ぜんぶ秦恒平文学の話

文学作法 2007年

* これという何もしないで、静かに時を過ごしていた。
タイトルは知らない、宮沢りえ、中村勘太郎、阿部寛らが「瀬戸内寂聴伝」のようなドラマをやっていた。ご本人を見知っているので、宮沢りえが、演技では文句なくうまいがなんだか終始人違いな感じがして弱った。男どもはまずあんなものか。
人によれば、簡単に小説家に成れるんだと勘違いした人もあるかもしれない。
いずれにしても、わたしの歩んだ小説家への道、また小説家になってからの道がよほどちがっている。しかし出家という瀬戸内さんの決意とわたしの湖の本という「出世間」の決意とは結ばれている同質性が、ある、だろうか。ただし瀬戸内さんはいわば愛染無明との別れであり、わたしは出版資本との別れであった。
昔も今もまだ大きくは変わっていない、物書きたちは出版資本に認められ飼育されて「ナンボ」の道をまだ歩いている。
わたしの場合は「作品」が先ず識者に認められ、出版の側から文学賞付きで文壇に招いてくれた。応募すらしなかった。そして人も呆れるほど沢山な本を次から次からと書いた。そして潮時と観てわたしの方で文壇や出版の世界から、いわばあっさり家出した。出家した。
以来二十年余が過ぎて、わたしは変わりなくわたしの「今・此処」を日々に歩んでいる。文壇からも出版からも消え失せたわけではない、なにひとつわたしが拘束されていないだけだ。
そんな人生でありたいと、ほぼ願ったとおりに暮らせているのが有り難い。
2007 1・6 64

* 小説は、粗筋でも、お話でも、人間関係でも、事件でも、事変でもない。いわばそれらを「構築的な美観」として「言語でみごとに構成し表現」してゆく「文章創作行為」である。芥川龍之介と論争した谷崎潤一郎のそのように述べた見解に、わたしは賛成している。
この条件この前提を、たった一つでも満たさない、ただの粗筋や、ただのお話や、ただの人間関係や、ただの事件や、ただの事変などを、わたしは文学的な「小説」とは認めない。だから『秘色』や『みごもりの湖』は小説だと自負しても、『蘇我殿幻想』はエッセイとした。後者でわたしは叙述し表現したが、文章にも集中したが、小説としての構成は緩くし、あえて求心的に組み立てなかったからである。
小説は、手を出すには甘いものでない。手を出すからは「文学の名作」を提出する気でなくては意味がない。もしドストエフスキーを尊敬しているなら、ドストエフスキーよりも良くて彼には書けない作品を書かなくては意味がない。シェイクスピアでも、チェーホフでも、夏目漱石でも谷崎潤一郎でも島崎藤村でも、全く同じこと。その人達を真実尊敬し愛読しているなら、自分の書くものはそれら文豪の上を行って彼らには書けない「名作」を書く気でなければ「書いてはいけない」ほどの、容易ならぬ藝術なのである、文学は。小説は。
電子化機械の出現がもたらした文学への最大の毒は、こういう最高度の覚悟を希薄に拡散させたことであると、わたしは久しく嘆いている。
2007 1・8 64

* 京の「わる口、批評語」を丹念に再校し再考している。自分の根を洗っている気がする。あのまま京都で暮らしていたらゼッタイに見えなかったろうものやことを、観ている。「引いて、入る」。批評や鑑賞のもっとも微妙なところか。
夜中に目覚め、この後自分は何がしたいだろう、と、闇の奧へ問いかけた。簡単に答は出てこなかった。そういうことを、自分は自分に問う気になってるんゃなあと想っていた。
2007 1・14 64

* テレビの広告で、母親が、元気いっぱい「焼きおにぎり」を頬張る少年の口のききようを、優しく、しかしいちいち訂正しているのを聞いた。少年が「うまい!」と叫ぶと、母親は「おいしいでしょう」と。
サカサマだと、むかし柳田国男が書いていた。同じような例で「喰う」と「食べる」もとりあげていた。
どうやら「おいしい」「たべる」は叮嚀で穏当な物言い、「うまい」「くう」はゾンザイな物言いとなっているらしい、先の優しいお母さんがそれを証している。
だが日本語として、「おいしい」も「たべる」も、今今に用いて理解しているのとは、ややかけ離れた語彙であったかもしれない。
「おいしい」のもともとの語幹は形容詞の「いし=美しい、みごと、的確、端麗、そして美味」、「たべる」のほうは動詞の「たぶ=賜る、戴く、頂戴する」であり、辞書をひけば懇切な解説がある。「いしいし」という女房言葉は「おいしい」意味のかげに、好物の「団子」を隠している。ものの譬えにも那須与一が扇の的を射抜けば、源平の兵達はこぞって、「いしくもしたり」と褒めたろう。耳に叶う部下の提言に、主君は「いしくも申したり」と褒めたものだ。
これに対し、「うまい」は美味い、旨い、甘い、上手い、巧いの意味を綜合して、根には「熟む」意義がひそむだろう。
上の少年と母親とは、「うまし」と「いし」との「派ちがい」でぶつかっていることになる。「サカサマ」というほどでなくても、すくなくも少年の「うまい」をゾンザイな物言いとにわかに訂正するのは、行き過ぎであるだろう。
2007 1・17 64

* 動かなければ出逢えない と書いた小池邦夫の赤い魚二尾の繪を持っていた。今は人に贈って、無い。
動かなければ出逢えないか。それがほんとうなら、こう動かない今のわたしに出逢いは無い。
動けばいいのか。外へ外へ、もっともっとと、動けば動くほど大事なモノや場所からいっそう遠ざかる気がしている。まして一枚の「鏡」のように、「湖面」のように在りたいわたしに、自ら動く、動いて迎えてモノの影を映そうとするのは、自己矛盾。どんな色や形の雲も、鳥も、人も、事も、物も、来れば平等に映し、去れば平等に去らしむ。わたしはカメラのレンズのように被写体を選ばない。一視同仁、来て拒まない、去って追わない。そう在りたい、そう、いたい。
とまあ、いつものようにそんなことを想いながら、いまも、椅子の上で三十分ほどほぼ昏睡していた。冬眠しているようだ、青陽の春もきざしているというのに。
今年、人の顔をみたといえるのは、三が日の建日子と、十一日歌舞伎座で幸四郎夫人そして茜屋珈琲のマスターだけ。あとは書物に耽溺。電子メールは、まるで不良メールをただ「削除」するためにだけ存在している。

* と、今、こんなメールが来た。冬眠、ばればれ。やれやれ。こういうこと、家族は言わない。見ていない。

* 歌会始のお題も「月」でした。おそれ多いことではありますが、佳いと思った歌は一つもありません。歌に思えぬ歌もあり。選者が悪いのか、そもそもろくな歌がこないのか。日本の文化が益々衰えて形骸化していくのではないかと、いささかブルーになりました。でも、湖の、月のお歌も俳句もとても佳く、藝術の香気を味わわせていただいてにっこり。
とはいえ、私には憂慮していることがありますので、愛読者として書かせてください。
ご自身の創作活動のために、「私語」の更新に関心がなくなっていらっしゃるのならいいのです。そうなら以下のことは読み流して削除してください。
「私語」を拝見していて、最近意欲の低下のようなものを感じるのです。創作意欲、生きる意欲、すべてにわたって、今までになく低調なのです。熱がありません。湖は、疲れています。
「去年バテ」と書かれていましたが、明るくいられるご心境でないのは当然ですが、ただごとではない沈鬱です。店じまいみたいです。厭世観は今までもありましたが、そこにはむしろ創作のバネになるようなエネルギーがありました。今のような「淡さ薄さ」は、湖のいかなる創作においても経験したことがありません。小説家として本来の創作に全力を注いでいる結果、「私語」がトーンダウンしているのでありますようにと願っています。元気に生きて書いて、書いて生きてください。杞憂でないことを祈り続けています。
ロラン・バルトの「恋愛のディスクール・断章」をお読みになったことはおありですか。とても面白いスタイルで夢中で読みました。世界中の名作の中から恋愛に関する文章の一部分をテーマ別に集めて、恋愛についての思索を創作的に展開している独特のスタイルは、小説でもエッセイでも文藝評論でも哲学書でも読んだことのないもので、非常に新鮮でした。そして、この断片の寄せ集めに閃くものがありました。
松岡正剛さんは「部分(断片)は全体を凌駕する」という思想を述べています。私が湖の「私語」の言葉を集めたいと思ったのも、湖の私語の断片が、壮大な長編小説に匹敵する文藝の広がりと深さを持つと直観したからです。私は私語の文章の断片を、テーマを決めて集めるお手伝いをして、湖の手でさらに輝く作品が創作される過程を見たい、読みたいと、そんな想いを抱きました。
湖に唯一欠けているものがあるとすれば、剽軽さやユーモアでしょうか。なんでもかんでも深刻にしてしまう。全部手に入れるか捨て去るかどちらかにしてしまう極端な人です。
私の扉はいつも「湖」に開かれています。私の中の「あこがれ」が消えることはありません。私の中の湖は忘れたり遠くなったりする存在ではありません。私は蔭ながらいつまでも湖のお供いたします。どのようなかたちでも、湖の為に生きています。
どうぞお元気で、お元気で。お幸せでいらしてください。  叡

* この種の「恋文」はみなわたしの「創作」だろうとわらった人がいた。ハハハ。
だが勘違いもある。「闇に言い置く私語」が量的に逓減してゆくのは、時間を惜しんでいるからと読んでもらうことも可能ではないか。「mixi」にわたしが掛けている時間など知れている。マイミクを増やしてその人達のなかから数人ずつの日記を読むのはほぼ一服の煙草ていど。また作品を連載するのは、一つにはより厳密に校正しておくため。校正のための校正は辛抱仕事。公表・公開をかねるのは、わたしにすれば文学活動。それもたいした一日量でもない。心知った気の置けないE-OLDSのマイミク達をふやしたのは、安心して読めるものを期待し、むだに「mixi」世間をだらだらと泳ぎ回らないため、だ。日に、一時間半とは時間をとられていない。
2007 1・18 64

* 文藝家には、藝術的な文藝創作者には、ときには妄想と謂っても当たるちからづよい空想力、実は「想像力という創造力」が基幹の才能として不可欠なのだが、その最も比喩的に象徴的な実例は、遍歴騎士ドン・キホーテにおける気高きドゥルシネア姫である。かかる理想がもう本気で信じられなくなったとき、藝術家の創造的な夢は薄れて行く。
大きな問題がある。ドン・キホーテは現実の男であるのに、ドゥルシネアは現実の姫ではないということ。ここに堪らなくおもしろい狂気の問題がある。狂気にはやく気づいてしまうのが男として幸福か不幸かは、むずかしい判断だが、作家としては確実に不幸なのではなかろうか。作家の行為が一種の「たづね人」だと『四度の瀧』にわたしは書いた。ドゥルシネアを尋ね続けるのか、ドゥルシネアなんていなかったと夢からさめるのか。

* 茫然と、ほぼ無心でと謂うてもいいが、気に入りの作業に凄い数になった写真を機械にひっぱりだしてはトリミングする面白さにひたっている時がある。デジカメの写真は撮影自体は入り口にすぎない。たとえば二百三百もの「花」の写真を一枚一枚慎重にトリミングする作業は文章の推敲に匹敵する。それ以上の機械的技術はもっていないのだから、微細な、しかも極めて制約の多いトリミングに勘を集中する。一つ一つの「花」がわたしを魅惑する、あるいは致命的に早まった判断で死なせてしまう。佳い音楽を聴きながら花をより美しく咲かせる。休息ではあるが、一種安を偸むにも似ていて、また「叡」さんに叱られるかも。
2007 1・18 64

* 難儀な「検討」を夢の中でせっせと繰り返していた。「議論」でもあったし「反省」とも言えたが、いま再現することはできない。覚えていない。

* わたしは「批評」という行為が人間日常のありようであると、朧ろにであるが学生時分からほぼ信じていた。思考・志向も行為も、自ずと外へ働き、その働き方は、割切って云えば多くの場合、いや殆ど総ての場合、「分割しておいて選択する」という順序でなされる。パンか飯か、食うか喰わないか。飯にしよう。あいつかこいつか。あれかこれかそれか。あいつにしよう。それにしよう。
事の大小にかかわらず人はそのように「物、事、人」の状況をまず「分別=認識」し「選択=判断」している。これがいわゆる「批評」行為であることは、明らか。
四六時中、このように、何をする、何をしない、何を取る、何を取らない、どうする・こうする・そうすると「分別」して「選択」している。選択の推力が、思考であったり欲望であったりセンスであったりするが、基本形は同じだ。人は批評しながら生きている。批評は大事だ、そしてすぐれた批評もドジな批評もある。
ま、ながいあいだ、わたしは「批評」の信奉者で「批評的に思考」することを自身に許容、いや要請していた。つまり「マインド」という名の「心」派人間だった。
だがわたしの仕事が証明するように、わたしはその「心=マインド=分別」への疑念や不審や不信を軸に、いわば「自己批評」を重ねてきた。
「心は頼れるか」「心は頼れない」「心は不安の根源」だと。
そして「静かな心=無心」を願うようになり、最大最深の批評でありげな「抱き柱」への依拠を放棄しようとしてきた。「抱き柱は要らない」と云ってきた。どんな抱き柱にしがみつき、縋り付くかは、人それぞれの何より深い意味の選択だろうが、その選択がつまり分別の最たるものであり、しかし、それでは実はほんものの安心や無心はえられないだろう、ようするに単に「選択の結果」にしがみつくに過ぎないのだから、と感じてきた。

* イギリス人はいまでも国教、カソリック、新教のいろんな分派の存在で国を成しながら、いずまいわるくお互いに身じろぎしているし、国外からはそれゆえのテロ行為にもさらされたりしている。中東では現に見ているような「宗教」というよりしがみつく「抱き柱」としての「神」のありようを理由に、悲惨な生死劇がむちゃくちゃに繰り返されている。最高で最深であると信じている「抱き柱」の選択そのものが理由での「不幸と悲惨」が、おそらくこのまま行けばほぼ永遠に繰り返されるのだろう。分別する「心」の批評性の悲劇である。誰かにゼッタイに正しいはずの選択と抱き柱とが、他の誰かには悪魔の所業になる。「選ぶ」からそうなる。選んでしがみつくから、そうなる。
「分別」という、いかにも賢そうな「心=マインド」の愚痴がこれらを招いている。

* わたしたちは、「心、言葉」を過信した悲劇を日常的に目のあたりにしている。自身の内側に眼をむけるつど、なにより危ないのは「思考過信の選択とその固執」だと気づくようになってきた。批評の信奉者として生きていることの「暢気な自己肯定」を危惧するようになった。そんな批評も選択も、生死の大事には厄介な躓きになるだけ、難儀になるだけだとかろうじて気づいてきた。
二言目に「心」を持ち出す知識人や宗教者にであうつど、わたしは眉にツバをつける。

* ああ、今はこの辺にしておく。

☆ 町田市指定収集袋
燃やせるごみ専用
40ℓ800円(1セット10枚入り)
つまり、1回のゴミ捨てが80円。
20ℓだと、1枚40円
10ℓは、20円
5ℓは、10円

週に2回燃やせるゴミの日があるが、
40ℓ×2回=160円
1週間に燃やせるゴミ捨てだけで160円だぁ。

ちなみに燃やせないゴミは、別の色の袋がある。
料金は、燃やせるゴミと同。
燃やせないゴミは、体積の大きいものがほとんどだから、
結構、こっちもお金がかかるのよ。

(以前の住地)浦和は、ゴミ捨ての有料化がまだったから、羨ましいね。
有料化の生活に最初は、戸惑ったけど、
なんかねぇ~最近は、
ゴミの量を少なく!!
ゴミの分別はしっかりと!!
当たり前のことなんだけど、それが身についてきたっ酢!!  吉

* 若いお嫁さんの、こういう独り言は世間に溢れているであろうけれど、こうして耳に目にとまるのも、わたしには珍しい。最後の三行がいい。これも批評、このお嫁さんの思いも、やはり批評。批評という働きは無くすことはできない。「批評」の批評は、奥が深い。
2007 1・24 64

* 深草から稲荷へのゾクゾク来る「異世界」感覚を、雀さん、的確に全身で感じていたようだ。わたしの『冬祭り』や『風の奏で』の世界・舞台でもある。石峰寺は若冲石仏寺でもある。伏見深草稲荷一帯は、じつに深刻に「上古の異界」をはらんでいて、言葉軽く謂うならこんなにおもしろい風土はザラにないよ、と、小説家になる前の甥、黒川創によく話してやった。彼の文壇出世作は、画家若冲であった。美術史にはてんと疎かった左翼ボーイのみごとな変貌と充実とがはじまったのだ、もう懐かしいだけの昔話であるが。
雀さんの「深草」体験は俊成卿の名歌にあらわれる「鶉」へ転じて行く。
2007 1・24 64

* 一昨日、突如、多年使い慣れたパソコンの親機が故障した。親機の本体が壊れたか、或いはディスプレイがついに働きを喪ったのか、希望を言うと後者なのだが、いずれにしても使い物にならなくなった。
親機は所謂「ウインドウズ98」で、甚だオールド・バージョン。モニターはそれ以上に古く、東工大時代に生協で買った。消耗してても仕方ない老齢品。
親機には殆どの作や文章や日記やホームページが満載されていて、MOディスクでバックアップしたのも、全部でない。モニターが使えなければディスクに補充も出来ず、ディスクから内容を持ち出すことも出来ない。
幸い親機に子機を連結していた。子機は新しい機種XEで、相当量をこの子機へ移転してはあったが、厳密には半量か。
ところが、此の子機、親機が、扱いをいろいろ間違ったのだろう、期待した凡ゆる機能を喪ってしまった。インターネット不能、ホームページ更新不能、電子メール不能、「mixi」も不能、その上に訳分からず、一太郎その他の書字機能まで混乱し、使用できなくなった。漢字ひらかなモードで書こうとすると、ひらかなに数字が混入してくる。十数字のひらかなが数字に化けてしまう。文章が書けない。
ワープロ機能さえ自在なら、たとえ書いて発信できなくても、更新できなくても、書くだけは幾らでも書いておけるのが、それも不可能となると、物書きは、原稿用紙に(現に今こう書いているように)自筆する他に手がない。
書けないのは辛い。とても辛い。
しかし考えようでは、又、このように「原稿用紙に向かえ」ということではないか。機械に頼って、ワープロの昔、『最上徳内北の時代』を「世界」に連載していた頃から、もう四半世紀とも云うまいが、それに近くなる。久しぶりの原稿用紙だ、なつかしさも戸惑いもあるが、晩年をもう一度「此処」へ戻ってきたということか。

* 機械の損傷で喪ったモノは多い。惜しい。口惜しいと思うモノが多い。
だがすべて「過去」とも謂え、さっぱり諦めてもいいのだ。実を云うと機械に向かいながら、機械から離れてもいい、離れた方がいいのではないかと、もう二年三年、内々思い続けていた。
「闇に言い置いた私語」は、八、九年の内に莫大な量になっている。それはそれ、一面からして我が代表的著作に相違ないが、今少し思惟の方面を異にし、本来の創作へ切り換わるタイミングを、いささか焦慮していなかったではない。
機械二台の思いがけない同時の破損は、大きな落胆と同時にいささか手荒に「励まされた心地」が、無くもないのである。

* 実に口煩く「小説」を書けと、言い過ぎるほど言ってくる読者がいて、一年二年悩まされてきたが、その人の「小説家秦恒平」に言ってきたことは、概ね正しい方角をさしていたし、五月蠅くはあっても、言われないよりは言われていて薬、苦いが良薬であったのは間違いない。たまたま機械の破損したのは、その同じ読者から例の苦言がメールで舞い込み、うるさいよ、放っておいてもらいたい、こういうメールは「蒙御免」と返辞しての、直後であった。おやおやと苦笑する気があり、一種の契合めくのを面白いと受容れていいかと、ちら、ちらと思いつづけて「今日=昨日」という日を復旧への全的徒労で過ごしたことであった。

* この日記も、大方ノートにでも書き置けば始末がいいのだけれど、原稿用紙に字が書けるだろうか、ぜひ試みたい気がして、こう、真夜中に起き、原稿用紙を押入の奥から見つけて書いている。ひどい字だが、何とか今四枚分、書けている。
昔、一日に五枚ときめて三百六十五日原稿用紙に書いていた時期がある。年に二千数百枚以上書いた年もあった、むろん「仕上がり」原稿をである。全部が依頼された稿であったが、みな右から左へという按配で「本」になっていった。今は原稿を頼まれることは稀になり、頼まれても断ってしまって、ひたすら機械で、好きなことを莫大に(一日五枚どころか十倍も)書いて発信していた。そういう書き手でもう自分は良いと考えていた。
むろん先の読者のように咎める人もいたし、自分の中にも同じ声を聴きつづけていたと隠す必要はなかろう。

* 小説の文章を書きたいという欲求が、書けなくなってはいないかという不安が、たしかに有った。有る。
機械に向いていては、欲求も不安もつい置き去りに日から日が過ぎて行く。あたりまえである。少し暴力的にこのあたりまえを抑圧し転向させるには、機械環境の破損が早道だとは、繰返し思いもし私語もしてさえいたが、いやはやその「早道」に踏み込んだのだ。
2007 1・28 64

* 『かくのごとき、死』の公刊を、わたしは、踏み込んで是認している。ホームページの片々としたその日その日の日記では、部分的な刺戟感だけ印象にのこり、大事に連携している事態を、読み落としてしまう。
一冊の、それも大冊に、読みやすく纏まれば、さながら経緯は統一体となり、全巻に拠って経緯の如何も真情の拠りどころも、冷静に過不足なく読み取れ、判断も理解もできる。やす香入院以来、惜しい永逝に至る経緯の中に、娘らの名誉を傷つけるような僻事を、曲事を、わたしは本当に公言していたろうか。していない。
死なせた悲しみに自責の念の混じるのは人として当たり前で、無い方が訝しい。それなのに唐突に四十年にもわたる父の「ハラスメント」を言い立てて訴訟に及ぼうなど、信じられぬ暴挙だった。父であるわたし一人の名誉毀損で済まない、妻にも息子にも被害は及んでくる。その不当で無道なことを社会的にも証する全容が、あの本一冊で確然公になったことは、些末な「法」の云々以上に、遙かに大事な決断であった。
2007 1・28 64

* 一昨日にトラヴルが起き、落胆のままたくさん本を読んで、さて寝付けなかったので、起きて原稿用紙に手書きで「私語」しはじめた。五枚書いてから、二階へあがり未練な試行錯誤をつづけたが成果なく、寝床に戻って、『イルスの竪琴』をまた英語で読み続けた。
寝入ったころで宅配に起こされた。栃木から苺を頂戴した。そのまま起きてしまうには疲労があり、気が付くと午後になっていた。

* 親機だけでなく新機にも異様な異常がつぎつぎに現れ、昨夜に持ち出しておいた古い以前の機械を使って、喪ったアレコレの復旧を試みた。成果は乏しく、MOの外付けにやっと成功したものの、ディスクからの再現にいろいろ故障があった。
ことに手痛いのは、多年大事に保存し、大事に思うあまりパスワードで保存していた膨大な資料群が、全く意味不明に「パスワードが間違っています」と全拒絶され、にっちもさっちも行かなくなったこと。
ことの次第の残酷さにあきれたが、ほぼ即座に断念した。諦めた。機械に入っているそうした全ては、つまり「過去」に属している。作品も記録も備忘も、いわば「過去」であり忘れ去っていい「過去」もあるといつも思ってきたのだから、痛恨はいっそ好機でもあるのだ。

* 妻が、もう使っていない自分の古い機械を持ち出してきてくれた。これだと、このように日本文が書ける。書けるなら、「日記」に類する「私語」に原稿用紙を費やさなくていい、原稿用紙では小説が書きたい。原稿用紙にまだ文章が書けるだろうかと少し不安があった。だが蘇る行文の感触には懐かしさも湧き出る。
ここ数年わたしは、いつも「小説」をという頭でいた。小説を書いたり書きさしの作に触れたりしてきた。ことにこの一年、mixiを利してかなり多くの旧作を読み返すうち、技癢を覚えることしばしばでもあった。そう自身を刺激すべく「mixi」を利用してきたに相違なく、目的にまっすぐ向かうには、機械に関わっている時間や精力を思い切り割愛すべきはむろんだった。機械に不調をきたすつど、わたしは時機至るかと刺激された。だが原稿用紙をもちだすまでに至らず、いつもそのうち機械がもとへ戻った。安心と同時にわたしはかすかな失望すら感じた。
今度の機械破壊はただの「不調」ではない。これが易々と早期に復旧すれば、おそらくわたしは或る落胆さえ覚えるにちがいない。

* 小説家が小説を書くのは本来の自然である。まして書きたいならぜひ書けと自身に向かい言いつづけてきた。作品を売る必要は今更ない。「書く」ことが、「良く書く」ことが、大事だ。つまらないものなら書くに及ばない。良いと自身思える良い小説が「書ける」かどうか、諦める時ではない。

* 送信できないが、「闇に言い置く私語の刻」は、こうして持てている。
先日もすこし「闇」に漏らしていたが、「mixi」は、やす香とマイミクになって満一年の二月二十五日で、事実上収束し、時間をこれに大きく割かれるのをやめたいと考えていた。やすかとの一年は満了したかった。
またおそらくペンの理事や委員も、また京都での選者も、自然に、辞してゆく時機にあると観測している。この際に十年ちかくフルに関わってきた機械環境から、いい感じに足抜きをして、良い小説書くべしとは、他人に言われなくても望み、また覚悟している。人に言われてすることでは、もとより、ない。
2007 1・29 64

* スキャナーが幸い働いたので、何はともあれ本一冊を一気にスキャンした。これで新しい「湖の本」入稿の希望がもてる。一気にというが、火事場の馬鹿力に類した。
通算で第九十巻になる。この本を選んだには理由がある。
『逆らひてこそ、父』にせよ『かくのごとき、死』にせよ、「世間」には、違和感を感じ顔をそむけた人もいたに違いない。予想よりうんと少なかったけれど、「湖の本」をもうやめると言ってきた数人も有った。もっと有ると予測していた。やめないまでも、こんな本は出さないほうがいいと思った人は、多年の読者にすら何人かいたに違いない。気持ちはわからぬでない。
だが、わたしは覚悟を決めていた。腹をくくってわたしは「本」にした。「分かったか」と大喝したのだ。次の「湖の本」は、そんな「世間」への、わたしの「答え」になる。この本を数年かけて用意し書き下ろしていたとき、頭には間断なく誰より娘と息子とがあった。これがおまえたちの父の「声」だよと。「思い」だよと。柔らかいハートで聴いてほしい、受け取っておくれと。去年の夏も秋も同じ思いでいた。
出版に際して此の本に「あとがき」を書いたのは、娘が結婚した当日だった。
2007 1・30 64

* 二月になった。例の「寝る前読書」に惹き込まれ、目がさえて、また灯をつけマキリップ作の英語『イルスの竪琴』、小松英雄さんの「土左日記」論、そしてツヴァィクの『メリー・スチュアート』を、耽読。気がついたら七時前。起きて血糖値をはかる。97。

* 目のさえた理由に、書きたい小説のことがあった。世に問いたい、称賛が得たいというのではない。だれにでもない、建日子に、父が老境の小説作品を遺したくなってきた。それだけだ、だが深夜それが強い熱い衝迫になり、健康なうちにという思いに身をひきしめた。床から高くさしあげた両の腕に電灯が照って、このごろ気づいて気にしていた痩せと弛みと無数の小じわ。しみじみとしてしまった。
「きれいな手をしてますねえ」と、昔、あれは伊豆の飲み屋で、店の女だったか隣客だったかにほめられ、自覚のなかったことを意識させられた思い出がある。会社あげて慰安の旅の宴会から逃げ出し、湯の町の小店でひとり飲んでいたときだ。
その手が、二の腕が、すっかり痩せ衰えている。そのようにわたし自身がやせ衰えてきているのに相違なく、そのまま衰え過ぎてはのちのち建日子を励ましてやることが出来まい、それでは可哀想だ。
夜中しきりにそんなことを想っているうち、少し苦しくなり、灯をつけて読書へのがれたと言えば言える。
2007 2・1 65

* 離れ業、本を読んで校正し構成しながら、今夜は映画『マトリックス レボリューション』を観た。何度観てきたか分からない。それでもこのところ、念頭にこの「三部作終編」が纏わり付いていた。
ネオと彼を愛するトリニティとが、世界の「ソース」に深く深く進入して、根底のゆがみを正そうとする。現実世界はよからぬ世界支配意志で「電気的な仮象の機械」化され、世界そのものが大きな「プログラム」と化している。それを嫌った人間たちは地下深くに都市を造り隠れ住んでいる。だが地上から地下への機械的奇怪な侵略は苛烈で、人間の世界は滅亡に瀕している。
ネオとトリニティとは、そういう世界苦の根源からの克服のため、世界の底根へと、「ソース」へと、命を賭して飛翔する。
これまた劇画にほかならないのだが、その思想の下絵と基盤には、キリスト教も仏教もあり、『ゲド戦記』の世界観・人間観とも膚接していると読める。
わたしがこの映画の「終編」にとくに最近心とらわれていたのは、一つには現実の地球世界への、また日本の政情や世情への厭悪や懸念があまりに強いからと、思わずにおれない。
『イルスの竪琴』も含めて、ないし鏡花世界や荷風処世などへの思い傾きも含めて、わたしの中に、たしかに現実や世間を厭悪し嫌悪する気持ちの強いことは、否めない。
しかし同時に、リアルな「今・此処」から断乎逃げ出さない視線・視野の確保にも、わたしは努めている。そのために歴史を思い、また機械文明の行方と人の理想とを、また死生命とを、大事に思索や行為から手放そうとしない。その「執着」を執着として厭い嫌う気を、むしろわたしはまだ前面に出せない・出そうとしない「困った自覚」を、イヤミなほど持している。わるく悟ろうとするより、悟りへの憧憬を捨てて、まだまだ「今・此処」のなさけないリアルに向き合っていようと思うのだ。
それにしても映画の中でネオとトリニティの為しえたことは、為そうと挺身したことは、本当は、政治が、政治家がしなくてどうするのか。
世界が深い芯のところで歪み、病み、苦しんでいる。この認識はポピュラアになりかけている。そうして風説のまま風化しかけている。

* アメリカの前の副大統領ゴアが、今晩、日本のテレビ・バラエテイ番組に出て、真摯に「地球環境の目を剥くほどの危機」を、具体的に、適切に訴えていた。だが、そのアメリカに世界が期待した京都議定書は踏みにじられてもきた。その現実をねばり強く真っ向批判し活動している日本の政治家は、ハテ誰なのであろうか。

* 「ああ、イヤだなあ」と毎日思っている。「投げ出せよそんな荷物」と、声をかけてくる人たちは少なくないが、「いや、まだだ」とわたしは考えている。ふんぎりが悪いと嗤うことは自分自身少しも難しいことでないが、「まだまだ」と、わたしはまだ「今・此処」を足蹴にしようとしない。過去や未来に逃げ出したくない。
2007 2・3 65

* ロバート・デュボアとリチャード・ハリスという老境絶妙の組み合わせに、シャーリー・マクレーン、サンドラ・ブロックという大の贔屓の二人が寄り添った映画『潮風とベーコンサンドとヘミングウェイ』を、眼も耳も放すこと出来ずに見終えた。
春愁ににて非なるもの老愁は   登四郎
うっとりと眠り込みたいように穏和な海辺。静かに静かに静かな海辺。孤独を抱きしめてなお春情に疼いている老人ふたりに、寂しくも心暖かに新たに生まれた男の友情。ふたりを静かにいたわっている二人の女たち。そして音もせずおとずれるカタストロフ。
日は日へ、夜は夜へ。何も変わらぬように何かが変わって行く。
何という妙な映画の題であろう、だがもし「老境」とか「老いらく」とか「たそがれ」とか謂われたら情けない。
ハリスは死んでいた。なぜだろう。彼の絶叫に声もなくそっと寄り添ってたシャーリーとの、よろよろの一夜が、ハリスを幸福に燃え尽くさせたのであって欲しいとわたしは願った。今も願っている。
佳い映画であった。シャーリー・マクレーンもサンドラ・ブロックも優しかった。ハリスもデュボアも溜まらなくいとしかった。彼らの写った鏡の奥の奥にわたし自身の顔も写っていた。

* 「インスパイア」という言葉に一種の信心を寄せてきた。藝術家なら多くが分かち持っている思いだろう、もし「抱き柱」というなら、何か「力ある天恵」にインスパイアされたい、息を吹き込まれたいという願いは、創作者のいわば「抱き柱」だ。凛々と力のわき起こる実感を、わたしも、何度も何度も何度ももった、過去に。まだ持てる、その機がまだ来ると思っている。いや願って待っている。
悲しいかな老境には励みの力が乏しい。人は嗤うかも知れないが、妻に、子供たちに、より大きな喜びを励ましを満足を与えてやりたくて励んできたのは事実であった。それをわが力にし、ものを創りものを書いていた。その必要が無くなったとは思わないが、その力は無いに等しいほどとうに弱まってしまい、そういう意味の励みを心身にもう感じない。
いまわたしを真に励ましてくるモノは何だろう。
名誉でも金でもない。自己満足でもない。あのハリスのマクレーンか、あのデュバルのサンドラか。前者なら、死なねばならない。後者なら別離。
「ベーコンサンド」は物理的・生理的な命しか育まないだろう。ハリスにとって「ヘミングウエイ」は喪ったもののシンボルであった。
2007 2・6 65

* 気持ちに落ち着きがないというか、言い難い不安があった。いまも有る。入稿を急ぎたいと謂ったのとモノのちがった不安であり、何だろうと思っていた。バグワンに聴いていて、あ、これかなと思った。
数日前、「香」さんの述懐に、「庵ならべむ」と応えた。
あれこれの仕事の場から撤退して行く気持ちを書いておられた。退蔵。
あれこれ謂いつつ、この「退蔵」二字にしみじみ目をとめたのは、『親指のマリア』を書いていた頃、いやもっと以前、新井白石の日記を観ていたときだ。ペンの理事に就任した頃から、何度かわたしはこの「退蔵」の気持ちを漏らした。

寂しさにたへたる人のまたもあれな庵ならべん冬の山里  西行

心身から多くの多くのものの脱落して行くとき、それは希有の境涯へむしろ明るんでゆくときなのであるが、そのきわどい間際に感ずるのは、じつは底知れぬ恐怖であり不安であり、へたをすると狂いもしようと、バグワンは容赦なく警告している。
七十年、無数に身に抱いてきた襤褸を脱ぎ捨てる。「心身脱落」と道元は謂っているが、要は執着の数々を、名誉心、安楽心、自負心、することなすこと山のように有る、それらあらゆるを「脱落」させれば、いったんは寒く寒く、執着心はふるえてしまう。その寒いふるえを、はや予感して、わたしはおそれて落ち着かないのではないか。あ、そうか、そうかも知れないと、バグワンの声を夜前、ありがたく聴いて自覚した。そして、おそろしかった。西行ですら「庵をならべあう」友の存在を望んでいたか。

* いま、過ぎ去った歳月の身にも心にも負うてきた堆積を、かなり本気で、もとの平らに均してしまいたいと思っている。そのうえで自由に、したいことがしたい、と願っている。深い意味で義務をもうもつまいというのであろうか、そうも謂えるし違うかも知れない。義務感に煩わされずに来るモノは拒まず去るモノは追わず、負うは負い、棄てるは棄て、理性や分別にたのまず、本能の本然にこそすなおにしたがおうと謂うのであろうか。

* もう一と花とか、死に花を咲かすとか、そういう価値観がおぞましい。
やたらそれを強いる人は堪らないし、だが好意は分かっている。
わたしの「沈黙」には全く無関心に、関わりない受け売りの話題にばかり悩まされるむなしさは、たいていではない。
人生は儀式ではなく、どのように晩年を終えるかはシナリオに用意できない。だが、なにもかもをひっくるめても、確実なのは、死と同行二人の「生きる」だということ。これまでは久しく「生」と会話しながら生きてきたが、いつからか話し相手は「死」に代わって生きている。教えられねばならないのも親しまねばならないのも、嬉しく生きて行くためにも、相手は「死」なのであるなあと思い、少しでも脚軽やかに生き行くには、無用の落とすべきはきっちり落とさねば棄てねばなあと思う。
なるほど執着があればあるほど、落ち着かないであろうよ、不安なのはあたりまえだと苦笑いして、少し気がついたのも、バグワン導師の恵みである。
2007 2・9 65

* 舞台を観て聴いていて、この間、二つの言葉がしっかり耳にとまった。
一つは「したり」一つは「しあはせ」で。ほかにもあったが、たくさんは覚えられずこの二語を念にとどめた。
「したり」が、明らかな称賛ふくみの同感で言われていたのは、わたしの理解に同じかった。「これはしたり」などと否認・否定の意味合いで使われる言葉のようでいて、正しくは「よくした」「そのとおり」「同感・天晴れ」の意でなくてはならないだろうと思ってきたが、その通りに用いられていた。「仕出し」料理の「仕出し」も「仕出したり」つまり旨く良くした、創った、振る舞ったという称賛の意義を下地にはらんでいるはずとわたしは想っている。
もう一つの「しあはせ」は、今日では幸福・ハッピーの意義にのみ用いているけれど、忠臣蔵の舞台では、コトとコトとの「その時その場の出来」合いを意味していた。文字に書けば「仕合わせ」であろう。好きな広告ではないが、仏壇屋のコマーシャルで、女の子が合掌し、「おててとおててを合わせてしあわせ」と言っている、あれは物事と物事、ないし人と人とがたまたま、ないし意図してそのように、「仕合わせ」た事態をさして謂うている。必ずしもハッピーばかりでなく、不幸な「仕合わせ・不仕合わせ」もあり得るという含み。
漢字で「幸せ」などと決めつけてしまうのは、伝統の言葉を浅く狭く限定してしまう。そういう事が有る。漢字、文字にとらわれてのみ日本語を聴いては大きく間違うことを、繰り返し書いたり話したりしてきた。文字に書くにも、なるべく原義・原意に突き返して読んだ方が実は面白いのだ、「五月雨・小乱れ」「蛤・浜栗」「泉・出づ水」などと。
2007 2・9 65

* 演劇は「科白」と謂う。「科」は運動だ、所作だ、舞踏だ。これは十分及第で、欲を言えばさらに洗練された振り付けがあり得たかも知れない。問題は「白」つまり言葉、物言いだ。
先日の歌舞伎座でも、俳優座でも思った。いやいつでも思うこと、一級の俳優であればあるほど台詞がどんな場合にも明瞭明確で、その分母に乗っかって分子としての表現や感情移入や個性を発揮する。言葉はわるいが下っ端へ行けば行くほど不味い。早口ならほんとの早口にしてしまい、結果アイマイにしか意味を伝えられない。今日の演出家も、あれだけの早い激しい動きのなかでする台詞の明瞭な観客席への伝え方を指導しなければ、せっかくの凝った台本の観念的効果も言語的伝達能も活かせないと、気づいてもらいたい。
それにしても佳い女優を大勢出して楽しませてくれた、卓越して巧いとは誰にも思われなかったけれど、一人一人にわが好みの女の魅力を覚えた、が、これは余談。演技者としては円城寺あやに興趣を覚えた。あのままもう少し彼女の人生の悲しさやバカらしさや嬉しさが一人の個性としてにじみ出ていれば見応えになったろう。いや、みんな、よかった。こりゃアカンワというのがいつも一人二人はいるものだが、女優はよくがんばっていた。男では、久しぶりに納谷真大が観られた、彼らしい「警官」を造形していた。オーラをもった男優のやや乏しい中で、身動きのキレのよさは納谷芝居であった。

* さ、問題は秦建日子の作劇である。『月の子供』はじつに聴き取るのにも難しいメッセージを、それもたいそう大切な意味深いメッセージを抱き込んでいるが、抱き方に、いや抱いたモノのそとへ出し方、届け方、与え方に「不十分」があり、おそらく演じている俳優たちの大方はこの作者、何が言いたいのと迷いに迷って理解しきれないまま初日を迎えたのではなかろうかと案じられた。
俳優がそうであるから、観客は、「圧倒的な」舞踏場面や群衆のやっさもっさからくるカタルシスに幾らか瞞着され誤魔化されて「ああ、よかった、おもしろかった」と言ってしまいそうであっても、その実、ポケットの中に今日の芝居「月の子供とは」という分かりのいい「土産」は、とても手に入れにくかったろう。なにも割り切れた分かり方の必要はないが、それでも琴線の震え方に人それぞれの納得があろうというもの。納得が持ち帰れたろうか。
わたしは、小説でも絵画でもそう思うが、「把握が強ければ表現も強くなる」と創作的にも鑑賞的にも、考えている。今日の『月の子供』には、フラグメントとして貴重な思想や主張や意図がちりばめられてあるのに、それも反復されてすらいるのに、「貫く棒の如きもの」が芯棒としてガンとは徹っていない。把握がもっと確かならそれが「見えぬ魅力」の棒になり徹ったであろう。俳優も難しく感じ観客にも「ハテ。では…では…」と思案投げ首にさせて帰しては、作・演出として改良の余地がまだ有るということではなかろうか。主題を概念に翻訳して観客に持ち帰らせよと言うのではない。言葉に置き換える必要なく「理解させる」筋の通し方が、出来てよいのではないか。もう一つ言う、主題を、あるいは舞台の場面場面を「説明」的にせよと言うのでは決して決して、無い。それをやったら通俗のへたな読み物小説のような舞台に堕落してしまう。

* 『月の子供』って、何? そう観客の一人一人が自問自答して、ああこれだったと帰り道のポケットにそのおのがじしの答えを探り当てる幸せを、与えたのか、与えきれなかったのか。前へ前へ進むばかりの筋書き舞台でないだけに、かなり複雑に複式に時空が前後し回転し交叉するだけに、作者・演出家の水面下の把握は、俳優や観客のそれの五百倍も千倍もつよくなければならない。そしてその水面下に支えられた水面上の舞台をもっとやすやすとした表現で活躍させてもらいたい。
観念ということばを用いたが、よくもあしくも作者の観念がこれを創っている。観念を「説明」しようとしたら「オール読物」ふうに臭く堕落する。観念は観念でためらわなくていいが、説明でなく、みごとに「表現」しなくてはならず、表現の強さや的確さは、適切さは、真実は、美は、所詮は観念がどれほどの強さで把握されているかに懸かる。

* 数年前、初演の時、このドラマは佳い財産になるねと作者に告げたとき、わたしが何を望んでいたか。佳い意味、確かな意味での「作」の観念性をさらに強くみこどに強く「把握」して「表現」し直してみる余地があるねと言いたかった。そう言ったかも知れない。
2007 2・10 65

* ほんとうに独りだとわかるとき、部屋の中でも、戸外の自然でも、ふとした階段の踊り場ででも、わたしは自分でも気づかぬうちに、ふわーっと踊っていることがある。踊ると謂うと語弊が有ろうか、つまりからだが浮かぶように、手も脚も羽になる感じだ、意識してするのではない、が、覚えは何十度と知れずある。記憶では、一度だけ通りすがりの若い女性に見つかり、くすんと、やや軽蔑の表情で通り過ぎられ、我ながら慌てたことがある。そのときを除いて、そのように心身が軽い羽のようにふわーっと浮かんで舞うときのきもちは捨てがたい安堵と安心に在る。
わたしは戦後の京の町で、夏になると盆踊りをたのしめる少年だった。あの踊りは踊りたくてする踊りだった。いま謂う全身が羽のように舞い立つのとは性質がちがうけれど、嬉しさは通っている。

* 茶の湯を好んで叔母にならい、高校生の頃には叔母の代稽古や学校の茶道部で人に教えてもいたが、茶の湯の作法とは一種の舞踊・ダンスであると、「所作」とは質的に舞踊でありふだんの「動作」とはまったく異なるものと、当時から思ったり考えたりしていた。手前作法は、ダンス、徒手体操、サーカスなどとも通じた、肉体の、身心の「演戯」だと納得していた。むろん能や歌舞伎等の演劇の演技も、新劇の演技も、いかにリアルを尊ぶ場合でも、動作ではない、「所作という表現」に参加するモノと眺めていた。踊れない身心で芝居が出来るものかと眺めていた。
「科」と「白」との「所作」次元での統一と渾然。それがあれば、表現への道がついてくる。「地金が出る」意味での「地」の演技というような物言いは軽薄すぎると思ってきた。

* 昨日観てきた建日子の作・演出の芝居が、心底楽しかったのは、若い演技者のそういう広義のダンスがかなり堪能できたからであった。
むろん異議あって、たとえば武者小路の作の『その妹』のような静かな芝居が、なんでダンスであるモノかなどという人がいれば、日本の演劇の今でも基本の一をなしている能の所作は静かで、静かだから舞ではないのかとわたしは反問するだろう。
魂のあるともないとも、たとえば人形をつかった浄瑠璃の演戯。あれは所詮動作ではあり得ない、満ち足りた「ダンス・舞踏」としての演技であろう。人の体がハツハツとした新鮮さをにおわせて、静かにまたはげしく動く美しさ。わたしは、そういう運動美が好きだ。
なぜだろう。本質的にそれが羽のように軽くて美しいからだ。
富十郎でも三津五郎でも、彼らが踊りまた舞うとき、わたしはその物理的な体重の「殺しよう」にいつも賛美の思いをもつ。軽やかは、清い美しさに舞い立つ。重苦しいは騒がしい醜さに落ち込む。
「科」の領分では、どんな激しい弁慶の引っ込みのような、「達陀」の踊りのような、またどんな静かな「雪」のような座敷舞であれ、要は質的に軽やかに舞い踊れる「所作・表現の達者」だけが、名優になる。「白」の領分では、どんな大声小声早口ため口であれ、明晰に言葉を、言葉の「詩性」を表現として観客に届かせる者だけが、名優になる。わたしはそう思う。比喩として「踊れない者に役者の素質はない」とわたしは眺めている。

* 同じ意味合いで、文体という独特の「音楽」をもたない、ただ図像的に説明している文学は、「滓・カス」だ。
2007 2・11 65

* 書きたい「思い」は無際限に星雲のように渦巻いているが、それを歓迎していない自分のジレンマに疲れることもある。本音はゆったり遊んで暮らしたいのであろう。小学生の昔から、夏休みの宿題は七月中に済ませて八月の全部を思い切り好きに過ごしたい(そんなことが許される境遇ではなかったけれど。)少年だった。自分は本来途方もない怠け者なんだと自覚していた。だからよく働いた。よく書いた。まさか人生では、夏休みになってから七月の残り十日ほどで宿題を全部やっつけることはとても出来なかった。八月の二十五日ぐらいまで、わきめもふらず働いた。蔵はまるで建たなかったが、いま、わたしたちはほぼ気楽に遊んででも暮らせるのは、その御陰だ。
もういいじゃないかと実は思っている自分を、わたしは陰ながらでも応援してやりたい。有名な、木彫の平櫛田中翁が百歳になったとき新たにもう何十年分の材を買い溜めたという逸話。一度は嘆賞したが、すぐ、なんて醜いイヤな話だろう、浅ましいとも、実は思ったのである、わたしは。
それが徹透か執着か、わたしはあのとき判断を拒んだ。少なくも尊いとか、偉いとか、称賛の気持ちは即座に霧消していたのである。

* 暗きより暗き道にぞ入りぬべき身として、わたしは今は、お「月」さまに前途を照らして欲しいと、縋ってすらいない。月は有り難いなと思うだけ。わたしは自分の「今・此処」の歩みをただ眺めながら、自分自身を明るく軽く開放してやりたいと願っている。願っているのは、それだ。

* さ、寝に行こう。
2007 2・11 65

* あらすじが出来れば小説は書けるか?
あらすじ シノプシス 梗概。大切だと思う。しかしあくまで、それ、どまり。時にはそんなもの、安易な「抱き柱」になり、低級・俗悪な説明的なだけの「お話」づくりに終わらせる「毒・害」になってしまう。
とうに故人であるが作家石川淳は、非常に優れた小説家であり峻厳な批評家であった。太宰治賞の選者のお一人でもあった。
この先生の「小説」論で、感銘を受け、覚悟を与えられた一つ二つを、此処に書いておく。

* 小説、ことに「短編」小説は、軽率なつまづきを、たとえ見過ごされそうな瑕瑾であっても、許してくれない。先を読む気を奪ってしまうからだ。
よく耳にする、応募や投稿小説の、ほんの冒頭十行も読めば、二三段落も読めば、作の長い短いにかかわらず、手練れの読み手には即座に、作の出来が、文学・文藝としての値打ちの無さが、少なくもその先を読む価値があるか無いかが、分かってしまう、と。

* まさかと思うであろうが、これほど確実な目安はないと言い切れるほど、事実である。百作読んで一つ二つの間違いも無いだろうと思う。
だから推敲が大切。それも無性格な名文をねがう推敲ではない。自身の体臭のような、指紋のような、独自の文体を創り出してゆく推敲だ。才能とは、そういう推敲が出来、文体が創り出せるかどうか、の意味だ。多年の創作体験が、読書体験がその通りだと教えてくれる。
小説だから推敲が大事、雑文やエッセイに推敲は不要、などと思っている人に、佳い小説は書けない。雑なエッセイストは、たとえ小説を書いても雑になる。雑で佳いと思っているから、その気ならすぐ出来る推敲の「手」を省いている。ものを書く態度として高慢なのである。

* 石川先生のもう一つの教えを伝えたい。

* 小説を書くとは、鼻の先から真っ暗な奈落へ、脚のつま先から真っ暗な闇の奥へ、歩一歩踏み出して行く勇気と懸命の所行だと。
この教えは凄いほど怖いが、真実そのような勇気で闇を切り開いていった作品は、引き絞った弓なりの力を宿すことが出来る。ただあらすじの既定線路上を走る怠惰な読み物と、道無き道を行く小説渾身の創作とは、全然ちがう。出来が違い、感動が違う。
芥川龍之介の場合、作品を、どこから書きだしても書き上げられるほど、書く前にもうお話として出来上がっていたといわれる。一つには彼の天才が寄与している。しかし今一方では、だから芥川の小説の与える感動はお行儀良く体温低くて、作品が読者の胸の奥で噴火し爆発してこないのだ、とも謂えるだろう。

* あらすじを作ってから小説を書くやり方は、映像の場合のコンテづくり、シノプシスづくりに似ている。しかし映像でなら乗り越えて創り出せる表現の意外性が、小説の場合は、ただただ「あらすじ」の上に説明的に「言葉を置いて行く」ことになりやすい。溺愛の「あらすじ」を有り難く信奉している作品を見てみると、如実に現にそうなっている。読めた文章でも文体でもなく、低俗な「お話の垂れ流し」に終わっている。「読み物」という暇つぶしのジャンルを容認するとしても、その中でも程度のより低いものしか「あらすじ」だけからは創り出せないし、現に創り出せていない。

* 小説を書き始めて、ある程度進路の予測はゆるされる、が、眞ッ暗闇に踏み出し踏み出ししているうち、遙かに当初の予測とは異なった方面へ小説世界の前途が開けてくることがあり、確かにあり、そういう展開こそが、力量鳴り響く本当の魅力に成ってくる。そうではないかと私は体験的に承知している。
ただ「あらすじ」を予定し、その通り「言葉を置いた」だけの小説など、文学・文藝たる「小説」とは、所詮は呼べない「読み物遊び」に過ぎないと、わたしは思っている。実作がそれを示していて、あたまの数行分を読んで、すぐ分かる。 湖

* 「mixi」のなかで、いかに巧みにあらすじをつくるか、それが小説への本道かのように推奨し、自身の実践例を大々的に誇示しているのに出会った。ま、それもいいとしておこうか、しかし本気で「すぐれた」小説を書いて行きたいと努めている人たちを毒するのではないかとも懼れ、言わずもがなのことを言ってしまった。

* つぎに紹介する「馨」さんも「雄」クンも、わたしの教室で、毎時間「あいさつ」を書き、出題された詩歌の虫食いを埋めていた。いまわたしの背後の押入れには、四年間に原稿用紙三万枚に相当の、それら学生諸君の提出したペーパーが保存してある。以来十余年、今はこんな日記をわたしに読ませてくれる。二人とも、顧みて他をいうがごとく、実はそうでない。しっかり自身を語りかつ書いている。だから読ませる。自身を棚に上げ顧みてただ「他」をあげつらうだけでは文章はどうしても冴えてこない。光らない。
2007 2・12 65

* さて、とっておきの材料に手をつけはじめた。かなり長時間、モノを調べたり思案したり。目前の深い闇に身を投じよう……か、タイミングは難しい。もう少し揉みあうか……。今夜わたしを悩ませまた唆ししきりに招いていたのは「花方」の二字。
2007 2・12 65

* それから、佐日記を主材の『古典再入門』、世界史の「プロシャ」兵隊王フリードリヒと哲人王フリードリヒとの、がむしゃらな先軍主義の展開、『ドン・キホーテ』、旧約のダビデ王を読んで、おしまいに、とっておきの英語版『イルスの竪琴』を楽しんだ。
灯を消したのは四時半。暗闇に眼をあいたまま自分の創作の「その先」へ本気で踏み込むタイミングを思案しながら寝入ったようだ。スキーのジャンプと同じだ、踏切のタイミングを急いでも遅れても危ない。しかも見切り発車するしかないのが、「書き出す」ということ。
2007 2・13 65

* 「何を書く」では足りない、何を「書かずにおれないか」。この衝動・衝迫につき動かされることなしに粗相に書き出してしまうのが、一番危ない。わたしに今一番必要なのは「書き机」をもつことであり、「思案ノート」で思いや想いに、姿・形をあたえてやること。
2007 2・14 65

* ホワイトバレンタイン   雄 ハーバード
日本は雪が降る前に春一番が吹いたらしいが,ここボストンは今年一番の本格的な雪になってしまった.夜のうちに降り始め,朝には一面真っ白になっていた.窓から外を眺めると,煉瓦造のアパートや周りの木々がモノトーンに浮かび上がり,水墨画のようだった.
朝,大勢の人が道の雪かきをし,塩化カルシウムの粒を蒔いていた.はじめこちらに来たときには寒い日になると白い粒が道路に散乱しているので何だろうと思っていたが,塩化カルシウムであるらしい.
塩化カルシウムや食塩などを水に溶かすと凍りはじめる温度が下がる.高校生の頃に化学で習った凝固点降下というやつだ.これを利用すれば,塩化カルシウムを蒔けば液体が凍り始める温度が下がるので,逆に雪は凍っていられなくなって溶けてしまうという仕組みだ.熱をかけずに雪を溶かすことができる.うまいことを考えるものだ.雪国の人やスキーをする人には常識なのだろうけど,僕は初めて知った.
今日は待ち時間の多い実験なので,合間に論文を一気に書く.ほぼ完成した.プリントアウトして,おかしなところがないか推敲し,図に手を入れてから日本のボスに送ることにする.今週中になんとか送りたい.
夕方,学部生のハンと廊下ですれ違う.彼も授業の合間にラボに来て実験をやっているが,それほど頻繁には現れない.彼は先週金曜日に21歳になった.アメリカでは21歳から合法的に酒が飲めるらしい.「先週の金曜はどうだった?」と聞くと「飲みすぎたけど記憶はあった」という.
ハンが「今日はバレンタインデーだよ.知ってる?」と聞く.こちらでは女性から男性にだけではなく,男性からも女性にプレゼントをするらしい.「どんなものをプレゼントするの?」と聞くと,「チョコレートとかカードかな」という.チョコレートを配るのは日本の菓子メーカーの陰謀であって,欧米ではそのようなことはしないということを昔誰かから聞いた気がしたが,こちらでもチョコレートは一般的と聞き,むしろ意外だった.
「日本ではバレンタインデーは女性から男性にプレゼントするんだよ.男性からは3月14日にお返しをするんだ」と説明すると,「その日はなんていうの?」というので「ホワイトデー」と答えたら,面白いといって笑っていた.ついでに日本の義理チョコなどについても説明したが,義理を正確に伝えようとして,ちょっと詰まってしまった.ニュアンスはもちろん分かるが,外国人にどう説明したらよいのかは難しい.日本をもっと勉強しないといけない.
夜,カフェテリアに夕食を食べに行ったが,雨で雪が溶け,靴がずぶぬれになってしまった.この前の日曜日に靴を買おうかと一瞬思ったのだが,サイズが分からず,面倒だからいいやとやめてしまったことを強く後悔する.
まだパラパラと小雨が降っている.夜半過ぎには雪になり,明日は一層積もるらしい.

