* 賀正 平成二十三年(2011) 元旦 秦恒平
雲中白鶴
これやこのゆくもかへるも別れ路の
旅のあなたの有明の月
朝ぼらけありあけ月のゆめ覚めて
朱( あけ) にたなびけ遠やまの雲 遠 七十五叟
* かかげた新年「述懐」のうたに付いて少し補足する。
宮澤賢治の言葉は、手帳に手早に書き遺された詩句の冒頭である。
病身賢治の「われはこれ 塔たつるもの」の気概が、せつない。尊い。
和泉式部の「おどろかで」は目を覚まさずにという自戒・自嘲。それも、わたし自身の。
伊東静雄の一首は、彼の「初」詩集に、まっさきに言葉を寄せてくれた人へ、後年の思いを、しみじみのべている。そういう人や人たちがあって「今」がある。同じ感慨が在る。
わたしの述懐歌は、十八歳の昔の作、だが。胸奥の鳩のはばたきを、じっと今も聴いている。
* 新年の歌は、百人一首のなかから口に浮かんだ詩句をとっさに借りた。年賀状は、ハガキでもメールでも書かないことにした。
* 毎朝、父や母や叔母の位牌に甘えているがままに、
今年も、健康で、怪我も事故もなく、穏やかに、 健やかに、元気に過ごせますように。 それで足りている。
2011 1・1 112
* 「 mixi」 には此処との重複をさけて昔昔の「私語」から選択し再掲していて、毎日、大勢の足跡がついてくる。元日の「 mixi」 に送った再掲分を、思い切って今新年元旦の「私語」として付け加えてみようと思う。
* 称讃は、百人分で一人分。( 激励も含んだ) 批判ないし非難は、一人で百人分と受け取るべきである。わたしが出版すれば百人の称讃はすぐにも届いてくる。批判や非難はめったなことで来るモノでない。しかし、上のように思っている。この事実に堪えられなくては、創作者にはなれない。
称讃だけは受け容れ、厳しい批評からは背を向けてしまう例は、身近な実例もふくめ、その方が圧倒的に多い。脆弱い神経では当然だろう。
そんなふうに都合よく身につけてしまう安直な自負心は、猛毒である。この毒はたいした美味なので、簡単に嚥下・賞味されてしまう。毒のまわりは早く激しく、折角の才能を速やかに蝕んでしまう。
子供は褒めて育てても良い。しかし大人は、たとえ善意で褒められていても、当人の愚かさにより我から褒め殺しにあう。すこしも早く気が付いたほうがいい。謙虚も、大きな大きな才能なのである。 2006 3・22
* 文学とは、人を動かす言葉の秘儀ではないか。それは、「動かされる」という藝術体験や受容能力にも依拠しているのである。 2006 5・31
* 一両日前、親族内のトラヴルに悩んだある女性が、テレビ番組の中で四人のゲストコメンテーターや司会者に親類の誰それを非難し泣訴していた。話の中味をわたしは聞いていなかったけれど、親類の誰かがむちゃくちゃに自分の悪口を言いふらすらしいとは、すぐ分かった。
ゲストの主なるひとりの或る作家が、しかし、テレビ番組であなたがこういうふうにその親類を非難して悪く言えば、それはもうお互い様ではないか、と。
こういう論法をわたしも何十度となく聞かされたが、バカげていると思う。
理に合わないバカげたことを一方的に言いつのるバカに向かい、どんなに正当に反駁し反攻し反論しても、それは相手の域に身を落として「どっちもどっち」になるだけだから、やめた方が賢いと。
わたしは、こういう賢こそうなものの考え方が嫌いだ。大嫌いだ。
むろん無視してもいい。しかし敢然と立ち向かってもむろんいいのであり、どちらも自由で、時宜と状況に適しているならどちらの道を選んでも良いのである。
「どっちもどっち」だから恰好の悪いことは止しておこうというのは、むしろ姑息で卑怯な逃げ腰に終わりやすい。それでいて、ものかげではブツクサ愚痴がつづくなど、これぞ愚の骨頂。
人間の自由はふくざつで微妙な価値であり、時代により時に悪徳でもありえたが、悪しき沈黙はつねに姑息である。怒らねばならぬと信じるなら、怒って良い。憎むべきは憎めばこそ、愛や慈悲の意義にも近づける。
ただし、怒りにも責任があり、憎むのにも責任がある。責任を果たす覚悟が有ればそこに怒る自由も憎む自由も生きてくる。自由という基本的な人権の基本には、喜怒哀楽の美しい開放がなくてはならない。
その抑圧をよしとする考え方にはいつも力ずくの危険がしのびよる。無価値な断念や妥協が人の魂を蝕み始めるほど素早いことはない。 2006 10・6
2011 1・1 112
* さ、三ヶ日も過ぎて行く。この先、日は、月は、年はますます早く流れるだろう、わたしの上を。
2011 1・3 112
* よく眠れる。あいかわらず奇妙な夢をみるが。それも同様場面を局部的に反復再現して。夢見ながら滑稽に思うほどたわいない場面の反復で。目覚めると淡い霧のように瞬時に忘れている。たぶん、人生七十年も斯くの如く「夢」と忘れ去れるのだろうと納得する。問題は納得の、その先のこと。死後に納得しても始まらない。 生きている内に真に納得するのでなければ。今はまだまだ「夢」という一字で知解しているに過ぎない。
2011 1・5 112
☆ 0:19 エジプトのからすは胸が灰色です。夕方畑から家に帰る驢馬や牛で道が渋滞しています。
今日はピラミッドを巡っていました。元気です。
よい年でありますように。 エジプト鳶
* よい年でありたいが。自分で自分を孤独へ孤独へ誘導している。討死したいと心に願って出陣して行く侍達がいた。たとえば実盛も。わたしは彼のように白い髪を染めてとは願わないし、かぶる兜も持たない。組討ちもしない。ひたすら「書き」残して行く、地球の手以外には、誰の手でも消されない文章を書いておく。ダウンロードして置いてくれる身内がどこかにあるだろう。
* 地球の生まれたときを零時とすると人間の登場は23:59:59秒ぐらい。やっと一秒か二秒足らず。そして確実に十万年もすると猛烈な氷河期がまた訪れて生物は悉くといえるほど死絶するとテレビは元日か二日から美しい映像と共に、物凄い、しかも当たり前の話をしてくれていた。
* わたしがどんなにばからしい企みをしているか、思わず吹き出しそうになる。人生などはそういう滑稽な夢だとつくづく知っていて、察知していて、わたしは夢に狂い遊んでいるにひとしい。悟りを待つとことはしない、待てば来るものではない。徹底的に狂い遊んで一瞬の好機にすべて委ねたい。
* 初詣で振り仰いだ元日の空を、おそらくそれだけを、胸に抱いている。
2011 1・6 112
* 「女文化」という三文字は、意外に思う人も多かろうが、わたしが『女文化の終焉』と題して十二世紀美術論を書いた以前には見当たらない。それはそれとして、わたしはこれを皮肉に定義し、「女の、女による、男のための文化」と解説してきた。源氏物語も枕草子もそうだと。
バグワンが、すこし以前のことになるが現代の「女性解放運動」をつかまえて、責任を持ちたくない「男性の企み」だと喝破していた。「これは巧妙な企みだ。男性は世界中の女性をそそのかし、女は自立しなければならないと言いくるめようとした」のだ、「今や、たくさんの女性がこの観念に毒されている」と。「男のずる賢さは実に巧妙だ。ときとして男は、女性が自分でそれをやっているのだと思い込むようなやり方でそれをものにする」とも。
謂えているのではないか。
2011 1・6 112
* 「色の日本」と題して有楽町の朝日ホールで講演してからちょうど二十五年になる。往時は茫々というほどでなく記憶している。
その講演では、だが、よう触れなかった「色」のはなし。
それは、歌舞伎座など歌舞伎公演ではお馴染みの、あの定式幕の三色、柿色、 青色、 黒色。
試みに「定式幕」を検索しても、江戸の各座使用の僅かな差異、しかし根本はみな同じこの三色の使われてある理由は一切書かれていないように見受ける。この色、歌舞伎世間の発明であるのか、何かの理由で、こう在らねばならなかったのか。
もう指摘していいだろう、この三色は、柿色も、青緑も、黒も、いわば被差別色として、古代末期から中世、近世を通じ、実に多くの史料や事件や人や図絵に見られる。中世庶民の被差別研究を旺盛に盛り上げた近年の歴史学者達の論文にも、発言や座談会にも、この色に触れた証言はたくさんある。だが、定式幕の色に固定されていることを指摘した人はいないようである。
これまた、今日なんら顧慮に値しない堂々たる一伝統であり、たえ初発の時点では制度に強いられたかも知れぬにせよ、この美しい配色の籠めた自己主張には、かがやくような歌舞伎ものたちの強い自負と意思と愛着がうかがえる。わたしは何時も心から讃嘆して眺めている。
2011 1・7 112
* 抱き柱を何本も何十本も持って抱きついていた。ずいぶん捨てた気でいても、まだまだ。なかでも執拗なのが「記憶」それも投資家などのことばで云えば「高値覚え」というやつ。
旅の伝統については夥しい知識を得てきた、西行、芭蕉など。しかし自分が旅の境涯に身をさすらわすことは考えてこなかった。なにを動き回るのかと。「いま・ここ」しかないと。「いま・ここ」を離れるのは死ぬときだけだと。
それでもときどきは気楽に離れてみたいと願うこともあった。だが気楽どころか煩わしいと分かっていた。理屈に誘われて旅するなど、ぞっとしない。想像も読書もいい旅ではないか、しかも道連れを必要としない。
ま、 それも理屈だ。道連れのある旅は楽しいか。道連れ次第だろう。志賀直哉は自殺は認めるが心中は嫌いだと云う。いい道連れとのいい旅の極致は心中ではなかったのか。人は無意識にも、かなり意識してでも、心中死の可能な身内を捜しているのではないか。絶望の極の追い込まれた心中ははためにも辛い。心中といえば近松と思い出すが、あれらはみな悲惨な悲劇。現世の悪や矛盾が追いつめた。幸福の極で選択した心中死はありうるか。現世に追いつめられるのでなく、現世を極度に嫌悪してそれに意義と双方の深い愛が有れば。現世はますます悪くなる見込みの濃厚な今日から推すれば、そのケースがそう遠くなく現れる。そういう自殺なら昔から有る。集団自殺もあった。不幸な心中は堪らないが、妙な云い方だが幸福ゆえ心中をもたらす現世無力は、どうやら否定できない成り行きに見えかけている。
江藤淳は夫人の死を追われた。そういう例はわたしのごく身近にもあった。最も心を打たれて忘れかねるのは、或る医師のそういう死だった。夫人が亡くなるのを看取りながら一切の始末をつけておいて、同時に自殺された。患者達のための後々の示唆や処方もされていた。それは少しも脆弱な、 生きて生きぬく義務を忘れた弱虫の所行とはわたしは思わなかった。羨望さえした。
* 命は大切だし生きることも大切だ。しかしひからびた固定観念から、命や生きることを「型」理屈で至上命令のように固執する意義は認めない。そこにも精神や肉体の自由が生きている。
2011 1・9 112
* 仕事の上で関心を「清水坂」に絞りながら、ものを調べたり読んだりしている。京の景観なら目に見えて相当記憶がある。およそ縄手から東へ松原通りを清水坂へほぼ諳んじて登って行ける。これが昔の五条末にあたり、今の五条大通り橋東は歴史的にはちがっている。じいっと堪える心地の儘、諦めずずうっと思いにある物語をじりじりと追いかけ追い縋っているが、邪魔が入り入りして。いっそ邪魔を幸便に気の急くのを抑えて、想像を楽しんでいる。だが、もどかしい。
2011 1・11 112
* 寝床から手を出すだけで書架の本がすいと抜き取れる。大きな地震が来れば、わたしはひとたまりもなく本と本棚に潰される。怖いと思うが、或る意味わたしには理想のさまなんです、好きなだけ本に手が出せる。無意識に子供の頃から願っていた環境です。「一瞬の好機」が手近に在りそうだ。ほんとに一瞬だといいんだが。チェーホフ全集十六巻も、寝た頭の上へ運び入れた。
健康で、怪我や事故に遭いさえしなければ、天変地異がなければ、夫婦二人はいまぶん呑気にして暮らせる。道楽もしないで仕事だけを続けてきた、その報酬を得ているだけのこと。これも子供の頃に或る程度企図し、思い描いていた。人生のある段階からは誰にも使役されないで、好きなように生きたいと。
思えば七十五年のうち、道草の東工大教授四年半は別にすれば、わたしが会社勤めで給料をもらい使われていたのは、十五年に過ぎない。ま、「作家」という商売も、出版社の「非常勤雇い」今で謂う「ハケン」にすぎない過酷な境涯であるが、幸いその境涯からも十五年ほどで脱却し、以来ほぼ思うままの作家生活を自由にして来れた。出版社に百冊以上も市販本を出して貰い、別にもう四半世紀、百冊を越して「湖の本」を思うまま自力で出版し続けている。湖の本の一冊は、市販単行本の一冊にいさかも量的質的に劣らない。ただのディレッタントには及びもつかないプロの仕事だ、量より何より「自由」である。自由は厳しい寒いものだが、嬉しいものである。
2011 1・11 112
* 暁にいちど覚め、また寝てしまうと春眠を貪ることになる。六時なら起きてしまっていいのだが。
*明けの夢で「権」一字を吟味していた。権力、権利、権勢、権門、それに権現というのも。権中納言藤原定家という「権」もある。権妻というのもある。政権、覇権、選挙権、権柄などもある。
「権」は、本当の本来ではなく仮に表された、仮に現れた意義を持っている。定員は二人とか三人とか限定されているのに、追加されたので定家卿と限らず大納言や中納言でなく権大納言たちが存在した。
「権」は、わかりよくいえば神のようなものの「代わり」「代理」「準えたもの」「授けられ与えられたもの」の意義を体しているに過ぎない。帯しているに過ぎない。「ほんものではない」のだ。それを「ほんもの」の気で、生得の持ち物のように、権力、政権、権勢をふりまわす、それが人間の偽物づくしの歴史だ。仮に預かっているものに過ぎないのに、権柄をふりまわしたがる。権現様と祭られていても「仮に現れた神・佛」で、本地は他に超越的におわすという理解なのである。「権」は振り回すものでなく、謙遜に預かっているだけ。政治家や会長・社長の類がいちばんモノを心得ていないけれど、いずれ代わりが出来てくる。「権」という制度は、心得ていれば人間の智慧でうまれたとも謂える。
2011 1・13 112
* 我が子が生まれる、それは、ほんとうの感激であった。
* 妻は娘を わたしは『新生児研究』を、生んだ。
「 mixi」2006 年08月15日19:16
言うまでもなく、いい医者に縁ができれば妻の健康に展望が開けると信じ、私は躊躇なく京都を捨てた。東京本郷台の医学書院に身を投じた。愛し合った夫婦に子供が欲しくて出来ないなど、ゆるされない不自然だと思った。子供を産ませてやりたい。上京と就職との一切の、それが動機だった。秦の母のように、よその子を貰って育てるしかないようなことは、妻にはさせてはならない。なにより、よくワケの分らない病気で「死なれ」ては堪らない。「よき友」として兼好法師のいちばんに挙げていたのも、「くすし」医者であった。
医師と医学とへ、その勤め先は、予想以上に至近距離にあった。全国の大学医学部・ 研究所や各専門の研究者・ 臨床家・ 看護婦との折衝で、会社の全出版は成っていた。編集部に配属されれば、いやでも付き合いができる。すくなくも関連の情報にこと欠かない。妻は勤めてすぐ解雇されてきたが、私は、財布に一銭の現金ももたない日があっても、もう妻のことは大丈夫と、たわいなく安心しかけていた。会社は東大医学部や病院の、すぐ近くにあった。その規模も権威も、新米社員には白い巨塔をものの三十も積んだような超巨塔に見えた。安心のかたまりのように見えていた。
相変わらず妻はときどき腹痛に悩んでいた。昭和三十四年( 一九五九) 二月末に上京してそして五月、たまりかね、私は先輩に紹介を頼んで医科歯科大学外科の教授診察を妻に受けさせた。予診では、むろん「死なれ」た母の病状を妻は話した。盲腸が肥大していたが、諸検査のための入院が必要とされた。盲腸なら、あらゆる手術中でいちばん安全という思い込みを私はしていた。そのくせ私はかつて一時間に及ぶ痛いめをみせられ、やっとの思いで移動盲腸を取っていた。
検査の妻は二日とせず退院してきた。血液の状態が不安定で、盲腸の症状は薬で散らそう手術は避けましょう、そのうえ「出産も危険」と妻は言われてしまった。退院まぎわの妻の電話を私は職場で、殴り付けられたように聞いた。「死なれる」という言葉が、大音響となって初めて我が身のうえに具体的に炸裂した。まだ生みの母の死も実の父の死もない前だった。文学や表現のうえでしか「死なれる」厳しさは知らなかった。
あの日、定刻すぎて私は会社から駆け戻った。一歩足をふみだせば、その足元にくらい穴が沈んだ。都電をおりるとアパートまで泣いて走った。妻の顔を見るなりおうおうと泣いた。何の言葉も口には出せなかったが、不安のあまりに泣くしかできない自分を思い知った。怖くて辛くて胸が潰れていた。情けない。そんなことが、あってたまるか。
日本一の血液学の先生を、私は、先輩に紹介してくれと頼んだ。そして妻は、大森の東邦( 当時医科) 大学の森田久男教授にかかることになった。私も何度も一緒に遠い大森まで行った。死んだ妻の両親が上京のむかし、一時期大森ちかくに住んだらしいという記憶が、妻を奇妙に安心させた。
通院の最大目的は、出産できるようにという事だ、私は大声でそれをお願いした。森田先生は大丈夫と太鼓判だった。さきに腹の痛いほうを治そう、これは腹膜炎だからねと。以来、少なめの血小板に対する継続治療と腹膜の治療とに、妻は市ヶ谷河田町から大森へせっせと通院した。その秋には妊娠した。出産も中絶も同様に危険、それなら産もう…。
お腹が大きくなってからも私は、当然のように、よく妻の産科外来につきあった。廊下の壁のふるいしみを見つめながら、小説が書きたいなどと思っていた。まわりに妊婦ばかりでも平気であった。医書編集者の仕事があんなに好都合であったことはなく、内科にいようと産科にいこうと、つまり「仕事」にしてしまうことが出来る。月刊雑誌も担当していたが、書籍の企画という仕事には、かなり自在なところがある。その証拠に妻に「死なれ」たくない、子供も「死なせ」たくないと祈る気持ちから、いつしか私は、「新生児学」という、当時の日本にはまだ輪郭さえ漠然としていた真新しい医学分野の成立へと、しゃにむに関与していったのである。
「出産」は明らかに母親の産科的行為である。しかし「出生」した赤ちゃんの医学的管理者がだれなのか、新米編集者の私の目にも当時は暖昧であった。母親の付属物めいて産科の担当のごとくであったが、産科医は小児科医ではない。小児科医は生まれた子を新生児といい、産科医は産まれた子を新産児といっていた。『新産児学』という本は一、二出版されていたが、『新生児学』はまだ無かった。
これは、困る。赤ちゃんは、両方の科が協力して誕生させ保育すべきだ。むしろ「新生児科」が出来ていいのでは…。父親になるべき私は、妻にも子にも「死なれ」たくない一心で困っていた。当時の小児科ではまだトピックスの未熟児保育のほうに関心ふかく、けれど見ているとそこから、じりじりと新生児へも研究範囲がひろがり始めていた。
忘れもしない、東大産科に取材に行った或る日、医局で、学内産科と小児科と合同の、新生児に関する小研究会( コンファレンス) のあるらしい掲示に目をとめた。
これだ! 東京大学が全国に率先して両科協力の新生児学・新生児科を建設してくれれば、そうすれば、気運は各大学や大病院にひろがる。私は確信した。
とはいえ東大医学部の権威と権勢は、かけだしの編集者である私には身にしみて絶大であった。要するにこれを出版企画へ仕上げるには、何としても東大の産科と小児科と、双方の主任教授の同意をとりつけ、平等に監修に祭り上げなければ絶対にできない。まだ医学部改革の火の手があがるだいぶ以前のはなしだ、企画成立は聳え立つ大断崖を素手で登るような難事に思えた。なにしろ教授室のドアをただノックすれば済むはなしではない。ただ面会して済むはなしでもない。素人の私が専門家のトップに趣旨を説き、納得して協力の指揮を具体的に承知してもらわねばならない。
どうしよう。しかも妻も子も「死なせ」てはならない。絶対「死なれ」たくない。
社内企画を先に通した。当時はまだ看護婦対象の雑誌課にいた私が、純然たる医学書籍の企画へ首をっっこむのは、縄張り感覚からすればどこか非常識な逸脱であった。しかし、会議を主宰した金原社長も長谷川編集長も「よし」と言ってくれた。やってみろと激励された。手立ては自分でつけるしかなかった。チームを組んでといった編集部の体制ではなかった。
私はいきなり教授室のドアを叩いたりはしなかった。小児科の助教授室をまず訪れた。両科コンファレンスの小児科側の責任者が、その馬場一雄先生であった。それは生涯の出逢いであった。三十年余を経ても今もそう思う。先生はのちに日本大学の病院長や学部長を歴任され、また初の五つ子保育の主治医としても著名な方であり、息子の誕生はこの馬場先生にご厄介になった。それだけではない、のだが、今は措く。
だれかが百済観音のようなと評していた長身の馬場助教授の研究室で、あのとき私は、たぶん、おそるおそる、しどろもどろの熱弁をふるったに違いない。先生は、企画『新生児研究』を、東大の産科・ 小児科の現在の総力をあげて最新の研究書に仕上げていただけないかという私の提案に、賛成してくださった。感動した。
次は産科側。
次は双方の教授へと、とほうもない説得と依頼。そして企画立案の会議。
次は分担執筆者の人選・ 分担と趣旨徹底のための大会議。外科からも麻酔科からも、基礎医学からも執筆者は加わっていく。そのつど両方の教授に報告し承認を得ねばならない。馬場先生が斬新な目次を組み上げられた。生前生後の「新生児」の世界が見えてきた。
私は、ひとつひとつ、夢中で階段をのぼった。ただ登っていった。
筆者や編集者の会議はふつう会社の会議室で、した。会議は必要だし、私は必死で調整しながら日取りを決め、予定筆者の全員呼集に没頭した。教授も助教授も出席なのだから、さすがに否やをいう人は少ない。
ところが女性の大先輩に横から注意され、私は受話器を手に、絶句した。社内に、そんな五十人を越す先生方を入れる部屋は、どこにも無いではないか。社屋のまだ手狭な昔だった。
長谷川泉編集長は、即座に学士会館の大きい部屋を頼んでくれた。昼飯を御馳走してから、会議だ。
大会議当日、編集長は、カメラマンを手配して記念写真をとらせた。その写真を見ると、私は、あの当日の興奮をまざまざと思い出す。
あわや事は流れかけたりもした。馬場先生の助け舟と、高津忠夫. 小林隆両教授の、こうして御馳走を食ってしまったことだしナという掛合いで、すべては収拾された。
うそ偽りなく画期的な『新生児研究』は、大冊の書物となって二年ちかくかけ刊行された。吾等が長女朝日子は、昭和三十五年七月二十七日に、生まれた。もう日に日に可愛く育っていた。住まいも新宿のアパートから、郊外保谷の社宅へかわっていた。
妻はおかげで森田内科と産科との緊密な協力により、むしろ安産であった。お産の半月もまえから入院して予備治療がはじまった。本郷の会社から大森の病院へ私はせっせと通い、毎日寄るおそくに市ヶ谷河田町のアパートヘ独り帰った。苦にするどころではなかった。
まだ妻の入院まえには、六十年安保反対の国会デモにも熱心に参加し、樺( かんば) 美智子さんの死にも間近に出会った。兵役忌避を扱って処女作になった『或る折臂翁の死』の想が、デモ参加の間にじわじわと熟していった。
白楽天詩集は、秦の祖父鶴吉の書架にのこされていた、私にも読める有り難い本であった。ごく幼い日にそのなかの長詩「新豊折胃翁( しんほうのせっぴおう) 」を知り、私は感銘をうけた。
翁は、若い日に、征きて帰る者なしといわれた兵役を忌避し、深夜にひとり大石( たいせき) を槌( つい) して肘の骨を砕き出征を免れた。いまでも寒夜には腕が痛むけれども後悔はしていないと、翁は童児に話して聞かせていた。
私はちょうどその童児の年頃でしかなかったが、翁が、みずから「死なない」以上に、身寄りに「死なれ. 死なせ」たという苦痛をあたえなかった勇気に感じ入った。あつかましくも小説になると思った。私はその少年以来の久しい思いに、とりついて行ったのだ。
思えば私たち夫婦の、疾風怒涛の時代であった。朝日子はそんな時代に二人して掌にした珠の愛児であった。妻は後日、また森田先生にたすけられて東邦医大で懸案の盲腸手術もしてもらった。腹痛は消え失せたように出なくなった。
付け加えていえば、『新生児研究』の後、全国的な「新生児研究会」がようやく組織され、発展して「新生児学会」となり、たしか現在は日本医学会総会の正式の分科会にも昇格した。昨今、新生児科を独立させた大学や病院は少なくなく、そうでなくても赤ちゃんのことは両科で協力してというのが常識となっている。仙台で発足した第一回の学会では、幹事の先生のはからいとみえ、会員名簿に私の名前が加えてあった。あれには、びっくりした。東北大学におられたその産科の先生とも、私は今も親しくお付き合いをつづけている。
「 mixi」2006.08.15 秦恒平著『死なれて死なせて』より 当時連載中 湖
2011 1・17 112
* 直哉戦後まもなくの「科学の進歩」に関する発言を、今月の十四日前後に紹介し、批判や共感の声が届かないかなと期待していた。発表当時には黙殺ないし笑殺された直哉の意見であったけれど、あれから六十余年、あるいは直哉の先見の鋭さと本質的でもあるのを汲み取ることは、今日なればこそ有っていいのではとわたしは思っていた。 反響が一つ届いた。
☆ 風、お元気ですか。
直哉の言、理解できますし、共感します。
的を得ていると思いますし、誰かがこのような声を発してゆかなければならないと思います。
ですが、残念ながら、こういった言は、世間では一笑に付されてしまうでしょう。
民主党の事業仕分けで、蓮舫さんに「一番じゃなくてはダメなんですか」と訊かれた人たちの、話にならない、といった態度。苦笑。象徴的でした。
科学技術の世界には、「技術は進歩しなければならない」という大前提があるようです。
その大前提に疑問を投げかける直哉のような問いかけは、現実的でないと解釈されてしまいそうです。
二十一世紀の科学技術発展は、ITの分野に顕著ですね。
二十世紀の原爆や水爆といった、破壊につながる技術とは異なり、ITには何かを生み出す方向性は見られますが、目に見えない大きなものを破壊してゆきそうな技術ではあります。
もちろん、一番を目指す過程で生まれる新技術や発見が、思いがけず吾々の生活の利便性を向上させてきたことは、花も理解しています。
競争することで経済活動が活発になり、給料の得られることもわかっています。
が、近年のリーマンショックのように、行き過ぎた人間の欲望を目の当たりにすると、「どうして人間の欲望は底なしなのか」と悲しくなります。
人間は本能の壊れた動物だ、と謂う人がいますが、その通りかも知れません。
IT技術の発達によってワールドワイドに被害のひろまったリーマンショックを経て尚、同種類の金融商品を開発するウォール街を見ると、狂ってるとしか思えませんでした。
少し前にはやった「ロハス」や「スローライフ」は、競争原理の下に歯止めのきかない人間の上昇志向へのささやかな抵抗だったと思います。
花には、投機や資金運用などがギャンブルめいて見え、ゲームが全般的に苦手なので拒否感があります。
行き過ぎた資本主義経済に不平不満を漏らしたとき、「自分だってそういうしくみの中で恩恵を受けて生活できてるんじゃないの」と言われ、暗澹としたことがあります。
好むと好まざるに関わらず、こうしてネットを使って情報を収集したりメールしたり買い物したりしている花は、現代の資本主義経済の一部に組み込まれてしまっているんですよね。
目先のことで精一杯の吾々に、巨視的な思想を提示し、導いてくれる人が、今、必要なのかも知れません。
* コンピューターに触り始めた時から、わたしはこの利便性を、「毒性」という言葉で裏打ちしながら監視しているという気持ちだった。電子の杖は老人の非力を労るのがいい、若い世代に瀰漫的に蔓延すればするほど、この機械環境は人間の精神を毒してやまないという懼れを持っていた。いち早くペンクラブに電子メディア委員会の必要を説いて創設に漕ぎ着けたときも、過剰な毒性の行方を案じていた。
利便と云うことを花さんも云うている。「便利」は文明開化の象徴だと早くに漱石は指摘し、しかし「あぶない、あぶない」とも三四郎の廣田先生に言わせていた。漱石の人間が好きで敬愛したという直哉の健康な神経は、科学の進歩という無謬神話への「あぶない、あぶない」を言わずにおれなかった、わたしもそうである。「イトカワ」を飛ばし帰還させた科学技術に感嘆し感動するとともに、そういう技術の大方が、戦争兵器の開発ともいつも帯同している現実に気分を害してしまう。中国とアメリカとの、このところのつばぜり合いにそれが露出してきている。
直哉は、そうは嗤われたり無視されたりしていい妄語=たわことを口走っていたのでは無いだろう。
できたら、もっと声があがらないものか。
2011 1・17 112
* 東工大の大櫻に包まれた写真に、一休道歌の「うろぢ 有漏路」「むろぢ 無漏路」を添えたのが難しいといわれた。一休の名をはずして、わたしの思いに置き替えた。大方は外れていない。
「うろぢ 有漏路」は煩悩や汚穢のにじみ出た世界、「むろぢ 無漏路」は煩悩に穢れていない世界。
おおけないことは云いたくない、わかりよく、願いも実感もこめ、「このよよりあのよへ帰るひと休み雨ふらば降れ風ふかば吹け」としておく。たいした雨でもたいした風でもない。一瞬の好機。それで済む。
2011 1・21 112
* 山になった書籍の中からはときどき思いがけない掘り出し物が見付かる。『「オンライン読書」の挑戦』という津野海太郎・二木麻里編には、ホームページ「作家秦恒平の文学と生活」が取り上げられていた。本の出版は二○○○年、今から十一年前だ。
☆ 「作家秦恒平の文学と生活」 生活者の息づかいが伝わる創作サイト
インターネットを執筆活動の一環とする物書きはもはや少なくない。だが発信者の秦氏は一九三五年生れ。おそらく最年長の世代だろう。絶版や品切れになってしまう自著をみずから再出版してきた活動を背景に、このサイトでも自作の小説やエッセイが発表されている。表紙をスクロールするとそのまま各項目に案内される簡素なデザインで、「掌説の世界」「生活と意見」「中長編小説」などがならぶ。冒頭の「ページの窓」では自己紹介や、各項目の丁寧な解説を読むことができる。未定稿も含め、生活の息づかいが伝わる発信だ。 (二木麻里)
* 以来十余年、電子版「湖の本」全百数巻、また「 e-文藝館= 湖(umi)」には幕末から平成まで、数百ものわたしが選んだ秀作や問題作や新人の新作もが、満載されている。
日々書き継がれた日記「宗遠日乗」ファイルは、現在112。五万枚。この全日記が、暴風に遭うように、みな消えることになる。
* もう一冊現れた。東京堂出版から2002都市に出版された『現代文学鑑賞辞典』には、348作家・ 評論家の「名作」がとりあげられて「あらすじ」と「読みどころ」が紹介されている。筆者は41人の分担。わたしの「 清経入水」はもと岩波の野口敏雄氏が書いていて、「時空を超えて自在にいきかわせる物語は、作者の自家薬籠中の手法である」と伝えている。本は、「日本の面白い文学完全ガイド」を謳っている。紅葉露伴鴎外漱石藤村一葉鏡花秋声から、わたしの教室にいた角田光代までも入っているが、黒川創はまだ登場していない。
* と、また一冊現れたのが「国文学 解釈と鑑賞」の増刊号で『戦後作家の履歴』の一冊、これは便利な有り難い特集だった、昭和四十八年(1973)の編集である。わたしが自分で驚く若い顔写真を出している。阿川弘之から和田芳恵まで220人ほど、例外なく「略歴」「文壇処女作」「代表作品」「評価」「竜門挿話」を挙げて80人ほどで分担執筆されている。わたしについては長谷川泉氏が丁寧に書いて下さっている。
☆ 秦 恒平(はた・こうへい)
【略歴】 昭和十年十二月二十一日、京都市で生まれた。戸籍面の事情複雑で、現姓の秦家へ貰われた五歳当時までのことは不明である。このことが幼来深刻に影響して、創作モティーフに辛辣な肉親観むしろ肉親拒否観あるいは独特の身内観が現われた。養家は祇園花街に近接し、中学は祇園町の中にあった。また高校は泉涌寺・東福寺にまぢかく絶好の彷徨、空想の場となった。家には独身の叔母が同居して久しく茶の湯と生け花を教授し、幼来頻繁にその稽古場に出入りしたことが伝統芸親灸の道を拓いた。以上の状況や環境が後の創作活動に濃厚な翳を落とした。十歳のころから短歌を詠み十二歳から茶の湯を習ってほぼ今日に至っていることも、少年時代から古典の世界にごく自然に親しんできたことを意味している。同志社大学では美学藝術学を専攻、昭和三十三年同大学院に進んでから哲学に籍を置いたが一年後に退学、上京、結婚して医学書院に就職し今日におよぶ。初めて創作の筆を執ったのは就職後数年の昭和三十七年七月末で、処女作は「少女」および「或る折臂翁」。昭和四十四年六月「清経入水」が第五回太宰治賞を受賞して文壇処女作となるまでの七年間に小説集三冊、他にシナリオ集一冊を自費出版した。同人雑誌の経験なく、師事する人なく、世に出ることもほとんど断念して孤独に書きつづけていた。受賞作は、私家版の一冊が中村光夫の眼に触れ太宰賞に強く推されたという。
【文壇処女作】 「清経入水」(『展望』昭44・8 )。第五回太宰治賞を受賞。平清経の入水死に対する主人公の感受性を経に、主人公の丹波に疎開中の経験や京都での学生生活の記憶を絡ませて、「歴史と現在の『私』、さらにその生活と夢とを打って一丸としようとする野心」を中村光夫・唐木順三、河上徹太郎らがく強く推した。「自己表現の欲求を、たんなる自伝をこえてここまで拡大、あるいは深化しようとする試みは、現代小説の壁を破る企てとして意味があり、やがてこれを実現する才能と根気を作者に期待したい」との中村の朝日文芸時評には、この作家の意味と課題が鮮やかに指摘されている。
【代表作品】 短編集『秘色』四編所収、昭45、筑摩書房)、『廬山』五編所収、昭47、芸術生活社)、書きおろし長編『慈子』昭47、筑摩書房)、限定版『春蚓秋蛇』(二四編所収、昭47、湯川書房)、評論集『花と風』(昭47、筑摩書房)、小説「青井戸」(「新潮」昭47・11)、「閨秀」(「展望】昭47・12)、「隠沼」(こもりぬ)」(「太陽」昭48・ 3)、評論「上村松園」(「芸術生活」昭47・10)・「宗達」(「みづゑ」昭47・9 ~10)、「秋成無慙(「別冊現代詩手帖」第三巻 昭47・ 10 )。
【評価】 文壇的な処女作品集『秘色』は四編四色に分けて可能性を主張してみせた観があり、世評が高かった。ことに桶谷秀昭は逸早く集中の「畜生塚」を『文芸』の時評で注目し、「人間の生活の根源的な主題につながる」寂しさを剔ってしかも「感受性の正統性と
伝統の感覚」を鋭敏にかつ美しく湛えた「倫理的な小説」として賛辞を惜しまず、その後も再三この作家と作品に論及した。「今日の
小説がアクチュアルな主題にあいわたろうとすれば、作家は小説を一つの芸術にみがきあげようとする欲求を、あらかじめ捨ててかからねばならぬ。それは今日の小説作者のまぬかれがたい宿命のようにみえる。秦恒平は現代小説のそういう宿命をまぬかれている数すくない作家の一人だ。おそらく新人の作家では唯一人である」(サンケイ新開)と強調し、重ねて「『清経入水』『畜生塚』は夢みることが生の源泉の凝視と一体である、現代のすぐれた芸術作品である」と評価した。笠原伸夫も現代では不当に異端と呼ばれてしまう「正系の美意識」(日本読書新聞)をこの作家に認め、進藤純孝は『秘色』が、「夢心地に空を踏むに似た生のいとなみの底知れない寂しさ」(中日新聞)を指さすものとして独特の「抒情の切れのよさ」とともに評価した。寡作の作者の第六作『廬山』は第六十六回芥川賞候補作となり、瀧井孝作は受賞した李恢成と並べて推し.永井龍男は『廬山』は美しい作品である。美しさに、殉じた作品である」
と単独で推し第三作品集『廬山』にも右の評をそのまま贈った。作者の処女評論集『花と風』は桶谷のいわゆる「感受性の正統性と伝
統の感覚」をユニ-クに表出し、谷崎潤一郎を通して日本と日本文学の伝統を大胆に問い直した。野村尚吾はその『谷崎潤一郎論』の「独自で新鮮な見解」を支持して著者の「深い古典の造詣」(サンデー毎日)を認め、多田裕計も「大きい常識性をよくまとめた健全
さ」を「広く一般に推したい」(週刊読売)と評価した。『廬山』後一年の第八作『閨秀』は朝日文芸時評で吉田健一によりこの一作だけを挙げて絶賛された。吉田は「一篇の紛れもない小説」、久々に味わう其の「短篇小説」の妙味をあくまで作者のすぐれた表現力とし
て把握し、一人の読者としてみごとな「言葉の秘儀にあずかっているのを感じる」と嘆息して昭和四十七年最終の文芸時評の筆を納めた。吉田は徹頭徹尾『閨秀』を「小説」という文章による表現の藝術作品として真正面から高く評価している。それは秦のように現代
との行動的な交わりをことさら取材上では意図しない、しかも作品を隅々まで克明に磨きぬいていくような作家の作品が、ともすれば
いたずらに異色視される一点を正当に認識しすくい上げた批評として、批評そのものが高度に文学的であったこともあわせ注目され
る。一作ごとに好意ある理解者に恵まれ、着実にその期待にも応えつつ可能性を深めている作者の現に進行中の長編の完成がさらに新生面をひらくことが期待される。
【龍門挿話】 事実上の太宰賞受賞後、第一作となった『蝶の皿』は、奥野健男が「泉鏡花に似た妖しい魅力」(サンケイ新聞)と時評に書いたごとく耽美的かつ妖異な短編で、この系統に限定百部出版した『春蚓秋蛇』の掌編群がある。奥野はこの作者のヒロイソ中一般に典雅をもって好評だった『慈子』や、ことに『畜生塚』の町子に「淫蕩の血」をかぎ分けた唯一の評家であり、作者はその点を大事に記憶しているという。総じて端正清冽な格調を張った作品の底に、『蝶の皿』的な妖美の魅惑を秘めて底籠もった心情のゆらめきを無視しえない。 (長谷川泉)
* なにとも感謝に堪えない長谷川泉さんの厚情あふれる推挽であった。引き立てて下さった殆どの先達が、もう此の世にはおいででない。
たまたまもののしたからこんな本達が現れ、いっとき、ささくれたわたしを潤してくれたことに、感謝したい。
* 日々の日録である、作家・秦恒平の「生活と意見 闇に言い置く 私語の刻」は、必ず毎日読んでいるので、ぜひ読み続けられるよう工夫して欲しいと、アクセスされる大勢の方から熱心に望まれたことが、過去にも何度もあった。
「現在進行中の最新月分」、今なら平成二十三年「一月分」だけは、二月になれば「二月分」は問題なく読んで戴けるよう、「別サイト」を緊急用意しましたので、ご遠慮無くメール
「FZJ03256@nifty.com」
に問い合わせて下さい。
既成の「生活と意見」は過去十余年分、五万枚、すべて暫定、明日にも此のファイルでは読めなくします。
2011 1・21 112
* 都知事の石原慎太郎氏がテレビで話していて、途中からであったけれど、ほぼ全部の「話」に、話す「言」葉に、共感した。日本の崩壊感覚を日々に漸進させているのが、政治でもあるが、若者でもあるという認識、その若者を頽(くづ)しつつある最大の者が「ケイタイ、テレビ、パソコン」だという氏の理解は、わたしのここ多年の感想にひしと重なる。若者に礼儀が擦り切れている由々しさにも、石原氏は正確に言及しているし、いまの若者達は恋愛できないと、さすが的確に観ている。この「失恋」傾向は、およそ三十年ほど以前から、わたしもくっきり認め顰蹙し憂えていた。その頃から、「付き合う=性交渉をもつ」という物言いが、「恋愛」を駆逐し始めていた。
* 国が良くなった面のあることも、わたしは、およそきちんと歴史的に認めているが、主にそれらは、漱石が危ぶんだ「文明開化」に同じい「生活の利便性と消費性」の面に集中し、その「強毒性・腐蝕性」には国を挙げ目を背け続けてきた。その反映で、天才を持ったごく一部の俊秀は別にして、大衆を成している若者達の内面の豊かさ・美しさはエゴイズムの野放図な容認により、脆くも崩落の一途にある。人間の人間だからもっている魅力を、なさけないほど多くの生徒、学生、青年たちが失って見える多くは大人達を真似てしまっているのだ、そのあげくの証跡が、現代政治の衰弱と、深刻な経済破綻、回復の見通しが立たない永続底なしの落ち込みになって現れている。今起きている消費税アップへの無責任な依存に、政治家や企業家たちの、眦を決した反省や識見はちっとも伴っていない。おそらく増税分は貪欲な底なしの泥溝へただ投げ込まれて終わるだろう。
* 石原氏は、このまま行けば日本と日本人は滅びると言い切っていたに同じで、わたしもまた、この二十年、殆ど希望を喪っている。学校社会での秀才も何の役にも立ってこない。役に立てない歪つな社会が醜悪なほどそのまま構造化されてしまい、がんじがらみに若者は悪慣習と制度とに縛られている。心ゆく職が持てない。しかも社会や政治をよく変えようと団結する前に、エゴイストほど将来の職探しに有望なように必死に子弟の塾学習に血道をあげている、要するに国崩しのエゴイズムなのである。日本は今やいろんないろんな「エゴ」たちによる情理を擲った淋しき分散社会になっていて、人間味のある宥和と協働と団結力の発揮へあれもこれもそれもどれも大きく繋がらない。つづめていえば、騒音にまみれた孤立と孤独。それを必死でケイタイで繋がろうとしている。バーチャルも極まれり。
2011 1・23 112
* 志賀直哉の第十巻のあたまに『八手の花』という短章があって、「奈良に住んでゐた頃、私は仕事で興奮してゐるやうな場合、家内が何か子供の事など云ひ出すと、癇癪を起し、『俺は子供の為めに生れて来たんぢやないからね』と云った。」とある。直哉のこういう「癇癪」は有名どころの騒ぎでないが、物書きでこの程度の悲鳴をあげなかった者は希有であろう。世間一般の理屈は何であれ、書いて仕事中の本人には堪らないことである、そんな雑音は。「家内は私の家に来て、八人子供を生み、長女は五十幾日、長男は三十幾日で亡くなつたが、あとの六人ほ兎に角、皆丈夫に育て、小さいのが少しロを利きだす頃には次がもう腹にゐるといふ風で、年中子供の事で明け暮れ、全く子供の為めに生れて来たやうな女であつた。私には女は──特に家内のやうな女はそれでいいのだといふ考へがあつた。然し男である私は家内と一緒にさうなるわけには行かないと、それをそんな言葉で云つたらしいのだが、子供が皆、大きくなり、子供に子供が出来るやうになつた今日、もうそんな事を云はなくなつたのは勿論である。」そしてそんな父である書き手を数十年もして虐待者だと訴えた子女も、聞いたことがない。
だが、今問題にするのはそんな話ではない。直哉は急角度に家族の話題から転じて、こんなことを言う。
☆ 志賀直哉曰く。 『八手の花』より引用 昭和三十二年一月「新潮」
然し、私はこの二三年、今度は「俺は小説を書く為に生れて来たんぢやない」 と云ひたくなる事が時々ある。そして私は「生れたから偶々小説を書いたまでで、小説を書く為めに生れて来たのではない」と本気でさう思ふのだ。後にも先にも只一度の生涯をよく生きる事が第一で、その間に自分が小説を書いたといふ事は第二だといふ気がするのだ。」と。そして更に、「画家には絵を描く為めに生れて来たやうな人が時々ゐる。 私は前から画家は死ぬまで描く事が出来るが、小説家は死ぬまで小説を書くといふわけには行かないものだと決めてゐた。体力から云つても年をとつて小説を書くのはつらい事である。その上、私自身の場合でいへば人事の煩瑣な事柄が段々厭にになつて来た。さういふ事を総て避けてゐては所謂小説は書けない。その点、画家の仕事は遥かにいい。自分が厭だと思ふものまで描かなくてもいい。自然を対手に美しいと感じたものを描いてゐればいいのだから、画家は幸福だ。
私は今、七十四歳で、前に考へてゐた事から云へぼ何も書けなくなつてゐる筈なのに、何かこまごましたものを書いてゐるが、それは知らず知らずに、画家が描くやうなものを文章で書いてゐたやうな気がする。
私は所謂小説らしい小説を書きたいとは思はないが、仮りにさう思つたとしても、その為めに自分が嫌ひになつた人事のイザコザを見たり聞いたりする気にはならない。其所で私は「自分は小説を書く為めに生れて来たのではない」と云ひたくなるのだが、生れて来て、小説を書いたといふ事は勿論後悔はしてゐない。他の事をするよりはよかつたに思つてゐる。只、若い頃のやうに一も二も三も小説といふやうな気分は今の私には無くなつて了つた。
* わたしは今七十五、しかも「人事の煩瑣な事柄」の最悪不幸・ 不孝のドツボに嵌められて、わたし自身の決意や意向では抜け出せない。「自分が厭だと思ふものまで描かなくてもいい。自然を対手に美しいと感じたものを描いてゐればいいのだから」幸福だといえるような立場を決定的に親族の手で奪い去られている。直哉の曰く、「私は今、七十四歳で、前に考へてゐた事から云へぼ何も書けなくなつてゐる筈なのに、何かこまごましたものを書いてゐるが、それは知らず知らずに、(幸福な老境の=)画家が描くやうなものを文章で書いてゐた(る)やうな気がする。」と。
ところがわたしは、そんな「こまごました」ようなものが今書きたいのではない。心ゆく大作を二つも三つも書き継いでいて、とても物理的にも心情的にも書けないでいる。「虐待」にあっているのだ。
* だが、云っておくが、わたしは、そういう境遇・境涯にいて闘うことを懼れていないし屈してもいない。不幸にして小説として書きたいものを書けないでいるが、書こうという意思は誰にも踏みつぶせない。そしてまた、創作としては偏屈な異様なモノでしかないけれど、わたしは「被告の闘魂」を剛情無類にまさに「逆らいてこそ、父」の文章を書き継いでいる。煩悩迷惑の文業ではない、有漏路にいて無漏路へむかう暴風雨の一休みを明るんだ気持ちで書いて過ごしている。
直哉は書き継いでいる。
「あと何年生きられるか分らない。又、生きてゐても頭が駄目になつて了ふ事も近頃は頻りに考へられるのだが、それでも兎に角、一人の人間として、この世に生れて来た事に就いて、何ものにも捕はれる事なく、もう少し、自分なりに、考へて見たいといふ気がある。死んで了へば永遠に還へる事のない人生だが、あと僅かな歳月であつても私は深い愛惜を感じてゐる。」と。有り難く、大先達に遺書をまで代筆してもらっている。直哉は八十八まで生きた。わたしは実はもう死んでいると同じ境涯に生きていて、だからこそ無欲に剛情に書けなくなるまで書いて、一瞬の好機を待ちたい。
2011 1・23 112
* 「村上天皇」ともちだすと、なんとなくオヤと思う人がいるだろう。桓武天皇、明治天皇、昭和天皇といった諡(おくりな)と様子が違うから。村上さんという知人はこれまで何人かいた。高校の女友達にもいた。ご近所の誰かさんという感じになる。
村上天皇はしかし、父醍醐天皇とならんで聖帝とうたわれた。源氏物語の冷泉の帝のモデルでもある。穏やかな色好みの、惚れっぽい天皇さんであった。おぞましいほど猟色の天皇もいたなかで、村上さんの後宮は平和であった。学も藝もあった。ちょっとニクいいたずらで後宮の女人達を閉口させたりした。穏和ないじわるサンであった。ある日も、大勢のお妃達にもれなく一首の歌をやった。ふつうに書けば、こういう歌です。逢坂の関に関守はいないよ、尋ねておいで、来たら帰さないから。
