ぜんぶ秦恒平文学の話

文学作法 2014年

 

 

* 『みごもりの湖』の初校を進めた。

そして、やはり元日だからこその思いから、下記を心して書き写しておく。

 

☆ ゆりはじめ『太宰治』より  2004の著

5  国粋主義の横行

社会的潮流というものがある。一九三〇年代後半、昭和十年代は大正リベラリズムの退潮が完成し、さらにはっきりしたファシズムの道を歩みだした時期である。ムソリーニのイタリア、ナチス・ドイツと組んで自ら戦禍の元凶となり、世界の民主主義国家の指弾を

浴びた日本は、国粋主義の横行で政治の主導権は暴力的軍隊の容喙する脆弱な為政者の集団に任された。

当然ながら、強権をもちいて知識人、文化人の思想的な自由を奪い去っていた。太宰治の転向も、そしてその後の小説の世界も退潮した世界の反映である。さらにいえば、その時代のあらゆる小説作品は何らかの形で、また何らかの重圧を受けているといえるだろう。

一般に、文学史家の当時の記録を読み込んでいくと、アナとボルとの対立などが平野謙あたりによって精細に解かれているが、そのような[傾向]の帰結などが重要なのではない。問題はたとえば、もっとも戦中を文学的に切り抜けたといわれる太宰治の作品に、次のようなものがあることをどのように考えればいいのか。

 

私は、このごろ、どうしてだか、紋服を着て歩きたくて仕様がない。

けさ、花を買つて帰る途中、三鷹駅前の広場に、古風な馬車が客を待つてゐるのを見た。明治、鹿鳴館のにほひがあつた。私は、あまりの懐かしさに、馭者に尋ねた。

「この馬車は、どこへ行くのですか。」

「さあ、どこへでも。」老いた馭者は、あいそよく答へた。「タキシイだよ。」

「銀座へ行つてくれますか。」

「銀座は遠いよ。」笑ひ出した。「電車で行けよ。」

私は此の馬車に乗つて銀座八丁を練りあるいてみたかつたのだ。鶴の丸(私の家の紋は、鶴の丸だ)紋服を着て、仙台平の袴をはいて、白足袋、そんな姿でこの馬車にゆつたり乗つて銀座八丁を練りあるきたい。ああ、このごろ私は毎日、新郎(はなむこ)の心で生きてゐる。 (昭和十六年十二月八日之を脱稿す。この朝、英米と戦端ひらくの報を聞けり。)   「新郎」

(「新郎レ)

この作品は太宰の作品のなかでも次に紹介する「十二月八日」とともにかなり異色の作品である。私という主人公は、時節柄家族のことを考えて食事に贅沢をしないことを誓っている。要するに我慢をしているのだ。このモノローグは 「一日一日を、たつぷりと生き

て行くより他は無い。明日のことを思ひ煩ふな。明日は明日みづから思ひ煩はん。けふ一日を、よろこび、努め、人には優しくして暮したい」という心情にある。

さらに隣室の子供の泣き声に「不器用に抱き上げて軽くゆすぶつたりなどする事がある。子供の寝顔を、忘れないやうに、こつそり見つめてゐる夜もある。見納め、まさか、でも、それに似た気持もあるやうだ。……外へ出ても、なるべく早く帰つて、晩ごはんは家でたべる事にしてゐる。食卓の上には、何も無い。私には、それが楽しみだ。何も無いのが、楽しみなのだ」という日常の生活の細部が描かれる。この主人公は学生の客などが多く訪れることから、太宰の自画像を暗に示している。

後書きであえて強調している十二月八日はいわずと知れた一九四一(昭和十六)年のそれである。太宰はこのような両義性のある作品をものしている。食卓の上に何も無いことが、何ゆえに楽しいのか。それを考えると、迷路にぶつかる。開戦に高揚した心理の裏に、現実を見つめる冷静な目を沈めている。

 

我慢するんだ。なんでもないぢやないか。米と野菜さへあれば、人間は結構生きていけるものだ。日本は、これからよくなるんだ。どんどんよくなるんだ。いま、僕たちがじつと我慢して居りさへすれば、日本は必ず成功するのだ。僕は信じてゐるのだ。新聞に出てゐる大臣たちの言葉を、そのまま全部、そつくり信じてゐるのだ。思ふ存分にやつてもらはうぢやないか。いまが大事な時なんださうだ。我慢するんだ。     (「同」)

 

という妻との会話のなかに込められた、自虐的に思われるまでの食料の不足を何とか肯定しようという思いは繰り返し反響している。

「我慢せよ」というスローガンを太宰は信じ込んでいたのであろうか。なぜならば、わざわざ再び後書きでこの文章を書いた日にちを強調している彼の姿勢には何か軽薄に浮き上がっているものがあると思わざるをえない。家紋の[鶴の丸]を付けた紋服で銀座を歩きたいという心情はすでに現在では噴飯ものとしか言いようがないが。

長い視点をもって冷静に考えれば、太宰はかってのマルクス主義の洗礼を受けた自分自身を、すでに完全に放棄していたのではないか。それを生活のためというならば、彼のこれまで描いてきた放蕩無頼と、反権力の観念はいったい誰のため、何のためにそれを行なったのか。それが自覚的なものでなかったならば、彼の自律的な思想とは成り得ていなかったということができよう。

歴史の大渦はこうして太宰に十二月八日に関する風変わりな二つの作品をもたらした。

 

けふの日記は特別に、ていねいに書いて置きませう。昭和十六年の十二月八日には日本のまづしい家庭の主婦は、どんな一日を送つたか、ちよつと書いて置きませう。

もう百年ほど経つて日本が紀元二千七百年の美しいお祝ひをしてゐる頃に、私の此の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしてゐたといふ事がわかつたら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。   (「十二月八日」)

 

これもまた、太宰の脳裏をかすめた一瞬の感動というようなものであったのだろうか。注釈を加えておくならば、この中にある紀元二千六百年とは、一九四〇(昭和十五)年のことで、この年は神武天皇が大和の橿原宮に即位してから二千六百年に当るとして盛大な祝賀行事が行なわれた。

教育の現場を重視していた文部省は学校にも手を広げ、当時の児童たちは次のような歌を唱わされた。

 

金鶉輝く日本の

栄えある光り身に受けて

今こそ祝えこの朝(あした)

紀元は二千六百年

ああ、一億の胸はわく (鳴る? 秦)

 

明治五年に時の政府は維新統一の後に、天皇制を強固にするためにわざわざ皇紀という呼称でその連続性を誇示した。その流れのなかでいわば頂点ともいうべき時期が一九四〇(昭和十五)年という年であった。

翌年が太平洋戦争の開始である。太宰の作品がこの二千六百年と真殊湾攻撃の二つを克明に記憶するために、そして百年後の土蔵の中で発見されるのを半ば期待して日記を書くという設定は、その戦時の妻の日記という形態を借りながらまさに太宰の内部の真実を書きとめたということにまずは間違いがない。この浮き上がったような心理を書き残したことはありのままを映したということにおいて、むしろ太宰の栄光であろう。浮き上がった心情は何も太宰だけが感じたものではなかった。

「十二月八日」の当日はどうか。文学者たちは、太宰治の範疇をはるかに越えた激動に捉えられていた。一般社会人もまた、当然ながら資源確保のための領土を獲得する侵略を唱い上げるジャーナリズム(そこには強い軍部の指導があったのだが)に翻弄された。要するに、客観的に国際情勢を判断する情報を断ったまま、為政者に都合のよい一方的な操作をして報道するというナチスばりの方法を取った。

それでなくても、閉ざされた言語の日本語をもって作品を書く宿命にある日本の文学者が示す反応に、先祖返りの古代への願望があったとしても不思議ではなかった。

 

[轟沈]         斎藤茂吉

クワンタン沖に神集ふまたたくま

わが空軍はとどろきわたる

罪深くおどおどとして北上せる

敵機と闘艦はたちまち空し

 

[洪濤]         会津八一

すめろぎのみことかしこみみなわにぞ

あだのくろがねかくろひにけり

ますらおのひとたびたてばイギリスの

しこのくろがねみずきはてつも

 

[戦争と平和]     小林秀雄

戦史に燦たり、米太平洋艦隊の撃滅、という大きな活字は躍り上がるような姿で眼を射るのであるが、肝腎の写真の方は、冷然と静まり返ってゐる様に見えた。模型軍艦の様なのが七隻、行儀よくならんで、チョッビリと白い煙の塊りを上げたり、烏賊の墨のやうなものを吹き出したりしている。

そして今彼が眺めてゐる美しい海に、漁船が水脈を曳いて行く。

さうだ、漁船の代わりに魚雷が走れば、あれは雷跡だ……

 

[呼びかける]     堀口大学

亜細亜九億の同胞よ

いま東洋の夜は明ける

 

それはあまりに素晴らしく

それはあまりに美しく

 

君らが夢にもみなかつた

大きな夢を実現し

見事に明ける朝明けだ

 

[大東亜戦争短歌抄]    北原白秋

天皇の戦宣らす時おかず

奮ひ飛び立つ荒鷲が伴

国いまぞ挙げて戦ふ必定は

筆に死にせむ奮へ我がどち

 

[マニラ陥落]    中村草田男

南進の二の丸抜きし初便り

松の内赤子(せきし)は勝てり椰子の下

 

[戦勝の祝詩]      高村光太郎

あのざつざつといふ音は何だ

あの轟々たるとどろきは何だ

あの堂々として整然たるひびきは何だ

 

シンガポールだ

皇軍シンガポール入城を耳が想ふのだ

堂々そして整然たるあのひびきの中に

一切の決意と栄光がある

 

これらも十二月八日を書いた文学者の実態である。

 

6   暴力国家″下の文士たち

太宰治の開戟日の作品に「浮き上がった感覚」を感得するのは私だけではないであろう。むろん表現は制限的なものを多分に示してはいるが、突然に起きた太平洋戟争に鋭く反応する市民の状況が太宰の作品にも現れている。

戦後文学作品では加賀乙彦著『錨のない船』のなかに、時の特命全権大使栗栖三郎が緊迫の日米関係という十字架を背負って同役の野村吉三郎と和平に努力する姿が描かれている。しかし、まるで最近の秘教集団のように、すでに天皇を前にした御前会議で

最近、私は 『日本海軍の驕り症候群』(千早正隆著)という本を興味深く読んだ。筆者は連合艦隊の参謀であった人だが、この種の回顧談のなかでは、抑制の効いた文章である。驚くことに戟艦大和の建造にかかわるほどの士官であった彼でさえ、真珠湾の攻撃は寝耳に水の事件であったという。

彼の論調は海軍内部に棲みついた [驕慢]が判断を狂わせてゆき、巨大組織の崩壊を招いたというもので組織の内部にいたものでなければ知りえない事情も交えたものである。このように、交渉の当の大使にも知らせず、また内部の軍人にも知らせずに事を運ぶ秘密主義が横行していたことを立証している。

開戦の朝の市民たちの愕然とした反応は当然のことであろう。当時の国民学校三年であった私の場合でさえも、朝七時に日本放送協会の臨時ニュースで、軍艦マーチに乗ったアメリカ太平洋艦隊撃滅の報を聞いたのち、学校に行く道すがらもそして教室でも友人、

教師との話題は対米開戦と真珠湾の奇襲成功であった。攻撃をかけた米国戟艦オクラホマ、ネヴァダなどの名と形態を覚えたりするのも、侵略したアジア各国の地図を児童が赤く彩色するのとともに地図にかこまれた洗脳教室の恐るべき日常であったわけだ。

この時流に、はつきりノンを唱えていたのはわずかに永井荷風ぐらいのもので、文学者の大勢は戟争への坂道を転がるように参加、協力の道を辿った。

 

二月十一日(一九三二・昭和七年…:注ゆり)

雪もよひの空暗く風寒し。早朝より花火響き聞こえラヂオの唱歌騒然たるは紀元節なればなるべし。去秋満州事変起こりてより世間の風潮再び軍国主義の臭味を帯ぶる こと益々甚しくなれるごとし。

 

……陸軍省にては大にこれを悪み全国在郷軍人に命じて『朝日新聞』の購読を禁止しまた資本家と相謀り暗に同社の財源をおびやかしたり。これがため同社は陸軍部内の有力者を星ケ丘の旗亭に招飲して謝罪をなし出征軍人義捐金として金拾万円を寄付 翌日より記事を一変して軍閥謳歌をなすに至りし事ありしといふ。ここ事もし真なりとせば言論の自由は存在せざるなり。かつまた陸軍省の行動は正に脅嚇取材の罪を犯すものといふべし。     (永井荷風「断腸亭日乗」)

 

ジャーナリズムに対する軍の脅迫。まさに容易ならざる事態の瞬間を荷風は情報として把握していたのであろう。評論家中村光夫によれば「狂気の文学者‥水井荷風」(『百年を単位として』)という酷評だが、本物のヨーロッパ帰り永井荷風は真実を看過しなかった。それからほぼ十年。太平洋戦争の[市電の中で演説する男]を冷笑する荷風はいよいよ孤立の道を歩むほかはなかった。

一九四二(昭和十七)年には名高い日本文学報告会の発足である。これは社団法人組織で当時の情報局の直接のお声がかりである。それは五月二十六日の設立総会の経緯に注目すれば明らかであろう。情報局次長の奥村某が役員指名をした。常任理事・久米正雄、理事・長与善郎、柳田国男、吉川英治、菊池寛、上司小剣、川路柳紅、山本有三、自柳秀湖、佐藤春夫、窪田空穂、水原秋桜子、折口信夫、辰野隆、などが指名された。

中島健蔵の「昭和時代」を読むと、文学者のなかにも情報局のスパイのような人物がいて、文学者の一覧表を作成しその名前の上に、印をつけて提出したらしい。その区分は左翼、自由主義、革新というものである。「……ある文学者が、文士のブラック・リストを情

報局へ提出したというのである。その本物を、こつそり情報局の机の引出しから盗み出して写した人間がいる。……その上に白丸と半黒丸、黒丸とがついている。」

実行したとされるのは怪奇な行動をするので定評のあった小説家であったが、要するに完全な文人仲間への裏切り行為である。こうなると、文人の世界も情報局という市場をめぐつて醜悪の極みの様相を呈してきた。

六月十八日の発会式には徳富蘇峰が会長に指名され、来賓の東条英機が挨拶、彼の資格は内閣総理大臣・大政翼賛会総裁である。さらに情報局総裁谷正之、文部大臣橋田邦彦が続く。文学者側は吉川英治が「文学者報道班員に対する感謝決議」を朗読した。

吉川英治がした[感謝]がのちに文学者が実際に体験するた報道班員としての実体験とどう照応するか、これはもういうまでもない。

マレー方面

神保光太郎、中村地平、寺崎浩、井伏鱒二、中島健蔵、小栗虫太郎、大林清、北川冬彦、海音寺潮五郎など。

ジャワ・ボルネオ方面

大宅壮一、阿部知二、浅野晃、北原武夫、寒川光太郎など。

ビルマ方面

山本和夫、岩崎栄、清水幾多郎、北林透馬、豊田三郎、高見順など。

フィリピン方面

石坂洋次郎、尾崎士郎、今日出梅、火野葦平、上田広、三木清など。

海軍関係

石川達三、海野十三、丹羽文雄、村上元三、

 

これらの文人が戦地にばらまかれた。メンバーの組み合わせはまことに種々雑多で、しかも陸軍と海軍とでは遇するに違いがあり、陸軍の扱い方はもう非国民扱いの最たるものであったようだ。陸軍と海軍の待遇の違いはそのまま、文化に村するメンタリティの相違を物語る。

エピソードを紹介すれば井伏鱒二はシンガポール攻撃に付き合わされたが、司令官の山下奉文大将にその行動を見とがめられて大声で叱責されるという不快を味わっている。また今日出梅が書き残した実態を語る文章がある。

 

呉の港で汚い輸送船の日の目も見ぬ船倉に積み込まれ、毛布一つない藁の上に胡座をかいてみると、流石にがっかりして「こいつァ非道い扱いだ」と嘆息を漏らした。

我々は暗い船倉で歯の根も合わず、お互いに身体を擦り寄せて、体温で暖をとり、新聞記者の差し出すウイスキーで元気をつけていた。石渡(石坂洋次郎氏)は酒は一杯も飲まぬので、見るからに手持無沙汰そうなだけではなく、実際痩躯を石炭のカマスに包んで震えている様はおコモ様そっくりで哀れを催したものである。これでは全く流罪地に送られる処刑囚の姿である。    (今日出海「人間研究」

 

* ああ、元日にこれをこう永く引用した気持ちを汲む人は汲んで欲しい。迫る、国民の最大不幸は、ガンとして願い下げにはねのけたい、そのためには一人一人に何が大事か。考え合い力を協せねば。

2014 1/1 147

 

 

* 医学書院の上司(編集長)であり、森鴎外記念館館長で近代文学研究の泰斗と目された「長谷川泉」さんが、自署してわたしのために書いて下さった色紙「 啄」二字を、秦建日子に与えた。勤務の間にもわたしは長谷川さんの背中を観ながら、あの社内激務の人にして文学研究の厖大な仕事が出来るのだ、自分も出来ると思い思い小説を書き始め、太宰治文学賞から招待され自立していった。云うまでもない「 啄」とは、一つの卵殻を雛は内から、親は外からつついて生まれ出る意義であり、その気合いの相互いに機を一にするのを「 啄同機」という。親と子との機にこと寄せてこれは師弟の相成る機微を謂う熟語。

いつしかに長谷川さんが私を信じ認めてくれていた允可のような色紙であり、それに同じい気持ちを(まだいくらか早いとも思うけれど)秦建日子に伝えて置きたくなった。

色紙はたまたま一人の「長谷川泉」が代表してくれているが、無名も無名、応募すらもしていなかった小説『清経入水』に、どんな縁あってのことか、満票で太宰賞に選んで下さった選者、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫の諸先生もまた、身の引き締まる「 啄同機」を証して下さったのである。思えば生涯に、何人も何人も小さな卵の殻をまさに親心で外から割って下さった諸先輩がおられた、作家・藝術家にも、批評家にも、研究者・学者にも、また願ってもない「いい読者」の中にもおられた。

とはいえ、それでも本当に大切なのは、卵の殻を真摯に内側からつついて割って翔び起とうとする雛の誠実と気力と勉強であるだろう。宝であった一枚の色紙「 啄」「長谷川泉」に、深い思いと望みをこめ息子に伝えたのである。

2014 1・3 147

 

 

* それがあなたの「常識」か?   浅田次郎氏に糺す

 

現に日本ペンクラブ会長である浅田次郎氏の、「東京新聞」一月三日朝刊のコラムを読んで、首を傾げた。なんとなしまともなようでいて、あとへ行くほど、いいかげん無茶に間違っている、わらってしまった。いや、書き手が書き手、思想言論表現の自由を守ろうという団体の旗手が書き手だけに、とても、わらって済ませない。中でもひどく気になった「一文の結び箇所」を挙げて、同じペンクラブに身を置く一会員として会長に厳しく抗議しておきたい。。結びの文は、こう始まる。

「明治-昭和初期は、政治家が国民を見下すようなことはなかった。今は裕福に育ったエリートばかりで政治が劣化した。」

どこを押すとこういう認識になるのか。「明治-昭和初期」そして「今」というアイマイな捉えように筆者のルーズは露呈しているが、使用されている文字どおりに、「明治元年(一八六八)から昭和二十年(一九四五)敗戦(=昭和六三年の三分の一弱なら、初期、中期、末期の「初期」に当たるだろう。)まで」と読み取っておく。

では、この八十年足らずの明治-昭和にあって、「国民の苦労を知る政治家が多かった」と云える徴証、「政治家が国民を見下すようなことはなかった」と云える徴証を、浅田氏は明かせるのか。そもそも浅田氏の筆になる上記には、意識してか無意識にかあざとい仕掛けがすぐ見てとれる。もしここで、「国民の苦労を知る政治家もいた」「国民を見下すようなことのない政治家もいた」と云うてあるなら、わたしもあっさり諒承する。明治から昭和初期までに「政治家」を自任した人数ははかり知れず、そのなかに仮に幾人かずつでも善い政治家、悪い政治家の実例が実名で拾い出されても、なんら驚くに当たらない。

しかしながら、よく読んで見よう、浅田次郎氏はここで、前者には「多かった」と判定し、後者では「なかった」と全否定している。露骨かつ手前勝手に我が田に水を引いていて、「悪宣伝」の最たる手法と云うしかない。

では、事実はどうだったか。浅田氏のいうような例で、もし、「国民の苦労を知る政治家」「国民を見下すようなことはしなかった政治家」として、仮に何人かずつ実名が挙がったとして、こと「政治と国民」との問題としてはそんな個別の善し悪しだけで説得しきれるものでなく、すべきでもなく、真剣に議論したいなら、その時期・時代に、日本の「政治家たち」がいったいどんな「法律」や「政策」で「国民のため」を図ったか、または「国や国民の利益を裏切り苦しめたか」をまともに問われねばならない。「政治家」の「国民」に対する善政・悪政は、「法や政策」の観点から評価するのが本来であり適当なのである。

では「明治」以降「昭和初期」までに、国民を圧倒的に支配し抑圧し思うままに引き回してしまった典型的な「法」は、いったい何法だったか。確言してもよい、「欽定明治憲法」を第一に挙げざるをえない。あの「国の犯罪」としてフレームアップ(でっちあげ)も甚だしかった「大逆事件」や後の「横浜事件での」、あのすさまじい検挙、拷問、処刑等々はあれは何であったのか。あれらの被告たちは「国民」ではなかったのか。

明治憲法制定前後の「讒謗律」や「新聞条例」にも、言論表現の自由の現に「楯」であるペン会長浅田次郎氏は、まさかあれらが国民を「見上げた」国と政治家たちの政治だったなどとは云われまい。真に「国民の国民による国民のための」善い法、有難い法として何があったか、浅田次郎氏は「国民を見下さず」「国民の苦労を知る」政治家達の政治を具体的に挙げて前言を立証してもらいたいが、出来るのか。軍人と政治家を安易に別扱いされては困る。陸軍海軍の大将たちも総理や大臣として政治していたのを忘れまい。

そもそも政治家のいい、わるいの「「多かった」「なかった」などしょせん無意味であり、昭和にまで国民生活に悪影響を及ぼし続けたそれら迷惑な過去の法律や政策を施行してきた「政治家」「行政官」たちに、国民の裨益・福祉ゆえの感謝状なぞそうそう浅田氏のように気前よくは出せまいと思うが、如何。

 

さらに輪を掛けて奇妙な浅田次郎氏の言説を次に読んで、あまりに情けない問題にしたい、氏は臆面もなくこんなことを云っている。

「私は陸上自衛隊に所属した経験を基に作品を書いたことがあるが、(この以後の政治状勢では=)書けなくなるかもしれない。内容に問題がなくても、政府が私を邪魔だと思えば身柄拘束できる法律(=特定秘密保護法案など)になっている。書いても国のためにならないと思うことは、書かなかったり表現を曖昧にしている。われわれ国民は、そのくらいの常識は持ち合わせている。」と浅田氏は殊勝げに云うのだが。

小説家「だから、なにもかも書く」などということは、当然、ない。但し浅田氏の云うているような意味では、決してない。書くと決めた人は決然と書き、書かないと決めた人は真に書きたいことを別に書く。それがまともな文学者の真摯な気持ちであり、かりに「断乎として書く」人の場合、「書いても国のためにならないと思うことは、書かなかったり表現を曖昧に」するなどという恥ずかしい情けない意味ではない。真に小説家なら、書くべしと思えば筆は枉げない、「国のためにならないと思うこと」も書くし、卑屈に国や政治家におもねって「書かなかったり表現を曖昧にする」ような真似はしない。文学者は永井荷風のように「書かない」か、小林多喜二や宮本百合子のように「書くべきは書こうとする」のであり、浅田次郎氏のような迎合にちかい姿勢でなど、小説にも批評や論説にも立ち向かいはしない、少なくも絶対したくないのである。浅田氏の流儀が法と悪政に後押しされれば、原発ゼロを言ったり書いたりもしにくくなり、しなくなる。浅田次郎氏のような異見の持ち主が言論表現団体のトップにある寒々しさには、ぞっとする。

「われわれ国民は、そのくらいの常識は持ち合わせている。」と浅田氏は云うている。浅田氏はここでもまた露骨に誤魔化している。「小説家」が小説等を「書く」話をしていながら、急に「われわれ国民は」と、自分の荷物を「国民」の名に肩代わりさせている。これは「国民」の基本の権利である「言論表現の自由」を「国」ないし「政治」や「法」の前に貢ぎとして奉る、捧げる態度に他ならない。国と政治はしかるべく栄誉や勲章を用意するのであろう。

もう一度、問う。なぜ、「国のためにならないと思うことは、書かなかったり表現を曖昧にしている。われわれ国民は、そのくらいの常識は持ち合わせている。」とまで浅田氏は、なぜそんなへっぴり腰になるのか。何故にそれが「創作者」「表現者」「小説家」「ペンクラブ会員」としての「常識」などと言えるのか。それこそが「非常識」そのものではないのか。それとも真の文学作者と消耗の読み物作者とでは、「言論表現の自由」が別モノなのか。休み休み思案して言うてもらいたい。

 

* ちょっと見逃せなくて取り上げた。一日の夜に延々と書き写した「ゆり はじめ」さんの文章と読み合わせて貰えれば、意味の危なさはくっきりと分かるだろう。

 

☆ 「9条にノーベル平和賞を」  東京新聞 一月三日朝刊

 

一人の母親の運動 広がる  推薦資格持つ教授らも賛同

 

戦争放棄を定めた憲法九条にノーベル平和賞をーー。神奈川県の女性が一人で始めた運動がある。荒唐無稽のようだが、ここにきて現実味を帯び始めた。ノーベル委員会への推薦資格のある大学教授らが協力を表明したのだ。 (出田阿生記者)

 

このアイデアを思いついたのは、神奈川県座間市の 主婦鷹巣直美さん(三七)。一昨年、欧州連合(EU)が「地域の統合により、国家の和解と平和を進めた」として平和賞に選ばれた。

「戦後七十年近くも日本に戦争をさせなかった九条にも資格がある」とひらめいた。安倍政権が改憲への動きを活発化する中、「受賞すれば九条を守れる」と思ったことも大きかった。

「社会問題に無関心な学生」だった鷹巣さんを変えたのが、留学先のオーストラリアで出会った各国の難民だった。戦火や暴力で心身共に深く傷つき、それでも立ち直ろうとする姿。

「戦争に巻き込まれずにすんでいるのは平和憲法のおかげだ」と実感した。

七歳の長女と一歳の長男の子育ての傍ら、昨年一月からネット上で「九条にノーベル平和賞を」というキャンペーンを始めた。集めた署名は、ノルウェーのノーベル委員会に随時送つた。しかし、委員会からはメールで「個人か団体に授与するもので憲法のように抽象的なものは候補になれない」との返信があった。

実は「九条にノーベル平和賞を」という運動は、今回が初めてではない。一九九一年に「第九条の会」を米国で立ち上げたオハイオ大名誉教授のチャールズ・オーバービー氏(八七)が過去に推薦しようとしたが、鷹巣さんと同じ理由で委員会から断られた。

そこで鷹巣さんが考えついたのが、「九条を保持している日本国民」という枠組みだった。鷹巣さんが地元の市民団体などに話したところ、賛同する市民らによる実行委員会が昨年八月に発足した。石垣義昭共同代表(七二)と、メンバーの岡田えり子さん(五三)は「最初は受賞なんてできるのかと突飛に感じたが、署名を集めるうちに、それだけの価値が十分あると確信するようになった」と口をそろえる。

ノーベル平和賞のノミネートには、推薦人が必要となる。資格があるのは各国の国会議員や閣僚、大学の学長、社会科学や歴史学など一定分野が専門の教授。平和や外交政策の研究所長、国際裁判所裁判官、過去の受賞者やノーベル委員会の関係者も有資格者だ。

「実現性はある」と大学教授らに協力を呼びかけると、推薦人が集まり始めた。その一人、勝村弘也・神戸松蔭女子学院大学教授(聖書学)は「戦争に直接関わらない国は世界で珍しい。それを改憲で崩そうとする動きに、若い人の関心が希薄すぎると感じる。こうした活動は日本社会がよって立つ土台を見直す機会になる」と評価する。

ノーベル平和賞の推薦締め切りは二月一日。昨年は二百五十九の個人・団体がノミネートされた。多くの推薦人が多様な理由で推薦することと、賛同する人の署名が多いほど、委員会へのアピールになるという。

詳しくは「『憲法9条にノーベル平和賞を』実行委員会」の署名サイト(http://chn.ge/1bNX7Hb )へ。

 

* 出田阿生記者は、まだ学校前の少女の頃から、わが家によくお父さんお母さんとと遊びに来ていた。建日子よりもずっと若い。早稲田のキャンパスで活躍し、がんばって中日新聞(東京新聞)社会部のいまや敏腕活躍記者になっている。我々夫婦の実感ではそうまでなってくれたと、わが娘のようにいまも嬉しい気持ちを持って日頃紙面を見ている。

これはという記事なので、申し訳ないが紹介させて貰った。賛同の方の署名もお願いしたい。

2014 1・3 147

 

 

* おぼろながら少年期、青年期の記憶からさぐりとって、今なお憤怒と哀情に堪えない日本の政治家・政策・悪法の数々を挙げて行くのは不愉快きわまりない作業になる。しかし、それらは過去の悪夢と忘れ去れるどころか、今日にも明日にも悪辣な亡霊となって日本国と国民とを支配すべく再び昔同様の凶貌で立ち現れかねない。

かつての日本は明治初年のころから敗戦まで、「徴兵による国民皆兵制」であった。戦況が悪くなるにつれ敗戦の直前には実に15-60歳男子を徴兵する法改定があった。そういう動きの中で学徒動員が当然となり、最悪の象徴的儀礼として明治神宮外苑での東条総理の悪魔の雄叫びがあり文部大臣の死んでくれ演説があった。駆り立てられた学徒達は特攻・神風飛行兵として帰路の燃料のない飛行機に乗せられ敵艦への自爆を強いられていた。時の政治家も軍の幕僚にもこれに異を唱えて地位や命を捨てるただ独りも無かった。

学生諸君。これは、無縁に遙かなよそ事でありうるだろうか。

秘密、秘匿、隠蔽、捏造、誤魔化し、そして強要、脅迫、逮捕・拷問、虐殺。軍により官憲により、悪官僚により、どれだけの重大事が国民に隠されながら国民を支配し弾圧し獄死させていたか、学生諸君、それらはみな今の君たちと変わりない世代、君たちの兄や父達の、いや母や姉妹達もが受けてきた生き地獄であったのだ、「まさか、おれは」「おれたちは大丈夫」と云ってられるのかどうか、国家総動員法に翻弄されながら、むぞむざ無差別絨毯都市爆撃や原爆投下にまで国益と国運とを謬らせた政治家と政策と悪法の連打のあったことを、一度でよい勉強し直してはくれないか。

このまま行けば、再度の国民皆兵制のもとに徴兵が画策され、裏腹にそれから保身・護身すべく,新華族制度が必ず画策されてくる。そしてもはや皇室は体よく棚上げされたまま、政治と政策に阿諛・迎合しかねない皇族からの傀儡天皇がまたもや祭り上げられるだろう。

口が酸くなるほどわたしは云いかつ書いてきた、アメリカは日本を守りはしない、中国や韓国、北朝鮮、ロシアは、できれば日本列島を分け取りでもいい、欲しくて堪らない。しかし軽率に彼らからは戦争は仕掛けない、得にならない。しかしもし日本がみずから起って好戦、開戦への動きを見せたときは彼ら諸国の絶好機となる。協同してでも日本国の集団統治の口実を造りあげてこよう、それこそが、わたしの謂う所の「悪意の算術」である。日本が平和外交と平和政治と民主主義とを堅持しているあいだは、他国の包囲網もやすやすとは毒牙をむき出しにしにくい、それが「世界」の世論というもの。

しかしながら、今の安倍「違憲」政権は、まさしく見当識を喪ってまんまと自ら日本のための墓穴を掘ろう掘ろうと得意満面なのである。危ういかな、ああ危ういかな。

 

* 明日の朝は、七草粥を祝う。滑るように時は流れて行く。

2014 1・6 147

 

 

* トッパンでの「選集」打ち合わせを無事終えてきた。未体験に属する造本・装幀については希望を述べ伝えて、任せてきた。原稿そして校正校了に専念したい。

江戸川橋から飯田橋まで大曲経由歩いてきた。荒くれた美観の微塵ものこらない街になっていて唖然とした。

雨もよい、どこへも寄らずに帰ってきた。少し必要有って「お父さん、繪を描いてください」を持って出て、往き帰りに読んできた。初期とは文体も軽みに枯れながら面白く端的に話を運んでいる筆致に、意外な満足を繪ながら帰ってきた。これでいいのだと思った。これは収穫だった。

2014 1・8 147

 

 

* 死後のとまでは云わないが、そのまえに文学がらみの身辺処理がしたく、もし欲してくれる人が有れば、門外不出と思っていたほどの幾方面かの私的資料を差し上げてしまいたいと思い、この人ならばと信頼している人に、ともあれ声がかけてある。数日後にも一度会って、忌憚ない話し合いをしてみましょうと打ち合わせが出来ている。

2014 1・11 147

 

 

☆ お元気ですか。

 

* 死後のとまでは云わないが、そのまえに文学がらみの身辺処理がしたく、もし欲してくれる人が有れば、門外不出と思っていたほどの幾方面かの私的資料を差し上げてしまいたいと思い、この人ならばと信頼している人に、ともあれ声がかけてある。数日後にも一度会って、忌憚ない話し合いをしてみましょうと打ち合わせが出来ている。

 

昨日の「私語」にこの記述を読み、とても羨ましくなりました。メールのやりとりこそしていても、今まで一度もお手紙も葉書も頂戴したことのないのをさびしく思ってきました。

笑って無視してくださいませ。ただ、そのような希望のあることお伝えするのはお許しください。

咳がなかなか治りません。風邪など召されませんよう、どうぞお大事にお過ごしください。  読者

 

* 「材料」は、やはり「方法」をもって批評し選別し、つまり評価を経て使用されないと、何らか意味のありそうなモノも呆気なく紙屑で終わってしまう。それを考慮すると、とりあえずは無方針に散逸や放棄を急ぎたくない、そういうことである。初源の段階では、先ずは「判断」「評価」され、その上で「処分」や「保存」や「使用」が検討される。そういうことである。それにはわたし自身もまだまだ健康で、処置・処分の決断に堪えねばならない。

2014 1・12 147

 

 

☆ ① 「軽薄と退屈以外のことなら何であらうと我慢出来る。併しながら大多数の人々にとつては何れか一方に陥ることなくして他方を避けることは全く不可能である。」

② 「幸福とは高い精神力が低い精神力に依つて煩されることのない境地であり、気楽とは低い精神力が高い精神力に依つて煩されることのない境地を言ふ。」  ジンメル『断想』清水幾太郎訳より。

 

* 目の覚めるような指摘で、日常に徴して省みれば瞭然である。②は指摘でありそのまま了解できる。①は、はなはだ難儀。しかし突貫しなければならぬ。

 

☆ 「あなたはいわゆる社会政策とか、平和運動とか、これに類する事柄にあまり身を入れすぎないようにしなさい。それらはすべて、たしかに興味ある、またたいてい称讃すべき努力ではあるが、しかしそれによって社会問題も、その他のどんな問題も、解決されるわけではない。この世に存在する、あらゆる種類の、おびただしい量の悲惨事は、それによってほとんどなにほども減らないだろう。

結局、人類はただより多くの愛によってのみ、しかも、だれでもみな直接にその「隣人」から始めねばならぬあの個人的な、本当に強い愛によってのみ、助けられるのである。この愛の精神こそは、また真のキリスト教の精神でもあるが、これが世を救うのであって、その他のすべてはこれと反対に、やたらに声のみ高い無用事にすぎないことが多い。世間の人たちは、これ以上、誤った理想を追わなくてすむために、このことをもうすこし明らかに覚らねばならない。」  ヒルテイ「眠られぬ夜のために」第二部より

 

* 言われている意味は理解できる。と同時にヒルテイの生きてきた時代と我々今日の状況を省みるとき、尊い隣人愛のみを起爆力に支配や弾圧の凶暴から人間の尊厳や安全がどう守れるかを思慮し具体的に出来る行動をとらずには済まない。

2014 1・17 147

 

 

* 幼少・青春期を思い出して、二度と繰り返したくないと尻込みしてしまうのは、いわゆる「試験」だ。試験の成績が悪かったからではない、好成績をいつもいつも維持しなければならんような圧迫、それに耐えてのいわゆる「試験勉強」がイヤだった。投げ出せたらいいがそういう真似はとても出来なかった。一位・首位を譲らないなどというバカげた名誉心にも苦しんだ。全校成績を順位で公開する学校の方針・方法を内心で憎み、それでも文字どおり懸命に頑張っていた。バカみたい。

幼少來、心身にこびりついてきた一等イヤなものが、それだ。それがまだ夢に追ってきたりする。バグワンに出会ったのがどんなに有難かったか。それ以前のわたしと、それ以後のわたしとは、モノを裏返しにしたように違っていると思われる。

2014 1・18 147

 

 

* 妻はすぐ床に就き、わたしは仕事のため機械の前へ。ひとしきりでやめてわたしも休息した。夜前はほとんどわたしも眠れなかったから。食事もせず晩の八時過ぎまで寝入っていた。九時から、昨日に続く松本清張原作、ビートタケシ主演のテレビ映画を観た。楽しめるものではないが松本清張らしい、ビートタケシらしい、いい追究だった。秦建日子の「ダンダリン」で面白い仕事をしてくれた竹内結子が逸材ぶりを今夜の映画でも見せた。

 

* 何度も言うてきたが、敬愛する作家はと受賞の記者会見で聴かれ、ためらわず即座に藤村、漱石、潤一郎と答えた。当時のわたし、いやいまのわたしにも、この三人以外は、偏狭、不足または番外としか思われない。にもかかわらず、上の三人を足しても欠けているものを謂うとすれば、間違いなく松本清張の世界と考えてきた。成長世界は過酷で隠微で好きになれないが、そういう闇や蔭を人間の世界はいやおうなく持っていて無視は出来ないのだから仕方ない。

2014 1・19 147

 

 

* 本を読むのに、傍線引きや書き込みのためのペンはわたしの場合、むかしからの必要で、往々にして本は傍線などで赤くなる。時に黒くなる。わたしの読んだアトの本を昔から家族は、それ故に、イヤがった。二度目からの読みや必要に応じて再度探索するのに便利だからしていたので、だから小説以外の参考書籍や学習書籍に多かった。もう何年も十何年も参考の学習のという必要とは縁切れになっているが、それでもペンは放せない。それどころか、近年は小説などでも感じ入ると線を引いている。ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』の頃からか、小説を読むのにもペンをひきつけておいて読んできた。

たとえばレマルクの『凱旋門』ではこんなところに傍線を引いていた。ナチスからの逃亡医師ラヴィックが、パリの手術室で、手の施しよう無く若い女性患者を死なせた後刻の苦汁を飲む述懐だ。

「忘れることがなくて、どうして生きていかれる? だが、十分に忘れてしまうなんて、だれにできるというのか? ひとの心を引き裂く記憶の残滓、もはや生きるあてがなくなってしまったとき、はじめて人は自由になるのだ。」

「自由」の二字への幾重にも重ねた絶望的な批評。しかも絶望などしていられない、生きて行かねばならない。何人も何人にも死なれてきた。そして間違いなくほどなく自身も死ぬるまでに、さらにまだどれだけの死に遭うことか。

わたしは今、いい作品に出会いたいと願っている若い人たちに、レマルクの小説を薦めたい。処女作の「西部戦線異状なし」や、連作ともいえる「汝の隣人を愛せ」「凱旋門」などを。じつに優れて今日の日本人の自覚にせまってくるものを孕んでいる、レマルクは。

 

* 椎名麟三の『美しい女』でもこんなところに朱線を引いていた。語り手は、まこと凡常の労働者で、しかもブレない精神を確保した健康でごく普通の電車運転手であり、そうであることが彼をとりまく世間ではへんに「変わり者」でもあるのだ。

「たしかに権力というものは、自由に誤解することが出来るという自由さのなかに真の姿をあらわすものらしい。」

ああなんと「自由に誤解することが出来るという自由さ」を我らの国の、政治でも企業でも学問の世間ですらも、「権力」というやつは謳歌してくれていることか。ちょっと時は隔たっての述懐だが、運転手氏はこうも言う。

「私が、いまでも責任をもって確信することの出来るのは、この世のなかには、唯一絶対の、だからほんとうのものなんかありはしないということである。そして私は、はなはだ無邪気で申訳がないが、そのことをこの世の中やさしさとして喜ぶことが出来るのである。とにかくその事実は、私にゆるやかな息をさせてくれる。」

この、なんとも頼りない一輛きりの電車の義務としての運転が好きで好きで堪らない労働者は、昭和十八、九年へさしかかる戦争真っ最中を生きている、それは時代こそちがえあの『凱旋門』の医師ラヴィックの生きようを脅かす、大きくは違わない「時世と権力」に当面している。なんでもなげなこの述懐、どれほどのモノたちのまえで彼は「ゆるやかな息を」大切な秘密のようにしているか、無邪気など装い顔に。

彼には、「天皇みたいなもんがいるから、日本の国はあかんのや、と放言」する同僚がいて、むろん「かげ」でのはなし、表沙汰になったら只ですまない。しかも彼は言う、「私は、その船越の説に同感だった。私には、天皇が、殺したいとは思わなかったが、絶対主義の親玉のようにみえていたから」だ。この「美しい女」は昭和三十年に中央公論に連載されていた。敗戦から十年後、わたしは大学二年だったか。椎名麟三は文字どおり第一次戦後派作家の尤たる一人だった。

さらにもう一言この運転手氏の弁を引き出して、それを、レマルクから引いた「死」の把握や実感や思想と、比してみて欲しいと思う。椎名の語り手は言う。

「全く私は、骨の髄から死はきらいである。いつかは、お前は死ぬだろう、そしてそれは避けることは出来ないだろう、といわれても、私は、死を自分の人生の勘定のなかに入れてやらないつもりである。それを入れさせようとするあらゆる事柄に対しては、私は方法をつくして逃げたいのだ。こんな私は、滑稽な臆病者であるかも知れない。だが、この臆病こそ、私は世のなかのどんな美徳にかえても、愛したいところのものなのだ。」

比してみてとわたしは書いたが、実は、ちがう。レマルクと椎名とで痛いほどに重なり合う「死」「逃げる(逃亡・亡命)」「臆病」といった姿勢の厳しさ険しさ怖ろしさを、今まさに「迫る、国民の最大不幸」のときに悟りたいと思う。レマルクを今読んで欲しいとわたしが願う真意はこの点にある。それはもう漠然とした空想でも妄想でも、ない。けっして、ない。

2014 1・20 147

 

 

* 昨日、「選集」の函、表紙の装幀案が届いていた。いまは「秘色」を丹念に読んで校正している。丹念にという主な意味は、この漢字表記は「こう読んで欲しい」というルビ打ちで。古代のわずらわしい固有名詞や官職名や地名は当然としても、他に、例えば「退」一字とはいえ、「ひく」「のく」「しりぞく」「しさる」などと時と場合に即応して美しく読みたい。読んで欲しい。「描」も、「えがく」「かく」の違いが出て文の息づかいにより使い分けたい。文学は、文章文体は「音楽」であると考えているわたしには、こういう一字一句の「読み」ようは、句読点の拍ちようとともにゆるがせに出来ない。「私宅」が「したく」「わたくしたく」のどっちに読まれても良いとは思わない。意味と慣用が異なっている。「異」にも「い」「ことなる」「ちがう」と読み分けている。文章の息づかいが反映する。ひらがなで書いて分かるのはそれで良いとして、場面により漢字が効果を持つ場合が少なくない。「いい音楽」を奏でるのに雑駁な神経では立ち向かえない。

2014 1・24 147

 

 

* 「信仰は容易にひとを狂信的にするよ。だから、あらゆる宗教はあんなにたくさん血を流しているんだ」と、レマルク『凱旋門』の医師ラヴィックは話していた。昨日、此処へも引いて置いた。この述懐は、知性をもった誰しもの広範囲に共有している嘆かわしい実感であろう。その限りにおいてとくに新奇に耳を欹てるほどの表白ではない。『眠られぬ夜のために』のヒルテイなら、言下にそれは他の宗教が宜しくないからで、キリスト教の神こそがすばらしいと断じるだろう。そんな彼でも同じキリスト教徒いいながらも烈しく血を流しあった史実の数々を否定も否認もできないのである。神をあいだにはさんで信仰と狂信との癒されぬ齟齬の痛みはあまりに今日でも酷く酷すぎる。そしてそれら悲劇の奥に在りとされている神は、姿かたちにしてたいてい人格神、人間神である。そういう神を真実信仰し帰依するのは、それじたい容易なわざでない。たとえば日本の能にあらわれる「翁」の方がわかりよくそして神々しい。イエスまでは分かる。イエスの「父なる神」になるとなかなか分かりにくい。

わたしがミルトンの『失楽園』に讃嘆の思いを隠さないのは、うえに謂う神、人格神・人間神のわかりにくさをかなり分かりよくしてくれているからである。創造主、造物主そして宇宙の支配者である神を、こんなに具象化しえた例は他に無いだろう。アダムとイーヴとが死を課して厳しく命じた禁忌を冒すにいたるまでの人間の創造、楽園の創造、そらにそれ以前に成されていた神へのサタンらの叛逆と惰地獄。それも見事にわたしを魅了したが、アダムとイーヴとがついに楽園を追放されるまぎわに、神と御子とに代わって天使ミカエルが二人に、正しくはイーブは眠っていてアダム一人に縷々語りかつ詳細に眼に見えて預言し予告する地球と人間との未来像の厳粛さに、わたしは固唾をのんで惹きこまれた。

詩人ミルトンは清教徒として革命に加わり重きを成し、敗れて辛うじて命たすかり、失明し逼塞した。そのなかで『失楽園』という壮大な叙事詩が口述で成し遂げられた。旧約を全巻読み、新約聖書をも全巻読んだ。『失楽園』はそれら聖書通読に匹敵する衝撃をいまもわたしに与え続けている。ヒルテイの篤信の言説も、これには及ばない、敬意は惜しまないが。

2014 1・24 147

 

 

* ところでわたしが此処にこういう具合に、思いついたことを先後もとくに省みも顧みもせず書きとめている、これを「闇に言い置く 私語の刻」と称しているが、やや難しくいえばこういう筆記を「箚記」(さっき、とうき)という。大塩平八郎に「洗心洞箚記」がある。荷風に有名な「日乗」がある。日記であり、わたしも日記・日乗感覚で十七年も書いてきたが、有難い読者の整理してくださったように細かく分ければ三十五、六項にも分けられる多彩な、しかしまた断想でこそあれ完結した著述形式はとらない雑纂になっている。「文藝連鎖」と自称もしてきた。感想、着想ないしは癇癪の落としどころとして用い、しかも隠した陰口ではなく電子ネットの闇へ放った私語になっている。この筆述形式が、つまり「箚記」であり中国では「册記」とも書かれている。

このところ続けて試みてきた『湖の本』の何冊かはまさに「箚記」なのである。「有即斎箚記」(うそくさいとうき)と呼ばれても差し支えない。

 

* もうへとへと。部屋の電灯を消してしまうと少しは眼がラクになるが、ちらちらしている小さな電器の明かりが、言語道断の乱視を誘う。もう休むしかない。

2014 1・24 147

 

 

*  昼過ぎ二時まで「秘色」を読んでいた。かすかに訂正し添削の利いた箇所もあり、文藝文章が奏でる音楽の微妙さを感じる。文章は、しかし精密とはいえ機械装置ではない。命である。

 

* 現在こそまだ食べること、食べるものの魅力を語れる体調でないが、食べることや食べ物にふれて書いてきた箇所は創作にも此の「箚記」(さっき、とうき)にも少なくない。しかしいわゆる「食通」「美食家」などといった人間でなく、食材の詮索や、味付けの表裏や由来などに格別の興味も関心もない。何が識りたいわけでもない。食べ物を運んできてすぐさま「説明」にかかられると、時に不機嫌にさえなってしまう。何であれただ美味しくかつ無難に食べたいだけ。いかもの食いの趣味など全然もたない。欲しいのは給仕の人の親切な行儀と食器の清潔ぐらいなもの。「美味しそうにいろんな店でいろいろ食べてられる」と言われることは有るが、滅相な。店の人と自然になじめる和やかにこころよい店にしか行っていない。こうして、食べ物そのものより気持ちよく食べさせてくれる店や人の方を重んじている限り、じつは、他人様(ひとさま)に気軽にお奨めもしかねる。人との兼ね合いは誰も彼も同じではないのだから。たいていの店には妻としか行かない。東工大の学生達とはよく食べ歩いたけれど、その余はよほどでない限り吾から誘って他人様と会食を楽しもうというタチではない。

世間には、食べ物や食べ店案内の書籍で名を売っている作家や随筆家が何人もおられるが、そういう真似はしない。出来もしない。 2014 1・25 147

 

 

* 起床8:30 血圧145-73(57) 血糖値79  体重67.2kg

 

* 「選集」が加わって、もう余力というモノが無い。意欲ではしたい遂げたい「仕事」が幾つも幾つも有るのに、そこへ手がまわせない。失明するわけに行かない。なによりも仕掛かりの小説をし遂げねば。

わたしよりも若い、惜しい人たちが亡くなっている。それを思うと、安易には死ねない。しかし生き延びることも容易でない。生きてあるうちに出来る仕事はしたいという、それに尽きている。

恐ろしい天災地変が来るだろう、もの凄い侵略戦が襲うだろう、それらには幸いにわたしも妻も、もう余命が無い。それは実感しつつい゛っかんしつつ、そんなことにならぬようにと願っている。敢然、「堪え、起ち、生きる」ことを願っている、日本と日本人のために。

2014 1・26 147

 

☆ 湖北

昨日は湖の本の入稿などに終日勤しんでらしたと、本当に文字通り懸命に、命懸けて仕事さ

れていらっしゃる。遠くから察し、ただただ大切にと願うばかりです。

寒さが少し和らいで、庭には既に春の雑草が緑の小さな葉を輝かせていますし、木の枝の芽は柔らかに膨らんでいるものもあります。

先日、湖北の高月にある向源寺を訪れました。十一面観音菩薩様に祈ってきました。

ここを初めて訪れたのは半世紀近くも前のこと。村の田舎道を伝って訪れた時、観音様は収蔵庫ではなく、ひっそりしたお堂にいらした・・。湖をぐるっと回って帰ろうと思い、近江塩津で湖西線に乗って今津に着いたのですが、堅田と今津の間が強風のため運転中止。ここは高架になっている箇所もあり、時々強風で不通になるそうです。仕方なく塩津まで戻り、霙と風吹きすさぶ駅で一時間ほど待ち、米原方面へ。伊吹山、比良の山々・・いつ見ても見飽きないのです。いつか近江の国にまつわるものを書いてみたいなと、ふと思います。

それ以外は普段の暮らしで一月が過ぎようとしています。楽しみは携帯に送られてくる孫の動画です。寝返り、お座りができるようになり、離乳食と言ってもリンゴジュ―スやお粥程度のものですが、初めて口にする瞬間の微妙な表情やら、ああ赤ちゃんの成長は何と微笑ましいものかと。今週から姑がしばらく同居します。夫の手術の日取りはまだ決まっていませんが、二月は慌ただしく過ぎていくでしょう。

改めて書きます。用事ができたようで・・

どうぞどうぞお体労わって大事になさってください。  鳶

 

* 湖北と聴くと心身がゆれるほど、このところ近江の湖に浸りつづけてきた。「みごもりの湖」「秘色」。昨日も今日もわたしは「秘色」を読んでいた。読み耽ることはゆるされず一字一字魯魚のあやまちはないか、仮名文字に間違いないかと気を付けながらであるが、それでも湖愁は骨身に沁みる。近江ではない大和を書いた「三輪山」でもおなじ事、この三作で「秦恒平選集」第一巻は成る予定だ、慎重に慎重にことを運んでいる。

そして今日は、たぶん「選集」第二巻を成すはずの「清経入水」をほぼ読み上げた。

こういう小説たちを書き置く、ただもうそのために自分は生まれてきたと、そんな思いがする。一抹の悔いも無い。そして幸いにわたしは、今もものを書いて暮らせている。このうえの何を望むのか、ただもう日本の聡明な平和のみ。

2014 1・27 147

 

 

* 一つの小説が終盤に臨んできた気がする。なにも願わない、きちっと初稿を挙げ、それから徹底して添削し推敲したい。

もう一つの小説はまだ「先」が在る。出来れば旅もして観たいものも在るから。

昔に書いて八百枚ほどで要するに保存にとどめた小説にも手を入れよう、そのためには電子化しておくのがいいと、妻に頼んで、もう百枚ちかくすすんでいるらしい、有難い。これと併走してよいタチのややこしい創作も、少しは進めてある。書き進めるしかないのだ、生きている間は。

 

* 小説という創作ではなく、いわゆる「エッセイ」「随筆」と呼ばれる作物を多年のうちに気が遠くなるほど大小多彩な紙誌に書いてある。もっぱらそれらがわたしたちの今にも及ぶ生活費を稼いだと言える。分量も、方面も、長短も、あまりにアッチ向きコッチ向きで、いまのわたしには、「編輯」もできない。「湖の本」にして『秦恒平随筆選』とでも題すれば、らくに数巻分は在ろう、うまく編輯すればわるくはない、みな一期一文で書き置いた作物だ。既刊の「湖の本エッセイ」にも意図してもうよほどの分量編輯してきたけれど、残ってあるものが詰まらないものとは考えていない。ただただ、それにも手を付けるだけの時間が今のわたしに無い。無くて、そして気にばかりかかっている。隣棟二階に、ほとんど使ってなくて、今の此の機械部屋より少し広くて置いた机は堂々と大きい居心地のいいもったいない書斎がある。編輯センスのいい誰かがその部屋でアルバイト仕事を手伝ってくれたらなあなどと夢見ているが、問屋が卸さない。

2014 1・27 147

 

 

* 「選集」の仕事、本文を「読む」以外なにもかも初めてのことで「前例」を持てていない。ひとつひとつ「選集のための定まり」を作りながら仕事を進めねば成らず、印刷所から事実上追いまくられる。ここで平静に急がない仕事をしないと悔いに落ちるおそれもある。

真実実感しているが、したい仕事、しておくべき仕事、済ませておくべき用事へなかなか手が出せない。たくさんな車の走る車道のまんなかで渡れず戻れず立ち往生している感じさえ。慌てるな。

 

* とにかくも一巻の本文初校を要再校で送り終え、ツキモノの大方を組指定して入稿し終えた。案の定、戻してあった「みごもりの湖」分の再校ゲラがどさっと届いた。追いかけて次は「湖の本」119が組み上がって届くだろう。どれも、これも、大事に、ゆっくり遣る。ゆっくり遣る。

来週には二度に分けて聖路加での検査と診察が三科もある。

2014 1・29 147

 

 

* 小説の創作は容易ではない。「正しい手がかりを拾いあげる前に、無数の些末な材料を集めることの大切さ  だがこの拾いあげが、いかにむずかしいことか--真の主題を露わにすることが。  余計な事実が多すぎるのだ。」 グレアム・グリーンが言う通りの苦労をいまもわたしは実感している。堪えねばならぬ。

グリーンはこうも作中の語り手を介して告白している、「美しい女は、それも美しいだけでなく聡明でもあればなおのこと、何か深い劣等感をわたしのうちに呼びおこす」と。「とにかく精神的にか肉体的にか、何らかの優越感なしには性的欲望を感じることが困難なことを、わたしはつねに発見して来た」と。この薄暗い感じで関連したような男の述懐には、賛同も反発もしないで、さしあたり興味を覚えている。いましも暗闇を引き裂くように進んで行きたい一つの小説の主題とこのグリーンの言葉はとても難儀に厄介に蜘蛛の巣のように絡まっている。

 

* 「ゴシック小説」は、ポーにも代表される十八世紀末から十九世紀初めへかけて流行った、中世趣味による神秘的、幻想的な小説で、ゴシック・ロマンスとも呼ばれ、その後ゴシック・ホラーなどのジャンルも含んで行く。今日のSFやホラーの源流のようにも観られていて、一つの特徴のように、ある「予言」が前提となりその「成就」してゆく過程を「物語」の体部にしている。

それはそれで、よろしい。その上で上の「定義」様のことを日本の「物語む」でいえば、幻想でもなくホラーでもない写実味の濃い『源氏物語』など、重々しい「予言」がはやばやと二つも三つも持ち出されて、その成就の過程がおおきな世界を実現している。わたしは夙くからその点を「源氏」読みの最要点のように指摘し嘆賞し鑑賞してきた。