* 毎度褒めては値打ちがなくなるが、叙事が具体的で観念的な説明へにげていない。これが実はエッセイでは非常にむずかしく、つい面倒なもので観念的な言辞へ逃げ込み誤魔化してしまう。
「雄」クンは自然にあるがまま、思うままを正直に飾り気なく書いてくれる。クリアに生き生き伝わってくる。
2007 2・15 65

* ペン理事会の前、東京會舘の喫茶室で、「ノート」に久しぶりにものを書き始めた。昔は、創作のわきで、たくさんノートをつかった。あとで読み直すことは実際にはほとんど無く、だが書いてあたまを整頓した。書いているうちに発見することも多かった。スケッチである。自身を納得させて行く作業といえるかも。
2007 2・15 65

* 「ノート」では「花方」について考えている。これまたたいへんな難問で、どこまで錐揉みに突っ込んでゆけるか。自分一人の楽しみからことははじまるものである。それがなくてはお話にならない。このまま「ノート」にわたし自身が取り込まれていると、判読不能ながら五つも六つもの星雲が渦巻いて行くし、それらがあるいは衝突して化合して行く可能性も出てくる。
手にペンをもって大学ノートに延々と思案のいろいろを書き込んで行くのは、己の字のきたなさには閉口するが、カタルシスは大きい。谷崎ではないが小説らしい小説は妙につまらない、小説らしくない小説がいいと思う、とは、つまり少年の昔にいちはやく感嘆し傾倒した『吉野葛』寄りにわたしの想いは流れて行くかも知れない。それと、いつも頭にあるのは露伴の『連環記』です。
2007 2・16 65

* 荀子に聴くまでもなく、人は人と生まれてこのかた、余儀ない襤褸を幾重にも身にまとい、臭いぬくみに慰められて寒い裸に立ち返る勇気を磨り切らせている。
わたしは毎々謂うように、「時代」という掌の上で「人・事・物」が人それぞれの人生を形なしていると観ているが、「もの・こと・ひと」こそが、或る意味で財産であり或る意味で襤褸すなわちボロそのものである。この財産は、むろん死後に持ち越せない。それどころか執着という意味の邪魔にこそなれ、真の平安や無心・静かな心のためにはほぼ何の役にも立たない。
ほんとうに価値あるそれと、にせもののそれとがあり、にせものの方が圧倒的に多く、にせの最たるひとつが「自分自身」である場合がひょっとして「常」ではないかと思っている。したがって、ほんものとにせものとに、外界のあれこれ、もの・こと・ひとを分別して選択するのは愚かしい。着重ねた襤褸のたとえ一枚二枚でも脱いで棄てられる機会は尊く生かしたい。

* 物。これが比較的分かりよい。少しのお金。ほとんど価値のない不動産。溜まりに溜まった書籍。いくらか佳い茶道具をふくむ美術品。それで、わたしの場合、おしまい。
妻のため以外に、お金の役立つだれもいない。息子に遺そうと気を配る必要がほぼなくなっている。娘は考慮外。だから、ごく普通に妻と私とはもうしばらく生きてゆけるし、それで有り難い。妻をひとり家において自分だけ旅したい気など全然ないし、飲み食いの贅沢はドクターストップで許されなくなってきた。せいぜい都内でものを観るか、衣服で楽しむかだが、わたし自身は着物・持物でおごる気などこれも昔から全く無い。もっと満足できる世界がたとえば読書などで手に入る。
まずしい家と土地とは、建日子が適当に処分するだろう。
茶道具など美術品は建日子のほしいと思うものを手渡せば済み、他は成るようになって行く、誰の手でもまさかゴミ捨て場へぶちこまれることは無いだろう。息子たちはそういう美しいものの値打ちにまだまだ疎い、まして茶道具となると、長年お稽古しているという彼の友人でも、目はまるで見えていない。値打ちがわかりかけ切望の気が芽生えた時機に譲ったほうが、モノたちも喜ぶ。骨董屋にさばくより、本当に欲しい使いたいというひとに頒かつ方がモノが生きる。
書籍は何とでもなり、気にしない。息子と地元図書館とが欲しいというものを渡してしまえば、わたし自身の単行本著書や湖の本の在庫は息子が処置してくれるだろう。ことに単行本著書は読者の中に、手元にあれがそれが欠けていて欲しいという人もあるにちがいなく、しかし読者のあいだで不公平の生じるのもイヤなので、あえて大小と無く一律の値段でさばいてしまってもいい。本は、かりに棄てるにしても何とでもなってゆくだろう、どんどん処分してまだこの先に読みたいもの、利用価値のある学問的な全集や辞典事典のたぐいだけを残しておこうと思う。
さいわい建日子が「書く」仕事をしているので、彼に役立ちそうなモノは大事に遺したい。

* 事。これは厄介だ。七十年のいわば心理的な凹凸がガチャガチャと年譜的に遺っている。名誉心を払拭し、同時に恥辱や不平不満を脱ぎ捨てて忘れ去る。言うに易く難儀なことではあるが、具体的には仕事と肩書き。
仕事は棄てない。仕事はわたしには座禅のようなもの、うまくその境地に入れば雑念も生じない。
肩書きは、棄てると決めて実行すればいい。ただ社会人として現に生きて仕事もしていて、家族はそれがわたしの健康法になっていると判じている。なっていないとも謂えないが、難しい。ペン理事改選で自然に落選すれば大きな一つが「済む」。

* 人。難しいようだが、要するに放っておけばいい。来る人は来て、去る人は去る。この年齢だし、この不徳な嫌われ者だから、死別・性別、遠ざかって行く人の増えて行くのは甚だ自然なこと。人には、愛し敬して、執着しない。磨いた鏡のようにクリアに映し、きれいに見送る。見送ることに嬉しさを感じる美学を大事に思う。幸い「いい読者」にわたしは恵まれ、不徳なれど弧ではない。うすい言葉にも口先にもだまされない。年々歳々花は花であるが、歳々年々人はうつろい動く。
もっとも厄介な、もっとも興味深い、人はまた、物の一つ。
心などというアヤシゲなものを無意味にふりかざして自分を飾り立て売り込んでくるぶん、人は、お金より、資材よりもクサイ物である。人間の世間はクサイ世間。ぼろぼろなんだもの。だからぬくぬく暮らしていられる。古い「さよなら」と新しい「こんにちわ」とがいつも無責任にジャレ合っている。鏡は映していれば済む。値打ちはすぐ見えてくる。

* 人といえば、ときどき付き合っている若い三人の女の子がいる。渡辺綾香、加藤いくみ、伊藤奈美繪さん。ごくたまに気の鬱しているとき、機械の中で「半荘の麻雀」につきあってくれる。九人ほどから相手が選べる中で、顔写真ではない顔漫画が愛くるしいので、よくこの三人を相手にする。勝ったり負けたりしていると妙に人柄まで想像され、ロンされて悔しがったり、勝って可愛いい声をあげたりすると、かろがろと気が晴ることもある。ハハハである。

* 壁にとりつけた大きな書架の上段に、淡交社版「古寺巡礼京都」の三十何冊かがならび、なぜか、その前に「北野天満大神」の大きめな御符が立て掛けてある。いつ戴いたものか。このわたしに、いま「北野天満大神」とは「何」でありうるのだろう。じいっと考えてみる。襤褸の一つか、それにも当たらないか、存外もっと魔術的に秘密にかかわりあうエネルギーなのか。妙なものを無意識にひとは、いや私は、かかえこんでいるのだ。
2007 2・17 65

* またしてもパソコンにイヤな支障が生じた。
わたしの「ホームページ」は、netscape7.1のcomposerで当初来実現してきたが、昨日機械をしまうまでそれで支障なく過ぎてきたのに、今日になり、なぜか、デスクトップのロゴをクリックして、composer も netscapeも全く反応が無く、画面が現れない。プログラムの方から出そうとしても、このふたつに限り全く反応しない。
つまり我がホームページは、またしても全面消滅の状態。この「私語」を書き継いでおくことも、画面が開かないので不可能な状態に陥っている。

* 当分というより、あてどもなく、もうパソコンの故障は放っておこうと思う。いいかげんイヤになった。
「闇に言い置く私語の刻」は、「mixi」日記の場に置き換えて書き継ぐとする。「作品」の公表・公開は、現在の『蘇我殿幻想』が明日で終わり、一冊に添えてあるもう一編「消えたかタケル」と「あとがき」を掲載し終えたら休止し、わたしの「mixi」日記は無期限に作家・秦恒平の「闇に言い置く私語の刻」と成る。誤解無いように断っておく、作家・秦恒平と「mixi」ニックネームの「湖」とは、同一人。

* わたしの『闇に言い置く私語の刻』は、平成十年(1998)三月下旬から書き始め、十九年(2007)今日まで、連日発信されている日録の「私語」のファイル。「宛名のない手紙」とも、「癇癪の落としどころ」とも、「単なるメモ」とも謂えるが、遠い遙かな、あるいは足下に深く沈んだ、「闇」に言い置く老境の遺書である。
克明な日記とちがい、思うことを手早に書き置いて、統一したスタイルを持たない。日付にもさほど意味なく、随感随想の連鎖であり、闇の彼方から届く多彩な「声」「声」もあえて取り込んで、「今・此処」を生きる一作家の生活と生彩を表現している。
日々とぎれなく更新してきた。不慮の事故で言い置く場所が変わったが、これからも更新して行く。アップロードされている従来のホームページ版は、厖大な量だが、必要なら読者各位の手元で保存して下さい。

http://umi-no-hon.officeblue.jp

* パソコンは「創作」のために用いる。インターネットは利いている。メール交換は可能。
2007 2・18 65

* 郁さん  決意に賛同します。  湖
あなたの体力や気力が堪えうるのなら、どうか母上を、よろしく。ただし共倒れに、とりかえしつかぬ負担を後々に抱き込んではいけません。あなたが長生きしなくては。かねあいが難しいが、誇り高きご老人の、平安ないい終末を祈ります。
展覧会のこと、決意をに賛同します。とうとう此処までの覚悟をしたかと感慨深い。ずいぶんヒドイことを言ってあなたを傷つけてきたと思います、許されよ。
メールの中に「自分なりの自分らしい気負わない作品を」とあるのは、しかし、危険信号ですから撤回されますよう。むしろ今回こそはしっかり気負って、死にものぐるいの、コレまでになかったものの誕生・創作を期してください。
だいたい、ものを創る人が「自分なりの自分らしい気負わない作品を」などと言い出す時は、はじめから言い訳用意、逃げ腰の逃げ道づくりなんです。
きみに、「自分なりの自分らしい何か」なんて、「ほんとに在るのかい」と、わたしは授賞した当日、今後も「自分なりに自分らしい」仕事をと口走って、えらい先生に睨まれました。あの青くなって震えた瞬間。それが、本当の出発でした。わたしは忘れない。そんなものが本当に「在るのか無いのか」、あなたは、今度の展覧会で血相かえてでも見つけ出さなくちゃいけないんですよ。
「自分なりの自分らしいものを自分なりに」と言っている限り、もし失敗しても、「自分なりにやったんですもの」と言い訳が利いてしまう。言い訳がはなから用意できている。これが、危ない。
創作の場合、言い訳の「退路」はあらかじめ絶っておき、形相を変えて必死で取り組まねば、せっかくの「最期の機会」がムダに終わります。がんばってください、今度こそ。そう激励します。おなじことをわたしは自分に向かって言うているのです。
2007 3・5 66

* 例の SPAM MAIL を削除して、ナニも残らない。そういう朝は「マイミク」日記から、興味に触れてくる文章を拾い読む。生き生きと刺激してくれる一人は、ハーバード大で研究生活に入った「雄」クン。

☆ インパクトファクターとアメリカ文化    ボストン 雄
先日、アメリカには敬老の精神がなく,持っている「金」の多寡で人の値打ちが決まりやすいと書いた.今日はこれと似たことについて書きたい.長くなりすぎるので,明日にも「続き」を書くつもり.さすがに湖さんは鋭くて,ご自身のホームページで,僕の結論を先回りして書かれてしまったが.
学問の世界でも,インパクトファクターというものがある.「その雑誌に載った論文が、平均して何回引用されるか」ということを指標に,各学術雑誌を評価する数値で,アメリカのThomson Scientific社という会社が毎年発表している.生命科学の分野では,Nature, Science, Cell が「トップ3」として君臨しており,それに続く形で色々な雑誌が並ぶ.中にはインパクトファクターが「1」を切る雑誌もある.すなわち,それらの雑誌に論文を掲載しても,一度も論文が引用されないということが大いにありうる訳である.
インパクトファクターは研究者にとっては非常に大事な数値であって,なるべくならば,インパクトファクターの高い雑誌に論文を掲載したいと,研究者達は考えている.よく引用される論文は,様々な研究の基盤になっていると考えられるだろうし,せっかく書いた論文なのだから,多くの人に読まれ,参考にして欲しいと思うのは当然である.
しかし,実際にはもっと現実的な理由から,インパクトファクターは重要な意味合いを持っている.
「ポスドク」ならば,インパクトファクターの高い雑誌に多くの論文を発表すれば「PI」になれるチャンスがぐっと高まる.既にPIになった人でも,多額の研究費を獲得するためには,コンスタントにインパクトファクターの高い雑誌に論文を出さなければならない.
しかしながら,インパクトファクターの低い雑誌に載った論文でも,その後の研究の流れで大いに価値が高まり,何度も引用される論文というものも、現に存在する.それに,インパクトファクターの値は,その学問の分野の「勢い」のようなものを大いに反映しているので,研究人口のあまり多くない分野であれば,なかなか引用されなかったりする.
そこで,僕が日本に居た頃は,確かにインパクトファクターの高い雑誌に論文を掲載することは大事だし,なるべくそのように努力はするけれども,インパクトファクターの低い雑誌でも、価値のある論文はあると教わってきた.
前置きが長くなったが,本題に入りたい.

今のラボのメンバーを見ていると,ボス以外の人々のもっぱらの関心はインパクトファクターにあるように思われる.
僕がラボに来て間もない頃,JC、が僕にどうしてこのラボを選んだのかと質問してきた.僕は、「このテーマの研究がどうしてもやりたくて,それをやれそうな研究室を探した」と答えたのだが,JCにはピンと来ないようだった.
そこでJCに、「どうしてこのラボを選んだの?」と聞き返すと、JCは「インパクトファクターの高い雑誌に論文が載せられそうだからだよ」と答えてきた.  さらに,聞いてみた。最近JCが投稿しようとしている論文は、医学寄りの内容なので,「JCは医学部出身なの?」と。
「いや違うよ」と答えるので,
「ああいう論文内容の研究をしているということは,医学的な興味があるからなのかな,と思ってね」と、僕。するとJCは悪びれず、
「いや,そうじゃないよ.だっていい雑誌に論文が載りそうじゃない? それだけだよ」と。
確かにいい雑誌に論文が載れば「PI」になりやすいし,給料も上がる.極めて単純明快だ.
しかし,学問って,そういうものだっただろうか? 正に、本末転倒なのではないのか?
JCに限らず,コーリーも各雑誌のインパクトファクターを,実に正確に,良く記憶している.あの雑誌はインパクトファクターはいくつだから「割に合う」とか,あの雑誌のインパクトファクターは低いけれども,この論文が出せると「グラント(研究費,助成金)にアプライできる」などということを、しょっちゅう話している.
僕の偏見かもしれないが,こういう物の考え方は「実にアメリカ的」な気がする.「数値化」することで,誰が見ても分かりやすい価値基準を作り上げる.実に即物的だ.そしてこの「分かり易すぎる価値基準」が,日本を,世界を,席巻しつつあるように思う.
僕が知っている或る研究室では,「インパクトファクターの合計がいくつ以上か」ということが博士号取得の必要条件となっていた.僕は当時,これを聞いて非常にクレイジーというか,偏差値世代の若い教授らしい発想だなと思ったのだが,アメリカではそれほどクレイジーな考え方でもないのかもしれない.
明日は,こういう即物的なアメリカ文化と日本との関係を書いて見たいと思う.

今日はこれから,ボストン交響楽団のコンサートに行ってくる.アルゲリッチの生演奏が聴けないのは残念だが,コンサートそのものは楽しみだ.

* 「アメリカ」という名辞を一度も口にせず過ごせる日が、年に一日も無い。それが日本の知識人や企業人の決まり切った日常だろう。だがその口にする「アメリカ」のなかみは、ま、おおかた符号か記号に類している。アメリカの主導した「グローバリゼーション」についても、語の表面の意味だけに反応して、とても良いこと素晴らしいことのように受け入れて片棒をかつぎたがるが、ひとことでいえば、いろんな豊かな食生活・食文化を持った各国に「コカコーラ」と「フアストフード」で上陸し、経済効果を口土産に席捲してしまう、実に「経済侵略効果」だけが意図の、味気ない「世界一律化」の勝手な国策に過ぎないというふうに理解すれば、だれが素晴らしいことと思えるだろう。しかし、それこそがアメリカによる「グローバリゼーション」の正体ではないか。
アメリカ方の価値観に、手もなく精神的にもイカレテしまっている代議士が、いかに日本の国会に多そうであるか、気がつかないだろうか。しかもわるいことに自他共に有能であるかに思っている若手に、そういう薄い軽い精神の持ち主が多そうなのが怖い。

* そもそも今本気で、アメリカは日本の同盟国であると信頼しきっている日本人が、国会の外の世間に、どれほどいるだろう。少なくもアメリカ人で、「日本」は利用するに「都合の良い国」ち思っている者が無数にいても、「国の運命や利害をともに出来る同盟国」と考えているような暢気な人は、ブッシュ大統領をはじめとし、おそらく一人もいない、建前ですらそんなことは胸の内に持ってはいまい。
今朝も安倍総理はテレビで「同盟国アメリカ」との関係を大事に思うと繰り返していたが、それは切なる願望として事実だろうが、其処どまり、であることにも実は情けなく気づいているのではないか。

* わたしの此の「日録」の読者、わたしの「著作」の読者なら、記憶していてくださる方も有ろう、わたしは外交とは、ことに「大国の外交」とは、「悪意の算術」そのものだと何十度繰り返し書いてきたことか。
大国と自認している国の誠意や親切が、いかに脆い紙衣に過ぎないかは歴史が明らかに繰り返し証明している。そういう基本の歴史的教訓にまなびつつ、わたしは、この日録「闇に言い置く」を書き始めて、ほぼ八、九年。
それほどの昔から、わたしははっきり繰り返し予想し懸念し続けてきた。すなわち、朝鮮半島、台湾を(ついには沖縄も支配下に)前衛に、極東「日本」を太平洋を背に完全包囲し強烈に圧迫して来るであろう「中国の覇権」意志、最終的にはその「日本」を中国への取引材料に自国利益を勘定高く計算する「アメリカの世界戦略」、そしてついには日本列島はついについに中国覇権の最良のリゾート地として、また工場として征服されてしまうであろう、と。
少なくもその懼れをバネに、よほどの外交と政治の舵を取らない限り、まさかまさかのジリ貧のうちに「日本丸」は海の藻屑と崩壊沈没するだろう、と。

* 嗤う人はまだまだ多かろうが、現にもう極東での「日本の孤立」を、普通に当たり前に口にしている連中は、マスコミに数え切れないではないか。
だが、つい先頃までは、信じられない話だが、そうではなかった。その背景に「日米同盟」という決して金に兌換されない紙屑並みの相互依頼心がバーチャルに鎮座していた。ああ、それこそを嗤うべし。

* では日本は今どうすればいいのか。わたしにその名案があるわけでない。どのような案を、策を、用いるにせよ国民にほぼ一致の危機感と、立ち向かう政治家に、宰相・大臣に、聡明な大勇猛心が、迂遠なようでも人間愛が、なければお話にならないし、そういう点に希望をもつには、今の小泉や安倍のタイプはサマにもならない。
そもそも安倍総理の理想とはナニぞや。あの岸信介を尊敬してその憲法改正の遺志を継ぐのだと。
岸信介がなにものであったか。国民の全てに悲惨と苦悶を強いた戦時経済の酷薄な謀略者だったではないか。あの戦時内閣の戦犯閣僚たる行跡から、もう一度も二度もわれわれは安倍総理の顔をしっかと睨みつつ彼の祖父のこと思い起こさねば。
「岸を倒せ」の国民的な叫びの前に倒された岸総理が幻想したのは、永世の日米安全保障条約」であったが、その名の下にいかに「アメリカ」は背信と高慢と強欲を繰り返し、引きずられて日本政府がどれほど繰り返し国民を愚弄するウソを塗り重ねてきたか、われわれは忘れたわけではない。
一にも二にも「アメリカ」依存の幻影に過ぎない国策を国民に押し被せておいて、今日の極東の孤立への道をつけたのが、平和憲法を憎悪していたであろう戦犯宰相の岸信介であった。安倍総理はその孫としてその祖父の「跡を継ぐ」と繰り返し公言してやまない。推して知らねばならない。
2007 3・11 66

* 太宰賞がきまった一九六九年の六月十九日の桜桃忌は、わたしの二度目の誕生日になった。あれから一月も経つか経たぬかアポロ十三号が月へ往き、月から生還した。人類の世界史を大きく区切る大事件で、歴史は、少なくも二十世紀は、それ以前とそれ以後に、截然と切り離された観があった。二十世紀は、遅くもアポロ13号までで果ててしまい、一九七十年以降は科学の発達を目盛りにみれば、すでに別の新世紀、二十世紀「以降」に推移していた。
十九世紀末から二十世紀の半ばまでに、科学の歴史は、過去の全部を遙かに倍々する発達を遂げ、しかし、遅くもアポロ13号以降は、さらに驚異的に、ほとんど信じられないほど科学的成果を積み上げた。それ自体がじつは人類の現在未来の安寧や幸福をおびやかし地球と人類との破滅の臭気をすらもたらしかけていると、心あるものなら誰もが深い危惧におびえている。楽天的に未来を仰望することはもう許されていないのではないかと。許されていない、と。

* そういう時代・時勢に、文学・藝術とは何でありうるか。創作とは何でありえて、どう表現され享受されるのか。
2007 3・13 66

* B29の空飛ぶ轟音を、戦災にほとんど遭わなかった京都育ちのわたしでも憶えている。敗戦は一九四五年、わたしは数え歳十歳の国民学校三年生だった。世界はもうすでに第一次世界大戦を体験し、第二次大戦の大空襲に日本中が呻き喘いでいた。その重爆撃機の威力のせいぜい三十数年前に、ライト兄弟はほんのわずかな距離の試験飛行に、やっと成功していた。だがそれから数年も経つ経たぬうち、第一次世界大戦にすでに航空機は、戦闘機は近代戦争の相貌を根底から変えようとするまで実用化していた。
それから半世紀も経ぬ間に人間はあの月へ飛び、また地球へ戻ってきたのだ。なんということだろう。
めずらしくもないことを事あらたにわたしは何を考え感じているのか。あわてて書くことではない、ただ驚いている、しんから。
小説家としての二度目の誕生日をそんな機にわたしは迎えたということ。それを考え感じて、真実驚いている

* そんな折に、親鸞仏教センターはわたしに、かなりな量の原稿依頼をしてきた。引き受けた。何か、一つの機会にしてみたい。

* 新しい小説の一つのための「ノート」を書き継いでいる。おもしろくなってきた。
2007 3・13 66

* 「行為と行動」「感応と反応」などと微妙すぎる日本語になってバグワンのことばが伝えられるとき、わたしもとまどい、せめて原語が付記されていると有りがたいと思う。
行為はいいが、という時、腹が空けば食う、それは自然な行為で、エゴの所為ではないと説明できる。空腹ではないのに食欲に任せて食う、それはエゴの働いた行動で、自然な行為ではないと説明できる。この譬えは、わたしにはいつも耳が痛い。
藝術ないし創作行為にも及んでくる。力強く内側から膨れるように成ってくる創作と、遮二無二作りだしてゆく商売制作とは、異なる。差は在る。
夢中で「ペン電子文藝館」を立ち上げ、また充実させていたころのあのわたしの集中は、創作的な行為として自然だった。渇くので水をのみ、腹が空くので食べていた。しかし名誉心や成功欲にかられて取り組めば、ただの虚しいモノになる。肩書や地位を肩書や地位と意識せず、任務や責任に自然に応じて務めるのは自然な行為だが、実体に熱が失せていながら肩書や地位にものを言わせたがるのは、無用で不自然な行動だ。理事の名は受け取りながら理事会に全く出ず、理事として働かないなら、それは貪る行動であろう。そんな己れ高しとしている人は、しかし、どこの世間にもいる。
わたしは東工大のとき、学部の教授会には、事実教授就任と定年退任のあいさつ以外にほとんど出なかった。その時間は学生たちとの面会にあてていた。肩書きも地位もその方が内実を得たから。東工大の全学や学部の教授会でわたしの果たせる仕事は無にちかい。しかし学生とすごす時間には何かしら伝えることも逆に与えられることも有って、満たされた。ためらいなくそっちの行為をえらび、あっちの行動は合法的な手続き、欠席通知を出しつづけて、遠慮した。
2007 3・15 66

* 昨日の理事会で、日本で国際ペン大会を主催するなら、主題は間違いなく「地球温暖化」だと井上ひさし会長が力説していたが、これもゴア氏のいうように端的に「危機」という言葉を用いた方が良い。「温暖化」はなまぬるく要点を逸らすだろう。
今ひとつ、地球温暖化を自然環境の問題ととらえているだけでは、この危機は把握に余ってしまうだろう。繰り返し言うように、いまや危機は「生活環境」「精神環境」に及んでいて、むしろそこで生じている害悪が大自然に波及しているのだという「方向感覚」がゼッタイに必要だ。その害悪の背後に、背景に、自然科学のもたらしたいわば「科学環境」狭義には「機械環境」のおそるべき魔と毒とを正しく見抜いていないと、根の問題が問題として正確に構築できない。
科学は、もはや、「便利」提供の代償として底知れたぬ「魔と毒」とを地球と生物にもたらす「責任逃れ」を、利用者である人間に対し強いている。変な物言いをするなら、科学が「サタニティ(悪魔性)」の側面を隠そうともせず、露わにしはじめている。もし真に「環境」を憂うるなら、自然や人間の破壊や頽廃にいたる根の問題としての「科学」への批判的自覚を課題にしなければウソである。
日本ペンクラブ理事会でしばしば話題になる「環境」への理解は、あまりに「自然環境」という枝葉(現象)に終始しすぎている。根は「機械と精神との人間環境」にあることを忘れてはならない。自然を蹂躙しているのは自然ではない、人間と機械とである。もし国際ペンが開かれれば、その点で演説したいとすら思っている。
2007 3・16 66

* もやもやと と、谷崎潤一郎は、『蘆刈』を書いていた、いや書こうとしていた頃に自身の頭の中を謂い表していた。創作者の、妙にはかないが幸せな、頼りないが、あたたかい気持ちをわたしは感じ、うらやましかった。そういう感じを自分も味わってみたいと夢見たものだ、事実その幸せな胸の暖かさを何度も何度も味わってきた。いまもまた、成る成らぬはべつにもせよ、ややにそれへ近づいている。おもいきり、遊んでみたい。
2007 3・19 66

* 朝日新聞社の広告を、東京駅構内やいろんな所で旅行中に見かけて、苦笑の連続。
朝日新聞をとっていないわたしは、正確にその「文句」をここに書けない、が、箇条書ふうに全面「言葉」への賛辞と容認、つまり信頼と奉仕の意志表示に溢れていた。
「バッカみたい」と思う。
新聞や雑誌やまたテレビなどで有卦にいった知識人たちの「言葉」が、いかに頼りないものか、イヤほど知っている。人や社会や時代をミスリードし紛糾のタネにこそなれ、とてもとても、「話せば分かる」というわけにいかないことを、彼らこそがよく自覚していなくてどうなるのだろう。
その上で、だからこそ謙虚に「言葉」は用いなくてはならない、われわれは「そうする覚悟だ」と言ってもらいたい。
朝日新聞のような大きなメディアが、此の無反省で無自覚な、「言葉への全面の信と服従」を公衆に約束して暢気に安楽椅子にふんぞり返った様は、これほど今日の「言論の軽薄と滑稽」とを示した愚例は、無類と言わずにおれぬ。
言葉なしに生きては行きにくい。だから言葉は丁寧に謙遜に使われねばならない。「言葉」ほど不完全で不十分なツールはないのだと覚悟の上で、「言葉を活かす」しかないのである、人間は。それは、「心」ほど不完全で不十分な頼るに頼れないものはない、のと、じつに好一対。
現代、本気でか瞞着でかは別にしても、「言葉」と「心」とを、まさに「心なく」持ち上げて、人と時代とをミスリードする連中こそ恐ろしい毒物だと識っていなければいけない。
何でもないこと。一度でも少し落ち着いて、自分の、また他人の「言葉」が、「心=マインド=分別=知識」が、どんなに頼るに頼れない頼りない不安定なものかに思いあたるほど、直ぐ出来ることはないだろう。
だが「言葉」も「心」も、生きるための最必要なものなのに、変わりはない。だからこそ、朝日新聞の広告のようなノーテンキな理解でなく、謙遜であれ、周到に誠実に用いて欲しいと言いたい。願いたい。
「言葉」「心」とは、本当に本当に、慎重に謙遜に付き合わねばならない。

*  或る東洋人に、耳を澄まして、わたしは聴く。

☆ 「あたり前の生活の中でさえ おまえは言葉というもののむなしさを感ずるだろう それどころか もしそのむなしさを感じないとしたら それは おまえがいままで 全く生きてなどいなかったということを表わしている いままで とても浅薄にしか生きてこなかったということだ。
もし何であれおまえの生きてきたことが 言葉で伝え得るとすれば それは おまえが全く生きてなどこなかったという意味なのだ 何か言葉を越えたことが起こり始めたとき そのときこそはじめて生がおまえに起こり 生がおまえの扉を叩いたということになる。
そして究極なるものがおまえの扉を叩くとき おまえはまるで言葉など越え去ってしまう おまえは <ことば無き者>と化す。
口をきくことなんかできはしない ただの一語といえどもおまえの中に生じはしない。
何を語ろうと ことごとくあまりにも色あせ 生気なく 無意味でなんの重みもなく あたかも自分に起こったその体験に不義をなしているかのようだ。
これを心にとめておきなさい。」(星川淳氏の訳文に基づく。)
2007 3・25 66

* 再度つぶさに観て、先日書き置いたわたしの「ジャンヌの誠実、近代への誠実」は再確認できた。何一つ書き直す必要がない。
念のため書き加えるとすれば、大審問官らは「神=教会≠人間・人間性」の信仰と権益に固執し、ジャンヌは「神性=人間の自覚」に到達したのである。
劇は、ジャンヌにより王太子シャルルがやっとランスで戴冠したことが、戴冠式までのジャンヌの「ひばり」のような囀りこそが、後世に記憶されるのだと言いたげであるが、大審問官が、自分たちのジャンヌへの勝ちを内心の恥辱として呻いていたように、それは大きな「反語」であり、本当にジャンヌの体現した大切な真価は、空疎で政治的な戴冠式から以後のジャンヌ、人間的な自覚を神への帰依にみごとに託しきった「ジャンヌの死生」にあることを物語っているし、またそうでなければ軽薄な「ひばり」の囀りに終わってしまう。
中世の神にしがみついた大審問官や司教やローマが、ジャンヌに対し真実懼れていたほとんど自壊の自覚を、やがてルネサンスが痛烈に衝いて、人文主義・ヒューマニズムの近代へ怒濤のように人と時代とを押し流す。そして「神は死んだ」とまで言われるところへまたも近代は煮詰められて行く。
ジャンヌは近代をぐっと引き寄せた、もっとも純真で清潔な、しかし熱い魂の「先駆者」であったと、わたしは言うのである。
今夜、舞台をもう一度見直し、さらに確信できた。
ローマにいち早く反旗を翻したイングランド。その代表者のような貴族が、結果的にジャンヌに内心の理解を吐露し、ジャンヌに頬にキスされてたじろいでいたのは、印象的な場面だった。この英国貴族は、カソリック・スペインから派遣された大審問官が、「人間的であること」を「悪魔」のように憎悪し敵視するのを、内心軽蔑し、またフランスの司教たちのローマ法王庁に全面依存のさまに「虫ず」を走らせていたのは、「議会」を育てていた「イングランド」の貴族なるがゆえに、意味深いし興味深い。
2007 3・26 66

* 下関の方が送ってきて下さった「ゴゥイングホーム」と題した歌謡集のディスクを、歌詞をみながら昨夜、妻と、聴いた。ホームレス支援の運動の意味もいろいろ想いながら。
「ホームレス」と謂えば、広く汲めばむかしの「出家」の意義にも届く。またたんに世にあぶれた「宿なし」ともみられているが、アクティヴな「遁世者」と自認している人もあるようだ。
釈迦もイエスもホームレスだった。
だがそういう一面をだけ傍観していては済まない、もっと厳しい現実社会問題としての側面がある。大きく、ある。きれい事では済まない。手だては、立っていないように想われる点が厳しい。
2007 3・29 66

* つくばの和泉鮎子さんに頼んで、以前にながく連載されていた和泉さんの「小侍従」論を送ってもらった。もういちど通して読んでおきたかった。
宅急便で届いたのですぐ開封し、鞄に入れて家を出た。往きと帰りの乗り物の中で、また途中乗り換えのところで喉をしめしながら、全編を一気に読み通した。
これは佳い仕事だ。前にもそう思ったが、これがどこかで本にならないなんて犯罪的だと思う。小侍従という和歌の名手の環境がかなりクリアに多面的によく捉えてあるし、和歌の魅力が魅力満点に読み込まれている。中西進氏が「あの人は才媛ですよ」とわたしに褒めていたが、その通り。もう惜しいことに若くない、わたしとどっちがどっちという、E-OLD。しかし気迫は若い。「ペン電子文藝館」の委員として最も信頼できる委員の一人である。
2007 3・29 66

* 「濃茶の貴人清次」とは、遠い遙かな昔を思い出させてくれますねえ。「小習」から「四ヶ伝」へ一等手続き煩瑣な点前で、苦手でした。大圓の真台子まで正引次され、「宗遠」という茶名はもらいましたが、「薄茶の平手前」と「盆手前」がきっちりできればいいやと、生意気に怠けていました。
そもそも足が痛くて「正座」が苦手で。その御陰? で、利休が「正座」してお茶をたてたなどという証拠は全く無いという大発見? をしました。彼の正座した画像も彫像も、同時代のものでは、一作もありませんし。ハハハ

* 『連環記』は、驚嘆の堂々大文章の文学作品、。『運命』も、天地に鳴り渡るような、すばらしさ。いま、露伴が読まれているなんて、感動。
2007 3・29 66

* いまに始まることではないが、ものを育てたい土地、田畑には、ゆったりと肥やしをふくませねばならない。関係の濃いあれこれだけを肥やしにしたがるとかえっ土地が固まって痩せる。何の役に立つだろうかと疑ったりせず、書き手は、創り手は、おいしいものをゆったり身に蓄えているといい。目に見えて役に立たなくても、とてつもない隠し味があらわれたり、信じられない働きのいい中間子に活躍し、幸運をひきよせてくれたりする。今のわたしに知識欲はないが、好奇心は衰えずにある。好奇心がいい鉱脈にふれはじめたりすると、何がつかみだせるか知れない。具体的な効果はなくても面白くて溜まらない余得がある。底荷になる。
2007 4・4 67

* わたしは、「ベッタリつきあい」の少ない男で、ことに文壇人と私的に出会って、話し込んだり、飲み食いしたり、泊めたり泊まったりということは全くしない。わたしには党派という「つるみ」がないから、どう、もの陰でわたしをサカナにしていても、誰にも悪影響がない。一方わたしはそういうバカげたことをするアイテも機会もない、何よりその気が無い。批判するならこの「私語」で名前や状況を明らかにし、文責のある感想を述べる。いちばんこれまで多く触れてきたのは例えば猪瀬君だろうが、わたしは彼の探求心の豊かさと裏付けのある論考力をいつも褒めちぎっている。敬服し信愛している。その一方で彼の与党的素質や横暴なほど強引な例えば会議の引き回しなどは、批判してやまない。要するに文人としてごく自然な立ち向かい方をしている。
そして、わたしがたとえ文壇の孤独な嫌われ者であるにしても、わたし自身はその評判に実質なにも関与したり葛藤してきたワケではないのだから、気にかけない。身に降りかかる火の粉がわたしを直に焼き立ててこない限り、わたしの知ったことではない。
その一方で、矛盾したことのように読まれるか知れないが、わたしは各界にかなり多くの知己を得ている。わたしも敬意をささげ、向こうからも敬意を示しながら「淡き交わり」の妙味を味わわせて下さる人は少なくない。各方面の学者、研究者、著述家、編集者、記者。また優れた美術家、演劇家。その上に二十年、いやもっともっと以前からの「湖の本」の読者たち。ただの読者ではない。魂の色の似た知己である。
わたしが孤独を本来の在りようと思いつつ、身を切る孤立の寂寥に毒害されずにおれるのは、こういう人たちのおかげである。そしてさらに基盤に妻子が居てくれる。

* どんな世間を游いでいても、赤身に塩をすりこまれるような辛いこと不快なことは有る。無くなることはない。そして不条理なものごとほど、千万の言い訳も利かない。
建日子も、いま、そういう不快な毒水をあびせられていることだろう、出る杭は無道に打たれるし、打たれる意味が無道でなく、本人が気づいていない場合もある。
特効薬はない。
しかし、このあい間家に来たときわたしは彼に言った。自分より格下と思われる相手でなく、今までのつきあいとは角度や方面のちがった目上の「良い知己」を求めて触れあうようにと。知己をえて、身内をえて、いろんな意味で豊かになるがいいと。
この父とも、臆せず高ぶらず、ときに静かに話すがいい。

亡き父をこの夜はおもふ話すほどのことなけれど酒など共にのみたし  井上正一

このお義理にも上手と読めない歌一首に出逢ったころ、建日子はまだ中学に入るかどうかだったが、いつかこういう感懐に胸を濡らす日が来るであろうことをわたしは痛ましく感じていた。わたしはまだ死んでいないが、建日子にはもうキツイ日々がきているだろう。何かの折にはすこしも気遣いなく顔を見に帰ってきてよし、呼び出してくれてもいい。

独楽は今軸かたむけてまはりをり 逆らひてこそ父であること  岡井隆

子が父に、父が子に、逆らう。
だが待て。わたしが父であるだけではない。建日子がまたみずからも父であって初めて、この岡井さんの歌の示唆する境涯が、人生が、複眼で観えてくる。
2007 4・4 67

* 今日はこういう一日、それでよし。すこしずつ生活が身軽くなってゆくようでありたい。
創作、執筆、「湖の本」百巻、ペン理事・委員、「美術京都」「京都美術文化賞」の監修と選者と。老境の仕事には有り余って十二分。仕事は軽くならないが、たぶん人間関係は実質を欠いて自然当然にはるかに淡泊・淡交に推移するにちがいない。
年々歳々四季の花にかわりないが、人はますますうつろい行くであろう、あたりまえである。それでよし。
祇園さんの西大門、石段上に腰をおろして晩景の四条大路の灯に見入っておれば、そこがわたし独りの「禅場」である。来る人は来てわたしの隣に黙ってすわるだろう。其処はなかばもう他界に接している。
2007 4・7 67

* 鈴木大拙の角川文庫『無心ということ』を音読していて、さすがにバグワンの話と符合することの豊かさ、嬉しくなる。大拙さんは禅人であり、しかし念仏の妙好人にも理解の深い世界的に著名な深い深い境地の宗教者であった。
その大拙さんが、宗教の極地は「畢竟浄の受容性」にあるというのは当然至極で、バグワンも常にそれを「女性性」に喩えている。帰依とか、バグワン独特の語彙でいえば「降参」や「明け渡し」などもそうだ。
我=エゴを完全に落とせずに無心とか空とかは、ありえない。努力したり、自意識で強いたり、理に落ちれば、無用の知識も割り込んできて、「本性清浄の受容」のあり得るわけがない。宗教性にふれるもっとも基本の理解は、これ。
バグワンはそういう我執=エゴの根底を「心」と睨んで徹底批判するが、大拙さんも、アッシジの聖フランシスの言葉をかりながら、「今のキリスト教者(= 宗教者)はみんな<心>がありすぎて困る」と言い、この先はわれわれへの出題のように読めばいいが、「死人のように、死んだ人のように、死骸のようにならないと駄目だ」と。
「死骸になれば、どこかにもって行って、立てておけばそのままに立っている。しかし推し倒せばまたそのまま倒れる、そのままになっている。人が何を言っても怒りもしない、笑いもしない」と。
また聖ロヨラの言葉を借りてこうも話している。「今、神様が出て来て、そこの海辺にある、櫂もない帆もない捨小舟、それに乗って大海に出よと命ぜられるなら、即座に出てゆく。なんら躊躇することをしない。後は神のままにされて動く、波間に沈むなら沈む、大洋に浮かび出るなら浮かび出る、どこへどうなるかわからぬが、それでよいというのです。宗教生活にはそういうところがあるのです」と。
「ところが、困るのは人間には分別意識(心)というものがある。知識というものがある、そうして何かにつけて理屈をつけたがる、そこから始末におえぬということが出て来る。」「宗教には、何のかんのと、理論はこうだとか、論理はそうでないとか、そういうことを言わぬところがあるのです」と。

* カソリックの教会が歴史的にやってきた教義の穿鑿や儀式化が、みな、それだ。南都の仏教も、天台・真言も、念仏ですらも同じようなことをやってきた。
バグワンはいかなる宗教宗派にも属さず、ひろく見渡してかつ端的に宗教性を抱いた人間の深い安心と無心とを語り続けてきた。わたしはただただ聴き続けてきた。あたりまえな話だが、大拙さんもしかり、優れた達者・覚者は、究極するところ同じ境地にいておなじ理解を語ってくれる。そう分かってくる嬉しさは喩えようもない。

* 五木寛之氏がテレビで「林住期」について話していた。
この仏教徒の生活観や修行段階のことは、山折哲雄さんなどしきりに解説・啓蒙し、自身実践さえしたいふうに言われていた。
五木氏の思いは、しかし、山折さんのいわば生硬な「直訳」より、よほど柔軟に「意訳」にちかい『林住期』のようで、その点わたしの思いに遠くない。
この日本国の現況下、「林住期」の直訳的境涯など、言うはやすくも、行なって実のともなうわけがない。五木氏のテレビでインタビューされていた限りで聴けば、同感するところが多い。部分的にうち重なる実践部分もむしろ少なくない。
むろん我々は五木夫妻のようには別々に生きていないけれど、男女の友情は老夫妻にこそありうるという理解はほぼ共にしているし、仕事の多産という点でも、方面も意思もずいぶんことなるけれども、豊穣感はじつは六十以前よりもむしろいまの生活にある。ここへ達するための五十年六十年を生きてきたという実感があり、それがわれわれの「林住期」であり、現実に山林に分けいって暮らすなどはアナクロニズムに過ぎない。バグワンが、よく、ヒマラヤに入って行く行者のエゴと俗とを嗤っている。「無心」は、「静かな心」は、街にあり市にあって、しかも得られる。五木氏は林住期をあっさりと年齢・老境に即して言われているようで、それにもわたしは共感した。
また人間関係を年賀状の枚数にたとえながら、死ぬときは一枚もこなくていい、少しずつ少しずつ減らしていきたいと五木氏は話していたのも、分かる。世間と他人とはどっちみち老境の進むに伴い遠のいて行くし、それでよい。
ま、わたくしの謂う意味の「身内」として誰がわたしの臨終にまでのこるのか、五木氏のようにひとりもなくて良いとは思っていない。ただ必然に減って行くものと思って、黙へ黙へと沈みゆくだけ。
2007 4・11 67

* 「用」の手紙・メールと、「用でない」手紙・メールとは、はっきりちがう。しかもふだんに手紙・メールをかわす同士には、通底して微妙に「用」のないわけがない。「用でない」手紙・メールは聡明に書かれれば「恋文かのよう」に心親しい価値になるものだと、まだ電子メールが世間に広まりきらない頃、わたしは雑誌「ミセス」に書いたことがある。ふしぎに微妙な「架け橋」のような「用」が、信愛を可能にする。
だが双方に、或いは片方に本質的に「用のない」手紙やメールは生彩にとぼしくなり、つまり、装ったご挨拶におわる。「用でない」佳い手紙やメールはいわゆる作文に終わらず「文学」に接して行く。
それに気づいているから、わたしは、一視同仁、人様のメールを「お許し願って」此処に書き写したりもする。
2007 4・12 67

☆ 一時間ほど前、メールをいただきました。うれしいです。
明日からお忙しいですね。くれぐれも腰など痛めませんよう、無理なさらないよう。
最近のわたしの状態はもうご存知のとおりで、桜狂いや物見に慌しく過ごしました。
外国からの来客を送った後はさすがに疲れて、それでも洗濯日和ですから一気に済ませて、さらに疲れました。どこにも行きたくない、のが今の心境です!
手入れこそ不十分ですが、庭にはもう藤が花芽を準備し、椿、ミモザが盛りです。オランダで買った球根の一種類だけは珍しい花で、黄色と茶色の、鈴蘭のようなもの。ボッとしている今日の午後の幸せです。
「指月」の、指と月、に関しては、まだ理解できていません。
「あれが月」と指差す指を見て わたしたちはその指を月だと錯覚・誤解してしまうことが 往々ある。そう言われます。すべての事柄に実はそのような判断・理解がされてしまう・・。恐ろしいが、それは本当のことだと思います。
月という「具体的な」「目に見える」事柄でなく、他の例として歴史を挙げてみても、「歴史」はあまりにも曖昧なもので、歴史を勉強していますと到底言えないことを、嘗てわたしは痛感していました。過去の、実在したかしないかさえ曖昧なもの、形として法令や戦争や道具や本などなどがあっても断言できない。どんな解釈だって強引に引き寄せかねない。その時代にわたしたちは生きていないから。それに関して議論する危うさ、論説などを書くことは大いに主観的なものであり、時に犯罪的な致命的な過ちになりうることも、学生の頃既にあまりに苦々しく察知していました。
歴史でなくても、人の心についても同じ。
知られない、人の心は。
恐ろしいことです、突き詰めていくと不可知になってしまう。
とこう書いて、そこから少しも進みません。
お目、くれぐれも、お大事に、お大事に。  鳶

* 「月という<具体的な><目に見える>事柄」という指摘は、まちがっている。
「指月」の月は、「真如の月」などというように、その表現自体が「真」「真実」への「喩」なのであり、具体的な、目に見える事象を謂うてはいない。あれが「真実だ」「真実らしい」とわれわれは「指さし示す」ことは出来る。その「指」とは、「ことば」「表現」「高度の喩」なのであるが、言葉も表現も喩も、むろん真実自体ではありえない。仄めかし、示唆しうるちから、ではあったにしても。
その仄めかし、示唆の最高度に洗練された「ことばや表現や喩」を、即ち「藝術」とわれわれは呼んでいる。呼んでほぼ認められているが、とりわけて優れているのが「詩的」なことばや表現や喩なのである。端的に、また各ジャンルを超えて、広義に「優れた詩」こそ、「月」を「指さしてかぎりなく近づける、指」に相当している。創作に含まれる真実感、感銘や感動の芯、はその「詩性」に宿っている。そういう、優れた詩性を欠いた、技術だけの表現、つよい俗欲と俗情にのみ導かれ媚びた表現、真実への動機を欠いた表現は、むしろ無い方が、存在しない方がいいぐらいなのだ。
そんなものがこの世から無くなってしまえば、どんなにこの世は端正で清浄で平和だろうと思う。そう思うことが、なさけないが、日々に増えてきた。

* 鳶のメールで、もう一つ問題がある。
「歴史」はたしかに、ややこしい。しかし、それが、過ぎ去りし昔のことだから、同じ時空に同座して確かめるわけにいかないから、「その時代にわたしたちは生きていないから」ややこしいのか。
それを謂えば、現代、同時代の「歴史」は明快か。「それに関して議論する危うさ、論説などを書く大いに主観的な」逸脱、「時に犯罪的な致命的な過ちになりうること」が、同じ「その時代にわたしたちが生きてい」たら、免れうるか。
それは途方もない楽観にすぎない。
イランはブッシュ政権にたいし「イスラエルを承認する」という条件提示で「和解」外交の手を伸べていた事実を、かなり確かな「筋」が証言しており、しかもそれはライス米国務長官らにより握りつぶされていたとも露見しつつある。まったくの「今日」外交史であり、もし事実なら「画期的提案」だった。イスラム・イスラエルの何千年の歴史がきしみ声をあげるところだ。
このややこしい「今日の歴史」を解析することは、大昔の歴史的事実を記述するよりも何倍もややこしいにちがいないし、その「危うさ」放恣な「主観」的私見や洞見の入り交い混乱するであろうことは、一つ間違えばたいへん「犯罪的・致命的」な核戦争を、地球にもたらしかねない。

* だが「指月」の譬えは、こういうややこしさとは「レベルを別」にした形而上学ないしは宗教性の根の話題なのである。
2007 4・12 67

* 大拙さんとバグワンとをあわせ読んでいると、覚者の「覚」たるゆえんがレンズの焦点を一つに結ぶかのように、みごと重なり合うから感動する。ことばは異なってもまったく同じことが話されている。
もし異なる点を謂うなら、大拙は宗教を語って「信」を口にしている。講演の聴衆が主として真宗の僧侶たちらしいからそれが話題になるのだろう。
バグワンは宗教性をたいせつに語るが、めったに「信」の一字に言い及ばない。無や空を謂いつつ、大拙のいわゆる「本性清浄」を話してくれる。何かを信じて救われようと謂うところからバグワンは離れているし、たぶん禅人である大拙もそうだろうと推測できる。わたしの言葉でいえば「抱き柱」を彼らは抱かない。抱けば「抱く」「抱きつく」という「我」がのこる。のこれば信は全うできないのではないか。大拙の謂う信には、抱きつけ、縋れと謂うニュアンスはない。そういう我は一切なく、帰依し、基督者のよく口にする「みこころのままに」にある、あれる、かどうか、だ。

* 只管打座(しかんたざ)と禅の人は謂う。ひたすら座って居よと。アッシジのフランシスの、心が邪魔をする、死骸かのように在るがいいというのは、それだろう。死骸はなにもサマをしない。良い格好をしようなどとしない。大拙はこれを生き物の猫にたとえて謂うている。
猫はなにをされても超然として、されてよし、されなくてよし、在るも去るも何に構うという気もなく在る。人間はああは行かない生き物だが、そういう生き物のママで宗教の境地には至れるものでないと。
バグワンもまるで一枚の紙に裏貼りするように同じことを話している。このとうてい渡れそうもない白道を、渡れば向こうは「彼岸」だなどといちいち言う人間は、学者であって、すべてを受動的に明け渡している者はそんな理屈は言わずに、ただ渡って行く。渡れてしまう。つまり「摩訶不思議」とはそれだと、大拙はさらりと話している。
2007 4・13 67

☆ こんにちは。  樹
お疲れさまです。お礼のメールです。
私語の刻4/12(木)「鳶さん」のメールに返して、
【「月」を「指さしてかぎりなく近づける指」に相当している。・・略・・「詩性」に宿る。】という、「指月」のくだり。
なかなかこういうことを書き表したものに、出合うことはないので嬉しいです。
よーく分かるというのは厚かましい、から こういうのを読むのが好き、です と。
普段、自分の生活で身体のどこかが、ウーン「私」がかな? 向かうもの、沿うもの=その感覚、は「私」が予めどこかに帰属するようなもので、自分では普段特に気を留めているわけでもないのに、その感覚に出合うと「私」が安心する、嬉しい。
なんだ、何やら彷徨していたのは、そういう出合いなど、そうしょっちゅうアルものではないから、か。
だから、たまーにこういう私の好きな類の文章に出合うと嬉しい。
秦さんは、さすがだと思いました。
ありがとうございます。

* あれが「真理」これが「真実」と紅潮して人が指さすとき、何らかの「知識」が人を誘導しているものだ。しかも「知識」というものが、本質的に、もともと、一つ、トータルであるものを、二つ、例えば我と汝、これとそれ、とに分離し分割し分別してしまう働きに、なかなか気づけない。つまり「指さす」という行為が「指」と「月」とを分けて存在させる。「月」が「知識」され「指さされるモノ」になってしまうのだ。「指」などささずにいきなり「月」になってしまう、「月」に溶け合ってしまうことが不可能でないのに、「知識」を駆動させてしまい、つまり別々の「月」と「指」とになってしまう。しかも人間は、往々にしてそれが得意でならない。こまったものだ。
2007 4・15 67

* マイミクの「かめ」さんが、梅若六郎の、能楽堂でない舞台での「道成寺」を観てきたことを書いていた。能楽堂でない場所での「道成寺」はわたしは観たことがない。

* わたしは一昨日 歌舞伎座で仁左衛門と勘三郎の「男女道成寺」を観てきました。
むかしから思ってきました、なぜ「道成寺」がこうも国民、的に愛されるのだろうと。
わたしは蛇が大の大のイヤな人ですのに、道成寺には、どんなジャンルでも惹かれるのです。活字では「虫ヘン」の字がゾクッと目につくくせに、わたしは「蛇」を主題に人間社会の「差別」意識や行為への批判を、小説ででも何度も何度も書き継いできました。
「道成寺の藝」を宿命のように背負ってきた人たちの「歴史」をわたしは思います。能も歌舞伎も音曲も絵も。
「蛇」の問題をグローバルに共同で考えて行かないか、神話、伝説、民俗、文学、美術、デザイン、信仰などの広い範囲からと、環太平洋ペン大会で演説したこともあります。
女の思い、男の思いから「道成寺」が、「清姫」が、「花子」がどんな意味をもつだろうかと、『日高川清姫』という名画を描いた村上華岳を『墨牡丹』という小説に書いたこともありました。
女の名に「花子」とか「清姫」とか美しく名付けてこの物語を流布した人たちの思いにも、つよく惹かれています。 湖
2007 4・15 67

