☆ 〝無為を為し……″ バグワンに聴く (スワミ氏の訳に感謝して拠りながら)
全面的な明け渡しを遂げる。くつろぎを遂げる……。〈真実〉を追求する中でリラックスするのだ。真実を追求しようとしながら、おまえは世間的なマインドを持ち込んでくる、野心に満ちて。努力を掛け声に。なぜなら、世間では競争が激しいから。おまえはひとりじゃな
い、何百万という人たちが争っている。お互いに戦っている。絶えざる戦争が続いている。世間というのは絶えざる戦争だ。そして、あらゆる人があらゆるほかの人たちと戦っている。息子は父親と戦っている。彼はそれに気づいていないかもしれないが…。母親は子供と戦っている。子供は母親と戦っている。兄弟は兄弟同士で戦っている。家族はほかの家族と戦っている。国家は国家同士で戦っている。誰もが深い葛藤と闘争の中にいる。
そんなところでもしリラックスなんかしたら、おまえは総理大臣にはなれない。そんなところでもしリラックスなんかしたら、おまえは大統領にはなれない。そんなところでもしリラックスしたりしたら、おまえはロックフェラーやフォードにはなれない。不可能だ。もしそこでリラックスしたら、おまえは仏陀や老子のような一介の乞食になってしまう。闘いが必要だ。世間には暴力がつきものだ。そして、世間にはエゴがつきものだ。世間というのは、人よりも攻撃的な人間たちのものだ。おまえ方は完全に、暴力や行動向きに叩きあげられた世界から来ている。何かしろ! 闘え! 負けるな!
人々は私のところへ来てこんな不平を言う。
「やれとおっしゃってくれればやるのに、あなたはただリラックスして、やるなとおっしゃるんですから」
おまえ方には、リラックスが不可能なのだ。たとえほんの一瞬でも、何もしないことなど不可能に見える。それは古い習慣、古い、根深いパターンのなせるわざだ。それはいつも「何かやれ!」とせきたてる。
ところが、老子は「何もするな」と言う。
実存の世界では、「する」ことは必要ない。それが〝実存(being)″ の意味するものだ。〝すること(doing)″が必要でないところ、そこでこそ、あまえはおまえの最も奥底の深みにおいて花開く。ただし、何の努力もいらない。闘いなんかない。
ある禅のマスターいわく。
「静かに坐り、何もしない。草はひとりでに生える」と。
彼は、何もしないこと、静かに坐ることが、おまえの存在の内奥無比なる核心において何かをする唯一の道だ、と語っている。草はひとりでに生える。草を引っばり出す必要はない。植物は引っぱり出す必要などない。彼らはひとりでに生えてくる。おまえは、ただただその脇で待っていればいい。おまえが待っている間にも、草は成長しつつある。
* やさしそうで、凡俗にはじつに此処のところが嶮しい。悲しいかな、わたしは国民学校の五、六年生以来、その場その場で、doer(やり手)であった。場という場からはなれて来て、独りになっても独りですること(doing)を手放しかね、あれをやりこれをやり「いま・ここ」を、すること・なすことで満たしている。ただもうそれら「すること・なすこと」の全部が理財とも栄誉とも功名ともまったく無関係であるだけ、だ。わたしはそれを黙想の坐禅でこそないけれど、「している坐禅」「行ずる坐禅」かのように眺めている、眺めようとしている。だが、心は騒ぐ。静かな心にはなかなかなれない。はやく解放されたいと、『こころ』の先生の気持ちが益々見えてくる。
* 古い友達が、「今日、うれしかったこと─、日々それを見つけられる年と、なるよう」と賀状に書いてくれていた。
わたしはかなりの時間、その、筆の字を眺めていた。「うれしかったこと─」を「見つけられ」ない日なんて、有るのだろうか。
どんなに惨めな気分の日でもうれしくなれる瞬間には、幾らも恵まれている。いまも頭上からおもちゃ犬の「コロン」が愛らしく私を見下ろしていて、わたしは微笑してしまう。たかが使い古したカレンダーから取り置いた図版であれ、栖鳳の「斑猫」や水ぬるむ「蛙」の繪をみればわたしは嬉しい。谷崎先生の写真に睨まれてもまだちっちゃい昔のやす香の写真に見られても嬉しい。障子窓の隙間に外の日光が黄金(きん)色しているのも嬉しい。手の付けられない混雑のこの仕事場すら嬉しいし、機械が無事に動いてくれて、四つ必ず澄んだ緑色でなければならない機械が、綺麗に四つ緑で微動もしないのだって、とても安心で嬉しい。そしてメールが来たりする。手紙も来る。
昨深夜に次から次へ読んだ本の、千載集の和歌の一首や、ジャン・ミッシェル老人の振る舞いや、道綱母のきびきびした日記の言いぐさ等々も、また「小沢昭一的」おしゃべりにふと露出する精神なども、わざわざ思い返すまでもなく嬉しい。どんなに気分が腐っていても、仕事や用事をエイと片づけたときも嬉しい。みなみな、ごく自然なことだ。
そしてどれもこれも、何の自慢にも誇りにも鳴ることではない、それがまたいいのである。
2009 1・4 88
* 読者への発送の挨拶を書き始めた。ア行だけ。モノを刷って沢山余ってしまった裏白の紙を使わせて貰った、裏白の紙をまとまって使えれば紙のためにも有り難いし、それで読者の皆様への謝意がうすれるとは想わない、一入の気持ちでお一人お一人に感謝を籠めて書いているし、そんな裏白紙の流用を不快に思われたり汚いと思われる人はいないと信じている。
常々から裏表真っ白い紙を用いて、しかも余儀なく細くカットして使ったりしているのが、紙のために可哀想やなあと思ってきた。そのまま使えばいわば原稿にしても文書にしても立派に清書用として使える一枚の紙を、切り刻んで使うのは紙のために申し訳ないと思ってきた。その気でなら、そのように清書用に使う用はたくさんある。その一方で、裏白のまともな紙の儘、メモ紙としても大きくて使いにくく埃をかぶっている紙もまた残念なことについついむ溜まってしまうのである。
昨日書いていた「あとがき」のなかで、日本人が海外で大量に森林を切り倒し紙を得ていること、とりわけてその紙でもの書きは生活してきたこと、その思いがついつい念頭からこぼれ落ちたまま、環境大事の自然愛護のと声明だけは喧しいことにわたしは触れていた。
利用できるモノを利用して、それが失礼になる事例もあろうけれど、この際は許容されるだろうし許可して頂こうと考えた。裏白の上質紙を古紙回収に出しては、新しい紙を買っているのでは、その方が本末転倒だ。裏の白い紙を貴重品のように帳面に創っていた昔をわたしは忘れていない。壁代になって遺された昔人の紙は、裏も表も丹念に使われていた。裏白の紙を手紙に使った例など、むしろ当たり前であった。けちくさい言い訳を言うているのではない。
* さ、日付が動いた。数年前まではもっと遅くまで機械の前から立てなかった。今は立てても立てなくても立つようにしている。
2009 1・4 88
* 眠って気持ちを癒したいのか、あきれるほどよく眠る。
正月気分の日程をやっと終えたらしい人たちの、勤め先などからのメールが入ってくる。近況も知れる。入社してきてわたしの課に配属された往時の青年が、会社役員を満期で降りてこの年内は相談役として在籍などと伝えてくると、お互いの老いのほどが知れる。
定年を告げてくる人もある。
わたしも東工大教授を六十歳定年退官したが、私の場合、定年の実感はなかった。道草していた道からもとの道へ戻ったにすぎなかったし、いまもって定年という感覚とは仕事がら無縁である。
物書きは、こうして言葉でさまざまに自己表現している限りは現役であり、収入の多寡などと関係がない。収入で仕事が計れるなどと思っている方がお笑いである。
創作者は、精神活動の停止したときが、停年。幼年、少年、青年、壮年、老境と顧みて、貫く棒の如く、自分の精神・魂は衰えていない、健康の方は日に日に弱まっても。これが創作者のありがたい境地というもの。世間的に動く動かぬとは何の関係もない。そんなことは自慢にならない。老いれば若い者にそんなことは場所を譲って任せるのである。そういうところへ創作者はしがみつかない。地位・声望・金儲け。何でもない。
いちばん成りたくないモノは。麻生太郎のような存在。その腰巾着のような存在。
いちばん成りたいモノは、いまからの自分自身。
2009 1・6 88
* いま「mixi」の、「湖」のホームを開くと、さっと栖鳳の名画が目に飛び込む。わずか三センチ四方のちっちゃい写真だが、なんというすばらしさか。それだけで、幸せになる。幸せとはこういうことでもある。日本をわたくしが切に愛するとき、わたくしをそうさせながら支えてくれるのは、無数にある日本の美と創作のみごとさ。政治でも金でも権力でもない。
竹内栖鳳にこの「斑猫」の繪があり、村上華岳に「牡丹」の繪があり、『源氏物語』や『徒然草』や和泉式部や西行の歌があり、芭蕉や蕪村の句がある以上、光悦や宗達や仁清があり、法隆寺や薬師寺や東寺や金閣や鳳凰堂や待庵があり、藤村や漱石や潤一郎の小説がある以上、また能や歌舞伎があるかぎり、少なくも日本は心から敬愛するに足る。そこから元気を得て、われわれは麻生太郎のような権力の亡者を倒さねばならぬ。巷に喘ぐわれわれの仲間たちに一刻も早く手をさしのべうる政治の体制へ踏み込まねばならぬ。
2009 1・6 88
* フクザツな味わいの物語めく夢を観ていた。寺裏のような泥道も通ったし、水勢清冽な川水にも手足を触れた。新しい魚料理の店を出そうと嬉々と声をあげている年かさな女の人もいた。その人をよく知ったような、知らないような。
この十日ばかり、二週間ばかり、夢は観るが、いやな夢ではない。
年賀状に「夢をみなくなりました」と昔のクラスメートのことばがあり、それは「希望」をもたなくなった意味か、文字通り寝ても「夢」を観なくなった意味か判読しかねた。前者なら同感し共感する。後者なら、うらやましい。しかし夜の夢は寝入って一っ時はきっとみるものだと誰かの本にあった。そうだろうと思う。
2009 1・7 88
* 晩になって、目を見張るファイルメールを速射砲のように受け取った。ただ、感謝。湖の本百巻へ、有り難い鞭が入った。ただただ感謝する。
以前には、本が出るつど、全頁のスキャンディスクを作って戴いた。今度は。とてもとてもわたしの手では出来ない作業をして戴いた。ファイル数は計二十九。厖大な内容。どれだけの歳月を費やして戴いたか、想像も付かない。二十九ファイルの若干は開かない。おそらく容量があまりに大きいのだろう。まだ全部は開ききれない。明日の仕事にする。新年早々にこんな莫大な「厚意の塊のお年玉」を戴くとは冥利に尽きる。
2009 1・8 88
* 夜前も、読むと決めているものは、みな読んだ。
『ジャン・クリストフ』と『背教者ユリアヌス』が、じわーっと、ものの浮かんでくる感じに面白くなりつつある。前者は翻訳、後者は辻邦生さんの原作だが、よく似た文章として読めるのは、一つには翻訳がこなれた日本語になっていて、原作の方は翻訳日本語に近い、のかも知れない。
昔から、文章は、飯を炊いて餅のようにねちこち練ってしまっては、折角ツブツブの米飯の風味が台無しになるという思いでいた。処女作の頃、そうなるのに我ながらイヤ気がさした。それで、小説書きをしばらく停滞させても、シナリオ研究所に半年通学し、「台詞」を書いた。台詞で風を遠そうと試みた。
辻さんの文学は好きで、『夏の砦』『回廊にて』など感嘆した。ただし、いくらかご飯を餅に練ったのを食べるような文章だなあとも感じていた。久しぶりに思いだして、それが辻さんの作風だと懐かしんでいる。
一緒に三週間近く四人組追放直後の北京や大同、杭州、紹興、蘇州、上海を経巡った昔の旅をも懐かしむ。井上靖夫妻も、秘書長だった白土吾夫さん、巌谷大四さん、清岡卓行さん、辻邦生さんら同行の大方が亡くなってしまった。
* いま、予期していた以上にその個性味に惹かれているのが『蜻蛉日記』で、得も言われず筆者のバシバシとした気合いに魅されている。夫を、来る日も来る夜も待って待って泣きわびている、拗ねている、憤怒している妻女の日記なのに、気概はリュウとして毅然たる勢い。そんな女を他の王朝物語に見つけ出すのは難しい。女日記文学には優れた何編もが鎌倉時代まで、後々にも、在るには在るけれど、この、百人一首でいえば「右大将道綱の母」のような呵責なくつよい気息を噴き上げて憚りない女人には、なかなかに出会えない。『とはずがたり』の後深草院二条ぐらいか。
わたしは、いま、古典として遺された、蜻蛉からとはずがたりまでの女日記のもつ「私小説」性を、大胆に総論し各論できる筆者の登場に期待しているのだが。
むかしなら、わたしが書くのだが。
* 文学の「私」問題では、対蹠的に「没・私」の位置にありそうな村上龍の『かぎりなく透明に近いブルー』を、初めて手にしている。読みづらい。
2009 1・9 88
* わたしが、なお他にも大きな内容の何冊にも毎夜目を向けている、こういう読書を、むちゃだと思う人もあるだろう。だが、これぐらいそれぞれの世界の意想や位相を異にしたものを、等距離に、苦にせず読んでいることで得られている「世界」の相対化は、まこと有り難いのである。これ有るが故に、わたしは臆することなく現代にも昔にも、誰にも彼にも、あまり偏しないでものがいえるし、ものが見えてくる。
2009 1・9 88
* 二、三日まえには、読者の一人が、このホームページの十余年にわたる厖大な「日記、闇に言い置く私語」の條、條を、二十九類のフォルダに編成し直し送ってきて下さった。胸の内で自身でしたいと切望しながら、とうてい手も足も出せなかったことだ。
まだ全部ではない、全年分の三分の一程度であるけれど、そしてまだ試行錯誤の段階ではあるけれど、それに送られた二十九ファイルのうちち十六項しか、エラーなどあり開ききれなかったけれど、開けた十六項目には、順不同で、 文学観・思想 作家論 読書録 和歌・短歌・俳句・詩 湖の本 e-文藝館=湖(umi)・ペン電子文藝館 文字コード問題 バグワン 音楽 美術 演劇論 歌舞伎 映画・テレビ 仕事関係 女 雑 が、拾い上げてある。さらに重要な項目がいくつか考えられるので、みなの開くのが楽しみであるが、一項一項が、例えば現行の「湖の本」に換算しても各一冊ないし一項目だけで数冊分に達する。
あまり意味のない日ごとの雑記も混じるにせよ、大方は、「所感・意見」であり「随感・随想」であり「論・考察」であり、「述懐」である。出版という流通世界から吾から身をのけぞるように遠ざかった以上、此処に、「わたしの文学世界」はある。
2009 1・11 88
* 輪を描いて、高い空を翔んで啼く、鳶。枯れ木の寒鴉は動かないと云うより、動けない。京都からちいさな旅の用事もお断りした。じっとしているのが心地よくなっているのは、つまり怠けているのか、不活溌なのか。
妻は鉢植えの大きなベンジャミンをいとおしみ、毎年、寒い冬は屋内に避寒させる。それでも葉は日々に畳に落ちて行く。妻は歎くが、そうして長生きするんだよとわたしは眺めている。落ち葉しつくすことは無い。毎年また温かくなると戸外で新しい葉を茂らせてきたではないか。
寒い真冬、わたしは、まだ幼いジャン・クリストフや幼いユリアヌスと暮らしている。美しく、才能に恵まれた、しかしひたすら通って来ぬ夫兼家を待ち暮らしている中年の女の歎きを聴いている。怒り狂うように教えをまもらないイスラエル・ユダの民を叱り続けるヤハウェの声を聴いている。ひたむきに生涯法華経を誦して誦して奇瑞にまもられ往生して行く行者や持経者や僧たちの声を聴いている。
人は、「自然人」であり続けられるのだろうか。そう思いながらルソーの説く「徳」の意味を想っている。
千載集を選していたあの俊成という定家の父の胸に、十二世紀の自然と人事はどんな声音で日々迫っていたのだろう。
ああこの法華経の一種独特の激越な口調は人間のための何処を衝いているのだろう。
寒いけれど。いいではないか。
2009 1・13 88
* 解蔽。
この一語がのこされた僅かな期間をしめくくるモノであろう。「蔽」とは身にまとうた襤褸・ボロの意味である。ボロを「解」く、脱ぎ捨てる。荀子の「心」の説、荀子と限らぬ先達の、つねにまず心を戒める要点である。
「蔽」を見つめること。心にしこった不快、業苦。巌のように大きいソレを小刀でカリカリ削るようなことを強いられている。まだまだこの先長き長き苦しみになるだろう。おお身にまとうたボロボロたちよ。
* 自分で自分が把握しきれない。それでは簡潔な自己表現は成らない。歩一歩の脚の重さに背は前屈みに折れてゆく。
* 詳細な「自筆年譜一」を読み直して行き、また項目「食いしん坊」まで出そろった『私語分類』など見直していると、つい往昔に呼び返されてしまい、懐かしいと言うよりもなんとなく心弱くなってしまう。
2009 1・16 88
* 昭和十年(1935)師走に生まれ、四十四年(1969)六月の桜桃忌で作家として立った。その歳末までの詳細な「自筆年譜」を読んで行くと、手の施しようのない異様なほどの混乱を自身に対し感じる。
自分のことをわたしは繰り返し「非常識」だと自認してきたけれど、それなりの主張を含む反語性を自負していた。しかし自負もなにもない、わたしはトテツもない脱線人間なのかも知れないと危なく感じるぐらい、ヘンな人だと吾から思われるほど、常識の線を逸れた感じがある。常識的な人なら近寄ってこないのではないかと思われる異なところがヌウッと出ている、年譜全面に。
そもそも国民学校時代の担任の先生方の批評が凄い。徳義に欠けているかのように書かれて、事実修身の成績は良くなかった。中学になると改まっているけれど、なお「圭角」に富んでいるとみられ、わたしは真珠よりはダイヤがいいなどと嘯いている。「常識人」と「良識人」とをあたりまえにシノニムに思うことはなかった。「常識人は往々にして臆病で卑怯だ」と思っていた。
* ま、あれこれ気に掛けて言い出したらとめどないほど、この年譜はヘンテコであるかもしれない。気が滅入って腹痛がする。
2009 1・17 88
* 短い小説を二編、手放そうかと思うところまで繰り返し読んだ。成るものから次々に成らせてゆこうと思っている。「mixi」を手放した気持ちの効果は生まれているのかも知れぬ。小説へ小説へ、と、頭がむきかけている。
2009 1・19 88
* 半ば醒め半ば泥のように眠り続けることがある。このところ不快に過ぎた夢を見ずに済み、この明け方は、本郷通りのもとの会社近くにあった当時人気の老舗喫茶店の店主父子と歓談していた。店の名も思い出せず、店主父子など識りもしないのだが。何という店だったろう、西洋の画家の名前、或いは「ルオー」といった店があったろうか。店内に比較的佳い繪があったような、コーヒーだけでなく昼にはカレーライスも食べられたような。
あの近所に「青野」という額縁と画具店があり、そこの主人に、製版の版下カットなどを仕事で発注していた。画家ふうのおじさんが注文を受けに仕事場へ出入りした。
いまの此の家には、太宰賞を受けた翌年早々に新築成って引っ越してきた。二階の、二段ベッドを置いた子供部屋にわたしはその「青野」さんで額縁を買い、印刷ものであるがルノワールの青服豊満な女性半身像を娘・夕日子(仮名)のために壁にかけてやった。今もそのまま同じ位置にかかっている。建日子はまだ二歳になって間がなかったろう。
そんな夢を見たり思い出したりするのは、詳細な自筆年譜のその当時の記事を読み直していたからだろう。
* 二十年近く前になるかも知れない、わたしより年配の女性で新宿辺の高層マンションに暮らし、小説を書いて本の一二冊も出していた読者に、池袋に呼び出され、食事したことがある。
どういうわけかその人が、会話の間に何度も「まともな生まれかた」という物言いで自身や一般の人たちのことを云うのにわたしは気づいた。
思うまでもなくわたし自身は、その、「まとも」の範囲内からこぼれ落ちたように此の世に生まれていた。その事実がわたしの創作の原エネルギーで推進力でもあったといえたのだから、それ自体をわたしはかつて一度も恥じて隠してきたことはない。むしろ言い過ぎるほど自分で云い、書きすぎるほど自分で書いて、「秦さんは生まれながらに小説を書くしかなかった人です」と人にも言われてきた。
それにしてもその女性読者の、意識してか無意識にか繰り返す「まとも」という物言いは、あまり気味のいいものではなかった。
いったい何がそもそも人として「まとも」なのかという問の前で、なるほど自分の胸奥に求めている「まとも」と、こういう世間人の謂う「まとも」とは、よほどちがうと思うしかなかった。その人の気持ちでは「まともでない」とは「非常識な」といういうこととシノニムらしかった。わたしの胸にある「非常識」とは、とてもまともとは言い難い「凡庸な常識」のいつも反対語であった。凡庸な常識人というのは、たいがいどこか臆病で卑怯だという価値観をわたしは育ててきたが、そんなところがとてものこと<おまえは「まとも」でないと指弾されてきたし、今もされているのだろう。
* 「生まれ」て七十三年余。「結婚」して、いよいよ「五十年」に手が届いてきた。
わたしの、人の目にはたぶん非常識でまともでない人生は、その七十余年かけて成されてきたが、とりわけそのほぼ前半分を打ち込んで、強い意志でわたしは作家になり、強い意志と愛情とで夫になり父親になっていた。太宰賞というバッヂ付きで文壇にいわば招待された昭和四十四年六月、わたしは二人の子のもう父親であった。娘は満七歳に間近だった。息子は一歳半だった。上京し結婚して十年余が経っていた。
十二月二十一日生まれのわたしは、生まれて満三十四年の歳末までを、一語で、『作家以前』と覚悟している。わたしはわたしを、その三十四年間で、まさししく「まともでなく」「非常識に」形成し、自覚を持ってきた。言い替えれば私に書ける徹底的な「私小説」とは、すなわちその三十四年『作家以前』の「年譜」そのものなのである。
普通の小説にすればいいでないか、それが「作家・小説家」だろうという批評の声は、自身の耳の底ででも聞こえるけれど、首を横に振る。
わたしは『清経入水』を書いたし『畜生塚』『或る雲隠れ考』『慈子』『廬山』も書き、『みごもりの湖』『罪はわが前に』『風の奏で』『冬祭り』『初恋』も書いた。すべて「作家以前」から汲み上げた小説であり、みな私小説かと読みたい人は読んで下さってかまわない。
要は三十四年のことは『年譜』で足りている。その年譜が、とても「まとも」でない。年譜の通念を「非常識」にうち破っている。それ自体が「私」である。それがわたしたち「夫婦」の「五十年」となり、金婚の五十年はそこに根ざしている。一行として曖昧な記憶で書いたものではない、厖大な日記と日々の記録にきっちり基づいている。
* この年譜を「湖の本」一連の一冊分にするのは構わない、が、問題がある。新作の小説二篇を添え、妻もわたしも金婚記念の引き出物に「非売品」として寄贈しようかとも思案しているが、いま話題の定額給付金ではないが、実は簡単でない。費用がたいへんという意味ではない。それもあるが、それより、誰方に差し上げるのかである。
創刊以来満冊の継続読者に限れば、分かりいい。たくさん製本しなくて済む。だが仮に百巻の半分以上を買って下さった方に進呈となると、途方もなくたいへんな調べ作業が要る。二十余年、「湖の本」を通過していった全読者は、創刊以来延べ合計すればむろん万を優に超すだろうが、ただ一冊無いし数冊だけの読者も、ほぼ満冊ちかく読み続けて、高齢や病気等でつい最近中止になった読者もある。
ハテ…、いい知恵が欲しい。
2009 1・20 88
☆ 「松風」と喜多節世と。 1998 10/3 「能」
喜多節世(きたさだよ)が松風をこの日に舞うと知り、ペンの京都大会を失礼することに決めた。節世の能をもう何度観られるか分からない。今日も、立ち居は観ていてつらいほどだった。後見が出て起たせてくれて、ふつうだと、でしゃばるなと云うところだが、今日は目頭がにじんで「ありがとう」と思えた。
節世とのつきあいは長い。彼が再婚の披露をした日、私は祝辞を述べた。よく覚えている、展望に出した『閨秀』を、亡き吉田健一が朝日新聞の文藝時評全面を用いて絶賛してくれたその日だった。披露宴が果てたあとの帰りに、私は浜松町の駅の売店でその時評の出た夕刊を買った。そういえばあの日祝辞を述べたもう一人が、将棋名人の中原誠だった。
すばらしい奥さんだったが、先年亡くなり、追悼の会で話したとき、私は涙で絶句した。
京都へ帰っていて、大徳寺へ出かけていた日、ご夫婦の幸せそうな旅姿に偶然出逢ったこともあった。節世氏は喜多実の愛子にふさわしくたいした美男子で、奥さんはまことに佳人であった。そして節世のその後をめぐる流儀内の不幸と波乱はやまず、彼は健康を損ねているらしい。節世の能を、出来もさりながら、現に舞台の上で観られることに私は自分の人生のなにかしら大事なものをかけている。反問されても困るが友誼とでも言っておく。松風は老いていた。老松にも風はふくものだ。能はところどころで紛れもなく美しかった。粟谷菊生、友枝昭世の仕舞も端正に美しかった。万作万之介の布施無経も彼らの老境に応じてしんみりしていた。先代家元の喜多実を偲ばせる会の趣旨も利いていた。
来年春には節世は「景清」を舞うという。実現してほしい。 「むかしの私」から。
* こんどある人が、数万枚に及ぶ厖大量の「私語」を、「文学観」「歴史観」「食いしん坊」「女」「時事問題・政治」等々三十項ちかくに分類し始めてくれた。その『私語分類』のうち「能」の項目の冒頭に、この記事が拾われている。
なんという懐かしい。懐かしいだけでなく、わたしが過去に能に触れまた能舞台の印象に触れ人に触れて書き記したおよそ全部が、この「項目」内容を追って行くと、記事日付も正確に拾い上げられる。
ちょっとオモシロイので、もう一つ「身内(親類・縁戚)」の項の頭から二つめを引いてみる。
☆ 父 1999 5・7 「身内(親類・縁戚)」
父はラジオ屋としては草分けの一人だった。JOBKの技術検定試験第一回の免状をひっさげて開業した。それまでは装身具の職人だった。珊瑚や翡翠や金銀を細工していた。いろんな材料がはだかで遺っている。そんな父がラジオの技術で喰って行ける時代だと観たのは、たいしたものであった。少なくもテレビが出てくるまでは成功した。
父は「売る」よりも「直す」のが仕事だと思っていた。ラジオなら唸りながらでも直したが、テレビになるとお手上げになり、さりとて売りまくる商売は断然へたであった。自然衰微した。
父は私にハイテクの技術を覚えて欲しかったに違いない。ところが私は美学藝術学を学び、裏千家茶の湯の教授になり、はては京都を出て東京で作家になった。玉木正之の『祇園遁走曲』の主人公は、家業から住処から地域から、この私に違いないと思ってテレビを観ていた京都の知人が、山ほどいたぐらいで、私はまさに遁走したのだった、京都から。祇園から。
六十余年の生涯で私が一番なさけなく辛くみじめであったのは、大学三年か四年の夏休みに、父の厳命で、大阪門真のナショナル工場にテレビ技術の講習を受けにやられた二月足らずであった。なにひとつ私は覚えられなかった。気もなかった。午弁当の出る午前と午後との七時間が地獄の退屈であった。とうとうサボッて、京橋や大阪市内まで入り込み夕方まで時間を過ごしたりしたが、遊ぶはおろか飲み食いの小遣いもなかった。あれには参った。好きな本を読むか歩きまわるかであるが、真夏の暑さにも辟易した。成績の付けようもなかったのだろう、父は私の跡継ぎをあれで根から断念したのに違いない。
父は考え違いをしていたとも言える。テレビを技術的にいじくるよりも、電化製品をどう多く売るかの講習を受けさせた方が時代に向いていた。近隣で成功した電器屋はみな売りに売りまくって、直しは会社にさせた。賢明な対処であった。器械は自力で直せるのがホンマモノと思っていたのだ、父は最後まで。
それはそれで、えらいものだと思っている。 「むかしの私」から
* この項目も分量多く、いまでも既に本の二冊分ほどになっているが、会うことも全く出来なかった娘や孫への情愛は自然当然として、婿から、裁判所へ被告として引き出されるほどのどんなウソも無茶も書いていないし、言及している量も数万枚のうち大海の一滴ほどしかないことも明瞭に分かる。
* さ、これを、分類されたかたちでこのウエブに再編し掲示するか、湖の本に編んで出版して行くかなど、楽しめる思案であるが、なにしろ整理してもらえた現状で、2002年半ばまで。いまでもなお七年分近くが残るのに、分類された中の或る一項目などはすでに原稿用紙八百枚分に成っていて、六百枚、五百枚など、当節の単行本容量で謂うと一項目だけで四冊、三冊、二冊になるほど。そして記事は概ね上に挙げたように題を付ければ一つ一つが一編のエッセイというに近い。
現行の「湖の本エッセイ」なみにすべて本にして行けば、闇に言い置いた日録『私語分類』分だけで、「全百巻」にも簡単になる分量であり、日に日に増えて行く。
わたしの「私語」とはこういうものなのであり、今にして思えばこれらの全部も含めて一夜にして何の断りも確認も無しに、ウエブ『作家秦恒平の文学と生活』の全滅を企図し共謀実施した、わが娘夫妻と「BIGLOBE」当局との無道は、作家活動する者に対してあまりに言語道断な著作権・人権の蹂躙であった。
* さらに謂えば私のウエブには、かつても今も、『e-文藝館=湖(umi)』を擁している。現在でそこには<幕末から平成の今日に到る著名な小説家・評論家、戯曲家、詩人・歌人・俳人、随筆家等々の数百人・数百作品が掲載展示されている。
以前に娘夫妻と「BIGLOBE」が、これらをも一切合切含めて「全滅」させたとき、インターネットから「全消却」したときにも、少なくも二百に及ぼう人と作品とが掲載され国内外に送信されていた。しかも娘夫妻たちのナニモノともナニゴトともそれは無関係な文化活動であった。
そのことを、わたしは、もう一度はっきりさせ、怒りの抗議を此処に云いおく。
2009 1・20 88
* 人は一生に何人の人と出会って死んで行くのだろう。寿命によってちがうのは当たり前だが、わたしなら、どうだろうとときどき途方もない感想をもつことがある。個々の温度差のはげしさもたいていでないとして、その人にメイワクをかけたなあと長く負担に感じている例、多くはないのだが、まじる。
友人に結婚の世話をしようと人を紹介し、一度はデートしたようだが二度目には片方がすっぽかし、片方は待ちくたびれて、それきりになった例もあった。ながく、いまも、わたしはそれを気の毒に気に病んでいる。そしてよけいな仲人口は利くまいと懲りた。数十年も経っているが。ま、その双方ともべつべつの幸せそうな人生を現に送っているので慰められている。
2009 1・23 88
☆ 生きる意味なんて 1999 8・5 「述懐・思想」
* 「人間とは何だろう、生きるとは、老いるとは、死ぬとはなんだろう、といつもいつも胸に問うています。就職してから2年半、ずっと問い続けています」とメールの裾に書いてきた。親しい若い友人、東工大の元女子学生が。思い切ってこう返事を送った。
* あなたは反芻するように繰り返しこう書いてきました、「人間とは何だろう、生きるとは、老いるとは、死ぬとはなんだろう、といつもいつも胸に問うています」と。
「老いる」「死ぬ」のことはすこしワキに置きますが、前半の問いは、じつは「無意味な問い」であることに気づいています。
少なくも「生きる意味」なんてものは、無い。意味づけするまでもなく「生きている」ことが「生きている」意味なのだと。そんな無意味な問いに、どれほど大勢が無駄に悩んできた・無駄に悩んでいることかと呆れています。
「生きる意味」なんて、問うべき問題では無い。「生きる」のに「意味」は無い。「何だろう」と、答えのあるはずもない問いを重ねているまに、「日々生きる」実質を見失うなんて、なんて無意味なんだろうと。
「問う」ことは、ことにより極めて大事ですが、「問い癖」になって、本質を逸れたところで、つまり「問うているぞ」という自意識だけが残り続けて、かんじんの「日々の生き」が荒んで行くのは、はなはだ無残なことです。「意味を問う」のをしばらく落として、やめて、日々をきっちり「生きる」のに精力と誠実を注ぐこと。わたしは、そう考えるようになって、すうっと明るい場所へ浮かび出た気がしています。もっとも、もともと、そういう「問い」はあまり持たなかったけれども。
あなたを煩わせているのは、つまり「マインド=思考作用=頭脳=心」なのだと思う。こういう心が、「静か」になれない。そんな心は捨ててしまった方がいい。
他の人になら、こんなに乱暴そうなことは敢えて言わない。あなたは「気づく」のではないかと思い、言いました。お元気で。
* 明らかにバグワン・シュリ・ラジニーシにわたしは教わっているが、しかし「生きる意味」とやらを問うている大勢に出会うつど、変な気が、気の毒な思いがいつもしていたのは確かだ。
「生きる」から意味が生じてくることはあっても、生きる意味を問う意味なんて、無いはずだと。 「むかしの私」より
2009 1・25 88
* お寺の名前に心を吸い取られる気のするときがある。知恩院や建仁寺や大徳寺や天龍寺よりも、清閑寺、清水寺、泉涌寺といった名に思いを誘われる。「せいすいじ」でもいいが通称の「きよみづでら」も懐かしい。
とりわけ清閑寺と初めて知ったときの嬉しかったのを大事に今も胸にしている。「閑院宮」家がむかし在ったが、はるかに溯って、平安京に「閑院」の在ったことはわりと早く知っていた。
「閑」という字に惹かれるものがあり、裏千家の或る家元の「閑事」二字の軸をことに今も懐かしく愛している。
茶の道具の中に、ときとして「一閑人(いっかんじん)」が登場する。童子ようの人物が器体にとりついて、モノの内や底を余念無く覗き込んでいる。その格好も境涯もわたしは好きで、その題で掌説を書いたことがある。
☆ 一閑人 秦 恒平
井戸があった。
井戸は深くて満月のように明るい一枚の鏡を浮かべていた。近在に、こんな美しい井戸は一つとてなかった。
一閑人(いっかんじん)は余念なく井の底をのぞいていた。くっきりと顔が映って、皺一本の揺らぐこともなかった。
一閑人は、自分と同じに井戸をのぞいているもう一人がそこにいるかと思うようになった。
思い屈した或る日、一閑人はつくづくあのよく似た男の傍へ行て語らいたいぞと思った。一閑人は身を乗り出し、逆さに井戸の底へ落ちた。
逢えると思った男の姿がなく、一閑人は空の明るい見知らぬ土地を歩いていた。向うから子どもが二人やって来たが、一閑人をみると慌てて逃げていった。
やがてさっきの子どもをおずおずかばいながら美しい女が一閑人を出迎えて、旦那様お帰りなさいませと丁重にお辞儀した。
一閑人は面食って一礼を返したが、女も子どもも真顔で、慴えたように一閑人を立派な屋敷に連れて戻った。家中のものが一閑人の顔色をみてぴりぴりしていた。
女は一閑人の妻で、二人の子どもは息子と娘であるらしいが、所詮合点のゆかぬ人違いに一閑人は途方にくれた。人違いとも言い出せなかった。
ところで──、一閑人は侘びしい田舎道をまごまごと歩いていた。草むらのかげから子どもが二人出て、いやというほど棒切れで一閑人の向うずねと尻を叩きつけた。子どもらは歓声をあげた。
突然の不覚にうずくまった一閑人の首っ玉をつかむと太った女ががみがみ怒鳴って引きずった。一閑人はあばら屋に放りこまれた。女と子どもはしこたま耳もとで悪態をついた。 一閑人は立ちあがると猛烈な腕力でいきなり女と子どもを表の道へ張り倒し、瓶の水を逆さにぶっかけ存分に蹴った。
女も子どももあまりの事に息絶え、泣いて代官所に訴え出た。
気の荒い一閑人は、見ず知らずの女子どもに馬鹿にされて耐ろうかと代官にかみついた。代官はお前の女房と息子たちではないかと怒った。嬶天下に我慢も尽きたのじゃろと他所の者らは噂したが、一閑人には何やら訳が分らなかった。
一閑人はむげに鞭打たれ、気を失った。坊主が前へ出て一閑人をしげしげみて、これはと言った。
息吹きかえした一閑人に、坊主はどこから来たぞとたずねた。一閑人は俺に似た男がいきなり俺の頭にとびかかって来た。わっと声をあげた途端に見も知らぬ井戸の傍に立っていた。女も知らん子どもも知らん。俺の女房子どもは美しうて温和しいわと歯を噛み鳴らして、うなった。
坊主は代官に言って、一閑人を元の井戸へ投げこませた。わっと声がして、寸分違わぬ一閑人がその場に平伏していた。女房と子どもがかけつけ、いきなり一閑人を怒鳴りつけた。一閑人は青い顔をした。涙を浮かべ、人違いでもよい、美しい女房と可愛い子どもの傍へ戻りたいがのうとこっそり呟いた。
坊主は、男も女も日頃の憤懣と欲望とを抱いて井戸へとびこまれたのでは、結局ろくでもない男女で此の世があふれるわけのものじゃと、代官に井戸を埋めさせてしまった。
くそ坊主の生悟りというものではあるまいかと、誰も誰もがそれはわるく言った。
* 「一閑人」の見立てとしては、虫のいどころでもわるかったか、少し「忙」の気味が過ぎている。ずいぶん昔の作だ。そんな昔から「閑」「閑事」「閑文字」などを問う想いがいつも在った。「忙」との対になって在った。この忙と対にして閑を想う思いかたは、しかし、よろしくない。浅い。
もし記憶違いでなければ、芭蕉の、「閑(しづ)かさや岩にしみいる蝉の声」が、ひときわ懐かしい。
2009 1・26 88
* 今日の「むかしの私」では、理事に就任していち早く「電子メディア問題研究会」を立ち上げた私の「基本の理解」を示していて、それは今もそのまま有効の筈である。
ペン理事会は、当時コンピュータなど話題にするのはいつも渋々嫌々であったが、否認したいだけの見解ももっていなかった。研究会はやがて「委員会」に昇格し、そのままわたしが委員長を引き受けていたが、更にこの委員会から「ペン電子文藝館」委員会を企画独立させ、館長としてその責任者も引き受けた。
数年後、電子メディア委員会はより有能な理解者に委ねたいと、若い山田健太氏を推挙し、わたしは喜んで退いた。
一昨年、阿刀田新会長の執行部は、どういう見解でか、「電子メディア委員会」と「言論表現委員会」とを「合併」してしまった。明快な理由は何一つ聞けなかったし、わたしは、そのような合併が「一」委員会としては「過剰負担」になり、双方の機能が弱体化するというオソレを持った。そう発言した。現に合併委員会の「働き」は甚だ鈍ってしまっているのではないか。現執行部の洞見の不足に、わたしは不満と抗議との意志を今も隠さないでいる。
☆ ペンクラブ電子メディア問題研究会 1998 4・12 「コンピュータ・インターネット」
* 日本ペンクラブに「電子メディア問題研究会」が出来ました。言いだしっぺ理事として、当面、座長役を仰せつかっています。
パソコンは頭打ちとはいえ、一年で六百万台を越す売り上げです。しかし大方が粗大ゴミなみに、ゲーム機またはワープロとしてかつがつ使われているに過ぎないのが実状ですから、まだまだパソコン時代が実質を得ているとは言えません。
難しすぎるのですね。インターネツトを使いこなしている人は少なく、使える人の何割もが、いわばヘンな興味や好奇心で掲示板を使ったり、アダルトのハードコア写真を収集しているのも現実でしょう。わたしだってそういうところをちゃんと見て知っています、すぐに飽きてしまい、もう近づきませんけれど。
つまり実勢はたいしたことは無いのに、しかし「問題」は、電子メディアの全分野にすでに生じ、近未来にますます生じ、遠い先には何が生じるか予想も付かないけれど生じるに相違ない問題が、山ほど考えられる。電信電話、テレビ、ファックス、ワープロ、パソコン、コンピューター。それらとのつき合いが、「ペン」の領分でも、増えこそすれ減って行くわけはありませんし、必ずしも電子メディア機械を歓迎している一方ではないのです、わたしも。
しかし時勢の大勢を、手をひろげて阻むことは容易でないし、またそれが真に賢明なことかどうかは思案の余地があります。
どんな問題がどのように起きて、どう「言論」や「表現」に影響してくるか、問題がのっぴきならないことになる前に、拾い上げ考え、対応を考慮してゆくことは、ペンクラブとして、自然な「思想的」発想であり態度ではないかと思ったのです。
人権、著作権、出版権なども、目の前の問題になってきます。言論表現の自由も関わりますし、悪しき法権力による「規制」への対応も、遅きに失してはなりません。「文字コード」の国際的な視野における適切な見直しも叫ばれていますし、これは単に現在のわれわれだけの問題でなく、釈迦や孔子にも、日本書紀や源氏物語にも、空海や親鸞にも、鴎外や漱石にも、いいえ現在活動中の文筆家や学者研究者にも、いいえ千年後にも漢字やひらがなで思想や藝術を成すであろう人たちにも、まったく同じ条件で、大きな大きな問題になりかねないのです。
言語文字文化財は、稀少化と劣化とを免れません。世界中のだれもが、どこでも、いつでも、同じ条件でフォント化された文字で、あらゆる古今の文献や作品に接しうるほどの「電子図書館」「電子文藝館」を願って行くことも、大切な「文化」事業、国家的な大事業になるでしょう、ならねばならないとわたしは思う。
いま、研究会発足の当初メンバーをどう探して行こうかと、すべては緒についたばかりですが、思案しつづけています。いい知恵のある方はお教え下さい。
ともあれ、いまだに和服姿で、毛筆で原稿を書いているのかと、わたしのことを想っていてくれる読者もいます、が、ワープロに切り替えてずいぶん久しい、この道では先駆した一人なのです。東工大「文学」教授に選任されると、即座にパソコンを買いました。なにしろ国立の東京工業大学です。学生達の親切な指導と協力で、まだまだ今もウロウロしていますけれど、ホームページを開くまでに来れたのも、はっきり、私自身の意志と好奇心の結果です。機械を賛美する思想はじつは持っていないのですが、前へ向いて動いて行く時代に、機械に興味がわかない、それと貨幣価値の変動について行けない、なんてのは、要するに、わるく「老け込む」モトだと考えてきました。
断っておきますが、新しい機械、変わりすぎる貨幣価値、その両方への批判・嫌悪感を、わたしは決して意識の背後に置き去りにしてなど、いないのです。一種の「敵性」「毒性」として認識し、把握して、しかし機械の前に卑屈に屈してしまいたくはないのです。 「むかしの私」から
2009 1・29 88
* もっと若かった昔、密教に好奇心をもったことがある。深まることはなかった。生死の問題でいえば、家の宗旨からもごく自然に浄土教に馴染んでいたし、高校時代に高神覚昇の『般若心経講義』に惹かれながらも南無阿弥陀仏の方に気持ちは近かったし、浄土三部経は、妙な謂いようだが岩波文庫で愛読した。なにかというと誦経していた。祖師では、しぜん法然に親しんだ。親鸞は偉い人だと眺めながら、導かれたのは法然の専修念仏だった。源信の『往生要集』も熱心に読んだけれど、いつしれず法然のもとへ戻っていった。
禅に関して謂えば、所詮悟れまいと自分に引導を呉れていた。それでも他力を頼んだ易行の念仏に依願しながら、少年時代、青年時代、禅に、知的に関心を寄せていた。つまり禅とは遠かった。
日蓮には親しまなかったが、念仏と禅との微妙な接点をもちしかも「捨てる」という一念に徹した一遍上人の行業に、成人に随い心惹かれていった。
その間にも、基督教の歴史をうちこんで調べた時があった。新聞小説『親指のマリア』(京都新聞朝刊)のためもあるが、世界史に興味をもてば基督教ぬきには近寄れなかった。
一方、中国の思想では、儒学にはあまり好意も関心もよせてこなかった。「老子」「荘子」に惹かれた。祖父の遺してくれた漢籍にいい本があった。学生のうちに貰っていた裏千家茶名に、「宗遠」と希望した「遠」一字は老子に引いていた。いわば老荘の方角から、彼方の禅を、わたしはやや憧れて覗きこんでいた。そしてそのことが、バグワン和尚と出会って以降の道筋に幸いしたと思う。バグワン・シュリ・ラジニーシは明らかに老子に近く、また禅に近い。バグワンに帰依するにつれ、自然と法然・親鸞の念仏は私の内で薄澄んで行った。同時に、法然に得ていた厭離穢土という思いは抜けないまま、さて欣求浄土というよりも、もっともっと自然な何かを待つ気持ちになってきている。なにが本当に自然で望ましいのか分かったとは言えぬが、「間に合って」欲しいなあと、その何かを、待たずに待っている。
* なんという頼りないわたくしであることか。
2009 2・1 89
* maokatさんほど温厚な人も、気概が弾んでくると、「のだ」と文章で胸を張る。親しい人にもらった場合に限るけれど、ここに紹介する人さまの文章にも、あえてわたしは最低限、小さな手を入れている。
むかし、こんなふうに書いていたのを、呼び出してみる。
☆ のようというのだ 秦 恒平
明治に、一時期「美文」が流行った。妙なモノであった。昨今は「名文」ということもあまり言わない。名文の議論はよほど多岐にわたる。安易な口出しは避けたい。
当今は「悪文」の時代であろうか。悪文にもしかし、稀々、あるいは時折り、とても個性的な「佳い悪文」があり、見捨てるばかりが読み手の能ではない。一昔まえの瀧井孝作先生や吉田健一先生の一見悪文は、また名文の一種とも謳われた。
すぐれた文学か、そうでないか。それは題材では決まらない。文体と文章。その上に造型され表現された作者の「思い」の深さ高さや、オリジナリティー、と、ひとまず謂っておく。だらけた陳腐な物言いや決まり文句を多用し、筋書きを説明に説明して、文章を「読むうれしさ」を全然与えてくれない、それはもう「読み捨ての読みもの」に過ぎない。ほんものの作は二度三度四度の再読を促してくる。名勝が、再訪につぐ再訪を促す魅力に富んでいるように。
この節、書きたい人がむちゃに増えている。ケイタイでも書ける。他人のものは読まないのに、自分の書いたものは読んで欲しいからか、私のところへも、見知らぬ書き手が「書いたもの」を送ってくる。
ものを書くのに、才能は、どう現れるか。少なくも一つ謂える。
「推敲する」力と根気、それが創作文章での確かな「才能」です。
推敲の力は、数行の書き出しだけでも分かる。
一つ、(これで十分なのではない、誤解ないように。)申し上げる。「のようというのだ」と覚えてくださると好い。「(の)ような(ように)」「という (といった)」そして語尾の「のだ」の、この三つは、書きながらも我から首を傾げて思案した方がいい。
大概、この三つは必然の必要から書かれず、ただの口調子で書かれている。省いてしまうとピンと文章の立ってくる例が多い。この三つの頻出する文章は、たいてい、救いがたい「駄文」である。
序でながら、例の一つであるけれど、「私がすること」「あなたのなさること」の、「が」と「の」を、確かに書き分けられる人も、少ない。文章の品位を左右する例が多い。
2009 2・2 89
* 朝日子の葉うれを洩れてきらきらし という句をえて、下句も出来ていたのに、忘れたと、1999.06.18日の日記にある。『私語分類』のおかげで、記憶の戻るのが早い。むろん「朝日子」はわが娘の名でなく、「朝の光」の意味。下の句を夢中に置き忘れたらしいのが惜しい。
☆ 処世そして三学期 2000 7・28 「仕事」
* ホームページに満足していないで、外へも書いて欲しいとメールで読者に叱られた。
わたしは、三十余年の作家生活で、自分から仕事を「売り込んだ」という例は、一パーセントにも遙かに満たない、無かったに近い。頼まれて、題目が納得できれば引き受け、無理が有れば受けなかった。こっちから、もっともっと持ち込むことは不可能でなかったと思うし、今でも不可能ではないだろう。それをしないのは、言われなくてもハッキリしている、わたしがモノグサで、すこし傲慢なのであろうと思う。
もともとから投稿ということに背をむけ、私家版へ決意を籠めた。「世に背き背き」やって行きたいとあんなに早く中学時代の親友に書き送っていたことなど忘れていたが、送り返してくれた過去の下手な字の私信をみると、まちがいなくそう書いてある。ほとんど、これがわたしのビョウキなのだなと思う。
「二学期」のうちは癒るまい。「三学期」にはいったら新しい歩み方を工夫しよう。しかし先日、六十五歳で二学期を修了しますよと言ったら、山折哲雄さんに「早い」と首を横に振られた。七十歳でいいでしょうと。ビックリし、少し恥じ入った。今は、そう覚悟している。 「むかしの私」より
2009 2・2 89
* 新刊への反応がいい。ここへ来て『いま、中世を再び』という呼びかけは、かなりの重さで時宜に適っていたのかも。そのように思っていた人が少なくないのであろう。とにかく「ごっつい」本になった。その「ごっつい」論考を三十余年前に書いていた。それも見直されているポイントらしい。
わたしは少年時代の「夏休み」同然に自身の「人生」を作ってきた。どういうことか。わたしの夏休みの理想は、七月中にぜんぶの宿題を片づけておく。あます八月の全部を気楽に遊ぶと。
作家としての仕事も、とにもかくにも人生の前半に繰り出し繰り出し人が呆れるほど出版し書きまくり、テレビにもラジオにも講演にも駆けめぐって、地味なりに稼いでおいた。
後半は、完全に遊びのペースで来た。いまは仕事も引き受けず、無収入である。もう残生わずか。計算は旨く合っている。誤算は…。ああ、そんなことは云うまい。
とはいえ、昭和六十一年元旦の豪華版『四度の瀧』までに単行本は六十三冊、そして今回今年までの全書誌をと思って出版本を引っ張り出した、あるわあるわ、百冊には成るだろう。その上にこの後半生に『湖の本』百巻がべつに積み重なる。そこには「湖の本新刊」がたくさんある。
働きものではあるのだ、褒めたことではないが。
2009 2・5 89
* 漸く、「湖の本」分をのぞく他の「出版書誌」をほぼ仕上げたので入稿する。一、二脱漏があるやも知れない。続いて「湖の本全書誌」を纏めておく。「年譜校正」の初校了を急ぎたい。
むかしは全く忙しかった。いまは後始末にも忙しい。この作業等をさきへさきへ送り出してしまえると、また視野が変わって気持ちのいい仕事に立ち向かえられそうである。
* 全百点の、「単行本等全書誌」を、いま電送入稿した。残すは、「湖の本・湖の本エッセイの全書誌」を作成して入稿しなくてはならぬ。それで、次回「百巻、五十年記念出版」の入稿は予定通りに済む。八ポという小さい字で、組み付けとデータ一字一字に注意しながら原稿を確定していったので、ホトホト疲れて、夕食後二時間余、つぶれたように寝入った。ま、妻にいろいろ協力して貰いながら、漕ぎ着けた。
「記録」という仕事がトテモ大層なことは出版という仕事に早くから編集者として携わっていたし、さらには大勢の文学者達の年譜や書誌や年表に助けられ教わりながら多年仕事をしてきたから、骨身に染みて分かっている。その気で用意はしてきたのだが、イザとなれば細部でモノが見あたらなかったり記載漏れしていたりする。小説「加賀少納言」がロシア語訳されて本になっている現物が見つからず、洩れてしまっている。ほかにも洩れたモノが無いと言い切れない。残念。
* 疲れたので、今日はもうやすみたい。漱石の『明暗』をわたしは文学としてめざましく見直し尊敬の眼差しを向けて読んでいる。
漱石の、漢字・漢語のじつに明快で適切で巧みな駆使は、彼俳句味の上等なユーモア精神に下支えられていて、めったやたらに日本語が警抜な警句気味の連続放射になっているのだが、それでいてちっとも行文がしんねりもむっつりもしないで、風通しがバカに良い。心理解剖のうるさいほどの連続が、シェイクスピア劇の道化・阿呆らの名セリフのように小気味よく読者をのせて先へ先へ運んで行く。こんな生き生きした藝当のできる日本語の作家は他に出会ったことがない。『背教者ユリアヌス』の日本語や、『ジャン・クリストフ』の日本語訳の文章などは、それにくらべると炊いた米の飯を杵でついて、ねちこちに餅にしたような読みにくさ、風通しのわるさである。
なににしても、早く「粂川・明暗」にとりつきたい。
2009 2・7 89
* 昨日に掲載しておいた満九年前の「むかしの私=法然・秦氏・梅原猛さん」の記事は、とくに選んだわけでなく、たまたま「分類・歴史」のごく冒頭にあったもの。少しも意見を書き換える必要がないのと、いまもわたしには関心があるし、あまりかけ離れないところで最近も法然さんのことを読んだり書いたりしていた。或る程度の纏まりも量もあり、少し手を掛けたらそのまま依頼原稿のエッセイとして売れる内容になっている。
分かって欲しい。
わたしの「生活と意見 闇に言い置く私語の刻」は、現在88ファイル、数万枚という厖大な量を擁している「日録」であるが、なかみは九割九分以上が、いわば此の「法然・秦氏、梅原さん」と質的にみな同じの、まさしく「秦恒平のエッセイ」原素なのである。そのなかで、いまこの父であり舅であり作家である私を被告席に呼び出して、この「私語の刻」の全部はおろか「e-文藝館 =湖(umi)」も「電子版・湖の本全作品」も、その他の多くも、一切合切「全削除」を、法廷に対し、また法廷の頭越しに今しもサーバーに対して求めている人たちの具体的に文句をつけるような内容は、大海の一滴ほども無いのである。本当に必要なら、大海の一滴をつまみあげて蒸発させればいいのであり、一滴の正確な指摘は彼等のこの際義務なのだが、何が何でも「全削除」とゴリ押ししている。著作者の、著作と思想信条の自由や権利、言論表現の自由の権利に対して、そんな暴虐と無道が許されるものであろうか。ペンの言論表現委員会にわたしは問いたい。文藝家協会の知的著作権委員会にもわたしは問いたい。むろん裁判所にも問いたい。
☆ 何かに背き背き 2000 7・15 「文学・人生」
* シナリオ『懸想猿・続懸想猿』を謄写版で一冊にし、初めて自費出版したのが昭和三十七か八年。すぐ次いで『畜生塚・此の世』を出した。それへの感想を中学時代の畏友から受け取った。その礼状が残っていたのだ、有り難い。書き下ろしたばかりらしい小説はきっと『或る「雲隠れ」考』だろう。
「何かに背き背きやっていきたい」とある一句に、一瞬茫然とした。わたしの生き方がまざまざと刻印されている。
あの当時、何に背こうとしていただろう。呼び名の有る、ただ呼び名だけに空洞化し形骸化していたいわゆる人間関係に背いて、「身内」を考えていた時期だ。同時に、当時の文壇作品への軽蔑があったのも忘れない。そして、まだあの頃、ものに応募して世に出ようなどと全く考えていなかった。だから私家版へ動いた。
わたしは、結局一度も同人雑誌や人への師事もなく、また新人賞などへの応募もしなかった。太宰賞も、私家版が人の目に留まって、『清経入水』を応募したことにしてくれないか、賞の最終選考に候補としてさし込みたいのでと、筑摩書房の希望だった。寝耳に水の招待だった。
吉川霊華という画家がいた。いまではむろんのこと、存命当時も表へはめったに派手に出てこない画家だったが、近代日本画で極めて特異な位置を確保した藝術性のじつに優れた表現者だった。わたしは、こういう人を敬愛してきた。
世にときめくことは、わたしには無理だった。問題外であった。そういうことに「背き背きやって」きた。「客愁」を抱いていつも「退蔵」を庶幾し、しかも「一期一会」努めてきた。それが出来れば上等だと思ってきた。
太宰賞も東工大教授もペン理事も美術賞の選者も、わたしから望んで手をだしたものは一つも無い。みな、向こうから舞い込んできた。望まれれば、応じても良く、断っても良い。創作者には好奇心がある。好奇心を水先案内に生きてきたかも知れないのだ。だが、根は「何か(俗悪なもの。権力で支配するもの)に背き背きやって」きたつもりだ。
それももう、落としていい時期だ、やがて人生の二学期を終える。どんな三学期が可能か不可能か知らない。
彼の世へ進学するために学年末試験や進学試験があるのかどうかも知らない。したいだけをして、しのこしたことに思いをのこさずに。静かに。そう、静かに終えて行きたい。
そればかりを祈っている。 2000 7・15 「むかしの私」より
2009 2・7 89
* もう日付が変わろうとしている。終日二つの仕事をしていた。一つは「湖の本」創作シリーズ分の「書誌」づくり。わたし自身が後日参照するとき、最大限便利であるように創る。記録はきっちり創った方がいいし、前に見本のある単行本の方は妻に大筋の作成を頼みすでに昨日徹して手を加え入稿したが、「湖の本」は略式より本式にこまかにしたかった。幸い、定形だから判型や装幀などに手を取られない分、内容面で完備したいと願った。やっと四十五冊分作ったが、カンジンの本を押し入れから一々探し出してくるのも難儀であった。そしてまだ「エッセイ」分が四十六冊分必要。こりこりに肩が凝る。
もう一つは、八ポという小活字で二段組みの「年譜」の校正は、昭和四十年代に入り、わたしが勤務と家庭とのほかに創作へ創作へと夢中に励んだころになると、一年間分で十頁以上になる。そして、だんだんわたし自身が興奮してくる。そして四十四年の太宰賞当選の日まできた。このあとは、創り上げている厖大な「単行本・湖の本等 全書誌」がわたしの次の四十年を全証明してくれている。年譜はもう必要がないとすら言い切れる。
2009 2・8 89
* 前田愛氏の一葉論再読がおもしろく、曾読の記憶と同じく「暗夜」論がことに胸に迫る。読んでいるうちに、自分が一葉作品を「舞台」作のように場面を脚色しつつ読んでいるのに気がついて、ゾクゾクし始める。小説に書いてみても好いのではなどと俄然欲が出てきたり。ナンでもいい「暗夜」を読んでみたくなった。
鏡花は一葉のこの辺の感化を受けている、間違いないなと思ったりする。急に鏡花を論じてみたくもなる。すこし、老人、昂揚しているじやないか。卒業生君に励まされたかな。ありがとう。
2009 2・9 89
* イヤなものを見つけた。どうしてこんなものを「ペン電子文藝館」評論室は、載せるのだろう。
* 私の理解に間違いが有れば訂正吝かでありません。こういうことは、衆知が噛み合った方がいい。メールの届きそうなペンの皆様に、私の心配を聴いて頂きます。以下は現在の「ペン電子文藝館」委員会が紹介も書いて「評論室」に掲載した高村光太郎の一文である。「そのまま」此処に転写するのは問題提起したいからである。
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招待席
たかむらこうたろう 詩人・彫刻家 1883年~1956年 東京都生まれ。彫刻家・高村光雲の長男として生まれ、わが国の彫刻や詩に多大な功績を遺したが、太平洋戦争中は日本文学報国会の詩部会長に就任し、多くの戦争賛美詩を発表。戦後、詩によって多くの若者を死に追いやった自責の念から岩手県の山村で自炊の生活を送った。初期の詩作品に見られるような人道主義的な立場を取りながらも、積極的に戦争に協力した背景には光太郎の強固な個人主義の限界を指摘する評者もある。電子文藝館編輯室では、光太郎の精神史を振るため、「招待席」では、戦前、戦中、戦後の詩、ならびに戦中の評論を列挙して、掲載した。「評論研究」のジャンルでは、「戦争と詩」のみを再掲載する。掲載作の初出は、1944(昭和19)年1月29日付けの「日本読書新聞」。
戦争と詩 高村 光太郎
すでに戦争そのものが巨大な詩である。しかも利害の小ぜり合ひのやうな、従来世界諸国間で戦はれたいはゆる力の平衡化のためのやうな底の浅い戦争と事変り、今度の支那事変以来の大東亜戦争の如きは、長きに亙る妖雲の重圧をその極限において撥ねのけるための己むに己まれぬ民族擁護の蹶起であり、皇国の存亡にかかはる真実の一大決戦であり、肇国の公大なる理念に基づいて、時にとつての条約や規約ばかりを重んじて更に根帯の道義を重んじない世界の旧秩序を根本的に清浄にしようといふ皇国二千六有余年の意義を堂々と天下に実現するための聖戦であつて、この内に充ち満ちた精神の厚さと、深さと、強さとの一あつて二なき途への絶体絶命の迸発そのものこそ即ち詩精神の精粋に外ならぬ。詩における「気」とは斯の如きものである。
その上、戦争における現実のあらゆる断面は悉く人間究極の実相を示顕して、平和安穏な散漫時代には夢にも見られなかつたせつぱつまつた事態と決心と敢行実践とが日毎に、刻々に体験の事実として継起する。物語の中でしか以前には遭遇しなかつた人間の運命も、生死も、喜怒哀楽も、興亡盛衰も、今では一億が身みづから切実にその事実の中で起居し、実感する。一億の生活そのものが生きた詩である。一切の些事はすべて大義につらなり、一切の心事はすべて捨身の道に還元せられる。
このやうな神聖な戦争時代には美の高度が高まり、美の密度が加はり、しかも到る処にその鋒芒があらはれ、美が人間を清浄化してゆく過程を実にしばしば目睹する。激動と静謐とは同時同刻に所在し、放胆不羈と細心精緻とは決して互に抵触せず、潜むもの行ふもの、皆その正しい部署を知り、実に大にして美である事を感知すること稀でない。わけて前線において、戦ふ将兵の消息に至つては殆ど言語に絶するものを痛感せずにゐられない。
皇国の悠久に信憑し、後続の世代に限りなき信頼をよせて、最期にのぞんで心安らかに 大君をたたへまつる将兵の精神の如き、まつたく人間心の究極のまことである。このまことを措いて詩を何処に求めよう。
戦争が生きた詩である時、文字を以て綴る詩が机上の閑文字、口頭の雑乱語であるやうな事があつては一大事である。戦ふ一億は真実の詩を渇望してゐる。みづから身心に痛感しながら此を口にするすべを知らない一億自身の詩に言葉を与へるためには、詩人みづからが真に戦ひ、真に行ひ、真にまことを以て刻々に厳毅精詣を期せねばならない。兵器の精鋭に分秒を争ふ時、詩人が言葉の鍛錬に寸刻も忽であつてはならない。
詩精神とは気であるが、気は言葉に宿る。言葉は神の遣はしものである。踏み分け難い微妙な言葉の密林にわれわれもまた敢然として突入せねばならないのである。
(原稿は、長くここに晒しておきたくない、見るに忍びない。下記の「評論」頁を開けば高村原稿が取り出せます。「ペン電子文藝館」を検索願います。)
Takamura Kotaro
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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評論研究
総目次
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* 「ペン電子文藝館」は「ペン憲章」のもとに成り立っている。一般の作品の他に、特に「反戦反核特別室」を立て、その種の優れた作品や発言に読者の注目を促している。願っているとすら言える。
それなのに上のように逆上気味の「戦争讃美・賛嘆」の一文がまるで「歴史の幽霊」のように持ち出されている。何の意味があるのか。
この、子供でも知っている著名な大詩人の、けっしてこんなものを今さら今日の読書子の目にさらしたくないであろう、またなんら我々がお節介に持ち出すべきでない、身震いの出るような内容の一文である。
委員長は、委員会は、また担当役員は何を考えているのか聴きたい。
「貫く棒のような」な定見と見識を持たないから、こういう、おもしろづくのようなことをしでかしてしまうのではないか。
これもまた此の詩人の一面でもあるのだから、などと、かりにも先輩文人への深い敬愛があってしかるべき「ペン電子文藝館」は言ってはならないだろう、そんなことは世の好事家ふうの穴ほじり評論家や研究者に任せるべきである。
こんな掲載を始めれば、戦争を賛美して国策に心ならずも、それならまだいいが心から賛同して、当時書き散らされたかつての文豪や大歌人や著名著者達の旧悪暴露が有意義だといった醜悪なアナクロニズムに流れて行く。それは、間違っても「ペン電子文藝館」の仕事ではない。館の顔に泥を塗るようなマネは避けてもらいたいと、一理事また一会員として断然抗議する。
2009 2・11 89
* 早速のお返事ありがとうございました。正直のところ震源地があなたと聴いて愕いています。
仰せの事は分かりますが、実は、高村光太郎だけでなく、こういうことを言うなら斎藤茂吉にも大きな参戦作品集『萬軍』があったりします。珍しいことでなく、そしてやはり高村も茂吉もとてもとても苦しみました。わたくしは、あの文藝館での「略紹介」程度の趣旨で、こういう一文が「評論室に単独で出る」のは、やはり危険なイヤなことだと思います。
もしあなたにそんな新鮮な感銘がおありであったら、そういう「高村光太郎論」を書かれて、あなたの現下の不安や批判を籠めて「警醒の文章」を文藝館に出されるのが、高村のためにも愛情と敬意のある紹介法であったと思います。
あるいは、あえてこの一文を「反戦」室に置いて、そこで慎重な解説や、反面教師としての理解を読者に求める手段を講じるのが適切であったろうと思います。いま不用意にこの「戦争と詩」の一文を目に触れますと、大きな誤解も悪影響すらも心配されます。ペンが「容認」したかに取られるオソレもある。
そういう周到な配慮がぜひ「ペン電子文藝館」では、どの一本の掲載にもされるべきで、この場所は、ひとりあなたの講演会場とは性質がちがうのです。駟も舌に及ばず、へたをすると、いやすでに「高村光太郎という立派な詩人」を傷つけているかもしれない。それは先輩への敬愛からも我々の為すべきことでないと私は思います。
ひろい意見をもとめて、「ペン電子文藝館」のこれからのために慎重に討議して欲しい。私は一会員として、異様ないやな思いをしました。 この私信はどうぞご自由に委員会にもお持ち出し下さい。秦 恒平
* 戦争讃美の「ペン電子文藝館」掲載作に関して、すばやい反応が来ている。
☆ これは困ったことです、心配です。 ペン言論表現委員
とても大きな問題提起をありがとうございました。
これは文筆に関わる者にとっての根本的な問題だと思います。
ペンで徹底的に議論すべきことではないでしょうか。
そこで提案なのですが、秦様が問題提起をされ、それについて言いたいことをペンの中で公募して、何度かペンクラブで出している文集にまとめて世に問うというのはどうでしょうか。大変意義のあることだと思いますのでご検討くだされば幸いです。
* これこそが言論表現委員会(或いは「ペン電子文藝館」委員会と合同)で討議されて当然の議題に思われる。理事達にも、また執行部へ伝達を期待し事務局へも申し入れた。
それにしてもこんな際に、ペンクラブでは、会長にも専務理事にも担当役員にもメールが無くて、使えない。
☆ これは困ったことです、心配です。 委員
秦 恒平さま 文藝委員会へのご指摘ありがとうございました。
昨年春より、ほとんど活動しておりませんでしたので気がつきませんでした。
なんの断りもなく、「裸のまま」掲載するのは、私も反対です。
私たち世代は、高村光太郎の偉業を多少なりとも知っておりますが、先入観のない若い世代や外国人がはじめて接するとしたら、これが光太郎だと思ってしまうでしょう。
いっそ「戦争」というコーナーでも設けて、そこへ入れ、略紹介で、ほんとはそれで戦後は苦しんだ、と解説したほうがましに思われます。
できれば、MLなり、委員会なりで、もっと議論をつくすべきと思いますが……?
