざされたもの
既に 予め閉ざされたもの
夜の向う側 隠された多くの・・
暗闇を列車は走っていく
走って行く と見る視点・体感は、「外」を想わせる。また語勢が緩んで、疾走感も緩む。 走る と端的な覚悟を帯びるべきではないのか。
烏鞘嶺を越え
人々が烈しい日々と失意の夜々を重ねた
荒野へ オアシスへ
河西回廊を西に向かう
第二行の 烈しい も 失意の も観念的で、よく伝わらないのでは。自分のことならそれまでだが、 人々 という他称の「日夜」をどうどう読者に伝ええているのか。どう読み取れというのか。とくに強調語は安易に多用すると逆効果。
荒野へ オアシスへ の「へ」と 次行の 西に の「に」とは どういう使い分けか。床の間に置く 外へ行く など、へ と に とは、用法が別だと思うが。 向かう で、向かっている でないなら、前聯の 走っている はやはり 走る のではないか。
身に沁む寒さが
わたしを世界から切り離す
夜行列車の寝台に臥し 間近に人を意識しながら
完璧に徹底的に独りになっていく
世界 は厳密なことばか、此処で。
完璧に も。完璧に、徹底的に が食い合い、効果を減殺しているのではないか。語彙で強調するのでなく、詩として表現できないものか。
無言という饒舌
無為という煩雑
今こそ 紛れようなく 違えず
親愛なる声に向かって手さぐりする
この四行は生きてはたらいているのだろうか。 今こそ の こそ で息が延びて停滞し、強調が浮いてしまうのでは。
今 紛れようなく違えず ではいけないものか。
親愛なる が甘く、かえって 声 なるイメージを禁遏しワケ分からなくしていないか。
全ての気配を呼吸する
祁連山脈を巡る古代の漆黒の闇に
朱の炎が燃える
眠られぬ夜を追っていく
全ての は、詩の表現であり得ているか。どういうことなのか。
闇 をさらに 漆黒の と強調してそれが生きているか。
朱の炎 とはイージィではないか。それが 燃える も無用の重ねではないのか。
燃える が終止形なのか 眠られぬ夜 にかかる連体形なのかが、曖昧。(こういう行跨ぎの曖昧は、詩の効果にも詩の失敗にもなりやすく、他にもある。) 朱の炎が の が が適切なのか 朱の炎の燃える と の が適切なのか、一度でも思案をしてみたか。
詩集の巻頭作品は 絶対佳い作品でなければならない。それで、あえて言うのです、イジワルではないですよ。詩は、内容であると共に至醇の言葉でありたい。 湖
* 必要に迫られて市街に出掛け戻ると、例のことながら足が痛んで、疲れがどっと押し寄せました。台風11号が近付いて東海、関東など明日明後日は気をつけなければと・・、こちらも数日来、雲が多く、今しがたも雨が通り過ぎていきました。
さて、メールの題名に驚きました。受信する前から恐れいって、何事ならんと、いいえ分かっているのです、怖い怖いが読まねばならぬ・・ゆっくり読みました。
まだすべては理解し切れていませんが・・厳しさをありがたく、ありがたく受け止めています。・・やはり甘いのですね。
京都にいらしたこと、HPで知ってため息が出ました。
この夏、わたしはトンネルの中を歩いているような感じです。秋の訪れはいつもよりいくらか早いのでしょうか。近くの田にはもう稲穂がついて稔りをまもなく迎えるでしょう。いざ、いきめやも・・とせめてそう思いたい。 鳶
2005 8・24 47
* ある人が他のある人に「ふさわしく」ありたい、という気持ちは、一種のご挨拶として理解出来ないことはない、例えば「いたらぬ者でございますが」などという婚姻時の挨拶などに通う口上であろう。その限りにおいて受け取ることは出来るけれど、本気でそういうふうに人間は願うであろうか。わたしは七十年生きてきて、そんなことを心から思ったこともねがったことも無い。誰かのために「ふさわしく」ありたい、誰かのために「いたらぬ存在」でありたくない、などと。とんでもない不自然なことだ。
いつも、自分で自分にできる精一杯をやってきただけだ。それが結果的に他人に嫌われたり好かれたりする、それだけのこと。特定の誰かにぜひ「ふさわしい」自分であろうなどと、そんな不自然なこと、誰が本気で思うだろうか
。またそんなことをどんな人にも求める気、わたしには全く無い。そんなことを日々「痛感」してうろうろする人の在るという、それが理解できない。人はそれぞれに自分自身であればいい、それだけだ。それがその人の魅力の源泉になる。不徳の源泉にもなる。仕方があるまい。
「いたらぬ」とは? なんで人が人のために「いたる」必要があるか、それは奉仕や従属ではないかと思う。自分が誰かに対し「いたる」人か「いたらぬ」人か。どちらでもありえない。わたしはわたしであり、そのわたしを人が好くか嫌うかであり、「希望や気力」はそういうことに用いるものでなく、自分自身をより魅力的に発揮するために用いるべきである。人の「ため」に、などという奉仕や従属からものごとを発想するのは、すばらしいことのようで、実は不自然であり、偽善的であり、その意識過剰のゆえに人間がいたずらに縮かんでしまうもとになる。
* 自分は誰それさんのためにこんなに「ふさわしくない」「いたらない」存在なんですと、めそめそ落ち込んでいるメールを受け取ってみると、その人の「実感?」に対し、あまりに同情のない自分が、じつに非人情な気がしてくるのには、参る。
もう少し人の「意を迎え」て、人のために「ふさわしく」生きよう生きようとすべきなのか。「世のため人のため」に宜しく「いたる」人にならねばならぬのか。
わたしは、自分が、より自分自身になることの結果として、幸い「世のため人のため」に成ればそれでよく、成らなくても仕方がない、という考えである。利己主義か。そう言われているのだろうと想う。そう想っていない人も在るにちがいない、ごく少数でも。それでいい。いずれ、そういう「自分自身」ですら、失せて行く。黒板に書いた白墨の字を黒板消しで拭い去るように。
ほんとに無欲に「生きる」のは、それから先だと想っている。
2005 8・25 47
* 播磨の人への反応かと思ったら、伊賀の雀さんとの交響であった。わたしにも、この湖西白髯あたりの湖岸の景色は、波の音までがきこえるように目に見える。あの湖が、京育ちには「うみ」なのであった。あの界隈が「みごもりの湖」の一場面になった。
この人は映画「女の園」にまぢかい女子校出であったと記憶している。大学は京都大学。何か感想が有ったかも知れない。そういえば、妻の友人に、あのモデル女子大出の「名士」夫人もいたような。独特の感想があったかも知れない。
2005 9・1 48
* 機械が故障のごようすです。その後改善されましたか。メールのやりとりは可能でしょうか。せめて受信だけでも可能であれば嬉しいです。
二十五日にお能「半蔀」をご覧になるそうですが、わたくしは二十四日に観世の方で「夕顔」を観る予定です。偶然におなじ夕顔ものですね。半蔀のほうが作品として評価が高いようですが、残暑厳しい宵にふさわしい、夕顔の花のありようを楽しんでまいります。
源氏物語の夕顔についてとくに重きをおいて論じていらっしゃっるものを拝見したことはありませんが、いかにも男の人に愛されそうなヒロインなので、夕顔的要素に欠けているわたくしには羨ましい女君です。
夕顔について瀬戸内寂聴さんがこんなことをテレビ番組で話していらしたそうです。又聞きですが、面白いと思いました。
生前円地文子さんは夕顔について「夕顔には何処となく『娼婦性』があるわね」と語っていた。瀬戸内さんご自身も、娼婦性という以上に、もしかしたら夕顔はそうした事を実際にやっていた女だったんじゃないかと思っている。初めて源氏と夕顔がコンタクトを持った五条の雑踏にある夕顔の宿は、ひょっとしたら娼婦宿であったかもしれない。そう思う理由として、いくらなんでも見ず知らずの男に対して女の方から和歌を読みかけ、それを濃い香を焚きしめた扇に添えて男に届けるなんてことは、当時としては考えられない。
学者がこの推測をなんと評価するのかわかりませんが、なるほど、そんな見方もあるのねと、夕顔娼婦説に対するのご意見伺いたくなりました。
男の人は妻や恋人に貞節を求めるのに、娼婦性のない女には惹かれないという矛盾を抱えています。橋本治さんでしたか、よその男になびかない女は夫にもなびかないと、『窯変源氏物語』で書いていらしたと思います。 夏は夜
* この人はわたしに「夕顔」という小説のあるのを知らないらしい。
* たんなる野合とべつに、娼婦「宿」というものが、源氏物語の時空間をなしていた延喜から天暦の昔に、かりに作者の生きた十世紀の末から十一世紀にかけても、そう簡単に市中に存在したわけではない。そういう「宿」は、地方なら水駅(みずうまや)や宿や、大河のへりにあったし、また大きな神社の鳥居本、降っては大きな寺の門前などにあった。早くから岡場所や悪所めくものが市中にあって客をとるというような「制度」は出来ていない。蜻蛉日記で兼家の通ったという「まちの小路の女」が娼婦であったと決めつけることも難しい。
夕顔の住んだあたりを「雑踏」とみるのも現実的ではない。さほども遠くない、夕顔を霊が憑り殺した「なにがしの院」の恐ろしげな様子を想ってみてもいい。庶民の街でありつつしかし、すぐ近くに光君の乳母が住み、息子は光の一の近臣であった。
そんな街の娼婦に、貴族意識の強い気難しい頭中将が、光より早く長く通って、子までなしたというのも不自然であり、光君が、娼婦との遊びを少なくも歓迎しないタチであったことは、住吉詣のときに遊女との戯れを苦々しいと眺めていたのでも知れる。
そもそも娼婦の娘と知りながら、その頭中将の娘玉鬘をあれほどのいつくしさで裳着させるわけがない。玉鬘の尚侍という地位は天皇の後宮に半身を入れることのある。朧月夜の尚侍は、位をすべった上皇の御所にも常侍した、そういう格式である。
娼婦の娘が九州へあのように傅き連れられて行くのも、あのように貴ばれつつ都に逃げ帰るのも、長谷で信心のめぐりあわせに侍女に見出されて源氏を喜ばせるのも、とても、夕顔娼婦説などを座興の弁以上には成り立たせないだろう。たしかに夕顔の歌をまず献じたアクティヴィティには少なからず愕いたモノだが、夕顔の造型自体はその死に様からも世馴れたしたたかな娼婦の風情とは、かけ離れている。
* 紫式部の夕顔にはモデルがあった。「大顔」という名の美女であって、広沢の池で神隠しにあっている。それを原拠に式部が夕顔を造型したことは、当時の読者には分かっていたのである。大顔は式部とも血筋の縁のある当時文壇の大御所めく親王が、溺愛して子までなさせていた美女であった。大顔の素性は分からないが、その生んだ男子は紫式部のたしか伯父に育てられたのではなかったか。夕顔が、物語に書かれてあるよりも身分低い庶人であったか、やはり薄幸の貴族の娘であったか、そういう「賢しら」なうがった穿鑿は、たいした妙味を、玉鬘の物語に添えはしないのである。
* 娼婦と娼婦性とを混同してはならない。また、女は、神か玩具かだと谷崎潤一郎はいい、しかし、そのどちらかであるだけでなく、そのどちらでもありうることを、彼は決して否定しなかった。
ただ、わたしは、それが女の娼婦性でもあるなどと短絡しない。率直にそれが女の魅力だと思う。
コケットリーとして神と玩具とをわざと演じたがるのこそ、どううわべは飾っても娼婦的本質の下品さであり、何の意識も不自然もなく上品で性的であれる女の人は、魅力ある人だと想う。そういう人を娼婦的だとも、まして娼婦だともわたしは決して思わない。わたしは娼婦的な女には惹かれない。大事なのはほんとうの女の魅力であり、娼婦めく淑女は好かない。
2005 9・2 48
* 詩禅一味ととなえた禅坊主はわが近世前にも後にも、やたら多かった。茶禅一味、画禅一味などともいった。わたしが、禅と禅趣味とは異なるもの、日本の東山時代などは禅文化ではない「禅趣味」文化であると書いてきた。いまもそう思っている。
書いて安心、創って安心。それだと書く、創る場をもし喪失したらどうなるのか。書く、創るがそれでは「抱き柱」に成るのではないか。「抱き柱」がないと安心でない安心は、やはり不安心なのではなかろうか。
2005 9・5 48
* 平成十年(1998)一月二十二日から、コンピュータのワープロに日記を書き始めていたことが、プリントしたもので判った。まだホームページは出来ていない。
「闇に言い置く私語の刻」を初め得たのは、同年の三月二十五日頃からで、つまりその少なくも一両日ないし数日前に、田中孝介君が我が家で、わたしの目の前でホームページを組み上げて呉れたのだった。表紙はと聞かれ、即座に「湖の本」の二つの表紙絵を用意できたのは幸いだった。
はじめ、日記は日記、ホームページには少し別様の感想をと思っていたらしく、ホンの暫く「日記」と「私語」が併行していた。だが、「日記」は四月十五日で打ちきりになっている。一太郎での日記とホームページとの使い分けを、ムダまたは煩わしいと感じたのであろう。
七年半以上、書き続けてきた「闇に言い置く」は、有能な編輯者にあずければ、バラエティに富んだ何冊ものエッセイ集を編んでくれるだろう。いまどきそんな奇特な人はいないから、自分の手で、今少し内容検索の可能な整理をこころみなくてはいけないのだろうが、今はその時期でない。老人性の病牀についた頃に、まだ意識が混濁していなければ、恰好の退屈しのぎになるだろう。呵々
2005 9・5 48
* 夕飯前にがまんならず二時間寝た。夕飯を終えて七時過ぎ。あれをやりこれをやり、少しずつ少しずつ平均して仕事を前へ送って行く。いま、そういうことの必要な時。
作家がひとり自殺した由、何かの委員会で名前を聞いたか一緒に会議したか、おぼろに覚えている。自殺の理由は知らない。
顧みてわたしが何かに追いつめられているか、思い当たることは特に無い。創作者として、わたしはわたしの勝手で好きにしている、だから、特別な思いはない。突如としてまた噴火する可能性はあるし、無くても構わない。「今・此処」に生きていれば、おそらくそれが創作的な第一なのだと思う。
わたしは、今度ある種の本をつくる時、題を「非常識な存在」としようかと期待している。物書きやもの創りが「常識的な存在」になったら、お嗤いモノである。ただ非常識を「死」で表現してしまうのは、或る意味で常識的な選択であり表現であると、わたしは肯定していない。
* 妻には妻の心配がある。二人の親から兄とわたしが生まれ、兄に三人、わたしに二人の子があり、兄もわたしも、兄の子の二人もわたしの子の建日子も、物書き、もの創りであるし、妻の兄も妹もそうである。物書き、もの創りには「非常識な暗闇の世界」が確かにあるから、妻には彼等に関して常識的なおびえがあるのはムリがない。
何ということは無い、一つ「売れねばならないなどと考えない」こと、二つ「名誉の表彰を追い求めない」こと、三つ、緩やかに大きな抛物線を描き、「年齢を同伴者の人生」なのであるから、「若い人たちとの交代現象は必然の必要」と、つねに心得ていること。 そのように心得て「今・此処」に正対していれば、人生には、ふっくらと佳い余禄が無いわけでないのである。
この年で、わたしは、甚だ非常識に不徳のジンであるけれど、御覧のごとく、孤ではない。健康で厚かましく「不当にイバッテ」暮らしている。三田誠広クンがいつか話していた。「文学の世間はヘンな世間でしてね、ちいっとも売れない人が胸をはってエバッテますからね」と。あれは言えているのである。リッチになったらむしろ負けで、いずれ芯からうしろめたく衰える。フェイマスに生きるには「今・此処」を見失わないで、非常識な存在を貫いていれば宜しい。恒も街子も建日子も、常識人に落ちこむなよ。
2005 9・8 48
*「ドラゴン櫻」が早くももう来週で終わるという。少し淋しくなる。みんな合格すればいいなあなどと、人のいいことを思ったり。
林芙美子の「放浪記」を高峰秀子が演じていた。あのようにして地を這う暮らしと熱烈な文学への愛と執心とで、しかもごく数少ない才能だけが、幸運に導かれて文壇に、創作者の世界に、踏み出して行けたのである。
わたしですら、小説を書きたいと思っていた時期のアトヘ、書き始めて七年の私家版時代を積み重ね、全くの幸運一つで、いきなり太宰治賞が先方から舞い込んできた。林芙美子と同じように苦労したとは言えない、またそれゆえの別の歩み方を選んできた。
秦建日子の場合は、ある人の「おまえ(代わりに)書くか」「はい書きます」の唐突なやりとりの時点で、作品(三十分のテレビドラマ)はもう売れ口が決まっていたという。以来ほとんど休みなく彼は戯曲を書いて演出しつづけ、テレビドラマの脚本を書き続け、演劇塾を経営して卒業公演の面倒も見、いきなり小説『推理小説』を河出書房という一流の版元から出し、週刊誌にエッセイを連載している。まだ名前はとても売れているなどと言えないが、「放浪記」時代の林芙美子らが聞いたら、ぶったまげるほどウンに恵まれている。
また、それだから、それ自体がコワイのである。少々の挫折に少しも動じないど根性をも人一倍養っておかないと、青い顔をするハメに成りかねない。驕ってはいけない。
2005 9・9 48
