* 十二日に「梵」さんの「つづけること」とあったエッセイに、これは「顧みて他を言うている」だけではないかと苦情を添えた。わたし自身をもむろん含めて、「批評」というのはつい「顧みて他を言うだけ」になりやすく、自分自身は都合良く棚に上げておくことが多くなる。
小説世界に、微温的に抵抗の少ない他者や他事ばかりが書かれていては、小説に強さが出ない。志賀直哉は実の父親に対しても不快と不満とを真摯にぶつけ、自分自身をぎりぎりの線で表現した。自分自身を書いて語って「世界」を表現せねばならぬとき、小説とはフィクションであれ、私小説であれ同じだが、その際の試験紙や検査紙のはたらきをする「人物」や「事件」の選択が、自分にとって堪えやすい、付き合いやすいだけでは、ダメだ。厳しい苦しい辛いイヤな人や事に臆病に顔を背けていては、微温的に都合よくなり、書かれた世界は、ぬるんでしまう。美しい緊迫が生まれない。対決の美が生まれない。いつも「顧みて他をいう」だけの批評や創作になり、批評の対象として「自分自身」が抜け落ちてしまう。結果的に自分を飾ってしまい、ウソが先行してしまう。
優等生や自信家が自分に仕掛けて気が付かずにいる「落とし穴」が、そこに口を開く。わたしはわたしのために、それをいつも恐れる。
あの「梵」さんの表白、あるいは反省のつもりでもあったろう、あれは、あのままでは、「顧みて他を言うている」だけ、自己批評は、概念的な反省やまぶしさの表明という、痛くも痒くもない空語ですりぬけている。自身の痛みはなにも書いていない、自分をすこしも追い込んでいない。エッセンスが出ていない、カッコよい抜け殻でしかない。「文学」の刃は、自己にこそつきつけられねば、と、そういうことを誰よりも自分自身に釘刺しておきたかった。
2010 1・14 100
* 終日、スキャナを働かせつつスキャン原稿を校正し続けていた。目算はできているが、作業には神経を使う。とうどう目が霞んできたので休息するが、もう九時半。やすんでもいいと思うが。
一定の方角をめがけてスキャンし校正していると、自分自身の築いていた仕事の「城」が再現されてくる。この頃はいまよりだいぶ頭が働いていたな、すこし考えが若いな、まるで突貫だななどと思う。ま、それもいっときわたしを憩わせるのだが。
まだ本にも「湖の本」にも成っていない原稿のプリントが、分類もなにも出来ぬまま大きな手提げの紙袋に、九つも十もぎっしりつっこまれていて、手に触れるのも辛くなる。なげやりな仕事はしてこなかったと思っているが、湖の本を百巻すでに出していて、まだこんなに書いていたのかと、いささか浅ましくすら思われる。
古典、近代・現代文学、藝能、歴史、美術、日本語、京都、文化史、民俗等々。
その上にホームページを占めている厖大な「私語」たち。そしてまだ書けていない念頭の仕事たち。
* 去年のわたしの年収は、しかし、総額で三十万円にも遠く達しない。稼ぐからプロだというなら、わたしはとうの昔にプロを出家してしまっている。自由なのである。したいことだけが存分に出来て読者にも支えられている。この方が、はるかに有り難い。
2010 1・20 100
* まだスキャンと校正との日々が続くが。九時過ぎ、スキャンはもう十二分に。校正も一気にたくさん済ませた。だが、スキャンの元原稿が痛んでいたり古かったりすると、ほとんど新打ちほど原稿づくりに時間がかかる。そういう原稿がだいぶ残っている。根気よく原稿づくりを続けて行くしかない。
書いた時機により原稿の表情はちがっている。どんな風にものを観て考えてどんな文章で書いていたかを、まざまざと眼下に確かめる。ときどき身が縮む。
2010 1・21 100
* 三歳の子でも識っている、それなのに八十の老人にも出来ない。衆善奉行、諸悪莫作。いいことと分かっていながら、自分はそうしようとしない。そんなことばかりの日々を迎えるとは。
哲学などしてはならない、素手で生きねばならない。
2010 1・25 100
* 哲学も神学も人間の玩具に過ぎないと言い切り、宗教というのは「体験」だとバグワンがいうとき、決してキリスト教徒やヒンズー教徒や仏教徒になって体験すべしとは言っていない。当然だと思う。宗教とは実存の疼きだとわたしは感じている。「宗教の方が科学よりも単純であるとけっして考えてはいけない」と言うのはあたりまえだと思う、が、ほんとうに宗教を「体験」するのは難しいと弱気に誘われるほどだ。宗教は「生死」の問題なのだ。バグワンは言う、「人がみずからの足で立ち、みずからの存在に責任をもつようになり、事態がどうなっているか、自分が誰であるかを見つめ、探求し、探索し始めること」 これが「宗教」だと。宗門宗派のような組織とは必ずしも関係ない。「信仰」は借り物の抱き柱に過ぎない、「信頼」は人や私の自信の体験から生まれる。真の「信頼」にまで歩んで行くのが「体験」だろうと思っている。
2010 1・26 100
* 黙って日々を送り迎えている内には、ケッタイな、理解に苦しむことも起きる。
一冊の写真本が贈られてきたので、ああ、京都美術文化賞に推して授賞した、写真家甲斐扶佐義の本だろう、と、怪しみもしなかった。帯にも麗々しく「京都美術文化賞受賞 甲斐扶佐義」とある。
それにしては、表紙に、やたら大きな字で、甲斐クンの上に杉本秀太郎氏の名前が乗っている。ものの順として、杉本氏の文章に甲斐クンが写真を添えたという体裁になっている、事実そうらしい。
だが、これは本作りの行儀として「本末転倒」だろう、もともと版元「青草書房」の企画には、杉本氏が内輪で重く関わっているらしいとは、だいぶ以前に、経営の民輪女史に聞かされたことがある。小谷野敦氏の近刊のなかで、いわば「とんでも本」なみにサンザン非難・批判されていた「兼好の恋」を書いた或る人の本のことで、当初わたしから版元の書房へちょっとした抗議をしたとき、その本実現の後ろ盾が杉本氏だったと聞かされていたのである。それは、実際ひどい本だった。
上の事情からしても、今度の写真本は、もし親愛や友情というものが本当にあるのなら、杉本氏は、甲斐クンの授賞を祝う意味でも、彼を本づくりの上で主役として立ててやるのが、筋であり情味であるだろう、行儀のわるい話だ。もとより青草書房の商業政策かもしれない、杉本氏への阿諛のようなことかも分からないのだが、妙に気色の悪い本を受け取った気がする。
とはいえ、じつのところ、「あとがき」を見ても、甲斐くん、大いに有り難がっているのだ、おめでたい、ことである。
言っておくが、もし、賞の推薦者だからとわたしのところへ、彼の本のために文章やエッセイを頼みに来ても、わたしは書かない。これまで何度いろんな文章を頼まれても、わたしは甲斐扶佐義のためには執筆していない。そういう仕事はいやなのだ。
都合も付かなかったが、じつは甲斐君の授賞式にも授賞者展覧会の開幕にも、わたしは欠席した。「美術京都」巻頭の対談に呼び出し、そして写真を推薦し、授賞に力を添えた。そこまでが、「亡き兄のよき僚友」であったらしい甲斐への、わたしの気持ちだった。そこまでだ。「写真」は買うが、処世は買っていない。
* そういえば、先の兼好の恋を書いた著者から、百里千里遅れて封書の手紙が届いていた。いまさら言い訳を聞くのも気色の悪い野暮な話で、「封緘のまま開封せず」青草書房民輪女史の名のある封筒に放り込み、そのまましまい込んである。
2010 2・3 101
* 「横浜事件は冤罪」と確定した。あまりに長い、不当な放置だった。これこそは国の犯罪であった。冤罪確定はせめてもの事と思いつつ、いま、関係者にほとんど生存者のないむごさを思う。
もうよほど以前になるが、わたしは「横浜事件」を憂え、以下の記事を東京新聞に乞われて書いている。いま、感無量。
* いま、横浜事件に思うこと
秦 恒平 作家・日本ペンクラブ理事 平成五年四月 東京新聞
「国(公)の犯罪」は、まちがいなく有り得る。
「私」の犯す罪より罪深く、歴史的に、事実、幾度も有ったのである。
開戦や敗戦をいうのではない。
例えば国権を笠にきた弾圧やフレームアップ(でっちあげ)のテロリズムがあり、最たる一つに明治の「大逆事件」が思い出され、また昭和敗戦前の「横浜事件」が思い出される。
横浜事件のほうは、粘りづよい運動と法の手続きにより、戦後六十年、最近、やっと再審査の細い明かりが見えた。だが、往時の被告たちは、もう、一人もこの世にいない。
大逆事件も横浜事件も、官憲の事件捏造と不当裁判の経緯はあまりに錯雑、詳細はしかるべき歴史事典などをお調べ願いたいが、ともに大規模な弾圧事件であり、国権による犯罪という暗部を多分に持っていた。
ことに横浜事件では、神奈川県特高により、「中央公論」その他の筆者・編集者たちが、何の根拠も証拠もなく約五十名も検挙され、凄い拷問と自白の強要で、力づく「事件」に作り上げられていった。
表向きは共産主義思想の猛烈な禁圧とみせて、実は、「戦争政権」背後の勢力争いに陰険に利された、著作と編集への「テロ」の疑いも持たれてきたのである。
この数年関わってきた日本ペンクラブ『電子文藝館』に、故池島信平の「狩りたてられた編集者」という一文が掲載してある。
大意、こんなふうに書き出されている。
<昭和二十年三月十日の空襲は壊滅的で、私は雑司ガ谷の菊池寛氏の家に転げ込み、居候した。
或る日、本郷の焼跡を通りかかると、当時、『日本評論』編集部員の渡辺潔君と出遇った。
「いま『文藝春秋』をやっているんだ。君等に会ったら、聞こうと思っていたんだが、やたらにこの頃、編集者が横浜の警察へ引っぱられているが、いったい、なにがあったんだい」と聞くと、渡辺君は、
「実はぼくにもよくわからないんだが、うちでも美作太郎、松本正雄、彦坂武男の三人が引っぱられた。こんどは僕のような気がするんだが、なにが当局の忌諱(きい)に触れたのか、わからないんだよ」と、深刻な顔をしている。
これが世にいう「横浜事件」で、前年あたりから、『中央公論』『改造』『日本評論』の記者諸君が続々検束されていた。身に覚えのないことで引っぱられるという恐怖は相当なものであった。>
私は、これが「過去完了の事件」とは言いきれないのを、今、懼れている。昨今の政権与党の政治手法や法の制定は、個人の「保護」とか人権の「擁護」とか美しい文字をことさら用いながら、その実は、言論表現や報道取材の自由を、また「私」民の基本的人権を、またもや専制と監視下に抑圧する意図を、ポケットに隠した銃口のように、国民の方へ突きつけている。権勢保持の「公の犯罪」を、そのようにして法の名の下に「国」として犯しかねないのを、私は強く懼れる。「反・主権在民」政治の、津波にも似た不意の来襲を、心から懼れるのである。
いましも用意されている国民投票法案のごとき、明治八年の讒謗律(ざんぼうりつ)や新聞紙条令などジャーナリズムの徹底監禁政策をホーフツさせる、信じられない条文に溢れている。
だが、それ以上に私の気にかけ懼れているのは、物書きはもとより、新聞・雑誌の記者・編集者、出版人に、あのような「横浜事件」の悪夢再来を阻もうとする、自覚や意思や方策が、声を揃え手を携えて立ち向かう気概が、有るのだろうか、という一点。
罪無き言論人や編集者を無惨に巻き込んだ「横浜事件」は、決して過ぎ去った過去完了の弾圧事件ではない。
うかと油断すれば、即座に、また新たな基本的人権の苦難時代、主権在民のなし崩しに圧殺されて行く時代の、一序曲として位置づけられかねない、コワイ事件なのであった。忘れてはなるまい、横浜事件は、私民の平和を侵す「公の犯罪」、主権在民を阻む「国のテロリズム」なのであった。
「国」という権力機構は、国民に禍する「罪」を、じつに容易に犯し得るのである。「公」と称して国を「私する」からだ。
監視されるべきは、国民が公僕として傭っている、「政権」「政治」の方である。
* 言い替えれば、検察や警察の暴走である。
* 小沢一郎は不起訴と。三人の秘書は起訴されるようだ。秘書と小沢の間に連繋と約同の確証が得られなかったのである。それ自体もまた形式的な結論であり、小沢は純白と想う人はかえって減るだろう。それでもこと小沢幹事長に関してはこの件終結という、ふつうの神経や判断では分かりにくい割り切りようだ。
ともあれ、しかし民主党政権の政治主導と友愛政治、真っ向進めてもらいたい。今朝の参議院予算委員会での総理答弁もかなり生き生きと水を得た元気を感じた。政治も国会も検察も、もっと「いま・ここ」に視線をさしこみ仕事して欲しい。
「いま・ここ」とは<単純に薄っぺらい現在の意味ではない。千年の昔をさぐる「いま・ここ」も、真剣に明日を築いて行く「いま・ここ」もある。今回の検察・特捜の仕事ぶりには、かならずしも純真に「いま・ここ」を剔る姿勢が見えにくく、なにか余計な「意図」のほうが先走りして感じられた。不起訴という結論にも、むしろ特捜の天に唾した感じがつきまとう。「国民の皆さん」は、積極的な何物をも得られなかった。
2010 2・4 101
* 夜前も、父の遺していった手書き原稿の幾つもを読んでみた。
「サンタン紳士」とでも言わねばならぬほど、気の毒な惨憺とした人生であったが、独特の文体を持った知性でもあった。知性が父自身を苛み続けていた印象。
兄は、こういう父を知らずに死んだ。妹達は、こういう父遺文を読んではいまい、読まずにわたしへ回送したのだろう、それでよかった。読めば、生活を共にしていただけに、どんなにか辛いだろう。
わたしは。ま、わたしはこういう文書を「読む」のも「仕事」の内と思っている。言いようもなく苦しい体験をするが、それも私の人生。
* 厚着して出て、往きは汗ばんだが帰りは寒かった。ゆうべに、余り気味のミルクの冷たいのをたっぷり呑んだのが響いて、出がけから腹の中が不穏だった。西武の五階はきれいな手洗いが空いているのを覚えていて、ゆっくり使った。
街と乗り物で校正。池袋に戻るとあいにく西武線に人身事故があり待たされて、七時半に帰宅。持って出ていた亡父のノート一冊も読んできた。胸に穴の剔れる心地である。
* 母は実に強かった。父は実にひ弱かった。どちらも親類縁者から圧倒的にはねのけられていた。しかし母は狂者のように罵られもしていたが、やり遂げたことは健常で、根気強剛だった。父はかなりの知性であるが、どこかバネが緩んで平衡を失して敗残視野に甘んじていたように思われる。
いまのところ、わたしは母をあはれとは思わない。昂然と生き抜いた。父は相当に気の毒な落伍者だった。世間や周囲にそうさせられた気の毒さもあるが、それに負けて尻尾を巻いたあはれさ。サンタン紳士だ。
* 難儀なことに、兄恒彦もわたしも、この両親の子なのである。兄は死んでしまった、自らの手で。わたしは、どうなるのだろう。
2010 2・5 101
☆ 風、お元気ですか。
こちら、昨日は強風でした。
そちらはいかがでしたか。
今日は穏やかです。
『雨月物語』借りてきて、「菊花の約」に感動しました。
よく味わって、読みます。
さてさて、花はこれから気になっている買い物をしに、あちこち行ってきます。カーペットの滑り止めとか、お花とか、いろいろ、仕入れてきたい。
風は、校正に精を出されているところでしょうか。
ではでは。 花
* 「花」さんが、雨月物語を読み始めたと。わたしの半分もない若さなのだから、秋成との出会いとしては、そんなものか。
巻頭の「白峯」をとばして「菊花の約」に「感動」というのも、くすっと笑えるほど順当。
秋成は歴史ものにじつは端倪すべからざる創作の妙を遂げる作者。
雨月巻頭で、崇徳院・西行の闇中対決を烈々の名文で書いた「白峯」は特異な感銘編だが、保元の乱の事情などに疎い人には、やや取り付き把に困るかも知れない。
おなじことは春雨巻頭の、平城、嵯峨、淳和、仁明の頃を書いた名作「血かたびら」「天津処女」にも言えるだろう。「二世の縁」や「死首の咲顔」など小説らしい小説へ来てつよい「感動」に打たれる。それはそれで、いい。
雨月・春雨の世界に深く馴染むうちに、みながみな打って一丸の秋成世界として輝いてくる。なまじな現代小説より、遙かに強かな文学・創作への先達である。
2010 2・8 101
* 夜前、きまりの読書をぜんぶ終えてから、枕元に風呂敷ごと積んだ、父・吉岡恒の大学ノートや原稿用紙記事の全部を、判明の限り垣間見える日付などを頼りに年次等のデータを確認して行き、並べられる限り資料としての順番を付けた。データは昭和二十七、八年から五十二年頃に及んでいたと思う。
職場・職掌・組織や人事にかかわる記事
起業・事業・組織や人事にかかわる記事
基督教を初め宗教にかかわる学習や述懐や苦悩や信仰の記事
生家吉岡家と肉親・親類にかかわる記事
人生の在りよう、覚悟・反省・分析等々にかかわる主観的・概念的・箇条書等々の記事
自身の経歴から得た挫折や苦悩や敗北や後悔や憤怒や私怨等々の記事
共産党や鳩山一郎らへの各種の公開状や権限や非難・批判等々の記事
二度に亘る異様な入院記事
二人の娘姉妹にふれた記事
女の記事
最晩年の恒平とかかわる記事
各種のエッセイ、準論攷的な原稿等
これらを通じて、その九割がたには、曰く言い難い一見整斉、しかしその端然とした言句・言説に籠もる執拗で激越なほどの反省癖には、肌に粟を生じるものがうかがえる。
マインド、マインド、またマインド。分別の度の強度にして執拗なこと、時にはっきり病的である。そうしたものが、私の太宰賞受賞の以降は、がくりと硬さが砕け落ちたようになり、しかし、同時に急速に、うら悲しいほど、分かりやすく謂うと「老い」「諦め」を加えて行く。それでも、其処へ来てやっと読んでいてもホッとする。
* つらいのは、これが明らかに私の父親であるだけでなく、間違いなく娘や建日子や、また北沢の甥二人や姪の祖父であることだ。
兄恒彦は、こういう実父の内面を全く知らぬまま死んでいった。また母の苦闘も、多くは知らぬままだった筈。しかし、知る知らぬに関わらず、血は流れている。私の覚悟して見る限り、ここまで老いた私は別にしても、若い孫達からすれば流れてきた血に負う幾らかは、或る面は、かなり意識してそれと闘わねば済まないだろう負のちからを帯びている。それを私は、やはり重く強くいくらかは懼れる。祖父や祖母を果敢に乗り越え時に克服して生きていってもらいたい。
今は、そういうことを考えている。
2010 2・9 101
* 独居していた実父・吉岡恒の誰にも看取られない死は、昭和五十八年(1983)一月二十五日、午後七時頃であったらしい。妹から電話で告げられたのは翌日であったと年譜は記録している。
わたしの手もとにある限り、父の遺した、日付のある手記で最後のものは、コクヨの原稿用紙にあれこれ断片的に書かれた末の、「昭和五十二年十一月十六日深夜」のもの。
「ついにペンが持てなくなってしまった」とある。その後死去まで五年余が経過するのでその間のことは何とも言えないが、この原稿用紙束の一冊が、事実上の「遺書」を成している。それもよほどの年月に断片的に書き足していたものと見える。
これより以前の原稿用紙束以来連続または断続して父は般若心経をくり返しくり返し筆写し続けていたが、最後の一冊へ来てすぐ、年次不明の「四月一日」には彦根高商卒業後四十数年めの「同窓会」がある、「思案の末出席することにした」と書いている。記事六行に過ぎないが、無視できない述懐が添っている。
そして間隔は不明だが「一九七三・五・二七(日)」の日付を持って、曾野綾子さんの旧約「ヨブ記」に就いての「小論」へ二枚半の感想を述べている。曾野さんがヨブを語られていたのは記憶がある。わたしも「ヨブ記」を読んでみたいとその時思ったことが、『旧約聖書』全部を通読した遠い動機であったろう、しかも文語で書かれた「旧約・新約」の一冊本聖書は、妹を介してわたしへ手渡された、此の父の遺品であった。
* 相次ぐ幾つかの断片的な記事のなかで、父が「現在、齢六十三才である」としてある二枚半は、一九一一年二月十一日生まれ(おお…。気付かなかった、今日こそは亡父誕辰九十九年である!)から一九七四年(昭和四十九年)と察しられる。
さらに月日を、あるいは歳月を経て突如、「暫くペンを絶つていたが、恒平の要望に答えて敢て書くことにした」とわたしの名前が出てきてビックリする。一連とも見える記事がきれぎれに断続して、「ついにペンが持てなくなつてしまつた」と書き出された或る日一枚足らずの原稿用紙には、恒平が「会いに来た」とある。
昭和五十二年(1977)七月二十九日、「川崎で父吉岡恒と食事、あと上の妹の家族と会う。父とは、『阿部鏡』の『取材』という意識に固執していた。この頃までに『秋成』五百六十枚ほども『母問い』探訪と同時進行していた」と、わたしの自筆年譜が記録している。
父は最後の最期に「恒平」の名を二度明記したまま、さも「遺書」を結ぶかのように、自身を含む「吉岡家」九姉弟の現在姓名と現在二十三人の子女の名前を明瞭に列挙している。兄北沢恒彦にも、私・秦恒平に対しても、まさしく、おまえたちは吉岡家に属する一員であるぞと言い含めているようだ…。
* おもしろいというか、奇異なというか、この最期の原稿用紙束のいちばん最期には、何故かしら、現在の鳩山由紀夫総理の祖父である鳩山一郎当時総理に宛てたらしき書簡が、半端に、書き残されている。同趣旨の(同じものかも知れない、また実際に投函されたかどうかは不明な)書簡下書きが、「昭和三十年」の正確な日付をもって残されてある。この或いは絶筆かもしれぬ原稿用紙記事、こう書き置かれている。
☆ 昭和三十年二月七日附朝日新聞ロンドン特派員森氏の
日ソ交渉アジアの將来に重大影響
平和共存へ第一歩 日本人の決意次第
の記事を讀んでこの手紙を認める気持になりました。
私は以前東京に在住、終戦以来の閣下の動静に少なからぬ関心を抱いて参りました。
昭和初頭の京大瀧川事件とそれについての明鏡止水という心境の表現も忘れることはできません。しかし何といつても組閣寸前の追放とそれにつゞく不予の病魔に倒れられ(た)二事件でした。追放事件はまだ御健康の時でしたから必ずや内心甚だしい不満と焦慮をもつてその謀略性に痛憤せられたであろうことは拝察に難くはありません。その後追放解除後、吉田前首相の閣下に寄せられた処遇が甚だ予期に反し非友誼的でありました処に、計らざる病魔の襲うところとなられました。まことに痛嘆の極みであつたことでしよう。
* 早くに残されていた原物は相当長編で、目的は何であったか読み通していないが、父は、縷々何事か述べていた。
以来二十余年経て人生の最後の最期に「絶筆」然として、萎え衰えた精神状態で、何故にこんな古証文をまた書き起こそう、或いは書き写そうとしたのかわたしには分からない。いま、孫の由紀夫氏が民主党を率いて国会に圧倒大多数を擁して総理大臣であることを知ったなら、この父は、何をおもうのであろうか。
* 一つ、笑うに笑えないのは、父が壮年期の、上の筆致である。飛躍などものともしなかった生母ふくの筆致は兄恒彦の難読・難解な筆癖に流れていたなら、実父恒の律儀に組み立てて行く反省的な文の性質は、かなりわたしが受け継いできたのかも知れない。
そして感慨を深くするのは、最晩年絶筆時期へ来ての父の文章が、字は相変わらず整然と正しいが、まるで硬い骨が砕けたように或る意味で自然な、或る意味ではぼろぼろと口からものの零れるような平淡・無飾に変わっていること。思いを添えてなだらかに読み取って行きやすいこと、である。
* 最後の原稿用紙束二冊のうち、先の一冊に一度、後の一冊に二度、わたし「恒平」の名とともに書いた記事がある。何故か、兄「恒彦」に触れた記事は、数十点の文書やノートに一度も出ていない、まだ少年の恒彦に宛てた手紙が大昔に一、二あり、「家の別れ」に兄は書き写していたけれども。
* 以下三点、わたし「恒平」に触れて父が書いた記事を、秘して置きたくない。この「闇」に言い置きたい。
一冊めの殆どが、般若心経をペンで書写して埋められているが、ほんのところどころに吐露した苦渋の述懐が含まれている。その中にある。
☆ わが子恒平は「罪はわが前に」と題して、母を喪つた子の物語を書いた。美事に赤子のまゝ力づくでわが両親からもぎとられて、不潔なものゝ如く(人手により=)捨て去られた実子である。かくも痛切に母を恋い、実子に恨まれてみると、何だか自分も(自分の=)父を憎んでも不思議でないという気がしてくる。 (後略)
* この一冊中に般若心経は二十回余筆写されていて、最終葉には、こうある。
「一九七四、一二、二八 一文を草する積りが何も書けなかつた。そんなはづはないと思いつゝも事実なにも書けなかった。苦しいことだ。」
また、
「一九七五年一月四日
「この道や行く人もなし歳の暮」
「世間是非憂楽本来空」
「出家遁世の本意は、道のほとり野辺の間に死せんことを期したりしぞかし」
「全托、忍耐、信頼、誠実」
右の四句を今後の信条として生きることにきめたい。」
* 筑摩書房から書き下ろし『罪はわが前に』を出したのは、昭和五十年(1975)九月。これに徴しても、さきに「わが子恒平は」と書き起こした記事は、上の最終葉の二つの述懐より少なくも小一年も以後のものと読み取れる。だがそんなことは、そう問題ではない。それよりも『罪はわが前に」は、父の母のというような血縁よりも、はるかにわたしのいわゆる「真の身内」が自分には大切であったし、
今もそうだという切望の小説であったこと、気の毒に、父は作の動機を当然のように看過していたようだ。
それはそれ、事実父親である人の筆で、「不潔なものゝ如く(人手により=)捨て去られた」わたし・恒平であったと証言されているのが凄い。
* 次いで最後の最期の一冊も多くの般若心経で埋められたうち何カ所か記事があり、筆致は、格段に投げ出すように、吐き出すように自然体に変わっている。「恒平の要望」とあるのは、たまたま父からの電話口に出た時に、現在のグチよりも事実有った過去を書きおいて呉れてはどうかとでも押し返したのではないか。
☆ (前略) 現在、齢六十三才である。考へて見ればよく家名をきづゝけた罪人である。一体吉岡家の家名とは何であろうか。どれほど守るに値する宝玉なのだろうか。巨億の価値があるとして、一体どれほど損害を与へたのだろうか。年上の女性に恋をしたことが悪いという。しかし結果において死んでしまつたし、生れた子供は両親の意志を一切無視して、捨て子同然に処分したのだ。そして罪名だけが今も残つている。 (中略) 家名 それは国法にも何の根拠もない空名なのだ。空名のため重大な心理的暴力を加えた方が正しく、受けた方が罪人とは一体どこに根據をおいているのか知りたい。 (後略)
☆ 暫くペンを絶つていたが、恒平の要望に答えて敢て書くことにした。何から書いてよいのかいまのところ見当もつかない。自ら誇る何物も持ち合せてもいないし、苦汁に満ちた過去の連続であり、正直のところペンが頗る重い。嘘は書きたくない。すべてを真実で埋めれば一番よくかつ望ましいが、一族縁者、友人知己がいろいろと言うだろうことは推測に難くない。その苦痛を押し切り自ら堪える覚悟がなければ書き綴る意味が失われる。これが一番苦しいところである。 (中略) 一切を投げ出して「内からの働き」に委ねて書くことゝしたい。
一言でいえば、私の生涯は女難の一生であるのかも知れない。 (後略)
☆ 苦しい一生だつた。悲しい生涯だつた。無益な生き方だつた。人間が定めた倫理や道徳に拘束された空しい今生だつた。 (中略) 男女の結合は恐ろしい。すべては偶然の所産であるのに、結果の責任は自己に帰する。これは業、カルマの故であるのか。所詮は空しいの一語につきる。
私には子供が四人いる。恒彦、恒平、*子、**子である。名前が示す通り前の二者は男児、あとの二名は女子である。
男児の母は阿部ふく、女児の母は(妻=)**である。
☆ ついにペンが持てなくなつてしまつた。理由はわれながらよく判らないが、日毎の思いが過去の苦汁に悩まされているためである。
すべてを忘れよと自己鞭撻をするのだが、あまり効果はない。
いく十年も会い見る機会がなかつた、というよりも会うことに苦痛があり避け(て)いたというのが本当だが、向うから理由は判らない、が会いに来たのが恒平である。
最近エディプス・コンプレックスという本が出ているが讀んではいない。恒平も自分も仝じコンプレックスの持主ではないかと思う。
* これが、丁度九十九年昔の今日紀元節に生まれていた父親の(今目にしうる限りの)絶筆であり、私への最初で最後の「批評」である。
ちちのみの父に相見(あひ)しは三度なり
三度めはあはれ死にてゐましき 恒平
昭和五十八年(1983)一月二十五日、逝去。満七十二歳にわずか到らなかった。いまのわたしより、妻よりも若かった。
想えば、母ふくは、強健だった。
父は母との出会いを「恋」と書いているが「偶然」の所産で「不運な失敗」とも書いている。母の方は、肉親の姉から詫びを強いられても、父との出会いは、封建的な時世の強圧をはねかえした人間的な自由の達成であったと、ガンとしてはねのけていた。父の突然の失踪に狂乱した母が生まれて間もない乳呑み子のわたしや兄を抱いて父の実家へかけこんだとき、母にはわたしたちを手放す気はなく、子供を預けてその場から離れたのも、むしろ父を返せとの談判だったに相違ない。
* この二月には、法廷はあるが、これは代理人にお任せ。あとは歯医者へ通うしか予定がない。珍しいほどカレンダーが白い。
2010 2・11 101
* 昭和四十三年から五十二年までの「思索」と「試行錯誤」と「苦難・挫折」の父の歴史を、ほぼ順序を追って頭に入れた。ラクな仕事ではなかったが、何も知らない知らないと思い、それでも構わないと思っていた人の晩年を、十六、七点の原稿用紙束や大学ノートなどでほぼ確かめ得た。
強制的に入院させられていた中で、父は読売新聞「時の人」欄を介してわたしの太宰治賞受賞を知っていた。作品への言及はないが、新聞の切り抜きもノートの中に挟まっていた。
たいへん有り難く貴重に感じたのは、末の妹が父に堅固に厚いノートブックを贈り、手紙を添えていあったこと。
「お父さんに捧げます。 エホバに依頼む者はさひはひなり 詩篇34・8」と最終頁の下に小さく横書きされ「1972 1 21」の日付がある。手紙は角封に入り、父は大切そうに後ろの見開きポケットに入れていた。成人したばかりの妹は、じゅんじゅんと父にむかい敬虔で熱心な信仰をすすめていた。
ノートは、父が退院後に用いられ始めた。たとえ人の文章でも共感すれば父はペンをとって、滔々とそれに関して書いている。
時に人の文章か父の文章か迷うことがあるが、やはり父の文章であり、関心は世界平和であり社会問題でありなによりも宗教問題であったと見受ける。定稿に到らない文には「参考」の二字を頭に置いている。下書き・初稿の意味のようだ。この娘が贈った例外的にシッカリした分厚いノートブックにも、先ず、ガンヂー「手つむぎの生活」にかえれの趣旨で「参考」としながら大きなしっかりした字で四頁びっしり書いている。社会問題のいわば「動機」論である。
次いで、「昭和三十年二月十一日 建国記念日」に書かれた「鳩山(=一郎)首相に対する提言」を書き(写)している。自負の文らしきを父は、煩を厭わず何度も書き写している。これは前後ぎっしり十六頁分もある。
さらに「参考」ながら「宗教界の指導者へ」と題し二十一頁にわたってやはりぎっしりと論攷している。論評は、控える。
このノートは、これでほぼ五、六分の一が使用されて、以降は白い頁の儘になってある。そういう例は、他にも少なくない。
* 父は、戦後、理研で、鍛圧の工場長をつとめ戦後の労使問題でよほど苦労したようだ。父の記録類には、そういう企業や現場や組織内での関心や悪戦や慨嘆や仕事の工夫に関連した記事も相当あり、しかしながらこの世界からは、解職・失職・再起の不成功等で挫折の失意へ沈んで行く経過が観て取れる。
重要なことは、それより以前に、幼くして生母に死なれ、父と継母との日々、二腹に生まれた多くの姉妹や弟との生活に容易に親しめなかった体験が下敷きになっていたし、それが、彦根高商時代、兄恒彦や弟・わたしの母との、父から言わせれば「悪運」の出逢いと恋の破滅へ繋がっていた。神戸商大への合格も振り捨て、父には波瀾と出征の時期があって、そして先にいう妹たちの母親との結婚生活。それも苦しく病んだ妻との不幸な事実上の訣別になるなど、私生活も職生活も帯同してかなりサンタンたるなかで、廃嫡・相続放棄も受け容れたようだ。そのことは、わたしが作家生活に入って幼時以来始めて父の生家を訪れた時に、叔父夫婦から先ず話を聞いた。父と娘二人の住居と経済生活とは、よほど辛かったらしいと父の筆は歎きながら、自然に信仰ないしはそれに準じた関心や行動へ傾いていっている。
たしかに信仰や基督教や神秘主義への傾斜が読み取れてくるが、父のそれは、どうしてもこうしても思索・思弁・反省的で、分別で臨んでいるので、言葉・思考にひきずられて、まさしくマインドで思議し続けていた。だから苦しみは増しこそすれ、少しも緩むことなく失意・失望のまま最期にまで到ったように想われる。
その点、妹たちの基督教に深まる真実は一家をあげて熱烈であるようだ、わたしも、ときどき妹に叱られることがある。
* 母の娘、わたしのいちばん年上の姉に貰っていた手紙は、妻が機械に書き写してくれている。かなりの量であるが、妻は姉の文面の親しみ深く心優しい穏やかさに惹き込まれているらしい。姉が存命の内に、機会が有ればまた逢いたいと何度も書かれていたのに機会をみな失したのは、今になれば心から惜しまれる。
2011 2・12 101
☆ 深層のモチーフ
「蛇性の淫」では、男の愛を感じた相手が、実は大蛇とわかり、退治しようとするのは、男の周囲の人たちですね。
女にもらった大太刀のせいで酷い目に遭った男もこれに協力しますが、周囲の人たちは、つまり、「世間」なのだと思います。
二人のあいだだけのことなら、幸せで、何の問題もなかった。
小さな綻びを作ってしまい、そこから「世間」が入り込んでくると、二人の世界は壊滅してゆく。「牡丹灯篭」も、構図としては、同様に捉えています。その中に、女のあはれがあり、対して、男の情の薄さといったものが見えてくるのかなあと。
(舞踊の「保名」は、死んだ恋人を探し狂う情のあつい男性ですけれども。)
「蛇性の淫」の女、清姫、葛の葉にしても、男に恋着する女たちは、大蛇や狐の化け物なんですね。『薔薇の名前』でも、修道士たちによって、女は悪魔の化身だと繰り返されていて、苦笑してしまいます。
蛇の化身の女性を愛する男性を書いてこられたこと、稀有なことだと思いますよ。 花
* 教会の教権
宗教は論理でなく体験であり、本質に神秘の存在や働きを含んでいるものですが、信仰が教会等の組織に管理されると、管理者達は極度に神秘主義者たちの存在を嫌って廃除にかかります。魔女呼ばわりは、そういうスケープゴートを斃して行く必要から意図的に教会の政策として蔓延化されたと見られます。西欧のいろんな方面の創作では、それらが一つのジャンルと呼べるほど積み上がっている。「薔薇の名前」も「ダヴィンチ・コード」も、ホラーの中にもそれが見られます。
イエスの復活と再臨と、奇跡や聖霊と、擧上と。元始基督教にふんだんにあった神秘性は、教会基督教の公同の歴史の中で薄められ絞り出され、教義が論理化と祭儀化とで頑強に鎧われて行きます。魔女たちは生け贄と、宣教の具として理論上も「必要」だったんでしょうね。つくられたモノ、だったでしょう。
今昔物語ほど巨大な説話集をみていると、男がとか女がとか区別してはとても言えないほど、男も女も、互いの加害者・被害者・犠牲者としてストラッグルしている人の世が、具体的すぎるほど、おもしろ、おかしく、恐ろしく頻出します。
世のもろもろの「おはなし」「絵巻」「能や芝居」「小説」たちは、たいがい背景に宗教意図をはらんだ「日本霊異記」や「今昔物語」から流れ出た素材でした。作者は、自在に腕を振るってきたようにも見えますが、広い意味では、宗教・仏教の宣布意図にもひっくるまれていたんですよ。
そのなかで秋成は、ことに男と女の「性・さが」を洞察した近代的作家でした。エッセイ27の80頁に「雨月物語の性と心」という短文を書いて「雨月」が好きと言うていますが、いまは「春雨」との甲乙はつけられません。春雨の「死首の咲顔」など、どう読むだろうかなと楽しみです。 風
2011 2・12 101
* 昔から、この我々の現代に、「要らない」ものが何かあるか考えることがあり、昨今、ことに多い。嗜好品は省いている。いわば社会制度で「要らない」ものはないかと。
好き嫌いなら言いやすい。だが、嫌いでも必要なものはある。法律とか規則とか手順・手続きなど、鬱陶しくても無くすわけに行かない。
此の世に「要らないモノは無いんだ」と大雑把に言ってのける声なら、何度か聴いてきた。簡単明瞭だが、それでも毎日憂鬱に顔を伏せまたや元気に満ちて生きていると、こんなの要らない、無い方がゼッタイ良いと思う「もの・こと」に出会う。ただ、それとハッキリ言ってのけるには覚悟もいる。「もの・こと」は、実は「ひと」でもそうだが多面的で、こっちのここでは不倶戴天のように好かなくても、そっちのそこでは活きて働いていたりする。自然、好きか嫌いかを言うて済んでしまう。
* 好きな人はともかく、嫌いなやつは、世間みながみなお互いに「所有」かつ「当面」している。とことんそれが言えたら、どんなに気分爽快かと思っている人はいっぱい居るはず。だが、実名で指さすのはだれも憚っている。それが常識・良識と思っている。そのくせ胸の奥にウジウジと嫌いなヤツの名前や顔をかかえ、フラストレーションをおこしている。吐き出したらいいのに。
* 名前で謂えなくても、「群れ」としてなら謂える場合がある。これは、だれも、かなり口にしている。
* わたしは昔から、「マスコミの鼻くそ」のような連中が嫌いで、「鼻くそ」とは何ぞやという議論は有ってかつ必要だろうが、無意味に騒がしい「藝ノー (none)人」「ノン・タレント」、どこでも誰にでもぶら下がりの「コメント屋」「ゲイノーレポーター」どもは、「要らない」「見たくも聞きたくもない」と思っている。
その手の喧噪テレビ番組や「鼻くそ」どもは、はやく「仕分け」して、電波を節約して欲しいと思っている。百害あって一理も一利も感じない。成人式で暴れている少年達より無反省でシマツが悪い。
* こんなことを言うのは、頻発する凶悪犯罪で、むかしと違い平然と再三聞かされる、「殺すのは誰でもよかった」という血の凍るあんな科白が出るようになったのは、何故だろうと歎く気持ちからで。
上に謂う、あれら節度を欠いてただもう騒々しいだけ、無藝乱雑な「鼻くそ」どもが時代を謳歌するように毎度テレビで跳ねて喚いているのを見せつけられている者の中に、「くそッ、誰でもいい殺したい」という気持ちが湧くのではないかと、現代の「テレビ悪」を、結局は思ってしまう。そして背景に、政治悪や政治の無理想に思い当たる。
* 谷崎潤一郎の『きのふけふ』は、彼が交際した中国文人達の思い出をいましも書き進んでいるが、胸に突き当たってきた記事があった。
明治維新から「ほぼ六十年間ほど」で、日本は世界の先進国にせまる意気を示した。事実だった。一様に当時中国の優れた文人達(彼らの多くは、中国再生の政治の渦にも敢えて身を投じた人が多い。) が、それに学ぼうとしていたことを谷崎は具体的に挙げて証言している。
その一つの指標として、彼ら中国の知識人・文人が日本へ来ての見聞・体験の中で、「日本の学生達の勤勉と真剣さ」とに打たれたという告白の二三に止まらないこと、「あれだから日本は」という称讃と羨望と感嘆が、お世辞でなく見受けられたことを、谷崎には珍しい国際的発言として書き綴っている。
* この戦後の日本復興の流れの中ででも、ややそれと似た真摯と敢闘とが日本人に有ったことを、わたしは、いま、かすかにであるが思い起こす。と、同時にそれが崩れ去るように変容していった「時期」も実感していた、のを思い出す。
* 潤一郎は、よかったことをだけ書いていたのではない。
くだんの中国の文人達も、先のような羨望と感嘆を自覚して奮起した「暫く後」には、つまり明治維新からほぼ六十年を経た「そのあと」から、日本の国も民もなんだか堕落していったように思うと語りはじめていて、谷崎は、それもきちんと書き留め、ムベなるかなと慨嘆している。
* この戦後、わたしは、妻にむかい、子女世代のテレビ姿にすでに見受けられた風俗や実生活での見聞をとおして、「この子らが親になり子育てする時代は、ずいぶんヒドイ日本になっているぜ。間違いない。怖くなる」と述懐したのを覚えている。現実は予言を繪に描いたように実現している。「殺してやるのは誰でもよかった」といった無差別無範囲な心理が日本の人をとらえ、社会を揺らしている。
何故だろうと思うとき、わたしは、もし現象だけでものをいうなら、「マスコミ」に「鼻くそ」がつまりすぎ、呼吸困難の自家中毒に陥っていること、そこへ日本国を追い込み追い込みしていった自民党政権によるここ五十年の悪政、政治屋の跋扈、を言わずにおれない。
それを防げなかったわたしたちも含めて、日本の今日に、真のインテリジェンスが腐敗しつづけてきた事実の不幸と責任を言わねばならない。溌溂たる生彩はこの国から失せて失せて行きつつある。悲しいかな。
2010 2・14 101
* 幸福だったと顧みている、自分のこれまでを。幸運だったとも想う。
自分は不幸だったと思ったことはなく、書いたこともないだろう。
実父の遺文を精査していると、最期の最後まで「自分は不幸であった」と思い込み、肉親や縁者や友人たちを責めて、赦していない。気の毒の極みで、これでは、自ら不幸をまねいているようである。
父の棺桶に手をつっこんでかき混ぜているようであるが、父はそういう自分自身を他者に知って分かって欲しかったという「更なる不幸な心情」を捨て去れなかった。いくら神に近づいてもそれでは苦しくて堪らなかったろう。おそらく、モーレツに誤解や厭悪を受けていた、または受けていなくても受けていると思い詰めていた。それを忘れよう赦そうと思いつつ、出来なかったようだ。
遺文の山を精査して経年経時的に年譜化して行くと、父は「極度に反省癖」の人で、つまり分別し分別して自分の「立ち位置」を確認し納得し、そして修整打開して行こうとしていたが、それ自体をどう連続してもいつも同様の内なる葛藤からは逃れきれなかったろう。寸の短い理性が勝ちすぎていた。しかも感情は包容的でなく、藝術や美への感性を文章表現に滲ませている形跡が殆ど見当たらない。そういう楽しみを、逃げ場としても、もっと積極的にでも、持っていない。
その点が生母とちがう。生母は理性的というより噴火する感情と感性の人であり、短歌をつくり、一寸した繪を描き、戯曲や小説紛いに手を染め、「父恋ひ」を隠さず、仏教や基督教に惹かれながら、時世の変革に反応して共産党からの立候補要請をあわや受けるような気概の人だった。高校生のまま火炎瓶闘争に奔ったようなわたしの兄に「同志」的な紐帯を感じさせるような母であった。そして自身の病弱や窮状に苦しむことはあっても「不幸」とは受け取らない人だった。
* 兄は、どういう心境から自身の長男に実父の名をそのまま与えたのだろう、不思議でならない。
わたしには、父や母を拒む気こそあれ、そのような……感傷や情緒や親和的な傾きは微塵も無かった。
2010 2・15 101
* 千葉県君津郡の坂井昭さんという文藝批評家ないし近世史研究者から、辻原登著『韃靼の馬』をめぐって「危うい歴史小説」であると批判する文書が二三日前に届いていた。原作を知らないので正確には言い切れないが、批評のポイントには頷けるところが幾つもあった。
著者が「歴史小説」と自負の旗幟をかかげて書いた小説か、フィクションを敢えてする気でいたか、それも論を左右するだろうが、たとえフィクションであっても歴史を扱う場合、践まねばすまぬ約束はある。たとえば新井白石をふつうの会話で「白石様」とは呼ばないだろう、わたしも「勘解由」と書いていた。「信長様」だの「「秀吉公」だのともし蔭でいうとしてもそれは可なり悪意や逆意を含むことになる。
歴史物は実に難しく、拘泥しないで好きに書くという人もあるかしれない。わたしは会話では余りその時代の話語に拘泥せず、むしろ標準語をさらりと用いるようにしてきた。拘ると不自然に誤謬を重ねるだろうから。ましてわたしのように歴史空間と現在空間とを混在させる作柄だと、それなりの工夫が要る。タイムトンネルを出たり入ったりするわたしの作柄に、はじめのうち戸惑った読者は多かったろう。
2010 2・15 101
* なにも考えない。目の前の仕事をきちんと。
* 小谷野敦氏の本に、光明皇后、孝謙・称徳天皇、恵美押勝らを書いた本がずいぶん遅くまで出なかったと、人の本が紹介されていた。わたしは七十四年に新潮社から、新鋭書き下ろし作品として『みごもりの湖』を書いている。わたしの知る限り、それより早く、この辺を専ら書いたすぐれた歴史小説は知らない。
ただ私のは例によって、千何百年の時空を越えた現代の物語と古代の悲劇との、かなり激しい一元小説。泉鏡花賞候補として最有力視されながら森茉莉さんに先を越されたが、読み比べれば分かる。「名作」といわれ、いまでも代表作の一に挙げてくれる読者が多い。久しく読み返したことがないなあ。
そういえば、わたし、あまり人の知らない書かない歴史的な素材を書いてきた。大目健連の「マウドガリヤーヤナの旅」 恵遠法師の「廬山」 白詩の「或る折臂翁」 赤猪子の「三輪山」 常陸風土記の「四度の瀧」 蛇の「冬祭り」 十市皇女らと壬申の乱の「秘色」 「なよたけのかぐやひめ」 道風や大輔の「秋萩帖」 紫式部の「加賀少納言」 源典侍の「ある雲隠れ考」 待賢門院や西行らの「絵巻」 平家の公達「清経入水」 建礼門院等の「風の奏で」 兼好の恋の「慈子」 明清革命の「華厳」 松屋肩付の「鷺」 源資時女の「初恋」 明智の浪人「懸想猿」 シドツチと白石の「親指のマリア」 最上徳内らの「北の時代」 好色蕪村の「あやつり春風馬堤曲」 上田秋成の「けい子」 子規と浅井忠の「糸瓜と木魚」 祇園井得と上村松園の「閨秀」 国画創作協会と村上華岳らの「墨牡丹」等々。
あまり他の書き手の手を出していなかった畑で、入念な造りを「実験」してみるのが、文学作家わたしの、作柄。
はやくに文壇や出版界から気儘に「出家」したので、自分で云わないと、よほど愛読者以外に大勢の人は知ってくれません。それで、ときどき自前で喋るわけです。みな、ちゃんとした版元からちゃんとした本で出た作品で、きっちり美しく書いているつもりです。許されよ。
2010 2・19 101
* 電子文藝館の筆者データとして、わたしは、「生年月」と「出生地」と「掲載作の初出データ」だけは「ぜひ必要」とお願いした。その作や文章の書き手が、明治の人か昭和の人か、健在の人でも七十の人か二十歳台の人かは分かっていたい。また北国の人か南国の人か、大都市の生まれかなどは知っていたい。微妙という以上に顕著に文体や作柄に触れてくる。そういうことに関する研究や論攷もあったはず。
2010 3・2 102
* 「顧みて他を云うのみ」という批判の言葉がある。批評家の陥りやすい病気で、決してその批評が自身の上に及ばない。
しかし批評は自身への自己批評がベースを成していないと、始まらない。他を顧みて批評する行為が、自ずから自分自身を開いて行く、いつしか自分自身を語って行く、自分を批評して行く。それが「批評」だと思う。私小説を論じても然り、谷崎を批評してもまた然り。他を批評することで自分を臆病に守って了えば、論旨に味がにじみ出ない。
