ぜんぶ秦恒平文学の話

文学作法 2006年

* 謹賀新年 二○○六年 元旦

七十路(ななそじ)に踏ン込んでサテ何もなし
有るワケが無し夢の通ひ路   七十郎

歩みこしこの道になにの惟ひあらむ
かりそめに人を恋ひゐたりけり 十六歳

萬福脩同 心よりご多祥をお祈りします。     秦 恒平

旧臘古稀を迎え、文庫本歌集『少年』(短歌新聞社)を以て自祝、
京都で、坂田藤十郎襲名の顔見世狂言を楽しんできました。
家内も四月には古稀。夫婦してもう暫く遊び暮らしてまいりたく。
「湖の本」は、やがて八十六巻を数え、吾々の喜寿より幾足も早く
米寿・卒寿を迎えますが、共々にほどよい潮時をはかっています。
逃げ腰では、とても…のけわしい老境を創造的に在るがままにと。

* 逃げ腰では、とても    秦 恒平   ―「ずいひつ」新年号―

「新聞」の話題になったとき、一座していた若い何人もが、「とっていません」という返辞。インターネットでニュースはタダで読める。必要な個所だけを選んで読める。お隣の韓国では、もう新聞という情報の手段は潰滅しかけている。日本でも近年のうちにきっとそうなると、電子メディアの識者は確信しているし、わたしもそう見ている。
これとは事情はまるで異なるけれども、わたしたちも、新婚当時からかなり後々まで、新聞をとらなかった。テレビも持たなかった。ありていにいえば、とれなかったし、買えなかったのである、必要なニュースは朝の目覚ましがわりのラジオで足りた。余儀ないラジオ派であったが、十分だった。
テレビが観たいなら、アパートのすぐ近くに、当時のフジテレビ本社があり、休日や夜分など、夫婦して探検気分で構内を歩きに行った。むろんテレビがあった。気楽な時代で、誰も咎めなかったから、出演者の控え室などならんだ廊下や食堂へも自由に入った。学生時代に京都で観ていた朝の連続ドラマ「バス通り裏」の、きれいな岩下志摩が、フジの地下廊下を行ったり来たりしながら、広告のセリフを覚えているのと、ちらと双方で目礼なんかして、普通にすれ違ったりした。
ある晩、ディレクターの下っ端さんに見込まれ、「スター千一夜」という番組に誘われた。結婚したての俳優菅原謙二夫妻の番組に、枯木も山のエキストラで、出てくれろと。なんでも喫茶店のようなセットで菅原夫妻がインタビューされている、その店内の相客のていで、その辺の席に座り、自然に振舞っててくれればいいと言うのだ、面白がって承知した。ポケットから掴みだした三百円か五百円ほどを、あとで「出演料」に貰った。超ビンボーしていたから不時の実入りであったが、それよりも、そういうノンキな新婚の日々であった。楽しかった。貧乏なんてあたりまえと思っていたし、世間のニュースにも無関心に近かった。伊勢丹デパートのある新宿へ歩いて出て行けば、世間の容子はそれとなく知れ、それで足りた。
それが、だんだんそうも行かなくなった。小さい会社の、出来て五年目の労働組合が活溌に動き出していて、おいおいに政府国会も破壊活動防止法だの安保条約だのという剣呑なことになってくると、放っておけなかった。
妻が長女をもう産もうという頃、わたしは労組の仲間たちと、連夜国会前へかけつけ、歴史的なデモの渦巻きのなかでは、東大生の樺美智子さんが、警官達と揉み合って死んだりした。わたしは、怒号渦巻くそんな中で、いずれ我が処女作となる『或る折臂翁』のことを、しきりに、しきりに、想いつづけた。
新豊の折臂翁。
祖父の蔵書の中から見つけた白楽天のその長詩は、少年の昔から、気になって、気になっていた。それは優れた反戦の思想詩であった。大石をもちいて自分の臂(ひじ)を砕き折ることで、無謀かつ無意味な征戦に断乎参加しなかった、かつての、青年。老翁になった彼は、尋ねる幼児にむかい、折れた臂は今でも痛むけれどと、静かに戦争の愚を説いていたのである。その詩表現は、少年だったわたしを捉えて放さなかった。
戦中の国民学校時分から、わたしは、将来兵隊さんにならなければいけない、国民としての運命に不審を覚えていた。
「反戦の覚悟」なのか、たんに「臆病」か。
小さい胸にそれは一の公案の重みすらもった。自問自答の課題になった。背景にいつも白居易のその厭戦詩・兵役拒否の長詩があり、わたしは公案に、いつか「答」をぜひ書かねばならなかった。小説家になりたい、一つの強いそれが動機だった。
いま、わたしは、新聞にも、テレビの報道にも、汚物を浴びるような厭悪の気持ちをおさえられない。報道というものをただ拒めばいいとは思わないから、その感触はひとしお棘さえ持って、不快をいや増してくる。
新聞がなくなろうとと、テレビがやかましかろうと、インターネットが猥雑であろうと、政治も外交もハチャメチャであろうとも、現代に生きている限り、わたしは耳や眼をそれらへ塞ごうとは思わない。山奥へ逃げこんで、なにか世離れた悟りが恵まれるなどと、夢にも想わない。「今・此処」に在るがままに、わたしは、気色のわるいこの現実とも、美しい静かな深いあれこれとも、ちゃんと向き合っていようと思っている。母の亡くなった齢まで、古稀になったばかりのわたしは、もう二十六年…。逃げ腰で生きて行ける年数ではない。
2006 1・1 52

* 謹んで初春のお慶びを申し上げます。元気に新年を迎えています。
日本語では、ウツ「空」という言葉とウツツ「現」という言葉がひとつながりの言葉であると読んだことがあります。「何もない状態をあらわすウツから何かが実在していることを示すウツツという言葉が親類のように派生して」いったというのは面白いと思いました。このウツとウツツの間を行き来して、「をかし」とも「あはれ」とも、生き生きと楽しんでください。
益々お幸せな一年でありますように。   初春

* このウツツ説はかなりあやしい。
空穂(うつぼ) 空洞(うつろ) 空蝉(うつせみ) のように、「うつ」が空虚・からっぽを含意した接頭語であるのは確かであるが、「うつつ」が、「何かが実在していることを示す」かどうか、実はそのように思われがちな「現実」もまた「うつ(の)幻」に過ぎないと認識していった経緯が、「語」の歴史的な展開に認められている。
うつが夢で、うつつが実在を意味したのでなく、そのように思いたいけれども、実は、現実もまた「うつろの夢」にひとしいと、時代を追って日本人は分かって行き、「夢うつつ幻」と、複雑な表情の「一語化」が進んでいったことは、中世に編まれた事典・字典などに指摘されている。
「うつつ」とは「実在(リアリティ)」どころか、「ゆめまぼろし」のごとくなる単なる仮象、それを認め損なって「確かな寄る辺」と誤解すると、とんでもなく「浮き漂って」しまうと、例えば閑吟集の小歌などは、端的に鋭敏に自覚している。この場合の「うつ=空」はブッダのいわく「空=くう・無」とは似て遠く非なる、ただのカラッポの意味。その意味では「うつつ」もまた「からっぽ(の)」状態を示唆している。
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
くすむ人 というのが、「うつつとは実在性のこと」と軽信する、「似て非な真面目屋」のこと。むしろ「一期は夢」と言い切るときに、人は真の「覚性」に手をかけている。
「うつつ」とは、今日の冒頭にわたしの謂う、「夢の通ひ路」に過ぎない。実在(リアリティ)とは何の関わりもない。
くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して
とは、「うつつ」と「夢」とを無意味に分別してみせる「真面目屋さんの誤解」を鋭く批評している。閑吟集の時代には、鎌倉以降の禅風がかなり民間にまで浸透していたし、戦国戦乱の無常からも彼等は多くを受け取っていた。「うつつ顔」は明らかに此処で嗤われており、しかもそれは「夢とうつつとが分かちがたい」ことを知らない迂闊さを嗤っていたのである。事情は平成の世にも変わりはしない。「夢うつつ幻」に何かの真実を求めても、「有るワケが無」いのである。わたしはそう感じている。
2006 1・3 52

* けさの新聞で、ある元気ジルシで売っているベテランの女優が、大きな見出しで「今後も人を楽しませたい」と語っているのをみて、これは違うなと感じた。
おそらく、このテレビ時代の藝能人達の多くが、根本で思い上がっている一つの体質素質面がここに露出している。
正しくは、「今後も人に楽しまれたい」とあって本当だろう。これは藝能差別ではない、藝能の機能は本来「衆人皆楽」であり「壽福増長」の祝言にある。「楽しませ」たいは、驕りに走っている。藝能は人に「楽しまれ」るもので、さように努め勤めるのが藝の本筋。
藝能に限らない、もし藝術が、文学が、「人を楽しませたい」と思い描かれたり創られたりするならば、現にそんなことをバカげて考えながら「リッチ志望」に軽薄にものづくりする手合いは実在するのだけれども、まともな人はそんな驕った意識で創作しない。書いたものが、創ったモノが、幸いに人に喜ばれ楽しまれその人生に採り入れられるならば、望外の本望だとぐらいに、実は書いている・創っている。創作のさなかにそんなことも意識しないで、創っている。歴史的に、人を「楽しませたい」などという意識で成り立った藝能や藝術は、無かった、とわたしは思っている。すばらしい藝をつくしますので、楽しんで下されば有難い嬉しいというのが、そういう「藝」を尽くしてもの創りする者達の本来である。

* 現時日本の藝能過剰肥大の尊大化傾向は、訂正されていい。ましてや真のタレント無しに、一つの特権身分かのように、尊大に横柄に厚かましく浮かれられると、「よせやい」と思うし、いずれ大きな望ましからぬ反動が、また来てしまう。
戦後の大きな恩恵の一つに、藝能差別がなくなった(かと思われる)点があげられるが、また、大きな不幸と錯覚の一つに、藝能世間の過剰肥大と尊大とが、私民の日常の平穏と品位とをむちゃくちゃに汚染している現実もある。
これは、あらゆる差別現象への歴史的な理解と、その制度性への反対・批判・非難を文学の主題に挙げ書き続けてきた私だからこそ、あえて言えるのである。
優れた藝にふれるときの幸福感をわたしは尊敬し愛好している。そういう藝の提供者たちが、もし多少尊大であっても、わたしは辛抱して贔屓にするだろう。
しかし、有象無象のノンタレントどもが、やかましく、みだりがわしく、えらそうにだけしはじめるなら、そんなもののために少なくも高価な電波代は支払いたくない。わたしが「楽しませてほしい」と願うのは、藝人が「楽しませたい」と豪語するのとは、言葉は同じでも、立場が違う。楽しいモノに出会えば、わたしたちは好きに楽しむだけのこと。「楽しまれる」に値する藝を「謙遜に磨け」と、わたしたちの方で藝能人に「要求」して構わないのである。

* 反論・反撥があれば聴きます。
2006 1・4 52

* 連載の新聞コラム、字数の限りで書いているのでやや窮屈だけれど、心持ち加味して転記しておく。尋ねていたけれど、誰も、何のことか分からないと。息子も。

* 「本の少々」 のようというのだ  秦 恒平

明治に、一時期「美文」が流行った。美文とは何ぞや。文字どおりのご想像にまかせよう、いや想像の必要すら、ない。
昨今では「名文」ということもあまり言わない。名文とは何ぞや。この議論はよほど多岐にわたる。安易な口出しは避けた方が安穏か。
ま、どっちかといえば当今は「悪文」時代で、それもプロの悪文が横行している。
悪文にはしかし、稀々、時折りとはいえ、とても個性的な「佳い悪文」もあり、見捨てるばかりが読み手の能ではありません。一昔まえの瀧井孝作先生や吉田健一先生の一見悪文は、また名文の一種とも謳われていた。
文学か、ただの読み捨て読み物か。それは題材では決まらない。文体と文章。その上に造型され表現された作者の「思い」の深さや高さや、オリジナリティー、と、ひとまず謂っておこう。
だらけた陳腐な物言いで、筋書きを説明に説明して、文章を「読むうれしさ」を全く与えてくれない、それはもう読み捨ての読みものに過ぎない。ほんものの作品は二度三度四度の再読を促してくる。名勝が、再訪につぐ再訪を促す「真の魅力」に富んでいるように。
書きたい人が、むちゃに増えている。その気ならケイタイでも書ける。他人のものは読まないのに、自分の書いたものは読んで欲しいからか、わたしのところへも、見知らぬ書き手が「書いたもの」を送ってくる。
ものを書く際に、才能は、どこに現れるか。
少なくも、一つ謂える。「推敲する」力と根気、それが創作文章での強い「才能」である。推敲の力は、数行の書き出しを読んで、分かる。明瞭に分かる。
一つ、(これで十分なのではない、誤解ないように。)申し上げる。
「(の)ような(ように)」「という(といった)」そして語尾の「のだ」の、この三つは、書きながらも我から首を傾げて思案した方がいい。
大概、この三つは必然の必要から書かれず、ただの口調子で書かれている。省いてしまうと文章の立ってくる例が多い。この三つの頻出する文章は、たいてい、救いがたい「駄文」である。
序でながら、例の一つであるけれど、「私がすること」「あなたのなさること」の、「が」と「の」を確かに書き分けられる人も、じつに少ない。文章の品位を左右する例が多い。
2006 1・5 52

* 大切。されたい、お年頃! – 2005/12/29
昨夜、主人と半年ぶりの夫婦生活。よかったなあ! 子育て論を話し合う前に、大切な性生活の充実を話し合いました。

* たしかに「大切」なことだろう、これは。「されたい、お年頃!」の実年齢は知れないけれども、思わず唸った。
東工大で、家庭生活における夫婦の性生活の重みを、パーセンテージで予断せよと問うてみたことがある。ゼロから100パーセントまであった。事実である。
回答の大勢は、わたし自身の思っていたとおり「15パーセント」程度に集中し、その健全さに安心した。同時にコレがかりに10ないし7、8パーセントに減ったにしても、無くてもいい数値でなく、ぜひ必要な数値であると考えていた。過大である必要はないと考えていた。さらにまた、そうはいえ、維持するにきわめて難しいこととも考えていた。
2006 1・12 52

* 夜前遅くに読んだ読者メールのなかの、「いつの頃からか、《出来るときにしておこう!》と思うようになりました」という述懐が胸にとまって、動かない。この気持ち、わたしも大切にしているのである。今日のがせば、もう明日は手にも目にも耳にも口にも出来ないかも知れないと感じる。夢と知りつつ覚めざらましをという思いは、ただのミレンでなく、丁寧に「今・此処」を生きていたい実感である。老いの坂にのぞむ得難い道しるべ。
2006 1・14 52

* 『北の時代』の「部屋」は、あの作品の発明だった。というより、わたしはああいう「部屋」へいつでも入って行ける。この現実の一枚地下に降りて行くと、「遠山に日のあたりたる」広漠とした「枯野」をもっているのと同じ、わが心術か。なまぐさい現世を振り払いたいときは「部屋」に入り談笑したり「枯野」におりて遠山を長め日光を振り仰いでいる。
「のようというのだ」のことは、あらためて少し具体的にかいてみよう、今日はこれから俳優座公演を見に行く。「歌麿」だという。いい芝居だといいが。
2006 1・20 52

* 幸い雪は深くは積まなかった。東京は晴れている。朝から原稿を二本書いて、送った。電子メールで送れる有り難さに、慣れてきたけれどやはり有難い。雪の道をあしもとをあやぶみながらポストまで行くのと、メールとしていながら送り込めるのと。原稿も手元に残るし。比較にならない。

* もう、七八年もこの調子で「私語」を書きついできたが、すべて機械の中にも、ディスク(たった一枚!)にも保存できている。保管の場所をまるで要しない。同じように全部の「湖の本」も保存・保管してある。諸々の原稿も。パソコンは、ホームページとワープロソフトその他を併用すれば、物書きにとって 原稿用紙であり 初出雑誌なみであり、単行本なみであり、書架・書庫なみであり、倉庫でもあり、展示場でもある。
東工大教授にと依頼の電話が来て引き受けたその時から、わたしは朧ろにも「そういう」パソコンに「期待」をもった。そんなにウマク行くとは確信がなかったのに、である。どれほど確信がなかったか。笑い話がある。
もうやがて六十定年で退官という時機に、学部の卒論のためにわたしの部屋にインタビューにあらわれた女子学生がいた。その論文は、既存の図書館内容をすべて電子化して電子図書館に転換できるといったもので、わたしは、まっさかァ…と、まだまだ紙の本神話の信徒らしい躊躇と不審を示した。そして他の親しい学生達に、そんなのムリだよなあと言うと、だれもが、そんなの理論的にも技術的にも簡単ですよ、そうなってゆきますよ、どう設営して運営するかだけの問題ですと、いともアッサリ。
わたしは辟易しつつ、それならばよけいにパソコンをわが文学活動の基盤ツールに使いたいと熱望した。但し、これには指導し手助けしてくれる人が絶対必要だった。
退官してのちに、やっとホームページを造ってくれる当時学部学生だった田中孝介君に助けられた。彼は我が家の機械に、目の前で、いとも簡単にいま私の使っているホームページの、表紙と内装の原型とを創作してくれた。
だが、今思い返すに、当時田中君のホームページ観と、わたしのホームページへの期待とは、大きくかけ離れていた。田中君は、いまのわたしのホームページが擁しているような役割は夢にも想い描いていなかった。ホームページって、そんなに沢山なものを容れる容れ物ではないですよと田中君は惘れていた。
しかしわたしは、ホームページは、原稿用紙で初出雑誌で単行本で書架・書庫で、倉庫で展示館でもあるところへ可能性を持っていると、ガムシャラに信じて、そのように使ってきた。初めのうちは機械が重くなって困ったが、だんだん大容量のハードディスクが出来、メモリも増え、わたしのホームページはパーソナルな一人の文学者のホームページとしては、稀有の内容と構成とをかなり公認されているようであるし、アクセスのひろがりも信じられないほど広く多く成ってきている、らしい。
だが、大切なのはバックアップ、ディスクへの保管である。それを怠けていると、機械のクラッシュで根こそぎデータをうしなってしまう。
2006 1・22 52

* 送ってこられた長い小説は三分の一ほど読んで、(少なくもわたしには)ユーニクな展開と温かい澄んだ筆致に日々心惹かれている。一作を読み終えるのに、まだ当分の時間が必要。
この人の書き方は、むかしのわたしの姿勢に似ている。どっと書きとばしていない、「毎日」欠かさず何年もつづけて少しずつ書き継いでいる。この方法が強い。
一気に書き飛ばしていい時は、ごく限られていて、そういう書き方は、一度びプツンと途切れると橋が落ちたように前へ進めない。そしてやめてしまう。
書きたいことが胸にたまっていても、むしろ辛抱して明日へのこし、翌日また気合いを入れて書きたかったことをまた書き継ぐ。忙しい人ほど、これが適切。量より質にも、それが向く。
それと真夜中に書いた文章には夢魔のよごれがついていて、朝日に当たると、どぎつい過不足が歪みや臭みになって目に見え、容易に是正(推敲)できない。
わたしは一日に五枚ときめて年に千八百枚、それで毎年五六冊の単行本を出し続けた時期が長かったが、無名の時代は、一日に十行でも、二枚三枚でも、たった五字でも、病気の時は一字と「、」だけ書いたこともあるが、ただ、盆も正月もけっして休まず書き続けていた、むろん小説を、である。量を稼ごうとするより安定して毎日書く方が、続く、のである。文、文にあらず、続ぐをもて文とす。
2006 1・23 52

* 大津の「鳰」さんから、あらためてまた有難いメールを、いましも頂戴した。これはもうわたし自身の根に触れてくる、渇望しながら容易に得難くて手に入らなかった類の示教であり、早々に読むのも勿体なく、わくわくとからだの動き出すような文面であった。

* 東海道水口(みなくち)本陣のことなど(ご返事)
秦恒平先生
年頭以来の冷え込みでございます。
「私語の刻」拝読いたしました。突然のメールに丁重な「ご返事」を頂戴し、たいへん恐縮致しております。
さて、「鵜飼」「朏(みかづき」「秦」いずれも水口辺の者であれば、どの辺りの家なのか、おおよそ見当がつく名字でございます。
「鵜飼」は甲賀の著姓で、遠く戦国時代に活躍した甲賀衆の雄、その流れの一つが水口に定着し、宿(しゅく)の東、作坂町に広大な敷地を占めてやがて本陣を営むようになったと聞いております。
幕末維新期の当主はたしか鵜飼喜苗と名乗り、「甲賀古士隊」を編成していわゆる「東征」戦争に参加した人々ともいくらか関わりがあったように記憶しています。
旦那寺は水口一の大寺で、朱印寺であった浄土宗大徳寺でしたか。
近江東海道では、建物の大半を残す「草津」本陣、玉座などを伝える「土山」本陣、宿帳などが残る「石部」本陣に対して、建物も史料も残らない「水口」本陣と、残念の思いをしておりました。
「小島家」はその本陣と脇本陣の間にあった大きな旅籠で、脇本陣とともに現在もその母屋部分を残し、街道を歩く人々が、写真に納めたり、壁に掛け並べられた講札などを覗いています。
そして「秦」と「朏」は水口宿の東、新城村あたりに多い姓で、秦にはつい20年ほど前まで造り酒屋を営む家もあり、一帯では比較的有力な一族であったと記憶します。
朏(みかづき)はまことに珍しい名字ですが、ほかに「三ケ月」「三日月」と書く家もありました。このうち水口本陣のあった作坂町の西に接する旅籠町に住んだ朏重五郎は代々の宮大工で、今も水口神社の祭礼にでる曳山の多くはその手になるものであったと記憶しています。
余談ですが現在京都府総合資料館に収蔵される、郷土玩具の一大コレクション「朏コレクション」は、その子孫で水口から京都に移られた朏健之助氏の収集したものでした。
一体、維新後の宿場町の衰退は、大店や旅籠で毎週のように「売り立て」があったと伝えるようにひどいもので、本陣鵜飼家をはじめ、屋号だけは今も伝わる多くの分限者の退転も多く、その上に小さいながらも城下町でもあったことが、町をさびれさす一因となったようです。
大名を客とした本陣をはじめ、東海道の旅人を相手にした大小の旅籠や、それにぶら下がって生きていた商人たちが、遭遇した「ご一新」は、たいへん過酷なもので、とくに鵜飼本陣のあった宿場の東部は、問屋場を含め本陣や脇本陣など宿の主要な施設、規模の大きな旅籠や有力商人が軒を連ねた「分限者」の町だっただけに、数多くの「物語」もあったことと想像いたします。
巖谷一六が「徴士」として東京に移ったのを「筆頭」として、多くの有能な人材の水口から「流出」したのもこの時でした。しかし、これはむしろ水口藩のような狭い世間から解き放たれ、活躍の場を得たわけですから、むしろ喜ぶべきかもしれません。幸い一六も巌谷小波も「近江水口」を「故郷」と呼んで、終生愛着を持っておりましたし、水口人も格別の思いをこの二人には抱いて参りました。町の郷土資料館の一角に小さな小さな二人の記念室をつくられたたのも、先人顕彰の意図ももちろんありましたろうが、そんな浮き沈みの多かったこの町の近世から近代への歩みを、記録しておきたいという気持ちがあったからで。
しかしこのようなことは、先生にはまさに釈迦に説法であろうかと存じます。千枚というご草稿の数字だけで、私はすでに色を失っております。
しかし、また、あるいはお役にたてることがあるかもしれません。近世の絵図など水口宿に関する資料もございます。
本日は改めて、心より感謝申し上げます。  大津  鳰

* 京都山科の鵜飼家とは、生母ふく(筆名=阿部鏡)やその父阿部周三の遺跡を尋ね歩いたころから、幸いに今も淡い誼みに恵まれているし、郷土玩具蒐集で著名な朏(みかづき)健之助の京都市内の旧居に遺族を訪ねたこともある。しかし「鵜飼家」がどういう歴史を経てきた家かなど、こうして教わるまで、どうしてもわたしには分からなかった。「小島」家を訪れて、ものの隈々にいかにも時代を畳み込んだ家屋の様子も見せて貰ったし、宮大工の朏家、ではなかったか、すぐ近くの家屋へも連れて行ってもらった。
この探索行は、つらいものでもあった。それまでのわたしは、頑強に実の父や母にちかづくことを拒絶仕切っていた。それを一転して探索に歩き出したとき、父方も南山城の豪家で枝葉の拡がりは大きく、母方もまた大きくてわたしは途方にくれて、しばしば音をあげたのである。いやいや結局音をあげっぱなしに厖大な草稿はそのまま埃をかぶってしまっている。
天涯孤独とおもってきた「もらひ子」のわたしは、この探索行の結果、両親をともにする実兄一人と母方に父の異なる姉兄四人、父方に母を異にした妹二人、大勢の伯父伯母や従兄姉を一気にみつけだしてしまい、その体験は、若い日のオオクニヌシが、山坂をころげ落とされた火に焼かれた大石を、獲物と思って抱きとめ大やけどしたのと似ていた。わたしは、あのとき、一度死んでしまった。そして、息を吹き返すとそれからは、それまでとは少しちがう自分をまた生き始めたのだと思う。

* ああもう日付が変わって一時半を過ぎている。「鳰」さんに心からお礼申し上げながら、今夜は階下へ降り、また本を何冊も読もうと思う。
2006 1・23 52

* サーフィンしていたら、こんな記事に遭遇した。ビックリした。「昨日」とあるのが何年何月何日のことか、分からない。引いてあるわたしの自己紹介の内容や文章からして数年前に思われるが。エディット・ピラフという名乗りのサイトのように読めた。

* 昨日、ネットで調べものをしているときに、校正途中の、ある作品と出逢った。
なんとなく読みすすめていくと、流麗な文体でこれはアマチュアのものではないなと思い、著者名を確認すると「秦 恒平」とある。どこかで聞いた名のような気がして調べてみると、1969年に太宰治文学賞を受賞して文壇デビューをしたベテラン作家とわかる。
サイトのURLをたどってTOPページを探してみた。
■作家 秦 恒平の文学と生活
この美しい扉をクリックして、ぼくは驚いた。
四十年近くになる作家活動の全記録が、そこに整理され、格納されているのだ。著書だけで百冊を越える。それ以外のエッセイ、書評、講演記録、など等……。
一人の作家の電子アーカイブとして、これほど充実したものは寡聞にして知らない。
どういうきっかけでこうしたことを始めたのか、と気になってサイトの序を読むとこうあった。
(これはこのホームペジの「窓」でそのまま読めるので、此処には割愛する。 秦)
現在の出版社、出版業界への疑問から、先ずは自分ひとりで出来ることから始め、さらにパソコンやインターネットという新しい技術も活用して、ご自分の創作記録を誰もが読め、そして欲しい人へは美しい装丁で復刻した私家本を購入できるように整えている。
今ぼくらが、マチともの語りで試み、あれこれと試行錯誤を重ねていることを、十数年前から実践されている。これには参った。脱帽である。
Webの「本とコンピュータ」にもこの電子出版の先駆けとしての意見を載せられているので、是非読んでみてほしい。
■ネットの時代へ、作家として編集者として

* 偶然がないと目にふれてこないこういう「評価」を、わたしのホームページは得つつあるかと、感慨に打たれた。わたしのように歴然と出版社会で不利に孤立している存在は、ひとりで立って姿勢を正しているだけのためにも、余儀ない「自己主張」をいつも必要とする。それがホームページといういわば「孤城」であり、わたしははじめから赤坂城ないし千早城のようなものと自覚して立ってきた。とてものこと、あまり賢い生き方でも仕方でもないけれど、「闇」のはるかかなたで見守って下さる視線があり視野がある。不徳なれども孤ではないと息をつく瞬間である。
2006 1・24 52

* 同志社の田中励儀教授から、岩波版の新編「泉鏡花集」完結に伴う別巻二巻が贈られてきた。完備している。この版は鏡花作品の舞台(府県・地方)別に新編成された斬新な企画で、田中さんのような気鋭の研究者たちがすばらしい探索と理解の軌跡をみせた佳い全集であった。
田中さんの担当した巻々をわたしはみな頂戴してきた。装幀も造本も編集も改題も立派に出来ていて「岩波書店」として誇っていい仕事になっている。
この完璧で斬新大胆な企画からすると、谷崎学者達の非力と志の低さも手伝うのか、『谷崎潤一郎全集』はいっこうに完全無欠に近い全集が出来ない。これは版元も、学究も、関係者達は恥じていい。(ひそかに大々的に進んでいるなら前言撤回するが、噂にも聞いていない。)谷崎の研究者達が大きな志で協働してゆかない、小さくあちこちに割拠して、目に見えない無意味な力競いをしているのかもしれない。指導的な学者・研究者をもたない谷崎潤一郎の不幸である。藤村にも鏡花にもある研究雑誌すら出せないでいる。いったい、いま、谷崎学を真実大きな仕事でリードしている「身の盛り」の研究者はいるのか。いないのか。
2006 1・25 52

* おはようございます 風
今日は曇りです。東京も曇っていますか。
愛知は東京と天気が違いましたが、静岡県は似ていて、風に近づいたなあと実感します。
肩凝りの具合はいかがですか。お大事になさってくださいね。わたしもかなり凝ります。しっかり眠るのが特効薬と思っています。
中村光夫の『風俗小説論』を、市図書館で見つけ、やっと読むことができました。
「創作しながら私小説について書くなんて、二つのことを同時にできないわたしには向かないんじゃないか」、と思っていたのですが、私小説について考える過程で、自分の創作を見直すことになりました。
二つのことを同時にしていると、こんなことがあるのですね。
自分では「私小説」を書こうと思っていなくても、日本で生まれ育って日本の近代小説を多く読んでいると、創作態度のどこかに「私小説」的なものがあるのかも知れない、と思いました。そして、それが純粋な「私小説」でないなら、「風俗小説」になってしまっているのではないか、と。
外国人が、川端の「山の音」や「雪国」を読み、「何も起こらない。退屈」と感想を漏らしていました。「告白」をつきつめることによって心境描写の発達した日本の近代小説を考えると、この外国人の感想がよくわかります。
いろいろ反省しながら、推敲しています。赤ペンがびっしり。愚鈍でのろまながらも、前へ進みたいです。 花

* この人にわたしは、こう言ってある、「花の日常生活はなかなか目に浮かびませんが、花楕円が二つの焦点を求心的に結ぶように風は祈っています。一つは主婦であること、これは当然として。もう一つの焦点が「創作」ならば、そこへ求心的に意欲と勉強を注ぐように。なにより毎日確実に少しずつでいい、書き続けるように。それが出来てこそ「望み」も膨らみます」と。

* 最近に読んだ人の四百枚ほどの作品は、ブログの一日に原稿用紙一枚半せいぜい600字ずつ程度、その代わり大晦日にも元日にも一日も休まず書いていた。フログの制約でもあり、その程度の書き時間しか日々になかったのだろう。そのかわり誤字誤植がない。なによりも大きな構想や展開に、書きとばしたために起こる厄介な齟齬や破綻をがっちり食い止めていた。
急がば堪えて、これが結果として作品にまっすぐな骨身を徹す。書き飛ばしてしまうと、あとの推敲がにっちもさっちも行かなくなり、なかなか完成してくれない。ブログに三百日、少しずつ書く。アドレスを公開していなければ、孤独な書斎になる。孤独に書くこと、それもお日様の上がっている時間帯で書くこと、が大切だ。読んで欲しい人が決まれば、その時サイトのアドレスを伝えればいい。
2006 1・31 52

* 「畜生には畜生に応じた懲らしめが必要なのです!」
広島・長崎に原爆を投下したアメリカの当時大統領トルーマンが、雀躍りして喜び、時のローマ法王にあてた親書の一節であることは知られている。
前国際ペン理事であった堀武昭氏は近著『「アメリカ抜き」で世界を考える』のなかで、「今回のイラク戦争に対して、法王庁はブッシュ大統領に特使を送り、短絡的行動が歴史的に見ても間違っていることを諭しているが、ホワイトハウスは聞く耳を持たなかった」と書いている。
氏は重ねて、アメリカの世界戦略をかりにこのように約言し主張してみてどうであろうかと書いている、即ち、
「アメリカの覇権主義は、人類が積み重ねてきたもろもろの経験則を踏みにじっている。人権や民主主義はまるで、自分たちが作り出し、自分たちの専売特許であるように独善的に振る舞っている」と。
良識を持ち世界の現状に憂慮している大勢の日本人なら、だいたいこんなところに自分のアメリカ批判を据えていると、わたしも思う。日本ペンの井上ひさし会長の独特の「事実羅列型」の論調に具体的に聴けば、よく分かる。

一 世界人口の4.5パーセントのアメリカが、国内総生産で世界の33パーセントを占め、軍事費では世界総支出の39パーセントを占め、炭酸ガス排出量でも圧倒的な比率を占めている。まさに資本主義の落とし子国家である現実を頑固に維持し発展させることを、アメリカの指導部は究極の目標としている。
二 その目的達成のためにアメリカはいかなる行動もいとわず、あくまで自国の利害を優先し確保すべく国際信義をも問題にしない。京都議定書からの離脱、ユネスコからの脱退、国連分担金支払い拒否、国際刑事裁判所設置に反対等々、自国に不利なものへは一切協力しない。
三 アメリカに必要なものは力ずくであれ、理に反していても、強引に自分のものにしてしまう。人材、技術、資本さらには思想すらも。

こういう現実に照らしてみれば、さきの堀氏の「アメリカ観」要約は適切と言うしかない。
しかし、しかし「残念ながらこのような議論をヨーロッパで行っても、相手を説得できたという記憶はない。いつも詭弁が勝利するか、物事が相対化されるだけで議論は終わる」と、世界人としての実績を豊富に身に負うた堀氏にして慨嘆されているのであり、この重さ、重苦しさは、計り知れぬ日本の荷物になっているとわたしは思う。

*「世界の歴史」を概論でではあれ、つぶさに繙いて行けば行くほど、現今の日本の実感と世界史的経緯との間に、超えがたいほどの齟齬があり、それは齟齬というよりも世界史理解の軽薄に由来するとしか思われないことがあまりに多いのに驚く。
わたしは、その一事例に「戦争反対」という思想と「戦争する権利」という歴史との衝突を感じたことがある。「戦争」ときけば「反対」と、じつは小泉総理ですら靖国参拝の口実にしている。そんな彼の思想を、では、アメリカのブッシュ大統領はどう受け止めているだろう。彼の思う「戦争」と日本の総理の口にする「戦争」とは、世界史的な齟齬をはらんでいないか。ブッシュは「戦争する権利」という歴史的理解を都合良く捨てずにおり、小泉その他の日本の吾々は名目上の「戦争反対」をうわべの至上理念としている。
日本にも弓矢八幡に賭けて「戦争する権利」の意識が皆無であったのではない、が、われわれの「神」観は、西欧・中東の「神」観とはことなり、八百万に分散ないしたんに天皇制を楯にするていどの名目に過ぎなかった。
しかし西欧では「神の裁き」の名のもとに、「戦争」で黒白を付けるという強烈な信仰と思想の下地が深く社会に根ざしていた。個人レベルにまで浸透し許容されていた。「戦争する権利」を行使することで「神の裁き」にあずかるという自然法的経緯の中では、わたしたちの到底信じられない殺戮や暴行や強欲も許されていた。平然と許され過ぎていた。その顕著に国際的な現れが「(第一次)十字軍」であった。
西欧の近代史は、この「戦争する権利」を個人や団体や種族等の手から国家が吸収して、人定法の範囲内で「戦争する権利」は「国家」にのみ与え、国民が侵せば処罰されるようになった、まさにそういう歴史なのであった。そのためには、「神の裁き」を絶対視した(戦争権をフェーデと称し、個人レベルにまで認証していた)段階から、ようやくに「神の休戦」「神の平和」という大きな「思想訂正」が進んで、ついに自然法から人定法の「近代国家にのみ戦争する権利」を与えるように、変化してきた。
西欧人は、そういう歴史的な経緯を「集団の記憶」において肌身に覚えている。
だから、都合次第で、いまだに「神の裁き」にゆだねる、いや許されていると「戦争」に口実を与え、平然と敵対国へ攻め込んで構わないという建前をつくる。ブッシュの覇権主義は「戦争反対」の思想からは出ていない。明らかに「戦争する権利」を「神の裁き」を口実にして成り立っている。
しかしそれはブッシュだけではない。イスラム世界にもユダヤ世界にも、やはり「神の裁き」を正当化する「戦争する権利」が底籠もっていることを否定できる誰一人も居ないだろう。

* こういう経緯に照らして思えば、小泉さんの「不戦の誓い」など、思想でもなく感情ですらなく、政局がらみのパフォーマンスにすぎぬ程度のことと、よく分かる。いちばん困るのは、あの程度の口先の思いだけで、アメリカの覇権主義に追随しておこぼれを頂けるものと信じているらしい軽薄さである。
わたしは、この「私語の刻」を書き始めて以来、アメリカであれどの大国であれ、彼等の外交とは即ち「悪意の算術」にほかならず、せっぱつまったとき、何かの間際になれば「自国の利害」で動き、とくにアメリカが日本の安全を保証するなど、お笑いぐさに過ぎないと極言し続けてきた。
現にアメリカは、井上さんや堀さんの分析している通りの、要するに言語道断の覇権国家の道をまっしぐらなのである。この時にこそ、反米ではなく、「非米」「アメリカ抜き」の世界構築を可能にして行く論理や思想や技術や志向が不可欠の要路となってきたという堀武昭氏の提言に、わたしは動かされるのである。

* ちなみにわたしは、現在産経新聞大阪に寄稿している連載「本の少々」にも、「戦争する権利」の一文をすでに書いている。
誤解の無いように、日本人であるわたしは、西欧にどんな思想的社会的経緯が有ろうとも「戦争に反対」である。より鞏固な足元を築いて、この思いを力あらしめたいと思う。だから憲法の「前文と九条」とを守り抜きたいのである。
2006 2・3 53

* 小説を書くとは容易ならぬ作業であり、コンスタントに或る水準を保って駄作を成さないということは、大家ですら、そうそう可能ではない。駄作は成さないに越したことはないが、例えば大正時代の谷崎潤一郎の多くの作中には、褒貶でいえば貶価のたかいものが相当数有った。有ったけれど、それをしもわたしはある時期、本の活字に唇を添えてうまみを吸いたいほどに思った。秀作とも佳作とも思われない作にも魅力があった。ファシネーションが見て取れ、楽しめたのである。駄作かも知れないそれらの上に彼は秀作や傑作を創り上げていった。駄作を書くぐらいならいっそ書かないというわたしのような覚悟は、言うまでもなく谷崎の文学生涯を実現した作家魂より、小さいのである。

* それはそれとして、折角そこそこの作品を書き続けてきたのが、ガタンと脚が重くなり筆の運びがにぶくなり、本人の意識とかけはなれて、だんだんと余計な「文」ばかり書き継ぎ、いっこう小説が小説のあしどりをもてないときがある。文章が安易に過剰になり重複し、また寸足らずになっていく。気短かな編集者なら、もう書き出しのそれだけで見捨てるだろう。
作者に何を書いてどう運んで行くという見通しや自信がなく、ただもう「文」を書き重ねて行くと、小説世界は前方視野が開けず、人物も、出たは出たけれどその場で立ち往生したり、なまくらに居座って働かなくなる。
こういう体験ないし覚えは、わたしも繰り返してきた。そのじれったい重苦しさを忘れていない。ひとの作品にもそれはいち早く感じ取れる。ああやってるなと思う。
こういうとき、優れた編集者や優れた読み手である助言者は、適切にそれを指摘してくれる。小説は、そういう人との合作であるとき、道が前へ前へ希望多く拓けて行く。そんな必要は無いと思っていると、とんでもない病気に掛かり、もうその「病い染み」は創作という仕事から、抜けきらない。

* その場その場で推敲して脚をおそくしているうちに、作品が「推敲肥大」してダレてしまう場合がある。これは危ない。
それで、何が何でも書き殴り気味に、先へ先へ逃げるように奔る人もいる。とにかくエンドマークを一度入れ、それからゆっくり推敲しようと言うわけ。これは、悪くはない。けれど、作品の分量とよく相談しないと、「第一稿」という名の患者がまったく容体回復しないまま、作者という医者看護士の手に負えずに、むざむざ机の上で衰弱し腐爛して行く。やはり、意識を集注して第一稿からよく考えよく読み読み、書き進めた方がいいし、なにより作品の長さに応じて、或る程度のプランを頭に置いていないと、掌説なら、また短編ならとにかく、長編はにっちもさっちも行かなくなり、引き返すに返せない迷路で、迷子になりかねない。
かと言って、定規で引いたような計画通りに、コンテ書き通りに書くのも、作品の生彩をそいでしまう。作品は軌道の上を発車して終点につく列車ではない。むしろ空中で反り返り、呻いて捩れ、予定の軌道からはみ出つつ緊張を保って行くから、作品は生き物だと証明される。芥川龍之介が谷崎潤一郎に成れなかったのは、芥川の世界は予定されすぎていたからだ。

* 石川淳という優れた作家は、小説を「書く」という行為は、目のマン前の暗闇に踏み込んで行くのと変わらないと書いていた。行き当たりバッタリで行けと言ったのではない。「小説を書く」という行為を舐めてはいけない、勇気を出せ、覚悟して踏み出せと言ったのである。
2006 2・4 53

* 国営必至、株価58円まで下落の中、みずほ銀行頭取の愚挙暴挙と袋叩きされた、桁外れな「一兆円増資」が、一年経過し、確実に実を結んで、他行大手を尻目にあざやかな大逆転健全化を果たしてきた、関連企業も多く窮地を救われた、というレポートに脱帽した。国会へ引きずり出され、小声でしょぼしょぼと答弁して陣笠にまで呶鳴られていた社長は、たしかに頼りなく見えた。人はみかけによらない最適例の一つを、あざやかに見せてくれた財部レポートは、一陣の清風。
新任の社長ひとりの英断でメガバンクの経営が、かくも画期的に動いた基盤に、強引な社内権力行使ではなく、適切な判断と揺るがぬ勇気とがあったというところが、いい。奥さんに命じられると、ごみだしもスーパーでの少しでも安い買い物にも、問題なく日々出かける社長というのも、あたりまえだが、これはあたりまえでない。ホテルの不正改造の東横イン社長と比較すると鮮やかである。近隣を恫喝しながら建てたあの城郭のような豪邸にくらべ、三十代の昔に建てたままの質素そうな家に、健康な明るい夫人と暮らしている「みずほ銀行」社長という図も、わるくない。嬉しくなる。
2006 2・5 53

* たまたま通りすがりの署名無しのブログから引き抜いたのであるが。こんなふうに小説が書き出されている。

――気をつけてくださいね。
二、三歩行きかけてから思い出したように、女は振り返って言った。私がちょうどポケットから出したばかりの携帯灰皿を振ってみせると、
――ああ、火もそうですけれども、・・・いろいろ出るようですから。
意味ありげな薄笑いを浮かべて、私の背後の茂みを小さくあごで指し、それから、形ばかり会釈すると、この山なかには全く不似合いなスーツに、さらに不釣り合いなガーデニングブーツをぱこぱこいわせながら、母屋へと去っていった。

これだけでは状況はよくは分からない。とくに悪い出だしではない、が、
二行目のアタマは、「二、三歩行きかけ、思い出したように女は振り返って言った。」でいいだろう。
「から」という、心理的または実時間のちいさな経過は、「行きかけ」と読点でおさえれば表せるし、そうすることで「行きかけて」「振り返って」の「て」のダブリを消せる。「て」という音は、不用意に多用しやすい「そして」の「て」も含め、文章の緊迫度をいたずらに間延びさせる「毒」の一つ。読点でおさえて済む、その方がよくなる例が多い。原文は「思い出したように、」と読点を置いているが、「女」の動作を緩くしてしまう。「思い出したように……言った」までは気合い一つながりであり、この読点は邪魔をしている。
次の文で、作者はまた「ポケットから」と、「から」を用いている。どっちが動かせないかといえば、この「ポケットから」だろう、その為にも間近に二度使いの先の「行きかけてから」の「から」は、文の調子、文体的に、まちがいなく無用な邪魔をしている。
「私がちょうどポケットから出したばかりの携帯灰皿を振ってみせると、」も、うまいとは言えない。
「ちょうど……ばかりの」は、どちらかが説明的に過ぎたムダになっている。また、文頭にくる「私が」が、この位置で適切か、「私が」と言わねば用が足りないのか、書き手は殆ど一思案もしていない。
「振ってみせると」という物言いは、さきの「女」へ向けた動作と読めるので、強いて「私が」は要らないし、文頭の「私が」はたいがい音が重いのである。
こうではどうか。
「ポケットから出した携帯灰皿を(私が)振ってみせると、」だけで、先の女の物言いに必要なだけ応じ、次の女のセリフにもちゃんと繋がっている。ごてついた出だしが少しすっきりする。
「意味ありげな薄笑いを浮かべて、」には書き手の集中のよわさが出ている。「薄笑い」はもう「意味ありげ」なのだからこんな重複はぶちこわしになる。
「薄笑いを浮かべ、私の背後(うしろ)の茂みをチッとあごで指して、そして形ばかり会釈すると、」と、此処は、問題の「て」「て」を早い音調に逆に活かしていいのでは。「それから」は鈍いし重いだろう。
次の、
「この山なかに(は全く)不似合いなスーツに、さらに不釣り合いなガーデニングブーツをぱこぱこいわせながら、」は、名文ではないが、「は全く」がほぼ不要に思われる程度で、「スーツに、さらに」の「に」の早送りが利いている。
だが、「母屋へと」の「と」に、作者はどんな語感を示しているのか。この無用な「と」の使用例は一般にたいそう多く、だが「母屋へ去っていった」と「母屋へと去っていった」にどんな差があるか。「と」は効果なのか、効果は有るのか。何もないなら、一音でもムダな文字は使わない方が、普通の文体の場合、文章がシャンとしてくる。

* こういうところをバカにしていては、文章はゆるんだり、よごれたり、ゴタついたりする。その染みはクセになると取れない。抜けない。早くこういうことに気付いて、初稿からピンとした筆遣いを心掛けた方が、結果もいい。いい物語であるなら、よけい、いい文章で書こうと気を引き締め、気を弾ませた方がイイ。
ホンの参考意見に過ぎないが。

* 明日は歌舞伎座。とっても、楽しみ。
2006 2・5 53

* もともと紀元節にも建国記念日というのにも、何の根拠もない。根拠をいうなら中国上古の暦の上の伝承や解釈を都合良く日本の歴史記述者が借りていただけ。もし言えるとすれば、日本書紀等の編纂記者たちが中国の文献を利用し借用し盗用し再編輯する能力に長けていたと感心するぐらいなもの。
ただ子供の頃の思い出に、寒い寒い二月十一日の町内会や学校での厳かげな行事のあとに、熱い粕汁の振舞われたのは、嬉しかった。今も酒粕を饅頭よりよろこんで、そのままで喰らい飽かない好みは、あの紀元節の朝に発していた。しかし紀元は二千六百年と謳うのは、ハッキリ言って気色がわるかった。神話は好きだったしよく覚えたが、神話が史実を侵害することには理が通らないと子供の時から確信していた。太陽は太陽で、人間に似た日の女神のいるわけはなかった。
2006 2・11 53

* 『からだ言葉の日本』拝受しました。こういう本も書かれるのかと、間口の広さに感嘆しました。秦さんは「情」の人と同時に「思考」の人ですね。
宗教などに言及されている部分が面白く、考えながら読ませて頂いております。
それにしても何と多作なことか、自分に向けて溜息が出ます。   作家

* こう言われたこの際に書いておくが、自分自身を「表現」できない文章は書かない、書きたくないと思ってきた。小説においても同じである。自分に関心や興味の持てない原稿依頼は、だからもう十年来、それ以上も、引き受けていない。
わたしの「湖の本エッセイ」は、全体で「一つの著作」のパート(章や節)になっているはずで、湧き出たままの「自己表現」「自己批評」が、そのまま日本の歴史や文化や社会や藝術への思想・思索・批評・愛情であるように書かれてある。そのハズである。
わたしの小説を小説だけで批評することは容易いだろうが、裏打ちされた全エッセイとの一体において「作家・秦恒平」を批評してくれる人、いつか現れるだろうか。
2006 2・18 53

* ある高名な小説家の遺児が、父親の文学や生活を書かれて、わたしも戴いて読んだ。かなり時日をへだてて、あの本の中の一部を「ペン電子文藝館」に欲しいと頼んだら、あの本は読み返すたびに自己嫌悪で死にたくなるほど、とても「書けていなかった」「恥ずかしくて」と、断られた。燈台もと暗し。身近な人なら書けるという保証はなく、参考にはできても正鵠を得ていない、むしろとんでもなく見間違えている例は、その手の近親の著作にはまま見受ける。
2006 2・18 53

* ジョン・ナッシュ教授夫妻の映画「ビューティフル・マインド」をもう一度観て、隅から隅まで覚えているのに、やはり感動した。涙が熱く膨れた。幻覚の人たちを透視するように無視し、むしろ愛すらもって身内にとりこんでしまうことで、心身の荒廃を自ら克服してしまうノーベル賞数学者の、人類に対する豊かな論理的貢献。それへ周囲からのすばらしい深い尊敬。だが、それ以上に感動した、そんな病害と荒廃とを体験した夫から、妻は一歩も身を退くことなく、いかなる幻覚にも勝る本当の現実は、脳でも言葉でもない此処に在ると、互いの頬に手を触れ胸に手を当て合って、底知れない信頼と愛とを倍加して行く、その健康な本能的な「からだ」感覚の深さ。わたしはこれに敬服し感動した。
人は、けっしてマインド(分別・思考)や言葉では愛せない。幻像を拒むだけではボロボロになってゆく。幻像は在るもの、だが幻像は幻像だとおもって存在をゆるしてやれる余裕。その余裕を真実確保してくれるのは健康でリアリティを喪わない「からだ」感覚の満足。性の充足。
2006 2・19 53

* この間メールをもらったばかりのペンの同僚会員(作家)が、MIXIに入ってきたのにビックリした。わたしのホームページを見ていたそうだ。見ていると、小説家志望の人は何人もいる。本気で小説家になろうという人には、わたしは日々の駄文や戯文書きはすすめない。本気の人ほど、片々とした文章も、文体はいかにもあれ、書き散らしクセは付けない方がイイ。抜け出せなくなるから。
2006 2・20 53

* 言っていること、かなりよく分かる。わたしは、MIXIの中で、韜晦して隠れている気はなかった。それでは誰よりも自分に対し、気遣ったり或る程度心にもなくいろいろに自己修正を強いられる。それは御免。家にいてもペンにいても東工大にいても、京都でも東京でも、誰とでも、ほかならぬ「自分」のあるがままでいたい、その自由は捨てないのである。
「かなふはよし。かなひたがるはあしし」と利休は言った。利休の言葉の中で最も推服するのはこの「かなふはよし、かなひたがるは悪しし」である。かなひようがなければ、わたしはさっさと撤退する。
2006 2・23 53

* 一気にたくさん書かなくていい、たくさんでない方がいい、毎日書き継ぎやすく書きどまりどまり書けばいい。MIXIのごく若い男性の作品も読もうとしている。電子メディアの中から鑑賞に堪える花が咲いて欲しい。大人に読まれる、読んでもらうということは、願ってもないだいじなこと。わたしなどは、そう渇望していたものだ。よほど大才でない限り、自己満足で作家志望しても気取っても、大切な何かが足りない。しょせん文章が出来ていない、それは書き継いで継いで自分で見つけてゆかねばならない。
2006 2・24 53

* ミクシイ   わたしはもっぱら友人たちとの連絡に使っています。といいましても、頻繁にやりとりしているわけではありません。友人が日記やレビューを書けば、「元気にしてるな」と思い、「風邪ひいた」なんて書いてあれば、「お大事に」とコメントしたり。自分では書きません。参加したての頃は少し書きましたが、今はすっかりリード・オンリーになっています。
コミュニティ内に「イベント」を立てることのできるのは便利ですね。例えば、「飲み会を開催します」って誰かが音頭をとってくれれば、参加したい人は「参加する」ボタンをポチッと押し、コメントを残せばいいのですから。
わたしの加入しているコミュニティは、全員顔見知りの、ごく少人数のものです。
風をミクシイに招待した方は、ひょっとして、コミュニティに入ってほしかったのかも。
さて、会議の帰り、風は何かおいしいもの召し上がったかしらん。 花

* 百万人も加入しているというのも、ひょっとして過剰なデマゴーグではないのかも知れない。しかし、この人がどういう名乗りで加入しているのか、検索しても見つからない。そんな「忍術」をわたしはつかわず生真面目に名乗って出た。
小説が書きたい、書いている、作家になって食べて行きたい、という人たちの声が、ほの聞こえてくる。だがたいてい書いている作品は、MIXI上では読めない。
こういう場所で、お互いに仲良く空気抜きをし合っているのが、或る意味「創作にはいちばん危険な誘惑」で、一過性の風邪のように創作熱が褪めて行きかねない。
わたしは、前々から幾らかは意識して電子メディア上に「いい若い書き手」がいないか、MIXI以前にも、インターネットを少し経巡ったけれど、思わしい出会いはなかった。めったになかった。おおかたが、何も文学・文藝について腹の括れていない、自己満足だけであった。
直接、わたしの所へ作品を寄越し、きついことを言われ言われながら、根気よく推敲し、また何作も書いて書いて書き溜めてきた人は、さすがに、確実にモノが見えてきている。早稲田文藝科ゼミでわたしの教室にいた角田光代がそうであった。
本気で書くなら孤独に負けず、いわゆる編輯者(わたしのような)とも出会い、毎日少しずつ年中欠かさず書き続けてたゆまない気力が、根気が、必要である。昔の、険悪なほど厳しい同人雑誌でもなく、ふわっとしたお仲間感覚で傷口を甘く舐めあっていても、「作者」への閾値はとうてい超えられない。まして「幸運」とも出会えない。そのことを、わたしは若い真面目な書き手志望の人たちのために懼れる。
MIXIが、自己満足だけの擬似作家を十万人つくってみても、文学・文藝の庭に華は咲かない。華には華の咲かせ方も咲き方もあるのだから。
2006 3・8 54