* 奇妙な偶然で、夜前バグワンの名著『TAO 老子の道』下巻音読の(たぶん)四度目を満了した。
「正言若反 まっすぐな言葉はゆがんで見える。」
わたしの「今・此処」を、境涯を、昨日の「日本」は、根底から新ためてくれたと思う。根底から、もうわたしは何かをしようと思わない。人のためにしようなどと思わない。「日本」のためにしようなどと思わない。わたし自身のためにも何一つしようと思わない。わたし自身を、あたかも「見喪う」かのごとくに生きようと思う。旺盛になにかをしているとたとえ見えようとも、わたしはもう何もしないで生きる。
* 天下莫柔弱於水、 天下に水より弱いものはないが、
而攻堅強者、莫之能勝、 堅きを打ち負かすにつけて、それに勝るものはない。
以其無以易之、 ほかにそれに代わるものは何ひとつない。
弱之勝強、柔之勝剛、 弱さが強さに勝ち、やさしさが硬さに勝つことは、
天下莫不知、莫能行、 誰ひとり知らず、誰ひとり実践に移す事もできない。
是以聖人云、 それゆえに、聖人は言う、
受国之垢、是謂社稷主、 世の災厄を我身に引受ける人こそ国の保護者であり、
受国不祥、是謂天下王、 世の罪を自ら負う人こそ天下の王である、と。
正言若反、 まっすぐな言葉はゆがんで見える。
『老子』下篇第七十八章
バグワン・シュリ・ラジニーシ (スワミ・プレム・プラブッダ訳)
老子いわく。
〝誰ひとり知らず、誰ひとり実践に移すこともできない……〟
誰ひとりそれを知らず、誰ひとりそれを実践できない。というのは、かくも深い暗黙の了解を実践に移すことなど不可能だからだ。実践などというのは粗雑なものだ。それは生きることはできても、実践することはできない。それはひとつの理解として知ることができ、それを生きることもできるが、実践に移すことなどできはしない。本当の理解の人というのは、ただ単に彼の理解を生きる。何かを実践しているわけではないのだ。
人々は私に「あなたはいつ瞑想するのですか?」と聞く。私は瞑想などしない。それほど馬鹿にはなれないのだ!瞑想するということは、実践するということだ。どうして瞑想を実践するなどということができる? その中にいることはできる。が、それを実践することなどできやしない。
人々は私に「あなたぼどうやって祈るのですか?」と聞く。私はけっして祈ったりしない。私は私の祈りを生きるのであって、祈ることなどない。祈りが私の生きかたであり、私の生きかたが私の祈りなのだ。その二つは別々なものじゃない。
もし理解すれば、あなたはそれを生きる。もし知ると、そのときはそれを実践しなければならない。なぜならば、知識は人を変容させはしないからだ。あなたが何かを知ったとしよう。すると、マインドは尋ねる。「今度はどうやってそれをやったらいい?」
あらゆる知識は、最後にはテクノロジーとなる。西洋において、科学がテクノロジーと化したのはそのためだ。あらゆる知識は最終的にテクノロジーとなる。ただ知るだけでは何も起こらないからだ。まず知ると、次にあなたは「どうやってそれをするか?」と問う。
たとえばアインシュタインは、一九〇五年前後に原子力エネルギーの理論を発見した。その理論は完璧だった。しかしそうすると、科学者たちは「それをどうやるか?」と問いはじめた。抽象的には、それは完成していた。その理論は完全に論理的で、理論としては証明されていた。しかし、どうやってそれを実践に移すか? 原子爆弾を創り出して広島長崎を破壊するまでには、それから四〇年を要した。そうして、それはテクノロジーとなったのだ。四〇年間、知識がテクノロジーになるのにかかった。人間に知られていることはほかにもまだたくさんあるが、それらがテクノロジーになるには時間がかかるだろう。
あらゆる科学は、だんだんとテクノロジーにおとしめられてゆく。宗教はけっしてテクノロジーにはならない。なり得ないのだ。それは知識ではないのだから。(宗教も、しかし、テクノロジーになりたがる。それはマガイモノである。)
あなたは理解する。と、まさにその理解そのものが人を変容させる。あなたは変身し、変異する。あなたはもう同じあなたじゃない! ものを見、それを見守り、そのものを理解すると、まさにそのこと自体があなたの実存の質を変えてしまっている。もうあなたは違った生き方をする。
実践などということは不可能だ。小さなものごとは実践できる。が、大きなものごとは実践できない。祈りというのは大変なものだ。愛というのは大変なものだ。それに関する「ノウ・ハウ」などあり得ない。瞑想となったら最後、頂点だ。神……。どうして神を実践することなどできるだろぅ? それになることはできる。が、それを実践することなどできるものではない。
そしてあなたがそれになれるのは、あなたがもうすでにそれであるからだ。ほんのちょっとした理解……。あなたは闇の中に立っている。そこへほんの少しの光が差し込んだだけで、少しの明りがはいっただけで、何もかも変わってしまう。
老子は言う。それは知ることもできないし実践することもできないが、聖人はこう言う、と。
〝世の災厄をわが身に引き受ける人こそ国の保護者であり……〟
最も低いところへ下ってゆく人が聖人であり、世の中の暗黒のすべてについてみずから責任を取る人、イエスのような人こそ、国を保護するのだ。世の中は政治家によって守られているんじゃない。政治家などというのは詐欺師だ。世の中は、あなた方のつゆ知らないような、ごく少数の人々によって守られている。というのも、そういう人々をそれと知ることさえ難しいからだ。彼らはそれほどあたり前に生きている。彼らは世の中という森に深く埋もれている。あなた方は、そういう人たちのことなど知らないだろう。
世界はごく少数の人々によって守られている。クリスタルのような純粋性をもった、子供のように無垢な数人の人々……。しかし、彼らは責任を感じている。醒めているからだ。
仏陀が、ニルヴァーナ、最後の、究極のわが家にたどり着いたとき、扉という扉は開かれ、大変な祝典があったと言われている。というのも、何世紀に一度、ようやくひとりそうした門をくぐることができるからだ。ところが、仏陀ははいろうとしない。彼は門を背にして門のところに立った。そこの人たちは心配になった。
「どうしてそんなところに立っているのですか? 扉は開いていますし、私たちはあなたのおいでを待って、大変な喜びのお祝いになっています。おはいりなさい! おもてなしいたしましょう!」
仏陀はこう答えたと報告されている。
「どうして私にはいることができましょう? 全世界が苦しんでいます。私は、最後のひとりが通過するまで、究極なるものに足を踏み入れるまで、ここに立っているつもりです。私は待たねばなりません。私は最後のひとりになるつもりです。私は責任を感ずるのです。私は醒めていますが、彼らは醒めていません。どうしてその彼らに責任がありましょう。責任があるのは私です」と。
醒めてゆけば醒めてゆくほど、あなたは責任を持つようになる。それだけ感じるようになり、それだけ役に立つようになる。あなたが人々に奉仕しはじめるというのじゃない。が、一生がひとつの奉仕になるのだ。何かの義務から、彼らに何かをしてやるというのじゃない。いいや、あなたはただ単に自分自身の覚醒を成就しているだけなのだ。
〝世の罪を自ら負う人こそ天下の王である、と……″
そういう人々こそ、歴史には知られていない本物の王様たちだ。歴史は、張り子の王様、ニセの王様たちのことばかり語っている。歴史はまだ本当に真正な現象になっていないのだ。さもなければ、それは仏陀のこと、老子のことを語るだろう。それはカビールやクリシュナやキリストのことを語るだろう。マホメットやマハヴィーラのことを語るだろう。ナポレオンやヒットラー、毛沢東、スターリンのことなど語るまい。そんな人たちのことなど語るまい。
そういう連中は有害なだけだ。彼らは災いの種なのだ。彼らは黴菌のようなもので、彼らのおかげで、地上が地獄になっているのだ。
ところが、歴史は彼らのことばかり語っている。そして、どの子供も歴史によって腐敗させられてしまうのだ。愚かな、馬鹿げた連中、狂った、神経症的な、倒錯した連中のことは言っても、自分自身に到達した人々のことは語らない。そうした人々こそ、世の本物の王様たちなのに。
〝まっすぐな言葉はゆがんで見られる。″
そして老子は言う。これらの言葉はとても不思議だ、と。まっすぐだ、と。しかし、それらが人々にはゆがんで見えるのは、何故か。彼らがゆがんでいるからだ。
バグワン『TAO 老子の道』下巻 了
2005 9・12 48
* 春曙という発見はこれこそ清少納言の独創であった。漢詩のあれほどの集積にも「春曙」の美をとらえた詩句が無いと謂われる。大陸の地勢や風土性からして或いはさもあろうと想うが、日本の国で、万葉集にも三代集(古今、後撰、拾遺和歌集)にも「春の曙」は全く見当たらないのにはおどろく。
ようやく後拾遺集に、やっとへたな歌が一つ見つかる。その後、俊成撰の千載和歌集にあらわれ、そして新古今和歌集になり、どっと十三例も見つかる。それも清少納言の感化が強烈でほとんど「春の曙」ばかりだが、きわめてまれに、「秋の曙」も。
あけぼのや川瀬の波の高瀬舟くだすか人の袖の秋霧
うまい歌ではない。「あけぼの」の歌に、めざましい成功例がほとんどない。枕草子にひとり名をなさしめ、王朝のエピゴーネンに生彩がないのだ。平成の日本にも、いま自然とむきあい新しい美の発見を想うどれだけの人があるだろう。都市でも田舎でも、ケイタイの氾濫。
2005 9・13 48
* おはようございます 風
早速、ありがとうございます。直していただいた文を参考に、手を入れていきます。花
* おはよう 花
直しの感じ、なんとなく理解しましたか。文の緩急、しまり、音楽。小声で読んで行くと耳ざわりは分かります、すぐ。舌が縺れたり、無意味に同音を繰り返し書いてたり。口語の場合、適宜に語尾を省略しないとくどくなります。会話は、現場のやりとりの実感をよく想い描いて、心理の説明を書きすぎないこと。効果的なカタコトで済ませているものです、親しい仲ならとくに。
つづきも読んで行きます。いま連載エッセイのことがアタマにあって重たい。
バテていますね、明らかにわたしは。今朝は七時半まで眠れましたが、そのまま起きています。機械部屋が暑く、冷房すると冷え込んで。
午後、美術展と能とに出ようと思いましたが、この分では家で休息になりそう。うまいラーメンなんか食べたいです。食欲はあるんです、いッつでも。 風
2005 9・14 48
* *さん。以下、読みくらべて下さい。小説のごく冒頭、ソフトクリームの代金を「珠子」が出し、「石野君」はいらないと言うところです。
いつも割り勘なのに、調子狂うじゃないの、とは言わず、結局百円玉二つを渋々拾う石野君の指先が、わたしの掌にも触れるのを見ていました。
いつも割り勘なのに、急におごろうとするなんて、調子狂うじゃないの、とは言わず、二百円を渋々拾い上げる石野君の指先が、わたしの掌にも触れるのを、じっと見つめました。
上が、あなたの原作を生かしたわたしの直し稿、下があなたのさらに手を入れた三稿。「同じこと」を書いているのなら、あなたのは、わたしのより「十六七字」も多いんですが、それだけの効果があるか、どうか。
「いつも割り勘なのに」という物言いには、「おごろうとするなんて」「調子狂うじやないの」の両方が、もうちゃんと言われているのです。この二つとも無くても、
いつも割り勘なのに…と口には言わず、
で的確に事情は表現できており、あなたの稿では、同じことを「三度」も繰り返している。わたしの稿でもいわば二度おなじことを言っている。ま、二度まではかろうじて許されるかどうか、こういうところが文章をくどくし、小説のうまみを殺いで壊してしまうのです。
とは言わず、結局百円玉二つを渋々拾う石野君の指先が、わたしの掌(て)にも触れるのを見ていました。
とは言わず、二百円を渋々拾い上げる石野君の指先が、わたしの掌にも触れるのを、じっと見つめました。
微妙にちがう。
じっと見つめる は言い習わしの物言いですが、 じっと 見つめる とは言うまでもなく屋上屋のダブリです。この場面には、時間経過も、しぐさとしても、少し芝居がかり過ぎないかしらん。
また 見ていました。 は明らかに只の 見ました。 とはちがい、時間経過を含んで、それだけのぶん じっと も 見つめ も、内包しています。変に強調する肩のいかりも免れています。
なにより、「二百円」は代価を示す抽象名詞で、そんなモノはモノとして存在せず、 拾い上げる ことは出来ない。正確には 百円玉二つ が(バリエーションは有るにしても)「把握」として的確なのです。また、
拾い上げる と 拾う も、同じようで違うのです。地面に落ちているお金を腰を曲げて「拾い上げる」のじゃない。目の前にさしだされた珠子の掌から 拾う または つまむ つまみあげる のです、石野君は。
さらに 拾う のでなく、拾い上げる としたための い上げる の「四音」のノビが口調を緩めている。
残る問題は、わたしのさし込んだ 結局 の有ると無いと。 わたしは、 渋々 の決心や行為を印象づけるのに有効かと思い添えました。あなたの稿では 拾い上げる とノバシテあり、 結局 を添えるとさらに間延びをつよめるので、工合がよくない。その「是非」は、難しいところです。
わたしは、いたるところでこういう「判断」を加えながら推敲して行きましたが、あなたも、そうしましたか。
参考になれば生かしてください。僅かに二行に満たない個所ですが、いい読み手・読者ほど、無意識にも想像力がこういう細部へまで行き届いているか、いないか、作者の力量の滲透度、を読んでいるのです。 湖
* お疲れのところ、ありがとうございました。
自分の愚鈍さが、厭になります。
よく気をつけて、またやり直します。 作者
* わたしも、昔、目の前が真っ白になるぐらい編集者に絞られました。絞られて流した脂はみな余分なものでした。
しかし絞られる前からも、わたしの文章観は、「等量の情報」しか発信しないなら、「一字一音でも少なく、」でした。但し「前提」として、文章の適切な「聴こえ」「流れ」は重視しました。「慈子」湖版をみながら、最初の原作版に鉛筆で「消し」線や「書き換え」を書き込んで行くと、わたしの息づかいが聞こえると思います。「清経入水」も奇蹟かといわれた一夜での推敲でした。「推敲が才能」だと思います。
クサッテはいけません。それに、わたしの言うままでなくていいのです。谷崎の文章と直哉の文章はちがいます。鏡花と秋声もちがいます。川端と三島もちがいます。違いを超え、「なに」が共有されているかを思って欲しい。
* ネットに溢れている擬似不鍛のとんでもない創作群にぬけているのが、「編集者」の眼だとは、もう到る処で認識されていながら、まだ、ほとんど働きだしていない。わたしの「e-文庫・湖(umi)」が、そういう一つの試みとして始まって、数年を超えてきた。根気の良い書き手達は確実に「書ける」ようになってきている。「e-文庫・湖(umi)」はそういう文学愛の新人達だけの場ではない、著名な作家・批評家・思想家たちも、物故の大作家達の作も掲載されている。現役のそういう人達から掲載を希望されて作品を頂戴もしている。
いつか、わたしのかつて体験したことのない「同人」E-文藝誌も立ち上げてみたい。
* ありがとうございます。
クサッテはいません。情けなかったけれど。
「想像力をすみずみにまでいきわたらせる」が、腑に落ちました。
直しをつづけます。
今日は暑さが戻ってきています。 お元気でいてください。 投稿作者
2005 9・18 48
* バグワンの「老子 TAO道」上下巻を音読了のあと、次はまた『ボーディダルマ 達磨』を読み始めている。
「仏陀の道には果報などというものはない。なぜなら、果報を求める欲望そのものが貪欲な心(マインド)から来ているからだ。仏陀の教えのすべては無欲であることの教えだ。」
「瞬間から瞬間を内発的に生きよ。」
「<道>に入るには多くの小道がある」などとボーディダルマが言うことはありえない。「真理に至る道がある」とすら達磨は言わない。「彼の全アプローチは、”あなたこそ真理だ”ということだ。どこにも行く必要はない。むしろ”行く”ことなどやめなければならない。そうしたら真理の在る”我が家”にとどまることができる。」「すべての道が誤った場所に向かう、というのがボーディダルマの姿勢(アプローチ)だ。」「どんな修行も必要ない。あなたは現在在るべき場所に在る。」必要なのは早くそれに気付くことだ。「ボーディダルマはほかの誰よりも『信ずる』という言葉を嫌う。信念などけっしてあなたの眼にはなりえない。それがもたらすのは光でなく、先入観や意見や観念だけだ。」
そういうことをバグワンは言いながら、達磨の言説と伝えられた文献のなかの、虚妄・誤解と、金無垢の真実とを、厳正に選り分けて行く。バグワンの透徹がすばらしい。また数ヶ月、わたしは達磨にも聴きバグワンにも聴きつづける。
2005 9・18 48