不思議なほど批評する人は、概して臆病。自分を守ろうとして書いている。そう思われる。わたしも根が臆病者なので、同病相憐れんで察しがつく。
わたしは、どんな批評や評論でも、だから、自分をさらけ出すように押し開いて行く。「他を顧みつつ結果として自身を発見し発明したい」と思う。顧みて他を云うだけの文章は、小説でも批評でも、体温が低い。
なぜモノを書くか。「他者」を、ではない。奥に隠れている「自分」を発見するために書く。だから言う、わたしは研究者でも学者でもない、小説家だと。
2010 3・4 102
* 直哉の書簡に立ち止まる。下村千秋の『私語』という小説への「批評」に終始しているのが、鋭く、佳い。
☆ 志賀直哉書簡 大正十一年十一月十八日 下村千秋宛
「欠点は主観が書きすぎてある事です、」「それが余りにセンチメンタルである事です。描写だけでよして置けば味のある所が、つづいてかゝれた主観で制限され、却つて味を失ひます。」「父の気持をあゝ分解しなくてもいゝ」「主人公は分解したいかも知れないが作者はしなくてもいゝと思ひます。折角感じのある所も作者が余りに味ひすぎると、讀者の味ふ余地がなくなります、読者が自由に味ひたいと思ふと作者が傍から切りと八釜しく説明してくれるので、味ひたくても味はへません、此コツを呑込む事大事と思ひます。」「主人公がセンチメンタルでもいゝが作者がセンチメンタルなのはいけない。」「全体のコンポジション」「かう時間的に一直線に書かずにも出来さうにも思ひました。」「関係の説明で(=話が進んでは)藝術的な気がしません。」
* これこそ、これからわたしが取り組みたい仕事への前もっての警告であり、有り難い助言。一週間ほどおくれて、中戸川吉二に宛て、こうも書いている。
「事実の興味(かういふのは悪い気がしますが)以外に惹込むだけのリズムがあると思ひました」と。
これも自戒し、心得ていなくては。
2010 3・12 102
* さて、今日も、直哉の書簡のこと。最も鞭打たれるのは、小説への、また小説の書き手への直哉の的確な批評で。
昨日すこし触れた中戸川吉二へのも気持ちのいい批評もあのあとがあったが、中戸川は既成の作家。同じ年の師走三十日に、まだ海とも山とも知れぬ杉田英男に宛てたのが忘れがたい。杉田は小説を志賀直哉に読んでもらい、そして何年ぐらいで作をよそへ紹介して貰えるかとでも尋ねたらしい。それに対し、直哉は、杉田の家人がそれを思うのはわかるが、「君は左ういう事を余り心配しない方を望みます。兎も角勇気を出して一生懸命にやる事です、左うすれば自づから左ういふ事の道も開らけて来るものです。一生懸命にさえやれば案外早く道が開らけるやうにも思ひます、何しろ本気で勉強する事が大切です。」と。
そう思う。当たり前の話だが、容易に志を得ない書き手は、つい、ここへ思いが捻れる。「本気で勉強」それに尽きてくる。
2010 3・14 102
☆ (前略) 毎日、飲茶をしながらも、いわゆる「茶の道」には馴染んでこなかった小生ですが、「茶に言葉あり」は興味深く拝見しました。殊に「作」は、小説家=作家の解釈が面白く、「清める」から始まる「扱う」「置く」「かざる」「すわる」から「のむ」「好む」「結ぶ」と動詞形で具体的にやさしく解く、お説に魅せられました。いつもいつも御配慮に預り深謝申し上げます。不一 出版社役員
* ここをこう観て下さったのは嬉しい。ちなみに、「作」をどう書いていたか、『宗遠、茶を語る』を買って下さった読者には少し申し訳ないが、挙げてみる。
☆ 作 (茶に言葉あり より) 秦 恒平
たいがいの場合、私の肩書きは「作家」とされる。小説を作る(書く)からである。絵を作る(描く)人は「画家」と呼ばれ、書を作る(書く)人は「書家」と呼ばれる。作ることにおいてはみな同じなのだから、小説家だけを作家とはちょっとおかしいのだが、難しい議論をしようというのではなく、「作」という言葉ないし文字について、いささか考えてみたい。
「お茶杓のお作は」
と問うのは、茶室での挨拶のつねである。茶杓を作った(削った)方はどなたですか…と問われているのであり、ここは然るべき人の名をあげて答える。
だが、作者の意味の「作」というよりも、茶の湯の場合はもっと作意の意味の「作」や作用・作法の意味の「作」を私は問題にしたい。いやさらに言うならば、「随処ニ主トナレバ、立処ミナ真ナリ」などという、その「主トナレバ」の「ナレバ」が「作レバ」の訓みであることを念頭に、「作」を私は問題にしたいと思う。茶の湯という、創意工夫を、心入れや思い入れのかたちで表現して行くことに妙味も趣味もある藝能では、ただに、茶杓を作ったのは誰で、掛けものの字を書いたのは誰でなどという「作」の意識では、ダメなのだ。
そもそも「作者」「作家」という場合の「作」も、けっして作った人、その氏名、をあげて事足ると思ってはなるまい。作るという一事に籠めて、全精神の微妙に具体的な構想や構築が揺るぎなく実現して行く、ないし実現している、そういう「作」の在りようを面白いとあるいは見て取りあるいは読み取り、そのうえでそれほど見事に作った人なり名前なりに関心が湧いて、
「お作は」
と質問せずにおれぬというのが、やはり本来なのであろう。手前みそになるが人生の諸相を複雑は複雑なりに、微妙は微妙なりに書き表して行く小説のばあい、ことにこういう意味の「作」が、作意や作法が特徴的にものを言う。だから「作家」なのである。
だからといって、例えば茶杓を削るくらいにそんな「作」などあるものか…などと言っていては、所詮、「随処ニ主」も「立処ミナ真」もありえない。いわば長編小説の一つや二つもに匹敵する人生や思索から、あたかも生えて出たようにして一本の茶杓が清らかにかろがろと削りだされて居るのかもしれない、そこを「作」の不思議とも面白さともしっかり眺めながら、その物へも、その物を作り出した人へも、敬意と興味とを持つようでありたいし、そうであるべきだろうと私は思う。「作者」とは、もともとそういう性質の敬意や興味を持たれていい人のことだ。
一席の「茶の湯」が、もっとも佳い意味の「お作」となるように願って茶室に臨んでいる亭主や客が、どれほどいるか。
「作者」は自分自身と、そう思い入れて佳い「茶」を作りたい。
* わたしは、かねて「作」と「作品」とはべつのことと考えている。しいて謂えば前者は行為で、後者は評価であると。人品、画品、文品、品位といったもの謂いから推しても、われわれは対象としての「作」を読む・観るとともに、そこに「作品」の有無如何を問いかつ求めて、味わっている。これが、見落とされ見遁されていると、優れた批評は成り立たない。
* 文でも画でも、また人であっても、その「作」に、まぎれなく品のある、ない、がある。高い、低いがある。
同時に、ややこしく紛れやすいのは、いわゆる「俗語」と化してしまっている「上品」「下品」という感触の介入で、用心しないとコトをまちがえる。「お上品」「お下品」とまでいわれれば、むしろ付き合わずに見捨ててしまえるが、俗にいうふつう現代語としての「上品・下品」は、むしろ批評語としては拒絶し無視した方がよいとすらわたしは考えている。上品といわれるがゆえに作品の弱いもの、下品と見捨てられる中に、ある高質の品位というのがある、こともある。
2010 3・23 102
* 流れゆく時の波が、足下の砂のような人生を押し流している。よろめきながら、体勢をかつがつ保ちながら、もうそろそろ好いのではないかと内心の声を聞く。このうえ、此の世でなにが、真実、面白いだろう。現実は、どうか。かなりバカげている。
* 関脇バルトと横綱白鵬の十一日目の全勝対戦は、真っ当に横綱の圧勝。これは面白かったし、バカげてもなかった。眼力の差が出ていた。
2010 3・24 102
☆ ヘルマン・ヘッセ 『デミアン』より
いま、この時代、いたるところに──とデミアンは言うのだ──結託があり、衆愚の形成がある。しかし自由と愛はどこにもない。 現在その辺にある団体なるものは、衆愚の組織にすぎない。人間はたがいに相手がこわいものだから、たがいによりあつまるのさ── かれらが不安なのは、公然と自己の自由をみとめたことが一度もないからだよ。 びくびくしながら寄りあつまっている人たちは、不安でいっぱいだし、悪意でいっぱいなんだ。だれも他人を信用しないんだね。かれらは、もう存在しなくなった理想に執着して、だれでも新らしい理想をかかげる者があれば、そいつに石をぶつけるんだ。
* その通りだ。
そしてお行儀のいいと思っている「良識」や「慣習」の自縛にさも大人らしく居ずまいを正した気で、さよう、「想像力にたいして心を閉じ、経験にたいして感情を閉じてしまう」のを、さも「イノセント」と信奉したフリをしている。掌には凶暴な排他の礫を隠し持って。
2010 3・29 102
* 山を越えて行くのに、両脚に鉄亜鈴をひきずって登るだろうか。民主党政権は、三党連立のためそれに似た悪歩行をあえてしている。すっきりと自己責任で歩けなくて閣内不統一というよたよたばかりが目につき、内閣「支持率」を下げる方へ方へ藻掻いている。
* ところで「支持」ということに関連し、すこし「私事」に触れるが、いましも「湖の本」102が「茶」の本で幸い賑わっている。
さはさりながら、「百ないし百一」という大きな「通過点」で、さすがに読者の数は減った。「もういいでしょう」ということだろう、むろん「もっともっと続けるように」といって下さる人は遙かに数多く感謝にたえない、だが、維持はさらに苦しくなる。
思い出す、四半世紀前創刊の『清経入水』初版は、総頁が百八頁、千三百円だった。通算第百巻の『濯鱗清流』下巻は二百頁、二千三百円、百一巻『凶器』は三倍大の三百十六頁、臨時に二千八百円頂戴した。このところの一冊平均頁は百八十頁ほどで、今回も百八十四頁。以前は簡単に「分冊」していたのを、なんとか「一冊」で編輯し、読者の負担を無用に増やすまいと努めてきたのである。お察し頂けるように、甚だしい値上げは避け、むしろ内輪にお願いしてきたつもり。参考までにA5版9ポ46×20組の百八十四頁は、当節では市販単行本の一冊半に当たるほど、随分と容量多いのである。
それでも、やはり「百」代以降の出版維持はラクでない。ラクをしたい気は毛頭ないが、しかし大きな出血の儘ではこの仕事自体が却って高慢で悲愴なものになってしまう。そういう無理な姿勢は避けたい。で、このところの頒価にどうか二百円載せ、「一冊・二千五百円」を許しを願った。受け容れて戴き、さらにいろいろに応援の手を添えて下さる方も多くあり、感謝に堪えない
読者のお一人が、もうお一人ずつ有難い「いい読者」をご紹介頂ければ、苦境はたちまちに免れる。維持できて刊行が続けられるなら私の願いはそれで足りる。蔵を建てる気など無い。
* ところで、一つ、『宗遠、茶を語る』が、多くの読者をじつはほっと明るい気持ちにさせたのは、本の内容が、例の娘達がらみの事件から離れたからであり、二つ、ここへ来て購読部数が減ったというなら、それは、やはり娘達がらみで書かれたらしき巻が目立ったからでしょう、と、率直に指摘して下さる人が、一人二人三人ぐらい有った。
わたしも、もとより自覚していて、「102」の企画を久しぶり「茶を語る」方へ振り向けたのも、「編集者」としての見当であること、言うまでもない。指摘も自覚も当然の処に立地している。
* 私自身の問題は、その先にある。
私生活のいわば紛糾部分を、秦さん、出さない方がいいでしょう、書かない方がいいでしょう、と、もしなったなら、私はどうするか。
躊躇なく、私は、どちらも書く、どちらも「湖の本」にする、何の迷いもない。
* 娘夫婦の「被告」の位置に置かれて以来、わたしは、精一杯対応してきた。法廷でやすむ間なく攻撃されている立場は、生易しいことでない。「四年」になろうという歳月、何をして楽しんでいようと、瞬時もこの件からわたしも妻も安らかになど解放されてこなかったのである。だが此のイヤな事にわたしはいつも真っ直ぐ突き当たり、ひるまなかった。融通の利かないバカだと思っている人も有ろう。しかし「いま・ここ」の稀な題材に目を背け、書くべきを書かなかったら、わたしは作家とは云えぬ。
* では、自分に反省すべき点は無いか。永い期間、わたしは胸に手を当ててきた。
* はっきりしておく。
私が、もし「作家」でなく、したがって作家としての「精神・思想と表現との自由」を大切にする「気」も「必要」も無かったなら、何も書かず、表現せず、婿や娘に何を言われてもされても、謂われなく無難に頭を下げたり、無い金をムリに工面して与えたりなど、姑息にその場その場をやり過ごして済ませたであろう。それが「大人の常識」だ、「親なら当たりだ」とすら言う人も、世間には多数、大多数いるのをよくよく承知しているのである。
その上で、そういうことは、しないと、いまも私は胸に手を当てている。尺度の曖昧な、正しいか正しくなかったかの問題とは、この価値判断は明瞭に異なっている。
* 「島崎藤村が姪の駒子に子まで生ませたことを、私小説と読まれる新聞小説『新生』であからさまそのまま書いたことは、名誉毀損に当たると思うか。」
そう問われれば、「思う」とわたしは答える。
駒子の側に書かれても仕方ない叔父藤村への、なにらの悪意も害意も無かった、むしろ純情が有ったのは明らかだから。
「問題になった***や三島由紀夫らの小説の場合はどうか」と問われれば、上に同じ、名誉毀損が成り立っているとわたしは答える。書かれた人物と書いた作者との間に、謂わば相討ちの対立が無く、一方的・一面的・描写的に書かれ、書いた側は何も傷ついていないのだから。
それでも、書かずにおれないなら、覚悟をして書くしかないでしょうというのが「書き手」の一人としてわたしの思いである。だが、望ましいことでないのは、明瞭。
* ところで、このわたしが、ホームページや、フイクションの上で、大学教授である婿に関連して批評や批判・非難を書いたのは、「名誉毀損に相当すると自覚し自認しているか。」
そう問われたなら、わたしは、ハッキリ否定する。藤村や三島らの例とは真っ逆さま、書いても当然な、それだけの被害を、わたしは先に受けている。婿の妻である娘も、「夫の暴発」「夫の無礼」、最初から認めていた。婿から舅姑へ、凄いまで悪意と害意が加えられたのに対し、十分に間をおいてから、匿名でなく、すべて文責明瞭なかたちでわたしから「逆批判」したのである。名誉毀損は、逆方向に先行していた。
しかも、このようなことは「裁判」にする問題でなく、書いて非難される以前に、潔く「話し合い」すれば解決は何でもなかった。しかし、いかなる話し合いの場へも、「ルソー学者」であるこの婿は一度たりと姿を現さなかった。ことは、礼譲の問題で、権利や裁判の問題とは思わない。名誉毀損というなら、逆様である。
* 娘に関連しても、すべては孫・やす香の重篤の病と可哀想な癌死とを傷む、祖父母の眞情に出ている。誰の入れ知恵か、裁判の場へ持ち出して実の父を被告席に置き、「名誉毀損等を以て多額の損害賠償金を求める」そのような性質の事件では、はなから無かった。一つには死んだ孫の霊も傷つけ、二つには広義の教育に携わる原告夫妻の、親として子としての知識人・公人たる「良識」を疑わせる、見当違いに「恥ずかしい」ことと謂わねばならない。よく胸に手を当ててもらいたい。
* わたしは、ものに隠れて発言したりしない。文責を公開し、誰からも公正な判断を求める姿勢でものを書いてきた。それが二十・二十一世紀の「IT時代」の作法であり、物書きの立場であると信じている。
* せめて、孫・やす香の不幸な死の直後にこそ、冷静に話し合いたかった。話し合おうと求め、その為にも余儀なく「民事調停」も望んだが、却って作家・秦恒平の「ブログ全破壊」など、著作者に対する最も悪質な攻撃と被害を婿と娘から受けただけで、どうにもならなかった。自分自身に、また家族としても、いまも残念で遺憾だと思うのは、そのこと。
もう一つの自戒かつ後悔は、あの病苦を「mixi」に書き続けていた孫・やす香の現状を、ムリを押してでも、母親(=娘)に告げ知らせ善処を求めればよかった…ということ。
だが、孫娘二人は堅く両親に秘したままわれわれ祖父母のもとを訪れ濃やかに交歓していたし、それを無に帰することは孫達のためにも祖父母の喜びからも、とても仕辛かった。ましてやまさかに「癌」「肉腫」などとは、夢にも思い及べなかったのが、致し方もなく、しかし、しかし…と残念至極。
* 作家に、「あれは書かず、これは書いて」は、気持ちは分かるが、ムリと分かって欲しい。
人生はフクザツに推移し、しかも作家には必然、青年の作風と老境の作風は変わる。
上田秋成に先ず「春雨物語」を書き老いて「雨月物語」を書くことは、難しい以上に不可能であった。「レイタースタイル」は、一人一人の書き手の人生苦楽に伴い、必然来る。
2010 3・29 102
* 読者はいろいろにあれを書いて欲しい、これを書いて欲しいと望まれる。
上田秋成に雨月・春雨の二つの物語があるが、これだけは云える、若い秋成に春雨物語は書けず、老いた秋成に雨月物語は書けない、書けるものでないということ。
だからこそ、若いときは若いときの作を、老いれば老いた時の作を書かねばならない。逆様は出来ない。「レイタースタイル」は必至、また必至でなければならない。
志賀直哉だけが、変わらなかった。それが彼の作者としての行き詰まりだった。
* 網野菊は、志賀直哉に認められた、瀧井孝作さんや尾崎一雄さんとならぶ一人、阿川弘之さんの先輩格だが、直哉との出会いは、大人しい網野さんの思い切った訪問に始まった。大正十二年九月、関東大震災からほどない日の直哉の手紙がある。直哉は京都市に住まい、網野さんは東京の女子大生であったように記憶している。その日は直哉宅に泊めて貰ったのだったかも。
無事御帰宅の事と思ひます
小説拝見致しました、心持ちの動き方を正確によく捕へてある点感服しました 書き方も素直でいぢけてゐない所よく思ひました 慾をいへば甘い意味でない藝術的な美しさから来る方面がもつとあるといゝと思ひますが先輩らしい事をいへばそれはもつとあとの事でもいゝと思つてゐます 物を正確に見るといふ事が出発点として大変いゝと思ひます 勉強としてはその方が先の事で大事だと思ひます
頼まれて見る原稿大概感心しないので近頃は近かい知人以外は時間つぶしなのでお断りする事に決めてゐるのですがお断りせずに拝見してよかつたと思つてゐます、
原稿はどうしませうか 御返送するにしてももう少しあと、郵便が安心になつてからの方がいゝかと思ひます、
九月廿八日 志賀直哉
網 野 菊 様
いい手紙だ。
「慾をいへば甘い意味でない藝術的な美しさから来る方面がもつとあるといゝと」は、花=ファシネーションを求めているのであろうか。そのあとも大事で、さすが直哉。
2010 3・30 102
* 「序章」にもう一層を添えてみた。「五つ」の断層を践んだ姿勢で、不退転の検討を我が身に加えてみることになるか。
2010 3・31 102
* 2005年の「全私語」を分類して貰ったのが、今日、いま現在で、もう34項目分送られてきている。気の遠くなるような難作業を続けて戴き、感謝するばかり。
1998年三月に書き起こし始めた「私語」である、その総量とほうもない。すべて三十余項に内容を分けて編成して下さる、その私の活用価値は測り知れない。
わたしの「私語」は、いわゆる家常の日記とはかなり異なり、いわば「論」や「観」や「感」や「記録」や「批評」や「エッセイ」を成している。文藝作である。
すでに1998から2000まで前世紀三年分の「私語」から編んだ「湖の本」が、『濯鱗清流』上下巻、四百頁ある。幸いにこれがよく読まれた、おもしろいと。
ところが、新世紀に入った「2001年分」からまた新たに編もうとすると、よほど削ぎ落としても、一年分だけで、先の上下巻分の二倍、つまり「四巻」分になると既に分かっている。全量の三分の二程度で編輯したとして、「日録分だけ」でも、二百頁級の「湖の本」が優に四十数巻分すでに書き上がっているわけだ。しかも日を追って年々に増えて行く。わたし自身の手でこれが出版できるかどうか、ま、夢かと思う。
2010 4・2 103
* かつて用いたことのない、うまくすれば面白くなりそうな小説の「実験」へ、コツっとつき当たった。しばらく試みてみようと思う。あれこれとやっているうち、はや十一時過ぎた。
* 京都のホテルフジタからと、からすま京都ホテルから撮った七枚の写真を繋いで、北は鞍馬、比叡から南の稲荷山まで、いわゆる東山三十六峰の稜線が一望できるようにして、身のそばに置いてある。北半分には鴨川も写っている。なにやら昔のことを思い思い小説が動き始めていると、山紫水明のかたちが、何より身近で呼吸してくれる。
2010 4・3 103
* 中国文学研究の泰斗であられた吉川幸次郎さんが、文学の基幹は随筆だ、中国ではそうだと云われ、谷崎先生も共感されていた。少し関心の域は異なるかも知れないが、日常的な「随筆」のもつ具体性を大事に見なおす気持ちでいる。
ともすると概念的に文章を書き、描写や観察を節約気味に書き渋ってラクをしたがるが、そんなとき、具象的な随筆の持ち味を小説へ呼び戻したくなる。枕草子や徒然草の魅力は、感想の魅力である前に叙事の魅力であろうと見なおされる。
概念ぬきにものの具体の発見しにくいことも、概念ゆえにものの具体をみのがすことも、ある。後者のほうがだんだん多くなるとき、創作は危機に陥る。
2010 4・6 103
☆ クリアに書くようにと 花
以前風に言われ、どういうことだろうと、戸惑いました。
その後、風は、「私語」の中で、今日はどこへ行って何をしたなどと書いた花の日々のメールに触れ、具体的でクリアだと、直哉の文章にも言い及びながら、「クリア」の勘どころを示してくださっていました。
腑に落ちた思いがしました。
昔、金井美恵子という作家が、「若い頃、小説は描写だと思っていた」と語っているのを読んだことがあり、たしかに、金井さんの小説は大部分描写でできていて、読むのに辛抱が要りました。
観察に徹するのは、書くのもしんどいと思われます。
具体的でクリアな印象を受ける文章は、観察や描写によって、人物の造形や人の心を読む者の目の前に置くような役割を果たしているときです。
概念と具体のバランスがとれているとき、文章が「クリア」になるのかもしれません。
最近、風の『月皓く』を読みましたとき、単純な描写の文章がただの一箇所もないことに、風の推敲のあとを感じました。風景や動作などの描写に、すべて意味があり、人物がどう思い感じているかが籠められていました。
かくあるべきと思いました。
* 具体的だからクリアとも云えないから難しい。具体的だけれどくどい文章は、洗面から朝食から、次から次へと書いたようなヘタな日記には、しばしば在る。
直哉のラコニックに彫琢されたな文章はクリアだが、たっぷりとした口調でおっとり話すように書いて行く潤一郎の随筆にもクリアな魅力がある。ヴィヴィッドでなければ文章は活きて働かない。わたしなど、まだ、未熟だ。
2010 4・6 103
* ときどき、自身の内に小説家・批評家のほかに「編輯者」が根強く生き残っていて、おまえ(つまり自身の)晩年の作風を、「編輯力で構想せよ」と教えてくる。決して『清経入水』や『みごもりの湖』や『慈子』のように書こうともう思うな、まだそれが出来ると思うのは錯覚だ、それよりも、おまえの「人生」を縦横に編輯してみよと云うてくる。
じっと、聴いている。
読者がまんぞくされるかどうかは、別の問題。
* ひたみちに、とにかく前へ前へ仕事を押し出している。
2010 4・9 103
* いわゆる休日とは無関係に、ふつうに過ごしています。めったに出掛けません。ゆうべも日付の変わるまで仕事していました。今朝は十時まで熟睡しましたが起きてしまうと普通です。
機械の前にいて、一服に、テレビの前へ行きましても「仕事」に気のあるときは、あっという間に機械の前へ戻ります。仕事のすすまないときは自然、休憩が永くなりますが、ここのところ、何しに休むのか分からないほど機械の前へさっさと戻ります。だから「仕事」が快調に進むというのではないのですけれど。
機械と向き合って粘るのです、いろんな風に機械を触りながら。機械での時間つぶしなら、コンテンツは多方面に満載、無限に可能ですからね。それでも機械の前にいれば、いずれ「仕事」へ戻れます。
むかしは、メールが日に五十も来たものですが、いまは、一日に一つも来ない日があります。人の「mixi」日記を見たり、ブログを覗いたり、こっちからメールしたりということを、全然というほどしなくなったからです。時間は、おおいに節約できます。
時間があれば、機械の前で各種の本を手にとって読むか、機械の中のコンテンツを整理します。自転車にも乗りますが、それも怪我してからは少なくしています。
医者かよいや観劇以外には、めったに外出しません。隅田川の橋の徒渡りも、まだ残りが幾つも。
今朝息子のメールに返信して、序でに書きました。息子、次々に新刊が出せそうだと。
* 建日子 「仕事」は、とにもかくにも、「心ゆく仕事」を。
象徴的なことだが、江戸末の優れた作者上田秋成の一代の代表作に「雨月物語」と「春雨物語」があります。前者は三十になるならずの瑞々しい傑作、後者はもう亡くなるまえの優れて枯れてみえる老境の名作です。
この二つの作を、同じ一人の秋成の作だからといって順序を逆にして書くことは、ゼッタイに不可能でした。
「今・此処」に打ち込んで忠実に誠実に、建日子は建日子の「雨月物語」を書くように。わたしは及ばずながらわたしの「春雨物語」をと。
読者の人生に同伴して歩みつづけ生き続け、敬愛されて名前で覚えられる、「女」を、あるいは「男」を、魅力的に創造せよ。カチューシャのような、春琴のような、またネフリュードフのような、時任謙作のような。 父
* 感覚のズレた親父のお節介だと嗤われそう。
2010 4・10 103
* じりじり進む。「ザ・ロンゲストデイ」で、オマハビーチといったか、難攻の限りの果てに防壁を工兵の爆薬がぶちぬく、ああいう瞬間を待っている気持ち。うまくやろうとか、こりゃダメだとかは考えないことに。
2010 4・10 103
* 終日、「湖山夢に入る」心地で、母を書き父を書いていた。書いていると、他は、ただ流れて行く。
2010 4・11 103
* 今は何を見つけても考えても、『湖山の夢』に帰って行く、触れて行く。半端に思うままをここに書きつければ、わたし自身が窮屈に脚をとられる。
* 結果として今、余儀なく併行している創作的な仕事が「四つ」になっている。
一つは、平家物語に絡みながら、考証風の想像でわたしの物語を紡ぎ続けている。あっさりと一つの考証に即しておけばそれなりに済むものを、成るもよし成らなければそれでもいいと、蜘蛛の巣のようなややこしさを独り楽しんでいる。苦しんでいると謂えもするけれど。
もう一つは、魔法陣にとりこめたように複数の女を書いている。女をではない、男女の「仲」「関係」というのを老境の眼で質的に「批評」している。
さらには新しい小説のつくりかたを二通り「実験」している。実験であるから、種明かしはできないが、たどり着きたい目的は一つである。
* 此処へあまり何も云わない書かないことの言い訳をしておくのである。
2010 4・12 103
* 騒がしい夢から逃げだすように目覚めた。晴れ。晴れているのが何より嬉しい。
* 柔らかい胸の内が、ギダギダに傷ついている。グダグタに傷つけられる。もうやめようかと思う。それでもやめてはならぬと思う。投げ出してのがれるより、踏み越えて先へ出たいと思う。もう「往時・往年」のことに触れるのはよそうかと思えてくるが、それでは誠意がない。事実としては往時のこと往年のことだが、わたしには「いま・ここ」の重荷である。重荷は下ろせばいいとは簡単な結論だが、下ろした瞬間にわたしは「生」そのものを喪う。「不条理」ではあるが、硝子に額をこすりつけながら、硝子の向こうへと飛び続ける虫のようで在らねばならぬ。
2010 4・13 103
* 昨日の松たか子の芝居はうかと数えられぬほど「場」数をもっていたが、幕開き第一場が、目覚ましいまで心地よく活溌だった。松たか子が女神のように軽やかだった。わけがあった。
西尾まりという女優。むかぁし田村正和が現代ドラマに熱心に領域を広めていた頃の小娘役で出ていて、たいして可愛くないのに「先」の在りように奇妙に期待を持たせた子だったが、はたせるかなしぶとく生き残っている。おもしろい持ち前を身につけ、今も活躍している。この女優が、昨日も、板付きのままいきなり気儘に喋る喋るご機嫌の奥様松たか子に、どう動かれてもクッ付きくっ付き平然と美爪(マニキュア)術に精出しながら、口も達者にしたたかご機嫌を伺っていた。この二人の、コントラスト。こぶとりのからだつきで終始自身の手先へ身を屈めている西尾まりに対し、松たか子ときたら、じつによく似合った惚れ惚れする濃紫のうすぎぬをほっそりと軽やかに身に纏っている。実に美しい。松たか子ってこんなに美人だったんだあといきなり喜んでいたが、この二人が、あだかも奥様の手先ひとつで「連繋」しながら、めまぐるしく(奥様の)気儘で部屋中を「移動」する。この二人の「微妙に一つに繋がれた」演技が、さながら異型の舞踊組曲のようで、観ていて、はらはらし、うきうきし、どきどきしながら、軽快に軽妙に、あきれるほど美しい。その間中、松たか子は自分の「二人の夫と愛情」について好き放題に喋り続け、西尾まりはすかさずすかさず相の手をいれ、奥様の爪の面倒を見続けている。
昨日の芝居は、もう、ここで、これだけで成功を予測させた、いや成功していた。「科白」がキワだっていたのだ。
* 現代の人は、「科白」という言葉を理解していない。いや、忘れている。そのために芝居を「観るカンドコロ」が手に取れていない。舞台のおえらい批評家たちのよくもまあ飽きもせず「オベンチャラ」ばかりと惘れる新聞評などに、いつもウンザリしているが、彼らの専門家たる批評に、演劇や歌舞伎を、「科白」の有機的関聨と分別し理解した視線・視野がないので、ほとんど全て出たとこ勝負の「評判」に阿ったホメかケナシばっかり。彼らに「科白」と「台詞」はどう違うか尋ねてみるといい、同じ意味ですよと嘲笑が返ってくるだろう。
むかしのしっかりした人の佳い文章を読んでいて、「白」「白」と出てくる。一瞬戸惑うまでもなく、すぐ「ことば」「もの言い」「せりふ」の意味と諒解した。手紙の後ろなどに「敬白」と書き添える。「敬ってまうす」つまり「白」は、言語として言う、伝えるのである。
「科」は意味が違う。すなわち「シナ」「しなしな」「しなやか」「シナをつくる」と謂うように、こっちは言葉でなく「からだ」が「こころ」をあらわす動作を幾段も高く、立派な「所作」に昇華してゆく機微・機能を示している。
「台詞」は、台本に書かれた話し言葉。
しかし「科白」は違う。「科」と「白」との、「所作」と「言語」との一元化合」した「有機的な昇華」の魅力・魔法として、役者に厳しく期待される、高度な演劇美の最要件。
「科」と「白」の二つが化合し、ともに一つの美しい火の玉となり火花を散らせば、そこには、最高度の所作音楽が、すなわちそれが「能」と謂うべき演劇美・歌舞伎美が実現する。その旨い下手の落差は、如実に役者がつねに暴露している。最近で謂えば、吉右衛門の「絶景かな」と、橋之助の「ゼッケエかな」の落差である。この際、この一語を一人は科白として豊かに表現し、もう一人は台詞としてただ口にしていた。
昨日の松たか子と西尾まりのかなり永い時間の「アンサンブル」がまさに「科白」劇の妙たる生きたダンシング・デュエットであった。松たか子のあの奥様役は、エゴの無意識の権化。しかもその美しさが、純粋に透明感高くあらわれ、まこと惚れ惚れした。二日このかたの体違和を、まるまる癒されていた。功徳であった。
ホンの一齣の感謝を述べた。
2010 4・28 103
* ところで、人には、ウラもオモテもある。当たり前である。人によっては十二単ほど幾重にもウラがある。
云っておく、わたしも例外ではありません。
であるから、「キミなあ、ウラもオモテもないっちゅうのは、かなわんもんやなあ。」という「京男」梅棹忠夫氏の慨嘆(=上野千鶴子さんと会食の際に漏らされたと。上野さんの新刊随筆集に依る。)は、もうすこし「読み取りの藝」を要するのではないか。
場面から察して、これは明瞭にユーモアの顔をした辛辣な(=場合によっては、当の上野千鶴子への)皮肉なのである。
オモテの奥に、隠し所に、どれほどの「ウラ」を蓄えていてもいいけれど、そいつをミソもクソも、いつでもオモテへ吐瀉してくるっちゅう「お人」は、「かなわんもんやなあ」と、たぶん上野さんの顔を観るような観ないようなおとぼけで云われたことであろう。
ところが上野さんは、「ウラもオモテもないひとを、それだけでいいひととは思わない」などと書いている。これは、あまりに淡泊な誤解のように想われる。
そもそも「ウラもオモテもないひと」なんて、世の中にほんまにいたら、かえって化け物だろう。
梅棹さんの曰くは、「ウラはウラとして隠しておくもんや」「隠しとけばこそ、奥ゆかしい(奥を覗かして欲しい)のや」という真意であるだろう。ウラはウラとしてオモテヘ曝さねばこそ、奥にゆったりと隠しておいてこそ、そういう人ほど、微妙な場面で微妙に「上手にウソをいわはる」という社交上の称讃もかちえられる。「オモテ」のほんまだけがその人のチカラではないのでして。
ただし、徹してこの美学、「京都」のものである。
わたしは、中学の時、年上の人からしんみりと窘められた。
「ほんまのことは、云わんでもええのえ。わかるひとには云わんでもわかるし、わからんひとには何をいうてもわからへんの」と。
京都では、じつは「ほんまの」思いや言葉は「ウラ」にしっとり隠して、秘めておくのが、かしこい大人なのである。
しかし、京言葉のわからん人には、これは、も一つも二つも、ピンとこないだろう。上野さんは、やはり京都の人とは、すこしちがう。京都のような「オモテ」の世間ででも、いさぎよくウラもオモテも何でも遠慮無く喋ってきた人、梅棹さんのような京男の思いには、たぶん、「よそのお人」なのであろう、か。
2010 4・30 103
* 原爆に壊された長崎の「旧」浦上天主堂の美しかったこと、その廃墟となった残骸のまたじつに美しくさえあった写真に見入りながら、人が人に及ぼし為した「廃墟」の意味を想わずにおれない。
自然の威力が加わった廃墟も有るが、多くの文化遺産が人の手で創られていて人の手で破壊されてきた。歴史は語っている、それが、「おまえだ」と。他人事ではない。
* いま、玄関には堂本印象の短冊繪「ほととぎす」の一軸をかけている。白い叢雲をわけて鳴きわたる一羽。表具はかそけくも雅に淡泊。叔母が古門前の林から買おうというとき、賛成した。時季は、やや早いか。
鴨社の祐為が書いた卯月八日の繪がある。季節はむしろ旧暦ならいま頃に当たるので、明日は掛け替えようと。
2010 5・3 104
* 昨夜は、おそくから黒いマゴが遊びに出て真夜中まで帰らず、気がかりなまま本を読んでいてすっかり寝そびれたのには参った。
中村光夫著『老いの微笑』を一気に読み上げた。初めに近代文学史風の批評と文明論、ついで、老いの微笑の随筆、そして家庭生活や家族の回顧、そして巻末に小説三編が。
読み終えて、あらためて気がついた。中村先生の少なくもここに載った小説三編は、すこしも上手でないし名文でも可笑しくもない。老いの侘びしさを追求してあるが小説を読む妙味は無い。
それに比べれば、それより前の随筆は、じつに興趣にも示唆にも富んで共感をさそわれながら、なおかつ読んでいて面白い。とても面白く、文藝の妙を満載していた。そして、それらの通読が、中村光夫という文藝家のそのまま佳い「私」小説を読んだ一種馥郁とした効果を挙げていた。
わたしは今度、随筆で書いた「私」小説という結構のなかで、難しい問題を読者の目の前へ突き出すやり方を、余儀なくというより敢えて取ってみたが、そういう実験と方法とをゆるすものが「随筆」という文学の形式には内包されていることに確信が持てた。
* 随筆のように書き始められた小説の名作として、たとえばわたしは人生のとっぱなのところで谷崎の『吉野葛』『蘆刈』に出逢い心酔した。『春琴抄』もそうだった。わたしがはじめた読んだ谷崎作品は毎日新聞に連載され始めた『少将滋幹の母』で、小倉遊亀の挿絵とともに、中学生が毎朝新聞を待ちかねるようにして読んだのである。これもまた随筆を読み始めるかのように物語り世界へいつか引き込まれていた。そして言うまでもない、谷崎の「母」恋いものの絶妙の名作になった。それだからこそ、わたしは読み耽って倦まず、ことのついでに不浄観のようなことも覚えた。新制中学二年生から三年生への頃だ。
もし覚えていて下さる読者があれば、この述懐をぽちりと念頭に残して下さいますように、わたしは、この頃与謝野晶子の源氏物語訳も繰り返し耽読する機会に恵まれていて、わたしの理解だとこの物語は、いと幼くして生みの母・桐壺を喪っていた光源氏が、母によく肖たといわれる「母」藤壺を愛し、またその「母」によく肖た人を妻紫上として愛し生涯を過ごした物語なのだと。
この受け入れは、わたしのなかほぼ不動に生き続けた。
現実のわたしは、一片の記憶もなく生みの母を喪っていたので、求めるのは肖る肖ないに関わらず理念としての「母」そしてその「母」に代わりうる妻であった。わたしの括弧つき特殊な理念である「身内」という考えは、願いは、そのように芽生えていた。理念ではない現実の生みの母、括弧の中に入らない実の母は、わたしには存在の理由すら無かった。
だが、その実の母は、わたしが中学生になる直前、わたしの全く気付かなかった、知らなかった理由と必要とがあって、わたしの極身近で、そう、闘い続けていたのだった。だが、その経緯一切がわたしには、秘されていた。わたしにはそれは無であった。その「無」を抱いたままわたしは、源氏物語を愛読し、谷崎の新聞小説『少将滋幹の母』を読み、☆一つの安さに惹かれて岩波文庫の『吉野葛・蘆刈』を耽読していた。わたしは現実の母に関心も愛もなかった、滋幹の母のような、お遊さんのような括弧付きの「母」を文藝を介して胸に膨らませ続けていた。
* とどのつまり、七十半ばの老境に達してその生みの母に、ついに出逢ってしまった。
2010 5・5 104
* 誰かがテレビで云っていた、「政治の話がイヤでしょうがない」と。
「イヤでしょうがない」ことは山のようにある。手放しで喜ぶという物言いがあるが、それとはちがって、なにもかもから「手を放してしまいたい」、我からどこへでも「落ちてよい」気分になろうなろうとするのが甚だ危うい。
こういう時こそ、良いものに触れたい、花のあるものごとに触れたい。手っとり早くは、良書。美しいもの。
2010 5・16 104
* 火炎瓶ないし火炎瓶闘争は、戦後一時期を象徴するモノ・コトであった。
わたしはそのころ高校生だった。大学に進んだ頃はもう火炎瓶は下火になっていたろうか、よく知らない。官憲や公権にむかい火炎瓶を投擲する大学生や一部高校生たちの行為を新聞等で伝聞しながら、必ずしも顔をゆがめることは無かったが、身を挺して加わろうとも思わなかった。
一部高校生の中に、実の兄と仄聞してきた当時京都府立鴨沂高校の北沢恒彦の名が上がっていたのが、わたしの密かな注目を誘っていたのはムリもない。
しかし、事の経緯等については全く分からなかった。伝わってくる情報も情報の道もなかった。
今度手にした父の遺品のなかに、その鴨沂高で兄の担任だった先生が、相応に詳しい経緯を、なぜか実父吉岡恒宛に下さっていた。
なぜ、昭和二十七年秋当時に、養子縁組も成っていた「北沢」恒彦のことで、東京住まいの実父「吉岡」恒と高校の担任との間に対面もあれば文通もあり得たのか。分からないが、およそ事件の経緯がはじめてわたしにも知れた。兄の姿勢も見えた。
知ってみたかったアレコレが、次々に見えてくる。しかし父も兄も母も係累の大勢ももうみな亡くなっている。今頃になって知れても遅いということは一応言えるが、わたしは、それがよかった、ありがたかったと思える。
* わたしは、若い自分から、「私小説」など若い内に書くべきでないと自分にも言い聞かせ、書いても来た。年寄りになったら私小説も書きましょうと。そのおかげで、若い間に小説らしい小説をとにもかくにも力こめて書くことが出来た。それらがあるから、今わたしは私小説に少しもひるまない。
私小説にもいろんな書き方があり作り方がありうる。その工夫や実験のできる「材料」が天の計らいのように今頃になって手元に溢れてきている。
ふしぎなことだ。これで、いいのだ。
2010 5・18 104
* 後半の再校ゲラが届き、入念に読んでいる。余念無く気を入れ、焦らず読むことがいい収束に繋がるはず。特段、外からの連絡もない。また階下へ。
* しっかり進行している。今日のうちにも片づけられることは片づけたい。仕事の山場で、気分集注。一つには、それが体調のためにも気分のためにもいいから。スリ足してワキをかためハズにかかって仕事を土俵の外へ押し出そうという気構え。結句それが精神衛生に好い。ゆるんでいると、くさる。
仕事は、手や腕で小さく囲ってひとりでヒソヒソとすすめるのでなく、ワイワイ喋ってというワケに行かなくても、それほどの気分で何か外からのヒントも掴み取ることが大事。ひとりきりでする仕事は、どうしてもちいさく縮みがちになる。むちゃくちゃクササレても、そうして大きくて広い場所を見つけること。架空の文学仲間を自分で創り出して、適宜にいつも呼び出すように。
* よしという処まで、仕事進めた。あしたは体を動かすことも出来るだろう。
2010 5・18 104
* 「新しい村」を起こした武者小路実篤にふれて、それを支持して、志賀直哉の書いた短い文章がある。武者小路のこととは切り離れても、感じ入る強いことばを直哉は並べている。
「譲歩して差支へない事と譲歩してはならぬ事と……此両方をよく識らない者は駄目だ。此両方があべこべになる者は素より駄目だが、其何方でも一つしか識らない者の仕事もあぶなつかしい。」「起る事は其場へぶつかつて切り抜ける。(持った)手槍は突けば直ぐ又手元でかまへて居る」のがよいと。
また「計画は人間から出発する。主義や考案や技量は次だ」とも。
また別の処で、「夜中を仕事の時にする習慣は やめられたらなるべくやめたいと考へてゐます」とも。
ことに最初の、「譲歩して差支へない事と譲歩してはならぬ事と……此両方をよく識らない者は駄目だ。」というのにわたしはこころより賛成する。わたしは、及ぶ限りそのように事に立ち向かってきたつもりだ。
* 「一流の文学者になるのは天才のみがなるかどうか」と尋ねてきた読者に、直哉は答えている。
「天才にも色々あつて、所謂天才的な天才もありますが、さういふ感じを少しも与へなかつた人でもその人が一流の人になつた場合矢張りこれも天才だつたといふ場合も多い事と思ひます、天才であるかどうかはさう自身で問題にする要はないと思ひます。
それよりも一番大事な事は一流の人間になるといふ意志だと思ひます、それを本統に持ち、且つ持ち続けられたら、それが、自身で色々な働きをしてくれると思ひます、真剣である事、努力的である事などはそれから生れて来ると思ひます。」と。
前段はあたりまえのことである。後段の、ことに「意志」の二字が尊い。それに尽きるとわたしも思っている。
直哉は、ここで、さらにこんなことを付け加えているが。
「医者で文学をやる人がありますが、医者をせずに文学だけ一生懸命にやれば尚よいと思ひます」と。
森鴎外等のことが直哉の念頭にあったかも知れない。「白樺」の人達は漱石は尊敬したが、なぜか鴎外は眼中にないという態度だった。
2010 5・19 104
* 音楽と映像とが、世俗世間で、はるかに文学を凌駕し、美術を凌駕している。
コンピュータも、文学・文藝によりも、はるかに音楽や映像のために優しい。
しかし機械で本を読んで心服し満足する習性は、そう容易には培われないだろう。「紙の本」には言い難い感触の快味があり、機械では代用できない。だが、便宜と経済を考慮すればいわゆる「本」の受ける打撃はきつい。書店は戦いていよう。
「紙の本」は希覯の貴重財になり、「電子の本」の時代が必然来ると見越して、わたしは十年余も前に日本ペンクラブに早々に「電子メディア委員会」創設を実現したのだったが、その意図を深く汲める現理事会ではなく、たんに機構と運営との短絡から「言論表現委員会」に吸収されてしまった。時代の流れから見て明らかに逆行のはからいだ。先見の力と聡明さとが欠けているとしか云いようがない。
2010 5・19 104
* 袴垂保輔といえば、平安時代の事情にすこし通じた人なら「大盗」と小耳にはさんでいる。この彼が、時の大赦で、殆ど素裸のまま牢獄から逐い払われた。
彼は素裸のまま路傍に死んだようにノビきっていた。通りかかる人はみな、どこに怪我も手傷もない死人だと嗤い捨てて顧みない。そこへ眷属の二三十人も連れた騎馬の武士が通りかかり、手下の者に観させると、手傷一つない男が死んでいるようですと返事。武士は馬上に弓矢を身構え、保輔から遠のくほどにして通りすぎてゆき、観ていた者はみなこの臆病そうな武士を嗤った。
また、眷属をつれないしかし身なりもよく物の具も身に帯びた騎馬の武士が通りかかり、人にも聞いて、死人にちかづきその様子を検分にかかった、が、やにわに死んだような男が武士の刀に手を掛け、奪いザマ武士を斬り殺してしまった。衣服を剥ぎ、馬も持ち物も奪い取った。そしてまた盗賊団の長となり、近郷近在に跳梁したという。
保輔を褒めた説話ではない、さきの「身構えて遠のくように通り過ぎていった武士」の用意深さ確かさを褒めたのである。
相手を観る。なまなかの者ほど心驕って思わぬ不覚に陥ると、よく聞いてきた。
* 今昔物語は、こういう説話で、人の世を覆い尽くし、厖大に及んでいる。
芥川龍之介はこの説話集に材を得て「羅生門」「鼻」「芋粥」「偸盗」などたくさんな小説をモノにした。なにも、時代小説だけが得られるのではない、換骨奪胎していまいまの今日小説にもなる話材は夥しい。読み物作家の大勢がひそかに、またあからさまにこの古典のお世話になって稼いできた。どういう説話を拾い採って巧みに活かせるか、それも腕というモノだろう。
わたしは、そういう試みも遊びもしたことが、まだ、無い。読んでいて面白いな、放っておくのが惜しいなと思う説話はいっぱい有る。なにしろ一日一話ずつ読んできて何年になるか、「世俗編」つまり日本ダネの説話だけでも、まだ楽しんで読み終えるのに何ヶ月かかかるのである。
難しいコトバではない。難しいと云えば云えるかもしれない、千年近い前のいわば口語なのだから。親切な注と訳のついた小学館の日本古典文学全集を四冊手もとに置けば、おそろしく物知りになること請け合い。
物知りになりたい若い物書きさんたちに、言い古されたことだけど「話の宝庫」としてお奨めする。
2010 5・20 104
* 「mixi」で出会った一男性の書き手から、「e-文藝館=湖(umi)」に小説の寄稿があった。有り難いこと。で、まだ通読はしていないが、書き出しの段落を読むと、こうなっている。すぐ感想を添え送り返して、推敲をお願いした。
同じようなご希望の方、「e-文藝館=湖(umi)」は歓迎するが、また「参考」にもして頂ければと、この方には赦して頂いて推敲希望の「実例」を此処に挙げておく。
* 早速、冒頭部への感想を送りますので、落ち着いて吟味して下さい。言い訳や議論は今はご無用に。