* こっちは「此岸」あっちは「彼岸」この橋をわたればあっちへ行けるが、なみたいていでない難しい橋である、などとチエ・分別をつけるのは、哲学者や宗教家のやること。それを「知識」と受け取るから此岸と彼岸の距離は心理的にもはなはだ乖離してしまい、所詮どうにもならず橋の前で立ちすくむか、途中で猛火・毒水のなかへ落っこちる。落っこちるのを懼れるだけになる。
そういう理屈・チエを一切うけつけず、無心にまるごと(totalに)受け入れているものは、水の上、火の上でも、地をふむようにすたすた歩んで行く。「摩訶不思議」というしかないが、そんなものだと、実例は『新約聖書』にもあり、鈴木大拙氏も話している。
つい一両日もまえか、『チャンス』という映画を観た。チョンシー・ガードナーと呼ばれている、もとは大家の庭師であった男の物語で、シャーリー・マクレーンに愛される。少し頭の働きの尋常でない、心からの一庭師に過ぎないのだが、その無心に語る(客観的には通常世間の知恵の働かない)言葉が、「智者・覚者」のそれかのように光って聴かれ、一度その「思いこみ」がエスカレートしはじめると、大統領やマスコミをも畏怖させるようになる。しかし本人はなにも覚悟などしていない、ただ無心に暮らしている。
終幕では、彼は、恩義ある友の葬儀を背にし、しずかな池の上をなにごともなくさらさらと向こうへ歩いて渡って行く。持った傘で水をさぐると深く沈むけれど、彼はなにごころもなく水の上に立っていて、歩いていて、微塵も危うくない。「摩訶不思議」だが、それは俗人の眼の謂うことで、ガードナーにはそこが水の上とも、水の上には立てない歩けないなどとも、微塵も思っていない「だけ」のはなしだ。
「分別」と「無分別」といえば、一にも二にも人は「無分別」を嗤い、「分別する心(マインド)」を褒めそやし、頼り切って、人間の歴史をつくってきた。が、何の、そんな「心」のじつはちっとも頼りにならないフラフラしたものだとは、誰よりも、一人一人の「自分自身」が、日々数え切れないほど思い当たっている。
「ほら、みなさい。ごたいそうに心、心という君が、たったそれだけのことですぐ心乱れているじゃないか」と、漱石『心』の「先生」は学生の「私」を窘めていた。しかもあの「先生」ほど、「静かな心」の難いのを誰よりよく知って苦しんだ人はいなかった。
2007 4・16 67

* 教室で学生に「谷崎」を話す、ま、カリキュラムの一連のようなこと。目の前の谷崎先生の六代目の河内山めく(ご本人の曰く)写真が、けさはかすかに柔和。もう久しく、谷崎文学のことから離れている。読者としては少しも変わらないが研究者としては相当離れている。「谷崎学」に大きな期待をかけて研究の充実や全集の完璧を希望し続けてきたが、研究者たちの無私の大同が実現せず小粒な言説や言動が、ちいさく谷崎文学を私物化している気がして、触れ合ってゆく気がしない。
2007 4・23 67

* わたしは、先日の、ペン理事会で発言してきた。
いまわれわれが日常に意識し改善をと働いている環境問題は、いわば、大きな地球の地表に起きたひっかき傷の手当に等しく、人一人一人の手でも、地域の行政の手でも、癒してゆくことが可能だが、もし「EARTH」を「地球」と見つめて謂うならば、ひっかき傷程度で済まない、まさしく地球自体の重病、ひいては人間の死滅にいたる、それももう目の前まで来ている「危機的症候」を治癒するしかない、と。
内臓の緊急手術が必要なまぎわに、皮膚のシミを抜いたり、ひっかき傷にくすりを塗ったり、凝った肩を揉んだり、むろんそれも大事だが、手術の機を逸すれば、なにもかも無に帰してしまうことを懼れよう、と。
そのために何が出来るだろうか、と。
京都議定書にかかげた目標は、達成されねばならない限度ぎりぎりを指さしていながら、まだ批准もしない最大の大国がいる。
少なくも日本は、開催国の意欲と責任においてもあれを実現して行かねばならないが、今の政府がそれに本腰を入れて有効な政策を動かしているとは、なかなか看て取れない。彼らがやっていることは、「集団自衛権」の名のもと「戦争参加資格」獲得のため、何としても「憲法改悪」を強硬に実現しようと、恣な法を次から次へ多産しているだけだ。
財界も、自動車業界を筆頭に、京都議定書実現にブレーキをかけ引き延ばそうと躍起になるのではなかろうか、不安は募る。
「Earth Day」は、まこと大地、地球の根の重患・危篤の危機をまっさきに治療する、そのシンボル・デーでありたい。そのためには、まさしくグローバルに求心的に人心が大同一致しない限り、部分的な自慰行為なみに乾燥し、そのまま高熱で干からびてしまうだろう。
オゾン層の回復と防護、地球温暖化の抑止。
その二つ以外の環境運動は、今や残念だが、部分的な対症療法以上にはならない、根の重病治療には直接役立たない。
ことは、国内の、そして世界の「政治的自覚と力」とを動かさない限り、とうてい成功しない。少なくも国民の三割が参加する運動体を実現して、まず手近な政治・政権をうごかす策戦を早急にもたねば、もうほんとうに「間に合わない」だろう。
こういうときにも、わたしは、学生たちの、ことに理系学生たちの、冷静で、しかも熱烈なオピニオンと行動とに期待するのだが。
2007 4・23 67

* じりじりと小説の一つを練っている。まだどんな題材とは謂えない。小説らしい小説ではない、おもいきり変わったものの一つになってほしいと願いながら慌てずに少しずつ。
2007 4・22 67

* 創作はじりじりと進んでいる。速度を増すタイミングをあやまらぬよう、まだ手綱はかたく絞っている。もやもやと、もやもやと頭の中にモノの動き始めて、ここぞという時機に手綱をゆるめたい。あわてない。
2007 4・28 67

* チューリップに交代し、芝蘭だか紫蘭だか知らんけれど、屋上の細庭を溢れ出そう。物干しを風が走り、日光は強い風にも揺れない。

* 叙勲だの褒賞だのという國の顕彰のなかに藝術家の名前をみると、ときに傷ましいと感じる。どれほど敬愛してきた人の場合も、わたしはお祝いもせず、申し上げたこともない。健康をねがうばかり。

☆ 読んでもらいたい本  玄
このところずっと権力やマスコミ(も権力の一部といえる)のありように、苛立たしさを感じながら過ごしている。昭和ひと桁生まれの人間は、悪夢の再来を恐れる気持ちが強いのだ。
誰かが何とかしてくれないかと他人頼(ひとだの)みでなさけないと嘆いていたところ、一人でも多くの人に読んでほしい「よい本」を見つけた。『報道されない重大事ー斎藤貴男』2007年1月10日発行のちくま文庫である。

* はっきり言って、年ごとに、強引に國権に「飼われている」違和感にいらだつのである。「いやなら、死ね」と言われているような気さえする。だが死ぬ人はめったにいない。よほど敏感な人だけがたまに本気で死んでしまう。「玄」さんの意向からそれて行くかも知れないが、たまたま昨日もバグワンにわたしは聴いていた。
彼は人間の絶対に三つあり、うちの生と愛とは当人のままにならないが、死だけは、犠牲者にもなれるが決め手にもなれると、比喩的な口調で前置きする。自殺とはその決め手をつかうことだ。
社会(國)は人々から一切「私」たる尊厳を奪ってしまいたがる。尊厳を取り戻したさに自殺する者が出てきて、彼らはこう言える、「おれはおまえの世界とおまえのくれた生を放棄した、それは値打ちのないものだった」と。
誕生は思うままに出来ないし、愛も。ただ死だけにこういう決め手がある。あるけれど、それは性急すぎる決め手であるとバグワンは自殺を肯定しない。より「高次の可能性がある」と言い、本当に素晴らしい「個性的で、非模倣的で、非反復的な」「生のあらゆる瞬間に」自身を開くように、落とすようにあずけよ、帰依せよ教えている。彼はただ、生に対し敏感で、生を真に愛するものほど自殺に誘惑される、その理由をも、「実存の自由」に見つめている。但しより「高次の可能性」に帰依する前に生を放棄してしまうのを戒めている。
たしかに現世の生は、人の個々の生に対し「ユニークな敬意」を払ってくれはしない。とても屈辱的で、自分がただの歯車の一部に、巨大なメカニズムの一部になっているという苦境へ、いわば強いられた「匿名の生」へ追いつめてくる。敏感な者ほど、これは堪らない。そして「自殺」を考え込む。
バグワンは語る。

☆ 社会は強制的におまえを大軍団の一員にしようとする
社会というものは自分自身の道を行く人をけっして好まない
社会はおまえに「群衆」のひとりでいてほしい
ヒンドゥー教徒でいるのはいい
キリスト教徒でいるのはいい
ユダヤ人でいるのはいい
アメリカ人でいるのはいい
インド人でいるのはいい
とにかく「群衆」の一部でいろ
どの群衆でもいい、とにかく群衆の一部でいろ
けっして自分自身でいるな――
だが,自分自身でいたがる人たちというのは〝地の塩”なのだ
自分自身でいたがる人たち
彼らこそ地上で最も価値ある人々なのだ
地上にまだしも少々の尊厳と芳香があるのは
そういう人たちのおかげなのだ
ところが、そういう人たちに限って自殺する

* 断定的に聴くことはない、世の価値ある「少数派」の存在意義を高く認めたひとつの比喩的言説ではあるのだ、が、國や社会が「一人在る」ものを嫌うのは事実だ、そういう存在は「治者」には五月蠅いから。
バグワンが、こういう少数派に、自殺と二者択一の「より高次な自由の選択」「生」として示唆するのは、こういうこと。こういう自覚だ。それは「自殺」と真剣に向き合い至りついたほどの瞬間に、はじめて呼びかけてくる「高次の生」だ。

☆ 自分はどんな理想も目標(ゴール)も持たないことにする
自分は「今・此処」という瞬間瞬間に生きる
自分は瞬間瞬間に応じて生きる 内発的に。

* もろもろの財に似た価値を期待して長いものに巻かれているいるものには、寝言であろう。
2007 4・29 67

☆ 子規と大仏と関野貞  雀
昨日、加悦でにわか雨に遭いました。東京は突風や雷雨の被害があったそうですがお変わりなくいらっしゃいますか。
駅にあったチラシで、井特の「美人図」が奈良県立美術館に出陳されていることを知りました。
そういえば今年も奈良の八重桜を見ぬまま。
子規が松山から根岸に帰る途中で宿泊した“対山楼”跡地に、昨秋、正岡明氏造園の「子規の庭」ができたとか。先日、関野貞を教わって伊東忠太、長野宇平治と併せて識る機会を得ました。漱石や子規と同じ年に生まれていることも含め、得るところの多い調べものでした。 囀雀

* 先日ある雑誌を見ていたら、美術批評では研究者なみに知られた名の人が、「祇園井得」にめずらしげに触れていて、この幕末の画家のことは、大きな事典にも出ていない、文献もほとんどない、誰も名も知らない絵も知らないような、しかし優れた画家だと特筆していた。
特筆は嬉しいが、この認識は、今日では時代おくれである。土居次義先生のかなり詳しい論考が出たのは大昔のこと、わたしですら小説『閨秀』で、井得と、松園女史の画業とに繰り返し縁の深かったことを証言しているし、テレビでも話しているし、大きな図録にも長いエッセイで触れている。
雀さんの謂うその『美人図』こそ、松園の名作『天保歌妓』の原作かのように、繰り返し勉強されていた間違いない井得画であり、彼の展覧会もちゃんと開かれていた。{「ぎをん」というさほどでない広告雑誌だから甘く見ていたか、事実案内不足なのか知らないが、筆者の名前を見ておやおやと思った、著名な専門家だ。ただしこういうおやおやは、自分でも、人に何度もさせていることだろう。
これなどましな方で。
ある文藝関連誌の表紙に、國の大きな顕彰をうけて世にときめいている人の、小説の書き出し原稿用紙が、綺麗に写真で出ていた。字もちゃんと読める。で、半枚も読んでみた。小説だから読んだ、随筆ならわざわざ読まなかった。読んでおどろいた。
書き始めの一行から、先へ何行すすんでも、みな、手あかだらけ、慣用句だらけの、こっちが恥ずかしいほどの俗文字。
これだからなあ。
思い上がっているのか、思い上がらせているのか。
2007 4・29 67

* わたしのこの「闇に言い置く 私語」は面白いかいと聞くと、妻は「おもしろいわ」と答える。何故とは聞かない、それで十分。わたしは「個と個で」という亡き兄の物言いをずっと信奉し、虚心にいろんな人の声や言葉を聴いている。聴いているのがわたしなんだから、それら人の言葉もつまり何かしら「わたし」を表現している。この「わたし」とそのひとの「わたし」とが溶け合っている。わたしが紹介しているので、だから「わたし」のなかでいろんな「個」のことばが溶け合っている。幾重もの「わたし」がここで読める。
2007 4・29 67

* バグワンの「自殺」の説を限定・断定的にとらえるには、実際の遭遇体験等から異議もありえよう。事実問題として、貧窮でも自殺する人はあり、失意の重大さに屈する例もあるだろう、病苦の自殺も孤立寂寞の自殺もある。それらとも、どこかでバグワンの言説に通わないではないが、無理強いに納得しなくてもいい、バグワンの方便にはべつの意図があるから。
いろんな理屈で多岐の整合化をはかるような問題ではない。で、もう少し彼の言葉に聴いてみたい。言うまでもない、スワミ氏の日本語訳にもとづいている。また言うまでもない、バグワンは明瞭に「自殺しない道」を語っている。

☆ 死を黙想するがいい それはいつ何どきにもやって来得る だから,死について考えることを「病的なこと」だとは思おないこと。
そんなことはない。 なぜならば死は生の頂点であり まさに生のクレッシエンドだからだ おまえはそれに注目しなければならない。
それはやって来つつある おまえが自分で手を下すにしろひとりでに来るにしろ とにかくそれはやって来つつある それは起こらざるを得ないことだ
おまえはそれに対する用意を整えなければならない
そして,死に対して用意を整える唯一の道 正しい道は 自殺することではない
正しい道は、毎瞬毎瞬「過去に対して死ぬ」ことだ れ九が正道なのだ
毎瞬毎瞬「過去に対して死ぬ」こと 絶対に一瞬たりとも「過去を持ち運ばない」こと
毎瞬のように過去に対して死に,現在に生まれる それがおまえに新鮮さと若々しさと 活気と輝きを保ってくれるだろう
それがおまえを生き生きと脈打たせ エクスタシーの状態にさせ続けてくれる
いかにして毎瞬「過去を死ぬ」かを知っている人間は いかにして死ぬかも知っている
それこそ最大の技術であり,アートなのだ
だから,そういう人に死が訪れるとき
彼はそれとダンスを踊るl
彼はそれを抱擁する
それはひとりの友人
散じゃない
それは存在への全面的なリラックスだ
それはおまえがふたたびく全体whole〉とひとつになることなのだ

だから,これを倒錯などと呼ばないこと
それは違う
自殺した人たちはただ単に犠牲者だったにすぎない
彼らは神経症的な また機械同然の社会に 対処してゆくことができなかった
そして,彼らはく未知〉の中へ消え去ってゆく決断をした
哀れみは持ちなさい
非難は駄目だ
彼らの悪口を言わないこと
彼らを謗らないこと
それを倒錯だとかそんなふうに呼ばないこと
彼らに愛を持ちなさい

そしておまえは念々に死去し 念々に新生せよ 嬉々と。

* この最後の「念々死去 念々新生」は、わたし自身の即今に提示できる解である。江藤淳が自死し兄恒彦が自決したあの『死から死へ』の年から歳月が流れた。わたしは生きている。「一瞬の好機」を求めて待っているか、求めてなどいないか。自分がまだつかみ取れない。

* 今朝、石牟礼道子さんから「われらも終には仏なり」と副題した一冊の対話本が贈られてきた。『死を想う』と題し、死は「とっておきの最大の楽しみ」と帯に出ている。そこまで言うかとおどろくが、読んでもないと何も言えない。「いつかは浄土へ」というような願いは、無い。一片のわたしは、波。海に入れば海になる。それだけだ。それまでは嬉々と念々に死去し念々に新生したい。
2007 4・30 67

* 今日に限らないが、今日は「憲法」について、一度は物思いたい「国民の祝日」である。
なぜ今日が国民の「祝日」であるのかを、第一番に政治家に考えて貰いたい。

* 憲法については、改訂したい、それには反対、という両側からの声がかまびすしい。しかし、どの箇条をどう改訂したいのか、全面的に改訂反対なのか、はっきりすべき時期が来ている。法の執行上、具体的な手続き等で齟齬する何が、憲法と現行法の間に挟まっているのか、いないのか。
もし改訂派が、前文や九条には手はつけない、もっと末梢の不都合部分だけを改めるのだと言うなら、わたしは、そうすべきだと賛意を持っている。しかし、前文、九条をふくむ戦争放棄、基本的人権に改悪をくわえる改訂には、断乎、賛同しない。

* 次に、「アメリカに押しつけられた」などという低級な議論はやめにして欲しい。
どんな助産士がとりあげようと、生まれた子供の素質や美質とは関係がない。日本憲法の世界史的に誇れるのは、憲法そのものの内容で、誕生に立ち会い多少の手を貸した助産士アメリカは、本質的に日本国憲法自体に関わりはない。日本国民が承認して成ったことだけが、大切だ。子供(憲法)の親は、「日本国の国民」である。「アメリカ」ではない。
現に、アメリカこそ、日本国現憲法の精神にたじろぎ、いまや悪意の算術を躍起に駆使して、「憲法改定」を日本政府に強要しているというのが実情ではないか。そう言い切れる根拠は、有識者ならいくらもいくらも挙げられるだろう。
そもそも戦後、「アメリカ政府に強要された政治」しかやってこなかったに等しい「自民党政権」じゃないか。その情けない愚を先ず白紙に返せるなら返して後に、「わが憲法」についての「強いられた」の何のというゴタクを並べよ。猿の尻嗤いはやめよ、と言っておく。

* ともあれ憲法のことで、これだけは言っておく。

* わたしは日中文化交流協会の会員である。会員として二度中国に派遣され招かれていて、その感謝の気持ちもあり、会員を辞めていない。井上靖、宮川寅雄、白土吾夫、中島健一、山本健吉といった亡き方々への懐かしさもある。
しかし協会に対しわたしは全面満足しているわけではない。なぜ、こういう時に公然中国の友人に対し「協会」としてものを言わないのだろうと、何度も思ってきた。たとえば、ものすごい量と質の海賊版。これは看板に掲げた「文化」の問題ではないか。
今日も報道されていた。北京のまんなかのテーマパークで、知的著作権の公然大々的な窃取がなされている。名にし負う中国はレプリカ大国であり、それなりの理由もわたしは理解しているが、中国の、中華思想にあぐらをかいた国際法の足蹴り違反行為などは、まさしく「文化」交流の美質を蹂躙する。これも今に続く、夷國からする「朝貢」なのか。今日、何が見返りに中国から文化的に「下賜」されているというのか。

* 日本ペンクラブも、こと「中国」となるといつも腰がひけ、抗議すべきはするという是々非々の基本が守れないでいる、と、この十年、わたしは理事会を眺めてきた。むろん発言してきた。
何よりも中国(その他の)「核保有」を黙ってゆるしていて、どうして北朝鮮の核保有に妥当で適確な反対が言えるのか。だから言うなではない。言える姿勢をつくれということだ。
2007 5・3 68

* こっけいな事に、いま日本でも、一部の文士たちは没後著作財産権の期限を「七十年」に延ばそうと、躍起に働いている。
こういう野放図な財産権意識は、そもそも作家に似合っていて当然と、本当に言えるのだろうか。これは、一にかかってアメリカの国益とディズニー等の良識を欠いた企業我欲の動かしてきた傾向なのであり、アメリカ内部にも延長に強い反対がある。憲法上の法廷闘争も続いていると聞く。
日本の作家達の中には、現在の「五十年」保証では、国際的に「恥ずかしい」などと言っている。
ほんとうに「恥ずかしい」のは、世界が核戦争の無残な犠牲に陥らないようにこそ意識を高めねばならないときに、こういう泡のようなエゴイズムのために、かりにも藝術家のはしくれの一部創作者が長広舌を弄して奔走している風景だろう。
いったい、今一斉に創作者が没したとして、この七十年後、2077年という時、人類と地球の、いや日本国民の生命の安全と平和は、政治的に、外交的に、約束できるのか。いつたい、どんな顔ぶれが「七十年」の雀の涙に満たない恩恵にあずかれる、あずかりたいと妄想しているのか。
そもそも、現実を見渡して、当人が死んでしまい「十年」もの間、生前の創作の財産権を主張できる、そんな文学者が、作家が、何人残れているのだろう。自称創作者はゴマンといるけれど、没後十年、財産権を主張するに足るのは、明治以来五万人に二百人かその半分ぐらい。おれだけはと幻想しながら「七十年」への仇夢を見ているのんきな昨今の作家連中に、わたしは笑いをおさえられない。創作の財産権など五十年でも永すぎる。それらは速やかに公衆の財産(パブリックドメイン)として国民的・世界的に利用されればいいのである。もっと別の「七十年」後に、懼れとまた勇気とをもって臨まねばならぬ瀬戸際にわれわれは生きている。バカか、お前らと言いたい。

* 「ペン電子文藝館」の仕事をして痛切に感じたのは、湮滅させるに惜しい人と作品とが、文学史に数多く埋没しているという事実。そして、それを掘り起こして復権させ読書人の人目に触れさせることは、例えば「ペン電子文藝館」のような施設と活動をより大きく支えて行けば十分可能なのであり、それを阻む大きな要因は、常に二つある。一つは、愚かしい著名・有名への錯覚に満ちた偏重。もう一つはいたずらに永い没後著作権期限という制約。
没後に忘れられるという事実と、作品の質とは、少しも正比例していない。文運というが、それが左右したし、なにより「出版」という善悪の二面を持った資本機構の悪い面が、いたずらに虚名・著名・有名の弊害を生じさせてきた。
出版は文化に相違ないが、著しい背文化、反文化のエゴイズムも抱き込んでいる。「著作権没後七十年まで」などというたわことを言いつのっている作家達は、自分がそうい背文化、反文化に庇護されているというあさましい自負と妄想とに溺れているのではないか。

* わたしはいま高校生の孫を一人だけもっている。もし今から「七十年」後にはこの孫娘はもう八十六、七。もし孫の孫・ひ孫がいようとも、わたしは、顔も知らない子孫に雀の涙の現金をかりに贈れるとしても、ほぼ無意味としか考えない。それよりも「ペン電子文藝館」のような場所に作品をのこして、その時代時代の「いい読者」と作品を介して対話したいと願う。自由にそれの出来る期限はむしろ短い方が良いが、少なくも現行の「五十年」で十二分だ。
2007 5・4 68

* 明治学院大学名誉教授の粂川光樹氏の大冊、最近笠間書院から出された初の単行本『上代日本の文学と時間』も贈られてきた。医学書院に同期に入社した四人の一人で、彼は一年もするかせぬかで退社し、わたしを大いにうらやましがらせた。フエリス女学院の先生の頃に、わたしを呼んで講演させ、中華街でご馳走してくれた。のちに明治学院大に移った。この方面の研究者とは識っていた。古事記、日本書紀をつづけて音読して間もないこと、楽しみにこの大著に敬意をもって向かいたい。
医学書院で、入社してすぐわたしが主任を務めていたデスクに配置された、中島信也君(筆名・小鷹信光)の、これも早川書房刊の大冊『私のハードボイルド』も、堂々の半ば研究書の印象すらある自伝ふう歴史本であった。彼も医学書院に初出社の日を顧みてあんな情けないイヤな日はなかった、一日も早くやめたいと思ったと書いていて、あまり似ていたので笑ってしまった。
彼は徹底したハードボイルド畑の訳者・筆者で、仲間も、著書もびっくりするほど多いはず。わたしとは、ピンからキリまで方面のちがう書き手で交叉点はなかったが、共通の知人である書き手は少なくない。ペンの委員会や理事会で、彼の本に顔を出していた書き手とも何度も一緒になっている。
退社は、どっちが早かったか覚えない。中島君は会社に入るより前から、大学時代からもうその方面に地歩をもち仕事し始めていた。彼がデスクにいたちょうどその頃、わたしは昼日中東大国文の研究図書室に身を隠し、夢中で徒然草文献に読みふけっていた。その勉強から、書き下ろし長編の『慈子(斎王譜)』が生まれた。無我夢中であのころは勉強した。大学の勉強などものの数でなかった。仲間など一人もいなかった、妻のほかには。いや、編集長重役に長谷川泉がいて、わたしは、長谷川さん、あんなに忙しくてしかも森鴎外はじめ三島や川端の研究と啓蒙者として沢山な研究書・著書を持っているのだもの、自分もやれると、いつも気を張っていた。幸せな環境だったと今にして思う。
他に医学書院からは、わたしの知る限り、後輩に評論家樋口覚が出ている。先輩で上司だった畔上知時氏も優れた歌人で、何度も自著で紹介している。
2007 5・4 68

* とにかく観て感じて、そのまま書いている。本も芝居も景勝・古跡もそうだが、再見からが、真の体験になる。一度目は扉を開いて一歩だけ踏み込んだのと同じ。その一歩をどうつぎへ育てるかには、少なくも二つ道がある。その一歩を二歩に三歩にする、またはその一歩をかかえ持ちながら次の別の一歩に内的に加算する。
古社寺をめぐって社寺印を捺して貰ってくれば「行った、知っている」という人がいる。良い体験は、そういうものでない。二度立ち向かう気を起こさせないものは、概して、つまらない。但しこの際に、ぜひ覚悟しておきたいのは、作品がつまらないとは限らない、作品に比して当人の人間の方がよほど「つまらない」場合もある。作品を「つまらない」と投げ出すのは人間の勝手だが、作品の方からおまえは「つまらない」と言われるのはかなり恥ずかしい。
2007 5・5 68

* 趙州という禅の坊さんがいた。趙州は土地の名だが、ふつうに「趙州(ぢょうしゅう)」で通っている。その趙州という地方は「石橋」があるので知られていたが、事実は「略杓」つまり丸木橋にすぎないではないかと、別の禅の人が僧趙州をとがめた。
趙州は答えている、「お前は略杓しか見ないから石橋はわからないのだろう」と。
鈴木大拙は言っている、「人間というものは、自分の見るもの以上には見られないのです。われらは同じものを見ているように思っているけれども、人間はいずれも自分だけの世界を見ているのです」と。
眼科学的なことを言うているのではない、もっと内的な意味で人間の思いこみの妄りがわしく偏頗なことを指摘している。「石橋を見る眼があれば石橋が見える。略杓だけしかみえない眼ならば、それは何といっても略杓以上には出ない」と、趙州。

* 自分に見えているものを普遍妥当の客観視するのは、至らぬ「人の常」である。それを趙州のように、もっともっと深く広く見えている人に出会うと、また自分よりもまるで見えていない人に出会うと、即座に理解できる。
わたしがこの「私語」に、自身の述懐だけでなく、人様の述懐や発言や見聞をむしろ努めて転載させてもらうのは、「自分の見るもの以上(以外)のもの」を世界として補いたいからだ。それらは確実にわたしの言葉でなく書かれ、わたしの眼でない眼で見られている。わたしの言葉や眼つまり精神でそれらも濾過されていると言えなくはない、が、それでも、やはりわたしのでない言葉と眼の捉えたところは改変されていない。それを受け入れて共感するわたしがいるのは事実だが、いわばわたしには出来なかった、見えなかった、言えなかったことを、見せて貰い、興味を感じて、受け入れていることに変わりはない。

* 「mixi」のコメントは、どれもかも効果的に機能しているとはとても言えないが、それなりに意見交換されたり対話されていたりする部分は、上の意味での相互の補いになっている。
わたしは自分の「私語」を、自分の見聞を、自分の言葉だけで書き通すことも出来るが、それだけでは、「自分の見るもの以上には見られないのです。人間はいずれも自分だけの世界を見ているのです」という域を、枠を出られずに済んでしまう。少し言い替えればその「域」「枠」がいっこう広がって行かない「どんづまり」を自分から作りだして仕舞いかねない。
現にわれがわれの思いでむやみやたらに自分の言葉と眼とだけで書いている人の述懐や意見や感想は、乾燥したパンのように、ともすると味もそっけもない。ムリに我を張って、おれが、わたしがと言い張っているからだ。

* さらに大事なこと。趙州に、「略杓」しか見ないから「石橋」は見えない、それだけのことだと痛棒を食った僧は、「ではその石橋は何を渡すのか」と高尚そうな詰問で反撃した。
趙州はただ、「驢馬がわたり馬が渡る」と。「渡驢渡馬」と。これにはウンもスンもない。

* 「恒河(ガンジス)の砂は馬も踏めば獅子も踏む。虫けらも亀の子も通る。あるいはまた大象の足下に蹂躙(ふみにじ)られるというようなことがあるけれども、恒河の砂は何とも言わずにおる。何の不平もない。何の愁訴もない、また別に腹を立てることもない。驢を渡し馬を渡す石橋もまたこんな塩梅。何を渡しても一向平気でいる。」
日本人でもロシア人でもエスキモーでも構わない。いわば「木石」のように在る。「無」とか「空」とか難しく言わなくても「静かな心」は、「無心」は皆人の胸中のこんな石橋としてありうる。べつに略杓であってもいいのだ。分別して比較するからいけない。略杓はだめで石橋は上だと思っているのが困る。「よほど良い何かが選ばれて」渡るなんて思っていては、どうしようもない。
2007 5・10 68

* 「渡驢渡馬」のことを案じている。
驢馬もわたる馬もわたる虫けらも象もわたる。日本人もインド人もわたり王さんも子供も何の区別なしにわたる、女人禁制とも言わない、橋銭を払えとも言わない、そんな橋。
そんな橋のようで人があれば、その人は無心であるだろう。静かな心であるだろう。そんな橋は涅槃像にも似ている。しかし、その橋には涅槃も煩悩も無い、木石の橋だ。橋ですらないのだ。
2007 5・11 68

* いま眼を洗われて心落ち着くのは、手洗いに咲き溢れている花花を眼下にじっと眺めているとき。
花は、ふつう、やや高い、たとえば食卓や棚に花瓶をおいて眺めている。やや上目に、咲いた花をみあげている。花の首筋を下から見ている。床の間のしつらえが今日つい割愛される、と、自然そうなる。だが、テラスの植木鉢の花など、もともとは咲いた花容を上から眺めて楽しんでいる。盆栽や鉢植えはそれが普通で、花の顔はその方が自然に美しい。
で、家や部屋の中でも、倒れる危険のないかぎり、なるべく花は眼より低めに置きたい、玄関でも、そして手洗いでも。
その手洗いの、およそ二十数輪も一斉に咲いた愛らしい洋花を、「少女が口いっぱいにあいて合唱しているようね」と妻はよろこんだ。「合唱」という「表現」が、花容にふさわしいとおもしろく聴いた。
花が咲くと書くその「咲」の字を、昔の人は「わらふ」と訓んだ。「初めに月と呼びし人はや」と亡くなった山中智恵子はうたったが、初めて、「花咲ふ」と謂ってみた人の「表現」力は、センスは、たいしたもの、ことに草花の魅力を言い尽くしている。
だが今われわれが、相変わらず安易に「花わらう」では、何といってももはや慣用句の流用になりやすく、よほどでないかぎり、避けて通る。他の表現を探る。「お花がわらった」としきりに繰り返す現代の童謡を聴いた記憶があるが、ま、その辺までにまかせておき、よほどでない限り「花がわらっていた」と散文の作品には書かない。
一輪挿しの花を合唱とは謂うまい。淡い桃色五弁の花の芯に口紅ようの小さい底紅。そんな花の顔が上を向いて一斉に二十四、五も咲いていれば、なるほどね、「合唱」の容貌愛らしくて、眼がはなせない。おかげで手洗いがさながらの、明浄処。
2007 5・12 68

* わたしはクリスチャンではないが、だから彼らの表白によく聞くのと同じに、「父よ」とは唱えていない。しかしこの気持ちに間近にいると自覚するときはある。文字通りの父親に呼びまた頼むというのではないが。
むかし、同じ保谷のご近所同士かと聞いていた常田さんという俳優の「声」で、影絵のようなコマーシャルあるいは天気予報の添え物のような映像が、テレビで見られた。そのなかで、「お父さん」とただ呼びかける「声」ひとつが在った、「お父さん」と。それがわたしにはクリスチャンのあの「父よ」と同じにいつも聞こえ、そうでなくても自分もああいう感じにときどき父を、父でなくても誰かを、ひたむきに呼んでいるのを自覚した。あの映像がもし「お母さん」と呟いていたのであったなら、ごくナミの印象で終わったろう。「お父さん」なのでわたしは「感じ」た、信頼そして信仰の何かしら、すがた・かたち・おもいのようなものを。

疑いは半欠けだし、信用も半欠けだ
子供はまだトータルであり全体的なのだ
彼はただ父親の行くところならどこへでもついてゆく

この幼な児のようになったとき
そのときにのみ
意識の最も高い頂きであるこの贈り物は与えられ得る
おまえが「受容性=帰依=明け渡し」という最も深い谷間になったとき
意識の最も高い頂きはおまえに与えられ得る
谷間だけが頂きを受け容れることができるのだ
完全に女性的に
完全に受容的に

すべての言葉とシンボルとを超越したただ「お父さん」と、そう声にすらしなくてもそのように待ち迎えたい全的な信頼・信仰。「みこころのままに」というクリスチャンの思いとおなじことを、老子もまたバグワンも示唆してくれている。指さして指のはるかな月を見せてくれている。
2007 5・13 68

* 成る成らぬは知らないが、先方日大の希望にろくに添っていないとおそれるが、ぎりぎりいっぱい、明日の心用意だけ出来てきた。
過去のほとんどの仕事がホームページに収納してある。紙の本版「湖の本」は九十巻がそろっている。これへ単行本はおおかた収録してある。半端な初出原稿もほとんど漏れなく残してある。で、それらを「あれこれ」していれば、作家論も作品論も私見は適宜にアレンジできる。要するにそんな作業は今が今わたしのしたいことではないので、手が着かず悶々として時間を失ってしまうのだ。

* もし八、九年の日録をこまめに編集すれば、『死から死へ』「かくのごとき、死」ほど分厚い(五百枚ほど)湖の本が、もう五十冊ちかく編めてしまう。そんな面倒なまねは出来ないけれど、それをしてくれる人を求めることは出来るかも知れない。現に申し出てくれている人もいる。しかし、これはよほどわたしのセンスを心得ていてくれる編集心得のある、また信頼できる人であってほしい。身ぐるみみんな渡してはだかにされるようなものだから。
いずれにしてもホームページそのものを相当の費用をかけても使いよくリニューアルする時機にきているが、問題点の核心は「私語」の編集だと思っている。
ただカテゴリーべつに分ける整理は、「私語」そのものの流れ・空気をばらけさせてしまう。機械の上ではむしろ混沌とした味を生かしておき、別にカテゴリーをたてて編集することを考慮した方が良い。しかし私にはそんな技術もヒマもない。信頼できる人に預けられるといいが。
2007 5・13 68

* 日大芸術学科での谷崎話しの一回目は、思ったように話した。だいたい谷崎をどれほど読んでいる学生だか少しも分からないのだから、谷崎の人と作品とをことこまかに話しても、なかなか理解できないだろう。
わたしは、谷崎潤一郎ほどの書き手の作品と世界とにせまってゆくには、読み手がどれほどのいわば「底荷」を船底に積んでいないとダメか、そういう話しを今日はしてきた。おそらく学生以上にわたしを呼んだ教師のほうが、そういうわたしの真意をよう読み取っていなくて、なかなか谷崎そのものに触れずに漫談していると不満であったかも知れない、が、文学と文学者とを読む・分かるとは、眼帽子をかぶつた馬の直進のようであっては、ロクなことにはならないのを、とかく専門の学者研究者は狭く思いこんで、理解しない。
相手は谷崎である、日本語の歴史も、古典の咀嚼も、美のセンスや、藝術観も、水面下の氷山を十分察知するように壮大に遠巻きに読み込んでゆかねば成らず、谷崎をただ谷崎作品の表面だけで読んでいても、そんな読みでは砂をかむような按配で済んでしまう。事実、数多い谷崎研究論文などをたくさん読んでみても、爪楊枝で歯に挟まったところをつついているような段階で終わっている、「学問としての論文」はこんなものだという按配だが、ほとんど谷崎を読むための豊かな役にはたっていない。ただの自己満足ばっかり。
論ずるなら、前人未踏の「発見」「読み」でもって作者も作品も肥やし、かつて誰も見つけられなかった、言わなかった、言えなかったようなことをバシッと言ってのけるのでなくては、閾値したのバブル同然でつまらないのであるが、そういうことが出来るためには、「絶大の底荷」を腹中に溜めていないと所詮ムリなのだ。

* 来週もう一度話しに行く。
2007 5・14 68

* 『太平記』を読んでいた数日前、「一事一会」の四文字に出会った。注はなく、現代語に訳してある部分をみると、ごく生活的なその文字通りの意味に訳してあった。事も出来事、会もいわば会合。会得するの「会」ではなかったし、「一期」という背景も感じられなかった。もちろん、太平記は堺の茶人武野紹鴎らの時代に相当先行している。この四文字を念頭に、禅に接していたのちの紹鴎や山上宗二ら茶人たちが「一期一碗」と言いはじめたのか、さらに時代がくだって井伊直弼の「一期一会」に達したかどうか。注目していい。
2007 5・16 68

* 遠来の客と、ずいぶん話した、食事もして。谷崎潤一郎と「母」の話に話題が集まった。谷崎の母は美人番付の大関か関脇かという人であった。谷崎はこの現実の母と、美的観念としての「母」とをもっていたとわたしは思う。後者の「母」の源泉は、祖父が信仰していたロシア正教の、イコンに描かれていた「白い肌のマリア」像であった、とわたしは思っている。谷崎はその絵像を憧れと畏怖のまなざしとで少年の頃眺めていた。しかもその「母」をインセストとのからみで眺めて「夢の浮橋」に至ったには、源氏物語体験がやはり決定的に大きい、重い。
2007 5・16 68

* 桶谷秀昭氏から新潮新書『人間を磨く』、小沢昭一氏からちくま文庫『色の道 商売往来(平身傾聴裏街道戦後史)』をもらった。
桶谷さんの本の帯には「人を嗤う人間になるな」とあり、小沢さんのには「真実は、陰・脇・裏にある」とあって、介添人のような役で永六輔氏の名も出ているが、全面小沢さんが「色の道」の商売人たちにインタビューしている。この人はインタビューの名人で、同様の本をもうずいぶんたくさん戴いている。貴重な資料本も含まれていた。
まずは対照的な二冊だ。「胸を打つ40(編)の深い思索」で桶谷さんの本は、ある。まだ両方少しも読んでいない、昨日に貰いたて。ありがたいというか、書庫と二軒の家屋とに溢れている本の少なくも半数は、いやもっとかも知れない、みな、人様に贈られた本。わたしは基本的な辞典、事典や、どうしてもと思う全集や古典こそ自身で揃えるが、小説単行本のたぐいは著者に戴いた本を、人と内容とを吟味して架蔵または手近に積んである。玄関にも階段にも戸棚にも床脇にも積んである。ふしぎにどこにどんな本があると覚えている。
いろんな本を、研究書、小説、詩歌、批評・評論、随筆、地誌、歴史、古典全集、古文献それに、個人全集・事典・辞典まで、久しく贈られ続けてきた。わたしがそれらをよく「読む」からであろう。わたしと人さまとのお付き合いでは、書籍の贈答が最も豊富多彩。愛着も深い。役にもたくさん立てた。よほど畑ちがいでなければ、いまわたしが必要とする程度のことは大方書庫へ入れば見当がつく。堅いのも柔らかいのも右から左へ、いろんな顔と本とが混じっていて、それもわたしの「顔」であり「世間」である。
そして日々にもらっている、いろいろなメールや手紙やメッセージも、いわば寄贈された書籍世界と、範疇としては同じ人間的な質に満たされていればこそ、わたしは敢えて此処へ遠慮しいしい置かせてもらっている、むろん聴して下さる人のものに限っているが。
人は、われ一人の思いこみでは、まず間違いなくまっさきに「自分自身」を見間違え見失う。相対化ということには、相対化なるが故に、蓋然性以上の精度は求めにくいのは知れたはなしだが、絶対化よりは誤謬に距離がもてる。根本において人は孤独で、そうあって自然当然だという想いがわたしにはある、が、それでも日常的にわたしは、自分を滑稽に絶対化しない道を歩いている。自分で眺めている自分なんて、眼をそむけないで暴くように眺めれば、ずいぶんと醜悪で、ねじけて、汚れているものだ。居直ってそれを肯定も容認もしないで、柔らかに静かに生きて死んで行けるようにするにも、わたしは大勢の人に手を貸していただきたいと願っている。
2007 5・19 68

* 有り難う存じます。
ときどき、ひと様の日記や作品を読んでいるだけが、申し訳なくなると、割り込んでしまいました。
意識の流れのような「私語」で、もし「表現」していることがあるとしたら、「今・此処」で「生きています」という呟き、だけ。
平安神宮の桜をみるために『細雪』のひとたちが例年繰り返した「用意」の深さ・佳い意味の贅沢。谷崎をよりよく「読む」には、そういう「用意」が大事だとわたしは伝えたいのです。そのためにわたしの「谷崎愛」とは、と思い直す機会になりました。
週末には友枝昭世の能『邯鄲』そして狂言は『文蔵』です。能はこのごろは喜多の昭世、観世の栄夫ぐらいにほぼ限って、せいぜい歌舞伎や新劇に行きます。眠くて目の玉が「でんぐりかえる」から、お能は「勘弁」という家内なので、能には一人で行きます。
漱石の『心』の「先生」を翻訳する海外の人は、「sensei」としているそうです。教師と先生とは「兼ねねばならないべつもの」だなあと、わずかな体験で、よく思いました。とりとめなく。
お元気で。 湖
2007 5・22 68

* 久しぶりも久しぶりに、思い切った読者の長めのアイサツと告白とが届いた。家族親族のことを書いていて、その限りでは当人なりの覚え書きのようだが、そういうのをわたし宛に送ってきてくれた本意に、或る動機が働いているのではないかと思った。もっと長く丁寧に具体的に書きおきたい気が、機が、生じているのではないか。「斯くありし」とおりに書こうとしても書けるものでない。「斯くあるべかりし」真意を、飾らず、ウソにならず毎日続けて表現してみてはと奨めた。
忙しい勤務の母親である。しかし息子さんはもう大学生、やす香と同じ歳に生まれている。ムリをしても続かず、続けねば続かない。
続けるためには、たとえ一字二字、一行二行でもとぎらせず毎日続けてゆくといいし、粗い目次をつくって、書きたい範囲を自分で了解し、散漫を予防し、書き出しはよほど強く印象的な或る場面から初めること、と、奨めてみた。
2007 5・28 68

* わたしは、いわゆる肩書に責任は持ってきたが、肩書に媚びたことはない。肩書の故に人にへつらったり媚びたりしないで生きてきた。国民学校の副級長とか級長とかからそれは始まり、学級委員長や生徒会長を経て、勤めた会社でもいくつもの肩書を経た。もっと上を提示されてお断りしてきた。まして肩書ゆえに上にゴマをする真似は一切しなかった。むしろ肩書がついてまわるにつけ、上司との間に私的には距離をおいた。わたしは会社時代も作家になってからも、目上の人の私宅にほとんど近寄らなかったし、個人的にはめったに付き合わなかった。そういう機会は避けた。
わたしは清廉でも潔白でもない一種無頼の男であるけれども、媚びる、また仕えるという気持ちは、多くの感情の中で最も好まない。わたしは仕事のほかだれか人に対し「忠」の思いで従う気持ちにならない。兵隊に取られなくて本当に良かった。だが、現実にはわたしとその真っ逆さまの、それも媚びに媚びた他例にばかり出会ってきた気がする。じつに苦々しい。

* 棚からぼた餅の太宰賞をもらい世に出てからも、作家・小説家・批評家などは我が世渡りそのものゆえ、むしろそう呼ばれそう自覚することは誇りにしてきたが、それゆえにこそ世間的に有力なだれそれに甘えて、世利・世得の虚栄をむさぼろうとは求めなかった。太宰賞すらもわたしが求めて応募したのでなく、筑摩と選者たちが呼びむかえてくれたのだ、そんな例は希有であろう。
とにもかくにも如才なく立ち回ることは、わたしには出来なかった以上に、出来てもしなかった。いやだった。「心ゆくものが書けれ」ば、それでよかった。今も、それで、よい。
京都美術文化賞の選者や財団理事になったのも、わたしが求めたことではない。東工大教授に選任されたのもわたしには寝耳に水だった。財団母体や学長はじめ大学当局や文部省に、なにひとつわたしは負い目も遠慮ももたなかった。選任されれば全力でそれに当たるだけ、それはどの場合もそうしてきた。肩書に媚びたことはない、責任を果たしたいと思うだけだ。
日本ペンクラブ理事になって、もう十年以上、委員長とか館長とかいう肩書ももちつづけた。だが、それに対しわたしのしたことは、職務に懸命であること、それだけ。だれかの覚えがめでたかれなどと、毛筋も思わない。だから理事会でも委員会でも、顔色をうかがわず自分の思い信じることを率直にいつも発言し、それゆえに嫌われようが、是は是、納得行かないことは納得しない姿勢で通してきた。それが一番わたしの気性にあい、しかし、それが世間を狭く細くわたる結果になり、如才ない人たちから嗤われることになるのは、仕方がない、よくよく承知している。孤高などと思わない、だが、わたしが世の中を歩いていてかなり孤独であるのは、誰もが観て知っている。無徳・不徳とみられてしまうのだろう。だが、わたしから観れば、そんな「徳」とはつまり「得」にほぼ同義語のいやらしいものだ、とても潔い生き方ではない、人のことをさしとめたりしないが、自分では御免蒙りたい。

* 当たり前のはなし、肩書が会長だから偉い、学長は偉い、理事長だから偉い、教授や理事になったから偉い、総理大臣は偉い、天皇は偉いなどと、わたしは、けっして思わない。思えないのである、そういう人を一人の人として眺めていても。大概、そんな肩書は寿命という一過性の虚飾に近いことを、わたしはいろんな人と事例とでいやほど観てきた。肩書というのは人間をだめにしかねないものだと思ってきた。肩書に這い寄るなんてなんてさびしい自負であることか。

ほそぼそと心恃みに願ふもの地位などありて時にあはれに   畔上知時

だが、たいていの場合、人はそれために世間に媚び、人に媚び、上に媚びて、調子をあわせるのに汲々としている。そしてそういう人ほど次々に肩書を手に入れる。そういう例があまりに多く、失笑してしまう。肩書に転んで自身を見失う人なんて、見ていても恥ずかしい。
2007 5・31 68

* 手洗いの新しい花花が、棚にも床にも色優しく咲き溢れている。心憩うのは、広い世界で、我が家の手洗いだけの心地がする。外に出ると、からだが腐りそう。忍術ではるかな野の世界へ抜け出したい。
汚い政治はどの世間にも濡れ雑巾のようにぐっしょり。『心』の「先生」ではないが、人が信じられないのに自分が信じられるわけがない。濡れ雑巾になっている感触、堪らなく汚い。洗う場所がない。

* 擬死ほども尊きてだて我はもたぬ昨日今日もそれゆゑの虚飾   十七歳の私の歌

* あのころわたしは孤りだった。いまわたしは、ちがう。そばにバクワンがいる。彼にわたしは抱きついたりしないが、手の届くところで彼は並んで歩いてくれている。彼は横で呟いている。

おまえ自身が燃えていないのに
おまえは人の光をともそうとしているのかね
おまえはかえってそれを吹き消してしまいかねないよ
2007 6・3 69

* 日付が変わる。わたしは、これから、だ。一日の終わりに思うには妙なものだが、人の人にもつ意味や重みというのは、当然ながら変わる。
エドモン・ダンテスにおけるダングラールは、もともとエドモンに悪意を持っていた。彼が陰謀でエドモンをいやしく陥れて地位を入れ替わるのは、むしろ予想される成り行きであったが、エドモンはそこまは察してもいなかった。わたしがあの長編小説で最もイヤなやつだと思い続けてきたのはダングラールである。フェルナンにはまだ従妹メルセデスを想いエドモンを陥れたい恋情があった。恋はくせ者、彼への軽蔑はダングラールへのそれよりはうんとマイルドだった。むしろ、のちに検事総長にのしあがるヴィルフォールの、エドモンを容赦ない冤罪に陥れることで地位と権力へ平然と這い寄って、掌を返すように動き出す偽善は、はるかに軽蔑に値する。ダングラールやヴィルフォールに似た奴ばかりで、人間の世間は、上古このかた動かされてきた。肩書きと権力とのためには彼らはいつも平然と、自身の判断をすら自身で裏切る。

* 自殺した現職大臣の葬儀に、なぜ総理大臣は自分の妻を代理に立てて平気なのだろう。自分が殺したというような私的な罪意をもっていた、それを隠しきれなかったのだろう。本来なら内閣を代表し、総理自身いは国会に大事な用があったのなら、副総理格または官房長官を行かせるのが正当な礼儀・弔意であろう。そんな道理も彼は見失うほど動転している。すきなだけ利用してきた総理のダングラール性またヴィルフォール性のはしなくも暴露された一事である。恥なくて、なさけない。恥なく、なさけないこういう実例は、遠くにも、身近にも、ある。歳々年々人不同。見苦しい。
2007 6・4 69

* 送られてきていた長い小説を読み出したが、明らかに推敲不足。どんなに動機がつよく話材が切実でも、表現が弱いということは把握がよわいということ。把握は推敲によってでも格段に強くなるもの。
以下、最初のが原作。次のが、原文をなるべく生かしたまま、わたしが推敲してみたもの。

☆   第一章  電話

「おっ、マモルか」
そんな何年も聞いたことのない呼ばれ方で、その電話はかかってきた。父が直接に「まもる」と呼びかけることは、もうとうから無くなっているし、十八歳で上京して以来、そういう親しい呼び方で接する友との往来はいつのまにか途絶え、東京での十年間の孤絶した日々に倦んで郷里のある地方都市に移り住むようになってからも、それは回復することがなかったので、一瞬、相手にとまどったが、なぜか頭より先に口の方が「あっ、テッちゃんか」と、いかにも気安く応えていた。横合いから投げられた球を辛うじて受けとめた感じだった。受けとめられたことが不思議であった。
元気か。商売いそがしいか。そんな鉄夫の問いかけに、混乱しつつ「ありがとう」と答え、「で、どしたんや」と受話器を持ちかえると、「実はな」、聞き覚えのある声で、二週間後の土曜日に、H小学校六年雪組の初めての同窓会がK市の小料理屋で開かれるのだと知らされた。

第一章  電話

「おっ、マモルか」
何年も聞いたことのない呼ばれようで、電話がかかってきた。父が「まもる」と呼びかけることはとうに無くなっているし、十八で上京以来、そんな親しい呼び方の友とは往来も絶えていた。東京で十年、孤絶の日々に屈して郷里の街に帰り住んでからも、そんな付き合いは回復することなく、それで一瞬相手にとまどったが、なぜか口から先に「あっ、テッちゃん」と気安く応えていた。横合いからの球を、オッとはずみで受けとめた感じ、受けとめられたのが不思議な感じ、であった。
元気か。商売いそがしいか。鉄夫の問いに混乱しつつ「ありがと」と答え、「で、どしたんや」と受話器を持ちかえると、「実はな」と聞き覚えの声に、二週間後の土曜、H小学校六年雪組の初の同窓会が、K市の小料理屋で開かれると知らされた。

2007 6・5 69

☆ オハヨ  ちょっと時間がかかったけど、足、順調に回復してよかった! これからもお気をつけて。
栗の花、匂い始めました。華やかな額紫陽花と素朴な山紫陽花が満開で、爽やかな朝です。
年寄りの型通り、就寝、起床時間が早く、もう洗濯も済ませて一服です。
『墨牡丹』、以前に読んだ頃は、まだ華岳の作品を何点も観ていなかったと記憶します。その後、竹橋(近美)で華岳展を観せて戴いたのでは。上野博物館等でも何点も、意識して。当時と「読む」姿勢が違います。
初っ端、円山公園の矢場や馬場、あったあったと懐かしく、フイクションなのに、場面は目の当たりに、懐かしい。朝の楽しみに。
最近は快調でバドミントンのポイント上々、今日も元気に汗かいてきます。  古稀女

* 白状すると、「華岳」について原稿を頼んできた最初は「美術手帖」だったろうか、わたしは画家の名すらろくに知らなかった。原稿依頼を断る勇気のまったくない駆け出しの新人作家は、要するに臆病から執筆を引き受け、村上華岳に初見参したのだった。
だがその原稿を書いてから先の、感動と勉強とで、わたしは村上華岳という、近代で一という人もいた画家に、心血を注いでいった。そして長編『墨牡丹』を大判時代の「すばる」巻頭に一挙掲載の一九七四年九月、二足のわらじを脱いで独り立ちした。「NHK日曜美術館」が始まった第五回目「村上華岳」に出演し、あれで、多くの人がこの優れた画家に初めて出会われた。中央公論社の画集をはじめ何度も解説やエッセイを書いたし、その縁で福田恆存、梅原猛、立原正秋らと識りあった。国画創作協会の創立メンバーのうち、日曜美術館では、華岳についで、土田麦僊、入江波光にもわたしが出演した。その波光の子息酉一郎さんを今年の京都美術文化賞にわたしが推し選者一致で授賞を決めた。ご縁が深い。竹喬さんや紫峰さんのことも何度も書いた。いうまでもない華岳の繪に心底讃嘆したからのご縁だが、最初の原稿依頼で逃げ出さなくてよかったと、今では蛮勇の出逢いに大感謝している。
上のメールに「竹橋で」とあるのは、近代美術館で大回顧展のあったとき、特別講演を引き受けたのであった。会場で、奈良からわざわざ見えた歌人の東淳子さん、熱狂の愛読者だった横須賀の小林志津さんと出会っている。東さんにはみごとな香を頂戴したのも懐かしく、今も「湖の本」を支えてもらっている。
なぜそんなわたしに華岳原稿の依頼が来たか。たぶんそのときにはもう、『閨秀』で上村松園を書いていたのだ、吉田健一さんが「朝日」の時評でその一作をあげて賞賛して下さったのが大きかったのだろう。梅原さんと一緒に美術賞の選者や雑誌「美術京都」の巻頭対談をもう二十年余もつとめているのも、有りがたいご縁の一つ。

* 五月の「私語」をファイル68に一括した。
2007 6・6 69

* 毎日、溢れるように此処にこうして書いている。ことばが身内に湧いていて奔出を求めている。今・此処に生きている、その証のようにことばが波になって攻め寄せる。変な譬えだが若い母親の乳が張って吹き出してくるように。疼くように。すこし意図してこのことばを「演出」してやれば小説、私小説は積み重ねられる、が、そうはしない。原料のまま自身をただたんに順序も秩序も演出もなしに此処に置いておく。いわゆる「原稿」に置き換え「仕事」にするといった欲はもう持たない。そんなことにたいした意味はない。「闇に言い置く」この「私語」がそのまま。それでよろしい。秩序化された「作品」は小説も評論も詩歌もエッセイも積み上げてある。この「私語」は無秩序に原料のまま此処に積んである。わたしがやがていなくなっても、映画のように誰かが死後もう暫くのあいだ此処に「わたし」を見ていてくれるだろう、そしてその人たちもいずれ消え失せる。ぞっとしない話だが、今の人間たちみんなが一斉に消え失せるかもしれないだ。
一期は夢よ。
無秩序の自由や自在にわたしはみな明け渡す。
2007 6・7 69