あふ坂もはては往来(ゆきき)の関もゐず尋ねて訪ひ来(こ)来なば帰さじ
ただ一人、広幡の御息所は、美事に合わせた薫き物を帝に参らせた。「合はせ薫き物すこし」所望と天皇の頼みをこの和歌に読み取ったのである。なかには、仰山に着飾って、この時とばかりおそばへ伺候した人もいたのだが。 だが、こういう心見をされては、ふつうの人は叶わないよなあ。
栄花物語にも大鏡にも出ている王朝一景である。「私語には窓を明けて」など、なにも難しくはないのだが。
* いい機会ではないか、この際、ホームペイジの全体を整備し、もっと充実させよう。これまでやや跛形に日録に重点がかかってきたが、「 e-文藝館= 湖 (umi)」 を充実させたい。また整備の手の届いていなかった個所を、充填し整頓したい。「秦恒平・単行本全書誌」「秦恒平・湖の本全書誌」も然るべき場所に。同様、年譜も、まだ万全でないが、「四度の瀧」版は、きちっと収めたい。
また「 e-文藝館= 湖(umi)」には「古典鑑賞」の部屋を新設したい。まえから念願していた。
* だが、何のために。
「ため」は無い。自分の為とも思わない。昔は、妻のため子供達のため恥ずかしくない仕事がしたかった。安心して暮らさせたかった。蔵は建ててやれなかった。そんな気は初めから無く、金をつかって遊ぶこともしなかった。ひたすら書いていた。それが自分の一生だと思っていた。
幸い、ふつうの平安な暮らしはさせてきた。娘を嫁に出し、息子が物書きで身を立ててからは、贅沢はしないし、裁判費用も必要だし、しかし、しみったれないで安楽に暮らしている。妻にもわたしにも体力が在ればもっと楽しむだろうが、うまくしたもので贅沢に遊び回る元気は失せている。
稼ぐだけならとっくに息子はわたし以上に稼いでいる。「父さん、おれに金残さなくていいよ」と、云うてくれる。
だが物書きは水商売だ、この水は甘くない。思い知るがいい、業界の非常勤雇い、定まらぬ身分でしかない。雇い主やご贔屓筋にそっぽを向かれればたちまち干上がって行くのがこの世間だ、わたしのようにこっちからそっぽを向いな物書きは、いないのである、ただ一人も。
息子よ、謙虚に努めるがいい。
ろくろくと積んだ齢( よはい) を均( な) し崩し
もとの平らに帰る楽しみ 六六郎
そんな歌で新年を述懐したのはまる九年前だった。家の中にいても外へ出ても、独りで生きている実感が身に迫る。「ろくろく」を「しちろく」まで齢を積んできたのではない、九年ほどは均( な) し崩してきた。「もとの平ら」に帰って行く。
2011 1・25 112
* 小説を書く上の「一番大切な事は、書こうとする事を自分でハッキリ頭に浮かべる事だ。」「『チャタレー夫人』といふ小説はさういふ意味でこの上ない愚作だと僕は思つてゐる。」「小さい事だが、時々の流行言葉はなるべく作中に使はない方がいい。その時は新しいやうでも流行らなくなつてから読むと、ひどく時世おくれの印象を受ける。」と志賀直哉は、『わたしはかう思ふ』(1952)に書いている。チャタレー夫人は意外に感じている。流行り言葉は当然の指摘。「大概の場合推敲はするが、 清書までに二度書くことが一番多い」とも。
推敲にその人の力が出るとわたしは思っている。
手書きの頃は、推敲で繰り返し真っ赤にした原稿を妻に清書して貰い、さらに推敲した原稿を編集者に渡していた。当然だ。
いま、この日記は推敲しない書き放しだが、月末になり他のファイルに保管保存する前にはざっと推敲する。それからさき、例えば『濯鱗清流』の時のように「本」にするときは徹底的に推敲して入稿し、更に校了までに二度三度推敲する。誤植の残るのをわたしはあまり恥じないが、ひどい文章で本にはしたくない。日録段階ではそんなに手と時間をかけていられない。電子原稿は徹底推敲を待っている粗稿かと聞かれれば肯定する。
2011 1・26 112
* 江戸の頃以降のわれわれ庶民が日々の「お寶」に「銭」「金」を思っていたのは自然なことであったが、そのほかに「寶」「寶物」と謂ってモノと限らず「子寶」のようにヒトも謂ってきたし、得も謂われぬ貴き値の何かを心中に抱いていたこともある。むしろ子供の頃はそういう寶モノを身にも心にも抱いていた。最近では人気のテレビ番組に感化されて、書画骨董を「おたから」と観じて価値の鑑定を求めるヒトが少なくないし、奇妙でもなく価値はいつも金額で鑑定される。ホンモノですという段階でとどまるのを物足りないと誰もが思っているからだ。ムリもないが嬉しくもない。「ナンボにしましょ」と司会の紳助はまず当事者に吐かせる。「ナンボ」時代であるなと思う。
* 書画骨董を粗末には思わないが掛け替えのない「寶」とも思っていない、いまぶん私には始末を考えねばならぬ、むしろある種負担でさえある。すべて真贋を確言できるわたしに眼も知識も無い。それにホンモノであるかどうかより、それを自分が愛せるかどうかを、いつもより大切にしている。気に入らぬホンモノはつまり宝の持ち腐れと思うし、好きな物はニセモノでも平気である。
それよりもだ、もっともっともっと大事にしたい「寶」を、自分は、今、持ったり観じたりしているだろうか、わたしは。否定しないが此処へは何も書くまい。
* 司馬温公の箴言がある。漢字だけで書いては読みにくいだろう。
「金を積んで以て子孫に遺すも子孫未だ必ずしも能く守らず。 書を積んで以て子孫に遺すも子孫未だ必ずしも能く読まず。如かず陰徳を冥冥の中に積んで以て子孫長久の計となすに。」
とても陰徳の士でなく、積んだ金も無い。積んだといえるほどの書も持たないが、聚めた書籍の殆ど何物も受け継いでくれる子を持てなかったのが心残りだ。金は喜捨も蕩尽も可能だが、書物は棄てたくない。しかしいまどき嵩張る本を欲しい人などいない。二束三文にもならなくていいのだから、古書の業者を呼ぶしかないだろう。
* 昨日家を出がけに、とうどう秋石の長軸を巻いた。はるかに喬い松樹に用いた色に堪らない魅力があり、もう巻かなくてはと思いつつ惜しみ続けていた。
代わりに、宗旦の「水仙の文」と極めのある消息文を思い切って掛けてみた。表千家の誰かの箱書のある、付属文書も函底にありそうな曰く付きだが、わたしには読めない。宗旦の紛れない花押が文末にみえる。総じて渇筆、かなりの速筆と見える。甚だ侘びている。鑑定を求めたこともない、間違いなく古門前の林から出ている。来歴はどうでもいい、掛け物としてわたしは愛している。万が一ほんものなら、こういうものは相当な施設なり家元筋へお返しした方が佳い。ニセモノなら悦んで我がタカラモノに愛玩する。
2011 1・28 112
* なんと午后一時半までイヤな夢も観ず寐ていた。ちゃんと呼吸しているので起こさなかったと。心身のいずれもが希望しているのだと思い、抵抗しないでいる。すぐ機械の前に来て、芭蕉の句と向きあっていた。真実優れたものの前にいると、心身共に安らかになるのはたいしたものだ。
昔の宮廷とかぎらず、優れた書画を邸内に飾っていた例は、数え切れない。たんなる装飾ではなかった。玩物喪志でない、いいものとの向き合い方がある。
自身連日の多読の習いもそういうものと思っている。いいと信じられるものを読んで心身を洗っている。濯鱗清流。
* わたし自身は、他のために、とうてい清流たりえない汚濁の徒、心身に渦巻いている濁流の穢さは我ながらおぞましい。しかし、それも自身であり、ただ心してときおりに清流を恋い慕い心身を洗濯しようとしているだけだ。いや、そんな気持ちすら実は無用ではないかとほんとうは思っている。本は「本」である。読みたいから読むのである。「本」の書きたい人間である以上は、当然。
2011 1・29 112
* 「古典を味わう」となると、自分がどれほど喜び味わってきたか、沢山な依頼原稿の結実として残っていておどろく。難しくて売れない小説家のわたしが比較的悠々と多年成り立ち得てきた根拠は、古典関連の著書や原稿依頼のお蔭であった。それへさらに美術や藝能が加わり近代文学への評論や論攷も加わった。勉強はしておくものだ。永い航海には、巨船だから安心と謂うことはない。問題はしっかりと安定した「底荷」の有無に尽きる。
当分は、わたし自身の古典にかかわる原稿を積み重ねて行く。そのうちに寄稿も投稿もあるだろう。お願いもするつもりでいる。昨日は芭蕉翁の鳴り響くような畢生の名句を掲載展示した。
今日は、わたしの「源氏物語の原風景」と「源氏物語の旅」を、掲載展示した。いずれも過去に関連した本のために依頼されて書き下ろした原稿である。心ゆくエッセイに成っている。
2011 1・30 112
* 直哉は「詩」が好きでない。「詩は特別なみの以外は興味なくこれまでも余り読んでいない」と言い放っている。じつは、わたしも詩はほんとは苦手でなんです。ぜったいに佳いというのが、分からない。とくに戦後詩は、わかったようなフリすらも出来ないほどよく分からない。
2011 2・3 113
* 古典の、こころとからだ 和歌・歌謡のこころ言葉 = 俳諧・川柳のからだ言葉
「 e-文藝館= 湖(umi)」の「古典を味わう」部屋に加えた。「味わう」でもあるが、「楽しめる」とぜひ付け加えたい。「鑑賞」とはこういうもの、とわたしは自信をもっている。知識を添え文法を解説したりするのが鑑賞ではない。作の命に身を寄せ想いを寄せて人生を真に鼓舞しうるのが鑑賞だ。わたしは徒党を組まない。鑑賞には私一人の文責を掛ける。舌頭千転。おぼえてしまえば、生涯の友となる和歌や歌謡や俳句や川柳が精選・満載されています。
* 古典愛読 一つの自叙伝
中公新書のために書き下ろした一冊を、すべて「古典を味わう」部屋に展示掲載した。
2011 2・4 113
☆ 風よい。
こんにちわ。お元気ですか。
西欧では、神話はひろく浸透していますね。
キリスト教、特にカソリックがダーウィンなど科学を受け容れないのとは違い、神話や民話は西欧の日常に生きている感じが、『ハリー・ポッター』や『指輪物語』をみてもわかります。神話や民話が政治と結びついていないからでしょうかね。
『ハリー・ポッター』は、魔法使いの学校が舞台の子供向け物語ながら、かつてはお城だった学校・寄宿舎には幽霊や怪物が棲みついていて、殺人が起こったり、かなり凄惨でグロテスクな内容です。小泉八雲は、恐い怪談を聞かされる日本の子供をはじめ気の毒に思ったそうですが、どうして、西欧の幽霊も恐いです。
イギリスの、たとえば『指輪物語』のような、ドワーフや魔法使いの出てくる物語の類を、「妖性物語」と称するのだと、ずばり「妖性物語」を研究しているという友人に聞いたことがあります。でも、ネットで「妖性物語」もしくは「妖性」で検索しても、該当する記事が出てこないんですよね。
花の聞き間違いかしらん。
こちらはドイツですが、ノヴァーリスの『青い花』は、神秘的なものと、科学的なものとが溶け合って世界を構築していたなあと思い出します。
それらにキリスト教が無関係ではないと思っていますが。
確かに、かつてはカソリックによる科学弾圧はあったのでしょう。
今でも、欧米諸国では、キリスト教原理主義者によるゲイ攻撃、堕胎を施す産婦人科医攻撃など、ローマ法王庁の見解に左右される社会問題はありますが、一方で、キリスト教すらも神話として扱う創作物も多々見られます。
法政大学出版局の『もののけ』、こちらの図書館にもあるみたいです。借りてみようかな。
浦島伝説のことは、よく知らないのです。
かぐや姫は、風の読み方に感銘を受けています。娘を亡くした人の話ではないか、というの。
ではでは。 花
* 「浦島伝説のことは、よく知らないのです。」とあるのにビックリした。三十代半ばの人か。
なるほど、もうこんなお伽噺に興がる子供達はいないのかもしれない。亀の命を救った若い漁師の浦島は亀の恩返しで竜宮へ伴われて乙姫とともに睦まじく暮らしていたが、故国へ一度帰ってきたいと云い、引き留められてもたって帰りたがった。仕方なく乙姫は玉手箱を浦島に持たせて故郷へ送り届けたが、故郷ではすでに夥しい年が経っていて親も親族も誰一人無かった。さて竜宮へ帰る術も知らなかった浦島は、明けてはならぬと禁じられていた玉手箱をあけると、箱の中からたつ煙とともに、年老いてしまった。
骨子はこうだが、「水江浦島子」の書記・万葉の昔から、いつしか「浦島太郎」となり、さまざまに語り替えられ読み継がれて明治に到り、唱歌に唱われて普及し、お伽噺の中でも古典の古典としてひろく知られた。露伴も鴎外も浦島を書いている。浄瑠璃にも歌舞伎にもなった。「浦島次郎」まで登場した。
だが現代、「かぐやひめ」ほどの大衆人気も無くなっているのかも知れぬ。
* しかししかし、かぐや姫が「月世界」という故郷へ帰って以後の、身のさだめを、わたしたちは知らないし、竜宮から陸の故郷へ帰ってきた浦島は故郷も故人もみな喪っていた。「故郷喪失」は現代人にも遠い主題ではない。同時に「老い」の問題も大きく深い。わたし自身、かなり切実に浦島の運命に動揺していないでなく、一瞬に老死したともいわれる浦島の物語が、「めでたしめでたし」という言葉で祝われさえするようになっていた成り行きにも、不思議の感慨が湧く。
「かぐやひめ」にもわたしは執拗に月に帰ってからの姫の運命を危ぶみ思いながら好奇心の絶えないところが有る。彼女も月世界に帰った瞬間に老いたであろうと想ったりしている。老いた浦島と老いたかぐや姫が宙ぶらりんに出逢ったりしないのだろうか。
* 「もののけ」の話は簡単ではない。
文明先進国よりももっと原始性を保存した森林や山岳や湖沼や海の人達の抱え込んだ魔や鬼や神の問題が、存外に文明の命脈を芯のところで生かしたり腐らせたり弾ませたりしているからだ。そしてこれが差別の根に絡む。
相撲は神事の文化だなどと聞いたようなことを口走ってみるだけでは、手に余る。神事とは、どこかでばけものやもののけと取っ組み合っているのだ。八百長などチョロイ話でしかない。皇帝ではない「天皇」をいまだに形ばかり奉っている日本の国技が、技倆の審判というとき、それはつまりは「おおまかに<観た>てい」にするということだ。
茶の手前で器を拭く、拭うということを再三するが、本気で拭いたり拭ったりすればかえって穢く見える。いかにも拭いたてい、拭ったていに拭いたり拭ったりする。神事とはそういうものだ。相撲はそれでやってきた。それを承知で公益法人が認可されてきた。天覧相撲などというのは何だと想っているか。それでも白鵬の連勝にも敗戦にも熱狂し、魁皇の八勝七敗にも喝采しつづけてきた。
スポーツにしたくなかったのは、力士だけでなく国民もそうだったではないか。だからこそ、力士達の土俵入りをつまらぬやめろとも云わず、三役揃い踏みも観賞してきた。あまり露骨な今度のような勝ち負けの売り買いがバレた以上は解雇が当然だが、他の連中にはいい相撲を率先取らせたいと声を上げなくて、何のための理事会かとわたしは怒るのだ。
2011 2・8 113
* 年代からして六世歌右衛門にふれての志賀直哉の感懐であるが、「なよなよした人ではなく、少なくも藝に対しては並々ならぬ意欲的な人だと」書いている。昭和三十三年師走。
「勝負の世界で、ファイテング・スピリットといふ事を云ふが、私は藝術創作の仕事でも或る年齢までは、これはじつに不可欠の精神だと思つてゐる。」
藝の上のライバルなんぞへのそれではない、「自分がこれから取り組まうとする仕事に対するファイテング・スピリットである」と。
そしてさらに歌右衛門に向けて望んでいる、「他日、ファイテング・スピリットなどといふものを全く忘れ去つたやうな本当の名優になつて貰ひたい」とも。
吟味と咀嚼との大事な言葉である。この頃の直哉といまのわたしとは同年ぐらいだと思い当たれば、自身の未熟が思われます。
2011 2・8 113
☆ 途上
秦先生、ご指摘ありがとうございます。谷崎潤一郎の『途上』は未読。一度探して読んでみたいと思います。谷崎潤一郎というとどうしても、『谷崎源氏』や『細雪』の印象が深いのですが。探偵小説もそんな雰囲気があるのでしょうね。楽しみです。
また寒さが戻ってきたようですね。三寒四温のこの頃、御身大切に。 野宮
* 『途上』について述べ立てると、読まれる前に予見を与えてしまうので、控える。
谷崎の探偵小説、推理小説は、そういう方面専門の読み物作家達の作とは大分執筆動機が違う。谷崎先生の最初の結婚は大正四年ごろで、お嬢さんが翌年には生まれ、たしか『父となりて』という刺激的なエッセイが書かれて、それ以降の大正期の谷崎には悪魔派というような呼称が付きまとう。その傾向の中で谷崎は小説以外に、推理モノ、そして映画論や映画製作という事業にも手をだし、小田原事件も起きる。そして『痴人の愛』でそんな大正期をしめくくり、『蓼喰ふ蟲』で昭和期へ飛躍して行く。『途上』は比喩的に言うと、エッセイ「父となりて」から『蓼喰ふ蟲』への途上の作になる。
短く纏めて書いたが、これだけの骨子に肉を付ければ、学部の学生さんなら卒業のための一つの谷崎論が立派に書けるはず。『途上』のような作こそ、凄いよ、と云うてよい。恵美子夫人にも、亡くなった観世栄夫さんにも、「 e-文藝館= 湖(umi)」にせよ秦さんのなさることならどうぞご自由に、存分になさって下さいと言って頂いている。この問題の秀作も「 e-文藝館= 湖(umi)」に戴きますよと、いまも目の前の谷崎先生のいい写真に頭をさげたところ。
2011 2・9 113
* 谷崎の『途上』を克明に読み返したが、面白い。作の意図した推理の筋はよく承知している、のに、一行一行の進行に引きこまれ、いまも肌に粟立つものがある。乱歩らが感嘆し烈しく刺激されたのは当然で、乱歩懸命の成果である「D坂の殺人事件」も「二銭銅貨」も「心理試験」も遠く及ばない。大きな一つには、乱歩は人の心理を重くみたにしても、すべて推理小説・探偵小説のために書いている。谷崎は、もっともっとおそるべき内なる動機に催されて書いていた。文学ないし文学者として、天と地ほどそこがちがう。
2011 2・11 113
* 『誰がために鐘は鳴る』がクライマクスをもう目前に迎えようとしていて、感動が潮のように胸に迫る。ロバート・ジョーダンとマリアとの残り時間のない愛の深さに、若い日の昔と少しも変わらない、いやもっと深まった喜びと悲しみとが沸きたつ。この作のまうしろを『アンナ・カレーニナ』が支え、さらに『若きヴェルテルの悩み』が支え、源氏物語と谷崎潤一郎が支えている。贅沢な喜びだ。
そしてわたしはわたしの「浦島」を新たに書きたくなっている。悲劇かも知れないのに。たわいない話とも言えそうなのに。それなのに、千数百年にわたり浦島伝説は書き換えられ書き重ねられて、ほとんど各時代に途切れなく明治に到り、巌谷小波も幸田露伴も森鴎外も彼らの浦島を書いている。北村透谷も書こうとしていた。
どこにこの伝説にそんなエネルギーがあるのか、それが妙だ。その妙、存外誰もが無意識に背負っているのかも知れない。
竜宮とは、玉手箱とは、故郷や親族とは、一瞬の老いとは。それは不幸なのか。めでたしめでたしと終わっている浦島の話がたくさんあるのはなぜか。亀とは何か。どうも、たわいない昔話の儘でいない骨身をもっている。浦島は男だけれど、結婚して家を離れる女の人はみなどこか浦島の境涯にいるのかも知れないではないか。 2011 2・12 113
* 夜前、『蓼喰ふ蟲』を読み上げた。
『谷崎の源氏物語体験』を書いたとき、『痴人の愛』に触れて云いながら、『蓼喰ふ蟲』にまで言い及べなかったのはわたしの失陥であった。この作の幕切れは「お久」という明瞭な「藤壷の侵し」であり、源氏に藤壷を黙認して与えたのが父桐壺帝、源氏の母桐壺更衣を死なしめた帝から一種贖罪であったように、斯波要に妾お久を暗に与えたのは、妻美佐子の不義に対する父親からの要に対する贖罪であった。じつに簡単なことだが、それだけに、それの読み取れない読者を谷崎は嗤っていただろう。
わたしは谷崎と松子さんとの出逢いが昭和二年で、その年の内に二人は結ばれていたはずと、ずうっと看て取って云ってきたが、『蓼喰ふ蟲』はその昭和二年の谷崎作なのである。そして彼から松子さんへの最初の贈りものは、小出楢重描くじつにこの新聞小説の挿絵原画であった。
* 書けば数十枚の論攷が出来るだろうが、上の六行で足りている。わたしのまた一つオリジナルな新しい谷崎の「読み」である。
2011 2・13 113
* 終日、不愉快な対応をはさみながら、愉快であるワケのない谷崎不屈の『検閲官』にも向き合っていた。そして、昨日書いて置いた上申書の文案に手を入れたり。しかし、さらにさらに慎重にわたしは、わたしたちは、対応を間違えないようにしたい。
☆ あはれともあはれともいふ我やあるべき
あるはずがなしわれは我なり 湖
* わたしの世界がまだ狭いのだなと思う。広い広い世間から比べ観れば、どれほどのものだと謂うのか、わたしの迷惑如きは。娘や婿がわたしに向かい名誉毀損という裁判沙汰で騒ぎ立てるぐらい、餓えや寒さも凌げず生きる希望を踏みにじられている人達や、冤罪の身を官憲に威されて罪されていた人達や、いやいや人目には小さな、しかし本気で失恋した少年や少女達と比べてさえ、道化ほどのものだ。それにしてもかれら原告二人の無意味な逆上ぶり、執拗極まる害意は、正気の沙汰と思われない。そして必死になり躍起になり、わたしの書いてきた小説やエッセイや述懐の多くを此の世から抹殺したがっている。いったい、わたしが何を書いたというのか。
何故か。
本人達は事実か事実相当のしかも人間として恥ずかしいことが書かれているのを怒っているのだろう、だが、順序がちがうだろう。恥ずかしいならわたしに怒るのでなく、自らの反省が先だ。わたしは作家だ。書くべきは書いて表現する。
* 静かな心で小説を書き継ぎたい。書けば読んで下さる人達がわたしには、 ある。「いい読者」にいつも恵まれている。書きたい。書ききれないまま、死ぬのかなあと想う。
2011 2・16 113
* わたしは善人でも徳人でもない。幾皮とも剥かなくてもけっこう不徳も悖徳も演じてきた。その筈だ。
それでもとにかくも自分を卑しくしては生きたくない。出来ることは出来るだろう、出来ないことを人手を煩わしてまでムリにすることはない。そのことが咎められるなら、さよう、天命というほど大層なことでない、単純に損はするだろうというまで。
* 朝一番からムカッとくる不快に出逢い、蹴飛ばすようにして、家を出て、半日余。呑んで喰って読んで、腹痛に堪えながら空を観ていた。うたたねさえした。あ、寝ているな、どうかして目がさめないといいと願ったが、そうは行かなかった。
* なにごとであるか、このところ人の死んで行く話ばかり読んでいた。『誰がために鐘は鳴る』のロバート・ジョウダンが、源氏物語の夕顔が、死んだ。マリアが死なれ、光源氏も死なれた。さらには読み始め読み進んでいる『アンナ・カレーニナ』の無残な果てをわたしは知っていて、覚悟定めてアンナと歩んで行くのである。おなじように『若きヴェルテル』もまた悲しい恋に死んで行くのをよく知っている。谷崎の『盲目物語』にもつらい烈しい女の死が、座頭弥一の見えぬ眼の奥に描き出される。
2011 2・17 113
☆ 途上
秦先生、谷崎潤一郎の「途上」読みました。こんな作品群があったのですね。私の読書量の貧しさ、改めて反省。「プロパビリティの小説」という言葉も初めて知りました。「蓼食う虫」「痴人の愛」ももう一度読んでみたいと思います。
一昨日長浜に泊まり、湖北を回りました。まだ寒い折から、ほとんど人気が無く、ゆっくりした時間を過ごせました。昨秋尋ねた近江京、義仲寺、安土そして長浜、今浜・・・琵琶湖は様々な歴史の顔を持っていると改めて、しみじみ感じました。一度行ってみたかった竹生島も、三日前の雪が残り、静寂に包まれていました。あの急な階段を上り、きらきらと輝く湖面をみつめ、経正のこと、琵琶のことなど、思い浮かべ、良い時間を過ごせました。
水鳥も堪能しました。香道の遊びに「水鳥香」という、鴨・鳰・鴛の3種の香りを聞き分けるゲームがありますが、昔の人は、冬の琵琶湖の水鳥と遊んで、千載集、後千載集、続千載集の中から、3首の水鳥の歌を捜して、このゲームを作ったのではないかと思ったり。残念ながら、「鳰の浮巣」は見つけることができませんでした。
先生の御本のおかげで、琵琶湖がますます好きになりそうです。
どうぞ、御身を大切に。 野宮
* わたしも、こういう行楽がしてみたい。『みごもりの湖』を久々に、実にじつに久々に読み返してみたくなる。「みごもり」の一語にわたしはあの頃、「神隠り」「水隠り」「身隠り」そして「身籠り」つまり「妊り」を意味させていた。「身隠り」そして「水隠り」たい気持ちがいまはひたひたと濃い。深い。
2011 2・18 113
* 次のような志賀直哉の言葉に、汚されがちな鱗を濯ぎたい。直哉先生は、晩年に何度か、自分の書いた言葉や文章が後生に愛され共感され読まれるのなら、自由に用いてもらいたい、構わないと言われていた。先生の本意・真意であったとこころより有り難く思う。わたし自身も同じようにそう思っている。以下に紹介するのは、わたしも含めて創作に志をもった者の支えと信じるから。
☆ 志賀直哉の「トルストイの小説」と題された、全集を推薦の一文。
トルストイ全集の刊行は今度で何度目か知らないが、何度出てもいい全集だと思ふ。
トルストイの小説を読んで感心するのは一寸出て来る人物でも、場面でも、作者はそれ程書いていないのに変に生き生きと感じられる事である。思ふに、それは作者がその人物を、その場面を、はつきりと想ひ浮べて書いてゐるから、特に描写しなくても、作者の頭に映つてゐるものがその儘読者に伝はるのではないかと思つた事がある。私は、『アンナ・カレーニナ』を読んでこの事に気づいた。
* いま、わたしは『アンナ・カレーニナ』を毎日愛読している。直哉の観察を追認し味わっている。この前に『復活』を読んで、しみじみ感嘆したのも思い出す。
直哉は或る優れた写真家の仕事を推奨しながら、こんなふうに書いている。
☆ 文章では一つ事にはたつたひとつの表現しかないといふが、一つの素材を単に持ち合はせの手法でこなす事はマンネリズムに堕す。向うにある物を其儘、うまく撮すといふだけでなく、自分にひびいて来たもので把へるのでなければ本統の藝術とは云へない。
* 「文章では一つ事にはたつたひとつの表現しかないといふ」という直哉の言葉は、近代日本の散文追究の極致の言葉だと思われる。しかしこれには鏡花や谷崎らのまた別の考え方もあった。べつの日本語の把握があった。それも忘れてはならぬ。
☆ 志賀直哉「漱石全集を薦す」より抜粋
そして、その頃、私に一番魅力のあつたのは夏目漱石だつた。
六十年前の話で、私も今は八十二歳になり、 老人性白内障で、活字が読めなくなつた。
今度、先生の全集が出るに就いて岩波から推薦文を頼まれたが、 前に一度書いた推薦文があるので、それを再録し責めを果たさうと思ふ。
夏目先生のものには先生の「我」或ひは「道念」といふやうなものが気持よく滲み出してゐる。それが読む者を惹きつける。立派な作家には何かの意味で屹度さういふものがある。然し藝術の上から云へば此「我」も「道念」も必ずしも一番大切なものではない。そして誰よりも先づ作家自身、作品にそれが強く現れる事に厭きて来る。「我」といふものが結局小さい感じがして来るからであらう。「則天去私」といふのは先生として、又先生の年として最も自然な要求だつたと思へる。
* いい批評だ。同時に重々しい述懐である。哲学が生きている。
漱石に則天去私は、願われたけれども到達はなかったというわたしの従来の読みに、直哉のこの批評が触れあっているかどうか。
2011 2・19 113
* 「イ・サン」の記念番組を観ても、監督や俳優達の素顔を観ても、思い出のシーンにも、素直に反応した。嗚咽に近い涙も出た。いい王様であるかも知れないが、それ以上にいい愛が、ありきたりでなく描かれていた。
*「ありきたり」というのが一等怖い毒だと思う。わるい場面でもわるい展開でもわるい科白でもないのに、どれもみなどこかでもう卒業してきたような「ありきたり」を見せたり聴かせたりするのが、創作の何よりも怖い毒で落とし穴で、いつのまにかそれに満足してしまうのが創作者の自殺行為になる。こわいことだ。こわいことだ。こわいことだよ。
2011 2・20 113
* 志賀直哉の散文で書かれた述懐の中でも、永く記憶され心して読まれていい名文、珠玉というに値する文は、たくささん、たくさん在る。なかでもこの一文は、みごとな高みにある。
☆ 志賀直哉「ナイルの水の一滴」
人間が出来て、何千万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生れ、生き、死んで行った。私もその一人として生れ、今生きているのだが、例えて云えば悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年溯っても私はいず、何万年経っても再び生れては来ないのだ。しかも尚その私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。それで差支えないのだ。
* 昭和四十四年(一九六九)二月二十三日の「朝日新聞PR版」に出たが、直哉はこの一文を久しく胸に抱いていて、昭和三十五年十二月二十日刊の講談社版日本現代文学全集49『志賀直哉集』には、全文ペン字で書いている。わたしはそれを新婚生活の中で見ている。刊行の翌日にわたしは満二十五歳になった。
極貧の新婚生活の中で、わたしは、この講談社版全集が出始めると、躊躇無く買いそろえ始めた。第一回の配本が『谷崎潤一郎集一』だったから。そして一冊一冊増えて行く。読む。読み耽る。ああ、自分も書きたいと思う。それが最も有効な文学修業だった。そして三十七年七月末、突如としてわたしは小説を書き始め、書き始めたらもう一日として一度も、少なくも以後二十年、休まなかった。
この「ナイルの水の一滴」が朝日新聞に出たのは知らなかったが、その日付のたった二日後、昭和四十四年(一九六九二月二十五日に、わたしは四冊目の私家版『清経入水』を出版している。その巻頭表題作が、わたしの全く与り知らぬ間に、第五回太宰治文学賞の最終候補作に差し込まれて、選者満票でこの年の桜桃忌に授賞された。
2011 2・21 113
* ところで、昨日出来てきた新刊の「湖の本」は、ちょっと息も抜いていただけるようにと、「京都」で二百頁。ことに冒頭には、二本の記念公演録に手を入れて、わたしの京都論と京都人論を徹底させてみた。一つは、「明日の京都を励ます」ため、京都市第一回藝術祭典「京」 の記念公演。二つは、京都女子学園創立百年同窓会 の記念公演で、京ことばと京都の人を徹底的に批評した。
京都は、たんなる京都ではない。同様に京ことばはたんなる一方言ではない。日本を考え、日本を読むに際してとても無視も軽視も出来ない根本の所へ触れてくる。
大勢の人が関心を寄せて下さると嬉しい。
2011 2・24 113
* なぜか知れず寝起きは、じっと堪え、仕事をはじめてやっと心落ち着く。今朝は「 mixi」 に昔の日記を送り込み、村上華岳にふれて書いた自分の文章で心静かになっていた。こういう、こころよい「もの」や「ひと」になら、たちどころにわたしは出逢える。ゆっくり話したければその人と「部屋」に入れば、なににも邪魔されない。邪魔。そうだ「邪魔」というみにくい魔性が、現世には、いるのだ。
☆ むかし、前漢かもう後漢のころだったか、いずれその時分に、趙(ちよう)なにがしという逸人があって、生前に自身の墓を築いた。墓の内には手ずから古聖賢四人の画像を賓位に画(えが)いて、自分の場処は余白のまま残し、そして折あれば世人を避け墓に潜んで、その時幽明の隔てなく、主客は自在に談笑して倦(う)むことがなかったという。
超は九十余歳、やがて己(おの)が死の遠からぬを悟ると、主人の座を負うた壁へ彩管を揮(ふる)って、生けるがままの一体の自画像を画(か)いた。そしてそれなりその墓は封じてしまった。文字にのみ伝えた史上最も夙(はや)い自画像の例として知られるが、幸いこの趙なにがしの自像墓は、何でも掘り返すのが好きな昨今の中国でも、見つけられていない。地下に二千年、気稟(きひん)の清質最も尊ぶべく、和顔愛語(わげんあいご)の今も絶えないであろうことが嬉しいと、この話をはじめて聞いて、私は羨ましかった。
が、かく言う私にも幼来、一の、墓ではないが似たような小部屋がある。それもいわば折り畳み自由、いつ何処へなり脳裡に蔵(しま)って持ち運びができる。このさい雅(が)な名前を如何様(いかよう)につけてもよいが、端的(ただ)に「部屋」と自分では呼んできた。古人多く死せるあり、理の当然ながら、この死んだはずの古人が招けば気安く「部屋」を訪れてくれる。様態(なりふり)は客の勝手だが、今日(こんにち)の風儀に、たいがい背かない。つまり気らくで、互いに堅い挨拶が要らない。君ぼくでも俺お前でもないけれど、面と対(むか)って何を訊ねても、答えてもらえる。訊かれれば私も応える。趙某が寿蔵のように、不得手に筆を用いてさながらに人がたを画く必要などない。それに気の多い私のこと、「お客」は聖人君子(えらいひと)と限らない。好きな人を好きに招(よ)びたい。
但し識らぬ人を呼びようがない。「部屋」へ入(い)り浸(びた)りでもおれない。むろん趙さんみたいに、「またですか」と奥さんに雲隠れの苦情は言われない。私の妻もなんとなく感づいているらしいが、肝腎の「部屋」へ出入りの戸口が妻の眼には見えないのだから、止めだて出来ない。
で、この数年に限っても「部屋」の客、なかなか数寡(すくな)くはなかった。ひところ後白河院(ごしらかわいん)に再々お見え願っていたし、前後して建礼門院にもお越しいただいた。お二人ともごく話し好きで、生前こそ畏(おそ)れ多けれ、この「部屋」へ「お客」となれば至って自在なもの、遠慮がない。ご一緒にと願えばお揃いででも見える。
また、繁々と近ごろ顔を合わしている新井白石氏は、藍大島のすっきりした着流しに汚れめのない白足袋で現われ、とみに熱心にキリスト教などを論じて行く。
氏は、宝永六年冬に、自ら望んでローマ人宣教師シドッチを尋問している、あの折の感想や観察を私が訊きたがり、白石氏もあれに就ては『西洋紀聞』その他に表むき書かれたのと、また調子(トーン)のちがった認識をその当時から持っておられたらしい。
シドッチの潜入意図について、万々疑念ははさみながら、だが彼を、決死の覚悟でローマからはるばる日本へ駆り立てた信心の根というものを、新井先生は心中に否定してしまえなかった。
言えば、──際限がない。が、際限ないそのような訪客との歓談や質疑の中で、ことにこの数年、しきりに望んで交際を重ねてきた、今一段ざっくばらんな人物がある。昔ふうに言うと身丈(みのたけ)「五尺二寸」「イロ白く鼻高く中セイ。」わけは──いろいろある。出逢いも、あった。出逢いから話すのが、順というものだろう。 秦恒平作『最上徳内 北の時代』の冒頭部
* こういう「部屋」が、在る。
* とにかく、この心労と体疲労に日々打ち勝って行かねばならない、創作意欲を失うことなしに。
* 岡本一平が幼い息子太郎に藝術家とは何かと聞かれ、藝術家の毎日は「地獄」だと答えていた。ウンウンと妥協しない、いつも世俗のあしき常識に「ノンノン」と立ち向かって生きる気概がなくては、藝術家ではないと。
濯鱗清流。わたしが尊敬してきた藝術家は例外なくそういう人達だ、一人の例外もない。
2011 2・25 113
* ひとつアイデアがあった。少し試みてみると、成るようだ。成るならやってみよう。こういうことって、ときどき有る。そのとき、やるか、やりつづけるか、やらないか。やりつづけて実ったこと、少なくない。
2011 2・27 113
前便で読んだエッセイは、大勢がいろいろに言及してきた、何度も聴いてきた「ありきたり」の話題なのが残念でした。勉さんならではの、生活と意見の具体感に溢れたエッセイを読ませて下さい。エッセイは、「論」じては窮屈、概念的観念的になり強張って面白みが落ちます。エッセイはその書き手ならではの「描写」「表現」の魅力です。志賀直哉の言うように、場面や声音が目に見え耳に聞こえるように書いて読ませて下さい。論攷や論説には他の書き方があります。
勉さんならではの視野と視線とがとらえた具体的な世界や場面を読ませてほしい。
訃報のみあいついで賑かなあの世かな
風ゴトゴトと娑婆を揺る間に 恒平
二年ほどまえの作です。
2011 2・28 113
* わたしが東京に暮らして、いまではいちばん足を向けて親しんでいるのは、浅草と銀座。わたしの育ったのは、或る意味では京の浅草のような場所であったと思っている。自分で造語したほどの京の「女文化」に親しんで来は来たものの、わたしの視線と創作の主題の大きな一つは、主なる意識は、女文化自体も含めてだが「差別」とその世界に注がれてきた。わたしの京都はそうは趣味的ではない。京の奥深さは「貴賤都鄙の雑居」に在るのだ。
* 今度の本は「京都」「はんなり=花あり」と題したので、前回の『秦恒平が「文学」を読む』なんどというのと趣かわって随筆世界のようであるが、講演録二つでしつこいほど追究した「ことば」の問題は、とても生易しいモノではない。「ことば」もまたわたしの文学主題の大事に思ってきた一つである。そして「島の思想=身内観」さらには「死なれて・死なせて」。この四本柱でわたしは自分の土俵を囲ってきた。どの一つもありきたりではないと考えている。
* めにつくコマーシャルに「そうだ 京都 行こう」というのがある。真ん中の「京都」に目的・方向を示す助詞が省いているのをなんだか洒落ているともヘンだとも思っている人があろう。鉄道の旅の誘いであり、めあては全国の視聴者であるから、助詞はじつは付けられないのであろう。むかしから、「筑紫に、京へ、坂東さ」と言われてきた。いやいや、「京に、筑紫へ、坂東さ」だという説も古くて、どつちが先かと言い争っている人達も昔から有った。さすがに「さ」とはわたしは行ったことがないが、京生まれ京育ちのわたしは、たとえば「パリに行きたい」と言う方だ。「パリへ行きたい」ではないようだ。大阪で生まれた妻は「パリへ」派である。筑紫の人に確かめたことはない。
喋るときだけでなく、方角を示す助詞は文章でも頻々と用いる。自分では「に」を多用・慣用してきたと思い込んでいるが、調べて確かめたことではない。「学校に行こう」「河原町に行こう」「東京に行こう」と口でも言うてきたつもりだが、
「に」でも「へ」でもなく中間の「い」も有りそうな。「川い行こう」「山い行こう」と言うていた気がする。「に」には密接した親和感が感じられて「へ」を少しよそよそしいと思うときもある。「近くに」「遠くへ」という感覚もある。
源氏物語や栄花物語はどうか、あらためて今夜の読書で気をつけてみよう。
2011 3・1 114
* 浴室で「末摘花」の巻を読みながら気をつけていると、やはり間違いなく「京へ」でなく「京に」と多数の例で読み取れた。「京さ」は無論無い。方向付け、目当ての場所、みな例外なくと言いたいほど「に」という助詞を用いている、と、読めた。「里に帰る」のであり、「花見に行く」のであり「東に行き」「西に行く」。「懐に入れる」のであり、「山に登る」のである。しかし「へ」を用いて間違いと言うことはない。筑紫が「へ」か「に」か知らないが、京はもとももとは「に」であったのだと確信する。
2011 3・1 114
* 「 e-文藝館= 湖(umi)」の「古典を味わう」に、ぞくぞくエッセイや論攷を入れている。まずは、わたし自身の古典での業績を積み上げて、愛好の読者にすべて無償で提供しておく。過去のわたしの仕事はもう公共財として捧げていいものである。悪用はされたくないが利用はどうぞと。
2011 3・3 114
* 今日もとても寒々と感じた、日射しは明るかったのに。 気持ちを落ち着けるために、HPと向き合っている時間が長かった。
2011 3・4 114
* むかし、たった三枚半の新聞エッセイ「何か」と依頼され、何を書いていいのか、途方に暮れてアタマが禿げそうに困惑し憂悶した。いかに身内に湧いてくる言葉の坩堝を持たないかを思い知らされた。底荷のない船で大海に船出したあんばいであった。
新聞小説の連載はひとつの作物を毎日書き継ぐが、時にはコラムエッセイを一月も書くべく頼まれることもあった。自分の身の内に、読まれるに堪える思いや感じや体験を蓄えていないと、応じきれない。わたしの「生活と意見」は連日書き継がれている思いや感じや体験の積み重ねに他ならない。いわゆる日記とはちがう。生きるという「公案」に答え続けている。「いま・ここ」の連続に堪えて生み出す実感のことばだと思っている。
「mixi」に連載している日々の短い断章は、やはり創作。そういう創作を、日々に績み紡いでそれにより鍛えられてきたと思う。
もの書くものは、豊かな実感を言葉にいつも置き換えうる技倆と覚悟を持たねば、痩せて貧しくなる。金銭ではない「豊か」という生の実感を、美しい確かな言葉ではんなり吐き続けねば、本気で「書きたい」人は。
2011 3・4 114
* ケイタイと営業サイトとが連繋して、大学入試に巧妙なカンニングが露顕し大騒ぎになっている。軽率で愚かしい行為であるのは免れないが、そういうことの横行しうる「時代」だとの認識
が、世の大人世代に無さ過ぎた方が滑稽に見える。今回の場合、営業サイトが関係していたからバレたが、もし優秀な連中がどこ家庭の一室に待機して、そこへ正解を求めていたら、これはバレようがない。あの少年より悪辣な連中がそれをやっていない証明は出来ない。
* なによりも時代が変わり環境が変わっている。ペンの仲間達が「環境環境」と鬼の首を取ったように騒いでいた「環境」は、わたしがいつも指摘して嗤っていたように、自然環境の一点張りだった。そうではない、人間の環境には自然だけでなく、今日
は「機械環境」が猛烈に力を持っていて、それが人間精神を傷つけまた無感覚化してしまう、その怖さを認識しなくてどうして「文学」が対応できるかと。わたしが、「電子メディア委員会」を世界のペンに先駆けて提案し実現した根の深い理解はそれであったが、今期理事会や阿刀田執行部は理解できず、安易に言論表現委員会に吸収させ、潰してしまった。「言論表現」の問題は余りに広大、しかし「電子メディアが引き起こしてくる問題」は具体的にそれ以上にますます広大になる。両輪両翼で対応しなければ追いつかないのに。
* 今の今もわたし自身が背負い込まされている裁判は、やはりネットサイトでの言論言説の問題が根・源になっている。わたしは、もはや世界大のネット社会では、せめて最低限度のエチケットとして「文責を明らかにして発言し言論し批評し合うべし」と考えている。「書いてはいけない」などという愚かしくも古くさい制限に閉じこめ切れる機械環境ではない。
日記にしても、いまやノートブックに手で書く日記が標準ではない、「 mixi」 のような「facebook」のような大公開の場ですら、人は日記を書いている。個人のサイトで、親が情愛豊かに息子や娘や孫達の平安を願ったり苦言を述べたりするのが裁判沙汰になり賠償の問題になるなど、それがもし法律なら、徹底的に漏れなく摘発して不均衡に陥らぬようにすべきだが、そもそもそういう発想自体が時代後れに過ぎている。
文責を明記して討議や討論に堪えられる批評行為は「あたりまえ」であらねばウソだろう。
* いまわたしは娘や婿の強硬な要求で「生活と意見」と題していた全部を「更新出来無く」されている。そうしない限り「和解」の席に着かないと言うのだ、裁判所も代理人も「和解」に入ろうと願うなら一時的暫定的に、従って欲しいという。
ところで、総量五万枚に及ぶわたしの「生活と意見」を、冒頭から慎重に読み直していると、すでに七年分三十数ファイルまで来て、婿の実名はおろかマーキングしたものも皆無、娘の旧名(娘は三年前に、親が付けた朝日子という名を放棄し、改名している。今では朝日子は親や弟の記憶の他に実在しない。)はむろん沢山出てくる。どういう出方であるか、今、全部を拾い上げているが、万人が万人の目に、思いに、微塵の悪意もないどころか、両親や弟の溢れる愛に朝日子が包まれていることだけが明確になるだろう。なぜそれらが裁判沙汰に成りうるのか。なぜ賠償金の根拠になるのか。いずれ全部を明白に示したい。わたしの日録は何人もの人が手元に記録していてくれるので、現在のわたしが思うまま改竄したりしていないことも、容易に証明できる。
* 新世紀に入って時代は急角度に急速度で変わってきている。わたしが東工大で初めて買ったパソコンに一太郎をインストールするのに、四角い小さいディスクを二十数枚使わねば成らなかった。容量は1G しかなかった。やっとホームページを学生君に創ってもらえたとき、世の中にケイタイなどまだ影もなかった。平成十年だ。十三年には新世紀に入り、いま平成二十三年。どれほどの「機械環境」か、若い人ほど知っている。しかも若い人ほど十二三年前のホンのまねごと時代など、全然知らないのだ。
* いまわたしを裁こうとしている裁判所の関連の法律がどのようなものであるのか。それを思う。徹頭徹尾、わたしの裁判は「ネット裁判」なのである。撲った、傷つけたでも、ダマしたでも、ない。そしてそれはわたしだけの問題だろうか。時代の問題である。週刊誌が取り上げるなら、そういう根底の「時代」を問う取り上げ方をすべきであった。
2011 3・6 114
* 『盲目物語』は本能寺の乱のあとの勝家・秀吉鞘当てのあと、お市の方が娘三人を連れ子に北の庄の柴田勝家に再嫁して落ち着いた辺りを、盲法師が物語っている。巧みなモノだ、
が、近松秋江があんな「語り」でなら誰にでも書けると放言した意味も、いささか分からぬではない。大久保房男さんも時代小説には賛成しないと言われるし、その意味はよく分かっている。賛成である、が、歴史小説と時代小説とは「大違い」だという気もしていると同時に、たとえばドラマでいえば、「阿部一族」「遺恨あり」などと「水戸黄門」「暴れん坊将軍」などを一緒に視るのは間違いだと思っている。線は引きにくいが、ありきたりで売るモノと、表現の優れた力で見せるものとには、雲泥の差がある。谷崎の『盲目物語』『武州公秘話』『乱菊物語』などを易く見るのは、見方そのものが易いのだと、わたしは受け容れない。
わたしはといえば、谷崎先生の、『吉野葛』『少将滋幹の母』などの歴史と現在が渾然とした物語に、つよく感化されたのを自覚している。『清経入水』『或る雲隠れ考』『慈子』『清経入水』『みごもりの湖』『風の奏で』『最上徳内』『四度の瀧』『秋萩帖』等々がそう
だ。成功不成功をじぶんでは云わない、が、ありきたりにならないようにようにオリジナルの実験を試み続けたつもり。
2011 3・6 114
* 中学の恩師、給田みどり先生の歌集『夕明かり』を機械の傍で、ちょっとした合間合間に心して読んでいる。
中学では給田先生、高校では上島史朗先生がわたしの短歌を観て下さった。お二人とも亡くなる日までわたしの文学を応援して下さった。去年に亡くなられた橋田二朗先生も、担任だった西池季昭先生も、亡くなる日まで私を購読というかたちででも支えて下さった。