「e-文藝館=湖(umi)」編輯者 作家・秦 恒平
以下原作原文 書き出しの一段落
*
少し大きめの窓に白いレースのカーテンが揺れている。月の光が、部屋の半分を白くしている。ここはどこだ。
部屋の全体を見回そうとすると、細部は闇の中に歪んで消えてしまう。どこか懐かしい。自分はたしかにこの部屋
を知っている。ああ、岐阜の家だ。白いカーテンは風を孕んでふわりと大きく膨らんで、また元の姿に戻った。
*
大きい窓 でなく 大きめの窓 なら、 め には 少し の意味がもう入っています。
少し を省けば 文が 一息に引き締まります。
月の光が、部屋の半分を の の の重用は文を間延びさせています。 月光が部屋半分を で、無用な句点も省けます。
問題は 白いレースのカーテン の 白 と、月光が部屋の半分を白くしている の 白 とは性質が違うでしょう。どっちかが表現としてイージイなのでは。すぐあとにも 白いカーテン がまた出て 白 白 白 が安易に文中に踊ります。
大きめの窓にレースのカーテンが揺れて、月光が部屋半分を白くしている。 で引き締まるのでは。
部屋の全体を見回そうとすると の の全体 は適切ですか。 部屋の全体 って何ですか。先に 部屋半分 があり、また 部屋の全体 というのは鈍重な運びになります。 見回そう というのだから 単に 部屋を見回そう で足りていませんか。また とすると は的確でしょうか。 としても か。
細部は闇の中に歪んで消えてしまう。 とありますが、 細部 って何ですか。概念的で文学的でないゴツい殺風景な物言いですね。また 闇 には本来中も外も奥行すら無く 歪んで消えて というモノ云いたげな表現が、舌足らずに浮いています。
どこか懐かしい。 の どこか は適切ですか。他にもっと云いようが有るのでは。
白いカーテンは風を孕んでふわりと大きく膨らんで には、 白い が前と重複して無意味ですし、 孕んでふわりと大きく膨らんで は四語とも同じことをだらしなく云い重ねていませんか。 風を孕んで膨らんで と で の韻を踏んで一気に云っても表現できていませんか。
また元の姿に の 姿 は適切ですか。カーテンの擬人化が必要ですか。 かたち では無いのでしょうか。
**さん。ま、このように最初の一段落ほどで、もうこんなに文学文藝の表現としては 緻密さにも美しさにも欠けています。
この 編輯者の指摘に沿って、けっして緊張して硬くごわごわしないで、しなやかに、ムダすくなく、譬喩も状況も言葉も相和して的確適切に美しく、書き直してみて下さい。
その間に、全体を一読してみますので。 では。お元気で。 秦 恒平
2010 5・21 104
* 原稿用紙で七十枚を超えた創作の最初段落だけにつけた「e-文藝館=湖(umi)」編輯者としての注文に、作者は幸い、本当に勉強になつた、感動した、自分の文章に対する甘さを痛感したと云って下さった。
それは有り難い。
一度こういうふうに云われると、もう二度と往来が無くなる例の方が多いが、ま、それではダメで、望みがない。
なにより、なにより、一般に謂って、上の程度のクレームで済む方が遙かに数少なく、わたしが「mixi」の中で見ている限りのそれらしき「創作まがい」は、はるかにもっとヒドすぎる。あまりにヒドすぎる。
コンピュータと編輯者抜きの有り難さというか安易さというか、そこで大甘の書き殴りに自己満足してしまう例は無数のようで。文学文藝の水準が自殺的に低下しているのは当たり前。
わたしが、十数年も以前に、いち早く人より先立って
「e-文藝館=湖(umi)」を、ホームページ
http://umi-no-hon.officeblue.jp
の中に確立したのは、誰かが、或る程度まで、編輯意志をもちまた責任をもって臨まねば、この世界は、「はきだめの汚物のような安物の文章ごっこ」で埋まってしまうと懼れたのだった。
一度でも「e-文藝館=湖(umi)」を覗いてご覧になるといい。そこは、道場です。
* 我こそはと思いつつ、しかし適切な仲間も編輯能力者も識らない人は、勇気と根気とを持って、「e-文藝館=湖(umi)」へ作品を持って来て下さい。
決してやたら大きな恥はかかさないで、作品を読みますから。投稿者や寄稿者の作品の他に、幕末から昭和平成へかけ数百人・作をこす「招待席」文人の力作や秀作も読めます、自由自在に。あなたの作を、それらと平等対等に掲載したいのが私の望みなのです。 湖
* すぐさま、二人が作の原稿を送ると云ってこられたが、原稿は未着。それより気になるのは、わたしが読んでダメと思ったなら「削除して下さい」とあるのは、困る。あくまで我慢強く推敲して少しでもいい作に育てるのが作者であり編集者。だめなら削除では、時間の無駄で終わる。また、自作への強調された卑下なども宜しくない。少なくも自分では自信作、自愛自負のある作をぜひ見せて欲しい。
2010 5・21 104
* 「e-文藝館=湖(umi)」へ、昨日の投稿者に、追伸。 編輯者
気づいたこと、取り急ぎ一つ二つ。
一 強調の形容詞や副詞は、なくても分かる 或いはないほうがスッキリ文の通ってゆく際は、断然省くように。言葉数を沢山用いて表現を盛り上げたがるのは、大概の場合、逆効果です。文章は、骨がすうっと清らかに毅く通るのが本筋。形容詞や副詞は効果を考慮し、慎重に援用なさるよう。
じっと息を殺して二人の会話を の じっと
七十を過ぎても実にかくしゃくとしていた の 実に など。
二 一行で済むことに、五行も六行も使わないこと。くどいのは、たいがい、表現効果を重く濁らせます。
ぼうぼうに伸びて乱れたあたまを、散髪するように、思い切りムダは省いて印象を清明に。
三 もの・こと・ひとが生き生きと目に見えるように。
四 機械内の文章は不要に長びきます。適切な「改行」効果を。読者に負担を強いずに済むように。
五 漢字とかなとの快い配合を。ことばでの表現は、音楽でもあり、また見た目でもあります。
取り敢えず。
2010 5・22 104
* 昭和三十四年(1959)を回顧する短い番組を観ていたら、岩戸景気の始まった年であったとか。
わたしたちが京都から東京へ出てきて新婚と就職の生活を始めた、あの映画「オールウエイズ」に間近い頃だ。
わたしの初任給は一万二千円で通勤交通費は出して貰えなかったし、最初の三ヶ月は八割支給。六畳一間のアパートの家賃が五千円。ちなみにそれでも妻に月の小遣いを給料から七百円と決めていた。
わたしは小遣いを二三年は使わなかった。財布には余分の一円も入れて無くて、何事かあれば新宿河田町から本郷の赤門まで歩く構えでいた。昼飯は一食十五円の丼白飯とみそ汁一碗を社の食堂チケツトで。これも二三年はつづけた。白飯にソースか醤油をかけてそれだけ。平気だった。貧乏は当たり前と思っていた。
妻にはすでに両親がなく、兄妹との分配遺産で大学を卒業し、まだ少し貯金を持っていた。わたしにも大学院奨学金の残りが少しあった。それでも要するに、若い内は無い金は極力使わないと決めていた。親にもねだったり頼んだりしなかった。おいおいにボーナスが入っても、そんなものは「貰わなかったもの」と決めてかかり、殆どわれわれは手を付けなかった。
おかげで、わたしは小説の私家版を四冊も作ることが出来た、妻も一言の不承知もなく、惜しげなくあの当時の五十万円近くを支出したのだった。たいへんな冒険で贅沢であった。しかしそれが第五回太宰治賞という幸運を呼びこんだ。岩戸景気がなんとなく、背中を押して支えてくれていたのだとも、今にして思われる。幸運であった。意志強固に堅実にも暮らしていた。
2010 5・24 104
* ただ人惑(にんわく)を受くること莫(なか)れ
* 神、佛にも拘らないという、それって、凡夫には容易でない。拘らないと謂うことにも拘らないでいるように。思いをひろびろと遊ばせて過ごすように。
* もうよほど以前からわたしは、いわゆる世間づきあいを、絶っているとまでは謂わぬが、それに近い日々を送っている。わたしから世の中へ開いた窓は「湖の本ぐらいといってよく、それで、幸せとともに苦楽も感じている。余のことは、ヒト、モノ、コトともに、触れあうにしても極く稀薄に過ごしている。
それでも、まさか善意ではあるまい、判読不明の怪文書は、やはりメールとして舞い込んでくる。
「人惑」とは、佛や祖師に拘泥するのを戒めた言葉だが、常平生の暮らしにも、わけのわからない正体不明の「人惑」はどうしても避けることが出来ないし、そういう悪意の迷惑は、みな「文責」不明の怪文書として届く。情けない人達(複数か、複数を装った一人二人か不明だが。)である。
今朝も、メールが舞い込み、おそらくここ当分しつこく増えることだろう。メール、は宛先のアドレをは正確に書かねば届かないが、発信元のアドレスはデタラメが効くらしいので、悪戯はし放題、判明しない。判明しないという隠れ蓑に隠れてやる行為は汚いし、性根・心根はもっと汚い。ひとごとながら、恥ずかしい。しかも、これらはみな文面そのものも、とうてい日本語として判読できない化け物なみのデタラメばかりで、ムダな労力ではないか。正確なのは、わたしのメールアドレスへ向けて届いてくること、それのみ。
「mixi」のでも、奇妙な二三人グループが、いやらしく「足あと」をつけてくる。ごくろうなコトだ。
* こういうとき、水滸伝の豪傑たちが懐かしい。宋江、呉用、関勝、秦明、花榮、魯智深、武松、張清、戴宗、李逵、石秀、燕清等々。彼らには礼譲あり信義ありつねにまっすぐ清明であった。
2010 6・2 105
* 詩に曰く、 (『忠義水滸伝』第七回)
世に在り人と為りて七旬を保つのみ
何ぞ労せん日夜に精神を弄(はたら)かすを
世事到頭、終(つい)に尽くる有り
浮花の眼を過ぐるがごとく総べて真に非ず
貧窮も富貴も天の命(めい)
事業も功名も隙裏の塵
便宜を得る処(おり)にも歓喜する休(な)かれ
遠くは児孫に在(むく)い近くは身に在(むく)ゆ
* さて、現実問題としては、悟り澄ましてもおれない。
この「私語」は、これから四十日ほど、折に触れ修羅の炎を巻き上げるだろう。頭の整理には、「闇に言い(書き)置く」のが一等効く。どうか、苦々しく思う方は当分の間この欄へのアクセスを中止されるようお奨めします。
* 世にもまれな、娘夫婦の「被告」としてこの私は法廷に立つ。
いったい、なぜ、そのようなことになってきたのか、わたし自身、経緯を顧みておかねば、尋問に答え泥むことになる。頭の中で思い出しているだけでは効果がない。書いて、記録し整備して、自身納得しなければならない。
真っ向、立ち向かう。
それが一等素直で正直な仕方だと信じている。
わたしが、娘夫婦を訴え、巨額の賠償金を請求しているのではない。父親を被告席に呼び出して賠償を請求しているのは、青山学院大学国際政経の教授(婿)と、町田市の主任児童委員(娘)である。教育や教導に携わる公人の彼らが、裁判沙汰にしているのである。
では、この公人たち、いったい「何を主張」して父親を訴えているのか、そんなことから、わたしは「復習」しておかねば、被告席で無用に立ち往生しかねない。
幸い、作家であるわたしには、関聨の著書も何冊も在る。この日録「生活と意見」も十数年来完備している。すべてホームページに公開してあるから、裁判員に準じて下さる方は、青山の職員・学生も町田の先生・市民も、ご自由に閲覧して下さい。きちんと名乗って質問して下さるなら、答えられる限り答えたい。
そういうことの、気にくわない方は、どうぞこの「闇に言い置く私語」から、このさき、当分、耳を塞いでいて下さい。
私には、これも作家の「仕事」のうちなのです。「仕事」である限り、誠意を尽くして努めねばなりません。
2010 6・6 105
* 一意専心というと余裕なげであるけれど、それほどではない。いまもいま、している、別の場所で「書いて」いる内容は、作家的にはなかなか興味深く、これも一つの「表現」なんだと思える「追究」なのである。根をつめると腹痛をまねくけれど、「離見の見」という有り難い先達の教えがある。離れた向こうから自分自身を自分自身の眼で見ている。相当なガンコモノが見えている。
2010 6・8 105
* 原告二人が法廷に提出している「第一の証拠書類」が、今週、長々と検討した私のホームページ日録「生活と意見 闇に言い置く私語の刻」平成十八年 (2006)六月から十二月に到る日録であり、その前半は、私小説でもある日記文藝『かくのごとき、死』として書き下ろされている。
「第二の証拠書類」に「聖家族」が持ち出されている。長編予行の習作であり、今は公開されていない。作リストにも存在しない。
たしかにこの予行の習作が、メインの仕事場であるホームページに掲載され手を入れられていた頃、原告の一人娘の夫である★★★から、人に読まれては自分の事と分かり「恥ずかしい」という苦情と注文が来ていた。自分のことと分かるなどと、これは自分だ自分だと我から吹きまくるなんて可笑しいんじゃないか。明らかにフィクション、読者の九分九厘以上にそんなこと判じもつくワケがないのに。基本のコンポジションにおいて一般読者の眼にこれは明白なフィクションである。
著者の動機と主題は、世の中には「こういう家族」があり、「こういうイヤな男」がいる、その「凄み」を書いてみたかった。小説家として普通の行為である。
では、何故それが巨額の賠償金をともなう原告の「名誉毀損」に当たるというのか、わたしには不可解であるので、それも検討しておきたい。関聨して、被告である私は、婿や娘の弁護士や、裁判官から「尋問」されるのであるから。
「日録」の時と同じく、証拠書類「聖家族」には原告側による傍線チエックが盛んに入っている。云っておく、著者はその個所「を」書いたのではない。その個所「を含むフィクショ」ンの長編小説を書いたのである。
「裁判員」の役を、心ある読者にもお願いしたい、著者への異存を持たれた方には遠慮なくきちんと叱っていただきたい。
* 最初の「一節」を先ず取り上げる。「私のホームページ」は、こういういろいろを試行錯誤する「仕事場」なのである。
作のヘッドは、原告提出書類ではわたしの保存のモノとやや異なっている。原告のコピーした時期が違うからで、表題自体も原告提出の証拠では、『火宅』となっている。試行予行の習作であったことを証している。そのヘッド個所を、先ず挙げておく。
*
秦 恒平 長編小説 9
もう十年ちかく以前に書かれていながら、まだ推敲を一度もしていない、走り書きのママの段階です。
少しずつ手を入れてゆきます。前半の「聖家族」を引き継いでいます。
火 宅
続・罪はわが前に──
これは「私の遺書」である。作品ではない。(奥野秀樹)
上 こどもと私 (後半)
十三
「春生(はるお)がね、あなた。夏生(なつみ)に電話してみたんですって」
*
* これより以下の「聖家族」はアーカイブに保管された私の習作原稿で、出版されていない。とうの昔から公開もされていない。作のヘッドに見える「二○○六年八月」とは、原告夫妻が、父の日録に「死なせた」ということばで孫やす香の癌・肉腫死を書いているのは、われわれ両親が娘を「殺した」という悪罵であり「名誉毀損」である、民事・刑事の両面で訴える、と、日夜両親を攻撃してきた時節に符合している。言い添える。
作の太字個所が、例によって原告側が欄外傍線チェックし「名誉毀損」を主張している個所であることも言い添える。
証拠コピーから私の保存草稿へ、意味が変わるほど表現が著しく推敲されている場合は、証拠書類の表現に戻し「*」を付けよう。
* *
仮題『聖家族』
この作品は、たんに「長編フイクションの未定稿=まだ草稿段階」である。行文・構成もふくめ大きく仕上げて行く。
一九九六年八月という昔に書き起こしている。推敲と改稿とを心ゆくまで行い、脱稿したい。 二○○六年八月。
——————————————————————————–
聖 家 族 未定稿
秦 恒平
これは「私の遺書」である。作品ではない。
(奥野 秀樹)
どんな家庭の食器棚にも髑髏が隠されている。
(フランスの諺)
一
「春生(はるき)がね、あなた。夏生(なつみ)に電話してみたんですって」
「またかね」
「ええ。芝居のあと、手紙を書くからって帰ってったのに。来ないから」
「そんなの来ゃしないさ。で…」
「電話口で…。あんなもんでしょうって。それだけ…でしたってよ。その言い方が…マタね。春生、ブーブー言ってるの」
「夏生にしちゃ、それでホメているのさ。少なくもケナシてない。夏生は、初めてだろ春生の芝居は。あのチャランポランの春坊が……。信じられなかったろうな」
「あれだけ人を集めて、お金いただいて、自分の書いた芝居を自分で演出して見せてるってことに、でしょ。そりゃあ…そうよ。どっちかってば、夏生の方が、芝居でなくっても何でも、目立つことやってみたかった人ですものね」
「専業主婦やってる、きみなんか…」
「そうよ、そりゃバカにしてたんだもの。でも今日までのところ、なにも出来なかった、あの子は…。図版ものの洋書の、あれ…何て言いましたっけ、ネームね…図版の解説文。あの部分だけの日本語訳なんかをアルバイトでやってるらしいのよね。自尊心もなにも、あったものじゃないわ」
「自発的に、内発的に、ものが生み出せない。これをと決めて手伝わせると、春生なんかより遥かに丁寧な仕事ができるけど、自分じゃうまく創り出せないんだ…昔から」
「そこんとこが、夏生…かわいそうでならないの、あたし。あたしに似ているのよ。顔なんかあなたにずっと似てるのにね。自分の…と言えるものは、むしろ春生の方が発揮しだしているのよね」
「羨ましくて、モノが言えなかったんだろな…夏生としては。いつか亭主が、たとえだよ、渋谷だか青山辺で、やっとこさ教授に成ったにしたって、夏生自身の自慢にゃならんもの。それに大学教授なんてもなぁ、狭い日本中に、まともな作家の何百倍もうようよしてるんだからね」
「それでも政治は、天下に大学教授ほどエライもの無いって、春生が大学出るときそうあの子に言って、なんでサラリーマンなんかになるんだって、不思議そうな顔したのよ。それも国立の教授こそ、だって…。
なのに茨城じゃ、助手でも講師でもない技官にされちゃって。結局、教員の籍はもらえずに、次ぎは私立の渋谷…で、講師でしょう」
「渋谷に、やっと拾いあげてもらった…。年齢やキャリアでは助教授なんだろうが、技官という茨城での地位が障りになったかもな…」
「それさえ、あたしたち嫁の実家の責任だなんて言うのよ…。ひどいことを」
「三十過ぎたあんな微妙な年齢で、三年間も留学してりゃ、オーバードクターで溢れた日本では、後輩にどんどんポストをもってかれちゃうの、分かり切った話なのに…。
早稲田の助手期限は切れて、さてポストが無かった。出身学部になく、他の国立にももちろんなかった。格好がつかんと思ったんだろ…」
「そう思い込んだのよね…。夏生にも相談せずに留学試験を受けたんですもの」
「それが受かっちまった。が、そこまでは、いいんだよ、そこまではね。一年が普通なのに、三年留学を志望してしもた。失業のままで、あの時期に三年も日本を留守にするなんて…。あれで遠回りになった。
だがね…潔く決めたんなら、それだっていい。一時の不利も、将来には生きてくるかも知れないんだしさ。なのに、あの時は相談もしないでいて、結果がわるいと、それをオレたちのせいにしやがって…どういう気なんだ一体」
「あ、そうそ、それを言うつもりだったのよ。また、パリに行くんですって。八月のうちに。今度は一年。春生の電話は、それを知らせて来たの」
「………」
一瞬、奥野は反応できなかった。金田にすれば向うの大学に教職を得たい、地位を得たい気があるのだろう、それもいい… と、奥野は反対でなかった。それが出来れば、いい。孫の顔が…さらに遠のくということもあるが、やはり夏生(なつみ)だ、問題は。
二度と夏生に会えずにこと切れる覚悟は、夫婦で口にしてきた。口にするだけでない、現実問題として夫婦の健康は、藤子はもう十数年も、奥野もこの数年、不安を抱えていた。遠い病院まで、気もいい、力もある医者を頼みに、夫婦して定期に診察を受けつづけている。そして、会えなくてもと腹をきめた親はまだしも、なにかの折り夏生の精神に永く癒されない傷ののこるであろうことを、奥野らは本気で心配していた。
現在でこそ肩肘に力をいれていても、それは母も父も生きているからで、このまま死に別れたりしようなら、夏生に、「子」としての無形の負い目を背負いきれる確信は無いだろう…、今しも夏生の精神が荒廃していない保証はなにもなく、春生(はるき)に聞いた姉夏生(なつみ)のへんに太った、みすぼらしそうな身格好にしても、また、拗ねて投げたドロリとした電話の「どうでもいいよ」という声音にも、夏生のやり切れない自棄の惑いがとかく想像されてしまう。
「どうせ、親に捨てられた身ですからね」とさえ夏生は弟に言っていた。
夏生のためにも長生きしていてやらねばならない、それがまた目に見えず奥野らの負担になった。
「パリか…。子供二人つれて、ね…」
「連れて行くでしょ。だって、前のときみたいに半年遅れて行くにしたって、金田の家でお姑さんたちと同居って、これは夏生、しないでしょうよ。出来ない…。あれだけ激しくやッちゃってるんですもの。おまけに、うちともこういう事情ですからね」
「かと言って、今いるとこの家賃を払いつづけるのは、キツい…。無理してでも一緒に行くナ、きっと」
「政治は、前のとき、夏生と信哉の生活費もろくすっぽアテをしないで、先に一人でパリに行っちゃってたんですものね」
「アテは…してたのさ、ウチで面倒は見るものと、サ…。それが当然と彼は考えてた」
「こっちは、そんなこととも、まったく、まだ知らなかったでしょ。ウチの家は、そういう甘えた思想をもってないし」
「学者を婿にするというのは、婿さんの生活を嫁の実家で見るってこと、それが常識だって平然と言うヤツだからな。そのくせ、自分の口では、よう言ってこないんだ」
「言われなくても察してヤルのが、嫁の親の義務だなんて…。あげく、それの出来ない非常識な嫁の実家とは、姻戚関係を断つなんて……、ナンて情けない人なンでしょ」
「周囲はミナそうしている、それが学者を親類に持ったものの常識だ、か…。何のために学問して来たんだろうな。学問て、何なんだ…。学者って何なんだ、いったい」
「そんな気で結婚したのよ。バカよ。いやしい人ね」
「そんなもんだと、本気なんだよ、ヤツは。学者様だぞ、住む家と生活費の半分はそっちで見て当然だ、か。そんなこと、かりに、出来てもしないのがオレの考えだからな。そういう情けない生き方はして来なかった、オレたちは」
「卑怯なのよね、彼。それならそれと言い出すことさえ、彼は自分じゃ一度もしなかった。夏生をうちへせっせと寄越してたのは、夏生に言わせ、お金を取ってこさせる気だったの。でも夏生はあたしたちの考え方を知ってるから…言えなかった。そういういじめかたを夏生はされていたのよ…かわいそうに」
「だから、こっちに来てても、向うへ帰るまえになると、すッごく不機嫌になって帰りたがらなかったな」
「あれが…あたしたちには、最初、理由(わけ)が分からなかった。あとになって、つまり…あぁいうことだったのね。彼は、親にお金貰ってこいと夏生らを寄越してたの。でも気がつかなかった。…かわいそうな、子…」
「何サマだと思ってんだと言うしかないね。あれで教育学、教育哲学なんだぜ、専攻は。これぐらい『教育』や『哲学』に汚物をかぶせる例も無いよ。モンテスキューやルソーが泣くね。大学の先生の皆が、そんな情けない根性だとは…思いたくないがね」
「あなたも、その大学教授をしてたんじゃないですか。まっとうな国立の。でも…あれが、いけなかったわねぇ…。教授になりたいなりたい彼の方は田舎の技官にされちゃってて、お舅さんは、頼みもしないのにいきなり、一流校の教授…。作家なんかと陰で夏生にボロカスだった嫁の父親に、あっさり国立の大学教授されたもんで、彼…切れてしまったのね。あの…すぐアトでしたよ、汚物を吐き散らしたのが」
「そうだったね」
「うちへ訪ねてきて。帰ってったかと思うと、あの手紙よ。…金も出さずにあんたらはおれをバカにした、だなんて…。あの晩うちに来たときだって、あなた生活は、だいじょうぶッてあたしが聞いたら、大丈夫ですと、あんなに胸を張っといて。あの人いつも言うのよ、わたしは人の三倍稼げますからって。なあに…… あぁいうウジウジ男って、大嫌い」
「大学教授の息子は大学教授になるもんだなんて、ケチくさいよ、人生観も価値観も」
結婚まぎわに父親に死なれた金田が、奥野は気の毒でならなかった。父親二人ぶんのことをしてやりたかった。金田はそれを、「黙っていても金を出してくれること」とアテにし、奥野は、「いい人間関係、なんでも打ち明けて遠慮のない、気のおけない婿さん」を望んでいた。そう、夫婦して、願っていた。
どっちもどっち…、奥野の方が甘かった。
金田の望んでいた「身内」とは、つまり金の面倒をとことん見てくれる「舅姑」の意味でしかなかったらしい。夏生は、落差に、さぞガックリきていただろう。夫の誤解を解き、父親の思っている「身内」とはこういう意味よと、説いてやる気力も結婚早々に無くしていたかも知れない。
板挟み――、夏生は窮屈に圧しひしがれていた。だが、金田の、それほどまで金は人が、「嫁の親」が、呉れて然るべきものといった考え方は、ちょっと奥野らには察するにも察し得られなかった。凄まじいと思えた。
そういう親だから、「お金を、ちょうだい」と、夏生はついに一度も両親に向かって口にしなかった。ただ里帰りして来ては、金田へ去(い)に際になると、顔色を曇らせ、イライラと不機嫌になった。分からなかった。分かってやれなかった、奥野らにはその訳を。
娘も親たちも、不運だった。奥野らは、媒ちしてくれた山根教授が、いったいどんな仲人口を利いて金田をそんな気にさせたのか、知りたかった。
「何も言っていません」と山根氏は言う、が、それでも、「奥野さんはお嬢さんをそれは可愛がっていますから。お嬢さんのためにも、絶対に、よくしてくれますよ、大丈夫」ぐらいな物言いはしたのだろう。
言葉どおりには、その通りだと奥野も思っていた。
結婚式にも、自分の流儀は曲げても、力を入れた。身も働かした。だが、「嫁の実家」として金田夫婦に生活費や住まいを与えるなどの考えは、基本的に持たなかった。持てもしなかったし、そんなことは成るべくしない、たとえ出来てもしないのが真っ当な親の気持ちだった。金田の期待とは正反対だった。あげく越村は、仲人の山根教授の家庭でも、奥さんの実家が経済を支えたのは、世間の誰もが知っている有名な事実だ、それも知らないのかと奥野らの「非常識」を口汚く手紙で嗤ってきた。罵詈罵倒してきたのだ。
…情けない、イヤなヤツら……。奥野は爪弾きした。
もともと「大学」というあたかも地位や組織に、奥野は、さほど思い入れがなかった。将来の「地位」を指導教授に示唆されても、大学院をさっさと去り、京都をさっさと去って、双親のない妻との東京での新婚生活を選んだ。
早稲田ほどの巨大大学だと、文藝家協会に所属する文筆家よりも大勢の教師が出入りしており、日本中にどれほど夥しい「大学の先生」がいるやら、比較すれば、世間で通用する「作家」に成るほうがよっぽど難しい。作家には教授、助教授という序列もないし、事実、文化勲章作家に匹敵しながら栄典などと無縁の作家もいる。断わる人もいる。
もともと序列社会に奥野は馴染まない、そういうのの苦手な気象だから、金田がしきりに大学に、教授の地位にこだわった物言いをするなど、はなから笑止だった。学長であれ学部長であれ、お互いに餅は餅屋、奥野はこの数年大学に出ていても、まるで普通に付き合ってきた。
それでもそんなに金田が「教授」になりたいのなら、願いはかなう方が、かなわないより、夏生のためにも望ましい。結婚式にも前学長以下教授陣をずいぶん招くようだから、そのためにも、いい披露宴をしてやりたいと奥野はひどく無理をした。奥野の口から一人一人お願いして列席してもらえた顔ぶれは、連名にしてみれば、おどろくほど立派な人たちが並んだ。だからこそ別格に、谷崎潤一郎夫人に主賓をお願いした。華やかであり、このレディファーストに、少なくも奥野家側で不服を唱える男性客の一人も有るはずがなかった。ひさしい友の駒井次郎など大喜びしてくれた。
まして谷崎夫人は夏生には恩人だった。むずかしい美術館就職のあとも、なにくれと、かげにひなたに気をつけて、可愛がってもらった。
その「新婦方主賓」が、大きに、あとあとで引っ掛かった。
新夫の金田政治は、初めのうち面にも出さなかったものの、披露宴のハイライトに、両家主賓が全列席者のまえで結婚届に「証人の捺印」をという、申し合わせてあれほど奥野の希望した儀式を、勝手にみなフイにしてしまい、そのワケをこう明かしたのだった、谷崎夫人は結婚の証人に不適当だと。
それも奥野夫婦に直接宛てつけた、自作『お付き合い読本――常識編』なる悪ふざけによって。
じつは奥野には、それよりも一つも二つも幾つも以前に、つよく心に拘泥ってきたことが有った、「何故にこんな…」と、金田の「異様さ」に心凍る思いをしていたのだ。
いったい新婚旅行にどこへ夏生らが行ったかも記憶にないが、旅先からの電話で夏生らがせっかくの「結婚届」をせず旅立ったことを知らされ、奥野は思わず眉をひそめた。が、それとても時期の早いか遅いかで、たいしたことでは無いと言えた。
だが、彼等が届けをサボった真の理由が、当時は分からなかったし、娘の親としては出来れば届けを出してから新婚の旅に出てほしかった。
そもそも結婚式という儀式部分は省き、披露宴でそれも兼ねたいとは、金田家の希望だった。奥野らにも異存なかった。ただ、その「兼ねる」意味合いを表すためにも、参会の祝い客みんなの目の前で、主賓二人に「結婚届書に署名」をしてもらい、二人の結婚を列席の全員の代表になって貰おうよと奥野は発案し、越村もはっきり気乗りしていたのだから、希望は叶えられるものと信じていた。
事実両主賓は、揃って、みんなの目前で署名捺印を演じてはいたのだ、だがその届書は勝手に破棄されていた。(届けは一ヶ月近く遅れて、新居の地元で出され、証人にも全く別人を立てたらしい。)
新婚旅行の最中に苦情を言うのは避けたかった。で、帰ってきたとき第一番に、
「届けはしたんだろうね、もう」と金田に聞くと、まだしないと言う。急ぐことは無いではないかと言う。そのときは奥野に分からなかったが、届書の用意も無かったのだ。奥野はむっとして、「なぜ約束どおりではないのか」と詰った。金田政治はとたんに、
「あんた、がたがた、うるさいよ。なんなら、今でも結婚をやめてもいいんだぜ」と。
奥野は仰天した、まったくこの通りの言葉で、誓ってこの通りの言葉で電話の向うから、婿の金田は、舅の奥野を威嚇したのだ。ぞうっと、肌に冷たいものが流れた。
何なんだこいつ…。
奥野は黙った。結婚披露を終え新婚旅行を済ませた今になって、「やめてもいいんだぜ」「あんた」ということを新婚の妻の父に向かって言える男に、奥野は凍えた。かッとなって、「よし、やめろ」と言ってしまいそうな自分を必死に押えるため、奥野は受話器をすぐ置いた。
金田のそばにその時夏生はいなかったようで、奥野のそばには藤子がいた、が、奥野は金田の台詞をかたく意識の底に記憶したまま、妻にも告げずにおいた。
金田の送りつけてきた、ワープロ打ちの『お付き合い読本』には、戯作めかして、いろいろ書かれてあり、「け」の項は、こうだった。
け 結婚式 誰を招くかは迷うところ。注意すべきは、離婚歴のある人、しかもそれを売り物にしているような人は、招待しないことである。かの有名な文豪「T」は、惜しげもなく奥さんを取り替えたそうだが、常識的に考えて、そんな筋の客は来賓として呼んではいけない。招待された他の皆が奇異に感ずるだろう。
なるほどと、咄嗟に奥野は思った、そういう考え方を、すべて否定しようとは考えない。
だが、そういう「気の低い」考え方にとらわれて自分は生きては来なかった。そんな「常識」を大事に思うのなら、前もって奥野に直接、または夏生を通して谷崎夫人の主賓は「遠慮したい」意向を伝えて来ることも出来た。露ほどもそういう意向は聞いていない。聞いていたら――無理はせず、それでも、一人の祝い客としてお招きしたに違いない。むろん金田にも話しただろう、夫人は谷崎潤一郎とは終生添い遂げられ、昭和の名作のほとんどすべてを成さしめたほどの奥さんだった、と。あやかって何ひとつ問題のないりっぱな奥さんなのだと。しかも夏生は大恩も享けている、と。
結婚届の証人欄に谷崎夫人の署名をご破算にし、新婚旅行のあとびっくりするほど日数を経てから誰とも知れぬ代役を立てた理由――が、ここに在ったのかと、金田という男の軽薄で無礼なしたり顔に、奥野は胸を冷やした。
相手もあれ谷崎文学に励まされてきた作家奥野秀樹に、夏生の父に、「文豪T」と「そんな筋」の夫人とをこのような手口で貶しめてかかるとは、奥野の不徳は不徳としても、あまりに心寒い嘲弄、心ない暴言だった。
金田は、薄い唇をいっそう歪めて、離婚歴ある夫人を結婚式の主賓になど「非常識」だと、舅姑をはじめ奥野家側を訓戒のつもりらしく、『読本』には続きがまだ有った。
さ 作家とのお付き合い 作家とはすなわち、自己体験の特異さを専売にする人種。
いくつかのタイプがあるが、中でもタチの悪いのは、自分の苦労を絶対だと信じ、自己を客観的に眺める習性を持たない奴。それと、やたら「夫婦はかくあるべきだ」とか「人生はこう生きるべきだ」とまくしたて、
奥野は中途で笑ってしまった。日本の小説家をこのように見る視線は、やがて廿一世紀の現在でも、ありうる。奥野でも思う。自分はちがうと頑張る気もない。駒井次郎もこれを読まされて、ゲヘヘと笑った。
「遊娼声妓俳優雑劇小説家等改制ノ事…で、明治政府が取締りを考えたの、知ってるか。明治のごく初めの公論公議機関だった集議院の、初仕事なんだよ。沙汰やみにはなったけどね。もうちっと、教えてやろうか」と駒井は、奥野の前でわざと反り返った。
「小説を好むとだな。第一、品行を欠く。第二、女性は不健康で早く死ぬ、閨門を破る。第三、子弟を害する。第四、悪疾多し…。明治開化の、えらい学者さんのこれがご託宣さ。同じご仁の曰く、出版した小説の版木など、みな焚燬してしまって下されと、丁重にお上に願い出ていたんだ、なんだナ…そのケが残ってるんだ、おまえの婿さんには、まだ」
「すさまじいな」
「感心してちゃ困るよ。ついでに、も少し、ものを知らん文士先生に教えてやるがね。明治五年、時の教部省が三条の教憲ってやつを出して、文学の目的を定義してくれたのさ」「………」
「一つ、敬神愛国ノ旨ヲ体ス可キコト 二つ、天地人道ヲ明ニスベキコト 三つ、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキコト。どうだね」
「金田政治が泣いて喜びそうだ。だがナ…ヤツを育てた早稲田で、坪内逍遙の小説神髄をはじめとして、愚にもつかんそういう小説観に、精魂こめて反対してきたのを知らないんだ」
「………」
「福沢諭吉は文学無用論だったけどね。それでも三田文学は荷風なんか招いて、おれたちの趣味にあう、いい伝統をつくった」
「小説家は…常識とかけ離れたところで妄想にふける奴。もっとも、小説とは『ウソ』であるからして、小説家にリアリティーのある認識なんぞ求めるほうが筋違いだという説もある。お付き合いもほどほどに…ですか。婿さん、得々として書いておるのう。幼稚さがよく出てる」と、駒井はつるりと顔を撫でた。
「自己を客観的に眺める習性を、テメエじゃ持ってると思って書いてるんだよ」
「軽薄と未熟を乃公(だいこう)自ら語るに落ちているのに気づいてないね。要は、小説家である夏ちゃんの父親を愚弄してやりたいだけだ。気稟も知性もない」
「こういう男を、夏生におれは押し付けちまった…。それだけでもオレは、ダメ親父でダメな人間さ。取り返しがつかん…。さらに恥かしいのは、こんなヤツであっても、夏生まで離縁されちゃかなわんと、本気で思っていることだよ。
かくあるべきかどうかは知らんが、どんなイヤな奴でも夫婦になっちまゃ、親にもうかがい知れん相性の不思議というものがあるじゃないか。夏生にはもう、子もある。夏生自身がイヤと言いださぬぬかぎり、別れちまえたぁ口が裂けてもおれは言う気がないんだ。家内とは、そこが違う…」
奥野は、苦い物をむりに嚥み下すようないやな顔をした。
こんなことも金田は「常識」と称し、書いていた。
み 見合い結婚 恋愛結婚に比べ、結び付きの必然性が薄い婚姻の形態。周囲がバックアップしてやると、関係はより一層良好となる。とくに双方の実家が率先して、できることをしてあげるのが、不仲を生まない秘訣。それとは逆に、一方の実家が常識知らずで人並みのこともできなかったりすると、その実家を持つ妻や夫の肩身がはなはだ狭くなる。もともと繋ぐ糸が細いので、離婚にまで発展しかねない。
まちがいなく金田と夏生とは「見合い結婚」だった。金田にしたがえば「もともと繋ぐ糸が細い」結婚だった。金銭や物での「バックアップ」がなければ「離婚にまで発展」しても仕方ない結婚だった。奥野家は「バックアップ」をしない「常識知らず」なので、夏生は「肩身がはなはだ狭」いと言ってある。経済の負担を嫁の実家はすべきなのに、何故しないかと金田は言っているのだ。見合い結婚とは、そういう条件付き結婚だと金田は思っていて、条件を満たしてくれると思えばこそ「光栄です」などと言ったのだろうが、奥野も藤子もそんな「常識」とは無縁な思想で結ばれていた。「できることはして」来たつもりだが、金田が「できる」と期待したのと、奥野らの「できる」範囲は、大違いだった。
と 嫁いだ娘への援助 「粋」にやりたいものである。この機を利用して婿に頭を下げさせようなどという気を、ゆめゆめ起こしてはならない。こういうことに関しては、女性の方が敏感なので、妻と娘に協議させるがよかろう。そのため、妻の裁量によって 処分できるお金を都合しておくのが夫の心得といえる。山根某の嫁の出身は千葉だが、この実家は金を出すが口は出さない模範との誉れが高い。
つまるところは「金」を出させたい、それも頼まれてするのでなく、「粋」に、常日頃から用意し、母から娘へひそやかに、「婿」殿に気をつかわせず煩わせずに、早め早めに察して出せということらしい。それが常識である、自分のまわりで学者婿の舅姑は例外なくそのように精勤しているぞと、他の手紙ででも、越村は奥野らを嘲笑し挑発して来た。 奥野は、駒井次郎にだけは、嗤って、「えらい婿殿」の口汚くあつかましい手紙を見せてきた。
「山根某って、仲人サンじゃないのか早稲田の教授で」
「そう…。…ハナシは、聞いてた気もするんだがね。たしかに、末は博士になりそな婿さんを、マル抱えにしたい嫁の親というのは、いたね昔は。いや今も、このさきも、いっぱいいるだろうと思うよ。おれは違うけどね。度を越しゃ、ただの失礼みたいなもんさ。それで平気な男なんか、おれは好かん。もの欲しそうな男が、いちばん嫌いさ」
「はなから金めあてに結婚したんだな、おまえの婿さんは。お門違いだな」
「新井白石の逆様だねこの夏生の亭主は。白石は、おからしか食えん貧乏書生だった。三千両持参金をつけるから婿にならんかと仲人を立てて来た大商人がいたんだよ、若き白石を見込んでね。見込んだ奴の眼力も相当なもんだがね、誰かさんと違ってさ。だが、一も二もなく白石は断った」
「山根某サン、よっぽどテキトーな仲人口を使ったんじゃないか」
「何一つ、言ってないて彼は言うけどね」
「そうかねぇ。でも婿殿のいわく、『常識』の一例たる誉れはエラク高いらしいじゃないか。それにしても、呑んでかかってるね、この助手は。この教授を。陰じゃコイツ、こういう口の利きかたを、どんな先生に対してでもしてるんだな、常平生…得意顔して。そういう自己主張ッきゃ出来ない不自由人なんだよ、なんにもモノが分かってない。センスのない坊やサ、こんなことを『誉れ』に数えてるんじゃ。何を勉強したのかね」
「願望が、即、規範になりうると思い込んでいるんだね。開けゴマ、と、唱えるだけで何でも誰でも自分のタメにしてくれるべきだと。それを自分の誉れだと思ってやがる」
「相手が奥野じゃ、こいつ運が悪かったネ。不運な婿さん、ですよ」
「本気で、不運だ不運だと嫌味を書いて来てるよ。嗤っちゃうよ。こういうことを本気で考えて、かりにも義理の親を蔭から罵倒しといて、一方でモンテスキューがどうだの、ルソーのエミールがどうだのと、やってやがる。ユマニスムの学問が、いかに偽善と瞞着の具にされているか…こういうのが古臭い教授病の重症患者なんだから、学問・学生の受難も甚だしいよ」
「論語読みの論語知らず、昔から御馴染みだよ。弱るな。しくじったな、おまえ」
「しくじった…。たいへんなカスを夏生につかませた。もっとも夏生はどう思ってるのか、惚れてるんだと思うんだ。おれたちの前じゃ亭主の悪口をベラベラ言って…、ゴマカシてやがんだよ。ああいうのは、向うに帰るとこっちの悪口で、亭主の機嫌を買うんだ」
「そいつを、また喜んで亭主は売りまくるワケだ。見えてないからね、モノが」
「ガリレオ以前なんだよ、たいへんな天動説さ。そこが坊ちゃま秀才の馬脚でね」
「山根さんは、何もしないんだな、向うへも」
「知らない…。呑んでかかってたからね、金田は彼を。最初からね。早稲田の平教授だし、自分のおやじは学部長だった理事だったと、位取り、きついんだ。ふつうなら山根さんぐらいな教授じゃなく、総長かえらい理事かに仲人してもらう身分だ、山根の顔を立ててやったんだと、夏生にも、ヤツ、言ってたそうだよ。
山根さんが、また、気が優しくてその辺で位負けしちゃう人でね。なんで山根が金田理事の息子さんの仲人を…なんて先輩や同僚に思われてるものと、ずいぶん気にして、緊張してたもの。披露宴に出て来た客はたいがい彼より格上だったし…、専門は日本の中世文学だし、金田はもともと政経の出なんだよ。そっちにこわい恩師がいるわけだから。そういう仲人口の結婚が、金田の地位も定まらない最中にトラブッちゃ、山根さんの学内での面子がヤバイんだ…。だから学内向けには、あの奥野がよくない、あれは頑固なんだ、ケチなんだと言っとく方が、そりゃラクだもんね。大学人には有るんだよ、そういうふうにしか身を守れんお人がね。……も少し、ジツのある、アテに出来る人だと思っていたが。勝手な坊やの、窘めるべきはピシッと窘めてくれる人かと思ってたが、尻込み一方で…、こっちに、俺たちにゼンブ辛抱させようとするんだ。せめてウチの家内の話を聞いてやってくれと頼んでも、結局逃げちゃった…。大学という序列のシマを、半歩一歩も出られない人だから」
「おまえは、また、根ッから、シマの喪失者だからな。しかし、弱ってるだろな」
「山根さんかい。ああ。おれが許さないからね。あちこちで愚痴ってるらしい、あちこちから、もう山根さんのこと、いいかげんに堪忍したげなさいよなんて言われるよ。だけど非礼は聴すなかれサ、許しゃしない。よそで愚痴るぐらいなら、友人として、おれと面と向かって話しゃいい。なのに友誼よか中立という名目で、結果的に、おれへの悪声を振り撒いて歩いてたようなもんさ。奥野さんも年齢だし、そのうちにきっと折れるから、まぁま辛抱なんてことを夏生に言ってるんだ。許さんよ、おれは」
「よっぽど金持ちだと売り込んだんだ。それに飛び付いたんだ。かわいそうに。おまえ程度の物書きに金があったら、それこそお笑いなのに」
「天は自ら助くる者を助くって謂っただろ。おれは天にゃなれんけど。それにしてもヤツは、テンから、天がおれを助けなくてだれを助けるかと、嫁の実家に粋な天になれなれと強要してきた。自助努力はハナから棚上げ…。しかし、金は、己れを卑しくして貰うもんじゃないぜ。意味なく遣るもんでも、まして、ない。粋に金よこせなんて、そんなイジマシイ教育学や哲学、聞いたことあるかい」
「夏生ちゃんを金づると思って嫁にしたか…。若いくせに、嫁、嫁っていう男だな。おまえの金をアテにするのなら、いっそ養子に来りゃいいんだ。嫁の実家の懐をアテに妻帯するなんて、自分の親の顔をつぶすってもんだ」
「ところが親父さんは死んでいるし、死んだご亭主の金の面倒をみたってのが、金田の母親の自慢なんだから、よくない環境だよ。息子は、だもんだから当然のように夏生に強いたんだ。里へ行って、取れるだけ取ってこいって、母子して嫁にせびったんだ。かわいそうに…、なんでこう再々大泉に来るんだろと心配なぐらいだった。そのワケが、最後に分かった…。向こうへ帰ろうとしたがらないんだよ夏生が…。そりゃそうだ、小遣い程度はやるが、ほかは夏生や子供の物ばかりやっていた。金は、全然…」
「夏ちゃんは、人一倍おまえの考え方で育ってるから。辛かったろうな」
「結婚して最初のうちは、いいお姑さんよ、なんて歯の浮くよなこと言ってたが。すぐに盛大にケンカを始めた。亭主も音をあげたほどガンガンやってたらしいよ」
「つまりは、金を寄越さぬ嫁の実家…かね」
「そうだ。金を出さず、口を出す最悪の三文文士め…で」
「世間でいわゆるその最悪をサ、それこそ最良なんだと思考する、ケッタイな小説家…か。不運だったな婿さんは」
奥野秀樹は笑ってしまった。駒井次郎も大口をあいて笑った。金田が母に出して貰っていた「月3万」の援助をとり上げられ、その母や妹に「働かないなら出て行け」と実家からも追い立てを食っていたのを、まだあの頃、奥野らは知らなかった。
* *
* 必然の動機が、作家を動かす。
『畜生塚』『慈子』『蝶の皿』『清経入水』『廬山』『みごもりの湖』『墨牡丹』『冬祭り』『初恋』『北の時代』『親指のマリア』等々を書いてきた時代のわたしの動機は、「死なれて・死なせて」にあり「真の身内」にあり「時空を超える」こと等にあった。その動機を、上のどの作も裏切っていないと思う。
そして、いつか年をとれば「私小説」や論議性の強い小説も書くだろうと予期していた。いつか私を此の世に送り込んだ生母や実父にふれざるをえない覚悟があったからで、娘夫婦との間に不幸なアツレキが起きよう、孫娘に癌で死なれようなどとは想像だに出来なかった。
まだ前半期に、『罪はわが前に』を書き下ろしたとき、また『迷走』三部作を書いたとき、すこし読者たちを驚かせたが、その系列では『ディアコニス 寒いテラス』も出て、わたしは、徐々老境予定の線へ近づきつつはあった。
昔、知己であった詩人の林富士馬さんは、「小説家になるために生まれてきた人だね」とわたしを評された。必然の動機を大事にするだけでなく、そういう動機をもともと深くに抱いて生まれてきたと謂われたようだ。いやいやわたしはそんな大層な物書きではないが、今も人によっては、「題材」に次々に恵まれる人だと揶揄もし、激励もされる。
それでいいのだ。そう思っていると「書き置く」。
2010 6・13 105
* 明日はもう機械の前にほとんど来れないから、今夜の内に書いておく。
* 「聖家族」を、わたしは、「長編の一環」かのように意図して「一九九六年八月」という昔に書き起こした。ホームページに予行・試作のかたちで掲載され始めたのが、「一九九八年十月」頃か。
原告が、これを「アクセス保存」(現在、法廷に提出している。)したのは「二 ○○六年八月七日」、やす香が亡くなって「僅か十日後」のことであって、ホームページに「初出」から「八年」ほもど経過している。
それ以前、原告の娘夫妻と私や妻とは、やす香の病院へ見舞いに行った以外、不幸にも「完全に没交渉」であった。その不幸を自ら回復してくれたのはやす香と妹とで、姉妹二人は、堅く親に秘し、祖父母との親交を心嬉しく回復していた。その間も、原告と被告との間で「聖家族」のことなど、「全く問題にも話題にもなりようが無かっ」た。