* 私はずっとライトノベルというジャンルの作家を目指して書いていました。同人誌の方も似たようなもので、十代から二十代の女性が読者層の話ばかりです。
ところが最近、率直な意見をくれる人に読んでもらったところ、「ライトノベル向けではない」と言われました。エンターテイメントを目指すのなら、特に文章の綺麗さは必要ないとも。
それで良くわからなくなってしまったのです。
上手く表現できているかわかりませんが…ずっと「あっちが前だ」と思っていた方向が、全然違う方向だったことに気付かされたというのか。
今の私はどこに向かって何を書けば良いのかわかりません。
ライトノベルで某出版社の編集さんから声をかけていただいたこともあります。けれども、「やった! とにかくデビュー!」という気にはなれなかった。あんなに作家になりたいと思っていたのに。
文章を書くプロになるということは、イコール、自分が書きたいものだけを書く、ということではないともわかっていたつもりでした。でも、だからこそ、どうせ無理をするのなら自分が選んだ場所で無理をしたい。自分が納得してその道に進みたいのです。
私は馬鹿みたいなことを言っているのかもしれません…ただ、秦先生を見つけた時に、「こっちが前かもしれない」と思ったのです。だから何でも良いからコンタクトを取ってみたくて緊張しながら話しかけさせてもらいました。もっとたくさん…秦先生の文章を読んでから感想を交えてメールしたいと思ったのに。
今回は、実はお願いがあってメールを書きました。勝手なお願いです、私の書いた小説を読んでいただきたいのです。ご迷惑でなければ──本当はご迷惑でもお願いしたいのです。けちょんけちょんに貶してくださってかまいません。一言だけでもお返事ください。よろしくお願いします。勝手な独白に付き合ってもらって恥ずかしいですが…私にとっては希望でもあります。重ねてよろしくお願いします。   濤 筑紫

* おそらく今日の作家志望のほとんどが、この方と似た足場で、「ライトノベル」での飛躍を夢みて「書いて」いるのだろう。
出版がますます自縄自縛の隘路にはまってきたとき、オニャンコ・クラブでも足りなくて、プチ・オニャンコを芸能界が発明したのと似て、通俗読み物の矮小軽薄版として「ライトノベル」を開発し商品化して行った状況を、わたしは、身を以てよく記憶している。この傾向は、パソコンの普及で、「読む人」なしの「書き手」ばっかり世間に嵌め込むには、恰好の商法だったし、今では「けいたいノベル」へさらに移行しつつある。
文学・文藝の内的な要請からではなく、IT社会での「斜陽出版」のたくみな読者と書き手への誘惑行為であった。質的にも、かつて「中間小説」という「オール読物」が盛行したのの、あれよりももっと低俗な狙いであった。文学史はそこで溶解し、残滓のように見捨てられた。
質的に成功をおさめえたライト・ノベリストが、いないのではない、めったにはいないし、出ない、だけの話である。
では、世に出た人は、なぜ出たか。皮肉を言えばクダラナイから出られた人もある。しかし良いから出られた人のことを言わねばウソだろう。やはり、良かったから出られたのである。結果として「ライトノベル向きでない」文藝の磨かれたものが、幸いに文藝作品の埒内へ入ってきたのである。どんな通俗のものにも、そういう優れた佳いものが出て来るのは間違いないが、「ライトノベル」で行きますという無意味な自覚だけでは、たぶんお話にもならないだろう。
くだらないテレビドラマを、何の表現意欲もなく註文に任せ書き散らして数をこなしているプロもいる、が、少しでも心行く表現や批評やより良い面白さの開発を意欲している人は、仕事自体に発展と洗練とが自然に出て来て、個性が突出してくる。身贔屓を言うのではない。『推理小説』(河出書房)や新刊『チェケラッチョ!』(講談社) で、小説家としても「売って」きた秦建日子も、ライトどころか「フライ=蠅」のような吹けば飛びそうな軽い脚本の仕事からはじめ、或る程度まで、独特のセリフや場面やト書きの世界がもてるようになってきた。フライ・ワークに到底満足していなかったから、早い遅いは別にして、出来てきたことだ。
おやじは最近オレに点が甘いと心配しているそうだが、どんなに、むちゃくちゃ「ばかか、おまえ」を言われ続けてきたか。少しでも「心行く仕事」へ這い寄り近づいて欲しい、と子離れのしないオヤジは望み続けて、ほとんど褒めてやったことはなかった、何年も何年も。よくつづけた。
「物書き・創作」は、ジャンルは何であれ「文藝」なのであり、文藝の結果は、良いか良くないか、しかない。逃げ口上は無い。ジャンルや世間に媚びて言い訳ばかり用意していては、ますます、ダメのままである。
問題は、それで売れるか、であろう。いま売れるとことは「異例」に属している。建日子の本の売れているのも異例の一つで、実力以上の「幸運」なのである。幸運はしかし気楽につかめるものでない。リッチでゆくか、フェイマスを願うか。覚悟はそれしかなく、どっちの道も、九割九分九厘、難しいのである。
書いたものを、ともあれカタチに出来るパソコンというツールは、売れない書き手志望には、悪魔の甘い誘惑に違いない。

* だが文章を書くからえらいわけでは、何にもない。すばらしい人はどこにもいる。世間的にすばらしくなくても、そこでそうして生きている、存在しているだけで、快い、心地よい、嬉しくなるような人がいる。逆に、実のない、だんだんにツマラナイ人もいる。そういう人には、この年になってもなりたくない。
2006 3・9 54

* まだ木挽町、歌舞伎座春芝居のよろしかったのに、揺すられつづけている。
何に、わたしはああ歓んで、ああも舞台に涙していたのだろう、と思う。
分かっている。高麗屋や成駒屋や音羽屋らの演技の、また作劇や演出の、と謂ったところを突き抜き、要するに、真実惚れ合い愛し合った男女の、無垢に「深い心」に共感し、涙流していたのだった。椀久と松山太夫、また「近頃河原の達引」のお俊・伝兵衛。恋人同士と謂うではないが「吉野山」での静と狐忠信。みな、一と一とが相寄って、二人でなく「一つ」に溶けあい、澄んだ炎と炎とが寄って一つに燃えるに同じい至福を生き、また死んでいた。いま齢七十郎のわたしが、なお彼等の相慕う愛を、この世にふたつとない金無垢と感じ、歓べる。行く果てが、たとえ人目に悲劇であっても、そんなことは、どんなことでもありはしない。かれらはみな「私=我=自分」を超えていた。あの間柄、あれが「身内」だとわたしは考える。恋愛だけでない、もっと異なった広い場でも優に在りうる「身内」の関わりを想いながら、わたしは嬉しさに涙を流した。菊之助も福助も秀太郎も、それぞれに美しい女達であった。
2006 3・12 54

* 昼から、渋谷のパルコ劇場へ、染五郎たちに逢いに行く。MIXIには、彼をうまい「肴」にしたコミュニティも出来ているらしい。ヘェー。
楽しそうなとMIXIをさすらっていると、好きな藝能畑の花がたくさん咲いている。茶の湯、能・狂言、歌舞伎、舞踊。落語など話藝の方も、音曲も。子供の頃から何十年、しっかり付き合ってきた世界であるが、好き仲間はあまり持たなかった。ひとり著書にし、小説に書いてきた。
その一方でもう二十年余、ペンクラブではウルサイ言論表現委員を務めて、佐野洋や猪瀬直樹といっしょに奮励してきた。最先端の電子メディア委員会も創設した。電子文藝館も開館させた。
わたしは子供の頃から根っからの、野党。政治に目を放してて、佳い藝能は楽しめない・味わえないと考えている。佳い藝能は野に咲く花でこそ美しい。勲章や位階を戴く藝人さんは、どこか気の毒に痩せてみえるのだが。
2006 3・14 54

* 「比較」という「批評」や「分別」が昂然と、トクトクと学問のジャンルにすらなっているが、ナニ、たいしたことではない。太古来、人は、日々に比較し分別し選択して暮らしてきた。逆にそういうことを「一切するな」と命じられたら、インテリも、そうでないのも、みんなヘキエキして狂うだろう。比較しない、分別しない、選択しない。これが「無心=静かな心」への、初歩でほぼ終点なのだから。わたしなんぞの、求めて出来ることでは、ない。情けない。情けない。
僅かな間、東工大に教授室をもっていた。もっと前には二年間であったが早稲田の文藝科で、いま花盛りの角田光代らの創作の勉強に付き合った。
教授会に象徴される学内行政には、小指の先も触れる気がなかった、ただただ学生達とよく話した。東工大の教授室はいつも近隣からヘキエキされるほど学生の談笑で賑わった。大学生という名の知識人またはその卵達の内面をなるべく深く覗き込んで、それに応えられるだけ応えたかった。同僚の先生方の多くが、はなから学生達の「幼稚さ」に絶望気味だったが、わたしは彼等の内深くに隠れている言葉を、思いを、せいいっぱい引き出した。わずか四年間で、東工大のわたしの学生達は、一冊(原稿用紙)三百五十枚勘定の単行本ならば、実に「百冊分」をわたし宛に書いて提出しつづけ、わたしは悉くを読んだのである。
その体験が、禍い? してか、たとえば、今わたしの孫娘は、やがて大学二年、秋には選挙権も手にするけれど、日々に書いているブログ記事など読んでいると、これが本当にこの子の深くから湧き出る自分の言葉なんだろうか、毎日毎日これっきりなんだろうか、これでは「言葉」そのものが下痢のようなもんだなあと、つい分別し批評してしまう。したくなくても、してしまう。とっても、つらいイヤな気分である。
分かっている。よけいなお世話なのである。
だが、言葉は「生き」の現場をはたらかせる血潮のようなもの。そうもそうも、これはハレの言葉です、これは気楽なケの言葉です、ちょっと軽く道化てみせてます、とは、したり顔に使い分けの利かない、気難しい、イヤーな生きもの、それが言葉。
おセンチに、トホホめいて、下痢のようにしか書かない話さないでいると、そのクセは、大事な肌にも表情にも立居振舞い、ファッション・センスにまでしみついて、そういう汚染(しみ)ほど、とても拭き取れない。
一度だけ、「闇」に言う気で、書いておく。おじいちゃんが、こんな場所でエンゼツしているとは、孫はまるで知らないのである。 2006 3・20 54

* 朝いちばんに、こういうメールを読むと、わたしの胸も生彩を得てふくらむ。意識的で、気迫にみちた、優れた大学生だった。東工大には、こういう学生たちが大勢いて、打てばよく響いてくれた。教授は幸福であった。
もっとも他の教授達は学生の幼稚をあざけり言うのを常としていたが、それを言うなら一つには先生方も幼稚だった。東工大の教授会では、「文学・藝術」など本学学生に必要だろうか、という疑念がかなり流布されていて、人文社会系や語学系の先生達はへんに卑屈に縮かんでいたように思う。西欧の、古典教育を真っ先に重んじる学術伝統からすれば、井の中の蛙たちの、まさに幼稚で偏頗な専攻バカというものであった。「理」の基盤が「文」であることを忘れた先生達というしかなかった。
むしろ学生達のなかに、落ち着いた姿勢や考え方がうかがえて、頼もしかった。この卒業生もその一人だった。たしか一、二年ともわたしの教室に出ていて、書いて提出してくれる筆致・筆触も記憶にある。いまでは、わたしから依頼の原稿も書いてくれる。京都で、梅原猛さんらと出している「美術京都」に、「糊」の研究に関して長い論説を寄稿してくれた。東洋、日本の美術で精製された「糊」の役割は素人の想像がきかないぐらい深い、大きい、が、そんな糊の生産には、さらに輪をかけて気の遠くなりそうな歳月のはたらきを必要とする。この人はその「糊」生産の画期的な手法を発明したと聞いている。今度の京都での会議でそれを読むことができる。(たぶん)大きいお腹をかかえたまま書いてくれた。有り難う。

* 秦先生  春ですね。  典
子どもと毎日幼稚園の送迎で歩いていると、朝な夕なに木蓮の蕾がふくらんでいくのがよくわかります。
沈丁花が香る中、つくしやたんぽぽを摘んだり、自分も娘と一緒に心をほぐしています。そのついでに、ついつい花の構成要素や植物の分類について教え込んでしまうのが、理科系の悲しきサガですが、まだやわらかい五歳児の中で湧く、「水仙は、白い花びらがちゃんとあるのに、どうして内側にもう一つオレンジの花びらもあるの?」などという疑問に真面目に答えると、行き着く先は理系的回答になってしまうのです。
花を愛でるという感受性と、そこから一緒に湧く「なんでやろ」の気持ち、これが人間の基本なのだろうな、と思ったりもします。
先生が(「本の少々」の連載中に)問題提起していらした、海外(へ、一作家の自分が出向いて)、もしユビキタスや半導体について知らなくてもバカにされないだろうが、理系人間が日本文化について(まるで)話せないと<
「じろっと見られる」という点についての、一つの答えになりませんか。
昔、数学者の岡潔氏が情緒の上に知識が成り立つ、と書いていらっしゃいましたが、まさにその通りで、ユビキタスや半導体については「知識」です。でも、花が美しいという感情、母国の言葉で作る藝術(和歌など)を心地よいと
思う感情は、「知識」以前の「情緒」に関わる問題だからではないでしょうか。
エリート教育が今でもラテン語とギリシア神話から始まる欧米圏では、その部分の欠如している知識層は、やはり相手にされにくいのでしょう。
ところで、ようやく先週、すべての仕事が終わりました。「糊」の原稿も書かせて頂きました。
こんなに長く書ききれるだろうかと思いつつ書き始めたのですが、意外にもあっという間に終わる長さでした。人間、いつも胸の中にころころと転がしているものを表出するチャンスを頂くと、一気に噴出するものですね。
ただ、内容的には美術系の方にどこまで説明するべきか、釈迦に説法の部分もあるだろうし、分析などの部分は説明不足のところもあるだろうし、といろいろ思い悩んだので、とりあえずお送りしてみたものの、編集の方のご意見を頂ければ直していきたいと思っております。
二人目は予定日より早く産まれる、と聞きますが、どうもそういう体質ではないようで、バタバタと論文を書き終え、EMSで送り出したのがちょうど一週間前。その後、もっと寒い時期にしておきたかった味噌の仕込みや、私の入院中のパンや食べ物の冷凍食の作り溜めを終えると、臨月という機動力のない中で、少し手持ち無沙汰になりました。
普段ならば、この時期自由な時間をもらえれば、お弁当を持って子どもと裏山に登ったり、自転車で海に出かけたりするのですが…。大好きな庭仕事も、お腹がつかえて苦しいやら。海だけは先日出かけて、この季節に多く打ち上げられる桜貝をたくさん拾ってきましたが。
冬中、娘と二人の時は裁縫を教えたり料理を一緒にしたり、と、家でやることを随分やってきたので、少し外に出たいなぁと思っているのですが、いまここでこぼれる春の日差しの中、あまり身軽に動けないとせっかくの自由時間、もったいないような。
思わず、うちに実験室があったらなぁ、と思ってしまったり。
どうも私は受動的な作業ばかりだと、手すさびがほしくなるようです。読書も、純粋に楽しむのも人並み以上に大好きですが、自分の研究のために文献を探すという「攻め」の姿勢の読み込みだと、また脳みその使用部分が違うような感触がします。
手元に送られてきた学術雑誌の中に、自分の研究と関連の深いものが載っていたりすると、吸い寄せられるような心持ちです。
話は変わりますが、「いい日旅立ち」という歌をご存知ですか。山口百恵が歌っていた谷村新司の曲です。
その中の、「日本のどこかに私を待ってる人がいる」というフレーズがあるのですが、産休に入る直前、いろいろな人が挨拶してくれる中で、この部分が私の頭の中でぐるぐるとまわっていました。実は歌詞の本当の意味は私の状況とは逆で、そういう人がいるから旅立つ、という意味なのですが、私のほうは、仕事の関係で知り合った実にたくさんの方達が、口々に「早く帰ってきて下さいね」とおっしゃって下さり、つくづく自分は幸せ者だと痛感していました。
特に京都のある会社の社長さんが、「あんた、ようやってくれはったのに…。待ってますわ」とおっしゃって下さった時は、ぐっときました。京ことばって、本当に胸にしみいる力がありますね。
数日前、職場から転送されてきた郵便物の中に、見知らぬ海外の方からのものがあり、私の研究を読んだので四月に日本に行く時に是非訪問したいと書かれており、上司を紹介して、残念ながらお断りのeメールを出しました。すぐに、今回は残念だけれどまたの機会に、と書いてきて下さり、「待ってくれている人がいる」という思いがまたしても湧きました。
子どもに365日、24時間のほとんどを割いている他のお母さん達を見ていると、本当に娘に申し訳ない、と思いつつ、それでも自分を待ってくれている人がいるという思いは、私のようにあまり強くない精神力の人間には生きていく 大きな支えになります。
またしても長くなりました。
あまりご体調がすぐれないご様子。くれぐれもご自愛くださいませ。

* はい、有り難う。

* 「エリート教育が今でもラテン語とギリシア神話から始まる欧米圏では、その部分の欠如している知識層は、やはり相手にされにくいのでしょう」という個所に、目がとまる。「ペン電子文藝館」の「評論・研究」室に展示した、田中美知太郎先生の「古典教育雑感」を読んだ感銘をわたしは忘れない。
この卒業生が指摘している欧米の教育の基本姿勢が日本の上級教育に根から欠けている貧しさ、これが人間の魅力へもおよんで、まだまだ日本を本当に豊かにしていない。よい国、よい政治、よい選挙。その鍵になるのは国民の「国語」が豊かであるか確かであるか、それだけだと碩学柳田国男は言うていたのである。わたしは、称讃し賛同する。
2006 3・21 54

* (或る作者に。)  読者からすると、この、経営者側の一員めく世間通の大人と、他社の平社員の独身女性との、通りすがり一過性の情事とも見にくい「深い仲」、その仲を保たせているお互いの「動機」のかみ合い、を、より緊密に納得させて欲しい要望があると思いますね。
とくに「男」の側に。
とくべつ取り柄もなさそうに書かれている「女」を、どんな魅惑を覚えて「男」は抱き寄せているのか、それが読者の何より「読みたい」理由になるでしょう。女の、或る意味類のない特別なアイデンティティが、小説として要求されているのと、表裏・同義です。
単に「出会いありき」でなく、出会いは気まぐれでもいい、が、それが「続いて」いる、続けさせている「二人」の必然、「小説」としての強いバネ、を、作者は説得力豊かに、巧みに面白く、作品に仕掛けなければなりません。SMめいてくるエンディングに疑義を示したのは、いま言う「作の本質」とよく関わらせないと、そういう異様な場面づくり自体が中途半端になるか、余計なはみ出しになる、と見たから。
二人、互いに、他社の役員と平社員、折島さんと毬子、家庭のある大人と独身の若い女。そういうかなりの「距離」を埋めるに足る切なる接着剤は、男にはナニで、女にはナニか。そのアンバランスがバランスされて行く、必然の「過程」。それがこの「あくまで小説」の、ぜひ書き取るべき題材で、主題で、動機になる。読者はそれを要求してやまないでしょう。そして十分に書き切れれば、『あなたのそばへ』という題は、たいへん魅力的な題になるでしょう。

* この点を、当然、乗り越えないといけませんね。ウーン、がんばって推敲します。
周囲からしたら何の変哲もない同士が、互いに特別なものを感じ合うのが「恋」・・・、そんなふうに「折島さん」と「毬子」の関係を書きたいなあと考えています。
強風の日がつづきますね。花粉、お大事に。今朝は、洗濯してスッキリ、です。
でかける日は、こわくて洗濯物を外に干せません。にわかに強風になり、洗濯物が飛んでいってしまう恐れがありますので(以前、隣の家のベランダに入り込んでしまい大変でした)。
というわけで、今日は家にいます。WBCもありますし。
日本がピンチになると、見ていられなくてチャンネルを変えてしまいます。今日の中継は、ご覧になるかしらん。
凄まじい強風のおかげで遠山なみが大きく澄んで見えています。 花

* (作者に) 折島さんと毬とのことは、折島さんには彼なりの、毬には彼女なりの、成熟して行くいわばフィロソフィーとフィロソフィーとが、(観念的にでなく)「一つ」の焔に溶けあう「強さ」として「表現」できるかどうか。
あまり異様な設定を試みると、むしろそこへ視線や関心を逸らしてしまうかもしれない。表面はあたりまえに普通でも、或る揺るぎの少ない諦念や確信、それを「読者」という気むずかしい存在に対し「説得」できるかどうか。
性ぬきでありえないにかかわらず、それは時間の問題で確実に前面からは退潮せざるを得ないでしょう。その切なさとのもみ合いの中で、何が、二人の「一つ」を守りうると信じられるか。それが作者のかかえこんだ創作上の課題です。さらりとさりげない「かい撫で」だけで逃げこむには、逃げ切れない、また把握しきれない、手強い課題です。踏み込んでつよく書かないと、力不足で作品が崩れてしまいます。小手先はだめ。
作者ははじめて「思想」「哲学」の課題を抱き込んだわけです。観念や理窟でなく、「表現」「描写」で書ききること。それはもう「恋」を超えてゆく「人間」ないしは女(男)を書くということです。気取ってもいけない。避けても飾ってもいけない。作の品位も大切です。
そのためにはあくまで「真情」を瞬間風速のように随処に迸らせること、リアルで、しかも新鮮なことばと、表現で。ムリに気負わないこと。「思い」をみつめて。想像力を行き渡らせて。しかも氷山の一角を、印象的にクリアに書くように。場面場面からニゲないように。
キューバ戦、観ます。はらはらすると、逃げ出すのでしょう。わたしも、わたしが応援していると負けるんじゃないかなんてリクツつけてね。好ゲームを期待しています。
2006 3・21 54

* 称讃は、百人分で一人分。(激励も含んだ)批判ないし非難は、一人で百人分と受け取るべきである。わたしが出版すれば百人の称讃はすぐにも届いてくる。批判や非難はめったなことで来るモノでない。しかし、上のように思っている。苛酷なこの事実に堪えられなくては、創作者にはなれない。
称讃だけはホイホイ受け容れ、厳しい批評からは背を向けてしまう例は、娘朝日子の実例もふくめ、その方が圧倒的に多い。脆弱な神経では当然だろう。
だが、そんなふうに都合よく身につけてしまう安直な自負心は、猛毒である。この毒はたいした美味なので、簡単に嚥下・賞味されてしまう。毒のまわりは早く激しく、折角の才能を速やかに蝕んでしまう。
子供は褒めて育てても良い。しかし大人は、たとえ善意で褒められていても、当人の愚かさにより我から褒め殺しにあう。すこしも早く気が付いたほうがいい。謙虚も、大きな大きな才能なのである。
2006 3・22 54

* ひるすぎの四谷土手で、かすむ青空をふりあおぎ櫻の幻をみた、何年前か。四谷から市谷までの土手を櫻に酔って歩いたことも。何年前か。神楽坂を下り、法政の前の土手を散る花にまみれて市谷まで妻と歩いた、あれは去年。今年は、まだ「土手の花見」をしない。
『土手の花見』という随筆集を、亡き伊馬春部さんに貰ったのは、何十年前か。年年歳歳花相似 歳歳年年人不同。これぐらい手厳しい詩句はすくない。

* いちど眼をとじると、引きこまれるようにふっつり闇に沈透いて、寝入ってしまう。息づかいにおどろいて眼をあく。闇と、眼前の器械画面との落差に、ビックリする。
2006 3・28 54

* しばらくぶりにバルセロナから、読みでのある、好いメール。
元気そうなのと、五月にまた帰ってくるというのが、ことに好い。書きたくて、書かずにおれなくて送られてくるメールがいい。習慣か日課か義務のように書いていると、メールの力は落ちてしまう。メールが抱き柱になってしまう。それでも好いメールは、嬉しく懐かしい便りであり、日々生き生きとあるための頼り=手依りでもある。そんな便りをまた毎日のように交わせることも、幸せの一つに数えていい。
一期一会。繰り返しの一度一度が一生に一度かのように繰り返せるなら、好い。
しげしげと送ってきてた人のメールが、ぱたっととまることもある。なにか事情があるのかも知れないが、それもこれも人の世の「常」にちがいない。そのようにして、この旅上、人は人に出会い人と別れる。「行き交う人もまた旅人なり。」狭い国土では、必ずしも永の別れと限らない。またひょこっと出会うこともある。それも楽しみの一つに数えるに足るだろう、若い人達には当たり前に。
ただ、わたしのように、なんだか生きるエンジンがはたと停まったかも知れない老境には、逢いたいと思う誰彼とのまた逢う日は、あまり残されていない。それも「常」の一つと数えていた方が良い。
2006 3・31 54

* 「文字で漫画(映像)を書いている」と自分の小説作法を自己批評している人が、mixi にいた。この傾向は、昨今のひろいひろい文藝の範囲にあてはまり、存外に一般化のきく批評に想える。わたしも、そのように批評してきた気がする。秦建日子の出て間もない小説も、そういう一面を明らかに持っていた。
一般に文学を、絵画として書こうという気に普通はなりやすい。だがわたしの考えはちがう。
文学の本来は、文体という「音楽」の一種であろうと考える。どのように映像的に描写したつもりでいても、ことばが独自の生気で琴線に響いて活躍しなければ、文藝としては限りなく通俗化し、暇つぶしの読み物でおわる。読み物としてとくべつ面白いわけでないたとえば志賀直哉が、「小説の神様」とまで作品を敬愛されたのは、(是非はともかく、)彼の文章・文体が高度に緊密な音楽性を表現していたからだ。それが故にまた生き生きとモノが、コトが、ヒトが、見えたのである、読者の目にも。わたしは、そう理解してきた。
ほとんど漫画しか見ずに育ち、その人がいま言葉で小説を書き作家になりたいと思い、上のように述懐している。そして作品を都合三作わたしのもとへ送ってきたが、なるほど文字で漫画を書いている。このことは、もう少し続けて考えてみる。
2006 3・31 54

* 名古屋市大の、もう「教授」になったか、なるであろう谷口幸代さんから「もう一つの与謝蕪村論の軌跡」と副題した論文を贈られた。戯小説『あやつり春風馬堤曲』にふれてわたしの名もちらと出ている。谷口さんは東工大時代のわたしの副手としてお茶の水の大学院から通ってきてくれていた。美しき才媛であった。

* 谷口さんはどうしているかなあと想っていました。いっぺん、そうっと教室の後ろの方へ忍び寄って講義を聴き、ハイと手をあげて質問してみたいなあと夢に見ています。ほんと。わたしに気が付いて、すこしあわてて白い顔をうす紅くしてくれたらどんなに楽しくて嬉しいだろうと。ほんと。
小林太市郎先生に出逢ったのは、「美学」に例の論文『春風馬堤曲』が出てすぐでした。頭の奧に一度ていねいに沈めて、ずうっと、芋をふかすように頭の中でふかしていました。
二度目に出逢ったのは「淡交」に『芸術の理解のために』が連載されたときで、愛読し耽読しました。単行本になるとすぐ手に入れ、手擦れて表紙の歪んだ本は今も持っていますが、わたしには、「淡交」という雑誌が、えもいわれぬ小説への種本ふうの刺戟ブツでした。「畜生塚」「蝶の皿」「秘色」「青井戸」「隠沼」「底冷え」そして「加賀少納言」は、「淡交」のちょっとした記事や写真をヒントに想像していったものです。ことに『加賀少納言』こそは、小林の『芸術の理解のために』連載を読んでこそ書けたのです。読んでなかったら思い至るとしても、もっともっと遅れたでしょう。発想はそんなに古いのです、あれは。
たんに小説だけでなく、小林のあの連載は、わたしの思想にもつよい感化を及ぼしました。たとえば、「こころ」を頼れないものと感じ、むしろ「からだ」を重んじて、先ず「手ことば」を始めに「からだ言葉」に取りついていったのも、小林美学の感化です。あるいは「花と風」の認識にも他界をみる視線にも、小林太市郎、というよりもあの連載そのものが濃い影を落としているかも知れません。そしてむろん『あやつり春風馬堤曲』にも。
わたしの小説『誘惑』について書かれたのって、わたし読ませて貰ったかな。恥ずかしくて忘れたのかなあ。
ありがとう。またいろいろ読ませて下さい。元気で、幸せでいてください。 湖

* *さん  メールで直接対話ができるのですから、マイミクシイは不要ではありませんか。
「文学する」方面のことは、公開の場でコメントをやりとりするより、孤独な密室でねばり強く思いを励まされることをすすめます。文学の創作は、ことに小説は、孤独に耐えてするしかない仕事です。おしゃべりで少しずつ空気抜きをしていると、真摯に充満するのを妨げます。
「書く」ちからは「読む」ちからでもあります。「読める」から「書ける」とは限りませんが、「読め」なくては「書け」ない。何故ならかんじんの自分の作品が批評できないからです。的確に自作の批評ができなくて、適切な構想や、適切な文章表現や、適切な推敲ができるわけがないからです。「書ける」人の備えている才能とは、例外なく「読める」ちからです。「作家」とは、まっさきに自身の書く作品を読む「批評家」なのです。その批評が厳しいか、いい加減かが作品に反映します。
本当に作家になりたい人は、また、孤独です。仲間褒めで傷口を甘く舐めあってお喋りしていても、「作家ごっこ」にしかならない。昔の厳しく厳しい同人雑誌の雰囲気は今はありません。ミクシイでも、「書きたい」「作家になりたい」人のほとんどが、「作家ゴッコ」をしているだけです。作品をミクシイに公開して、批評批判を受けているわけではない。
いちばんの方法は、あなたの作品を、ミクシイの「日記欄」に少しずつ連載してごらんなさい。それを人がどう「読むか」を素直に受け容れてみられるといい。誰が褒め、誰が批判するか。見たところ誰もそれをしていない。書きたい人は、それを実行してみたらいい、おしゃべりなんかしていないで。 湖
2006 4・1 55

* お作落手、御馳走も頂戴しました。 口あたり宜しく、おいしく頂いています。
新しい作品、作意あるところ、理解しました。
私小説には壁があり、突き当たって突き破るか、立ち止まるかの二つの道しかないようです。いずれにせよ「客愁」を抱いて歩く旅人です、われわれは。 湖

*  **さんからの転送により、メール拝受いたしました。
手探りの独歩に光の差しこむのを感得しております。よき先導者を得たものと感謝しております。
送りました「蕎麦まがい」抹茶入りうどん、お口にあいましたか。そのことばかりが気になっております。ご承知のとおり「讃岐うどん」は働くことに忙しくて暇のない貧乏人の食するもので、昨今のブームにはおどろくばかりですが、単純な食ゆえに飽きのこないものがもとめられるそのわずかな差異を求めて各地から人が寄ってくるようです。余談ですが、ずっと以前に直木賞を受賞した芦原すなおは、何度かクラスを共にしたわたしの中学、高校、大学の同級生なのですが、彼は「讃岐うどん」の推奨者でもあって、うどん店にいくたびに、彼の顔(むろんポスターに大きく写ったそれですが)に出会って、ひとりで旧交を暖めております。  六

* *さん  二作拝見しました。「字で漫画を書いている」といわれるのが、すこし分かりました。
二編とも、おはなしは汲み取れます。ふたつとも思春期・青春期の世界ですが、これはあなたの書いている「場」「註文主」がそういうのを商品化しているのですか。あなたの必然の動機で書いたのですか。その辺はわたしには分かりませんが、お話としては通じます。会話は、かなりリアルなのでしょうね。だから、会話を漫画の吹き出しに入れて、説明的なまたは効果的な画面があれば、もっと分かりいいのでしょうね。コントふうの筋書きとして、筋書きだけなら、微妙な青春期の肉感もともに伝わってきます。両方とも短編小説として完成させられる「素材としての可能性」は十分です。
ただ遺憾ながら、「小説」の文章としては、はなはだ稚拙で、叙事・叙述の前提になる「把握=隅々まで通る想像力」が弱く、当然「表現=言葉での描写」も弱い。ガタガタです。推敲がまるで出来ていない、というより、推敲のポイントがそもそも分かっていないのではないかと感じます。「ライトノベルは綺麗な文章でなくて構わない」と言われたそうですが、きれい・きたないの段階にも到達していない。「文字書き」と言いながら、文字で書かれた作品からでなく、絵で描かれた漫画でばかり「ストーリー」を楽しんできた欠陥が、そっくりそのまま表れています。
一つには、元へもどりますが、これがあなたの書きたくて書かずにおれない作品かどうか、動機の切実度が影響しているのかも知れません。つまり何か面白い「お話」をむりやり着想して、それを「字で書き」示したいのが一番の動機なのでは。しかし、それですら、そのお話を「文章で伝える」には相応の技術とセンスとが先ず必要な筈です。しかしあなたの会話をのぞく「地の文」の表現は、お世辞にもまともではありません。説明的で、その説明もギクシャクと不要なことも沢山書き、必要なところがぬけています。文章として結晶すべき「想像力」がいたく不足しているのです。それでは、折角のお話も、文藝としてのリアリティーは読者に伝え得ない。少なくも文藝としての「藝」のある小説を読んで、胸をゆすぶられたい「読める」「いい読者」の歯牙にはとてもかからないでしょう。
一つ譬えを。絵画の場合、四つの段階で鑑賞します、たとえば私は。
第一段階  そもそも、或いはまだまだ、繪になっていない。
第二段階  むりやり、ないし辛うじて繪につくっている。
第三段階  ともあれ繪には成っている。
第四段階  立派に繪に成っているだけでなく、いうにいわれぬ瞬間風速のような魅力(ファシネーション)を繪がはらんで、明瞭に感銘を与える。
表現手法が違うので即同じには謂えないにしても、小説にも、ほぼあてはまります。
これまで拝見した三作とも、第一段階の「まだまだ繪になっていない」繪にちかいですね。くやしくても、それを自覚して努力されないと、いま「(文学でなく)文字書き」意識にこびりついた難しい病気は、治りません。「文字書き」ではいけない。はっきりと佳い「文章・文体」を手に入れて「小説」を書く、また文学・文藝の作者になると覚悟を定めるべきです。成れる保証はじつは誰にも無いのですが。
最後に一つ言いますが、「いい」「おもしろい」という評価は、言葉は同じですが、たとえば源氏物語や夏目漱石や谷崎潤一郎にもいえるし、読み捨て消耗品の通俗読み物にも、まったく同じに下せるし、人数からすれば圧倒的に読み物のほうに人が寄ります。ところが、その通俗読み物ですら、最低限度必要なのは、最低限度の文章力なのです。しかし、目の見える批評家・読者からすれば、真に文学・文藝の文章と、消耗品的な売り物のそれとでは、比較にならない品質の差は歴然としているのです。分かりよく言えば、優れた藝術的小説は、歴然とした「文体(内在律としてはたらく音楽的・絵画的魅力)と独自の「表現言語」をもっており、読み物は説明の文章を連ねて筋書きを展開します。手垢の付いた言葉も、それがラクで早いと思えば平気で使って済ませています。
陥りやすいのは、「どうせ自分」は高望みしない、身の回りの仲間内(読者)で「おもしろいね、いいね」と言うてもらえれば満足という「志の切り下げ」にうしろめたく身を隠すこと。千人に九百九十人はそういう断念とともに「作家ごっこ」を遊び始めるのです。
きついことを言うけれど、わたしがまごころで助言できるのは、こういうことです。あとは、あなたの覚悟しだいなのです。
もっともっともっと咀嚼するように先輩作品を読んで、「文学的に純良な栄養を食すること」からやり直されるのを、わたしはお奨めしたい。「ペン電子文藝館」を一度でも開いてみましたか。現会員の作には残念ながら駄作も多いのであまり薦められないが、「歴代会長」作品から、井上靖「道」井上ひさし「あくる朝の蝉」川端康成「片腕」島崎藤村「嵐」「伸び盛り」芹沢光治良「死者との対話」「ブルジョワ」などを先ずは試みに落ち着いて読まれては如何。 湖

* メールをありがとうございました。
読む以前から文章の長さに驚き、全く顔も知れない相手に、真剣に向かい合ってくださった上、時間と心を砕いてくださったことがわかりました。もうありがとうございますという言葉さえ追いつかない気がします。
私は…友達にも指摘されましたが、基本的に相手の反応が欲しくて文章を書く、何かを訴える、同人誌を作る、そういったことをしてきたようです。そして、さいわいにもなぜか周りにかまってくれる人がいて…時には先生のように導いてくださった人がいて、くじければ「大丈夫だよ」と言ってくれる人が現れた。多分それで充分だった、充分だと思い込んでいました。
でも、ちょうど去年の今頃です、ライトノベル系の編集者の人から声がかかりました。嬉しがって有頂天になれれば良かったのに、私は腹が立った。
先生、今ライトノベルの分野の…本当に一番底辺にありながら、若い人たちが発売日を待って一生懸命に購入して、しかも購入した傍から古本屋で売りさばくような小説ジャンルがあるのをご存知ですか。読者層は、先生のHPで「いちびった」と表現されるような女の子たちです。彼女たちは(もしくは彼もいるのかもしれません)、彼女たちなりに真剣にその小説を読む。時には涙を流して感動する。彼女たちが欲しがるのは、文章が優れているか優れてないかではなく、ただ単純に「心が動く」ことです。心さえ動けば、つまらなくてもおもしろくてもいい。私がずっと書いていたのは、そういった分野でのことでした。
もう十年以上、そういった分野で書いてきました。個人出版…と言えるほどきちんとしたものではないですが、本も一年に五冊以上は作ってきています。単純計算でも十年で五十冊。そして今、私の同人誌を購入してくれる女の子たちは1800人になりました。東京の展示即売会で新しい本を販売すると、一日に800人の女の子が私の前に並んで本を買ってくれる。……決して自慢したくて話しているわけではありません。そういった状況で──だからこそ、先ほども話したライトノベルの編集者さんが声をかけてくれたのです。
でも、信じられますか、先生。その編集者さんは、私が出した本をたった二冊見ただだけで声をかけたそうです。しかも電話で話してみたら、話の感想なんかひとつもまともに出てこなかった。編集者さんが見たのは、本の内容などではなく、私の前にできた列と文章の触りだけだったのでしょう。ずっと内緒にしてきましたが、私は個人HPも持っています。そこには今回先生にも読んでいただいた話が掲載されていました、もちろん本にもURLを書いていた、そして編集者さんはHPも見てはいなかった。
私が馬鹿だったのだと思います。
自分では真剣に書いてきたつもりだったのですが、真剣になっていたのがそういう世界だと気付いていなかった。そして、私の文章を読まずに「本を出しませんか」と声をかけてきた出版社に腹を立てた。せめて読んでほしかったのです。自分が書くものに対する評価としてスカウトを受け入れたかった。
多分それからなのです。文章を書きたいと真剣に思い始めたのは。書きたくてあがいて、読んでほしくて叫んで。でも自分に読ませる技術がなかったことに今更ながらに気付いて愕然とした。何をしなければいけないのかわからず、本当に慌てて自分の中にあるものを書こうとした。……今まではそれでどうにかなっていたから、これからもそれでどうにかなると思った。先生にとっては「いちびった」女の子たちでも、私にとってはかけがえのない読者さんがいた。書いてほしいと言われると嬉しかった。技術の足らない文章でも喜んでくれることが誇らしかった。
けれども……何だかやっぱり駄目なのです、もうそれだけでは駄目なのだと思います。自分が満足できない。自分を誇りに思えない。
すごく勉強したいです。先生がアドバイスをくださったように本を読んでどうにかなるならどうにかしたい。今の私には、こういう表現しかできません。優れた文学がどういったものか全くわからないし、本を読んで本当にどうにかなるのか、何が見つかるのか、何も見つけられないのか、そういうこともわからない。不安でたまらない。でも何かしなきゃ……今いる場所から動けないのがとても苦しい。
覚悟は決まらないままです。本当に私などに、先生の言う「文藝」が創れるのか自信がない。書きたいものが、本当に「これを吐き出さなければ死ぬ」と思うようなものかわからない。
ただ、人が喜んでくれると嬉しい。ふと時間が余ると何か書かなきゃと思う。書いていると自分が安定する。書くことで生きている気がする。書いていたいと思う。だからちゃんと書きたい。書くための技術が欲しい。結果として選ぶ世界は、自分が一度腹を立てて拒絶した世界になるのかもしれません。でも、その世界にいても…もっと違う世界に行くとしても、自分を支えるために必要なものを手に入れなければならないと思います。
たくさん読んでみようと思います。とにかくまずは「ペン電子文藝館」から。言葉を言葉として素直に受け入れることから頑張ろうと思います。どのくらい時間がかかるのかわからないですが、自分が不安じゃなくなるまで読んでみます。
私の書いた話を批評してくださってありがとうございました。
拙いと言われれば当たり前に落ち込みますが、でも読んでくださったこと自体が一番嬉しかった。心から感謝してます…ちゃんと伝わっていれば良いのですが。
長いメールもここまで読んでくださってありがとうございました。
体調が悪いとずっとおっしゃっていたのに…本当に長くなってしまってすみません。ミクシィは、元々自分のHPでぼやけないことをぼやきに来ていたのだと言ったら、先生は笑いますか。ミクシィにもし作品を掲載したら、私は多分2ちゃんねるあたりで口汚く噂されることでしょう…女の子たちの情報収集力は素晴らしく、そして無邪気に残忍なものらしいです(苦笑)。
きっとまた…これ読んでくださいと話を送りつけてしまいそうです。その時は、今より少しだけでもマシになっていたいと思います。頑張ります。  濤

* 一つだけ、即座に。 湖
長い手紙をこのように立派に分かりよく書けるのですから、ちゃんと書けるはずなのです。それがギクシャクするのはなぜか。過剰に肩に力が入っている、「小説」という文藝を、ワケ分からずに「意識」しすぎて「ツクッテ」しまっている、それだけです。(私の読んだ三作限りのことですが)。
まだお若いのです。志があるのなら、より良い方へ方へ歩み出られるように。
力のある読者ほど、「いい作家」と出逢いたがるように、書き手の方からも「いい読者」を求めます。世界的な作家ナボコフの求め、わたしも全く同感で、繰り返し書いてきた「いい読者」像は、
一 記憶力のいい読者。これは含蓄がふかいのです。読書に、自身の人生を静かに投げかけるようにして読んでくれる人のこと。
二 想像力に富んだ読者。言い換えれば言葉の背後や行間に自然に視野の及ぶ人。
三 辞書をひくことを億劫がらず、むしろ楽しめる人。
四 ちょっぴりでもいい藝術的・創作的なセンスのある読者。作の世界に自身も参加してそれぞれのプラスアルファを付け加えてくれ得る読者。
そして
五 繰り返し読んでくれる読者。真の読書が再読からはじまり愛読耽読に至る人。
優れた土地が旅人を何度も惹きつけるように、そんな作品を書き手は書きたいので、この五番目は、読者が求める「いい作者」の定義とも表裏します。
こんなことを考えてみたことがありましたか。

* こういうやりとりでは、どちらかといえば、「秦さん」の方へ顔を顰め、そんなことをしているヒマにと叱る人が多そうに思われ、首をすくめている。それに、こういう高らかな助言は助言にも成らないタワコトかも知れないのだから。わたしの内によほどよくない虫が棲んでいるらしい。嗤いたまうな。
2006 4・2 55

* 「価値観」という言葉が、とても新鮮に響き始めた時期が、我が国の近代史に、はっきり在ったと思う。マルクシズムが新鮮に日本の知識人を魅了したころから、インテリの普通の日常会話にも浸透した。女も、つかいはじめた。そしていつか、「価値観がちがう」「価値観を押し付けるな」という物言いで、自己主張したり、自己弁護や防禦もしたりするのは、すこしくインテリめく人や家庭の常套手段になった。昨今はむしろ「価値観」という言葉もあまり耳に目に、しなくなっている気がするが、どうか。
人にもよるだろう、が、わたしは「価値観を押し付けられる」という気に、あまり深刻になった覚えがない。互いの間で問題にする程度のことなら、自分にも自分のそこそこ価値観は用意できていて、議論も相談も出来たし、互いに考え方の摺り合わせがきいた。それが普通だった。
結果として、より良い価値ないし価値観を手にしてゆけばいいのだし、そもそも、これは京都人だからかもしれないが、価値決定の仕方に、「イエス」と「ノー」としか無いといった窮屈なことは、あまり無かった。だいたいのことに、「そうかもしれへんけど、ひょっとして、ちがうのとちがうやろか」と、いつも二枚腰というか、撓め腰というか、少し狡いともいえる緩衝地帯を胸に抱いていて、そこで調整する余裕があった。
かりに親や教師にきついことを言われても、一応承っておいて、やっぱり親や先生が言うとおりだと納得したり、少し時間をかけて既成事実で逆に説得したりした。好きにさせてくれない大人を、価値観をおしつけるから「大嫌い」などとは言わなかった。
世の中には、一国覇権主義のブッシュ・アメリカのように、まさに「価値観と自己利益を押し付けてくるヤツ」もいて、これぐらいになると温和しいわたしもほとんど憎悪するが、また我々のレベルでも、「礼なき」相手は簡単に聴(ゆる)しはしないが、人はたいがい互いに価値レベルがちがうぐらい当たり前なのであるから、状況の差や、力の差で、そこに多少の出入りが生ずるぐらい、人の世に生きている以上は、覚悟の上でなければならないだろう。それを見極めながら、つまりいろいろにローリングしながら航海して行くのが、人生の「海」というもの。
少し知性を備えていれば、自然に弁えも反省もできるものである。
人にはみな余儀ない建前と本音とがある。本音の部分にはうしろ暗いもの、底昏いものも隠しているのは、誰一人として例外ないだろう。人は、或る程度の「衣服」を身につけて世に交わり世渡りするしかないのである。赤裸々に生きているわけではない。赤裸々が良いのでも、必ずしも、ない。むしろその「衣服の程度、着こなしの程度」で、恥を掻いたり敬意を持ったり持たれたりし合っているのである。むろん、そこに偽善も欺瞞もしのびこむ。
そういうことの余儀ない凡てを或る程度正しく分かってくるのが、よい面もよろしくない面もあるけれども、つまり「大人になる」ということだ。
大人は、未熟なこどもにたいして、或る程度は価値と価値観とを伝えて行かねばならない。それは大人の帯びた義務の一つであった、歴史的に。それが出来てなかったら、人類はとうに亡びていただろう。いま人類社会が危うく滅びかけているとすれば、人類自体の責任が、その辺にある。こども世代はそれを聡明に手直しして行けばいいのである、聡明に、である。
ものの例えにも、海外留学させた娘が殺され、海を渡り親がかけつけてみると、信じがたいほど乱脈な娘の暮らしがみえてきて、親は石のように固まっている…という実例が、今日もまた報道されていた。
国内にだって、それは有る。毎日のように実例は目に見えている。親や大人からの責任ある視線をちゃっかり免れて「自由だぁ」と叫んでいる大都市部の高校生や大学生たちにことに特徴的に見えている。
今日報道された例など、留学していったその娘の自己責任も大きい、が、甘い考えや判断で手放した親や大人の価値観にも、洞察にも、用意にも、躾けや養育にも、問題はあったであろう。
それにしても進取の精神や自由の謳歌と、ハメを外して「いちびる」のとは、まるで別ごとのはずである。「十七にして親をゆるせ」も極めて大切、それは「十七にしてホンモノの大人になれ」という意味である。好き勝手に「いちびっていい」権利では決してない。
2006 4・3 55

* 大阪産経の「本の少々」で、手違いで乗らずじまいになった一文を、ここに掲載しておく。此処地元のでの「九条の会」に、元市長の都丸氏らから「呼びかけ人」に加わって、一文欲しいというので、少し問題点は拡げているが、便宜にこれを渡しておいた。

* 悪魔の明察  秦恒平

法律を学問として専攻するのは「どうも気が進みません」と言う学生に、こう答えたのが、どなたか、ご存じですか。
「君がそういうのを無理とは思わないね。とかく法律というやつは永遠の病気のように遺伝する。代から次代へ、ずるずると伝わり、そろりそろりとほかの場所へも移ってゆく。道理が非理になり、仁政が悪政になる。子孫たることは禍なるかなだ! 人間の生まれながらの権利については、残念ながら、いっこう問題にされておらぬ。」
「公法」のあることは、ひろく「私民」のためにも有難い。しかし「法」は「三章」もあれば十分、それでこそ理想の国だという思想もあった。
まさかと思う一方で、上の先生の託宣は、聞き捨てならず、ギクッと耳にとまる。
誰あろう、これは「フアウスト」博士に化けた「悪魔」メフィストフェレスの明察である。作者ゲーテの洞察であり、真意とも読めて鋭い。(旺文社版・佐藤通次訳)
どの内閣の頃からか、日本国に新しく出来てくる人騒がせな法律のあれこれが、なにやら「美しい名前」にくるみながら、懐に、人権抑圧の意図をヒヤリと隠している。本気で、「子孫たることは禍なるかな」と、未来の日本や子孫の安寧を、危惧せずにおれない「悪法らしきもの」の作られ放題な時代になってきている。
いわく(際限ない拡大のおそれもある)盗聴法、いわく(保護の名分で隠蔽の方が心配される)個人情報保護法、またいわく(強権による弾圧に流れかねない) 共謀法、(自己の想いを述べる自由が不当に制限されかねない)国民投票法等、また等々。
それらが、みな、「国民の、国民による、国民のための法律」と、確かに銘打ってあるならまだしも、気味わるく「権力の、権力による、権力のための法律」の顔を、なんだか丸出しにしている。そしてそれが、あたかも「病気のように」「代から次代へ」「ずるずると伝わり」「道理が非理になり」「悪政に」なって、現行憲法の高らかに保障していた基本的人権の、幅も、奥行きも、容赦なく狭められて行く、イヤーな、不安な、落ち着かない、この気分。まして前文、まして第九条。
そこで提案。全ての法律の名に、くどくてもいい、必ず、「国民の、国民による、国民のための」と角書きを付けること。前文と第九条を守り抜いて、その「日本国憲法」に、真っ先に。
2006 4・8 55

* どっちみち生意気だとか(古稀過ぎた爺に生意気はもう無いかも知れない。このごろどんな場所へ出ても、年よりの内であるから。昔はハツラツとしていた人と久しぶりに逢うと、ウワァと思うほどお年寄りであり、わたしもそのクチであるに違いない。)エラソウにとか(これは有るにきまっている。)言われるのだから、さっさと此処へ公開してしまう。「短歌現代」五月号に頼まれて書いた。
読み返してみて、ウン、マトモなことを言うていると自認した。叩かれたらアキラメようではないか。

* 現代短歌界へ率直な感想  秦 恒平 (小説家)

「現代短歌への忠言や提言を」という編集室の註文は、気が重い。いたずらに波風をまたたてて嫌われるのは、この年になって、あまり有難くない。自分の役に立たず人にも嬉しがられない文章を書くのは、文字通りムダごとであるし、意を迎えて心にもないことなど、書きたくない。
送っていただく歌集は、おおかた目を通さないことはない。歌誌も、かなり届いていて、それなりに目をむけている。それなりにとは、この雑誌にはどんな人がいる、あるいはこの雑誌はおよそこういう向きである、ぐらいは承知して、気の向く限り頁をくったりやめたりしているという意味である。
こんな註文がきたのは、旧臘、古稀を自祝のていに、たまたま我が一冊きりの歌集『少年』が、今回は文庫本で出た、それが呼び水・誘い水になったのだろう。
老境に初めて編んだ『少年』ではない。少年期に編んで、爾来およそ六度ほど本の顔かたちを変えてきたもの。十五、六歳から大体が高校生時代の歌を、少し照れるが高潮期とし、小説へ思い移していった頃までの、せいぜい二百首余りの歌集であった。不識書院版にいただいた、上田三四二さん、竹西寛子さんの有難い文章もあつかましくそのままに、生母の歌にふれた自分の短文も残し、田井安曇さんの解説を頂戴した。略年譜は自分で書いた。
千五百部つくるから千部買い取るかと言われ、ヘキエキしたが、結局近い部数を引き取って、狭い家に積んでおく意味もなくほとんどを先生・先輩・知友・読者に謹呈した。いいぐあいに七十の誕生日まえで、「自祝」の挨拶がうまく嵌ってくれた。幸いであった。おどろくほど沢山なご挨拶が戴けたのも幸いであった。版元の短歌新聞社に、この場で重ねてお礼を申し上げる。
印税とさしひき(支払いの方が遙かに多いけれど)のようなこういう出版形式が、詩歌の世間では普通なのか、私の場合これで特別であるのかもよく知らないけれど、おそらく短歌や俳句や詩の世間では、著者負担が無く、またはごく少なく「出版」すること自体が、きわめて難しい折衝なのであろうと推察できる。この辺が真っ先の大きな問題、問題にしようもないほど大きい問題なのであろうか、私もそれを先ず体験したことである。

以下、日頃ぼんやり感じていたことなどを、とりとめなく書き留めてみようか。

「詩は志」であるという東洋の古典的確信が、幸か不幸か日本の現代詩歌にほとんど無反省に受け継がれていて、詩表現の「すがた・かたち」「表現」より、歌われている思弁的な中身・内容・思想が大事と、たぶん大勢の、半ばは意識し半ばは意識もなく創作されている気がしている。
そのしわ寄せで、日本語がヤケに汚く扱われ、印象として詩であるより、歌であるより、蕪雑な排泄物じみた日本語が、雑誌にも(この際は)歌集にも居並び過ぎていると感じることが、あまりに、多い。
日本語が「きたない」という感想には、二面ある。
詩歌として「措辞・表現」のきたなさ=未熟と、「表記」の無神経なきたなさ・無造作さ、である。がさつで、とても「うた=詩・歌」と聞こえず、また見えない。
実例を挙げたいが、そうでない実例のほうが稀薄に過少である以上、そんな真似はするにも及ばない。

日本の伝統的な詩歌は有形の韻・律に拘泥したくてもしにくい運命をもっている。せいぜい音数を規定するぐらいしか、ない。そのために音楽的センス、「うた=詩・歌」としての生動を、謂うに言いがたい内在律の爽快や優美や躍動に表さねばならなかった。現代短歌(詩も俳句もそうだけれど)はこの「内在律」に対する研究不足はもとより、自覚や追究にきわめて不足で、その方面で目だった言説や成果を(茂吉らのあと)出せていない。しかし、本当に優れた歌人や歌集のその「優れた」といえる点は、つきつめれば「内在律」の律動美が即ち「志」の「表現」たりえているからで、その余はたぶん作家論的な時代論的な(大事な)付加価値なのである。
日本語を「きたなく」しているという先のわたしの非難は、一つにはことばの「詩化」があまりに足りないこと、漢字や
かな文字へのセンスが蕪雑すぎることにもよるが、それらが輻輳して日本語による詩歌の「内在律」という命を、生動を扼殺してしまい、それに気付いていないという、詩人としての致命的な不足に因している。
歌集を文庫本にしてもらった返礼に阿諛をもちいるのでは、決して、ない。わたしはかつて某紙の匿名欄で、石黒清介翁の作歌を、ただの「ただこと・日記歌」と見えて、それにも相違ないけれど、「今慈円」と呼んでいい魅力を、不思議な内在律に有していると褒めたことがある。天成の歌詠みは、それを持っていて、むりむり歌を「作って」いる者にはそれが得られないのは、絵画の魅力とも似ている。五七五七七というかたちの上へあだかも言葉数を数えて置きに行っただけのような短歌に、美しい、また確かな律動の生まれるワケがない。