いま給田先生の歌集をみると、口絵に橋田二朗先生扇面の「富貴草」が艶に描かれて在る。先生方がほんとうに仲良しであられた。そんなことが、今もしみじみと嬉しくて仕方ない。
高校一年の夏だった、ある日、まだ弥栄中学におられた給田緑先生は、わたしを誘われ、南都の薬師寺と唐招提寺へ連れて行って下さった。ああ、これがどんなにわたしにとって深く刻まれた体験になったかは想像してもらえるだろう。先生はほとんど解説めいたなにも仰らなかった、二人での静かな遠足を楽しまれているかと思い起こされるほどだった。わたしはだが薬師寺の佛達にも、唐招提寺の伽藍にも、のけぞる思いで打たれていた。いまも、こころよりこころより御礼申し上げる。
給田先生のおもかげは、太宰賞をうけた『清経入水』のなかに描かれてある。
2011 3・6 114
* 『京と、はんなり』を編んでいて、今回は息抜きとぐらい自身にいいわけをしながら送りだした一巻であったが、予想外に反響が集まっている。いろいろではあるが、跋文は、だからそれなりに気を入れて選んだのだった。
直哉への尊敬と共感によせて現下の思いを書きおくことにわたしは、かなり心していた。それらはそのまま毎日書いている「私語の刻」に闇に言い置いたそのままであったけれど、そういう執筆行為そのものが、いわば「私」の私を或る程度は捨てた私の行為に他ならない。何をしているから貴いのだ無意味なのだという評価にたゆたうのでなく、「いま・ここ」を生きているそれに集中する気でわたしは、いる。
2011 3・15 114
* 志賀直哉は老いてから元気にヨーロッパに旅立った。ローマという街をよほど喜ばしく観たようだ。
沢山の手紙を留守宅その他へ送っている。
かなりの期間滞在したが、結論的に、ヨーロッパ の現代は「不健康」だと断じている。自然に対して不自然に文化や生活を創ってしまっていると。それと、ルネサンスへの我々の評価は過剰だったと云っている。
この人は、空を飛べない人間が空を飛び、水のそこで暮らせない人間が海の底をはしるといったことも「不自然のあらわれ」だと、必ずしも喜ばない。そのようにして人は不自然を感じなくなり、自然に戒められるのだと言い切っている。
科学の進歩に、「一番でなくてはいけないのか、二番ではいけないのか」と云った女大臣が嗤われていたが、わたしは嗤わなかったし、わたしより遙かに早く志賀直哉は、科学の進歩に歯止めのない夢を観すぎて人は不幸に陥るかも知れぬと警告していた。
こういう健常な自然感覚の人が払底してしまっては、危ない。
2011 3・19 114
* いまの日本の不幸せの根深い一つは、目配りの利く「編集者」たちの、あまりにひどい非在・払底ではなかろうか。
わたしは今でも、かなりの度合いで「編集者」のセンスを大事に意識している。わたしが現場にいれば、この際おこがましい引用で気は引けるモノの、本気で「文化というもの、生命というもの、そして人間の生き方にまで、一気に、ある高みへと導いて」くれる現代の言葉を真剣に探しているだろう。へたをすると今どきの編集者は、そういう「文化というもの、 生命というもの、そして人間の生き方にまで、一気に、ある高みへと導いて」行ける力を持っているかも知れぬ書き手を、いたずらに売りやすい消耗品の書き手に平気で追い落とし続けているかもしれないと、それを懼れる。
一つには時代を真実リードして出版者や編集者に大きな感化の力をもった批評家・思想家もまた払底しているのだ。功なり名遂げた気の指導的な位置にいる著述家達が、甘えて世の中で安座をかいて、真実「文化というもの、 生命というもの、そして人間の生き方にまで、一気に、ある高みへと導いて」ゆく書き手の登場にほんとうの手助けをしていないのだ。
これは原発の事故に相当するほどの「時代の怠慢」なのである。その慢心が、誰の心にもたいして残っていない国際ペン大会程度の「成功」を誇って、傲慢で放漫な大赤字を他に押しつけ、恬として恥じないのであろう。
2011 3・20 114
* 秦建日子脚本の「スクール」最終回二時間分を見終えた。感傷の涙は誘われたけれど、劇作としては在りそうに在り、成りそうに成り、「劇」性に乏しく言葉も場面も盛り上がらなかった。いつかどこかで繰り返し見聞したような成り行きで、殺しや犯罪モノよりは好感はもてたし、心優しくも元気そうでもありながら、オリジナリティを置き忘れ、リアリティをほどほどにし、クウォリティーをもてなかったのは残念だった。
こういうありきたりを続けていると、創意や、作品への真率な意欲を摩滅させかねないのを惜しみ懼れる。小説も劇作も脚本も、無垢無欲の熾烈な噴火を期待したい。マスコミの便利屋に落ちこんでいっては怖い。
作者は、蓄え持った巨大な底荷の質量で勝負しなければならない。いまのままでは、お手軽に過ぎている。調査の物知りは大切でも、それだけでは思索も体験もうすいままで流れて行く。作者の生の苦渋が、「ER」 のように、せめて「寅さん」のように、できれば谷崎の「途上」や「小さな王國」のように映し出されて欲しい、出来て当然だろう、それを把握し表現せよと望まれたとして、もうニゲの打てる年齢でもキャリアでもない。
* 自分を棚に上げて言うのは苦しいが、誰一人、こんなことはハッキリ言ってくれないものだ。実際は、 自分で分かるしかないのだから。
2011 3・20 114
* 七十五年を生きてきて、今ほど落ち着いて「読書の幸福」を身に浴びた時期は過去に無かった。もとより思い起こせばすばらしい出逢いは少年のむかしに数限りなかった。バルザックの『谷間の百合』など挙げれば笑われるだろうか。谷崎の『吉野葛・蘆刈』を岩波文庫の☆一つに惹かれて買った感激。そして『細雪』や、人に贈られ聖書のように耽読した漱石の『心』。夜通しの腹痛に呻きながら読み終えた藤村の『新生』、また文体の津波を夢に見た鴎外『渋江抽齋』や露伴『漣環記』等々。
だが読書とは再讀から以降がほんとうのと思い決めて以来の数十年の体験は、読書の喜びを或いは「読み術」も含めて、厚い地層のようにわたしの心身に積み重ねてくれた。なるほど、今がいちばんで、あたりまえなのだと思う。
もう残り少ない余生と分かっている。初めて読んだ『芭蕉』もまた読み返す機会に恵まれるか、確実には言えない。だが、死力の許す限り読書はわたしの楽しみの最たる一つであり続けるだろう。
* 久しいお付き合いの播磨の田中荘介さんから『わが余生』と題した限定記念の一冊を頂戴した。田中さんは「余生」の二字を楽しみの残された「休息 rest 」の生だと言われる。そうでありたい。
2011 3・15 114
* 野宮での御息所との別れは何度読んでも哀しく美しい。「葵」巻でうとましい車争いがあり、烈しい生き霊のうらみがあり、それでも源氏と御息所とのなかに動かしがたいのは、互いの敬愛であった。かの子と一平とにも太郎とかの子にも、そして眞に恋愛できている誰しもにも、その愛がある。「つきあう」のとはちがう。「賢木」巻、身に沁みてすばらしい。
いま、『若きヴェルテル』は、恋愛の苦しみに呻いている。悶えている。得て得られぬ恋のかなしみ。悩み。その激烈。世界文学でかほどまで「失恋」を突き刺すように描いた作は無い。ゲーテは、自作『ヘルマンとドロテア』は繰り返し自ら愛読したという。『ヴェエルテル』はあれほど読者の熱愛を受けたけれど作者自身はほとんど読み返さなかったという。つらいが、美しくかつ若々しくオリジナルな名作である。
そしてキチイとレーヴィンとは、再会した。アンナは苦境に孤立している。『アンナ・カレーニナ』は幾色もの愛と苦しみとの高い炎をあげ、燃え熾ってきた。
ああそしてまた『蘆刈』の男の、お遊さんを語り継いで倦まないなんという不思議な日本語の美しさだろう。典型を産み出す眞の藝術の魔の魅惑。その虜になった幸福が、いまのわたしに生き生きとまだ働いている。文豪が手招きしていた作に秘めた「謎」解きに、わたしは、少年から壮年までの歳月を惜しまなかった。文学への愛がわたしを導いた。
2011 3・27 114
* 小説を「 e-文藝館= 湖(umi)」に投稿してくれた人に、こうメールを返した。
* お預かりの小説、読み始めました。すぐ気が付いていたことがありますので、「投稿者」に一度は呈する助言を、かなり基本的な助言を、差し上げます。下の一文は、かつて日経の夕刊に連載した中の一つです。おそらく最良の助言であると思いますので、一読後に、もう一度も二度もお作を推敲して下さい。
モチーフの面白さ、展開等は、作者の気が乗っているのでまず良いとして、やはり文章のもつ優れた「音楽」としての魅力は足りません。説明的なお話、読み物に成ってゆきます。
お話しが興味を惹いて読み物ならいいのだと考える読み物屋も沢山いますが、私はそうではありません。私の作にもしも心惹かれていて下さるならお分かりと思います。
せっかくだから、手練れの編集者が読んで、「おっ」と言わせる作品に仕上げましょう。待っています。ねばりづよく読み返し推敲して下さい。
以下の一文、心して読んでみと下さい。
連載 「本の少々」
のようというのだ 秦恒平 ( 作家)
明治に、一時期「美文」が流行った。美文とは何ぞや。文字どおりのご想像にまかせよう、いや想像の必要すら、ない。
昨今では「名文」ということもあまり言わない。名文とは何ぞや。この議論はよほど多岐にわたる。安易な口出しは避けた方が安穏か。
ま、どっちかといえば当今は「悪文」時代で、それもプロの悪文が横行している。
悪文にはしかし、稀々、時折りとはいえ、とても個性的な「佳い悪文」もあり、見捨てるばかりが読み手の能ではありません。一昔まえの瀧井孝作先生や吉田健一先生の一見悪文は、また名文の一種とも謳われていた。
文学か、ただの読み捨て読み物か。それは題材では決まらない。文体と文章。その上に造型され表現された作者の「思い」の深さや高さや、オリジナリティー、と、ひとまず謂っておこう。
だらけた陳腐な物言いで、筋書きを説明に説明して、文章を「読むうれしさ」を全く与えてくれない、それはもう読み捨ての読みものに過ぎない。ほんものの作品は二度三度四度の再読を促してくる。名勝が、再訪につぐ再訪を促す「真の魅力」に富んでいるように。
書きたい人が、むちゃに増えている。その気ならケイタイでも書ける。他人のものは読まないのに、自分の書いたものは読んで欲しいからか、わたしのところへも、見知らぬ書き手が「書いたもの」を送ってくる。
ものを書く際に、才能は、どこに現れるか。
少なくも、一つ謂える。
「推敲する」力と根気、それが創作文章での強い「才能」である。推敲の力は、数行の書き出しを読んで、分かる。明瞭に分かる。
一つ、( これで十分なのではない、誤解ないように。) 申し上げる。
「( の) ような( ように) 」「という( といった) 」そして語尾の「のだ」の、この三つは、書きながらも我から首を傾げて思案した方がいい。
大概、この三つは必然の必要から書かれず、ただの口調子で書かれている。省いてしまうと文章の立ってくる例が多い。この三つの頻出する文章は、たいてい、救いがたい「駄文」である。
序でながら、例の一つであるけれど、「私がすること」「あなたのなさること」の、「が」と「の」を確かに書き分けられる人も、じつに少ない。文章の品位を左右する例が多い。
*
この作に、「のような」「のように」が何度使われているかを数えて下さい。ぜひともそう言う必要のある場合は在るものですが、大概は使わなくてもよく、別の言い方も可能です。これを取り外すか取り替えるだけでも間ノビした音調が引き締まります。「という」も同様です。
こういう指摘に懸命によく応じて、文章がきりっと直って立っていった人もいます。かなりの人は、そこで挫折して推敲を投げてしまいます。
文学を心がけておいでと思う。それなら頑張って下さい。推敲する才能が才能です。頑張ってみて下さい。ストーリイが作れるのだから、文章が本当に光れば人が認めます。
聞きたいことは具体的に聞いて下さってけっこうです。 秦恒平
* 小説を書き始めた頃、会話が書けない、文が煮詰めた飯のように風通しが悪いと感じ、築地の松竹シナリオセンターへ、会社勤めのあと半年勉強に通った。日替わりの講師は、松竹の副社長や専務や、脚本の橋本忍とか八住利雄とか、名監督や名カメラマンたちで、映画作りの苦心談がとても面白かった。助監督や見習いの時代に脚本を書かされ直され書き直して書き直して五十度ぐらいは当たり前だったと聞くのも、身に堪えた。しかし当然だと思ってよく聴いた。
わたしはシナリオライターに成る気はなかった、小説家になりたかった。
最初七十人ほどが受講し、前半に一作、後半に一作シナリオを書いて出さねばならなかった。聴講者はどんどん減り、最後には数人もいなかった。二作とも提出したのは、わたしを含めて二人だけだったと聞いた。
わたしのシナリオを審査した松竹副社長の城戸四郎氏と脚本家で評論家の荒松雄氏だったかは、二人とも80点呉れて、二人共が口を揃え「小説家」に成りなさいと書き添えてくれていた。嬉しかった。
推敲に耐えぬくこと。わたしがこのセンターで聴いて身に沁みた、それが最大の教訓だった。
2011 3・31 114
* 潤一郎の『蘆刈』にも久方ぶりに揺すられた。この物語を、母と子との物語として初めて読み抜いたわたしの昔を、とても嬉しく誇らしく思いだした。蘆間の男は自分はお遊さんの妹静と父との子だと明言していながら、そしてそれを誰もが疑いもなく初出以来読んできたのを、そんなバカな話があるか、間違いなく男はお遊さんと父との仲に生まれていると、精細に証明し照明して見せた。「蘆刈」「春琴抄」「夢の浮橋」の読みを、また「細雪」を、革命的に読み替えた「谷崎を読む」仕事は、文字通りわたしが作家になることを通し何より実現したかった根の念願であった。
いま、『春琴抄』を読み始めている。
2011 4・2 115
* クイズという言葉を身近に耳にし始めたのは、敗戦後の人気ラジオ番組だった「二十の扉」「話の泉」が、二大横綱級であった。知識欲に燃えていた少年のわたしは、むろん「話の泉」の徳川夢声、渡辺紳一郎ら物知り小父さん達に魅された。名前は忘れたが唱歌の作曲だか作詞だかで知名の人が、抜群に物知りだった。「二十の扉」は、ややたわいなく感じていた。
だが、後になるほどわたしは「話の泉」というタイトルにも、瑣末に重箱の隅をつつくような知識自慢にも或る疎ましさを覚えるようになった。つまり、それらは人の生きるという難しさや悩ましさや嬉しさとはあまり関わっていなかったから。わたしは知識の切り売りをあまり立派な素養とは感じなくなっていった。
京都では、「あの人は学者や」という評判は、軽からぬものであった。秦の祖父のことを、秦の父は、「うちのおじいちゃんは学者やった」とときどきわたしに褒めた。なるほど、貧相な小家なのに秦家にはいま手にしても驚くほど堂々たる漢籍や古典が積んであった。大きな辞典も何種類もあった。本を読むのは「極道や」とわたしく叱った父にして、観世流の謡曲の稽古本を百数十冊ももっていた。小さかったわたしが、どんなに祖父や父のそういう蔵書に触発されたか、いまも座右にその余録を備えたまま、時に愛読し謹讀している。
それにしてもわたしの知る限り、祖父も父もたいした学者ぶりではなかった。父の謂う学者とは、概していえば「物知りのこと」であるらしかったが、実質を感じ取って感心した記憶はなにも残っていない。そしてわたしは物知りだからえらいと、はだんだん思わなくなった。時として知っているだけのモノゴトとは埃同然で、払えば落ちてしまうに過ぎないと感じるようになった。積んだ知識から、オリジナルないしそれに近い発見や思想や行儀が生まれてくるなら兎に角、知識の切り売りだけでは軽薄だと思うようになった。本を書くようになってからも、知識本ではなくて、そこから見つけだした、新たに感じた、発明し得たことを書きたいと思ってきた。
* 知識の切り売り本、少なくない。御苦労なことだと思う。身内から血の滲み出たような仕事が、しかし、貴い。
2011 4・2 115
* 『名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか』という、えらく長い題の小谷野敦氏の本を貰った、と思うまに妻が病院へ持っていき、入院中に面白がって読み終えてきた。目次を見ただけで何が書いてあるか分かり、実際に読んでみても新たに教わるものはなかった。知識欲のある優等生は、たいがい昔からこういうことに関心を持つ。うちの息子の小学校は、小学生なのに「卒論」のようなことをやらせ、息子は気張って「名前」を論じ? た。それも『ゲド戦記』その他、「名」の持つ神秘性に触れながら、日本の有力氏族の名字に関心を持ち、せっせと書いていた。
諱や諡や号や通称や、武家名など、名前への興味の持ち方には選択肢がたくさんあり、歴史好きの子供ならなおさら興味をそそられる。わたしの育った京都では、近辺根生いの家などでは、奥さんにも女中にも「替名」がついていた。名を替えるという行儀に子供の頃から馴染んでいたのである。
そういえば「 ペン電子文藝館」 を創設の頃、同僚委員の森秀樹さんは、「百姓名を読む」という論攷を呈示されていた。
* 小谷野さんの本でガッカリしたのは、「秦」「漢」氏らに、ことにわたしの縁あって称している日本列島での「秦氏」に、まるで触れてないこと。日本の秦氏は、べらぼうに多数の苗字を派出して、ま、昔から有名であり、法然上人も、長曽我部という大名も「秦氏やで」と、昔、秦の父に教えられた。島津も桜田も井出も和田もなどと聞いたことがあり、井出孫六さんに電話をもらって「同族ばなし」に花が咲いたりしたこともある。
真偽を調べるまでの興味はないが、それよりも、名前に関しては、大津父とか馬子とか不比等とか家持いった「古代な名前」の時代に、どんな幼名や通称があったのか無かったのか、或る時期から急に、なぜきっぱりした良房とか道長とか義家とか時宗とか家康とか吉宗とか隆盛とかいう諱ができたのか、それでいて、天皇の諡など、桓武だの清和だの光孝だの難しげだったのが、なぜ急に一条だの堀河だの鳥羽だのとくだけていったのか、上流下層とも女の子には名付けたのか名付けなくても済んでいたのか、遊女や花魁の名はどんな変遷をしてきたかなど、興味は尽きないのであるが、「武家名」に関心を絞ったらしい小谷野さんはほとんど触れていない。ほんとうは「名乗る」「名を問う」ということ等にも踏み込んで小谷野説が欲しかった。そこには名の本質の不思議があるし、名分論や「無名」の意義も湧いて出るだろう。署名・無署名の問題も小さくない。
また「丸」名乗りにも、小谷野さんの「糞」説だけでなく、もっと深刻な背景があるだろう。犬や牛馬にも船にも丸がつき、仮名手本の松王丸、梅王丸、櫻丸もある。
* 中宮が先で皇后があと、とあるが、后、妃、夫人の制より先に「中宮」があったか。光明子は中宮と呼ばれたか。円融帝のときが始めではなかったか、中宮の制は。
* ま、それほど名前はポピュラーでもあり神秘でもある。
* 小谷野さんは、最後に「匿名」という点に、纏めて触れている。これにはわたしも関心がある。
小谷野さんは触れていないようだが、上古の「童謡 わざうた」中世の「落首」なども含めて、匿名は一つの文化でもあるし、便所の落書きなみに品性下劣で卑怯なヤツもある。
ことにネット時代に入ってからの「匿名」の犯罪的なあくどさはひどいものらしいが、わたしは一切そういうバカげたものは覗きもしないし、見ずにおれないという人の気が知れないが、他方こと「公人」に対してわたしは、政治家も創作者も学者・研究者も藝人も公務員も、甲乙なく実名をあげて批評すべきは批評してきた、ただし自身の実名をいつも隠すことなく、文責は全て明かしてきた。不服があれば聞くし、必要なら議論・討論をすればいいという考え方である。おかげで、自分の婿や娘に訴えられて五年越しの裁判沙汰とは、愚かしすぎる。むろん訴え出る方がである。
ただし、わたしにも「匿名」原稿を書いていた時期がある。その頃はまだインターネットもホームページも無かった。新聞社にまともに依頼され、有名な匿名欄に何年ものあいだ書いていて、多いときは月の三分の一ちかくもわたしの原稿が出たほど。おそらく、全部まとめると「湖の本」の一冊もあるだろうか。
文藝より、むしろ時事問題を熱心に取り上げて批判し続けた。そして数年してすっぱりと切り上げた。べつに理由はなかった。むろん匿名には匿名の歴史文化性を認識していたので、なんら後ろめたさも持たなかった。
ネット時代の最低限、絶対に守りたいエチケットは、なにを書くにも文責を明かしておくことだと、わたしは裁判所に向かっても明言している。
2011 4・3 115
* しんからワクワクする嬉しい読書生活を満喫しているが、ことにこの数ヶ月は夢のようである。
只今、源氏物語は「賢木」というドラマに富んだ巻を通り過ぎようとしていて、裏打ちのように歴史物語の栄花物語が、ちょうど紫式部日記の冒頭と重なる、道長孫として皇子誕生の盛儀がきらびやかに書かれている。源氏物語の魅力汪溢を、栄花物語がしっかりと底支えしてくれている。
ゲーテの二つの名作を読み終え、トルストイは『復活』についで最高峰といいたい『アンナ・カレーニナ』が佳境を登り詰めている。志賀直哉全集二十巻をやがて読み終えようとし、谷崎潤一郎を『痴人の愛』『蓼食ふ虫』『盲目物語』『蘆刈』からいま『春琴抄』が、なんと豪華なこと、花満開のようにすばらしい。願わくは『吉野葛』も加えたかった。
そしてバグワンは、限りなくわたしに聴かせる、生のよろこびと、死の受け容れとを。
読書の中核が、こうも豊沃であることの幸福は、うるわしい日盛りに似ている。感謝に堪えない。
2011 4・9 115
* 若かった日、人生の先に「目標」をたてて実現を「願望」したことは、むろん多々あったが、それを「夢」と言い替えたことは無いと思う。なぜなら毎晩見る夢はたいがい、わたしには見ない方がよほどいいものであったから。夢なんてない方がどんなにいいかと、今でも思う。懐かしい人が夢に現れてくれるのだけは嬉しいが、そうそう有ることでなくそれも幻影に過ぎないのは夢見ながらでも知れている。まして生きている未来にむかい、たとえ願望したり期待したりはしても、「夢」を幻覚するなど愚だと思っていた。人生に夢など持たぬがいい、目標が夢であるなど、はじめから幻覚に過ぎないではないか。
2011 4・10 115
☆ お元気ですか、みづうみ。 甘菜
昨日からまたよく揺れています。被災地の方々を思うと弱音は吐けませんが、地震はもういやです。
モーリーとヘンリーは。教養の問題ではなかったようでホっと。わたくしもあのイラスト好きです
それにしても、わたくしは日々憂鬱です。以下の文章、お忙しいみづうみはお読みにならなくてよいのです。ただ、自分の気持を少し静かにしたくて、みづうみに向けて書きます。
小田実さんの『終らない旅』の帯に「だから愛するきみに告げよう。私たち小さな人間は、けっして殺されてはならないのだと──」という作中の文章が印刷されています。わたくしは今しみじみこの言葉を思い、身を震わせます。
今起きている原発事故は天災をきっかけにした深刻な人災です。一にも二にも安全性を重要視してこなかった結果です。この地震国で震度5までの耐震建築では、素人が考えても甘すぎました。小さな得をするために、なんと大きなものを失ったことか。目先の経済的利益のために、結局美しい土地と海を失いました。日本国土に立ち入れない危険な場所をつくってしまいました。
先日の震度6強の津波のない余震でさえ、女川原発や東通の原子力施設の電源回線が切れました。非常用が一つだけやっと動くということは、家庭用のブレーカーが落ちて蝋燭を使っているレベルの話です。専門家によれば、想定震度を超えた地震、震度6で原子力発電所はものの見事に壊れるという何よりの証明だそうです。ですから、明日にでも他の原子力発電所が福島の二の舞になる可能性があります。
経済性を優先して全国の原子力発電所の耐震基準を甘くしてきたこと、万が一の最悪事態に住民の命を守る避難対策が何もなかったこと、こんな今までの人命軽視のお粗末な原子力行政の責任は絶対に追求されるべきです。住民避難マニュアルがないなんて信じがたい愚かしさでした。
ある人口二十万ほどの地方自治体で、十月十日の地域運動会の準備のための会合に出た都会人の某企業の社員が、「雨のときにはどうしますか」と何気なく訊ねたところ、他の委員がびっくりした顔で「晴れるに決まってるからそんなことは考えていない」と言ったというほんとうの話がありました。原子力発電所が地方の運動会開催と同じレベルなんて、いうべき言葉もありません。
今後二度とこのような人災を起こさないよう一刻も早い対策をたてるべきですが、今一体何がなされているでしょうか。責任をうやむやにしようとする動きと、モグラ叩きのような対処しているだけではありませんか。東京電力の賠償免責をという経団連会長談話に驚愕します。最悪のA級戦犯は、もともと原子力潜水艦用で二十年程度の寿命しかない福島の原子炉を、懸念の声を押し切って、イケイケドンドン大丈夫だと四十年も使い続けた現東電会長K氏ではないですか。
国民が政権交代を望んだのは今までの政権と違って「小さな人間」を守ってほしいと願ったからだと思います。少なくとも私はそう願いました。
ところが今の政府のしていることは、旧政権と同じです。小さな人間を守ることより、パニックを避けたい、経済のダメージを避けたい意図ばかりが目につくのです。
どうしてもっと広範囲の地域の人間を迅速に避難させなかったのか、とくに放射能の影響を受けやすい子どもを守るためには、一刻も早く避難させなければならないんです。いらいらしてしかたありません。こういうことは何よりスピードが大事なのです。
水や野菜、卵、肉、乳製品、魚類等々が汚染されたのは動かしようのない事実で、風評被害なんかではありません。誤魔化して出荷させるのは間違えです。きちんとありのままを説明して対処するしかないではありませんか。あれだけの放射性物質が拡散しているのですから、当然の結果です。国民の健康を守るために汚染された水や食糧はけっして流通させてはならず、東京電力と国の責任で買い上げるべきものです。
起きてしまった事故も、事故後の数々の不手際のあったことも、もうあきらめるしかない。しかし、これ以上の被害を防ぐことと二度と同じ失敗をしないための対策は、今ならまだ出来るのです。なぜ、すぐ日本中の原発について対策をこうじられないのか。この期に及んでケチっているとしか思えず、ここでケチることがあとになってとてつもない人的、経済的損失になるのにと無性に腹が立ちます。
今も福島の原発内で働いてくださっている何百人もの方々の被曝量を思うと、私はあの「特攻隊」を思い出します。
誰かが収束させなければならないという崇高な使命感で動いている方々に対して、国は最高の感謝と敬意をもって生涯にわたり遇してほしいと切望します。小さな人間でもある気高い彼らの命を、国をあげてあらゆる医療で守ってほしいと熱望します。私たちは、今彼らの献身と犠牲の上に、なんとか日常生活を続けているのです。申しわけなくて心が痛み続けています。
私の深い憂鬱の原因は小さな命を守らない国にだけあるのではありません。メディアと御用学者には憎悪さえ感じます。なぜ国民の立場で闘わないのですか。彼らの悪魔に魂を売り渡してかくも無惨なことに絶望します。「直ちに健康に影響はない」という逃げ道のある言い方は、卑怯千万。
テレビに出ては放射線の量も食べ物も安全としか言わない御用学者はほんとうに罪深い。何のために学問研究をしてきたのですかと言いたい。パニックを防ぐのは政治の仕事で、学者は政府に対しても、大衆に対しても学問的真実のみを語るべきです。遠回りでも真実こそ国民を安心させる一番の近道なんです。国民はあなたたちが思っているほどバカではありません。ドイツやノルウェーのサイトをみている人がどれだけいることか。
或る九州の方の大学教授は『放射線の影響は、実はニコニコ笑ってる人には来ません。クヨクヨしてる人に来ます』と言ったそうですが、学位を返上なさって教祖さまになったら如何か。
被曝量はその場所の放射線の量×被曝する時間、掛け算であることはたくさんの人が知っています。ですのに、NHKは胃カメラより少ない量などと、浴びる量についてしか言いませんでした。こんなトリックは許しがたいものがあります。最近はさすがに批判が強かったのかやっと量と時間についても小声で言及するようになりましたが、国民の受信料で運営している国営放送なのに不誠実きわまりない姿勢です。誰のための公共放送かとあきれます。
また、被爆量は空中からの外部被曝と食物などによる内部被曝の足し算もしなくてはならないのに、それも伝えない。大学教授でも足し算の出来ない人がいるなんて、今まで知りませんでした。複合的に考えなければならないことに対して、たった一つのことをとりあげて、微量で安全というのは詐欺に等しいです。学者は塵も積もれば山にならないための警告を、危険地域の人々に衆知させるべきなのです。それでこそ心配しないでよい地域の人が風評に惑わされなくなるのです。
そもそもあれだけ安全キャンペーンをしながら、NHKも朝日新聞も南相馬市から撤退したと市長さんが怒っていました。取材クルーを退避させながら、安全なレベルと報道するのは国民をバカにしています。メディアの責任として、政府に政府のお金で市民をすぐ避難させろと訴えるのがジャーナリズムの仕事でしょう。
高円寺で一万人規模の原発反対の大きなデモもあったのに、ニュースはほとんど取り上げません。スポンサーの電力会社への遠慮ですか。御用学者とメディアの腐っていることは政治よりもっと許せない。
さらに、風評被害を受けていると被害者であることばかり嘆く農業、漁業関係者などにも、責任の一端のあることを考えていただきたいものです。地元に原発を受け入れる、推進派に投票したということはこういう結果も受け入れるということでした。自分たちの生活の安全をお上に任せていた責任があります。人間のすることに絶対安全ということはないのですから、最悪を考えての投票であるべきでした。狡猾な勢力に騙されたとしても、騙された、無知であった責任の結果を引き受けるしか道はないのです。汚染されてしまった地域ではもう農業も漁業も出来ません。どうしようもありません。彼らが闘うべき相手は風評ではなく、今までと今後の原子力行政に対してではありませんか。
避難地域の、飼い主を失った犬や猫や牛の映像を見ていて、人間の作り出したもので病気になっていく、何も知らない無垢なこの動物たちに申し訳ないと涙が出ます。
今後、日本は世界中から海を汚したことを批判され責められるでしょう。天災の被害者としての同情から、環境破壊の加害者であると追及されるのに時間はかからない。一刻も早く世界に謝罪して、今後は日本の国土以外は汚さないと発信してほしいです。こんなこと一介の主婦の私が言わなくても頭のいい官僚でも大学教授でも政治家でもわかっていることでしょうに、なぜ迅速に出来ないのでしょう。
原発の事故に対して、神経質すぎると言われるかもしれません。どうしてこうなのかと考えると、原点は二十二歳のときだと気づきます。仕事をしていて、東大の原子力の教授ってこんなもんか、この程度かと私は思っていました。もちろん、アホな私には研究の優劣はわかりません。ただ、小娘にも人間の程度、頭の程度はわかるものです。たしかに、素晴らしい人間性も頭の切れる優秀な学者もいましたが、それは二割くらい。あと八割は人脈と世渡りで得た虚名のポジション。ほんとうに優秀な学生は大学を出て行きましたし、優秀でも(優秀すぎて)教授になれない人もいました。だから、東大教授というたいそうな肩書に支えられているだけの人間の言うことなど、私は信じないのです。原子力安全委員会に推進派の先生しかいないのは愚かしいことでした。反対派がいてこそ安全性が強められるのです。そもそも安全が最優先という発想があったのかも疑わしい。そんな基本的なことも軽視してきた政治の愚劣。
憤りと鬱の振り子の中で、私は自分のリズムを取り戻せない日々です。
最後に、一つ心励まされる言葉があったので、自分のために書いておきます。
あなたのおこなう行動が、
ほとんど無意味だとしても、
それでもあなたは、
それをやらなければなりません。
それは世界を変えるためにではなく、
あなたが世界によって変えられないようにするためにです。(マハトマ・ガンジー)
私になにが出来るのでしょうか。考えています。
バグワンは、このような時に私には逃げに思えてしまいます。つまりわたくしが何もよくわかってもいないということなんですけれど。
* ああ、これは。
この国難は、言い替えるまでもなく負けられない、勝ちにくい「戦争」のようなものだ。勝ち負けに拘わらず、このような戦争へ国運をひきずりこんだ浅慮で傲慢であった「戦犯」とも謂うに当たる人達を、せめて、はっきりさせておくこと。学者・研究者、企業家、政治家。
* わたしも、二十二年前、一九八九年六月十九日「朝日新聞」文化欄に書いた古証文で、もう一度現在の気を引き締めよう。初出時点で、わたしは今年2011年3月11日の東日本大震災にともなう「福島原発事故」ないし「原発行政」の地球規模に及ぶ国難を「悪政」として予見し指摘していた。
それはさて、いままた別に、文化諸団体の「公益法人」化を政権は使嗾し急いでいる。在野の意見団体である日本ペンクラブも相撲協会並みの公益法人になるらしい。「甘んじて政治に金も口も出させるのだろうか」と、不可解・不安に感じている。敢えて今書き添えておく。
☆ 悪政と藝術 秦恒平
いま私の時代もののワープロは、「悪政」の二字ならすらりと出して来るが、善政は「ぜんせい」から手間をかけて打ち直さねばならない。この機械に漢字辞書を内蔵させた一人ないし何人かの「日本人」は、政治に「悪政」はあっても、善政など無いも同然と把握していたらしい。いわば「政治性悪説」を表現する機械を、相当な高価で十年も前に私は買ってしまったことになる。だが愛機の示すこの認識に、私自身もほぼ異存がない。
政治社会に「偽」の体系を据えた人
戦後日本の政治を、ひどい悪政だったとは、思わない。日本のと限っていえば、大化改新このかた一千四百年ほどの政治で、多分水準は図抜けて高い方であったろう。図抜けた政治家など不在不要で、事実、そうであった。いったいあの大戦後の首相たちよりすぐれた政治家は過去にいくらもいたけれど、その政治があまねく善政であった実例は皆無に等しい。あまねく善政などいうものの、あると思う方が、歴史を見あやまっている。どう飾りたてようと政治は権力による権利・権益の行使と取得であり、王道も即ち覇道である。政治とは文字通り「偽」つまり「人為」の最たるもので、神の領分に接した眞や善や美にはなじまない。いずれかといえば、「悪」に身を寄せながら「悪らしからず」機能するのが、政権のせめてもの作法なのであり、名君賢君といえども、結果として自分が先に楽しみ、民百姓に先に憂えさせて来た「悪しき」事実は、史実としても動くものでない。
例えば聖徳太子という立派な人がいたではないかと、言われるかも知れない。しかしそんな「徳」などという名乗りも、彼や彼の子孫を悲惨へ追い込んだ背後の「悪」と表裏していたことを知らねばならない。いったい崇徳や安徳や順徳や顕徳(後鳥羽)院らにも顕著なように、そんな「徳」の名を死後に奉られる背後には、いつも「悪徳」ないし「悪政」に揺れた時代の苦渋を察しなければならぬのが、日本の歴史であった。世間虚仮(こけ)というすぐれた理解を体験しつつ、しかも有名無実の憲法をお添えものに、位階や位色(いしき)の差別をたて、政治社会に「偽」の体系を据えてしまった例えば聖徳太子を、文句なしに善政の人などと言おうなら舌がしびれてしまう。
安全神話は原子炉爆発を防げるか
しかし悪なりに、「ひどい悪」と「そこそこの悪」とが、ある。そこそこの悪政に馴らされながら、人は歴史を生きて来た。しかしひどい悪のひどさの度が過ぎれば、民族の生きて行けない危険が迫る。それほどの危険に、たしかに日本中が見舞われた体験が、先の大戦争を筆頭に、歴史的に両三度はあった。
そしてそんな両三度を掛け算したほどのもっと物騒な危険は、いまが今も、日本列島を脅かしている。チェルノブイリ級の原子炉爆発が連鎖して起きれば、風吹き雨も多くて逃げ場のない日本列島の生き物は、決定的に被害を蒙りその回復は保証されないだろう。この悪しき危険には、「そこそこ」という歯留めは、無い。
分かっているのにやめられない。そういう段階へ昨今の政治がトボケ顔で踏み込んで来た以上は、もう戦後政治と並べて均しなみに物は言えない。ひとつ間違えば文化も経済も社会も、自然も、根こそぎ腐れ果てて無に帰するだろう、それで構わぬという立場も選択も、無いはずである。
たしか藤原道長の時代と元禄時代とを例にあげて、悪政の時代には文化藝術が栄えたと金田一春彦氏が時の首相をにこやかに横目に見ながら、どこやらでスピーチをされた。評判になった。そして、それも、もう忘れられかけている。忘れてべつだん差し支えのない、一場の興言利口ではあった。
苦笑しつつも「タッチ」という微妙な一語でかわしていた首相も、うまかった。「タッチ」にはアウトもセーフもあって、判定は不明だと首相は言い返したかったのかも知れぬ。ともあれ私はご両人の尻馬には乗らないで、しかも、いま少しく悪政と藝術の問題、できれば今日の悪政と今日の藝術の問題に「タッチ」してみようと思う。
悪政と藝術の腐れ縁
金田一氏が、たぶん軽い気持ちで例に上げられた道長時代も元禄時代も、もとより悪政の時代ではあった。が、日本史を通じてみれば、ま、そこそこの悪政であり、言いかえれば特別にひどい悪政期であったわけでは、ない。大混乱という意味でなら、源平が相争った十二世紀や、南北朝がこんがらかった十四世紀や、応仁文明の大乱がだらだら続いた十五世紀の方がよほど難儀であったろうことは、むしろ常識に類している。
そしてこれらの世紀もまた、物語・日記・随筆・和歌・女手・女繪・造寺・造仏・造園・荘厳・仏画・製紙・染織・演奏・香・繪巻・写本・説話説経・記録等々の藤原時代や、西鶴・近松・芭蕉らの文藝、光琳・乾山・師宣らの造形、蕃山・白石・契沖らの学藝、団十郎・藤十郎・千宗旦らの藝能等々の元禄時代にくらべて、おさおさ劣らぬ、むしろ充実した藝術文化の今様を深くも多彩にも達成していたのである。その意味で半ばは金田一氏のいわれる通りであり、また半ばは金田一氏の引例も見当を失していると言わねばならない。
いやいや氏は、たんにユーモラスに時の首相の醜態をヤユされたに過ぎまい。それとも世界史的に眺めて、極め付きの悪政が、金も、しかし口も手も出しながら、大藝術家を庇護しまた頤使(いし)して来たイタリア・ルネサンスのような例を、せめて金持ち日本の最高権力者に暗に焚き付けようとでもされたのか、まさか。そんなことならば、固く、願い下げに致したい。
折しも俳句とハモニカの「藝術家」総理が、突如の登場である。前宰相はやはり敢えない「アウト」であった。
笑止や、金田一氏のヤユに随うなら、政治に成果をあげれば新宰相の藝術は下落し、それを快しとしないなら悪政に走らねば済まぬ。幸か不幸か就任早々の境涯一句を請われ、新総理は「そんな暇はない」とにべもなかった。つまり絶句した。借りものでもとっさに「夢幻や 南無三宝」くらい言えば、カッコよかったのに。
金出せば口も出す政治
ともあれ斯くもあれ金だけ出して口も手も出さない、そんな政治など在る道理がない。文化や藝術が、政治に背を向けて己れのみ高しとするのもコッケイであるが、悪政に対し背いて立つ覚悟は大切、なによりも大切、である。その大切を、なし崩しに切り崩して来る政治-悪政-へ、勲章や表彰や位階や報奨をちらつかされながら、釣狐の釣られ狐のように政権利益のおこぼれへ擦り寄って行く文化人や藝術家の、何故だか増えて行く、それこそ悪政と藝術との腐れ縁だと、ここは問題意識を慎重に切り替えた方がよろしかろう。
藝術は、もっとも勝れた意味での「私」の所産であり、「公」とは一定の距離に、覚めかつ冷めて在るべきものである。ことに政治・政権に対しては、甘い期待を持たずまた持たせないよう表現するのが本筋であろう。
2011 4・12 115
* 小説を投稿して下さっている方から、門玲子さんの講演を聴いてきたというメールをもらった。
* 門さんの「江馬細香」はとびぬけて静かな名品です。伝記とも小説とも批評ともわりきれない、しかし文学・文藝の落ち着きを湛え、佳い音楽を奏でています。
あなたも、伝記とも小説とも批評ともいえる要素を抱き込んで書いていますので、つい比較してしまうと、やはり読み物に妥協している物足りなさが、何より文章に露われます。文章が美しい流れを奏で切れず、ギクシャクと余分な形容を混ぜモノのように孕んで雑音をつくります。たぶん形容だけでなく、表現ならぬ説明が多いのですね。
わたしの太宰賞作は、私家版本『清経入水』の巻頭作がそのまま、わたしの知らぬまにどこかを回り回って最終選考にさしこまれ、そのまま授賞したものですが、じつは、雑誌「展望」に掲載直前、校正かたがた、一晩推敲して良いと言われ、すでに授賞の決まっていた原作を、徹夜して徹底的に推敲したのです。その「校異」が、湖の本の創刊第一冊『清経入水』に出ています。宜しければ参考にして下さい。「受賞作」として雑誌に公表されたのはその推敲作でして、選者のみなさんも推敲を「是」と読んで下さったと聞いています。
『慈子』も『畜生塚』も、私家版の原作からみますと別作と見えるほど徹底的に解体し推敲し、削除すべきは惜しまず削除して公表したのでした。文藝としての音楽が作者の耳にも聞こえてくるまで、我慢したのです。
忘れられぬことですが、受賞以前にわたしに「作」を見せよと、やはり突然に連絡してくれた雑誌「新潮」の編集長は、あるときこう話してくれました、「読んで下さいましたか」とわたしが催促したときです、笑いながら、「ぼくは著者の持ち込んだ作は、いきなり見ないで仕舞っておくんだよ。二三ヶ月もして抽出をあけるとね、プーンといい匂いがすればしめたものさ。匂わなければダメなんだ」と。
何を彼は言おうとし、何が言われていたか。人により答えは違うでしょうが、新人の小説の鍛え方は実にいろいろでした。しかし要するに、懸命に推敲出来ていない作からは、佳い匂いがしない。作が「作品」にならない、ということでしょう。
さらにさらに推敲し、自作から「作品」という品位を匂わせて下さい。 「 e-文藝館= 湖(umi)」編輯者
2011 4・20 115
* 医学書院時代のわたしに、新潮社新鋭書き下ろしシリーズを依頼し『みごもりの湖』を書かせてくれた、大先輩の編集者宮脇修さんが、なんと、亡くなっていたことを夫人の鄭重なお手紙で初めて知った。知らずに「 湖(うみ)の本」 も送り続けていた。感慨ひとしお。ウーンと呻いてしまった。京都の宮脇売扇庵がご実家と聞いていた。
この人に『みごもりの湖』を書かせて貰ったわたしと、書かずに終わっていたわたしとを比較して想えば、これこそは運命の岐路であったろう。どんなに晴れ晴れと筆一本の道へ進んで行けたか。深く深く感謝し、ご冥福を祈る。
2011 4・25 115
* ゴールデンウイークの実感からは千里も遠のいてきた。むろん昔は嬉しかった。いま、サラリーマンや家族たち、無条件に永い会社の休みが嬉しいのか、有り難いのか。それも分からないほど世離れて過ごしているということか。
* わたしはもう生涯車の運転とは縁がない。車にはお金を払って乗ればいいと思っており、運転の楽しみは思い捨ててしまっている、不器用に怪我をしてはツマラヌと。
観劇と読書と、そして仕事。それで足りている。飲食も、なぜか日ごとにホンモノで無くなりつつあり、よほど美味くないかぎり感激は減っている。人に逢うことも無くなっている、むしろ無くしている。「外へ外へ人間」でなく、「内向きに」目の底の闇に沈透いていくのがいい。闇にほおっと光がさし染めますようにと。
それでも五月は四回も芝居が観られる。歌舞伎が三回、息子の公演が一回。それらを縫うように「 湖(うみ)の本」 上下巻の刊行へ着々足を運びたい。
2011 4・27 115
* アンナとヴロンスキーとの捻れた葛藤へ来て、悲劇の度、ぐっと濃くなった。暗澹。トルストイの筆は容赦なく人間を追究する。
* 明石入道を感激の余り光源氏のもとへ押しやる音楽の一夜。いろんな楽器、いろんな伝承の奏楽、平安の貴族たちをもっとも貴族的に装飾し得ていたのが、和歌の才以上に音楽の才であったことを、これほどみごとに情景として描破した個所は、源氏物語といえども他に無いと思わせる。物語の本文はことさらに触れていないが、源氏の母「桐壺更衣」と「明石入道」とはまぎれない従兄妹の間柄で。それを胸に畳んでおいて今後の明石と源氏との関わりを読み取って行くと、ひとしお面白さに深みが増す。桐壺や明石入道の親達が王氏であったか藤原氏であったかは明らかになっていないが、わたしは非藤原氏であったろうと想っている。王権回復への太い伏線である。
* 光源氏の時代の最高讃美のことばは、例外なく「きよら=清ら」であった。次位が「きよげ=清げ」であった。次位とはいえ、「きよら」「きよげ」の落差は小さくない。この使い分けはじつに厳格。籤とらずになにごとも「きよら」と謂われているのは、光源氏、藤壺宮、紫上。この語彙を注意して見落とさないで読んで行くのもとても大事なポイントである。
* 夜前から谷崎は『鍵』を読み始めたが、讃嘆と驚嘆とを兼ねて、これぞ「凄い」突入。
谷崎潤一郎の豪快な大きさを此処へ来て全身でガーンと受けとめる。「小説」家として、やはり近代日本文学で、質量ともにこの先生の上に立った只一人も想い浮かべることは出来ない。志賀直哉は、人間存在じたいが時代への良質でじつに高度の文学的批評であったけれど、「小説」家としては蔽いがたい限度をもっていた。谷崎の昭和文学は、まぎれもない大輪の名花の満開である。川端も三島も格においてとても追いついていない。
2011 4・29 115
* バグワンは正当に「叛逆」という精神の姿勢を打ち出してきた覚者ブッダの一人であって、それはバグワンに出逢うよりずっと以前からのわたし自身の精神の姿勢に嬉しいことに線のそろうところが在った。枠組と管理との社会が精神の自由を侵してくる刷り込みの暴力に対する「叛逆」であり、「覚醒」である。
トルストイが『復活』や『アンナ・カレーニナ』の終幕のところでちからをこめて書いている、一種の解脱と内側へ開けて行く自然な自由精神、生活の「いま・ここ」に欣然と内応してよろこばしい精神状態は、必ずしもバグワンの禅とは輪郭を揃えるものではないけれど、じつに似てもいる。それでわたしはトルストイを信頼し喜び合うのだろうと思っている。
トルストイの「いま・ここ」とバグワンの「いま・ここ」とわたしの「いま・ここ」とは、当たり前のこと、「生活」的には全然重ならない。しかも重なり合う精神の波動があり、静謐と自然さへの帰依が感じられる。いや、彼らとくらべて遙かに遙かにわたし自身の遠く及ばぬ小ささを感じて恥ずかしいけれど、「通い合う」という喜びは与えて貰っている
2011 5・2 116