例の、やす香を「死なせた」という祖父母の悲歎をねじ曲げ、「両親がやす香を殺したと云っている=殺人者呼ばわりだ=名誉毀損だ」という幼稚な短絡で裁判沙汰が起きた際に、ことのついでのように「恥ずかしい」と持ち出されてきたのが、この「聖家族」であった。
* だが、見られるように、読まれればさらに明瞭だが、「聖家族」のコンポジションは明瞭にフィクションである。登場人物の氏名も住所も架空である。ある読者が的確に指摘していたように、原告が自分からこの「恥ずかしい」主役の「男」を「自分のこと」だ、「事実」が書かれてあるなどと云いまくらなければ、世間一般の読者は何一つそんな「仮託」のしようもなかった。
* 「ここに書かれていることは、事実か。それともフィクションか」ともし聞かれれば、わたしは笑い出す。
「事実」とは、「真の事実」として把握し説明しにくい「最たるもの」だから。
「事実」とは、「非事実・擬似事実・見立ての事実=つまりフィクション」であるのが普通である。例えば井伏鱒二の有名な『山椒魚』ですら、事実と読めるし、フィクションとも読める。
「ほとんど全部が事実です」と関係者に証言されているほどの谷崎潤一郎の「細雪」だが、そういうレベルで「細雪」を読む人は無く、事実性を超えた優れた「フィクション」絵巻とされている。
問われるべきは、作の「動機・主題・表現方法」なのである。
「聖家族」筆者の小さな意図は、「フィクション」という形式を用いて、ある忘じ難い一連の「事件」経過を、後日のため、客観的な物証(書簡・日記・メモ)を通じて保管・確保しておくことであった。しかし、もっと別にもっと本質的に、「こういうものが世の中にはいる」「こういう事件が起きる」「どんな家庭の食器棚にも髑髏が隠されている」というフランスの諺のような「怖さ」を通して、或る経緯と人間関係とを書いてみたかった。それが「小説」だ。
* では、作中の「男」は、「作の外」の特定の誰かを「指すものか」と聞かれたら、やはりわたしは笑い出すだろう。作中の 「越村高司」とは、『聖家族』なる試作フイクションの登場者「越村高司」なる「男」を代弁し表現しているに過ぎない。
島崎藤村作『新生』の姪「駒子」も、志賀直哉作『或る男、其姉の死』の「父」も「兄」も、全く同じ。谷崎潤一郎作『細雪』の「貞之助」も「幸子」も「雪子」も「こいさんむも、全く同じ。例は他の作家でも幾らでも上げられる。
「作中人物」は、「作世界」の「外の現実」とは、存在の次元を決定的に「異」にしているのが「創作」の「原則」である。
日本の小説と限らず、勝手な当て推量で特定の人の氏名を作中人物にあえて当てはめて読みたがる例は、膨大な数に上る。研究者までがそれを「知識」然として解説し流布したりもしている。しかしそれは作者の精神とは関係がないし、一般読書子からすれば、そんなことの正しいとも邪道とも云えないのが「読書」というもの。「読み方」という規則の、古今東西、「無い」のが読書なのである。フィクションである小説読みの本来からは、「作の中」と、「外の現実」を混同したがるのは、ふつう、「幼稚な勝手読み」「勝手な押しつけ」に過ぎないとされている。
* 「聖家族」のほんの最初の一部を挙げてみたが、恣にこれが「名誉毀損です」とでも言いたげに「太字」個所が、法廷への証拠書類に明記してある。だが、読めば読むほどに、それらはみな「小説の叙述・表現」部分として、「かのように」あたりまえに書かれているに過ぎない。
何の検査なのか、図像を見せて、それが白い盃に見えるか黒い顔の向き合っていると見えるか、と。
何が何でも「名誉毀損」としか見ない一方だから、反対側からの映像=意味が原告氏には見えなくて、「我から騒ぎすぎている」のである。
* 原告の騒ぎようは、わたしの創作意図からあまりに勝手次第に離れている。その結果、「自分で」自分の名誉を傷つけているのではないのか。
2010 6・13 105
* 十一時半、小雨のなか新刊本が届き、以降六時間、ぶっ続けの荷造り、そして最初の発送を今しがた終えて、痛烈にいま腹痛最中。湯に漬かって胃を温めようと思う。それでも、今日にはこの辺までと予定した全部を送りだせ、満足している。
漠然と、桜桃忌には「次」が送りだせるかなあと思いつつ一冊の編成に手を付けたときにはとてもムリと思っていた。思いながら、機をはずすと裁判の日程が迫って「湖の本」は夏遅くになってしまうが、そうはしたくなかった。
まだ若かった編集者時代にも、物書きで月に十数種の依頼原稿と長編の進行をこなしていたときも、わたしは時に相当な集中力を用いることが、ま、出来た。この後期高齢者と謂われかけている今回も、ちょっと意想外に難儀な仕事と作業とをうまく竪繋ぎ出来た。出来ていなかったら、ホントに胃に穴が空いていたかも知れない。
十九日の桜桃忌には、創刊して二十四年めの当日には、ほぼ第百三巻発送を終えようとしているだろう。そしてもう頭にあるのは、法廷のことではない、次の新しい「小説」をどう心ゆくまで実験できるか、だ。
2010 6・14 105
* 私的なパンドラの箱の蓋を開けたのである。もう、絵空事の本来へ帰るしかない。書き残した小説を幾つか書き置いて。
* 巻頭に置いた随筆は、もともと随筆として書いたのでなく、私家版『畜生塚・此の世』の小説「畜生塚」のために書いた。昭和三十八年だった。二十八歳。後年「新潮」に発表の時、 割愛した。露わに書きすぎたと感じ、容赦なく削った。他にも、バサバサとたくさん削って作品は成功した。桶谷秀昭さんや立原正秋さんに、「新潮」の小島喜久江さんにも、褒めてもらった。
その割愛したアタマの方の一部を今回此処へ、巻頭随筆の第一番目に置き直した。意図としては此処がふさわしい。筆致も懐かしい。思いも懐かしい。
ここへ帰ろうと思う。もう少し早く帰ってもよかった。
題は、今回附したのである。
島に立つ夢
時は涯なく流れ、生涯は短かい。人との出逢いはさらにはかない。水の泡にひとしいその出逢いが時として珠の輝きをひらめかせたまま、とび去ってゆくことがある。燃焼させたものの美しい残光なのだろうか、底暗いものの限りない拡がりの中をのぞきみて、その光に執する想いは無明に近い。幸せを追っているとも、不幸を培っているともいえる。
畢竟、別れのない出逢いはないと知った上で、成ろうならかずかずの出逢いにさめやすい夢の美しさを注ぎいれたかった。親にはなれて育つよりなかった私の精一杯の生きのよすがは、絵空事こそ真実と思いきめ、血も肉もつながっていない他人の心へ愛という無意味な墓標をうちこみつづけることだった。
私の中に私を呼びさまそうとする声があった。背きがたいひびき、背けばたちまち罰しようと脅かし容赦なく信を迫る声があった。
はかないことを夢もうではないか。
そうして、事物のうつくしい愚かしさについて思いめぐらそうではないか」
開いたまま膝に伏せた本をとりあげ、もう一度この言葉をきいた。岡倉天心の『茶の本』(浅野晃訳)は第一章をこの言葉で終っていた。そこまで読んで私は焦らだちから我にかえった。
はかないことを夢みる。事物の美しい愚かしさについて思いめぐらす。哲人の詩心が茶の湯を通して言わせた逆説と釈るべきではない。確信だ。夢を払おうとするのはかまわないが、払いさったと思うことがそのまままた夢であると知るなら、真実は一つ、夢を蔑んではならず、すすんでその中に生きのよすがを打ち樹てることでしかない。茶の湯の遊びはそう誘っている。出逢いと別れとを一期一会に凝集させ、ひたむきに美に触れようという茶の湯とは、「われわれが人生として知っているこの不可能なもののうちに、なにか可能なものを成就しようとする柔和な企て(同前)」なのである。
何が可能なものなのだろうか、はたして。
叔母宗陽の助けで少年のころからこの柔和な企てをつづけ、成就したい何かを胸奥から離さなかった。あの声は、その時から私に呼びかけはじめていた。
今にして驚くのだが、私が自分の名前に気づいたというか、ああこれが自分の名だと思い当ったのは、京都市東山区の新門前通にある秦家に連れられてきた最初の正月、祖父、両親、叔母と一緒に新年の膳についた時が初めてだった。何歳頃だったかももう思い寄らないのだが、四つより年上ということはない。私の名は箸紙に「浩一」と書いてあった。叔母がひろかずと読み、こういちとも読めるぇなあ、となりの孝一ちゃんといっしょやなと言ったのを覚えている。
名前は、奇異なよそよそしさを感じさせた。生まれながら呼び親しまれたこれが自分の名であったかしらと、落着きはらった漢字二つをみるにつけ、あまりに疎遠だった。そぐわない焦らだちは、この馴染まない家と家族への漠然とした不信、不安にかようものであった。
私には元来名前などなかったのではないか。そう思う。記憶がない。浩一というまんざらでもない呼び名にお目にかかったのはもちろん、耳にしたのも初めてで、はっきりと、へえこんな名になったんやと思ったくらいだった。
だが、それより古い想い出も、幾らかはもっている。
あかるい蒼い空、風にそよぐ稲穂。ひろい庭と小さな門。門のわきにも背の低い長屋があって、入り口は半坪くらいの板敷の内と外とを白障紙がへだてていた。主屋は大きく、外庭と内庭の堺は生け垣になっていた。内に築山や松の樹があった。家の裏には鶏小屋が場所をとっていて、わりと大きい犬が一匹庭から庭へ走っていた。お爺さんに叱られて松の根っこに縛られたような記憶は、後々までものこっていたし、お祭りか或いは珍らしい客の来た日でもあったか、夏の宵を兄さんと姉さんとのみている前ではしゃいで庭をぐるぐるかけたこと、犬もあとを追っていたことも。
今となっては、ひょっとしてまるで夢であるのかもしれぬ。お爺さんもお婆さんも兄さんも姉さんもいたが、顔からだともに、かきけす影としか想い出せない。何処であったのか、その人たちがどんな人だったのか何も知らず、知らされていない。後々まで、あああんなこともと想い出した松に縛られた事件なども、私をその家の子として入籍するのを拒んだといわれる老祖父の折檻であったかもしれぬ。
ある日、秋も半ばのよく晴れた坂みちを、稲田のかげから二人づれの客が門の方へやってきた。ついぞみぬ街の人らしい二人づれが笑いながらきた。私は門の内へとびこんだ。裏の方で鶏がけたたましく鳴いていた。
二人づれは、私の父と母親だとひきあわされた。へええと思った、それだけだった。いやににこにこした女の人は、みたこともない大きな木製の飛行機をとりだし組み立ててくれた。もう晩方になっていたか、赤っぽい暗い電球がまぶしくて、女の人がほうれブーンと木の飛行機のとぶ真似をしてみせる。へんに狭っ苦しい部屋、ひょっとして廊下だったかもしれないが、みんなが突っ立ったまま話しているのが落着かない。
この人たち何なのか、何をしに来て、どうして私にチヤホヤするのか。犬も鶏も、いつもよく晴れた空の色も、広い庭もすうっと暗やみにあとじさりして行きそで、私はうつむいた。
は…と気がついた時は、京の新門前へ、ハタラヂオ店へ連れて来られ、家に入るのをいやがり表のショウウィンドウの柱に抱きついたまま、ビショビショとズボンの裾をぬらし泣いていた。ウインドウの灯に浮きあがり、私の目に宵やみばかりがなさけなく暗かった。
あの時の二人づれが秦の父と母とであったかは確信がない。木の飛行機はかなり後日まで家にあった。図体ばかりでかいそれを私は殆ど愛玩しなかったから、翼と胴体とをはずして、久しく二階の箪笥のうしろに放りこんであった。あんな気のきかないものを呉れたなど、やはり今の父と母であったのだろう。
どんなふうに新門前の家に連れてこられたか、覚えがない。とにかく、気がついた時は泣いていた。どうしても馴染まず、いくらお入りといわれても、頑固に家の外にうずくまり、夜おそくまで泣いてねばったらしい。もう四半世紀にもなるが家の構えはぽっちりも変っていない。しがみついていた抱き柱も今もそのままあって、それに自分史の一起点を私は感じる。泣いてすねて小便をたれる男の児のあてど無さが、私、人生の出発点だった。
ほんとうは、何と命名されていたのだろう。名を、もたなかったかもしれぬ児。新門前の家より以前の私は存在しなかったのと同じで、時間の背後に隠されていたのか。すべては、新門前のあの薄暗い家の中から芽生えたか。
だが、私はあの二人づれのやって来た日の空の蒼さ、世界の広さをかすかになつかしむ。新門前へ来た時も、つづく想い出も、あれらは全部が「晩」ではなかったか。太陽の光をもたないいわば電灯のうす暗さの中へ、たった一人で来てしまったことに、幼い私はすでに宿命的なあきらめをもたなかったか。それを想って今も寂びしい。
もらひ子の境涯から自由になるために、血縁なるものを仮りの約束ごと偶然の結ばれとして拒絶し、真実の身内を、他人と呼ばれる人たちの中に見出そう、そう考えようと幼かった私は自分に強いた。父母未生以前本来孤独と思うことで自分を鍛錬した。
心のうちに一枚の絵がある。涯ない海原だ。人一人がやっと立てるだけの島に一人ずつ人が立っている。島から島へ架かる橋はなかった。架けようとすると島と島とは遠のいてしまう。孤絶の表情をして顔と顔とは容易に向きあうこともならぬ。海は広く島の数も限りなく多いのに、何とものすごい静寂だろう。寂びしさに耐えずむなしく呼ぶ声が地獄の物音のようにひびく。
このように、ああ、自分たちは世界に投げ出されている。孤独が絶対なのは疑いようもない。だからこそ愛の呼びかけも、また永遠。成就するはずのない愛はただ孤独の歎声の同義語。一つの島に二人で立つことは永劫許されない。だが、真実互いに身内と許し合えるなら、ほんとうにそうなら、一人しか立てぬはずの私の島に私以外の人も立つことになる。解きがたい撞着…。少年の孤独と愛は撞着のまま輪廻してやまない……。
身内は絶対に許されないか。愛の不可能を可能とする企ては在り得ないか。はかない夢と思いながら、この、はかない夢という言葉に惹かれた。はかない夢から早く醒めよと教える人は多いが、夢から醒めたその時に、夢のはかなさにまさるどれほどの確かさがあろうとも思えないのが本心だった。夢のまた夢で人間の生涯が果ててゆくのなら、すすんで夢の中に美しいもの、願わしいものをはかなく夢むのがいいのではないか。成就したい何かを可能にする企ては夢に遊んで夢を拒まないことにある。無明という言葉を知ったとき、それでいいではないかと思った。愛染無明をすすんで受けとれば、無明も無くまた無明の尽きることもないところに存外近くいるかしれない。
あの声は、呼んでいた。夢から醒めるな、夢の中に価値を樹てよ、美しく夢みよと。夢が夢であることを知った上でむしろ夢にむかえと。
畢竟すべては否定されてある。身内を願うことも、身内を得たと思うことも、私の島に人と並び立ったと思う幸福惑も。歎くな。夢ではないか。
気がつくと、いつも広い野に一人佇っていた。足もとから広漠とひろがる野にはさやさや鳴る乾いた草が一面にどこまでもつづいた。熱気のない薄暮に似た淡い光が野づらをしずかに蔽い、遥か遠く、もの言わぬ山なみの影があって、そこにも淡い光はあった。私は考えるでも、また祈るでもなく足さきに草野を感じながら黙って黙って佇っていた。前にも後にも私を導いて行く道はなかった。千年もの昔からそうしていたように、ただそこに佇ち尽した、寂びしいよりも安らかな、ああ、静かさの中に。
広野は私の本然の世界だった。遠山に日のあたりたる枯野かなと虚子に教えられた時から、私は夢の現実世界の一段下に、本然の自分の世界の広がっているのを目にみることが出来た。水爆実験があり、汚職があり、人種差別があり、船が走り、颱風が襲い、運動会があり、飲み屋があり、暴行があり、生き別れがあり、結婚があり、就職試験があり、おべっかがある世界にいて、はかなく夢みながら愚かしい美しさについて思いめぐらすのはなかなかむずかしく、疲れやすい。むなしくなると私はとことこと広野へ下りていった。佇んだ。愛などという絵空事に魅せられようためには孤独と親しむことが必要なのだった。
海の中の島の繪のそばに、遠山に日のあたりたる枯野原の繪をならべる。二枚の繪をみていると、殊更に醒めやすい夢であった。夢みることに不断の努力が必要にさえなった。信を迫るあの声に催され、無明こそ真実と私は自分に言いきかせねばならなかった。
(昭和三十八年九月起稿『畜生塚』より。「新潮」では割愛。)
☆ 湖の本 103 拝受。
表紙を拝見するなり どっきり でした。美しい表紙です。緑の色も美しい!! 裸婦でありながらいやらしさがなくて藝術品です。
さきほど入金させていただきました。 有り難うございました。
今年は暑い夏の制作から解放されます。
大作の制作もだんだんつらくなってきました。 これが年齢というものでしょうね。
6月26日に京都で美工の同窓会があります。 行こうかと思いましたがやはり諦めることにしました。
私にとっても京都がだんだん遠くなってきました。 どうぞご機嫌よろしく。 郁
*つぎの大きな仕事へのアイデアがホッと点灯した。そのためには、大きな一つ手続き・礼儀を践まねばならない。そしてまた、甚だしい心身の苦痛にまみれねば、とても書けそうにない。「母の敗戦」を今回書いた。母へはそれでもシンパシイが動きやすい。父には動きにくいのだが、それでも、今回「私」を書く形で母を書きながら、じつのところわたしは父の身に負うた、いや父が身に負わされたものの過酷さを、怒り、憎む思いを忘れていることが出来なかった。書ければ、それを書く。そのためには、或る医学者・文学者の教えを請わねばならない。
2010 6・18 105
* このようにして、外の世間へ素肌をさらして劇場型に生きているかぎり、夥しい黒いピンがわたしを刺す。無惨に目に見えるピンがあり、まるで目に見えぬ無数のピンがある。避けるわけに行かぬが、それらに傷つかないほどわたしは強くも放胆でもない。とても無条件に清くも爽やかにもおれない。律儀すぎるほど傷つく。
だがこのようにして生きている限り、幾らか「お互い様」であるのだろう。わたしのあずかり知らぬ世間で、あずかり知らぬどんな「黒いピン」がわたしのために悪意善意で生産されていようと、わたしは知らない。手の打ちようも関係もない。
はっきり「言い置く」が、わたしは世間へ出て大勢とせっせと会い、さまざまな会話対話のなかで他人の上へ悪声を放ってきたり毒饅頭を転がしてきたりは、決してしない。そんな陰湿で卑怯な真似は決してしない。
批評はする。みな文責を明かして「書いて」いる。明かす必要のない実名には十分斟酌も考慮もして、しかし「かげぐち」はしない。唯一といえる我が「外向きの仕事場」、ウエブの『作家・秦 恒平の文学と生活』に拠り、ぜんぶに責任を持って、「書いて」示している。
たとえばこの一年で云っても、文壇の同僚のほとんど只一人ともわたしは会っていない。ペンや協会の活動とも一切遠のいている。むろんそうではないが、厭人・嫌人癖かのように人と顔を合わす機会をもたず・求めずに暮らしている。プライベートにも、あまりにあまりに人と会っていない。
隅田川の橋も一人で渡る、タマに妻と渡る。
せいぜい劇場や能楽堂でやあやあと知人に声を掛け合う程度で、高麗屋の藤間さんが、われわれ夫婦とも、心はずんで立ち話をかわしている唯一ペンの同僚会員である。
* それでも、「湖の本」をお送りしてきた各界人・教育機関・遠い近い知人そして読者が、わたしには有る。十分ではないか。
もし、わたし自身の「劇場」と謂うなら、それは「湖の本」と、「闇に言い置く 私語の刻」を日録としたホームページ、そして「mixi」のほかに絶えて無い。ここへ飛んでくる黒い針なら、わたしは黙って受ける。時に反応するが、ほとんどは黙って避けるだけ。
このところ、わたしからのメールを受け取る人はめったにいないはず。
人生の幕を引こうというのでは、ない。来るメールは感謝して受け、返信は日録のうえですることも返信することもある。しかし自然間遠に去る人を追いはしない。歳々年々人不同とは、人生の教訓。
今朝の新聞に岡井隆氏が当時七十歳歌人の歌を挙げていた。
わけの分らぬ言(こと)を時々放つのみ
よき人さかしき人にまじりて 土屋文明
二行に分けたが、こう読まれるのが普通だろう、だが、ふと、こうもわたしは読み取った。
わけの分らぬ言(こと)を時々放つのみ よき人(は)。
さかしき人にまじりて 土屋文明
ともあれ、「わけの分らぬ言」にこそ「真実がある」と文明は「言い放った」という岡井さんの読みに、喜びと励ましとを覚える。まちがっても、「さかしき人」に近づきたくない。
2010 6・20 105
* 『慈子(あつこ)』という小説は「齋王譜」の初題で私家版の三冊目にしたときは、数百枚の長編であったが、のちに筑摩から書き下ろし単行本として出したとき、削ぎに削いで270枚、あるいはもっと短くしたかもしれず、この時、改題した。出るとすぐ、吉永小百合さん、桂三枝さんが、べつべつに、ディスクジョッキーのなかで取り上げていたと耳にし、驚いたことがある。出版した最初の筑摩本は『秘色(ひそく)』だったが、ここでついた女性読者が、『慈子』でみな離れてしまい、代わりに熱い男性の固定読者がしっかりついたようだと担当編集者に言われた。ヒロインが女性に妬かれているのではと担当者は笑っていたが、そうでもなくて、結局女性の読者に、難しい難しいと歎かれながら、永く愛された作として落ち着いた。こんどの『私』の中の随筆に「好きな人を置いて通いたい」という高校生の頃のいつわらぬ気持ちを書いた一編がある。その気持ちが『慈子』に結晶したのだった。
2010 6・27 105
☆ 慈子、閨秀、絵巻
秦先生、 『慈子』下、『閨秀』、『絵巻』読み終えました。
慈子を読み終え、少し時間を置くべきかしら、とも思ったのですが、心が急いて、急いて、読み続けました。
『慈子』の終り方の唐突さに、あまりにも『慈子』が可哀相です。いずれはそうなるとも思うのですが、あの美しく生まれ、美しく育った慈子・・・美しく齢を重ねるでしょうが、あまりにも可哀相。 この後、二人はどうなったのか・・・
『閨秀』、華麗なる上村松園の世界。先生が「作品の後に」に書いていらっしゃるように、これはまさに秦恒平の「松園論」というか、美術論が優れた小説になったという感じで読みました。 上村松園という美貌の画家の、艶やかな話を切り捨てた、画伯・上村松園の美術史・作家論が、絢爛たる世界で語られて目が覚める思いでした。
何よりも、面白く拝読したのが『絵巻』です。自分自身が、かつて同人誌に偃息図『小柴垣草子』を題材に作品を書いたことがあったので、まさに自分の興味のある時代、人々が登場するので、途中で休むこともできず読み通しました。小柴垣草子の制作者は後白河法皇であるという伝説を素に書いた作品です。それを書きながら後白河法皇が絵画や絵巻物に非常に関心を寄せていたのは、母・待賢門院や曾祖父・白河法皇の影響ではなかったかと、思ったものです。
白河法皇は自分を光源氏に擬え、璋子をある時は若紫に、またある時は藤壷に、そして崇徳を冷泉帝に擬えて、崇徳即位を強行した自分の行為を正当化する準拠が『源氏物語』だったのではなかったか。だから待賢門院・白河法皇という強大なパトロンの許、『源氏物語絵巻』が制作されたのではないかと思って、書きました。
『絵巻』の、『源氏物語絵巻』誕生の過程にはどきどきし、世に言う白河法皇と待賢門院璋子との関係とは全く別な解釈がなされ、璋子に対する先生の思いやりの深さに感じ入りました。
「醜聞にまみれた歴史的な美女を清々しく掬いあげたいとう愛があった。松園に対しても、それが、あった。そういう甘さが、私は嫌いではない」とおっしゃるとおり、読者も「そういう甘さ」に救われ、感動いたします。
感謝、そして潤いをありがとうございました。 野宮
* これらの作から、わたしは、四十一年の作家生活を歩みつづけて、いま、『私──随筆で書いた私小説』を世に問うている。
わたしのレイタースクールは歴然としている。譬えるのはおおけなく厚かましいが、「雨月物語」から「春雨物語」へ歩んできた。歩もうとして歩んだとは云うまい。作家としての運命が歩ませた。その意味でも必然をわたしは背負ってきた。
2010 6・29 105
* 帰国した日本のサッカーチームで、チームの芯であった本田選手と、PKを失敗した選手とのことばに関心を持っていた。本田は本田らしい生きた言葉で「次」を見つめていた。もう一人の選手は、PKの機会が来ればためらいなく「また蹴る」と言い切った。素晴らしかった。それでいい。
わたしも、ためらいなく「また書く」。一期一会。限りない繰り返しを生涯に一度の「会」と覚悟して、書く。果てない旅の、果てまで書く。
2010 7・2 106
* 藤原道長を同時代の宮廷にいて終始徹底批判して止まなかった右大臣藤原実資と紫式部とに「交通」のあった足跡がかすかにうかがえる。十二分、記憶に値する。
* 紫式部集は式部の家集、式部の実像研究では紫式部日記と並んでかけがえない文化財であるが、この家集を締めくくって歌うのは、極めて異例な、紫式部自身でなく「加賀少納言」という女房あるいは女性である。しかし、これほど源氏物語研究が不二の山ほど積まれていても、「加賀少納言」とは誰と、まったく見極められていない。奇跡の存在と言わねばならず、これに明瞭な回答を与えたのは、わたしの短編小説『加賀少納言』をおいて一編の著作も、実は無い、と言い切れる。
この作に目を留めたのは、ロシアの日本文学愛好家たちであった。小説『加賀少納言』はロシア語に翻訳されている。わたしにロシア語は読めないので何ともその上は云いかねるが、この関心の向け方は、あの国の日本古典への傾倒の深さを優に明かしている。
2010 7・2 106
* 手にとって次々にカタを付けなくてはいけないことが、蜘蛛の巣を破ったように、ぐちゃぐちやになっている。モノの片づかない身の回りや卓や部屋や廊下や。輪を掛けて、わたしを困惑させる。狭いからだけではない、狭く狭く混雑させて暮らしているのだ、自ら。フル回転にあたまをつかって、これでも片づけてはものごとを進めようとしている。あはれや、だが、モノ・コトが多すぎる。落として棄ててしまえるモノも有るには有るが、いまのいま、とてもそうは行かぬ事が多すぎる。しかも究極
、自分独りで片づけて行くしかない。独りで、だ。当然だろう。生まれてきたのも独りで。死んで逝くのも独りで。当然だ。だが、まだ死ぬことは出来ぬ。
* いま、「ヘドのモルゴン」と旅するときが安らぎだ。
2010 7・2 106
* 「湖山夢に入る」と題したメモのファイルを持っている。昨二十一年年師走二日に、こう書いていた。
七時に起き、生母ふくの手紙を解読しつつ電子化しているが、いま十時、朝から最初の一通がまだ写し切れない。
しかもいろんな事が新たに見えてくる。察していたことばかりだが、あらためて母自身の口からいろいろ慨嘆され哀訴されてみると、そもそもまだごく幼い小さい兄やわたしの「処分」の仕方にどうもその場凌ぎの中途半端があり、そのために幼い兄弟も、兄弟をそれぞれ預けられた北沢家も秦家も、十年にわたりじつに気味のよくない宙ぶらりんの気分に悩まされてきたし、母も、無意味に「我が子」二人を手の届かぬ場所へ隠されていた哀しみを持ち続けていた。「処分」に際し仲に立って半端に暫定の処置だけを施したいわば第三者を、母は「ブローカー」という際どい言葉をつかって、今回(=昭和二十二年から三年)の法的な養子縁組に際してはそういう第三者の好き勝手にはされたくないという意思を強く打ち出している。背景に戦後の新民法があり、母の発言権を後押ししているのも分かる。
およそは察していた。裏付けされてきた。
この頃、小学校五年から六年生へ向かおうとしていた自分の記録は、湖の本44『早春』に残している。
* まだ、手にした資料をどう出来るともわたしは思い到っていなかった、ただもう生母の遺した手紙を機械に書き写していた。「湖の本103」の着想は、毛筋も頭に無かった。
* 午前、午後、夕方まで、気を集注して「一つこと」の理解と整頓に費やした。疲れると一服がわりに山中裕さんの『源氏物語の史的研究』を読む。元服、加冠、添臥、新枕、三日夜餅、露顕などなどを源氏物語の各所の本文をひき読みながら理解して行く。それからまた「わたし被告」の法廷に立ち戻る。おもしろいでしょう。
* 頭の奥には、だが、本命の問題として「実父」のことが、在る。これはすぐに次の「湖の本」には間に合わないが、「おやじのこと」という感じで主題化が進行している。膨大な父資料・父遺文を読んでいて、これはと胸の疼く大事件がおやじには生じていた。そこへ肉薄しなければと思う。そのためにも、いま目の前の不愉快な法廷のことなど、早く「飛んで行け」と思っている。この裁判は娘と婿の持ち出したこと、わたしは実は被告でなく「被害を蒙っているだけの父親」である。ま、いい。
わたしのタッグを組むのは、今度は「わたしの父親」とだ。
2010 7・6 106
* 不愉快な、しつこい要事の合間に、一服の感じで、いろんな本に手を出す。いまさきも、直哉の『暗夜行路』を読み継いでいた。こんなところへ行き当たった。
この作品の時任謙作は、父の子でなく、父の父、祖父と、父の妻、母との子だと、この年齢になって初めて告げられた、東京から遠い瀬戸内の尾の道にいて。
『暗夜行路』の大きな構想の一つが、これだ。言うまでもない作者直哉の仮構したフィクションである。多くの読者をおどろかせる設定であり、少年であった昔々のわたしも驚いた。
☆ 暗夜行路 前篇・第二 13
そして、彼は何といふ事なし気持の上からも、肉体の上からも弱つて来た。心が妙に淋しくなつて行つた。彼(=時任謙作)が尾の道で自分の出生に就いて信行(=戸籍の上の兄)から手紙を貰つた、其時の驚き、そして参り方は可成りに烈しかつたが、それだけにそれをはね退けよう、起き上らうとする心の緊張は一層強く感じられた。然し其緊張の去つた今になつて、丁度朽ち腐れた土台の木に地面の湿気が自然に浸み込んで行くやうに、変な淋しさが今ジメジメと彼の心へ浸み込んで来るのをどうする事も出来なかつた。理窟ではどうする事も出来ない淋しさだつた。彼は自分のこれからやらねばならぬ仕事──人類全体の幸福に繋りのある仕事──人類の進むべき路へ目標を置いて行く仕事──それが藝術家の仕事であると思つてゐる。──そんな事に殊更頭を向けたが、弾力を失つた彼の心はそれで少しも引き立たうとはしなかつた。只下へ下へ引き込まれて行く。「心の貧しき者は福(さいはひ)なり」貧しきといふ意味が今の自分のやうな気持をいふなら余りに惨酷な言葉だと彼は思つた。今の心の状態が自身これでいいのだ、これが福になるのだとはどうして思へようと彼は考へた。若し今一人の牧師が自分の前へ来て「心の貧しき者は福なり」といつたら自分はいきなり其頬を撲りつけるだらうと考へた。心の貧しい事程、惨めな状態があらうかと思つた。実際彼の場合は淋しいとか苦しいとか、悲しいとかいふのでは足りなかつた。心が只無闇と貧しくなつた──心の貧乏人、心で貧乏する──これ程惨めな事があらうかと彼は考へた。
これは確かに生理的にも来てゐた。尾の道にゐた頃、既に彼はさうなりかけてゐた。其処に自身の出生に就いて知つた。此事は然し一時的に彼の心を緊張させる上に却つて有効な刺激となつた。が、その刺激がなくなり緊張が去ると其処にはり一層悪いものが残された。これなしにさへ弱つて行きつつあつた彼の心はその為め不意に最も悪い状態にまで沈められて了つた。
* 少年の私は、謙作の運命にもかなり驚かされたけれど、ここでは、この状況で牧師が出てきて「心の貧しき者は福なり」などといえばブン撲るという謙作の気持ちに、立ち止まった。わたしは新約聖書「マタイ伝」山上の垂訓をすでに家にあった小型の聖書で識っていた。(ちなみにこの聖書は、叔母が若い日に心惹かれていたという男性から贈られていた。今の話には関係がない。)そして、引っかかっていた。
心豊かなという物言いが称讃の感じで有るのに、正反対の「心の貧しい者は福」は呑み込みにくかった。むりやりにも加齢とともにわたしは理解してきたつもりで今はいるが、あれだけ直哉はキリストの協会に通って牧師先生に傾倒した人だが、いかにも此処は若い謙作らしいと、今でも謙作に共感する。
わたしの出生も、いまやわたしの読者には全面的に知られているように、そうそう尋常ではない。しかし父は独身で母もすでに寡婦であったから、その点に問題は無かった。ただ母には子があり、父は母よりも余程若かったので、周囲のとうてい容れる間柄とは成り得なかった。そしてそんな事実をわたし自身は何も知らずに秦家で育てられたから、『暗夜行路』の謙作のように「参つた」体験は全然といえるほど無かった。
それでも今日何度目か此処を読んで、謙作の気持ちに心身を添わせるのは自然に容易であった。謙作の鬱屈はよく書き示されている。
* 今日、ある遠方の女性造形家からはるばる『私』への礼信があった。その文言に、
「今回の表紙は、一段と官能的ですね。そして、今回のテーマは「私」だったので、官能的私小説…? という印象で、ちょっとドキッとさせられました。
以前にも少し書いていらっしゃいましたが、興味深い生い立ちでいらっしゃいるのですね。」と。
* なるほど、「興味深い生い立ち」かと苦笑した。
むかし、あるアマチュアで小説を書いていた年かさの女性と対話したとき、会話の中にひっきりなしに「ちゃんとした育ち」「ちゃんとした普通の」という物言いが頻発するのに、いささかげんなりした記憶がある。
今度の作にも書いているが、就職の最終面接の席で社長が、わざわざ、「君は此の戸籍の記事を気にしているかも知れないが、ボクは気にしていないからね」と言われてビックリした。わたしは、むろん自分の原戸籍を読んで知っていたけれど、社長のわざわざの思いやりにビックリしてしまうほど、まるで念頭に無かったのだ、「そういうもんなのか」と初めて学んだ気がした。
「ちゃんとした」にも「興味深い」も、参りはしないけれど、軽く胸をおされる。
時任謙作の参るははるかに深刻であったろう。実の父上とながいあいだ不和でうまく行かなかった直哉の気持ちを思って読んでいた。
2010 7・7 106
* 思い浮かんだら書く程度の随筆では、ツウィッターでしかない。世間で良く謂う、銭の取れる文章、買ってもらえる文章には成らない。
随筆を書くなら、題をもらって、否応なく絞り出す、それも銭の取れる弾んだ文章で絞り出すのでなければ、ラクガキ程度のモノにしかなりません。
だから、題目無しの随筆依頼は、とてもコワかつた。はじめのうち、全然書けずにいつも泣きそうだった。これをと中身に注文のある方がよかったのです。
随筆は、論文でも批評でもない、厳しい枚数制限のある、短編小説なのです。そしてウソはだめ。面白く読ませなければ無意味。「思い浮かんだときに、書き残す」なんて気楽なことは、まるで不可能な、かなり難儀な「創作」です。顔色をかえて突貫しなくてはならない「文藝」です。
すてきな随筆が三本書ければ、小説の三作に繋がり得ます。 風
2010 7・10 106
* 建日子の呉れた機械は、いまのところ「お蔵入り」に近い。
インターネットの設定が建日子は出来たよと言っていたが、慌ただしく口であれこれ説明されたときが、法廷の前夜・深夜で全くアタマに入らず、マニュアルも有るのやら無いのやら。
いちばん困るのが一太郎で字が書けない。 ATOKが利用できなくなっていると機械に警告されている。ホームページが読めず・書けず、文が書けず。むろん機械は優秀なのだろうが、わたしに新しい機械の記号やロゴを呑み込む力が無いのだ、参った。参りました。十数年、機械に触れ続けているが、出来ることしか出来ない。路線を逸れると闇雲に分からない。だんだん分かって行くより、だんだん老いて理解が摩滅して行く。新鋭機は私にはムリだったか。建日子にわるいことをした。じりじりと、何か一つ、又一つと覚えて納得して行くよりないが、機械を壊したくないと、臆病になる。軽いけれど、持ち歩くメリットが今のところなにも手に入っていない。
それでも、名前のどうしても覚えられない、そうそうなんとかメモリーというのの使い方だけはほぼ実践して覚えた。此の目の前の機械から、たくさん、新機に移してみた。しかし、インターネットはどうしても使えない。出るエラーの意味も分からない。
「http://umi-no-hon.officeblue.jpが使えません。新しいhttp://umi-no- hon.officeblue.jpに移転したのかも知れません」なんて全く意味が分からない。
* さ、そんなことより、わたしは、新しい仕事へ踏み込んで行きたい。
書きたいのは、「父」だ。わたし自身のことではない。わたしの「おやじ」殿である。
もう、必要以外に「実父」と突き放して書くのはやめよう。秦の父、秦の母は、叔母も、日夜、暮らしを今もともにしている、この家で。いつも呼びかけている。
実父や生母とはそうでない。生母ふくは、「母」という名であたまにある。「おふくろ」という単語はわたしのものではない。実父恒は「父」と謂いにくい。「おやじ」のほうがいい、親しめると謂うより、むしろ客観的に言いやすい。気持ちも少しずつそれに馴染もうとしている。
「おやじ」を書く気だ。
2010 7・15 106
☆ 今か今かと待っていました。安心しました。 e-OLD 葉
☆ 二日ほど家を空けていましたので連絡が遅くなりました。秦健日子さんは確かご子息ですよね。先週、たまたま買った夕刊フジの一面全面に顔写真入りで記事が載っていました。作家とは聞いていましたが、視聴率の高そうなテレビの連続ドラマの原作者とまでは存じませんでした。秦さんとは大分作風が違うようですがご活躍ですね。
秦さんは未だインスリンを打ちながらご執筆に精を出されていらっしゃるとは存じますが、週末から猛暑がめぐってきそうな勢い、御身ご自愛ください。 謙
* メールありがとう。 秦 恒平
建日子(健 ではなく。たけひこ)は息子ですよ。亡くなったつかこうへいさんの劇作・演出の直門で、今は「秦組」を主宰し、もう十年ほど小劇場を何時も満員の客であふれさせ、つい数日前まで俳優座で「らん」といういい芝居をみせていました。また河出書房や新潮社、講談社から「推理小説」「SOKKI」「アンフェア」など小説のベストセラーを何冊も出し、つい最近新刊の「ダーティ・ママ」を出したばかり、親父が生涯で稼いだよりすでに上超していますよ。ハハハ。
テレビでは、「どらごん櫻」「ほかべん」「最後の弁護人」「ラストプレゼント」など人気の連続ドラマをもう十本ほど書いて活躍しています。
わたしとは方角の違う娯楽読み物系ですが、それなりにいい真面目な仕事をしようとしていますので、どうぞ応援してやって下さい。
息子の話をするのがご機嫌の老いたおやじをしています。親孝行な息子です。
わたしは、いま、生涯前半の谷崎潤一郎に学んだ藝術小説から、レーター・スタイル(晩年の作風)へ切り替え、自身の置き去りにしてきた人生をまっすぐ見つめようとしています。この数年、少年以来尊敬していた志賀直哉に更に傾倒し、今も時任謙作の「暗夜行路」を毎日熟読しています。そのつど謙作クンを思い出しているのです。
長谷川泉さん(編集局長。鴎外研究の泰斗。故人)もいっしょに雑誌「胃と腸」で鵜飼にゆきましたね。懐かしく思い出します。
長谷川さんが社におられたので、わたしは後ろ姿をじっと観ながら太宰賞へ歩み寄って行けました。
また会いましょう。 なにか書いていませんか。書いてみませんか。出来たら読ませて下さい。 湖
2010 7・16 106
* 秦さんの「書いて」こられた「すべて」が秦さん自身を保証しています。信じています。外の雑音などわたくしたちにとっては、何でもありません、と、お便りがたくさんつづく。ありがたい。読者だけではない。大学、各界からも、さりげなく、力づよく。
* 『かくのごとき、死』を読み返していますという読者が多い。その人達は気づかれていよう。
孫・やす香逝去の平成四十八年七月二十七「前日」に「輸血停止」されたらしいことには、確度高い証言がある。それにより起きた結果は、七月二十七日の「永眠」(母親による「mixi」告知)だった。奇しくも(と、云っておく。)「母親の誕生日」であった。この偶然らしき符合に、いろんな甘やかな解釈をした人たちも多かっただろう。
* 事実を追ってみると、
二十五日火曜日に、やす香と病室で会った友人は、やす香の好きな音楽のディスクをプレゼントし、「たくさん聴くね」と、やす香の曇りない痛切な感謝の言葉を聴いている。
その前日、二十四日月曜日には、われわれ祖父母と叔父建日子とが、病室で、やす香と対話していた。
ところが、この晩かつて無いことにやす香の父親からわが家へ電話が来た。「医師と話し合ったが、ここ二三日の寿命と思われるので病院近くに宿を取っては」と伝えられた。医師と…。何なんだそれは。仰天した。 (すべて、その時の記録がある。)
その二日後、七月二十六日水曜日にやす香を親しく見舞って病室に出入りしていたという或る親友は、なお「土曜日にもまた見舞いに来る」つもりだった。ところがこの水曜の二十六日に、なんと「輸血停止」されてしまったと、迷いなくこの人は、正確にはこの親子は「断言」している。「mixi」にきちんと出ていて、保管してある。
★★★は週刊誌の記者に「そのフランソアさん」ならよく知っていると云っているが、わたしもそんな人は知らないし、この証言、この記録とは無関係である。
* 造血機能の完全に破壊されているのが「肉腫」である、輸血停止とは「死」の決定以外の何物でもない。法廷で原告弁護士はわたしに、どんな意味かと問うていたが、わかりよく云えば「生命維持装置の停止」に、効果として同じいと教えると、絶句して質問を替えていた。
かくて必然、「母親の誕生日」に、十九の娘は「命終」の日を迎えたのである。
* ところで、この数日自作の新聞小説『冬祭り』をはからずも読み返していて、改めて、おどろいた。
熟読してこられた読者は、ドンな作者よりとうに早く気づいてられたかも知れないが、さ、それが「偶然の奇遇」とみるか、「意識された契合」とみるか、「不思議な」と云っておこう、不思議な叙事・展開に遭遇して、やす香の死が母の誕生日と同じだったことに、えもいわれず、ぞぞっとくる愕きにとらわれた。
何なんだ、これは。この「はからい」の感触は。
* 我々の娘は、当時の秦朝日子は、二十余年前、父と親しい神学者・野呂芳男氏を訪ねた際に、「わたくし、『冬祭り』の「加賀法子」なんです」と興奮して告げていたらしい。野呂さんの電話で聴いた妻から間接に伝聞しただけだが、あの娘の、例のフワフワした興奮・昂揚の一例のようにしか感じなくて、聞き捨てに、一度もその後顧みたことがなかった。
たまたま今度また『冬祭り』を読んでみようと読み直していって、そんな大昔の「聞き捨て」をふと思い出し、妻に確かめると、そんなことを確かに野呂さんが笑いながら話されていたわよと云う。
『冬祭り』を読んで欲しいのでいま詳しくは書かないが、「加賀法子」とは、ソ連作家同盟との交流目的で、「訪ソ」の旅に、他の作家たちと出かけた作中人物「私」に、横浜埠頭のナホトカ号上から、つかずはなれずモスクワまで絡みついてくる若い女性だった。「私」は、モスクワに「逢いたい人」を待たせていたが、その人妻である「冬子」は、かつて此の世に「二日半」だけ生きた「娘」を、死なせていた。「法子」はどうやら、その二日半だけ生きて死んだ娘、じつは「私」の娘、であるのかもしれないのだった。むろんこれは「、秦文学・畢生の恋物語」と本の帯に書かれていた、大きな構想で動いた全然のフィクション小説であった。
* わたしたちの娘・朝日子は、じつに、この父に絡みつく「娘・加賀法子」と自分とを、幻想だか妄想だかで「一体化」していたらしいというのが、『冬祭り』を「名作」と新聞書評していた野呂牧師からの情報、かつて他に聞いたことのない、「唯一の」情報だった。「冬子と法子」とは、『清経入水』の「紀子と和子母子」の後身であると、批評した野呂さんは書かれている。そしてこの現世の「私」を愛してまといつく二代の不思議の母子は、ともにとうに「ほぼ同日に死んでいた」のである。
* さて、もう一度、念のため、ハッキリしておく。
* 「朝日子」という、わたしたちの娘は、もう思い出の中にしか、いなくなった。今後は「夕日子」などという気味の悪いマーキングはやめ、今日(七月十三日の法廷。正式に改名の通告があった。)より以前の「わたしたちの娘」を語るときは、生まれながらわたしたちが命名した「朝日子」と呼んで懐かしもう。あの法廷の日より以後、もう、わたしたちに「朝日子」という「娘はいない」。
この「私語」の中でも、今日より以前の気味のわるい「夕日子」というマーキングは、凡て親の名付けた元の美しい名の「朝日子」に戻す。
本人が決意してもう変名・改名したと裁判所の法廷で正式に証言しているのだから、「朝日子」はもはや原告★★★の妻の名ではなくなった。「秦朝日子」の思い出は「秦の親の所有」であり、「★★朝日子」もすでに「存在しない」。「朝日子」という名は、秦の家族の所有に確実に帰している。「朝日子」は自分だなどとは言わせない。
かくも、わたしの思いは一面、感傷的である。だいじなものを無残に足蹴にされた怒りもある。改名は「親不孝」と一喝した理由である。新刊の、『私 随筆で書いた私小説』に一九七七年「家庭画報」十月号に書いた「ぼくの子育て」が出ている。どんな思いで「朝日子」と娘に名付けたかを書いている。
長い一文だが、ほんの書き出しを再録しておく、昔の娘よ、読むがいい。
☆ ぼくの子育て 冒頭の一部
ゆらゆらと朝日子あかくひむがしの海に生れてゐたりけるかも
たたなづく青山の秀(ほ)に朝日子の美(うづ)のひかりはさしそめにけり
こんな歌を斎藤茂吉の自選歌集『朝の螢』に見つけた昔、いつの日か生れるわが子の名前は「朝日子」と決めた。歌集は昭和二十一年十一月に出ている弐拾円の新装版だが、私が古本屋で参拾円で買ったのは二十七年暮だった。茂吉に教えられたままを、「笹はらに露散りはてず朝日子のななめにとどく渓に来にけり」とうたった自作の一首が、翌二十八年二月、高校二年生三学期の歌稿に残っている。
茂吉は「朝日子」という文字とことばを愛したらしく、『赤光』『あらたま』の二歌集からえらんだ『朝の螢』三百五十余首のうち四首に用いており、モーニング・サン・シャインか、美しいことばがあるものだと感じ入ったのを私は忘れない。
その娘・朝日子が、いま高校二年生の夏休みを待っている。男女いずれにもいいと思っていたが、女の子の名前になってみると親はその方がよかったと思うし、当人も気に入っているらしい。ただし呼びようで「アサヒコ」君に聞こえてしまう咎は私が負うしかない。
梅さきぬ
高き梢に
梅さきぬ
朝日子に
花三四
的皪(てきれき)と
蘂(しべ)は黄に
香はほのか
とうたい出され、さらにながくつづいてまた、
的皪と
蘂は黄に
花三四
香はほのか
梅さきぬ
朝日子に
とうたいおさめた三好達治の詩「梅さきぬ」と出逢ったのは、娘がもう幼稚園の頃だった。弟の「建日子」はまだ生れていなかった。
姉の場合より、もっと弟の命名で親は、というよりもっぱら父親の私は、重い咎を負うことになる。日本の土俗タケルの、勇気に満ちて熱くたけった活力をと願って名づけた建日子が、誕生の早々、産院の書類に「次女」と記入され、大慌てで取り消してもらわねばならなかった。まことに申し訳ないが、それでも私は朝日子にまさる名前と思っているし、当人もいやでないらしいのは何よりだ。.