* こういう声の届くのは頼もしいが、散漫に声がチラばってしまうだけに終わらぬよう願いたい。
* 大原委員長からもメールが届いた。大原さんとは久しく久しいツキアイで遠慮がない。いつも無遠慮にさせて貰ってきた。お許し願い、わたしの考え方と並べてみたい。
☆ 高村光太郎の件 「ペン電子文藝館」委員長
秦さん こんばんは。メール拝見しました。貴重なご忠告を感謝します。
私見ですが、このままか、さらに、論を広げて、「会員の広場」に投稿していただくとよいと思いました。
言論表現の自由を標榜する日本ペンクラブですから、電子文藝館には、ペン憲章に反しない配慮をした上で、さまざまな意見を掲載し、状況を活性化させたいと思います。
私としては、生真面目な詩人の精神の遍歴をトレースするために、戦前戦中戦後の詩とその時代の狂気という大波に飲み込まれた背景説明になるような戦中の評論をあわせて掲載することで、かつてと同じような時代風潮を招かないようにするために、表現者として、日々の表現活動をしてゆきたいという提案者の意向を委員長としても、了としました。委員会内部でも、時代の狂気を浮き彫りにするため、こういう形での掲載に異論は、ありませんでした。
あるいは、略歴での、「編集方針」の説明が、言葉足らずというなら、秦さんにお知恵を拝借して、誤解のないような形に改めたいと思いますが、いかがでしょうか。
電子文藝館には、戦時中の伏せ字の多い作品も掲載しています。権力による表現活動への介入の痕跡として、そのまま掲載しています。表現者の精神のありようの跡をとどめる作品も、時代の変化の中でトレースするように載せる行為も、同じ判断だと私は思いました。高村光太郎の対応は、提案者がいうように、過去のことではなく、これから、私たちも他山の石として、過ちを犯さないように努めるべき、反面教師になるというようなものだと思います。
2010年の国際ペン東京大会に向けて、掲載作品を吟味している電子文藝館を、今後とも、厳しくお育てくださますように、お願い申し上げます。
* メール頂きました。 秦
「ペンクラブ」は「言論表現の自由」を尊重しなければなりません。
しかし、「ペン電子文藝館」の「招待席」は、言論表現の自由を問題にする場ではなく、古人になられた文学者の遺業や偉業を顕彰し、多くの人に優れた作品として招待し公開するための場所です。
存生の現会員ではなく、亡くなった人は、今新たに「言論」することは、したくても出来ないのです。その意味では、人によれば偉大な詩人の旧悪や恥部をさらしたかと読まれかねない文章を、ことさらに選んで公開する権利は、我々には無い。
あるとすれば、言論表現の自由を行使して「現在生存している書き手の文責」のもとに、その人が客観的に「評論」されるべきです。
高村光太郎は本当に戦時中の発言や著作故に苦しまれました。そして、今日只今では、一言半句の言い訳も主張ももう許されていない。亡くなっているのですから。死人に口ナシを利したような格好で、そういう先輩文学者の、とうてい優れた業績とは言い難い、読者たちの誤解や侮蔑も招くような文章を、ことさらに公開する権利は、いかなる「言論表現の自由」のもとでも、「ペン電子文藝館」には、許されていません。けっして故人への敬意や愛情の表現にはなりません。
少なくも現状では、あまりに露骨なだけで、親切な配慮にまったく欠けていると思います。
「ペン電子文藝館」は何かの「主張の場」である以前に、一作でも「優れた作品」を現代の読書子に提供する場です。根底に、優れた作品を一つでも多くと働く場所であり、特別室としての「反戦・反核」室の在る意義をこそ生かして貰いたい。すっぱだかでこんな原稿を出された高村さんは、身を縮めて「止してくれ」と言われているでしょう。生者が死者を困惑させるのは傲慢ではないでしょうか。
「高村光太郎と戦争」に触れた文学者の「文責ある優れた仕事」がどこかにあるのでは。むしろそういうものを捜索されるのも手順であったと思う。
>電子文藝館には、戦時中の伏せ字の多い作品も掲載しています。
権力による表現活動 への介入の痕跡として、そのまま掲載しています。 大原
戦争への、権力への「抵抗」の跡を追うのは大切なことで、その方面の専門の研究家ともわたしは付き合っています。
しかし、戦争や権力への「迎合」をことさらに取り上げるのは、危険こそ有れ、それは「ペン電子文藝館」の大切な仕事ではありません。「ペン電子文藝館」は「優れた文藝作品」をこそ提供するのが本義ではなかったですか。
「抵抗」と「迎合」とは、単なる表裏ではなく、一つは称賛し、一つは批判して然るべきモノであり、「取り上げないという批判」に徹していいはずだと思います。言論表現の自由など、この問題に持ち出すのは変です。安易ではありませんか。
2009 2・12 89
* またメールを戴いたので、取り急ぎ返信。わたしの理事として会員としての職分はもう果たしたと思う。
* 委員長さん お分かりいただけたようなので、やや安心しました。すくなくも現状、高村光太郎による少なくも「詩と戦争」の一文は削除しておかれるのが大先輩に対する礼儀・情義、また配慮だと思います。
今一つ、提案者がだれかはさておいて、問題がらみの「高村光太郎論」書き下ろしは、しかるべき専門家のこれまでの仕事を探されますよう。一つには提案者は評論・批評の会員でなく、文藝評論家ではありません。小説家でもありません。「ペン電子文藝館」を利して、委員が率先、他の領域に手を出されるのは、それだけの業績や評価が先行しているべきだとは、そもそもの創立以来話し合って確認したこと。お手盛りの天下りや渡りに類似することは慎重に避けるべきです。
ともあれ、掲載内容は、叡智を尽くして穏当に。「ペン電子文藝館」は主義主張する場という以前に、国民的に愛される豊かで優れた作品の図書室でありたいとそもそもの創立時に何度も話し合ったと思います。そして「招待席」の理念は、あくまでも故人への尊敬と配慮から。
これから外出します。取り急ぎ。 秦 恒平
* 少し胸熱く思い出す。「ペン電子文藝館」に没頭して六百にちかい作品を必死に掲示し続けていた日々に、同僚理事の新井満さんが、「いい植林ですね」と励ましてくれたこと。あれは大きな力になった。文学者と文学作品等による一本一本の「すばらしい植林事業」それが「ペン電子文藝館」の本来なのである。よりによってその文学者の変改したくても今は出来ない恥部のような文章を持ち出すなど、礼儀にも情理にも欠けるのである。
* 外出する。
☆ 行動すること 楊 在・ノルマンディー
秦様 電子文藝館に高村光太郎の戦時中の詩と詩論が掲載されたこと、これは失策でした。それに対して秦様がご意見を関係者に送られましたが、何故誤りであるか情理を兼ね備えた理由を挙げ、どのようにすべきか対応もご提案された内容、その通りです。
人は気がついてもなかなか行動できません。今回のご対応に敬意を表します。行動しなければ変わりません。自戒ともしたいと存じます。
どうぞご自愛下さい。
* 感謝します。それにしても上のような反応は、関係者からはなかなか届くものでない。或る言論表現委員のわたしへのメールなど、当然の所を見ているのだが、こうは誰も発言してこないのが常識の世間である。平地に波を立てるのは愚かだと思われがち。しかし、よく考えるまでもなく、私の見たのは、とても「平地」の主張なんかではなかったはずだ。一つ間違えば、時代を逆様に追い落としかねない。
2009 2・13 89
* わたしは、仏教徒ではないが、いまも法華経を読み、先日まで生死の問題で仏教書を読んでいたり、触れることは少なくない。そしてその感化でもあろう、わたしは人の死後、葬や葬儀後の営みに関し、本質的には深い関心をもっていない。これは世間の常識とははなれるようだが、じつのところ釈尊もしかり、高僧知識には人の没後に「かかわらない」と明言しているほどの人が何人もいるのである。漠として適切にわたしに説明はできないにしても、枢要なことのようにわたしには思われる。源氏物語にも賀の祝は幾度も場面化されているが、亡き人は深くも親しくもよく偲ばれるけれど、墓参の記事はめったに出ない。源氏が須磨にみずから落ちて行く直前にややそれらしい遙拝が看取される程度だろう、さもあろう、よく言われるように藤原道長ほどの権勢の墓も容易に見あたらない。御陵は築かれても、忌日ごとに参拝する風はめったに出会わず、むしろ個別の人情にまかされて世の常識的な行事とは遠くにあった。
2009 2・14 89
* 「迷走」の大争議が企業内で闘われたのは一九七四の春闘、ティッシュペーパーが無くなると世間が大騒ぎした年だった。わたしは出版社の課長という管理職だったが、この年の秋九月一日を期して退社独立した。二足のわらじを一足に統一した。三十八歳から九歳になろうという年だった。
「むかしの私」がそれを回想しているのがすでに四半世紀後のことだが、それからさらに十年が経ったのだから、歳月は待たずである。
ふしぎなことに、年を取ったというより、湖の本で「迷走」三部作を纏めたときも、それより二十五年以前のあの春闘も、昨日のことのように鮮やかに胸に蘇る。
体力や生理では老耄は免れないが、頭も気持ちもまだピンピンしていて、しすぎているのが困るほど。このピンピンこそが、いわばわたしのビョーキなのかも知れない。
* 日付の変わる今しも、大阪から、かねて情報をお願いしていた人から、平家物語のある事項に関して、今日只今知れる限りのことをメールで知らせてきて下さった。じつは、きっちり同じほどのところまでわたしも調べ尽くして、もうほぼどうにもなりそうにない迄調べ尽くしていた。だから耳寄りな新たに何が知れたわけではないが、私の思いを現状整理して確認することは、有り難く可能であった。感謝に堪えない。
そしてわたしは、さらに竿頭さらに半歩は進めてあるのを、なんとか足探りに空を踏んで飛び出すしかない。ねばりづよくそれを想っているのである。
2009 2・15 89
* 村上春樹氏のイスラエル賞受賞の挨拶で、イスラエルのガザ攻撃を適切に批判し、さらに、壁に卵という対立では自分は常に卵の側に立つという真情と信念の披瀝に敬意を覚え、テレビに向かい手を拍った。こういう「非常識」の尊さをわたしは常に大切に思う。
2009 2・16 89
☆ ONE OF THEM などと思わない。 1999 12・16 「人生」
* つい先日も誰方かが、「あなたは作家になるべき人であった」と言われたが、何故とは問い返していない。そうかも知れないが、分かるとも分からないとも言える。
これでわたしも、ずいぶん大勢の作家を識ってきた。作品だけでの作家も多いが、接した人も多い。深く敬愛し畏怖した人もあれば、まるで信頼しない作家も少なくない。作品を深く認めて尊敬する人となると、そんなに大勢いるわけがない。これは仕方がない、誰もがお互いにそんな按配であるに違いない。
そういうことは別にして、それでも自分は、よほど他の作家たちとはちがう神経をしているようだと思うことがある。資質的にひとり己れを高く謂うのではない。変わっていると想うのであるが、作家はたいてい変わっている存在だった、昔は。この頃はフツーの人の方が多いのかなと思うぐらい無頼な人は少ない。面白くもない。わたしだって、そう見られているかも知れないが。
自分の「変わっていよう」を、うまくは表現出来ない。文学を愛している、が、自分の人生をもっともっと強く愛している、それに執着しているのかも知れない。人生で出逢った大勢の人、大勢ではないかも知れないが、親密に触れあえてきた何十人、百何十人かも、五百何十人かも、千人かも知れない、「魂の色の似た」いろんな人たちへの思い出を、ほんとうに大事に大事に感じ続け、文学への愛もそれを超えはすまいと自覚している点で、わたしは変わり者の素人作家である気がする。
そういう人たちが先ず在ってわたしは「文学」してきた。死んでしまった育ての親たちも、実の父母も、兄も、異父姉兄もそうだが、生きて元気な何人も何人もの一人一人と、わたしは、いつでも、どこにいても、向かい合って生きて来れた気がする。一人一人を、ONE OF THEMなどと思ったことはない。兄の言葉を信奉して用いれば、「個と個」「個対個」の一期一会である。 1999 12・16 2009 2・16 89
* 大阪の松尾さんより、平家物語の調べ物に関連してまたメールを下さった。嬉しく有り難いことで、おかげで、一つの小説にねばって食いついて継続してゆくことが出来る。この人は、いろいろに広い才能の持ち主である中でも、平家の中でもことに特異で有力な読み本系の延慶本に関しては、在野の専門家であり、いい著書もある。頼りになる。
わたしの読者では、創作も評論も詩歌もその他研究でも自身の著書を持った人たちは、とても百、百五十人ではきかない。なにをするにしてもわたしは疎かな仕事は送り出せないし、一方では知恵や力を借りることにも便宜は多い。ありがたい。
2009 2・19 89
* 東福寺内の「方丈」二字、張即之かと想うが、高校生の頃からこの二字に憧憬し感嘆してきた。この二字に会いに教室を抜け出て東福寺へ通った。その頃は観光料など払わなくて此の扁額の真下まで行けた。後年、誰方かが写真に撮って送ってきて下さった。
覚えている卒業生もあろうか、東工大の教授室で、本を置かない本棚に貼り付けていた。
写真が久々ものの中から現れたのが、嬉しく、スキャンして機械に入れた。
この二字を観ると励まされる。私・秦 恒平が理想する美も力もこの二字に在る。かく在りたい。
2009 2・20 89
* 一遍の念仏には禅の気概が裏打ちされてあるように感じる。名号のほかに機法(教えを受けて発動する人の能力資質も、それを発動する教えも)なく、ただ一遍の念仏「が」往生するのであり、「一切万法はみな名号体内の徳」であって「南無阿弥陀仏」の「初一念」で足ると徹した信の深さ。余念はただただ「すてよ」と。そんな一遍が人間として活きる現世と日常をどう肯定していたか否定していたか。
法然はこの世界を穢土とみきわめ、人間を救いがたい弱者・無知蒙昧のものと見極め、所詮難行勉学の聖行などムリと観じて、如来の他力を頼みまいらせ専修念仏の易行を説いて来世を願わせた。法然の世界には人間の現世が否認されてしまっている。生きる喜びよりも来世の安楽浄土がもっぱら願われている。当然か。それは問題か。
われわれが生から死に移る転ずると思うのは間違いで、生は生であり死であり、一瞬一瞬をただ正念相続して生き抜くのが生であり、死の時が来たらそのまま死ぬだけで、良寛がいうように「死ぬ時節には死ぬがよく候」と禅は、現世を肯定もしないし否認もしない。盤珪は、人間はもともと不生(=仏)のゆえに、死も不死も在るわけがない。生と死とをいうから二元の分別識に陥る。禅はまっすぐこの不生にとびこみ、生滅(=衆生の現世)を自由に遊戯(ゆげ)せよという。
バグワンは、市街を厭うて山林や深山ににげこむ「林住」の愚を否認しつづけている。エゴトリップ、分別(マインド)の愚だと。悟るなら人として市街地を避けず、そこに活きて悟れと。「生」「生滅」に足を取られるなと。
* そもそも「生は生きられるべき神秘であって、たかがマインド如きに解かれるべき問題ではない」とバグワンは言う。生は「問題」としてあるのではない、「それを楽しみなさい! その中に歓喜するのだ、それを生きるのだ、好きなことをするがいい」と。生は全然解かれるための「問題」などではないのだ! 生は無目的という目的で作られている。解決のための生ではない、生きられ、楽しまれるべき何かであるという目的で生はつくられてある。
* わたしはバグワンにしたがう。
2009 2・20 89
☆ わたし わたし わたし 2000 9・17 「人」
* わたしが言うと少し可笑しがる人もあろうが、「わたしは、わたし」と言い募ってガンと曲げないことを誇りにしている人があると、そんな「わたし」が何だろうと、滑稽な気がする。そういう「わたし」に限って、つまりは卑小な日常的ガンコさ以外の何ものでもなかったりする。他者への柔らかい思い入れが乏しいのである。外からのはたらきかけで自分が変わるのを小心に怖れているのである。我執。
ある程度まで己を頑固に護らねばならぬことは、実際に多々あり、むしろ護らずに妥協しすぎるのが日本人の大きな欠点の一つと思っている。しかし個性的で人間的な自己主張には、芯のところに、「花びらのように」柔らかい、美しい静かさが置かれてあるものだ、「かなしみのような」ものと言い替えても佳い。
度し難い頑固な人の我執には、「はなびらのような」柔らかみが、美しさが、静かさが、硬く乾いてしまっている。干上がっている。喩えが妙だけれど、武士の情けのようなものが欠ける。それに気が付いていない。
兼好法師が、「友」として選びたくない一つに挙げたのが、「むやみと身体健康な人」だった。そういう人は他者への配慮がとかく欠けると。同感である。
「わたしは、わたし。変えられないし、変える気もない」などと言い放ち、「わたし」は「わたし」がいちばんよく分かっている、放って置いてと胸を張ってしまう人は、兼好さんの言葉に従えば、共に歩むにとかく物騒である。怪我をする。
「わたし」という「我」の、いったいどれほどを「わたし」は分かっているだろうか。途方もないことだ。自分で自分がなかなか掴めず見えずに、日々、うろうろしているではないか。少なくもそのことを、幸いわたしは自覚している。
* 「御宿かわせみ」の澤口靖子の演じた、たしか類とかいった女は、少し翳りのある落ち着いた「大人の事情」を、しっとりとあはれに、まさに「花びらのように」優しくみせていた。男の目で望んだ都合のいい女と批判しうる視点を否認はしない、が、それも含めてと言って置くが、いい女であった。わたしが、現実に伴侶に選んだり作品などの夢の世界で共に生きてきた女たちは、おおかたがそういう魅力=ファシネーションをもっている。
頑固であることなど、なにの自慢になるわけもなく、「わたしは、わたし」と底浅く言い張る図はみにくい。バグワンに日々に叱られ叱られ叱られているのも、そんな「わたしの、わたし」である。「わたし」に執していては安心して死ねない。安心して死にたい。 2000 9・17
2009 2・22 89
☆ 根の哀しみ 1999 12・18 「身の程」
* 義経記は、寂しい物語の筈である。なにしろ平家物語のなかで最もはなやかな名将としての活躍が、ほとんど割愛されている。幼少の悲劇と末路の悲劇で尽きている。そういうツクリが特異なのである。その寂びしみが分かるので、わたしは兄頼朝を少年の昔からほとんど憎悪し、義経や義仲の身の程に声援し涙してきた。
「身の程」ということを、この何年かしみじみと思い続けてきた。書いてきた。もともと寂しい作品ばかりを書いてきたなとつくづく思う。寂しさは薄れてもいないし失せてもいない。もてあますほどに身をさいなんでいる。何故だろうと、われながら不審であるが。
すぐの身の側に、おそろしいほど真っ暗な深淵が、いつも口をあいている、見えている。身をその闇に翻せば万事済むのにとよく思いながら、そうはすまいと顔を背けている。死んだ兄もそんな気持ちであったのだろうか。 1999 12・1
2009 2・23 89
* 三月を待って、なぜこんなに緊張するのか。
2009 2・28 89
* 「創作者の年譜」づくりは、いわゆる「作家研究の究極」と考えてきた。
講談社版の日本現代文学全集全百余巻から学んだのはむろん作品であるが、匹敵して、作家の年譜を愛読した。年譜だけは読み洩らさず、大なる興味とともに豊かな教訓と刺戟とを得た。
同時にまた、何人もの優れた創作者を小説とし評論として「書く」に際し、たいていの場合手に入る年譜の大まかで簡略に過ぎるのに閉口した。たいした役に立たないと歎いた。
もし創作者自身が念入りに誠実に年譜を書けば、そのままでもっとも綿密な「伝記」ないし「私小説」になる。一生の分はむりだが、大事なある時期、自分なら、生まれて以来太宰賞受賞の年まで、を、いわば作家になるまでを、きちんと書いておきたいと思ってきた。どのような足取りと運命と意志とで作家になっていったか。よくもあしくも秦恒平の根性も歪みも素質もが露骨にあらわれる。そんなものは、誰の役に立つでない吐き出した汚物のような物でしかないけれど、どんな研究者にも書けない天下に唯一人のわたしの記録にはなる。
五十の賀に、和歌山の三宅さんに豪華本『四度の瀧』をつくってもらったとき、それ以前の詳細な年譜と全書誌、全作品年表を付録に添えた。大江健三郎氏はその年譜の「文体」につよい興味をよせられ手紙をもらった。今度わたしは、昭和十年末に生まれて四十四年末まで、太宰賞を受けた歳末までの詳細な自筆年譜をつくった。厖大に保存した手帖や日記や写真記録をもとに三十四年間を再現記録してみたのである。
同時に、わたしは身軽になり、もうたいした今生への執着も未練もなしに、好きに舞い遊んで行ける。過去はおおかたわたしの身から瘡蓋のように落ちるのだ。
* 完全にとは行かなかったが、ともあれ二月中にしておきたい用の大方を済ませた。明日にも責了開始して、本が出来てくるまでにわたしは余のことに集中できる。
2009 2・28 89
* バグワンの示唆であるが、ある生理上の難症に困惑しきった人に、「四六時中、自分に肉体は無い」と思い続けなさいと。
ばかげたことのようだがこれは実は可能で、しかもたいへん心地よい効果がある。わたしは、少なくも夜の夜中床の中で試みるが、黒板ふきで白墨の字を拭い消すように「肉体感覚」を抹消してしまえる。すると意識だけがのこる。じつは機械をつかっている今でも、自分に肉体は無いと思うことは難儀ではない。意識が自分の躰からきれいに離れてしまう。からだは自分とは、意識とは、まるで別物だとすんなり納得できる。えもいわれず心地よい。この心地よさが裏返すとからだのこだわりをほぐして、ゆったり自然にからだが働き出す。からだにマインド命令を矢玉のようにうちこむから、からだは逼塞する。
その人の訴えは頑固な便秘であった。
* 暗闇へ開放されると、肉体は失せてしまい、闇に溶け込んだ意識と眼とだけが残る。何も見えない快さ。そして何もかもが別の意味を帯びて浮かび上がり見えてくる。しかし肉体を背負い込んだ自身は影も形もなく、限りなく自在に在る。そういうことの可能なのをわたしは感覚している。理解している。
2009 3・1 90
* 早起きした。このところ、時間も体力もなるべく保ち残すよう気を配っている。私語すらも。「むかしの私」が助けてくれている。
おおかた十年余もむかしの「私語」を、わたし自身も興がって顧みているが、時間差をすこしも感じない。きのうのことのように連続している。意識が働いて「いま・ここ」を連続させていれば、十年前の自分も昨日今日の自分も、ひしと繋がっている。十年一日の「積極的な意味」はこういうことか。
ただ間違いなく十年の間に喪ったもの、たとえば孫・やす香のことなどがある。新たに得たものも、だが有る。
2009 3・9 90
☆ 哲学と哲学学と 1999 12・31 「心」
* 最近知りあった或る若い、ハイデッガー哲学などを学んできたという、著書もある高校の先生の、歳末の手紙を読んだ。「哲学で人は救われるでしょうか」と前便に書いたのへ、返事ともなく返事があった。
正直に、率直に言って、そんなことを考えて哲学の勉強をしている研究者は、今の時節、ひとりもいまいと思います、自分もそうです、興味深いから、面白いからやっています、というのが、返事の主意であった。率直な表明で気持ちよかった。
* その一方で、全く予想通りの返事であり、今の時代、哲学がほとんど「人間」の自立や安心の役には立たないワケも、よく分かるのである。
言うまでもなく、所謂「哲学」を勉強している人たちは、哲学者ではない。「哲学学」の学者・研究者に他ならず、それは「文学学」の学者研究者と文学者とが異なっている異なり方よりも、もっと差が深い。
「知を愛する」と訳してしまえば、なにやら「研究」や「詮議」もその内のようであるけれど、だから哲学がもともと「人を救う」ものかどうかには異論が出て当然かも知れないけれど、ひるがえって思えば、わたしを救ってくれない哲学になど、何の魅力も感じなくなっている。
そんなものは知的遊戯的詮索の高級で難解なものに止まる。つまり哲学がつまらないモノになってしまっている証拠だと思う。
世間には「哲学者」などと麗々しく名乗っている人もいるのだけれど、おれは「哲学学者」ではないぞという意味なのか、いややはり「哲学学者が哲学者なのである」意味なのか、どういう積もりであるかと時々教えを請いたくなる。
老子は哲学者などと言われたくもなかったろうが、とびきりの哲学者に思われる。ソクラテスもキリストも仏陀もそのように思われる。
しかし彼らの、また彼らのと限らず優れた「人の師」の教えを、ただ「祖述」し「解析・解釈・解説」して事足りている人たちを哲学者とは思われないし、ただの評論家を哲学者とは呼びたくない。いや哲学者だとつよく主張されれば、もうこの年になって、そんな哲学なら何の魅力も用も無い。そんな哲学とは、ただ「心」のコンプレックスに他ならない。エゴの凝った「心」の、こてこてした、ややこしい塊に過ぎない。
所詮は捨て去るより意味のない負担に過ぎないのである。
安心や無心は到底得られない。 1999 12・31 「むかしの私」より
2009 3・9 90
☆ 慈(あつ)子 2000 8・25 「文学」
* とうどう『慈子=あつこ』全編をこのホームページに書き込み終えた。親切な人の協力で、校正もほぼ出来ている。
* 太宰賞を受賞して最初の頃、断然女性の読者が多いと編集者から言われていた。手紙などもらっても、事実そうであった。但し一等反応の早かった杉本秀太郎、宮脇修、山折哲雄の三氏は男性、馬場あき子さんが女性だった。受賞作を含む処女単行本『秘色』は女の人に多く読まれたらしい。
筑摩からの二冊目が書き下ろしの『慈子』だった、がこれで、、ざあっと女の読者の波が退いて、どうっと男性の熱い読者が増えた。このヒロインは男性には憧れをもたれ、女性には嫉妬されますよと、編集者は「解説」してくれたが、それはともかく、語り手の男である青年、既婚の「私」に対する、世の掟からする猛烈な非難があった。事実、群馬県はじめ各地で著者を囲む会があると、女の会員から、『慈子』という作品にでなく、「私」なる男へ、ひいては作者へ、続々と非難の声が発せられて応接に汗をかいた。
一方、ラジオのディスクジョッキーで、時を同じくして女優の吉永小百合さんと、落語の桂三枝さんが『慈子』を語っていましたよと、何人かから聞いた。これには喜んだ。
それが幸いしたというのではないだろう、想うに、次々に作品を出して行くうちに、わたしの「身内」の考え方や「死なれた者」の思いなどが、じわじわと知られていったためだろうが、またも、強い実感として女性読者がどうっとこの『慈子』に戻ってきて、結果的に最も多く愛された作品になっていった。
秦さんの世界へは『慈子』から入ったと告げてくれる読者が今も少なくない。しかし徒然草の「考察」が入っていて、時間は幾つにも「層」をなし、だれもが読めるやさしさではない。この作品の読める人なら、他の作品も苦もなく読みこなせる読者であった。わたしには「いい読者」であった。
その頃から今日まで、わたしの小説世界への多くの苦情は、一つ、「むずかしい」であった。言葉を顧みないで言えば「よく選ばれた読者」に熱く愛されてきた。「魂の色の似た」読者の数は、当然にも増えにくい。そのかわりお付き合いは実に長い。「湖の本」にわたしの作家生活の流れ込んでいったのは必然であった。
* 克明に作品を読み直して、理屈は何もない、慈子というヒロインをいとおしく思う。
高校時代に泉涌寺の来迎院にしばしば授業を抜けては憩いに行った。すでに源氏物語の愛読者であったわたしは、こんなところに「好きな人を置いて通いたい」と夢見たが、夢を叶えたのである、小説の中で。
来迎院の意味、慈子の意味。それは人生の意味を問うにひとしい問いなのである、わたしには。
他のことなど、なにほどでもありえない。 2000 8・25
2009 3・11 90
* 明珠在掌 という四字が好きだった。濯鱗清流 の四字もなにがなし季節感も追っていて、好きだ。清泉泓泓 とも求められればよく書いてきた。「オウオウ」と読む。一期一会 は大切な四字。
2009 3・18 90
* 二月末の日記に「創作者の自筆年譜」への思いを書いて置いた。「年譜」の方法論で愕然とするほど感嘆したのは、高田衛さんの名著『上田秋成年譜考』だった。
年譜には助けられたり失望したりを繰り返してきた。作品の発表年表だけでは作家論は書けない。「自筆」でないと書けないところも有る。
2009 3・20 90
* すみやかに元の軌道へうまく戻って、仕残しや仕遅れをテキパキ取り戻して行きたい。
この四月から、わたしは多年庶幾してきた「退蔵」の歳月を迎えることになる。なんとなく多年抱え込んでいた、「肩書き」が、どうやら一どきに清算できたはずだ。もっている余分な荷物をどんどん「捨てて行くように」とバグワンに導かれている。仕事はしたいが肩書きはもうもう余分だ。荀子の「解蔽=ボロの脱ぎ捨て」をそこから始めたかった。
* さ、やすもう。目を休ませてやることが何より今は大事。
2009 3・26 90
* 角川から出た昭和文学全集の創刊第一回配本は、じつに新鮮に横光利一の『旅愁』という大冊だった。高校二年だったか三年になっていたか、七条の京都美大(のちに藝大)構内に間借りしていた高校が、泉涌寺下の日吉ヶ丘に新校舎が出来て移転した頃の新発売という記憶がある。二年生のうちであったのだろう。昼食代をほとんどすべて溜め込んでいたわたしは、とびついて買い始めた。
ある時期、ともいえない今もそうだが、横光利一を川端康成の下風には置かない気持ちがあった。あい並んで、互いに兄たりがたく弟たりがたしとみて当然。そういう思いだった。
『旅愁』か、うわあッという気持ちだった。あれは全巻買いそろえた文学全集の最初で、就職上京結婚の折り、愛着忍びがたいものはあったが覚悟の程をみせて河原町京都書院に他のあれこれももろとも売り払った。
東京で六畳一間の新婚新居におちつくと、やがて講談社が百を超すという日本現代文学全集を出すと知り、最初の配本が谷崎潤一郎二巻の一巻だというので、生活は貧の底に甘んじていながら、断乎買い始めた。あの断乎こそが、わたしを作家にそだてた一切の肇まりであったろう。妻がもしも「やめて」と言っていたら、どうなっていたか。一言もそんなことは言われなかった。
* 角川の昭和文学全集は、高校生、大学生にはそれはそれは新鮮だった。意外な思いも、いろいろ持った。
太宰治が独りで一巻を占めているのには驚いた。うまく納得出来なかった。あの心中した…とぐらいにしかわたしは観ていなかった、識らなかった。家の向かいの二階に、ものうげな、どうやら人の二号さんであったらしい女性が間借りしていて、よく二階の窓から、我孫子屋のお蔦のように頤肘ついて通りを見下ろしていた。その人が太宰の代表作『斜陽』をわたしに読ませてくれたが、その作はわたしの好みに合わなかった。
吉川英治の『親鸞』が入っていたのも、新鮮かつ意外だった。文学作品というより、おもしろい読み物であった。
* そんなのに較べると三島由紀夫は青年の思いに知的にも情感でも応じてくれて真実新鮮だった。だれかと一緒に一巻ではなかったか、『愛の渇き』と『禁色』ではなかったか、そうとすると、どっちも胸を震わせた。谷崎、川端、三島という線をほぼ不動に胸に書き込んだと思う。
* 以来、三島は機会あればみな受け容れて愛読したが、だんだん文学世界が乾燥して干上がって行くようで、味気なく、敬遠ないし倦厭していった。末期の四部作も、わるくいえば、ツクリモノに思われた。大輪であってもこの人は「造花に化っちゃった」と思い、遠のいた。
そして何十年、こんど気まぐれに文庫本の『禁色』を買ってみた。
読み始めると、なによりも文章の若い才気が五月蠅く思われる。むかしはこれにイカレていたなあと苦笑しつつ、才気という才にまかせた陳述は、たしかにたいした才能であるが、文学青年の胸をはった気取りになりがちで、わたしは、こういうふうには書きたくないなあと、もっと静かに世界や人事を暮らしの空気そのものと一緒に表現したいなあと思っていたに違いない。『慈子』の書き出しのように作品の位を無用に昂ぶらせまいと願った。才気で演説されるとそこから古びてゆく危険が、読み直していて見えてくる。
劇的な展開や刺激の強烈さには三島ならではの魅力が横溢するのは間違いない。感心する。その感心は、精緻につくりあげた造花のみごとさに「藝」として感心しているという気味がある。
そういうことになると、わたしはやはり川端康成の、モノを真相から汲み取りとらえる「眼」というレンズにより深く魅される。作者が若い昔の『伊豆の踊子』などにも浮かれたり肩肘張ったりしない落ち着きがある。けったいな文学青年の衒気は無い。
むしろ川端は老境に入って、盛んな衒気とみまがう趣向の世界を、ときに朦朧と、ときに清澄に創作して、わたしを嬉しく煙に巻いてくれた。老境にこそこういう衒気が似合うんだなあと、わたしは川端康成の老いのダダっ子ぶりをおもしろく受け容れた。
谷崎の『夢の浮橋』も『鍵』も『瘋癲老人日記』もそうだった。それらは決して、三島のような造花ではなかった、変わり咲きにしても、したたかに生きた花であった。
老境の花は、あらあらしくむしろ大胆不敵に咲いていいのだ。
* 横光利一の世界は、「実験」という意向にまぶされている。若い頃の三島につながる旺盛な意欲、ただし「やっているなあ」という嘆声をさそう。
好きな画家でいうと土田麦僊。最期まで旺盛で意欲に富んだ実験家だった。実験の成果も素晴らしかった。
しかし村上華岳ではなかった。
2009 3・27 90
* 他界または来世を、地獄・極楽と幼い胸に最初に描きこまれたのは残酷だった。脱却に歳月を多く要した。いまも『今昔物語』はもっぱら「往生記」を報告し続けていて、どれほど死後安楽のために現世を厭い捨てていたかの実例が延々と続いている。
厭離穢土は浄土教の強烈な下絵のようであり、生まれてきたことを歎きながら生きることになる。仏陀のほんとうの教えはそのように消極的であったろうかと悲しんだ。
現世は夢であると覚悟するのは、確立の前に必要な徹底だと思う。その上でその夢の世にどう在るかと思うとき、厭離穢土ではなくていいようにわたしには思われる。夢にいて夢から覚めることだと思う。夢のなかから夢のあとへ断絶があるのでなく、意識は繋がって自覚が生きるのではないか。
2009 3・28 90
* 今回の湖の本ばかりは、いまなお多くの方からお便りをいただく。
今日は封書の手紙などたくさん届いた、有り難い。作家、研究者、文春の役員、編集者、読者。いろんな角度から本を見ていてくださる。
* 誰しも生きて行くには、「もの」「こと」「ひと」とともに在る。我独りで生きていられる人はいない。たとえヒマラヤのテッペンに独り退避して暮らそうと、そこにも「もの」「こと」はあり、記憶や眼裏に「ひと」が住んでいる。年譜というこころみでは、自分がその時その時どんな「もの」「こと」「ひと」と生きながら自身をどう在らしめていたかを表現したかった。そういう意味でわたしの年譜は「私小説」なのである。そういう原料に圧縮した「私小説」形がある。「自伝」の形がある。「日記」の極端がある。十日や二十日や一年や二年ではつかみとれないものが、三十数年もかければ浮き彫りされる。
文学のエッセンスのように「自筆年譜」はあり得る。そのトライをしたのである。
* 人はとかく自分の意志で生きている、たとえば「もの」「こと」「ひと」をまるで自分が恣まに選択しながら日々過ごしている気でいやすいが、事実誤認もはなはだしい。自分の詳細な年譜を追えば追うほど、「もの」「こと」「ひと」は向こうから来ている。或る意味ではよそから与えられている。出逢いとはそういう意味だ。それでいて出逢いように自ずと、可笑しいように「我」がにじみ出る。やはり「もの」も「こと」も「ひと」も何処かで選んではいるのである。それもあえていえば、そのように「選ばせられている」というのが正しいか。
* 文学を志して太宰賞に行き当たるまでに、生活者として余儀ない職業をわたしも持っていた。選んだ職のつもりでいたが、長い目で観ると、それもそのように「向こうから来て与えられていた」と謂うのが当たっている。
わたしの年譜の「医学書院」時代に、特徴的に女性の名と人数とが多いのをすこしにやにやとあれこれ思う人も在るだろう、面と向かってお世辞かのように「もてましたね」などと云う人もある。もてはしない、が、女の人は好きであり、心惹かれるタチではある。しかし、会社時代の仕事の半ばは「看護関係の書籍や雑誌」を任されていた。出会うのは自然に各主要病院の幹部級看護婦さんや助産婦さんや保健婦さんたちであったし、わたしの編輯職としての大きな方法が、いかに著者・執筆者を「連繋プレー」のなかへ誘い込んで企画や取材の助けを多面的に得るかにあった以上、たんに一本二本の原稿の受け渡しで単発に仕事を積むような間抜けなことはしなかった。
著者・筆者・モニターと編集者とは、はなはだ特異で独自の人間関係だとわたしは確信していたから、自然、接触は頻繁にと努めていた。
医学研究の方に全面に傾いていたら、あの時期のわたしの年譜にそうは女性たちの名前も出ようがなかった。「もの」「こと」「ひと」のみなが、向こうから来て与えられていたと同時に、そのなかでわたしもまた「作用」的に生きて選んでいた。
生きるとは、そういうことであるだろう。人は「生きてきた」「生きて行く」といつも簡単に口にするが、簡単なことであり簡単なことではない。今度の自筆年譜のようなトライをあえてしなかったら、わたしは「生きてきた」実質や性質や機会性についてほとんど正しくは理解し得ていなかったろう。
* 「もの」「こと」の多くは「ひと」が持ち運んでくる例が多い。「ひと」にはたいい「もの」「こと」がくっついている。裏返して謂うこともできる。「もの」「こと」が新しい「ひと」をくっつけて運んでくるとも謂える。回転寿司のように、さてどの「もの」「こと」「ひと」と自分とがぶち当たるようにして「選ぶ」「選ばれる」のか、それはもう、運命。出逢いもあり、別れもある道理である。
2009 4・4 91
☆ 晶子のああ弟よ 2001 5・7 「人と文学」
* 「あゝをとうとよ君を泣く、君死にたまふことなかれ」と始まる与謝野晶子の詩が、何を歌ったかと考えるのは読者の自由であり、自然、人により読みの力点の置き方が散らばってくるのも、道理であろう。反戦歌だと読む人も、上一人の御稜威と軍の自儘を諷し嫌悪したと読む人も、即ち肉親への情愛と読む人もあろう。どれかに限定はできず、深く絡み合っていて、どれも否定できはしない。だが鑑賞にはおのずと作の動機に触れねばならない。
発表当時に激しい非難をあびたのは事実で、晶子の陳弁につとめたのも事実と謂える。非難の声があがり、非難の当否はべつとして、当時の世情としてだれもそれを異とせずに観てきたのは、即ちこの作品が、御稜威の名における兵役を厭悪した反戦歌と広く読まれたか、読まれやすかったかを明らかに示している。内心で作者の気持ちに賛同していたか、声高に非難を浴びせたか、いずれにしても当初の印象も読みも、そこを大きく逸れていたわけがない。
だが、作者のやむにやまれずそう歌ったのが肉親の情に発していたのも自然当然で、否定できることではない。むしろ作の動機は、弟の(無道な)兵役と出征とにあったのは明らかである。晶子の陳弁が自然肉親愛に添うように行われたのも、根拠になる動機がもともとあったればこそで、これまた頭から否認できる話ではなかった。
だが、それもより深く先行して厭戦の情とお上への怨嗟があった、表現したかったのはそれだったろうと言われれば、作者も胸の内では頷いていたに違いなく、しかし口に出して国体の意思に真っ向から非難を浴びせはしなかった。当然である。図式的に動機や思想を分離し対立させて考える方がおかしいのである。ものの表裏である。その上でわたしは、明らかに弟よ戦場にむなしく死ぬなと歌った、痛切な皇軍批判の厭戦歌であると読む。しかも晶子の、人として藝術家として国を愛した気持ちを疑ったこともない。戦争して負けないだけが愛国心であるわけもない。
それにしても、教科書本文の、「この歌は当時、愛国心に欠けるとの非難を浴びた。しかし、晶子にとってそうした非難は心外であった。/ というのも、晶子は戦争そのものに反対したというより、弟が製菓業をいとなむ自分の実家の跡取りであることから、その身を案じていたのだった。それだけ晶子は家の存続を重く心に留めていた女性であった。」という行文は、論旨の寸があまりに短く、短絡ということの代表的作文のように思われる。観念的に戦争そのものに反対したのではなかったが、無辜の若き男子を戦地へ追いやるいわば「仕組み」への強い怨嗟の声になっている。直接には弟を歌っているが、その歌声は、同じような無数の悲嘆を優に代弁し得ていたから、あれだけの訴求力を持った。「弟が製菓業をいとなむ自分の実家の跡取りであることから、その身を案じていたのだ」と文章を繋ぐのは、むしろ後段の主張を導きたいタメにする論法で、この叫ぶように丈高い詩は、一実家内のプライベートにとどまる表現ではなかった。作者の背には目には見えなくても耳には届いてくる民の声の、あるいは女の声と謂うもいいが、そういう後押しが働いていた。だからあれだけの表現になった。
だが教科書は、この優れた詩を、一鳳家の家内感情に矮小化させつつ、「家の(保守的な)存続」をこそ与謝野晶子は大事に考えた人であったと、見当はずれなある魂胆に賛同協力させようとしてくる。与謝野晶子は奔放な愛欲に目覚めた詩人であったといわれてきたが、事実は、子として姉として、また妻として母として、まことに家庭と家族と家の存続とをなにより大切に考えて生きた人であった、と、先ずは「評価の重点」を移動しようというのである。だが、そこで終点ではない。それほどに「家の存続」は人間の生き方を左右する基本的に重い大事だと、つまりは晶子をダシに、そこへ、教育の方向と結論とが設定されているのである。
与謝野晶子がみごとな藝術家であったこと、奔放な愛に身を賭して生き得た人であったこと、じつに優れた業績を残していること、は、否定できない。が、同時に子として姉として、また妻として母として、まことに愛情豊かにみごとに生きた人であったのも、まぎれもない事実である。晶子には、これは、相対立する矛盾ではなかった。両立させた自然であった。
だが、この自然から、「家の存続を重く心に留めた」と論旨を導くのは、批評が足りていない。日本語では、家庭・家族と、家とは、そう軽々と同じ範疇かのように認めることはできない。家が家屋を意味する場合は、家庭・家族ともナミに扱えるが、家門・家名の意味になってくると問題は急に難しく複雑になり、情愛の範囲内に落ち着いていない。教科書は、都合よく「家」と「家族」を一掴みにして「晶子の人生観や思想そのものは、家や家族を重んじる着実なものであった」と断定したが、家族への愛は溢れていても家には拘泥しない「人生観や思想」の人は、幾らもいる。与謝野晶子の場合がどうであったか、少なくも検証の必要が有ろうが、最後に上げられている夫鉄幹の死を嘆く名歌には、「家の存続」という人生観や思想は微塵も受け取れずに、まさに妻の夫への「愛・恋の情」に溢れている。そして、それは与謝野晶子の生涯をみごと証ししているものでこそあれ、その人と藝術との指さすところが「家の存続」に重きを成していたなどと、教科書に特筆できる証跡は感じ取れなかった。思うに、この教科書編纂の後ろ向きな思想と意向が「家の存続」に在るのを、与謝野晶子に間違って代弁させようとしたに過ぎないのではないか。魂胆とわたしが指摘したのはそこである。
かの「きみ死にたまふことなかれ」に立ち返って謂えば、あの詩の批判に満ちた視線は、そもそもどこへ向いていたか。「家の存続」思想の根拠のような、或るやんごとなき一家一族にではなかったのか。
2001 5・7
2009 4・5 91
* しかかりの小説が少なくとも三つある。
ひとつはすこぶる長い。一応仕上がっているが紙原稿で、いまの入稿システムに馴染まない。電子化しなくてはならないが、これがタイヘンなのである。困っている。原稿であるからはやはり散佚や消失や紛失の用心はしなくてはならない。
もう二つは難しい。一つはわたしには面白いが、読者を置いてけぼりにはできない。一つはなんだケシカランと憤慨されそうで。そこが書く方にはおもしろいのだが、おもしろさを頑強に徹底させないと、生煮えになる。
はやく集中したいのだが、目の前に泥田が横たわっていて、そこへ迂闊に踏み込んで木曽義仲のように痛い目に遭ってはかなわない。
2009 4・6 91
* 2002-3年ごろまで「私語分類」が増補されてきた。克明に読み返し、三十近くの項目に記事を分け整理して頂いている。文学、作家、作品、読書。書き始めて数年、こう絞ってもすでに湖の本規模で溢れかえる大冊ができる。一項目が一冊ではとても済むまい。演劇、映画、能、藝能、テレビでも同じ。ペンクラブの記事も、文字コードや電子メディアの記事も厖大。「ペン電子文藝館」の創立・運営、思想の記事も厖大。政治、時事、時代、歴史等に関しても、人物、知友、交友、血縁、親族もまた然り。京都、食べ物、旅、趣味や、母校、東工大なども。
つまり、一応日記の体をとりながら、わたしの「私語の刻」はたんなる日記と性質を異にしている。つねの日記はむしろ手帖やカレンダーや大学ノートやメモの中にある。
2009 4・7 91
* ふるはたの岨の立つ木にゐる鳩の友呼ぶ声のすごき夕暮 西行 山家集
こういうのを「すごい」と謂うのであり、今日有りとある人たちの「すごい」「すっごい」は、殆ど全部誤用。凄惨、凄絶、よほどよくて凄艶などが「すごい」ので。顔の崩れたも知らないお岩さんや、暮れなずむ深い山路や、人影の絶えた夕闇の墓地や、ドスをきかして人を威し加減の人声などが、本来「凄い」のである。
西行の歌が捉えたこのはぐれ鳩の声のすごみが聞こえるなら、安易に「すごい」などと言うまい、聞きたくもない。
2009 4・10 91
* 課題や問題意識を持って、見せかけでない勉強をし思索している人は、いつか酬われるだろう。
* いちばん文学を勉強せず思索もせず、しかも文学のプロかのような顔をして安易に世渡りしているのは、自称「作家」人種かも知れない。「作家」という名乗りにしても、だれが評価し試験しているわけでなく、だれが名乗っても詐称ではないのだから。安直なモンだ。
* 繪で、よく言った。
繪になってない繪
繪につくった繪
繪になった繪
なった繪に瞬間風速の吹いている繪
瞬間風速という言葉でわたしは感動を、魂の戦ぎを謂うのである。
文学でも同じ。容易に瞬間風速は飛ばせないのである。
事実問題、それは飛ばす・飛ばせるものでなく、つまり飛ぶのである。神の息吹をもらうのである。いくらおもしろ可笑しくても、エンターテイメントにそんなものは無い。
2009 4・14 91
☆ 仕事 1999 9・13 「作家」
* 「私語の刻」は、ただの日録ではない。「つれづれ」に日は送っていない、送りたくてもそれは無理であるが、また「徒然草」を庶幾する気もないのだが、これも「文藝」と思い書いている。日々にエッセイをたっぷり書いているようなもの。
志賀直哉全集を見ていると、作品十巻中の最後の三巻ぐらいは、量的なことだけ言えばわたしの「私語の刻」の一日分、一段落分と変わりない程度の短文ばかりで占められ、それらを、直哉は、ナニ憚ることなく「仕事」と称している。彼の「仕事」とは「文学」そのものをいつも意味している。
文章を書くということは、作家にとってはたしかに仕事であり表現であり、事実を事実らしく書いていても創作なのである。直哉はそれに徹し、わたしも、それだけではないが、それも肯定している。