* 戦後の日本国憲法が、日本政府と占領軍・GHQとのどのような折衝で成立したかは、曖昧な「押しつけられた」言説を通過して、最近では詳細な経緯が読み取れるようになっている。わたしは猪瀬直樹著『ジミーの誕生日』等に教わり、近くは白州次郎を描いたドラマでも教えられた。「ああやはり押しつけられたのだ」と納得し、その一方で、日本政府の案とGHQ案とを見比べれば、正直なところ「よくぞ押しつけてくれた」と感謝の気持ちを強く持ったのを告白せざるをえぬ。
当時の日本政府案があのまま通っていれば新生日本のために良い点は何一つ無かったろう、明治の欽定憲法を多くは脱皮しきれなかった。悪案に過ぎなかった。GHQ案は結果的に最善案であった。最善の憲法を「押しつけられて良かった」と思うのである。
むしろ最善の性質を、その後の日本が矯め歪めてきたことを遺憾とするが、またあれから七十年ちかく推移して、日本の置かれてある国際状況の危険でイヤな変容にも注目はしなければ済まなくなってきている、それも懼れている。
直すべきは直し、是非守りきるべきは守らねば。わたしは九条以上に、前文を尊重する。
2011 5・3 116
* NHKの短歌の時間に、講師というのか先生か、が、ゲストの好きな歌として上げていた、万葉集志貴皇子の歌、
いわばしる垂水のうへのさ蕨の
もえいづる春になりにけるかも
を、一読「凄いですね」と言われたのには、のけぞった。
やまと言葉の洗練において師表を持って任じる立場の人が、この古今に絶した名歌を「凄い」とはどういう精神であるか。そこに惨逆の屍体でも転がっているというのか。お岩さんのような幽霊が立っている暗闇だとでもいうのか。
なぜ「すばらしいですね」とか「佳いですね」とか、「美しいですね」「うれしくなりますね」とか言えないのだろう。
人にはまちがえて言うという弱点もあり、間違えたなら気の毒だが、これは間違ったのでは有るまい。安易で安直に言葉を用いて気が付いていないだけだ。その講師、多年にわたりわたしも親しい人だけに情けなかった。ま、わたしも迂闊に似たことをしていないわけで有るまいけれど。
2011 5・6 116
* 秦建日子が、今月下旬に前進座劇場で秦組公演の『らん』をノベライズし、小説本にした。
「らん」は初演の時、まだ作として煮え切ってはいなかったものの、内容に強い意欲が見え、入念に仕上げれば『タクラマカン』などと繋がる秦舞台の代表作の一つになるだろうと、称讃し励ましておいた。あれから二年ほど経つか、新しい劇場をつかって満を持しての公演らしく、期待している。
しかし、書いた脚本を右から左へ次々「ノベライズ」して売るという作家精神は、衰弱しているのではないか。それも自律し自立した文藝作たる佳い表現と緊張とをはらんでいればとにかく、開巻早々から「ひんやりと冷たい感触を感じる」だの、胸板を袈裟懸けに斬られ」だの読まされると、恥ずかしい。「ひんやり」は「冷たい」のであり、「感触」はすでに「感じ」ている。「袈裟懸け」の要所は「肩」であり、「胸板」ではない。「満天の星」なら分かるが、「満天の星空」も不用意な天と空とのダヴリ。「いったい」「ながら」「すると」「いや」「さらに」など、不要なことばで不要に軽薄な調子をとっている。屍が「折り重なる」ように「転がって」という表現も、切れ味わるく、見た目がちがう。
そもそも書き出しの、改行沢山なたったの八行分に、もうこんなありさまでは、この本は、ただのシノプシス=粗筋本でしかないと謂われてしまうだろう。小説の読者をナメては困る。ここには高次の編集( 者) 機能がまるで働いていない気がする。
気になる一つに、奥付に「執筆協力」として、作者経営の事務所の女性の名が、二人掲げてある。如何なる協力か。わたしは久しい読書体験の中で、こういうスペシャル・サンクスが「小説」本の奥付に掲げられた例を知らない。万一にも下書きをさせたという意味なら、とんでもないことだし、かりにそうであったにしても推敲責任は作者本人にある。
* わたしは毎夜、十数冊の読書の中で、いま、谷崎潤一郎の『鍵』に感嘆している。つい先日までトルストイの『アンナ・カレーニナ』に感嘆していた。そして『源氏物語』にも魂を奪われながら嬉しく嬉しく毎晩接している。
いまいま駆け出しの若い作家のものを、そのような眼くるめく古今の名作や作者と比べるのは酷だと、誰もが言うかも知れない。
わたしは、それは間違っていると思う。濯鱗清流。わたしは、遠く及ばぬまでも高く仰ぎ、身近な間近な低俗な読み物などに目もくれず歩んできた。文藝にかぎらず、創作に志ある者なら、表現にこそ心すべきだろう。それが読者への、鑑賞者への責任である。
2011 5・10 116
* とうどうバグワン『一休道歌』上下巻をまた何度目か、読了。しっかり聴いた。
谷崎潤一郎の『鍵』ももう十数頁で読み終える。たいした、たいした力作で感嘆のほか無い。世界中で、かかる抽象の極を爆走した奇異の「性」文学秀作は、例がないのでは。凄いとは、これではないか。追いかつ追い越さねばならぬのは、此の『鍵』ぞ。
2011 5・13 116
* 怪我も事故もなく、穏やかに、健やかに、元気にと、日々の願いにしている。それらは、「心」において可能なのか、「体」が支えてくれるのか。「心がける」のは大事だが、とかく忘れがちになるのも、心の頼りなさ、だれしも覚えがある。不摂生なわたしだが、それでもわたしは「体」の正直を尊重している。心身相関の大事は言うまでもないが、体の達者が気の弱りを減じてくれることは体験するが、逆は、どうだろうか。気力を大切にしてきた。気力とは心のことか、体のことか。
2011 5・16 116
* 潤一郎『鍵』を三日前に読み終えたが、余響なお身内に。狭い見聞で言い切れることでないが、世界的なオリジナルではないか。『夢の浮橋』『鍵』『瘋癲老人日記』の三作で、優にいかなるノーベル文学賞の例にも抜きんでていると思う。賞はいかにもあれ、これほどの名品や傑作を死の間際にまで書きつづけた谷崎潤一郎の巨大な実力をあらためてわたしは称讃する。あとの二作は老人の性の闇に分け入って、その思想性も文学表現の独自な自在さも、ならび立つものの存在が思い当たらない。近代日本文学の最高峰と仰いだ眼識の人達の多かったことを当然と、今もわたしは心から認める。漱石や鴎外や露伴や藤村や鏡花や、また芥川や川端や三島がいても、なお鳴り響く谷崎文学の豪壮と溢美には、なにより文学の到達の遠くて高いことにおいて、及ばない。
これらを念頭に、今一方最大関心の志賀直哉全集二十二巻を今にも読み終えようと、最晩年に近づく日記と書簡に毎日眼をさらしている。「創作」と謂われる巻は、とうに一つもあまさず既に読了。
そして思う、昭和二十年代後半から三十年代への直哉の日々の消息や感想を読み取るにつれ、その人物、その家長的な大きな存在感、また時代を健康に超えたともいえる独自の見識や鞏固な審美眼などに感心する一方、彼の謂う文学の「仕事」では、とても潤一郎の比でない、晩年ほど、ほとんど独り合点の作文の域を出ていないこと、生活の全容が親族への配慮、多彩を極めた交際、そして麻雀、将棋、映画、観劇、テレビ、さらに頻繁な外出、旅等にうずめ尽くされていることを、こと「文学」の視点から見れば貧弱と、慨嘆せざるをえない。
しかしまた文学だけが人生ではないという直哉が培った「人間」としての、「生活者」としての幸福な達成の充実ぶりには眼を瞠る。
潤一郎と直哉とほど、しばしば並び称して比較された例は少ないが、比較はほとんど無意味なのだとわたしは思っている。両者共に、それぞれに仰ぐに足る大きな師表である。
2011 5・17 116
* 高見順の『昭和文学盛衰史』という大作がある、但し、「昭和」といっても「平成」までを書ききったのではなく、大戦後を、そう永くは書いていない筈。むろんわたしの文壇に顔を出した「昭和末期」には及んでいない。
「末期」とはいえ、わたしが作家になった昭和四十四年( 1969) から数え、「昭和」は名目もう二十年間、昭和六十四年(1989)まで存続していた。最期の年の早々に昭和天皇が亡くなり、「平成」と改元された。
そんな穿鑿はともあれ、高見順の大著に目をふれるのは二度目、書き出しの早々から巧みに面白く書かれてある。
* 昭和の劈頭、田山花袋と徳田秋声とのために錚々たる三十数名が挙って小説を書いて記念出版し、文壇が挙って参集、未曾有といわれたほど盛大な祝賀会をした。秋声を師と仰いだ葛西善蔵も作品を提供した一人で、しかも祝賀会当日の、なんとか委員の一人に選ばれていたが、会場へ出向いてみると、彼ひとりその委員たるの「徽章」が用意されてなくて、はなはだ腐りこだわり、そして葛西ならではの私小説として書いた。
その葛西善蔵の話から高見は書き起こしているのだが、それはさておき、そういう祝賀会や記念出版、助勢出版は、明治のむかし病牀にあった国木田独歩のために企劃されたころから、ときどき文壇では行われていた。だが、昭和まして戦後は聞いた覚えがない。もう今日ではわたしですら「文壇」とたまに謂うは云うとして、タダの名辞に過ぎず、在るとすれば、女流や読み物作者たちの世界にだけ在るのではないか。
ものすごいほどの変化変貌が文士達の世界の表情を変えてきた。わたしなど明らかに日本の「文壇」を、主に「読者」として、そして作家になる頃の濃厚な「記憶」として承知しているけれど、たとえば今駆け出しの作家であるわたしの息子らに「文壇」感覚は稀薄というよりも、知りもせず、関心すらないのではないか。
それがいい、よくないの是非は問わないが、なぜかしらもう「文学」の時代は、日本からは立ち去っているのではないか、高見の表題でいえば、文学は「衰弱」して「読み物」全盛期に文学は圧倒されている気がする。日本文藝家協会、日本ペンクラブを率いている人達の顔ぶれを見れば、それは歴然。「文学」作家は、おおかたそんな場所から身をよけてしまっている。わたしは、それを歎かない。「文学」作家は、書斎に帰って創作ないしは自信の世界を研くときなのではないか。
2011 5・19 116
* 志賀直哉の日記にはときどき胸ぐらを掴まれるような驚きを覚える。野放図なほどズカとものを云う。
昭和三十三年二月二十七日、わたしが学部を卒業して四月から院に進もうという頃だが、直哉はこの日、文藝春秋に頼まれ「私の空想美術館」四回の連載を書いていた初めの二回分を編集者に渡し、日記に、特に最初の「マンテニアの方は自分でもよく書けたと思つた。キリスト教に対する七八年前から考へてゐる事も僅か三枚の文章の中に書けたやうな気がした、」と誌しているが、そのあとに驚いた。
「要するにキリスト教は繪そら事の上に出来上つてゐ、そのルイ積がサン・ピエトロのカトリックだと思ふ。」と。
キリスト教という世界宗教を、かくも手短に「要」約し喝破した例をわたしは知らない。志賀直哉にしか出来ない所行であり、わたしは直哉の見解に同調する。
参考までに直哉自賛の一文を引用させていただきます。
☆ 志賀直哉 私の空想美術館 キリストの納棺 昭和三十三年二月
ミラノのブレラ美術館にある、アンドレーア・マンテニヤ(一四三一~一五〇六)の「キリストの納棺」の絵は複製版画では青年の頃からよく知つてゐたが、何んだかグロテスクで、キリストの顔にも崇高な所がなく厭やな絵だと思つてゐた。
七八年前、欧羅巴(ヨーロッパ)に行く時、誰れであつたか、ミラノでは忘れず、この絵を見るやうにと云はれ、新しい好奇心を持つて見に行つたが、実にいい絵で、非常に感動した。私が欧羅巴で見た最もいい絵の五指を屈する中に入れるべき絵だと思つた。
この死体は明らかに大工出身のイエス・キリストの遺骸である。画面の隅で泣いてゐる年寄つた母マリヤは、これまた大工ヨセフのおかみさんだ。死骸の顎の骨が張つて、喉仏の出た顔は通俗な意味では決して上品な顔ではない。何年かの苦難に満ちた生涯をそのまま、こけた頬や眉間の皺に現はしてゐるが、それも過ぎ去つた事で、今は只の死骸として横たはつてゐる。前へ投出された無骨な足は明らかに労働者の足である。大釘を抜かれた両手両足の傷跡はさういふ傷が或る時日を経て、血も出なくなつた状態を不思議な迫真力を以つて描いてゐる。
縦、二尺二寸五分、横、二尺八寸七分の小さな画面に殆ど等身大の死体を少しも欠ける所なく、足を手前に、向うに真直ぐに寝てゐるところが描いてある。この大胆な構図は非常に冒険的な且つ野心的なものと云つていい。この不恰好な大きな足は、厭やでも見ないわけにはゆかないやうに描いてある。そして左上隅の僅かな場所に母マリヤともう一人の人物が描いてある。このマリヤは若い時は美しかつたかも知れないと思はれるやうな五十余りの女で、息子の非業の死を悲しんでゐる表情は自然に見る者の涙を誘ふ。私はもう少しで貰ひ泣きをしさうになつた。ハンケチで涙を拭ふマリヤの手は矢張り田舎女の男のやうな大きな手である。
マンテニヤはどういふ気持でかういふ絵を描いたか。写実に徹したといふ事までは分るが、それ以上の事は私には分らない。然し、兎に角、偶像破壊の意図を以つて、かういふキリストを描いたのでない事は確かである。上眼使ひをして、両手の指先を軽く合はせた美男のキリストを沢山見て来た私はこの絵を見て、かういふイエス・キリストならば嘗(か)つて此世に実際にゐただらうと思つた。神に憑かれ、常態を逸脱し、自ら神の一人子と信じ、何年か非常の熱情をもつて真理を説き、遂に殺されたイエス・キリストといふのは正に此人だと思つた。
複製版画では本統の色は分らない。
複製では真黒に見えるバックも緑がかつた淡い色で、見てゐて何か静かな気特に誘ひ込まれる。色からいつても、これは実に美しい絵として頭に残つてゐる。
この文章を書く為めに此の絵の複版画を手元に置いて見てゐるうちに私はキリストの顔を段々立派な顔だと思ふやうになつた。
* マンテニヤのこの絵への同じ感想は、比較的永かった欧州の旅の途中でも、帰ってからも直哉は書いていた。こと美術に関して直哉の審美眼はただ成らぬ深さをもっていたことを、わたしはしばしば彼の筆談に実感してきた。
だが、ここでわたしが年代にして驚嘆を隠さないのは「キリスト教 カトリック」への断乎とした独自の洞察である。
2011 5・22 116
バグワンと私 上巻序 (「 湖(うみ)の本」 107 新刊)
この手記は、どこへどう到達するとも、到達すべしとも、筆者自身に分かっていない。ただ「途上の独白」というのがふさわしいか。何処への? 答えられない。静かな心への。死への。あるいは何かに「間に合いたい」と──毎日毎日、死ぬ日まで独白しつづけるだろう。
筆者は、偶然にバグワン・シュリ・ラジニーシの「本」に出逢っただけ、その生涯や実像にほとんど知識を持たないし、持ちたいとも想わず今日まで来た。その意味では、バグワンが語りまたひとに答えたとされているおよそ七、八種のいわば「講話」集だけにわたしは頼んでいるのだから、その編訳者たちへの真摯な信頼を措いてわたしは何一つバグワンに関して言えない。これほど不確かな、いいかげんなことは無いかも知れない。だが、言うまでもなくあらゆる聖典やバイブルに向かう今日の信仰者や帰依者も、実は同じであることをわたしは知っている。仏陀もイエスも自ら書いた何一つも残したわけでない。
わたしはわたしの思い一つで何人かの有り難い編訳者の誠実に信倚し、そうして聴いてきたバグワン・シュリ・ラジニーシの言葉を耳にし胸におさめ、そして能うかぎりわたしはわたしの「いわば世界史的な信頼」をバグワンに預けてきたのである。それだけを、まず、ここ冒頭にお断りしておきます。
平成二十三年四月 秦恒平
バグワンと私 下巻序 (「 湖(うみ)の本」 108 近刊)
初めてバグワンの本を読み始めたのは、平成九年であった。平成十年三月下旬になるまで、まだ、わたしはコンピュータにホームページを持っていなかった。この上下巻の手記は、その平成十年の四月一日から十八年末まで、ホームページ中の日録「宗遠日乗」より抄録したものである。日乗は、平成二十三年の今日もなお欠かさず書き継がれて、原稿用紙にして総量五万枚に余るだろう。「バグワンと私」ふうの独白は、そのうちほぼ二千枚に及んでいるだろうか。
言うまでもないが、こういう述懐とも対話とも謂えるものに一足飛びは在りえない。日を追い思いを追い、順々に、妙な物謂いをするが「順熟」して行くしかない。上巻の五年間と下巻の二年間とでは、バグワンへの接し方もかなり変わっている。
理解の及ばぬ事は沢山ある、だが、いずれは、いずれはと希望をもって踏みしめるように歩んできた。この十数年、病んだ老境をむしろ旺盛に生きてきたわたしの「希望」とは、そういうものだったし、まだまだ、いつもいつまでもタドタドしい独白は続く。
なにごとにせよ拒絶は容易いが、拒絶して得られるものは稀薄である。受け容れて受け容れて自問し自答し、未熟な咀嚼を繰り返し繰り返すうちに、なにかしら「変容」が起きている、そういう実感を、気恥ずかしく顔赧らめながら、有り難いと、嬉しいとも、思ってきた。まだ何の気配すら感じられていないけれど、静かに、わたしは「待って」いる。
平成二十三年 桜桃忌を待ちながら 秦恒平
2011 5・28 116
* ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』にこんな一節があった。「藝術において大事なのは、それを少しも理解していない多数者ではなく、それを愛し、そして誇りを失わない謙遜の心をもってそれに奉仕している少数者である」と。
然り。「最良の者らは、世の喧噪から離れて静かに仕事をつづけていた──」とも。
* 五月の果てる日に、こういう言葉を「いま・ここ」に書き留めて置くのを喜ぶ。
2011 5・31 116
唐木順三先生の「遺訓」に聴く
「科学者の社会的責任」についての覺え書 冒頭の、「一」
一九五七年の七月、カナダの大西洋岸の小邑バグウォッシュで十ケ國の著名な科学者二十二人が集つて、いはゆるバグウォッシュ會議が開かれ、日本からは、湯川秀樹、朝永振一郎、小川岩雄の三氏が参加した。一九四五年(昭和二十年)八月、広島、長崎に原子爆弾が投下されて以来、科學者また有識者の平和運動、原水爆禁止、核戦争準備反対のアピールはたびたびくりかへされてきた。一九五四年三月、アメリカがビキニで水爆の実験を行ひ、日本の第五福龍丸がその放射能、いはゆる死の灰の被害を受けて以來、殊に原水爆禁止、核戦争準備反対の声が高まり、一九五五年の七月、いはゆる「ラッセル・アインシュタイン宣言」が著名な物理學者、憂世の知識人十一人の署名のもとに發表された。湯川秀樹もその中の一人である。バグウォッシュ會議は、この 「ラッセル・アインシュタイン宣言」の精神を引継ぐものであつた。この會議の主要なテーマは、第一、原子エネルギイの利用(平和的目的を含めて)の結果起る障害の危険、第二、核兵器の管理、第三、科學者の社會的責任の三項目であつた。この 「科學者の社會的責任」といふテーマを受持つた第三委員會は十一項目にわたる提言を行つてゐる。そして、そのまへがきに次のやうにその趣旨を示してゐる。「科學者が自分の専門的研究の外に、戦争を防止するために全力をつくし、恒久的かつ普遍的平和を確立するために、できるだけの助力をすることは、科學者の最高の責任であるといふのが、私たちの信念である」。この文脈には幾多の問題点が含まれてゐる。「科學者が自分の専門的研究の外に」といふのは、専門的研究の分野では自由にそれを研究、發展させることにつとめるが、その外に云々といふのであらう。それは十一項目の最後の項で一層はつきりする。「科学はそれが外部からおしつけられるいかなる教義による干渉からも自由であるとき、そしてあらゆる仮定を、科學自身を含めて、疑ふことが許されるとき、もつとも有効に發展する。科学的精神のこの自由、そして情報や考へを交換する自由がなければ、科學の建設的な可能性を十分に利用することはできないであらう」。さらにその第五項目では次のやうに言ふ。「科學と技術の進歩は不可避である。人類の技術的進歩の多くが、核力を自由にできるやうになつたことに依存してゐることを考へると、戦争が永久に、そして全面的に不可能になるやうにすることがきはめて重要である」。
一方に科學の研究の自由、科學的眞理の無限探求の自由を置き、その成果、たとへば核力の使用には制限を置く。その制限、具体的には核エネルギイを兵器として使用することの禁止、それへ向つての努力が「科學者の社會的責任」であると、さういふ赴きと受取れる。
一方に科学的眞理追究の自由を置き、他方にそれの生みだした例へば核エネルギイの使用は制限するといふ、恐らく未曾有の事態の中に科学者たちはゐる。核エネルギイの平和的利用は推進するが、兵器として使用することは禁止するといふ、二元の中にバグウォッシュ會議に参加した科学者たちはゐる。ガリレイ、ニュウトン以来、初めて當面する難局といつてよい。みづからが生みだしたものを、みづから制限せざるをえないといふディレンマともいふべく、近代文明の推進者であつた科學者また科學技術者が、その進歩の極限において自己制限、自己統御をみづからに課せざるをえないといふ次第になつた。第三委員合報告の第四項は次の如くである。「若し科學の成果が合理的に用ゐられるならば、それは全人類の福祉を著しく増進するであらう」。この場合の合理的乃至理性的は、科學プロパーのそれではない。むしろ人類の福祉を増進し平和を推進するそのことが、合理的、理性的であるといふのであらう。前掲の第三委員會報告のまへがき、「戦争を防止することに全力をつくし、恒久的かつ普遍的平和を確立するために、できるだけの助力をすることは、科學者の最高の責任である」をここでもういちど思ひ出すべきである。
私は右の声明が出された直後、「科學者の社會的責任の問題」なる一文を草して、雑誌『信濃教育』に寄せた(昭和三十二年十月号)。それは拙著『朴の木』(昭和三十五年刊)に収められてゐる。そこで私は次のやうに言つた。「バグウォッシュの科學者たちは、原子核エネルギイによつて、『人類は新しい時代に入つた』といひ、科學と技術の非可逆性をいひ、科學的精神の自由をいひながら、平和と福祉を念願し、社會的責任をみづからに課した。これは世界観としては統一されてゐず、科學者らしくと人間らしくとは統一されてゐないが、この問題提起を、思想家はいつそう深いところで考へなければならない」。それにつづいて私は次のやうにも書いた。「科學と技術の進歩の非可逆ははたして文明の非可逆に通じるであらうか。科學技術の非可逆的な進歩が、文明、したがつてまた人間を逆行させ、或ひは喪失させるといふことは、夢でも幻でもないのではないか。技術の進歩は一方では人間の衣食住に密接にかかはつてゐるだけに、ことの外にむづかしい問題につらなつてしまふ」。さらに私はまた、「超音速の孫悟空の航空も、一朝目ざめれば、佛の掌上のゆききにすぎない」云々と誌し、晩年のアインシュタインが、「今度生れ変つたら、科學者にならないで、行商人か鉛管エになりたい」と言つたことを引いた。
* 唐木順三は、上記になお百数十頁を加えているが、冒頭の此の僅かな発言に、すでに要点は明瞭に示唆されている。原子力の平和利用である「原発」が、いかに不用意な無責任の故に「こくなん」を招いたかを、国民は子度如く今周知・承知している。
* 多年に亘る「自民党政権」の、無見識・無見当な、言い替えれば「電力」企業の無際限な{営利欲}とそれに寄食した政権ないし各党政治家たちの貪欲が放恣に紡ぎ出した「安全神話」で国民を誘導してきた「原発多産政策」は、まんまと、「戦争犯罪」に類するほどの大罪に帰着した。あの「バブル」が潰えて國の疲弊を生み今なお立ち直れていない事とも、自民政権のエネルギー政策は確実に帯同していた。福島原発の引き起こした無残で悲惨な危害と被害は、その行き詰まった破滅をまざまざ体現したのに他ならない。
しかも福島原発に後尾して、この逃げ場のない狭い日本列島に、安全不備な原発が目白押しに今なお建ちならんでいる。福島危害が再発したとき、日本民族はいったい何処へ避難できると言うのか。
菅総理が、かろうじて東海道の中軸に位置した浜岡原発停止を指示したのは英断であった。さらに、核に替わる自然エネルギーの開発を国是として発言しているときに、海江田経産相の各地停止原発の運転再開を求める見解は露骨に齟齬しており、経産省と電力会社との多年の結託を想えば、極めて遺憾な、悪しき現状維持と容認への「後退」だと攻撃せずにおれない。自民党の中にも河野太郎氏のような明快な反原発論者も存在する。菅総理はなまじいに言葉をにごさず、旗幟鮮明に「脱原発」こそ政治の責任であると明言して欲しい。
平成二十三年六月十九日 秦恒平
わたしは強く訝しみ与野党に抗議する。
「総理退陣」問題で、選挙権者つまり国民の認識と、政権周辺との認識とに、大差がありすぎる。
相変わらず、総理が退陣すれば、何がどうなって、どんな明日の展望が新総理の下にひらけるのか、具体的な政策も対策も目標時期も明らかでない。どんな思惑からか、次の総理と目される誰一人も何一つ話さない。「白紙」だと言う。
そんなことで被災地への急務、原発危害への急務はどうなるのか。少なくもそれが次の総理候補から明らかになってこない限り、菅内閣にやめられては逆に大困りしてしまう。組閣の段になってやおら政見・政策のすりあわせや構想というのでは、政治空白はとめどなく伸びるだろう、そんな簡明な理も、いまの政界は践もうとしない。ただもう政権欲だけで「菅おろしに狂奔」しているとしか思われない。
一つには御用政治評論家たちや御用マスコミが、あれこれと背後の旦那衆の代弁をしているのも、卑しいと見えかつ聞こえる。今は被災地や国民の声によく聴いて党利党略や個々の権勢欲を抑えよ。
平成二十三年六月七日 作家・日本ペンクラブ理事六期十二年 秦恒平
2011 6・1 117
* いまわたしの芯の方でゆっくり絡まりながら身を起こそうとしているものを言葉に置き換えてみると、「博多」「悲田院」「清水坂」「新潟」など。原発とも政局とも「 湖(うみ)の本」 とも身の回りの今日明日とも、関わりのないこと。
* 「旅」をして、そこから創作が始まったことは、思えば数え切れない。「清経入水」も「みごもりの湖」「風の奏で」も「北の時代」も「冬祭り」も「華厳」も「四度の瀧」も「秋萩帖」も「誘惑」も。せいぜい隅田川を渡りに行くぐらい。身軽に旅に出られなくなったのは、文字通りに身の衰えというしかない。
2011 6・12 117
* 朝の六時から床で読み始めたマードックの『鐘』が、期待どおりに面白く運ばれて、ウキウキしている。丸谷さんの訳がややオドッテいる感じだが、それに引っ張られている気もする。
庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』の喋くりは、こうるさいなりに才走っている。このまま読んでは行くだろう、が、時世との癒着部分からもう錆をふき始めており、もはや新しみよりも古びの方が目立つ。日比谷の、東大の、東大法学部の、著者本人の名乗りのといったご機嫌のお飾りが、かえって作を遠い過去のものに押し戻し、昔々のテレビドラマや流行歌を見聞きしている感じ。同じ書き手としてちょっとならず怖ろしい。なぜなら、たとえば漱石の『三四郎』や『坊ちやん』を昔の古びではわたしたちは読まないでいる。新しい古いをトビ超えた文学の魅力を読み取っている。庄司作にも、読み終えたときそれが受け取れるかどうか、だ。
小説は、現代を書こうが歴史を書こうが、何とも説明の付かない「現在」「今」に縛られ繋がれている。それをどこまでどう決然と或いは巧みに隠しきれるかがむずかしい。不用意に「現在」「今」の顔つきが残っていると、そこから錆びて腐り出す。
2011 6・14 117
* 永代橋の辺を歩いてこようと思っていたが、いつ降り出すか知れず、明日からの作業にも身を備えたくて休養している。暑い。庭の書庫へ入ると、ぼおっとして無数の書物に酔わされる。時間などみんな忘れてしまい、一冊一冊の題にも製本にも、初めて手にしたときの弾む気持ちが甦る。手にしてしまうと読み始め、ああ、いかんいかんと元へ戻すが、戻す必要もないのだ。
一つ驚くのは、戴き本の多いこと、背の高い二十棚を天井まで満たし、 通路にも乱雑に山積みしてある、そのおよそ八割もがみな著者や出版者からの頂戴本。これには今さらにおどろく。古典、歴史、美術、画集、地誌、詩歌、各種藝能、随筆そして文学論や小説。いろんな全集や叢書。専門誌も、地図も事典も辞書も。よくこんなに戴いてきた、だいたいわたしは書店で本を捜すということを殆どしてこなかった。
創作や批評に役に立ちそうなものを保存し、読み物類は用が済めば図書館へどんどん寄贈していてこれだ。
* そんな中から、唐木順三先生のご遺稿である一冊を持ち出してきた。『「科學者の社會的責任」についての覺え書』で、昭和五十五年七月に出て、奥様の「謹呈」札をわたしは見開きに貼り付けている。臼井吉見先生が「あとがき」されている。
「とどまるところを知らない欲望が近代文明、近代産業、近代科學を生んだ基本構造といつてよい。そして、その進歩の極限に原子力エネルギイが、近代科學文明のなれのはてとして出てきて、それが人類、また一切の生きとし生けるものの死滅につながるといふ畏れが普遍化してきた」と、帯の裏に「本文より」引いて掲げてある。帯の表には、「<絶対悪>である原爆、核兵器の開発、使用に抗議し、科学者の自己意識とその社会的責任を追及、現代が生みだした大罪を告発する烈々の遺書。」とある。
唐木先生は128頁未完の長文をこの年二月四日までに書かれ、加えて<An Essay>を三月八日午前零時半、北里病院の病室で、「覺え書」の最後のところへと附記され、一時十五分に「書き終」えられた。五月二十七日に逝去された。
* 最初に、文字通り拝読したとき、先生の烈々の気魄に身を固くしたのを覚えている。わかりよくいえば、日本人としては国民的な誇りですらあった湯川秀樹博士への熱烈な批判が書かれていた。核の問題について、反省が無い。これが太い一本の芯になって「表題」の意図が唐木先生ならではの遒勁かつ端厳な言葉と文字とで書き貫かれている。唐木順三と言えば『日本人の心の歴史』上下であり、『無常』『無用者の系譜』『千利休』『良寛』であり『中世の文学』の人であった。鬱蒼として深い森のような世界を築かれながら「現代史への試み」を絶やされない碩学であった。その唐木先生にしてあり得べき遺書に相違ないとわたしは拝読したのだった。
いま、世界は日本の原発危害の悲惨に注目している。昨夜聴いたインタビューでは原子力安全委員会の斑目委員長は、「人災」であったと断言し、責任を果たせなかったと謝罪していた。
唐木先生よりさらに早く早くに、志賀直哉は科学の危なさを指摘して謙遜であれと発言していた。彼はまた武器として使用される原子力開発の急ピッチに危惧と嫌悪を露わにしていた。
「反省のない科学の進歩」が人類を破滅の淵へ追い込む、いま、日本は日本自身の手で実例を演じて呻いているのだ。
* 唐木先生は、太宰治賞の選者であられた。作家として立って以後も、「花と風」や「女文化の終焉」などをいつもお手紙で喜んで下さった。わたしは、ほんとうにせっせせっせと選者の先生方を念頭に「答案」を提出し続けた。井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫。この方たちに顔を顰めさせるような仕事はしないと思って来たし、今も思っている。たとえヤクザを書こうがエロスを書こうが、である。自由に書いて、なお、である。 2011 6・16 117
* いま、わたしを深々と感動させるのは、カリール・ジブラーンの『人の子イエス』だ。聖典でも研究書でも福音書でもない。ありていにいえば創作であるが、さながらに一つの聖書とも福音書とも証言集とも読める。数十の証言が美しく積まれていて、一編一編が貴い言葉として読める嬉しさに満ちている。
「恵み豊かなイエス」を語っている「パトモスのヨハネ」の言葉は、長くも短くもないが、その後半にわたしは頭をたれた。訳者の小森さんにお許し願い、ここに上げさせてもらおう、やみがたく、そうしたい。
☆ パトモスのヨハネ 恵み豊かなイエス の後半
小森健太朗さんの訳で 『人の子イエス』みすず書房新刊より
さて、私に、他のことも語らせてください。
ある日、私はあの方と二人だけで野の道を歩いていた。私たちは空腹で、野生の
林檎の木があるのを見つけた。
その枝には、たった二つの林檎がなっているだけだった。
あの方が腕で木の幹を揺らすと、その二つの実は落ちてきた。
あの方は二つの実を拾って、一つを私に渡した。もう一つの実は手に持っていた。
私は飢えていたので、その林檎を呑み込むばかりにすぐ食べてしまった。
それから私はあの方を見、その手にあるもうひとつの林檎を見た。
あの方はそれを私に差し出して、「これも食するがよい」 と言われた。
私はその林檎を受け取った。無恥なことに私は、それも食べてしまった。
それからまた歩きだして、私はあの方の顔を見た。
でも、そのとき私の見たものをどう伝えればよいだろう。
蝋燭の火があたりを照らす夜──
われわれの手の届かないところにある夢
羊の群れが草を食んでいて、羊飼いが平穏かつ幸せに過ごしている昼の日中
夕闇、その静けさ、家路につくもの
そして、眠りと夢──
これらすべてを私はあの方の顔に見た。
あの方は私に林檎を二つとも授けた。私同様、あの方も空腹だったのを私は知っ
ている。
しかし私にそれを与えることで、あの方が満たされていたことが、今の私にはわ
かる。そのことであの方は、目に見えない別の果実を食したのだ。
私にはあの方についてもっと語りたいことがある。だが、どうしたらよいだろう。
愛があまりに広大になると、言葉が失われてしまう。
思い出があまりに過重になると、それは深い眠りを求める。
* わたしは今もたくさんな本を読む。古典的な作を繰り返し読んでいるが、新刊を拒んでいるのではない。そしてわたしは絶えず、本当に絶えずものを「書いて」いる。ただ、無心に書いていて、それでもって手柄を取ろうなどとは少しも考えていない。著者が八十過ぎてもギラギラとした功名心で書かれている本がある、幾らもある。嗤いはしない、が、少し身を退いて読むか、読まずに過ごしている。
そんな中でこのジブラーンの『人の子イエス』には惹き込まれる。
倉田茂さんの詩集にも惹き込まれる。「書く」ならそういう作品に見ならいたい。
2011 6・24 117
* 打てば響く。好きな言葉だ。綾の鼓は美しいのかも知らんが、鳴らなくては。
初音の鼓は静御前が打てば鳴り、忠信狐があらわれる。類似の説話は古今東西にあるが、普通の人間の場合、たいがいの場合打っても打っても鳴らない。それどころか、「打たないで痛いから」と逆に怒り出す。
2011 6・24 117
* 最近のことだが留守に電話があり、わたしの原稿の中に、「不都合」「さしさわり」「不服」「異議申し立て」等の意味で、「そういう不満は何もない」ことを「何の故障もない」と書いていたのを、「故障」とは、機械の不具合や破損を謂う言葉だから可笑しいのでないか、一存で「支障がない」と改めましたと。
妻が電話口で聞いて、どうぞと承諾しておいた。
こだわりはしないが「故障」は機械の破損を謂う意味に限るとは、その人のハヤトチリまたは不勉強であり、機械のない時代の古典にも「故障を申し立てる」式の用例はいくらでもあり、今の辞書でも、「機械の不調・破損」の意味はいっとうお尻に並べてある。「故障」は「支障」より含みと表現力のある語彙で、辞書でも「支障」は「故障のこと、さしさわり」とあるだけ。ちょっと「故障を申し立てて」おく、此処だけの話。
2011 6・24 117
* 『バグワンと私』を読んで下さったなかに、著しい一つの{読み過ぎ}がある。
わたしが、孫・やす香の酷い死に耐えかねてバグワンに縋った、少なくも向きあったと察している人たち。
ご親切ではあるが、これは全然違っている。
バグワンの境地に心惹かれて継続的に接し始めたのは、はっきり書いているように一九九七年、平成九年であり、その当時はまだやす香とわれわれ祖父母とは親交を取り戻せていなかった。全く没交渉のなかにあったし、やす香の両親と祖父母や叔父たちとの間には、不幸な没交渉という以外のなにごともまだ起きていなかった。
そしてその翌年三月下旬からわたしは、初めて機械環境の中に、ホームページ『作家・秦恒平の文学と生活』を起こし、その中で「作家・秦恒平の生活と意見」と題した「日乗」も書き起こした。ごく間もなく日付も確実、四月一日には、早くも「バグワンと私」の第一声を書き込んでいる。
やす香が大勢の声に危ぶまれた末にやっと入院し、当初白血病という診断違いが悪性の肉腫と改まったのが、二◯◯六年、平成十八年七夕の日であり、あつという間の同じ七月二十七日、逝去。
しかし、そういう歎きとは事実上無関係に「バグワンと私」の日々の思いは、遙かに早い時点からたどたどしくとも年々絶え間なく進んでいた。
今度の上下巻が、やす香の死と、またその後の醜い親族間の葛藤の起きた年の末で一応結ばれてあるのは、なによりも、上巻180頁、下巻も180頁でおさめたい編輯上の必然を践んだまでのこと。
やす香のための切なる「挽歌」なら、「孫娘の死を書いて実の娘に訴えられた太宰賞作家」という売りで週刊新潮が囃し立てた、『かくのごどき、死』(「 湖(うみ)の本エッセイ39」 )に尽きていて、それならばどなたでも、いつでも自由に読んで頂ける。
『バグワンと私』上下巻は、単純にいえば、秦恒平が秦恒平を書いたのである。ウソは少しも書いていない私小説ふうの、やはり「日記」に他ならない。「日記」と称して、後年に記憶を辿ってざっと造られた作は古典にも幾つもあるが、わたしのこの日記は、「日乗」本来の手順で、日一日を追って十数年來継続して書かれている。今も機械の中に保存され紛れもない事実である。
やす香の死に絡めてこれを読もうとされた人達は、年々日々の「日記」を小説かのように善意から読み替えられたということである。読者の自由であるが、事実を逸れている意味は小さくない。
* 上は、「日記」という現実に即した謂わば著者からの一言に終わっているが、もう一つ、この方は作のモチーフに直に触れつつ、かなりハッキリ予測していたこと。つまり、わたしのようにひ弱い者でなく、じつに精神の「強い」人が幾らも、とはいわないが何人もおられるということ。そういう人からすればこの『バグワンと私』はさながら泣き言にちかいのだろうなあと苦笑して予期していた、その通りの反響が、たぶんこの人からはと予想通りに届けられていて、実に刺激的であった。
何度も言うが、「バグワン」という人が分からないし、同じて行けない、思いが重ならないという人、そういう人にはわたしはお気の毒を強いている。バグワンに対しても義理はわるい。わたしはバグワンや彼の言説を読者に伝えようというより、ただ自身で翫味しようするにのみ急なのだから、或る意味で「バグワン」のためには半端な筆述に終わっている。わたし自身がまだまだ「途上の独白」中で、それが現実なのだから致し方がない。
* そんなとは違って、生きるの死ぬのなどに自分はいっこう顧慮がない、その意味では秦さんの苦しみも惑いも求めてるらしいことにも「関心がない」と言い切れる人達。わたしはそういう人達を、羨ましく感じるし、そして、ほんとうなの、とも驚かされる。
おそらく、この私の本が読んで下さる方に持ちかけている芯の問題とは、この辺に在るのだと思っていた。
その際に、わたしがビックリさせられるのは、そういう強い人が、「神」のことに触れられることである。
わたしは、このかなりの大冊の中で殆ど一度として「神」への望みや縋りを書いていないことを、言い切っておく。わたしは無神論者でも有神論者でもない。不思議とか神秘とかを否認したことはないだけで、「抱き柱は抱かない」と繰り返し言い切っていることは、たとえそれがどこまで実行できているかどうかの批評は別にすれば、わたしは、実は神も仏も求めていない、ただ「静かな心」じつはそんなものは存在するわけがなくて、言い替えれば「無心」という「安心」の域に自分がたどり着けるのだろうか、そのために無明の夢から覚める日を待っているだけだと言いたい。
それを「死へのおそれ」と言い替えられるだろうか。否定もしないが肯定もしない。ちょっと違うという感じがある。
またわたしが無宗教の逆の存在かと思われるのも、もし信仰という組織性との関わりを感じて言われているなら、見当が違っている。宗教性は幼來備えているとじかくしているが、いま、わたしは神仏にすこしも拘泥していないし信仰していない。むろんバグワンも祖師かのように信仰などしていない。
* それにしてもわたしの願っているのとあまり違わないらしい境地をすでに自分は得ている、ないし、そんなものは必要がないと言い切れるほどの人が、やはり存在するらしいのは、或る意味凄いことだ。
2011 6・27 117
☆ 前略「 湖(うみ)の本」 107巻の御礼を申し上げずにゐるうちに108巻を頂戴し誠に申しわけありません。
無宗教で、遠藤周作君からよく、あんたのやうに、神について考へて神を信じなくなる無神論者でなく、神などどうでもいいといふ無神論者ほど度し難いものはないと言はれてゐました。
私は御高著「バグワンと私」を拝読しても、なかなか没入出来なく、われながら困ったものだと思つてゐます。今年九十歳になりましたので、歳のせいかと考へて気を楽にしてゐます。
創刊二十五年を心から祝福申し上げます。 不一 元文藝誌編集長
* まことに胸に届いてくるお葉書で、わたしは嬉しい。大きく教わった気がする。
もともと「神について考へて神を信じなくなる無神論者」をわたしはあまり信用してこなかった、この方が本当は「度し難い」のではないかと思い、いっそ「神などどうでもいいといふ無神論者」が自然で毅いのではないかと思っていた。新井白石と出会ってそう感じたし最上徳内にもそう感じた。遠藤さんのことは知らない。正宗白鳥が臨終前に信仰の告白をしたと聞いたとき、言葉にならない感想を抱いたまま瞑目したのを思い出す。
* もう一通、やはり有り難い長文のお手紙も、おゆるし頂いて此処に書きおかせて戴きたい。
☆ 拝啓 秦恒平様 机下
「 湖(うみ)の本」 107 108 『バグワンと私 死の間近で』上下
ご恵送下さり、まことに有難う存じました。私はこの人物のことを知りませんでした。インターネットのウィキペディアでこの人の紹介文を読み、二十年も前に亡くなった人なのに、すごい影響を後世に与え、今も生きつづけていると感心しました。これから、折りにふれて御著をひらき、読んでみたいと思います。
今、感じていること、下巻で紹介されている「愛」と「結婚」は違うというところ、「結婚」は抱き柱ではないかということ、 漱石の「三四郎」を読んでいて廣田先生が結婚しないということ、「結婚」という制度を彼はみとめないのだなと思いました。
いま仲間と古今和歌集からはじめて王朝和歌を少しずつ読み、そのかたわら昨年から漱石も読み出しましたが、秦さんが何度も言及されている「こゝろ」に比べて、「三四郎」について、触れられる方が少ないのは、とても残念ですが、ここのところを読んで「三四郎」は青春文学と一言で片づけるわけにはいかないなと思いました。
秦さんは迫り来る「死」にについて 若いお孫さんの「死」の実体験から強迫に近いものをお感じになり、それによるこわばりをほぐそうと懸命に努力されていますが、私はたった一才しか違わず、私も来年で後期高齢者になるのですが、鈍感なせいか、それほど強い強迫を受けません。死ねば「無」、それでいいと思っています。同封の文でもふれましたが、今年になっての「母の死に、母の無になった 私も近い内無になると思って、それがたのしみでもあります。
和泉式部の歌
数ふれば歳の残りもなかりけり 老いぬるばかり悲しきはなし
も、昔は老年の悲しみの述懐の歌として読んでいましたが、最近は上の句と下の句のあいだに一拍置く、歳末になるとゆることが多くなって困るなあと思い、そして何気なく口に出した「歳の残り」が自分の齢の残りでもあることに気づく、そして彼女は文机の上に顔を伏せて過ぎ去った絢爛たる日々を思い描くという風に読んでいます。
今がいちばんいい、やがて無になる前の光がいちばん美しい。
夕日はゆっくり見たいと思っています。
勿論、死んだら終りということでやっていますが、小さな石でも積んでゆけばケルンになるかも知れないと考えています。
「 湖(うみ)の本」 百八回 おめでとうございます。
ますますの御健筆をおいのり申し上げます。 六月二十五日 拝 欣 文藝批評家
* わたしに『罪はわが前に』と表題した書き下ろしの旧作がある。この表題は、聖書からというより、漱石の『三四郎』から得ていたことは作中に書いている。またわたしの『こゝろ』論は、『三四郎』という背景、根底をもって書かれている。三四郎君は、『こころ』の「私」になって「先生」や「静 奥さん」の前へ再登場しているとすらわたしは読み取ってきた。
2011 6・27 117
* 名作として愛読し「 e-文藝館= 湖(umi)」にも頂戴した阿川弘之さんの『年年歳歳』という、その表題にもわたしは昔魅了された。謂うまでもなく「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」という句意のゆえにまさしく人口に膾炙してきた。そしてまたわたしは、「花相似」と「人不同」に人生常無きはかなさを度々語りつぎ、そういうものと詠めてきた。
ところで、このいわば名句にはおそろしいお話がくつついていて、その方はほとんどもう誰もが思い出しもせず忘れ果てている。書き留めて置くに値すると想うので、書いておく。
☆ 昔、今から千二三百年も前、唐の代に二人の詩人があつた。一人を宋之問と云うひ、一人を劉廷芝と云つた。宋は劉の舅であり先輩であつたが、詩は劉の方が優れて居た。劉は或る時あの有名な「白頭翁」の詩を作つて「年々歳々花相似。歳々年々人不同。」の句を得たので、それを舅の宋に示した。宋は其の句が除りよかつたものだから、「此れを私にくれろ。」と云つた。けれども劉は舅の求めを聴かずに其の詩を世間に発表した。宋は非常に其れを恨んで、卑怯にも或るむごたらしいカ法で劉を殺した。──此の話は多くの人に知られて居る、さうして其の為めに宋之問は残忍悖徳の詩人として醜名を今に伝へて居る。成る程、之問は人間としては陋劣な、詩人としては凡庸な男であつた。が、凡庸でも何でも、彼は兎に角女の為めや金銭の為めでなく詩の為めに人を殺した、「年々歳々花柚相似。歳々年々人不同。」の十川箇の漢字が彼には十四顆の寶石に見えた、彼は詩の価値を解していた、その点で詩人としての彼の名は、──たとへ其れが醜い名であらうとも、──千年の後にまで記憶せられていゝ訳である。今の世の人々は宋之問の醜い名を聴き醜い話を聴いて、少くとも詩の──藝術の貴さを思ふ。われわれは機根が鈍く才能が乏しい為めに其の貴い境地へは行き着くことが出来ないまでも、せめて其の貴い境地のあることを信じ、其処に行き着くことの名誉と幸福とを想像し、その為めに罪を犯した宋之問ほどの熱情を持ちたく思ふ。なぜなら、其れを信じ其れを想像する事は、時とすると其れへ行き着いたと同じ栄光を人に与へるものであるから。之問は醜い詩人であつたには違ひない、が、──若し伝説がほんたうなら、同時に彼は其の情熱で
高い所へ翔け上つたアンデルセンの「醜い家鴨」であつた事を誰が知らうぞ!