親と子の間に権利や義務が、有るという人も無いという人も居よう。私はこの、生れ来たわが子に名前を付けてやる、少くもそれだけが親から子への権利であり義務だと思っている。親はわが子への最初の愛情をそこに添える。籠める。
人の名前と限らず、私は久しく生き抜いて来た、すべて物の名前、というものに関心をもつ。それを、その物を、その事を、その土地や山や川や木や草を、人が何と名づけ、呼び馴れて来たか、そこに生きた語感を注意深く受けとることから、私は私の感受性をつとめて大事に育ててきた。
語感とは、ことばのただ意味のことではない。ことばの生命感でなければならない。物や事の名前は、多くの人がそこに見出しえたそれぞれの生命感をながの歳月かけて秘蔵し、豊かな秘密や魅力を表現しえていることを、私は信じている。姓名判断のようないたずらに観念的な思弁は私の好まないところだが、その時代、その土地、そこで生きて暮した人々に一つ一つの物や事がどう名づけられ呼ばれていたかを知ることで、実に多くのことが正しく判ってくる。そう思っている。なぜなら人は自分の使うことばにこそ具体的な愛を籠め批評を籠め、願望も理想も、また忌避の念も縮めていたはずと思うからだ。ことばは「心の苗」と思うからだ。
そんなわけで私は、他の何をおいても、自分の娘に親が「朝日子」と命名した一切を心して受けとめて欲しい。また同じことを「建日子」にも望んでいる。というより、それだけを望めば十分なのだ。
* さ、すこし、心身をやすめたい。
2010 7・17 106
* ま、老子が孔子に声を掛けられたモノと想って聴けばよいが。
老子が井戸から水を汲んではよたよたと運んでいるのを見かねて、孔子ははねつるべを使えばラクに水が汲めますよと親切に教えた。老子は知っているが、機(械)を使えば(=機事ある者は)便利を覚えてしまい(=必ず機心あり)、しまい機(械)に追い使われるようになる、と、顧みなかった。
耳の痛いことだ、機械の便利故に人間の精神が摩滅するのではどんなにかツマラナイか。そのツマラナイことを日々に今日の機械化人間はやっている。見かけはわたしとて変わりないが、「機事ある者は必ず機心あり」と身に痛く覚悟して機械を便利に利用している。機械に利用されまいと用心を怠ったことはない。
なにが危ないと云って「便利」という言葉ほど人を躓かせるモノは少ない。漱石が云いかつ戒めた「開化」とは便利の追求であった。
* こういうことは、良さそうでに見えて危なくて有害だという人間の欲に出た旗印の言葉が、いろいろ在る。「便利」「開化」「開発」などそうだ。よく云う「心」「分別」もじつはそれに部類される。「機心」とはちと物言いが難しいが、この時代、ことによく己を戒めたがいい。
* 今少し「機」の一字に触れて付け加える、この字を例えば機会、好機などの熟語からタイミングやタイムリーの意味にとらえる人は多い。また、しかし、この字は、「からくり」「はかりごと」「策」の意味にも人は往々用いている。わたしはこれに目をとめる。「たばかり」や「からくり」や「策謀」に好んでこころを用いる人には、いつも「機心」がある。触れて付き合うには危ない。わたしは人間のもちいざるを得ないウソを否認しないし、ときにウソに含まれた真情を大切とも思う。まして「策」は世事において必要であり政治の政策宜しきはことに大切であるが、概して策士は好きでない。必要な「策」には「誠」のうらづけが大切だ。
2010 7・18 106
* おやじ殿の関連資料があまりに厖大量で立ちすくむ。資料の方は時間をかけ先ず整頓し分類した方がいい、その必要のあまり無い、少ないモチーフから接近したい。
* しかし併行して、手がけて久しい珍しい作へも根気よく手を出し続けたい。半ばまで読み直して、自分の読みたいと思う小説が誘惑的にかなりよく進行しているのを確かめた。ここまで来ているなら、なまじニゲを途中でうたないで、厚かましいほど凝ってゆったり彫り上げたい。欲が出る。枚数も恥ずかしからぬところまで出来ている。
2010 7・19 106
* 仙厓義梵の最期の語が「死にたうない」であったとは、逸話に類して謂われ、よく知られていて、大勢をまさしく閉口させてきた、悟道の人の言うことかと。
足りぬ修業をもっと続けたかったのだろうという理解を示す人もある、が、それでは仙厓和尚、悟ってなかったという話になる。
禅人の修行は厳しいという常識かも知れないが、禅に修業や苦行は無い、ありのままを受け容れて我心を放下するだけだとも聴く。観念や哲学に陥らず、お茶をのみ、朝飯を食い、「いま・ここ」をあるがままに無心無着に生きればよく、泣いても笑っても悲しもうとも怒ろうとも、と。「死にたうない」は師の境涯に、戯画に戯歌に戯行にいかにもふさわしいのではないか。
2010 7・20 106
* 朝から昨日手を添えた作のあとをゆっくり追いかける。楽しんで書き進む作にしたい。
2010 7・20 106
* 午後も小説の先を追う。題は昔からもう決まっているのだが、此処にはまだ秘密、書けない。想像に想像を重ねたいアタマのためには、ほんとは旅に出られるといいのだが。電車でもいい。揺れるのがいい。
* もう一つ、『方神』と題のついた仕掛けの小説が、草稿だけだと、未整理のノートも込みで三百枚超えるほど書き込まれ、まだお蔵に鍵を掛けて仕舞われてある。題の意味は作者すらなかば忘れて、進行もやや混雑しているが、何を書いているのかは、分かっている。
* 逡巡の必要はない、『父の敗戦(仮題)』を書き起こし始めた。
2010 7・20 106
* 「人々は死んでしまうのがいやなのではない。死ぬのがいやなのだ」とはモンテーニュの曰く。
その通りにわたしは小さい頃から、今も、思っている。「死・死者・死骸」などの名詞を語っても死のほんとうに触れること乏しく、観念論にはしりやすい。「死ぬ」という動詞一つが人々の関心の芯にある。
わたしはまだ「死ぬ」ことを語れない。「死なれて死なせて」と他者の「死ぬ」に触れて語ってきただけだ。可愛かった孫やす香の「かくのごとき、死」を語って挽歌を奏でたけれど、自分の「死ぬ」を語ろうとはしていない。語っても仕方ない気がしている。
* 朝、光明皇后と新薬師寺復元とをからめた天平の偉容と動乱をテレビでかいま見せてもらった。まさにわたしの『みごもりの湖』の時代だ。大概の自作は読み直しているのに、この記念作である長編はほとんど読み直した覚えがない。確かめなくても書けているという気概にあの作は護られている。
『秘色(ひそく)』では大化の改新から壬申の乱のころを書いた。
『蘇我殿幻想』では同じくその乱後までを、いや昭和までを書いた。いずれも歴史を現代と同居させて書いた。それがわたししの作風だった。
こんどの『私 随筆で書いた私小説』で初めて「母」を書いたのではなかった。『秘色』でも『みごもりの湖』でもすでに母は書いていた。亡き兄恒彦は、わたしが『廬山』で父と母とをともに書いたと読んでいた。老残の父は、『廬山』の載った「展望」を260円支払って買っていた。父は大きな出逢いを体験した。不如意だった父の生涯でもそれは、まこと、よろこばしい出逢いだった。その父をわたしは書こうとしている。
2010 7・21 106
* 六時半に目が覚め、もう少し横になっていようとしたが雑念に騒がされるのもイヤで、まくらもとの電気で、『暗夜行路』後編のつづきを追っていった。八節から九節を得も謂われぬクリアな文章の魅力に導かれ、澄んだ朝日を身に浴びるように楽しんだ。心はずむ謙作の結婚が人の尽力や厚意もあってもう実ろうとしている。一方で怪しげな昔の朋輩の口車に乗るようにして海外へ出稼ぎに行こうというお栄を京都にいて見送ろうという謙作は、数日のヒマに伊勢や亀山へ旅に出る。旅の表現の的確で美事なこと、寸分の揺れも歪みもなく澄んだ水にモノの姿を映したように書かれて行く。
* ああと思わず声の出たのは亀山の城跡で、この地で生まれた自分の生母──祖父との間に謙作を生んでしまった生母──のことを人に尋ねながら、あまりに関連した何もかもを知らずにきた自身に惘れ、謙作は、だが、こう述懐していた。
「然しそれでいいのだ。その方がいいのだ。総ては自分から始まる。俺が先祖だ」と。
* ああ、忘れていたが、わたしも幾十百度「それ」を自身に言い聞かせてきただろう。そしてそれは、間違いなく時任謙作のこの声を、この言葉を聴いていたのだ。
わたしは高校生であった。それがあってわたしは大学に入る直前の教授面接に答え、時任謙作の『暗夜行路』を、ネフリュードフの『復活』と並べて二冊挙げ、「男」が主人公だからですと言った。
忘れていただけで、読み返してゆくにつれ想像以上にわたしが『暗夜行路』の謙作に自身のかなしみや頼りなさをうち重ね重ね励まされていたことに思い当たる。びっくりする。
「それでいいのだ。その方がいいのだ。総ては自分から始まる。俺が先祖だ。」
なんという励ましであったことか。
2010 7・24 106
* あまりに迂闊な読み落としをしていたと、三里も五里もさがつて気が付くという情け無いことが、ある。今日、それに気が付いた。十年前には気が付くのはムリであったとして、せめて去年には、父の遺品をしらべ遺文に読み耽っていたときは気が付いてよかった。
2010 7・25 106
* ★★★の平成三年の突如「暴走」、つまり舅姑への罵詈罵倒の手紙を連発してきた、あれより以前から、★★夫妻に対し私ないし秦家から、とめどない暴言や攻撃が★★★に対し続いていた、だから「暴発」したのであると★★★は先日の法廷証人席で証言し、娘も同調していた。
それが全くの虚偽である抗争上の反論・物証として、先立つ昭和六十三年から平成元年・二年へかけての★★らのパリ留学・パリ住まいの間に、彼らが秦家に寄越した数十通の手紙を、すでにリストにして挙げてあるが、いま、「通信の全文を一切原文のまま証拠として電子化」している。むろん「原物の写真」も用意できる。
文面に微塵の不和も軋轢も無い。
すべて親愛にみち平静で穏和で家庭的で、パリでの日々を親しく親や弟に伝えて幸福感にさえ満たされ、私たちにぜひパリへ来るようにと繰り返し勧めてきているし、金銭や物品の願いや謝辞は、★★夫妻から何度も何度も届いている。我々が付き合いの長い歯医者の紹介も★★★は頼んできて、一時帰国し治療を受けたらしい。
この厖大な手紙やハガキの往来と文面を読む人の、百万人有れば百万人ともが、先日の原告法廷証言を虚偽として退けるだろう。抗争上の反論行為として、つとにわたしは「虐待」などという訴えを跳ね返す写真などをホームページに掲載しているが、少なくもあのバカげた「暴発」の直前まで、秦の両親から、父から、★★夫妻が攻撃の傷手に喘いで泣いていたなどと言うのが、どんなに虚偽そのものであるかを、適切に証明するであろう。
妻もわたしもつくづく読み返していて、「ああこの時代に戻りたい」と嘆息するほど、親しく★★夫妻は秦家に頼り、秦家もそれに応えて平和そのものであった。なによりも★★★本人が私に対し、ごく平静に、帰国後も相変わることなくご厚誼を願い上げますと懇請している。
証言にウソがあれば処罰されますと裁判長は釘を刺されていたが、★★の虚偽証言はどうなるのか。
* ことに顕著なのは、娘が父の文筆生活の久しくなったのを祝ってきたり、新聞連載小説のため是非欲しい資料としてシシリーの大きな写真集を、二冊も手に入れて送ってくれ、必要なら写真のフランス語解説を翻訳しますよとも言ってきている。
さらには、わたしのたぶん「春琴自害」という批評で、他の論者の名前をあげて論難しているのは、行き過ぎではないか、相手の名前は伏せておいていいと思うなどと意見も言ってきている。
但し、この娘の意見は正しくない。
論争的な批評の場合は、批評している相手の論者の名を伏せたまま論難するのはそれこそ中傷に当たり、論議が発展的に進むのを妨げてしまう。論争に興味や関心を持つ他の論者・読者達は、誰と誰とが、どのような論文と論旨とで衝突しているのかを正しく知れればこそ、双方を読み取って自身の意見をまた積み上げられる。近代文学史中、論争史の範囲も事例も夥しいが、激しければ激しい論争であればこそ、アイマイに中傷に類する半端な議論などしてはならなかった。「異邦人論争」「風俗小説論」「歴史小説論争」その他の文学論や、また梅原猛氏の斎藤茂吉や金田一京助を極度に激しく罵倒に近いまで攻撃したなど、すべて例にとるまでもなく、議論は率直にかつ公明で、ま、紳士的でなければならなかった。相手の名を伏せておいてその所説を論難するなど、かえつてそのほうが卑劣になる。わたしは、そういうことはしない。論難される場合も、当然自分の論攷を真っ向批評ないし非難されてそれでよいのである。
2010 7・25 106
ナニを気に懸け、日々過ごしているか。
一つ、気力。一つ、楽しむ。一つ、気儘で、習慣に泥(なず)まないこと。一つ、創り出す工夫。
おしまいのを一等先に置きたいが、自身を窮屈にしないために、シンガリで宜しいと。
2010 7・26 106
* むかし、本郷の或る昼飯屋さんの、昼飯時間の過ぎた明き店を店主姉妹の好意で借り、社の勤務時間中に小説を書いていた。そういうことをしていても仕事に穴をあけたことはないし、編集者は二十四時間勤務と長谷川編集長に言われていた、それは時間は自分で宰領せよという含意でもあった。そのお店は夜はバーになり、しかしわたしは一度も酒の客にはならなかった。店の姉妹はわたしが太宰賞をもらう以前から小説を書いているのを知っていた。そして受賞すると、お祝いに、お店に掛かっていた「問一問」という扁額を呉れた。いまも大事にしている。
* 「なによりも大事な一問」を問いなさい。三字はそう告げていた。わたしはいつも三字を黙って見上げていた。正しく問うのは難しいが優れた問いを人は問わねばならぬ。「問いの悪い者には答えるな」と荀子は教えている。厳しい。「とっぷ」の優しい店主姉妹は喜んでその三字の額を贈ってくれた。あのころのわたしは、文字通り寸暇もなかった。せっかく受賞しても仕事をとぎらせたら落ち零れる。編集課長という中間管理職は月刊誌の定日発行を五冊も担当し、企画した単行本の取材進行分をわたしは百二、三十冊分も抱えていた。依頼原稿の書き後れをそのセイにすることは出来なかったし、新潮社の「新鋭書き下ろし」作品や、テレビやラジオの出演依頼もあった。おまけにわが社は本郷台に名高い熾烈な労使闘争を繰り返す会社で、管理職は上から下から追い使われつるし上げられた。
あの頃、「なによりも大事な一問」は何であったろう、わたしにとって。
文学。
だがそれ以上に家庭であり家族であった。妻が、朝日子や建日子がいてくれる、その支えと励みとが、文学へわたしを没頭させた。家族の前で恥ずかしい安い仕事は出来ないと思っていた。さもなければ、あんなに仕事に打ち込めなかったろう、創作そして批評。読み物の書き手ではなかったから、沢山は売れないから、贅沢な暮らしは出来なかった、させもしなかった。まさかそれが虐待かい。
* 朝日子。きみは、大事な大事な問いを置き去りにして来なかったか。父さんは、受賞からわずか十年たらずで六十数冊も本を出していた。覚えているだろう、来客もひっきりなし、京都の老人達は三人とも九十へ老いの坂に喘いでいた、やがては三人とも引き取らねばならなかった、保谷のこの狭い家にだよ。
父さんも母さんもあれらの日々、どんなに忙しく疲れに疲れながらも、誇りをもって頑張っていたよ、きみを虐待などしているどんなヒマがあったかい、あのころほど父さんは勉強していたこと、なかった。そういう日々が嬉しかった。それでも、ずいぶん姉とも弟とも賑やかな楽しい時も一緒に過ごしたではないの。
* 問一問。いまもわたしは三字を見つめる。そして何も問わないでいい時を待っている。
* 今しもバグワンを読んでいたが、この師に質問してくる何人もが、これは「友人(誰それ)の代わりに聞くのですが」と言ってくると。このウソはすぐ分かる。問題に直面していないなによりの証拠だ。都合の良い答えを期待して自分の問いを棚上げしたフリをしている。
「自分の問いに直面するがいい」とバグワンは言う。「もし自分の質問の動機を見つけることが出来たら、百の九十九の質問はあっさり消えてしまう。問いの中に深く入って行き、根源に到ること、それが答えを見出すことだ」と。わたしは想う、「そうなれば答えは要らなくなるだろう」と。
バグワンに聴こう、「自分で答えを得られない一つの問い‥‥、それを尋ね問うことはとても重要だ、それは貴重な橋になる」と。「自分の問いの無意識の根源にまで入って行きなさい」と。
2010 7・30 106
* 父の生涯を追うていて、次から次へ意外な事実に遭遇する。驚愕。事実を、あっさり此処に書いてしまえない事にも驚きは深まる。いったい、どうなっているのだろう。どうなっていようと、父は「書いてくれ」と呻いているようだ。
* 出掛ける日は、わたしは早くにバタバタ家を出ない。二三時間で出来るだけの「仕事」を一つ二つ三つぐらいしておいて、心おきなく出掛ける。
父のことを書いて前へ進め、スキャン原稿を二三校正し、「mixi」の日記を新たに送り出し。
日照りは相当であったが、風が吹いて意外にしのぎやすく。例の気になる帽子が頭上で日ざしを防いでくれる。かなり気になる帽子だが役に立つ。
2010 8・3 107
* 建日子に「つか先生」があったように、文学を志したときわたしのまえに潤一郎や直哉やたくさんの大きな文学者が在ったことを、今も心から幸運であったと感謝している。わたしは、そういう優れた先達を心より親しく大切に思ってきた。心がけといえば、それだけだ。その心がけが「ペン電子文藝館」を産んだ。
つまらないモノやヒトもあった。それは、それだ、無いモノと思ってきた。
2010 8・7 207
* 創作者の生没年、また出生地は、作の理解にたいへん大きな意義をもっている。もとより作の「初出」データもそうである。
「e-文藝館=湖(umi)」や「ペン電子文藝館」でわたしは出稿・寄稿の人達にかなりうるさくその明記を請求した。女性の中には生年を明記し公開されるのはイヤだと云う人がいて、創作者にしてはヘンな神経だとわたしは顔を顰めた。生年月日までだと暗証番号等に累が及ぶとは云えるだろう、だが、かりにも創作で門戸を張っていると自称しながら、珍な拘泥だと、いまもわたしは意見を替えていない。創作者間の長幼が影響や感化のあとをみせることもある。同時代の長幼は意外にいろんなモノを云っている。
漱石と鴎外と一葉と紅葉と。谷崎、直哉、折口、牧水、茂吉、白秋と。生年順を正しく知ってみると、ハハーンという幾らかの納得が必ず彼らの文学に対して持てる。背景に、時代があるからだ。そしてときどき、微妙な修整が必要になったりする。
左千夫、長塚節、浅井忠、子規を生年順にしかと捉えていないと、ふと間違えることも出来てくる。似たことを樋口一葉と上村松園で語ってみたこともある。
2010 8・9 107
* 父の話を、物語るのは容易でない。例えば「痴人の愛」のナオミとジョウジは起居を倶にしながらのお話だから、お互いにベツタリ話材に事欠かないが、父をわたしは父生涯に三度しか顔を見ていない。三度目は死に顔であった。それで父の生涯を、とまでたとえ云わなくても相当な人生を活写しようとなると、容易でない。なにしろわたしが既に七十五、父を知っていた人はあらかた此の世にないのである。幸い娘や孫達は、わたしからは妹や甥姪たちは、いてくれるが、思い出という聴き取り取材のあいまいさをわたしは好まない。
一度書きかけた原稿を棚上げして、また新たに試み始めた、が、当分こういうことは繰り返さねばならない。こつちの寿命があるかどうかさえ不確かだが、裁判沙汰にくらべれば、これは仕甲斐がある。母にもぶつかり甲斐あるが、父のことはかなり甘く半ば始めから見捨てていたほどだが、どっこい、そうでなかった。決して華々しくはないが、個性から云うとはなから小説の主人公そのもののような紳士だった、敗残の紳士というわたしの「観」は狂っていないけれど、ちょっとわたしの話を聴いただけで息子も、オウと声を放って、早く書いてよ読みたいよと言うほどの内容は持っている。いや、わたしは、どんな方法でアタックしていいのか、当分はおやじ殿と組んずほぐれつ格闘しなくちゃならない。
2010 8・9 107
* それでは本来の仕事コースに戻る。「私語」も、ふだんに戻る。刻一刻老い衰えてゆく自覚は深い。それだからこそ、思うままに思って、書いて、また思いながら思いを淡いモノに澄ませてゆきたい。
* 田中孝介くんの神業で、目の前でたちまちわたしのホームページが出来た日から、おおむね「日録」はホームページの「作家・秦恒平の生活と意見 闇に言い置く私語の刻」に移動し、大学ノートには暮れ正月やよほど気の向いたときだけ少し書いた。それももう殆ど書いていない。細心のノートがどこにあるやらも忘れるほど、パソコン生活は徹底している。
* いま、押し入れで大学ノート時代の日記帳を大量に発見した。全23冊。
第一冊は昭和36年(1961)十一(十二)月初めから始まり、第二十三冊は平成十九年(2007)元旦の記事まで。「平安でありますように。今・此処の推移に自然にゆったりと在り度い。 来る年を迎へに立てば底やみにまぼろしの橋を踏みてあしおと」とある。
それより、四十六年昔の日記の書き出しの一節は、こうだ。このノートには日付が一切無い。一行空きにさまざまに書いている。今の「私語の刻」のそれは一応日付をもっているが、書いて行きようは同じだ。
そしてごく日記風の記録は、原稿依頼や進行状況、受発信、電話、来訪者、滞在者、外出先、会合、旅、美術館や劇場等々、それらはダイアリーの方にほぼ漏れなく記録されてある。仕事の管理はさらに別の進行表を月々に作っていたから、どの作がどう進行して人手に渡ったか、活字になったかも分かる。
で、最初の書き出し、一節だけ挙げれば、こうだ。満二十六歳。朝日子はもう生まれている。もう新宿から、保谷市の社宅に移っていた。
* 書くということは自分を何か呪文でも唱えて金しばりにするようなものだ。書きたい と思ってきたことが心の中に重なりあって もうその幾分かはくされかけようとさえするほど醗酵していても、筆をとるとその遅さに投げ出してしまいたくなる。ノヴァーリスの 青い花 の中で、真実の文字を書かない書記の文字が何かの神秘的な液中に浸すと いっぺんに消えてしまうさまを読んだが、そんな液体は我とわが心の中にもすこしはあるものらししい。
何も 小説を書こうとか詩を書こうというのではない。れっきとした研究論文にちかいものを意図していても 追究の仕方が弱いのか、書いた文章への趣味的な好悪感がつよいためか すぐに嫌気がさして破いてしまう。ところが、こんなふうに、思いのままに筆を流しているのは苦にならない。いつも いつも こんなことをして私の筆はだらしなくなってしまうのだ。
だが、ゆらゆらと書き流したものは、心が遊んでいるためか後々までも比較的リズムをのこしている。たまさかとり出してみてもそうは死滅していないことが多い。 以下略 昭和36年(1961)十一(十二)月初め
* 小説を書き出したのは、この翌年の七月末だった。すでに書きたい書きたいという気でいたらしい。翌年になると日録が「創作ノート」を兼ねてくる。創作ノートというものが、別に七、八冊保存して在る。歴史的な内容の作には創作ノートが有効だった。だが手書きのノートというのは克明な利点もあるが、顧みての検索や活用がしにくい。年表などはノートがいい。
* ちなみに日記で言うと、大学ノート以前に、もっと小型のノートで大学時代から結婚ごろの日記が少なくも十数冊残っている。いわゆる手帳は、医学書院入社つまり結婚と同時の一冊から今日に至る半世紀以上の全部が残っている。受けた全郵便物も同様保管してある。これを整理して不要なものを処分しないとたいへんな量になっている。知名人や大事な知人・読者からのそれらが埋もれている。いま必要なのは兄恒彦や姉千代らからの親族の手紙を見つけ出したい。
こういう全てに拠ってわたしの詳細な自筆年譜は可能であった。
2010 8・17 107
* 世界がどうあるか、が不思議なのではない、と、二十世紀オーストリアの哲学者ヴィトゲンシュタインは言った、「世界がある、ということが不思議なのだ」と。
彼は古代ギリシャから、デカルト、カント、ヘーゲルといった哲学巨人の思索をすべて否定した。「間違っているのではない。無意味なのだ」と。森本哲郎さんに教わるより以前から、ヴィトゲンュタインのこの小気味よい全否定を知っていて、眼から鱗を落とした。人が生きる日々のために哲学は何の役にも立たず、人をまどわし続ける。生死の大事について何一つ教えてくれない。無意味なのだ。バグワンは、それをよく知ってわたしを力づけてくれる。哲学の傍に立っても安心はまるまる得られない。
* もう一度二階へ来たのは、続きのバグワンをもう少し書き写してみたかったから。訳者さん、めるくまーる社さん、聴(ゆる)して。
☆ バグワンに聴く
「意識」は、最後には「死」を意識するようになる。もし意識が最後に死を意識するようになると、ひとつの恐怖が(あなたの心に)湧き上がってくる。その恐怖は、あなたの中に絶え間ない「逃避」をつくり出す。そうするとあなたは「生」から逃げ出すことになる。どこであれそこに「生」があると、あなたは逃げ出してしまう。
なぜならば、どこであれ「生」があるところには、「死」のヒント、一瞥、がやって来るからだ。
あまりにも死を恐れている人たちというのは、けっして「人間」に「恋」をしない。彼らは「物」と恋に落ちる。物というのはけっして死なない。それは一度として生きてもいなかったからだ。
物ならいつまでもいつまでも「持って」いられる。しかも、そればかりでなく、それらは交換可能だ。もし一台の車が駄目になっても、それはきっかり同じつくりの別な車で埋め合わせられる。しかし「人間」は埋め合わせられない。
もしあなたの奥さんが死んでしまったら、彼女は永久に死んでしまうのだ。別の奥さんをもらうことはできる。が、ほかのどんな女の人にも、彼女を埋め合わせることなどできるものじゃない。良きにつけ悪しきにつけ、ほかのどんな女の人も同じ女性ではあり得ない。
もしあなたの子供が死んでしまったら、養子をもらうことはできる。が、どんなもらい子でも、自分自身の子供と持つことのできた、その同質の関係は持てないだろう。その傷は残る。それは癒やされ得ない。
あまりにも死を恐れる人たちというのは、「生」をも恐れるようになる。そうして彼らは「物」を貯め込む。大きな宮殿、大きな車、何百万ドル、ルピー(インドの通貨)、あれやこれや、不死のものごと……。ルピーというのは薔薇よりずっと不死だ。彼らは薔薇などお構いなしで、ルピーばかりを貯め込みつづける。
ルピーはけっして死なない。それはほとんど不滅だと言ってもいい。しかし、薔薇となると……。朝、それは生きていたのに、夜までにはもうおしまいだ。彼らは薔薇を怖がるようになる。彼らはそれを見ようとしない。あるいは、ときとしてもし(薔薇がみたい)その欲望が起こってくると、彼らはプラスチックの造花を買い込む。造花ならいい。造花ならあなたは安心できる。それは不滅性という感覚(錯覚)を与えてくれるからだ。造花は、いつまでもいつまでもいつまでもそこに咲いていられる。
本物の薔薇……。朝、それはなんとも生き生きしている。夜までに、それは終わりだ。花びらは地面に落ちている。それはその同じ源に戻っている。大地からそれはやって来て、しばらくの間花開き、そして、その香りを存在全体に送り出す。そうして使命が果たされ、メッセージが渡されると、それは静かにふたたび大地に戻り、一滴の涙もなく、何のあがきもなく消え失せてゆく。
花から花びらが大地に落ちてゆくのを見たことがあるだろうか? どんなに美しく、優雅に落ちることか……。何の固執もない。ただの一瞬といえどもしがみつこうとなんかしない。一陣の風が吹いただけで、花全体が大地に落ち、源に帰ってゆく。
「死」を恐れる人間は、「生」をも恐れるだろう。「愛」をも恐れるだろう。なぜならば、「愛」とはひとつの花なのだから……。愛はルピーじゃない。生を恐れる人間は、「結婚」することはあるかもしれない。が、けっして「恋」には落ちまい。
結婚というのはルピーのようなものだ。恋はバラの花のようなものだ。それはそこにあるかもしれない。それはそこにないかもしれない。しかし、あなたはそれについて確信は持てない。それは何ひとつ法的な不滅性など持ってはいない。結婚というのは何かしがみつくことのできる(抱き柱のような)ものだ。それには証明書がついている。裁判所が後に控えている。その背後には警察や社長の圧力がかかつている。そして、もし何かがおかしくなったりすれば、彼らが全員駆けつけて来るに違いない。
ところが愛に関しては……。
バラにももちろん力はある。しかし、バラは警官じゃない。それは社長さんじゃない。パラの花には身を守ることなどできないのだ。
愛は・来てはまた去ってゆく。結婚はただただ来るだけだ。それは死んだ現象だ。それはひとつの制度にすぎない。
人々が「制度」の中で生きたがるというのはまったく信じ難いことだ。恐れて、死を恐れて、彼らはあらゆるところから「死の可能性」を一切締め出してしまっている。彼らは自分たちのまわりに、何もかも「そのまま続いて」ゆくのだという「ひとつの幻想」をつくり出している。何もかも「安全で、安定」している。この安全性の陰に隠れて、彼らは「ある種の安心感」を抱く。
だが、それは馬鹿げている。愚かしい。何も彼らを救えるものじゃない。死がやって来て、彼らの扉を叩けば、彼らは(そのまま)死んでしまうのだ。
「意識」というのは、二つの展望(ヴィジョン)を持つことができる。ひとつは「生を恐れる」こと。なぜならば、生を通じて死がやって来るからだ。もうひとつは、「死をもまた愛しはじめる」くらいに、「深く生を愛する」ことだ。なぜならば、「死は生の内奥無比なる核心」なのだから……。
最初の姿勢は「考える」(=思索する)ことから出て来る。
二番目の姿勢は「瞑想」から出て来る。
最初の姿勢は「過剰な思考」(=過剰な分別=マインドという騒がしい心)から来る。
二番目の姿勢は無思考のマインド、〈無心=ノーマインド〉から来る。
意識は、思考にまでおとしめられてしまうこともできる。反対に、思考はふたたび意識へと溶かし去られることもできる。
ちょっと厳冬の川を考えてごらん。氷が張りはじめて、水の一部分はいまや凍りついている。そうして、もっとひどい寒さがやって来て気温が零度を割ると、川全体が凍りついてしまう。もうそこには何の動きもない。何の流れもない。
意識というのはひとつの川、ひとつの流れだ。そこに「思考」=心」がはいり込めばはいり込むほど、その流れは凍ってしまう。もしそこに、あまりにもたくさんの思考(=分別)が、あまりにもたくさんの〃思考障害〃(=動揺、迷惑、邪推、疑心暗鬼)があったら、そこにはどんな「流れ」(静かな心=無心・虚心)の可能性もあり得ない。そうなったら、その「川」は完全に凍りついている。あなたは、もう死ん(だも同然)でいるのだ。
* ある大学教授にバグワンの話をすこししてみたとき、バグワンは全否定ではないかと案じられた。たちどころにわたしは結論を持ち出そうとは想わない。
「なぜ人は生きるのか」とか「生きている意味は何か」とかいう問いに対し、過去に地球上にあらわれた覚者は、その手の質問に対してみな「沈黙」で応えたとバグワンは云う。そもそもそのような問いにこそ意味はないか、誰にも答えられないと云うより答えるべきではないとバグワンはそこまで云う。そんなことで分別したり錯乱したりするのは無意味だと。今・此処に生きていることを大切に、そして大切な大切なことがある、それに気付くのだ、目覚めて知るのだと云う。
死を敵視してのたうちまわるのでなく、死を友として生を慈しみ生きよと。
そういうバグワンをわたしは全否定の人とは想いにくい。何が大事か。バグワンはそれを語り続けている。目覚めてしまえば大事なものなど、何もない。が、目覚めて気付く迄には何が大事かは在る。大事なのは「目覚めて気付く」ことだ。それまでは如何なる聖典も修業も役に立て得ようがない。だが、はっと目覚め気付いた瞬間から聖典と貴ばれるほどのものが、初めて自分は覚めたんだ、気付いたんだと正確に知らせてくれるとバグワンは云う。
どうすれば目が覚め、どうしたら気付けるのか、その方法論をバグワンは語っているだろうが、わたしはそのような「方法」を覚えたいとは今は想わないのである。ひたすら「聴く」だけでいる。聴いて待っている。
「間に合う」かどうかは知らない。だが、それより大事で大切なことが、少なくも自分に在るとは思っていない。わたしの腹心にいて一度も立ち去らなかった友である「死」に、わたしは静かに手を執らせていたい。現実にあれやこれや熱心にしている、つまり仕事も用事もいろんな営為はみな、だからこそ楽しめるし遊んでしまえる。それだけのもの、と、云うしかないからだ。
2005 1/1 湖・秦 恒平
* この翌年にわたしたちは愛する孫・やす香を肉腫という凶悪なガンに奪われた。
2010 8・18 107
* 新聞のコラムで、あれは遠からぬ昔に文学賞をもらった女性と思うが、ひどいことばで、ひどい論調で喚いていたのは興ざめだった。文学ってその国の国語を磨く役目も持っているんじゃありませんかと妻に言われ、恥ずかしかった。
2010 8・19 107
* 昨日の日録のなかで、乱暴な物言いを嫌いながら「語是心苗」の読みについて、妻には別の解釈があった。わたしは昔から、言葉は心根から生え出る苗である、心根が良くないと言葉もひどい、心根がよいと言葉のいい苗が育つと。妻は、好い言葉を使っていると心根もよくなる、わるい物言いばかりしていると心根は腐ってくると。
自説を捨てがたいが妻の理解にも共感がある。
叔母はどういう気か、この淡々斎の軸をしょっちゅう床の間にかけていた。わたしも、しょっちゅう読んでいた。
2010 8・20 107
* 門さんとは何の関係もなく、創作志望の人にと、ふと頭に浮かんだことなので此処へ書いておくのは、。
「創作者」であると自覚しているときは、同じ道で仕事をしている人に嫉妬して、払いのけたり逃げたりしてはいけないと言うこと。嫉妬心というものは大切な熱源ではあるのだけれども。
森鴎外は夏目漱石が『三四郎』を書いたとき、「技癢」を覚えたと告白している、あげく『青年』を書いている。むずむずするような対抗心、一種の嫉妬心であるが、なあにおれもという気持ちだ。
この「技癢心」をこそビタミンにして、好き嫌い以上に、かちとり、くみとり、まなびとるべきものに素直にとわたしは望む。
同時に、創作者としてあるときは、たとえ一般の知人や見知らぬ人に対しても、たとえば研究者が物質に探求的に向かうときのように冷静に立ち向かい、嫉妬心や好き嫌いを捨ててしまう修練が必要だ。そうでないと創作者・批評家として見るべきモノを見遁し見落とし続けて、頑なな観測に凝り固まってしまう。怖いモノ、苦手なモノ、いやなモノを持って自分に目隠ししていては、モノから力や魅力が引き出せない。これは、茄子が嫌い、蛇がこわいなんぞということを言うているのではない。問題があれば、どんな不快なコト、モノ、ヒトも凝然とブレなく観測できること。
2010 8・21 107
* 打てば響く。好きな言葉だ。
2010 8・21 107
* 原稿を読み直していて、働き盛りの若いときのものは追究がしっかりしていて、ねばりづよい。体力や気力がいかに「書く」行為に大切かがわかる。びっくりするほどだ。
2010 8・30 107
* 阿弥陀仏は何処においでかと問われ、阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」と称念する中におられると曽我量深という人は答えていると読んだ。如来は抽象的な存在でなく「南無阿弥陀仏」と称えるところに在ると。物のように在るのではなく、人間の精神の働き、早く謂えば信ずる心に有無をこえて在るというわけ。「南無阿弥陀仏」と如来の本願を信じて称名する、その「する」が即ち「在る」であり、信じない人には無いと。
* ハテ。見えざるもの、物として手に捉え目に捉えられないものを信ずるのは、迷信か。ここらのところが難所であり、信じられる人も信じられぬ人もいる。有り難い本願ではある、が、信じにくい。信じ切れない。それを信じることで安心のからくりに身をゆだねることは可能だし、易行と想われるが、なにかを捨てての一種の契約を交わす、取引をするのに似てくる。
救われるという意味で生死の安心は得られるけれど、無明長夜の夢さめて覚悟に到る道ではなく、そんな道も捨てる道のようである。
大経も観経も小経もとてもすばらしい、繰り返し繰り返し誦してきてそれは感じてきた。だが、その世界が一種架空の物語大世界であることも分からずにはおれない。ゴータマ・ブッダ釈迦の教えの中にすでにその物語が教えとして構想されていたどうか、それは想いにくい。歿後に相当の歳月を経て、より広大な大乗思想の揺籃から生まれた物語構想であり、むろん「信」「信仰」に最良の捨身をもとめるなら、最も優れた救済仏教であることはわたしもはっきり認めたい、ことに日本の法然に、親鸞に、一遍にいたってよほど独特の高次の信仰仏教として完成された気がはっきりしている。
頼れ、願え、信じるのだと。南無阿弥陀仏でよいのだ、如来の本願、大願はその六字に臨在している、と。
有り難い。
* それでも、だが待てよと佇む。わたしは佇んだまま、バグワンに聴くのである。
2010 9・2 108
* 押尾某が薬剤使用の性行為で女性を死なせて救命行為をも怠ったと裁判されている。
今日の昼テレビで、とにもかくにも間に合う合わぬは別として、何故救急車を呼ばずに放置し、自身は身を隠してしまったか、それをコメンテータは口を揃えて言い、その他も含めて、一般私民の「心証」は百パーセント真っ黒に見受けるけれど、そこでも、同座していた弁護士は、「問われている罪状の有罪証明」はそんな一般の「心証」とは離れて、まるで形式的な細かしい条件が立証できるか出来ないかにかかっているのですと、千里も隔たった話を「当然」のコトとし、口にしていた。弁護士の法律家としての説明と、われわれ一般の実感とは、まるでかすりもししないほど隔たっている。
これだ。
裁判に余儀なく関わらせられていて、私の実感の願いや思いや主張は、ことごとに法律の専門家からは半ば憫笑されねばならなかった。争点と関わりないことを実感こめて幾ら言い立てても、かえって裁判官の「心証」をわるくして、敗訴することもあるなどと聞かされると、所詮「裁判」とはそういうモノかと、失望もし、バカらしくもなり、投げ出したくなる。
なるほど、私たちの曰くはみな「素人考え」なのだろう。その素人考えから観れば百が百有罪かと実感している押尾某の「裁判員」裁判が、さあどういう判決にいたるか、刮目注目したい。
2010 9・13 108
* 會津八一は、新潟の秋艸堂で、ものつくりの根性について口にし、若き日の俳人上村占魚氏に「独自の歩みを」奨めて、おおよそ以下のように戒め、また励ましたという。
「君は三角になって諸々の事に向えるか。生涯を藝に生きるつもりなら覚悟をもたれよ。世人のごとく丸く生きてはものは見えて来ない。いや見えぬことはないが、ガラス玉同然の眼にうつしただけで、似たりよったりのものを観たことにすぎぬ。それでも世の中は結構わたれる。逆にいえば却ってわたり易い。
三角に生きぬいてゆくには人との折衝にしても、物の考え方にしろ、捉え方にしろ二筋三筋縄では出来ぬ。先ず己れとの葛藤からはじまる。いうまでもないが孤独の道行だ。誰一人頼るものもないのだから、いきおい己れを頼るほかはない。勉強だって倍も三倍もやらんことには、好しみを結んだ丸く生きぬく連中に袋叩きに合う。叩かれても叩かれても挫けてはならぬ。挫けるくらいなら、はじめから難行の道をもとめんことだ。」
* 藝や創作に生きる者へ言われているが、人間また人生と無縁に藝や創作の有りうる道はない。「三角」とは、象徴的に謂われている。四角も五角も八角もあろう。圭角をもちそれを生かして生きる道、生きねばならぬ道が謂われている。
わたしの中学の時、担任の先生は、すべてによくやっているが、圭角のある性格ですと母に告げられたと聞いた。モノにも書き残しているが、わたしはその時、真珠のようには生きられぬ、成ろうならダイヤのように輝きたいと心に秘めた。高望みに過ぎないが、圭角をむりに消磨しようとは考えなかった。この人生が所詮成功するとは思わないが、まるいだけの「ガラス玉同然の眼」でものを見て他と無難に付き合いたいとは思わなかった。
大学を出、院をぬけて東京へ来てからのわたしの人生はけっしてまるやかに無難に歩んできていない。孤独の寒さの中で、それでも多く、人を愛してきた。残り少ない晩年をわたしはたぶんますます袋叩きに叩かれて潰れかねないが、わたしの精神はかすり傷ほどの傷手も受けないだろう。なんじゃいと。ハイさよならと。自分で自分を決する道はいつも開かれて在る。新刊の『秦恒平が「文学」を読む』上下巻へ辿り着いたのを喜んでいる。
廂ふむ鳥の足音厄日過ぐ 河野利子
2010 9・17 108
* 仕事に掛かろうかと思いつつ、と、手を出した直哉の日記、明治四十五年から大正元年へかけて一年半分ほど読み耽ってしまった。荷風の日乗はいずれの読者を期して書かれている。潤一郎の「日記」と冠したものは大方発表のための随筆である。
直哉のは快も不快も即座の存問であり述懐であり、「いま・ここ」の感懐である。人に読まれるとは思っていない。
* わたしの此処に書いている「私語」は、荷風のように何れか後年の読者を待ってなどいない。何処かへ作物として出すための文章でもない。直哉のそれに近く、しかし大きく異なるのは「秘した私記」でなく、「闇に言い置く」よう
に書きながら即座に実は世界へ公開された述懐である。ホームページやブログの日記は、昔の文人たちのそれと多きにタチがちがう。わたしは荷風のようには書いていない、潤一郎のようにも書いていない、直哉のように率直に書いている。しかも書いて直に表している。文責は明記されてある。ウソを書けばすぐさま顕れる、そのことに堪えられるように書いている。
* いま、わたしはこの場に即座の述懐・日乗を書き、「mixi」には、七年八年十年前の日記を、やや内容的に取り纏めて公開している。その何年間かの間隔に大きなブレはないようだ。芯棒は徹っていると自身感覚している。
所詮は、すべて「即今の遺書」である。これらに書かれた一行一行が「在りし日々の私の真意」であると、もし機械技術がこの先も安定して伝わるなら伝わるであろう。他方、こんなものも、どんなものも、人間の営為の悉くが壊滅するであろう時機を、かすかにわたしは実感し、幾らか期待すらしていて、なにかしらモノが「残る」「伝わる」などという期待自体「をはかない夢、バカげた」話と嗤ってもいる。要するにあれもこれも愚かしい演戯に過ぎない。
ま、そんな演戯のなかで、例えば直哉の若い日々の日記を読んでいて受け取れるモノを、わたしは小気味よい、シャンとしたモノの一つとして快く愛している。
そこには「男」が生きているし、優れた「人間」が生きている。
男として腐り、人間として見下げ果てたヤツと汚く袖擦り合うて過ごす歳月も、また余儀ない今生であるならば、せめてスカッとした人生の夢を先達・先人と共有していたい。濯麟清流。それだ。 2010 9・19 108
* またいきなり、直哉日記。
☆ 明治四十四年五月二十七日 土 直哉二十八歳
○ 自然の美の方面を段々と深く理解して行くのが藝術の使命である。
○ かうもいへる、藝術心(人間)を以つて、段々自然を美しく見て行くのも使命である。
○ だから、普通の人の見るに止まる自然を再現した所でそれは藝術にはならない。
○ 自然を深く深く理解しなければいけない。
○ 然し人間は段々に自然を忘れて、藝術だけの藝術を作らうとする。
○ その時に自然に帰れと叫ぶ人が出て来る。
○ 自然といふ事を忘れてゐる藝術は、藝術の堕落である。
○ 自分は 華族様の表情のない美人の御姫様の顔が 此堕落した藝術と同じだと思ふ。
* 第二、第三項など、その通り。わたしも、歌と別れ、いよいよ小説を懸命に熱心に手さぐりで書き始めた頃だ、二十八というと。正月でアレ、病気でアレ、一日といえど書き休まないと決めていた。高熱の時は、原稿用紙のつづきに、匍い出ていってただひらがなと句読点とをうつだけでも、昨日につづけ、明日につないだ。太宰賞が向こうからやって来るまでにもう五年はかかった。四十歳まではわき目もふらぬ覚悟をしていた。
2010 9・23 108
* 今日も明日もひどい雨ではないようだ。涼しければ有り難い。と云ううちに、ひどい土砂降り。遠くで雷も。ま、こういう日もある。土砂降りよりも不快なことが人間の世間にはある。
とはいえ不快は半ば気から来る。気を大きく確かにしていれば不快も薄まり流れて行く。洗い流してしまう気力の問題。
「なんじゃい」と。
2010 9・23 108
* ある人と、じつは、メールで話し合っていた。その人は例の池上彰氏の「知識解説」をとりあげたり、めずらしや九鬼隆一の『いきの構造』などを持ち出して、日本人の清潔好きや潔癖を論評していた。
少々ポレミック(論争的)に過ぎるかとも案じながら、こんなふうにわたしは二度にわたり応えていた。
* 清潔好きと潔癖とは、べつの概念でしょうよ。かりに一つに括って理解するとしても、わたしは、辛辣に見ています。それは日本人のどうしようもない排他性と差別感情の、また卑怯や臆病の、裏返しだろうと。文化度や文明度や民度の高さを証明するもののように思われがちですが、ある種の利己主義のあらわれでしょう。表の道を掃いていて、人が見ていなければ、よごれものを他所さんの表へ平気で移しておいたり、ごみを川へ流したり、人が見ていないとどこかへ捨ててきて、わが家や自身だけはチンと綺麗にしお高くとまっている。ああいう感じが「底」にある。穢れの意識なんてものも、タチノわるいエゴイズムとして風俗化するものです。「生きて虜囚の辱めを受けず」も、或る意味臆病なのでしょう。
「『「いき」の構造』にもありました。「いき」であるための、人生に対する一種の「諦め」と「無関心」は、仏教的な無常観に起源を求めることができましょう、と。」なんてのも、明治がせいぜい日本の中世から受け継いで生んだ、かなりひねこびた考えようで、ブッダがそんな「無常感」なんて聞いたら、苦笑するでしょう。
片々とした耳学問や知識でいそいで他を批評するのは危険です、どうしても薄いウケウリになる。わたしが、「解説」ではない世界の歴史、日本の歴史を数万頁も読み、各国の歴史を学び、また哲学の、科学の、美術の、文学の歴史も努めて通読してきたのは、そして多種多様のいろんな本を毎日同時に読むのも、自身の思いをつとめて「相対化」し「肉化」したいから、です。
わたしも池上「解説」をときどき聞いて感心しますが、そこにはトリミングされた知識の整理があるだけです。達人の智慧は感じられない。その「ウケウリ」は時にはむしろ危険です。
* 池上解説はとても巧みに知識の要点を整理して美事です、が、問題は、知識整理の美事さに化かされ浮かされて、聞き手はその場で大感嘆、そして忽ち忘れて行き、肉化できない。「話の泉」という大変な人気番組がありましたが、そこから自分の思想を鍛えた例はまず無かっただろうと思います。断片的に記憶されただけの知識は、無いよりマシという程度で、まさに話の種にすぎない。
いろんな「解説」流行りで物知りは増えるにしても、日本人の民度は、むしろこの「知識切り売り時代」に「劣化一方」のように見受けられます。優れた哲学者も優れた宗教家も一世の師表も登場しない。自分の意見や考えや信念は、おおかたの胸を叩いても出て来ない。だれもが互いに安心して知識や伝聞をウケウリして間に合わせている。インテリと自負している人達に「自分の言葉力」から績み紡いだ決心が生まれず、目に見えないマインドコントロールに踊らされたマネキン役をマスコミの中で引き受けがちになる。それでは緊急有時の強靱なコンセンサスが立ってこない。
ああ、やめたやめた、こんな話は。
* その人からで無いと受け取れないような「言葉力」に触れられるこころよさ、たとえば直哉日記を愛読しているのは、それなんだ。
2010 9・26 108