1999 9・13
2009 4・15 91
* 精神の芯のところに、払いきれない疲れが残っている。振り払い振り払い、自身の仕事へ仕事へ舵を切ってゆく。生理年齢は紛れない七十三歳だが、そんなふうには生きていない、未熟にもせいぜい四十台ぐらいの、わるくするともっと若い感じ方で時間を咀嚼している気がする。元気だからではない、成熟できず追いつけていないのだ、わたしがわたしの実年齢に。そしてときどきふらーっと失神しそうに自分を見失いそうになる。やれやれ。
* となりの部屋で、根気よく、妻のピアノの音がしている。
2009 4・16 91
* たわいないのだが執拗に同じ夢に負われて、少し寝苦しい朝であった。少し冷えて曇り、ひどくはないが小雨のとめどない一日だった。
イチロー選手の3086本、プロの安打日本新記録、ことに昨日の張本の記録に並んだ満塁ホームランなどめざましい快打で誰もが喝采したものの、他は、気の滅入るばかりの世界情勢、国内情勢で、テレビも不景気が反映してであろうガラクタをぶちまけたように安い連中をつかったお遊び番組か、ドラマの再放映ばかり。
* いま、何が楽しみで生きているのかねえと、思い寄らぬグチがくちをついて出たりする。なさけないことだ。
* わたしはもともと「線」の延長のように時間を先へ先へ追う気がうすく、樹木の年輪のように時間を「円環」の層のように感じ取ってきた。一日は一日の輪であり十日は十日なりの環であり、五十年も五十年のむしろいわば丸い袋のように感じられている。今日の感覚と五十年前の記憶とが等価にならんで意味が持てるように、ま、わたしの世界は出来ている。比較的整理がついている。
* バグワンに示されると人生がかなり厳しくなる。
まず「呼吸」ではじまると彼は云う。次が「渇き」だと。次が「空腹」だという。「胎外環境への適応」の順で謂うとそうだろう。バグワンはこの先へなお七つ八つの段階を謂う。段階を幾つも大きく踏みながら元の「呼吸」へ大きく豊かに「円」を描いて戻ってこれるかどうかだと、素晴らしくきついことをバグワンは言い切る。呆然としてしまうが、アタマでは分かる。アタマで分かっても何にもならないことも分かるのである。
* こうしていても膝あたりが冷えてくる。なによりも睡くて仕方ない。
2009 4・17 91
* 読書は少々(十冊ぐらいなら)重ねてでも同時に読み進められるが、書く方は、小説だと何作・何種類も同時併行はわたしは出来ない。しないことにしてきた、が、まずいことにいま、しかかりが輻輳して参っている。そこへ湖の本の九十九巻を何にするかも現実の課題になってきている。
どうなるか分からない、なにやかやと今は物事の取り纏まろうとするときのようで、それも簡単には纏まらず、へたに自分の手でかきまぜるるワケにも行かない。眠気がくるならむしろ眠気に任せていた方がいいようだ。
* 喝
2009 4・20 91
* 蜻蛉日記を、誤訳のいくらかまじる晶子の訳で読み、ついで文庫の原文で、さらに全集の原文と語注とで読み継いでいて、裏切られることのない読み応え、興趣に満足している。今西祐一郎さんに戴いた『蜻蛉日記覚書』を更に併せ読んで行こうという気になった。蜻蛉日記は、まちがいなく日記文学のオリジナル・トライのようであるが、名高い謂わば『伊勢日記』(伊勢物語ではない)のような類似の歌物語を前蹤にもっている。
とはいえ、またまちがいなく「伊勢日記」のような雲の上の物語を突き貫いて、生活者の、知識人女性のといいたい個性、著者である道綱母の人格が行文を支配して、「日記」を超えた「私小説」へ発展し充実して行く。あてずっぽうの世の常の早合点から、泣きの涙の恋々たる愚痴日記と思われがちであるが、なんの。ガンとした、負けていないリアリストがここにいる。「負けていない」を、夫婦仲のことと謂うのではない。問題意識を持って生きて行く女性という意味でいうのである。
その意味では、源氏物語や夜の寝覚などの先駆の意義も主張していい、優れたオリジナルトライである。
* オリジナル・トライという意味では『土佐日記』もそうであり、これには虚構の創作度も加わってくる。女の身に成り代わった紀貫之の創作日記であり、「男もすなる(漢文の)日記」に女が似せて書いている建前が、漢字で書く男の具注暦同様に日付を省略していない。書くに値する人事の記事が無くても、日付と、なにがしか天候や泊まりの場所などだけでも書かれる。わたし、そういう日記記事のもつ表現効果をじつは重く見ていて、必ずしも具注暦に倣っているだけとは思わないが、こういう日記本来の日付などを余儀なく、また意図的に欠いた蜻蛉日記の日記とは、おおかた追憶、記憶を書き記すという仕方に従っている。のちのちに続く多くの女日記の半ば以上が土佐日記型ではなく、蜻蛉日記型だが、土佐日記型がすっかり無くなっているとも言えないだろう。むしろ時代が降れば土佐日記型へまた落ち着いてくるとすら言えなくない。
* ずっと以前に考え、思いあぐねて放り出したことだが、源氏物語の「繪」合で、たしか竹取物語と伊勢物語とが付き合わされ、竹取の詞は紀貫之が書き伊勢のは小野道風が書いているのを、何故かと。
後者は問題外で、わたしは竹取を土佐日記の紀貫之に書かせていた紫式部の思いを問うていたのだった、そして竹取物語のモチーフを溯り問いかけていたのだった。関連してまた土佐日記の虚構をも追究したい気持ちであったのだ、が。
* いろんな「思い」「思いつき」を、振り返ればぼとぼと、ぽとぽとと通ってきた道にこぼしてきている。ときどきそれがずいぶん汚らしくも見える。
2009 4・20 91
* 逢花打花 逢月打月 玉室宗珀の書で思い出したように読む。「打」は打つのではない、「受け容れる」にちかい態度である。花や月やと謂うと風情のモノだが、だれしもの日々に出逢うモノ・コト・ヒトには風情も何もないガラクタもある。それをしも「打」
す。要は、 只在目前。尋ぬるに、処無し。
2009 4・22 91
* いろんなことが起きるものだ。そういうものだと想えばいい。何も起きなかったらいい、とも言いにくいではないか。
* 風の強い一日だった。雲が厚く垂れていた。
2009 4・27 91
* 私は、「湖(うみ)の本」の、通算して第九九、百巻を合わせ入稿した。桜桃忌を期して、いい記念号が出来ると思う。
* 大きな仕事を越えたので、心おきなくというにはイヤな感じも避けがたい日々ながら、或る突破口のほの見えてきた「小説」を書く方へ立ち向かいたい。目に見えぬターゲットは、平家物語と芥川龍之介と永井荷風、か。
2009 5・2 92
* いまアタマにあること、アタマに呼び出して検討し、揉み揉みほぐしてみたいことは、みな書きかけの小説にじかに触れたものばかり、此処に書くと手の内をさらけ出すことになる。そればかり考えているから、ちっとも心身安まらない。そういうものです。ラクにものは創れないんで。当然。
2009 5・2 92
* 出かける前に漱石の『愚見数則』をスキャンした。明治二十八年に愛媛県尋常中学校の「保恵会雑誌」に寄稿した原稿で、読者は、学生ないし教師であるらしい。その前提を受け容れた上で読めば、夏目金之助先生の意図には迷いがない。
☆ 愚見数則 夏目漱石
理事来(きた)って何か論説を書けといふ。余この頃脳中払底、諸子に示すべき事なし。しかし是非に書けとならば仕方なし、何か書くべし。但し御世辞は嫌ひなり、時々は気に入らぬ事あるべし。また思ひ出す事をそのまま書き連ぬる故、箇条書の如くにて少しも面白かるまじ。但し文章は飴細工の如きものなり。延ばせばいくらでも延る、その代りに正味は減るものと知るべし。 (太字は、秦)
昔しの書生は、笈(きゅう)を負ひて四方に遊歴し、この人ならばと思ふ先生の許(もと)に落付く。故に先生を敬ふ事、父兄に過ぎたり。先生もまた弟子に対する事、真の子の如し。これでなくては真の教育といふ事は出来ぬなり。今の書生は学校を旅屋の如く思ふ。金を出して暫らく逗留するに過ぎず、厭になればすぐ宿を移す。かかる生徒に対する校長は、宿屋の主人の如く、教師は番頭丁稚(でつち)なり。主人たる校長すら、時には御客の機嫌を取らねばならず、いはんや番頭丁稚をや。薫陶所(どころ)か解雇されざるを以て幸福と思ふ位なり。生徒の増長し教員の下落するは当前(あたりまえ)の事なり。
勉強せねば碌な者にはなれぬと覚悟すべし。余自ら勉強せず、しかも諸子に面するごとに、勉強せよ勉強せよといふ。諸子が余の如き愚物となるを恐るればなり。殷鑑遠からず勉旃(べんせん)勉旃。
余は教育者に適せず、教育家の資格を有せざればなり。その不適当なる男が、糊口(ここう)の口を求めて、一番得やすきものは、教師の位地なり。これ現今の日本に、真の教育家なきを示すと同時に、現今の書生は、似非(えせ)教育家でも御茶を濁して教授し得るといふ、悲しむべき事実を示すものなり。世の熱心らしき教育家中にも、余と同感のもの沢山あるべし。真正なる教育家を作り出して、これらの偽物を追出すは、国家の責任なり。立派なる生徒となつて、かくの如き先生には到底教師は出来ぬものと悟らしむるは、諸子の責任なり。余の教育場裏より放逐さるるときは、日本の教育が隆盛になりし時と思へ。
月給の高下にて、教師の価値を定むる勿(なか)れ。月給は運不運にて、下落する事も騰貴する事もあるものなり。抱関撃柝(ほうかんげきたく)の輩(やから)時にあるいは公卿に優るの器を有す。これらの事は読本(とくほん)を読んでもわかる。ただわかつたばかりで実地に応用せねば、凡ての学問は徒労なり。昼寐をしてゐる方がよし。
教師は必ず生徒よりゑらきものにあらず、偶(たまたま)誤りを教ふる事なきを保せず。故に生徒は、どこまでも教師のいふ事に従ふべしとはいはず。服せざる事は抗弁すべし。但し己れの非を知らば翻然として恐れ入るべし。この間一点の弁疎を容れず。己れの非を謝するの勇気はこれを遂げんとするの勇気に百倍す。
狐疑する勿れ。蹰躇する勿れ。驀地に進め。一度び卑怯未練の癖をつくれば容易に去りがたし。墨を磨して一方に偏する時は、なかなか平(たいら)にならぬものなり。物は最初が肝要と心得よ。
善人ばかりと思ふ勿れ。腹の立つ事多し。悪人のみと定むる勿れ。心安き事なし。
人を崇拝する勿れ。人を軽蔑する勿れ。生れぬ先を思へ。死んだ後を考へよ。
人を観(みれ)ばその肺肝を見よ。それが出来ずば手を下す事勿れ。水瓜(すいか)の善悪は叩いて知る。人の高下は胸裏の利刀を揮(ふる)つて真二(まぷたつ)に割つて知れ。叩いた位で知れると思ふと、飛んだ怪我をする。
多勢を恃(たの)んで一人を馬鹿にする勿れ。己れの無気力なるを天下に吹聴するに異ならず。かくの如き者は人間の糟(かす)なり。豆腐の糟は馬が喰ふ、人間の糟は蝦夷松前の果へ行ても売れる事ではなし。
自信重き時は、他人これを破り、自信薄き時は自らこれを破る。むしろ人に破らるるも自ら破る事勿れ。厭味を去れ。知らぬ事を知つたふりをしたり人の上げ足を取ったり、嘲弄したり、冷評したり、するものは厭味が取れぬ故なり。人間自身のみならず、詩歌俳諧とも厭味みあるものに美くしきものはなし。
教師に叱られたとて、己れの直打(ねうち)が下がれりと思ふ事なかれ。また褒められたとて、直打が上ったと、得意になる勿れ。鶴は飛んでも寐ても鶴なり。豚は吠(ほえ)ても呻(うな)つても豚なり。人の毀誉(きよ)にて変化するものは相場なり、直打(ねうち)にあらず。相場の高下を目的として世に処する、これを才子といふ。直打を標準として事を行ふ、これを君子といふ。故に才子には栄達多く、君子は沈淪を意とせず。
平時は処女の如くあれ。変時には脱兎の如くせよ。坐る時は大磐石(だいばんじゃく)の如くなるべし。但し処女も時には浮名を流し、脱兎稀には猟師の御土産となり、大磐石も地震の折は転がる事ありと知れ。
小智を用(もちう)る勿れ。権謀を逞(たくまし)ふする勿れ。二点の間の最捷径は直線と知れ。
権謀を用ひざるべからざる場合には、己より馬鹿なる者に施せ。利慾に迷ふ者に施せ。毀誉に動かさるる者に施せ。情に脆き者に施せ。御祈祷でも呪詛でも山の動いた例(ため)しはなし。一人前の人間が狐に胡魔化さるる事も、理学書に見ゑず。
人を観よ。金時計を観る勿れ。洋服を観る勿れ。泥棒は我々より立派に出で立つものなり。
威張る勿れ。諂(へつら)ふ勿れ。腕に覚えのなき者は、用心のため六尺棒を携へたがり、借金のあるものは酒を勧めて債主を胡魔化す事を勉む。皆己れに弱味があればなり。徳あるものは威張らずとも人これを敬ひ、諂はずとも人これを愛す。太鼓の鳴るは空虚なるがためなり。女の御世辞のよきは腕力なきが故なり。
妄(みだ)りに人を評する勿れ。かやうな人と心中に思ふてをればそれで済むなり。悪評にて見よ、口より出した事を、再び口へ入れんとした処が、その甲斐なし。まして、又聞き噂などいふ、薄弱なる土台の上に、設けられたる批評をや。学問上の事に付ては、むやみに議論せず、人の攻撃に遇ひ、破綻をあらはすを恐るればなり。人の身の上に付ては、尾に尾をつけて触れあるく、これ他人を傭ひて、間接に人を撲(う)ち敲(たた)くに異ならず。頼まれたる事なら是非なし。
頼まれもせぬに、かかる事をなすは、酔興中の酔興なるものなり。
馬鹿は百人寄つても馬鹿なり。味方が大勢なる故、己れの方が智慧ありと思ふは、了見違ひなり。牛は牛伴れ、馬は馬連れと申す。味方の多きは、時としてその馬鹿なるを証明しつつあることあり。これほど片腹痛きことなし。
事を成さんとならば、時と場合と相手と、この三者を見抜かざるべからず。その一を欠けば無論のこと、その百分一を欠くも、成功は覚束なし。但し事は、必ず成功を目的として、揚ぐべきものと思ふべからず。成功を目的として、事を揚ぐるは、月給を取るために、学問すると同じことなり。
人我を乗せんとせば、差支へなき限りは、乗せられてをるべし。いざといふ時に、痛く抛げ出すべし。敢て復讐といふにあらず、世のため人のためなり。小人は利に喩(さと)る、己れに損の行くことと知れば、少しは悪事を働かぬやうになるなり。
言ふ者は知らず、知るものは言はず。余慶な不慥(ふたし)かの事を喋々するほど、見苦しき事なし。いはんや毒舌をや。何事も控へ目にせよ。奥床しくせよ。むやみに遠慮せよとにはあらず、一言も時としては千金の価値あり。万巻の書もくだらぬ事ばかりならば糞紙(ふんし)に等し。
損徳と善悪とを混ずる勿れ。軽薄と淡泊を混ずる勿れ。真率と浮跳とを混ずる勿れ。温厚と怯懦とを混ずる勿れ。磊落と粗暴とを混ずる勿れ。機に臨み変に応じて、種々の性質を見(あら)はせ。一あつて二なき者は、上資にあらず。
世に悪人ある以上は、喧嘩は免るべからず。社会が完全にならぬ間は、不平騒動はなかるべからず。学校も生徒が騒動をすればこそ、漸々改良するなれ。無事平穏は御目出度に相違なきも、時としては、憂ふべきの現象なり。かくいへばとて、決して諸子を教唆(きょうさ)するにあらず。むやみに乱暴されては甚だ困る。
命(めい)に安んずるものは君子なり。命を覆(くつがえ)すものは豪傑なり。命を怨む者は婦女なり。命を免れんとするものは小人なり。
理想を高くせよ。敢て野心を大ならしめよとはいはず。理想なきものの言語動作を見よ、醜陋(しゅうろう)の極(きわみ)なり。理想低き者の挙止容儀を観よ、美なる所なし。理想は見識より出づ、見識は学問より生ず。学問をして人間が上等にならぬ位なら、初から無学でゐる方がよし。
欺かれて悪事をなす勿れ。それ愚を示す。喰はされて不善を行ふ勿れ。それ陋を証す。
黙々たるが故に、訥弁と思ふ勿れ。拱手(きょうしゅ)するが故に、両腕なしと思ふ勿れ。笑ふが故に、癇癪なしと思ふ勿れ。名聞(みょうもん)に頓着せざるが故に、聾(ろう)と思ふ勿れ。食を択ばざるが故に、口なしと思ふ勿れ。怒るが故に、忍耐なしと思ふ勿れ。
人を屈せんと欲せば、先づ自ら屈せよ。人を殺さんと欲せば、先づ自ら死すべし。人を侮るは、自ら侮る所以なり。人を敗らんとするは、自ら敗る所以なり。攻むる時は、韋駄天の如くなるべく、守るときは、不動の如くせよ。
右の条々、ただ思ひ出(いづ)るままに書きつく。長く書けば際限なき故略す。必ずしも諸君に一読せよとは言はず。いはんや拳々服膺するをや。諸君今少壮、人生中尤も愉快の時期に遭ふ。余の如き者の説に、耳を傾くるの遑(いとま)なし。しかし数年の後、校舎の生活をやめて突然俗界に出でたるとき、首(こうべ)を回らして考一考せば、あるいは尤と思ふ事もあるべし。但しそれも保証はせず。
明治二八、二、二五、愛媛県尋常中学校『保恵会雑誌』
* 夏目先生このとき三十歳に満たず。七十三の私、至らない。
* いま最も誠心誠意熱中しているのは、むしゃぶりついているのは、福田恆存の文学史論、そして漱石の近代批判、そのはるか彼方の昔に、悠々と語られていたゲーテの、いわば価値あるモノ、良きモノへの、確信と愛情。
よく身につけ得たととても言い得ないまでも、わたしが高校、大学の頃から比較的謙遜に励行してきたのは、「濯鱗清流」であった、それしかわたしはこのいい加減な自身を厳しく保つによしもすべも無かった。自分が倨傲の悪習になじんできたのをあえて否定しないし出来ないけれども、しかもどんなに嫌いな感じの藝術家であっても、すでに故人になっている優れた力量で、精神として「清流」を成してきた人たちに対し、わたしは、例外なく謙遜に敬意を払ってきた。「濯鱗清流」はわたしの自戒であり自信でもあり激励である。
「人の毀誉(きよ)にて変化するものは相場なり、直打(ねうち)にあらず。相場の高下を目的として世に処する、これを才子(=リッチ)といふ。直打を標準として事を行ふ、これを君子(=フェイマス)といふ。故に才子には栄達多く、君子は沈淪を意とせず。」「理想なきものの言語動作を見よ、醜陋(しゅうろう)の極(きわみ)なり。理想低き者の挙止容儀を観よ、美なる所なし。」
清濁併せのむとは、たいてい意義無き「弁解・弁明・誤魔化し」に過ぎない。
2009 5・4 92
* じりじりと書き進めている。仕掛かりは正確に四つ犇めいているが、犇めくのをエネルギーに、根気よく。
自分で一番読みたいもののように進んで欲しいし進めたい、少なくも内の二つ。
2009 5・6 92
* 今日、日本ペンクラブの総会資料等が来た。
驚いたことに、現会長阿刀田高氏が「ペン電子文藝館館長」だとある。これは知らなかった。いつの間に。それでは、先日の臨時理事会でのわたしの質問への答弁とは、大いに趣旨が違う。
あのとき阿刀田氏は、「高村光太郎の扱いは、好ましいことではないと感じたけれど、会長は、委員会に干渉しない方がいいと考えた」と、とても答弁になってない答弁だった。会長の見識がこれでいいのかと。
それが「館長」でもあると明記してある。それなら担当役員どころか、阿刀田会長こそ高村「招待」問題の最高責任者であり、また読者等世間への公の直接責任者である。少なくもわたしが「館長」を務めていたときは、その覚悟で勤めていた。
* 阿刀田氏は、わたしからの問題提起を受けた後、念のため高村光太郎遺族の意向を確かめられたか。
また大岡信氏、辻井喬氏ら有力な会長・役員経験詩人方の意見を参考にでも聴取されたか。
ペン会員の「全員で考えてしかるべき大きな問題」だと、言論表現委員の中からも声があった。メールが手元に届いている。文藝館委員会の委員からも「賛成できない」という声が上がっていた。メールが手元に届いている。
阿刀田館長・大原雄委員長の今一度、誠意もあり説得力のある現行「招待・掲載」理由を、ぜひ、きっぱりと聞かせて欲しいと、一理事としても、作品を「ペン電子文藝館」に寄せている会員としても、お願いする。総会で、会員の討議にかけて欲しいとすら思う。
* このままでは、日本ペンペンクラブは「招待」と称して先達詩人の意向に全く反し、明らかに戦争讃美作品を主軸に強行掲載することで、故人の意向に明らかに背きかつ名誉を傷つけているし、ペン自体が「戦争讃美を容認」しているものと観られてしまう。
わたしの観るところ、「高村光太郎作品・抄」として現行の掲載内容はあまりに比例を欠いた貧寒たるもので、お粗末すぎる。読書子をミスリードすること甚だしい。
理事そして会員としての抗告の権利からも、念のため、その「招待席」内容をここに転記して、世の批判を得たい。わたしがとんちんかんなら、詫びて取り下げる。
* 招待席 日本ペンクラブ 電子文藝館 (掲載のまま)
高村光太郎
たかむらこうたろう 詩人・彫刻家。1883(明治16)年~1956(昭和31)年。彫刻家・高村光雲の長男として生まれ、わが国の彫刻や詩に多大な功績を遺したが、太平洋戦争中は日本文学報国会の詩部会長に就任し、多くの戦争賛美詩を発表。戦後、詩によって多くの若者を死に追いやった自責の念から岩手県の山村で自炊の生活を送った。初期の詩作品に見られるような人道主義的な立場を取りながらも、積極的に戦争に協力した背景には光太郎の強固な個人主義の限界を指摘する評者もある。ここでは戦前、戦中、戦後の詩、ならびに戦中の評論を列挙することで光太郎の精神史を振りかえりたい。底本は主に新潮文庫に拠った。
高村光太郎作品 抄
目次
『道程』(大正3年)より
冬が来た
道 程
『智恵子抄』(昭和16年)より
人 に
樹下の二人
人生遠視
千鳥と遊ぶ智恵子
太平洋戦争中の詩
十二月八日
真珠湾の日
彼等を撃つ
[評論]戦争と詩
敗戦後の詩
終 戦
報 告(智恵子に)
わが詩をよみて人死に就けり
『道程』(大正3年)より
冬が来た
きつぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いてふ)の木も箒(ほうき)になつた
きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た
冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食(ゑじき)だ
しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た
道 程
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
『智恵子抄』(昭和16年)より
人 に
いやなんです
あなたのいつてしまふのが――
花よりさきに実のなるやうな
種子(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな理窟に合はない不自然を
どうかしないでゐて下さい
型のやうな旦那さまと
まるい字をかくそのあなたと
かう考へてさへなぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて
いやなんです
あなたのいつてしまふのが――
なぜさうたやすく
さあ何といひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
あなたはその身を売るんです
一人の世界から
万人の世界へ
そして男に負けて
無意味に負けて
ああ何といふ醜悪事でせう
まるでさう
チシアンの画いた絵が
鶴巻町へ買物に出るのです
私は淋しい かなしい
何といふ気はないけれど
ちやうどあなたの下すつた
あのグロキシニヤの
大きな花の腐つてゆくのを見る様な
私を棄てて腐つてゆくのを見る様な
空を旅してゆく鳥の
ゆくへをぢつとみてゐる様な
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない 淋しい 焼けつく様な
――それでも恋とはちがひます
サンタマリア
ちがひます ちがひます
何がどうとはもとより知らねど
いやなんです
あなたのいつてしまふのが――
おまけにお嫁にゆくなんて
よその男のこころのままになるなんて
樹下の二人
――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――
あれが阿多多羅山(あたたらやま)、
あの光るのが阿武隈川。
かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、
うつとりねむるやうな頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬のはじめの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。
あなたは不思議な仙丹(せんたん)を魂の壺にくゆらせて、
ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
無限の境に烟るものこそ、
こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
むしろ魔もののやうに捉(とら)へがたい
妙に変幻するものですね。
あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。
ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫(さかぐら)。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡つた北国(きたぐに)の木の香に満ちた空気を吸はう。
あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いてゐます、
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。
あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。
人生遠視
足もとから鳥がたつ
自分の妻が狂気する
自分の着物がぼろになる
照尺距離三千メートル
ああこの鉄砲は長すぎる
千鳥と遊ぶ智恵子
人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さな趾(あし)あとをつけて
千鳥が智恵子に寄つて来る。
口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
両手をあげてよびかへす。
ちい、ちい、ちい――
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをぱらぱら投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。
太平洋戦争中の詩
十二月八日
記憶せよ、十二月八日
この日世界の歴史あらたまる。
アングロ サクソンの主権、
この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは我等ジャパン、
眇たる東海の国にして、
また神の国たる日本なり。
そを治(しろ)しめたまふ明津(あきつ)御神(みかみ)なり
世界の富を壟断するもの、
強豪米英一族の力、
われらの国において否定さる。
われらの否定は義による。
東亜を東亜にかへせといふのみ。
彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
われらまさに其の爪牙を摧かんとす。
われら自ら力を養いてひとたび起つ。
老若男女みな兵なり。
大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
世界の歴史を両断する。
十二月八日を記憶せよ。
真珠湾の日
宣戦布告よりもさきに聞いたのは
ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
つひに太平洋で戦ふのだ。
詔勅をきいて身ぶるひした。
この容易ならぬ瞬間に
私の頭脳はランビキにかけられ、
昨日は遠い昔となり、
遠い昔が今となつた。
天皇あやふし。
ただこの一語が
私の一切を決定した。
子供の時のおぢいさんが、
父が母がそこに居た。
少年の日の家の雲霧が
部屋一ぱいに立ちこめた。
私の耳は祖先の声でみたされ、
陛下が、陛下がと
あへぐ意識に眩(めくるめ)いた。
身をすてるほか今はない。
陛下をまもらう。
詩をすてて詩を書かう。
記録を書かう。
同胞の荒廃を出来れば防がう。
私はその夜木星の大きく光る駒込台で
ただしんけんにさう思ひつめた。
彼等を撃つ
大詔(おほみことのり)ひとたび出でて天つ日のごとし。
見よ、一億の民おもて輝きこころ躍る。
雲破れて路ひらけ、
万里のきはみ眼前(まなかひ)にあり。
大敵の所在つひに発(あば)かれ、
わが向ふところ今や決然として定まる。
間髪を容れず、
一撃すでに敵の心肝を寒くせり。
八十梟帥(やそたける)のとも遠大の野望に燃え、
その鉄の牙と爪とを東亜に立てて
われを囲むこと二世紀に及ぶ。
力は彼等の自らたのむところにして、
利は彼等の搾取して飽くところなきもの。
理不尽の言ひがかりに
東亜の国々ほとんど皆滅され、
宗教と思想との摩訶不思議に
東亜の民概ね骨を抜かる。
わづかにわれら明津(あきつ)御神(みかみ)の御陵威により、
東亜の先端に位して
代々(よよ)幾千年の練磨を経たり。
わが力いま彼等の力を撃つ。
必勝の軍(ぐん)なり。
必死必殺の剣なり。
大義明かにして惑ふなく、
近隣の朋(とも)救ふべし。
彼等の鉄の牙と爪とを撃破して
大東亜本然の生命を示現すること、
これわれらの誓なり。
霜を含んで夜(よる)しづかに更けたり。
わが同胞は身を捧げて遠く戦ふ。
この時卓(つくえ)に倚りて文字をつづり、
こころ感謝に満ちて無限の思切々たり。
[評論] 戦争と詩
すでに戦争そのものが巨大な詩である。しかも利害の小ぜり合ひのやうな、従来世界諸国間で戦はれたいはゆる力の平衡化のためのやうな底の浅い戦争と事変り、今度の支那事変以来の大東亜戦争の如きは、長きに亙る妖雲の重圧をその極限において撥ねのけるための己むに己まれぬ民族擁護の蹶起であり、皇国の存亡にかかはる真実の一大決戦であり、肇国の公大なる理念に基づいて、時にとつての条約や規約ばかりを重んじて更に根帯の道義を重んじない世界の旧秩序を根本的に清浄にしようといふ皇国二千六有余年の意義を堂々と天下に実現するための聖戦であつて、この内に充ち満ちた精神の厚さと、深さと、強さとの一あつて二なき途への絶体絶命の迸発そのものこそ即ち詩精神の精粋に外ならぬ。詩における「気」とは斯の如きものである。
その上、戦争における現実のあらゆる断面は悉く人間究極の実相を示顕して、平和安穏な散漫時代には夢にも見られなかつたせつぱつまつた事態と決心と敢行実践とが日毎に、刻々に体験の事実として継起する。物語の中でしか以前には遭遇しなかつた人間の運命も、生死も、喜怒哀楽も、興亡盛衰も、今では一億が身みづから切実にその事実の中で起居し、実感する。一億の生活そのものが生きた詩である。一切の些事はすべて大義につらなり、一切の心事はすべて捨身の道に還元せられる。
このやうな神聖な戦争時代には美の高度が高まり、美の密度が加はり、しかも到る処にその鋒芒があらはれ、美が人間を清浄化してゆく過程を実にしばしば目睹する。激動と静謐とは同時同刻に所在し、放胆不羈と細心精緻とは決して互に抵触せず、潜むもの行ふもの、皆その正しい部署を知り、実に大にして美である事を感知すること稀でない。わけて前線において、戦ふ将兵の消息に至つては殆ど言語に絶するものを痛感せずにゐられない。
皇国の悠久に信憑し、後続の世代に限りなき信頼をよせて、最期にのぞんで心安らかに 大君をたたへまつる将兵の精神の如き、まつたく人間心の究極のまことである。このまことを措いて詩を何処に求めよう。
戦争が生きた詩である時、文字を以て綴る詩が机上の閑文字、口頭の雑乱語であるやうな事があつては一大事である。戦ふ一億は真実の詩を渇望してゐる。みづから身心に痛感しながら此を口にするすべを知らない一億自身の詩に言葉を与へるためには、詩人みづからが真に戦ひ、真に行ひ、真にまことを以て刻々に厳毅精詣を期せねばならない。兵器の精鋭に分秒を争ふ時、詩人が言葉の鍛錬に寸刻も忽であつてはならない。
詩精神とは気であるが、気は言葉に宿る。言葉は神の遣はしものである。踏み分け難い微妙な言葉の密林にわれわれもまた敢然として突入せねばならないのである。
(「日本読書新聞」昭和19年1月29日)
敗戦後の詩
終 戦
すつかりきれいにアトリエが焼けて、
私は奥州花巻に来た。
そこであのラヂオをきいた。
私は端坐してふるへてゐた。
日本はつひに赤裸となり、
人心は落ちて底をついた。
占領軍に飢餓を救はれ、
わづかに亡滅を免れてゐる。
その時天皇はみづから進んで、
われ現人神(あらひとがみ)にあらずと説かれた。
日を重ねるに従つて、
私の眼からは梁(うつばり)が取れ、
いつのまにか六十年の重荷は消えた。
再びおぢいさんも父も母も
遠い涅槃の座にかへり、
私は大きく息をついた。
不思議なほどの脱卻のあとに
ただ人たるの愛がある。
雨過天青の青磁いろが
廓然とした心ににほひ、
いま悠々たる無一物に
私は荒涼の美を満喫する。
報 告(智恵子に)
日本はすつかり変りました。
あなたの身ぶるひする程いやがつてゐた
あの傍若無人のがさつな階級が
とにかく存在しないことになりました。
すつかり変つたといつても、
それは他力による変革で、
(日本の再教育と人はいひます。)
内からの爆発であなたのやうに、
あんないきいきした新しい世界を
命にかけてしんから望んだ
さういふ自力で得たのでないことが
あなたの前では恥しい。
あなたこそまことの自由を求めました。
求められない鉄の囲の中にゐて
あなたがあんなに求めたものは、
結局あなたを此世の意識の外に遂ひ、
あなたの頭をこはしました。
あなたの苦しみを今こそ思ふ。
日本の形は変りましたが、
あの苦しみを持たないわれわれの変革を
あなたに報告するのはつらいことです。
わが詩をよみて人死に就けり
爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の太腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向つた。
その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
Takamura Kotaro
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
* 道程や智恵子抄作品は教科書にも名高い、此処へ招待しなくても周知に近い作である。
問題は、「評論研究」室に置かれていた高村光太郎明白な戦争讃美・戦争荷担の一文『戦争と詩』が、「詩」の部屋の「招待席」にご丁寧に移転され、『高村光太郎作品・抄』とある中で、戦争讃美詩篇の、さながら高村「自注」かの如く掲示されていること。これは試作品掲載で他に例のないインチキであり、光太郎はこれを観て嫌悪と憤慨とでいっそう怒りの眼をむくだろう。
公平に見て、これは「高村光太郎の或る一面」とはいえても、『高村光太郎作品・抄』として「招待」するにはあまりに手薄、この詩人自身が苦悩して悔いた「一面」があたかも高村光太郎の「全面」に近いかと誤解されてもどうしようもない。晒し者にされている。高村の業績は、彼自身がそちらが主と言い切っていた「彫刻・造形」の仕事をはずしても、詩人としては上に百倍も百五十倍もするまこと優れた多くの詩作品を有し、さらに興味深い藝術家光太郎のエッセイも、みな莫大に彼の「作品」内容を成している。その目配りが全く無く、ただもう「戦時の逸脱にのみ」目をとめて「鬼の首を取ったかのように」上のような貧寒たる「編」をもって偉大な先達を侮辱してしまっている。
* 光太郎はあの戦争で狂ったと自認し、「人を多く死なせた」と悔い、自罰の苦しい隠遁生活もした。詩人自身が「愚劣の典型」であったと否認した。その「悔いた」ところを主眼に編んで「招待」とは悪意が過ぎている。「ペン電子文藝館」は、吉岡忍理事の先日理事会での言に敢えて抗して言うが、先達文人にかかる非礼を「すべき」ではない。
そんな詩人にそれでも批判があるなら、自分の「文責」で立派な「高村光太郎論」を書いてみなさいとわたしは言うのである。
* 理事会での「多数決」で判断して良いことと思わない。端的に、高村光太郎はかかる自作の扱いを「生前に望んでいなかった拒んでいた」という、それに尽きる。
高村が序文を書いて「定本に近いと満足」していた岩波文庫の『高村光太郎詩集』は戦後の詩集『典型』等を決然省いている。
* これは純然、文学と文学者の問題なのである。貫く棒のような定見も見識もないのかと、わたしは阿刀田館長以下責任者を批判するのである。
2009 5・6 92
* 昨日書いた光太郎のことに関して、身近から、反響の声がもう届いている。
要点は、こうだ。
* 「日本ペンクラブ」とはどういう団体であるか。戦争にはクミせず、平和を願う団体であるという、その自覚が真っ先に欲しかった、と。
光太郎の戦中詩にわざわざ「付記」するかたちで、選りに選って光太郎自身の明らかな戦争讃美・戦争荷担の一文『戦争と詩』を添えて出すなど、二重の過ち、二十の無礼を「ペンクラブ」は犯している、と。
そんなことでは、光太郎の心より悔いたところを「光太郎自身の手で」さらにさらけ出してしまい、秦さんの言うとおり「招待席」の名を借り詩人の傷口に泥をすりこんで「晒す」処置に出たとしか言いようがない、と。
ペンは、「電子文藝館」は、こうあって欲しかった、と。
つまり、かの光太郎ほどの人ですら「戦争は斯く狂わせた」と。憲章に基づき「平和」を重んじる「われわれ日本ペンクラブ」は、読者諸氏にそういう点を憂慮し考慮していただきたいと。光太郎の戦争讃美に我々は「とうていクミすることは出来ない」のであると。そういう「趣旨の論評」をこそ、少なくもペンは此処に、アジ演説にも似た「戦争と詩」との代わりに掲載しなくてはならなかった。
そのためには、 一、真に『高村光太郎作品・抄』と題するにふさわしい、みごとな文学的抄出を先ず改めて実行し、その上でどうしても戦中詩に触れたいのであれば、 二、別にしかるべき「文責」記事により、「高村光太郎の一面」とでも題した「批判の評論」をきちんと掲載する。
それが「ペン」のペンたる、憲章に則った姿勢であるだろう、と。
* 全く、その通りなのである。繰り返しそれをわたしは言ってきた。
2009 5・7 92
* 大阪から、耳を傾けたい声が届いていた。どうかこの場所を通じて、活溌な声と意見の交換が欲しい。
不徳なわたし一人の声や言葉では、わたしが会員であり一人の理事であろうと、もうとうてい平和と反戦との筈の「日本ペンクラブ」すら硬い態度を変えない。まして政府をや。声が声に、言葉が言葉に、もっと呼応し連鎖し増えに増えて「風」を起こさないと。無力感ばかりが黴のようにからだにこびりつく。
☆ ペン電子文藝館の「高村光太郎作品・抄」に関連して 大阪・松尾より
今朝(9日)の毎日新聞の「余禄」には、日本が台湾を植民地化していた時代に、当時東洋一の烏山頭ダム建設の指揮をとった総督府の技師、八田与一氏が、このダムによって恩恵を受けた嘉南の人びとから、今も功績を称えられ、敬愛されているという話が採り上げられていました。ダム造りを描いたアニメ映画「バッテンライ!!(八田が来た)」封切りにあわせて紹介されたものです。
「植民地は台湾の人たちに過酷な運命をもたらした。親日派の統治時代経験者でも、差別があり嫌な思いもしたと言う。それでも懐かしむ人が多いのは、続く国民党政権との比較もあるが、八田氏が築いたような人と人とのつながりが脈々と生きてきたからだろう」。
「(アニメ上映という)この機会に先人の足跡を知るのも悪くない。台湾では民主化に伴い、日本統治を、是は是、非は非として論じるようになった。私たちも冷静に日本と台湾の過去と現在を見つめたい。」と「余禄」筆者は書いています。
いかにも「是は是、非は非」と公正な立場を装いながら、その下心は、日本人にとって快い「是は是」の話はそろそろ解禁してもいいのではという誘いのようにも感じられます。
「余禄」の短い文章のなかには「非は非」部分は上の引用部分以外には何も出て来ませんし、紹介されたアニメ映画にも「非は非」部分がきちんと描かれているとは思い難いのです。
田母神論文-高村光太郎「招待」-「バッテンライ!!」+「余禄」とならべてみると、日本の過去を美化(ないし復権)しようとする強い力が働いているのでは、と思わされます。
「ペン自体が<戦争讃美を容認>しているものと観なければならない。」とは、鋭いご指摘だと思いました。
気持ちの悪い、気味の悪い動きが蔓延しています。まず「文化面での制圧(大衆操作)」が目指されているのではないかと考えるのは勘繰りすぎでしょうか。
* 光太郎の「戦争讃美」を電子文藝館ないし日本ペンクラブが批判し否認したのなら、そういう「批評」が明示されているなら、まだ分かる。
それでさえ、遙かに先だって生前の光太郎自身が痛苦とともに悔い自己否定しているものを、わざわざ「招待」しておいて晒し者にするのは、義も情も理もあまりに欠いているのだが、「ペン電子文藝館」(阿刀田高館長・大原雄委員長)の現にやっていることは、むきだしの「戦争肯定詩」の脇にむきだしの「戦争讃美文」を「わざわざ置き添える」という露骨な強行姿勢で掲載し、国内外に発信している「愚」なのである。
指摘されても反省も改善も無い。
* 夜前、寝に降りる前に「e-文藝館=湖(umi)」のなかの嘉村礒多『七月二十二日の夜』を読み返してみた。これを採ろうとスキャンした時の記憶もありあり甦って、愕きをまた深めた。
日本は「私小説」の国と言われるが、大なり小なり私小説を書かない日本の作家は少ない。通俗読み物やエンターテイメントの書き手は知らないが、夏目漱石にも『道草』があり、鏡花にも谷崎にも私小説はある。
しかし嘉村礒多の私小説は、彼の師で私小説の極北とうたわれた葛西善蔵の私小説をすらぶち抜いて、文字通り「凄い」としか言いようがない。行き着くところまで行って、なおその壁に血みどろにアタマをぶつけながら藻掻いている。
葛西善蔵、上林暁、川崎長太郎、また志賀直哉、瀧井孝作、尾崎一雄、また島崎藤村、徳田秋声、田山花袋、正宗白鳥等々のどんな優れた私小説でも、とてもとても嘉村礒多のこの惨虐な「私」追究と表現とには出逢えないだろう、ただの一編すらも。
むちゃくちゃなのか。いやいや、これはオリジナルであり、かつ秀作である。みごと、読まされてしまう。
嘉村にはそれが「藝術」だった、彼は作中に繰り返しこの二字を置いている。
近代日本文学の愛読者にして、私小説の水源ではない、至りついた「終点」を典型的に実見したい人は、手っ取り早く私の「e-文藝館=湖(umi)」小説室の嘉村礒多『七月二十二日の夜』を一読されますように。上に挙げた多くの優秀な先達作家たちの「私小説」と読み比べるまでもなく、此処まで来るのかと驚愕されるだろう。
嘉村の、ひたすらに仕えた師が葛西善蔵であること、この作中で葛西はもう亡くなっていることを書き添えておく。
2009 5・10 92
* 家から「ほり出す」という仕置きを何度もされた。戸にしがみついて泣き叫び、ご近所のだれかが、また家の中から叔母が口を利いてくれてやっと家に入れた。ながいこと泣きじゃくっていた。
夜具の押し入れに押し込まれることもあった。くらやみで泣いた。母はときどき、きゅうッとわたしの頬を抓(ひね)った。いーッと声が出て痛かった。だが父も母も手をあげて撲(ぶ)ったことはない。メンコやビー玉など子供には命がけの秘物をまんまと隠され、途方に暮れたことがときどき有った。
ごく小さくから、自分が「もらひ子」とは隣家の鈴ちゃんやよその小母さんらに囁かれ悟っていたが、「もらひ子」だから親が自分にきついとは、少しも思わなかった。たいていの場合自分の側に仕置きされたり罰されたりするうしろめたい理由がありそうだった。だから「かんにんや。もうせえへん、せえへん」と、四つ、五つ、六つ、七つのわたしはいつも泣き叫んだ。
したくない手伝いを強いられるなど、そんなことは「日常のあたりまえ」で、しくじれば容赦なく怒られた。叱言の上に抓られることもあった。だから「虐待されていた」など、夢にも想わない。そういうものだ、世界中の家庭で、たいがいそういうものだ。例外はどこにもあるが、子供は普通可愛がられていて、幾分親の勝手の捨て育ちであった。猫っ可愛いがりの方がはためにも不健康なものであった。
* 夏目漱石は、後に元へ帰ったものの、小さい頃親もとを出され、ある夫婦者の「もらひ子」にされていた。養父母は二言目には「おまえのほんとのお父っさんはだれだい」「おまえのほんとのおっ母さんはだれだい」と幼い者に自分たちを指ささせて際限なかったと、漱石は『道草』に書いている。
実の父も母も覚えず、わたしも四歳ころまで父方祖父の南山城の家にいて、そこから京都市東山区のラヂオ商秦家に「もらひ子」されていったが、誰からもそんないやらしい質問攻めに遭ったことはない。漱石は漱石ならではのあけすけな筆致で、むかし養父母だった「島田」と「お常」の因業なひととなりを、不快も不快なりに、幼少の記憶を反芻するようにいささは懐かしげにすら書き込んでいる。吝嗇を極めた養父母が幼い漱石(作中の健三)にだけは野放図に金をつかい、かえって漱石はつよい不信感を抱き我が儘や癇癪を募らせたと告白している。
漱石は、「もらひ子」に出されたことも元の家に取り戻された事実も、すこしも隠し立てしていない。屈託も斟酌もない。
漱石の例とはよほど事情も違ったけれど、わたしも、「もらひ子」の境涯を「恥ずかしい」と思った覚えは全然無く、意識していたのは、自分がこの家の「もらひ子」であると「知っている」のを、家の大人達、両親にも祖父や叔母にも、毛筋も知られまい気遣ったたこと。言い直せばわたしも、漱石が「おまえのほんとのお父っさんはだれだい」「おまえのほんとのおっ母さんはだれだい」としつこく問われるつど養父母の顔を指さしていたのと、ま、似た真似をしていたのだ。
秦の父は倹約で、無用な、身に過ぎた贅沢など爪の垢ほどもさせなかった。秦家の経済を考えればあたりまえだった。
* わたしは「もらひ子」で構わなかった。実の父も母もまるで記憶にないのだから、自分はじつは誰の子であってもいい「自由」を感じていた。妙な云い方をあえてするならわたしは育ての親や家族に、内心で「いばって」いたとさえ謂えた。
* 親が我が子のからだに痣の残るほど折檻したり、煙草の火を押しつけたり、寒い危険なベランダや熱暑のマイカーの中に放置したり、はては冷蔵庫に死骸にして隠したり、遺骸をバラして山野に捨てたり。
それこそ「虐待」以外のなにものでもない。そんな報道のあるつど心臓が痛いほど縮む。娘よ。父は、そんなこと決してしなかったぞ。
父であるわたしを、二十年ないし四十年もの久しい「虐待」の名において、現に東京地裁の被告席に立たせているわたしたちの娘は、いったいわたしから何をされたと告発しているのだろう。
* この頁の末尾に、わたしは娘の誕生より結婚後に到る各時代の写真をあえて掲示している。わたし自身のというより、むしろ主に妻の、娘の母の名誉を守ろうとしているのだが、それらの写真に、心身に刻印された「虐待の心の痣のあと」を看て取る誰一人もあるまいとわたしは確信している。
写真に写った娘のどの姿態や表情にもあらわれた、ごく自然な和やかな、あえて謂うが愛溢れた「親子・家族の歳月」から、どんな裁判に値する「虐待」が想像できるか、娘は、今以て何一つ法廷で立証出来ていない。母からも弟からも、むろん父であるわたしから見ても、そんな立証が出来るわけがない。どんなに愛されていたかの実例なら、たちどころに山のように具体的に積み上がる。
娘にあるのは、ただもう父を、母を、傷つけて裁判に勝ちたい、賠償金をとりたいという欲望か。
何で?