此の宋之問の話は、もとより此の物語の筋には何の関係も似寄りもない。たゞ藝術家は、どんなに醜悪な性情を持ち、どんなに覚束ない才能をしか持って居ないでも、彼が藝術に対する熱情を失はぬ間はまだ幾分か望みがあると云ふ事を、こゝで云ひたかつたのである。 谷崎潤一郎作『鮫人』より第三章冒頭 大正九年
* 谷崎のいわゆる悪魔時代へ吶喊していた頃、中断した長篇小説のなかで書いている。前後の物語はまったく推測も出来ないだろう、完全な挿入文ながら、いわば彼の大昭和期に入ってからの藝術論をはるかに早く先取りしていた観想として、忘れていてはならない。ま、谷崎論としては、今は措くが、この伝説の谷崎の持って行き方には、映画や舞台での『アマデウス』 あの「モーツアルト」と「サリエリ」のことに似通うている。しかし、それにも今は触れて行く気がない。ことさらモノをいわなくても、この伝説は独り歩きでたいへんなことを語っているというしかない。
* それよりももう一度「人不同」の常無きサマについて云おうとしたが、それもまこと愚かしい。バグワンは、大方の人が「ご挨拶」で、つまり潤滑油というだけの言葉をもっぱら用いて世を渡っていると話していた。必ずしも非難ばかりではなかった。しかしご挨拶がただ潤滑油ならむしろ必要で上等として、そうではなく、身内の顔のまま出任せのご挨拶を誰もが言い出したらどんなものだろう、かなりシラケルだろう。
2011 6・27 117
* 「判決について」牧野法律事務所から、判決について簡単な通知が届いている。追って本文120頁、目録361頁もの厖大な量の書類が届くというから、詳細はそれを見るしかないのだろうが、もはや興味もない。わたしの家族は、見る限りの通知をどう読んでいるか知らないが、わたしは、今のところさしたる感慨も憤激もない。ただ冷やか。わたしの人間に対し、文学生活に対し、かすり傷も与えないからである。
孫の死を書いて実の娘や婿に訴えられ、金銭支払いやあまっさえ謝罪等の負担をどう与えられようと、わたしたちの孫やす香への愛には微塵の翳もなく、また「わたし」の内面とも文学の果実とも何の関係もないどころか、読者や知友にすべて判断は委ねられてある。神・人ともに赦すまい「アモラルな恥ずかしい批判」を、広い世界や所属する社会から陰に陽に蒙り続けるのは、わたしではない。
* あすは、久しぶりに聖路加の定期診察。
2011 6・30 117
* 仕掛けの小説を読み返していて、願っているところは、わたし自身には興味津々だけれど、読者にはどうだろうかという懸念はぬぐえない。読者にも、と、云ってももうそういうしかないけれど「わたしの読者」にも是非手を拍って喜んで欲しいわけだ。ところが「わたしの読者」もむろん一様ではない。さ、どうしようかと、珈琲の冷えるのも気にせずいろいろメモをとっているところへ隣家のご主人が同席された。
小説のことを考えたり手を掛けたりしていると、自分が勤めていた若い頃の昔のように人混みの喫茶店にいるのも忘れている。今日どこへ出掛けていたかも暑かったのも、あれこれ不快なこともみんな拭ったように消えている。「これが仮想現実から夢覚めているという」のではないのかと思えてしまうぐらいだ。余のことは、バカげている。そうなのだ。「おまえはいつでもおまえの夢から目を覚ますことができるのだ。」
* 要するに、何もない。おもしろい。
2011 7・1 118
* ふしぎなほど、この歳になって、昔風に謂えば机に向かって、実際には機械に向かって、書きつづけたり書き直し続けたり読み直したりする仕事が、向こう先が見えないほど目の前に山になっている。目の疲れ甚だしいが、これですることが何もなかったらかえって雑念に追いまくられるだろう、わたしは仕事に熱中しているときは意外と心静かでよけいなことは忘れていられる。妙な精神安定剤よりも遙かに仕事が効く。とはいえ、ワーカホリックではない。仕事に名誉心も射幸心も拘泥すらも無くて、イヤな不愉快な仕事であるときすら芯のところで楽しんでいる。まして積極的に踏み込んでいる仕事だと気は静まって晴れている。不思議である。
今日も、思いがけないちょっとした発見から、気合いの入った仕事を一日中続けられた。
だが、もうやすまないと本当に目を痛めてしまう。と、云いながらやすむといってもまだ十時半だと、呑んで、映画を見るだろうか。今日、吉備の人の有り難いいつものお心入れの名酒を頂戴した。京都の、気のいい「樅」のちいチャンから夏のご馳走を送ってもらっている。彼女のお店には、島尾伸三も連れて行った、甥の恒も猛も連れて行った。三人ともむちゃくちゃカラオケ上手で飲みっぷりよかった。わたしは、呑む一方で歌わない。
で、今みたい映画は。もう一度、「マトリックス」の第三部が見たい。
2011 7・3 118
* ひとつのケリをつけて、「仕事」へまた近づいたが、なんと、終日どころか今午前二時、やすみなく体力視力を酷使していた。疲れた、が、戴いたお酒や菓子で、あいを繋いで、他のなにも出来なかったが、すべきを、した。ひたすら。まだまだ。
シャンとした姿勢のために、上に出しておいた唐木先生の文章を、ここに収めて、寝に行こう。
☆ いま、わたしは再び、故唐木順三先生の
遺書『「科学者の社会的責任」についての覺え書』(筑摩書房 1980)に聴きたい。
つい先日もある大学の名誉教授と名乗る今日の原子力科学者の最高責任者汲と思しきテレビ談話を聴いて、底知れぬ不信に顔の歪む心地がした。その人のいやらしい笑みをふくんだ顔つきには、広島のニュースを伝え聞いたアインシュタインが、ただひとこと「Oh, weh !」とうめいて絶句した悲しみ、悔悟の苦渋のかけらもなかった。汚された顔を清水に浸す思いでわたしは唐木先生の本を開いた。
以下は同書の「六」にあたる一節だけであるが、この前桜桃忌の日に引いた文に呼応し共鳴して、心ある人達の胸にきっと鳴り響いて伝わるであろう。
☆ 唐木順三先生に聴く。
『「科学者の社会的責任」についての覺え書』(筑摩書房 1980)より
六
アインシュタインは両三度、例のノーベル賞の設定者アルフレッド・ノーベルに言及してゐる。その一つ、一九四五年十二月十日、ノーベルの歿後五十年目の命日を記念して開かれた晩餐會で次のやうな挨拶をした。なほこの日が広島への原爆投下後後四ケ月であつたことも注意すべきである。
「物理学者たちは、アルフレッド・ノーベルの情況と似てゐなくはない情況にあります。アルフレッド・ノーベルは、當時知られた何物にも勝る火薬──優れた効果のある破壊手段を発明しました。この『完成』の罪滅ぼしと、彼の良心を救ふために、彼は平和を促進する賞を設けました。今日、全時代を通じて最も恐ろしい武器の製造に参加した物理学者たちは、同様な責任感と罪とに、それといはないでも悩まされてゐます。科学者として、これらの武器によつて造り出された危険に対して、われわれは決して警告を止めてはなりません」。
ノーベルはダイナマイトまた更に強力な無煙火薬を発明し、それらの特許によつて莫大な財産を得た。ノーベルの遺言によつてその遺産三二〇〇萬クローネを基金として、物理、化學、生理=医学、文学、平和の五部門においてすぐれた業績を挙げた学者たちに賞を与へることになつた。平和賞は常備軍の縮少また平和会議の推進などによつて世界人類のブラザフッドのために貢献した者に授けられると規定されてゐる。
ところが、物理學賞の中には、直接に原爆開發を推進したエンリコ・フェルミ(一九三八年度受賞)、アメリカのロレンス(一九三九年度受賞)などがゐる。その外、核エネルギイ開發の土臺ともなるレポートによつて賞を受けた者も少くはないであらう。平和賞と物理學賞とが矛盾するやうな事態も出てきてゐた。
一九三三年十二月八日のアルフレッド・ノーベルを偲ぶ會合で、アインシュタインは次のやうに言つてゐる。
「ノーベルの主要な創造的行為(唐木註、例へば火薬の發明)が、彼が人間として、仇となり破壊的であるとみなしたカに直接に役に立つたといふことは、彼の心を苦しめたであらう。したがつて彼の遺言は、彼の生涯の仕事を、善にして生命を与へる神々の足下に置き、かくしてみづからの心の分裂を解消しようとする、高潔な自己解放の行為であつた」。
ところでノーベルの遺言によつて設定されたノーベル賞、殊に物理學賞は、再びノーベル自身の苦しんだ問題に當面することになつた。平和賞と物理學賞はなかなかに調和しがたい。ちなみにいへば、フェルミの受賞講演は「中性子衝撃によつて生成される人工放射能」であり、ロレンスのそれは「サイクロトロンの進歩」であつた。
一九四八年、即ち広島に原爆が投下されてから三年後、アインシュタインが「知識人の平和大會」におくつたメッセージはこの際我々にとつて重要である。それは『晩年に想ふ』(中村誠太郎、市井三郎、南部陽一郎の共辞、講談社文庫)の中に収められてゐる。
「社會生活の諸問題を解決するに當つて、合理的な思惟だけでは充分でないことを、我々は痛ましい経験(原爆投下)から學んできました。徹底的な研究や鋭敏な科學的業績が、しばしば人類にとつて、悲劇的な帰結をもたらしてきたのです。それは一方では發明を産みだし、心身を消耗する重労働から人間を解放し、人間の生活をより容易に、より豊かにしてきました。しかし他方では、それは人間の生活に重大な休みを奪ひ、人間をして自らの技術的環境の奴隷と化さしめたのです。しかも、もつとも悲惨なことには、それが人間自身の大量破壊の手段を創りだしました。まさにこれは圧倒的に深刻な悲劇です」。
これにつづけて更に次のやうにいふ。
「その悲劇がどれほど深刻なものであらうとも、次の事実は、おそらくさらに悲劇的なものでありませう。すなはち、科學や技術の分野できはめてすぐれた業績をもつ學者を、人類はおびただしく産み出してきたのにかかはらず、我々をめぐる多くの政治的紛争と経済的不安に対して適切な解決を見出すことに、我々が長い間きはめて無力であつた事実です(中略)。我々科學者は、殺戮方法をより残忍に、より効果的にすることを助けるといふ、悲劇的な運命を荷つてきたのでありますが、それらの武器が、それを發明する意図であつた残忍な目的に用ゐられることを防止するために、自分たちの全力を傾けることを自らの崇高な、そして卓越した義務と考へねばなりません」。
最近代の物理學、具体的には原子物理學のもたらした悲劇を再びくりかへさないためにはどうしたらよいか。
アインシュタインは既に話したやうに、国家主権の制限による世界連邦、世界政府の樹立をしばしば説いてゐる。それは物理學から離れた国際政治の問題である。
科學者、物理學者としてとどまりながら、なほ右の悲劇を超える道はありえないか。前掲の『晩年に想ふ』の中に収められてゐる「科學と宗教」の二章(一九三九-一九四一)は右の難問へのアプローチである。
十八、九世紀の科學者たちにとつては、科學を宗教、乃至信仰から独立させ、自由に無制限に科學的眞理を追究することが使命であり、また主張であつた。然し今世紀に入つて事情は変つてきた。客観的眞理、「これこれである」といふ知識は「これこれであるべきだ」といふ當為とはつながつてゐない。「これこれであるといふ知識を、いくら明瞭に完全に把握することができても、人間の願望の目標が何であるべきかを、それから演繹することはできない。客観的な知識は、ある種の目的を達成するための、強力な道具を提供はするが、究極的な目標そのもの、及びそれに到達しようとする憧れは、他の源泉から生れなければならない」。
そこから宗教、信仰の問題が新しく出てくる。
「思惟だけでは、究極的な根本的な目的感覚を我々に与へることはできない。この根本的な目的と価値判断とを明らかにし、それを個人の感情的生活にしつかりと根を下させることこそ、人間の社會生活にあつて、まさに宗教が果すべき、もつとも重要な機能であると私は思ふ」。
右にいふ「宗教」において、アインシュタインは特定の宗教、宗派、教義を考へてはゐない。むしろ特別の人格において体現されてゐる宗教的な権威、一般の人々がそれをおのづからに「啓示」として感受するところの動かしがたい権威を指してゐる。そのやうな宗教的な人格、啓示として、アインシュタインは此処では佛陀とスピノザを挙げてゐるが、既に話したやうに、キリストやガンジイを加へてもよいであらう。即ちそれを具体的にいへば、「自己の能力のあたふかぎり、利己的な欲望の拘束から自らを解き放ち、超個人的な価値のために心をくだいてゐる思想、感情、抱負」に身を捧げてゐる人である。
科學と宗教は相対立する二元ではなく、「かくある」を探求する料學と、「かくあるべし」を説く宗教とは互に相補ふものであり、それをアインシュタインは「宗教なき科學はびつこであり、科學なき宗教はめくらである」と言つてゐる。そしてニュウトンの有名な言葉、自分は海岸に出て小石を拾ひ集めてゐる小児に過ぎない。渺茫たる眞理の大海が眼前にあるのに云々を思ひ出させるやうな次の言葉を誌してゐる。
「科學の領域において、立派な進歩をなしとげた強烈な経験をもつすべての人々は、個人的願望や欲求の足かせから、遠く自らを解放し、さうすることによつて、存在の中に具現してゐる合理性の壮巌さ、最も深遠な深みにおいては、人間には近づくことのできない壮厳さに対して、謙虚な態度をとるにいたる。この態度は、私にとつて、最も高い意味における宗教的なものに思はれる」。
このエッセイは一九四一年、即ち原爆投下以前のものであることは記憶すべきである。科学と宗教との調和について右のやうに楽観的に考へてゐただけに、原爆投下から受けた衝撃は大きく、それは日本にとつて悲劇であつたと同様に、いやそれ以上に、アインシュタインにとつても悲劇であつたことが外側からでも解る。そしてこのことがガンジイに対する傾倒をよび起したことも、その内面から理解できる。
* 人は或いは迂遠に感じられるかも知れない。
しかし、今日「原子力」「放射能」を恣に言を左右しながら、東電等の巨大営利独占企業と党利党略政党の支配的野望とに媚び諂いにちかい姿勢で卑怯に奉仕してきた今日の日本の原子科学者たちに、かかる真摯な社会的責任感と謙遜に人類や地球環境の幸福と安全を願う反省とが「在るか」と問いつめる役には十分立つであろう。そこからの再出発でなければ、脱原発も反原発も根底の願いを欠くのである。
2011 7・4 118
☆ ロマン・ロラン(=『ジャン・クリストフ』)に聴く
一つの大きい魂は決してひとりぼっちではない。 その魂が運命によって友らを持てずにいるとしても、結局その魂は友らを創り出すものである。 その魂は、それが充たされている愛をその魂の周りに放射する、そして彼が永久に人々から引き離されていると思い込んだまさにその瞬間に、彼は世の中の最も幸福な人々よりも一層多くの愛によって富んでいるのだ。
一人の藝術家が孤独でありすぎるということは決してない。
* どんなに疲労困憊していても就寝前のジャン・クリストフや源氏・栄花や、またバグワンは、わたしをしんから憩わせる。
* さ、今日も疲労の極まで歩むだろう。それ自身において寛ぐのである、「雑行の無心」を吸い込むのである。
2011 7・5 118
* 話は大きく変わるが。こんなことは、人間の歴史で無数の人が言ってきたことだろうが、わたしも、わたしの思いを書き留めておく。
* 「神」は、人間の「必要」なのである。人間「に」必要なのでなく、もっと根底から謂って、人間「の」必要なのだ。植物や動物と異なり人間は「分別し・思考する」そして「迷惑し・惑乱もする」つまり「マインド」する以上、自身に向かいさまざまに「説明・納得」を求める。「神」は、かかる「マインド」を支える「必要」に他ならない。「必要」の度が強まれば「信仰・帰依」に至る、宗教への道に至る。それだけのことだ。
* 「ブッダ」は、人間の「到達・達成」なのである。釈迦も達磨も一休もバグワンも、イエスでさえ、明らかに「ブッダ」である。ほんとうに生き且つ死のうと、静かに深い安心を得たいと思う人は「ブッディスト」であり、 得ている人が「ブッダ」である。少数かも知れないがそういう人は、深い願いと境地から「ブッダ」への道を求め歩んでいる、わたしも、そうであろうとしてきたようだ、この十四年。叶わぬまでも。
* その意味で謂うと、日本で成熟し構想され経営されてきた「仏教」つまり「仏」は、むしろ先に謂う「神」に同じい。人間の「マインドの必要」に応えて不安を救済しようと、マインド人間のマインドが、壮大に「創作」した巨大な「仮想世界」へ縋ってくる人間たちを信徒として送り込んでいる。その「必要」をわたしは否定も否認もしないが、「仮想世界」は「仮想世界」であり、それが仏教以外の「カソリック」など多くの世界宗教にもほぼ均しく謂える。「神・仏」なる人間の「必要」のための殿堂を、教権という強権すら発動して大集団で「神の國・佛の國」と名付けて建築し続けてきたのである。
* 人間のなかには、静かに安心なら、生きるにも死ぬにも困らないという、マインド(分別思考迷惑等の煩悩)の拘束からじつに自由な人達がいたし、いまも、存外身の回りにも大勢いるだろう。「ブッダ」はそうした人から到達し達成されている。彼らは「仮想世界」のウソから目覚めていて、「神・仏」をなんら必要とも不必要ともしない。「覚めた人間=覚者=ブッダ」 彼ないし彼らは、仏教とかカソリックとか組織された教権集団のマジックとは無縁の人間存在、たぶん実存と謂うて自然な存在である。
* 以上を、ともあれ、むろん至らぬわたしの、「闇に言い置く 私語」とする。すなわち「バグワンと私 死の間近で」に他ならない。
2011 7・8 118
* 昨七月八日に「言い置いた」下記の理解は、わたしの七十余年を総括する一つの到達だと思うので、自身で納得するためにも重ねて此処に書きおく。もとより多く先賢先達の言い古してこられたことだろうが。
*
* 「神」は、人間の「必要」なのである。人間「に」必要なのでなく、もっと根底から謂って、人間「の」必要なのだ。植物や動物と異なり人間は「分別し・思考する」そして「迷惑し・惑乱もする」つまり「マインド」する以上、自身に向かいさまざまに「説明・納得」を求める。「神」は、かかる「マインド」を支える「必要」に他ならない。「必要」の度が強まれば「信仰・帰依」に至る、宗教への道に至る。それだけのことだ。
* 「ブッダ」は、人間の「到達・達成」なのである。釈迦も達磨も一休もバグワンも、イエスでさえ、明らかに「ブッダ」である。ほんとうに生き且つ死のうと、静かに深い安心を得たいと思う人は「ブッディスト」であり、 安心・無心を得ている人が「ブッダ」である。少数かも知れないがそういう「ブッディスト」は、深い願いと境地とから「ブッダ」への道を求め歩んでいる。
わたしも、そうであろうとしてきたようだ、この十四年。叶わぬまでも。
* その意味で謂うと、日本で成熟し構想され経営されてきた「仏教」つまり「仏」は、むしろ先に謂う「神」に同じい。人間の「マインドの必要」に応えて不安を救済しようと、マインド人間のマインドが、壮大に「創作」した巨大な「仮想世界」へ縋ってくる人間たちを信徒として送り込んでいる。その「必要」をわたしは否定も否認もしないが、「仮想世界」は「仮想世界」であり、それが仏教以外の「カソリック」など多くの世界宗教にもほぼ均しく謂える。「神・仏」なる人間の「必要」のための殿堂を、教権という強権すら発動して大集団で「神の國・佛の國」と名付けて建築し続けてきたのである。
* 人間のなかには、静かに安心なら、生きるにも死ぬにも困らないという、マインド(分別思考迷惑等の煩悩)の拘束からじつに自由な人達がいたし、いまも、存外身の回りにも大勢いるだろう。「ブッダ」はそうした人から到達し達成されている。彼らは「仮想世界」のウソから目覚めていて、「神・仏」をなんら必要とも不必要ともしない。「覚めた人間=覚者=ブッダ」 彼ないし彼らは、仏教とかカソリックとか組織された教権集団のマジックとは無縁の人間存在、たぶん実存と謂うて自然な存在である。
* 以上を、ともあれ、むろん至らぬわたしの、「闇に言い置く 私語」とする。すなわち「バグワンと私 死の間近で」に他ならない。
2011 7・9 118
* 『上野千鶴子に挑む』は、千田有紀の「『対』の思想をめぐって」、妙木忍の「主婦論争の誕生と終焉 なお継承される問い」を本が真っ赤になるほど書き込んで読み、今は斎藤圭介の「男性学の担い手はだれか」を半ばまで。
おもしろい。義理か厄介なんかでなく、上野のフェミズムや社会学に理解がよく届いて、こころよく教えられるしわたし自身議論にもやや加われる。わたしは「女文化」を上野さんの女性学よりずっと早く初めて日本で口にし、書いてきた。それも「女の、女による、男のための女文化」という定義と共に女権論や女性学の不可欠を日常会話の中で口にしてきた。あの岸田俊子( 中島湘烟) や福田英子への強い関心も、そこに生まれていた。上野さんの単行本で消化しきれないところまでお弟子さん達が懸命に解説し論攷してくれるのがおお助かりだ。上野社会学に添う添わぬはべつとして、わたしは主婦連とはちがった「女性の政党」があるべしとすら、日頃口にしてきた。そしてまたそれが円満に永続するかどうかにも、かなり危うい関心をよせている。上野政治実践へ道は通じていないのか。 2011 7・9 118
* 三日繰り返して同じ思いを此処に、書き留めておく。妻は真っ先に読み、真っ先に真実同感してくれた。夫婦といえども、そんなことは珍しい。
*
* 「神」は、人間の「必要」なのである。人間「に」必要なのでなく、もっと根底から謂って、人間「の」必要なのだ。植物や動物と異なり人間は「分別し・思考する」そして「迷惑し・惑乱もする」つまり「マインド」する以上、自身に向かいさまざまに「説明・納得」を求める。「神」は、かかる「マインド」を支える「必要」に他ならない。「必要」の度が強まれば「信仰・帰依」に至る、宗教への道に至る。それだけのことだ。
* 「ブッダ」は、人間の「到達・達成」なのである。釈迦も達磨も一休もバグワンも、イエスでさえ、明らかに「ブッダ」である。ほんとうに生き且つ死のうと、静かに深い安心を得たいと思う人は「ブッディスト」であり、 安心・無心を得ている人が「ブッダ」である。少数かも知れないがそういう「ブッディスト」は、深い願いと境地とから「ブッダ」への道を求め歩んでいる。
わたしも、そうであろうとしてきたようだ、この十四年。叶わぬまでも。
* その意味で謂うと、日本で成熟し構想され経営されてきた「仏教」つまり「仏」は、むしろ先に謂う「神」に同じい。人間の「マインドの必要」に応えて不安を救済しようと、マインド人間のマインドが、壮大に「創作」した巨大な「仮想世界」へ縋ってくる人間たちを信徒として送り込んでいる。その「必要」をわたしは否定も否認もしないが、「仮想世界」は「仮想世界」であり、それが仏教以外の「カソリック」など多くの世界宗教にもほぼ均しく謂える。「神・仏」なる人間の「必要」のための殿堂を、教権という強権すら発動して大集団で「神の國・佛の國」と名付けて建築し続けてきたのである。
* 人間のなかには、静かに安心なら、生きるにも死ぬにも困らないという、マインド(分別思考迷惑等の煩悩)の拘束からじつに自由な人達がいたし、いまも、存外身の回りにも大勢いるだろう。「ブッダ」はそうした人から到達し達成されている。彼らは「仮想世界」のウソから目覚めていて、「神・仏」をなんら必要とも不必要ともしない。「覚めた人間=覚者=ブッダ」 彼ないし彼らは、仏教とかカソリックとか組織された教権集団のマジックとは無縁の人間存在、たぶん実存と謂うて自然な存在である。
* 以上を、ともあれ、むろん至らぬわたしの、「闇に言い置く 眞の私語」とする。すなわち「バグワンと私 死の間近で」に他ならない。
2011 7・10 118
* 「脱北」し日本で苦闘し、呻きながら歩一歩を前向きに気張ってはる人たち、支援し続けている人達の「生き抜く」葛藤の至難とかすかすな希望と、もっともっと必要な「日本」という國と人からの手助けや施策・対策。それなくしては実は拉致被害者の救出・受け入れさえも出来ないのではないかという懸念の底暗さを見せつけたドキュメンタリーを見せてもらった。
「謙」クン、ありがとう。
* わたし自身の反省であるが、西欧の歴史も、中国の歴史も相応に興味も関心ももって勉強し立ち向かってきたのに、朝鮮半島と人達のことには、あまりに意識が薄く届いていなかった。「三韓」というぐらいしか知らず知ろうとせず、高麗、百済、新羅の位置関係は分かっていたも、それ以下のレベルでは都市の名も地名も社会構造も、まず全然というほど知りも知ろうともしてこなかった。だから「イ・サン」という宮廷劇を観ていても、じつはどの時代のどの國のドラマとすら的確に言えなかった。時代物には好奇心を満たす何かがあるが、現代ドラマや現代映画には見向きもしていない。現代の朝鮮半島人の文化や技術や政治にも知識をまるで求めてこなかった。
恥ずかしいことだと思いかけていて、兎に角も朝鮮半島史を現代まで通読の機会が欲しいと思いつつ、いい機会をもてていない。なにしろ著明な朝鮮半島の史上人の名前をと問われても、明確には、一人も言えないわたしである。近代へ来て、大統領クラスの名前がやつと数人。芸術家も文化人も学者も知らない。最近では二三の俳優や女優の名を記憶したばかり。ハン・ジミン。パク、ウネ。もうあとは出ない。
わたしが例外に属するのだとしたら恥ずかしいし、一般だとしても恥ずかしい。それでいて、わたしは愛しいヒロインの名で長篇の『北の時代 最上徳内』に「キム・ヤンジァ 金楊子」を書いている。わたしの書いてきたヒロインたちの中でもキム・ヤンジァへの愛はただごとではない。
* 話はかわるが。イヤ、話は変えないでおく。思っていることをズケズケ書くのは、………、止した方がいいか。マッスグ、ハッキリ書くのは止さない方がいいよと自分に向かい言っておく、少なくも。ククク。
* わたしはこれで、幾つか、人のそれまでそのようには使ってこなかった言葉を創ってきた。「花と風」「趣向と自然」「女文化」「からだ言葉・こころ言葉」など。
「一瞬の好機」もそうだ。数日前にもまたあらためて妻と話し合った。わたしがもし「一瞬の好機」をつかんだときは、少なくもわたし自身のためには喜んで欲しいと。自分から「一瞬の好機」を望んだり求めたり飛び込んでいったりはしない。けれど、まさしく「一瞬の好機」であの世へ去ったときはわたしのためには「よかった」のだと。
わたしは寝入るとき、もしそのまま目覚めなかったらどんなにいいだろうと、本当に思っている。だから寝入ることに恐怖心は無い。バグワンは、不眠に悩む人に寝入るのを恐怖している人の大勢を指摘している。眠るのと死ぬのとが似ていることはだれでも類推が利く。「永眠」ということばがハッキリ物語っている。
死ぬのが怖いかとちいさい子供の頃から何度も思ってきた。人間は必ず死ぬと理解した五つほどの頃のあの大泣きした恐怖は忘れていない。六道参りを大人に強いられてからは、地獄を怖がったこともあった。人生に意欲を覚えてからは、もっともっと仕事をと願い、その中断を懼れたこともある。
今は。
不如意な状態でながながと、ゆっくりと、遅々として死んで行くのを好ましからず思う。自分の死よりも、わたしに知られて歎いたり困ったり迷惑したりする人のことを、どうしようもなく案じねばならないのが好ましくない。それは痛い苦しいと同じかそれ以上に好ましくない。「一瞬の好機」をわたしが、今、こうして書いている瞬間にすらありがたい、望ましい、好ましいと思うのは、おおかたはその酔うに好ましくない状態に陥らなくて済むからだ。思い残しはないのか。無い。
「一瞬の好機」はまことに好ましいが、願っても求めても捜してもいない。すこし表現がややこしいけれども、「目覚め」と「それ」とが一瞬の同時なら、どんなに嬉しいだろう。
* 愛されているかとは、考えない。愛されているなどと思わない。この受け身は「一瞬の好機」のためには、重い。愛しているというのは、受け身でない。自由である。わたしは、たくさんたくさん愛している。ただ、ひところのように自分を愛しているとは思わない。自分は何からも除外して良いものの最たる一つだ。
* 「逢いたい人がいつでもいる」のをわたしは久しく「支え」とも「自慢」ともしてきた。それはその通りだが現実に逢いたいわけではなかったし、今はまして願っていない。
むかしむかし、子供の頃、いつもいつも逢いたがるわたしの肩に手を置いて、「逢わんでも、分かってる」と笑ってくれた人がいた。「なんじゃいて思うのん、それで済むの、どんなイヤなことも」とわたしに告げた人がいた。姉と妹だった。
2011 7・13 118
* この時世だからか、健康そうに見えていて心よわい「鬱」に、あっという間に陥りかねない人が、いると見える。自信があったのに自信が酬われなくなると、道は拓ける・拓こうと思う前に、吾から先に「落ちこむ」のである、落ちこむのが早すぎる。過信も困るが、自信喪失の拡大自演はよくない。いろんな道があるのに。
わたしのような生まれ育ちは、根から「うつ」を抱えているようなもので、国民学校の昔から自覚はあった。しかし、なんとしても自身を励ますあらゆる「手」を自分で工夫してきた。七十五年、わたしが自分で「した」と思える全部が、創作も、恋も、勉強も、読書や映画も、観劇も、外へ出て働いたのも、退蔵も、ホームページも、「 湖(うみ)の本」 も、数え切れないあれもこれも、みな自発的に「うつ」と闘う「手だて」に他ならなかった。確実にそう謂える。
克たねば済まぬ事は克服しようとし、負けたり退いたりが自然なことは拘泥なくそうする。習慣にも道徳にも抑圧されないで、「筋」を通してなるべく「ブレない」。
* 「うつ」には勝ちにくい。だが、うわべ負けておいて、抜け道をみつける賢さまで棄てないように。
☆ 「生活の小さなかずかずの悲惨を超えて心を高めよう。軽やかな声でうたおう。」 ベルリオーズ
、
* 下に、ロマン・ロランの謂う、こういう「邪魔なもの」で、わたしは在りたい、 在ろうと思い生きてきた。そうは成れていないと承知しているが。
☆ 「民衆であるとは卑俗的であることと同義だと思うのはとんでもないことである。民衆には民衆の貴族( アリストクラート= 精神の高貴さを尚ぶ心の人々) がある。自分たちがどんなものであるかを自覚しており、そしてそういう者としての失格者にはならないだけの自尊心をもっている人々である。そういう人々は少数者である。だがたとい彼らが脇の方へ押しやられている位置にいるとしても、彼らこそ第一流であることはわれわれに解るのである。そしてまた彼らの存在そのものが別の人々にとってはいまいましい邪魔なものに思われる。」 ロマン・ロラン
2011 7・14 118
☆ 暑中お見舞い申し上げます 國夫通信
「命長ければ恥多し」だが、長生きはした方がいい、と近頃思うようになってきた。気力・体力相応に衰えて情けない有様なのだが、「知る」ことの悦びは衰えることがないからだ。
韓国歴史ドラマの質を高めた、イ・ビョンフン監督の出世作、宮廷医官への道『ホ・ジュン』を観た。ホ・ジュンを敬慕する医女イェジンが中国晩唐の詩人李商隠の、八歳の少女が十五の乙女に成長していく過程を詠った漢詩を誦する場面があった。恋情を内に秘めた、奥ゆかしく気品あるイェジンが誦んじたから、なおさら心を動かされたのだと思うが、私の燻ぶっていた抒情の源泉である埋み火が掘り起こされた。
李商隠という詩人の名は知っていたが、その詩はこの歳まで知らなかった。岩波の中国持人選集の背表紙で名を見覚えていたのだろうと、勤め帰りに岩波ブックセンターに寄ってみた。そこで、数年前に岩波文庫に入っていた『李商隠詩選』を手に入れることができた。イェジンの誦した漢詩、
八歳偸照鏡 八つになって、こっそり座った鏡の前。
長眉已能畫 長い眉も もう自分で画けた。
(六句 略)
十五泣春風 十五になって 春風の中でこぼした涙。
背面鞦韆下 うつむいてぶらんこ揺らしながら。
も載っていたし、高橋和巳ガ『詩人の運命 李商隠詩論』を書いていたことも憶い出した。一読、既存の漢詩世界のイメージではなく、「朦朧とした時空に透明な抒情を結晶」させた、ちゆたうような「愛のまぼろし」の文学世界がそこにはあった。
同じ頃に、秦恒平先生示らお電話を頂戴した。「書いていますか」と訊かれて、「はい、宗長をからめて、三部仕立ての‥‥」とお答えすると、「登場する女性は、現代にも魅力的な人ですか‥‥」と問われた。目から鱗で、書き手の自分が思い入れたっぷりに書いても、読み手になんの魅力も感じさせない女性では、小説としては成り立っていまい。昔、『横雲の空』を先生に読んで頂いたときに、血のにじむように朱筆で行間を埋め尽<すぼどに書き直して.「彩さんを救ってあげてください」とお言葉をいただいたときのことが、今更のように甦ってきた。
彩を救えず、香苗を生み出せず、そして今、純愛小説『蔦の細道』も「小説」として成り立たせるためには一層の時間が必要となった。許されるなら嫌でも長生きはしなければなるまい。
※ 宗長= 連歌師 宗祇の弟子。戦国時代駿河の人。
過日はありがとうございました。 ( 欄外に)
* 七十五のわたしから見てもそう若い人ではない、久しく教職にあって教職に堪ええなくなり転進していた。教職の昔から小説を書いていて、わたしの「弟子」にして欲しいと頭を下げられたこともあるが、わたしは弟子など、もたない。きかれれば頼りない助言をする程度のことだ。わたし自身も小説を書きながら誰の弟子にもならなかった。弟子にならなくてもおお真面目に無数の作品に接しつづけてきたから、莫大に学べたと思っている。「弟子にして欲しい」と言いあるいは「弟子にして貰います」と勝手に決める人も、長い期間に何人かいたけれど、ま、笑ってしまうようなモンである。わたしは弟子などもたない。
* 新しい仕事にも、また手を染めはじめた。題は、もう出来ている。すこし気が浮き浮きする。
2011 7・19 118
* 有り難い読者のご厚意で、また新たに平成二十年(2008)の全日録「文学と生活= 生活と意見= 闇に言い置く私語の刻= 宗遠日乗」が、詳細に分類整備され、四十ちかいファイルとして電送されてきた。言葉も喪う、ただ感謝あるのみ。
わずか一年間だが我ながらのけぞる程の大量であり、懸命に心入れて書き残している。およそどんな項目として「分類」されているか。順不同だが心覚えに書いておく。
創作・執筆・仕事 湖(うみ)の本 e-文藝館= 湖(umi) 文学論 作家論 読書禄 詩歌・歌謡論 思想 述懐 バグワンと私 心の論 歴史観 ペン電子文藝館 日本ペンクラブと私 東工大と私 名言集 美術論 電子メディア パソコン 文字コード論 政治 時事問題 音楽鑑賞 スポーツ 歌舞伎 能・狂言 演劇舞台 映画鑑賞 テレビ批評 家庭・家族・親族 東工大卒業生 読者 友人・知己 女 人物批評 京都 旅 外出・散策 飲み食い 健康 雑 補遺・追加
平成十年(1998)三月に始まって今日も欠かさない「宗遠日乗( そうえんにちじょう) 」であり、現在118ファイルめを進行中、現行の「秦恒平・ 湖(うみ)の本」で単純に刊行すれば、少なくも百数十巻に相当する。すでに、『死から死へ 闇に言い置く』 『かくのごとき、 死 死なれて死なせて』 『濯鱗清流 秦恒平の文学作法』上下巻 『秦恒平が「文学」を読む」上下巻 『バグワンと私 死の間近で』 上下巻を刊行している。大方が、上記の、有り難い読者のご尽力が無ければ、到底そんな刊行は出来なかった。「宗遠日乗」は、わたしの「仕事」の最たる一つであることを、誰よりも正確に識って戴いていた。
2011 7・22 118
* このファイルの一番上に置いた東福寺「方丈」二字に、いつも、いっとき吸い込まれて、こころを静かにしている。この「方丈」を、わが「日乗」に定置して、毎日真向かって過ごしたい。
* 四日間かけて書きましたというお手紙を、地元の、元図書館長さんから頂戴した。病気をされ怪我をされ、日々のご不自由などもあわせ、この数年、十数年の過ぎ越しを淡々と書いて下さっている。年の程は、わたしとほぼ変わらぬ方である。どうぞお大切にと切に願う、またわたし自身も要心あらねばなりません。
* わたしの場合、外での職掌を、強引というよりいささか非礼なほど強引に退かせてもらって、ほんとうによかった。続けたらよいととも耳にしていたが、バグワンの奨めにしたがい、無用のことは「落とし」て行きたかった。団体や組織とのご縁は落としていいうちの先立つもの。何の負担もないが日中文化交流協会の会員も、いまの中国を観ていると、落とす潮時だろう。
それよりも、家での、機械での仕事(「仕事」という時は、家事・用事ではない。)からも、相当多くを「落として」いい、「落とさねば」と思うあれこれが多い。デスクトップに犇めいているものから、情け容赦なく落としてイイ全部を整理したいといつも願いながら、これが一番難しい。創作、湖の本、日乗、「 e – 文藝館= 湖(umi)」そして読書。……Oh 躊躇無く遠慮無く、湖の本の刊行作業と「 e-文藝館= 湖(umi)」の充実とが任せられる力あるセンスもある人材がそばにいたらなあ…。
* 永い間、両手両脚を大車輪にふりまわすようにやって来た。我ながら見苦しいほどだった。さだめというもの。そう感じていたし悔いてなどいない。
ただ一つ。これが、わたしの自然な「行為」であったか、無用の「行動」であったのか、たえずバグワンのまえでわたしは問いまた問われてきた。バグワンは「行為」せよ、「行動」するなと、厳しく言う。じつは不勉強なわたしはバグワンの「行為」と「行動」とがどんな原語から翻訳されているのかも、知りたい気がありながら、知らないのである。それでいて、わたしは「行為」してきたか、「行動」に過ぎなくて大混乱していたのか、日増しに身に痛く問わねば済まぬところへ追われ来ている。
* この自問に触れてわたしは、ながらく自身の仕事を、妙な物言いながら「作業禅」と謂い、かつ言い逃れていたと自覚している。この日乗にアクセスして下さる方には、禅の方もそうでないがお坊さんも基督教の方もおいでなのを知っている。そういう方たちが、どう、わたしの曰くを聴いておられたかも気に掛けてきた。だが、人様の思わくでなく、わたし自身がもういちどバグワンにもよく聴きながら問い返さねば済まない。
2011 7・29 118
* わたしの公式ホームページ http://umi-no-hon.officeblue.jp において、またしても、一方的に、何の事情説明もなく「秦恒平」作の小説等、また別作者名による小説までもが、サーバーにより削除されましたので、其処では、「日録」掲示を全面中断します。http://umi-no-hon.officeblue.jp からのお問い合わせは、直接 秦のメールへお願いします。
* 削除・抹殺された作の題名は、このホームページ内に掲載されてあった、「 e-文藝館= 湖(umi)」に所収の ① 奥野秀樹作「私小説」 ② 秦恒平作「逆らひてこそ、父」 ③ 秦恒平作の挽歌「かくのごとき、死 孫の死とある作家の一夏」などです。
六月末判決で、 ①②は、全く問題にされず、判決外に「棄却された」全てに該当し、また③は、判決において「紙の本としての再刊」を禁じられただけで、ウエブ上の掲載については明瞭になんら禁じられていないのです。
著作権者としてサーバーに強く抗議します。
2011 7・30 118
* 近藤富枝さんの河出文庫『紫式部の恋』 楽しんで楽しんでゆっくり時間をかけて、うまいものを咀嚼するように読み終えた。
源氏物語を初めてよんだ年頃も、それが与謝野晶子の豪華本であったことも、以降繰り返し返し耽読していまもいささかも飽きないことも、そっくり同じ体験をしている。わたしの方が一回り以上若いけれど、もう近藤さんほどの「源氏物語」理解を懇切に披露することは無いだろう、もし、好案内を求める人があってもいきなりこれを奨めはしないが、源氏を五度も読んで、自身の鑑賞をさらに深め疑念をただしたいような人には、わたしは名だたる学者たちの浩瀚な研究書よりも、近藤さんのこれを奨めます。「いい本」です。近藤さんに感謝。
* 源氏物語をわが家ほどの親しみで、繰り返し゜帰って」行く、いまもまた耽読して毎日楽しんでいるわたし、「女文化」ということばを創始し創使して久しいわたしに、また一つ、興味深い喜びが、思いがけぬ方角からやってきた。
それは「 上野千鶴子に挑む』第四章を書いている宮本直美の論攷の中で、「かわいい」という、あまりに今日聴き慣れ過ぎている言葉を、「女子文化」の鍵と読み切っている面白さ。めったに眼から鱗を落とす喜びには出会わない中で、なるほどね、と大きく手を拍った。説得された。
ただし、先を読み進まないと断定できないが、宮本はこれを当然にも、現代の、昨今のジェンダーやフェミニズムの論議と関わらせて論じているけれど、源氏物語世界に浸っていると、男の目からみた女の「らうたし」が、頻々と、今日女性の女性同士の「かわいい」ほどもよく用いられていることなど、昔々から承知している。
「らうたし」の意味はほぼまちがいなく「かわいい」に近い。だが女同士で相手や人のことを「らうたし」と評することは少なく、あってもよほどの年齢差の中で年長者が用いているように感じる。しかし男から女へは、口に出す出さぬはべつとして、決まり文句の好評価である。「女文化」を「女の女による男のための文化」と定義してきたわたしの目では、彼ら平安男の「らうたし」は「女」を無責任に好評価して自身も嬉しがる鍵言葉のように思われる。
宮本の論文で、じつはわたしは初めて「女子文化」という概念を知らされ、その胚胎された源泉が「女子校」に在るらしいとも初めて教えられた。
ま、いまは、ここまでで、よい。
この上野教授にお弟子さんたちの『挑む』本、なかなか面白くて、本が朱線で真っ赤っ赤になっている。
2011 7・30 118
* 生活をさわがしく乱してくる力が、波が、寄せてきても、躱せるかぎり躱して、関わらない。産み出し創り出せる何もない。
靜夜思
牀前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷 李白
故郷は京都にあるのではない。わたくしの身内ある。
2011 7・31 118
* 宮本直美さんの「かわいい」論を読み進んでいる内、こんな言説に行き着いていた。
☆ 「かわいい」という言葉の意味の特性は、 相手の存在を決して脅かさないことであり、相手を絶対的に安心させることである。そこにはあらかじめ従属性、劣位が組み込まれている。常に相手より下の地位にとどまっていることを約束する言葉なのであね。相手より下の位置にいて愛されることを望んでいる。自分より上のものを前提にして、その下にとどまることを運命づけられた概念が「かわいい」なのだ。日本の女性が「かわいい」という規範に強固にに、あるいは緩やかに、縛られてきたとすれば、それに憧れることは、どこかで従属的な立場であることに憧れるということ 二番目、二流を望んでいることになる。「かわいい」というジェンダー規範に無意識につながれた女性たちの多くは、その瞬間に次点の立場を望んでいるということになるわけである。
* これで、 先日言い及んでおいたわたしの謂う「女文化」と今日の「女子文化」は、きれいに反転しながら接続する。「運命づけられた」と女の側から謂えることも、光源氏や匂宮たちは男の側から女を「運命づけ」ていた。その際の鍵言葉がかれらの乱発していた「らうたし」つまり「かわいい」であった。「かわいがられたい」女たちのひさしい女文化的習いが確実に性となって、「女子文化」へ流れてきていた。「らうたし」と「かわいがられ」たかった平安女たちの平安男による馴致の行く果てにこんにちの「キャー、かわいい」という「女子文化」が出来ていたのであろう、 断定はしないけれどね。
* さ、七月が尽きる。
* さ、七月が尽きる。
2011 7・31 118
* 上野千鶴子さんから、メールが来た。打てば響く嬉しさ。
☆ 秦さま うえの
おもしろい!です。
これ、ご本人(宮本直美さん)に転送していいですか。
酒井順子さんの「紫式部の欲望」もおもしろいですよ。
うえのとの対談がウェブにアップされています。
でも秦さんからうえのの読み間違いを指摘されるとこわいなあ。
***********
酒井順子さん著、『紫式部の欲望』発刊記念特別対談です。
詳細はこちらから。
http: //renzaburo.jp/yokubo/index.html
* 上野さん ありがとう存じます。
宮本さんに転送、むろん差し支えありません。そう願っていました。私のサイトやメールを伝えて下さっても構いません。
現代学、近代学をする方たちに、いつも願うのは少なくも上古以来の日本史に根を下ろしていて欲しいということです。民俗学のレベルでなく、昨今の歴史学は、ご存じのように網野善彦の「無縁・公界・樂」や「中世の非人と遊女」などを先陣に、ジェンダーにも深く切実に視線・視野をひろげています。
上野教授に「挑む」人たちの論攷に、どれほどそういう長い線での歴史的連絡が把握されているかを、気に掛けています。今度の
此の本『上野千鶴子に挑む』はとても興味深く、おもしろくて、横から家内まで手を出しています。
わたしは京都で生まれ祇園町と***とのあわい、知恩院の新門前通りで育ち、新制中学いらい叔母の生け花と茶の湯の稽古場や、和歌をはじめ古典物語等から歴史的な「女文化」を大事にさぐり当ててきました。怒ってはいけませんよ、「男は嫌い、女バカ」というのが、少年の少なくも京都人観でした。嫌いにもバカにも、高い評価を隠しています。
上野さんは、わたしの実兄であった、しかしほとんど逢う機会なく、機会少なく死に別れた市民活動家北澤恒彦をよくご存じなのか存じませんが、兄晩年には幸せなメール交信や文通を重ねていました。ずいぶん違う道を歩いて来ながら、晩年の兄はよく私を見つめてくれて優しい理解をたくさんな手紙で送り届けてくれていました。
江藤淳の自決から兄の自決までをわたしは「死から死へ」( 湖の本エッセイ20) に書き残しておきました。