* 以下の直哉の言葉をわたしは、わたし自身にはむろんであるけれど、だれよりも創作に打ち込んでいる若い知友のもとへも届けたい。この抄記した幾箇条の多くは、これらに出会う以前からわたしのなかでも確信として育まれていた。しかしまた心新たに鞭打たれた箇条もある。有り難いと思う。
☆ 志賀直哉に聴く。 『革文函』 より抄させて頂いた。
腐つた材料で苦心するのは、腐つた魚でうまい料理を作らうとするやうなものだ。
創作に強引は禁物だ。
雑談で済む話は雑談で済ませるがよい。雑談では現せないものがあつて初めてそれは創作になるのだ。雑談で尽せる話をそのまま書いて創作顔をしてゐるのはよくない。
頭ですつかり出来上つた話は書いて面白くない。流れるのではなく、強引でものにするからだ。
一つのきまつた手法で仕事をするのは便利な事だ。一つのきまつた物尺で物をはかるやうなものだ。材料さへあれば幾らでも仕事は出来る。(=そんなものはダメだ。)
そして読者はそれを喜ぶらしい。読むのに苦労が要らないから。(=そんな読者なら要らない。)
然し作者はそれでは面白くない。一つの事を現すのに一つの言葉きりないと云ふやうに、一つの材料に対しては一つの手法、一つの気分、一つの態度を見出す事が必要だ。それを見出すのが容易でない。
書き出しに手こずる事のあるのはその為めである。
作者はどんなに変つたものを書いたつもりでも、真似でないかぎり、決して自分以外には出られない。安心してどんな事でもやつて見るがいい。
創作家の経験は普通、経験が多いと云つて、ほこつてゐる人間のやうな経験の仕方では仕方がない。経験そのものが希有な事だつたと云ふ事もそれだけでは価値がない。経験しかたの深さが問題だ。
「経験それ自身が既に藝術品である」といふやうな文句があるが、そんな事を自分で思つてゐるから、尚藝術品にならないのだと思つた。
材料を征服する気でかからねば駄目だ。
材料をかついで、よろけて居ては仕方がない。
よろけながら悲鳴をあげても、その悲鳴が藝術にはならない。
色々な経験を手軽に恐れずにやる事を勇しいとは考へない。
恐れてゐる位で、経験した時本統に味へるのだ。
2010 9・27 108
* わたしの「父」を書き始めていながら、不快事件の煽りでつい手が止まっているところへ、メールが来た。
☆ 父親のことを書いて。
秦様 彼岸が過ぎてやっと凌ぎやすい気候になりました。
迪子様ともにお差しさわり無くお過ごしでしょうか。
この頃しきりに思う実父の事を知る限り書きました。
今日のHPでの「志賀直哉に聴く」の雑談の話を読ませていただいた後に送りにくいのですが、雑談として聞いてください。
添付いたします。ご批判いただければ幸いです。
急な気温の変動に夏のお疲れが出ませぬように。お二人ともどうぞお身体お大切にお過ごし下さい。 淳
* 心して読ませていただく。
「お父さん」をお書きなさい、なぜぶつかってみないのですかと私から奨めてきた人が、実は他にも。しかし、書けないらしい。わたしの娘は、「孫の死をあしざまに書いた」と父=私を裁判所に訴え、法廷への陳述書の中で、いかに自分の父が作家として、公人として、何の値打ちもない小さなみすぼらしい存在でしかないかを汚い言葉で書きなぐっているが、それだけでは、娘自身のためには何の意味も名分もなさないし、父親の仕事や地位にふうふしてケチをつけているなど、人間的に恥ずかしい真似でしかない。
それよりも、りっぱに「作品ある」文章でその憎い「父」を、存分書き表してみればいい、どんな「運」が舞い込むか知れないのだ。だが横綱白鵬が昨日の優勝インタビューでいみじくも話していたように、幸運は、それだけの「努力」をした人にしか来はしない。身に染み、わたしはそれを体験的に知っている。文学賞も教授や理事の地位も、わたしは自ら求めたことは只の一度も無いのである。自分で求めて努力したのは「作家」になるという、それ一つだけ。
* 娘や婿に噛みつかれている醜い事件は、それでも作家として眺める限り、わたし秦恒平の晩景に、或る特異な生彩を投げかけている。そう自分は見ている。誰にも彼にも与えられる体験でない。場面場面に応じ、その体験に取組み作家としての「実験」をわたしは繰り返し試みた。それが、わたしの、或る意味「存在理由」なのだから。
* かつて若い日のわたしは、幻想味や抒情味とともにブッキツシュな趣味も濃い「清経入水」や「慈子」や「みごもりの湖」などを書き、文壇に招き入れてもらった。それらから見ると、近来のわたしの作は大変化た、趣味や抒情や幻想からあまりに遠のいたと一部の読者を歎かせている。
だが直哉も云っている、「作者はどんなに変つたものを書いたつもりでも、真似でないかぎり、決して自分以外には出られない。安心してどんな事でもやつて見るがいい」と。
「一つのきまつた手法で仕事をするのは便利な事だ。一つのきまつた物尺で物をはかるやうなものだ。材料さへあれば幾らでも仕事は出来る」と。直哉は言外に、吐き出すように「そんなのはダメだ」と云っているのだ。
作家は目前の現象をただ捉えるだけでなく、それを「どう書くか」に生気を与え、工夫をこらさねばならぬ。「方法」への好奇心にちかいほどの執心がなければ、馴染み狎れた安易さで、似たような物ばかりを造り出すことになる。それではへたな画家の個展の退屈さに似てくる。
むかし『誘惑』という本を出し、中に「誘惑」「華厳」「絵巻」「猿」の四編を入れたとき、一見同じ一人の作家の集と思えない「方法」「表現」のちがい、なのに、やはり秦恒平の作風で貫通されていると驚いてくれた人がいた。わたしの願いは、いつも、それだ。
幻想には幻想の方法があり、あらけない人間の葛藤や、かなしい挽歌には、それぞれの方法を見出さねばならず、作家に義務があるとすれば、それへの努力と誠実こそ、それだ。
たぶん、わたしは、大学教授の婿や自治体児童委員の一人という娘からの無法な攻撃に対し、「作家として」の表現を今後も、死ぬまで、やめない。どんな方法が可能か、その創意が、工夫の力が、気力が、涸れないで欲しいと願うばかり。
2010 9・27 108
* 作家で元中央公論編集長だった粕谷一希さん、元新潮の坂本編集長、歴史学の小和田哲男教授、笠間書院編集部の重光徹さんらからもお手紙を戴いた。
「スッキリした文学論をお送り頂き感謝に耐えません こうした時期こそ落着いて 文学、古典を読むべきでしょう 私も残り少ない時間をどう過ごすか 模索中です ご自愛下さい」と粕谷さん。
「『作品がある』とはの御指摘は大いに考えさせられました。私も現役時代から厖大な原稿を読んできましたが、『作品』は実に限られているなと改めて想起致しました。本文はそれぞれ題名が魅力的で、大いに楽しませていただきます。季候異変の今年、呉々も御体調に留意され、一層の御健筆、御発展をお祈り申し上げます」と坂本さん。
「齋藤茂吉『萬軍』についての御文はご発表より十五年経つ今なお一層の重みをもって小生の胸に迫ってまいりました」と重光さん。
「前の方に(子規と浅井忠のこと)南禅寺の塔頭金地院の話が出ていました。私も好きなところです」と小和田さん。
☆ そろそろストーブ maokat
hatakさん
湖の本104巻今日届きました。御礼申し上げます。
帰宅が3時4時の生活をかれこれ一ヶ月、ついに疲れが出て寝込んでおります。2年前にも同じようなことをし、体力を過信して大変な思いをしましたので、今回は自重して大事に至る前に自宅で大人しくしております。
こういう時だけ、まわりの風景がよく目に映り、寝ながら窓越しに見た夕景の、白いビルに当たる夕日のオレンジ色が、とりわけ美しく感じられました。
編集者時代に(今もそうですが)、あんなに沢山の仕事を並行して進められていたのは、なにか秘訣があったのでしょうか?切り替えがうまかったのかなぁ。
私はマルチタスクがどうも苦手で要領が悪いのです。
食事にたとえれば、お向こうを食べてからでないと、椀ものの蓋を取れないし、香の物が出てからでないと、湯桶にいけないのです。この調子ですから、バイキングの皿にローストビーフもエビチリもサンドイッチも同時に載せて食べられる人と較べれば、時間がいくらあっても足りないのはあたりまえなのでしょう。
お向こうや椀ものの代わりに、特許の拒絶理由書、科研費の申請書、学会の開催準備と自分の講演要旨、学位論文の審査、などなどを枕辺に並べて一日を過ごしました。
再来週から国連の会議でインドネシアに出張します。行き帰りの飛行機の中で、今回の『秦恒平が「文学」を読む』か、前々作の『宗遠、茶を語る』を読めたらいいなぁ、と思っています。
暑かった今年ですが、札幌ではそろそろストーブを使い始めています。どうぞお元気でお過ごし下さい。
* 懐かしい、いいメールをありがとう。ハハハ。なんだか批評されちゃったかなあ。
何かしら一つ事にだけ根をつめていると、その仕事が絶対化されてしまいそうで、他のいろいろとの間で感覚的にも質的にも相対化しながら、同時に仕事の能率を挙げないと何も勉強できないほど自分が忙しいのを分かっていた。編集者の時、単行本企画だけでも常時百種かそれ以上を担当(自分で企画しパスしていたのだから当たり前であった。管理職の時はそのほかに月刊誌の定日発行責任を多いときは六冊分も抱えていて、そのほかに「作家・批評家」としての依頼原稿を抱えていたのだから。行儀良く順に茶懐石の馳走にあずかっているワケに行かなかった。
その流れで、わたしの仕事はとても「書く」だけで済まない、いつも「読んで」底荷を蓄えていなければならないのだから、本も一冊読み切ってから次をまた読むなどという真似はとても出来なかった。その鍛錬で、今でも毎日きまって多いときは十七、八冊を併行して読んで少しもこんぐらかることはない。但しまことにこう云うと、お行儀はわるく、雑駁に乱暴に騒々しく感じられる。それはむろん承知していたが、勤めていた頃のわたしの小説もエッセイも、勤務の時間を盗んで、喫茶店の相席であろうと、取材先の先生の教授室前の壁に凭れたままでも書き進めていたのであり、自分の書く文章がそれでも「静か」であるようにと気をつけていた。『畜生塚』も『慈子』も『蝶の皿』も『清経入水』も『みごもりの湖』も『墨牡丹』もすべてそういう場所、そういう勤務中に書いていた。家へ帰っては「書く」よりもむしろ「読む」仕込みに時を用いていた。なぜなら仕事場へ重い大きな本は持って歩けなかった。
ハハハ。言いわけしています。
☆ ご本を有難う御座いました。 正
秦様 湖の本をお届けいただき有難う御座いました。次回の代金の振込みを致しましたのでご確認ください。
今回のご本で、文章の巧拙と内容の良し悪しについて(尾崎)紅葉を素材に論じられているのを拝見し、まことにその通りと感じました。
その人の問題意識なり世界の切り取り方は、選ぶ題材に反映され、そこに書き手の品位が自ずと滲み出してきます。志賀直哉
のように。
文章自体を磨くことは大切ですが、それはあくまで技術論のような気がします。
* 文は人なりと謂われてきた。なかなかどうして、技術だけで文は磨けない。むしろ文を磨くのは気稟の清質であるだろう。瀧井孝作や吉田健一など、悪文と謂われる名文の事実在りえていたのは、その為、その証左なのである。かつての昔昔には美文と謂われた名文らしきものが盛行した時代があった。美文こそ技術の所産であったが、人間の感銘は籠もらなかった。
* 今度の新刊で、ちからをこめて書いた一つは、間違いなく「紅葉の文章」であった。それと、「あとがき」かなあ。
「漱石作『こころ』の先生は何歳で死んだか」や「斎藤茂吉の歌集『萬軍』」や「北原白秋の短歌にも、こんな」は、短いが刺激的な発言になっていると思う。
それにしても、わたしの文学生涯にいかに谷崎潤一郎が大きな存在であったかが、否応なく顕れたのも、一結果である。
* ところで、どおっと届いてきた新刊への反響の中には、こういう一文も含まれた。
☆ お嬢様と婿殿のこと、常にホームページで拝見しご心労をお察ししております。これは秦様の作家としての存在に深く関わることで、おろそかにすべきことではないでしょう。しかし僭越ながら敢えて申し上げれば、それはそろそろ水面下のことにしておいてもいい時期が来たようにも感じます。
秦様お二人にとって大きな問題であり、現実の訴訟に多くの時間と労力を取られることはわかりますが、その巨細を表現なさると、折角の明澄な水を湛えた「湖」が墨に汚されるような気がして、そのことに心を痛めるのです。そして何よりこのことはもっと別の形で高い調べの秦文学に昇華できるよう思っています。
私は家庭を捨て子供たちとは全く没交渉となっています。それぞれに十分以上の教育を受け、子供も授かっているようですが、やり取りはなく孫も見たことはありません。しかし子供といえ別人、それぞれが幸せであればそれで十分、そのことについて書く気持ちはありません。世の中にはもっと声を上げねばならないこと、すべきことがあると思うからです。
ご事情を知らぬまま勝手なことを申し上げることにお詫びします。お心に適わないときは一読者の妄言とお捨て置きください。
* まことに忝ない、ありがたいメールであり、先ず心より御礼申し上げます。その上で、落ち着いてやはり私として考えて見ねばならない。
前にも書き写した。直哉のこんな言葉。
☆ 作者はどんなに変つたものを書いたつもりでも、真似でないかぎり、決して自分以外には出られない。安心してどんな事でもやつて見るがいい。
☆ 創作家の経験は普通、経験が多いと云つて、ほこつてゐる人間のやうな経験の仕方では仕方がない。経験そのものが希有な事だつたと云ふ事もそれだけでは価値がない。経験しかたの深さが問題だ。
「経験それ自身が既に藝術品である」といふやうな文句があるが、そんな事を自分で思つてゐるから、尚藝術品にならないのだと思つた。
* 「折角の明澄な水を湛えた「湖」が墨に汚されるような気がして、そのことに心を痛める」と言って下さる。「明澄な水」の①と「墨」の②との混合で「湖」が「汚される」というご心配のようだが、「湖」とは、もともと①と②とで出来ていて、表現方法の差であるだけ、所詮は「自分以外には出られない。安心してどんな事でもやつてみるがいい」と直哉の言うように、「いま・ここ」の視野にひたと目を向けて仕事をせざるを得ないしそれが創作者の正しい姿勢に思われるのです。
もとより②の方面と雖も「もっと別の形で高い調べの秦文学に昇華できるよう思って」下さるのは実に嬉しいし、実現の時機をぜひ得たいが、必ずしもそれが①のようであれば佳いとは限らない。
秋成の晩年にもう一度『春雨物語』でなくぜひ『雨月物語』をと望むのは自由だが、秋成の年齢と意識とはやはり『春雨』を必然とした。創作者の「次」にはどんなものが飛び出すかはほんとのところ読者にも作者本人にも分からないのである。
ただ、概して言えることは、読者からは今の②でなくて以前の①をになりやすい。
しかし作者の意識ではせいぜい「②の①のよう」で在りたいのかも知れぬのである。いずれにしても、むしろ①を①をに服従してしまってはかえって大きな間違いを犯しかねない。「墨」の世界を必然に歩みながら「明澄な水」に渇いていては自己矛盾に陥る。墨には墨の美と透徹を願えばよいし、そこでわるく藻掻けばおぼれ死ぬであろう。
* まして日録の「私語」について言うなら、「闇に言い置く私語」であり、現実から目を背けて光を仮象していては自他を偽ることになる。
* また御家庭の御事情については、一律のことは言えない。
人それぞれの最善が在るであろう、たまたま私の場合は一私民にも過ぎず、しかし作家・創作者でもある。それに私は「慈」という文字を「心あつきもの」と読み取りヒロインに「慈子=あつ子」と名付けたような男であるから、人一倍の熱をもつて人間と人間との関わりを大事に見ている。個性というものか。
だから「子供といえ別人、それぞれが幸せであればそれで十分、そのことについて書く気持ちはありません」とは言って済ます気はないのである。
私の場合、娘は明白に客観的に「不幸」であり、たぶんもう一人の「孫」もそうだと思って悲しんでいる。作家であり、かつそれを悲しみ心傷ついてそれを「書かない」というのは自己撞着である。書いて「悲しみ」をお互いに和らげて行けないだろうか、わたしの生きている内にムリでも、せめて死後にも機あつて娘が、あるいは孫が、父は、祖父はどう考えて生きていたろうと思って呉れるようなとき、よすがとなり足場や手がかりになるものは書いておきたい。それは、他の人にも奨めたり強いたりは決してしないし、わたしもまた強いられたくはない。
「世の中にはもっと声を上げねばならないこと、すべきことがある」のは仰せの通りだが、さて、人が人として最もせねば成らず、また声を上げておかねばならぬ事は、何であろうか。ひとにより異なるだろう、この方にとっては何か察しもつかないが、幸い自分のことは気が付いている。何をどんなに言うて見ても始まらない、ま、たわいない夢であるのは間違いないとして、それを承知で言うなら、するなら、「いま・ここ」で目前にあることに向かい誠実であることだ。
いま、政治も藝術も自然や人の美も大切だが、わたしは、その大切を、妻や息子や身内と思う人達や、また娘や孫娘から思いをわざとらしく逸らしたりしないで生き抜くことだと思い定めている。それらと別にわたしの「湖」が、また「文学」が、在るのでは無い。
2010 10・6 109
* 最初の一山を越えたと思う。あとは思いを尽くして、要事を終局へ調え、必要な附録書証を用意する。二十日過ぎには、ともあれ代理人事務所へ提出できるようにしたい。
イヤでもオウでも、娘と婿の吐き出す言葉に向き合わねばならなかった日々が、三週間半ほど続いた。不快で、じつにキツかった。平穏にまともに事理を尽くし合う討論なら何でもない。が、もう、むちゃくちゃ。一息に、此処へなにもかもを掲載して裁判員ならぬ余の裁判員さんたちに読んでほしいとつくづく思う。
* もっと、しみじみ有り難いと思うのは、わたしが、今も休み無く文学や文学的・藝術的な世界に脚をおろし手を働かせて「仕事」をし「書き続けて」いること、それが大勢の人達の目に触れ、励ましや感謝の言葉すら頂戴できている、そのこと、だ。
どんなに理不尽な不快感に苦しめられていても、たとえば今しも出版して送り出した、今しも校正していてやがて出版できる「湖の本」の文章を読みはじめると、黒雲がたちまち晴れて青空にかえって行くように、わたしは静かな嬉しい気持ちに成れる。「仕事」を続けている有り難さだ。
2010 10・12 109
* 「夫」を指さして「夫」と云う人に出会ったのは、筑摩書房の親しかった担当編集者が最初だった。
昔の小説で、「宅は」という夫の呼び方を何度も読んだ覚えがあるが、日常対話的には「うちの人」が多かった。が、もっと多いのは断然「主人」で、最近はどういう風の吹き回しかインテリ女性のなかにも、「さん」でも「さま」でもない「旦那」「だんな」と呼ぶ人も増えている。これは、わたしなど、聞くも読むもイヤな方だ。「主人」「あるじ」には、まだしも一家を代表する者の意味があるが、「旦那」は高位からの支配者めき、時には囲われの女が囲っている男を尊称しているようで、一瞬顔を顰める。そして依然、夫を「夫」と口にする人とは、めったに出会わない。アメリカに住む友人は夫のことを「名」で呼んでいる。日本でも、「秦は」「恒平は」という工合に姓や名でいう例が、タマに有る。愛称で呼ぶ例はもつと増えているようだ。
* ところで、「ニッポン」では、男は、女を、いつもひどく下目に見て愚弄し軽蔑し支配し虐待しているとまで、一般論できめつけられるとは考えていない。せいぜい「概して」その気味が見受けられやすいということ、必ずしも一般論にしてしまえる実感は、男にも女にも、実はそう手ひどくないであろうと想っている。
わたしは「女文化」という言葉を、自身の造語として最も早く初めて使用したと自覚していて、反証に、まだ出会った事がない。
その「女文化論者」の私にして、平安時代の「女文化」を、女の、女による、男のための文化と「定義」してきた。訂正する気はないのである。
だがしかし、人生や生活のディテールにおいて、敬意に値する女に対して昔男たちは、払いうる敬意を、深切を、特に惜しんではいないとも眺めている。それとても、大きな支配・被支配の枠内での行儀礼儀に属したものに過ぎぬとは、概ね謂えるのであるが、概念観念でなく、生活・日常の感覚にまでたち入れば、降り立てば、必ずしも女は男の力にいつもいじめられていたとは言い難い文化が実在していた。
時代が降っても、江戸の町くらしの、また農村ぐらしの女たちが、みな男の圧制と虐待に喘いでいたとは謂えない反証は山のように積みうる。公家貴族の男は、存外に賢い女に依存してもいたし、庶民の男も、女の協力なしに思う侭に生きがたかった事例は、例えば落語や笑話にもやはり山積みされている。性風俗においてすら、必ずしも男だけが女を悪用・利用していただけといえないものが有る。問題は、武家の世間・生活・建前であったろう。
* 社会学が見なければならぬ「人間の孤と群衆」との基本の在り方は、微妙な心理的・性格的な「位取り」でも規定されていやすく、力関係が男女の仲でも日々に逆転また逆転しながら「微妙に協働」していたし、今日でも少しも変わらない。
社会学が一概に視点を固定して、ある種の結論めくところから視野を特殊に設定してモノを云いすぎると、たとえば「不幸」向きだけの辛口を装った議論となり、いわば「幸福」の一面は、故意か故意でないかは別として、敢えて見落とされやすく、しかし、そのまた逆も大いに在り易い。それでは議論が、ときに、タメにするような偏った癖をもってしまいかねない。
* わたしは、いま実の娘の持ち出している「虐待」という語彙の、不快極まる刺激臭にアテられ、困惑し迷惑している父親の一人である。
ところで、昨今稀にとも謂えず、むしろ屡々報じられる例えば児童「虐待」の極悪な事例には、まさに血も凍りそうな恐怖と不快と激怒を覚えることがある。
と同時に、あきらかにむちゃくちゃな拡大解釈で、みそもくそも「虐待」呼ばわりされてしまい、人間が、むろん男も女も、親も子も、上司も部下も、さながら「なんにも、しない、出来ない」「平々凡々の萎縮」へ追いやられかけている不審にかきたてられることがある。
* 私には、二人の子、五十歳の姉娘と、作家である弟息子とがある。そして現在進行形の父娘間の紛糾に関して、弟の方には「百万回も云うてきたよ」と惘れている批評がある。
それによれば、姉は、父から百パーセント受け容れられたく、そうでなくてはダメな人間。
ところが、おやじは良いことは手放しで褒める大甘の父だが、いけないと思うことには遠慮のない厳しいダメをだす。弟は、そんな父で良い。ところが姉は、そんな父はイヤ。褒められたことはみな忘れてしまっても、叱られた批評されたことは怨み続けているんだよ、と。
この怨み続けているという全部を、娘は「父の二十年ないし四十年にわたる虐待」と、言い募ってやまない。それも五十歳近くなってから突如として、「八歳以降の虐待」だと云う。しかし事例も何一つ出せない、証明もできない。
惘れてしまう。
それでは親の、父の子に対する教育や薫育や躾の部分が、子の恣まに全部「親の虐待」にされてしまう。現にそうなっていて、裁判で損害賠償金を千数百萬も莫大に父は請求されている。
弟も、母親も、そんな虐待などわが家にはまったく無かった、あり得なかったと、冷静至極に明言し断言しているのである。
* ものの云いようで、そういう過剰きわまりない「虐待」騒ぎが、世に横行しかねない大きな実例の一つを、今わたしは冷静に払いのけている。それは「逆らひてこそ、父」である者の、矜りですらある。娘は、恐怖とともに虐待されていた筈の、父仕事場の実家に、結婚して後も四年半に一年一ヶ月も「里帰り」し、雑誌企画の同行の旅をすら欣然と楽しんでいた。「虐待」など、どこに。
*わたしは、早く早くから親子の縦社会より夫婦の横社会の強い支持・実践者であり、娘にも息子にもそう在れと望んできた。ところが娘は今のこういう仕方で、事実上は父にぶらさがりしがみついているに過ぎない。このことは、実に大勢の私の読者たちも早くからそう指摘されてきた。裁判にしがみついてでも父との縁の切れてしまうのを恐怖しているのだろうと。そうではないかと、想う。
* 婿の方は、娘の夫であると以外、一人格としてはわたしの眼中に無い。
2010 10・13 109
* さすがに、ズッシーンと疲れているのがわかる。不愉快感とともにする要事は、一瞬の拷問にあうようなもの。はねかえし跳ね返し精神を活化して不快に対抗したり、かわしてやり過ごしたりしなければならない。こんなばかげたガンバリは、我からなど絶対ししないが、裁判の火の粉は先方からかかってくるのであり、払うべきは払わないと怪我してしまう。
* いま、「怪我して」と書いて、もう久しく気に掛けていることを書いておく。「怪我する」という動詞を「怪我をする」と名詞を目的格に置いておいて動詞にする例が、国会議員の討論にやたら多い。「お聴きをする」「お話をする」「努力をする」「検討をする」などとしょっちゅう聴くが、「お聴きする」「お話しする」「努力する」「検討する」でいいではないか。
また無用な「させて」言葉も耳につく。「お宅へ伺わさせていただきます」「休まさせていただきます」など、「伺わせて」「休ませて」でいい。舌を噛みそうだ。
2010 10・19 109
* 天気優れず、気持ちも晴れない。奄美の大雨。気の毒。
リズムの無い成行きにばかり出くわす。うんざり。
☆ リズム 志賀直哉 昭和六年より抄
偉れた人間の仕事──する事、いふ事、書く事、何でもいいが、それに触れるのは実に愉快なものだ。自分にも同じものが何処かにある、それを眼覚まされる。精神がひきしまる。かうしてはゐられないと思ふ。仕事に対する意志を自身はつきり(或ひは漠然とでもいい)感ずる。この快感は特別なものだ。いい言葉でも、いい繪でも、いい小説でも本当にいいものは必ずさういふ作用を人に起す。一体何が響いて来るのだらう。
自分はリズムだと思ふ。響くといふ聯想でいふわけではないがリズムだと思ふ。
此リズムが弱いものは幾ら「うまく」出来てゐても、幾ら偉らさうな内容を持つたものでも、本当のものでないから下らない。小説など読後の感じではつきり分る。作者の仕事をしてゐる時の精神のリズムの強弱──問題はそれだけだ。
マンネリズムが何故悪いか。本来ならば何度も同じ事を繰返してゐれば段々「うまく」なるから、いい筈だが、悪いのは一方「うまく」なると同時にリズムが弱るからだ。精神のリズムが無くなつて了ふからだ。「うまい」が「つまらない」と云ふ作物は皆それである。幾ら「うまく」ても作者のリズムが響いて来ないからである。
中央公論正月号の文藝時評で廣津(和郎)君が「……うまい文学を書く以外に、文学に何の意味があらうといふ気持で進んでくれる方が……望むところである」とかいてゐる。他の諸君は知らないが、自分は「うまい文学」の「うまい」といふ意味が一寸気にかかるので、仮りに過去の仕事がその範囲を出ず、これからもある期間は、それを出られないとしても、(自分だけは=)少くとも「うまい文学」以上に目標を置いて努力精進しなければ仕方がないと思つてゐる事を明かにしたい。……廣津君のいふやうに自分が「うまい」小説家かどうか分らないが、所謂「うまい」といふ事は小説家の目標にはならない。うまくなれば幾らでもうまい小説が書けるだらう。幾らでも書ければ作者自身にとつて「うまい」といふ事は何の魅力もない・自身に魅力のない仕事を続けるといふ事、即ち行きづまりだ。既成作家の行きづまつたといふ中にはうまくなり過ぎ、しかもリズムが衰へて来たといふ意味があるだらう。
* 直哉のいう「リズム」ほど、創作で大切なものはない。この言葉は直哉の精神や文学ともよく相談して理解した方がいい、へらへらした音楽のリズムとは異なっている。すぐれて謙虚に体験していれば分かる。
本当に人を尊敬したり敬慕したり感銘を受けたりしたことのない人間にはこの「リズム」は分かりにくい。
2010 10・22 109
* 信仰と藝能を含む職能人=職人層への関心ぬきに日本の差別・被差別問題は把握しきれないが、歴史的な問題としてよりも、今日の藝能、いや「ゲイノータレントの社会的肥大現象」を日本の衰運を必至化する加速傾向としても受け取らざるを得ぬほど、わたしは、「風の奏で」の成り行きを、こころから憂慮している。是がちっとも問題になってこないのを怖いと感じている。
* 優れた大政治家がいないこと、真に尊敬された一世の師表のいないこと、マスコミを対象とした優れた現代哲学が生まれようともしていないこと、を、真剣に懼れる。悪くなる一方の日本。日本がどんより暗い。
* いわゆるサイエンス・フィクションというか、単純に「幻想された別世界」を描いた作に惹かれるのは、世界の終末を思わせる破滅的な歪みを、健康に回復しようとする強い「意志」が登場してくるからだろうと自覚している。映画の「マトリックス」や小説の「ゲド戦記」など。日本だけではないが、それにしても我々の国、病んでいるなあと歎く。その病者の一人で自分もあるのだということを、どう「いま・ここ」の力に置き換えられるか。ともすると、力が抜け落ちるような喪失感に呻く。
* 寒さを感じるにはあまりに早すぎると思いながら、ちかづく強い颱風情報と日本国の垂れ下がる暗い雲行きに、ウンザリしている。
2010 10・28 109
* 「弦」という短歌を主にした総合誌が毎度贈られてくる。辺見じゅんさんの主宰誌。その、昨日か今朝かに届いていた新刊巻頭に、清水房雄さんの作がならんでいる。わたしよりよほど高齢の筈、こうしてお目にかかるのが喜ばしい。
作のなかに、目ざとく妻が見つけた一首が、
親子とて他人のうちといふ記述さうかさうよと頷き合ひぬ 清水房雄
明らかにわたしの何れかの著作から引かれている。
わたしは、「自分」でない存在は、ひとまず親も子も親類も「他人」と思い、そのかなたに「世間」を置いてきた。同時にこのほかに、真に「身内」といえる存在を望んで、一人また一人そんな「身内」を見つけ・得て行くのが、人の、人の生(よ)・世を生きて行くさだめと思ってきた。
親子とて、夫婦とて、恋人とて、友とて、よほどの覚悟がなくては「身内」になり難い。人はそれをじつによく知っていればこそ、神話このかた最現代の多くの創作まで、そういう言葉こそ用いないまでも「真の身内」を求め合いつづけている。
オデュッセイと妻も、ロミオとジュリエットも、フアウストも、ヘルマンとドロテーアも、ネフリュードフも、モンテクリスト伯も、また光源氏も、雨月物語の人達、さらには時任謙作も、春琴と佐助も。多くの崇高な、また烈しい嶮しい主題に挑み得た大勢の深奥には、「真の身内への渇望」があり、そんな身内から得た深い励ましがあった。
よく、創作の真の主題は「愛と死」だといわれるが、そのまだ奥に実在する「真の身内」への渇望こそ「藝術内奥の主題」なのだとわたしは考えてきた。今も考えている。
2010 11・1 110
* 「美的事態の認識機制」という大層な題で、学部の卒論を書いた。80点戴いて卒業したものの、このものものしい題を反芻するにつけ、美学へのあきらめがにじみ出た。そして大学院を途中退散した。美しいとは何かを理屈として万・万人が一斉に納得することは、いかなる哲学の大家をもってしてもムリであったのは当たり前という気がする。せめて我流ででも美しいと実感したいし、それはまた万・万人が同様にではないが、ほぼ自前に果たしている。これは美しい、あれは美しいと、喜ばしい声と表情とで表明しまた実感している。普遍妥当性をはなから断念した、あるいは、異論が出てもかまわないという実感であり、「美」に関するそれが実状また実情。
* 今度出した本では、藝術的な創作とともあれ目されるすべてが、ひとまず、「作」「作物」ではあるが、必ずしも即時に「作品がある」「作品である」とすべきではないということを明言し、主張した。二十年ほども以前からの持論をまた表に出したに過ぎないが。
分かりよく言い替えてみれば、我々がひとしなみに「人」「人間」であるのは事実その通りとして、しかし、即時に「人品・気品」が保証できるものでない。それと同じである。
* 「美しい人」とは普通の名詞であるが、内容は雑多で、万・万人に即時に通用する物言いのようでいながら、人それぞれの好みが先立ってくる。漢語では美人かならずしも婦人に限らなかったようだが、今日「美人コンクール」は「ミス」に限り、「ミスター」が審査されている例はめったにない。その代わりに長島選手が「ミスター」と呼ばれていた按配に、いろいろ特定の社会で男性は「親分」「テンノー」「兄貴」などとして、やはり限定付きで顕彰されている。「ミス・ワールド」でも「ミス東京」でも同じ限定はついていて、やはり万・万人が一致承認しているわけではない。
妙な人を引き合いに出すが、志賀直哉は「ミス」コンクールの推薦者か選考者になったことがあり、体験をふんで「美しい人」論をかなり熱心にぶち挙げていたことがある。直哉の名を引っ張り出すのに、たいそうな枕を置いたものだから、あとをつづける元気が少し失せてしまった。
2010 11・4 110
* 『玉葉』という公家日記がある。
平安末・鎌倉初の藤原氏の長者で、法然に帰依した九条兼実の大部の日記で、定家卿の有名な日記『名月記』にならびたつ、それ以上にも歴史的な、根本史料。もう昔に、背伸びして買っておき、文字通り書庫に『名月記』と並び立っている。
その『玉葉』で、たった今し方、探し求めてきたというと言い過ぎだが、探し当ててみると少し震えの来る有り難い記事に行き当たり、雀躍りしている。一寸中身は此処に書けない。が、買って置いてよかった。
さ、どう活かせるか。
* 書庫にはいると、なかなか出られない。手に取る手に取る全部がわたしを誘惑する。通路にも積み上がっていて、奥へ通るのに本を踏むまいとすると、大股を何度も使わないといけない。とても生きている内に百に一つも読み切れたものでない、どれだけ読めるだろうと思うと、躊躇なく少しもはやくほんとうに隠居したいと思う。
今度の『秦恒平が「文学」を読む」上下巻の目次に名の出ているような人達の全集や頂戴本がいっぱいある。学者研究者からの頂戴本もたくさん有る。上の『玉葉』や『名月記』のような歴史資料や古典全集が、ある。多彩な辞典・事典だけで二百は下らない。どうしても最後に惜しんでしまうのは「本」かと思うと、煩悩やなあと嘆息もでる。わたしの息子は、とてもわたしの蔵書とは向きがちがいすぎて置いておく意味がない。図書館へ、少しずつ少しずつ我々に荷造りできる嵩から寄附しているが、出るより増える方が多いのである、まだ。
小説、随筆、批評、詩歌、研究書、古典原典、そして専門雑誌。全集。夥しい画集や図録や美術書。選りすぐって残しているのでみんな愛着がある。愛着・愛執つまり煩悩の塊やなあと長嘆息しながら、手に取り手に取り嬉しがっているのでは、ハナシにならない。つまりは眼を大事に長生きすることで、入院などしてしまえばみんなムダになる。家人は始末に困ってわたしの愛蔵本たちを呪いかねない。
2010 11・5 110
* 重森ゲーテを「しのぶ会」の案内が来た、なんという悲しいことだ。
いま、ふと思い浮かぶ人の名は殆どが故人。あっちの方がよほどもよほども知人が多い。是が老いというもの。
「しのぶ会」に出たことは何度もあるが、なんとももどかしく悲しくやりきれなくて、もう久しく、みな失礼している。自分の知らなかった故人の像を思いに加える有意義がなかなか掴めない、故人への愛を攪拌し分散されてしまう歎きの方が濃くなってしまう。つまらない。死なれてしまえば、もはや重森はわたし一人の重森である。思い出はわたしが抱いていて、人に分かってみても、人から分かち与えられても、もう、どうにもならない。
2010 11・5 110
* 映画『秋日和』を「聴き」ながら、ぐうっと一気に作業をほぼ片づけた。
原節子、司葉子、岡田茉莉子、三宅邦子、沢村貞子などのほかに、この映画にはまだ駆け出しの岩下志麻の名もどこかに出ていたと思う。
佐分利信、中村伸郎、北竜二、佐田啓二。
なんともいえない小津監督の映画の文法。わたしたちからすれば世間・世の中とは「こういう」感じに近い、のに、今のテレビでは、殺人、警察、裁判、陰謀、暴力、そんなのばっかり。小津安二郎の世界の方がつくりものに思えてしまう不幸、計り知れない。だが、そんなに云うわたしとて、娘や婿の口汚い裁判沙汰に苦しめられつづけている。なにかとんでもない間違いが起きている。
* 日本が敗戦して、一つ変わったのは世の「私民たち」が街頭に立って自分の言葉を口外しはじめたこと、そのきっかけはラジオの「街頭録音」だった。びっくりするほど人が話し始めた。そんな回顧番組をみていた妻が、録音マイクの前にたつ人達の言葉が、びっくりするほど美しいのに驚いたという。
世の中がわるくなった、ひどくなったと思う最大点は、「ことば」の乱暴になり口汚くなったことだと、もう数十年前からわたしは歎いていた。原節子らの映画を今も愛するのは、彼女の美貌の故という以上に、言葉の美しさや正しさが慕わしく懐かしいのだ。
テレビで放送記者やアナウンサーが敬語を駆使しようとするとき、敬語らしいのは話し始めの二、三語に過ぎず、たちまち馬脚をあらわして乱脈になる。敬語をムリに使えというのではない。美しく、優しく、きまりよく、話して欲しい。
* 直哉の全集で、直哉のまだ年若い娘さん達がたまに手紙などで父直哉にふれてものを云う時の、びっくりするほど美しい正しい敬語がやすやすと話され書かれていることに驚嘆する。家庭教育のよろしさか、人間味の豊かさのゆえか、敬服する。
* 肩の荷をすこしおろして、頭に佳い風を通したい。
2010 11・6 110
* 快晴。秋冷。
* 角田先生の『日本の女性名』上、鎌倉時代までを読み終えた。地道な基礎研究の成果で、歴史の推移がまた別角度から如実に読み深められ、欣快の読書となった。しかもなお、角田先生にして、なお、この中世初頭の一人の、特異でかつ隠れもない名前に触れられなかったか、と、残念無念。ただし先生の意識や穿鑿から洩れている理由もじつは分かっている、察しがついている。さてこそ、わたしは自身の仕事を、小説をと謂うもよし、何と謂うても構わないのだが、前へ、進めねばならない。湖の本の今年の発送も終えたと云うてよく、気を入れて幾つも用意の「仕事」に向かう下旬。そうありたい。
2010 11・16 110
* さてさて、要するに「書く」ことを通じて、わたしは、日本の「女」を、「女の不思議」を考えている。女の名前一つをみても歴然と跡を追うに足る変遷がある。変化がある。たかがというのも適当でないが、名前一つの変遷の、上にか下にか、如実に日本の事件も風俗も生活も歴史的に表情を変えて見えてくる。「郎女」だの「刀自」だの「氏女(うじのにょ)」だの、「姫」だの「媛」だの「女(め)」だの「子」だのと裾にくっついていたモノのみなが、「子」のほか今はほとんどかき消えている。「子」すら、いま小さな女の子百人の名前を観て、「*子」「**子」ちゃんは数えるほどしかいない。
『痴人の愛』の「ナオミ」は当時素敵に珍しいハイカラな名であったが、いまはその手の名のほうが普通。悪いことではない。
もともと「*子」は皇族や貴族の女子にまず定着し、消長はあっても明治大正までつづいて、歴史的には是に倣う、追随する下々が現れた。明治大正昭和の戦前までは日本国仲に「*子」ちゃん達が溢れかえっていた。そして高貴の印象が失せて行き、ついに特定の接尾字をもたぬ命名がふつうとなった。それでも「え」「み」「か」「よ」「の」などを接尾音にした名が在るといえば有る。もう「あやかる」何かが皆なくなってしまった。
* 名ただけではない。宣教師として来日し、数十年も日本人を観察していたフロイスの「日本の女」考を読んでいると、日本の女には貞操観念が殆ど無いとか、離婚は平気で数え切れないとか、自分の財産を利子付で夫に貸し付けたりしているとか、一見甚だ不公平な偏頗な、悪意に近くてまさかと思う観察のように見えながら、じつは学問調査の成果は、意外にもフロイス指摘の大方が事実その通りで偏頗などなかったと教えてくれている。たしかに男社会ではあったけれども、女の行動の自由も相当なものであった。女の一人旅や家出や彷徨は、信じがたいほど多かったし、それなりの危険にも彼女たちはつねに遭遇していた。一人旅の女を襲うのは禁じられていたけれども、むしろ禁じ得ないほど普通であった。それでも旅している女は絵巻にも多く見受けられる。離縁状は夥しい実物が残されているが、それは男の権利として書かれたと云うより、男の義務として書かれている事例が多いそうである。
* 小説家として一人の「架空の女」を書こうとするとき、途方もない歴史の闇のなかから、むずかしい真実を手づかみにしなくてはならない。堪らない、しかし面白い。ただし辟易したり面白がったりしているうちに、肝腎の「女」が、さらに早足に向こうの闇に沈没して行きそうになるから困るのである。
* 二人の涼子、篠原と米倉のドラマに注目しているのは、役の上でこの二人とも、普通でない過去を背負って半身を暗い闇に沈めたふうに、会計検査や税務査察という仕事に励んでいるから。二人とも極道ではない、れきとした公務員であり、しかし、なみのOLでも奥さんでもない。もとはヤンキーである。どういう偶然か、こういう設定のドラマで、とびきりの女優が頑張っているのが面白い。二人とも下品でない。そこがミソである。
2010 11・18 110
* 『秦恒平が「文学」を読む』上下巻は、上巻の「一」に、森鷗外、尾崎紅葉、正岡子規、夏目漱石、田山花袋、樋口一葉、中島俊子、泉鏡花、永井荷風、齋藤茂吉、志賀直哉、北原白秋、若山牧水の十六篇を。「二」に、谷崎潤一郎、谷崎松子の十九篇を。そして下巻「三」には、折口信夫、芥川龍之介、瀧井孝作、芹沢光治良、中村光夫、川端康成、小林秀雄、唐木順三、山本健吉、井上靖、宮川寅雄、太宰治、齋藤史、長谷川泉、水上勉、上村占魚、辻邦生、梅原猛、沼正三、立原正秋、馬場あき子、阿部昭の四十篇を収めた。
下巻の跋にもいうように、みな「書く」機会があって書いたのであり、他に、書く機会には恵まれなかったけれど、もっともっと心親しく懐かしく敬愛する大勢の先輩・同輩の書き手が大勢おられた。福田恆存先生、永井龍男先生、円地文子先生、臼井吉見先生などと思う起こせば限りもない。
そしてこういう先生方とまともに向き合うためには、それ以上の「いい仕事」をする以外に道はなかった。
* 「mixi」の、多くのプロフィールを見ていると、「作家志望」と書いている人達に大勢、あまりに大勢出会う。もし本気で真剣にその気なら、「mixi」日記やツゥィッターなどでひゃらひゃらと空気抜きをし自身の言葉を甘やかしていては絶対にダメと、わたしはハッキリ言う。孤独に堪え、真剣に優れた作を「読み」かつ打ち込んで「書き」なさいと。
2010 11・19 110
* 漢詩とは限らず、箴に似て服膺している句に、そんな一つに「年々歳々花相似 歳々年々人不同」がある。これは真理だわと身に沁みて納得している。花は変わりなく、人は移りすぎて行く。モノモチの良すぎる手元に、五十余年に交換した厖大量の名刺があるが、完全に忘却している人が花紅葉に比較してどれほど多いか。
* この十数年の「闇に言い置く」日記でも、川の流れと人の身のいつとも知れぬ消長に 今さらに微笑ましくも惘れるように驚くことがある。黙々とこの日記に多年アクセスされてきた方でも、それに気付いている方、少なくあるまい。べつだん何も気まずい別れなどあったことはない、が、すうっといつ知れず影を消している人達が数えきれず、また新しい人影の訪れも確実にある。
よく話してきたことだが、わたしの大学生の頃に、京都発、鹿児島県の指宿行き各駅停車の便があり、酔狂なわたしはそれに乗って指宿の砂風呂とやらにと汽車に乗り込んだ、だが、言語に絶する旅であった。たしか熊本駅までに三十六時間かかっていて、もう堪えきれなくて下車した。
この長時間を一言で特徴づければ、向かい合いの四人席他の三席に、数え切れない長幼男女いろんな乗客たちが、来ては去り来ては去り、とめどなかったこと。今思えば「人同じからざる」人生の縮図をわたしは体験したのだった。
幼稚園、国民学校、疎開先、敗戦後、新制中学、高校、大学、叔母の茶や花の稽古場、医学書院時代、受賞して作家になってから、東工大教授の時代、ペンクラブの委員や理事としての、また美術賞選者としての二十数年、湖の本の時代、ホームベージの在る時代等々と小分けしても、夥しい人達と出会い、また互いに通り過ぎてきた。そんな小分けの大半はもう無く、それぞれの時期に出逢って今もという知友知己は少なくないが、互いに通り過ぎてきた人の数は、それに何倍何十百倍もしている。そういうものである。
そのなかで堅実なのはやはり「読者」、それも今では「湖の本の継続購読の読者たち」がいわば久しい親戚のように在る。東工大の頃からの元の学生諸君も、さすがに人数は自然減したが、まだ親しい人達が「湖の本」も介して確実に在る。
* 人生は各駅停車超長距離の長時間の旅であり、座席はきまっているが相席する人達は次から次へ同じからず異同がある。ああそうなんだなあと、思う。親子きょうだい夫婦でさえ必ずしも確実な相客ではないわけだが、想えばあの指宿までの汽車旅の向かい合い四人席こそは、よくわたしの謂う「島」なのであった。顧みてわが人生の各駅停車便を見てみると、幸いにも「席」を、一人しか立てぬはずの「島」を、柔らかに共有している人達は少なからず花相似の如くに「いる」のである。奇蹟のようである。
2010 11・25 110
*永く手を掛けている作に新たな展開の有効な手がかりが一つ出来ている。早く手を付けて行きたい。
なんと言ったらいいだろう、魔法陣のような作と、老いの性を主題の作と、実父を想う作とを、等分に進めてきているが、九月十月の阿修羅な要事でみな停頓していた。停頓は今暫くつづかざるを得ないが、少しも諦めていない。
2010 11・27 110
☆ 『「文学」を読む』は、
ひとつひとつが入魂の批評で、考え考え、思い思い、読みましたよ。
下巻では、折口信夫と瀧井孝作が印象に残りました。
綺羅星のような先達に直に接し、いろいろ吸収なさったのですね。
勉強不足なので、常に勉強していたいです。特に花に不足している古典について勉強したいです。
寿命が二百年三百年あっても追いつかない古今東西のテクストの膨大さに、速読ができればなあ、なんて考えたことがありますが、いい本は、いろんなことを考え想像しながらじっくり読んでしまうので、無理、と思いました。
* 古典は
ひたすら「読む」しかありません。付いておれば研究者による「解説」も。訳に頼るのもいい。しかし、やはり原文の「感じ」を汲み取りながら、が、妙味です。
古事記。これは訳でもいい。原文も読み取りやすく、苦労しない。
物語は、一つなら源氏物語。古事記や万葉集を除いて、日本古典文学全ての基本です。和歌の文化も此処で十分掴めます。物語の中の和歌や引き歌が「面白い」と実感できてきたら、ホンモノです。先ず優れた現代語訳を繰り返し読んで、「面白いな」と納得してから、訳を参照しつつ原文の花(ファシネーション) を味わう。身を寄せて読む。注も読む。
他に必読モノは、平家物語。読みやすい。
徒然草。読みいいとは言えないが、日本人の思想が溶け込んでいて実に面白く、深く汲み取ること。
とはずがたり。最上流貴女が遊女の境涯を生きた赤裸々な私小説。糜爛した宮廷の、また中世日本の被差別と遍歴の旅の、現実味が、奇蹟ほど濃厚に溶け込んでいる。古典日本の「女」を独り全身全霊で体現した後深草院二条。
江戸時代では、西鶴の好色一代女、山本健吉の新潮文庫「芭蕉」上下、そして秋成の雨月物語、春雨物語。可能なら、馬琴の八犬伝。
できれば、佳い能舞台と人形浄瑠璃とを、すこしでも。また、近松もの、南北ものの舞台。そして、民俗学。
2010 11・27 110
* 「湖の本」を本の形で続けることが、不可能ではないが、難しいことは分かってきている。知恵を貸そう手を貸そうかという親切はいろいろに聞いているが、実際には有効なことと想われない。わたしと妻の手で始めた仕事は、わたしと妻の手でそう遠からず収束しなければならない。ただ、「出」を待っている作物はまだまだ在る。新しく出来ても来る。手を借りることは現実に難しいが、智慧は借りられるだろうか。