* どう見廻してもわたしが最低年の時期があった。わたしは、太宰賞その他でいつも文壇の大先生老先生に引き立てて戴いたのと、何かにつけ歴史的な視野とともに人の名前や業績を視野にしっかり入れていたから、お年寄りに対する敬意のもちようは、普通以上であったし、今もそうである。今ではあたりを見廻して、わたしより若い人の方が何層倍も多くなり、猪瀬直樹のようにわたしを指さし「老人にしては電子メディアにくわしい変わった人」と諧謔を弄されるぐらい、三つも属しているどの委員会でも、最高齢になってしまっている。理事会ではさすがに井上ひさし、中西進、倉林羊村さんら数人がわたしより年輩で、阿刀田高氏が同年、大方は、ずっと年若い。
老若の世代衝突は、歴史的にやむをえない人間自体の未熟現象なのであるが、いま、『ファウスト』の第二部第二幕の冒頭(文庫本下巻の冒頭)を流し読んでいて、今をときめく若者の、老人を下目に見よう見ようとする「可笑しさ」が辛辣に書かれているのに気付いた。
ファゥストはヘレナとの憧憬幻想裡の恋を遂げてから、心身をうちひしがれて悪魔メフィストフェレスの介護で、元の研究室へもどり、昏睡している。
むかし、メフィストはここで、若き学徒を、ファウスト博士に化けて散々に翻弄し嘲弄したが、そのなぶり者にされた当人が日の出の勢いの学者顔をして現れ、老い込んだ風貌の悪魔を相手に、さんざんに息巻く場面である。メフィストのいわゆる、「大学の先生の、世間では当然のことと思われている、威張った真似」をして彼はしてみずにおれないのだ。
たしかに若いのがとうどう大学教授になると、なんでああも彼等は急に尊大に威張りたがるのか、わたしの身の回りにもそういうのが何人もいる。学生時代ははいつくばるようにもみ手して訪れていたのが、掌を返したようになるから可笑しい。そんなにのけぞって歩いて大丈夫かいと、からかいたくなる。
* メフィストは言う。
「若い者に純粋な真理を語って聞かせると、嘴の黄色い諸君には、いかにしても気に入らない、ところがそうした連中も、多年ののち、それらすべてを直接 (じか)に肌身で思い知ると、自分の脳天から出た智恵のように思うのだ、そして『あの先生は愚物だった』ということになる。」と。
若い学士は、老教授に化けている悪魔相手に気炎をあげる。
「時世の上で廃れ、今は何の値打もなくなったのに、自分がまだ何かのつもりでいるのは、僭越というものですよ、人間の生命は血のなかに生きる。そして、青年の体ほど、血の動いているところはありますかい? 老いは冷たい熱病ですね、とりとめもなく悩む悪感ですね。人間*十の年を越したら、もう死んだも同然です。あなた方は、早く敲き殺してあげるのが、いちばんでしょうな。」と。
さらに昂然と言う。
「青年のいちばん高貴な使命というのはこれです! 世界は僕がそれを創る前には『無』」だったのです。」と。
ちなみにわたしが「ペン電子文藝館」を創り上げて、招待席や物故会員の作品を積み上げてきたのは、こういうモノ知らずな若者への親切な貢なのであった。
メフィストフエレスは、ひとり嘲笑う。
「だがな、人が愚かな事、また賢い事を考えても、先人がすでに考えなかったものは更にないと気づくとき、どんなにか悔しがることだろうて!」と。そして辛辣に、うそぶくのである、「悪魔はともかく年寄だ、そこで悪魔の詞が分かるように、皆さんも年をおとりなさい!」
* あえて「*十」とした個所は原作では「三十」であり、「人間三十の年を越したら、もう死んだも同然です。あなた方は、早く敲き殺してあげるのが、いちばんでしょうな。」ではアンマリだと、ボヤカシたのである。しかしまた「出来る(と錯覚している)」二十代や三十前半の連中は、本気でこういう風に振る舞いたがる者のようで、例えばそういう女作家の一人がテレビで臆面なく、「図書館」は「敵」ですなどと放言する。
* 少し矛先は変わるけれど、いったいに「髯おやじ」の大学の老先生ほど、これまた地位に汲々としている人種はめずらしい。任期中の何年かは、退職後の次の地位さがしに奔走されている。役人の天下りなみに天下り先を血眼にさがして、ありついて行く。気の毒というか、時にはコッケイでさえある。
「ほかに藝がないからだが」とメフィストフェレスは嗤っていた。
2005 9・18 48
* 昨夜ポーランドの「柳」君の便りを読んでいて、「意見」はもっていたけれど「生活」していなかったという述懐に、わたしは胸を打たれた。明らかにこれは一つの見解であり、批評である。「意見」をちからに成しつづけた表現だけれど、その表現に「生活」の下支えが無かったかも知れないという反省は、この三十なかばへ乗りかかって行こうという年齢には、重大な意義がある。
譬えて言えば、これは息子の秦建日子にも言えること、手厳しい批評であろう。彼は持ち前の才気で表現しているが、書かれている例えば科白の端々には彼の思想とはとても思われない、むしろ日頃とは逆さまな表現すら混じっているとみられる。が、それは「生活」に根ざしたものというより、読書や風説や思いつきや常識による「意見」から出た産物でありかねない。よく謂う「セリフだけは知っている」けれど、本心の思想になっているかどうかは分からないのである。カッコいいことは、実感が無くても知識や見聞からでもけっこうひねり出せる。それが「柳」クンの謂うところの「言葉」でおおかた作り上げられたもの、の意味になる。人間の深奥内奥に根生え根ざしていなくても「セリフ」は出て来ること、政治家達の口から出任せを聞いていても分かる。
「生活」が欠けていたという発見と反省は厳しい。厳しいところへ気が付いてきた、それが奥さんと一体の生活がしたいという気持ちになっているのを、甘い感傷といっしょくたにして冷笑するなどは間違いである。もし「柳」クンたち建築家の創造が、「生活」の蓄積の反映しない「意見」に載っただけの産物では、やはり足元が脆弱だろう。
ヨーロッパまで駈け巡って、さすがに一つ大きい巌をよじ登ったなと謂う気がして、嬉しかった。
2005 9・21 48
* 七時半に起き、キッチンでひとり全集版『日本書紀』三冊の上巻「解説」に読みふけった。上巻本文は昨夜に読了、今夜から中巻に入るので、本をしまうまえにと思った。
「解説」とはいえ、専門家が分担して書いている学術的なレビューであり、分量も今朝読んだだけで文庫本のうすて一冊に及ぶだろう、とても興味深く、吸い込まれるように、いや吸い込むように、二時間ほど、傍線をいっぱい引きながら、夢中で読んでいた。読んだ限りは概ね理解しアタマに入った。本文をいましも応神紀最後まで読んでいたからだし、また先だって読んだ(もうずいぶん以前とはいえ)『日本の歴史』最初の数巻の記憶が有効に生きていた。こういう論説文にくらべると、昨今の評論やエッセイ・小説のほうがよほど呑み込みづらく感じる。
* 一つ、私としたことが長く見落としていたことに気付いた。
主に神の名前の末尾についている「ミ」の音である。わたしは長い間「山津見(ヤマツミ)」「海津見(ワタツミ)」を山の民、海の民と読もうとしてきた。それで適切な場面の多いのは事実であるが、「ヒコホホデミ」の「ミ」などに注意が足りていなかった。
「やまツみ」「わたツみ」の「ツ」が「0f=の」である以上、これは「山の神」「海の神」であり「み」という神が水神である蛇神・竜神なのもあたりまえであった。神武天皇のいわば本名として「ヒコホホデミ」がいわれており、父は、その母で海神の娘である「トヨタマ」が蛇体に身をかえて産んだ「ウガヤフキアエズ」であり、母は「トヨタマ」の妹「タマヨリ」である。そして「とよたま」の夫がまた「ヒコホホデミ」の名を持った。彼こそはあの釣り針を求めて海宮にいたり「ワタツミ」の娘「トヨタマ」を妻にした「ヤマサチ」即ち火遠尊であり、降臨した天孫「ニニギ」の子、母は「ヤマツミ」の娘「コノハナサクヤヒメ」である。二重三重に「山の蛇」「海の蛇」を肉親にはらんでいた神の子として人皇第一代に神武天皇は即位せしめられている、神話的・歴史的に。
むろん、推古朝から天武朝を経て数十年にわたる日本書紀編纂者たちの、壮大深遠な、意図周到な架空の創作であった。
神武天皇から仲哀天皇にいたる十四代天皇は、歴史的には架空の所産、日本書紀の意図には、「応神・仁徳」朝を以て我が日本国歴史時代の創始を、暗に確認、する大修史事業であったらしいと、研究の成果や到達は、かなり明快に結論している。
2005 9・24 48
* 往くものは往き、来るものは来るであろう。永く延びる線のような永遠はない。「今・此処」が永遠。来るものは来る。往くものは往く。なにもしないで「今・此処」で待つだけである、その時を。待ちながら忘れている。
日付が変わる。明日は、俳優座。いい新劇が見たい。それが済むと十月の十日まで、目下なにも無し。湖の本が進行する。
2005 9・28 48
* 世界の歴史を読んでいると、ときどき眼の覚めることがある。ヘェ、そうなのかと。
中国史で、「公侯伯子」の爵位の起こりや、「郊外」の初出にフーンとおどろいたり、ブルジョアよりもはるかに遠く、古代ローマにすでに「プロレタリア」の称呼が通用していたこと、「達者(パーフェクト)」という言葉がキリスト教のある種の混乱期にある種の覚者の意義で通用していたこと、など。
求めて得る知識ではないが、自然に飛び込んでくると、ひとしお興がり、楽しむ。嬉しくもある。
むかし、「徳(バーチュゥ)」とは、たとえばコロンブスやマゼランのような大航海時代の「船長」こそが備え、また絶対に備えていなければいけない資格であったと教わり、あれが、「一文字日本史」の冒頭に「徳」を置いた動機になった。
先日観た映画で、潜水艦の艦長が戦死し、引き継いだ副長が、敵攻撃から身をかわす必死の漕艇に際し、ウカと、「おれにもどうすればいいか分からないが」と口にした。
後刻ベテランの士官(チーフ)にものかげで、「ああいうことを艦長は絶対口にしないで欲しい、それが兵士の命を危険に陥れるからです」と警められていた。艦長は「徳」つまり、絶対に深く広く正しい判断と言葉と人格を持っていなくてはいけなかった、今も、そうであろう。
「徳」乏しく唇薄き政治家に率いられている「国の不幸」の身にしみる秋(とき)である。
2005 9・29 48
* (書き上げた長編の)推敲が済んだら、ダメでもともとで、どこかの新人賞に応募します。その場合に、既にネットでも掲載されていると資格を失うので、応募できません。希望としては、どこかの編集者のようなプロに生原稿で読んでもらいたいと思っています。
新人賞なんて生意気と笑われるでしょうが、そこを通らなければとっかかりもありません。せめて一次を通るようにと願っているのです。一次を通過できたらどんなに励まされるでしょう。
プロの道は益々遠く思えるのですが、まだ人生を諦めたくないのです。 作家志望者
* 幾つぐらいの人なのだろう、むきだし「賞」幻想の本音が出ていて、思わず息をのむ。
賞は、時の運と思うしか有るまい。当たるかも知れない。簡単に当たるものでもない。
「一次を通過できたらどんなに励まされる」かどうかも、分からない。怪しい。一人か、せいぜい二人か、賞とは、受賞者(まれに佳作入賞も)以外は、事実上の捨てられる屑でしかない。本気で願うなら真っ向当選受賞を目指して無心渾身の精進以外にないだろう。
ところが、文学の不思議でもあるが、受賞をめざして書くというガンバリが「無心」であれるワケがなく、あまり成功したという話をきかない。「そこを通らなければとっかかりもありません」というのは、本当に本当だろうか。ちがうのと、ちがうやろか。
要するに作品が文学的によく仕上がっていなければならなかった、昔は。会社が何と言おうとも選者にその気構えがあった。
今はどうだろう、がさつなものでも「売れそう」なら強引に尻押しして世に出すのが「商品としての文学」常識になっているとも見える、情けないのでそうは思いたくないが。今の選者達、会社の意向にひたすら沿おう沿おうとしてはいないか。まるで映画やテレビのタレント売り出しのように。(根性のある人は選者をやめて行く。)
そしてそこに甘い希望を幻想する人もあらわれる。希望というものは、いつの時節にも、一応、あることはある。
わたしの身近から、現に三人の創作者が出ている。三人とも賞とは無縁にその世界へ迎えられて行き、現に活躍している。彼等に「とっかかり」とは何であったろう。少なくも受賞ではなかった、一心に(なかなか無心にとは行かなかったろうけれど)「書いていた」ことだ。それともう一つは、身を働かしていわゆる「売り込んだ」でもあろう。その前に彼等の仕事ぶりを「よし」と見て、励ましてくれる「大人」がいた筈だ。
そもそも今は、文学を、「プロの道」として願うような時節では、ない、のではないか、幸か不幸か。
その点、「ペン電子文藝館」に招待した杉山平助が、昭和六年に書いていた「商品としての文学」の洞察は、よく読めば、鬼気迫るものがあった。今度「芸術至上主義文芸」巻頭に書いたわたしの「流通する文学」は、その辺の険しい機微にもふれたつもりだ。もう責了にした。ホームページの「エッセイ 2」に掲載しておこう。
もう当分の間、「フェイマスなプロ」など出てこないだろう。「プロ」には、真の文学を断念した「リッチ」だけが成るのではないか。
* わたしも人に応募をすすめることもある。一つの道であるから。
しかし「人生」を稼ぎ出すために賞が欲しいという考え方には乗らない。急がばまわれ、とも言わない。「今・此処」に誠実にねばり強く、しかも若い人ほどそうだが、やはり「動かなければ出逢えない」ようである。
2005 9・30 48
* 誕生日とは、生年月日からの「旅程」を祝うものとわたしは思っているし、ある女性は生年は関わりない単に月日だという。年はどうでもいいと。
おもしろい差だ。男女差ではなく個人差だろう。
大事な人ほどわたしは生年を重んじる。「ペン電子文藝館」委員会でも作家の生年月日を紹介すべきか否かが問題になる。月日はカットしてもいい、が、「生年」はその「人」を真実理解するためにも必要というのが館長判断。誕生月日が全く同じで、五十年の年齢差がある場合もある。何年に生まれたかは、その「人と文学」の判断に、鑑賞に、理解に、やはり欠かせない要件の一つなのだ。「年」が大切で、基本で、「月と日」にそんなに重きはおかない、わたしは。むしろそれなら四季のいつに属するかだ。「日」づけにこだわる意味はあまり無いと思うが。
2005 9・30 48
*「流通する文学」(ホームページで)読みました。少しため息ついています。
純文学作品出版が息も絶え絶えとは思っていましたが、佳い作品が本として出版社から流通する希望はもう持てないのでしょうか。若い作者が「創作者」であるよりも、「製作、生産者」へ露骨に変容変貌している現実はその通りです。
ある売れっ子の芥川賞作家が、自分が作家になったのは、食べていけそうな職業選択の一つとして選んだにすぎないと語っていたことを思い出します。職業として成り立つか試すために、作り話を書き続けたそうです。何日かでたしか二千枚? くらい書いて、まだまだいくらでも書くことがあるとわかり、向いていると判断したとか。
時々図書館問題で批判される何とかという女流の方も、ホステス時代に一番ちやほや機嫌をとられていたのが作家だったので、これはいい職業だと思ったのが作家を志望した動機だったと、ご本人がどこかで書いていらした。ジョークとも思いますが、デビュー作の掲載文藝誌に自分のヌード写真を載せることを提案し空前の売れ行きだったり、ブランドがほしいと某有名作家と結婚したりという道をみていると、作品云々より、職業を成立させた戦略のうまさに妙に感心したりします。(とても真似できませからね。)
そういう方々が文学史に残るような名作の書き手になるかどうかまだわかりませんが、それを目指していないことだけは明白です。売れてなんぼの商人に近いので、志は問われないのです。もっとも、お二人とも面白く優れたものを書いているにちがいなく(未読)、素人が生意気に批判はできません。当然ですが。
> しかし、わたしの思うところ、本当は「編集の鑑賞力」を売るのが一番なのではなかろうか。ラチもない詐欺まがいの文学賞がやたら増えるよりも、出版資本の手を脱した優秀な「読み手」たちが、電子文藝を、「鑑賞力」で吸引し始動し編輯して行く「新システム」の生まれることが大切なのである、その時にこそ、杉山のいう「合理的な新しい社会機関」が意義を持ち始める。
いま「流通している」のでなくただ「氾濫しつつある文藝行為」の本当に良い「流通」を質的にリードできるのは、慾深な資本の神でなくて、文学を愛する力ある編集者であろうとわたしは期待しているのである。
「湖の本」は時代の先端を風切って進んでいます。今は真似できる人がいないにしても、かならずこういう活動が世間の流れともなり、追随され、歓迎されていくと思います。純文学回帰の時世がくると信じています。優秀な読み手はたくさんいますし、佳いものはいつの時代にも求められています。私はその点、楽観主義。
以前、FMラジオがクラッシック音楽の放送をやめたときに、抗議が殺到したことがありました。局としては、それまでクラッシックは何を流していても聴取者の反応がないので、聴いている人がごく少数しかいないと信じこんでいたのです。何しろリクエストを募集しても十五票とかせいぜい五十票しかハガキが集まらないのでした。これがポピュラーやジャズや歌謡曲であれば何万票とハガキが届くのです。当然といえば当然の局の判断でした。