ポオの処女短篇『メッツェンガーシュタイン』を少し肌に粟立つように読んだあとで、ポオに源氏物語を読ませていたらなどと想った。また上田秋成にポオを読む機会があったらどうだったかとも興味をもって想った。「小さな定義」にとらわれ過ぎず地理的にも時間的にも広範囲な読書が楽しめるようでありたいと思いもした。これから、『黄金虫』『アッシャー家の崩壊』などを何十年ぶりかで読み直す。

2014 1・29 147

 

 

* 「選集」の仕事を、慌てず、しかし着々進めている。最近の「湖の本」でいえば三巻分が「選集」一巻分に作業量的に相当している。同時に「湖の本」を四巻分の作業を毎日続けているのと同じ、しかも「他の仕事」が減ったり無くなったりしているわけでない。

なぜ、いま、そんな「選集」などを。編輯も校正も造本も容易でない仕事を、なぜ、自分自身の手で。

2014 1・30 147

 

 

* もう、いけない。疲れた。明日は一日がかりで聖路加内科と眼科。黒いマゴの輸液して、休みます。

もう纏めに入るかなと思っていた一つの小説に大きな展開が予測され初めて、逃げずに立ち向かう気になっている。健康さえ保てるなら、気落ちしないで続けられる。

2014 2・4 148

 

 

* 「先生」の意味を取り違える人は少ないが、後生の逆で「先に生まれた人」と、ほぼ定まっているが、これまた逆に「先に死んだ人」の意味でもあり得ている。「先師」「先考」「先達」「先人」などみな「先逝」の意味を持っている。数日前に亡き「橋田先生」の夢を見た。亡くなった「先生」たちの多さを夢覚めたまま床の中で指折り数えてうたた今昔の思いに萎れた。

先生方は、それでもなお順に先んじた先輩である。世代をともにし、またこっちが先にもしていた後生・後輩の既に亡き数を数えるとき、今一段と心萎れる。孫のやす香、小学校の永田純治、中学の梶川貞子、田中勉、三好閏三、高校の富永いく子、大学の重盛ゲーテ、大森正一、そして何人も何人もの「いい読者」たち。

2014 2・6 148

 

 

☆ ヒルテイの、

「弱い信仰でも、全く信仰がないよりはるかによろしい。最後の小さな信仰の火種をもすっかり消して仕舞うことのないようにしなさい」と言うのには肯く。

 

* わたしは信仰心をもって「不思議」をうけいれてきたが、「神」とは観ていない、まして自分たち人間が「神」の姿態に似せて創られたなどと思わない、それを言うならむしろ逆で、人間が己れに似せた「神」を創作することで、根源の「不思議」に手がかりを、文字のママの理解を積み上げてきたのだと思う。それでもなお、わたしの中に「信仰心」はまちがいなく生きている。自覚も実感もある。それを「抱き柱」にはしていないだけだ。

 

☆ ヒルテイはまた言う、

「勇気を失わず、勇敢な人でありなさい。そうすれば、慰めは必要な時にあなたに与えられよう。勇気は、あらゆる純人間的な性質のなかで最も有用なものである」とも。「およそどんなことがあっても勇気をすててはならない」とも。

「たしかにわれわれは、正しい思いをいつも持ちつづけることはできない。それはしばしば、風に吹き払われるように、消え去ることがある。 しかし、勇気は、つねにいくらか努力すればしばらく持ちつづけられる一種の気分であり、やがてそのうちに助けも与えられ、事情が好転する」と言いきる。

 

* わたしは小さいころ弱虫で泣き虫だった。いまも変わっていないだろう、涙もろいことなど我ながら情けなく感じるくらいだ、が、成人するに随い、必要とあれば勇気をもって立ち向かえるようになっていた。仕事にも、圧力や不当な権威や無道にも、また疑義や不審にも、そして癌宣告や手術にも、勇気を持し動じないで立ち向かえるようになっていた。弱虫で泣き虫でごく正常に臆病でもあるけれど、勇敢と勇気は「つねにいくらか努力すればしばらく持ちつづけられる一種の気分であり、やがてそのうちに助けも与えられ、事情が好転する」ことを信頼してきた。                  自身の不徳や悪徳をかなりに自覚しているわたしは、まだまだ、まだまだ何とも真実にむかい間隔をおいたまま都合をつけつけ生きているのを情けなく思っているけれど、だからこそだから勇気は大事だと思わずにおれない。無理矢理と勇気とは違う。勇気は結局は自己批評の傷みに堪えて正すことのようだ。

2014 2・10 148

 

 

* 秦恒平 後拾遺和歌集秀歌撰 夏

(とくに六首には、作者名を付す。)

白浪の音せでたつとみえつるはうの花さける垣根なりけり

きゝつともきかずともなく郭公心まどはすさよの一こゑ  伊勢大輔

またぬ夜もまつ夜もきゝつ子規花たちばなの匂ふあたりは  大貳三位

ねてのみや人はまつらん子規物思ふやどはきかぬ夜ぞなき

御田屋守けふはさ月に成にけりいそげや早苗おひもこそすれ  曾禰好忠

徒然と音たえせぬは五月雨の軒のあやめの雫なりけり  橘俊綱朝臣

さみだれの空なつかしく匂ふかな花たちばなに風や吹クらん

おともせで思ひにもゆる螢こそ鳴ク虫よりも哀なりけれ  源重之

澤水に空なるほしのうつるかとみゆるは夜はのほたる也けれ

夏の夜もすゞしかりけり月影は庭しろたへの霜とみえつゝ  民部卿長家

きてみよと妹が家路につげやらんわれ獨ぬるとこ夏のはな

夏山のならのはそよぐ夕暮はことしも秋の心ちこそすれ

 

* 詞書にまれには捨てがたい物もあるが、拘泥しない。あくまで、歌一首としてうったえるものだけを撰している。無案内な作者の名すら、今日われわれの鑑賞には詞書以上に無くて可なのであるが、おのづと記憶されていいとも謂える。

和歌という材料は無限なほど豊富であり、さりとて皆がみな趣味にかなうとも謂えない。撰するといういわば知的でも美的でもある営みを和歌は惜しみなく誘い出してくれる。千載でも拾遺・後拾遺でも今はただ撰んでいるが、もっと主題めく好奇の思いにも応えてくれる。そんな趣味趣向もみうちに動いているのだが、相手の数があまりに夥しく多くて、簡単には手が出せない。しかし、やってみたいと願っている。撰歌は、じつにこころよい喜びを惜しみなく呉れる。どんな雑踏の中でも、懐から佳い和歌集をもちだすだけで、たちまち別世界に入れる。逃避ではないのである。

2014 2・11 148

 

 

* 詩作の個々にとりつくまえに、訳注者である松枝茂夫さん和田武司さんの「陶淵明」案内をそれは興味深く面白く読んだ。これまでは幸田露伴校閲、漆山又四郎訳注の旧本だけを愛読してきた。陶淵明と言えばたしかに「帰去来辞」や「悠然見南山」が根であった。文字どおりの先入見に素直だった。詩人の伝にも実像にも関連した知識をほとんど持っていなかった、むしろ必要無かろうとすら思っていた。買ってきた新しい二巻本の『陶淵明全集』はパッチリと必備の視野をまず開いてくれた。感謝にたえない。

「素より貴を簡(えら)び、上官に私事せず」とある。「仕」と「隠」との間を揺れ動いたとある。躬耕の日々に世変への視野を喪っていたわけでなかった。無類に酒を好んだが酒を詩っていたわけでなく、述懐の詩世界は深く、かつ狭くはなかった。淡泊でもありしかも放埒なまで濃厚ですらあった。

中国の詩人といえば、籤とらずに真っ先にわたしは陶淵明(ないし陶潜)であり、李杜を尊重し白居易に親しんだことも、陶淵明と次元を一にならべて謂いも思いもしたのではなかった。

陶淵明の作は必ずしも量的に多くなく、確認される限りはこの文庫本全集上下巻で網羅されていると。座右一二の書となるであろうと心より喜んでいる。

 

* 「自殺」には少年の頃から関心があった。読み物では武士の切腹があたりまえのように頻出した。同級で自殺した友人もいた。身近にも自殺した人は何人かいた。江藤淳がなくなり半年後にはわたしの実兄が同様に自殺した。『死から死へ』と題して本にもした。

文学では、ウェルテルの自殺に、また『こころ』のKや先生の自殺に衝撃を受けた。ロミオとジュリエットのそれには埋葬問題もかかわっていた。キリスト教が自殺を厳禁し、教会が自殺者に過酷なことは、そのまま常識のように憶えた。だが、なんで? とわたしは少年の頃も青年・成年のころも、老境に入ってからも不可解だった。それで、どんな時機であったか確かにわたしはショーペンハウエルの「自殺について」という文庫本を古本屋で買った記憶があり、しかも理由もなく読みそびれて忘れていた。一昨日、同じショーペンハウエルの岩波文庫をわたしは買ったのだ。自殺への関心もキリスト教の自殺者拒絶という常識」への不審も昔のママにわたしは抱き込んでいた。

そして読み始めた。

 

☆ 「自殺について」 ショーペンハウエル 斎藤信治さんの訳に拠って

私の知っている限り、自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ系の宗教の信者達だけである。ところが旧約聖書にも新約聖書にも、自殺に関する何らの禁令も、否それを決定的に非認するような何らの言葉さえも見出されえないのであるから、いよいよもってこれは奇怪である。そこで神学者達は自殺の非認せらるべきゆえんを彼ら自身の哲学的論議の上に基礎づけねばならぬことになるわけであるが、その論議たるや甚だもって怪しげなものなのであるから、彼らは議論に迫力の欠けているところは自殺に対する憎悪の表現を強めることによって、即ち自殺を罵倒することによって補おうと努力しているのである。だからして我々は、自殺にまさる卑怯な行為はないとか、自殺は精神錯乱の状態においてのみ可能であるとか、いうような愚にもつかないことをきかされることになる。そうかと思うと、自殺は「不正 ウンレヒト」である、などという全くのナンセンスな文句まできかされる。一体誰にしても自分自身の身体と生命に関してほど争う余地のない権利(レヒト)をもっているものはこの世にほかに何もないということは明白ではないか。いま言ったように、自殺は犯罪の一種にさえ数えられている。だからして、殊にも賤民的な頑信の英国においては、自殺者の埋葬は恥ずかしめられその遺産は没収されることになっている、--そこで陪審裁判所は殆ど大抵の場合精神錯乱の判決をくだすのである。自殺が果して犯罪であるかどうか、この点に関しては何よりもまず倫理的感情に訴えて判定をくだされたらいいと私は思う。試みに、知人が或る種の犯罪、たとえば殺人とか暴行とか詐欺とか窃盗とかの犯罪を犯したという報道に接した場合に我々のうける印象と、知人が自発的な死を遂げたという報道に接した場合のそれとを比較してみられるがいい。前の場合にはなまなましい憤激やこの上もない腹立たしさを覚え、処罰や復讐の念に駆られたりするのであるが、後の場合に呼び覚まされてくるものは哀愁と同情とである。そしておそらくはそれに、悪行にともなうところの倫理的非認というよりはむしろ、彼の行為に対する一種嘆賞の念がかえってしばしばいりまじることであろう。自発的にこの世から去っていったような知人や友人や親戚をもっていない人がいるだろうか、--そしてこれらの人達を一体誰もが犯罪者に対するような憎悪の念をもって回想しているとでもいうのであろうか。否、断じて否! むしろ私は、僧侶どもが一体如何なる権能によって、--何らの聖書の典拠も提示しうることなく、否、何らか確かな哲学的論拠すらもちあわしていることなしに--教壇や著作を通じて、我々の敬愛する多くの人達がなした行為に対して犯罪の刻印をおしたり、また自発的にこの世を去っていく人達に対して名誉ある埋葬を拒んだりするのであるか、この点に関して何としても僧侶どもに弁明を要求すべきである、という意見を有している。但しこの場合はっきり断わっておきたいことは、我々の要求しているのは論拠なのであって、その代りに空虚なたわごとや罵倒の言葉を頂戴することは御免蒙りたいということだ。--さて刑法は罰則によって自殺を禁じているのであるが、これは教会で通用しているのとは違った理由によるものである。それにまたこれは徹頭徹尾滑稽である。一体死をのぞんでいる者を、脅かして思いとどまらせるに足るような刑罰などありうるであろうか。--もしもひとびとが自殺未遂を罰するとしたら、彼らは自殺者が自殺に失敗したその不手際を罰しているのだということになろう。

* 〔異文〕 むしろ私は、僧侶どもは一体如何なる理由によって(そのような場合)我々の友人や親戚に犯罪者の刻印をおし、この人達に名誉ある埋葬を拒むのであるか、その根拠を提示するように何としても僧侶どもに要求すべきだ、という意見を有している。聖書には典拠は見出されえない。哲学的な根拠もたしかではない、それにまたこれは教会には通用しない。してみると一体、何によるのか。何によるのか。何によるのか。返事をし給え! 死は我々には余りにも必要な最後の避難所なのであって、これは坊主どものただの命令などで我々からとり去らるべきものなのではないのだ。

 

* この優れた哲学者のこの冒頭の表明に賛同ないし共感する人はかなり数多いのでは無かろうか。

ヒルテイの『眠られぬ夜のために』上下巻で、まだわたしは彼の「自殺」に触れた思いを聴いていない。聴きたいと思っている。

2014 2・12 148

 

 

* ソチオリンピックの以前から、マスコミや国民からの過剰で無意味な「メダル」期待や「金」確実の何のと言う取りざたを疎ましく毛嫌いし、選手達への無用の重圧と眉をひそめ続けていた。浅田真央や高梨沙羅の思いがけない不成績もありうることといつも気の毒がっていた。彼ら彼女らは懸命に努めてきた。われわれは余計な重圧をかけてやらずに応援していればよく、金の優勝の日章旗の国歌のなど、成るがままでいい、そうあるべしと余計な期待などで胸を騒がせてたりはしてこなかった。よくもあしくも、よくやったと褒めてあげればそれでいい。口さがない期待や過剰な応援の声・言葉にであうつど、むしろ気の毒にと感じていた。それよりも自分自身の努めで自分自身に出来る世の一隅を照らせよと思っていた。苦々しいのだった。

2014 2・16 148

 

 

* 「選集」を煮詰めてゆくのがなかなか気が重い。いま決めてしまうことはあとあと変更しにくい。慌てたくないのだ。しかし放っておけずいつも念頭にある。重いというのが実感だ。ひとまかせにお願いして本をつくり出版して貰うのと、ぜんぶ自分で責任を持つのとでは重み百倍の気の抜け無さがある。「お任せ」仕事のいかにラクかを実感する。

だが、だから、自分でやる。

いま第一巻に限っての、創刊の弁を下書きした。

2014 2・17 148

 

 

☆ 『凱旋門』のラヴィック医師が云うている、

「どうすることもできないからといって、気が狂ったりしてはならぬ」と。戯談めいて聴く人もあろうが、決然として本気の信念になっている。そうなる根底が在った。すこし長くなるがわたしは改めてそれに耳を傾けたい。

われわれは「死ぬ」存在であるまえに「死なれる」存在であり「死なせる」存在である。しかも自身が死ぬまでは「生き」ねばならぬ存在である。もしわたし自身が自身の文学に「主題」を謂うなら、まさしくこれ此のことに永く関わってきたし、いい読者はみな知ってくれている。いましも『選集』第一巻の巻頭におこうと読み返している『みごもりの湖』は、じつに此の主題にこそ取り組んでいた。書いた頃のわたしはまだ若かった。

ラヴィック医師の若き日の不運に酷い戦場体験の回想には、とほうもない年輪が加わり、むろんわたしの作とはあらゆる意味で条件も環境も人も異なっている、だからこそまたわたしは、此所にも強く感じ立ち止まって、読み返すのだ。

 

☆ レマルク『凱旋門』 ラヴィック医師の回想  山西英一さんの訳によって

それは、一九一六年の八月、イープルの近くだった。中隊は、その前日、前線からかえってきたのだ。それは彼らが戦場におくりだされてからはじめて配属された、平穏な塹壕だった。何も起らなかった。そしていま彼らは、温い八月の太陽の光を浴びながら、小さな焚火のまわりに寝ころがって、畠で見つけてきたじゃが薯を焼いていた。それが、一分後にはあとかたもなくなった。突如、砲撃が開始された--砲弾が焚火の真中に落下した--我にかえって見ると、自分は無事で、擦り傷一つ負わなかったが、戦友がふたり死んでいた--そして、向うには友だちのメッスマン--よちよち歩きはじめたころから知っており、いっしょに遊び、つれだって学校へ行き、切っても切れぬ友だちとなっていたメッスマンが、腹を引き裂かれて倒れていた。腸が出かかっていた--。

彼らは彼をテントの布でつくった担架にのせ、一ばん近道の、小麦畠の斜面をのぼって、野戦病院へ運んで行った。四隅をひとりずつもって、四人で運んだ。メッスマンは茶色のテント布の担架によこたわっていた。両手で白い、脂切った、血だらけの腸をおさえ、口を開け、眼は据って何も見えずに--。

二時間後、死んだ。その中の一時間は、喚きつづけた。

彼は、自分たちがもどってきたときの様子を思いだした。ぐったりと力もぬけ、気も顛倒しながら、兵舎の中に坐っていた。あんな光景を見たのは、生れてはじめてだった。そこへ、国では靴屋をしていた分隊長のカチンスキーがやってきた。「いっしょにこいよ」と、カテンスキーは言った。「今日はバイエルン酒保にビールとブランデーがある。ソーセージだってあるぞ。」ラヴィックは、彼をまじまじと見つめた。そんな粗野な無神経を理解することができなかった。カチンスキーは、しばらくの間彼を見まもっていた。それから、こう言った。「貴様、おれといっしょに来るんだぞ。ぶんなぐってでも連れていく。今日は貴様、食って、飲んで、それから淫売屋へ押しかけるんだ。」彼は返事をしなかった。カチンスキーは彼のわきにすわりこんだ。「貴様の気持はわかってるよ。いま貴様がおれを何と思っているかもわかっている。だがな、おれはここへきて二年になるが、貴様は二週間にしかならない。まあ、聴け! いったいメッスマンのためにまだ何かやってやることができるというのか?--できゃしないんだ--あいつの生命を救ってやる見こみがちょっとでもあったら、おれたちはどんなことだってやってのけるってことは、貴様わかってるだろうが?」彼は顔をあげた。そうだ。それはわかっている。カチンスキーならそうするということはわかっている。「よろしい、と。ところで、あいつは死んじまったんだ。もうどうにもなりゃしない。ところが、二日すると、おれたちゃここを発って、戦線に向わなくちゃならん。こんどの戦線は、あんな平穏なものじゃないぞ。いまここで坐りこんで、メッスマンのことばかり考えこんでいたら、すっかり気が腐ってしまうだけだ。神経が壊れてしまう。神経過敏になってしまう。おかげで、前線へ出かけて、こんど砲撃をくらったとき、敏捷に動けなくなる。ほんの半秒おくれる。すると、ちょうどメッスマソを運んで来たように、こんどは貴様を運んで来なくちょならん。いったいそれがだれのためになるっていうんだ? メッスマンのか? なりゃしない。ほかのだれかのためになるのか? なりゃしない。貴様が薙ぎ仆されるだけだ。それだけの話だ。こんどはわかったか?」--「わかった。だが、僕にはできない。」--「黙れ、できないも糞もあるか! ほかのものはできたんだ。何も貴様がはじめてじゃない。」

その晩から、よくなった。彼はいっしょに出かけて、最初の教訓を学んだ。できるときにはやってやれ--そのときゃ、何でもしてやれ--だが、どうすることもできなくなったら、忘れちまえ! そうして、廻れ右するんだ! 元気をだすんだ、同情なんてものは、平穏無事な時代のものだ。命がどうなるかという瀬戸際のものじゃない、死んだものは埋めちまって、生を満喫しろ! 生はまだきっと必要になる。死を悲しむのと事実とは、別のことだ。事実を見、それをうけいれたからって、死を悲しむ情が足りないわけじゃない。そうでもしなかったら、生きのびることなんかできゃしない。

 

* 「どうすることもできないからといって、気が狂ったりしてはならぬ」 むごい、哀しい、堪えられぬ「死」の事実に生きている者は出会わざるをえない。生きているとは「死なれ・死なせる」ことなのだ。その厳粛ないわば罪責を、罪障を言を左右してなんとか免れようとアモラルな愚行にはしる者たちも確かに実在するが、堪えて、起ち、生きて悼み謹み自身を励ますことの出来る人がいる、そうあらねばならぬ。原則はそうだ。

しかし、自殺という行為の選択へはしる人もいる。いた。それはまた別問題として受け取るしかない。

「どうすることもできないからといって、気が狂ったりしてはならぬ」

これは、重い確かな「覚悟」というものである。気が狂うとは、ただもうオロオロ、ただもうメソメソ、ただもうガチガチ、ただもうナゲダシと謂うに近いか。たいていはそこへ逃げ込むのだろう。わたし。わたしだって若き日のラヴィックとそう違うまい。

2014 2・18 148

 

 

* 今日は白い石で日記を書きたくなる日だった。

 

☆ 人生は寄のごとく、  すること時あり。

静かにここに孔だ念い、中心 悵而たり。

 

人の一生も、旅の一夜のように束の間にすぎ、やつれはてるときがくるのだ。

心を静めてそのことを思いつづけると、悲しみに胸ふさがれるのである。 (陶淵明 榮木一後半)

2014 2・20 148

 

 

* 真央のことで慰められた。その他は、まさに陰々滅々。

 

* シーボルトは、いいことがあった日は、白い石で日記を書くと特記して、その日、最上徳内と会ったことを喜んでいた。

昨日は、久しく食したかった美味い生牡蛎に出会えたのが嬉しかった。放射能汚染のことは考えなかった。美味いものは美味いと思える内に食っておきたい。卵納豆でも叱られたが、せめて、線量検査にかなり熱心と聞いている生協から卵も納豆も手に入れている。ことに納豆は免疫環境への好影響を念頭に置いている。

 

* 実に不快でイヤなことの多い日本の現実だが、気持ちを温め和ませる「リーゼ」効果は、薬物よりもなによりも愛を感じることと思う。それが出来なくなれば人間の干物ができる、安倍や森や東電のような。

本も愛して読み、いい芝居や映画を愛して楽しみ、元気を復活して人との愛にもふれられるように、可能な間は美味いものを愛して食い美味い酒を愛して飲み、なにより日々の仕事に愛をそそぎたい。

2014 2・21 148

 

 

* 起床9:00 血圧136-65(63) 血糖値86  体重67.3kg 仕事の輻輳に悲鳴、しぜん眼精疲労。

 

* 落ち着け、落ち着けと自身に言い聞かせている。落ち着かねば、手の舞い脚のふむところを失って仕事にミスが出てしまう。

 

* とにかくも「選集①」はなにもかも初仕事で、ことに本文のほかのツキモノ頁の形・格好を決めて行くのにひどく心労する。決めてしまうと次回②以降に、必然やりなおせず前例として残ってしまう。午後いっぱい、眩しい機械画面に向き合って苦労また苦労。

2014 2・22 148

 

 

* へとへとになりながら、辛抱のいる細かな原稿づくりに一晩掛けた。明日には、用意の出来たところから印刷所へ戻したり、入稿したり出来るところまで努めたい。

意識している、わたしの「選集」など、いまの日本にも未来の世界にも何らの役に立たない、つまりは身命と経費の贅沢なムダづかいに過ぎない、と。だからこそ、だが、此の「最期の私家版」をわたしはただただ楽しむのである。奥付に、印刷を四月五日、発行を四月十五日とした。花の散る頃であろう。

2014 2・22 148

 

 

* 「生きている」のと「生きる」とは、露伴翁にあらためて問うまでなく、「生きている」とは「息をしている」から「生きている」のであり、性別、年齢、意志や賢愚の差なくみな同じ、いわば生物が息をして生きている、それだけのこと。しかも覚者、至人、仏陀は、むしろこのように生きている。

ところで、「生きる」は「生きている」と、はっきり、ちがう。まさに「イキル」「イキリ立つ」すなわち活躍し、興奮し断乎として意志を以いて立ち向かい踏み出すのである。ただ静かに、ただ深く、またはただ無意味に「息をしている」だけでなく、息づかいが励んでいる。仕事や行為に活気がある、ただし覚者、至人、仏陀の呼吸ではない。

静かにただ座し「息をしている」だけで不足のない日々が願わしい、しかし、すくなくも今のわたしにはとてもムリ。

あなたは。

2014 2・23 148

 

 

* 「生きている」のと「生きる」とは、露伴翁にあらためて問うまでなく、「生きている」とは「息をしている」から「生きている」のであり、性別、年齢、意志や賢愚の差なくみな同じ、いわば生物が息をして生きている、それだけのこと。しかも覚者、至人、仏陀は、むしろこのように生きている。

ところで、「生きる」は「生きている」と、はっきり、ちがう。まさに「イキル」「イキリ立つ」すなわち活躍し、興奮し断乎として意志を以いて立ち向かい踏み出すのである。ただ静かに、ただ深く、またはただ無意味に「息をしている」だけでなく、息づかいが励んでいる。仕事や行為に活気がある、ただし覚者、至人、仏陀の呼吸ではない。

静かにただ座し「息をしている」だけで不足のない日々が願わしい、しかし、すくなくも今のわたしにはとてもムリ。

あなたは。

 

* グレアム・グリーンの『愛の終り』 レマルクの『凱旋門』 は小説として占めている場にすこぶる懸隔があるが、「愛」の表現に得も云いがたい魅力があり、ついつい毎夜手を出して読み継がずにおれない。

たいてい、チャーミングな小説の主題は「愛と死」とキマリがついているようだが、わたしは早くからその今一つ奥にこもった「身内」感覚、必然の「一体・一致」の共有こそが、性別と年齢とをとわず、人間至高の憧憬であり願望であると観てきた。それはもう恋や愛を超えていると観てきた。性愛が添ってくれば一体・一致の喜びはさらに深まるだろう。『愛の終り』のベンドリックスは知っている、「その瞬間が来たとき  あの不思議な寂しい、怒ったような、身も世も抛げ棄てた叫び声」を。声は、抱かれたサラアだけの声でない、抱き締められたベンドリックス自身の声でもあると。「一つ」という「身内」の実感。それは日常の時空にあって性行為と無縁な同性の知己や師友やまた血縁に対しても決して不可能でない。

とはいえ、性の神秘にはおそろしいほどの真実がやどる。ことにすばらしい女のすばらしい自己放棄には。「サラアーは疑いを持たなかった。その瞬間だけが問題であった。永遠とは時間の延長ではなくして、時間の欠如であるといわれるが、わたし(ベンドリックス)に彼女の自己放棄はあの不思議な数学上の点、広さを持たず、空間を占めない点のもつ無限性に触れているように思われることもある。時間にいったい何の意味があろう--」

これは男が女に捧げ得た最高の感嘆ともいえるが、男と女とで性の神秘に捧げ得た最高の感謝であるというのが正しくはないか。

 

* 『凱旋門』の医師ラヴィックはジョアン・マヅーを愛し始めている。「女は、愛はなくとも、魅力と誘惑そのものである。男の性欲が先行しているようでも、女の魅力と誘惑とは彼の意識を置き換えて行く。この「女は何をやるにも、それにすっかり打ちこんでしまう。これはこの女の非常な魅力でもあるが、危険でもある。 こういう女は、酒を飲むときには酒が一切、恋するときには恋が一切、絶望するときには絶望が一切、そして忘れるときには完全に忘れてしまう。」

そしてラヴィックはマヅーへの愛をこんな言葉に置き換える、「僕は何にも知ってやしない。ただ口で言うだけだ。人間て、何一つ知らないものだよ。あらゆるものは、いつでも違うんだ。 いまだってそうだ。二日目の晩というものは、けっしてありゃしない。いつだって最初の夜だ。二日目の晩というのは最後のことだよ」と。彼も彼女もパリの陋巷に身をひそめあいながら帰るに足る故国や故人を喪いきっている。

 

* 日本の近代・現代の藝術味ゆたかな作の中で、上のような愛のきびしさや美しさや懐かしさを欠いて感動させてくれたどれほどがあったろう。日本の作者達は観念を咀嚼して魂の栄養に変える言葉の魔法に乏しい。信仰や戦争や故国喪失の地獄を深くは持ち得なかったのでは。漱石にも藤村にも潤一郎にも真に恋愛小説といえる名作は無い。作り物の恋は描かれ得ても。清張にもない。直哉にも武者小路にも川端にも三島にもない。むしろ荷風の『 東綺譚』などが純であるか。

2014 2・23 148

 

 

* 「選集」第二巻には『清経入水』などが入る。もう此の受賞作の本文用意は出来ていて、ルビ打ちを残している。長編『風の奏で』上下巻を読み返し始めた。この世界こそ懐かしい。少年だったわたしの底知れぬ憧れが平家物語を語りながら胸もうち震うように塗り込めてある。まさにわたしは自分が読みたくて読みたくて堪らなかったような小説を書いていたのだ。読み上げには少し時間を掛ける。ついで、『初恋=雲居寺跡』そして『絵巻』を入れる。分量の按配では『月の定家』を加えるかも。

 

* 第一巻のためには責了すべき『秘色』『三輪山』を最後に丁寧に読まねばならぬ。この巻は『みごもりの湖』を巻頭にも大和・奈良時代の物語が纏まり、第二巻には平家物語の時代が濃やかに語られる。わたしの作は、どんな歴史や物語に触れていようとみな現代の愛の物語になっている。

わたしは、楽しんでいる。谷崎が、年を取ったら自作をしみじみ読み返して過ごしたいとも言うていたのをよく憶えている。谷崎は、亡くなるときまで創作し執筆していた。わたしも、ぜひ、そうしたい。そうしている。

2014 2・23 148

 

 

* 機械で長編『風の奏で』を読み進め、階下で『秘色』『三輪山』それに「湖の本119」の再校ゲラを読んでいる。物語を読んではいけない、句読点や濁点・半濁点、促音・拗音、括弧の種類、仮名遣い、送りがな。そういうものに間違いがないか、見落としがないかと読むのである。視野がくろずんでくる。しかし専門の校正職を頼めない限り、これこそは著者・作者の必須の義務。心身の奥から疲れがくらい煙のように涌いてくる。

だが、いやではないのだ。わたしにとって「生きる」とはこれなのだ。

2014 2・24 148

 

 

* 死んだハズだよお富さん 生きていたとは知らぬホトケのお富さん というのがよく流行った。春日八郎の唄として記憶しているよりも盆踊り最高潮の体感として全身で覚えている、そしてこの歌詞は、あたりまえに嬉しいモノであった。死なれるのは堪らないとどれほど繰り返し小説に書いてきたか。生きていて欲しかった人たちばかりが思いだされ、夢にも現れる。亡くなった人が夢に見えないと嘆く声をときどき聴くが、秦の親たち三人にも、御恩の先生方にも、友人にも、わたしは比較的よく夢で逢っている。三月の写真に出してみた装幀画の橋田先生とも夢で数度も逢っている。

稀に、死んだと思いこんでいた人の現存をうわさに聞いておどろきも喜びもする。生きられるかぎりは誰にも生きていて欲しい。

2014 2・27 148

 

 

* も一つ、(わたしも始終云うてきたが、)自称「哲学者」に、「哲学(: 研究)学(者)」と「哲学(者)」とのちがいが分かってない自称哲学者の多いことが厳しく追及されてある。哲学していると云いながら、ふつう、「一人一人の哲学者を単位にして、その人達の著作を読んでいる。」それではまるで哲学者研究、せいぜい哲学史研究で、哲学の研究でも哲学しているのでもない。「目いっぱいのところで、哲学の教授になれるばかり、哲学者にはなれません。  いま哲学者と称する人間は多いが、ほんとに哲学しているのでなく、哲学関係の人物やら文献やらをけんきゅうしてるだけ。厳密にはそんな人を哲学者と呼ぶべきでなく、哲学者学者・哲学学者と呼ぶべし」と。

これはまあ、洋の東西をとわず当たっている。

2014 2・28 148

 

 

* 四月から消費税アップになると、「湖の本」の出血はさらに大きくなる。ま、余儀ないこととともあれ出る血は洗ったり拭いたり、なんとか堪えるしかない。もう二十八年も続いてきた事実こそがこの「仕事」の勝ち的な稼ぎであると思うしかない、それでよいと。幸いにも遺産を遺して死なねばならぬ負担は「無い」と勝手に思いこんでいる。就職以来五十五年の細々とした稼ぎであっても、なんとか暮らせている。湖の本も出し続けられよう、「選集」も、わるい戦争が始まらないでいてくれれば、そこそこ巻数を積めるだろう。それもこれも、やはり堪えて、起って、生きるのである。奈良の意味も価値もないと人がわらう前にわたし自身が面白く笑えている。そんなふうに老いられる、それもこれも生みの育ての四人五人の親たちの情けだとわたしは、思い至っている。

 

* 選集② のために、『清経入水』の本文はもう読み返した。いまは『風の奏で』を読み返している、おもしろく。おもしろがって書いたのも読んでいるのもわたしであって、文藝春秋から出した頃、あまりのことに本を壁に投げつけたという読者もいたし、はじめのうちビックリするほど読みにくかったのが、すうっとまるで阿片を吸ったように文体の味わいに魅されて感服しましたという読み巧者の評論家の賛辞も聴かせて貰った。壁に本を投げた人も、そのまま熱狂的に愛読して行ってくれた。平家物語研究の専門家達が数人で此の作を座談会で鑑賞してくれたりもした。

しかしまあ何といっても、やはりわたしが第一の愛読者だった。読みたくて堪らないから自分で書いた作と謂うのがいちばん当たっている。この巻に他にも予定している『初恋=雲居寺跡』も『絵巻』も『月の定家』も、どれもみな他でもない第一自分のために書いた小説と言い切れる。

2014 2・28 148

 

 

* 校正また校正 そして小説をじりりじりりと進める。

めずらしく原稿依頼をうけた。「気になることば」について八枚ほど書けと。依頼原稿は書かないと断り続けてきた。ひさしぶりに紛れ込んできた。

正直なところ、書きたいことしか書かないで来た。「箚記(とうき・さっき)」という筆述のすきなところは「私語」の「雑纂」がそのまま感想や批評や着想の保管になり、そのままバラバラと読み継いでも、窓外の景色が移り変わるほどの気楽な楽しさがある。原稿料を稼ぐという気が失せている限り、機嫌や枚数を限られた依頼原稿は、もうイヤほど書いて書いて、現にその保管や保存に往生している。

佳い書き手の愉快な面白い教えられる「箚記(とうき・さっき)」が読みたい。少年の頃愛読した長与善郎の「竹澤先生といふ人」など、あれも「箚記」だったろうか。倉田百三の「愛と認識の出発」は少し堅苦しかった。阿部能成だったかの「三太郎の日記」も堅苦しかった。日本語がギクシャクしていた。同じなら正岡子規の「墨汁一滴」「病牀六尺」の方が興趣に富んでいた。荷風の「日乗」はあれはやはり日記の限界内にある。

2014 3・1 149

 

 

* 櫻より菊より梅よりも、わたしはわが家での椿の季節を喜び迎えているようだ。その椿が雪で枝折れしていた。沢山な莟をもち幾つかは赤も白も豪華に咲いていたのを妻はいくつにも分けて家の内を飾っている。花のある家が好きだ。

椿の和歌は、だが古今集以降には少ないと感じている。

わたしの目の上には井泉水さんに頂戴した「風 花」の二字額が掛けてある。受賞の翌年から雑誌「春秋」に二年間「花と風」を連載していた最中、「愛読者」として突如届けられた贈り物。『花と風』はわたしのエッセイ本の処女作となった。

和歌での「花」と「風」の仲佳さは云うまでもなく、花の大方は櫻だが薫りよい梅も風との佳いつれあいになっている。

「春風夜芳」といふこころを詠んだ後拾遺和歌集春の、

むめの花かばかり匂ふ春の夜の

やみは風こそうれしかりけれ  藤原顕綱朝臣

では風は「香」をさそっているが、櫻になると「散る」「散らす」のを嘆かせている。

櫻花さかばちりなむとおもふより

かねても風のいとはしき哉   永源法師

なまぐさい下手な歌であり、多くの家人達は、とはいえ花は散ればこそ美しくいとおしいことを風に教わっていたのだ。花を散らして新たな命をまた迎えさせるのが「風」のしごとと人はよく知っていた。散らない花はよごれてゆく。惜しみつつも花は散りゆくとあきらめていた、人は。そしてまた来る春を待ちこがれた。

春のうちはちらぬ櫻とみてしがな

さてもや風のうしろめたきに  右大弁通俊

 

* 「花と風」との和歌を拾い溜めてみたくなった。

2014 3・2 149

 

 

* 明日には、選集①の巻頭作「みごもりの湖」三校が届く。これで校正は終えねばならない。入稿までを含めて何度も何度も読んだが校正に絶対の自信は持てない。じつに厳しいのが校正だ、三校ゲラもまた二度読むだろう。「秘色」も「三輪山」もまだ再校中。

いよいよ本としての仕上げの段階へ進む。目の覚めるような美本にはならない、実直で堅実な限定本になりますようにと願っている。

そのまえに、「湖の本」119を責了にし終え、発送の準備を進めねば。送り封筒に版元印などを捺すのもけっこう労働量としてきつい。しかし今回本も、内容はすこぶる濃い。いささかも手を抜きも緩めてもいない。「湖の本」はわたしの実質を吐露した創作であり、それ以外のなにものでもない。大事に感じている。

2014 3・3 149

 

 

* 放射能は見えず嗅げず触れない。しかも許容値を超えたときの怖ろしさ、猛毒のように生体を蝕んで殺す。福島原発はその放射能をいまなお常時に空気に、植生や土壌や用水に、地下水や海水に注ぎ込んでいる。見えず嗅げず触れないので、無いもののように思いこみまた思いこませる悪宣伝が、かつての安全神話同然にまたもや瀰漫しつつある。東電がいかに悪辣にこれを隠蔽しまた偽悪を捏造し続けてきたか、現にそうしているか、それを政権が容認しむしろ後援さえしている悪しき現実に、ハッキリ目覚めていなければ、シッカリ闘わなければ、ならない。福島原発近隣に限定されたことのように思いこむことの怖さを、少なくも東京都民はわがこととして認識しているべきだ。空気も水も植生も鳥獣も人間も、放射能を運び続けている事実から眼を背けていては危険きわまりない。許容値は月日を追っていまにも閾値を超して行く。経済と利得優先の自民政権がくにと国民の命を日々脅かしている現実。これぞ国民の最大不幸なのだ。

 

* そう思いかつ歎きながら、もっとしみじみと、もっとふかぶかと、人と人との世の情けを想い慕わずにもおれない。こう年老いて、人の情けなど云うのはお笑いぐさかも知れないが、やっぱり、それこそが大切と日々の読書や感想がわたしを突き動かす。

 

* 『凱旋門』のラヴィック医師はジョアン・マヅーに云っている、「われわれはいっしょにいる--長つづきするかどうか、そんなことはだれにだってわかりゃしない。われわれはいっしょにいる、それで十分だ。それにレッテルなんかはる必要がどこにある?」と。安住の国も故郷も家族も失っている彼や彼女に、「いま・ここ」で「いっしょにいる・いられる」ことより他に何があろう。それでもひとは、そういう関係に「レッテル」をはって「特別」化したがる。

 

* ひとは弱く、弱いがためになおさら他者にむかい「理解」を求めて縋る。理解という名の「抱き柱」に抱きつく。ラヴィックの云うように「それこそ世界中の一切の誤解のもと」なのに。かれは思う、「現にいまも、どこかでは発砲され、ひとびとは狩りたてられ、投獄され、拷問され、虐殺されているのだろう。平和な世界のどこかの一隅は、蹂躙されているのだ。ひとはそれを目撃し、それを知っていながら、どうすることもできない。」どうかすることの義務でもある権力者が、情けなくも決して「どうすることも」しないのだ。百年昔のことではないのだ、われわれの現在・現実がまさに「そう」なのだ。

ああ、そんな「いま・ここ」であればこそ、きみが、あなたが、いま、「ここにいてくれるなんて」、それ以上に「すばらしい」何がありえよう。わたしは、政治や営利の無道を嘆くよりも今はこの「すばらしさ」をこそ思い続けたい。

 

* 一触即発、戦火の危機がウクライナやクリミヤ半島に生じ、米ロはまたも正面からにらみ合っている。中国はこれを利する事へ向かうだろう。アベノミクスは行き詰まっている。しかし日本の行政は安倍「違憲」内閣にひたすらゴマを摺っている。

2014 3・4 149

 

 

* カミュの『ペスト』のなかで、ペスト蔓延と、都市封鎖のくらしのなかで、或る喘息病みの爺さんがこんなふうに述懐していた。

彼の曰く、「宗教の説くところによれば、独りの人間の前半生は上昇、後半生は下降であり、下降期においてはその人間の一日一日はもはや彼のものではなく、いつなんどき奪い去られるかもしれないものであって、したがって彼はそれをどうすることもできず、そしていちばんいいのはまさにそれをどうもしないことなのだ」と。

わたしも自身の老境を、「もとの平ら」へ静かに降りて行くものと観じている。ゆるやかな滑り台をゆるやかにすべり降りつつあるとも。それ自体をどうこうしようなどする気はない。出来るわけがない。だが、というか、しかもと云うか、そもそも滑り台の滑り降りる先が定かには見えていない、見たくても見えないまま下降しているのだ。

では何もしないで滑り降りるに心身を任せてればいいか。わたしは、そんな間にも楽しめる展望も仕事も遊びもある、或いは闘いすらもあるという見方でいる。

2014 3・5 149

 

 

* 上半身を起こし、着布団をはねるまえに、手の届く左に林立した抽斗棚の一つをあけ、一掴み一見紙屑を取り出し、あんまり面白いいろんな心覚えや書き付けや資料片がいっぱいなのに驚嘆した。

何十年も昔に、飯田健一郎さんがわたしのため幾つもの印を刻して下さっていた「印影」が見つかったり、仲良しだった歌人の篠塚純子さん第二歌集『音楽』からの純子自選85首が出てきたり。元気にいまも忙しがっているだろうか、忙しいのがお好きなこの人の短歌がわたしは好きだった。「e-文庫・湖(umi )」の「詞華集」室に、二冊の歌集から懇切に選ばれてある。懐かしく読み返した。

もっと妙な記録も残っていた。

 

* 「文藝家協会ニュース特集号」が「続 書籍・雑誌の流通について」の問い合わせに答えた何人もの手記もみつかった。本が売れない。出せない、手に入りにくいと作家や書き手たちが、もう堪らないといっせいに悲鳴をあげはじめた記録で、平成七年(一九九五)九月のもの。曾野綾子「本の復活」 粕屋一希「出版市民大学を」 槌田満文「小出版社はどうなる」 大林清「再版問題と印税」 伊藤桂一「私の考え方」 石田貞一「オーイ、店員さん」 森まゆみ「手配りで売る」 松田昭三「贅沢な願いかも知れないが」 長部日出雄「売れない本は無価値か」 北川あつ子「悲鳴をあげたい」 菅野昭正「本が買いにくい」 竹西寛子「漠然とした疑問」 長谷川泉「荒縄くくり返品の解決」 と、なまなましい。

参考までに、わたしの、つまり作者から読者へ手渡し出版『秦恒平・湖の本』の創刊は昭和六十一年(一九八六)六月で、すでに九年前に上のような泣き言を吹っ切って、一九九五年には創作篇31巻、エッセイ篇11巻を悠々「売り」続けていた。いまは通算してその五倍ちかくまでも出し続けている、出血はもう避けがたいけれど。

ともあれ出版事情は、地味な藝術文学の書き手にも、そのいい読み手にも、つまりは真面目な出し手にとっても、極端に反文化的悪化の到来は必然とわたしは明瞭に察し、「作者から読者へ」しかも「作者の書きたい本を」出し続けることへ、文壇人たちが慌て出すより一と世代も早くに踏み切っていたのだ。ものが見えているようで見えていない者たちのいわば暢気そうなお立ち台であった、文壇とは。

2014 3・8 149

 

 

* このところ細切れでながら大好きで面白くて感動をさそう映画「レディ ホーク」を観てきた。今朝一気にラストまで。泪がにじむほど惹かれた。ミシェル・ファイファーが大好き、此の作の騎士ルドガー・ハイファーも佳い。総毛だつほど好かない大司教(マシュー・ブロデリックが演じているか)と、彼が君臨する豪壮なカトリック大聖堂。この大司教邪恋の呪いに遭い、ルドガーとミシェルとは日の出を限りに交互に狼に鷹に姿を変えられ、愛し合う男と女として時を共有出来無くされている。呪いを解く至純の愛と闘いとの映画であり、ひとつには異様な権力と邪法による支配の大司教への敢然たる抗争の物語になっている。事実はどうか分からないが、わたしには、これがアイルランドの歴史に地生えしたレジェンドではないかと思われてならない。アイルランドのカトリック支配の強権強圧については今も読み継いでいる『アイルランド』に精しいのである。

それにしても、わたしは、よくよく、生来、こういう幻想のレジェンドが好きなのだ、『ゲド戦記』『イルスの竪琴』『指輪物語』『黄金寶壺』また竹取や住吉や狭衣等々の平安物語から秋成の「雨月」「春雨」に至るまで。

近代に入ると、鏡花のいくつかをおいて、さしたる名品に出逢わない。

わたし自身は、『清経入水』『秘色』『三輪山』『みごもりの湖』『風の奏で』『初恋』『冬祭り』『北の時代 最上徳内』『秋萩帖』『四度の瀧』等々、作の半ばが、絵空事の不壊の値をもとめた幻想のリアリズム小説になっている。「レディホーク」のような映画に心底魅される素質を抱いて生まれたらしい、妻も、それに頷く。そう観えると云う。

 

* 鳴り響くような豪壮華麗な大聖堂、大寺院、そこに君臨する猊下などと呼ばれる手合いが、とことん、わたしは好かない。憎しみすら覚える。宗教も信仰もそこから腐蝕している。イエスもブッダも、孤り、起って生きて死んで、あんなにすばらしかったのに。

2014 3・11 149

 

 

* 読んでいる本からの感想など「箚記」らしくいろいろ書きたいが、いまは控えて所要のために時間も視力もまわしたい。

階下で今日半分の25頁分を校正し、二階の機械の前で「選集②」のために長編『風の奏で』の原稿を読み込んでいった。ああ、これも、文字どおりに私自身が読みたくて堪らなくて書き上げた小説だったと真実思い当たる。平家物語研究の先生方には此の作のために座談会で議論されたほど、ま、好評だったが、或る読者には本を壁に投げつけたという笑い話が遺った。だがその人は静かにじっくりと読み返して、その後も熱烈な愛読者を通してくれた。読み飛ばして味わえるような雑な書き方はしていない。『みごもりの湖』もそうだが、登場することに女性への愛と敬意とはなみでないのだ、文章が奏でる静かな音楽に耳を澄まして目で読んで下さる人がわたしの「いい読者」なのである。そんな読者の何人もからわたしは作中の女性たちへの嫉妬をさえ何度も聴いた覚えがある。そういう読者がありがたい読者なのだ、わたしには。

 

* 上のようなわたしの思いは、かけ離れたようでいて、これまでこの「私語」にしごしてきた『凱旋門』からの引用に密着している。

いま開いている頁では、政治的人種的な逃亡者である老練のラヴィック医師は同じ運命のジョアン・マヅーに、こう、云うている、「僕たちは死にかけている時代に生きているんだよ。僕たちは、あらゆるものから引き裂かれてしまっている。僕たちには、もう僕たちの心(愛)しかのこっていないのだ。僕はあらぬ月世界のようなところへ行っていた、そしていま帰ってきたんだ。すると、君がちゃんといてくれた。君は生命だ」と。わたしが小説を書くとはそういう「生命」との出逢いと愛とを抱き締めるように書くと云うこと。

「人間がたがいに愛しあうということ、これが一切だ。奇蹟であって、同時にこの世で一ばん自明なことだ。愛がなかったら、人間は暇をとった死人にすぎない。二つ三つの約束の日付けと、偶然の名まえ一つしか書いてない、紙切れ同然だ。そんなことなら、いっそのこと、シンだ方がましだ」と落ち着いたラヴィックがやや言葉を励まして言う。「わたしたちは死にはしないわ」とマヅーはラヴィックの腕の中で囁くのだ。

2014 3・12 149

 

 

☆ ヒルテイに聴く。

知覚される世界の背後には必ず一つの叡智的存在がなくてはならぬ--それは、あらゆる人間の創作の背後にもそのような存在があるのと同じである。われわれはこの叡智的存在を、まさに神と呼ぶ。

すべての宗教は、本来言い表わしえないものをいくらかでも表現し、それによって、一般にそのことを互いに話し合えるようにする試みにほかならない。

福音書を注意深く読むなら、すぐ気づくことだが、実にキリストみずからは神の「本性」や「属性」について、今日すべての子供たちが宗教の授業時間に教わるよりも、少なくしか語っていないのである。 (一 六月三十日)

 

* まさに「神」と呼ぶ呼ばぬはべつにしても、ヒルテイのこの言及には賛同する。わたし自身の体験や自覚や気づきの各場面で、そいうふうに感じてきた。この限りにおいて「宗教」の願いを汲むことは難しくない、その通りだと認めている。

2014 3・13 149

 

 

* 階下で「湖119}発送用意、そして「選集①」責了用意に懸命。二階では、「選集②」のための長編「風の奏で」読み返し入稿原稿づくりに没頭。「清経入水」はもう読み返した。いまは此の「風の奏で」を読み返すのが嬉しくて叶わない。この作、こう書きたかったというより、こう読みたかった、誰も書いてくれないので自分で書いたという気持ちが、文字どおり実感だ。「平家物語」そのものをさも「主人公」に見立てながら成立を論策し検討し追及しつつ懐かしい現代の物語が出来て行く。これぞ、わたしの、わたし作風。もう以前、この作の女主人公である建礼門院徳子そして祇園の茶屋間垣の女将徳子にむかい、びっくりするような嫉妬のメールを寄越した読者がいた。作者冥利であった。「選集②」には、少なくももう一作「雲居寺跡 初恋」を入れる。小林秀雄の盟友で、太宰賞の選者でもあった河上徹太郎先生が読まれて、「こういう仕事をしてくれていたら安心だ」と人づてに言ってきて下さった。会津八一の一のお弟子だった宮川寅雄先生もこの作を「有難いと思いました」と褒めて下さった。みんな亡くなられたが、わたしは先生方に答案を書くような気で今も「書いて」いる。

2014 3・15 149

 

 

* いましがた「お宝鑑定団」では白鳥映雪の美人画、三宅克己の水彩画、石黒宗麿の作陶など、超絶とはいわないが心を洗うに足る名品がみられた。名品には深い「思ひ」を燃やすに足る活気と生彩とがある。「おもひ」という日本語は、古典の世界では、つねに燃ゆる「火」が感触されている。真摯に「おもひ」を深く燃やすことのできる「人、物、事」こそ生きる宝なのである。

2014 3・16 149

 

 

* 明日、明後日と病院通いがつづき、十九日には印刷所で「選集①」の最終段階への煮詰めの打ち合わせ。そして二十日からはまた数日掛けての「湖の本119」の発送になる。二十四日月曜の夕刻にはまた江古田の歯医者通いがあり、五時過ぎには、すこし寛いで酒が飲めるか。この一週間余は汗をかかねばならない。

まだ発送の用意も万全でなく、選集①の絶対欠かせない三校がまだ百頁しっかり残っている。責了へ、ま、いいやとは言ってはならない、三校にしてけっこう誤記が、それも主には濁点や半濁点や拗音促音にミスが残っている。「一期一巻」の紙碑・紙の墓と覚悟している。能うかぎり丁寧に仕上げたい。よほどうまく行けば四月中に本になるかも知れず、しかし少しも焦らず、ただ途中の故障が無いのを願っている。

書き掛かりの長い小説ふたつもじりじりと押して行っている。

2014 3・16 149

 

 

☆ ヒルテイは繰り返しこれを言うている、「健康は疑いもなく大きな贈り物ではあるが、それをあまり重く見過ぎてはいけない。むしろ、それを損ったり失ったりした場合でも、立派にそれに堪えることを学ばねばならない。なぜなら、健康はまだまだ最高の、なくてはならぬ善ではないからである」と。健康無比の悪人、珍しくない。ヒルテイはさらに言う、

「病的な状態は、あまりひどく気にしんいでいると、ひとりでに消え去ることがよくある」とも。神経質に気に病んでいたりするとき、暗雲通過してこれを体験することは、たしかに有る。だが無用心でいいとも言えまい。ヒルテイは病気・病者にやや過剰に精神論で求めるところがある。それでも、「とりわけ健康に役立つのは、多くの場合、正しい、真実の愛である」という言い方にはちからがある。「しかしこの不思議な(愛という)薬は、どこの街でも売ってはいないし、また、だれでも自分で用いることができるわけでもない。(まして)それの下らぬ真似ごとで満足している者には、解くに扱いにくい薬である」とは、謂い得ている。

 

☆ ヒルテイの批評は現代の「哲学」にも厳しく、わたしも共感できる。「現代では、哲学はだいたい数学と同じような思考の訓練であって、精神を思惟活動に馴れさせるという以上に、人生にとって何らの目的も効果も持たない。 哲学は、ある一人の思想家の思想圏内において形成せられた一般的世界観の樹立というにすぎないものだ。 各個人の人生行路にについてそれを明瞭にしてやり、彼の性格を改善し、善に向う力を高め、またその人の幸福を増進するという目的には、これらの哲学体系は一般にほとんど役に立たないか、或いは間接的にしか役立たない。」

さらにヒルテイの批判は「心理学」にも及んでいる、「およそ心理学はそれ自身になんの力をも持たないものであり、かつて、不幸に陥った人を元気づけたことのない、一つの学問体系にすぎない」と。さっこんでは「犯罪心理学」が応用の度を高めているかも知れないが、まだまだ聴いていても聞くところでも、確度のひくい推量法にちかいと、わたしにも、想われる。

 

☆ ヒルテイは、こんなことをこんなふうにも言う。

「世の多くの人びとは、自分が何を欲するかを、よく知らない。また、それをよく考えることもほとんどしない。反対に、少数の人びとのなかのある者は、できもしないことを欲して、いたずらに力を消耗している。また、そうでない者も、その意欲が堪えず動揺して、そのために何ごとをもなし遂げえない。」「しかし、可能なこと、つまり、自分の力と現実の世界秩序とに相応したことを、確固として辛抱づよく欲する人びとは、つねにその目的を達成してきた」と。

革新、革命の進化をこの常識に徹した基督者は信じていない。その限りに置いてヒルテイの言うところは的を射ている。

 

☆ こんなヒルテイにも、たちどころに共感もし、しかし「醜いもの」「卑俗なもの」を吟味し批評して、それらにも汲むに足る人の世の真相のあることを感知したい。

「われわれが自己を改善しようと努力する場合に、あらゆる悪を避けようとするよりも、すべて醜いものや卑俗なものを避けようと決心する方が、直ちに、もっと効果があがることが多い。われわれの力にかなうからである。」

ヒルテイが思い、わたしもぜひ退けたい「醜い」「卑俗」とは、民俗や大衆性につきまとう生の側面などではなく、人間の根性を毒している気の低さである。阿り、またおごり高ぶる者たちの卑しさを嫌うのである。そういう醜さや卑しさをまちがいなく自分自身が持ち合わせ捨て得ていないと思えばこそ、しみじみと思うのだ。

 

☆ ヒルテイはこう言い切り、わたしも強く首肯く。

「真に美しいものに慣れ親しむこと、それも生活の欲求として、または自分の性格上の特質としてそうすることは、若い人を人生に出発させるにあたって持たせてやることのできるこの上ない護身用の武器である。」

2014 3・17 149

 

 

☆ ショーペンハウエルは博大な人気を誇ってきた哲学者であるが、日本の哲学者で彼を専門に追究した人は少なすぎるほど少ない。若くして『意志と表象の世界』という基幹の大著を著し、その後この基幹一冊の無数の註釈・補填の論考を生涯書いて終えた実に特異な哲学者だった。「我々の真実の本質は死によって破壊せられえないものであるという教説によせて」書く、といった具合。

彼は言う、「君が死んだ後には、君が生れる前に君があったところのものに、君はなる」と。「だからもし(死が)怖ろしいということがあるとすれば、せいぜいのところ移りゆき(=死への転帰)の瞬間だけなのだ。」「理性的に考えさえすれば、(死は=)なにも我々をおびやかすほどのこともない」と。そういうことは、子供の頃を通り過ぎて行くにつれ何度も想いまた考えた。

2014 3・17 149

 

 

* 『風の奏で』を読んでいると、仕事なのやら楽しみなのやら、本末転倒してくる。なるほどこの小説は、誰にでも読めるというシロモノでないと思わざるを得ない。平家物語の研究者・学者・学生達に評価された昔に、いまさらに納得する。それでも、読み込んだ読める読者には「アヘンのように」浸透した。それで良いとわたしはあきらめていた。文藝春秋がよく出してくれた。橋田二朗先生の装幀もわたしはとても好きだった。