* 「書籍版」で体力が尽きたなら、此のホームページの中にいまも全巻存在しているように、「(電子版)秦恒平・湖(うみ)の本」としてなら、わたしの意識が明晰で気力もつづく限り、幾らでも書き遺しておける。そう思えば、なんと有り難い時代であることか。
ただ、そのためには、現在のホームページを、さらに歴史的な鑑賞と褒美に堪えるよう美しく便利に改造できるなら、「相当な費用」を掛けても、立派に再構築し整備したいと思う。良心と美意識と最良の技術を持ったまさに機械建築の「匠」の智慧をこそ借りたいと思う。空想でなく、期待している。
2010 11・27 110
* とにかく寝入る前に古今亭志ん生に笑わせてもらう、それで夢見が穏和に。ただし落語のあといろいろ本を読んで興奮すると、寝入りにくい。
* 古典の伝統に「烏滸はなし」というのがある。エクセントリックなのである。源氏物語だと、源典侍とか近江君の登場がそれにあたるが、『我が身にたどる姫君』の巻六をしめる前齋宮の烏滸(おこ)ぶりは相当なモノで、あとにもさきにも出会ったことがない。
この「烏滸はなし」に次いで、門玲子さんの『江馬細香』を読み継いで行くと、どうしてこもう典雅な文体と叙述とで、いわば家庭の主婦の処女創作が書けたかと、奇跡に逢うような敬意と嘆賞を覚える。このあとへ潤一郎『痴人の愛』で、河合穣治がナオミに強いて誘われ、亡命ロシアの伯爵夫人からダンスを習い出すあたりの「白」人崇拝ぶりを読み出すと、この谷崎画期の秀作すら通俗に感じられたりするのだから、驚く。
「湖の本」の前巻で谷崎を多く語った中に、谷崎文学の「色」にふれて、黒と白とをためらいなく挙げていたその「白」にかかわる適例を此処にも見ることが出来る。谷崎の「白」耽溺の根は、祖父が信仰し祭祀していたロシア正教の聖母の肌色にあった。爾来、彼の「白」は女の肌色に極まり続ける。ジョージがナオミに溺れるのもその色白が西洋人に近いからだが、そのジョージが伯爵夫人に出逢ってふるえ戦くほどほんものの白い肌の魅力に降参している。ナオミも遠く及ばないと言い切っている。面白い。
* で、ついで志賀直哉の『早春の旅』に思いを移すと、ちょうど村上華岳の百点もの繪を人の家へみせてもらいに行くくだりになる。直哉が日本の同時代画家で心底敬意を寄せたのは、洋画では梅原龍三郎であり、日本画では村上華岳と榊原紫峰である。
日本画の二人とも国画創作協会の親しい友同士であり、また小説家のわたしにも、華岳を頂点に、国画創作協会の紫峰、波光、麦僊、竹喬、晩花らは渾身の作『墨牡丹』に書いた最も心親しい大切な画家達である。この人達との出会いがなければわたしの文学世界は大きな一部を喪っていただろう。直哉が「紫峰君」や「華岳君」を語ってくれるとき、わたしもまた深い敬意でうち震えるのである。ことに華岳を語る直哉の敬意と愛惜の深さ、そして批評の鋭さはみごとな高みにあり、頭の下がる生きた言葉で深切に語っていて、そのような直哉をわたしは惜しみなく讃嘆する。
直哉は、自身の徹した愛と編集とで、途方もなく豪華な美術写真集「座右寶」を刊行していた人である。日本の文化界に武者小路らとともにロダンや、セザンヌやマネ、モネやゴッホなどを輸入し根付かせた人である。古都の奈良や古寺古仏を愛した文人は多いが、奈良に十余年も住んだ直哉はそうした愛好と尊敬にじつに大きな先鞭をつけた一人であった。また『萬暦赤繪』のような作品があるように、柳宗悦との生涯の親交もあり、陶藝にも独特の鑑識と偏愛とを惜しまぬ文士であった。
さらに言えば志賀直哉はわかい青年の昔から寄席藝人たちの藝に、執着といえるほどの贔屓心をもっていたし、歌舞伎も耽溺にちかいほど劇場をわが家のように渡り歩いていた。そういうことの、なに不自由なくできた、まただからであろう、それらに拘泥して脚をとられてしまう不格好からも平然と遠い人であった。わたしはそんな直哉の創作集と日記とをほぼ時季も打ち重ねていまも毎夜読み耽っている。ちょうど昭和十四、五年ころに当たる。
2010 11・28 110
* 皇族の臨席ある国会での愚かな国会議員の失礼・無礼が咎められているが、日頃を観ていれば彼らの行儀の悪さは誰彼の別など無い話。
それにしても、マスコミにも政治家達にも節度がない。今どき「皇室がらみ」にまるで不敬罪でも問うような懲罰のはなしも、むしろ慎重に避けて通るのが民主主義の良識だろう。遠回しに皇室へのおべっかじみ、またまた不用意に世の中の舵取りが復古的に腐りかけて行く懼れ、無しとしない。当の議員のわれ見よがし失礼は、まさに失礼と咎めて当然。
ただし重点が皇室への慮りに傾いて、ことさら声高にマスコミも政界も軽率に動くなら、わたしはそのような風潮に警戒してしまう。皇室への礼と謂うなら、それを失した穿鑿や介入は、日頃マスコミの「財源」とさえ化しているではないか。皇室への思いは一皮むけば民主であれ自民であれ似たような無礼が潜行していればこそ、元大臣がああいう姿勢に出て、あれは彼なりの未熟な自己主張であったに違いない。起立に堪えぬほど腰痛持ちでもあるのかも。
* 皇室に無用にかかわって時代を逆行させてはならない。この先三十年、皇室は皇嗣をめぐって国民にとって小難しい難儀な存在になるだろう。新南北朝時代など、冗談ではない、御免蒙る。
* 海老蔵の騒ぎにマスコミは狂奔しているが、マスコミからもコメンテーターからも「問題点・現代に藝能と藝能人とは何であるのか」への洞察が少しも出てこない。
* いまや日本列島に跋扈している最大のものは、不出来な政治家や器量のない実業家たちだけでなく、やすもののタレントや予備軍をかかえながらの「ゲーノー人」である。この気運は謂うまでもない戦後に出現した家電「テレビ」が用意した。「現代日本」は、これを論究しないでは解説できない。そしてこれを真実解説するには、歴史への深い視野があらためて必要になる。
上古から、ほぼ十四世紀までの「藝能」という「職能」の世に在り方は、中世後期といわれる鎌倉末から南北朝の頃を大きな回転期に、物凄く変容した。
わかりよくいえば、それ「以前」には、天皇や神仏のちからを背景に、むしろ普通人とは異なって、畏怖にあたる或る力・異能の持ち主たちとして「藝能という職能人たち」は、一種奇妙に選別こそされていたが、卑賎視は承けていなかった。遊女も天皇の子を産んでいたし、勅撰和歌集に秀歌がとられてもいた。牛や馬に日々触れていても、その牛や馬じたいがある種聖別されていて、そんな牛や馬の扱える人間も、むしろ公や勢威権門からの免除特権などを得ていた。
ところが十四世紀頃を境に、牛や馬も四つ足の畜生視されるようになり、それらとともに日頃在る車借・馬借の徒たちも、従来の強いて謂わば「聖別」から「人別へ、差別へ」卑賎視されはじめた。多くの職人・職能がそのように社会的な低落の坂を滑り落ち、それは或る面で、天皇や古い公家方権門の衰退と歩調をみごとに合わせていたのだった。
職能人・藝能人の聖別から差別への文化的な大転換期が十四世紀にあったと、網野善彦氏をはじめ多くの学者たちがはっきり認めている。その変換の荒波は、江戸時代を通じ、いくらか個別の復権や社会化はみせながらも、基本的に変わらなかった。団十郎であれ能役者であれ、同じであった。一匹扱いだった。明治になり大正になり、昭和になっても概ね同じで、西欧文化の輸入により西欧風の美術や音楽や服飾などには世間の向ける視線もちがったが、子弟が日本型藝能の世界へ迷い込むのを悲しまぬ普通の家庭はなかった。
文学でもそうであった。小説を書くなどということがいかに忌まわしい恥ずべき真似であったか、官界に出ようと謂うような子弟にとってどんなに唾棄される極道であったかは、たとえば芹沢光治良の雄大な『人間の運命』にも事細かに明確に証言されている。「白樺」の御曹司達は、持ち前の向こう意気と教養とで、西欧文化をかついで出て、「父兄」の反対を乗り越えた例外だが、大方は三文文士の乞食なみに見る世間と闘っていた。狭苦しい文壇と私小説とでやりくりするのが関の山であった。
映画や舞台の女優、踊り子、俳優たち、歌手たち。それがどのような扱いを受けていたかは、遊女なみに所持を強いられた鑑札にも明らかで、わたし自身じかに、優れた歌手であった淡谷のり子の口から座談会の中でそういうことを告白されていた。まさか今はそうではあるまい。
* 先ずは、すこぶる「いいこと」とわたしなどは、だから、芸能人の社会化を歓迎し声援したのである、そういう藝能と藝能職能人らの久しく強いられた身の桎梏から、やっと昭和戦後に到って、はじめて晴れやかに解放されてきた、解放されていった「時勢」の大きな事実を。
わたしは京都の街なかで育ち、わたしには何の能も無かったし縁もなかったけれど、少年以来根底に「問題視」して今も手放さないのは、「差別」「人間差別」そのなかでも分かりよくいえば「藝能差別への、不当だという怒りであった。例えば『風の奏で』『初恋』や『日本史との出会い』など、差別を強く咎めるモチーフに触れた自作は、わたしの仕事の大半を占めている。
* だからこそ、また、わたしは続発する藝能スターたちの痲薬犯罪などに怒り、また今回海老蔵の無思慮な思い上がりに顰蹙する。これら犯罪や蛮行を必然世に送った根底のモノは、「藝能跋扈」「榮爵藝人」という、どこか、かなり、行き過ぎて図にも乗った時代の潮だと、わたしは、思う。同時に真の批評家や学者・批評家たちが、十四世紀以降にまた劇的に起きている今日の「文化的な大転換」の歴史的意義を、社会史としても文化史としても鋭く動的に論究してくれることだ。
だが、気をつけて見て聴いていても、そういう気配すら無い。海老蔵のことも、ただの「事件」の一つとしてしか見られていない。
* 天皇家をはじめ皇室に関わる時代の意識が、にわかに反転逆行して、マスコミや政治家どもが率先へんな「おべっか」をつかいはじめると、またぞろ日本は「大変」期に迫られる。新井白石は歴史の流れを、幾つもの「変」の連続として観測し、批評し、把握した。
なんだかイヤな「変」が、それも古くさい「変」が身に迫る気がする。きつく御免蒙る。
2010 12・2 111
* 冒頭に掲げてある能面は、「十六」と呼ばれている。
平家の敦盛や知章らが一ノ谷合戦で戦死した年の頃を謂うており、三井永青文庫に愛蔵されて在る。
淡交社の雑誌「なごみ」に毎月趣向の短編小説を書いていたとき、撮影した。能の曲と、美術品とを選んで、二つを掛け合わせた現代短編小説を書いていた。この作だけは、題を『敦盛』とせず『十六』とした。
依頼した写真家は、能面は真正面を撮ることが多いと言っていたが、苦心惨憺して角度をえらび、わたしが「これ」でと指定して撮って貰ったのが、この希有の写真。実の能面の真面(まおもて)は、慈童や喝食にちかく、ぼっちやりと少年に見えるのを受け容れず、このような表情を苦心に苦心してじつにいわば「偸み撮り」に撮影したのである。少年を処女の面持ちで撮りたかった。おそらく多くの人が此の写真を見て女面と観てきただろう。これも、わたしの「創作」であった。
なぜ、こう撮ったかは、短編集『修羅』のなかの一編を御覧下さい。十二編、それぞれに能の曲の題をとり、残念ながら美術品の写真では飾れなかったが、函の表は此の、わたしの「敦盛」像が飾っていて、百に余るわたしの著書でも、ひときわ美しい造本(筑摩書房)である。
2010 12・6 111
* 昨日が、むかしの開戦の日だったのを、これも珍しく忘れてやり過ごした。何しろ六十九年経てきた。あの日も馬町の京都幼稚園にいた。なにごととも思わなかった。
四年後の敗戦の日は国民学校四年生になっていた。ヒロシマとナガサキの原爆も知っていた。
よく今まで生きていたなあと今は思うのである。真珠湾奇襲から六十九年もの歳月が過ぎた。生まれて以来あの日までに、わたしはどれほどの人と出会っていたろう。それと思い出せる人数は、五十人に満たない。あの日から、今日までには……。頭がくらくらする。
2010 12・9 111
* 五十三年を経てきた、今日がその日。祝意は七日の歌舞伎で、一足早くに。
* むかし医学書院で最初の上司だった歌人に<こんな歌があり、佳い歌だと思った。一字虫食いにして東工大で学生に読ませたが、作者の漢字一字、「常」を見つけた学生、ゼロに近かった。
妻の手は軽く握りて門を出づ( )の日一日加はらんとす 畔上知時
それで今度は、「常」を意味すると考える「英語」を挙げてほしいと求めた。これは、わたしも勉強させてもらった、数百人の学生がめいめいにいろいろの英語表現を提出してくれた。
そのなかに「ALWAYS」もあって、なるほどねと頷いた。映画になっていた最初の歳は、慥か昭和三十三年か四年だったと思う。五十一、二年昔で、五十一年前にわたしはまだ京都で、学部を卒業し院に入り、その前年に妻との結婚を決心していた。五十二年前には妻の学部の卒業を待ってわたしも院生を抜け、二人で東京に出て新宿区の一隅で結婚生活に入っていた。
「常」の日といえば謂えたし、鬱勃として本気の勉強をまたはじめようとしていた。あの映画の中の、作家志望青年は独身で芥川賞を狙い続けていたが、わたしは、そういう野心は持つまいとしていた。書きたくはあったが、ついに書き出したのは昭和三十七年の真夏だった。二十六歳半だった。
賞を狙うなどわたしにはハナから問題外で、とにかく、盆も正月も病気も例外とせず句読点一つでも朦朧とした「かな文字」の二つ三つであろうと書いて、書き続けて決して休まない、それで四十歳になるまでに一作でも売れたなら有り難いと。間違いなく、日々励行した。そしてまた、読みに読んだ。小説も研究も歴史も雑学も。それがわたしの、わたしたちの「常の日」であった。貧の底で、手作りの私家版を四冊造り、四冊目の巻頭作『清経入水』が、天運に恵まれ第五回太宰治賞に招待受賞した。三十三歳半だった。
* その五十三年の今日は、娘夫妻との裁判の和解折衝の用意のため、あいつぐ弁護士のメールに答え、答え、答えて過ぎた。いまはそれも含めた「常の日」に、挫けずに立ち向かい続けている。
* 死刑と求刑された裁判が、無罪と判決されていた。いったい、どういう裁判がされてきたのか。心寒い世の中である。
* そう云えば、先の、「常」一字の英語化でわたしを感心させた学生回答の一つに、「CALM」が有った。静穏。望まれる。
2010 12・10 111
* このところわたしの心性を彩り誘っているのは、歴史的な「旅」、それも「女の旅」の可能性やむずかしさ、のようだ。手がけて願っている「仕事」とも当然結びついている。後深草院二条らを含む川村学園今関敏子さんの『旅する女たち』という架蔵の本にも目を向けてきた。角田先生の『日本の女性名』上巻や、網野さんの耽読した本もふくめ、それに林晃平さんの『浦島伝説の研究』すらもふくめ、わたしは今、わたしを、ある種のカオスの靄に置いている。がまんづよく、と云うよりも深く楽しみながら、自分の「仕事」へ辛抱のいい眼を見開いているということ。取り組める時間、取り組める心的状況が欲しい。いまは、ムリか。
2010 12・13 111
* 直哉の、昭和二十二年に、異色の代表作または問題作に『蝕まれた友情』がある。よく書いたなあと驚かされもするし、ご本人ものちに「今なら書かない」と述懐されているが、直哉にしか書けない、厳しくも真っ直ぐなところが書けていて、襟を正しつつ心から共感する。少年時代には「同性愛」ほどの愛情とすこしの年長への敬意とをもって、最も互いに信愛した旧友への、じつに厳しい批判と、訣別を余儀なくされていった人生の重みとを、容赦なく書いている。
わたしの婿や娘が、いましも岳父であり実父であるわたしを、わるく書かれた「名誉毀損」だとして被告席に置いているのと遙かに比べものにならない、本質的に相手の人格にキツク触れた批評非難が書かれていて、直哉はこの旧友をいわば「似而非の藝術家」といいきっている。だが訴えられはしなかった。直哉はこの作を単行本ともしているし、繰り返し刊行していて、割愛ならない生涯の問題作なのである。
なにが友情をかくも蝕んだのか。
向こうが「藝術家として」生きていなければ、何の問題もなくそういう「人」として友情を捨てはしなかったと、直哉は言い切っている。藝術への姿勢の差が、落差が、質差が、この作の主眼なのである。それこそが志賀直哉なのである。
要所をすこし書き抜き、心得としたい。この画家である直哉旧友が誰であるかわたしは知っているが、必要がないので書かない。直哉には珍しい相当に長い「連載」ものだが、わたしに食い込んできた辺を掘り起こすように引いてみる。
☆ 昭和二十二年、志賀直哉の『蝕まれた友情』より
自身藝術家でありながら、藝術に反感を持つてゐるといふ種類の人間がある。藝術を軽蔑する事で自身、秘かに安心を得、しかも藝術の分らない人に対しては一トかどの藝術家面をしてゐるといふ連中が相当にゐるのではないかと思ふ。
「水楢(=白樺)」流の一見幼稚な感激を片腹痛く思ふのは差支へないが、それでその藝術そのものをまで嗤ふ気持ちになるのは危険な事で、それで、その人の進歩は止り、段々退歩し出した実例を僕は此三十何年間に沢山見てゐる。これを客観的にいふと「水楢」流の藝術に対する感激性は、その事自身は幼稚でも、その事の働きは案外大きく、馬鹿に出来ない。嗤はれた者と嗤つた者との間は段々隔たつて来る。
(有島武郎、武者小路実篤、里見弴、長与善郎、柳宗悦ら「白樺」の盟友を直哉は念頭に話しているだろう。 秦)
此間、広瀬勝夫が来て、今度の僕の(此の=)小説に就いて、六十越してそんな事をむきになつて書いたり出来るのは小説家以外にないだらうといつて、肩を小さく揺つて笑つてゐた。成程他の事を仕てゐる者には、ない事かもしれない。僕は一寸嗤はれたやうな気がしたが、後で憶ひ出した事だが、広瀬自身、絶交状態にあつた葛西善蔵の危篤の知らせを受け、我慢ならず、その枕元に行つて、肚にある不快をすつかり、ぶちまけて帰つて来る小説を二三年前に書いてゐた。今、死なうとしてゐる人間の枕元でその人に対する不快をぶちまけて来るといふ事は、これも正直な小説家以外にはない事かも知れない。広瀬のこの小説は世間からは誤解されさうに思はれたが、僕は好感をもつて読んだ。
僕も世間並にいへばもう老人だ。日常生活では実際年寄染みた所も大分出て来たが、物を書くとなると、さう年寄染みてもゐられず、青年染みた所もつい出てくる。
僕が坐骨神経痛で苦しんでゐる時、君は高価な羽根蒲団の包を抱へ、わざわざ我孫子まで見舞に来てくれた。その後、今度は僕の方から鎌倉極楽寺の君の別荘を訪ね、一ト晩泊つて来た事もある。君との気不味い関係はこれで、形の上では兎に角一段落ついたわけだが、肚の底からは溶け合へなかつた。君と僕とはもう住んでゐる世界が、異つてゐる感じがした。君が所謂社交的で、僕が所謂非社交的だと云ふだけの簡単な意味でもさうであつたが、それはもつと根本的に別の世界の住人といふ感じがした。
ある事は僕の誤解もあるかも知れない。この手紙を書きつつ、気づいた事は、(久しかった洋行から君が帰ったとき=)国府津での君の(僕らに示した=)態度も、若しかしたら、あれはもつと簡単に考へていいものだつたかも知れないと思つた。
このいい機会に自分が(=たまたま同車してきた)樺山さんと親しくしてゐる様子を僕達に見せびらかさうといふ、それだけの事だつ
たのではなかつたかと思つた。そし君は腕組をして反りかへり、僕に「どうだい」といつたが、あれは「どんなもんだい」と云ふところだつたと思ふと、非常に滑稽な感じがして来るが、然しその後の君を見てゐると、この滑稽な事を滑稽とせずに、それを実生活に取上げ役立たせようと仕たところに段々色々な事が間違つて来たのだと思ふ。それの通用する人間もゐるが、通用しない人間も沢山ゐる。その見境が君にはなく、それの通用しない人達から段々君は尊敬されなくなつたのだ。
奈良にゐた頃、久しぶりで訪ねてくれた。自動車の中で僕は四十九だから、未だ四十代、君はもう五十代だといつた事を覚えてゐるから、十六年前だ。上高畑の新築の家に就いて、君は「これでもう、君も安心だね」といつた。僕は嘗て、誰れからもそんな事を云はれた事がないから、一寸分らなかつた。然し、分ると、「いやな事を云ふ奴だ」と思ひ、「さう何時までも奈良にはゐないよ。そのうち又何所かへ引越すよ」と云つた。粒々辛苦、金を蓄めて、漸く死に場所の家を建てたとでもいふやうな云ひ方だ。ところで、君は実際、そのつもりで云つてゐるのだ。しかも君はそれで、僕を馬鹿にしたつもりは少しもないのだから、僕はかういふ事が始終では、これは一寸かなはないと其時思つた。
度々、同じ事を書くが、君に対し未だに旧い感情を持ちながら、僕が積極的に元の関係に還りたいと思はないのは、それが長続きしさうに思へないからだ。
僕は病気が少しよくなつた時、その礼に君の家に出かけて行った。改築をしてから初めてで大分様子が変つてゐた。その時、僕はアトリヱも見せて貰ひたいと思つたが、君は僕をアトリエへ入れなかつた。僕に見られたくない描きかけの仕事があるのだと思ひ、強ひて頼まなかつたが、かういふ事は、君ともつと近くなつた場合、どうなるのかと僕は思つてゐる。君がアトリヱを見せることを拒んだ理由が全く別なものならば兎に角、若し僕の推察のやうなものであれば、君と僕とは不完全な形でしか交はれない事になる。
アトリヱを見る、見ないは何れでもいいがいが、一番大事なことに就いて君と話す場合、僕は常にある注意を払ひつつでなければ話せないのではないかと思つた。一番触れたい所がタブーになるといふのは不自由な事だ。君と僕とは一本脚のとれた卓に肘をついて話すわけだ。憶ひ出話、世問話、家庭の話などはいいが、一番大事な話をしようとすると、其所の支へがなく、卓は不意に傾く。その角には肘をつかぬやう常に注意をしてゐなけばならぬといふのでは不自由な事だ。
神を信じない宗教家といふものがあるとすれば、君は藝術の世界でのさういふ人だと思つてゐる。君がいつそ商人であるとか、政治家であれば、そのままの君で交はる事が出来ると思ふが、藝術を信じないで藝術家といふ額縁にをさまつてゐる事が困るのだ。君は金持ちといふ額縁にをさまつてゐれば一番似合ふ人だ。此額縁に入つた君を考へると、それは少しの不調和もない。夢二好きで、その蒐集をしてゐるとでも云へぼ却つて好感が持てる位である。
君が竹久夢二の絵を大変高く認めてゐるといふ話を聞いて、一体それはどういふ事かと諒解に苦しんだ。先年榛名山へ行つた時、湖畔に建つてゐる夢二の歌碑を見、興ざめた気特になつたが、君もそれに関係してゐたのではないかと伊作のいふのを聞き、事毎にかういふ食違ひがあつてはさぞ話が仕にくい事であらうと思つた事がある。
七年前、今ゐる世田谷新町の家へ移つてから、君は二度訪ねてくれた。最初の時、僕は君がそれをなつかしく思ふかも知れないと思ひ、初めて白馬会に出した例の(僕が優れていると大好きな=)伊香保の絵を出して来て見せた。余り掛けては置かなかつたが、麻布の父の家にゐた頃から、我孫子、京都、奈良、そして又東京と、何所へでも持ち歩いたもので、四十年間、兎に角、身辺にあつたものゆゑ、僕としては、捨て難い親しみを持つてゐたものだ。僕が一寸席をほづした時、パキンパキンといふやうな音が聞えたので、行って見ると、君が濡縁でその板片(いたつぺら)の絵を足で踏み、幾つにも割つてゐた。僕はそれを見て一寸いやな気がしたが、直ぐ「どうでもいい」と思つた。然し君のこの行動は何か自然でないやうな気がして苦笑された。「代りを何か持つて来るよ」と君も笑ひながら云つたが、僕は返事をしなかつた。
僕はこんな小説は初めて書いたが、今後、再びかういふ小説を書きたいとは思はない。そして、この小説を書いた結果、君と僕との関係がどういふ事になるのか、それは成行きに任せるより他はない。嘸(さ)ぞ君は、不愉快を感じた事だらう。ある所では僕は君の顔を平手で打つてゐるかも知れない。どうか其程度で君も僕の顔を打返して呉れ玉へ。僕は我慢出来るだけは我慢するつもりだ。
鉄斎でもルノワールでも老境に入つて益々光り輝いた画家だ。文学では年をとる程、よくなると云ふ事は困難だが、精進する画家にとつては、それは可能といふ以上、寧ろ自然な事だと思ふ。君にこの事を望むのは余りに空々しい事だらうか。君と僕との関係を若し完全な形にしようといふには、それ以外ないやうな気がする。僕は画家ではないから年と共にその仕事が光りを増すといふわけには行かないが、藝術に対する信心は却々変へさうもない。君が君の持つてゐるよきものを発揮し、再び画業に精進するやうな事でもあれば、どんなに嬉しい事か。さういふ奇蹟は起らぬものだらうか。
* 高邁な藝術家精神をふりすてて、画境を精進開拓の精神を忘れた画家への、志賀直哉流の侮蔑があらわにされている。
直哉は、ここで具体的には富岡鐵齋とルノワールの晩年を称讃し、その友の竹久夢二への愛好を、「理解しがたい」と振り切っている。直哉は、白樺の時代に、武者小路らとともに印象派、後期印象派の繪やロダンの彫刻などを日本に輸入紹介した人であり、日本の古美術に傾倒のあまり、自分の愛した仏像や美術を「座右寶」と謂う豪華な大型の出版物を最高級の写真と印刷とで自家出版した人であり、近代洋画では梅原龍三郎や安井曾太郎を推し、日本画では村上華岳や榊原紫峰らを敬愛した人であった。
文学者としては云うまでもない「神様」とまで称えられた。
その人が、ひそかに少年愛を燃やしたほどの友情を、生涯かけて「蝕ませ」た告白の一冊だ。やはりあだおろそかには措けない一編であった。この画家もわたしは知っている。けっして小さくはない存在であった。だからこそ直哉のこの一編の衝撃は重い。激しい。
2010 12・13 111
* 浦島伝説の研究を読んでいて、そのつど思い癒されていることに気が付く。「水江浦島子」の神仙譚めく伝承が、時代降って行くと「浦島太郎」のおとぎ話に変貌して行く。亀と玉手箱は浦島につきものだが、亀の方は伝説・伝承のむかしとおとぎ話とでは役割がちがう。竜宮も欠かせぬもののようで、蓬莱山と竜宮が微妙に混淆している。
亀が連れて行くとそこに乙姫がいてと覚えた竜宮のお伽噺が、溯ると、亀が女になり浦島を海宮へ連れて行く。ま、千変万化のいろんな本文が伝わっている。一気に一定化したの、は明治の巌谷漣のお伽噺や唱歌や教科書から。それはそれとしても、あの玉手箱を持ち帰って故郷を失い、玉手箱をあけて老人となってしまうことも含めて、男には「浦島」を決して忌避しない本性が備わっているのではないか、奇妙に懐かしいのである。わたしだけかも知れないが。
菅総理は仮免からそろそろ本免許の総理にと喋ったそうな、愚の骨頂。総理大臣を何と心得ているのか、仮免総理などゼツタイに国民は許可していない。
こういう愚物と付き合わされていると、生きる本拠を喪失していたのかなと、むりにも玉手箱を開けてしまいたくなる。浦島は玉手箱をあけて老いかつ殆どすぐに死んでいた。通りかかった聖人により火葬され、神と祀られた。そういう伝説も多い。神にならなくてもいいが、おろかしい現世で老い衰えたまま長命するのでは叶わない。
2010 12・14 111
* 志賀直哉の「随想」というエッセイを読んだ。こういう作品にことさらに此処で触れるのは、一にはわたしの感銘を記録するのだが、一つには「書いている」「書きたい」若い人たちへ伝えたいという余計と知りながら真面目なお節介が働いている。甥の黒川創にも息子の秦建日子にも、もしまだ書きたい気があるのなら娘の朝日子にも、またいまも書いているであろう知り人らへ伝えたい。
部分的に抜粋して強調した方がいいが、そう長くはないので、全部を引用させてもらおうと思う。志賀先生は、自分の書いた者が誰にでも利用されるならそれでいい、自分の名前など二の次だと書かれていたと記憶する。わたしにはいつもそれに甘えたい気持ちがある。
昭和二十一年四月刊の「新日本文学」に発表された。「新日本文学」は中野重治、宮本百合子らの創刊した左翼思想のものだが直哉は賛助員として名を連ねていたのも注目される。
☆ 随想 志賀直哉
画描きの友達が、梅原竜三郎の絵に就いて、別に丸味を出さうとしないでも、描く人には丸味がちやんと見えてゐるから、自然に立体感が出てゐるといつた。
私も「アンナ・カレニーナ」を読んでゐる時、同じやうな事を考へた。なんでもない場面に、なんでもない人物、──百姓とか下僕とか、小説として重要でない人物が出て来る場合にも、トルストイが頭にはつきりそれらを浮べつつ書いてゐる事が感ぜられ、それ程書いてなくても、その場、その人が此方の頭に浮んで来る。絵でいへば立体感とかトーンが出るのである。
此事は法隆寺の壁画に就いても云へる。脇侍の腕は線だけで完全に丸味を出してゐる。画描(ゑかき)でないから、さういふ事がどれ程六ヶしい事か、或ひはそれ程でない事か、はつきりは云へないが、法隆寺の脇侍の腕の肉づきは何時でも空(くう)ではつきり浮べる事が出来るところを見ると、矢張り稀有な事なのだらう。
若い人に原稿を見せられ、感ずる不満は矢張りこの立体感とかトーンの出方の足りない点だ。日本の作家でも永年書いてゐる人のものには自然にそれが出てゐる。
自分の経験を云へば急いで書いたものにはそれが足りない。頭にはつきり浮べずに書いて了ふからだ。さういふものは暫く手元に置いて、何度も見直すと、段々はつきり浮んで来るので、書加へる事も出来るし、余計なものは消す事も出来る。余計なものは消す方が、却つて浮び出して来る。材料が実際の経験だと、想像で書く時よりも色々なものがはつきりしてゐて、意識的でなく、要、不要が自然に取捨出来る。
兎に角はつきり頭に浮べて書く事は大切だ。
二番目の娘が近頃、俳句を始め、未だものにはなつてゐないが、その俳句仲間から聴いたといふ話に、句が出来た場合、書いて懐中し、時々見て、一週間程しても厭(あ)きなければ、それは句になつてゐるのだと云はれたと云つてゐた。木下利玄も和歌が出来ると小さな手帖に書留め、持つてゐて、時々直してゐた。グレーが墓畔の詩を却々(なかなか)発表しないで、自分の部屋の壁に張つて置いて、一年とか二年とか眺めては直してゐたといふ逸話もあるが、小説でも手元に置いて、十日二十日してから読み直し、書いた時には漠然としか感じてゐなかつた欠点を案外、容易に見出す事がある。さういふ意味では日本の所謂ジャーナリズムは時に過酷で、もつとよくなる作品を生煮に終らす事があるわけだ。
さうかと思ふと、〆切日が来ても、書けず、一日延ばして貰ひ、一ト晩で書上げて渡したもので、それ程、不満に感じないやうな場合もある。印刷されると、自分の手を離れた感じで、さう思ふのかも知れないが、原稿の間は何時までも直したくなる。これは私が文章に不器用だといふ事にも因ると思ふ。日本のジャーナリズムに就いては、私のやうな怠けものはうるさく催促される為めに書いて、却つてよかつたと思ふ事もたまにはある。然しもう少し、作家が落着いて仕事の出来るやうにした方がいい。
「アンナ・カレニーナ」の終りの方で、トルストイはレーヴヰンで、宗教の問題、農民の問題を書いてゐるが、時代が離れ過ぎた為めか、読んでゐて退屈した。作品の中に思想を盛らうといふ、さういふ成心が藝術の神様に嫌はれるのだといふ気がした。藝術が思想の手段に成りさがるのがいけないのだと思ふ。何となく全体から、其所だけが分離する。知らず知らずの内に溶けてゐる思想はいいが、生ではいけない。生な思想は成心といつていい。漱石の「則天去私」はさういふ意味で本統だと思ふ。
作品を手段として、作者が自分で働く気になるのは本統でない。作者は謙虚な気持で一生懸命いに書く。そして働くのはその出来た作品が、勝手に働いてくれるといふ方がいい。働きからいつても、その方が遥かによき働きをしてくれる。
* わたしの感想も「引用」に添えておく。
☆ 「小説として重要でない人物が出て来る場合にも、トルストイが頭にはつきりそれらを浮べつつ書いてゐる事が感ぜられ、それ程書いてなくても、その場、その人が此方の頭に浮んで来る。絵でいへば立体感とかトーンが出るのである。
此事は法隆寺の壁画に就いても云へる。脇侍の腕は線だけで完全に丸味を出してゐる。」
法隆寺壁画の脇侍の腕の線が語られると、わたしは感嘆した。自分のかねての思いをくっきりと代弁して頂いている。
「若い人に原稿を見せられ、感ずる不満は矢張りこの立体感とかトーンの出方の足りない点だ。」「余計なものは消す方が、却つて浮び出して来る。」「兎に角はつきり頭に浮べて書く事は大切だ。」
直哉に傾倒された瀧井孝作先生もわたしにこういうことを話して下さった。
この直哉、あの直哉自らが「わたしが文章に不器用と」と話されている。そして「原稿の間は何時までも直したくなる」と。推敲こそが文才、才能なのだとわたしは思い沁みている。
☆ 「作品の中に思想を盛らうといふ、さういふ成心が藝術の神様に嫌はれるのだ」「藝術が思想の手段に成りさがるのがいけない」「知らず知らずの内に溶けてゐる思想はいいが、生ではいけない。生な思想は成心といつていい。」
鞭打たれる心地がする。そして何よりも深いのは、「作品を手段として、作者が自分で働く気になるのは本統でない」と。功名心に駆られて気負った作者はついこれをやる。「作者は謙虚な気持で一生懸命いに書く。そして働くのはその出来た作品が、勝手に働いてくれるといふ方がいい。」これこそが創作の真実だ。作者が働くのではない、謙虚に一心に書いた、書かれた作自身が存分に働いてくれるのだ。「その方が遥かによき働きをしてくれる」とは真実だ、こういう実感に充ち満ちたときこそ作品が生まれ作品が魅力を放つ。作者の苦心惨憺はその瞬間に酬われ、作者の幸福はその瞬間に光る。
2010 12・14 111
* ずうっと以前に撮って置いて何度も観てきた映画、「船を降りたら彼女の島」という、愛媛県が支援して成った作品を、前の機械を茶の間に移したので、観た。観たい具体的な目当てがあったのだが、それでなくてもしみじみと佳い作品で。木村佳乃主演の映画では最高作だと思っている。東京で編集者をしている娘が、ふらりと瀬戸内の小島に帰省してくる。両親は廃校になった小学校の校舎を民宿にし替えて静に静に暮らしている。兄は松山に出て先生をしている。娘もかつては松山の高校に通っていたという。
父親と母親とが娘よりなおなおよく描けている。父は寡黙で母は穏和にものをよく観ている。娘は結婚を告げに帰ってきているが、むかし、この島の小学校でお互いに好きだった男生徒への思い出も抱いている。
くちにがきけふの朝(あした)にめざめつつ少女と少年のむかし恋ひゐつ
頽(くづ)れてなほはなやぐ淡紅(とき)の山茶花を見すぐしかねて我はさぶしゑ 湖
両親と娘との通い合う気持ちの優しさに、思わず泣いていた。
だがわたしの映画を観ようとした目的は、瀬戸の海と島にある。そしてもう久しく手がけてきた「仕事」にある。直哉の鞭撻を心身にしかと受けながら、またまだわたしは謙虚に書き継いで行かねばならぬ。
2010 12・14 111
☆ 旅する女達
旅する女たち!! あまり深くそのテーマで考えたことはありませんでした。各地にある小野小町の伝説、更科日記の都上り、阿佛尼の鎌倉への旅、後深草院二条『とはずかたり』などこれまで読んできたものの中にあります。
現代のわたしたちが想像する以上に昔の人、昔の女たちも旅を、移動をしていたのだと記述から知らされることがあります。
鴉の指摘の、「中国人女性の古代中世の一人旅、また西欧古代中世での女性の一人旅の著名な例など」を即座に示せる知識は今のわたしにはありませんが、課題として受け止めます。高貴の身分の女の一人旅はまずないでしょうし、たとえば十字軍遠征には兵士の家族・女子供たちの集団が従っていました、ただし一人旅ではありません。
記録として残された一人旅となると具体的には極端に限定されるでしょうが、さて、どんなでしょうね。とにかく旅は観光どころか危険に満ち溢れ命がけの旅だったのですから。
旅する女たち!! 女が何故旅するかという問いから深くそのテーマを考えたことはありませんでした。わたしに限って言えば、むしろ旅の道程、出会う人やものへの好奇心・関心があまりに強く先行してきたからでしょう。他者の事例に目を向けることで、同時に自分の旅を追及することも可能、確かにそのように考えられるでしょう。しかし、わたしの旅程度では本当に旅したといえるほどの旅
ではないと客観的に思われます。歩き続けた昔の旅と異なり、飛行機などの手段で気軽に移動でき、しかもツアーなど「保障された安楽なお仕着せの旅」も含めての話ですから。現在、女一人で外国を旅しているのを見かけるのは決して珍しいことではありません。
「そしてなにより鳶の旅を性格づけている根源は何かです。」
これが実は一番厳しい問いです。改めて考えるまでもなく、未知への関心と同時に、自身の内部の更なる切迫した衝動があったはずです。それを説明することはあまりむずかしいことではないでしょう。が、あえて触れないでおこうというのが正直な気持ちです。
ごく幼い頃、小学生の頃から異国への憧れはありました。異国とまでいかなくとも知らない土地に好奇心はありました。何処かに行きたい、行きたい、と。癖という言葉で逃げ切れるものではありませんが、癖に辟易しながら、やはり癖。逃避、脱出への願望、日常生活の期限付き否定・・そしてそこに見出せる高揚、爆発。旅に限らず、故郷という根っこから離れることも、その後のさまざまな住所への変遷も、あるいは、むしろ孤立無援を願うようなところも旅への希求と同じ理由によるものでしょう。
こうして書いていると、どんなにいい加減で世に拗ねた人間かと思われそうですが、当人は到って平穏な平凡な人間。少々枠が外れて既成価値判断能力が欠如しているくらいではないでしょうか。
たとい言葉を尽くしてもこの衝動を表現できないと思います。
あまり書くと鴉と対極的に思われて、悲しい気分になります。いずれ細密な点検をしなければいけなくなるでしょう。自由に動けるだけの健康がどのくらいの年月残されているか、時間との闘いでもありますから。
とりとめなく際限なく個人的なことを書いてしまいそうになります・・。
志賀直哉の若い頃からの友人への思いを書いた短編、そして今日の随想、いずれも深い感想をもちました。
この年末年始は多忙を極めそうで、今から戦々兢々。せめてそれまで暫らくの間、楽しいことをしたいと思っています。
風邪ひきませんよう、よき日々でありますよう。 鳶
* むかし『風の奏で』と題して長い複雑な話を小説にしたとき、この題を「旅」と名づけてもいい「歴史」の意味と考えていた。人生も旅だが、人生などとまだ考えつかない少年の昔から「歴史は旅」だと想っていて、歴史に心惹かれた。「風」が歴史的なら「奏で」は歴史の歌声、あの場合は藝能が念頭にあった。
「女の旅」は今の仕事の関心ととても重なり合い、ひとつのヒントに「後深草院二条」の旅がいつも念頭にある。
この人は大納言の娘であり、母は後深草院に少年の性を手ほどきした添い臥しの貴女、いわば後深草天皇の性的な初恋の人であった。その娘と生まれた二条は生まれてまもなくから後深草に育てられ、後深草により女にされた。
その後深草のはからいで宮廷の何人もの皇族貴族たちとの男女関係を強いられたあげく、その後深草院により宮廷から追放された。その後、この人は、諸国を「旅」の境涯に流離い歩いた。
後深草院二条は貴族の女。だが、その私小説『とはずかたり』を読めば、彼女が貴族的であったかと読めるのは、遊女達の宿、宿を縫い歩いていた後半生であり、宮廷にいて天皇に寵愛され玩弄され貴族らの相手をしていた時期の方が、むしろ遊女のようであった。そして遊女が貴族的であり得た歴史は、日本では決して短くなかった。天皇や貴族の子を産んで、教養豊かに勅撰和歌集にも和歌を採られた遊女は珍しくない。教養素養だけでいえば江戸の花魁がそうであったではないか。女の旅といえば、奈良時代既に遊行女婦がいた。小野小町も和泉式部も遊女とよばれた「うかれめ」であり、小町や和泉にとどまらず清少納言にも遍歴の伝説がある。
* 旅する女達にはよかれあしかれ遊女の魂が宿っていた、日本の歴史だけで観れば。
今日、女の一人旅はグローバルな範囲で珍しくないが、いまもなお当然かのように危険もともなうと報道が繰り返される。日本の過去では、女一人の旅を男の襲うことは「めとり」と呼ばれて禁じられながら黙認ないし公認されていた。さればこそ女の旅には実に工夫と防備と覚悟が必要だった。後深草院二条の旅は奇蹟を縫い取るほどの難しい、而も自由闊達で誇り高い旅だった。希有も希有な象徴的な旅人。
2010 12・15 111
* 寒い日だった。心身とも縮んでいた。心も寒いとき、今も折しも機械のそばに『浦島伝説の研究』があり、煙草代わりというよりも、半ば逃げ込むようにこの本を開いて心を癒している。「浦島子」であれ「浦島太郎」むであれこの噺は、亀でも竜宮でも蓬莱山でも玉手箱でも、ずいぶんいろいろのことを思わせる。
「玉手箱をあける」という浦島の行為はこの伝承ないしお伽噺の行き着くクライマックスであるが、これの受け取りよう一つでこの話が悲しい噺に落ち着いてしまう印象は避けられなかった。竜宮の姫の、立ち去ってゆく男への悪意かのようにすら取れた時もあった。だが、そうなのであろうか。
愛、ないしは根源のいたわりではなかったろうか。故郷故人を悉く喪失した浦島は、それでも若くて力ある男のママさながら異郷に生き延びたかったろうか、と、そんなことも想うのである。
竜宮の女は、愛といたわりとで浦島を「死なせて」やったのではないか。現に幾つもの伝承やお伽噺では浦島はそのまま死に、葬られて神と祀られている例がある。神になるならぬはどうでもいいが、老いて死ねたのは浦島のためには極上の救いではなかったか。
* 浦島子ないし浦島太郎の境涯を、夥しい伝承や文献とともにたどっていると、言語道断な小沢一郎の我が侭勝手な横紙破りも、仮免総理が率いる民主党のなさけない有様も、あるいは海老蔵事件のなさけないカケヒキも、通学バスへ刃物をもって乱入した「死にたい男」の無道なニユースも、借りた金が返せない主婦達を売春の巷に誘い込む業者のあくどさも、そうした事件の背景になっている日本の政治のダメさ加減も、みな、いっときでも忘れていられる。是もまた情け無いことだ。
* さ、こういう日は、はやく寝てしまおうッと。それも出来ぬ人は本当に気の毒だ、が、幸い出来るのならそうしよう。玉手箱を開けて結着がつくぐらいなら、わたしは玉手箱をあけるのを悲劇だと、今は少しも思わない。
2010 12・17 111
* テレビ画面がまた一段と横に広くなって、大きな自然の写真はひとしお楽しめる。アメリカのパームスプリングスなどを観光案内している若い女性の話を聴いていた。
横顔も正面からも好感の持てるいい表情なのに、舌ったるい「甘えた喋り」なのが興ざめで、「わあーっ、スゴイかわいい」などと叫ばれるとうんざりする。
「スゴイかわいい」って何なんだ。お岩さんが愛らしいのか! 「すごい」と「かわいい」としか批評語、感想語をもっていない現代の日本人、そして若い人の当たり前な「甘えた喋り」。「凄い」とは、肌に粟立つ怕さをともなう感動であり「可愛い」とは正反対。それの混合するのが或いは「面白い」とも謂えなくはないが、はなはだ貧しい表現でもある。
* 日本語は、これで多彩な批評語をもともともっている。むかしに、『京のわる口』という一冊を出した、あれはみな京都市民の日々の「批評語」批評であった。『日本の批評語辞典』がなぜ研究意図ももって実現されないのか、私は今も物足りなく心寂しい。
* 上のナレーターは、なかなか感じのいい子だった。あのきりっとした表情にふさわしい大人しい話し方が出来れば、立派なのになと惜しい。すぐアトヘ、大好きな美人の「ヤマナさん」(これは昔々のドラマの役の名前。その方で覚えてしまった。)が話していたのは、ふさわしい話情の味であった。美しく落ち着いて話せる女性にこそ惹かれる。
2010 12・18 111
* 電車でも「リオン」でも、つい読みたくなるのが、持って出た『中世の民衆と藝能』で。前半に序章、中世「民衆」への視点と中世「被差別民」への視点と、十九編の「職能」論攷、後半に筆者達の座談会、「中世被差別民史への視点」という構成、曾てはこういう本がどんなに欲しくても、読みたくても、手に入らず読めなかった。この本は一九八七年一月の三刷本を買っておいて、取って置きに書架に入れていたのを、十数年もして読もうというのだ、つまり次々手にしてきた類書を先に先に読んでいて、最新が網野善彦の『中世の非人と遊女』だった。
十数年の内にこの方面の研究はめざましく進んでいる。今日読み始めた十数年前のこの本は文字通り魁の一冊であるが、それより以前に手にした、法政から出た『河原巻物』なども熟読して多くを学んだ。創作の色々に役だった。もう「役に立てる」という意識は強くないけれど、必然役に立つのだろうと感謝しながら頁を繰っている。早く読みたいという気が沸いている。
ちなみに取り上げられている各論の題目は、「清目」「田楽一」「田楽二」「山水河原者」「千秋万歳」「犬神人」「傀儡」「皮づくり」「猿楽」「葬送」「松囃子」「犬狩」「声聞師」「曲舞」「壁塗」「狩人」「節季候」「陰陽師」「癩者」。錚々たる当時気鋭中堅の歴史学研究者達が筆を振るい熱弁で語っている。恐らく、あっという間に読んでしまうだろう。
* 「女文化」という新しい言葉を用いて「十二世紀」をわたしが語ったのは、一九七三年の、書き下ろし美術論でだった。「裏文化」「裏社会」の存在に目を向けない歴史記述の大きな片手落ちを衝いたのは、六九年に受賞してまもなく、「消えたかタケル」を書いた頃だ。少年達のために『日本史との出会い』を書き、中世の表裏を、裏を、語って、「こういう歴史をこどものころに習うべきであった」と大勢の知識人からも云われたのが、もう幾昔も前になる。ようやくそんな頃から、歴史家たちも本格の民衆史研究へ立ち向かい、歴史学の表情がすっかり変わってきた。「タブー」をむしろ力強く解禁していったのも、現代の民衆だった。上に云う本の編集主体は、「京都部落史研究所」である。そうあるべき時機が来ていた。
この方面への私の関心は、京生まれ京育ち、少年の昔からほとんど揺るがなかった。ことに、この本が帯の背に大きく書いている「今、なぜ芸能か」は、戦後少年の私には目を逸らすことのできない命題の一つだった。長篇『風の奏で』(文藝春秋)『初恋 雲居寺跡』(講談社)などが明かしている。そして。
同じ関心は少しも失せていない。
* 志賀直哉の「シンガポール陥落」は昭和十七年二月十七日にラジオ放送され、よく三月の「文藝」巻頭に同題の谷崎潤一郎の文と並んで掲げられた。編集後記には「両氏の心からの喜びの言葉を得た」とあるが、全集に初めて取り上げられたのは昭和三十一年十月。ぎりぎりいっぱいの一文、是が時代との微妙な交点であった。内村鑑三の精神の弟子である直哉は戦争は大嫌い。終戦に導いた最後の総理『鈴木貫太郎』への一文にも、「終戦」を期待して日々に情報を求めた直哉の日常が露骨なまで現れている。戦争真っ最中の『『嵐ヶ丘」に就いて』(十七年二月 東京日々新聞)、幕末の川路聖を称讃した『わが欲する書』(十九年八月 日本読書新聞)、確信を語って縦横の観ある『美術雑談』(二十年三月 美術)などに、人物志賀直哉の内面世界の健康さと落ち着きと大きさが紛れもない。いささかも時代の乱暴に直面して血迷っていない。見苦しかった文化人達は多かったのに。
特に敗戦直後の二十年十二月十六日に朝日新聞に書かれた『特攻隊再教育』そして翌三月の「改造」に発表された『鈴木貫太郎』は、議論も有ろうけれど、立派な達識と平生心とで揺らぎなく、敬服した。わたしは殊に政府の無思慮を攻めた前者での、青年と未来日本への愛と当然の憂慮とに打たれた。直哉の憂慮は、のちにわたしも共有しつつ、不幸にも時勢を大きく歪ませた真因の一つを衝いている。優秀であったろうあまりに大勢の若い人たちを無謀極まる死なせ方をした。敗戦直後に攻めても打つべき手を打たなかったのは明白に日本政府の咎であった。
* 松本清張の『小説日本藝譚』で例えば世阿弥を読んでいても、遅くも平安末から鎌倉時代を通じての呪師と猿楽者との分け持ってきた伝統やその「きよめ」という藝の性質や、それにともなう差別と賎視の差異や実際などには、ほとんど知識も観察も及んでいない。ただもう藝術と将軍権力いう視点からだけ世阿弥とその徒との運命が語られるに止まっている。歴史に踏み込むことの他の作家より本格であった清張にして、そうであり、味わいは薄い。
* 『中世の民衆と芸能』後半の座談会、頗る面白い。
2010 12・18 111
☆ 遠 様
しばらく振りです、お変わりありませんか?
