* 両肩を万力に押さえ込まれたように、また、痛い。意識はあるが、失神にも近い。肩、石のように硬い。酒は飲んだが、食べ物は欲しくなかった。せめては ずむ話題でもあれば楽しんだろうが、無し。『美の回廊』の村上華岳観を読み直したり、「ユニオ・ミスティカ」を思ったり。寐て、初夢でも追うか。
* 味気ない元日が、つまらないドラマ「相棒」とともに過ぎゆく。こういう日々のつづく老境なのはもとより自明であり、だからこそ楽しみを創り創り、ごまめの歯ぎしりのように日々を歩いて行くのだ。人に求めても詮無い。自分で創るのだ。
2016 1/1 160
* 晩、もう一度、映画「沈黙」を丁寧に観た。
やはり最後の一シーンが理解できなかった。あれでは、ただの破戒に終わるのでは。わたしは、切支丹牢の岡本三右衛門(転んだとされる神父)と日本の武士 岡本三右衛門(転ばなかった武士)の妻との牢内での暮らしを、もっともっと叮嚀に描いた。信仰と人としての真実は、踏み絵を踏もうが、結果的に転んだとし ても、守られうる。神に愛や慈悲があるならそれを信じ抜くことはできるだろう、しかし映画「沈黙」のラストシーンはただの破戒ではないのだろうか。原作、 映画の「題」もよく掴みきれない。
わたしはシドッチとはると長助とを、岡本三右衛門の妻女と牢で結ばれていたパードレとの最期を「御大切」を体し得た人たちと信じて描いた。迷いなく書いた。
2016 1/2 170
* ――ユニオ・ミスティカ。いま、わたしがほぼ五百頁に及んで書いている、ほぼ書き終えている新作の長編は、「ある寓話」のメインタイトルは、そう成るかと予期している。
それを発表する前に、わたしは、この作に限って、何故書くかを、何故書いたかを、誰より私自身に向かい問いかつ答えて置かねばならない気がしている。も とより面白づくに「エロス」を書くのではない、「セクスアリス」を書くのではない。「猥褻という無意味」を背負うた「性愛」は、真実「人間愛」か「聖なる 愛」かと問うのである。「無」「空」を現じ得た愛かと問うのである。
――ユニオ・ミスティカ。
大きな誤解をただ待つまでの愚行としてその創作を提出するのでは意味がない。
とにもかくにも書き終えたい。瞬時にデジェクトしてしまうだけの徒労になるかもしれない、精衛が海を埋めようとした工合に。書き終えるまでは生きていたい。
* 村上華岳のことをいろいろに思いまた考えては書いたり話したりしていたのを見直している。
華岳はたまらなく懐かしい。そういう思いを惹く近代の画人は、少ない。無いといいたいほどである。好きな画人ならいるが。
文学の方で、溜まらなく懐かしいと思わせるのは、谷崎潤一郎とともに、実は志賀直哉が懐かしい。
しかしこういう回顧の思いに誘われているのは、どことなくわたしが心弱く傷んでいるからかも知れない。
三が日が、過ぎて行く。心はずまない、滅多にない詰まらない正月だった。初詣もしないで終えた。ほとんど何も美味しく食べられなかった、量も食べなかった、酒も美味くなかった。
気を取り直し、明日から、平常心で、また楽しみ楽しみ心ゆく仕事をして行きたい。
2016 1/3 170
* 楽吉左衛門氏、池田良則氏、野呂芳信氏、妹の伊藤ひろ子、賀状來。あれこれと仕事しつつ、身疲れ、目疲れで、座ったまま何度も何度も寝入っていた。階段の上り下りにひどく疲れている。休もうか。
* 賀状のなかで、井上靖のことばとして「正確なものだけが美しい」と引かれていた。これは、微妙で、即座には肯けない。
スッタニバータ(仏陀の言葉)から、「学ぶことの少ない人は牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの智慧は増えない」と引かれてあるのには、頷いた。「学び」にはいろいろの質や程度や向きの差は有るが、「学ぶことの少ない」仕事は痩せている。
* わたしの選集刊行の仕事を「永久保存の熱意」とみて惹かれると告げてきた先輩作家があったが、わたし自身は「永久」という夢など見ていない。人類の到 らない愚かさが、四十五億年の地球の寿命をもう千年も守れるのか、地球は自身のちからで生き延びるだろうが、それすら永久にではない。まして人間の営み は、謙遜に学ぼうとしないかぎり、ほどなく業火に燃え尽きる。私の営為は、そこはかとない自負と自愛以外の何ごとでもない。そんなはかない覚悟にむけて、 「『湖の本』すばらしいお仕事です」と言って下さる方もあり、また「傘寿をお迎えになって、なお、青年のような勢いでお仕事をなさり、作品を通して、先生 が八十年間たくわえられたものを放出し、読者に与えてくださるのに、ただただ感動しております。」いつも、伴走なさる奥様にも、感謝いっぱいです。お二人 のご体調が良く、穏やかな日々が続きますように 元旦」と手書きして戴いた方、こういう方々と今しも、此処に足をおろして生きていることを、こよなく嬉し く有難く思う。「学び」つづけたい。願いや熱意は「永久」に向けて在るのではない。「いま・ここ」を謙遜に学びながら、かつ自信に満ちて生きたいのだ。
2016 1/4 170
☆ 明けの春
みづうみ、お元気ですか。
明けましておめでとうございます。
新しい年がみづうみにとりまして晴れやかにお幸せなものでありますようお祈り申し上げます。
元旦からの私語で、ご体調とても心配しております。我慢なさらずに、救急車のお世話になってもよろしいので、どうぞ早め早めに病院にいらしてくださいま すように。みづうみはいつも頑張りすぎますが、そろそろ頑張らないことも大切かと。八日まではおとなしくご自宅にてお過ごしくださいませ。誰でも手術処置 前には気分も滅入るものでございます。お済みになりましたら、またいつものみづうみにお戻りになりますでしょう。
みづうみが映画「沈黙」について何度か書かれていらしたので、先日書いたことの補足説明をさせてください。今年は遠藤周作が亡くなって二十年、『沈黙』が書かれてから五十年だそうです。
* 晩、もう一度、映画「沈黙」を丁寧に観た。
やはり最後の一シーンが理解できなかった。あれでは、ただの破戒に終わるのでは。わたしは、切支丹牢の岡本三右衛門(転んだとされる神父)と日本の武士 岡本三右衛門(転ばなかった武士)の妻との牢内での暮らしを、もっともっと叮嚀に描いた。信仰と人としての真実は、踏み絵を踏もうが、結果的に転んだとし ても、守られうる。神に愛や慈悲があるならそれを信じ抜くことはできるだろう、しかし映画「沈黙」のラストシーンはただの破戒ではないのだろうか。原作、 映画の「題」もよく掴みきれない。
わたしはシドッチとはると長助とを、岡本三右衛門の妻女と牢で結ばれていたパードレとの最期を「御大切」を体し得た人たちと信じて描いた。迷いなく書いた。
映画の最後のシーンは原作には一行もない篠田監督のまったくの創作です。推測ですが、篠田監督は信仰や宗教に懐疑的で否定したかったのかもしれません。こ の映画の評判が良くなかったのは、原作をとんでもなく破壊したからだと考えられます。原作をきちんと読んでいたらこのような解釈は絶対に出てこないでしょ うし、もし篠田監督が神父の棄教をこのように描くつもりならそれはそれでかまわなくても、オリジナルの脚本をつくるべきで、原作に『沈黙』を使うべきでは ありませんでした。解釈は自由ですが、作品の根幹を変更するのならそれは原作の悪用になってしまいます。何よりいけないのは、あの当時日本にきた宣教師た ちへの理解や敬愛に欠け、人間の誠を信じていない(と思われる)ところで、私はこの映画を観ようとは今のところ考えないのです。
あの時代に、ヨーロッパからは地の 果てであった日本に布教にきた宣教師たちはやはり見上げた人たちであったと思っています。殉教することを覚悟しての命がけの渡航でした。理解できない言語 や馴れない風土をものともせず福音を伝えにきてくれたのです。ですから棄教せざるを得なかった神父たちのその後の人生を想像するだけでいつも涙を禁じえま せん。
私 が『親指のマリア』を愛するのは、たとえ基督教に帰依しなくても、異国の神父たちの魂の気高さを理解し愛する新井白石、叡智も人間愛もある日本人の姿を描 いているところにあります。人種や文化や歴史や宗教や言語、あらゆる障壁を超越し得る「身内」の可能性を新井白石とシドッチ神父の関係に信じることができ るからです。日本は教会が基督教の布教に失敗した国ですが、だから宣教師たちの来日が何の意味もなかったかというと、絶対にそんなことはないでしょう。愛 に破れた人生が無意味でないことと同じです。
ヨワン……。
この国へ、よう来てくれた。後の人にもそう思わせる時が、さだめし、有ろうよ……。あのマリアの絵に慰められる者も有ろう……よ。
作中にこう描かれてている新井白石の痛哭を二十一世紀の日本人も共有していることは疑いようもないのです。
遠藤周作『沈黙』は、棄教せざるを得なかった人間の弱さや絶望と悲嘆の人生に、同じ重さの悲しみを抱いて同伴しているこれまで描かれたことのない新しいイ エス像を描いた記念碑的作品です。遠藤周作の最高傑作は『深い河』だと思いますが、『沈黙』を書かずにここに至ることはなかったと思います。
ヨブと神との神話は、むしろよほど特異なものであるらしい。わたしの内にも「神」と呼んでいい不思議が生きていないわけでないが、ヨブに対する神のよう な神とは一度も話したことがない。一編のお話しのようにしか迫ってこない。基督教にたいする理解の限界がはっきり感じられている。むしろブッダから会得で きそうな頼もしさをわたしは実感している。仏教と謂っても、大日の阿弥陀の観音のという神話化された教義よりも、端的に、禅という透徹の安心へむかいたい 願いが濃いし強い。
みづう みの「ヨブ記」の読書についての感想ですが、遠藤周作も日本人ですから、当然基督教理解の限界を感じ続けて、生涯基督教の受容に格闘し続けてきた作家で しょう。遠藤周作にとってカトリック信仰は母親に与えられたもので、信仰を棄てることは母を棄てることなので決して出来なかった。基督教を自分のものとす るために小説を書き続けたと言ってもよいかもしれません。さぞ苦しいことであったろうと思います。
基督教は日本人と人間の在り方がまったく違う異人さんの宗教です。一般的に日本人の家族は夫婦、親子、兄弟姉妹が互いに愛しているとわざわざ言葉にして誓 う必要もなく、静かに言葉少なに寄り添うだけでほのぼのと幸せを感じられるものですが、それは欧米人には想像を絶する人間関係でしょう。彼らはそれほど凄 絶に孤独で、誠心誠意愛を誓い合わないと生きていけないようなのです。日本人には理解し難い神との契約という考え方も、愛しているという誓いの有無が生死 を分けるほどのものだからではないかと、私は想像しているのです。殉教か棄教かを迫られるのは神との契約が存在する宗教にしかないことです。
私の甚だ偏向した意見ですが、カトリックは現世の幸福には徹底的に無縁でいてかまわないという宗教です。自分に座標軸を置いてはいけないのです。神に与えられた隣人を座標軸にしなければならない。だから離婚も中絶もいけないのです。
私の知る限りで最もカトリック的な 作品は映画でいえばフェリーニ監督の「道」、小説では島尾敏雄の『死の棘』がそうかもしれません。どちらもふつうの人間には到底愛し難い人間を、主人公は 決して棄てません。どこまで堕ちても同伴者でいつづける人間=キリストの愛を描いています。ロミオとジュリエットのように、愛する価値のある相手、愛され る魅力のある人間どうしが愛し合うのはたやすいことです。ジェルソミーナも「私」も逃げることは可能だったのに、生き地獄の生活のまま、最後は相手にうち 棄てられて野たれ死んだり、一切合切失って相手と共に精神病院に入るわけです。そこに立ち現れる愛の真実には深い感動をおぼえるものですが、その愛を理想 とする信仰は悲しい、悲しすぎるものに思えます。ジイドの『狭き門』はそんなカトリック教会への痛烈な批判でありましょう。しかし、カトリックは全人生を 賭けて批判する価値のある何かではあります。
「禅 という透徹の安心」に向かうほうが真実かと迷うことがあります。それでも、わたくしはみづうみのように禅という透徹の安心やバグワンに向かうこともできま せん。誤解かもしれませんが、透徹した安心とは自分のためだけの到達に感じられ、自分のあるべき姿なのかどうかわからないのです。
日本の仏教界は長い間らい病患者た ちを一部例外をのぞいて黙殺してきました。家族にさえ遺棄されていた患者たちに救いの手を差し伸べたのは異国の宣教師たちです。日本で初めてのらい病患者 のための病院を設立したのはフランス人神父です。彼の討ち死にのような死のあとにも次々と外国からの宣教師がきました。彼らは当然自分も感染して死ぬこと を覚悟していました。過労と心労で刀折れ矢尽きるように死んでいきます。らい病は今では完治する病気ですし、もともと感染力の弱いものですが、当時は不治 の伝染病であり、しかも顔はくずれ、気道ができものにふさがれて窒息して絶息という悲惨な死に方をする病気でした。同情や教義への服従だけであれほどの看 病はできません。彼らの崇高さは認めざるを得ません。
禅が、このような病人たちの「隣人」「身内」となる積極的な何かをしてきたのか、寄り添ってきたのか。透徹していく安心とは愛することとどう関わるのか、愛とは関係ない理想の世界のことなのか、稚拙な考えしかない私にはわからないのです。
遠藤周作があらゆる宗教は人間の言葉で伝えているために不完全であるという意味のことを書いていました。どの信仰でもある一面しか人間を導いてくれませ ん。しかし、その目指す理想はきっとどの宗教でも同じで、神とか無とかサムシンググレートとかいう「何か」であることは信じています。
その「何か」を知るために人間は生きていると思うときがあります。ですから言葉にはできない「何か」を大切にしない映画や小説や人間を、私は好きにはなれないでしょう。
作家には文藝の力で読ませる谷崎潤一郎や泉鏡花や秦恒平のようなタイプと、遠藤周作や小田実のような人間性で読ませるタイプがあります。後者は、みづうみ も時々指摘しているように文章の魅力という点では前者に及びませんが、人間の力でやはり読ませてしまいます。本日夕方ポストに「沈黙」のDVDを頂戴していました。映画を観ずに篠田監督を批判しておりますので、機会をみて鑑賞し自分の考えをまとめてみたいと思います。ありがとうございました。お心遣い大変嬉しく存じました。
暖かいお正月でしたが、また寒くなるようです。どうぞお大切にお大切にお過ごしくださいませ。 毬 手毬唄かなしきことをうつくしく 虚子
* 感謝に堪えない。型通りのご挨拶でなく、この人は真っ向から全力で直球を投じてくれる。是非の問題はかりに別にしても、自身の言葉でまっすぐ投げ込まれる有り難さ、キャッチャーミットに、ずしっと響く。
* 『廬山』『華厳』『マウドガリヤーヤナの旅』三作でわたしは仏教に触れた小説を書いた。それから和尚バグワンに親しみ、聴きに聴き、聴きながらわたしの内 に溜まっていたブッダやイエスや老子や達磨や一休らの声や言葉も聴いた。これらの期間を通じて云えるのはわたしが宗門宗派へは、身をもがくほどに近付かな かったということ。法然への敬愛はいまも喪わないが、成ろう限り仏教的にはブッダの源泉を汲みたく、道教ではなく老子に聴きたく、禅は達磨に聴きたかっ た。ま、ピュアに一途な信仰を求めてきたとは云えない、とはいえ知識的に接近したかったのでもない。わたしがかかえた文字どおりの「迷惑」「煩悩」に目を 背けないまま何とか静かな安心が得たかったというに過ぎないし、得られてもいない。『デイアコノス 寒いテラス』という小説の題がはいごに負うている「奉 仕」という愛に関しても、わたしは何の確信を提示し表現することも出来なかった。「毬」さんに指摘されたように、わがことだけでアプアプしていて、他者へ の愛などまるで実現できなかった。指名され指定され求められればわたしは概して懸命に前向きに仕事したが、われから身を寄せて世間や他人社会へ「ボラン ティア」したことの無い、冷え冷えしたエゴ型の人間なのである。分かっているから、どうかしてエゴという我をはなれて空・無への透徹を願うのであるが、と ても叶いそうにない。静かな心になれない。愛を、わたしのいわゆる「世間」へ向けず、「身内」へ向けている限りダメですよと嗤われるのがオチだが、「毬」 さんが謂うようにわたしはそのテの「文藝」作者でありつづけ、いまもある。
漱石は、小説『三四郎』で無意識の偽善を指摘していたが、漱石らしい優しさや愛の、ないし弱さの表現であり、偽善は偽善で無意識(アンコンシアス)など 関わりない。漱石は流石に堅剛で懸命だけれど、誰もがそこを無責任に言い逃れたがるから、なべて世の中が「ウソクサイ」のである、わたしも例外でない。
「われはわが愆(とが)を知る、わが罪はつねにわが前にあり」などと我から言うてはおしまいなのである。
2016 1/5 180
* この二、三日、小説『墨牡丹』ではないが、村上華岳にふれて書いた自分の旧稿を、懐かしく繙いていた。華岳の生涯と画業を謂いながら、まさしく私自身の小説家としての理想と姿勢と方法を述懐しているようであった。大事に、これを書き留めておく。
2016 1/6 170
* このところ、何度も、グノーの歌劇「フアウスト」を、ただ音楽として聴きながら、原作を想っている。つれて、ミルトンの『失楽園』をなんともいえない 憧れ心地で思い出す。幼少、誰にも知られずわたしは河原町三条の基督教教会へ行ってみたいと想っていたのも思い出す。あれはどうしたのだろう、中学生の 折、人に貰ったとは想われない、偶然に拾ったのかしれないが十字架の鎖を持っていた。英語の先生に見せたら「コンタツ」と謂うものと教わった。身につけは しなかったし、いまでもどこかに仕舞い込まれているのかも知れない。
小さい頃から、家には漢籍も古典籍も信じられないほど豊富だった。だが、そんな中に、誰かから送られたらしい小型の良い新約聖書があり、じつは、わたし はその文語体が気に入り、福音書などはみな繰り返し読んでいた。基督教の空気は、誰からでもない教会からでもない、一冊の聖書から吹き込まれていた。かす かに教会へ気が動き、そのままになった。コンタツとやらを拾っても身には帯びなかった。まったく同時にわたしは、仏壇の般若心経や燈明の色に惹き込まれ、 また地獄の想像に夜中泣き叫ぶ子だった。
高校生のうちか大学入学のころには裏千家から茶名を受けていた。希望した一字は「遠」つまり茶名は「宗遠」とつけられたが、これが「老子」から得た一字 で、老子も荘子も唐詩選も白楽天も、みな祖父の遺していた蔵書で、例外なく小学生の頃のわたしの愛玩書だった、愛読書とまではとても云えなかったが。
わたしは、聖書も含めて古典や歴史書との出会いが、いわゆる小説などの読み物と出逢うよりよほど早かった。変わり者にならずに済まない環境がはなから養家にあったのだ。
* いま、わたしはこの「私語」の冒頭、櫻につつまれた自分の写真に添えて、
あのよよりあのよへ帰るひとやすみ と、述懐している。
まだ生まれていない無のあの世から、いずれ死んで行く無のあの世への、みぢかい旅のこの世。ま、ひとやすみしているようなこの世。前世に物語はなかった し来世にも物語はない。「あらゆるものが最終的に源に帰る。それが自然だ。源が終着地だ。元気に自然に生き静かに自然に死ぬとは、それを知るということ。 苦労や苦行で光明(悟り)を得たがる、死んで天国や極楽へ行きたがる、みな無意味で不自然な「目的地」を幻想しているに過ぎない。天国も地獄も、聖職者が こじつけた不自然な論理の荒唐無稽な絵解き。
中学の頃、わたしはもうひとかどの免許ももった茶の湯好きだったが、ある時、教室で図画の先生から指名され、「お茶で大切なんは何や。言うてみ」と問われた。もぐもぐと、実感のないわびのさびの和敬清寂のと言いかけていたうが、先生、一語「自然や」と。
* バグワンも「自然」と言う。ブッダが、なによりも根源の自然を言う。来て帰る「源」である「自然」を「禅(ディアナ)」と。地獄極楽の仏教などは、後世の宗門仏教が利用した方便であった。
2016 1/6 170
* 北朝鮮が「水爆」実験に完全に成功したとブチあげている。危ない「刃物」ほど危ないヤツの手に握られる。この手のニュースが乱舞のたびにこの頃ではきまって余命の少ないことを勿怪の幸いなみに感じているのが情けない。
英文学者で文藝批評家の佐伯彰一さんが、英文学者で詩人の加島祥造さんが亡くなった。お二人とも九十代。わたしたちにしても、八十という数字は、希望的にすら持ってなかったが。だが寂しくなる。点鬼簿の数が増えて行くばかり。減ることは決して無い。
佐伯さんにはたくさん読んで頂いた。息子さんが医学書院に就職受験したいがと相談を受けたこともあった。
加島さんに貰った、懐紙を上下二つ折りに毛筆で大きく書かれたお手紙が、すぐ手の届くところにあった。『愛、はるかに照せ』へであったか。
☆ 湖の本
つねに敬意と興味を持ちつゝ読んでいます。また お努力にも感嘆しております。
とくに詩歌集の評釈語には教示されるのを覚えます。
わが國では稀な仕事ですね。
とくに、学者のなぶりものになったあとなので、こういう少数のよい感性ですこしづゝ回復してゆくほかない。しかしそれを受け容れる人々は絶えない、どこかにいる――これはあなたが私以上に実感されている事でしょう、 匆々
九月十一日 加島祥造
秦 恒平様
* 点鬼簿 という言葉を少年の昔に芥川龍之介の本の題で覚えた。
記憶の利いたかぎり、御恩やお力を得た方々、また親しい知友として敬愛を分かち持てた大勢の名前をわたしも書き留めているが、あまりの早い増加に胸が冷える。「死なれて 死なせて 生きねばならぬ」と思ってきた。
2016 1/6 170
* もう、言うまいと思うのだが、口を噤んでいい時節ではない。言うて詮無いと思うて言うのではただの愚痴になる。愚痴は言うまい。
2016 1/7 170
* 三種類の、まるで世界を異にした小説のゲラを持ち歩いて、今日も往き帰りに、また病院の外来でも、たくさん読んだ。
「マウドガリヤーヤナの旅」「チャイムが鳴って更級日記」「お父さん、繪を描いてください」
ま、およそ大違いな世界を小説として書いている、ひとりの私という作家が。それが、私。
2016 1/11 170
* むかし東工大の学生諸君に授業のつど「問い」かけて悩ませていた。わたし自身も同じ問に答えておこうと思い立ち、ぽつりぽつりと返答している。
今し方も、「『私』とは何か」という問いに、
「あの世(生前)の無」から「あの世(死後)の無」へ帰るまでの「この世(今生)の迷い惑い」に付けられた「夢の迷子ふだ」である。夢覚めて「無私」「無事」に「源(あの世)」へ帰れるかどうか。まだ分かっていない。
と答えた。答えられているのかいないのかも、分からない。齢八十にして、なんと情けない。
2016 1/13 170
* 奇想の推理編「チャイムが鳴って更級日記」、古典にも史実にも文献や口碑にも拠って、面白く、初校を終えた。今時の若い編集者では、これだけの背景を 把握しながら小説の成り行きに適切な助言をわたしに呉れられる人は、九割九分いないだろう。古典の読める若い人にめったに出会えない。史実や史料を批評的 によめるような編集者には、昔でもなかなか出会えなかった。それでは小説の面白さがはなから大幅に割り引かれてしまう。一流の文藝誌で半年一年時間を掛け ても理解して貰えなかった作が、敬愛する批評家や学者に私家版にして送れば、先方から文学賞候補作にしたいと言われて、結果、「清経入水」は選者満票で当 選受賞した。そういう体験を芥川賞候補になったときも鏡花賞候補にされたときも、わたしはしてきた。日常生活の報告書のような私小説ばかりを読んでいた編 集者の大方は古典や歴史や美術や芸能に取材の創作世界は、よほどみな苦手らしかった。
「チャイムが鳴って更級日記」でも「あやつり春風馬堤曲」でも「秋萩帖」でも「風の奏で」でも、いわゆる文藝誌にもちこんでも手に負えないのだと分かれ ば分かる程、わたしは自身を「湖の本」の世界、騒壇餘人の境涯に身を起こうと心を決めていった。もしも編輯と出版の経済効果論に屈して創作の室と持ち味と を殺していたら、わたしはとうの昔に読み物屋に堕落するか、「作家さよなら」するしかなかったろう。
幸いに、読書の世界、学藝の世界には、わたしの仕事を喜び迎えてくれるありがたい読者が、まちがいなくいて、「騒壇餘人」のわたしを支持しつづけてくださった。支えてくださった。有り難かった。さもなければ、どこの世界の誰に一作家の作だけで、三十年、百三十巻もの私家版「湖の本」が継続刊行出来ただろう。
* だが言っておく、上のようなわたしの文学活動も、なんら「生」という「橋」の上に建てる「家」ではない。「生は橋、橋は渡るだけ」、橋の上にどんな家 を建てても始まらない。では、何のための命懸けの仕事か。自分には出来ることを心から楽しむ仕事なのである。橋の向こうまで持って渡る仕事ではない。
2016 1/15 170
* なにかしら集中力を欠いて、ダル重い。腹部不穏を調整できず、仕事に手が着かない。十分寝ているので睡眠不足はないのに、ともするとうたた寝している。