それが分からない。
* わたしは十二分に傷ついているし、母親も、同じ。ただ日々の不快を、気強く心をそろえて耐えているだけだが、もともと、わたしたちには、娘と争っている気が、その謂われが、何一つない。
娘は、成人前のやす香を「死なせた」哀しみと責任とに心を乱してしまったのだろう。事実それより以前に、わたしたち両親は、娘から只一度も喧嘩をふっかけられた事がない。虐待されたなどと露ばかりも言われたことがない。なにもかも、ぜんぶ、三年前の孫やす香癌死後に、唐突に持ち出されたことだ。
「孫の死を書いて実の娘に訴えられた」作家と、おもしろづくであったろう週刊誌は、娘の夫が「仮名」をつかってもちかけた話を書き立てた。その記事には、しかし、訴えたはずの娘が、顔も名前も、ただの一言すらも、出ていない。「週刊新潮」の「看板に偽り」と、気づく人はみな気づいたのである。わたし自身は記者と一度も逢ってもいない。
* ふつうなら大学教授で西欧のヒューマニズム哲学などを教えている娘の夫こそ、自分の妻に、実父を訴えるような真似はさせないものだが、自分もともに「原告」として名をならべ、舅のわたしを名誉毀損で訴えている。わたしがインターネット上で彼を論ったというのだが、そもそもなぜ論われたのかには全く反省が無い。そして週刊誌の取材に自分一人がうしろめたげに「仮名・高橋洋」で応じて、平然と真っ赤なウソを喋っていた。すべて娘の夫の「高橋洋」教授の独り芝居であった。
週刊誌記者氏の親切に伝えてくれた仮名「高橋洋」氏「六箇条の言葉通りの言い分」は、全て「湖の本エッセイ44」の「あとがき」で、詳細に反駁撃破されている。
「孫の死を書いて」とは、誰にも簡単に実物が此のホームページ上で読んでもらえる、「湖の本エッセイ39」の日記『かくのごとき、死』のことだ。孫やす香の白血病が「mixi」の日記で告知されたその日から、毎日毎日の日記としてこの「私語の刻」に公開されていた。
* ともあれ、そんなこんなのまま、孫の死からやがて三年、わたしは、その命日近い七月前後には、裁判所の被告席に呼び出されて直接尋問されるらしい。
金婚、湖の本の九八、九九、百巻。その間に被告席に立つ。今年はいろいろある年である。
* ところで、こういう事実をわたしがあけすけに、遠慮無く書くのは何故か。
これが、いま、わたしの一主題になってきている。
そもそもこういうことを書くのは「恥ずかしい」こと、「慎むべき」ことであるのか、そうならそれは何故なのか。恥ずかしいとは何か。慎むとは何か。「私小説」を書いてきた日本の作家達は、何をどう恥ずかしがり、どう慎み、それはぜひ必要なことであったのか、そうでなく、そのように恥ずかしがり隠し慎んでいた中に、なにかしら途方もなく大事な真実が文学的に漏れこぼれてしまっていたのか。
* わたしの小説は、創作は、このことで、これから大いに葛藤し展開する予定である。
とにかくもわたしは書き続ける、ぜひ書きたいことは、ぜひ書きたいように、書く。
2009 5・11 92
☆ お元気ですか、風。
夕方になり、いくらか気温が下がりましたが、昼間は暑かったです。
まだ、外気に触れると、鼻がむずむずしますので、窓は開放しません。
嘉村礒多のこと。
いろいろな人の小説や論文を読んできた中で、「私小説」に対する思いも変わってきました。
ごくはじめ、「私小説」は、不完全なものとして、わたしの目に映りました。確かに、中村光夫の説のように、フランス自然主義の誤解を伴った輸入によって、自分が主人公になりおおせた「私小説」は、日本独自の、文藝作品としては奇形児だったかも知れないけれど、西欧にはない独特の境地を極めたのではないかと、今では思っています。
わたしはまだ「極北」と呼ばれた作品をあまり読んでいないので、早速『七月二十二日の夜』を見てみようと思います。
ではでは、風、お元気で。
お天気がつづきますように。 花
* フランス自然主義文学の「輸入」「翻訳」だけで論じ覆えないだろう、西欧文明史の層の厚さ咀嚼の確かさが海の彼方の近代文学にはあり、それに追いつくよりもなにも、江戸時代直か継ぎの「明治」という日本と、西欧模倣をてんてこまいで急ぐ日本との、混乱の極のような「東京」で、日本の近代文学は、手の舞い足の踏みようもこんぐらかって、途方もない、せいぜいよい云い方でいえば「試行錯誤のトンネル」へ突入した。
漱石の謂うように、それは「文学の」と言うより先に「文明開化」の問題で、文学はその一部の応用問題に過ぎなかった。鴎外流に眺めれば、「東京」という名の「日本」は、慌ただしい「普請中」の時代に好んで雪崩れ込んでいた。
わるいことに、日本は相応に広いのに、だれもかも「東京」で旗をあげようと、作家志望者もみな東京へ出てきた。それでは、根が東京育ちの者になにもかも「分」があり、なにかにつけアドバンテージが与えられた。典型的な例で志賀直哉は東京に育って、しかも近代を呼吸しやすい環境・条件に恵まれていたが、自然主義の連中は誰も彼もが地方から東京へ這い出てきていた。そのハンデキャップの中で、直哉ら白樺の人たちの把握できた「自我」と、藤村や花袋や白鳥や秋声や、また善蔵や礒多らの藝術がらみの奮励でやっと捉えた自我とでは、えらい落差が有った。「私」の意味がずれた。逸れた。その私小説にも落差が出来た。
* 漱石は、鴎外は、また荷風も、そういうことを西欧を自身で体験して承知していた。ことに「電車以前の東京」という日本の生活をこよなく知っていて「電車以後の東京」へ帰朝した永井荷風は、電車以前の生活にあった「ある失ってはならない暮らしの価値」、つまり生活様式がにじみ出させていた情緒や習慣や哀情の美が<すべて東京から失せていることに愕然とした。失われたのは「古くさい何か」ではないのだった。パリでもロンドンででも同じそういう価値が時空に畳み込まれていて、それあってこその西欧文明であると知ってきた荷風には、どうしようもない壊滅が東京で進行していた。
もう東京はまともな人間の暮らす場所に見えなかったのだろう、荷風には。大なり小なり、漱石にも鴎外にもそうであった。三人は三様の自分の世界へ、文学・美の、立て直しを図って成功した。
2009 5・11 92
* 小説が前へ動いてゆくと、先はまだどうなるか知れないのに、気は晴れている。いまのところ作者のわたしが少し悦に入っている。なんじゃ、これはと怒られるかも知れないが、構わない。
2009 5・14 92
* 久しい読者の浅井敏郎さんの『菊を作る人 私の文章修行』を読んだ。若い頃味の素に入られ、新日本コンマースの社長を経てJTインターナショナルの常務、常勤監査役を経て一九九七年に退社、わたしより一回りお年上で、矍鑠とされており、時折、武蔵境駅近くのすてきなフレンチをご馳走になった。お嬢さんは国際的に経歴豊かなピアニスト浅井奈穂子さん。リサイタルにも何度もお招き戴いている。
* 拝復
御労著『菊を作る人 私の文章修行』 頂戴以来 日かずを経ましたが、少しずつ拝読の日を重ねて、読み終えました。静かに頷いて、感銘を噛みしめています。
よくなさいましたね、奥様へのいわば mourningwork=悲哀の仕事として、久しく行を倶にされてきた人生の回顧を、幽明境を異にしながら心ゆくまで共有なさったものとも感じ入り、寂しさのなかに、ご心境の清明また平静を読み取らせて頂きました。有難う存じます。ことに奥様の句集を共に成されましたこと、有り難く、懐かしく拝読・再読いたしました。
文章への御思い入れの深くまた久しいことにも敬意を覚えます。熟達かつ簡古の筆致に失礼ながら新鮮な驚きを加えました。有難う存じます。
わたくしは、時折、半ば冗談でない本気で、「のようというのだ」をぜひ文中多用しないこと、また改行段落のアタマに無用の接続(つなぎ)の言葉をおかず、端的に新段落の文章をはじめること、一人称をむやみに多用しないこと、句読点を適切的確にうつこと、推敲をけっして怠らないこと、など心がけております。それでもなかなか文章上手にはならず、なさけないことです。
但し文章に拘泥する以上に 自身の体臭ないし指紋のような独特の「文体」の発見と精練を望んでいます。文章に拘泥し、型どおりの推敲に拘泥し過ぎますと、没個性の乾いた作文に陥る危険を覚えます。そんなことを、いつも感じつつ自身の文章文体創作に勤しんでおります。
おかげさまで、桜桃忌の頃にも「湖の本」通算「第九九・百巻」を相次いでお届けできる段取りでおります。
題して『濯鱗清流 秦恒平の文学作法』上下巻となります。一つの中仕切りとして、漸く此処へたどり着くかと、日頃のお力添えに、心より感謝申し上げます。
ますますご健勝に、清やかにご長命あられますよう祈ります。
お嬢様もお変わりなく御活躍と存じます。お揃いにて、お大切に、お大切に。 秦 恒平
平成二十一年五月十八日
私、自転車でよくご近所までも駆け回っています。多摩川から稲城市までも、荒川からさいたま市までも、所沢の向こうまでも、運動代わりに。以前はただの自転車でしたが、今は電動自転車を買って貰い、坂もらくらく。長いときは四時間も駆け回っています。
2009 5・18 92
* 仕事をズンズン進めている。「いま・ここ」を無心になれる何よりの清涼剤。もうすることが無くなったら昔のように心ゆくまで好きに創作すればいい、それがいい。だが、なかなか、することは無くならない。「mixi」を休んでいる効果が、上がっている。どうしても一仕事必要になっていたが、人の役にも自分の役にも立っていない無力感と負担感にとらわれていた。少なくも負担はなくなって、自分の仕事へ意識をふりむける時間が増えた。
2009 5・18 92
* さて、わたしは、もう「西」でも「東」でも、外向きの立場や肩書はなげうってしまった。肩書に憑かれた「だれかサン」の足場は蹴っぽり、漱石の曰く束になった「槇雑木(まきざっぽう)」のみなさんとは、つれなく「さよなら」「さよなら」して行く。過去を隔て世間と隔てる関守石には、「湖の本百巻」をポン置いて、雑音の闖入をあっさり堰いておく。
視力をかばいかばい、好きな本を読み、好きな芝居や好きな美しいものを観て過ごしたい。日本中の久しい読者のみなさんと、のんびりした電話なんか楽しめないか。
但し例の無茶者たちは、まだまだカサにかかって無理難題を言い続けたいのだろうが、お気の毒だが、あの世までは追いかけて来れない。
* ただ、これは言っておく。
* もし、「公人」同士の節度のある議論・討論がしたいなら、ぜひ、わたしの生きている間に願う。
わたしが死んでしまったアトで、好き勝手をどう立派そうに言っても書いても、それは「卑怯千万の手遅れ」だということ。
ものを言う気なら、わたしが元気な内にどうぞ。
「場所」が必要なら、わたしのホームページ上に「フェアな場」を作ることも出来る。お互いのブログに、双方同文同内容を同時掲載し、本当に公開し、いよいよ始まった世の「裁判員」諸氏の批判を乞うてもよい。「あと出しジャンケン」は断然無効だよとだけ言うておく。
ま、できれば綺麗に終熄し、以降「徹底無縁の没交渉」をわたしたち家族は願っている。賢明というものだろう。
2009 5・24 92
五月、築地明石町
* 好んで「生彩」ということばをわたしは使う。聖路加への路傍に観たこんな花に葉に色にわたしは生彩のはげましを受ける。立ち止まらずにいない。
2009 5・29 92
* ゲーテがエッケルマンに話す数々を、今は、ただ受け止めて気儘に記録しているが、一読し終えたら、仔細に吟味し、さらに深い感銘を得たい、そうする値打ちがある。彼等の対話はちょうど二百年ほど昔のことで、しかもゲーテのいたワイマール公国ないしドイツ世界での対話ある。今私のいる日本とのいろんな意味の距離は無視できない、のだが、そう拘泥する必要のないほどゲーテは「大らかに本質的に批評」していて、その確かさに感嘆する。少しもブレていない、嬉しくなる。みながみな物理的な時空を超え同感できるのではないが、精神的に共鳴できるゲーテの意見や述懐は、魅力横溢。
2009 5・30 92
* 漱石の講演録を、七つつづけて読んだ。漱石の小説の全部に優に匹敵する感銘を受け、敬愛をさらに深くした。
「現代日本の開化」や「私の個人主義」だけが漱石の講演ではない。
「中味と型式」「文藝と道徳」「模倣と独立」「教育と文藝」等、二元対立の話題を漱石ははなはだ今日のセンスとも近く説得力明瞭に語っている。百年の落差を少しも感じさせない洞察の大きさ。
彼と同時代の講演を思い起こして、漱石のほど明晰に新しいセンスの示唆に富む講演は見当たらない。徳富蘆花はときに瞬発力のいい講演をしたが、同時代の具体的な歴史的事件と深く交叉している。
漱石はそうは語らない。本質論を展開して歴史を批評しひいては人間への痛烈な批評を聴かせている。しかも難解でなく、洞察は深い。当時の中学生でも十分感銘を得たろう、それが偉い。
2009 5・31 92
* 千載和歌集 雑歌中 わたしの心に適った和歌たち
あまたゝび行き逢坂の関水にいまは限りの影ぞかなしき 東三条院
今はとて入りなむのちぞ思ほゆる山路を深み訪ふ人もなし 前大納言公任
憂き世をば峰のかすみや隔つらんなほ山里は住みよかりけり
花に染む心のいかで残りけん捨てはてゝきと思ふ我身に 円位法師
佛にはさくらの花をたてまつれ我のちの世を人とぶらはば
もの思ふ心や身にも先立ちて憂き世を出でむしるべなるべき 前左衛門督公光
いつとても身の憂き事は変らねどむかしは老いを歎きやはせし 道因法師
いかで我ひまゆく駒を惹きとめてむかしに帰る道をたづねむ 二条院参川内侍
この世には住むべきほどやつきぬらん世の常ならずものゝかなしき 藤原道信朝臣
命あらばいかさまにせむ世を知らぬ虫だに秋は鳴きにこそ鳴け 和泉式部
数ならで心に身をばまかせねど身にしたがふは心なりけり 紫式部
あはれともたれかは我を思ひ出でんある世にだにも問ふ人もなし 藤原兼房朝臣
山里の筧の水の氷れるはおと聞くよりもさびしかりけり 輔仁親王
山里のさぴ゛しき宿のすみかにも筧の水の解くるをぞ待つ 聡子内親王
杣川におろす筏の浮きながら過ぎゆくものは我身なりけり 二条太皇太后宮別当
おのづからあればある世にながらへて惜しむと人に見えぬべきかな 藤原定家
憂しとてもいとひもはてぬ世中を中なか何に思ひ知りけむ 摂政家丹後
思ひきや志賀の浦浪立ちかへりまたあふみともならむ物とは 平康頼
夢とのみこの世の事の見ゆるかな覚むべきほどはいつとなけれど 権僧正永縁
憂き事のまどろむほどは忘られて覚むれば夢の心地こそすれ よみ人しらず
いづくとも身をやる方の知られねば憂しと見つゝもながらふるかな 紫式部
憂き夢はなごりまでこそかなしけれこの世ののちも猶や歎かむ 皇太后宮大夫俊成
うつゝをもうつゝといかゞ定むべき夢にも夢を見ずはこそあらめ 藤原季通朝臣
いとひても猶しのばるゝ我身哉ふたゝび来べきこの世ならねば
これや夢いづれかうつゝはかなさを思ひ分かでも過ぎぬべきかな 上西門院兵衛
あす知らぬみむろの岸の根無し草なにあだし世におひはじめけん 花園左大臣家小大進
岩そゝく水よりほかにおとせねば心ひとつを澄ましてぞ聞く 仁和寺法親王 守覚
おほけなく憂き世の民におほふ哉わが立つ杣の墨染の袖 法印慈円
つくづくと思へばかなしあか月の寝覚めも夢を見るにぞありける 殷富門院大輔
まどろみてさてもやみなばいかゞせむ寝覚めぞあらぬ命なりける 西住法師
先立つを見るは猶こそかなしけれおくれはつべきこの世ならねば 六条院宣司
世中よ道こそなけれ思ひ入る山のおくにも鹿ぞ鳴くなる 皇太后宮大夫俊成
さすがに「雑中」、秀歌の多いこと。此処で個々に感想を書き始めれば、止められない。
いずれ、『わが千載和歌集秀歌撰』として一首ずつ読み味わってみようと、それを楽しみに。
老後を庭に降りて植木をいじっている人もある。
わたしにも機械に馴染みながら、こういう楽しみ、あっていいだろう。これもわが「文学作法」の範囲内である。
2009 5・31 92
* 今日、荷風散人の墨東綺譚「作後贅言」を読んでいて、この語句に当たった。
* 「わたくしは元来その習癖よりして党を結び群をなし、その威を借りて事をなすことを欲しない。むしろこれを怯となして排けている。治国の事はこれを避けて論外に措く。わたくしは藝林に遊ぶものの往々社を結び党を立てて、己に与するを揚げ与せざるを抑えようとするものを見て、これを怯となし、陋となすのである。」と。
「わたくしは学殖なきを憂うる。常識なきを憂えない。天下は常識に富める人の多きに堪えない。」とも。
かかる連中の「常識」を、わたしは「良識と似て非なる卑怯」と、かねて呼んできた。漱石はかかる「群れて恥なき者」をイミテーターと分類し、束になるしかない「槇雑木 (まきざっぽう)」と吐いて捨てている。
荷風も漱石も、そして驥尾に付してわたしも、これを「文学」「藝林」の名において言う。片輪で頑なな思いであるけれど、漱石の言う「自由」にして「インデペンダー」であり「文学・文藝」のオリジナルに身を賭する限り、至極当然の覚悟である。このような覚悟を身に鳴り響かせるようであったどれだけの藝術家と、わたしは出会ってきただろう。
2009 6・1 93
* 漱石と聞くと反自然主義のように思いこみ、たとえば『道草』で漱石は自然主義の軍門にアタマを下げたかのように言う人もいたのは、笑止な誤解であった。
漱石は浪漫主義と自然主義とを対比してものを言うときも、また文学の働きや徳義との関わりを言うときも、自然主義に対し深切な理解をいつも示している。浪漫主義は糸の切れた凧のような理想に走りやすく、自然主義は地を這えばよいという偏った自己満足に陥りやすいと批評しながらも、それぞれを本質的にみきわめた足場を、自身のために聡明に確保している。
* 漱石が嫌い抜いたのは、衆を頼み、権力に諂い、それにより地位と肩書を掴み、掴めばとたんに肩で風きり勝手をする「屑」のようなヤツらであった。本質的に「自由」ではとうてい在り難い連中であった。
荷風もそれを嫌った。藤村も鏡花も嫌った。今の時代にもそういう創作者は、数少なくてもいる。
しかし度し難く組織に集結してお山の大将や中将や少将や下士官でいたい者、いつづけていたい者もわんさといる。だから嫌気がさしそんな組織をヤメテ行くひとがいる。
ところが実はヤメテ呉れた方が都合がいいのだ、そういう人ほど痛い嚢中の針にほかならないから。うるさいから。
だが、そういう針こそ、必要なのである、たとえ一寸法師の針の刀のようであっても。わたしのような者にも、やめないで、言うべきを言い続けてくれといろんな人から激励が来ることでも、それは知れる。
2009 6・2 93
* 漱石と荷風。この二人の接触や言及をわたしは寡聞にして知らない、二つの個性の大きな差異は忽ちに感じやすいけれども、また本質的に共鳴している思想をもジンジンと感じる。
二人とも西欧文明にとにかくも直に触れて体験している。そこから彼等二人が個々に発してくる「日本と日本人の批評」は、また「処世・態度」も大いに共通する、しかもとても大事な点で。個人主義。
2009 6・2 93
* 「e -文庫=文藝館・湖(umi) 秦恒平責任編輯」を此のホームページに創始したのは、「前世紀 2000.10.23」であった。
「意図と方法」とを、今もそのまま、「表紙」で読み取れるように、こう告げていた。
(http://umi-no-hon.officeblue.jp/home.htm の表紙をダブルクリックして目次に入る。)
☆ この「e-文庫=文藝館・湖(umi)」の願いとする大きな一つは、近代日本文学の流れが、「招待席」作者達の名作・秀作・傑作、ことに問題作・記念作・力作を通して汲み取れるほどの「文学図書館」として立派に成り立つことです。
歴史の荒波に隠されて水面下に沈みかけている、しかし忘れてはならない先達の人と作をも、一人でも、一作でも確かに掬い上げてゆかねばならぬと、一作家として、此の館の編輯者として痛感しています。
あの人のこの作品をぜひと推薦して下さる方のご協力をこころより願います。
☆ この「文庫」を、さらにみなさん方に広く提供します。但し、文学・文藝として良しと編輯者・秦恒平がほぼ信頼と責任の持てるレベルの、創作・エッセイ・研究・批評等を各ジャンルにを分けて、招待作家も寄稿・投稿作者も区別なく五十音順に、積み重ねるように収録し続けて行きます。まさに「ふみくら」です。内容により、連載も、長編の一挙掲載も、可。
☆ 掲載・削除を含む編輯権は編輯者が行使し、原稿料・掲載料は、一切、無。掲載原稿に何の装飾も付けません。
☆ このホームページでは、プロの作家・批評家・編集者また学者・藝術家を含めて、優れて「佳い読者」が期待できます。
☆ 寄稿は、電子メールまたはCD-ROMまたはワープロプリントでお送り下さい。編集者からの注文等は電子メール等で致しますが、採否をめぐる議論や交信には応じられません。
* 誤解があってはならない。言うまでもなく、わたしが理事提案し創立責任者として日本ペンクラブに「電子文藝館」を創ったのは、「今世紀 2001.11.28」に入ってからのこと。「e -文藝館=湖(umi)」の成功体験から、当時委員長を務めていた電子メディア委員会を動かし、「同様のもの」が日本ペンクラブでも「出来る」と確信して提案した。
事実、一年余遅れて、「ペン電子文藝館」は実現したのである。
* 館のために「招待席」に作品を「選ぶ」だけでなく、「発信」に到るまでの作業は、やってみれば分かる、途方もなく容易でない。
1 優れた人と作品とを、先ず活字本や雑誌から探し求め、
2 全て読んで妥当に評価し、
3 遺族や作者・著者・関係者の許諾を得、
4 スキャナーで一頁一頁、「原作を電子化」しなければならない、
5 本や活字の劣化もありスキャン稿は不完全を極めたが、
6 当然その不完全原稿を、逐一すべて原本に当たり校正しなければならなかった。
7 さらに、「人と作品との文学史的な略紹介」もぜひ欠かせない。
1 委員会では、これら作業全部が、ほとんどの委員に出来なかった。人と作の「候補」をあげてくれる人が何人かいた。それも、「読む」ことから始めるのも、以下の作業も委員長一人の作業に任されていた。
2 余儀なく、委員長は、ほぼ「全てを実務負担」した。
3 委員には分担で仕上がり稿の「常識校正」だけをしてもらったが、
4 同じ会員とはいえ「読み能力に極度にバラツキ」があり、
5 その訂正往来にも、委員長は頭痛がするほど手と神経と時間とをとられ、文字通り盆も正月もなかった。
6 わたしが退任までの経緯は、「メーリングリストの全記録」が、また「わたしのHP上の日録」が、日々に具体的に全て明瞭にしている。
* わたしには「e-文藝館=湖(umi)」の体験が先行して有った。またそれの「充実という目的」が先に、常に、念頭にあり、「e-文藝館=湖 (umi)」のための作品選択と、「ペン電子文藝館」のそれとは、当然、いつも併行し重なっていた。そのように私は意識し意図して働いていた。関係者に作品を依頼するときも、「湖」「ペン」双方への寄稿を同時に許可して貰った。そのように折衝するのが常のことであった。ただし九割方は、著作権のすでに期限切れのものであり問題は何もなかった。
* まして両館の運営とも「経済目的の利益行為」では全くない。人と作品とが、より広範囲の読者を得るという目的からは、双方で掲載できるのも当然ながら望ましいことであった。著作権切れの人と作品とはすでにパプリック・ドメイン(公共財)であり、加えてまた多年の作家生活から、わたしは、私的・個人的に使用許可の得られる、得られやすい或る程度の信用・信頼を得てきた。「秦さんが言うのなら」とこころよく許される例が断然多かった。有り難かった。
* どっちを主とも従とも思わないが、わたしには「e-文藝館=湖(umi)」も「ペン電子文藝館」も、自分の産んだ子供のように大事であった。誰かが称賛してくれたように、「優れた(文学の)植林」をと意義を自覚し、作家生活を含むかなりの私生活を犠牲にしても、人も驚くほど打ち込んだ。理事会でも委員会でも、またわたしの読者でも、これを否認できる人は一人もいないだろう。
いま、わたしは「ペン電子文藝館」から離れて、ながく幾らか割を食ってきた「e-文藝館=湖(umi)」のために、こつこつと手をかけ、掲載を続けている。「ペン電子文藝館」との作品の重複は、上に述べた通り当然の説明が付いている。
* 「招待席」作品に付されてある「人と作との略紹介」記事を読んで欲しい。
短い記事であるが、そうそう誰にも右から左には書けない。同僚委員からもしばしば称賛されていた。また慎重にわたしも勉強していた。両館掲載で「重複した人と作品」のそれら全部の記事は、間違いなくわたし自身の「著作」である。「ペン電子文藝館」では省いたが、「e -文藝館=湖(umi)」には、自分で書いた記事全部に、(秦恒平)と末尾に記名し、著作権が明示してある。それらを見ても、上に挙げたほぼ全行程の実作業がわたしの手で成っていたことが分かるだろう。現委員会(阿刀田高館長・大原雄委員長)も、同様の作業を今続けていることであろう、実務の実際や分担については何も知らない。
* 「e-文藝館=湖(umi)」には現在、
人と思想、小説、文学エッセイ、戯曲・シナリオ、詞華集、論考・批評、論説・提言、講演録、エッセイ・随筆、旅・紀行、自分史、書き下ろし作品、翻訳そして、亡き人のために といったパートをもち、すでに、六百作前後を国内外に発信し、日に日に増している。
幕末から平成までの精選された数多い「招待席作品」に加え、広範囲の現代作家達の寄稿、文学に現に志して励んでいる人たちの寄稿・投稿作品が、なんら「分け隔てなく」平等に掲載されている。ごく近い将来には、編輯者自身による「日本古典」に親しめる角度に富んだ新企画も加わるだろう。「青空文庫」や「ペン電子文藝館」と異なり、一人の作家の責任編輯による特色明らかにこれほど質・量に富んだ「e-文庫」「e-文藝館」は、今日、他に存在していない。
「青空文庫」は、編輯母体により、すでに著作権切れ筆者たちの作品の淡々とした収拾で知られている。
「ペン電子文藝館」は、物故会員・現会員の作品を主体に、招待席作品を加え、他に、委員長の頃のわたしの発案になる、「反戦・反核」「主権在民」「出版・編集」の特別室を持っている。
* そして改めて言い切れるのは、私の委員長・館長時代には、現行の「高村光太郎」「戦争讃美・戦争荷担」の作品などを、日本ペンクラブの名で「招待」し国内外に「発信する」ような間違いは、断じてしなかった、ということ。
日本ペンクラブの名において、「ペン電子文藝館・招待席」の名において、詩人自身痛嘆の思いで生前自己否認し後悔していた「戦争讃美・戦争荷担」作品を掲載するなど、無礼ももとより、それでは何のために「反戦・反核」特別室を「ペン電子文藝館」に特設してあるのか、自己矛盾も甚だしい。
わたしは、怒っている。恥ずかしいからである。
* 詩人と戦争・大戦争にふれてエッケルマンが、ゲーテに向かい、「大戦争は(詩人達の)精神を鼓舞したやうに思はれますが」と問うたとき、ゲーテは言下にこう答えていた。
「戦争は精神よりも意志を、藝術的精神よりも政治的精神をより多く刺戟した。それに反してすべての素朴性と感性とは全く失はれた。しかしながらこの(失われた)二つの偉大なる必要物なくして人々に喜びを感じさせるやうなもの(詩・文学・美)をどうして描かうといふのだ」と。
ゲーテは歎いている。そういう自称の藝術家たちには「心情と精神とがない。彼等の構想には内容もなく何等の感銘も与へない。彼等は切れさうもない武器や、當りさうもない矢を描く。そして私はしばしば、一切の精神がこの世から消失したかのやうな気持ちになる」と。
高村光太郎が自身後悔した、戦時の戦争詩や戦争讃美・戦意昂揚の散文が、まさしく、こういうひからびた興奮の言辞で舞い上がっていた。
斎藤茂吉の歌集『萬軍』もまったく同様のものだった。
そこには、光太郎の『道程』や茂吉の『赤光』とは千里もへだたった、譬喩すればまさしく「戦争が人の心情と精神とを奪い去る恐ろしさ」だけが、空しく興奮していたのである。わたしは光太郎の『道程』や『智恵子抄』を、茂吉の『赤光』や『朝の蛍』を、「e-文藝館=湖(umi)」であれ「ペン電子文藝館」であれ喜んで推奨し掲載するが、のちのち「当人らが恥じた」ものを選んでわざわざ人目にさらすような真似はしたくない。
* 鏡子夫人の『漱石の思ひ出』の末に、詳細に吟味されたであろう年譜が付いていて、大正五年の没年の記事をみても、生前に「文学博士」を拒絶した漱石が、没後にもいかなる国家的な榮誉礼も受けていないことが分かり、実に清々しい。森鴎外の遺書もまた同じ強い意志を示していた。
こういうのと全く逆様な愚劣なことばや期待が、叙勲や榮爵がらみに、ペンの理事会で、たとえ冗談にせよ、半ばは本気と聞ける口調で話しあわれる例を、一度ならず聞かされた。
漱石は「文藝委員(=今謂う、藝術院会員)は何をするか」や「学者と名誉」のなかで、「博士問題とマードック先生と余」のなかでも、言を切して、国家が藝術家や学者を栄誉と特権とで不用意に拘束する重大な弊害を筆誅している。島崎藤村は藝術院会員をいともあっさり拒否している、自分の仕事とそんなこととは無関係だというのであった。
2009 6・6 93
* 漱石の『道草』を読んできて、もし漱石が不本意に一方的に姻戚の被害に遭っているとばかり読んでは、偏っている。
漱石の家庭もまた妻の実家や親類や、また親しい知友との深刻な経済的かかわりなしには存立も危うかった時期がある。
しかし漱石は、「親族が助けてくれて当然」とは考えていなかったし、じつは「助けるのが当然」とも決して考えてはいなかったのである。もっと別の個人主義者、インデペンダーとしての「常識」を持っていた。「いま・ここ」の仕事に誠実だった。
いざという時に「金」が人間をわるくする。『心』の「先生」はそう「私」に教えた。
漱石は「金」の思想家であった、金色夜叉の紅葉山人よりも徹底して。そしてゆらゆらと金で苦悩し動揺し、それを超えていったあとでも「心」にふりまわされて、生涯「静かな心」を求めつつ得られずに死んでいった。
2009 6・8 93
☆ お元気ですか。 花
『蜻蛉日記』と森さんの『情事』を読み終えました。
『蜻蛉日記』の作者は、男性に対して拗ねてばかりいて、ちょっとかわいくないかも、というのが第一印象です。当時の女性は待つことしかできなかったのだから仕方ないけれど。
『情事』は、確かに読ませますね。
今は、福田恒存の嘉村磯多論を読んでいます。
ではでは、頑張る風を感じて、花も。
* 花の蜻蛉日記読みは、実は大きくまちがっているようです。教室でぼんやり教わり、耳学問で思いこんできた先入主が働きすぎています。
摂関時代に、貴族社会でおよそ知らぬ人もないほど読まれ書き写されていた日記です。受領の女の、妻として泣きの涙で拗ねた愚痴本が、どうしてそんな評判を得られるでしょう。夫は藤原兼家、摂政太政大臣になり権勢並びない大物、あの道長らの父親です。その夫への恨みの暴露本? そんなことはあり得ない。やれば縁戚が潰されてしまうでしょう。
まさしく私小説そのものの日記体ですが、こういう日記が流布も読者も可能になったのには、別の成立意図・目的が在ったはず。なかには、ことに上巻には、中下巻にも、兼家側からの資料提供や支援や諒解や要請がなければ、或いは合意がなければ、とても書けない性質の記事も混じっています。
上巻には和歌がとくに多い。その中で、道綱母の作の多いのは当然として、第二位に他を断然引き離して兼家の和歌が多いことに気が付けば、上巻成立に兼家が協力していたという以上に、兼家側の或る大事な意図や願望に添って、優れた歌人として当時世評を確立していた道綱母の方が協力していたのではとすら読める、「夫妻合作の事情」が読み取れてきます。
この時代は「摂関家集の時代」といわれるほど摂関家一の人たちの家集が編まれていました。それは彼等の文化的な箔と実力の誇示ですらありました。
蜻蛉日記の上巻には、そうした摂関家の他の者の家集に含まれたどの主人公の歌数よりも、一段と数多い「兼家の和歌」が収録されている。他にそんな文献は無いのです。
道綱母のこの面での管理能力や評価力が、夫兼家の強い大きな信頼を得ていたから可能であった日記の編纂でした。
日記は一見、傷心と失意との泣きの涙日記のようであり、事実その面のあったことは否めない。しかし、それは一人の妻の、制度的に我が家で夫来訪を待ちわびた日々の正直な反映でした。道綱母はけっしてあの末摘花のようではなかった。年をとり床離れはしていっても、兼家の胤の幼い余所の娘を養女にもし、一粒胤の息子道綱は将来の上達部を優に保証されています。
一方兼家が、道綱母への情味を失い尽くした無道な夫とはとても読めない事実と状況を、日記はけっこう的確に書き起こしています。道綱母にはそれが誇らしい嬉しいことですらあったとも、十分読み取れます。そこに「私小説作家の機微と創意としたたかな知性」も見受けられる。
「作者は、男性に対して拗ねてばかりいて、ちょっとかわいくないかも、というのが第一印象です。当時の女性は待つことしかできなかったのだから仕方ないけれど。」は、全面否定しないけれど、当たっていない。
なかなかどうして、したたかな現代味をもった道綱母です、「かわいくない」かもしれないが、豊かな感情と、自身を主張できる知性をもち、なにより好い意味で、誇り高い。いまの学界にも、これは傷心日記ではない、満足の吹聴日記だという評価も現れてきています。後者だからこそ、摂関家のそれとない庇護と容認とのもとに、流布が可能だった、そして古典の地位を得たと言えるでしょう。わたしはそう読んでいます。
わたしが、繰り返し四度目を飽きずに読んでいるのは、まさしくこの作品から、源氏物語・寝覚や、枕草子や、更級日記や和泉式部日記やとはずかたりが出来、さらにさらに一葉や直哉や善蔵が、堀辰雄や円地文子も、生まれ出たと思うからです。芥川はここから外れています。
森瑶子は、器量の分厚いホンモノでしたね、少なくも『情事』等では。
2009 6・8 93
* 千載和歌集の秀歌を全体の一割弱選んで書き出していたのを読まれて楽しむ人もあったのは、望外の余録で。
本に添えられた月報の原稿をいわば「総括」のようにも読みたいという希望もあったので、スキャンしてみた。東工大時代、いまから十六年も昔の一文だが、ごく率直に「時代」を読んでいる。原文のまま、掲げておく。
* 俊成の時代 秦 恒平
根が後鳥羽院ぎらいで、『新古今和歌集』もさほどに好まない。巧緻ではあるけれど造りたててあり、清新でない。八代集で清新といえば、『金葉』『詞花』のややこしい歌風からぬけ出た『千載和歌集』にかぎるのである。ここには俊成と西行というとびきりの名前がある。二人の境涯はちがう。けれど、似ている。なにが似ているか。魂の色が似ている。
いきなり余談をまじえるが、魂の色が似ているで驚かされたのは、嫁ぐ以前の娘との話し合いであった。好きな人ができて、その人とは魂の色が似ていると言われて父親は閉口した。参った。
ところが、最近、東京工業大学の学生諸君といっしょに谷崎潤一郎の作品を読んでいて、日ごろ「谷崎愛」を口にしている私としたことが、あの名高い『刺青』という短編小説のなかで、すでに「魂の色」と書かれてあるのを見落としていた。刺青師清吉はわが「魂の色」を女の肌に刺して行き、はては女の背いっぱいの刺青そのものと化してしまう。無意識に記憶していて、だから娘の台詞に驚いたというのでは、言い訳が過ぎよう、要は読み落としていたのである。魂にも色がある。なるほど、よく分かる。
話をもとへ戻そう、藤原俊成に『千載和歌集』の撰を命じたのは、後白河院であった。わたしは、これがまた少年以来の根からの後白河びいきで、今日まで来た。ついでに言えば、白より赤旗の熱い平家びいきであった。
後鳥羽はほとんど軽率に鎌倉に屈したが、後白河は、なんのかのと言われながら、死ぬまでよく粘った。『梁塵秘抄』を手ずから遺してくれた。その歌謡も口伝も卓越した面白さと価値とをもっている。『年中行事絵巻』を遺してくれた。なみなみの資料ではない。確証こそないが、平家語りによる大時代の戦後証言のために、大袈裟にいえば国民文藝ないし国民藝能といえる規模の土台を、それとなく用意して逝ったのも後白河院であった気が、わたしには、している。唱歌・謳歌という技の道にあって、源藤二氏の郢曲を統べ、いわば中世的な家元としての自覚をもった帝王。渾身の頑張りで古代の王政を維持しようと努めたあげく、さながらに中世を手招き、古代の幕引きをしたような帝王。
そのような後白河勅撰のゆえに、『千載和歌集』は、いかにもいかにも懐かしく思われるというのが、一作家としての、贔屓の引き倒しなのである。
歌謡の『梁塵秘抄』は手ずから編んだが、『千載和歌集』は藤原俊成に撰を命じたというのが、おもしろい。後白河という御一人は、じつに歌人という藝術家であるよりも、身ははるかに強烈に、ひとりの歌手でありたいと覚悟をきわめた、藝能の人であった。そういう帝王の意を、ただ遠巻きに迎えるだけでなく、まさに藝能人の公家たちが、太政大臣師長といい、接察使大納言資賢といい、少納言入道信西といい、さらには資賢の子の天才児資時といい、信じられないほど大勢、宮廷社会に実在した。それがこの時代のつまり「今様」であった。西行法師の血族にも、さぐって行くと意外にそんな「今様」世界との接点が見えて興味深いのであるが、じつは千載撰者の俊成の血潮にも、そういう今様に色濃く馴染んだ素質が、混じっていたようだ。母方の血筋には、今様に身を捨てたような風狂・瘋癲の公家がいたし、父俊忠にしても優にひとりの今様人であった。そういえば俊成の身辺には、あの建礼門院右京大夫の母で、宮廷社会に遊藝の師匠として名高かった夕霧という女がいて、彼との仲にも或いは男子を成していたかに推察されている。夕霧は、わたしなど文士の興味をしきりにそそる藝能・音楽のよほど達者な美女であった。
俊成は、もともと政治的に旗幟鮮明であることを嫌った人であった。嫌ったにはわけが有ったはずだが、どんなに慎重に避けてみても、一つまちがえば足元をすくわれてしまう人がらみからは、容易にのがれられなかった。親族の女から平家の公達も生まれていたし、その平家へ謀反を企てる公家筋へも嫁がせていた。建春門院に仕えた女もいたし、平家追討に決起した王家とも縁があった。溯れば保元の乱のもつれた人渦のなかでも、俊成の一家は微妙に足をとられかけていた。父鳥羽天皇から叔父子と忌まれたのちの讃岐院・崇徳天皇の受胎や誕生を、母璋子藤原氏の名とともに、ものに憑られ月明を浴びて後宮のどまんなかで声高に予言した女人は、鳥羽天皇の最側近であり天皇の父堀河天皇とは乳母子の間柄にあったような讃岐典侍、長子藤原氏であった。父顕綱には甥、敦家の子の敦兼の義妹として長子は鳥羽側近の人となっていた。この『讃岐典侍日記』の著者である女人こそ、あるいは俊成卿の生母かと説く人もある。反対する人もある。ともあれ俊成母が「敦家女」であるとされる以上、長子はごく近親であった。長子の血筋を溯れば、『かげろふ日記』の著者、大納言道綱の母にいたる。俊成の子の定家卿に、「紅旗征戎ハ吾事ニ非ズ」と日記に書き込ませた因縁は、遠く深く錯綜していたのだと遥かに想像される。
定家という人物は嫌いではないが、不思議にと言うより、たわいなく、わたしは俊成という老人がはなから好きであった。人格者だと思ってきたのでは、ない。色好みであったろう、なかなかの子沢山であり、しかもいい妻に恵まれ、家の主として巧みに舵をとった。けっこう世智がらく、時代を前へ前へ読んでいた。跡取りにも才ある娘や孫娘にも恵まれ、官職にこそそう恵まれなかったものの、世の尊敬は深く受け、長命し、危うい時世に危うい家門をただ守るだけでなく、栄えあるものへ土台も張った。辛辣な論客であり、温厚という以上に情勢判断にたけた批評家であった。編集の才があり、秀歌撰に模範的な冴えと集中力とをみせ、子の定家の和歌開眼にじつに有効な道をつけた。一筋縄でゆかない風貌は、梅枝に似て癖のつよい、しかし何とも魅力ある、息子の定家流よりも魅力ある無類の書跡に重ねて、彷彿とする。歌学において対立する相手には、容易に譲らなかったが、西行のような親しい人とは、適宜に、しかし決して過度に陥ることなく腹を割った付き合いが出来た。和歌の実力を巧みに世渡りの舟とし舵ともし、時に身を守る盾とも用い得てほぼ誤まらなかった。印象で言うことであるけれども、これほど、多くの子女を世間にうまく放ち、親の、糸ならぬ意図と判断とで大過なく操った家長は少ないのではないか。そういう辺りにも、この人物の「今様」をつかむ嘆覚が利いていた気がしてならない。
ちいさい頃、昨今のとはだいぶ趣のちがう絵札で百人一首のかるたを楽しんだが、俊成のそれでは、彼は、かぶさるように火桶を両手両足で抱きかかえていた。こういう格好で俊成という歌人は人を遠ざけ、歌をよむのにいつも苦心惨澹したのだと、ものの本などで知ったのも比較的幼かった昔であるが、わたしにはそんな格好がすこし剽げてみえて、歌人というよりも連歌師か俳諧師かのように思えた。都落ちのまぎわに、師のもとへ馬の首をめぐらせて、勅撰の栄誉をえたいと自作の和歌を届けたという薩摩守忠度も、まさかにこう行儀のわるい俊成卿の格好は想像出来なかったろうなと、余計なことも思っておかしがっていた。定家卿とちがい、五条の三位俊成には、こういう知られた逸話的場面とともに、何としても源平盛衰の時代背景が生きてまつわり思い出になっている。そこが魅力であり、やはり、そこが彼の撰した『千載和歌集』の隠し味ともなって来る。そのいわゆる清新の魅力と、源平のあの大騒ぎとは、ハテ、どう重なるのか、と。
「女文化」と謂われていい文化が少なくとも『古今和歌集』いらい二百何十年か続いていた。ちょうどその女文化が最初の終末期にさしかかっていたのが、十二世紀前半であった。いろいろな徴候が見えていた。行成流の優美な女手が、まさしく俊成・定家父子にみるような、個性溢れるしかも実務的な書、美よりも正しく意義を伝える学藝的な書、新しい男手へと動いていた。彩色を主とした源氏物語絵巻ふうの女絵は、急速に線的敏感に支えられた男絵へと動いていた。十二単の男版のような大鎧・大兜や武具・馬具の華麗さも、平家の没落とともにいわば女文化の死装束と化そうとしていた。都の外に地方都市的な芽生えも見え、なによりも公家と都との政権に武家の揺さぶりは致命的に働いていた。家学・家藝の実質はもはや古代型の「女文化」では維持しきれなくなっていた。法然以下の新祖師たちの活動にしても、命がけの革新であった。もし力ある女ならば、政子北条氏のように男まさりになって働いた。優美な古代の「花」は、方法と方角とを求めて力づよく時代を奏でる「風」に、ともあれいっとき散り果てようとしていた。『千載和歌集』は、そのいわば散りぎわの潔さと、新風への期待とを、じつに平静に歌っていたように思われ、それなりの今様を響かせたものと思われる。
(はた こうへい・作家、東京工業大学教授)
(一九九三年四月 新 日本古典文学大系 第10巻月報)
2009 6・8 93
* 「私怨」という言葉に、わたしは少年時代から一種のセンスを持っていた。それは漱石の『こころ』から得たセンスだろうと思っている。
この作の「先生」は、いざというとき人間を悪人にするのは「金」だと「私」に言い、その根の思いや哀しみを、また深い怨みを、わが父の遺産を恣まに蕩尽していた叔父に向けていた。けっして、その「怨みは忘れないのです」と言い切っていた。
この作の「先生」という人は、漱石が書く男達の通弊かのように読まれている或る種ウジウジした男の一人であるが、(それには気の毒に「漱石の病気」が必ずや関与していたであろう。)他の点はとにかくも、「怨み」は決して忘れないと言い切る先生を、わたしは必ずしも指弾しなかった。それでいい、そうあっていい、毅い、と思っていた。
* 文学や藝術の根底には、よく謂う愛や哀しみより、もっと濃密に「私怨」が秘められているとしても当然だろうと、わたしは容認している。いうまでもない『オデュッセイ』や『古事記』より以降、「怨み」は創造のつよい根の力だった。オデュッセイの名じたいが「怨み」の意義を体していると謂われている。『嵐が丘』も『モンテクリスト伯』もしかり、『源氏物語』ですらしかり、洋の東西の名作力作の多くがあらわに底に「私怨」をエネルギーにしている。但し、生きる力になるほどの「私怨」には、他者を納得させるだけの根拠がある。理由がある。
* 夜前わたしは、漱石の『道草』を、感銘に包まれついに読了した。あえて新聞小説を日々読むように、百日ちかくもかけ丁寧に読んできて、ゆうべは最後の数回分を一気に読み上げた。
新聞紙上でいえばその連載百回めで、妻の「住」に向けたこんな「健三=漱石」の述懐を聴いた。
「執念深からうが、男らしくなからうが、事実は事実だよ。よし事実に棒を引いたつて、感情を打ち殺す訳には行かないからね。其時の感情はまだ生きてゐるんだ。生きて今でも何処かで働いてゐるんだ。己が殺しても天が復活させるから何にもならない」
漱石自身に抜きがたく実在したこの述懐が、どんな具体的な事実に根ざしていたか、『道草』は同じ場所で明かしているし、その事実であったことは漱石の日記も夫人の『漱石の思ひ出』も証言している。
『道草』のその箇所を引いておく。
健三は比田(=姉婿)に就いて不愉快な昔迄思ひ出させられた。
それは彼の二番目の兄が病死する前後の事であつた。病人は平生から自分の持つてゐる両蓋の銀側時計を弟の健三に見せて、「是を今に御前に遣らう」と殆んど口癖のやうに云つてゐた。時計を所有した経験のない若い健三は、欲しくて堪らない其装飾品が、何時になつたら自分の帯に巻き付けられるのだらうかと想像して、暗に未来の得意を予算(=難漢字。意を踏む)に組み込みながら、
病人が死んだ時、彼の細君は夫の言葉を尊重して、その時計を健三に遣るとみんなの前で明言した。一つは亡くなつた人の記念とも見るべき此品物は、不幸にして質に入れてあつた。無論健三にはそれを受出す力がなかつた。彼は義姉から所有権丈を譲り渡されたと同様で、肝心の時計には手も触れる事が出来ずに幾日かを過ごした。
或日皆なが一つ所に落合つた。すると其席上で此田が問題の時計を懐中から出した。時計は見違へる様に磨かれて光つてゐた。新らしい紐に珊瑚樹の珠が装飾として付け加へられた。彼はそれを勿体らしく兄(=亡くなった兄の下の兄)の前に置いた。
「それでは是は貴方に上げる事にしますから」
傍にゐた姉(=比田の妻か)も殆んど此田と同じやうな口上を述べた。
「どうも色々御手数を掛けまして、有難う。ぢや頂戴します」
兄は禮を云つてそれを受取つた。
健三は黙つて三人の様子を見てゐた。三人は殆んど彼の某所にゐる事さへ眼中に置いてゐなかつた。仕舞迄一言も発しなかつた彼は、腹の中で甚しい侮辱を受けたやうな心持がした。然し彼等は平気であつた。彼等の仕打を仇敵の如く憎んだ健三も、何故彼等がそんな面中(つらあて)がましい事をしたのか、何うしても考へ出せなかつた。
彼は自分の権利も主張しなかつた。又説明も求めなかつた。たゞ無言のうちに愛想を尽かした。さうして親身の兄や姉に対して愛想を尽かす事が、彼等に取つて一番非道い刑罰に違なからうと判断した。
「そんな事をまだ覚えてゐらつしやるんですか。貴夫も随分執念深いわね。御兄いさんが御聴きになつたら嘸御驚ろきなさるでせう」
細君は健三の顔を見て暗に其気色を伺つた。健三はちつとも動かなかった。
「執念深からうが、男らしくなからうが、事実は事実だよ。よし事実に棒を引いたつて、感情を打ち殺す訳には行かないからね。其時の感情はまだ生きてゐるんだ。生きて今でも何処かで働いてゐるんだ。己が殺しても天が復活させるから何にもならない」
* 思想でも主張でもない、まさに作中人物「健三」の、そして作者「漱石」自身の紛れない「私怨」である。漱石は少なくも家族や親族に対するこれら「私怨」を、ほかにも、海綿が吸った水のように五体にいやほど含んでいた。それにエネルギーを得て、「心」も「道草」も書いた。他の作品にも大小と無くしみこんでいる。
彼漱石の創作が深く広く支持されてきた理由の一つは、読者たちもまたそういう「私怨」を、当然の根拠もあって大事に身に抱き込んでいるということかも知れぬ。しかし繰り返して云うが、その根拠が、『道草』のこの箇所で謂われている「血縁親族の態度」や「奪われた時計」のような「物証」で理由づけられていなければ、ただの軽薄な虚言になる。
* わたしほど執念深くない妻でも、娘婿から、汚らしい言葉で罵詈讒謗の手紙が連発されてきたあの時の「不快と憤慨」とは「どうしても忘れられない」と云う。
一つには、それがあまりに突然に勃発したからであり、現にその前日にも娘婿は我が家、で妻の口から「生活は大丈夫ですか」と案じられていた。婿の返辞は、「ご心配なく、大丈夫です」であった。
それ以前から、何の問題もない両家親密な交渉などは、例えばその少し前まで彼等がパリに留学していた頃の、手紙やはがきの文面がじつに和やかに示している。このファイルの裾に示した、家族和気藹々の写真にも明らかに見てとれる。
* 一つ譲って、仮にこの漱石・健三の立場に、われわれの娘婿を置いてみても、ここに書かれた「陰湿な時計事件」の如きは絶無であって、恨まれる筋は何もなかった。有ったとすれば、「学者婿を娘の夫」にした以上は、生活費や住居で支援するのが嫁の実家として「常識」だと言い募る、不思議極まる「非常識」以外に、何も思い当たらない。だがそれを云うなら、「若い健康な学生身分」で何を云うか、こちらには九十の坂に喘ぐ義理有る三人の親や叔母を抱えている、「非常識はどちらか」と答えるだろう。
そのわれわれの「怒り」は、もとより家族・親族内でのことゆえ、つまり「私怨」である。こういう「私怨」をわたしは縁のものと受け取り、「健三」の断乎たる言葉通りに、忘れない。不自然に圧殺はしない。してもならないと思っている。わたしが漱石を敬愛する所以でもある。
2009 6・10 93
* 広い世の中。大勢の読者達が、みなそれぞれの「名作」を胸に抱いていることだろう。人がそれを、それぞれを「名作」と思うのは全く自由であり、共通して謂える真実は、その人達がその作品により「深く心励まされた感銘し感動した」ということ、である。それはいわゆる批評学や鑑賞学を超えた次元で胸に抱く「珠」にほかならない。他の人に通用しようがしまいが、それは自ずから別ごとである。
むかし、東工大の学生諸君に、高校までに先生からもらった感動の一言を教えて欲しいと言い、大教室をぎっしりうずめた大勢が、まさしく銘々の記憶の「一語」を書いて提出してくれた。その中には「十七にして親をゆるせ」また「男は風邪をひくな」などがあり、教室がおおっと揺れたことは繰り返し書いてきたが、書き出されたおおかたは、あのときの一言「がんばれよ」の類であった。それを平凡と言うことは、他人には許されたにしても「無意味の批評」である。当人は魂をゆさぶられたのである。
* 広い世の中ゆえそれも一風景ではあるが、人がそれを心から「名作」と思うのは、作品の題がなにであれ、そこに「感動があり深い価値が添っていた」からだと先に云った。そのそれぞれの「名作」を指さし、それは「名作ではない」と論う人も広い世の中にはいる。
ただ、はっきり言えることは、「それは名作ではない」という類の言説は、人それぞれを揺り動かした感動・感銘とはまるで無縁だということ。
それを好んで言う人の魂は、気の毒に「よろこびにうちふるえて」いない。つまり、よけいなお世話にすぎない。いわば、ある種のひからびた乾いた「賢しら」なのである。べつだんの何も生まれないという意味では、「がんばれよ」と先生に言われてそれが生涯の感謝と感銘になっている人に向かい、「がんばれよ」とは何という詰まらない平凡なへたくそな励ましだと批評するのと、少しも変わらない。そこからは何も生まれていない。
そんな真似をして喜ぶより、自分にはこれが「名作」だと心から論じれば宜しい。
批評は、作品論は、その作品がそれにより、さらにさらに豊かに面白くなるようなものでありたい。
2009 6・18 93
* 下北澤へ出かける直前に初めての人から「e-文藝館=湖(umi)」へ「投稿」があった。少し時間を貰ったが、こんな返信をすぐにした。
* 秦 恒平です。 朝食して、いまから所用で出ます。作は、帰宅後に読みます。
いまちょうど「秦恒平・湖の本」通算九九巻の発送中なので、さらにひきつづき記念の第百巻も送り始めますので、しばらく時間をもらいます。
ひとつだけ。
わたしがまだ「菅原万佐」という筆名で私家版を作っていたころ、その一冊が誰の手を経てか新潮社の編輯重役に、さらに「新潮」編集長に廻されていて、突如としてある日、その酒井健次郎編集長から呼び出しが来ました。どんなに仰天し興奮したか、お分かりになるでしょう。
酒井さんはわたしを観るなり、「本名で書きなさい」と断定しました。わたしも即座に覚悟をきめました。何一つ他に言葉の交換はありませんでした。
あなたにも同じことを言います。では。後日。
わたしの新刊『濯鱗清流 秦恒平の文学作法』上巻を送ります。送り先を知らせて置いて下さい。
* 筆名というペルソナ(仮面)の、いくらか利点もあるだろうが利点に甘えたとき、「書く」覚悟は不徹底になる。
2009 6・23 93
* 今日はずっと外出中も、自分の「新刊」を読み返していた。ちょうど十年一昔前のはりつめた「文学との」日々。
十年たって、よほど爺になってしまったが、気の張りや思いは変わっていないと自覚する。こう生きるために生まれてきたんだなと。「濯鱗清流」という題にこめた、優れたモノ・コト・ヒトへの感謝が、自分を支えてきたと思う。
2009 6・23 93
* 山本周五郎について書かれた本をもらい、かなり一気に読んできて、たとえばどんな文学賞も要らないなど、敬服できる逸人の風がある。
ただ、こと文学、こと作品に添って感じ取れることは、何としても「読み物」作家であるという事。苦心工夫の作といわれるモノも、あらすじや部分的に表現を読んでいても、要するに巧みなつくりごとであり、切れ味鋭い文学の意気や意気地ではない。志賀直哉風の観点からすれば、客をしっかり寄せている講釈師の藝のよさ、で止まっている。以前にすこし読みかけたこともあったが、ついて行きにくかった、頼りなくて。評判のよさが理解は出来て、たとえば藤沢周平の作などと同じだが、所詮は読み物の味が抜けていない。
* じつは私、まだ新米のピカピカだったころ、何かの雑誌、新潮社の「波」あたりからこれはと感じて切り出していた「ことば」があった。
たしか、それが山本周五郎の「ことば」だった。
わたしはそれを五糎四方ほどに切り出し、いかにも少年ぽく、といってももう結婚しものも書いていたのだが、貧しいツールに入れ、始終身の傍に置いていた。読んでいた。
二○○○年の元旦、息子に新年の賀詞をメールで送ったなかに、その周五郎の言葉を入れていたのが、今度の「上巻」に出ている。
* 歳末に片づけ仕事の中で、古い、幼稚な、やすい、鉄の写真立てのようなものを見つけました。雑誌から切り抜いたらしい、「言葉」が二つ入っていました。小説を書き始めた若き日々に机に立てていたものです。だれの「言葉」だったか、山本周五郎か、それは忘れていますが、「言葉」には信服していました。その通りと信じていました。
二千年の年頭に、此処に置きます。
此の仕事をする者には
富貴も、安逸も、名声も
恋も無い。
絶えざる貧窮と
飽く無き創造欲とが、唯
あるばかりだ。
知っているか ?