それが、放送をやめたとたん、聴取者の怒りは凄まじく、この時初めて、ラジオ局にも、クラッシック番組が愛好者によく聴かれていたとわかったのです。私の友人も、ただでさえ少ないクラッシック音楽番組をなくすとは許せないと、血相変えて怒りの電話をかけた一人。
めでたく番組は復活しました。クラッシックの愛好家は、日頃、ラジオ局やテレビ局に電話したり、ハガキを出すようなタイプではなかったということだと思います。
純文学も、クラッシック音楽です。人類の宝を必要としている人たちのために、佳い作品が手に入りやすい、正常な流通が一日も早く実現することを願っています。
先日大変美しい「湖」の写真を見つけました。「五花海」と言います。ご存じですか? 中国の九寨溝にあります。100以上の湖が点在する場所で世界遺産。「鏡海」という名の湖も鏡そのもののように山々の景色を湛えてそれは美しいのです。
五花海は湖底まで透き通っていて倒木や魚の泳ぐさままでよく見えます。満足できるものではありませんが、以下のアドレスで写真を見つけました。お疲れの時の一服としてどうぞ。
http: //www.galstown.ne.jp/5/single/bichan/china/sichuan/jzg1/jzg021.html こちら
http://www.otpi.co.jp/tour/04tour/0410kyusaikosyashin.htm
おやすみなさい。 春
* 十時まで床にいた。かなりややこしい「論理的」な夢を見ていたらしいが、もう思い出せない。黒い「マーゴ」にゴキゲンに起こされた。足さきをクスグルのである、「マー」のやつ。
起きて、読んだ、上のメールにビックリ。思いもよらない話題を提供してくれる。
以下の引用は数十年も前に十返肇が書いていた画期的論説「文壇の崩壊」の一節であり、わたしが今度の論文「流通する文学」に引いた個所である。上のメールの話とあざやかに呼応している。
*「芥川賞受賞以来の石原(慎太郎)氏のジャーナリズムにおける扱われ方は、これまでの新作家にみないもので、ここに至つて『文壇的』評価などは完全に黙殺された観があつた。それは、ちようど映画批評家がどんなに大根よばわりしようとも、映画会社が売り出そうと思う新スターは、なんとしてでも売り出す宣伝戦をおもわせるものであつた。意識的に一人のスターを売り出す、あるいは売りものにしようとするジャーナリズムの商業主義の完全な勝利であつた。すでにそれは『文壇』がジャーナリズムの商業主義にほとんど無抵抗であつた事実を示している。
今日ジャーナリズムに『文壇』が無抵抗となり、無抵抗になつたことで『文壇』が崩壊したのは、現代作家の脆弱(ぜいじゃく)性によるのではなく、社会的必然なのだ。
さらに今日では藝術家とジャーナリストの区別ということが厳格に規定できない。すくなくともジャーナリズムで存在しえている藝術家はジャーナリスティックな才能をもつていることは疑えない。そして、それが藝術の変革を必然化せしめる。それは現代の素質として血肉化しているのである。彼らの文学はその気質の産物である。
彼らは、それを『貧乏と病気と女の苦労』の体験から学んだのではない。先輩文学者から教えられたのでもない。彼らは今日の普通の青年として生活の中から身につけたにすぎぬ。そして彼らの生活には、『文学の師』などというものは存在もしていなければ意識されてもいない。彼らはかつての私たちのように文学青年でさえない。」
* 石原氏や大江健三郎氏らより遅れて「作家」になったわたしも、おおよそ「文壇」の厳しさになど一度も直接触れることなく、孤独にこつこつと「文学」していた。
とはいえ、そんなわたしを「文学の世間」を呼び出してくれた人達は、まさに「文壇の雄」たちであったとも謂える。中村光夫の先に小林秀雄の意思があったと聞いている。新潮社の重役の意思も働いたと聞いている。円地文子も働いてくれていたと想われるフシがある。中村光夫のそばには太宰賞の選者たち、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎らが在った。河上は小林の盟友でもある。
わたしは「太宰治賞」の存在すら知らずに、巷に埋もれていた孤独な文学青年に過ぎなかった。「文壇」がわたしを見つけてくれた、必要としたのだという「格好」になる。わたしは、今頃になりその「事実」を確認しておかねばならない。
わたしのその後の歩みは、「湖の本」は、まさに崩壊していった「文壇」と「志の文学」に殉じゆく、恰も敗残の赤坂城・千早城に似ているのである。しかし、時代を動かして行く火だねの一粒には成ったかと思っている。
上に挙げた大きな名前の誰一人として、パソコンの時代を、念頭に、滴ほども持たなかった。しかし「文壇」を破壊したのは、新文学青年達の思想や生活態度であったという以上に、時代と社会環境(インフラ)の変化であり、変化の芯に仁王立ちした「コンピュータ=電子メディア」という大魔神の存在 (あえてまだ力とは謂うまい。)であった。
しかも、なんとなんと、昭和六、七年のはるか戦前に、ひとり杉山平助は、朝日新聞に二日に分けて書いた「商品としての文学」のなかで、おそるべき、みごとな「洞見」をすでに披露していたのである。その当時の読者達は「たわこと」だと思っただろう。
以下、わたしの論文の一部引用である。
* 杉山(平助)は一文を結ぶにあたり、おそらく昭和六年当時としては黙殺され冷笑でもって看過されたかもしれないが、平成の今日只今からすると、ビックリする洞察・予見の言を以てしている。
こうである、「要するに、今日の社会にあつて、文学もまた商品たるを解せぬ詩人の認識不足はいふまでもないが、同時に商品としての外に文学は存在し得ないと思ひこむことも亦時代的短見だ。文学は曾てある時代に商品でなかつたやうに、将来もまた商品としてでなしに生産される時代が来るであらう。即ち文学生産者と文学需要者の関係が、利潤にケーアを持つ仲買人の手を通じてではなく、より合理的な新しい社会機関を通じて結びあはされる時代が迫りつつあり、また一刻も早く来らさねばならないのである」と。
指摘するまでもない、杉山は、パソコンやケイタイ電話等、コンピュータによる今日の機械環境、まさしく「新しい社会機関」の成立を、想像すら出来なかった。テレビはおろかラジオ放送もまだこの時は知らなかったろう。だが「文学生産者と文学需要者の関係が、利潤にケーアを持つ仲買人の手を通じてではなく、より合理的な新しい社会機関を通じて結びあはされる時代が迫りつつあり、また一刻も早く来(きた)らさねばならない」と彼は言い切っている。「一刻も早く来らさねば」という要請の意義だけは俄かに評価できないが、コンピュータの「ネット」世間は文字通り WWW=world wide web となって拡がり、ネット上で誰の編輯意図や批評に掣肘されることすらなく「書いている」書き手は、ケイタイまで含めれば、無慮無数に及んでいる。
今日、「読みたい人」は減る一方、「書きたい人」は増える一方と、言われている。ホームページ。ブログ。そこで為されているのは、とても「創作= creation」とはいえない低度・小規模の「製作・生産=production」であり、特徴的に、殆ど全部がまだまだ「商品」にほど遠い。制度的にも商品でなく、文藝の価値としても、とても商品として通用しない。しかし「書かれ書かれ書かれ」ていて、そうは「読まれていない」。「文学生産者と文学需要者の関係が、利潤にケーアを持つ仲買人の手を通じてではなく、より合理的な新しい社会機関を通じて結びあはされ」得る時代「だけ」が来ているのは確実で、だが現状では作者と読者とがそこで質実に「結び合わされ」得ず、みなが「書き手=作者」寄りへ殺到しているという按排なのである。
とはいえ在来手順の「紙の文学」はますます「読まれ少なく」なり、「電子の本」ないしそれに準じた「ケイタイ文筆」は過剰に自由自在に「ネットの世」を飛びまわり始めている。「慾深」な出版資本は懸命にこの新たな環境=社会機関に適応しようと懸命に努めているが、まだそこからの大きな利潤を安定して得ることは出来ない。(秦「流通する文学」より。)
* 思いがけず朝から「おおごと」を思ったものだ。「鏡のような湖」の写真を眺めて、眼も耳も口も洗い漱ぎたい。次のこういうメールに、しんそこ安堵する。
2005 10・2 49
* 熟睡。今朝は肌寒むを覚えるほど。
* 喜怒哀楽を、わたしは抑えようとしない。むしろ大切にしている。だが喜怒哀楽する自身を、よそごとに観察している、観察すらしないでいる、ことをもっと大切に思う。
五里霧中と謂うが、わたしは戯れに、「語・理」夢中に過ぎぬと謂うている。「語つまり言葉」と、「理つまり分別」とは、つまり「思考=マインド=心」という単なる「夢」に生きているだけのはなし、信頼に価するものではない。大切なのはそんな「夢」から醒めること、言い換えれば、自分自身が「夢」であると「気付く」こと。
ふと見廻して、目に見えまた目に見えぬわが身のまわりに、「なあんにもない」状態が出来つつある。
森羅万象、また、こと多き人事の世界らしき幻影は、磨り硝子の向こう側、まだ手も届くあたりに、ガス星雲のように渦巻き流れていている「感じ」は失せていない、けれど、もう自分自身には「なあんにも」無く、日の光のような明るさだけが静かに在る。「遠山に日のあたりたる枯野かな」虚子。日一日、そういう感じになっている、らしい。その一つの表れかも知れない、「秦恒平」という男のそれが看板であったかも知れない集中力が、気散しつつある。そう感じている。それが喪失でなく、新たな獲得であるかのように感じられる、人はそれぞ老耄と嗤うであろうけれど。
どろどろとした欲念にまみれていた喜怒哀楽が、澄んだ炎=生彩そのものに変じてほしい、分別でなく思考でなく、沈透くほどの喜怒哀楽だけが純粋な「意識」として生存してほしいと願ってきた、その希望が、漸くもてる。そしてその「意識」に生きて、初めて、過去に知り得なかった真新しい「夢」が観てみたい。相変わらず輪廻の愛楽(あいぎょう)に陥るだけではないかと嗤われても、である。その程度にわたしはまだ、欲望する存在である、もう三月もまたず古稀七十の身でありながら。
2005 10・4 49
* 妙なことを言うようだけれど、ゲーテは、不朽の大作『フアウスト』のなかで、「男と女」につよい関心を披瀝し続けている。
第一部がフアウストとグレートヒェンの悲劇的な恋の経緯であり、それに倍する第二部がフアウストとヘーレナとの時空を超えた恋慕の出逢いと別れであってみれば、当たり前のことであろう。
その上で場面場面に立ち止まってよく耳を澄ませば、聴かずにおれない厳しい至言にしばしば出逢う。例えば、今は世俗の大学者をもって任じているかつての学生ヴァーグネルは、悪魔メフィストフェレスを前に神妙に述懐している、「今までわたしは年寄、若者、いろんな人にいろんな問題を持ち込まれて、赤面させられてきたのです。一例を言えば、『霊と肉とは、こんなに見事に適合して、けっして分離しないように、堅く結び合っている、それなのに、しょっちゅう日々の生活を辛くしている、それをこれまで誰ひとり会得した者がない』というようなことです」と。
老碩学に化けている悪魔は、即座に「お待ちなさい! それを問うほどなら、むしろ『男と女とはなんでこう折合が悪いか?』と問いたい。あなたなんぞには、所詮この点は分かるまい」と突きつける。霊肉一致なんかではない、もともと男と女は一体であったはずでないかと、悪魔の皮肉はきつい。作者ゲーテは往々悪魔メフィストフェレスの口を借り、痛いまで辛辣で厳粛である。
「男と女とはなんでこう折合が悪いか?」
これほど普遍的な不審を、他にそう多く人間は持たない。この難問を突き抜いて行くのも名作『フアウスト』根底のモチーフであろう、少なくもその一つの。
ペネイオス河の下流で、レーダと白鳥の相愛を幻想するフアウストその人の詩句は、うっとりするほど美しく艶めかしい。
彼はやがて、探し求めた「フィーリュラの名高い息子」ヒーロンの通りかかるのを呼び止め、その背にのせられ、憧れの世界へと運ばれるが、フアウストはその背中でヒーロンに問いかけるのだ、ヒーロンの出会ってきた最高の男(ヘラクレス)のことや、「いちばん美しい女」について話してくれと。
「なんと言う!……女の美などはつまらんぞ、とかく凝り固まった外形に堕しやすい。美としてわしが褒めることのでききるのは、いそいそとして生を喜ぶ心から湧くもののみだ。美女は自分だけがいい気になっているけれど、優雅こそは抗いがたい魅力を人に及ぼす、いい例が、わしの背中に乗せてやった時のヘーレナだ」とヒーロンは答えている。自分があの「ヘーレナ」と同じ背中に乗っていると知りフアウストは感激する。
「女の真の美は凝固した外形の美にはない、活きた優雅(=エレガント、グレースフル)のうちにこそあるとは、レッシング、ゲーテ、シルレル等の見解」であったと佐藤氏は訳注に書いている。ファウストは美(ヘーレナ)、メフィストは醜(魔女)へのいわば愛欲をもって作品世界を宏大に飛翔しているのだった。
『フアウスト』は形而上学へ希釈される観念の作ではない。
男と女との情念を殺さずに昇華される、信仰の告白なのである。
それに似た信仰をわたしは、遠い昔、例えば百人一首、伊勢の御の歌などに教わっていた。
* 難波潟短き蘆のふしの間も逢はでこのよを過ぐしてよとや 伊勢
2005 10・4 49
* 物書きの云うことではないかも知れないが、「言葉」ほど人間を軽薄にするものはない。仕方なく使っているだけである。「女は言葉を主食に生きているから言葉を使え」とは、恐れ入る。理解にくるしむ。
身を働かせ身を任せて寡黙に核心へとびこんで行きたいと、わたしはなにをするにも願う。その難しさを恥ずかしくも承知しているから、痛いほど願うのである。
言葉だけで澄ましていられる人が、わたしは時に薄気味悪い。創造的なウソは豊かな沈黙に生まれ、創造的でないウソは花束のような根のない言葉に頼ったとき、気安く口をついて出る。
2005 10・7 49
* どうしようもなく仕向けられていることで、どうしようこうしようと焦れても詮無いが、簡単に諦めて好い事とも思わない。
溝ほどのせせらぎを、両側から、手と手をつないで嬉々として仲良く歩いていた少年と少女が、やがて手は届かないがせせらぐ小川をはさんで楽しく語らい歩むようになり、しかし、川幅はだんだんと拡がってゆき、大声で呼び交わす声も大川に隔てられて届かなくなって行く、といった掌説を書きかけて、やめた記憶がある。
橋の架からない川岸を並行して歩んで行くような人間関係は、世の中に数えきれぬほどある、あったにちがいない、が、人間関係だけでなく、もっとモノ・コトに関わっても、そういうホープレスな悲劇の起きることはままある。
要するに適切に橋をわたす努力が欠けていただけなのに、それを運命のように過大に錯覚して怠惰の自己弁護をしてしまうなどは、情けないことだ。揚子江や黄河に橋を渡すのは容易でない。小川のうちに渡さねばならない。若い人達にそれを言いたい。年よりは、もうダメなのである。それをしたくても、出来ない。
2005 10・10 49
* 高田さんは西行の歌から、紫式部の名を出し小野小町にさかのぼり、また業平と伊勢の斎宮との有名な相聞なども引き、「うつつ」と「ゆめ」とを差し向かわせながら繰り返し「夢」の「現」に対する優位ということをかなり大事に語っている。これは、同様の和歌と歌人達に触れてモノの言われるとき、かなり広くいろんな人の用いる論の行方であるが、その先へもっと深くは、前へも奧へも突き抜けない、行き詰まりの議論に陥っている。
「うつつ」など在りはせず、「ゆめ」もとより在るわけがない、優劣の在る道理がない、と、その空・無に「気付いたとき」に、「覚めたとき」に、初めて「うつつ」も「ゆめ」も在ると謂えば謂えるるのかも知れない、それだけのことであり、小町はともあれ、紫式部も、また和泉式部も、そして西行も、それが分かっていたであろうとわたしは思っている。
* 高田さんのエッセイは、じつに佳い。こういう文章が「通信」というプリント形式でしか余に配布できないことが、とても口惜しいとわたしは感じる。四半世紀早ければこれは高田さんの代表作かのように時代に受け入れられていただろう。インターネットへ推し流れて行く潮流は、こういうフェイマスな仕事を容易に認知しようとしない。それでいいのかと、電子メデイア委員会でわたしは、たらたら不平を述べたものだ。誰かは、リッチとフェイマスとは両輪だと謂っていたが、理窟に過ぎない。「情報」はもてはやされるが、例えば高田さんのこういう正しく「エッセイ」は、出版社がそもそももう受け付けないのである、惜しいことに。
2005 10・12 49