からだを横にすると、モノが読める。水滸伝などに打ち込める。ゲラも読める。
床から起つと、いけない。
街歩きへ出ようともしない。メールもしない。ソーシヤルネットもワケ分からずに使えなくされている。テレビの前へゆくと、コロンボだのポアロだの NCISだのフォイルだの。かと思うと、お肌、ブルンブルン、まさに、なんと、おいしーい、などと喚かれてばかり。国会も、ダメ。
このままだと引きこもりの老鬱にやられる。
驚いたことに東京で五十七年暮らして、あそこへ行ってみたいなと思う先が、思い当たらない。
京都なら、選ぶのに困るほど歩いて行きたいも歩きに行きたい先があり、しかも何度繰り返し出かけても飽きない。
祇園、建仁寺、六波羅、清水坂、清水寺、清閑寺、小松谷、太閤坦、日枝神社、智積院、法住寺、養源院、三十三間堂、博物館、タクシーで泉涌寺即成院、戒光寺、悲田院、来迎院、観 音寺、泉涌寺本堂、泉山御陵、雲竜院、東福寺、通天橋、三門、本町、東福寺駅から四条、南座、祇園町、母校、八坂神社、円山公園、釣鐘堂、知恩院、三門、 瓜生岩、青蓮院、粟田口、瓢亭、南禅寺三門、永観堂、法然院、銀閣寺、詩仙堂、曼殊院、 タクシーで出町、墓参、糺の森、下鴨神社、同志社、御所を南へ、 鴨川西堤を三条大橋まで、先斗町を四条へ抜けて、縄手から新門前の家へ。
その紀なら一気に回れるが、どの一箇所も其処をだけ目的にしていっても楽しめる。
懐かしくて、いくらか気も晴れる。やれやれ、京都がほんとに遠くなってしまった。
ま、幾らも新しく創作し、とびきりの古典や名作を読み返し、自信のいい本を作り続けるしか元気の道がないようだ。たんに東山べの一画を思い出してみたに 過ぎないが、挙げた名どころの一つ一つにわたしは無数の物語を持っている。そんなのを書き始めたら二百まで生きねばなりまへん。
2016 1/17 170
* 科白が粘った餅のよ うだ、地の文もと思い、これではいけないと困っていた。処女作を書いた頃だ。そんなときにシナ研(松竹シナリオ研究所)の募集広告を見つけたのだった、 東大正門前の有斐閣書店、雑誌「シナリオ」に出ていた。即座に買い、何も躊躇わず申し込んだ。何ヶ月通っただろう、つごうのつく限り毎晩、五時退社して築 地の松竹へ講義をうけに行った。有名な監督やシナリオライターや評論家が話してくれたが、正直のところ講義が聴きたいより、「きまり」として、前半期に一作、 後半期に一作、シナリオを提出せよという約束で、それを、気持ち受け容れていた。わたしはそういう「きまり」なら、きまりを守るタチなので、出来栄えはともかく少なくも二作は書きあげるに違いなかった、事実ちゃんと書いて提出したのである、「懸想猿」正・続。
受講者は七十人ほどだったが、おしまいころは十人も残ってなかった。二作、ちゃんと提 出したのはわたしともう一人、二人だけだったと聞いた。
* いい経験をした。
前半の正編は、当時松竹の専務か副社長だった城戸四郎さんが、八十点をつけた上で、あなたは小説を書きなさいと「講評」されていた。続編は評論家のたし か岸松雄さんが、全くおなじ事を言われていた。応募し、通い続け、書いてよかった。あきらかに「背を押された」思いがした。二編のシナリオを一冊の謄写の私家版本につく り、妻が装丁してくれたわが私家版の第一番目である。
* これよりさきに書いていた小説の処女作「或る折臂翁」とひのシナリオ「懸想猿」とは、著しく作意の上で重なっている。舞台となる丹波の山村も似通い、その双方の延びていった線 上に「清経入水」が来ている。この作もまた選者「先生方」の目に留まって、太宰賞候補作として銓衡の場へ差し込まれていたのだった。
人生不思議という思いを、しみじみ感じた。
いま選集第十四巻のために、ちょうど「シナリオ懸想猿 正続」を初校している。書いて置いて良かったとしみじみ思う。
2016 1/18 170
* 二階では機械仕事、目が疲れると階下でやはり目を使いながら、校正。朝昼は元気でも夜分になるとげっそり疲れている。手洗いに入っても、便座で両膝に 両肘をおいてガクッと首を垂れてしまう。抗癌剤でシンドかった頃と変わらないガックリ姿勢になる。からだが、はやく休みたいも寝たいと言うている。
今日は比較的、これでも気楽には過ごしていたのだが。ひとつには自分で書いた渾身のシナリオ世界の辛さに打ちのめされているとも謂える。なんという「こんな私でした」であったか。
そういえばこの第一私家版の出来たとき、同じ課の女子編集者にみせて感想を求めたとき、翌日、本を返され、「怖かった」と一言、聴かされたのをありあり 思い出す。まさに地獄を身に抱いていたのだった、あの時はしかし、それが自覚出来てなかった、はぐらかしはぐらかし抱き込んで反芻していたのだと思う。
2016 1/20 170
* さ、腹を括って明日以降、湖の本128を送り出す。今回と、続く湖の本129とは、「小説」の巻になり、ことに次巻129は読者の皆さんには喜んで頂けよう。
問題は、創刊三十年記念の第130巻。ほぼ仕上がっている新しい長編小説をと言いたいが、躊躇いがある。せめて短い方の物語『清水坂』が仕上がればと願うのだが、けっこう奇想の物語ゆえ、心ゆくまで手入れもしたい。
楽しみ半分にいろいろ考えていて、ほんとは無心に放心しつつかつはきっちり考え抜いて書き上げるためにも、二、三泊の旅がしたいが乗り物を降りる自信が ない。博多まで乗って、また東京まで乗って帰る、その安楽な窓際の席が確保できたら日帰りができるかな。いやいやバカげている。
大学生のむかし、京都駅始発の各駅停車(鹿児島のさきの)終点指宿行きに乗り込み、36時間かかって熊本駅で音をあげて下車し、水前寺公園の入り口まえ の銭湯に飛びこんだ。湯に漬かると帰心矢の如く、すぐ熊本駅へ走り、こんどは急行京都行きに乗って帰ってきた。あれはへとへとに疲れただけの強行軍だっ た。生涯の愚行であったが、懐かしく無くもない。いまはそんな愚行、体力が許さない。
ナイショにすることでもないが、新潟の村上へはまえから是非行ってみたかった。後白河の皇子の伝奇が伝わっていて、気を惹かれたまま、忘れがたいまま、まことに久しい。ああまた夢をみそうだ。
2016 1/21 170
* 今度の湖の本128は、かつて例のない編輯になった、未発表で、二編の一編は未完中断のまま創作ノートを付録してある。二編とも、原稿用紙の表題署名 は秦 恒平でなく「菅原万佐」になっている。高校の頃、菅井、原田、万佐子という三人の同級女性徒の氏名から失敬して、校内新聞に投書して以来、筆名に用い、四 册出した私家版本の三册までが「菅原万佐」著となっている。文藝誌「新潮」編集部から突然の電話にひき続いて届いた数通の手紙やハガキはみな秦方「菅原万 佐様」になっているのを最近古い古い荷物の中から見つけて、ちと感慨ものであった。やがて「新潮」編集長と初対面のさいに、即座に「本名にしなさい」と言 われたので、四冊目の私家版小説集『清経入水』は「秦 恒平」著になっている。
今度の湖の本では小説「資時出家」も長編初稿「雲居寺跡」も、原稿に「菅原万佐」と署名している、それほど大昔の処女作時代の勉強ものであり、しかもこ の両作ともに、以降「作家秦 恒平」が創作をかなり豊富に示唆もし刺戟もして幾つもの小説に成っていった。私家版の「湖の本」なればこそ可能な誰にも遠慮のない出版であり、こういう未 公表小説を次の「湖の本129」では三作公表する。三作ともまぎれもない私の創作であり世界である。読者の皆さんに喜んで頂けるとわたし自身が楽しみにし ている。 2016 1/24 170
* 小説「清経入水」の太宰賞受賞「原稿」を読み終えた。受賞作として選評付きで「展望」に発表された「清経入水」は当選原稿を一夜かけて徹底的に推敲改 作した 作であり、むろん編集部にも選者の先生方にも「より、よくなった」と承認の八月号「展望」だった。原稿と改稿とは、ちがうといえば大きく違っている。その 「私家版本」選者銓衡の当選「原稿」を読んだ読者は、世間にまことに数すくなく、よほど多く見ても百人ほど。
2016 1/25 170
* 久し振りに、サックリした便りを読んだ。八十か。シャーないか…。キリっとして頭抜けた美少女やったがなあ。
今回湖の本「トウチャコ」第一報。今回本は、ちょっと様子がちがうので向き不向きがあるかも。次回本には「未公表」小説が三作、これは、いろいろに楽しんで貰えるだろう。
もののしたから埃まみれの紙袋に入って、未公表のままの小説や習作原稿が、ゾロゾロ出てくるのら驚かされる。なんで。
わたしの小説や志向・傾向が、とうてい現下の文壇や文藝出版向きでないという体験上のかすかな諦念が、書いてもそのまま仕舞ってしまう方へ向かわせた、 所詮は騒壇余人の意識が強まっていたのだと思う。でなくて、現役作家が、「湖の本」のような舞台を自ら創り出すか。だれも、と言って間違いないだろう、事 実「秦 恒平」のように「文学」世界を自身切り開いて進んだ作家は他にいない。いても、続きはしなかった。「続く」ことが必要なのだ。「湖の本」三十年、わたし は、今も続いている。まだまだ続くだろう。
2016 1/27 170
* 「選集」は第十一巻が二月上旬に出来、第十二巻もとうに責了してあり、第十三巻568頁の大冊も、もういつでも責了できるほどに成っている。第十四巻は初校中。第十五巻を編輯して原稿読みにかかるが、ま、刊は秋成りで宜しく、落ち着いて、創作の方へとりくむ。
* と、言いながらこれでけっこう美味い道草も食っている。
まえから試みていた「小倉ざれ歌百首」は、もう残るところ八首になっている。「戯れ=ざれ」てばかりでなく、けっこう苦吟している。あと、八首、固有名 詞で出られるとなかなか難儀。とにかくも第一句はさのまま活かして、第二句の第一音をふんで歌っている。わたしの好みであろう、自然に和歌になって、近代 短歌にはなりにくい。
夜をこめてしのびあふみの波まくら月光(つきかげ)さむく雁なきわたる
といったふうに。
もう一つの道草は、名付けて「秦教授の自問自答」で。気儘な今今の自問ではない。湖の本の「東工大『作家』教授の幸福」に一覧が出ているが、わたしは講 義の毎時間毎に、講義とは無縁に学生諸君に「挨拶」と称して難問を毎度ふっかけ続けて、それは存外に学生諸君に頑張って受け容れられていた。その出題とい うか難問は、都合二百の余もあったろう、回答されてきた総計は文字数にして三万字を、つまりは単行本の百册分にも剰ったのである。
退任してから、ふと、わたしは、学生諸君に押しつけた質問に「秦教授」も答えて当然であろうと思い至った、が、ま、意地の悪い質問が多くて自分で答えるとなっては難渋、何年もかかって、まだ七割八割しか答案が書けていない。
* 「不自然」は活かせるか。無価値か。
「不自然」こそ疑問の入り口であり、直接であれ逆説であれ、先の展開や発見から「新たな自然」が生まれ出ることがある。しかし「不自然」への疑念や嫌悪や 警戒や用心は当然にいつも必要であり、不自然の暗い奥へ踏み込むためには優れた直観と勇気を必要とする。まして不自然を無意味に好むのは危険でかつ下品で ある。無価値ではないが、そこから新たに自然な価値を獲得するには、なにより人性の自然と知性と経験がその人に先ず備わっている必要がある。
ま、アタマにくるような質問がワーツと並んでいて、教授は自分から問うた難題に自分で答えねばならない罰をいま受けている。
2016 1/29 170
* もし人が、「過ちを犯しながら鉄面皮をきめた」ことがあると告白すれば、恥ずかしながら「おれも」と言うしかない。ルソーのように「わたしは過ちを犯 して鉄面皮でいたことは決してない」と言いきるのを読むと、尊敬するよりさきに気分がガタガタになる。ルソーは一七四五年に不幸な女性テレーズ・ルヴァ スールと結ばれ、同棲し、のちに結婚、しかし生まれた子供はみな孤児院に送り、晩年に至るまでテレーズはルソーの「家政婦」だったとルソー自身が「告白」 している。少年の昔に自身の盗みを、無辜の少女になすりつけたのを彼は終生恥じていたが、わたしには、テレーズや彼女とのなかに生まれた子たちへの仕打ち の方が、人種・国家の慣習差を考慮してもなおかつ「鉄面皮」に感じる。むろん近代史のために貢献し得たジャン・ジャック・ルソーの偉さを割り引いたりはし ないけれど。『孤独な散歩者の夢想」における「第四の散歩」前半のごたごたしたあれこれの見解など、まるで「よまいごと」としか読めない。
* バグワンは教えてくれる、「おまえたちはすでにブッダなのだ! ただ忘れているだけだ」と。「必要なのは、それに気付くだけ」「夢から覚めること」と。
ただ、「目覚めは、むずかしい。」「有益だと夢見て有益だと見なしてきた沢山な観念や、分別を、ボロを脱ぐように捨てなければならない」「気付かねばならない」からだ。できることは、「そのまま眠り続けるか、目を覚ますか」そのどちらかしかない。
* 漱石の「行人」を少年の頃読んだ。その中で、悟りを求めて四苦八苦の人が、ある日、自然と無心なまま庭の掃き掃除をしていて、ふと、目に立った石を竹 藪の方へ投げた、竹がカーンと鳴った…即座に、彼は「目覚めた」と有った。なんという美しい目覚めかとわたしは読み取った。この庭掃除の
人、きっと大声で笑い出しただろうと思った。
2016 1/29 170
* 「猿の遠景」という本を出している。中村真一郎さんと最後に会って立ち話の折、というよりも中村さんがわたしを見つけて寄ってこられ、「猿の遠景 よかっ たね、おもしろかった。ああいうのが大事なんだがねえ」と言って下さった。中村さん、その数日後に急逝された。むかし太宰賞授賞式後の二次会にも出て下 さった。痛いほど、懐かしい。
その「猿の遠景」を読みかえした。わたしのたくさんなエッセイのなかで、「能の平家物語」「蘇我殿幻想」などとならんで、いっそ小説なみ、小説として読まれてもいい一仕事になったのではと思っている。
小説「四度の瀧」も読み返している。
2016 1/31 170
* 上の四年前のわたしの「顔」 胃全摘入院の「明日は退院」という晩に自分で撮ったが、手術前と変わらない表情をしている。このすぐ一月後ぐらいから一年間 「抗癌剤」を気張って服したが、その重篤な苦痛は思い出したくもないほどだった。ドクターの方が案じて間隔を縮めてくれたほどだった、が、一度もやめたい とは考えなかった。転移癌が以降再発していないのもそのおかげと信じることにしている。
が、副作用は「眼」にそして「歯」に来て容赦なかった。
いま四年後のわたしの日頃の「顔」は、四年前のと比べようなく、まるで別人、表情に「リキ」と「ハリ」を失い、ひ弱くなっている。
ま、やせ我慢をいえば、それは「顔」だけの話。文学との日々は、たくさん仕事していた盛年期(…じつは、わたしには、そういう「盛年」の自覚や意識が、 ついぞ無かった。文壇の空気からはまるで逸れていると思い決めて、そのように生きていた。)よりも元気でいる。意識も自覚も乏しかったわりに、なんだか評 価もされていたのかなあというあれこりに今頃思い当たることもある。東工大教授ま話が降って湧いたり、ペンの理事にひっぱり出されたり、作家代表団で中国 やソ連へ旅できたり、百册を越す本を出版できていたり、湖の本が三十年もつづけられたり、など、今にして、ふーん…と思い至ったりしている。人生とは、そ んなもののようです。
2016 2/1 171
* 九時半にならぬうちに「秦 恒平選集第十一巻」が無事届いて、すぐ、送り出しの作業に。三巻一包を一つずつ叮嚀に包みから取り出し、先ずは記番・印形、そして宛名を確認しつつ叮嚀に 包装し、用意の挨拶文を入れ、時に手書きもし、その上で荷造りになる。本を、箱を、傷めたくないし汚したくないので、一冊包むのに妻の入念な手仕事は、わ たしの主として力仕事より、何倍もたいへん。
ま、ゆっくりと。いましも正午前。
* 十一巻まで、こう好調に出来るとは我ながら期待していた以上。眼のうえの書架に並んで、箱の背に作品の題が読みとれると、さすがに感慨深い。全巻を 「製作実費負担」で支援していて下さる人の書架でも、場所をとって本が威張っているかも知れないと思うと、ちょっと面映ゆいが。
今回は、わたしの「地(ぢ)」に即した作、つまりは祇園、京都に根の生えた長中短篇を取り揃えてみた。むろん小説はフィクションであるがしかも、まさし く「こんな私でした」と語っている。加えて、ひとつおまけの「参考」作を添えておいた。京ことばの、そう苦にならず読める人に届けたい。
* 四時半、中休み。なかなか捗らないが、ゆっくり、ゆっくり。テレビは邪魔にならないけれど、ロクな番組のないのにイライラする。結局録画した映画に期待するが、科白など吹き替えてくれてないと、耳だけでは受けとりにくい。
2016 2/5 171
☆ 拝復
立春の候 御清祥のこととお慶び申し上げます。
先生には 御高著 湖の本「資時出家 初稿・雲居寺跡」を御恵与いただき誠にありがとうございました。
小説という「手法」を用いて『平家物語』の成立論を掘り下げる試みは 学問とは異なるアプローチで道を拓くものと存じます。郢曲の家、綾小路家と資時、金仙寺のあたりは特に興味深く存じます。
近年 実践女子大の牧野和夫先生のアプローチと合わせて 次へ 背中を押していただいたように存じます。取材の記録もありがたく拝見致しました。
拙い感想ですが今後ともよろしくお教え下さいませ。 かしこ 清水真澄 中世文学研究家
* わたしのアプローチは、いずれも昭和四十六年(一九七一)の創作で、四十五年も昔の仕事。
小説家の試みは、なかなか同時代の研究家の眼にはとまりにくい。それでも幸いに『風の奏で』も『雲居寺跡』も、のちの『秋萩帖』や『あやつり春風馬堤 曲』なども、かなり深切に話題にされた。わたしの応援団めく専門家がかなり広範囲にいて下さるのは、東郷克美さんのいわれる「学匠作家」として仕事してき たからと思うしかない。何のヒキもないわたしに東工大教授の矢がいきなり翔んできたのもそのおかげと、いまごろ思い当たっている。
2016 2/6 171
☆ 共感を籠め、ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』(桑原武夫他・訳)を、随時に、抄録しておく。「人間の自由」と「民主主義」を大切に思われる方々の胸にも届いて欲しいと願う。
1 自由な国家の市民として生まれ、しかも主権者の一員として、わたし(ルソー)の発言が公の政治に、いかにわずかの力しかもちえないにせよ、投票権をもつということだけで、わたしは政治研究の義務を十分課せられるのである。
2 人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。
3 人民は、(支配者が)人民の自由をうばったその同じ権利によって自分の自由を回復する
4 人間は、理性の年齢に達するやいなや、彼のみが自己保存に適当ないろいろな手段の判定者となるから、そのことによって自分自身の主人になる。
5 家族はいわば、政治社会のモデルである。支配者は父に似ており、人民は子供に似ている。
6 家族においては、父親の子供に対する世話をつぐなうものは子供たちに対する愛だが、国家においては、支配者は人民にたいして、この愛を持たないで、支配する喜びばかりがはたらく。
7 グロチウスやホッブスの(悪しく間違った理解によると、)全人間は百人ばかりの人間に従属していて、人類はいくつかの家畜の群として分たれ、その各々の群には主人があり、その主人は家畜をむさぼり食うために番をしているということになる。
8 アリストテレスもまた、すべてこれらの連中より前に、人間は決して生まれながら平等なのではなく、あるものはドレイとなるために、また他のものは主 人となるために生まれるのだと(「政治論」で)いった。だが彼は結果と原因を取り違えていた。ドレイ状態のなかで生まれた人間のすべては、ドレイとなるた めに生まれたのだ。(そんな勝手な「状態」がつくられてなかった以前は、人間は本然自由なのであった。)暴力が最初のドレイたちをつくり出し、彼らのいく じなさがそれを永久化したのだ。 (第一編 1、2章より)
2016 2/7 171
☆ ゆくすえにやどをそことも定めねば
ふみまよふべきみちもなきかな 一休
* 未来にも死後にも迷惑してはならない。「目的地」は要らないのだ。「目的地という観念そのものが天国と地獄をでっち上げると、バグワンは正確に教えている。
2016 2/7 171
* もう遠いむかし話だが、或る新聞の連載コラムの一編に、こんなことを書いていた。
* お元気ですか
不正メールに悩んでない人は少ない。見るからいやらしい広告や勧誘はすぐ分かり、見もせず削除してしまうが、流れ込む量がハンパでなく、「題名」もだん だんさりげなく工夫されてくるから、削除をとまどうこともある。してはならないメールをつい削除してしまう迷惑も起きてくる。
いまや、「お元気ですか」と問いかけてくる不正メールが来はじめた。
これには弱った。
電子メールは「恋文」を書くように書くべしと、此の道(恋ではない、電子ツール)の通の(つもりの)私は説いてきた。さもないと、電子メール独特の冷た い誤解から、仲良しでも不愉快に陥ることが多い。e-Youngがやたら絵文字でメールを飾るのは、賢く情味を伝えて、つっけんどんな誤解を避けているの である。
「先生、私は」と四角四面な未知の読者のメールなど、必ずしも読んで楽しいものでない。芽生えるものも芽生えない。そういう堅苦しい呪縛を解く工夫の一 つに、一人一人、相い対の「替え名」をつけ合うこともある。会うことのない四国の女性は、自分で「花籠」と名乗り、私には「月様」と呼びかけてきた。閑吟 集の室町小歌を借用した、これはきわどくセクシイな呼び合い方だが、わるくない。ウン、この調子だ、なんだか秘密めかしく親しくなって行く。堅苦しさが抜 けてゆく。
石部金吉も顔負けするガチガチのメールばかり寄越した相手も、例えば「花」と名づけ、こっちは「風」と名乗ると、きれいに遠慮がぬけて行った。つまりは 「秦サン」「先生」などと呼びかけるのが向こうはシンドイのである。丁寧に丁寧にという気遣いばかりが、双方肩凝りのモトになる。
特にきまりきったご挨拶ほど、電子メールで「こうるさい」モノはない。いわく「お元気ですか」いわく「元気にしています」と、昔書いた兵隊さんへ慰問袋のお便りみたい。
で、ナイショの話、「お元気ですか」はアイ・ラブユー 「元気にしています」は逢いたい逢いたいの意味のように「密約」が仮に出来ますと、「電子の杖」にすがる e-Old の老愁が、嬉しや春愁に似てくる。
なのに、この日ごろ、無遠慮な不正メールの題名に、「お元気ですか」「元気にしています」が、氾濫してきたではないか。腹立ちや、腹立ちや。 (平成06.10.13)
* うえに搦めて、近年、すこぶる迷惑な「日本語」混乱の例を、繰り返し返しになるが、断乎言うて置きたい。
ひとつは、賞め言葉なのか単に感動の表出なのか、口を開けば日本国民の「すごーい」「すごいッ」「すげぇ」の乱発。もともと「凄惨」「凄絶」の意味で、 四谷怪談だの陰火のまう墓場だの、見るから怖いほどの絶境・難所を謂うときに用いてきたのが、ま、江戸末期の軟文学の地の会話にも崩れて応用・転用・濫用 されだしてからは、ことに昭和末、平成初いらい、若い人にもいい大人にも「スゴイ」しか批評も称讃も無くなってしまい、感受性の国民的な乾燥を露わにし、 やりきれなく情けなく感じ続けてきたが、コレは、今は措くとして。
もう一つ、まことに不便も極めて「迷惑至極」なのが、「おつきあい」なる日常語の隠微なないし淫靡な変質・変容であって、うっかり口がきけなくなってき ている。何故かなら、今しもテレビの画面からは、能の有無とは無縁そうなタレントさんたちの口からも、「おつきあいしています」「いいえ、お友達で、お付 き合いはしていません」「何月ころからは、おつきあいしています」「で、その日からおつきあいをはじめました」等々の告白や述懐や報告が落花のごとく舞い 散っていて、これらの「おつきあい」「つきあっている」「おつきあいをはじめた」などのおよそ「全部」があからさまに「性的関係」「肉体関係」の肯定的表 明になっているという、現実。現実じたいに何の批評もないけれど、こと日本語の問題として、「つきあう」「おつきあい」を以て即「性」関係の告白・表明に されてしまっては、じつに迷惑の度も甚だしいのである。ふつうの意味での、親戚、先生方、友人知己、先輩・後輩、各界知名人と、わたし自身、たいそう大勢 の方と、多年にわたり「おつきあい」してきた、むろん「性的」にではなく。それが、うっかり、「おつきあいがある」と云えなくなって、モゴモゴと口の中で 検討して語彙を選ばねばならないとは、不便よりも迷惑千万と嘆かわしい。
それにしても、多くの皆さん、よくヌケヌケと、おおらかに、開けっ放しに、わたしはあの人と「おつきあい=性行為関係」にありますと公言・広言できるなあと、ビックリしているのである。好い時代になっているのかなあ、これは。そうかなあ。