しかしいまの私は、やはり原発に注目し、唐木順三の遺書『「科学者の社会的責任について」の覚書』筑摩書房 とともに、科学研究の自由を問い直しています。
かなり脱線しましたね、ごめんあれ。お大切に。 八月一日 秦生
2011 8・1 119
* かたづけることの、仕舞いまた捨てる・処分することの、難しさ。ほとほと涙ぐましい。家が狭い広いの問題ではない。どんなに広くてもそれなりにモノで混雑する人はする。
余命を推測して、いかに値打ちが残っていようと使用不可能なモノは処分したい。しかし「もう使用しないだろう」と思い切るのが難しく、どんな資料でも「これはいい」「大事だ」「きっと役立つ」と下した当初・最初の判断が、何十年たっても身内にしゃんと生きているので困る。なぜさっさと活かさなかったと自身を嗤うけれども、「成る仕事」は氷山の一角。海面下に隠れている、それがわたしのよく謂う航海する船の「底荷」というもの。
ただ、必要が出来て見つけたいモノが容易に、三日五日かけて捜しても見付からないときは閉口する。いま、閉口している。
2011 8・5 119
* 八月六日 土 ヒロシマの日
* 広島に原爆が爆発して66年経った。その惨劇の放射能後遺症は消え失せているか。否。そして今福島原発の惨劇は規模においてヒロシマの百倍を超していると謂われる。
* 今日この日、わたしは、ヒロシマ当時の日本の有力で指導的な自然科学者の一人が述べかつ書いていた、愕くべき言葉を、非難の思いを籠め、此処に紹介したい。ヒロシマの当時わたしは僅か十歳で戦時下国民学校四年生、丹波の山奥に疎開生活していた学校の夏休み中であった。原爆投下の惨状はかろうじて新聞で垣間見た。愕き戦いた。
今此処で紹介する「非難」の思いは、ずっと後年に知って触発され啓発されたものである。
さきに断って明瞭にしておくが、以下一文は、今日の有力で指導的な、ただ明らかに異なるのは、経済一途の政治や財界の御用を承りつづけて「原子力安全神話」を権威と物欲と名誉欲に導かれ提唱し、今なお民意を誘導しようと足掻いている原子力関係の学者達へ、ほぼ一直線に繋がれているという、情けない現実。
ここに名を上げられている学者は、或る意味、一世の師表かのごとく仰がれてきた人物である。それを念頭に、ぜひ読み取って欲しいと願う。今日ヒロシマの日に、願う。
☆ 唐木順三『「科学者の社会的責任」についての覺え書』より
十
筑摩書房の「現代日本思想大系」第二十五巻は『科學の思想』第一部だが、昭和三十九年九月の發行である。その中に武谷三男の「革命期における思惟の基準──自然科學者の立場から」が収められてゐる。それは一九四六年、即ち昭和二十一年、日本の敗戦、無條件降伏の翌年の一月九日の執筆と推定されるものである。それを十八年後に發行された前記の『科學の思想』第一部に収めるに當つて、武谷は末尾に次のやうな註を入れてゐる。「本稿は民主主義科學者協會機関誌創刊号のため、依頼によつて執筆、ただし同編集員松村一人氏らによつてにぎりつぶしにあつたものである」。この 「にぎりつぶしにあつた」原稿を、十九年後に
そのまま活字にするといふことは、即ち筆者白身がみづからにぎりつぶさなかつたといふことは、右の論文を昭和三十九年(一九六四)といふ時点でもみづから肯定してゐる、或ひは否定してゐないと見るのが順當である。少くとも抹殺してゐないことは事実である。
右の( 武谷) 文の冒頭を、やや長くなるがそのままに引く。(以下、 注目したい行文を太字にしているのは、引用者の秦である。)
「今次の敗戦は、原子爆弾の例を見てもわかるやうに、世界の科學者が一致して、この世界から野蠻を追放したのだとも言へる。そしてこの中には日本の科學者も、科學を人類の富として人類の向上のために研究してゐた限りにおいて参加してゐたといはねばならない。原子爆弾をとくに非人道的なりとする日本人がゐたならば、それは己れの非人道を誤魔化さんとする意圖を示すものである。原子爆弾の完成には、ほとんどあらゆる反ファッショ科學者が熱心に協力した。これらの科學者たちは大體において熱烈な人道主義者である。彼等の仕事が非人道的なる理由はないではないか。その一つの證據として、敗戦国日本における原子物理学の研究の禁止に対し、彼等は一致して反対し、日本における學問の研究を美はしく援助してくれたではないか。原子爆弾は日本の野蠻に対する青天の霹靂であつた。日本の科學者はかかる野蠻に対して追撃戦を行ふべきでことに責任ある地位にある。しかるに日本の科學者はいまだ何一つその責任を果してゐない。彼等はたかだか自己のいひ逃れをやつてゐるにすぎない。それも無理はない。日本はこれまで、眞に科學者としての責任を意識し、科學者として生活し、行動した人はまことに少ない」。
右の文は日本の無條件降伏後五ケ月ほど後のものである。日本中が混乱し、うろたへてゐた時の執筆である。武谷自身がまたうろたへてゐたとしても、それをとやかくと言ひたてようとは思はない。文中の「野蠻」とは天皇制下の軍部の獨裁、弾壓を指す。その「野蠻」を払拭するための慈雨が廣島、長崎への原爆投下であつたと(武谷は)いふ次第である。
既に話したやうに、アインシュタインやフェルミ等のルーズヴェルト大統領に提出した、原爆開發促進の建議は、ナチス・ドイツにおいても原爆研究は進行中であるから、それに先んじて原爆を造り、ナチス・ドイツ、ヒットラー獨裁下の言語に絶する「野蠻」を打倒せねばならぬといふ主旨のものであつた。ところがアメリカの原爆開發以前にナチス・ドイツは崩壊し、ヒットラーは自殺し、一九四五年(昭和二十年)五月七日にドイツは無條件降伏した。アメリカの原子力科學者たち、アインシュタインを初めとする科學者グループの、非人道的なナチス早期打倒といふ目標はもはや消えた。その原爆が日本へ落された。日本が早晩に降伏せざるをえない條件下で、それは落された。アインシュタインが原爆投下の報を受けたときの Oh, weh!には無量の思ひ、慙愧、懺悔が含まれてゐる。オットー・ハ-ンの深く重い懊悩もまた同様である。そしてアインシュタインがラッセルとともに提議した「宣言」(一九五五年七月)はその深い苦しみの底から出てきたものであつた。
ところで、前記武谷には、凡そ懊悩、懺悔などといふ氣配はない。日本の「野蠻」に対する救ひの神が原爆であつたといふ趣きである。私は武谷の右の文の執筆が昭和二十一年(1946)一月、即ち敗戦から五ケ月といふ時期のものである点で、一種の弁解にもなりうると思ふのだが、その同文を昭和三十九年(1964)、即ち十九年後に、同文のままに発表してゐることに、その如何なる心情なるかを疑ふ。原爆完成に協力した科學着たち、いはゆるマンハッタン計画に参加した科學者たちは「大體において熱烈なる人道主義者である。彼等の仕事が非人道的なる理由がないではないか」と武谷はいふ。なるほどそれらの科學者たちは非道なナチス・ドイツに対して、また國内や占領地下のユダヤ人に言語に絶する「野蠻」な虐殺、迫害を加へたヒットラーに対して力を合せて抗議し対抗した。そしてナチス打倒のために原爆開發をいそいだ。ところで原爆実験がニュウ・メキシコの砂漠で初めて成功したのは一九四五年(昭和二十年)七月十六日、既にルーズヴェルト大統領はその三ケ月前に歿し、トルーマンがその後を継いでゐた。その二ケ月前にはナチス・ドイツは無條件降伏をしてゐる。原爆開發の目標であつた野蠻なドイツは既に崩壊してゐた。その原爆が八月六日に廣島に投下されたわけである。死者二十数萬といはれる。
武谷の前記の文中の 「原子爆弾をとくに非人道的なりとする日本人がゐたならば、それは己れの非人道を誤魔化さんとする意圖を示すものである」云々を、抹殺(削除)しないままに十九年後の一九六四年に活字にしたことに、私は問題を感ぜざるをえない。武谷自身、この發表に當り、若干のアポロギイを註の形で添へてゐるが、それは問題ではない。既に第一回のパグウォッシュ會議は一九五七年に開かれてゐる。第一回の 「科學者京都會議」は一九六二年に開かれ、「科學者の社会的責任」の問題が科學者たち自身から提起されてゐることを考へてみるべきである。なほ武谷は坂田昌一とともに、京大理学部では湯川(秀樹)の後輩で、湯川が大阪大學に転じたとき、坂田、武谷は素粒子研究の分野で湯川との共同研究者となつてゐる。坂田、武谷はともに「弁証法
的唯物論」の立場に立つことを公言し、坂田は武谷をある時は「畏友」と呼んでゐるが、その立場は異つてゐる点もあつた。例へば坂田は「科學者京都會議」の有力なメンバーの一人であつたが、武谷はこの會議に参加してゐない。
* 原子力安全神話が着々と捏造され続けていった淵源に、この武谷三男らの無際限な科学探求の自由と応用・実用に喜悦を隠せない科学者たちの無反省な傲慢が培養・増殖されてきた。反省が、人間としての真摯な反省と自制こそが求められる。唐木先生のこの「遺書」を真実聴くべき大切なものにわたしは思う。
* 今日、広島での原爆式典は、あれでよかった。市長の言葉も、また内閣総理大臣としての菅直人の明確な方向志向もあれでよい。表情もだいぶ落ち着いてきて、自分のしていること、しようとしていることに、納得していると見える。
この先は、機会をみつけてすこし憎まれ口も叩けばいい、「自民党・野党は、わたしに退陣を逼ることだけが政治だと思っておいでらしいが、政治には政治の課題があります」と。「民主党の諸君、政権を手にしたあの原点へ意識を結集して、次のどのような選挙にもまた大勝できるよう一致団結しましょう」と。「わたしが辞めさえすればよくなるというような甘い政治はあり得ないと気付いて、闘うべき相手が誰かを見極めるがいい」と。
獅子身中の悪虫は吐き出してしまえ。
2011 8・6 119
* 暑い暑い庭で草むしりしていた一休さんは、寺の縁側で一息涼を入れていたが、つと、奥へ入り、木の仏像を縁側に持ち出して、「さあ、あなたも涼みなさい!」と。
バカげたはなし、か。
彼は酷いほど寒い晩、人と話していて、つと起って木仏をもちだし囲炉裏で焚いた。相手は仰天して咎めると一休は火箸で灰をつついて言った、「骨は無いね」と。相手は怒って「木の仏像に骨があってたまるか」と。一休は笑った。
バカげたはなし、か。一休は分け隔てしない。区別は失われ、分・別という分別は消え失せている。境界線はなにもなく、彼は「一」なるものに至っている。バグワンはそう言う。一休は、こう歌う。
有漏ぢより無漏ぢへかへる一やすみ
あめふらばふれ風ふかばふけ
有漏道(うろぢ)とは欲望渦巻く現世。われわれは欲望を通して自身のエネルギーを漏らしている、浪費している。
この道歌、かんたんでは無い。人はこの世界を歩みつづけ、どれほど「一やすみ」を知っているだろうか。「一やすみ」とはあらゆるモノ、コト、ヒトと境界無く区別無く「一つ」になる・なれるということかとわたしは感じているが、容易でない。
* 片づけにかなり打ち込んだが、捜し物は見付からない。片づけるというのは、なかなか面白い作業ではある、が、ものの減らないことにも苦笑。苦笑。
* 前世紀末の大勢で分担した『仏教への思い』という京都の法蔵館本を見つけた、わたしも「供養」という一編を書いていた。
数編を読んだが踏み込んだ体験に根ざして書いてある原稿は面白いが、当時の京大岡本総長の終始概念的な原稿など、砂を噛んでいるようだった。
これと無関係にテレビで、立花某氏の現代「科学」に蘊蓄を傾け尽くしてインタビューに応えているのを聴いていたが、徹底したマインドの人で、根底にひたすら「知」「知識」尊重があり、ほとんどそれしか聴き取れないのに興ざめがした。もののあはれなど、まったくの無縁の「知識」人士。徹底して有漏道(うろぢ)が面白くて叶わないらしい。
2011 8・7 119
* ふとしたことで、吉田健一先生に書いて戴いた「『閨秀』を読む」を機械の中で取り出し、読み直した。この、「朝日新聞・文藝時評」の全面をもって書かれた批評は、或る意味では太宰賞をもらったより以上に嬉しい絶賛であったと同時に、「小説」という創作の秘儀をあらためて教えて戴いた貴重な教科書であった。たんなる作品批評ではなかったのである。
* 文学とは何であるか。このところそれが念頭の問いであった。
問うまでもなくわたしはかなりの確度で、確信をもっている。確信を支えられた一基盤、それが吉田先生のその一文であり、その背後に小林秀雄、河上徹太郎、中村光夫、臼井吉見、唐木順三のような方々の存在が、失礼な言いぐさであるが「 うらうち」されてある。吉田先生はそういう先生方を代表して書いて下さっており、わたしは初歩の印可状を頂戴したと感じた。
何度も書いてきたが、これより三年半前、東京會舘での授賞式の会場で、わたしは選者のお一人河上徹太郎先生とお弟子と自認さえされていた吉田健一先生お二人だけの小卓に近づいて、今夜の御礼を申し上げた。お二人ともすっかり出来上がったようにお見受けし、吉田先生の、ときに発せられるポパイのような笑い声は会場内に異響を放っていた。
そのとき、わたしは、河上先生にふと聞かれたのである、「で、きみは、これからどうするのかね。」
わたしは酔っていなかったが嬉しくて浮き浮きしていた。
「自分なりのものを、しっかり書いて参りたいと思います。」
河上先生は打って返された、「そんなもの、あるのかね。」
雷にうたれ、私は青くなった。
「そんなものがすでにあるなら、太宰賞なんかやらんよ」と言われたのだと、瞬時に悟った。歓喜も感激も吹っ飛んだ。吉田先生がヒイーヒッヒーと笑われたかは覚えていない。
一年半後には瀧井孝作、永井龍男先生が『廬山』を芥川賞に推して下さり、三年半後に吉田健一先生はいま謂う『閨秀』評を書いて下さった。あたまから冷や水をぶっかけて下さった河上徹太郎先生は、創刊された或る文藝誌の巻頭に『初恋 雲居寺跡』を書いたとき、人づてに、あれでよいと伝えて下さった。
以来、そして今でも、わたしは、答案を出し続けている。免許皆伝など、なかなか。
* 世に創作・制作されたものは掃いて捨てるほどあるが、それが「作品」であるかどうかは別ごとだと、わたしは考えている。単なる「作・作物」と「作品」とはまるでべつのモノ、コトだ。人が誰もみな「人品」を備えているとは言えぬ。画がすべて「画品」を備えているとは言えぬ。
男が書こうが女が書こうが、何がどう書かれようが、それが「作品のある」「作品に富んだ」作であるかどうかは、まったく小説や文学・文藝の秘儀に属している。その「品隲」は、読み手の力量、ないし読む人の人柄による。
* なぜこんな古い話を持ち出したか。
一つにはいま読んでいる『上野千鶴子に挑む』のなかの、栗田知宏氏の「第五章 表現行為とパフォーマティヴィティ」に触発された。その冒頭で筆者は、上野さん他に二人の、つまり三女性著の『男流文学論』なる本に触れていた。書名の噂は知っていたが、相当に昔の物で、読みたいとは思わなかった。今も、みたことが無い。
わたしには男流は初耳でワキにおくが、「女流」文学なる名乗りも実質も実感してこなかった、筆者・ 作者が女性であるというに過ぎない無意味な、むしろ女性の作家達の「かたまりたい気持ち」はわかるとしても、さして価値も名誉も何もない「自差別」ではないのか、ヘンな意識だなと思っていたのである。
わたしは女性蔑視からは遠い男の一人だと本気で自覚しているし、紫式部や清少納言はいうまでもなく、額田王も小野小町も、女性の創作者や書き手を、敬愛こそすれ男側から差別的にみたこともない。ましてわたしは、上野さんの謂う「ミソジニー 女嫌い」ではない。
「ジェンダー」という認識や意識や社会学的な意義はほぼ認知していても、こと文学・文藝として男も女もなく優れた文学かそうでないかだけが私には大切だ。男流文学、女流文学の差異を言説するのはもとより自由で、事と次第では時勢や思想と関わりとても有意義だが、文学の「質」の問題としては何の関係もない。文学を「社会学的」に「歴史的に」考察するのはむろん可能でまた必要でもあるが、「文学」の質を「社会学その他」で評価できると簡単に思われては困る。それはあくまで社会学的評価に過ぎない。
* ま、そんな次第で、『男流文学論』には関心がなく、上野さんが吉行淳之介の文学に怨みつらみがあってもモットモだと思うと同時に、怨みつらみという社会学で吉行さんの文学の文学的評価は無理だと思う。物指しが違いすぎる。
わたしは、昨日一昨日と、或いは荷風作でありうるなあと思える『戯作・四畳半襖乃下張』を読んでいて、男なる「けもののサガ悪しさ」こそ感ずれ、「文学」の名でものの言えない「ボロクソ」だと思っていた。作品のみごとな『墨東奇譚』とは全くならびようがなく、同じこういうエロスを書くにしても、もっと優れた別の達成が可能ではないかと思っていた。
「女こども」を社会学的に露骨に下目に見扱っていて、しかも文学としては優れた作品・作者が無いわけでない。いっぱい、ある。しかもそれが、小説の秘儀をしかと現じていて、男であれ女であれ、読者を感嘆させる。そこに文学の文学ならではの本質がある。小野小町、伊勢、道綱母、紫式部、和泉式部、清少納言らにはじまり、樋口一葉、田村俊子、岡本かの子、林芙美子、円地文子、佐多稲子、網野菊等々から今日の曾野綾子、竹西寛子らに至るどの一人にも、男の女のという差異からその文学に接した、感じ入った覚えがない。女らしい視線や表現に感心することは有っても、それは男の場合にも謂えることで、それをすぐさま女流・男流とはとらえない。文学の秘儀の自在な表れ方の差異に、個性的差異に過ぎないと想っている。
* 社会学としての『男流文学論』や、政治的勢力団体としての「女流文学会」にも、わたしは何の異存もないが、「フェミニズム文学批評は文学という『ジャンル』そのものを解体するにいたった」という上野さんの豪語などはず失笑を誘う。「女性の文学はけっして貧しい(貧しかった)とは言えない」という上野さんのプロテストなども、歴史上の事実に即して、量はおくとも、 質においてはいまさら何をというぐらい、それは社会学的誤認に発した言説に過ぎないのである。まして、「正典化された文学というジャンル──これこそ上野が『男流』と呼ぶ文学であろう──に対し、一女性がいかに書く主体になるかについての理論的貢献をもたらした」と、上野さんは「フェミニズム批評」を評価しているのだと、この栗田氏は言いきっているけれど、わたしには「正典化された文学」という意義が明晰に受け取れない。
「正典」との同義語として「男流」文学と上野さんは言っていると筆者は明言しているが、そうなると、これは昔から有る「広義の純文学」「広義の読み物」の区別などとは無縁に、即ち「正典= 男流」を等記号で同一視していると思われる。栗田氏は、上野さん等の功績の一つかのように、いわゆる在来の「文学」以外の無数にネット社会で書き出された雑文なみのものも「文学」の範疇に入れ混ぜたことを「特記」しているが、「正典化された」の意味が依然分からない。「文学全集」に採られるような…の意味か。いやいや。かつての講談社の日本現代文学全集には、たしかに吉川英治や山本周五郎ですら加えられなかった。直木賞作家では井伏鱒二だけでなかったか、入ったのは。しかし、女性の作家はしっかり選抜されていた。これらがたとえ「正典化」の意味であるにしても、「即・男流」という限定は誤解に過ぎない。
今日では著明な文学全集にも「読み物」作家は入っている。むしろ純文学作家よりも威張った感じであるが、さて、読んでみれば「読み物」は「読み物」を出ない。優れた「作品」を備えた文学作家の作こそが、つまりは「正典化」されやすく「古典」にも成ってゆくのは、自然の趨であり「文学・文藝」の眞の魅力であって、男流だの女流だのという「社会学」は、文学の質的秘儀には指一本触れ得ていない。当たり前の話であり、「佳い物が佳い」のであり、その批評のちからには男女差・ジェンダー差は無い。おのずからそんなものは別途の学術であり論議であり、文学の質的秘儀とは無縁な詮議・論理に過ぎない。
いわば「散文」世界の代表のような社会学である。それはそれなりの大きな価値を生み出すだろう。その一方で文学はもともと広義の「詩」の範疇内にあり、言語的な特質で謂えば広義の「喩 メタファー」「表現」である。男か女かと謂った算盤ではじきだしてみても、「喩」の秘儀は開かれない。 (『男流文学論』を知らず読まずに言っていることを附記しておく。)
*栗田知宏氏の論文で今一つ、これは私自身の文学営為からも、口出しをさせて欲しいことが、ある。
たしかに、「作品の価値は(=作物の世評は、と謂うべきか。秦)決してその作品の内容だけで決まるのではない。それを称揚し、 推薦する批評家の存在があってこそ、(=こそ、という強調は或いは言い過ぎか。批評家にもいろんな意味でピンからキリまである。秦)作品に価値が附与され、権威となる。(=批評家の黙殺をものともしなかった秀作も、騒がれたけれどたいへんな駄作も、ある。秦)この閉鎖的なメカニズムを正面切って批判することは、文壇や文学研究とは距離のある社会学者の上野や心理学者の小倉(千加子)だからこそ、可能であったのかもしれない」と謂うてみることは一応可能だが、そんなことなら、少しクレバーで読み巧者の一般読者は日々にやっている。
また、「文学作品は、編集者、批評家、書店などといった文化仲介者の『媒介』によって生み出され、流通し、読者に届くものである」という栗田氏の断言は、近代現代において、たしかにあらまし謂えることはあるが、古典時代はもとより、たとえば
微小なりと雖も私の「秦恒平・湖(うみ)の本」 の場合、編集者、批評家、書店などといった仲介者の『媒介』無しに、作者自身の手で四半世紀を超え継続して百八巻まですでに「読者」の手に届き続けている。社会学者たるもの、文学流通の一社会現象にも目を配って論証・ 論考して欲しい。
私には、文学の「流通」に関しても、紙の本と電子の本とについても発言した「仕事」がある。「一般の人々がインターネットの世界で作品や批評を書くという行為に参入するようになった今、文学も批評もますます既存の絶対的な権威を失いつつある」という栗田氏の言も、半面の事実でありそれに就いては作家の私も早くにいろいろ発言しているが、もう半面、栗田氏のいうような実質の価値と内容を帯びたいったいどれほどの作や批評が書かれて、そのために「既存の文学世界」が震えているのか、わたしはネット社会のそれらに関心を持ってすでに十数年、かなり熱心に見回っているけれど、顕著な成績に出くわしたことは無に近い。この辺、
かなり栗田氏の議論、裏付けを欠いて薄く、性急な気がする。
むろん、「時代や環境の急速な変化のなかで、『文学を社会学する』作業は『流通』や『媒介』といった観点から、メディア論や若者文化研究などとも接続した、テクスト批評に留まらない多くの観点からの考察を必要としている」とは、全くその通りと申して、だからこそそっくり論者に返上したい。
なによりも、文学に触れる限り、優れた文学を聡明に「読み」取り、「こころを動かす」という勉強も並行して「社会学」されることが願わしい。
* とにもかくにもわたしの日常生活へ「文学」が戻ってきている。嬉しいことだ。
昨日は、頂戴した竹西寛子さんの『五十鈴川の鴨』表題作を、静かな思いで深呼吸するように読んだ。
「誰よりも早く、カリール・ジブラーンの『人の子 イエス』を認めてくださりありがとうございました」と、みすず書房から礼が届いていた。「 湖(うみ)の本」 の中の「『静かな心』という言葉が響きました。静かな心で本をつくっていきたい」とも。すばらしい編集者の大勢出て欲しい時代なのである。
2011 8・12 119
* 作品の備えている品位は、実に大切。人品も然り。自分から自分の人品を損なうなど、羞じねばならない。
2011 8・16 119
* いま幸いに日本に暴動はないが、世界に視野をひろげると英国や中国その他の大国でかなり烈しい暴動が起きている。それは国が不健康だからであろうが、暴動が起きるエネルギには健康な意識も働いているかも知れぬと、そういう視線も外へ向けまた内へも向けたいもの。
* なんだか十六日なのか七日なのか、火曜なのか水曜なのかが分からない。
2011 8・16 119
* 谷口幸代さんの論文「秦恒平『誘惑』の逆説」を、作者ながら感嘆して再読した。
わたしの小説は、昔から、「むずかしい」とよくボヤかれた。『風の奏で』に出会ったある人は、本を壁に投げつけたと言っていたが、そんな人がわたしの文学のまさに熱狂・熱愛者に変貌していった。作者から読者に仕掛けた「誘惑」が、だんだん読み解けるようになるらしい。
なかでもこの『誘惑』を、この谷口さん、当時お茶の水の博士課程にいた人が、隅々まで読み取ったように読めていた。そんな人は、プロの読み手にすら寥としていた。概念的な謎解きを仕掛けたのではない、異次元に住む同じ姓名の人物を何人も登場させながら作中に渦を巻かせた。たいがいは同じ次元の同じ人物だろうと読みながら目を廻し、ひっくり返りながら、それでも「おもしろい」小説だと言ってくれた。「おもしろくない」小説は書かなかったつもりだ。
谷口さんのお蔭で、なんだか、昔昔の自作の小説ぶりを満喫させて貰った。「 e-文藝館= 湖(umi)」の「論攷」室に戴いてある。もう一度誤植の無いよう読み返してみるが。
作品論というのは、批判ではない。おもしろさの再発掘であり彫琢なのである。漱石の『こゝろ』論も、谷崎の『蘆刈』『春琴抄』『夢の浮橋』論も、わたしは、そのように書いたつもりだ。
2011 8・19 119
* 今日も、たゆみなく仕事していた。わたしの仕事は、今では他の作家達と異なり、いつまでに仕上げてどこそこに「売ろう」というモノではない。そういう事は、もうとうからわたくし自身やめてしまい、したい、書きたいことを書き、必要と思えばホームページに保存したり、「 湖(うみ)の本」 として刊行し買って戴いたり、雑誌なみに「 e-文藝館= 湖(umi)」に作として掲載する。原稿を売って稼ぐという段階はすっぱり卒業している。それで足るのだから幸せである。秦はそういう仕事の仕方と、もう四半世紀もよく知れ渡っている。
2011 8・21 119
* 昨夜おそく、こう書いた。
* 或る仕事の関わりから偶然見つけた東京新聞記事が、「柳美里『石に泳ぐ魚』プライバシー訴訟」について、それぞれ裁判所に陳述書を出していた高井有一氏にはインタビュー、大江健三郎氏には陳述書の抄録を得て、併載していた。いい記事であった。
わたくしも、同じ時期に関西、関東の両「産経新聞」に請われて見解を述べたことは、この「日乗」でも最近に明かしている。
或る意味では歴史的な初の判決であった。「 e-文藝館= 湖(umi)」の「論説」欄にぜひ頂戴し、併せてわたくしの見解も併記し、一里塚の一つとしておきたいが、と。
* 「表現は作家の欲求に深く根ざしたもの」「簡単には妥協できぬ」という高井さんの意見と、「作者は、覚悟を決めよ」「創作とは血のにおいの確信犯」とする私見とは、かなり強く接している。一方、大江さんは作者に「幾度でも書き直せ」「自分はそうしている」という感想を示している。高井さんの曰くは書き手として納得しやすい。大江さんの書き直すという例示が、ご自身の家族に関する一事をあげてあるのみなのは、特殊に過ぎていないか。一般に、書いて、書かれた側から問題の生じるのは家庭内のことに止まらず、柳さんの「石に泳ぐ魚」も友人に関わっている。よくよく相談し書かれる側の意見を徹底的に聞いて書き、さらに書き直すということは、謬れば筆を枉げたり妥協したりという「文学化」としてはむしろ最悪へ流される危険もある。書かれる人物が既に死者である場合も小説には有りうる。まことに穏健で至当なようであるが、現実の手続きとしてはかならずしも説得されにくい。
わたしは、『神と玩具との間 昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』を書き下ろすとき、あれほど親しくしていた松子夫人とさえ事前に話し合うことは避けた。佐藤春夫夫人とも鮎子さんとも話し合わなかったし、丁未子さんは亡くなっていた。誠実を尽くさなかったのではない、筆の枉がる不誠実こそ誠実に避けたかった。その際にわたしを強く支えていたのは谷崎文学に対する谷崎愛とまでいわれた最高度の尊敬であり、書かれた方たちは、ご存じであった。松子夫人にも、他の方にも忍びがたいモノのあったろうことはわたしにも十分分かっていて、しかし書いた。書くに値すると信じて真っ直ぐ書き、評価も得た。関係者と相談して書いていたら、途方もなくぬるいモノが出来ていただろう。
それにもかかわらず大江さん、文学者のハートの稟質というものを真っ直ぐ示されている。そういうことが有り難い。
* 私小説の場合でも、フィクションという文学化をはかりながらも、わたしは「相談ずく」で「書き直す」ということはしない。「書き直す」のも独りでする、繰り返し繰り返し稿を重ねて推敲するが、関係する人と相談して相談して書くということはしない。その作が良いか良くないかを厳しくみつめて書き手の責任の範囲内で書き上げる。書き上げてきた。「フィクションという文学化」において虚構は成し遂げても、ついてはならぬウソはつかない。
2011 8・22 119
* 『春琴抄』だったか、名作かも知れないが春琴や佐助の心理が書けてないと誰かが口にしたとき、作者の谷崎は「あれで十分じゃないか」と一蹴し、誰もが頷いた。心理を心理としてこまかに説明的に描写されていると五月蠅くてかなわないときがある。川端や三島にさえ、ある。人の姿・形・動き・選択等の表現が自然に心理を浮かばせていれば、済む。
そもそも谷崎は「心理」を書かない作者ではなかった、まして書けない人でなかった。江戸川乱歩の初期の代表作の一つに「心理試験」がある。彼は谷崎の大正期の推理小説・探偵小説に感銘を覚え自身の道に志した人であるが、真っ先に彼を感嘆させた谷崎作は、『途上』であった。精緻に心理的に夫を追いつめて妻殺しを明かして行く。大正の谷崎を代表する秀作でまた主題であるが、当時の谷崎は人の「心理」を書きに書きかつ追いつめて恐怖を描き出した辣腕であった。日本の真の推理小説の、彼は事実上の創始者であったが、推理は、心理の追究の一面を不可欠にもっている。
二三日前、例えば『私』という谷崎作を読んだが、不気味に心理を心理のままえぐり出し、怕い小説として昔から記憶していたし、同工の秀作に大正の谷崎は事欠かない。今は『不幸な母の話』を読んでいて、これも怕い。谷崎はこういうところを自身堪能するほど通り越えてきて、『春琴抄』などを頂点とする昭和初年の盛大な大谷崎時代へ悠々と歩を運んだのだ、もうその時は心理を心理として書く必要のない心理の把握が出来ていた。「心理を書いていない」などと愚をもちだし一蹴されたのは笑止であった。
* ジャン・クリストフが、一度も手に触れたことのないピストルで「決闘」したのには、愕いた。友との友情をねじまげ嗤い物にしていた俗物になぐりかかり罵倒したためだ、こういうクリストフがわたしは好きになっている。彼自身はドイツ人だが、ドイツに身の置き所なくフランスにきて、孤独に悪戦苦闘しながら貧苦の暮らしの中で、音楽の才能と純潔な人柄とで存在感を喪わず、堕落せず、儚く死んだアントワネットを介してその弟オリヴィエとのあいだに美しい友情を見出している。
クリストフは徹して少数派、いやいつも独り行く人、幾らかは独り行くしかない人物であったが、少なくもいまは二人の幸せを分かち合っている。クリストフはより人間的に強健であり、オリヴィエはより詩人的に繊細である。
バルザック『谷間の百合』のアンリエツトは年若いフェリックスの「母」と自称しながら、「姉」のように青年を諭し励まして、そのなかで、「眞の友は生涯せいぜい二、三人でよい」と言っている。わたしですら、ヘエッと一度はその数少なさに愕いたが、それほど「眞の身内」は容易でないということ。ロマン・ロランのクリストフのまだ永い先途に、さらにどんな「身内」が可能か不可能か。
* 源氏物語「真木柱」巻では玉鬘の運命がいよいよ髯黒大将との間で定まった。ドラマの有る巻で、玉鬘の揺れる思いにあはれもはづみもある。光源氏にはじめてかげりのさす巻でもある。光でも、生き写しの帝でも、玉鬘の行く手を止められなかった。有頂天の髯黒大将にも、つらい家庭劇は避けられない。大将の娘でまだ少女の真木柱がせつなく登場する。まぎれもない人間の文学である。
同じように、妓王や仏の、また千手らの登場する平家物語の女達の生き方にふれる烈しさ美しさも、比類ない深い魅力である。はても無う本質の問いをつきつけられる。それが文学や優れた藝能の、おそろしいほど烈しい毒であり妙薬である。
* 生きていながら、上のような本質的な問いかけを受けてシンと思い静まる文学にこそ、出逢いたい。どんなに壮大でもそこに本質の問いの置かれていないただの読み物は通俗で、時間つぶしにしかならない。もうアトのないわたしには、とてもそんなものへ立ち止まってしまうのは堪えがたい。イヤだ。
むろん自身に合う合わぬという問題がある。
マードックの『鐘』は、いま男と男の性愛らしき悩ましげな隘路が書き次がれているが、この話題はわたしに興味がない。わたしの本質と触れあわない。『蝶の皿』でもけじめのつかないながら、男女の相愛をわたしは書いていたと思う。
* 便利さに繋がる謂わば「文明」の側からは離れようと思う。「文化」の問題や話題に、偏ってでも、意識を添わせたい。
「文明」としてはしたたか今も向き合う此のコンピュータの世話になっている。なり過ぎなほど、これが間違いなく私の「仕事」を助けてくれる。いま私のなかで醗酵し発光して膨れている「仕事」はとても手書きでは追いつかないほど多い。早く、多方面が同時並行で書けて、電子化のおかげでうまくすれば知友や読者や子供達に遺して行ける。
いまいまの「文明」の話題は機械的に乾いて、量ばかり多いが、心を深く潤してくれない。人間的なよろしさがそこでは涵養も伝達もされずに、軽薄に賑やかなだけで、花がない。花に見えれば乾いた造花のようだ。そして結局批評がなく、歿批評の自己満足に甘えて増殖して行く、いまいまの「文明」は。
そんな「文明」の恩恵にも多くはあずかりたくないし、その生産にかかわりたくもない。機械的にでなく人間的にほんとうのものに触れていたい。
人は嗤うだろうか、たとえば父・北大路の拝一刀と同行している手押し車の倅大五郎の、あの澄んだ「目」に匹敵する「文明」を最近わたしは知らない。天涯のかなたへ飛んでまた苦心惨憺帰還した人工衛星にわたしも純粋に感動したけれど、大五郎の目は、もっと複雑な「人間」の哀歓を湛え過激と信頼を湛え、「文化」と人間の歴史が織りなした久しい歎きも喜びもを瞬時に見通させる。たんなる時代劇の子役ではない。
* 『母の敗戦』を書いたとき、「父」について書けるとは思えなかった。ところが例えば『父の敗戦』は、はるか厖大にまた人間的なことが見えてきている。父を書いているとわたしはしばしば自殺を考える。母は自殺したのだと兄北澤恒彦は考えていた。わたしも疑っていた。母は時世で「生きたかりしに」と歌っていた。
父も自殺したのだろうかと私は疑っている。今さらその必要もないほど父の人生は凄絶な「敗戦」の連続であったことを、たぶん縁戚の誰よりも現在只今の私が、いちばん材料豊富に知り得ている。父の場合も母の場合も「敗戦」が人間としての「名誉」であったのかもしれない。
兄も自殺した。兄のことは、父よりも母よりもよく知らない。だれも聴かせてくれない。私の手元に送られてきているかなり大量の私宛の手紙やメールだけが、つまり「個と個」としての兄弟対話だけが、自殺した兄北澤恒彦の、弟秦恒平における全容なのである。たぶんわたしは「兄の敗戦」についてトータルな何も書かないで終わるだろう。
主題は、少しずつ近づいてきている。結末は見えていないが、わたしはわたし自身の無頼な「敗戦」をたくさん書いてきた。
文明は勝つモノの卑しさを見せつけてきた。文化は敗れたモノの真実を遺してゆくのだ。
2011 8・23 119
* 関口忠男さんの「千手」女性像を読んでいる。気持ちの優しい一場の縁に深く結ばれる男女が平家物語でも能でも描き出され、さながら「寶」のように貴い。『能の平家物語』を書き下ろしたときも、「千手」の章はものあはれで身に沁みた。
* 父のことも書き継いでいる。書こうと決意した強い動機の一つに、わたしが『廬山』を発表した昭和四十六年十二月号「展望」がある。あの作はあの年度後半期の芥川賞候補にあげられ、瀧井孝作・永井龍男二選者に推されたのであったが、だから父も雑誌を買っていたのだが、だが、それが父を刺戟したのでも感銘させたのでもなかった。しかも、父は、敗戦また敗戦の人生からまさに息を吹き返したのだった。
* 意地というのはときに怖い物だ、手中の宝をあたら捨て去ることになる。
2011 8・24 119
* ある方から新刊を戴いた。漢語についてのやさしいい説明本を前にも戴きときどき利用しているが、今度は「仏教語」。読み物としては上等である。
だが、言葉で真理を述べた瞬間に、真理は真理でなくなっていると、老子はいの一番に喝破している。何度も繰り返すが、いかに真如の月も、言葉で指さしているかぎり、言葉も指も、決して「月=真理・真如」ではない。覚悟していないと、「語」「言葉」は罪深いものである。
「 仏教語大辞典」 や「仏教辞典」を身近に、数えきれぬほど教えられてきたが、それの呉れるのは語義に過ぎない。なんら求めている、渇いている、こがれて待っているところへ連れて行ってはくれない。バグワンは常にそういう誤信・過信を真っ向教えてくれ、おかげで無用の「知識」「概念」を身内からこそげ落としながら、ただただ待って毎日を送り迎えている。宗教学者や哲学者がただ概念や知識や歴史を語ってくれるだけの、「本質」には塵ほども触れあわない解説や評論こそ、のこりすくない私の日々に無用なものとなっている。それぐらいならノンフィクションやルポルタージュで、かすかにも政治的現代の苦痛や矛盾に触れたい。
やはりやはり「詩」に満ちた優れた小説や演劇や映画や音楽を楽しみたい。酒にも酔いたい。
* 「人間」ととかく謂うけれど、一応は女と男とで。男の女も、女の男も、性の無いのすらも、一応は承知しているが、わたしは人類学者ではない、男と女とで足りていて、それどころか有り余っている。興味は尽きない。
わたしは道徳家でありたいと願ったことのない一人である。
それより、本当に良き叛逆者でありたい、時代や社会や国や制度の枠組にしつように指令を擦り込まれ飼い慣らされた存在では、極力、いたくない。
それだから、孤独を懼れてはいられない。孤立をすら強いられても根限り堪えようと思っている。力尽きたら自らおさらばする元気だけを保存しておきたい。どうころんでも、この悪しき政治経済社会とても、男と女の社会に違いないし、創作者にはたとえ乏しくても想像力が生きている。男でも女でも創り出せる。恋愛も性愛も迸るほどに描ける。出版社会はもう叛逆者のわたしを受け入れてくれまいが、幸い「書く」ことは出来る。それで「書いて」いる。さあどうか、「 湖(うみ)の本」 で刊行できるだろうか。「 e-文藝館= 湖(umi)」に公表できるだろうか。できる・できないは、問題外。
書き上げておくことだ。わたしにはもう夏休みも冬休みもない。 2011 8・25 119
* 五時半頃不安な夢を見つづけて目が覚め、起きて安定剤をのみ、もう一度十時頃まで寝た。夢そのものは何とも思わないのだが、見たくない夢はある。就寝前の大量の読書が影響することもある。ゆうべは二時過ぎていた。
しかし今朝の不安は読書でなく、「仕事」から来ていた。平家物語や、女小説にかかっている分には純然の楽しみだが、父や母や兄のことを思っていると肩で山を担いでいるような苦痛がある。だから坦々と論考でもするように書こうとすると、これがかえって難しい。論攷小説はわたしに向いていなくもないのだけれど、文学化という目的に膚接しているぶん、気疲れはきつい。
2011 8・26 119
* 手に入れたくて、本では入手できず、となたからであったやら頂戴した、辰野隆著『谷崎潤一郎』の全文、表紙から裏表紙にいたるコピーを綺麗に綴じた一冊を、新たものの中から掘り起こした。むろんとうに読んでいるが、辰野先生は谷崎の学友であり、その思い出や追憶の文章は比類なく貴重なのである。なぜかなら先生はただの東大教授でも仏文学者でもない、みごとなエッセイストであられた。
高校生の頃に、斬新の初例で、横光利一の大長編『旅愁』全一冊を最初配本として角川書店の「昭和文学全集」が刊行されたとき、三つ四つ意外に感じて、歓迎したり不思議に思ったりした、横光のことは別に、中で歓迎した一つに『辰野隆集』の入っていたことがある。それから、昭和ではないのに、特別に『森鴎外集』『夏目漱石集』は入っていて嬉しかった。読み物作家の吉川英治の『親鸞』が全一冊入っていたのは珍しい感じで、一度は読み耽ったが、繰り返し読ませる魅力は無かった。
『太宰治』という馴染みのないよく知らない作家が一人で一冊をしめていたのには、びっくりした。しんみりは読めなかった記憶がある。太宰治賞をもらったとき、選者の中村光夫先生が選評や授賞式挨拶でも、「対称的な」作家と話されていた。なんとも謂えない深いご縁であったと今も思う。
* いま思って、わたしは太宰治とそんなに対蹠的とは思っていない。彼の無頼とわたしの無頼とは違うかも知れないが、わたしは、或る意味で太宰に負けない(伊藤整や高見順ふうに謂うなら)「ゴロツキ」作家であり、伊藤や高見とちがい、太宰ともちがい、甚だ「背」文壇型の作家として生きてきた。太宰は芥川賞にこだわっていささか醜態を演じたが、わたしは賞よりも「作品」が大事だ。また、情緒に順応して甚だ泣き虫系の男だが、あの海江田大臣のようには泣かない。地位にも固執しない。辞めたければサッサと辞め、闘わねばならないなら闘い抜く気だが、無意味なことで闘ってみて何になろうか。
大きな全集の収録中に「辰野隆」という名前を見つけて思わず全集自体に価値を感じ顔をほころばせた、そういう自身をいまでも大事に思っている。
2011 8・29 119
* 昨日東京新聞夕刊のコラムに、「敬」さんと署名の一文がわたしには嬉しくて、同感で有り難かった。謹んで転載させて頂く。
☆ 流れに抗する (敬)
「あんまり『頑張れ頑張れ』と言われると、頑張れない人は困っちゃう。それまでのベストセラーは『がんばらない』だったのに。日本人はいつも、全体が同じ方向に行く。戦争中もそういうことがいっぱいあった。私が小説家を志したのは、人に何かを言われてその通りにする国民になりたくなかったからです」
作家加賀乙彦さんの言葉だ。この夏開かれた 「文芸トークサロン」 (日本文芸家協会主催)に参加し、大震災後の世相にくぎを刺した。
こうした作家たちの声を大震災後、多くの場所で聞いた。
高樹のぶ子さんは「復興書店シンポジウム」で 「文学・芸術の面白さは、世の中の空気を『ちょっと違うんじゃないの』とあまのじゃく的に破るところにある。池澤夏樹さんは新聞のコラムに『菅首相は居座れ』と書いた。社説が書けないようなことを、実作者たちは書いている」と語った。
津島佑子さんは本紙主催の対談で「東北はひとつ。日本はひとつ」という言い方はおかしい、と疑問を呈した。
社会に大きな流れができている時に、「これでいいのか」と立ち止まって発言する。それは、組織の論理や世間の「常識」に縛られた人間には、なかなか難しいことだ。作家たちの存在が、大きく見える。
* 作家には作家の「ことば」がある。それを忘れて、あまりに当たり前すぎて空気の抜けた決まり文句を代弁して話しているのでは、存在理由が弱い。ときどき、聞いていて恥ずかしくなる作家もいら、それが「怖い」。
2011 9・4 120
* 妻が連日の協力から、いろんな仕事がいろいろに動いている。今日は、やや苦心を要したがホームページに「秦恒平創作著作」への「書評」「批評」「世評」の極々の一部だが、収載し始めることが出来た。夥しい量で溜まっているが、今後こういう風に纂集して行ける道筋がついた。わたしが他者の書評などしたのを集めるのではない、文学者としての五十年の「仕事」に対し厖大な量の「批評」を受けてきたのを、わたしのもとで保存できた限りを、当面は雑纂やむを得ないが、筆者たちの原文のまままったく順不同に誰にでも読み直せるようにした。整備はのちのちに可能と思う。
もし、お手元に、わたしの目に入っていない文を保存して下さっている方はどうか、融通して下さいますようにお願い致します。根気の要る永いしごとだが、雑纂でも、しておけばなにかの役に立てて下さる人が在ろうか。
2011 9・5 120
☆ バグワンに聴く 『存在の詩』より スワミ・プレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
最終的なのは無努力であること
‘‘ゆったりと自然”であることなのだから──
十一世紀人のティロパが
‘‘ゆったりと自然に”という言葉で言おうとしていたこと──
自分自身と戦わないこと
ゆったりと自由でありなさい
おまえのまわりに
品性だの道徳だのというワクをつくろうとしないこと
自分自身を調教し過ぎないこと
さもなければ
その訓練そのものが束縛になってしまうだろう
自分のまわりに牢獄を築き上げないこと
自由でいなさい
自分のまわりに〈人格〉という衣を着て歩かないこと
ひとつの固定化された態度を持って歩かないこと
水のように自由でいるのだ
自然が導いて行くところならどこへでも動き
そして漂い続けるのだ
抵抗しないこと
おまえの上に
おまえの実存の上に
いかなるものといえども押しつけようとしないこと
ところが
社会全体
何かしら押しつけることを教える
善人であれと
道徳的であれと
これであれ,あれであれ,と
それでは、おまえはすべての自然なるものを失うだろう
そしてそのときおまえは
ひとつの機械的なモノになってしまうだろう。
漂うこともなく
流れることもない
だから,自分のまわりにワクを強要しないこと
瞬間から瞬間へと生きるのだ
絶えざる覚醒とともに生きるのだ
これは理解されるべき深いポイントだ
なぜ人々は
自分のまわりにワクをつくり出そうとするのだろうか?