* ウミサチ・ヤマサチがいい大人にも通用しない昨今では、蘇峰と蘆花といってもキョトンとされる向きが、さぞ多かろうと半ば断念気味であるが。この近代の大きな知性、豊かな感性の兄弟も、ごたぶんに漏れない長い不仲で世に知られていた。それは、ま、いい。
文学という共通項のためにわたしは弟蘆花とはときどき親密に取り組んできた。だから彼の名乗っている姓が「徳冨」であるのは承知している。同志社という共通項は持っていても兄蘇峰は思想的に敬遠してきたが、当然同じ「徳冨」姓に違いないと思っていた。ところが違う。蘇峰は「徳富」で、蘆花は「徳冨」と書いて世間を歩いていた。それを、迂闊なことに昨日の晩確認したのだから、わたしも、チョロイものである。
戸籍はおそらく家長である兄の名乗りの「徳富」であろうが、弟はカンムリのチョンを一つ落とし、不仲な兄とはちがうよと示したのか。事情を正しくは知らないが、つまらないことを覚えてしまった。
2005 10・18 49
* 手順・手続きの発見と構築、それが「文明」であると、『手さぐり日本』で言い当てて、もう三十年余。茶の湯の手前作法を習い、盆踊りの手ごとに熱中した昔から、「からだ」で覚えたことであった。
機械をつかいこなすのに、手順を覚えなければ炊飯器の飯も炊けない、洗濯機で洗濯もできない。ことほど左様に大切なのは「手順・手続き」というものだが、これには「手直し」という「文化」も加わらねばならない。「手直し」のない文明は必ず行き詰まる。
手順も手直しも、良い結果への志向であるが、世間には手順・手続きに固執する人と、それを念頭にしつつ既成事実を着々積み上げてゆく人とがある。わたしが「ペン電子文藝館」でしてきたのは後者である。
今ではお笑いぐさであるが、日本ペンクラブほどの団体が「ペン電子文藝館」を開館するなら、せめて三百人・三百作も揃えてから開館すべきではと、委員の中に言う人がいた。委員長職権をふりかざしたわけではないがわたしは事実上一蹴し、歴代十三会長作品を揃えることだけを手順とし、加えて委員等の数点でも加え得たら「開館に踏み切る」とし、事実三十作を揃えて無事「開館」した。三百も待っていたら、あれから満四年、未だに開館どころか、とうに「ペン電子文藝館」計画は潰れていたに違いない。
仕事というのは、実績を積み上げてゆくことで信頼される。手続きは正しく踏みながらも、仕事というのは「しやすいように」「しやすいように」と絶えず配慮していなければならない。そうでなくても仕事というのは馴れれば慣れるほど錆び付いて支障が出る。手直ししないからであり、「手直し」の要点は、さらにさらに仕事がより正しく豊かに進むようにでなければ、意味がない。
だが、実際には、仕事が「しにくくなるように」「しにくくなるように」妙な杓子定規にとらわれて手順・手続きの固執にこだわる人や場合が、多いものである。保守的な人や考えが、えてしてそこへ落ちこみ、自分から自分の仕事を「きつく」「しにくく」してしまう。
「手直し」とは、今まで順調に来た仕事を、さらにさらに順調にすべく工夫すべきなのである。問題のないところに問題をわざわざもちこんで自縄自縛するのは、つまらない。
2005 10・21 49
* 風邪は快方に向かいつつありますが、まだ疲れがとれません。薬を色々飲んで胃の具合をおかしくしました。
今日は一日長いものを推敲していました。
休憩にネットを何気なく見ていましたら、篠原涼子主演で建日子さんのデビュー作『推理小説』がドラマ化されるというニュースを見つけました。篠原涼子さんは人気もあるし好感のもてる女優さんです。話題性充分で、原作の魅力とあいまって、建日子さんがさらにブレークなさいますでしょう。お祝い申しあげます。
と言いつつ、わたくしの興味はあくまで湖その人にしかございません。ごめんなさい。ですから、建日子さんの噴出期をお喜び申し上げる気持は、湖が何よりお喜びと思うからこそなのです。
建日子さんのお仕事が、書いていらしたように「幸運」というほど発展を続けていらっしゃいますのは、当然実力とそのお人柄によりますが、もう一つ理由があります。一種の正負の法則です。いずれその珍説をお伝えいたしましょう。
湖は小説を書いていらっしゃいますか。最近の「私語」を拝見していると、何か新しいものを書いていらっしゃる気がしてなりません。考えすぎですか。何もしないご隠居さんになっているとは信じられなくて。天才は静止しないものですし。
「今、此処」ということをよく仰言います。今までの人生で「今、此処」をまったき瞬間として充分味わい尽くしていらっしゃったのでしょうか? 「今、此処」を燃焼して生き尽くしていらしたのですか? これは心からの問いかけです。
実は、自分が「今、此処」を心底味わったことがないように感じています。
ある出来事というのは、それを体験した瞬間にはよくわからないのです。たぶん充分にその経験を味わっていないのです。無私になれていないというのか、マインドがつねに何かを悲しんでいたり不安だったり疲れていたりしていて、幸福であっても、不完全な幸福であることが多かったように思います。
ところが、後になってその体験を甦らせると、体験した瞬間よりはるかに全貌がよく見えます。甦った過去のほうが完全な幸福のかたちとして感じられ、楽しく思われたりします。なぜでしょう。自分が不完全の要素をとりさって、過去を、記憶を、創作してしまうのかもしれません。自分が「今、此処」の実感より、再生された思い出の中でより良く生きていると感じたりします。変ですね。不健康な錯覚でしょうか。自分が書きたいと思うのも、「今、此処」を生きるのがとても下手で、過去の経験を、より完全なものとして再現したいと願うためかもしれません。欠陥人間なんでしょうか。
明日は冷えるそうです。しんどい風邪をひかれませんように。
チーズの食べ過ぎにもご用心ください。おいしいものはみんなカロリーに問題がありますね。チーズ大好きで、色々な種類を並べてワインを味わうのは楽しみですが。 秋
* たしかに過去の「体験」の再現と検証のようなつもりで小説は書かれやすい。わたしも例外であったとは言わないし、わたしはまた、よく、小説という方法で「論じる」のだと、口にしたり書いたりしたこともあった。『慈子』も『閨秀』も『糸瓜と木魚』も『墨牡丹』も『風の奏で』も『親指のマリア』も、みな、その類であった。
だいたいガチガチの純文学つまり私小説に心身をささげていた人には、今書く小説のために「今・此処」の生活をまず創作的に体験していた作家もいたわけである。わたしは、あまり意味のないそういう苦行に身を投じたことはない。
それでも、数は少ないが、わたしの小説にも、現実と同時進行のようなものがあった。『罪はわが前に』や『冬祭り』や『北の時代』はそんなアンバイに書き進めた長編だが、しかもどれもフィクションであった。
* それはそうとして、わたしの「今」はどうか。おそらく、今ほど、もう「過去」を必要としていない時期は、かつてわたしにはなかった。今はいつも「今・此処」で足りている。過去を顧みたいと思うようなハメにはなりたくない。今を十分味わい尽くしているか、燃焼し尽くしているか、そこまで断言できないが、あれかこれかと「分別」してああでもなかった、こうでもなかったと「反省」するということをしないでいるぶん、「抱き柱」をあらまし抱かなくなっているぶん、ずいぶんと自由にラクになっており、自由でラクな分、よほど日頃シャンとしていないと「独りで立って」いられないオソレや不安がやってくる。そう自戒している。
いま小説を書いているか。
易々とそんな問に答えたりしないが、「過去の再現と検証」のような「鉋屑を削る」ような小説に興味は明らかにうすらいでいる。第一そんな余分な時間は残っていない。明らかに現在に繋がっている現実の「今・此処」にだけ、たいへん興味をもっている。書くとしたら、谷崎が『鍵』を書き『瘋癲老人日記』を書いたように、書くであろう。谷崎の一等大きな特色は、「今・此処」ばかりをあれで彼は書きに書いていたのである、一生涯というもの。
2005 10・25 49
* いま思い出しても気の毒に笑えてしまうのだが、『親指のマリア』の挿絵は、なにしろほとんどの場面が小日向のキリシタン牢内なもので、池田さんはよほど苦労されたと思う。池田遙邨の孫の良則氏は、繪コンテどころか線の冴えた清々しい挿絵を毎回工夫してくれた。あの小説は、「ヨハン」つまり神父シドッチの章と「勘解由」つまり新井白石の章とを交互におき、しかも同じ一人称で通すことで、二人の「一体=身内」感をはかった。
この作品も『冬祭り』同様、新聞連載後にほとんど全然いじっていない。構想通りに書き進んで、新聞連載という条件には媚びなかったから、読者はめんくらったろうか。本になって読み直してみたとき、あまりすらすらと全編が一気に読み通せたのには、作者ながらおどろいた。白石を書いた小説は通俗読み物も含めてあるだろう、が、シドッチと白石とを終始対等に対決させたこれほどの長編小説は無い。これは、徹頭徹尾、わたしの小説である。映像に出来るものならしてみよと思う。これはどんな作品の場合にも思っている。わたしの文学は絵画ではない、音楽=文体なのである。
2005 10・26 49
* わたしのよく言う「今・此処」という意義を、すっかり考え違いして、 「今、此処」を「その時々に、充分に味わえないのを恐れます。つまり、なかなか楽しい遊びができない」と言ってくる人がある。とほうもない、何を考え違いしているのですかと言わねばならぬ。
「今・此処」とは、「刹那の歓楽、遊び・楽しみ」などと、全く関わりない「実存」の原点。「味わう」だの「楽しむ」だの「遊ぶ」だの、そんなことでは、全くない。
生ける存在には、過去も未来も幻影に過ぎず、実在するのは「今・此処」しかありえないという「今・此処」のこと。剃刀の刃のような「今・此処」に人間はきわ立ちながら、背後の過去も絶壁、眼前の未来も絶壁、何も無い。その無の虚空へ一刻一刻、一歩一歩、すっぱだかで前へ踏み出しているというのが、「今・此処」である。そんな「今・此処」すらじつは無いのである。わたしの言う「今・此処」とは、そういう虚空のことである。
2005 10・26 49
* ああもしたい、こうもしたいということは、有る。それも夢であり、「今・此処」も夢である。しかしそう観じている「意識」は夢でないだろう。生から死へ推移するとき、譬えば光から闇へ転じたとしても、「意識」として持続してきたわたしの「本性」が死ぬわけではない。
2005 10・27 49
* 『フアウスト』の冒頭に、「劇場での前戯」というのが出る。この作品はいわば詩人ゲーテ畢生の詩劇に創られている。それは劇場の舞台にいましもかけられて見物が観ているかたちに、演出指示やト書きまでも「表現」されている。「劇場」劇であるからは劇場側の関係者は「座長=経営者」「座付詩人=創作者」「道化方=俳優たち」の三者であり、三者が、開幕前にそれぞれの思惑や主義主張を述べあい議論しているのが、この「前戯」である。
言うまでもない、一つの興行・創作・演戯論として、かなりシビアな内容になっている。ゲーテは詩人の立場からだけこれを書いていない。座長にも俳優にもしっかりモノを言わせて、詩人はいささかタジタジ気味とも読めるのが面白く、またわたしにはチクチクどころでなく切り刻まれる思いがある。
訳としては佐藤通次訳が深切だが、鴎外訳の新鮮な口語にすばらしく驚かされたので、「ペン電子文藝館」の「翻訳」室にこの部分を一藝術論として大切にとりあげたい。漢字は今日のモノに、しかしやはり仮名遣いは鴎外の時代にしたがいたい。
* 『フアウスト』全編の理念はおそらく終末部で天使等がうたう、「誰にもあれ、たえず努め励む者。/その者をわれらは救うことができる」という二行に看取できる、しかもここに表れる至高の愛は聖母マリアによって表現され、全曲を結ぶ二行は、「永遠にして女性的なるもの/われらを牽きて往かしむ。」である。
此処に、ゲーテの基督教への批評もありまた人間の文明への洞察もあり、形而上学の原点もうかがわれる。ゲーテの、もし有るとして信仰の基盤には、女性=母性への世界史的な洞察がある。ゲルマンの森林と地中海を囲む大地への信仰がある。フアウスト博士は、聖母の愛にゆるされてあるグレートヒェンの愛、またヘーレナの美によって、天上へ誘われ救われて往く。
七十への間際にして、繰り返し、ゲーテの作品に浸され得た。
また昨夜、ついにトルストイの『戦争と平和』も、最後の歴史と人間まですべて読了した。最終の「議論」までを読み尽くしたのは今回が初めてで、トルストイという人にさらに深い敬意を覚えている。ロシアへの旅で、場所を替えながらトルストイの邸宅や書斎などを観てきた感銘も、この読書に有難く生きて加わった。
2005 10・28 49
* 京都の下京に不明門というところの名がある。「ふめいもん」ではない「あけず(もん)」と言い慣わしている。
門や障子などの「あける」「あく」はふつう開ける・開くと書くし、場所を「あける」「あく」だと空ける・空くと書く人が多いかも知れないが、雨が明かる、部屋を明ける、うち明けるなどと、「明」という漢字をきもちいい感じに用いることも多くて、いいものである。「明いた日は一日もない」など、「空いた」だと「あいた」か「すいた」も判じにくいのと比して、よりよい趣味のある表記だと思っている。不開門ではつまらない、不明門がやはり雅であろう。
2005 10・28 49
* 御杖 月毎に発行される近鉄電車の情報紙に、“歴史街道人物往来”という、2000字弱の連載がございます。近鉄沿線にゆかりの歴史上の人物一人につき3回、簡単なプロフィールを添えられ、主に作家サンが、入れかわりたちかわり書いておられます。有名なミステリー作家も歴史小説家も、大学のセンセも、マンガ家も、一冊まるまる読まずとも、力量と人柄が判断がつきますの。こわいなと思いつつもおもしろく思い、毎回楽しみにしていますの。
萩尾望都さんが「倭姫命」を、と予告で見て驚きました。中学生の頃、いっときマンガに熱中しまして、なかでも萩尾さんは、光瀬龍さんの「百億の昼、千億の夜」をマンガ化したことも話題の、雀の好きなおひとりでした。
戯曲「斎王夢語」を発表されていたことを、添えられたプロフィールで初めて知りました。連載第1回の文章を読んで、変わってないなと懐かしく、あの頃に引き戻されました。
「斎王」というのも、雀にとっては興味深く、あと残り2回が楽しみです。昨日は、このこともあって古事記をひろげたのです。
天神地祇をともに宮中に祀っていたのが、なぜ不都合になったのか。なにがあってうまくいかなくなったのか。「大物主を鎮めたら国が治まる」告げられ、天照を外に出したけれど、大物主が残る理由は。追い出したのか、天照が居たたまれなかったか、出ていきたくて仕方なかったのか…。笠縫邑に居続けず、旅に出たのはなぜ。あれほどの大層な長旅になったのは、なにがあったの。
追い出した天皇って天孫でしょう? 天照に常に傍にいて護ってもらわなくていいのかしら。いてもらうと迷惑なのかしら。
『日本を読む』の「客」「蛇」、「妙に何かに負けて敗れて」「押し鎮められ」のくだりが思い出され、また、お作に戻るのです。
水分神社、丹生神社、オカミ神社、十一面観音。雀の興味のそこからも谷底へつながっていたのですが、ずっと前から、長い間かけて、ぽたぽた落とし続けてくださった秦さんのミヅが、ミヅチ、アクア、アカ、ナガ、ナーガに、白く丸い、楕円のものに、あ、とつながる出来事が、うんと増えてまいりました。20年 ―長い流れです― おにぶで、ごめんなさい。 囀雀
* 実に興味深い話題に触れてきている。上古史のあるいは核心ともいえる事件がアマテラスの伊勢鎮護であった。ヤマトヒメは最初のその「斎王」そしてわたしの『慈子』の原題は『斎王譜』であった。この作のその斎王とは、ヤマトヒメに始まる斎王の歴史を最後にしめくくった奨子内親王のことである。そしてそれが「慈子」へ繋がってくる。雀さんは、ひょっとして最も深切な秦恒平の「批評家」になる人かも知れない。
2005 10・29 49
* 文庫歌集『少年』の校正刷りが届いた。かなづかいだけを徹底的に正せばよい。歌はもとのまま触りはしない。これが出ると、わたしの出版が、私家版の「少年」に始まり文庫版「少年」で一結びに成るかも知れない。師走の誕生日に間に合うかどうか知れないが、恰好の「古稀の自祝」になる。校正をはじめた。
* 「差別に関わる身の処し方、重い重いテーマで、私なりに所作進退が洗われる思いで、繰り返し頁をめくっています」という山形県の読者の心嬉しい手紙も添って、『北の時代 最上徳内』上中下三巻をお友達に「贈り物」にしたいと注文が届いた。この「現代・歴史」小説は、アイヌへの、また韓国朝鮮への歴史的なわれわれの「差別」に対する批判と反省を主題にしている。敬愛する日本人はと問われれば、限りないけれど、江戸時代では、潜入神父シドッチと誠実に対峙した至誠の詩人政治家新井白石と、アイヌ文化に親愛を惜しまなかった科学的冒険家最上徳内を書き、また近代に先駆けた与謝蕪村を書き、そして同じく上田秋成を、ついに書きそびれているのである。
2005 10・29 49