もうずいぶん以前だが、心友の井口哲郎さんに、「秦さんは、とても叮嚀に人とおつきあいされていますね」と謂われたことがあり、わたしは嬉しく受け容れ て、とくに「いいえ、いいえ」とは応えなかった、そう言って頂けるなら、そのつもりで多年を過ごしてきた。もとよりそれは「性関係」とは無関係であり、多 くの女性ともまた男性ともわたしは親しく「おつきあい」してきたことは、隠してもいない。
2016 2/9 171
☆ 選集を有難う御座いました。
選集を読ませていただいたり、選集の校正をされている秦様のブログを読んでいますと、それぞれに作品の年・歳を思い出します。
お病気もお歳も考えられないご活躍に、一層のご充実の日々をお過ごしくださいますように。
お二人に佳い春が訪れますように。 練馬 晴 妻の親友
* 京都の上澄みの文化はたしかに美しく心を和ませてくれるが、京都を書いた物語は、そう気楽なものは実は少ない。今度の一巻にも、殺人が二件も三件も起きている。それだけに、堅い挨拶の遠慮や会釈ぬきに、厳しい読後感が頂けると嬉しい。
* 俵屋の葛を晩にも美味しく戴いた。和菓子と庭とは、京都より優れた例はめったに知らない。
「庭」の根は、墓である。奥津城なのであり、そこに庭師の伝統の苦渋も諦観も創意もあらわれる。
「菓子」にも、根源、霊性への馳走・参仕という面があり、ただ味わいだけで済まない、もっと厳しい工夫が活かされ求められてきた。庭も菓子もどうしても「京都」となってくるのは、他府県のその仕事がどうしても上澄みの文化で済まされてしまうからである。
* 私の創作のために、宝庫ともいえるのは、多年この「私語」のなかに包蔵されている、「ひとづきあい」の多彩さであって、小説の場面に利用できるじつに 具体的なエッセンスが満杯に溢れている。しかもありがたいことに、そういう内容だけで「分類」されているので、じつにそれだけを読み返しているだけで堪ら なく懐かしくも面白くもあり、しかも往時は渺茫、歳々年々まことに人同じからずであることが、ものあわれでもある。わたしが、どうにももう動けなくなった としても、幸い、「私語」という備忘を読み返せるならば、十二分に愉しむだろうと思う。
2016 2/9 171
* 途方に暮れることが、人に死なれるのを除いても、人生に、何度か繰り返される。
あれはしんどかったな、あれはいやだったな。あれはつらかったな。
ま、それでもなんとか乗り切って来れている。たいへんな消耗があった。金がらみのえげつない不愉快もあったが、今回は、「貸せ」でも「呉れ」でもなく、 突如五万円送れ、一万円送れと電話や葉書が来る。それなりに逼迫感も伝わってくるけれど、向こうの事情はまるで分からない。そんな送金など一度始めたな ら、キリもケリもつくわけがないとだけは、事情に通じているらしい京都の知人にも親切に注意され、よくよく分かっている。まして、わたしには、遙か他県の 一知人(むかし高校の後輩)というだけで、「行政」の肩代わりに、蟻地獄へ身をのばす気力も余裕もない。
愛猫のめんどうはよく見ているではないか、金をつかって本など造ってるではないか。それを言う人もいるだろう、だが、それには、われわれ夫婦の、私の、人生や人生観をかけた重い覚悟があり、「命なりけり」という老の坂懸命の重い自覚がある。仕事がある。
慈悲心はないのか、ほどこせばいいだろうと無責任な人は言いかねない、が、わたしはキッパリ言う、そのような恩がましい施し・喜捨を「行政に」代わって する気も、義務も持てないと。これは同情の問題ではない。「ディアコニッセ(奉仕者)」にわたしは成れないし、成らない。
人の命は地球より重いか。東工大の学生諸君に押し込んで聞いたことがあった。彼らの挨拶がどんなだったか、直ぐには言いにくい。
秦教授は、では、その「自問」にどう「自答」するのか。答えは、もう書けてあり、提出の機を、たの二、三百の難問への回答とともに、待機している。卒業生諸君に、上の問題をあらためて問うてみたい。
2016 2/10 171
* 吸い込まれるように、早い夕食のあと、小説『清水坂(仮題)』を三時間ちかくも読み直し直し手を入れていた。いい気分で宿酔いしているようなアッパラパーの物語であるが、気分の良さが読んで下さる人にも及ばなくては。
がんばってます。
井口哲郎さんの言に便乗するなら、やっぱり「私」を追っているような、いやいや野呂芳男さんの望まれていたヒロインの甦りかもしれない、いやいや、途方もないこれは「平家物語探索」でもあるのだと、ま、しっかり四股を踏んで、気も新たに古典に取り組まなくちゃ。
* わたしの学部の卒論は、「美的事態の認識機制」といい、「美しく視えることの研究」という副題がついていた。添えた副論文には「茶の湯点前作法の検 討」とか謂った、なんとも奇妙な仕事だった。そんなのを評価されて大学院へ、もう一人の友人と進んだのだが、わたしは一年で退散して東京へ出て本郷の医学 書院に就職し、新宿区河田町で結婚した。昭和三十四(一九五九)年三月だった。翌年夏に朝日子が生まれた。まことに貧しかった。平気だった。三年後の夏か ら小説「或る折臂翁」を書き出した、が、その以前に、「パパのお話し」ということで『朝日子と夕日子』の話を医学書院の原稿用紙数枚に書いたのが残ってい た。身のすくむようなモノだが、わたしが、小説というモノをどのように書きたがっていたかを僅かに推量させる。
処女作①と認めて後に本にも入れた作「或る折臂翁」には、自信が持てなかった。去年秋に色川大吉さんや群像編集長だった天野敬子さんに「震撼」したとま でいわれ嬉しかったが、とうじ自信を失いかねなくて、思い切って築地の松竹シナリオセンターへ勤務後に通い続けて、課題のシナリオ二篇「懸想猿」正続を書 いた。
審査された松竹専務城戸四郎さんに、八十点をもらい、そのうえに「あなたは、小説をお書きなさい」と奨めていただいた。これには力づけられた。シナリオ ライターになりたい気は全くなかった、小説の「会話」をうまく書きたいなと願ってシナ研へ通ったのだ。そして、「畜生塚」を書いた。しかし文藝誌に投稿な どという知恵は無く、書きためたら自分で本にしたいとばかり思っていた。幸いなことに、わたしは文学とは畑違いといえ、出版社勤めで、活字一本の値段も 知っていたし、出入りの印刷所とも緊密だったし、編輯や校正はお手の物だった。
シナリオ二篇は謄写本だったが、二冊目の小説「畜生塚・此の世」は活版の、しかし医学の研究誌と同じ判型のそれは奇妙な本を手作りしたのだった。巻頭には短歌集「少年」を入れていた。表紙や目次の繪などは、みな妻が描いてくれた。
本作りの費用は当時としては仰天モノの高額を、溜め込んでいた学生時代の奨学金などで支払った。娘も育て、貧乏の極で日々暮らしていたが、妻は私家版に 一言も否やを言わず、いろいろ協力してくれた。感謝している、今も。忘れたことがない。おかげで私家版本は四冊もつくり、四冊目の表題作「清経入水」がそ のまま第五回太宰治文学賞に選者満票で当選した。応募していたのではない。いつのまにか、誰か偉い先生へ送っていた私家版本が、「太宰賞」選考委員会の最 終審査へ持ち込まれていたらしかった。処女作から、七年目のことだった。桜桃忌が、二度目の誕生日になった。
2016 2/10 171
☆ 冠省
選集第十一巻「或る雲隠れ考」他 ご恵贈いただき拝受いたしました。
ありがとうございました。
「余霞楼」は、この建物をモデルにしたのですよと、お話をうかがい乍ら京の街を歩いたのを懐しく思い出します。私も謡曲の手ほどきは鶴亀からでした。
先日 近くに住む友人が、秦先生のエッセイが載っていますよと、資生堂発行の豪華本「香」をとどけてくれました。
女を映して紅く匂い、白く薫る 梅
人の憶いに咲いて匂う 櫻
花の映えに 名の栄えを重ねて 藤
喜びと悲しみを 無垢に彩る 菊
四編のエッセイが 美しい写真を添えて載っています。
思いがけない御作に出会いますと 逢いたかった人に会えたような うれしい気分になります。
眼がまた少し弱ったようで 字がうまく書けません。乱筆 おゆるしください。
まだしばらくは寒い日が続きます。
先生も奥様も どうぞお大切にお過ごし間ください。 和歌山 貞 拝
些少 同封致しました、 お納めください。
* 今にして思うのだが、原稿をじつに多く望まれて書いていたのだ、その当座は、イヤなものは書かなかったが、まずははいはいと書いていた。わたし自身は 寡作寡筆のつもりでいたのだが、本にしても秦建日子のようにはとても売れなかったのに、自著市販だけでも百に及び共著を含めればもっともっと多くなり、寡 作では無かった。多い多い方だった。おかげで、いま、かなり平然とあえて無収入の儘、非売品の選集など出せているわけで、いわばその為に懸命に働き続けて きたわけ、のほほんと遊びたいから稼いできたのではない。狭い家で、夫婦で安楽に座れる畳のアキすらなく、車もない、海外はおろか国内の小旅行もしない。 ひたすら、書いて、本にしてきた。それが道楽だと言われれば、左様でと応える。子供の頃から本を読むと言って「極道」と叱られてきた。極道はやまない。幸 せである。
三宅さん ありがとう存じます。
2016 2/14 171
* 世界の機械化経済の尖端的エリートを数人集め、NHKの女性解説委員の国谷さんが司会しての英語での討論会を聴いた。むろん日本語に翻訳されていた。
いずれほとんどの業種は機械の為すないし成すところとなり、人間は遊んで暮らす喜びにあずかるのだと謂った発言を聞きとがめて討論を最後まで聴いた。機 械でできない分野の仕事は残る、医療や介護だ、サービスだ、芸術・文学などもと謂われていたが、だからそこで雇用が適切に確保されるのかには、問題があ る。医療や介護の世界でより高度の広汎な労働が開かれるとはいうが、いずれも単なる労力でなく、高度の知的理解力や能力であり教育抜きには関われない。給 与や労働時間の改善を図れば、不足の人手は補われて行くとしても、誰も彼もが容易く就ける労力でなく、人命の安全や健康回復をはかってゆく高度のスキルが 求められる。感嘆に職場がひろがる、就職出来ると思いこむのは危うい。
もう一つ、医療・介護世界がより企業性をひろげ深めると、プラトンがいみじくも喝破していたように、むしろやたらと病気や病人が増産されてしまうという 怖い不安も起きてくる。病院や医者に通うつど病名やら要検査やら過剰処方の「おみやげ」をもらってくる傾向、すでに感じている人、少なくはない。医療や介 護を有望企業とにんしきせねばならない社会は、妙に物騒な気もする。
また、飲み食いの店に入って機械のサービスを受けるなんてイヤ、やはりサービスの職場は人間のものとして残ると聞いても、あまり希望には耀かない。芸能 芸術は機械の侵略には遭うまいと期待するが、才能のものを謂う世界であれば、マスコミのハナクソのような安タレントはともかく、誰でも職能を大きくは発揮 できない。
藝や能というだけでなく、討論会の超尖端エリート識者の言論には、やたらと「だから教育」という強調が多かった。世の中の所要の大半は機械がやってくれ るんだと一方では人間の安楽を喜び期待するふうに話を向けながら、他方では機械の性能に対応する、また新たに得られる職場の職能へ向かうべき「被教育」能 力もはっきり要請されていた。わたしはそんな話を聞きながら、この論者この識者の要望に応えてさまざまな全く新たなスキルや志向性をちゃんと教育されうる どれだけの人たちが誕生できるだろうと心配だった。「え?」 「え?」と耳を疑った。
かつての小学校、中学高校の教室を想い出し、また当今の若い人たちの言動をテレビ等で眺めているとき、この「先生」方の求めているらしき「教育のされ 方」に応えられるのは、あの教室で多くて十人足らず、せいぜい二、三人、あれば好い方ではないかと想われた。勉強と学校とが好きで好きでと言う生徒より、 はおく勉強というしんきくさい苦行から卒業したい生徒の方が、じつのところ多かったと感じてきた。「教育」を当然のように語る先生方の背後には、企業の上 層支配と利益の独占率を高めたい人たちのご都合も見えてくる。結局は、仕事は機械にまかせて効率高く儲け、人には機械のお守りをさせ、それの出来ない者は 働かせないというような袋小路世界を、誰か少数人だけがほくそ笑みながら待ち望んでいる気がする。そんな気がしてならない。
二言目には賢しく自然環境だれを叫んでいたインテリたちに、わたしは不足を覚えていた。これからの人間の環境は「機械」で出来る。「機械環境」に着目していないと、とほうもない人間崩壊が起きてくると。
「これからは機械がみなやってくれる、人はみな遊んで暮らせます、遊んで暮らしたいのは、人間の念願で理想じゃないですか」と討論会の一人が意気揚々 だったので、オイ待てよとわたしはテレビの方へ強く向き直ったのだ。なるほど。みんな機械にお任せで、人間はせっせとスマホのゲームですか。それが生きる 幸せなんですか。
生きているだから逃げては卑怯とぞ 幸福を追わぬも卑怯のひとつ 大島史洋
追うに足る幸福とは 機械にみな任せて 遊んで暮らすことですかね。わたしは、イヤ。
2016 2/15 171
* 朝、目覚めて、そのまま床に座って小説「チャイムが鳴って更級日記」を再校し終えた。おもしろ小説一作を、幸いにモノの山から掘り出せた、よかった と、胸を撫でた。もうほどなく責了に出来るだろう此の「湖の本129」の三作は、創刊三十年その他を記念の好い小説一巻にまとまったと思う。わたしの精神 衛生も好い。
2016 2/15 171
* 機械の前でつかれて居眠りし、倚子からずりおちそうに尻が痛かった。眼を覚まして、機械からは横向きに、このごろ見つけたら取り出し紙袋に分けて、書 きかけながら始末を付けていなかった作や、関連の詳細な創作ノートをさまざまに積み上げた書き物の類を、また散逸しないようにとどこかの抽斗へ一括したい と思いつつ興にもひかれて点検していた。
* 膨大な私語を分類して下さる読者が、昨年分の仕分けの中へ「自作を語る」という項目を新しく立てておられた。これは、まことに時宜を得た配慮であり、 「選集」編輯・刊行の仕事を始めてこのかたわたしは盛んに「自作」に触れて記憶を確かめたり感想を述べたりしている。それらが纏まって顧みられるのは実に 有り難く、本当なら「私語」でない別の場所でその種の手記を固め書きしておけばいいのだが、とにもかくにも何もかも「私語の刻」にぶちまける習慣から簡単 に抜けられない。
* で、今も、幾つもの個人的興味の問題点を発見していた中に、おおっと思った、最近の「選集第九巻」に入れた『月の定家』 これは先に「俊成」と「西 行」とを一編に書いて雑誌「太陽」に載せ、後に「定家」の章を書き足して全体を『月の定家』と題して纏まった一編に創り上げた、と、そう自分で思いこんで きた。一九八七年の「三章一編」での初出と記録されてある。
ところが今、拾い上げていた原稿類の束の中で、信じがたいほど詳細な「俊成」のための創作ノートがある中に、さきの『月の定家』の「さだいへ」の章の書 き起こしと文言・表現そっくりの原稿の書き出し中断の数枚が見つかった。その原稿の最初には明瞭に「67.7.9」起稿の由が記録されていて、いささかの 推敲はされていながらも「初出」書き出しあたりの表現と一致していると分かった。
俊成・西行を書いて定家の章を書き足したそういう作だと思っていたのに、きっちり二十年も昔にすでに「定家」は書かれようとしていた、それがハッキリした。
だが、作者のわたしの根の願いは、定家の思いを通じて父「俊成」の生涯をこそ書きたかったらしく、細々としたさまざまな創作ノートは、どうも藤原俊成に 焦点を定めているように見受けた。だが、「原稿」としては覚え書きや走り書きの域を出ないまま、最近湖の本へ入れた「初稿・雲居寺跡」の方へ気が逸れて いったのかもしれない。
なににしても自愛執心の作であった『月の定家』が書き上がったより二十年も前に書き出されていたと判明した感慨は浅くない。
では、どかな「三位俊成」像とその時代が描かれ得たのか、今からも創作ノートを利して書き起こし書き継げるものかどうか、奇妙に鬱勃とした活気が湧いてくる。
* そのような歴史ものだけでなく、なんとしても仕上げたいなあと願わしい現代の怪奇小説も、また女文化めく京風情の書き起こしも、見つかっていて、それ ぞれにかなり書き進んでいる。それらのどれもみな、明らかにわが「作家以前」の意欲に促されて、しかし途中で投げ出してある。作家以前とはそういうもの だ。
* 大学生のころに、当時レポート用紙と呼んでいた一冊に、小さな字でぎっしり書ききられた小説、私小説も発掘してしまった。読み返すのも大変だが、これ を書いた動機や展開はかすかに記憶がある。まるまる、当時の生活気分で書いていて、後年の秦 恒平の小説とは、「異物」のように現実的であったように思う。処女作の年度がまた大幅に溯ったようである。
* 恥ずかしいが、学部の卒業論文「美的事態の認識機制 美しく視えることの研究」まで見つかった。ゲヘっと唸ってしまう悪文で、その自覚が大学院からわ たしを脱走させたのであった。これは「副論文」として添えた「茶の湯点前作法」の動態論の方がいまでも有効と思うが、それはまだ見当たらない。
2016 2/17 171
* 「丹波」「もらひ子」「早春」はホームページを利して一気に書き下ろした相当な長編であるが、私のなかに湧くように表現を待っている記憶が沸騰してい て、記憶の渋滞もほとんど無かったのを思い出す。少年來何十年、書いてからも何十年、しかし今でも記憶は鮮明で、懐かしい。
2016 2/18 171
* 「資時出家」は、「風の奏で」のエスキスそのもので、この長編が語ろうとしていた「平家物語成立」のあれこれに脚を下ろし読めていれば、「資時出家」 のあらがきした筋がそれなりに早や独立し得た作にも成っていたと理解できる。平家研究者の信太周さんは、その点を正確に読んで下さっていて、このエスキス を一編の作と感じ入って下さったのは有り難く嬉しかった。
「初稿・雲居寺跡」は懐かしげに見えながら、やがて騒然ともの恐ろしい乱世の事変へ突っ込んで行く序章で中断している。そして、この「初稿」からすれ ば、後々に書いて発表した「雲居寺跡=初恋」は大きく逸れて別作であり、遙かにむしろ「風の奏で」を誘いだそうとしていた。 2016 2/20 171
* 成心を以てなにかうまいことを狙い願う「だけ」の勉強はモノにならない。面白くて楽しくてその世界へずんずん踏み込めるのでないと勉強の質は上がらない。本は調べるために読まない、嬉しく面白く成れない読書はいかな名著であれ、投げ出される。
与謝野晶子の源氏物語の訳に惹かれなかったら古典へ歩み寄ったろうか。その前に百人一首の和歌との佳い出逢いがあって、だから源氏物語に喜んで入って いったと思う。少なくも平安物語の世界は和歌をたっぷりの栄養に得た世界。平安時代の日記も広くは歌物語に属していて、伊勢も蜻蛉も枕も和泉式部も右京大 夫もみな然り。しかし和歌の全容へ国歌大観なみに近づく必要はない。百人一首と、和泉式部和歌の精選、西行和歌の精選、だけでも和歌の魅力はしたたかに楽 しめる。好きな歌を選んで愛することだ。そして歌謡。わたしの梁塵秘抄と閑吟集でも、ほぼ足りている。
大事なことは、和歌とすぐれた近代短歌との命脈と差異をも直感できること。近代現代短歌は、かずばかり多く派閥感覚も濃くて、むりに近付かない方が良い。わたしの「愛、はるかに照せ」などで表現の妙はつかめる。
和歌短歌については、幸い、よく出来た詞華集もあり、よく選ばれた啓蒙書もある。一冊持っていれば足る。
平安物語では、竹取のあと、意外に面白いのが、源氏以前では落窪物語、以後では夜の寝覚めがすばらしく、和泉式部には物語作家としても私小説作家としても久しく誘惑されている。
ムリして出来もしない原文読みに拘泥せず、面白くなってくると向こうからすり寄ってきてくれる。
どんな読書にも、しかし背景に歴史がある。歴史への好奇心や関心を育てて近付く意欲は手とても大事。
*「湖の本130」えらいものに手を付けた。初校に緊張を強いられている。
* なにげなく紀要「美学芸術学」28を手にし、「『芸術の終焉』再考」という論文が目に入り興味深く読みはじめている。むかしに『女文化の終焉』という 本を書き下ろしたのとは違う。「ドイツとアメノカの批評から」声範囲に及んでの現代芸術の終焉兆候が語られている。今は、遠近法を放棄し神話とリアリズム との砦を自ら破棄した現代絵画の索漠かつ雑然とした「なんても有り」の「何もなく」なった「ゴミ捨て場」画壇への、怒りの声を、論考は慎重に並べつつあ る。絵画へのその辺の指摘ははわたしには珍しくなく、私もしばしば口にしてきたこと。
むしろ、他の芸術ジャンルの「終焉兆候」をどう捉えているのかに関心がある、ことに「文学」の。
2016 2/27 171
* 凸版印刷からの予想通り怒濤のゲラ出しに、混乱しないようにしないと。選集第十三巻の念校責了分、湖の本129の念校責了分を、明日、送り返す。
選集第十四巻の再校、第十五巻のゼロ校ももう出てくるだろう。「湖の本130」の初校もあらかた終えて、要再校で送り返す前に、慎重に内容を点検してお きたい。著者であり編集者である仕事を独りで斡旋しなくてはならないが、医学書院では十五年、湖の本では倍の三十年、選集のように平均五百頁、気の張る特 装限定出版すら、もう満二年体験してきている。二年で十二巻もまずまず無事に刊行してきた。人が驚き呆れているのも当然だろう。だがムリに疾走していると いう気は少しも無い。大いに楽しんでいる。ぜいたくをしているという気持ちも、むろん、全然無い。これがわたしの仕事なのだから。
新しい小説「清水坂(仮題)」「ユニオ・ミスティカ(仮題)」「父の子と子の父(仮題)」が先陣を競って(譲り合って?)犇めいており、ほかに、電子化さえ出来れば伸び上がってくるだろう棚上げ小説が手を掛けて呉れよと言うている。うち、五作は処置できている。
人も押しわれも押すなる空(むな)ぐるま
何しに我らかくもやまざる 遠
やれやれ。
2016 3/1 172
* いやいや、劇団や俳優さんには申し訳ないが、この『葉子』という舞台をわたしは文学の、作家の問題として観に出かけたのである。それこそが問 題だった。耀く「久坂葉子」を実は知りたかった。この劇作からは、見つからなかった。他の劇作家の手でべつに「久坂葉子」舞台が出来るなら、それも落ち着 いて観たい、みせて貰いたい。(後刻、この一文、読み直し再検討したい、が。)
* 「書けない」「描けない」「創れない」苦しみは創作者の業病である。志賀直哉ほどの文学者も、暗に「書けない」苦しみを下地にして新しい小説を書いた りしていた。身につまされ、読んでいて苦しかった。励まされもした。小説家の場合、その上になかなか作が売れる物でなく、作を発表できない、本にならない という逼塞感に苛まれるのが常だ。しかし、書きたくて堪らないモノが身内の底から衝き上げてきて書かずに済まない、それが作家だ。書けなくて死んだ作家 は、何人も例がある。苦しいものだ、書けないのは。しかし他の理由はともあれ、書けなくて作家が死んでしまうのこそ逃亡だと、傷ましくはあるが、結句わた しはそう思ってしまう。
2016 3/4 172
* 「ディアコノス=寒いテラス」一気に読み終えた。これまで、わたしの作を外国語にと奨めてくれた二人がまるで申し合わせたように二人とも、飜訳に適切な作は「ディアコノス=寒いテラス」と。その日本語が飜訳し易いという評価もあったろう、が。
読み終えて胸がきしんだ。的確に書けていると胸も張れるが、表現された内容のきびしさに作者でありながら胸を押されのけぞるようだった。
* 「ディアコノス」という表題には作の中でも問題の娘「セツコ」が話しているが、作者のわたしは基督教のイデーにはけっして詳しくないので、念のため読者のお一人に確かめておいた。ひとつには「ディアコノス」でいいのか、「ディアコニス」だったか、確かめたかった。
☆ 用事のため昨夜遅く帰宅。今朝パソコンを開きました。早いほうがよいと思いますので現時点での私の考えをお伝えします。
多少カトリックの教育を受けた程度の私に一つだけ申し上げられるのは、「ディアコニス」という言い方はきいたことがないということです。しかし学問的な 正確さの自信はまったくありません。神学部関係者でなければカトリック教会でもあまり使うことのない言い方なのです。すでにお調べになっていらしゃること 以上のことはわかりません。ネットでの検索ですが、次の部分が一つのわかりやすい説明かと。 http://church.ne.jp/tanpopo/pdf/1temote_26.pdf
21世紀に聖書を読む~「テモテへの手紙第1」シリーズ26~
執事もまたこういう人でなければなりません。(8節)
パ ウロは「監督」についての審査基準と誰がその職につくことができるのか、ということについて述べたことに続いて、「執事」についての話題に移っていきま す。「監督」という職務が「全体を見る人」という意味であって、日本語の印象とは異なっていたように、「執事」についても、聖書の世界の言葉として、その 意味を捉えなくてはいけません。