歌誌が送られてくると、わたしは、その歌誌の主宰作品を先ず読む。ところが、主宰作品を捜し捜し回らないと見つからない結社誌があるのに、びっくりすることもある。相当な理由があってそんな風にしているのだろうが、隠れん坊のようで変な気もする。主宰者は創作の実力と見識とにおいて傑出しているから主宰していると、単純にわたしは思っているから、敬意を感じる意味からも好奇心風の強い関心からも、むろん真っ先に作品を読むのである。堂々、巻頭に作品をならべ、このような力量によって本紙を率いているという実績を披瀝するのは、当然の義務だろうと思う、いろんな言い訳は有ろうけれども。
それから、次ぎに主宰者が一般の選を超えてさらに特選した欄を読むことにしている。自作に示す力量と同等か、場合によりそれ以上の力量の見えるのは、そういう欄であること、言うまでもない。過去の大作者は、俊成・定家や芭蕉・蕪村はもとより、子規も茂吉もその他も、自作とともにそういう選歌の妙、批評・眼識の妙でわれわれ門外の愛読者を魅了した。同じことを今も数ある結社誌の主宰に望むのは当たり前のことだし、それに十分応えてくれるのも当たり前の義務というものである。
その義務に、いったい、どれだけ魅力的に、応えられているか。
それを常々厳しく見つめている、より大きな「批評眼」があまり現代短歌の世界に機能していると見えにくい。そんな必要がこの世間にないのだろう。それこそが、事なかれに流れがちなムラ(結社)群立世間のどうやら「仁義」というか「言わぬが花」の礼儀作法のようであるのは、泡嵐もたたないコップのようで、みなさん大人ですと敬意を表しておこうか。
その裏返しであろう、わたしなどがこういうことを言うと、「外」から無責任なことを言わないでくれと、きっと遠回し
にお叱りが飛んでくる。
わたしは、結社がどう生まれ、どう主宰者が出来て行くかを論評できる立場にいない。知らなくてもいいことだと思っているが、一度成り立った結社の主宰者達の創作や批評には強い関心をもっている。この人は、本当にソレダケの歌人だろうか。なるほど作品がいい、批評も着眼もいい、指導力もすばらしい、と言えるかどうか。
それで、くり返して言うが、その短歌作品、その特選作品、その散文による作品を比較的注意して読んで、敬意を深めたり顔をしかめたり、遠慮無くしている。
こういうことも、試みている。主宰の当月作品と、会員達のなかのなるべく中間位置にいそうな人の当月作品とを、わざわざ比べ読みする。この感想も、なかなか刺激的なことになるが、「言わぬが花」としておこう。誰にでも、簡単に試みられることでもあるし。

歌集が贈られてきて、歌数が五百の上もあると、ちょっとたじろぐ。あえて厳選をとはいわないけれど、作品を絞る自己批評を経ない積み上げ歌集は、結局は読みダレがする。
小説でも短歌でもちがいはしない、推敲の大切さはもとより、作品の自己批評力は作家生命そのものではなかろうか。

たとえば「反戦・反核」はないがしろに出来ない現代の一姿勢・一主張である。しかしたとえばそれを歌えば即ち短歌は短歌として自己証明できるわけではない。短歌の表現として「詩歌」たりえているか。詩歌たり得ない表現が、たとえ音数で定型は満たし得ていようと、詩歌の価値では似て非なる「おとといおいて」なのは言うまでもない。散文で主張すれば済むハナシである。繰り返しを承知で、もう一度言っておく。

短歌は俳句ではないが、片歌のかたちが「和」する意味の和歌性で許容された時代はあったし、それは大事な道程の一つであった。
とはいえ、片歌または俳句で成り立ちそうな三句に、だらしない下二句をむりにくっつけた短歌が、やはり跡を絶っていない。そのヘキは実は子規や鉄幹らの近代短歌時代に入ってのちも、往々実例がみられたことは、かつて多く実例をあげて、「美句抄=微苦笑」に編んで警告したことがある。
「馬追虫(うまおひ)の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひみるべし」(長塚節)などと論じる必要はすこしもなく、「馬追虫の髭のそよろに来る秋よ」で足りている。写実の節にしてこうなる。「不必要としか言いようのない下二句をむりにくっつけた短歌」に、短歌として全うされる優れた内在律の生きるどんな道理がありえよう。
かつて、主に篠弘氏と「短歌」誌上で激論し、「歌ッて、何?」と問うた頃の思いは、だいたい今も解消されていない。助言も忠言もない、聴くに聴きようのない、いや効くに効きようのない現代短歌の宿痾は、制度的にも、ムラ的にも、あまり性癖を変えようとしていないのだから仕方がない。

「文学」もヘンだし「小説」だってヘンなのだが、それよりはマシかもしれないのだけれど、「短歌」という看板をそろそろ本気で再検討されてはどんなものか。わたしは、「和歌」とは謂ってこなかった積極的な「近代」意義を認めないのではない、が、またあまりに「和歌」を学ばずに見捨てすぎたツケも高価についているという、主として日本語の表現力の伝統からする批判も、よそながら持ち続けている。かりにも「和する」歌としての和歌の側面は近代和歌に払底しすぎ、大きな詩的能力のつまり無反省な放棄になってきたるとも考えている。歌人の詩人のと名乗りながら、蕪雑なまでに日本語の価値的なフォローが出来ていない、じつにバカバカしく日本語の素養のない歌人・詩人に出くわすことが多すぎる。
日本ペンクラブに「電子文藝館」を創設し、多くの現代・現存の、詩人・歌人・俳人の作品を読み、また思いを交換し合いながらも、わたしは、これでいいのかなあと内心に呟いてきた。そのつぶやきを吐き出せと言われたわけで、正直を言うと、吐き出したくはなかった。

* こういう原稿を書いてしまうのが、わたしの「病気」だと思っている人が何人もいるのを知っている。その診断には承服していいが、ここに書いたなかみに異存のあるムキとは、筆での論戦をわたしは避けない。わたしが間違っていたなら潔く思い直します。
2006 4・22 55

* 七時間続けて眠れると十分な目覚めになる。暖かくなったせいかとぎれなく眠れて、有難い。朝のうちに、しっかり用事や仕事ができる。
今日は校正刷りをもって外へ出る。家の中に校正刷りをひろげて丁寧に読める机がないのだから堪らない。
家を建てたとき、すでに作家になっていたが、建築屋さんから「書斎」が無いじゃないかと指摘された。年寄りの三人を迎え取る予定からしても、書斎なんてものはとてもムリだった。
隣棟を買い入れてやっと書斎を造ったが、今は息子の山のような荷物に占領されている。
ペンをつかって書く仕事は、ものをひろげて読む仕事は、わたしは大体テレビのなっているキッチンでしてきた。そんな按排で生涯を終えるらしい。
幸い、喫茶店でひとと相席でも小説を書いていた勤めの昔の余儀ない習慣が、雑踏のなかでの仕事も可能にしてくれている。修業といえばわたしのそれが修業であった。そんなところで書いていたんですか、そんな風には思われませんと、「慈子」や「みごもりの湖」の世界の静かなことを指摘してくれた人も少なくなかった。
2006 4・26 55

* 「短歌現代」に書いた「現代短歌界へ率直な感想」が案の定反響を呼んでいる。わたしの方へも直に手紙が来つつある。

* 「歌壇へのどのお言葉も、よくぞおっしゃってくださった――と思うことがらばかり、ついうれしく一筆」と奈良の、敬愛する女性歌人から、春日大社の美しい藤の写真に「藤波の 花は盛りに なりにけり 平城(なら)の京(みやこ)を 思ほすや君」と恰好の古歌も添えて。

* 拝啓 みちのくもようやく櫻が四分咲きほどになりましたが、先生にはご清祥のことと存じます。
さて、短歌現代五月号の「現代短歌界へ率直な感想」、自分が歌人のはしくれであることを忘れて、楽しく読ませていただきました。今、歌壇は第二藝術どころか第三藝術というのも憚られるほど低迷を続けていると私は考えています。反写実系の前衛短歌人も写実系の歌人もおしなべて低調です。言葉あそびのひとりよがりに走った歌、ただ拙劣な比喩やオノマトペに終止している歌。それに対して生活の断片をただ報告し説明するだけのの歌等、みじめなものです。ゆるみきった声調、弾力性を喪った言葉の連続等、斎藤茂吉や、立場は異なりますが北原白秋などが読んだら呆れてしまうような歌ばかりです。批評も仲間ぼめばかり。それは歌壇が腐敗しかかっているからなのでしょう。困ったものです。
***のような田舎でも威張っているのは基礎的な文法も知らない通俗満点の歌人たちです。歌のほろびのときが近づいているのかもしれません。

* どうしてどうしてこのお二人とも、多年鍛錬の優れて佳い歌人であり、この人達にこういう言葉をなさしめるようでは、よほど問題は大きいのである。短歌ジャーナリズムがこの後もどうわたしの発言に対応し続けるか、いずれにしても、またしても物議をかもすことではある。「短歌」新年号で、主に篠弘氏と激論をかわし、一年中あちこちで話題になったあれから何年になるだろう。あの激論はわたしの湖の本エッセイ第十一巻に再録してある。
2006 4・26 55

* 四月が逝く。北国にはまだ櫻のたよりがあるが、東京は藤か。

* 船堀で近代文学の学会がある。鏡花の「草迷宮」について「ペン電子文藝館」同僚委員の真有澄香さんが発表する。名古屋へ助教授赴任して初の研究発表かも知れないので顔をだそうと思っている。それならあと一時間ほどで出かけないと。

* 「草迷宮」はひときわややこしい小説で、しかも長い。統括的に筋を立て通して読みきるのは、容易でない。鏡花文学は「喩」であり。明確に言い切らないまま、多彩に能弁なのである。
真有さんの発表は、作中にあらわれる「わらべうた(童謡=わざうたと読んだ方がいいとわたしは思う)」の「ウタ」に即して作品を読み解こうという提唱であった。
それも一つの選択肢であるが、むろんそれで「草迷宮」がすっきり把握でき切るわけはない。「三浦の大破壊(おおなだれ) は魔処である」という第一行におおきな示唆があり、それを読み解くには、いわば基盤に多くの神話と民俗とが仕掛けられてある。「ウタ」はそれを読み解くための「喩」として活用されている。「喩」のとどく遠さや広さは計り知れぬものがあり、わたしなどは、水を介し海を介して深い海底世界からごっそりと大きく読み取ろうとする。古事記のヤマサチ神話や謡曲の海士の伝説や、鏡花自身の作品群にも類似相似の発想作品はいっぱいあり、男女の主人公やワキ役達にも、とうてい「草迷宮」だけで完結しようのない溢出した世界が「鏡花」その人に属している。それを追究するのは、とても一時間程度の研究発表ではムリなはなしで、結論的に大きな時計の一つ二つ三つ程度のゼンマイを外してその性質や働きを述べるに止まるのは致し方がない。
文学研究者の読みと、わたしのような愛読者の読みとは、かなり違ってくるということは、学会発表を何度か聴いて心得ている。わたしは、自身の「愛読」自体を自分でかなり無責任に楽しめるが、研究者は方法を立て、的を絞ったり方面を限定したりして、細かに追究する。分解に急であるが、分解したものをもう一度組み立てることで「作品」がどう新しく読めるようになったかを、トータルにもう一度さし示せなくても仕方ないとしてある。研究発表は概してそんなものである。わたしらのようには、自由自在に「想像」の翼もひろげ多方面に飛翔することは、むしろ、あまりゆるされない。たいへんだなあと同情するし、意外に豊沃な収穫にはならないのである。それで、わたしは、あまり学界へは出かけなかった、過去にも。
ま、質疑の時間に、わたしも、折角参加したことではあり、いろいろと「念仏」をとなえて、みなさんをヘキエキさせたと思う。
二次会にも加わり、ビールに酔っぱらって、そこでもロクでもないことを喋ってきた気がする。
しかし、楽しい半日であった。

* 都営新宿線の船堀駅というのはかなり遠かった。
2006 4・30 55

* いま辞書を開くと、佛教語大辞典になく、広辞苑にはたんに「隠し持つ」こととして「退蔵」という語があげてある。深く読めばそれでもいいけれど、かなり意外。退蔵物資という例語があげてあるだけ、これも意外。
俳諧研究の大家であった潁原退蔵さんのお名前には、必ずや或る理想がこめられてあろう。新井白石の日記で私はこの二字を覚えた気がしている。詩人で学者であった彼は、六代将軍と出逢い、一級の政治家になった。気迫において鬼とも呼ばれた。その一方、彼は「退蔵」すること、地位を退いて隠れることを念頭にいつも持っていた。
「退蔵」こそ「静かな心」への一歩だと思う。白石になぞらえることは出来ない、あまりに片々たる、だからこそ退いて自ら蔵すべく、また抛ちたいものがわたしには多い。繰り返し寄せる波のように、この二字に、わたしは当面する。
2006 5・1 56

* まだ四、五、六、七日と休みが続く。そのうちに発送の用意など、なるべく万全にしておきたい。若い人達といろいろに関わっていると、つい自分が青年・壮年の気でいてしまうが、七十、七十と、気のはやりを静めるようにしている。
活躍して欲しいのは建日子達の世代であり、そんなのは気にも掛けずに、わたしはわたしの三学期らしい仕事を、静かに紡いで行けばいい。しかし、とかくお世辞も半分、息子をダシにし、いろんなアイサツをしたがる人が多く、よろこんで聴いているけれど、挑発されてはいけないのである。安閑と恬淡と、向こう岸の景色のように眺めている。ときどき、おおい、がんばれよと声をかける。聞こえていてもいなくてもちっとも構わない。
2006 5・4 56

* 安土に近い桑実寺といい沙々貴といい日野といい、『みごもりの湖』を書くために昔々に歩いたが、あの寺の石段、きつかった。がんがん照りに頭も焦げた。それでも、目の前にその黄金色の日射しや風のそよぎまで蘇る。みーんな投げ出して、ああいう世界に舞い戻りたい。名筆は樹木の深くにまで墨がしみ通るという。書道のことを入木道と謂う。読む人の心身にしみ通るような小説を書いて世を忘れて暮らしたい。
2006 5・6 56

* そろそろ、従来路線からムクと大きく立ち上がるときですね。
この二十五年間、同人誌などに地道に書いているセミプロふうの何人かと知り合いましたが、ムクと大きく立ち上がる人が少なかった。ほとんど無かった。どうしても私小説(ふう)になるのです。それでも構わないのだけれど、むしろほんものの私小説は、晩年・老境に書けばいいと思う。若いときこそ思い切りウソ、が、わるければ、絵空事を大胆に書くとおもしろい。
その際、凧の糸のように「私」をうまく創り、作品にそれとなく、かつあつかましく結びつけ、活かせばいいのです。それが魅力になる。架空のひろい世界へ一人で旅するのです。そこでヒト・コト・モノに出会えばよい。  湖
2006 5・7 56

* わたしの小説のところどころに「はんなり」という言葉が使われていて、よく分かりませんと読書会で質問された時期があった。それで、『京と、はんなり』などという題のエッセイ集もだしたことがある。
HANNAARI 花有り である。花とは何か。『花と風』を読んでください。ま、美や藝術の核芯をなしているファシネーションの意味ととらえればいい。「落ち着いたはなやかさ」というより「嬉しくなるはなやかさ」であろうか。
『蝸牛考』なんてのが出て来て、はっと楽しかった。
2006 5・12 56

* 評論・論説というのは、どこかに筆者の「我」が出て、時には独善にすら走るもの、それが個性とも味わいともいえるのであり、そんなことは小林秀雄であれ中村光夫であれ、大なり小なり同じである。要は、どれほど文学・文藝への愛ないし愛執を、またそれに応じた読み込みや勉強を一途にぶち込むかにより、値打ちが出てくる。これは持説であるが、「研究は正しくて面白い」のが優れ、評論は「面白くて正しい」のが優れている。評論の優れた書き手は、読者を惹きつける書き方に文藝を発揮してきた。研究者の正しい(正しげな)論文の往々にして「読むにたえない悪文」なのを吾々読者は、正しさを買うために余儀なくガマンしている。しかしそれも一流の書き手は、じつに魅力ある佳い文章で読ませて貰うのである。評論・批評家の、読むに堪えない文藝の粗略には困るが、それならばそれで、その書き手の我が、うまい味わいになっていることをむしろ願うのである。
榛原氏の論考は、かなり頑固な筆致で書きつづられているけれど、いまどき志賀直哉を語ってこの域に至る評論家は、プロにもそうそういるものではない。
一つには雑誌特集の論考は与えられる枚数も少ないといえば少ない、しかしあれでたっぷりだといえば言える。味わいの濃い論説に出逢うことは稀である。
2006 5・16 56

* ナチュラルビクス初日でした。軽い運動が、なまった体に心地よく、午後に数件のおつかいをして夕方帰宅してから、今しがたまで、くにゃくにゃになっていました。
ずっと「私小説論」のことを考えています。なかなか書けない理由は、「私小説」に対し思うことはあるのですが、「私小説論」として結論の出せないせいです。ここは集注し、考えて考えて、がんばって仕上げたいです。
今また雨が降っています。お天気は日曜までおあずけみたい。  花

* 私小説論は、私小説とは何かといったリクツだけを書いても、観念的・抽象的になり説得できません。典型となる優れたないし大好きな私小説作品の幾つかの、作行と表現とに、鋭く適切な批評と感想とをそそぎこむことから、その理論や言説が読者へ届く、というのが大切です。
できれば、まるで私小説でない優れた小説を「対照」例としてよく深く把握し得ていて、それについても触れながら、だと、ハバが出来ます。
わたしが「からだ言葉」「こころ言葉」を語っているように、自分の文体で優しくきびきびと語ればいいのです。
どういう小説作品を具体的に「感じ」「評価」したりしなかったりしているかを、自覚して下さい。  くにゃくにゃの花というのが愉快ですねえ。  風
2006 5・19 56

* 私小説というのは、まっこと奇妙なもので、一つ間違うと、これぐらいひとりよがりなものはなく、読者にはワケのわからないことを平気で書いている。わかりたければ調べて読めとでも言いたげに。
いま私小説について、四国の榛原さんとはべつに思索と追究を重ねている人は、り佳い線に迫って甚だ率直に私小説の名作といわれた作品に疑問符も投げかけつつある。ひょっとすると、相当刺激的な議論が現出するかも知れないと期待している。
2006 5・20 56

* そろそろまた散髪屋に出直してくる。

* 気持ちよく髪を刈ってきた。昼にはひばりヶ丘へ行き、ソーセージでワインを呑んでやろうと思っていたのは、時間ハズレになった。
MIXIに、『最上徳内北の時代』読み直して校正しつつ、お構いなく少しずつ(一日の日記分としては長いけれども、)連載しているのが楽しい。昔の作を仕事風に読み直せる機会ととらえて独りで楽しんでいる。こういう小説の書き方がわたしはもともと好きなのだ、文章も顔をしかめて書き直したいと思うことは、少なくもいまぶん無く、ほっとしている。大きな時代、大きな人物に立ち向かって行く喜びがにじみ出ている。
2006 5・23 56

* 「不覚をかぞふ」を「e-文庫・湖(umi)」に掲載していただき、ありがとうございます。そこに文学の源流を探るひそかな意図があるにせよ、つまるところは自身の要からうまれたものをあつかましく送付することにいささかのためらいがありました。しかしまた、「私小説とはなにか」に対する私なりの考えを吐露しておくことも必要かとの思いから、あえて投稿した次第です。
もちろん、そこに『心宿』の歌の、おおげさにいえば「発見」があり、その触発がなければ、論に発展することもなかったかとおもいます。さまざまな縁に恵まれているようです。それを邂逅であると感じて、その大きさにとまどっ
ております。
先生との出会いについては、いずれ「論」にまとめる心積もりではありますが、まだ、そのときではないようにおもいます。いずれ、「作家秦恒平」を遠慮会釈なく切り刻んでみせますから、おたのしみに。 六

* ハハハ。「切り刻」まれては堪らない。作家論は、書き上げたときに現像なり原作をより豊かに見せ直せる器量が大事、そうでなければ論じる意味は無い。しかも周到に論じるには「読まなくては」話にならない。この、全貌をよく読んで論じているか、端っこを小さく切り取って好きに喋っているかで、研究者たちの議論にも大・小も出れば貧・豊の分かれも出る。どうぞ、全仕事(創作もエッセイも)への「読み」の豊富を水面下の底荷にどっしり蓄え、しっかり咀嚼してから「遠慮会釈なく」論じて下されますよう。
2006 5・23 56

* こういう世離れた境涯もあり、ヘビメタの大音響に手を拍って笑い喜ぶ若い娘達の群れもあり、共謀罪法に憂慮する人も賛成する人も無反応な人もある。
そしてわたしは、最上徳内サンとの日々親交を深めている。なんという心静かに満たされる日々であることか。第二章に入った。私小説に思いを込めている榛原六郎さんや花さんはどう思いどう読むか知らないが、わたしのこの小説は、大きな動きなき史実をとりこんだ、間違いなく私小説なのである。
2006 5・24 56

* 毎日、『最上徳内』を読み返していると、ときどき、羅臼にいるという昴のことを想っている。幼稚園の先生か、小学校のまだ下の方の学年を受け持っている先生のようにわたしは想像していたが。だいたい、そんなところのようだ。わたしの「掌説」を読んでくれたとは嬉しいこと。
歌集「少年」もまぎれもないわたしのモノだが、わが小説のうち、少なくも「掌説」五十篇ほどは、真似手のいないかなり独自なモノだと思ってきた。ああいうモノの書けるのが、「若さ」の力。
2006 5・25 56

* いまわたしを喜ばせ力づけているのは、『最上徳内 北の時代』の校正の進んでいること、つまり読み直せていること。ずいぶん変わった小説の書き方であるがわたしは満足していること。それぐらい。外の世間との連絡がまるまるシャットアウトされていることに慣れてしまえば、ふだんに戻る、いや昔に戻れるわけである。
2006 5・28 56

* いま、わたしが少しく気分よくしているのは、作品『秘色』を校正し始めたからで。関西のある大学の先生の本が無事出版できた内輪のお祝いに、担当編集者として招かれた私は、社命もうけて新幹線に乗り、となりあった年輩のご夫人と静かに近江大津京の跡の噂などして。そうして現代と天智天皇の昔とが夢うつつに交錯しながら、不思議の時空に誘われてゆくことになる。
『清経入水』で太宰賞をもらったあとの、事実上の受賞第一作だった。候補作になっていることは知っていて、それまた夢かうつつかとわたしはふわふわしていたのであり、そのさなかに、思い立って近江大津京の崇福寺址を観に出掛けていた。それだけでも、文字通りの受賞第一作なのであった。
「展望」に発表した。最初の作品集の表題作にもなった。
発表までに苦心惨憺したけれど、発表後の評判は、受賞作を措いて処女創作集の表題作にもなったぐらいで、馬場あき子さんは、「秦さん、『秘色』は名作ね!』と励ましてくれたし、新潮社の池田雅延さんも、井上靖先生の『額田姫王』よりいいですと持ち上げてくれた。読み返すのは、本当にひさしぶりだが、湖の本からのスキャン原稿がやはり相当に誤記が出ているので、直しておきたくなった。
で、読み始めて、つくづくわたしはこう思う、「こんな小説が読みたいなあと思う、そんな小説をわたしは没入して書いてたんだ」と。誰のどんな作品よりも、自分の書いた作品が好きで面白いのだから、妻にいつも笑われるが「幸せ者」である。「ああ、こんなの書かなければ良かった」と思う作品は、いままでのところ思い出せない。
だから物書きなんてのは、ほとんど「ビョーキ」なのである。わたしなど全くの「ビョーキ」もちであったが、それが幸せであった。
今日の昼も、ビストロで、マスターと、ものを書いたり創ったりも生涯に一つ二つぐらいならマトモだけど、十も二十も百もとなると「ビョーキ」なんだよねと笑ってきた。「ショーキ」を喪わないとそんなバカゲた真似は続けられないのである。いや、ほんと。
2006 5・30 56

* 昔の「群像」編集長大久保房男さんの新刊『終戦後文壇見聞記』(紅書房)を貰いました。当然のように氏は「私小説」支持者で、私小説と私小説作家について編集者の立場から生き生きと思うさま述べています。図書館にはそう早くは入らないかも知れないし、すぐ入るかも知れませんが、必読本かと思います。索引も付いていて便利です。
鬼といわれた名編集長でした。この十五年ほど親しくしています。
「終戦後」とは、氏の定義では終戦から十五六年、その間の日本文学を氏は最も高く評価しています。一徹です。異見や異論ありますけれど、真摯な文学愛に貫かれた編集長でした。今はこういう人はいないなあ。彼の時代は本当に「過去完了」したかどうか、読み取って下さい。いい参考書です。
2006 5・31 56

* ペン理事会、総会には出たが、そのあとの立食の懇親会は失礼した。とても立ったままうろうろと飲み食いする気がしなかった。

* 空腹を感じていたので、一直線に銀座四丁目のフランス料理「レカン」に入った。
この店はとにかく行儀がいい。一人一人がプロなので、ワインといっても「料理にあわせて」とだけ頼めば済む。
食前にドライシェリーをストレートで。そしてあとは赤ワインにして、オードヴルからデザート・コーヒーまで、フルコースをゆっくり食べた。今日は涼しい感じのダブルでネクタイもきちんと。うまいものを、ゆったりと。そんな時はこの店が、いちばん、しっくりする。
開店して三十年ほど。せいぜい五度ほどしか来ていないが、最近にも一度、一人で本を読みに入っている。今日もフルコースかけて、大久保房男さんの新刊に読みふけってきた。いやもう、おもしろくて。
終戦後の作家達、文壇人達は、ほんとうに貧しかった。だがわたしはもっと貧しかった。
「レカン」とはと、書中に、どしどし現れる戦後の有名作家達には、小僧、生意気に贅沢なと怒られそうだが、なんの、たかが食い物ではないか。出来なければしないし、出来れば何のこれしきが贅沢なものか。
わたしもまた、今日という時代に痛切に個性的に思うまま生き、誰にも媚びない物書き文士の、まぎれない一人であると思っている。口だけ達者なとは言わせない。最低の貧しさから、自分の脚力と筆力とだけでゆっくり歩んできて、どんな先輩作家達にも出版社にも、媚びも諂いもしなかった。わたしはわたしだ、その自覚を喪っていない。けちくさい勘定はしない。ばかげた遊びもしない。
2006 5・31 56

* 理事会の話題に、わたしはあまり気持ちよく乗れなかった。

* 環境委員会の報告で話題になっていたのが、「山のトイレ」問題。それがたいへんな惨状であろうとも想像できるし、ご苦労であると思うが、何処の山でも彼処の山でも、みな人の糞尿で汚されているのだろうかと思うと、すこし拍子抜けもする。鹿や兎や狼にも、山鼠にも、鳥たちにも、いずれ吾々は山のために「トイレ」を提供するのか知らん。都会の糞尿を山に捨てているというなら、べつだが。
「環境」といえば、相変わらず「自然環境」の話ばかり。それは絶対的に大切だ。だが「山のトイレ」に「日本ペン」は文学・文藝団体として何をどうしようというのだろう。優先順位はすっごく高いのだろうか。
わたしは、教育や児童犯罪や「おれおれ」詐欺や、洪水のように誰の機械にも流れ込んでくる、バカげていやらしい広告やお誘いや出逢いの請求や、仰天映像や、ケイタイの愚劣なほどの悪用や、繪文字依存の表現や言葉の貧困や。そういった「人間」のおかれている「精神的で機械的な今日環境」の方へも、もう少しバランスよく意識を振り向けながら、「環境」委員会は活動して欲しいと、発言した。
何度も繰り返してきた発言だ。が、日本ペンクラブの「環境」委員会があつかう「環境」は「自然環境」の意味ですと、つっぱねられた。アホラシい。

* 言論表現委員会の篠田副委員長報告は、共謀法声明が効果をあげたという単なる「経緯」報告で終わった。
だが、委員会が時間をかけて激しく議論したのは、それだけではなかった。
二人いる副委員長の意見が「共謀罪新設法案」へのペン声明に、反対と賛成、真っ向対立し、反対の一人は、あの記者会見と声明とは、「ペンの将来の禍根になるし、文面にいちいち賛成できない」声明は「なんでも反対の好きな人の趣味の所産」で、「法案に反対するなど以ての外、もっと法律や国際条約を勉強してほしい」というところまで、言い切っていた。
「言論表現委員会」の発議でした声明も記者会見もが、「済んでしまって」からの正式委員会でそういう事態だったのである。見ようによれば、井上会長に「禍根」の咎をおわせ、恥をかかせたとも言える。わたしは、それに怒ったのだった。
反対も賛成も会員一人一人の言論の自由であるとも言える、が、声明案を提出した当の委員会副委員長からの「後出し」反対発言(委員会での)であり、それは、おかしい。そこまで反対なら、井上会長に声明や記者会見より前に、反対者が反対意見を直に訴え、ペンとしての「自重」を迫ってよかったのである。それが副委員長としての誠実さであろう。
しかし、結果として、わたしも満足しているが、あの声明は大きなつよい効果をあげた。なすべきことを適切にしたと思っている。
だが委員会のあの激論自体を理事会で報告しないのは、やはり委員会「報告」として誠実でない。社会保険庁の報告に似てくる。わたしは、問題は問題として、理事会は、ことの要点はぜひ知っていなければいけないと思う。猪瀬委員長が欠席なのが残念だった。

* よくよく緊急の例外を除いて「ペンの活動の基点」は、委員会活動であり、その報告によって理事会決定や承認がなされる。その委員会活動を端折ってしまおうという傾向に流れるのは不健全であることも、ものの分かっていない半端異見に対し、発言せざるをえなかった。

* 国際ペンは、文学・文藝面への重みを加えようと、ノーベル文学賞作家二人が副会長に新任したという報告があり、中西進氏は、日本のノーベル文学賞作家をそういう形で日本は送り込めないかと発言された。大江さんは少なくも今までの姿勢でなら、そんなこと受けるわけはないと思った。彼の思想や実践からして、日本ペンクラブ会長をひきうけてもらってむしろ当然の人だけれど、彼は日本ペンの現況に身を寄せようとはしてこなかった。どんな理由かを安易に憶測はできないが。
わたしは、国際ペンの報告をした国際委員に、で、国際ペンの現に考えている「文学・文藝」とは、つまり「藝術的な文学」のことか、「オール読物」のようなものかと問いかけてみた。これは、答えようもないらしかった。
わたしがそんな質問をした理由の一つは、今日も出版編集委員会から「おいしい話」に成るかも知れぬと提案されていた、日本ペンクラブ編纂書籍の「題名」を聞いていたからだ。おいおいおい、「日本オール読物ペンクラブ」みたいだなと感じていたからだ。
財政的にはそれも余儀なく必要だが、文学・文藝らしき文学への配慮も意向も、殆ど、いまの日本ペンクラブは持とうとしない、「ペン電子文藝館」以外には。

* 総会の一時間は、事務的に終えた。会員の自由討議に一時間を用意してあったが、結果的に、饒舌きわまりない司会者と、あいつぐ理事達の発言とで、少なくも四十分ついやして、会員からはせいぜい五人が散発的に、あまり聴くに足りない私的な話をしたにとどまった。アホらしくて尿意を二度も催した。
いちばん驚いたのは、中国と日本との関係について、浅田次郎理事のした、例によって、自分は中国の旅で不快な思いをしたことがない、国民同士は十分仲良く分かり合えるし、理性的につきあっていけば日中の将来に不安なんかないと思いますという、およそそのような発言であった。
そうかもしれない。が、氏のその様な発言を裏付ける分厚さが、言葉の端々からも微塵も実感できなかった。
中国はほぼ七千年の歴史的な文化をもち、その諸民族の興亡の経緯を一貫して、海外や異国への覇権意思にもの凄いものがあったのは、間違いない事実・史実であり、それにはあの国民のすべてあずかり知らぬ事、とも言えなかったのである。
あの国の革命や興亡は、かなりの頻度で、奇態な信仰や呪いがらみに起こり拡がり実現してきた。紅衛兵でも日本バッシングでも分かるように、ほんのちょっとした刺戟や暗示からでも暴発しうる政治的素質を中国の民衆はもっている。似た素質はじつは日本人ももっていて、致しようもなく自分たちも含め「民衆」とはそういう面を持っていて、だからこそ安直に「一般論」にされてはならないはずである。まして指導的な立場を自任していそうな人ほど。
浅田氏の感想は、ああいう公式の場での常務理事発言としては、あまりに軽く薄いもので、黙っていた方がマシであった。今少し、スタンスの大きい歴史的な知性を、ペンの理事は必要とするのではないか。「日本オール読物ふうペンクラブ」に陥り、また安住しないためにも。

* そうかと思えば、外務省絡みで叙勲されたとか評価されたとか私事を語って、日本の「お上」もそこまで近寄ってきて下さったなどという、途方もない非文士的な話を聴かされたから堪らない。
また、自分は自分の受けた戦災体験を大事に書いている、そういう実感に即した仕事こそが大切であり、実は広島の被災のあの現場へ行ったときは、自分の体験ではないので何一つ感じることはなかった。書くのは自分の体験でなければ、などという矛盾に満ちた会場発言にも、呆れてしまった。人の事件や体験には心を動かされないという鈍感さで、自分の体験を書けば他人を感動させられるというのか。文学とは、人を動かす言葉の秘儀ではないか。それは、「動かされる」という藝術体験や受容能力にも依拠しているのである。

* そういう気分でがやがやと無意味なお喋りをしながらの飲み食いなど、まっぴらだと、さっさとわたしは退散して、「レカン」に行った。すてきにうまい晩飯であったし、すてきに面白い大久保さんの『終戦後文壇見聞記』であった。
伊藤整、高見順らが活溌に発言していた頃の、「ゴロツキ」文士たちの文壇の凄み。物書きとは、本質的に「ゴロツキ」なんです、そこに価値が光り出すと伊藤整は、いつも言っていた。この人達が、伊藤や高見が、丹羽文雄や船橋聖一が、今日のペンの理事会や総会の席にもし座っていたら、高見順など、怒鳴り出すだろうと思うとスリリングでゾクゾクする。
2006 5・31 56

* プロの言い訳 画家の「盗作」騒動に。
ここ数日世間を騒がせている事件で、興味深いのは、某日本人有名画家による、外国人画家の作の「盗作」騒ぎ。文化庁が、問題の日本人画家を大きく顕彰していて、それを取り消すかどうかも関心の的になっている。
本人は、ガンとして「盗作」を認めていない。
その「抗弁」に、或る意味、かなり大きな課題が隠れている。美学藝術学の学生なら、学部卒業論文の主題にとりあげても、まんざら見当違いでないだろう。
わたしは、かねがね、自分の「創作物」に批評や非難を浴びた作者たちの、「言い訳」「自己主張」の弁に、興味をもってきた。ひとくくりに謂えば、「プロの言い訳」に、である。それには「アマの見方」が対立する。
問題の和田画伯の抗弁は、いかにも「プロの言い訳」であり、わたしには、それも理解できる。たぶんそう言うであろうと予測できたことを言い立てている。そう聞こえる。
この例の場合、素人は、いちばん分かりよい「構図」の似かよいを指摘し、「盗作」だと言っている。だがプロの画家のなかには、絵画での構図程度は必ずしも絶対条件とせず、無視は出来ないがむしろ付随的なもの、ま、小さな必要条件の程度と見なす足場の人も、必ずしも少なくないであろう。
そんな彼ないし彼らにすれば、絵画を成す上でもっともっと重いのは、その構図を、どのような線や色彩や陰翳や光線や気分や認識で「表現」するか、だろう。それこそ「真に大事な創作」なのだというぐらいな、意見や認識や態度を持している(のではないか)。今回大勢の画家仲間から、あまりそういう声はきこえてこないけれど、和田画伯の弁を同情的に理解している人も、皆無とは言えまいかと察しられる。
テレビ番組で、「盗作も盗作、何一つ言い訳ならないですよ」と声を弾ませている門外漢識者のようなプロばかりでは、案に相違し、ないのではなかろうか。分からないが。
造型の勉強では、伝統的に「構図」を学んで(真似び写して)その先へ自己表現してゆく「手」も認められてきたし、造型上の「写し」は、むしろ大切な技術の鍛錬であったし、和歌の場合でも、本歌取りは公然、創作行為として許されていた。「臨」「模」を大切に観る考え方が、歴然と、あった。
つまり、「プロ」ならではの、お互いに自慢や自負の域にある高度で秘密なリクツや考えが、その辺に潜んでいて、そこから一家の見識が培われてきた例は、案外少なくないのである。そしてそのあげく、彼等の口からとかくとび出す一言は、「素人には分からんよ」なのである。
はっきり言っておくが、こういう「言い訳=自己肯定」を、一度もしなかったような創作者は、どのジャンルにもきわめて少ないであろう。
たしかに素人には分からない微妙な思惑の襞、襞を、創作者は傲然として持っている。だから和田画伯の、あの自信に溢れたにこやかな笑顔での抗弁、「盗作でなんかあるものか」という抗弁が、昂然として出てくるのである。そこまでは、わたしですら、かなり理解できる。
今も言うように絵画に限らない、あらゆるジャンルの創作者が、みな似たリクツを堅持し、たまたまきつい批評が、素人筋や、愛好家や、自称自任のプロの批評家から飛び出しても、「素人には分からんよ。ここの、そこの、目にみえないところの微妙にして本質的な創作・表現の秘密や工夫は」という「言い訳」になる。言い訳ではない、それが創作の秘儀だと真っ向主張するのである。
ところが、むろん素人には、ただの「言い訳」と聞こえて、素人は素人なりに、高慢に、また自然当然に、大いに失笑してしまうのである。つまり滑稽なほどの水掛け論になる。
批評家になにが分かるかと、高名な小説家でも、ときに逆鱗に触れられ、怒ってきた。そうかもしれない、そうでないかもしれない。つい水掛け論に終わるのである。邪魔くさい、いちいち反論してられるかという態度も、だから、喧嘩せずのお高い処世のうちとなり、ことがあからさま犯罪めく「盗作」「剽窃」なんてことにならない限り、こういう水掛け論は、安全圏でのこぜりあいのまま終わる。双方で済ませてしまう。
たとえば文筆家の場合の「盗作」や「剽窃」は、「ことば」「文章」の同似、酷似、相似、類似であらかた推し量れる。ところが、造型や音楽の場合は、「技術」の占める度合いが、いい意味でも、わるい意味でも深遠かつ微妙で、「プロの言い訳」は、たしかに素人の及びもつかない「技術」の闇に身を隠せる一面がある。
では、「プロの言い訳」は、結局、通るのか。
いや、それが、そうは行かないのである。「アマの見方」も時に実に鋭くて本質を射抜くのである、技術などもっていなくても。バカにしてはならない。
創作物は創作者ひとりのものでは在りえない。鑑賞者ないし享受者ないしは無趣味なその他大勢の公然の所有でもあるからだ。そして彼等愛好者ないし門外漢は、あらゆる創作物に、好き勝手に接していい権利を、ガンとして保有し、創作者にはこれが拒めない。拒みたければ創った作品を不特定多数には見せられない。
創作者とは、厳密な意味で「孤独なただ独りなる存在」で、鑑賞者ないし野次馬は、何の責任も帯びない圧倒的な「大多数」なのである。しかも「技術」的にたとえゼロに等しい無知識・無体験も、誰からも咎められる負い目を持たない。その意味で甚だ放埒な、自由自在な、創作者からするとあまりにシマツのわるい、やりきれない「絶対多数者」なのであるが、中にはプロも顔負けの藝術センスを備えている。素人の強みを人間として持ち備えている。そういう多数者からの「批判・非難」と、孤独な「抗弁・弁明」とでは、勝負はハナからついていて、創作者のリクツの多い「プロの言い訳」など、所詮は通りっこない。
今回の、あの、構図の酷似した「盗作」の疑いでも、素人側の、「これは似ているよ、どうみても盗作だよ」という思いや声が、そんな疑いが、かく降って湧いた以上は、もう動かしようがない。「プロの言い訳」は、どう微妙でどう精細にわたろうとも、たとえ学問・学藝の話題・問題にはできても、勝ち目はない。効果もない。素人のどんな素朴な、素朴すぎる感想であろうとも、「プロの言い訳」は効かない。覆えす力になれない。まして優れた「アマの見方」には、人生の味が加わっていて感動の有無を精緻に見極めることも多い。
そういう遁れようない機微をよく覚悟しているのが、「本当のプロ」というもので、今回の和田氏のどの作例も、絵の描けないわたしにすら、やはり「盗作」以外の何ものでもない。
だが、絵の好きな、それなりに気を入れて多くを観てきたわたしには、和田画伯があの「構図の先へ」付け加えている「創作の腕」は、さすがと思わせる美しさも確かさも持っている。原作より、格段におもしろいものが出来ている、と、そういうことも平気で言えるのが「アマの見方」というものであり、そういう「アマの見方」を、自分が小説や文章を書くとき、わたしはしっかり恐れている。
創作の世間では、同業同士はともかく、「アマの見方」で文句を付けられたら、負けておくしかない。だが、本音の所、負けておくだけのことである。

* いまのところ、わたしは、このように考えている。『お父さん、繪を描いてください』のあの「お父さん」画家ならば、あの世から、もっと凄いリクツを繰り広げるだろうか。彼は、今度の和田画伯の数年の先輩なのである。
一昨日京都での美術受賞者の一人が、授賞挨拶の最後に自分の作品は「盗作」ではありませんと胸を張っていた。会場に笑いの漣が起きていたが、余分なコメントだとわたしは感じていた。そんなことをことさら言ってみて、何が自作に付け加わるというのだろう。素人ではないプロの仕事として、どうなればほんとうに盗作であり、どうならばそうでないのか、内心に問い返していて欲しかった。気の低い話だと感じた。「写真」で描くのだって、まちがいない「盗作」なのである。
2006 6・4 57

* 藤村はえらいです。強いては奨めませんが「夜明け前」も名作です。
藤村と漱石と潤一郎という思いは、基本的に修正不用です、わたしの中では。
私小説では、藤村の大作はむろん大事ですが、「ペン電子文藝館」に入れた 嵐 など二作、言いしれぬ花=ファシネーションがあります。
読むのにたいへんな時間の掛かる超大作が世間には沢山あり、敬遠していると、「読みどき」を失し、人生の損になることもあります。見開き二頁ずつでいい、毎日必ず少しずつ読むと決めていると、とうてい読めそうになかった大作が、きちんと、いつ知れず読み通せていることは体験的によく承知しています。その一冊だけを一気にどんどん読もうとすると、かえって棒折れします。また、何冊も読むことができない。
読書を、シリーズでなく、「パラレルに出来るアタマ」ももつように。仕事もそうです。遊びの手は、広げすぎないように。
「北の時代」は、三冊本の第一冊を、MIXIの日記に、二十二回で転載し終えました。第二、三冊へと進みます。
読んでいる人は、たぶんいても二、三人でしょう。
目的は、読み直しと校正なので、それでいいのです。  風
2006 6・7 57

* 育てようなどと考えるほど、わたしはアホウではありません。自分で自分を育てて育つのでなければ、育ちようがない、それが創作です。
自分で分かって行くしかない一番肝腎なことを、人に聞いて分かろうというのでは、話がうますぎるのです。
あなたの小説にはいわく言い難い強い可能性があります、が、その作者に、やわらかい自由自在な精神で、ねばり強く立ち向かう根気、すみずみまで間違いなく仕上げて行く根気、が足りない。句読点や改行の一つまでも、これでいいのか、違うのと違うかと、謙遜に考え直し直し、緻密な集中力で隅々にまで確かな想像力を働かせ、表現しぬく気力。
それは本来、健康で強い脚力に喩えられる人間力です。堅実に太陽の下を歩きながら考えることの出来る元気です。夢魔と仲良ししながら書いていては、立ち上がれない。闇はちいさな光りにも追い払われる。光りの中で深い闇をとらえなくちゃ。
全身をみずみずしく働かせ、からだが健康な歌声に満たされるように。それが、作品に生気と生彩とをリアルにあたえるでしょう。
あなたには、こういう抽象的と聞こえそうな本質的転換がだいじなのだと思っています。あなたは、まだ絶えず自分を弁護し、弁論し、守ろうとしている。いまのままを肯定される都合のいい「つっかえ棒」ばかりを欲しがっている。本当の苦い良薬は嫌っているように思われます。
2006 6・9 57

* 最上徳内とわたしは、いま、厚岸の早朝を「旅」している。こういう書き方の小説をわたしはむろん見たこともない。わたしのオリジナルの趣向であり、歳月をへだてて読み直して、デッサンに殆ど狂いは出ていない。懐かしい。
ほどよい分量で読み継ぐようにしてMIXIに「連載」しているが、ああこんなコトしてると覗くだけの人はいても、誰一人読んではいないだろう。なまなかの姿勢では読ませないような書き方だといわれれば肯くし、それではいけないのではないか、芹沢さんのいわれたように「唖の女」に噛んで含めて平易に平易にものを伝えるよう書かないと、という声も聞こえないではない。わたしには、不用意にはそれが出来ない。個性的でオリジナルな「特化」を欠いて、真実魅力ある新しい文学が成り立つとは考えないからである。
読者を多く得られるか得られないかは、その結果に過ぎない。わたしは、一人の読書人として、こういうのが読みたくてと切望する作品を書きたいし、少なくもわたしの会心作に、わたし一人は確実に一人の読者で在れる。そこからの出発でしかない。

* 新しい「湖の本」は、創作の第五十巻記念作になる。その「あとがき」冒頭にわたしは、危機感をもって次の文を入れる。予告しておく。いろんなことは後で言われるだろうが、少なくも「その時」は間違いなく誰一人も発言しなかった。

*  だいじなことだから最初に書く。
六月の日本ペンクラブ理事会(阿刀田高専務理事主宰)で、あっさり容認され通過したが、わたしは異存を唱え、発言を必ず記録に留めて欲しいと願った議事があった。日本ペンクラブは、日本政府からの資金提供を受けてもよいかという問題である。具体的に言う。いましも、日本ペンは、アジア諸国のペンと協力し、「災害と文学」と題した大きなイベントを計画してきたものの、資金がないため、幸便に文化庁の資金供与を受け、共催事業としてプランを進めてきたのである。
一昔二昔前のペンクラブでなら、これは考えられないこと。ペンは、政府権力に対し常にフリーハンドを保ち、それにより例えば共謀罪新設法案にも盗聴法にも国歌国旗強制法等の悪法にも果敢に反対しうる足場をまもってきた。国に金をだしてもらって事業をひろげるなど、最も避けたい拙策だと、少なくも二十年前なら、問題にもされなかった。それが日本ペンの誇りともする当然の伝統だ。
ところが今回の企画では、もっと悪いイヤな結果が出た。台湾の優れた監督による映画「命」の上映を企画者たちは大きな目玉として大事に大事に予定していた。それに対し、理由はいろいろ想像できるが、文化庁が急に「台湾はノー」と言い出した。日本ペンクラブは茫然、余儀なく金主である政府・文化庁の上命には従うしかないと、六月理事会であっさり決めたのである。
驚いたことに、理事の誰一人、立案者ですら、疑問の声を放たない。これは危ないとわたしは急遽異存を唱え、こういうことが自堕落にすすみ拡がれば、日本ペンクラブの自主的な思想的立場は大いに傷つき、諸声明等に対する「国民・私民」の支持信頼も大きく失うだろうと警告した。この発言はぜひ公式に記録して欲しいとも求めた。
政府に金を出してもらうことにも、わたしは異存がある。まして、いちばん実現したかった最たる企画の一つが、政府の意向で簡単に圧し潰されるとなれば、さらに重大事である。しかし、繰り返して言うが、理事会は、当然かのように文化庁の横槍に心臓を突き刺されて、金には換えられないと、腑甲斐なく沈黙したのである。わたしは、承服できないし、慨嘆あるのみ。。(06.06.16 この記事内容も、刊行時には事態が動いているかもしれない。好転を切に望むが、なお悪化しても、ともあれ必ず言い置くべきことと思うので、このまま記録する。)

* 執行部・理事会のさらなる見解を出して欲しい。
2006 6・17 57

* こんばんは。
「冬祭り」を読みながら、「最上徳内-北の時代」を読むと、ああ、そうか、こういうことか、と思う事があります。一人の作家の作品を複数読むのは大切ですね。
「最上徳内」を読み返している最中ですが、ふと、町史に、「アイヌの遺跡等は、開拓によって壊された。」というような事が書かれていたのを思い出しました。。
江戸時代と変わらず、昭和に入っても、和人のアイヌに対する仕打ちは酷かったようですね。私の祖父達は、アイヌの文化をどんどん壊していったのです。文化が壊れる恐怖は相当なものだったと思います。
そんなことを、本を読んで思いました。    昴

* ありがとう、昴。
わたしも『最上徳内 北の時代』を読み返しながら、日本人のアイヌにした酷薄な非道の数々に行き当たり行き当たり、恥ずかしい思いでいっぱいになります。人間の業の最たる一つは、あらゆる場面に露出してくる、人間による人間への差別です。人種差別、職業差別、性差別、地域差別、貧富の差別、習慣差による差別、思想信条の差による差別、宗教信仰に於ける相互差別、等々。
『最上徳内北の時代』ではアイヌへの、また朝鮮人への人種差別だけでなく、国内の人間差別にも触れました。『冬祭り』では歴史的な人間と職業への差別を「蛇」というシンボルを用いて国際的に書いてみました。『親指のマリア』では、キリシタンへの差別を、『風の奏で』や『初恋』では芸能への根強かった差別を書きました。わたしが「蛇」に着目するのは、根底にグローバルな差別意識がそれに絡まっていると観ているからです。
具体的に名や場所は言わないが、マスコミに、どうしてこんなことが起きるのと遠く離れていて異様に感じる事件の多くに、その地元や身近へ近づいて眼をちゃんと開けば、犯罪や事件の根底にえげつない差別が渦巻いているのが、日本ではむしろ普通なのですが、知らん顔をしながら、マスコミは、やいのやいのと騒いで煽って儲けているのですよ。掌をさすように、外れていないと思います。イヤな国であったのです、昔々から。だが、そういう国ならではの、味の濃い文化が根付いているのも事実なのです。源氏物語や古今集だけが文化なのではない。
2006 6・17 57

* 「公」に対して「私」たちが、もっともっと毅然とした対決姿勢をもち、「私」たちのための「公」である大原則をしっかり貫き守り抜いて行かないと、とほうもないことになる。いや、もう、なっている。
今は、まだしも、子々孫々の時代が立ち直れないひどさになっているという見通しも持てずに、人間より犬や猫を可愛がっていたのでは、冗談じゃなく「愚や愚や、われらをいかにせん」と衰亡の歌を奏でねばならなくなる。
2006 6・19 57

* 「湖」にご紹介くださいましたおかげで、存じあげないおひとの目にとまり、ご感想・ご意見を承ることができました。ありがとうございます。
イギリスのメディアと日本のそれとの、雲泥の差にうちのめされました。
新聞の第一面のトップ記事がサッカー、に、腹を立てていましたが、あれは、目くらまし? たいせつなことは何ひとつ伝えない。「社会の木鐸」ということばを知ったのは少女の頃ですが、今や死語となり果てたようです。
ここでくたびれてはいけないのですが、無力感に沈んでしまいそうです。  香

* 「無力」は「私民」の足場です。悪しき「公」のつねにおそれ企むのは「私民」の無力をどう好きにあしらうかであり、あしらいきれるものでないと知っているから、躍起に法・悪法を作り出す。どんな法もしおらしい顔と美しい名前で制定しておき、野放図に拡大解釈・悪用し、さらに平然と悪改訂を加え、「私民」子々孫々をまで、がんじがらみにしてしまいたいのです。悪魔メフィストフェレスの此の明察は、おそろしいほど的を射ています。アンドレ・モロワの喝破した、「インチキは、法と連れ立って来る」というのも怖ろしいまで正確です。
「無力感」に沈む「重い」意識は、無力感ももたず日々舞い上がり舞い遊んでいるよりも、それだけでも「力」なのです。この「力」の結集がどんな反撥と抵抗のエネルギーに転じうるかを、支配権力は歴史的によく知っていて、だから内心恐れています。あのなりふり構わぬ支配欲がよく示しています。せめて草臥れ過ぎないようにしましょう。
2006 6・21 57

* 「ペン電子文藝館」の「読者の庭」に、吉田優子さんの評論「私小説という小説」が掲載された。委員会の審査は好評で、すんなり掲載が決まった。

* よしだ・ゆうこ 静岡県在住の主婦。1974年群馬県に生まれる。筑波大学で日本語・日本文化学を学び、卒業後何編もの短篇小説を秦恒平編輯「e-文庫・湖 (umi)」に投稿している。 掲載作は、創作体験の中で実感したものを、気張らず、飾り気なく、誰しもの頷けるところまで論旨を追い、しかも「私小説」を一面的に断罪することなく、いわば「いい読者」の姿勢で読書の感想を一編の評論へ導いている。電子文藝館の作品が具体的にとりあげてあることも委員会は歓迎した。「私小説」は課題として大きい。さらなる展開やまた論争を「読者の庭」は期待している。

* 或る委員は、純文学が死んでも私小説は永遠ではないかと極言していた。その理由は委員会ででも聞けるかな。
ドナルド・キーン氏が志賀直哉の短篇を、「作文」なみで、とうてい世界的に小説としては認められないと言いきり、漱石もまた海外では面白く読まれないと書いていたのに、むかし、出会っている。理解できなくはない。が、志賀さんや漱石先生の日本語の優れていること、探求の深くて魅力溢れることは、否定できない。外国人に日本語が読めないだけで文学の質を決めつけてしまうことは出来ない。
泉鏡花の日本語の魅力を、誰が外国語に翻訳できるだろう。世界文学性と、世界で読まれうることとは、べつものである。簡単に外国語に翻訳が可能な日本語の持つ平板な雑駁さということも考慮に入れねばならない。大江健三郎の作品はむしろ英語などに換えた方が読めるタチのものだと、わたしは前に書いた覚えがある。三島文学は大江さんの日本語よりは遙かに美しく堅固であるが、だが、やはり、しかり大江文学と同じである。

* 私小説にもいろいろある。私小説らしくない私小説もふくめると、日本文学の多くは私小説に近いが、それをいえば、海外文学にもある。そんな中で吉田優子さんの「私小説という小説」への体験的な「不審」表明は、何度も耳にしてきたような指摘でありながら、事新たにまた面白く印象に残った。私小説を書き、また志賀直哉を難しく論じた榛原さんにも読んで貰おう。また甲子老にも。
こういう論攷なら、わたしの読者にはちがうテーマて書ける人はたくさんいるはず。ペンの会員でこそなくても会員なみか、それよりずっと力ある人は、世間にいっぱいいる。湖の本を二十年やってきたのである。よく分かっている。「ペン電子文藝館」の委員の大半は、現委員長もふくめて「湖の本」の読者から推薦して会員になってもらった人達である。匹敵する力量の人達はまだまだ山ほどいるといって過言でない。
2006 6・26 57