2014 3・24 149

 

 

* ホルター心電図を記録のため上半身に器機など接着、機械の前に坐っているだけでは曲がないので、『みごもりの湖』三校の最後の五十頁ほどを読みに電車に乗り街に出て、しっかり読んだ。最後には池袋西武の「伊勢定」で読み上げた。読んでから酒も少し飲んだ。時間を割って何処で何をしていると記録した。けっこう疲れて、四時に帰宅。

「選集①」の三作の本文校正は、これで打ち上げにする。ツキモノの念校、装本等の念校やツカ見本も出来てくるだろう。もう任せていい段階へ近づいた。次いでは「選集②」の入稿用意のピッチをあげねば。

 

* 「湖の本119」 『堪え・起ち・生きる 流雲吐月 2』発送分はほぼ届いたように思われ、近藤富枝さん、高田芳夫さん、小和田哲男さん、並木浩一さん、関口忠男さんら作家、批評家、大学教授がたの懇篤なお手紙が届いており、文学観や大学や図書館、文化資料センターの礼状も続々届き始めている。

疲労つよく、それらの転載は今日の所は控える。昨日から睡眠が足りていない。

近藤富枝さんからは、お手紙と倶に、美しい限りの粘葉本『三十六人家集』平成版を頂戴したし、卆壽の高田芳夫さんからも長文切々のお手紙に添えて、『文芸へのいざない』と題された目配り広やかなエッセイ集を頂戴している。

 

* それにしても眼の霞むこと、機械の字が朧に滲んでいる。要するに眼精疲労なのだろうが、処方箋通り調整された眼鏡の六種が六種とも的確に働いてくれないのだから仕様がない。半ばあきらめてしまい休み休み気長に仕事するしかない。仕事はやめない。

2014 3・25 149

 

 

* 『みごもりの湖』の初校・再校・三校分を元原稿に落ちなく保存しておく作業は今後のためにぜひ必要であり、容易ならぬ作業量で、目玉がひんまがりそう。しかしすこしでも誤りのない本文を作っておきたい。(しかし、ルビ打ちはまたあとの作業になる。)初校分と三校分とは三校ゲラの控えで確認したが、再校分の確認が洩れていたと分かって、仕方がない、腹をくくってじりじりと照合している。安倍「違憲」総理らの顔や声をテレビで見たり聞いたりよりはしんどくてもよほど心よい。

2014 3・26 149

 

 

* 「選集①」のツキモノや、装本最終案が届いた。さ、どんなふうに出来上がるのか。第一巻は大判460頁、本文は「湖の本」より少し字を大きくした。わたしの、ことに古代・古典取材物では余儀なくルビが多くなる。読みやすく読みやすくと心を用いねば。

製本するのは、非売の限定記番本150部、おおかたは研究施設や図書館・文学館へ入れる。別に著者用をほんの少し造る。稼ぐということをふっつりやめて暮らしている身の程ではたいへんな贅沢だが、わたしは、家も別荘もいらない、自動車も高価な機械もいらない、遠くへ旅もしないし玩物喪志の物蒐めもしない。自分の読みたい小説や文章を、五十年、自分で書いてきたのを、恰好の本で読みながら遠からずこの世にさよならする。騒壇余人のわたしに出来る道楽はそれぐらいなもの。

2014 3・26 149

 

 

☆ 前略「湖の本」第百十九巻拝受

有難く御礼申し上げます。巻頭の浅田ペン会長批判を拝読して驚いてしまいました。浅田氏は、私たち戦前の学生が、突然下宿の部屋に入り込んで来た警官に本棚の本を調べられたり、同人雑誌の相談を無届け集会と弾圧されたことなどは勿論、戦前の文士がペンクラブといふ国際組織に入って、何とか言論の自由を守ろうとしたことなど、全然知らないらしいのがわかりました。私は三十年ほど前、気に入らぬ人がペン会長になったのを機にペンを脱会したのはあまり間違ったことではないといふ気がしました。

葉書で失礼いたしました。  元ペンクラブ理事 作家

 

☆ 御本頂きました。

ありがとうございます。御病気になられても健筆を揮っておられることに頭が下ります。小生もがんばらねば……と思います。

「脱原発文学者の会」を立ち上げました。まずはブログを見ていただければ幸いです。とりあえず。

くれぐれも御身大切に。不一   ペンクラブ理事  作家

 

☆ 拝復

ご健勝にてのご活躍をお喜び申し上げます。

「湖の本119 堪え 起ち 生きる」誠にありがとうございました。

日々のご研鑽の結実に深く敬意を表します。 敬具  元内閣総理大臣

 

☆ 御礼申し上げます。

秦恒平先生の快活で鋭い筆致に毎回たくさんの励ましをいただいております。

梅の花の盛りが過ぎ 櫻の季節を迎えようとしております ご健康をお祈り申し上げます。 山梨県立文学館

 

☆ 浅田氏のコラムへのご不審

同感です。コラムを読んだ時のゾッとする違和感を思い出しました。  文京区 編集者  安

 

☆ いろんなこと

気にしています。いろんなこと、願っています。いろんなことが、永く続くように。 石川県 元文学館長

 

☆ 暗愚の長のために

ますます、いやな時代になりつつあります。若者の右傾化も気になります。 中野区 歌人・教育者

 

☆ 今年の私の目標は

部屋の整理をして湖の本のバックナンバーをそろえることです。  京都市  大学図書館司書

 

☆ 選集の『みごもりの湖』お待ちしています。

お妣様の歌碑へご報告に参ります。

古典、旧約、新約 なぜかユダ周辺のことにはまりこんでいます。マルコ福音書にも涙しました。 東近江市 ペン会員 作家

 

☆ 気力みなぎり

おからだ よろしいように拝見いたしました。

どうぞお大切に。  八王子市 ペン会員 歌人

 

* 早大図書館、親鸞仏教センター、川村学園女子大 中京大、東海学園大 神奈川近代文学館、ノートルダム清心女子大、広島大、皇學館大等々からの挨拶も届いている。

 

* こういう記録をあえて此処に残しているのは、わたしの仕事が騒壇の外で為されていようとも、孤独・孤立の自己満足ではなく、まこと、不徳ナレドモ孤でなく、大勢の人たちに励まされたり関心を持たれたりしながらの活動だと、だれよりも自身を励ましたいからである。

 

* ところで今回湖の本119の巻頭でわたしは所属している日本ペンクラブ会長浅田次郎氏の正月三日東京新聞コラム一文への不審を明らかにし、大方のご思案をも請うた。幾らかの反響が既に上のように見られるが、それには触れない。ただ一つ、言い添えておいていいと思うのは、明治から昭和初期へかけて日本國と日本国民に苦汁を飲ませた点で、象徴的にも代表的にも迷惑した法は「欽定明治憲法」であると確言しておいた真意である。わたしは明治憲法に関わる莫大な学者その他の研究や発言や議論に触れながら上のことを確言したのではない、そんな仔細に関してはわたしは門外の一私民に過ぎない。しかもなお上のように確言し断定した根拠は、明治憲法の第一条が天皇の神聖と大権について明記していること、その天皇という「玉」を政治家達や軍人達が恣にころがしながら、国民を弾圧し支配し、結果として不幸な戦争へ國と国民を導いて原爆の被害をはじめとする言語に絶した不幸を実現してしまったその思想的・政治的基盤にあったという事実だけは、絶対にごまかせないと肌身に覚えて知っているからである。民主主義・主権在民・基本的人権、好戦思想の放棄を旨とした敗戦後の日本憲法とは、絶対的に根本で相容れないのを確信の上で、さきのように明瞭に確言したのである。わたしの立場からの発言としてはそれで明瞭に足りている。

明治憲法に関して仔細にわたしに教えようとして下さる人もあろう、それはそれで知識として頂戴はするが、そういう憲法学の知識からものを言う必要はわたしには無い。「天皇神聖」を絶対とした国民支配に道をつけてしまったような憲法は容認しないという、一私民の直観を、認識を、わたしは翻す気はない。軍国主義、好戦政治、開戦、敗戦、厖大な国内外の人間の死。その基として悪用された憲法こそ最悪の非道法だと言いきることにわたしは憚らない。これだけは言っておく。

2014 3・27 149

 

 

* こんどの「湖の本」を送る際、例の献辞に「穆穆良朝」の四字を陶淵明に借りた。「穆」「穆穆」という字義には「やわらかい」意味が添っている。「やわらかい春の雨が朝からひとしきり降って、止んだところです。お元気ですか」とすぐさま読者の挨拶があったのが愉快だった。呼応とはこういうことか。

時代のせいにするばかりではいけないが、この険しい時代に日々を迎えて「穆穆」とは容易なことでない。とはいえ、人の「穆穆」は努めて演ずる姿勢でなく、本然備わっていたい性質なのであり、だからこそこの「穆穆」のまえに身を詰むほどの恥ずかしさを感じる。

 

* 『陶淵明全集』上下巻、この機械の真側に置いて、とても手放せない。訳註の親切を頼みにし、ただただ詩懐がなつかしい。のがれがたく身の程を羞じる思いもある。

北京の人民大会堂で周恩来夫人に会ったとき、「秦先生はお里帰りですか」と諧謔の声をかけられたほど、「秦恒平 チン ハンピン」は中国読みして中国名としても立派に通じる。同行した井上靖でも辻邦生でも大岡信でもそうは行かなかった。ただしわたしの生い立ちに中国人とのなんらの縁も無い。無いけれども、それは秦の祖父鶴吉からの多くの漢籍を介しての感化であろう、小さい頃から中国の文化に強い敬意は持ち続けてきた。皮肉なことだが、わたしが現代中国をむしろ厭悪し始めたのは、あの「お里帰りですか」という親愛の挨拶を受けてより以降のことになる。敢えて「覇権は願わず」と表明していたせいぜい華國鉾頃までの近代中国はまだしも、「覇権」まる出しの今日の中国は好かない上に要心が肝腎と思っている。しかし近代以前の中国文化への敬愛は少しも減らない、むしろ深まり広がっている。悩ましいほどである。

2014 3・28 149

 

 

*  若干の不審や反発も覚えながら、ヒルテイに「聴く」ことは多い。

「やむをえぬ理由から、古い友人や親戚の者と交わりを絶たねばならないならば、何もいわずにそうするがよい。その前に議論などかわせば、必ず問題のにがにがしさや醜さを増すか、あるいは別れるよりもなおわるい、中途半端な、いつわりの和解に終ることになる」と。娘夫婦との場合、こういうふうにはわたしは出来なかった、しなかった。無道に対し「逆らひてこそ、父」に徹し、「書く者」の務めとして何冊も本を書いた。『逆らひてこそ、父』『華燭』そして『かくのごとき,死』さらに長編『凶器』を書いた。どんなに堪え、そして起って書いた。生きる証として書いた。いつわりのわかいなど拒絶した。ヒルテイの謂う意味は痛いほど分かっている。それでも、と、あえてこう書き記しておく。

 

* ヒルテイはまた言う、「たんなる動物的な仕合せなどは少しも価値がないばかりか、一つのごまかしにすぎない」と。「これに反して、神に仕えるのがすべてだ」と。「動物的な仕合せ」はいろいろに取れるとして、端的にはセックス、性的な人間愛、恋を謂うているはずだ。いま、読んでいるグレアム・グリーンの「愛の終り The End Of  The Affair」は、分かりよく謂えばこのヒルテイの批評への全的な否認と反発かと読める。同じ意味に於いてわたしはグリーンの表現に同感している。ヒルテイは、「信仰とは、神へ向ってひたすら努力することではなく、神に己れをゆだねること」と謂っている。気持ちとして、よく分かる。ただ、「己れをゆだねる」という言葉にも行為にもむしろ人間の都合のいい「我」が露われてはいないか。荘子の至人はこうは謂いも行いもしないだろう。

『愛の終り』のヒロイン、「サラア・マイルズ」はあらゆる作品のヒロインたちのなかでも魅力に富んだ女である。小説の語り手のモーリス・ベンドリクスは小説家である。グリーンの作は、アクロバティックな構図で切実に推移してゆくが、サラアが日記ふうな直接話法で述懐をはじめるなかで、「ときどき、幾度も恋を語った日のあと、私はいったい性愛に終りの来ることがあるものかないものかと考えることがある」と書いている。このさくでは「恋を語る」とはひとつに交わる行為を意味している。サラアはモーリスへの恋・愛をそういう性愛で神を愛するとかわらぬ純度でひたすら感受している。男の方も同じでありながら、終始嫉妬心をもやしていらだつ。「彼は、過去、現在、未来をかまわず嫉妬する。彼の恋は、まるで中世の貞操帯のようだ。彼は私とともに、私の内部(うち)に、いるときのほか、決して安心しないのだ」とサラアは観ていて、モーリス自身ももっと歌劇にこの嫉妬する自分を見つめている。

サラアは神を愛したいと望み、そのようにモーリスを愛している、愛し続けたいと全身全霊で願っている。だが男は嫉妬しては焦れて当たる。『愛の終り』は神という途方もないモノ影を背負ったままの性愛の作品である。わたし自身が書きたい、書いているものは、もっと人間に接した性愛の作、の積もりなのだが。まだまだ、だ。

 

* それよりも<こんなヒルテイの世知に頷いている、わたしは。即ち、「他の人びとが欲するままに任せておいてよいことが、世には限りなく多い。結局、それはどうでもよいことだからだ。そうすれば、自他ともに生活が楽になる」と。その通りだ。が、但し絶対に例外に対し、すなわち安倍「違憲」内閣や政治家や強慾企業らの「欲するまま」に対しては、毅然と対峙し対抗し克服せねばならぬ。

2014 3・29 149

 

 

*  応挙という画家はわたしが敬愛する何人かのなかでランクの高いひとりである。ことに、「雪松図」に胸打たれたのを快く強く自覚してきた。

もともと「松」という樹木が、杉、檜、樅などより好きで、当代最高水準の若い女優「松たか子」が贔屓なのも、実力によるのはむろんだが、端的な「松」という名乗りを、よそながら気持ちよく愛している。彼女の舞台で失望を覚えたということが絶えて無い。希有なことである。

それは、ま、よそごとであり応挙の「雪松図」にもどってあれこれ思うとき、「松風」とは耳にも目にもする言葉だし、「雪月花」という取り合わせも、幼くから馴染んだ茶の湯の場では耳にタコほどのいわば三幅対にされている。現に叔母から伝えもつ軸物で、小堀宗中筆になる「花」「月」「雪」の簡明かつ瀟洒な三幅を愛蔵している。都ホテルでの茶会で「花」の軸をかけたこともある。あの会では、そうそう、若き日の淡々斎が「好み」の美しい松を描いた「末広棗」を茶器に用いた、あの棗は叔母もわたしも大好きだったが、松本幸四郎のお祝いに、よろこんで呈上した。これま、本題を逸れたが、「松と鶴」「松と旭」などは蓬莱山の代役をするぐらいで、元日には決まってわが家の玄関を飾る秋石画の「蓬莱図」、それはが見事な巨松に鶴と旭とを配している。

まわりくどいが、つまりは「松と雪」という組み合わせは、応挙の素晴らしい大作以前には、あまり観た記憶がない、ということ。

ところが、かねがね愛読中の『十訓抄』で、「松の貞節」という一節にひょいと出逢った。秦始皇帝が幸い松を頼んで「雨宿り」できた礼に、松に酬いて「松爵」の称と位階(五位)とを贈った逸話も、そういえば『十訓抄』の早いところで読んでいた。

で、この古典の筆者は「松の貞節」をどう書いているか、長くはない、すこし約して書き写してみる。

 

そもそも松を貞木といふことは、まさしく人のために、かの木の貞心あるにあらず、

雪霜のはげしきにも、色あらたまらず、いつとなく緑なれば、これを貞心にくらぶるなり。

勁松は年の寒きにあらはれ

と古人が書ける、そのこころなり

 

圓山応挙がこんなことを識っていたかどうか、しかし同様の感懐はきっと持ち合わせていた、だからあんな見事な「雪松図」が成ったのにちがいない。いずれこの辺の感興をわたしも創作の中で趣向に用いているのを明かすだろう。永井荷風は「 東綺譚」の女に「雪子」となづけ、谷崎潤一郎もまた「細雪」のヒロインを「雪子」と呼んで愛していた。しぜん「松・勁松」は男をあらわすだろう。 2014 3・30 149

 

 

* グレアム・グリーンの『愛の終り』は第三部でヘンリの妻であるサラアがサラアの言葉で「愛」を語り始めると、俄然生彩を増してくる。田中西二郎さんの訳にも惹かれているのだが、「いい女性」の「いい魂」が率直な「いい言葉」と化して読者を魅する。

 

☆ 「今日は終日、モオリスは私に親切にしてくれた。彼はほかの女をこれほど愛したことはないとよく私に言う。 私がそれを信じるのは、そっくり同じように私も彼を愛しているからだ。愛することをやめたら、愛を信じることもなくなるだろう。もし私が神を愛したら、そのとき私は神の私に対する愛を信じられるだろう。愛を欲しがるだけでは不充分なのだ。私と神とはまず愛しあわねばならない、それなのに私はどのように愛すべきかを知らないのだ。でも私はそれを求める、どんなに私は求めているだろう」

西欧の近代が「神」を見失いはじめたなかでの、神にせまるもっとも痛切な愛のむずかしさをサラアは叫んでいる。

「神とはまず愛しあわねばならない」という意味には、モオリスもサラアも明瞭に一致しているように深い性愛が希望されている。

神との性愛、それは人と神との歴史を書き換えるほどのモノだ。サラアは神を愛したいと求めつつ夫ではないモーリスとの愛、性愛を心底愛している。モーリスがサラアに、「ほかの女をこれほど愛したことはない」と言うのも、まさしく二人が一つに愛の行為に燃焼しているさなかの言葉だ、だからサラアも同じく思いかつ深く信じるのだ。しかしサラアは、そういう愛に「終り」の来るかも知れぬことを信じがたく死ぬるほど怖れてもいる。愛し合っている「今」が、「今日」がずっとずっと続いて欲しい、「昨日」のことにしたくないとサラアは書いている。二人は愛し合い、しかもサラアは信じて求め、モーリスは絶え間なく嫉妬しつつ求める。「まるで私たちは二人で同じ一つの彫刻を、相手の不幸のなかから刻み出そうとしているかのようだ」とサラアは呻く。呻きながら、日を新たに書いている、「昨日、私は彼の家へ一緒に行って、いつものことをした。そのことを書き記すだけの強い神経を持たないけれど、私は持ちたいと思う。なぜならこれを書いている今はもう明日だし、私は昨日(という今日が)終りになるのが怖ろしいからだ。こうして書き続けている限り、昨日はいつまでも今日で、私たちはまだ一緒にいられる」と。

サラアはさらに呟いている、「二人の人間が互いに(性行為で=)愛しあっているとき、キスに愛情が欠けているのをごまかすことはできない」と。そういうキスこそ、「キス」なのだ。そしてサラアは「神」にむかい呼びかける、「人間はお互いに顔を見ないでも愛することができますわね、人々は一生涯、あなたを見ずにあなたを愛しています」と。辛辣なまでの神へのかなわぬ愛を謂いながら、サラアはモーリスとの「終り」に震えている。

 

* グリーンのこの作を、作品を、わたしは少なくも三、四十年に五回の余も繰り返し読んできた。そしていまかつてなく新たな視線を送り込んで何かを受け取っている。書き次いでいる小説の反映があるのかも。

2014 3・30 149

 

 

* 高田芳夫さんに頂戴した『文芸へのいざない ー人生にロマンをー』は、本題にふさわしい名筆。第一部の古典もさりながら、現代文学と作家詩人達多数への、感想と紹介の手際の美しさに驚嘆、時に泣かされもした。まさしく好乎かつ豊富な「文藝へのいざない」になっている。

 

☆ 民俗の心 -折口信夫-    高田芳夫「文芸へのいざない」より

民俗を歌うということは、日本人の心を歌うということです。釈迢空とは、そのような歌人でした。民俗学者として、柳田国男に継ぐ人で、折口信夫ともいい、まさに学匠詩人でした。その歌は、精密な学殖の糸車の静かな回転の中から生まれたものといえるでしょう。

さて、民俗探訪の旅の中から、つぎの歌は生まれました。

人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどのかそけさ

峠で見る旅に死んだ人たちの墓、馬頭観音の石塔婆、思えば悠久の昔から人も馬も生き、そして滅んでいったという、生死流転の姿こそ、この世の真実そのものです。

人間、生きるということは、みな旅寝の夢を見ているようなもの。この、いのちのあわれさが、「かそけさ」です。「幽けさ」、光や音がうすれ消えていく、かすかな深い感動、迢空はこのことばを好んで使いました。日本語のもつ深い地下水脈から生まれてきたような微妙な深い感情の流れ、日本人ならだれでも共感できるのは、素直に日本人の心が反響しているからです。

一つの宗教のように、日本人の心を洗う歌です。

ゆきつきて道にたふるゝ生き物のかそけき墓は草つゝみたり

業病の姿を隠して、死ぬまでの旅に出なければならなかった悲しい運命の人もいたでしょう。思えば、人生とは生々流転の長い旅です。生きつくし、行きつくし、やがて「かそけき墓」となって草場の陰に眠るのです。

北原白秋が、迢空を「黒衣の詩人」といった気持ちもよくわかるではありませんか。

歳深き山の

かそけさ。

人をりて、まれにもの言ふ

声きこえつゝ

細かい感覚の連鎖、そして静かさと気品に満ちています。

歌に切れ目があり、句読法も一般の歌と異なっているのは、作者の心に内在しているリズムを示しているのでしょう。だから「思い」の休止するところで、「。」を打っています。作者自身もこう言っています。

《「わかれば、句読点はいらない」などと考えているのは、国語表示法は素より、自己表現の為に悲しまねばならぬ。》と。

なお、迢空六十七年間(昭和二八年没)の人生の中で、もっとも悲しかったことは、硫黄島に玉砕した養子、藤井春洋のことでした。死の床でも、春洋、春洋とその名を呼び続けたのです。

もっとも苦しき たゝかひに 最くるしみ 死にたる むかしの陸軍中尉   折口春洋 ならびにその 父 信夫

と、深い歎きと悼みの心が、墓に刻まれています。

 

* とりあげられた古典も数多いが、現代の名だたる作家詩人達の人数も半端でなく、しかも短く印象的に観想されている。

そのなかで釈迢空・折口信夫を引かせてもらったのは、歌の表記にふれての「句読点」への見解を自分なりに又なっとくしたかったから。最近ある場所で、わたしの文章の句読点について尋ねられたことがあり、迢空の認識とほぼ同じいことで返事したことがある。和歌短歌俳句だけが詩であるのではない、散文にも明瞭に音楽のよさが必要である。句読点は文学にとって貴重な譜を生んでくれる。そう思っている。

2014 3・30 149

 

 

* 「読む」ということの多い重い日々だと自覚する。からだをまだ自信を持って動かせる、動かそうという気持ちになってない裏返しかも知れない。動かす機会はなるべく活かそうと願ってはいるのだが。今朝のように溢れる日の光をみていると、生気が身内に湧いてくる。嬉しくなる。

 

ゆきやなぎかがやく白の濤うちて

あはれ久方のひかりあふるる

2014 3・31 149

 

 

* 「湖の本」裏表紙のヘソにわたしは、時に「念々死去」印を、時に「帰去来」印を用いている。「帰りなんいざ」と光孝の漢文教室で初めて習い覚えて以来、陶淵明は胸中つねに一点の灯であった。理屈ではなかった。

2014 4・1 150

 

 

*  昨日、妻の親族の墓地からほんの少しま近をそぞろ歩いていて、思いがけず志賀直哉ならびに父祖親族一家の墓地を見出した。「志賀直哉墓」とある一基も確かに見て、思わず声が出た。墓域は鎖されていた。垣根のそとから静かに一礼してきた。

「墓」というものは、、しかし、妙にはかない。石や岩や土で死者を地下におさえた感じが、古事記のむかしからハッキリしている。

「墓」は、生きてある人の胸の内に在るものとわたしは思っている、「慕」情とともに。その人の生きて覚えていてくれる間が「墓=慕」であって、その人も亡くなれば死者への記憶もなくなり、墓石はただ形だけ残る。

志賀直哉はたとえば『暗夜行路』や『母の死と新しい母』や『和解』を介してわたしの胸の内を墓にして今も生きている。森鴎外も谷崎潤一郎も太宰治も同様で、眼にのこっている禅林寺や法然院の墓碑・墓石は、いまでは記念碑にすぎない。「石の墓」は欲しくないなあと、昨日もまたわたしは思っていた。不埒な思いなのであろうか。

2014 4・1 150

 

 

* 有即斎と、わたしは名乗っている、すでに。なんと世も人も、われもまた、「うそくさい」のだろう。わたしが七十八年を生きてきて辿り着き手に握った「批評」は、すべてが「うそ」ではないか、よほど甘く見てすべてが「うそくさい」ではないか。その認識や自意識を喜んでいるか。とんでもないこと。

二葉亭四迷は、「クタバッテ仕舞え」と自身にも焦れたに相違ないが、より本音では世の中のすべてをそう批評していたとわたしは信じている、何れにしても断乎たる「批評」にほかならなかったと思う。

2014 4・1 150

 

 

* 「作」と「作品」とはまったくべつもの、作品の備わった作は尠い。私自身それをくちにするとき忸怩の思いに恥じ入るが、一般論としていえば、面白づく面白い話題をここを先途と書き殴って見せた書物が決してすくなくない。ザラザラ、ガサガサと、よくわたしは言うのだがまるで年譜の上を滑り台で滑るように記事をかいつまみつまみ手荒に弁舌して行く歴史物が多い。「読んでいる」「読まされてしまう」文章のよろしさやたしかさが味わえない。

2014 4・2 150

 

 

*  頂戴してきた各氏単行本に、今、持ちやすい文庫本以上に心惹かれて愛読している。順不同にいえば、

一歳とし若い興膳宏さんの『杜甫のユーモア 孔子のずっこけ』 エッセイ集としての表題は軽いが内容は簡明にかつ至れり尽くせりの研究余録であり、話題の範囲も広い。今朝、起き抜けに床で読んだ「荷風という雅号」や「孔子をののしる」など、一日の初の読書にふさわしい雅な名文だった。

また小和田哲男さんの『戦国大名と読書』も氏の研究成果の全容を基盤に据えて表題が示す主題を明確な徴証をそなえて語り尽くされていて、じつに興趣に富んで教えられる。

興膳さんも小和田さんも簡潔で緊密ないい文章を書かれている。

小和田さんにはもう一冊『戦国史を歩んだ道』という自伝も頂戴していて、しみじみとして読める。小和田さんはわたしより九つ若い歴史学者だが、ま、ほぼ同時代をともに生きてきた気息と見聞とをわかち持っていて、しかもわたしは大の日本史好きなもので、著者の心境にとても寄り添いやすい。読んでいて、思い安らぐのである。

わたしより十も年上の色川大吉さんに戴いている『追憶のひとびと 同時代を生きた友とわたし』も、いいかえればおのずと色川先生の「自伝と時代」を成していて胸にしみてくる。冒頭から、今は亡き懐かしい歌人の玉城徹さん、ペン会長の井上ひさしさん、また松本清張さん、辻邦生さん、またつかこうへいさんらの名が上がってくる。みな、わたしとも相当なご縁を得ていた人たちであり、つづく何十人の大半にわたしも心親しんできた。その意味では実感にちかく裏打ちされた同時代史と読めて懐かしい。そのうえに色川大吉という活躍した学者の面目もありあり窺える。こういう著者ともいつしかに著書の応酬があるという、そんな人生であるかと心地温かい。

四つ年上三好徹さんの『大正ロマンの真実』また、人と事件とを荒々しいまでちからづよく鷲掴みにとらえたまさしく「大正時代論」であり、ただならぬ「日本人論」である。読まされる。

高田芳夫さんの『文芸へのいざない』のことは前に書いた。人生にロマンをと副題があって、高田さんはわたしより十一歳上の長者である。

亡くなって三回忌の記念に奥様より頂戴した西山松之助先生畢生の精華『茶杓探訪』は眼をみはる豪奢な集成で、頁をひらくだけですばらしい「寶」のような人と茶杓とがあらわれ、精緻に鑑賞されてある。おのづとりっぱな茶道史に成っている。平伏したくなる。西山先生はわたしよりほぼ干支で二回りもお年上の懐かしい懐かしいお一人であり、仲良しの下村寅太郎先生もご一緒に鼎談に呼び出された嬉しい思い出がある。どうも、わたしは、お年寄りの先生方にウケがよかった。感謝している。

 

* こうしてみると、発想の真摯と才能や学識にみちびかれて読み手の人生をもふかぶかと資する著作は書きうるものなのだ。お人柄と視野のひろさ視線の深さ、そして筆力。ものすごいとまで畏れるほど大きな基盤のうえにこれらの著書一冊が生まれている。いささかの痩せも涸れも不備もなくて、しかも読ませられ、自然豊かな滋味に心養われている。

本を書くならこういう風に書かねばと思う。地味が痩せて偏して蕪雑なままではコケの一念も佳い実りを挙げるわけに行かない。

ものごとを小さく狭くしかも絶対化し抱きつくように囚われていては、想念も識見もふっくらと美味しくは発酵しない。勉強は豊かに豊かに豊穣に。その中から芽生える命に独自性をあたえてやらねば。

 

* 元九州大学の、現在は国文眼資料館館長の今西さんに頂いた「書物学」誌創刊号に書かれている、「版本『九相詩』前夜」は題名からして引き寄せられる。「九相詩」とは「人の死をその直後から時を経て亡骸が腐敗し骨となって霧散するまでの九段階を七権律詩に作った書」で、今西さんは新たに出た「奈良繪九相詩」に拠って、広く流布した版本「九相詩」成立の「前段階」を紹介し考察されている。目が不自由で繪が鮮明に観られないのがもっけの幸いめくが、これこそ「凄い」繪が紹介されていて、谷崎の『少将滋幹の母』にあらわれる「不浄観」のことなども思い出す。この論攷、繪はともかくとして「e-文藝館・湖(umi )に戴きたい。

とにもかくにも興味深い面白い物も事もいくらでも有るものだ。

 

* 幸福感はいろんな物事人からえられるが、いま、わたしは書きかけの自身の小説を読み返すのが面白く、書き上げてある昔の小説を読み返しながらルビ打ちするのも面白く、その上にいろんな単行本や文庫本を読み耽るのも面白くて、とても幸福感に包まれている。ありがたいこと。

2014 4・6 150

 

 

* 『風の奏で』を下巻前まで読み返した。このような小説は、断言していい、わたし以外の誰にも書けない。読み切れる読者も多くは亡かろう、文藝春秋がよく出してくれたと感謝する。橋田二朗先生に描いてもらった装幀もわたしは大好き。

2014 4・8 150

 

 

* 留守に連絡があり、「秦恒平選集」第一巻の搬入は今月二十五日と。明日にも函装のツメ、別紙写真と総扉とのツメが届く。それを可とするか不可とするか。いずれにしても、たぶん本紙は印刷にかかるのだろう。極く少部数。とはいえ一巻の厚み重さはたいしたもの。もう此処まで来たら黙って待つだけ。そして少しずつ施設等へ寄贈してゆく。発送もかなり気を遣わねば。函を傷めたくない。 2014 4・9 150

 

 

☆ レマルク『凱旋門』より

本というものは、不思議なものだーー自分にとってだんだん大切になってくる。本はあらゆるものの代りになるというわけにはいかないが、しかしほかのものでは到達することのできないところへ到達する。 (或る時期、ラヴッイク医師=)彼は本には手を触れなかった。実際に(=政治的・世界的・外的に)起ったことにくらべたら、本など生命のないものであった。それが(弾圧され、逃亡を余儀なくされている=)いまでは一つの壁となっていてくれるーーたとえ保護してはくれないとしても、すくなくともそれに寄りかかることはできる。大した助けにはならない。が、暗黒にむかってまっしぐらに逆行している時代に、最後の絶望から護っていてくれる。それで十分だ。

 

* まったく同じ実感をわたしは、今まさに、抱いている。だから、読み、だから読んでもらおうと書いている。わたしは、ラヴィック医師の生きた時代と質的に変わりない劣悪で危険な日本に生きている実感のまま毎日を「堪え・起ち・生きている」つもりだ。

 

* 春うららか。庭に降りて、咲いたいろんな花に目をちかづけ、カメラにも。海棠、しゃが、木瓜、木蓮その他名も知らないいろんな花。花が好き。酒より好きかも。

 

* メールというものを、機械を使い始めてから何万という以上に貰ってきたが、メールを自分も使い始めた頃、まだまだ利用者は、つまり往来の相手は極めてすくなかった。そのころ或る雑誌に頼まれた原稿に、メールは「恋文」を書く気持ちで書いた方がいい、さもないと却ってトゲトゲと感情のうえのトラヴルになりかねない、と。事実そういう問題がたくさん起きて行きつつあったようだ。もう一つ、メールに必ず経返信を期待しまま強要するようなことになれば、人の暮らしが機械に率いられることになる、それは不健康だと思っていた。所用の返事はすばやく、さもない消息の場合はむしろ間隔をたもって返信し、自分からは返信を強いたり要求したりはしないようにと態度を決めていた、決めていった。人が機械にこき使われていて、それに気もつかずに道を歩きながらのケイタイ、スマホとか、電車の中でも夢中の人などながめていると、いよいよますますマトリックス現象(機械が人間を飼育し使役し機械化して行く)へ堕落して行くと心から憂えてしまう。人間社会がそのような機械から得ている便宜や利益をわたしは決して無視も過小評価すらもしないけれど、精神の衰弱がますます機械主導で進行している事態には惘れも悲しみもしている。

 

* 数え切れない多数から何万と数えてもきかないメールをもらってきたが、明らかに上手下手があったなと思う。所用以外のメールが「恋文」とまで謂うのは刺激が過ぎるが、メールとは「呼びかけ」が基本なのだと感じている。「呼びかけ」上手にこっちの胸の内へ適切な言葉と呼吸とで飛びこんでくるメールは、読んでいて心もおどり、なつかしく、人柄まで嬉しく見えてくる。わたしは、もう十五、六年も昔から、程なく「メール」のなかから新たな「機械環境文藝」が起こってくると予見し言及して、じつはホームページのなかで文藝としてもみどころあるメール実例を記録し蒐集してみたいと試みかけた。それ自体は可能であったが、あっというまに往来のメールの数が山積してしまい、とてもそんな仕事は続けようもなくなった。だが、その見通しはまちがってなかった思う。

わざとらしくなく、知的にも行儀の点でもこっちの「胸を打って届く」メールは、明らかに「呼びかける命ぢから」に富んでいる。

返事だけのメール、自己紹介と主張 自身に関して呟くように書いてはいるが、読み手へ呼びかけていない陰気に弾まないメールもすくなくない、いや、これが多数ともいえるだろ

う。で、返事は省略しよう、となってゆく。貴重な時間は大事な仕事のために所用のために使いたい、使うべきだろう。

兼好がある女性に用を頼む手紙を送り、その女性からの返事に、今朝から降り積む雪へただ一言も触れてない味気ない頼みなど聞いてあげたくないわと有った。ここをはじめて読んだ中学三年のころ、わたしは何かしらだいじなことを教わっていた。兼好さんもヘコンダ、だからこそその人を誉める気持ちで書いている。名文美文の必要はない。「伝わってくる肉声」の温かみ。

いつもいつも「思ひ」という「火」を美しく聡くかきたてて人の胸に温かに「呼びかける」 そういう人とのメールを楽しみたい。 2014 4・10 150

 

 

*素直になれない、あれやこれやと拘泥っては思いのままを我が儘に求めるばかりで、隘路をしなやかに突っ切れない頑なさ、そこへ陥るのを、わたしはいちばん嫌う。本当のそれこそが損というものだ。

 

 

* 日本の歴史時代をいろいろに区分して今日を現代とも平成期とも謂うているが、別にわたしに謂わせれば、日本は上古以来、。わずかな「梅」の時代を中継ぎにはさんだ久しくも久しい「櫻の時代」であったし今もまだそうなのだ。そういう見方で謂えば、コノハナサクヤヒメや衣通姫、紀貫之や紫式部も豊臣秀吉も本居宣長らもミーンナ同時代人として相まみえうる。わたしはそういう実感で小説もエッセイも書いてきた。

2014 4・12 150

 

* レマルク『凱旋門』を初めて読んだのが何十年前のいつごろと記憶しないが、一つだけ忘れがたく覚えていたことがある。作のどの辺でだったかも分からない、ただ、あるナチスドイツからの避難民が、秘蔵の繪、ゴッホやゴーギャンやセザンヌやルノワールの繪を巻いたかたちで命より大事に持って逃げ隠して逃げながら、一枚ずつ身を切る思いで金にかえ生き延びねばならない。逃げて行けるさきも査証や旅券や証明書の問題でじつに難しく限られてくる。

ハイチ、ホンジュラス、サン・サルヴァドール、「それから多分ニュージーランドもね」

「ニュージーランド? そいつはえらく遠いじゃありませんか?」と、ラヴィック医師が口にした。と、打ち返すように、

「遠い?」と、ローゼンフェルトは言って、悲しそうに微笑した。「どこから?}

この「どこから遠い」のかという即座の反問と絶望の深さにわたしは、慄然とし茫然として彼の絶望を共有した、そう電気に打たれたように感じた。

遠い近い。それは定住し安住し得ている者にだけ謂える、特権に同じい。ナチのゲシュタポに追われてヨーロッパ中を逃亡し避難し潜伏し生き延びている者には、遠い近いをいう原点が喪われている。現在、西東京ずまいのわたしと故郷京都の距離は一定しているね。近くも遠ざかりもしない。しかし、もしローゼンフェルトやラヴィックのような逃亡や潜伏の境遇に追い込まれたなら、ある時は北海道に、ある時は佐渡島や沖縄や足摺岬などに隠れ住んで、明日の行方も覚束ないだろう、どこからどこへが遠いか近いかなどお話にもならない。

こういう境遇がいつ無辜の人たちを襲うか知れない。『凱旋門』を初めて読んだ頃のわたしが日本に絶望しかけていたとは思い出せない、むしろ希望を持って自身の小説世界を培おうとしていたに違いない。

しかし今はどうか。安倍「違憲・好戦・国民支配・利権追究」総理や内閣や自民政治のもと、いつ日本はアメリカにすげなく見捨てられ、いつ中国やロシアや朝鮮半島からの国土分け取りの結果を招くだろうような愚かな紛争・戦争に及ばないとは言い切れぬ危うさに在る。なんども言うが、日本は地続きのヨーロッパや大陸とはちがい、海という壁が絶望の深さをきわ立たせることが案じられる。

軍隊と軍備とを増強した覇権志向国家に日本はわずかに海を隔てているだけで、事実上包囲されている。おそろしい事態が跫音たかく国民の最大不幸という重荷をさげて迫りつつあるという自覚、それ無しに生きてあるとは、ああ、なんということか。

2014 4・13 150

 

 

* 眼が潰れたほどに霞んでいる。参る。しかし仕事は呼んでくる、わたしを。果てしなく仕事は在る。幸せなことではないか、わたしに退屈してボヤンとしている時は無い。むしろときどきはきっちり休まなくてはと体にも心にも叱られている。

電車に乗りたいなあと思う。以前に、なかば惘れるほど堪能したのは西武線で西武秩父まで行き、秩父鉄道でたしか熊谷まで延々と走り、JRで上野だったか池袋までだったかへ帰ってきた、あれは空いた電車で退屈なほど延々と乗っていた。あれで気儘に途中下車も楽しめればのびのびするだろうと憧れる。

2014 4・13 150

 

 

*  重っ苦しく生きている人、それが余儀ない仕方ない自身の運命だとでもいいだけに不満げに生きている人。気の毒とは思うが、妙にアホらしく眺めていることがある。ロシア文学の、オブローモフふうのインテリによく見かけたものだ。しんどい人たちだと歯がゆい気がした。

2014 4・14 150

 

 

*  大昔といっても中世頃からの学習や勉強に勤しんだ子弟は何を習っていたか、教室で教わったこともある。外来の典籍はべつにすれば、『庭訓往来』の名をよく聴かされ、さらには『実語教』『童子教』といった名も聞いていた。時には北条泰時らが編纂した『貞永式目』も子弟の教科書になった、ただし前三書にくらべて武士社会の特殊性を帯びた法度集なので、「読み」「書き」つまり文字を覚える目的が大きかったろう。前三書でもむろん文字の読み書きを大事にしていた上に、やはり書かれてある内容が指導性を持っていた。『実語教』四九条、第一条に「山高故不貴 以有樹為貴」と読めば、どんな教育かはおよそ察しうる。今日のわれわれにも如何にそれらの教訓が良かれ悪しかれ浸透しているかは実感できる。「童子教」は一六四条もあり、例えば「口是禍之門 舌是禍之根」だの「人而有陰徳 必有陽報矣」だの、身に染みついたような文句が並ぶ。狙いはよく分かる。いまも愛読している『十訓抄』などもこれらのいわば上級書と謂えようか。

『庭訓往来』は、ことに広範囲に実用も読み書き勉強も兼ねて用いられていた。「庭訓」とはいわば先人からの「教え」であり、「往来」はこの場合「往復書簡」をおよそ意味している。明治になっても、私の手元にいまも有る「通俗書簡文範」などもその流れであり、よく見ていると一葉女史も書いていたりする。手紙を書くというのは、商売や交際や処世上だれしもの必要であった。要件を書くとともに季節への挨拶や趣味の滲み出ることも大事であったなら、なすなすこれこそが素養として重んじられたにちがいない。

一転して今日、もはや手紙を書く人は「趣味人」か「高尚なお人」で、大方の人が「メール」という機械文を愛用している。しかもその「往来」に「庭訓」ふうの指導は無いも同然なのだから、今日そういう方面の「庭訓」も「教」も地を払って不必要になっている。文字を覚える必要もない、機械が出してくれる。繪文字のはんらんが、感情の表現を便宜に画一化してくれる。

こういう視点からの批評や論攷がまだ本格に出てきていない気がするが。有るのか。不要なのか。

2014 4・15 150

 

 

* 黒いマゴの輸液は、わたしの膝に載せて、妻が針を皮膚と肉とのあわいへ入れる。はやくても十数分、点滴の点が短いと二十数分もかる。そのあいだ、わたしはマゴのからだを抱えてやりながら録画の映画を観る。この二日ほどアンソニー・クインが力演の「バラバ」を観ている。慣例に従いイエスかバラバかと問われたユダヤの民は、イエスの磔刑をと叫んだ。ならず者のバラバは命助かり、不思議の運命をたどってローマで剣闘士として勝ち残り、自由民になる。そして、いま、そのローマが燃えている。

基督教が、どのようにして、ギリシアやオリエントの文化を下敷きにしたローマで、ついには国教たり得たのか、わたしは、その関連の歴史映画を見逃さないようにしている。辻邦生さんの超大作『背教者ユリアヌス(皇帝)』も興味津々読んだ。

基督教の魂にはすぐれた光輝を見ないわけに行かない。しかし基督教という専制君主で巨大領主でもある組織宗教にはとてもついてなど行けない。基督教からほんとうに高貴なものを得たいとは願っている、それは荘子や老子やブッダに願うのとまったく同じなのである、わたしにすれば。佳いものは佳い。宗教も文学藝術も、変わりない。囚われてはいけない、汲み取るのだ。

2014 4・15 150

 

 

* 昭和三十九年十一月二十三日、『畜生塚・此の世』 小説集としては初の私家版を、勤務先の取引先科学図書印刷に頼んで製作した。医学雑誌大のb5大判で、8ポイント二段組み64頁、巻頭には歌集「少年」を、そして小説「少女」「畜生塚」「此の世」「桔梗」を収録した。表紙・目次頁の挿絵は妻がわたしが希望の原画を描き写してくれた。

此処にその「あとがき」のみ書き写してみる。一九六四年の作家を志望した最初のわたしの述懐である。この私家版の作者名は「秦恒平」ではなく、「菅原万佐」であった。高校時代の女友達三人の姓名から借用したもので、「新潮」編集長酒井健次郎氏との初対面で言下に本名に直せと言われ従った。

 

* 第二私家版『畜生塚・此の世』の「あとがき」

昭和l ニ十七年七月三十日、私はとつぜん小説を書きはじめた。書きはじめてみると、書いてみたいと望んでいた頃とはまるで違った自分がそこにいた。べつに感嘆した訳ではないが、たしかに自分のことを「ほうっ」という心地で見直したようだ。二年余のうちに七篇の小説と二篇のシナリオを仕上げ、小説を二篇書きかけにしている。四百字の原稿用紙にして千百枚ほど、驚ろくに当らない量であり、出来栄えがいいとは決して思わない。ただ、私なりの考え方があるので烏滸の沙汰にもけじめをつけておきたい。

妻は結婚当初、藝術家は半ば狂人である、好かないとかなり強い牽制球を投げていた。藝術家きどりの傲慢で横暴な人間が僅かな誇りをも見失って、やがて裸の王様と化してゆく実例を見知っているからであろう。二年、三年と私は妻の心中のこの負の像と秘かに抗争せねばならなかったが、この経験は良かった。ものを書く以上、妻の眼力というよりは素朴な批判を超えてゆく必要を覚えた。

百万の読者をもつ職業作家と百人にみたぬ知人しかもたぬ者とであっても、創作の弟一義は等しく生きてぃる。また賭博そこのけのサーカス的苦行で何かの懸賞に当選せねば創作者の本義に叶わない訳はない。そういう印可がないとものを書くことに卑屈な恥じらいを覚えねばすまぬのなら、そんな割のわるい苦行はやめた方がいい。僅かの読者に恵まれ、自分の書く文章が自分なりに新天地を拓きつづけてゆくものなら、素人が素人のままいることに卑下することはない。生活の中で獲た時間をそのためにつかう、それは誇りにもならぬし卑下するにも当らぬことだと私は思う。あってなI らぬのほ努力を惜しんでの自己満足と不用意な妥協である。文学はそれを許さない。

勤務の性質上、活字の魅力を表裏にわたってかなり承知している。私はむろん貧しいし、たしかに少からぬ金をかけてこの私家版を印刷したことを、活字の魅力に屈した笑止の振舞と冷笑する人もいるに違いないが、弁解めいたことは言うまい。それどころか、これからも事情が許せば私はつづけて作品を小部数ずつ印刷する気でいる。幸いにして師友知己の鞭捷がいただければ嬉しいし、未知の人の目に少しでも触れて認められれば、さらに墳しい。

私小説ふうの拵えにはなっているが、詮索は無用である。作品の批評がほしい。

簡単に心覚えを書いておく。

「歌集・少年」のことは後記に書いた。愛着が深く歌として自立できるものを選び、これ以前の作は思い切って割愛した。良かれ悪しかれこれは私の十代を記念するもののようである。

「少女」は最初に書いた百枚余の作の中途で、ふと思い立ってペンを走らせた即興的な作だが、筆づかいの粘っこさなどが、多少私なりに特徴的なので入れた。

「畜生塚」は、先にタイプ印刷したシナリオ『懸想猿(正・続)』 の主題を承けている。小説としては五作めになる。情景の転換がいささか唐突だとすれば、ちょうどシナリオ研究所に通っていて「懸想猿(続篇)」 のまとめと時期的にだぶった影響があるのだろう。波乱の多い運びではないので、映画的にカットしたりカットバックさせたりすることが多分に頭にあったと思う。

「此の世」は、筆つきはやや軽いが私らしい仕事だと思っている。軽みについた点など十分でないが、今の私には馴染んでいる。どうしても、このままで放っておかせない所がある。

いずれにせよ、道徳の欠落者という主題にはまだまだ関心がある。業念とか業執という方へ退避しないで積極的に手づかみにしたい。

「桔梗」は娘の誕生日が来るたびに書いてやる童話の一つなのだが、すぐには読んでやれそうにないものになってしまった。

表紙と目次の絵は妻が描いた。原画は可翁と南岳である。

書いて見つける自分、それがうめきたいほど厭な男の像(もちろん、作中人物とか作品とかを意味しない。私自身の心にはねかえって来る或る自意識とでもいうもののことだ。)を結んでいても、顔をそむけのがれることはできない。二年余の私の感想である。

昭和三十九年(一九六四) 霜月    菅 原 万 佐

 

* きっちり今年で五十年になると気がついた。今日の「秦恒平」を大きくは裏切っていない。今のわたしがこの「菅原万佐」をも大きくは裏切っていないことに納得している。一途に、さほど見苦しくはブレて来なかったようだ。

2014 4・16 150

 

 

*  久しぶりに橋元敏江さんの平曲、灌頂巻「六道」を戴いていたディスクきで聴いた。いましも読み進めて原稿づくりしている『風の奏で』は、まさしくこの大原御幸を分厚い下敷きにしている。読み返しながら、もうもうこんな作はどんなに書きたくても書けないだろうなと慨嘆を重ねてきた。グイグイと書いている。選集第一巻に優るとも劣らない第二巻が成るだろう。『清経入水・風の奏で=寂光平家・初恋=雲居寺跡』で一巻に足るだろう。

第一巻の、表紙もともに本紙刷りだしが届いた。函と総扉と巻頭の写真とで全部が揃う。搬入にあと一週間と予告されているが、急ぎはしない、いい仕事で仕立ててほしい。

2014 4・18 150

 

 

*  これがわたしの「部屋」かと、見まわしている。みまわすなど適切な物言いではない、六畳の狭い上に狭苦しい小部屋だが、幸いいま向かっている機械の左かた壁面に作りつけて、頑丈で大きな木製書架が相当数の大判書籍を収納してくれている。右手には白い障紙窓が戸外の光を入れている。

部屋の中が「コ」の字に机で囲われ、その狭い真ん中の廻転倚子一つで、三面に一つずつの機械を使っている。まともに歩ける通路はなく、立っての移動はみな蟹歩きするしかない。そして沢山な本、本、の行列。湖の本もみな手の届く近くに。プリンタ、スキャナなどの機器類に覆い被さってわけのわからなくなりそうなメモや紙や小道具や筆記具が散乱している。

それでも、此処はなんとも温かい。家も庭もボロの山にして世間の顰蹙を買う人がときどき報道されるが、当人にはたまらなくその世界が温かで住み心地がいいのだろうとわたしは想ったりする、はたの人には迷惑に相違なかろうが。

わたしがやがて死んだなら、この部屋はどうなるかしらんと、しみじみ眺め回していたりする。タバコを吸わないわたしの、それが休息なのである。誰一人の役にも立たない本やモノばかりで充ち溢れているのだ。無一物の境涯に憧れながら堕落を重ねてきたんだなと苦笑いが湧く。

こんのゴモクをどうしようと悩ませまいためにも、成ろうなら自分の手でシマツをつけておきたいが、どの本もどの資料や道具もわたしの「身内」ではあるのだ。

悩ましい。そんなとき、陶淵明全集を手に取る。開いた頁の詩を黙々と読む。

2014 4・19 150

 

 

*  いましも私が些かの思案・躊躇をすて、正面から名乗り名乗ろうとしている卑号「有即斎=うそくさい」が、近時・今日・以降の、われらが「日本」に向けた慨嘆の「批評」に他ならないことを、今日、はっきり書き留めておく。

政治・行政も、科学も、営利の商売も、教育も、経済の運営も、新聞・雑誌も放映・放送も、なんとなんと「ウソくさい」に充ち溢れていることか。無責任極まる原発の安全神話などを皮切りに、この半世紀に積んだ悪質な日本の「ウソ」で、國も社会も自家中毒に陥っている。せめては一人一人がそれを「うそ臭い」と払いのける「批評の厳しさ正しさ」をもたねば、みながみな足下の奈落へ落ちて行くことになる。

もとより「うそ臭」くない良いモノ・コト・ヒトを見捨ててはならない、しかと盛り立て守り抜かねばならない。

そのためにも「うそ臭い」という嗅覚の鋭敏を「不可欠な素養」として人は身につけねばならない。斬り捨てるものと、残して育てるモノとの仕分けが本当に本当に必要な「危うい時節」だと覚悟しなくては。

「言うはやさしい。」行わねば無意味になる。

 

* レマルクの『凱旋門』では、いまやドイツの攻勢をおそれ、パリも灯火管制の闇に沈み、避難民やユダヤ人はアメリカや南米等へ遁れたくても遁れにくいアイデンティティの不安に暗澹としている。「ドイツ軍はポーランドをとるでしょう、それからアルザス・ローレンスをよこせっていうでしょう、そのつぎは植民地。そのつぎは何かほかのものをよこせとくるでしょう、しまいにはみんな投げだしてしまうか、戦争しなくてはならなくなるまで、いつまでも、もっとよこせ、よこせですよ」と、避難民達を非合法に入れている安ホテルの女主人はラヴィック医師に話している。またある男はこう彼に話している、「親爺はこのまえの戦争で殺られました。祖父さんは一八七○年に殺られました。わたしも明日行きます。いつまでたってもおんなじこってすよ。こんなことをもう二百年もやってきたが、どうにもなりません。また行かなくちゃならんのです」と。

いまクリミヤのロシア占拠につぐ東ウクライナ状勢を念頭に想えば、上の「二百年」は、かるく「三百年も」と推移しているに同じい。そしてこれが「よそごと」ではない、日本列島に実は同様の憂慮・脅威が迫り続けて、われわれはすでに日本領空の自由」を、「首都上空の自由」をすら米軍にガツンと抑えられているし、極東の隣国もまた虎視眈々と日本領土の蚕食を考え続けている。

おそろしい。だから、どう在るべきか。安倍「違憲」内閣は、交戦権と軍備を第一義に、核兵器志向をすらもはや露わに仕掛けている、が、それが本当に聡明で確実性のある政策であるか、いまのところ、わたしには大いに疑わしい。日本の外交下手は歴史の証するようにほぼ絶対的に否めない。そもそももはや鎖国で逃げられる世界事情ではない。経済で勝ち抜けるとももはや思われない。労働力も、かりに兵力を算定しても、とても他国に対抗できる現実味がない。

なにが誇れる日本であるか。政治でも経済でも軍備でもない。文物と技術と自然と歴史が築いてきた、またこの先も築いて行ける文化力を願うのが、ひ弱そうでも本格の本道のように思われて成らない。

2014 4・20 150

 

 

* 書き継いできた小説の一つが、終盤を残ところまで来た。

相次いで、もう一つの作をいっそはんなり展開したい。趣向のきいた美味い食事を楽しむように書き継いで行きたい。

じつは、昔に、一応八百枚の用紙原稿にしておいた私小説に、手を入れやすくすべく妻に電子化してもらっている。これがどういうモノに成りうるかわたし自身すっかり忘却しているので、いっそ楽しみでもある。

調べてみると、原稿用紙に書き込んである幾つもの書きかけ小説が、かなりの束になって残っている。あまりの忙しさに煽られて中途に已んだ創作意図とみえる。息を吹き返すかどうかは、もう一度しっかり向き合ってみないと分からない。

 

* 『風の奏で』下巻を「今様の巻」まで読み改めてきた。まえの「讃岐の巻」など、この巻だけで劇的でもあり、さてどっちを先に書いたのだか小説『繪巻』とも色よくも色濃くも関連が出来ている。自分がなんとしても読みたい、そういう小説を自分で書いていた、そうするよりなかった若い興奮の作が生まれていたのだと思う。書いて置いてよかったと思う。

2014 4・20 150

 

 

* 我ながら惘れるほど沢山な、ちょっと意地悪い、かなり答えにくい質問を、毎時間始めに胸ぐらをつかむように東工大生に突きつけていた。こんなに問い続けて、自分は答えないのかと思い直し、丁度一年余り前から自問に自答し始めていたが、いやもう難しくて閉口している。良くもこんな質問に学生諸君は答え続けたものだ、あれ以降コンナシビアな問いを突きつけられ答え続けたこと、無いのではないか。質問がどれほどの数か数えもしないがとてもハンパな数でない。わたしは一年掛けてまだ三分の一も答えたろうか。

ま、「* 故郷の「山」「川」の名前をあげ、今「故郷」とは何かを語れ。」「* 自身の「名前」について語れ。」など極く

最初の方はなんとか成っていたが、「* 何なんだ、親子って。」「* 今、真実、何を愛しているか。」「* 何を以て、真実、今、自己表現しているか。」「* 寂しいか。」「* 今、心の支えは在るか。」「* 真実、畏れるものは。」「* 不思議を受け容れるか。」「* 秘密をもつか。」「* なぜ嘘をつくか。」等々となってくると、容易でない。全部答えるのにもう三年もかかってしまいそう、生きていられるかなあと心許ない。「湖の本」にすれば何冊要るだろう。

前にも挙げたか知れないが、わたし自身の尻を叩くためにも、質問の全部を借用証書なみに以下にかかげて置く。お気持ちのある方は、自問自答されてはいかが。まさに「自問自答」の「白状」であります、ウソを書かない限りは。

 