「執事」その意味と働き
こ こで使われる「執事」とは、ギリシャ語で「ディアコノス」と言って「ディアコニア」を行う人のこと。「ディアコニア」は「奉仕」と訳されることのある言葉 ですから、「奉仕者」という意味の方が、言葉のイメージはつかみやすいでしょう。ここで言われている「奉仕者」というのは、教会の中で、食事を作ったり、 会計をしたりということ以上に、教会の福祉的で宣教的な働きに、教会の支援や認定を受けて携わる人たちのことなのです。4章を見ると、テモテも、「奉仕者(ディアコノス)」だったことがわかります。
こ のディアコニアは、旧約聖書の中で、理想とされた社会、お互いに助け合い、貧しい人がいなくなる、そういう社会の実現のために、実際に何かをする、そうい うものです。残念ながら、旧約聖書の世界では絵に描いた餅で終わってしまいましたが、イエス様が来られたことにより、この理想が実現し始めました。イエス 様が、この理想社会の実現のためにディアコニアを、身をもって教えられたからです。それは「へりくだって仕える」全人格的な献身、お世話の姿勢です。イエ ス様は、貧しい人、困っている人、弱っている人のところへ出向いて、具体的な必要に奉仕されました。この世界には、誰もやりたがらないような、けれども誰 かがそれをしなくてはいけない、そういう仕事、面倒できつい仕事があります。この世は、そういう仕事を、お金や権力に物を言わせて、弱い立場の者に押し付 け、無理やりにさせることでしょう。けれども、そのような方法では、問題は解決するばかりか、もっと悪くなるものです。
イエス様は、そういう仕事を世の中からなくすのではなくて、愛のゆえに喜んで引き受けるという奉仕の姿勢をこの世界に持ち込まれた。イエス様こそ、本当の「ディアコノス(奉仕者)」でありました。そして教会は、このイエス様にならって歩むのです。
私たちは奉仕というと、教会の中のこと、教会運営に必要な働き手という狭い意味だけで捉えてしまうかもしれません。けれども、聖書が教える「奉仕」は、それを超えて、世の中に働きかけていく、そういうものであります。
今日、制度としての社会福祉は充実 しているかもしれません。けれども、教会は福祉的な働きを、教会の外に任せておいてよいわけではない。大事なのは制度以上に、人です。キリストの愛をもっ て、そのわざに従事する、そういう人を育て、送り出し、あるいは教会として、そのわざに携わることが求められているのです。
引き続き 調べ、心掛けてみますが取り急ぎの私の見解です。お役に立たず申し訳ございません。
* これだけ分かれば、十二分。感謝
* わたしの小説世界も、「畜生塚」「慈子」「清経入水」「秘色」「みごもりの湖」の昔から、 それは大きく変わってきた。作者は人間であり生活者であり勉強家でもあって、いつもいつも同じ調子の仕事しかしていない、出来ていない作者で在る方がヘン なのである。しかし読者の好みは、どうしても固まってくる。愛読した「あんなのを」と望まれる。わたしはそういう希望に揺すられることは避けてきた。 「今」これをこう書いて自分として当然、必然の題材に真向かって行く方を選んできた。中村光夫先生は小説は老人の藝術であり、老人は自然と私小説を書くも のだという趣旨を語って居られた。わたしも、必然そのように動いて行くだろうと思い、作品を出版社に売る生活をしていると、自由にそれが果たせまいと諦め ていた。「湖の本」三十年の健闘は、そうした転進への意識的な場所づくりであった。
それにしても老境へかかっての私小説は厳しかった。
「迷走 課長達の大春闘(三部作)」は、まだサラリーマンとしての働き盛りであった、が、おいおいにキツクなった、ならざるを得なかった。
明後日に出来てくる「秦 恒平選集」第十二巻『生きたかりしに』はわたしの私小説突端の大作になった。そのあとへ、文字どおり人生の苦境が実に理不尽に襲いかかってきた。だが、一 作家としては、それも書いた。当然だ。第十五巻以降の一、二巻には自身の血を絞るような作が来る。避けては通らない。
2016 3/8 172
☆ バグワンに聴いている。
「光明(悟り)を得ようとしてはならない。得よう得ようとすれば、要点をまるごと取り逃がす。」「要点を見抜くと、笑いがこみあげてくる。」
「目的地もなく、道もない。」「仏陀は案内者(ガイド)ではない。指導者(リーダー)でもない。」
「明日(あした)を待つ必要はない。なぜなら、起こることは、(思わず笑ってしまうような機縁は)すべて<今>起こるからだ。木々は今繁り、鳥は今歌い、 河は今流れ、わたしは今話している。なのに、おまえは、明日には光明が得られるかもなどと考えているのかね。」「笑いは、今か、永遠に起こらないかの、ど ちらかだ。」
心とはいかなるものをいふやらん
墨絵にかきし松風の音 一休
* このこみあげる「笑い」の味は、悟りなどとほど遠くても、かすかに覚えがある。「なーんだ、そうか」「そうだったんだ」と、こみあげる「笑い」に笑っ てしまったこと。あの底の抜けたような愉快。あれ以上の寶は無かったと思い当たる。得よう得ようなど思っても決して得られない、「今」「此処」という名の 寶。「いま・ここ」を生きなくて、いつどこで生きるのか。
2016 3/10 172
* 明日か。 明日は久しく希望の代名詞だったが、明日の短さ少なさが実感できてくると、「今・此処」へ思いも行いも集めたい、生きているのは「今・此処」でしか無いのやと、実感する。
2016 3/10 172
* 「選集第十二巻 生きたかりしに (参考)阿部鏡短歌抄」送り出しを終えた。作家人生の後半生を画する一作であった。
十二巻を刊行し終え、第五巻「冬祭り」第八巻「最上徳内=北の時代」die十巻「親指のマリア=シドッチ神父と新井白石」第十二巻「生きたかりしに」 と、三分の一を、一巻一作の長編小説で占めている。ほかにも、「みごもりの湖」以下、長編小説といえる作が思いのほか数多かったことに、今さらに気付いて いる。寡作と、少々凹む感じに思ってきたが、そうとうな多産の作家であったよと、他人事のように今頃おどろいている。まだ当分、創作選集が続く。さらにそ れら創作をうわまわるエッセイや論考の仕事がある。
2016 3/12 172
☆ みづうみ、お元気ですか。
お風邪の具合とても心配しています。発送作業のお疲れのせいかと思いますと、ご本を頂戴するだけのわたくしは本当に申し訳ない気持でいっぱいです。梱包 や運搬などの発送作業、どなたかお手伝い、学生さんのアルバイトなどお頼みすることは無理なのでしょうか。学生さんにとっては良いアルバイトのはずです。 失礼な言い方かもしれませんが、傘寿の方のなさる肉体労働ではありません。「選集」と「湖の本」をお続けになるためにも、お二人の作業の軽減が不可欠と思 うのです。どうかご検討くださいますよう伏してお願い申し上げます。
選集第十二巻『生きたかりしに』 いつものことですけれど、素晴らしい一冊です。亡きお母様はどんなにお喜びでしょう。三浦くに(=阿部ふく)のよう に、才能豊かで烈しく生きる方でなければ、みづうみのような文学者は生まれていません。『生きたかりしに』を読んでそのあとに『わが旅 大和路のうた』を 読みますと、さらに切々と胸に迫ってまいります。歌人安部鏡の歌大好きです。みづうみの作品と一緒に、死なないお仕事になりましょう。
お早いご快復お祈りしております。
末筆ながらご結婚記念日おめでとうございました。 囀 囀をこぼさじと抱く大樹かな 立子
* 母ふく(阿部鏡)の短歌抄を喜んでくださり、嬉しい。とにもかくにも文学少女が文学老女のまま辞世の歌まで、わたしへの遺言歌までのこして行った、や はり「短歌」の表現が生涯を引き締めていると思う。むりやりも幾らかはまじるが、抄録してただ歌だけをならべてみて、「佳い」ように、贔屓目かも知れぬが 思っている。母の歌はまさしく歌の原義に密接し、まさに「うった」える言葉と律動とで創られている。うったえるのが「うた」の本来だというわたしの定義に さながら模範の証歌を母はたくさん書きのこしてくれた。母の伝説がすべて消え失せるときにも、「歌」は遺るだろう。
2016 3/15 172
☆ 選集感謝
第十二巻をお送りいただきありがとうございました
昨日の配達でしたが留守にしており御礼が遅くなりました
函の表題を見たとき
「あ。よかった」
と直ぐに想いました
選集に入ったこと (生母ふくの=)歌も添えられたこと 嬉しく感じます
迪子さん 風邪だそうですが 早く快復されますように
どうぞお大事になさってください
春の佳き日をおふたりお健やかに迎えられますよう お祈りします
ありがとうございました 下関 碧
* 本を差し上げている方々もみなさん著者であるわたしの年齢に上も下も近い。もしも、ご不要になったときは、お近くのシッカリした大学図書館なり県立や市立 の中央図書館に揃えて御寄贈してくださいませ。或いは、お眼鏡にかなう若い文学愛好の方に差し上げてくださいませ。
いろんな地方に此の「選集」がなるべく「揃って」遺れば、それはそれなりに私の創作や著作の運命と思っています。ながく愛蔵愛読して頂ければなによりです。
2016 3/15 172
☆ 昨日
雨の中 ご本が届きました。
見開きの おじい様 お母様の お写真は タイムスリップした様な懐かしさを感じてしまいました
私にまでに立派なご本お送り下さり恐縮致します 先に(湖の本三巻本で=)拝読させて頂き 正直 胸締めつけられる思いもありましたが 今回ご本の最后に 奥様とのこの后を詠まれたお歌に心安らぎました どうかお揃でお健やかな日々であります様に。
拝受 御礼まで 有りがとうございました。 三月十五日 清 生母の姪か従妹か
* 生母方の親類から、初めてお便りをもらったねである。感無量。
この母は、平成の初年に九十一、九十三、九十六歳で亡くなった秦の父、叔母、母らより、なお数歳の年長であった。四人の子をなしてから夫に死なれ、その後に時を隔てて私の父と出逢い、兄恒彦と私とを昭和九年春、十年暮れに生んだ。
父のちがう長姉とも長兄、三兄ともそれぞれ只一度ずつ逢うことができた。次兄は戦時中に亡くなっていた。そしていまは優しかった姉もこころよく逢ってく れた二人の兄も、それのみか、両親をともにした兄北澤恒彦も、此の世を遠く去ってしまい、久しい。母の血は、いま、私一人に流れている。
縁戚で出逢えた人は多くはないが、能登川、水口、山科、京都、三重、静岡、横浜、市川などへ話を聴きに出向いた。
母には母代わりの長姉一族が能登川の広壮な本家を手広に嗣ぎ、次姉の嫁いだ三重の婚家とも深い縁を重ね重ね、子弟は各地に広く住み分けている。
さらには伯母や母からは実父、私には祖父である人の生まれが、東海道水口宿本陣であり、ここにもいい知れない遠い歴史が宿っていた。母は自身「白道」と時に称し、この祖父「白峯」を終生恋い慕っていた。
* 兄恒彦と私との実父に関しては、私自身の内でほとんど何一つも片づいていない。父の生家は南山城の当尾にあり、私には祖父に当たる人の子女や孫らの拡げている門戸は各方面に途方もなく広い、らしい。
実父との関わりを本気で書いておくか、どうか、まだわたしは腹を括っていない。おそらく、それだけの時間は残されていないだろう。わたしは母を、母の生 前も死後もひさしく受け容れなかった。ようやく桎梏を押し切って「生きたかりしに」を書かせたのは、母の歌であったと思う。母が歌など書く文学少女とも まったく知らなかったまま、わたしは秦の叔母の添い寝の手ほどきで和歌というものを教わり、国民学校の四年生から一人学びの短歌を創り出して今日にいたっ ている。今度の選集本に「参考」として「阿部鏡短歌抄」を私の手でアンで添え得たのは、おそらく最良の供養であり母孝行になったかと胸を撫でている。
実父とは、そういう接点が見つからない。
2016 3/16 172
* シナリオ「懸想猿」正続を再校し終えた。この苦悶哀慟の根底の処女原作に触れない「秦 恒平論」はありえないだろう。わたしはまだ三十歳に間があった。シナリオになど何の関心も野心もなかった、書き方もしらず、雑誌「しんりお」の見よう見まねだった。
だが半世紀の余も経て読み直して、当時の松竹専務城戸四郎さんや批評家の岸松雄さんが正編続編ともに八十点を下さってともども、むしろ「小説をお書きな さい」と慫慂されたかなり重い意味が今になって合点できる。これを読まされた勤務で同席の人が「こわかった、魘された」と吐き出した声音までが思い出され る。わたしは「地獄」を胸に抱いていた。『生きたかりしに』をとうどう仕上げて選集に収め得た今こそ、この『懸想猿」の凄みが胸に蘇る。「もらひ子」そし て戦時疎開の山村暮らし。肺腑にしみわたった「身の程」の激情。
2016 3/22 172
☆ 櫻が
少しずつ近づいているようです。
先日、『生きたかりしに』が新潟(=実家)届きました。毎度のお心遣い、ありがとうございます。
何度か訪れた浄瑠璃寺のあたりの気色を思い浮かべながら読んでいました。
私も、両親やそれぞれの生家のルーツをたどってみたいと思っています。
父方の祖父は上越の雪深い山裾の集落の出ですが、実は家内の祖父母も上越高田城の近くが出自です。(戦後、佐世保へ移ったのです!)不思議な縁を感じています。
迪子さんともども、ご自愛ください。 理 奈良
* 薬師寺玄奘三蔵院伽藍と薄墨桜の絵葉書に。
この青年の声を聞くたびにわたしは身の内の宿題、新潟も北の方を舞台にして書きたい書きたいと願っていた構想を思い出す。もくもくと思い出す。
わたしは新潟市にいちどだけ「日曜美術館」の仕事で出掛けた。群馬の赤城山の上での「著者を囲む」読書会のあと、脚を延ばしたのだった、仕事は「土田麦僊」の繪と人を語ること。
もうあのときもその小説への作者なりの期待は疼いていたのだが、願いの方面へまで脚は運べなくて東京へ帰った。
「上越」という二字が便りに点綴されていて、恥ずかしながらわたしには的確に「上越」とはと地誌や風景風物が浮かんでこない。かろうじて近年「上越」の 光明寺さんと文通があるが、ご住職とも面識はない。わたしが久しく目を向けているのは新潟市より北よりの「村上市」辺で、たぶん「上」越ではないのだろ う、「上」は同じ越の国でも、より京都へ近い方面を謂うのだろうから。
わたしは主として京都を書いてきた。丹波へも疎開し暮らしてきたし、近江や大和は想像の可能な範囲で、それ以外の異域、たとえばロシアの「冬祭り」も「最上徳内」の北海道も、茨城の「四度の瀧」へも、取材に脚が運べていた。
* また、古くて新しい願いが、ぶうと膨れてきた。が、はたして独りで勝手知らぬ・知れぬ秋田へも近い北越へなど出掛けられようか。
2016 3/23 172
* 必要があって、『死なれて 死なせて』を読み返している。思えば『生きたかりしに』のこれは身代わりのように書き下ろされた或る叢書中の一冊で、わた しの本としては、ま、よく売れたらしい。反響も痛いまで深切であった。もうこれを書いた頃には「生きたかりしに」草稿もほぼ出来上がっていて、だが、だれ がこんなのを読んでくれよう、本にしてくれようと、我から棚上げにしたのだった。
よく覚えている、この新刊が評判を呼んでいたまさにその時にわたしは東工大教授として授業を
はじめたのだった、学生諸君はわたしと出会うまえにいくらかこの新著の評判や内容を知ってくれていて、おかげでよほどトクをした。聴講の学生たちが教室へ殺到した。
この本で生みの母や実の父にふれては、今からして事実上の間違いも含まれているが、それらはホンの些事に過ぎない。このほんこそはわたしのいわば「思想」書なのであった。人は「生まれ」そして「死なれて 死なせて」 「死んでいく」。
いま読み返していて、あーあ、こんなところを通ってきたのだなあと嘆息もし、しかし、この先にはさらに嵯峨として嶮しい難路がわたしを待っていた。
* むかし、師表とうたわれている国文学の二人の教授と鼎談したことがある。話し終わったアトで、一人の先生がやおら取り出して見せてくださったのは、巻 物の秘畫であった、その手のものとしては格別に筆が優しく美しかったが、男女の交接をいろいろに描いた絵巻物の春画に相違なかった。もとよりその先生は 「文化・文物」の一端を興趣ゆたかに披露してくださったのである。
どこかの文化資料施設から、むかし「えろ本全集」の広告が送られてきたことがある。フーン、こんなにもあるのかとかなり書目詳細を一覧にし露骨な交接画 もでかでかと印刷されていて、一資料としてその広告は保存されていたが、最近資料棚から現れたのを再見して、もう必要ないとシュレッダーで断裁した。その 種のモノへわたしなりに「分かったよ」という断案が出来ていたから、必要も失せて捨てた。
露骨な春画など、見ていてなにも面白くなく、醜悪で目を背けたいだけ、と、思っているが、そこに描かれてある男女の行為じたいは、貴賎都鄙のわかちな く、洋の東西の別もなく、ほぼまったく同じだという当たり前の認識にわたしは立っている。皇族貴族は排泄すらしないという笑い話は子供の頃から耳にしてい て、だれもがそれを信じてなどいない事実だけが胸に畳まれ、ひいては性の容態・様態もまた同然と、それを本気で疑う人になど独りも出逢ったことがない。
さればこそ、また、わたしは、その厳格な事実性を、愛とか恋とか性欲とかいう人間不可避の営為認識の当然の前提と見てきた。いかなる男女の愛や恋や交情を描くさいでも、その認識を捨てていたことは無い。
アンリ・バルビュスの『地獄』は、露骨に謂えば終始隣室の男女の「覗き」であり、覗きと聴き耳とで、きわめて優れて悲愴な絶望の思想を、優れた文才で描 出している。それこそ、「四畳半襖の下張」めく男女交接をひしひし描いた本は、発禁のおそれをかいくぐって古来けっして少なくはなく、あの戦後となって 「えろ本」が解禁後は、相当に赤裸々にアクドイまで書かれてきたと思う、わたしはまだ少年だったので、実際には読んだことがないと正直に言いきれるが、裁 判になった「チャタレイ夫人」も、誰の作とも断定しきれないで流布した「四畳半襖の下張」も、荷風散人のその手の佳作も大人になってからはちゃんと目にし てきた。いやいや例の「襖の下張り」は、東工大に教授室を並べていた時になんとある日政治学の教授が、「こんなコピーを手に入れましたよも差し上げます よ」と手渡しに呉れたモノだった。むろん、読んだ。ホームページの「電子文藝館」にも入れて、但し転送はしないままに保存してある。
* わたしは仕掛かりの創作のためにも、字で書いたものよりも、写真による性の容態をコンピュータから意図的にかなり蒐集までもしてきた。女性の裸の写真 は美しく撮っているので美しいモノが多く、知名の女優さんでもけっこう裸の写真はひとに撮らせている。そしてそんなのは、わたしの創作にはほとんど何の役 にも立たない。わたしはいかなる美女といえども、静止して意図して美しく撮られた裸が美しいのは美術に類するのだからあたりまえ、あまり意味がないと思っ ている。そして、どんな美女でも素っ裸で動き回れば決してそんなに美しいわけがないと思っている。ミロのヴィーナスのように人は佇立して過ごせるわけがな い。乳房がたぷたぷしたり、腹が揺れて皺になったり、それは美しいよりは疎ましいモノのように思われる。男でも同じである。ダビデや考える人のように男は ただ立ったり座ったりはしていない。力士達がまわしを外した恰好で相撲を取ればどんなものか、言うまでもない。ほぼ見苦しいだけである。女性ならもっと見 苦しかろう。
しかも、そんな見苦しいような裸形をからませての男女交接の容態は、人類という種の生存保存に避けるわけに行かなかった。皇帝と后妃であれ、浮浪の貧男 女であれ、すること、せざるを得ないことは、ま、同じである。「えろ本」全集の広告にでかでか出ていた春画のいろいろが、致命的なまでまったく変わり映え しない同じ図様・容態であったことを、苦笑いして思い出す。しかもそんな図を乗り越えての理想は、結局「ユニオ・ミスティカ」であろう、つまりは、それも 人間の営む不可避・不可欠の「文化」となっている。文化ならば、たとえ美しくなくどう見苦しくても、見捨てられはしない。
* わたしはわたしの「地獄」をなど書こうとはしていない。どんな作が語られるか、それはナイショだが、しかしバルビュスの「地獄」は、予期した以上に文 学としての美しさと哀れさとをよく備えていて、それを学ぶ・マネぶ気は無いけれど、いましもこの佳い作品を、そろそろ読み終えようとしている。それしかあ るまいという女の声が聞こえてくる。
そういえば戦後直ぐのベストセラーでわたしの感化された二つ西洋人の著していたエッセイがあった。最近の病気で、とっさに書名が出てこない、が、あああの頃からいろんなこと思ってたんだとかすかに納得したりしている。
2016 3/23 172
* わたしは「小説」等の「創作」だけで五百頁平均の「選集」のほぼ二十巻ちかくを書いてきたと今にして確認できる。
だが、わたしの仕事は「創作」だけでなかった。「創作」にも類するの何作かのエッセイふう「準創作」のほかに、純然とした論考、批評、評論、エッセイ、 講演録、対談・鼎談の類を「創作」分と変わらないほど大量に書きのこしまた本にもしてきた。まだ本にならずにいるその手の原稿がたくさん積まれてあり、 「創作」とそれら「エッセイ」とはわたしの文学のまさしく両翼を成している。それら「エッセイ」の中にはもわたしの少なくも「日本文化」と「日本史」と 「日本の思想・信仰」「日本の藝能」に広範囲に触れた考察や論証や見解や指摘が籠められてある。それらが「創作」を裏打ちもしていたし「表現」を鍛えもし てきた。
「創作」だけの選集に終わるかも知れないと体調を覚悟してきたが、覚悟は覚悟として、わたしの「日本の理解」をわたしの日本語で表現できた内容も、及ぶ 限り「選集化」しておきたいと、いま、凡そは腹を括っている。わたしの「文学」は「創作」と「エッセイ=思想」が両翼を成している。出来れば二つの翼を羽 ばたかせて、終焉へ歩んで行きたい。それ自体が騒壇餘人・有即斎から「日本文学」への「批評」とも成れるようにと。
いま、わたしは『死なれて 死なせて』を読み返している。
2016 3/26 172
* 「死なれて 死なせて」を四章まで読んだ。一九九二年に弘文堂で書き下ろした。二十四年も以前の、言うまでもなく今八十のわたしがまだ五十半ばの著である。その干支に して二回りも年をとってきた間にわたしの思索思想も成熟とは言わないが変わってきた。思えばこの直後にわたしは東工大教授の辞令を受け、学生諸君に夥しく も難儀な問いをかけつづけ答えを書かせ続けたのだった。
最近になってわたしは学生諸君に強いた問いの一つ一つに「秦教授(はたサン)」として答えないのは卑怯な気がして、長い時間書けて全問に答えてみた。 「死なれて 死なせて」とはくっきりと移り動いてきた思案が現れている。まったく変わっていない思いも色濃く残っている。さ、どう読まれるのやらと、すこ し緊張している。
2016 3/27 172
* 『死なれて 死なせて』を読み終えた。わたしの本の中でもっとも広く読まれ多くの読者を得て版を重ねた。だれにでも深く厳しく関わってくる主題であり率直な把握である から当然と謂えようか、いま適当な版を得て新刊されても今日にしていよいよ多くの関心や共感を集められるだろうと感じる。
2016 3/29 172
* 正念場のような「新選集」の仕事を、気を入れて着々進めている。巻頭に、処女作以前の『生まれる日』ついで心を籠めた『死なれて 死なせて』を大切に置くつもり。 2016 3/29 172
* ICU図書館(館長)へ既刊の「選集」十二巻を送り出した。
凸版からは請求書が来た。非売の限定本であり、純然の支払い。歳久しく獲てきたものを、心して返しつづけている。そういう生き方でよいと思っている。
* 湖の本も選集も、いまはボールが印刷所側の手にある。その間を利して「第十六巻」の原稿を慎重にかつ面白く読んでいる。
2016 3/30 172
* 腹がしくしく、痛む。神経か。
このごろ、寝ていてもはっきり夢と分かる夢より、眠れぬ儘に仕事の行方を具体的にあれへこれへと思案している「夢」をよく見ている。目覚めてはいないの だ、眠っていながら実感がなく、思案に耽っているらしいのである。かなり生き急いでいると思うが、ブレーキをかける気になれない。寿命をなど過信していら れない。
一つには、どうしても登って越さねばすまぬ、通り過ぎねばならぬ暗い「関」らさしかかっている。愉快にばかりは歩いていられない道程がある。仕方がない。
* 今は、書いて、本にすることを大事の眼目としているが、それでこと終わらせたくはないのだ、最期に、いや並行してもむろん構わないのだが、まだ「読み たい」「読んで楽しみたい」という本好きの性根がガマンしていない。いまこの機械の背後の本棚に、浩瀚な福田恆存さんの全集が八巻、飜訳全集が八巻並んで いて、ことに福田さんの戯曲そしてソポクレスやシェイクスピアらの戯曲、ロレンスの小説など、ぜひ読みたい。春陽堂版の泉鏡花全集十五巻は、それでも彼の 人生半ばの業績だが、読み返したい作がいっぱいある。森銑三さんの著作集も十三巻、これはもう近世文化をのぞきこむ宝庫のようなもの、時を忘れて読みたい 最右翼にある。