*「怨み」を、文学の動機や主題にしてはならないと言う人が、少なくない。「怨み」がときに「愛」の変形であることも知らない、人間をよく知らない人の薄い物言いである。 「葛の葉葛の葉 憂き人は葛の葉の 怨み(=裏見)ながら恋しや」と室町小歌は謡う。
漱石『心』の「先生」は、父の遺産を奪った叔父への怨みを、決して捨てなかった。あの作品の動機の一つは「金」であり、同じ「金の怨み」を動機にした紅葉の『金色夜叉』よりも、あるいは怨みの根は深い。
大好きで無条件に受け容れてきた『モンテクリスト伯』は、怨みと復讐で大筋が山と盛り上がる。『嵐が丘』も、ま、そうである。いうまでもない「愛」がフクザツにからんでいる。そのフクザツさの質が作品を文学に育てあげる。
『心』の「先生」の金の怨みにだけは、愛はからんでいないと誰もが思うかも知れない。「お嬢さん」ははなからそんな怨みの埒外にあると見える。それでも「先生」ははじめのうち、「お嬢さん」や「奥さん」が自分の財産をねらうかと疑っていた。
それよりも、微妙なべつの「愛」が『心』に認められていい気がしている。大事なポイントだ。この小説に愛の対象は「お嬢さん」一人と読まれてきたが、ていねいによく読んで読み漏らさなければ、「先生」は遺書の中で、十七歳ごろ、生まれて初めて目の覚める思いで「女」に出会ったと告白している。まさしく原体験であった。
作者にしても「先生」にしても、よほどの原体験でなければ、わざわざ、たとえ数行にせよ書き加える必要のないさりげない筆で、だが、明らかにわざわざ書いてある。この「女」体験と、叔父への「怨み」とに或る見えない脈絡が想像できるなら、『心』という小説は、またまったく別のもう一つの物語も生み出せる。
話が逸れた。
いま夢中で読んでいるホメロスの主人公「オデュッセウス」という名前は、「怨みの子」の意義を帯びている。彼のまだ幼い頃の根の太いエピソードに由来しているが、『オデュッセイア』というこの物語そのものも、凄絶の復讐へ絞られてゆく。ペネロペイアという愛妻、テーレマコスという愛息の名誉と安全とがかかったオデュッセウスの復讐劇に盛り上がる。
「足洗い」という章がある。「オデュッセウス」の名の由来がみごとな脈絡のなかで力強く語られながら、神の配慮から落ちぶれた乞食姿のオデュッセウスは、ついに帰り着いたわが館のなかで、それと心づかぬ妻ペネロペイアと語り、帰らぬ夫を恋いこがれて待つ妻の好意で、かつての乳母から汚れた足をあらってもらう。足には隠しようのない昔の傷があり、乳母は気づき、しかし彼は固く口止めしてまだ顕すときでないと乳母をいましめる。すでに息子だけは父の帰還を知っている。だが彼らは館の中でどうしても果たしたい「怨み」の「復讐」をのこしている。「愛」ゆえに、である。消しがたい足の傷に触れて「オデュセウス」という名の由来が巧みに語られている。

* もう語りやめておく。しなくてならない、またぜひしたい仕事が「戻れ」と誘っている。おそい昼食をしてこよう。

* 夕方、疲労して、昨日もそうだったが、二時間ほど昏睡した。何をして過ごしていたのか、あっというまにもう日付が変わってしまった。
2007 6・7 69

* 賢い人は嗤うだろう、おまえはあまりに矛盾していると。一方で『百二十八頁の新聞』を心から推奨し、また言論表現委員や電子メディア委員をつとめて発言し提案し、小泉や安倍政権を非難し、野党ぶりを批判し、現代史や世界史に熱中し、私生活でもガンとして信ずるところを曲げない。が、その一方で「静かな心」を求め、バグワンや鈴木大拙に無心を聴き、心=マインドという分別・理屈を嫌い、言葉の虚妄にしばしば飽いて「闇」に沈透く沈黙と静安を愛し、観劇と読書と、時にこころよい飲食に安らいでいる。そしてすべては夢と、ほぼ信じている。
おかしいよおまえ、と、面と向かって言う人もいた。どっちかがウソだと。それならいっそどっちもウソだと言うがいい。そうかも知れない、所詮は夢だ。
自分が、いわば乱れた麻糸を神の掌でまるめたような存在であるのを、身のそばにおいた一葉のわたし自身の肖像画を見ていて感じる。もしわたしの小説『お父さん、繪を描いてください』を手近に置いている人なら、下巻の百四十二頁の繪をみるといい。自殺した「お父さん」が有楽町地下道のラーメン屋でものの二三分とかけずに描き遺してくれたわたしの顔だ。あらゆるモノはこういうすけすけの無にひとしい存在なのだと「お父さん」は教えていった。
おつに澄ましてわたしは山の中で隠者のように生きていたいと思わない。十牛図の第十の境はヒマラヤではなく、人の行き交う街の雑踏である。
2007 6・9 69

* 昨夜期待の的にした「船弁慶」の知盛が、妙に気ぜわしく空回りに長刀振り回して海上を退散したある種の「騒がしさ」の理由を考えていた。
おそらく、染五郎は演技は先輩に教わったろうが、知盛と義経との関係をモノに当たって勉強などしていないだろう。知盛の義経に対する敵愾心は平家のなかでも一段と熾烈であった。彼は壇ノ浦でほぼ必勝の策を呈しながら叶わなかった。愛息知章を身代わりに源氏に討たせて泣く泣く自らは沖の御座船に逃げ帰った恥辱も忘れていない。

* 『能の平家物語』(湖の本エッセイ22)にわたしは「船弁慶」一編も書いて、源平の両武将のこみいった関係を、参考源平盛衰記によりながら、少しく解析してきた。そんなことまで若い染五郎に期待はできないが、あそこで、なぜ前シテに静が出、なぜ後シテにほかでもない知盛が出てくるのかを課題として考えねばならないところだ。義経との一騎打ちなら、強豪教経のほうがあの海戦ではおなじみであるが、海底の平龍王国を代表して知盛が現れ出たのには、それなりに知盛の方に必死のモチーフがあった。それを表現しないと『船弁慶』の本意は生きてこない。
またああもへなへなと強い弁慶にあっさり調伏されてしまっては、知盛の必死の哀れは生まれてこない。クワッと赤口をあいて絶叫し反抗する知盛の悲痛は生きてこない。感動に繋がらない。なんだか強いお父さんに、まだまだの息子が叱られてふて腐ったように花道へ逃げこんだ体であった。
わたしはすこし染五郎に厳しいが、彼に期待が大きいだけに、やはり、ここまでは言っておきたい。思いは尽くさないが、上の本の「船弁慶」の章を以下に抜いて掲げておく。校正不十分で誤記が少し残っているかも知れないが。

☆ 船弁慶 ─潮を蹴立て悪風を吹きかけ─  秦恒平著『能の平家物語』より

歌舞伎座で「船弁慶」を観ていて、となりで妻が泣き出したのにびっくりした。菊五郎の演じる平知盛の幽霊が、ずうっと黒い装束で蒼隈の顔をしていたのに、団十郎の弁慶に祈り伏せられ、ついに、ただ一度くわっと真っ赤な大口をあいて、舌を巻く。黒くて蒼い知盛がその一回だけ真っ赤に口をあけた痛烈な悲しみに胸うたれ、可哀想で可哀想でと妻は泣くのだったが、私も同感だった。「葵上」の御息所でも「道成寺」の清姫でもそうだが、祈り倒されて行くモノはどこか哀れでならない。赤い口をあくのは威嚇ではなく、無念の思いで舌を巻くのである。演出だといえばつまり旨い演出だが、そんなことは通り越して、知盛の幽霊には壮絶な哀感哀情が横溢する。「船弁慶」は能も歌舞伎でも主役はむろん知盛である。もう一人は弁慶で、英雄義経はすでに著しく矮小化され、弁慶の庇護のもとにある。能では子役が演じる。
土佐房は討ち果たしたが、義経は兄頼朝を怖れ、朝廷に、朝敵にならずにすむ手立てを懇請する。もとより朝廷は鎌倉の頼朝を憚っているが、現在都に兵を蓄えているのは義経の方で、すげないことはしにくい。院の下問をうけた公卿たちは、難儀な相手にその場限りの宣旨を与えてすぐ逆の手を打つなどは、何度も過去にしてきたことで、いまは義経の請いを受け入れ、次には頼朝の顔を立てればよろしいと、まさに「政治」的なチャランポランを平気で言うのだった。それが公家社会の源平武家をあやつってきた、たしかに常套手段だった。頼朝追討と日本国の西半分を義経の沙汰に任せるといった院宣を手に、攻め上るかと見えていた鎌倉の軍勢を迎え撃つことなく、義経らは西をめざして落ちて行く。そういう義経への都人の視線は暖かく、だが判官贔屓が始まれば始まるほど、もう義経には去年まで勢いはしぼんでいる。鬼神も避けたような義経ではもうなかった証拠に、海に出たとたんに「平家の怨霊」に船は襲い掛かられている。以降、吉野の義経も、安宅の義経も、終始武蔵房弁慶の手厚い庇護なしには道中もならなかった。
能の「船弁慶」は奇妙な前段と後半とに分断されていて、ふつうは関係の無い二幕物の狂言仕立てに出来ていると見られる。前シテは静御前で、弁慶により義経との同船をすげなく拒まれる。後シテは知盛の幽霊で、弁慶の功力の前に海底に退散する。しいて理屈をつければ、船上でさような危機の迫った時に、女連れは「何とやらん似合はぬ様」であり、主君義経の闘う気力をそぐ怖れがあると、女の同船を足手纏いに忌避したといえる。歌舞伎ではそれらしいことを、弁慶が主君にも静にも言い渡している。間を阻んで、静ははっきり弁慶に押し返されている。能の作者は賢しくも、「静」かを拒めば海は「荒れ」ようという因果を探っている。
海は、事実、荒れた。平家の怨霊は凄まじく弁慶らの船に迫り、「あら珍しやいかに義経」と呼びかけ、ひときわの執念で義経を何としても海に引き入れようと、「薙刀取り直し」「あたりを払ひ、潮を蹴立て、悪風を吹き掛け、眼もくらみ、心も乱れて、前後を忘ずる」ばかりに襲いかかったのが、知盛の亡霊だった。
なぜ、知盛か。それが一つの問題である。
宗盛父子は海には沈まなかった。重盛ははやくに病死している。瀬戸内の波間に沈み果てた平家の、知盛は事実首領であった。いや、壇ノ浦での決戦の時すでに知盛こそが平家の主将であり全軍の指揮官であった。指揮官の作戦に従い指揮官の指示にそのまま従っていたなら平家には勝つ機会があったのである。
むしろ優勢であった平家の敗戦と全滅の原因が、少なくも一つあったことでは、諸本が一致している。阿波民部大夫重能の裏切りであり、これで水軍の勢いが逆になった。また寝返りに際して成良は平家必勝の秘策を、源氏方に通報してしまい、源氏は一気に平家の芯のところへ攻勢をあつめて撃滅できた。
知盛は、阿波民部大夫の裏切りを予知して斬ろうと図っていた、が、宗盛は首を縦に振らなかった。大きな失策だったことはやがて知れて、宗盛は大いに悔いたが遅かった。秘策は知盛の、義経に対する並外れた敵愾心に発していて、ほとんど私憤にも近い敵意であったけれど、かなりに有効な、成功すれば決定的勝ちに繋がる名案であったのである。
この案を延慶本というじつに個性味豊かな読み本が、この本だけが伝えていて、荒唐無稽とも思われぬ真実感に満ちている。知盛の奇策は「唐船カラクリ」と称されているが、
早い話、安徳天皇や母后をはじめ宗盛父子や二位の尼らを、御座船の唐船から、いかにも兵士たちの兵船と見える船に御移しして、御座船には能登殿ら勇士を隠し置こうというのである。何が何でも三種の神器の欲しい義経は、御座船をめがけて自身で迫ってくるに違いなく、そのとき多数の兵船をもって義経を取り包むようにすれば、味方の船は数も多く、必ず義経を討ち取れるに違いない、と。
たわいないが、海の上の事であり、海戦は平家のほうが源氏よりも習熟している事は誰もが認めている。事実、かなり平家に優位に壇ノ浦の海戦は始まったのであった。内心は知盛は「今ハ運命尽キヌレバ、軍ニ勝ツベシトハ」思っていなかった。天竺震旦日本の別なく、並びなき名将勇士といえども、運命が尽きてしまえば今も昔も力及ばぬことである、ただ名こそは惜しい。その「名」にかけても「度々ノ軍ニ九郎一人ニ責メ落サレヌルコソ安カラネ」と思い染みていたのだ。「何ニモシテ九郎一人ヲ取テ海ニ入レヨ」「何ニモシテ九郎冠者ヲ取ッテ海ニ入レヨ。今ハソレノミゾ思フ事」いうのが、知盛必死の司令であった。執念は凄まじかった。

唐船カラクリシツラヒテ、然ルベキ人々ヲバ唐船ニ乗タル気色シテ、大臣殿以下宗トノ 人々ハ二百余艘ノ兵船ニ乗テ、唐船ヲ押シカコメテ指シ浮カメテ待ツモノナラバ、定メ テ彼ノ唐船ニゾ大将軍ハ乗リタルラント、九郎進ミ寄ラン所を後ロヨリ押巻キテ中ニ取 リ籠メテ、ナジカハ九郎一人討タザルベキ。

わたしはこれを読んだとき、お、いけるかも知れないと本気で思い、鳥肌立った。この時である、知盛は阿波民部大夫の裏切りを察知していて斬ろうと強く主張したのは。宗盛はだが聴かなかった。結果「唐船カラクリ」のことは裏切り者の口から源氏に伝えられ、平家の船は算を乱して崩れていった。その後の凄惨な成り行きは、ここで拙くまねぶことは避けよう、平家物語をつぶさに読まれたい。知盛は「見るべきものはすべて見つ」と、一族のなれの果てを見納めて乳兄弟の伊賀平内左衛門家長と、抱き合って壇ノ浦の水底に沈んで行った。
その知盛の幽霊が、風を巻き波に乗って落ち行く義経主従の船に襲いかかったのである、それが能「船弁慶」の後シテである。
知盛といい教経といい、義経を追いに追い詰めて海に引き込もうとしたが壇ノ浦では果たせなかった。この大物浦では何としてもと、勇猛の教経でなく知盛の現われたところに執念の凄さがある。逆にいえば義経一人、九郎一人に亡ぼされた平家という印象の強化法が平家物語にも、読者たち享受者たちにも共通していた。それが義経の末期の哀れをまた強め得て、ついには「義経記」のような平家物語の傍流末流物語成立へまで行く。
それにしても能「船弁慶」の前半と後半とのアンバランスは目立つ。手持ちの謡本でみれば前シテ静の十九頁分に対して、後シテ知盛幽霊は九頁にも満たない。しかも印象は圧倒的に知盛の挑みと屈服とに傾く。能でこそ静の舞姿が美しいが、歌舞伎では終幕後にまで静の印象は殆ど残らず、弁慶ののさばりだけが異様に印象に残る。静は奇妙に前座めく。なぜこんな作りが必要だったのか、弁慶の配慮と功力の大いさを表現すれば「船弁慶」は事足りているからか。いやいや、今一度、何故に弁慶はああも靜の乗船を忌避したのか考えて見たくなる。弁慶の不思議な直感に、どこかで靜という女人と知盛の怨霊とを繋いで危ういとみるものが忍び入っていなかったか。
夫婦で見て妻が泣き出し、わたしもふと引き込まれた歌舞伎の舞台では、菊五郎が靜と知盛とを前後二役で演じた。能では当たり前だが歌舞伎では必ずしも当たり前ではない。菊五郎だから静も、靜以上に知盛もよかった、泣かされた。そして感じるところが有った、この芝居や能の作者には、もともと論理整合的にとは行かなくても、靜と知盛とを根深いところで「同じ側」に眺める視線を秘め持っていたのではないかと。弁慶にすでにそれが在り、静を主君義経と乗船させることに決定的な危険と不安と憂慮を覚えていたのではなかろうかと。これは直ちには説明しきれない。しかし手がかりがまるで無いのではない。知盛ら平家の怨霊らは間違いなく今は海底の住人、陸に住む者らへの怨念に生きる海の民である。平家物語は住吉や厳島を芯に、実は想像を超えて海の神意に深く導かれた物語である点で、あの源氏物語とも臍の緒を繋いでいるのだが、シラ拍子の靜、母の「磯」は、もともとは海方の藝能に生きていた女たちであった。弁慶の怖れは、謂われなくは有り得ない深い根拠をもっていたとわたしは考えたい。

* 二日続きの快かった疲労に甘く負け、少し朝寝を貪った。さて、またこころよからぬ日々をもさもさと過ごしてゆこう。
2007 6・13 69

* 弱い自我しか持てないモノの方が自我を落とせやすいと考えるのは間違いだとも彼は的確に警告する。自我に徹し、そのために苦しみ抜いたモノがついに自我を一切拭い去り脱落せしめ得るだろうと謂う。この機微、怖いところだ。

* わたしの文学修行の一端が、講談社版『日本文学全集』百何巻かを毎月一冊ずつ書架にならべてゆくことであったこと、そのために生活の窮迫もおそれなかったことは、何度も書いた。その第一回配本が谷崎潤一郎集であったから買い始めたのである、谷崎と藤村と漱石とは二巻分配本予定だった。一人一巻には錚々たる作家が並んでいたし、詩歌も評論も戯曲も随筆も収録され、さながらに近代文学史であった。わたしは作品を読む以上に数百人の著作者たちの年譜を繰り返し繰り返し熟読した。作品に対し先入観をえげつなく持たせずに、作者への理解が得られた。よく書かれた年譜は最高度の研究成果に等しいのである。

* こういう大全集のおしまいは「現代名作選」ということになる。鴎外や露伴や漱石や藤村や潤一郎や志賀直哉らからみればまだ遙か下界に近いところで頭をもたげている作者たちの作品がそこに揃う。講談社版の「現代名作選」は上下二冊第百五・百六巻が用意されていた。二の方が、つまり最も新しい作家たちである。
いま手近にその巻を持ち出していたので、目次を観ると、感慨に堪えない。
阿川弘之「年年歳歳」金達壽「塵芥」大田洋子「屍の街」山代巴「機織り』島尾敏雄「夢の中の日常」耕治人「指紋」埴谷雄高「虚空」井上光晴「書かれざる一章」三浦朱門「冥府山水図」西野辰吉「米系日人」杉浦明平「ノリソダ騒動記」長谷川四郎「張徳義」小島信夫「小銃」安岡章太郎「悪い仲間」吉行淳之介「驟雨」霜多正次「軍作業」松本清張「笛壺」有吉佐和子「地唄」石原慎太郎「処刑の部屋」小林勝「フォード・一九二七年」深沢七郎「楢山節考」大江健三郎「死写の奢り」開高健「パニック」城山三郎「神武崩れ」福永武彦「飛ぶ男」大原富枝「鬼のくに」で一巻が編んである。
一の方の最後が芝木好子の「青果の市」だった。昭和十六年下半期の芥川賞作品だ。つまり一の方は明治から太平洋戦争までだった。
そう思って二の方を見ると、水上勉も曾野綾子も瀬戸内晴美の名前もない。直木賞作家はたぶん一人も入っていない。読物作家、エンターテイメント作家、推理作家などは此処に全く文学作家たる市民権を得ていないのが分かる。
この二の発刊は昭和四十四年六月、じつにこの年この月にわたしは小説「清経入水」で第五回太宰治賞をもらっている。作家として登録されたちょうどその頃の、上の人たちがなお新人作家であったことになる。むろん、わたしは全編読んでいる。

* たまたま手近な第九十二巻を手に取ると、河上徹太郎、中村光夫、吉田健一、亀井勝一郎、山本健吉の五人で一冊。批評家五人、すばらしい顔ぶれだ、熟読し勉強したものだ。いま河上先生の「私の詩と真実」巻頭の一文を読み返しても、清水を顔にあびるよう、凛然とする。批評が文学になってる。
もう最期を予感されていたころの中村真一郎さんが、ある人に、一点を凝視し、「こんな世の中になっちゃあ、文学はもう終わりですね」と溜息とともに吐き捨てて去っていったという文章を読んだところだが、わたしが十年間日本ペンクラブ理事会に出ていて感じ続けたのが、それであった。

* くだらない雑文ですが読んでくれるかというメッセージをもらった。よくある。「くだらない雑文には、興味も、割く時間もありません」と断った。遜っているつもりにしても、そういう姿勢は気持ち悪い。
2007 6・14 69

* 今・此処、今・此処を生きるのが、こう難しい、重いとは。そんなときわたしは国会の雛壇に蠢くものらを思う、ああ、政治屋になんぞ成らずに済んでよかったと。マシな毎日ではないかと。人の心は知られずや 真実心は知られずや。
2007 6・15 69

* 脚を庇い無用に歩きたくなく、理事会は事前に届けて欠席した。
いちはやく執行部に対し厳しい対応を求めておいた一つの表れとして、以下の「声明」が出された。この場合、出されてよかった。何もしなくても「日本ペンクラブ」は「存在しているだけで十分機能しているんです」というような自己過信はまだまだゆるされるモノでない。日本ペンクラブの存在など、知らずまた関心のない人の方が残念ながら圧倒的に数多い世間の現実を、お高く見失っていて、良い訳がない。

☆ 「自衛隊の監視活動」に対する声明 社団法人 日本ペンクラブ会長 阿刀田 高
日本ペンクラブは、このたび明らかになった自衛隊の監視活動に対して強く抗議する。
私たち表現者がとりわけ問題とする点は、明らかになったリストによると、新聞・放送記者、フリーライター、写真家などの正当かつ日常的な取材活動が、「反自衛隊活動」と認定され監視の対象とされていることである。これは明らかに、取材行為の直接的及び将来にわたっての間接的検閲行為に他ならない。
したがって、自衛隊の行う一連の監視活動は、憲法の保障する表現の自由あるいは思想の自由を侵害する行為である。日本ペンクラブは、政府及び防衛省に対し、ただちにこの種の活動を中止することを求める。    二〇〇七年六月十五日

* おそらく気づく人はいちはやく気づくであろう、この声明文は、焦点を、「新聞・放送記者、フリーライター、写真家などの正当かつ日常的な取材活動が、『反自衛隊活動』と認定され監視の対象とされている」ことに先ず絞っている。「作家」も「詩歌人」も「劇作家」も「コラムニスト」も、大方のペン会員は声明文に含んでいない。関係ないとでもいうのだろうか。
あの調査活動がそれしきのものでなく、本質的には広範囲の国民を敵視し監視し、一旦緩急の際になんらかの干渉ないし拘束にまで及びかねない対市民の「危険性」を帯びていることにまでは、明確に言及していない。そこまで思うのは「過剰反応」だとでもいうのだろうか。
あの第二次大戦の前、こういう半端な姿勢で知識人たちがいたために、日本はまんまとかつての軍警察国家的な恐怖政治をゆるしてしまった。われわれの商売から言うと「横浜事件」はそのシンボル・焦点をなす無惨な事件だった。半端に黙っていては、反対なら反対の行為を先へ先へおこさなければ、確実にまたあそこにまで滑り落ちていくというのに。
少なくも「ペンの全会員」に向けられた不等干渉だという「突きつけ」がこの声明には微温的に欠けている。そのために後段の「憲法」違反の咎めがいわゆる決まり文句めく薄さ軽さに終わっている。つまり本質的・鋭敏に時代の右傾化を深くおそれ、問題の核心へ向け抗議と警告を発するには、問題点をことさらに矮小化していると、わたしは感じている。
何故に「新聞・放送記者、フリーライター、写真家などの正当かつ日常的な取材活動」にのみ限って発語するのか。言論表現は「彼ら」に限られたことではない。学童にもその権利がありうる。それも自衛隊は調査対象にとりあげている。
むかし盗聴法について言論表現委員会で熱心に討議したとき、むろんわたしはそんな法に反対だったが、訳知りの同僚委員猪瀬直樹氏がさもわたしを宥めるように、「大丈夫だよ。秦さんには、この法は関係ないですよ」と言ったのを思い出す。これだから困る。今回の自衛隊が超過剰にかつ日常的に当たり前にやっていることは、ペン会全員に、そして老若男女の国民全員にも「関係」がある。国のやることで「国民に関係のない」ことがあっていいものか。

* 欠席して討議に参加していないのだから、これだけを、後日の記憶のために此処に書いておく。
2007 6・15 69

* 夜前、ふと妻と、ひばりの『東京キッド』を観た。ひばり十二歳当時の映画で、わたしが最初の最後に祇園白川、吉井勇の歌碑のまえで「黒いちっちゃい雀みたいなヤツ」と出逢った頃だろう。
作中、余裕綽々しかも素直な発声で、やわらかに幾つものうまい歌を聴かせる。驚嘆のほかないが、特別出演していたエノケンの「藝」にも感心した。なるほどこれはたいした「藝」だと、二人してたっぷり笑った。こういうコメディ映画では有名な監督だった、斎藤寅次郎とかいったか、幾昔もの映画づくりの手際を興深く見せてもらった。
アチャコの藝には惹かれなかったが、妻が、藤山寛美の「藝」へあれが導いたかもという感想には頷いた。
映画はわたしの新制中学二年から三年生へのころに制作されていた、昭和二十五年。わたしはひばりに奇妙な「初恋」を覚えながら、人を慕い、与謝野晶子の源氏物語、谷崎潤一郎の新聞連載『少将滋幹の母』を読み、はじめて「襲撃」という小説を書いて先生に見せたら、目の前で破られてしまった。
中学の教員室が、一団の父兄たちに襲撃された光景を、校舎内から目前に見ていて書いた。祇園甲部の郭をひかえた運動場南の塀を、続々と半裸の男たちは乗り越え乗り越えて職員室に殺到した。大事に至る前に先生方は収束されたらしいが、どんな話し合いがあったかまでは知らない。
2007 6・17 69

☆ 才能ってなんだ。   謙
昔、ぼくに向かって「才能っていうのは携帯電話がつながることだ」と仰ったプロデューサーさんがいらっしゃいました。
今でもぼくはそれをよく思い出します。
「深い言葉だな」と思うわけです。
決して、ものづくりをナメた言葉だとは思わないんです。
「才能がある人というのは、携帯電話一つにも24時間きちんと気を配り続けられるほど、チャンスというものにハングリーで居続けられる人のことだ」
と、こう書けばどうでしょう。ちょっと印象が変わりますよね?
一瞬だけなら、たくさんの人がハングリーになれます。
ハングリーになって、これからは物凄く努力するぞと決意したりします。
でもね。365日ハングリーでいられる人はあんまりいません。
なぜなら、世の中には、たくさんの楽しそうな寄り道があるからです。
家で本を読むより、友達と飲みに行って噂話したりする方が楽しいです。
台本と睨めっこして「この役の気持ちは―――」なんてしてるより、ショッピングの方がそりゃ楽しいです。
うるさく小言を言う人より、「今のままの君でいいんだよ☆」なんて言ってくれる人の方が、一緒にいて楽しいに決まってます。
で、いつか、せっかくのオーラが、ユル~くなってきます。
もったいないなと思うのです。
芝居勘とかルックスとか目力とか、いろいろ素敵な物を手にしているのに、それを生かさずに消えていく人のなんて多いことか。
結局、最大にして最強の才能は、「自分を甘やかさずに努力し続けられる」ということなのですよね。そういう風に、ぼくはプロデューサー氏の言葉を解釈しています。
自分を甘やかさずに努力し続けられる!
んー。おれも気をつけよう。
日々努力。これ最強。

* こんな述懐というか決意表明をおしまいの太字になった結語まで読んで、この結語そのものの、閃かない、手あかの付いた決まり文句にびっくりした。
この人にはまだ「昔」なんて無いのではないか。プロデューサー氏のハッパは、まさしく駆け出し作者むけのニンを見て説いた法だと、この人は分かっていない。
駆け出しの頃は、四六時中、ありとあらゆることを刺激や励みにして創作生活の「持続」に熱中する。わたしもむろんそうだった。原稿依頼を断れない。だから村上華岳なんて知らないのに依頼原稿を引き受ける。しかしそれが縁になり起爆力になり財産になって行く、財産に変えてゆく。
この、変えてゆく時機から成熟へ進む頃には、ものの見えている人の助言は真逆様にこう変わってくる。
「才能っていうのはね、携帯電話を捨ててしまうことだよ」と。
この人は、まだ、こういう助言を得るにまで至らぬことに気がつかないらしい。まんまと自分を甘やかしている。少し皮肉にひっくり返して言うと、携帯電話による「ひも付き」に甘んじて仕事してくれよとの企業都合の管理に、四六時忠実に従うことで「おれなりに」「日々努力」しているのであり、だがこの口実は、いずれ創作という骨身を削るこの道では、通らなくなる。
たしかに二十四時間「携帯電話」に払う注意や集中の必要な時期もある、が、とんでもない邪魔になってくる時もある。
此の、後の方の到来こそ、実は「努力」の成果なのであるが。成果は、ただチャンスや注文で積むのではない、良い仕事で積むのである。
2007 6・18 60

* 会社時代、編集者には是非必要なデスクワークが、自分のデスクではどうしても出来ないと口実をつけ、わざわざ喫茶店へ場所を移す連中がいた。
本来の仕事を本来の場所で出来ない人は、たいていロクな仕事は出来ない。わたしは会社の仕事は会社の中の自分のデスクで片づけ、会社のデスクで書くわけに行かない創作は知恵と体力を費やして会社の外でした。やむを得ぬ時はロマンス喫茶の真っ暗なロマンス・シートで懐中電灯をつかってでも原稿用紙をひろげていた。
雑踏など、書くことに集中すれば何でもなかった。喫茶店の相席でも人のことや声は気にならなかった。それならばむしろ家庭の中で家族の声・言葉の方が落ち着かなかった。

* 東京から逃げ出して書きたいときがある、だから近県に別荘を買う気だと若い作家の話すのを聞いていたことがある。
本当に書きたいときは、たった数メートル歩けば行ける隣棟の書斎をさえ遠く感じて、目先の机でひたむきに書きに書いた。書けない言い訳はいっぱい出てくる。言い訳にまで贅沢な出費がかさむようではしんどいことだと、若々しい声をわたしはただ聞いていた。いっそ、そんなことなら、底の抜けたような放蕩を奨める。

* 或る文豪の思い出を義理の嫁の立場だった人が、盛んに書いている。文豪も、その夫人であった姑も亡くなった後から、盛んに書いている。
一般に縁戚の人の、しかも当人たちが亡くなってからの生前を語る証言は、よほど用心して読まないと危ない、と、わたしは気を遣う。どうしても心理的に一種の綱引き、牽強付会の所有欲が度を超え、真実を潤色し脚色してしまうおそれが、十分ある。女の場合、失礼だがその危惧は倍々ある。書くなら関係者の生存のうちに書くのが筋だろう。死人に口なしになってから好きに書くのは、フェアでないとわたしは感じている。

* 或る担当編集者が、担当していた大作家の思い出を一克に書いていた頃、その口から「(亡くなった大家を)退治してしまわないと」という述懐を聞いたり読んだりした。こわいことを言うなあと想った。

* 日大文藝科のために、二度の講座でたいへん気も体も使った。それだけでは勘弁してもらえず、二度の話を速記したのに手を入れてくれと。おしゃべり原稿の手入れほど手間のかかるイヤなものはない。で、新しく原稿を書き下ろすことにした。それならムダは省けるし、纏まりもできる。で、新たに二十五枚の原稿を書いた。いま送った。やれやれ。
2007 6・18 69

* 今日が桜桃忌だったことを、すっかり忘れていた。三十八年も経ったのだもの。太宰賞を授賞して旬日も経ず「作家さよなら」という手記を筐底に書き残していた、わたし。ずいぶん長々と引っ張ってきた、受賞以前の気持ちと暮らしに、もう帰っていい時機だなあ。
2007 6・19 69

* これまで何千と書いてきた原稿の中で「日本の色道」について頼まれたものは、われながら不出来であった。私の身内に西鶴の世之介ふうの、また平成の小沢昭一流の「色の道」は舗装されていないのだと思う。
無関心なのではない、西鶴の名作も愛読するし小沢さんの本のおそらくとても「いい読者」の一人に違いないと思う。でなければ小沢さんも次々へ本を下さるわけがない。ゆうべも、英語の小説をいいキリまで読み進んだ後に、また小沢本『色の道』にずいぶん刺激された。フウーッと真夜中に息を吐いたほど。
2007 6・20 69

* なんでこんな狭苦しい世間に、と、夢が覚めたのだ。
それはそれでいい、が、以下のような吐露には及ぶまいにという「批評」があり得る。「吐き出す」と謂うことには、だが、おもしろい微妙が生きる。

* 十余年前まで東工大にいたとき、楽しんで学生諸君との「時」「機会」を満喫した、むろん授業と、また教授室や学外ででも。当時は六十歳定年。それを待ってくれていたように、会長新任の梅原猛さん推薦で日本ペンクラブ理事にならなった。
それ以前も、相当長くペンと文藝家協会の会員だったし、ペンでは言論表現委員を、協会では知的所有権委員を委任されていた。
頼まれたなら、その仕事はきちんとやる。わたしのクセだ。
協会とはやや疎遠になったが、ペンにはずいぶん身を入れて奉仕した。しかしながら、それより以前は、ペンにも協会にも「全く」関心もなく、会合にもほとんど出なかった。それで済んだ。会費だけはちゃんと払っていた。

* 言うまでもなく、あの、ペンとも協会とも一切ふれ合わないでいた、ただの「会費会員」の頃、あの状態こそ「自然に普通」なので、あの頃は、そういう「組織」の壁に囲まれている居心地の悪さは皆無だった。なまじ委員の理事のと責任をもたされると、わたしは一所懸命に務めてしまう。で、だんだん深入りした。
しかしまあ、我から「ちっぽけな世間」に跼蹐していたもんだなあと、苦笑いがわいてくる。本気で仕事をすればするほど、口では、敬服するの脱帽ですのと言われながら、要するにやればやるほど煙たがられる以上に、嫌われてゆく。ハハハ。割に合わない。
大学では大学当局をソデにして、ただただ学生たちと話し合い飲み食いし、パソコン生活への準備もしていた。だが、ペンや協会は、顔の合うのがみな互いに商売敵、しかもわたしはその商売道からさえ自身脱却して、その連中の仲間入りを忌避してきたのだから、さぞかしペン…じゃない、「ヘンな存在」なのであった。

* 狭苦しい世間にあんまり永く身を屈めて居すぎた、推薦してくれた梅原さんへの義理と謝意は、仕事で返しておいたと思う。引っ張り出して下さったことに、感謝している。
あらためて思う。ペンにも協会にも全然無関心に、会員であることすらまるで忘れて暮らしていた時代、あれがホンマモノの時代であったんだと。なんとも「寝苦しい夢」から幸いに覚めた気がする。まさに「邯鄲一炊の夢」なので、覚めた今は、「帰去来」の詩をくちずさんで、せめて、作家になりたての初心の昔へ、本当の仕事をしに戻ればよい。
こんな簡単なことを、忘れていたのはバカげたことであった。いつも「退蔵」の二字を胸にしたまま、あまり意味ない義務感にどっぷり脚をとられて、みみっちい狭苦しい世間で這い回っていた。

* 作家になってすぐ「作家さよなら」という思いを書き綴って筐底に蔵い、十数年してまた「湖の本」刊行へ道を切り替えたときにも、わたしは一度二度、いわば「出家」していた。
わたしの「原点」は何だったのか。むろん文壇でも出版でもなくて、「文学・文藝」つまり創作と執筆だった。創作した作が世の中に流れ出て行くことは自然なことで、幸運にも恵まれ、その道をわたしは人一倍の速度で山川越えていった。
だがわたしは世間の柵に抱きついて世渡りせずに済むなら、したくなかった。わたしは真に偉い人を尊敬し信愛するが、また人とも協力するが、誰の家来にも成りたくない。単行本六十余冊をすでに世に問い、あのとき、たぶんもう(仕事も経済も)大丈夫と判断して、わたしはまた昔の「作家以前」へ、我から半ば身を戻した。譬えようもない苦労も押し寄せたが、譬えようもない「自由」に恵まれた。これが嬉しかった。
自由になるとは「寒い」ものだと、むろん分かっていたけれど。

* いまわたしは中卒生の年収ほども稼いでいない。貧乏であり、そう貧乏でもない。夫婦とも健康を損じているから、どう頑張ってももう数年かよほど恵まれて十年。大病なら寿命は短いし、天災になるときついが、「湖の本・百巻」刊行をはじめ、少々の贅沢も、したいなら出来る。それだけの仕事は、して来たのだから。
こんなにサバサバしているのに、狭苦しい世間にいつまで首をつっこんでいるのか、自由がもったいないぞと、ふと、気がついた。ハタ、と気がついた。
それで先ず、力を入れに入れてきた「ペン電子文藝館」から真っ先に全部身を退いた。英断? だ。理事任期、言論委員任期のあと二年は気儘に流して、なるべく身軽・気軽に忘れているつもり。出来るかな。
次には、費用を掛けてでも、主にホームページを作品収蔵庫として改装し、日記である此の「闇に言い置く 私語の刻」は、メールマガジンふうに希望者にだけ配信することも思案している。

* 「自我」のかたまりのように生きてきた。バグワンと出逢った頃からそんな「自我」という「抱き柱」をどんどん遠ざけうち捨ててきたつもりだけれど、他人はそう見まい。わたしも言い張りはしない。
大拙さんの本に、こんな面白い話が、ある。昨夜、久しぶりに聴いた。初めて聴いた大昔には眉につばをつけたか、この辺、何の傍線もない。
が、今度は目を惹かれた。断っておくと、同じ「無心」を謂うにも、バグワンは、よほど禅に近いのだが、こういう出て来かたは、まず、しない。

☆ 心学と禅  鈴木大拙

川尻宝岑という人を想い出す。この人は東京参禅舎第十世で、だいぶ以前に箱根山の洪水のとき旅館と共に流されて惨死を遂げた人だが、この人がよく鎌倉の円覚寺に来て、そのころの管長であった今北洪川老師に参禅していた。老師は七十-六十七だったかで亡くなられた。自分は老師遷化の前年にお目にかかったのです。いかにも堂々とした体躯の人であったが、正直な無心な境涯は本当の禅坊さんの風格を備えておられたと、今でもその印象が深く残っているのである。自分が今こうやっているのもあの人のお陰だと言ってよかろうと思うのです。
これは自分と同じ郷里の先輩の人の話であるが、川尻宝岑さんが参禅なり何なりに鎌倉の洪川老師の所に来られると、その帰りにはいつも金一封すなわち十銭銀貨を包んだのを置いてゆかれる例になっていた。しかし居士が細君と一緒のときには二十銭置いてゆかれた。これが慣例になっていたと見えて、老師の方では、それが朝になると日が出、雲が濃くなると雨になるのと同じ事象のようにきめて考えておられたと見える。ところが、ある日のこと、川尻宝岑さんが自分の細君と一緒に尋ねて来られ、帰りにはまたいつものように、紙包を置いてゆかれた。老師は居士の辞去した後、その紙包を開けてみたら、十銭しかなかった。これは老師にとりて非常な出来事であった。いつもしかあるべきものがないのである。こんな間違いはあるべきはずはないと考えられたので大騒ぎ、急遽侍者をして居士の後を追わしめられたという話があるのである。
何だか吝な話のようにちょっと思われるかもしれぬが、そうではない。老師ほ金が欲しいといって追いかけられたというのではなくて、あるものがないので怪しからんと考えられたに相違ない。落しものを拾って、その主に返すと同じ心理であったろうと思う。自分らだと金銭に執われていて、何だかそんな詮索をしたり、施主のあとを追っかけたりするのはみっともないと思う。どうしても老師のような無心で洒脱な気分にはなれない。この話をよく味わっでみるとありがたいところがある。金銭という跡についてみると、さまざまの批判もあろう。それは俗人の考えというもの。
これに似たような話が手島堵庵の書物の中にある.。それは一休和尚のことである。書物から引文すると左の如くだ。

「或問曰、一休和尚が内で蛸を食ふて、或所にゆき、さきで食傷して其蛸を嘔吐されたれば、亭主の申しまするは、『こなたは坊主の姿して蛸を食ふものか』と、さんざんに云はれましたれば、一休が、『身共は蛸はくやしませぬ』とおッしやッたれば、亭主が申すに、『それでもまさしく食しやッたりやこそ嘔吐(はか)しやッた』と申したれば、一休のおッしやるには、『こなたは浄土宗の善導を見さッしやれぬか。あれも仏をくやしませねど、口からはかしやッた。身共も食はしませねども、はきました』と、おッしやッたと云ふ事でござるが、是は戯れにおッしやッた事でござりますか」
「東郭子(堵庵)対曰、いや、戯れにおッしやッた事じやござらぬ。一休は虚言を吐(はか)さッしやりませぬワイ。実に食(くは)しやれぬものを、誰がどういはふが、はて食たとはいはれませぬワイ。さうじやござらぬか。一休はそりや蛸は正しく嘔吐(はか)しやッたでもござらうが、とんと根から食はッしやれませぬ事でござるワイ」

これは頗る面白い話です。吐くからには食べたというのが、われらの一般的論理だが、一休さんの境涯から言うと食べなくても吐くのであるから、妙ではありませぬか。一休さんの事実上食べたのは、食物であって蛸ではなかった。しかし食べつけぬもので、お腹にとまらず、吐き出された、出たところではまた事実上蛸であった。後の事実だけ見た人は、「それでも今こゝに蛸を吐(はか)つしやつたぢやござらぬか。蛸は食はしやらぬ訳はない」と言う。
一休さんの善導和尚論は頗る肯綮に中(あた)っていると思う。善導和尚は、仏を食わしゃらぬが、念仏唱えるたびに仏様を吐かれたということである。一休さんの吐かれた蛸も見る人が見たら仏さんになっていたかもしれぬ。
堵庵の一休論もまた面白い、「一休は嘘はつかつしやりません。誠に食はしやつたものを食はんとは仰有りません。さうじやござらんか」と。
手島堵庵は、一休さんは蛸を食っておらんと言う。蛸も心学(堵庵らの建てた学問)もここで握手しているというべきであろう。一休さんの食べた蛸は蛸でなくて、大根か人参の一種であったに相違ない。
そう解釈すれば、蛸を食べておっても、蛸は蛸じゃない。目いっぱいにものを見ていて一物も見ない、耳いっぱいに利いていて一音もきかない。これほど無心になれると人間ばなれがして大いに面白いのである。洪川老師が十銭足りないと言って、宝岑居士を追いかけられたような無我の境地は、一朝一夕の修行の結果ではないのである。 ( 『無心ということ』より)

* バグワンだと、これも口説、ただ人を惑わす賢しらの例だと退けるかも知れない。が、たしかに面白い。ただ、「一休さんの食べた蛸は蛸でなくて、大根か人参の一種であったに相違ない」のか。「一休さんの吐いた蛸は蛸でなくて、一休さん自身であったにすぎない」のか。どうだろう。
2007 6・23 69

☆ 小説の豚どもへ  箭
数年前に矢作俊彦さんが予言した通りの状況になっている。
本屋をのぞけば、すぐに目につくが、携帯サイト出身の小説が溢れている。文章もストーリーも圧倒的に絶対的にお粗末で、まったく読むに価しない子どもの作文が、何10万部と売れている。ネット上でピーチクパーチク、垂れ流すように話している、あの文体で書かれた小説。
ネット上でダベる分には構わない。ボク自身、文章の完成度なんて気にせず、話すように書き散らしている。遊びであったり、息抜きであったり、意識的にならずにすむ時間も必要だから。
ネットの上を流れるテキストなんて一過性のもので、消費される以前のものだから、罪もない。しかし、それを印刷して形にするのは、万死に値する罪である。
小説のブログ化は文化を殺す。携帯サイトは暇つぶし文化だ。
かつて、物語は国語を作り、文化を作った。アーサー王の物語が英語をつくったように。携帯小説は言葉を暇つぶしの道具に変えてしまった。カウンターカルチャーが文化をつくり変えるような力ももたない。
異端が文化になるように、前衛が伝統になるように、既成の死に絶えそうな、出版業界を革新するだけの気概もパワーもなく、ただ、その死期を早めるだけの存在。
真の前衛は一部のポップミュージックとストリート発のラッパーたちの中にしか見られない。小説の豚どもには頼むから、一日も早く死んでもらいたい。

* この叫び、必ずしも耳新しくはない、以前からわたしも腹中に溜めこんできたものだが、時代の証言の一つになり、心ある歎きの声として、ますます広く唱和されてゆくだろう。

* パソコン機能は現代の筆記具であり、毛筆、万年筆、鉛筆、ボールペンと或る意味で同じであるから、ワープロ機能で書く、書き慣れるということ自体は咎めようがない。一部の頭の硬い人が理屈を言うようにそれで文学・文藝が変質するとも体験的に決して思わない。自身の文体を身につけているなら、また推敲に実意を持つ人なら、ペンでもワープロでも変わりはない。わたしは「世界」連載の長編『最上徳内』の途中からごく初期のワードプロセッサ「東芝トスワード 1」を百パーセント使い始めたが、誰も、どこまでがペン、どこからはワープロ原稿と見分けられる人はいない。
その意味でわたしは今日圧倒多数がワープロ機能で創作しているのを当然の帰趨とみている。問題はインターネット機能にあまえて、たちまちに双方向通信で垂れ流し始めてしまうことだ、そこには広義・高度の「編集」という働きが欠けて自己満足が優先暴走してしまう。
わたしは、インターネット機能にのりながら「書く」と同時に広く小説を外へ流した体験は、一度しかない。『お父さん、繪を描いてください』という長編のいわゆる藝術家小説だった。だが、途中からワープロソフトへ移転してそして仕上げ、繰り返し繰り返し推敲してから紙の本にした。紙の本を出版してから、ホームページに所蔵しインターネットに載せた。
もう一つ、「mixi」に加わったとき、わたしは「mixi」日記欄を原稿用紙にして、『静かな心のために』という一ヶ月かけたエッセイを書き下ろしていった。だが、作品を新たに此処で書いて公表するのは推敲の満足がえにくいと判断し、以降は過去に紙の本または活字初出歴のある作品を選定して「mixi」にたくさん無料公開し続けた。それなら、無用の危険を冒さずにすむ。すくなくも自分の場合、小説は仕上がるまではインターネットには送り出さないと決めたのである。
しかし、わたしは或る程度の筆力があり、紙の本にする手だてや便宜をもたない書き手の方には、「mixi」日記欄を公表の場として利用されるように奨めてきた。マイミクの中にはそういう優れた書き手(小説、詩、短歌、日記、随筆)が何人かおられる。書こうとして書き出せない人もある。残念ながらまだ評論の優秀にまったく出逢えないが期待している。
また書いたので読んで欲しいと、作品をわたし宛メッセージやメールで送ってこられた未知の人もたくさんある。残念ながらほとんどは、箸にも棒にもかからない、「箭」さんの謂うようなモノだった。これは出版されてのち戴いて読んだが、朝松健氏のいくつかの中世小説に「mixi」のお付き合いを通して出逢ったのは幸いだった、が、そういう嬉しい目にはめったなことで出逢わない。だが可能性はある。マイミクだと目が届いて便利なのである。
大事なのは「編集」という批評力。自己批評がいちばん大切だが、それが出来ないのだから、「読める人」「創れる人」が働かねば。いちはやく責任編輯の「文藝文庫・湖umi」をホームページに創ったのもその気持ちからだったが、ペンの「ペン電子文藝館」に力を割いていた。復旧のときが来ている。

* ペンクラブに電子メディア委員会を企画創設したときから、わたしに、こういう根本的危惧があった。繰り返し発言してきたことだ。
一つは、市民使用のインターネットは遠からず国家権力の忌避するところとなり、陰に陽に個人のインタネット運営は、管理や警戒の対象として法規制を強化されてゆくに違いないということ。
もう一つは、似而非の文学・文藝が氾濫して、「文学・文藝」の真価がもう問われることもなく無惨に崩潰し、その立ち直りには想像を超えた長期間を要するだろうということ。
さらにもう一つは、放埒な自己表現の麻痺薬にアテられて若い世代の精神に多大の毒がまわってしまい、未来の日本は幾世代にもわたり軽薄きわまりなく頽廃してゆくだろうということ。
そしてさらに言えば、(きわめて陰険な)サイバー・ポリスと(きわめて広範囲な)サイバー・テロとの死闘の時代が、すでにはじまっているが、いっそう熾烈になり人間の精神的環境と機械的環境とを汚染・荒廃させてゆくだろうということ。
あえてもう一つ、インターネットに限らずパソコンは、概していえば老人のための「電子の杖」としてこそ甚だ有用だが、自堕落に若い人たちに広がっていいツールではなかろうなというのが、早くからの私の大きな危惧であった。のみこむには毒があまりに強い。

* こういう認識を、日本ペンクラブの新・執行部(阿刀田高会長)はほとんど思い描けないのか、簡単に、電子メディア委員会と言論表現委員会を合併してしまった。両委員会の機能がともに中途半端な、おざなりになるだろう。
言論表現委員会は、ペンでは伝統的に闘志をひめた時世と官憲へのお目付役であった。電子メディア委員会はいわばアップ・トゥー・デートな勉強と啓蒙指導の性格を大切にしてきた。しかも双方に看過できない問題は増える一方。安易な合併に何のメリットがあるというのか、まるで一升釜で一斗飯を炊こうというぐらい、バカげた判断だ。
その上純然「文学・文藝」の委員がきわめて数少ない。そういうことが執行部には見えていない。まったく見えていない。
ムリもない。大方の役員が電子メール一つ使えなくて、せいぜい緊急電話かファックスで意思疏通しているというのが、役員会・理事会の現況なのだから。かりにもグローバルな国際ペンという大組織の一環・事業執行部ではないか。
文士もみな機械をつかえなどとバカげたことを、わたしは決して言わない。
しかし難しい電子系言論表現問題の沸騰している二十一世紀現代の「組織の中枢」としては、適切な用意・体制とは、とても言えない。
十年間の理事会体験から、わたしはハッキリそう言う。
2007 6・25 69

* いま書いている気儘なフィクションは、いつ仕上がるか分からないが、推敲という仕事を繰り返して楽しんでいる。少年の昔と、古稀の今と、遠い歴史と時代を超えた恋と性と。作者になり編集者になり読者にもなりながら。

* むかしなら、すぐ仕事に成ると思えば躍起になって書き起こしただろう材料を、今は「私語」のなかに溶きこんで、みんな流してしまっている。自分一人の満足だけをいえば、それで足りているから。
幾つもいくつも、いわばファイルを起こし題もつけておいて、いま本を七冊も八冊も同時に読んでいるあのように、併行して書いてゆけば、一つ一つが作品に成ってゆく。そんな功名心にかられるのが鬱陶しくて、その意味で「闇に言い置く私語」には功罪が問われるだろう。
2007 6・26 69

* 秦の祖父の箪笥や長持に沢山な漢籍があった。ごついのは辞典・事典の類となぜか韓非子の立派に装幀した「枕」ほどの本があった。兜虫の肌色した、なかみは知らないが本の姿や色に圧倒され尊敬した。和綴じの本も小さな文庫ふうのもあり、和綴じの唐詩選五冊と文庫の白楽天詩鈔は子供ごころに最も親しめた。
白詩に接していたことが、わたしを創作生活へと長い期間掛けて押し出した。反戦詩の『新豊折臂翁』を繰り返し読んでいなかったら、あの六十年安保の年にしきりに小説が書きたいとは、また三十七年七月末突如として処女作『或る折臂翁の死』を書き出しはしなかったろう。
漢詩や漢文にはひょつとすると和文の古典より早くに心惹かれていたのではなかったか。白詩だけでなく唐詩の絶句など、よく朗唱した。さすがに漢文はらくに読めるわけがなかったが、同じ蔵書の中の頼氏による訓みくだしの『通俗日本外史』という大冊がわたしのお気に入りの朗読本であったし、おそらくその感化はわたしの文体に相当色濃く残っているのではないか。
久しく漢詩や漢文に遠ざかっていた、が、近年、興膳宏さんの本を重ね重ね頂戴し始めてからまた昔の好みを思い出しかけている。京大教授から京都博物館の館長を務められていた興膳さんは中国文学者。「湖の本」を介してこういう方とご縁の出来るのがわたしの嬉しい余禄というもの。いまも氏の著書を毎晩の読書に加えて、本を赤い傍線でたくさん汚している。
2007 6・30 69

* 昨日五十嵐二葉さんのメールをもらい、それを受けたようなまたあるペン会員から、メールをもらった。おっと思い、やはりそうかと思うことが二つ書かれていた。
一つは、わたしの先輩作家で現理事でもある人の、「ペンはだめになりました」という「痛切」な述懐。
もう一つは、新任の山田健太言論表現委員長に対する手厳しい不信任。
前の項には、その理事作家をよく識っていてわたしなりの別の感想があるのだが、それは措く。後の方は、直接に今後の日本ペンクラブの舵取りや姿勢に大きく大きく響いてくることだけに、のけぞるほどに驚きも深い。

* ゆうべ遅く五十嵐さんにあてたわたしの返辞を、念のため記録しておく。五十嵐さんのメールは「退会」通知と、ついては電子文藝館に出稿してある作をとりさげて下さいという内容であった。「退会」の方に重きのあるメールとわたしは直感的に読んだのである。五十嵐さんも長く言論表現委員の一人だった。

* 五十嵐様  私も、また理事に再選されましたけれど、じつは、退会したい気分でいます。お申し越しの「電子文藝館」からはもう完全に退きまして、館長でも委員でもなく、お作割愛のことは事務局へおっしゃって下さい。委員会のメーリングリストからももう脱けています。
前猪瀬委員長の「言論表現委員会」も、この一年余はほとんど委員会すら開かれぬ有様でしたが、今度は、「電子メディア委員会と強行合併」され、焦点のボケた中途半端な、抱えた問題の多さからいえば一升釜で一斗飯を炊くような、いいかげんな判断のまま「見切り発車」ときまってしまいました。山田健太氏は電子メディア委員会には好適とみて、委員長をすすんで譲った人材ですが、日本ペンクラブの表看板である「言論表現委員会」をリードするには、「いい意味の叛逆精神」に乏しい気がしています。
執行部、理事会もますます小粒・通俗化し、現自民政権ともいつしれず妥協しかねない危惧が押さえ切れません。
なにを発言しても通らなくなってきました。ほとほと嫌気がさしています。選挙された理事なので責任も感じ、気分はギクシャクです、お笑い下さい。
なお「電子文藝館」の掲載作品は、会員が退会されれば展示を機械的に削除ということには、責任者として私は反対してきました。お気持ちが「削除してほしい」ならばやむをえませんが、退会したら自動的に削られるということは、少なくも私の館長時代にはありませんでしたことを申し添えます。
どうぞくれぐれもお元気で。私は糖尿病の悪化に追われて、日に日に衰えてきましたよ。 秦 恒平