水を流そうと思うなら
流そうと思う方を
水の在る場所より深く
掘らねばならぬ。
「流れよ!」
と云った丈では
水は流れはしない。
五センチ四方にちぎった、色変わりのした粗末な紙に、9ポイントの字で印刷してあります。
あとの「言葉」の三行目は、わたしの言葉に変えました。原文では「水の在る場所より低く」とある。「低く」掘るのは間違いだと思う。心して「深く」掘りたい。
きみの悔いなき健闘を祈っています。 父 二○○○・一・一
* この、「水を流そうと思うなら 流そうと思う方を 水の在る場所より低く 掘らねばならぬ」とあった原文が、いかにも読み物の人の、読者の意を迎えた言葉だとわたしは感じた。今度もその本を読みながら何度も感じた、「そうなんだ」と。
わたしは、「深く 掘らねばならぬ」と思っている。直哉でも潤一郎でも荷風でも漱石でもきっと「深く」と自覚していただろう。
* 山本周五郎と例えば私とで、いや私と限らずよく聞くフレーズがある。
「文学に純文学も通俗文学も無い、あるのは良い作品と好くない作品とがあるだけだ」と。言葉の上では、それが正しいであろう。
しかし、その上であえていえば、通俗読み物を贔屓の人たちの「良い」と、たとえば漱石や鴎外や直哉や秋声や谷崎や川端らの作が良いという人たちとの。同じことばではあっても「良い」の質や水準が往々にしてちがう、其処に大問題がある。「良い」のなかみが違っていては、上のテーゼは意味を成さなくなる。
同じく「面白い」でも、読み物が面白いのと漱石や三島が面白いのとではちがっていて、そこにクリティクが無ければ、問題がもとの木阿弥に立ち返ってしまう。説明的なお話が上出来に面白いのと、表現豊かに文体の美しく優れた文藝モノの面白いのとでは、まったく同じ物差しでは測れない。良い小説とは「面白いお話だ読み物だ」というのと、良い小説とは「優れた文体が人生や人間の秘密を深くから汲み出し表現している作のことだ」というのとでは、物差しの目盛りがちがっている。
2009 6・24 93
☆ 拝啓 「湖の本」エッセイ47 誠に有難く拝受、御説に首肯を続けながら、たのしく読了いたしました。たゞ少数の人物についてだけは、あの方はそんな方ではありませんと思ふこともありました。
編集者は文士の裏も表も知つてしまふ因果な商売ですが、それを絶対口外しないといふ掟もあつて、それを破ると、文士は、いつ寝首をかかれるかもしれんと、編集者を信頼しなくなるからです。
しかし政界、官界、財界と比べたら、こんな清潔な社会は地球上にあるまいと思ひます。御著書を拝読してゐて、自分はいい社会で仕事をして来て幸だつたといふ思ひを深めました。
葉書で略儀ながら取急ぎ御礼ま迄、不一 元編集長
* 「たのしく読了」というのが嬉しい、有り難い。
「あの方はそんな方ではありませんと思ふことも」とあるのに、頷きながら、わたしが称賛し感謝した「方」なのか、わたしが強く批判した「方」であるのか、は一応分からない、が、たぶん前者であろうなあと幾分見当もつく。
それにしても、この方の活躍された、開拓されたころの文壇は、はるかな昔。
わたしはその「幸」を若造ながら少し自ら実感が出来ていたからこそ「濯鱗清流」とけれんもなしに謂えた。今日も読み返していて、素晴らしい「方々」のいた文壇だったと自然にあたまがさがる。
今は、とてもそうは行かない、なによりも表へ出て大手を振っている人たちに「文学者」としての気稟の清質が欠けている。
その一端が、故人高村光太郎の詩と文学とを公然貶めて平気の平左、みずから責任者の立場にいて「好ましいことではないと思った」と言いながら、批判を真っ向に浴びてなお「うやむや」に臭い物に蓋しているような所に、露呈されている。
* ひとことでいえば、上の元編集長氏の頃の先導的な「文士」たちは、「リッチ」でなかったが、みな、真に「フェイマス」だった。譬えて謂えば、島崎藤村、正宗白鳥、志賀直哉、川端康成、芹沢光治良、中村光夫などと並んだ日本ペンクラブの歴代会長の時代、ホンモノの文士たちはみな「フェイマス」であった。鏡花、秋声、潤一郎も、伊藤整も高見順も太宰治も、みな「フェイマス」な作家であり文士であった。
いまでは、「リッチ」志向が大勢をなし、若い人も文学を真剣に志すよりも、かつては文学の数に数えられなかった読み物の書き手をめざして「リッチ」の夢を追おうとしている。気稟の清流はかなり汚れてしまっている。「いい社会で仕事をして来て幸だつた」というこの歴然の「過去形」を見落としては、「幸」の有り難さがアイマイになる。
2009 6・25 93
* 「純文学」という言葉は、日本の近代文学史的に厳密に謂うと「私小説」のことで、藝術的価値の高い本格の文学作品かのように取るのは、正しくは二義的に転用された慣習に類している。
それほど日本では「私小説」が、よかれあしかれ無視できずに重きをなしてきた。文学は滅びても私小説は滅びないと極言する好事家もいるほどである。
しかし、同じく私小説といいながら、じつにいろいろある。
生涯に私小説を一作も書かなかった日本の作家は、通俗読み物の人は知らないが、ほとんどいないだろう。島崎藤村の『家』『新生』、夏目漱石の『道草』、志賀直哉の『和解』『城の崎にて』、瀧井孝作の『無限抱擁』『結婚まで』も私小説、しかし私小説の本流といえば葛西善蔵や牧野信一や嘉村礒多や川崎長太郎だと思いこんでいる人もいる。だが、永井荷風も、太宰治も、吉行淳之介も優れた私小説を書いている。泉鏡花でも谷崎潤一郎でも私小説をちゃんと書いている。
私小説を語り始めると際限がないのだが、その中でも、ああ、此処まで書くか、この先はもう書けまいとおもうほど、「極北」とも「限界」とも謂えるような凄い私小説作品を、「e-文藝館=湖(umi)」から推奨しようと思う。嘉村礒多である。
■ 七月二十二日の夜 嘉村礒多 招待席 「e-文藝館=湖 (umi)」 小説室
かむら いそた 1897 – 1933 山口県に生まれる。葛西善蔵の流れを汲み「私小説の極北」といわれる諸作品を遺して、得も云われぬ或る優れた小説家と云わねばならないだろう。幼少から成年まで多彩なコンプレックスそのものを内的力として、ほとんど自虐的に私小説を純文学として昇華した。 掲載作は、昭和七年(1932)「新潮」一月号に初出の、一読まことに特異な小説で、言葉を加える余地もない。作者の死がこの翌年であることをことさら言い添えておく。 (秦恒平)
* 作中に「S」氏とあるのは、葛西善蔵をさしていることだけ、言い添える。嘉村にも葛西にも、私小説こそが「藝術」であり、私小説を書ききる者こそが「藝術家」であった。
2009 6・26 93
* この辺で「e-文藝館=湖(umi)」から、編輯者自身の講演録を一つお目に掛けたい。
■ 漱石『心』の問題 ーわが文学の心根にー (講演) 秦 恒平
「e-文藝館=湖(umi)」 人と思想室
はた こうへい 作家 1935.12.21 京都市に生まれる。昭和四十四年、『清経入水』により第五回太宰治賞。日本ペンクラブ理事、京都美術文化賞選者。もと東工大工学部教授。『秦恒平・湖の本』百巻を刊行、さらに継続。「e-文藝館=湖(umi)」編輯者。「mixi」のハンドルネーム「湖」 掲載作は、秦 恒平・湖の本エッセイ第17巻 『漱石「心」の問題』 1998.9.15刊 所収。東工大退官後に昭和女子大人見記念講堂での講演録。「先生遺書」のみによりかかって論じられやすかった原作を、第一部、第二部を含め、「私」の存在に力点を置いて『心』を徹底して読み直し、学界の話題となった。これにはるかに先立ち、同じ「読み」で書いた戯曲『心 わか愛』は、俳優座が加藤剛主演で上演した。さらに雑誌「新潮」に、評論『漱石「心」の心見』も発表している。講演録はそれらの一集成である。 http://umi-no-hon.officeblue.jp
(目次のe-literary magazineとある英字の方をクリックして下さい。)
* 『こころ』に触れては思い出多いが、繰り返し書いてきたので、割愛する。
最近、順に云って、漱石の『明暗』『道草』『彼岸過ぎ迄』『漱石の文明論集』『行人』と読み終えてきた。
『行人』では、「兄一郎」が「弟二郎」に、自身の妻「直」のいわば貞操を確かめさせるという厄介な筋書きが山場の一つを成している。それを読んでいれば、次作『こころ』で、「先生」「奥さん」「私」とにドラマが起きるのは、むしろ当然の読みでなければならないのに、「先生の遺書」をのみ観念的に読み過ぎてきたのが、久しい『こころ』受容史であった。
一つには、この三人の年齢の読み取りが無意識のうちにあまりにでたらめであったのが、作品の自然を取り違えさせていたのである。
2009 6・27 93
* さて、田畑修一郎といって、いま記憶している読者はめったにいまい。流れ星のように短い期間に光芒をのこして散っていった作家であるが、優れた作をのこしている。なかでも「e-文藝館=湖(umi)」に記念した『鳥羽家の子どもたち』は、しみじみと静かに人の世の、そう「もののあはれ」を想わせて懐かしい秀作。こういう人や作をこそわたしは「招待」したかった。読んで欲しいと思う。
■ 鳥羽家の子どもたち 田畑修一郎 招待席 「e -文藝館=湖(umi)」 小説室
たばたしゅういちろう 小説家 1903.9.7 – 1943.7.23 島根県益田に生まれる。 私小説系の作風で繊細な才能を数少ない作品に傾注、極めて短い作家人生に優れた足跡を残して、旅中の不幸な発病と手術予後の急変から世を去った。 掲載作は昭和七年(1932)三月に書かれた代表作で、十三年(1938)六月砂子屋書房刊、同題の創作集に収まり、この年の芥川賞有力候補とされた。 (秦 恒平) http://umi-no-hon.officeblue.jp
(目次のe-literary magazineとある英字の方をクリックして下さい。)
* いま、日本文藝家協会は、たぶん二千数百人の会員数。文筆同業者組合のような組織である。日本ペンクラブは少し性格が違うけれど、およそ二千人の会員を擁している。国際ペンの一環である。
これらの会に入っていないけれども世間には「作家」と称し「詩人歌人俳人」と名乗っている人はいっぱいいる。「劇作家も脚本家」も。「随筆家」も。免許制ではない自称すればそれで済む。問題は、作品の質的な高さ深さであり、何千人何万人いようが、大方は実質もなく枯れて散って行く。
が、なかには優れた足跡をもちながら足跡が塵に埋もれて隠れてしまい忘れられて行く。
そもそも自分で「e-文藝館=湖(umi)」を起こし、その自信から日本ペンクラブにも「ペン電子文藝館」を起こしたわたしの意図は、そういう作家・作者達の忘れがたい足跡を見つけ出して現代に復帰させたい、そういう人と作品を「招待」して今の読者達に知らせたいというのが、一の願いであった。その気持ちには、いずれは自分も自分の作もそうなるという思いもあった、当然にも。
だから、そういう優れた人と作とに出会うと、わたしはとても嬉しい。掲載し発信できるのが、わがことのように嬉しいのである。
2009 6・28 93
* いまどき鉦と太鼓で探し求めても見つからないのが、「労働者」文学だろう、ほとんど何の評判も聞かない。しかし日本の近代文学史には、まぎれもなく「労働者」を労働者として描いた、しかも必ずしも政党のイデオロギーに下支えを求めぬまま、ガッキと屹立した労働者の精神と自我と汗みづくを描いた優れた作品が、相当の伝統を保って長続きした。戦後のわれわれは、単にそれを忘れるかわざと顔を背けてきたのである。
夏目漱石に、かつて『坑夫』という異色の作があった。その漱石が亡くなる年、大正五年に、宮嶋資夫という無名の人が、同じ『坑夫』という強烈な秀作を世に問うた。自費出版であった。鳴り響いて建つ記念碑的な力作であったが、即刻発禁処分されている。大隈首相の暗殺未遂があり、元老を排斥して政党政治を確立しようと原敬や犬養毅らが動いた年。そして一つの文学史が頭をもたげたのである。
■ 坑夫 宮嶋資夫 招待席 「e-文藝館=湖(umi)」 小説室
みやじますけお 小説家・批評家 1886.8.1 – 1951.2.19 東京市四谷伝馬町に生まれる。七歳で家を喪い十三歳から砂糖問屋の小僧、歯科医の書生、牧夫、職工、土方、火夫、新聞記者等々を転々、放浪のすえ大杉栄等の感化でアナーキストとして目覚め、古本屋のかたわら書いた処女作『坑夫』を大正五年(1916)一月近代思想社より自費出版したが、直ちに発禁に遭った。
共産党系のプロレタリア文学には常に反撥し、個人的心情の過激な爆発や妄執を描き続け、昭和五年(1930)には京都天龍寺に入って求法の境涯に身を置いた。
掲載作は、まさに労働文学の「成立」を証言する画期的秀作であり、生彩豊かに主人公を彫琢する筆つきは、きびきびと情深く呼吸して、的確。いい意味で凄みに富み、 (秦 恒平)
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* わたしが文藝館活動で密かにかつ大きく意図したのは、こういう骨太な、「働く人たちの文学史」の再発掘でもあった。湮滅させてはいけないと堅く願っていた。
2009 7・2 94
* 「名品」という言葉が小説にも使えるなら、今日「e-文藝館=湖(umi)」が推奨するのは、掛け値無しの「名品」である。
ついでだから持説を言うておくが、おおかた創作されたモノは即ち「作」であるが、「作品」の有無はおのずから別の「評価」である。「人」と「人品」とが自ずから別であるように。
この作に、作品と称するに足る「品」があるかどうかを問うのが作品批評であり、作品論。「作」はその手の鑑賞や品評以前の生のママの存在自体を謂うのである。
幸田露伴には人品があり、作の多くは優れて作品に富んでいたが、今日推奨する『幻談』は文字通り「名品」ですとわたしは躊躇なくお奨めする。文豪としての生涯であった。国会が国葬を議したような作家は他になかったが、そういうことから言うのではない。作品の味わいを謂うのである。「文学」の「品」がここに在る。
2009 7・10 94
* いま手もとに、立教大学(名誉教授)平山城児さんに戴いた論文の抜き刷りがある。「国文学踏査」第二十一号、論題は『万葉調短歌と鴎外の「うた日記」』で、今年の三月刊。
鴎外の「うた日記」は知る人はよく知っていて有名だが、明治四十年九月春陽堂から出版された。日露戦争に従軍の時、勤務のヒマに束の間浮かんだ俳句や短歌や新体詩をメモして日記風に書き留めた。
わたしが平山さんの論文に強い感銘と共感を得たのは、直接鴎外の「うた日記」にではない、強いて謂えば平山さんが強調しておられるように、鴎外は日記の作をなしつづけながら、ついに片鱗も戦争讃美や戦意高揚をこととしていなかった真実に目をとめる。
是に対比して、平山さんは、近代の大作家、大詩人、大歌人達の何人もが「万葉調の字句言句を駆使し、どんなにトクトクと戦意高揚、戦争讃美の作をなしていたかの実例を苦々しく拾っておられる。
一例をあげておく、斎藤茂吉は、「何なれや心おごれる老大の耄碌国を撃ちてしやまむ」の類を戦時無数に歌っていた。『赤光』や『朝の蛍』で短歌開眼をさそってくれた敬愛する茂吉である、わたしは堅く眼をつむってこれらを茂吉の戦争短歌たちを無視してきた。
平山さんが近代現代で名前を挙げておられるのは、歌人の浅利良道、川田淳、佐佐木信綱、小説家の佐藤春夫も「皇国紀元二千六百年の賦」以降、「特別攻撃隊の頌」以下続々愛国讃歌を公表していた。
ついで平山さんは、詩人高村光太郎の名をあげ、具体的な作も挙げている。但しこう加えられている、「戦後、光太郎はみずからの戦争詩を悔いて、東北花巻の山林の中で七年間も隠栖した。そのことがせめてもの救いである」と。
その通りなのである、「せめても」それを「救い」と感じ、加えて「近代的自我意識を追求した、あの『道程』を書き、妻の死後、絶唱とまで慕われる『智恵子抄』を書いた高村光太郎であったがゆえに、わたしたちは、光太郎の「悔い」をあだかも「我々自身の悔い」としても受け容れ、いわばともに「戦争という魔」を憎んだのである。
* 「ペン電子文藝館」(阿刀田高館長、大原雄委員長)は、だが、こともあろうに「招待席」に掲載する『高村光太郎作品・抄』において、文字通り光太郎を戦争讃美・戦意高揚の詩人であると烙印を押したに異ならない、露骨な作品選で貧寒とした「抄」を強行公開してしまい、わたしがどう抗議しても改めようとしない。考えられない非情の強行としか云いようがない。
* 平山論文は詳細な議論であるが、一つの明快な結論は、鴎外は従軍の『うた日記』のなかで、巧みに万葉調の言辞・字句を駆使しながらも、ただ一作といえども戦争讃美や戦意高揚の作は為していないことへの称賛である。
* 新刊の「三田文学」夏季号に大久保房男さんが、「言論の自由について 戦前の文士と戦後の文士 2」を書かれていて昨夜全編音読、妻と大いに聴き、また大いに快笑した。
「文士とはいついかなる場合においても、言いたいことの言える立場に身を置こうとする人たちのことだとわかって来た」のが、大久保さんが「終戦から一年半」で「編集者になって(から)五、六年たった頃」だと、冒頭にある。
氏は戦前から仕事をしてきた文士たちともっぱら付き合われ、おいおいに「戦後の文士」たちとも応接された。
わたしは実は大久保さんとは不幸にして一度も仕事でふれ合えなかったが、いろいろお話をうかがうようになってからももう久しい。ことに此の上の「文士の定義」は、まさしく私自身がほぼ作家生涯の全部をかけて望んで遂げてきた「立場」そのままなのに大いに頷くのである。
いま「濯鱗清流」二冊を手にして多少でも読んで頂いた方は、それを納得して下さるだろう。
* だが、大久保さんは戦前戦後の作家を通じてそうだとは言われていない。それどころか戦後の作家達は「そうではない」と断言されているに近いのであり、わたしの見た限りでも、紳士のような戦後作家達は、むしろ大久保さんのいわゆる「言いたいこと言い」は非紳士的な非常識の所業であるぞと、言わず語らず振る舞っている人が断然多い。
2009 7・11 94
* わたしは、駄作であっても西洋の「歴史」映画は努めて観るようにしているが、それ以上に、反戦ないし戦争を批評的に描いた映画は必ず機会を逃さぬようにしている。それが努めであるかのように大事に観る。
似た感覚で、日本文学の反戦・反権力の作品を、いつも機会あれば心して読んでいる。それらの優れた作品に打たれるのを、つらい、くるしい、かなしい作であっても進んで受け容れている。荷風や鏡花や潤一郎を喜ぶのと変わりなく、だから例えば今日推奨する黒島傳治の小説なども、きっちり読む。読んで、良かったと印象に刻む。こういう作品に触れうることを「文学」のために喜ぶのである。
■ 渦巻ける鴉の群 黒島傳治 招待席 「e-文藝館=湖 (umi)」 小説室
くろしま でんじ 小説家 1898.12.12 – 1943.10.17 香川県小豆郡に生まれる。初期プロレタリア文学の最も才能豊かな新人の一人から、長編「武装せる市街」等でスケールの大きい反戦文学作家として藝術的に精彩を放った。昭和八年(1933)のシベリア出兵で病み、筆を断って郷里小豆島に帰り死去。 掲載作は、昭和三年(1928)二月「改造」に初出の黒島反戦代表作の優れた一つ。(秦 恒平)
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2009 7・12 94
* 朝いちばんに、座右の、また読み終えたばかりのエッケルマン『ゲーテとの対話』を開く。
☆ ゲェテは云つた、「世には秀れたる人でありながら、何事も即席に気軽にできないで、どんな題材でも静かに考へこまねばならぬ性質の人々がある。かういふ人々には往々辛抱しきれないことがある。欲しいと思ふものが彼等から即座に得難いからである。しかし、即座でのみ最も高尚なるものができあがる。」
また、軽率に作にとりかゝり、最後に型(マニイル)に堕す他の畫家(=作家)達の話をした。
「型は、」とゲェテは云つた、「始終まとまらうとして、仕事の楽しみが少しもない。しかし真に偉大なる才能の人は(型に甘えかからず、逃げ込まず、)仕事(=創意創作)に至高の幸福を感ずるものである。」「より凡才の人々に藝術はかういふ満足を与へない。彼等は仕事中たゞ仕上げ後の出来榮えだけを念頭に置いてゐる。こんな俗な目的と傾向とを持つてゐては偉大なるもののできる道理がない。」 一八二四・二・二十八 土曜
* すこしの言葉で、一見相反するような、しかも通底して厳格なことをゲーテは容赦なく語っている。偉大な仕事をと覚悟するなら、美術でも、文藝・文学でも、これは金言である。疑いなくわたしはそう思う。
* わたしが「e-文藝館=湖(umi)」でまた「ペン電子文藝館」でどんなことを理想としながら「仕事」をしてきたか、具体的な人と作品とを挙げ、開陳してきた。
これらの仕事で、云うまでもない、わたしは一銭の利も得ていない、むしろわたし自身の生活時間と体力とを惜しみなく注いできたし、今も「e-文藝館=湖 (umi)」に注いでいる。その日々は、わたしの「文学作法」そのもので、それもまたわたしの「創作の仕事」である。例示と推奨とを、一ヶ月余も続けてきた、もういいだろう。
いままた暫く、わたし自身のために、心新たにゲェテの言葉に、順序や連絡をあえて問うことなく、ただ深く聴いて過ごしたい。
2009 7・15 94
* ゲーテは、エッケルマンの目に、「自足して称讃と非難とに無関心でゐ」られる人であった。「一事を確実に処理できる人は、他のさまざまなこともできるものだ」と若いエッケルマンに語っている。「静かに勉強しておいでなさい。結局そこから定まつて最も確実な、最も純粋な、人生観と経験とが生ずるからです」とも手紙(一八二三・八・十四)をやって励ましている。まだ若いエツケルマンもゲェテのように詩に志していた。ゲェテは六十代になっていた。
☆ 大作をしないようにしたまへ。
優れた人々でも大作には苦しむ。最も豊かな才能を持ち、最も真摯な努力をする人々でもさうだ。私もそれで苦しみ、それが身にしみてゐる。
現在は現在としての権利を要求する。日々詩人(=創作者)に思想や感情を通じて迫つてくるものは必ず表現されんことを要求し、また表現されねばならない。しかし(安易に=)大作を目論んでゐると、それと一緒には何一つできない。その他一切の思想は排斥され、其の間生活そのもののゆとりがなくなつてしまふ。たゞ一つの大きい全体を心中にまとめ仕上げるのに、如何に多くの精神の努力と投資とが要るか。又それを流暢に適當に現はすには、如何なる力と、如何に静かなさまたげなき生活状態とが要るか。
もし全体に於て掴みそこねると一切の努力がむだになる。更にさういふ広大な対象となると、その材料の個々の部分によく精通してゐないかぎり、所々に傷ができ、結局非難される。かうしてその非常なな努力と献身とに対して称讃も喜びもうけず、何かにつけて詩人はたゞ不快と衰弱とを得るだけだ。
これに反して詩人が毎日現在(=いま・ここ)を掴み、提供されたもの、たゞ目前にあるものをいつも生新な気持ちで取扱つてゐると、いつもきまつて立派なものができる。よしたまに失敗しても、何の損にもならない。 (『ゲェテとの対話』一八二三・九・十八)
* 硬い姿勢や心情でこれを聴いては、また間違うだろう。これはあの『フアウスト』を何十年も掛けて完成し大成させた大詩人の慎重な老婆心であるとともに、「目前にあるものにいつも生新な気持ちで」直面し把握をつよくせよと教えている。把握が強く深ければ表現も強く深くなるとわたしはこの文庫本を買った高校生のむかしに教わった。何十年も掛けてそれを確かめてきた。
2009 7・16 94
☆ われわれ老人の言ふことをきく人があるか。誰も自分が一番よく知つてゐると考へてゐる。それで多くの人は失敗し、ために多くの人は目のさめるまで迷はねばならぬ。でももう迷つてゐる時ではない。
後から生まれてくる人は──それ以上のことをして貰はねばならぬ。──二度と(ムダに=)迷つたり探つたりしないで、老人の忠言を利用して、真直ぐ正道を行くべきだ。いつかは終局に達するといふやうな歩き方では駄目だ。その一歩一歩が終局であり、一歩が一歩としての価値をもたなくてはならない。 (『ゲェテとの対話』 一八二三・九・十八)
* 「鱗を清流に濯う」きもちで少年の昔からゲエテの言葉に耳を傾け聴いてきた。
また今夜から、新たに志賀直哉からも聴けるとよろこんでいる。
2009 7・17 94
* 暑さのせいか、心身のネジがほどけたよう。ホウッとしたまま、働かない。
☆ ゲェテに聴く (「対話」より)
世の中は廣く豊かであり、人世は複雑だ。詩(=文藝)をつくる動機がなくて困るやうなことはない。しかし詩はすべて機會詩(ゲレエゲンハイトゲティヒテ)でなくてはならぬ。つまり現実から詩の動機(モチイフ)と材料を得なくてはならぬ。特殊な事件も、(すぐれた=)詩人(=作家)が取扱ひさへすれば普遍的な詩的(=文学的)なものになる。私の詩はすべて機會詩であり、現実に暗示され、現実をきそとしてゐる。捏造した詩を私は尊敬しない。
現実には詩的な興味がないなどといつてはならぬ。なぜなら、聡明にして、平凡な対象から興味ある方面を引き出せる位才気ある点にこそ詩人の価値があるのではないか。現実からモチィフを、表現点を、真の髄を得なくてはむならぬ。そこから美しい活きた全体を造り上げるのが詩人の仕事だ。 (一八二三・九・十八)
* ゲーテのこれらの言葉が、はるかに若いエッケルマンに向けたものだとは知っていた方がいい。誠実で親切な老婆心がゲーテには明らかにみてとれる。そして概していえば、だからこそそれらはみな、わたしのような若い後輩にとって有益であった。「現実」に根をもたぬ放恣な空想の陥りやすい軽薄をわたしは避けた。
2009 7・18 94
* この世界で、というのは、ま、マスコミ・マスセール(わたしの場合は徹底したミニコミ・ミニセールだが。)で生きている場合、よほど自己批評つよく己の分限を察知し承知して腹をくくっていないと、ふわふわと紙屑のように浮かばされてしまい、じつは誰も真に親身になど自分の存在価値を守っていてくれるものでないことを浮かれて忘れてしまう。そして虚名の泡・あぶくばかりをかきあつめ、「俺もひとかど」などと錯覚してしまう。
そんな際にも非情に作用しているのは、只「過ぎゆく時間」であり、時間をうかうか空費していることになかなか気が付けない。気が付いたときは取り返し付かず時機後れになっていたりする。そうしてあたらこの世界から脱落している。
自分に何ができるかも大事、だが、もっと大事なのは、自分はほんとうに何がしたいかがキッと見えて、どういう姿勢や態度でそれがしたいか、信念を持つこと。
如才ない世渡り上手にこの世界をどう泳いでいるつもりでも、いったいどこへ泳ぎ着けるのか、所詮はその体力や世間智以上に、能力が、底力が鍛えられていなければ、おはなしにならない。難破のおそれのあるときは船のキャパシティ自体をすばやく計測し自測してムダを捨てて進路を確保し確認しなければ、嵐の中で舵をでたらめに幾つももってどれを操舵していいのかパニックに陥るようなものだ。船の安定を最低限度守るに足る底荷が積めていなければ、ただもう笹舟のようなもの、洒落にもならない。
若いうちに「現実」にしっかり目も足もつけ、静かに勉強を積んでおくようにとゲェテが真剣に忠告しているのは、それ。
* 阿川さんの『志賀直哉』で、いきなり傾聴せずにおれぬ直哉の信念があらわれる。
わたしがよく云う、文学は「絵画」であるよりも本来「音楽」である、「文学」と表記するより音楽同様に「文楽(ぶんがく)」とあってよかったのだという想いと、つよく共振してくる。
晩年の志賀夫婦がいつもかかっていた整体指圧の先生で白井栄子という人がいた。「生涯一切の迷信を拒否し、医学も、頼るなら近代西洋医学に頼らうとする傾向の強かつた志賀直哉が、此の女性整体師には大変親しみを持ち、腕を信頼してゐた」が、ある日この人に、文章にうるさい小説の神様直哉が、「指圧の方で一人前になるにはどんな勉強をするのですか」と聞くと、「色んなことを勉強しますよ。プロになるまで、真面目にやつて十年かかります。それでも、人の身体のリズムといふものは中々つかめません。操法の技術も行きつくところ、一人々々の身体のリズムをきちんとつかめるやうにならなくては駄目なんです」
直哉の様子に「納得」のていが見えた、「さうネ、人の書いた文章なんか読んでみても、上手に出来てるといふだけでリズムの感じられないものはつまんないですからね」と。
阿川さんは書いている、直哉は「だから、ちやんとしたリズムを持つ作品なら、自分には読んですぐ分ると言ひたげであつた」と。
直哉流の藝術論としてかつて批評家にしばしば取り上げられたものに、昭和初期の短い随筆『リズム』があると阿川さんは引用している。
直哉いわく、「藝術上で内容とか形式とかいふ事がよく論ぜられるが、その響いて来るものはそんな悠長なものではない。そんなものを超絶したものだ。自分はリズムだと思ふ。響くといふ連想でいふわけではないがリズムだと思ふ。此リズムが弱いものは幾ら『うまく』出来てゐても、幾ら偉らさうな内容を持つたものでも、本当のものでないから下らない。小説など読後の感じではつきり分る。作者の仕事をしてゐる時の精神のリズムの強弱──間題はそれだけだ」と。
* 「文体」という理解されにくいことばの真相を、直哉はまっすぐ貫いている。文学のかくあるべき真相であり、内容の形式の、また純の通俗のといった議論を直哉は犀利に突貫している。
2009 7・19 94
☆ ゲェテに聴く (エッケルマンとの対話から)
精神と、詩的なところとは近代の悲劇詩人達にもあるが、多くは流暢に生々と描写する力がない。彼等は力以上のことをしようと努めている。私はこの点で彼等を「やり過ぎの才能」と呼びたい。(一八二三・十・二十五)
2009 7・20 94
* 歌舞伎座で終日過ごす。
お目当ては昼も夜も、鏡花劇の『海神別荘』と『天守物語』で、昼のもう一つの『五重塔』は、期待していなかった、露伴原作はいいが宇野信夫脚本というのはかつて満足したタメシがない。やすい人情劇に創ってあるだけ。案の定、今日も同じく。
獅童の源太が意外によかったし、春猿の十兵衛女房お浪もわるくなかったが、勘太郎には気の毒な半端な役。半端といえば贔屓の吉弥の源太女房お吉。これは台本の書き手がわるく、なんとも意味不明。四幕もあってのんべんだらりん。役者たちの罪ではない、脚本がお手軽すぎたのである。
ま、これは、どうでもよかった。
幕間が四十五分というので、それならと「吉兆」にとびこんだ。先客がたった二組。こんな流行ってない吉兆ははじめてで、献立も珍しく今日はすこぶる低調。
* 昼の本命は、もとより海老蔵と玉三郎との『海神別荘』で。玉三郎が演じ始めて三度目。九年前のも、去年のも、観てきた。三度とも玉三郎と新之介=海老蔵。一度目の衝撃的な出来映えは、ちょうど「湖の本」の百冊目に「感激」を書いている。
去年はやす香のことのあったさなかで、舞台を観ていながら五体は氷のように冷えていた。辛かった。それでも鏡花だから、酔った。酔えた。今年は悠々と観られた。
海老蔵公子の「語り」に工夫があっておもしろいと聴いた。
猿弥の沖の僧都は、悠々と遣った。じつはそれがため鏡花科白の特異な味を、普通の科白にソツなく置き換えた感じになった。
門之助の博士には同情。笑三郎の女房はしゃんとしていた。侍女連中に美形が何人も加わっていて、みな楽しそうにこまかに芝居をしていたのが妙に嬉しかった。
玉三郎演じる海神別荘の美女は、根が好感の持ちにくい「人間の女」なので、これはひたすら役者玉三郎の美しさ科白のうまさに酔っていた。
* 去年は『夜叉が池』と『山吹』とを加え、昼夜四本の鏡花劇だったのを、今夏は二本に絞った。幾らか惜しく幾らか当然。『海神別荘』と『天守物語』は、最も痛切で深切な鏡花のモチーフじつにを立派に藝術的に示している。言い替えれば、わたしの文学に賭けてきたいちばん大きな主題と深く重なっている。すなわち水神、蛇、そしてある種人間への徹底した侮蔑と敵意との表現。
藝術的にはことに『天守物語』は完璧な作劇で、もう何度観てきたか知れないのに、いささかも飽きない。図書之助役は、孝夫、信二郎、宍戸改、新之介、海老蔵などそれぞれに能く演じたし、この芝居での玉三郎は何度観ても完璧・完全無欠。
ことに今夜は、おさえの近江之丞桃六役を我當君が気張ってくれた。弥栄中学での友人の團彦太郎とも劇場の中で久しぶり再会できたのも大きなおまけだった。
歌舞伎座ではめずらしい、『海神別荘』でも『天守物語』でもカーテンコールが二度も。痛いほど手を拍ってきた。
2009 7・21 94
* 随筆を書くのがいちばん難しい。作文ではない。知識の披瀝でもない。批評の発露でもない。生きている実感の具象化だろうといえば、つまりは志賀直哉に限りなくちかい感じになる。
渡辺さんはいまや八十六、七歳。わたしはときどき瀧井孝作先生の生を彫るような境涯を、このやさしいおばあさんの筆致に感じることがある。
2009 7・22 94
* 「志賀直哉は文学でも美術の方でも、「研究」をあまり好まなかった。博物館や展覧会の会場へ入つて作品を前にすると、説明は一切読まず、いきなりその物に見入つてしまふ。」
阿川弘之さんはそう書いておられる。さもあろうと手を拍った。
作品と解説とを同時に読んだり、イヤホンガイドを聞きながら繪を観たり芝居を観たりする人が多いが、そういうことはしない。直哉の姿勢に近い。
庭園を観ても仏像を観ても料理を食べても、なべてその場で「説明」されるのがハッキリ言ってわたしは嫌い。断るか、いったん遠のく。自分でソレそのモノに真向かいたい。
気をつけたいのは、親しい人といっしょの時、その人が初心であればあるほど、自分からつい「説明」したり「感想」を語りかけたりし過ぎないことで。手引きというが、まずはその前へ誘うだけで足りている。
* 芝居や繪の感想もわたしは、はなはだ大まかに済ますように、むしろ努めている。芝居なら役者の評判だけで成るべく済まそうとするし。おおまかでいいと思っている。どうせ半端な知識をこねまわしてひとかど専門家のようなリクツを立てたがるのはヤボもいいとこ。
志賀直哉が奈良に住んでいた頃、仏教美術研究会のグループと一緒に兵庫県甲山の如意輪観音を見に行って、馬鹿馬鹿しい思いをさせられたことを書いた随筆がある。阿川さんも引いておられる。
「仏像を厨子から出して貰ふと、皆はそれでも五六分は静かに眺めてゐたが、それからは観音様を逆様にして懐中電灯で腹の内側を調べたり、巻き尺を出して肩からひぢまで、ひぢから手首まで、寸法を計つてノートにつけるやら、まるで洋服でも拵へるやうな騒ぎで、私はさういふ連中との美術行脚は一遍で懲て了つた。」(美術の鑑賞について)
* 研究者には相応の理由がある、が、直哉の気持ちにわたしは近くて、そういう穿鑿の人たちと行を倶にしたくない。「つや消し」なのである。向き合う嬉しさが失せるのである。美しく良き物にわたしは、直哉もそうだったに違いない、知識を求めていないのである。
* その一方わたしは、皆既日食にもとくべつ関心がない。珍しい出逢いとは分かるが、そうなるリクツは分かっていて、神秘とまでは驚かない。
2009 7・23 94
☆ お元気ですか、風。
花は、濫読をはじめています。
あまり読みつけていない作家を、文学全集で借りてきて。濫読の経験がない、と、指摘されたからです。風の一言は、花にとっても影響するのです。
濫読とは言いましても、これまでいくらか読んできて、問題意識があるにはあるので、まったく見当もなく手あたり次第、というわけではないのですけれど。今のところ、尾崎紅葉、二葉亭四迷、牧野信一、嘉村磯多、北条民雄を読みました。
紅葉の『多情多恨』は、あまりおもしろい小説とは思えませんでした。
嘉村磯多、北条民雄には感心しました。
特に、北条民雄は、『いのちの初夜』以外もいくつか読みましたが、ハンセン病文学というにとどまらない、完成された高次の文学だと思いました。
さっき、知人に桃をいただきました。早速冷蔵しています。ではでは。
* 『多情多恨』は奇態に奇妙な妙な小説で、紅葉の意気込みだけはよく分かるものだが。いまわたしは、里見とんの『多情仏心』を読んでいるけれど、これも奇妙に妙なものである。むかし初めて読んだときわたしは、ま、子供だった。だから背伸びもして面白く読んだが、いま読むとなんだか気取り放題で、あほらしい。
二葉亭四迷は、文学史の貴重な資料になっている、今では。
嘉村礒多は凄い。読める限りは読んでおいていいものだと思う。牧野信一の私小説よりもさらに先へ行っていて、然り、凄い。
北条民雄の『いのちの初夜』を「e-文藝館=湖(umi)」のためにスキャンして校正していたときの凄みを忘れられない。
* 乱読の効果は、その人の年齢と関係するだろうが、一つには「選別していない」ための「価値の相対化」。つまりは鏡花もすばらしいが秋声もすばらしいと「分かる」こと。
わたしは本を選り好みして手にする、読む、ということができなかった。機会さえ有れば立ち読みであれ借りてであれ、誰のであれ彼のであれ、「いま・ここ」で読んでしまわねばミス・チャンスする、そんな出逢い方をして「本」に馴染んだ。谷崎愛や源氏好きにはなったけれど、谷崎に劣らず志賀直哉も尊敬した。三島も読んだが瀧井孝作も読んだ。それであればこそ、「e-文藝館=湖(umi)」も「ペン電子文藝館」も大きく立ち上げられたのである。
文学が好きなのであり、偏愛はしなかった。偏愛を誇っている人の「読み」ぢからを、わたしはあまり信用しないのである。
2009 7・23 94
☆ ゲェテに聴く (「対話」より)
君は今の立場を切り抜けて、必然的に藝術の眞に高尚な、困難な地点に到達しなければならぬ。君には才能もある。進歩もした。今こそさうしなくてはならぬ。
いづれにせよ骨を惜しまず、よく研究して書き給へ。
むづかしいのはよくわかつてゐる。けれども特殊なるものを把握し描写するのが藝術の眞の生命である。
特殊なものは模倣できない。他人は経験しないからだ。又、特殊なものは他人の興味をひくまいと心配する必要はない。一切の性格には、よしどんなに特殊な物でも、又石ころから人間に至るまで一切の描写されるものには普遍性がある。なぜなら萬物は繰返され、たゞ一度しかないやうなものは、この世に一つもないからだ。
個性の描写をするやうになつて、始めて所謂独自な文体 (Komposition)ができる。 (一八二三・十・二九)
* 類型を説明的に利用していては、ただの読み物になる。講釈に過ぎない。そんなものが、いかに多いか。
2009 7・24 94
* エッケルマンは、ある日ゲェテに向かい、自分が、観念的な理論的な傾向からだんだん脱して「刹那の境地」を貴ぶようになってきたと述懐した。
ゲェテはこれに応えている、「さうでなかつたら、困る。それを固守し(=大事にし)、たえず(=いつも)刹那(=いま・ここ)に即してゐ給へ。如何なる境地も、さうだ如何なる刹那(=いま・ここ)も無限の価値がある、その一つ一つが永遠の表はれであるから」と。 (一八二三・十一・三)
* ゲェテはそういう人であった。地に着いた「いま・ここ」に深く的確に着目し発想し、その結果として『フアウスト』のような巨大な世界と世界観とをみごと構築した。
2009 7・25 94
* 漱石という人は、『行人』を書いて一度狂い『こころ』を書いて一度死んだと誰かが言っていた。もう昔々にそう読んだことがある。
『こころ』はもとより、わたしは『行人』という長編がかなり好きだった。どう好きだったか適切に思い出せないが、今の今読み返していて、最後の旅に出ているところでの一郎の苦痛が身につまされ、身にしみてよく分かる気がして、読んでいてわたしまで苦しくなる。夫人の『思ひ出』も読んだし伸六さんの『父、漱石』も読んだ。最近に読んだ。『道草』も最近読んだ。『明暗』も最近読んだ。昔には『漱石の病跡』という精神科医の研究書も読んでいる。
漱石の狂気は少しも事新しい知識ではなく、むしろ、漱石その人が自身の病識をしっかり把持したまま「病気の自分」とたたかかい続ける確かさ、つよさ、聡明さにわたしは打たれるのである。
『行人』の一郎の苦悶し友人Hさんに告白している多くが、なんとなしわたしにも分かる。そして堪らない。この二三日不快なこともあり、自身の鬱気が重荷に感じられているときだけに、一郎の告白、Hさんの観察、それが「ともに漱石自身の筆になっている事実」に揺すぶられるのである。そして、漱石への親愛と敬意とがいよいよ増す。
2009 7・26 94
* 若いエッケルマンは、ある日(一八二三・十一・十四)、大ゲェテの盟友たりしあのシラーに対し「奇妙な気がします」と異存を唱えている。「読んでゐるうちに自然の真実性と矛盾した所にぶちあたり、それからさきが読めなくなります。 『ワルレンシュタイン』のような作ですら シルレルの哲学的傾向がその詩を損ねてゐると考へざるを得ません。理念の方が一切の自然よりも高尚なりと考へるまでに、それどころかそのために自然を破壊するまでになつてゐます」と。
ゲェテは云つた、「あれほど非凡な才能の人が、役にも立たない哲学的な思考方法に煩はされてゐたのを見ると気の毒だ」と。「無意識に、いはば本能的に、作してゆくのはシルレルのやりかたでなかつた。彼は為すことを一々反省せざるを得なかつた。彼が作詩のの計画について無暗と人に話さずにゐられなかつたのもそのためだ。 私は萬事一人静かに胸中に抱いてゐた。大抵できあがるまでは誰一人も気づかなかつた」と。
* 金澤の画伯は、描くよりも、何百倍も哲学して反省に反省する。考え込む。わたし自身は、どうかしてそうならないようにと願う。
2009 7。30 94
☆ 風 花
お元気ですか、風。今日は久々の晴れときどき曇り(曇りときどき晴れかも)です。
ピーカンとはいきませんが、長雨だったので、窓を開け放って空気の入れ替えをしています。
障子の敷居の隅っこに、黴を発見し、慌てて拭きました。去年はこんなことなかったのだけれど。
九州山口の豪雨被害を見てビビッていました、とにかく、ずっと雨で、家の周りも、去年とは比べ物にならないくらいのミドリん苔が発生してます。
風のお怪我、いかが。ご無理はなさらないでくださいね。ではでは、風。
お元気で。
* 「ピーカン」というのは目にするが、正確には分からない。「ビビる」というのもわたしは先ず用いない。昨日画伯の手紙に、「生きよう」と書いて「生き様」の意味だけれど「イキザマ」は嫌いとあった。日頃わたしもそう考えていて、同感した。
「凄い」「すごい」の濫用も、イヤ。
* 午後いっぱい、書き仕事。書き仕事のことは、当然、此処には書かない。
2009 7・31 94
☆ ゲェテに聴く 「人が莫大な金を一枚のカルタに賭けるやうに、私は現在(=いま・ここ)に賭け、誇張なしに、できるだけ現在(=いま・ここ)の価値を高めようとした。」 (一八二三・十一・十六)
2009 8・3 95
* 「独創的な努力は長所ではある、が、ともすると有為の青年を脱線させるものだ」とゲェテは或る才能を評していた。「趣味を精練してすぐれた手本にもきちんと学ぶか」が今後を占う、と。(一八二三・十二・一)
2009 8・4 95
* 乗り越えたい仕事の大山を一つ越えた。どんな批評や批判が有ろうとも、わたしの乗り越えて行く山だ。
わたしは、かつて人の「子」だった。いまは人の「父」だ。晩年へ来て、「父」である証しの仕事を次々積むなど予想していなかったが、不幸とは思わない、命冥利と考える。作家冥利という意味である。
2009 8・7 95
* 本を買って読む人は、出版社にも関心がある。贔屓の出版社もあるだろう。またこの著名な大出版社はどういう素性から発足しているのだろうと創業精神に関心を寄せている人もある筈。「e-文藝館=湖(umi)」は、むろんそういう関心にもきちんと応えているつもりです。
* 「e-文藝館=湖(umi)」を見習いいわば新たな出城のようにわたしが提案して創ったのが「ペン電子文藝館」であるが、「ペン電子文藝館」の建前はもともと「日本ペンクラブ」の「会員作品」から成り立つ建前で成立させた。 だが、創立と運営委員長また館長を務めたわたしは、会員作品だけでは到底「質的レベル」が保てないとはなから見抜いていた。
それで、開館時にはせめて「歴代会長作品」を先ず揃えることで「質」の物差しを真っ先に突きつけようと心に決め、島崎藤村、正宗白鳥、志賀直哉、川端康成、芹沢光治良、中村光夫といった錚々たる顔ぶれ、以降井上靖や遠藤周作や大岡信や現会長梅原猛にいたる会長の作品が揃わない限り「開館しない」と厳に覚悟し、実行した。
そういう体勢がきまると、今度は会員は「おそれをなし」てそうは出稿してこないはずだと読んだ。それを利し、すかさず谷崎潤一郎や横光利一や与謝野晶子など「物故会員」の作品を入れると決め、ウムを言わせず実行して行き、そうなると、自作に自信のない現会員は、現理事達ですら、ますます様子を見てどうっとはとても作品を出してこない。
わたしは、それを最初から予測し、むしろ願っていた。事実、そんな按配だった。
わたしは、次には、日本ペンクラブと会員関係の無かった作家達、つまりは「幕末以来日本の近代文学史を担ってきた多くの文豪や大詩人達の優秀作や問題作や記念作を」どんどん「招待席」に取り込んでいった。
委員会には二十数人も委員がいたが、委員からそういう推薦作品が出てくることはめったに無く、ながいあいだゼロに近かったので、わたしはひたすら「招待席」「物故作家」の「作の充実」に昼夜の別なく、盆も正月もなく没頭し、委員にはただ入稿掲載直前の単なる「常識校正」だけを委託した。
たちまちに、数百にのぼる充実した大読書室が仕上がって行き、新井満理事のように「すばらしい植林ですね」と敬意を表して呉れる人も理事会に出来てきた。
こうなると、そろそろ、それほどの文豪や批評家や大詩人達の中へ自作を出してみたい「現会員」も出てくる。それが、わたしの、今は躊躇いなく謂うが「独断専行」の「策」であった。
* すべてそれは、わたしが自分の「e-文藝館=湖(umi)」のためにしていたことの、「ペン電子文藝館」への自然波及であったこと、云うまでもない。
そして新たな創意工夫としてわたしは、
「反戦・反核」特別室、
「出版・編集」特別室、さらに
「主権在民」特別室
を提案、即実現してすべて軌道に乗せ、委員会内にグループをつくって、特別室に掲載すべき人と作品とを提案させた。それに応じられる、例えば「出版編集経験のある委員」は、わたしの書き下ろし谷崎論を担当して出版してくれた元六興出版の城塚朋和氏や医学書院を定年で出てきた昔の部下の向山肇夫君や、また中川五郎氏らがいて好都合に働いてもらえた。
そんなわけで、「ペン電子文藝館」にも「e-文藝館=湖(umi)」にも、岩波書店、講談社、新潮社、平凡社、中央公論社、改造社、第一書房、淡交社、婦人の友社等々の創業者や著名編集者らの「自分史のスケッチ」「人と思想」が存分に取り上げられている。
しかもすばらしく読ませる興味深い記事が揃っていて、真実感銘を受け敬服する文章も、それほどでないのも、並んでいる。
「出版や編集」が無くては「文学」は流布しない。それだけに彼等のまさに「人間の質」が影響してくる。
* ぜひ「e-文藝館=湖(umi)」の「自伝」や「人と思想」の部屋で、そういう先覚たちの足跡に触れてみて欲しい。
* ゲーテほどの人でも「わが七十五年間を通じて眞に楽しかつたのはもののひと月となかつたと言つてもいいだらう。繰返し繰返し上へ押し上げようとして一つの岩をたえず転がしてゐたやうなもの」とシジフォスのように歎いている。「人が一度世間のためになるやうなことをすると、世間の人は手出しをして二度とさうさせまいとすするものだ」とも愚痴っている。(一八二四・一・二七)
2009 8・8 95
* 小沢昭一さんの『道楽三昧』を読み終えた。
☆ 七〇の声を聞いた頃から、やっぱり間もなく死ぬんだということをひしひしと考えるようになりました。七〇というのは、体のおとろえがはっきりしてきますね。男の平均寿命が七〇半ば過ぎぐらいですから、それももう過ぎたあとのわが人生、どうやって過ごしたらいいのかなと真剣に思いめぐらしたんです。
もうこの歳になって、一所懸命に仕事なんかやったって、ばかばかしいや、人生を楽しもぅじゃないか、ということに、だんだんなってきました。身も心も忘れて楽しめるようなものがないと、俺もかわいそうだなと、思ったわけです。
ちょうど、そう思っていた頃に、私と仲の良い友達で、博才豊かな男が、手ほどきをしてくれましたので、ちょっと競馬をやってみたんです。いや、これが面白くて、面白くて、 (小沢昭一『道楽三昧』より)
* 似た思いはあったけれど、わたしは小沢さんのようではなかった、今の気持ちもちがっていて、要するに「仕事」を「仕事」としてむやみと頑張ってきたのを、「仕事」のまま「仕事」を楽しもうとわたしは切り替えたように思う。そのためにその周辺の心やりも、そのまま楽しもう、と。
私の場合「仕事」とは、直哉の物言いと同じ「文学・文藝」以外のなにものでもない。文学が楽しめるなら、そのための喰いも呑みも歩きも読みも楽しむ。人ともつきあう。極端にいえば、人も憎み、政治も嫌う。
2009 8・9 95