気を引き締めなくて済むようにだ
なぜならば
もし自分のまわりにどんな性格づけも持たなかったら
おまえはとてもとても醒めている必要があるからだ
というのも
一瞬一瞬,決定がなされなければならないのだから
何の既製品の決定も持たず
凝り固まった態度も持たない
おまえは状況に自分自身で応えなくてはならない
人々はひとつのトリックを編み出してきた
そのトリックというのが〈人格〉というやつだ
自分自身にある一定の訓練を強いて
醒めているいないにかかわらず
その訓練がおまえの面倒を見てくれるようにする
たとえば,つねに真実を語る習慣をつける
そうすればおまえはそれに関して思い悩む必要はない
誰かが質問をする
おまえは真実を語るだろう
習慣で──
しかし習慣から出てきたとき
真実は死んでいる
それに生というものはそんなに単純じゃない
生はとてもとても複雑な現象だ
ときとして嘘が必要なこともある
そして,ときには真実も危険なものであり得る
人は醒めていなければならない
最大限の覚醒をもってそれに応えること
それがすべてだ
つくりつけの心を持ってまわらないこと
ただゆったりと
醒めて
そして自然であり続けるのだ
これこそ本当の宗教的人間の姿だ
そうでないいわゆる宗教的人間など死人に等しい
彼らは彼らの習慣によって行動する
彼らは習慣によって行動しているだけだ
これはひとつの条件づけであって
自由じゃない
意識は自由を必要とする
“ゆったりと”自由であれ
この言葉をできる限り深く心に刻んでおきなさい
この言葉に自分を貫かせるのだ
‘‘ゆったりと’’自由であれ
あらゆる状況にあって
おまえが楽々と水のように流れられるように──
水には抵抗などというものはない
水のように自由でありなさい
あるときおまえは南に行かなくてはならず
またあるときは北に向かわなくてはならないだろう
おまえは方向を変えなくてはなるまい
状況に従って,流れなくてはなるまい
しかし,もしおまえがどう流れるかさえ知っていれば
それで充分だ
もしおまえが流れ方を知っていれば
海はそう遠いこともない
だからパターンをつくり出さないこと
社会全体がパターンをつくり出そうとしている
あらゆる宗教がパターンをつくり出そうとしている
ほんの数人の大悟の人だけが
真理を語る勇気を持っていた
その真理とは
”ゆったりと自然であれ”─一
これだ
もしおまえが自由であれば
おまえはもちろん自然でもある.
ティロパは「道徳的であれ」などとは言わない
「自然であれ」と言う
このふたつは完全に正反対の次元に属する
道徳的人間は決して自然じゃない
そうなり得ないのだ
もし怒りを感じても
彼は怒ることができない
道徳がそれを許さないから──
もし愛を感じても
彼は愛することができない
そこに道徳があるから──
彼はつねに道徳に従って行動する
彼の自然に従ってじゃない
おまえに言っておこう──
もし怒りを感じたら怒るがいい
ただし完壁な覚醒は維持されなくてはならない
怒りがおまえの意識を圧倒するべきじゃない
それだけのことだ
怒りをそこにあらしめなさい
それを起こらしめるのだ
ただし
何が起こっているのかに完全に醒めながら-
自由で
自然で
醒めてい続けるのだ
人が醒めているとき
怒りはだんだんと消えて行く
それはただ愚かしいばかりになってしまう
道徳には何か善いことと何か悪いことがある
く自然であること〉には
何か賢いことと何か愚かしいことがある
自然である人間は
賢いのであって善なのではない
自然でない人間というのは愚かしい
悪いわけじゃない
世の中に悪いことなど何もないし
善いことなど何もない
ただあるのは
賢い聡いことと愚かしいことだけだ
もしおまえが愚かだったら
おまえは自分自身も他人も害する
もしおまえが賢ければ
おまえは誰にも害を与えない
他人にも
そして自分にも
罪というようなものなど何もない
そして徳というようなものも──
知慧がすべてだ
もしおまえがそれを徳と呼びたければ呼ぶがいい
そして無知というものがある
もしおまえがそれを罪と呼びたければ
それがただひとつの罪だ
さて,どうやっておまえの無知を知慧へと転換するか?
それがただひとつの必要な転換だ
そしておまえはそれを強いることができない
それはおまえが
ゆったりと自然であるときに起こるものなのだ
“ゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり’’
* やや長く、且つ抄録ぎみにバグワンの言葉を、大事に拾い読んでみた。
おそらく誰にもそう難解なこと飛び離れたことは語られていない。われわれが常識といい良識といい良き習慣・慣例と感じている多くは、すこしも不磨の大典でなど無い。極端に云えば隣村・隣町ではではなんら常識でもなく良慣習でもなく、極狭い身の回りでだけの「われわれ」同士の締め付けであり、「かれら」のそれは認めない頑固に過ぎない例は、山のように実例がある。
小は家族親族から、村落、町、 群県、地方そして国家社会、さらに時代という締め付けがかかっている。人はほとんその便利を好都合として人間の「自由」をそれら枠組みにむかい「貢いで」いるのがふつうだ、教育もその例外でない。
ひとは十重二十重に縛られていて、或いは身を守られているという根底の錯覚に随い、人間としての「自然でゆったり」という眞の自由を忘れきって、矛盾をかんじる生本能を擲って暮らしている。自由人・自然人であるより、道徳・慣習人、約束・社会人である桎梏を人間本来の義務かのように反省無く安易に受け入れている。バグワンの「叛逆」とは、こういう桎梏を落とせと云う呼びかけにあり、わたしはそれを「聴いて」いる。
* わたしは、バグワンと出逢うよりよほど昔から、社会の桎梏や決めつけに可能な限り抵抗し、作家となってからもある程度の地歩を得てからは、文壇の桎梏や慣習をなるべく自由に離れて「文学活動の自由」を追い求め続けてきた。わたしのような作家はたぶん日本中に他に一人と居ないのではないか。
2011 9・6 120
* 昨夜もさんざんの容態で、ひっきりなしに耳から頭へズキズキきつく痛みが響いた。自分が何をしているか、 何時頃なのかも朦朧とフラフラとワケ分からず、結局痛み止めのバファリンとと安定剤二錠をのみこみ、それで寝は寝たが寝たまま痛みは感じていた。はっと気が付くと午后二時半ごろ。
* それから、ペンの山田健太氏に返辞を書いた。押村夫妻がペンクラブに言論表現委員長を訪ね、縷々述べ立ててきたらしい。「 判決」がおり、履行義務を私は悉く終えたアトになって、まだ、この夫妻達は何かしら陰気に蠢いている。どういう気なのか。あまりに五年も掛けて得た「判決」が遠く物足りなく不服であるらしい。
妻が山田書簡の要点を拾っておいてくれたのに以下随う。
押村高・宙枝夫妻の ペンへの要望
① 違法行為をやめさせてほしい (「判決主文」の指示には百パーセント応じている。作家活動において、秦に信念に悖る違法行 為など何も無い。)
② ペンとしての責任を明らかにしてほしい
③ 書かれる側の人権配慮を会員に徹底してほしい
山田健太言論表現委員長の対応
① ペンクラブは表現の自由の」団体
② 個々の作品の善悪をはんだんする機能はないし、すべきでない。
③ 作品の違法性が裁判で争われた場合も、その是非を判断する立場にない
適切な判断で、一言もさしはさもうと思わない。
* 秦は、いかなる創作・著作の執筆も公開・ 刊行も、どんな人・団体の支持を求めてしてきたことはない。
事が、言論表現・ 思想信条・著作の自由・権利を侵されるという事態が起きたときは、ペンクラブは率先「討議・対処」すべき立場にあることは、会員・一般に限らず本来の使命と考えて二十数年言論表現委員会にも十数年理事会にも出席してきた。
平成十八年九月のビッグローブによる秦のホームページ全破壊に関しては、当時たくさんな議論があり、多方面の声もあがり、官庁筋との意見交換もあった。結論は、 出したくても出せないほど、法制度自体にむちゃくちゃに脆弱なものがあり、適切な法改正こそが急がれねばという辺で話が止まり、なにもかも腰砕けであったと記憶している。そしてその後法制度もむろん、何ひとつも適切改善へと進展していないのでないか。
明らかだったのは、あのとき、サーバーが、なにもかもひっくるめて厖大な無関係記事まで消去した暴挙があった。中には、「ペン電子文藝館」 の先行成功形の「 e-文藝館= 湖(umi)」に、数百人に及ぶ著作権者多数の作品が含まれていた。
あの当時押村夫妻が何をサーバーへ持ち込んだにしても、全体の万に一つにも当たらないことであった。さすがにサーバーはとにかくも一旦全復旧し、それを確認した時点で、即座に契約をわたしは破棄した。弁護士の示唆も得ていた。
いまだに誤解があるかも知れないが、サーバーからの事前通知も確実な手段での確認も只一度として、本当に全く無かったのだ。
また月替わりには、日付を逆に積まれていた日記は、日付順に直して保存ファイルに移転保管されるのもわたしの永年の習慣で、何かしら故意に記事を動かしていたなどということを耳にしたが、心外な誤解であった。
したがって、本当は残念至極であったのだけれど、「削除事件の白黒」が決せられたなどと全く考えてられなかった。今も。
しかしあのようなサーバーの暴挙にこそ、ペンは「問題点」を極力追究検討しておかないと、今後の電子メディア社会で著作者達はひどいめに会い続けるだろうと思っていた。「電子メディア委員会」がぜひ必要、だから創設した私の判断には、それがあった。
私は、裁判中も、「表現の自由の団体」であるペンや協会は、重大事あらば、少なくも「問題点を検討して体験の普遍化」により将来を顧慮されるのは、会員のためにも当たり前のことと思ってきた。
だが、裁判中に自己の正当性の主張に「ペン」を持ち出したりはしない。
但し、それと同時に、わたしはずっとペンの理事として、また委員としても多年働いている真最中にあった。私の考えの中に「ペン」憲章や、ここ数十年のペン会員( 理事・委員) の誇りが働いていても何の不思議も無かった。ペンは、どうあるべきか、どう働くべきか。それは三百六十五日、私自身の課題として念頭にありづけたのは間違いでない。
* なによりも斯くあって当然ではないのか。
裁判は終了し双方「控訴無く判決を受容」した。押村夫妻は父・岳父の手から、僅かながら妥当な各「百万円」もすでに受領している。
望ましいのは、この際、知識人らしい思慮と良識を用いて一切を水に流して、亡きやす香の霊のためにも孫みゆ希の未来のためにも二十数年来の確執を解くべきではないか。
働き盛りの教育哲学の青山学院大学教授や町田市の児童教育に参与しているらしい妻が、裁判も過ぎた今もなお手を携えて日本ペンクラブに、古くさくなってカビの生えたような話題を持ち込むなど、よほど目先の見えない行儀の悪さではないのか。
2011 9・7 120
* 「作家・秦恒平の文学と生活」=「公式ホームページ」のURL を、向後、
http://hanaha-hannari.jp/
とする。「総目次」もこの際、より分かりよく整備して行く。
従来の、
http://umi-no-hon.officebllue.jp/
には悪意の被害があらわれ、今後も危ぶまれるので、現状を維持しつつ、より無難な「活用」をこころがける。
* ホームページは、私の文学・文藝活動の有力な基盤として創設十五年来多彩に働いている。妨害に臆することなくバックアップ対策も慎重に重ね重ね講じながら、いっそう充実を図って行く。
「作家・秦恒平の新作」
「宗遠日乗 闇に言い置く私語の刻」 平成十年三月以降日々、本日まで数万枚。ジャンルに応じ次々編輯刊行されている。
「電子版・湖(うみ)の本」 創作・エッセイ 「清経入水」「蘇我殿幻想」以降、現在第百八巻「バグワンと私」まで。以降も継続。
「作家・秦恒平 全創作・著作・発言集成 年譜その他」
「作家・秦恒平 参考文献集纂」
「作家・秦恒平責任編輯 e-文藝館= 湖(umi)」 古典・幕末以来平成まで作家・詩人・批評家等、文豪より新人まですでに五百人・六百作に及ぶ大読書館。日々充実を加えている。
2011 9・20 120
* 昨日岩橋邦枝さんに頂いた『評伝 野上彌生子』の冒頭で、大いに感銘をうけたのを、ぜひ記録したい。
彌生子は漱石の弟子であった。漱石の絶筆に『明暗』のあることは誰でも知っているが、彌生子の処女作がまた「明暗」という百二十枚ばかりの作で、彌生子は漱石の懇切丁寧な五メートルにもなる巻紙での手紙をもらい、宝物のように終生これを語っているが、自作のほうは彌生子自身見失っていて、死後に発見され全集の補遺により活字にされた。
わたし・秦は漱石先生の批評と激励の手紙の中で、ことに心肝に響く「ことば」と「声」とを聴いたと思っている。すこし此処こ書き写させて頂く。本当に本気で小説を書こう、創作しようと決意した人ならば、こころして聴いて欲しい。
☆ 岩橋邦枝著『評伝 野上彌生子』の冒頭に聴く。
第一章 師・夏目漱石──作家になるまで
野上彌生子は、長篇小説『森』を執筆中の( 齢=) 九十代の日記にしるしている。(もんだいは幾つになつたではない。幾つになつても書きつづけることである。)
彼女は、夏目漱石に師事した明治期以来、昭和六十年(一九八五)に九十九歳十一ケ月で急逝するまでたゆまず書きつづけて生涯現役作家を全うした。
彌生子は、昭和四十一年の 漱石生誕百年記念講演〃「夏目先生の思い出」のなかで、夏目漱石から貰った長い手紙をところどころ読みあげて披露した。六十年前、二十一歳の彼女が初めて書いた「明暗」という題の小説を漱石に見てもらったとき、漱石が懇切に批評した手紙である。(人物の年齢は、誕生日前もその年の満年齢を記す)
漱石全集の書簡集に、明治四十年(一九〇七)一月十七日付野上彌生子【当時は八重子】宛の「明暗」評の手紙が収録されていてその全文を読むことができる。次のような書きだしである。
《 明暗
一 非常に苦心の作なり。然し此苦心は局部の苦心なり。従つて苦心の割に全体が引き立つことなし
一 局部に苦心をし過ぎる結果散文中に無暗に詩的な形容を使ふ。然も入らぬ処へ無理矢理に使ふ。スキ間なく象嵌を施したる文机の如し。全体の地は隠れて仕舞ふ。 》
このように箇条書きで、漱石は作品の批評とあわせて、文学者になるということの根本義を噛んで含めるように諭している。懇切叮嚀な批評と教えは、七箇条にわたる。
《明暗は若き人の作物也。(略)才の足らざるにあらず、識の足らざるにあらず。思索綜合の哲学と年が足らぬなり。年は大変な有力なものなり。》《余の年と云ふは「文学者」としてとつたる年なり。明暗の著作者もし文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず文学者として年をとるべし。文学者として十年の歳月を送りたる時過去を顧みば余が言の妄ならざるを知らん》
この作者の若さでは《人情ものをかく丈の手腕はなきなり》、だが《非人情のものをかく力量は充分あるなり。絵の如きもの、肖像の如きもの、美文的のものをかけば得所を発揮すると同時に弱点を露はすの不便を免がるゝを得べし》と激励をこめて教えている。
中略
彌生子は、所在不明になった「明暗」の原稿について四十歳の頃すでに、その古原稿を覗いてみたこともないので何を書いたかよく覚えていないと小文「二十年前の私」にしるしているが、漱石からもらった「明暗」評の長い手紙のことは、生涯にわたって何度も感慨をこめて書いたり語ったりした。次に引くのは八十七歳のときの述懐である。
《もし先生が、お前にはとても望みはないから、ものを書くなんてことは断念した方がよからう、と仰しやつたら、私はきつとその言葉に従つたらうと思ひます。さうすれば、作家生活には無縁のものになつてゐたはずです。ところが、さうではなく、いろいろ御親切な教へを受けたこと、わけても、文学者として年をとれ、との言葉は私の生涯のお守りとなつた貴重な賜物でごさいます。》(『昔がたり』解説)
彼女は九十二歳の談話でも、もし漱石から文学など考えずにずっと細君業をすべきだという手紙をもらっていたら、自分はなんにも書かないですごしたのではないかと思う、と語っている。
彌生子はもともと作家志望ではなかった。《知識慾には駆りたてられてゐたが、自分でも作家にならうなんてことは夢想してもゐなかつた》(「その頃の思ひ出」)という彼女が小説を書きだしたのは、夫の野上豊一郎から聞く漱石山房の木曜会の話に触発されてのことであった。
* もっと読み続けたいが、措く。
《才の足らざるにあらず、識の足らざるにあらず。思索綜合の哲学と年が足らぬなり。年は大変な有力なものなり。》《余の年と云ふは「文学者」としてとつたる年なり。明暗の著作者もし文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず文学者として年をとるべし。》 漱石
《わけても、文学者として年をとれ、との言葉は私の生涯のお守りとなつた貴重な賜物でごさいます。》 彌生子
これだ。文学に志すというなら、これだ。趣味で何が出来るだろう。
* もう一つ、岩橋さんの叱咤も聴くべし、(もんだいは幾つになつたではない。幾つになつても書きつづけることである。)
* いろんなことに雑然と手も出し口も出しているわたしだが、確実にこう思っていて疑わない、「よけいなことをしでかすより、三行でもいい、佳い文章を書きたい、いつまでも書いていたい」と。
* 「小説が書きたい」「書いたから読んでほしい」と、少なくも永い間に数十人ないしもっと多くに頼まれた。だが「文学者として年を」とった、とりぬいてきたいったい何人がいただろうか。世に出る出ないはべつごとである。
2011 9・30 120
* いましも妻は懸命に「秦恒平参考文献・輯」に連日連夜取り組んでくれている。「論攷」「書評」「批評」「世評・アナウンス」に分類して、保存してきた限りを電子化してくれているところだが、その総量の多いこと多いこと、出てくるわくるわの何というか「頼もしさ」に、妻はスキャンし、校正して読み、或る意味で楽しんでさえいてくれるようだ。まだ、百の一つにも当たらないほどで、「湖(うみ)の本」創刊以前の、以後も含めて、どんなふうに秦恒平の創作・著作・人間が批評され観察されていたかがこわいほど覿面に読み取れてくる。有り難いことだ。
今日はたまたま見つけた「古典遺産」№33という1982.10月の雑誌巻頭で、「座談会・秦恒平著『風の奏で』を読む」という長篇を手渡しておいたら、興がわいたか直ぐさまスキャンし、一通りの校正までしてくれた。平家物語研究者として知られた今はない梶原正昭教授をはじめ加美宏、小林保治教授三人で、わたしの小説を専門の研究者・学者の立場から大量に読み合わせてもらっている。
おそらくわたしの熱心な読者でもこんな文献には目も触れたことないだろう。表題などのデータだけでなく、出来る限り本文内容も読んで貰えるように用意しているが、なにより総量の多さにわたし自身が仰天している。嬉しい悲鳴である。
2011 9・30 120
* 昨日、漱石が初めて野上彌生子に与えた書簡、その冒頭で、読んだ、
「才の足らざるにあらず、識の足らざるにあらず。思索綜合の哲学と年が足らぬなり。年は大変な有力なものなり。》《余の年と云ふは「文学者」としてとつたる年なり。もし文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず文学者として年をとるべし。」
「文学者として年をとれ、との言葉は私の生涯のお守りとなつた貴重な賜物」
というのが、痛切な妙薬のように頭で鳴っている。二十歳のモノに、まだ若い、三十、四十になってから書けなどという助言でも叱咤でもない。あくまで「書く人間としての覚悟で」日々を生きよ、「年をとれ」と漱石は忠告している。
2011 9・30 120
* 一枚のビラで無署名であるのだが、同封の他の郵便物からしても、ほぼ間違いなく親鸞仏教センター所長の本多弘之氏の文と想われる。たとえわたしの想い違いでも、筆者は問題でなく、書かれてある内容にわたしは強く魅された。もやもやっとしてよく分かりきれなかった観点であり、こう言われてみると嬉しく納得がいった気がした。
これは親鸞信仰の大きなポイントであると同時に、いささか軽率に理解されていないかという不審を、わたしは永く感じてきたものの、自身で割り切ることは出来なかった。下記の理解、有り難い。
☆ 往相・還相回向の問題
これまでの教えの了解に、どうにもわからない問題があった。
何かというと、回向に二種の相あり、往相の回向と還相( げんそう) の回向の二つの相があると曇鸞が言っていて、今までの教義学の正統的理解というのは、回向のはたらきは如来からいただく。浄土に往相するのが衆生の相(すがた)だと。浄土に往相したら、今度は浄土から還相するのも衆生の相だと。だから往相と還相という相は衆生に属すると。
そうすると、この愚かな凡夫が念仏に出遇って浄土に往き、浄土から還ってくるという、往ったり来たりは衆生に属するというイメージが残る。
どうもそれはおかしい。それは中途半端なのです。往相・還相が衆生の相だと解釈するところには自力のなごりがあるのではないか。
親鸞聖人の書いておられるものを読むと、衆生が往ったり来たりするイメージとは矛盾する言葉がいっぱいある。二種の回向、往
相・還相の回向は弥陀の回向である。この往相・還相の回向にもうあう、値遇すると言っている。如来二種の回向によって信心を得る
と書いてある。自分が往ったり来たりするなどと、親鸞聖人はどこにも書いていない。
今までの教義学が間違っていたのではないか。解釈学が間違っているのであって親鸞聖人は間違ってない。それは徹底的に受け身で如来の本願力をいただく。
教義学は受動のような顔をしながら、回向だけいただいて、自分でやるという話にした。その他力は本当の他力ではないのではないか。 (『親鸞仏教センター通信』第37号〈第36回「親鸞思想の解明」〉より)
2011 10・2 121
* 偏向と謂うと実にイヤであり、現実に悪しき偏向と釈りたい傾向に傾きすぎると感じている実例は、あれこれ、在る。
その一方、主義主張をもたないジャーナリズムは稀で、むしろある種の主張を抱いて創業・創刊されている。新聞や雑誌はそういうのが本来であり、公平公正な政治的真実をのみ伝えるというジャーナリズムがほんとうに可能であるのか、そんな真実が在るのかどうかいっそ疑わしいとすら感じている。自身にとって好ましい望ましい政治的傾向にあるか、ないか、で銘々に感触しているように思われる。
新聞やテレビが十ずつあって、どれがイヤな偏向で、どれが比較的好ましい傾向かは、要するに人それぞれの人数として現れてくる差異の域を、そうは超えないように見える。だからこそ選挙に投票することに大きな意義が生まれる。
わたし独りでものを言えば、イヤな偏向から、かなりの右傾なり左傾なり、また、まあまあいいかなどと、多年の付き合いで自然に判断している。ニュース解説や報道には自然にそれが見えると自分では観ているから、そのつもりでチャンネルを選択したり、むしろそのつもりでどの局の報道にも目や耳をむけ、ああ、やっぱりな、そう言うだろうなと批評しつつ受け入れたり、はねつけたり、警戒したり、納得したりしている。大事なのは「自分」の認識であるが、それを他に広げたいとか説得したいとか思う時も、思わぬ時もある。閾値を越える越えないという自然淘汰を働かせている。
ジャーナリズムとは、佳い意味での「主義主張の差」があって出発していると受けとめているので、よほどイヤな偏向であっても、そのためにデモを掛けたいとは思わない。ヘタをするとデモそのものがきつい偏向であるという例も、いくらもありえる。どちらがより穏健に公正であるのかは、ものごとによってはただ水掛け論にしかならぬ例も多かった。まして双方で組織化がすすめば、主張のための主張が、理非をこえた敵対感情にばかり膨張しかねない。
* わたしは、政権や政党や政策や公的組織機関に対してのみ、イヤな偏向や失政を、責める。異見を述べる自由を失いたくない。その余は、自分の「人生」を、仕事や思想や喜怒哀楽をだいじにしたい。
自身の姿勢を、判断を、しっかり支えるため、人はいろいろな隠れた努力をしている。
わたしは、上にも言ったようにイヤな偏向だと思っている主張や意見にも目を向け耳を貸すことを拒まないで、むしろ好奇心としてでもそれも知っていようとしてきた。そういう感触からわたしはより広い範囲からの人類の「歴史」を意図的に学ぼうとしてきたので、日本史も世界史も、また哲学や科学や宗教史にも「喰わず嫌い」は避け、避けた上で、より望ましい、より好ましい判断や認識に馴染もうとしてきた。極度に偏向したタメにするアジテーターなみの操作された情報や虚報にうかとダマされないためには、その用意が必要だった。歴史は事実を変えて行く怖さも持っている、まして真実は容易に掴めない。老子ではないが、これが真実だと口にされた瞬間からそれは非眞実に化けて行きかねない。
* 大事なのは、結局「自分自身」の、ただ外向きのガンバリよりも、内向きに掘り下げた深い豊かさではなかろうか。それなしには、ものが見えにくくなり、また戦いにくくなる。わたし独りのことをいえば、漱石が彌生子に言ったように、世間の評判になど揺るがず、「文学者として年を」とろうとしてきた。文学者の「言葉」で生きようとしてきた。
2011 10・3 121
* すこし身体が軽い。インシュリンを多年打ち続けているので体重減は望み薄いが、血糖値は( いささか我流も加味し) コントロール出来ている。
* 生命力は明らかに減退している。
生きて甲斐ある「時代」かと問えば、内心はためらいなくノーと答える。何か、是非是非したい、しつづけたいことがあるかと問うても、内心は、強くイエスとは答えない。
この「時代」から欲しいモノ、無い。この「時代」に自身の手で付け加えたいモノ、無い。ちいさいが熱い願いや希望は持っていても、「時代」とも「日本」とも「世界」とも鋭く交叉していない。「公」の社会へ視線をなげ視野を探ってみて、得たい物も与えうるモノも見当たらないし思い当たらない。手を延ばして与えられたいという何もほとんど思い当たらない。私としては有り余るどころか、足りない欠けていると明瞭に意識していても、では足りれば幸せになるかというと、そんな自覚が持てない。
足りないモノは足りないまま、もう、このままでよい。しょせん独りでしか立てないちいさな島に生まれてきて、幸いに何人もの人たちと立てているのなら、それ以上は望まない。望むな、という奥深い声に聴いている。
「環境」ということばで久しく自然環境をばかり人は口にしてきたが、わたしは、現代の自然環境は「機械環境」に蚕食され腐蝕して行く、もう、 そうなっていると諦めてきた。
風光明媚の自然を堪能するときにも、人は魂よりも各種の機械でそれを受容し、喜怒哀楽をケイタイで伝え合って、www という網に絡められることにこそ「安心」を得ている。他と「機械的につながり」さえしていれば安心な時代とでも謂えるのだろう。
人間という精神環境の機械的腐蝕の時代を、いまや人はこれを待っていたとばかり謳歌しているみたいだ、「 mixi」 だ「facebook」だ「チャンネル2」だ「ツイッター」だと。新しい機械が生産されると長蛇の列でとびついてゆく。しかし、そこから「私民」環境にどんな美事な成果があり得ただろう、何も思い浮かばない。「革命」 いっそそれなら歓迎するが。
もう、「一人の世界」は不要かのようだ。一人立つなどというのは古くさくなったのだ。広大なネットの網目に結ばれていれば安心なのだ。ネットが大事なので、人は、自分は、記号なみに漠然と繋がれていればそれで構わないのだ。
環境とは、世界とは、「機械」のことであり、機械の網目に掴まれていれば世界民としての市民権は得ているわけだ。おお、マトリックス。
* わたしも、そうでないどころか。
だが、イヤになっている。もうこういう世界から「せめて一人」「せめて身内だけ」の「元始」に目覚め返ったらどうだろう。グチに過ぎないと、鋭くわたしを突き刺す奥深い声がある。その痛み、せめて自覚していたい。
2011 10・9 121
* ほぼ三十年にもなるだろう、「平家物語の成立」そのものを「まるで主人公」のように書いた長編小説『風の奏で』 (「歴史と文学」に二分載、文藝春秋刊、「 湖(うみ)の本」 ⑱⑲) を、軍記研究の当時錚々たる専門家三人が研究雑誌「 古典遺産」の巻頭座談会のかたちで、精微にといえるほど批評して下さっていた文献を、いまごろ有り難く読み進んでいて、ちょっと息苦しくなるほど有り難く、また昂奮させて貰っている。
一作家の想像のままに、平家滅亡後の時代と昭和の現代とを大胆に跨いだフィクションであった。
いまでもよく憶えているがとにもかくにもわたしの小説は「難しい」と読者を歎かせがちで、当時ある読者はあんまり腹が立って文春版の単行本を壁に叩き付けましたとわたしに言ったこともあった、だが、幸いにもその読者はそのまま「熱狂的」と自身でも言い振る舞うほどの愛読者の一人になってくれた。
わたしの悪癖かもしれない、中村光夫先生のことばを思い出せば「病気」とでも思ってらしたと想われるが、小説を書いて何かを「論証ないし構想」したがるタチの小説家であった。一つの小説に、二つも三つもの物語を、とほうもなく時代を隔てて一つに創って行きたがった。永年の読者でいて下さる人ならたちどころに、あれもこれもそれもどれもと題を挙げられるだろう。人殺しなどの推理小説は書かないが、歴史の時空を透きに飛翔して推理小説を楽しむようになにかしらを構想したり論証したりするのが「作風」と謂えるほど「好き」なたちであった。
だが、今にして想うとあれは物凄いほど根気と集中力の必要な粘り仕事で、気を抜く余地が無かった。抜くとガタガタに成りかねない。
じつを謂うと、時代もまさしく平家物語の時代を追いかけながら、わたしはもう五六年前からまたそういう小説を書こうとして書き継いできた、が、むろんわたし自身の衰えが蔽いようもないのだけれど、なにしろまるまる五年の余も、どう避けようもなく仕掛けられた不幸な孫の死や「裁判」沙汰に日常生活をずたずたに寸断され、その方に掛けざるを得なかった紙筆や対応の労は途方もなかった。その小説世界や材料にどんなに興味を覚えていても、手も付けられず、遅々、遅々とわずかな隙間のような時間を求めては書き足し読み返しまた書き足しながら、「いい読者」たちをこころよく挑発し続けるほどの工夫や筆致に、「コト欠き」続けてきた。
いま、ようやっと、少しずつどうにか前へと切望しながら、それさえも裁判そのものは結審し判決も出、すべての必要を全部満たし終えてなお帯状疱疹に一月、一月半も痛みをこらえ、半ばは寝て暮らすような今のありさまである。
しかし、それは要するに書き手としては愚痴にすぎぬ。とにかくも裁判は終えたではないかと、わたしは自分で自分に言い聞かせて、ようやく集中できる時機を迎えたのだからと我が身を励ましている。
そんなとき、三十年も昔の、梶原正昭さん、加美宏さん、小林保治さん三人の座談会「秦恒平著『風の奏で』を読む」にわたしは鞭打たれ励まされている。梶原さんは亡くなられたが、また作中にも登場して頂いたT博士もM教授もとうに亡くなって仕舞われたけれど、細くなった弱くなった気力と体力とを振り絞りたいと願っている。「題」は謂えない、分かる人には題材のロマンの何かが分かってしまい、それでは面白くない。願わくはせめて二三年の寿命が欲しい。
座談会記事の方は、もう数日の内にも、「 e-文藝館= 湖(umi)」の「論攷」室に展示させてもらえる。
2011 10・10 121
* 十数年も交わり続けてきた「バグワン」の、何に心惹かれてきたか言い尽くせないけれども、さしあたり昨日今日も読んでいる『存在の詩』の基材にされているのは、ティロパ(988-1069)の説く「マハムドラーのうた」である。その時代は日本でいえば紫式部や藤原道長の頃から宇治の鳳凰堂の出来る頃にほぼ相当しているが、ティロパの生涯と遍歴はけっして華やいでもいないし盛大でもない。しかしおそろしいまで彼の世界は深く「マハー」であったようだ。
その「マハムドラーの詩(うた)」をいますぐ此処に挙げるのはいとも容易だが、かえって読者を困惑させるだろう「マハムドラーのうた」はけっしてけっして容易なものではないのだから。バグワンはそれを、滾々と湧く叡智そのものでさらに大きく説き証してくれている。
それはそれとして、「マハー」は、偉大な巨大な深遠な宏遠な意味合いであることは、ま、知る人は知っている。「マハ」と冠した「ムドラー」とは、では、ということになり、ひとつここを間違うと、わたしはティロパもバグワンもを損ないかねない。しかし、大胆に、ひるんだりおそれたりせずバグワンの言葉に耳傾けてわたしは聴いてみよう。じつは、わたしはバグワンにこう聴くより以前からこれの幾分かを直観し実感していた。
☆ バグワンに「マハムドラー」を聴く。『存在の詩』より
スワミ・プレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
ティロパは繰り返しうたう、”マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ”と。
この何度も何度も出てくるマハムドラーとはいったい何だろう?
何が起こるのだろう?
マハムドラーとは
そこにおいておまえが「全体=全世界」と分離していない実存の一状態だ
マハムドラーとは
「全体=全世界」とのふか~い性的オーガズムのようなものだ
ふたりの恋人が深い性的オーガズムの中にあるとき
彼らは互いに溶け合う
そのとき女はもう女でなく,男はもう男でない
彼らはちょうど陰陽の環のようになって
互いの中にはいり込み
それぞれのアイデンティティー(自己主体)を忘れて
互いの中に出会い,溶け去る
愛がかくもビューティフルなのはそのためだ
この状態が「ムドラー」と呼ばれる
オーガズミックな交合のこの状態が「ムドラー」と呼ばれる
そして〈世界全体〉との最終的なオーガズムの状態が
「マハムドラー」と呼ばれるのだ
大いなるオーガズム──
オーガズムの中では
さしあたって、性的なオーガズムの中では、いったい何が起こるのだろうか?
それをおまえは理解しているか
何が起こるのか?
オーガズムは、彼らがまだまだ恋人でない限り、
夫婦の間にはほとんど決して起こらない
しかしそれは可能だよ
おまえがたが夫婦であって,同時に恋人であることはできるから。
おまえは自分の奥さんを恋人のように愛することはできるし
そうなれば話は全然別だ
それならば結婚とて、強いられた制度でも強いられた現象でもない
東洋では何千年もの間
結婚という制度が強制的に存在していたために
人々は完全に性のオーガズムの何たるかを忘れ去っていた
それは事実だ
何人かの西洋の女性たちが
ほんのここ、まあ七、 八十年というところだろう
オーガズムというものが何か達するに値するものだということに気づいた
それ以外の多くの女性たちは
彼女らがそのからだの中に
オーガズムという何らかの可能性を備えていることを永く永く全く忘れ去っていた
これは、人類に起こり得ただろう中でも最も不幸なことのひとつだ
そして女がオーガズムを持てないとき
男もまた本当にはそれを持つことはできない
オーガズムとは「ふたり」が「ひとつ」になる出会いだからだ
ふたりでこそ
彼らがお互いの中に溶け合ったときそれを持つことができる
それはひとりが持てて
もうひとりが持てないかもしれないようなものじゃない
それはあり得ない
射精は可能だ
慰めは可能だ
ただしそれはオーガズムじゃない
オーガズムとは何だろうか?