書庫へ行けば、潤一郎、藤村、柳田国男、折口信夫らの全集のほかに二十世紀世界文学全集がジョイスに始まり夥しく読んでくれと出番を待っている。数え切れないほどたくさんな頂き物の小説や詩集、歌集、句集があり、何よりも厖大な古典全集が数種類もある。
読んで、逝きたいではないか。
おほけなく憂き身のほどもはげまして
やえの葎のみちを辿らめ 遠
2016 3/30 172
☆ シドッチ神父
ご存知かもしれませんが……。
東京新聞にはまだですが、日経新聞本日夕刊に文京区の「切支丹屋敷」跡地の発掘調査で出土した遺骨が最後の宣教師シドッチ神父のものとみられることがわかったという記事がございました。
DNA鑑定でイタリア人の特徴と一致。身長一七〇センチ台と推定。外国人宣教師の遺骨の身元がわかるのは初めてだそうです。
他の二体の遺骨は身の回りの世話をしていた日本人ら(=長助、はるの兄妹か。)と推測されるが特定できなかったと。
人間は死ぬものですけれど、三人の死んだ史実が遺骨というかたちで証明されるのはやはり切々と悲しいです。
この記事を読んで、みづうみの『親指のマリア』の世界が一気に胸に押し寄せてまいりました。
『親指のマリア』を読んだ人間には、真実は、作品に書かれたようであったとしか思えなくて、泣けました。
『親指のマリア』は最高のモウンニングワークであったなあと思います。
シドッチ神父と、シドッチ神父の傍にいて歴史の泡と消えた二人の魂はどんなに慰められたことでしょうか。
取り急ぎご報告。 雉 雉子の眸のかうかうとして売られけり 加藤楸邨
* まちがいなく、シドッチと長助、はるであろう。彼らの運命を銘記して伝えたのは、新井白石と、私とだけである。私の長編小説『親指のマリア シドッチ神父と新井白石』(「秦 恒平選集第十巻」)を心ある人は読み返して欲しい。
2016 4/6 173
* 晩、美空ひばりのたくさんな歌声を妻としみじみ聴いた。
この人には負けるという今日の小説家など誰ももたないが、ひばりの人生と藝・術には勝てない。もしあの世があるならば、ひばりに、兄恒彦に、そして孫やす香に逢いたい。
2016 4/6 173
* シドッチの遺骨が確かめられたという報道には、心底、感動した。しかも日本人二体の遺骨も同じ墓から出たという。驚愕し感動し、静かに五体の震えに堪えている。こんなこともあり、こんなことに出逢うのだ。
むかし上村松園を描いて、推理の創作として祇園井特と松園との画家としての濃いかかわりを書いて発表し、そのすぐあとで、それが、わたしの創作していた 両者の関わりが、まさしくそのままの事実と実証され得たのにも仰天し感動したが、今回のシドッチにも、それは新井白石が「西洋紀聞」で書き置いていた事実 と呼応しているのだが、わたしが「親指のマリア」に書いていた彼らの死生とピタリ合致しているのだもの、震えるほど感動した。
2016 4/6 173
* ひばりも歌っていた、「決めた、この道まっしぐら」と。わたしの思いも同じだ。それが煩悩であるかどうかなど考えもしない。
2016 4/6 173
* 一休は歌う、
心とはいかなるものをいふやらん
すみ繪にかきし松風の音
バグワンは言う、「心はあるものでもなければ、ないものでもない──」と。「実在しないが、実在するように見える──それは見かけだ。静かにそれを見守るのだ、分析してはならない。すみ繪にかきし松風の音。心と闘ってはならないし、心から逃げだしてもいけない。」
「二種類のタイプの人がいる。心に従う人々と、闘ったり逃げたりする人々だ、両方ともに、心が実在するとみなしている。従うのも闘うのも逃げ出すのも、 不要。必要なのは、それに深く見入ることだ。深く見つめると、松が墨絵の中で撓んでいるのが見える。風は描かれた風にすぎない、そこに実在するモノは何も ない。そこで本当に起こっているものは何もない。」
2016 4/9 173
☆ 又々 シドッチ。
毎日新聞のヤフーニュースには、一体はほぼキリスト教様式にのっとる形で葬られていた、とありますが、西洋のこと解らないのに、埋葬方式解った? 後に改葬した? など思いましたが、キアラが書き残したものに書いてあったのかしら…と想像しています。
三体並んでみつかった、と言うのも不思議です。白石らの温情でしょうか。
それにしても、秦先生の想像力凄いですね。
今になってみれば二人を地下牢で死なせて良かったですね。
藤沢周平氏は今頃しまった! と思っているでしょう。
長助はるを「転ばせて」しまったのですから。 横須賀 檸檬
* 長助、はるの兄妹が「転ば」なかったも受洗を申し出たのは、白石が「西洋紀聞」にきちんと証言してくれている。「転ぶ」必要など彼らにはなかった、洗礼を受けキリシタンとして伴に天国へというのが多年の願望であり決意であったに万々相違ない。
わたしは、『親指のマリア』で、無意味な脚色はしていない。白石が「親指のマリア」に寄せた深い関心の背後には、「板三(バンサン)」という洗礼名を 持っていた生母の身よりを意識していたことにも窺われる。「白石」の名のりにも、隠れキリシタンを多く抱き込んでいた「東北」地域の深妙を読み取らねばな らないのだ、中国人にすでにあった「白石」の雅号とは意義がずらしてあった。
2016 4/11 173
* 東工大の研究費はわたしには十分に豊かだった。もっぱら書籍、それも事典や辞典を買わせて貰った。「日本古典文学大事典」「日本 史大事典」「文化人類学事典」「日本を知る事典」「小百科事典」「広辞苑」「仏教語大辞典」「日本人物事典」「日本語大辞典」「漢和大辞典」等々。そし て、今もよく使う。「いい読者」である一つの資格は「辞書・事典をつかうのを面倒がらない人」と西欧のある大きな作家、ナボコフだったか、は挙げていた。 その通りだと思っている。
2016 4/11 173
☆ 文京区教育委員会に勤めていた
友人のご主人から頂いた、昭和40年の茗台中学の社会科の研究発表の中に、**さんのお庭に
「長助はるの石」があるの記述があり、ノコノコ探して**宅を訪ねました。その時色々教えて下さった**夫人は、10年前に亡くなっていました。
多分いらっしゃらないと思いつつ、4半世紀前のお礼状を出しました。そのご長男からご丁寧なお返事を頂いたのです。
母上のお手紙やお庭の写真のコピー送って頂けないか、とありましたので、今日コピーし、添え状に、私が興味持ったのは30年以上前の芳賀先生のTV講座と秦先生の『親指のマリア』と書きました。
彼がどんな方か、どこに興味持って下さるか解りませんので、明日投函するコピーの着報があるでしょうから、その内容により行動したいと思います。 横須賀 檸檬
* 『親指のマリア』必要なら差し上げますよと送ったのへ、の、返事。とにかく具体的に脚を運んで調べる意欲の読者だった。
* わたしが創作中に表現しておいたことが、そのまま現実により逆に証明される幾らか奇跡じみたことは前にもあった、妻はすぐ『閨秀』の名を挙げた。あの なかで、松園女史の名作「天保歌妓」と祇園井特の「美人図」の酷似と連携とを小説中の必然と推察して書いて置いたのが、まさに的中して、現実にそのままを 証明する奈良博での祇園聖徳井特「美人図」が見つかり、それはまさしく「天保歌妓」の原画に他ならないことが百パーセント確定できたのだった。
今度のシドッチ遺骨、一対の日本人男女の遺骨が、あたかも一つの島にともに立つかのように見つかったというのも、それに類する衝撃の証言だ。
やはり、興奮もし感動もする。わたしが「親指のマリア」を書いたと前後して新井白石を書いていた作家は、わたしは読んでいないのだが、「長助とはる」は 「転んだ」と書いていたと聞いた。あの二人は「転ぶ」なんてことはありえない、久しくも久しく二人はシドッチの到来を心から待ち望んでいたようなもの、そ の受洗と殉教は疑いようがない。
☆ 秦恒平様
シドッチ、長助とはる とおぼしき遺骨が見つかったとのニュースは朝日新聞でも写真入りで報道されていました。あの人々が本当に切支丹屋敷跡に骨を残しているのを知り、感動しました。
「気骨のある」人物といいますが、この方々の気骨が残されたのだと、写真に見入りました。
四月五日に奥様も傘寿をお迎えになった由。慶賀に堪えません。穏やかな余生でありますように、お祈りします。 並木浩一 TCU名誉教授
2016 4/13 173
☆ 貴重な
「原稿・清経入水」など収載の記念の一巻『湖の本129』を拝受いたしました。ご厚意ありがとうございます。そして、おめでとうございます。
読みくらべは後の楽しみとして、まずは「秋成八景 序の景」を拝読、もし完結稿が出来ていたらと、「私語の刻」にお書きになっているご事情があったにせよ、今更ながらに勿体なく無念な思いが押しよせています。当時(も)編集者は力不足でした。
どうぞお身体お大切になさって下さい。 元「群像」編集長 敬
* 「秋成八景 序の景」を手練れの読み手に読んで戴けて、真実、嬉しい。落ち着いて残る「八景」が書けるといいのだが。
☆ 秦恒平様
花散らしの風雨に耐えた桜がまだ咲いています。
その後お元気でお過ごしでしょうか、お伺い申しあげます。
この度は、選集第12巻に続き、「湖の本」129冊をお贈りいただきありがとうございました。
「原稿・清経入水」は貴重な資料となりますが、やはり、外枠を取った現行(=推敲の発表作)の方がすっきりしていいように思いました。
先ごろ「閨秀」論を書きました。例のところに送っていますが、また出ましたらお届けさせていただきます。
それにしても自分の勉強不足を思い知らされます。先生の作品はほんとに大変です。今度はどこへむかって行こうか、と思案しているところです。
なんとか健康で乗り切りたいと思っています。
先生もお身体大切にしてくださいますように。 五條市 永
* 言われる通り、太宰賞選考会で満票当選と決まった私家版の原作より、一夜を徹して推敲した「展望」誌に受賞作として発表された作の方が何倍も良くなっていると、双方を何度も校正し再読・三読して、わたしもそう思う。「すっきり」そして無用のツクリを排し得ている。
2016 4/15 173
* 今日は機械の負担を分散させようとデスクトップに群集していたフォルダやファイルをあちこちへ整理しながら、書きかけの小説「清水坂(仮題)」と組み打っていた。面白く書けるはずなのだが、もう幾押しかして作世界に味を浸ませたい。
午前中はまだしも午過ぎると視野が霞んで、ムリにムリに強いて字を読んだり書いたりしなければならない。
2016 4/15 173
* 一方で漱石原作「こころ」を脚色した戯曲を、もう一方では画家富岡鐵斎を語った講演録を、読み返している。
* 書きかけの長編小説のほぼ仕上がっているのを更に更に読み直して推敲している。この仕事はしていてご機嫌になれる。気分の悪さも気色の悪さも幸いに吹っ飛ばせる。
「文学は歌わない音楽」だという確信で、おおきな交響曲を創り上げて行くのがわたしの長編小説。三十代での長編と八十の長編とがおなじ音楽を奏でても仕方 がない。そう思うときいつもアタマに宿るのは秋成の若き日の「雨月」と晩年の「春雨」という二つの物語の差異である。書き手の積んだ歳月の意味は簡単なこ とではない。
2016 4/20 173
* 朝いちばんに小学校以来の親友松下圭介君の訃報を子息岳夫君のメールで受けた。久しい苦しい闘病に堪えて堅忍と善良の声を届けてくれる友であったのに。泣くしかないとは。
> 悲しみと悔しさとに堪えません、いま、お知らせを読みました。
>
> 堅忍と善良の好男子でした、いくつになっても懐かしい一の友でしたのに。
> ただ 泣いています。
>
> お見送りされたみなさんのお寂しさを想い、泣いています。 秦 恒平
* 永田純治、松下圭介、梶川貞子、田中勉、三好閏三、富永彧子、重森ゲーテ、大森正一。同窓の友に止まらず、先生方、先輩方、血縁知友、また敬愛ただならぬ同時代の畏人たち無数に死なれた悲しさ悔しさを度び重ねながら、だからこそまだ生きて行かねばならない。
* 弔辞と香華とを茅野へ送った。
2016 4/21 173
* いま、富岡鐵斎の繪を介して、そぞろ日本文化の性質やある種の原則について思案し続けている。
その一方で、漱石作「こころ」を脚色した戯曲を介して、愛と死との葛藤を思っている。しぜん、それらは日本史を基底にした新しく書き続けて仕上げようとしている複数の小説に関わり合ってくる。
2016 4/21 173
* 「蘇我殿幻想」を三校した。エッセイでもある小説と読まれてきた。こういう幻想的ないし推理の利いた歴史への肉薄こそ、わたしの一特色のようだと、今 にして納得している。ちいさい子供の頃から、大人の仕舞い込んでいた通信教育の「国史」を表紙もボロボロにするほど耽読して日本史を脳裏にデッサンしつづ けながら、百人一首の和歌に手を引かれながら物語世界を嬉々としてかき分けていった、その嬉しかった余録のようにわたしの小説の多くが生まれたのだった。
さきに初めて発表した小説「チャイムが鳴って更級日記」と「蘇我殿殿幻想」とは一部でつよく膚接しててながら、前者は菅原孝標女の作家的な素質へ目をむ けて今後の展開をなお希望しており、後者は明らかに大和・奈良朝から平安初期へむかう底昏い歴史を「蘇我殿」追及とともに手づかみにしようとしていた。わ たしを「学匠文人」と名指して下さる研究者がおられた。なるほどわたしの歩みはやはり上田秋成の生涯に歩調をそろえているのか…、そうかなと思う。
2016 4/22 173
* 漱石原作「こころ」も読み始めている。だれもが下巻「先生の遺書」を大事に語ったが、わたしは初めて読んだときから上巻「先生と私」を熱い気持ちで読みに読んだ。
九時半、もう機械向きに目が働かない。
階下でやすもう、寝床に座って明るい照明でゲラや本を裸眼で読むのも慣いになっているが。少し気楽にテレビの録画番組を観てもいい。
2016 4/22 173
* 晩の十時になって、今日は日記を書き込んでなかったと気が付いた。それほど、いろんな仕事をしていた。戯曲「こころ」を読み、鐵斎を読み、「原稿・畜生 塚」(新潮に公表した同題作の私家版本初出原稿)を読み、「蘇我殿幻想」についでシナリオ「懸想猿」正編を読み、新作の小説を書いてもいた。長編の方、も う仕上がりとしても佳いのだが、少しまだ気にかけている。
そんなこんなで、視力を労りながらも、肩がキツク凝るほど頑張っていた。ま、いいでしょう。
2016 4/23 173
* 「畜生塚」の原作を読んでいる。ときおり目尻が濡れてくる。
2016 4/24 173
* 富岡鐵斎を、いとも面白く思い思い考えながら、京都という風土のタチを味見していた。
もう七時。食欲がちっとも動かない。食べずに呑んでばかりだと、からだにこたえるが。
2016 4/24 173
* ひどい夢から目覚めることで遁れた。自身の内に巣くった地獄を半世紀の余もむかしにシナリオ「懸想猿」で吐き出した。だが、心奥の地獄は失せずにあるの か。鬱勃としたものがとぐろを巻いていて、夢に現れる。作者としては幸せな道を歩いてきたと思っているが、人としてはどうなのか。わからない。なにが不安 なのか。
仕事に励んで通り抜けて行きたい。存外に、わたしの精神年齢が幼稚というだけのことかも知れない。
* とにもかくにも、今日は病院。「猿の遠景」を持ち歩く。「水滸伝」の九冊目も。
2016 4/25 173
* 「選集第十三巻」の刷了紙が届いた。「選集第十四巻」本紙の責了用意が出来た。「選集第十五巻」は再校出、「選集第十六巻」が初稿出、「選集第十七巻」は入稿の用意をしている。「湖の本131」も入稿の用意をしている。
新しい創作は、長編・中編とも、じわじわっと仕上がりに向かっている。
かなりの数ある書きっぱなしで埋没・棚上げの原稿は、電子化されていないので手の出しようがない。機械へ入れて行くにはよっぽど時間がかかる。
ま、歌舞伎座と聖路加病院とへ出かけるだけ、文学の「仕事」一辺倒で、気晴らしは「読書と酒」のほかまったく無いとはあんまり「気」の貧しい日々で、宜しくない。
2016 4/27 173
* いやみな妙な夢を明け方から目覚の前までに、よく見る。がっくり疲れる。
* むかし「畜生塚」を書いていた頃は「夢」一字に深く身を寄せていた、らしい。作を読み返していて分かる。
いつごろからか、夢を疎ましく嫌い、いっそ憎むようになった。
* 一日中、順序よく、つぎつぎに仕事、休んでは仕事、ときどき、からだが痛むほど半端な姿勢で居眠り。霞んだ視野。力感のうせたからだ感覚。働いているのは 気だけ。いろいろに考えて妻のつくってくれる食べ物なのに、たくさんは食べられない。食欲に覆い被さるように眠気が総身を包んでくる。ゆっくり休んだ方が いいのだと思う。
* 「選集第十四巻」の本紙責了。函の表紙のみ、未了。
* なんとなく全身、疲れている。戯曲やシナリオ原稿は、科白、ト書き、情景、間などの「表記」に気配りしないと、読みづらい。ていねいに進めると時間も かかり何より視力が痛む。参る。しかし面白くもある。ほんとは戯曲をもう少し書いてみたいのだが、レーゼドラマだけれど。つまり小説を戯曲の形式を借りて 書くのである、かつて大正期の潤一郎のように。 2016 4/28 173
☆ 秦 恒平様
「湖(うみ)の本 129 原稿・清経入水 チャイムが鳴って更級日記 他」を拝受しま した。
「清経入水」は以前に頂戴した小ぶりの(四六版?)私家版で拝読して以来です。緻密な時代考証、時空を超え て夢幻と現実が入り混じる怪奇性、展開される不思議な世界は今もって小生の頭を混乱させます。当時から小生のアタマは一向に進歩していないようで すね。
パソコンが不調に陥り、四苦八苦したあげく、遂にリカバリーやむなきに至り漸く稼動となりました。御礼が遅くなった言い訳です。ご宥恕ください。 靖 妻の従弟
* 錚々たる諸先生の満票を得ての当選当受賞作といえども、ごく一般の読者には仰天ものであったということ。そこにわたしの文学の問 題が露出する。今日では難なくこの怪奇性を自然に読みこなせる人は増えていると思う、時代を超え他界を馳せては現世へもどるぐらいな読み物は昨今むしろ流 行っているのだから。だが、1969年の受賞当時はまことに稀有の作柄で作風であった。読みたいと思ってもそんな作に出逢えなかった。河上徹太郎先生の選 評に「現代の怪奇小説」の一句が殊に挟まれていたのも、時代を示している。
思い出す、同じ太宰賞の先輩吉村昭さんは、あのころ、わたしの顔を眺めるようにして「秦さんのあの作はぼくはよう分からなかった」と述懐された。そうなんだ…と感慨を覚えた。
しかもというか、しかしというか、石川淳、井伏鱒二、臼井吉見、河上徹太郎、唐木順三、中村光夫の六先生は、声を揃えて受賞作に当選と推して下さった。 これはもえたいへんなお顔ぶれであった。その「何故に満票」をよく問うてみることに、「文学」本質の問題が在ろう。とわたしは思う。当選作と受賞発表作と を、今度くり返し読み返して、右の問題にわたしは自信をもって答えられると思うようになった。選集を思い立たせたそれが推力になった。
* 十一時過ぎ。「心」とは、とこの一時間余り、思いと考えつしていた。
階下へ。床について、「ディアコノス=寒いテラス」のあと、水滸伝、サドの「恋の罪」、坂村健さんのグルメのはなし、なと゜読んで寝よう。
2016 4/28 173
* 日本人の骨相に薩摩顔と長州顔の区別が認められるという「放送大学」での講義、初耳ながら納得できた。やはり放送大学で「問題」処理に関するうまい講義を聴いた。思えば八十年、いろんな「問題」に立ち向かい対処してきた。
大学院を捨て、果断に就職、上京、結婚した「問題処理」は、若さに助けられた。小説を書き始めただけでなく、貧苦の中で敢えて私家版本を四冊も出し続 けた「問題処理」も、果断かつ窮することのない大きな成功をおさめた。二足のわらじを脱いで作家として自立して行く用意の「問題」も、創作と家系との両面 で危なげなく処理して行けた。出版界の状況よりみて、将来という「問題」対応のためあえて「湖の本」へ大きなハンドルを切ったことは、妻と読者とに助けら れて確実に成功した。その戦場に「選集」を用意したのも「問題」の総括としてとにかくも路線に乗っている。
2016 4/29 173
* 「畜生塚」という旧作にわたしのいわば「物語=ロマン」の原点がある。ヒロイン「讃岐町子」もつづく大勢のヒロインの原像を成していた。ま、その前に 処女作「或る折臂翁」に「弥繪」という従妹妻がより遙かな現像であったかも知れないが。そして「讃岐町子」は長編「斎王譜」の「朱雀慈子」になっていっ た。昭和四十五年二月「新潮」に発表した「畜生塚」も、昭和四十七年四月に書き下ろし作として筑摩書房から出た「慈子」も、ともに私家版本、前者は『畜生 塚・此の世』、後者は同じく『斎王譜』に納まった作からは、ともに飛躍的に推敲されていて、ともに徹底的に原稿の總枚数が絞られている。ムダと見えた箇所 を惜しみなく厳しく省く体に推敲したので、原作と発表作とは、太宰賞の当選作になった「清経入水」私家版原稿と受賞作として「展望」に発表された「清経入 水」の場合と同じく、それぞれに別作かのように手が入っている。
いま、その「畜生塚」「斎王譜=慈子」の原作(私家版作)を丁寧に読み返している。
このまえ「原作・清経入水」を湖の本129にしたとき、畏友で前の石川近代文学館の館長さんだった井口哲郎さんは、原作に「瑞々しさ」を感じたと言って きて下さった。ま「初々しさ」でもあるのだろうか、同様のことをわたしは今、さきの二作の原作(ともに世間へ殆ど出ていない、読んだ人はせいぜい百人ほ ど)に感じている。びっくりするほど、双方とも懐かしく、初々しく書き進んで、わるくいえば情感に溺れている。この二作は、男性にも女性にも「ものすご い」と感じたほど幸いに愛された。極端に言えば、これらを愛読してわたしの名を覚えて下さったような読者が今も湖の本を迎えて読んで下さっているのであ る。
湖の本のやがて130巻以降の何巻かに、新作に準じた扱いでこれらを入れて読者に届けたいと願っている。
2016 4/30 173
* 今日もう一つうるうると嬉しかったこと、やはり原作「斎王譜=慈子」を読み返し初めての冒頭、そして東福寺大機院の歌会・初釜の場面など、なにかしら美し い柔らかいうすものの絹に包まれるような嬉しさ懐かしさがあった。文学は歌わない音楽であり言葉による表現の藝術である。ナラティヴな筋書きが文学なので はない、ことばによる表現を生かして人間や生活や思想や感懐が浮かび立つのである。
雑な文章、文品に欠けた常套・陳腐な筋書きツクリには嫌悪感しか覚えない。
すくなくとも原作「清経入水」についで原作「畜生塚」と原作「斎王譜」は、親愛なるわが読者の手元へ送り届けておきたい。読んだ人は、ほとんど無いのだから。
206 5/2 174
* 「湖の本129」は、桜桃忌に到らぬ創刊三十年には前夜祭のようなものだが、あえて当選の原作「清経入水」を巻頭に選んだので、創刊の受賞作とはきっちり呼応している。
なんといっても、此の「三十年・百三十巻」は、私たち記念碑の嬉しさがこみあげる。五巻ももたないよと嗤った人の声も、もう忘れよう。
百三十巻という数字が問題なのではない、数字はまだまだ増えて行く。わたし自身にとって本当に大事であったのは、それほどに値した質と量との原稿を、作品を、事実山のように書き続けていたこと、それが根本だった。 2016 5/2 174
* 漱石原作「こころ」戯曲を丁寧に読み返して「選集」原稿を創っている。上演した台本「心 わが愛」よりは長編だが、演じてくれた「先生」加藤 剛や「静」香野百合子や「私」らの声音がそのまま耳に甦ってくれる。初体験の戯曲だった、愛おしい孫娘やす香の誕生記念するような創作になり上演になっ た。大盛況で、好評だった。「静」と「私」との愛と結婚への前奏曲である解釈がたいへんな論議も呼んだ、が、わたしはこの早くから、限定豪華本「四度の 瀧」を五十歳の賀に刊行の折りの後書きにすでに確言していた。確信してもいたし、いまも揺るぎなく確信している。
* 「ディアコノス=寒いテラス」「逆らこてこそ、父」の校正は、とても重苦しい。精魂をこめた私小説である、その重みを堪え堪えて読み継いで行く、文学としては遺憾を覚えないが、体験の苦痛がはげしく甦るのに堪え続けねばならない。
* そんな時に、原作原稿の「畜生塚」「斎王譜」の読み返せる嬉しさと安堵とは底知れない。わたしのなかに、まだそれらの世界がちからづよく生き残っていると 知る安心。有り難さ。生きの妙薬である。これあれば、なんとか、目のふさがりそうな大きな重石の私小説送り出しに堪えられる。
* 「少年」のむかし、短歌に心を籠めていた。東京へ出て、朝日子が生まれる前後まで歌を詠んでいたが、昭和三十七年夏から小説を書き始めると、ふっつりと短歌から遠のいた。もともと俳句は難しいと手を出さなかった。