* ともすると気をはりつめ、息をこらしがちになり、五体、綿のように疲れる。実際は綿どころでなく、石のようにかたくなり、そのため筋肉の攣縮に悩まされる。ハタからみていると大事そうなことは何一つしていないと見えるかも知れないが、精神は異様なほど活躍している。興奮している。わたしがそう意図し意思し希望してそう働いているのではない、いわば勝手に精神が暴れている。そこが危険で、よろしくない。高揚しているのではない、むしろ烈しく落胆しているのである、心身ともに。意馬心猿。そういうことか。わたしを静かに落ち着かせる、いま、なにも、うまく見当たらない。
けさ、七時半頃、血糖値をはかってから、三十分以上も椅子に掛けたなり、仮睡していたようだ。
二階の機械の前へ来て、「最上徳内」を読み進めた。尾岱沼 (オダイトウ)の牧場の宿で一泊した明くる朝、若い「楊子さん」と深々と森の奧へまぎれこみながら、わたしは素晴らしく幸せであった。それが小説であるために、幸せは純粋で深く、清潔であり、こういう世界を持ってしまっては、もう容易に現世では静かに落ち着けないのかも知れぬなどと、愚かに心弱い想いに沈んでしまう。それほど、小説世界の中は完璧なのである。裏返せば、いま現実のわが精神はいたく衰弱していることになる。

* ひとに読ませたくて小説を書いてきたのではないことが、わたしの場合、歴然としている。いつでも、一散にかけこめる自分の「部屋」のように、「他界」のように、「アジール」のように「用意」しておいた世界。町子も、慈子も、冬子達も、キム・ヤンジァも、雪子も、京子も、みな、いつでも、わたしを「そこ」で待っている。まったき無垢と清潔とで待っている。そこへ入りさえすれば確実にわたしは静かに落ち着ける、が、それでは、わたしは現実に「生きて」いないのと同じである。
「この作者、半ば<他界>に身を沈めて出入りしている}と、誰かが、むかしわたしを批評していたのは、あまりに正確であったが、そういうわたしを、さまざまに暗示し示唆していたのは、いくつもの「掌説」であろうか。
2006 6・30 57

* 「一期一会」という言葉が好きと表白する人は大勢いる。だが、まだ、なかなかその真意にふれて理会し会得している例は少ない。
小説『慈子(あつこ)』にすでに、井伊直弼著『茶湯一会集』により一期一会のことは書いた。のちに裏千家の雑誌「淡交」にも「異論・一期一会」を書いている。井上靖さんが「本覚坊」を書かれた前後に、「秦さんの説が正解ですねえ」と、わざわざそれののった本を求められたこともあった。
いま思い出したが、井上さんあの小説が出たり映画になったりした頃か。井上さんに、利休はどんなふうに座ってお茶をたてるのですと突然質問したことがあった。当然のように「正座」と答えられたが、わたしは、あの時代に誰がいつ、どんなときに正座していたか、罪人以外に正座などする日本人がいたでしょうかねと問い直し、井上さんは絶句された。ま、それは今は余分なはなしである。
「一期一会」は、無際限な日常の挙措振舞の一度一度を、恰も「一生に一度かのように」繰り返せという「覚悟」の謂である。それは直弼の表現に明瞭だし、溯れば、利休の師武野紹鴎や弟子山上宗二らの「一期一碗」という四字が、より具体的に示している。さらにいえば禅の「一会一切会」も、つよく示唆している。
2006 7・2 58

* 京都への往復にどの本を持って行こうか思案している。通算の米壽をかぞえる「湖の本」の本文は責了にして行こうと思っている。
三好閏三氏(祇園梅の井主人)との対談は異色のものになろう。

* 対談 心づもり
「美術京都」という準専門誌で、配布先は、先ず美術家・愛好者、それに「京都」に関心深い人です。それを念頭に置きたいですね。
三好さんは「京都」「祇園」の人、美術やその雰囲気を「創る」側でなく、「享受して活かし楽しみ喜ぶ」側にある人です。わたしと、その辺は、殆ど全く同じ立場にあります。期待したのはその度合いが、わたしよりずっと具体的で生活的だという点です。
ただし一時間半ちかい対談時間を、具体的な、しかし個人的・私的な体験や日常の話題だけでうずめると、読者はそこから或る纏まった何かを把握しにくく、読み捨てになるか、ひとごと・よそごとで終わってしまいかねない。何らか「理解」や「納得」のための「筋」、手がかりを提示しなくてはなりません。
それを、聞き出し手のわたしは、わたしの著書である、女文化論、京言葉論、伝統芸能論また文化論としての「趣向と自然」という考え方、茶の湯論等から迫りたいと思っています。
「遊び」の達人三好閏三氏を支えているであろう「考え・思い」を絞りだしてみたい。もとより美・美術に力点を置きながらです。
およそ、美術の話になると創る人の「どう創るか」の話ばかりですが、あきらかに偏りすぎています。
美術や美は、創り出す側だけのモノでなく、それを享受し享楽する側の問題でもあるのですから。そっちの方が人数は圧倒的に多い。
わたしたちは、もっぱら、その方面からおしゃべりしようと思います。
享受・享楽とは、言いようを変えれば、「美しい」モノやヒトやコトに触れて、佳い意味で「遊ぶ」ということでもありますし、そうなれば、わたしたちには、手に触れ、目に触れ、耳に聞き、口にして、遊び喜べる美しいものは山ほど有りますから、話題には困らないはずです。
ただ、あまりとりとめなくならならないよう、「筋」を掴んで、「舵」をとらねばならず、その役をわたしがおよそ引き受けますので、対話を楽しみに来て下さるように。
いろんなことを聞きます。答えられることは答えやすいように気楽に答えて下さい、そこから問題が整理できてゆきますでしょうから。せいぜい七、八十分。それに、あとで幾らも手入れして添えたり削ったり順序を替えたり出来ます。固有名詞の表現だけは最終的に間違えないようにしましょう。
対談の場を、ひとつの架空の「茶席」のように想定し、三好さんお好みの趣向と自然で、「七月某日」という祇園会の時季にふさわしい、道具組その他を、脳裏にご用意ください。
その一つ一つを、私に、美しく堪能させて下さい。むろん道具だけでなく、一応「茶事」の体で、衣・食・席・庭や雰囲気づくりのお好み・趣向を、「自然」にご説明下さるよう。
むろん、架空の客も念頭に、おのずからな、少し逸れて行くほどの話題を楽しみましょう。音曲や歌舞伎や、京の「女」文化へも「ことば」へも話をひろげましょう。
最初に、今朝の「梅の井」さんのお店、またはお宅に心用意された、季節のお花、また書、画、装飾の工芸品などを簡単にうかがい、そして、気楽に本題へ入って行きますが、どんな美や美術や遊芸にしても、それへ向かわれる「三好さんのお気持ち」が、趣向もあり、自然なものとして「生活術」としてうかがえれば、何よりなのです。堅苦しくする気はありません。

* さ、そんなにうまく話が運ぶかどうか、ま、堅く成らずに話し合ってこよう。彼に恥をかかせずに済むように。
2006 7・3 58

* ヒロインにいろんな名前をつけたけれど、『畜生塚』の讃岐町子はごく初期の。この名、ことに讃岐という音に惹かれ、あれで作品は出来た気さえする。
2006 7・4 58

* 光文社智恵の森文庫の『古美術読本』二「書蹟」の巻の編著が出来てきた。井上靖在世の頃、先生の推薦で随分いろいろ私は仕事をさせてもらった。枕草子や泉鏡花も編纂したし、淡交社の『古寺巡礼』にも書いた。そういえば、「建仁寺」の巻も智恵の森文庫に入っている。「書蹟」には、岡倉天心、幸田露伴、青木正児、小林太市郎、三条西公正、小松茂美、安田靫彦、武者小路実篤、高村光太郎、村上華岳、会津八一、北大路魯山人、亀井勝一郎、吉川英治、宮川寅雄、山本健吉、井上靖、大岡信という豪華な顔ぶれで編んだ。わたしは本のお添え物の「序」を書いただけである。なつかしい。
2006 7・5 58

* マーガレット・ケネディの『永遠の処女』は、小説を読むという嬉しさをたっぷり感じさせてくれるしファシネーションに溢れている。まだ年おさない娘の作品としては才知に溢れて、生き生きとした会話を書いている。彼女の戯曲的な才のなせるところと解説されている。
ルイス・ドッドとフローレンス・チャーチルの対話の中で、天才的な作曲家のルイスは二十歳前にサーカスの楽隊でコルネットを吹いたりサーカスのための曲も作っていた経歴を、令嬢フローレンスに打ち明け、「僕の様式はいまだにその名残を止めている」と言うと、フローレンスは即座に、「ジャーナリズムと同じようなもの」ですねと応じ、「どんなにその人が文学的でも、ジャーナリスト上りの作品にはそれがでてますわ」とルイスをたじたじとさせる。なかなかの批評家。
新聞記者や記事を書いていた雑誌記者あがりの作者は少なくないが、このフローレンスの言うようなところを、わたしも感じてきた。それがわるい、よいの問題ではないが、筆致にそれが出てくる。読みやすいが味は浅いのである。
2006 7・7 58

* 昨日京都の星野画廊が送ってきた図録、「忘れられた画家シリーズ30」『没後78年増原宗一遺作展』「夭折したまぼろしの大正美人画家」は、正真正銘のすばらしい発掘で、眼を吸い取るほどの画境。岡本神草や甲斐莊楠音らを凌ぐ凄みを描いて、なまなかの美人画とはとても謂い得ない天才を輝かせている。秦テルオともどこかで魂の色を通わせているが、恥ずかしながら是ほどの画家の名前も作品もまったく知らなかった。鏑木清方門の師も一目置いたであろう画人で、ひと言で言えば、最も佳い意味で「凄い」し、人によれば「怕い」であろう。「春宵」「舞妓」「藤娘」「手鏡」「五月雨」「七夕」「夏の宵」「夕涼」「浴後」「両国のほとり」「落葉」「鷺娘」などとならぶと、尋常な美人画の題目であるが、一作一作はもっともすごみのある、鏡花や潤一郎の大正の作に通底する悪魔性も隠している。
「夏の宵」という二曲の屏風が凄い。この一冊しかない『宗一画集』のなかに黒白の図録として遺された「舞」「三の糸」「悪夢」ことに蛇をからませて立つ「伊賀の方」の二図や「誇」はその美しい凄さに肌に粟立つ心地でいながら、深い官能美は、やはり鏡花にも潤一郎にも共鳴する。こんな画家に出会うとは、ただもう、驚嘆。
こういう極めて貴重な掘り出しの仕事を、夫妻でつぎつぎにやって行く星野画廊の業績は、文化勲章ものである。これを京都で見てこなかったとは、痛嘆。

* この天才画家増原宗一の発掘に較べれば、偶々手に入れた「オール読物」五月号の「発掘! 藤沢周平幻の短篇」なんてものは、「無用の隠密」も「残照十五里ヶ原」もただの通俗読み物を半歩もでていない。手慣れた措辞に渋滞のないところは、他にも満載されているくだらない通俗小説のヘタなのに較べれば、三段も五段も優れているのだけれど、こと文藝としてみれば講釈の達者という以外のなにものでもない。これでも比較的藤沢周平は何作か見る機会があった方だが、おはなしの上手以上の感銘など雫も得られなかった。藤沢にしてしかり、「力作短編小説特集」など、どこが力作なのやら、まことにくだらない。「オール読物」に載っている作品は「つまらない」と言うのですかと、このまえ、自称エンターテイメントの、大家らしき人に顔色を変えて迫られたが、この号で見る限り、優れた作は優れた作ですよとすらも、ただ一作として言いがたかりしは、如何に。

*『初恋』から読み始めました。
先生、素敵なご本をありがとうございました。
谷中いせ辰の和紙(水色の鹿の子)でカバーを付けて読んでます。
清冽な文章! 本当にもう、凄いです♪ 引き込まれます。気づけば、両の眼を大きく見開いて読んでいて、目がぱりぱりに乾いてしまいました。
電車で読んでたら危うく乗り過ごしそうになり、買い物でも、直しに出していた洋服を忘れるところでした。日常生活の全てを道端にバラバラと落として歩く・・・。本を開いたとたん、人生を小説に持って行かれちゃう・・・。そんな感じです。  百合

* こういう思いをわたしも潤一郎作でひしひし味わった。こういうレターを書きはしなかったが、谷崎潤一郎論を思う存分に書きたいばかりに小説家に先に成りたいと本気で考えた。『吉野葛』『芦刈』「春琴抄」『少将滋幹の母』『武州公秘話』『細雪』『猫と庄造と二人のをんな』などだけでなく、初期の短篇や、大正時代のあれこれでさえも、わたしは活字に唇を添えてうまい味をのみほしたかったのである。そういう思いをさせてくれない軽薄な読み物など、どうでもいいのである、わたしは。時間つぶしに過ぎない。熱狂して読んだ作品を列挙したらたいへんな量になるが、むろん読み物もたくさん読んできた末に断言できるのは、そういう感銘作の中に読み物は一つも入っていない。それらから何か魂の糧をえられたという覚えは全くない、ということ。
2006 7・7 58

* 夢見わるく、目覚めは気色わるかった。「夢」「夢」「夢がある」「夢をもとう」などと言う人がいると奇妙な気がする。まともな人間を惑わせる諸悪の根源のひとつであるに相違ないのが、夢。そもそも生きていると思っている、それ自体が夢にほかならないのは明らかで、真に生きるとは、そんなたわけた夢から覚めること、ああみんな根のない夢なんだと気づいて覚めること、そこで始まるものであろうと信じている。
こんな風に書いている、考えている、手まさぐりしている、このすべてが夢であることを、わたしは「感じて」いる。感じているからそれを「眺めて」いる。与えられた役のように意識して演じている。あえていえばそういう舞台に置かれていると知りながら、演じている。楽しんでさえいるのである。
「夢だよ」「これは夢だよ」「夢なんだよ」と囁く。人生は、「闇」に言い置く夢である。闇が真っ暗だと思うのは、夢から覚めていないからである。闇の絵空事はかがやいている。創り出した小説が示している。闇は光っているのである、ほんとうは。
2006 7・9 58

* 最上徳内北の時代の「湖」版中巻を、「MIXI」に書き込み終えた。ついでにその跋文も書き入れた。東工大教授を、当時六十歳定年で退官したあの三月に、跋を書いている。優れた文学について述懐していて、この際の話題にふさわしく、此処へも転写しておく。

* 作品(「最上徳内」中巻) の後に
小説ほど「旅」に似た創作はない。読むのもそうだが、書くのもそうである。実際に旅したことを書いたり読んだりが似ているというのでは、ない。書くという行為、読むという行為が、さながら「旅」に似ていると思う。説明の必要があるだろうか。
けだし「旅」にも、いろんな旅があろう。かりそめの旅、行きずりの訪れ、また周到な用意と時日とをかけた旅行。読書にもそれがある。小説を書いて創るのにも、それがあると思う。旅には再訪・歴訪があり、長逗留もあれば暫く住み着いて暮らすほどの例もある。そういったことを長編や短編小説の創作にあてがって想うことは、そう突飛な比喩ではあるまいし、読書にからめていえば、やはり繰り返し訪れ読むような・読ませるような作品に出会いたいと思うことだろう。私にもその癖があって、ある種の魚の周游するに似て、馴染んで忘れ得ない作品を周期的に繰り返し読んできた。『源氏物語』もそうなら、『ゲド戦記』もそうだし、トルストイや唐詩選も、漱石や鏡花も、そうなのである。
この数年、私は、気晴らしに翻訳のスパイものやミステリーの類を少なくとも二百冊ぐらい読んできたが、どんなに気晴らしにはなっても深い喜びを得たとは言えない。読むとたちどころに忘れてしまう。だが、たまたま古本屋で手にした例えばヘッセの『車輪の下』などを懐かしく読み返しはじめると、もう何ともいえず優れた文学にまた逢えた嬉しさに(ファシネーションの魅力に)胸の底まで満たされ励まされる。オースティンの『高慢と偏見』でも鴎外の『阿部一族』でもそうだった。みな何度めかの読書であるのに、しみじみとする。そういう作品は、もう、一行から次ぎの一行へが、すばらしい「旅」そのもののように私を魅する。そして、そういう小説が書きたいなと思う。願う。文体と文章そのもののうねりに乗って、乗せられて、それが嬉しい楽しい面白いという作品に出会ってみたいし、書きたい。
東工大の教室で、
遺品あり岩波文庫『阿部一族』
という鈴木六林男氏のいわば世界最短の戦争文学をとりあげ、無理を承知で、最初の「遺」の文字を虫食いに隠し、漢字一字を埋めよと試みたことがある。戦争を知らぬ世代に「遺品」の入る望みは薄かった、が、それでも若い戦死者の境涯を推察しえた正解者は、何人かいた。そういう学生は『阿部一族』を読むか、中身を知っていた。だが案の定読んでいない、『阿部一族』を全く知らない学生が大方であった。そんな彼らがどう答えるか、実は、それを私は知りたかった。いちばん多かった、圧倒的に多かったのが「気品あり」であった。鴎外原作だからとアテて読んだ者もいたが、たいがいは「岩波文庫だから」と理由づけをしていた。岩波文庫の装丁や選書の姿勢に、東工大の学生のかくも大勢が「気品」を見てとり、または感じとろうとしていたのが、印象深かった。首肯けるものがあった。そして「品」とはいったい何なのであろうかと、古くして深い問題へ、その後何時間もかけて学生諸君といっしょに踏み込んでみた。文学の問題でもあり、人間の問題でもあったからだ。
「気稟(きひん)の清質最も尊ぶべし」と芭蕉は有名な旅の文に書き付けている。及ばずながら座右の銘とし、わが価値観を統(す)べしめている。
「気稟の清質」を欠いた文学も藝術も、また人も、私は好まない。「気稟の清質」がもしあるなら、どんなに無頼で、どんなに世の掟に背いていようが、荒くれていようが、逆よりも、私は「最も尊むべ」く惟(おも)うのである。
この『北の時代=最上徳内』は、こういう歴史の世界にうとい、興味のない人には、とっつきにくいかも知れない。歴史ものは好きだといいつつ読み物=時代物に馴れている人には、かなり骨っぽいだろう。そういう人ほど、先を急がないで、よく干した堅い干魚を焼いて噛むような気で、ゆっくりと一行から次ぎの一行へと長い「旅」を味わう気で読んでみて欲しい。むかし、今は亡い安田武という読み巧者が、「秦さんの文体はアヘンなんだよ、いちど嵌まってしまうと、抜けられないんだ。ただそこへ行くまではシンドカッタ」とよく慰め励ましてくれたが、文体だけでなく、作品の発想や展開にも読者にシンドイめをさせる「病気」が抜けない。お付き合い下さる方々には頭を下げるよりない。
それにしても思うのだが、この「最上徳内」氏が身をもってした「歴史」は、けっして遠い過去完了の抜け殻なんかではなく、現在なお血をにじませ、我々に、我々の今からの二十一世紀に重い大事な「問題」を突きつけている。その意味では徳内サンは優に一人の現代人なのである。急がず焦らずその人の味わいに触れていただきたいと願っている。
さて、四年半になる東京工業大学「工学部(文学)教授」の日々は無事終わった。この巻をお届けの頃は、最期の成績も提出し、教授室の掃除をしながら弥生尽の定年退官を清々しく心待ちにしているだろう。
念々死去、すなわち、念々新生。わが旅は、ゆっくり続いて行くだろう。 1996.3月

* 少しずつ少しずつ退蔵を、と。世間への「窓」を、少しずつちいさく狭く絞って行く。自分からメールを送ることを抑制し、メールは返信にとどめるように心掛けている。「MIXI」に新しい小世界がみえてくるなら、それはしばらくフォロウしてみたい。
2006 7・11 58

* 「ふわふわのポン」と謂うていた。生米をすこし持って行くと、道ばたに店だししたおじさんは、米を鉄の窯に入れて密封し、ハンドルをゆるゆる廻し続けて、時間が来るとどんな仕掛けか「ポン」と大きく鳴らして窯の蓋をあける、と、ふわふわに膨れた米菓子がどっさりできる。甘い蜜をかけ、かきまぜて、呉れる。おやつになった。
菓子としては美味かったが、文章への譬喩として「ふわふわのポン」とわたしのいうとき、ネガティヴな意味である。そんな文章で綴られた読み物など、ひまつぶしに読むときも無いではないが、自分では書きたくない。書かないのでなく、書けないのだろうと言われれば、否定しない。わたしの本が沢山は売れないのは、「読み通すのは…始めにしんどそうと思」わせてしまうからで、つまり藝が無いだけの自業自得である。それでも「読み進め」てくれた人は、たいがいもう放しはしてこなかった気がする。
2006 7・15 58

* それよりも、我が息子秦建日子のブログの、今日のコメントに、少し、たちどまってみよう。 全文は必要ない、前の半文で足りている。題以下に、こうある。

* 2006.07.21 Friday ウンコ投げ競争はガマン!
以前、スティーブン・キングの「ウンコ投げ競争の優勝者は、手が一番汚れていない人間だ」という言葉をこのブログで紹介したことがありました。
「どれだけ他人にウンコを投げて命中させるかが大事なのではなく、そんな無意味なことで手を汚さないのが人間の品格なんだ。それよりは自分がやるべきことをちゃんとやろうよ」(村上春樹さんの解説)
無性にウンコを投げ返したくなると、ぼくはこの言葉を思い出しては踏み止まることにしています。他人にウンコを投げつけたいウンコ野郎は、静かに無視すればいいのです。あるいは、静かに軽蔑すればいいのです。あるいは、哀れに思えばいいのです。だって、他人にウンコを投げるしか自己実現の方法を知らなかったりストレス解消法を知らなかったりするわけでしょう? そんなウンコな生き方、哀れですよ。
それよりも! (以下は、此処では略しておく。わたしの批評とは関わらないからである。 秦)
とまあ、ちょっとここ数日、立て続けにウンコな気分になったので、自分自身に言い聞かせてみました。
ウンコ投げ競争はガマン!―――「ウンコ」「ウンコ」書き過ぎですかね(笑)

* 引用されている村上春樹の「解説」が、一部引用でしかないかも知れず、問題を一般化し、ここでの言及は氏とは一応「無関係」としておく。その限りにおいて上に引用された一文は、わたしには、タワイないものに思われる。秦建日子はこれに賛同しているようだから、わたしの「物言い」は、彼の理解や共感に対してだけ及ぶとしておく。

* 先日、歌舞伎座で、泉鏡花昨の「山吹」という芝居を観てきた。これだけが幻想性を庶幾しない一応現代劇で、ほかに「夜叉が池」「海神別荘」「天守物語」があった。
わたしと妻は、昼夜に、この四つともみてきたが、四つに共通して言えるのは、異界・魔界と俗(人間)世間との火花の出る対決であり、作者の思想は、眼をみはり思わず呻くほど烈しく、後者、つまり俗な人間・世間への侮蔑と憎念を示している。
鏡花世界の構造は複雑で、こんな簡単に割り切って尽くせるモノではないが、鏡花の「根の哀しみと不平」との思いには、「そんな無意味なことで手を汚さないのが人間の品格なんだ」という式の、「世間」の行儀・判断に対する「不信」が重々しく沈んでいる。それが無意味であったり意味ありげであったりする、そんな判断を、誰が、どんな目盛りの物差しで決めつけているかの批評抜きに、どうして人間の「品格」にまで言い及べるのであろう、と。
わたしもまた、したり顔のそういう軽さや浅さや薄さに、おいおいおいと目を剥いてしまう。

* で、「山吹」の話にもどるけれど、この戯曲は、三島由紀夫がやけに執着し称賛したほどは纏まりいいモノではない。ないけれど、なみの世間の判断や価値観からすれば、極めて過激に非常識な価値転換の凄みを主題にしているとは、はっきり、いえる。
芝居の粗筋をくどくど書き立てる根気はないのだけれど、或る資産豊かな料亭の美しい娘が、本意なく華族家に嫁いで、暴慢・強欲な夫に虐待され、もう死んでもいい、死にたいと、家出している。
その家出の旅先で、たまたま、娘時代にひそかに思いを焦がした新帰朝の有名某画家と出会い、女はかつての思いを男に告げて、死にたいとも、あなたに一夜でも添いたいとも、嘆くのである。
画家先生は、死んではいけないよと諭し、しかし自分には妻子もあり現世の名声も備わっていて、女の情をたとえ一夜なりと受け容れるわけにゆかないと、窘める。それとても男画家は動揺しており、女の気持ちに添いたい欲求も隠しきれないのだが、しかし、終始毅然と腕組みし、拒んで、起っている。「そんな無意味なことで手を汚さないのが人間の品格なんだ」と、絵に描いたような「紳士」なのである。
そのもう一方に、これが「主役」ともいえる、落魄流浪の乞食くぐつ師がいて、これも先の美しい人妻と舞台の上でさきに出会っている。
この地を這うような乞食男は、ものに襲われ傷つき腐った池の鯉を、「土にほうむってやろう」と言いつつ腰袋に拾い上げていた。我が身とも思いなぞらえたいそんな腐れ鯉を、女はもの哀れに見つめていた。
そしておいおいに、女は、乞食男の秘め持っていた「過去」を知ってゆく。
男は過去に、理想の貴婦人と出会い、しかも心なく傷つけ、死なせていて、その悔い一つを焼け石のように抱き込んで、呻きながら人外境を流浪しているのだった。
乞食男は出会った女に、美しく品のある家出妻についに懇願し、ただひたすら女の手で打ち打擲されたい、骨も砕けるまで「憎い、畜生」と打擲してくだされと、人目離れた山なかで、女に向かい切望する。その責め苦を受けるより外に、かつて犯した美しい貴女への罪苦は、増しに増すばかりだと泣くのである。
女は、ついに、婚家への憎しみを想い描きながら、狂ったように「くぐつの男」をとめどなく木の棒を掴んで打擲するが、それを制止したのが、ひとり山なかを散策していた、先ほどの画家紳士であった。
制止の言葉も態度も、世間の常識にいかにもかなっていた。家に帰れとすすめる言葉を、だが、女はことわり、あなたが自分の宿へ連れて帰ってくださるなら従うが、それが叶わない上は、死か、流浪か、と絶望する。ついに画家は、わたしには家も仕事もあるが、当分の時間の余裕を呉れるなら、あなたと添うことすら考慮していいとまで、オトコくさい譲歩もするのだった。
女は、即座に拒む。それならば、自分は目の前の人形つかいの乞食男と「人外の境」に進んで落ちて行きます、この男と暮らして、男の望むまま、朝に昼に晩に五体を折檻しながらでも、ともに生きて行きますと言い切る。そして人形遣いに、何処へでも何処までも連れて行ってくれるかと頼む。
乞食男は随喜の涙をこぼして、女に礼を言う。そうと聴くと女はいきなり「ここで祝言」したいと、男がさっき腰袋に入いれた無残に腐った鯉をとりださせ、やにわに女は口ずからその生き肝を吸い、男も躊躇わずそれにならう。「悪食の共食」が、すなわち二世を誓う「祝言」になった。
画家紳士は、茫然とし顔を背け、しかもなお女をいさめるが、自分を受け容れる気があるのかと女に迫られると、「仕事があります」と思わず逃げ腰になり、観客席に失笑の渦が湧く。
そしてそして、鏡花ゼリフの、最も痛烈な一句が、男と抱き合うように立ち去る女の花道から、本舞台の画家紳士に向かって、投げつけられるのである、
「世間へ、よろしく」
と。花道は魔界に入る至福の道であり、本舞台は「品格」を守って「そんな無意味なことで手を汚さない」紳士達のいかにも堅固そうな「世間」そのものを示現していた。

* 何が「うんこ」で何が「うんこでない」か、また「うんこ」はきたないだけのものであるのかどうか、俗な「世間」の掟いに従えば明白・明瞭かもしれないが、人間の誠からみれば、そんなに甘い判断ではない。
鏡花は、それを言い、実は夏目漱石も繰り返し繰り返しそれを書いてきた。漱石と鏡花とには、よほど意気の通じ合うもののあったことは、実証可能である。

* 「うんこ」どころではない、泉鏡花の凄い短篇の代表作に、「蛇くひ」というおそろしい幻想の作があり、その先に「貧民倶楽部」という現代小説の秀作があり、まさしく「そんな無意味なことで手を汚」してでも、人間としての尊厳や自由を闘いとらねばならない世界が描かれている。その世界は、しかし、なみの「世間さま」からみれば、堪えがたい汚辱に塗りつぶされたような、「品格」とは絶対に無縁な世界に映る。そう侮蔑的に眺めてトクトクと生きている安く思い上がった人間紳士どもへの不快感、憎悪感を痛切に吐き出しつつ、鏡花の傑作戯曲は、四編、すべて光り輝いている。この不思議を、その輝く価値を知った・理解した者の胸には、「うんこ」も「うんこでない」も、それを「投げる」も「投げない」も、とうてい本質の問題にならない。
自身の「誠」を、そこに一途に賭けねばならないなら、たとえ「うんこ」で「手を汚し」ても、「蛇」をそのまま喰いちぎって俗世の驕慢に酬いても、それらを躊躇いなく掴んで投げ付けられる「全的自由への気迫」こそ、本当に必要なのではないか。
「うんこ野郎」より「品格の紳士づら」の方がはるかに薄汚い例が、あまりに多ければこそ、批評をはらんだ「創作」行為が、大切に機能するのではないのでしょうかね、秦建日子氏よ。

* あす、読み直してみるけれど、言いたい趣意は変わらないと思う。
たかが「うんこ」ででも、「いやみな世間」へ凛然と反逆できないような創作者なんか、あれどなきがごとき、不用なモンです。そもそも人は、人それぞれの「うんこ」を持っているし、それを敢然と投げ付けてでも是非守りたい乗り切りたい譲れない何かがある。それなのに、「うんこ」をただ握りつぶして如才ないごアイサツだけを大事がり守るような「品格」って、いったい何なのよ。
「手を汚さない」意識と、みせかけの「品格」とが、気色悪く「世間」へむけてわれ賢こに演技している光景、たとえば、選挙演説のマイクを握った、真っ白い手袋。
投票という「うんこ」もよう投げ付けないで、「品格」という名の怠惰や遊惰に嬌声をあげている日本の「世間」へなんぞ、うち背きたい方の気持に、むしろホンモノがあるんじゃないですかねえ。
2006 7・21 58

* 昨日、「MIXI」の「足あと」をさぐっていて、とある若い人達の会話にまぎれこんだ。事情の正確なことは分からないが、やす香の死に触れ合って、やす香は「使命」を果たした、遂げたのだということが話されていた。
おどろいた。
おどろいたことに、「使命」とは「命を使いはたす」意味であり、やす香は命を使いきって「ラク」になれた、だから「お疲れさん」「やすらかに」「よかったね」と自分達もほっとして見送れたというのだ。「命を使う」とはウマイ謂い方だねえと感心しあっているのだった。
それは、その若いやす香の友達たちのオリジナルな解釈では、どうやら、なく、通夜の「お祭り」で披露されたやす香を「送別の意味」づけのひとつであったらしい。
わたしは仰天し、思わずコメントを添えた、やす香の祖父だとことわって。

* ★★やす香の祖父です。みなさん、ありがとうございました。

使命ということが語られていたので、ちょっと割り込ませて貰います。

「使命」とは、命(めい)つまり神の命令、天命、天職を、使(し)つまり「全う」するという意味です。もし命(いのち)を使う、使い切るという意味に取るとしても、それは、生まれ来て、そう生きたいと願った「天命・天職を、満たす」というのが、本当の意味です。

病に倒れた私たちの孫やす香の場合は、例えば、生前に面を輝かして話してくれました、「いつか国連に勤め、語学の力を思いきり活かして、国際的に活躍したいの」という「願い」が満たされたときに本当に「使命が全うされた」のであり、その意味では、半途に若く落命したやす香の残念・無念をこそ心から惜しんでやりたいと思うのです。

やす香が、自ら「死にたかった」と思われますか。「生きたい」「生きたかった」と苦しい息づかいで叫んでいました、きっと自分の落ちこんだ事態が、悔しくて悔しくて仕方なかったはずです。
「ラクに死ねてよかったね、お疲れさん」とは、言ってやりたくないのです、可哀想に。

「いったい、どうしてこんな事になっちゃったんだろう、何かが間違っているよ、こんなのイヤだよ」という、痛切に残念な、悔しい思いを忘れてしまい、文字通り「あとの祭り」に流してしまえば、やす香の無念の死、満たされなかった命は、そのまま、本当のムダになりかねません。

若いお友達には、やす香の真に願っていた「使命」って、ほんとは何だったんだろう、と考えてやって欲しいのです。

その無念・残念を、お友達の一人一人が「自身の使命」を考えることで、どうかやす香を慰めてやって下さい。

「命を使ってらくに苦しまずに死んだ」なんて、それでは安い洒落になってしまうのが、悔しいのです、祖父であるわたしは。
わたしは愛していた孫のやす香に、「死なれた」のだ、とは思えないのです。「死なせた」のです。あんな手ひどい「手遅れ」の大苦痛に追い込んでしまっただけでも、ほんとうにやす香にも、みなさんにも、申し訳ないことをしたと心からお詫びしたい。
身のそばの大人が、子供から目を放さず、せめて三月四月のうちに適切な医療の手を打っていれば、「らくに死なせてやる」どころか、命を救い得た可能性は高かった、有った、と思います。残念です。

* そのあとにつづけて、何かコメントがあるかと待ってみたが、一夜を経て、寂として声がきこえない。

* われわれは往々愛する者に「死なれた」と受け身の涙を流すけれど、「死なせた」という自責からは、つとめて目を反らせてしまう。死なせてしまいました、やす香にもやす香を愛してくれた皆さんにも申し訳なかったと、わたしも妻も悲しい。なにが「お祭りだ、お祭りだ」であろう、なんで通夜や葬儀がやす香十九歳の「人生最大の晴れ舞台」なのか。バカなことを言ってくれるな。
人は、人として現世に「存在する」かぎり、夥しく人を「死なせて」いるのである、自ら下手人にならないだけだ。
時には自分自身が愚かなために、自身をついに死なしめることも屡々実例があり、孫のやす香も、まちがいなくその実例の一人であった事実から、目を背けていては、その無残な落命から何一つも、此の世に残されたわれわれは、ことに若いお友達たちは、学び取れないだろう。
どうか、やす香のおよそ十ヶ月の「MIXI」日記を、一字も曲げず、「会話」のすみずみまで読み返して欲しい、やす香が自分の「命の使い方」に本当に聡明であったとは言えないのである。死者に鞭打つのではない、「なぜこんなことになったんだろう」「間違っていたよ」「こんなのイヤだよ」と、心底から思い直したい、のである。
わたしは「生きよ けふも」と呼びかけつづけた。やす香に命あるかぎり、やす香に「死」という文字とことばとで触れることは、絶対に避け続けた。言忌みした。
だが、ついに、死なせてしまった。わたしたち祖父母は、「生きよ けふも」と願い続けながらも、やす香が間違えたことに目を背けてなどいなかった。やす香もやす香の親たちも、或る意味で賢い者達であったにしても、聡明ではなかった。まもるべき最大の命に真っ正直に直面しないで「目を逸らし・目を離し」続けていた、最期まで。
そして「あとの祭り」で、やす香は「使命」を遂げて、つまり命を使い果たして安楽な天国に行ったのだと、もし意味づけたりするのなら、それは真実から、いまなお目を背けたいやらしい「ごまかし」である。やす香は命の限り、生きたいよ! と叫んでいた。死の恐怖から逃げ出したいと怯えていた。この苦しみを「死」へでなく、「生」の方へ救い出して欲しいと願っていた。
だれが観念して死んで往きたがるものか、あの若さで。

* 死にたいほど苦しかった日々を、四月、五月、六月の日記でやす香は偽りなく、喘いでいた。しかもやす香は、生の本能をうしなった可哀想な命として、爪を研ぐ死神の恐怖におびえたまま、入院までの日々をあまりに孤独に過ごしていた。いや、孤独ではなかったのだ、少なくもやす香の友人の何人も何人もが、はっきり「気づいて」「見るに見かねて」「思いあまって」忠告し勧告し、はっきり「SHI!」という文字まで用いて、適切な診療を一刻も早く受けよと、半ば威嚇さえもしていた。だがやす香は「こわくて」「おびえて」右往左往し、しかもそんな一人の理性や判断力を喪っていた十九歳から、大人たちは、「目を離し・口を噤ん」で、言語道断な「手遅れ」をむざむざ招いた。
「白血病」と見誤り、「肉腫」と診断を決定した即座に、もう診療不可能な「緩和ケア」を、つまり「死」を前提にした状態を、まるで神の思し召しかのような言い訳を添えて受け容れ、死後の「お祭り」へ、一直線にやす香をやすやすと見送ったのである。そのうえにもし、やす香は「使命」を果たしてラクになった、「おつかれさん」「やすらかに」と本気で誰もが言うのなら、可哀想に、やす香はまさに「見殺し」に遭ったようなものだ。

* やす香のそばにわたしがいてやれなかったのは、わたしにも責任の一半がある。わたしはやす香に死なれたから泣き嘆くのではない、「死なせた」と思い申し訳ないと自身を責める。わたしはやす香の日々を現実に目に見ていてやれなかったが、日記からは目を離さなかった。危ないと見ていた、だから「親に相談せよ」と喧嘩腰にすらなったのだが、それもメッセージやメールで言うよりなかった。逢うことが出来なかった。親にも伝えられなかった、聴く耳もなかったろう。わたしたちもその点、やす香の大勢の友人達の域を出られなかった、いや友人の大勢は「生きている」をやす香を見て話せていたのである。

* 寂しい花火になる。
2006 7・29 58

* そのむかし、わたしの「身内」の説を小学生のように誤解したいい大人が、人も驚くヒステリーを起こしたことがあるが、今度は、私の著書『死なれて死なせて』の、その「死なせて」という意味が理解できずに、わたしたち老夫妻を「名誉毀損で訴訟」すると「警告」してきた。
やす香に自分らは「死なれた」のに、それを「死なせた」ともいうのは、「殺した=殺人者」と言われているのと同じだ、「謝罪文を書け」と言うてきたようである。
べつに講義する気ではないが、わたしは、わたし自身孫やす香を「死なせた」悲しみのまま、いち早くすでに悲哀の仕事として、「MIXI」に、『死なれて死なせて』を連載し、ほとほと心やりにしている。
逆上する前に静かに読めば、大学の先生たるもの、「死なれて」「死なせて」の意味の取れぬわけ、あるまいに。
人が、人を、「死なせ」るのは、いわば人間としての「存在」自体がなせる、避けがたい業であり、下手人のように殺すわけではない。いわば一種の「世界苦 (Welt Schmerz)」に類する不条理そのものである。大は戦争責任をはじめとし、ぬきさしならない身近な愛の対象に「死なれる」ときは、大なり小なり「死なせた」という悔いの湧くのが、状況からも、心理的にも、あたりまえなのであり、むしろそういう思いや苦悩を避けて持たないとしたら、その方がよほど鈍で、血の冷たい非人間的なことなのである。
本来はまずそこへ気づき、落ちこみ、苦しみ、藻掻いて、そこからやっと身や心を次へ働かせて行く。むずかしいことだが、そこに生き残った者の「生ける誠意」があらわれる。
だれも、しかし、そういうキツイ自覚には至りたくない。身も心も神経もそこから逸らして、そういう痛苦には「蓋をして」しまい、辛うじて息をつく。無理からぬ事ではあるが、「死なれた」という受け身の被害感にのみ逃げこんで、「死なせた」根源苦に思い至らないようでは、「人間」は、その先を、より自覚的に深く深くはとても「生きて」行けないのである。
人とは、死なれ死なせて、その先へ真に「生きて」ゆく存在だ。ティーンの少女でも、分かるものには分かる。
今後わたしの発信がながく停止されたときは、娘夫婦の手で牢屋に入れられていると想って頂き、老夫婦とも命のある間は、紙筆記具やおもしろい本の差し入れをよろしくお願いしておきましょう。
2006 8・2 59

* 建日子と話し合う、メールで。

* 今日は街へ出る。

* 『死なれて死なせて』は、わたしのエッセイでは、今も広く読まれ、贈答にも用いられて、識語を求められたり、この本を契機に、いらい久しい知己の縁にも多く恵まれたりする著書であるが、どうも、「死なせて」「死なせた」という意義を読み取れない人もいて、それが大学の先生であったりするから、迷惑する。
いましも、「MIXI」の日記欄に公開再連載しているので、読んで下さっている人には、万々誤解など生じようもないのだが、オイオイ、大学の先生、落ち着いて読んでみたらどうかねと言っておく。
念のために、「死の文化叢書」の「あとがき」も含んだ、「湖(うみ)の本」版の後記を、此処に挙げておく。
本を読んでも理解できない個所は、(嗤われて平気ならご希望通り「日本ペンンクラブや日本文藝家協会へ公開質問状」をだすのもご勝手だが、率直にわたしに会って尋ねたらどうですかとも言っておく。

* 秦恒平著『死なれて 死なせて』の跋(私語の刻)
こう書けば、一切足りていたのである。
「死なれるのは悲しい、死なせるのは、もっと辛い。しかし、だれに、それが避けられようか。避けられないのなら、どうかして乗り越えねばならない。それにしてもこの悲しさや辛さは何なのか。すこしも悲しくない・辛くない死もあるというのに。愛があるゆえに、悲しく辛い、この別れ。愛とは、いったい何なのか。」
これだけの事は、これだけでも、理解する人は十分にする。そのような別れを体験したり今まさに体験しつつある人ならば、まして痛いほど分っている。
だれに、それが避けられようか。避けられないのなら、どうかして乗り越えねばならない。そのきっかけに、もし、この本が役にたつならどんなに嬉しいかと思って書いた。
この本は、他人様(ひとさま)の体験を伝聞し推量して、その断片を切り接(は)ぎして書いてみても、真実感に欠けてしまう。それほどに個人的・私的な抜き差しならない体験なのである。「自分」の体験を根こそぎ大きく掘り起こすくらいにしないと、そんな自分の実感や体験をさえ人に伝えるのは難しい。
「生まれて、死なれ・死なせて、」やっと人はほんとうに、「生きる・生きはじめる」のだと私は思ってきた。その意味でこの本は、知識を授けて済むといった本では在りえない。自分の「人生」を、率直に顧みる以外の方法をもたなかった。言わでものこと、秘めておきたいことも、だから書いた。書くしかなかった。
ただ「私」の表現に加えて、いくつかの、誰にも比較的知られた「文学作品」との出会いを交ぜてみた。作品はその気になれば誰とでも共有できる。まるまる他人の体験に、当て推量に首をつっこむことにはならないので、叙述を単調にしない工夫としても、やや重点をさだめ、そう数多くない古典や現代の作品について深く関わってみた。文学を「私」が「読む」という、その行為もまた、私の場合「人生」であったのだから、たんにこの本のための方便ではなかった。
この初稿を脱稿した日、一九九一年.平成三年の師走二十一日に私は、五十六歳の誕生日をむかえた。まだまだ、この先、一心に生きて行かねばならない。

単行本に上の「あとがき」を書いたとき、わたしは、その十月一日付け東京工業大学の「作家」教授に新任の辞令を受けたばかりで、ありがたいことに授業は翌春四月の新学期からと言われていた。まる半年を用意にあてる余裕があった。
前から頼まれていたこの書下ろし原稿をきっちり一ヶ月で書いてしまい、そして四月の授業を開始のちょうどその頃、朝日新聞の読書欄に、この新刊は「著者訪問」の大きな写真入りで紹介されていた。学生諸君に自己紹介のまえに、新聞や、テレビまでが、わたしを、この本とともに紹介してくれていた。ラッキーだった。本もよく売れて版を重ねた。
人は、一度死ぬ。めったなことで二度は死なぬ。だが人に「死なれ・死なせ」ることは、なかなか一度二度では済まない。従来の「死」を扱った著作のおおかたは「己(おの)が死」であった。いかに己れが死ぬるかを考えたものが多かった。わたしを訪問した朝日の記者は、他者の死を己れの体験として人生を考慮していることに、「意表をつかれた」と話してくれた。「死なれる」「死なせる」は、「身内」観とともに、わたしに創作活動をつよく促した根本の主題であった。

笑止なことに、親子とて、夫婦とて、親類・姻戚だからとて、容易には「身内」たり得ないと説くわたしの真意を、粗忽に聞き囓り、疎い親族や知人、遠くの人たちから、お前は「非常識」に、親子、夫婦、同胞、親戚を「他人」扱いするのか、そんなヤツとは「こっちから関係を絶つ」と、手紙ひとつで一方的に通告され罵倒されたりする。「倶に島に」「倶会一処」の誠意を頒ち持とうとは、端(はな)から思いもみないこういう努力の薄さから、どうして「死んでからも一緒に暮らしたい」ほどの愛.情が生まれよう。真の「身内」は、血や法律で、型の如く得られるものではあるまいに。
「身内」はラクな仲では有り得ないと、「生まれ」ながらにわたしは識って来た。

誤解を招きかねない、場合によって破壊的な猛毒も帯びた我が「身内」の説であるとは、さように現に承知しているが、また顧みて、どんなに世の「いわゆる身内」が脆いものかは、夥しい実例が哀しいまで証言しつづけている。その一方、あまりに世の多くが、とくに若い人が「孤独」の毒に病み、不可能な愛を可能にしたいと「真の身内」を渇望している。
よく見るがいい、人を深く感動させてきた小説や演劇・映画のすべては、わたしの謂う「身内」を達成したか渇望したものだ。根源の主題は、愛や死のまだその奥にひそんだ、孤独からの脱却、真の「身内」への渇望だ。あなたは「そういう『身内』が欲しくありませんか。」わたしは「生まれ」てこのかたそんな「身内」が欲しくて生きて来た、「死なれ・死なせ」ながらも。子猫のノコには平成七年夏に十九歳で死なれた。九十六歳の母は平成八年秋に死なせてしまった。

この本の出たあと、読者から哀切な手紙をたくさん受け取った。ひとつひとつに心をこめて返事を書いた。いかに「悲哀の仕事=mourning work」でこの世が満たされていることか。愛する伴侶に死なれ、痛苦に耐え兼ねて巷にさまよい、日々行きずりに男に身をまかせてきたという衝撃と涙の告白もあった。この本の題がいかにも直截でギョッとしながら、大きな慰めや励ましを得たという便りが多くてほっとした。たくさんな方が、悲しみのさなかにある知人や友人のため、この本を買って贈られていたことも知っている。
そういうふうにして、この湖(うみ)の本版『死なれて・死なせて』も読まれてゆくなら、恥ずかしい思いに堪えて書下ろした甲斐がある。どう悲しかろうと何としても乗り越えて行ってもらうしかないのだから。
「湖の本」創刊十二年、桜桃忌にちょうど間に合ってお届けできる。折しも太宰治賞も復活されるようなことを報道で耳にした。いくらか幽霊に逢う気分でもあるが、いい作家、いい作品があらわれて欲しい。
さて四月半ば(1998)過ぎてから始めたホームページヘ、現在、新しい長編小説を、日々推敲を繰り返しつつ草稿の初稿そのものを、書き次いでいる、仮の題を『寂しくても』とつけて。
脱稿できるかどうか保証のない新作を粗削りの段階、下書きの段階から公表するのは無謀なようだが、日ごろ無謀に生きているといえば言えるので、もうそんな斟酌はなにもしない。流れるように流れて生きている。無責任にではない、「退蔵」の日を待って「心して」「一心に」流れに身をまかせている。(=この『寂しくても』は、題をあらためて『お父さん、繪を描いてください』上下巻に完成している。)
この昨今、日本ペンクラブに「電子メディア対応研究会」設置を理事提案し承認された私の動機も、毎日新聞等に書き伝えた。(=2006年現在、この研究会は、正式に「電子メディア委員会」及び「ペン電子文藝館」に発展している。)  (1998.6.) 秦 恒平

* 思い出す。この単行本が本になって、いよいよ東工大で初授業の頃に、すでにわたしたち娘の母、初孫やす香の祖父母は、婿殿から「離縁」され、以来十余年、孫を奪われていたのだった。

* 同じその人が、わたしが、自分の「私語」や「MIXI日記」に、「死なせた」という言葉遣いを繰り返しているのは、やす香の親である●・夕日子夫妻を「殺人者」だと侮辱したものであり、刑事と民事と双方で「告訴」すると言ってきたのだから、また呆れてしまっている。
どうなってるの。
やす香の血を分けた祖父でも祖母でもあるわたしや妻も、何度も何度も、今日も、只今も、あのだいじな「やす香を手が届かないまま可哀想に死なせた、死なせてしまった、自分達にも何か出来ることが有ったはずなのに」と、悔しくも、泣いて、嘆いているというのに。

* なさけない世の中である。片棒を担いではいないとも強弁できないところが、また、なさけない。
2006 8・3 59

* わたしは、自分が冷静な批評家だと思ったことはない、熱い批評家だと、鋭い批評家だと言われれば黙して低頭するけれど。
わたしは称賛するために批評を書きはじめた、最初の「谷崎潤一郎論」がそうであった。小説「清経入水」で選者満票を得て第五回太宰治賞をえたときも、あれはそもそも私にすれば一方的な「ご招待」受賞でもあっただけに、それはそれは嬉しかったけれども、筑摩書房から最初の評論集のメインに、書き下ろしの「谷崎論」が入ったときも、匹敵するほど嬉しかった。
新聞小説の『少将滋幹の母』をはじめて貪り読んだ中学生いらいの、ほぼ同時に与謝野晶子の源氏物語に夢中で抱きついていらいの、いわば「本望」をそのとき、一つ遂げたのであった。
失礼ながら平凡作といえども、本の活字に唇をそえてう蜜を吸うようにわたしは谷崎文学に親しみ、源氏物語などの古典も読んできた。それらへの思いを「批評」として書かせてもらうのには、先に「小説家」として世の評価をえられればいいなと願望していた。
わたしは幸運な書き手のひとりとして、文壇に向こうから手を取って引っ張り上げられたのである。
しかし、わたしは冷静な批評家ではない、論旨は綿密に紡ぐけれども、熱くて烈しくて、ときに人を困惑させるのであるが、動揺したり惑乱したりしながらものを書くことはけっしてしない。その意味で、わたしはいつも批評家であるより、観察者なのである。

* この際、自分自身への観察や批評は棚上げさせてもらうが、わたしが自分の二人の子、姉夕日子、弟建日子を深く愛してきたことを疑う人は、ないと思う。この「私語」をながく読んでいてくださるみなさんは、ことに、けっして疑われないであろう。もし疑う者のあるとすれば、それは厳しい観察の対象ともされてきた、当の二人の子たち、であろう。夕日子にも建日子にも、わたしは、褒められないことを褒めたりしなかった、端的に、「バカか、お前」ともきめつけた。この口癖が建日子の処女作『推理小説』の雪平夏見女刑事の後輩男刑事に対する口癖であったことは、読者はおぼえておられるだろう。
建日子はああいうふうに父親から「門出」していった。このごろ親爺の点が甘いよと心配しているそうだ。
夕日子は、親に、「どうせ捨てられたの」と人に漏らしていたそうだ。そのように思うであろう経緯もわたしはつぶさに「観察」してきた。夕日子のいいところを懸命に観察して、のびるものなら延びて欲しいし、手伝えるものなら本当に手伝ってやりたかった。頼まれもしないのに夕日子の小説の習作を、時間と手間を掛けて貧弱なブログの日記から、手元で一日分一日分再現し、「e-文庫・湖(umi)」に仮におさめて作品の盗難を防いでおいたのも、編集者の目に触れてくれないかなあと願ったのも、それであった。滑稽なほどわたしは娘の習作をこの「私語」でも褒めてやり、「驚喜」したとも最近ものに書いている。
だが、夕日子の反応はそのわたしへの「告訴」であった。「著作権侵害(匿名公開著作物の筆者開示、無断転載、無断改編)」だそうだ。
わたしの読者の中には、やす香をうしなった夕日子の「かなしみを想ってあげてください」と言ってくる人があり、むろん夕日子の悲しみに両親は涙を溢れさせてきた。そしてどうかトチ狂わないで、なんでやす香を吾々は「死なせてしまった」かの反省をもたなくてはと、此処にも書いてきた。
それに対しても、「死なせたとは何事か、殺したと言うのか」と「告訴」に至るのである。ことばを深く心して読み込めなくては、とうていまともにものを書いて世に立てはしない。夕日子には文才はあるが、口にすることばは、日頃から横柄で、なげやりなのが最大の欠点、人間的な欠点であった。
久しぶり、十四年ぶりに再会したわが娘に関して、わたしがこれまで少しも具体的な印象を語ろうとしなかったのは、娘が大学のころから日々に眉をひそめさせられた印象と、ほとんど違わないのに内心仰天したからだ。
娘やす香の死の初七日に満たず、親を法廷に訴えよう、と。
そんな事例が世にあるのかどうか、わたしは聞いたことがない。わたしの観察が不幸にしてピントを外れていなかったのが、いま、いちばん悲しい。
2006 8・5 59

* やす香を夢に見て、目覚めた。
夜前も七、八冊も本を次々読んでから枕元の灯を消した。「千夜一夜物語」がまた好調におもしろくなっていた。ただ、このところの肩凝りが、頸筋へ這い上がっていてあまり心よくない。
あけがた、つづけざまにいろんな夢を追っていたが、気分しか、覚えない…、おおかた人懐かしい夢であった。
そして…家の近くを家の方へ帰っていた。
すぐうしろに連れがいて、妻ではなくもっとずっと歳幼いもののように感じ、建日子か夕日子のように感じ、ときどきふりむきもせず声だけかけていた。
と… 道には、青々、あえかに蔓だつ草むらが静かにそよいで、白い…ごく小さい蝶の、一つ、二つ、と舞うのをわたしはみかけた。うしろへ「蝶だよ」と声かけた。ああ、やす香かしらん…。
「やす香が来ているね…」と声にしかけたとき、蝶がみるみる数を増して、広くない道の、空は青い道の、頭よりわずかな上を、たちまち五十も六十も爪先ほど小貝ほどの白い蝶たちが、乱れ舞いにひらひら上下しながら、わたしの…前へ、前へ。
「やす香がいる」とわたしは口にし、手を、右の掌(て)を挙げて、蝶たちの群れを小走りに追った。空が、黄金色(きんいろ)に…。と…すぐ、ことに小さな蝶の二つが、からみあうように掌へ来て、そのちいさい一つをわたしは掬うように掌にうけた。
もう一つはひらひらと掌の上で舞っていたが、ひとつは羽をすこしいためているか、そのままわたしにかすかに傾くように受け止められ、そして…さも、わたしの顔を見るのだった。
「やす香」と呼ぶと、白い蝶はそのまま…ちいさなちいさなやす香の、「MIXI」にのせているまみいの方へ顔を寄せたあのやす香の「顔」になった…だが、あんまり小さくて可愛くて、膨らむ涙に白い花のようににじんだ。
目が覚めた。
わたしのうしろにずっとついていた幼いものの気配が、あれもやす香であったと、わたしは覚めて感じた。
執拗だった左頚の痛みがウソのように消えていた。