☆ 資料・東工大学生が秦教授へ書いて答えた「挨拶」一覧  ( 順不同)

 

*故郷の「山」「川」の名前をあげ、今「故郷」とは何かを語れ。 *自身の「名前」について語れ。 *身にこたえて友人から受けた批評の一言を語れ。 *身にしみて学校( 大学は除く) の先生に言われた言葉を思い出せ。 *「別れ」体験を語れ。 *「父」へ。 *何なんだ、親子って。 *今、真実、何を愛しているか。 *何を以て、真実、今、自己表現しているか。 *寂しいか。 *今、心の支えは在るか。 *真実、畏れるものは。 *不思議を受け容れるか。 *秘密をもつか。 *なぜ嘘をつくか。 *信仰とは *もう一人の自分へ。 *「位」の熟語一語を挙げて所感を。 *「式」の熟語一語を挙げて所感を。 *仮面を外すとき。 *親に頼るか、子を頼るか。 *結婚と同棲 *死刑・脳死・自殺を重く思う順にし所感を述べよ。 *誇れる国とは。 *今、思うことを述べよ。 *自由とは。 *( 漱石作『こゝろ』の先生に倣って) 「恋は( )( )である。」 *漠然とした不安について述べよ。 *人間のタイプを強いて一対( 例・ハムレットとドンキホーテ) の語で示し、所感を述べよ。 *何が恥かしいか。 *「日本」を示すと思う鍵漢字を三字挙げよ。 *なぜ嫉妬するか。なにに嫉妬するか。 *セックスについて述べよ。 *絶対なものごとを挙げよ。 *家の墓および墓参りについて述べよ。 *わけて逢いたい「  」先生。 *科学分野に「国宝」が在るか。 *清貧への所感を。 *「性」の重み。 *いわゆる「不倫」愛に所感を。*「参ったなあ」と思ったこと。 *自身を批評し、試みに、強いて百点法で自己採点せよ。 *「挨拶」について。 *今、政治に対し発言せよ。 *東工大の「一般教育」を語れ。 *心に残っている「損と得」を語れ。 *他を責める我を語れ。 *報復したことがあるか。  *仮面をかぶる時は。 *結婚とは学問分野に譬えれば「 」学か。 *一生を一学年度と譬えた場合、あなたは現に何学期の何月何日頃を今生きているか。 *「脳死」「死刑」「自殺」の重みに順位をつけ、所感を述べよ。 *国を誇りに思う時は。 *嬉し涙・悔し涙を流した記憶を語れ。*「心臓」と「頭脳」のどちらI「こころ」とふりがなせよ。何故か。また東工大の他の学生がどう選ぶか、比率で推測せよ。 *「心」とは何か。 *何から自由になりたいか。何から自由になれずにいるか。 *生かされた後悔、生かせていない後悔。 *ちょっと「面白い話」を聴かせよ。 *話せるヤツ、または、因縁のライバル。 *今「思う」ことを書け。 *いま「気になる」ことを書け。 *疑心暗鬼との闘い方。 *あなたは信頼されているか。 *あなた自身の「原点」に自覚が有るか。 *自分の「顔」が見えているか。  *兵役の義務化と私。 *何が楽しみか。 *心残りでいる、もの・こと・人。 *Reality の訳語を一つだけ挙げよ。何によって・何を以て、感受しているか。 *「童貞」「処女」なる観念の重みを評価せよ。 *自分に誠実とはどういうことか。あなたは誠実か。 *何があなたには「美しい」か。 *何でもいい、上手に「嘘」を書いてみよ。 *あなたの「去年今年貫く棒の如きもの」を書け。 *「生まれる=was born」根源の受け身の意義を問う。*井上靖の詩『別離』によって、「間に合ってよかった」という、出会いと別れの運命を問う。*漠然とした不安、あるか。 *「魔」とは何か。 *「チエ」に漢字を宛てよ、何故か。 *「風」の熟語を五つ選び、風を考えよ。 *「死後」を問う。 *「絶対」を問う。 *「祈り」を問う。 *生きているだから逃げては卑怯とぞ( )( )を追わぬも卑怯のひとつ この短歌の虫食いに漢字の熟語を補い、所感を述べよ。 *上の短歌に補われた多くの熟語回答例から、もう一度選び直し、所感を述べよ。 *「劫初より作りいとなむ( ) 堂にわれも黄金の釘一つ打つ」という短歌に一字を補い、その「( ) 堂」とは何か。「黄金の釘」とは何かを語れ。 *落語「粗忽長屋」を聴かせて、即、「自分」とは何か。 *「春」「秋」の風情を優劣せよ。 *今、何が、楽しいか。 *「血」について語れ。 *集中力・想像力・包容力・魅力。自身に自信ある順にならべ所感を記せ。 *「事実」とは何か。信じるか。 *「絵空事」は否認するか、容認するか。 *「幸福」は人生の目的になるか。 *「惜身命」と「不惜身命」のどちらに共感するか。何故か。 *毎時間読んでいる井上靖散文詩の特色を三か条で記せ。 *五年後、新世紀の己れを語れ。 *今期言い残したことを書け。 *公園で撃たれし蛇の無( )味さよ この俳句の虫食いを補い、その解釈を示せ。 *命は地球より重いか。 *命にかえて守るもの、有るか。 *喪った自信、獲た自信。 *仮面と素顔の関連を語れ。 *漱石作『こゝろ』で「先生」自殺のとき、先生、奥さん、私の年齢を挙げよ。 *漱石作『こゝろ』で「先生」自殺後の、未亡人と私との人間関係を推定せよ。 *目から鱗の落ちたこと。 *「私」とは何か。 *あなたは卑怯か。  *自分が自分であることを、どう確認しているか。 *「情け」とはどういうものか。風情・同情・情熱のどれを、より大事な情けだと思うか。何故か。 *「死ぬ」「死なれる」重みを不等記号で結べ。何故か。 *「本」を読む、とはどういうことか。 *「恋は罪悪、だが神聖」になぞらえて「金は(  ) 、だが(  ) 」である。何故か。 *あなたにとって「大人の判断」とは。 *踏絵を、踏むか。何故か。 *人の「品」とは、どんな価値か。あなたに備わっているか。 *「自立」を語れ。  *むしって捨てたいほどの「逆鱗」があるか。 *性生活の、生活上健康な程度を、人生(10)に対し、どの水準に設定( 予定・願望) したいか。何故か。  *「未清算の過去」があるか、どうするのか。 *「神」は、(人間に)必要か。 *罰は、当たるか。 *あなたの価値観とは、つまり、どういうものか。信頼しているか。 *いい意味の、男の色気・女の色気を、どうとらえているか。 *二十一世紀は「 」の世紀か。何故か。 *みじかびのきゃぶりきとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ このコマーシャル短歌の宣伝している商品を推定せよ。 *秦さんに今期言い残したことを書け。 *「死後」は必要か。 *命とは。命は地球より重いか。 *運命天命未知不可知を「数」と呼び、その「数」を見出す・拓く方法や意思を「算」ないし「易」と呼んだ東洋的真意を推測せよ。 *迷信の意義、迷信とのあなたの付き合い方は。 *「情け」とは。「情けが仇」「情けは人の為ならず」「情け無用」のどの情けを重く見ているか。 *「縁」とは。 *「不自然」は活かせるか。無価値か。 *「工」一字を考えよ。 *「花」の熟語を五つと、好ましき「花」を語れ。 *「(  )品あり岩波文庫『阿部一族』」の上句の虫食いに一字を補い、かつ所見を述べよ。 *仮想敵を語れ。 *「父」とは。 *虚勢・嫉妬・高慢・猜疑・卑屈 自身の蝕まれていると思う順番に並べ替え、思いを述べよ。 *「常」一字を英語一語に翻訳し、日本語「常」の熟語を幾つか添えて、自己観照せよ。 *人生は「旅」であろうか。 *第一原因として「神」を信ずるか。 *証拠・証明が無ければ信じないか。無くても信じられるとすれば何故か。 *直観は頼むに足るか。勘・直感と直観とは同じか。例を添えて述べよ。 *日本のいわゆる「道」を考えよ。 *親は子を育ててきたと言うけれど(  )手に赤い畑のトマト一首の虫食いに一字を補い、作者(俵万智)の親子観を批評せよ。  *二十一世紀を語れ。 *最期に、秦さんに言い残したことを。

2014 4・21 150

 

 

* 打てば響くというのは、きもちのいいものだ。

2014 4・21 150

 

 

*  十一時ちかく、『秦恒平選集 第一巻』がダンボール函入りで山のような嵩で届いた。玄関がまるまる塞がった。

美しく仕上がっている。佳く出来ていればいるほど、発送には気を遣う。正直のところ気が遠くなる。ともあれ、題字を刻して戴いた能美の井口哲郎さん(元石川文学館館長)に真っ先に郵送してきた。無事に届いて欲しい。

さ、あとのことは、ボーオッとしていてどう収まりがついて行くのか見当もつかない。豪華とは謂わないが美しい清潔な本になったという嬉しさを、妻とふたりで噛みしめながら、ワインと赤飯という妙な取り合わせでともあれ祝った。そのあとは全然手もつかない。

このあとは追っかけて届く凸版印刷の請求書に、気丈に立ち向かわねばならない。豪華限定本をどんどん創ってもらっていたのは三、四十年も昔、いちばん新しいのが、わたしの五十の賀に和歌山の三宅貞雄さんが渾身の力をこめて創られた、それこそ優美に豪奢な『四度の瀧』だった、あれが「秦恒平・湖の本」のいわば旗揚げ本になった。谷崎松子さんの題字、森田曠平画伯の版画など入って組みも刷りも装幀も函も完璧だったが、当然ながら高価についた。今回本は頁数にして、倍。ずしっと重い。あえて私家版の非売本にしたのである。

ではあるが、本の姿・形よりも、「作」を観てほしい、作が「作品」を備えているか、それがわたしの、物言いは変だが「勝負どころ」。その辺を読み取って是非してくださる、またできれば永く恵存ねがえる各施設、各界の先輩・知友に感謝をこめ贈呈したい。

所詮、これは私・秦恒平の「紙の墓・紙碑」である。どこまで私の寿命がもつか、どこまで資金がもつか、或る意味で楽しめるゲームのようなものか。息子の、やはり作家である秦建日子が「発行者」の名を副えてくれたのが嬉しく、有難い。

昨日詠んだ述懐歌を、此処に、置く。

 

* をしげなく花びらくづし大輪の赤い椿は地にはなやげり   恒平

 

* 咲き残る木瓜の紅しづかなりいましばしつよく生きてありたし  湖

2014 4・25 150

 

 

* 函装を傷めないためにも荷造りに細心の用意が必要で、二人がかりで一日かけても沢山は用意できない。「湖の本」の発送とは、大違いで、やっと二十册ほどの贈謹呈の用意ができた。むろん、幾らかは手持ちの蔵本としてのことしても、これぞという送り先へ送るだけで、五月の大半を要しそう。それでも、気の張る、また心地の晴れる作業で、晩年の大きな節目づくりになったとわたしも妻も喜んでいる。

さ、気力でも体力でも、また何より資金的にも、今後、どれほどの巻数が造れるものか、賭のようなもの。順当に数えれば、小説だけで二十巻を要する。せめて五巻は選びたいと気を張っている。

* 『風の奏で』本文を読み終えた。大好きな作だが、ルビ打ちは大仕事だ。

はじめて本を手にした人が、あまりに読み煩った腹立ち紛れに壁に投げ捨てたと告白してくれたのを懐かしく思い出す。しかもこの読者は此の作に魅せられて、人もおどろく熱い愛読者になっていってくれた。当時安田武という著名なプロの読み手の批評家がいたが、主に此の『風の奏で』を念頭にしながら、わたしに「秦さんの小説は、文章も表現も阿片だね、一度掴まったらやめられないよ」と惘れたように話しかけて呉れたことがある。ことに平家物語の愛読者には、此の創作の仕掛けは魔術的に思われたようだ。「歴史と文学」という堅い雑誌だから二度にもわけて載せてくれたし、文藝春秋の寺田英視さんだから佳い本に創ってくれた。橋田二朗先生の装幀も素晴らしかった。

第二巻は太宰賞の「清経入水」に此の「風の奏で=寂光平家」そして次へ「初恋=雲居寺跡」ともう一作他が加わるだろう。第一巻に優るともおとらぬものを集められる。怪我無く仕上げたい。

2014 4・27 150

 

 

* 能美の井口哲郎さん、 名酒「十代目」でお祝い戴いた。なんと嬉しいことか、越前の好きな盃で、ぐいぐいと頂戴した。わたくしから御礼申し上げねばならないところ、不調法を恥じ入りながら、お酒の美味さに身を任せている。一日に建日子が来てもかれには車の運転がある。二人分、しっとりと至醇の名酒を頂戴したい。ありがとう存じます。銘の「十代目」がおもしろい。有難い、が、それはいささか私書きかけの小説にかかわってくるので、この上は触れない。

 

* こころよく機械にむかい熟睡していた。宵の七時に目覚めた。

 

* 『初恋=雲居寺跡』を読み始めて、惹き込まれている。宮川寅雄先生に此の作が読めたのは「有難いでした」とお手紙を戴いたのが懐かしい。「あるとき」という創刊された雑誌の巻頭に二回連載で仕上げた。河上徹太郎先生のご紹介だと聞いた。こういう仕事が出来ていればいいと言われ、嬉しかった。授賞式後の席で、吉田健一さんとすっかり出来上がってられた(と見えた)太宰賞選者の河上先生に、「で、これからどうするんだね」と聞かれ、にこにこして「はい、わたくしなりに、わたくしなりのものを」と口走った途端、「そんなものがあるのかね」と言われた、あの瞬間の大げさに言えば頓悟の畏しさを、今でもよく思い出す。以後、わたしは懸命に各先生へ答案を提出する気で小説の一つ一つを書いていった。あの場にご一緒だった吉田先生にはやがて松園女史を書いた「閨秀」を、朝日の文藝時評全面をつかって激賞して戴いた。あのころのああいうきもちを忘れていない。いまもわたしは文学青年のままだ。

 

* 今日の午前に妻と観たテレビの、「春日大社」神秘の祭儀を超好感度カメラで写しだしたみごとな番組に、感動した。涙を流して観ていた。とても、感動の詳細を言葉で再現できないが、目にやきついた幾つもの場面場面は、いま読み返している自作の小説「初恋=雲居寺跡」とも結ばれ合うているのだ。

2014 4・29 150

 

 

* 昨夜遅くに建日子が隣へきて泊まっていた。今朝、記番第二の選集①を手渡した。喜んでくれた。

天気も晴れやかになり、注文の読者や寄贈先への発送を再開した。

凸版印刷からの請求見積もり書も届いた、記番本150部とごく若干著者本を合計して、消費税込み183萬円ほど。(郵送料は各册350円)。ま、この分なら、小説だけで予定の非売二十巻、日頃無益な贅沢を慎んで暮らせば、また体力気力が続くならば、老夫婦一期一巻の覚悟でなんとか進捗できるかも。幸い、秦建日子も幾分か支援してくれるという。有難い。いっそ建日子には、もし父が死んで仕残したとき、可能ならアトを引き承けてもらえれば、などと内心甘えている。

2014 5・1 151

 

 

* 色川大吉さんに頂戴した『追憶のひとびと 同時代を生きた友とわたし』 を読み終えた。他人様の知人等の話を読み通せる物だろうかと思っていたが、色川さん造語である「自分史」という視座の確かさにひかれ、加えてわたし自身にも心親しい人たちの名前も散見されて、不思議に懐かしく全部読み終えた。『六十年代の主役は若者だった』というやはり色川さんの本を、わたしがその六十年代の若者の一人だった自覚もあり面白く励まされて読んだ記憶があり、それとの自然な推移と接合の感覚がもてた。

歌人の玉城徹さん、作家の井上ひさしさん、同じく松本清張さん、辻邦生さん、木下順二さん、つかこうへいさん、など、皆さん、大なり小なり接触や校章や敬愛がわたしにも合った。同時代人と感じていた。

高峯秀子、淡島千景、北林谷栄、千田是也らも、まるまるの他者ではありえなかった。

小田実、三島由紀夫、宮田登、奈良本辰也、網野義彦といった人たちにもわたしなりに強烈に接してきた。

なるほどなあ、人は人とふれあい、はじきあい、はなしあい、泣き笑いしながら一生をいきるのだ、そして「死なれる」「死なせる」のだ。それでも、いや、だからこそなお生きて行く。

 

☆ 「ベンジャミン・フランクリンは実にズバリとこう言っている、「余暇とは、何か有益なことをするための時間である」と。これを特筆しているのは、例の、ヒルテイである。

老子も荘子も、そうは言わない。あるいはその「有益」の意味も重みもはっきり異なるであろう。

2014 5・1 151

 

 

* レマルク「凱旋門」についでグレアム・グリーンの「愛の終り」をまた読み終えた。原題の「愛」はLoveではなく「Affair=情事」であり、しかもサラアもベンドリックスも真実深く深く命を賭して愛しあっていた。いわば引き裂くのは「神」であり「カトリック」なのである。サラアはドイツの空爆に目の前で死んだ(と)思ったベンドリックスの復活を一瞬神に願い、願いが聴かれれば彼との愛をあきらめ、神を愛し信じますと誓ってしまうのだ、斃れていたベンドリックスは起ち上がるのである。ふたりは爆撃の直前にもまはだかで性愛の情事にひたむきに交わっていた。サラアにとって性愛という彼との情事を喪うのは死に優る辛さ悲しさであり、そしてサラアは打ち捨てるかのように死んで行く。ベンドリックスは神を憎み神を畏れつつ生きねばならぬ。

グリーンのカトリシズムにわたしは特には惹かれず関心もうすいが、サラアに生きベンドリックスに生きていた「Affair」と謂う性愛の肯定の強烈さには打たれる。それは晩年を生きるわたしの文学の一つの主題であるだろう。

2014 5・4 151

 

 

* 「選集」の口切りが済んだので、いまの楽しみは書きかけ小説の前進で。ご馳走を食べるように味わっている。

2014 5・4 151

 

 

* 向山肇夫くんが千疋屋のとびきりのマンゴーを送ってくれた。医学書院のむかし、わたしの下へ配属された新入社員であった。定年退職したというので、ペンクラブに「編集者」資格で入れてあげようと推薦し、館長をつとめていた「ペン電子文藝館」委員会を手伝って貰った。彼は今も委員会にいる。

その向山クンの添えてきた手紙に、いま「ペン電子文藝館」では「国際版」を志向しているという。

ネット配信であり、当初からグローバルに届けられている。国際版とは「翻訳」するというのか。

「上質の日本語で表現された日本文学を世に送り出すのが文藝館の使命」であり、掲載される日本語作品の「質の高さ」を維持することが何より肝要のはず。わたしが提案し創設し館長として最も苦心し配慮したのが、「ペン電子文藝館」の「文学の高質の維持」だった。

正直なはなし、現会員の作が好き勝手に持ち込まれれば、よほどもよほど文学の質の落ちることは、目に見えていた。理事諸公の寄せられた作をはじめ沢山な会員作をつぶさに読んで取捨していたのだ、よーく分かっている。だからこそわたしは、館に「招待席」を充実させ、近代の優れた過去の作と作家との紹介に懸命に努力した。それがなければ、なんじゃこれはという程度の作であふれそうだったから。

「ペン電子文藝館」をただ「機械技術的な実験」で弄くるより、根源、掲載される「日本文学」の「上質」を堅固に維持すべく、むしろ厳しい「編輯機能」をこそ高めるべきであろう。

一に、館長には文学作家としてキャリアも実績もある、信頼に足る人を置くべきである。二に、文学の優れた編輯敬虔会員複数による作の編輯選別機能が働くべきである。

現在の委員会をみて、肝心要の文学の実作者も文学編輯経験者もほとんど顔がみえない。機械弄りの得意が先行するようでは本末転倒も過剰である。

2014 5・5 151

 

 

* 朝、早々に、たくさんな郵便を受け取る。「選集①」の造本、装幀、印刷等々、ほぼ絶賛というにちかく、中途半端なことをしなかったのをわたし自身も喜んでいる。健康がゆるしてくれれば、巻数を増して行くことは当然のように出来るし、恥ずかしくない作を十分用意してある。心静めて、ただただ文学のことを思って努めたい。

陶淵明の劉柴桑に和した詩の結びちかくにこのような詩句が読める。わたしの胸にもっとも当然のようにしみ込んでくる。

 

☆ 陶淵明の詩句を読む 「和劉柴桑」より

栖栖世中事    栖栖(せいせい)たり 世中(せいちゆう)の事、

歳月共相疏    歳月と共に相疏( あひそ) なり。

耕織称其用    耕織は其の用に称(かな)ふ、

過此奚所須    此れを過ぎては奚(なん)の須(もとむ)る所ぞ。

去去百年外    去り去りて百年の外(ほか)、

身名同翳如    身名 同(とも)に翳如(えいじょ)たらん。

 

世の中はあわただしい動きを見せているが、歳月の推移につれてわたしはますます世事と疏遠になり、世間もわたしを忘れてしまった。畑仕事と機織りとで日常の用は足りるのだから、これ以上、何を求めるところがあろう。百年の一生が過ぎ去ってしまえば、このからだも名もひとしく消え去ってしまうのだ。

(栖栖)あわただしく不安なさま。(称其用)必要とする費えにぴったり合う。(翳如)湮没して跡かたなくなる。如は形容詞の語尾。

 

* つまりいまわたしの生きて為し成していることは、浮幻の道化にひとしい自若の楽しみに過ぎない。あっはっはと笑うているのである。

2014 5・8 151

 

 

* 森鴎外作、深作監督の映画「阿部一族」を久しぶりにテレビで観る機会を得て、したたかに哀哭、胸を絞られた。わたしは十数年以前であろう初めてテレビで観て感動し、録画で繰り返し観て、もし只一つテレビ映画で日本の名作をと問われれば、まして歴史映画の突出した傑作はと問われれば、なに迷いなく此の「阿部一族」を挙げると言い続けてきた。それで間違いなかろうかと久しぶりに観て、その確信を新たにした。堪えがたく声を放つほど哭いた。

言うまでもない、鴎外は希有の大作家であり文豪であるが、その第一等の名品はと問われれば、これまた躊躇なく昔から『阿部一族』と見極めてきた。揺るぎもない。六林夫の「遺品あり岩波文庫『阿部一族』」の名句を知って以後、ますますその思いを強くした。六林夫の句は、無季題ながら優れた戦争文学と大岡信さんは書いていた。然り、その通り。敗戦の季節と重ねれば「遺品あり」が強い季題になっている。

わたしの、政治というよりも、権勢・権力、支配・被支配、武士の忠義忠君などに対する憎しみに近い拒絶の思想を培ったものは、真っ先第一にこの鴎外作『阿部一族』であり、さらに確乎として憎しみを加えしめたのが深作映画の「阿部一族」であった。今も確実にそうである。湖の本で三巻の「ペンと政治」を編んだのは最近のことだが、政治悪、支配悪、権勢悪を心底憎む気持ちは、もうすでに高校時代に読んだ「阿部一族」に思想的に決されていた。

いま、心新たに、それを確認しておく。

山崎、蟹江、佐藤、真田、また一族の妻子らを演じ隣家の妻女を演じた女優子役らのだれもかもに、この映画での演技こそ一世一代の名品であったよと賞賛したい。

何度でも何度でも大事に録画してあるした此の映画を見直し見直して憎悪の念を手放すまいと思う。

 

* 批判すべきを批判し、怒るべきを怒り、起つべきに起つのは、自然でもあり必要でもある。看過し黙認し関わることを避けて大様がり超然がる人をわたしは敬愛しない。それだけに、批判も怒りも、また決起も、深切であらねば。情意において、態度において、、行為において慎み有るべきは当然である。

2014 5・9 151

 

 

* 郵便物が輻輳するので、整頓も。年譜的に大事な佳い記録になるので、散逸させないように心している。放りっぱなしにしてれば、もう何が何やらワケ分からず探しようも無くなる。幸いわたしには歴史家ではないが、自分史への姿勢はかなりきめこまかに持っている。

2014 5・10 151

 

 

* 「選集②」の芯になる『風の奏で 寂光平家』をルビうちのためにプリントした。『清経入水』は済ませてあり、『雲居寺跡 初恋』はもう今日にも読み上がる。『能の平家物語』を入れたいが、第一巻より頁数がのびる。『絵巻』とともに、平家の頃の恰好のエッセイを添えてみたい。

作者自身が忘れ果てていたが、『雲居寺跡 初恋』は文字どおり次の『風の奏で 寂光平家』を懸命に呼び出していたのだった。それとともに胸傷むことだが、この両作に深く絡んでくるやはり「平曲」ものの歴史小説をわたしは手書きで相当量書き込んでいながら投げ出していた。その手書き原稿が見つかっている。どうみても、その無念のようなモノがこの数年書き継いでいるやはり「平家物語」ものの現代幻想小説に生きの緒を繋いでいるのだと思い当たる。

今、抽斗の底に仕舞われていた差しあたり三束と数枚の原稿やおぼえ書きの分厚さを手にすると、思わず「嗚呼」と呻かれる。永い作家生活で半途に終えた作は幾つもあるにして、これほどの量・嵩であるのは辛い。最も分厚い(医学書院の)原稿用紙一束にはハッキリ「雲居寺跡」と題され作者は「菅原万佐」と高校以来のペンネーム、新潮の酒井編集長に本名で書きなさいと云われるまで使っていた名が書き込んである。いかに古いかが分かる。

二番目のには「資時出家」と題してある。もう一つのかなりの量の原稿や覚え書きには俊成・定家や、建礼門院右京大夫の縁戚を洗い出そうとした狙い目がちかちか光っている。全部がわたしの拙い字の手書き原稿のままである。むろん『清経入水』よりヨッポド先行していた生ま原稿である。詮無いことではあるが、朝日子が近くにいて引き受けてくれれば安心だがなあと嘆息している。

いまの私にはこれに手を戻す余裕は全くない。ほんとうに誰か気持ちのある人に、専心、これらを機械に書き起こしてもらえないかなあと呻いている。妻はいま、八百枚もの私小説の一応仕上げに近い清書原稿を機械に入れ続けてくれているが、今年中はかかるだろう。ウーン。

何がどの程度に書けているものか、すぐにも読み返したいのだが、印刷所からは次の入稿を待ちかねられている。時間は惜しく、集中するには視力が足りない。

 

* そういううちにも「湖の本120」の初校ゲラが出そろうだろう。

もう目がまったく「花 ホア=ゆらゆらと水中で目をあいているよう」で。なにともハヤ情けない。

2014 5・11 151

 

 

* 南山城の従弟が送ってくれた京都博物館での「南山城古寺巡礼展」の大きな図録を楽しんでいる。わたしの父方実家吉岡家は、現在木津川市加茂町当尾に屋敷があり、一帯の大庄屋を務め、廃仏希釈の頃には浄瑠璃寺の九体阿弥陀堂を身を以て守ったと洩れ聞かされている。当尾地区には、平安時代の浄瑠璃寺、奈良時代の岩船寺、さらに上古來の石仏群が現存し、加茂町にまでひろげれば海住山寺等々の古刹。古京が含まれている。図録は、貴重な建築、仏像、美術、文書資料等々を克明にみせて呉れる。

若ければ、乗り出して書き表してみたい「物語」がいくつも浮かび上がる。何をするにも、もう残り時間が切迫している。

2014 5・18 151

 

 

 

* 読み進んでいる私の小説「繪巻」、待賢門院と源氏物語絵巻を話材に、だれが、こんなふうに書けるだろう。兼好に倣って、「自讃」させてもらう。

2014 5・19 151

 

 

☆ 美しい五月を迎え

ご順調な日々をお過ごしのことと存じます。

少し家を離れ、旅行から戻りますと、立派なご本を賜っており、お礼を申し上げること遅れ 大変失礼いたしました。勿体なく存じております。

娘の家に残り、春の北欧と、ローマに住んでみました。

公の仕事を離れ、身心共にホッと致しまして、少し楽しみました。自分の時間が出来、好きなことを学びたいと思っております。

ご活躍を心から祈り楽しみに致しております。有り難うございました。  茨城那珂市  下司良子

 

* わたしに小説「四度の瀧」を書かせるキッカケを呉れたありがたい読者で、それが五十歳記念の豪華限定本に成った。歌人篠塚純子の歌集『点描の魚』を下敷きに、思い切り上古と現代と呼応のロマン仕立てが可能になった。此の作はいま「茨城県の文学」に収められている。

下司さんは、「湖の本」を創刊からかなり永い期間、シリーズが軌道に乗るまで、毎回20册ずつ買い上げて下さった。どんなに「湖の本」が助けられたか、わたしが励まされたか、いま思っても計り知れない。

 

* このところ、短歌がふと溢れるように口元へ寄ってくる。ま、いちいちは書き記していないが、そういう時が、間々やってくる。 2014 5・20 151

 

 

* 整理用の抽斗から、昭和五十九年一月の京都新聞が出てきた。京真葛ヶ原「西行庵」修復の動きを紹介していた。西行庵は今度の「選集②」の芯になる長編『風の奏で 寂光平家』で、重要な舞台の一つになっている。むろん少年の昔から馴染んでいた遺跡であり、懐かしさも手伝い記事をスキャンし校正して「備忘・参考資料」のフォルダに保存した。電子化して該当するフォルダにデータとして保存しておけば利用しやすいが、紙のまま積んでおいては死蔵にちかい。

そういう参考資料も山のように沢山な抽斗に積み重なっているほかに、わたし自身が原稿として、備忘として、着想として書き置いてきたものが、思わず呻くほど、有る。アイデアとして、何かのきっかけとして、存外な「お宝」であるのかも知れず、とはいえ手のつけようがない。

2014 5・21 151

 

 

☆ 選集第一巻を

ありがたく ちょうだいしました。

豪華な(今の時代 函入りの本はめったにありません)、それでいて瀟洒で すっきりとした装幀に しばらく見惚れておりました。勿体ない贈り物です。活字も大きく読みやすく至れり尽せりの一冊です。

大切に「永久保存」いたします。ありがとうございました。心より暑く御礼申し上げます。

ご自愛 一層のご活躍を願っております。   出久根達郎  (直木賞作家)

秦恒平様 玉案下

 

* 出久根さんは、いわば「本」のプロ。創刊いらい「湖の本」も継続購読して下さっている。今回の選集刊行が、念入りの美意識の所産でもあることを大勢が証言して下さっている。「本」は紙屑ではない、文化なのだ、出版文化。「紙の本」時代の最期を飾る光芒と、それを終始願っていた。

2014 5・28 151

 

* 今朝から、少し心躍る「仕事」に手をつけた。最近にたまたま整理棚、と謂うより押し込み棚のひと棚から古い古い原稿の入った袋を見付けた。

見ると、医学書院の400字原稿用紙で200枚ちかくびっしり書かれている。用紙の一枚目には

雲居寺跡  菅原万佐  66.11.24~

とある。 「雲居寺跡」と、はるか後年に弥生書房が文藝誌として「あるとき」を創刊した際、請われて巻頭作として二度にわたり連載した小説と同題であり、講談社から単行本になったときは書肆の希望で『初恋』と改題された。今度の「秦恒平選集」第二巻には、原題へ戻して『雲居寺跡= 初恋』の題で第五回太宰治賞の『清経入水』のあとへ、余の二作とともに収録した。

発見した「雲居寺跡」は念願してなかなか書ききれなかった途中放棄の旧作であり、作者として署名してある「菅原万佐」とは、わたしの古いペンネームであって、初めて「新潮」編集長酒井健次郎さんと会った際に、本名で書きなさいと云われて捨てたもの。四册ある初期私家版の第三册までは「菅原万佐」名で本にしていた。四冊目の『清経入水』からが「秦恒平」なのである。

このいわば「原・雲居寺跡」は、私家版にも入れていない。断念し棚上げしたのである。

それを、今朝から、電子化しはじめた。昔昔のわたしが、いかにもいかにも執着していた『雲居寺跡』をどのようにどこまで書いていたかを知りたくなった。推敲はかなり徹底的にしてあり、原稿用紙は、直しの輻輳でものすごい。こういう原稿をもともと妻はみな清書してくれて、さらにそれを徹底的に推敲してから「作」として立たせたのだった。「清経入水」「雲居寺跡」「風の奏で=寂光平家」はみな、この「原・雲居寺跡」の弔い合戦に他ならなかったのだと、今にしてつくづく思う。

では、どんなふうにわたしは平家物語異聞を書こうとし、何につっかえて断念したのだろう、それを見てみたいと思う。場合によばこの自筆苦闘稿は、のちのちだれかに喜んでもらえるかも知れない。

用紙七枚を書き写した。停滞無く、好奇心も満足させられおもしろく読み進めている。こういうのも初体験。

2014 5・30 151

 

 

* 「畜生塚」のような初期作の世界に心身を沈めていると、いかに今日只今現在の世界や日本が疎ましくてならないかが反射的に判ってしまう。

憎むというほどの気持ちは口にするより書くよりは、そうそうめったに有るモノではないのに、なにかしら憎むと謂いたいおぞましさを無数に投げつけられているような気がしている。悪しき政治、邪まな経済、どぎつい覇権の渦巻く国際紛争、だれが相手でもかまわぬ殺人、悪知恵の限りを尽くした詐欺、無意味に暴発する凶行。「よなげ」るという淘汰の意志でイヤな何もかもを抛擲してしまいたいと願い、しかし、いやそれではますます人間の日々は悪くなるばかりだと躊躇う。

それでもわたしなど、幸せに日々を送り迎えているのである、何不足を言うてよいものかと判っている。だが、憎しみのような嫌悪感が肩先へべたっと絡みついてくるのをどうしよう。

2014 6・1 152

 

 

* 昨日、

ジュリエッタ・ビノシュとジァン・レノの「シェフと素顔と、おいしい時間」を、二度観つづけ堪能しました。ひさびさに仏映画の魅力を満喫しました、映画好きのあなたをちょっと想いながら。

お元気ですか。新築前のいい仮の宿が見つかりそうですか。なにもなにも、宜しく収まりますようにと願います。

わたしは、もう残り少ない人生、新しい家をといった欲望はまったくなく、畳一枚在れば寝床は造れるぐらいの気で、家の不自由より、乏しいながらも適当にお金をつかって過ごそう楽しもうとしています。贅沢は不可能でもあり無用なことですが、楽しみは楽しんでいます。自分の「紙の墓・紙碑」といえる「文学選集」を人も驚くほど豪華に美しい私家版限定非売本で造り始めたのも、老境の気儘な励み楽しみになっています。もう三巻目の入稿用意にかかっています。湖の本も、28年、120巻めの「随筆選(一)」が進行中です。結局、文学以外には何にもできない人生でした。

そろそろからだが動かせるか知らんと旅心もうごめくのですが、家内も、猫の黒いマゴも、わたしも、いろんな健康の引っかかりがあり、半ば諦めています。せいぜい町歩きや相撲や芝居を楽しんでいますが、食べるという意欲が薄れています。胃袋がなく、すぐお腹が張って気分が悪い。お酒は飲めますが。

お元気で。いつでも声かけて下さい。 湖

2014 6・1 152

 

 

* 永栄啓伸さん平成二十年の『秦恒平「初恋」論 連鎖する面影のなかで』を、浴室で、全編読了。感謝。「初恋」論は原善くんのを昔に読んでいる。永栄さんの注記によれば、桶谷秀昭、進藤純孝、笠原伸夫、上田三四二さんらが当時論じて下さっていたらしい。有難い。「初恋」は今回選集②のために読み直してひとしお懐かしくまた必然の作、自分自身こういう小説をこそ読んでみたくて、誰も書いてはくれないから、自分で書いたのだなあと思い知った。どんな作も、そうなのだ。そういう作を幾つも持っていることをわたしは今にして新ためて幸せに感じる。「清経入水」「雲居寺跡 初恋」「風の奏で」もそうなら、「秘色」「みごもりの湖」もそう、「或る雲隠れ考」「慈子」もそう。それら全部の原点に処女作といえるほどの「畜生塚」が、ヒロイン町子が在る。おもしろい人生であった。そして今しも締めくくりになるであろう三通りほどの新作を書き進めて投げ出していない。楽しんで苦しんでいる。

2014 6・1 152

 

 

* その辺の文箱に残っている、わたしが文学賞により作家として公認されたほぼ真っ先に心覚えないし本音の覚悟として書いたのは「作家さよなら」という手記だった。わたしのような作風の者が「こんな」文壇に棲息の場所などもてるわけがないと本気で思った。例をあげれば第五回受賞直後のわたしの目の前にいた先輩作家といえば、第二回太宰賞の吉村昭さんと佳作の加賀乙彦さんお二人であった。その他の人たちはまだまだ遠い遙かに存在だけが知れていた。そしてその吉村さんの作、加賀さんの作と、わたしの「清経入水」や「蝶の皿」や「秘色」や「畜生塚」など自作の、なんと懸け離れていたことか。作の善し悪しではない、世界のちがいである。わたしは、自分が世みたい読みたいと思っているような小説しか書く気がない。しかし吉村さんの小説も加賀さんの小説も少しも読みたくはなかったのだ、こりゃオオゴトだと思った。「展望」八月号に受賞作が出て、「新潮」九月号に当時の新人賞作家達の特輯があり、わたしは幻想の極のような耽美的な「蝶の皿」を出したが、他の十人ほどの少々先輩作家達の小説は、どうみても日常的な私リアル作ばかりだった。孤独感に襲われて、「作家さよなら」と手記を書き筺の中へ隠した。

それでも、太宰賞の選者先生は満票で「清経入水」を認めて下さったし、中村光夫、桶谷秀昭、進藤純孝、笠原伸夫さんらの強い声援や評価が続いて、わたしは、ま、やってみるかと思い直していった。

こんど「みごもりの湖」「秘色」「三輪山」で「選集①」を編んで創刊し、さらに「選集②」に現代の怪奇小説とも選評された「清経入水」や「雲居寺跡 初恋」「風の奏で 寂光平家」「絵巻」などを並べ、「選集③」には「畜生塚」「慈子 斎王譜」「或る雲隠れ考」等々をならべたとき、だれがこんな妙な世界を書いていただろうと、いっそ我ながら惘れるのである。惘れながら、しかし、それがわたしの文学と言いきるしかない。いまごろ、それをわたしは思い知るのである。

 

* さ、西新橋まで、出かけてこよう。

 

* 西新橋の京料理店で、文春の寺田さんに、建日子と一緒に馳走になる。建日子に得るところ多い出合いであったなら有難い。わたしは気楽にご馳走になった。専ら鱧料理を戴いた。

建日子は店の前でわかれ、寺田さんに保谷まで送ってもらった。

 

* 建日子、「選集①」へ助勢50部分を拠出してくれた。感謝。 2014 6・2 152

 

 

☆  拝復

すっかり夏らしくなりました。ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。

さて、このたびは、御高著『風の奏で 上・下』(湖の本)、ご恵送賜り、誠に有り難ぅございました。以前、大変話題になり、私もまだ大学院生だった頃に拝読して感銘を受けた御高著の再刊、うれしく拝見しました。

改めて拝読して、自分がこの小説に強く影響を受けていたことに思い当たりました。同封した拙著の『建礼門院という悲劇』の末尾に 「女院は『平家物語』を知っていたか」の節を立てたのは、(自分でも明確に意識してはいなかったのですが) あるいは御高著の影響だったのかもしれません (その他、もし御高著に通うところがあるとすれば、おそらく「T 博士」 ならぬ角田文衛氏の影響も大きいと思いますが。)

昨今の出版不況や社会全体の古典離れはいうまでもなく、さらに、文学研究の 「文学」離れと申しますか、文化研究へのシフトなどによる創作との乖離も、動かしがたい状況ですが、それ故にこそ、古典研究と現代をつなぐ試みは、多様になされねばならないと存じ

ております。私も、及ばずながら、それなりに試みを続けているつもりではあります。同封のものなど、こちらこそ、ご叱正いただくことがあれば、誠に幸いに存じます(但し、これはお礼ですので、重ねての返礼などはご放念ください)。

とりあえずお礼までにて失礼いたします。 草々

六月一日

秦 恒平様          佐伯真一   青山学院大学教授

 

* 編著・人生をひもとく「日本の古典」四『たたかう』(岩波書店)、佐伯さんの著『建礼門院という悲劇』(角川書店)を頂戴した。さっそく読みたい。

そうさくという名での著書が、専攻の研究者からも顧みてもらえる、そういうことにもわたしの喜びはある。ことに「風の奏で」は、もし一点に絞って謂うなら「わたしの建礼門院徳子」を産んだことに、意義も喜悦もある。「清経入水」では「わたしの清経」を、「雲居寺跡」では「わたしの源資時」を、「絵巻」では「わたしの待賢門院」をまさしく産んだ。小説家として新たに産んだ。創作とはそんな仕事だ。                       2014 6・3 152

 

 

* 作の世界を介して、「いい読者」と作者とはじじつの次元にとらわれず、ふしぎに共生する。ふしぎな、だがあたりまえのことでもある。「研究者」や「批評家」は絵空事の不壊の値を読みきれぬまま、事実の次元へ引きずり込むようにともすれば小説を捏ねまわしてしまう。その意味では、ごくふつうの読者、これは「事実ですか」と聞きたがる読者らと、ともすると変わりない関心から熱心に議論してくれる。

2014 6・3 152

 

 

* 「畜生塚」の四、「羽衣の人」を読んでいた。母校の日吉ヶ丘へ行き、博物館で畜生塚の女達の遺品を「町子と私」は観ていた。秀次妻妾子女の辞世の歌を読みながら、今日只今のわたしもまた泣かされた。「羽衣」を読み替えて行く「町子」の言葉にも、胸をしめつけられた。ふしぎなことだ、まったくわたしの創りだした女なのに、「町子」は生きていた。いまも生きている。姿形を変え思いや言葉も変えながら「町子」はわたしの世界へ繰り返し繰り返し生まれ変わってくる。いまもまた新たに生まれてきているのをわたしは同時に二つの小説に書き表そうとし続けている。夢とも絵空事ともいうがいい。現実ではない。わたしにとって現実とは妻だけで、すべての「町子」は絵空事の不壊の値を生きている。それを生きられるものだけが生きている。

おっかなびっくりにおそるおそる発表したこの小説に桶谷秀昭さんがまるまる一頁をさいて「一頁批評」で賞賛して下さったとき、正直の所わたしはむしろ信じ切れなくてきょとんとしていた。やがては人づてに、ベストセラー作家の立原正秋さんがとても褒めてられましたよと聞いたりした。鴎外研究等で知られた国文学者で上司でもあった長谷川泉さんも、わたしに直に、「畜生塚は良質の作品だと思う、入念に手を入れるといいね」と言ってくださったし、「新潮」で担当編集者だった小島喜久江さんも最初から「畜生塚」は採れますねという意見だった。

ところが、書いた本人のわたしには、だからとも言えようか、まだ「畜生塚」という一編の小説の、わたしの文学における意味も意義もとうてい掴めていなかったのだ、わたしには、わたし自身がまだ見えていなかった。

つくづくと、いま、それを思い全身に汗する気がする。

2014 6・4 152

 

 

* 「畜生塚」を読み上げた。選集第三巻の巻頭に置いて大丈夫と信じられた。ついで長編「慈子(あつ子)= 斎王譜」なのは動かない。そのあとをどの作などで纏めればいいか、考え考え、ほぼ確信を得た。

「選集①」のキイになる思想は「死なれて・死なせて」であり、それを大和奈良時代に幻想的に表現した。「選集②」も同じそれを平家物語世界を背景により幻想的に表現しながら、人が人と生まれて此の世にに真の身内をねがってやまない「島の思想」を描いてきた。「選集③」は、まさしくその「身内の愛」の切なる追究により「絵空事の不壊の値」の確信に向かうものとなるだろう。

 

* 何十年ぶりかで「太陽」に発表した小説「隠沼こもりぬ」を読んだ。美しい怖いせつない小説だった。こんなのも書いていたんだとしみじみした。単行本のどれに入れてあるのかも忘れ果てていた。だが、忘れても居なかったのだ、美しい怖いせつない物語を書いたという憶えはあった。「畜生塚」「慈子」のあとへこり「隠沼」を、そしてもう三作を加えようと肚を決めた。「選集③」は美しくて怖くてせつない「身内」ものの一巻になるだろう。手にした方は愛して下さるだろう。

2014 6・5 152

 

 

* 歯医者への道中には、濡れては困る「湖の本120」のゲラでなく、文庫本の「拾遺和歌集」とブルフィンチの「中世騎士物語」を

持って出た。アーサー王、騎士ラーンスロット、ガウェイン、その他多数の騎士と貴婦人達とのロマンそのものの説話の面白さに出先も雨も忘れがちだった、わが朝十一世紀の恋の和歌もしみじみと。いやな現代から次元を超えて遊ぶことは、身に付いた得手である。絵空事の不壊の値を現じ体しきれなくて、何が文学だろう、藝術だろう。

2014 6・6 152

 

 

* 全集でなく「選集」という形式を取ったのは、好きな作を選び取る意味ではなかった。全集はふつう作の年次や発表順になっている、それを避けたかった。「湖の本」でもそうだが今度の「選集」ではもっと一巻の量も多くし、主題上で関連や系譜の見えるように編みたい気が強かった。第一巻に選んだ「みごもりの湖」「秘色」「三輪山」には、上古と現代とが反リアルに協奏するとともに、「もらひ子」や「死なれ・死なせ」という主題選択が太い軸をなし、三作を突き抜いている。第二巻の「清経入水」「雲居寺跡= 初恋」「風の奏で= 寂光平家」「繪巻」も第一巻の主題をより強調しながら、源平の昔と現代が不思議を奏であいながら、平氏の徳子と現代の徳子への語り手の深い強い愛が示すような「身内」の思想が、そのまま、微妙に藝能や血の渦や被差別問題をまで巻き込んでいる。そしてもはや第三巻をと思いを懸けた作たちは、「畜生塚」「慈子(あつこ)」「隠沼(こもりぬ)」「隠水(こもりづ)の」「底冷え」そして「誘惑」という、或る意味で怖い美しい切ない「絵空事」が「身内の渇望」とともに書かれている。

作家・秦恒平の原質はこの三巻にはっきり渦巻きながら、さらに第四巻以降に予定している「蝶の皿」「青井戸」「閨秀」「糸瓜と木魚」「墨牡丹」など、「廬山」「華厳」などが、さきの「繪巻」「隠沼」やのちの「秋萩帖」などとも共鳴しながら東洋や日本の美の発見世界を形象るだろう。

出来うれば、思うさま多彩に少なくも十巻を構成したい。

ぼろぼろの歯になってしまったが、今日娘のように感じている歯医者さんに、僕のもともとの歯は何本残ってると聞いてみた。大マケして呉れたのだろうがまだ4ea二十一本ありますと言う。歯が齢ならせめてもう十年、米の壽までもつかなあとわたしは笑い、それなら選集とはべつにもう少しは大きく纏まる新しい仕事も出来るがなあと独り思ってきた。こんなことを大まじめに言えるのはつまりはボケて来ているということか知れないのだが、えやないか、それでもと思うことにしている。なにかを遺そうという願いではないのだ、なにかを仕ながら死んでいけるのが楽しかろうと思うのだ。同じ禅でも、わたしは「しない禅」よりも「している禅」でありたい。そのためにも怪我したくない。バカな事故に遭いたくない。

2014 6・6 152

 

 

* 「隠沼(こもりぬ)」の原稿を確定し、「慈子(あつこ)」のうしろへ入れた。次いで「隠水(こもりづ)の」を読み返し始めた。

先日、建日子も一緒に西新橋の料亭でご馳走になった文藝春秋の寺田さん、いまは会社の高い位置におられるが、わたしとの初対面を求めて訪ねてみえたときは、若いじつに物静かな編集者だった。中央公論社の「海」に発表した「隠水の」を読んで来ましたという最初のご挨拶だった。この寺田さんが、じつに私現在なお進行中の「湖の本」のために今の印刷所を紹介して下さったのである。作家人生での恩人は数え切れないが、編集者としてとびきりの恩人であり、御縁をもたらしたのが「隠水の」だった。わたし自身はよくは知らぬままなのだが、此の作は知らぬうちに幾度も論攷され批評されていた。しかも、前にも言ったが、わたし自身はこの作に愛着こそ深くあれ、論じられたりする作とまでおもってなかったようだ、角川書店が文庫本「清経入水」を出してくれたとき、受賞した表題作や「蝶の皿」「閨秀」は好評をあつめて同時収録は当然と思えたが「隠水の」も採られていたのには望外の驚きと嬉しさを覚えた、そのように作者として思っていた程度だった。作者は自作についてたしかに人より広く多く深く知っていることも確かだが、存外に自身気づかずに書いている書きようも有るのだと思う。

読み返して行くのが楽しみになっている。何人かの方の論も読み返したり初めて読んだりしてみられるのも楽しみだ。

 

* 筆名「菅原万佐」での200枚ちかい自筆推敲のウルトラ『雲居寺跡』をやっと20枚ほど電子化データに可能な限り原本に忠実に書き写した。前途が思いやられるが、作者自身なにごとをどのように何処まで書き進んで途絶ないし挫折したものか、全く記憶が失せている。暗い樹海に迷い込むような気がする。

ただこれだけは言える、この挫折の苦い重い体験からまちがいなく「清経入水」も「初恋=雲居寺跡」も大作「風の奏で=寂光平家」も「繪巻」も生まれ出たのだと。それは確信できる。ウルトラの体験が無かったら、あとの作は出来てなかっただろう。

いま此の忙しさの中で、錯雑した推敲手書き原稿を書写するのは、正直、たいへんな苦労だが、妻にはべつの800枚ものを機械へ書き写してもらっており、これは自分でこつこつやるより無い。やってみる意味はあると信じかけている。

2014 6・7 152

 

 

* 今日の晩食には、「米と魚と肉少しと野菜を食べました」という仮にメールを読んだとして、何が面白かろう。

ひとの物言いは、人それぞれにいろいろなのは間違いないけれど、例えば上のような「概念」だけでしか物を言わない人も、じつはいるのである。味気ない。知的と自負しているような人にそれが、まま、有る。

2014 6・8 152

 

 

* 「隠水の」を早瀬のはしるように読み進んでいる。懐かしい。咲くの世界はフィクションでも、書こうとした情味にすこしもウソがない。うちかさねて、いま一つの小説が書かれてもいい気がする、が。

2014 6・11 152

 

 

* 「湖の本120」を責了で送った。入れ替わりに「選集②」の半分量、初校ゲラが届いた。露のさなかだが、夏の陣、もう始まった。気負いなく、シッカリ仕事したい。

だが、さしあたり午後は「リア王」を観に行く。福田恆存翻訳全集」第七巻の帯背に、「トルストイには『リア王』が観えなかった。」と書かれてある。福田先生の論を、観てきたあとでぜひ読み返したい。

 

* 劇団「昴」公演(アウルスポット)の「リア王」を観てきた。おまけに終演後の劇団員の座談を聴いてきたが、これは全くムダであった。「リア」上演に際してシェイクスピアの読み込みにどんな苦心や工夫や発見や課題が感じられたか、そういうことを演出家や俳優に聴きたかったが、すべて無用の漫談に終始して、劇場に居残っている観客に質問一つもさせずに終えた。もし、質問が許されたらわたしは、この劇の翻訳者であり劇団創設者でもあった福田恆存さんの名刀正宗のような批評、「トルストイには『リア王』が観えなかった」とはどういうことで、それをどう受けとめながらこの「リア王」劇に演技者・演出家として臨んだかを聴かせて欲しかった。 シェイクスピアとトルストイとは、ほぼ同時代人である。ともに偉大な藝術家であるが、後者は前者がほとんど嫌いであった。

どこにそういう切れ離れが出来たのかは、人が人であるだけにたいへん大きな深い課題性をもっており、その理解に沿って「リア王」は必然演じられる。その必然を今回の「昴」びとたちはどう汲み取っていたのか、少しでいいリア王役にも、エドマンド役にも、三人の娘役にも聴かせて貰いたかった。楽屋話ではあまりにもつまらなかった。

 

*トルストイは優れて近代に魁けた作家である。彼は、シェイクスピアを、「リア王」だけでなく多くの作を「不自然」過ぎると断案した。たしかに「リア王」は紀元前八百年も前の時代設定で有りつつ、舞台の形相はあくまで中世の騎士時代のものである。そういう不自然を咎めればシェイクスピア劇は不可解な不自然設定のオンバレードであるだろう。

だが、今日の「リア王」演出を受け容れてみれば演劇的構成感は堅実で何の緩みもない。わたしは演出に感心した。俳優の演技にも特段の不都合はなく、さりとて完璧な感銘を与えられるほど精緻でも優美でもなく、科白にも諸処に難と緩みがあった。つまり演劇的達成感は不足していた。わたしは、「リア王」にいつも泣いてしまうのだが、今日は涙が湧かなかった。胸も震えなかった。

その理由であるかどうか、演出家の弁にも、俳優諸氏の弁にも「リア王」シェイクスピアを、文豪トルストイの非難に対して真っ向応えるぞといったヨ 見込みの苦心が結局窺えなかった。座談からは、まるで裏切られた。面白くも何ともない時間つぶしのような終演後の漫談だった。もし質問が許されてもわたしは黙していただろう、あまりにチグハグだから。

わたしは「リア王」という劇がツライほどカナシイほどナサケナイほどニクイほど、好きなのである。四代悲劇では一に好き。不自然であろうが底知れぬ阿呆な父王であろうが、父親をあれほどに裏切る娘たちは、わたしは憎んで余りある。それだけに末娘のコーディリアには想いが添うのだけれど、今日の肝腎のコーデイリアは科白があまりに力不足で残念だった。

 

* もう少し言っておく、シェイクスピア「リア王」には中世騎士達の王への忠誠という騎士道精神や、だからこその権力闘争への阿諛や迎合の問題がからみつく。その背景には古い意味での「神」や教会も働いてくる。トルストイには「自然さ」を人間的に捉える近代人の精神がはっきりしている。サドなどの唱えかつ重んじた神ならぬ「自然」尊重の姿勢に横並びになりやすい、なろうとすればなれるところがある。ゲーテには、シェイクスピアとトルストイとのまるで中間点を占めるような意味がある。トルストイは、またベートーベンのクロイツェルソナタをも手ひどく非難した。偏狭だったのではない。トルストイには、福田さんが断案されたような徹した近代的作家だからという意味を超えて出た、超歴史的特異な達成があったのである、わたしはそう観ている。

 

* ま、帰りは雨にも遭わず、保谷駅から寿司の「和可菜」へ寄ってきた。この店へ来ると妻もわたしも半分家に帰ってきた気がする。

2014 6・12 152

 

 

* わたしに持病があるとすれば、それは寝て夢を「かならず見る」ことだ。複雑怪奇な、あるいはコケの一念のようなややこしい夢をみる、また夢で考えこみ調べ始める。一昨夜の夢は、機能の病院で名取り先生を笑わせてしまったが、例えば「お父さん」「お母さん」はごく普通の物言いで奇ななにも感じないが、理屈をいえば「お」「さん」と敬辞をダヴらせている。主として子供の頃への記憶から呼び戻される物言い聴き耳であるが、「お」「さん」をダヴらせた言葉はけっして少なくない、が、多くもない。「お粥さん」「お豆さん」「お猿さん」等々。おやっと思いつくと、それを夢でおいかけまわす、さがしまわる。「お粥さん」といっても「ご飯さん」とは言わない。「お豆さん」のならびで「お米さん」とも言わない。「お猿さん」は言うがいくら可愛がっても「お猫さん」とは言わない。「お馬さん」とは言うけれど「お牛さん」「お豚さん」はない。神さん仏さんですら「お」は冠せない。しかし「お宮さん」「お寺さん」は微妙に謂うなかみは違うが日用語であるし「お稲荷さん」「お地蔵さん」「お釈迦さん」「お薬師さん」はあたりまえに言う。幾ら馴染み深くても、だれも「お観音さん」とは言わない。「おかみさん」は、微妙だが、即の神さんではないはず。

「お日さん「お月さん」「お星さん」はいう。「お雲さん」「お雨さん」「お風さん」などは無い。「お殿さん」「お姫さん」「おじいさん「おばあさん」「お百姓さん」「お大尽さん」「お侍さん」「お武家さん」「お師匠さん」「お向かいさん」「お隣さん」はあっても、社長にも兵隊にも大尽にも「お」「さん」を重ねることは無い。

職業では「お医者さん」はあり、かりに「お魚屋さん」「お肉屋さん」はあっても「お八百屋さん」は無い。「お先生さん」とは言わないし「お大家さん」も無い。「お子さん」「お嬢さん」「おねえさん」「おにいさん」はあっても、「お社長さん」も「お部長さん」も無い。

竈を敬って「おくどさん」はよく聴いた。映す鏡にはいわない正月の鏡餅は「お鏡さん」と敬っていた。

食べ物では、粥や豆のほかでは「お芋さん」はあたりまえに耳にしていた。ほかに思い当たらないのが、かえって奇妙。酒、醤油、ソース、味噌などみな「お」は冠せても「さん」はない。大事な物でも「お米やさん」とは言え「お米さん」は聴かなかった。