* 「日本」が「オカシイ」ことにはあまり関わりたくないのだが、ここで呼吸しているのだから、つまり日々の汚れは日々にまた別途に自ら清まはるしか、手が無い。幸いそういう「手」が見当たらないではない。吉村雄輝でもいいし、村上華岳でもいいし、谷崎や志賀直哉でも、「ゲド戦記」でもいい。
わたしの場合、なにもかも、もう残り多くはない。「退蔵」の日はむしろ遅きに失し、それも確実に迫っている。どうやら実年齢で古稀は迎えうるが、「湖の本」は幸いに米壽ないし卒壽にも到るだろうか。いずれにしても終焉をもう迎えていいと考えている。迎えざるをえない。
前後して、外での仕事をもう離れる時機に来ている。わたしに必要なのは無位無冠のハダカになってしまうことなのは、早くから知れていてこれも遅きに失してきたが、なにとなく無用な配慮もはたらかせてきた。それももう有難いことに不要に成っている。
* おそらく昨日の今日であるから、この「私語」の転送は不可能または極めて不安定であろう、もう数週間薄氷を踏むように異常をすり抜けてきていたのである。どう修繕が利くのか見当も付かない。
これも一つ、わたしへの「言い諭し」であると取ればいい。
「闇」に「私語」し続けること自体は、こうして、可能。なにも世の中に発信しなければならぬわけではない。これも一つの「兆し」で、文庫歌集『少年』の出版もまた一つの「予告」になるのであろう。
発信をまた試みてはみる。うまく行っても行かなくても、人事とはそういうものである。
* 納本を待ちながら、夏冬ものの衣類の入れ替えなどした。十月尽の更衣では少し遅れているが、実情ではまずまずか。
* 『少年』を校正していて頭をかかえるのは、いざとなると歴史的仮名遣いが頭の中であいまいになっていること。わたしは、かなり音便形をつかっていて、音便では仮名遣いが変わってくる。「言う」の古い仮名遣いが「言ふ」なのは分かるが、「言うてください」が「言ふてください」なのか「言うてください」でいいのかは簡単に確信できない。「言つてくれ」は「言ひてくれ」の音便でもあるが、「言ひてくれ」から「言うてくれ」という音便もあるのではないか。昔はこういうのが得意で間違えなかったのに、頭の中がきれぎれの網になってきて、いとも怪しく。
2005 10・31 49
* いい感じ、茫然として車中、なあんにもしないで京都へ入った。むかしは永い電車がいやで、落語を聴いたり音楽を聴いたり夢中で校正したり本を読んだりしていたのに、見るとも聴くともなく、窓外の景色を美しいなあと眺めているだけで名古屋も過ぎ京都に入った。
* やっぱり泉涌寺へ行ってしまう。静か。静謐。幸い雨の跡の好天で、緑も、わずかな紅葉も、冴え冴えとしている。鍼(はり)一つ落としてもきこえそうな深い静寂がそのまま清寂に。来迎院の縁に、庭に。人っ子ひとりの訪れもない、院の人とも顔を合わせない。いま、わたしの世界中で、ま、家でラクにしている日々は別として、此処へ来ているときほど贅沢で安心なときは無いと言い切れる。
縁側からの遠望が幾重もの緑の遠い衝立のように奥深くなり、そして木々の葉の優しい色彩の多様さが、いまほど美しい季節はない。満々とした紅葉は心を酔わされ乱れがちになるが、静謐の青空の下でさやぐ緑も翠も未だ僅かな紅葉も黄葉も、こよなく照り、照りあい、にじみあい、わたしを包むようにときおり日にきらめく。
庭をもとおり、池をのぞき、茶室の戸をあけてみたり、書院の襖の百人一首はりまぜをのぞいたりする。
おそらく、此処へ来るときほどわたしがシラーの謂うような「感傷」の味わいを知る機会はほかにない。わたしには朱雀先生もお利根さんも、まして慈子はぜったいに、必要で真実の命であった。あれは小説なんかではなかったのだとおもうのである。人はそれをナルシスというであろうが、いわれなくても自分がそれをよく承知している。わたしが来迎院や泉涌寺の境内や泉山の御陵に立ち入ってえられるほどの幸せは、やはり、そう有ることではない。生涯にしてきたいろんな仕事の全てを合算しても、出逢った全ての人達との幸不幸を合算しても、あの含翠庭の、あの泉山の、御陵山なみの、風に揺れ揺れて木々がものいうように大きく小さく遠く揺らいで見える永遠の幸福感にはなかなか匹敵しない。あの世界と対峙できる「現実」は、やはり、そう、限られている。
2005 11・7 50
* じいっと眼を閉じている。底の白んだ闇に包まれて、なにも思わなかった。何も思わないというのは、ありえないようで、ときとして可能である。思わないでいよう、などと思ってはダメ。それは思っていることになる。わたしは座禅など体験していないが、座禅しているなどと思ったが最後、雑念でざわざわしてしまうだろうと想像する。わたしはその手の修行を少しもしたいと思わない。行住坐臥にあるがまま自然であればいいのだろうと、雑念すら自然であるならいいだろうなどとタカをくくっていたりする。そしてふっと眼を閉じると、しばらく、気が付くとなんにも思っていなかったなあという気持ちのいい思いをするときもある。いつもいつもそうは行かない、
2005 11・10 50
* 読書セラピー
hatakさん 歌舞伎で体調も改善されたようですね。泣き・笑いは免疫力を高めるという実証でしょうか。
雪降る二日間、非常に難儀な会議の座長をして、体中の関節がぎしぎしいうほど疲労困憊し、そのまま体調を崩して、ついに今日は仕事を休みました。
久しぶりにゆっくりと、「湖の本」最新刊を読み始めました。
『好き嫌い百人一首=秦恒平百首私判』、痛快です。朝日ジャーナルで作家秦恒平を知った私としては、通説・常識・生解釈をばっさりと覆してゆく痛快さが魅力です。
午後は、書棚からNHKブックス『閑吟集』を出してきて、再読。読むほどにくすんでいた身心に精気が戻ってきました。読書セラピーとでもいいましょうか、閑吟集の時代の陽気に心が共鳴して、均衡を崩していた体が平衡を取り戻してくれました。
世間(よのなか)はちろりに過ぐる ちろりちろり
ふむふむ。
新茶の茶壷よなう 入れての後は こちや知らぬ こちや知らぬ
ははは。いま日本中で茶壷の口切をしている、しかめ面が聞いたら腰を抜かすはず。
思ひ出すとは 忘るるか 思ひ出さずや 忘れねば
思ひ出さぬ間なし 忘れてまどろむ夜もなし
ああ粋ですこと。
ところで、最近米グーグルが著作権切れ書籍の全文検索を開始、米アマゾンが本をページ単位でばら売り、米マイクロソフトが大英図書館の蔵書を閲覧と、米国で図書館とネット企業が手を組んだ電子書籍事業の展開が進んできました。
学術文献の検索閲覧では、一般書籍の先を行く勢いで電子化が進んでおり、図書館では電子媒体での保存の危険性と、紙媒体での保存経費を天秤にかけて悩んでいるところです。
米ネット界の三つ巴の覇権争いがどうなるのか気になるところです。 maokat
* この後段の状況は電子メディア委員会でも把握して注目している。情報インフラの底知れない変動は足取り早く社会の各場面に荒波を立てて進んできている。
韓国ではもう新聞がおおかたIT情報の前に潰滅したと聞いていて、日本の新聞もどうごたくさご老体が頑張ろうとも、この数年内に音を立てるように崩れ落ちるであろうと観測されているが、その前に図書館事情が大きく変わる。図書は捜して手にするより、検索して読むものに変わりつつある。
もっとも幸か不幸か日本語はタテ読みがまだ普通で、ヨコ読みの機械文を毛嫌いしている人が圧倒的に多い、それが僅かに検索図書化への速度を抑えていると言えるだろう。
2005 11・15 50
* 先頃、若いひとに新聞を話題にしたとき、「とっていません」という返辞。いま、こういう潔い返辞は、なかなか聴けないが。
わたしたちも新婚当時からかなり後々まで、新聞を拒絶していた。テレビも持たなかった。必要なニュースは朝の目覚ましがわりのラジオで足りた。わたしたちは、ラジオ派であった。だが。
すぐ近くに当時のフジテレビ本社があり、そこへ休日や夜分など夫婦して探検気分で構内を歩きに行った。そこにはテレビがあった。気楽なもので誰も咎めなかったから、出演者の控え室などならんだ廊下や食堂へも自由に入っていた。京都の家で観ていた「バス通り裏」のきれいな岩下志摩が、フジの地下廊下を行ったり来たりしながらセリフを覚えているのと、普通にすれ違ったりした。
ある晩デイレクターの下っ端さんに見込まれ、「スター千一夜」という番組の、結婚したての菅原謙二夫妻の番組に、枯木も山の役で出てくれと頼まれたりした。なんでも喫茶店で菅原夫妻がインタビューされている、同じ店内の相客の体でその辺の席に座って普通にしていてくれと言うのだ、面白がって承知した。ポケットから掴みだした三百円か五百円ほどを、あとで「出演料」に貰った。超ビンボーしていたから不時の実入りであったが、それよりも、そういうノンキでもある日々であった、それが楽しかった。貧乏なんてあたりまえと思っていたし、世間のニュースにも無関心に近かった。伊勢丹のある新宿へ歩いて出て行けば、世間の容子はそれとなく知れて、それで足りていた。
それが、だんだんそうも行かなくなった。小さい会社の、出来て五年目の労働組合が活溌に動き出していて、おいおいに政府国会も破壊活動防止法だの安保条約だのということになってくると、自然、放ってはおけないのだった。
一年後、妻が朝日子をもう産もうという頃、わたしは労組の仲間たちと、連夜国会前へかけつけ、歴史的なデモの渦巻きのなかでは東大生の樺美智子さんが警官達と揉み合って死んだりした。わたしは、怒号渦巻くそんな中で、処女作となった「或る折臂翁」のことをしきりにしきりに想いつづけた。新豊の折臂翁。白楽天のその長詩は、少年の昔から気になって気になっていた、佳い詩、反戦の思想詩であった。具体的な表現でわたしを捉えて放さない。
国民学校の頃から、わたしは、将来兵隊さんにならなければいけない国民としての運命を、嫌っていた。厭がっていた。それが「反戦の覚悟」なのか、たんに「臆病」からか。小さい胸にそれは一の公案の重みで自問自答の課題となっていた。背景にいつも白居易のその厭戦詩・兵役拒否の長詩があり、わたしは公案に「答」をぜひ書かねばならなかったのである。
同じその問は、シナリオの形をとった「懸想猿」の武士にも、また名作と褒める人も多かった『廬山』の老父に対しても、明瞭に「答」を要求し続けたのである。
* いま、わたしは、新聞にもテレビの報道にも、汚物を浴びるような厭悪感をおさえられない。拒めばいいとも思わないからその感触は棘さえ持って、不快をいや増してくる。わたしのこの「私語」の闇は、また文学や演劇や美術や歴史や、そしてバグワンは、わたしの必死で挑んで倒れまいとするバランス。そういうと言い訳じみるので言わぬことにするが、生きがたい日々であると感じている。わたしが心という分別のマインドを嫌い、もう少し正直な「からだ」に即応していたいと願うのはそれである。
眼耳鼻舌身=色声香味触の感覚のピュアを望んで、「意・法」という、分別・知識・判断・語と理とを「無」に返したい、それが今のわたしのまだしもの期待なのである。期待してもダメなのは分かっているのだが、そういう分別も棄てようと。
2005 11・19 50
* 今日は「冬祭り」であった。「みたまの殖ゆ」…秋の稔りが蓄えられ、この一夜に静かに声明力を殖やす。昔は新嘗祭とか神嘗祭ということを謂った。きたる大晦日もまた神秘の「冬祭り」であり、春を迎える「冬祭り」である。いのちの「殖ゆ」祭りである。
「冬子」というヒロインの名前は、「慈子」に匹敵してわたしには親しい。慈子と実際に名のある女性にわたしはこれまで三人出会っているが、一人も冬子という名の人とは現実に逢ったことがない。珍しいことである。元気な冬が来ますように。
2005 11・23 50
* 大学生のといわない、大も小も世界的に「ブログ」大流行だが、たまたま開いてみて胸に届いてくるモノは稀有、ほぼ皆無である。
大学生が、中学高校なみの、ヘナヘナ・ニャンニャンした中味のないだらしない言葉を吐き散らして、書き垂れているのに出会うと、悪寒を覚えながら撤退する。中味を期待するのは気の毒か。そうは思わない。まともな日本語を期待するのは酷か。そうは思わない。よけいなお節介か。そう思う。
2005 11・24 50
* 建日子は、小説の第二作に全力を傾注し、今は「意識」を分散しないで済めば、その方がイイ。あまり間をあけてしまうと、「小説」への道を見失いかねない。
忙しい勤めのなかで『みごもりの湖』の完成に喘いでいたとき、新潮社の編集担当者は、「秦さん、いろいろ忙しくもあるのでしょうが、この一作に賭けて下さい、集注してください。これが出来れば、他のあらゆる全てを補って何倍もの『先』が、一気に拓けます、ゼッタイです」と言ってくれた。その通りであった。
2005 11・24 50
* まだ広くは知られていないし、関心も国民的にひろがるかどうか知れないが、メリット・デメリットとも幅広く影響してくる問題に、図書内容の検索や頁単位の内容の切り売り事業があり、海外でもう具体化して、日本国にも手が掛かっている。日本では日本の出版感覚や「紙の本」偏愛神話があり、そう簡単には行かないであろうが、講談社のような大きな版元がこの動きに既にとりこまれかけていて、急速に、本の買い方、売り方、ネットでの検索範囲・深度の拡がりが、加速する傾向にある。大部の研究書や雑誌の、指定した何頁分かだけを、限定してオンデマンドで売れる・買える日が、もうアメリカでは具体化しているし、日本も必ずそうなってくる。
アメリカでは「知識は民衆の財産」という思想が一方でつよく、この考えには基本的にわたしは賛成している。「知識を含めた公共財」が「商品」として値付けされるより、廉価ないし無料で公開利用されることが大切だとわたしは基本的には考えている。日本では、まだそういう思想は一般化していない。だから、国立博物館や美術館ですら、高い入場料を平然と子供達からもとり、独立採算の締め付けで「公共財」を国が占有しまさしく販売しているような、恥ずかしい真似を兵器でしている。
* 図書館で、書籍の一冊一冊に電子タグを装着しかけているのは、都内公立図書館にも、もう先行例があらわれ、電子メディア関係者は強い関心を示しているが、これも「便利」というメリットが、永い眼で見て、「誰にとって」便利なのか、の見極めが大切。管理的・監視的な便利が先行して、利用者にはむしろ深刻なマイナスが生じないでもないという推知と予防能力が錆び付いてしまっていると、どえらい「しわ寄せ」が結局ユーザーである国民に来る。
日本には「公共財の持ち主は国民である」という思想が熟していない。むしろ公共財の公共性を国は政府資産として商品化したがり、企業もなるべく強く自分の資産に握りしめたがる。物書きも、読まれることより売れることを絶対視し、図書館をすら重代の仇敵のように罵る文筆団体もある。そういうケチな「器量」でしかないのである、まだ日本も、日本人も。
2005 1・27 50
*「芸術至上主義文芸」という学会雑誌が「流通する文学」という特集を出し、わたしは巻頭に総論を書いた。かなりの人数がいろんな「流通」を語っている、が、ざっと読み流して、洞察とか分析とかの議論が少なく、現象を指摘しただけのものの多いのに少し落胆した。わたし以外に電子メディアに触れた誰一人も居ない。それでは幾ら何を指摘して見せても「昨日」までの流通に過ぎない。「今日から明日」を見通さずに流通という流行現象はたいした意味をなすまいに。
2005 12・2 51
* 和歌山県に住まわれる男性年輩の読者からお便りを戴いている。「湖の本」が続く限り「継続読者」ですので配本して欲しい、さしあたり「百巻」をたのしみにしていますと。
この方は今回のお便りで、今日の仏寺・僧侶ないし佛教に対する期待と不信感とを吐露されている。同様の不審ないし批判の声は、他からも耳にしないではない。文面を紹介するまえにおよそを察している人も少なくないであろう、が、残念ながら仏教者ないし聖職者からの真摯な反応は、聴きたくともめったに聞こえてこない。前回の「わが無明抄」を読まれ触発されたメールであろうが、わたしに、なにか「返辞」が欲しいとも。
文面はすこし語気けわしいところもあるが、先ず紹介しておく。
* >> もう何年も前から「寺」のいかがわしさのようなものが我慢できません。「寺」自体ではなく、本当は僧侶もしくはその周延と書くべきなのかもしれませんが、どちらかと言うと「寺」本来のもつ雰囲気等は大好きなのですが、どうも本堂なりに一歩上がるともうダメです。
仏像のいいかげんさもさることながら、その周囲の飾りつけ、たたずまい、佛教って本当にこうなの? と思ってしまいます。そこへ僧侶など出てくるものなら、俗人より俗っぽい人ばかり…、私の出会い、知っている僧だけがそうなのかもしれませんが、生臭さ、もっといえば俗臭プンプンの学校の教師以上に油断のならないような人物ばかり……。佛教、といいましてもごく一部の経文をかじった程度にしかすぎませんが、なにか全然佛教とは違ってしまった佛教があまりにも多いようでなりません。NHK教育の「心の時代」などに出てくる僧兼大学教授の人たちも、です。