* 妻はうらやましがり、絵のようねと言う。まこと、夢のような夢だった。
その同じやす香笑顔の大きくした写真が、手の届く、ファックス電話の受け台にもたれて、いまも…わらっている。

* 自著『死なれて 死なせて』第四章の末尾でこう書いていた。

* もし世界中に「死」の文藝といえるものがあるとすれば、もっとも多く広く深く「死」を描いているのは、我が国の「謡曲」だろうか。『源氏物語』や『平家物語』に取材したものは、まず例外なくそうであるが、ほかにも、『隅田川』では母が子に、『海人』では子が母に、『綾鼓』や『恋重荷』では下賎の老人が高貴の女御に、『砧』では夫が妻に、『善知鳥(うとう)』では鳥獣が漁師に、『松虫』では相愛の友が友に、『松風』では姉妹がともに愛する男に、『求塚』では二人の男が一人の女に、『藤戸』では母が子に、『楊貴妃』では皇帝が愛妃に、『錦木』では男がつれない女に、『定家』では定家が式子内親王に、それぞれに「死なれ」たり「死なせ」たり、まことに、挙げれば際限がなく、もろもろの幽霊が夢と幻に舞台にあらわれては、嘆き、迷い、怒り、泣く。
私が文壇へでた最初の作の『清経入水(きよつねじゅすい)』は、題が示すように平家の公達(きんだち)の清経が、一族にさきがけて孤独に海にひとり沈んで果ててゆくという『平家物語』の記事に取材したが、彼の死こそは、平家の人たちに、こぞって「死なれた」という大きな負担と衝撃をあたえたことは、繰り返し物語のなかで指摘されている。能の「清経」では、「死なれた」妻が「死んだ」夫を恨んで遺品を受けとるのを拒むといった、ごく異色の展開のうちに、夫婦死別のおそろしい悲しみの深さが表現されるのである。
歌舞伎や人形浄瑠璃もまた「死」の種々相の多彩な表現で溢れている。ことにそこでは封建的な主従社会における無惨な身代わりの死や切腹死が、また、やはり封建的な身分社会の身動きならなさゆえの、心中死が、あまりに惨(むご)い。
『義経千本桜』の舞台では、鮨屋いがみの権太は、妻子を主(しゅう)の身代わりに敵(かたき)の手に渡しながら、しかも自らも謬って父親の手にかかって死なでもの命を死んで行く。狐忠信は、初音の鼓の皮と化した親狐たちを恋い慕うあまり、静御前の身辺に侍って鼓の音色に身も世もなく泣き嘆く。
『熊谷陣屋』にも『寺子屋』にも『先代萩』にも、身代わりに「死なれ・死なせ」る無惨な展開があり、忠臣蔵では判官がまた勘平が腹を切る。「死なれ」ての嘆きが復讐の「死なせ」に転じ、よくもあしくも人が泣く。『心中天網島』といい『鳥部山心中』といい『曽根崎心中』といった凄い情死があれば、おさん茂右衛門のような哀れな愛ゆえの惨い刑死もあった。
舞台でどう美化しようとも、現実の「死なれ」「死なせ」の結末は、いつも酷くつらい「死なれ」の負担を人の心にのこした。お夏は清十郎に「死なれ」て狂い、お七は吉三郎に逢いたさに江戸を火にして磔(はりつけ)にあった。
そういえば近世も半ばちかくまで、いま幕末にいたっても、キリシタンの「死なせ」には、世界が目をおおう劇しさがあった。
愛・相聞(そうもん)の歌とともに、人に「死なれ.死なせ」た嘆きの歌は、挽歌は、記紀歌謡や万葉集の昔から日本人の、心をとらえていたが、古今集は死をこころもち避け、代わりに恋とならぶ四季の歌を大きく取り上げた。それでも人は死に、つまり人は「死なれ・死なせ」てきたのである。そうであり続けてきたのである。
なにも日本人の問題とは限らない。世界中、人間の歴史がそうであり続けてきた。いたずらに知識や記憶を誇って網羅する必要など、ない。身近なところで、ヒットした映画の数々を思い出してみても言える。『禁じられた遊び』では、幼い二人の子の「死なれ」ざまが悲しかった。それだけ彼らの親たちを「死なせ」た戦禍・暴虐のはげしさにも心は騒いだ。『ウェストサイド物語』のあのトニーたちの死、マリアの悲しみは、何であったか。
ああ、そういえば、そもそも釈迦の死は、イエスの死は、またソクラテスの死は、人類のために何であったのか。オイディプスの死は、ハムレットの死は、ジャンヌ・ダークの死は、何であったのか。彼らに「死なれ.死なせ」て人類は何をえたのか、学んだのか。はじめて『ハムレット』を読んで、また舞台でみて、何人の人が「死なれ」また「死なせ」るのかと震えた。若きヴェルテルを「死なせた」のもむごく、恋するアリサに「死なれた」のもむごく、阿部一族を「死なせた」のもむごい。
安楽死や尊厳死の問題は、もう遅すぎるほどに思われる今日の大課題となっていて、そこにも、もはや、死者のために生者が嘆くだけの「死なれ・死なせ」でない、生きているが故に生きて互いに堪えねばならない「死なれ・死なせ」との真っ向の対面がわれわれには強いられている。

言い換えれば愛する「対象の喪失」という恐れを、人は、それぞれに「喪失」を予期して日常の覚悟に織り込んで行かねばならなかった。ないしは、そうせねばならない状況が確度を増しているということになっている。つまりは互いが互いに徐々に「死なれ」つつある、「死なせ」つつある状況、愛する「対象」の「喪失」を覚悟しながら暮らすという状況を強いられ、それを例えば「無常」といった認識にゆだねてきたし、今後ますますそうなるだろうと恐れねば済まないわけである。
もとよりこれにも「悲哀の仕事」はついてまわる。必ずしも現に「死なれて」から「悲哀の仕事」が始まるのでなく、免れがたい「死」を予感ないし実感しつつそれに堪え、また堪えられずに、人はすでに多くの「悲哀の仕事」に従事を強いられている。その場合、死に直面している当人が、ただに自身の不本意な死を悲しむよりも時に何倍して、じつは「死なれて」生き残る者たちゆえに痛烈な「悲哀の仕事」を強いられる。
例えばまだ幼い子を残して行かねばならない親は、愛する妻をたずきなく残して行かねばならない夫は、老いた親を残してゆかねばならない子は、みな、我が事以上に残された者たちの悲しみまでも悲しみながら死んで行かねばならない。
死別のむごさは、むしろ、ここにあり、例えば歌舞伎の舞台が、えんえんと死に瀕した人物に喘がせてみせる作為には、「死なれる」者のために「死ぬ」者が嘆くところを見せつけているとさえ言えるのである。
もとより、それらの多くはとうてい免れることのできない運命であり一定(いちじょう)死ぬるさだめにあらがう力は、人はもっていない。しかし、だからこそ、無用の死、不急の死、不自然な死、暴力による死、殺人行為は、最大の努力と執念とで徹して避けねばならないのだ。平和への努力とはつまりそういうことである。

治せる病気は治せるようにだれもが医学と看護の恩恵に平等にあずかりたい。
罹らなくて済む病気に、出遭わなくて済む事故や怪我に、戦わなくて済む戦争に、いわば過度な欲望や愚かな不注意でとびこんで行ってはいけないのだ。冒険と無謀とは、どこかで深刻に矛盾していることを悟らねばならないだろう。脳死判定の複雑に難儀な問題もここへ関わって来るのである。
死は左右できない。しかし「死なれ」ても「死なせ」ても仕方がないのではない。死は必要悪ではなく、死は悪なのである。左右できない悪である。だからこそ戦っても負けるだけと諦めてはならない、最後の最期まで不条理な戦いの相手なのである。念々に死去するという覚悟も、ただ死ぬ覚悟でなく、それは死を見返して念々に新生する覚悟なのだ。死ぬまいと死から逃走するのではなく、死ぬと定まっているからそれを見据えて、深く生きることを考えるのが、本筋なのである。
しかも大事なのは、己れ一人の覚悟にとどまらず、いつも「身内」を、「他人」を、「世間」を、そして「時代」や「世界」をあい伴って確保されるべき覚悟なのである。ほんとうに時代や世界が渾身の努力で戦いを挑みつづけねばならないのは、たとえそれが神であろうとも、その名は「死に神」なのである。
いま私は、だれより妻に「死なれ」たくない。出逢ったその瞬間から、私の人生の戦いは妻を「死なせ」まいと始まった。感傷的で、しかもエゴイズムだとかしこい人には笑われるかもしれないが、人を愛するということは、とどのつまりは、そういうことのように私には思われる。世界中の、ありとある時代の感動を与える藝術や説話伝承や事件はそれを教えている。ごく身近な人の世のありさまもそれを教えている。
「死んで花身(芽)が咲くものか」と人は言ってきた。「命あっての物種」と言ってきた。「死んだらおしまい」とも言ってきたのである。それは、冗談であったか。
いやいや、それは、かなりの怯えに堪えながらの本音だった。と同時に、人は、それをいつもいつも自分ひとりの励ましに口にしてきたのでは、ない。より大きく、より深く、より強く、自分の「愛する者たちの命」のために口にしつづけて来た。まさにそれは「祈り」の声であった。「願い」であった。それが「愛」というものであった。
「風立ちぬいざ生きめやも」と愛する人は「死なれ」行く不条理に堪えて祈った、祈りつづけて来た、のである。

* 夕日子はやす香が「死を受け容れた」というが、一歩譲っても、誰かがそう「説得した」のである。やす香は受け容れて頷いたにしても、「説得された」のである。思いがけぬ死に逼られ、だれしも簡単に死を受け容れられるものではない。まして受け容れさせて良いものではない。
死なれるのは限りなく悲しい、死んで行くのはもっと限りなく悲しく悔しい、ましてやす香のような、若い可能性に満たされていた命には。その母もまた痛嘆限りなく、悲しかったに違いない。
悲しみに堪えて、死なれ往く者も、死んで往く者も、それぞれの「悲哀の仕事」を績み紡ぐものだろう、が、絶対してはならないのは、生き残るモノが、死んで逝く愛する者を「用いて」、自分たち自身の「悲哀の仕事」を「プロデュース」することだ、それこそ無残な自己中心行為ではなかろうか。
やす香は「死を受け容れた」、だからその死を「音楽の楽しみ」で、「お祭り!お祭り!」で明るく盛り上げましょう、など、一見やす香を慰めるようでいて、じつは家族が、夕日子たちが、自身の「死なれる」悲しみを、「プロデュース」行為にすり替えたに同じくはないかと思われる。血の気がひくほど、わたしが不快を覚えたのは、そのためだ。

* むごい「肉腫」の「告知」など、誰にも増してやす香にはしないで、「ガンの苦痛からは医療的に精一杯ラクにしてあげるよ、気を強く安らかに一日一日生きて、生き延びて行こうよね、わたしたちが側にいて精一杯手伝うからね、頑張るのよ」、と言ってやり、その上で、音楽会を催したり、お友達にたくさん来て貰ったり、明るい病室を「演出」してやって欲しかった。
「死を受け容れ」させるなど、以ての外の苛酷な負担を、やす香に掛けただけではないかと、思えば想うほどわたしは夕日子達の対応に、疑問をもつ。
「生きよ けふも」の祈りに、「殺してやる」とは、何事かと言いたい。それをしも悲しみのあまりと、言い宥めてくれる人には感謝しなければならないが、そもそも完全な手遅れ「肉腫」の、苦痛の極を、避けがたい終末を、本人に告知したのは、情けない行き過ぎであった。やすらかに伏せ通してやりながら、緩和ケアの終末期医療を考慮すべきであった。
それより何より、三月から六月にいたる、親の目も手も言葉もやす香の上に、まるで温かく届いていたとは思われない仕儀こそ、問題だったのではないか。
そういう反省無しに、親のわたしを告訴する訴訟すると息巻き、話合いも何も突き放してきた★★夫妻に、わたしは「人格」として、失望する。
2006 8・19 59

* 建日子作の「花嫁は、厄年!」観た。建日子の、また岩下志麻と篠原涼子のだから観ている。
わたしには、自作ながら『北の時代最上徳内』の達成感に心を惹かれる。蝦夷地と現代とを把握し得た「方法」と、細部にいたるまで「表現」のこまやかさ、つよさに、あの旅の懐かしさがこみあげる。地味な仕事だと思い思われてきたが、「天明蝦夷地検分」の歴史的な仔細をただ説明的にでなく、北海道や、見も知らぬクナシリ、エトロフ、ウルッブ、の風光や厳しい自然とともに、あたう限り想像力を駆使して書き取れているのが、我ながら面白い。
わたしの、この方法も文体も、オリジナルで、こういう行き方の作をわたしは他に知らない。長編小説『親指のマリア』『冬祭り』『みごもりの湖』『罪はわが前に』そして『北の時代最上徳内』のどれ一つも同じ手口でなく、それぞれの「方法」と「趣向」を貫いた。今、読み返しながら、何ともいえず「徳内さん」がわたしは好きだ。キム・ヤンジァも好きだ。

* 「MIXI」の『死なれて 死なせて』も三十回連載で終わる。
『徳内』も終われば、そして、やす香ももういないし、「MIXI」を撤退してしまうかどうか、迷っている。

* ホームページに掲載されている未定稿の小説『聖家族』を、必要あって、丁寧に読了した。場合によって出版を考える。
2006 8・24 59

* 久しぶりに荷風の短篇『勲章』をスキャンし、校正している。荷風など読んでいると、心持ちが落ち着く。会員から預かっている作品もあり、とりこんでいてつい棚上げしていたが、きちんと処置したい。
今まで繁雑・混雑の極みであった機械部屋の右ワキが、わたしの工夫からとても明るくすっきりして必要な本へも手が出やすくなった。もっともそれは椅子から振り向かない限りの話で、いちど振り向くと、まだ、かなりひどい有様。だが、片づくであろう希望は見えている。

* 近刊のあとがきでわたしはこんなふうに書いている。

* 大久保(房男)さんの尊重されるようには、わたしは、文士として「のたれ死に」しようとは思わない、が、伊藤整の説いたように、わたしもまた物書きとしての根は「ゴロツキ」に近いし、その思想に殉じたい気がある。好もうと好まずともついには「のたれ死に」するのであり、だから、書きたいことは何としても自由に書くのであり、へんに筆を曲げたりしないし、自分の恥も他人の上の取捨も遠慮なく、それを書くべきだと思えばそれを書くことにしている。親類縁者や知友の中に、まことヤツは「ゴロツキ」だとわたしのことを想っている人は多い。だが、わたしは、敬愛した漱石や藤村や鏡花や潤一郎の、また永井荷風や徳田秋声や志賀直哉や瀧井孝作や高見順の文学精神に学んできただけのハナシである。いやいや、こういう人達とくらべて自身の「俗」を恥じているだけのハナシである。

* ゴロツキという言葉はきついが、知性派文士の代表格だった小説家・詩人さらには卓越した文藝批評家であった伊藤整は、最も文士らしい文士は高見順のような人で、あれは「ゴロツキ派です」と言っていた。
伊藤さんはまた「日本の文士にはプライバシーはないんです」とも言っていた。こういう意味であったと大久保さんは伝えている。「文士自ら己のプライバシーをかなぐり捨て、一般市民ならひた隠しにする恥しいことをさらけ出すからだ、つまり作者が傷つきながら血を流して書いたものが読者に感動を与える」と。「これが日本独特の文学風土」だと。伊藤整が「ゴロツキ」という意味には、「一般市民」の「世間」から眺めた文学者・文藝家への視線と陰口を積極的に逆用したまでの個々と読み取れる。
時代はうつり動き、かならずしも伊藤整のいうままでなく、大久保房男氏の共感するままでもない今日の文学風土ではあるけれど、こと「私小説」に拘泥することなく、わたしは文学に生き文藝に生きてきた一切を賭して、大本においてこういう精神を肯定している。敬意を抱いてきたのである。
このこと、ひと言、書いておきたかった。
2006 8・26 59

* もう過ぎた多くは忘れ、次の仕事へ取り組んで行く。

* 正岡子規に「死後」というエッセイがある。死を主観的に考えると、ことに彼のように重篤の病につねに苦しんで臥していれば、堪らない不愉快と恐怖とが輻輳して煩悶する。客観的に死を考えるのは容易でないがも不可能でもない。主観から客観へかろうしで転じて行くことで、子規は、死ぬことと、死後の処置されよう、葬られようについてあれこれ弁舌し文筆する。面白いとも謂え、つらい読み物でもある。
死に間近にいての文筆家の日録では、よく、わたしは、子規と中江兆民と女性である中島湘烟を対比的に思い出す。湘烟の微動だにしない死への足取りに最も畏敬の念をおぼえたものである。兆民も子規も、比してのはなし、やや騒がしく、しかしそこが懐かしくもある。湘烟女史の達観は人間離れしている。
2006 8・29 59

* 一面の鏡、動かない湖面のように、去来する鳥や雲を、誘うことなく、えらぶことなく、追うことなく、ただ映している。仕事も、メールも、人も事も物も、よぎなく生じる関心にも、なるべくそのようにしている。そういえば、このところSPAMメールもやや減っている気がする。日々の時空が簡素に簡明になってゆくこと、それが有り難い。「去来空」という三字がわたしの胸に落ちてきた。去来するものを、余儀なく是非することも好悪もするのは、わたしの至らなさであるが、到らないから面白いとみえるところが有る。まだ、半分がところ、いろんなことを、おもしろがっている自分。性急にその自分を是非しないでいる。
我も、人も、おもしろいところがある、おかしいところがある。観察している。
2006 9・3 60

* 「MIXI」での『最上徳内北の時代』連載を、ほぼ三ヶ月かけて終えた。これには、つらい、寂しい夏をずいぶん励まされ、慰められた。徳内という日本人がわたしは好き。作中で出逢ったキム・ヤンジァも大好き。久しぶりに読み返してみて、誇らしい気がしている。書けてよかった。大多数は、ダメ。少数の優れた読者の前に胸をはって提出できる。 2006 9・3 60

* 藤間さん  オール読み物 (松本幸四郎・松たか子父娘往復書簡) 戴いて、その日に読みました。感謝。
さてなにを書こうかと思い泥むとき、自然に手探りめいて、とりとめない中身をあれからそれへと繋いでゆくことは、物書きなら、誰も、何度も何度も思い当たる「ハメ」を知っています。
しかし、そういう文章が中身散漫で味ないか、不味いかというと、意外にそうでない場合があります。そんなときに限って、書いている当人の気づかない、これまで知らなかった或る「波」に運ばれていて、あとで自分で驚くほど新鮮な表現や思いを、創ったり吐露したりしている場合があるものです。とても、いつもいつもというワケには行きませんが、(松)たか子さんの今回の書簡は、それに当たるような満足を、ご本人も後で自覚されたのではないでしょうか。
この体験は、いわば、かつて知らなかった、一度も気づいてなかった「曲がり角」を余儀なく曲がるハメになって、思いがけない視野を得たのと似ています。ものを書きながら、「世界を拡げた」というかすかな実感をもちうるのは、存外に、そういう時なんだと思います。
今回のような息づかいは、書き手への、思いのほかの親愛感を読者によびおこします。レールの上を走っていないからですね。私は筆者の「思い」の「流れよう」を、面白く感じながら読みました。
あの新感線ヘビメタの舞台「メタル・マクベス」も、微笑ましく思い出しました。
秀山祭、楽しみにしています。 お大切に。
うまく予定が折り合えば、染五郎丈の舞踊の会にも、私一人で出掛けたいなと思っています。私は舞踊が好きなんです、若い頃から。  秦生
2006 9・3 60

* 今更らしく繰り返すのもナンだが、わたしには、自分の代名詞のような、『秦恒平・湖(うみ)の本』という、創作とエッセイとで、満二十年、八十八巻にもなり、なお継続してゆく「私版の全集」がある。
明治期に島崎藤村が四冊『緑陰叢書』をつくって、有名な『破戒』『春』などを私版で世に問うたことは知られているが、現役の作家が自身の作を、二十年に亘り、九十、百巻にも及ぼうほど自力で国内外に出版し続けている例は、わたし以外に無いと思っている。
趣味的な仕事ではとても、こうは、続かない。作品の質と量とに導かれて、しかも本づくりの技術がなければ出来ない。また制作費を回収できる程度に売れないと、続けられるワケがない。
しかし、この仕事は所詮営利のためには成り立たない。現にわたしは、愛読者に支えられながら、しかも文化各界の知名人や大学の研究室・図書館へ、惜しみなく「湖の本」を寄贈している。買って貰えればむろん助かるけれど、それ以上に、作品を作者から読者へ送り届けることに意味を置いている。それで二十年通してきた。
そういう考え方だから、一度そうして送りだした作品は、例えば「MIXI」であれ、わたしのホームページであれ、無償で公開し続けることに何の物惜しみももっていない。もし商売として売ろうというのなら、作品を出すわけがない。作品は出し惜しみしながら「広告」し「宣伝」して、買って欲しいと頼むだろう、が、「MIXI」でも、わたしは、ひたすら作品を惜しみなく「よく校正して、無償公開」しているのである。あたらしい読者が一人でも二人でも知らぬまに出来ていたら有り難く、たとえそれが期待できなくても、実は「紙の本」からスキャナにかけた誤記の多い原稿を、しっかり校正できる「機会」には成ってくれる。
間違いの少ない本文を創りながら、ついでにみなさんに公開している、それだけのことである。

* 秦恒平というヤツは、「MIXI」で「湖の本」を売って、売りつけて商売しているという「悪声」が、「MIXI」事務局の方へ届いているらしいが、本文を無償公開していてどうして商売になるものか、どうか、そんな魔法があるなら伝授ねがいたい。
すでに「MIXI」に連載した『北の時代最上徳内』は三巻、『日本を読む』は二巻、『死なれて死なせて』も『青春短歌大学』も各一巻なら、今も続けている『漱石「心」の問題』も『秘色』も、みな「湖の本」作品であり、「あとがき」も添えてあるから、プリントされれば、そのまま「本」の内容は、校正済みで完備している。
「MIXI」は、わたし自身のこれまで触れてきた読者世界からは、とびきり異色の不特定多数世界であるだけに、そんな中へ自作を惜しげなく投げ込んでゆくことに、わたしは、それなりのスリルと喜びを感じている。まれに本が欲しいという人には、喜んで差し上げてもいるほど。
もともと「MIXI」では、送り先や宛先は知れない約束のはず。
むしろ、「書きたい」「書きたい」ひとたちに、わたしは、「MIXI」に作品を書けばいいじゃないですかと言いたい。人目にさらしてこそ作品は、創作は、鍛えられるはず。
この作品はどうだこうだと批評されるのは歓迎だが、商売をしている、けしからんと事務局へ言い付けに行くとは、どんな神経をしているのか、なさけないことを言うてくれるものだ。

* 幸いなことに、わたしをとらえて放さない魅力の世界は、幾らでもある。人、事、物。着物、持ち物への執着はほとんどない、ま、食べ物・飲み物は相変わらず好きで、量はいけないが、まだぞんぶん楽しめる。「事」は、求めて拡げないけれども、いろいろある。読書も観劇も、出逢いもある。旅が出来ればどんなにいいかと思うけれど。
2006 9・10 60

* ニューヨークの超高層ビルの二つを、吶喊した航空機が瞬く間に崩壊させたのは、何年か前の今日ではなかったか。以来、世界は病んで崩れつつある。日本も病み頽れつつある。いま譬えていうなら、世界は操縦機能をみうしなった航空機のようにあてどなく彷徨飛行している。われこそ操縦士と操縦桿にしがみつくアメリカの、濃い色眼鏡の視野狭窄は、危ない限り。しかし、アルカイダも何のアテにもならない。
墜落するならすればいいと自暴自棄の声なき声がもう上がっているとも懼れる。「危ない、危ない」。漱石が、三四郎君の先生が、近代日本の行く手をそう警告したときとは、比較にならない大危機がとうから来ていて、危機慣れさえしかけている。「危ない、危ない」。
そういうとき、じぶんではもう何も出来ないのではないか、それならいっそ黙って目撃しながら、世界が爆発する前に死にたいものだ、などと情けないところへ頭を隠そうとする自分に気づいて、それが情けない。見るほどのことはみな見終えたと嘯いて平家の勇将知盛は海の藻屑と沈み果てたけれど、何ほどのことを見たといえるだろう。
あれから八百何十年、人間の賢いような愚かなような歴史は、知盛の想像を絶した世界を演出しつづけてきた。気の遠くなる永遠を人は当たり前のように期待しながら諸変化を受け容れてきたけれど、もうもうドンヅマリへ来ているのではないかと懼れている人は、たぶんまだ少数であろう。人はもっとノンキに創られている。それが幸か不幸かは分からない。
ああ、イヤになったと、しんそこ思うことが、数増えてきただけは真実である。
宗教は働いていない。哲学は生まれても来ない。政治は権力と利益をとりあうゲームになっている。そして隠微に増える暴力的な犯罪。

* いま宋の大政治家「王安石」の事蹟を学んでいるが、思えば中国の歴史に、少なくも理想の働いた唐末までとさまがわりし、いわば資本主義が勃興して中国的思考を大きく変転させたのが「北宋」であった。儒や老や佛がまがりなりに政治の内側に働き得た時代は、宋により覆され、しかも宋は、北から南へ、そしてモンゴルの強力に潰えた。そんな中で渾身の政治力を発揮しようとした世界史的な大政治家であった、王安石は。
しかも彼は中国の歴史の中で、政治家としてはおろか、人間としても最低の者として後世までそれ以上は無いほど悪く悪く否認され続けた。
彼は中国人の九割以上を占める農民の声を聴き、僅か一割に満たない数で勝手な世論を構成していた士大夫(知識人=官吏・地主・大商人・名族ら)の既得権を抑えようと、数々の「新法」を発揮し励行して、いくらかの成果をあげた。しかし士大夫階級の抵抗は強かった。そして新旧両法党の混乱が「宋」という王朝を毀してしまった。
王安石の改革を指示した宋の神宗は、英邁な帝王であった。だが、士大夫の最たる一人は皇帝を責め、「政治」というのは「士大夫の利と安穏のためにこそなさるべきです」と諫言していた。そういう発想の政治が、世界的に、宋代以降にうまれて、今のアメリカも日本も、「ひとにぎりの利権の持ち主のための政治」がなされている。只一人の王安石もあらわれない。
いちばんひどいのは、知識階層が、政治におもねっていること。
2006 9・11 60

* いろんなことが、ある。いいこともある、イヤなこともある。いいことは踏み込んで自分から創り出すべきだし、イヤなこと受け身になりやすいが、これも踏み込んではね返す元気の要ることだ。『人生劇場』という大衆小説の題を好まなかったときがあるが、人生は「劇場」だと思えてきている。自身が観客でも演者でもある。そう思いきめて、なんと面白いことではあるまいか、と。
2006 9・11 60

* 東郷克美さんが成城大学の先生時代に書かれていた、昭和五十一、二年頃の二つの「批評」文が、ものの整理中にみつかったのでと、送って下さった。ともに学界雑誌への執筆で、その当時に目に触れていたらどんなに嬉しかったろうと思う褒美の言説、いま読んでも頬が火照る。
一つは「日本文学」子午線への執筆で「宿命と方法」と題してあり、書き下ろしの谷崎論である『神と玩具との間』が丁寧に論じられ、秦恒平論にも十分なっていて、こんなふうに知らないうちに知らない場所で人と作品とが語られていたのかと感慨深い。お許しを得てぜひ復刻したいところだが、今は措く。
もう一つは「解釈と鑑賞」の学界寸評で、「文学研究私感」と題しながら、「海」に書いてわたしの谷崎論がひろく認められる或る意味で決定打になった「谷崎の『源氏物語』体験」に、溢美の讃辞を送ってもらっている。
「谷崎愛」の作家と自らも名乗りながら小説と批評とを両翼に、体温熱く書きに書いて翔んでいた時期だ、体熱は衰えていないと想うが、たしかに齢は重ねてきた。
自分も「古稀ちかい」といわれる東郷さんのご厚意に、心より御礼申し上げる。お手紙には、湖の本近刊にも身にしみるひと言が添えられていた。
2006 9・12 60

* 藝術至上主義文藝という学会誌に、「わが『島』の思想と文学」を書いた初校を終えた。一度はきちんと書いておきたいと願っていたので、ありがたい機会になった。根源の文学論のひとつになったと思っている。
「MIXI」では、湖の本エッセイ17『漱石「心」の問題』全編を連載完了した。あとがきを加える。この本は、まさしく上の、「島」の思想の母体になる、いや母体は漱石作『心』そのものであり、湖の本のこの一冊は『心』につつまれた胎動そのもの。
2006 9・15 60

* 「MIXI」に太宰賞受賞第一昨だった小説『秘色(ひそく)』を校正して全編連載を終えた。評論は『漱石「心」の問題』を全編連載し終えて、いま講演集『私の私。知識人の言葉と責任』の「私の私」から新連載をはじめている。小説はひきつづき同じ一冊におさめてある短篇『三輪山』を掲載しておく。わたしの過去の作品は、パブリックドメイン(公共財)なみに無償公開してもいい。読んで下さる方に読んでもらえれば作品は満たされる。作者もそれでいい。
2006 9・17 60

* 位人臣を極めた人に、それはどんなことかと尋ねると、「はしごのてっぺんまで登ったということ、それだけの話だ」と答えたそうな。よく分かっている方である。
はしごのてっぺんに登ってみても、それまでだ。その先へ一歩を踏み出せない限り、梯子の下にいようと天辺にいようと変わりないのである。
2006 9・25 50

* 日本文藝家協会などが、没後著作権を「七十年」に延長せよと声明しているが、同会員であるが、わたしは徹して「不賛成」である。海外事情に安易に諂うが如く追随する必要はどこにもない。日本の文化は、日本人が先ず或る程度まで主体的に恩恵を受けてしかるべきもの、これは国粋エゴではぜったい無い。
そもそも海外でも、「七十年」を強硬に打ち出し強要してきたのは、アメリカであった。ディズニーなどの超弩級外貨稼ぎ頭などの強引無比な企業エゴに、政権が利益を求めて便乗した話であり、アメリカ議会の中にも「憲法違反」とする説得力或る論争や訴訟が成されていると聞く。
大統領ワシントンの頃の政権は、没後、たしか十八年程度を制定している。つまり創作者が亡くなったあと、配偶者ないし一代子孫に権利が委譲される程度が「適切」という判断であった。それが、国益保護という瞑目の利害感情が、政治と企業のエゴで、次第に延長を何度も重ねて、「七十年」になったり、なろうとしている。際限なしであり、そのうちに百年、百五十年などとすら言い出しかねない。
そもそも、「没後七十年」といえば、何代の子孫にまで及ぶか、よく考えてみよ。
しかし、創作されて、真に価値あり文化に寄与すればするほど、それを育んだ「時代」や「国民」の広範囲の喜びのために、「公共財=パブリック・ドメイン」として貢献すべき広義の義務が創作物には有る。それを思うべきである。国民の財産として良いのである。
いったい、没後七十年も、創作者本人の「声も顔も知らない孫子」にまで経済利益を強引に及ぼさねばならぬ、いったいどんな論拠があるのか。皮肉を言えば、そんな生命力の長い作品を世に遺せるいったいどれだけの創作者が、人数としてあるというのか。
わたしは、「ペン電子文藝館」の主宰者として、過去の優れた大勢の書き手を再発掘し、名と作品との復権に努めてきたが、没後五十年でも大方の若い読者は、作者の名前どころか存在自体を知らない。それでも著作権年限がもう切れていればこそ、また新たに装いして、広く国内外の読者に提供できる。作者も作品もどんなに喜んでいることだろう。だが遺憾ながら、それは、とても売り物にはならない。
その一つの証拠に、日本ペンクラブの歴代十四人の会長 (島崎藤村・正宗白鳥・志賀直哉・川端康成・芹沢光治良・中村光夫・石川達三・高橋健二・井上靖・遠藤周作・大岡信・尾崎秀樹・梅原猛・井上ひさし) 作品の、優れた各一作をそっくり「名作撰集一冊」にしようとしても、どんな出版社も、皆目出版する気など出てこないのである。それが現実だ。
そういう現実の中で、たとえば夏目漱石や樋口一葉や芥川龍之介らの優れた作品が、末裔も末裔どころか原作者からすれば血縁すら失せたような遠い遠い存在のゆえに、広く容易く再刊する、公開する、読まれる便宜が喪われてしまって、本当に好いことなのだろうか。
「七十年」を推進している三田誠広副会長らの言い分を聞いていると、海外に行ったとき、日本の「権利」意識の遅れが「恥ずかしい」などとバカげた事をいつも言っている。
本当に恥ずかしいのは、そのように無意味に「私的な占拠・占有」意識で以て、「国民や時代の公共文化財」にできない「狭量」そのものである。
私など、著作権は三十年で足りている、五十年でも不当に長すぎると前々から思っている。こんな権利を無際限に何時何時までも厚かましく希望しているのは、ディズニー的な企業と、それに結託して税金や外貨を狙う政権や、バカげた話、自分の死後も「七十年」は人に記憶されて売れる売れると思っている「有りがたいご先祖」意識の高慢な人間だけである。
そもそも自分の祖父母についてさえ、ナーンの関心も知識も持たない孫は、世界中に雲のようにうようよしている。まして曾孫となれば、途方もない。曾祖父なんて異星人である。そんな曾孫世代にまで「著作権の恩恵」にあずからせようなどという、いわばどことなく「何かに対し阿(おもね)った発想」そのものに、無性に「いやらしさ」をわたしは感じる。「七十年」著作権なんて、強欲からの発想。反対である。
2006 9・25 60

* 帰りの「リヨン」は、お任せあれレとシェフの独断と洗練とで美味い昼食になった。オードブルき繊細に魚と野菜とをあしらって美術的、美味い。主菜は、妻が分厚に美しい焼いた鯛。、私はローストした豚に煮詰めて多彩な野菜の天盛り。赤ワイン。わたしは堪らず二杯。とびきりの美味は冷製のデザートで、微妙な素材を二層にミックスした上に軽い薄い香ばしいビスケットをかぶせ、砕きながらスプーンで。主菜の口当たりを、きれいさっぱり清めてくれる味と冷たさ。唸った。もう一つと追加したいほどだった。そしてうまい珈琲。お値段はいつものランチ代とかわりなく、実にリーズナブルに廉い。
店先の土間に焼いた小さなライオンを三つ置いていた。ああ店の名だ。見送ってくれたシェフに「きれいな街だねえ」というと嬉しそうににっこり。

* この最後の部分の会話は、わたしからの少し意図的な仕掛けであった。
わたしはフランスの「リヨン」を知らない。一昨日ぐらいにテレビで、同じシェフ修業していた在仏日本人の紹介番組を見ながら、その街が見るから美しい「リヨン」であったというだけのこと。
わたしは駅まで歩きながら妻に言った。
「あのマスターは、間違いなく、わたしがリヨンを知っている、行ったことのある人だって思いこんだよ。ライオン=リヨン、同じ名の店のオーナー、そこへ <きれいな街だね、リヨンは>ときたからね。こう自然に話題が流れていたからね、間違いなく、あの人は、このわたしは、実際にリヨンへ行って知っている人だと思うよ。何かあればそう証言するよ。わたしが自由業の作家だってことも知ってるしね、彼は。」

* こんなふうに、たったの或る一言だけで、人は人に意識され認識され、しかしそれが「事実でない」ってことが、実に多い。無数の他人が、みな銘々の「あの人は」という、正解でも誤解でもある「私」像を持っていてくれる。それらを全部足しての「私」像を描くことも不可能ではないけれど、所詮正確には仕上がらない。事実でないことがいっぱい混じっているからだ。おまけに、自分で自分を見た「自分」像も、また別に厳然と在って、それがまた、正確とはとても言い切れぬ。
しかもそれら全部の根に、もともとに、「言葉」という曖昧で勝手な生き物が働いていて、人は「言葉」をともすると信用するけれど、全く逆に、だからこそ「言葉ほど信用できないものは無い」とも言える。

* 言葉なんかより、妻と田舎道を辿って家に帰りながら、道の辺のいろんな花こそが、どう見ても真実だけを語っていた気がしてならない。
2006 9・25 60

* 昨日「MIXI」の「足あと」さんのなかに、国歌国旗を否定することが即ち知識人だといったよくない風が見えると、慨嘆している若い女性がいた。これはすこし一概な物言いではないだろうかと心配した。

* 国歌を国旗を「否定すること」=知識人 という評価は、すこしアバウトではないかしらん。議論が一概に流れることはなかなか防ぎにくいことだけれども、せっかくの足場を自分で崩しかねません。
わたしも知識人のはしくれですが、国際社会で国歌国旗が必要なのは明らかで、別に愛してはいないけれども、否定していません。例えを船舶の航行一つにとっても、国旗日の丸の重要で不可欠なことは明白ですし、国際的な交際場裡に国歌の吹奏が不可能ではかなり困る事態が多い。否定する知識人がいるとしたら、知識の無い知識人でしょうね。
しかし、国歌も国旗も不文律の不動の慣行化が定着しているなら、法制化までが必要だろうかと懸念した国民は、決して少なくなく、それも知識人に限らなかった。
なぜ懸念したか。それは不必要に過度に「強制・強要」という形で、個々の個人の思想信条や良心の自由を奪いかねないと心配されていたからで、法制時の大きな議論のタネでしたし、政府も役人も、決して「強制・強要」などしないという答弁を繰り返したものでした。しかし、現に強制し強要し処罰さえしています。
国歌も国旗も「国」の「しるし」として用いられるのは当然ですが、国民の力づく統合・管理の手段やシンボルに使われてはならないものです。公権力がそういうかたちで「私民」の基本的人権を抑圧するための道具のように使われて、国歌も国旗も、決してよろこびはしないでしょう。
「私」民を平然と無意味に抑圧して建てられる「公」というのは、自己矛盾なのですから。そういう不幸な事態に立ち至ってなお、国歌国旗は愛国の良きシンボルたり得るでしょうか。むしろそれでは、ただの歌、ただのマークのようになり、それとくらべてなら、「人間の尊厳と自由と権利」とがより遙かに大切なのは自明のことでしょうと、私は思います。
いわゆる知識人が、あまりにレベルダウンしていることは自身も含めて恥ずかしい現実ですが、せめて一概にものを見ず、言わず、しかも本質思考により、何がより大切かを考えたいと思うのですが、いかが。
私はこよなく日本を愛していますが、そういう「私民」が決して少ないわけではありませんよ。しかし、愛国という意識過剰を本当に日本を愛するが故に警戒している人も大勢いて、それは何故だろうと本質思考することもとても大切なのではないかと思っています。
2006 10・1 61

* わたしは喜怒哀楽にさからわない。喜怒哀楽する自身を開放したまま自分がどう動いたり静まったりするかを、ただ眺めている。海は絶え間なく動いている。川は絶え間なく流れている。雲は絶え間なく去来する。同じように思考は、分別は、また感情は働き続けているが、自分は海辺に座って海を眺めている人のように、川岸に座って川の流れをただただ眺めている人のように、雲の動きをただ眺めて見送っている人のように、海のような川のような雲の空のような自分自身を、ただ眺めている。
好きにするがいい、と、自分で自分に言ってやる、あんたを「眺めているからね」と。
2006 10・3 61

* ブッダもソクラテスもイエスも、自身で書きのこしたものは、伝わっていない。弟子達の記録しかのこっていない。そんな「記録=経典・聖典」には、自然、記録者や側近の仲間達の「解釈」と「誤解」とに充ち満ちている。その証拠に同じブッタの後進達、イエスの後進達は、師の死後に忽ちに数多い「教派」に分裂して行く。よほど優れた徹底を得た人には、それら「解釈」や「誤解」や「曲解」を適切に正しうるだろうが、他の誰にもそんなことは不可能だ。
「聖典」「経典」が本当に「役立つ」のは。徹底しえた人にだけで、彼等はアハハと笑いながらいろんな経典を聖典を、フンフンと読んで自在に字句を、趣意を、取捨できるだろう、だが、われわれ凡人には、そんな成典も経典も全く役に立たない。ただ道徳めいた教えを「箇条」にしてどう掬い取っても、それは受け売り用の知識に過ぎない。少なくも宗教的な高みや深みへは、かえってそんな知識が邪魔にこそなれ、何の役にも立たない。せいぜいこの世間で「いい人」らしく見えるようになるかも知れないが、狂信の厄介人になってしまうだけかも知れない。
わたしも随分経典や聖典を「勉強」してきたけれど、受け売りの知識は蓄えられても、何の安心にも寄与しなかった。そもそも、安直に寄与する物はそれゆえに本質的に役に立たない。役に立つ知識ほど、死んで行くものには役には立たない。あしき意識だけが過剰になる。身構えてしまい待ち構えてしまい、しかし、そういう構えた人の所へはなにも訪れてこない。神も仏も悟りも安心も。そして結局「間に合わない」で終わるだろう。「間に合わそう」としてもダメなのである。

* 芹沢光治良の『死者との対話』は、あの戦争に駆り出された学徒、また敗戦後の悩み深い学徒たちの、「哲学」というものに対する深刻な「不信」を、一つの、主要な話題にした問題作であった。
京都で学生だったわたしは、大学院で哲学研究科に籍をおいたが、あっさり見棄ててきた。少しの悔いもない。恩師は、きみは教授になれる人だから院に残りなさいと何度も言われたけれど、頭をさげて、妻になる人と二人で東京へ出てくる方を選んだ。そして小説家になった。
哲学は、美学は、わたしの「魂」に何の役にも立たない。わたしは広い意味での「詩」人になりたかった。そしてただ「待つ」人、「一瞬の好機=死生命」を待つ人になろうとしてきた。
2006 10・4 61

* 「女文化」という言葉を創って著書を出したのは「わたし」だった。京都の文化に首までつかって育ったわたしだから「女文化」という、有りそうで無かった一つの概念を提示できた。育った家も、育った場所も、環境も、またわたしが進んで関心をそそいで身につけた和歌も茶の湯も物語も、「女文化」であった。わたしは、率直なところ男はあまり好きでない。厚かましくいえば……あ、やめておく。
2006 10・4 61

● 「美しい国創り内閣」の発足 (安倍内閣メルマガ創刊準備号より)
こんにちは、安倍晋三です。
私は、毎日額に汗して働き、家族を愛し、未来を信じ、地域をよくしたいと願っているすべての国民のための政治をしっかりと行っていきたい。そのために「美しい国創り内閣」を組織いたしました。

* はなはだアバウトで論理を欠いた提唱であるが、「国民のための」の一語を記憶しておく。関連してわたしの持論を書いておく。
日本の法律のすべてに、「国民による国民のための」という角書きを付けて欲しい。立法の時も改正の時も例外なく。それにふさわしい「法」を起こし、運用して欲しい。まちがっても「政権・公権力の政権・公権力による政権・公権力のための法律」は、断じて御免蒙る。
ところがこの五年十年のうちに建てられた、名前だけはもっともそうに美しい法律には、法の下に国民・私民をねじふせ、法の下に公権力の野放図な安定をはかるそういう悪法が平然と強行成立されてきた。
安倍内閣が真に「国民のために」何をするか、目を離すまい。

● かつて、日本を訪れたアインシュタインは、「日本人が本来もっていた、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って、忘れずにいてほしい」という言葉を残しました。

* アインシュタインの「ご挨拶」を無にする気はないが、久しい歴史のいまだかってどの時代においても、こんなアバウトな日本人観で日本人が理解できた時代は存在しない。せめてわたしの『日本を読む』を読んで考え直して欲しい。
政治家がこういう一概でうわっつらの美辞麗句を利用するとき、秘めた悪意にこそ警戒しなければならなかった。
安倍氏の言には、相対化する智恵が働いていない。もしそれを一方の「美徳」と観ずるなら、他方に日本人の抱え持ってきた「悪徳」「欠点」の認識も働かねばウソになる。人間は一人なら美徳の持ち主らしいのに、人数が増えれば増えるほど悪徳の平然たる発揮者に変容して行くものだ、付和雷同そしてご無理ご尤もの「日本人」であったし、今正にその頂点へ来ている日本だとも認識できていないのでは、優れた宰相とは謂えまい。
そもそもなぜ引き合いにアインシュタインか。他国を訪れた人たちの「ご挨拶」は、俳諧のへたな挨拶句よりもっと空疎な美辞麗句に流れて無難なことは、当然の儀礼とされている。むしろ日本の宰相として謙虚に聴くなら、上杉鷹山などの厳しい国政観などを、新井白石などの現実と理想とを兼ねた政治姿勢などを引用してこそ、困難の前に「身を引き締め」られたろう。

● 日本は、世界に誇りうる美しい自然に恵まれた長い歴史、文化、伝統を持つ国です。アインシュタインが賞賛した日本人の美徳を保ちながら魅力あふれる活力に満ちた国にすることは十分可能です。日本人にはその力がある、私はそう信じています。
今日よりも明日がよくなる、豊かになっていく、そういう国を目指していきたい。

* 私もむろんそう信じたい。望みたい。総理は、歴史観においてつまり「上昇史観」の持ち主であるのか、ただ期待がそうなのかは、俄に推測できないけれど、日本人の歴史観は、早くも安土桃山時代までは顕著に永続して「下降史観」ばかりであった。誰も天皇以上にはなれずに、官位にも極官が重い不文律になっていた。土地という所領をどう多く望んでも、日本列島には限りがあり望みはガンとして物理的に阻まれていた。そして末法末世の観念がいつも人を現世的に弱気にした。ますます「魅力あふれる活力に満ちた国にすることは十分可能」などと信じられた日本人は、権力者にすらいなかった。政治・経済・思想において頭打ちは目に見えていたからだ。
安土桃山時代になり、キリスト教が入ってきた。天皇以上の「神」の存在に人は仰天しながら、頭の上のひろがる思いをした。信長も秀吉も家康もみな内心の癪の種を落としていた。そして世界の広さが目に見えてきたとき、秀吉のように、足らない土地・領土は、他国切り取りで拡げればよろしいという姿勢に出た。日本国は天皇に任せておくが、世界へ出て世界の王になるのは勝手だというぐらいに秀吉が考えたのは、日本人がはじめて具体的に「上昇史観」を手にした事実上の最初だった。だが、それも鎖国でしぼんでしまい、徳川幕府の搾り取り政治・管理政治で、まただれも「希望」など見失った。人の歴史は下降していった。
安倍総理の、上の、ノー天気なほど楽観的な姿勢には、じつは、歴史観の思いつきに等しいほどの貧弱、というより欠如が心配される。信じるのも目指すのも口先では簡単だが、「日本人にはその力がある」と言うとき、日本人をほんとうにノヒノビと内発的に、力強く、日々幸せに政治が生活させているか、まっさきにその反省がなければなるまいに。今の日本は、ひと頃よりも半世紀分ほど反動的にあと戻りしている。変わったのは機械的な便利さだけで、便利という実体には、少なくも五分の利に対し五分の猛毒が籠もっていると想わねばならない。大学は品位と自負をうしない、思想も哲学も払底し、宗教は衰弱。そして教育は政治の玩具にされている。 0

● 世界の国々から信頼され、そして尊敬され、みんなが日本に生まれたことを誇りに思える「美しい国、日本」をつくっていきたいと思います。

* 戦争時代の教科書にも新聞にも先生のお言葉にも少国民達の綴り方にも、こんな言葉ばかりが氾濫していた。
北朝鮮の放送が、いまもいつもこんな調子で声高に喋っている。安倍さんのこれは、「北朝鮮みやげの日本語」なのかと失笑する。
アメリカ仕込みの憲法だとおっしゃるが、憲法には人間の理想と祈願も籠められているし、憲法が憲法であるあいだは、総理はそのもとで総理なのだと忘れないでいて欲しい。
わたしに言わせれば、戦後、アメリカに仕立てられ、アメリカふうに徹底して動いてきたのの第一番が「自民党」ではないか、と。
同じリクツをつけるなら、自民党改正ないし廃棄の方が、「先」であって当然だろう。

* >>国公立というものは、法律関係において特別権力関係にあります。(簡単に言うと法律の手続きなく、ある程度の人権を制限することができる関係のことです。父は国立大学の憲法学者ですが、この意見には否定的……
私(秦)も否定的です。
昔の、高等学校や帝大に根付いていた大学自治や学問思想の自由という理想は、日本では崩され続けて今日に至っていますが、どの段階で見ても、公権力の抑圧や抑止政策が本質的に良く働いた事例は皆無で、時代の悪しき傾斜に追い打ちを掛けた嫌いがあります。
国公立に属するがゆえに多少の人権が制限されたり抑圧されたりしても当然という考え方は、けじめや歯止めがきかなくて、これまた「無惨な歩み」をみせてきました。公務員個々人の良識と道義心と忠誠心が求められること自体は理解できますが、公職にあるから憲法の認める基本的人権までが阻害されては逆立ちであろうと思います。
>>憲法と言うものは市民の人権を守ると言う意味よりも公権力の力を制限する目的のものです。
運用という意味ではそうかもしれませんが、理想において、やはり国民の権利と安全を確保するための憲法であると私は思っています。
したがって現実に公権力のシンボルのような総理大臣や都知事が、憲法に制限されるどころか、憲法を、呼応して足蹴にしていることで、憲法軽視の風潮を助長しているなど、犯罪そのもののように私は感じていますが、どうでしょう。
少なくも国公立・公職・公務員というものが、度を超して公権力に隷従させられる傾向の強まって行くのは、おそろしい気がしませんか。
2006 10・5 61

* ようやく秦建日子の新刊『アンフェアな月』を読み上げた。十日もかけたか。
これだけ読むのに時間をかけさせた、それが、今回の本の顕著なマイナス点であろうか。それはわたしがいろいろに忙しかったからか。
端的に言えば、前作同様、前作よりももっと、映像用の大胆なコンテ、一篇の物語の動的なシノプシスに類していた。作者の得手を存分発揮した、要領のいい「ト書き小説」であるところは、前作『推理小説』よりも徹している。時間に追われてやっつけてしまうには、この作者にこの手法は効果的に向いている。
「ト書き」は、簡潔に動的に映像・画像や演劇の舞台が目に見えるように把握する、まさしく「文藝」の一種であり、この著者は、多彩に経験的にその「藝」にたけている。
文体の動的な統一をこの方法は、一見とりやすそうで、実は実に難しい。いいかげんにやったなら、収拾のつかない「説明羅列」に陥る。
それにしても作者は、その「演劇」手法の得意技で「小説」を終始するトクをとったけれど、また、それにより喪うソンの方も犠牲にしたのではないか。その「思い切り」のよさで、作品が自律し自立したけれど、文学を読む喜びとしては半端な印象も否めない。
この作者は、前作『推理小説』で、初めて「ト書き小説」といういわば文藝の新ジャンルを開拓して見せた。それは事実として動かない。だが、在来の文藝、優れた文藝がかかえもった、「読む喜び」「読ませる魅力見」の味わいをも、此の手法で発揮するには、まだ「文藝」そのものが足りていない。当然、はなはだ「読む喜び」は希薄になっている。走り書きの「あらすじ」を走り読みさせられるような錯覚に陥る。
とはいえ、字句や章句のなかには、ずいぶん面白い、耳目を惹く「表現」が意気盛んに、しかも落ち着いて散らばっていて、決して索然としたただの「ト書き」ではない。新味も深切味も文章として決して味わえないわけではない。大げさに認めて言うなら、「新しい文体への、これも試み」かなり「有効な試み」であるのだろう。大事な意欲の表れと解釈することで応援しておく。
だが、ちぎれちぎれにしか読ませなかった散漫な弱点はやはり覆えない。譬えて謂うと、投げ出された一つかみの、くしゃくしゃの紙切れ、それがこの推理小説の原体。その紙の皺を興味を持ってのばしのばし、作者と読者とで前へ前へ歩いて行くのだが、最後に、すうっと最後の皺をみーんなのばしきって見せて、あれれ、たいした紙ではなかったんだ、と少し拍子抜けする。結果として、面白い珍しいお話を堪能したという程の思いは、させてもらえなかったのである。秦建日子の作だからわたしは読んだけれど、人の本なら読まないか、途中で厭きていたかも知れない。
今度の作では、前回とちがい、作者の「述懐」がときどきややペダンチックにでも露出していて、それを面白い、興有りと受け容れるか、深みもなくちっとも面白くないと見棄てるか、どっちに読者がつくかは、わたしには一概に言えない。わたしという読者はそこへ行くと、やはり特別の読者であり、おお建日子はこんなことを言うか、思うかと、次元を異にした興味にもひきずられる。
さて女刑事・雪平夏見が、前作でよりも一段と魅力的であったか、というと、難しい。すこし水気をふくんで、あの硬質に乾いた、敲けばカンと鳴るような魅力はややうすれ、普通に近づいたのではないか。この作者が昔に田中美佐子という女優を使って書いていたテレビドラマの女刑事程度へ、気分、退行していたかなあとも思うが、映像ではどうなるのやら。
それにしても、こういう風に、実験的に文藝・文学を作って行く意欲は、凡百の推理小説氾濫の中では、すぐれて良質に満たされているのは間違いなく、孤独では有ろうがその意欲は金無垢にたいせつなものと、わたしは声援を惜しまない。
しかしまた、この作品のように、はなから安直に映像化期待に隷従した文藝・文学は、わたしには、本質、頽廃現象であるという基本の評価をくつがえすことは出来ない。息子と同じ年に『みごもりの湖』を書いていたとき、「映像化」など、できるものならしてみろ、できるもんか、とわたしは思っていた。新潮社の担当編集者が映画化権がどうのこうのと話していたときも、腹の中でわらっていたのを思い出す。
秦建日子のさらなる新作をわたしは、だが、楽しみに待っている。そして旧作ばかりでなくわたしの新作も読ませてやりたいと心掛けている。

* 建日子には、わたしがいま「MIXI」で連載している「講演集」の、ことに文学・文藝に触れたものには目を向けていて欲しいと願っている。夕日子にも同じである。同行の我が読者にもむろん同じ気持ちでいる。