こんな穿鑿を夢の中で際限なく始めると、寝ていてもやすまらない。これが煩悩かと歎きながら、「リーゼ」を含んでやすやすと寝たくなる。持病であるなあ。

2014 6・14 152

 

 

* 「隠水の」を読了。すぐ続いて、「月皓く」を読み返し始める。年とったら自作をゆっくり読み直したいと谷崎潤一郎は書いていた。そういう境地を時分も楽しみたいと久しく願っていた。

2014 6・15 152

 

 

☆ お元気ですか、みづうみ。

 

わたくしは無事生きております。帰国しましたら、日本はすっかり梅雨でした。ツバメのヒナ三羽が今年も無事に巣立ってほっとしましたら、別のツバメが近くに新たな巣をつくり始めました。まだ楽しみも、心配も続きそうです。

相変わらず出たり入ったり慌ただしく過ごしておりますが、「私語」は毎日しっかり読ませていただき、みづうみの猛烈に勤勉な日々に圧倒されています。ふつうの人間は締め切りがなければ、みづうみのように動けません。

先日「リア王」を観劇なさった時の私語の中で。シェイクスピアとトルストイとは、後者が前者をほとんど嫌いであったと。

トルストイがシェークスピアを「ほとんど嫌いであった」とは知りませんでした。みづうみに教えていただくと、なるほどとわかる気がします。毎日の読書に「私語」があることで、わたくしはかなり物知りになります。

もう一つ、以前みづうみに、みづうみご自身の「リア王」が書かれるべきとお願いしたわたくしのメールを憶えていてくださいますでしょうか。(あれは今までさしあげたメールの中で、みづうみにとって一番不愉快で、わたくしには最も痛切な表現であったメールと思っています。)『凶器』よりさらに凄まじいもの、みづうみが「リア王」でもあることに迫る「娘難」の小説をお書きいただきたいと、勝手に切望しています。あれこれとわたくしの妄想は広がるばかり。お許しくださいませ。とりあえず蒸し暑い今日を、涼しく爽やかにお過ごしくださいますようにお祈りしています。  緑  万緑のなかや吾子の歯生え初むる   草田男

 

* そのメールというのを覚えていない。いずれ「あの頃」の物だろうが。わたしは先日も書いている、「わたしは「リア王」という劇がツライほどカナシイほどナサケナイほどニクイほど、好きなのである。四代悲劇では一に好き。不自然であろうが底知れぬ阿呆な父王であろうが、父親をあれほどに裏切る娘たちを、わたしは憎んで余りある。それだけに末娘のコーディリアには想いが添うのだけれど、今日の肝腎のコーデイリアは科白があまりに力不足で残念だった」と。なるほどわたしの「リア王」は書けぬものではない。『凶器』よりさらに凄まじいものを、か。不可能ではない、むしろ書くべきなのかも知れぬ。

とはいえ、今わたしは、「畜生塚」「慈子」「隠沼」「隠水の」など懐かしい「身内たち」の世界へ甦って、優しい気持ちにひき戻されている。阿呆な父なのかも知れないが、自愛に溢れていたその父に無礼の限りを働いた恥知らずな娘や婿の小説を、徹底的に書くには、相応の用意が要る。

2014 6・16 152

 

 

* 「清経入水」を初校し終えた。まさに、私自身が読みたさに創りあげた小説。わたしは、あの頃、見たところ綴り方のような志賀直哉ふうの私小説・身辺小説に飽き飽きしていた。直哉の良さに真実つきあたるのにもう少し時間を要したのだった。潤一郎に惹かれていたが、谷崎には夢は書かれても他界は無かった。わたしは自在に往還のきくわたし自身の他界を現実と対等においた世界が欲しかった。そんな小説は、いくら探しても日本の近代現代文学では見つからなかった。見つからないなら、自分で書いて楽しもうと思った。「清経入水」よりも一冊はやい私家版の小説集でわたしは、多くの掌説を既に書き、さらに「蝶の皿」をも書いていた。わたしはそれを「吉野屑」の作者に捧げていた。昭和四十年代の初めに「蝶の皿」や「清経入水」のような作は、寡聞にもまったく見当たらなかった。わたしは孤独でいずれ孤立するだろうと思っていた。

 

* つぎは「雲居寺跡=初恋」を校正する。併行して「月皓く」を読み、原作草稿の「雲居寺跡」をデータ化してゆく。

2014 6・17 152

 

 

* 着々と。「仕事」はそれだ。神意・冥加とも感じる創意とは、「着々」の火花なのだ。

 

* fはからずも午後、映画「ケイン号の反乱」を、また見た。映画のいい意味のテキパキが適確に表現されていて、終始惹きつけられる。艦長ハンフリー・ボガート、弁護人ホセ・ファラー。荒れる海も揉まれる艦も美しかった。軍事法廷も節度あって潔かった。いい映画にはいつも脱帽する。脱帽させる現代小説に久しく久しく久しく出逢わない。「選集」を思い立った大きな一つの理由だ。

 

* 「月皓く」をもうかなり読み込んだ。叔母の稽古場だった茶室が、そこへ出入りしていたお弟子さんたちが懐かしい。叔母は裏の離れに独り暮らしをし、京間の四畳半を茶室に用いていた。お花の稽古日には同じ四畳半で御幸遠州流の生け花を教えていた。小さい頃からわたしは、茶の湯の日にも生け花の日にも稽古場へ出入りした。生け花は手に負えないが茶の湯は叔母に代わって教えられるほどわたしもよく稽古した。釜も掛け客も呼んだ。

 

* 「原稿・雲居寺跡」を機械に書き起こしていた。

雲居寺は、現在の高台寺や霊山観音の一帯を永く占めていて、境内では「自然居士」や「放下僧」「呪師」などと呼ばれるような藝人たちがいろいろに屯した。わたしは、はやくから、こうした者たちの「藝の風」に関心がつよく、源平合戦を背景にその「風」の歴史的な「奏で」のさまを小説化したかった。なかなか容易な業でなく、一度は大作を諦めて投げ出した。諦めきらずに、「清経入水」(原題・鬼)を書き、「雲居寺跡=初恋」を書きとうどう「風の奏で=寂光平家」を書いた。書かずにおれなかった。

この杜絶した「原稿・雲居寺跡」には、まだ書けていないなお別の物語が隠れているのでないかと、ひの先を、もはや今ではたのしみにしかけている。

むかしのわたしの小説原稿は、多くは妻が苦労して清書してくれ、自然、自筆の原稿は用済みと見てみな捨てていた。この「原稿・雲居寺跡」は、完全に自筆でしかも妻が清書以前の徹底的な、しかし第一次か二次までの推敲原稿で残っている。おまけに著者は秦恒平でなく、高校以来の筆名だった「菅原万佐」であり、原稿用紙は当時勤めていた会社「医学書院」のA版400字用紙を使っている。上記の数作を論攷される人には、この「原稿」は何らかの示唆をもつのでなかろうか。

 

* もう画面の字が読めない。十時半、機械から離れる。階下でもまだ「仕事」がある。床に就いてからも、有る。裸眼をおもに使う。、

2014 6・18 152

 

 

* なにしろ電話というのが鬱陶しいのだが、それでも声を聴きたい人はいる。口に合うおいしい御菓子を食べる気分かなと思いつつ、相手の気の重さを思うとそういう真似もしない。めったにしない。声を聴かせたら、きっと嬉しいと言ってくれると思うだけで電話機を観ている。

わが家では、と云うかわたしだけの思い習わしに妻も相槌をうっているのだが、息子の、秦建日子のドラマに出演していた男女すべての出演者達は、例外なく、みな「うちの娘」「うちの息子」と呼んで「おお」「おお」とテレビへ声をかける習わしが出来ている。とても心賑わって嬉しい習わしなんです。電車の中の広告などでもよく見つけて、横の妻に「ほら息子がいるよ」「娘だよ」と教える。こういうタワケた七十八爺、ま、ゆるされよ。実の娘に去られ、孫娘を死なせ、息子と黒いマゴ猫しかいない。やはり寂しい。その意味でも大勢の「息子・娘」を贈りものにしてくれている秦建日子、親孝行してくれているわけだ。松たか子は「ヒーロー」に出てくれていた。願わくははやく沢口靖子も「娘」と呼びたいです。

2014 6・23 152

 

 

* アンバランスは、たしかに一種のエネルギーではある。なにが何においてどうアンバランスなのかを吟味すれば、そこに悪い徴候、感心できない徴候もみられると同時に、何か望ましい方向への芽生えを感じさせることもある。だが、概してやはりアンバランスの過ぎたありさまは見よくなく好ましくもない。

いま東京で、市街地を歩いていても電車に乗っていたも、あまりに大勢が憑きものがしたように機械をいじって余念ない。怖いほどであり、人間の非人間化・不出来な機械化がこうも爛熟しているかと肌に粟立つ。

今一つの過剰なアンバランスは、愛国心だか単に好みだけなのかは分からないが、たとえば、たった今しも一次リーグを敗退した日本サッカーへの、ないしサッカーというゲームへの狂熱のさまがある。わたしでも、日本チームの健闘を願って応援していたし、敗退は残念だが、しかし、それだけのことである。自分に狂熱というエネルギーの浪費癖のないことを、むろん是とみて感謝している。

概してわたしは、人間の才能に根ざした創作性の濃く豊かなモノにはつよい敬愛を覚えるわりに、勝負を競い合うスポーツへの過剰な熱狂は持とうにも持てない自覚がある。精神の不均衡を病的に導くような熱狂や過度の愛好は毒だとすら感じている。

まして、いま、世界を眺め、日本を眺め、わが生活の場である東京を眺め、そして政治の乱脈、格差拡大の非道傾向を見ればみるほど、今も謂う「機械中毒」「応援中毒」と、そうした政経の危害や非道への怒りとの、不均衡・アンバランスが、とてもとても気になる。

われわれは、政治や経済を是が非にも自分の手におさめ取り支配したいなどと思っていない。それは、よき公僕や良心的で有能な人格に委託していいのだ、だが願わくは、われわれにも、よく政治「されたい」経済「されたい」という受け身のママの要求があり、その要求を忘れ果てていてはいけないと思う。本居宣長は、我々に支配したい欲求はなくても、良く、より良く、より幸せに統治されていたいと要求する姿勢と権利意識とが「ぜひ必要」と説いていた。この要求、即ち、宜しく治められたい権利を忘れ果てて、他の享楽にうつつを抜かしていてはいけなかろう、不均衡・アンバランスが過ぎては不幸を招くだろうとは、ぜひぜひ、いつも心得ていたいと思う。それが本当の「人道」なのではなかろうか。

2014 6・25 152

 

 

* 「誘惑」を読み進んでいた。論じて下さる研究者に恵まれているが、脱稿までは永いあいだ苦労した。自筆にっ年譜でしきりに「鱗の眼」と題しながら苦悶していたのが此の作の前身で、こう纏まる以前に、短篇の「底冷え」としても独立させていた。なかなか一作が一作として成るにも難儀な隘路があったのだ。それだけに愛着もあるのだが。

2014 6・25 152

 

 

* 機械の前へ戻ったら、追っかけるように妻から転送されてきたメールが有った。筆者の藤原正樹さんは、妻の従姉の子、と謂っても(会った記憶がないので顔かたちも分からないが)おそらく六十前の男性。どこにどういう形で文章を書き込んでいるのか、ブログでもあるのか、妻はそれを読んでいるようだがわたしは全く見知ったこともなく、ときどき妻から噂を聞く程度だが、今日は、当人のわたしへの直接話法的「文面」のためか転送されてきた。全文なのかどうかも確かめていないが、箇条のようにも読めるので、番号を附しておいて、若干コメントしておこう。

 

☆ 目に触れた、藤原正樹さんの記事ないし質問。

① 文芸誌の形になった「太宰賞」というのをはじめてみた。そういえば、なぜ岩城ケイについて秦恒平氏は言及されないのだろうか。

② 秦氏といえば、隠し味的な読書については絶対言及されない。たとえば、「親指のマリア」のあとがきでも加賀乙彦には言及しても、遠藤周作や矢代静一には触れられない。もちろん、尋問する側が「沈黙」と「親指」ではだいぶ違う。白石という人物は井上筑後のルサンチマンとは無縁である。

③ シドッティその人についていえば・・・・・・カトリック作家からは当然批判が出てくるかもしれない。ただ、作者がカトリックと直接に衝突せずに済んでいるせいか、えらく好青年なのだ。まるで同志社に留学に来るアメリカ人青年じゃないか、と思ったことがある。こんな感想は見当はずれかしら。

④ 秦氏の作品発表の舞台でもあった「展望」には矢代静一が「あらい・はくせき」という戯曲を書いたことがある。これなど、どう摂取されたのか。あるいはまったくノー・カウントなのか。

 

* 上記に、わたしの感想ないし返事

① 「文芸誌の形になった「太宰賞」というのをはじめてみた。」という事が分からない。わたしが受賞したのは45年も以前で当時は「展望」に発表された。文藝誌ではなかった。現在の筑摩書房に「文藝誌」が在るのかどうか全然知らない。「岩城ケイ」という女性らしい人名についても何一つ知らない。もしかして今年の受賞者なのか、しかしもう何年も筑摩書房から「太宰賞」「受賞者」「受賞作」「授賞式案内」など知らされたことも、受け取ったことも無く、何も分からない。社の役員人事の変更だけが時折届くだけで、PR誌「ちくま」も近年は届いていない。わたし自身は筑摩書房をいわば「母港」と今も思っているけれど。

② 「隠し味的な読書」の意味が取りにくい。創作や執筆の参考にした書籍の意味か。それなら「「絶対言及されない」どころか、むしろ言い過ぎるほどで。「親指のマリア」に触れて遠藤周作や矢代静一の名が出ているが、わたしは遠藤さんの「沈黙」さえ読んでいない。ペン電子文藝館に頂戴した芥川賞作のほかに遠藤さんの作は短篇を一二読んだかなと謂う程度。矢代さんの著書も仕事も知らない。概して、わたしは、自分が書きたい人物について書かれている先行後発の創作物には「接触しない」ことにしている。

③ 強いて露わにいえば「シドッチは私」である。「作者がカトリックと直接に衝突せずに済んでいるせいか」は憶測であろう、わたしのキリスト教との「接触」は単に知識からだけでなく浅くも間接的でもない。「親指のマリア」は白石にだけ関心があったのでないことはハッキリしている。その「白石も(やはり)私」である。

④ まったく「カスリ」もしていない。わたしの創作以前の矢代作で噂でも聞いていたら読んでいたか、読まない。以後ならば。読まない。時代小説の人が白石を書いた噂は聞いたが、むろん読まなかった。

ついでながら、わたしは日本浪漫主義にもヤスダ・ヨジュウロウにも、少年の昔から関心よりも、不感心に徹してきたのを付け加えておく。

 

* 筆致から察して、この親戚でもある藤原さんはわたしのホームページ「私語」を読んでいるかと窺い知れる。「湖の本」も差し上げていて、ホームページもメールアドレスも御存じと思う。(わたしは知らない。)直接に率直にわたしあてにメールを寄越して下さればことはもっと明瞭になるのにと思う。「短歌」に関心深く歌誌「地中海」に属していたとも妻から聞かされている。わたしの歌集や詩歌感想も差し上げてある。

22014 6・27 152

 

 

* 思いがけず早くにやすめなかった。

ついでに原稿づくりに「誘惑」も読み進んで三分の一ほども。こまかに幾重にも仕掛けを掛けた創作であったなと思う。「隠しわざの読書」など無い。

2014 6・27 152

 

 

* 「選集②」初校の半分を要再校で戻せるようにした。前付け、後付けも大方用意した。明日には手紙を添えて送り返すと、「選集②」の仕事はひたすら長編「風の奏で」の初校になる。ふたりの「徳子」に寄り添って行くのだ。「平家物語」はどう出来ていったか、「平曲」は帯同してどう成っていったか。その追究に現代の悩ましくも優しい物語が抱き合うように縺れながら相聞えのうたを奏でる。よくこんなものが書けたなと思う。思えば思えば医学書院時代というのは、わたしには不可欠の体験であった、創作の多くがそこに芽生えていた。「清経入水」も「秘色」も「みごもりの湖」も「畜生塚」も「慈子」も「初恋」も「風の奏で」も、みんな、そうだ。

「選集②」の巻頭には、長谷川泉さんにもらった色紙「

2014 6・30 152

 

 

* 霞んだ目で「誘惑」を読み進んだ。京都に育ての両親を置いたままの語り手幸田は、四十年生きてきたと言うている。今のわたしはそれから三十八年も生きてきた。作に表れている父も母も(叔母も)東京へ出て来て、父は九十一で、母は九十六で死んだ。実の父も死んだ、叔母も九十三で死んだ。なんというむごいことであったかとわたしは嘔吐を催しそうに哀しく苦しく恥ずかしい。

しんどい作やなにあとわたしは半ば泣いてしまっている。作家生活はほぼ順調だったが、独りの生まれたものとしては、厳しい辛い日々を背負っていたと気がつく。今にして気がつく。

2014 7・1 153

 

 

* 米倉涼子の「黒い蟻」(清張原作)を見ていたが、途中で二回へ戻った。小説「誘惑」を読み進んだ。はるかに大げさなテレビ映画より楽しめた。この小説の「繪屋槇子」は、何人もの往時のヒロインたちをうち重ねながら、わたしにやっと書けた初めての「女」のように思われる。「たづねびと」を尋ねるようにわたしは何人ものヒロインたちを生み育て「身内」として愛してきた。そのために小説を書いてきたとさえ思う。しょせんわたしは文壇の作家ではない、わたしが読みたいものだけを書き、そのヒロインたたちを愛してきた、それだけの創作者にすぎない。私家版からはじめ、私家版の「湖の本」を二十八年120巻もつづけ、そしてまた私家版の「選集」を紙の墓のように建立し始めている。

2014 7・2 153

 

 

* 「原稿・雲居寺跡」を四百字用紙で36枚書き写したが、先はまだ遠そう。咲きに何事がどのように書かれていたのか、まだ思い起こせない。場所は今はまさしく雲居寺の山居で、人はと言うと、物語っている「兵衛」、「師の御房」、その縁者である「茅野どの」という娘、それに「源宰相様」と呼ばれている当人かその子息であるかの「経資」。名前だけならもう二三表れていて、そのうちに粟田の僧正様と呼ばれている「慈円」がある。泉涌寺の名も出ていて、およそどういう世間であるかはわたしには見当がつく、けれど、物語の中味も行方もまだ見えない。この世界へは、二十世紀末の「わたくし」が、タイムスリップし「兵衛」という青年に身をかえてて鎌倉時代に紛れ込んでいる。

1966年頃の文壇に、「タイムスリップ」といった怪奇な(太宰賞選者の言葉)小説世界は、地を払ってほぼ皆無と謂えたのである。おうおう、いまでこそはまるで氾濫の気味であるが。この手法は、すくなくも「清経入水」以降当分のあいだ、わたくし秦恒平の専売の手法だった。ひとは多くゆびさして「幻想」と謂いもし評もしたが、さ、どんなものであったろう。

 

* 九時だが、目はまったく霞んでいる。もう機械から離れ、階下で可能なら「風の奏で」を校正し、何冊か読書し、休むとしよう。 2014 7・3 153

 

 

* もし佳い表題がつくなら、書いてきた小説の一つは、脱稿へ近づけていいところへ来ている。いまのところ絶好題が見つからない。慌てずに思案している。どうにもせよ、この作は、安易に公表しかねる。性愛一致の極を書いているのだから、たいていの読者は卒倒されかねない。湖の本での公表をトバして、いきなり150部限定の選集にいれることも考えている。ともあれ、仕上げてしまわねばならぬ。

 

* 久保田千壽を買ってきた。その勢いで、仕事部屋、ソファの半分を占領していた山積みの何やら不明のものどもを整理し、辛うじて三分の一までに押しのけた。おかげで、在所不明を案じていた初出プリントの山が現れ出た。随筆選の継続に道が広がった。

それにしても、ものはむやみに捨てられない。癇癪を起こしてエイなどとやっつけると取り返しの付かない微妙な心覚えのメモや資料が無くなってしまう。そんなもの、いつ役に立つかと云えばそれまでだが、そんなふとしたメモに自分の命の匂いがのこっている。生きているとは、それらとも共に生きていたのだ。いまも、だ。「櫻の時代」の後ろの私語を結んで、書いて置いた。

☆ 小説の創作は容易ではない。「正しい手がかりを拾いあげる前に、無数の些末な材料を集めることの大切さ  だがこの拾いあげが、いかにむずかしいことか--真の主題を露わにすることが。  余計な事実が多すぎるのだ。」 グレアム・グリーンが言う通りの苦労をいまもわたしは実感している。堪えねばならぬ     2014.01.29

呻くしかない。そして、いつもいつも、さがしもの。ばかげてるか? いいや。小説家の仕事は、それなのだ。

 

* ほとほと眼が霞んで潤んで。まるで裸眼で潜水しているようだ。十一時。もう休む。

2014 7・5 153

 

 

* 歯医者の帰り、江古田の「中華家族」で、妻は食事し、わたしはマオタイをたっぷり二杯。「風の奏で」好調に校正、進んでいる。よくこんな作を遂げておいたと嬉しくなる。ほとんどどんなところも直したいと思わない。小説家が小説で平家物語の成り立ちを現代の思い入れも充分に書ききれば、こんなものだ。吉川英治の「新平家物語」などと、モノがちがう。平家物語に関心深い読者に出会いたい。湖の本で在庫があります。

2014 7・7 153

 

 

* 山積みのものの下から中から、半途に終えたまま、あるいは書き上げたに等しい小説が、今もデータ化している「原稿・雲居寺跡」の十倍にも成ろう程、原稿用紙のママで立ち現れるのにびっくりしている。大方は、「畜生塚」や「清経入水」より以前の習作期のものか。「資時出家」と題したモノもある。あきらかに、前か後か「清経入水」と併行した発想のようだ。数え上げると二十篇ぐらいはある。いくら有っても、今は読み返して活かせるものは生かすという働きも出来ない、時間が無い。せめて電子化しておけると息を吹き返すモノも有るに相違ないが。

2014 7・7 153

 

 

* 朝一番に、機械が煮えるのを待ちながら(じつにじつに立ち上がりが悠長なのである。そんなことは構わない、待てばいいのだから。目覚めてくれれば、夜終えるまで明けておくだけ。)「ラ・ロシュフコーの箴言集」正篇の結びにもあたる長文(多項に比べれば)を読んだ、これはなかなかのもので、落ち着いて再読も三毒もしてみる価値が有りげである。「こんなにたくさんな(と、503もの箴言を云うている。)「見かけ倒しの美徳の虚偽性について語ってきた以上、死の蔑視の虚偽性についても一言あって然るべきだろう」とラ・ロシュフコーはその「504」を書きだしている。機械が目を覚ますのを待ちながらざあっと一度通読しただけだが、強い印象を覚えた。

いますぐは気ぜわしいが、この長めの一文は紹介しともに思案し考察するに堪えていそうな重みを感じさせる。「死」について何らかの思いを日頃抱いている人なら、この「箴言」でないなら「言及」には関心を寄せていいだろう。

2014 7・8 153

 

 

* 製作実費・送料を支払ってでも「選集」第一巻に残りがあれば是非にという希望が届いて、否をこの数日に五、六册も送った。今後も継続して頼みますと、有り難い愛読者の声に励まされている。

昨日入稿した第二巻の跋のアタマだけを参考までに挙げておく。第四巻まで「構成作」を決めてある。第二巻は、たぶん、八月末か九月初めにはと目論んでいる。まだ慎重に再校しなくてはならない。

 

* 秦恒平選集 第二巻刊行に際して

第一巻  「みごもりの湖」「秘色」「三輪山」 いずれも奈良・近江・大和の上古と現代を馳せめぐり、人が、人に、死なれ・死なせて生きて行く意味を問うています。

第二巻  「清経入水」「雲居寺跡= 初戀」「風の奏で= 寂光平家」「繪巻」 太宰治賞作をはじめ、いずれも、保元・平家物語の時代と現代とをうち重ねながら、秦恒平ならではの平清経、建礼門院、後白河院、生仏、また待賢門院などを書き切り、「平家物語(平曲)の成立」自体を「主人公」かのように追究、人と生まれた死生の深淵を表現しました。

第三巻予定  「畜生塚」「慈子」「隠沼」「隠水の」「月皓く」「誘惑」 独自の「島」の思想に基づき、「真の身内とは何か」を追い求め問い極める代表的な「愛と倫理」の小説集です。

第四巻予定  「蝶の皿」「廬山」「青井戸」「閨秀」「墨牡丹」「華厳」 美と人間とを感動と批評豊かに描いて大きな賞賛をえました。文学が音楽を奏でた「美しい」美術小説集です。

小説集およそ二十巻、著者らの健康が及ぶかぎり心籠めて刊行しつづけて参ります。

 

* 小説の新作を、また、選集にかかりきりになるは心配との声もあろう。じつは、これにもまこと余儀ない事情が迫っていて、なんとかなんとかせめて十巻は纏めておきたい強い理由がある。ご勘弁願いたい。むろん、「仕事」は鋭意いろいろに進めて滞らせない覚悟でいます。

2014 7・11 153

 

 

☆ 社会に、お仕事に、

心魅かれる藝術・藝能に、そして日々の生活に 常に真摯に向き合い続けるエネルギー ただただ敬服……退職して3ヶ月「淀んでいる」自らに比しても……   世田谷  米

 

* なんの。日照りに懼れて外へも出られず、狭い場所での仕事に疲れて数時間も寝入ってしまったテイタラク。そしてまた「風の奏で」の初校に励み、仙台への旅、現代と平家との二人の徳子、後白河院の凄み、そして阿波内侍と源資時らの時空を超えた語らいに我ながら吸い込まれていた。原善君がこの作を論じていた抜き刷りをみつけた。どう読んでくれていたか、読んでみたくなった。今度の「選集」第二巻で大きくひとまとめに括った小説が、あらためてどう読まれるか。「秦さんの小説は、むずかしい。むずかしい。むずかしい」と言われ続けたその焦点に固まっているのが「雲居寺跡」と「風の奏で」だろう。しかし、もしどれかを自分で代表作とえらべと云われたら容易に承諾しないけれども、胸の奥ではこのへんを想うのではふるまいか。

見つけ出した「原稿・雲居寺跡」の手書き原稿を電子化しているまだ先の見えぬ徒中だが、「風の奏で」にはやはりその先を窺わせる物語が書かれていた。この「原稿」を傍らに、わたしの創作世界の展開や手法や祈願のようなモノを適確に解析してくれる若い力有る読者・研究者が欲しい。原作『斎王譜』を『慈子』と改題したのは結果的にこの作がひろく愛される理由ともなった。それからすれば『風の奏で』の副題を「寂光平家」としてきたのを、はっきりと「徳子」にしてもよかった。それほどにわたしは建礼門院を書きたかったのだが、その副題では後白河院はじめ他の大きな存在の影を隠してしまいかねないのをわたしは惜しんだ。

 

* 「風の奏で」初校を終えた。明日送り返せば、すぐ再校分三作に取り付く。

2014 7・12 153

 

 

* 選集④の原稿読みにかかり始めた。まっさきに、清朝精磁の名品「蝶の皿」を。「美しい」ということでは、この巻の「選集」的な結晶度は高い。来年早めの刊行をわたし自身楽しみにしている。 2014 7・12 153

 

 

* 明日には、はや、「畜生塚」「滋子」「隠沼」「隠水の」「誘惑」とつづく「選集③」の組み上げゲラが届くらしい。津浪を受ける感じだが、この津浪はがっしり立ち向かって送り返さねばならない。その立ち向かう力をも得て新たな創作や新しい仕事へも、また立ち向かう。もうわたしにはそれしか無く、それのある幸せを満喫したい。所詮は無に帰するだけのすさびと承知して。

いつか太陽が死に、地球も。そんな地球の寿命よりはるかに早く人類滅亡はきっと来る。

さらにそれより遙か早く早くに日本はうち滅ぼされるだろう、いまのように驕った誤った政治とそれに無関心な国民のままならば。 2014 7・15 153

 

 

* 十時過ぎ。歯の痛みの疼き出す前に今夜はもう機械を伏せよう。校正しながら、睡くなれば寝てしまおう。「選集②」の責了、「湖の本121」の編輯と入稿、「選集④」原稿読み。それらに勤しむ一方で、新しい小説を仕上げて行き、また草稿段階で放置されている過去の小説の電子データ化をもすすめておきたい。しておきたい仕事がせめぎあうように目のすぐ先へ波立ってきている。生き急いでいるなあと危うい気がする。

2014 7・15 153

 

 

*「原稿・雲居寺跡」 すっかり忘れていた、思いがけない鎌倉時代の腹の中へまで踏み込んでいて、書き写しながら吃驚。いま語り手は、鎌倉の将軍職を皇子将軍に譲って都へ帰ってきたもと二代の公家将軍頼嗣を相手に縷々物語り続けている。このさきどうなる話なのか、作者のわたし自身が行方を推し測りかねている。

ついで、これはもう惹き込まれて「蝶の皿」を読み進んだ。文字どおりの佳境へ入って行く。こんな作をようあんな若い年齢で書けたと思い、若ければこそ書けたとも思う。今はりっぱな作家、当時は婦人公論の編集者だった梅原稜子さんが、仲良しの友だちと、さる温泉につかったまま飽かずこの「蝶の皿」を話し合いましたと後に聴いた。「新潮」に出したのが昭和四十四年九月号。梅原さんともそのお友達とも、いまも親しくしている。

 

* 「選集」に署名や識字を望まれる方があるが、これはご勘弁願う、折角美しく出来た本をかな釘流でただ汚すようなもの。講演に呼ばれるようなときも、字は書きませんよと先に断っている。湖の本にぜひと頼まれても、ボールペンで済ませている。「選集」造本時の打ち合わせでも、署名用和紙一丁を巻頭に入れるのはわたしから断ってわざと省いた。

識字印なら、好みの幾つもをもっている。それで宜しければ、「生涯在酒」とでも「念々死去」とでも「宗遠」とでも「有即齋」とでも、捺しましょう。

2014 7・16 153

 

 

* ドッカーンと「選集③」が組み上がってきた。これで今年内刊行の大仕事がみな軌道に乗った。拙速に流れず心籠めて刊行して行きたい。「選集②」の装幀・造本の用意も今朝届いた。一心に校正し校了あるのみ。

「湖の本121」の入稿用意も着々進めて行く。

かかっている新作少なくも二つのうち一つの表題は、はなからズバリと決めてある。もう一つの方は仮題のまま運んできたが、爆発的な好い表題が欲しいと思案に暮れている。

2014 7・17 153

 

 

* 忙しく忙しく生きている、暮らしている人は、多い。ささえるのは心身の健康だけだ、お元気ですかといつも胸の内で声を掛けながら、わたしもまことに忙しい。褒められたことではない。黙然、陶淵明を慕う。はたして今代、「義風都(すべ)て隔たらず」と謂えるか。哀しいかな、言えぬ。

「これ余(わ)れ何為(す)る者ぞ。勉励して (こ)の役(えき)従ふ。一形 制せらるる有るに似るも、素襟 易(か)ふ可からず。園田 日々に夢想す、安(いづく)んぞ久しく離析するを得んや。終(つひ)に懐(おも)ふは帰舟にあり、諒(まこと)なる哉 霜柏を宜(よろ)しとするは。」

陶淵明には自ら耕す田畑があり園林があった。それに同じいものはわたしには「書く」ことだけだ。

2014 7・17 153

 

 

* 「蝶の皿」に打ちこんでいた。わが作ながら魅されていた。息をのんでいた。おもえば自己愛の極ではあるが、わたしも読書家で批評家であり、作品の有無も是非も分かる気でいる。そうでなくては小説など書けない。こういう作を作家生活にはいる以前にすでに書いていた。この作があったればこそ、谷崎松子夫人はすばらしい長い巻紙のお便りを下さった。

いま思えば、この作では二つの思いで深いわらい話がある。先のは。この作を三冊目の私家版『齋王譜』の巻頭に入れておいて、その後にこの「蝶の皿」を原稿にして「小説新潮」の編集長へ郵送した。びっくりするほど早くにいっそ鄭重な返事があり、この作は本紙によりももっとふさわしい場があろうと思いますと。その相応しい場をとくにわたしは思い寄れないまま、その返事を有り難いと感じた。そして、これが、太宰賞直後の事実上受賞第一作の体で「新潮」九月号に当時の新人賞作家たちのさくと並んで出たのだった。何度も想いだしては語ってきたことだが、黒井千次氏、坂上弘氏ら、十人ほどの作が特輯されたなかで、田の殆ど全部が身辺の日常を書いた私小説風であった。わたしの「蝶の皿」だけが異様に耽美・幻想の世界を描いていた。わたしは、自分がとてもかかる文壇では棲息できない片端者に思われて、じつに肩身狭い孤立感にとりつかれた。「作家さよなら」と本気で尻込みした。それほど、異様にわたしの小説は他の人のそれらと懸け離れていた。むろんわたしは自分の作と作品とに自負があった。だれがこうも書けるものかと実は嗤っていた。嗤いながらなんとも心細かったのである。

さいわいこの作は「新潮」編集長にも担当の小島喜久江さんにも文句なく支持されていた。中村光夫先生が、あれでいいのだと褒めてられましたとも人づてに聞いたし、読者の佳い反響も届いてきた。危うくわたしは、少なくも半ばは立ち直れた。だが、その先々はしんどかった。「現代の怪奇小説」というけっして否認ではなかった批評にも縮こまっていた、わたしは。

2014 7・17 153

 

 

* 今晩は、仕掛かりの、「も一つ」の方のやはりややこしい小説にしんみりと「手」を掛けて過ごした。二百頁の「湖の本」一巻はわたしの電子化原稿でほぼ95頁ほどで出来ている。その勘定で、この小説はもう131頁になっていて、まだ数十頁ほども書き足さねばならないだろう。何をどんなふうに書き足すのか狙いはついている。しかしチョコマカとは書いてはならない。場合によってはバッサリ切り取らねばならないかも知れない。いまのところは、仮題のまま、「ある寓話 または猥褻という無意味」となっている。この題のままで行くか、思案し切れていない。この吉野東作と名乗る喜寿すぎた男の「ヰタセクスアリス」は、あるいは作家・秦恒平の文学生涯にまんまと泥を被せてしまうのかも知れない。ままよ、と、居直る気持ちは出来てある。何と云っても仕上げてしまいたい。ただ焦りたくはない。

2014 7・17 153

 

 

* 十時過ぎて、ほんとうに良い意味での凄いメール、長いメールを受け取った。心より共感し共鳴し敬意をこめて読み終えた。大勢の人にもどうぞ心して読んで頂きたいと切望する。

じつは「カティンの森」のことは、ペン会員のエッセイを感銘深く読んでいて、いくらか識っていた。関連の映像や言及にも出会っていた。今日の日本人なればこそ、「これ」は一人残らずわが体験の如くに反芻されていいこととわたしも信じている。

じつは今日、しめきり間際の頼まれ原稿に、間に合わせなのだが、下記の短文を送った。戴いたメールの内容と交響する一言及似すぎないが、深いところで響き合う懼れとして先に、読んでおいて頂ければ。

 

* 日本の明日

大竹しのぶが主演の映画『一枚のはがき』を観て、胸のつまる辛さに堪えていた。没落農家の長男に嫁いで夫は応召そして戦死、老いた両親に請われて慣習のママ夫の弟と再婚し、それもまた応召し戦死。老父は死に老母は自殺。残された嫁は、村の世話役から妾になれと強いられていた。大竹のうまさに凄みがあった。

どうかして、こんなことは繰り返したくない、強慾な利権「違憲」政治にこんな悲劇をむざむざ繰り返させてはならない。こんど、こういう事が起きれば、悲劇の度は地獄に同じいだろう。

何度でも繰り返し言うておく。政治と外交と軍事をこんど一度び謬れば、日本列島が、沖縄は台湾に、九州四国は朝鮮韓国に、西日本は中国に、東日本はアメリカに、北海道はロシアに「分け取り」にされ、「日本」という国家は失せかねない。まさかそんなと馬鹿嗤いはよも成るまいと、わたしは真実予感している。そんなハメに万に一つも我々の「日本」を壊滅させてはならない。 秦恒平(作家)

 

☆ カティンの森

お元気ですか、みづうみ。昨夜、とうとうみづうみの登場する夢をみてしまいました。

 

蒸し暑さに体調をくずされていないか心配です。遅くなってしまいましたが、先週「湖の本」と「選集第一巻」の心ばかりの金額をお振り込みさせていただいております。

 

(中略)

わたくしは日常しなければならない仕事以外は、読んで書いている時間を何よりの幸せと思って暮らしています。今の日本に尋常でない危機感を抱いているので、よけいに早く自分の書きたいことを色々書いてしまわなければと焦っています。(ただし読んでくれるひとがいませんの。)

 

本日は近況報告かねての、映画のつたない感想メールなど、送らせていただきます。

 

カティンの森の惨劇については、歴史にお詳しいみづうみに今さら申し上げるまでもないことですが、みづうみが「戦場のピアニスト」について書いていらしたので、同じ撮影スタッフの別の映画、アンジェイ・ワイダ監督の「カティンの森」のことをみづうみに書きたくなりました。

みづうみがこの映画について言及している文章を読んだことがありませんので、たぶんみづうみはまだご覧ではないと思って書きます。もしすでにご存知でしたら、釈迦に説法でごめんなさい。

 

「戦場のピアニスト」も戦争映画の名作の中に入るでしょうけれど、「カティンの森」を観てしまった後では、所詮作り物だなあと思います。アンジェイ・ワイダ監督は「映画というのは、あの時何があったかを記録して、見せる手段である」と考えていたそうですが、私には観る前と観た後では、人生が違ったものになる映画でした。あまりの、あまりのことに声を失い、一滴の涙も出ない。そんな映画でした。

私はこの映画を岩波ホールで観なかったことを幸いに思います。もし大画面で観ていたら、間違いなくラストシークエンスで気を失って救急車のお世話になっていたと思います。

 

何気なくつけた深夜テレビで放映されていました。映画の途中から観始め、画面から伝わる異様な緊迫感に釘付けになり、今観ているものがカティンの森についての映画と気づいたときには、手も足も出ない状態で全身固まっていました。

そして、私はこの映画を結局最後まで見届けることができませんでした。これ以上観ていたら頭がおかしくなる。正気を失いそうで耐えられなくてテレビを消したのです。映画の終盤の言語を絶した凄まじさ。私はありありと後頭部に銃撃を受けたような脳髄の痺れを感じました。この映画を観る前には決して感じることのなかった痺れの感覚は、今もまだ私の体内に残っています。

その夜は寝つけるとは思えなかったし、うとうとしてもひどくうなされるのがわかっていたので、海外旅行用にもらっていた睡眠薬を飲んで寝ました。

誤解のないようにいいますが、この映画は拷問シーンがあったり、生首が飛び手足が千切れ血しぶきが噴き出すというような、目を覆いたくなる残虐シーンがあるわけではないのです。その程度の怖さなら目を閉じて通りすぎるのを待てばいい。一切の感傷を削ぎ落として、淡々と静かに凄惨の極みが進行するのです。今まで生きてきてこれほどまでに恐ろしい映画を観たことがありません。

 

この映画は名画だ、いや映画的カタルシスがないなど、さまざまに批評されているようですが、私にはこの映画は、なまじの批評など入る余地のない、映画という形をした映画を超えた何かでした。

おそらくカティンの森という映画は、私の「経験」になったのだと思います。たとえ一部分にせよ、カティンの森の真実にたしかに触れた。なまなましく経験させられた、そう思います。登場人物とともに、戦火に逃げまどい、スターリンとヒットラーに祖国を分割占領され、最愛のひとを喪い、挙げ句後頭部に銃弾を受けジェノサイドの犠牲者となる。つまり絶対にしたくない物凄い「経験」を強いられたのです。

この映画を撮ったアンジェイ・ワイダ監督の入魂の、その覚悟のさまはいやでもわかりました。カティンの森で殺された将校とその遺族たちが、アンジェイ・ワイダ監督に憑依していたのではないかと思うほどです。アンジェイ・ワイダ監督はこの映画は殆ど実話を基にしていると言っていますが、記録映画では絶対に到達し得ない神か悪魔の領域に達していました。

後でこの映画についての解説を読み、彼の製作動機もわかりました。アンジェイ・ワイダ監督の両親に捧げられた映画なのです。彼の父親はカティンの森で虐殺されたヤツク・ワイダ大尉であり、母親は夫の生存を信じて、待って待ち続けた妻でした。

構想五十年、アンジェイ・ワイダ監督八十歳でようやく完成させることの出来た生涯の集大成です。カティンの森の真実を語らずして死ぬことは絶対に出来ない、事件の真相を闇に葬ることは許さないという執念の成し遂げた、戦争映画の極北でありましょう。

 

アンジェイ・ワイダ監督は、「この映画が映し出すのは、痛いほど残酷な現実である。主人公は殺された将校たちではない。男たちの帰還を待つ女たちである」「特に、多くの女性の話を書くことが大事だった」と述べています。

男の生存を信じて必死に待ち続ける女の愛の描かれることなしには、カティンの森という歴史的犯罪の真実をあぶりだすことは不可能だったでしょう。女の「愛」を打ち砕いたカティンの森の虐殺を記録し尽くし、「正視」させることこそ、アンジェイ・ワイダ監督がこの作品で目指したことであったと思います。

 

登場する主な女性は三人、夫の帰還を待つ大将夫人とアンナ、ワルシャワ蜂起の生き残りのアグニェシュカ。

登場する女たちは、深く愛するがゆえに、男の死を信じないし断固受け入れない、そして愛するものを殺した存在を赦さないのです。

おそらくアンジェイ・ワイダ監督の母親がモデルになっているだろう女たちは、夫の生還を信じて待ち続けました。彼女たちは絶望に屈することなく、ひたすら待ち続けます。待つことは愛です。この世界に、夫が生きて帰ってくると信じる以上に深い女の愛がどこにあるでしょう。

 

大将夫人ルジャは、ドイツ占領下のクラクフでドイツ情報機関に夫の死を知らされます。そこで大将夫人としてソビエトを非難する声明を読み上げるように強要され拒否します。勇気は愛からしか生まれません。だから、彼女はどんな政治的圧力にも敢然と屈しないのです。しかし、別室に連行されてカティンの記録映像をみせられた帰路に、ついにはりつめていたものが切れて、彼女は道端で思わず崩れ落ちます。ナチスとソ連の罪のなすり合い。彼女はどちらも赦さない。戦後、ソ連の支配下にカティンの犯罪が封印されるポーランドの街を、孤独に彷徨い歩く彼女の壊れた姿は救いようがありません。

 

アンジェイ大尉の妻アンナはソ連の占領地域にいました。捕虜の妻という身分のために、クラクフに戻れない。国境を越えられません。そんなアンナの危機に赤軍将校のポポフ大尉が、ある秘密を打ち明け、自分と偽装結婚すれば、KGBの追求を逃れられると助けを出します。アンナは夫の死を認めず、私は結婚しているからそれはできないと拒絶し通します。遂に夫の友人から夫の死を知らされて、アンナは「アンジェイは死んだ」と義母に(大学教授の義父はナチスの収容所で死亡)ひと言い放ち、自分の部屋に入った瞬間卒倒するのです。

 

兄の墓碑に「1940年4月。カティンにて非業の死」と刻んだアグニェシュカは逮捕され、カティンはナチスの犯罪であると認めろと恫喝されます。ポーランド政府人民委員に「生きるのが嫌か」と脅されると、彼女は怯むことなく「私はドイツと五年間闘った。その私を五分で説得できるとでも」「教えて、私はどこの国にいるの?」と答えます。そしてすぐに、彼女は死の地下室へと連行されていきます。地下に向かう階段をおりながら、彼女は数秒立ち止まりこの世の見納めのように頭上を見上げ、そして二度と地上に戻ることはありませんでした。彼女はソ連の傀儡政府と折り合いをつけている姉に向かって「私は殺される側の人間とともにいたい。殺す側ではなく」と言ったとおりの道を選びました。

 

そして映画は終盤クライマックスシーンに突入していきます。一縷の望みをつないでひたすら「男たちの帰還を待つ女たち」の愛は、カティンの森で戦慄の結末を迎えます。映画がこのような終わり方をするとは、映画という娯楽に馴らされていた観客には想像もつかないことです。

 

戦後、アンナに秘密裏に届けられた夫アンジェイ大尉の最後の日記にはこう記されていました。

「5時。何か変だ。囚人用自動車で移動。森に運ばれる。保養地のような場所。持ち物検査。結婚指輪は発見されず。ベルトとナイフを取られる。次に時計。8時30分を指していた。ポーランド時間で6時30分。我々はどうなる? 」

 

大将たち高位の軍人は名前確認のあとに室内で、アンジェイ大尉、アグニェシュカの兄ピョトル中尉のような将校は名前も確認されず森の中で殺されていきます。彼らは自分がなぜ殺されるかすらわからないまま射殺されます。

ソ連の兵士たちが将校を一人ずつ車からひきずりだし、後ろ手にロシア結びで縛り、数人で動かぬようにおさえつけ、抵抗の叫び声をあげさせる猶予もなく後頭部に一発銃弾を打ち込む。即死。血を洗い流す。死体を穴に放り込む。人間を扱う処刑ではなく、家畜の屠殺そのものの手順で次々と処理していきます。その見事に機械的な、ベルトコンベアーのような、手際のいい作業と化した殺戮が、静かに延々と積み重ねられていきます。

あの美しい女たちが命がけで愛した男たち、大将夫人にとって、アンナにとって、アグニェシュカにとって人生のすべてであった、彼女たちの気高いまでの愛に値した存在、かけがえのないすぐれた男たちが、こんな人間の尊厳のかけらもない凶暴な力で、十把一絡げに一人数十秒で殺処分されていくさまに肌が粟立ちます。人間をこのように死なせてしまう衝撃。屠殺という酸鼻な地獄図。

さらに、見続けるうちに、一度も表情を映されることのない殺害する側の兵士たちへの同情を抑えられなくなってくるのが不思議です。殺されるという最悪の経験は、何の慰めにもなりませんが、それでもただ一度で済みます。ですが、殺すという体験は何百回でも出来る。ソ連兵士の中で、降伏した無抵抗な捕虜を望んで殺した人間がいたとは思えないのです。殺すことを拒めば、自分も同じように殺されるから仕方なく殺すしかなかった。殺害を強いられた彼らも、「罪を赦したまえ」と祈って殺されていったポーランド将校と同じ祈りを、弾丸を打ち込むたびに切実に祈っていたであろうと思えてくるのです。

 

映画の終盤十五分とも三十分ともいわれる映像の中で(十分ほどは目を瞠いていましたが、最後まで見届けられなかったため長さがわかりません)どれだけの数の男が殺されていくのか想像してみてください。脳漿の飛び散るような残虐な映像は一つもない。でも殺される将校たちの、身に憶えのない理由で殺害されてゆく、そのあまりに人間的な恐怖の顔と思わず囁かれる祈りの言葉に胸がかきむしられます。そして規則的な銃声の音が、静まりかえった深い森に途切れることなく続くのです。一万数千人がこのようにして屠られていきました。銃声の度に観ている私の後頭部にも鈍い音がずきんと響き、喉がからからになり頭が痺れてきます。

 

この迫真の、殺戮につぐ殺戮の場面こそ、アンジェイ・ワイダ監督のそれまでの生涯の、抑えに抑えていた憤怒、瞋恚の爆発ではなかったかと思います。

このクライマックスシーンには徹底して打ちのめされます。平気で見通せる人間がいるとは思えない。もう人間なんかでありたくないと呻くしかないのです。

 

私の逃げ出した、見尽くせなかった映画の結末はこの夥しい殺処分のまま暗転。まったくの無音で終わるそうです。カティンの森の殺戮地獄のあとに流せる音楽など、世界のどこにもないと訴えるように。

これはもはや映画の終わりかたではありません。一筋の光明もない。そもそも、アンジェイ・ワイダ監督は観客に感動してもらう商業的意図など微塵もなかったと思います。

アンジェイ・ワイダ監督は「カティンの森」で、このジェノサイドを見尽くせ、スターリンがポーランドに何をしたか、人間が人間に何をしたか、暴力がいかに愛の息の根を止めたのか。さあ直視しろ、正視しろ、徹してそう突きつけているのです。

 

スターリンはポーランド占領にあたり、武装解除したポーランド軍の兵士は解放し、将校のみを捕まえました。つまりカティンの森の虐殺は、ヒステリックな狂気の所業ではなく、最初から悪意をもって計画された大虐殺であったのです。

カティンの森について、ネットでわかりやすい記述を見つけましたので引用します。

 

1939年9月にナチス・ドイツとソ連の両方に侵攻されたポーランドは敗北し、武装解除されたポーランド軍将校インテリ民間人層・軍幹部がソ連軍の捕虜になり、強制収容所へ入れられそのまま全員消息不明となったのです。

当時のポーランド共和国の徴兵法で、大学卒の知識人は全員予備役将校とされ、戦時には自動的にポーランド軍将校として招集されることになっていました。

ポーランド軍将校のほぼ全員を捕虜にすれば、大学卒ポーランド人を全員逮捕したことに等しいことになり、将来ポーランドを再び植民地とする際に、まっさきに邪魔となる知識階級を根絶やしにする目的でスターリンがソ連赤軍に命令して実行された大量殺戮がカティンの森です。

 

彫刻家高田博厚は著作の中でスターリンについてこのように評価しています。まだ第二次大戦の結着していない時期でのことですが、あの時代に予見していた人間もいたのです。

「左であろうと右であろうと、スターリンという男はヒトラーが及びもつかない、たいへんな奴だよ。狂言の甘さの代りに、鉄みたいに冷たく堅い人間だよ……戦争に勝つ負けるの賭はともかく、辛抱強さで勝つ奴だ……」

宣戦布告もなしに侵略して捕虜にした、一万数千人の無抵抗で非武装のポーランド将校を、家畜のように屠り、あげくその罪をナチスになすりつけ、戦後この犯罪を糾弾もされず天罰もあたらず、絶大な権力を握ったまま死んだスターリン。スターリンとは、はたしていかなる悪魔であったのか。そしてそれを支えた世界の悪意の集積とはいかなるものであったか。

カティンの森がナチスの犯罪ではなく、スターリンの犯罪であることを戦時中に充分知りながら、その報告を握りつぶし、小国ポーランドを冷酷に見棄てたチャーチルやルーズベルトはスターリンよりましかもしれませんが、まったくの無実といえるのか。彼らは、多くのアグニェシュカのような死刑の加担者ではなかったのか。

 

松本清張は小悪は滅んでも巨悪は生き延びるという思想を持っていたと思いますが、世界には正真正銘の巨悪が残念ながら存在して、たぶん今この瞬間も世界を牛耳っています。国家が国民に牙を剥き巨悪に変貌したとき、いかにまともな個人が無力であるかを思うと絶望しかありません。

反ソ姿勢のためにポーランド政府に弾圧され続けたアンジェイ・ワイダ監督は、ガンジーとは方法がまるで違いますが、個人で巨悪に挑み続けた稀有の闘士です。五十年という長い年月、カティンの森の映画化を待ち続け、冷厳な映像でカティンの森という巨悪を描き切った彼の強靱な意志と勇気には驚嘆するしかありません。もし人間にまだ希望があるとすれば、アンジェイ・ワイダ監督のような闘士がこの世にいることです。それにしてもなんと凄まじいモーンニングワークが完成したことでしょうか。

 

映画「カティンの森」を「経験」したあとに、思い知らされるのは、この歴史的犯罪が決してよその国の過去の、特殊なホロコーストではない事実です。人間はカティンの森を度々繰り返してきました。ナチスは言うに及ばず、ポルポトや毛沢東のしたことはまったく同じことでした。今もガザで、スーダンで、世界中で、そして私の愛してやまない祖国「日本」でも、現在進行形で行われているではありませんか。

歴史を知っている私は、モスクワから囚人列車に乗せられるポーランド将校たちが、西の収容所に移送すると嘘をつかれて殺されにゆくのを知っていますから、映画を観ながら彼らに逃げてほしいと願いました。あと五十年先、百年先の日本の歴史を知る人間も同じように、今の日本人に向かって早く逃げろと、言うでしょう。

 

福島はキリングフィールドだ、アウシュビッツだと表現する人間がいます。現在の大半の日本人はそう告発する人物を、福島を差別する流言蜚語を垂れ流すけしからぬ輩と見るでしょう。報道はそう洗脳を続けます。風評被害の払拭をと言い続けます。

しかし、歴史はたぶん少数派の正しさを証明するのです。

福島で甲状腺癌の手術を受けた五十人ほどの子どもたちが過剰診療で手術されたという批判に対し、福島大学が大半がリンパ節や肺に転移していたもので決して過剰診療ではないと反論した、という小さな扱いの記事がありました。私はこのニュースにパニックにならない日本に戦慄をおぼえます。かわいそうに、癌が肺に転移した子どもたちは天寿を全うできるでしょうか。親は胸が張り裂けそうにちがいありません。

百万人に一人という確率の子どもの甲状腺癌が、実数を大幅に下回る政府発表でさえ五十人以上も発生していることが、アウトブレイクの異常事態であり、その上すでに転移しているというのは、チェルノブイリより被害の展開が早く、福島が居住してはならない環境であることを実証する以外の何ものでもありません。

政府はそんな場所に避難民を戻そうとしている。これは住民を死なせる、直接手を汚さず緩慢に殺すという別のかたちの「カティンの森」です。

他にも日本の未来を支える子ども世代を率先して被曝させる政策が強力に進められています。全国的に給食に福島などの汚染食材を使う。日本各地の学校に福島への修学旅行をよびかける等々。正気の沙汰とは思えないことばかり。

福島で起きている被害はやがて必ず東京でも、他の地域でも起きるでしょう。汚染瓦礫の広域焼却、埋め立て、セメントなどへの再利用、汚染食材の大量流通、汚染穀物や魚粉を使用した汚染肥料の全国流通、汚染車両の大量移動。海、地下水のとめどない天文学的数値の汚染。人間は放射性物質を解毒する技術をもっていませんから、深刻な汚染はこのまま日本全土に広がり続けます。

チェルノブイリでは厳重に禁止されていたことがすべて国策として進められています。全国民に最大限の被曝を強いる政策を実行している理由は一体どこにあるのか。少なくとも日本政府が日本民族の百年後の存続を目的としていないことだけは明らかなのです。

要するに、私たち日本人はモスクワからカティンへと囚人列車で運ばれつつある、処刑を知らされていない非武装無抵抗の捕虜なのです。大半の無関心な国民は、いざ処刑場についたときどんなことを思うでしょう。

 

以前から、原発事故のあとにはファシズムが来るといわれていました。その通りのことが猛烈な勢いで展開しています。秘密保護法からついに集団的自衛権まできてしまいました。常識で考えれば、武力の限定的使用などあり得ません。必要最小限の武力行使などしたら必ず戦争に負ける。勝とうとしたら常に不必要最大限の武力行使しかない。それは日本に最大級の壊滅のふりかかることと同じ結果をもたらすでしょう。

三年も経つのに、福島の原発事故に収束の道筋さえつけられない低能な日本政府が、目先の利益のために戦争を始めたら、泥沼のまま収拾がつかなくなるのは目に見えています。いたって強欲で何十倍も賢い強大な軍事大国相手に、ぬるい日本が勝てるはずがない。過去にルーズベルトやチャーチルがポーランドを見棄てたように、国連含めて日本を助けてくれる国などないでしょう。アメリカにとって、世界にとって、中国やロシアとの関係が日本より大切なのは自明のこと。どうせ独裁者に支配されるなら、せめて民草枯れたら、自分の権力も終わることくらいは理解できる頭脳の独裁者に支配されたかったと思います。

 

アンジェイ・ワイダ監督のこんな言葉は今の日本人への警鐘かもしれません。

 

歴史認識を持たない社会は、人の集合にすぎません。人の集合はその土地から追い出されるかもしれないし、民族としての存在をやめるかもしれません。今日、歴史の果たす役割は以前よりずっと小さくなっています。人間の意識に歴史が占める場所を取り戻すために戦わなくてはならないのです(映画パンフレット「カティンの森」事件より引用)

 

それから名もなきひとのツィートから。

 

日本でこれから起こることは、イラクもコソボもシリアもアフガンもパレスチナも、公園の散歩に思えるぐらいの大惨事だろうね。派手な音も戦車も登場しないけど、病院のベッドでのたうちまわる。

 

このツィートを風評を煽ると攻撃する人間は、東京大空襲や広島や長崎を予想していなかった戦前の人間と同じではないかと思います。少なくとも、福島の子どもにはこのツィートのようなことは始まっています。

 