* 寄稿されていた「評論」原稿をおもしろく、いま読み終えた。論旨は適切に理解できる。その後の問題は評論し批評する筆者の文体・文章が文藝の魅力を持っているかどうか、だ。「文章」「筆致」が文藝の魅力と深みをもつこと、すると論旨はさらに説得力と魅力を得る。
評論もまた文藝作。優れた批評家は作家以上に紛れない立派な文体で説得した。この肝心の所が近年、いやもう久しくこの世界で忘れ去られているのは残念。
2009 8・10 95
* 清水英夫さんの『表現の自由と第三者機関』を、先ず妻が詳細に読んで参看箇所をチェックしてくれた。次いでわたしが読んでいる。清水さんの大きな願いは「公権力の干渉」から「メディアを守る」ところにも有る。ペンの言論表現委員会でもわたしたちは多くそれを憂え警戒し、そのためにも言論表現の自由と責任について討議を尽くしていた。
清水さんは「透明性と説明責任のために」も第三者機関の公正な判断が必要と説いてこられた。なかなか第三者機関とまで行かないなら、わたしは例えば広い意味でのウエブやインターネットの「読者」に期待してきた。これは極めて微妙であるけれど、わたしは今やそういう「時代」であろうと観ている。
* パソコンやインターネットが「イノベーション(だれもが容易に思いつけなかった革新的な初めてや制度改革のこと)」であることは否定できない。イノベーションを起こせる人間は少ない、千人に三人という説もあるが、巨大なイノベーションは十万百万に一人の天才や剛力が創り出す。そして数えきれぬ大勢がそれに追随してあたりまえのように、真新しい、従来とは一見「別時代」を成し上げてゆく。
その観点からすると、最も時代後れに迂闊で魯鈍な体勢を引きずり歩くのが「法」である。「名誉毀損」がらみに譬えて謂えば、こんなに数量的に広範囲に世間に関与していながら、質的に不出来なまま、ユーザーの権利と自在とを拘束して時代後れなのは、サーバーによるウエブ表現規制の見当違いなお粗末さ加減である。
* これについては徹底的に別に書く。
2009 8・10 95
* 明け方五時過ぎに地震を感じて身を起こした。豪雨と地震と台風と。日本列島は、厳しくなにかしら追糾されている。
* せめぎあうようにいろんな思いが「いま・ここ」で錯綜し、バラつくことなく一つに固まりながら膨れている。どの要素も成分もわたしとしては「いま・ここ」のもの、おろそかに出来ない。
* しばらくは、自分自身とストラッグルの、ややこしい日々がつづくだろう。一つには月末の選挙を、息を詰め待っている。ま、ガマンの日がつづく。
* 颱風は逸れていったが雨の被害は尋常でなく、そのうえの地震がひどかった。
気勢を殺がれたように今日は、いま一つ心ゆかぬまま一日が過ぎて行く。明日は歯医者。
2009 8・11 95
* きのう坂本忠雄さんに頂いた本のどこかで、たしか小林秀雄だったと思う、この人のゲラ訂正の多くは、殆どは、「語尾」の直しだったと。
目の覚める思いがした。
じつは、わたしも、たとえば「濯鱗清流」を校正しているあいだ、もっぱら文章の文末、語尾に意識を集中していた。いつからだろう、この数年だろうと思うが、語尾を大切にするようになっいる。それが、直哉のいう「リズム」とも関係する。そう思う。
2009 8・13 95
* 「私小説」についてずうっと考えていた一日だった。
より深くいえば「二十一世紀の私小説」とはと考えていた。
二十世紀の書き手にまだひ弱く、新世紀の書き手に避けがたい時代環境はコンピュータになるだろう、もっと間近にはインターネットという場と文学とがはるかに密接になるはず。そこで具体的に切実で厄介な主題になるのは何だろう。
「名誉毀損」
これがわたしの追求し考察し表現すべき「仕事」の大きな一つになるだろう。
2009 8・14 95
* 久しいお付き合いの宮下襄さんから、すばらしい力作「藤村研究のためのノート」が届いた。宮下さんの藤村研究はいまいまのものでない、腰を据えての多年の研鑽で。今回のものはしかも意欲ゆたかに『テーヌ管見 私の「英国文学史」』であり、大冊の単行本ほどの量がある。読んで行くのもたいへんだが、これほどの力作をわたしの細腕でいったい、どう励ませるかと思う。このままにしておく手はあるまい。ウーン。藤村学会がどう受け容れて力になってくれるか。昔なら藤村とはゆかりの筑摩書房編集者の胸をたたくところだが、いまは絶縁に近く、編集者を一人も知らない。
ま、読むのが先、と。
2009 8・14 95
☆ おはようございます、風。 花
休日は、早朝から、どこかで空砲だか花火だかの発射音が断続し、安眠を妨害されるのがいつもです。
河川敷あたりで行事のあるのを知らせているのかしらん。よく知りませんが、結構迷惑です。
お元気ですか、風。
「愛を読むひと」は、観るのを楽しみにしている映画です。北海道の方の感想を読みたいのですが、映画を観てからにしたいです。
今年の米アカデミー賞候補は、社会派力作映画が並び、いずれも観てみたいと思わせるものでした。こんなことは、久方ぶり。
「フロスト×ニクソン」は、イギリスBBCで放送されたデイビッド・フロストによる、ウォーターゲート事件後のニクソンへの息づまるインタビューを映画化したものだそうで、さすがはアーギュメントの国イギリス、と、まだ観ていないのに感心しましたし、
「ミルク」は、アメリカで初めて同性愛者であることを公表して選挙に立候補した実在の権利活動家の映画だそうで、アメリカでのキリスト教原理主義などによる同性愛差別の根強さを想うと、マイノリティのため命懸けのたたかいに身を投じた人の崇高さが描かれているのだろうな、と観たくなります。
作品賞を受賞したのは「スラムドッグ$ミリオネア」でした。インドのスラム街を描いた映画だそうで、監督はダニー・ボイルですもの、観るしかありません。
今年は、ノミネート発表前に日本公開されていたのは、ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット主演の「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」だけで、ひと頃の、大作はほとんど「日米同時公開」時代は、終わったのかなあ、と思いました。ハリウッド映画ならヒット必至ではなくなり、日本に配給することに慎重になっているのかな。
でも、今年のノミネートを見る限り、力作揃いです。アジアをはじめとする外国映画のリメイクに安易に走り、創造力低下を指摘されていた昨今のハリウッドですが、復活に向け、底力を見せ始めたのかな、と思いました。
ウーン、このパソコン部屋が暑くなってきました。
アイスコーヒーで、とっておきチーズケーキの残り半分をいただこうかな。
今は国木田独歩を読みながら、ああでもないこうでもないと考え、七転八倒していますよ。
花はこんなに元気です。ではでは。
* 国木田独歩に関しては福田恆存の、たしか文庫本解説の数冊分が出色の説得力でした。独歩は、他のなみなみの自然主義者たちと単純に並べては考えられない、或る型外れの作家で。作家以前の経歴も大切です「欺かざるの記」のような日記の、或る意味堪らなさも消化し認識しておく必要がある。
臼井吉見の『安曇野』(ちくま文庫五巻)という超大作を二度目読んでいますが、新宿中村屋の創始者で主人公のひとりの相馬黒光女史は、独歩恋人の従姉妹にあたり、図抜けた知性・感性の人で。気の烈しい、「女性」大事のこの黒光さんは独歩に対し厳しい。けれど、独歩は当時の新知識人、若い知性たちをすばらしく新鮮に刺戟していた人です。
ま、いまの時節、そもそも独歩読者はかなり払底していて惜しいけれども。私小説という観点からも課題をたっぷり孕んでいます。
本代、しっかり蓄えていますか。批評には、基盤になる蔵書がどうしても必要になります。何を買い、何は図書館でまかなうかの批評眼も大切。辞書や事典も殊に大事。勉強の裾野をかっちりひろく固めることが独創の沃野となります。その点さきの「安曇野」など、たいへん適切な日本の近代史物語でもあり貴重なんです。
2009 8・16 95
* 手近に新書版の雑誌「myb」があり、中に武藤康史という人が「懐妊」という言葉は自分の身内になど使わない、本来「上つ方」への尊敬語だといい、中野翠という人の「妻の懐妊?!」という一文を応援に引いている。
中野さんは、或る芥川賞作品に、「妻の懐妊」という字句を見つけ「わが目を疑った」という。
では「妊娠」はどうか。「妊娠」ならわれわれ「下々」でもいいという口ぶりだが、皇室縁辺の類似の報道で、「ご妊娠」は昔からちっとも珍しくない。あるいは、「懐妊された」はなくて、「ご懐妊」と有る。「上つ方」にはつまり「ご妊娠」「ご懐妊」と使われ、「下々」でも「懐妊」「妊娠」は誤用でなく使われている、志賀直哉も使っている。三島の作でも読んでいる、谷崎でも平然用いているだろう。わたしも作品や記録や年譜で文章中に「懐妊」と用いた記憶がある。「懐妊」は口頭の会話語彙ではない、口にするなら「妊娠」がふつうだが、文章語として「懐妊」は、ふつうに誰が用いてもけっしてさほど異例でも誤用でもない。「上つ方」には「懐妊」「妊娠」でなく、つまり「ご懐妊」と謂った「ご妊娠」と謂ったに過ぎない。
「珠を懐く」という表現がある。懐妊は「珠」に限るが、「下々」は珠など生まないだろうなどといえば、少なからずコッケイである。懐にも妊にも、とくべつ尊敬の字義はない。口で謂うときは「妊娠」がふつう、文にするときはすこし改まった気分なら「懐妊」ともする。それだけのこと。「懐妊」「ご懐妊」ともに、やはり文章の中におさまりやすいという、それだけのことだ。
そんなのより、「すごい」の濫用を窘めて下さい。
「すごい」とは、手近な辞典も、恐ろしい、気味が悪い、すさまじい、ぞっとする、物寂しい、程度が甚だしい、ひどいと教えている。一部に、「恐ろしいほど」すぐれている、神懸かりに音楽の技などすばらしい意味を汲んでいる。
2009 8・19 95
* 司会のみのもんた氏が、「規制」という言葉を用いて、ブログの書き込み等を非難していた。相当いろいろ書かれているらしい。
一つにはあれだけ悪罵もふくめて毒のある言葉遣いを「売り」にしている「公人」であり、無理からぬ半面がある。視聴者も「公人」を批評する権利は持っている。マスコミに乗った「公人」は権力者でもある。権力は批判される。それが人の世のバランスというもの。書かれたくなければ、自分のブログにそういう窓口を設けねば済むこと。いい評判は聴きたいがイヤな非難は読みたくない、というほど甘くはない世間が広い。「某チャンネル」など、超然として見なければ済む話。
* 但し、彼・みのもんた氏は、こう言いかえす「私権」なら持っている、「匿名で言うな、書くな。文責を署名で明かして言え。書け。必要なら議論するよ」と。
もとよりこの国には、上古来、童謡(わざおぎ)や落首という「匿名抗議の伝統」がある。
それにしても、インターネットのいわば「公言」時代の言説には、まともな批判や批評であればあるほど、少なくも「匿名」の卑怯を排した「文責明示のルール」が立って良いのではないか、と、それなら、みのもんた氏もハッキリ言ってくれたほうが良い。
テレビのあのような場所に立って、感情のたかぶりで「規制」要望を口にするなど、キャスターとしての資格や識見が疑われる。言論表現の自由や、思想表現の自由を率先守らねばならぬ立場のジャーナリストが、「お上」「公権力」の「規制や取り締まり」を要望するなど、なにを考えているのか。
* わたしは見たことも見ようも知らないが、「某チャンネル」の匿名悪罵のふうはすさまじい、「凄いモノ」と聞かされたことはある。公衆便所の落書きのようと何度も昔から聞いている。そう分かっていて「わざわざ見る方が人間が弱いよ」とそんな愚痴を嗤っているが、改めて言うなら、このインターネット時代にそんなチャンネルやブログに忌憚ない声や言葉が往来し氾濫するのは、いかなる「規制」によっても留められない、まさしく「人の口に戸は立てられない」時代に、もうとうの昔から入っているということ。
だからこそ、ユーザーの自覚と良心とで、最低限度、書き込みは「文責署名(場合により地位所属も。)」という「ルール」が、「不文律」が、モラルとして一般化するように「キャンペーン」すべきなのである。みのもんた氏のような立場の人こそ、迂闊に「規制」などと口走らず、「文責表示」を大声で叫べとわたしは言いたい。
* ホームページに日記・私語を書き始めて十二年半になる。むろん、歯に衣着せず率直に時に癇癪も、批評も書き込んできたのは広く知られている、が、終始一貫、わたし本名で「文責」を明示し「作家・日本ペンクラブ理事」とも立場も示して、必要なら「討論・論争」も辞さない姿勢でモノを言いかつ書いている。匿名や偽名で書いたりしない。
その上、時にわたしが槍玉に挙げる人は、みな「公人=政治家、官吏、著述家、藝術家・藝能人、放送・放映・新聞人、マスコミタレント、大学教員、自治体役員等」に限定されている。その人達は、大なり小なり「一般私民」に対する「言動・表現」に責任を帯びていて、批評されても当然な、ある種の「権力的存在」であるからだ。
* 知る人は知っていて、忘れていまい。
去年の夏、「週刊新潮」は、わたしの氏名・肩書・所属・経歴・顔写真を明示し、「孫の死を書いて実の娘に訴えられた太宰賞作家」と大見出しの記事を載せた。
ところがその記事に、肝腎の「実の娘」の氏名も写真も、一言半句の「訴え」の言葉も出ていなかった。娘の「代わり」に登場したのは「高橋洋(仮名)」と名乗るどこの馬の骨とも読者にすぐは判じ得ない、わが「実の娘の夫」で、独り喋りまくっていた。この夫が現役の青山学院大学教授であることは、披露宴もしての婿であり、知る人はみんなよくよく知っているのに。
「実の娘」は病人でもなく、口がきけないのでもなく、都下某自治体の「主任児童委員」の職にあって、しかも本名を現に「仮名」に替えて務めている。
* わたしは週刊誌記者氏の口頭取材を断った。代わりに文責明示で「書いて公刊」してある秦の文章なら、何を参照されても引用されても構わないと返辞してあった。
記者氏は、記事を書く直前に、先方「仮名夫」の本名を添え、六箇条の言い分を「直接話法」のままわたしに届けてくれた。それがどんなにデタラメであったかは、みな、即座に反駁を書いて置いた。「湖の本エッセイ44」の「あとがき」に公開してあるから、誰方にも読んで頂ける。
* ともあれ、こういう某チャンネルまがいの、匿名・偽名・仮名・垂れ流し・悪声・悪罵に類した捏造や中傷をこそ、「名誉毀損」の名で「規制し処罰すれば」よろしく、この「実の娘の夫」氏も、真っ当なはなしなら、堂々と本名で、それも夫妻出揃って、記者氏になり私になり訴えれば良かった。
こういう「卑怯」を一流私大で教育哲学なども教える教授が「仮名に隠れ」てやるのは甚だ見苦しいだけでなく、これぞ名誉毀損の犯罪に類するのではないか。
* 「書くなら、文責を明示しましょう、それをせめてインターネットでのモラルにしましょう」と、みのもんたサン、あなたの立場で話してくれたなら、それこそ、ともあれ、いい「コメント」になりますよ。
2009 8・21 95
* 「現在昨今における私小説の問題、きっと以前から『ネットの介在』をおっしゃっていたと思います。やっと、それが自分にも考えられるようになってきました。ひとりひとりの権利意識とも絡んで、難しい問題だと思います」と、読者の反応メールが届いていた。
いまの批評家達も作者達も、まだそこへ、視点も視野も、できていない。そして「問題」だけが起き、独り歩きして行く。
現代文学が「ネットの問題」とますます不可分に成ってゆくこと、それが「法」ともからんで、ややこしく悩ましい事件を引きずり起こしてゆくこと。今、まさに、それを「わたし」が体験している。
文学も批評も、いずれ、「ネット以前」「ネット以後」と、または「新文学時代」「旧文学時代」と、分類されてゆくだろう。多くの近代文学が、文豪たちも手だれたちもその他大勢も、「ネット以前」の「旧文学」という箱のなかに蔵われるだろう。若い書き手達、批評家達よ、奮起せよ。
このわたしの「予言」 賢明にだれかが「記録」し「記憶」していてくれますように。
2009 8・22 95
* 早起きし、やはり「仕事」をしながらもう晩方に。
* 建日子に、谷崎作の戯曲のおもしろいのを一つ二つ紹介してやったりも。いいものを幾つも咀嚼して、若い今のうちこそ藝術的に心ゆく創作、気稟の清質最も尊むべきフイクションを書いておいて欲しい。私小説など、まだ早い。私小説は爺のものだ。
2009 08・23 95
* このところ連日手が放せぬ仕事と、ガマン比べのように取り組んで。パアっと手を放したいがそうは行かぬ。
「暗夜行路」の完成に何十年もかけた志賀直哉は、さぞ気がかりであったろう。気がかりに耐え抜くこと。もっと壮大にゲーテは「ファウスト」完成に多年気を入れ続けたが、ゲーテの場合、苦渋というよりその莫大な時間をすら詩作と思索で満喫していたようだ。一方に命数と謂うことがある、が、それも気にせずとっくりと気概かけ命も掛けて日々「いま、ここ」の重量そのものを満喫したい。
* 十年ほど前、山折哲雄さんとの対談などあって、自分はどう老いてゆくのかを日々考えることがあった。対談の題は結局わたしが願って「元気に老い、自然に死ぬ」に決まったが、自然に死ぬとはどういうことか、かなり難しい物言いであった。あの頃、対談相手の山折さんのお考えは暫く脇に置いて、わたし自身はどの程度に想いを煮詰めていたのだろうと、ふつふつと今になり思い返す。
2009 8・24 95
* 昼も、晩になっても、ひたむきに仕事していた。何になるだろうなどと思わない。何のためにというコトを一番考えなくなっている。
2009 8・24 95
* 九年前、新世紀に入った年を「私語」で振り返ると、「ペン」など、「外」世間での「仕事」が私生活の半ばを占めていた、半ば以上とさえ謂える。
小泉内閣が出来、新外相の田中真紀子が日々に官僚や与党同僚、野党の袋叩きにあっていて、わたしは、終始田中氏を声援していた。「外務省は伏魔殿」と喝破し果敢に改善改革をもくろんだこの外務大臣が、結果切って棄てられたザマは無残であったが、敵性官僚の最たる地点を占めて「優秀」を謳われた某外務官僚氏が、今日、当時の田中外相の洞察も外務官僚との対決姿勢も「みごと」で「あやまり無いものだった」と、機会ごとに書いたり話したり証言している「事実」は、とても重い。
田中真紀子を「選挙戦だけ」の自己利用・使い捨てに切り捨てた小泉純一郎当時総理の、人気と裏腹の「悪」性度は、あの一件にも露出していた。あの時にハッキリ感じた。
ペンの理事会の席で、当時の梅原猛会長が小泉総理を指さし、「歴代総理の最悪」と断言されるのを聴き、ほほうと感じ入ったのを忘れていない。あの頃、そういう徹底批判を隠さなかった人はゼロにちかく、小泉を警戒し続けていたわたしでも、梅原さんの「断定」に新たに教わる気がした。憲法を護ったり、ああいう見解の表明が躊躇なく出たりする、わたしは梅原さんを、だから根で敬愛してきた。
* 九年前のわたしと限らないが、わたしは文壇の通念で謂うような作家・文士像から、意識しても無意識にも、かなり逸れた日々を暮らしてきた。
文壇という固有の価値観にドボ漬けの作家であるのを、受賞の昔から忌避した。観るから片輪になる気なく、だから受賞旬日のうちに、「作家さよなら」という一文を書き筐底に秘め持ってきた。独りの市民が、私民が、「小説」を書き「評論」も書きたいに過ぎぬと自覚していた。
市民・私民の基盤を「普通」とわたしは考えている。藝術家も例外ではない。鴎外、露伴、漱石、直哉といった人たちの生活を、いろいろに遙かに及ばずながらも、念頭から離したことなく、むろん藝術に誇りと愛をもちつつも、「文壇」にだけ価値観を全面よりかかった批評家や作家を「別人種」のように遠くにながめた。「自己批評の厳しい批評家、批評が文藝として練れた批評家、文壇に籠絡されず、これからはネット文藝へも目配りの利いた、社会と時代の読める文学批評家」が出てきて欲しいと、最近にもある人に宛てわたしはメールに書いている。
2009 8・25 95
* 徳富蘇峰の書いていたこんな説を「安曇野」のなかで読んだ。
もっと長くて、先へ行くとわたしの関心や興味に逸れ、「ほっといてくれ」と云いたい蘇峰流へ流れるのだが、ここに書き写してみた限りでは、やや聴くに足りている。「地方の青年に答ふる書」五回ほどのうち最初の方で、地方の一青年が、煩悶中の人生問題を訴えたのに対する回答といった形式のもの。
「元来小生は、いはゆる人生問題の研究と申すことが、気に食はぬことに候。わけても青年諸君が、かかる無益の仕事に精神を徒費するは、最も不服に存じ候。そもそも人生問題とは、何事に候哉(そうろうや)。人は何処(いずこ)より来りて、何処に行くべき乎(か)。人は何故に、この世に生れたる乎なぞと申す儀に候哉。左様なる問題は、果して吾等が解決の出来得べきものと、信じ被成候哉(なされそうろうや)。小生は、孔子の未だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らむやと、申したる言を以て、かかる難問は、打切り度(たく)存じ侯。それよりも人生は真実也。現実也。須(すべか)らく之を認識し、その日その日に為すべきこと、為さねばならぬこと、沢山有之(これあり)候。六畳の部屋に、寝たり、転んだりして、妄想に耽りつつ、安心を得んとするは、言語道断のことに候。かかる不埒なる怠惰漢は、自分で苦汁を分泌し、自分でその苦味を喫するのほか、何等の果報もなかるべく候。人間得意の時あり、失意の時あり。ある時期には、いはゆる煩悶もあり、苦痛もあり、然しながらその苦痛や、煩悶や、ただ奥歯にて噛殺し、速かにこれを脱却して、自己当面の職分に竭(つく)すこそ大丈夫の面目に候。青年の大敵は怠惰に侯。精神的煩悶なぞと申せば、立派な名目に相成候得共(あいなりそうらえども)、そは畢竟(ひっきょう)閑人の閑愁に候。草略不一」
* 「自己当面の職分に竭(つく)すこそ大丈夫の面目に候」の辺に、蘇峰の問題がある。滔々として「国家への忠誠論」へ蘇峰は持ってゆくだろう、わたしは国家への誠実を持ち合わせたいし日本を大切にも思うが、一人一人の私民に「その日その日に為すべきこと、為さねばならぬこと、沢山有之(これあり)候」ものをうち捨て、ただただ「国家への忠誠」を前に置くのは御免蒙りたい。その余の言説は概ねわたしもさよう考えている。ワケ分からずに哲学的な煩悶に逮捕されてしまうのは、「つまらぬ分別」に類すると思っている。
* その一方で、例えばゴーギャンの難しい題の「あの」繪が、思い出せる。
「自分は何処から来たか。自分は何ものか。自分は何処へ行くか」
画家はこの大作を描いてやがて自殺を図った。何故か。何故か。
2009 8・25 95
* 作の翻訳を考えてはどうか、手伝えると思うと海外在住の人からもご好意をいただき、日本の読者からも熱心に奨めて頂いたことがある。ずいぶん日が経った。法廷のことなどあり、取り紛れて躊躇のママになっているが、どんな作をとも迷った。
その時、迷い無く「ディアコノス 寒いテラス」をと強く奨める人があり、作者の私がドッキリびっくりしりした。
この作は二十年も出ししぶり、やっと「湖の本」新刊の形にしたが、おそらく最も真剣で数多い読者の反響に恵まれた作に相違なかった。いま、わがのど元へぐっと突きつけた気分でいる。
読み直すことから始めねば。
2009 8・25 95
* 秋めく。一昨日の夕方あたりから、涼しいとさえ感じている、いまも。
* 永井龍男さんの文壇出世作「黒いご飯」で、作全体から一点だけ小林秀雄は、「うす黒いご飯からも、もうもうと湯気が上がった」の「も」が気になったと批評したという。小林その時二十一歳、永井さん十九歳の初対面だったと。推敲の厳粛な要所。そういう鮮鋭なセンスで文章を書いている書き手が、いま、プロの世界にどれほどいるだろう。不器用に、あるいは小器用に書きっ放している。
2009 8・27 95
* 「腹を括る」という「からだ言葉」に信頼している。必要なことの最たる一つに、いつもこの言葉が在る。人に良く思われたい、人の思わくを気に掛ける、それはやめたい。最近の変な言葉遣いだが「気持ち的に」最もタイムリーに腹を括ろう、括りたいと思う。そのつもりで「仕事」している。
* 言葉は信じ切ってはならぬ最たる一つである、同時に言葉は、生かさねばならぬ。言葉は時に利器として使えるが、おそろしい凶器にもなる。「作家」とは、「凶器」である言葉を「利器」かのように使える狂気の「悪党」なのかも知れない。古い昔のことは措くけれど、近代以降のわたしの尊敬し信愛する多くの先達も、愛読の視線の質を変えてよくよく観れば、よく見抜けば、身の毛よだつほど言葉を凶器に用いて人間の悪徳や偽善に復讐している。鴎外も、藤村も、漱石も、荷風も、直哉も、鏡花も、川端も、高見順も、太宰治も、三島由紀夫も。現代作家達は、それをしなくなったか。やはり、大なり小なりしている。そう、わたしは思う。意識して「凶器」を振るおうとわたしも思う。そのように自分の死機をわたしは自分でたぐり寄せる。
* 阿川さんの『志賀直哉』で先の開戦当時の叙述を読むと、当時著名の作家や詩人・歌人たちが、どんなに戦意高揚の創作や文章を一斉に書いていたかが、オン・パレードでよく分かる、と、同時に、その当時として事情やむにやまれぬモノのあったことも、幾らか察しられはする。そして志賀直哉にしても谷崎潤一郎にしても開戦当時のそれを、殆ど二度と繰り返していない。
繰り返している何人かはやはりいたのであり、高村光太郎も斎藤茂吉も武者小路実篤もそれに当たる。わたしは茂吉の歌集『萬軍』にふれて二度ばかり批評を重ねたこともあるが、だからといって茂吉生涯の偉業への感謝と讃嘆は少しも損なわれない。宝物のように抱いた茂吉自選の『朝の蛍』や万葉研究の茂吉が大事なのである。
かつて「ペン電子文藝館」を預かり、いま「e-文藝館=湖(umi)」を編輯していても、『萬軍』は珍しいからと「招待席」に誘うような愚行はしない。
つい数日前の東京新聞「大波小波」で高村の戦時作を論っている匿名文を読んだ。匿名でなく、それが「文責」明示であったとて、個人が個人の見識でなにをどう批評しようと「言論の自由」である。わたしでも、もしよんどころない機会が有れば、かつて茂吉の戦中作に触れたように、高村光太郎にも吉井勇にも筆を用いることは有りうる。
しかし、「招待席」に招いておいて、そういう不出来で不本意な作を中心に「作品選」をするような非常識は、絶対しない。
「招待する」とはどういうことか。
来客を敬ってお迎えするのである。「迎えて」おいて無礼をはたらいたり、毒を喰わせたり、刺し殺したりした例は過去にあった。
足利義教将軍は招かれた大名家で殺された。旗本水野十郎左は招いておいて幡随院長兵衛を風呂場で刺し殺した。日本ペンクラブの「電子文藝館」は、亡き高村光太郎を「招待席」に招いておいて、高村が生前痛悔していた作を中心に選抄」し、詩人高村光太郎には「こういう一面があった」と、あだかも晒し台に罪状を公開してみせる。そんな真似は、人様を「招待」してすることではあるまい。
大人なら分かることだ。
どうしても非難し批判し批評的に世に知らせたいなら、「電子文藝館」の阿刀田館長でも大原委員長でもいい、文責明示で、堂々と「高村光太郎論」を書けば宜しい。それなら分かる。
わたしなら、だが、頼まれてもやはり書かない。光太郎の場合書くに値するような戦中作では全くないからだ。それを読まないと「ペン電子文藝館」や「e- 文藝館=湖(umi)」の読者たちが大きな損をするなど、決して無いからだ。
読むべき、読むに値する作が、ほかに山のように在る。高村光太郎には、在る。斎藤茂吉にも武者小路実篤にも在る。
* よく分かった、掲載作は削除します、削除しましたと聴くまで、わたしは愚かな姿勢を批判しづける。
* 田中正造は、代議士をやめて、老境ますます深くなってからも、人から「もういいでしょう」と労られても、足尾鉱毒の被害救済のため身を働かせ、世に訴え続けた。木下尚江ほどの人たちもほとほと感嘆していた。田中は云う、「人間」がダメになっては何もかもダメになると。
2009 8・28 95
* 平山さんの論文を興味深く校正している。万葉調の表現で先の戦中に戦意高揚の声を高く上げた中に、佐藤春夫がいたことも知った。佐藤は谷崎の親友であり、絶交したり和解したり奥さんを譲られたりした後輩だが、わたしはどうも佐藤文学に馴染まずに来た。弟子などもたなかった谷崎とくらべて「門弟三千人」などと嘯く人は苦手。大正時代の出世作『田園の憂鬱』『都会の憂鬱』もどうしても読み進む気がしない。
その佐藤春夫が、「中国との戦争に突入すると、たちまち「皇国紀元ニ千六百年の賦」 で、「八紘(あめがした)ヲ掩ヒテ宇(いへ)トセント/大御言(おほみこと)遂ゲザラメヤハ!」と叫ぶ。これは、「撃ちてしやまむ」と同様に戦時中の国家的標語となった「八紘為宇(八紘一宇とも)」(日本書紀)をふまえている。
太平洋戦争になると、『大東亜戦争』という詩集を発表し、「特別攻撃隊の頌」「軍神加藤少将」「落下傘部隊礼讃」「日本陸軍の歌」「シンガポール陥落」などの愛国讃歌をたてつづけに披露した。」太平洋戦争中の歌人や詩人たちが迷いもなく天皇讃歌を量産したことを思うと、「詩人」というものは、「なんのこだわりもなく時代の雰囲気にのみこまれて我を忘れてしまう人種なのだろうか」と平山さんは爪弾きし、かつて戦中には「特別攻撃隊の頌」を書いた佐藤春夫のごときは、戦後の「昭和三十年六月には、一八〇度転じて『ゼネラル・マッカアサア頌』を書いてい」たことを呆れ顔に紹介されている。
こういうことから、あの原爆投下も「しょうがなかったんだよ」とにこやかに口走る防衛大臣などが世に現れてくる。
* 「バスに乗り遅れるな」と慌て、「空気が読めなくちゃ」と「人の顔色を読ん」では右往左往する。そうでなくては世渡りの無事は無いと賢こがる。
* 臼井先生の「安曇野」第二巻で、ロダンに学んで帰った若い彫刻家荻原守衛は傑作「女」の像を遺して突如、血を吐いて死んだ。読んでいて涙がこぼれた。この頃「パンの会」が盛り上がる。「新思潮」第二次の若き谷崎潤一郎は『刺青』『少年』『幇間』『秘密』等に永井荷風の絶賛を得、一夜にしてバイロンのような盛名を得ていた。だが、もう目前に大逆事件が近づいている。
2009 8・30 95
* 貰っていながら、手に触れる余裕の無かった小谷野敦氏の『私小説のすすめ』を機械の前で読み始めて、三分の二に及んでいる。今日中に読み上げてしまうだろう。
わたしの感想が肯定的か、否定的か。肯定的である。
小谷野氏の論調は破壊的な乱暴を含んで厳しいのだが、状況や背景をよく博捜していて、あざといアテズッポウは言っていない。そう思う。
言わずもがなの言い過ぎはこの人の得意技で持ち味であるから、不愉快には目をつむってとばし読みをしても義理を欠くことはないが、包丁は、かなりに肯綮に当たっていて、面白い論策というより、裏の取れてある興味ある放言なみの新説である。奇説とも読める。そして不思議なほど多くの点で氏のきめつける細部の結論は、わたしの久しい持論とも重なる。氏と同じことを、最低限この十二年間のこの「闇に言い置く私語」で、わたしは、かなりたくさん言ってていると思う。
* 一例、わたしが、田山花袋作のかなり多くを称揚し、ことに『蒲団』を世評よりもずっと興味深く面白く読んで肯定してきたことは、たとえば「e-文藝館 = 湖 (umi)」や「ペン電子文藝館」に花袋作を載せるとき、躊躇なく『蒲団』を先ず選んで、その理由も、文学史的通説による以上に、作品そのものがなかなか優れて面白いからだと言ってきた。
中村光夫先生は私には大の恩人であるが、小説として面白いかどうかなら、わたしは藤村の『破戒』より、花袋の『蒲団』の、なんともいえぬおかしみを「文学」として今でも評価する。『破戒』はもはや博物館入りだと思う。
この小説『蒲団』をスキャンし、句読点に到るまで校正しながら、何度も嬉しいほどくすくす笑って楽しんだ夜々のことをよく覚えている。
* 小谷野氏説に安易に乗ってしまうと、隠し業で身勝手にうっちゃられる懼れのあるのも、なんとなし分かっているから、わたしは自分自身の思いや読みや評価を逸まらず、いささか楯のように鎧のように身を固めて<氏の本に向かっている。
この人はいわば文壇野党のいま最たる若手批評家であり、また、いつ一朝に文壇与党でハバを利かすか分からない危ない批評家にも想えている。
だが、歯に衣着せずに、ある種豊富な知識に足場をのせ、(あえて豊富な学殖とは言わないが。)割り切れた物言いで通説の不確かな論点を取捨・分別してゆく切れ味は、現在文壇与党を自認しているかも知れぬエラソーな批評家たちの曖昧な言説よりは、今のところ、かなり面白い。
ただランボーなのではない。映画の主人公のランボーに或いは近い思想的敢為を彼なりに為しつつあるのであろうか。
* しかし小谷野氏「定義」の、「女にフラレ男達」の情けない自虐的な告白「私小説」だけでは、「二十一世紀の私小説」は言い尽くせまいとわたしは考えている。
わたし自身は、今も、これからも、私小説も非私小説も書く気だが、少なくも「私小説」の場合小谷野氏ふうにはたぶん決して書かないだろう。
インターネットの時代である。優れた新才能が現れてくるとき、「私小説」の相貌はそんな情けない脆弱な動機を越えて、はるかに自爆的なほど強い問題を社会に投げかける私小説が現れうる。そう考えているし、覚悟している。
* 知り合いの作家に或いは師事している人か、冊子版の時代小説を送ってこられた。書き始めの三行を読んで思わず顔をしかめた。
若い人ではない、わたしとどっちかという老境の書き手だが、「漆黒の闇夜から突然、劫火の焔が上がった。」など、感覚的に叶わない。漆黒、突然、劫火の、想像力を欠いた言葉遣いの安さ。「から」は「に」であろう、語法がちがう。
小説書き始めのこの一文に作者は、もっともっと「文学」を凝視し建立せねば、と、思います。
2009 9・5 96
* 小谷野敦氏の『私小説のすすめ』残りの三分の一を、夜前、読了。ほとんどつまづき無く、むしろたいへん読みやすく説得もされ、文壇事情に疎いところも大いに補ってもらい、妙に励まされてでもいるように、かなり気持ちよく読了。末尾の、自身「作家」として「未然」の愚痴や宣伝文はできのわるいご愛嬌だが、本気なのだろう。氏の小説本ももらっていたが、感心しなかった。
* それよりも、あらためてわたし自身が「私小説」をどう受け容れたり突き放したりしてきたか、もういちど思い直したくなった。小谷野さんならわたしの全作から、これは私小説でしょう、これは違うなどと、どの程度選別できるだろうか。そんなことも思ってみる。出来そうで、そう簡単にそんな分別はできないので無かろうか。
* それはともあれ、徐々に私小説も書こう、書きたいと意識してきた。意識の外側から事情に強いられる気味もあった。老境に入れば私小説も好いとわたしは早くに覚悟していたし、若くて私小説はムリと思っていた。
2009 9・6 96
* 「九月述懐」のあとへ出した仙厓さんの繪、躍動して美しく、胸懐の清しさに気づかぬ人はいまいが、「を月様幾つ十三七ツ」に含意を読もうとする人は、どう読むのだろう。いまは、うろ覚えで言いにくいが、この唄には、アジアの広範囲に亘る民俗が分母に有るとも聴いた覚えがある。書庫に入ればどこかにそんな本があったはず。
そのほかに、斯う、月を指さす、「指月」の二字に禅の覚悟の託されているとも聴いた覚えがある。
そういう小耳の知識をまるではなれてわたしは、いきなりこの繪のちからに見入る、ぢっと見入る。
* 今日、この繪を胸におさめていたい。
* ゆうべマゴは入浴、いっそう綺麗な黒になった。
* 九月七日の今日、六月十二日以来の法廷。裁判官が交代し、新裁判官は、原告提出の訴状が厖大で且つ理解に苦しむと「訴え直し」を命じた。その新訴状の「名誉毀損」関係だけが提出され、昨日、代理人を介してわが家に届いていた。今日の法廷で、原告は残りを次回までに提出し、被告は今回分反論を次回にと。次回は十一月上旬、予定。
今日わたしは、街歩きに出、留守に妻が新訴状を読んだ。
新たなことの一つは、「名誉毀損」が「事実摘示できない」ところは、「名誉感情」侵害ということを付け加えてきたらしい。
* 「名誉感情の侵害」は法的に「訴え可能」であるが、あまりに一般かつ多義・多面にわたるので、常人はふつう問題としない。
名誉感情には当然「侵害も褒美も」あるわけで、笑い話、わたし自身は両方とも全然気に掛けないが、例えばもし誰かが、「秦はマイナーだが、天才だ」と書いたとして、普通の人だと名誉感情を「両面から」刺戟されることになるだろう。
それに類することなら、「ご主人、課長さんにもう成られました?」なども、その通りであれ無かれ、奥さんもご亭主も名誉感情を傷つけられるだろうし、「あなたって小柄だから」だけでも、「お宅、ずうっとあのお宅に」というのでさえ、むっとする人はいるだろう。
人が此の世に生きてあれば、名誉感情なんぞで裁判沙汰にしていれば、どうしようもなくなる。ヘッポコの学者が論文をコテンパンにやっつけられることもあろうし、作品を、酷評はまだ良し、完全無視されたといって「名誉感情」を傷つけられ怒り狂った物書きなど、昔から掃いて捨てるほどいるが、裁判にはならない。
「検索」してこの「名誉感情」という言葉を調べると、法に「訴えてもいい」のは、よほど卑屈な神経の細い人の救済のためらしい。このわたしの今日の日記も、またまた「名誉感情」傷つけられたと損害賠償に追加されてくるかな。
* 天下に「稀有の一例」が生まれる。青学教授の婿や町田市主任児童委員の実の娘が、実の父=舅のわたしを、「名誉感情」を表立てて「裁判」に及ぶのである。そして、人は、いずれ、その摘事例が、中傷でも捏造でもなく、自然人・道徳人としてあまりにあたりまえな批評ばかりなのに、ビックリ仰天するだろう。
言うまでもない、この原告二人は明白に「パブリック・フィギュア(公的人物)なのである。しかもわたしは、変名や匿名や無名では何も書かない。全て文責明示の署名入りである。ことは裁判でなく、「論争」の議題に属している。
週刊誌にもちかけ、本人は一切顔も名も出さず、口一つ利かず、事情を知った誰の目にも誰と分かる大学教授の夫が「変名」に隠れ、「孫の死を書いて実の娘に訴えられた太宰賞作家」などという大見出しの中傷記事で、わたしの「名誉毀損」を平気でやれる、しかも「実の娘」は顔も名も一言の訴えすらも出していない。そういう姑息な人物たちだけが、「名誉感情」などという事を裁判所に言い立てるのだ。情け無い。
* 志賀直哉は、先の戦争で、シンガポール陥落の際に一度だけ戦意昂揚と讃嘆の一文を公表している。直哉だけでなく大勢の物書きがかなり一斉に書いていた。
戦後に、浩瀚で立派な志賀直哉全集ができるとき、編纂委員達はこの過去の一文を無視して載せないか、つまり避けて通るかと遠慮を凝らして直哉に伺いを立てたところ、直哉は、一度書いたものを隠せば「卑怯」になる、そのまま出すようにと言下に決めた。直哉にはそういう例が他にも、若い頃の日記などにあり、これまた、苦慮はしたようだが、処分して隠してしまうのは「卑怯」だ、公表して構わぬと自身で決めている。
「男がいる」という褒美の弁を、以前此処に書いたが、たしかに此処に「男がいる」と思わせる。直哉ほどの人でも、歴とした文学論をのぞいても、どれほど数多く生涯あからさまに「名誉感情」を傷つけられてきたか、数え切れない。
だが、また直哉自身が、家族や親族や友人や文壇人たちや使用人等の名誉感情を責め立て傷つけてきた例も、数え切れない。「裁判沙汰」になったという話は知らない。
なにしろ不愉快だと感じると、感じさせた相手に対し志賀直哉は、独特の毒舌で、何倍にもしてやり返している。実例をみると思わず吹き出して笑うほど徹底的にやっつける。決して放ってなどおかないのである。しかしやっつけてやっつけられて、それだけだ。仲直りも早い。それが出来ないのでは、「男」じゃないし第一卑怯だと直哉の態度は一貫して潔い。
* ま、またまた、不愉快劇が幕を開けて、とめどない。わたしはどうするか。わたしは被告で、避けようがないのだから、真っ向闘うのは当たり前、それをしなければ「卑怯」と自ら恥じるだろう。
2009 9・7 96
* 夜前、阿川弘之『志賀直哉』上下巻、読了。
志賀直哉という稀有の文学者に「全面」で触れた「幸福感」、計り知れない。阿川さんの誠実な構想と、博捜・洞察と、筆致・筆触の美しさに、心より感嘆し感謝する。わが七十年の「読書史に不朽の一冊」を加えたことを心底喜ぶ。感謝する。
感銘は、そのつどに湧くように迸るように具体的に甦り来るであろう、心挫けよろけそうになるつど、「心の杖」と頼みたい。
* 直哉は、文学賞というものを生涯に何一つ持たない。文化勲章以外の賞も、たしか、なに一つ受けていない。名前はどうでもいい「作品」だけが作品としていささかも変害されず読まれれば、十分だと、確乎として考えていた。
* 濯鱗清流。 志賀直哉全集に六巻分(小説は十二巻)の「日記」がある。拾い読みはしてきたが、全編を通し、気を入れて読んでみる。
ゲーテはエッケルマンに向かい、シラーやバイロンや誰彼となく無数に優れた人からの「書簡」を現物で読ませて、そこから学び取るように、打たれるものにはまっすぐ打たれるように「教訓」している。よく分かるし、とても羨ましい。
直哉の書簡集は五巻ある。漱石全集にも優れた書簡集がある。言うまでもない「日記」も「書簡」も、「断簡」すらもすべて彼等には、そしてわたしにもそうだが「文学」としての「仕事」である。
わたしの機械には、十数年、じつに大勢との、万を遙かに越す「書簡(メール)往来」がそのままほぼ全て記録されている。ご厚意に甘えてこの「私語」にも、同じ十数年の間に記載されたものが少なくない。それは下さった人の書いたメールであっても、往来し応答のある流れは、俳諧連句の付合と同様、自然「合作」されてゆく人と人の連帯であり固有の時空を成している。もし真実「成心ない」人が編めば、まちがいなく豊かな、時に創作された小説より興味ある赤裸々な往復書簡集が少なくも数十冊すぐ出来るだろう。まさかそれは出来ることでないとしても、千彩万姿、すばらしく組み合わせながら創作世界に溶かし込んで錬金術をほどこせば、まさに「I T」時代の小説世界を組み立てることは少しも難しくない。
* いま「成心」という言葉を書いた。此の機械でも「成心」と直ぐ出るが、多年、ほんとに多年愛用してきた新潮国語辞典(昭和四十七年二月の第四刷)に載っていない。びっくりして『広辞苑』第四版を見ると出ていて、思った通り、「一 前もってこうだと決めてかかっている心。先入観。 二 心中にもくろむところのある心。したごころ」としてある。
「成心」をもたないこと。
2009 9・11 96
* 今は、勉強を底荷に生かして、本格に書き溜めること。ブログに、着眼や着想や覚え書きや感想を随意に書き記録しておく一方、仕事から仕事へ「繋ぎ」の利いた仕事を大きく積むなり太らせるなり。「さき」を夢見ないで「いま・ここ」を建立して。
もっと遠慮会釈なく「しやべってみる」ことも、大事です。遠慮しないで。文学魂は「答えをだす」ためにだけでなく、「優れた式を立ててゆく」ためにも。
ものの沸き立つように、せめて烈しく自問自答し、堪えきれなければ話してくれること。
名前と「名前」とは、別。そう成り切れるかどうか。がんばれ。 2009 9・11 96
* 建日子には、車で、安曇野の「碌山館」へ連れて行って欲しいと思っている。碌山彫刻の原作が確かに観られるのであれば。常念や穂高も仰いでみたい。
* もともと「安曇」という文字やことばはわたしの文学生活に太く根をおろしている。『冬祭り』の冬子は安曇(あど)姓で、作はさまざまに、安曇と水・海の縁を追求している。長野県の「安曇」は早く早くからわたしの頭に鎮座し続けてきた。臼井先生の大河小説『安曇野』とは直には関わらぬ「私」事の関心であるが、なぜか早く死んだ彫刻家、天才的なロダンの弟子碌山守衛の彫刻と事跡には、心惹かれる。安曇野の秋が懐かしまれる。
* 映画原題の「フェイマスとリッチ」は、ジャクリーヌ・ビセットの敬愛される藝術作家と、キャンデイス・バーゲンのバカ売れ読み物作家との「友情」ある桎梏が描かれていて面白かった。
今謂うこの際の「リッチ」はこれとは情意異なるが、グッとくる問題を孕んでいる。やはり直哉なのだが、漱石の『行人』を読み、いいものだが、肌に合わないものも感じていると言い、しかし、文章には「リツチ」な好さがハッキリあって、強く謂えば自分は叶わない、というほどの賛辞を呈している。「リッチ」をそれ以上に直哉は説明しないが、つい最近もまた『行人』を読んだわたしは、直哉の曰くがピタリ理解できる。実感できる。漱石文学の圧倒的な魅力は作意や人間観や世界観もさりながら、何とも謂えぬ馥郁と新しくて親しみ深い文章音楽の豊かさ・懐の大いさに在る。「リッチ」の、これぞ本義であろう。こういうリッチを、文学に心入れた人は、身につけたい。気をつけていても痩せて行くのだから。
* 自分が、すこし昂揚しているのが分かる。頂戴した「穴子」の美味にかきたてられたか。
2009 9・11 96
* ウエブは、ノートブックでの日記や郵便・はがきとは、性質も機能も異なる。ここへ人の実名や評判を書いてはいけないなどというそれ自体、「百年前の感覚」だとわたしは考えている。
わたしが電子メディアを用い、匿名や変名や無名で言いたい放題人を批評するのでは問題は大きく、かつ好ましくない、いや良くない。しかしわたしが、立場や、職業も氏名も文責も明らかにしながら自分の交際や主張、思想に触れ、また公人や公への歯に衣きせぬ意見や批評を公開することは、内容がフェアである限り、二十一世紀の「普通」であらねば「ウソ」だと考えている。それがウエブ社会での現実でありマナーだと思う。
ものかげの「紙の日記」ではむちゃくちゃ勝手な悪口や中傷毒舌も見遁されて、また「某チャンネル」などで無名・変名・仮名等で便所の落書きに類する捏造や中傷や意味のない罵倒を重ねてもすべて見遁され「まかり通っ」て良いわけがない。
一方、まともな人間がまともな意識と自覚と責任とで、当てこすりでなく人の名も正しく挙げながら交際の本来や、意見や認識を書きして法に咎められるのは行き過ぎだ。この「コンピュータ時代」ではむしろ「普通」の良識・常識として公認されねば、むしろ可笑しいとわたしは考えている。
ものを「書いて生きる」者の一人として、陰湿な「かげぐち」は良くて、公明公然の批評や批判は法的に名誉毀損と咎められるなどのアンバランスは、「是正さるべし」とわたしは確信している。
ウエブ、インターネットとは、そういう「生きものの機械機能」にもう成りきっている。その性質を、好き勝手に陰険にねじ曲げることは出来ても、殺して「無」に帰することはもはや不可能。それならば、大切なことは、良識を伴った「文責」という公明さ、そして当事者相互の討論・交渉であろう。
公平・公正にはとうてい型通りな「法」ではとり仕切れない、取り扱えない、「人の口に戸は絶対的に立てきれるものでない」以上、真に取り締まるべきは、非難さるべきは、「匿名・無名・変名等に隠れた陰湿な陰険な中傷や捏造で人を傷つける犯罪行為」だ。フェアが正しい前提であるとして、「公人(パブリック・フィギュア)間のフェアな言説はアンフェアなルール違反とは別だ。ミソもクソもいっしょくたにすべきでない。
わたしは「現代ウエブ作法」を云うている。公人として生きている者が、安直に名誉毀損を振り回すのは間違い、むしろ卑怯に類している。
* さらに別に「私小説、小説」での問題がある。
いま川嶋至の遺著『文学の虚実』を読んでいるが、巻頭の安岡章太郎作『月は東に』を論じた「歪曲された事実の傷痕」は衝撃に満ちた弾劾の批評であり、この一編に限って云えば、かつての同僚川嶋教授の筆鋒は、問題の核心を刺し貫き、批評本来の役を完璧と見えるまでみごと果たしている。
この小説作者のモデルに対する悪意と自己弁護は、醜い。侮辱されたモデルの苦痛は計り知れない。
が、その一方、この小説は文壇で文学的に顕彰され、また九割九分九厘の一般読者にそのようなモデル問題は見えてくるワケがない。
こういう傾向の私小説しか書けない書き手で安岡氏があることは多く氏自身の述懐やエッセイを通して推量できるし、書かずにおれなかったから書かれたとしてそれは作家の負うた宿業だといえる。言えるけれど、だからといってモデルがこの表現を憎悪し赦せないことは火より明らか。
* 川嶋氏はこの評論ゆえに文壇で多大の顰蹙を買い逼塞を強いられたと仄聞してきたが、そういう文壇であることを私は嫌った。その辺のことは、更にオイオイに書いて行く。ひとまずこの話題を離れながら、
* わたしは「私小説」について今つよい関心をもっている。年が行けばオイオイに必然「私小説」も書くだろうと久しく思っていたし、書き始めても来たが、実もって、川嶋さんが面貌の皮をひんめくった上の安岡作のような私小説なら、書かない。現に書いていない。
むかしから、男女間の、家庭内の、交際上の、生い立ちの、暮らし向きの、貧しさの「情け無い恥を」、「うしろめたさ」を敢えて忍んで「そのまま書く(掻く)」のが「私小説」であるという「説」がもっぱら通用してきた。その代償として作品は「純文学」作者は「藝術家」という名誉を手に入れてきた、と。