建日子が生まれ、ついでかなりの間をおいて朝日子を嫁がせたころにも、ぽろっぽろっと作が残っていたが、比較的尋常にまた短歌づくりに手を出したのは、 二十世紀のごく最期からで、新世紀に入ってからは思いがけず折々に歌よむことが増えた。2011年晩秋には、久々に二冊目の歌集「光塵」を編むことまでし た。数えてもいないが、かなりの数の「句」も含んでいる。
「光塵」を編んで、明けて正月五日に胃癌を診断されて大きな手術を受けた。その頃もその後も、歌や句めくものを随分書き散らし書き置いてきて、潤一郎先 生の述懐にならえばそれは発汗や排泄にも似た吐露といえば吐露、遊びといえば遊び楽しみであった。第三歌集を編むにも苦労がないほどの数も書き散らし書き 溜めた作が、機械に雑然と貯蔵されていたのを、とにかく刷りだしてみた。それらには、「小倉ざれ和歌百首」のようなのも入っている。「ざれ」てはいるけれ ど、むしろ韜晦の気味を歌に「うったえ」たのでもあり、藝はみせている。
「少年」以来の全部を新選集の一巻にしてもよいと思っていたが、むしろ「湖の本」の一冊に先に第三歌集を編むのが順だろうと今は思いかけている。気に入った表題ができるかどうか。
2016 5/3 174
* もう、あれも、それも、どれも、これもと「仕事」小絶えもなく、手の着いてないのも、手の付けられないのも、やたらにいろいろと在る。いいかげんイラ イラするのは、いつもの本が出来てきて発送の前の不要な緊張ゆえであり、明日と明後日とは、みんな投げ出して、だらりぺたんと休息してやろう、何か好きな ことをして遊んでやろうと思い至っている。九時半。今晩も、もう休もう。
2016 5/3 174
* 今日も、幾つもの「読み」「書き」仕事をすすめながら疲れては居眠りして視力をたすけて、もう九時半。今まで戯曲「こころ」を読み耽っていた。まさし く漱石先生の作をかりて秦 恒平の思いを籠めている、科白の一つひとつにも情景にも。舞台では、こんな長大な台本は実現しがたく、むろん今一つ「上演台本」を創ってもあった。その方 は、いますぐは見つからない、どこかに埋もれてしまってるらしい。幸い、一部適切に簡略にされてあるがNHK藝術劇場版のコピーがやはり何処かには在るは ず。
大きな違いの一つは、海と小島とを眺めながらの文字どおりにわたしの「身内」の思いを、「島の思想」を、原作戯曲では「K」が語っているが、舞台では 「先生」役の加藤剛さんの強い希望で、個々の持ち場をというより、主な科白をごう「先生」が語り「K」は聞き役に回っている。どう考えたって「先生」から こんな「身内」観が出るワケはないのだが、そこがスターシステムの上演の機微であった。わたしは反対はしなかった。観客から怪訝の声も一度も聞かなかっ た、そういうものだ、現実は。
今回「選集」に入れたい戯曲「こころ」は、わたしの原作の儘である、当然。しかも上演時にホンの少し書き加えた場面や科白も、「湖の本」第二巻の二刷りのおりに付け加えていたかも知れない。その辺は明日の仕事で確かめられるだろう。
2016 5/4 174
* 「秦 恒平選集」第十三巻が出来てきた。午前中から、送り出しの作業に入っている。これまでで最も頁数が多く、収録されているのは、長編が二篇。
物語から(私)小説へという流れ は、もともと意識も意図もしてきた。私小説は老境の文学という自覚を早くから持っていた。
2016 5/6 174
* 高校後輩の、加門さん、頼んでおいた京・東山区の地図を、何種類も送ってきてくれた。ありがたい。京都へなかなか行かれず、創作上の手づまりを打開できないかと地図を頼んだのへ、早速応えてもらえた。ありがとう。地図を見つめていると、それだけで想が湧いてくれる。
2016 5/6 174
☆ 陽の目を見ずに終る飜訳原稿の山に、心が痛みます。秦先輩の執念(?)の強さには感嘆するばかりです。
くれぐれも御大切に。 府中 布 弥栄中同窓 翻訳家
* 心痛まれる厳しい重さがよく分かる。飜訳原稿だけでなく、多くの作家の小説原稿も、批評家の評論原稿も、学者の著述も、今日のこんな出版界ではほとん どが「陽の目」を見ない。質実な仕事ほど「陽の目」を見ない。出版界には与太な「やすもの」ばかりがハビコッテしまっている。
仮にもしもわたしが「湖の本」を持っていなければ、私の作家・批評家の境涯は、はるかの昔に窮屈を究めていただろう、潰されてしまわないまでも。
それが、いまなお、厖大な量の旧稿もはつはつの新稿も、思い立てば悉くが本になり得て世の中へ、ともあれ(つまり、金目にはならないにしても)出回って 行く。さらに進んで非売の特装「選集」まで着々出せている。協力してくれる家族も大事だが、何よりも、出版や書店抜きでも、がっちり支えてもらえた「読者 のおかげ」である。そういう有りがたい「いい読者」を得られる仕事、それこそが書き手の務めなのだ、と、しみじみ思う。
* 終日、十三巻の荷造りに励んだが、第一巻とくらべて100頁も多く、荷造りがとても難しく捗らない。しかし、充実のいい本になった。何のこだわりもためらいもなく、作風を新たな方角へ運んで、過去に拘泥していない。マンネリズムは創作者には死活の猛毒になる。
2016 5/6 174
* 漱石原作「こころ」の戯曲を読み終えた。選集一巻にどう編集・編成するか、一思案を楽しみたい。
* 選集十三巻の送り作業、今日も荷造りに奮励。函装の美しい本であるだけに、函や本を傷めたくないのだが、郵便という人任せなので気は揉める。
2016 5/7 174
* 昨日、加門さんに送って来てもらった京都東山区の三種類の地図、じつに有りがたく、見始めると時の経つのを忘れて千万の思いに惹かれてしまう。この魅力引力にうまく誘われて物語り世界の構成に励みたい。ありがとう。ありがとう。
2016 5/7 174
* 好きな画家とも「対話」しつづけている。ことに石版画の織田一磨に心惹かれる。
2016 5/7 174
* 浴槽でも読んでいた。読み書き十露盤とむかしの人は子弟に躾けた。十露盤はできない。この前までのドラマ「あさが来た」のヒロインは、少女ともいえな い幼いころから十露盤大好きだった。わたしとはカスリもしない。しかし「読む」は早かった。国民学校二年か三年で渋々書いた作文を教室で先生に賞められ、 「書く」への自覚ができた。帯同して、和歌(と俳句)への関心が生まれた。六年生でもおなじように作文が賞められ、中学ではもう「読む」とともに「書く」 意欲に引っ張られ、鞄には教科書のほかに短歌用、俳句用、自由詩用、作文用の帳面をいつも持ち歩いていたが、俳句と詩との分はすぐ不要になり、短歌のため と日記のために、いつも二册は大事にしつづけていた。
「読む」のは嬉しかったが、家には母や叔母の婦人雑誌が二、三册のほかに小説、読み物は皆無だった。しかし祖父の蔵書の古典や漢籍は吃驚するほど多くあ り、良くは読めなくても熱心に手に取るクセが出来ていた、小学生の頃から。「百人一首一夕話」「通俗日本外史」「白楽天詩集」が気に入っていた。「生活大 寶典」という事典では多方面に雑学した。「歌舞伎概論」という本のなかから芝居の場面紹介を抜き読みして長科白を暗記したりした。中学へ進んでから、京観 世の舞台で地謡に出ていた父の謡曲稽古本から「梗概」の頁をくり返し耽読した。
「読む」楽しさは捨てがたい。「書く」よろこびも捨て得ない。幸せと云うべきか。
2016 5/8 174
* 十三巻の「あとがき」を今回はたっぷり書いた。読み返して、感慨がある。かなり長いが、そのまま転載しておく。
* 秦 恒平選集 第十一巻刊行に添えて 従前(帰去来印)を入れる
「選集」と自称して、「全集」ではないことに、もう一度触れておく。ふつう、個人全集は創作や発表の「時期」に順じているが、私の「選集」は作の「内容」に応じ、一巻の特色や性質を受け取って戴きやすいよう、作者自身が編集的に「選んで」いると御承知戴きたい。
『迷走 課長たちの大春闘』の後に
少からず喫驚していただくだろう、この連作の三部作には。
小説家は、それ自体が虚構であるから、本当のようにウソを書くし、ウソとしか思われないほどぬけぬけと事実も書いている。それでいて、小説家のウソもま ことも「作風」や「文体」という化け物に守られている。いや身動きを制されている。そうは自由自在に、変化(へんげ)のようには働けない。但し作風や文体 のある作者にだけそれは言えることで、作風など無縁、文体もない「出たら目」は、全然別のはなしである。
この三部作は、小説家秦恒平が、小説家ではいられなかった場所、一人の「編集者」として勤めた職場「医学書院」時代の、正真正銘リアルな「私小説」である。
あの年、一九七四年=昭和四九年は、オイル・ショックの年だった。トイレットペーパーの払底に世間が沸騰した年だった。首相は田中角栄。81単産、六百 万人参加の空前のゼネストが大春闘を盛り上げた。参議院選挙で保革伯仲が実現し、東アジア反日武装戦線なるグループの丸ノ内三菱重工業本社爆破が、無関係 な通行人八人を殺したのもあの年だった。経済は戦後初のマイナス成長を招き、金脈問題を追及された田中は退陣し三木内閣に変わった。
何かが、誰かが、どこかで「やり過ぎた」と思う。結果として決定的に日本の労働運動が底無し沼へ沈滞し始めた。執拗に経済は盛り返して行き、必然、バブ ルの狂奔もちかづいていて、しかも泡は砕けた。中国での四人組追放と紅衛兵退潮も、日本の過激派を窮させ、また労働運動に急ブレーキをかけたのである。
あの年、わたしは、医学専門書の当時最大手、規模において総合出版の岩波書店といろんな面で似ていて「医書の岩波」といわれた医学書院の、中間管理職= 課長の一人だった。東京大学の赤門のならび、本郷三丁目寄りに新築六階のビル社屋をもっていた。いわゆる家庭医学は扱わず、洋書輸入を含む高度の医学研究 書や教科書と、三十種にあまる専門誌とを出していた。看護学の書籍や雑誌も多数種出版していた。
入社したのは、一九五九年、昭和三十四年春だが、まもなく社が出版した本邦初の研究所『脳腫瘍』は、部数五百、定価が一万五千円もした。そういう出版物 の似あう会社で、徹して「ミニプロ・ミニセール」を守っていた。見習い三ケ月間のわたしの給与は九千六百円、借りていた新婚六畳一間の家賃が五千円、初任 給一万二千円で、交通費支給はなかった。社に労働組合が結成されて、やっと五、六年め、社員も少なく社屋も小さく、狭苦しかった。だが社長の金原一郎は達 識の傑物だった。編集長の長谷川泉は、社を一歩出れば森鴎外研究や川端康成研究を事実上リードしてきた碩学だった。この二人に、心ひそかに真向かう気力な くては、小説を創作の生活に私は歩み出せなかっただろう。
入社以来十五年、社員は二百人を超え、「給与は日本一」と、老社長の子息専務が一切を取り仕切って豪語したのも、あながちホラとはいえぬ高水準にあっ た。私はもう二人の子の父であり、働き盛りの編集者でまだ四十歳前であり、私家版をのぞいても十種ちかい小説や批評をすでに出版していた。時代も幸いして いたのであろう、四十年余も昔のとである。
今回三部作、最初の小説「亀裂」では、学術書や学術雑誌に起きがちなある種の「学者の不正」に巻き込まれた編集者の戸惑いを書いている。「凍結」では、 中間管理職の上からも下からもギリギリ締められる悲鳴が、「課長組合」を願望しはじめる悲喜劇を煮つめている。「迷走」では。ああ、それは、もう言うま い。
もはや昨今最近の「労働者諸君」には、書かれていることが信じられまいと思われる。体験者であるわたしが、校正しながら我が目を疑ってしまうほどの「現 場」が、ありありとありのままに、いや、いくらかまだ遠慮が勝ちに書かれている。正真正銘の私小説だといったが、ここには、「小説作家と兼業の医書編集の 課長」はあえて「抹消」してあるのにすぐ気づかれるだろう。焦点を、出版社の編集者ないし管理職に絞るには必要な措置であった。
こういうことも言っておいていいだろう、この本が出版されてすぐ、大きな銀行同士の団体が、箱根だか熱海だかでの管理職研修会でこの本をテキストに情報 交換や討議を進めたという実話を私自身耳にした。有りそうで、こういう本は、小説としても無かった。「やっと現れた作」とも書評されたし、その後にも、気 をつけていた積もりだが、この手の「編集者もの」「管理職もの」はなかなか出てこなかった。
過激派とか民青とかいう色分けが険悪に叫ばれていた。内ゲバの武闘も日常茶飯に近かった。おまけに、医学の畑では激越な、かつ歴史的意義も小さくはない 現場闘争が多く行われていて、仕事がらまともに煽りを受けていた。関心もあった、利害も露骨に生じた。お隣りの東大でも、精神科も脳外科も、また小児科 も、いわゆる「医学紛争」を延々と続けて来たのだった。それが企業へ転じてきた。ステッカーに最もよく見られたスローガンは、中共紅衛兵ゆずりの「造反有 理」であった。最も過激に反応していたのが出版社の労組であったかも知れない。各大学を卒業してきた大学闘争の闘士たちが企業に侵入し、労働組合で各派対 峙し激突しながらも、また一致して「経営」を猛攻した。あわや会社という会社が倒れるかに見えてすらいたのである、あちこちで。だが、倒れたりはしなかっ た。
この後に潰されていったのは、逆に、労働組合の側であった。過激のツケは高くついて、「過ぎたるは及ばず」と高笑いしたのは、わたしのこの本などを参考 にしてでも反攻しようとした側だった。いわゆる「社会党」のその後のみじめな衰亡を見るだけで事態の推移はハッキリしている。保守の腹を決めた長期戦略は 三分の一の社会党を徹底的に潰し、総評と労組とを潰すことにあり、これに、だれでもないテレビで喋りまくる腰弱の知識人たちが、口を極めて野党と働く人達 とを裏切っていった。
この本でぶざまに「迷走」するのは会社側だが、本が出版されたころからは労働組合のほうが走力を喪失していった。何故か、の、この本は歴史的にもぎりぎ りの一証言たりえていることを作者は疑わない。そして今や勝ち誇った側が「やり過ぎ」てまたも泡(パプル)を吹いて働き手の立場を非正規雇用の拡大と支配 とへ強引に歪めている。
わたしのこの小説を書いた今一つの意図は、はっきりしていた。刑事もの、記者ものは、すでにテレビドラマでも人気を得ていたが、「編集者」を話題にした 小説など、殆ど見たことも聞いたことも当時(今でも)なかったからだ。「編集・企画」という仕事が好きで性にあっていて、しかも医学・看護学といった専門 分野の編集に携わっていることを、我ながら奥深いと自覚していた。その気になればかなりの話材も蓄えていた、が、自分の持ち味ではないとも見切っていた。 やっぱり『慈子(あつこ)』『秘色(ひそく)』『みごもりの湖(うみ)』や『風の奏で』『冬祭り』「雲居寺跡(あと)』などが書きたかったのである。
会社で担当した領域は好みの小児科学が主だったが、他の分野に関心をもつ自由も許されていた。免疫学の基礎と臨床、出生前小児医学、老人や母性の保健 学、いわゆる不定愁訴となるサブクリニカルな微症状学、疫学、症候群事典、そして学会成立にも直接寄与したといわれた新生児学研究などなど、とにかく出版 企画の面白さにとり愚かれ、夥しい数を本にして行った。月刊雑誌数册発行の責任を帯びていたときでも、企画して単行本も出した。仕事が少ないのを不満とは しても、仕事が多すぎるとは文句を言わなかった。「猛烈社員」といわれ、「エリートゴン」などと怪物のようにそしる人がいたのも無理なかった。ただ、幸か 不幸か私は社内のエリートとして経営の側に位置しうるタチでなく、昇任人事も断っていたし、第一の願いは何よりも「真の身内」を求めて「小説を書く」こと だった。批評もエッセイもたくさん書きたかった。その時間を確保するため、管理職になってからも、余儀ない会議以外は九時五時勤務をガンとして崩さなかっ た。そして、会社をやめた。会社に深い感謝はあったが、微塵の未練もなかった。
この三部作に書いたちょうどその時期に、私は、新潮社新鋭書き下ろしシリーズの『みごもりの湖』を最後の段階へ仕上げていた。村上華岳を主人公の長編 『墨牡丹』も書き始め書き上げていった。中世美術論『趣向と自然』を連載中だった。テレビ出演で『梁塵秘抄』を話していたし「日曜美術館」にも再々登場、 ラジオでも『中世の源流』を話し続けていた。講演も頼まれた。一つ一つから次が、また次が生まれていった。噴出期であった。だが前にも言うように、意図し て、そういう「私の別の一面」はこの連作では封鎖しておいた。無いことにした。それでよかったと思う、そうでなければこの小説の主題が分散してしまったろ う。
江藤淳さんのあとを継いで東工大教授を勤めときに驚いたのは、学生自治会の無いことだった。大学に学生の自治会がなく、企業に健康な労働組合が機能して いない、それがもはや普通とあっては、なにか日本の国が間違っている。健康に働いて行く基本の人権を自ら放棄しているのと変わりがない。しかも不況の永び くさなか、労働者の連帯を根から腐らせ民衆に泡=バフルを吹かせるのに最も力を致した大銀行・金融の途方もない不始末の後始末に血税は屁理屈づくめに浪費 されていた。ディスクロジャーどころか、情報をなんとかして国民から秘匿するのを目的にしたかのような、贋・情報公開法が麗々しく用意されていった。
じつは、この連作、あまりに時代が隔たってしまったかなとしまい込んできたが、そうではなかった。いろんな意味で、あっちから読まれこっちから読まれて 「時代」を揺すぶる役をさせてみて良い作品であったと、今のいま、わたしは進んで、早く、復刊しようと思うようになったのだ。
この本のような現実から、わたしは、逃避して自分の小説世界を紡いでいたのではない。住み分けていた、切り換えていた。それだけでなく、こういう「現 実」部分から、いろんな創作が進み始めて、「私」の世界へ移動していたのである、受賞作の『清経入水』では広島の学会取材から、『秘色』では出版祝賀会へ の会社出張から、『風の奏で』では春闘のさなか
出張といったふうに、編集者体験はかなり色濃く作品を染めていた。あの時代の小説もエッセイも、どの一つも例外なく超多忙な勤務のあいまに本郷や湯島や御 茶ノ水辺の喫茶店などで書かれていた。家では調べ仕事の読書に時間を使っていた。騒がしい環境で静かな世界を。そう意識して、欠かさず毎日書いていた。 立ったままでも書いていた、取材先の大学や病院の壁にもたれ、原稿を依頼や督促の「先生」を待ちながら、書いていた。
この連作を書いたとき、イメージを壊すから、こういう生々しいものは書かないで欲しいと、何人かの読者に叱られた。霞を食って半ば他界で暮らしている、 稼ぐ心配のない美しい世界のもの書きだと思っていた人が多かった。現実の私はそんな人ではなかった。実の親を知らず、貧しく育ち、貧しい中でひっそり結婚 し、親になり、やがて小説を書き出した。読みたい本もなかなか買えず、汚れて傷んだ一冊十円二十円の岩波文庫の古本を探していた。講談社版新刊の日本文学 全集を、食うものも食わず節約して、配本を楽しみに一冊一冊買い溜め読み耽り、近代現代の文学と作家たちに身を寄せて暮らした、書きたい、書きたいと六畳 一間のアパートでも憧れながら。
重森君という大学の友人が、私の「書きたい」に聞き飽きて、たった今、例えば「新潮」から、読んでやる、作品をと言われたらどうする気だと一喝した。 はっとした。ただ「書きたい」のゼロ地点から、「書いた」一作までの距たりは、無限に遠い。一作から二作、三作へは一目盛りずつだ。そうかと目から鱗を落 として、昭和三七年七月二十九日から三十日へかけ、上京三年余にして私は小説を、処女作『或る折臂翁』を「書き始め」た。以来、太宰賞の日まで一日として 書かぬ日はなかった、盆も正月も病気の時も。書き続けてこそと思い、励んだ。一方で、むろん私は編集者であった。仕事を投げ出したりはしなかった。
医学書院十五年半の、最初の一年間、生産管理部で雑誌製作の仕事をした。製版や原稿割付けや版下注文・校正往来などの基本的な作業を覚えた。翌年春から 退社の夏まで、編集部・出版部の編集者ないし管理職を続けた。雑誌を担当したり書籍を担当したり、また看護部門をやったり医学部門をやったり、十四年半の あいだには、企画・編集取材・製作刊行まで、いろんな仕事を自分の手で体験した。それゆえに今、技術的に何の故障なく「湖の本」が出せているのである。 「手に職がある」と昔からいうが、企画・編集・出版は知能的な手仕事に類している。手仕事と無数の雑用とを根をつめて出来る人でないとこの仕事は向かな い。「手に職」をつけてくれただけでも医学書院時代には感謝しなければならない、もっとも、「藝は身をたすける、身の不幸」とも昔から言うが。
勤務時代の仕事が、文句なく好きだった。医学者・医者また看護婦さんたちが、あまりに自分とは別世界の人であるだけに、かえって興味深かった。理系のそ ういう専門家を素直に尊敬する気質があり、その辺が、東工人で学生たちと仲よくできた理由なのだろうと本気で思っている。学生や院生たちが、教授室へ来 て、今こんな研究をしていますと、分かり良く教えて来てくれるのが私は嬉しいし楽しかった。わけても兼好法師が友にしたい一に「医師(看護師)」と挙げて いて、首肯して来た。同僚に親しむよりも、私は優れたお医者さん看護師さんたちと退社後もながく親しくしていただいた。そもそも、いい医師との出会いを求 めて医学書院を就職先にえらび、不安のあった妻の出産を、二度とも無事に助けてもらえたのである。文学に関しても実に大勢のドクターやナースの皆さんに励 まされて来た。
小説を書き始め、太宰治賞までに七年間あった。受賞から退社までに五年間あった。初出勤したその日から、いつこの会社をやめて出て行けるだろうと考えて いた。大学に残って教授になりたいとも、会社に残って社長になりたいとも思ったことはなく、四十歳までに、一作でいい、書いた小説で原稿料が欲しいと願っ ていた。七年ほど早く願いが叶った、向こうからの文学賞付き「招待」で。今度の小説『迷走』三部作の書かれた時期は、二足の草鮭を履いて五年めだった。曲 がりなりに「新鋭」作家になっていた。
読み返していると、それでも、課員や組合から比較的温和に私は扱われていたのに気付く。何故とは正しくは思い当たらないが、それはそれとして、あの当時 から私は、効率管理一辺倒で過大な前年同期比増収増益を無理強いする企業の論理を、生理的に嫌っていた。過激な当時の組合にお世辞にも親愛感は持てなかっ たけれど、基本的には働かせるよりも働く側に身も心も寄せていた。私は「編集者」ではあれ、「管理職」にはなりきれない半端者だった。
『お父さん、繪を描いてください』の後に
書下し長編、いわゆる「藝術家小説」をお届けする。とはいえ、以前に村上華岳や上村松園や浅井忠を書いた、いわば称讃や傾倒のそれではない。今度の主題 は苦痛に満ち、過酷である。「創作者」なら、(この作品では画家を書いたが)、彫刻家であれ小説家であれ作曲家であれ詩人であれ、同じ脅威にいつ襲われて もおかしくない「人生」の難所と蹉跌と打開への苦悶・懊悩を「告白的」に書いた。藝術家の執拗に抱き込んで吐き出せない「内景」を、具体的に抉り出すよう に書いてみた。むろん「小説」として書いた。だが、小説らしからぬ書き方を敢えて採用し、ごつごつ、コブコプとエッセイのタッチで書いてみた。人の秘密を のぞきこむように、同情ももち意地悪くもなって、遠慮なく書いた。この話、「ホントのことですか」と聞く人が有れば、即座に「そうです」と答え、「フィク ションでしょ」と云う人が有れば、笑って「あたりまえです」と答えて、読み手の好きに任せたい。
もともと、書簡体や日記体にわたしは興味津々。それらを書き起こし組み立て、地の文で繋いで行くと、主観と客観との立体交差が作をあたかも「論述的」に も「構築的」にも「ファシネート」にもし得るか、という「夢」の課題を持ってきた。小説っぼい小説ではない、だが、小説でしかない小説、が書いてみたかっ た。エッセイのように、ノートのように書かれる波瀾の小説。ホームページにそう予告して書き起こしたのは少なくも平成十年より以前だ、十分時間をかけた。
この小説は、綿密な取材やインタビュー抜きには、わたし一人の頭脳では書けない小説と見えるであろう、否定しない。肯定もしない。大学の専攻は「美学藝術学」であった。卒論には「美的事態の認識機制」を書き、「美しく視える」事態を追究した。ウソではない。
ああ頭が痛そうだと怖じ気づかれる方には、大急ぎで手を横に振り、云っておく。わたしの書いてきた小説の中で、この作品は、或いは一等読みやすく、けっ こう波瀾があり、心理的に荒くれた筋道を興味深く辿るはずで、お行儀の良い、お澄ましで趣味的な物語とはわけがちがう。上下巻を読み終える頃には肌に粟を たて唸る現実の「創作者」も少なくあるまい、と、いくらか作者は期待している。
情緒的な美的・浪漫的な作品、ではない。一つ間違えば、あなた自身が巻き込まれてきたか知れない生活の渦が、幾重にも巻いている。主に「手紙」でものを 言い続ける主人公の「画家」と、地の文で勝手な論評や時に酷評を加えている無頼な語り手の「小説家」と。どうしようもない偽善者だと読まれるかもしれない が、彼等も、彼等をこう書いた作者も寂しい。寂しくても、こう書いたのである。