おかしいのは世間ではなく、自分であってくれと時々祈ります。私の危機感が単なる被害妄想で終わるのならこんなに喜ばしいことはありません。

事態がここまできて、私に出来ることはあるのだろうかと暗澹たる思いで毎日生きています。せめて日本人が抵抗したと歴史に刻まなければ、汚名に亡びてしまう。

私にできる抵抗があるとしたら、日本語で書かれた最高の文藝を世界に遺しておくために、その能力のある人間を探し続けることだと思うようになりました。

しかし、みづうみも書いていらしたように、結局私に残された道も見届けることだけかもしれません。祖国と同胞、そして自分自身が亡びていくさまを正視することしかきっと出来ないのでしょう。せめていのちの最期の瞬間まで誇りをもって、日本人と日本語と日本の美しいものすべて、私の愛の終わりも直視していたいものです。

 

気の晴れない長ったらしい近況報告で、申し訳ございませんでした。

真実と格闘すること、それだけを糧として読んで書いて、愛するひとを愛し、犬猫雀ツバメを可愛がって、ベランダの植物に水をやりすぎて、たまにあと数年で亡びゆく技術の良質の着物を着て、日常生活をふつうに愛しんで過ごしております。まだなんとかそれが可能であることを感謝しつつ。    絣   白絣着てまぎれなく老いにけり  西島麦南

* 今の今、これほど真剣にこういうことを書いて読ませてくださる主婦がおられることに、わたしは敬愛の思いを深くする。、

* 本気で畏れ懼れねばならないことを、軽薄にごまかしごまかし日々を費消していていい今日ではない、われわれは、実に危険な現実を、一つは監理のじつは不可能と謂うべき事態の放射能危害から、今一つは、安倍「違憲」政権の傲慢と認識不足の好戦姿勢から、心底悟らねばいけない事態に面している。

もとより、人それぞれの生活と意欲と責任感からいろいろに為されねばならぬことながら、見誤ってはならぬことは断乎として見誤って成らないのである。わたしの健康では、身をつよく働かせて闘うことは難しいが、思って、感じて、書いて働くことは、書いて訴えることは出来る。根限り、それをして行きたい、上の「絣」さんとも連携して生きたいと思っている。なんら過剰なことをこの人もわたしも云っては居ない。

2014 7・17 153

 

 

* 灯を消したのが一時半。リーゼは服していたが、四時半に目が覚めてしまった。なまじ逆らわず電灯をつけ、また「繪巻」を相当量読み進んでから、思い立って、佐伯真一さんに頂いていた「建礼門院という悲劇」( 平成二十一年六月 門川学芸出版) 第一章「建礼門院の生涯」だけを読み通した。建礼門院についてはうんと早くに角田文衛先生の書かれたものがあり、多くを教えられた。その角田論攷を読んでいた頃に併行してわたしは平家物語ないし前後に関連して幾つも小説を書き、殊に、「風の奏で=寂光平家」(昭和五十四年「歴史と文学」夏・秋号)という長編小説ではわたしの「建礼門院像」を気を入れて彫琢していた。佐伯さんも御存じであった。

いままたわたしは「風の奏で」などの復刊と併行して、同じ々方面の新作に現に力を入れている。佐伯さんの上の新刊からも新たな何か示唆や刺戟が得られればと、明けの七時前まで熱心に、面白く記憶や認識等の整理を楽しんだ。

あれもしたい、これもしたいと手が何本も欲しいが、創作だけは自分の手と頭と性根とでしか成らない。

2014 7・20 153

 

 

* 火曜日はふつう郵便が少ない。三連休だったせいか、今日は郵便が多かった。郵便は、わたしのように外向きに逼塞している者には風の通う窓ににていて、きもちが花やぐ。

 

* 創刊五十年記念の俳誌「鷹」から堂々とした「季語別鷹俳句集」に加えて、創刊された亡き「藤田湘子の百句」また「飯島晴子の百句」を頂戴した。「鷹」はわたしが頼まれて原稿を書いた一等早かった俳誌で、日大小児科の同人先生から声をかけられた。利休のことを書いたと覚えている。まだ作家でもなかった。医学書院の編集者だった。湘子とはのちのち、お目に掛かりこそしないがいろいろに親しくものを書き交わしたりした。わたしは俳句は難しいと手も出さなかったのに、「鷹」「みそさざい」ほか何誌ともお付き合いがあり、有名な何人もの主宰さんらとお付き合いがあった。だから俳句は短歌に劣らず読むのはよく読んできた。すべてわたしは完全な門外漢の小説家で通したが、それゆえに心親しくしてもいただき懐かしく感じてきた。これで、わたしはけっこうお付き合いは下手でない。井口哲郎さんにそれを褒めて貰ったこともある。

 

* その一方でわたしは、東京新聞でながく「筆洗」を書いていた林さんによく「辛口」の秦さんと呼ばれていたが、「辛口」どころでない容赦ない批評やポレミックな言葉を「匿名」で打っているコラムに驚くほど多年に亘り書き続けてきた。そんな原稿も現れ出てきてビックリ仰天しているところ。

2014 7・22 153

 

 

☆ 秦 恒平 様

前略  このたびは、豪華限定本『秦恒平選集』ご恵与にあずかり、ありがとうございました。ご厚情に深く感謝いたします。

巻末の「創刊に際して」をまず拝読、「今生の終焉も・・」の感想は、数年年長の私にこそふさわしいと感じながら、医学書院以来の長い年月を振り返り見たことでした。

「みごもりの湖」「秘色」「三輪山」、あらためて、ゆっくりと読ませていただきます。年月を経た今、どのような風景が新しく私の眼前に展開するのか、それも楽しみの一点です。

井口哲郎氏の「説文」風の刻字、細川弘司氏の達者なべン画、いいですね。

表紙の紺地と金箔が、あか抜けていて、お酒落だと思いました。

御礼が遅くなったことをお詫びします。先日の抜き刷りでも触れたデッサン会仲間のグループ展に出品するなどのことがあり、雑事に追われておりました。

やがて猛暑の季節、ご自愛ください。 草々

2014年7 月19日   粂川光樹 (明治学院大名誉教授)

追伸 同封のものは、私が所属する銅版画工房の仲間内の落書き雑誌『工房万華鏡』に連載中のエッセイの一部です。馬鹿話ですが、笑っていただければ、と思ってお目にかけます。感想を頂戴するほどのものではないので、ご放念ください。

 

* 入社同期のよしみで口癖につい粂川君といってしまうが、その粂川さんが上の手紙に添えてくれたエッセイの一つが、このまま通過できない意義を帯びているので、関連の箇所だけ、ちょいと書き抜かせてもらう。

 

☆ 閑話休題(それはさておき)第十話 スケッチ・デッサン・クロッキ-

(前略)

すべての少年かそうであるように、少年の日の私は女の人の裸をぜひ見てみたいと思っていた。でも少年には無理な願いだ。魔法の透視眼鏡はないものかとニキビ面の十代は考えた。着衣を通して、中のヴィーナスがそのまま見える、そんな眼鏡だ。それを掛け、ドキドキして街を行く。女性の群と擦れちがう。お、見える、見える、というわけだが、もちろん、そんな眼鏡があるはずもなかった。

しかL 、日進月歩と言うべきか、以来半世紀以上が過ぎた今日に至って、私はようやくその不思議眼鏡を我が手に掴んだと感じている。そこに少年のドキドキがないのは致し方ないとして、なにしろ、とてもよく「見える、見える」だ。あそこにもここにもヴィーナスがいる。街が楽しい。電車が楽しい。そして実はと言えば、これもまた、幾らかはリン版画工房のお陰なのである。だが、万華鏡ならぬこの不埒眼鍍のことは、この文の最後で物語ることにしよう。

(中略)

閑話休題(それはさておき)、冒頭で触れた裸体透視のことに話を戻そう。リン版画工房にお世話になって、私はすでに10年を越えた。だが、なかなか思うような銅版が彫れない。下手である。なぜだろう。才能がないのか。それはそうでも、そう思いたくはない。やはり絵の基礎が出来ていないのが原因だ。その部分を怠っているからだろう。それをしみじみ悟ったのは、三年ばかり前だった。以来、改めて描画の練習を始めた。日課として毎日ともかく一枚は「何か」を描くことに決め、中断していたヌードデッサンも再開した。今は毎月計2 回、固定ポーズと、ムーヴィング・クロッキーの会に出て、勉強している。その効果は版画の上にまだ現れないが、自分の中ではいくらか手応えを感じるようになっている。手応えの一つは、人物の裸の線がどうやら掴めるように思えることだ。着衣の男女を見る。すると、その着衣を内側から支えている、骨格や肉付きの様子も透けて見えるようになって来た。

「お、見える、見える」

である。このことを女房に話すと、

「ああた、それは幻覚ですよ。いよいよね」

と言った。.彼女によれば、これは最近注目を浴びている「DLB (レビ-小体型認知症)」というものだそうである。

「何? でえ・、える、べえだと? 馬鹿言うな」

でも、こういう認知症なら悪くない。もっと進行してもいい。私としては、桃源郷をさ迷う気分の日々である。

 

* 粂川さんは東大出の、謹厳な日本上代学の一権威であり、漱石「明暗」未完の続編を書いた小説家でもある。さらに挿繪も描き銅版画も彫る。そういう人の、これは、たんなる笑い話ではないエッセイらしいのでこう書き出してみた。

じつは同様の話題で先日も、わが書きかけの小説がらみに上の述懐と似た、いやもっと徹底した実感をしゃべってしまって妻と秦建日子とに大いにわらわれ軽蔑されてしまったのである。

わたしは、と謂うのは避けておくが、いましも「ヰタセクスアリス」を物語っている主人公は、少年時代から、その気なら着衣の女のすっぱだかが丸見えに見える。その体験的な下地は幼時から母に連れられた銭湯の女湯で、少年はむろん性欲からではなく物珍しさと感嘆の思いから、ただもうひたすらに女体というものを観察し嘆賞し手で触りこそしないが徹底的に眼で愛でて成長した。上の粂川さんが憧れていたことぐらい、特段の難しさなどなしに、洋服からであれ和服からであれ、ほぼ何でもなく透けて見ることが出来たし、古稀をとうに過ぎた現在でも何でもなく見えている。それが嬉しい楽しいなやましいなんてことはちっとも無い。

しかし妻も息子も噴飯のていで嗤いとばした。だまっていればよかったのだが、小説は進んでいるのかと、何を書いているのかと聞くので一端を話してやったまで。

粂川さんの述懐は、すこしは、わたしの、ではないその作中老人の才能を弁護し擁護してくれそうではないか。

2014 7・22 153

 

 

* 黒いマゴの輸液には十数分か二十分かかる。太い針を刺されるのはイヤだろう、で、わたしの膝に抱きかかえているうちに妻が刺す。うまくいけばそのまま輸液できるが、刺しようが浅かったり皮膚を塗ったりするとたちまち水が溢れるように洩れる。これが難しい。

輸液の間わたしは動けないので、そのあいだ、録画の映画を小刻みながら毎日見続ける。昨日までは「ショコラ」をとても面白くみていた。ジュリエッタ・ビノシュがすこぶる魔女ふうに魅力的で、ジュディ・デンチもなかなかの存在感。中世を思わせるほど牧歌的でかつ閉鎖的な因習にもしばられた小さな町での物語。初めて観たときから、好きな、佳い映画の一つと数えてきた。いまの体調ではジュリエッタのつくる多彩な「ショコラ」を味わう元気がないけれど、魔術的なうまみが、不当にアタマを抑えられて暮らしていた町の人たちをめざめさせてゆく。漂泊の魔女母娘も呪縛から解き放されて行く。

 

* その気になればどんなに忙しい中でも楽しめることはいくらでもある。いい映画ならちぎりちぎり観ていても十二分に惹きつけられるし、本にしても、いっきに沢山読もうとしないなら、存分に楽しめる。詩歌を読むのは小説や論攷を読むよりも、別の打ち込みがようが利く。小説を読めば、たちまちに他界へとんでゆける。また庭の花を、草や葉を、ふと観ているだけで堪らなく嬉しくなる。まして、家の内にかけたり置いたりしてある繪や、書や、壺や、蒔絵のものをへ眼を送る嬉しさ、しんそこ楽しめる。人間の才能の中で、こういうふうに豊富に容易に静かにものの楽しめるちからがいちばん貴いのかもしれない。

2014 7・24 153

 

 

* 「風の奏で」再校を進め、一つの仕掛かり小説を書き進み、ついで、「選集④」原稿としての、思い出多い「廬山」を、ずんずん読み進んだ。「廬山」ははじめ「新潮」に見て貰っていたが、何度も何度も推敲してしかもパスしなかった。しまいに劇評などしていた編集者まで現れ、登場する武将伯麟の子を太郎、次郎、三郎、四郎などと云うのは可笑しいなどと云った。こりゃダメだと見限って、筑摩の「展望」に見せた。一発で、もう次の号には載り、すぐさまその期の芥川賞候補になった。耽美的なわたしの作風からすればよほど遠くに感じられる滝井孝作先生、永井龍男先生が銓衡の席で強く推してくださった。本になったとき、永井先生は、「『廬山』は美しい小説である。美しさに殉じた小説である」という推薦の「帯」文を下さった。小学館の文学全集にも、筑摩の文学全集にも、角川文庫にも「廬山」が採られた。これはと自信があるなら、「新潮」ほどの「権威」にも無意味に屈してはならないのだと思った。

* イスラエル支持のアメリカ、ウクライナへのロシアの暴圧、したい放題の自己中中国。かつての米ソ対立が、三大国の吾がもの顔で世界の不幸は深まるばかり。あいつぐ飛行機の事故や撃墜や行方不明。心底、情けなくなる。なにを一心に努めていても、みんなムダであるに過ぎなくなる、それで当然というような頼りない気持ちに襲われる。が、それは、ちがう。それだからこそ、真実したいこと、仕遂げたいことへ立ち向かって倦まぬことだ。

2014 7・27 153

 

 

* 「原稿・雲居寺跡」を書き写して行くと、これはもうほとんど十三世紀の公武の闘いといった大筋に絡まりながら、わたしのいわゆる「風の奏で」の藝能史が浮き上がってくるのかと想われる、それとて宛て推量で、まだ書き写していて「語り手」がその素性・本性をあらわすのにもう暫くかかりそうで、その先にもたっぷりとした原稿量がある。いまでは、書いたはずの私が、独りの読者の場にいて興味津々先を追っている。

これと同種の書き差し原稿が他にも何作も現れてきている。惘れたというのが実感。この年になって、こんな体験をするとは。

2014 7・27 153

 

 

* すこしずつ「原稿・雲居寺跡」の向かっている方角が察しられてきた。いま物語は、歌舞伎の「近江源氏先陣館」の舞台とやや呼び合っている。和田義盛とすでに物語の語り手は関わりを持っているが、あの歌舞伎でも大事な存在は和田義盛であった。

ただしこの物語に手を染めていた頃にはまだ、この芝居こそ南座でいちど観ていたかすかな記憶はあるが、むろんそのときは自分が小説をほんとうに書くような者になるとも思えてなかった。また芝居を観ながらもとくべつ近江の佐々木に関心をもつ理由もなかった。だが、後年、「みごもりの湖」を書いた頃にはあきらかに近江佐々木の上代でのありように関心を強めていた。この「原稿・雲居寺跡」は「みごもりの湖」はおろか、「清経入水」もまだ書かず、作家以前のまだ習作期の仕事だった。

行けるところまで行こうという書き方に思われる。ゆけるところまで此の旧作を追いかけてみる。或る意味では開花とも噴出もいえる何かしらエネルギーをこうしてわたしは蓄えていたのだろう。

2014 7・28 153

 

 

* 「風の奏で=寂光平家」十二巻を再校し終えた。明日、「選集②」跋の再校が出て、諒承できれば「風の奏で」とともに、どう遅くても三十日には送り返せるだろう。「清経入水 雲居寺跡=初恋 風の奏で=寂光平家 繪巻」の四編、「いい読者」には喜んでもらえるだろう。

すぐさま、既に組み上がっている「選集③」の初校を始める。「畜生塚 慈子=齋王譜 隠水の 誘惑」で纏まる。四編ともに語りが「私」がらみになる。

さらに入稿用意の「選集④」には、「蝶の皿 廬山 青井戸 閨秀 墨牡丹」で頁が合ってほしい。これは四編ともに「私」が関わらない。

そのうちに、「湖の本121」が組み上がってくるだろう。じつは十年ほども書いていた匿名コラム原稿もスキャンして、すでに校正し掛けている。うちかえす津浪のように「仕事」が押し寄せる。こんな晩年を予想していなかった。病気をしたセイかもしれぬ。

「e -文藝館・湖(umi )」ももっと拡充したいと思っている。そういう意欲が小説創作への推力になっていると信じている。

2014 7・28 153

 

 

* ことばを斡旋するという意味では詩歌は小説の何倍もこころづかいが有ろう。むろん小説でもそれは当然。だが当然などとまるで思ってないだらけたおしゃべり小説が多すぎる。最近亡くなった同世代の人気作者の新潮社から出ていた小説、著者から贈られていたか隣家の書架にあったのをいささか敬意を表したいと持ってきた、そして読み始めたが、とても二頁も読めない。だらしない文章、とても文学の表現でも志気でもない。作が作品ならば、作に品があるならばたとえ淫猥も好色も不倫もすぐれた表現となる。文学の歴史はだいなり小なり淫猥も好色も不倫もを書き表してきたのだ、四角四面のモラルの教科書として書かれたわけではない。しかし淫猥と好色と不倫とを売るだけで名高く、その作は幼稚なほどだらしない説明のお喋りでは、あまりに情けなかった。特大の人気とは、ベストセラーとはこんなふうに書かれているのが普通だとしたら、なんと恥ずかしいことだろう。そんなものを流行させる責任はいったいだけに有るのか。

作者? 読者? 批評家? 編集者? 出版者? まさか政治? それとも、機械?

責任は、わたし自身にある。わたしの非力にある。

わたしとは何者か。

2014 7・29 153

 

 

☆ ラ・ロシュフコーによる箴言集への「考察」1 ほんものについて

 

ほんものである、ということは、それがいかなる人や物の中のほんものでも、他のほんものとの比較によって影が薄くなることはない。二つの主体がたとえどれほど違うものでも、一方における真正さは他方の真正さを少しも消しはしない。両者のあいだには、広汎であるかないか、華々しいかそうでないかの相違はあり得るとしても、ほんものだということにおいて両者は常に等しく、そもそも真正さが最大のものにおいては最小のものにおける以上に真正だということはないのである。

 

スキピオとハンニバル、ファビウス・マクシムスとマルケルスのように、同じ分野の二人の人物が、互いに異なっていたり、それどころか正反対だということはあり得る。しかし彼らのすぐれた資質はほんものだから、両者は並び立ち、比較によっていささかも見劣りしない。

 

ある人が幾つもの真正さを持ち、別の人は一つしか持たないこともある。幾つもの真正さを持つ方は、より大きな値打ちがあり、相手が光らない面で光ることができる。しかしそれぞれほんもののところでは、どちらも同じ光輝を放つ。

 

一羽の小烏の目をつぶしたために執政官によって死刑にされた子供の残忍さは、自分の息子を死に至らしめたフェリーペニ世の残忍さにくらべれば小さなものだし、他の悪 もそれほど混っていなかったかもしれない。しかし一羽の小さな生き物に加えられた残忍さの度も、最も残忍な君主たちの残忍さと同列であることに変わりはない。程度は違うがどちらの残忍性も等しくほんものだからである。

 

それぞれふさわしい美しさを持っている二つの館は、大きさがどんなに違っても、互いに少しも損なうことがない。だからシャンティイの城館は、リアンクールの城館よりもはるかに多種多様な美をそなえながら、リアンクールの価値を減ずることは全くないし、またリアンクールがシャンティイの価値を減ずることもない。

とはいえわれわれは、華やかではあっても端正ではない美しさを持つ女が、もっとほんとうに美しい女の影を薄れさせるのを見る。しかしこれは、好みという容易に先入観にとらわれるものが美の判定者になっているし、また最高の美女の美しさも必ずしも一定していないから、たとえ美しくない女が他の女を目立たなくさせるとしても、ほんのしばらくの間だけであろう。

 

* 「ほんもの」という評価を人は想像以上に重んじ憧れている。「お宝鑑定」もそれに類しているとはいえあれは浅い見解での真贋判定や家格判定に過ぎない。あの手の鑑定ではときにほんものと評価されたもの以上にほんものではないかもしれないがより美しく素晴らしいものにも出会えるのである。美術骨董の場合には、浅い基準の真贋の問題と真実魂に触れてくる「ほんもの」のよさとはべつものであり得る。ある画家の真作と認められたからすぐれた「ほんもの」と決まったわけでない。大作者の平凡作や駄作はまま無くはない。

ラ・ロシュフコーが自身の箴言集にかかわって第一に考察対象にした「ほんもの」の意義を説き直す必要は微塵もなく、多くの平凡人でもよく識り憧れている。見分ける力に優劣はどうしてもあるだろうが。わたしが、作と作品とはちがうもの、べつものだと説くときの「作」に備わった品位・気品。それこそが「ほんもの」に極めて近く同義とすらわたしは観じている。その観点からすれば、ラ・ロシュフコーの「ほんもの」観は不動の確信であるとわたしは全面的に信頼する。

あなたは、いかが。

2014 7・30 153

 

 

* 『拾遺和歌集』の二撰を始めた。

 

* ラ・ロシュフコローに興味があって彼の箴言集を読むのではない。彼の箴言や考察を借りて自身のことを、心根のありようを思うのである。拾遺和歌集の和歌を品評するのが目的ではなく、撰歌を介して、自分が何に感じ何を思い何であるのかが見たいのである。平家物語を解析し探索したくて平家物語を読んだり考えたりするのではない。それを通して自分が何に惹かれ何処へ歩もうとしているのかが識りたいし実感したいのである。一休さんに「諸悪莫作」といわれれば、そういう一休さんに関心を持つ以上に、自分のために「悪」とは何でそれを「作(な)すな」とはどういうことかを考えるのである。およそそのように働く関心でなければ、たんなる知識の断片を弄んで終わってしまう。どんなに源氏物語が好き、谷崎文学が好きであるにしても、源氏や谷崎を対象としてこまかに解剖してみても生きるつよさは生まれない。自分の問題にしない、ならないような勉強では、老いの前に、干からびて崩れてしまう。

2014 7・30 153

 

 

* 「致す」という語意は、あまりに広くて、安易に多用するとヘンなことになる。謙譲語・丁寧語のようであると同時に、尊大語・無礼語ともなり、さらには「だます」「たばかる」「よくないことをする」意味合いも持ってくる。日常語感での、陥りやすいだいじな機微に属している。大きな辞典で、いちど確かめておくといい。

「致します」「致しました」「致しております」などの多用された文章や手紙は、叮嚀・鄭重・行儀を誤解ぎみに、無用な力み、杓子定規、四角四面の無粋な物言いに、ふつう、なっている。かなりうんざりする。

文の語尾を した した した と畳み込むのも「切り口上」になり、なによりも愛嬌なく愛想もない。ものの言い様には、自然「人」が出る。こわくなる。

2014 8・4 154

 

 

* 「湖の本121」要再校の初校ゲラに、表紙、埋め草、あとがき、あと付け、みな揃えて返送した。

さて。暑いさなかだが、夕過ぎてからでも江古田へ眼鏡を受け取りに行ってこなくては。

 

* 遠い用普通の眼鏡と、同じくサングラスを受け取ってきた。このところのギラギラ照りにサングラス無しでは危険すら感じる。

最近用の修正眼鏡をもう一つ頼んできた。七日の十一時以降には出来ていると。

眼鏡の用を済ませたあと、「中華家族」へ寄り、灯りの良い席をもらって、マオタイと酢豚とで、『畜生塚』の校正を楽しんできた。此の作はわたしの私家版本第一册『畜生塚・此の世」の表題作として書かれた。昭和三十八年(一九六三)十二月に脱稿し、B5判8ポ二段組みの本は、勤務先で取引のあった(株)科学図書印刷につくってもらい、翌昭和三十九年(一九六四)十一月二十三日に出来ている。さらに五年、太宰治賞受賞後に徹底的に大幅に改稿し、「新潮」編集室の小島喜久江さんに認められて発表できた。処女作ではないが最も早い時機のわたしの作であり、桶谷秀昭さんらに作品を賞賛された。気持ちの上では次いで長編『齋王譜=慈子』が生まれた。「秦恒平選集」の第一巻に置いていい文壇的な処女作はこの『畜生塚』であった。わがヒロイン創作の真っ先の一人、原点に立つ女性が「町子」であった。

 

* このところ妻はDfileのドラマ「NCIS」に嵌っていて、わたしもときどき付き合って観ている。マオタイのあと帰宅して、今夜は続けて二本、二時間観てしまった。日本製のドラマにくらべて展開も映像も会話も、かくべつに切れ味がいい。ダラリペタンとした日本の刑事ドラマの鈍感で説明的で低俗ワンパタンな氾濫。何でああなるか、誰の責任か。

言うまでもない、視聴者があんなものを見続けているから、書き手も作り手もそんな視聴者を舐めきって怠けているのだ。

文学についても言える。

評判の名作がちっとも世に出ず、文豪がちっとも生まれてこない責任は、(本音を言う)一に読者にある。「いい読者」が少ないのだ。数少ない、けれど「いい読者」に恵まれてきたわたしは、秦恒平は幸せである。さもなければ私家版の「秦恒平・湖(うみ)の本」が二十八年も、百二十一巻も続くわけがない。

2014 8・4 154

 

 

* 「畜生塚」から長編「慈子」へ転じた。美しい限りの小説をといきごんで書きだしたのを想い出す。

2014 8・5 154

 

 

☆ ラ・ロシュフコー『箴言集』の考察「交際について」に聴く。

友情には交際よりも崇高で尊いところがあり、交際の最大の取り柄は友情に似ていることである。

 

交際を長続きさせる方法を講じる人はほとんどない。 常に自分自身のほうを大切にし、しかもほとんど必ずこの身勝手を相手にさとらせてしまう。 あいての自己愛(アムール・プロプル)に配慮して、決してそれを傷つけないようにしなければなるまい。 これほどたいへんな事をなしとげるには才気が大きな役割を演じる。

 

交際を楽しくするためには、互いが自由を保っていることが必要である。 相手を立てることは必要だが、 行き過ぎれば隷従になってしまう。

 

(紳士がた淑女がたの)交際には、才気とともに、一種の洗練、 ある種の信頼なしには長続きしない。 才気には多様さが必要である。一種類の才気しかない人は、長く人を楽しませることができない。 また交際の楽しさのためには、少なくとも利害が相反しないことが大切になる。

 

物を見るためには距離を置かねばならないと同じに、交際においても距離を保つ必要がある。どんな人にも、自分をこう見て欲しいと思う角度がある。 あらゆることにおいてありのままの自分を見て欲しいと思う人など、ほとんど一人もいないのである。

 

* むかしは「交際」ということばや行為を意味して「つきあい」「つきあう」と謂うていた。「あちらさんとはおつきあいはおへん」とか「何代もまえからのおつきあいどす」とか。「ほん、けっこうにおつきあいさせてもうてます」などと、明らかに健常で普通の大人の物言いとして「つきあい」「つきあう」という交際の意味が生きていた。

ところが、すでに前世紀後葉からは、若者ことばないしは男女関係をのみ謂うことばと限定されはじめ、しかもその関係が、既成事実化している「性」関係を露わに意味しはじめた。今日、うっかり男性が特定の女性を、女性が特定の男性を指さすように「付き合っている」となどと口にすれば、それはそのまま互いに性的関わりが、すでにある、今にもあろうとしている、あっていい仲であると認めたに同じい意味になっている。危なくて、うかとモノが言いにくい。これは今代の大きな心身環境の特徴事象と目して記憶し記録されていいことでは無いか。

2014 8・6 154

 

 

☆  秦建日子のFACEBOOKに

「着ているものを見れば、その人の中身もわかります。着ているものが変わればその人の中身も変わります」

「まじですか。ぼくは何を着るようにすればいいでしょうか。アドバイスください」

「秦さんはユニクロを着ていればいいと思います」

「……」

実話。

 

* 上の、息子の曰く「実話」がどんな状況のはなしかは知れないが、やや関連したところを昨夜わたしは小説で触れていた、ま、まるで別の話ではあるが。

哲学者アランの問題提起に、人は裸身のときか着衣のときか、どっちが本来と謂えようかと。大学の頃、めずらしくアランの訳書を買って読んだ。

このまえ書いたが、女の裸が観たい観たいという昔の友人のエッセイを紹介しながら、わたしはというと子供の頃から、大概な女性の裸身など着衣の上からまる見えに見えるとも告白していた。わたしにすればそんな事はたいした能でも性質でもなく、ま、観察と想像力の問題に過ぎないのだが、それよりも、女の裸身は美しいかどうか、それこそがわたしの美学を左右すると観じてきたのであり、アランを読んだことは大きな契機であった。それだけを、記録しておく。

2014 8・7 154

 

 

* 「原稿・雲居寺跡」のデータ化を我ながら興味深く進めている。どこまで物語はひろがって、どうしてハタと頓挫したか。手が入って、大幅に入れ替えたと思われる箇所もある。とにかくもおさまりがつくまで書いた私にも行方がまるで知れない、覚えていない。覚えて無くてよかったと思い思い書き写しつづけている。

 

* 「仕事」の交通整理が必要ということを昨日も洩らしていたが、必要になっている。

① 「風の奏で」を追っている小説。 ② ある寓話 または猥褻という無意味(仮題) ③ 私小説・父(実父)の敗戦  ④ 私小説・生きたかりしに 800枚の電子化 ④ 「原稿・雲居寺跡」の電子化 及び同様の未発表また書きかけないし中断諸作の電子化 ⑤ 「選集」②の発送 ③の初校 ④の入稿  ⑥ 「湖の本121の再校・責了、発送用意 ⑦ 「湖の本122」の入稿原稿用意すでに着手進行中 ⑧ 日々の「私語」「箚記」 ⑨ 読書 ⑩ 通院

日々、手を出してないものは無い。むしろ幾らか重点的に選択すべきだが、抜いていい仕事は一つもない、みなもせっせとわたしの尻を打って来る。イヤではない。困惑も迷惑もしていない。欲しいのは唯一、視力。いま昼前、もうどの眼鏡に掛け替えても視野は滲み霞んでいる。まるで視力と仕事がどこかのゴールへ競走しているみたい。成ろうなら協奏してもらいたい。

2014 8・7 154

 

 

* 「ある寓話(仮題)」を、一つの大きな仕切りまで、ほぼ仕遂げた気がする。佳い表題が欲しい。

2014 8・7 154

 

 

*  「慈子」の校正好調に進む。原稿段階で叮嚀に読んであり、新たなルビを振る程度しか直しはない。うちこんで書いて、うちこんで推敲した昔が想い出される。創作は「作」だけでは無意味にちかい、「作品」がともなわねば雑物になってしまう。そういうことを「畜生塚」や「慈子」を書いていたときに心魂に彫み入れた。

2014 8・8 154

 

 

* ある新聞の有名な匿名コラムに、依頼され、寄稿し始めたのは、1990.1.17から。

以降、いま手許に1992年末まで原稿が在り、目下捜索困難中の以降数年分を欠きながら、更に1996.6.11から、2001.10.3まで、ほぼ11年間というもの(むろん毎日ではないが)信じられぬほど大量に書き続けていた。紛失中の原稿もやがては見つかれば、その全量、例えば私版の「湖の本」にしてほぼ三册分ほど、すべて匿名の紙礫を、文壇はじめ政界・学界、各界へむけ容赦なく打ち込み続けていたことになる。

まぎれもなく、これらはわたし秦恒平の「批評」の矢・弾。ま、よくも書かせてくれたもの、よくも書いたもの、だ。

2014 8・8 154

 

 

* 歯が痛む。ロキソニンを前夜からこの午後まで三度服した。紛らわせの酒が切れている。買いに行かねば。

風が物音を届けてくる。関西に大雨風。陸奥に強い地震。やれやれ。

それでも仕事は進んでいる。根をつめているのが歯にも堪えているのだろう。命と仕事とが競走しているなど愚の骨頂めくが、それでいいと思っている。それの出来るのを喜んでいる。

むかしから、わたしには逢いたい人がいつでもいて、それは生き甲斐のような物だと言いも書きもしてきたが。からだが動く働くということが出来なくなっては話にならない。仕事のできるあいだは体も動くだろう、と。ま、鰯の頭のように信仰しているわけだ。

2014 8・10 154

 

 

* 長い小説を、軽々と終えることが出来そう。作の命の求めるままに。

2014 8・10 154

 

 

* 久保田淳さんに戴いた「富士山の文学」をかるい気分でひもとき始めたのが、いまや愛読している。万葉の昔から、いまは子規や漱石をすぎて鏡花に手が届いている。

「南総里見八犬伝」は、いよいよ新兵衛仁の、絵を抜け出た猛き霊虎との都での出会いになり、もう関東では両管領軍と里見軍との大会戦が始まろうとする。ゆっくりゆっくりを厭わず読んでいる。最初の入院からだもの、優に二年半。この二年半に「指輪物語」は二度読んでおり、「ゲド戦記」も「イルスの竪琴」も、「国家」も「ファウスト」も「戦争と平和」「アンナカレーニナ」「復活」も、そのた百册もを楽しんで読み通してきた。いままた「イルスの竪琴」でモルゴンは狼王ハールとの出会いをとげて極北の荒原をヴェスタに身をかえ彷徨している。

「陶淵明全集」フローベールの「紋切り型辞典」ミルトンの「失楽園」そして「源氏物語」や何冊もの勅撰和歌集。

こういう読書世界が在ればこそ「ペンと政治」三巻も本に出来た。「湖の本」は、手術いらい十一巻出し続け、いましも五百頁の「秦恒平選集」を第二巻まで仕遂げた。まだまだ、まだまだと思いつ願いつ、歩一歩、問一問を進められれば幸いとしたい。人として不徳ではあるが孤独ではないのを感謝している。

2014 8・11 154

 

 

☆ 雨はしとしと降らせない 1998.08.08

「雨はにしとしと降ってはいかんよ」と小説を書きだした頃に丹羽文雄は教わったそうだ、尾崎一雄に。大久保房男が「三田文学」に書いている。

いつもの大久保ブシだが大事なことは大事なのだ。

晴れ渡っておれば抜けるような青い空、人が大勢集まれば黒山の人だかり、美しい風景は絵に描いたような景色、「こんな常套句を使うのは通俗読み物で、文学作品には使ってはならぬ」という。

尾崎一雄はさらに言う、「下を向いて書いちゃいかんのですよ、自分より上の者、せいぜい自分と同等の者に、これが私の精一杯のものです、と差し出すのが文学で、読者を自分より下に見て書くと通俗小説になる」と。

文学に向かう作家の態度を言い切っている。

元「群像」の名編集長だった大久保は、これを念頭に作家たちの小説を読むと、「読者がわからないといけないという親切心から書いたところでも、下向いて書いたために文章の緊張感が弛んでいるのを私は度々発見した」と書いている。

「私が兎を飼ったのは、これで三回になる。第一回目は、私が山科にいたときであり、二回目は、奈良にいたときだった。しかし、その頃の私は、兎をおもしろい動物とは思わなかった。」

アマチュアがこう記憶で書いた文章が、志賀直哉の原作では、「兎は前に山科で一度、奈良で一度飼つた事があるが、飼つて面白い動物とは思はなかつた。」とある。

文章の道は厳しい。

大久保は神髄を指摘している。 ( 神様)

 

* まるまる十六年も昔の匿名欄原稿である。大久保房男は「男でござる」。翻訳家の大久保房雄とまちがえられるのをアタマに置いての啖呵だった。大久保さん、亡くなってしまった。独りで、悼み懐かしんでいる。

2014 8・11 154

 

 

* 夏休みという、忘れ果てた季節を沢山な人が、それぞれに満喫しているようだ。大きな都会生活から山や川や草木の薫る故郷へ帰って行く人は、往時のわたしらのように東京から京都市内へという帰省とは格別の風情が楽しめるのであろう。戦時疎開で丹波での一年半を体験していなかったらわたしの「日本」は偏っていたにちがいない。「丹波」があったればこそ「清経入水」が書けた。、

2014 8・12 154

 

 

* この機械のOSはいまやサポートされない全くの古物。そのうえ、光通信も使っていない。附設器具の故障で電話・ファックスも此処では使えない。なによりも起動の遅いこと。ホームページの「私語」が無事使えるようになるまで延々と時間がかかり、メールが読めたり使えたりするのにも延々と待つ。いまわたしは、その「待ち」時間を、むしろ楽しんでいる。陶淵明ほかの漢詩や、17世紀フランス製「箴言集」や日本の勅撰和歌集や歳時記やヒルテイの忠告など。待ち時間にちょうどフィットする。

もう一冊、今朝からは「茶道問答集」が加わって、これがまことに有益かつ興深い。有り難い。

問  茶庭に用ふる門戸の種類は、どれ程あるのですか。

答  猿戸、あじろ戸、角戸、四ッ目戸、へぎ戸、枝折戸、簀戸、鳴戸などあります。尚此外にもありますが普通は右に記した位です。

これが全一冊冒頭「茶室及び露地」の章の第一問。この章だけで数十問14頁ある。さらに「花」「花入」「薄板」「釜」「風炉」「敷板」「水指」「棗」「蓋置」「建水」「棚」「薄茶平点前」「濃茶」「炭点前」「茶箱」「七事式」「特殊点前」「茶事」「懐石菓子」そして「雑問」の章がある。馴染みのない人には「何のこっちゃ」ろうが、人の、日本人の「暮らし」の行儀作法知識用意にこまやかに膚接している。

上のような一問一答なので、ま、わたしにはと断るべきか知れないが、生き生きと身内に甦ってくる感覚が有る。

そういえばこれは大きな辞典で重いのだが、ふんだんに写真の載った『原色茶道大辞典』も左手を斜めにおろしたすぐ手先にいつも置いていて、これを手辺り次第にひろげ、茶道具等もろもろの原色写真と記事とを読むのも、それは楽しい慰みになっている。なにかをぼんやり「待つ」のも悪くはないが、このような「待つ」楽しみには豊かな励ましや慰安がある。

2014 8・14 154

 

 

☆ 忙しいのは

おれのせいじゃない。

と、心のなかでつぶやいてから、すぐに間違いに気づく。

忙しいのは、どう考えても自分のせい。

因果応報。自業自得。

そして、書きかけの小説をボツにしてまた一から書き直すのだ。

没にする分量を考えると気が遠くなるけど、仕方ないのだ。  或る四十半ば過ぎた作家の「facebook」から

 

* そう。仕方ないのだ。「facebook」にわざわざ書くことではない。言いたいなら、自分のブログで「私語」する程度にすれば。四十半ばは働き盛り、二度目三度目の噴火のときだ。黙々と堪えて膨れあがって、爆発すればいい。自身の年譜をしっかり腹に入れ、黙々、着々、変容と充実を遂げてゆくのが大事だ。

 

* 散髪してきた。気持ちいい。

作家の場合、小説なら一作と数えエッセイなら一編と数えている。著書なら一冊ないし一巻と数えている。散髪屋さんは人一人の髪を刈り整髪するのを何と数えているか聞いた。青年は単に「一人」かなと言い、父親は「一頭」かと笑った。それはそれで笑い話だが、利休の師は生涯に数え切れない点て茶を即ち「一期一碗」と謂い、井伊直弼は数重ねる茶会を「一期一会」と謂った。「一期」とは生涯の意味であろう、それで「一碗」それで「一会」とは、どういう覚悟であるか。作家は、とは謂わないわたしはと限るけれど、覚悟は「一期一作」「一期一編」「一期一巻」と思ってきた。それでも悔いはのこるが、仕方ないとは投げ捨てない。やはりあくまで「一期一作」と立ち向かう。当然と思っている。

 

* 八百枚ほどに書き置いた『生きたかりしに』全五章の一、二、三章が妻の手で電子化された。このあとどういう進展があるにせよ、もう今日、電子化されていない長大作は、手の施しようがない。

これもまた新たに読み直していって、新作として「湖の本」に、うまくすれば選集にも入るようなら有り難い、が。とにかく読み直して行く。もともと、講談社の書き下ろし依頼で、「上田秋成を」という話だった。ところが、書き始めようとしたところへ井上靖先生直々のお電話で、作家代表団として中国政府の招待に応じ、いっしょに旅をしませんかとお誘いがあった。即答で「行きます」と返事し笑われた。同行は井上先生夫妻、巌谷大四、伊藤桂一、清岡卓行、辻邦生、大岡信氏、そして日中文化交流協会の白土吾夫氏、佐藤純子さん、姉昭和五十一年(一九七六)十二月の、渡しには初の海外旅行になった。北京、大同、紹興、杭州、蘇州、上海を訪れた。四人組が逮捕された直後で、全土はまだ武闘の余波を残していた。

秋成を書くというまさに出鼻をくじかれたが、いい旅だった。秋成を諦めたのではないが、私なりのわたくしらしい秋成探索をこころざして生母の生涯を追いかけたのが此の「生きたかりしに」だった。まったくの、しかも血まみれのような私小説ができ、講談社からの出版はわたしの方で断念した。そして作も、そのまま棚上げし、二年半後昭和五十四年九月には今度はソ連作家同盟の招待でモスクワ、レニングラード、グルジアへ旅立った。これも楽しい旅になって、帰国すると待ち受けていたように初の新聞小説連載の依頼が来たのだった。泉鏡花賞二度目の候補作となった長編『冬祭り』を書き上げた。その後「世界」での長い連載『最上徳内=北の時代』や朝刊連載小説『親指のマリア』などが相次いだ。みな、一期一会の渾身の仕事になった。そして決断の「湖の本」をも実現して、後半生への扉を自分で開けた。昭和六十一年の桜桃忌だった、その年秦建日子は早大法科に入学していた。わたしは五十一歳だった。いまの秦建日子がもうその歳に迫っている。もうちっとも若くはない、心底「仕事」を見極めながら打ちこんで行く歳ごろだ。

わたしは、この超む多忙の中で、またも新たに妻の書き出してきてくれた『生きたかりしに』をも本格仕上げて行かねばならない。この作の題は、わたしの生母の辞世歌の第五句そのままである。母は「死にたかりしに」とは嘆かず「生きたかりしに」と叫ぶように世を果てた。母を書き、実の父をも書く、そしてロマンも寓話も書く、書き続ける、それがわたしを生かす「仕事」だ。立ち向かうまでだ。

2014 8・15 154

 

 

*  母の無念を書き綴った長編『生きたかりしに』を読み返し始めて吸い込まれる心地がしている。よほどブレーキをしかと握ってないと、暴走はしないがこの一本槍にはまりこむ懼れがある。いまわたしは、数百枚にはなっている謂わば「ヰタ・セクスアリス」を仕上げるところであり、清水坂と瀬戸内海をむすぶ平家物語のロマンも峠を望んでいる。仕掛けてある創作の「仕事」が少なくも五つほど進路の半ばにあり、さらに「選集」あり「湖の本」がある。旺盛われながら驚くがわたしの時間にも体力にも余裕は無いのだ。道草は食ってられず、あれにもこれにも躊躇ってはおれない。

とにかくも真っ向進しかないし、進みたいと本人は願っているのだから他の選択はない。「生きたかりしに」は作者の予感ではさらに大量の書き加えが必要かもしれない、仕事量にはひるまないが、それだけの甲斐のある素材であって欲しい。三十年経っている。忘れてもいるし、以後に新たに多くを識り得ている。長編をこつこつ電子化してくれている妻は、「仕上げて欲しいもの」と読んでいる。

さ、眼をいたわりいたわり、老いの生き甲斐を追い続けよう。

 

* 十数年も昔の赤茶けた新聞紙のコラム原稿を書き起こす作業は途方もなく難儀。それをほぼ十年分、優に五、六百本、連日書き起こしてきた。新聞からのスキャンは事実上手間だけかかって正確を欠く。手書きして行くしか手がない。歯が痛むのもムリ無い。しかもそれだけで「仕事」は済まない。創作と校正と日記と、そして読書も。そして「原稿・雲居寺跡」その他の電子化書き起こし等々。こうやって数え上げ数え上げて自身に納得させながらでないと、意識が分散し希薄になってしまう。アタマの交通整理とカラダの按配。

 

* それにしても昔の新聞を触り続けるのは、かなりの楽しさでもある。昔子供の頃の街一斉の衛生掃除のとき、揚げた畳の下に湿気よけに強いた古新聞が、なんともめずらかに新鮮に見えたのを想い出す。いま触れている東京新聞夕刊の「文化欄」記事が奇妙に新鮮にめについて読み返したくなる。いまも梅原猛さんの連載原稿「思うままに」の中で、「マルクス主義をどうするのか」などという原稿に吸い寄せられた。そんなふうに、十数年も昔の十年分もの古新聞文化欄の話題に、意外なほど、興趣を覚えていた。ま、シンドイ仕事の中でのオアシスめくほどの慰みになった。東京新聞は今日、もっとも精彩を放った国民意識の代表紙だが、昔の文化面もなかなか充実していたんだと、敬意と親愛を新たにした。まる一年も、長編小説「冬祭り」を連載させてもらったのを、ふと晴れやかに思いだしてもいた。

2014 8・16 154

 

 

* 京は大文字の夜。「みごもりの湖」でも、「慈子」でも「雲居寺跡=初恋」でも、、「死なれる」ことを一等重い主題として受けとめ書いていた。堪らない死をもう何人も見送ってきた。いずれはわたしも逝くのである。真っ赤に炎をあげた大文字が、無性に懐かしい。いつまでたっても、こどもか、少年のようである。

2014 8・16 154

 

 

* 夜前、「畜生塚」に次いで長編「慈子」の初校ゲラを読み通した。来迎院の世界、齋王の譜。朱雀家のひとたち、その死生。われながら「凄み」すら覚えて肌のそよぐのを感じた。「選集③」、次いで「隠水(こもりづ)の」「誘惑」を初校する。一種おそろしいほどの異境が書かれている。明日はそなゲラを持って街へ食べに出かけようか。食べないとからだが弱って行く、それが分かる。

2014 8・17 154

 

 

* 信太周さんの紹介で湖の本の「風の奏で」を読んでもらった研究者からまた一人懇切なお手紙を戴いた。

「風の奏で」は研究者の関心をえた長編であったが、論攷では全くなく、純然虚構の小説である。わたしは小説家である。できうれば、研究者には手の届かない虚構の他界を創作したい、それが作家であるわたしの全く不動の念願であり方法であり甲斐性であった。

 

* いま、ふと「処女作」ということばが念頭を奔った。わたしの「処女作」は「湖の本」のなかでいえば「少女」と「或る折臂翁」であり、文壇的なそれは太宰賞を受けた「清経入水」になる。しかしこの作以前に永井龍男先生にこんなのが「二十もできたらたいしたものです」と褒めて戴いた「祇園の子」、さには「畜生塚」「ある雲隠れ考」「慈子=齋王譜」も「蝶の皿」もみな書きあげていた。文壇へ発表するとき、一つ一つ入念にまた大量に推敲した。「清経入水」でも、賞に当選が決まっていた原稿は、「展望」に入る直前に徹夜して徹底的に推敲した、その校異が原善くんの手で出来ている。

そればかりか、原稿の残っていない(先生に「危険」ですと破棄された)「襲撃」という差別問題に触れた小説を中学一年で書き、高校時代には「三門」という小説をひっさげて先行していた文藝クラブに乗り込んで朗読し、唖然とさせたこともある。この二作は、原稿が無い。「憧憬」という間らしい題でよその組で謄写刷りの文藝誌を出していると聞いて、「竹芝寺縁起」と「やどかりの話」を持ち込んだのは掲載されて、そのまま探せば手許にある。この前者は、後年、長編「慈子=齋王譜」のなかで慈子の父上朱雀光之先生若書きの小説と手ほぼそのまま取り込んでいる。

大学に入ってから、大学のレポート用紙をびっしり利用して、ながながとした私小説風の記録または虚構を書きつづったものがそのまま残っている。

そういうのも、おいおいに現物を目にしながら取捨しておきたい、死に急がずに済む前に。

2014 8・18 154

 

 

* ほんの暫くと、大昔「原稿・雲居寺跡」を書き写していた。筆は頼朝亡き後の鎌倉御家人争闘のあれこれから北条義時の執権職就任に至っていた。有力な武家がつぎつぎに潰されて行く経緯がよく見えていた。

で、次に、さきのを大昔というなら中昔に書いて棚上げにしてあった「生きたかりしに」を、妻がもう三分の二ほど電子化してくれた長編小説を読み始めたが、これは、もうわたしの眼でみていわば完成されているのではないかと思われた。但し、一旦書き上げて推敲もし原稿用紙に清書も済んでいたこの作より以降の何年も何十年物間にわたし自身が獲ている新知識も相当あって、それらとの折り合いがどうつくかが分からない。一編の作としてならば、このまま「湖の本」小説の上中下三巻本に仕立ててもほとんど問題無さそうに直観される。

なぜ放っておいたか、そもそもは講談社の書き下ろし依頼だったが、書き進んでいる打ちにも、世の出版環境は思わしからず、これを書き下ろし本として作者も本屋も経済的に成り立つようにはとても思えなくなっていた。で、むしろわたしの方でそういう環境へあえて踏み出す気がせず、きっと講談社もそれでホットするのではないかと、棚上げしてしまったのだった。一つには上田秋成をという依頼なれどもわたしは、お定まりの時代小説にする気が失せていて、思い切って別の小説世界を目蔵めっぽう切り開いていたのだった。

なににしても、この旧作である新作をどうするかということだ。いきなり「選集」に入れて一巻に大きく纏めるのがいいのかも知れないなどと、荷をかかえた気分で居る。

2014 8・19 154

 

 

* 「生きたかりしに」を読み始めるとやめられない。秋成への関心もわが身の程への関心も、書いていた当時から見て衰えていない。読み始めるとどんどん時間をとられる、が、いまは、これに時間を費やしていい時ではない。

 

* げんなりすること。あるか。ある。人で、事で、物で。それはやはり、人で、多々参る。第一番は、安倍「違憲」総理の無神経そうな臆病そうな表情・言語。察しのつかない、できない人にも参る。

2014 8・20 154

 

 

* あすは、夕刻から出かけるので、早い時間にすこしでも送り出せるようにと用意はしておいた。慌てることでは少しもない、その点売り本をお届けする「湖の本」とはとがうので、ただ作業を叮嚀にと思うだけ。土曜日曜は郵便局が働かないので、その間に用は進められるだろう。むしろ相次いで「湖の本121」が遅くも九月十日頃にはもう出来るかも知れない。

「湖の本」を創刊して今年の桜桃忌に二十八年になった。いま七十八歳だが八十歳の桜桃忌には創刊三十年になる。手許の未収録原稿や新たな創作の進行から見れば、もうその辺で打ち止めなど思いもよらず、健康と体力のゆるす限りだが、少なくももう五年は出を待っている文章が、それなりの文章が順番を待っている。思わず笑ってしまうほど先が賑わいげに見える。「いま・ここ」「いま・ここ」を積み重ねて何を急ぎ慌てることはない。しかも元気でさえあれば、そして資金が続く限りは、「選集」も着々遺してゆける。

こんな心豊かな老境を迎えるとは夢にも思ってなかった。

2014 8・21 154

 

 

* 「選集③」の「月皓く」を初校し終える。この作、秦の叔母宗陽のプロフィールにもなった。仮構ではあるが、つねの稽古場や、茶事や大晦日埋火の茶や、おけら参り・清水参りなど、みな身に沁みて覚えている。

もう一作、中編「誘惑」の校正を始める。おいおいにツキモノを揃えねば。

 

* 「選集②」の見積もり精算書は昨日届いた。請求書を待って支払う。

 

* いろんな人から、わが自作にかかわるいろんな文章を載せた自著を戴いている。ついつい、ものに埋もれて忘れていて、ふと見つけ出す。今日も二つ、見つけたので記録かたがた書き取っておく。

 

☆ 黒瀬珂瀾著『街角の歌』ふらんす堂刊 2008.04.01刊 より

 

鉄(かね)のいろに街の灯かなし電車道のしづかさを我は耐へてゐにけり  秦 恒平

 

掲出歌は昭和28年、作者17歳の一首。早熟な才を思わせる。電車の騒音の大きさが逆に通過後の線路脇の静寂を印象づける。名状しがたい内面の衝動を静かに押える少年の姿。人の営みから距離を置こうとする若き心が、「街の灯」を鉄色に感じさせたのか。小説家として知られる秦は、若き日の歌業を歌集「少年」として纏め、自費出版した初の小説集の巻頭に置いた。その後、この青春歌集は幾度となく単行出版され、多くの読者を得ている。(「少年」『畜生塚・此の世』昭和39年刊所収)

 

* 京の祇園石段下辺の市電線路を、宵の街の灯に照った「鐵のいろ」と眺めていた。想いなやめる高校生だった。こんな歌をわたしより四十二年もあとに大坂に生まれた若い歌人がみつけてくれている。

 

☆ 槌田満文著『名作365日』講談社学術文庫 昭和五十七年十月十日刊 より

 

9月20日  『隠水(こもりづ)の』  秦恒平作

出版社に籍を置く新進作家の当尾宏は、京都の高校時代の後輩尾山彬子と愛し合っていた。愛が熟さぬまま一度は離れた二人は、それぞれ家庭を持った十数年後に東京で再会して、結末のない甘美な悲劇へと、ひそかにつきすすんでゆく。

秦恒平の「隠水の」は、古代歌謡「こもりづの下よばへつつ行くはたがつま」を踏まえたタイトルを持つ小説。草の下の見えない流れのような二人の結びつきは 「九月二十日、会議中に彬子の電話があった」 のがひきがねとなった。

「一つ家に共住みできない。法も世間も保証しない。誰も知らない。子どもをつくれない。この結婚には何一つ支えというものがない。だが彬子は思いつめて 『結婚』 と言った。」

そんな世の常ならぬ愛のドラマは、宗達・光琳展や新制作展の都美術館、知人の個展が開tれている日本橋や銀座の画廊、また京都泉涌寺の含翠庭などを、つかの間のあいびきの場所として、悲しくしかし美しくくりひろげられてゆく。

 

* この作はつぎの「秦恒平選集」第三巻にいれてある。読まれれば、上記槌田氏の読みとことなる印象をもつ読者が多いかもしれない。

 

* こんなふうに書いて下さった人さまの文章が、論も解説も紹介も批評もいっぱい家中のあちこちに埋もれている。せめて見つければこんなふうに書き置いてみたいと思うが手が回らない。

 

* 何処へ、何方へ本を贈るにしてもよほど慎重に考えないと、たちまち限定部数はとびこえてしまう。予備の著者本を少しは用意してあるが文字どおりの少し。宛名をいちいち手書きしなければならず、何の挨拶もなしに送りつけることもできない。

あすは、昨日今日に用意したものを自転車の荷台にのせ何度も郵便局へ走らねばならぬ。日照りがすこしでも和らいでいて欲しいが。

2014 8・24 154

 

 

☆ 選集第二巻のお礼

秦様  立派なご本を第二巻まで頂戴いたしまして勿体なくて恐縮しています。

このご本の読める価値が(自分に)あるのだろうかと、ありたいと自分で励ましています。

最初に発刊されて読ませていただいた頃は、能の事、謡曲の事など全く知りませんでしたので、現実の世界と夢幻の世界が行き来するのに大変戸惑ったりしました。謡曲の稽古をし、また京都も作品の世界に沿って歩いたりして、少しは地理的な事などにも親しみをもって読ませていただくことができるようになりました。作品の数々に育てていただいたと感謝しています。

懐かしい思いで一杯になりながら、また今の自分の読みをさせて頂きたいと思います。

 

少し凌ぎやすい日が続きましたが、後の暑さのぶり返しはまたお身体に応えるようです。どうぞどうぞ迪子様ともにお身体ご自愛ください。

 

 

先日 ロンドン在勤の子を夫婦で訪ねてまいりました。今イギリスとの分離問題で揺れているスコットランドに彼の案内で出かけました。フェステイバル一色で観光客には全然そのような情景は見当たりませんでしたが。お食事は進まれない様子でもお酒は大丈夫のご様子とうかがっていましたので、エジンバラでスコッチを求めてきました。来月になりまして、少しは暑さも凌ぎやすくなりましたら、以前お約束し、私の突然の体の不調のため、反故にしてしまいました豊島園のお店にでも持ってまいりたいとお二人のご都合も考えず思っています。押しつけがましいことで 勝手で申し訳ありません。

お気の向かれたときにお返事くださいませ。 晴  練馬区

 

* 妻の同級生だが、この人の、結婚後の人生をうちこんだいわば勉強ぶりには感心し続けてきた。たしかにわたしの小説の多くは、読者にあまりに多くを求め、または押しつけている。難しい難しいとどれだけ多くの人に言われたことか。ひとつには、わたしが「清経入水」を発表できた頃、選者の河上徹太郎先生が「現代の怪奇小説」とも選評に書かれている、そのような作風の小説は実に無いにも等しい時代だった。ほとんどが身辺私小説なみであった。幸いと言って佳いかどうかは別問題だが、今日、わたしのような作風を「怪奇」がる読者はすくないだろう。むしろ流行になっている。まして、謡曲や仕舞を習ってきた人には、夢幻能にちかい魅力は掴み佳いだろう。

わたしが、願ってきたのは、むずかしいのやさしいのでは全くなかった。「文学」の香気が作の品位をつくり得ているかどうか、作が作品を持ち得ているかどうか、それが願いだった。それが文章にどう表せるか示せるかだった。

2014 8・27 154

 

 

☆ 秦恒平先生

拝啓 晩夏の候、益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。先日は、私家版の立派な選書の第二巻をお贈りいただきまして誠にありがとうございました。限定本ということで、社にて、大切に保管させていただきます。

また平素は「湖の本」もご寄贈くださり、恐れ入ります。

先生の変わらぬご活動、ご活躍を、いつも拝見し、糧とさせていただいております。

季節の変わり目、おからだくれぐれもご自愛の上、お過ごし下さい。 敬具  山野浩一  筑摩書房専務

 

* 筑摩書房は「清経入水」に太宰治賞を贈ってくれたいわば文学人生の「母港」であるが、じつにこの三十余年、筑摩の編集者から受け取ったこれが唯一通の来書である。電話一本受けたことが無い。いかに疎遠になっていたか、されていたかが分かる。「湖の本」を始めたのが気に障ったのであろうか、もしもそうだとしたら、狭量に過ぎるだろう。井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫先生らが満票を投じて世に送り出して下さり、わたしも以来四十五年、渾身、「文学作品」を心がけて書きかつ創り続けてきた。疲れたときには心おきなく母港に憩い、また元気に船出したかった。文藝春秋の寺田さん、新潮社の坂本さん、小島さん、講談社の大久保さん、徳島さん、天野さん、河出書房の小野寺さん、その他中央公論社、平凡社、新聞各社からは、久しく久しい鞭撻や激励を戴いてきた。

創刊の第一巻は送らなかった。第二巻は太宰賞へ招待された機縁に感謝して送った。「清経入水」は応募したのでなく、私家版中の一作が最終選考の席へ招き入れられたのである。感謝せずにいられない。

洩らしたことのない愚痴ではあるが、新専務の山野さんがじつに久々に筑摩書房として葉書を呉れた機会に、わが不徳を恥じながらも、一言、書き置く。

2014 8・28 154

 

 

☆ 作家・秦建日子のブログから

あえて振り出しに戻ってみる。

この夏は、延々と「刑事 雪平夏見」シリーズのvol.5 を書いていました。

着々と半分近くまでは進んだのですが、でも、何か足りない。

ひと味足りないというか、今ひとつ立体的でないというか、ずっとモヤモヤしていて、8月のあたまに、一度、構成をガラッと変えて、振り出しに戻ってみました。

で、かなり良くはなったのですが、まだ微妙なモヤモヤがあり……

着々と3分の2くらいまで進んだのですが、やっぱり何か足りない。

モヤモヤ。

モヤモヤ。

そして、ついに! そのモヤモヤの正体に! 昨夜、ようやく辿り着きました!