* 大きな譬えで謂うと、新執行部の決定で「言論表現委員会と電子メディア委員会とを合併し一人の委員長にゆだねた」のは、国務長官と産業技術長官とを兼ねさせたようなもので、ペンに幾つも委員会はあるが、ペンの「顔」となる意味では「顔の半分」も占めるほど大きい。
ただ大きいだけでなく、此処でペンの、「現代」に対して果たさねばならない「責任ある対処・対策」がなされる。わたしの謂う「いい意味の反逆精神」が絶対的に必要な重要ポストなのだが、佐野洋さんの頃まではそれがあった。だが、猪瀬氏のときからそれが揺らいだ。
しかし猪瀬氏の長かった委員長時代にも、前半には錚々の論客が委員席を占めていた。だがそれら多くは委員長権限で委員に再任されなかった。わたしは委員が多彩であることに反対しない。しかし不足するのも偏るのも好ましく思わない。しかも委員長自身が「政権・与党寄り」であっては、やはり問題が大きいと思う。
山田氏は広く謂えば社会学者であろうか。猪瀬氏は小説も文学論もできる人だが、山田氏は文学からは遠い疎い人という印象をわたしはもっている。ところが「言論表現」という問題も、文学者・創作者の気持ちから発想発言されてこないと、とかくただの一般論に希釈されてしまうのである。その点からも山田氏は、現代社会学の裾野を広くもつ「電子メディア委員長」には好適・最適であっても、ペンの言論表現を託するには「非文学者・非創作者」に過ぎて、文藝の機微にあまりに疎いおそれがある。
そこへ加えて、政治的・思想的な立場・姿勢に関する痛烈な批判が今しも届いてきた。わたしのような世外漢にはよく分からない情報世間があるので、一概に賛否は言えないが、実はこういうことは有った。
わたしが懇願・懇請して山田氏を電子メディア委員長後任に推して実現したとき、猪瀬氏が苦笑いして、「彼に言論表現委員会を譲りたかったのに」とぼやかれた。猪瀬・山田両氏に阿吽の呼吸で「ライン」が通じるのだとすれば、むしろそれは「ペン本来のため」にはあまりめでたいことでないような気が、その時に、したのである。気をつけて観ていると、なにか気になるところがある。
その最近の一つが、先日出された「自衛隊での個人情報収集に対する批判」声明だった。あの声明は、ペン会員の大方がそうである「文筆家・創作者」からの批判や抗議とは、とても読めなかった。批判精神を拡散・希釈された感じの、対岸の火事に対する、よそ事に対する、お座なりの抗議文のように作文されていた。理事会に出られなかったわたしは、送られてきた事務局通知でそう読んだ。これが、強引に大きくされた新・言論表現委員会の新委員長長最初の仕事かと思うと、薄味で、うまくなかった。事前に緊急の委員会も開かれない、事前にファックス等での新委員稟議もなかった。出さないよりはマシの程度の声明文であった。
はたして、これで「ペン」はよいのか。「言論表現委員会」はよいのか。
「ペンはだめになりました」という痛烈な声が、理事からも会員からも、また文学の読者たちからも上がってこないよう、過ちて改むるをどうか憚らず、衆目の受け容れうる好判断・再考を速やかに執行部に求めたい。

* 「秦さんは委員長横暴にもきちんとものを言っておられた唯一の委員ですので、ぜひ留まっていただきたいと思います。しかし (中略) この (山田氏の) 政権も長いのでしょうね」と、今日のメール会員は、「政権」という言葉遣いをされている。この言葉…この語感…。この語感で、日本ペンクラブは、井上ひさし氏から阿刀田高氏へ、そして浅田次郎専務理事へと「次第送り政権」時代を迎えているのか。万一にも自民政権に都合良く歓迎されるようなペン「政権」では断然困る。ペン会員はせめて賢く見守らねばならない。
「だめになりました」だけでなく、だめにしないよう上の理事作家氏も、表へ出て、また理事会に出て発言なさるべきだろう。

* 事務局に知らせてもらった新言論表現委員会の委員は、こうなっている。
言論表現委員会(委員長:山田健太*) *は新任
副委員長:篠田博之 高橋茅香子 湯浅俊彦
委員: 植村八潮 宇田伸夫 長田渚左 加藤弘一 神保哲生 関根千佳* 中西秀彦 長薗安浩 秦恒平 三田誠広 元木昌彦 山岡祐子 吉田 司
「表現の自由部会」、「デジタルメディア部会」、「関西部会」の三部会とした。

* この顔ぶれで、「前の言論表現委員会」からの「留任メンバー」は、副委員長の篠田博之氏と、長田渚左さん、三田誠広氏、元木昌彦氏、吉田司氏、神保哲生氏、長薗安浩氏と、秦恒平との八人。新任は一人もいない。他は、委員長権限と判断で外されたということだ。「前の電子メディア委員会」からは私も含めて全員留任している。新委員もさらに加わっているのに。
今手もとの記録で観ると、「四年前」猪瀬委員長のもとに言論表現委員会は「二十人の委員」を擁していた。篠田副委員長のほかに、浅田次郎、五十嵐二葉、井沢元彦、長田渚左、北村肇、小嵐九八郎、権田萬治、田島泰彦、俵万智、服部孝章、秦恒平、久間十義、藤原伊織、三田誠広、元木昌彦、宮崎哲弥、森まゆみ、山田健太ら各氏であり、やがて吉岡忍、日垣隆、巽孝之、木村三浩氏らも加わっていた。もっと前にはあの田中康夫氏も左高信氏も、本多勝一氏らもいたのである。事実そういう人たちの意見を、判断を必要としていたのである。
そもそもペンクラブにおける「言論表現の問題」は、「小部会」であしらっていい問題ではない。全委員が一つの大きな「言論表現委員会委員」として就任しているのに「部会」配置とは、どうい運営になるのか、このことはMLで、委員長見解が求めてある。

* いわれている「関西部会」は、電子メディア委員会このかた、上の委員のうち、湯浅俊彦氏、中西秀彦氏、山岡祐子さんの三人だけであるが、この「関西部会」に、東京の他の委員は無関係なのか。「関西部会」の委員は「表現の自由」部会や東京での「デジタルメディア」部会には参加できないのか、出来るというのか。
「表現の自由」部会というが、「言論の自由」はどうなるのか。また私のようにもともと「言論表現委員会」「電子メディア委員会」にともに在籍していた者は、どうなるのか。わたしは新しい「言論表現委員会」の委員就任を承諾したのであり、「部会」の委員になったというつもりは無いのだが。
この辺の運営についても、わたしは不審はぜひ第一回委員会で深切に討議して欲しい。

* 委員会には担当役員がつく。言論表現委員会の担当役員は吉岡忍氏であることにわたしは僅かに愁眉をひらいている。氏の思想にわたしは信頼をおきたいとつねづね思っているから。だが、今のところ、氏がこういう成り行きに何を考えながら担当役員であるのか、わたしは知らない。分からない。第一回会議に出席されるそうで、きちんとした見解をぜひ聴きたい。
願わくは英断あって、今のうちに電子メディア委員会と言論表現委員会を元のように分かち、吉岡担当役員が暫定で委員長を権にして運営されることを、改めて一理事として提案し、希望したい。

* バグワンを読み、大拙を読み、無心を思っていることと、上に書いたような現実世間へのアクティヴな関わりようとが、矛盾する者とはわたしは少しも考えない。山間に隠棲し遁世してえようとする無心などの偽善的な我執には、ヘドが出る。「今・此処」で今・此処の問題に心静かに全面で対応する無心でなければ無意味である。
2007 7・2 70

* 手近な倉田百三の本を手に『愛と認識との出発』の冒頭を読み始めて、往時渺茫、この本を熱心に教室ですすめた社会科の先生を思い出していた。この先生は「現代社会」の試験でついにわたしに百点以外の点を出さない人であったが、いささかの詩人でもあった。わたしは倉田百三では戯曲『出家とその弟子』のほかは多く読まずに通過した。『愛と認識との出発』に感激するには、わたしの側にもうべつの価値観がうまれていて、泉山来迎院の縁側に寝そべりながら、こんな家に「好きな人をおいて通いたい」などと想いふけっていた。百三はわたしには真面目すぎた。今の思いで謂えば思弁過多であり、バグワンの言葉で謂えばあまりに「マインド」の人であった。マインドが堂々めぐりしていた。

* いま、近くも同じ思いを鈴木大拙の『無心ということ』を読みながら感じている、百三の感傷とは大いに違うにしても、大拙さんの説くところ、結局「哲学」なのである。論理的に無心を語るのであるから真の無心にはとうてい近寄れない。理で無心を捌いている。大拙さんである、透徹しておられるに相違ないが、言葉になると、もちゃもちゃと持って回った論説なのである。哲学なのである。「なんだかワケがわからないであろうが」ともののとじめごとに謂われる、それだけが納得できる。
バグワンは論説しないで「直指」してくれる。彼は「気付け、覚めよ」とはいうが思弁や考慮や哲学は否認する。遠ざける。そんなものどれほど積み上げても徹到・透過の邪魔にしか成らないと言う。わたしもそう感じている。

* 国木田独歩の「山林に自由存す」という詩を読んだのも高校の頃、ひょっとして教科書であったろう。わたしはこういう言葉もあまり実感にならなかった。「市隠」という語を望ましく知った・覚えたのはもっと後年にしても、市街をのがれて山林に隠れたい者には「自由」は分からないであろう、「山林での自由」は変形した自我の執着にちかかろうと思った。バグワンもおなじことを言う。

* 悟りを求めて修行だの苦行だのということを「必要」と考えてしていても、しょせん透徹することは難しいのではないか、やはり自我の執着の不自然な行為ではないか。難行の果てにその虚しかったことに気づいて初めて無心がおとずれる。最適例は、仏陀だ。ありがたそうな経典をいくら読んでみても「気づいて」いない、「目覚めて」いない者には何の役にも立たない。どう知解してみても爽やかにラクにはならない。「気づき」「目覚めた」者にだけ有り難い経典はああそうなんだと保証をあたえるだけだと、バグワンは言う。まったくそうだろうと思う。
名選手や名人や達者は、経典を学習するひまに自身の仕事を鍛錬し達成し、それを通して気づき、目覚めに達してゆく。そういう人がそれから経典にふれるとじつに鮮やかに納得が行くのだろう。経典を抱いて山林に隠れてみても、目覚め・気づきは約束されていない。執着があるだけ遠回りになる。
「今・此処」に生きて満たされていること。バグワンはそれを哲学や論説として語ったりしない。
2007 7・3 70

* わたしにとつてとても大事なことを書く。

* 「抱き柱は要らない」「抱き柱は抱かない」 こんな言葉をわたしがこの「私語」に初めて書き入れたのはいつ頃であったろう。それに対する反応の一番早かったのは千葉の勝田貞夫さんではなかったか。勝田さんと知り合った頃よりどれほど溯るか記憶がない。
はっきり記憶しているのは、此の「抱き柱」という言葉を、わたしは、かつて口にしたり書いたりしたこと、また聞いたことも聴いたことも、観たことも読んだことも無かったことだ。イメージしていたのは、子供の頃の鬼ごっこで、通りの電信柱にとりついて鬼からの追跡を避けて休んだこと、魔やけがれから、そこへ縋れば免役されたという記憶だけだった。同時に、「抱き柱は抱かない。要らない。頼まない」とある日、まさにある日突然に思い切ったとき、自分が「抱き柱」と謂う言い方で、大は信仰・信心、そして何かしら目に見えぬ力の庇護を想っていたのは確かだった。
わたしは長い間、仏教徒ではなかったけれど浄土教に親和している自分を、容認していた。たとえば子供たちになにか、たとえば少し長い旅行などがあっても、わたしはよく留守中、阿弥陀経や観経や大経を読誦した。なにかといえば唱名した。しかしまたトマス・ケンピスの『キリストにならいて』なども愛読した。また死者や家族のためにも自身のためにもよく祈っていた。「祈る」と謂うことをいささか護身の符のように尊信してきた。
それをある日、フッと「抱き柱は抱かない」「抱き柱は要らない」と鋭利な刃物で切り落とすように、それと意識などもせず自身に覚悟した。それが当然だと分かった。分かった気がしたと、言っておく。

* むろんバグワンは読んでいた。バグワンに聴いて聴いて聴いて、頼らなかった。ただ明け渡していた、が、信仰とか信心とかとはちがった。そういう自我ははなから捨てた。
無数の、もの、こと、ひとに抱きついてきたとしか謂えないほど、わたしは、あれもこれもそれもどれもしてきたし、するときは一心であった。その一心がまさに「抱き柱」を抱く力強さであったのは事実である。同時に、スポッとそんな抱き柱感覚が切り捨てられた、いや消え失せたのも、べつに誇ることもない自然な成り行きであって、わたしは身軽になり、しかし自由の故に凍えるほど寒い風の中に立っている自分に呆れたものだ。だが、それが当たり前らしいと自然に感じている。感じかけていると言っておく。

* バグワンにこれだけ聴いていて、しかし、わたしは自分の「抱き柱は要らない」と瞬時に決したときのバグワンからの保証などは全く得ていなかった。バグワンの言葉に背くようなコトでないのには確信があったが、この言葉ゆえに、この考えのゆえにと指を指してわたしは思い出せなかったし、思い出そうともしてこなかった。そういう期待でわたしはバグワンを読んでこなかったからである。

* 今夜、たまたま『般若心経』を語るバグワンに無心に聴いていて、はじめて、この箇所はわたしのために有り難い、またおそろしい箇所だなと気がついた。スワミ・プレム・プラブッダ氏の翻訳に心より感謝しそれに概ね拠りながら、かさねてバグワンに聴きたい。人様に強いる気ではない。
なお話中わたしがあえて括弧に入れて添えた「抱き柱」の語はわたしの賢しらである。

☆ 南無三宝を超えて。バグワンに聴く。

ただひとつ、おまえが依らなければならないものがある
それが覚醒だ
注意深さだ
ただひとつだけおまえが依って立たなければならないものがある
それはおまえ自身の内なる源,内なる実存だ
ほかは何もかも落とされねばならない 一切の庇護は。

瞑想の完成以外何ものにも依らないということを通して
おまえのなすべきは
世間的なものもそうでないものも何ものにも依存せず
一切を手放すこと
その結果として現われてくる〈空〉におまえを自由に游がせ
賛否いかなる姿勢にも邪魔されることなく
何ものにも頼ることをやめ
どこにどんな庇護も支えも求めないこと──
それが真の“放棄”なのだ
おまえたちの分離した自己というのは
それに寄りかかったり頼ったりするための支えやつっかい棒を見つけることによってのみ
おまえ自身を維持することのできる ひとつの見せかけのリアリティーだ
三宝を隠れみのとして帰依することは
仏教の中心的な宗教行為のひとつになっている
仏陀への帰依
サンガ(僧伽)への帰依
ダルマ(法)への帰依──
この般若心経では,仏陀はそれも反駁し否認する
仏陀の矛盾なんかじゃない
仏陀はただ単におまえたちが理解できることを言うてきたにすぎない
私バグワンの所説の中にも
おまえたちは千と一つの矛盾を見出すことだろう
なぜなら,私のそれらの言葉は、異なった人々に向けられたものだからだ
おまえたちが成長すればするほど
さまざまな異なった所説が私によって告げられる
おまえに向けた私の所説は
おまえに対するひとつの「感応」にほかならない
私は壁に向かって話しているんじゃない
私はおまえに向かって話しているのだ
そして,私はおまえが受け取れるだけのものしか与えることができない
おまえたちの意識が高まれば高まるほど
おまえたちの意識が深まれば深まるはど
さまざまな違った物事が私によって述べられる

当然
それらの異なった声明はとても矛盾しているように見えるだろう 聞こえるだろう
もし論理的一貫性を求めるならば
そんなものは見つかるまい
仏陀の声明は論理的一貫性でなされてなどいないのだ
仏陀の亡くなられたその日
仏教がたちまち三十六の流派に分かれてしまったのはそのためだ
亡くなったその日もその日! に、もう弟子たちは三十六派に分裂していた
どうしたというのだろう?

それは,仏陀が、大勢な弟子たちの異なった意識と理解とに合わせて
さまざまな異なった人々に数知れない言明をしてきたからだ
弟子たちはみな口論し,争いはじめた
彼らはこう言う
「これが仏陀が私におっしゃったことだ!」
ん? ちょっと考えてもみてごらん
いちばん最初に仏陀に従った五人の弟子たちに向かって仏陀は言われた
「私は成就を遂げた さあ私のところへ来るがいい おまえたちをそこへ連れて行ってあげよう」と。
もしこの五人の弟子たちがシャーリブトラに会って シャーリブトラが
「<それ>は一種の無達成を通じて達せられる」だの
「自分が<それ>を成就したなどと公言する者は間違っている! なぜなら,それは成就などされ得ないものなのだから」だのと言ったら その五人の弟子たちは何と言うだろう? 彼らはこう言うに違いない
「あなたは何を言っているのですか? われわれこそ一番古い弟子なんですよ 一番の古顔です そしてこれが 仏陀がわれわれに述べられた最初の声明だったのです 『私は達成した!』── 実際のところ,もし仏陀がそう宣言されなかったら われわれはけっして仏陀の後に従ったりはしなかったでしょう 仏陀がそう宣言されたからこそわれわれは従ったのです われわれの動機は明白でした 仏陀が達成されたからこそわれわれも同じように達成したかったのです だからこそわれわれは彼の教えに従ったのです そして仏陀はわれわれに 『私はおまえたちの避難場所だ 来て私に帰依しなさい 私をおまえたちの〈隠れ家〉にするといい』とおっしゃった それを,何というナンセンスなことをあなたは言うのですか? 仏陀がそんなことを言われるはずがない シャーリプトラ あなたはきっと誤解したに違いありません どこかがおかしくなってしまったか あなたがでっちあげたかのどちらかです」

さて,この声明 この般若心経はプライヴュートに語られている
それはシャーリブトラに向かって語られている
それはとくにシャーリプトラに向けられているのだ
それは手紙のようなものだ
シャーリブトラは何の証拠も出して見せられない
当時はテープレコーダーなどというものは存在していなかったからね
彼はただこう言うしかない 彼はこう誓うしかない
「私は何ひとつとして真実ならざることを述べてはいません 仏陀は私に 『ほかの何ものでもなく ただあなたの瞑想だけに依りなさい』とおっしゃったのです」と。

ほかの何かに依存する心<マインド>はまがいものの自己だ
自我<エゴ>──
自我<エゴ>というのは、つっかい棒<抱き柱>なしでは存在できない
それはつっかい棒<抱き柱>を欲しがる
何かがそれを支えなけれはならない
一度あらゆるつっかい棒<抱き柱>が取り除かれてしまったら
自我<エゴ>は地面に崩れ落ちて消え失せる
そして,自我<エゴ>が地面に崩れ落ちたときはじめて
おまえの中に,永遠であり
時を超えた
不死の意識が湧き上がる

ここで仏陀は言われる
「隠れみの<抱き柱>などというものは何もない,シャーリブトラよ
治療法<抱き柱>などというものも何もない,シャーリブトラよ
何ひとつありはしないし,どこにも行くべきところなどない
おまえは、もう、すでに、<そこ>に<いる>のだ」と。

この“満ちた空”は
もしおまえが不用意に達したりしたら
おまえに大変なおののきを起こさせるだろう
もしおまえが誰かにそこへ投げ込まれたりしたら‥‥‥
たとえば,ときとして
人々が深い愛と敬意をもって私のところへやって来て
「バグワン なぜあなたはもうちょっと強く私を後押ししてくれないのですか?」と言う
もしその<用意>がないままおまえがその中に押し込まれたりしたら それは用をなさないだろう
それは来たるべき幾多の生にわたって,おまえの進歩を妨げかねない
一度不用意にその〈無〉の中にはいったりしようものなら
おまえはあまりにもショックを受けて
あまりにもおびえてしまって
死ぬほどおじけづいてしまって
少なくともあと二,三生の間
〈無〉について語ったり
〈神〉について語ったりするどんな人のところへも
二度とふたたび近づかないだろう
おまえは避けて通るに違いない
その恐怖があなたの中でひとつの種になってしまう

いいや
不用意に押し込まれることは禁物だ
おまえはただゆっくりゆっくりと後押ししてもらうしかない
おまえの用意できているその<同じ分量>だけをね。

* 般若心経は、シャーリプトラに向かい説かれている。シャーリプトラやバグワンにしか理解できない超仏教の境地に入っている。けっしてこんなわたし=秦のために説かれては居ないのである。わたしの深く懼れるのは、「抱き柱は要らない」という同じ意味をバグワンが語っていることに昂揚し確信しながら、一方でそんな境地は「まだおまえのモノであり得ない、おまえはシャーリプトラでない」とも言われていること。おそらくバグワンは適切に「わたしの用意できているその<同じ分量>」でわたしを後押ししてくれているのだろう、四の五の迷わずに、「抱き柱」は要らないとある日に瞬時に決して迷ってこなかったことを見守っていたい、拘泥せずに。
そう思った、そう感じたことを、わたしは此処に書き留めておく。これも自我の所為で忸怩とするが。
2007 7・10 70

* 水のただ流れるように日々を送り迎えている。なにをしようとか、したいとか、しなくてはならないとか、思っていない。思わないまま、あれもし、これもし、している。していることはしていないこと、していないことはしていること。同じこと。
2007 7・12 70

* いま建日子のブログを観ると、関係した映画作品の紹介のすえに、「しみじみな映画」と書いている。こんなふうに今、謂うのだろうか。
わたしは「しみじみな」とは使ったことがない、が、ほんとはこう使えるといいんだがなあとは、思ってきた。
「しみじみ好い」「しみじみ感じる」「しみじみ辛い」などと副詞に用いるが、「しみじみと思う」とも謂う。「しみじみとした」と言い終えることも、「しみじみとした情愛」「しみじみとした場面」などとも謂う。そういうとき、「しみじみな」という形容動詞につかえると簡明なんだがと思ったこともある。
じっさいにしかし「しみじみな映画」と謂われると、すこし前のめりになる。建日子のいい加減さがやっつけた表現か、思慮のすえの表現か、分からん。
2007 7・12 70

☆ ジョイス  花
朝方の雨が止みました。お元気ですか、風。
『ユリシーズ』は、第二部に入ったら、ぐんと読みやすくなりました。その文体は、わたしの高校生の頃に多く見受けられた「ポストモダン」の原型と思われ、ジョイスが、十九世紀の小説と、現代の小説の、大きな橋がかりになっている、と、今までのところ、感じています。
創作についての風のアドヴァイス、ありがたく聴きました。
昔の人の作品を読めば読むほど、自分にできる領域は残されていないなあと感じたり、小説には思想がなければいけない、と悩んだり、そのうちに、何が何だかわからなくなってきたり、いろいろありましたが、初心にかえり(開き直った、という方が近いかも知れません)、「書きたいことを書く」しかないと、現在も創作を進めています。
風のおすすめの「細雪」や「山の音」とは、行き方が違うかも知れませんが、溢れるままに書きたいことを書いています。初期のフローベールみたいに。
創作を書き終えたら、次は評論です。
以前ニメールしましたが、吉行淳之介について、これまでに書かれた評論を読んでみました。直後は、「わたしの何か言える部分は、もう残されていないなあ」とがっかりしましたが、少し時間が経ち、落ち着いてみると、わたしの吉行作品に対して思い込んでいる解釈と同じことを、掘り下げて書いている評論のないことがわかってきました。
魅力的な評論とは、風の評論がそうであるように、筆者の「強い思い込み」とでもいった解釈の展開されているものではないでしょうか。勿論、その「思い込み」を裏づけする証拠固めは必要ですが。
小説も、評論も、「書きたいことを書く」、です。書きたいことを書いたものが、何より読む人にうったえるはずです。そのための「書く力」をつけるのに、わたしの場合、多くの鍛錬が要るようです。
また新潟で地震でした。
やっと元通りの暮らしができつつある、と報道されていた矢先のことでした。
東京も揺れましたか。
日本列島は地震から逃れられませんね。花は、東海沖地震の予想される駿河湾の奥の方に住んでいますので、地震に強い家が売りの住宅メーカーを選びました。自宅が大丈夫でも、隣家が崩れてのしかかってきては意味がありませんが、うちは同一メーカーの分譲地なので、その点も期待しています。大地震のないのが、いちばんだけれど。
風、もうすぐ始まる発送準備、がんばらずに、がんばってください。花もがんばっています。

* 書くことが、花の生き方に、豊かな糧となるように。
評論は遠慮してはいけません。また持って回って逃げ腰になるよりも、元気よく、むしろズバズバ断定的に。但ししっかり断定の裏をとること。引用を濫用・多用しすぎると読みづらくなりますので、引用したい大意をうまく自分の地の文に溶かしながら、肝要の要点を短く括弧に入れるように。これは技術です。この節度はむずかしいところですが、下手な論文ほど、地の文よりうるさく大量に引用を誇りすぎて、誰の論考だか分からなくしてしまいます。吉行淳之介を書くなら、書かれた主な論考はおおかた読んでおくこと。一冊書き下ろすなら百も百五十も読んで頭の中に溶かし込んでおくこと。
同時に、代表的な年譜を、暗誦できるほど頭に入れておくこと。作家は成長し変容してゆきます。そこで前後の見境をつけちがえると、滑稽な誤解をしかねないから、年譜は作家論の前には、必読の必読です。
ジョイス、わたしも好奇心を発動して読んでみます。ながいこと、逃げていましたから。わたしにはカフカの方がよほど読みやすく面白かったので。
書きたいことを書かなくては話になりません、が、書き手の意欲と読み手のよろこびとが、立浪のように盛り上がることが大切。その起爆力がストーリーにあるのか、文体と文章表現にあるのか、その判断がとっても大切なところです。書き手の自覚がものを言う。
発送用意はかなり好調にすすみ、数日の余裕ができそう。  風

* お返事おそくなりました。
『石火のごとく』は、心のこもった「悲哀の仕事」です、前にも読み感銘を受けました。一つには短歌のちからが重きを成し、作の気概に呼応し唱和し、父子の相い聞こえを為し遂げていました。今回もそう感じました。
よくなさいましたね。
せっかくだから「本」としてはこの厚さのまま少部数でもフランス装か何かの特製本を創っておかれたらよかった。
『五月』は詩と真実の長編作で、章を追って起承転転、温厚に静かに結ばれてゆきました。胸ぐらをとって揺さぶる物語であるよりは、端的なスケッチをフィルム送りするように押しだし押し出ししながら「境涯」を底流するものの述懐に真実感(リアリティー)を求められたと読みました。
ただ、叙事に洋構文ふうのまじりものが多く、あなたの日本語を説明的に混雑させているのは残念な気がします。
私は 私の 私たちは の多発、 などと のだが その あまり そして そこに なにか それにしても その といった十分整理できる過剰な説明句の多発、 のをいいことに 飲めもしないビールを 当を得ている 考えてみれば‥かんがえられない 気さえする  といった手あか語スレスレの決まり文句めく表現の近接多発 など、これらがあなたの小説を無用にカサカサした日本語にしてしまっています。これは惜しいことです。或る意味で説明に克明のあまり、省略の妙が足りないのでは。文の深い音楽は言い尽くさない間隔、省略の中で的確に鳴り響くのではありませんか。
私が言ってあげられるのは、それしかなく、途方もなく文学性にとってそれは大切なカンどころではないでしょうか。ま、私の思い過ごしもありましょうが。
今日、ごく若い書き手にこんなふうに伝えました、「書きたいことを書かなくては話になりません、が、書き手の意欲と読み手のよろこびとが、立浪のように盛り上がることが大切。その起爆力が、ストーリーにあるのか、文体と文章表現にあるのか、その判断がとても大切なところです。書き手の自覚がものを言う」と。私自身、いつも気にしています、うまく行きませんがね。
やっとこれだけをとりあえずお伝えします。おそくなり、ゆるして下さい。投げずに書き継いで下さい。 湖
2007 7・17 70

* 何の気なし、もう書庫へ戻そうかと手近にとりあげた「徳田秋声集」の、ふと『あらくれ』というかな文字の題が懐かしくて読み始めたら、やめられない。ぐいぐいぐいともってゆかれ、手放せない。「すごい」ということばをわたしは褒め言葉には使うべきでないと思っているが、しかもよくよくのときに「すごい」という感想で称賛の気の沸き立つときがある。今が、そうだ、散文の魅力のとほうもない膂力にガシッと捕らまえられた、それが嬉しいというほどの思いなのである。
こうでなくては文学はいけない。どこにもゆるみなく、けったいな俗な物言いもなく、派手な場面も筋も無いのに、文章そのものの魅力で小説が読めてゆく。「読まされる」嬉しさである。
秋声がそういう散文を書く超一級の大家であることはヤマヤマ承知で読み始めて、覿面に引き込まれ、「すごい」と思ってしまう。幸福な読書である。優れた文学は必ずこういう嬉しさを、滴るうまみのように恵んでくれる。
秋声も鏡花も、これほど対照的な作家はいないが、幸いにわたしは両方から同じ喜びを受け取れる。漱石と鴎外ともしかり、露伴が然り、潤一郎と直哉がまたしかり。
しばらくぶりに秋声の美味にしたたかふれ、嬉しくて叶わず、書きおくのである。
これでは書庫へまだ返せない。
2007 7・23 70

* 秋声の『あらくれ』を読んでいて、話の筋には心弾むハデな喜びは何もない。凡な文章とハッキリちがう一つは、改行のたびに奇妙な「つなぎ文句」をほぼ一切入れないことだ。
凡作では、改行のつど、「とはいえ」「だがしかし」「そしてそれから」「もっとも」「以来」といった安易な「つなぎ文句」が乱発される。こういうのをみな省いて端的に新しい段落を書き起こし、その方が文章が潔白に強くなることに気づかないと、「言い訳・・説明」型のくどさで文章が汚れてくる。

* 秋声のクセのひとつは「ような」「ように」の比較的安易な多用であろうか。「ような気がする」はたいていの人が無反省に使う悪習だが、「ような」と「気がする」は即ち「気味重複」している場合が多い。「ような」「ように」は大概の場合不要か、有って文章を緩く弛めてしまう。
人それぞれに、クセになった瑕疵はある。個性的という印象にまで育っている例もある。そこまで持ち前の力に出来るなら、瑕疵も特長になる。
2007 7・24 70

* 安心な小車に乗ってやすやす引かれて行くように、秋声の『あらくれ』は、散文の魅力を惜しげなく恵んでくれる。読み出すととまらない。
生みの母とむちゃくちゃに仲の悪いお島は、そこそこらくに暮らしている他家へ養女にやられていて、やがてそこで入り婿を迎えねばならない気配になっている。
出だしのしばらく、お島の心境が思い出ともともに淡々と叙されていて何の景気もないのに、よく煮染めた野菜のようにほんのり甘みもともない、至極口当たりが良い。おいしい。魔術のようである。
秋声のこういう名人藝には、彼と出会って、ほどなく、わたしはしみじみ感じていた。
改造社版のいわゆる「円本」の古本を、版変わりながら三冊、古本屋で買って持っている。一冊が円本のアイデアを改造社にやったといわれる谷崎潤一郎のもの。他の二冊は「佐藤春夫集」と「徳田秋声集」とで、この安い買い物に心から喜んだ。値が安くてではない、荷風のも秋声のも代表作が持ち重りするほどドサッと収録されていたからだ。だが『あらくれ』はまだその秋声集に入っていなかった。後に上京して買い始めた講談社版の「日本現代文学全集」で出逢えた。こっちには優れた短編がたくさんな上に、長編『仮装人物』絶筆『縮図』が入っていてわたしを雀躍させた。
春夫のには、魅惑の代表作『田園の憂鬱』『都会の憂鬱』や、おもしろい『星』のような異色の読み物も入っていた。
本を手に入れることが、宝石を手にする心地であった。古本屋は、他の何処よりも大事な店で、立ち読みも出来た。数え切れないほど出逢ってきた大勢のヒロインたちのなかで、『あらくれ』のお島は、十指の一つに折って数えたい一人になった。

* 志賀直哉型の散文と徳田秋声の散文とは、よほど素質を異にしている。私小説を書く人は大なり小なりこのどっちかに感化されている。または知らぬうちに追随している。だが乗り越えられない。
直哉の散文は、粗く織って風通しのいい、しかも優れて堅固で淳良な風合いの布のように出来ている。
秋声のは、砧でうったように、流れ豊かに波打つ布地の感触である。
この、私の抱いてきた印象は常識的には両作家さかさまに想われそうだが、そうではない。
2007 7・25 70

* 『あらくれ』を読み進んで行くと、いろんな興味が湧く中でも、人間関係のデッサンの正確さに感嘆する。お島には、実の両親やきょうだいたち、育ての両親や許嫁に擬されていそうな作という男、両家に出入りの人たち、育ての母の情夫やその弟などがいるが、その一人一人の表現だけでなく、その一人一人とお島との感情の距離や濃淡の差が、言うに言われないリアリティで適確にとらえられている。不安定な行文が全然露われない。
書かれたのは大正四年、書かれてある生活や風俗や人情や言葉はおおかた明治末年のものであるから、それなりに今日のそれらと比べようもない時代差は歴然としているが、それが文学作品を現に「読んでいる」障りとは、ちっともならない。むしろ、ほほう、ほう、と興味や好奇心や納得に励まされている読者心理に気づくのである。

* なかなか『細雪』や『山の音』のようには書けるものではない。書こうというほどの人は、たいがい書いている中身からみれば秋声の余類にちかいが、どうしてどうして秋声の散文とは天地ほども魅力において届かない。こういう優れた人の優れた散文に、だれも心から親しんでいない。もったいない。
秋声には書生っぽく肩肘をあげた、張った武張った物言いは、全然無い。柔らかく腰をおとし、視線はひくく書くべき「今・此処」に丁寧に据えて叙している。砧でうったような波打つ柔らかさと、筆触の名人藝とがある。書いてあることは庶民生活のさらに低い、さらにまずしい面に膚接しているのに、ちっとも行文は卑しくなく汚れていない。谷崎愛のわたしが感じていたのと同様に、秋声にも活字に唇をそえて呑みこみたいうまみが光っている。ことに『あらくれ』には光っている。
2007 7・26 70

* 「mixi」でいつしかにマイミクになっている人でも、その「実」のお人も名も知らぬ例が多い。それゆえの興深い奇遇もある。あれれと思って日記を読み、その人が、すぐ手近に愛読している雑誌「江戸文学」の或る論文中で論考を引用されているご当人だと「露見」したりする。はからずもご本名まで知れて、ほうほうと思わず声が出る。昨日はおかげで石川雅望の『飛騨匠物語』など思いだしていた。いやいやこんな堅苦しい名前でなく、「宿屋飯盛」という狂歌人として思いだしていた。このマイミクさん、いま秋成を手がけられているとか、またまた懐かしく往時に帰る。

* 「江戸文学」36の『誤読』特集のなかで、天野聡一論文は個人的な関心があり、読んでいました。
関心は『飛騨匠物語』の竹芝寺縁起の箇所にありました。
わたしは高校生のときに『竹芝寺縁起』という小説を書き、のちに徒然草に取材した『慈子(=あつこ・斎王譜)』(筑摩刊)という処女長編にとりこんでいました。
そもそも「竹芝寺跡」を諸本が、伊皿子坂の済海寺に擬していたのを、わたしは強く疑いました。「ミセス」に連載した『蘇我殿幻想』(筑摩刊)のなかで反論しました。骨子は、小学館版の「日本の古典」更級日記の『月報』に書き、その後の小学館版「日本古典文学全集」では、たしか脚注に私の説を取り上げています。
わたしは雅望の{古本「更級日記」}を、『飛騨匠物語』を読んだ初めから、造作ないし創作と読んでいましたし、全く方角違いに、わたしの関心は、竹芝の説話を、『将門記』や武蔵竹柴や桓武時代の史実等から溯って、大化の改新以降の蘇我氏政変までを読み込むことにありました。
思いがけずあなたの日記から(具体的なことは、なぜだか、何も書かれていませんでしたから、甚だ分かりにくい述懐でしたが)すぐ手近に置いていた「江戸文学」に手が届いて、大昔のことを思い出すよすがとなりました。感謝します。
雅望の『雅言集覧』や『源注余滴』は大作でなかなかのものですが、宿屋飯盛としての風貌を、最上徳内を書いた長編『北の時代』(筑摩刊)に、ちらと書き加えたこともありました。
あなたの原論文を読んでみたくなりました。わたしはなまじの小説より学者の論文をもらって読むのが好きなんです。ぺりかん社のいつも贈ってくれる「江戸文学」は愛読書です。高田衛さんや長島弘明さんは、久しい友、「湖の本」の強ーい味方。江戸女流文学研究で大きな存在になった門玲子さんも親しい仲間です。
亡くなった森銑三先生も、亡くなるまで、たくさん教えて下さった。著書も沢山戴きました。
江戸時代は好きでないのですが、江戸文学者の仕事には親しんできました。白石と徳内と蕪村とは小説にしましたが、秋成の宿題はまだ果たせないで居ます。呵々
またしても余計な弁口を弄しました。多謝。 湖

私の育ちました京都東山の新門前通りを東へ突き当たりますと、袋町(古地図表記では袋丁)があり、秋成は妻と二人で京都に移住のいきなりに此処へ寓居を得ていました。いまその辺に、頼さんの家があります。
なぜ、彼はためらいなく此処へ来たのか、来れたのか。村瀬栲亭や親戚の画家、後の景文や、いろいろ秋成と縁のある人たちも袋町にいたからでしょうが、この界隈を私たち地元の者は「コッポリ」とも呼び慣れていました。これとも必ずや有縁であろうと推量して、書いたことがあります。
酒をのまなかった彼に、「生涯在酒」の印のあるのを懐かしくいつも思い出します。金剛山の麓まで秋成を尋ね歩いた昔を懐かしく思い出します。
いいお仕事を仕上げられますように。 湖
2007 7・27 70

* 新宿紀伊国屋サザンシアターでの新生「昴SUBARU」No.1公演は、原作チェーホフ『谷間』をアメリカのノースカロライナに移しての脚色ロミュラス・リニー『うつろわぬ愛』であった。西本裕行、久保田民絵、米倉紀之子、宮本充らを選りすぐって演技陣にゆるみはない。佳い舞台であったか。佳い舞台であった、さすがに作品をこなれた形で提供しうる劇団としての才能は優れている。安心して舞台を注視していられるし、退屈もしない。
では面白く感動したか。
衝撃は受けた。胸は押されて時に苦しいほどだった。感動と謂えぬ事はない。しかし率直に譬えて謂うなら、こうだ。
一口口にして思わず「うまい」と呟いて満足がこみあげてくる。その「うまさ」は、とろーりとろーりとろーりと味付け十分の上に、十二分煮詰められたシチューだ、とろとろと溶けて固形物はなく、何を食べているか歯ごたえはないが、美味いことは格別。そして最後ちかく、オッと驚いた、肉らしい僅かな固形物が歯と舌とに触れた、が、それもとろりと溶けてのみこんで。そこで舞台は幕になった。
わたしは正直の処『うつろわぬ愛 Unchanging Love』という題は、苦い苦い皮肉としてしか受け取れなかった。エゴイズムで愛は保てない、愛は買えない、人が人のエゴイズムや悪意で生きている限り「うつろわぬ愛」は不可能であるという舞台としてしか受け取れなかったし、そういう舞台が意図されていたのだろうと思いたいが、あまり「うまく」舞台がとろっと仕上がっていて、そういうビターな味は、呻きの味は発酵していなかった。全体に人のいい舞台に出来ていて、そこにもしチェーホフを感じた、または感じさせようとしていたのなら、わたしはチェーホフの誤解にちかい気がする。チェーホフの絶望は人のいい甘い美味いものでなく、徹底して舌を焦がすほどの苦みをはらんでいるから。
ほんとうは『谷間』は途方もない人間社会への絶望や侮蔑や憤怒すらを書いた作とみていいのである。そういう苦味が、あるいは凄みには舞台は近づこうとしていなかった。上手な手練れの舞台はみごとに実現されていたけれど。そういう満足なら満たされた。だから大きな拍手を送った。新生「昴」の次が期待できる。
しかし新生「昴」はうまくて上手なだけの舞台に満足して欲しくない。ぞっとさせるほどの懼れも絶望も感じとらせる批評の力を、新劇から削り取ってしまってはいけないから。
2007 7・27 70

* 秦恒平・湖の本エッセイ41 『閑吟集 孤心と恋愛の歌謡』の跋
好色古典の第一等に西鶴の『好色一代男』を挙げられて異存はない。元禄の世之介が恋の手習いについわたしも見習い、思えば想えば空恐ろしいほど「恋の手管」を学びましたといえばむろんウソであるが、日本の古典全集につねに加えられる、すてきに粋にポルノグラフィクな室町小歌の『閑吟集』からは、もっと深く、もっと懐かしく、「恋愛の孤心」を悩ましく教わったのは決してウソでない。愛読して真実面白い歌謡の集では閑吟集の右に出るものは無い。
よほど心嬉しく繰り返し書いてきたが、どうしてももう一度書きたい思い出がある。
医学書院の頃の上司で殊に鷗外研究者として名高かった長谷川泉と、作家のわたしを、名古屋大学の小児科教授であられた鈴木栄先生が定年退官の記念に、わざわざ、伊勢桑名の「船津屋」に一夜招待して下さった。船津屋は泉鏡花の名作『歌行燈』の舞台になった料理旅館で、そのころ名古屋の老舗「中村」が経営していたが、鈴木先生の招待に終始付き添って賑やかに晴れやかに宴をとりもって呉れたのは「中村」の若女将であった。鏡花の作から抜け出てきたような美女であった。美女はみずから襷がけ勇壮に大太鼓まで堂々と打って聴かせ、一夜明けた翌日は千本松原へ案内してくれた。木曽、揖斐、長良の大河が一つに落ち合う窓外の見晴らしもみごとなそれは佳い宿であったが、美しい人の面影はもっと魅力深く胸にのこった。
わたしは東京へ帰ると、簡略ながら葉書で中村の若女将にも礼状を書いた。そしてその奥に、ただ「三六」という数字を添えたのである。
折り返しやはり葉書できちんとした返事があり、これにも「一二三」とただ添えてあった。
その暫く前にわたしは「NHKブックス」で『閑吟集─孤心と恋愛』を出版しており、それが宴席で話題になっていた。閑吟集は「思無邪」の詩経にならい三百十一の歌謡歌詞をを聚め、市販のテキストはみな番号を振っている、即ち三六も一二三も言わず語らず閑吟集の小歌を示していた。

さて何とせうぞ 一目見し面影が身をはなれぬ    三六

何となるみの果てやらむ しほにより候 片し貝  一二三

この相聞こえの応酬は、イヤ間違いなくわたしはきれいにフラレたのであるが、この返辞の妙にすこし説明を加えないと読者は理解されないであろう。「船津屋」で歓待にこれ努めてくれた若女将の実名が「なるみ」さんであった。またそれは愛知県の鳴海という女将の地縁をも意味していた。むろん「あなたの仰せにしたがえば、末はなんと成る身でございましょう、片想いのままで堪えさせて下さいまし」と謂う仕儀に相成る。真に一流の女将はこういう聡い藝と才と美貌とを兼ね持っていたのである。惜しいことに、天魔も魅入られたか「なるみ」さんは、若くして天涯の鬼籍に奪い去られ、逢えない人になってしまったと、もう、とうに風の便りに。
こういうこともあった、何人かから寄せられた本の感想の中で、便箋裏の隅の隅にいと小さく算用数字で、307 と。走り書きに。うそかまことか。

泣くは我 涙の主はそなたぞ   三○七

小説につかってもいいなと思った。
閑吟集とは、こういう、今日ただ今のセンスでもとても面白く受け取れる室町小歌でいっぱいである。オウと、おもわず声を放つほどアケスケな性(セックス)の表現にも溢れていて、しかも読み解けば解くほど小気味よく、表現は清潔で純情、纏綿の情趣と風雅に満たされている。そして全編の奥底を流れて、

ただ人は情あれ 槿(あさがほ)の花の上なる露の世に            九六

世間(よのなか)は霰よなう 笹の葉の上の さらさらさつと ふるよなう  二三一

といった感懐がある。みごとにある。閑吟集の真価は、背景にある「中世」を豊かに批評しながら、その次元も超えた男女の愛、人間愛に満たされていること。わたしは、それを縦横無尽に心をいれて読みほぐしてみた。わたしの読み・解きに拘泥される必要はない。またそれだけに、この本では前冊『愛、はるかに照せ』とちがい、思うさま自由自在に読んで悔いをのこしていない。文字通り閑吟集はわが座右最愛の愛読書であり、気恥ずかしいほど一体化している。願わくはそれがこの本でプラスに成っていて欲しいものである。
作者は「不詳」としておくしかない。連歌師宗長の擬されたこともあること、何の確証もないことのみ言い置くにとどめるが、小説家の恣に別世界を思い描き、ひとり楽しんでいることもある。
よくよく性にあっているのか、わたし自身のもの思いをこんなに代弁してくれて多彩な詞華集はほかにない。ひとつには、閑吟集の置かれている時代、中世というよりその後半分、かつては、あるいは今でも「暗黒」などといわれかねずにいる室町時代に、わたしは、不思議と子供の頃から、つまり国史を愛読し始めた頃から、暗黒どころか「花ごころ」のような明るみや希望やぬくみを感じていた。むしろ鎌倉時代や江戸時代の方に息がつまったのである。この本の中でも繰り返し書いているが、わたしは、日本の中世を、室町時代を、武家封建制度の「確立してゆく」経過とは評価してこなかった。ちょうど逆様に、武家封建制度の成り立ってゆくのを「渾身の力で妨げ続けた」時代と読んできた。そこに京都と公家と擡頭する民衆の力との「合作」を感じ「花」を感じ、可能性や希望を感じ取ってきたのである。わたしが、日本の「藝能」とそれを担い歩いた人たちへの共感や興味を持ち続けてきたのと、そういう時代の「読み」とは、いつも表裏を為しまた成していた。
梁塵秘抄を書き平曲を書き能を書き閑吟集を書き茶の湯を書き、そしてタケルや赤猪子にはじまる敗北者や、蝉丸らに始まる藝人や、切支丹やアイヌや朝鮮人や、また葬制にはじまる被差別への観察と批判とを書き続けた強い催しもまた中世と京都に集約された貴賤都鄙の軋轢や葛藤にあり、民衆・平民の希望と鬱屈とにあった。その思いの行きつくところは、所詮、安土桃山時代を指さして「黄金の暗転期」と憎むほどの歴史観になる。鎌倉時代、南北朝時代、将軍の時代、守護大名の時代、戦国大名の時代を通じてあんなに武家封建制度の成るのを懸命に妨げ続けた希望を見捨てた者たち、特権の富ゆえに政治的エネルギーを武家に売り渡し民衆の時代を裏切った特権町衆。彼らの手で「中世」は「近世」武家封建制度の贄とし差し出され、さながら黄金色の繁栄がきたかのようであったけれど、実は黄金色の暗転期を招いたのだと、わたしは嘆いた。おそらく閑吟集の著者も、「桑門」にして「狂客」であった彼の胸裏にもまったく同じ歎きが忍び寄っていただろうと、わたしは共感措くあたわざるものにより胸奥を濡らすのである。
「四度の瀧」「三輪山」「冬祭り」「みごもりの湖」「秋萩帖」「古典愛読」「加賀少納言」「或る雲隠れ考」「花と風」「梁塵秘抄」「清経入水」「女文化の終焉」「趣向と自然」「初恋(雲居寺跡)」「日本史との出会い」「風の奏で」「能の平家物語」「慈子」「閑吟集」「茶ノ道廃ルベシ」「親指のマリア」「最上徳内 北の時代」などのわたしの仕事は、およそそういう感懐に膚接して創られてきた。そうありたしと願ってきたのである。
高校の頃、国語の先生であった碩学岡見正雄先生の名著に『室町ごころ』がある。わたしはそれをかなり年がいってから読んだが、いうに言われないはんなりと柔らかな歴史観であった。精到隈なき軍記や藝能研究者であられた、亡くなるまでよく読んで気遣い引き立てて下さった。作家になってからもわたしは先生に答案を出し続けていたのである。小心な生徒であったわたしも、はや七十余。
なお壮年の詩人杜甫は、日々の務め帰りに曲江のほとりで酒に憂さを晴らし、酒手の借りの尽きぬのを侘びつつ人生七十古来希と放歌したのは、いまのうちに心ゆくまで酔いしれたいということであった。同じ言葉で閑吟集の著者が、いや同時代を生きた閑吟集中の民衆も挙って感じていたのは、

何ともなやなう 何ともなやなう 浮世は風波の一葉よ   五○

何ともなやなう 何ともなやなう 人生七十古来希なり 五一

であった。「何ともなやなう」をこう繰り返すのは、歎きか居直りか絶望か希望か。全く同じ表現で二十一世紀のわたしは日々呻いて、歎き、居直り、絶望し、だが希望も捨てまいと足掻いている。藻掻いている。みなさんは、どうであろうか。
いずれ引き続いて、同様十二世紀の『梁塵秘抄』もお届けする。『閑吟集』ともども、安価に手に入れておいでの方の多いのは存じているが、どうか重ねて「湖の本」でもご支援下さらばとても助かります。出血止めに、分冊にしたいともよほど考えたが余分のご負担かけたくなく、ながく便利に愛読・愛蔵していただくには一冊がよいと決めました。
いま新ためてこの一冊を編み、繰り返し読み返して気づくのは、まるで自分で自分を出し抜くかのように、閑吟集をダシにして、隠れ蓑のようにして、わたし自身をアケスケに、あまりにアッケラカンと暴露してしまっていることだ。誰の感化だろう、昔男か、光源氏か、世之介か。もう遅すぎる。
ところで「湖の本」は、さしあたり白壽、百壽を数えあげたいとながい歩みを少しも止めずに来たが、このところ、右脚を事故で傷めたこともふくめ、糖尿病の悪影響が、緑内障にも白内障にも皮膚神経にも腎臓にも露表し、体力的によほど覚束なくなってきた。そんな中、今年、また日本ペンクラブの理事改選があり、選挙された。十年務めてきた。落選したらたとえ会長推薦があってもやめると決めていた。だが会員の意向はもう二年やれと。京都美術文化賞の方の理事もまた二年の任期延長が決まったようだし選者もつづけよということらしい。しかし「電子文藝館」からは自身で退いた。十分やった。作業を続けるには視力は衰え、句読点がまるで読めない、魯魚の見錯りも防ぎようがない。せめてわずかな視力は自身のために大事にしたい。
もう二年で金婚。「湖の本」もうまくすると九十九巻ぐらいに到達するか知れない。頑張ってみるかねと決めた矢先、運動がわりの自転車で怪我してしまった、見通しのない坂と坂の底で自転車同士衝突、奇跡的に双方がゆっくり起きあがり、わたしは右脚を傷めただけで済んだが、いつまでたっても歩行に痛みが脱けない。脚が腐り始めている気がする。
うかつなことだがそうなって、ハタと気がつく。なんてちっぽけな世間に跼蹐して十年もああよこうよと働いてきたか。文藝家協会やペンクラブの会員であることすらてんで意識になかったむかし、わたしはもっとひろびろと生きていた。教授でも理事でも、なまじ頼むと言われると精一杯打ち込んで、あげく、いやがられる。損な性質なのである。
最近も、つくづく述懐している、賢い人は嗤うだろうと。おまえはあまりに矛盾していると。
例えば一方で小田実さんの『百二十八頁の新聞』を心から電子文藝館に推奨し、掲載し、また言論表現委員や電子メディア委員をつとめて発言し提案し、小泉や安倍政権を非難し、野党ぶりを批判し、現代史や世界史の読書に熱中し、私生活でもガンとしてガンコに暮らしている。
が、その一方で「静かな心」を求め、バグワンや鈴木大拙に無心を聴き、心=マインドという分別・理屈を嫌い、言葉の虚妄にしばしば飽いて「闇」に沈透 (しず)く沈黙と静安を好み、観劇と読書と、時にこころよい飲食に安らいでいる。そしてすべては夢と、ほぼ信じている。
おかしいよおまえ、と、面と向かって言う人もいた。どっちかがウソだと。それならいっそどっちもウソだと言うがいい。所詮は、夢。
自分が、いわば乱れた麻糸を神の掌でまるめられたような存在であるのを、身のそばにおいた一葉の肖像画を見ていて感じる。わたしの小説『お父さん、繪を描いてください』を手近に置いている人なら、下巻の百四十二頁の繪をみてください。自殺した「お父さん」が有楽町地下道のラーメン屋でものの二三分とかけずに描き遺してくれた顔だ。あらゆるモノはこういうすけすけの無にひとしい存在なのだと「お父さん」は教えていった。
おつに澄まして山の中で隠者のように生きていたいと思わない。十牛図の第十の境はヒマラヤではなく、人の行き交う街市の雑踏なのである。
その雑踏にいて、何といってもわたしを励ますのは文学だが、その「文学」というものが、すっかり変わって来た。ひとつこんな時代の証言をお耳に、いやお目にかけよう。
わたしの文学修行の一端が、講談社版『日本現代文学全集』百何巻かを毎月一冊ずつ書架に揃えてゆくことであったことは、何度も書いた。第一回配本が谷崎潤一郎集であったから買い始めたのである、谷崎と藤村と漱石とは二巻を配本の予定だった。一人一巻には明治このかたの錚々たる作家が並んでいたし、詩歌も評論も戯曲も随筆も緻密に収録され、さながらに「近代文学史」であった。
わたしは作品も読んだが、数百人の著作者たちの「年譜」を繰り返し繰り返し熟読した。作品に対し先入観を過剰に持たずに、作者へのいい理解が得られた。よく書かれた年譜は最高度の研究成果に等しいのである。
こういう大全集の最終配本はふつう「現代名作選」ということになる。鷗外や露伴や漱石や藤村や潤一郎や志賀直哉らからみれば、まだ遙か下界に近いところで頭を擡げてきた若い有力な作者たちの作品がそこに揃う。講談社版の「現代名作選」は上下二冊、第百五・百六巻に用意されていた。二の方が最も新しい作家たちである。
いま手近にその最終巻を持ち出していたので、目次をご覧に入れる。年配の方には懐かしく、若い人には最後の最後に大江さんの名前など見て驚かれるだろう。
阿川弘之『年年歳歳』金達壽『塵芥』大田洋子『屍の街』山代巴『機織り』島尾敏雄『夢の中の日常』耕治人『指紋』埴谷雄高『虚空』井上光晴『書かれざる一章』三浦朱門『冥府山水図』西野辰吉『米系日人』杉浦明平『ノリソダ騒動記』長谷川四郎『張徳義』小島信夫『小銃』安岡章太郎『悪い仲間』吉行淳之介『驟雨』霜多正次『軍作業』松本清張『笛壺』有吉佐和子『地唄』石原慎太郎『処刑の部屋』小林勝『フォード・一九二七年』深沢七郎『楢山節考』大江健三郎『死者の奢り』開高健『パニック』城山三郎『神武崩れ』福永武彦『飛ぶ男』大原富枝『鬼のくに』で一巻が編んである。
前巻の最後が芝木好子の『青果の市』だった、昭和十六年下半期の芥川賞作品。つまり前の一冊は明治の嵯峨廼屋御室いらい太平洋戦争までの忘れがたい文藝秀作を盛り込んでいた。
そう思って後の一冊を見ると、水上勉も曾野綾子も瀬戸内晴美の名前もない。直木賞作家はたぶん一人も入っていない。それが文学不動の常識だった、読物作家、エンターテイメント作家、推理作家などは此処に全く「文学作家」たる市民権を得ていない。本巻に吉川英治も直木三十五も山本周五郎も当然脱けている。ただ一人井伏鱒二の直木賞というのは、誰の思いにも見当はずれの授賞だった。
この最終巻の発刊は昭和四十四年六月、この年この月にわたしは小説『清経入水』で第五回太宰治賞をもらっている。選者は石川淳、井伏鱒二、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫の満票であった。作家として登録されたちょうどその頃の、上の人たちがなお新人作家であったことになる。むろん、わたしはこれら全編を読んで鼓舞された。そこに「文学」があった。
たまたま手近な同じ第九十二巻を手に取ると、河上徹太郎、中村光夫、吉田健一、亀井勝一郎、山本健吉の五人で一冊。批評家五人、すばらしい顔ぶれだ、熟読し勉強した。いま河上先生の『私の詩と真実』巻頭の一文を読み返しても、清水を顔にあびるよう、凛乎とする。批評が文学になってる。
もう最期を予感されていたころの中村真一郎さんが、ある人に、一点を凝視し、「こんな世の中になっちゃあ、文学はもう終わりですね」と溜息とともに吐き捨てて去っていったという文章を読んだところだが、わたしが十年間日本ペンクラブ理事会に出ていて感じ続けたのが、それであった。文学はめったに話題にもならない。
そんな評価は時代後れのアナクロだという議論もあろう。だが文学をダメにしたのは時代後れのせいか、ミソもクソも読物もやみくもに儲けの種にし、文学はお払い箱にしたせいか、答えは明らか。
加えて電子メディアの猛毒にあてられ、ますますことはひどくなっている。「くだらない雑文ですが」読んでくれというメッセージを最近も「mixi」でもらった。「くだらない雑文には、興味も、割く時間もありません」と断った。遜っているつもりにしても、そういう姿勢は気持ち悪い。
ペンクラブに電子メディア委員会を企画し創設したときから、わたしには以下の根本的危惧があった。
一つは、市民使用のインターネットは遠からず国家権力の忌避するところとなり、陰に陽に個人のインターネット運営は、監視や警戒の対象として法規制が強化されてゆくに違いないこと。
もう一つは、似而非の文学・文藝が氾濫し、「文学・文藝」の真価がもう問われることもなく無惨に崩潰し、立ち直りには想像を超えた長期間を要するだろうとこと。
さらにもう一つは、放埒な自己表現の麻痺薬にアテられ、若い世代の精神に多大の毒がまわってしまい、未来の日本は幾世代にもわたり軽薄きわまりなく頽廃してゆくだろうこと。
そしてさらに、(きわめて陰険な)サイバー・ポリスと(きわめて広範囲な)サイバー・テロとの死闘の時代が、もうはじまっているが、いっそう熾烈になり人間の精神的環境と機械的環境とを不可逆に汚染・荒廃させてゆくだろうこと。
あえてもう一つ、インターネットに限らずパソコンは、概していえば老人のための「電子の杖」としては甚だ有用だが、自堕落に若い人たちに広がっていいツールではなかろうというのが、早くからの私の大きな危惧であった。のみこむには毒があまりに強いのである。
と、まあ 毎日、溢れるようにわたしは書いている。ことばが湧いて奔出を求めてくる。「今・此処」に生きている、その証のようにことばが波になって攻め寄せる。変な譬えだが若い母親の乳が張って吹き出してくるように。疼くように。すこし意図してこのことばを「演出」してやれば小説、私小説は積み重ねられる、が、そうしない。原料のまま自身をただたんに順序も秩序も演出もなしに此処に置いておく。いわゆる「原稿」に置き換え「仕事」にするといった欲はもう持たない。そんなことにたいした意味はない。「闇に言い置く私語」そのまま。それでよろしい。自身で創った「作品」は小説も評論も詩歌もエッセイももう百冊以上積み上げてある。「私語」は無秩序に原料のまま此処に積んでおく。わたしがやがていなくなっても、映画のように誰かが死後もう暫くのあいだ此処に「わたし」を見ていてくれるだろう、そしてその人たちもいずれ消え失せる。ぞっとしない話だが、今の人間たちみんなが一斉に消え失せるかもしれないのだ。
荀子は「解蔽篇」で、人は文化に生き、もろもろの「蔽」つまり襤褸を着込んでゆく。脱がねば純真も静かな心もないと教えている。漱石は『心』を書くとき、荀子の解蔽篇を識っていた。そして岩波本の第一号にあたる『心』を、望んで自装し、表紙にわざわざ窓枠を入れて荀子の心の説を掲げた。それに初めて言及したのは、東工大でわたしの先任教授であった亡き江藤淳である。
謂うまでもない「襤褸にひとしい言葉」を物書きは書いている。書いている。書いている。商売だと居直って書いている。誇りをもって書く者も誇りなどかなぐりすてて書く者もいる。襤褸は日々に厚い。
一期は夢よ。無秩序の自由や自在にわたしはみな、明け渡す。「抱き柱」は、要らない。
2007 8・1 71