もともと『寂しくても』と題していた。棄てがたい題であったが、どう「寂しくても」苦しんで、あきらめて、呻いて生きて行かねばならぬ事では、何も創作 者・藝術家には限らないと思い、引っ込めた。引っ込めはしたけれど、藝術家の生きる寂しさがひとしおのものであることは、わたし自身も身に刻んだ実感であ る。そのつらい実感が書かせた。脱稿までに、わたしは、一度死んだような気持でいた。
無惨なほど、さながらに主人公の「藝術」がひび割れて行く。その寂しみを突き抜き貫いて行くいったい「何」が先に待っているのやら、作者もまた凝然と「創作」という闇への闘いにしばしば棒立ちになった。画家であれレ小説家であれ実作者からの痛烈な批判を獲たいと願う。
平成二十七年(二○一五)十二月二十一日 傘壽の日に 秦 恒平
* 宇治にお住まいの佐々木(水谷)葉子先生がお電話を下さった。八十九歳、あの戦直後の学校の先生にはお若い方が多かった。数学の牛田先生は佐々木先生よ りまだ一つお若かった。いまもお元気という他の先生方の消息はお一人も先生から聞けなかった。元気なお声で、昔と同じように感じた。わたしの方が労って頂 いたりした。入学したのは昭和二十三年(一九四八)四月。六十八年昔だが、まったくそんな感じはなく、あの当時のままの感覚でお声を聞き記憶を甦らせても 昔を今に成しきって話し合えた。わたしは生徒だから同窓の同期の友を覚えていて不思議はないが、先生はあの後もそれは大勢の生徒と接してこられたろうに、 團彦太郎も田中勉も西村明男、西村肇も、藤江孝夫も福盛勉も桑山嘉三も、女性徒たちもよく覚えていて下さり感激した。あの弥栄中のころの諸先生のこともよ く記憶されていて、話題は尽きなかった。幾久しく御大切にと願わずにおれない、幸いご主人とお二人の日々だと。
* じつを云うと…、ああ、云うまい。ただただ内奥の不快に、呻き、堪えている。
* 恒彦兄がいてくれたらなと、口惜しい。
いい本に、没頭したい。気分のやすまるモノを読みたい。少年の昔の、「モンテクリスト伯」へ帰ろうか。
しばらく「選集」「湖の本」を休息して、書きかけの新しい創作へ没頭するのがいい。そうしよう。幸い、「繪を描いてください」の「お父さん」とちがい、今のわたしは「書ける」のだ。不快な呻きをぶっつとばす怪作を書けばいい、書き上げればいい。
2016 5/10 174
* 心惹かれたヒーロー、ヒロインのなかでも断然となると、なかなか難しい。ことに男で挙げるのは難しい。「男は嫌い、女バカ」という人間観がはやくから 出来ていて、「女バカ」はむしろ賛美の気持ちなのであるが、本当に慕わしいまたゼッタイに好きな女性となると、これはもう自作のヒロインたちとなり、ま、 別枠に入れておくしかない。
日本の古典では、竹取のかぐやひめ、源氏の紫上、玉鬘、宇治中君らの聡明な美しさ、優に匹敵して敬愛せざるを得ないのは『夜の寝覚』の中君、リッピ描く「マドンナ」を感じさせる。
日本の現代物では、今も目の前の書架におられる、臈たけて美しい谷崎松子夫人のあの感じをかぶせた、「蘆刈」のお遊さま、川端作「山の音」のこれまたどうしても映画の原節子の好印象をかぶせてしまうお「嫁」さんぐらいに限られる。
海外作となると、男惚れするのはトルストイ『戦争と平和』の男達や『復活』のネフリュードフ。
ヒロインではバルザック『谷間の百合』のモルソーフ夫人に魂をもぎとられそうに中学時代に憧れたし、『モンテクリスト伯』のメルセデスや、ダンテスとともに去って行く美女エデにも心惹かれた。
かぐやひめなみに印象に刻んで大事に感じているのは、ジャンヌ・ダルクである。
* ときどきこういう暇潰しをしては、神経や気分のバランスを取り返している。新制中学の教室で、同種類のもの・こと・ひとを十選んでおいて、順番にして みろと先生に言われた。「批評」行為の最も素朴でしかも難儀な自問自答は「それだよ」と。そう思っている心から。しかし、ウカとは手を出さない。少なくも 選別の相手に期間、今年とか、この半年とか、ここ三年、十年とか限定しないと手に負えるものでない。
2016 5/14 174
* どんな仕事にも胸突き峠がある。「選集」にも越えて行かねば済まないソレがある。
2016 5/15 174
* 昭和六一年九月に、脚色依頼を受けた俳優座の漱石原作『心 わが愛』公演は始まった。戯曲は書き上げてあり、しかし舞台での上演には時間という制限が ある、自然、上演のための台本も作らねばならなかった。レーゼドラマとして読む戯曲と、舞台で演じる台本は、いろんな点で用意が異なってくる。その台本 も、極力舞台上演の儘に活字化して置きたいが、なかなかの難事ではあり、意欲の湧く仕事でもある。かかる手間は想像を超える。しかし、面白くもある。
* よく人に「文学の才能とは」と聞かれ、本心で応えてきた答えは、すべての創作には「表現」の才能が大切だが、文学の場合のその「才能」は、「推敲・添削」の的確さに露わに現れる、と。直せば直すほど好いとも云えない、的確にとはその機微を謂うている。
このところ、ごく初期創作や中断作の「原稿・初稿」を持ち出しているのは、その機微例を我なりに追認しておきたいからで。まことに推敲は、容易でない。 この「私語」では概してズボラに書きっ放しを厭わずにいるが、本作では、一稿、二稿、三稿はあたりまえで、十度を越す推敲改稿も体験してきた。大事な事だ といまも思う。
2016 5/16 174
* 仕事は、ひろげた手のまま、どれもみな少しずつきっちり進んでいる。それでいい。
* 浴室で一時間、校正。一時間経つと充電ライトが点滅しはじめる。読んでいるのは「死なれて 死なせて」 これは或る意味、わたしという人間と秦 恒平の仕事をうまく代表する好い一面をもっている。政治的現実には全く触れていないが、わたしがわたしを語り抜いてほぼ極めを打っている。小説でこそない が、小説以外で何か一冊をと求められれば、これを挙げたい。
2016 5/17 174
* 戯曲、漱石原作『こころ』のほかに、当然にも、原作を脚色した加藤剛さんら俳優座劇団が希望の舞台台本『心 わが愛』も、用意しなくてはならなかっ た、いやいや、この方が本来の「注文」であり、戯曲の方はわたしが是非に書き置きたかった。上演時間などに、また出演の劇団員などにとらわれずにわたしは 漱石の小説「こころ」の解釈・理解、その表現に取り組みたかった。ふつう新劇の舞台は、よほど長くても二幕構成で三時間未満であり、わたしの書いた戯曲は 倍近くもの分量と場面を持っていた。
台本の方も、稽古が始まると、演出や俳優からの希望で、新たな場面を加えたり、また省いたりかなり日に日に動的に変容して行くのはあたりまえのことで、 だからたいへんとも、おもしろいとも云えた。ウームと唸ってしまうような追加や削除や変更希望にも付き合わねば済まない、それが演劇の現場だ。
いま、戯曲も文字に組み上げ、台本も現場感を生かしたまま決定稿にちかく落ち着けようとしている作業、懐かしくも、たいへんでもあって、面白く新たな刺戟を受ける。
今では、息子の秦建日子の方がすっかりこういう方面のプロになっているのだが、俳優座で『心 わが愛』の幕が開いたときは、まだ早稲田の一年生であった が、彼ももう目前に五十というトシを迎えかけていて、指折り数えるまでもなく、わたしが戯曲を書いたり台本を作ったりしていた五十歳に近寄っている。思え ばわたしも長生きしてきたんだと、すこし呆れる。そうそう戯曲『こころ』はわが「湖の本」創刊の年の創刊『清経入水』につぐ第二巻めの刊行だったのだ、ま さに俳優座の幕があがるその時の仕事だった。つまり「満三十年」昔のことだ。長生きしたなあ、わたしも「湖の本」も。
2016 5/20 174
* 三十年前の今日も明日も、「湖の本」創刊第一巻『清経入水』の「桜桃忌」に刊行へと、無我夢中に打ちこんでいた。あの年の春からわたしは早稲田ら頼ま れて文藝科の創作指導にも当たっていた。早稲田へは二年通った。その二年の内にのちの直木賞作家角田光代を見つけ出し、「小説家」への道へ、背を押した。 元気にしているか。実のある良い仕事を、確かな表現と感動の作を創り続けてくれるように。ふの年、秦建日子は早稲田法科へ入学したのだった。
2016 5/21 174
* 国会図書館と、京都の詩人あきとし・じゅんさんから選集⑬受領の挨拶があった。あきとしさん、「迷走」の時期を、「牧歌的時代だったかも」と。これ、分かる。分かる気がする。
2016 5/23 174
* 昨日もらった池田良則さん(池田遙邨画伯の孫、京都新聞連載『親指のマリア』挿絵)の手紙は、いろいろに懐かしくも面白くも興深くてくり返し読んだ。 東京新聞等に連載した『冬祭り』の挿絵を頼んだ、元近所(抜け路地をぬけた新橋通り)の中学後輩の画家堀泰明君とは遠縁というのにも奇遇というほど驚いた し、父の商売仲間であった縄手玉木の息子でスポーツ評論家の玉木正之氏の名も出て来た。彼は、むかしどうみても此の私をモデルかとみられたラヂオ屋の息子 の青春逸話を連続ドラマに書き、京都ではかなりひやかされた事がある。なにしろ主人公の家がわたしの育った家と同じようなところにあって新門前通りを実写 していたのだから。旅館「新門莊」という名も出ており、あれやこれやなかなか懐かしい。『お父さん、繪を描いてください』の主人公は、むろん仮名にしてあ り、実名は大画家須田国太郎、黒田重太郎というお二人だけ、パトロンであった有名な安宅さんも仮名にしてある。池田さんは金沢で画学された人であり、「山 名君」の実像をかなり推理しようと興味をもたれているが、分からないと。
何にしても画家として世に立つ難しさ苦しさにも触れておられ、胸を打たれた。
言うまでもない作中の「山名君」は実在した天才少年であった。その片鱗は三枚の此の私の「肖像」で示しておいた。池田さんも「達者なデッサン」と言われ、他にも感嘆してこられた画家、美術家は何人もあった。
わたしの希望は、どうにかして、彼のせめて個展なり画集なり、実現に手を貸してくれないかなあという事。何必館とか星野画廊とか、ほんとうに目のある主人に観て貰いたいなあと心中に願い続けている。
2016 5/26 174
* 俳優座公演『心 わが愛』台本を復刻している。書き下ろした戯曲『こころ』は明確に私独りの作であるが、台本は、表紙に、「原作・夏目漱石」「脚色・ 秦 恒平」とはあっても、稽古期間中、演出や演技の方から日々に手が入ったり、加わったり削られたり変えられたりと、変身してゆく。あくまで脚色者として提言 したり同意したり難色を示したりしなければならない。「戯曲」と「脚色・台本」との間には微妙な綱渡りの綱が張られて行き、はらはらしたものだ、関心もし たりとんでもないと思ったり。しかも最終的には私の「作ないし脚色」なのであった。
読み返していて、舞台演劇の舞台での成立過程は、まことに微妙な遊動性に揺すられ続けるのだと納得させられる。
書き換え、書き加え、かき消し等々、そして演出者や俳優へ注文もつけていた、つけられてもいた。そういうメモも残っていた。
2016 5/26 174
* いま、仕事のほかに、バルビュスの『砲火』と『クラルテ』、そして『モンテクリスト伯』とバーネットの『抱擁』 さらにサフォンの伝奇ものを読んでいるが、どれも惹きいれてくれる。
* 大デュマの傑作など、ほとんど一行一行、人物の一言一句までもう覚え込んでいるので、読書と言うよりみごとな映像を酔うように追っている感じ。この前 に読んだときはトルストイの『復活』と併行して読んでいたのも思い出す。そしてトルストイの表現のまことにしっとりと美しいのにも改めて感嘆したのを覚え ている。
大デュマは、演劇作家として大いに鳴らした作者でもあった。その力量が小説に面白くて大きな構成を生み出させる。極めの入った大衆小説作家でありなが ら、凡百のつくりものを超えて出た世界大を、戯曲的展開に支えられ、ナポレオン時代の欧州世界の厚みとともに、美しいまでの速度感で描き出す。息子の小 デュマの佳作『椿姫』とくらべてみて、分厚さがよく分かる。大デュマは、はっきりと敬愛を献げてあのゲーテに、そしてシェイクスピアに真摯に学んだ作家で あった。しかも大衆作家であることに終始した。
* しかしもわたしが今、自身「小説家」としてつよく意識しているのは、再読を進めている『抱擁』である。これは、あらためて、論考とまでは行かなくてもわたし自身の「小説」作法の検討のためにも、大事に意識し意図して思い深めねばならない。その力を沸き立たせねば。
* 六月は、生半可な迎え方では潰れかねない忙しい日々になる。六月一日から、オンコロジイ(腫瘍内科)の検査が来る。三日に、ついに「湖の本」三十年目の第百三十巻が出来てくる。十九日には桜桃忌、いつもに増して心嬉しい日になる。翌日には、三部制の遠し狂言、幸四郎、染五郎、猿之助らの「義 経千本桜」を歌舞伎座で終日楽しみ、すぐ追いかけて、ま、とっておきの「選集第十四巻」が出来てくる。追いかけて、秦建日子が演出の藤原竜也らの芝居があ り、東工大の卒業生と久し振りに会食の申し入れも承けている。それらの間に、「湖の本131」の入稿、「選集⑮」の責了、「選集⑯」の再校、さらに「選集 ⑰」の新入稿がついてまわる。
言うまでもなく、新作小説のすかっとした仕上げへの道のりもまだ続いている。
ま、いずれも、負担なのでなく、気張った楽しみだと云える。同じなら、元気に楽しみたい。楽しみは一つでも二つでも出て来て欲しい。
2016 5/27 174
* 何といえばいいか、端的に苦境といえば分かるか、とにかくも気の重苦しくてシンドイこの頃ではある。仕事に行き詰まっているとか、健康の悪し き兆しとかいったことではない、どうあっても担いで通り越してゆかねばならない気分の悪い荷を背に負うてこのごろを過ごしている。そんな荷は払い捨ててし まえばいいという考えようも有るが、それはしないと決めている。それだけのこと。
あはれともあはれともいふ我やあるべき
あるはずがなし われは父なり
と歌ったのを思い出す。
なにをしに生きてある身の無意味さを
ふとはき捨ててしごとにむかふ
とも歌っていた。
生きてあるかぎりは 堪えねばならぬか。
* 「K」も「先生」も、いはば弱い人であった。誰でもない自分自身に負けた人であった。漱石作「こころ」の主人公は、生きて行く若い「奥さん」と「私」 であった。わたしはいま、英訳された「KOKORO」を辞書など手にせず遮二無二読み進んでいる。ヘンな私ではないかと笑いながら。
2016 5/30 174
* 秦さんは潤一郎と松子夫人との隠し子かと、水上勉さんは本気で筑摩の編集者に小声で確かめられたと、ご当人からも編集者からも後に聞いた。
松子夫人の上の書状、巻紙や墨の色を原色のままで出せば大勢のひとを驚嘆させたろう、まことに、美しい。二、三十本は戴いている。死蔵してはならんなと思っている。芦屋の谷崎潤一郎記念館、現況はどうなっているだろう。
2016 6/1 175
☆ 梅雨近い日々となりましたが、
先生ご夫妻には如何おすごしでしょうか。 街、先日は選集台十三巻拝受拝誦、まことらありがたく、かたじけなく存じました。
此度もは又、あの第十二巻の高峰からがらり一転の二大長編。そして。これらもまさしく正真正銘の秦ワールドに外ならず。とりわけ『お父さん、繪を描いてください』の感動、感銘は、再読にも拘わらず、むしろ一層の深みを帯びて圧倒的でした。
そして、二編をこめてのかかる感動は、おそらく、一読者に過ぎぬ小生が、失礼乍ら 先生とほぼ同世代の日本人に属し、ほぼ同時代の空気を呼吸し、そして 今、このくやしい現代を、ほぼ同じくやしさを噛みしめながら生きている ということと無関係ではない由縁と共に、永く胸中にとどまるにちがいありません。
二編を以って一集とされた先生のお心を思いつつ――。
末筆乍ら 先生ご夫妻のご健勝を切にお祈り申し上げます。 不尽 神戸 昌 名誉教授・歌人
* 「編輯」とは、思想と意志と批評の表明であり、汲んで戴けて有難う存じます。「これしかない」という意識の煮つめ方ができたとき、編集者は頷ける。選 集や湖の本にむかうときのわたしは作者・著者でありながら編集者としていい本をと願っている。ほとんど創作と謂えるのである、編輯は。
2016 6/2 175
* さてさて、明日には、作家生活四十七年、湖の本創刊三十年を記念する第百三十巻が、読者のみなさんにヒョイと肩すかしをくわせるような可笑しな一巻になって出来てくる。夫婦とも疲れ気味なので、慌てずに、ゆるりと数日かけて送り出したい。
東工大卒の諸君には縁の濃い特輯なので、あたう限り謹呈したいと思うが、二十年も経ち、住所の確認がきかない、関わりのある卒業生は連絡あれ。また当時友人の住所の分かる人は、教えて欲しい。
2016 6/2 175
* 晩にも、明日発送のための作業をつづけた。
昨日今日と、多いときは六十册が各郵袋に入った箱を何度も何度も作業場のキッチンから送り出しの玄関へまで運んだ。八十爺がよく持てると我ながら感心す るが、持ち上げるとき腰骨がめり込みそうに感じて、むろん痛い。幸いに痛みはしつこくは続かないでくれる、が、腰は少しずつ前かがみになって行きそう、や れやれ。
こんなことを三十年、百三十回も続けてきたのだ、妻と二人だけで。子供達が手伝ってくれたことは只の一度もなかった。人手を頼んだことも一度も無かった。
思えば、今月の桜桃忌が、「湖の本」の「三十年」とばかり意識していたが、「太宰治賞」からの「満四十七年」、つまりは「作家」生活も「満四十七年」をむかえるのだった。
それなら、せめても「作家五十年」の桜桃忌まで、新創作も、ホームページの私語その他の充実も、むろん「湖の本」も、可能なら「秦 恒平選集」も可能な限り続けてみたい気が、油然と湧いてくる、むろん妻と二人で、である。三年経てば二人とも八十三歳、東京オリンピックにもまだ一年前 だ、丁寧に用心深く生きれば不可能でないかもしれない。
いい歳をして騒がしい男だと笑う人が多かろう、悠々自適できないのかと。お生憎である、わたしの悠々自適は「創り出す日々」にある。現象的には「読み・書き・思う」ことにある。今もこう書き表している「私語」が、畢生の表現となるだろう。
* ともあれ、「湖の本」刊行の当面の目標は無事に遂げた。早ければ今日にも送り先へ届きはじめていただろう。
月曜には、ふうっと息をついて、独り乾杯の散策にでられるといいが。
2016 6/4 175
* 送り出し、明朝の、郵便局経由便をのこし、宅配便は、一応了。
今回記念の湖の本130『秦教授(はたサン)の自問自答』は、わたしの、まるハダカもの。かなり恥ずかしいが、ま、書き置きのようなモノと思って貰おう。
乾杯。食べようと思っても沢山はとても食べられない。食べるのが概して苦痛とは困ったもの。
2016 6/5 175
* 二三日まえの夜中、眠りに入る前にふと、今度は、いろはを頭つけに和歌を創ってみようかなどと思い、さしづめ「い」として、
いひもせめいはでもあらめいきの緒の
絶えだえに吾(あ)は人に恋ふると
と出来たのを暗闇で書いておいた。今日ふうの短歌ならいかようにもありうるが、和歌となると「恋」うたに、つい仕上がる。倭語のせいか、吾のせいか、分からない。
「ろはにほへと」と続けるのは、存外に難しい。「ろ」音などとても和歌の歌い出しに馴染まないのだ。ま、気が向けば続けます。催眠薬のかわりにはなりそう、いやいや逆に目が冴えるかな。
2016 6/5 175
* 「湖の本」創刊三十年記念の第百三十巻におさめた「秦教授(はたサン)の自問自答」は、少なくも今日現在で私がほぼ「マルはだか」に語っている自画像のようなもの。ご希望があれば、若干在庫のこしてあり、善悪共にご異見あらば教えて下さい、
下記は、その前置きと内容です。
☆ 以下は、私(秦 恒平)が、江藤淳さんの後任教授として東京工業大学工学部(文学)教授に在任の全期間に、学部生、院生との毎時間、講義の以外に欠かさず提示し必ず「筆答」を提出させた、謂わば「挨拶(強く押し込んだ問いかけ)」の一覧であります。
問いかけは意地悪いほど難犠でしたが、東工大の学生諸君は、むしろ踏み込んで、いつも、よく答えてくれました。筆答分は400字原稿用紙に換算すれば三万枚、本の百册分にも及んだのです。
学生諸君にだけ答えさせて私はそしらぬ顔もいかがかと、退任後も気にして、とうどう私も回答を書こうと決心し、とにもかくにも書いて答えたのが、以下「秦教授の自問自答」であります。
お気が進めば、試みに、みなさんもお答えになってみられたらと思い、「挨拶」を仕掛けた全部の「問いかけ」を、順不同、何の整理もせず列挙しておきます。どうか首を捻ってでもご思案ご批判くださらば幸いです。
曾ての教室の諸君、以来二十年、今なら、どう答えてくれるのかなあ。
* まず、東工大学生諸君が書いて答えた「挨拶(問いかけ)」を、順不同に並べます。
*
* 故郷の「山」「川」の名前をあげ、今「故郷」とは何かを語れ。 * 自身の「名前」について語れ。 * 身にこたえて友人から受けた批評の一言を語 れ。 * 身にしみて学校(大学は除く)の先生に言われた言葉を思い出せ。 * 「別れ」体験を語れ。 * 「父」へ。 * 何なんだ、親子って。 * 今、真実、何を愛しているか。 * 何を以て、真実、今、自己表現しているか。 * 寂しいか。 * 今、心の支えは在るか。 * 真実、畏れるものは。 * 不思議を受け容れるか。 * 秘密をもつか。 * なぜ嘘をつくか。 * 信仰とは * もう一人の自分へ。 * 「位」の熟語一語を挙げて所感 を。 * 「式」の熟語一語を挙げて所感を。 * 仮面を外すとき。 * 親に頼るか、子を頼るか。 * 結婚と同棲 * 死刑・脳死・自殺を重く思う順 にし所感を述べよ。 * 誇れる国とは。 * 今、思うことを述べよ。 * 自由とは。 * (漱石作『こゝろ』の先生に倣って)「恋は( )( )である。」 * 漠然とした不安について述べよ。 * 人間のタイプを強いて一対(例・ハムレットとドンキホーテ)の語で示し、所感を述べよ。 * 何 が恥かしいか。 * 「日本」を示すと思う鍵漢字を三字挙げよ。 * なぜ嫉妬するか。なにに嫉妬するか。 * セックスについて述べよ。 * 絶対なも のごとを挙げよ。 * 家の墓および墓参りについて述べよ。 * わけて逢いたい「 」先生。 * 科学分野に「国宝」が在るか。 * 清貧への所感 を。 * 「性」の重み。 * いわゆる「不倫」愛に所感を。 * 「参ったなあ」と思ったこと。 * 自身を批評し、試みに、強いて百点法で自己採点せよ。 * 「挨拶」について。 * 今、政治に対し発言せよ。 * 東工大の「一般教育」を語れ。 * 心に残っている「損と得」を語れ。 * 他を責める我を語れ。 * 報復したことがあるか。 * 仮面をかぶる時は。 * 結婚とは学問分野に譬えれば「 」学か。 * 一生を一学年度と譬えた場合、あなたは現に何学期の何月何日頃を今生きている か。 * 「脳死」「死刑」「自殺」の重みに順位をつけ、所感を述べよ。 * 国を誇りに思う時は。 * 嬉し涙・悔し涙を流した記憶を語れ。 * 「心臓」と「頭脳」のどちらに「こころ」とふりがかなせよ。何故か。また東工大の他の学生がどう選ぶか、比率で推測せよ。 * 「心」とは何か。 * 何から自由になりたいか。何から自由になれずにいるか。 * 生かされた後悔、生かせていない後悔。 * ちょっと「面白い話」を聴かせよ。 * 話せ るヤツ、または、因縁のライバル。 * 今「思う」ことを書け。 * いま「気になる」ことを書け。 * 疑心暗鬼との闘い方。 * あなたは信頼されて いるか。 * あなた自身の「原点」に自覚が有るか。 * 自分の「顔」が見えているか。 * 兵役の義務化と私。 * 何が楽しみか。 * 心残りで いる、もの・こと・人。 * Realityの訳語を一つだけ挙げよ。何によって・何を以て、感受しているか。 * 「童貞」「処女」なる観念の重みを評 価せよ。 * 自分に誠実とはどういうことか。あなたは誠実か。 * 何があなたには「美しい」か。 * 何でもいい、上手に「嘘」を書いてみよ。 * あなたの「去年今年貫く棒の如きもの」を書け。 * 「生まれる=was born」根源の受け身の意義を問う。 * 井上靖の詩『別離』によって、「間に合ってよかった」という、出会いと別れの運命を問う。* 漠然とした不安、あるか。 * 「魔」とは何か。 * 「チエ」に漢字を宛てよ、何故か。 * 「風」の熟語を五つ選び、風を考えよ。 * 「死後」を問う。 * 「絶対」を問う。 * 「祈り」を問う。 * 生きているだから逃げては卑怯とぞ( )( )を追わぬも卑怯のひとつ この短歌の虫食いに漢字の熟語を補い、所感を述べよ。 * 上の短歌に補われた 多くの熟語回答例から、もう一度選び直し、所感を述べよ。 * 「劫初より作りいとなむ( )堂にわれも黄金の釘一つ打つ」という短歌に一字を補い、その 「( )堂」とは何か。「黄金の釘」とは何かを語れ。 * 落語「粗忽長屋」を聴かせて、即、「自分」とは何か。 * 「春」「秋」の風情を優劣せよ。 * 今、何が、楽しいか。 * 「血」について語れ。 * 集中力・想像力・包容力・魅力。自身に自信ある順にならべ所感を記せ。 * 「事実」とは何 か。信じるか。 * 「絵空事」は否認するか、容認するか。 * 「幸福」は人生の目的になるか。 * 「惜身命」と「不惜身命」のどちらに共感するか。 何故か。 * 毎時間読んでいる井上靖散文詩の特色を三か条で記せ。 * 五年後、新世紀の己れを語れ。 * 今期言い残したことを書け。 * 公園で撃 たれし蛇の無( )味さよ この俳句の虫食いを補い、その解釈を示せ。 * 命は地球より重いか。 * 命にかえて守るもの、有るか。 * 喪った自信、 獲た自信。 * 仮面と素顔の関連を語れ。 * 漱石作『こゝろ』で「先生」自殺のとき、先生、奥さん、私の年齢を挙げよ。 * 漱石作『こゝろ』で「先 生」自殺後の、未亡人と私との人間関係を推定せよ。 * 目から鱗の落ちたこと。 * 「私」とは何か。 * あなたは卑怯か。 * 自分が自分であることを、どう確認しているか。 * 「情け」とはどういうものか。風情・同情・情熱のどれを、より大事な情けだと思うか。何故か。 * 「死ぬ」「死なれる」重みを不等記号で結べ。何故か。 * 「本」を読む、とはどういうことか。 * 先生曰く「恋は罪悪、だが神聖」になぞらえて 「金は( )、だが( )」である。何故か。 * あなたにとって「大人の判断」とは。 * 踏絵を、踏むか。何故か。 * 人の「品」とは、どんな 価値か。あなたに備わっているか。 * 「自立」を語れ。 * むしって捨てたいほどの「逆鱗」があるか。 * 性生活の、生活上健康な程度を、人生(100)に対し、どの水準に設定(予定・願望)したいか。何故 か。 * 「未清算の過去」があるか、どうするのか。 * 「神」は、(人間に)必要か。 * 罰は、当たるか。 * あなたの価値観とは、つまり、どういうも のか。信頼しているか。 * いい意味の、男の色気・女の色気を、どうとらえているか。 * 二十一世紀は「 」の世紀か。何故か。 * みじかびのきゃ ぶりきとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ このコマーシャル短歌の宣伝している商品を推定せよ。 * 秦さんに今期言い残したことを書け。 * 「死後」は必要か。 * 命とは。命は地球より重いか。 * 運命天命未知不可知を「数」と呼び、その「数」を見出す・拓く方法や意思を「算」ない し「易」と呼んだ東洋的真意を推測せよ。 * 迷信の意義、迷信とのあなたの付き合い方は。 * 「情け」とは。「情けが仇」「情けは人の為ならず」「情 け無用」のどの情けを重く見ているか。 * 「縁」とは。 * 「不自然」は活かせるか。無価値か。 * 「工」一字を考えよ。 * 「花」の熟語を五つ と、好ましき「花」を語れ。 * 「( )品あり岩波文庫『阿部一族』」の上句の虫食いに一字を補い、かつ所見を述べよ。 * 仮想敵を語れ。 * 「父」とは。 * 虚勢・嫉妬・高慢・猜疑・ 卑屈 自身の蝕まれていると思う順番に並べ替え、思いを述べよ。 * 「常」一字を英語一語に翻訳し、日本語「常」の熟語を幾つか添えて、自己観照せよ。 * 人生は「旅」であろうか。 * 第一原因として「神」を信ずるか。 * 証拠・証明が無ければ信じないか。無くても信じられるとすれば何故か。 * 直観は頼むに足るか。勘・直感と直観とは同じか。例を添えて述べよ。 * 日本のいわゆる「道」を考えよ。 * 親は子を育ててきたと言うけれど ( )手に赤い畑のトマト一首の虫食いに一字を補い、作者(俵万智)の親子観を批評せよ。 * 二十一世紀を語れ。 * 最期に、秦さんに言い残したことを。