* やはり、いま「MIXI」で連載している長編『罪はわが前に』は、わたしが書いた長い小説の中では、久しく作者自身読み返すのをやや羞じらうものであった。瀧井孝作先生がこれを大きな文学賞に推したといわれたときも、嬉しいより身をちぢめて羞じらった。不出来を恥じたのではない。あまりに自身の魂にじかにふれていたし、「私小説」そのものと当時も今も読まれて反論のしようがない。電子化原稿の校正を目的に今度此処へ持ち出してみて、わたしは少年の昔のママに、胸を鳴らし続けているが、なにより、書いている筆付きの若い意気に今こそ気が付く。若いということの健康な魅力を自身の中に再発見する。
ヒロインは「あなたにしか書けない文学を」と、二十年ぶりリに再会した「宏」に望んでいる。有り難いと思う。
その有り難いヒロインを、作中の「姉さん」を、この作品ゆえであったのかも知れない、「離婚」させてしまったかも知れぬと人づてに聞いたときの衝撃は凄かった。その実否は今のわたしには確かめようがない。しかも一番下の妹は残念無念、亡くなったともやはり伝え聞いている。この作の校正は、寂しくも辛くもある。
2006 10・6 61

* 一両日前、親族内のトラヴルに悩んだある女性が、テレビ番組の中で四人のゲストコメンテーターや司会者に親類の誰それを非難して泣訴していた。話の中味をわたしは聞いていなかったけれど、親類の誰かがむちゃくちゃに自分の悪口を言いふらすらしいとは、すぐ分かった。ゲストの主なるひとりの或る作家が、しかし、テレビ番組であなたがこういうふうにその親類を非難して悪く言えば、それはもうお互い様ではないか、と。
こういう論法をわたしも何十度となく聞かされたが、バカげていると思う。理に合わないバカげたことを一方的に言いつのるバカに向かい、どんなに正当に反駁し反攻し反論しても、それは相手の域に身を落として「どっちもどっち」になるだけだから、やめた方が賢いと。
わたしは、こういう賢こそうなものの考え方が嫌いだ。大嫌いだ。むろん無視してもいい。しかし完全と立ち向かってもむろんいいのであり、どちらも自由で、時宜と状況に適しているならどちらの道を選んでも良いのである。「どっちもどっち」だから恰好の悪いことは止しておこうというのは、むしろ姑息で卑怯な逃げ腰に終わりやすい。それでいて、ものかげではブツクサ愚痴がつづくなど、これぞ愚の骨頂である。
人間の自由はふくざつで微妙な価値であり、時代により時に悪徳でもありえたが、悪しき沈黙はつねに姑息である。怒らねばならぬと信じるなら、怒って良い。憎むべきは憎めばこそ、愛や慈悲の意義にも近づける。ただし、怒りにも責任があり、憎むのにも責任がある。責任を果たす覚悟が有ればそこに怒る自由も憎む自由も生きてくる。自由という基本的な人権の基本には、喜怒哀楽の美しい開放がなくてはならない。その抑圧をよしとする考え方にはいつも力ずくの危険がしのびよる。無価値な断念や妥協が人の魂を蝕み始めるほど素早いことはない。
2006 10・6 61

* 快晴と強風のなか多摩川をめざして三鷹駅から南へ調布市内を走ったが、なかなか川に出逢えず、また回れ右して、武蔵境駅の南の方から延々北行、二時間四十五分ほど走って帰宅。入浴して、「宋」の時代の文化を復習。

* 茶碗があるのだから中国人も茶をのんできたことでは、大の先駆者であった。いろんな茶の製し方も飲み方も識っていた。古典には『茶経』もある。
ただ飲茶のふうに、日本の茶の湯のように「作法」を創り上げたかどうかははっきりしない。中国はある時期には他を圧して佛教の勢力がつよかった。しかし結局生き延びたのは禅宗だけであったと謂えるかもしれない。
禅院には学僧たちの日常を律する「清規(しんぎ)」がつくられ、これが宋儒のとくに大切にした中庸の礼または理にちかい規範であった。宋の大学等では学生達の生活の規範として、清規に類した「学規」を用意した。
学規といえば、我が家の玄関には、会津八一がかつて自宅にかかげて寄宿の学生達を律した、八一自筆の「学規」(複製)が掲げてある。
禅宗の坊さん達は座禅の睡魔をはらう卓効の飲料として茶を愛好したから、清規においてやや飲茶、喫茶の作法めくきまりが無いわけではない。日本の茶の湯の、作法としての濫觴はその辺に求められていいのかもしれない。
八一の書いた「学規」を、わたしに下さったのは、もと日中文化交流協会の理事長を務められた宮川寅雄先生であった。わたしは両三度先生のお宅を訪ねているが、そのつど、いろんなものを頂戴した。南洋の土で唐津の作家の焼き締めた渋い湯呑みは逸品である。先生が自作の、天山ふうに焼いた筆架も洒落ているし、ドンキホーテのような乗馬の仙人像もとぼけている。画もなさり、「杜ら」と署名の何枚かを頂戴している。非合法時代の強烈な闘士でもあられた先生は、温厚そのものの文人で美術史家でもあられ、先生の晩年、可愛がっていただいた。わたしも甘えて何でも申し上げた。
宮川先生や井上靖先生の頃の日中文化協会は、存在自体に貫禄があった。白土吾夫さんが専務理事でどっしり要を締めていた。みな亡くなってしまった。
今日、文藝家協会の会報ではじめて知る迂闊さであったが、巌谷大四さんが、もう一月も前に九十歳で亡くなっていた。嗚呼なんということ。井上先生夫妻といっしょに中国へ旅したお仲間の、長老であった。井上先生、白土さん、巌谷さん、清岡卓行さん、辻邦生さんと、あの一行の半数が亡くなってしまい、井上先生夫人、伊藤桂一さん、大岡信さん、私、そして協会から秘書として同行の佐藤純子さんがのこされた。
あのとき訪れたのは、北京と大同、そして杭州、紹興、蘇州、上海。思えば遼や金の、また南渡した宋の故地であったのだ。あの旅のことは昨日のことのように覚えている。
二十年目に訪れた中国では、西安が珍しかった。秦の兵馬俑もまぢかに見てきた。院展の松尾敏男さん、バイオリンの千住真理子さんらと一緒だった。

* 茶のはなしにもどるが、茶の功徳として上げられる、一は覚醒効果、二に消化薬の効果、三に性欲などを抑える効果。そんな茶を飲んでいる坊さんに、上の功徳をきかされ茶をすすめられた牛飼いは、ヘキエキして断ったそうな。一日中働きづめ、夜眠れないのでは地獄。貧しくて僅かしか食えないのに食い物が腹の中で消え失せても地獄。まして性欲がなくなればほかに何の楽しみ、女房にも逃げられてしまう。ハハハ。
2006 10・8 61

* 『太平記』の音読に快く惹かれている。いまは巻第三、東国勢がいよいよ赤坂城の楠木正成に当面する。子供の頃にどんなにか惹き入れられたか。少し思い上がって言うのであったけれど、二十年前にわたしが「秦恒平・湖の本」を旗揚げしたときから、この「出版への叛旗・謀叛」と叩かれた実践を、「わが赤坂城」と自覚し名付けてその旗を今も降ろしていない。二十年、八十八巻まで来てまだ落城していない。まだ千早城は健在に温存されているのだから、我ながら健闘してきた。六波羅の両探題と目していた東版・日版の今がどんなであるかわたしは知らないけれども、わたしは、湖の本の実に山中の小城にもおよばないささやかな闘いを通して、単に事業としてでなく、一人の男として自由自在に生きられる喜びも得てきたと思う。

* 湊川の戦に果てた正成をわたしは「あかんやっちゃなあ」と嘆いたこともあるが、正成は、昔から今まで好きである。身近である。しかしながら太平記の称賛する正成とは異なるべつの正成像、実像のあることをも、わたしは積極的に受け容れている。
太平記は憚ってそうは描かないけれども、楠木が鎌倉の被官であったこと、根は鎌倉方に在ったこと、鎌倉に背いて後醍醐天皇との間に連繋が出来ていったこと、それはそれで少しも可笑しいとも、卑怯だとも思わない。この時代降参と反逆とは少しも珍しくない当然の処世であり、そういうことをしていない有力武士の方が少ないぐらい。
それに正成が「悪党」と呼ばれる悪党の意味は少しも悪人の意味ではなく、この時代を特色に満ちて生きた一部土豪や下層武士たちのじつに興味有る処世を謂うたまで。
わたしには、なにより正成たちが、観阿弥世阿弥など猿楽の徒とも血縁というにちかい連絡を保っていたらしいことも、すこぶる面白い。彼の武略・知謀の根底には、根生い地生えの民衆の支持もあったことを推定しなければ理解が拡がらない。
「あかんやっちゃ」とわたしの嘆くヤツが、この南北朝・太平記の時代にはいっぱいいて、尊氏も義貞も北畠もみんな例外ではないけれど、正成のそれは、共感に値するモノも最後まで持ち得ていた。生き疲れたんやなあと思っていた、子供の頃から。湊川にたつ途中、「わが子正行」を「青葉しげれる」櫻井の駅で故郷に帰した「訣別」の真意にこそわたしは感じ入って、その後の南朝の善戦に固唾を呑んだ。
幼稚園国民学校のはじめごろ、近所の子供達の競って唄ったのが「青葉茂れる櫻井の里のわたりの夕まぐれ」であった。源平合戦と南北朝。やはり時代の覆いかけていたネットからは、遁れ得なかった。それでもわたしは、軍国少年とはほど遠い心根を抱いていた。同じ頃にひそかに読んで胸の奥に畳み込んでいたのは、白楽天詩集の厭戦・反戦の長詩『新豊折臂翁』でもあった。「京都」育ちのわたしを、文学へすすませた原動力は、「平家」と「折臂翁」とであった。
2006 10・9 61

* それよりも、最近気持ちの、ことに悪かったのが、教育委員や学校長達が徹底して「いじめ」による自殺を「いじめ」とは認めたがらなかった事件。
あそこに限らず、コレまでにもこういう事件は何度かあった。そのつど「いじめ」はなかったとしつこい弁明があった。それでも結局謝りに行っている。
「いじめ」という言葉をつかうことに社会的な誤魔化しがあるのでは。苛酷な「差別」があった、そして自殺に追い込んだ、のではなかろうか。ところが「差別」という言葉を避けて「いじめ」と謂い、マスコミも妙にはぐらかした物言いをする。
わたしは京都で育った。丹波に疎開生活もした。わたしの文学の根底には「差別」を非難する姿勢が根付いている。『清経入水』も『冬祭り』も『初恋』も『北の時代』も『親指のマリア』も『四度の瀧』もみな「差別の糾弾」小説だと謂える。小さい頃から差別を目撃してきた、体験してきたとすら謂わねばならない。水や川や海に思想の根底を求めて泉鏡花を意識するのもそれだ。
どんな土地にもどんな環境にも「差別」がある。誰もが意識しながら誰もが口にはしないで「いじめ」ている例がある。とんでもないことだが、在る。
七通も遺書を書いていた子、修学旅行で女の子同士から外され男の子の中へ入れられたという子。教師達は失格という以上の加害責任を負わねばならない。弁解は聴かない。あのような校長や教育委員に「人間」は任せられない。わたしは怒りで何を言い出すか知れない。
2006 10・9 61

* 漸と頓との別がある。順々に段々と。それが漸。お薬に頓服というのがある、速やかに即刻に不意に。それが頓。
たとえば、enlightenment 早い話「悟り」だが、漸で覚るのか。頓で覚るのか。前者には自然に、順序を踏んだいろんな修業や修養が、勉強が必要になる。過去世の好意や罪障に関して勘定を付け、きちんと清算することを求めるのが、漸。
そんなことは全く必要がない、そもそも過去世に積み重ねた問題に人は何の責任もない、もし罪障が積み重なったにしても、それは無知ゆえであり、無知とは勉強が足りなかったのでなく、もともと誰もが完璧に身に備えている内奥の真実に気づかなかった、寝惚けていた、目覚められなかったからに過ぎない。目覚めればよい、気づけばよい、それだけだというのが、頓。 目覚めれば即刻に、瞬時に一切が片づく。それが enlightenmentだと。

* 聖典などいくら読んでも内奥の無知は明るまない。どんな意図的な修行を重ねても決して明るまない。内奥の無知は、内奥で目覚めたとき霧消する。内奥の闇を瞑想しながら、待つとしもなく待つ、目覚めを待つ。自分は夢の中にいて夢を観ているにすぎない、それに気づけば、それから醒めれば、頓、思わず笑い出してしまうほど明快な明るさにおいて世界と一つに在る自身の無と実在とが一瞬に覚知できる。
わたしは、それを待つとしもなく待っている。どんな抱き柱にも抱きつかない。そんな執着はいらない。「今・此処」でわたしは喜怒哀楽・苦集滅道に遊んでいる。受け容れて我が身を通過させている、黙って目撃し傍観し、おもしろいじゃないかと感じている。
2006 10・11 61

* 真理・真実に到る道が、いろんな道が在る、などとそんなことを、達磨は言わない。彼は「あなたこそ真理だ」と言い、それに気づかず無明長夜を眠りこけ夢を見ながら、ひとかど生きている気で居るだけだと言う。
真理・真実のために、われわれはどこに「行く」必要もない、「行く」なんてことはやめねばならない。真理の真実のもともと在る「我が家」にとどまり、目覚め、気づかねばならない。すべて「道」は過った場所へ夢醒めぬ人を惑わせ迷わせる。そして真実からだんだん遠のいてしまう。青い鳥はついにいくら探し求めても外の世界にはいなかった。
「あなたは現に在るべき場所にすでに在る。」それに「気づく」ことだと覚者なら必ずそう言う。
2006 10・12 61

* ヨガ入門は、そろそろ難しい姿勢に挑戦するようになってきまして、今日は腰から下がヘンな感じです。
本日午後から住宅(新築)の打ち合わせ。明日は丸一日打ち合わせです。
人に借りた松本清張を読んで返さねばと思うのですが、あの世界は、どうも馴染めません。せっかく貸してもらいましたが、読んだふりして返そうかなあと。
評論の目次は、もうちょっと。がんばります。
風、しんどいこと多いでしょうが、がんばってください。 花

* 打ち合わせ段階は本で謂えば「校正」段階、しっかり「読んで」いわば「間取り」正確に確認しておくことでしょうね、建ってからでは遅いので。根気よくがんばれ、安易に妥協しないで。予算は、打ち合わせ予算の十五パーセントちかく隠し球としてもっていると、あとで口惜しい思いをせずに済む仕上がりに近づきます。これがたいへんなんですが。
清張について謂われていること、それが彼の仕事のきつい限界のはずです。それを真っ向気迫で批評すると、本格の清張文学論になるはずなのです。 書く方も、がんばって。 風

* ミクシイで、風の書いてらしたこと、今度書こうとしている評論に関連しています。
「告白する小説」と題しているのですが、書きたいという衝動、表現したい欲求は、人間の本能なのではないか、と、あらゆる芸術を見て思うのです。
自分をさらしたいと思っても、世間の目があるから、赤裸々な表現に仮装が必要で、虚構が生まれたのか、と、はじめ、思いました。カソリック的な抑圧のない日本では、ゆえに私小説・告白小説が発達したのか、と。
でも、事実をそのまま書いたものが、事実だからということだけで、成功するとは限りません。
たとえば、フローベールは、初期に自伝的な小説を書いていましたが、親しい友人に酷評され、奮起して、「ボヴァリー夫人」を書きました。
そして、「ボヴァリー夫人は私だ」といえるくらい、田舎の人妻を、ある種の人間典型として描ききりました。
自伝的小説が、あまねく読者にうったえかける普遍性を持ちうるのは、至難の芸が要ることでしょう。
日本文学の不幸は、このフローベールを批評した友人にあたる者のいなかったことではないでしょうか。
詳しくは、目次と一緒にまとめ、近日中に風に見ていただこうと思っています。
明日の打ち合わせもがんばります。書くのも、がんばります。風も、お元気でいてくださいね! 花

* このやりとりに触れられた「MIXI」でのわたしの発言だが、新たに、「漫々的 <書きたい>人との対話」と題して、書き始めたのである。「MIXI」のなかには夥しく「書きたい」「書いて行く」人達の述懐がある。実作にはなかなか出逢えない。なかには何かしら琴線にふれる発言もあり、催されてわたしもふっと発言したくなる。それを遠慮無く書いておこう我が為にもと思い立った。小説は『清経入水』を、そして「秦恒平講演集」はもう一月近く純に連載していて、今はNHKラジオで話した『春は、あけぼの』を関連のエッセイとともに掲載中。ほかに、もう二種類の書き下ろしのエッセイ連載を続けて行こうとしている。
言うまでもないが、わたしの創作の仕事は、こういう外向きの場所でなくしかし続けられているからご心配なく。
2006 10・15 61

* 「なにを達成しようと達成は条件によるものであり、因果によるものだ。それはかならず応報を生じ、車輪をまわす。生死に従属するかぎり、けっして悟りは得られない。」達磨(スワミ・アナンド・ソパン訳)
「悟り」はなんらかの原因や修業によって生じる結果ではないし、一定の条件を満たしたときに得られるものでもない。達磨が「いや、宗教が人々に説きつづけているこれらのいわゆる修行によって、仏性を見いだすことはできない」と言うとき、彼の言明はとてつもなく意義深い。(バグワン)
わたしもそう思う。「財宝はそこにある、ただその被いを取り去るだけでよい。」自身存在の内奥に気づき目覚めるということ。無明長夜の夢にわたしは眠りこけている、いまも。夢と気づきかけていても、目覚める、それはいつのことか。
あせりはしない。間に合えばいい。

* わたしがいま何を思っているか、当てた人はえらい。子供のとき、そんな風に言い合って遊んだ気がする。
2006 10・16 61

* わたしがいま何を思っているか、当てた人はえらい。子供のとき、そんな風に言い合って遊んだ気がする。

* 昨日だったか散髪してもらいながら、マスターと自転車乗りの話をしていて、わたしが死ぬとすると交通事故が一等可能性が濃いと、あはあは笑ってきた。新幹線で東京・名古屋どころか京都に着くまでぐらい長時間走り回っているうちには、何度も危ないめを見ている。起伏の多い武蔵野で、えいえい登り坂があると必ず数百メートルもブレーキを握りしめながら疾走する降り坂がある。降って走るこっち側だけではない、登ってくる車と対向するのだから、あの坂で瞬時でも眼を閉じたなら、確実にわたしは大怪我をするか死ぬるであろう。まだまだ用意が出来てないから、そうやすやす死ぬわけに行かない、注意の限りを尽くして走っているけれど、このごろ「生きていたい気持」はとみに薄れている。妻を安心して息子に委ねられるなら、わたしは、「一瞬の好機」をはやく自ら求めて空中に炸裂したい。

* わたしの中にまだ闘おうという気と、闘うほどくだらぬことはないという気がある。この葛藤は、しかしたいしたことはない。生きていてもつまらないと思う気と、生きてなにかしらしなくては、楽しまなくてはという気とが、いっこう拮抗しない無力感にヘキエキする。いやヘキエキではない。だらしなく生きているほどみっともなくつまらないことは他に無いよという囁きが、耳の奧に聞こえ続けるだけ。
わたしは、「今後の自分」をかつぎながら無意味な未来へ歩いて行く気がしない、もう。ああそうか…、独りでしか立てないちいさい「島」に、投げ落とされるように此の世に「生まれた」自分なのだし、その島から海のなかへ独り退散するのは、父母未生以前本来の最期であるのだ、当然だなあと思う。

* ごく最近、ある学会誌の巻頭記事として書いた原稿を、「遺書」のように、此処に掲載しておく。わたしは、こういうことを思い思い生きてきた。こういうことを思い思い、「自分の家」に帰って行くときが来ている。

* わが「島」の思想と文学 ―わたしの「身内」観― 秦 恒平

島を見る・島から見る「島の文学」という特集企画と聞いたとき、その主題が、「日本近代・現代文学」のためのものと限れば、何が言いたいのか、正直のところ合点がいかなかった。
「島」と書く限り、それは島である。「シマ」と書けばすこし意味がひろがる。「うちのシマ」を守るの侵されるのということは、ある種「領分」「配慮下」を意味して、昔から例の親分子分たちの言い分であったし、今も、そうらしい。「島」を、「あの世」の意味で謂う地方もあるが、あまりに特殊すぎて、特集企画の意図は、そこまで逸脱していないだろう。もっとまっとうに、大島小島、離れ小島、あの島この島の「島」の意味であるのだろう。わたしはそう理解し、お鉢がわたしへ及ぶとは夢にも思わなかった。
だがまた、わたしは、ごく限られた範囲でではあろうが、「島の思想」の持ち主だと思われており、わたし自身も繰り返し発言してきた。その「島」も、明らかに例の島の意味やヴィジョンを離れた島ではない。海に浮かぶ「島」を踏まえたままの「島の思想」といわざるを得ないが、だがしかし、また、やくざ衆たちの謂う「シマ」とも、必ずしも背馳していないかもしれないのである。私にお鉢が回れば、やむをえず私はそのような自分の「島」を語るしか手がない。それでよいという依頼なので、その気で書いて行くのをお断りしておく。

とはいえ、「総論」ふうにとも謂われている。持論や持説を書いて「総論」とは凄まじい。で、そこへ行く前に、漫然と前置きを書くことも許して頂きたい。

日本は「大八州国」といわれる。「豊秋津島」とも「日本列島」とも総称され、日本が、東海粟散の「島国」という自覚は大昔からあった。そのような日本で書かれる文学が、大なり小なり、深くも浅くも、「島」生まれ「島」育ちの文学であり、島にも大小のあることなどを、申し訳のように付け加えることが妙にわざとらしいほど、つまり日本は「島」の寄り合い所帯だと認めざるをえない。その世界からとびぬけて出たような文学と、いかにも「島」めく文学とが「分別」出来ると謂われれば、むろん否定する段ではないが、どんな区別差別が本質的に見極められるか、遣ってみないので分からない。
島には、陸や大陸とはちがい「狭い」意味、海に「封鎖されている」意味などが、つきまとう。「島国根性」は日本人のぜんぶに言われているので、広い本州の人はちがう、小島暮らしの人にだけそれを謂うわけではない。そうなると「日本人」らしいちまちました料簡の人物が活躍する小説や演劇は、どこか「島の文学」だという大雑把なかぶせようも、まんざら否定できなくなり、そしてそんな指摘にはたいした意義の生まれようもない。

しかし明らかに「島」という環境と時代に取材した小説は、幾らもある。「硫黄島」「八丈島」「沖縄」「佐渡島」「沖永良部島」「隠岐」「対馬」「五島」「桜島」「竹生島」「伊豆大島」「千島」「樺太」「淡路島」「小豆島」「松島」「厳島」「鬼界ヶ島」「児島」瀬戸内の島々、果ては架空の「鬼ヶ島」まで、作品の世界になっていない現実の島はないと言って良く、芥川賞や直木賞や太宰賞やその他で評価を受けた作品を思い出すことは、そう苦ではない。しかしながら、戦争文学の舞台でもあれば幻想的な舞台でもあり、瀟洒な、あるいは貧窮の舞台でもある。それはもう「各論」的に語られ得ても、どう総論して、かりに分類などしてみても、それがどうしたというに留まるだろう。一つ一つの作品に触れて「読む」、そして個々に「楽しみ」「感じる」だけのことではないか。そして、そうなるとことさら「島」の文学という特定に、たいした意義は失せている。残るのは個々の作品の出来と不出来とだけではなかろうか。
で、わたしは、気の進まない前置きから、この辺で撤退する。以下の発語は、よほど方面が異なってしまうことをお断りしておきます。

生きとし生けるものは、此の世に「生まれて」くる。この、「誕生」を意味する日本語は、「生を享ける」などと難しく言わない限り「生まれる」の一語しかなく、この「れる」は、文法的には「自然」または「受け身」を意味すると、教室で早くに教わった。また英語の時間には「was born」という「受け身」形で、「生ま・れる」と習った。英語の文法でもっと別の解釈や解説があるかどうか知らない、「was born」は受け身を意味していて日本語に翻訳すれば「生まれる」しかないなあと、敗戦後すぐの新制中学一年生は合点したのである、その余のことは知らない。

では、人はどう受け身で「生まれる」のだろうと、私は想った。私はその頃まで、自分が秦家の「貰ひ子」であると人の噂にも重々知りながら、実父母のことを何も知らなかったから、そういう想像・空想・妄想にはふだんに慣れていて、つまりそれが幼いながら思索・思想の下地を成していた。
私は、育ててくれた秦家に黙然と服して育った。事実はゆめにも冷遇などされず、むしろ大事に可愛がられて育っていた。昔風に謂うと「最高学府」にまでやって貰えた。お前は「貰ひ子」だなどと言われたこともない。親も子も黙って実の親子のように、ほぼ大学をでる間際まで過ごしていた。そして家に子供はわたし独りだった、つまり私は祖父と両親と独身の叔母という大人達のなかの、見た目も「一人ッ子」だった。淋しかった。
こういう境遇で、友達も少なくいつも独り遊びしていた私が、人はどう「生まれて」来るのだろうと想うとき、その「人は」の「人」とは「何」であるのだろうと想うことから、あれこれと問題が展開したのは自然だった。むろん「人間とは何ぞや」などと難しく思索したのではない。
「人って?」という関心ないし疑念は、自然と「自分」という「人」を起点にした、「人の分類」へ向かった。「人はどう生まれてくるのか」は、その先の問題として、むくむくと太ってきたのだった。

「自分」と謂えるものは、此の世にただ「一人」だけいる。一人しかいない。これは疑えなかった。
自分以外は「自分でない」以上、みな「他人」だと思った。すると親子も夫婦も兄弟も親類も「アカの他人」同様に「他人」なのか。「自分」でないのだもの、当然に「他人」だった。世間の人はそういう存在を「身内」と呼んでいたけれど、疑問だった。疑問は到底拭えなかった。そんなのはみな、ただの「関係」を示す呼び名であるだけだ。疎遠な親子も、仇同士の親類も、他人の始まりの兄弟も、琴瑟和すにほど遠き夫婦もいる。
「身内」ってそんなものか。ちがう、と私は断定した。現に育て親に私は親しんでなかったし、実の親は非在、そしてどこかにどうやらいるらしい兄や姉や妹の、顔すら一度も見た覚えがない。所詮「自分」じゃない、向こう三軒両隣の人、町内の人、学校の友達らと同じみな「他人」、つまり「知っているだけの人」という意味の「他人」であると、私は厳正に決定した。
そして「知っているだけの人達=他人」の、背後に、遠くに、「まるで知らない人達=アカの他人」という「世間」が在る。世界中にそういう世間として「人類」が実在している、それは疑えない。軽くも見られない。そう思った。「男」「女」などという分類は、「アメリカ人」「ギリシァ人」などという、「黒人」「白人」などという分類は、わたしの関心や思索とは無縁の、つまり科学的・社会的事実でしかなかったのである。
纏めるとこうである、「自分」と、「(自分でない=知っているだけの人達=)他人」と「(その人について日常的に何も知らない人達=アカの他人の=)世間」の三種類が、此の人の世に「人」として存在している。幼いわたしは、そう考えたのである。
そして、こういう「人」達は、自分も含めて、どのように此の「人の世」に「生まれて=was born」来るのだろうか、と。むろん、生物的な出産・出生の生理現象を問うたのではない。

産み落とすという言葉がある。「生まれる」がほんとうに受け身の形であるなら、つまり絵に描いて想像してみるなら、「生まれる」とは、「此の世=世間」という広い海に、神様だか誰かは知らないが、石を投げ込むように人を投げ込んだのではないか。われわれは、此の世に「投げ込まれた」ように受け身に「生まれた」存在ではないのだろうか。私は、子供心にそう想った。その先は、よちよちと思索の進展である。
もし「生み=海」に投げ込まれた石ころの一つのようなもので「人間」があるなら、溺れて沈んでそのまま死んでしまう。人は魚ではない。
わたしは、こういう想像をした。眼を閉じ、どうか、私の謂うとおりに想い描いて戴きたい。

見渡す限りの、海。広い広い、海。よく見ると、その海に小豆をまいたように無数の島、小さい小さい島、が浮かんでいる。さらによく見ると、それら無数の小さい島の一つ一つに一人ずつ人が立っている。
島は、その人の二つの足を載せるだけの広さしかない。島から島へ渡る橋は無い。橋は架かっていない。「人」は斯くのごとく孤立して此の世という「海」に、「自分」独りしか立てない「島」に、あたかも投げ込まれるようにして「生まれる was born」「産まれ落ちる thrown down」のであると、わたしは想像し、銘々に「自分」なる「人」本来孤独・孤立の「誕生」を、脳裏の絵に描いたのであった。誰一人として、この想像を否定できないと確信した。
海(人の世)と島(「自分」孤りの生=無数の「他人」「世間」の生)との、世界。父母未生以前本来の「人」の在りよう。そんな構図の世界観。
そして思索は、先へ、また動いて行った。

天涯孤独は人間として当然の前提らしいと私は納得していた。その上で、「寂しい」という気持ちを、世界苦(Welt Schmerz)のようにもてあましている自分自身に、いつか気づいていた。手近に謂えば「独り=孤り」はイヤという、苦痛に似た思いである。
気が付いてみると、(本なども読むようになると)、橋の架からない島と島との間で、自分の足ひとつしか載らない小さな島の上で、人が人へ、他人の島へ島へ、さまざまに呼び合っている声が聞こえてきた。自分もまた渇くように呼んでいると痛感し始めていた。人の「愛」が欲しい……。「個」としての「孤」は絶対の世界意思(Welt Wille)であろうとも、「孤」を脱したい人間の意思(Mensch Wille)も確かに在る。人は「愛」を求め合っている。本来不可能と分かっていても、島から島へ橋は架かっていないと分かっていても、なお「愛」を求めずにおれない渇仰が酸の湧くように心身を痛める。愛が受け容れられねば、この世界、底知れない孤独地獄でしかない。

私は、かくて真の「身内」を真剣に考えるようになった。名前をもった社会的・生物的「関係」ではない「真の身内」を、人は寂しさの余り渇くほど求めている、いつも求め続けて、他の島へ呼びかけ呼び交わしていると思った。
だが、それは可能なことか。私は本気でそれを考えた。
そして、こう思い詰めていったのである。

幸いにして、人は、自分独りしか立てないはずの小さな島に、ふと、二人で立てていることに気が付く。三人で、五人で立てているとすら、気づくことがある。恋をしたり、すばらしい親友が出来たり、信じ合える先生や教え子が出来たり、水ももらさぬ伴侶が出来たり、愛し合う子、敬愛してやまぬ親、すばらしいチームメート、慕い合える知己などと、倶に島に立てているではないか。
一過性の相手もあれば、崩れゆく信愛もある、が、生涯変わらない単数の、また複数の相手と、この時に、あの時に、時々に出逢い、それら出逢いの幸福感や充実感ゆえに、ああこの人と一つの「島」を、運命を、分かち合って立っているぞ、と信じられる。
こんなことは、人により多少と深浅の差はあれ、体験する人は必ず一度ならず体験しているものだ。
私は、こういう相手を真に「身内」と呼ぶべきであると思った。親子だから、夫婦だから、きょうだいだから、親類だから「身内」であるといった思いようは、子供心にも軽薄だと思ったのである。

「自分」が独り、自分の他に「他人」が大勢、「世間」はさらに無数。しかも、日々生きて暮らして、「自分」は広い「世間」のなかで「他人」と知り合う。より大切なのは、そういう「他人」や「世間」のなかから、孤り=独りしか立てぬはずの「島=いわば運命」を共有しあう「身内」と不思議に出逢う。不思議にそういう「身内」を見つけ出す、見つけ出したい、見つけ出そう、と「生きて」行く。人として何よりも根底から願っているのは、名誉よりも富裕よりも権力よりも、本質的にかけがえない「身内」だ。世界中の誰も誰もがそう根の思いで欲し欲して生きているはずだと私は信じた。
自著『死なれて 死なせて』(弘文堂<死の文化叢書15>一九九二)に私はこう書いている。

それにしても不思議なことではないか、東京のような巨大都市に暮らしていると、百メートルと離れない近くのお葬式にも、胸にさざ波ひとつも立たないという事実がある。その一方で、顔も見たことのない、年齢も仕事もよく知らない文通だけの一読者の訃報に思わず涙をこらえるという体験もある。十年、二十年たってもまだ「悲哀の仕事=mourning work」の終え得ない死もある。これはいったい、どういうことなのか。なぜ、そうなのか。
それを誠実に考えつづければ、私は、どうしても「世間」「他人」「身内」と感じ分けてきた「自分」の「島の思想」へと立ち帰らずにはおれない。
「死んでからも一緒に暮らしたいような人――そんな身内が、あなたは欲しくありませんか」
私の戯曲『心―わが愛』(俳優座劇場、加藤剛主演、一九八六)では、「K」が「お嬢さん」にそう問いかけ、彼女は声をつよめて「欲しいわ」と答えていた。
あなたは、どう、思われるだろう。

世界中の名作小説や戯曲を私は思い出す。
谷崎潤一郎は、こんなことを言っている。むかし、あるところに男(女)がいて、その男(女)を愛する女(男)がいた。小説はつまりその幾変化であると。
そう簡単ではあるまい。
万葉集の基本の部立ては時代(治世)のほかに「愛(相聞)と死(挽歌)」であった。人は愛し、そして、死なれ・死なせて、生きてきた。幸福に、また無残に苛酷にと。そう謂えるだろう。
そう見極めた上で、私は、人は「生まれ」ながら孤独であり、もともとその運命=足場としての「島」「島」は絶対的に孤立していると観た。島から島へ橋は架かっていない。だが、それでは到底寂しくて叶わない人間は、錯覚、貴重きわまりない錯覚としての「愛」なしに生き難い。互いに島から島へ呼び交わして、広い「世間=海」から「他人=島々」から、「身内」を渇望し、我一人の「島」にともに立とう・立てたと幻想するようになる。必ず、なる。これ以上必要で価値多い幻想はほかに無いのだ。
そして、いつか、そんな身内にも人は「死なれ」る。いや「死なれる」どころか、苛酷に「死なせ」てしまう実例も事実数知れない。光源氏は最愛の藤壺も紫上も「死なせ」ている。薫大将は宇治大君を「死なせ」ている。勇将平知盛はむざむざと目の前で愛子十六の知章を「死なせ」て自身生きのびたのである。ヒイスクリフはキャサリンを「死なせ」、ジェロームはアリサを「死なせ」、王子ハムレットもファウスト博士も愛する「身内」の女を「死なせ」ている。わたしに言わせれば、春琴と佐助も、いわばともに相手を「死なせ」るに等しくして、ともに生きたのであり、世に愛し合うものたちは、時に親を棄て子を棄て伴侶を棄てても、より愛おしい「身内」と運命を分かち合おうとする。
「身内」とは何であろうか、通俗に言えば、まさしく「死んでからも一緒に暮らしたい人」の意味でなくて何であろう。
阿弥陀経に「倶會一處(くえいっしょ)」の四文字がある。意味するところは極楽であろう、が、私は仏門の意義に聴きながらも、囚われない。死んでからも同じ一つの「家」に心おきなく住み合える人達。私はそんな人達を「身内」と思ってきたし、あらゆる文学・文藝に登場して、愛と死とを深く身に刻み合い分かち合った同士は、本質、これと少しも異ならない、その示現そのものだと観ている。
しめくくりのモノローグに、ごく初期の自作『畜生塚』から一部を引かせていただこう。私の主な仕事は、すべてこの作よりあとから生まれた。少年の、青年の、少しはにかんだような「理解」が語られているが、私の死んだ実兄が最も愛してくれた「手紙」である。静かな気持ちで、どうか読みおさめて頂きますよう。

もう夕暮といいたいほどの陽のかげが広くもない境内に斜めにきれいな縞をつくっていた。甃(いし)みち、築山、それに萩があちこちにうずくまったようにみえる。鶏がいる。自転車がある。ふとんが干してある。セーターを着た若い人が庫裏(くり)をせわしげに出たり入ったりしていた。それでいて堂前の庭のたたずまいなど清潔で美しい。薄ぐらい感じはない。案内を乞うまでもなく、門を入って右の方へ甃の上を歩んでゆくと立派な石碑がならんでいた。瑞泉寺、前関白と割書きして一段大きく秀次入道高巌道意尊儀と刻んだ大きな石塔を真中に、右に篠部淡路守外殉死諸士墓、左に一之台右府菊亭晴季公之姫外局方墓と刻んだ石塔が並び、これをぐるりと左右後にとり囲んで、普照院殿誓旭大童子とか容心院殿誓願大姉とか妻妾子女の墓石がびっしりと居並ぷ。だが、どうみても非業の死をとげた人たちの畜生塚とはみえない、白いみかげ石がまだ新しみさえ帯びていて、きちんと墓石が整列している。さっぱりしている。
町子はセーターの青年に博物館でみた掛物の残りが寺にあるかときいていたが、それはやはりみんな博物館へ渡してあるとのことだった。
何の恐しげな古塚を期待したわけでもなかったが、仕合せそうにちんと鎮まっている秀次たちの墓所には、妙な皮肉な味があった。町子も私もこの皮肉がよくわかっていた。眩しいほど真黒な猫が門のわきの萩むぐらの下に碧い目と茶色の目とをけいけいと光らせて私たちをみていた。妖しく美しい姿態をきりっと緊張させて、黒き猫は萩の下にいた。ああこれがそうだ、この猫がそうだったのだと感じた。何がそうなのか言葉にはならずに私は合点した。黒猫が目をみはるほど美しいこと、すこしも気味わるくないことが私たちの気分を救っていた。

東京から長い手紙を書いた時も、私はあの萩の下に輝いていたものの美しい光沢を意識していた。文面はともかくとして、町子に伝えた夢想とは大体こんなものだった。

私はもともと定まった自分の家と家族をもっていたのです。いつか私は必ずその家へ帰り、私は家族(身内)と永劫(えいごう)一緒にすごすのです。その家族とは親子同胞といった区別のない完全な家族ですが、その家族が本当にどんな人たちなのか今の私は忘れていてよく想い出せないのです。なぜなら、私はその家を出て、この現実世界の混乱の中へ旅に来ているからです。
今の私の生活はすべて旅さきの生活であり、家庭は仮の宿です。私はいつか、死ぬという手段であの本来の家(この本来という言葉はよくいう父母未生(みしょう)以前の本来です)へ戻り、本来の家族(身内)に逢うでしょう。私より先に帰って来ている人もいるでしょうし、あとから帰る人もあるでしょう。
私がいつか死ぬようにあなたも死ぬでしょう。あなたはあなた自身と家と家庭とを本来もっているのですから、その家へ帰ってゆくのです。その家にはあなた自身の家族(身内)が住むのです。私もその中に入っているでしょう。そして、私の家にあなたはもちろん居るわけです。
この意味がわかりますか。死後の世界、いいえ、本来の世界では、私という存在はただ一つではありません。私のことを身内と考え愛してくれた人たちの数だけ、その人たちのそれぞれの家で私はその人たちの家族として生きるのです。同じことが誰にでもあてはまるのです。
私の家にいるあなたと、あなたの家にいるあなたとは全く同一異身なのです。私の家には迪子(=妻)がいますが、あなたの家に迪子はいないかもしれない。しかし私の家では迪子とあなたは完全に一つ家族です。こうして無数の家がある。
あの世では、一つ蓮(はちす)の花の上に生まれかわりたいと昔の人は願い、愛を契る言葉として実にしばしば用いていますが、それは私のいうこの本来の家と家族との意味を教えているように思います。
笑う前に考えてみて下さい。これは私の理想です。これが信念になるとき、私は死を怖れず望むようになりましょう。これが極楽であり、地獄とはその永劫を一人で生きることです。人は現世での表面的な約束ごとで結ばれた家族、親子、同胞、夫婦や友だちをもっていますが、真実の家族は本来の家へ帰った日に、はじめてわかる。
私は私の家へ、あなたはあなたの家へ、迪子は迪子の家へ帰ってゆくのです。私の家にいる私と、迪子やあなたの家にいる私とは別のものではない。どの家にいても、私は私を分割しているのではないのです。どれも本当の私であり、どの家を蔽っている愛も本当の全的な愛なのです。
年齢も容儀も思想もどんなことも詮索することなしに信じて愛し疑わない身内だけの世界がある。このふしぎな私の夢をあなたもいつか信ずるでしょう。そう信じなければ、人は寂びしくてこの旅の世界に惑い泣いてしまう。
私はこういうことをあの博物館の中で花火のように想い描き、瑞泉寺を出るときに信じはじめました。私の得たふしぎな安心は大きなものです。死をおもうことに恐怖がうすれています。
迪子はこの私の描いた夢を理解したようでした。  06.08.23 ――了――

* 言っておく、「第二子(弟・秦建日子)誕生以降二十年」のながきにわたり、実父であるわたしから「性的虐待」「ハラスメント」を受け続けてきたと、インターネット上での謝罪と賠償金を「民事調停」の場に求めている「第一子(姉・★★夕日子)」を、わたしは心底軽蔑し、永訣する。
わたしの帰って行く「本来の家」にこの心腐った娘の影は微塵もささせない。わたしが高校生の頃から、いつの日か我が子にと、こころこめて名付けた「**子」の名は返してもらう。せいぜいウソつき「木漏れ日」を名乗って生涯薄暗い虚偽の営為に生きるがいい。
2006 10・16 61

* 「たとえ十二部経を暗誦できようと、そのような者は生死の輪廻を免れえない。解放の望みなきままに三界に苦しみを受ける。」達磨
「教師(ティチャー)」たちの誇るどれほど多くの知識も、それは頭脳(マインド)を多くの言葉で満たすが、彼等の「存在」は空っぽで虚ろなままだ。大博識の学者というのはたんに知識のある愚か者でしかないと、ほんとうの「師(マスター)」はその存在そのもので分からせる。ブッダもイエスも。達磨も。老子も。
2006 10・17 61

* ブッダは無益な修業をしないと、こんなことは、達磨だから言える。獅子吼とはこういう言明をいう。

* 無心の本性は根源的に空であり、清浄でも不浄でもない。心(マインド)のレベルであれこれしている限り、だから当然、無心にはなれない。心はいつも思考で溢れて在る。心とは思考の容器にひとしい。そしてそんな心の働いている過程は、清いか汚いか、なにしろ容易に空ッぽに成れないのが心(マインド)である以上、それは清浄か不浄かのどちらか。心はけっして二元対立を超えることはできない。いつも賛成か反対かであり、いつも分割・分別されていて、分裂症の状態にしかない。けっして全一(トータル)にはならない。なれない。二元対立を免れうるのは「無心」という静かな、心ではない心だけだ。それは曇りなき大空のようなもの、トルストイの『戦争と平和』でアンドレイ公爵が戦場で斃されて見上げていた無限の青空がそれだった。

* いまわたしのマインド(心)の世間は黒雲が渦巻いておはなしにならない不浄な世間だけれど、わたしはそれがそういう世間だと知っていて、無明の闇にいる自分を感じているが、そこから抜け出せるときを持っていないのではない。雲に目をむければひどいものだが、雲と雲のかすかな隙間を通して広大無辺の澄んだ大空を垣間見ることもそれに気づくことも出来る。そのとき★★●も★★夕日子もない、何の価値もないただの雲屑とすらも意識しないでいられる。
それなら大空になればいいではないかという催しがあるにしても、まだそれが理であり言葉であるあいだは、わたしは慌てて覚り澄ますフリなどしたくない。まだマインドで分別してなんとかしようなどと思う自分を完全に否認し得ていない間は、ま、現世風に闘わねばならず、苦しまねばならない。
2006 10・18 61

* ブッダは戒めを守らない。彼はどんな戒律にも従わない。彼は最大限の「気づき」をもって生きているから。ただ静かに眺め、自らの全存在がすべてに応答するのをゆるしている。彼はまるで鏡のようだ。ただ映し出すだけで、ほかにはなにもしないとバグワンは正しく語る。「なにもしない」ということを言い換えると、「なにをしてもしないと同じ」だということ。
わたしは座禅したまま暮らせる状況にいない。それなのに強いて座禅をしてみてもそれだけでエゴの業に陥る。すべきと感じたことを為すべく為して「なにもしていないと同じ」一面の鏡のように生きて在ることが、不可能とはわたしは考えていない。そこに偽善的な世間のリクツを持ち込まない方がよほどいい。
2006 10・19 61

* 夕日子一歳半、社宅ベランダでのこの写真こそ、われわれ夫婦両親と娘夕日子の「今生」を象徴するはずの一枚であった。
喜びに溢れて撮影したのが父親の私であること、言うまでもない。
愛とは高貴な、だがしばしば苦々しい錯覚であるのが本来と、だが、わたしは根源の認識で少年の昔から自覚してきた。いまこの両親はこの娘の汚辱の暴言により、裁判所で公然はずかしめられている。その一々に私たちは応えねばならない。
2006 10・19 61

* 今日、裏千家の講習会で、業躰(ぎょうてい)さんから「香合(こうごう)番付表」の話を聞きました。江戸時代、人々は、何でも「番付」にするのを好んだそうです。東の大関(第1位)は黄交趾(きごうち)「大亀」、西は染付(そめつけ)の「辻堂」なんだそうでした。
今日秦さんの講演録にも「番付」の二字を見て、いつもなのですが、自分の経験や、想像や思考との合致を発見する不思議さに、少なからず驚いています。『枕草子』も一種番付の一面をもっているとのご指摘、納得いたしました。
高校のころ、ヘッセ詩集で『霧の中』を読みました。「人生とは孤独であることだ」との断言に打ちのめされつつも、それが真実であることを疑えませんでした。また『独り』の末尾に、「だからどんなつらいことでもひとりでするということにまさる知恵もなければ能力もない。」とあり、これも心に刻み込まれました。
そして、今日秦さんの『島』を読みました。一人一人が自分だけしか立てない小さな島に自分独りの足を置き、隣の島とは断絶している。
まさしく、孤独そのものの自分の姿が、はっきりと再び目に浮かびました。今、私の周囲には愛しい孫たちや、新しく親戚になった人たち、老後を心おきなく語り合える友人など世間にいわゆる「身内」の「愛」にあふれています。でも、私は、しばしば「独り」を、自覚もしています。人間としての根源的な孤独はあると思います。この安らかさや、幸福が「貴重な錯覚」であるとの自覚を持てと教えてもらいました。  一読者

* こういう読者にであうとき、「書いて」いてよかったなと思わずほっとする。読み手と書き手はこのように人生をふと重ね合わせる。魂の色が、ふと、似て思われる。それもまた「貴重な錯覚」であろうとも、人は尋常な人間関係をもとめて日々奔命・奔走しながら、心底には真の「身内」、死んでからもともに暮らしたい人をその上に渇望している。生涯にひとりのそんな「身内」も持てない人がいる。十人も二十人も持つ人もいる。真の不幸と幸福とのけわしい岐路、孤独地獄と極楽の岐路がみえてくる。

* 書かれた言葉は屍体にすぎないが、語られた言葉は生きており、それはまだ息づいている。世界中で、いつの時代にも、光明を得た人が書き記すことをしなかったのはそのためだ。 バグワン
2006 10・20 61

* 地裁審尋の「判決書」が届いていた。大山鳴動して鼠も出なかった。長くて「数日」ということだったから「仮処分申請」に同意しお願いしたが、「一ヶ月余」もかかり、結局復旧したという画面も見ること出来ず、BIGLOBEを解約した。何の必要があってわたしのこの六月、七月、八月の全部の「私語」削除を容認して「和解」なのか、わたしには全然理解できない。わたしのために何の利益をはかろうと仮処分申請してくれたのか、尽力の成果がどこにあったのか、全く理解できない。
この事件で法律家とも当事者として話し合わねばならず、ほとほと驚愕したのは、法律家の言葉はじつに私たちの耳に入りにくいと云うこと。しかし裏返すと、法律家の耳にはわたしのような文学者の言葉はほとんど一顧もされないほど無意味で無効なのである。裁判官は「そういう訴えには一顧もあたえません」と、さらさらと云われる。ダメダ、コリャと「人間」を務めているのが情けなくなる。

* 情けないときは、さような「世間」をわたる人間の「役」をしばらくやめて、じっと自分の内側を覗いて過ごすのがいい。
「禅」という文字のことなど、思ってみる。
「禅=ゼン」という日本語には何の根拠もない。中国の「禅=チャン」が訛って伝わっただけであり、その「チャン」にしても中国語ではない。パーリ語の「ジャーナ」という言葉で達磨が、つまり「禅」に相当する教えを伝えた。禅はただの宛字である。
ブッダは佛教を、民衆の言葉パーリ語で語った。インドの学者達に専有されていたサンスクリットでいえば、「ジャーナ」は「ディヤーナ」だった。そこまでは、要するに「知識」の範囲であり、あまり意味がない。そんなことを知っていても屁のつっぱりにもならない。
(このごろオヤジの日記のことば、ナマになっているぜ、おやじらしい抑制の利いた文章で読ませてよと息子の方から声が聞こえている。言葉は「心の苗」であり、いつも一本調子は偽善的なウソにちかくなる。言葉の生彩は、喜・怒・哀・楽の情感に適切な出口をつくってやって生まれる。それが自然であれば、言葉は生き生きはずみ、不自然であればことばは過度に飾られるか表情を喪う。此処は、屁のつっぱりにもならないと言わせてもらいたい。)

* 「ディヤーナ」とは、心を超えること、分別し思考するプロセスを超えること、またはそういう心、分別、思考を落とすこと、静寂のなかにはいることだと分かりやすい言葉で言い換えられている。何一つ動くもののない、なにひとつかき乱すもののない、完全な静寂、純粋な虚空、そのスペース=時空が、「禅」といわれる。
「禅」は中国では宋の時代に相当な感化をのこしたが、ほんとうに禅が落ち着いたのはむしろインドでも中国でもなく、日本だったといわれていて、そうとも言える、が、かなり逸脱して「禅趣味」が日本人に根付いたと正確に謂えるというのが、わたしの批評で持説である。禅と禅趣味とをいっしょくたに混同していると、禅も遊藝化してくるから危ない。
あらゆる宗教や信仰の中で、「禅」だけが、ほぼ「抱き柱」を抱かずに、人間の内奥に生死の動静を把握する。禅宗とは云わないが、わたしが「禅」に心親しむ思いがそれであり、なにが人に大事か、自身の内奥にenlightenment=無明長夜の眠りからの眼覚め=気付き、を得ることより有り難い「生」はあるまいなあと、わたしは只今も感じている。金無垢にピュアで確かな生が、さてこそ、予感される。外の世間には、余りにもくだらないものがゴミためのように淀んで流れもしていないと、ま、そんな風に毒づくのは簡単だけれど、気付いてしまえば、綺麗も汚いも大事も不大事も何にもないであろう、だって、「ディヤーナ」であれ「禅」であれ、その静寂は虚空で、分別する「識」を無に帰している。きれいのきたないの、くだるのくだらないのというのは、夢の中の悪夢に悩まされているという以上のなにものでもなく、夢は醒めてしまえばおしまい。

* こう思っていると、おもしろいことにその夢が、ま、シェイクスピアではないが「夏の夜の夢」めくお芝居のようで、長い狂言にはいい幕もいやな幕も、明るい幕もくらい幕もあって当然と思えてくる。どうせ醒めてしまう夢に違いないと信じているから、ならまあ、あいつとも、こいつとも、どいつとも夢の中で適当に付き合ってやるかとアキラメがついてくる。なに、高見の見物などと気取ることはない、自分も自分の「一役」をぎしぎしと演じてみるがいいのである。夢と知りせば覚めざらましをと嘆いたのは、無明の夢と知りつつしたたかに悦楽出来た、まちがいなくあれぞ「女の強み」だったろうなあと、ふと思う。誰だったかな、小町にきまっている。

思ひつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらん夢と知りせば覚めざらましを  小野小町

あはれこの雨に聴かばやうつつとも夢とも人にまどふ想ひを

みづうみをみに行きたしとおもひつつ雨の夜すがら人に恋ひをり  みづうみ
2006 10・26 61

* > こんな問いかけが来ています。
> いつも、ふと感じることなのですが、芸術・・・例えば華道などで、
>  何を表しているのですか??
>  こんな事を表現しています。
> そー言った物を見るたび、聞くたびに、デザインや、表現と言う物には、そー言った
> 事が必要なのかな? と、思います。確かに、なるほどって思ったりする事もあるの
> ですが、あえて何か足さなくても、心で良いと感じる物であれば良い様な・・・け
> ど、世間ではそー言った何かを付けないと良いとは言えないのでしょうか? それだ
> けでは自己満足。表現では無いのでしょうか・・・そー言った要素を満たして初めて
> 技術、芸術と呼ぶのでしょうか?
>あなたは、どう思いますか。 湖

「作品は誰のものか」ということのように思います。  珠
表現は誰もがいろいろな方法で試みるでしょう、私も作ります。
試行錯誤の製作には、思いや目的、分析した結果からの方法..など ”自分はこう考え作った” というまず ”自分” という「個」があると思います。
それはまず第一歩。
芸術は技術の話ではなく、もっと ”他者” の近くにあるものだと思います。
作品そのものではなく、作品とそれを受け取る他者との間に生まれるその空間が思いがけず心震わせるとき、そこに芸術がみえるのではないかと思います。
だから私は動かない物にだけ芸術が在り得るのではなく、人の行為など瞬間過ぎゆく現象にも芸術は在り得るのではないかと…。
誰もが芸術を求めて彷徨い「言葉」を尽くすのでしょうが、作品自身が受け手と交感をはじめていれば「言葉」は不要でしょう。
ただ受け手によっては、「言葉」を聞くことによって作品と受け手との間の空間がより色濃くふくよかになる場合もあるのかもしれません。
作品は、作者が手を離した瞬間から受け手に向かっていくのではないでしょうか。受け手が作品と対峙してみえてくるそれが芸術..、そう思ったら ”みる” ということの重大さに今更ながらに気がつきます。作品の前では謙虚になって自分と作品を対峙させられるように、日頃から奥深き鍛錬が必要なのですね。
”拝見させて頂きます”の言葉の奥にあるもの、そこへ難しいけれどゆきたい。

* 動かない造型のほかに演劇、舞踊、体操ないしは茶の湯の手前作法にも藝術または藝術味がある。ときとして日常の人と人との情理をともなった関わりの瞬間にもそれがあるということをこの人は云おうとしているなら、尊いことだと思う。