* 「真実」「真相」をつきとめたと、安く売り込んでくる本や報道はやたらにある。それらはたいがい「事実」の意味であるが、いかなる厳密な事実もイコール真実とはいいがたいのが、常。その事実にしても、どこかで限界がある。目に見えて形のある事実だけが事実でなく、心理的な、脳裏の事実も事実だが、本人にも悩乱や惑乱や思いこみや回避や誤魔化しがあり、本人にすら掴みきれるものでない。ましてそれを「言葉」で言い表すときは、言葉自体の不可避の限界のために、事実からかえって遠ざかることもある。
鯛のうまみと鱧のうまみの事実差が言葉で書き表せるか。
琴の音色と笛の音色を言葉で書き表せるか。
痛い実感と痒い実感を事実として書き表せるか。
すべてノーである。しかも表現しようと書き手は言葉を工夫する。それは近づける、指し示すにとどまるのである。さす「指」と指さされる「月」との違いがそこに在る。指はけっして月ではない。言葉は、事実も、まして真実も「指さして謂う」にとどまり、真の事実、真の真相や真実は把握できない。真実は真実だとされた瞬間に真実ではないと老子をはじめ多くの覚者が言うとおりなのだ。

* ある程度の事実を列挙し挙証することは、その程度は誠実に務めれば不可能ではないが、真相はなお幾重もの闇に覆われている。真理自体の闇が隠し、さらに人間の心理や虚栄が襤褸をおおうようにそれを隠す。いくら遠くても宇宙船は太陽系のはるか遠くまで飛んで行くが、一人の人間の心の闇の奥へまでは分け入ることは出来ない。週刊誌やきわものの真相解明は、謙虚でない分よけいに真相に遠いのが普通だ。

* いまわれわれのペン言論表現委員会では、わたしの最初の提議により、草薙厚子氏の著書がML(メーリングリスト)でも話題になり、九日には著者も招いて委員会が開かれる。その著書も希望する委員には版元から資料として提供されている。我が家へも来ていて、すでに妻は多大の興味で読み終え、わたしも読み始めている。

* この本の問題点は、少年犯罪の真相を「供述調書」をもとに明らかにし警鐘を鳴らしたのに対し、法務大臣から著者に直接「警告」が出されたことである。著者に直接という事例は初例かもしれない。わたしのスタンスは、この、「著者へ直接の法務省警告」を問題にし、しかも草薙著書だけに拘泥して問題点を見誤りたくないというにある。
「供述調書」を全面に利用して書いたと言われるその「調書」なるものの性質、入手と利用の経緯、法的な背景、著者自身の立場など、懸念される問題点が幾つも予測されるからである。

* なによりも、真実・真相の名において使用される追究の武器は、いやツールは、著述にしても証言にしても調書にしても、一切合切が「ことば」であることの限界を、われわれはどう接してどう見極めるか。それが言語での創作者であるわたしに、いろいろに訴えてくるのである。そういうことをわたしは「文学」「ペン」の問題として、自分の問題としても、問い直したいのである。
2007 8・2 71

* 文化庁長官も務めた河合隼雄さんの功罪を想うことがある。
彼は、いわゆる猫も杓子も「こころ」「心」と騒ぎたてる時代の先頭に立った推進者であった。
だが、氏の謂う「心」とは、ほぼ終始「心理」というマインド=分別=思量の「心」であった。そのレベルで「心」をかたづけてしまうと、とても「静かな心=無心」に、「ハート」や「ソウル」に、至らないまま「心」が混濁してしまう、
事実河合さんの言説に踊り狂った人たちの「心の時代」「心の教育」など、現に目のあたりにするとおり、サンタンたる社会と人間との現状を生み出した。
「心は頼れるか」ということを、日本の「こころ言葉」の追究を通して、三十年余も追ってきたわたしには、河合さんはいつも反面教師の一人であった。氏には明恵の夢を説いた一書もある、が、「夢をもつ」という意味を、あまりに安易安直に説く人たちも、恐ろしい。「夢」という一語があまりに脆いからである。
心理のレベルで分析される夢には、おうおうに毒がひそむ。フロイドのレベルは、どんな深遠そうな理屈をつけても浅い心理のレベルに纏綿していて、しかも玉葱の皮を剥いているような理論から、結局何もしかとは生まれてこなかったではないか。
けっこう日本にも「夢」の文学・説話がある。うまく集成されていないけれども、適切に拾えば古事記にも日本書紀にも萬葉集にも興味深い「夢」事例は拾える。わたしの評論の第一作は、高校の頃に学校の新聞に書いた『更級日記の夢』であった。
いまは、
くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して
という室町小歌を耳の奥にひびかせながら、自身が「夢」の中で徘徊していること、それに気づきかけながら、まだ覚めきれないで迂愚に遊び惚けているなということを実感している。
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
この小歌、自棄の声でなく、あの一休と同時代の一人、『閑吟集』編者の「桑門」「狂客」が見定めた、端的な覚悟とも聞こえる。 2007 8・3 71

* 草薙厚子著書を読み、また言論表現委員間のML意見を読んでいて、九日の委員会があまりこの本にだけ捕らわれた会議にならないように願う。
少なくもこの本の趣旨をたんに擁護し後援するようなペン声明は出したくない。この著述で、この罪なき母と子供たちを放火で焼殺してしまった少年の、たとえば「無実」や重大で深刻な「情状酌量の余地」が証明されたというなら、少々の法の規制をおかしてでも本を出した価値があるが、とてもそこまでは行っていない。「供述調書」のこれほどの大量利用が明かしてくれたことの多くは、だが少年の殺意や犯行の真相にどれだけ迫ったかと謂えば、それはやはり藪の中であり、調書は結果として言葉をもちいた「係官と少年との妥協の作文」である。それで真相が、真実がどれほど明かせたかというと、はなはだ物足りない。
それより心配なのは、このようにして当局や官権の露骨な介入や譴責ようの「勧告」を安易に誘発したことの前例となるのを懼れたい。
この少年が冤罪であるのを立証すべく供述調書を徹底検証したというのなら応援できるが、そういう目的の利用ではないようだ。利用の仕方も平面的な印象である。
九日の委員会は、著者も版元も来会予定だが、議論が適切であることをことに希望する。
2007 8・3 71

* 花と湖  花は大好きだし、写真に撮るのも好きだけれど、花は「花」でよいと思っていて「名」を覚えようとしたことがない。
此処「mixi」にかかげた花の写真の、一つは、妻と散歩していて撮ったもの、「花にら」と教えてくれた。他の二つは、妻の育てているのを勝手に撮っただけで、名は聞いていない。美しければいい。
『ゲド戦記』風に謂えば、いずれどんな名も通称でしかなく、真の名ではなかろうし、などと思う。わたしの名にしてもおなじこと。だから「湖」で佳い。
この「湖」の、根のイメージは、少年の昔に見入った、お盆に仏壇に供える野菜などを乗せた、蓮の葉。さっと清水をふりまくと珠の露となり、たちまちに溜まって一つの小さな「みづうみ」にかわる。露の一つ一つを大勢の人と想えば、「みづうみ」はわたしの謂う「身内」のイメージ、ひとつの「世界」を意味するか。 湖
2007 8・3 71

* 世界の、また日本の「歴史」をつぶさに顧みつつ悔しいのは、あまりに大多数私民の惨めに虐げられ続けてきたこと。フランス革命以後の近代社会は現代に至るまでいわゆるブルジョア優位の、本位の政治体制で商工業金融資本主義を擁護し続けてきた。農民や零細労働者の生活の悲惨は、反革命以降の近代・現代の覆い隠しようのない現実であり、日本列島でもようやく身の置き所のなさに気づいた人たちの抵抗で、先日の自民大敗を実現した、やっと実現した。小泉純一郎の政治は、西欧の近代史への露骨な追従であったし、冷血な政治手法であった。わかりよくいえば十八世紀のイギリス・トーリ党のブルジョア擁護・農民差別政治の、ほとんど模倣に近かった。

* わたしがしてもいいのだが、本来なら社民党筋の勉強家が試みて論策すべきことがある。少なくも明治維新以降の日本で、できれば室町時代の國一揆等の挫折このかた、「民衆はなぜ負け続けるのか」を地道な踏査であとづけ、そこから学び取るべきを学んで民主主義を再構築しなければ、所詮日本は過去の悪習へあとじさりあとじさりして私民は軛にかけられてしまうだろう。
2007 8・4 71

* 『記紀』に聴くかぎり日本の神は三貴神はじめ八百万の神さまも、なみの人間に対し教訓的な接し方も強要的な接し方もしていない。およそ神のいる場所に人間も同居し近住している気配がほとんど全くない。神と人との対話も交渉も具体的には認められない。
ギリシァの信仰に関連した教養番組を昨夜おもしろく観た。そのあと例の『イーリアス』も読んだ。此処では神様と人間である英雄たちとは緊密に影と形のように棲み分けながら関連している。そもそもゼウスというダントツに強力な主神は、ほとんど恣に人間である美女たちを犯して数多く子を産ませている。誰もがそれを知っている。多くの神々が、男神も女神もあっちに味方しこっちに味方して人間を贔屓している。ゼウスもほとんど没義道に介入していて、人間たちはそれをそういうものとして受け容れて悲喜こもごもに生きている。オデュッセウスのように或る神に憎まれ或る神には庇護されながら、トロイ戦争の後の帰国に、何年もを大海のここかしことさすらわせられている。すべてはしかし「神の意志」に帰するとして人間は歎いたり悶えたりしながら「神の裁き」に堪えて忍んでいる。
『旧約聖書』を「歴代志略下」まで読んでいると、神と民族との「契約」関係が強烈なのにおどろく。なにも「ヤハウェ」が唯一の神なのでなく、しかしヤハウェは自身が「選」民した民族に対しては是伝いに我のみを神とせよと厳命し、その限りに置いて多大の庇護を与え、場合により厳しい罰をくだしている。旧約の世界を辿っている限り、預言者はいても女神も救世主も現れない。しかし、この世界にヤハウェとの契約を実現すべき責任者としての「王」系の一族が連綿と認められていて、新約聖書世界にまで受け継がれる、らしい。イエスの時にいたり、神と精霊と子と、そして子の母なるマリアが登場する、らしい。わたしの二つの聖書への接近は、連携し継続してでなく、そのときどきにバラバラに読んできたから、「らしい」という付記が必要になる。今はまだ新約聖書世界について感想は言わない。
『千夜一夜物語』はひたすら面白いが、このイスラム世界には、「アッラー」なる絶対神が始終人間の言動の基盤に、背後に、頭上に在り、同時に多数の魔神も実在する。キリスト教世界とは不倶戴天の険悪な対立のようであるが、旧約の王者ソロモンは伝説的にこのアラビヤンナイトの世界でも尊崇信愛されている。ややこしい。ここでは神と人とは、帰依と庇護とのかなり現世利益ふうの約束関係かのように見受けられる。アッラーが唯一の神であるわけではない。また帰依すればいろんな民族であってもイスラムの民になれる、らしい。新約のキリスト教でもその点は、旧約のヤハウェのように厳格に選民しているわけでない。世界宗教への道は開かれてある。

* 仏教には「神」はいちおう存在しない。存在してもそれは仏とはべつの力でしかない。仏は神でなくあくまで人が仏になったのである。キリスト教もイスラム教も神は人を教導し規範を与えているが、人に向かい神になれ・なれるとは言わない。
仏教は人に仏に、ブッダになれ・なれると教えている。生きて向かう目標を仏は人に自身と同じ境地へと導いている。そこが、まったく他の世界宗教とは異なっていて魅力にも説得力にも富んでいる。仏教も顕密をとわず仰々しい儀式化をみせてはいるが、基本のところは、人それぞれの性と死との実践のなかできまる。禅がもっとも基本にある。わたしはバグワンに多く聴いてきてそのように感じている。そこには「契約という抱き柱」はあり得ない。「帰依という抱き柱」すらありえない。あり得るとするのは、有り難い方便である。「信仰は高貴な方便としての抱き柱」であり、わたしはそれを否認する気は毛頭無いが、それへ抱きつきたくはない。
2007 8・6 71

* 『閑吟集』はラジオ放送していない。先に出版していた『梁塵秘抄』がラジオ放送そのまま。それに倣うていで『閑吟集』を一気に書き下ろした。たぶん霞友会館でうまいカンヅメを喰いながら、窓の下の女子大・女子高のテニスコートの嬌声を一服がわりに聞きながら、おそろしい早さで書き下ろしたと思う。『枕草子』『梁塵秘抄』『中世の源流』『日本語で書くこと・話すこと』その他、わたしはラジオの録音室に一人とじこめられて話すのが性にあっていた。テレビにも日曜美術館はじめ二、三十度も出てきたが肩が凝る、が、ラジオは時間さえ狂わさねば気楽なもんであった。亡くなった吉村昭さんや伊馬春部さんらも聴いていて下さった。
わたしは話すように書くのが好きだ。
2007 8・6 71

* 「原子爆弾」の報じられた日を、或いは報じられた新聞に目を当てたときを、朧ろに覚えている。言葉での内容よりも、胸で受けた衝撃を覚えている。ふつうの爆弾とどうちがう爆弾なのだろうと思い乱れた感覚がいまものこっている。
丹波の山間に疎開していた。国民学校は夏休みだった。
田舎の春や秋があまり印象に無い。ひたすらに照って暑い暑い真夏、雪に埋められて身動きできない真冬。雪よりは、黄金色に照りつける澄んだ太陽光の真夏をわたしは好んだ。蝉が鳴きしきった。夜には蛙の、闇をおおう分厚い布のような大合唱。黒い山がせばめた細い天の奥で、星がまたたいた。
2007 8・7 71

* 「独創的な発見・研究というのは,誰もが今まで見てきたものを見て,誰も気づかなかったことを見出したり,誰も考えもしなかったようなアイデアを思いつくことをいうのだ,と僕は思う.
パンダの骨を見た人は大勢いても,誰も遠藤教授のように考えた人がいなかったからこそ,新しい発見がある.簡単なようでいて,なかなか,誰にでもできるものではない. 」
まったくこの通りだとわたしも思ってきた。文学の「読み」にもそれが、ある。学者の読めなかったところを、素人が読み抜くことも決して不可能でない。また見慣れてそんなものと思ってきたことが、まるで別の顔で見直せることもある。元禄より以前、「正座」していた日本人など、罪人以外にはほとんどいなかった。
2007 8・7 71

* 照りつけるさなか、三軒茶屋の世田谷パブリックシアターまで、作・井上ひさし、演出・栗山民也の『ロマンス』を観に出かけた。
大竹しのぶ(妻・女優、オリガ・クニッペル)、松たか子(妹・マリア・チエーホフ)に、段田安則ら四人のアントン・チェーホフを配した、相当に概念的な、いわば「チエーホフ論」を「内容」とする文学「ディベート」めく演劇であった。
むろん、チエーホフ大好きのわたしにそれが面白くないわけがない。だが、ドラマとして感動したかと云えば、劇的感動はかなり理知的に抑圧された。
幸い、大竹しのぶも松たか子も、筋金入りの「好演」女優であり、段田他の男優も、何から何まで個性的で、「演技」という意味のお芝居に遺憾は全くない。存分に楽しめた。
だが主題は、「チェーホフとは何もの」であるか、「チェーホフの文学と演劇とは何ごと」であるか、だと仮に納得しても、それが、「ドラマで表現」されると云うより、ドラマの体裁をかりての、いわば「言葉での論策」になっていた。その分にはたいそう面白い、が、いわば徹して「マインド=思考=説明」なのである。譬えれば、高く指さして、「あれがお月さま(=チェーホフ)よ」と説明されても、指さしている「指(=言葉・せりふ)」は、当たり前の話「お月さま」ではないのだ。それはドラマによる劇的納得でなく、言葉(=指さし)による「説明」に過ぎないのである。
「説明」というのは面白いモノである。マインドでのみ分別しようとする者には、「説明」が良くできていればそれ以上の「劇的表現」は要らない。しかし「ドラマとは表現」なのである。言葉でも指摘でも説明でもない。マインドという思考的な心では、ハートという「なんだか分からないけれどもとてもおもしろい深い」心は描けない。感動として描けない。「なんだかとてもハッキリわかってしまう」説明だけで「事」が運ばれてしまう。
じつは、そういう説明的に分かり切ってしまうものを、「型どおり」として嫌っていたのが、チェーホフ文学なのに、である。

* チェーホフのドラマは悩ましい。彼は「喜劇」と明記して演劇を書いているのに、その「喜劇」を「表現」したチェーホフ「上演」は、じつは絶無に近い。ずいぶんチェーホフ劇を観てきたが「喜劇」の指定通り「喜劇」だったタメシは一度も無い。
何故か。思弁的にはじつは説明できないのである。うまく説明されたためしも絶無に近いのである。
「チェーホフ」を、演出家や俳優や観客がとてつもなく誤解しているからか。それとも「チェーホフ自身」にとほうもない誤算や失敗があったからか。それとも時代の流れが必然にチェーホフ劇の「受容や表現を変質させ」てきたからか。
ややこしく悩ましく、井上ひさしはそこへ、こうだろうと親切なメスを入れたけれど、残念ながら甚だ「思弁的に説明」してしまった。思弁と説明の面白さは確かにある程度まで伝わった、が、ドラマの「劇的感動」という、「或る意味では曖昧模糊としたしかし純然純粋の感動」としては、その悩ましさもややこしさも表現は出来ていなかった。
芝居を観ている間も、観おえても、身震いする興奮には達しなかった。演劇の面白さが、ドラマ(劇)の面白さであるより、論考・論策の面白さに、すり替えられていた。俳優たちは、チェーホフの人間であるよりも、「チェーホフ論」を絵解きする人間としてのみ実に達者に演じて見せてくれたのである。
大竹しのぶは、わたしたちは、初めて観る芝居だったが、テレビではおそらくデビューの当初頃から絶大に評価し贔屓にしてきた優れた女優であり、よく期待に応えて今日も堪能させてくれた。なるほど、頭の中に久しくもってきた「オリガ・クニッペル」はああに違いないとすら想わせてくれた。
松たか子も、大竹に一歩もヒケをとらず、丈高く、情のあるわかりよい芝居で魅してくれた。歌も上手だった。
他の男優のみんなも、すばらしい演技者たちであった。芝居を面白くみせる意味ではみな驚くほど「達者」というしかない。
しかし「役者の芝居」とその「作品の劇性」とは、常に同じに表現されているものではない。見終えてからも、俳優たちのすばらしさは、要するにチェーホフの「魂に共鳴り」したそれゆえではなく、一編の井上ひさしによる「チェーホフ論」を「からだと言葉とで絵解き」して貰ったおもしろさを、大きくは出ていなかった。

* かつて、まるで異なる目的の依頼原稿を引き受けたとき、『この時代に……私の絶望と希望』と題したその原稿の書き出しそして前半に、わたしは以下のように書いている。これは、今日の井上さんの「チェーホフ論」と、少しややこしいけれども、交差しているのではなかろうか。

☆ 原田奈翁雄さんの原稿依頼には、「この時代に……私の絶望と希望」を書くようにと、ある。人は、いつの世にもこういう自問自答は重ねてきたのであり、今はまたそれのふさわしい時機だと原田さん達は認識されているのだろう。でも……少し迂路迂路してみるのを許して戴こう。

俳優座でチエーホフの芝居をつづけざま二つ観てきた。
チェーホフ戯曲の上演は、日本では珍しくない。「かもめ」「桜の園」「三人姉妹」「ワーニャ伯父さん」など、日本の新劇のおはこに部類される。芝居の好きなわたしは機会があると、観てきた。
チェーホフ劇は好きか。好きだ。だがその先はあまり聞かれたくない。悲劇的な結末なのに原作の題の上に「喜劇」と添えてあったりする。ややこしい。軽妙な味わいのチェーホフの短編小説に慣れてから舞台を観たりすると、重苦しい違和感にまいってしまうこともある。
チェーホフの芝居は、帝政ロシア時代の風もあろう、明快でも明晰でもなく、空気は粘っているし登場人物の心情もさらさらと乾いてはいない。暗い吐息を、よく言えばしみじみと、わるく謂えばじとじととはらんでいる。チェーホフの芝居は暗鬱でもあるなあという嘆息が、だいたいいつもつきまとう。わたしの殊に好きな「三人姉妹」や「ワーニャ伯父さん」でもそうだ。むしろ、とりわけそうであると言いたいほどだ。何故。何故だろう、と永く思いあぐねてきた。
なんてイヤな一日だったか。なんてつらい毎日であることか。もうイヤ。もう堪えられない。気が狂ってしまう。チェーホフの女達はどの舞台でもそう叫んで泣く。堪えられない、もう。分かる。ワーニャ伯父さんやソーニャを、オリガやマーシャやイリーナ三姉妹を観ていると、贅沢を言うななどとは決して思わない。生きながら重い墓石に抑えられているようで、まさしく気が滅入る。そして彼や彼女らは、しかし、とか、けれどと声を振り絞るようにして言い出す。明日という未来に期待しよう、五十年、百年、二百年の未来にはきっとなにもかも明るく充たされて良くなっている、と。
これがチェーホフ劇の基調音である。そして陪音として、何百年経ったって何も変わらないさ、今のママさというほぼ全否定、絶望のつぶやきもチェーホフは忘れずに響かせる。「三人姉妹」の末の妹を愛して明日の結婚を控えながら、死ぬと承知の決闘におもむき銃声一発に斃れる醒めたトゥーゼンバッハ男爵がそれだ。だが総じて「今・此処」の不条理に苦しんで、未来に希望を託しているのがチェーホフ劇のつらい紳士淑女たちの「哲学」であり、「三人姉妹」の中の妹で人妻マーシャとのひとときの情事におちた、ヴェルシーニン中佐のおはこだ。彼はおそらくその空疎を分かっているのであり、しかし三姉妹はその「哲学」を信じるしか道がなくて、眼をはるかな未来へ送るのである。
「今・此処」の暮らしはあまりに酷い。辛い。堪らない。けれど未来は明るいだろう、夜が明けるようにだんだん良くなるに違いない。
おそらくチェーホフもそう思っていた、或いはそう思いたかった。まだ来ぬ「未来」に対するせつない恋、それがチェーホフ劇の基調であるが、その基盤は、只今現在への底知れない不信と絶望なのであり、まだ見ぬ恋より現実の方が遙かにけわしく人間を金縛りにしている。金縛りの痛苦から来る幻影かのようにチェーホフは、いや、チェーホフ劇の人物達は、「未来」に恋している。夢見ている。チェーホフこそ、「この時代に……私の絶望と希望」を、あまりにあらわに書き続けていた作者だと謂える。

チェーホフ劇を観ていて感じる息苦しい悲しさは、どこから来るか。
チェーホフや彼の作中人物達が、明るい未来への「恋にやぶれて」いたこと、「失恋」していたこと、そんな「未来」はやはり無かったらしいことを、現に「今・此処」の日常体験により、如実に二十一世紀初めを生きている我々は「知ってしまって」いる。此の痛切な「現実」を彼等は知らずに我々は「知っている」からではないのか。
反論もあろう、こんなに「良くなっている」ではないかと。例えば帝政的絶対権力は無くなったではないか、と。だが、ほんとうにそうだろうか。また例えば、こんなに何もかも「便利になっている」ではないか、と。だが、全ての機械的な便利の徳を、根こそぎ覆い尽くすほどに、核の脅威も、サイバーテロの脅威も、大きく現に居座って、そんな便利は瞬時にふっ飛んでしまいかねない。時代の真相が良いとか悪いとかは、この事繁き巨大時代に簡単に言えることではない。
それにもかかわらず、こういうことは謂える。
今日よりも明日・未来はきっと良くなるものと希望しがちな人や国民があるだろうし、その一方、明日という未来に望みはもてない、だんだん悪くなるものと絶望しがちな人や国民もある、ということ。上昇史観と下降史観。先へ行くほどよくなる。いや、わるくなる。我ひとりの人生や我が家族・家庭の将来が、ではない。もっと広く、たとえば「ロシア人」の、「日本人」のこの先はといったマクロな判断である。

* 芝居の後味を楽しく抱いていたいので、もうこの上は云わない。
チェーホフの「喜劇」は容易に上演され得なかった。そのことこそが「喜劇」を成してしまったのかも知れない。
井上ひさしとそれぞれの俳優たちは、「演劇」を利して「文学論」をしてしまったのだから、今度は、『カモメ』でも『三人姉妹』でも『桜の園』でもいい、みごと「喜劇」上等の「ホードビル」そのものとして上演してもらいたい。それが成功すれば、『ロマンス』に別様の新しい意義が添うであろう。
2007 8・8 71

* 昨日の会議結果をとりまとめ報告の上、山田健太委員長の「声明」案文がまわってきた。さすがに理義を尽くして美味く纏められていて、感謝し賛同を申し送った。今回問題になった著作、草薙厚子著『僕はパパを殺すことを決めた』への総括の感想も添えた。昨日の私の発言を「説明」しておいた方がフェヤだと思うから。

* かりにも「文藝」の一斑として世に問われるルポルタージュ「作品ないし著者」は、言語や言語化された資料で、どこまで「真実・真相」が書けるものか、その「限界」に謙虚な反省や覚悟があってしかも表現に創意工夫がなくてはならぬものと思います。
没個性・非文体の「供述調書」の単なる多用で「真実・真相」へ迫れるというのは、今回著者の安易な過信であり、結果として、この事件の「真相」解明や批評として「特別のメリット」を生み出せていないと、読者である秦は、残念に思いました。残念にも、「鋭意・確信」ある瞠目の著作とは読めませんでした。
「残念」の意味は、藪をつついて「無用の蛇」(行政の介入や規制)を引っ張り出したということです。 以上感想。

* 「かくありし(事実)」は言葉ですべて書き表せるものでない。少しでも真面目にものを書いてきた者にはあまりにあたりまえなまさに事実である。だからこそ「かくあるべかりし(真実)」を何とかして指さそう(表現しよう)と、詩人も小説家も苦心惨憺する。まして没個性の作文にほぼ等しい言語資料に依存しすぎてはかえつてことをあやまってしまう。もし仮に当日の新聞や雑誌記事が真実の一等資料だと思っているなら、それが誤解であることは、「自分自身」を同時に記事にされた人なら身にしみて分かるはずである。新聞記事のいいかげんを嗤ったり咎めたりしながら、しかも新聞記事を一等資料化のように都合良く利用したルポがあるものだ。嗤ってしまう。書かれた手紙や当人のエッセイを過信した評論・批評も危ないものである。徹底してクリティクが必要なのは、むしろそういう資料なのである。安易によりかかってはいけないのである。
2007 8・10 71

☆ 『僕はパパを……』読みました  香
あのご本、キワモノと言ふのは失礼かも知れませんが、それに近い感想をもちました。調書の引用どころか丸写しといひたいほど、わるく言へば、事件が世間の耳目をあつめてゐるうちにと、大急ぎでまとめあげたもののやうに思はれます。
著者は、調書といふ資料の紙背を読みとる努力を惜しんではゐないか、とも思ひました。
「調書をもとにして、自分のことばで書いたのでは、真実と信じてもらへない」といふやうなことを、草薙さんは口にしていました。これは物書き、表現者としての自分を貶めてゐるやうなもので、わたしは、がつかりしました。紙背を読みとる努力を惜しんだのではなくて、その力がなかつたのかと疑ひたくなりました。
こんな粗雑で薄手な書物のために、官憲の容喙を招いたとは。いかにも口惜しい。
先生の、この「僕はパパを……」に対するお考へ、また、官憲の態度に対するお考へは、「湖」でうかゞつて存じあげてゐたつもりでしたが、お話ぶりに、それに加へて、「僕はパパを……」如き一冊が、こんな重大事を惹き起して、といふお憤りのやうなものを感じましたが、間違つてゐましたら、おゆるしください。
事あらば、と、虎視眈々、狙つてゐる官権の牙を剥かせたのが、読みごたへのあるものだつたら、心にずんとひゞくものであつたら、わたしだつて、女の細腕まくつて、あつちこつちに、この度のオカミのオオカミぶりを、黄色い声で、わめき散らすところなのですけれど……。なんて、のんきなことを言つてゐる場合ではありませんが、こんなこともつぶやきたくなります。

* 共感する。

* 草薙さんは、「真実・真相」とは何だという質問に「事実」を積み重ねることだと答えたが、それでは幼稚では無かろうか。事実なら積み重ねられると思うのだろうか。「事実」ですら容易に特定できるモノではない。たとえば殺意が有った無かったの事実すら確認しにくばかりか、心理の内容となれば事実としてはとても把握しにくいことは、本人ですらそうなのだ、まして他人が曖昧な「ことば」を頼りに詮索しても表現しきれない。最期は推測推断になり、それが余儀ないことであるならば、よほど誠実で精緻な推断でなければならず、「供述調書」をどうマル写しに並べても可能性は稀薄、説得力はもっと曖昧になる。
真実を書くのに、事実は「斯くありし」という方途で書くのが、ほんとうは不可能に近く難しいと知っているから、書き手は「斯くあるべかりし」を必死に創作し表現して伝えようとする。事実にお安く拘泥すると、事実に裏切られて惨敗するのである。そういう事実の書き手ほど、新聞雑誌や手紙のたぐいを無検討に妄信してまんまと間違える。何度か間違えを犯しながらそのへんのつらい隘路に気がつくのであるが。
会議の席上で、「真実」という形而上学の話など関係がない、「やめましょうと」叫んだ参加者たちがいたが、形而上学どころか、ドキュメンタリーやルポルタージュを話題にして目の当たりの「真実」観を頭越しに看過し、何を話題として考えようというのだろうと、「ペン」を持つ身として呆れてしまった。供述調書に絶大にオンブして「勧告」されてしまったのも、著者なりに「真実感」がそれで補強できると考えたからではないか。表現の本質論の出来ない「文藝」の議論なんか、空疎である。
2007 8・12 71

* この間から、人類史上の偉大な発見・発明という話題が、「mixi」のマイミクの間でにぎわいかけている。 「碧」さんがこう発言されている。

☆ 発見・発明  碧
先週後半からパソコンを開けないでいたら「発見談義」が進化していた。
「雄」さん、「巌」さん、「湖」さんの選んだ「発見」を読んだけれど、なぜか「火」が出てこない。あまりに常識的すぎるから?
「火」とともに想い出したのは、中国の友人が言っていた「世界四大発明」。それも全て中国での発明だという。「火薬」「印刷」「羅針盤」あと一つ何だったっけ、浮かばないのだが。
「神」の発見~ 湖さん、巌さんの一番めにあったけれど、私にとっては、「神の赦し」の方が身に迫ってくる。あるいは「唐突な宣言」~なんの脈略もないところに突然やってくる「救い」。でもそれを、人間が「考え出した」とは到底思えないので、神は存在する(いる)のだろう。

☆ 発見と発明とは微妙に重なりながら異なるところがあり、前提でこれをどっちつかずに選んでいたのは、ひそやかな私の勝手でした。
優れて偉大な発見も発明も、避けがたく人間を不幸にする要素を含みます。「神」の発見・発明も数々の惨劇の原因に、現在もなっています。「神の裁き」「神の赦し」の名の下に十字軍は異教徒への言語を絶した暴虐を平然と是認しましたし、「神の平和」という歴史的な認識も、むしろ都合よく気儘に破られがちであることは、中東その他での世界情勢がまざまざと実現しています。
「火薬」も「核」も、あるいは「印刷」術すらも、途方もない災厄を人間にもたらさなかったとは謂えません。「お金・貨幣」も。「言葉」ですらも。「愛」は聖なる無私と底知れぬ煩悩との両面をもち、「心」も乱れに乱れた動揺や混乱の種になりながら、思考と知識の源泉にもなっています。
「火」は人間の発明でも発見でもなく天与を利用したのではないでしょうか。
概して偉大に、負の面が少なく軽く、人間に大きな幸福や聡明をもたらした、また安全や安定をもたらしたのは、何でしょうね。
アリストテレスによる、「AはAであり、AはBではありえない」という論理の発見は、人の意識や認識や判断や思考の日々を混乱や混雑から救い出し、とても明るくした気がしています。われわれは無意識にこのテーゼに従い、社会生活を送ってきましたから。
動物も本能で死を迎えているようですが、人間は、「死」「死者」「死骸」という三つの概念化へ、意識して立ち向かうことで、「生」の意義を発明し発見してきた気がします。「神」の発見など、むしろこれの未熟でいびつなな付随かも知れません。
考え始めると、難しいばかりですね。 湖
2007 8・13 71

* 深夜、映画『日本のいちばん長い日』を観、朝、妻ともう一度観た。
この映画をわたしは機会が有れば繰り返し観てきたが、今日は、ひとしお痛切に六十二年前を想起し、溢れるものを堪えられなかった。
何にしても「此処」からわたしも歩き出したという実感がある。
敗戦の日とともに思い出すのは、誰よりも強烈に阿南陸軍大臣のいちはやき自決であった。他のことは御前会議も何も一少年の耳目には容易に届くわけもなかったが、新聞の報じた陸将の自決は峻烈に敗戦と結びついた。
わたしは敗戦を呆然と心細くは聞きながら、必ずしもくらい一方の思いではいなかった。丹波の山村の、日盛りの農家の前庭へ出て「玉音放送」なるものの聞き取りにくい機械的な音声を耳の端に聞き止めたあと、「戦争に負けた」らしいという実感に被さってきたのは、「これで京都へ帰れる」というかすかな開放感だった。わたしは飛行機のように両手を広げて夏空の下をぐるぐると駆け回ったように覚えている。

* 映画は、この手の大作の中ではかなり緊密な緊迫をよく劇化していて、ほとんど「映画」を観ているという感じを与えないほど、場面のいちいちから訴えてくるものが血肉化されている。今から思えばわらうしかない場面すらも、わたしを嗤わせるよりは、深く傷つけ悲しませる力を帯びていた、わたしは、日本の最期という「儀式」を受け容れるように画面の前でせつなかった。

* 六十二年。かるい感慨ではない。たやすい道のりでもなかった。先人へのいたましい哀悼と感謝の思いが厳然とある。靖国参拝をパフォーマンスの具に供し、しかも戦争体験をだるま抜きのように忘れ去ろうとする賢しら人たちの、戦前復帰を思索し画策する者たちの、愚と傲慢を憎むのである。
* 三発めの核爆弾をも日本人と日本の国土とが受けずにすむために、何の努力が必要か、たやすい問いでないのは分かっているが、問いかつ行動しなければ済むまい。

* 異様な暑さへも我々は刮目し対処しなければ。あの敗戦の頃の日本では、一夏に三十度を超す酷暑はせいぜい多くて数日であったように覚えている。しかしこの植生豊かな日本にして、四十度という夏がいずれ常態になるかもしれない。命も守らねば。地球も守らねば。そのためにも一人一人が聡明を保たねばならない。

* わたしたちはこの日を、有り難いという感謝の気持ちで勘三郎らの納涼歌舞伎を楽しませていただく。
2007 8・15 71

☆ お礼と注文  元・大学教授
秦恒平 様  過日『閑吟集』、頂戴いたしました。ひさしぶりに硬質にしてつややかな秦文に魅惑され、日本古文の歌の調べにたゆたいました。有難うございました。ついては、1,2の友人に贈りたく、3部ご送付下さい。なお、代金につきましては、銀行口座の方が、インターネットにて便利に送金できますので、よろしければ、銀行口座をお知らせ下さい。
昨年、一、二自費出版にて公刊しましたが、恐るべし、出版社が勝手に増刷・販売をしていました。弁護士を立てて取りやめさせましたが(実際にはまだインターネット各販売店で売られています)、何ともたまりません。どうせ趣味ですから、向後は完全に自費出版で文藝世界を楽しもうと思っています。今年中には、2著とも再版しようと思っています。
その点一流作家(秦恒平)ともなれば「湖の本」で、いくらでも読者を振り向かせることができるのですから、当然のこととは言え、うらやましい限りです。私など、市販したいと思っていても、引退した身ではなかなか出版元ができず、これも自費出版してしまおうかなどと、今、あれやこれや思案中です。といって、現役中のように、名誉欲など不純な動機やせっぱ詰まった状況もないので、こんなこんだが、ハッピーリタイアなのかな、と行きつ戻りつを楽しんでいます。
それにしても、秦さんの文学論考諸作品は、かりそめには書けないものばかり。文学研究者で、近年、芥川研究に力を注いでいる友人の贈ってくれる論考物と比べながら、小説を書きながらよくぞここまでと感じ入っています。
ますますのご発展を祈念いたします。

* 「湖の本」という器を用意しておいたのは、自在な文学活動のいつも受け皿になってくれていて、たしかに有り難い。趣味ではない。営利活動でもない。命取りになるほどの出血はしないので、一冊出せば、次の一冊が可能になる。一冊一冊がわたしの「今・此処」になる。難しい時代になって行くのが目に見えていた。出版社に従属しなくて済む道は、仕事の質と量と、そして読者の支持。それだけであるが、それが容易でなければこそ、同じようにしてみたいという書き手はいても、この二十余年、「湖の本」に後続する今のところ誰一人も現れていない。
2007 8・18 71

* たとえば吉永小百合たちの『ひめゆりの塔』といった映画を、わたしは、どうも素直に観ていられない。戦争場面が、ではない。戦争のことなど観念的にしかまだ頭にない純でお行儀の良い女学生たちの、ブルーマ姿の学校場面などが、気恥ずかしくて、観ていられないのである。
何故だろうと思いつつ、思い当たるのが、つまり時代や教育(家庭教育・社会教育)によって、拒みようなく強く「枠づけ」されてしまった人たちを観るのがイヤなのだということ。
清く正しく美しくといった女学生も、戦時の、みんな同じ顔した少国民も、兵隊さんも、学校教師も、政治家も。みな、「自身」をやすやすと見喪って時代や社会の鋳型どおりの「枠」内に安住している。
身空ひばりの『悲しき口笛』や『東京キッド』を観ていると、ひばりの演じる少女だけでなく、あの時代の「美空ひばり自身」が、時代の古くさい鋳型の「枠づけ」から、めちゃくちゃにハミ出ている。天才が「枠」をあたりまえに蹂躙し粉砕すべく発揮されている。しかし当時のPTAのオバさんたちが、どんなにひばりを罵倒していたことか。
「らしい」だけの存在が、きらいだ。
学生らしい学生、先生らしい先生、作家らしい作家、ニートらしいニート、会社員らしい会社員。世の中の秩序や安全のためには「らしい」方がややこしくなくていいのであろうが、ウンザリだ。「枠」への叛逆。それなしにどうして本当に「生きている」と言えるのだろう。
2007 8・19 71

* 一八七一年の「パリ・コミューン」の偉大な逃走と悲惨を極めた壊滅とを読んだ。或る意味ではほぼ百年前のフランス革命を乗り越えて行く優れた理念と方向とを持っていたが、また民衆の闘争のかならず陥って行く杜撰さも抱いていて、それゆえに反動王政の狡知と実力の前に凄惨な死の破滅を体験した。
「民衆の闘いは何故敗れるのか」 いま、この歴史的な反省が具体的になされて、その反省の積み上げから賢く学ばねばいけない、もう最期の機会かもしれない。だが、誰も本気で自分は民衆の一人だとも本気で考えていない、なにかしらバカげた錯覚で自分は別だと思っている。

* バカげたはなしだが、例えば去年の夏の甲子園以来、いったいわれわれは何人の「王子」を称賛してきただろう、「ハンカチ王子」「はにかみ王子」「なんとか王子」と。どうしてこうも人は「王子」だの「王女」だの「王さん」だのが好きなんだろう。そんなものが真に人のタメになったことなど、一度だってありはしなかったろうに。なさけない。
2007 8・21 71

* 「外側」から来る毎日と「内側」でわき出る毎日とがある。前のを少なくし、後のが増して行くのがいい。今のわたしに願わしい。
スケジュールに「会議」や余儀ない他人様との「所用」があるから出かけて行くのでなく、あれが観たい、あの人と会おう、あそこであれが食べたい、したいと思って出かける方が、いい。漫然と歩いたり、歩かなかったり、家にいたりでも、その方が、はるかにいい。世間的な虚栄や義務や格好よさは脱ぎ捨て、こうしたい、ああしたい、そうしたいことに素直に身を働かせ思いを傾ける日々。
イージィに見えるかも知れない、が、「外側」から来るものに左右されがちで、それが仕方ない、いやそれでむしろ良いのは、若い間のこと。わたしはもうそんなことに、興味が失せたというより、自分の余力がもったいなく、そんなムダな真似はしていたくない。美しいものを美しく眺め、受け容れ、したいことを、たとえどう他人目にバカげていても、心ゆくまで心静かにしてみたい。
外へ外へあくせく生きねば生きられない日々が、いつまた来るかは計りがたいし、それは運命だと思う。幸いに運命の表情の穏やかで、それらのゆるされて在る今は、なまじいの社会生活よりも、自然な生活、自身の内側と見交わして生きる日々を大事にしたい。見た目に何もしていないようでも、内発の思いや思考や欲求に、より多く馴染み、従い、日々を穏やかに生きていたい、たとえ振舞いとして人目にはハチャメチャに映じることの有ろうとも。

* こまかにかきまぜたような起きがけ幾つもの夢の中で、「抽象」「抽象的」という二字三字が、白い泡に浮かぶ手応えのように手に掴めた。おやと思った。この半年余も、しきりに手探りしていたものを掴んだぞという気がした。その先は、此処には書かない。
2007 8・22 71

* あいかわらず暑い真夏である。

* 期日の迫った親鸞センターからの依頼原稿を書いている。近親の死にもふれて「死なれて・死なせて」といったことを書くように頼まれている。
人は「生まれ」、そして「死なれて死なせて、生きて行く」ものだと久しく書いてきた。あたりまえ、そして「死ぬ」のである。明快。「死ぬまでは生きる」のである。明快だ。

* ねむくなった。
2007 8・24 71

* たまたま、こんな一年も前のものを、与えられて読んだ。「木洩れ日日記」。その他の記事も陋劣・卑猥、のけぞるほど嫌らしいが、その汚いクソは曝さない。わたしが読めなかっただけで、読んでいた人は大勢いたのだろうも「知らぬは親父ばかり」であったが、むろん人に聴かされていた。簡単に否定できることは、すでに肖像権の写真も利して、嗤っておいたが、次の、この箇所だけは「mixi」に関わるもの、はっ
きり「★★朝日子」の署名で会員むけに「公開」していた一文であるから、嗤って此処に取り上げておく。

★ 2006年08月31日 17:13 mixi管理者への公開質問状 ★★朝日子

mixi管理者様にお尋ねいたします。
mixiは会員制であることを「安心」として提供しているブログサイトであり、 「本名での交流」を推奨さえしておられます。
ところが、私ども「思香」1507957ブログの大部分は、ある公開HPに無断で流出しています。
「思香」本人の記述のみならず、コメント欄まで、投稿者名と共に、無許可でコピー&ペーストされています。
時には、恣意的な改竄もされています。

問題のHPは、mixi会員である秦恒平、ニックネーム「湖」、ID3099149によって運営されています。
「小説家」秦恒平の宣伝活動を行って会員を募り、自作を通信販売する、れっきとした営利サイトです。

秦恒平は、mixi会員として「思香」ブログにアクセスし、わざと問題を起こして自ブログへのアクセスを増やし、「思香」並びにその友人たちの記述を無許可でHPに取り込み、そのことを逆にmixi内で宣伝して、さらに自HPのアクセスを増やそうと試みています。
「思香」ブログ管理者が「湖」をアクセス禁止設定にしたにもかかわらず引き続き書き込みが漏洩しているのは、mixi会員内に共犯者がいるからでしょう。
残念ながら日に200を超えるアクセスがありますので特定はできません。
「思香」ブログでは筆者の闘病・死去にあたり、大勢の方々からお見舞い・弔意のコメントをちょうだいしましたが、それらがごっそり、営利サイトに「泣けるコンテンツ」として掲げられている様には嫌悪を感じずにいられません。
mixi内のだれがこのような事態を想定して、日々、書き込みをしているでしょう。
これは、mixiの「安心」を揺るがし、本名での交流を阻害する行為ではないでしょうか。
私どもは秦恒平本人に厳重抗議を行いましたが、 「文学活動を妨害する不当な要求」と一顧だにされません。
むしろ、わざと関係者の本名をHPに書き散らすことで、検索エンジンでのヒット数を稼いでいます。
秦恒平は、ペンクラブ理事という肩書きを持ち、「著述活動におけるメディア活用の権威」と自称しているにもかかわらず、自らの営利のために多くのブロガーの「著作権」を公然と侵害し、「会員制であるがゆえに公開されているプライバシー」をも侵害しています。
mixi会員規約を無視し、「会員制」であるmixiにおいて、人々がどのような交流環境を望んでいるか全く理解していません。

「思香」の友人の多くが、「いつあのHPに流出して悪用されるかわからない」と感じ、あるいはワンクリックで自ブログへ乱入されることを嫌い、かかわりを避けるために「思香」ブログへのコメントを控えているのは、当然と言えるでしょう。
mixi管理者におかれましては、
「会員制の安心」を脅かすこのような行為を、どうお考えでしょうか。
「表現の自由」と「ペンクラブ理事」を錦の御旗に掲げその実、mixiにおいて営利サイトの宣伝を打っている人間が、多くの会員の「自由な交流」に暗雲を投げかけるのを、このまま放置なさるのでしょうか。
mixiは「私営」の会員サイトですから、管理者は、断固たる態度によって逸脱者を制限する権限を有するものと信じます。
善処のほど、よろしくお願い申し上げます。
「思香」1507957のページを継承・管理    ★★ 朝日子

* 「法的措置」云々の警告はリフレインのように出てくる。しかし名指しで全く事実無根が具体的にいわれている以上、今も日々に「mixi」を利用している会員としては、わたしにも言い置く権利がある。

* 孫・思香=★★やす香と祖父・私とは、やす香の親たちの知るよりもはるか以前から「mixi」のマイミクであった。しかもやす香は「mixi」に自身の思い病状を書き続けていて祖父母を心配させていた。そして白血病で入院、肉腫と診断換えがされて直ちに緩和ケア、つまり手遅れと治療不可能の判断が為されてきた。祖父母はやす香の貴重な日記を散佚前に保存するのが当然の措置と実行したし、ことに「病脳」の具体的な経過に対しては日記保全が大きな意義をもつと判断し実行した。その引用や援用を大事な時は敢えてしたが、その経緯は著書『かくのごとき、死』が正当に証言している。ぜひ必要なやす香の生きた証跡である以上、故意に文章の改竄などするワケがない。

* アクセスを増やす。そんな無意味なバカげたことにわたしは滴ほどの関心もない。増えれば増えたなあ思って愕いても、足跡は人様がつけられるもの、わたしの関心の外にある。連載してきた作品とのご縁であろう。どんな作品が載っているかも、歴然としている。私の日記の九割以上が小説やエッセイで、余の日記ふうの文章は、ごく少ない。それも何を書いていたかは纏めて判るようにしてある。見れば全貌が判る。

* わたし=秦恒平は、「mixi」に、数えれば去年一年間に数千枚の各種作品を、受賞作『清経入水』はじめ小説、評論、エッセイ、講演、対談等々を、すべて「無料公開」し、「湖の本」も希望者には時として「差し上げ」ているのである。
わたしは原則として、著作権者のわたしが意図し容認している事例である限り、自分の作品にしつこい著作財産権を主張しないことにしている。「パブリックドメイン=公共財」に準じて、作品を広い範囲で無料提供して良いと考えている、当節希有の作家の一人なのであるから。著作・創作は「時代」に書かせて貰った所産。一定の収入を獲たあとは、適切な時期に不自然で著者の過大な負担にならぬかたちで、「時代」に向けてひろく利用されてむしろ自然なことだという思想である。それを「mixi」ででも明瞭にわたしは実践している。

* 話頭を少し転じて、
じつは、わたしも秦建日子も、期せずして、★★家との紛争を、ただ親子血肉の喧嘩とは考えていない。そっちは呆れてしまえば済む。『かくのごとき、死』や仮題未完草稿の『聖家族』や、湖の「mixi」日記や、作家・秦恒平の「私語の刻」へ、意味はよく知らないが「仮処分」を朝日子らは法廷に持ち出した。彼らはそこから「刑事告訴」へ移動し、最終は金で勝とうともくろんでいるのかも知れぬ。推測である。用意もしている。
あるいは、憎い父のわたしを牢屋へ入れたくもあるのであろうが、実は、建日子とわたしが、内心まだ茫漠と考えている「事件の本質」は、そんなものではない。

* この電子化新時代での文学表現や著作の自由が、むしろ拡大より狭小化されて行く傾向がすでに見えている。わたしの前の「ホームページ」の、理不尽な削除や仮処分判決が、よく示している。むしろそれにこそ大きな意味で「待った」をかけ、表現者の活動を法的にも自由で自然な権利としても自衛して行かねばならない、そういう新世紀の運動の「最初の大きな契機」に、この作家・秦恒平の事件を「構築」していっていいのではないか、と、いうのである。
その意味で、むしろ事件自体を、踏み込んで「世」に曝した方がいいのではないか、と。
一例が『かくのごとき、死』のはらんでいる、また「私語の刻」等のウェブでの文藝活動のはらんでいる、「表現の自由の問題」は、他の色々の抵触事項もともども考慮しつつ、むしろ「新時代へ押し出す課題」として、いっそ拡大して宜しいのではないかと。
いわば「これしき」のことで娘が父親を訴えるという、それは前代未聞ではあるがことは「和解マター」に過ぎずに、最高裁まではとても行くまい、行っても構わない。
だが、それではなく、新しい「電子メディア」での「表現の自由」か「法的規制が先行する」のか、それが本当に「前代未聞の文学や表現者の問題だ」と、そう、父と息子とは同じ思考の先で、今しも確かに触れあっている。

* こういうつよい話題で、父と子とが本気で交叉しえたのは、実に「初めて」のことだった、とても頼もしかった。
2007 8・25 71

* この機会に、ハッキリさせておく。
わたしの「私語」は、いつでも、のちのちまでも気をつけて、文章として落ち着きまた文意の通りやすいように「推敲」されている。プロの表現者には当たり前の覚悟、不可欠の作法なのだから。
だから、こう諒解していて欲しいと、いつもアクセスされる方には願っている。
この「第一ファイル」は、忙しい「書斎・仕事場」に相当している。此処では変換ミスもいとわず、いわば「初稿」を創っている。そして例えば現在只今、今月八月分にかんしていえば、やがて専用の「第七十一ファイル」に、日付順に直して、文章もつとめて推敲されて慎重に保管される。いわば作品の「第二稿」に事実当たるけれど、作家は、推敲を極端にいえば生涯かけて行うから、気づいた限り何十年前の作でも、推敲はされて行く。著者自身で自身の作品に飽くことなく手が入るのは、当然の働きで、他人からの「改竄」とはちがう正当な仕事である。誤解のないよう、明記しておく。
少しでも良い文章のためには、字句の斡旋は心ゆくまでする。しかし文意は改変しない。例えば一過性の機械事故のような、時を経れば無意味な記事は削除もする。そういう取捨も著者の当然の働きでありる。これを「改竄」など間違った語彙で間違える人がいると、迷惑である。