わたしの考えている「私小説」は、まるで、ちがう。
どうちがうかを、わたしは実証し実現して行かねばならないが、一言で言えば、「いま・ここ」に在る人間として「私」を書き、「私」の思想を社会的にも文学的にも定置し表現して行く「手法」として「私小説」を書く。
わたしは「男女間の、家庭内の、交際上の、生い立ちの、暮らし向きの、貧しさゆえの」「情け無い恥」という観念や概念に殆ど毒されていない。ほとんど実感が無い。鉄面皮なエゴイズムと叩かれかねないが、わたしにはそれらが何故に「恥」なのか、ピンとこない。生きていてその日その日に遭遇する体験の集積は、ただに自己責任ないし自己実現と謂うに過ぎないし、まして「生い立ち」など、どうあろうと、わたしの「知ったことではない」。高見順は「私生児」に恥じ拘泥しつつ私小説を書いたが、自身が私生児として恥じてきたはずの「私生児」を、生涯に二人も(一人らしいが、作家自身は有る期間二人と自覚していた。)妻ではないべつの女たちに産ませていた。それを私小説に書いていた。
芥川龍之介は生い立ちへのこだわりを事実の説明としては書かなかった、書けなかったのである、どうしても。しかも深く深く拘泥して恥じていた。
わたし自身は、自身私生児であった生い立ちを、それと知った子供の頃から恥じたりしなかった。「私の知ったことではございません」からである。そんなことからは終始一貫あっけらかんと「自由」だった。むろん「恥じ入り、恥ずべく、恥ずかしい」ことは他に山のように有る。みな、生きものとしての人間なら、どうしようもないことだ。私の場合むしろその恥ずかしさを、儒教その他の道徳学で正そうとか制しようなどというコトのほうを、「敢えて避け」てきた。不自由は、イヤだった。自分の問題だと見てきた。
わたしの生きるエネルギーは、「自由」でいたい欲求と、漱石のように「私怨は忘れない」という熱意だろう。その立脚点からわたしはわたしの私小説を書きたい。自然それは書き手の「いま・ここ」に在る思想や感想を背負って自身を確かめ確かめ表現する「私小説」である。『蒲団』でも『新生』でも『和解』でも『月は東に』でも『宴のあと』でも、ない。
わたしの場所は、過去にも未来にもなく、「いま・ここ」にある。「いま・ここ」でどう生きているか、そこに自分の思想や感想が産まれているなら、それを書きたい。そういう私小説が書きたい。「恥」を書き(掻き)たいのではない。恥は掻こうが掻くまいが、たんに恥の「ようなモノ」に過ぎない。それが藝術家や藝術を保証するわけではない。
2009 9・18 96
☆ こんにちは 風。
『夜明け前』は、どんどん読めます。
江戸末期の行政の固有名詞につまづくことはありますが、関心のある時代なので、調べながら読むのが苦になりません。
木曽の山奥で、街道の庶民がどんな風に時代の変化を受け止めていたか知ることができ、とても興味深いです。幕末というと、江戸や京都や薩長や会津や函館などが中心に語られることが多いですからね。
歴史のただならぬ変革のあいまに語られる、半蔵の家族のほのぼのとした描写にほっとします。
ただ、勝本清一郎さんが言っていたように、藤村は、『新生』のテーマから、『夜明け前』で「歴史に逃げた」感じは受けています。まだ一冊目ですから、これからどうなるかわかりませんけれど。
勝本さん達の本、学ぶこと多く、読んでいて嬉しくなります。ではでは。 花
* 『夜明け前』は、
奥深く落ち着いた「大文学」です。なんともいえず、おもしろく興深く、吸い取られるように読んで行ける。青山半蔵に惹き込まれてしまい、それがまた嬉しい気持ち。
木曽という「山」の世界。しかし「馬籠」は山から里への際でもあり、深い山を負い開けた空ものぞめる天地でした。支配は尾張ですから、名古屋向きの気持ちと、木曾街道から江戸・東京へ望む思いとが交錯しています。藤村の故居、菩提寺、また講演してきた藤村記念館を思い出します。
『夜明け前』は、千数百年におよんだ「神と佛との闘い」が終熄する、ないし収束する時代の、嘆息や希望や混乱を主題にしていると読んできました。「歴史に逃げた」と謂うより、『新生』に至るおぞくも辛い「根」を確かめた「藤村の必然」を感じましたよ。 風
2009 9・19 96
* 川嶋至の本『文学と虚実』では、安岡章太郎の『月は東に』論「歪曲された事実の傷痕」につぎ、高見順の『深淵』「言いがたき秘密住めり」と『生命の樹』「宿命からの逃避」の論を読み、大岡昇平の『俘虜記』論「ヒューマニズムと怯懦」を読んだ。
文学評論としてわたしは高く評価する。これらを狭量に受け容れず、川嶋氏をあだかも追放したような日本の文壇をわたしは唾棄する。
それは、比較の材料にやや差のあることは承知で謂うが、あの「九・一一」テロの犠牲者家族が、犠牲者の名を利してブッシュ政権が戦争行為を正当化したのに強く反対し、運動し、すると、国民も寄ってたかって彼等の発言や運動を弾劾し身の危険の及ぶほど迫害した行為に似ている。
2009 9・21 96
* おまえは、しみ一つ無い青空のような一枚の鏡なんだよと、バグワンに言われてきた。とても嬉しく気に入っている。
しかし嬉しがるのは早いとバグワンは指摘する。
その無影である無垢の鏡が、それがおまえの本来「静かな心、無心」なんだが、その無心は、静かな心は、鏡は、あの真澄の青空がのべつ白や黒や灰色の雲や雨や雪の去来に曇らされていると同じく、無数のもの影を映している。それがおまえのマインド=心=思考=分別だ。それがためおまえはとても静かな心でおれないが、だが日々人が生きて暮らしているそれが常態である。常態だからそれが本態だと思いこんでいて、本態である真澄の空、無垢の鏡一枚に気づいていない。気づかずにまるで眠りこけている。おまえのマインドとは、思考とは、分別とは、それが眠りこけて見ている「夢」なんだよ。酔生夢死。それに気づかない。ゆめから覚めなさい。気づきなさい。
バグワンは毎日毎夜の出逢いにわたしにむかいそれを言う。わたしは耳を傾けている。
* 幸いにわたしの鏡は、あれを映そうこれを消そうと動き回らない。青空をくもらせる雲や雨のように、すべては来て映って動いて去って消えて行く。おびただしい去来に、鏡は執着しない。来れば映し、去れば消え去らせ、求めて呼び映しも、求めて追い縋りもしない。年々歳々花は相似て見え、歳々年々人は同じでないと謂うのと同じだ。無数に影は去来するが、在ると思えばいつしか在り、無いと思えばいつしか無い。夢だ。夢の思い出は莫大だが、青空のような無垢の鏡一枚でいられた自覚ははずかしいほど少ない。なかった気がする。ただうっすらと俺は夢を見ているらしいと分かってきている。それでいて、せっせせっせといろんな影を鏡に映している。それがまるで生き甲斐かのように、である。わらってしまう。
* ちょうど十年前、七月一日の「私語」にこんなふうに書いている。こうしてみると、まさしく十年一日、ちっとも変わってないようで忸怩とする。
* 夢から覚めては何のこっちゃというものだが、夢見ているうちは面白い面白いと夢に興奮していた。なんでも、「仁の風景」と「題」された大小相似の風景画を自分で描き、上下に並べてみると奥行きふかい一つの景色になったので、大喜びして画中の人といっしょに繪の中へ飛び込んで行った。
なぜ「仁の風景」で、なぜ描いたかも分からないが、ふしぎに嬉しい珍しい夢であった。だが、こう醒めて書いてみると、あとはかもない。
バグワンは、このとらわれ多い生の現実を、醒めてみれば、ただ呆れるほどはかない夢だとなぜ「気付かない」かと、繰り返し言う。気付きはじめているが。その先である。人生が虚仮(こけ)とハッキリ気付いて、どう、自身の本性を知るか。
* 月があらたまった。それとは、いったい、何なのだろう。
2009 10・1 97
* 二時間ほど寝ていたか。四時半頃手洗いに立ち、そのまま眠れず、「マタイ傳」を十九章読んだ。読みやめられず、魂を吸い取られるように読んでいた。
旧約へは、かなり入りにくかった。太古、上古の世界だった、神も人も言葉も。
マタイ傳は、そのままいまの私の思いで聴ける。
ちょうど今、『法華経』を観音品まで読んできているが、仏経また、旧約ともかけ離れた「超世間の言葉と讃嘆」が描き出されている。佛は人だと聞いてきたが、経典を成している時も空も、佛も、人間の実感からは果てしない厖大な理法を体している。
理知が働くからではあるが、『般若心経』はまだしもわが手に戴いて汲み取れるところがある、具体的にとは言わなくても、認識の対象として、大いにある。
だが『法華経』はなまじの理知など受け付けない。言われてあることは、具体的と言えば具体的でよく分かるけれども、その分かりがどこへ運ばれて行くのかは深い観念の底に沈みゆき、戸惑いと懼れとが残る。浄土三部経を受け止め得るように、受け止め得た気にさせてもらえない。なかで観音経などは飛び抜けて分かりよいのは観音信仰について下地があるからだろう。
読誦の回数も足りないのであろう。阿弥陀経や観経は繰り返し返し何度読んだか知れないのだから。大経でも数度は読んでいる。
それでも、いま「マタイ傳」を(数度は読んできたが)新たに読みはじめた瀧の水を吸い込むような感動は、新鮮で無比。信仰とはちがう。感嘆であろう。讃嘆でもあろう。いや感謝というのが当たっている。感謝しながら、深く羞じ慚じる。と同時に、それでもこのまま生きて行くだろうと感じもする。そのかすかな力みが慚愧を誘うけれども、たぶん…と思うのである。
2009 10・3 97
☆ 「マイガール」 第一話 薺
金曜にはじまったテレビ朝日のドラマは、音楽が澤野弘之氏と聞いていたので、音楽だけ目当てで観たのだけれど、思いがけず感じるところがあり、泣いてしまった。
今朝、寝覚めに思い出し、涙が出た。
留学する、と言い残し去った年上の女性を忘れられず、正宗君は毎日彼女に宛てて手紙を書くが、返事は一度も来ない。
別れから六年経ったある日、正宗君は、彼女が亡くなったとの知らせを受け、彼女の一人生み育てていた、五歳になる自分の娘の存在をも知る。
「六年も音沙汰なかったんだ、お前の娘のわけない」と諭す友人の言葉に、半ば頷きながら、戸惑う正宗君だったが、投函されなかった彼女の手紙を読んだ正宗君は、自分の娘だと確信する。
彼女のみごもっていた当時、正宗君は高校三年生。
「わたしが正宗君くらいのとき、いろんなものを見たいと思ってた」
彼女は、正宗君に家庭を背負わせるのでなく、一人生むことを選んだ、愛ゆえに。
「恐くてたまらない」
配達されなかった手紙には、彼女の正直な気持ちが綴られてい、正宗君は、別れた後の自らの愛の報われたことを知るが、彼女はもういない。
娘の存在が、なんとなく日々を消化していた正宗君を変えてゆきそうなのを予感させ、一話は完結。
何かにじっと耐えているような娘のようすから、経済的にも社会的にも容易でなかったシングルマザーとしての彼女の暮らしがうかがえる。
彼の将来を想い、一人で子を生む女性、という設定は、危ういとも考えられるが、わたしには、すっと納得がいった。
彼女は、千に一人、万に一人の、愛深き女性なのだ、と。
澤野氏らしい音楽を聴くことは、一話目ではできなかった。音楽担当者に、澤野氏と連名でもう一人いたことが関係しているのか。わからない。
* 東工大の学生君たちにも、似た物語を演じていたのが何組もいたなあと、思い出した。このドラマには気もついてなかったが、第二話に気づいたら観てみよう。
物語の設定には興味がある。昨日「グレート ビギン」とか謂った宇宙や生命の創始を美しくて凄い映像で観せる映画を半ばほど観ていた。「二つが一つになり三つになる」誕生の神秘と必然をナレートしていて頷いていた。
そのまえに「姉のいた夏、いない夏」という佳い映画も観ていた。まるで『みごもりの湖』だと妻と言いながら観た。大好きな姉の死を、その軌跡をふみに成長した妹が遠い旅に出て、昔の姉の恋人とも出逢い、姉の最期へ迫って行く。そして、Uターンして母の待つ家へ帰って行く。『みごもりの湖』で妹槇子が、失踪して杳として行方知れない姉菊子の足跡を辿って行く物語、人が人を知るということの計りがたい難しさを「生死」を見つめて呑み込んで行く物語。
映画では姉に恋人との間の子はなかったようだが、菊子には恋人幸田との間に子が果たしてあったか無かったのかも、作者は微妙に問題として組み入れていた。
* 「二つが一つになり三つになる」神秘。それは、生きものが生きて在るあいだの最大の課題だとわたしはいまも考えている。幾つも書いたわたしの物語は、はやくから執拗にその問題を組み入れながら書かれていた。
究極のフィクションであるが、人生のリアリティを問う困難で大事な課題だと思っている。上のドラマの筋を聞かされ、本筋が今後どうなるかは知らないし別ごとだが、「娘」を思いがけず得た(であろう)「正宗君」を羨む気持ちが、明らかにわたしには動いている。
2009 10・11 97
* 夜前『マタイ傳』読了。臼井先生の『安曇野』第四部にすすむ。
荷風の『ひかげの花』読了。『腕くらべ』『あぢさゐ』『つゆのあとさき』『ひかげの花』と読んできた。時代が、藝者から女給へまた私娼へ移り動いている。情緒纏綿というふうにはあまり感じない。まぎれない女の姿・タイプは書かれている、が、思いの外に書かれてある女の一人一人はワンパタンで。風景や情景の描写・表現の方が女よりもはるかに生彩を見せる。
次いで、名作の誉れ高い、頂点かと思う『濹東綺譚』を読む。
直哉のごく初期短編『彼と六つ上の女』を、おもしろく読んだ。吉原の大店「角海老」の花魁に若い直哉は通い、花魁に気に入られていた。直哉も気に入っていた、互いに惚れ合っていて、付き合いはかなり長く女が廓の外へ出てからも続いたようで、女が年上だった。
この作の表現にかなり「直哉」が露出している。何度も立ち止まった。
「how to play a love sceneと云ふ事をよく識つた女だ」と初会で彼(直哉)は思っている。そして「或満足を与へ」られたとも。「彼と女は互いに冷い心を潜ませ、熱した恋の形に耽つて居た」と。
直哉は性にも性欲にもまっすぐ健康に立ち向かう思想の持ち主だった。しかも男と女との触れあいの奥には、男にも女にも「何の興味もない、又必要もない、『無益な殺生』」に類するエリヤがある。直哉は女の示唆をうけいれてそれを悟っていた。
* 直哉は女を、「美しいと云ふより総てがリッチな容貌をした女」と書いている。この「リッチ」は金に卑しいそれでなく、直哉のセンスでは、相当な、いわば最高度の褒め言葉であった。かれが漱石先生の文章を「リッチ」で、自分はかなわないと褒めていたことをたしか阿川さんの本は伝えていた。それに触れてわたしも書いた。映画「ベスト フレンド」のバカ売れ作家が「リッチ」と呼ばれ、真実尊敬される「フェイマス」作家と対比されていたのとはちがい、直哉が「リッチ」と観るのは、豊かな大いさを内包した人間や藝術のキャパシテイという質量なのであろう。わたしは、この「リッチ」を尊敬する。
* 同じ直哉のやはりごく初期に、『こども四題』と題した寸景描写のみごとな寄せ書きがある。直哉の簡潔で把握確かな文章・表現のまさに「エッセンス」で、一種の名作を成している。
直哉の作を手書きで書き写して特色を学ぶなら、この作品がよい。
2009 10・12 97
* 広島の理史君、薩摩の佳い焼酎「喜左衛門」と「赤兎馬」とを贈ってくれた。うまい。礼を言う前に少しずつ味見をして喜んでしまうところが、酒飲みは困る。困るけれども嬉しい。ありがとう。きっと元気に過ごしていてくれることと想います。ありがとう。
☆ 風、こんばんは。
いいお天気がつづいています。
今日で三連休は終わり。
そろそろ、床のワックスがけをしなければならない季節になったなあ、と、少し気が重い花です。
『夜明け前』は、幕末明治の動乱の中心なりその近くにいた人物でなく、馬籠本陣の一平民の立場で綴ってあるのが稀有だと思います。一般人である自分にひきつけて読み、想うことができます。
今回の衆議院選挙の前の盛り上がりですとか、後の改革を応援する気持ちには、直接どうこうできない一国民としての歯がゆさもありながら、一人ひとりの強い思いなしには国は動かないこと、同時に、強い思いで変革をもたらすことの可能なのを知りました。
それが、半蔵の熱い気持ちに共鳴するのだと思います。
藤村は、父親のこととしても、どんな気持ちでこれを書いたのかなあ、と考えながら読んでいます。
ではでは。 花
* 『夜明け前』はほんものの「大文学」で、露伴でも鴎外でもこういうのは書けなかった。偉いのは、藤村、漱石、潤一郎と、わたしに躊躇わせなかった拠点は、藤村の場合、『夜明け前』だった。興味津々、読書の嬉しさをたっぷりもらった。
読書の嬉しさ。鴎外なら『渋江抽斎』、翻訳の『即興詩人』。露伴なら『運命』『連環記』。花袋なら『田舎教師』『時は過ぎゆく』『百夜』。瀧井孝作の『無限抱擁』。鏡花なら『高野聖』『歌行燈』『海神別荘』。秋声なら『あらくれ』。直哉なら『暗夜行路』。
* お天気のいいのは嬉しい。
2009 10・12 97
* 「片鱗」という語を、なにかの片端、切れ端のように誤解している例が、ときに見受けられる。才能や価値あるものごとの片鱗なので、うっかり誤用すると恥ずかしい。「濯鱗清流」とわたしがものの本に題するとき、「鱗を濯う」とは、精神的ななかみや、研かねばならぬ才能を意味している。むろん「清流」とは、自分より遙かに何もかも優れた大先達への敬愛や信頼を謂うている。
今日もゲェテを読んでいると、わたしの永く胸に畳んで思ってきたのと同じことを若いエッケルマンに奨めている言葉がならんでいた。
* 自分もよくトンチンカンをやる。たまたま人のトンチンカンを見てしまうときは、なんともこっちも気恥ずかしい。
2009 10・13 97
* このファイルの冒頭に、ヒロシマ・ナガサキ両市の「オリンピック開催」立候補を応援のアピールを掲示した。気持ちは、そこに書いたとおり。
☆ ヒロシマ・ナガサキの「オリンピック」開催立候補を、推す!
成る・成らぬを度外視しても、高く反戦と平和の趣旨を掲げ、核廃絶世界への魁として世界にアピールすることは、この際、日本国民の熱い総意としても意義深い。
常識的な慎重論などしばらくワキへ置き、運動費には国民の寄付を求めてもよい。
両市長の提案はこの際一つのファインプレーであり、日本国民にだけできる絶好の核廃絶・平和アピールとして、官民あげて、心と声を揃え世界に訴えたい。私もぜひ。
作家・日本ペンクラブ理事 秦 恒平
2009 10・13 97
* 長い作品の校正は気骨が折れる。しかし校正は一面推敲でもあり、いまなら一字一句にも心を配れる。印刷されてしまえば万事休す。爪で字をひっかいても何ともならぬ。
2009 10・14 97
* よせばいいのにとも思ったが、ひょいと背中を誰かに押されたように、「mixi」に、新しい「連載」を始めてしまった。投げ出すかな。分からない。
『最上徳内 北の時代』の冒頭にわたしの「部屋」を紹介している。あの「部屋で逢う」人の話を書こうというのである、古今東西を問わず。実在・非在の人を問わず。
さ、どうかな。うまく行くかな。なんと、いきなり「ゲーテ」先生と逢い始めたぞ、おいおい。
2009 10・14 97
* 「部屋で逢う」を、朝のうちに書き継いだ。ま、行けるところまで。
2009 10・15 97
* 『部屋で逢う』は、いまどき何をトチ狂うかと笑われているだろう、ゲーテ先生をお呼び立てしつづけている。意地づくで書くのではない、わたしの敬意と関心とがさせている。もうしばらくゲーテ先生と逢い続けてみたい。どこかでわたし自身を語っているだろう。
2009 10・16 97
* 「mixi」に、「部屋で逢う」という連載をしている。わたしの「部屋」のことは、小説『最上徳内』のはじめに紹介している。わたししか入れない「部屋」に入り、襖やドアの向こうへお呼び立てすると、古今東西の、親しい人がわたしと話しに出てきてくださる。
このところその「部屋」にわたしはゲーテ氏をお迎えしている。もう数日を重ねているが、今日は、こんなことを。
☆ 「ときどき、短い言葉で、とても深い示唆をくださいます」とわたしは云った。
「そうかね」とゲーテ氏は底知れない穏やかな眼でわたしを観た。
「人の到達できる最高のものは」と、「仰っています。それは、<驚嘆>だと。もし根本的な達成や現象に出逢って真実驚嘆させられたら、その喜びや称讃に満足するがいいと。それ以上は人には実は許されていない。それ以上を背後に探ってももうなにも手に入れられない、そういう、それほどの驚嘆には、いかなる理解も及ばない値打ちがある。そこに人知の限界がある。鏡を覗いて、すぐに裏の方にまだ何かがあるかと裏返してみるのは子供のすることだ」と。
「およそ人間の文化の行きつく最高で最深の歓喜は、無垢の驚嘆だろうね。そこで人は謙虚になる。そこで人が厚かましくなってはいけない。」
ゲーテ先生は、そこで、にっこりされた。
* 世間へ出向いて人交わりしてせかせかとモノを言うてくる暮らしを、極度に割愛するようになり、わたしの日々に、やわらかい日だまりも出来るようになった。まだそれは狭くて淡くて頼りなくて、陰気に濁った、気味の良くない場面の方がはるかに広くてイヤなのだが、ま、一気にどうなるモノでもない。
* 息をつめ、地に生えひろがるこんぐらかったえにしだの茂みを、這うようにくぐり抜けて行こう行こうとしながら、吐息しているような日々であるけれど、それも「夢」と見えている。夢と知りながら「覚めざらましを」と歎くのは愚かの極みだが、そこに云うに云えないおかしみも感じる。おかしみという思いは、奇妙だ。余裕でもないのに余裕がましく感じられ、ふと満たされていたりする。あほやなあと、自分をわらいながら。
2009 10・19 97
* 詩は、わたしには、むかしから「むずかし」かった。
ゲーテは、「大体、詩人として何か抽象的なものを具象化しようとするのは私の流儀ではなかったよ」と云い、「ほかの人が私の作品を読んだり聞いたりするときに、私と同じ印象をうけられるように表現する以外に方法がなかったのさ」と云うている。
「しかしながら、私が詩人としてある理念を表現したいと思ったときには、はっきりした統一があって、しかもそれが一目で見渡せるような短い詩でそれを試みた」とも云う。
詩を書かないわたしには機微のところが難しい。
「知性には理解しやすくなる、それによって作品として良くなったとは、だが、いいたくないな」とも、ゲーテ。むずかしい。そして「つまり」と彼は云う、「文学作品は測り難ければ測り難いほど、知性で理解できなければ理解できないほど、それだけ優れた作品になるということだね」と。ウーン。
2009 10・21 97
* 「抱き柱は要らない」とわたしは云ってきた、ここ数年か、それ以上か。要らないと云っても抱きついている柱が何本も有るのかも知れない。穿鑿はしていない。
次に紹介する述懐最後の要所、「人と同じでいる安心は、いらない。」は、上のわたしの思いに近似した強いマニフェストになっていて、ふと目が留まった。
☆ 人と違って 栗
小学三年生だったか、四年生だったか。
遠足で、同級生たちが、キティちゃんなどのかわいらしい柄のついたリュックサックを、大人っぽいナップサックに切り替える年頃は。
いつまでもリュックサックのまま歩いているわたしの背後で、
「*年生にもなって、リュックなんて、ねえ」
と囁く声が聞こえた。
音楽の授業で使う縦笛も、真白い新品を買ってもらっている同級生の中で、わたしだけ、家の誰かが使っていた深緑色のだった。
あれもこれもみんなと違うのに気後れし、新しいのが欲しいと母にねだると、
「まだ使えるんだから、使いなさい」
と押し切られた。
後になって、ナップサックも、白い縦笛も、買ってくれたけれど、しばらくは、周囲と違う古いものを使っていた。
今思えば、壊れたわけではないのだから、長く使えばよかった、と思うが、子供の世界で人と違うと、なかなかに周囲の眼が痛くはあった。
中学入学時、ねだって赤い自転車を買ってもらったら、中学に姉のいる同級生たちが、
「白い自転車でないとダメ。赤い自転車なんて、先輩に睨まれるよ」
と、盛んに諭しに来た。
世事に疎かったわたしは、中学生の上下関係の厳しさを知らなかったので、赤色の自転車を買ってもらったのだが、通学するのが恐くなり、そのことを母にうったえた。
母が、小学校の校長先生を通し、中学に通学自転車の色に関する校則などないことを確認してくれたものの、もう一人、黄色い自転車を買っていた同級生と、悲壮な覚悟で中学入学に臨んだ。
結果として、自転車の色のことで先輩の不興を買ったことは、わたしの実感では、なかったけれど、周囲と違うことにより、浮いて見えてはいただろう。
どうして人と同じが安心なのだろう。
ルールを守り、突飛な行動をしないことを求められる傍ら、成績は飛び抜けることが歓迎されるのに。
就職活動時、決まって訊かれたことは、
「あなたの長所は」
「人より優れているところは」
これまで同じ制服を着せ、靴下の柄や髪をしばるゴムの色まで管理しておいて、急に「人と違う個性を」といわれても。
考えてみれば、子供の頃、わたしが人と違ったのは、リュックサックや笛や自転車など、持ち物が、だった。
では、わたし自身は。
今は、自分の持ち味は何か、探す日々。
人と同じでいる安心は、いらない。
* 堅い意志でないと、これは云えない。「みんなで渡れば怖くない」「みんなそうしてる」「みんな云っている」「みんなが」「みんなが」とみんな「安心そう」に云って、常識だの良識だのと称するものが、臭く濃く醗酵している。それをまるまるバカにはしないけれど、いくらかバカげているという真実も見えている。
「人と同じでいる安心は、いらない。」
身内の思いがする。
* 「千人の多様な子供がいて、そして千人の多様な大人が出来るのです」と、凡庸な知ったかぶりをとくとく言い散らしている、五十年配の学校関係者がいて失笑した。
子供たちは「まずは多様な」存在であるが、これも甚だ疑問なことは、上のナップサックや自転車の色の話でよく分かる。
「みんな云うてはるし」「みんなそうしてはるし」と云いたがるのは、妥協に惑いかけた子供の正直であり、個性を喪いかけている、いや個性から怯懦に逃げかけているのである。それが子供だ。
その状態から起ち上がるか、その状態に狎れてしまうか。どっちつかずに、しかし、大人に近づいて行く。
そして世の大人たちときたら、世間一般、多様どころか、あまりに情けなく「かなり一様」である。ナップサックや自転車の色で分かるように、あるいは多様だったかもしれない子供が、小学校の高学年になり、中学・高校・大学になればだんだん個性的どころか進んで一様化し、すっかり大人になると、もう主夫も主婦も、男も女も一様に平均化されて、ながいものに平然と巻かれたがる。
だれかが謂った「人間もいろいろ」というのは、言葉の遊びに過ぎない。赤信号「みんな」で渡ればこわくない式にしか生きられないのが大方だ。
わたしの七十余年の人生で、大人が千人いれば、千人の多様な大人がいる、などといううそくさい実感はとうてい持てなかった。
* 上の人の、「人と同じでいる安心は要らない」という決意は、しかし、とびぬけて特異。すばらしい。大人達の九割九分は、とても、そんな毅然とした科白は吐けない。ま、おかげで世は平安、権力者は安泰なのである。
2009 10・22 97
* 昨日今日、とくにややこしい夢も観なくて。早く寝ようと思いつつ、昨夜もたくさん本を読んだ。
一昨夜、岩波文庫の『法華経』上中下三巻とも、解説や注もふくめ読了した。1990年の春に一度読み終えている。わたしの法華経受容は、あまり進歩していないなあと思う。
仏教に限らず「経典」「聖典」にはいろいろ在る。
『般若心経』など一貫して「教え」そのもの。『マタイ傳』『マルコ傳』などはイエスの行跡とともにそのつどの「教え」がストレートに、また譬喩で伝えられている。
厖大な『旧約聖書』こそいろいろで、神秘的でもあればはなはだ現実的でもあり黙示的に不思議でもある。
『浄土三部経』には、幾らかの調子の差はあるけれど、説話的な要素に「教え」と受け取れる理念や示唆が相応に具体的にすら語られ説かれている。
『法華経』は二十八部に分かれて縷々多くをいろいろに物語ってくれる。此の法華経なる聖典が、一乗の、他の何にも優る経であることをつぶさに説いている。それに比して、その優れた「法華経」そのものの「教え」の本態を、どこでどの文句によって統一的につかみとるのがいいのか、それが難しい。難しいなあと思いつつ、読みおえてきた。わたしの姿勢に何かまちがいがあるのだろう。
* バグワンに関して久しく此処で触れないで来た。道教の根本経典の一つに基づいてバグワンが『黄金の華の秘密』を語ってくれるのが、これまでの語り口と異なっていて、それは翻訳に拠るのだろうが、老子とはまたすこしニュアンスの異なったやはり「道教」にわたしが戸惑うからである。
それでも夜前、聴いたバグワンの言葉は強かった。
世の中で出逢うあらゆる「機会」を忌避して逃げよとは、バグワンは云わない。「それよりもその機会を使いなさい」と云う。バグワンは山に隠れよ、ヒマラヤへ遁れよとは決して云わない、街なかに、市なかに在って生きよと云う。
「絶えざる混乱を使わなければいけない。おまえはその目撃者でいなければいけない。それを見守りなさい。どうすればそれに影響されないでいられるか、それを学びなさい」と。「自分がしていることを意識しつづけなさい」と。
「日常生活のなかで、自他の思いをいっさい混入することなく、ものごとに対してつねに打てば響くように対処する力をもつ」ように、「それが第一の奥義」だよと。
但し、「行為しながら、しかもその行為に同一化してはいけない。傍観者にとどまりなさい。何であれ、必要なことなら打てば響くようにやりなさい。必要なことはすべて仕遂げつつ、しかも単なる「doer やりて」になってはいけない。それに巻き込まれてはいけない。それをやり、それを終わらせてしまいなさい──打てば響くように」と。
「主観を交えずに行動しなさい。状況に留意して、何であれ必要なことをするがいい。そのことで心配してはいけない。結果を苦慮してはいけない。必要なことをただ仕続け仕遂げ、油断なく目を見張り、泰然自若として遠く離れた自身の中心にとどまり、そこに根をおろすがいい」と。
2009 10・23 97
* 部屋を片づけ、モノを始末していたときに、「(ほうやの教育)第9号 昭和58年12月15日発行」という広報紙の巻頭に頼まれて書いた一文が見つかった。末尾に添えられた筆者略歴の中には、現在岩波書店の「世界」に『最上徳内』連載中であり、保谷市図書館協議会委員を勤めているとある。文中図書館活動に触れているのはそのためというより、それだからこの文を依頼されたモノと思われる。
とにかくこの時期は、わが家の親子四人が四人とも大人ないし大人になりかけていた「意識的な時期」であった。その意味で、はからずもこれはわたしの云うわが家の「大過去」を証言している。妻も、娘も、息子も、往時をいまどう思い起こすだろうか。
☆ 教育を考える -ごく私的に- 秦 恒平
こく私的に「家庭」内のことから語って、責をふさごう。
娘は大学をこの春、出た。今は、赤坂にある美術館に勤めている。息子は私立高校の一年生、電車通学している。二人とも朝は早い。筆一本の私はたいがい寝床の中にいて、ご苦労さん、気をつけて、とつぶやいている。十年まえまで、私も、超満員の西武池袋線で通勤していた。二足のわらじは五年はいていた。重かった。
四人家族、わが家くらい夫婦観子で話し合う家庭はすくないだろう。国政選挙でも、世界情勢でも、三面記事でも、文学美術演劇でも、哲学でも。
互いに、ずけずけと突っこむ。あげく娘が金切り声もあげるし、息子が怒鳴る。そういうことも、まま、ある。ご近所には申しわけないが、泣こうが喚こうが旺盛に話し合うのが、結局、私たち夫婦の娘や息子に対する「教育」だった。また、「伝達」だった。
そして昨今では、いや、もう数年前より子供たちが家庭の外から内へもちこむ話題が、私にも妻にも貴重な「情報」や「知識」となりつつある。家庭内教育が、親から子へ一方的になされる期間など、そう長くはない。親も子から教えられていることは、沢山ある。
だが、親に対して子が、へんに生意気になることは許していない。これを許すと、家庭の外へ出て、先生や先輩や友だちにも、そうなるオソレが生じやすい。人と人とは密着して暮せないが、そうも隔っておれない。その距離感を、親疎ともどもキチンと計れる物指は、じつは日常に用いるその人の「言葉」「言葉づかい」にひそんでいる。これを軽んじていると、結局は、自分自身の位置を心の内でも外ででも、見喪ってしまう。だから社会人の娘にも、おろそかな物言いはゆるさない。高校生の息子には、実力行使も辞さない。もっとも、そろそろべつの工夫をしないと私の方が体力負けしそうだが。
錯雑きわまりない現代を生き抜くのに、けじめをはかる物指が一本や二本で事足るわけがない。私たち家族が猛然と対話し、議論し、時に文字さながらの喧嘩に及ぶのは、お互い目盛りのちがう物指で、あっちから測りこっちから計って、評価の程を示し合っているようなものだ。その結果、お互いにより適切で、より有効な物指を分かち持てるようにもなる。話し合う時間の長い短いは、さほど大事とは考えない。要は「話し合う」というお互いの了解と連帯感とが、日常の判断や行動に知らず知らず安心と自信と確実さをもたらすようになる。そして知らず知らず、譲れない立場と譲れる立場とを、自分でも、相手にも認め合い、認めさせ合うことが出来るようになる。夫婦といえど、親子といえど、姉弟といえど、整列もすれば分散もする。思考や行為を強いることは許されるものではない。「理解」とは、そういう事だと思う。
仕車柄、下保谷図書館をよく利用する。目下書いている小説や評論の主題にひかれて、借り出す本にもしぜん傾向が生じてくる。また時にはまるで無縁な読物を借りて帰る日もある。どっちにしても自分が今どんな種類の本を読んでいるかなど、あまり人に覗きこまれたくはない。読書の秘密はだいじな人格権なのだ。
「A市の図書館へ行ってきたけどね。あそこじゃ、コンピューターに、利用者の実名を残らず入れてるンだって」
わが家で、こんなふうに「問題」を投げ込もうなら、
「エエっ……それは……」と、すぐ食いついてくる、「モンダイですよ」と。
たしかに機械の使いようで、市民の読書内容は「その筋」の手に容易に把握され、もし悪用されれば恐るべき思想統制もすみやかに可能になる。弾圧も可能になる。事実そういう恐怖が、この戦前、戦中には日本国民を金縛りにしたまま、戦争参加へ駆りたてた。
家族がいつも話し合っていると、こういう「モンダイ」の所在へ、さッと近寄れる。そして「問答」が積重ねられるにつれ、はっきりと娘にも、息子にも自分の意見や判断が、その物指が出来て行くのが目に見えてくる。「核」でも「角」(=田中角栄政権)でも、歴史でも文化でも、ああ、こういう考え方が出来てきたなら、他の事も、かなり安心してよさそうだ……などと。同じ問題を、おおかた一緒に考え合っているのだから、やはり「理解」の幅はひろがり厚みも深くはなる。かりに意見は別れても、なにより親としては安心できる。
特筆しておきたいが、今あげた「モンダイ」点など、わが保谷市の図書館は、申し分ない良心的な配慮で、市民の読書の秘密を守ってくれている。中央図書館もまだ出来ていない。お隣り田無市中央図書館の事務室分とそっくりの広さしかない下保谷図書館だ。けれど黒子館長以下、館員諸兄姉の運営の努力と親切と見識とは、広しといえど日本中にそう類はないように思う。安心して、信頼して、図書館が利用できる。
地域内教育を論策する資格は私にはないが、「超」乏しきに耐えながらのわが市の図書館活動を外から内から眺めていると、あれでこそと思えてくる。保谷もいい町だナと思えてくる。金と物とが有り余っているだけが、住み良い町だとは思わない……と、まァ、そんなふうにもわか家族の話し合いは展開して行くわけだ。
むろん、各家庭でもっといろんな「方法」が工夫きれていい。が、家庭内「教育」は、要は、家族が同じ土俵に入ってなさるべき相互性の濃いもの。ことに学齢にある子供たちを、あたかも「孤児」かのように放りッぱなしは、どんなものか。干渉ではない、熱い親子の取り組みあいをと、私自身は、かつて子供心にひしと憧れたのを告白しておこう。もともと家庭のもつべきものを、家庭の外で、たとえば学校内で自力で補填補充するのは、不可能でないにしろ子供にはかなり荷が重い。つらくて、むずかしい。
そして、日本の学校「内」教育は、そういう悩みを抱いた生徒の魂を癒すには、むしろ年々に抑圧的な管理の目ばかりを注ぎつつあるようにも見える。しかも飲んで食って訪ねて、P(親)とT(教師)との教育「外」癒着の傾向が、ぼつぼつ一部に目立っていないか。PTAの「A」は、Adhesion(癒着)の「A」では、決して、なかったろうに。
* 雨が降っているが、「いま・ここ」の気持ちをもう少し落ち着かせたいために、傘をさしてでも、歩いたり、乗ったり、読んだりしに出かけてみようと思う。もっぱら雨は家の中で聴いてきたが、出勤という窮屈な習慣からはもうこれで永く離れてきた。雨の出をいとうことももうあるまいか。
2009 10・26 97
* 二十六日、雨が明かって帰宅すると、ユーウツな用事と同時に、また、有り難い、わたしの往時の「私語」を今回は33項目に分類した、たいへんな仕事を送ってきて下さっていた。むろん全部ではありえない、今回で四度目になるが、2004年、平成十六年の一年分だけれど、それだけで、もう本にした初期三年分(「濯鱗清流」上下二巻)に匹敵する。よくもまあ…と、わがことをしていただきながら、感嘆して、それから、深く感謝。専業主婦とはいえ、お年寄りの介護もありまったくヒマな方でないのは承知している。だから、言葉もない。ありがたいことである。
書き飛ばしていたものではない、日々に心をいれて書いて書きためていたもの、それを悉く読み分けて三十三ものカテゴリーに分類し積み上げてもらっている。「言葉・文」を介しての「共生」と謂うも同じいこと。冥利に尽きる。
* いきなり「京都 4」とある。京都関連を纏めた四回目という意味。ふと頭の所を読んでいった。
☆ 京の萩の寺へ法事に
* 薫中将はとうどう都から木幡の山も越えて宇治八宮のもとへ通い始めた。そこには大君、中君がひっそりと父八宮に愛育されている。それだけではない、薫出生の秘密に深く触れていた人物もここに身を寄せている。宇治の川瀬ははやい。風も鳴る。今の宇治平等院の対岸辺りと眺めて読んで間違いない。妻と、京都ホテルからチャーターの車で、山科随心院、三法院、法華寺を経て平等院まで行ったのは何年前になるだろう。この前は稲荷から羽束師を経て桂川にそい、嵐山へむかった。
あまり懐かしくて、京都の風光を、東西南北、ひろやかに、こまやかに思い浮かべると、くるしく、胸がきしるようだ。 2004 1・7
* 秦テルヲのことを、考えている。考えている。じいッと考えて、ときどき書いている。
京都へ行くということも想い描いている。今度も、行ったら帰ってくる。行きの列車内時間も役立てねばならんほど今回は切羽詰まっていて、せめて帰りの車中ぐらい、となり座席にいい人が並んでくれるといいなあ、などとラチもない空想で時間をとってしまう。今回は珍しく行きも帰りもまだ切符は用意していない。正月あけだし、なんとでもなるであろう。あけて月曜が病院と電子文藝館の会議。これでは向こうで遊んでいるヒマがない、いつものことだが。京都では、ぜひ何処へ行きたい、何を食べてきたいということは、かえって、ない。行ったつもり、食べたつもりが利く。それがわたしの、京都。
2004 1・12
* なにもしない、呆然として、ときどきペットボトルの茶を飲む。少し眠っていたと思う。名古屋から先は用心して眠らないが、ぼうとしていた。簡単に京都に着く。地下鉄で市役所まで行き、外へ出ると曇って心持ち霧のような雨。ロイヤルホテルは直ぐ近く。
シングルが用意してあったらしいが、顔を見てツインの部屋にとり替えてくれた。
三条河原町の画廊は琳派っぽいやすい展示でよくない。三条大橋をわたり、さてと立ち止まり縄手に入って「今昔」に寄り凱(ときお)クンの顔を見てきた。母上はすっかり二階で寝たきりだという、気の毒に。
「龍ちゃんは元気」
「はい、元気にしてます」と、それだけで安心して、古門前を東に。至文閣を覗いて、近いうちに会長か社長か販売部長と対談したい意向を申し入れておく。切り通しに入り正観堂で、体調わるいと風の便りに聞いていた主人を、ちょっと見舞う。声がかすれている。元気に「はやくよくおなり」と言っておいて、直ぐ近くの菱岩を覗き、主人岩松サンにいつも歳暮にごちそうを頂くお礼を言う。岩松氏、元気。
新門前で、もとの我が家はどこかいなと。家を出て目の前西よりの電柱がなかったら、通り過ぎてしまう。ひどいテナントビルになっていたのが、すっかり変わり、小ぎれいな今風の美術店に。ほほうと覗いていたら、店の人に見咎められた。むかし此処に暮らしていたというと「そらなつかしやろな」と言われたものの、さて変わり果てていてそんな感じも湧かなかった。
白川沿いに三条へ出て、星野画廊を覗いて星野さんに声をかけただけで、近代美術館へ。画廊の主人公、「あしたは、ぎょうさんきゃはりまっせ」と言われて、なんだかかえって意気阻喪。
秦テルヲ展をたっぷり時間を掛けてみた。練馬美術館より広くて明るい。展示の仕方も少なからず違うが、絵は絵で変わりなく、やっぱりよい展覧会だった。星野画廊は、なにしろ時期がわるい、と。歳末年始は、人出がどうしても春秋ほどよくない。それは確かに惜しい気がするが。
学芸部の島田康寛氏と担当の小倉さんに会う。初対面の小倉さんは、わたしの専攻の後輩にあたる。大阪日経の須山氏もみえて、スライド映写の打ち合わせをした。
さっさと済ませて解放してもらい、ひとりで、神宮頃道から青蓮院前を瓜生岩まで行き、西するかすこし思案して、懐かしい坂道はくだらず、知恩院三門を見上げたくてまっすぐ南にすすんで、圓山公園に入った。夕闇迫る池で、鴛鴦や鴨の泳ぐのをながめ、大枝垂れの桜木に烏の二、三、四、五羽もじっととまっているシルエットの美しさに感じ入る。枯木に寒鴉は似合う画題であるが、そんな常識をはるかに打ち破るほどの美しい風情に見とれた。長い豊かな枝垂れの優しさに、鴉。黄昏れて行く空を背に、黒い上の黒い鴉があんなにしんと寂しく美しいとは。
八坂神社に賽銭を投じて鈴を振り、下河原へ出て「浜作」まで行ったら、さまがわりして、此処がもう残った唯一の店になっている。祇園富永町の「浜作」は長いながい歴史を閉じた。不運の続いたあげくの最期の牙城になった下河原店だが、ちょっと店のさまは案じられる。幼なじみの女将とも言葉だけ交わしてきたが、おもわずウーンと声も出そうに老いていた。
京都も、かわりなくすばらしい場所はいくらもあるが、「人」だけは容赦なく老いてしまい、見る影もない。つまりは私もそうなのだけれど、勝手なもので、自分はいまだに中学高校大学生波の気分でちっとも変わっていない気で居る、いい気なものだが、そういう気で昔の女友達の顔など見にゆくのは「残酷なわるさ」に過ぎぬということを実感する。歳々年々人不同とは、無残な真実。京都へ特別いつもいつも行こうとわたしがしないのは、人が変わり果てて、しかも数を減らしているのが辛いからである。
八坂神社境内にもどり、思い出の深い辺りにやすらい歩いてから、楼門の石段を下りた。すっかり四条は宵の街なみとなり、こころもちとぼとぼと歩いて、ホテルに戻るよりも気分の嬉しい食事を、ぜひ祇園でして行きたくなった。中華料理の盛京亭も懐かしいけれど、もうすこし奢りたく、大原女屋でもその気分には物足りなかったので、よほど「味舌(ました)」の前で気は動いたが、それならいっそ通りの向こうの「千花」が恋しいと思い、縄手で下(しも)へ渡って少し戻り、心安い路地の奧の、風情の暖簾を分けて、予約もしていないのに声を掛けた。暮れにはめでたく恒例の昆布をもらっている。顔をみて、店中で愛想良く迎え入れてくれたのが、時間はまだ早い五時少し過ぎであった。
「千花」なら、料理は任せておいて何の不安もない。まだ刻限も早く、店中を独り占めにして、八十すぎた老主人に、また跡取りの板さんに、話し相手をして貰い貰い、酒もうまく料理もうまく、なにとなく寂しかった身内の京都に、ほうっと、佳い灯がともった。万という札を二枚出して足りますかという程度の奢りであるが、とても気分が好い。なにより出される器が総じて京風に華奢に美しいのもそうだが、酒器も瀟洒で、しかも徳利一つに酒のたっぷりなのが嬉しい。徳利の小さい貧相な店はイヤやなあといつも思うのは酒飲みの意地がきたないからか。
ここでは歌舞伎の今昔が話し合える。ほうほうと思う裏話も聞けるし、かなり役者の藝に厳しい。役者だけでなく、料理屋の板前の藝にもなかなかしたたかに中身の濃い噂が聴ける。むろん客がわたし一人だからの内輪な話だけれど。
さらには祇園のあれこれの老妓、ということは、つまりわたしも知って覚えているような名前のこと、また今いまの舞子のはなしなども聴けるから、酒のまずかろうワケがない。咄の肴にホンモノノ酒肴がこきみよく出てくる。いつもいうことだが、この店は、食べ物の出る「間」がすこぶるよろしくて、気持ちよく流れに誘われるように食べて行ける。刺身も吸い物も焼き物も煮物も、「千花飯」とひそかに読んでいる独特のご飯にも堪能する。明日の講演など忘れてしまっていた。
露地まで見送られて、四条通りに出たが、もう何処へ寄る気もない。木屋町か此処も馴染んだ「たん熊北店」のわきを河原町の賑わいに抜け出て、ぶらぶらとロイヤルホテルへ戻った。
もう少し飲みたいなあと、たががはずれている。地下へ降りて、瓶出しの紹興酒をグラスに一杯だけ飲もうと思った。伊勢海老を半身に料理したのがあり、それで、とろりと濃い、だれかさんがセクシイなと謂うていた紹興酒、を眼をとじて、ひとり、ゆっくり味わった。
部屋へ戻って、やっと、明日の心覚えに用意したものに目を通し、湯につかり、また缶ビールを一つ冷蔵庫から出し、テレビのチャンネルをぱらぱら押していたら、おっそろしいようなポルノ場面がテレビから飛び出し、呆気にとられた。
もってきた翻訳物のミステリをしばらく読んでいる内に寝入って。夜中に、軽く咳が出たので、起きてそのための風邪薬をのみ、また寝入った。百人一首を六十幾つまで数えていたが、枕元で起きろとベルが鳴ったのはもう朝の九時前だった。 2004 1・16
* 作家論、思想・文学観、人物評、読書禄、歴史、政治、心について、女、食いしん坊、旅、演劇、音楽、ペンクラブ、湖の本、ペン電子文藝館、健康、時事問題、等々と、拡がる。近代の、いや過去も通じて、おそらく「日記文藝」として少なくも最大量にちかいものが、いまも成りつつある。
2009 10・28 97
☆ 而今 月見草
八十年代、芸能雑誌「明星」に、松任谷由実さんの創作の秘訣が、短く披露されていた。
ユーミンは、時代の三歩先を行っている自分を自覚し、「二歩戻って、大衆の一歩先あたりに足先を持っていっているのよ」と、語っていたと。
「家事はお手伝いさん任せ。料理だけは、クリエイティヴだからする」
などという発言と共に、ユーミンの記事は、まことしやかだった。ユーミンのような楽曲制作のスタンスには、自我を割り込ませる余地が、極めて小さく思われるが、ポピュラー音楽に、自己は注入しても、自我は必要ないのかもしれない。
そして、ユーミンの楽曲が、とてもわかりやすく人々に伝わり、ときに感銘深いのは、事実。
頑固一徹の職人、山下達郎さんにしても、楽曲が「売れるかどうか」は、大事中の大事らしい。
「売れる」ことに第一の意義を置いてしまうと、創作が自分の思いとズレていってしまうこともあるのではないか。
プロの創作者なら、この類のジレンマに陥るときが必ずあると聞く。
ジレンマとうまく折り合いをつけられる人は、「二歩戻って、大衆の一歩先あたりに足先を持ってい」けるかもしれない。しかし、それで、己の「今・此処」に、真実正直であると言えるだろうか。
これは、わたしの長年の疑問。
あるいは、「今・此処」に正直であり得るかどうかが、「藝術」と「商品」の違いなのだろうか。
「音楽でやりたいことがなくなった」
今月、自死した加藤和彦さんが、書き遺した言葉。
フォーク・クルセイダースやサディスティック・ミカ・バンドで、新境地を切り拓いてきた加藤さんは、「時代より早すぎた」と言われる。
ムーブメントの魁と見られていた加藤さんだったけれど、変化のめまぐるしい昨今は、そんな実感も得にくくなっていたのか。
反骨精神を持ち、時代におもねることなく表現活動をつづけてきたであろう加藤さんの自死以来、「今・此処」について、考えている。
* 「いま・ここ」は、それしかないようでいて、じつに捉えにくい一種の秘密に似ている。
* 昔勤めながら小説を一心に書いていた頃、会社から遠くない或る昼ご飯の店を借りて、昼の店仕舞いしたあと、二階席をひとり借りて「書いて」いた。そこに、お店ゆかりの書家の書かれたという「問一問」の扁額がかけてあり、太宰賞受賞のとき、お祝いにとその額をお店の姉妹から戴いた。希望したのである。
* もしただ一つだけを問うてみよ、何をお前は問うかと問われたら。