明後日のお誕生日おめでとう御座います。
色々とご活躍、うれしく思って居ります。
時々「私語の刻」開けて居ります、特に歌舞伎の項に力が入ります。
私は、春より体調が悪かったのですが、今は、何とか無理をしない様にしております。
今年は特に紅葉が美しく、東山連山歩いて来ました。
懐かしい写真を送ります。
新しい年に向けてお互いに健康であります様に!
無茶せんと、お元気でね! 翔
* ありがとう。この人もわたしから初めて茶の湯の作法を習った下級生で、作法の姿・形のいいこと飛び抜けていた。お茶の先生をしているかとも伝え聞いていたがさだかでない。お子さんがあるとも孫があるとも知らない。わたしが東京へ出てきて以来、数十年顔をみないが、「湖の本」はずうっと応援してくれている。学校友達では、中高校時代の人がいまも数多く応援してくれる。
懐かしい写真、か。歌の中山紅葉の清閑寺、石段を登っての二脚門。この人が初めて連れて行ってくれた。後の後の後に、新聞小説『冬祭り』のラストーシーンにこのお寺を大事に使った。
そして紅葉の照った清水寺の舞台。懐かしい。いま、清水寺、清水坂にゆかりの小説を書いている。『能の平家物語』の「熊野」にささやかに予告がしてある。
2010 12・19 111
☆ 風、お元気ですか。
風邪の症状は、ファイナルステージです。
今シーズン、二回も引いてしまったから、もう引きません。
網野本、かなり専門的ですね。はじめて聞く用語がたくさんあります。
勉強しがいがあります。
風、いつものようにたくさんの本を並行してお読みなのでしょうか。
花も、風の真似して(風ほど数多くはありませんが)、いつも並行して数冊読んでいます。
さてさて、花は、先日BS2で放送のあった「日めくりタイムトラベル」を見ました。
「昭和33年」が特集されると予告されていたので。
赤線完全廃止の年です。
赤線のトピックには、少ししか触れられませんでしたが、代わりに、テレビ番組「月光仮面」製作裏話を興味深く聞きました。
戦後、アメリカ文化がどんどん入って来る中で、コンテンツ不足の日本のテレビ界は、アメリカのドラマを、貴重な外貨で買い入れ放送していました。
だったら日本で作ってやろうじゃないかと、川内康範は思ったそうです。
映画全盛期に映画会社と専属契約している俳優は使えず、大部屋俳優に声をかけ、少ない制作費ではじまったドラマが、またたく間に人気番組になりました。
シンプルな筋書き、月光仮面の悪人たちへの説教臭い台詞、など、今見ると、完成度は決して高くないけれど、「正義は勝つ」なんてことを、当時の子供たちは「月光仮面」に教わったといいます。
クサいくらいの月光仮面の正論は、眼の前の悪人の向う、未来を担う子供たちに向けて発せられていたのだと思います。
現在、そのような志の感じられるテレビ番組があるだろうか、と考えさせられました。
また、川内康範の死後、遺産を相続した息子さんが、インタビューに答えていました。
息子さんの幼いときに離婚し、母親の元で育った息子さんは、生前川内康範とは交流がなかったそうです。
父親に対してはいい印象がなく、もらっていた手紙も、未開封のまま置いておいたそうですが、遺産相続をきっかけに、開封してみると、そこには、確かな息子さんへの愛が綴られていました。
「君が成人したら、僕のことをいくらでも批判してくれ」というようなことも書かれていました。
息子さんは、「月光仮面」放送当時、11歳。
ひょっとして見ているかもしれない、会うことのままならない息子への、川内康範からのメッセージだったのかも知れないと、息子さんは、声をつまらせていました。
芹沢光治良の『死者との対話』を思い出しました。
かけがえのない愛する人へ語りかける気持で創作すること。
そのように創られたものが、時代を超えてゆく。
ウン、ウン。ではでは。 花
* わたしもチラと「昭和33年」を見掛けたが、月光仮面が出てきてテレビの前から離れたのだった。学部を出て院に入る年だったから、月光仮面とは縁がなかった。主題歌だけは耳にして記憶しているのだが。子供達のまだお唱歌合唱スタイルの歌であった。
あの手のモノでは、テレビではないが映画や紙芝居に「鞍馬天狗」や「怪人二十面相」などが先行していて、新時代の焼き直しとしか思わなかった、今もそう思う。
作者父子の胸に迫る因縁については、わたしにも体験があり、敢えてワキに置くが、「「正義は勝つ」なんてことを、当時の子供たちは「月光仮面」に教わったといいます。クサいくらいの月光仮面の正論は、眼の前の悪人の向う、未来を担う子供たちに向けて発せられていたのだと思います。」と「花」さんは肯定している。そうかなあ。
昭和三十三年生まれの人は、当然「月光仮面」は見ていない。見ていたのは当時五、六歳からせいぜい十歳、敗戦前夜ないし戦後早々生まれの人達であり、その世代は現在只今の日本ではほぼ仕事を「上がった」初老世代、つい昨日まで働き盛りだった人達だ。しかし、この人達が「日本」を任されていた戦後の五十年体制の中で、行政に、司法に、立法に、また企業に、マスコミに、どれほどの「正義の味方」という生き方で働いていたか、大いに大いに疑問だ。子供に対して「正義の味方」を押し出すのはケッコウで悪いことでないが、その子供がもう青年になったときはきれいさっぱり「正義の味方」であることに背いていたではないか。正義は行われ難く、各種の不正に根を生やしたバブルが栄えて潰れた。
「正義の味方」なんて、そんな口舌(口舌)は、うわすべりな口説に過ぎなかった、何の役に立ったとは見えていない。時代はますます悪くなった。便利になったというだけか。彼ら「月光仮面」児童が、青年時代より成人して親になり管理職になる頃には、ますます日本は精神文化的にはひどくなっていたではないか。所詮、低俗に作られた娯楽は消耗品であり、本当に一人一人の人の真に励まされたモノは、そこに生まれた深い感動で自身の内面や行為を律したモノは、ホンモノの価値高い藝術美術文学演劇等であったろうし、優れた人の優れた生き方から励ましと努力への糧を得た。また、美しい自然の静謐や、歴史からの恵み物から宝を得たのである。
「月光仮面」の懐かしい人達がいて自然当然であるが、それに類似した物は、どの世代の人達にも存在する。懐かしいこととそれが人生を励ました鼓吹したと謂えるのとは、異なったまるでべつものである。違うのである。
「現在、そのような志の感じられるテレビ番組があるだろうか、と考えさせられました。」という感想にも、わたしは、頷きにくい。そういう類似品なら幾らも在るのかも知れないし、在る無いの問題でなく、ほんとうにそれは「志」と謂うに値した意図かどうかが問題だろう。「志」とは、言語の尤も崇高なエッセンスである「詩」と、同意義をもっていた。凡千万の作物のなかで作品という品はその「詩」「志」で成される。それは「正義の味方」というような幼稚な概念からは生まれていない。
もっと露骨にはカネ勘定の受け狙いで企画されてきた広義の興行ものは、掃いて捨てるほど在る。そのどれが時代の「志」を成して人を奮い立たせたか。在る。かならず在る。が、ちょっと十、二十とはなかなか容易に思いつかないだろう、誰にでも。むろん、連日連夜の殺しドラマでも、正義の味方として悪を憎んで創っていますと謂えるのであり、たしかに中にはすばらしい作もある。だが、すばらしい作であればあるほど「正義の味方」などと概念的な姿勢では創られていない。概念が思想の顔をしても、人は、子供ですら動かせない、ないし悪く悪く薄く動かしてしまう。
謂うまでもないそういうのを「成心」と謂う。「成心」とは、前もってこうだと決めてかかっている心や姿勢、先入観、下心、せいぜい心中に、はなから目論んでいた気構えである。人を無心の内に感動させ、しかもそれが沈澱して人生に資するほどのものは、安直な成心からは生まれない。
大人が子供に向けて「正義の味方」型の説教をし始めるときは、危険なのである。そんな模型は小学唱歌にも童謡にも演歌にもあった、露骨な顔をして。
☆ 志賀直哉 若き世代に愬ふ(日本ペンクラブでの挨拶) 昭和二十二年六月二十六日より
日本は此戦争で若い人々を大量に殺してゐます。これが十年、二十年の後、人物の貧困時代として露はれるのではないかと私は心配して居ります。さういふ時代が実際、眼のあたり来た場合、吾々は手のつけやうもないと云ふやうな、変な空虚な感じがするのではないか
そして、今の世相は既にさういふ時代が来つつあるやうな印象を受けます。
* 直哉が会長として講演会で挨拶したこの年ぐらいに生まれた人達が、十歳前後で「月光仮面」を見ている。作者の「正義の味方」を将来に待つ成心と、直哉の戦争から受けとった日本の未来への不安とは、どちらが的を射ていたか。明瞭である。
2010 12・22 111
* 実を云うと、かなり長期間、わたしは昨日の誕生日にひょっとして頓死するのではないかと想っていた。べつに何の謂われ因縁があるのでもない、瀧さんが書いていたことに通うかも知れぬ覚悟を抱いていたのである。昨日も、日付が変わるまで起きていて、そのことは忘れていなかった。バカなことだ。
* 機械の前にメモがあってどうも気になる歌の半出来が書いてある。なぜかこの秋から冬へ、美しい山茶花のことをよく想った。
くづれてなほはなやぐ淡紅(とき)の七重八重山茶花の夢をみて愛(かな)しけれ 湖
2010 12・22 111
* 小説では、例へば繪の富岡鐵齋の場合いのやうに晩年程段々よくなるといふやうな事は、仕事の性質上おこらないのではないか」と志賀直哉は『坐右寶刊行会版「暗夜行路」あとがき」を書き起こしている。鐵齋の例はこれ以上ないほど的確である。が、画家の話は別として、此処で直哉が「仕事の性質上」と書いているその意味はどう説明すればいいか。
直哉は明らかに『暗夜行路』以後も以前も長篇を書かなかった。また年老いて小説が円熟したという評価はしにくい。円熟したのはその「人」であり、これは目出度いまでみごとであり、美しくすらある。
だが藤村は晩年に『夜明け前』を書いた。生涯をまさに代表して揺るぎない名作だ。谷崎も晩年へかけて『夢の浮橋』『鍵』『瘋癲老人日記』を堂々と積み上げていった。鏡花も漱石も秋声も花袋も。にもかかわらず、直哉の謂う「仕事の性質上」には解明の待たれる文学論の要所が示されている気がしないでもない。いやそれは「白樺」の人達にあらわれた通有性かも知れない。実篤も里見も長与も有島も。
藤村は「白樺」の人達は、「そのうち仕事が苦しいところに来ると、皆、やめて了ふだらうと云つてゐたさうだ」と直哉は『細川書店版「網走まで」あとがき』に何をバカなという口調で書いているが、たしかに「白樺」が意気軒昂の頃は、「可恐者知らずであつた。敬意を持つてゐたのは夏目漱石位のもので、鴎外でも藤村でも秋声でも眼中になく」というのが実感だったろう、が、わたしが尊敬する三人として受賞時のインタビューに名をあげた「藤村、漱石、潤一郎」の豊饒と雄大とは「白樺」派は及ばなかった、が、直哉の『暗夜行路』は三者に優に並んで丈高く、武郎の『或る女』実篤の『真理先生』善郎の『竹澤先生といふ人』それに里見弴の長命と活躍は印象的であった。
それにしても藤村のすこし底意地のかかった眼力も、凄い。
2010 12・23 111
* ところで、余儀ない要事の一つともいえるが、『かくのごとき、死』を、打ち込んで丁寧に読み直し始めた。孫やす香を痛恨哀惜の「挽歌」として出版したが、わたしを被告として訴え出た娘と婿とは、執拗にの著作を攻撃してやまない。やす香両親への名誉毀損であり亡きやす香への侮辱であるという。販売も配布も再刊も許さないという。裁判所が斡旋の和解にも決して応じないと云うらしく報告が来ている。
* はたして、この日記文藝の、何が、何処が、娘や婿への名誉毀損で、愛しい孫の尊厳を傷つける侮辱であるのか、もう一度、自分の目で確かめたい。そして、もし、よろしければ、このホームページにアクセスし続けて下さる国内外の大勢の方にも、どうかもう一度、読み確かめて頂きたいと切望するのである。この一作は、作家秦恒平のやす香を記念するかけがえない「著作」「創作」であり、「文藝表現」である。これが許されなくて作家は、創作者には「何が在る」といえるのか。
* 口はばったいが、もう半ばを読み進んで来て、謂わば「孫娘の死と作家の一夏」を内容とする、文藝古来の此の「挽歌」、少しも恥ずかしくない日記文学に成っていると想う。
どうか原告に近くおられる青山学院大学や早稲田大学近縁の先生方、学生諸君達、またお茶の水女子大・高校の人達、また町田市民や教員委員会の人達、ご親族の方達に、ぜひ原告側に立って頂いてもよいので、心静かに読んで頂きたい。孫を愛し娘を労り想う祖父の、父の気持ちに、邪慳や悪意があるかどうか、忌憚なく呵責なく読んで頂きたい。ご意見を聞かせて頂きたい。
もう二三日のうちに、此処に、このファイルに、ほんの極く極く若干の修正も加えて、一挙、全掲載します。私語の日記は、ファイルを通例の移管先に移して、便宜、年内、書き継ぎたい。
2010 12・23 111
* 「完全」にもいろいろあるから、わたしも「完全」を求めて頑張ったことが無くはない、例えば学校時代なら「100点」満点をめざした。あれには、では次は110点をということが無いから、「もっと」「もっと」という「悪しき完全の自己呪縛」には陥らなかった。
「もっと」「もっと」の「完全」を求め始めると、人はけっして満ち足りるに至らない。
そういう「上」や「先」の向き方は、人を貪欲にし、下品にし、神経症にしてしまう。バグワン流にいうと、「期待があるので絶えず比較し続け、絶えず物足りなさを感じ」てしまう。だからこそ進歩するのだと「社会のシステム」は盛んに人を煽るが、人は絶えず到達できない物足りなさだけを抱き込み、心身を奔命に疲れさせ、失望で縮んでゆく。
「いま・ここ」に立てず、「あす」にばかり生きようとする、それがすばらしいというモラルが普通出来ているが、「あすなろう」という思想は、カッコよげであっても、結局人を心身共に疲弊させてしまう。「あるがまま」に生きるのでなく、「斯く在れ」「そう成れ」と人にも強いられ自身も自分に強いる。人にまで強いる。だがそんな「完全」指向は、日光を負うて自分の影を踏もうとするように、永遠に逃げてゆく。途方もない失望が背中で重く重く膨らむ。だが、万人の大方全てがそういう社会や世間を「いいシステム」と錯覚していて、もしそんな世間で、日々「いま・ここ」にありのまま生きようとしたりすると、だれからも却って非難される。みながそれをナマケモノだと反対する。そのお蔭で世界はたいへんな苦しみを負うているとも気が付かずに。世の中の心身の問題の九九パーセントは、「完全でなければならない」という途方もない態度に起因しているとバグワンが云うていたのに、わたしは賛成する。こういう馬鹿馬鹿しさは落とさねばならない。「多くの病気は、もしこの「完全になるという馬鹿げた観念が消失すれば、自動的に消え失せる」というバグワンの曰くには意義がある。
不完全さこそものごとの在りようだし、美しさや、成長や、自然な流れの基底である。
2010 12・24 111
* 滝壺へ身をなげるようなことを自分がしつつあるのを、わたしは、今にして自覚しているのではない。小説というものを書き始めたときから、そういう覚悟であっただろう。「書く」というのは、そういうことだ。
* 「法的に争われることと、「真実」とは、別の次元にあるということを、風を想う人たちは理解していることを、忘れないでくださいね。」と、一昨日の「花」さんのメールにあった。裁判沙汰に持ち込まれた瞬間から、わたしはそれを受け容れている。その上でわたしはい
わば、闘ってきた。
上の、読者であり友である人の言葉は、云うまでもない、「法的に争」うときには、わたしの思いとはまるで別の形式論理、たんに条文的な論理が働いてくることを示唆していると。承知している。
いわゆる「アカの他人」との法的な争いではない。
わたしは、原告らの実の父であり実の岳父であり、死なせた孫の祖父である。孫はガンで病死した。わたしは祖父として一作家としてその死を哀哭し、挽歌としてそれを言葉で彫刻したのである。それにより、どれだけの人達が孫の死へ、愛ある心をそそいでくれたか。それが「文学」なのである。死んだ孫は祖父の気持ちを汲んでくれていると信じたい、彼女自身が全身の苦痛を振り絞って「mixi」に日記を書き、白血病だとも、間違いでした肉腫でしたとも公表した。原告らもそれを阻むどころか、死の見送りをも「お祭りお祭り」と「プロデュース」していた。
わたしが彼らのプライベートを公表したのでは、決して無い。わたしは、ひたすら孫に哀哭した。万葉の昔からの「挽き歌」だ、それが。
2010 12・25 111
☆ お元気ですか、風。
元気は元気ですけど、咳が出ます。
昨日は、咳のせいで、ひどく消耗しました。
今日はだいぶいいけれど、少し苦しいです。
整えて呼吸するよう気をつけています。
それでも明日は予定どおり夫と小さな旅に出かけます。明日になれば、もっとよくなると思いますし。
昨日今日と、富士山麓はものすごい風が吹いていて、冷え込んでもいますので、明日も防寒をしっかりして行きます。
直哉ら白樺に対する藤村の予言、そのとおりになりましたね。
とても興味深いです。
藤村のように、常に後ろに道のない人と、「生活費はどうやって得ているのだろう」と、まず不思議に思ってしまう小説を書いている直哉との違いもありましょうか。
藝術家は晩年に向かって成熟してゆくのが当然の考え方と思っていましたが、「仕事の性質上」起こらないのではないか、と書いた直哉は、小説をどういうものと捉えていたのでしょうね。
ではでは。
今季の風邪は咳がつらいですから、ひかないでください。 花
* 「藝術家は晩年に向かって成熟してゆくのが当然」かという問題は、簡単ではない。「成熟」という言葉で云えば、「老年」との闘いは容易でなく、よく云う、佳い意味で「枯れて」ゆくのを成熟というならべつだが、富岡鐵齋の達成などはむしろ驚嘆するしかない異例ではないか。画家の場合は幸せに成熟し大成達成する人が少なくない。
しかし文学の場合雨月物語が春雨物語に「成熟した」と強弁すれば謂えるだろうが、印象はいい意味で「枯れ」て達成している。
芭蕉の俳諧などが「成熟」と「達成」の極と謂えるかも知れない、俳諧や和歌短歌にはありえても、小説家の場合、直哉の、ためらった表白は存外に正確で適切なのではないか。
むしろ「藝術家」は晩年にむかって「人間」として成熟するのではないかとなら、理想的に謂って直哉のようないい実例がある。露伴や鴎外にも感じる。漱石にも感じる。潰れて行く人もある。三島も川端も太宰も。文学も痩せて行く。
潤一郎は、その点、豊かな大輪として咲ききって亡くなったと思う。
2010 12・25 111
* サンデーモーニングの話し合い番組を比較的健康で落ち着いたトークの故に信頼している。今朝の「特集」の話し合いには、つくづく身に迫るものがあった。
日本の、アメリカの、崩壊的な惨状。「豊か」と云うが物的充足と便利を求めるだけで、内なる深まりや安定とは関係なく、ひた走りに走ってきて、多くの人は孤立感に陥り、勝ち組意識の人達には福祉のセンスなく、家庭も家族も肉親も酷いほどバラついている。番組を聴いていて特徴的だったのは、愛、愛情という言葉が、誰からも一度も使われなかったことだ。
* 恋愛出来ずに、「付き合う」という言葉一つが即ち「性関係」の簡便な同義語となり、「付き合い」を求めるばかりの若者がうようよしはじめた頃から、へんな時代は加速してきた。いまや恋愛はおろか豊かに深みのある「性関係」すら払底しているのではないか、じつに簡単に付き合って別れ、また付き合って別れている。
愛情が人間的なものでなく、動物以下に生理的な一過性欲望だけに無化しているようだ、大学生達と接し始めたころ、わたしはしばしば彼らの恋の貧しさと不器用さに驚かされた。
* 滋賀県の久しい読者から、例年のように近江の名酒と、自家特製の梅干とを頂戴した。有り難い熱い読者であったご主人が、湖の本が始まってまだまだ早い内に病気で亡くなった。この人は、梅干しなどを漬け込む名人だった。奥さんはその遺志と技とを引き継いで、毎年丹精の梅干しを送ってきて下さる。「湖の本」も愛読し続けて下さっている。
* 社会にも家族や家庭の中にも人と人との繋がりが崩落し、孤立感と不安に苛まれている今日に、「湖の本」を介して、「仕事」を介して、おかげでわたしたちは、本当に豊かな気持ちに触れあって心豊かに日々過ごすことが出来ている。「湖」は広くはならない、狭まり続けているとも云わねばならないが「深く」なっている。感謝している。
「身内」という独特に意味づけたことばをわたしは文学的に久しく抱いてきた。書いてきた。創作や文章を介した「いい読者」「ありがたい読者」と「作者」の間柄こそ、「身内」というに一等近いという措信と愛とが、即ち「湖の本」という表現なのである、わたしにすればそれが渾身の「創作」であったのだ。
2010 12・26 111
* 直哉を読んでいて、彼の曰く、なにかのおり、ふっとこれは「形見分け」を考えているのだろうかと自問している文句があった。直哉に比すべくもないけれど、直哉であれわたしであれ、間際になってはそんなことは不可能であり、やはり心がけているということ。分けておいてから長生きするのはケッコウなことだし、惜しむことは無い。身軽になる、「落とす」ということは、身の垢を落とすに同じい。そうできれば、ずいぶんラクになるかも知れぬ。
この先、たぶん間違いなく日本ペンからは解放してもらえると思う。後期高齢ということで、健康保険も文藝家協会から強制的に離されたし、印税・原稿量のある稼ぎ仕事は一切引き受けないでいるから、税金のために協会に籍を置く必要はなくなっている。稼がなくても文学の「仕事」は十分出来る。
ま、とはいえ現役作家としてよほどの被害に遭うときは協会に助けて貰わねば。期待したい。
2010 12・28 111
* 短い物だから一編全部頂戴したいが、何故此処への意味がボヤけるかなと。やはりわたしの引用で摘録し、翫味したいと思ったが、途中割愛しにくかった。胸にぐっと来たところ、を太字にしてみようか。志賀先生ごめんなさい。
☆ 志賀直哉『若い文学者へ「文学行動」の同人への談話』 昭和二十四年十一月 より
僕達が白樺をやつた経験から云ふと、文学の仕事も一人で孤立してやつてゐるよりも親しい仲間で一緒にやつた方が、何か自然に盛りあがつて来るものがあつて、それが一つの力になつてお互に競り合つて進歩するやうに思ふ。 (略) 然しこれも単に文学上だけの仲間といふのではそれ程効果はないかも知れない。白樺でも仕事(=文学)の話ばかりしてゐたわけではなく、絶えず行き来してよく遊んでゐた。白樺は一つの運動のやうになつたが、一人々々皆別で、旗印を持つた仲間ではなかつた。皆自分自身の満足の出来るやうな仕事をやらうとしてゐた。
時代々々で、色々旗印をかかげた(文学=)運動があつたが、足跡を残したものは少い。矢張り中では自然主義運動などいい方だつた。いい作品が余りなかつたのは、少し淋しいけれど。
最近でも旗印のやうなものをそれぞれかかげてゐるやうだが、中には随分俗な考へを平気でいつてゐるのがある。四等国文学になつて来た。作家などでも俗な考へを臆面なく云ふし、面倒臭いからか、それをやつつけるやうな人もない。
批評家は批評家で色々な色眼鏡を工夫して、何か云つてゐる。藝術品として、その美しさを見ようとしない、全体として、そのままで、その作品を鑑賞しようとしない。作品は批評家の方から出向いて、虚心に見るべきで、作品を自分の方へ持つて来て、手製の物差しで、寸法を計つて、かれこれ云ふのはつまらぬ事だ。さう云ふ物差しも、ときどきの流行で随分変つた。四十年近くそれを見てゐると、自信のない為に、さう云ふもの(=批評)に引ぱられて自分の仕事の上で迷つてゐる人(=創作者)を見ると、まことに気の毒な感じがする。引つぱられずにしつかりしてゐることだ。さう云ふものに対しては頑固にやつて行く事だ。(創作者は=)何所までも自分自身の問題で、ものの考へ方に柔軟性を失はぬやうに心掛けて、自分の要求をどこまでも追求すべきだ。批評家の考へ方に引ぱり廻はされるのは却つて非常な廻り道になる。
それから、自分が創作家か、文筆業者かを明瞭りさして置く必要がある。かうジャーナリズムが盛んになると、その点が曖昧になる。かう云ふものを何枚位書いてくれと云はれて、(ジャーナリズムに注文されて=)無理にひねり出して書くのは文筆業者の仕事だが、僕でも断りにくくて、時に書く事があるが、なるべくやりたくない。そんなものは自分の仕事にならない。しかも専門の文筆業者のやうに手取り早くは書けず、創作する場合と同じ位の労力が要るのだから馬鹿々々しい事だ。
バルザックが親父に文学を仕事にしたいと云つたら、文筆業者になるといふ意味か、マスターになるつもりかと訊かれ、勿論マスターになるつもりだと云つて許されたといふ話がある。また(日本の声楽界の草分け=)柳兼子さんが.、ぺッツォールド夫人に歌うたひになつては駄目だ、藝術家にならなければいけない、と云はれた事があるさうだ。これから創作家をやらうとする人はこの点を矢張り明瞭りわけて考へてゐなければいけない。初めから文筆業者になるつもりなら、そんな事を考へなくともよい。創作家になるとすればジャーナリズムから自分を守る必要がある。金は食つて行けさへすればいい程度に取り、喜びを自分の仕事の中に求めるやうにすべきだと思ふ。いやに御説教になつたが、さう考へてゐる方が間違ひはない。創作で成金になり、贅沢をして、それが人生の幸福だと考へるやうな人があれば、それは藝術とは最も遠い人といっていい。かういふ堅苦しい考へ方をしてゐては食へなくなるかと云ふと、必ずしもさうではない。金は沢山入らないかも知れないが、食ふ事位はどうにかなるものだと思ふ。創作家は自分の仕事を尊敬して大事にする事だ。さうすれば自分の生活もきちんとバランスがとれる。
近頃よくアドルムなどを飲んだりして、滅茶苦茶な生活をしてゐる者もある。外国でもその様な人もある様だが、本統の藝術家は健康を大切にする人が多いのではないか。
詩人と云ふものは感情的で、生活を破壊してゆく傾向がある。ボードレール、ヴェルレーヌ、ランボー等。然し散文家の場合はそれでは駄目だ。此の間も広津君と話したが、同じ文学でも散文家と詩人とでは気質的に随分違ふ。今度の戦争でも詩や歌をやつてゐる人はさういふ意味の気質で引き込まれた人が多かつた。ところが俳句の方はそれが少かつた。詩歌は熱情が原動力のやうな所があり、俳句の方はもつと、客観的な所があり、その点、散文に近いもののやうだ。同じ詩でも散文詩の連中は今度の戦争でも割に冷静だったのではないかと思ふ。
田中英光の「野狐」を読んだが、もつと散文精神を持つてゐれば、あれでも相当な作品になり得たと惜しい気がした。経験してゐる事の中で、自分がキリキリ舞ひをしてゐる。よくは知らないが、詩ならそれでもいいかも知れないが、小説ではそれでは駄目だ。
田中英光には戦争中横浜で一度会つた事があるが、大きな図体をしながら甘つたれた男の印象を受けた。矢張りさうであつたらしい。文学的才能はあつた人だと思ふ。
* 時代後れだと、直哉も、直哉の言葉に人生半ばから聴いてきたわたしも、いまの人達には嗤われるであろう。ところで、わたしが、直哉とちがうのは、「仲間」を知らなかった、持たなかったこか。
喰うことぐらいはどうにかなると見通したときから、わたしは金のための仕事はしなくなった。「湖の本」もむろん儲け仕事には程遠い。余儀ない終刊も、もう遠くはあるまいが、体力があり気力があり飢えないうちは、「寄贈」により傾いた文学活動となっても、「仕事」として続けるだろう。これもまあ、形見分けのようなもす。「元気じゃありませんね」と、心配させるけれども。
* 田中英光は太宰治の墓前で自死した作家。
直哉は自殺を否定しているのではない、むしろ壮齢になるにしたがい自殺を一つの人間力として肯定さえしている。しかし太宰の心中にも、英光の自殺にも嫌悪感をもっていた。志賀直哉は、太宰にも織田作之助にも、きつかった。直哉は不愉快に当って来られると、聞き流さず、反撃も辞さぬ人だった。太宰は川端康成にも志賀直哉にもくってかかった。ま、理のない見苦しい反撥だった、世間はよく見ていたと思う。
直哉の文学的な太宰批判の一つは、「とぼけたやうなポーズが嫌ひ」だった。「弱さの意識から、その弱さを隠さうとするポーズなので、若い人として好ましい傾向ではない」と。もう一つは、「二度読んで、二度目に興味の薄らぐやうなものは書かない方がいい」と。
この二つとも、わたしは太宰治のたしかにネガティヴな一面として、若い頃からイヤだった。直哉も同じ事を考えていたんだと納得できる。
* 自殺についても、直哉の思いを拾っておこう、わたしは自殺しかけたことも一度もないが、自殺を考えたことのない人など、あまりいそうにないと思っていて、この二字は頭の中にいつだって鎮座している。高校から大学へすすむころに、男子友人が二人自殺した。親族にも複数の自殺者がいた。
志賀直哉は『太宰治の死』で、こう書いている。
「自殺といふ事は私は昔は認めないことにしてゐたが、近年はそれを認め、他の動物とちがひ、人間にその能力のある事をありがたい事に思つてゐる。最近の「リーダーズ・ダイジェスト」でユーサネジア(慈悲死)といふ言葉を知つたが、自殺は時分で行ふユーサネジアだといふ意味で私は認めてゐる。」
直哉は芥川の自殺について「沓掛にて」という一文を書いていた。白樺で兄事した有島武郎は心中死した。直哉は「然し、心中といふ事には私は今も嫌悪を感ずる」と断言している。
わたしは、自殺にも心中にも、いくらか直哉と角度の違う所懐をもっていて、いずれにもかなり関心がある。
* ここで前文の、「二度読んで、二度目に興味の薄らぐやうなものは書かない方がいい」という直哉の批評は、必ずしも太宰に限らず、また太宰のどの作にも一律にいえることでは全然ないことを認めておいて、逆に、一般論として志賀直哉の作物は「「二度読んで、二度目に興味の薄らぐやうなもの」ではないのかと、人によれば悪口しかねない。
だが、何の依怙贔屓でもなく、わたしは、そんな悪口は云う人の方のおおかた「力不足」だと断言しておきたい。
直哉の作にはじめて触れてから六十年近いだろう。幾次にもわたって読み返してきた。ちょうど十年ほど前には、最新の岩波版全集を買い調え、すぐ全巻を読んでいる。その余韻の消えたということが無いのに、いま、もう二度目の全巻読みを進めて、創作は十巻あるうちの八巻めを連日楽しみ尽くして読み返している。
そして思うのは、直哉の作物は、片々たる短章ですら、実にきびきびと読み返して惹きこまれるのである。何故かを詳しく云うのはもう「志賀直哉論」になってしまうので控えるが、なるほど、直哉自身が言うように、小説であれ随筆であれ葉書一枚ほどの短文であれ、そんなジャンルの問題でなく、どの文章も直哉には「文学」という「仕事」の所産であり、違いがない。「暗夜行路」が魅力的なら、同じ質のよさで「楽屋見聞」でも「山鳩」でも「菊池寛の印象」でも「太宰治の死」でも「若い文学者へ」でも再読し三読しても読まされてしまう。
谷崎潤一郎も同じである。小説だけの潤一郎ではない。
* つまりのところ「二度読んで、二度目に興味の薄らぐやうなものは書かない方がいい」と直哉のいうのは、金科玉条であり、わたしが、真の読書は「再読から始まる」というのもそれだ。一度読んでおしまいにさせてしまうのでは、作にも作者にも力が無いのだ。
2010 12・28 111
* 宗教的な人々は、黄金時代は過去にあったと云う。非宗教的な人々は黄金時代は未来に到来しつつあると云う。ひとりは過去について語り一人は未来について語る。しかし、どっちも同じ、どちらも「現在」を避けたいのだ。
しかしシンの精神性(スピリチュアリティ)は現在に始まり現在に尽きる。過去を持たない、未来も持たない。「いま・ここ」がすべてだ。 わたしがバグワンに最も多く深くを聴いて帰依するのは、ここだ。凍えるほど寒い自覚だが、過去は無く、未然未来ももとより無い、槍の穂先に立つ人生だが、覚悟に満ちればその槍の先の「いま・ここ」に世界が示現する。その世界を精神的に、肉体的に楽しくする、豊かにする。生きるとはそういうわたし自身の覚悟以外の何でもない。
* わたしの「いま・ここ」は、有り体に一言すれば「不愉快」に尽きている。だから執拗に腹痛も起きる。だからこそわたしが刻々に積み上げて行くのは「愉快」な豊かさ。幸せ。
生きているだから逃げては卑怯とぞ幸福を追わぬも卑怯の一つ 大島史洋
2010 12・29 111
* 朝十時まで床にいて直哉全集の第八巻の後方を気儘に頁を繰って読んでいた。編纂方式で後方はやや雑纂にちかく、さほど順を気に掛けなくて佳い。書く方も気儘に思うままに書いたり話したりしていて、キクすべき滋味と示唆に富んでいる。
昭和二十三年九月前ごろの「大洞台にて」では、「僕は必ずしも私小説は好きでない。「私小説」でも、「人の心を打つものがなければ駄目だ。」直哉の場合「私小説」といっても、「あったことを、その儘、丹念に書くものでもないね」と。「若い人はいろいろ冒険をやって見る方がいい。幾ら飛躍したつもりでも、結局、その人のものなのだから、いろいろやって見る方が、作品にヴァラエティが出来ていいと思う。」
「創作と随筆のちがいは材料よりも書く時の『打込み方』つまり態度で変ると思う。」「通俗小説と純文学のちがいについても同じ事がいえると思う」と。
梅原龍三郎の繪に触れて話しながら、「リアリスティックではないが、リアリティーがある。それは藝術には大事な事だ」とは、殊に大事だと思う。ただこの「リアリティー」という一語の理解に問題が起きる。東工大で、「リアリティ」を「意訳」させてみたら、十字で分けた四つの座標に、真っ向相反するそれぞれ百もの異なった理解が提出された。予期していたが驚いた。決まり文句は分かり切ったように使われるけれど、使っている人の胸の内はあまりに異なっているのが普通らしい。「批評」の難しさは此処にある。決まり文句で批評を事とすたしは警戒する。とまあ…、こんなに寛いで朝起きた大晦日は、過去に覚えがない。
2010 12・31 111
* 平成二十二年を見送る。なにとなしに生き延びてきた。
憂き事のまどろむほどはわすられて
覚むれば夢のここちこそすれ 崇徳院
2010 12・31 111