* わたしは、この問うてきた人に、こう答えておいた。

* ここで、華道が一例にあげてある何か理由があるのか、察しがつきませんが、云われている「華道」が、伝統的な、投入れ 盛り花、また生花などとは別趣の、いわゆる「造型」「オヴジェ」風の花術についていわれているとすれば、同様の質疑は、ことに前衛彫刻やオブジェ造型の現場でもされているし、絵画でも、極度のアブストラクトやシュールなものにふれると、頻繁に同じ質疑がされていると思われます。もっともっと普通の作品に対しても同じ質問、同じように答えている場面に、よく行き当たります。
沢山な個人展覧会のお誘いが来ますが、物書きのわたしもビックリするような、まるで「詩」かあるいは「演説」かのような「ことば」で、自身の創作について書き込んだ葉書や郵便物の多いのに、苦笑することがあります。
展覧会に行くと、作品の題に、じつに凝った題がついていて、それだけの「文学的な」苦心を、むしろ絵筆なら絵筆の「表現」に集注したらと苦笑する例もあります。
作者が自作について自己批評したり反省したりするとき、たいてい内心の「ことば」に翻訳してされている例が多いはずで、これは余儀ないことですが、個展に出掛けたところ、作者にぴたりとくっつかれてあれこれ苦心談や説明をされますと、とても落ち着いて観てられるものじゃありません。
むろん尋ねている方もあります。「何」を表しているのですか?
この質問は、たとえ答えて貰っても、多くは得られない、作品というのはそういう表面の「何」という現象だけでは片づかない謎をふくんでいるからです。説明されても無意味で、自分の眼で観て、直観するしかない。直観を豊かにするためには、結局「深く観る」以外にないんですね。
文学でも造形美術でも、「説明的」なものはどうしても浅い。説明の付かない或る魅力を、説明的な「何」とか「彼」とかの奧から、彼方から、汲みとらねばならない。いや汲むという以上に一度は作品の前に自身を「明け渡さねば」ならない。その意味では、努めないで聞いてもダメ、努めないで口で説明しても、両方とも、得るところはあまり無い。有っても本質的じゃない。
以前或る美術展で講演しました題が、『絵の前で<わかる>と<みる>と』でした。その「枕」にこんなことを話しています。

落語に『抜け雀』という、亡くなった志ん生師匠なんぞの旨(うま)かった咄(はなし)があります。小田原の宿場で宿引きをしていた、気のいい小宿の主(あるじ)が、見るからにこきたない若い男を引き止めます。のっけから、内金に百両も預けようかなどと言う男です、が、発つとき払いで結構でございますと、宿の客にしてしまいます。朝に昼に晩に、酒を一升ずつ飲んではごろごろ寝ている客を、おかみの方が気にします。せめて五両でも内金をと亭主にもらいにやりますと、案の定この客、一文ももっていない。仕事をきいてみると繪師だと言う。大工ででもあるなら家の傷みを直させることも出来るけれど、「繪なんか、みたって、わからないし」と亭主は困ってしまいます。この亭主の「わからない」という言いぐさを、お耳にとめていただきましょう。
それでも自信に溢れた若い繪師は、これも宿賃の代わりに旅の経師(きようじ)屋に造らせてあったまっさらの衝立(ついたて)に目をとめまして、亭主のイヤがるのも構わず、手練の墨の筆を走らせます、と、そこに五羽の雀が生まれ出る。けれども亭主は申します、「何が描いてあんのか、わからない繪ですな」と。雀だと聞いてやっと頷き、「そういや雀だな、わかりましたよ」とも。
で、この雀五羽を宿代のカタにおき、繪師は江戸へ向かうのですが、この雀たち、毎朝、朝日を浴びますと、チュンチュンと元気に鳴いて衝立から抜け出し飛んで遊ぶんですね。「抜け雀」の題のついている所以(ゆえん)でありますが、じつに生き生きとしている。 ま、咄は、私の口から聴かれるんじゃつまりませんから、みんな端折りますけれども、ここで、宿の亭主が「繪をみてもわからない」と言い、また「何が描いてあるのか、わからない繪だ」と言う、そして「雀か、あぁわかった」とも言っている。ま、これくらい世間でもよく聞く言いぐさは無いんでして、繪を「みる」と「わかる」とが、たいてい対(つい)になりまして、途方もなく厄介な関所になっている。これは、ひとつ、ぜひ、考えてみなけぁならんと、そう久しく考えて参りました。
いったい、どういうことなんだ、繪を「みる」と繪が「わかる」とは、と。どうにも気になって叶わんなと。
ま、こういう難儀にアブナイ話題には、専門家は、ふつうお触りになりません。かと言って、放っておいていい問題でもないことは、こんなに大勢お集まり下さったことからも察しがつきます。手に余るかも知れません、が、みなさんの方でもご経験で補い補い、お聴きください。ひとりの自由な小説家の言説を、半分は冷やかすぐらいにお楽しみいただくということで、私も、気楽に、でも真剣に、お話ししてみようと思っています。

で、以下話して話し終えてきたのですが、「何だかわからん」客にに対し、言葉で解説する作者や演者じゃ、一般に、仕方ないんです。せいぜい「雀だ」ぐらいで済んでしまいまして、作品の秘密には関わってこない。この絵描きは名人でしたから別段の噺が進みますけれど、一般に「何が」「わからん」に対し、「これだ、これこれ」などと説明し始める作者の作品には、豊かな謎なんて、魅力なんて、無いのが普通でしょう。無いから、気楽に表面を説明してくれる。
自分のもっている動機(モティーフ)や主題(テーマ)について、作品の説明としてでなく、つねづね考えたり語ったり書いたりすることはありますね、それが藝談、藝術論になっている例はいくらでもあります。たいてい深い自問自答の苦慮や思慮のなかから生まれています。「説明」することじゃない、「説明」してしまったら停まってしまう。
ま、そんなふうに考えています。華道ではよく分かりませんが、作者が、作品を成し遂げるまでに、ある体験的な基盤や強い契機というものが、むしろ佳い仕事にほど必ず有ります。それをあらかじめ知っていると、非常に深くまで作品が見て取れる、読み取れるということがあります。批評や評論にはその効用がありますが、作者が自身の作品に簡明にそれを添えていてくれたのが有りがたい例は、志賀直哉などに佳い例があり、ほかにも在りますね。わたしは作者のエッセイは大切に好んで読んでいます。
しかし作品をその場で指さすように「何が」「何を」と聞いたり話したりは、イヤですね。自分でも答えませんね、普通は。ま、先ずはよく「観て」下さいとかよく「読んで」下さいと云います。

* こんなわたしのくどい話より、先の人の、物静かな述懐が適切に機微をこたえている。
2006 10・27 61

* 仏陀は言う、「迷える衆生はおのれを知らない」と。迷える衆生とは誰のことでもない、わたしのこと、あなたのこと、生きとし生けるほとんどあらゆる人のことで、大統領も総理大臣も王様も社長も教授も藝術家も恋人同士も、金持ちも貧乏人も、何のかわりもない。自分は人とはちがうと思うなら、それそのことが迷えるしるしで、「おのれを知らない」。では人の迷いとは何なのか。己を知るとはどういうことなのか。
「真実の自分を知らない」で生きて在る気でいることだ。真実の自分を知らないから、平気で自分自身のまわりに偽りの人格を積み上げ築き上げ塗り込めている。

* あなたは「何か」と答えを問えば、医者だ、技師だ、教授だ、キリスト教徒だ、念仏だ法華だ、資産家だ、藝術家だ、会長だ、民生委員だ、弁護士だなどときっと云う。それがほんもののアイデンティティなんかであるワケがないのは、ハッキリしている。秦恒平だ、安倍伸三だというのも同じで、なにら名前がアイデンティティであるわけがない。名前なんて生まれたときには持ち合わせていなかった。真実の自分が分からないというどうしようもない状況を忘れるため、身の回りに創り出した偽りの着物の一つに過ぎない。荀子のいう人間の「蔽」つまり垢に等しい襤褸だ、すべて。
親であることも子であることも夫であることも妻であることも、それが一人の人間の「本性」であるわけがない。弁護士として、教授として、作家として生まれたのでもない。自身の空虚さを感じなくて済むように自分や社会が着せかけている「うわべを飾っている着物」に過ぎない。しかも人はそれにも満足できず「もっと」「もっと」と着物を着重ねたがる。政党の幹事長になったり、ライオンズクラブの会員になったり、役員食堂で飯を喰いたがったり、社長夫人になりたがったりする。
人は自分自身を覆ったこれらすべての襤褸を脱いで、つまりそれは襤褸に過ぎないとよく分かって、自分自身と直面しなくてはならない、「自分は何か」と根源を問うべく。
襤褸と自分とを一体化して、自分=教授、弁護士、作家などと思っている間は決して己は知れない、つまり「迷える衆生」のままえんえんと何生もの永きを眠りこけて目覚めない、ま、それだけのことだ。
目覚めた人、己の何であるかに気付いた人は、司祭にも僧正にも文化勲章にもいるものではない。その連中はみんなご機嫌の夢を見ているだけである。そのうちに死に神が呼びに来る。彼の前では、みーんな同じだ。自分が何ものか知らずに屑のように死んで行くだけだ。

* 拈華微笑という。なぜ笑いがあの瞬間に浮かぶのか。
2006 10・27 61

* 新しい「URL」を、「MIXI」の沢山な人が聞いてこられる。裁判官も弁護士もわたしを人間的にまもってくれるかどうか、分からない。だが、あたたかい人の輪は在る。分かる人は、分かってくれると信じられる。それでいいのだ。たとえわたしが牢屋へ抛り込まれようと、分かっている人は分かってくれる。
「分かる人は、言わんかて分かるのん。分からへん人には、なんぼ言うても分からへんのえ」と昔、「姉さん」と慕った人はわたしを肩から抱くようにして、そう言った。その人は思えば当事十五歳だった。京都という町は懐が深い、たった十五の女の子がこれほどのことを言う…と、京大の有名な数学教授がものに書いていた。
しかしわたしは、いま、愚かにも、聞いても見ても「分からへん人」相手に分からせねばと闘っている。そんな相手と同じ列に降りてものを言うな書くなと、傷ましがってくれる人がいる。そのリクツは分かっているが、わたしは、やめないだろう。「今・此処」のわたしがそれをせよと命じるかぎり、わたしは闘うことで自分を見詰める。そんなとき、いつもあの鏡花劇「山吹」の舞台を思う。
2006 10・27 61

* 小説が書けない書けないと息子クンが、「MIXI」やブログで嘆いている。そんな外向きに嘆いていられる程度だからさほどは案じないが、「書けない」という不安は物書きには死ぬほどくるしい。太宰賞をうけると、すぐ新聞や雑誌からの依頼が来始め、しかしあのころは、「何でもいい、お任せします、エッセイを四枚で、五枚で」という註文にわたしは、ハラでも切りたいほど呻いた。「題自由」の作文はいちばんの難題で、東工大の教室でも、とにかく具体的に「いま、真実、何を愛しているか」「いま寂しいか」「不惜身命か、惜身命か」「地位とは何か」などと聞くと挙って山のように書いてくれたが、たまに「自由に書いてください」となると、何を書けばいいのか分からずにノタウツようであった。
エッセイでなく「小説」が書けないのは、註文と自身のモチーフが重ならないときが多い。その点、噺家が三題噺をとにかくも纏めていくのに倣える蓄えが、底荷が、常備されていないと、どうにもならない。持ち前の財を費消してしまうのは早い。いつも片々としていても多彩な断片に感動する気持ちが要るし、それを脳内電池に充電し分類しておく日頃の用意がぜったい欠かせない。しかし小説の場合はなにより作者の日常がいつもフレッシュでないと、蓄えも腐ってしまう。

* わたしは電車や汽車にひとり乗っているあいだに、よく想を得た。じっと座って思案していたもたいした智恵は出ない。からだを適切に揺らしている方がいい、つまり静かな揺れと移動とはからだに小刻みな曲がり角をつくりだし、思わぬモノが曲がり角からあらわれたりする。自転車は危ない。注意力を運転から欠くと命取りになる。自動車の運転も論外、危険そのもの。人が身近にいても邪魔。そこへ行くと、山手線ほど人がいてもみな世間の影のようなもので、邪魔にはならない。空いた新幹線やローカル線の一人旅も、その気なら絶好。
歩いて、は、かなり危ない。いま放心しながら歩いていたら迷惑な危険を路上に置いているのと同じ。

* わたしは日頃いろんな短いエッセイを書いておく。この「私語」にも拾い出せばタネはたくさん植えてある。その気に入ったのを、原稿用に手で書き写してゆくと、それが新作の書き出しにつかえる。「清経入水」の序詞がそうだった、「みごもりの湖」の書き出しがそうだった。エッセイは小説の文体で書いておく方がいいし、時には事実でなく小説として書いておいた方がいい。わたしは小説家のエッセイはただのエッセイストのそれとはちがうものだと、谷崎先生に教えられた気がしている。
いつか使おうと、意図してフィクションを書き入れてあるエッセイが幾つかある、わたしにも。

* 建日子。 根本はしかし健康だよ。夜中に焦って書いた文章は、たいてい夢魔の所産、朝の光があたると畸形であることがよくある。静かな夜は落ち着いた推敲にあてるようにわたしはしてきた。「推敲の力は才能のあかし」だ、それも大切にするといい。
2006 10・28 61

* 自然にゆったりと。それは古来の覚者たちに共通する在りようであった。
そんなことをして「何になるか」と考える人がいる。何になるかは「翻訳」の利くことばである。何の役に立つか、何の効果があるか、損か得か、という意味もあり、弁護士になるか大臣になるか絵描きになるかといった意味もある。いずれにせよ、少なくもこの両者に共通するのは、「未来」依存「未来」期待である。
ところが人間に「未来」はない。未来は予想できるだけである。在るのは「今・此処」の連続する常に「現在」の時空だけである。
自然にゆったりと、も、その「今・此処」に於いてでなければならない。「今・此処」で自然にゆったりするためには、「今・此処」と向き合って「今・此処」を生きる、ごまかさずに生きることが総てであり、如才ない世間のリクツをあやつって喜怒哀楽もごまかしながら、問題を先送り先送りするのが、自然にゆったりであるわけがない。
老子が無為自然といい、親鸞が自然法爾と謂うとき、何もしないでごろりと昼寝が良いと謂ったわけではない。いま、自分は何で在るかをみつめて自然に行為せよとと言ったのである。
むかし「梵天丸はかくありたい」と幼時の伊達政宗が口癖にするドラマがあったが、人は「何になるか」を在りもせぬ未来に空しく問うのでなく、人は「何で在るか」の根本の本性に繋がりながら、為したきを為せばよい。ゆったりした気分で烈しくも強くも優しくも静かにも、為せばいい。ごまかしてはいけない、それは見苦しい。

* わたしはこのところ毎日毎夜、人のわらうであろうことを一心にしつづけているが、それが何になるかを問いも求めても居ない。わたしは「何で在るか」を問うている。それが必要ならそれをする。ひとに頼めないことは自分でする。喜怒哀楽に鍵は掛けずにする。自然でゆったりは、そんな「今・此処」に在るからだ。
2006 10・29 61

* 「覚性をはぐくむ」とは、あらゆる状況を、醒めているための機会に変えることを意味する、とバグワンは言う。生がもたらしてくれるすべてを受け容れなさいと彼は言う。この深い受容性に超越的なモノが隠れている。覚性は隠されていない。だが、それはまさに「いま」にしか見いだせない。たった「いま」だ。「いま」がその時だ、それは延期するようなことではない。
バグワンは言う、「光明を得た存在になりたければ、<いま>がその瞬間だ、<ここ>がその場所だ」と。
先入観ででいっぱいのマインド(心)を持っていたらわたしは決して心を超えられないと思っている。そう思い、だから手を拱いて物わかりのいい聖人めいた振舞いはしない。腹が空けばものを喰うように、目の前の自然な催しに逆らわずにいる。怒るのも悲しむのも、また闘うのも、である。

* だが「抱き柱」をみな手放した、この、そうそうと風に吹かれたような寂しさ寒さは、どうだろう。
そうだ、忘れかけていた。眼を閉じて闇に沈透くのだ。湖底に沈透くのだ。人を頼んではいけない。人を頼んではいけない。
2006 10・31 61

* おのれにはつねに佛性が備わっていると知るべきだとは、達磨の説いた核心であった。「佛性」「光明」「覚醒」「解脱」「モクシャ」「ニルヴァーナ涅槃」これらはすべて同じものを意味している。わたしはバグワンに聴く多くの中でとても嬉しいと思うのは、人が光明を得たとき、enlightenment を得たとき「まず初めにすることは自分自身を大いに笑うことだ」と教えてくれていること。なぁんだ……。大いに笑うのは、探し求めてさまよい歩いていたソレが実はいつも自分自身の内側にあったからだ。外側の世界でどんなに捜し探してもそれは見つかるわけがなかった。「青い鳥」がそれだった。なぁんだ…。「ひとたび自分自身を見出したなら、あなたは驚き呆れるしかない。あなたはつねに光明を抱いていた。ただそれに気が付かなかっただけのこと」とバグワンは、そうと覚った瞬間の破顔一笑、からっとした笑いを、大笑いを教えてくれる。マハーカーシャパの「拈華微笑」がそれだった。
2006 11・1 62

* むかし、よくものも分からず、礼拝の対象である仏様をつかまえて、「美しい」のどうのというのは「筋違いな失礼な」ことだ、と二度三度言いもし書きもしたが、それはむしろ逆であった。
仏陀は、礼拝を教えてはいなかった。
おまえがどこにいようと、そこにはブッダがいる、なぜならおまえがそこにいるからだ、と。お前の内なるそのブッダに気付き目覚めよと。
仏陀の教えの中には本来祈りに属するものなんか、何もなかった。すべて後々の方便や変改に過ぎない。仏陀は信仰という名で「抱き柱」をもてとは、一切教えていない。自らの無心、それが仏だ、その仏になれとだけ教えた。その余は後生の方便だ。
達磨もまったく同じ、彼は無心としか言わない。
無心のままに自然に生じる崇敬ならば、真摯さも誠実さも愛も感謝も真実も美しさもある。偶像をもたなかった佛教に美しい仏像が造像された功徳の第一は、それに抱きついて祈ることより、そういう意味の崇敬に気付けることだ。仏の像はすぐれた造像であればあるほど、底知れず柔らかに美しい。
そう感じられればいい。
美しさにただ無心に頭をたれ、わがままなお願いごとなどはしない。
2006 11・2 62

☆ お手元から旅立ってご本が届くこと、首を長くして待っています。
> わたしの私語はいま清んでいないので、無理に読まなくていいんですよ。
気持ちのままに…読みたい時に、たぶんそれが私にとって必要な時と思っています。
「私語」、清んでいないとおっしゃいますが、湖さんの目は清んでいます。
私の迷う言葉を、ごまかしを、そのまましっかとその目にとめて下さいました。「あっ、やっぱりばれた…」という気がしました。「すごい」は、誤魔化して飛びついて置いた言葉です。
「戻る..」ということは、我が家、現実の生活へと引き返す道のように思いました。見知らぬ道のあちこちに目を留めつつ、前へ右へ左へと進む道。
進む時に私を誘う何か、どこかの地点で今日はここまで…と思う何か、そして現実へ、生活へ戻るという当然さと、うたがい。そして戻る道筋での思いと選択。そこに何かがあるかもしれないと、湖さんのその瞬間瞬間に言葉を向けてみたくなりました。
でも、ごまかした。
ふと、肉体の無心な動作かもしれないと思ったから…。
単純な動作を毎日毎日行うことで、単純さの中にとても素直な美しさをみることがあります。
「~のため」とか「~だから」など、目的も理由も結果すら考えることなく、まるで小さな子供が自然に行う美しい単純さ、そんな無心な動作かもしれないと一瞬思ったからです。
自転車とはいえ小旅行のような出来事ですが、頻繁に、距離も延ばされてきていた湖さんからそんな無我夢中の子供のような無心さも感じられていました。
私の悪いくせ、考えすぎかな…と、どちらも言葉にのせずに迷ったまま言葉から手を離したのです。手近な言葉に飛びついて…、普段いい加減にしている事を見られてしまいましたね。
でも、うれしい。湖さんの掌で泳いだ気分。
湖さんの掌からこぼれ落ちない様、游(い)かせてください。
> 雑誌「なごみ」のなごりの特集にわたしが珍しい茶会の話を書いていたの、記憶にありますか。 湖
記憶の引き出し開けてみましたが、残念! 記憶にないようです。
珍しい茶会とはどのような茶会の話しでしたでしょうか?
「なごみ」は多くが本棚にあります。探してみますので教えて下さい。 珠

* 「べつのおもいがこもっているかもしれないけれど」と意識して付記していたように、わたしのいわば「帰巣」本能のようなものへ質問が来ていると感じ、わたしは、わざとそこはすりぬけて別の返辞を書いていた。向けられている「そのこと」には、安閑とはなかなか触れにくい。触れてものをいえば、何かしらものごとが一気に強く動いて行くだろうから。
帰って行く「家」は此の世にもあり、彼の世にもある。此の世の「家」も彼の世の「家」も同じと想える人も在りうる。此の世の「家」など無きも同然に荒らしている人達も在る。「帰って行く」とは恐ろしいほど本質的なコトの一つだと、わたしは知っている。

* 死を告げる鐘…。誰がために鐘が鳴るか、尋ねることなかれ。そは汝(な)がために鳴る。死は象徴的だ、それはおまえが同じ行列に並んでいることを、そしてその行列はどんどん短くなって行くことを示している。
だがバグワンは言う、バグワンが言うとはブッダが言いボーディ・ダルマ達磨さんが言うのだが、自らの本性(ブッダであること)に気付いている人達は、誰ひとり死なないということを知っている、と。死は、幻想だと。
おまえは肉体ではないからだ。おまえは呼吸でもない、心臓の鼓動でもない、おまえはそうしたものすべてを超えているのだ、そして「彼方に」滑り込んで行くのだ、惜しいことにおまえは少しもまだそれに気付かずに眠りこけている、と、仏陀も達磨もバグワンも、そう言う。
自分自身を身体と同一視したらおまえは身体になる。
そのとき、おまえは死すべき衆生だ。
そのときおまえには死の恐怖がある。
自分を身体と同一視しないとき、おまえは自分自身のただの「見張り人=純粋な意識=静かな心=無心」だ。
真正な宗教は礼拝を教えたりしない。真正な宗教は自らの不滅性の発見、内なるブッダの発見を教える。形にとらわれてはいけない、しがみついてはいけない。とらわれずにはなれれば「理解」が得られる。それ以上の助言はない、と、そう「覚者=ブッダ」たちは口を揃える。
わたしは黙々と聴いている。腹の奥の奥の方で聴いている。
2006 11・3 62

☆ 『廬山』拝読いたしました。   格調高い文章と、思わず引き込まれる流れに一気に最後まで読み進みました。と言いましても、朝の十時から夜の二時まで働いていますので、確かに一か所で中断したのですが。
今日が祭日とも知らず、会社に出るつもりがいきなり午前に空白が出来、後半の四分の三ほどを一気に読み進みました。
感想を申し上げるのは当然のことでしょうが、なにぶん教養も表現力も不足する身の上、賞賛することさえが失礼になる可能性も高く、内容に立ち入らない無礼をお許し下さい。
ただ、一つ。最後の恵遠の言葉、一読したときには正直に申し上げまして唖然としたのでしたが、再読しまして、「これしかない」のだと漸く理解しました。
そもそも私如きの感想など取るになりないものですね。失礼になるという考えこそが失礼だったのかも知れません。  通

* とんでもない。有り難う存じます。

* 触れておいでの、「恵遠」が祖父につげる最後の一語を、いま本をひらいて読み返してみた。瞬時に目の前も泪ににじんだ。宗教や信仰に関して、この三十年で私はずいぶん遠くまで歩いてきてしまったけれど、この一語、いままさにわたしの思いだ。
雑誌「新潮」編集部でついに通らなかった、雑誌「展望」では一決で通った、そして芥川賞の選考では近代日本の私小説の大きな存在、瀧井孝作・永井龍男両先生が推して下さった。すべて不思議なようで不思議ではなかった。のちに偉大な「恵遠(えおん)法師」となるちいさな「劉=四郎」の旅を、わたしは、全身で追いかけた。
『撰集抄』という本に出逢っていたわたしの幸運にも頭を垂れたい。
2006 11・3 62

* (承前) ★★夕日子の申立て条々に答えて 以下に終える。

交流の途絶

時期未詳
インターネット上で、「孫への呼びかけ」を開始。詳細は別紙。
プライバシー侵害、名誉毀損、迷惑行為、未成年者への精神的加害。  ★★★夫妻

このインターネットの時代に、祖父母がわりなく逢えないでいる可愛い「孫」に、もし、仮に事実呼びかけたとして、その心情と方法とに、何の問題があるだろう。成長した子たちの自由な判断や行動を妨げている親こそ可笑しいとすべきだろう。
また「時期未詳」というかかる具体性を全く欠いた提示、それ自体が「虚言」であることを証している。

時期未詳
★★夕日子の過去の著述を無断改変の上、無断で自営利サイトに公開。
著作権侵害、著作人格権侵害、プライバシー侵害

「ねこ」その他の「秦夕日子」名の殆どの著作は、すべて秦家の娘時代のものであり、嫁いだ娘を実家に記念すべく、いずれも「親族」死者に対する「供養」の欄に収録していたし、多年に亘り、一度の異議も受けていない。
掲載作は、すべて編輯者であり父でありプロの作家である秦恒平が、作品の出来をいささか評価し、誤字または不体裁等に編集行為を加えて形を整え、あえて「公開と保存」をはかったものであり、無名の作者の作がすこしでも「いい読者」の目に触れるよう親心ではからったもの。親として十分許される範囲の配慮であり、事実これにより読者からも「秦夕日子」の名は記憶もされ、作品も相応に好評を得ていたのである。こういう夕日子の態度は、情理に欠けた非人格的な言動として、笑止である。
これら作品は、初めて掲載に苦情があったとき、即座に全部消却した。いい読者に「読まれる機会」を、狭量に拒み、惜しいことをしたものである。
なお秦のこのサイトは「営利」目的のものでは全くない。公開作品の総てが秦の思想と主張にもとづいて、すべて「無料公開」であることは広く知られている。
2006年1月
★★夕日子が匿名で連載していた著述を無断改変の上、実名を特定して無断で自営利サイトに転載。★★夕日子の明確に判別できる顔写真を併載。
著作権侵害、著作人格権侵害、プライバシー侵害、肖像権侵害

多くの作家志望者が「羨望」した、父親による好意の裁量であったが、当初来、作者の申し入れがあれば当然削除すると明示してあり、読者に事情を明らかにしてとうに削除済み。当該頁を参看あれ。著作者以前の習作水準にあるものを、あえて「e-文庫・湖(umi)」にとりあげた父の配慮も理解できない思い上がった物言いに失笑する。自称「女流作家」である由、これにも失笑する。

2006年7月以降
インターネット上で「★★は娘殺し」キャンペーンを展開。詳細は別紙。

孫・やす香の死と同時七月二十七日より直ちに、私は、自著『死なれて死なせて』(死の文化叢書・弘文堂)の一冊を「MIXI」日記に連載し、死なれ・死なせて死を悼む「mourning work 悲哀の仕事」(精神医学の述語)に宛て始めた。同時に日本語を誤解している★★夫妻の「理解」にも備えた。
さらに念を入れ、八月三日には、同じ「MIXI」日記に、「死なせた は 殺した か」という一文を書き、★★夫妻に理解を求めている。
「死なせてしまった」という自責の念をしめす日本語が、どうすると手を掛けて「殺した」「殺人」の同義語になるか。ふとしたことで「死なれた」親を、また子や孫や教え子を「死なせてしまった」と嘆いて自身を責めている人は幾らでもいる。★★★は、かりにも哲学を教える青山学院の大学教授、夕日子はお茶の水の哲学に学んだ学士ではないか、しっかりし給えと言いたい。
以下に「MIXI」に書いた一文を添えるので、自身の日本語理解の貧しさを反省して欲しい。

「MIXI」2006年08月03日 「死なせた は 殺した か」 そんな単純なことではない。 湖

そのむかし、わたしの「身内」の説(文壇・学界では秦恒平の「身内」の説として知られている。)を、小学生のように誤解したいい大人(=★★★氏)が、人も驚くヒステリーを起こしたことがあるが、今度は、私の著書『死なれて死なせて』の、その「死なせて」という意味が理解できずに、(舅姑である=)わたしたち老夫妻を名誉毀損で刑事・民事ともに訴訟すると「警告」してきた。
我が子やす香に自分らは「死なれた」のに、それを「死なせた」とも言うのは、「殺した=殺人者」と言われているのと同じだ、謝罪文を書けと言うてきたのである。
やす香の血を分けた祖父でも祖母でもある、わたしや妻も、何度も何度も、今日も、只今も、あのだいじな「やす香を、手が届かないまま可哀想に死なせた、死なせてしまった、自分達にも何か出来ることが有ったはずなのに」と、繰り返し悔いて、泣いて、嘆いているというのに。
どうなってるの。
べつに講義する気ではないが、わたしは、わたし自身孫やす香を「死なせた」悲しみのまま、いち早くすでに「MIXI」に『死なれて死なせて』を連載して、わずかな心やりにしている。
やす香のお父さん 逆上する前に静かに読めば、大学の先生たるもの、「死なれて」「死なせて」の意味の取れぬわけ、あるまいに。
人が、人を、「死なせ」るのは、いわば人間としての「存在」自体がなせる、避けがたい業苦であり、下手人のように「殺す」わけではない。いわば一種の「世界苦(Welt Schmerz)」に類する不条理そのものである。大は戦争責任をはじめとし、ぬきさしならない身近な愛の対象に「死なれる」ときは、大なり小なり「死なせた」という悔いの湧くのが、状況からも、心理的にも、あたりまえなのであり、むしろそういう思いや苦悩を避けて持たないとしたら、その方がよほど鈍で、血の冷たい非人間的なことなのである。
本来はまずそこへ気づき、落ちこみ、苦しみ、藻掻いて、そこからやっと身や心を次へ働かせて行く。むずかしいことだが、そこに生き残った者の生ける誠意があらわれる。
しかし、そういうキツイ自覚には至りたくない。身も心も神経もそこから逸らして、そういう痛苦には「蓋をして」しまい、辛うじて息をつく。無理からぬ事ではあるが、「死なれた」という受け身の被害感にのみ逃げこんで、「死なせた」根源苦に思い至らないようでは、「人間」は、その先を、より自覚的に深く深くはとても「生きて」行けないのである。
人とは、死なれ死なせて、その先へ真に「生きて」ゆく存在だ。ティーンの少女でも、分かるものには分かる。
連載合間の妙なタイミグではあるが、余儀なく、『死なれて死なせて』の刊行時後記を含んだ、湖(うみ)の本版のあとがき「私語の刻」をこの位置へはさむことにする。
「死なせた は 殺した か」。バカな。そんな単純な事じゃない。

著書『死なれて 死なせて』の跋(私語の刻)  秦

こう書けば、一切足りていたのである。
「死なれるのは悲しい、死なせるのは、もっと辛い。しかし、だれに、それが避けられようか。避けられないのなら、どうかして乗り越えねばならない。それにしてもこの悲しさや辛さは何なのか。すこしも悲しくない・辛くない死もあるというのに。愛があるゆえに、悲しく辛い、この別れ。愛とは、いったい何なのか。」
これだけの事は、これだけでも、理解する人は十分にする。そのような別れを体験したり今まさに体験しつつある人ならば、まして痛いほど分っている。
だれに、それが避けられようか。避けられないのなら、どうかして乗り越えねばならない。そのきっかけに、もし、この本が役にたつならどんなに嬉しいかと思って書いた。 (略)

単行本に上の「あとがき」を書いたとき、わたしは、その十月一日付け東京工業大学の「作家」教授に新任の辞令を受けたばかりで、ありがたいことに授業は翌春四月の新学期からと言われていた。そして四月の授業を開始のちょうどその頃、朝日新聞の読書欄に、この新刊は「著者訪問」の大きな写真入りで紹介されていた。学生諸君に自己紹介のまえに、新聞や、テレビまでが、わたしを、この本とともに紹介してくれていた。本もよく売れて版を重ねた。「死なれる」「死なせる」は、「身内」観とともに、わたしに創作活動をつよく促した根本の主題であった。
笑止なことに、親子とて、夫婦とて、親類・姻戚だからとて、容易には「身内」たり得ないと説くわたしの真意を、粗忽に聞き囓り、疎い親族や知人、遠くの人たちから、お前は「非常識」に、親子、夫婦、同胞、親戚を「他人」扱いするのか、そんなヤツとは「こっちから関係を絶つ」と、手紙ひとつで一方的に通告され罵倒されたりする。「倶に島に」「倶会一処」の誠意を頒ち持とうとは、端(はな)から思いもみないこういう努力の薄さから、どうして「死んでからも一緒に暮らしたい」ほどの愛情が生まれよう。真の「身内」は、血や法律で、型の如く得られるものではあるまいに。
「身内」はラクな仲では有り得ないと、「生まれ」ながらにわたしは識って来た。
誤解を招きかねない、場合によって破壊的な猛毒も帯びた我が「身内」の説であるとは、さように現に承知しているが、また顧みて、どんなに世の「いわゆる身内」が脆いものかは、夥しい実例が哀しいまで証言しつづけている。その一方、あまりに世の多くの人が、とくに若い人が「孤独」の毒に病み、不可能な愛を可能にしたいと「真の身内」を渇望している。
よく見るがいい、人を深く感動させてきた小説(源氏物語・心・ファウスト・嵐が丘等)や演劇・映画(天守物語・真夜中のカーボーイ等)のすべては、わたしの謂う「身内」を達成したか渇望したものだ。根源の主題は、愛や死のまだその奥にひそんだ、孤独からの脱却、真の「身内」への渇望だ。あなたは「そういう『身内』が欲しくありませんか。」わたしは「生まれ」てこのかたそんな「身内」が欲しくて生きて来た、「死なれ・死なせ」ながらも。子猫のノコには平成七年夏に十九歳で死なれた。九十六歳の母は平成八年秋に死なせてしまった。
この本の出たあと、読者から哀切な手紙をたくさん受け取った。ひとつひとつに心をこめて返事を書いた。いかに「悲哀の仕事=mourning work」でこの世が満たされていることか。愛する伴侶に死なれ、痛苦に耐え兼ねて巷にさまよい、日々行きずりに男に身をまかせてきたという衝撃と涙の告白もあった。この本の題がいかにも直截でギョッとしながら、大きな慰めや励ましを得たという便りが多くてほっとした。たくさんな方が、悲しみのさなかにある知人や友人のため、この本を買って贈られていたことも知っている。 (後略)

思い出す。この単行本が本になって、いよいよ東工大で初授業の頃に、すでにわたしたち娘の父母、初孫やす香の祖父母は、婿の★★★から乱暴に「離縁」され、以来十余年、まことに不幸で無道な別離を強いられた。
同じその人物が、「死なせてしまった」の意味も掴めないで、今度は「殺人者」といわれたなどと、刑事と民事と双方で娘の父母、やす香を心から愛した祖父母を「告訴」すると言ってきたのだから、また呆れてしまっている。 どうなってるの。 「MIXI」より
2006 11・5 62

* 多くのいわゆる聖者や賢者たちがいて、バグワンは指さす、彼らは「苦行」していると。だが、それら苦行はすべて彼らの「心=マインド=分別」がしていること。彼らはイツも正しいことをしてはいるが、その正しい行いは内発的なものでない、と、バグワンは指さす。「それは意図的な、計算ずくのことだ」と。彼らはいつも経典と首っぴきで、なにが正しくてなにが誤りなのかを「調べ」ている。彼らは彼ら自分自身の洞察を持っていない。凡庸な学者と同じだ。修行や苦行や訓練は彼ら自身の心の投影にほかならないのである。
わたしもそう思う。自然、いわゆる聖者や賢者と呼ばれ自分でもそう思っているような多勢は、行き着くところニルヴァーナ(涅槃・解脱)の罠に陥ってしまう。彼らはひたすら欲望する「光明」を得ようと。目的はそれなのだ、だが、問題が其処にある。「光明」は「悟り」は、欲望の対象になんかならないものだ。悟りを、enlightenment を、欲望し渇望した瞬間、おまえは罠に落ちている、と、ブッダは明言する。
光明は、悟りは、慾の対象にはできない。野心の対象にはならない。解脱は「目的地」ではない。達成目標なんかでは在りがたい。そんなことでは、なにもかもエゴトリップになる。最悪の罠―――。
深く静かに自分自身をのぞきこめとバグワンらブッダは教える。此のわたしは、己のうちなる闇におそれず沈んで行くだけだ、自身の本来、本性、光明を感じながら。

* なにもしないで、なんでもする、それがぜひ必要なら、うんこをつかんでも投げる。

* 「今・此処」で、かりそめの遊びなど、したくない。
2006 11・7 62

* 輪廻転生観をはらんだ宗教は、インドに発したものに限られていて、たいていの宗教は一回きりの生を生きるとしている。楠公の「七生報国」が固有の神道によるか佛教の感化かは即断できないが、本地垂迹はやはり微妙に「佛教基盤の神学」と思われる。「生まれ変わって」という言葉は日本人の好きな言葉の一つだが、純然日本に固有の思想では、やはり、あるまい。『古事記』などの神話に人が人に生まれ変わるという思想はあらわには見えていない。しかし『日本霊異記』には生まれ変わりの実例はいろいろ賑やかで、むろん佛教の地盤に生じている。
西洋にそれは全く無いか。ホラー映画の発想にかなり生まれ変わり思想が透けて見えるのを、インド系思想の浸潤とみるかどうか難しい。ギリシァ・ローマ神話にも冥府との交流で転身が語られていないとは言い切れない。よく知らないけれど。
輪廻転生は、よいことか、よろしくないか。これが微妙で、「光明enlightenment」を得るまでは人は生死の環を巡り続けるという仮説には、バグワンも言うように甚だ本質的な何かが感じられる、私にも。たかが永くて八十、九十、百の一生きりで我々凡夫の眼は醒めない。醒めるまでは輪廻し転生するという理解は、ただの浮説ととらえにくい。その限りにおいてでも、われわれに多くの時間、永い時間が今生で与えられていないのは確かであり、間に合わねば、暗闇に死んで沈んでまたの生をまたねばならない、たぶんそれはその通りだろうとわたしは直観できる。時間を潰している余裕などなく、バグワンが厳しく示しているとおり、むしろ時間の方が我々をつぶしにかかっている。刻一刻と時間は我々の死をさらにさらに間近にまで引き寄せている。死の使いはいつ訪れるか知れない。『千夜一夜物語』で豪奢に傲慢の限りをつくしている者も、死の使者が訪れると真っ青になり震え上がって容赦を願っている、むろん叶えられはしない。
『徒然草』を読み始めた中学三年生の頃から、後々までも、わたしは人が無常迅速におそれて、人によっては安座すらせず、京ことばで謂うなら「ちょちょこばって」蹲踞して暮らしているのに深い驚きを禁じ得ないで来た。が、その驚きは今に思えばまだ実感の浅いものだった。いまのわたしは、おそれはしないが、「ああ、間に合いたい」とは願って切なるものがある。
昔に書いた作品や文章を読み直す機会のあるつど、自分の思いがうーんと動いて変わってきていると痛感する。つい十年前、十五年前まで、わたしはたくさんな「抱き柱」を抱いて頼んでいた。南無阿弥陀仏もそうであった。至極優れた抱き柱であった。私が今は完全にそれを思い棄てているかどうか、あまり追究したくはない。

* 西洋は貧しい、一人あたりせいぜい八、九十年しか与えられていない。だが、東洋は外見は貧しくとも内なる世界観は豊かだ、うしろを振り返っても永遠、前を望んでも永遠。バグワンはそんなことも言ってくれる。そして彼は「本筋」に斬り込んでくる。
おまえたちは幾度生まれ変わっても、どんな目的地にも辿り着かないぞ、と。目的地、ゴールなんて最初から無い、と。その虚しさに気付き、あまりのことに吐きけを催したとき、その人は、おまえは、初めて「思う」ことになる、本来の我が家に戻るための、新たな道筋、別の次元を見つけなくちゃ、と。
バグワンは言う、それが東洋の知恵の基盤だ。どこか遠くに目的地があると錯覚し、遠くへ遠くへただもう流離(さすら)おうとしている、そんなことでは、生と死や、絶え間ない悪循環への疲労と倦怠とを蓄えるだけだ、と。この「悪循環」のことを「輪廻サンサーラ」と謂うのだよと。輪廻の車輪は動き続けて止まることを知らない。そこから跳び出すことは出来るのに、おまえは、逆にますますしがみついているじゃないか。もう、しがみつくのはやめなさい、と。
2006 11・9 62

* 賢くなろうとして逆に愚かになっている。そして理解してもいないことを繰りかえし続ける。バグワンは言う、小さな子が浜辺で拾った貝殻をすばらしい財宝に想っているのと同じだ、それで人も自分自身も、その気にさせることは出来ると。だがそれはそれだけのこと。知恵ではなく、知識にしがみついているだけ。知識は心=分別心=マインドを通して、わたしに来る。知恵は無心に静かなわたしに生まれ来る。心=マインドに従っているかぎり、理解も無理解もウソになる。それが分かれば、現実は人に従うし、分からなければ、人が現実に隷従する。
2006 11・10 62

* 心(マインド)に従えばが、理解と無理解のどちらも偽りになる。達磨はそう言う。この深遠で端的な示唆に、わたしは推服する。
これを理解すれば、現実は人に従う。理解しなければ、人が現実に従う。現実が人に従うとき、現実でないものが現実になる。人が現実に従うとき、現実であるものが現実ではなくなる。人が現実に従うとき、あらゆるものが偽りになる。現実が人に従うとき、あらゆるものが真実になる。
達磨のこの言を味わいつくさなければとわたしは思う。

* 霧黄なる市(まち)に動くや影法師   漱石
2006 11・12 62

* 呉王夫差 越王勾踐 字が合ってたかな。会稽の恥を雪(すす)ぐ話は、太平記で読むのが俗耳に入りやすい。美妃西施の苛酷な運命。双方の王に侍する真の忠臣たちの苛酷な明暗。わたしの音読の原則は最低、見開きの頁を次ぎへめくるまでは必ず読むのだが、ここは興に惹かれて長く読む。それでもまだ半ば。中国の話に触れて書こうとすると、漢字再現に行きつまる。時にハンレイ無きにしもあらず、ではしまらないなあ。

* いま、支那と書こうとしたら出てこない。固有名詞のはずなのに東シナ海になる。
作家代表団で初めて井上靖夫妻団長に率いられて訪中したとき、二つ、奇異な思いをした。一つは、支那と言うなと、万事御世話になった日本中国文化交流協会の事務局から教えられ、お土産の著書にもし「支那」の字があれば抹消し、「中国」に書き直して下さいと。ヘンなことを言うなあと思った。
わたしは「貰ひ子」された先がたまたま「秦」家であっただけで、だから招待国の副首相でいわば国会議長役にあった周恩来夫人に、「秦先生はお里帰りですか」と人民大会堂の会合でにこやかな諧謔の挨拶を受けても、此の「チン・ハンピン」つまり秦恒平は「そんな気もしていますが」とにこやかに答えてもとくに実感はなかった。だが、「秦 チンがCHINA=チャイナになった説」にいつも一票を投じてきたのは確か。
中華思想の国に相違ないにしても「中国」なんてヘンな呼び方と思い続けて、口にするつどイヤだった。中華そばより支那そばの方がいいし、支那料理の方が中華料理より美味そうだ。支那人でなんでいけないのか、理由はいろいろ聞いているが。
最近戴いた大久保房男さんの本に、全く同じ不満が縷々述べられていて、思わずクツクツ笑ってしまった、大久保説にわたしは同調する。これからは支那と書いたり言ったりしたいと思う。親愛こそあれ侮蔑観など全然無い。支那の人も、聞くところいっこう「支那」を不快に感じていないようで、何で遠慮するのですか、分からない、という支那人は少なくないとか。さもあろう。

* もう一つの支那訪問で気になったのが、団員の肩書だった。わたしはその時、東工大教授でもペン理事でもなかった。「作家」でいいじゃないか、いちばん端的でいいじゃないかと胸を張って思っていたが、歓迎してくれる向こうの人のために、別にさらにエラソーな肩書がないかと聞かれ、「ありません、そんなもの」と「作家」で通した。ま、それしか無かったのだから威張ってみても仕方ないが。
一度目から二十年たって、二度目に訪問したとき、支那の物書きさんに名刺をもらうと「一級作家」と肩書つきのエラソーな人に出逢い、ひどく違和感を覚えた。何によって一級の二級のと差別するのだろう。もし年功だったりすれば嗤えるなあと思った。若く死んだ一葉や啄木は何級になるのかなと想った。
2006 11・13 62

* この機械のある身のそばにも、機械とかけはなれた何冊もの本が置いてある。機械の毒性を、使い始めた昔から痛く自覚し批評してきたわたしは、いくらか自戒ないし自省のよすがとして、そういう本をそばに置いて、題字をいつも眺めている。唐木順三『日本の心の歴史 季節美感の変遷を中心に』 生方貴重『利休の逸話と徒然草』『茶心の背景 和歌と仏道』 谷村玲子『井伊直弼 修養としての茶の湯』など。手のとどくところにそれらはバグワンの何冊かとともに立っていて、思い屈するとき素直に手をのばす。立たねばならない左手の書架には鏡花全集、森銑三全集、福田恆存全集・翻訳全集、井上靖全集、漢籍、古寺巡礼全集などなどが置いてある。身のそばには漱石も藤村も潤一郎も柳田も折口信夫もみな置きたいが、家が傾いても困る。書庫にある。書庫に入るのに寒い季節がやってきた。
今朝は唐木先生の「心の歴史」をずうっと読んでいた。季節感はわたしの子供の頃からでもウソのように日本中がサマ変わりしている。まして唐木先生の「現実」に生きていた季節感そのものが、今の若い人にはとらえにくかろう。それでも日本は四季の国である、いまもなお。現象にゆらぎは覆えないが、根はまだ生きている。そう思う。
問題は「心」か。
この「心」という字がくせもので、包含する意味があまりに広汎かつ深遠、それをこの漢字一字に押しつけるからアイマイにかつ混雑する。唐木先生の「心」はハートやソールに近い。しかしマインドの意味で現実に「心」を用いて、心とは思考や分別と同義と感じている人がやはりきわめて数多い。モグラの頭叩きのように心を追いかけていると、頭が痛くなる。
頭脳と心臓とのどっちに「こころ」とフリガナするかと問うたことがある、東工大の教室で。あの学生諸君にいまもう一度同じことを尋ねたら、思いが変わっているだろうか変わらないでいるのだろうか。
あの頃、予想は七・三の割合で「頭脳」と。ところが千人の学生が逆様の答を出した。しかしながら自分でなく東工大の他の学友達はどう応えるだろうか「推測」ほよとも問うたのに対し、自分以外の学生達の十に七人は「頭脳」に「こころ」とフリガナするに違いないというのが結果であった。
ちなみに教授先生達は口を揃えて「頭脳」派であったのも印象に残った。

* わたしは。わたしは「頭脳」はマインド=思考・分別・意志、「心臓」はハートと感じている。いずれも大事であるが前者を無心にかえすこと、落とすことが何よりも大事と感じている。
マインドを意味する「心」は頼りにならない。思考や分別心こそ頼りになると常識のように思うのが「諸悪の根源」だと観ている。無神経に「心」を追い求めるのをわたしはおそろしい外道に感じている。「静かな心=無心」はそういう騒がしい、変転ただならぬ「心」を見切って、はじめて得られるだろうから。何が何でも心、心と唱える人をわたしは怖いとさえ感じている。教育基本法はどうなるのだろう。
2006 11・13 62

* なにが今嬉しいだろう。
転送も出来ない「MIXI」のために小説『初恋』を校正しているのが嬉しい。宮川寅雄先生が、いの一番に褒めて下さった。まだ受賞していないころ、わたしがこつこつと書いていたのが平家物語に関心をよせた幻想的な「雲居寺跡」だったが、仕上がらなかった。『清経入水』へ変貌していった。それでも後に、弥生書房が雑誌「あるとき」を出したとき、顧問の河上徹太郎先生の推薦があったらしく巻頭に小説を書いて欲しいと社長が家まで見えた。まず『マウドガリヤーヤナの旅』を書き、ついで『雲居寺跡』を上下二回書き、これが後に改題『初恋』となった。高山辰雄の繪を表紙にもらった。この繪も好評だった。
この作品は、その前後に筑摩から出した『日本史との出会い』と思想的に一対の観があり、ターニングポイントを成したと説く人もある。わたしにもその自覚があった。
マキリップを二ヶ国語で併読してやろうと思い立ったことも、けっこうわたしを嬉しがらせている。ものごとが邪魔くさくてしようがなければ、こんな事は思い立たない。
しかし、ものごとが邪魔くさくてしようがないかというと、かなり邪魔くさいことがある。いやになることがある。気の乗らないことが有りすぎるほど有る。そういうことは、なるべく放り出しておくのである。したくないのに、ムリにする必要がどこにあろう。
政府に腹の立つことなども、ありすぎて困るではないか。教育基本法が強引に委員会可決されたし、本会議も単独採決する気だろう。公聴会では「やらせ質問」に金をはらっていた。政治家や役人の教育からやり直すべきで、彼らに教育基本を云々出来るどんな資格があるだろう。いずれラチもない心、心、心とだらしなく羅列して、ものごとを空疎に乱脈に飾り立て、責任の取りようも、ゆめ知るまい。子供達は死んで行く。殺されて行く。親の不出来が子に祟っている時代である。
なにが嬉しいか。かなりに反語的である。しかしなにが頭に来るかなどと数え上げるバカらしさ。嬉しいことをさがしたい。求めたい。
2006 11・15 62

* 国会討論会も田原総一朗の番組も、聴いていて絶望的に空しい。国が、政府が、「教育」をいじりまわすとき、きまって世情は悪化へアクセルが入る。
思い出す。岩波の「世界」に長い小説を連載していたとき、担当編集者と家で呑んで歓談のあいだに、いま何が気になる大事な問題だろうと聞くと、彼氏即座に「教育」と。たしかに教育の問題がその頃もかまびすしかった。わたしは「世襲」の進行と拡大が近未来の日本を根から損なうだろうと予言した。
人間社会の世襲は或る程度余儀ない自己保存の方法であり、とくに技能・技藝にぞくするものは伝襲の慣習が定着していないと衰弱する。洗練も進歩もなくなってしまう。
しかし世襲意識にはそういう意義より、権利・権益の「当然世襲」へと動きやすい。権益を多く持つものたちほど、執拗に子孫への、家門への世襲を願い、その裏返しに損な不幸な苛酷な世襲は平然と他に押しつける。「いじめ」と名付けられて誤魔化されている「差別」とは、つまりそういう構造の強要なのである。「格差」の当然視、「福祉」衰退の当然視、「権利世襲」の当然視。戦後の宰相で何人がズブの新人から、何人が父祖の鞄・地盤・看板をかついで出て来たか、調べてみるといい。小泉も安倍も、「権利世襲」意識の強烈な信者なればこそ、「格差容認の確信犯」でもありうる。
才能がなければ志も技も世襲できないのは、藝術・藝能であるが、それでも能狂言も歌舞伎も世襲世間であらねばならなかった理由は観て取れる。彼らの場合「藝」が出来なくてもまっとうに世襲できるほど藝の問題は安楽でない、だから藝の出来る人には敬愛も捧げられやすい。絵画や工藝もまた世襲世間の身づくろいを重ねやすく、狩野派や土佐派などと世にふれ称したが、能狂言や歌舞伎の特異さと美術とでは異なる視野を持たねばならず、ただ世襲での技芸の保守は成り立ちにくく、必然時世の前進に置き去りにされた。淘汰されたといって良い。藝術の世襲は少なくも容易でなく、才能がなければお話しにならない、どこかで途切れてしまう。それが尊いのである。
狂言の宗家を自称する若者の藝が、素人目にも未熟だとうつれば、本人が何を言っても評価されない。藝には明らかに巧拙がついてまわる。それのついて回らない奇妙な例の一つが例えば茶道であることは、知るものならよく知っている。茶の家元は藝の深い浅いで成り立つのでなく、関連した文化の良い意味での「管理・保全」責任者なのである。存在しなければ道の骨格も肉身も総合的には保たれにくくなる。保たれないことで起きる損失がちいさければ無用の存在だが、やはり保たれていた方が遙かに豊かな価値を現在未来に保証できると信じられるから、容認されている。茶の湯というのは、じつに不思議におもしろい存在だ。

* 世襲されていちばん不可ないのは政治家と教育者。百害千万害あって一利もあるかどうか。
だれか調べてみるといい。世の「大学教授」で、近い尊属のやはり「大学教授」であった者が、全体数の何パーセントに当たるか。何割に当たるか。同じことを国会議員にも。もし一割にも達していたら、国の頽廃度はかなり進んでいる。彼らは教育の理想や政治の理想ではめったに動かない、いつの日にか自身の掴んだ権益をどう確実に我が子孫に嗣がせようかと謂うことを、第一義の下意識に畳み込んで発言し、行動する。吐きけがする。彼らが「教育」をいじくり私物化しようとする心理には、そういう欲望の隠蔽ないし露骨な正当化への道を固めたい気がある。国民・私民の幸福と安寧と豊饒に寄与したいなどとはめったに考えていない。権利・権益の分担社会化、つまり階層化の自己都合での組み立てを、彼らはただ願ってやまない。

* 年に三万人以上も人が自殺する国に、健康な政治や教育が行われている筈がない。生きている何の楽しみもないと思う人が増えていて、わたし自身がそうではないと断言できる理由すら、容易に見つけられないのだもの、日本国は、底部からどす黒く蝕まれつづけて、阻止・改善の希望が無い。どうにかしたいと願うけれども。困った…。
2006 11・19 62

* 『人間の運命』では愕かされることが少なくない。ことに仰天したのが、「小説を書く」ということへの、妻を始めとする舅や義父らの強烈で容赦のない軽蔑・侮蔑の念で。
極めつけの秀才主人公「森次郎」が、名古屋の電鉄経営者の娘と結婚し、農林省の高等文官の職を棄ててパリへ留学、ソルボンヌ大学で経済学を学びつつパリ在住の文化人たちと親交を重ねる内に、その卓越した文才により友人達の信頼や敬愛もえて、演劇や小説創作に気分的に馴染んで行くのだが、不幸にも重い結核にかかりスイスの高山療養所へ入る。
この時の妻の、罹患した夫を責め立てる激昂にも驚愕したが、才能豊かな友人達から、共著で文学活動をしよう、小説を書けと熱心に奨められていると妻に告げるや否やの、狂人を見たような恐れ軽蔑と必死の拒絶ぶりは、ゾッとするほど凄かった。
かろうじて日本へ帰れば、ナニ不自由ない妻の実家での「抱きかかえた」ような生活であったが、自立を願う次郎はふとした契機にうながされ、改造社の懸賞小説に『ブルジョア』を応募し、一等当選してしまう。だが家庭内の風当たりのきつさは凄まじく、そんな「恥さらし」な真似をされるより「ぶらぶら遊んでいてくれる方がよほどマシ」だと袋叩きにされている。また嘱望されて講義に出ていた中央大学経済学部からも、朝日新聞に小説を連載するなどトンデモない大学の恥辱とばかり、バッサリ馘首されてしまう。
むろん、理解を示し応援し高く評価して、世界へ出て創作を続けよという人達もいる。が、彼の人柄と能力に魅せられたように応援する義父一家も妻の親族も、ことに後者は容易に容易にそんな「ふしだらな真似」を聟殿に許そうとはしないのである。