この(本来ありし佛教からの)この落差はなんなのでしょうか。佛教を学びながら何一つとして仏の教えに近づいていない、もっと言えば「寺」の事業(職業)として佛教を利用した葬儀等行っている単なる儀式を商売にしている…ように思えてなりません。
我が家の近くに**寺がありますが、話しになりません。もっともここは観光地、観光寺なのでガイドでいいのでしょうが、本当に朝晩のお勤めや教学の研鑽など行っているように見えません。商売としての勤行や佛教の教義等の勉強はしているのでしょうが、商売としてのであってそれ以上のものには見えません。
* ここまでの批判について言えば、おおかた世上のそれに近く、またどうしても一概な物言いになり、広範囲の実情とはかけ離れているかも知れず、そうでないかも知れず、なかなか難しい。
だが、この方にはいわば「佛教本来の佛教」という観念があり、それとの落差に対する憤りが噴き出している。ところが、「佛教本来の佛教」というのが、観念として推量し得ても、具体的にはなかなか把握しづらい。
例えば此処にも「仏像のいいかげんさ」やいわゆる佛荘厳のはでさや粗末さにたいする厭悪が語られていて、難しく議論すれば、ことは「偶像崇拝」の是非論に至る。
佛教は元始偶像否認の教義であったが、歴史的に偶像容認に転じたために一定以上の大効果をもち、教線を大きくインドより国外へ押し広げたことが認められている。厳格な禅の実践においてのみ、これと少しく異なる姿勢や覚悟のあることは知られているが、日本の禅院にも、仏像・如来像・釈迦像は、ふつう、排されていない。
およそゴータマ・ブッダその人の根元の教えと信ずるに足る「言葉」は、多く伝わっていない。大部の経典は、ほとんどが釈迦没後、かなりの、ものにより数百年も後の編纂であり、始祖の教えに対する、弟子や後生の「理解・解釈」が無慮無数に加上されている。
わたし自身は、それら聖典・経典に多くを頼むこと自体から「脱却」せねばという気が強くしている。その意味でも、「不立文字」の禅に、気持ちは大きく傾いている。
教義も行儀も規矩・準縄も、それを「抱き柱」にしたとたんに、迷惑し、執着すると観じている。また、僧らしい僧、教らしい教、という概念に惑わされることにも危ういものがあると思う。優れたブッダ、優れたイエス、優れた老子らと、もしありのまま目前に出会ったとき、われわれ凡俗はどんな反応をみせるだろう。先ず以て石を投げ、下等な賤民めと悪罵を浴びせたかも知れないのだから。
* おそらく根元の佛教は、「覚性」であろうか。自己の本性に「気付く」こと。「夢」見ている状態から覚め、自身の本来具している「佛性」にはっきり「気付く」こと。そのためにも一切無用の「抱き柱」という執着と偏見を離れねば。
わたしは、そのように少なくも今は観じていて、これが不動かどうかも、敢えて確言出来ないでいる。情けない、それがわたしの現状である。
* >> 相当厳しいことを先生も書いておられましたが、佛教というのはもっともっとすごい思想であり哲学でもあると思うのです。その理論一つとってみても、今までにない西洋の思想などには見られない哲学性に富んだものだと思います。しかし現実にそれを修業したら多くの僧のようになってしまう。いかがわしさの固まりのようになってしまう……
これは何んなのでしょう。
* この一條は、ブッダの本来から、どう後生が逸れまた逸らせてきたかを、端的に示している。この方も、誤解されている。
ブッダは決して「教学」を提示したりはしなかった。そんなものは要らないということをむしろ示されていた。
しかし教学無くして教団は形成しにくい。それで、致し方なくブッダが「言葉を超えて」示されていた、たとえば「拈華微笑」のような境地を、都合をつけ、整合化した「教義の言葉」に置き換え、強いて「論理化・理論化」し「哲学化」してきた。それを、ブッダ没後に忽ち分散した「宗派・宗団」のめいめいの旗印に掲げた。
根元の佛教は、なんら哲学ではない。哲学はもともと宗教ではあり得ない。哲学は、人間をけっして救わない。「救い」とは何であろうか、少なくも百千万の哲学をもってして、人はけっして根から救われたりしないんだという「真実」を、かろうじて人に察知させるためにのみ「哲学」は存在価値をもってきた。そういうものだと、優れた哲学者は承知していた。哲学では、竿頭をさらに一尺先の空へは踏み込めない。哲学的な学業において最高の智慧者といわれた法然上人が、そういう哲学(分別)一切の無意味を抛擲し、ただ一念の「南無阿弥陀仏」に帰したことは、真に驚くべき先覚の例であった。
思い出すが、高校性の頃、当時ベストセラーであった、高神覚昇の『般若心経講義』をはじめて読んだとき、わたしを夢中にさせ鼓舞したのは、「無」や「空」や「無心」の自覚ではなく、この「心経」がはらんでいた壮大な論理構成・論理的な世界把握であり哲学的認識であった。わたしは先ずそっちへ夢中で惹かれ、手を拍って興がった。うわあ、うわあと声に出し、心経が披瀝しているリクツ・分別の精緻さに感銘を受けた。だが、肝腎の般若の智慧である「無心」や「無」「空」の方は、棚上げどころか何一つ「気付き」も「気付こう」ともしていなかった。
佛教に惹かれる人は、大方がまず例外なく、壮麗で雄大な哲学だ、理智の理論だといわれる。そうしてまんまと邪路・迷路に落ちこんでしまわれる。法然のように、蓄えたその手の学識を真に抛擲することは容易でない。一度哲学として佛教を観じ、扱い、学習した、僧も俗人もまた聖職・教学者も哲学者も、ブッダの根源からは離れ離れ、遠ざかって行く。「覚性」から遠ざかって行く。そして彼等が誇らかに、しかし実はバカげてかかげる旗印が、分別・理義としての「心」と称するアレなのである。「無心」ではないのである。平然として、本来「諸悪の根源」というに等しき「心」で以て、仏や人生を説くのである。ひいては「教育」の護符にするのであるが、そのために教育の現場はますます混濁してしまっている。
* もう一度繰り返しておくが、ある日のペンの理事会で「教育」が話題になり、当時ペンの会長であった哲学者梅原猛氏は、学校でもっと「心」の教育をし、学童にもっと「分別」をつけなくてはいけないと猛弁された。
わたしは、即座に、安易に「心」をふりまわすなどとんでもないこと、「心=マインドは諸悪の根源」でもあるのだからと言い、そのとき隣席していた瀬戸内寂聴さんは、間髪を入れず、「秦さんの言う通り」とその論議に決を下した。「心」を軽々しく口にする人ほど「心」の不確かに危ういことを知らない。
これだけでは誤解も招くか知れない、が、わたしは「心は頼れない」と観ている。心を頼ってたやすく支離滅裂に陥ることは、日々の自身の心の動きをよく観察していれば、すぐ分かる。
千々に砕けて乱れやすいのが「心」だ。何故か。心の働き・方法が、まさに「分別」することだから。アレを棄ててコレをとる。際限なく分別して行き、しかし本質は掴み出せない。
端的に言う「静かな心」で在れるなら、すばらしい。つまり「無心」に成れるものならばすばらしい。禅那とは「静寂」「寂静」即ち「無心」に在ることであって、われわれがやたら振り回す「心」とは、この「無心」とは遠く離れた、似も似つかない諸悪の根源、ただの「心理」という玉葱の皮なのである。ブッダの教えも般若心経の教えも、まさに「無心」を通じて「覚性」つまり見性に至れ、「安心」とはそれだということであったろうと、わたしは察している。
だからこそ、わたしは、佛教を、学問として、知識として、教義として、哲学として聖職の虚名のもとに切り売りしている業者たちを、ほとんど信頼しないのである、聴いていたらすぐ分かる、二言目にはじつに安易に「心」を売りに持ち出すから。
* >> 仏像にしてもそうです。美術品として素晴らしい仏像も多いのは知っていますが、末寺の仏像の(阿弥陀にしろ大日にしろ、各観音像にしろ)スキだらけで、とても手を合わそうなどとは思えません、ましてやその周囲の飾り付け……、果てはカーペットの敷いてあるような本堂、何をかいわんやです。一体どういうことなのでしょう、私などのように佛教にうといものでも佛教ってこんなもの? と思ってしまいます。
* 人とは、意識し無意識にも、いろんな何かに抱きつき、しがみつき、そんな「抱き柱」を頼んで、辛うじてこの世に立っている存在である。信念と言おうと、覚悟と言おうと、それ自体が容易で安直で無意味な「抱き柱」以上のものでない例が、じつは殆どであろう。
「抱き柱は要らない」と自覚したのは、わたしの場合、数年前であろうか、しかしそのわたしも、「要らない」のは確かだけれど、では「抱いていないか」と問いつめれば、はいと断言しにくい。自分の言説を少しでもわるく意識すれば、それ自体が忽ち新たな「抱き柱」に変ずるのを知っているからだ。
わたしは、他の人にむかって「抱き柱」を離れなさいなどと、けっして言わない。人は、それぞれである。ただ、「抱きつく」という執着のママで「覚性を得る」ことはあり得なかろうなと、うら悲しくなることがある。
俗宗教のわるいところだと思うが、修業や苦行で「無心になれる」などというのは、悪しき錯覚に過ぎない、それ自体が無心からあまりに遠い我執なのだから。
わたしは、なるべく無心に、ただなにかを「待つ」だけで、そのほかにしたいことも、出来ることも、有るとは思われないで居る。
上のようにこの手紙の方が苛立たれるのも、「そんなこと、放っておかれては」と言ってあげたくなる。「佛教ってこんなもの?」という不審や不信は、実際は成り立ちにくい疑念なのである。ブッダに直に帰るしかないとすれば、やはり「拈華微笑」を覚るのが早いのではないか。
* ま、こんなふうに、お返事しておこう。わたし自身が、なあんにも分かっていないし、分かろうという意欲もない。「分かる」という言葉自体が、あれかこれかの「分・別」を指し示しているが、分別をどこまで続けても玉葱の皮を剥くに過ぎないだろう。
ああだこうだではない、ああだこうだ、あれはダメでこれがイイと「分別する心」そのものが、いわば地獄の苦でしかあるまいに、と思うのである。この苦を抜くのは、容易でないが、それに気付いているから、わたしは無理な苦行をしないで、「待つ」のである。
2005 12・4 51
* フアウスト劇の始まる前に、内々「詩人」「道化」に顔を合わせ、「座長」はこう期待している(『劇場での前戯』)、「すべて(舞台=舞台が)清新溌剌として、含蓄があり、しかもおもしろいというのには、どうしたらよいでしょう?」と。あげく「そうした奇蹟を十人十色の見物に起こさせるのは、詩人だけです」と作者に水を向けている。
この前に商売人の彼はいわゆる見物=受容者たちが、「ゆったりと腰を据えて、眉をつりあげ、ひとつびっくりさせてもらおうと思って」劇場=作品の前へ来ていると言い、「連中はべつに最上のものを見慣れているわけではない、だがおそろしくたくさん読んでいる(=情報だけは持っている)のですな」と、「客」を見抜いている。「詩人=作者」へプレッシャーをかけている。
「詩人」は、それがイヤだ。
「おお、あの雑多な群集のことは言わんでください、あんなものを見ると、詩人の霊は逃げてしまいます」と半ば悲鳴をあげる。観客を喜ばせるだけにピカピカした安手なことは出来ない、「上光りするものはただ瞬間のために生まれ、真正のものだけが後の世までも残るのです」と。
「道化役=俳優」は実際家であり、しかし演技表現による藝術面も担っている。彼は即座に言う、「後の世がどうのということは願い下げにしたいですな。たとえば、わたしなんぞが後の世に構っていた日には、いったいだれが当世の人を慰めてやります? みんなは慰みが欲しいし、また慰めてやらなくてはならんのです」と。
そしてこうだ、「空想という歌い手に、あらゆるコーラスをくっつけるんです、理性よし、悟性よし、感情よし、情熱よしです、しかし、いいですかい、おどけを忘れちゃいけませんぜ!」
笑いを取れという指令は十八・九世紀にすでにかくも至上性をもっていた。そしてその上へ「座長」は追い打ちをかける。
「ところで何よりも、盛り沢山ということに願いたいね!」
* ウーン、「詩人」センセイの分は、まことに悪い。ゲーテ大先生は、芝居の始まる前に作者たる自身の立場を我から追い込み、追い込み方も、苛酷なまでに厳しい。
「座長」はほとんど居丈高だ。
「いろんな事件が眼の前に繰りひろげられ、見物は口あんぐりと見惚(みと)れるという風にできさえすれば、それであなた(=詩人・作者)は広く大衆を掴んだことになる、人気の立つことはまちがいなしです。大勢をこなすには、嵩でゆくほかはない、そうすれば銘々がけっきょく何かしらを捜し出します。数を多く出してやれば、選り取り見取りというわけです。 一つの作を持ち出すには、さっそく幾つにも刻んでください! 手軽に工夫をして、手軽にお膳立てするのですね。纏まったものを出したとて、何になります、どうせ見物がむしり取ってしまうのだから。」
たまりかねた「詩人」は叫ぶ、「そんな細工がどんなに下劣なものであるか、真の藝術家にどれほど不似合いなものであるかを、あなたは感じておられん! いかがわしい先生がたのやっつけ仕事がどうやらあなたの金科玉条になっているようだ。」
だが「座長」は、軽くはねのける、「そんな悪口を言われたって、わたしは平気だ。だれを相手に書くのかを、目をあけてみてごらんなさい!」
* まだまだ続く、三者の論争は。まあ、なんというゲーテのきつい「批評」だろう。この三人の間では「詩人=作者」は孤軍孤立して半分泣き言に聞こえてしまうほど。
『フアウスト』は幕の開く前から、なんもかとも面白い。建日子などは「座長」でもあり「作者」であり役者をつかって「演出」している、ゲーテに少し賽銭をあげてみてよかろうに。
2005 12・5 51
* こんばんわ、風。 今日は、この冬いちばんの寒さではないでしょうか。あったかくしてお過ごしくださいね。
小学館刊『日本の作家9 志賀直哉』というのを読んでいます。志賀直哉について、いろんな人によって書かれた論文や、思い出話などをまとめた一冊です。志賀直哉版については、伊藤整と中村光夫の書いたものが、ダントツにおもしろいです。それは、わたしの「私小説」への関心と重なってくる内容だからだと思います。
伊藤整と中村光夫にヒントをもらい、「私小説」への考えを、一度、まとめてみたい、まとめられそうな気がしてきたので、書きはじめようと思います。
印象に残っている、十返肇の論文を取り上げようと思っています。
(中村光夫の『風俗小説論』をまだ読んでいなくて。これは読んでおかないと気持ち悪いです。今度引っ越す先の市の図書館でネット検索したら蔵書しているので、越したら、真っ先に借りるつもりです。向こうの図書館には、こちらでなかった本がいろいろあるので、とっても楽しみです。)
ほんとうに、ネット上に編集者がいればいいのに、と思います。でも、出版社が紙の本へのこだわりを捨てられない現状では、難しいですね。出版社を定年退職した編集者が、セカンドライフとして、ネット上で編集すればいいのに、なんて思います。
引っ越しの準備は、ぼちぼちしています。新居用の照明やカーテンを買ったり、業者に見積もりに来てもらったり。
一戸建てにいるうちに、DVDを大音量・大画面で楽しもうとしたら、プロジェクターがウンもスンもいいません。ムウ。 花
*「私小説論」楽しみに。着実に書き上げてください。
中村、伊藤、十返それに批評家では小林秀雄の「私小説論」を参考に読んでおけば、それ以上多岐に亘らない方が明快でしょう。
但し論議だけでは膨らまない、実際の作品を幾つか読むべきです。
志賀直哉 瀧井孝作 尾崎芳雄 網野菊 阿川弘之 という系列の私小説と
葛西善蔵 嘉村礒多 牧野信一 川崎長太郎 などという私小説と
もっと前の 島崎藤村 田山花袋 徳田秋声 正宗白鳥 らの私小説と、 よほど違いますが、花の読みで、どうちがうと見えるかが析出できれば立派です。
瀧井の「結婚まで」 嘉村の「七月二十二日の夜」を 比較し、少なくもさらに藤村の「嵐」 秋声の「和解」 また直哉の(文藝館にはでていないけれど)「和解」「母の死と新しい母」など読んでみるのが、モノを掴みやすいかと思います。
具体的に捉えて、適切に理解したり解釈したり強く批評したりするといいですね。
飛ぶように歳月が走っています、風には。
2005 12・5 51
* 「のようというのだ」に、反応がない。これは困った。
2005 12・6 51
* 或る近代文学の学会誌が「島の文学」について論文を募集している。日本が島国であることも念頭にあるのだろうが、趣旨を見ていると文字通り日本の「島々」に取材した作品や作家論ということらしい。
言うまでもないが、わたしの根に、「島の思想」と謂われているものがある。そういう「島」のことは夢にも想っていない特集らしいが、そこへそんなのが飛び込んだらどうするのだろう。