やった!

それは何を意味するかと言うと……

そう! もう一回振り出しに戻るわけですね(笑)

でも、同じ振り出しでも、それまでの試行錯誤があるのとないのとでは全然違うわけで!

なので、雪平夏見のその後を楽しみにお待ちいただいている皆様! 夏には書き終えますというお約束はちょっと破ってしまいますが、もう少しだけお待ちください! ここからは早いはずです!(今までの経験上)

そして、この夏、雪平夏見と並行して、「民間科学捜査官 桐野真衣」シリーズのvol.2 も書いていました。

こちらも着々と半分近くまでは進んだのですが、でも、何か足りない。

ひと味足りないというか、今ひとつ立体的でないというか、ずっとモヤモヤしていて、こちらも8月の半ばに、一度、構成をガラッと変えて、振り出しに戻ってみました。

で、今、また着々と半ばまで取り戻しました。

ただし……

なんか、予感がするのです。

あー、これももう一回は振り出しに戻りそうだ。

正確に言うなら、もう一回は振り出しに戻るべきだ。

出版社さんと約束している締め切りがもうそこまでやってきているのですが、でもでも、締め切りに合わせてそこそこのものを書くのではなく、

「よし!突き抜けた!」と自分で思える感覚を大事にしたいと思っています。

なので、桐野真衣のその後を楽しみにお待ちいただいている皆様! 秋には出しますというお約束はちょっと遅れてしまうかもしれませんが、もう少しだけお待ちください! もう、ゴールは近いです!(今までの経験上)

以上、見苦しい言い訳のブログでした。

すみません。

頑張ります。

 

* 建日子は昭和四十三年(1968)年に生まれている。今年四十六歳になっている。建日子の生まれた翌年に、父であるわたしは太宰賞を受けて文壇へ招じられた。建日子の年齢は、ほぼこれまで父の外向き文学人生と同年齢なのである。その年にはわたしは初の新聞小説『冬祭り』連載を終えており、文学選集に入る主な小説の大方はすでに書き上げている。それらはわたしという人間を「根」にして生えだした樹木であり花であった。息子に向かい父が自慢し自賛しているのではない、一つ、言いたいのである、秦建日子という人間を「根」にして生えて出た樹木を書き花を書くようにと。迷い迷いながらでいい、「根」をみつめ「根」を育て「根」にこそ立ち向かえと。どのような売り物であってもいいが、秦建日子ならではの「根」から生え出たみごとな樹木を、花を、創れ。それが言っておきたくて、わたしは老境にも病身にもめげずに自身を励まし「仕事」し続けている。いまに仰天するような「エロセクスアリス」を、また現代歴史ロマンを、さらにおまえの実の祖父母の「人間」を再現してみせてやるつもりだ。

めげず、くさらず、我慢づよく、胸を張って頑張りなさい。

2014 8・28 154

 

 

* 「選集④」の巻頭「蝶の皿」は事実上の受賞第一作として、昭和六九年「新潮」九月号に、当時の新人賞受賞者たちの作と並べられた。黒井千次、坂上宏ないし亡くなった渡辺淳一ら十人ほどの作がならんだ。気のある人は、その号を実際に読み比べて欲しい。

此の作は、谷崎潤一郎の松子夫人との御縁を結んでくれた。

そしていま「廬山」を(入稿のために)読んでいる。「新潮」で何ヶ月も容れられず、癇癪を起こして「展望」へもちこんだ。あっと驚く翌月には掲載されて、即、芥川賞候補作とされた。滝井孝作先生、永井龍男先生に推された。受賞者は李恢成氏と東某氏との二作だった。李さんとは今も著書の親しい往来がある。小学館の文学全集にも採られた。

「選集③」はわたしの美術もので纏める。高校で美術コースの友だちと触れあい、大学では美学・藝術学を専攻し、作家になってもかなり旺盛に画家や工藝の名品を小説に書き論攷・論著も数重ねた。NHK日曜美術館にもひところは常連のように何度も出演し、あげく京都美術文化賞の理事選者を二十四年も務めた。「選集②」の「繪巻」も「選集③」の「畜生塚」「隠沼」「隠水の」も同じく美術との宴が濃い。「選集④」はわたしの愛執のひときわ濃い小説集に成る。わたし自身が楽しみに待っている。中には「閨秀」のように朝日の文藝時評全面を用いて賞賛された作も、福田恆存さんや梅原猛さんらとのご縁を生んだ長編「墨牡丹」も入る。

眼を労り労り読み進んで、無事入稿したい。来年のことをいうと鬼が嗤うそうだが、来年の一月か二月には出せるだろう。

2014 8・30 154

 

 

* とても気に入っている「NCIS」一時間を楽しんでから機械の前へ来た。もう日付が変わっている。

嬉しいメールが一つ飛びこんできた。

 

☆ 御本拝受いたしました

 

叔父上様 と今回もそう呼ばせていただきます。

急に寒い日が続きます。夫婦合わせて125歳という身には少々きつい夏のおわりです。

思えば叔父上のご本にめぐり合ったのは、上原謙と高峰三枝子の入浴シーンで一世を風靡した「フルムーン」のコマーシャルが流れていたころだったかと。たしか「二人合わせて80歳以上」が条件で、「そんなのいつのことよ」と笑いあった我々が、合わせても50歳に満たない昔のことでした。

思いがけずも第1巻をご恵贈いただき、嬉しくももったいなくも思い、開いて読むのは畏れ多いと、筑摩書房の「秘色」と新潮社の「みごもりの湖」なぜか2冊ずつあるのを読みかえしております。

家内いわく「死んで天国に持っていけるものは、ひとに差し上げたものだけなんだって」もしもそうであるならば、果たしてこの身が、この魂が、天でも地底でも持ち込めるものがあるだろうか・・父も母も送って久しく、「死なれる」ということの意味を叔父上の言葉で噛みしめたこと、まるで昨日のことのように思えます。息子も娘も一応は一人前の生活をしているいま、晩節をいかに「贈る側」として過ごすのか? 40年前には思いつきもしなかったこと、叔父上の言葉に考えさせられます。

お礼が後先になりました。第2巻、謹んで拝受。ありがとうございます。

HPにて皆様のお礼状を拝見しながら、さてどうしたものか・・・

お身体にさわらぬなにか美味なもの、記憶にだけ残るすぐに消えてしまうような儚い嬉しい香りを放つもの・・・そんなものを探し当てることができましたら、贈ります。あるいは市井の一職人にはかなわぬことかもしれませぬが。

奥様ともども、どうかくれぐれもご自愛くださいますように!   鎌倉  橋本靜一 美代子 甥・姪

 

* 稚いほどの年頃から天涯孤独ということばを知っていた。そして灼けるほどの渇望で「身内」を欲しいと願った。むろんフィクションではあるが、「選集②」の長編『風の奏で』は、そういう渇望をもっとも深々と書き取った小説、ある面からは最愛の作といえようか。

そんなことをいうものの、小説家に成れたわたしには、この数十年のうちにじつにたくさんな親身の人達を得ることが出来ていた。上のように呼びかけてくれる人ももったのである。わたしは本を売って蔵を建てたいなどとねがったことはない、わたしのような書き方では有りうべくないそれは妄念。わたしは小説を書き文章を書いてなによりも「真の身内」が欲しかったのである。そんな変テコな作家はほかにいないだろう、だから「騒壇余人」なのである、わたしは。リッチを追うような「ウソくさい」創作はわたしには出来ない、can not である。顔を合わしたことの一度もない上の「甥・姪」に感謝しなくては。いやいや、上のようなお手紙やお便りを下さる何方にもお礼を申さねばなりません。

2014 9・1 155

 

 

* 「廬山」を最頂点を過ぎた辺まで読み進んできた。亡くなった兄の北澤恒彦が最初に反応して手紙を呉れた。此の作は多くの人からわたくしの実父生母を慕って供養した(ような)作と読まれた。恒彦もそういうことをモノに書いていたし、ことに母方の親族であるらしき何人もの人から、また父方の何人もの人から、こういう作を書いているのだから、兄ともつきあえ、異母妹ともつきあえ、母の墓参りもしていないのは宜しくないことと、その後何度も手紙で責められた。なるほどさように読まれて自然なところがある。とはいえ、わたしの本音ではあくまでも作中のいとも稚い劉少年、のちの恵遠法師の思いになりきって書いていたのである。むろん、心をそえて読み返している今では実の両親を思わぬではない、が、百パーセントにちかくわたしが此の作で愛を傾けていたのは劉であり、その祖父母であり、彼の父と母とてあった。純粋にそうであったればこそ、山頂での幻想が生きた。わたくしの「南無阿弥陀仏」が書かせたしょうせつであって、余分な思惑は持たなかったから美しく書けた。永井龍男先生が「廬山は美しい作品である。美に殉じた小説である」と芥川賞候補作として選評を書いて下さったのも、なまじな思惑などを交えずに書ききったからであったろう。今晩、読み進みながら二度、三度、クグッと喉をついてくるものに負けたのも、まちがいなく劉少年への愛と共感以外の何でもなかった。

はっきり云ってわたしは「もらひ仔」として育ったことには繰り返し繰り返し作のなかでこだわり続けてきたが、生母や実父に眷恋の感情は結局の所ほとんど持たずに今日に至った。毎朝静かに挨拶しているのは、はっきりと育ててくれた秦の父母と叔母に向かってである。

実父母にもしこだわっていたなら、わたしがあかの他人の中からこそ「眞の身内が欲しい」などと望むわけがなかった。わたしを論じてくれる人の嵌ってしまいやすい見当の逸れが、そこにある、のかも。

 

* とはいえ、今日信太周さんのお手紙に書かれていた、死なせてしまった孫やす香のほかに、もう一人の孫みゆ希がいて、とても気になっている。完全に音信不通。立命館大学に入っているらしいとわかり、facebookにいるとも知れてわたしもfacebookに入り、妻と連名でメッセージを送ったのがもう何年か前。しかし、返信なく、しかも通信不可能になっている。本人一人の意思表示なのか、押村家の意志が加わっているのか、全く分からない。血縁というモノの虚しさをわたしは幼くからいやほど味わい尽くしてきて、いまなお同じ。幸いわたしには、心に育み抱いてきた身内がいる。寂しくはない。

 

* 「廬山」を読み終えた。その期の芥川賞候補にどんな他の作が挙がっていたのか、受賞した李恢成さんと東なんとかさんの名を覚えているだけだが、よほど毛色のちがった違いすぎたわたしの作で有ったろうと、かつての新人賞作家の新潮特輯のときと同様に今も思っている。これは西行に擬した偽書ともいわれる説話集の一節に想を得た創作であった。この当時までにわたしは浄土三経を繰り返し音読し頭に入れていた。浄土教の歴史的な流れもあらまし知識としてもっていた。ほとんど渋滞することなく書き進んだ。自信があった。新潮の編集部でさんざん絞られたその理由がまったく解せなかった。「清経入水」がはじめから新潮に拒絶されたので、えいくそと四冊目の私家版本の巻頭に入れ、その本と作とがめぐりめぐって「太宰賞」の最終候補のなかへ組み入れられたのだった。むろん新潮の酒井編集長に受賞を報告した。堺さんは電話口の向こうで一声「目をスッタかー」と叫んで、祝って下さった。ことほどさようにその当時もそののちも、わたしの作風は文壇の方向を左右している出版界の好みとは懸け離れていたと分かる。文壇の傾向は以前として私小説・日常身辺小説であった。「蝶の皿」「清経入水」「秘色」「廬山」などは悉く「異端」であって、好意有る批評家は口をそろえるように私のしごとを「異端の正統」といった難しい表現で後押しして下さったのである。太宰賞の先輩だった亡くなった吉村昭さんも、「秦産の太宰賞作、ぼくは分からなかった」とざっくばらんに笑って云われていた。むしろ今日只今の方が容易に読者に分かって頂けるのではないか。

2014 9・3 155

 

 

* 昨夜 寝る前に、山中さんに戴いた「三千盛」超特を、これも頂き物の祝盃で味わいながら、録画してあった小津安二郎最期の名作「秋刀魚の味」をしみじみ観入って、今朝黒いマゴの輸液からのあと、ほんとうにしみじみと観終えた。完璧に推敲された名文を読むような嬉しさで、志賀直哉への小津さんの私淑がよく分かった。一語一分のムダも、科(動き)白(ことば)にない。俳優たちに芝居をさせず生のままの「人」を写し取っている。しかも十二分に足りている。あの演技の上手い杉村春子にも完全に芝居を封じてじつに佳い。落魄の昔の教師先生東野英治郎にだけ存分に演じさせている。柳智衆、中村伸郎、北竜二のみごとな実在感、佐田敬二、岡田茉莉子の長男夫婦、ほんの一瞬のように出てきて美しかった有馬稲子、またいい味わいで素のままに生きていた三宅邦子の奥さんぶり、そしてもう何よりも岩下志麻の気稟の清質最も尊ぶべき美しさ愛らしさ、「バス通り裏」に現れた瞬間から大成を一瞬も疑わなかった確かな存在感。

小津映画を愛していると、世の映像・ドラマのなんという推敲不足のむだ沢山かに嘆息を禁じ得ない。

画像作家も、小説作家も、なんというムダを沢山に盛りあげて得意がっていることか。推敲こそが才能だとわたしは少なくも小説世界では確信している。むだを書くのは罪悪である。むだを書かずに豊穣の嬉しさを「作品」とともに静かに深く与えてくれる作者。生ける文豪が今日只一人もいないとわたしが嘆くとき、そういう幸福を恵んでくれる作を想い描いている。

(この日記は、書きっぱなしで、推敲のための時間を取っていない。総じて時間が足りないので。で、文としての仕上げは、本になるときに、と。)

2014 9・4 155

 

 

* 「新潮」に発表した「青井戸」を満たされて読み終えた。担当の小島喜久江さんが当時「もう少し長編だと芥川賞に推せるんですがねえ」と嘆息されたのを懐かしく想い出す。茶の湯は沢山な作で書いてきたが、この作でほどまっすぐに純潔に書いたものは無い。心底から澄み切った心持ちで謙遜に、しかも堪らなく喜ばしい思いでこれを書いた。記憶違いでなければ、この直後か直前かに川端康成が自死されたのではなかったか。

書いてよかった、書けてよかったと思う。むだな只の一行も書いていない。

茶の湯を小説に書いた人はむろん何人もいた。すべてわたしには物足りなかった。薄汚れて思えるものも有った。作と作品とはべつのもの。それをわたしは、はっきり、云う。

2014 9・4 155

 

 

* 小説の推敲をし、ついで「選集④」のための「閨秀」を読み校正し始めた。雑誌「展望」に書いた。その月の朝日新聞文藝時評で吉田健一さんが時評全面を用いて文字どおり「絶賛」してくれた。よく聞く言葉だが「文壇的地位」はそれで確かなモノになったとは上田三四二氏が文庫本の解説で書いた。昭和四十七年「展望」十二月号に発表した。受賞から三年余、まだわたしは医学書院の編集管理職として二足のわらじを履いていた。目が回りそうに忙しい毎日だった。

この作の命は、文章だと思っている。まだ吉田時評の出るまえに、ある日、唐突に平凡社の編集者だった出田興生さんが、「閨秀」に感心しましたと云い会社へ尋ねてきて呉れた。お土産ですと、背中に平凡社の宝物のような二册の「大辞典」縮册版を担いでいたのに感激した。いま新聞記者として頑張っている阿生ちゃんの、これが、お父さんだった。こんなふうに会社まで尋ねてきて呉れる編集者が次々に有った。

2014 9・4 155

 

 

* コンピュータという機械に本気でふれ始め書き始めたのは一九九八年だった、わたしは即座に感じた、老境の人には良い杖になる、幼いほどの若い人達にはかならず猛毒にもなるに違いないと。機会ごとにわたしはそう発言してきた。メール、ケイタイ、スマホ、ライン、ゲーム。幼いほど未熟な人達の機械環境がさながらの「毒」となっている。ことごとしい調査で、スマホ利用と生徒らの学力とのネガティブな関連をニュースは報じているが、そんなことは前世紀末に明瞭にわたしの予見に在ったこと。この機械環境に瀰漫した精神腐蝕の毒をどう処理するのか。政治のうつ手も心許ないが、子供らの親たちが頼りなさ過ぎはせぬか。

2014 9・5 155

 

 

* 昨日から、上村松園を書いた「閨秀」の校正読みに読み耽ってきた。まだ半ば。読めば読むほど、深い興奮に見舞われる。こんなにも能く書いていたかと、ほとんど客観的になれるほど行文にも表現にも満足できる。まさしく自己満足であるが、納得できる。總毛だってくるほどだ。呆れてしまうほどだ。

吉田健一さんほどの読み手が、朝日新聞の文藝時評全面を用いて好む一作を絶賛して下さった。なるほど、と、客観的に肯いてしまう。

松園の名を、わたしは小さい頃に秦の母の口から聞いて覚えていた。父親の知れない子を産んだえらい美人画家と。それに心惹かれた。わたし自信がその「子」であってもいいというほどの感激をもった。その余韻を胸に抱いたまま書いた小説、フィクションだったのだ。しかし浮ついた筆は用いなかった。完璧な「文学」の「作品」を熱望して書ききった。それでもあれほどに絶賛されるとは思ってなかった。読んで、分かってくださる具眼の人はあるのだという喜びが深かった。

2014 9・7 155

 

 

* 「閨秀」という小説の成るについて、大学で日本美術史の教えをうけた遠藤先生のことを忘れるわけに行かない。先生は教室で講義をされるよりも、京都市内外の寺社へ学生を連れて行かれて、主に障壁画を目の前にしながら教えられた。実地の恩恵は博大であった。作家になってからも先生の著書を身辺から放さなかった、その中に「祇園井特」の論攷があり、それを知らずに「閨秀」は書けなかった。

だが先生の論文に「松園」の名は出て無かった。わたしがかってに井特の写実とと松園の勉強とを結んで仮構した。

ところが、小説が絶賛を得て後日になり、それが、わたしの推量が、仮構どころが完璧に事実・真実であったことが実作によって「証明」されたのだった。松園女史一世の名作「天保歌妓」は、ほかでもない祇園井特の一藝妓図の、多年繰り返し勉強し尽くしての完成作であることをわたくしは実作によって発見し証明しえた。微塵の疑いも持てない井特のの原画と松園の習作、完成作は完璧に同じ絵姿、同じ現像を共有していたのだった。嬉しいことに、それはわたしの直観が見つけていたオリジナルの発見となった。松園の嗣子であった松篁さんも気付いておられなかった。

「閨秀」半分を読んだ。

わたしは、小説という作法・手法で「論じる」作者でもあるといわれてきた。この「閨秀」など、明らかに上村松園を論じもしながら「繪」という創造の魅力について論じていた。吉田健一さんはそこを最大級に賞賛して下さった。小説を書き起こして行く行為の中で新しい自分がまた生まれて来るという実感だった。本にしたい、売れて欲しいなど思わなかった。紙価を高めてリッチになりたいなら、馬琴や吉川英治やの亜流たちのように稗史を書けばよい。わたしは書かない。書けもしない。

2014 9・7 155

 

 

* 「閨秀」二の半ばへきて、老い病んだ母の床に共寝の松園をわたしは書いていた。おもわずクッと噎んだ。

自分のうみの母を恋しがって書いたのではなかった、松園女史の母親がこのわたしの「母」で、また松園さんその人がわたしの「母」なのであった。そういうふうにわたしは美しく心豊かな昔々の女人たちをわたしは好き勝手にこの人こそが「母」と思ったし、そんな気持ちで小説を書いていた。松園さんはちいさいころから「姉様あそび」のなかで「清純理想の女」を描き描き描いてきた。松園さんの遊びにまぢかい気持ちを生みの母をまったく憶えも知りもしなかったわたしは持っていたし、たぶん今ももっているのだろう。

2014 9・8 155

 

 

☆ 拝啓

季節の変り目、先生にはいかがお過しでしょうか。

前回第一巻、また今回も第二巻と、私家版の選集をいただき、ありがとうございました。 旧の志賀直哉全集にも比すべき紙質と読み易い活字の配置、大変貴重でまた高価なものと存じます。私蔵するのもいかがなものかと思い、勤務先(仏教大学)の図書館に配架してもらうようにしたく思っております。(但し箱だけは私がいただいておきたく思っています。)

恐らく末尾の「刊行に際して」は、今後秦恒平文学を論ずる時には貴重な発言になるかと存じます。

拝受のお礼が遅くなり申し訳ございません。

取り急ぎ御連絡と感想等述べさせていただきました。 敬具  三谷憲正  仏教大学日本文学科教授

 

*ここで、三谷さんの感想に添って、さらに次の岡田昌也さんの感想のうち重なってくる点にわたくし自身立ち止まっておきたい。三谷さんが、「恐らく(選集②)末尾の『刊行に際して』は、今後秦恒平文学を論ずる時には貴重な発言になるかと存じます」されているのは、跋文のよもや前半の自作紹介の部分ではないだろうと思う。後半の収束部でわたくしは、なんの説明も議論もなしに、次のように書いた。

 

それにしても今の日本文学に、鴎外に露伴に藤村に漱石に鏡花に秋聲に荷風に潤一郎に康成に由紀夫にあたるほどの人と作は、作品は、いったい、どこへ行ったのでしょう。

生ける文豪のだれ一人いない日本文学にしてしまったのは、さあ、誰なのでしょう。

作者? 読者? 批評家? 編集者? 出版者? それとも政治家? 機械かな?

いえいえ。それは、此のわたしです。

 

なるやうに なるも ならぬも なるやうに ならす鐘こそ うつくしくなる

 

平成二十六年七月二十七日 亡き孫やす香の命日に     有即斎  秦恒平

 

広義の文壇で働いて居られる諸氏がこれをどう受け取って読まれるか、考えもし、考えも、わたしは、しなかった。しかし本音をわたくしは書いていた。この行文に、はっきり立ち止まって注目して下さった、詩人で藝術至上主義文藝学会会頭の馬渡憲三郎さんら何人かの声をわたくしはしっかり聞き取れた。

以下に、敢えて全文を此処に頂戴する岡田昌也教授お手紙は、上のわたくしの文へ、よほど踏み込んだご感想のように読める。わたくしとしては有り難くもまことに気恥ずかしい箇所ばかりなのだが、ことを、わたくし一人の問題に限定することなく、この「うそくさい」時代に向かい深く考え合わせたいものを含んでいるようだ。繰り返し云うがこれはわたくし秦恒平独りの問題ではない、現代日本ないし「和をもつて貴しとした」聖徳太子以來の「日本人の問題」なのだと思う。

関連しての存念をお聞かせ願える方は、どうぞお聞かせいただきたい。

 

☆  拝啓

漸く清涼な季節となりましたが、先生にはお心持も新たに、日々ご精励の御事と拝しあげます。

又、此度は選集第二巻のご上木、おめでとうございます。

第一巻に続き、さらに格別のご厚意を賜わり、まことにかたじけなく存じました。「出版文化最後の光芒か」との賞賛ありし由、まさにわが意をえた思いです。見る人は居るうれしさです。

しかし、「それにしても今の日本文学に……人と作は、作品は、いったい、どこへ行った」のか、そして、「生ける文豪のだれ一人いない日本文学」になってしまったのは、一体どういうことなのか、との先生のご述懐は、また小生の永らくの自問自答と重なっております。  小生は、はるかの昔、先生のお作に出逢った瞬間、実は、なぜか、先生こそは、日本文学の正統を継ぐ、おそらくは最後のお方であり、まさににほんぶんがくの「最後の光芒」をまとう殿(しんがり)として登場なさったお方である、と直観致しました。その思いは直ちに確信となり、今日に至っております。

そして、それゆえにか、先生の全業績への不当な軽視、そして評価そのものを避けようとする雰囲気とその常態化。その結果としての更なる無視・異端視。黙殺……。そのような事態が、門外漢たる小生の単なる感違いならば それで構わないのですが、何ごとによらず直観で生きて来た小生としては 到底、そのようには思えません。 むしろこれは、そうではなくて、何か重大な病理、まさに日本の社会全体を覆い尽くしている 件の宿痾の一現象形態ではないのかと、暗然たる思いで居ります。

実は、小生、三十年以上前から、日本社会にはとんでもない業病が巣くっていることを直観し、それを”日本の宿痾 和の全体主義”と名付けて。その病因・病態について愚考をめぐらせて来ました。そして、それゆえに、先生のご達成への異様なる処遇(傍点)も、この宿痾の典型的な発現として診断・断定申し上げている次第です。

それはともかく、今やこの日本を覆い尽くしている宿痾の猖獗ぶりは目も当てられぬ惨状を呈しており、不肖 戦後民主主義の第一期生を自任する小生としては、日々、腸が煮えくり返るような無念さの只中に坐す思いです。戦後何十年もかけて、一体何をして来たのか、と。何もして来なかったにに等しいではないか、と。全く死んでも死にきれない思いです。

しかし、断じて魂を売り渡すことなく、そのくやしさをエネルギーにしてこの國の行末を見届けてやろうと思い定めております。

ついついつまらぬことを記してしまいました。御無礼、何卒おゆるし下さい。

先生におかれましては、一層のご精進の上、選集の完成をお目指し下さいませ。その完成の暁には、必ずや、あの栄誉が、ほんの少しですが小生も相知るあの司馬遼太郎先生が大いにためらいながらお受けになる決心をされたあの栄誉が、秦恒平先生のご達成の上にも訪れるにちがいないと、小生は確信しておりますので。なぜなら正真正銘の本物は必ずや評価定まり、正統も必ずや受け継がれてゆくにちがいないからです。

小生は、むしろ、先生の後のほうを危惧しております。

しかし、この点とて、先生の選集がそのゆるぎなき雄姿をを現すに到れば、その金字塔を道標として、いつかは正統継承の動きも生まれて来ることでしょう。そのためにも、何卒何卒ご専一に願い上げます。

乱筆乱文多謝。 不尽 九月九日朝   岡田昌也 拝   (神戸大学名誉教授 歌人)

 

* もとより甚だしく過褒に過ぎた申されようが混じって申しわけない仕儀ではあるが、問題点を今日の日本、ないしは歴史的な日本に押し広げ溯って思うなら、けっして過剰な批判はされていない。そしてわたくしの懸念も、もとより同趣旨の自覚や批判の上にある。

2014 9・12 155

 

 

* 「閨秀」を、読み終えた。「見事…絵と言葉の秘儀 ーー「閨秀」を読むーー」と題して吉田健一さんは文藝時評の全面を用いて賞賛して下さった。

2014 9・13 155

 

 

* 「閨秀」を読み終えたので、ためらいなく長編「墨牡丹」を読み始めた。この作に導かれて、福田恆存、梅原猛、立原正秋といった人達からこえを掛けられ、好意を戴いた。一九七四年八月末でわたしは医学書院を退社し、九月早々には新潮社から新鋭書き下ろしシリーズに「みごもりの湖」が出版され、同時に集英社の大判季刊誌「すばる」がこの「墨牡丹」を一挙掲載してくれた。二足のわらじを五年履いていたのをいよいよ独り立ちした忘れがたい祝砲のような二つの長編小説だった。まだ四十歳前であった。

2014 9・14 155

 

 

* 「選集③」初校赤字直しを再校ゲラで確認し終えた。各巻平均してほぼ460-70頁に及ぶと、大きなゲラを初校・再校ゲラを照合しつつ繰るだけでけっこう力仕事になる。再校ゲラを新たに読み通して、直しが少なければ責了へもちこめる。「選集」だけで校正読みと入稿のための読みとがいつも併行してくる。校正マンや編集者が見てくれるワケでない、すべて独りでやって行く仕事だ、そこがわたしの本領だろう。緒についたばかり。眈々と、また淡々と、しかし、踏ん張らねば。

わたしの仕事はそれで済むのではない。完全に併行して「湖の本」刊行の仕事が在り、ホームページの管理や「私語」の執筆もある。さらにそれらより重要な新作の長い小説をやすみなく書き継いでゆかねばならない。どれもみな独りで推し進めて行くしかない仕事であり、それがあればこそわたしは毎日を生きている。やめたいなどと思わない。へんな呼称だが吾が「作業禅」である。

2014 9・14 155

 

 

* 快調に、妻に贈った長編『墨牡丹』を読み進んでいる。こんなのが読みたいと思ったとおりに書けている。自己満足というとひとは嗤うが、わたしは、自分が嬉しいほど満足できるように出来るようにと小説を書いてきた。他人様のためにためにと書いていたのではない。そのとおりに書けていて何十年昔に書いた作が今でも自分に嬉しく書けていることに満たされている。幸せ者ではないか。

2014 9・15 155

 

 

* いま再校している「誘惑」は、作中作の題でもあり、全体はフクザツな構成になっている。

今日の芝居も、「小説に書く」という狙いが青年にあり、事実小説は書かたのである。

わたしの「誘惑」は、初校難航して、ついには一度投げた。その時の題は「鱗の眼」だった。鱗の眼で書かれてはならない作だったのである。それで書き直した。頭にあった大事なものは「身内」を問うことだった。今日の芝居でも、同じ所へ作の思いは届いたのだとわたしは観た。それで拍手を惜しまなかった。

それにしても(わたしのいわゆる)「身内」というのは難しい。もうずっと昔のこと、「秦さんの身内にして下さい」と言う人があらわれ、驚いた。惘れた、という方が当たっている。やくざの親分子分であるまいし。「島」について書いたことは、繰り返し何度もある。いっとう古いのは「畜生塚」。

2014 9・19 155

 

 

*  「墨牡丹」を半ばまで読んだ。華岳を介してかなり自身を描こうとしていたことに、あらためて、気付く。思うさまのびのび書いてムダは無い。小説、それも長編を書ききるには、若い気力と体力と想像力とが要ったのだと、つくづく思う。書いて置いて良かった、ほんとに良かった。

2014 9・20 155

 

 

* ずっぷり自作「墨牡丹」世界にひたったまま、いろんなことを想っている。

「選集」を始めて、いまのところ、読むのもイヤなと思う自作に、幸い出くわしていない。まるで誰かが書いてくれていてそれをこころよく面白く打ちこんで読んでいる、満たされているという心地でいる。自己満足と人は嗤うだろうが、どうぞ御勝手にと。わらわれるのには慣れている。書けるなら書いてご覧なさいと思っている。

作は作。その「作」に「作品」が備わっているかどうか、わたしが気に掛けてきた最高至難の課題は、ソレだった。「作品」の備わらないシロモノを平気で作品作品と自称し他称しているから、文学は根から崩れてきた。お上品にという意味では決して無い。「作品」を「作」に備えてなくて文豪と呼ばれたような人はいないのだ。材料としては下品に属するものを観て扱って、しかも立派な「作品」の豊かさ美しさは紛れもないという「作」の書ける人。藝術家と謂うに値するの作家とは、そういう作家のことだ。

 

* そういう作家が余りに少ない。その責任は「書き手」にだけあるのか。

ちがうだろう。

本や雑誌に触れる一人一人の例外ない「あなた」に「責任」がある。それを一人一人の「みな」が忘

れて、グウ(感性・良い趣味)もエスプリ(知性)も棄て果てている。文学の質は、当然崩れてきている。

エンゲル係数などというのに倣って、熟さないが物言いだが「文学係数」と謂ってみようか、「読み本」に触れる(=関わる)一万人のうち、今日の文学係数(いい文学と作品を愛し理解し希望し続ける、いわばいい人の数)は、限りなく一万人中の「ゼロ」に近い。

古事記や万葉集の時代は、また土佐・伊勢・源氏や和歌集の時代には、それがよほど低めにみても七千人を上回っていて、時代を経るにつれて低減の一途を辿った。

けれども、露伴・鴎外・藤村・漱石・一葉らの時代にはまだ二千人近く、鏡花・秋声・荷風のころでも千人に近く、直哉・潤一郎・芥川の時代でも、三百人近くはあったろう。

しかしそれ以後は読み物や週刊誌やマンガ・劇画やテレビの安物ドラマなどの、また優れて佳い映画を含めての影響下に、文学係数は一万分の一をもぐんと下回り、「文学」はほぼ有りそで無いに等しい今日を「絶息に近く」過ごしている、そして、その現実から目を背けて低俗をいとわず持ち上げて満足しているのだ。

わたしは、優れた映画を観、面白い歌舞伎や演劇を愛好しているが、この二、三十年「文学作品」にはどうお目に掛かりたくても、ほとんどお目にも掛かれないのだから、どうしようもない。

わたしは太宰治という「人」には近寄らないが、太宰治という作家は敬愛している。なぜなら、彼太宰治は、あのように人生を乱暴に小心に終えたけれど、作家としては「文学」を守り抜き、くだらない読み物は決して書かなかった。「伝説」になり得たほどの文学作品を幾つも遺して逝った。周囲の出版者、編集者、批評家、また読者らの質を貶めるような仕事はしなかった。

そういう作者こそが「必要」なのではないか。この機械的に堕落しきった低級現代にあって、せめて一万人に一人ぐらいは満たされて「文学」に志し深く関われるそういう日本現代文学でありたいものだ。

2014 9・20 155

 

 

* こんなに自作の小説を自身で「読む」日々が来るとは、正直、まったく思わなかった。もう「湖の本」で通過してきたことと。

ところが「選集」という時機がきた。わたしは内心に「夢」かのように想っていたけれど、口に出したことは無かった、それを妻が口にしてくれた。ちょうど一年ちかく前か。「お」と思い、「いいのかい」と思った。

それからは早かった。すでに第一第二巻を創り出し、第三第四巻が進行しつつある。今年中に三巻、来年もまだ真冬のうちに第四巻まで、すべて「代表作」として責任もって刊行できる。来年のことを言うと鬼がわらうそうたが、ま、わたしは嗤われることには慣れている。とにかくも納得の行く作をならべ続けて、心ある人たちにそれらの作に「作品」の有無や是非を率直に問いたい。

第三巻は、昨夜から長編「慈子」再校を読み始め、第四巻では長編「墨牡丹」の原稿読みを続けている。

はっきり言って「慈子」の愛読者が作家秦恒平の「いい読者層」を形成したとは、何人もの編集者からも読者からもよく言われてきた。「畜生塚」「慈子」がわたくしの文学・思想の「原点」だった。そして「閨秀」「墨牡丹」が、ことに後者が、わたくしの「藝術・創作・美・文学」への「思い」ないし「方法」の追求だった。渇くほどの追求だった。

わたくしは、文学的には一度も誰とも「群れて」歩かなかった。優れた先達への敬愛が唯一の羅針盤だった。孤独を自身に科してきた、が、決して孤独ではなかった。優れた先達や読み手の大勢に親切に手を引いてもらえた。その最初の象徴的なあらわれが、天から舞い込んできたような「清経入水」への太宰治文学賞だった。石川淳、井伏鱒二、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫。この選者先生方が満票で、手をとって引き上げるように全く無名で独りぼっちの私家版の書き手を見つけ出して下さった。いらい無数の知己を各界に得てきた、そして、「いい読者たち」をも。

売りたくて書いた作をわたしは持っていない。書きたい、あるいは書けた、という仕事で生きてきた。

だがそれらを自身で克明に読み返し読み直す日の到来は流石に思い描きにくかった、が、いまそれが、いやそれも、「仕事」として毎日取り組んでいる。そればかりか新作の創作も、思いの外に今日のわたしの日々を賑わしている。

わたくしの「レータースタイル(晩年の作風)」がどう開花するのか、じつは誰よりもわたくし自身がたのしみにしている。

 

* こんなわたくしをわらわずにおれない人達、さぞ多いだろうが、大いにわらわれたい。できれば、わたくしの作と作品とを読んで批評しての上で大いにわらわれたい。わたくしも、おおわらいしているのだから。

 

* 昨日書いた文学係数という言い方で示した数字、でたらめを放言した気ではない。

 

* 「墨牡丹」六章の四章まで読み進んだ。

わたくしは、よく、作中人物に「化(な)る」と書いてきた。この長編でわたくしは必至に自らが村上華岳に化ろうとし、村上華岳のなかへ、わるいことばでいえば巣食うように食い込んで書いていた。数十年、いま、それがありあり分かる。雑誌「すばる」そして集英社本では五章で脱稿したが、のちに六章百枚を書き足した。その願いの意味が、きっともっとわたしにはよく分かるだろう。

なんとしてもこの第四巻までは最少限、選集の体で遺したい。

 

* 「慈子」第一章を再校し終え、第二章に入った。一日にもう四十頁ずつ読めれば、「選集③」は責了へもって行ける。「選集④」は「墨牡丹」を読み終えてももう一作「華厳」を、場合によっては、さらに一作「鷺」を読まねばならないかも。③はいわば恋愛小説集、④は美術・藝術家小説小説集になる。

もう「読む」には、目が見えない。テレビにも惹かれない。音楽を聴きながら放心していよう。

2014 9・21 155

 

 

* 「墨牡丹」五章半分まで読んだ。ああこれは華岳を頼みつつ此の自分を書こうともしていたんだと、しみじみ想う。珍しく「妻に」と献辞を添えた気持ちもこころよく分かる。読み上げるのにほぼ今週中かかるだろう、けっこう長編だ。

思いの外に長編小説を書き残してきたと思う。

新聞三社に連載した「冬祭り」 雑誌「世界」に連載した「最上徳内=北の時代」京都新聞に連載した「親指のマリア=白石トシドッチ」がほぼ同じ九百枚ほど、ともに書き下ろし新潮社の「みごもりの湖」筑摩書房の「罪はわが前に」が六百枚余、それに「墨牡丹」「慈子」「秋萩帖」「秘色」また三部作の「迷走」二部作の「逆らひてこそ、父」それに書き下ろしの「お父さん、繪を描いてください」も「あやつり春風馬堤曲」も長いし「凶器」はとくに長い。むしろこれらと比較して、短篇・中編の数が少ない方なのかもしれない。

この先、読み直し読み返して、しみじみ心ゆくかどうか、楽しみであり恐くもある。願うことは、それを思い知るためにも元気でありたいこと。

2014 9・22 155

 

 

☆ お元気ですか、みづうみ。

九月十二日の岡田教授のメールを拝読し、みづうみに書きたいことが色々ありまして、どのように書こうかと悩んでいるうちに、「湖の本121」の御礼もまだ申し上げていなかったことお詫びいたします。振込もすませておりますが、ご連絡遅れ申し訳ございませんでした。老人も私自身もちょこちょこと具合が悪くて、病院通いもあり忙しく過ごしていました。

昨夜のメールでは、もったいないお言葉いただきました。ありがとうございます。

もしご本いただけますなら、湖の本の小説全冊はすでにいただいておりますので、ゆくゆくはエッセイを全冊いただければと思います。湖の本を広めるために使いたいので、将来的にはわたくしの手許には残らないでしょう。なかなか大胆な厚かましいお願いしていますね。すでにお嫁入りした湖の本についても、いずれ補充したいと考えています。

新刊選集は保存のための美術品のような本、湖の本は線をひいたり、書き込んだりして徹底して読みこむための本、そしてもう一冊の湖の本は秦恒平という文学者を世界に紹介するために誰かにプレゼントする一冊と考えています。

わたくしはすべての作品について三冊ずつほしいという欲張りな読者です。舌切り雀の欲張りばあさんのように、地震で逃げ出すときに大風呂敷にみづうみの本ばかり運ぼうとして腰を抜かしかねません。というわけで、じつはみづうみの全作品を保存したディスク、あるいはメモリもほしいと目論んでいます。こちらについても是非製作頒布をお願いいたしたく存じます。

「校異」という作業がどのようなものか無知ですが、もしみづうみの原点ともいえる『畜生塚』をやらせていただけるとしたら身に余る光栄です。

校異は、唯一みづうみご自身の手による『清経入水』のそれを拝見した経験しかありません。一字一句追いかけて決定稿までの変移を私家版、推敲版と比較しながら地道に調べ、丹念に記録するという理解でよろしいでしょうか。わたくしなら、この作業を楽しんでできるでしょう。みづうみにご満足いただけるほど完成度の高い、ミスのないものができるかどうか、まして業績になるような立派なものができるのかは甚だ疑問ではありますけれど……。せっかくみづうみからご提案いただいたお仕事を、わたくしが受けないはずはありません。喜んでお手伝いさせていただきます。自分にみづうみのお役に立てる力のありますことを祈るばかりでございます。

岡田教授のメールを読んで考えたことなどについては、そのうち別便にてお送りしたいと思います。

どうかどうかご無理なさいませんように。健康第一です。

袷   秋袷身を引締めて稽古事  虚子

* 自分では、したくても出来ない。それ以上の「仕事」で時間も体力もとても足りない。しかし、欲しい、在れば有り難いという課題も気が遠くなるほど沢山ある。もしや頼めるなら頼みたいと思い、頼んでみた。何万枚にも多岐にわたる十数年の「全私語」をともあれ科目別に分類して「箚記」に手がかりを付けて頂いたこの人に、とりあえず一つ頼んでみた。最初の私家版、その推敲版、「新潮」版、「筑摩」文学大系版、湖の本版、今度の選集本版。少なくもこれだけの版本での変移を経過を追って対照的に表覧に仕上げるのは、たとえ興味深くても、なかなか気骨の折れる時間も掛かる難行になる。句読点一つの変移すら、誤植すら見逃せない。もしも幸いに清書以前の「草稿・原稿」妻の「清書稿」までが見つかればもっと徹底する。「畜生塚」は少なくもわたくし自身にとってそれに値する「原点」であるに相違ない。

手許に在る自著や湖の本が、愛読して下さる読者のためにすこしでも役立つなら、惜しみなく手渡して行きたい、もうそういう時機にさしかかっている。

2014 9・23 155

 

 

* だいたいが、料理を食していても、和にせよ洋にせよ食べようとする所へ人が現れ、これは何、これは何をどうしてと、食材の名や料理法を教えてくれようとするのが好きでない。覚えられるわけなく、べつに覚えたくもない。食って美味いかどうかだけの関心しかない。

で、何が言いたかったのか……忘れてしまった。こういうことが多くなった。気にしていない。としを取っただけのことと。

 

* 「墨牡丹」六章に入っている。もしかして秦恒平の人と藝術とを思ってくれる人があれば、他のどの作よりも「墨牡丹」を読んでくれればいいとさえ思う。遙かに高く及びもつかぬ村上華岳であるが、成ろうなら斯く在りたいと念じながら書いて書き上げた一作だと、謙虚に思う。藝術への、時代への、人間への批評を華岳のせかいを借りながら真実吐露している。いま、隣の棟にもこっちの書庫にも何冊も蓄えた大小の「村上華岳画集」がしきりと恋しい。

2014 9・23 155

 

 

* 「選集④」に、予定外にもう一作短篇の「鷺」が入るかも知れない。巻頭「蝶の皿」は清朝精磁の名品、「廬山」は晋の名僧恵遠の来迎図、「青井戸」は朝鮮の名陶、「閨秀」は上村松園の畫境、「墨牡丹」は村上華岳と國畫創作協会の俊英たち、「華厳」は明末朔北の大壁画、そして「鷺」は神秘の漆藝存星盆と名筆鷺繪の不思議。

審美小説の粋をあつめた精魂こめた一巻として送り出せる。だれよりもわたしが心待ちにわくわくしている。

2014 9・23 155

 

 

*  書き継いでいる一つの長編に、夢の中で漢字二字の好題を得て、ああこれに小さく「ヰタセクスアリス」と副えればキマリだと喜んだ。書き留めておこうと思い思いしているうち忽然として忘れ果てている。悔しい。二字のこと、また忽然と思い出せますように。いまいまのことは惘れるほどよく忘れる。

2014 9・24 155

 

 

* 先頃から、同じ眼鏡ケースを二度見失って難渋した。不安だった。一度目はさんざ捜索のあげく、妻が、わたしの極く身の側のばからしいような物蔭から、ひょいと拾い上げてくれた。満杯のダンボール函の蓋の片平が外へ開いていて、その下に落ちていた。二度目も、難渋のはてのはて、まさかそんなところにはと思うソフアの足元、かけ流してある敷物の蔭に落ちていた。どうしようもない。

 

* わたしはモノの保存保管を大事に考える方で、ことに仕事に関係したモノは大切にしてきたつもり、まして大昔の私家版は残部が少ないと分かっているので気を遣ってきたつもり、なのに、いま、B5雑誌大「畜生塚・此の世  菅原万佐」の残部が見つからない。なんとなく多年のうちついつい人に差上げてしまっていたのだろうか。これは困った。よう見つけないだけか。それだといいが。しかし在ってももう数册というアタマはあった。しかもポツポツと流出しきったのか。

詳細に墨で手を入れた推敲版の一冊だけが手許から放さず残してあった。これだけでは、原稿が読み取れない。参った。

 

* 「墨牡丹」六章で土田麦僊が亡くなった。くっと、こみあげた。軍も文部省も絵画制作を国策に沿わせようと割り込んでいた。麦僊は心労の腐蝕性に潰えたのだ。村上華岳にも、いよいよ仏から山を経て墨牡丹の最晩年がせまる。

2014 9・24 155

 

 

* 「墨牡丹」 もう八、九頁で読み終える。

わたしは、こと文学・藝術・創作に関わっての遺書を書く必要がない。「妻に」デティケートしたこの「墨牡丹」こそ作家秦恒平の遺書に相当することを此処に明記しておく。後の人は、成ろうならわたしの作品を読みまた村上華岳のいい画集を手にして彼の作品を敬愛して欲しい。

2014 9・26 155

 

 

* 「墨牡丹」を読み終えた。これは作家である私の「所信」であり「遺言」であり、また最良の藝術家小説であり、かつ愛妻小説で恋愛小説である。たとえ私小説を以てしても、こうはわたくしは私を表明・表現出来ないだろう。

次いで「華厳」を読み始める。井上靖先生等と中国政府に招かれて初めて行ったとき、朔北雲崗を訪れた。そこで観た上華厳寺大雄寶殿の大壁画を、帰国後すぐに小説にしたのだった。あの旅では、作家代表団長井上先生のほかに伊藤桂一、清岡卓行、辻邦生氏らが小説家だったが、帰国後すぐに小説を発表したのは私独りだった。手練れの読み手であった人が何人もこれこそが文学小説というものです、好きですと言われた。伊藤桂一さんには、ボクらだとこの小説一作から三つ四つの作をつくります、もったいないほど中身が濃いと言われた。批判とも賞讃ともきこえて面白かったのを忘れていない。日本の作家が純然の「創作」としてこういう書き方をされた先人の例をわたしは知らない。

 

* 「華厳」半ば近くまで読み進めた。烈しい戦乱悲劇の舞台であり、そこに生きる美の世界を書いている。清に圧倒された明の遺臣の物語とも謂えるが、主人公の世界を包むのは美、美術。

2014 9・27 155

 

 

* 横綱白鵬、さすがに堂々と新人逸の城を投げ転がした。さぞやみながホッとして喜んだろう、但し波瀾が静まったのではない。明日、逸の城は大関琴奨菊と闘い、白鵬は横綱鶴龍との千秋楽結びの一番を闘う。油断無く横綱に敢闘してもらいたい。

美空ひばり、坂東玉三郎、白鵬との同時代人であったことをわたしは喜びたい。谷崎潤一郎は惜しくもわたしが作家になる少し以前に亡くなっており、ほかに同時代人として生きてきたのを喜べる偉大な作家も画家も人文学者もわたしは知らない。

2014 9・27 155

 

 

* わたしはもう「残年・残日」を胸の内で数えながら、どこまで自分の仕事が追いついて行けるだろうかと、もう、それのみを思い願って暮らしている。人手を頼むことは、所詮はむりであろう、となると、仕事を選別するしか無い瀬戸際に来ている。

 

* 湖の本にしてもう四頁で「華厳」読み終えるのだが、まるで眼が見えない。明日には確実に読み終えて、とうどう「選集④」の入稿作業に取り組める。質・量とも最良の一巻になるだろう。

掌説を含む「短編集」 また「冬祭り」「最上徳内」「親指のマリア」等の長編集、が念頭にある。あせらず、慌てず、最良の一巻一巻をめざして進みたい。

それにしても「華厳」 なんという烈しい物語を書いていたことか。読み返しながら震えていた。「廬山」との姉妹編であることがはっきり読み取れる。それでいて独自の物語世界を創り上げている。

2014 9・28 155

 

 

* 「秦恒平選集」第四巻 全作入稿。「蝶の皿・廬山・青井戸・閨秀・墨牡丹・華厳」 入稿原稿を丁寧に読み終え、これこそがと思う甲も乙もない秦恒平「選集」になった。陶藝、繪画、茶の湯の美しさ豊かさそして藝術家たちの神髄と代表作を、しみじみと物語っている。

わたし自身驚いたのは「華厳」だった。大同へ入ったのは真冬の二日間。一日は雲崗を見学し一日は華厳寺壁画と炭坑を訪れた。予備知識は皆無だったが、帰国して即座にこの小説をかなり手早く書き上げた。亡国と藝術・文化・国民の悲惨な運命を直観していたのだろうか。わたしの胸の内に、いまもこの深い恐ろしい怖れが「現実」のものとして息づいている。法隆寺、百済観音、薬師寺、東寺、平等院、源氏物語絵巻、雪舟、等伯、光悦、宗達、光琳等々、等々の運命を思い哀しみ、なんとしてもなんとしても戦禍と征服の暴虐に遭いたくないと願う。

 

* さて第五巻にどの作を入れるか。四巻までは籤とらずに考えてきたが。

 

* のほほんと休息もしていられない。次へ、次へ、残り少ない命を生かさねば。

とはいえ選集 ③責了 ④入稿 という大仕事を一気に終え、肩の荷はいっとき軽くした。久しぶりに上野の博物館本館か東洋館をゆっくり歩いてきたい気がする。鶯谷「公望莊」の蕎麦で酒もいい。山をおりて上野「天庄」の豪儀な天麩羅もいい。

2014 9・29 155

 

 

* 「脱原発文学賞」を提唱しているらしい加賀乙彦氏を「長老格」とした「脱原発社会をめざす文学者の会」から、会報と勧誘が来た。常任幹事である村上政彦氏の報告を読んでみると、この会は、集まって「一時間ぐらい」は「これからの活動について」打ち合わせ、二次会に転じて「馴染みの酒場で」酒を飲み、加賀さんの話などを聴くのが愉しいというのだ。

わたしは、癌を抱えた術後のからださえ保つなら、反原発デモにも参加したい、行動したいと願っているが、「脱原発」を肴に飲み屋で「長老格」のオハナシが面白いという程度の会にも会合にも、乗り気にはなれない。集合している文学者の顔ぶれも「常任幹事」十一人しか分からないし、具体的な活動の意図も計画も目標もテンと分からない( 会報第二号) 。

大江健三郎氏は、決して元気そうでもないのに、街頭で檄をとばして大勢の市民に反原発を訴えてられる姿を、昨日もテレビで観ていた。頭が下がった。

そもそも、「反・脱・原発文学者の会」が本当に必要なら、もっと熱心に、ペンクラブや文藝家協会を基盤に組織化したいものだ。酒に興じながら「脱原発文学賞」をつくろうよなんてことが肴になっているのでは、どうにもピンと来ない。

それぐらいなら、みながみな、力を尽くしてわたしが出した『ペンと政治』「二の上下」ほどの熱の籠もった告発を、倦まずたゆまずすべきであろう。

おなじなら、わたしは大江さんの行動力にこそ追随したい。できれば、もっと広く強く文学者・編集者・記者たちは結集すべきである。

2014 9・29 155

 

 

* 選集と湖の本の手が空くと、嬉しいほどいろんな「仕事」に触れる。本も読める。

新聞小説を読み返すのは苦労かなあと思っていたが、とんでもない。やめられないほど面白くてずんずん読んで行く。思えば久しぶりに「冬子」に逢うのだ、数ある自作フィクションのヒロインでだれを身内として真実愛しているかとなればわたしは答えられない。甲乙無く、むしろ同じ一人にちがう名を名乗らせているのだと無茶を言うてもウソとは思っていない。それでもこの『冬祭り』の「冬子」がわたしはいとおしい。愛おしい女性と出逢いたいが為にわたしは小説を書いてきたのであり、他に難しい理屈など、じつは、もってもいない。作が作品を喪いさえしなければ文学としては用が足りている。現世では妻と所帯をもってともに生き、夢の世界で愛おしい女たちを尋ね続け捜し続けている。そんなアホなことを思って小説を書いている作家はいないだろうから、だから、わたしは「騒壇餘人」と自ら謂い、そしてその実その「騒壇」なる世間と人と作物とを概して「ウソクサイ」と眺めてきたのである。

『冬祭り』ソ連の作家同盟から招待の旅立ちまえに、いきなり、はるかモスクワからその「冬子」ならではの「サイン(合図)」が届いてきた。読み進めずにおれない。「畜生塚」の町子、「斎王譜」の慈子、「清経入水」の紀子、「みごもりの湖」の菊子(直子)「隠沼」の龍子、「隠水の」の彬子、「誘惑」槇子らの全部が「冬子」に化(な)ってまた現れくる喜ばしい予感。その予感こそが、そういう「身内」への愛こそがわたしの創作意欲なのであり、繪空事の不壊の値いなのだ。なんとも幸せ者なのだ、わたしは。

そのようなわたしが、三十、四十、五十でなくて、いま八十に近づきつつも同様に小説を書き続けているとは、どういう「こと」であるのか。どんな「ヒロイン」がなおわたしにどう現れるのか。

いまこそ、ひとつは「セックス」を介してヒロインを創り出さねばならないし、また「ロマンス」を創り出さねばならない。年寄りにはそれしかない。中村光夫先生が文学は「老年」のものと謂われていたのを、わたしはわたしの根性で実験するのである。

なにをわたしは試みているか、今。少なくもひとつ、役に立つか立たないか、いま、ある歌舞伎の舞台にわたしは夢を添わせようと恋しいほどの「京」を文学の深い闇の中に眺めている。

 