* 「私語」の読者は、秦さん、また大きく逸脱してきた、変転したと思われるだろう、が、わたしはわたしの「今・此処」に、まっすぐ向き合って行く生活者で表現者で、それが秦の基本のが在りようと見て下さるなら、秦の、このところ、またこれからの毎日は、「外」からの、とても善意とは言われぬ侵害に揺れているものの、どう「内」なる思いで咀嚼し濾過して行くか、それを、見ていてやろうと思っていただきたい。

* だいじなことは、妻もわたしも「静かな心」で日々を送り迎え、「かかるものの餌食とならず」生きて行くこと。
死ぬぐらい簡単なことはない、わたしは日々にその正確で簡単な手段すら与えられている。だが、われわれ夫婦は「死ぬまでは生きて行く」気だ、当然だ。

* 明日朝、難しい日程を割愛して、秦建日子も法律事務所との打ち合わせに参加してくれる。場合によってわたしの代理として法律事務所と全接触してもいいかなあ、その方が弁護士も歓迎かなと笑って昨夜言っていた。なるほどそうかも知れない。おやじは法廷とは「無関係にしていていいと思うよ」、とも。
2007 8・26 71

* 本日、事件を担当する法律事務所より、私の婿・★★★(青山学院大学教授)・私の実娘・朝日子(町田市主任児童委員)夫妻の提起した、舅・実父秦恒平 (太宰賞作家・日本ペンクラブ理事、元東京工業大学教授)への訴え、すなわち夫妻の社会的声価をおとしめた秦の著作・創作『書くのごとき、死』や小説『聖家族』による、「名誉毀損」その他各種財産権(生前の孫からの日記・メール、また娘の作品の引用等の著作権侵害、また娘や孫の写真をウエブに利用した肖像権侵害等々)の侵害を咎める訴えに関しては、裁判所判定の出るまでは、今日以降、この「私語」にも、「「mixi」にも、要するに、「書かない」ようにと「指導」があって、従うと決めたことを、此処で、このサイトへ日ごろアクセスして下さる方々に、お伝えします。

* なお、裁判に関しては、息子・秦建日子(小説家、劇作・演出家・脚本家等)が、父に代わって法律事務所との折衝に任じたいと本人の提案があり、感謝してわたしは従った。法律事務所も受け容れてくれた。息子は、後の仕事で一時前には退席し、わたしは三時まで居残って担当してくれる主任弁護士の質問に答えていた。

* わたしは「法」という乾いた価値観や概念の前では、文学者の内なる思いも表現も、創作者の強い動機も、あたかも「一片の紙くず」のようであることを、今はよく思い知っていて、しかも、あくまで創作者である自分が曲げられない。そういう男は、法律家は難儀で扱いにくいのも分かる。
秦建日子の親切で思いやりに溢れた代理の提案も、それに快く賛同してくれた法律事務所にも、感謝している。

* それにも関わらず、物書きであることに命を賭けてきた者が、片々であれ大事であれつまりは「書かない」約束に応じたというのは、「自死」に等しい実感である。「恥ずかしい」退屈である。

* かつて柳美里さんの表現が法廷で争われていたときも、わたしは、サンケイ新聞にかなり大きく発言の機会があった。無意味に人を傷つけるのは問題の大きいこと勿論である、避けるべきである、が、もし書き手が命に替えても、たとえ牢屋に入れられても、そう書かずに済まぬ、と考えたのならば断じて「書くべきである」、それが作家・創作者の「生きる」ということだ、と、書き手の誠実な覚悟をつよく求めた上で、容認し、肯定した。わたしの実感である。むずかしいことではあるが、今もそう思う。

* そのわたしが、『かくのごとき、死』をウエブに書き、「湖の本」にし刊行したのは、「これを書かずにどこに作家が生きるのか」という覚悟であった。
二十一世紀の新しい私小説の探求でもあり、同時に人間の日々の「今・此処」を、極限の緊張や情理の中で、いつわりなく書き切ろうとした。
ところが、その本が主に問題とされ、結構な知識人でもあるだろう実の娘や婿が、実の父・舅を法廷に「訴えて出る」(この言葉を法的厳密に用いる力はないのであるが。)という、文字通り物凄い事態に立ち至ったのは、なによりも「文学表現」のためにわたしは傷ましいと思うのである。
この是非は、しかし裁判官よりももっと適切に最終的には「読者」が判定されるだろうと信じている。わたしには「読者」「知己」が大切である、法廷の判断よりも何倍も。
裁判の裁定には、失礼ながら多くは期待できない。譬えて謂えば、千に九百九十九の真実の愛や歎きの文章が溢れていながらも、ある一箇所に「こんなバカげたことが」と仮に書かれていると、その「バカ」という一語だけその箇所だけで、もう名誉毀損や誹謗や中傷や人権蹂躙だと言われてしまうらしいからだ。なにをか言わんや。人間の自然と精神の自由を大事に思う藝術家は、法の前のそういう真情や誠実の紙くずなみに扱われるらしいことに、思わず大笑いしてしまう。

* そんな次第で、今日以降、「私語の刻」には、ある種の記事は「書かない」と約束してきました。みっともないが、ご理解下さい。それでも、書くだろうかなあ。

* 親鸞センターの依頼原稿に、もう四日しか余裕がない。眼科にも、歯科にも、行けない。浅井奈穂子さんにお誘いを受けていた声楽の会も失礼するしかなかった。提出すべきものと思いこんでつくった資料は、すべて作家の思いの自然を訴えたもの、数日寝る間も削ってつくったが、法の前では「紙くず並み」であったような気がするなあ。呵々。あまり紙の山が重く、トランクに入れ、保谷から新宿の高層ビル三十階まで、ハイヤーを頼んで運んだんだがナア。お笑いです。
2007 8・27 71

* 用があり、芹沢光治良の大長編『人間の運命』をまた隣から運んできたのを、出逢いというか、妻が拾い読みの内にいたく面白がり、第一巻から熱中しているようだ。
この作は、かつて、日本人小説家としては、世界一名の通った、海外での盛名のほうが日本の文壇でより遙かにぬきん出ていた世界作家の、晩年畢生の代表作で、「創作された小説」であるが、「完備した自伝とも私小説とも」いえる、芹沢文学の特質を最大限に発揮した名作になっている。
いろんな点で、日本の文壇文学とはずいぶん、顔つきも声音も体臭も異なる。思想も異なるし作の環境も異なると謂えるだろう。しかも日本の私小説の伝統にむしろ背をむけた作風なのに、いわば赤裸々にこっちが照れるほど真正直に書かれてあり、おそらく、架空の人物は実は一人もいないのではないか。
文壇作家の林芙美子や平林たい子との初対面や、その後芙美子の、昔言葉で謂えば「モーション」のかけ方など、なかなかの書きようで、芙美子ぶりは、臭いとも、難儀とも、可笑しいとも、辟易のていに言葉優しく書かれているのだが、表記名は「林扶喜子」、またお連れだった平林たい子は「平森たき子」としてある。他にもこの手の例は少なくなかったと思うし、実名も沢山出て来る。
日本の小説で、実在の人物をこういうふうに擬似ないし実名のママ書き示す例が実際にどれほどあるかと思ってみると、近代の作品数はべらぼうに多いし、随分多読してきたわたしも、そんな目で一つ一つ読んで来なかったから、すぐさまとは行かないけれど、先ず思い出すのは『人間の運命』だった。
名前の擬似例も多いが、数えきれぬ登場人物のおよそ全員が特定できることだろう、谷崎の『細雪』でも漱石の『我輩は猫である』なんぞも同様であった。
森田草平という漱石の愛弟子の一人は、有名な「青鞜」創始の平塚らいてうと心中未遂事件を起こし、その顛末を『煤煙』に書いたとき、たしか、ヒロインの実名「明子」を、「朋子」ときわどく形示していたのも記憶している。こういう例、拾えば随分多かろう。記憶のある方のお教えを請いたい。
2007 8・31 71

* 淳で、柔らかくて、温かいものが、観たい。欲しい。硬直して、冷たくて、意地が悪くて、頑なで、陰険なものばかりが目に来る。耳に来る。胸に来る。なんというイヤな世の中だろう。
2007 9・5 72

* こういうことも考えている。

* だいたい、ふだんの感覚のまま自分でつかう「一人称」は、書くとき、話すとき、ほぼそれぞれ固まっている。
人と「話す」ときや、人なかで「話す」ときは、状況に応じて自分を、「私」「わたくし」「わたし」「手前」「僕」「おれ」などと相手により場所により使い分けることの多いのは、もう随分昔に「週刊朝日」の連載で論じたり、著書でも繰り返したし、人に引用もされている。
しかし一人称で「書く」ときは、かなり固定しているのが普通で、日ごろ「わたし」の人が、ときに「私」になっても、甚だしくは変わりっこない。「あたし」とか「うち」とか「こっち」とふケイタイ電話などで書き慣れている人が、なかなか「私や「わくたし」にはならない。
個と個との「手紙」のやりとりなら、むろん、長上に書く手紙とギャル仲間で書くのとでは変わるだろう、が、「mixi」日記やメールでは、だいたい例外なく一定する。「一人称の縛り」は、なかなか書き手にきついのである。
だから、日ごろ「うち」「あたし(あたしゃ)」などで通してきた人が、「私」になっていたりすると、その文章は他者の作為ないし作偽でありやすい。筆跡もなかなか真似られるものでないが、その人に固着した「人称の縛り」や「口癖」は、なかなか他人が真似られるものでない。真似てもポロが出る。断片の口真似はできても、書き癖の真似は難しい。口調の真似も難しい。

* 自分で自分を、自分の名で、「まさみ」とか「かずや」とか言ったり書いたりする人はいる。おそらく会話での例はより多く、「書く」人はより少ないだろうが。
日ごろからそんな「自分呼び=自称」などしない人物の手紙などに、それが出て来ると、まして頻出してくると、少なくもそれら文書は、他人の「作為」「作偽」の形跡を露わにしている。「お宝鑑定団」に出てくるお寶の「書蹟・書簡」に偽物があらわれるとき、筆跡もむろん問題だが、その人の使わない、しないことを侵して作為・作偽してある、それがバレる。あるわけがない署名をわざわざ入れてしまうとか。
ひごろ、「うち」「あたしィ」「アタシャぁ」などと言う人、そして間違っても自分を「まさみねえ」とか「かずやはサ」とか自称しない人が、「私」「僕」また「まさみ」「かずや」と手紙やメールに書いてきたら、精神状態を疑うか、作為・作偽を疑わざるをえない。しかもそういう文章・文体にかぎって整理の行き届いた、ツンと澄ました無表情なきれいなものに仕立てられる。
まして同じ日の内に、同じ場所に二通り三通りの文体や人称や名乗りでものが書ける、書いても不自然でないことなど、文体の力学としても、生理としても、有り難いことに属する。

* よく世に現れる「終焉日記」「闘病記」に、まぎれもない傑作の在ったことは、いくつも記憶にある。とりわけ中島湘烟の最期の日記は、まぎれもない。正岡子規の最期の日記も、まぎれもない。
だが、こういうものばかりでは、ない。関係者が、当人没後に、善意または不善意できれいに死の経過を整え、或る意味で作為し、ときには作偽もしたかと猜される「闘病記」や「終焉日記」の出版例、在る、のではないか。
そういうときに、死者本人が書いていない作文や代筆がむしろ主筋を通しかねない。一般論をいうが、そういうのはむしろ「追悼記」にした方が正直というものだ。

* ともあれ、上手と下手は問わぬかぎり、みな自分自身の物言い癖、口癖、書き癖を持っている。不思議に「指紋」のようにしみついた似而非文体を所有している。
その気になりさえすれば、少し気を入れて落ち着いて読めば、誰でもと謂っていいくらいだ、ある程度その真偽は「見分け」がつく。これは「まさみ」が書いたとしてあるけれど、「かずや」の書いたものではないのか、とか。やり手がタカをくくって間違うからである。「かずや」の他の文章例とよく比較し、むろん「まさみ」の他の文章例ともよく比較してみれば、実感も添ってその辺の「真相」が見えてくる。批評家には大事な手続きであり、軽率に読み飛ばしてとんだ目に遭うこと、あるのである。
「文」は、たしかに「人」である、少しこの格言の意義から少しずれてしまうけれども。

* 入院後の「やす香」筆とされる「mixi」日記には、作為された他社の筆のものが、幾つも感知できる。なぜそんなものが現れ、なぜそんなことが必要であったのか。
2007 9・5 72

* 北海道の「麗」さんも胸に迫る日記を書かれている。が、わたしはいま、書き写し読み直す元気がない。いま、わたしの肌も神経も、出雲の兎のよう。落ちてくる焼け石をだきとめていた、あの若い弟神のよう。それでもその兎は癒された。それでもその神は癒された。
わたしは癒されたいのか。それとも癒えるまではどんな苦痛にも耐える気か。

* 永い生涯に、ああ羨ましいと思ったことは、幼時から近時までむろんいくらも有った。だが、なかでも印象的に忘れられずにいるのは、「団蔵入水」であった。歌舞伎から身を退いた老優は西国遍路に向かうと告げて旅立ち、そして誰知らぬうちに船から消えていた。わたしは、何度もその静かな最期を想った、一つの事実として。
団蔵の最期は、わたしが「清経入水」を書いたよりアトのことだ、記憶ではそうだが、いま確かめることはできない。あの浩瀚な平家物語のなかからとりわけて自分があのような公達清経の入水死に真っ先に筆をつけたことが、なにやら意味ありげに団蔵の死に受けた羨ましさと重なって思い出されるが、たぶんわたしは、そういう真似はすまいと想う。ただ、ともに羨ましかったということは、消え去らない。
映画『グラン・ブルー』に魂を鷲づかみされるほど共感し、あの真の闇の海底に帰って行く主人公を、わたしもまたあの彼を愛した女と同じ思いで見送ったことが思い出される。羨ましかった。たしかあの女は男の胤を宿していた。わたしもまた何かしらそういう胤を自身の身内にまだ胎動のように感触しているのだから、死ぬわけには行かないのである。それだけのことであるが、それだけが大切だとは知っている。
2007 9・7 72

* いまアチュアンの地底の闇の大迷宮(ラビリンス)奥深くで、「闇に喰われしもの」である大巫女アルハと、魔法使いゲドとが、直面しようとしている。わたしは、その闇の濃さが懐かしい。うすっぺらな、ろくでもないものばかりを見せつけるような光よりも。

* この「掌説」は『七曜』に収められ、その前は新聞小説『冬祭り』のなかでだいじな証のように「木金土日月火水」の順に「掌説」として書き出されたうちの、「日」に当たっている。さらにその前は、昭和四十年九月に『掌説集・鯛』の中の一作として今少しながく書かれている。

* 日   秦 恒平

男は日と争った。日を罵り嘲った。
日は男を地獄へ蹴落とした。地獄の底を、男は無二無三に走った。走りながら日を憎んだ。
足もとに、いつか一条の光る細い道が闇を裂いて延びていた。道の両側に、数限りなく男を見つめる青白い顔があった。発光体のように、顔は闇からにじみ出ていた。端正で、無表情で、虚空にうかんで、微塵も動かぬマスクの、眼だけが生きて男を見つめていた。
男は走った。前にも後ろにも数えきれない自分の影が飛んでいた。
光る道の奥に、真黒い扉が見えた。扉は押すとも引くとも知れぬ一枚の厚い板にみえた。
扉ではなかった。暗黒のはじまる所だった。男は倒れこむように、頭から闇の底へ底へ落ちて行った。落ちながら、もがいて虚空を蹴った。
逆流する血が脳漿を潜りぬけ、足指の一本一本をぼってり脹れあがらせる。下半身が寒く、顔は生ま温かく、落体の恐ろしい速度に鼻をちぎられ、を引き裂かれて、男はやがて落ちる速さを、暗黒のただなかにふと忘れていた。
と、男は硬いよそよそしいものに支えられて、音もなく横たわった。
部屋ーーというのもあたらない厚ぼったい濃い闇が、男を隙間なくとりこめていたが、やがて、身ひとつをきっちり闇間に浮かばせて、物憂い微光が泥のような己れの姿を男の眼にみせた。
男を支えていたのは、無愛想に、冷たく堅苦しく、いっそ、ただの「場所」と呼んだほうがいい、そっけない、気味のわるい場所だった。
物惜しみするように男の身に触れて、まるで皮膚ほどにその場所は「在る」とみえたが、その先は濛々と昏闇に呑まれ、男は己れを泥のようにみたまま、闇黒の重さにひしがれて、ただ横たわっていた。
「暗いなあーー」
男ははじめて口をきいた。
どう追い求めても洩れる微光のふしぎなかたちが探れない。身を揉めばこぼれるようにものかげが揺れ、手をのべてまさぐると、いっとき、ほうっと光の粉をまいたように明るみ、またすぐ闇に沈む。
男はようやく起った。
やたらぐるぐる手を振った。歩きまわった。
すると、男の身に添っていたほの明るさが幾重にも闇ににじみあい、淡い色で流れ、そして、消える。
男はなにも考えず、ただただほんのすこしでも多く、すこしでも時間長く、身のそばに明るみをひきとめたいばかりに、一つ所を、輪を描いて、無二無三に手を振り足を躍らせ、走りはじめた。
息づかいのほか足音すら響かぬ闇黒地獄の底の底で、男は、そこから逃れ出たいとも考え忘れて、ひたすら、無限の円環を有限に返そうとでもするかのように、息を吐き、黙々と、無表情に一つ所をぐるぐると、それでも日の世界の傲慢を憎みながら、走りつづけていた。

* あの李白の孤独も底知れなかった。
もともと「孤・独」とは 「老いて子なく、幼くて父なき」を謂うたのであるが、詩人の抱えていたのは、ちがった。
独酌 孤影に勧め
閑飲 芳林に面す
2007 9・7 72

* どこへ書いた原稿だったか、かなり昔だ。知恩院さん関係の新聞だったろうか、菩提寺から頼まれたか。いまは、気持ちがよほど移り動いている。
「明日への信」は無い。「今・此処」の寒さだけがある。自由でいるのは、寒いのである。

* わたしの信、念仏、法然   秦 恒平

「ご平安に」と書き添えて手紙を終えることが多い。「お平らに」「お静かに」という挨拶にどこかで似ている。過ぐる「前世紀」にもそう声をかけて見送った。「新世紀」を迎えての気持ちも同じである。斯くありたいと願っている。
兄は彦根で生まれて父の名をもらい、恒彦といった。わたしは昭和十年の末も末に平安京で生まれて、恒平と名付けてもらった。そう朧ろに聞いている。さきの師走に、だから満六十五歳になった。兄には前年秋に死なれた。生みの親、育ての親、妻の親たちもとうに此の世にいない。妻の兄ももういない。それが不思議とも、それが自然とも、時々の気分で受け入れながら、いつか死ぬ日のことを、気ぜわしくもなく思い入れていたりする。
無常は迅速だという。だからどうすればいい、わるい、と惑ってばかりなのも苦しい。死が、一瞬の好機かのように訪れてくれれば有り難いと思うが、そううまく行くまい。「ご平安に」と人さまを言祝ぐのは、我が内心の「不安」が照り返しているからかも知れぬと苦笑しつつ、いわば「待老期」に突入した実感を、静かに胸に抱いている。六十五なら立派に年金年齢ではないかと言われても、母の一人は、九十六歳まで長命している。あます三十一年かと指折れば、そう老人がっていられない。で、好きな句を小声で口にする。

明日への信いくらかありて種子を蒔く  能村登四郎

沙石集であったか、本の題は朧ろになっているが忘れられぬ話がある。高徳の僧が庵居して行い澄ましていたが、ある日、裏山から崖崩れし、庵ごと埋もれてしまった。人々が急いでかけつけ、かろうじて師僧は救い出された。幸い五体は無事であった、のに、ご本人は浮かぬ顔をしている。命助かっての浮かぬ顔はと問われて、僧はこう答えている。山が覆いかぶさって来た咄嗟に、わしは「南無観世音菩薩」と唱えてお助けいただいた。あの時に、なんで「南無阿弥陀仏」と唱えて西方浄土に迎え摂っていただかなかったかと、それが、残念でならない……。
この説話、深読みも利きそうにわたしを永く惹きつけていたが、今は、さほどでもない。一瞬の好機をのがした話と謂えるが、素直に、良かったではないかとも思う。あまり高徳の人の言とも思われないし、現世利益の観音と摂取不捨の阿弥陀とをあざとく対比して見せた説話の手ぎわも、やや鬱陶しいのである。右の掲句に謂う、いくらかの「信」の方が、まだしも仏様に嘉みせられるのではなかろうか。
わたしは現代を生き、明日へ歩んでいる。頭の中には、一例が三部浄土経や般若心経の意義も、また古事記や源氏物語もいつも生きているが、インターネットの電子の網に対するグローバルな好奇心や信頼も旺盛に巣くっている。地獄を信じないように、極楽のことも、それ自体としては信じていない。ただ、往生極楽にふれて法然上人が最後の最期に『一枚起請文』を遺して下さった恩徳の広大は、こころから信じ、ただもう感謝に堪えないのである。この気持ちを、道筋立てて説明する気にはなれない。説明できないとも出来るとも考えないのである、考えていては信じていないのと同じである。
平安に生き終えて平安に死んで行くのに必要なのは、わたしには、法然上人の教えて下さった「南無阿弥陀仏」で足りている、他は無用で、頼りに成るとは思わない。
2007 9・9 72

* 昨夜、一年抱いてきたある推論を仕上げた。確信がついた。
2007 9・10 72

『熊谷陣屋』の吉右衛門は花道の「送り」に至るまで内も外も大きく、ゴッツイ熊谷の魅力を腹にしっかり溜めて、声が飛んでいたように「おみごと」だった。久々に吉右衛門の度量と爆発力にふれ嬉しかった。幸四郎の熊谷、仁左衛門の熊谷などを近年はよく観てきたが、容量の重さとその放出の迫力で、わたしは、今日の熊谷に敬服した。
この舞台は義経に芝翫、弥陀六に冨十郎という絶好の配役。また熊谷の妻相模に伸び盛りの福助を配し、この初役の相模が懸命の好演だった。情感と堪えと噴出とに品位をしっかり見せたのは、たいした努力。早く歌右衛門にしたいものだ、わたしたちの元気な内に。
冨十郎はほんとうにきっちりみせる。不思議と、亡くなった羽左衛門の最期の弥陀六が思い出され、とても懐かしかった。さりげなく歌昇の堤軍次もよく場所を弁えていた。かなめは、さすが芝翫の義経である。佳い舞台だった。役ぢからの均衡と衝突の仕方に、正確な魅力があった。芝雀の藤の方は今ひとつ。
しかし、何といっても子を殺す話はよろしくない。『寺子屋』よりは、舞台に映えた官能美がありすくわれるけれども。手に掛けて親が子を殺してはいけない、どんなリクツがあっても不快だ。
要するにいかに泪を誘おうとも、所詮、天子だの将軍だの大将だのの世界の中では、熊谷たちは、無意味なただの歯車にされている。社会のがっちり食い込んだ「ワク・仕組み・抑圧」のきびしさに対する、バグワンの謂う意味の本質的な「叛逆」が無い。勝海舟にものしかかっていた「幕臣」という「ワク」を、あの坂本龍馬は直ちに「日本人」という自覚で本質的に叛逆できた。そこが希有。社会や教育や階層や生まれつきなどというものの強いてくる、身動きならない「わく組」という抑圧や制圧の中でしか生きられない者達の「」劇には限界がある。どこかで、バカげていると思ってしまう。
「ワク組」の最たるものが「法律」というやつだ。法律家は法律の不十分な日本語に自ら縛られて身動きしないことを「遵法」と謂い、人間の限界を自ら固めてしまっている。わたしのような無法者は、情けないはなしだと慨嘆する。
2007 9・11 72

* 『死なれて・死なせて、死ぬとき』と題した頼まれ原稿を某社に送り、そのゲラが出てきたが、句読点や助詞の使い方など、ずいぶん説明的に変更しませんかと疑問符がついていた。それでは、わたしの文章でなくなる。指摘はご苦労かけたことであり感謝するが、誤植ならともかく、表現者の苦心はきちんとイカシてもらいたい。事務的な文章ではないのだ。いちいちの申し訳に時間がかかり、閉口。
2007 9・12 72

* 深夜、また低血糖症状で、ひとり起きて対処。砂糖を一なめし、牛乳一杯で、強いてやり過ごす。
六時に起き、ひとり簡素に朝食のようなもの。
息子が自身のブログに書いていた。「mixi」を介して読みに行った。

☆ 生きていればいろんなことがある。 秦建日子
知っている方はもうとっくにご存知だけれど、とある裁判沙汰に巻き込まれ、定期的に弁護士事務所に通っている。
実の姉が、実の父を名誉毀損で訴えるという―――なんというか―――事実は小説より奇なりを地で行くような話である。
私は、落ちこぼれではあったけれど、一応法学部の出なので、親孝行を兼ねて打ち合わせのたびに父に付き添っている。何せ、齢70を超える、しかも病人である。
裁判の詳細はブログでは書けない。(書かない)
ただ、実の親子でも裁判所の力を借りないとトラブルひとつ解決できないという現実を前にすると、世界各地の紛争など解決できなくて当たり前、という気がする。
人という生き物に対して、ひとつ、ネガティヴになる。

連ドラ終了と前後して、たくさんの新たな仕事のオファーをいただきました。
で、そのうちのひとつである、とあるスペシャル・ドラマにチャレンジすることにしました。
そのドラマを見てくれた方が、ひとつ、生きることや人を信じることにポジティブになっていただけるように。

* わたしは、書き手の一人として、もし希有なら希有で、娘に訴えられ、バカげてよしない汚名を、汚物のように浴びせられるというイヤな体験をすら、「人間」のきたなさ情けなさを見極める恰好の演習素材だと、半ばは興味深く受け容れている。そして何故こんなことが起きるのかと謎解きのように考えている。歴史記述者のように見守っている。

* これを書かなくてどうするか。書き手として避けては絶対いけない、「人間」の見極めどころの一つと信じるから書くのであり、それを読まれたら「人という生き物に対して、ひとつ、ネガティヴになる」かなと心配したり、これを読まれて「ひとつ、生きることや人を信じることにポジティブになっていただけるように」などと願ったりして、ものを書くのではない。書き手わたしの信と実とが、たとえどう伝わり、どう受け取られようとも、それは受け手の問題で、書き手が、わたしが、干渉することではない。わたしはそこに書くに値する「人間探求」の道があるから、その道を進んだのである。「ワケ知り」に陥って、現実の「ワク組み」と安易に妥協したくはないのだ、わたしは、いつも。

* 「mixi」のマイミクさんに、「人を許せない」心は醜いという題の日記が出ていた。抽象的な話題ではなく、ご自身の身辺実話が体験として語られていたのである。
このような題目でなら、わたしにも日ごろの物思いは有るので、ちょっとコメントを添えさせてもらった。ここには、もう少し手が入るかも知れない、書き写しておく。

* 久間防衛大臣が、アメリカの原爆投下は「しようがなかった」と発言したとき、日本人のかなり多くが、怒りました。発言を暴言としてゆるしませんでした。あれは、どれほどの実感を伴った怒りようであったでしょうか。
あの無残な原爆投下に対し、日本の国会は、政府は、日本人も、公式の怒りを結局は一度も発してこなかった。心優しく美しく、既往の咎として、もうアメリカを「ゆるして」あげたのでしょうか。それは称賛されることなのでしょうか。

学問的には異説無くはないのですが、ホメロスの『オデュッセイア』 あの叙事詩の英雄「オデュッセウス」という名は、「怨みの子」という意味を帯びています。ながいながい海洋彷徨の苦難の旅の果て、彼は辛うじて故郷に帰りつき、留守を守った妻子達のために、彼らの屋敷を占領し無道で無礼なふるまいをし続け居座っていた者達に、じつに徹底的に「怨み」を晴らし「復讐」します。
そういう名作が、人間の歴史の初原にちかい昔にあり、人々は感銘を、感化を受けてきました。

ハムレットは、怨みと怒りとを母にすら向けました。

古事記のヤマサチは、兄ウミサチへの怨みを、何容赦もなく徹底的に晴らして服属を誓わせ、犬のように遇しました。

『嵐が丘』二代を生きたそれぞれ真の男と女とは、怨みや憎しみを、精神の濃いエネルギーに、執念深く怨みを晴らしながら、ついに深い真の愛への浮揚と清冽とを得てゆきました。だれも、生半可にゆるしたり、仇に感謝したりはしませんでした。しかも物語は妄執の暗さ重さからみごとに立ち上がっています。感動は、ゆるし にではなく、ゆるさなかった事から沸き上がって、昇華されました。

『心』の「先生」は、父の遺産をよこしまに奪った叔父を、徹底的にゆるしませんでした。あるいはそのような業苦が彼の頽落を招いたかも知れぬにせよ、彼は、ゆるすべきでないものをゆるさないことに、人間たる命の意義すら認めていたのではないでしょうか。

『モンテクリスト伯」は、あれほど愛したメルセデスをすら許さず、怨み憎んだ全員への徹した復讐を完遂して、愛するエデとともに汚い世界から、遙か遠くへ去って行きました。
ゆるしてはならぬものは、徹底してゆるさなかった彼は、そのことで人間の真価を喪っていたでしょうか。醜い男として生きたのでしょうか。

赤穂浪士の面々は、吉良上野の高慢と強欲と小心を憎み、幕府の無道な片手落ちを憎み、ゆるすなどという考えは微塵もなく復讐を完遂して死んで行きました。
かれらが、もし吉良や幕府を如才なくゆるしていたら、いったいどういうことになっていたでしょう。脱落武士の運命はあまり美しくは無かったようです。
武士道なんてものにわたしは惑わされませんが、人間が、最期の一筋で守る ゆるす ゆるさない「気概」の真実にこそ、心をひかれます。

ゆるすべきをゆるす美しい勇気、ゆるすべきでないものを徹してゆるさない美しい勇気。
ごっちゃに、甘くいい加減にひとしなみにすることは、人間の奥の底の気稟の清質そのものへの冒涜にならないでしょうか。

ひ弱な通俗の道徳や、社交的な行儀の良さや、そんなものから出てくる ゆるし、あるいは ゆるさない には、ともに醜いものを感じます。
社会や、教育や、政治や、時代の強い力で一律に押しつけてくる「ワク組」、損得の思いや、つまり無意味な妥協がつい作りあげてしまう「枠組み」。こういう「モラル」ともいえない惰性の強圧に背中を押され、安易に受け容れてする ゆるし ゆるさない など、わたしはイヤですね。
自身の内奥からわき出てくる、何の「枠組み」への追従でも妥協でも屈服でもない ゆるし ゆるさない そういう決断なら、すばらしい。

与えられ 押しつけられ 従わせられている「ワク組」に対する、強い批評、疑問、不審や葛藤から、ぎりぎり選ばれる ゆるし ゆるさない でありたいです。そうでないとイヤだなと、わたしは願っているのですよ、「麗」さん。 湖
2007 9・15 72

* ある人の言葉から。 「私は何0んな場合でも極く自然に、幸福を自分のものとした例を知らない。何時も不幸でもって、幸福を買ったのである。」
2007 9・18 72

* いまも息子に何の用というほどでもなくメールを送って、あわや、葉から露の零れそうに書き添えてしまいかけたものを、消した。いまわたしがものを書けば、それは画家麻田浩が現世の皮一枚をひっぺがして自ら命を絶つまで観ていた、見詰めていたあの地獄でしかない。しかし言葉をかえていえば、あれが麻田さんの理想世界でなかったと誰に言えるだろう。
ちょうど九年前の真夏に、二十日ほどつづけて必ず日に一篇ずつ書いた「掌説」の一つにこんなのがあった。「新潮」の元の編集長が、つよい印象、とわざわざ手紙をくれた。
わたしの地獄か。そうか。

* 星空   秦 恒平

寒かった。
男はほそい襟を立て首をちぢめていた。行くアテがなかった。叩けば音のしそうな星空だ。月はなかった。家ひとつなかった。
男は妻子を殺してきた。殺す理由はなかったが、刃物が目に入り、手にとった途端に殺意が来た。妻は、やっぱりという顔をして薄わらいしながら殺された。白い喉のわきから血飛沫が壁を染めた。三つになる男の子は逃げ場をもとめてキョロキョロした。太い一の字を書くように男は力まかせに子の胸を薙いだ。赤い口をいっぱいあいて、男の子は最期の息をした。ちいさな掌がなにかを掴もうとひくひくした。
男は刃物を手から放し、家を出た。なぜだか、ひどく眠かった。だが眠い以上に寒かった。戸外は、凍った無数のさながら針の束だった。身をもがくように男は天を仰いだ。天はなにも言わなかった。
男は歩いていた。歩いていた。ただ歩いていた。歩いていた。星が瞬いた。天にも地にも瞬いた。いつからか男は足下に踏むべきなにもかも喪い、ただ歩いた。歩いていた。
妻を愛していた。子煩悩な父親だった。暮らしに痩せ窶れたりもしていなかった。なぜ殺したろう。ようやく男はそれを思っていた。思い当たらなかった。
うしろから男は呼ばれた。妻が走って追ってきた。子供もおぶっていた。父親をよぶ男の子の声が、綺麗なガラスが割れるように朗らかだった。殺してなかったんだ、男は歩をゆるめ、それでも前へ前へ出ながら頷いていた。妻も子も殺してはいなかった…。
母親の背を離れ、うしろから駆けながら抱きついてきた我が子を男は掬いあげるように高くさし上げた。子供の胸が、斜めに太い一の字にざっくり裂けていた。しろい細い肋の骨が肉といっしょに砕けていた。ふりむいて見た妻の喉のわきも、骸骨の目ほど刃物のあとが口をあいていた。妻も子も、だが、そんなことにはお構いなく、いつものように喋ったり黙ったりして男といっしょに歩いていた。山も野も川もなかった。星ばかりがぴかりぴかりと大きく瞬いていた。
「おとうちゃん。寒いね」と男の子は言い、声はさほど寒げではなかった。もう大丈夫よと母親が答えた。なにが大丈夫なんだろうと男は思った。自分が声と言葉とを喪っていることに男はやっと気がついた。
この前の前の前の世に生まれたとき、男は女だった。子供を二人産み、姉娘はめしいで弟息子はおしだった。娘の父も息子の父も、濃い煙のように女を息苦しくさせ、風に運ばれ消え去った。
女はめしいの娘に笛吹くすべを教え、おしの弟に鼓を打たせた。母はいい声で歌をうたった。河原は寒く人はなかなか寄らなかった。三人はつむじ巻く雪風にあおられて高い崖から抱き合うて海に落ちたが、母ひとり死んで、子の二人は笛を握りしめ鼓を抱きしめて助けられた。めしいの目はあき、おしは口が利けるようになっていた。姉は長者の妻になり弟は長者のあととりになった。死んだ母親は馬に生まれ、長者の家で迫めに迫められこき使われて、前世の子供たちよりさきに死んだ。
ーー男はいつのまにか馬になって、妻と子を乗せ、歩いていた。ひりひりほ、ひりひりほと妻が笛をふきはじめた。男の子はぽんぽんや、ぽんぽんやと鼓を鳴らす。馬はすこしうなだれ、膝をこっぽり上げては空を踏んだ。行く手で大きな大きな光の輪がとめどなく膨らんだり縮んだりしていた。
殺したのか殺していないのか。馬になった男はまだ考えていた。ひりひりほ…ぽんぽんや…と、大きなまぶしい星にのみこまれても聞こえていた。
2007 9・20 72

* マグマのように声も言葉も沸騰しているときでも、わたしは、静かな一点を自身の内側に信頼している。日記は、一度は書きっぱなしで、その場では読み返さない。何故だか、いつもそうしている。ものすごい変換ミスもそのままにしてある。あとで一括して直している。いちいちその場で読み直していると「作文」感覚になってしまいそうなのを嫌っている。あんまりひどいのに気がつくと、むろん直している。
2007 9・25 72

* 日々のわたしの「紙屑」づくりに似た書き仕事を、「不毛の努力」ではないかと健康を案じてくれる者もいる。感謝。しかしわたしは、そう思わない。
2007 9・25 72

* 『聖家族』を「読みました」という読者のメールが、けっこう届く。
せめてもっと出来のいいものにしたいと、作者としては忸怩とした気持ち。だから「未定稿」のままであり、完成作ではない。いつでも手がかけられるように、長編作品の「ファイル8」に常住、置きっ放しに掲載してある。わたしのホームページは、わたしの「書斎」なのであるから、あたりまえの話。まだ仕上がっていない草稿である。

* それでも読んだ人は、「人物」把握の強烈さを存外に正しく読み取ってくださる。感謝もし、照れもする。小説はやはりそれ、だ、やはりそこ、だ、と思う。
私小説だか何だか断定できずに読んできたが、作中の若い男の性格が、あんまり「胸糞」わるく、途中で読みやめていますという人もある。作品の、それが得点でもある、作者の正確な「批評」である、と言うてくださる人もある。
早く単行本に、待っています、と催促してくださる人もある。
きっぱりと、「もっと良い作品」に有効に再構成し、すみずみまで推敲し、問題の「男」像を峻烈に造形し表現して、「胸糞」のわるさはわるさのまま、「典型像」として現代史にのこる一人を彫琢したい。言うまでもない、「小説」作品として。
2007 9・27 72

*「茶道」という言葉をわたしはたいていの場合避けている。「茶の湯」で足る。茶の湯の開祖といえるだろう一休さんの頃の村田珠光にこんな言葉がある。

☆ 此の道、第一悪き事は、心の我慢・我執なり。巧者をばそねみ、初心の者をば見下す事、一段と勿体なき事共なり。巧者には近づきて、一言をも歎き、又、初心の者をばいかにも育つべき事なり。

* 珠光はむろん「此の道」を「茶の湯」と考えていたが、わたしは「文学」とも、常に思う。「勿体なき事」とは「とんでもない事」の意味、「歎き」とは謹んで教えを請うとか、不審を尋ねるとか、学ぼうとする姿勢の意味。
わたしは、文学の「師」という人を、特定して持たなかった、持つツテも便宜も無かった。だから、古人・先輩の「作」を師とした。だから、よく「読んだ」。もののたとえに、鏡花が好きだから秋声は読まないとか、谷崎が好きだから直哉は読まないとか、荷風が好きだからプロレタリア文学は読まないとかいうことは、決してなかった。
その姿勢は、私の興した、私の創り上げた「ペン電子文藝館」での、私の作品の「選び」をみれば、すぐ分かる。有名無名をわたしは問わなかった、優れた文学とは何だろうと「歎いて」「歎いて」敬愛をこめて選びに選んだのである。関係者達の誰一人、否定出来ないだろう。
わたしは、こと「文学」に関して功名心よりも、深い畏怖をいつも持ち持とうと自身を律してきた。

* 同じ姿勢から、わたしは、文学に志ある人を、どうかして、いいところがあれば伸ばして欲しいと願い、接してきた。わたしの家来にしよう弟子にしようなどと考えたことは全くない。
石久保豊さんという百歳に近い婦人が、八十代の頃から「おしかけ弟子」と自称して近づいてこられ、亡くなるまで親しかったが、それでも私は、いい作品ならほめて紹介し、杜撰な作には率直にそう告げて厳しかった。石久保さんも孜々として推敲された。わたしの「e-magazine 湖(umi) = 秦恒平責任編輯」に掲載されるのを、謙虚に、よろこばれた。
その優れた一代の短歌撰を、わたしは躊躇なく「ペン電子文藝館」の「招待席」にも入れた。すぐ、高名なある詩人から、石久保さんの「兜」がすばらしかったですねと褒めてもらった。
わたしは、佳い素質に出逢うと、伸びて欲しいとほんとうに思う。それは我が子の秦建日子でも、秦夕日子でも同じであった。

* 弟・秦建日子は、永く永く、父にひとことも褒められず、脚本も舞台も貶され放題だった。彼は腐らなかった。初めの頃は、頼まれ脚本の科白を父と二人して推敲した一晩さえあった。それが、「このごろおやじの点が甘いよ、心配だよ」と母親にそっと漏らすところまで、自分の脚で着々と歩んで、世に出てきた。
姉・夕日子の方は、小さい頃から、手を取って文章の書き方や推敲を父に教わってきた。そして、大学の頃から、わたしの読者達も褒めて下さる詩や文章を書きだし、早くから「e-magazine 湖(umi)」に掲載されてきた。その掲載に、一言の「不足」も聞かされたことがなかった。
だが父のことを物陰で「自称作家」「自称文筆家」と書いたり、自身を物陰で「女流作家」と書いたり、作品に対する父の「褒めた批評」は黙って受け容れていながら、すこし杜撰を指摘されるに「高慢に口を出すな」と言うようになっては、やはり珠光の言葉からははるかに遠く、「巧者をそねみ」「我慢・我執」が出てしまっている。
さらにこのうえに、自分は物書きになどなる気はないとか、本気で書く気なんかないとか、自分に「逃げ道」をつくってしまうと、ますますいけないことになる。

* 藝術家の心は、「やわらかい花びらのようであれ」と、亡き森田曠平画伯の若き日々に師の安田靫彦は口癖のように教えられたという。わたしは森田さん自身のお口からそう伺い、感銘を得た。珠光のいう「我慢・我執」が、靫彦のいう「やわらかい花びら」と対蹠の「第一悪」であること、言うまでもない。
「高慢」で言うのではない。早く自身の「やわらかい花びら」の心に気がつき、立ち返って欲しい。
2007 9・28 72

* 昨日村田珠光の「我慢・我執」が第一悪ということを此処に書いた。
この一文は、世に『心の文』と謂われて、茶の湯の歴史でも最も珍重し帰依されてきたものだが、この文、「心の師とはなれ、心を師とせざれ」の一語を「古人も云はれし」ことと挙げて、結んである。かねてわたしの久しく書きついできた、「心は頼れない」「心を頼らない」思いとむろん符合していて、深い。
昨今の「心」一点張りの論や説は、みな「心」をあたかも師として頼って従えといわんばかりに、無差別の心尊重になっているが、「心は誰のもの」と反問すれば、すぐ分かる。自分の心に自分が従っていて、どうして的確で確実であり得るか、四六時中その自分の心に振り回されているのが自分なのだから、自己矛盾・撞着も甚だしい。
此処に謂う心は、しかし「マインド」の意味である。思考、頭に属している。優秀であると同時に、危険な毒を満載した爆発物でもある。聡明な者にはそれが見えている。だからそんな「心」を師としないで、そんな「心」の師と成らねばならないと、珠光ら優れた古人、大方、禅に達した人たちは見抜いてきた。

* 此の『心の文』の、一つ、おもしろい一点を読み取らねばならない。
彼は云う、「ただ、我慢・我執が悪きことにて候。又は、我慢なくてもならぬ(珠光には茶の湯、私には文学の=)道なり」と。そして先の結びの言葉が来る。
此の「我慢なくてもならぬ道なり」を、どう読むか。いまの我々は「がまん」が無い、出来ないのを「辛抱が足りない、堪えてガンバレない」意味に用いている。そういうことか。
此処を「辛抱」と同義にとると、冒頭の第一悪き「我慢・我執」との比例が取れなくなる。「ガマン」では無い漢字の意義を体した「我慢」であり、「我執」とは異なる一つの態度、姿勢、心事として珠光は用いている。一点守りきりたい「個性の自覚・自負・自信」をも、珠光はこの二字に籠めているのではないかと私は読んできた。そこにまた人間の「光る」芯のところを認めて励ましているのだとも。
だいじなだいじな一点として、公案のように私の頭にいつも在る。
2007 9・29 72

* もう一度珠光の『心の文』に戻ってみる。
よく知られた彼の言葉として、「此の道の一大事は、和漢の境をまぎらかす事、肝要々々」とある。先には「此の道、第一悪き事は、心の我慢・我執なり」の「此の道」を、珠光は当然「茶の湯(茶道)」と観ていたし、わたしなら例えば「文学」と置き換えると云ってみた。
しかし、茶の湯とも文学とも限らない、かなり広い意味でこれの謂えることは、誰しも察しているに違いなく、「和漢の境」のはなしでも、同様に拡大解釈が利くのである。
「和漢の境をまぎらかす」と珠光の謂うのを、ふつうは「唐物」「和物」といった「茶道具」のうえの和漢の調和や、取り合わせの工夫なり妙味を云っていると読み取ってきたし、間違いないけれども、人間の、謂うならば同時代知識人の、「人間として偏した臭み」をも戒めていると、わたしは少し深く読んできた。
偏したものには臭みがでる。我慢・我執がからみやすくなる。
今日ないし近代でいえば、たとえば「フランスかぶれ」「中国ひいき」「アメリカンナイズ」あるいは「日本趣味一辺倒」といった臭いヒトもコトもモノもある。
「和漢の境をまぎらかす」 よく高次に昇華する知性がなくて、鼻の先にさも「抱き柱」をぶら下げて歩いているような「自称の外国通や日本通」が知識人の代表者めく顔で闊歩していた、している例に、よく出会ってきた。
要するに体験や見聞が、ただの「知識のレベル」でその人に不消化に沈澱していて、ヒトの血や肉として「こなれて」いない、つまりよく「まぎらかさ」れていないのだなと眺めていた。あれもつまりは「我執」なのだと思っていた。そして、むろん、それが自分には無いだろうかと身を抓ることも忘れないよう警戒した。

* 観世榮夫という藝術家は「大きな混沌の存在」に見えたほど、この「和漢の境をまぎらかす事、肝要々々」を生涯かけて実践していた。そう見えていた。この人には当然ながら、能も演劇であった。そして能しか観ていない人の眼には能として純熟していないとワケ知り顔に謗る人もいないではなかったけれど、それと似たことは、例えば当代の松本幸四郎も謂われている。ま、ケチを付けたい人はいるのである。
しかし、珠光の思いに身をそわせて謂うなら、観世榮夫や松本幸四郎の藝の「そこ」に在る感動や感銘の「光」を受け取れるか受け取れないか、和漢の境をまぎらかすだけの人の「力」の問題に帰ってくる。観る側に「無用の我慢・我執」ができてしまっていれば、素直に感動も成らず、感銘も得られないという、つまりは「受け手」が問われていることになる。
そういうだいじなところが、茶の湯にも文学にも演劇にも、そして「生きる」ということにも、在る。
2007 9・30 72

* 漱石の『こころ』の「先生」を好きだという読者にたくさん出会ってきたが、わたしはそうでもない。どっちかというと鬱陶しい。しかしわたしは彼が、親からうけた遺産を奪っておいて娘を嫁に押しつけようとした叔父を、じつに執拗に死ぬる日までも断乎として許さなかった事実にだけは、なぜか「先生」の唯一熱い血に触れる心地で認めている。欲や得の問題で彼が叔父を赦さなかったとは思わない。わが叔父であればこそ人間のクズを赦さないという気であったのだ、わたしはその点でだけは「先生」に共感する。
2007 9・30 72

* 息子がおもしろおかしげにわが家に持ち込む業界のウラ話を聴いていると、「人の世」のアホらしさやウソだらけに呆れ、一刻も早くこんな世間にサヨナラが云いたくなる。もう、生きていても何一つよいことはないなあと思う。
それでいて、ゆうべおそく、わたしはこんなメールをわたしよりも十も年上の人に書いていた。

* つややかな新米をたっぷり賜りまして、大よろこび、早速戴きました。ふくよかに匂う瑞々しさに感嘆。美味しうございました。有り難うございます。妻も大喜び、よろしく御礼をと申しおります。
急に秋冷えの風情におどろいていますが、なかなかそうは行くまい、まだ暑い日もつづきそうなどと、あれこれお天気の行方を占っています。そういうことを強いられている地球環境の熱化、心配ですね。つい、自分たちは、ま、ひどいめにあう前に‥ などと思ってしまうのも、老境の意気地のなさかと、反省したり、へこんだり。
お互い、大切に長生きして、一つ、先行き「此の世」はどんな風になって行くか、とことん見ていてやりましょうよ。
お大切に、*****さん。  秦 恒平

* 世阿弥の娘婿に金春禅竹、その孫に禅鳳が『禅鳳雑談』をのこしている。そこに、またも「珠光の物語とて」と聞書きしてあるのが、「月も雲間のなきは、嫌(いや)にて候。これ面白く候。」という、一文。
「これ面白く候」は、禅鳳共感のことばかも知れないし、ここまで珠光が云ったとも読める。
いうまでもない、先行した、また併走した同様の喝破に、兼好法師の、「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」(徒然草一三七段)がある。藤原道長の「此の世をばわが世とぞおもふ望月のかけたることもなしとおもへば」からは、千里も遠く離れている。
「月も雲間のなきは」など、深読みはいくらも効いて、批評家の腕を摩するところだが、現在のわたしなど、単純に、「ああ雲間ですか、こりゃこりゃ。なるほどケッコウ」という気持ちでいる。満月ばかり観ていたいなどと思っていたら、夫婦二人の一日の食費が八十円しかなかった日々月々は暮らせなかった。ラジオの空き箱に風呂敷を置いて、そんな「食卓」に妻とチンと向き合っていた新婚の日々は、あれは雲間だったと謂うてもいいし、けっこう満月のように気は澄んでいたとも懐かしく顧みられる。恥ずかしい真似はしてこなかった。今も、下界からは日々黒雲に汚されて見えようとも、雲の背後にはいつも澄んだ天空があるということを、わたしも妻も、ちゃんと分かっている。
「月も雲間のなきは、嫌にて候。これ面白く候。」

* もう十月だから、おどろく。次々に人が亡くなって行く。人って、何のために生まれてくるのかな。ときどき、「きのう」生まれたばかりのように思うことがある。
2007 10・1 73

* 廓庵という大昔の禅者に『十牛図』『十牛詩』のあったことは、今はかなり知られている。
「尋牛」にはじまり「見跡」につづき「見牛」「得牛」とつづく。
失った「牛」を求めての一種の「旅」かと想うまでは、誰にも容易い。そしてすぐ、「ああ、<牛>とはつまり<悟り>のことなんだ」または、チルチルとミチルが捜して旅した「幸福の青い鳥」のようなものだと、あっさり決めつけてしまう。
その段階で、「十牛」は、みんな取り逃がしてしまう。

* バグワンは的確に言う。いや廓庵その人が正確にそもそもの最初に言っている、「牛は一度も失われたことがない」と。
バグワンは言う、「<牛>とは<おまえ>なんだよ」と。
真理とか悟りとか幸福とか、そういう観念としての価値を尋ね、足跡を見つけ、牛を見つけ、つかまえる。そういうことではないのだ。自分自身で見失っている自分自身を見つけるという意味で、無明長夜の夢から覚める、そして自分を覚めたブッダの一人として自覚しエゴを超えて行けというのである。
「<牛>とは、<おまえ>なんだよ」と。
バグワンの最良の導きの一つだった。

* 以下に、バグワンに聴いている言葉は、いずれわたしが命を落としたときに、わたしの、そう「生きたい」と願い続けた<思い>として、想いだして欲しい言葉です。

☆ バグワンに聴く  日本語に訳された星川淳氏に感謝して。

<牛>はすでにそこにいる
探求者が、探求される当のものなのだ
ただ、二三不必要なものがおまえを混雑させている
探索が消極的なものになるのはそのためだ
その不必要なものを落としてごらん
おまえは自分自身を、その一切の光輝のもとに発見するだろう

廓庵は言っている。

〝牛は一度も失われたことがない。何を探し求める必要があろう?
ただ己れの真の本性からの分離がゆえに,私はそれを見つけられないのだ。感覚の混乱の中で,私は彼の痕跡さえも失ってしまう。
わが家から遠く、私はたくさんの分れ路を目にする。けれども、どの路が正しいのか、わからない。欲や恐怖、善や悪が私をもつれさせる。”

そして廓庵は、「理解して、牛の足跡を知」った。

大勢のブッダたちがこの地上に現われた
彼らはみな同じことを教えた
そうしかできないのだ
<真実>は一つだ
<表現>はたくさんある
が、真実は一つだ
彼らはみんなそれについて語った

もしおまえが理解しようとするならば
おまえは牛の足跡を認めることかできるだろう
ところが,理解すること.よりもむしろ
おまえは後につこう(ただ追従し縋りつこう)とする
そこで、おまえは、のがすのだ

<追従>は、<理解>じゃない
<理解>というのはとてもとても深いことだ
理解したときには、おまえは仏教徒にはならない
理解したときには、おまえは、自分自身ひとりのプッダとなる
理解したときには,おまえはキリスト教徒にはならない
理解したときには、おまえは、キリスト自身となる
追従はおまえをキリスト教徒にするだろう
理解はおまえをキリリストにするだろう
その違いは、その差は、すさまじい

前にも話したよ
追従は、「決断恐怖症」だ
<追従>というのは
「もう私はただ単に盲目的に従うだけです もう自分自身の決断などという問題はありません あなたの行くところどこへでも、私はついて行きましょう」 ということだ
<理解>というのは
「あなたが何を言うにせよ、私はそれに耳を傾けましょう 私は傾聴し瞑想しましょう。 そして、もし私の理解が湧き上がって来て あなたの理解と波長が合ったなら そのとき、私は私の理解に従って生きましょう」ということだ。

教師たちは有益だ
彼らは道を指し示してはくれる
だが、彼らにしがみつかないこと
追従というのは固執だ
それは死への恐怖から来る
理解からじゃない

ひとたび、追従者になってしまったら
おまえは路を失っている
ひとたびおまえが追従者になったなら
ひとつ確かなことがある
おまえはもう問いかけなどやめてしまっているということだ
おまえは有神論者になって
「神はおわします 私は神を信じます」と言うこともできる
おまえは無神論者になって
「私は神など信じません 私は無神論者です あるいは共産主義者です」と言うこともできる
だが、どちらの場合にも
おまえが、そういう名の〈教会〉にだけ入ったことに変わりはない
おまえはひとつの教理、ひとつのドグマに参加している
おまえは烏合の衆に、群衆に加わっているのだ それだけだ

探索は「個」のものだ
危険に満ちている
独りで、人は進まなければならない
だが、それがその美しさなのだ
深い独りぼっちの中で
ひとつの思考すら介在しない深い独りぼっちの中でのみ
神がおまえにはいり込む
あるいはおまえに現われる
深い独りぼっちの中で
知性はひとつの炎となる
燦然と輝く
深い独りぼっちの中で
静寂と至福があなたを取り巻く
深い独りぼっちの中で
目が開く
おまえの実存が開く──
<牛の>探索は「個」のものだ、「個」的なものなのだ

私バグワンはここで何をやっているのか?
私はおまえたちを、真に実存の<個>に目覚めさせようとしているのだ ブッダ(覚者)になれと。
だが、おまえは ともすると<群集>の一部でいたがる。

* まったく、この通りであるとわたしは受け容れている。自覚している。

* 仏陀もキリストも敬愛している。尊崇している。
だが仏徒でもキリスト教徒でもわたしは、ない。そうなろうとも全く思わない。
法然も親鸞も敬愛するが、阿弥陀も地蔵も尊崇するが、抱きついて縋る気はしなくなった。
バイブルも読んでいるし経典も読んでいるが、教わることも少なくないが、「わたし自身の探索」に、「わたし自身の目覚め」に、直接役立つとは思っていない。役だっても来なかった。知識として止まった。あたりまえだ。読んでいるわたし自身が夢うつつで目覚めていないのだもの。
わたしは独りで生まれてきたし、独りで死んで行く。
わたしを愛して大事に思ってくれる人もすくなくない、よく知っている。感謝している。またわたしがそう思ったり思ってきた人もたくさんある。それはそれ。それも夢の中のことだ。
わたしはやはり、だいじなところは独りぼっちで歩いてきたし、独りぼっちで感じてきた。それも夢だ。
夢から覚めかけているこの先は、危険に満ちてはいるが、やはりこの先とても、独りで進まなければならない。
深い独りぼっちの中で、ひとつの思考すら介在しない深い独りぼっちの中でのみ、神がわたしにはいり込むだろう、あるいはわたしに現われるだろうと、バグワンは語ってくれる。判らない。縋る気もない。
深い独りぼっちの中でわたしは待つだけだ、わたしが、わたしに出逢うときを。
2007 10・6 73