* 鴎外漱石から直哉や潤一郎や川端や三島や大江健三郎にいたる文学史を心得ている人達には、思いも寄らないことのようであろうけれど、わたしの読者で小説を書きたい書いている人の中にも、ガンとして本名でそんなものを世に出すことなんか出来ません、親類が何というかと、それが当然のように息巻く人も現にいるぐらいだから、芹沢さんの例ほど露骨であるかどうかは別にしても、そういう傾向はまだ残存しているに相違ない。
末は大臣か、大将か、博士か。そういう「時代」がたしかに有って、それがそうでなくなってきている現実への憂慮から、もういちどそういう価値観世間へ戻したい強い意向。強い念願。それが現今の政治屋どもの深層心理を刺戟しているのではないか。日本はそういう国のように想われる。

* いま、とにもかくにも『人間の運命』に読みふけっている。全七冊の第四冊目を足かけ三日で読み通してしまいそうだ、長くかけていた頃は一冊に三週間も要したのに。
2006 11・19 62

* 出掛けてゆくのは億劫だが、籠もり居に馴れてもいけないだろう。ふと、今、わたし何がしたいのだろう、と、自分に問いかける。
インターネットは、「外」から何かしら新しいものを情報として流し込んでくる。スパムメールにしても、そうだ。親しい人達からのメールはましてそうだ。世界中の「情報」を追えば追える。だが、明らかにそれはわたし自身に内発したものではなく、外からもたらされる、しかもよほどバーチャルなものだ、影のようなもの、真実は少ない。希薄だ。だから真実に触れると、とても嬉しい。真実であるとどう感得するか、そこがわたしの問題だ。わたしはそれを厳しく選りわけようとするが、面倒にもなる。わかるものはわかる。わからぬものはどうひねくってもわかりはしない。そういう直観。わたしはいま外の世界から機械的に断絶されていて、それをむしろ好機と受け容れ、自身の直観と向き合っている。
2006 11・20 62

* 小説『初恋』をスキャン原稿から校正し終えた。ながらく、読み直したい読み直したいと願っていた、が、果たすヒマがなかった。「よく書いておいた」と思い、読み返して満たされた。誰にも書ける作と思わない。
2006 11・21 62

* 『人間の運命』第六冊目に入ったが、時代は昭和十年代。わたしの生まれて最初の、敗戦に至る十年間だ、何から何までほとほとイヤな時代。
生まれる一月前、昭和十年十一月に日本ペンクラブが発足し、島崎藤村が初代会長、芹沢光治良は「会計」役の理事を頼まれている。引き受けるとすぐに、林芙美子がやってきて、そんな役を引き受けたのは宜しくないという。「藤村」派だと思われてしまうのは文壇渡世のために不味い、ペンには菊池寛が入っていないが、彼の文藝春秋に睨まれては作家として損だからと窘めている。
やがて菊池寛肝煎りの日本文藝家協会でもやはり会計を頼まれ、芹沢さんはいったん断る。ところがまた林芙美子が来て、菊池寛には楯突かない方がいい、ぜひ引き受けるようにと本気で助言している。芹沢さんも林芙美子の「処世」の真剣さにほだされ、引き受けている。
そんなことばっかり気にしながら文壇文士たちはモノを書いていたかと思うと、笑止で、時代もわるいが、これは時代の問題でなく、物書き達のいじましさの問題であるから、読んでいてもうんざりするのだ。
しかし当時のペン例会には、必ず特高が参加し監視したと知ると、これは「時代」のおぞましさ。
日本には、民衆のために本当に良いい時代なんて「時代や時期」は無かったんだと、いつも思う。そして今また一段と「日に日にひどいじゃないか」と情けなくなる。
破産した夕張市の市民達はどう生きて行くのか。文科省の、社会保険庁の、労働や雇傭の現場の、だれの、かれのと眼がまわりそうに責任を問いながら、政治・行政の各場面を見回して行くと、ほとほと、生きながらえて行くことに、希望どころか、暗澹としてしまう。
わたしには芹沢さんの体験が無い。だから確信して謂えることではないけれども、芹沢さんのようにはフランスを中心としたヨーロッパ各国のすばらしさを、簡単には認められない。だがそれでも、そういうヨーロッパを一方の念頭にしかと置いてなされる「森次郎」や、彼の優れた学友達からの、「ひどい日本」への批判や批評に対し、あまりに正当で到底反対し得ない気がしている。適切な指摘にイヤでも頷かされてしまう。
わたしはけっして芹沢さんの「理性」に全部賛成ではない。その理性があまりに概念的に棒立ちしていると、この人は繪に描いたような「マインド人間」だなあと、多少滑稽に感じたりもする。それにも関わらず、十に八つは芹沢さんの日本と日本人批判に頷くし、その一方それだけ非難するなら、非難を貫く実践があってもいいのにと思ったりする。それほど彼の「在日世界人」としての日常はには、情けないほど日本人的な妥協もたっぷり読み取れる。金持ち喧嘩せず。そういうところが物足りない。

* 芹沢さんのことは、だが、もう過ぎた過去の話。問題は、この私、である。
わたしは文壇にも日常にも、ほぼ、今、「抱き柱」を持たずに生きている。家庭はどうだ、妻はどうなんだともし言われたら、わたしは大切にしていると言うし、お前のそれが「抱き柱」じゃないかと言われたら、頷きさえするだろう。妻も息子もわたしは「身内」と感じているのだから、当たり前だ。
わたしは林芙美子のような文壇人であろうと努めたことは一度もない。何事も誘われれば、誘われた一人の書き手としての自由を投げ出すことなしに、馴染むべきは馴染み、疎ましいモノは疎ましいと見切って遠慮などしたことがない。幸い「時代」はわたしに、わたしの「場所」をほぼ無償で与えてくれている。紙と活字の世界で身を細くされても、電子の世界でわたしを殺せる存在は事実上一人もいないし、それじゃ生活できないだろうと言われても、幸い過去のガンバリが今しばらくの余生をほぼ支えてくれているとサラリと言い切れる。
わたしはわたし自身のために懸命に書いてきた。家族のために稼げる限り「自分の仕事」で稼いできた。誰に貢いで貰ったこともない、大方は自分のちからで稼いだ。有り難い育ての親たちに助けられたのもむろん事実で、感謝している。
近い時代にも只今にも、林芙美子の謂う意味の「菊池寛」の存在がいないではない事実を、わたしは漏れ聞きも洩れ知りもじかに見もしてきたけれども、幸いそういう誰とも気持ちの上で間隔を置いてきたし、ことさら離れも近寄りもしなかった。受ける厚意は有り難く真面目に受けて仕事でお返しし、べたつく事は決してしなかった。出版者にも編集者にも同じこと。そして今、わたしをぶち殺すこともぶち斃すことも誰にも出来ない。その意味では佳い時代とまで謂わないけれど、この時代の有り難い一面をわたしは掴んで生きた気がする。それがお前の「抱き柱」じゃないかと言われたら、頑なに抵抗しない。わたしは「東工大教授」に導かれたのを意思的に利して、いわばコンピュータを抱いて「文壇出家」してしまった。それをどう譏ることはできても、だれも追いかけてきてわたしをぶちのめすことは出来ない。
わたしには芹沢さんの林芙美子のような友人はいないけれど、欲しいとも思わない。そして芹沢さんが得ていた「自由」の意味をよく会得できる。出来ていると思っている。芹沢光治良は「世界の芹沢」として成功し、わたしはそういう成功とはあまりに程遠い小さな存在にしても、「自由」の高みにおいては遜色ない自由わたしはを手にしている。
もとより、誰かも言ったように「自由」とは牢獄の意味でもあり極めて寒い境地でもあるのを知っている。それでもわたしは人を支配したくもないし、協力すべきは進んで協力するが、不当に支配など決してされたくない。

* だけれども、しかしまあ、何というイヤな国民無視の「日本の政治・政権」だろう。もうそんな言葉は死語かのように使われないけれども、大企業優先の格差日本は、れっきとした「ブルジョア日本」に相違なく、ブルジョアのための政治に政権は奉仕し寄生している。そして飼い慣らされた学歴社会は「おれだけは大丈夫、落ち零れはしない」と空しい夢見心地で政権に尻尾をふりつづけている。あらゆる意味での知性の喪失時代。
2006 11・22 62

* 二週間ほどインターネットがダメでしたが、メールというのは、あくまで補助・連絡・消息ですね、郵便やハガキとちがい簡単に毎日でも一日に何回でもメールは可能だから、密に、親密に感じ錯覚してしまうのでしょうが、錯覚ですね。空疎感を回数で補っても生彩は生じない。遠隔地の人とは、でも、実に有効ですね、但し過剰に頼むべき手段ではないようです。「まこと=真言・誠」「みこと=御言・命」ということばを、おそれ敬いたい。
平野の「新生論」は、検事と弁護士の二役をめまぐるしく演じ分けながら、捻子釘を作品に打ち込む勢いでしょう、息をのみます。作品論の一のお手本としてあまりに鮮やか、あっけにとられますね。
わたしは、「心」や、「夢の浮橋」「春琴抄」「蘆刈」などを論じるとき、作品の「本文をよく読んで」観念的に逸脱しないように努めました。本文から好き勝手に飛躍し乖離すると、その隙間から論旨が錆びて腐蝕してきます。それを避けるためにも、愛読できる作品を論じるのが深切です。批判のために論じると、身振りが大きくきつくなり、格好がいいようで、とかく作品本文から浮きあがりかねない不安がうまれるものです。
お義父上のご病気ご平安を祈ります。お大事に。 風
2006 11・24 62

* 芹沢さんの畢生の大作といえば間違いなく『人間の運命』であり、近代日本文学が生んだ最大の長編小説の一つ。ご遺族から全巻をお贈り頂いたのを好機に読み始め読み進んできて、感想は読み終えてからと思っていたのに、その日その日に書き置かずにおれなくなり、気儘に「闇に言い置く 私語の刻」に日記してきた。
あまりバラバラになるのもどうかと、まだ途中、とはいえ、全七冊本の第六冊半ばへ来ているので、途中ながら最近分まで「MIXI」日記へも持ち出しておく気になった。

* 芹沢さんは、日本で最初にノーベル文学賞の候補になったり、その推薦委員になったり、フランスの最高文化勲章を受けたり、日本ペンクラブ会長を務めたりした世界人であるが、日本の文壇ではかならずしも適切な待遇を得ずにおわった、大きなエクリバン(作家)であった。ロマンシェ(小説家)ではないと自覚していた。ロマン・ロランらに繋がり理性と自由とを生き抜いて、世界の視野から「時代」ことに「日本」と「日本人」とを痛切に批評しえた稀有の人であった。『人間の運命』はただならぬ大作であり、その批評が今日只今の日本と日本人とを切実に衝いている意味でも貴重な大仕事であった。
島崎藤村の『夜明け前』『東方の門』を事実上受け継いだ日本の近代史とすら言いうるが、晦渋ではない、芹沢さん独特の明るい平明な叙述で「日本の運命」を優れた視野に書きおさめている。
わたくしは必ずしも芹沢さんの理性や自由の理解に全面与(くみ)するモノでなく、文学・文体にも容易に陶酔しはしないが、じつに「立派な姿勢の文学者」であったことには惜しみない敬愛いや尊敬を捧げている。
いま、この大作に日本人が心して触れることは、一芹沢光治良の問題でなく、現下の日本・日本人ないし「わたくし・あなたがた」の問題だと信じている。こういう文学が日本の近代・現代に置かれていたということを、改めてよく考えてみたい。
2006 11・24 62

* とにかく、なにもかも、じりじり進む。そういうときは、そんなもの。じりじりに、焦れてはいけない。気をつけたい大事なことは、じりじり進むのが「習慣」に従うのではないということ。
昔は、習慣を重んじて日々に予定を立てては予定をこなしていった。悪いことではない、したい仕事を意欲のままに進めている場合は、ことに。
だが、ただ単に習慣づけた予定は、自在で自由な「今・此処」の在りようを空洞にし無意味にしてしまう毒をもちやすい。習慣に従い予定をただこなして満足していると、とんでもない空疎の前に、心身を、餌食に差しだしているのに気付く。
習慣で、予定したこととして「本を読んだり」しない。読みたいものを、読みたいから読む。きまりだから読むのではない。英語に手こずっても読みたいから「ヘドのモルゴン」を楽しんで読む。バグワンも『太平記』もみな同じ。
2006 11・26 62

* 荀子は、人が身にまとうて膨れあがっている「蔽」つまり襤褸を「解」つまり脱ぎ捨てよと教えていた。およそ似たことは、優れた先達の多くが語ってきた。価値ありげに抱き込んでいたハリボテの多くが、音を立てバラバラと身を離れ落ちて行く、そんな感触にいまわたしは「襲われ」ている。当然ながら素肌には寒い。漱石流の表現を借りれば「寒い=さびしい」に繋がる。この寒しさを堪えて通過して行かないと襤褸は身を離れない。この寒さに堪えるのを、断念だの諦念だのと勘違いしてはならない。それでは字義どおりの退屈になってしまう。退屈してはいけないと思う。「今・此処」に踏み込んで素肌で立って前へ脚を運ばねば。
容易でないとわかっている。心身脱落へ、さびしがらずにむしろ憧れ寄りたい。
2006 11・27 62

* 防衛「省」への昇格案が成立する見通しだ。それに触れ、マイミクの昴が「MIXI」日記に、生徒を戦地へ励まして送り出す先生ではありたくないと書き、若い二十歳ほどの男性が、「ご安心を、」日本は「徴兵制」でないと応じていたので、「ご安心」の論拠がわたしには見当たらないと、コメントを書き込んだ。

* 「徴兵制」という意味を、前の戦争当時のそれと同義に取っているのではありませんか。戦争の形態も、戦略の内容も、兵器の能力も、時代の変転で動きます。世界史がそれを教えています。硫黄島やレイテ島でのような戦闘「コンバット」を予期した徴兵制が復活すると早合点しているのでは。
戦争はもっと手の込んだややこしいものになるでしょう。もっと殺傷力確実で範囲廣いものになっている。
同時に、もっとやりにくい市街戦も繰り返されるでしょう。軍隊と軍隊との闘いだけではあり得ないから。

憲法のもとに軍隊を抛棄すると理解していた我々日本人が、政権によるかなり勝手な拡大解釈を積み重ねながら、どのようなリクツまたはヘリクツから、今日の世界的にもみごとなまでの軍備自衛隊に変貌してきたか、そしてその段々のなしくずし或いは組み替え論理のもとに、自衛隊の海外進出がどう現実に強行され、戦闘是認へいま一歩まで近づいてきているか。
そういう政策変更・拡大解釈の前で、命令に背けない隊員の海外派遣が事実「徴兵」的に既成事実化されていますし、志願・応募の自衛隊員で手勢が確保できないと判断される時代は、近づいていると見ています。そのような「憲法を置き去りにした」政権と政略のためにのみ都合のいい「建軍思想の肥大」が、次の世代の日本に、つまりあなた方、子や孫や曾孫の世代に何をもたらしてくるのか、そういうことを、本気で、「我が事として考える」姿勢が出来ているのでしょうか。もう、よそごとではない事態に脚をつっこんでいるのではないか。昴さんの「覚悟」は、たぶんそういう事でしょう。
もう死にかけている老人ではない、自分自身の身にふりかかる筈の若い人が、よそ事のように「評論」していていいのかと、昴さんの危惧は、そこにあるのでは。

第二次大戦のときの日本の徴兵制が現にそのまま復活しうるかどうか、それは、問題や懸念のスリカエであり、戦争へ戦争へ国と国民を駆り立てかねない「時代」の動きに、どう敏感でどう自己責任をもてるか、というのが本当の問題ではありませんか。学生世代の「まさか」的な気の良い鈍感を、わたしは国の未来のために危惧します。芹沢光治良の『人間の運命』等に見てとれる、昭和十年前半、真珠湾前夜の多くの若者達・学徒達の命の不安、ああいう不安は二度と来ないと確信できます。日本列島はあきらかに核兵器複数国の射程距離内にあり、昭和十六年真珠湾の頃の危険の段ではない。あの頃は、国民が不安をもち、軍は見当識を失していました。おそらく今は政権が不安をかかえていて、若者を含んだ多くの国民が、平和ボケで判断停止している状態です。「ご安心」どころかと思いませんか。

たとえ徴兵「制度」が制度として変容していても、アメリカでもイギリスでも、兵隊と名の付く人達の身に帯びた在りようは、覇権思想にリードされた徴兵「政策」や徴兵「意志」に縛られているとわたしは観ていますし、日本の憲法は日本の若者に対してそういうことを容認していないはずです。しかし、国は、そのように動こうとしている。「ご安心」の論拠がわたしには見当たらないのです。 湖

* 問題は「自衛隊」だけじゃない。
いいえ、われわれの「日本」がどうなるか、でしょう。
「近代の軍隊で如何に徴兵制がそぐわないか」の議論なんかが関心の的なのではない。
われわれ一人一人が、もう内心に、志願であれ強制であれ「徴兵=戦場へ国民を義務として駆り出せる制度化」志向の政治を、容認してしまっているか、いないか、の問題なのですよ。
わたしは、容認しない。反対です。現在の憲法を最高の基本法として持っていることを、わたしは判断の根に置いています。
あなたが「自衛隊浪人」で、海外派兵や戦闘行為を容認し、いずれは徴兵(戦場配置)も希望しているというのなら、それはあなたの思想・姿勢だからあなたに対してはこれ以上何を言う気も置きませんが、少なくも私の「安心」とは大きく逸れています。
他の方々の議論にゆだねましょう。 湖

* (徴兵制の歴史を何も知らないのだろうと「豚馬さん」に言われてしまった。が、)徴兵制の歴史は、日本近代史にかぎっていえば、一般市民の一人としては、かなり正確に知っているつもりです。
わたし個人の関心や好みはそれとしても、「日本歴史」は、「明治維新以降の近代史」をもっとも重視したいという思いでいますから。

日本ペンクラブで私が理事として責任をもっている「ペン電子文藝館」は、すでに幕末から平成にいたる七百作にちかい作品を掲載し発信しています。その電子文藝館に、「主権在民史料室」を特設したときも、中公版「日本の歴史」のうち「近代現代」の七巻から各巻責任編者のおゆるしを得て『略・日本近代史』ともいうべき重要な七章を編成するなど、電子文藝館の最も大切な資料の一つとして、国内外に公開しています。基になる七冊は、文庫版で三千五百頁におよび、「徴兵制」だけでなく、近代日本の歩んできた或る意味で危険な、問題多き道筋を、ともあれ万般熟読した上で採り上げた企画でした。お読み下さい。

ちなみにわたしが小説家として立とうとした処女作『或る折臂翁』の主題は、「兵役忌避」と「六十年安保」でした。

モノゴトを複眼で捉えて行く知識は、むろん年齢差で質を測れるものではありませんが、「知識」以上にもっと大切なのは、生きてきた時代、生きている時代、生きて行く時代への洞察の豊かさ、直観の強さではないですか。

次から次へ、次から次へ煙幕のようにつくられてゆく新しい法律により、巧みに、国民の目に見えなくされていくらしい危ない「国家戦略」への、おそれ。

観ようによれば、はや日本国民は「徴兵」にちかい大網をもうかぶせられかけているかもしれない、それぐらいの気でしっかり用心したい。「制度」の沿革など、只の知識の問題です。たいした役にも立たず自慢にもなりません。そんな知識を持っているからと誰もが「安心」していては、暢気すぎます。

防衛省「昇格」を期待する意思が、次ぎにシビリアンコントロールの排除・拒絶、さらに陸海空三省の自立と自律の要請、他国との司令系統の一体化、軍事予算や負担の問答無用の拡大、そして先制攻撃論や核武装使用論へまで、そして天皇制の後ろ向きな見直しへまで、またまた押し流されて行くかも知れぬ可能性は、小さくない。近代日本の歴史に学んで「歴史の愚かな繰り返し」をおそれる思いには、リアリティがあるのです。
日本の政治には、西欧近代史のような高価な人文主義や民主主義の背骨がない。簡単に反動化してゆく。

問題は、それをおそれずに受け容れて運命を委ねるのか、それとも渾身の力で逸脱をおそれ防ぐのか、でしょう。幸か不幸か、その真剣な論議の大方は、二十歳の「あなた」方の肩にかかっている。
「志願制だから、(教え子を戦地へ送り出さねばならないなどと案じる必要はない、)ご安心を」では、いかにも軽くて薄いと感じます。
前にも言いましたが、もう此処「MIXI」での此の議論をわたしは重ねません。 湖

* 就職感覚で自衛隊入りを希望するのと、戦地へ送られるのとでは、あまりに差がある。後者を必然とした事態で、いまの若者達のどれほどが進んで自衛隊へ希望して入隊するか、わたしはかなり大きい「?」をつける。 2006 11・29 62

* 人が人を「わかる」というのがどんなに至難であるか。『みごもりの湖』はいくつもの動機を複合していたが、その一つはコレだった。会者定離のくりかえされる理由の一つはソレであった。わたしは「身内」という考えを大事に持っていて、それは血縁・縁戚とはなんら関わらないことを繰り返し表現し発言してきた。「身内」という理解は「身内崩れ」という誤解と表裏しやすいのも、冒頭の至難が自然に関係している。人は離合集散を繰り返すきわめて奇妙な動物の一種であり、離合や集散のありように規則性を弁別することはまた至難で、そんな穿鑿は無意味ですらあるだろう。ほんとうの「身内」とは、会者定離や離合集散という不動ともみえる社会的現象、死生に枠づけされた事実のレベルを超えた愛であり、やはり貴重な錯覚と謂うに近似した観念である。だから無用なのでなく、だから求めずにはおれない不壊の値なのであり、しかし容易には得られない。離合集散や会者定離に人は翻弄されながら、いつか落命してしまう。人間存在の本質的な寒さ苦しさ。だから何かに、何でもいい抱きつきやすい「抱き柱」に人は抱きつく。「アジール」という名の逃げ込み場に執着する。

* 人は「出逢い」という「入り口」を好んで恭しいまで愛している。出逢いはたいてい別れを「出口」にしているものだが、意識したくないので「別れ」を口にする人は少ない。しかし、出逢いの数にほぼ近く、別れの数も夥しい。くっついていても事実は離れている別れなど無数に実在する。おかしなことに、それは夫婦、きょうだい、親族にべらぼうに多く、親子にもある。それなのに人はそれをこそ「身内」と言い慣れている。ひからびた糊のような「身内」という抱き柱である。わらってしまう。

* たいていの人と人との出逢いは、相撲に似ている。自然必然に出逢うよりも制度的な「呼び出し」に呼ばれて土俵に上がり、しかも「行事」という制度の維持者・管理者に目に見えて見張られている。さらにしかも、オシマイは相手を押し出したり、投げたり、突き倒したり、張ったり蹴ったり、肩すかしをくわせたり引き落としたり、足技にかけたり、うっちゃったりして、要するにどっちかがどっちかに勝ったり負けたり、八百長もあるであろう、負けて勝つとか、余儀なくカツトか負けるとか、いろいろフクザツではあるけれども、要するにそんなぐあいに、反対側へ土俵を降りて「別れ」てしまう。とにもかくにも会者定離を演じる。そこには出逢いじたいが何か間違っていたことも有るであろう。

* 望ましい出逢いとは、永遠の「ダンス」のようであるのだろうかと、社交ダンスの経験の全くないわたしだが、そう想像することがある。ダンスは相手を征服しない。多彩な変化の場面をもちながらも、高度の共演でなければならない。そうでないと成り立たない。単調になれば、脱する工夫は双方でしなくてはならない。だが、容易に出来ない。
ながい人生を、あの人達はダンスを楽しむように生きているなあ、付き合っているなあ、佳いなあと想える、見える「会者」たちに、めったに出逢わない。一皮剥けば孤独に孤立し、それを苦にさまざまに判断停止のサマに振る舞っている。「楽しがる」「嬉しがる」「幸せがる」といういわゆる「がる行為」にのがれ、意識して無意識に演技的に退避し落ちこんでいる。
自分はこんなに幸せよと言い過ぎる人に、わたしはよく切ない気の毒さと寂しさとを感じることがある。
「かなふはよし。かなひたがるはあしし」という利休の言は至言中の至言。「がる行為」で保たれている不自然な出逢いは間違いなく崩れて行く。崩した方がいいのである。

* わたしの願う身内は、むろん侵しあう間柄ではない。侵し合ってもいい間柄でもない。名付けうる間柄=関係性が必要無い「一つ」という複数が在りうるであろう。至難の信頼であるが、それが「身内」として在ると信じている。。

☆ 昨日は舞の会をお楽しみになったようですね。
セルリアンタワーの能楽堂は駅からタクシーに乗るには近すぎるけれど、歩くと長い長い歩道橋なので、雨の日、着物の時には足元が悪くて困りものです。でも、ホール自体はこじんまりして静かで、大舞台より舞の所作がよく見えるので好きです。ギタリストから薩摩琵琶奏者に転身した人の演奏会も聴きに行きましたが、音響のいいホールでした。
最近なぜか琵琶に魅かれます。湖は琵琶はいかがですか。湖の作品に琵琶の曲をつけてくれる人がいないかと秘かに願っているのです。湖の作品は音楽のように美しいので、きっと佳いものができるはず。

今日はいつもお願いしている呉服屋さんに、袖を引っかけてびりっといった着物のお直しをお願いしに行きました。鶸色に誰が袖模様の描かれた刺繍の訪問着。
「これはこれはええおきもんどすなあ」と褒められたので、「お稽古に使っているんです」と返答したら「えっ」と絶句、呆れられてしまいました。そんなに佳い着物だったとは知らず、お古なのでじゃんじゃん着ていました。お稽古こそ上質の着物でというポリシーはあるにはあるのですが、単にものの価値がわからなかっただけ。情けない人です。
その点、我が家の猫のほうがものを見分ける感覚は優れているかもしれません。絹ものの着物の上には喜んで乗っかってすりすりしますが、ポリエステルの着物には見向きもしない……。

すべての出逢いは別れを含んだ人生の必然なのだと思っています。親しくしていても、出逢うことなく、したがって別れることもない関係というは世間にたくさんありますから。

連日のお出かけでお疲れのでませんように。それから最近いささかカロリーオーバー気味にお察ししてご案じ申しあげております。   鶸

* 「すべての出逢いは別れを含んだ人生の必然」だろうか。死別を謂うならそのとおりだが、それを措くなら「人生の偶然」ではあるまいか。真に「必然」ならたとえ物理的に遠く離れようと「別れ」とは謂うまい。

* 昨夜はさすがに佳い和服のひとを何人も見かけた。あれで正面の「松」がもっと典雅に美しく描けていれば、都内でも裁量の能楽堂の一つに数えられる。並んだ座席の人の膝前をほぼらくに通れる、あれほど嬉しいサービスはない。このメールの人も、まえに「鐘の岬」を習っていたのではなかったか、わたしは坂東玉三郎「鐘の岬」の美しさに舌を巻いたが。                 2006 11・29 62

* 芹沢光治良は、自身を「ロマンシェ(小説家)」ではなく、『人間の運命』を書いたことによりフランスで謂う「エクリバン(作家)になった」と「自ら信じる」と書いている。フランス語に疎いわたしに正確な語感はつかめない。文藝評論家林寛仁氏は、「生きること」=「書くこと」であるような人生を真剣に生き、文学がただ娯楽の暇潰しに終わるべきでない、読者をしてその魂を揺り動かし、目覚めさせ、生きる喜びを感じさせるものでなければならない、という「確信」が芹沢さんの表明からうかがい知れると解説していて、『人間の運命』全七冊の第六冊など、その気迫がたしかに感動を誘う。
が、では「ロマンシェ 小説家」とはどう違うのか分からぬ限り、「エクリバン 作家」の上の定義的解説は受け取りにくい。
日本語での「作家」二字ほど、いまや安い「自称」はなく、それもジャンル広大、美術家も漫画家も染織工藝家も猫も杓子もみな「作家」と自他ともに呼んでいる。「自称」作家がむやみにいる。どうしようもなければ「作家」としておけばいいというほど、安直で意義不確かな「肩書き」なのである。
わたしも必要な時と場合とで「小説家」「作家」を併用してきた。ものにより「評論家」「研究者」とよそから肩書きをくわえられもしてきた。フランス語の「ロマンシェ」も口はばったくわかっているとは言えない。
しかし芹沢さんの謂われる意味でなら、「エクリバン」の意気に強く呼応したい気がある。名乗り方、呼ばれ方はいかにもあれ、「生きること」=「書くこと」であるような、人生を真剣に生き、文学が、ただ娯楽の暇潰しに終わるべきでない、読者をしてその魂を揺り動かし、目覚めさせ、生きる喜びを感じさせるものでなければならないという確信を、わたしは頑ななほど持してきた気でいる。「そうでなければ書かない」というぐらいにも。
そんな頑ななほどの気持ちは、わたし自身をかえって縛っていることもよく知っている。もっと気儘に気楽に「書くこと」を「遊べば」いいじゃないかと自分で自分を窘めたり賺そうとしたりもしているけれど、文学がただ娯楽の暇潰しに終わるのは御免蒙るという気はやはり強い。書かない言い訳に過ぎないと嗤われても、気にならない。
2006 12・11 63

* 口を一文字に結んで、胸、腹で深呼吸している。なにかを持して待つのであろう。

* 君閑かに泉壌に入り 我劇しく泥沙にすてらる 天の東と地の下と 聞くに随ひて哭始を為す  菅公
友をうしなった菅原道真の長詩の末尾、太宰府の「西」を西東京の「東」に置き換えて、やや、私の懐にちかい。

* 第三回の調停にわれわれは出席しなかった。代理人に依頼した。報告はまだ無い。
われわれは「相手方」の和解代案を読み、「見解」「回答」「和解新案」を代理人に託した。調停の場に提示されるかどうかも一任したので、結果は知らない。
相手方は私に「ウェブ上十日間の謝罪文掲載(謝罪文文案付き)」「★★夫妻に対し各五十万円、計百万円の賠償」その他を要求していた。拒絶。
代理人の報告を聴いて、われわれの「見解・回答・提案」を、必要なら此処に明らかにするが、相手方はわたしたちが相手方案を受け容れないなら調停を切り上げ、告訴し訴訟に踏み切ると言ってきている。そうなれば、むろんそのように対応・対策する。

* 今回調停に先立ち、わたしが敢えて新刊『かくのごとき、死』を出した理由を、明かしておきたい。

一、 上のような相手方の謂われない要求を、「事の経過」自体により闡明にしたかった。
相手方がプロバイダにはかり、我がホームページの厖大な全部を削除させたがった理由も、その「内容」を不利と感じ続けてきた反映であった。
結果的に、核心に相当する六月二十二日から八月半ばまでの日録を、慎重に「紙の本」に再現したことで、相手方の暴状は、「流れ」においてハッキリする。ハッキリさせるなら、今、であると確信していた。
二、 上と重なるが、わたしには、多年親愛の大切な読者があり大事な先輩知人知友もある。また組織の同僚もある。そういう人達に、事態を明白に正確に伝えて、知って欲しかった。わたしのそれも務めであるから。

この二点では、すでに圧倒多数の理解の声や言葉が寄せられている。ことの経過に、私がたに遺憾な落ち度のたぐいは無いと確信しているが、三百四十頁を超えた「流れ」総てがその事実を明かしている。「湖の本」は、匿名の怪文書ではない、新時代の「私小説的文藝」として心して真剣に提出した署名ある「作品」であり、虚偽も捏造も犯していない。亡き愛孫・やす香への、これぞ「mourning work 悲哀の仕事」「人の業」であり、読者のある人は言ってくれている、「やす香さんは、永遠にこの本に生きて行かれます」と。

三、 その意味でこの『かくのごとき、死』一冊は、単なる「私事」の公開ではない。今度此の本で世に問うたのは、むしろ文学・文藝の問題である。
わたしは文学者として「斯く生き」そして「斯く書い」た。その恥なき証しの本である、この一冊は。何より大切にそれを自覚している。わたしは誤魔化さない。

四、 配本に際しわたしはこう考えていた。
『戦後日本の小説論が優れた探求を遂げたのは事実ですが、電子ツールの「表現」を知らなかったのも事実です。「私小説という小説」のまさに頑張った事実も事実ですが、その「私」は、紙と活字媒体のコアな読者に当面していたに過ぎません。死も愛も喜怒哀楽も。
しかし今、パソコンとケイタイのインターネットは、そんな「私」を瞬時に世界大に開示しうるのが現実です。愛する孫娘の不幸な「かくのごとき、死」を通じて、「私」「私事」の表現が変容・拡大して行く一「報告」としてもお読み願えれば幸いです』と。

五、 最も大切なことを言わねばならぬ。わたしは、「法」よりもはるかに大切な価値「気稟の清質」を、「生き方」としても「人と人との繋がり」にも、観てきた、今も真正面から観ている、ということ。
建前は法治国家であり、だれもがその私民・市民であるとはいえ、人間には、時に、いや、常にとわたしは言う、「法」をも超えて大切な「情理と人格」の問題がある。少なくも娘・夕日子にはそれを知りなさいと訓えたい。

* 人も知る聟・★★★は、早稲田の教育学部助手を経てパリに学び、早大理事であった亡き父上をつぐ教育哲学等の現在教授であり、ヨーロッパの人文主義の系譜にある一学徒かと察している。ところが、不思議なことに、その学習が身についていないというのだろうか、日本語の理解が貧しいのか、とんでもない誤解からかんたんに「暴発」する。
十数年前には、小説家であるわたしの文学上のモティーフである「身内」という言葉を粗忽に誤解して、途方もなく「暴発」し、わたしたち舅・姑にむかい聴くに堪えない罵詈雑言を手紙で繰り返し続け、ついにはわれわれは彼から姻戚から「離縁」され、その結果娘や孫との今に至る十数年の断絶を強いられることになった。不幸にもそれがやす香の無惨な死去に影響してしまったのだ。
わたしの「身内」の説はかならずしも容易でないから、当座の浅慮・誤解にも同情できなくはないが、若輩の無礼ぶりはあまりといえば下品で愚劣だった。呆れた。
しかしも今回のやす香の不幸な死に、「死なれた」悲しみもさりながら、「死なせた」悔いと自責も深いとのわたしの言葉を、「死なせた」とは両親を「殺人者」であるというものだ、秦は「殺人者キャンペーン」で★★夫妻を名誉毀損している、「法」に訴える訴える訴えると、手をかえ品をかえ、言いがかりをついに「ハラスメント」にまで押し広げて、脅しつづけたのである。
わたしには「死の文化叢書(弘文堂)」の一冊に『死なれて死なせて』と題したよく読まれた著書があり、こんな浅薄な誤解を青山学院大学の哲学系の教授が犯すなど、どう思っても不審に堪えない。「死なせた」「死なせてしまった」など、気をつけていれば、テレビから日に何度も聞こえて来る普通の物言いではないか。

* まこと心貧しくも★★★・夕日子夫妻は、ことあるつど、「法」の力でわたしを叩きつぶすと言ってきた。争えば「95%の勝訴」だともトクトクと言ってくる。
具体的に挙げる。
わたしが、病苦に喘いでいた孫やす香の「MIXI」日記を、一個所に纏めて多く文章に引用したのは、日記の「相続権者」である両親の権利を「法」的に犯している、と。
当の娘・夕日子と、父親であるわたしのごく穏やかに仲よい旅写真などをホームページに載せると、「肖像権侵害」だと「内容証明郵便」を寄越し、「法」に訴えるぞ、と。
その娘がとうとう小説を書き始めたと聞いて驚喜し、苦労して片々たるブログから延々再現し、わたしの編輯している「e-文庫・湖(umi)」に仮置きし、「いい読者」たちに少しでも読んで貰えるようにはからい、日記では作の出来を褒めたり助言したりした、そのすべてが、父による「高慢」な著作権侵害・名誉毀損・財産権侵害であって、民事刑事の「法」に訴えると威嚇してくる。いと簡単に、繰り返し言い立ててくる。
「法」「法」「法」の一点張り。情理の具足がまったく無い。アカの他人ではないのだ、親と子とである。どこに、告訴や訴訟に及ばねばならない何があるか。この「私語」ファイルの末尾に敢えて掲げてある、久しい親和の写真や夕日子自身のハガキなどを見れば簡明に分かる、一目瞭然、★★達がどんなにムチャクチャを言っているか。

* 寂しいことに「人格」が全く感じられない。何もかもの物証・挙証が彼らの「人間失格」「人格障害」を自白しているかのようではないか。だが、これを読むやいなや彼らはまたしても名誉毀損だ、「法」に訴える、と言ってきかねない。
2006 12・13 63

* 語られうる「道」など、本当の道ではない。語られうる「真実」など、本当の真実じゃない。覚者は、だから書かない。大抵の聖典は弟子の解釈が入った文書であり、仏陀の、イエスの、ソクラテスの書いたものは残っていない。真実は語られ得ないし、教えられ得ない。書く人間は痛いほどそのことを知っていなければならず、その上で自身にきつく爪をたてながら、「書く」のだ、「覚悟」して。覚者は概して「言葉」に厳しい。言葉に対して安易に賛成しない、いつも反対なのだ。言葉を頼めばその瞬間から足もとに我と我が手で陥穽を掘っている。「書く」人間はそれを知っていなければならない。私は、知っていなければいけない。

* ホフマンの小説『黄金宝壺』に、人の書いた文書を、壺にはった不思議の水につけると、ろくでもない文書はたちどころに文字が消えて流れてしまう場面が書かれている。消えて流れない書き物。その可能不可能は論じがたく、ただ水につけると流れてしまうという厳しい審判だけがある。
審判を恐れていてはならない。ひたすら書かれる命の文字がありえて、消えも流れもせず宝壺の祝福を受けることを、内心に期待すらせずに、「書く」べきは「書く」生きようがある。わたしは、そのような生きを願っている。
2006 12・14 63

* 内匠頭の殿中刃傷の前には、「浅慮の暴行」と謂われて仕方ないあの江戸城ないし大名家来達世間の「常識」というものがある。だが、そればかりでは律しがたいものも厳然としてあった。武士道を超えて出た「人間」の、或いは「人情」の真実があるはずという観測や意見がある。感動はもっぱらそっちに生まれてくる。
内匠頭は即日腹を切った。切らされた。吉良上野介はおとがめ無く全快した。そこでまかり通った「常識」には、お上「ご政道」という権威も法度もものを言うていた。「法」というなら、内匠頭は「法」のままに裁かれた。両成敗の喧嘩とはみなかったのだ、上野は刀に手も掛けず遁れようとしていた。「法」は「法」ですといえば、文句の出る筋ではない、内匠頭のつまり「負け」であった。
だが、必ずしも「法」だけでことの真相を観ない、測らない意見が広く沸騰した。「法」だけを笠に着た「ご政道」ですら沸騰する批判の前に凹んできた。だが死刑が執行されてしまっていては、もう高級審のやり直しも利かない。
内蔵助らの「討入」にはそんな事態の推移を踏まえ、公儀ご政道へ歯向かい楯突く超法規的な「抗議の情理」があった。むろん天下ご政道からは「討入は暴挙」とする「法」の建前が生きている。生きているとのリクツはやはり浪士達の上にも通されたのである、だから浪士一同「切腹」となった。「法」は「法」だ。
だが、内匠頭の刃傷にも内蔵助ら浪士の討入りにも、天下の支持は熱いほどであった。型にはまった冷えた「法」と、「法」だけでことは見えるものかという「情理」「志義」と、の差であったと思う。

* 刃傷の直後、仇討・討入などとんでもない、そんなことをされては迷惑すると思う「世間」も、明らかに実在していた。もしそんな最中、人の世のしがらみの中で浪士が討入を公言していれば、「法」は、簡単に大石以下の浪士を処分できただろう。だからそんな「法」をすり抜けて行く道を、大石以下の彼らは、英知と忍耐とで見つけて、歩み進んだ。
しなければならぬことは、しなければならぬ。

* 坂田藤十郎の内蔵助で、また中村梅玉の綱豊卿、片岡我當の新井勘解由、中村翫雀の富森助右衛門で、「元禄忠臣蔵」の「伏見撞木町」「お濱御殿」「南部坂雪の別れ」をおもしろく観た。
藤十郎にも梅玉にも我當にも、芝居気分を豊かに満たされた。満たされながら、わたしは、人を、軽薄で無道とすらいえる「法」一律で何でも彼でも律し縛ることの罪重きこと、権利一辺倒で、正義と到底想われぬ権利をゴリオシする人間社会の情理の歪みにも、決して承服しかねる気持ちを胸に抱いていた。 2006 12・21 63

* 秋山駿さんに『私小説という人生』を戴いた。『かくのごとき、死』にまた一つの新たな時代の新たな私小説の芽を読み取られのかも知れない。
花袋の『蒲団』『生』も藤村の『家』『新生』『嵐』も直哉の『和解』『母の死と新しい母』も瀧井孝作の『無限抱擁』「結婚まで」もみな私小説であり、それらを論じた優れた論攷から多くを学び取って文学の道に歩んだ後輩は多い。
しかしそれらの全部に共通して言えるのは、どの作家もどの批評も、例えば「MIXI」のようなメディアを知らず、ケイタイもパソコンも事実上知らなかった。そこに書かれ語られた「私」と、今日インターネットを場にして双方向・多方向のウエブ世界を場とも方便とも用いられる私小説の「私」とでは、よほど性格が変わってくる。或いは少しも変わってなどいないのか。そういう論議が「文学論」として成り立ってくる。『かくのごとき、死』はそれを予見させる一つの「報告書」に仕上げてある。
2006 12・22 63

* 六ヶ国会議は、五ヶ国にとって辛抱のしどころなのか、此のシステム自体が機能不全なのか。
根に、「核」を公然保有していながら他国の核保有を責めているという矛盾がある。核を持ちたい病は日本にもあり、たぶん韓国にもあるだろう。米露中三国は、当たり前の顔をして平然核をもち、核で覇権を競っている。それ自体に対する世界的な反省が、反対が、表立って為されないのだから、核を持ちたい国が次々に増えてくるのは自然の趨とすら言える。「核廃絶」への人類的努力の前提に、硬い抵抗盤として「核保有大国のエゴ」のあることを、わたしは最も憎む。そしてむろん北朝鮮の核保有意思を憎む。

* どうすればいいのか。
おそらく大勢の胸に相応の下絵がもう描かれているのだろう。口にする時機でないだけのこと。しかしそれらの下絵は人によりまちまちであるにも違いない。ただ「話し合い協議」という外交の無力だけは証明されてきた、繰り返し何度も。
北朝鮮の国民と、金政権とを、あいまいに「一つ場所」に置いたままの思案にの仕様にこそ、一番の問題がある。疑問がある。
否定し否認さるべきが、何か。そこへ強い意志が集中しなくては、前進も改善もないだろう。ところが「協議」と称する各国の姿勢は、国民の安寧と自立を先に見ようとせず、あくまで金政権の温存を「ことなかれ」に重んじていると見える。日本が敗戦したとき連合国が、日本の国体つまり天皇制を容認したのと、はたして同じリクツになっているのか、それはかなり疑問に思われるが、早合点も危ない。目を背けておれないことだけが、確かである。

* 安倍内閣の未熟と危険さについても、国民は足早に賢く思いを揃え、用心に用心しないと、さまで遠くない時機へむけ、「国」は傾き過ぎてゆく。「美しい国」などという、英知も洞察も説得力も欠いたおセンチな美辞麗句のもっとも無用な、日本はいま深刻な危機にさしかかっている。自分達に都合のいい法律を乱立させながら、肝心要の憲法違反や憲法軽視。この逆立ち現象の根本に、きたない「慾」がいろいろと黴のように絡んでいることが想像されて、情けない。
映画『マトリックス』の最後では、根の根のところの世界の歪みを「直し」に、ネオたちが命がけで世界の核芯部へ飛翔しつづけた。同じことは、小説『ゲド戦記』にも感動的に書かれ、クライマックスを成していた。
リアルな現世でそれらに代わりうる英知や勇気や行為は、実は国民がみなで持ち合わねばならないにしても、人性のかなしい自然、そう、うまく行かない。
すぐれた政治家、すぐれた教育者、すぐれた宗教家・哲学者。それがみな日本では払底している。自他ともに「哲学者」と称しながら、評論家やエッセイストなみの歴史学や民俗学や宗教学の知識開示で世に時めいていたりするのでは情けない。もとより今の時代にパスカルやデカルトやスピノザを思うのは時代錯誤かも知れないが、彼らは時代の根底を築くに足る思索で貢献していた。エラスムスも、ルターも、時代そのものと格闘して人文主義や宗教改革の本義を実践した。政治も王権も彼らに耳を貸さずに居れなかった。
今一つ。国民の魂に響いて行く藝術的獅子吼、これも立ち枯れてマスコミ的な評価にだけ揺られまるで浮き草のようだ。音楽でも文学でも絵画でも映画でも演劇でもいいのだ、結局は真実優れたそれらが必要になる。欲しくなる。
ところがことを文学で観れば、創作の方向がこれまた「慾」につられて、「性」の氾濫とタッグを組み合い、ただに衆愚化政権への貢ぎを競い合っている。こんなでは、おはなしにも何にもならない。
理想と愛とに満たされた現実を見抜く「志気」 これが枯れ、涸れ、命果てようとしている。
2006 12・23 63

☆ 早速『慈子』、お送りくださり、ありがとうございました。お忙しいなかお書きくださった文字の一言一言、お手の跡をたどっています。
『流雲吐月』、いい言葉ですね。お床に掛けたい言葉です。折しも年末、新しい年の予感がいたします。
流れゆく雲からぴかぴかに磨かれた明月がぽっかり現れた瞬間のような、2007年の始まりの予感です。
『平家』のパスワードでたどりついた先生のHPとの出会いが、新しい時代を開く実りあるお作を拝見する感激に結びつくことになるとは、思いもよらないことでした。『かくのごとき、死』は、悲しみを超克していく足どりの、強い一歩だと信じました。
『私語』で、先生やみなさんが言われているように、双方向の、電子時代の、全く新しい、画期的な、『私小説』が新たな近い未来に期待できるであろうことは私にもわかります。文学が、こんな方向にも広がっていくのか、という驚きを感じます。
そのほとばしりでた清い流れの一点に紛れ込ませていただいていることを思ったら、身震いがしてきました。
どうぞ、その流れの先頭で、力強く導いていってくださるようお願いいたします。  洋

* 何度も自身認めているように、わたしは、いわゆる世の多数派でありえない人間で、もし多数派を「世間」と呼ぶべきなら、わたしは所詮「世間」に容れられないだろう、志操において、思想において、意見と行動において。わたしを理解して下さる方々は、その意味で「世間」との中にたって、頑固者のわたしをせいぜい放れ凧にしてやるまいと思っていて下さる気がする。感謝している。
わたしが多くの読者や知友の皆さんの声や文を、十分気遣いながら此処に掲げさせてもらうのは、それらがまた此の「私」という男の「表現」で在り得ているからだ。一人の人間は、社会的にはそういう「多数他者」からの思いや評価を照り返しつつ「自己」を形作っている。それ自体は決して堅固な確実を意味しない一種いわば幻影・幻像であるにしても、それもまた現象的に或る事実面の反映になる。「人の世」という「世間」では、それが「自分」であるという約束になりやすい。それでもよろしく、それでは危うい、難しい機微がそこにある。

* わたしは頑ななところの多い男だが、自分を「明けひろげて」生きてきた。近年はことにそうである。露出でも顕示でもない。そんな小さな拘りではない。青空という「鏡」の下で大の字の総身・総心を映させておけばいい、その鏡からは所詮遁れられないのだから、と。
文学では自身を秘め隠したまま表せる道があるとも、そんなものは無いとも、言える。作風がそこできまってくるが、人としての生き方はその前に決まってくる。これには「時代」もかかわる。
秦恒平ほど時代と徹して関わらない作者は稀有だと、デビューの頃に批評した優れた批評家がいたけれども、感謝しながら、それはどうかなと自身は考えていた。
わたしは「歴史」から人生と人間とを学んできた。「時代」を読むことを大切にいつも自身に課題してきた。
東工大教授に突如名指されたとき、「名人事」ですと支持してくれた大勢の知友の思いも汲みながら、わたし自身は、なにより自分の足もとで「時代」の動くのを感じていた。この大学に足場を置いて「時代」に身を委ねて行くなら、「コンピュータ」だろうと、初月給を貰う前から、わたしは自身に語りかけた。「お前は時代を、先へ行け」と教えていた。
わたしが、ワープロと異なりパソコンに最も期待したのは、「双方向」「多方向」の疏通を可能にする機械力と、それにともなう、いわば「毒の効き目」であった。毒を持たない文明などあり得ないし、毒を持たない強い文学もありえない。毒をどう嘗めて体質を変え、その毒をどう文学に実験するか。

* わたしは、コンピュータに助けられ、自身を「明け渡す」日々へ身を運んでいったと思う。「明け渡す」とは、バグワンの言葉である。古びた別の物言いに翻訳できる余地はあるが、あえてしない。露出だの顕示だのとは次元が違う。「自身」を「明けひろげ」「明け渡して」前へ進めるという予感を、わたしは早くから持っていたし、インターネットには少なくも実験的なその視野が見えていた。毒のつよさもはっきり見え、その度は強まってきていた。
2006 12・23 63

* 「MIXI」に『好き嫌い百人一首』を連載し終えた今、小松英雄さんの『古典再入門』を読み進めていて、ちと、立ち止まったところがある。叮嚀に読まなくてはいけないので即断しないけれども、小松さんは、すくなくも徒然草の時代に「法師」と謂うのは、蔑視したクソ坊主ふうの呼び方であり、敬意あるべきは「僧」とか「僧正」のたぐいで呼んだと切論されている。鉾先は多くの学者の理解や、古語辞典にも及んでいる。
すると徒然草の筆者を「兼好法師」と呼ぶのはとんでもない失礼に当たるわけだ。時代がまちまちで兼好よりはみな古いにせよ『小倉百人一首』には、坊主めくりが出来るほど僧籍の作者少なからず、遍昭、行尊、慈円のほかは、例外なく「西行法師」「寂蓮法師」「俊恵法師」など「法師」と呼ばれている。蝉丸は、あれは猿丸大夫とともに埒外の例外的な存在。
で、定家卿にしても子の為家にしても、まさか西行や寂連や俊恵をクソ坊主よばわりするわけがない。小松さんの説が或る「時代を限定」していたものと理解した方がいいのだろう。或る限られた時代にならば、「法師」とあるだけで読者はすでにクソ坊主、不出来な坊主と予見できたはずと小松さんは書かれているのだろう。「時代」とはそういうものでもある。
よく似たことに、「竹取の翁」や『竹取物語』がある。今の我々は竹を取るのをなりわいにする翁とだけ理解してこの呼び名を迎えている、が、書かれた最初の頃には、この呼び名や物語の題を見聞きしただけで、その時代の読者は、そこに竹取ゆえの「賤視」を働かせていたはずと、たしか柳田国男は書いている。柳田の説は当たっていたとわたしはこの『竹取物語』を読んできた。こういう機微は、時代の推移とともに希薄になる。それを重く咎めることはしにくい、機微とはその謂いのつもりである。
* 「ペン電子文藝館」に、文学作品としてはたいした秀作と称賛を惜しまぬまま、ついに「掲載」を委員長判断でとめてしまった明治期、小栗風葉の『寝白粉』という小説がある。わたしのように、その辺の問題に、世情や伝習に、幼来くわしいものには、とてもその露骨な差別描写を自身の手で公開に堪えなかった。だが、おどろいたことに、委員会の委員・会員のかなり多くが、そのなまなしい差別描写を差別描写としては読み取らなかった。もう時代の勢いに吹かれて、幸か不幸か風化していたのである。
ま、それでもわたしは、それを電子文藝館に掲載しなかった、自分で読み自分でスキャンし、自分で繰り返し校正していながら、やはり載せ難いと判定したのである。
2006 12・25 63

*「世界の歴史」第七巻、松田智雄ほか執筆の『近代への序曲』を読み終えた。ダンテ、ミケランジェロ、メディチそして偉大な人文主義者エラスムスらの「ルネサンス」、ルター、トゥイングリ、カルヴァンらの「宗教改革」と血腥い葛藤。そして北欧、仏独西、法王のローマのさまざまな躍動・蠢動・支配欲。新興ネーデルラントの台頭、エリザベス女王とシェイクスピアの陽気な大イングランド序曲。大きな大きな序曲。モロワの『英国史』を読んだアトでもあり、なまじの読み物よりもはるかに「世界史」のこの巻は興味深かった。今が今の自身に繋がる「人類史の跫音」を聴く感銘、言葉にならないほど深い。広い。
次は、わたしの最も厭い嫌う『絶対君主と、人民』との死闘が始まる。福沢諭吉がどんな意味で謂った謂わぬにかかわりなく、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」とわたしは堅く信じている。支配せず支配されない人生でありたい。出版資本のねじけた文学と作者支配に抗して自立したわたしの「湖の本」の努力を、さも浅はかに嗤う人も世間にいないではないが、こういうわたしの「志操」を知らないだけのこと。
2006 12・26 63

* すさまじい大雨であったが、天空をかける霹靂はすばらしい藝術のように聴いた。一度二度は首をすくめたが、雷鳴の不思議に魅了される心地だった。もし被害をうければひとたまりもない。雷に打たれるということは歴史にも幾度も例がある。

* 国民学校の四年生、丹波の山奥に戦時疎開した年の真夏だった、あれは隣部落にある学校の帰り、もうすぐ家に着くという山道で、土砂降りに遭っていた。雷鳴轟いていた。一散に草蒸す細道を駈けていた。そのときだ、ほんの数メートル向こうで白熱の火柱が立った。そう感じた。落雷であったか、雷電か。距離はもっとあったか。何も判じかねたが、わたしは棒立ちから尻餅になって道に落ちた。雷をもっとも身近に実感した一度だけの体験だが、こわがりのわたしが、あの火柱と雷鳴と土砂降りとを爽快に感じていたのは忘れない。真夏で、少しも寒くなかったからか。

* 戦時疎開の日々は苦辛ばかりだったが、顧みてあの一年半に余る山村での体験がなく、京の町なかしか知らなかったら、わたしは、そもそも処女作『或る折臂翁』も太宰賞作『清経入水』も書けなかった。そう思って運命のまえに頭を垂れる。
2006 12・27 63

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