同じ雑誌がちかごろ特集した「流通する文学」は、ざっと見て、企画そのものにたしかな洞察が働いていなくて、常識的な議題ばかりがずらずら並んだのは物足りなかった。今日「流通」を問題にしながら、コンピュータやケイタイを採り上げているのが、総論を書いたわたし独り、というのはどうかと思う。「流通」問題で採り上げてある作家達が、鏡花、乱歩、康成、直哉、潤一郎、荷風、漱石、由紀夫、賢治ら、過去の文豪達ばかりというのは、いかに問題の今日的所在が掴まれていないかの自己暴露のようなもの。すでに電子メディアから作家になったり随筆家になったりしている事例があり、ホームページやブログがある。それらが「論題」として全く見落とされているのでは、せっかくの特集テーマが泣くではないか。
* わたしが「島」の思想で問うている根幹は、真の「身内」という観念であることは、知る人はよく知ってくれている。しかし、途方もない「浅慮の誤解」も招きかねない「難儀な観念」であるのも、確か。わたしは、親子だから、夫婦だから、兄弟だから、親類だから「身内」であるなどとは決して考えてこなかった。一つ屋根で暮らした記憶の全くない、行方も知れない実父母や実の兄よりも、片親の異なる姉や兄や妹たちよりも、アカの他人の中から見出した人たちの中に、真の「身内」を見つける方が、遥かに肉身に食い入る実感であり、愛になりうる。記号化した「関係」に頼る気が、わたしには、生まれながら無かったのである。
しかし、ま、そんな「真の身内」が、ざらにいるわけがない。独りでしか立てない小さい島に孤独に生まれ生きている者が、いつか、二人、三人、五人の人といっしょに立っていると実感できる不思議に貴重な錯覚を分かちあえる、それがわたしの謂う「身内」なので、親子だから夫婦だから兄弟だから、娘婿だから「身内」なのでは決してない。もう一度言うが、そんな「真の身内」は、たとえ錯覚であるとしても、そうざらに錯覚すら出来るモノではない。だから貴重なのである。
* わたしはまた「人」を意識するときの大切な指標に、他の何よりもその「存在」を見ていることがある。その人が男である女である、また学者である商人である藝術家である、善人である悪人である、などではなく、その人の才能の有無でも貧富の別でもなく、衣服のセンスがいいの食い物の感覚がいいの、でもない。いわばすっぱだかの「存在」自体でわたしを安心させたり鼓舞したり嬉しくさせてくれるような人のこと。
普通にいう大親友や恋人はそういうものだろうが、それでも昔から言う「いい友達」の条件や「いい恋人」の条件などという混濁要素に邪魔されたくない。要するに「存在」しているだけで有難い嬉しい人。「身内」と甚だ似ているかも知れないが、同じでなくても構わない。そして、そういう「存在」もめったには在るものでない。
* もう一とむかしになるが、ある独特の嗄れっ声の男優が、シルエットの子供に扮し、ただたんに「お父さん」と呼ぶ、たったそれだけの映像をテレビで見せていた。詳しくは覚えていない、ただもう、その「お父さん」と呼びかける温和しい小声がわたしは好きで、あのとき、信仰者たちが神を、ただ「父よ」と呼んで得ている深い安心と同質の声としてわたしはあの「お父さん」を、聴いていた。あの場合、父親も、父なる神も、まったく何の付加物も装飾も無用な、深い意味の「存在」に同じいものであったろう。そういう「存在」を求めずに、人は、概して相手の肩書や才能や権能や美醜や貧富や利害により斟酌し選別したがる。それは「うわべ」に過ぎないのに。
2005 12・8 51
* 言葉を有り難がり、勲章のように胸にくっつけて感激する人がいるものだが、その人だけならそれで勝手だけれど、同じその人が、我からも軽い薄い匂いのしない言葉を蜘蛛の巣のように吐き出して、わがこと足れりという気分になられると、迷惑することがある。打てば響いている積もりなのだが、その実なにも響いていないことが、吐き出す言葉の匂いなさでわかる。
2005 12・9 51
* 和歌山の読者から前に、お手紙をもらって「佛教」の話題に及んだが、おおむね納得されたようでも、根本にまだ残る問題があるようだ、「佛教本来の佛教」としてSさんは、「佛教って何を説いたのだろう」と自問され、本当は「人間としてのふるまい」ではなかったのか、と自答されている。
「佛教本来の佛教」を、「ブッダ」として大悟されたゴータマブッダ=釈迦如来の本源の導きと意味するなら、このSさんの自答は、まだ、よほど隔たった遠いもので。
「ふるまい」というと、善き行いの意味ともなり、取りようでは、いわゆる「道徳=モラル」に近づいてくる。人間社会に道徳モラルは大切であろうが、菩薩が大乗の船にみちびいて、多くと共に彼岸に赴こうという慈悲の向かうところが、「人間としてのふるまい」よろしき善男善女をというのは、やはり「佛教本来の佛教」とはかけはなれた、後生の解釈になるのではないか。
もとより「無心」「無作」のうちにあらわれる善行は、尊い。だが、「無心」「無作」はそのように簡単な前提ではあり得ない。それこそが、在りたき真の核心であり、人は、容易に容易にはとても「無心」にも「無作」にもなれない、「静かな心」になれない。もし、そうなれるなら、忽ちに善悪、美醜、賢愚等の世の常の二元対立=単なる分別心から離れられる。自身を離れて自身の本性そのものが、分別ならぬ「ブッダ」であると気付く。
この「気付き」に到れば、極楽も地獄もない、善も悪もない、道徳でもふるまいでもない「無心自在」「自然法爾」を示現して、生死を超越する。釈迦は、そのように根元の佛教を体験し提示されたのであろう、あやしげに私が推察するに。
「人間として」という前提にも、我執、が出る。「ふるまい」に善悪や美醜を分別して善につき美につこうとする、その際にも我執・我慢や我褒めが生じるのは防ぎようがない。それらはみな「心=マインド=分別=我」の働きにあり、「無心」「無作」とは成りようがない。「困っている人が手助けをする」「自分を育んでくれているものへの報恩感謝」「慈しみの気持ち」「悪に対する怒り」「善に対する賛同」等々、みな善きことであり、人間社会の道徳モラルとして結構であり、誰も反対したりしない。しかしそれらが「無心」「無作」の「行為」たりうるかというと、容易ならぬ、場合により自己矛盾や撞着を示すだろう。前提になっているそれら善行自体が「無心」「無作」と直ちには重なりにくいからである。「有心」の「作意」に成りやすいからである。
大事なのは、善行か無心かなどと「択一」の問題にすべきではない。ブッダは善行せよ、宜しく振る舞えとは教えていない。自身のうちなるブッダに「気付き」なさい、そうすれば四苦八苦も滅し、生死の苦を超越できる。そのためには「静かな心=無心=無作意」の「無我」を「見性」「覚性」すること、と。
こう言葉に置き換えるだけなら、愚かな私にも出来る。これの真の体験は、しかしながら、容易でない。が、つまるところ、そうなのだ。それだけだ。それが難しい。成ろうとして成れるものでないからだ。わたしは、ただ、「待って」いる。
* もう一つ、Sさんの呈されている問題で大きいのは、「不立文字(言葉に頼らない)」か「経典信頼」か、ということ。
Sさんは大切なのは「経典」を「どう読むか」ではないか、と言われる。「不立文字」「教外別伝」となると、一寸……と。
これは大問題であるが、わたしの率直な思いは、いわゆる仏法僧という、「法」は、大蔵万巻の「経典」にあるのか、あの「拈華微笑」にあるのか、むろん後者だということ。見性し覚性し無心に達した人であるならば、はじめて万巻の聖典は(例えば)己の境地の確認の為だけの役に立つであろうが、それへ達していない者には、ほとんど何一つの役にも立たないのが聖典というもので、強いて役に立てようとすると、忽ちに経典が即座にただの通俗な「道徳書」に変じてしまう。そのようにのみ使われてしまう、と。それどころか、ますます自我について離れがたく、無我の無心へは遠のくばかりになる、と。
知識や解釈のための聖典・経典では何の意味もない。道徳的な意味でのみの善男子・善女人をあるいは量産するかもしれないが、一つ間違うと道徳を我褒めしてしまうエゴイズムに走ってしまう恐れがある。悪人も困るけれど、自分は善人であると善行を勲章の替わりにしていると、偽善になる。偽善だって善のウチだからいいと思いますがという言葉を、以前やはり読者のひとりから聴いたことがある。議論のしようもない。
大蔵万巻の佛教の経典の全部が、釈迦ではないはるか「後生の著作」であり、著作者の理解と解釈と主張とをこめた意見であり、同じく佛徒でありながら、正反対ともいえる立場をとっている。菩薩(大乗)派と阿羅漢(小乗)派とはずいぶん違い、互いに他を否定し合っている。
ところが「佛教本来の佛教」において釈迦はその「双方の在りうること」を容認している。それが「佛教」である。その釈迦は、生涯に一巻の聖典も自身の筆で書いていない。厳格なこの「事実」をどう「読む」のか、それが大事である。わたしは、万巻の後生の解釈より、「拈華微笑」の伝説に尊いものを覚える。おなじことは「イエス」の聖書にも謂えるだろう。
2005 12・12 51
*「古稀」自祝の文庫本歌集『少年』(短歌新聞社)の見本が、二冊届いた。ほんとうに小冊子であるが、清やかに、こざっぱりと出来ていて、嬉しい。
国民学校の四年生、昭和二十年、戦時疎開して、敗戦後も一年余居座っていた丹波の山奥で、空行く雁の列に触発された拙い口ずさみが、最初の詠作であった。
二十二年か、京都の小学校へ帰ってのち、四條大橋からまだ明かりも疎らな川岸の家をうたったのが、第二首めであった。
中学時代に相当数の短歌らしきものを帳面に書きのこし、市立日吉ヶ丘高校時代、十六歳から十八歳までに、わが短歌は燃焼しつくした。
朝日子の生まれた昭和三十七年頃までぽつぽつと歌作はあったけれど、以降小説にすっかり心をうつして、久しく離れきっていた。
それでも、つぶやくようにときどきにその辺の紙切れに短歌を書き付けてはうち捨ててしまう。今もそんなふうである。
最初に歌集「少年」と題して自編したのが、活字の私家版巻頭へいれたもので、昭和三十九年ごろ。わたしの文学体験の第一歩は和歌であり短歌であった。人生の二学期を締めくくる通知簿のようにこの文庫本歌集『少年』が出版されたことに深い痛切な感慨を覚えている。ほんとうは二年前にも出来るはずであったが、事情でノビノビに今になったのも、必然の回り合わせ、むしろ、まことにタイムリーな天与の出版になった。
2005 12・13 51
* NHK音楽コンクールの各部門の演奏を(ピアノは聴きもらしたが)聴いていた。合間に先輩音楽家達の談話が挟まれていて、中で作曲の池辺晋一郎の話に耳が止まった。このコンクールで一位に入るのがいかに大変かは、現に観て聴いていてよく分かる。過去にも何度もわたしたちはこのコンクール映像を観てきた。
池辺氏はむかし作曲部門で一位に耀いており、優勝当日の嬉しさは本人の言葉もさこそと想われるのだが、その翌日の話というのが印象深かった。
氏は当時藝大生であったが、翌日上野の大学の門を潜るときは、さすがに誇らかな気持ちであったし、先生や先輩や同窓諸君のさぞや称讃と祝福の出迎えにあずかるであろうと期待していた。ところが、誰一人何一つのそれに関する言葉を聴けなかったというのである。
氏はアテもはずれいささか銷沈してしまったけれど、しかし、つらつら思うに、ああそうか、この受賞は一つの出発点にすぎないのだ、これからが本番なのだと思い当たったと述懐し、「あれ」が後々にまでじつに大切な覚悟となった、有難かったと話す。
その通りだと、わたしにも今は懐かしい思い出があった、繰り返し話してきたことであるが。
* 一九六九年に太宰治文学賞を受賞した日の東京會舘での宴会で、むろんわたしはとても嬉しかった。
宴半ばに、一の小卓で二人、河上徹太郎先生(選者のお一人)と吉田健一先生がもうすっかりデキ上がった感じで高らかに談笑されているところへ、わたしはお礼を申し上げににこにこと笑顔で近づいたのである。三十三歳半であった。
で、話なかばに河上先生が「それで、これからはどうするんだ」とわたしに尋ねられた。当時医学書院の編集者をしていたわたしは、一方で小説を毎日欠かさず書いていた。わたしは間も置かず、「わたしなりに、わたしなりのものを今後も書いて行きます」と返辞した、その途端に、へべれけと見えた河上先生の眼がギラッと光って、曰く、「そんなものが、あるのか」と。
瞬時、わたしは総身に氷水を浴びたように先生の厳しい「意」を悟った。当座当日のうわずった歓喜は一度にかき消え、わたしは「そのとき」初めて生まれ変わり、そして「真に受賞」したのである。
「わたしなりのもの」のすでに備わってなどいるわけが無い。有るか無いか、今から遠い道を尋ねに歩き出せ、そのための授賞だと、一言に諭されたのである。
「わたしなりにわたしなりのもの」という云い方は、明らかに何かの折りの「逃げ道」用意になりかねない。それにそんなものが有ると思う気持ちには、文学をほどほどに自得してかかる油断も、体のいい妥協で自己満足をはかろうとする高慢も、忍び込んでいる。それがきつくなると、もうそんな悪路からは抜け出せなくなる。
わたしは河上先生、吉田先生の前で、おそらく顔色を変えていただろう、そして深く黙礼した。先生方もその上の何も仰有らなかった。これからの創作は、この先生方、また「清経入水」に満票を投じてくださった選者、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、中村光夫各先生方へ真剣に「答案」を提出しつづけるようなものと、覚悟した。人もおどろくほど勿体ないような選者のお顔ぶれであったから、「答案」という思いにも謙遜な気持ちに十分になれた。
わたしのその後は、つまり、あの「そんなものが、あるのか」という公案に鞭打たれつづけてきた。大きく道をわたしがあやまってきたか、そうでなかったかは、わたしには分からない。いささかの妥協無く、わたしはあの「黙礼」のまま歩んできた。
のちに吉田健一先生はわたしの「閨秀」を朝日文芸時評の全面をもちいて絶賛してくださり、あの辺からわたしはともあれ文壇の一隅に場を占め得たのかもしれない。そして後に河上先生が肝煎りで創刊された某誌創刊の巻頭に、後に題を「初恋」とした「雲居寺跡(うんごじあと)」を発表し、河上先生に喜んで頂けたと聞いている。
* 自信や自負は大切な才能のうちであるが、それに実の裏打ちがつくかどうかは懸命の覚悟無しに有り難い。「わたしなりのもの」など、安易に手に入るわけがない。
池辺氏の、案に相違して誰一人「優勝おめでとう」とすら言葉をかけてもらえなかった体験は、さぞ厳しかったろうが、それ自体を「大切なことであった」と反転した覚悟へ稔らせたのが、本当の意味の氏の「受賞」であったのだろうとわたしは思うのである。
2005 12・23 51
* だまって聴いていると、テレビも新聞も、せいぜい若いスポーツ選手らの活躍ぐらいしか、嬉しいニュースは流さない。
そんなとき、幼かった昔の同窓の彼や彼女たちが何十年ぶりかに便りをくれるなど、何と嬉しいことか。そして、若かった昔の友人達の間でほど顕著なのだが、彼等の耳目に届けていた自分と、彼等がまるで想いも及ばなかった自分とが、おそろしいぐらい懸け隔たっていることに、気づく。わたしも気づくが、彼等の方がもっと強く気づいて戸惑っている。それが、分かる。
以前中学の同窓会で、このわたしが、びっくりするほど昔の少年時代とは変わったので驚いていると、スピーチした友人がいた。国民学校から大学までずうっと同じ校門を潜った友達だった。
竹西さんの指摘した「根の哀しみ」だの、わたしが常に求める「静かさ」や「闇の深さ」だの「清寂の孤独」だの、また古典だの自然だの、それらは私とは全く重ならないほどのことに見えていたらしい。よほどわたしをよく知っていると見ていた人にも、たとえば歌集「少年」の境涯を知っていた人は、ごくごく稀にしか居なかった。わたしが来迎院で慈子や朱雀先生と紡いでいたような時空を推知できた仲間は、高校、大学、会社時代を通じてただの一人もいた筈がない。そしてだれもが見ていた、わたしはいつもワンマンの猛烈な生徒会長や学級委員長であった、そのような部下で同僚で上司であったと。両手両脚を車輪のように働かせて動きまわっているやんちゃだと。
それはちょうど、現在でいえば「ペン電子文藝館」の館長であったり、うるさい理事であったりする世間のレベルであり、しかし、そんなもの、わたしには何事でもありはしない。
* 中学のころ、姉と慕った人はわたしを物陰へよんで、「あんなあ、ほんまのことは、分かる人には言わんかて分かるの。分からん人には、なんぼ言うてみても分からへんのえ」と諭した。
高校の頃、我が家が荒廃していたとき、どこからか忽然と帰ってきて、わたしを八坂神社の楼門の裏に呼び寄せ、「ひとりで歩いてゆきなさい、生まれたままのひとりで生きてゆきなさい」と背中をとんと押し出してくれた。「十七にして親はゆるせ」と教えたのだと思う。
歌集『少年』の大半を下支えた強い力は、あの姉であった。一滴の血縁もない「身内」であった。そして大学で、妻に出逢った。姉が今どこにいるのか、わたしは知らない。歌集も贈れない。妹は、受け取ってくれたと思う。もう一人の妹は亡くなってしまった。
この姉はまたわたしに教えてくれている、孤立してはいけない、が、「孤独は、えぇもんぇ。大事ぇ」と。
2005 12・26 51