「いま・ここ」に立つとは、その問いかけの難しさに似ている。「月見草」さんはどう問いどう考えて行くだろう。
2009 10・28 97
* 気が働かない。むかしの日記から写してみよう。
☆ その人の言葉が、どうしても「本気」とは聞こえないような人が、いるものである。ものを言うとき、だれしもが本気で言うとは限らないのは、こんな悲しげな事実・現実は無いのだが、概して人は「本気の言葉」ばかりを話しているものではない。それどころか本気で話すのは愚か者だ、バカだ、という価値判断すら現世ではかなりの力をもっている。本気でばかり話していると世間は狭くなるぞと、どれほど、声ある言葉でも聴かされ、声なき言葉で嘲笑されてきただろう。
やはり子供どうしで群れて遊んでいた昔、よく、「ソレ本気か」と問いただし、問いただされる場面に遭遇した。本気の反対語がなにであったか、「ウソ気」というような不熟な語であったかも知れない、人はたいてい「ウソ気の言葉」を表へ出すことで、世渡りの瀬踏みをするものらしいと覚えた。「じょうずにウソを言わはる」人がむしろ褒められていた社会が、身の回りに、ひろい世間に、明らかに実在していた。
* 「その人」のことがほんとに好きなのに、その人の「ことば」が、浅い薄いかざられた「ウソ気」のものとしか思われない、そんな不幸な体験を一度もしなかったわけではない。いや、何度も有った。そして、みすみすだまされると知ったまま、そこへ落ちこんで行く人もいないわけでない。物語世界には、まま見かける主人公である。山本有三の『波』の女、谷崎潤一郎の『痴人の愛』のナオミ。男をあやつるために生まれたような女の、おそろしいほどの魅力。
わたしなどは臆病だから、そういう女にはたぶん近づかないけれど、知らぬうちに近づいてしまってたら、どうするだろうかとは、想ってみることがある。そういう女ほどたぶん美しいのであろうから、厄介である。
室町時代の絵巻に『狐草子絵巻』があり、愛した女の正体が「狐」と分かり、男は恐れ厭いニゲに逃げるのだが、あの雨月物語の名作『蛇性の淫』でもそうだ。
妙なことに、わたしは、それらを読んだとき、それらに類似の伝承・伝説を読んだとき、「えぇやないの、狐でも蛇でも」と想った。
だから「信田狐」の伝説にも、それが歌舞伎になっても、「狐でもいいじゃないか、なぜイヤがる、バカらしい」という感想をたいがい持ったし、今も変わらない。
だから新聞小説『冬祭り』のような「絶境」の恋も書いたのである。
これを、さきに書いた「本気」「ウソ気」という意味に絡めて言うのなら、人間の「ウソ気」よりも、獣たちの「本気」のほうが幸福に近かろうかと想っていたわけである。つまりは人間の女の、男の、「ウソ気」のほうがイヤであった。
その人の魂に、とても根ざしているとは感受しきれない綺麗な浅い「ことば」を表情も平然と並べたてる女も、むろん男も、いる。自分自身がそうでないというのは厚かましい限りと認めた上で、そういう「ウソ気」のことばを普通に使って生きている人間とは、「お友達に」なりとうないと、わたしは永く思ってきた。
* 世にもおそろしいたぶん真っ黒嫌疑の毒婦型殺人ニュースが盛んに流れている。こういうのを言葉の正しい意味で、「凄い」という。
2009 10・29 97
* 前立腺癌のための血液検査の結果を近くの病院で聴いてきた。全く問題なく「きれいなものです」と、あっさり。
待つ間に、荷風の『濹東綺譚』を感嘆・称讃の嬉しさで、読了。かけ値なく「名作」と呼べて、懐かしい。むろん誰しもに、たとえば作家である息子の秦建日子にもひとしく同じ讃嘆を求めることは出来ないだろう。候べく候の書簡があったり、風情の漢詩や新体詩が点綴されていたり、泥溝(どぶ)の臭いと蚊の雲集する玉ノ井の娼家・界隈といい、そもそも泥濘(ぬかるみ)をしらない今の若者にはあまりに風情がちがっている。しかし、娼妓お雪の像は生彩をえて美しく、作者に擬してもいい初老文士の境涯といい、時代を超えて生きている。
むかし谷崎の『吉野葛』を読み、こういう小説が書きたいと少年ながら憧れた。もしあの頃に荷風の『濹東綺譚』を読んでいたら、まちがいなく、こういう小説が書きたいと憧れたに相違ない。随筆のように入って作中に作が重なりながら、自在に風趣に乗じて述懐を惜しまない。むろんわたしは今でも、こういう風に書きたいし、書きたい材料をもっている。余儀ない雑事に煽られて殺風景にも日々を凝視して生きているのは、それはそれで大切だが、『濹東綺譚』や『吉野葛』のようにしみじみ夢に遊びたい気は些かも失せていない。
このところ荷風の花柳界ものを幾つも読んで、かならずしも共感しなかった。わずかに『すみだ川』『雪解』を懐かしみ、分けて『雨瀟瀟』に感嘆したけれど、『腕くらべ』『あぢさゐ』『つゆのあとさき』『ひかげの花』など藝者もの、女給・・街娼・私娼ものには美感も共感もそそられなかった。むしろ疎ましかった。
だが『濹東綺譚』は清く光っていた。山本富士子の演じたお雪の稀有の好演が眼にあったのも乗りを助けているが、あの映画で男をだれが演じていたかまったく思い出せず、すべて焦点はお雪に結ばれていた。荷風が初めて一葉『たけくらべ』の「みどり」に並んでいい女を発見したという嬉しさ。いま、わたしは感傷的なまでジンジンして読後の時空を楽しんでいる。男と女との出逢いも美しく、別れ方も胸を打って、よい。逢うのは或る意味で容易だが、別れるのは難しい。その機微を描いて間髪をいれない荷風の達意・達観に哀しいほど心を惹かれた。愛という、この際あまり似合わないかもしれぬ一語の価値を実感させて、憎い限り。
2009 10・30 97
* 佐伯さんは、いましも『日本の「私」について』のなかで、漱石の『こころ』に触れておられるが、一昔も二昔もむかしの本だからしようがないとはいえ、作の読みは大昔の通説をなぞっていて、いただけない。
この作品は「死」が圧倒的な強さで支配していると、死の数々を佐伯さんは数えている。「K」と「先生」とだけの小説と読む「小宮豊隆以来の読み」に従順に随っている。
「K」と「先生」を死なせたあとの、「静」に子が生まれているか生まれようとしていて、「私」との間に愛ないし夫婦愛が育っている「現在の重み」を、佐伯さんも読み落としておられる。それでは作品『こころ』が死を克服して新しい生の物語に進んで行く漱石本来の思いがまるで汲まれえない。
『こころ』の「私」は、死のではなく、死生のドラマの担い手であり推進力であり、ともに自死した「K」「先生」の、「静」「私」らの現世に托した「生きる希望」の意味がまるで読めていない。本文が丁寧に読まれていない。
この「先生」は、明治天皇の三人も五人もなくなったところで自死する動機は持っていない。「静」を「私」に托してもう大丈夫という思いが、「K」のもとへと「先生」を死なしめたのである。
小宮豊隆以来、佐伯さんもふくめて『こころ』は片端だけの観念で読まれてきた。本文を丁寧に読めば陥るはずのない大きな「事実」「現在」がちゃんと書き込まれてあるのに。それを読めば、この作品がただ「先生の遺書」だけで成っているのでなく、「先生と私」「両親と私」の全三章が有機的に関わり合って死の向こうへ生の物語を、あたかも幾何学証明の補助線のように延ばしていることに気づいたであろうに。
主題は死ではない、「静かな心」を自身の所有として保ちかねた「K」「先生」の死が、新しい命により鋭く批評され克服された「生」の物語なのである。
わたしの『漱石「心」の問題』(湖の本エッセイ17)や戯曲『こころ』(湖の本2)を、よく読んで欲しい。
2009 10・31 97
述懐 平成二十一年十一月
花籠に月を入れて 漏らさじこれを
曇らさじと もつが大事な 室町小歌
露寒や凛々しきことは美しき 富安風生
あの月を捉へようとした馬鹿者を
むねの痛みに抱きしめてやる 湖
* 霜月。
* 今月のわたしの「述懐」歌は、どういう意味かと妻に聞かれた。「自分」のことだよと答えると、「分かった」と。
* よくは知らないが「捉月」は、太古来、人間の衝動として古今東西に在ったのではないか。猿でも、と、そのような画題の秀作を幾つか思い出せる。
「指月」もそうのようだが、わたしの子供の頃、そばにだれもいないとき、繰り返し懸命に背伸びまでして、じいっと月へ短い手を、指をさしのべたのをよく覚えている。満月にも弦月にも。時には、ひょいと縄をなげれば引っかけられそうに想った。
こんな掌説を書いたこともある。
春
若者は縄を投げるのが巧かった。縄を巧く投げたとて誰が褒めるわけでもなかった。若者はしょんぼり樹の下にうずくまった。腹も減っていた。夕闇が葉洩れに若者の上へ静かに落ちた。
春であった。
月影が淡く物憂くひろがって、遠い空はまだ薄紅の夕あかりであった。鳥が啼いて帰って行った。きれいな三日月であった。
腰の縄をまさぐりながら若者は夜空を見上げていた。人影が去り、杜かげが沈み、家々には灯がともった。裏山に風が鳴って木を揺すった。侘びしかった。帰るとても独りずまいの火のない藁屋だった。
若者は裏山へ上った。山は真暗だった。えいえいと声を出して上った。
峯の秀へよじのぼると、三日月がぐっと大きかった。樹々の梢が獣のように谷底に首をもたげていた。
若者は縄をつかみ、腰をひねって夜空へ飛ばした。
一筋の縄はひゅるるとうなりを生じ、高く高く星影を縫って発止と月を捉えた。三日月の輝く先端に食い入った縄を手繰りつつ、若者は力強く峯を蹴った。みごとな弧を描いて若者のからだは広大な空間に、一点の黒い影と化した。
三日月の真下に吊るされ、若者は縄一筋を頼みに宙を踏んでいた。
広い空。
しかし大地も広かった。若者は、見たことのない土地のすがたを月光を浴びながらはじめて知った。
壮烈に死のうと若者は思っていた。だが、暖かい春の夜空にぴたりと静止した今、何かしら香ぐわしくさえある宇宙のやすらぎに抗って、遥かの大地に我が身を叩き落とすのがふさわしからぬ事に思えた。
ままよと、若者は縄を揺すって上りはじめた。
烈しい渇きのような孤独が来ると、眼を閉じ、掌の感じだけを頼んで上りつづけた。聞こえるのは自分の息づかいばかりであった。高く高く、高く、もっと高くと若者は無二無三に上った。月は遠かった。
若者は幽かに縄の鳴るのを聞いた。
耳を澄ました。まぶしい月かげの中から確かに一つの影が縄づたいに近づいていた。滑るように影は奔ってきた。女だった。ひらひらと裾をひらいた女の姿は若者には一層まぶしかった。眉を寄せ、心もちはにかんで若者は縄の中途で女を待った。
月の世界とて退屈なものよと美しい女は物珍しげに若者の顔をのぞき見て言った、女は下界をゆかしく思うようであった。下まで行けはせぬと若者は眼をそむけて呟いた。
月の女とわかものは天と地の真中で縄によじれて顔を合わせた。何となくおかしく、また気の遠くなる世界の広さであった。
女は若者に戯れた。
若者は身をよじった。
ふくよかな肌が若者の顔や唇に触れた。二人は夢中で絡み合った。
月はいよいよ優しく照っていた。天涯にあまねく星の光が瞬き、地平遙かに春風はかすみとなってただよった。静かに、まどかに、縄一筋が銀色に光ってかすかに揺れた。天もなく、また地もなかった。
女と若者は抱き合ったままどちらからとなく心を協せてゆっくり、ゆっくり縄を揺すった。
ゆら、ゆらと、やがて次第に二人のからだは大きく、力強く、烈しく天地の間を火玉の如く奔りはじめた。二人だけの永遠が、風を切って確実に月光の中で時を刻みはじめた。
また、こんな掌説も書いたこともある。
遠い遠いあなた
逢ったことのないあなたが、どこにいたのか気がついたとき、わたしは、飛ぶ車をもたない自分にも気がつきました。なんと遠い…。あんまりにも、遠い遠い、あなた。逢いたくて、逢いたくて。銀河鉄道の切符を買おうとしたのですが、あなたの所へは停車しないそうで、がっかりしました。
あれから、もう千年経っているんですね。
昼過ぎての雨が夕暮れてやみ、宵の独り酒に、心はしおれていました。下駄をつっかけ、わびしい散歩に、近くの大竹藪をくぐるようにして表通りへ、いま抜けようという時でした。東の空たかくに、白濁して歪んだ月がふかい霞の奥に、とろりと沈んで見えたのです。月が泣いている…。そう思いました。そして、はっとした。泣いていたのは、かぐやひめ、あなたでした。天の使いの飛ぶ車で、月の世界へ羽衣を着て去ったあなた、あなただ…と分かった。
わたしは、あなたを、血の涙で泣いて見送った竹取の翁と姥との血縁を、地上に千年伝えて、いましも絶え行く、ただ一人の子孫です。もうもう、だれも、いない。妻も、また、子も、ない。
いま虚空に光るのは、三日の月。あぁ…待っていて、かぐやひめ。今宵わたしは高い塔の上に立っています、手に縄をもって。この縄を飛ばし、遥かあなたの月に絡めてみせましょう。力いっぱい塔を蹴り、広い広い中空に私は浮かんで、縄を伝ってあなたに、今こそあなたに、逢いに行きます。縄を伝い、あなたもわたしを迎えに来る。ふたりで抱き合って、一筋の縄に結ばれ、あぁ堅く結ばれて、天と地の間を、大きく大きく揺れましょう、かぐやひめ.:。
また男がひとり死んだ。千年のあいだに、数え切れない男がわたくしの名を呼んで虚空に身を投げ、大地の餌食となって落ちた。やめて…。わたくしは地球の男に来てもらいたくない。だれも知らないのだ、わたくしが月の世界に帰ると、もうその瞬間から風車のまわるより早く老いて、見るかげなく罪され、牢に繋がれてあることを。「かぐやひめ」という名が、どんなに無残な嘲笑の的となって牢の外に掲げられてあるかを。
牢には窓がひとつ、はるかな青い地球だけが見える。わたくしが月を放逐れたのは、月の男を数かぎりなく誘惑して飽きなかったからだ。地球におろされても、わたくしの病気はなおらなかった。何人もが命をおとし、何人もが恥じしめられ、わたくしは傲慢にかがやいて生きた。人の愛を貪り、しかも酬いなかった。天子をさえ翻弄した。竹取りの夫婦の得た富も、地位も、むなしく壊えて残らぬと、わたくしは、みな知っていたのだ。あまり気の毒さに、夫婦のためにもう一人の子の生まれ来るだけを、わたくしは、わたくしを迎えにきた月の典獄に懇願して地球をあとにした。
だがその子孫のだれもかも、男と生まれた男のだれもかもが、なぜか、わたくしへの恋慕を天上へ愬えつづけて、そして命を落としつづけた。一人死ぬるごとにわたくしの罪は加わり、老いのおいめは重くのしかかって死ぬることは許されない。あぁ、ばかな、あなた…およしなさい、この月へ、縄を飛ばして上って来るなんて。迎えになど行けないのだから。あぁ…、でも、ほんとうに来てくれれば、かぐやひめは救われる。来て。来て…。
だが、上の述懐歌は、そんなロマンチックな渇望を謂うている気ではない。「月」にたぐえて何かしらを捉えたい掴みたい、あるいはたどり着きたいと願っていたのだろう、「いま・ここ」を離れて。遠く離れて。
顧みてそんな自分を「馬鹿者よ」とわらい、しかもかすかに痛んでいる胸に抱いてやるのである。未練と謂うほどのものは残っていないが、そういう「馬鹿者」でありえたことは認めて、そう、愛おしむ気持ちが全く無くはない。そういうことか。
2009 11・1 98
* 上の『方丈』二字、なんと正しい、美しい表現だろう。こんなことを云うと、誰かさん達にたくさん叱られるかも知れないが、最高度に理想的な「男」をわたしは感じてきたし、いまも感じる。「いい男」とはと聞かれれば、この二字を示して答える。
2009 11・3 98
* わたしが、一字サゲで ☆ を打って紹介している文章は、もう云うまでもないがわたし自身の書いたものでなく、戴いたメールや、ブログの記事である。あるいは何らか、特に書き起こされ、転載をゆるされている文章である。名乗りは、わたしがそのつど好き勝手につけている。
共感して転載する記事もあれば、人はどう思われるだろうと批評的に転載するものも、ある。そういう取捨の中へわたし自身の思いを反映させ得ているだろうと思う。わたしの身近な世間や身近な世界もまたそこへ映し出される。ただ一途に書きつづられる私的に、個人的に過ぎた「日録」の単調や曲の無さを、少しでも避けたいとわたしは願ってきた。
2009 11・3 98
* 永井荷風の代表作はその日記『断腸亭日乗』だと断定的に讃美する人は、少なくない。わたしはいま志賀直哉の日記を毎晩読んでいるが、直哉の場合は文字通りのいわゆる日記で、日々断片の記録と感想である。
荷風の「日乗」はちがう。どう違うか。
荷風は『断腸亭日乗』における「自分自身」を、小説の中の人物とほぼ同様にあらかじめ「設定」し「既定」して、「予定」のその「人物像」にしたがって生身の実像荷風を、舞台の人物のように働かせている。あらかじめ性格も人格も風貌も趣味も風体も思想も、作者により「好まれた」「創作された」小説中の人物かのようにほぼ定められていて、その人物像にふさわしく日々の日記記事が描き込まれて行くのである。日記の中で荷風はべつの荷風を演じ、また演じさせている。
そのために、「実像荷風」と「日乗荷風」との間に、不思議とも何でも無いともいえるけれども、要するに「差」「異」が生まれている。永井荷風とはこういう人と読者には思いこみが出来ているが、小説からの、伝記や年譜からの、日乗からのソレが、それぞれに微妙に滲んだように輪郭をズラシてくる。思い込みと実像とのあいだにじつはさまざまに齟齬や異様が生じてくる。それが荷風の意図になっている。韜晦といえる。
『断腸亭日乗』は、露骨に小説のようなと謂ってはならないけれども、端倪すべからざる創作意図で営為された「日記風の文藝行為」になっている。それを読みとれないままでいると、『日乗』の面白さや特異さを見失うし、作家荷風をも紛らわしく読み違えてしまう。(むろん四十年に及ぶ「全」日乗を謂うのではない。主には初期の、しかしかなり長い期間のそれについて云うている。)
* で、わたしの「私語」はどうか。わたしはそんな舞台上の人物のように日記の此処で、「演戯」などしていない。と謂うことに、しておくか。
2009 11・3 98
☆ バグワンに聴く どこにもない國こそ、真のわが家である。
インドの偉大な神秘家スワミ・ラーマテイルタは、最高裁判所で検事をやっていた友人の話を何度も何度もくり返したものだった。この友人は完璧な無神論者であり、絶えず神の存在を否定する説を唱えていた。彼は筋金入りの無神論者だったので、みんなに注意をうながすために、居間の壁に誰の目にもわかる大きな文字で、「神はどこにもない GOD IS NOWHERE」と書きつけていた。彼に会いにきたり訪ねてきた者はみな、まず「神はどこにもない」というこの文字をいやでも目にすることになる。あなたが 「神はある」 と言おうものなら、手ぐすねを引いて待っていた彼がただちに飛びかかってくる。
そうこうするうちに子どもが生まれて、子どもは言葉を覚えはじめたが、まだまだたどたどしかった。
ある日のこと、父親の膝に坐っていた子どもがその文字を読みはじめた。「どこにもない NOWHERE」という単語は長すぎて読めなかったので、、子どもはそれを二つに分けてこう読んだ──「神はいま・ここにいる GOD IS NOW HERE」 NOWHEREは、NOWとHEREの二つに分けることができる。
父親は驚いてしまった。この言葉を書いたのは自分だが、一度もそんな読み方をしたことはなかったからだ。意味がまるで逆さになってしまう ……神は「いま・ここ」にいる。彼は子どもの目を、その天真爛漫な目をのぞき込み、はじめて何か神秘的なものを感じた。はじめて子どもを通して神が話しかけたような気がした。
そしてラーマティルタは、この友人が息を引き取るときには、彼の知るかぎり最も敬虔な人物のひとりになっていたと言っている。
「いま・ここ NOW HERE」と「どこにもない NOWHERE」という言葉はすばらしい。神が「いま・ここ」にいると分かると、「神はどこにもいないことも分かる。同じことだ。神があまねく存在しているのであれば、神は至るところにいると言っても、神はどこにもいないと言っても差はない。
何処にもない國とは、「いま・ここ」のことだ。「いま」が唯一の時間であり「ここ」が唯一の空間・場所だ。「いま・ここ」で神を見出すことが出来なければ、どこへ行っても神を見付けることなど出来ない。
☆ 「人間の本性には、不思議な力があるものだ」とゲーテは云うている。「われわれがもうほとんど希望を失ってしまったときにかぎって、われわれにとって良いことが準備されるのだよ」と。
☆ 「わたくしは学殖なきを憂ふる。常識なきを憂へない。天下は常識に富める人の多きに堪へない」とは伊澤蘭軒に拠って森鴎外の放った警醒の弁。数を頼んで常識だの良識だのを無意味な怯懦の隠れ蓑に使う人のいかに多いか。
☆ 「曾てわたくしも明治大正の交、乏を承けて三田(=慶應義塾)に教鞭を把った事もあつたが、早く辞して去つたのは幸であつた。わたくしは経営者中の一人から、三田の文学も稲門(=早稲田)に負けないやうに尽力していたゞきたいと言はれて、その愚劣なるに眉を顰めたこともあつた。彼等は文学藝術を以て野球と同一に視てゐたのであつた。
わたくしは元来その習癖よりして党を結び群をなし、其威を借りて事をなすことを欲しない。むしろ之を怯となして排(しりぞ)けてゐる。治国の事はこれを避けて論外に措く。わたくしは藝林に遊ぶものゝ往々社を結び党を立てゝ、己に与(くみ)するを揚げ与(くみ)せざるを抑へやうとするものを見て、之を怯となし、陋となすのである。」
永井荷風は、斯く言い放つ。
* まだ九時過ぎだが、コントロールが利かないほど眠い。寝よう。
2009 11・4 98
☆ 黒いピン なんじゃい 静かな心 湖
* むずかしい、夢を見ていた。
神さまから、としておこう。人生の早い時期に、意味もなく、一つの小さなピンを貰った。八ミリ四方ほどの黒いつまみの画鋲のようだったが、それを服のどこかに刺してくれた。わたしは、ほとんど意識もしなかったし、身につけているとも忘れ果ててながく生きてきた。
わたしの夢中の人生は、多彩で、波乱にも内容にも運不運にも恵まれていた。その意味ではけっこう結構な歳月ではなかったか。しかも、その結構さに、わたしは好都合より不都合感を、清明よりは混濁を、宥和よりは窮屈を、静かさよりは騒がしさをどうやら感じ始めていた。
何なんだ、これは。
そしてわたしは、初めて自分が身に帯びている黒いピンに目をとめ、それを抜いてみた。すると、日々の暮らしが、多彩も波乱も運不運も落とし喪い、なんだが、ゆたゆたと有るとも無いともはっきりしないが、冴えないなりに晴れやかな、ものに追われないゆるやかに静かな時間空間にのんびりしていることに気がついた。いくらか物足りなかった。
で、黒いピンを刺し戻してみると、また、ものごとが忙しく回転し始めた。ワッサワッサと生きている自分へ戻っていた。が、どうも、そんな騒がしさの底を流れている気分は、イイものではないのだった。いやな毒が感じられた。ピンをはずすと、みーんな忘れたように、ゆったり暮らしていた。
* 「黒いピン」の夢だ。わたしは、まだ、黒いピンを捨ててしまえていない。ときどき抜いたりまた刺したりしている。恥ずかしいことに思われる。黒いピンを抜き捨て去ってわたしは死ねるのだろうか。刺したまま死ぬまで生きるのだろうか。
* 中学の頃に、一学年下の女友達が、こう述懐した。複雑な家庭環境にいた子であり、それだけに、その言葉は忘れがたく、今にしてますます鮮明に甦る。
「あれもそれも、これもどれも、もう、むちゃくちゃにいろいろあるやろ。わかってくれるやろ。そゃけど、ある瞬間に、『それがなんじゃい』と思うときが有んのぇ。すとんと一段沈んでしまうの、ごちゃごちゃから。いっぺん『なんじゃい』と思てしもたら、もう、なんでもないのん。あほらしぃほど、なにもかも、なんでものうなるのぇ」と。
わたしは後年、この「なんじゃい」を「風景」にしたのが、高花虚子の句「遠山に日のあたりたる枯野かな」ではあるまいかと思い当たった。以来、わたしの中にも、「なんじゃい」という名の「他界」が、広やかに明るく静かに定着したのである。遠山に日のあたりたる枯野へ、いちど「すとん」と身を沈めれば、ハイジャックもテロも、ましてやウイルスもくそも余計な幻影に過ぎない。要するにそれらは悪意の攻撃なのであり、されるままに「それが、なんじゃい」という「本質的な反撃」がありうるのである。ペンクラブの、電子文藝館の、文字コードの、また湖の本だの、創作だの読書だの酒だの飯だの、ああだのこうだのとわたしが頗る打ち込んでいられるのは、根底に、「なんじゃい」という「気づき」を身に抱いているからである。
* その「湖の本」新刊の発送用意も、よく頑張って、九割がた出来ている。本が届いても、メインの作業は出来る。
カミュの「シジフォスの神話=不条理の哲学」を高校三年生の頃手にして、不条理の喩えに、シジフォスが巨石を坂の上にはこぶと、すぐさま神により転がし落とされてしまい、また押し上げてはまたまた転がし落とされ、その果てない繰り返しのさまの挙げてあるのを、読んだ。
また、向こうへ飛ぼうとしている蠅だか虫だかが、透明なガラスに阻まれ、ガラスに突き当たったまま飛び続けようとしている、飛びやめれば落ちてしまう、のにも譬えられていたと思う。
わたしたちのしていることは、大概これだが、「湖の本」など、可笑しいほどの好例である。へとへとになって飛び続けている、と謂うしかないが、それが「なんじゃい」と思っている。この「なんじゃい」は意地でも負け惜しみでもまったく無い。
* 遠山に日のあたりたる枯野かな という高浜虚子の句のことを書いた。黒いピンを抜いて、ときおりわたしは現世の塵労からこの「枯野」に降りていって、ひとり、佇んだり寝そべったり遠山に視線を送ったりして過ごす、と、書いた。
塵労の一つ一つは、それなりに日々の暮らしに意義の重いものばかりで、くだらないとは言いにくいけれど、奔命奔走であることには違いなく、刺された黒いピンのあまりな痛さに、ただ走りに走ってのがれようと、あれをやりこれをやり、もっともっとと果てしないのだと謂うことは、じつに明瞭なこと。
そういう自分が、その塵労を「なんじゃい」と、すとんと落としてしまい、胸奥の「枯野」に憩うというのは、ある人からそれと指摘され、「秦さんに似合わない」「暗い」「もっと明るい気持ちを持たなくては」「枯野などと口にしない方がいい」と忠告されたような、本当にそれは此のわたしの「鬱」のシンボルなのであろうか。にわかに、直に応える気はない。
ただ、この野の景色は、暗くない。ひろびろとした野の枯れ色は、草蒸してまばゆく照った真夏の青草原とはちがった、懐かしいほどの温かみと柔らかさとを持っている。けむった遙かな遠山なみには柔らかに日があたっている。風あってよし、鳥がとんでもよし、野なかに一条の川波が光っていてもよい。どこにも暗いものはなく、騒がしいものもない、清い静寂。胸の芯にゆるぎない一点の「静」は、優れた宗教家なら一人の例外もなくそこに人間存在の真実と本質を見定めてきた。仏陀も老子もイエスも、また荀子や荘子や、道元や一休も。暗いものも重苦しいものも騒がしいものも無い真実の風景。虚子がなにを見てなにを思って書いた句であるかは知らない、が、此の句に出会ったときわたしは真実嬉しかった。あの瞬間には、たしかにわたしは、身に刺された黒いピンの果て知らぬ唆しからまぬがれていたと思う。
わたしを「鬱」かと心配するその人は、「楽しみを自分で見つける努力をしています。生活にメリハリを付けたいのです。よく出かけるのもその一つです。なるべくストレスを溜めない生活を求めて」とメールに書いている。甚だ、良い。が、それもまた「黒いピン」に追い立てられた塵労のたぐいであるかも知れぬ。いわば虚子の、またわたしの謂う「枯野」ではない、現世の「荒野」「荒原」の営みと一つものであるかも知れぬ。クリエーションとリクリエーションと、対照して質的にもべつもののようにどう認めたがっても、所詮は同じ次元の場面の違い、痛みに脅かされ外向きに外向きにはねまわっている、「もっと」「もっと」の欲望というものに過ぎない。「いいえ楽しみはちがう」と言われるだろうが、それも見ていると慣性化し、いつか義務のように繰り返して、やめるのが不安でやめられないだけの例は、少なくない。そういう営為のいかに苦痛であるか、虚しいかは、体験的にわたしも知っている。例えば「祈る」という、長い長いあいだ一日も欠かさなかった行為を、わたしがピタッやめたのは、繰り返し続けること自体に自由を奪われかけていると感じたからだ、そんな祈りに何の意味があろう。
「静かな心」でいたい。それは、外向きにどんなに走り回っても得られはしない。自分の内側の深い芯のところにひろがっている「遠山に日のあたりたる枯野」のようなところでしか出逢えないのではないか、「静かな心」には。
そういうことを思うのが、つまり「鬱」なのだと言われるなら、否みようないが。
* 黒いピンが身に疼くように痛む。今は、だが、抜けない。
* 平成二十一年のいま十一月、わたしの「湖の本」の通算101巻を発送すべく九割がた用意は出来、明後日から送り出す。「*」より上の記事と事情符合していて、わたしの今の心境ともかけ離れていない。だが、上の記事はみな、二十世紀が二十一世紀に大きく動いた年の日記「私語」である。つい昨日一昨日に、九・一一のニューヨーク・テロがあったし、小泉総理は全面的にブッシュ米大統領の報復戦争に賛同し協力すると言挙げしていた。二○○一年のはなしだ。
情け無いと言うべきか当然のことか、世の中はグローバルに変化し続けてきたのに、わたしは、いまも同じように感じ、思い、「いま・ここ」にいる。
2009 11・8 98
* 中村光夫先生が昭和二十一年に書かれた『蒲團と浮雲』の末尾に置かれた文章は、いまも重い。
☆ 「一枝の筆を執りて、國民の気質、風俗、志向を寫し、國家の大勢を描き、又は人間の活況を形容して、學者も道徳家も眼の届かぬ所に於て、眞理を探り出し、以て自ら安心を求め、兼ねて衆人の世渡りの助けともなら)ば豈(あ)に可ならずや」とは、彼(=二十歳の二葉亭四迷)が「浮雲」制作當時の日記に誌した近代小説の理想である。
しかし不幸にして、この今日なほ新しさを失はぬ堂々たる文學の理想は、彼自身はもとより、彼以後の誰の手でも達成されたとは言へないのである。」
* 昨夜、生誕百年の記念行事がつづくのか、松本清張の『点と線』のドラマ化されたものが放映され、(たぶん以前に二回に分けて放映された長編を、無くもがなのナレーションで繋いでムリに一回に短縮したか。)主演のビートタケシの演技にも多大の敬意をもって観た。観ながら、うえの二葉亭の言葉を思い出していた。
松本清張は胸に憤懣と怨嗟との炎をあげたまま生涯を終えていった作家と言われるが、さもあろうと思う。玲瓏珠のごとき作家ではなかった、それは人について言うのでなく文についてわたしは言うのであるが、それにも関わらず、清張は、二葉亭の言葉に肉薄する気概をもっていたとわたしは読み取りたい。
わたしは、太宰賞受賞時に、尊敬する作家として藤村、漱石、潤一郎と挙げつつ、この三者を綜合した日本文学が現れねばと、わがことは棚上げしながら思いもし、口にもした。もし今一人を挙げよといわれれれば多くの不満と不足を感じながらも松本清張をといつも小声で言ったのは、彼に『点と線』『眼の壁』『ゼロの焦点』『波の塔』などのあったが故である。
2009 11・9 98
* 悟り=光明 =enlightenment は、どう来るか。どのようにして起こるのか。探し求めることをやめた探求者に起こると、バグワンは言う。
☆ もてる力をすべてふり絞って探究したが、しくじった者、完璧にしくじった者にそれは起こる。救いようのない絶望感にひたっているとき、光明のことはすべて忘れようと諦めているとき、探求がやんで、光明が得たいという欲望さえもなくなってしまったとき、突然それが訪れる…そしてそれで何もかも片づいてしまう。それは、いつもそのようにして起こる。
仏陀は六年間にわたって働きかけてきた--懸命に働きかけてきた。思うに、あれだけ激しく働きかけた者は他にいないだろう。彼は命じられたことはすべて、できると耳にしたことはすべて、どこかで拾い集めることができたものはすべて、やりつくしてしまった。彼はあらゆるタイプの師のもとを訪ね、実に厳しい修行を重ね、誠実に、真面目に取り組んだ。だが、六年が虚しく過ぎていったある日のこと、仏陀は、働きかければ働きかけるほど「私=我執」が強くなって行くということに気づいた。
そしてその日、彼は寛いで、探し求めることを完全に落とした。仏陀はゆったりとして、完全にくつろぎ、はじめてぐっすりと眠った。まさにその夜、満月の夜だった、仏陀は仏陀となった。満月と光明。
何かを探し求めているとき、どうして眠ることができるだろう? 眠りのなかでも探求はつづき、欲望は夢を紡ぎだしつづけている。光明に入る前の仏陀もそうだった。何もかもが失敗に終わってしまった。彼はこの世間を、王国を、恋愛や人々との関係の喜びや苦しみを、肉体と心の苦悩や歓喜を見てきた。続いて彼は禁欲の修行者、僧侶となり、たくさんの道に従い、その虚しいこともまた見てしまった。かれはいわゆる世間も出世間も味わったが、いずれも失敗に終わった。もうどこにも行くところはない、これ以上は一寸たりとも動けない。欲望はみな消え失せてしまった。
そこまで絶望しきっているとき、どうして欲望を抱くことができるだろう? 欲望とは希望のことだ。欲望とは、まだ何かすることができるということだ。
その夜、仏陀は為しうる何もない、一切無いと知った。その要点を見るがいい。そこにとほうもない美しさがある……為しうることは何もない、いっさい何もない。彼はくつろいだ。彼の身体はゆったりとくつろいでいた。彼のこころ(=ハート)はゆったりとくつろぎ、願望も、未来もなかった。この瞬間がすべてだった。
空には満月がかかり、彼は深い眠りについた。そして、朝が来て、目覚めたとき、彼は通常の眠りから覚めただけではなく、私たちみなが生きている形而上的な眠りからも覚めていた。彼は覚めた。光明を得ていた。
彼は弟子たちによくこう言った。「私は懸命に働きかけたが、成就することができなかった。そして働きかけるという考えそのものを落としたとき、私は成就した」
私バグワンが自分の仕事(ワーク)を「遊び」と呼んでいるのはそのためだ。
おまえは矛盾した立場に立たざるをえない。それが「遊び」という言葉の本当の意味だ。おまえは働きかければ何かが起こるかのように妙に深刻な姿勢で取り組んでいるが、それは、働きかけることを通しては絶対に起こらない。それは働きかけることがやみ、遊び心に満ちた気分が生まれ、くつろいだ気分になったときに、初めて、起こる……。
「何をやっても『私』をますます強めるだけだ、何をやっても自我エゴをますます膨らませるだけだ。自我は障壁」と見抜くと、行為はかき消えるう。行為が消えればその影である行為の主体も消えて行く。
* バグワンの「みちびき」の繰り返される核心である。
バグワンは、だから何もするなと言うのではない。こういう仏陀の脱落は、してきた果ての覚知であり、してはならぬという禁止ではない。した人が、する空しさに真に思いあたって脱落にいたる大事さを、バグワンは言う。すくなくもそれを何年も何年もわたしは聴いている。することなすことを、遊びとして一心にする、念々一新の遊びとして。文学という「凶器」をふるうのも、そうだ。そのようにして私を落として行く。
2009 11・12 98
* 「方丈」二字に励まされる。
2009 11・13 98
* 志賀直哉は、批評家など要らないと言って騒がれ嗤われすらした文豪だが、ご当人は意外に思われるほど「批評」豊かな人で、文学以前にも、油絵や浮世絵など絵画や彫刻などの美術、娘義太夫、歌舞伎等への批評は、二十歳過ぎの頃から詳細なものがあった。相当な語学力で海外文学を多数原書で手に入れて次々読破している。むろん文学ことに小説への批評は、さりげない中に的を射て厳しかったり深かったりする。要点のとらえどころが適切で、必ずしも自身の好き嫌いだけで押し切っていない。
明治四十三年八月、「白樺」第一巻第五号に直哉は相当量の「新作短編小説批評」を担当していたが、有名無名の書き手の数々の作品を右から左へ遠慮無く寸評しているのが、とても興深い。
「どうか小説になってくれるな」と思ひ思ひ読む内に段々と小説になつて了った。 など、機微をとらえている。
自分は気持の悪い小説も厭ではないが何の意味でもレディームするものなしに気持の悪い題材を取扱はれるのは閉口である。 と言っている。この redeem に、当時内村鑑三に心酔していた直哉の傾向が反映しているのだろう。
題材から云つても書き方から云つても気持のいい小説である。 別に仕組と云ふやうなものもなく、しかもまとまりのある小説である。 にも直哉の感性が届いている。 全体にスラスラ楽に書けてゐるのが──いいとも悪いとも云へよう。 なども高等で精微な批評に属している。
もっと引いておきたい気はやまやまだが、ともあれ、この調子で「評語」を拾って行けば、明瞭に直截に志賀直哉の「批評」がたっぷり興味深く読み取れる。教えられる。
* 佐伯彰一さんの『日本の「私」を索めて』を読んでいて、芥川龍之介「西洋」「西欧的な知性」が、どうも信じるに足りない、浅はかな程度でしかないという指摘に頷いた。同感である。
「西欧派としての芥川といった通用のイメージには、眉に唾してのぞまねばならぬ。 なるほど西洋好き、西洋風なお化粧好きではあったが、果してどこまで深く西欧が彼芥川の内側に入りこんでいたかは疑わしい。西欧的主知主義者などというわが國の通用レッテルには、よほどの用心が肝要 芥川の精神の深部において、西欧との真の触れ合い、衝突が生じていたとは、どうにも思われない。」「むしろ感受性の人、多分に伝統的な感受性の作家たるところに、芥川の本領は存したのではないか。」
まったく佐伯氏の見解に、わたしは同感。まえまえから、そうとしかわたしには思われなかった。
2009 11・15 98
* 「なべて、理非曲直は二の次、少数派に惹かれる。孤立の側に与(くみ)する」と云った人がいた。理非曲直は二の次、とは思わないがいつも自分が少数派の側に、孤立の側に立っている、立ちやすいとは自覚している。自覚に誇らしい昂揚を覚えることも、まま有った。「真理探究の先覚的天才は、絶対少数と絶対孤立を常に要請された人たち」であったのはほぼ事実だ。「藝術上の天才たちも、多く世に入れられず陋巷に斃死した。愛に殉じる多くの情死行があった」のは、ほぼ事実だ、が、わたしはそれに口出ししない。
わたしは天才でなく、目下情死も配慮にない。しかし「死後にならともかく、生存中に万人から讃仰される偉人・聖人は、どこかウサンくさい。」偉人、聖人、天才は、たぶん常人ではあり得ない「少数の異常人であった」という人の観測には、思想として、与する。「少数は空想というカンを研いで多数を見ていないと、多数の世界では生きていけない」と、わたしも思っている。
* 「少数は、常に離脱していねばならない。正常(ノーマル)であってはならない。人が諾(イエス)というとき、孤立した否(ノン)の叫びをあげ、人が否 (ノン)のとき、一人諾(イエス)と声高に叫ばねばならない。 野党の反発が全くない絶対与党の政権国家は腐敗する」のも確かで、わたしは行為においても、ほぼこの意見に同調してきた。「変化と動揺のない多数は瓦解する。動揺と苦悩のない青春は色褪せる。青春のない社会は没落する」だろう。
しかし「武器なしでは、少数はあまりにも無力すぎ、多数の中では自衛もできない。」
何が少数派の武器に、時に利器に時に凶器になりうるか。
言葉と文章。
いま此処に言葉を引用しているその人は、「文章とは、時代主潮に対する異和感の表明である」と云う。
* この人とわたしとは、生理と性癖において遙かに異なるが、上の思想や立場では多く一致し、同じ一つの「島」に立てている。この人の主著、それが現代日本を震撼した『家畜人ヤプー』であった。
2009 11・16 98
* 有島武郎は情死した。『ある女』の作者だ、白樺派の長老または顧問格だった。その情死を悪罵し非難する声は高かった。だが菊池寛は追悼文にこう書いている。
「死は生の付属地ではない。絶対に他領であるである。生の道徳、法律、習慣を無視することは死者の特権である。生者の気休めで非難するをやめよう。それが、有島のやむにやまれぬ道であったことを信じたい」と。
これを是非しようと思わない。こういうコトの云えるところに文学者の面目がある。三島由紀夫が自決したあと、小林秀雄も大岡昇平もおおよそ似た立場からの感想を述べていたと証言されている。
ベートーヴェンは死に際、「友よ、拍手を! 喜劇は終った」と言ったそうだ。
* 朝刊に岡井隆氏のコラムが、ワイマール宰相ゲーテの「多数ほど、しゃくにさわることはないね」という言葉を紹介していた。
同じゲーテは、彼の名作『若きヴェルテルの悩み』のなかで、「全心で語っているとき、つまらない一般論で武装したリクツを持ち出されるほどイヤなことはないと書いている。少数派のすることは、多数の一般論や常識のまえでただ立っているしかない。少数派は概してしがみつける抱き柱を、持たないのが特色だ。
* 聖徳太子の憲法十七条の第一条は「以和為貴、無忤為宗 和を以て貴しとなす 忤(さからふ)無きを宗(むね)とす」とあるが、このあまりに有名な我が国政治上の提唱は、古代房中家の彭祖が『玉房指要』で説いたそのままの字句である。「交接(性交)ノ道ハ、別ニ変ワッタ法デハナイ。肝腎ナノハ、タダ落チ着イテ徐徐ニ進メルコト。以和為貴、無忤為宗デアル」と。和志、調情が大事と。聖徳太子が彭祖を読んでいたかどうかは識らない、が、いい奥さんも立派な皇子たちもいた。なるほど、云えている。
2009 11・17 98
* 二三日まえ、秦さんは「天皇制」支持ですかと問うてきた批評家がいた。返辞を書いたのは此処にも言い置いてある。
この國では、けっしてさほど昔でなく、とにかくも「天皇陛下」をもちだされたら「ハナシは、それでおしまい」という「時代」が、百年余も続いた。だらけて喋っていても、ひとたび「テンノ」とでも耳にし「ゥヘイカ」ともなればザザッと靴で砂や土を蹴って直立不動しないと張り飛ばされる時代が百年の内の最期の十年ほどはたしかにあった。どの学校にも二宮金太郎の像が有った以上に、両陛下の「御真影」を捧持した「奉安殿」という小建築がいかめしく義務的に常設されていたのを覚えている人、もう数少ないが、「後期高齢」などといわれる年寄りなら朧に記憶がある。こんな原稿がのこってある。以下は前半部。
☆ 大詔奉戴日があった
思い出すことがある。わたしより若い人は、体験的に知るよしない。もっと年上の人もその場にいなかった。「学童」にだけ記憶にある体験だ。「大詔奉戴日」というのがあった。毎月「八日」であった。「十二月八日」の真珠湾奇襲の日を「開戦」記念日とみて、天皇の「開戦の詔勅」を民草が奉戴し戦意を涵養する大事な月例日であった。
この日、わたしの通った国民学校=小学校(むろん例外でなく、どの学校でも大事の恒例であった。京都市内でも、疎開先の山村の国民学校でも。)では、全校生徒が整列して運動場に道を開いて粛然と向き合い、整列し、その間を、フロックコートに正装した校長先生が、西下手からまっすぐ運動場の東正面に在る「奉安殿」へ向かって、しずしずと歩み行く。
奉安殿の扉を開き、中から天皇陛下の「御神影」と「勅語」とを盆の上にもちだし、高く捧げ持って、またしずしずと戻ってゆき、講堂に入って壇上に祭るのである。
講堂に入った教員と生徒は、式次第にしたがい、君が代斉唱に始まり海ゆかば斉唱に終るまでを、校長による教育勅語の朗読と訓辞を聴き、黙祷し、バンザイし、決まり切った手順をすべて費やして「大詔奉戴日」の趣意をいやが上に心身に刷り込むのだった。そしてまた運動場に整列した間を厳かに校長は奉安殿に御神影と勅語を返納する。生徒は直立不動の姿勢でその首尾を見守る。
ああ、それだけで済めばよかったが、我が校では、次があった。また生徒は整列し、校門を出て、「歩調を取」ったり「軍歌」を歌ったりしながら、三十分ほどの東山にある「護国神社」に参拝しなければならなかった。これが苦痛であった。
* 懐かしいなどとは、とても思えない。
2009 11・18 98
* 家は出るもの、故郷は捨てるもの、と言う人もいる。かんたんにそうも言えるし、かんたんに言える限りではたいしたことではない。他郷へ嫁いでいる女の人はいっぱいいるし、江戸の昔から旅宿の境涯は増えに増えた。それらを「レ・デラシネ 故郷を棄てた人たち」と短絡するわけに行かない。
家は早く出たし故郷からも遠くはなれてきたわたしも「デラシネ」の気持ちとは思わない。せいぜい「ふるさとは 遠きにありて おもふもの」とくらい。
ただ大切なことは、家を離れ故郷を離れ、見知らぬものからの呼びかけで、初めて独自的なものの目が覚めるということ。慣れきった環境で安心しきって生きていれば、誰だって気づかぬうちに眠ってしまう。つまりはそのようにして安易な多数派の常識という非常識に狎れてしまう。この思いでは、わたしは亡き沼正三と近いが。
ン。言い過ぎかな。
2009 11・19 98
* 思えば『冬祭り』の日。「冬子」は、「法子」は、元気にしているだろうか。今日も街へ出ればどこかで、「ハーイ、お父さん」とやんちゃな法子が声かけて現れるのかも。
2009 11・23 98
* 角川文庫版は「注解」がていねいで、学問的には追究が出来ていてずいぶん勉強しましたが、日本語訳は時に、珍に過ぎました。「千夜一夜物語」では、なにかというと人が朗々と謡います、その歌の詞が破天荒に面白いのだけれど、日本語の詩にした翻訳は珍妙で奇天烈でした。それでも二十数冊読み終えたときは、宝物を、両腕に抱えるほどざくざく預けられたような喜びがありました。アラビアの人たちの、ヨーロッパ人とは別質のあかるさと人の好さと恐ろしさとを感じ取りました。
プラトンの「国家」は翻訳が上手で、頭を使うだけでソクラテスの弁論術に引き込まれます。
せっかくだから、それほど面白くはないけれども、『もらひ子』を読んで置いて下さい。「e-文藝館=湖(umi)」や「ペン電子文藝館」での「校正」体験でよく分かっているのですが、ちくいち「校正」しながら読んで行くと、文章文体の弱みや強みがよく読み取れ、ただ読み流して行くより興味深かった。できたら、「e-文藝館=湖(umi)」からダウンロードして、そんな風に「校正」しておいてくれると安心です。気が付いたことは、忘れぬうちにメモしておくと、なにかにつけ便利。ただし紙切れメモは無意味。機械の中へ積み上げメモにしておくと使い道がつきます。
いま人に貰った『松本清張論』を読んでいます。たくさん読んでいるという相手ではないのですが、菊池寛から入っていった、特異なザラツキの文学質に、余人の冒し得ないものがあると思う。現代物の推理小説に優れたものがある。歴史小説と時代読物の差異がアイマイかなあ、とも。清張は、明瞭に私小説嫌いです。 風
* ときどき、なーんにも考えも想いもしないで放心している自分に気づく。昔なら怠けているのかと不安になったろう、が、いまはそんな自分に安心する。いっぱいしていて、なーんにもしていない感覚は、不安と謂うより落ち着いて豊かな心地。意識して店じまいするのではない。自然に無為の為に入って行けつつあるのならどんなにいいだろう。
だが、単に体調が整っていないだけかも知れず、その用心も大事。
2009 11・24 98
* 仏教に謂う 空観、仮観、中観。
一切空という空観は、悟達をはなれてタダ言葉の上の知識でいうなら、多年馴染んできた。
わたしが心して「いま・ここ」にみるのみ見ていたいのは、「仮観」で。すべては空とよく注意し心得たまま、空のただ中で自分の「仕事」を行い続ける。
中観にいたれば「注意して心得る」ということもも、無い。
「仮観」を実践するには力が要る。幻影を幻影と見ながら幻影を透過しなくてはならぬ。
難しくは考えない、わたしは「作禅(さぜん)」とみずから謂うているが、「する」「一心にする」それが幻影なのを承知して「する」しかわたしに「いま・ここ」は無いようだ。
* ある優れた人が死のうとしていた。あるもっと優れた人が来て、死の道案内をしようかと言うと、その死にかけた人、自分は「此の世に独り来て独りで去って行くだけです。どうして道案内が要りましょう」と。
より優れた人はこう言った、「もしきみが本当に生まれ、本当に死んで行くと思っているなら、自分は来てそして去って行くのだと思っているなら、それぁ幻だ。わたしは、来ることもなく去ることもない道を教えようと言いに来た」と。
そう聴いた臨終のその人はにっこり笑い、黙って頷き、静かに息を引き取った。
道案内したのは、一休である。
* どんなに優れた科学の成果も、これは教えてくれない。どんなに優れた科学の成果も、人に本質の生と安心はもたらさない。まして科学が技術の代名詞になってしまえば、いつか人を破滅へこそ導いても、真の安心には導かない。価値はすばらしく高く有り難いが、科学自体にもともと「自然」への攻撃意図のあるかぎり、平穏な「生」への危険で究極の毒を科学技術は孕んでいる。「勝つ」とか「負ける」とか豪語して取り組むものではあるまい。
科学の発達が、人間を心豊かにより善くしたという確かな結果は、ほとんど何一つ現れていない。科学者はそのことに謙遜であるだろうか。
2009 11・27 98