* 生母の生涯を賢明に追いながら敬愛する上田秋成を終始念頭に置いた八百枚「生きたかりしに」も、妻が懸命のガンバリで三分の二ほども電子化できてきた。講談社で書き下ろしとして依頼されていた作だが、わたしの方でむしろ引き下げた。それでも早い時機に「湖の本」へ入れていて十分成り立っていたなと今にして惜しかったと思う。不運な作になった。ま、それでもまだ間に合うだろう。文章としての推敲はほぼ十分に出来ている。読み直していくらか手を入れるとして、どこへどうという懸案がのこるだけ。

 

* 藝術至上主義文藝学会の馬渡会長から、「原稿・雲居寺跡」も読めるようにして欲しいと言われている。あまりに昔の原稿で、この先どこへ物語が展開して行くのか、わたし自身が記憶していないまま電子データにしつつあるが、和田義盛の和田合戦などにもう触れている。和田義盛は、歌舞伎の「近江源氏先陣館」で北条時政と対峙の君に佐々木盛綱ないし高綱らと気脈を通じていたように描かれている。わたしの「原稿・雲居寺跡」もどうやら都や近江國を語りつつ関東の和田義盛方との縁の濃さを表しつつあるようで、わたし自身がはらはらしている。

 

* 密かにでも電子化しておきたいと思う原稿やノートの多いことにいささか惘れている。年をとってしまったなあと悔いの傷みものこるが、やすやすとひとに頼める仕事でもない。頼めるとしたら全面的にその人を信頼して任せるしかないが、そんなことは空頼みでしかないだろう。

こんなとき、朝日子が間近にいて信頼できたならと、つい悔しくも思ってしまう。

2014 9/30 155

 

 

☆ 今週は

謡曲の先生と弟子たちとで岡山から四国へ謡蹟を訪ねる旅行に出かけました。岡山で「藤戸」を訪ねて、屋島へと。

途中、讃岐の白峯御陵を参拝しました。本当に険しい山の中をくねくねとバスで登り、後は急な階段を息を切らして。

崇徳上皇の怒りも、西行の訪ねて行くときの寂しさ。懸命の思いも身に染みるようでした。

二人の歌碑が山道に点在している坂道があるそうですが、白峯御陵へ回ってほしいと強く希望をしましたので、時間もなく行けませんでした。

「雨月物語」をもう一度読み直してみましょう。

宮内庁が管轄しているので、整然としています。がやはり寂しそう。

勝手なおしゃべりをしました。くれぐれもお大切に。 練馬区 晴

 

* せっかく白峰ゑ行かれるなら、雨月物語よりも遙かに、わたしの小説「繪巻」を読み直して行かれるとよかった。西行が崇徳院の御陵へ参る根源には院の生母、保元の乱起爆の元素をなした待賢門院璋子への思慕が何より深くあったから。「絵巻」はその崇徳院の母、しかも崇徳院を滅ぼした後白河院の生母でもあり、西行の複雑な思いを知るには、深く先だってやはり「絵巻」に書いた真情を読み取っていただけると有り難い。上田秋成の「白峰」の或る意味の薄さは、待賢門院の人がフィクションとしても読み取れていないところに在る、と観ている。

2014 10・3 156

 

 

* この数日、日本の形と心を具体的なさまざまな形象に寄り添うように思いも考えもし続けてきた。文字(漢字)を通して「日本を読む」という連載を三年も続けたことがある。わたしのエッセイの中で、あとへ遺したいと思うひとつであるが、ものの形を通して日本を想う作業もヒントに富んで面白く有益だった。思いを「短く」煮詰めて文章にして行く仕事、わたしは好きなのである。その最も短文で多年書き継いだ記事ものに東京新聞夕刊の「大波小波」があった。書いていた本人もびっきりするほど長期間、幾百も、書いていた。それもいずれ纏めてみよう、匿名欄であり、匿名でこんなに烈しい批評を書いていたかと顰蹙されることだろうが、「落首」は太古から存在し、天声人語の働きもしたのである。無くなることはない。

 

* 秦の父からかすめる程度に習った謡は、たった二つ三つに過ぎなかったが、「花筺」も「東北」もろくに謡えはしなかったわりに文学としての詞からは多くを恵まれたと思っている。「東北」は梅花に心よせる和泉式部の「花ごころ」を謡っている。あげく「和泉式部は成等正覚を得るぞ有り難き」と謡い納められて行く。「花ごころ」を「色好み(コケティシュ)」と同義に読んでいいかは措くとして、すくなくも男女を問わず「花こころ」とは「夢見心地」の域にあるものだろう。ひいては今生を迷いつ惑いつ生きているのもわるい夢だと昔の人は夢から覚めたいと、少なくも仏教の建前からは願い続けていた。願うというその事がそのまま「花こころ」のままとしか見えない例が

数の和歌に創られているが、世は末世に及ぶにつれて夢から覚めねばという思いが真剣度や苦痛度を増してくる。千載和歌集に比較的注目してきたのは、その辺を想うからであった。

もっとも、「美しい佳い夢なら覚めないでいたい」と願う人も、いる。小野小町は和泉式部に先立って「花ごころ」の最たる女人であったが、代表歌のたいはんに「夢」の文字のみられるのがこの人の特徴であり、しかも「夢」から覚めたいと悶えるよりは、むしろ「夢」を見続けていたいと歌っている。

今今を生きる人にも、「美しい夢なら、成等正覚の有難さよりもいっそ覚めねばと願ってしまいます」と洩らす人も、現実にいたのを知っている。稀な願いではあるまい、むしろ大方の願いはこういうことなのだろう。小町や和泉が正覚を得たかは知らない。二人とも零落の末路が伝説化されているけれど、彼女らの幸不幸を浅はかには推量できない。帰ってくるところは、では、自分はどうか、というに尽きる。

2014 10・5 156

 

 

* 「畜生塚・此の世」私家版が、どうしても見つからない。「畜生塚」だけでよく、やはりコピーを二通お願いしたい。

 

* 『冬祭り』は、第五章「ハバロフスク経由」モスクワ空港へ着陸した。われながら不思議なほど、「冬祭り」の人達は生まれる以前からのほんとうの身内・きょうだいのように(わたし自身には)リアルに感じられる。この感覚は中学時代に覚えた。いまも忘れない。読み進めるのが嬉しい。やはり、現代の怪奇小説と言われただろうが、その通りと胸を張ろう。

 

* 街歩きしたと思っていた、天気も上々に回復していた。が、その気になれなかった。なによりも視界がぼうと滲んでいてはきぶんもわるいし危ない。貧血が戻っているのか、それも目のせいか躯がゆらってする。雨に濡れたきもちのわるさも加わっていて、これはもう無理にも仕事をして過ごすしかなかった。

折しも、「選集④」の前半初校が出てきた。「蝶の皿」「廬山」「青井戸」「閨秀」と。後半に長編「墨牡丹」と「華厳」が出てくる。この巻は、まちがいなく、わたしの文学作品選の粋を成すだろう。見えない眼を見開いて校正に努めよう。

2014 10・7 156

 

 

* いきなり当選とは思わぬまでも厚く応援してきた「憲法九条を守り続けた日本国民」へのノーベル賞受賞は期待していた。日本国の象徴天皇・皇后お二人にぜひ授賞式に出て頂きたかった。

 

* 平和賞も含め、その他の科学・学術賞に比して、ノーベル賞のなかに「藝術賞」は要らない。美と藝術は、ジャンルを拡げれば拡げるほど評価の精度が希薄になる。また、そんな栄誉を目当てに藝術や文学が創作されるという自体、わたしは本来をあやまるものだと思う。無私・無心に来たものを志高く受けとめるのはまだしも、俗の栄誉・栄爵を目指して創られる作物に、真に魂をも魅する「作品」の湛えられるわけがない。文学者・美術家等々をふくめて、ものほしげに動き回る栄爵わたしは藝人を敬愛しない。

2014 10・10 156

 

 

*  明け方、寝苦しいまで、

「一時間を一時間生きる難しさ」

という句意を問い続けてむりやり目覚めた。リーゼを服した。

一時間とは、客観的に推移する時間の枠・区切りだが、われわれは、わたしは、その一時間をほんとうに一時間「生きた」といえる「生き」を生きていただろうか。睡眠中の「一時間」は「介意している「一時間」とほぼ等質であるとしても、日中の一時間、一時間に相当に「生きた」と言いうる内実が創られているのか。そう厳密に問うと、われわれは、わたしは、すかすかの時間をいたずらに流すように空費してしまっていないか。「難しさ」ということばで夢寐にわたしは呻いていた。苦しくて、起きてしまった。煩悩か。

2014 10・17 156

 

 

*  『冬祭り』十二章「提案」を読み終えた。終幕へ向け息づまってきた。完全にわたし自見が作の世界に生きて息をしている。

 

* 創作していた最初の私家版原本「畜生塚・此の世」が見つかった。六七册、抜き刷りの歌集「少年」数十部と一つ箱に入っていた。記憶通りだった。

見つけたい失せモノは、まだ幾つか在る。むかし建日子ときゃっちボールしていたグラブ・キャッチャーミット・硬球の一式。一度何処かで見つけて懐かしみながらそのままにして、そのそのままの場所が分からなくなった。

永井龍男先生に戴いた「廬山」を褒めて下さった自筆原稿を今必要あって探索している。必ず在るはず。湖の本や単行本に使用した写真の原板も何種類か見つけ出しておかないと。これは、途方に暮れる。

最重要の文書・写真資料などは、一箱へとにかくも蒐めて手近に置いておかねば、もうモノは忘れ放題になってゆく。

2014 10・18 156

 

 

* 「酒一筋」二升めに酔いながら、本棚に三巻揃えた井口さん筆の大柄に懐豊かな篆書「秦恒平選集」の背文字をうち眺め眺めしている。

今回巻頭の「畜生塚」初稿を仕上げたのは、昭和三十八年(一九六三)師走。医学書院の編集勤務だった、すらすら書いて永くは掛からなかった。最初の私家版に納めたのは一年後の十一月。いらい四十六、七年経っている。初稿はうんと長かった、私家版を読んでくれた「新潮」小島喜久江さんに、これはモノになりそうですねと刺戟され、一心に推敲して思い切り圧縮した。太宰賞に挙げられた「清経入水」でも徹底的に、しかも一夜のうちに短くした。両作ともそれが成功した。「推敲」の大切さをからだで覚えた。書き殴って書きっぱなしということを絶対といっていいほどしなくなった。 2014 10・18 156

 

 

* 最愛の作というを憚らない長編『冬祭り』を、入稿原稿として読了。万感こもごもに沸騰。もう何年前になるか、今のこの部屋でわたしはワープロ書きの新聞連載原稿を仕上げたのだった、その瞬間わたしは声を放って哭いた。書き上げた安心の感動ではまったくなく、「冬子」を「冬」のふところへ見送ったさびしさに哭いたのだった。

まったく同じように、今日、久々に久々に全巻を読み終える直前からわたしは哭いていた。『冬祭り』という「新聞小説」そのものがいわば此の作の構想ともども「冬子」からの「提案」だった。「応援」だった。「助力」を惜しまなかった。

そして、何という不思議だろう、哭いて読み終えたとまったく同時に、思いも寄らない「こと」が現実に起きたのである。

なにはさて、選集第五巻にこの一作と予定している『冬祭り』は、既刊三巻に比べ、堂々の厚い本に成るだろう。

2014 10・23 156

 

 

* いま思えばわたしの「ヒロインたち」は、みな、静かに優しくて、しかも頭の回転はテキパキと適確で、深切だ。

2014 10・31 156

 

 

* ぐいぐいと自分の書いたた小説『生きたかりしに』の文章に引っ張られる。必然の力を持てている。よかった、書いてよかった。

どうしようかと思う。引き絞っても湖の本で優に二巻になる。いっそ、先に「選集」一巻できんなり本にし、そのあとで「湖の本」にしようか、わずか150限定本なのだし、寄贈は主な施設や大学等に限ればよい。製本した半分ほどは手元に残したい。そんな気がしている。

いま、第三章を読み終えた。第五章まで。もう二章分の電子化に妻ががんばってくれている。

手書き原稿はそれなりに趣も意味もあるが、本になって行く手順・手続きでは大幅に遅れる。『生きたかりしに』も電子化データに替え得なければそのままのたれ死にになるところだった。まだパソコンに誰もが不慣れでペンクラブでも詳しい人を呼んでなにかし指導を仰いだが、そのときわたしは質問して、書き手として何が大事になるかと。講師役の人は言下に、書いた物はとにもかくにも電子化データにしておくといい、と。わたしは即。合点した。湖の本をはじめ、初出原稿のブリントの電子化の手間を掛けに掛けた。わたしのバソコンには「湖の本」全巻はもとより、夥しい量の「仕事」がデータになっている。数万枚をこす日記もむろん電子化してある。それでも、実のところ『生きたかりしに』何百枚をはじめまだ手書き原稿やコピーブリントのままのものが山ほど残っている。棄てるに忍びない断片やメモの類も信じられないほど保存してある。とてもとてもヒマにはならない。が、それが、それで良い。わたしは生きるのに飽きるという心配がない、眼が見えて、酒が飲めて、甘いモノも食べられて、手足が動く間は。

2014 11・1 157

 

 

*  朝一番に、「選集⑤ 冬祭り」が組み上がってきた。前の四册より大冊になる。

 

* 「墨牡丹」初校終える。創作上、よく、「化(な)る」と謂うてきた。この長編は、村上華岳と「化っ」てわたし自身の藝術・美術・文学への、時世や家族への、境涯・姿勢・意欲・見識を、おもうさま自由自在に表したのである。戯曲「こころ」が漱石を仮りて秦恒平の「身内」観を表したように、「墨牡丹」という小説全容が極言すれば「わたし」自身に他ならない。

 

* 「華厳」初校に移った。これは「廬山」とともにわたくしの「美学」にほかならない。わたしの愛読者のなかでも此の「華厳」を最高最良と読んで呉れたような人は、際だっての読み巧者、文学・読書のプロに限られた。「廬山」もそうだった。「閨秀」もそうだった。選集でいえば、③の作から入ってくれた読者が断然多く、④の美学・藝術学系統の作は、賞讃や絶賛すらうけても、「むずかしい」といわれやすかった。「むずかしい」の一語はわたしの文学前半生へ加えられた批評語の決定版だったようだ。「蝶の皿」や「青井戸」ですらむずかしいと謂われた。言い訳はしないが、作者として受ける減点と思っている。

2014 11・8 157

 

 

* 樂と萩、吉左衛門と新兵衛との茶碗などの競作、図録の大きな写真でみるだけで胸の沸き立つ嬉しさがある。琵琶湖畔の佐川美術館だ、まだ会期がある、お出でを待つと樂さん再度のお誘いがある。とてもとても、行きたい。京都まで行けば、あるいは米原まで行けば、タクシーに乗れるのでは。だが片道では困る。帰ってこなくてはならない。黒いマゴのために、妻はちょっと身動き成らないのである。こんなとき、娘朝日子がむかしのままの正気でいてくれたならと「成らんバナシ」につい沈み込む。

朝日子との旅というと、雑誌「ミマン」だったか「ハイミセス」だったかが企画の旅に朝日子が嬉々として同行、松山や鞆や柳井や厳島を編集者・カメラマンたちと楽しく巡った瀬戸内の旅を思い出す。それはもはや一場の過去の夢でしかなくなったが、実はもう一つ、瀬戸内に焦がれる思いが有る。テレビで瀬戸内海を渡す「しまなみ」(間違いかも)とかを楽しそうに写していた、あそこを、あの大橋をどうしても渡ってみたい。これは、いま書いている小説のため。だが、京都へよりも倍ほど遠いか。志賀直哉の暮らしていた尾道辺まで行って車を雇うしかないだろう。先日玄関まで見えた愛媛の読者が、中国側まで車で迎えに行きますよと切言されてはいたが、人様を煩わすのは好みでなく、寂しいほどひとりで海や島を見たいのでもある。

それにつけ、妙なことを思い出すが、いまも歌舞伎座で活躍しわたしもとても贔屓にしている市川團蔵という役者、あの歌舞伎味豊かな当代團蔵より、もう何代か前の團蔵が、瀬戸内を船旅の途中、忽然と船上から姿を消してしまい、ついに見つからなかった事件がわたしのあたまの奥の奥の方に、忘れがたくのこっている。瀬戸内海というと、わたしは古の源平相闘った史事以上に、あの「團蔵」瀬戸内での静寂な失踪を想うのである。あの事件は、わたしが「清経入水」を書いたより以後のことであったろう、だか、ハキとは覚えない。わたしの中で清経と團蔵とは切れ離れている。

2014 11・8 157

 

 

* 「生きたかりしに」をズシンと重いものに感じながら読み返している。書くしかなかったのだとみをきられるように痛感する。

明日、もう一日家にいて仕事を進める。

2014 11・8 157

 

 

*「批評」「評論」には、わたしの考えであるが、下記を頭に入れておくべきだと思う。

①述 ②評 ③考 ④説 ⑤論

「述」は、たんに触れて謂う。 「評」は、たんに好悪や褒貶を謂う。 「考」は、端的に理義をともなって識見を述べる。 「説」は、関係の視野を展望しつつ議論に堪える要点を精錬し、その構築と認識に責任を持つ。 「論」は、説をより拡張かつ深化して一の独自世界を主張する。

2014 11・12 157

 

 

* 自分が自分で読みたさに自分の作を創っていて、それが「いい読者」をもつ、もてるということにわたしは「いい身内」を得た思いで感謝する。それで足りている。「作家」と推されて四十五年余、「湖の本」創刊二十八年余。わたしの姿勢は少しも変わっていない。

2014 11・14 157

 

 

*  朝一番にドッカーンと凸版から「湖の本122」再校出そろい、「選集④」も再校出そろった。おそるべき嵩の高さも重さ。折しも安倍政権は私利私略のみの「解散」に踏み切ると。歳末の、年始のいろんな切迫を思えばもはや躊躇ならないと、今日一日で「湖の本」責了へ持って運びたく、朝から脇目もふらず責了紙を読みに読んできた。たぶん今夜中に責了用意が成り、師走の上旬に刊行、発送へ持ち込めるだろう。そして心静かに「選集④」を責了まで読み込み同調して「選集⑤ 冬祭り」の初校を戻して行く。

なんとなくわたしに今、健康感覚が無く、どうもよろしくないという弱気が生じていて、快眠もなく寝起きもわるく、痛切な胸焼けにギョッとするほど苦しいときがある。「静かな心」へ落ち着くためには、気を病んでいてはならず、集中して「仕事」へ没頭してゆこうとしている。気弱もいけない、騒がしい気持ちもいけない。閑静、閑靖。しかし、へこむことなく仕事へ向き合って行きたい。何かしらと競走している気がしないでもないが、それならそれでよい。

2014 11・15 157

 

 

* 高田衛さんから大著『秋成 小説史の研究』を頂戴。わたしより高田さんは五歳の先達、「いつも御本をありがたく頂いています。当方はすっかり老いくちて なかなか思うようにはいきません。ご清栄を祈り上げつつ 高田衛」とお便りを添えて頂いた。なかなか。たいへん重い新著である。わたしは高田さんに、また高田さんの後輩てある長島弘明さんに負うた「秋成を書きます」という重い宿題を背負い続けて半世紀に近いのである。高田さんのお元気なお目にかけられる「秦恒平の上田秋成的世界」を一日も早くお見せしたいと今しも日ごと勉めている。書き下ろしとしては一等先にゴールインするかも知れない。お待ち下さい、お元気で。

2014 11・15 157

 

 

* これから「選集④」の六作を校了にして行かねば成らず、「選集⑤」を無事に要再校まで読み切らねばならぬ。未刊の長編「生きたかりしに」を原稿で読んで納得行くまで推敲せねばならず、もう二つの書き下ろしも前進また前進をはからねばならぬ。桶狭間への急襲のような真似を同時に三つも四つも敢行しながら、精神も肉体も健康でなければならぬ。そんなこと可能なのか知らんと思いながら、そんな思い迷いは余計なことだとその辺へ置いて行くしかないのだ。

なんでもいい、明日は歌舞伎座へ我當の翁を、染五郎と松緑の三番叟で祝われに行くのだ。

2014 11・16 157

 

 

* カレンダーの次々送られてくる季節になった。豊潤な「能登誉」をぐいぐい、酔いを発して睡る。眼が少し休まる。しかし時間は消える。

胸に灯のともるような「いい言葉(つごうのいい甘い言葉ではない、)を聴きたいし読みたいし、自分でも書きたい、話したい。心身が根で疲れていてはそんな言葉は生まれない。

結局、いい作品を読んで慰めている。

2014 11・22 157

 

 

* 未発表長編『生きたかりしに』全五章の四章まで推敲脱稿した。書いておかずに措かれない、読者は私独りでも構わない大きな仕事になる。妻が懸命に初稿を電子化してくれている。残り一章、しかし、もう少し補充したくもなっている。

 

* 「選集⑥」の巻頭に、処女作にちかい『祇園の子』を置こうかと考えている。芥川賞候補作に推された小説集『廬山』ができたとき、帯に、「廬山は美しい作品である。 美に殉じた作品である。」と選者のお一人だった永井龍男先生に銓衡時の推薦の辞を頂き、本を鎌倉のお宅までとどけに伺った。

その後、人づてにではあったが、『廬山』に入れていた「祇園の子」を名指しで、「こういう作が十も出来たら、たいしたものです」と仰有っていたと聞いた。びっくりもし、ふと、何かを悟ったような気もしたのを大事に今も忘れない。

想えばまことに不思議でもあるが「作品」て読んで頂いた「廬山」は、芥川賞選者らのなかで、永井龍男先生と瀧井孝作先生との明瞭な推賛を頂いた。このお二人の文学者・作家としての作風は「廬山」とはよほど異なっているというのが、大方の見方であったろう。しかもこのお二人が強く「廬山」を推された。

それはそれとして、瀟洒でリアルな短篇の名手であられた永井先生が、「こんな作を十も」と認めて下さった「祇園の子」への批評には受けがいやすいものがあった。ああそうかと感じた。

 

* 永井先生は亡くなるまで、終始わたしへ激励やお心づかいをして下さり、「湖の本」を始めたときも、永井先生から伺いましてと購読しはじめて下さった読者がたくさんおられた。瀧井先生も、亡くなるまで終始目をかけていろいろ推薦もして下さり、またお宅へも電話で呼んで下さった。

わたしは決して孤独に文壇生活をしていたのでなく、ずいぶん大勢の大先輩や大先生に引き立てて頂いた。大方は、やむなく次々に亡くなられたけれど、そういう先生方の想い出を書けば優に一冊二冊の本ができるだろう。

2014 11・24 157

 

 

* 「糸瓜と木魚」を懐かしく、快調に読んでいる。此の作では小説という方法を利して子規と浅井忠をじつは論じている。「閨秀」が上村松園と祇園井特を論じていたように。「墨牡丹」が村上華岳を論じていたように。

同様につづく「あやつり春風馬堤曲」では与謝蕪村を論じ、「秋萩帖」では後撰集の閨秀大輔とともに小野道風を論じている。

但しこの選集⑥の三編にはみな語り手の「私」が小説に噛み込んでいる。そういう三編を選んである。

 

* 書き下ろし『生きたかりしに』を待望して下さる声をもう聴いている。選集の第何巻かに書き下ろし初出とするが、これに先行または後続する作の編成をどうするか考え始めている。

 

* 「選集⑤」の長編『冬祭り』きよく絞っても、夫れまでの四巻より100頁ほど増頁になり、おなじ事は後続する『最上徳内=北の時代』や『親指のマリア=白石とシドッチ』や『お父さん、繪を描いて下さい』や『逆らひてこそ、父』や『凶器』などみなに及ぶ。『生きたかりしに」に接続する『罪はわが前に』『身のほど 三部作』も『迷走 三部作』も同じ。わたしは、思いの外に長編作の覆い書き手だったようだと、いまごろ本人が驚いている。書いている「ヰタセクスアリス」ふうも長編である。健康で、摂生しないととても小説選集を全うできない。論攷・エッセイにも選集の形で纏めておきたい仕事は沢山あるのだ、わきめもふらず、しかも慎重に生きないと、わたしまで生きたかりしにと臍を噛むことになる。

どうか、妻にも健康に長生きして貰いたい、所詮は二人三脚でしか遂げがたい生涯の大仕事なのだから。

2014 11・27 157

 

 

☆ 秦恒平先生

外は冷たい雨が降り続いています。ご無沙汰ばかりですのに、お気にかけていただき恐縮に存じます。久々にパソコンを開きましたところ、お気持ちのこもったメールが届いていて、びっくりいたしました。心からありがたく、御礼申し上げます。

退職後の大きな変化の一つが頻繁にメールをチェックしなくなったことで、お返事が遅れ申し訳ありません。選集第三巻のお礼もきちんと差し上げないまま日々を重ねておりました。

多くの皆様同様『慈子』は千や生の世界と出会った特別のもの。それ以後ほかのご著書も入手したくて書店や神保町や古書店を巡り、また職業上の特権を利用して私家版等の国会図書館からの借り出しやコピー、そして豪華本の愛蔵……その当時はたまたま関わっていた仕事が時流に乗って多忙を極め、12時前に帰宅することがないような生活かつ各地を飛び回るような日々でもありました。

先日家の整理をしていたところ、先生の世界に関連してその頃書いた感想や批評? がまだ大量に残っていて我ながら驚きました。たとえば『清経入水』の原本との比較、量と内容そして整然とした文字……退職を機に仕事上の執筆原稿や掲載誌も処分しましたので、それらも処分いたしましたが、忙しい時期のほうが「勉強」していたなあと思った次第です。

先生が次の選集に『冬祭り』を思案されていた同じ頃、久々に先生の小説を読み返してみようかしらと思い、偶然にもまず『冬祭り』を選択。堪能して読み終え『みごもりの湖』を読み始めたところで、父が急逝いたしました。実は父がお世話になっていた療養型病院訪問の往復を利用しての電車内読書で、読み出すと止まらなくなり時折病室でも続きを読むようになった矢先のことでした。二月に母を見送り父に支えられておりましたので、喪失感は予想を超えて日々深まるばかり。『慈子』の入った選集をお送りいただいたのはその直後、穏やかで温かく確かな手触りでした。

先生のご境涯を思いますとあまりに「贅沢」なことではありますが、この年齢になってしみじみつくづく「天涯孤独」をかみしめております。両親は最晩年まで豊かな趣味を持ち続けて素質と努力で生活を楽しみ、私も忙しく働いていたため、お互い自立して暮らしていました。介護のまねごとに携わるようになったときには、あらためて自分はこの両親を見送るために生をうけたと感じ、私自身が大いに救われました。

自分のことばかりあまりに長く勝手に書き連ねましたこと、ご容赦ください。最近ようやく先生の日誌への安定した回路が見つかり、ご様子を拝読しやすくなりました。ご不調のなかでも自らを励まし前向きに取り組まれるお気持ちの強さと行動に、敬意を超えて憧憬を感じます。

「湖の本」のスタート時、反射的に浮かんだ言葉がありました。「湖のしずく」。その思いは今も変わりませんが、それはまたの機会に。

メールの文字をご覧いただくのもご苦労なことと拝察いたします。差し障り少なく年齢を重ねられますよう、ご無理なさいませんように。 2014.11.26    世田谷  滴

 

* いたましい状況のなかからの、述懐、さこそとお察しする。死なれて 死なせて 人は生きる。強く豊かに生きて下さい。

育ててくれた父も母も叔母も九十過ぎまで生きてくれた。生みの母は生涯奮闘のはてにおそらくは自死し、実の父はおそらく失意の老齢に崩れて果てた。実の兄また、雄々しい敢闘の半ばに、病んで自ら生母を追った。わたしの妻は青春のさなかに病んだ母に死なれ、父は妻のあとを追った。

『冬祭り』で、ヒロインは、自分は、死んでから生きるのと言っている。わたしは……死なれて 死なせて 生き恥を生きている。

 

* 「冬祭り」初校を終えた。わたしはこの物語を「本気」で書いた。憧れも悲しみも此の作に籠もっていて、わたしは自身の筆でわたし自身を絵解きしたのである。初期作の全部をこめてこれはいわば期末試験に提出した小卒論のようだ。

この「選集第五巻」は六、七十頁分厚くなる。経費もかかるが、喜びは深い。

2014 11・28 157

 

 

* 「愛」がなにごとであるかは、まことに難しく、定義は人の数ほどになる。わたしも、こんな風に書きおいたことがある。

 

愛は。

 

愛は、一致である。一切分別が消え失せる。

 

愛は、焔である。無垢無数に分かたれ得る。

 

愛は、清水である。終に海となり一致する。

2014 11・30 157

 

 

* 額に、鉢巻きの拡大鏡を巻いて小説「糸瓜と木魚」をおもしろく読んでいる。「糸瓜」とは正岡子規、木魚とは洋画家浅井忠。二人の伝記的関心からはじめた小説ともいえない、やはり一人の鶴子というヒロインを愛しながら、伊藤左千夫や夏目漱石の世界などをも覗き込もうとしている。根岸の子規庵を訪れたこともある。

「廬山」に永井龍男先生が本の帯に賛辞を下さったように、「糸瓜と木魚」には瀧井孝作先生がやはり帯に賛辞を下さった。お二人の評語の芯に立って共通しているのは「美しい」の一語だった。頭を垂れた。

 

 

*自作を読んでいて思い出せる、大学では土居次義先生に日本美術史をならっていた。恩賜京都博物館の館長もされた。この先生は京都市内の古刹名刹を現に飾っている障壁画の真ん前へ学生を連れ出して講義された。それがどんなに有りがたいことか、誰にでも分かるだろう。

わたしは土居先生の大著も買って愛読した。いま上にいう「糸瓜と木魚」もまた上村松園や祇園井特を書いた「閨秀」も、土居先生の著書の中から契機を得て書き上げたのであり、土居先生もとても喜んで下さった。御恩返しが出来たのである。その「閨秀」は吉田健一先生の時評で文字どおり絶賛された。「清経入水」は小林秀雄先生そして中村光夫先生に推しだしていただいた。「墨牡丹」では立原正秋さんや梅原猛さんとのご縁が出来た。

けっして我一人のちからだけで作は生まれはしない。しかし、その作に豊かに美しい「作品」を生み得るかどうかは、これは作者しだいで、人の力を借りることは不可能。

 

 

* 体調をくずしている妻が、奮ばって長編「生きたかりしに」最終章の二節分電子化原稿を階下から電送してくれた。感謝、感謝。すぐ、読み始めた。あと、三節が残っている。新春の一月中にと頑張ってくれている。感謝。

新作の小説は、長編の二作が仕上がろうとしている。とても難しい、とても気を惹かれている一作をも、ぐいぐい押して行きたい。

 

 

* 師走上旬には「湖の本122」を発送し終え、中旬には選挙を見守りながら選集④のうちの長編「墨牡丹」と「華厳」を読み上げて全編責了し、年内には選集⑤の「冬祭り」を再校して新年には責了し、その頃には同時に選集⑥を入稿する。「湖の本123」の編成と入稿も要務。仕事に励まされて元気におもうさまの来年を生きて行かねば。

2014 11・30 157

 

 

* 好きなイングリット・バーグマンとイヴ・モンタンそれにアンソニー・パキンスの「さよならをもう一度」を観た。いかにもという仏映画の、しかし英語で演じられていた洒落た佳い映画だった。年増のバーグマンのすてきなこと。四十歳。どこがわろかろう、若い娘の十倍も魅力がある。それにしても、危うい恋のはかなさ。「武玉川」という、川柳の始祖といえる上質の付句集のなかに。

おもしろい恋がいつしか凄く成り

というのが出ている。この「凄く」など、わたしの何時も拘る「凄い」の原意・真義にまぢかい。上の三人の恋も「いつしか凄く成」っていてそこにもののあはれが光るのであるが、幸せという実感からは遠いのである。およそこいをしてこういう凄みのものあはれから逃れようとするのは虫が良すぎる。覚悟がなければ恋などできるものでないのだ、もともと。

但し、こういう分かったような真面目な物言いもくせもので、或る意味でとてもイヤらしい。

「武玉川」の付句では喝破されている、「まじめに成るが人の衰へ」と。こえいう洞察の恐ろしさが古典の生き延びて行く「まこと(真言)」なのであろうよとわたしは降参する。無難に「衰へ」たいか。いいえ、と、まだまだ思っている。たからバーグマン演じる四十のポーラが愛おしく輝いて見え、バーグマンに似た日本の沢口靖子の演じている「科捜研の女」榊まり子を、胸きめかせて観るのである。

2014 12・1 158

 

 

* 好天のようだったが外出せず、仕事と、休息の居眠り。「湖の本122」刷りだしが届いた。気になる私語の刻だけを読み返した。思い通り書けてはいたが、沙翁の「四大悲劇」が「四代悲劇」になっていたのは、わたしの迂闊な見落とし。

「選集④」の函装幀や別刷り前付が届いた。口絵写真、まずは遺憾なく入った。、

 

* 「選集⑦」には、岩波書店の「世界」に連載した『最上徳内=北の時代』を予定に入れ、原稿を上中下巻、揃えて機械画面へ用意した。「mixi」に再掲しながらこうせいしておいた原稿だと、そのまま形だけ調えて、第六巻に引き続いて入稿できる。

万一わたしに何かが起きても、わたしなりの「選集編成案」を書いて置いてくれればも必ず建日子が形にしてくれると妻は言う。「編集」「校正往来」「責了」という一連は練達していないとじつに容易ではないのだが、姿形は出来てあり、凸版印刷ならきっちりした仕事で援けてくれるだろう。ま、力の及ぶ限りは自身の努力で前進させ、死んでしまえば、ま、それまでだ。立ち向かうまで手のこと、それは執念とか執着とか煩悩のたぐいでなく、生きてある自分自身を楽しむだけのこと。

2014 12・2 158

 

 

*おもしろく「糸瓜と木魚」を読んでいる。子規と浅井忠を表に立てながら伊藤左千夫の縁辺を、そして女友達とのあわいを思うままに書いている。

わたしは、ながいあいだ自分を筆の重い寡作の書き手だと思い、脂の乗った時期を持てなかった書き手だと思ってきた。事実が添う手背有るかも知れない。しかしこのところ「選集」の第一から五巻へかけ二十篇を繰り返し読み込み、いま第六巻のための「祇園の子」や「糸瓜と木魚」を読んできて、それら殆どの作が、作家と編集者二足の草鞋を脱ぐかまだ脱がぬうちに書かれていて、脂はしっかり乗っていたのだと初めて自覚した。自覚はやがて八十という老境の眼と思いとが支えている。要するに文壇には馴染まなかっただけのこと、敬愛する先輩たちの道はしっかりいつも見詰めて、文学を軽々しくはすまいとのみ思い締めてきたのだと今にして思う。

2014 12・3 158

 

 

* つづく「湖の本」のために、たてつづけ妻が多くの原稿をスキャンして電送してくれた。どれを取り上げようかと贅沢に迷えるほど手元に電子データ化された原稿、校正の必要な原稿が山盛りになっている。感謝しながら、箸惑いしているほどで、みな機械によるじつに便利な恩恵である。

単行本に成っている原稿もあり、雑誌に初出のままプリントにしたもののスキャン原稿もある。

さらに機械の中に多年に何と無く書きためたままフォルダまたはファイルとして貯蔵された書き置き原稿が何百も保管されている。それらをどのように汲み上げてどのように編成するか、気が遠くなりそう。

おそらくは、わたしのように著述・著作・草稿類を網羅的に機械の中へ電子化して保有している書き手(小説家・批評家)はめったにいないだろう。生来ものを棄てない性質がもたらした功も罪も表裏のまるで「物置」のようにわたしの機械は働いてくれている。機械はいつどう故障するか知れず、従って最低二台新旧の機械で連携させ、またディスクやUSB保存もせいぜい怠らぬようにしている。

2014 12・4 158

 

 

* 晩も、残る作業をつづけながら、観るともなく松本清張原作のドラマ「霧の旗」を見聞きしていたが、出だしは良かったが進むにしたがいウソくささばかり目立って光る感銘を喪いきって行った。堀北真希( といったか) の柄に合わなかった。昨日も同じ清張原作のドラマをやっていて、ガラのわるさに辟易して半分も見なかったが、凄みは昨日の方が優っていた。清張文学の存在感をわたしは買っている、が、わたしの所謂「作品」は感じにくく、文豪とはやはり言えない。

清張とは比較にならない人だが、正岡子規の生涯などは文豪とたたえるに相応しい品質に富んでいる。品質という批評のポイントをもっともっと大事に確保したいものだ。

2014 12・7 158

 

 

*  『糸瓜と木魚』を読み終えた。作家であろうという初々しい感動を正岡子規と浅井忠という優れた藝術家を通して再確認した。講談社の松本さんと車に同乗の折り、優れた「藝術家小説」がまた出来ましたと謂われ、藝術家を書いた「藝術家小説」という文学表現のジャンルのあることを迂闊にも初めて覚えた。これより早く上村松園を書いた『閨秀』も、村上華岳らを書いた『墨牡丹』もそうたったのかと新ためて気付いたような按配だった。

選集⑥でつづくこれは書き下ろしの長編『あやつり春風馬堤曲』も、すると与謝蕪村を書いた「藝術家小説」といえるし、あいつぐ『秋萩帖』は緒の国宝とともに閨秀歌人大輔や三筆の一人と湛えられた小野道風を書き取った藝術家小説に相違ない。

この巻巻頭の短篇『祇園の子』はさておいて、つづく長編三編はわたし自身の思いでは『閨秀』『墨牡丹』もともども、いわば「藝術家発見』の論攷味が濃く勝った創作ということになり、わたくし自信の文学作風の核心にはこの「論攷味」が顕著に働くと謂わねばならない。それがためにある読者はつまづかれある読者は深く入り込んで満足された。この後者がたんに数に置いては前者より少ないのは致し方ないと思っている。

 

* 体調ととのわず、かなり重い疲労感と無力感に、食事も摂る気がしない。酒も入らない。睡るしかないか。

 

* と、謂いながら、書下ろし長編『あやつり春風馬堤曲』に取り付いて読み返し始めると、これはもえベラボーな「あやつり」物語が与謝蕪村の老境と絡み合いながら進行し、なんとも、やめられない、止まらない、よほどケシカラナイ妖艶の誘惑物語がしあがって行く。蕪村攷としては、でたらめな追及ではないが、「容姿嬋娟」「癡情可憐」の女子大生がからまってきて途方もなく宏遠なものがたり世界へにじり寄って行くようだ。この話なども、読める人と読み悩む人との差違はちいさくない。そして、これはわたしの創作の流れによほど早くに忍び入り、今日の新作へも流れ込んでいる、といわねばならない。

20114 12・9 158

 

 

* イヤ驚いた。半分を超えて読み込んできた「あやつり春風馬堤曲」 これは或る意味、わたしの小説の中で屈指のおもしろみを湛えた「論攷」で「追究」であると思われる。わたしが「蕪村」贔屓なのは正岡子規や萩原朔太郎に火をつけられたに相違ないが、彼らが毛筋ほども触れていなかった蕪村「出自」への民俗学的また美術鑑賞面からの贔屓目が、はなはだモノを言っている。『風の奏で』にもすでに濃厚に蕪村への関心が埋め込まれていたのを記憶されている読者は少なくない。

この問題の小説を創作したわたしは、わたしに相当して読まれかねない大学の先生・小説家の立場からは、たったの一行も書いていない。この作家でもある「先生」は、小説の背景にすっぽり隠れたまま、以前出講していた短大の教え子で、現在はこの「先生」の後輩にもあたってくる四年制大学へ「三年編入」した女子学生にむかい、「卒論には蕪村を書いてはどうか」と奨めた、ないし嗾したのである。そして、そのつどつど暗示的にも濃やかに「蕪村」論攷への「筋道」を示唆し教唆し誘導し教えている。小説全面は、ひたすらこの女子学生が「先生」に宛て、手引きに従っての蕪村調査や考察や不審点を順次報告しつつ、かつ、いろいろに問いかける長短多数の「手紙」「私信」だけで成っている。女子学生を「先生」のあやつり人形とみるなら、「あやつり手」の「先生」は小説の中でただ一言も表向きにもの言うことがない。一度もない。

「春風馬堤曲」は蕪村一代の傑作・代表作であり、近代詩の嚆矢ともみられる名品。しかもそこには「癡情可憐」な少女が登場している。さ、どうなるか、作者のわたしも朧なほど昔の作だけれど、この作、意図するところは遠くはるかな「山椒大夫」や「浦島太郎」の世界へ連携して行こうと書かれていた。わたしはその後段を一度は「湖の本」読者に予告しておきながら果たしていない。難しくて書けないからではない、この『あやつり春風馬堤曲』はじつは筑摩書房の文藝誌のために書いたのだが、出来上がって担当編集者に手渡したまさにその時に筑摩倒産の騒ぎが起きたのだった。雑誌刊行どころか、会社の救済のために私も作家の一人として関係官庁まで「陳情」に行くなどせざるを得なかった。そして、この作の行方もアイマイに棚上げ同然になり、わたしもすっかり嫌気がさしてしまった。

ま、そんなアンバイで第一部しか書かずじまいに放置された。放置したのはわたしの怠惰と謂うしかない、が、蕪村を「サカナ」にしたこの第一部はそれだけでも十分に「小説」に成っていたんだと、いまさらに思い至って、せめては「秦恒平選集」第六巻のなかで、先行した「糸瓜と木魚」後続する「秋萩帖」とともにそれぞれの「藝術家小説」としてもお楽しみ願いたい。

 

* この小説の「女子学生」と「先生」とは仲人が蕪村であるからはとてもタダゴトでは済まなくなろうが、そういう「小説」の仮構はべつにしても、こういう機の旺んで優秀な学生に出逢いたいとは、教師ならば思うであろう、願うであろう。たいていの学生は口さきは達者に建前を謂うけれど、とても、この小説の程度ですら追究できる気根も利発も本気も持てない。教師からすれば実効力も根気もある学生にこそ出逢いたいのだ。若い研究者らの片々たる論文をわたしは広範囲の諸大学から送られてくる紀要等でよく読んでいる方だが、爪楊枝で書いたようなものが多く、どきっとする発明な論攷にはなかなか出逢えない。残念無念なのである。

2014 12・13 158

 

 

* 「あやつり春風馬堤曲」にこんなに興深く面白く心惹かれて読み返せるとはまるで思ってなかった。秦さんは推理小説が書けますよとむかし編集者に言われていたが、その当時「推理小説」なるものの概念すら想ったことがなく、概して世上のそれらは薄汚れたような読み物としか思えず尊重したことがなかった。今でもそれはそのままで、たとえ読んでも時間つぶしとしか思っていない。それなのに、なんでそんなこと言われるのかなと思っていた。

おそらくはわたしの小説の多くが構造的にフクザツで、問題点の追究の仕方に仕掛けや考察や歴史がかなり豊富に絡まっているのを、そして思いも寄らない水面へポカッと浮かび上がるからかと、ようやく合点していった。むかし、ある読み物作家のベテランが、秦さんの小説はもったいないほど幾つもの筋道が構造的に交錯している、ぼくらなら秦産の小説一作から三つも四つもべつの作を書くと言われたことがある。貶されたのか褒められたのかどういう意味かよく合点出来なかった。

この今読んでいる小説も推理と構造と想像のおもしろみを持っている。作の力に作者の方が引っ張られて世界をいつしかに大きくしつつある。語りの姿を、「春情まなびえたる」一女学生の日記並みの手紙で一貫しているのが複雑さをヤヤコシサにはしていない。そしてこの女性が「ことば」で肉薄してくる魅惑や誘惑もモノを言っている。

この作もこの作だけですまず、いましも書いているヰたセクスアリスものへ生気を、精気をも、流し込んできているのに作者としても一驚している。

 

* こうして打ち込める世界をもてていることに、真実、救われている。わたしにとり大事なのは、「この創作世界」なのであり、アベノミクスなんかでは無いということ。

2014 12・15 158

 

 

* 「秋萩帖」を読み始めた。正直の所、どんな風に話を追っていったか詳細は覚えていない。が、あああの頃か、あの時かと、物語の背景はしっかり蘇ってくる。たかだか二百年前の蕪村の「人」を追うのも、たいへんだった。さらに千百年ほども昔の一人の女歌詠みの実像や出自を小説として追うのは容易でない、しかも学者の世界でも成し遂げられていない。その難題を、まことに危険な見切り発車の雑誌連載でおっ始めたのがこの古筆第一号国宝の「秋萩帖」の世界だった。その途方もない暴走に今にして驚く。

 

* 明日の診察、なんとなく物憂い。午後の予約だが、校正をたくさん持って朝早くから出かける。聖路加病院には、明るい食堂があり、静かな礼拝堂が二つもある。落ち着いた談話ないし休憩の部屋もあり、外来でも十分明るい。自作を静かにゲラのまま読み返しているときが、このところ一等気持ちも落ち着く。「墨牡丹」と「冬祭り」を持って行く。病院へ、診察を受けに行くというより、校正しに行く気分。解放されるのが午後何時になるか、見当が付かない。十時。今夜は、もう休息する。

2014 12・16 158

 

 

* 案じていたわたしの小説「秋萩帖」を読み始めた。この小説の出だしというより国宝「秋萩帖」をめぐる解剖所見など、大方の読書人には荷が勝ちすぎるだろう、草仮名という、また綾地裂という、三蹟の一人小野道風という、書蹟をめぐる話題ではじまっている。これもまたわたしが読みたくて堪らず、しかし誰も書いてはくれないから自分で書き起こし置き上げた面白い小説なのである。これを書こうとしたときは古筆學の小松茂美さんが健在だった。京都のT博士こと角田文衛先生もお元気だった。見切り発車で連載を開始し、ついに到達点へいたったとき、角田先生は京都から電話をかけてみえ、「よくやりましたねえ」と言って下さった。小説家の不埒にはまことに厳しい博士であったのに。

わたしは、美術品のなかで何が好きと問われると、一に「書」と答えていたときがある。わたしには不運にして文庫本の著は数少ないのに、講談社から『書蹟』と題した一冊を編輯している。監修は井上靖先生だった。この役は井上さんの推挙に相違ないだろう。

と、まあ、そんな次第でわたしは「秋萩帖」という、自分で書いて読みたい小説を書き、小野道風邪の恋人でもあり宮廷社会にも名を響かせていた閨秀歌人「大輔」 後撰和歌集の女流で伊勢に次いで数多く和歌をとられている女の、しかも出自のまことに曖昧に知られぬ儘であったのを追究し、結論へまでこぎ着けた。それも平安時代の話題とともに今日現代の恋物語といわば二人三脚のように走り抜いたのだ。

こういう小説が書きたかったのだ、処女作の昔からだ。

いま「秋萩帖」が楽しい。

2014 12・18 158

 

 

* 重苦しい体調、時刻の推移につれて加わる疲労感につきあいながら、「秋萩帖」を読み継ぎ、新たな書き下ろし長編「生きたかりしに」を書き継いでいた。口に入れて快いのは、いま、キリンん゛売り出した「別格」の飲料、ことに「鉄観音」をひえたままで飲むこと。腹具合が静かに治まる。

 

* もう宵ぐちから殆どまともな視力がない。ここへあれこれ書き入れるちからがない。少しでも少しでも先へ先へ「間に合う」ように、したい「仕事」に心身を投じたい。それだけだ。そういえば、東工大で井上靖の詩で「間に合う」ことについて学生諸君に考えて貰ったのを思い出す。

2014 12・19 158

 

 

* 頼んでおいたスキャン原稿が妻からつぎつぎに電送されてきて、メールボックスにも一太郎にも溢れている。これらを四でよく校訂する仕事も大量になってきた。とても休んでいられない。

2014 12・19 158

 

 

☆ ヒルテイに聴く。

「世間の名誉にひどく敏感な者は、いつもその時どきの世論の奴隷にならずにはいられない。(十日)」(ドクターXの名科白「いたしません」でいいのだ。世俗の名誉は求めて取るものでない。来るものは来る。)

「キリスト者だからといって、必ずしもよい実例を示すとはかぎらない。(十一日)」

「われわれのいちじるしい内的発達や進歩は、すべてそれに先立つ多かれ少なかれきびしい試煉の最終の結果である。ひとは元来、試煉をよろこぶべきであり、少なくとも、試煉のさなかでも、たましいの静かな一点を失ってはならない。試煉は、将来われわれの上に咲き出ようとする、新しいまことの幸福の前ぶれである。艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す。(十四日)」(静かな心、静かになれる姿勢がどんなにたいせつなものか、わたしは体験して覚えている。)

「生涯の仕事の大部分は、過去のひろびろとした大洋のなかに一見跡形もなく消えてしまうものだ。(十六日)」(だから「仕事」を残すのは無意味か。「仕事」は、したくてすればいい、無意味でも有意味でもないのだ。)

「人生の特性を決定するのは、日常の小さな事柄であって、偉大な行動ではない。」「『不機嫌』は、もしまだそれがあなたにこびりついているのなら、すっかりきれいに脱ぎすてねばならない欠点である。(十八日)」(言うべきは言い、怒るべきは怒り、称うべきは称え、三匹の「猿」もかしこく育てて、不機嫌には落ち込まぬが良い、ほんとうに良いと思う。)

「われわれは、人間の性格におよぼす藝術の影響について、いくぶん懐疑的にならざるをえない。イエスが当時の壮大な建造物などにほとんど関心をしめさなかった所以も理解できる。 もちろん美の感覚は、とくに若い人びとには絶対に欠くことのできない、人間に必須の教養の一つにちがいないが。 それでも決して美を善と混同してはならない。それは二つの、まったく違ったものであり、互いに区別さるべきものである。(十九日)」(ヒルテイに、またあのイエスに、わたしは頷いている。美は真価であり優れた藝術は尊いが、謙虚に敬虔に受け容れたい。芸術至上という主義は成り立たないと思っている。)

「ひとは自分にできることをしなければならないが、次には、他人からの感謝をあきらめることができなくてはならぬ。でなければ、そういう行いや仕事も一種の他に求める享楽欲におちいる。」「自分がよくなしうる以上のことをしようとせず、また、このような仕事のなかに自分の幸福を求め、かつ見出す人こそ、最も立派に世を渡る者である。(十二月二十一日)」(もうこの日付が迫ってきて、そしてわたしは満七十九歳の誕生日を迎える。ヒルテイのこの日付けで書き置いてくれた言葉は、わたしの日々の思いにしっかり重なっている。七十九年前にわたしを生んだ母の生涯、生きたかりしにと歎いて逝った生涯を、今しもわたしは渾身、書き留めておこうとしている。)

2014 12・20 158

 

 

* 「秋萩帖」ってこんな小説だったのかと、成り行きをひとごとのように楽しんで読み進んでいる。

以前に『酒が好き・花が好き』という本を出したとき、国際ペン理事だった堀さんが即座に「女が…」ということでしょうと笑われた。自分で書いてきた小説には、まこと、わたしの好きな「女」が心底惚れ惚れと書かれている。それが真実一貫している。渡しの仕事に創作と謂えるものがあるなら、その「女」なのであろうと思う。そしてそれは夢・幻なのである。

2014 12・22 158

 

 

* 朝九時前のバスに乗り、帰宅が晩景という病院通いが相次いだので、よほど疲れた。幸い診察じたいは異常なく安心できたが、ほとんど食べずに半日を病院で過ごし、大方の待ち時間をゲラの校正で過ごすのはラクではなかった。ま、そういう日々であることは目下はやむをえぬことと思っているが。

明日の歯医者通いは残しているが、ほっこりと今、まあまあ冬休みかなあと安堵し、さっきから、また新規の論著仕事に手をつけ始めた。わるくない仕事になるだろう。

論攷に類する仕事を手がけるつど思うことがある。われわれの仕事は発見であるよりは、より以上に発明があるかどうかにかかっている。論点を切り開いて新たな視野を発見するに止まらず、創始発明しなくてはならない。おもしろい仕事とはそういうものかと思っている。「研究」といった文字からは門外に棲む人の大胆な発明が、どんな課題、どんな時代にもあり得る。思い返せばわたしのエッセイや論著も、みな一門外漢の発明仕事を心がけてきたんだと苦笑もする。大学のおそらく教授としても残れる可能性を持っていたが、抛つほどにその道は顧みず、小説家に成れたこと、今にしてしみじみ喜んでいる。

2014 12・23 158

 

 

* 後撰和歌集の閨秀「大輔(たいふ)」の追究には目が回りそう。専門の上代文学者はともかく、こんな小説を読んで戴ける先輩作家は、それこそ谷崎潤一郎のほかに考えも及ばない。いまも目の前の本棚に谷崎先生の佳い大きな写真が見えている。あーあ、そんな小説を書いてしまったのか。ま、いいやと思い思い読み進めてきた。湖の本で上下巻、長編であり、味は濃い。連載したのも文藝誌ではない、書道研究者の大判の「墨」だった。なみの編集者、古典にも歴史にも疎い不勉強な編集者では「秋萩帖」でも「あやつり春風馬堤曲」でもてんで「読めない」だろう。まして秋萩の世界は蕪村が馬堤曲よりも八百年ほども時代の坂をさかのぼって、源氏物語や枕草子の頃をもう幾世代もさかのぼる。だから書けるのだという道もある。

2014 12・23 158

 

 

* 正月歌舞伎座の昼夜座席券が前二列という有り難さで届いた。相撲茶屋からは初場所の番付が届いた。梅若万三郎ご夫妻には焼菓子を頂戴した。幸せに落ち着いた歳末である。「秋萩帖」は妖艶な佳境へ、泉川に添ってふかい雪杉の闇をくぐって行こうとしている。

宵やみにまどふ思ひは、はれやらで、ゆきすぎ難き小野の宮居ぞ

 

* 「明治初年の画家たち」を論じている原稿も進んでいるし、書きかけの長い小説の前半にたっぷりと「異世界」の甘味を添えてみたいと想っている。あれこれ手伝わせ働かせている老妻には申し訳ないほどわたしは仕事が楽しめている。「冬祭り」の旅はレニングラードからグルジアの首都トビリシへ向かっている。旅の中で面妖な七曜の掌説を書き継いでいる。

2014 12・25 158

 

 

* かなりきわどい夢うつつの隘路を抜けて、「秋萩帖」は九の帖の七の帖へ読み進んだ。読者をつんづ迷わせる作者のわたしだが、最たる一つが「秋萩帖」かも。

2014 12・26 158

 

 

* 歳歳年年人不同  おもしろいことだ。人の心ほど動きやすくうつろいやすいものは無いという真実。おもしろいけれど、はかなくもある。

2014 12・26 158

 

 

+ 「秋萩帖」という自作の小説は、書いた当人がビックリ仰天の追究と理解と「古代」の想像=創造で、まず、まともに憑いてこれる読者は和歌や書や十世紀宮廷に通じた人でなければ、小説としてすら追いにくかろう。作者のわたし自身が読みたくて堪らず、趣くままに書き進んで堪能したというまったく読者を無視してしまったような作になっている。

それでいいのか。

それで佳いと思っている。わたしは出版世間から身を抜いてきた騒壇余人なのだから。とはいえ、念頭に懐かしいのは、谷崎先生の「小野篁妹を愛すること」や「少将滋幹の母」やないし「吉野葛」「蘆刈」などである。谷崎愛に浸っていた昔々へ、いま少しずつ帰ってきているのだろうか。

2014 12・・28 158

 

 

* ついに、「生きたかりしに」828枚の原稿の電子化を、妻は遂げてくれた。わたしは761枚目まで読み進んでいる。まだ、手を入れることだろう、書き足すこともありそうに思われるが、骨子は確実に捉えたと思う。書けて佳かった。妻の協力に感謝。感謝。

 

* 「生きたかりしに」は徹しての私小説である。探求である。

これと対比してみれば、「秋萩帖」はどうだろう。だれが読まれても語り手は作家である「わたし」の経歴事歴そして同じ家族をもっている。なまえこそ幸田康之だが、同じ名で「みごもりの湖」も書かれている。

ところが「秋萩帖」のわたしは、昭和を生きる現役作家の儘に十世紀を生きている少なくも三人の才長けて美しい宮廷の女ともともに生きていて、千年をまさまざ溯れば幸田康之は左大臣実頼として生きており、一方の女三人、宮道敦子、式部頼子そして頼子の娘の允子らもまた自在に昭和の京都へも東京へも何の不自然なく立ち現れて幸田との時間を呼吸もし対話もしている。そのようにしつつ。現世の幸田の妻迪子もともども枯れや彼女らは不思議な成り立ちを持つ国宝「秋萩帖」の不思議を解きほぐして行く。

こういう創作がわたしの世界であるが、しかもその世界を裏打ちして動かないのが「生きたかりしに」も結晶しているわたし自身の「身の程」なのである。

幸いにわたしには現実の妻がいて、現実かも知れないが何とも分からない、しかし存在感豊かな敦子や、頼子や允子のような確かな身内に包まれている。小説を書いて現世の栄誉や裕福を得たいとまるで願わないのは、そんな浅々しい幸福など必要もなく欲しくもないからである。さほどにもわたしは、小説を書くわたしは、よほど、ヘンなのである。

2014 12・28 158

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