* 一休の書に「諸悪莫作 衆善奉行」(悪しきをなさず 善きをおこなへ)の二行の大字があった。一休さんにしては書風はやや騒がしく、語も尋常に眺めてきたが、この二行の語が、昨夜読んだ万葉集巻五にすでに出ていて、目をひいた。
この八字句は、白楽天と道林禅師の逸話として知られており、万葉との時代の前後はいま俄に言えないが、逸話よりはやくからむろんこの八字句は通用していたと思われる。
逸話としては、簡単。
白楽天が仏法の肝腎を問い、禅師は此の八字を以て答えた。白楽天はそんなことなら子供でも知っていると不服をとなえ、禅師は子供も知っていることを、八十の老人も出来ないではないかと窘めた、という。
似たことは、他にも、いろいろありそうだ。知識と善知識との差と謂おうか、知識人ほど白楽天と同じ轍をとくとくと踏む。文字を読み本に求めてたとえば「悟り」が得られるかに錯覚している。老人の読書はただ楽しめばいいので、よけいな観念や功徳を求めても仕方がない。都合のいいうまい話はないのである。

* 上の逸話になぞらえていえば、親しんできた茶の湯、その大先達利休という人には心にくい逸話がいくつも記録されている。道林禅師なみにひろえば、大枚の金子をつんで、もっともよい茶道具をと依頼されると、ただ白い布をあたえ、茶巾に用いよと。茶の湯は清潔がなにより、拭いの茶巾の清潔はなかでも肝要と。いささか小癪な気味もあるが、茶巾・布巾・雑巾のきたない水屋や台所や流し場は疎ましいものではある。
また茶の湯の極意を問われて、「冬はあたたかく、夏はすずしいやうに」と答えているのは、実に的確。なかなかこういう核心の所へ凡庸の思いは届きかねる。

* いちばん怖いのは、こうした優れた逸話が、人それぞれにただ「知識」のように蓄えられ、そこで止まって、上へも下へも先へも動かなくなっていること。
2007 10・7 73

* 没後著作権保護年限の延長で、協会は、熱心を極めている。没後にも読まれる作品が書けているかどうかこそが、作家の「問題」なのであり、むろん著作権にも実にいろいろあるのだけれど、こと文筆家の、文藝家のと限っていうなら、没後三十年も保護されれば十分足りていて、現行の五十年でも、いたずらに過剰だと考えている。
こういう考え方の物書きはどうも邪魔らしい、が、この件でわたしは、少なくも自分のことだけを思っている。この問題に限っては、同業の人の没後の権利問題など、わたしには無いに同じい。
昨日ブラジルから来ている「四十億年後の宇宙」の研究者に、四十億年後の宇宙はどうなっていましょうかと問うた人がいた。
応えて曰く、いまと同じでしょうと。
むろん「宇宙」の話である。四十億年後の「人間」の話ではない。もう五十年後の人間が危殆にに瀕しているというのに、没後著作権の保護を七十年にぜひ伸ばそうと。
文学関係者の神経も図太いというか無いに等しいというか。「勝手におしやす」と、わたしは問われればそう返辞するだけ。
2007 10・8 73

* 今日から、来週土曜まで、この土日をのぞいて、おやすみがない。盛りの秋と思うことに。元気に乗り切りたい。

* 冤罪の人を、満期服役させていたと。何なんだ、「法」って。
三輪そうめんの名声を悪用して、類似の名で商売をしていたヤツ。これを知った本家筋が、ウエブで相手の実名をあげて批判しても、「法」にふれるのか。馬鹿げている。いや公共性があるからその場合はいいんだというなら、なるほどね。わたしもそう思う。
かつての文学世界では、相手の実名を挙げて、作品や評論や時に世界観や処世観を藝術観を、互いに木っ端微塵に批評し非難し痛罵しあう例は、当たり前のように、いくらもあった。読んでいて震えそうなこともあったが、それが雑誌にも、新聞ででも、公表されていた。文藝家はその意味で常に公人として互いに遇しあい、プライバシーの侵害だなどといわれなかった。いわれたら、いいかえせばよかった。
学者でもある程度同じであった。学説の差が批判されあうこともあり、辛辣を極めた。梅原猛氏が柿本人麻呂や法隆寺の論で、著名な学者や藝術家を、実名をあげて罵倒に近い非難を敢えてしていたことは記憶している人も多いであろう。それをだけ謂うのではなかったけれど、氏の文藝を「猛然文学」とわたしは評したこともある。しかし氏が訴えられても仕方がない等とは思わなかった。

* 佐高信氏は優れた批評家であるが、彼の筆鋒にかかってさんざんに料理された実名人物は、そのための何冊もの本もあり、数えているヒマもない。相手はみな公人であったのだから、やられてしかるべきは当然と眺めていた。だめなら反論すればいいのだ。
わたしも、自分のウエブで実名を挙げて批判し非難し批評してきた人は、数え切れない。そのなかにはうちの娘婿も入っているが、婿が、その辺の商店主であったり一サラリーマンであったら、私はむろん書かない。婿は名門私大で西欧ヒューマニズムの伝統を教える教授であり、教育者・教育学者として国際的に公人なのだから、こと教育や人間の行儀・礼儀に即して、そこに「非」「無礼」があれば、真っ向、論らわれてあたりまえの話である。口に「リベラル」を誇りながら法廷沙汰へ舅を引き出すなど、聞いたことがない。
2007 10・11 73

* どうしても今のわたしには、自分の著作権を死後七十年も保護して欲しいと言いたい動機も実感もない。生きている間に一つでもまともな仕事をしたいと思うだけ。しかし、他人さまが何を求められようとその邪魔はしない。お好きにおしやす。
2007 10・12 73

* 朝の十時にはかった血糖値が、96なのに、アリャ? 血糖値は低いが、右目は涙で壊滅状態、上瞼のヘンに痛むのも気になる。もう優に一ヶ月になる。改善傾向まったくなく、ほとんど左片目で暮らしている。いっそ眼帯したほうがラクかも。
右肘関節をはさんでキツイ筋肉痛が、肩にまであがってきた。物置の初出本や手紙などを探すのに、しこたま重いダンボール箱を上げたり下げたりしたのが堪えている。
年相応に満身クラッシュ気味ということ。
涙がとめどなく流れ出ているのは、観ようによれば目を洗ってくれているのかも知れない。乾いてしまうと霞むが、水分を呉れるといっときクリアになる。ただ涙はただの純水ではなかろう、一種の粘液なんだろうから、どうしても目のあたりが重くなる。

* 当たる当たらぬは判らないが、ふと「虚」と「壁」ということを考えた。
わたしのこれらの故障は、つまりわたしの「壁」が傷んできたのであり、壁に包まれてある「虚」の問題ではないだろうと。
むかし、茶碗や器の魅力を語って、われわれはとかく器体の美を謂うけれど、器胎という空虚・空間の美に気がつかないでいる、と。器量とは壁のことでなく、内なる空虚の容量や胎様のよろしさなのではないか、と。
豊かな宮殿と貧しい藁屋との差は「壁」だけで観ればたいへんだろうが、内容である「虚」の質は同じ、または別の判断、としなければならない。

* 「壁」は物だもの、どっちみち傷んでくる。放っておけとはいわないが、壁は、ま、二の次で。
己が内奥として抱いている「虚」の問題が大きい。なぜなら本当に自分の「家」と謂えるのは其処だから。本当の人間は内なる虚であると、虚性であるとバグワンに聴いたとき、わたしは頷いた。
2007 10・14 73

* 明治時代に大和田建樹という、実に活動的な文士がいた。唱歌の作詞もするし美文も編むし博文館から「通俗作文全書」といったものを何冊も何冊も盛んに編集出版した。相当な有名人だった。いま覚えている人はほとんど有るまいが。
いまここに『日記文範』という一冊があり、古今の佳い日記文を親切に聚めて楽しませる。四六版のハンディなつくりで、中身は本居宣長の『菅笠日記』にはじまり、充実。『家長日記』『中務日記』『蜻蛉日記』『讃岐典侍日記』などへも溯っており、珍しい編も少なくない。
そればかりでない、本文の上欄を利して、柏原益軒や新井白石等、近世三十大家の短文がみごとに厳選してある。おもむくままに時々手にして、見ぬ世の空気をめずらしく呼吸しているのだが、編者大和田の「はしがき」も、気に入っている。


おのれ八つ九つの頃なりけん。父は京都詰とて。一年ばかりも家に在らぬ事ありけり。母は其日々々にありたる事を。細大漏さず記しおくるとて。或日おのれに讀み聞かせたるに。何がしより芋の餅を幾つ貰ひしとといふ事あるに至り。子供心にこんな事まで書いてあるとて。いたく笑ひしを。さな笑ひそ。かゝる事を書きてこそ。父上も家にある事まで委しく知ろしめし。又人さまの御親切も貫くわけなれば。御身も成長して後日記かゝんには、さる方に心を用ひよとて。其ついでに、日記かく事の必要を説き聞かされしは。四十年来わが身離れぬ教訓とぞなりぬる。
青年に至りて廣島に遊学せしに。いまは世に亡き小山壽といふ友を得たりしが。父上の命なりとて。日記かく事一日も怠らず。或日学校の教師なる英国人が寄宿舎に来り。畳の上に両足投げ出しすわりしが可笑しかりしとて。畫をさへ添へて父上のもとに郵送せんとせしをおのれにも見せしが。共に見て討ち興じたる事ありき。その時母の教へを思ひ出でゝ。おのれは未だ履行せざるに。友は既に履行しつゝ。しばしば父上を喜ばせもし。笑はせもしつらん事を羨みたりしは。これはた十とせを三つ重ねたる程の昔になりぬ。歳月流るゝ如く。一日の怠は百年かへらず。おのれも三十の頃よりは附けたれども。その前のが有りたらんにはと。後悔せらるゝ事こそ多けれ。前車のくつがへるは後車の戒め。青年諸子に勧めんとすること。獨り日記のみにはあらねども。
午の十一月三の酉の日     編者しるす

* 明治四十年八月十三日の発刊本であるが、「はしがき」は前年に書かれている。句読点の「、」を全く使わない。明治の頃には例があった。
こういう時代の書き癖を知らないと、例えば「ペン電子文藝館」の委員校正でも、よく不審をもらす人がいた。それにしてもあっさりとした事例で趣意をとおした、うまい「はしがき」だ。
具体的に具体的にとわたしは人には言う。なかなか出来ないのだが。つい観念的に書いて気分良くしているものだが、後々になれば、具体的な記事には間違いなく勝ちが生きるが、観念的なのはカビの生えていることが多いと案じられる。
2007 10・14 73

* 決断恐怖症 ということをバグワンは常に言う。
だから抱き柱が欲しいし、聖典や教義が欲しいし、逃げ場や物蔭や、規則や法律がほしい。仲間が欲しい、先生が欲しい、子分が欲しい。たとえ押しつけであってもいい、それに従っていれば済む社会や時代の「枠組み」が欲しい。
如才なく人の尻馬にのって、由なき権威の前で、時にいちびり、時にしょげてみせ、それで世渡りに怪我はないという判断のようだ。
だが、いちばんの怪我は、自分で自分を、なさけない奴隷にしているという「卑屈の怪我」である。朝青龍にも亀田大毅にも情けない「弱虫」の素顔が出た。だれもがああいう素顔を持っている。ああいう素顔は威張るときはムチャクチャ威張る。
わたしも持っているはずだ、だが、そういう内心の「弱虫」をひねりつぶし、どんなに寒くても不自由でも、自分の大事なことは自分で決断すると決めているのだから、真っ青になっても震え上がっても、決めるべきは自分で決める。人に従うべきかどうかも自分で決める。従えと言われたら無条件に従うような恥ずかしいことはしない。したくない。

* しかし、こういうことを言いもし、為しもしていると、人は「ゴロツキ」だと指をさす。だがその判断は、つねに自分で「決断」ということをしないか避けている常識人の多数意見に過ぎない場合が、あまりに多い。世の中を平安にするのは、その手の常識人の多数意見であるが、世の中を腐らせるのもじつはその手の常識人の多数意見だ。そういう人たちが、つまり、目に見えない形でただ多数を頼んで、さんざんにいやらしい「強行採決」を日々繰り返している。それがこの俗世だ。

* わたしのことなど、ゴロツキだと思っている人はいっぱいいる。
わたしが自分を「ゴロツキ」かもしれないと言うとき、その意味は、自分で決断してする、安易にひとまかせにしないという意味だ、間違わないで欲しい。
2007 10・18 73

* 一週間、遊んでいたようなもんだけれど、じつは、ほとほと苦痛をいろいろ堪え続けた一週間であった、遊んで楽しんでいなければもたないほど、疲れていた。いつもいつも、じいっと錐を揉むようにして、わたしはいっぱいいっぱい考え続けていた。考えたくもないことばかり考え続けていた。そして一つまた一つ動いていた。動いているから保てていた、心身の平衡が。
こういうときは、一種の離人症的にもなりがちで、メールひとつも自分からはなかなか書けないし、貰っても返辞が出来ないし、そんなこんなで自然来る数も少なくなり、無くなり、するとどうしても「見ぬ世の友」にすりよって行って、眼を酷使することにもなった。眼は、ちっとも良くならない。

* ま、色々の意味で奔命の一週間で、安定剤にも一度お世話になったりした。勘三郎、幸四郎、我當や藤十郎や玉三郎にたすけてもらった。萬三郎や銕之丞にもたすけてもらった。そういうたすけ手に恵まれているのが、わたしの、不徳ながらの徳かも知れぬ。いつも妻が一緒についてきてくれる。なにもしらぬよその目には、さぞや幸せ者にみえるであろう。いやいや幸せ者なのである。
2007 10・20 73

* 「離見の見」という意味のことを言った人は、古来何人もいた。自省とか反省とか翻訳しては、少しくものごとの立体観を見失うだろう。世阿弥や近松は舞台に関わって語っていても、舞台には限らない。

* 一と多とは、静と動とは、ただの反対概念ではなく、全体に統合されうる。活溌という魂の本来は、つねに多も一も、静も動もはらんでいる。与えられた枠組みや慣習でしかものを受け容れられない魂は、常識という名で常識どころか非常識な凡庸に参拝して恭しく柏手をうっている。コモンセンスは活溌な活動の中で生き生きとはたらく。一貫性も整合性も、一つ間違うと枠組みへのただ怠惰な追従になる。一貫性を破り整合性をアクティヴに破ってゆく生気や生彩のなかで創造的なセンスが場を生んで行く。勢いある場はほんとうに佳い意味の「関心」が生んで行く。
バグワンも言うように、「創造性というのはけっして無関心ではあり得ない。創造性は構うものだ。なぜなら創造性とは愛だから。創造性とは愛とこころづかいの機能なのだ、創造性は無関心ではあり得ない。」「創造性にはおまえが一つの流れ、激しい情熱的な流れでありつづけることが必要だ。」「無関心を通るとすべては凡常なものになってしまう。」するとそういう人間は些細な日常的な仕事まで見捨てがちなる。
そんなこと、と、バカにしはじめ、そして枠組みにゆだねて「放っておけばいい」という無関心を、さも何かの悟りのように誇り始めるが、それはラチもない逃避であり決断恐怖であり、わるいことにそれがまるで宗教的な悟達かのように錯覚するが、彼らはあらゆる意味で何も達成してやしない。
達成とはポジティヴなもの、つねに創造的なものだ。それは「きまりごと」でもないし「統計的な数字」でも「ただ多数の理解」でもない。創造性は、敷かれたレールの上ではもう喪われている。創造性は弓なりに引き絞られた緊張のなかでしか生まれはしない。その弓は、自分の意志と力とで引き絞るしかない。

* そこに道が出来るかと思えば、その道を拓くべきだ。誰かが拓いてくれるのを待っていてはだめだ。道案内に頼りすぎても安易になる。まるで頼らないのも安易になる。

* 一瞬の決断がモノをいったことが、長い人生で何度もあった。
京都を去ろうと決めた。私家版を創ろうと決めた。太宰賞にすでに当選していた授賞作を、ただ一夜で徹底的に、新作のように徹底的に推敲して公表した。あれをしていなかったら、その後の作家の道は嶮しく、わたしは早々と文壇からこぼれ落ちていただろう。
「湖の本」が必要だとも、ほとんど一瞬で決めた。「ペン電子文藝館」が創れるとも一瞬で決意した。息子が会社を辞めたいと言ったときも一瞬で同意した。
あれもあった、これもあった。中にはそれまでの思いや考えと違う決断もあったが、躊躇わなかった。
「現代」は「伝統」の最先頭で沸騰しているものだが、自身の「今・此処」も似た意味で沸騰している。二十歳の青春でも、四十の壮年でも、古希過ぎた老人でも、同じだ。
決断をおそれてはいけない。また無関心という名のただの怠惰に安住してもいけない。
そうしたいなら、そうすればいい。世間がそう言うからそうする、そうしないというもっともらしい賢さには逃げこまない。クズよりはバカがよろしい。
2007 10・25 73

* 何千人という人たちがおまえについていろいろなことを言い、おまえが思っている「おまえ」という人間とは、言われている無数のそれらを寄せ集めたに過ぎないのが、分かっているのかと、バグワンは指さすように言う。
そんな寄せ集めは、むろん矛盾しあう、ごったまぜだ。おまえはそんなものを「自己」と呼べるのかと、バグワンは手厳しい。そして肯綮にはまっている。

* 「自己」とは、そんなごったまぜの、矛盾だらけな一切を、きれいさっぱり落として、そんなぼろぼろは脱ぎ捨てて、はじめて「可能」になる。鏡(他人の想い)に映った自己を信じこんではならない。
自分にも他人にも分かっている自分を、つい確かだと思いやすいが、安易な妥協の産物でありやすい。
同様に、他人には分からなくて自分でだけ分かっている気の自分も、自分には分からないのに他人には見えているらしい自分も、安易に頼んではならない。他人にも自分にも見えていない自分が「内奥」に隠れていて、掴みとれていない。
掴むためには、いろんな襤褸を脱ぎ捨てるしかない。
バグワンが謂うだけではない。荀子のような昔の人も、つとに「解蔽」、つまり襤褸を脱ぎ捨てよとおしえていた。

* みんなで渡ればこわくないと思っている。集団に包まれていると安心だと思っている。「集団 mass」という言葉は、ラテン語の「massa 鋳型にはめられたもの、こねられたもの」から来ているそうだ。
社会教育という名の集団指導は、そういう鋳型にひとをこねてしまう。誰かに都合のいい「枠」に組み込んでしまう。規則や法は、その一の先兵だ。人は自虐的なまでその前に服従し、甘んじて安んじてこねてしまわれたいと身を投げ出している。しばって貰いたがる。
バグワンが優れた叛逆精神をと謂うときは、mass にこねまわされないで、たしかなアイデンティティを体現せよということを示唆している。バグワンを全然知らない昔から、わたしは「こねまわされる」のは、嫌いだ。
2007 10・30 73

☆ 文学と音楽と、なんだか似ているなぁ。
私は音楽の人間ではないけれど、なんとなく、そんな風に思いました。
絵画も、文学と似ているなあ。  淳

* 文学はほんらい音楽です。文学の根は詩歌ですもの。優れた文体は、音楽です。
「音楽」と書いて「音学」と書かなかった幸せを感じるとき、
「文楽」と書かずに「文学」と書いてしまった不幸を思います。
文学を絵画のように想いはじめたときから、文学は「映像の手下」とおちぶれ、「文学の音楽」を見捨てはじめたのではないでしょうか。
文学は音楽です。  湖
2007 11・1 74

* 大きな国語事典に新版ができるつど、時代に根付いたと目された語彙の幾つかが付け加えられる。なるほどと思ったり、どうかなあと思ったりする。時代に置き忘れられた語彙もあるだろう、そういうのは割愛しているのだろうか。
いまわが家を念頭に、わたしが秦家にあずけられたたぶん四歳頃を思えば、家屋の造りで歴然とちがう箇所がある。まがりなりに畳の部屋が上と下に五つあった。いまのわが家に畳の部屋は三つしかない。畳でない部屋が二つある。どっちも狭い小さい家である。ただ、今は地所つづきに西にもう一棟を亡くなった両親が買って京都から移ってきた。わが家に溢れたモノたちで物置に使われている。

* 「台所(キッチン)」が、今は、昔ふうに謂うと「おいえ」の上にある。昔は土間に「流し」場があった。「走り」と呼んでいた。表から奥へ細く通じた土間を、ことに流し場や洗い場や井戸のある辺を、「走り」と謂っていた。「走り」なんて、昔の辞典に出ていたろうか。今はどうだろう。ときどき昔のわが家の「走り」のさまが目に浮かぶ。

* 隣組があった。いまでも「班」といった緩い縛りがあるのかも知れない。むかしの我が隣組は、たしか滋賀県だか隣県にいる一人の「家主」の持ち地所・持ち家だけで組まれていた。東西南北、ほぼ正方形の地所であった。北側に表通り(新門前通り)があり、通りに面して三軒が在った。東の一軒と西の二軒長屋との間に、自転車ならかろうじて裏ン町へ走り抜けられる細い抜け路地が通っていた。
この路地の奥に、表の二軒二階長屋の幅と同じ奥行きの三軒二階長屋が、抜け路地へ表間口をあけていた。短冊なりの地形に、北間口の表の二軒と、路地向き東間口の裏三軒とが、かたまって「借家」を成していた。路地の東側は「母屋」の体に、表通りに間口を開き、奥に離屋(はなれ)と土蔵と、もう一つ奥にも平屋の離屋が、一連に出来ていた。奥の建物はみな抜け路地へ西向きに間口を開いていた。
ほんらいならこの路地の東に「大家」が住むという「つくり」に、全体で大きな正方形の地形が構成されていた。
秦の父は、敗戦後に、借家住まいだったその「母屋」の「表」と、離屋(裏)との二棟を家主から買い取った。その以前は、離屋にはべつの母子家庭が暮らしていた。奥の土蔵まで、さらに奥のもう一軒まで、父には買う気も余裕もなかった。
狭い狭いと思っていたが、近隣では平均的な家屋だった。「母屋」ふうなだけ、長屋づくりより奥行きがあった。「走り」が長かった。離屋を買ったのは、独身の叔母がそこで茶の湯や生け花の師匠をして自立できるように兄である父がはからったのであり、勇断であった。叔母は叔母なりにかなり成功した。戦後のどさくさで世にあふれ出ていた由緒のある、筋のいい茶道具を、古門前の老舗の道具屋「林」を介して可能な限り手に入れ続けられた。

* 「走り」という言葉を思いだしたばかりに、ついものを思いだした。あまり、よい傾向ではない。
これから聖路加へ受診に。気分次第で都内を楽しんできたいけれど、じつは夜中に攣って痛めた左足が歩行不自由なほど痛い。美術展がダメなら寄席か映画でもとひとり思案しているが。いまはたまたま校正すべきゲラもない。世界史と千夜一夜物語とを持って出かける。
2007 11・2 74

* 糠に釘を打ち続けているような倦怠感や徒労感が襲ってくると、わたしは真っ先にわたし自身と闘い始める。自身を腐らせてはならないから。
2007 11・2 74

* 昔から、なぜか天気のいい日とされてきた。

* やす香のお墓に、好きだった「のど飴」をあげてきましたとお友達の優しいメールが届いていた。ありがとう。

* 親しいある人の言葉ですとして「人生の消費税」ということを書き込んだメールも届いていた。消費税はやむをえないが、無用に高く払いすぎないように言われた、と。その人の創意になる言葉であるなら、近頃にないいい表現だ。
むやみと消費税を払い、心身ともに困憊してしまう人がいる。想像以上に大勢いる。自分だってそうかも。
過剰には払わない確かな調節に、「生き方」の、或いはうまい或いはへた、が現れる。ケチってもいけないが、ほどほどに惜しまないと、放埒に自身をモノの餌食にしてしまう。

しづかなる悲哀のごときものあれど われを かかるものの餌食となさず
石川不二子

みずから求めて餌食になろうとし、自虐の自己表現を自意識する人は、少なくない。「われをかかるものの餌食となさず」という歌人の決意はまれに見る強い表現になっていて共感する。よく生きるための消費税は「適切に」支払うのがいい。払いすぎて「元本」を、身も蓋も無意味に無くしてはならぬ。
2007 11・3 74

* どうして「生きざま」などという醜い物言いがこう流行するのだろう。
「死にざま」という言葉は在る。在るが、決してホメた物言いでなく、見苦しく、行き詰まった死に方、犬死にとか野垂れ死にを謂うのである。「ざま、サマ」は久しく蔑辞として用いられてきた。「ザマァみろ」「なんてサマだ」と謂うぐあいに。
しかしそういう死に様は事実あるのだから、その言葉は辛辣な批評語、むしろ悪罵として世間に通用した。
だが「死にざま」という言葉があるのだから「生きざま」があっていいと使い始め、尻馬に乗って流行らせてしまった鈍感な人たちの顔が見たい。いやいやそんな顔は今やいつでも幾らでも見られる。今しも、ゲーノー人がまじめくさって「ぼくの生きざま」を語っていたが、滑稽に聞こえた。「生き方」「生きよう」という普通の物言いがあるのに、なんで俺の此の「ざま」を見てくれとなるのか。喋って稼いでいる人たちに、今少し、敏感な語感が働かないか。
文学だけではない、そもそも「言葉が音楽」であることに、音楽好きな現代人、いま少しセンスよくなれないかと情けない。「すごーい」「生きざま」を平然と無自覚に見せているとは‥。凄い時代だ。
2007 11・3 74

* 市ヶ谷河田町。東京へ来て、六畳一間の新婚生活をはじめた町。となりが牛込だった。牛込という地名だけは京都にいた頃から頭にあった。都電の駅に牛込とか神楽坂とかあって不思議なほど親しめた。
女子医大の看護短大に学んだという人からメールをもらうようになり、しきりに河田町十二番地みすず荘の昔をよく思い出す。ここから六十年安保の国会デモにも通い、ここで夕日子が生まれ、肌を接するほど直ぐ近くに東京女子医大があり、フジテレビがあった。三島由紀夫の自決した旧陸軍省も、国立東京第一病院も近かった。
牛込北町へ坂を下りて行く途中には古いちいさな映画館もあり『おはよう』『秋刀魚の味』などを妻と観た。
あのころは乗り物賃を出せなかったから、ひたすら歩いた。歩いて身にしむようないい場所は近くになかった。それが京都懐かしさになり、それが小説へわたしを追い立てていたかも知れない。秦さんの書く京都は、ふかふかの絨毯をふむように足下が豊かに深いと筑摩の編集者が言ってくれたことがある。必ずしもホメタとは限らないが、宝のように保存してきた京都を書いているという自覚は、いつももっていた。
2007 11・4 74

* 第五回の審尋のある日。報告しだいで、また当分、イヤな心労の日々になるのであろうか。

* 人を傷つけるのは容易いが、人を励ますのは難しい。藝道にある人は、おそらくこの言葉を金科玉条とされているだろう、日本の藝の基本が祝言藝であり、衆人皆楽、壽福増長にあるのだから、当然である。この当然が、必ずしも今の藝能で大切にされているか、かなり疑問のムキもある。

* 文学の徒は、では何を大切にしてきたのだろう。古めかしいかも知れないが、やはりわたしは「人間探求」であり、そうである以上、人を励ますという最終の効果は願わねばなるまいが、目的としてそれを過剰に意識することには賛成してない。
また人を愚かしく傷つける暴発は嗤うべきだが、探求の鋭さが必然人を傷つけることがあって、それまた至当で必然のことだと考えている。それを懼れていては社交は円満であろうが表現や創造は半端に終わる。文学は祝言藝ではない。文学は追究の藝術であり、その表現や達成が結果として人を励ますモノであれば最良だと思う。文学は妥協の所産であるとき必ず通俗な読み物に終わる。ひまつぶしは出来ても人間の底知れぬ闇に光をさしこむことは出来ない。
2007 11・5 74

* 逢花打花 逢月打月
出典は調べていないが、玉室宗珀の書に。「打」一字は「打(だ)し」と訓む。打つ意味でなく、「受け容れる」の意。風流の花月、自然の花月と謂うにとどまらない。極端な場合、花とは生、月とは死でありうる。逆でもいい。美でも醜でも、戦争と平和でも、悪と善とでもありうる。そして「受け容れる」とは「受け容れない」ことである。だから「受け容れる」のである。花も月も、何処に在るというモノでない。無いモノでもない。「打」とは、颯爽。
2007 11・5 74

* からりと晴れているかと想ったが、そうでもない。天気はふしぎだ。心身の元気に照応し呼応している。天も身内もおなじ空なんだ。

☆ バグワンに聴く  講話の訳者に感謝しつつ

恐怖から、おまえは他人に従いつづける
恐怖から、おまえは<個>になれない
だから
もしおまえが本当に<牛=真のお前自身>を探しているのなら
恐怖を落としなさい
なぜならその探索は、危険の中を進む
冒険をしなければならない、そうしたものだからだ
それを、社会や法や群衆はよく思うまい
社会や法や群衆はなんとかしておまえを引き戻し
恐怖を抱いたまま姑息な安全に安住していたいおまえでいさせたがる

もしそこに恐怖があると
おまえは,それと遭遇する代わりに
神に祈る、助けを求める──
貧しさ
おまえの内側の貧しさを感じる
と、おまえはそれに遭遇することよりも
富を蓄積し続けていって
自分が内側で貧しいことを忘れられるようにする
自分が自分自身を知らないことがわかると
この無知に遭遇することよりも
おまえは知識を寄せ集め続ける
知識人と呼ばれたがる
おうむみたいなものだ
そして、借りものの知識をくり返し続ける

みな逃避だ
もしおまえが本当に自分自身と出会いたかったら
おまえはどうやって逃避しないかということを学ばなければなるまい
例えばもし、真実怒りがある──
それならそれから逃げないこと
遭遇 encounter
生は遭遇されなければならない
それが何であれ目の前に来るものを
おまえは深ぁく覗き込まなければならない
なぜなら、その同じ深さが
おまえの<明知=自己知>となってゆくのだから

もしそれが怒りなら その怒りの背後に、牛の足跡がある
もしおまえが
あれこれから恐怖と怠惰とで逃げ出していたら
おまえは探し求めている「牛の足跡」からも逃げていることになる

* わたしも怖くて逃げ出したいが、バグワンに聴くまでもなくそう思ってきたから、いまは「抱き柱」は抱かないでいる。社会からも法からも群衆からも嫌われ見捨てられるだろう、まちがいなく。だが、わたしは内なる「牛」を求めている。だから逃げない。遭遇したモノは深く覗き込んで、それが奈落へ誘う闇かも知れなくても踏み込む。「いま・ここ」に立つ、だけ。

* 逢花打花 逢月打月   花に逢へば花に打し 月に逢へば月に打す  わたしは上のように、此の花も月も受け容れる。見ようによれば今のわたしは、晩節をけがし汚濁と醜悪にまみれて藻掻いていると見えるだろう。だが、そうだろうか。一人の作家として、人として、それが「月」で「花」でないわけがない。
この日録『闇に言い置く私語』は、『晩節』と題されていいわたしの「文学」である。書くな、書くな、書くなという声もある。身辺にもある。父を法廷に引きずり出して躍起になっている者達は、まさに「書かれる」のがイヤなのである。
なるほど。
だが、しかし。
なぜ、なにを、父に書かれているのか。それは考えないのか。
2007 11・7 74

* 待合いで、たくさん世界史の「第一次世界大戦」総力戦の国際状況推移を読み進めてきた。東洋では対中国支配に日本は漁夫の利を得て、ほとんど狡猾なほど悪意の算術で外交を切り回していた。いまの日本の外交と大違いだ。高価な金銭を支払って大量の石油を買い、それを外国の戦争行為への支援に無料で提供し、しかしそんな戦況はちっとも好転していない。それを称して「国際協力」だと。失笑ものである。
第一次大戦のころの露仏英三国協商に加わってイタリアも、ドイツ・オーストリアを裏切り、さんざ断り抜いてきた日本も、中国の利を固めると戦勝後の講和へ加わるべく、ちゃっかり参戦に踏み切っている。列強も、ドイツも、社会主義者まで内閣に加えている。
いまは、孤独な平和への提唱者だったロマン・ロランの挫折し掛けながらも、ねばりづよく「平和への良心」たろうとする発言や行動を見守っている。すぐれた知識人や文化人の多くも戦争に協調を唱える人たちが多かった。だが、国民の疲弊は各国ともに目を覆うばかりのひどさ、日増しに深い。タンク、飛行機、潜水艦、毒ガス。戦場だけが被害を受けるのではなかった。

* 最近、テレビで、小沢昭一がインタビューを受けていた最後の最後の一言に、「戦争はいけません、しちゃいけません」と語っていたのが、胸にしみた。また今、毎夜読んできた亡き観世栄夫さん傘壽直前の遺著、『華から幽へ』でも、実に力強く、戦争への反対を語って、平和のためになら何でもする、何でもしてきたと言い切るのを、繰り返し聴いた。生きがたい時代を、真摯に生き抜いてきた真の「大人」真の「藝術家」真の「藝人」の性根の確かさ太さに、こころからの敬意と共感をわたしは覚えた。

* 歴史に学ぶことを忘れてはいけない。忘れはて、また気も付かないでいるどんなに多くの大事なことに、気づかせてくれるか。

* むろん、気づくだけでは何にもならない。今年ノーベル賞を受けた地球温暖化を警告し続けてきた団体の責任者、インド人の博士が創り上げた「報告書」の科学的な重みを縷々述べていたのを、わたしも聴いた。だが、問題は「報告書」に従って起こす決断であり行動でありその遵守であるが、そのためには強烈な「政治」の施策と指導と達成がなければいわば紙片の山を築いたに過ぎなくなる。それが問題だ、各国の政治が糾合されて一致団結して「報告書」を「活かす」のが、問題だ。
が、わたしはどうにも楽観できない。人間を、人間のエゴと怠慢とを日々に思い知るとき、わたしは、だんだん集団としての人間の誠意が信じられなくなっている。その人間たちが形成している国家のエゴイズムは、もっと甚だしい。そこで蠢いている現代の政治家たちのエゴイズムたるや、さらにさらに甚だしい。
三十年で北極がなくなるというコマーシャルがすげない程、当たり前な声音で流されている。誰がその暗い意味について、おそれ、うれい、たちあがり、手を打って、実現するのか。
若者よ。知性の人たちよ。体力をもった人たちよ。才能と実技にたけた若き有名人たちよ。その個人技をりっぱに達成したときには、人びとが盛んに拍手しているその瞬間に、一言でいい「地球環境」について世に広くうったえ勧めて欲しい、政府と政治家とを動かしましょうと。昨日の野口みずきのマラソン力走は素晴らしかった。あのすばらしさが生む影響力や感化力で、一言アピールしてくれたら、信じられない力への一押しになるはずだ。彼女にはわるいが、ただゴールを新記録で走り抜けただけでは、それでおしまい、それだけだ。人々を感動させたのは素晴らしいが、感動した人たちの、人間の「寿命」が残り少なくては、やはり、はかないではないか。
2007 11・18 74

* 一尾の魚が魚の女王に尋ねたそうだ、「海」ということをイヤほど耳にするけれど、海って何処にあるのですかと。
女王は笑って答えている、
「おまえは、その海の中で生まれたのです、その海から生まれたのです、おまえはその海の中で生きているのです。いま、この瞬間──おまえはその中にいるし、それはおまえの中にあります。そして、ある日、おまえはまたその中に消え去って行くでしょう」と。
バグワンが、そう話してくれている。あたりまえのように想っていながら、こう話されてみてあらためて、そうなんだと思い、すこし安らかなものに触れた心地でいる。
わからないのだ、あまりにも自然にそのなかにいるので。「全体whole」とバグワンはいつも謂い、おまえはそのなかにいると。おまえは一葉の波のように生きているが、いつしれずwholeの海に溶けて一つになると。生もなく死もなく、ただ海がある。全体がある。
そうなんだ。
2007 11・19 74

* 人に指さすように、あなたは、きみは「身内」だなどと言うことは、極めて例外はありうるにしても、ま、ありえない。小説『畜生塚』の語り手が、ヒロインに告げていた「真実の家族は本来の家へ帰った日に、はじめてわかる」というのが本当だろうと想う、そういうことが、あり得るとして。
2007 11・19 74

* 昨日今日の冷え込み、いいや寒さに、竦みそうになるが、ぐっと立て直す。
昨、深夜、ひさしぶりに撮り溜めた四季の花のいろいろを、一枚一枚眺めていた。
写真は光が捉えた影にすぎない、どう美しく見えようと匂いもしない。手に触れることも出来ない。誰かの言葉に聞けば、「リアリティー」ではない。
人間はとかくして、リアリティーを忘れ置き去りにし、「影像」で心を癒してしまう。癒されたと思いこむ。それが習慣になり、この代用品がホンモノに錯覚されてくる。事実、そうなっている。
だんだんホンモノのリアリティーを無用かのように省みず、とどのつまりは人間関係までも、メールやケイタイでのやりとりの中に溶かし込み、リアリティーをむしろ煩わしくしてしまう。苦しい重い現実の人間関係から逃げ延びて、テレビの前でラチもないドラマやニュースを真実かのように惑溺し、そこへ一切の理解の拠点を預けている。機械の毒の最たるものが、コレだと、よくよく自覚していないと、とても内奥の「牛=リアリティーである自身」には出逢えない。夢の中だ、目覚めることのない、たわいない夢だ。

* そんなことをしたり言ったり書いたりしていて、人があなたをどう思うかと、よく言われる。
人がわたしを。その「人」は、どれだけの人数いるだろう。百人、千人。その人たちがわたしについて思うこと、評判すること、それらの「全部」を熊手でかきあつめて、その総体が「わたし」なのか。
バカを言っちゃいけない。そんなものをゴマンとかきあつめても真の「牛」はみつからない、それらは「影」に過ぎない。
わたしがわたしを捉えて目覚めなければ、目覚めて、観て、捉えなければ「わたし」など在るわけがない。
人の評判で自身の像を造った気になるほど、間違いや、矛盾や、撞着多くて、影より儚い物は無い。まして、その中からつごうのいいところだけ拾って「つづれ織りのボロ」を着てみても、内なる何をも確定できはしない。
その意味で、わたしは私について語ってくださる多くの声をこの「私語」に拾うときにも、戴くときにも、親愛や真心に感謝はすれ、それを堅固な「柱」と錯覚し抱きついたりしない。相対化に資するのである。そしてどのような相対化も相対化であればこそ、ただ「影」の濃淡だと眺めている。実のわたしを、わたしはまだ見定めていない。くやしいがそれは、確か、だ。
2007 11・20 74

* 「雅致」ということばすら失せているようだが、わたしは忘れない。
自身の振舞いや文章にそれが稀薄になっているのをいつも歎いているし、また人の振舞いや文章に、いつもそれを求めている。
何であろう、雅致とは。
聡明さからくる落ち着きではあるまいか。
2007 11・22 74

* 「淳」さんの玉手への感情移入は、さこそと共感する。鏡花の『外科室』とリンクされたのも佳い、われわれ自由な読書人・観劇人の在りようはこれでいい。
「いい読者」は「いい記憶」の持ち主と、ナボコフは言っている。一つの作品の中のあれこれを覚えているだけではない、自分の生きてきた感動のさまざまをよく覚えていて、おもいもかけぬところとところとが、釦と釦穴のようにひたっと合ってくる喜び。そういう喜びはいっそ「創造・創作」に近い。
ナボコフが、やはり「いい読者」の条件に挙げている「少しでもいい創造力・創作のセンス」と望んでいたのが、是に当たるだろう。
2007 11・25 74

* 幸四郎・染五郎フアンと思しき人たちの「mixi」足あとが増えている。歌舞伎フアンは決して少なくない。
幸四郎・松たか子が親娘で往復書簡中の、毎月の「オール読物」今月号が、一昨日「高麗屋の女房」さんの手で届いていた。今月はお父上の番で、国立劇場で「俊寛」を演じていた最中の手紙であり、冒頭から俊寛の話題であった。
高麗屋は、「俊寛」の型が、初代吉右衛門で大きく完成したことを書いておられ、まさにその通りだったと思う。そして今も俊寛を演じるのは、幸四郎・吉右衛門兄弟と、この間の演舞場の中村屋がもっぱらであり、中村屋のお父さん先代勘三郎は初代吉右衛門の実弟で、兄の薫陶あってやはり俊寛を大事に演じた人であった。むろん今の高麗屋のお父さん、先代幸四郎も俊寛はとびきりの当たり役だった。
今回の娘あての手紙で当代幸四郎は、繰り返し「俊寛の人柄の優しさ」を強調されている。
また、他の総勢が赦免の船に乗ったあと舞台で、独り残された島娘の千鳥がかきくどく場面についても、たいへん貴重な証言をされている。
あの千鳥の場面を、高麗屋はかつて「長い」と感じていたと言う、が、現在ではべつのことを思って、あの間の長さに意味深いものを認めている、と。
あの「長さ」は、一度は船に乗せられた俊寛の、このまま行くか、それとも船には千鳥を乗せてやろうかと惑い迷う葛藤の時間なのだ、と。
これには教えられた。あ、あ「いい読み」だなと思った。

* 一方 俊寛の「優しさ」ということであるが、言うまでもなく彼が船を下りた決断には、少将成経や新婚の千鳥への思いあまっての配慮がある。
同時に、たとえ京へ帰れても、もう我が愛妻東屋は死んでいるという、すべて詮無き絶望も在る。優しさと絶望とどっちが大きいと比較はならないが、絶望には亡妻への愛の深さの裏打ちがあり、それもまた俊寛の優しさへ帰ってくる評価ではある。
ただ、「優しい俊寛」像は、あくまでも戯曲の作者近松門左衛門の、解釈というよりも創作であり趣向であり、十二世紀の実像俊寛がどうであったかとは、全く別問題なのである。
平家物語諸本を調べ読んでて、容易に読み取れるのは、俊寛のいわば剛情我慢であり、我執偏屈であり、決していい人柄には書かれていない。また鬼界島に流されて以後も、成経、康頼ともに神仏への祈願行業に熱心であったのを、俊寛独りは見向きもせず頑なで無信心であった、少なくも信仰厚い高僧善知識とはとても見受けがたい人物であったと書いている。
もともと鬼界島への流罪は、公の罪ではない、清盛一人の怒り・怨みに発している私刑なのであるが、ことに俊寛に対する清盛の憎しみには、そういう俊寛の性質もかなり加わっていたらしく読まれる。彼一人を鬼界島に置き去りにする憎しみはいかにも過酷な、わざとの仕打ちであり、それが、ひいては「平家悪行」の最も象徴的な行為と世人の目にも映じて、ここから急激に平家は衰運へ滑り落ちて行く。
平家物語での実にそういう微妙な位置に俊寛事件は大事に布置されている。同時代人の目に、俊寛は平家を呪い落としたのである。その点で、讃岐の崇徳天皇と鬼界島の俊寛とは、並び立って平家の栄華を呪う大怨霊だった。金毘羅と厳島への信仰もついに平家一族の海没を救い得なかったのである。

* 俊寛のそんな怨念を、みごとに清く救いとったのが、近松門左衛門であったことになる。彼は、貞女東屋の自裁、千鳥と成経の祝言という二つの虚構を用いて、俊寛に絶望と慈悲心との二つをあたえ、餓鬼道、修羅道の苦をさながら現世でもう味わい尽くして、のこるは往生浄土のみと、自ら鬼界島に「居残った」のであり、ここに平家物語の「置き去り」俊寛ではない、別の新たな俊寛像を創作したのだった。
高麗屋さんの「俊寛の優しさ」発見も強調も、近松の「居残り」俊寛において、正確な「読み」になる。船へ未練の「おーいおーい俊寛」で終わっては近松の趣旨に添わない、それでは平家物語の無惨な俊寛のままになる。
演舞場の勘三郎も、国立劇場での幸四郎も、近松俊寛の「絶望と優しさ」に共感した頓生菩提のけはいを漲らせて、わたしを喜ばせたのであった。
2007 11・25 74

* 昨日はあんまりしんどかったし、ビートたけしの『点と線』は後半で足りていると、今夜は腰を据えて観た。
前半を観なかったのが惜しいとも、それはもう無くてもよかったとも思いながら、引き込まれた。
そしてクライマクス。おときと佐山との殺人すら否認したまま、安田夫婦が青酸カリ心中し、汚職の真相はすべて闇に葬られ、大臣も局長もさらに一段二段の栄達か…となったとたん、わたしは激怒にとらわれ、前の食卓をひっくり返したくなり、泣いてしまった。何度こんな口惜しい思いをこの戦後させられて来たろう、わたしたち国民は。
何人も何人もの暗い死が国の犯罪、政治家の犯罪を押し隠して、無辜の者の死や不幸をさらに蹂躙し続けてきた。
ビートたけしの演じた刑事の無念が無念だと思うより先に、わたし自身の胸の奥で焦げ付いていた無念が火を噴いたように、わたしは激情にかられそうになり、泣いて鎮めた。

* わたしが、日本の文豪はと聞かれると、藤村、漱石、潤一郎と答え、しいてもう一人というなら松本清張を付け加えながら、清張を読むのはあまりに辛くて口惜しくて、救いが無くて、カタルシスがなくて、ファシネーションに徹して欠けていてと「悪口」を言わずにおれないのは、要するにこの『点と線』の話の持って来かたが、松本清張の長所でも特徴でもあり、後味の悪いことも無類だと唇をまげてしまうのである。
だが、ドラマづくりは堂々として立派で力が漲っていた。以前に松本サリン事件に取材した映画を試写で観たが、あの大味な薄味とくらべると、緻密に本腰の入った写真もしっかりした、配役も演技もみな気のはいった「一級品」であった。
こんなテレビドラマが創れるなら、少なくも志のある作者たちは、どうか、やすもののオモチャみたいな消耗ドラマから立ち直って、観客の喜怒哀楽をピュアな情熱としてハッサンさせてくれるモノを、見せて欲しい。

* 芯にいた刑事ふたりはもとより、柳葉と夏川結衣との夫婦役も堅実であった。警察とか捜査とかいうものをナメたようなドラマが多すぎる中で、後半しか観ないドラマだったが、衿をただしていた自分が気持ちよかったし、激怒し悔しがってぶち切れかけた自分もゆるせた。
2007 11・25 74

☆ 長兄を亡くしてしまいました。  楊
この27日が通夜となります。
「死なせた」と言うことより「死なれた」という感慨のほうがとても大きいです。心が詰まって言葉になりません。   また後ほど・・・・・。

* もしや 私の群馬で存じ上げている**さんは、あなたと、****さんとおっしゃる久しく湖の本をお支え頂いた方があるのみですが、その方のことでしょうか、年配からも、なにとなくそのように察しられますが。
死なれるのはかなわない。それが私の文学を下支えた基本の思いでした。自分の死ぬのは一度ですが、なんと生涯に多くの死なれて・死なせてに遭遇することでしょう。
こころより哀悼の思いを届けます。お大切に、お嘆きをむりに抑えられることなく、悲しい限りを歎いて泣いて、しばらくはともに亡くなられた方の近くにいてあげてください、そして帰ってこられますように、あなたの世界へ。『みごもりの湖』の終幕のように。 秦 恒平
2007 11・26 74

☆ 「夜の寝覚」に  壽
チャレンジします、と無謀な宣言を以前にしてしまいましたが、自分の 古典教養の無さを実感する・・という結果に、めげています。
最初は本文を読むことへのチャレンジだったはずなのですが、(古典文学大系の)脚注の訳文を読んでそれから頭注と本文を読む・・という逆転でなんとか読み終えました。
もっともっと短い「和泉式部日記」にチャレンジ予定で借りてきました。また報告します。

* 「夜の寝覚」は優れた現代の日本語に翻訳する値打ちのある、ある種の現代感覚に富んだ古典で、完本ではないのだが、十分鑑賞に堪える。
物語をまずアタマに入れて、それから本文の味わいに深く触れて行くという順番でいいと思う。ただ、失礼ながら注釈本の現代語訳は、たいてい文藝とはべつの「説明」で終わっている。
落ち着いた気分で自分で訳してみたいなあと何度も思うが、いまの神経のささくれた状態では、物語への冒涜に成りかねないと遠慮してしまう。
「和泉式部日記」は短いけれども、「日記」らしさの省略叙法が用いられていて、原文はなかなか「文藝」ふうに凝っている。事実としての人間関係を表立たすことなく、読者の推察に任せるというやはり「文藝」が用いられている。その辺にも、この本が和泉式部自身の日記であるか、後生の創作的偽書であるかを論 (あげつら)われる岐れ目になっている。しかし、これは優れた文学、私小説の先駆の一つです。
古典の原文に親しむには、「夜の寝覚」の著者に擬されている人の「更級日記」や、また先行した「紫式部日記」後続の「讃岐典侍日記」の方が、原文に直に当たるには当たりやすいかもしれません。
2007 12・5 75

* 「mixi」のあるためか、このごろメールが減り、むしろ手紙・ハガキのお便りを戴くことが増している。

* 小林保治さんにお手紙を戴いていて、それは平家物語にかかわる一つの不審を質問してあったのへの、親切なお返事であった。残念ながら、だが不審はまったく晴れず、小林さんからある専門家に問い合わせて貰っていた返事も、全然「分からない」ということであった。少し落胆もしたが、少し勇気づけられもした。つまり「想像する」自由が許可されたのに等しいからである。
同じことで、一つ、べつに調べておかねばならぬことがある。わたしと同じ関心を、ひょっとして(まったく方角違いで重なりもしないか知れないけれども) 亡き円地文子さんも持ってすでにそれについて書かれていたかも知れないという情報を小耳に挟んでいる。それを確かめてしまうと、創作へ動く自由が得られる。かなり大きな図書館に行かないと掴めそうにない。
2007 12・11 75

* 師走という気分に自分を追い込まないように、さらさらと年を越えて行きたいと思っている。一昔前の日録を読んでいると、昨日のことのように気持ちは連続している。十年なんて何なんだろうと思う。まだ乃木坂にあったペンの会議室で、「盗聴法」への姿勢で烈しく議論した日の互いの声音まで、まっすぐ甦る。
2007 12・20 75

* 宗教、信仰、修養といった方面に気が行かない。へたをすると人に「抱き柱」にせよと奨めてしまうのと同じ結果になると、本意ではない。
「人と、抱き柱」とについて、落ち着いて、やや取り纏めて書いておくことはしたいなと思うのだけれど。
「mixi」を始めたとき、冒険だなと思いつついきなり『静かな心のために』を一ヶ月ぶっつけ、ぶっつづけに書いてみた。あれの吟味がまだ出来ていない。
2007 12・26 75

* 「心は頼れるか」とは久しいわたしの論題であった。言い直せばこれは「人は頼れるか」の意味にもなるが、「心は頼れない」けれど「人は、さまざま」というのが正しかろう。「人ほど頼れるものはない」と思うほどすばらしい「人」との出逢いがあり、その真っ逆さまもあるのが「人」である。
だからこそ「小説」とか「文学」が成り立つ。

* 人生とは「人づきあい」の連鎖である。独りでは生きて来れなかった。人づきあいは潮合いよりも、しかし、はかない。潮合いには規則正しいほどの繰り返しがあるが、人づきあいには無い。
人から「名刺」をもらいはじめたのは、半世紀前の就職以来。私の場合、結婚以来とも謂える。
編集者稼業は、人さまと出会ってナンボの仕事であり、著者だけでなく、出入りの業者たちともかわした名刺は山ほど残っている。その九割がたは顔も関わりも忘れかけている。
転じて作家になれば、これまた各社の編集者・記者、同業の人たち、そして読者たちとの接触が自然増えてゆく。増えていなければ、ものの譬えにも「湖の本」は出来ていない。人のフルネームと住所。その記憶がなければ成り立たなかったのが「湖の本」だ。湖の本で出逢った大勢と、出逢ったが縁で湖の本の読者になってもらえた人と、数え切れない。しかもそれにも消長あり推移あり、川のように流れ流れてもう行方知れない人数も、数え切れない。
文藝家協会に入り、ペンクラブに入り、委員や委員長や理事などを多年務めている内にも、多くの出会いがあった。地位と便宜とを念頭に近寄ってくる人も多い。だが人間的な交際でないその手の利用者は、委員を辞め、委員長をやめてしまうと、とたんに水の漏れるように、葉の落ちるように、ばらばらと消え失せる。消え失せるであろう顔も名も予測できて、掌を指さすように正確であるのがいっそおもしろい。人とは、そういうものである。だから頼みにならないし、だが、真っ逆さまの貴重な友人たちもたくさん残るのである。それは打算的な心=分別のつきあいではなく、もっとハートフルな共感による。魂の色がいつしれず似ていると互いに感じあえる人たちが必ずこの人間の世間には実在する。だから人は絶望もしないで生きていられる。
2007 12・29 75

* 関口の番組が、格差の問題と地球環境悪化とを絡めて、真面目に分析と解説とを重ねていた。好感と共感とをもって観ていながら、わたしは「ホープレス」「デスペレート」と愚痴る内心の声に厳しく立ち向かえなかった。
全ての良心的なテレビキャスターが、テレビ・チャンネルを三ないし五に減らし、放映時間を五時から二十四時に減らそうと提案し実現しそうなら希望を持とう。
マイカーを一所帯に一台と限定し、二十三字から五時までの深夜運転をすべて禁止する動きが具体的に出たら、かすかに希望を持とう。
一軒の家で点灯個数を四以下に励行しようという動きがリアルになればかすかに希望をもとう。
人間の資本主義的欲望は全開のままで、現況以降破滅までに地球が救えるなら、神は呪われている。
ドバイやインドだけが格差の国なのではない。格差という現象の根にある、一部の人間と国家権力の、資本主義的・帝国主義的欲望のとめどなさにブレーキがかかりうるか。かけたいと願っている人数は人間として生きている人数の九割もいるが、ほんとうに可能と思っている人数は、かぎりなく全員にちかく「ノー」なのである。
わたしは、希望がもてない。

* 自然に根ざした人間の環境が、産業革命以降の機械的な環境へ踏み込んだとき、人はどんなに希望を拡大したことか。事実問題としてあれからたった三百年だ。地球の寿命は四十数億年、人類の寿命ははるかに短いにしても三百年の何倍になるか、勘定するのもおそろしい。そのおそろしいほど永い既刊の人間環境が、たった三百年でめまぐるしく変わりめまぐるしく狂い咲きして、いま、発狂している。原因は何か。ただ一字で指させば底なしの利己的な「慾」であろうか。
2007 12・30 75

* 『三四郎』の三四郎が『それから』の代助、『門』の宗助になるのではない、これはよく読み誤られている。野々宮宗八が代助の前身であることは、美禰子と野々宮との関係を正しく読んでいれば容易に分かるのだが。三四郎は『こころ』の「私」の前身なのである、わたしの読みでは。
2007 12・31 75

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