オーガズムとは,おまえのからだが
もう物質としては感じられないような状態のことだ
それはエネルギーのように,電気のように震動する
それがまさに根底からあまりにも深く波打つために
おまえはそれが物質的なものだということを完全に忘れてしまう
それは電気的な現象と化している
事実,それは電気現象なのだ
いまや物理学者たちは
物質というものは無いと言っている
一切の物質はただの見かけにすぎない
奥深いところでは
<存在しているそのもの>は、電気なのだ
物質じゃない
オーガズムにおいて
おまえは,もう物質というものが存在していない
肉体のこの最も深い領域へと降りて来る
ただのエネルギーの波
おまえは舞い踊るエネルギーとなる
波打ち──
もうなんの境界もない
脈動する──
が,もう実体を持っていない
そして相手の恋人(=愛し合える妻や夫も) また脈動する
で,だんだんと
二人がお互いに愛し合い
お互いにいっさいを分かち合い
脈動の,波動の,エネルギーであることの
この瞬間にいっさいを与えきって
そしてそれを怖がらなければ
──というのは,それはまさしく「死」のようなものだから──
からだが境界を失い
からだが蒸気のようなものになり
からだが実体としては蒸発してしまい
ただエネルギーだけが残るとき──
ひとつのごく微妙なリズムだ
──ただしそれはまるで自分がいないかのようだ
ただ深い愛の中でしか人はそこにはいり込めない
その愛こそはまさしく死のようなものだ
自分を肉体だと思っている限りにおいておまえたちは、あたかも、死ぬ
からだとしてのおまえたちは死ぬのだ
そしておまえたちはエネルギーとして
ヴァイタルなエネルギーとして昇華する──
そして妻と夫が
あるいは恋人同志が
あるいはふたりのパートナーが
ひとつのリズムの中に波打ちはじめるとき
彼らの心臓の鼓動も,彼らのからだも「ひとつ」になり
ひとつのハーモニーを創り出す
そのとき──叫びのように
オーガズムが起こる
そのとき、おまえたちはもはや「ふたり」ではない「ひとつ」だ
男が女の中にはいり込み
女が男の中へはいり込む
いまや彼らは環だ、輪だ。
そしておまえたちは「ひとつ」のまま震動する
脈打つ
おまえたちのハートはもう別々じゃない
鼓動はもう別々じゃない
ひとつのメロディー・ひとつのハーモニーとなる
それは世に存在し得る最も偉大な音楽だ
ほかの一切の音楽など、これに比べたら顔色なしだ
ふたつのものがひとつになって波打つこの震動を
オーガズムと言う
同じことがほかの人間とではなく
存在全体との間で、世界そのものとの間で、起こるとき
それが「マハムドラー」だ
「大いなるオーガズム」だ
信じるがいい
それは起こり得る、それは起こる。
私はおまえたちに,そのマハムドラーが
大いなるオーガズムが可能となるように
話してあげたいと思う。
* わたしは、若い日々に、若くてまだ健康であった妻とのあいだで、バグワンの語る「ふたつ」が「ひとつ」に化る「死」にも同じい「生」のハーモニーを、確かに何度も聴いたことがある。忘れていない。だから、バグワンのことばは大きな譬喩、豊かな譬喩、力に満ちた譬喩として素直に聴けた。有り難いと思った。「存在」という「全体」との、「世界」という全体との、「マハムドラー」の「起きる」のを、だから、わたしは「期待」として信じ持つことは出来る。わたしは待っている。
2011 10・10 121
* これも『古文真寶』前集。 昨日お城に行くことがあり、いま帰ってきて泣き濡れている。城内には全身お蚕づくめに綺羅を飾った人ばかり。だがあの人達はわたしのような養蚕の苦に日々まみれている人ではないと、「無名氏」の詩が遺っている。
夏の真昼時、田の草取りをすれば流れる汗は稲の根土に滴り溜まる。暢気に日々の飯を食っている人たちは、その一粒ずつが辛苦の産であると知らない。
春には一粒の粟をうえ秋には萬顆を収穫している。 四海に閑田はない。しかも農夫はなお多く餓えて死んでいる。
「農」を憫むそんな李紳の二首もあるのを、今、読んだ。
むろんそんな詩を子供の目で『古文真寶』から読み得ていたわけはない。が、その年頃に「簑きて笠きて鍬もって お百姓さんご苦労さん」と幼稚園の教室でこう歌っていたのは当然であった。しかも「今年も豊年満作で お米がたくさんとれるよう」という唄のしめくくりが、「朝から晩までお働き」とあったその「お働き」に、わたしはどうしても納得できなかった。「働いていらっしゃる」の意味であるのだろう、だが「せっせと働け」と受け取れ、むしろそうとしか受け取れなくて、なんともいえず不快であったのを忘れない。
歌詞という文藝の拙なるに過ぎまいが、わたしが推敲を自然に憶えたのは、文を「読んで」よりも、こういう歌詞を「聴いて」の感覚的な快・ 不快からであったと思い当たる。
2011 10・23 121
* 「 湖(うみ)の本」 新刊の、初校、再校、三校分が入り交じりに出そろってきた。思わず一息ついて、三校し再校しやがて初校分に目が届く。変則な組み付けだが、建て頁も思い通り行っていて、あとがきはこれからの仕事だが、うまくすると十一月末には送りだせるかも知れない。
わたしの根気と体力がいつまでもつか分からないが、一創作者として「くらき」に帰っていい心用意は、或る意味、今度のこの巻で小さな形を得るだろう。あとは、心残りなく成ろうかぎり小説へ立ち返りたいと願うが、どうしようもない心の邪魔が道の前に固まっている。所詮わがことでもわがためでもない。蹴飛ばしてしまいたい。
☆ 影答形 陶潛
存生不可言 生を存すること言ふ可からず、
衛生毎苦痛 生を衛(やしな)うて毎(つね)に拙きに苦しむ。
誠願游崑華 誠に崑華に游ばんことを願ふも、
然茲道絶 然として茲の道絶えん。
與子相遇來 子(し)と相ひ遇うてより來(このかた)、
未嘗異悲悦 未だ嘗て悲悦を異にせず。
憩蔭若暫乖 蔭に憩うては暫く乖(そむ)くが若(ごと)くなれども、
止日終不別 日に止まりては終(つひ)に別れず。
此同既難常 此の同(とも)にすること既に常にし雛し、
黯爾倶時滅 黯爾(あんじ)として倶時(くじ)に滅せば。
身没名亦尽 身没して名も亦た尽きなん、
念之五情熱 之を念(おも)うて五情熱す。 喜怒哀楽愛
立善有遺愛 善を立つれば遺愛有り、
胡為不自竭 胡為」(なんすれ)ぞ自ら竭(つく)さざるや。
酒云能消憂 酒は能く憂を消すと云へども、
方此 不劣 此に方(くら)ぶれば (なん)ぞ劣らざらん。
* くらくらする。
2011 10・26 121
* バルザックの大作『谷間の百合』をほんとうに久々に再読し終え、一人の文藝の天才に終始一貫胸をつかまれ揺すられつづけた。沸き返るように生まれる「ことば」で、途方もなく分厚い、緻密で華麗な、 広大な恋愛の絨毯が織り上がって行く。これこそ凄い体力と気力とで描き出す夢の恋愛絵図であり、人性の批評であり、しかも辛辣を極める。オルソーフ夫人 ダドレー夫人 ナタリー夫人 そしてオルソーフ夫人の娘マドレーヌ。よく書けている。ああ、それにしても、なんという、なんという…阿呆なフェリックスだろう。
やっぱりわたしは、宇治の大君、狭き門のアリサを聯想しながら、オルソーフ夫人アンリエットを読んでいた。
バルザックは他にも読んでいるが、この『谷間の百合』ぬきのバルザックというより、「文学や読書」ということが私にはあり得なかったなあと、しみじみ今も思う。よくしかし、これを新制中学の二年生が読んだなあと、ふと夢見心地がする。
2011 10・27 121
* 自民党山本一太の予算委員会での野田総理追究は、的確だった。総理の回答も、なんでもかでも喋りすぎた鳩山や菅よりは叮嚀に狡猾であった。在来の自民党総理の答弁術に著しく接近していて、政権党が民主党であるのをつい自民党のように錯覚させる。その辺に近来の国会の、政治の、曖昧な危険さを感じ取る。
* 機嫌を持ち直したくなると、古詩に対う。
☆ 客中行 李白
蘭陵美酒鬱金香 玉碗盛來琥珀光
但使主人能酔客 不知何処是他郷
* この詩好きで、思い出もある。作家として立って間もなく雑誌「藝術生活」の連載依頼をうけたとき、趣向を立て、古今東西の美術の写真に合わせ、枚数を厳格に決めて写真説明でない掌説を書こうと。撮る写真も自分で選んだ。第一回に、東博で唐三彩の武将像を選んで写真にし、「盃」という、あれは正三枚だったか四枚だったか、「掌説」を書いた。「てのひらの小説」という康成にならった一般の抄がまだるっこしく、わたしは端的に「掌説」と書き示している。
☆ 盃 秦恒平
李白は振りかえった。たしかに誰かが呼んだのに、人の姿がなかった。李白は眼を惹く店先のひとつのさかづきを買った。わずかに掌(て)にあまる、青みを帯びて美しい荊州の白瓷(はくじ)であった。
家に帰ると李白はすぐ酒がめを引き寄せた。眼を細め、李白はさかづきに酒を注いだ。とくとく、とく、くとく、とく。酒はさかづきに満ち、満ちたかと見る間に美しい琥珀色は汐の乾くようにさかづきの底に沈んでしまった。
とくとく、とく、とくとく、とく。李白は眼を疑いながら徳利を傾け、燦く酒の艶を急いで唇(くち)に受けた。またもや酒は漏れるようにみるみる消え失せ、芳醇の香気がむなしく李白の鼻を打った。
これはひどい。思わず李白は呟いた。すると、答えるようにさかづきの底から酒が湧き溢れた。李白は大慌てで飲み干した。
三度めの酒は穏かにさかづきに波打って光った。李白は幸福そうに、盛りあがった酒の色香に顔を寄せた。白玉(はくぎょく)のさかづきの底に、李白を見て笑っている一人の男の顔があった。人の良げな男は、揺ら揺る酒の中で笑みくずれ、物言いたげな眼をしていた。
李白が問うと、さかづきの男はこんな事を言った。
自分は昔淅県の参軍まで務めた者だが、酒で官をあやまり市隠のまま一生を終った。好きな酒はやめられなかった。死に際に自分は人を呼んで、かならず我を陶家の側に埋めて呉れよと頼んだ。願わくは百千歳の後に化して一塊の土となり、幸い採られて酒壺とも成らば、実に実に我が心を獲ん、と。
さて自分はかようなさかづきの底に栖む事を得たけれど、不運にも久しく店頭にさらされて美酒に遇わず、今日貴公の眼にとまったのは千秋の僥倖、はなはだ有難い。毒味までに一杯お先に頂戴したーー。
李白は手を拍ち大笑してこれぞ酒中の仙、莫逆の友と、それからは、先ず李白が一杯、つづいて男が一杯、仲良く代わる代わる飲みかわして夜の更けるのも厭わなかった。
李白が戯れて歌を所望すると、男はかがやき揺れる酒の下から、美声を張って朗々と唄った。
蘭陵の美酒は鬱金の香 玉椀盛り来たる琥珀の光
ただ主人をして能く客を酔はしめば 知らず何れの処か是れ仙郷
夢にも恋しい故郷の酒を いざなみなみと酌みたまへ
この家の主の客あしらひに 酔うてうたへば花が散る
酒は百川をも吸う勢いでさかづきの底へ引かれて行った。李白は喝采して、そんな窮屈ところに居ないで出て来ないかと誘った。おうと叫んで、忽ち筋骨うるわしい精悍な武人が李白の前にどっかと坐った。
二人は庭上の春色をめでながら、今度は先ず客が一杯、次に主人が一杯、物も言わず泣きみ笑いみ応酬やむ所を知らなかった。
とうとう李白は盛んに酔を発し、ぐるぐると両手を振りまわして唄い出した。
両人対酌山花開く 一盃一盃また一盃
我酔へり眠らんと欲す君しばらく去れ 明朝意有らば琴を抱きて来たれ
花を浮かべて酌むさかづきに 夢も匂へや星あかり
酒がめ枕に寝たまへ倶に 明日も聴きたい君のうた
声の下で李白はそのまま酔い伏してしまった。男はひとり神色端然、しばらく美味そうに酒を口に含んでいたが、やがて皮ごろもを脱いで李白の肩に被せ懸け、かき消す如く春の夜のやみに去った。 2011 11・15 122
* いま、就寝前に十四冊の本を読んでいる中で、重い本なのに手に取るとなかなか置けないのが、角田文衛先生の「平安時代の女たち」を精微に論攷された記念の論文集。きのうまで、歴代皇妃のうち最も華麗に多幸であったといわれる「建春門院滋子平氏」の生涯を読んでいた。後白河院は、頽廃には陥ることのないしかし好色の帝王であったが、上西門院に仕えていた滋子平氏を知って以降、他に人なきがごとく滋子を鍾愛され、熊野詣でにも、はては厳島詣でにも、さらには有馬温泉への湯治にまでも同行、女院の亡くなるまで行幸また御幸をともにされたこと数限りなかった。よほど美しく、それ以上に聡明で気概にも恵まれたすばらしい国母であった。高倉天皇の母女院への孝行もうるわしかった。定家卿の姉・建寿御前= 建春門院中納言の日記『たまきはる』はさながら女院滋子の讃美歌かと思われるほど、ありありと、生き生きと、この高倉母后の輝く魅力を後生に語り伝えて光っている。『建礼門院右京大夫集』の死なれた哀しみに満ちあふれているのと大違いである。
建礼門院は高倉天皇の中宮であり、母后からは姪に当たっている。この悲運の女院の姿は、小説『風の奏で』に、かなり生き生きと書けたとわたしは自負している。
わたしが、もともと後白河院に深い深い関心や親愛感を持っていたことは、「仕事」が証明している、『女文化の終焉』『初恋・雲居寺跡』『風の奏で』『冬祭り』『梁塵秘抄』そして『千載集』そしてまた「中世の源流」論など。この、 鎌倉の頼朝には稀代の大天狗とみえた後白河法皇は、いまの三十三間堂の一帯を広大に占めた法住寺御所にかなり多く起居され、まぢかに、信仰の余り迎えられた新日吉社も今熊野社も今なお在る。平家といえば六波羅だが、法皇や女院の生活された御所や神社と六波羅とは、ごく親密な地縁にあった。
言うまでもなく、そうした地域の一帯全体がまたわたくしの育った京の東山の中心地区であった。国史好きに育ったわたしの後白河や平氏に関心の深まるのは、はなから約束されていたようなものだった。
* まさしく同じその東山一帯の空気をもう一度現代の目で書き取ってみたいのが、さしあたり今わたしの重い課題になっている。果たせるかどうか、ぜひ果たしたい。
2011 11・24 122
* 夜前もやはり角田先生「三条院」の論攷が興味深かった。この女院は鳥羽院の内親王、後白河院の異母妹であり、後白河皇子である二条天皇の中宮でもあった。早くに落飾された薄幸かつ数奇な生涯だった。
この尼女院は、あの入道信西の子で海内一の能説( 説経上手) を謳われた大僧正澄憲の子を生まれ、さらに二人目の出産に際し不幸に産褥で亡くなっていた。公式には腹の腫瘍と烈しい下痢でといわれているが、真相は「知らぬ者のない」公然の秘密と、三条院につねに伺候し近侍していた九条兼実は日記『玉葉』に書いている。
角田先生の学風は「人」において特色あり、それは近世学の森銑三先生の広大な探索に、結果として類似しているのかも知れない。この「人」好きは、わたしにも。
もう往年というしかないが、小学館の編集者に、浩瀚な「人物日本の歴史」の企劃を勧め、多数の史上人物の選定にも協力し、自分でも佐々木道誉、山名宗全を担当して書いた。この「わたしの好み」に角田博士も森先生も、はなはだ有り難い先生方であった。自然と身近にお二人の撰集や著書を置いて再三再四目を通すことが多い。
人には、体臭があり体温がある。歴史上の人物から独特の体臭や体温が感じ取れるようになると、「小説」や「批評」にも手を染めやすい、たとえ現代を各場合でも。
2011 11・26 122
* 新刊の『光塵』は収容された数字こそ多くないが、単なる気儘な雑纂の一冊ではなく、わたしの文学と作家数十年の一つの分母になっている。思い切って良く纏めたと、吹っ切れている。
12011 11・28 122
* こんどの『光塵』を一種の「私小説」かと感想を伝えられた読者があった。わたしは処女作以来、ずうっと私小説を書いていた。『清経入水』も『慈子』もその他の多数もみな「私小説」であったと思う。言い替えればわたしには「私小説」こそが「絵空事 フィクション」として書かれるべきなのであった。『加賀少納言』や『親指のマリア』などのほかは、みな「私小説」を装った「絵空事」である。不壊の値を帯びた私小説をわたしは書きたかった。『光塵』も例外ではない。私自身が絵空事であるではないか。
2011 11・30 122
☆ 性 福田恆存 『語録 日本人への遺言』より
よく身上相談などで、「彼は一個の精神的人格として、私を求めてゐたのではなく、ただ私を通じて女を求めてゐるだけだ」などといふ憤懣が語られます。が、ロレンスにいはせると、「それなら、まことに結構」といふことになる。
男は女のなかから花子を選びだしてはならぬ、花子のなかから女を引きだせ、さう、ロレンスはいひます。もし男が他の女ではない花子を選ぶとすれば、その花子が相手の男にとつて最も女をひきだしやすい女であるといふ理由をおいてはない。さういふ恋愛と結婚とのみが、眞の永続性をかちえる。精神だの人格だのいってゐるからいけない。といふより、誰も彼も自分の性欲を、精神的人格といふ言葉のかげに、押しやつてしまふ。人々は性に触れたがらない。いや、直接に触れたがらない。精神的愛といふ靴の革を通して、霜焼けを掻くやうに性欲をくすぐつてゐるだけだ。さうロレンスはいつてをります。 (愛の混乱・Ⅲ・三一六)
* ややこしいが全くそのとおりである。但しこの場合、男と女との逆もいえることを忘れていていいわけがない。その場合、男といい女というのも、イコール性の魅力に尽きるのではない。やはり男は男、女は女という人間であるに相違ない。
* 今度の『光塵』に、
伊勢うつくし逢はでこの世と歎きしかひとはかほどのまことをしらず
と歌っているが、「付き合う」以外に「恋」をしない・できない現代の若者が念頭にあった。だが和歌読みに馴染んでいないひとは、意味がとれない。「逢はでこの世」に百人一首の歌が思い出せれば、伊勢一首の歌意が共感して汲める人なら、わかってくれるだろう。「うつくし」は、美しくもあるにせよ、より深く愛おしく共感する意味である。「ひとは」とはこの場合、情けないいいかげんな人はと責めている。
難波潟みぢかき蘆のふしのまも
逢はでこの世をすごしてよとや 伊勢
もとより逢ふばかりが能ではないという姿勢もある。たしかに有る。しかしこんな歌もある。
あらざらむこの世のほかの思ひ出に
いまとたびの逢ふこともがな 和泉式部
老境には胸に沁みる感懐と言わねばなるまい。
2011 12・2 123
* ようやく、寛いでいるのだと思う。わたしも妻も、かつてなく、昏々と眠る。一日の大半を眠っている。
孫やす香の名で「白血病」が「 mixi」 に突如公開され、まもなく「肉腫」という決定的な悪病まで公開されてこのかた、丸五年= 六十ヶ月嘗め続けた苦渋は、われわれ祖父母夫婦の寿命をすりつぶして出来た毒の味であった。
愛孫の「かくのごとき、死」が、なにゆえに祖父( 母) を被告席に置くに値したのか、しかも実の娘や婿の手で。わたしたちは今もって理解しがたい、不徳ゆえと譏られても仕方ないのだが。
しかし、ようやく今年六月末、結審した。余震はなお二ヶ月ほど不愉快に続いた、いまはやっと静かになっているが。
そして、めったになく一ヶ月の余もわたしは病臥の日々を送った。ようやく往年の歌集『少年』を引き結ぶていに、老後の述懐『光塵』を送りだすことが出来た。わたしも妻も、かつてなく、昏々と眠る。一日の大半を眠っている。ようやく、寛いでいるのだと思っているが、まだこの先は分からない。
幸いにとは謂えまい、不幸にしてと謂うべきか、この間にわたしはやす香病状に同時に追い縋るように、結果は「挽歌」と帰した日記『かくのごとき、死』(「 湖(うみ)の本エッセイ」39 )を書き、長篇フィクション『逆らひてこそ、父』上下巻(「 湖(うみ)の本」50 51)そして『凶器』(「 湖(うみ)の本」 通算101)を書き下ろし、また思いをこめて詩歌鑑賞の『愛、はるかに照せ』(「 湖(うみ)の本エッセイ」 40)を出版してきた。失神しそうな苦悶や憤怒のなかでこれらを懸命に「書く」「書きつぐ」「本にする」ことが、わたしを強く起たせていた。残念ながらほかの方面の創作へこころを遣る余裕は無かった。そしてバグワンに助けられ、ありがたい大勢の知己のちからに支えて貰った。
* 喪っていた時と力とをどう取り戻せるか。旬日ののちには七十六歳になるが、ありがたいことに、今日その数字は致命的な「老」には幾ばくかの余裕をはらんで見える。正月早々の人間ドックがなにをわたしに告げるのかは分からぬが。
思いに凝って、 身に代えても取り返したいとただ願うのは、ただやす香である。『光塵』 66 70 72 75 76 78 84 90頁に書き残した孫やす香を悼み想う祖父の歌のすべてが、この五年の地獄苦を清めてくれている。
* 十二月になったね。 鴉
鳶 お元気ですか。佳いメールをありがとう。
お嬢さんが、ひばりに開眼(耳?)してくれたというのが、殊に、嬉しい。
ダヌンツィオと日本の近代文学のことなど、なにも知らなかったなあ。上田敏 鴎外 花袋 郡虎彦 森田草平、白秋・萬造寺斉・木下杢太郎 有島生馬 島田謹二 三島由紀夫 筒井康隆 の名が目次に出ています。なるほどとも思い当たらぬほど この西欧作家とは無縁に過ごしてきました。腎臓病で死んでたかも知れないと脅された小学生の病牀では、「死の勝利」とか「ああ無情」という本の題は歓迎しかねたのだと思いますね。遅ればせに近づいてみたいとも、鳶の感想を信用するわたしは、思いませんが、平山城児さんの新刊には、論文集に倍する「年表編」が付されていて、この労作は優に表彰に値していると感じます。こんな歳末の出版とは気の毒です。本屋から本を出すときは一年の若い時期に出し、「去年の本」になるのの早いのを防ぎますように。それにしても、こういう労作は本そのものを外見で見ていても気持ちいいです。
ドビュッシーの「月の光」 街へ出たらさがしてみます。いいことを教わりました。
「秀忠」のこと、「大いに納得」してくれて、嬉しく。書いて置いた甲斐がありました。
『少年』のはるか後塵をあびる老境の『光塵』は、とても誰にも彼にもとは行かない性質の述懐ながら、よく見てくれる人には、おこがましいが、雨月のあとの春雨のように受け容れてもらえるものと思っていました。K社のベテラン出版部長さんや金澤の元文学館長さんの手紙をもらい、ああこれでいい、嬉しいと喜んでいます。思い切ってなんでもやってみるものです。志を、堪えてもちつづけること、それに尽きます。生活と歳月のなかで志を風化させ劣化させている例のなんと多いことか。おやおや、わたしだってそのように見られているかも知れんナアと首をすくめますが。
若いときはついセッカチです。老境ほどゆっくり歩めと思います。
伊勢うつくし 自分の和歌でひとつをと問われればこれでこたえる、カナ。
むろん、『光塵』でそろりと瀬踏みしたのは、俳句です。
現代俳句にはつよい批判をもってきましたが、では自分はとも心していました。心友である石川県の文学館長さんが、「俳」味をみとめて文人俳句の列に加えてくれたのは望外の喜びでした。
もうすぐ、七世幸四郎の曾孫たち染五郎・海老蔵・松緑の歌舞伎を、昼夜に分けて二日楽しみます。楽しみ、楽しみ。
鳶にも、たくさんな楽しみがありますように。 鴉
* 手紙など書いているあいだにも、思うことがある、思いつくこともある。あ、そういうの有りうるな、そうかその道行ってみようなどと。瞬時ふうっと身内が熱くなる。なにかが憑ってくるというか。
2011 12・4 123
* 深夜読み終えて、三時。そして四時六時と目が覚め、つどまた読んで、結局ほとんど眠れないまま八時前に起きた。どの本も面白いという幸せが不眠をさそう。
* とりわけ『ゲーテ』の評伝に胸を掴まれた。彼の、偉大な普通さの天才。当たり前のようにひろがる世界文学への実践に裏付けられた展望。亡くなる間際までの深い健康な知性と感性。奇矯でない豊かさ、偏狭でない自由。非凡で多彩な生活者、現実から足を滑らさない藝術家に徹した壮大な想像・創作力。人を惹きつけてやまない人間の大いさ。「マリエンバートの悲歌」そして「フアウスト」完成に至って、終生衰えなかった愛のある情熱と人間への洞察。
いつしれずわたしは涙をぬぐいながら読んでいた。
ゲーテの家庭生活は、不幸だった。自身は病牀にありながら重篤の病で妻に死なれ、その翌年に息子は結婚し孫三人に恵まれたがみな健康には育たぬまま、四十歳を越えたばかりの息子にも死なれていた。
☆ 「人と思想 ゲーテ」星野慎一著に拠りて
最後の恋愛 息子(アウグスト)の結婚の結婿の翌年(一鉢一七)からゲーテは三年つづけて毎夏カールスバートへ湯治に出かけたが、目だったききめがなかったので、一八二一年には初めてマリエンバートへ行って一か月ばかり滞在した。場所をかえてみたのである。マリエンバートはカールスバートの南西約三〇キロの地点にある、ボヘミアの新しくひらけた温泉村であった。ここで、はからずも、ゲーテはウルリーケ=フォン=レヴェツォーという一少女を知るようになった。たまたま彼がウルリーケの祖父母の館に止宿したのが、この奇縁を生むきっかけとなった。
シュトラースブルクのフラソス学校の女子寄宿舎に何年かすごしてようやく一七歳になったばかりのウルリーケは、ゲーテがどんな有名な人なのか、またどんな偉い詩人なのか、さっぱり知らなかった。だから、彼女はゲーテにたいしては全く無邪気な一少女にすぎなかった。それなのにゲーテは戯れにみずからに言わねばならなかった。
老人よ まだやまないのか
またしても 女の子
若いころは
ケートヒェソだった
いま 毎日を甘くしているのは
誰なのか はっきり言うがよい
翌二二年夏ふたたびマリエンバートのレヴェツォ一家の客となったゲーテにとって、ウルリーケはもはや恋の対象となっていた。ゲーテは手元に送られてきた新刊『従軍記』を彼女に贈って、その扉に次のような小詩をしるした。
一人の友の辿った道がいかばかり不幸であったか
この書は それを物語っている
されば この友の慰めとなるねがいは
折ごとに彼を忘るな ということなのだ
マリエンバート 一八二二年七月二四日
「折ごとに彼を忘るな」というゲーテの願いは、はたしてウルリーケに通じたであろうか。この日、七月二四日は、ゲーテが一か月余にわたるマリエンバートの滞在を終えた日である。彼女と別れた直後、彼は『アイオロスの竪琴』という一つの長い詩をつくった。ウルリーケにささげる詩であった。
日もわれにはものうく
夜の灯も無聊のかぎりである
やさしききみの姿を新たに描くことこそ
残されたただ一つの楽しみなのだ
風にふれればおのずから鳴りいずるというアイオロスの竪琴のひびきに、彼は恋の苦悩を託している。
翌二三年の夏、ゲーテは三たびマリエンバートを訪れた。この滞在によってウルリーケにたいする恋心がおさえられなくなる。数十年来の友カール=アウグスト大公を通して彼女に求婚する。ゲーテは七四歳、ウルリーケは一九歳である。五〇歳以上も年令の差のある結婚が世人の目にグロテスクに映るのは、全くやむを得ない。ゲーテの悲劇は、彼の愛情が彼女に通じなかったところにあ
る。彼にとっては情熱的な恋愛であっても、ウルリーケには、所詮ゲーテは畏敬と尊敬とをもって眺める親しいおじいさんにすぎなかった。
深い懊悩を老人の平静のかげにつつんでさりげなく彼がマリエンバートをあとにしたのは、一八二三年九月五日であった。ヴァイマルに辿りついたのは九月一七日である。そのあいだじゅう馬車の中でも、宿舎の中でも、彼はたえず詩作をつづけた。苦悩を表現することによって苦悩を忘れうるのは、詩人の特権である。ウルリーケにたいする失恋の苦悩も、これ以外に逃れるすべがなかったのだ。彼はわれわれに『マリエンバートの悲歌』という、きよらかにして深い、高くしてゆたかな愛の詩を残してくれたのである。
きよらかなわれらの心の底には
より高きもの よりきよらかなもの 未知なものに
永遠に名づけられぬものを みずからにときあかしつつ
感謝して すすんで身を委ねようとする努力が 高く波打っている
われらはそれを敬虔と名づける! 彼女の前に立つとき
わたしはこのような聖なる高さを 身にしみて感ずるのだ
愛人の美しさは私利私欲を焼きつくす光である。愛することは聖なる園に入ることである。ウルリーケは彼の手のとどかぬ天の門であった。老詩人の理性は、このように彼に教えている。だが、彼の情熱はなお青年のようにたぎっている。
されば涙よ 湧きいでよ そしてとめどなく流れるがよい
しかし この心の焔をしずめるすべは いずこにもありはしない
生と死がおそろしく闘っている
わたしの胸のうちは すでにはげしく狂い はりさけるばかりだ
古来詩人の数は多いし、比較的高齢にいたるまで詩作活動のつづいた詩人もけっして少ないわけではない。だが、七四歳になっても(島崎藤村の)『若菜集』のような若々しい詩情を持ちつづけた詩人は全く見あたらない。杜甫や李白には、恋の詩はない。深い人生観のにじみ出ている芭蕉の詩句にも、この恋の詩はない。四一歳にして奥の細道を旅した彼は、すでに芭蕉翁と言われていた。天成の詩人と言われたヴェルレーヌでさえ、晩年は全く頽廃してしまった。若いころ活躍した薄田泣董、蒲原有明、土井晩翠などのわが国の詩人たちを考えても、その後年の詩は著しくみずみずしさを失っている。
ゲーテが偉大なのは、何よりもこの人間の、あたたかいゆたかさにある。
* ゲーテは高齢であったが老耄してはいなかった。他の批評はどのようにも出来るだろうが、それだけは真実であったし、希有であった。愛欲でない、付き合いでもない、恋愛できる若い精神を喪っていなかった。
* いま一つ、わたしを感動させたのは、或る日本人、本家本元のヴァイマールやドイツ本国にも劣らない、まして他国のそれらに追随を許さないという、鉄筋地下一階、 七階建の瀟洒な「東京ゲーテ記念館」の存在と、創立者粉川忠さんの少年以来一貫したゲーテ愛の深さとすばらしさだ。なぜこんなすばらしい日本人の存在とその生涯のみごとさをわたしは知らずに今日まで過ごして来れたのだろう。いつか改めて触れようと思うが、渋谷道玄坂の上に戦後に建設され開館された、まさしく民間篤志の一組の夫婦のちからで起こされた「東京ゲーテ記念館」を、ぜひ先に、まずは訪れたいと思う。読みたいゲーテもたくさんたくさんある。かなり整った書店を探さねばならぬだろうが。
2011 12・5 123
* 夜前は、晩の内にはやく、寝つぶれるように寝入り、日付の変わる頃に目覚めて少し読書してから寝、三時頃にまた続きを読んでから寝た。朝寝に慣れてきているのは、生きようが淡くなりかけているのか。只怠けているのか。
自身の生本来に怠け性のあることに、わたしは国民学校のときから気付いていた。仕事はできるだけ早く集中して済ませて半時間でも長く遊びたい自分に気付いていた。だから、いつのまにそんなにたくさんな仕事が出来るのかと不審がられるほど、勤め人のころも物書きになってからも人に言われたが、要するに早く怠けて遊びたかったのが本音だろう、しかし遊んでなどおれなかった、東工大に行っても、ペンの委員や理事になっても。
よほど仕事していることが好きなんですねと言われ、自分でもあわやそうなのかなと思うほど寝食を忘れて多年過ごしてきた。わたしたちが、比較的ゆるやかにこの頃の日々を過ごせたり、先立つ五年の惨苦を集中して戦い抜けたのも、その余録で可能だったのは間違いない。いま、ようやく怠け性の天性を我が手にとりかえしているのだなと思う。
* 「病葉 わくらば」は感じにすると禍々しいが、存外に美しいと観ている眼もあるだろう、「紅葉舞秋風」の一行軸を最近ひとさまに譲ったが、日本人のことによろこぶ紅葉や黄葉もあれは「わくらば」の生態ではあるまいか。そして散り果てて行く。人もそれぞれに人生のわくらばで身を飾りしかもことごとく散らして冬を迎える。迎えているとわたしは自覚している。秋風が散らしてくれることも、自らの意志で振り払うときも、ある。身の回りを整理し始めていますのでとお便りのある例が、とみに増えている。むろん若い人たちではない、高齢、後期高齢の人たちだ、わく分かる。
人は、広い広い海に、我独りの足二つしか載せられない小さな小さな島に投げ込まれて、つまりこの世に生まれてきた。原点の本生だ。ただ、 不思議の愛と共感とだけがこの極小の島ひとつに、二人で三人で五人で十人やそれ以上にも載って生きているという高貴な実感・錯覚をゆるしてくれる。人生終晩の「整理」とは、つきつめればその「錯覚」の「実感」を確認する作業にほかならなう。
* 「バグワンて私」という二冊を送り届け、深く思い当たったような人もあり、戸惑って散っていった人もあった。バグワンが「秋風」の役をしてくれたとも謂える。バグワンとは、「錯覚の実感」をたしかめる試験液か。この数日も、むろんバグワンの声にわたしは聴いていた。聴き直していた。
☆ 真理は発見じゃない。 バグワンがタントラを語る『存在の詩』より。
スワミ・ブレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら
真理は発見じゃない
それは再発見だ
それははじめからすでにそこにあった
おまえがこの世界にやって来たとき
それはおまえとともにあった
おまえがこの世に生まれ込まれたとき
それはおまえとともにあった
おまえがそれなのだからーー
それはおまえに内在する
(ことわるまでもないが、ここに謂われる真理とは科学的な真理ではない。人間存在の真理、私は何か、人間とは何か、実存の真理である。 秦)
何度でも何度でも自分に言い聞かせなさい
おまえが何を修行しようと
それは小さな心の 分別や知解の一部分にしか過ぎないと
外なる周辺部に過ぎぬと
修行もいい 何も悪いことはない
実存に至りつきたいという
すべてのテクニックは役に立ちうる
が、みな暗中の手さぐりでしかない
言葉の最終的な意味において
おまえは深く静かに観照し観照するのだ ただひたすら
それはいかなね意味でもテクニックではないぞ
観照しそして覚醒せよ
最後には、おまえは笑うだろう 笑って至るだろう
それは観照し観照した最後になって「起こる」ことだ
早合点するな 最初から起こるのではない
再発見するのだ
裸眼で見つめなさい 知識では見えない
根を断て
裸眼で見つめると謂うことこそ 鋭い剣のような働きをする
あまり急ぎすぎたり
覚者ティロパの劇薬をあわてて飲み過ぎたりしたらかえって苦しむだろう
ゆっくり進むがいい
* わたしは分かっていない。いいのだ。わたしはまだわたしに出会っていないが、再発見していないが、ゆっくり行く。 2011 12・6 123
* 『濯鱗清流 秦恒平の文学作法』上下巻エッセイ47 48 『バグワンと私』上下巻通算107 108 『詩歌断想』通算109 と、五冊、ホームページの「宗遠日乗」から抄録し編纂した。かならず先ず跋である「私語の刻」から読み始めるという人多く、それにも最近の「日乗」を取り込んでいる。この日々に欠かしたことのない日録である「生活と意見 闇に言い置く私語」が、秦恒平の文藝として、創作として受け容れられているのを示している。心して書いており、この厖大で自在に遠慮なく書き積んできた「宗遠日乗」は、わたくしの最大の作物として死後へ遺せると思ってきた。
ただし「宗遠日乗」として集積してある分は、文字通りの雑纂、つまり書きっぱなし。
それを文学とかバグワンとか詩歌とかに集約するから「 湖(うみ)の本」 の一冊一冊として体を成す。それが出来るようになったのは、真実有り難い読者の精魂を込められた分類作業があったからだ。
全部が全部「 湖(うみ)の本」 にはしていられない、それだけで更に百巻を要するだろう。わたしは、いずれ、さきの読者の手で分類された形を斟酌し、『分類・宗遠日乗』をもこのホームページ中に立たせて置きたい。
2011 12・7 123
* ゲーテに推服し愛読した近代日本の大きな作家達は想像以上に数多い。鴎外、藤村、そして英文学に学んだ漱石ですら。樗牛、馬場胡蝶、平田禿木、戸川秋骨、星野天知ら、それに劣らずかの北村透谷も。そして、 紅葉も独歩も蘆花も実篤も倉田百三や木下杢太郎も。また長与善郎も山本有三も堀辰雄も亀井勝一郎も。
* しかし、ことに深くまた対照的に熱心にゲーテに接したのが、一人は憧れたというべき芥川龍之介であり、もう一人は自身と共鳴するものを体感していただろう谷崎潤一郎である。この二人のゲーテ観を星野氏は巧みに拾い上げている。
* 芥川は言う、「ゲエテは『徐ろに老いるよりもさつさと地獄へ行きたい』と願ったりした。が、徐ろに老いて行つた上、ストリントベリイの言つたやうに晩年には神秘主義者になつたりした。聖霊はこの詩人の中にマリアと吊り合ひを取つて住まつてゐる。彼の『大いなる異教徒』の名は必ずしも当つてゐないことはない。彼は実に人生の上にはクリストよりも更に大きかつた。況んや他のクリストたちよりも大きかったことは勿論である。彼の誕生を知らせる星はクリストの誕生を知らせる星よりも円まるとかがやいてゐたことであらう。しかし我々のゲエテを愛するのはマリアの子供だつた為ではない。マリアの子供たちは麦畠の中や長椅子の上にも充満してゐる。いや、兵営や工場や監獄の中にも多いことであらう。我々のゲエテを愛するのは唯聖霊の子供だつた為である。」
星野氏が「人生と文学とのかかわりあいにおいて、龍之介はゲーテを、『最大の多力者』と信じていた」と付け加えられたのは正しいが、龍之介の上の述懐自体には晦渋の気味がただよう。
他方で、谷崎潤一郎は、その著『雪後庵夜話』のなかで、自身の女性観を永井荷風のそれと比較しながら次のように語っている。
「対女性の態度でも( 荷風) 先生とは行き方を異にしていた。私はフェミニストであるが、先生はさうではない。私は恋愛に関しては庶物崇拝教徒であり、フアナチツクであり、ラヂカルで生一本であるが、先生はさうではない。先生は女性を自分以下に見下し、彼女等を玩弄物視する風があるが、私はそれに堪へられない。私は女を自分より上のものとして見る。自分の方から女を仰ぎ見る。それ
に値ひする相手でなければ女とは思はない。」
荷風との比較ではこのとおりだが、問題は微妙でわたしは全面的に谷崎が言うままには読まないけれど、谷崎が「値ひする」女に限っては女性礼讃者である点まちがいなく。その点、ゲーテとじつによく似ている。「ゲーテと言えば誰でも『永遠の女性』を想いだす」と星野氏が指摘されるのはその通り。そして「ゲーテも潤一郎も女性好きで、明るい。ふたりとも文章がのびのびとして一種のゆたかなリズムを持っている。こういう資性の一致が潤一郎をしておのずからゲーテ好きにし、彼を高く評価させている」のも間違いないだろう。谷崎潤一郎の次の一文はゲーテの特徴をたくみに捉え得た作家的な感想であるのも正しい。
「いつたい独逸文学は思想の重みが勝ちすぎて柔みが乏しく、何処か窮屈なトゲトゲしい気持があるので、どうも私には肌に合はないが、ひとりゲーテにはその風がない。真に悠々たる大河の如く、入江となり、奔湍となり、深淵となり、湖水となりして、千変万化しながらも、全体としては極めてゆるやかに、のんびりと流れつゝある。その文章は秋霜烈日の気を裏に蔵しつゝ、春風駘蕩たる雅致を以て外を包んでゐる。紅葉山人のようなのどかさと流麗さがあつて、而もストリントベルクの如き鋭さと激しさとを底に隠してゐるのである。バルザックは圧倒的であるけれども幾分鬼面人を喝するやうな気味合ひがあり、ドストイエフスキーは深刻であるけれども焦燥の
嫌ひが多分にある。たゞゲーテのみは焦らず騒がず、天の成せる麗質をそのまそこへ投げ出して、森厳な容貌に微笑を湛へてゐるやうである。品格に於いてはトルストイと雖(いへども)到底及ばない。われわれの如き群小の徒は大山岳に打つかつた如く、筆を投じて浩嘆之を久しうするばかりである。」
もとより繰り返してわたしは熟読してきた、谷崎先生のこの言を。的確、万端同感を禁じ得ず自身挙げられた他の大作家への感想とも微塵わたしは齟齬をおぼえなかったのである。
あの大谷崎が、「われわれの如き群小の徒」などと筆にされたのは生涯この一個所であった。それが、「大山岳」ゲーテに向かってであった。
2011 12・7 123
☆ 自己表現 福田恆存
おのれがおのれを表現しうるーーそんな安易な考へに頼つてゐるかぎり、われわれはせゝこましい告白のリアリズムから脱け出られぬであらう。われわれが敵としてなにを選んだかによつて、そしてそれといかにたゝかふかによつて、はじめて自己は表現せられるのた。 (「自己劇化と告白」より)
* むかしの自分の日記を見返していると、「闘う」「闘い」ということばで述懐しているときがある。たしかに闘う気と闘う姿勢とでなければ乗りきれない窮地や瀬戸際が絶えず在った。闘って自己確認していたのだと思い当たる。ますます闘いたい、とは願っていない。闘わなくて済むようでありたいと願っているが、福田さんの言われることは正しいのである。「おのれ」を安易に容認してしまうとき「表現」という行為は雲散し霧消する。それではろくな告白すらできず、愚痴に陥る。
2011 12・9 123
* とうに亡い人である四国の門脇照男さんの最後の短編集『狐火』のなかの「誕生日小景」を読んでいる。語っている作中の男はせいぜい四十二、 三。もう死をさえ予感して、陰鬱だ。いまわたしの息子がこの語り手より一つや二つ年嵩だと思うが、いつ顔をみても働き盛りの元気な若僧でしかない。わたしもその年頃なら、或る意味で日の出の勢いだった。現在のわたしでも、この小説の語り手ほど陰気ではない。しかしその小説をわたしは一字一句読み違えまいと注意して読んでおり、的確に書いてあると称讃さえしている。ただ、自分ではこうは書かない、こういうことは書かないし書けないという気持ちもある。だから、ことさらに心を寄せて読んでいるのだと思う。自分でも書けると思えるようなものは面白くない。逆だ。門脇さんのような私小説はわたしには書けないし書かないだろう。だから惹かれる。
2011 12・9 123
* 朝、東京新聞「筆洗」が目に留まった。
☆ 2011/12/14東京新聞【筆洗】
およそ現代アー卜には縁がないが、文化面の美術評に触発され、日本を代表するメディア・アーティスト三上晴子さんが制作した「欲望のコード」展(東京・初台)に足を運んだ ▼暗い展示室に入ると、ざわざわと音がして、壁に整然と並ぶ九十個のセンサーと小型カメラが一斉に動き、天井から吊された六基のロボットアームが追い掛けてくる ▼監視されている不気味さが消えない。撮られた映像は、インターネットで公開されている世界の監視カメラの映像とともにデータベース化され、昆虫の複眼のような巨大なスクリーンに映し出される ▼本来、人間が設定した目的のためにプログラミングされた監視カメラとコンピューターのシステムが、意志=欲望を持って私たちを監視し、記録し始めたら…。抽象的な作品に込められた意図を、本紙で児島やよいさんが解説していた ▼< 乗る降りる買うことごとく記録され我より我をスイカ知るなり> 吉竹純。少し前に東京歌壇に載った短歌だ。記憶ではなく、集積されたデータが行動を把握していることへの違和感の表明だろうか ▼ネットで書籍を買うと、蓄積されたデータから読書傾向が分析されお勧めの本を紹介するメールが届く。自分が一つのデータとなって格付けされているようで気味が悪くなる。そんな日常に慣れてしまってはいないか。自問を繰り返している。
* 2011/10.27『「 湖(うみ)の本』109「あとがきの末尾」に
生命力は明らかに減じている。生きて甲斐ある「日本の今日」かと問えば、内心はためらいなくノーと答える。足りないモノは足りないまま、もう、このままでよい。しょせん独りしか立てないちいさな「島」に生まれきて、幸い何人もの人たちと立てているのなら、それ以上を望まない。望むな、という奥深い声に聴いている。
「環境」ということばで久しく自然環境をばかり人は口にしてきたが、風光明媚の自然を堪能するときにも、人は魂の眼より各種の機械でそれを受容し、喜怒哀楽もケイタイ等で伝え合って、www という網に絡められることに「安心」を得ている。他と「機械的につながり」さえしていれば安心な時代とでも謂うのだろう。新しい機械が生産されると長蛇の列でとびついてゆく。しかし、そこから「私民」環境にどんな美事な成果があり得ただろう、何も思い浮かばない。「革命」 いっそそれなら歓迎するが。もう、「一人ある世界」は不要のようだ。一人立つなどというのは古くさくなった。広大なネットの網目に結ばれていれば安心なのだ。ネットが大事なので、人は、自分は、記号なみに漠然と繋がれていればそれで構わないのだ。環境とは、世界とは、機械のことであり、機械の網目に掴まれていれば世界民としての市民権は得ているわけだ。おお、マトリックス!?
わたくしは、やはり、 一人で、小説が書きたい。
* 上の二つの記事は、暗い深い痛みをわかち持ちながら呼応していないだろうか。
2011 12・14 123
☆ 自由 福田恆存語録『日本への遺言』 (編・中村保男 矢田貝常夫)
自由といふこと、そのことにまちがひがあるのではないか。自由とは、所詮、奴隷の思想ではないか。私はさう考へる。
自由によつて、ひとはけつして幸福になりえない。
自由といふやうなものが、ひとたび人の心を領するやうになると、かれは際限もなくその道を歩みはじめる。方向は二つある。内に向ふものと、外に向ふものと。
自由を内に求めれば、かれは孤独になる。それを外に求めれば、特権階級への昇格を目ざさざるをえない。だから奴隷の思想だといふのだ。
奴隷は孤独であるか、特権の奪取をもくろむか、つねにその二つのうち、いづれかの道を選ぶ。
(人間・この劇的なるもの・Ⅲ・五六一)
* 上の本は、言うまでもない二人の「編者」の理解を基盤に雑纂されたもので、「福田恆存」自編ではない。挙げられた言葉は間違いない原筆者の原文と認められる、が、切り刻んでの纂出は原筆者の作業ではない。言わず語らず現「編者」持ち前の寸法または好みで為されている。その限りでは読者の不満や誤解・誤読を導きかねない遺憾もある。上に挙げた一文は本書の巻頭を飾っている。編者の評価のほどが窺える。
しかし、このいかにもいかにも福田先生の語気と筆致と論鋒を伝えていながら、これをこれだけで読む人からは、瞬時の称讃とともに瞬後の不可解をも導くのではないか。
「自由とは、所詮、奴隷の思想ではないか。」
それだけのことは論法としては明快に説かれている、が、では「奴隷の思想」は不可なのか、仕方ないのか、は瞬時には読み取れまい。なぜなら、だから「自由」はダメと言われたか、「自由でなくていい」と言われたか、もし「自由でなくていい」「不自由でいい」と言われたとすれば、「不自由」こそは明瞭に奴隷の境涯ではないかという疑念の前に立たねばならない。
「自由を内に求めれば、かれは孤独になる。」
遺憾にも、その通りである。しかしそこに奴隷でない世界があることは、眞の創作者にしても科学者にしても宗教者にしても、知っている。彼らはそれを不自由とも奴隷の境涯とも思わずにむしろ自立している。なぜ、かれらが「奴隷」なのか。
自由にはたしかに、幾つかの側面があり、警句的な言表を操って人の意表に出た、鬼面人をおどろかす体の論説を呈すること可能であるが、それだけに軽々しくは読みも書きも言いもならない。自由は、言語で操れない。眞の価値は、言語で左右できない。自由に生きたいか不自由も構わず生きるか、でしかないだろう。
自由に生きたいなら、自由とは何かの問いへ戻るのであるが、屁理屈を言えば、人には奴隷として生きる自由もあるさという事になる。不自由けっこうと言う自由もある。そんな議論には、だが、意味がない。
福田先生は、同じ本の、 次の頁、次の掲出文中で、「眞の自由」を、「ーーすなはち対象と合一して、対象とともにある生きがひをーー」と言い替えておられる。
これまた、フクザツを内包して、ピンからキリまで、いろいろに読み取れてしまう。言葉通りに最も端的に「すなはち対象と合一して、対象とともにある生きがひ」を言うなら、性のオーガズムの絶頂(ムドラー)こそそれだとも言える。それを世界大にまで拡大すれば、「採菊東籬下 悠然見南山」とか「相看両不厭 只有敬亭山」とかいう、いわば「天我契合」の極致( マハームドラー) の境地こそが「眞の自由」と謂えるのだろう。だが、思い切り跳ね返って盗人にも悪事にも利権政治にすらも「すなはち対象と合一して、対象とともにある生きがひ」は強弁できる。
福田恆存は稀代の論客であったし、その真率と的確とは疑いないが、論旨を深切に体する以前に、読者や編者が、勝手な好みのママに部分をただ小さく切り取ってしまうと、サマにならぬ誤解や短絡に陥ること、よほどよく知っていないと危ない。
2011 12・16 123
* 妻の手で電子化された「秦恒平・参考文献」の「書評」「批評」「世評・アナウンス」「論攷」「事業」別の未校正スキャン原稿が、まだ一部であるが、すでに厖大量実現している。来年にも引き継がれる作業だが、これらによってわたしの「仕事」が相対化される。ほぼ全部が、作の発表公開とほぼ同時期の批評で。これで作と、作の受けてきた批評とが、相呼応して保存できる。
ただこれからスキャン原稿を厳密に校正し、作と対応して順序に応じて整頓しなくてはならない、それまたたいへんな作業量。
2011 12・25 123
* ほぼ終日、思い立って『千載和歌集』に関わっていた。千載和歌集の時代というまとまった原稿も書き下ろした。「書いて」いると時間がはやく過ぎる。早めの朝に書き始めると早起きの徳も納得できる。
なぜ千載集が好きなのだろうと問うのは、自分自身を問うのとほぼ同じい思いがする。
片方で東北の人たちの辛苦艱苦に泣く思いすらもち、東電のエゴイズムや原発の成り立ちひいては御用学者への怒り、野田政権へのもう引き返しようのない不信感などを抱きかかえていると、額の真上まで黒雲が被さってくる。立ち向かう姿勢は捨ててはならないが、愉快でない。愉快でなくてもやはり立ち向かわねばと思うに連れて、わたしなりの「理世撫民」をわたし自身に対し計らねば済まない。千載和歌集がかっと目の前に立ってくる、そういうところが、わたしである。
「理世撫民」は、千載集勅撰を意図した後白河院の表向きの建前であった。院が、あの建礼門院右京大夫の恋人であった平資盛を院使に、藤原俊成に勅撰和歌集を命じて院宣をくだした寿永二年二月。その二ヶ月後には早や挙兵した木曽義仲軍により、越中礪波山で平家方は大敗し、七月には都落ちしているのである。歌人忠度が馬を返して俊成の門を敲いて自歌巻を托して去ったのがその時だ。
* 歳末。すこしずつだが、迎春のためにも手足を動かしている。卯は、辰に場所を譲る。玄関には、むかし大河内さんに原稿料の代わりに戴いた「龍」の印池を置いてみた。
わたしたちのように正月を現住の家で過ごす人ばかりではない、わたしたちも昔は苦心して東海道線に乗り京都の親の家で正月を迎えた。楽しみであった。しかしいつしか京都の年寄り達をわが家にみな迎えとって、以来、どこへも動くに動けず、動く気にもならなくなった。
いまごろ自家用車を駆って、自動車道を東西南北へと走っている若い人たちが、新幹線に乗った人たちが、列島に溢れていることだろう。
わたしは、もう同報で数百人に年賀を申すこともしないし、賀状も出さないで許してもらっている。明日は蛤を買いに池袋まで出るが、その余は特別なにをする気もない、「書きたい」書き物に向き合い、読みたい本を読むだけ。明後日は大晦日、明けて元日、寝て二日。ありのそのままに時は過ぎて行く。
そうそう。ありそうなものと二階廊下の書棚から、國漢文叢書第四、五編の『和漢朗詠集註』上下之巻、詩文の註は永済、和歌の註は北村季吟という二冊が見付かった。袖珍版で、背はきつく傷んでいるが、手に馴染んで読みやすい。明治四十三年六月七月の刊で、版元は寶文館。手にとって読もうとしたのは最初のことで、古典全集版の重量がなく、それが嬉しい。歳末から年始への気の弾みになりそう。漢詩は、原作漢語表記のまま、和語にうつすように読み下しており、諷詠の趣に惹かれる。たとえば、紀淑望の作とも唐土の公乗億の作とも言われる「内宴進花賦」は
かぜを逐ひて潜かに開く芳菲の候を待たず。春を迎へて乍ち変ずまさに雨露の恩を希はんとす。
と読みかつ朗詠されたらしい。平安物語の引歌ならぬ引詩は大方かかる読みで貴公子たちの口にのぼっている。
2011 12・29 123
* 源氏物語の源氏薨去を暗示した「雲隠」以降「宇治十帖」の始まるまでの、「匂宮」「紅梅」「竹河」三帖は、明らかに筆致も語りの調子も、紫上逝去後を切々とものがたる「幻」の巻までとは異なる印象がつよく、別筆を疑う論者がいても仕方ないと想えるので、通読の際も何と無くさあっと通り過ぎてきた。しかしまた「匂宮」巻など、のちの宇治の物語のためには不可欠の「前置き」になっている。軽率に読んではいけない。
「紅梅」巻を読んでいて、面白い叙述に目を留めていた。
「紅梅」とは、亡き「柏木」次弟にあたる按察使大納言で、亡くした北の方に大君、 中君の二人を産ませ、後添いに得た妻の真木柱にも一人の姫の連れ子「宮の御方」がある。あの玉鬘に執心していた蛍兵部卿宮は、想う人をあっさり鬚黒大将に掠われ、縁は異なもの鬚黒の長女である、玉鬘の義理の娘となった真木柱を妻にして、上の、「宮の御方」を産ませたのだったが、蛍宮は亡くなり、残された真木柱と娘の宮り御方は今は紅梅大納言の妻であり継娘となっている。かつて六条院の光源氏が娘ならぬ娘として育てていた美女玉鬘、あの夕顔の忘れかたみにかなり熱く懸想していたように、紅梅大納言も宮の御方に、妻の連れ子に、まだかすかながら想いを寄せている。東宮妃に上がった大君の後見に宮中に付き添って継母真木柱が不在の留に、なにとはなし大納言は宮の御方にちかづいて、さかんに昔のよき時代を回想して聴かせたりしている。彼には、亡き六條院の光源氏や父太政大臣らの昔が、懐かしくも誇らしくてならない。輝かしい盛時聖代の大立て者達は、そして紫の上も、もう此の世の人ではない。しかし、光や紫や父大臣らを、また蛍宮などを、こうして偲びに偲んで歎いている者も数多いのだ。
そこで大納言は、こんなふうに言う、「おほかたにて思ひ出でたてまつるに、胸あく世なく悲しきを、け近き人の後れたてまつりて生きめぐらふは、おぼろけの命長さならじかしとおぼえはべれ」と。
あれほどすばらしい人たちと一時代を倶にしながらみな亡くなられてしまい、輝かしい想い出ばかりにこうして生きているなど、かれもわれも、長生きはかえって重い負担ですね、と。
「おぼろけの命長さならじかしとおぼえはべれ」とは、なべて死なれまた死なせて生きている者達の心底の嘆息に他ならない、まして大震災や大津波に泣いた人たちには、痛いほどのこれが実感であるだろう。いやいや、こんなわたしにしても同じ事。先立っていった人たちの顔や声が切実に甦ってくる。
これにひきついで、更にもう一つ付け加えておこう、同じ「紅梅」大納言のさきの問わず語りを受け、地の文は、彼が、「もののあはれにすごく思ひめぐらしたまふ」と見定めている。この「すごく」を編註者は「索漠たる気持ち」と説明しているが、もっと深く濃く胸を剔って懐旧にも悲歎にも堪えがたいのである。「すごし」「すごい」とは、もともとこういうふうに用いられる語なのである。 2011 12・30 123