2016 6/6 175
* 漱石作『こころ』をめぐる諸側面を、戯曲・台本と共に一巻に纏める工夫がつき、全体像をほぼ創り上げた。
受賞の記者会見で、感化を受けた、敬愛する作家はときかれ、「漱石・藤村・潤一郎」と躊躇いなく答えたのを今今のように思い出す。藤村にふれてもう少し勉強のあとを残しておけば良かったが。
2016 6/7 175
* 午には「湖の本131」が組み上がってきた。そろそろ「選集⑮」の再校も追いかけてくるだろうし、「選集⑯」の初校戻しももう出来るところへ来ている。
* とはいえ、今日戴いた高城由美子さんからの長文のお手紙一通は、さきに送り出した「初校・雲居寺跡」の内容や進行と俄然緊密に関わった、じつに八百年 昔からの家系の表白で、興味津々。機械に入れて保存したいと思うのだが、今夜はちょっと、無理。じつはもあの「初稿・雲居寺跡」はあのまま中断なのが惜し くて、思案の創作メモもたくさんあり、「承久記」を読み返して、今一段サマにしたいと願っていた。高城さんのお手紙はじつに刺激的に有り難い内容で、くり 返し読んで頭に入れておきたい。感謝します。
* 京都の木谷妙子さんからは、京・二條若狭屋の竹筒の水羊羹やいろいろの宇治福寿園の銘茶などたくさんに添えて、これまた懐かしい興味深いお手紙を戴いた。
この方は、本を送った先、 藝術至上主義文藝学会の会員で同志社の国文に籍のある研究者の、母上で、生粋の京のご婦人。俳優やドラマへの京言葉指導もされているという。なるほど、ウマ の合いそうな方である。
2016 6/10 175
* 視野がくらく滲んで、気が晴れない。それでいて、ああもしたい、こうもしてみたいという気は絶えず湧いてくる。むかしからある「千字文」を読んで何か 問題をみつけたいとか、抱えてきた幾つかの主題から選んで纏まった論考もしてみたいとか。気楽に別に書き始めている小説もあり、描きかけの小説の隘路をど う吶喊するかも。
結局出不精になっている。まして出かけて行く「先」を思案する根気が無い。
さ、黒いマゴに輸液して、エドモン・ダンテスのいよいよ始まる復讐の、まずはイタリアでの展開を楽しもうか。
2016 6/10 175
* 石山寺、国分山の幻住庵、粟津の義仲寺を訪れて芭蕉俳諧の妙趣を美しくあじわう放送大学島内さんの講義を嬉しく聴いた。なんという句境の花と静謐。
他国の侵略を受ければ、まっさきにこういう文化遺産からまっさきに見たかとばかり破壊される。古来それが征服の何たるかであった。命を失うよりも日本の文化遺産の破滅が怖い。争わずに、闘わずに、国の安寧をはかるのが政治であろう。
安倍といい舛添といい、自民といい公明といい、真の愛国をおろかに見失っている。群小野党とて例外と見えない。寒々と「日本」が心細い。
* 「誇れる国」とは。
日本の敗戦後を体験してきて、政治家達の人間的貧困と強慾、経済人達の人間的醜悪と強慾、社会人としての理非曲直を理解して意思・意志・義務・貢献とし て完遂できず、付和雷同をもって只われ独りの利権・特権を願ってやまない、現に原発問題に対して示されている、政財・行政・私民・国民の精神的脆弱ぶりを わたしは、嫌う。
「誇れる国」とは。
平和憲法への忠誠のもと、国民の最大幸福、最小不幸に向かい政治と生産と国民が、平等に懸命に奉仕する、日本。
政治家が謙遜な公僕として、私民・国民から仮に一時的に預けられた権能行使に、誠実無比で、陰険な悪徳へけっして堕落しない、日本。
すぐれた藝術・文化・教育・家庭生活・社会生活・国際生活が、憲法の基本的人権のもとに、いささかも捩じ曲げられることのない、日本。
国家と国民の危機が、国内的にも(例えば原発)国際的(例えば侵略・侵攻・テロ)にも、国家と国民との強烈な協同・強力が支えた、断乎たる決意と方法とにより適切に力強く克服できる、日本。
* 今、真実、何を愛しているか。
「真実」とあるのが難しいと学生諸君も悩んだ。確かに。ここは現実の「人」などを問い返す所ではない。妻も息子も「真実」愛しているがそんなことを答えても問いの真意とは逸れている。
茫漠としてもわたしは「日本」と「日本の歴史」を好悪ともに、真実、愛している。いや、心から愛している、と言ってみたい。その上で、もっと的を絞るなら、日本の文化史を愛し、その中でも日本の古典文学史、美術史、藝能史を心から誇らかに愛している。
古事記、萬葉集、古今集、竹取物語、伊勢物語、古今和歌集以下の勅撰和歌集、土佐日記、蜻蛉日記、落窪物語、枕草子、源氏物語、紫式部日記、紫式部集、 和漢朗詠集、和泉式部集、和泉式部日記、大鏡、夜の寝覚、更級日記、栄花物語、今昔物語、讃岐典侍日記、西行和歌、俊成和歌、定家和歌、建礼門院右京大夫 集、とりかへばや、平家物語、問はずがたり、増鏡、太平記、謡曲、十訓抄、風姿花伝、徒然草、好色一代男、好色一代女、芭蕉俳諧 奥の細道 蕪村俳諧 春 風馬堤曲、南総里見八犬伝、雨月物語、春雨物語等々、順不同ながら、尾崎紅葉・幸田露伴・森鴎外・樋口一葉・泉鏡花・島崎藤村・夏目漱石・永井荷風・徳田 秋声・志賀直哉・谷崎潤一郎・川端康成らに至る日本文学の歴史は世界文学に比しても詞藻・文章・表現・思想等においてむしろ卓越している。愛さずにいられ ない。
また、とても言い尽くせないが、縄文式火炎土器や弥生式土器の名品、須恵器・土師器の名品、出雲大社、伊勢の内宮外宮、熊野社・那智滝、河内の応神・仁 徳前方後円墳、大和の箸墓、法隆寺の伽藍・壁画・百済観音等の諸仏、太秦寺の思惟観音像、薬師寺の三尊像・日光月光仏・裳粧三重塔、唐招提寺の伽藍・鑑真 和上像、東大寺の大仏・大仏殿・二月堂の修二会・諸仏、春日大社、大三輪神社、興福寺の阿修羅像、飛鳥寺、馬子の墓、京洛西の蛇塚、嵯峨の天竜寺庭園・渡 月橋・厭離庵、大覚寺の襖絵、仁和寺の五十塔・襖絵、妙心寺の瓢捻図、知恩院の早来迎図・三門・大釣鐘、清水寺の舞台・絵馬、八坂神社境内・西楼門、建仁 寺の風神雷神図、南禅寺三門・永観寺の寝殿・見返り阿弥陀・来迎図、山崎妙喜庵の茶室待庵、黒谷墓地の三重塔、泉涌寺境内・来迎院庭園・山陵群、東福寺三 門楼上・僧堂・通天橋・普問院庭園・奥庫裏庭園・扁額「方丈」、智積院の庭園・等伯画桜紅葉図屏風、三十三間堂・千体仏、法住寺三門・後白河院御陵、青蓮 院・好文庵茶室・庭園、養源院の宗達「松」図屏風・宗達画板戸、清閑寺・御陵、平安神宮・庭園・大鳥居、円山公園、下鴨神社・糺森、上賀茂神社、京都御 所、同志社大学のチャペル・栄光館、光悦寺境内、光悦宗達書画巻、六波羅蜜寺の清盛像・空也像、瓢亭庭園、楽代々の名品、表千家・裏千家・藪内家の茶室と 露地、大徳寺真珠庵等の庭園・茶室・狩野永徳等狩野派襖絵の名品、金閣、銀閣・等求堂書院、法然院境内・狩野の襖絵・作家谷崎・画家の墓、白川道、祇園 町、三條大橋、東寺境内・五重塔・金堂講堂の諸仏等々、今は言い尽くせない。
藝能では、能、歌舞伎、茶の湯、生け花、聞香、祇園会等々の祭礼・行列、また花街祇園・島原・上七軒・先斗町・宮川町等の遊藝・接客・歌舞・音曲、また さまざまな料亭・割烹・製菓・製茶・扇子団扇・竹藝。陶藝、金工・錺また紙芝居・ちんどん屋等の大道藝、物売りの藝など、万般にわたってわたしを魅了し引 き寄せられてきた。
これらが有っての「日本文化」であり、そういう我々の文化をわたしは、真実・愛している。
付け加えれば、現在共生の愛猫黒いマゴ、またわが狭庭に葬った亡きネコとノコの親子を、妻と倶に真実愛している。わたしの奥津城は彼らのそれて同じでありたい。
2016 6/11 175
* ひら仮名、カタ仮名の成立史はほぼアタマに入っている。今朝、放送大学で適切な復習が出来て有り難かった。ことに「ひら仮名」の発明発展は、源氏物語など平安物語や和歌の盛況を用意して、まこと偉大な成果であった。感謝せずにおれない。
話はちがうが、誰であったか『源氏物語の恋文』という本を書いていた。読まなくてもなにとなく納得できるのだが、一例、柏木衛門督の恋々とした露わな恋文、それを不用意に散逸した女三宮の幼稚さは、悲劇の原因となった。
「世」すなわち男女の世間である「世の仲」では、あらわにはしたなくモノを言うてはならない、洩らしてはならない「慎み」という禁忌がある。柏木も女三宮 もその心得が重大に欠けていて、道ならぬ恋の秘密をほかでもない女三宮の夫である光太上皇に見露わされてしまう。光君は怒っただけでなく用意のない幼稚な 若者らを軽蔑した。
メールは恋文のように「温かく」書くといいと、もう二十年近く前に語った。
その一方で、源氏物語のあの悲劇も念頭に、よく心して上手に「センス」良く書かねばいけない、バカげてあらわな具体的な事柄を言露わに書くべきでないと 思っていた。「心浅い」とは、まさに無遠慮というより、配慮を欠き、露わな物事を露わなもの言いのまま、たとえば、メールで送ってしまうことだと思ってい た。
字義のままの「遠慮」「配慮」の出来ない、つまりは「センス」の欠けた書き手は、自分の書いている露わなメールを、言葉による「凶器」とぜひ思い直した が良い。「軽蔑」されないように書いたが良い。メールは今やなんら秘密の通信方法でなく、せいぜい「ハガキ」並に人目に洩れるもの、心幼いトラブルがたく さん起きている。
逆に、政治や行政や社会的な不正にむかっては、明確な言葉で、真っ直ぐ手厳しい意見をぜひ出して欲しい。
2016 6/12 175
* このところ半世紀余もむかしの私家版で「畜生塚・此の世」「斎王譜」を読み返している。いずれも徹底推敲して後に「新潮」に発表したり文庫本になった りしている、が、推敲以前の原稿にもそれなりの動機が籠もっているのを確かめて置きたいから。この「読み」が、このところ選集での重い気分をすこぶる慰め 励ましてくれる。推敲すれば作品は良くなるが、原稿には、言いしれぬ作への動機が息づいていて、無意味ではないのだ。「清経入水」でもそれを確認できた。
* 「作」と「作品」とは意味がちがうと言ってきた。
いざ、読みかけてみると、堪らない俗な臭みに顔を背けるように頁を閉じてしまう本がある。よくある。ひとごとながら情けなくなる。そこが文学と読み物と の決定的なわかれだ、近代の文学全集がガンとして通俗読み物を入れなかった矜持を大事に思う。角川の「昭和文学全集」は、京都の昔に、高校から大学への昔 に小遣いで買い集めた初の文学全集だったが、中に吉川英治の「親鸞」一冊が入っていた。読めば読み物なりに面白かった、だが、藤村や漱石や直哉や潤一郎の 文章とは、太宰治の文章とも、歴然と「作品」が違っていた、文学の「品」位を決定的に欠いていて、その落差のはげしさに、わたしは、莫大にモノを教えられ た。文学作品の香気を教えられた。直木三十五の「南国太平記」も、読み物としてオモシロイは面白かったが、そこで文章や表現がトマッテしまって痩せた貧し さは蔽えなかった。
2016 6/12 175
* よく思う、率直はよいが、露骨は心貧しいと。
日本語で謂って、もっとも美しく望ましいのは、静かで清いこと。もっとも遠ざけたいのは、騒がしく露わなこと。
それでいて露わに表現せねば済まない悪しきものごとも、人の境涯には幾度も露出してくる。凌ぐことの難しさよ。
2016 6/13 175
* 清少納言を働かせて「平安女文化」を顕著にリードした一條皇后定子は、たしか西暦千年にわずか二十五歳で亡くなっている。
思い切ってとぶが明治の樋口一葉、石川啄木、正岡子規の死期の早かったこと、三十になるならず、しかも見事な大人の仕事を仕残して、いささかも浮薄ではなかった。
夏目漱石は、たしか五十前に亡くなった。芥川龍之介も太宰治も、そうだったろう。堂々の文学・文藝をひっさげての五十前であった。若かった、しかし創作は、また言葉も、未熟でも幼稚でもなかった。
今日の五十前創作者は、果たしてどうか。知らない。が、ときどき、その言動が聞こえても来る、が、まるで浮ついた高校生大学生なみの「こども」じみた言葉をブログやソーシャルネットに吐き出している。聴いても読んでも、こっちが恥ずかしくなる。
2016 6/15 175
* このまえ、久しく棚上げにされていた「チャイムが鳴って更級日記」をとにかくも形をつけて「湖の本」におさめた。「初稿・雲居寺跡」は中断の儘で「湖 の本本」に入れた。この中断作を仕上げたい気が動いている。なんとか、やってみようと思う。やれるという気が兆している。二宮のご夫妻高城真・由美子さん から戴いた長文のお手紙に刺戟を受けた。すこししつこく小説の形をおいかけてみたくなった。新しく書き継いでいる「仮題・清水坂(本題は秘しておきた い)」そして「ユニオ・ミスティカ」があり、「初稿・雲居寺跡」も新たな表題と主題とをもってすこし強引にでも新しい顔の歴史語りに創りあげたい、と願っ ている。
2016 6/16 175
* 「追想のほんやら洞」から、京大の依田高典教授の経済学者森嶋通夫教授と兄北澤恒彦との交情に触れた一文を、機械へ取り込んだ。「北沢氏の生涯は、編集グ ループSURE・編『北沢恒彦とは何者だったか?』に詳し」いと書かれてあるが、甥の北沢恒(作家・黒川創)や姪の北沢街子らが関わっていたそのSURE で編んだ兄恒彦を語る冊子に、わたしは一瞥の機会も得ていない。つまり、わたしは兄が「何者だったか?」実のところ何も知らない。兄にもらった少しの著 書、多年に亘りもらっていた手紙、最期(依田さんの文にも書かれているように、兄恒彦は自殺していた。)にちかい時期に交換していたのメールなどでしか、 兄が分からない。生前の兄は、彼自身の属していたらしい社会とはまるで無関係に、ただ弟で作家であるわたしやわたしの家族に向き合ってくれていた。も生ま れながらバラバラに人手で育った兄と弟としての再会感覚と親しみとだけで、懇談の機会すらせいぜい一二度、その余の出逢いはいつも立ち話程度で行き分かれ ていた。甥も姪も「秦さんには必要ないだろう」とでも思い、送ってくれなかったのだと思われる。
依田さんのその一冊子によって書かれてある、われわれ兄弟の生母や母方祖父の事情には、無理もないが、その辺は長編『生きたんりしに』を書いたわたしほどの正確に近い情報量は有る筈も無く、明らかな事実違いも認められる。それは致し方もない。
* 母を書いた。母方の祖父や親族に関しても、身を働かせて多くを知り極力慎重に知れた事から母方世界をわたしは書いた。父方世界へも踏み込んで書いた。
兄恒彦については、彼自身の著書や発表しわたしへも送ってくれた文章はともかくとして、青春期の兄の像は、多く生母のことばや母から兄に宛てていた手紙からしかわたしは知るすべなかった。甥や姪達に聞くという真似は意識してほとんどしなかった。
江藤淳が自死し、半年もせず北澤恒彦も自死した年に、わたしは『死から死へ』を湖の本に入れたけれど、それは「死」の問題にしか触れ得ていない。で、も う一度、兄について別な確度と視野からあくまで「弟の作家から」という視線で書いておきたいなあと、思い至っている。誰のためにでもない、北沢の家族に向 かってでもない。「わたしの兄・恒彦」を思い起こしたいのだ、そのよ手だて・材料には、甥や姪の生まれる以前から、わたしに宛てて書かれいつのまにか溜 まっているはずの恒彦書簡を、少なくも独りで読み返してみたいなあと思っている。そして書くなら、小説世界を創りたいのだが。じつは、まえまえから秘かに 抱いてきた着想もあるのだ、が。
しかし、それだけの時間がわたしに残っているのかなあ。
ともあれ、半世紀余の全来信(一応一年ごとに分類してある)から、手紙や葉書を取り集めねばならない。ま、そのついでに今は不要と考えていい来信ものを処分して家の内にすこしでも空き地を作っておかねば。
* 九時半。もう眼が、ダメ。
2016 6/17 175
* 最期になるかどうかは措いて 「光塵」以後の新しい歌集の、永く惑っていた「表題」を、昨夜定めた。
亂聲 らんじやう
残年はしらず、一箭は、すみやかに来るべし。
亂聲、破を調べて、念々死去の空晴れたり。
* 催事や演舞・演奏などの始まる前に、鼓笛など華やかに賑やかに拍ち鳴らす。「亂聲(らんじょう)」と謂う。
今日、編輯始める。
2016 6/19 175
* 今月はこのあと、月末に、師匠の「つか芝居」を建日子が初演出の舞台がある。
そして七月一日からは、選集第十四巻の送り出しになる。この巻はバラエテイのそれなりに面白い一巻になっている。
2016 6/19 175
☆ 秦 恒平様
「湖の本」創刊満三十年、
通巻百三十巻のご刊行を
お祝い申しあげます。
今号も、秦教授(はたサン)の自在に乗って
存分に楽しみ、考えました。
ご厚誼をいただきつづけたこと、
改めて感謝いたします。
二○一六年六月十九日 敬 講談社 元「群像」編集長出版部長
* 晴れやかに赤く粧われた「お祝 CELEBRATION」の厚手折紙に挿んで詩のように書いて頂いていた。知己の芳情、謹んで頂戴した。ちなみに謂う が、わたしは雑誌「群像」とは、ほとんど縁無くすごしてきた。単行本は「初恋」「茶ノ道廃ルベシ」「愛と友情の歌」を出して貰っている。もう騒壇余人を自 称の後に亡き「群像」の鬼編集長大久保房男さんや、大久保さんの後輩、徳島高義さん天野啓子さんの知己を得てきた。こういう人生があるのだなあと思う。
文藝春秋専務だった寺田英視さんの手厚い紹介があってこそ「湖の本」を、また「秦 恒平選集」を凸版印刷株式会社には三十年、渋い顔ひとつみせず応援してもらえた。
新潮社の前の「新潮」編集長坂本忠雄さんの毎々欠かされぬ声援も、どんなにわたしの励みに力添えて頂いたことか。
「湖の本」は、そもそも朝日新聞社の伊藤壮さんの親切懇篤な応援があって一気に軌道に乗ったのだった、その前に福田恆存先生のまだ若い、もっと書きなさ いという激励を戴き、騒壇余人の「湖の本」を敢行したのだった、すぐさま永井龍男先生からの励ましと、大勢の購読者紹介があった。福田先生も読者をご紹介 下さり、いまもなお奥さんは湖の本を購読していたくださる。
なにごとも独りで我のみでは成らないのである。そのためには、仕事の質と真面目とで信頼を得、応援して頂くしかない。
* 太宰賞選者の中村光夫先生は、ある音楽会のはじまる前のロビーで、「あなたのような人がもっといなくてはいけないんですが」と、励ましてくださった。 臼井吉見先生は篠田一士さんとの対談でわたしの秦の名前を出され、お二人で「いまも、この後にもとても大事なひとになります」と話されていた。唐木順三先 生は機会をとらえてはわたしにふれて書いて下さり、著書の書評にはしばしばわたしを希望して下さった。「わたしなりの道をゆきます」と授賞式の日に広言し て「そんな道あるのかい」と一瞬に私をして頓悟せしめられた河上徹太郎先生は、その後も蔭なららのお励ましを何度もくだった。
小林秀雄先生は大著「本居宣長」を出されるとすぐお名刺に「謹呈秦恒平様」と書き入れて勤め先へ人を介し贈り届けて下さった。井上靖先生はご自身で電話 を下さり、中国へいっしょに行きましょうと誘って下さった。江藤淳さんは東工大自身の後任教授にわたしを指名されていた。
* もくもくと、ひたすらに仕事してきて、顧みれば、びっくりするほどの知己の励ましにわたしは恵まれ続けてきた。望みが先なのではない、仕事が先を歩ん で行く。眼のある人はわたしを観ていない、仕事を観ている。そしてそんな仕事をしていたわたしにも気がついてくれるのだ。
2016 6/20 175
*「ドクターX」 日本製の連続現代ドラマでは一等スカッとして小気味よく、感銘も深い。スキル抜群の外科医大門未知子のフリーランスとしての生き方にも むろんわたしは共感する。わたしは肩書きのある地位にも権能にも無縁ではなかったし推賛推賞も受けては来たが、われからそれらを望んで手をかけたことは一 度もない。いつも向こうから手を伸べて招いた呉れた。地位や肩書きにも恋着しなかった。利用したと言えば、騒壇余人として活動している限り、知名度は年を 重ねるほど各年齢層には届きかね。読んで貰える機を得ても、「この秦 恒平って、何なの、誰なの」と思われるであろうの、ま、かすかな経歴を示しているだけのこと。わたしもまた一人のガンコなフリーランスなのである。大門未 知子の好きなのは当たり前。
* 「ドクターX」の以外でわりと共感していたのは、秦建日子の作った「ダーティまま」、ちょっとばかり懐かしかった。テレビ映画としては、断然「阿部一族」そしてビートタケシの演じた「 」。外国製の連続モノでは、「コンバット」。
「コンバット」とは戦線の様子こそちがうけれど、思想的な基盤を一つにしたような、アンリ・バルビュスの小説『砲火』が、じつに佳い線をぐいぐい伸ばしていて、読んでいて、著者の積極的な批評・批判のみごとな表現力へ今まさに惹き込まれつつある。
なるほど将校以上将軍大臣にいたる体制側は、各国で挙ってこの反戦の傑作を嫌悪したが、兵士層の民衆はこれを、じつに敵味方の別なく、という以上に最前 線でドブネズミのように闘わされていた敵味方が、まさしく結束し、声高に圧倒的にこの小説をわがもののように支持した事実に、大きく頷ける。此の作は、当 然、最大級の世界文学として大きく広く顕彰されたばかりか、バルビュスの批評と思想とは世界的な反戦団体の成立を現実に産み出したのだ。
* そして「モンテクリスト伯」の桁外れに大柄なしかも緻密に組み立てられた面白さの表現に、事新しくまたもやのけぞり感心し、堪能している。人生に「読 み物」として大いに感心して受け容れて良い、いや、これだけは一生に此の一作でよいからぜひ読んでおきたい大傑作は、「モンテクリスト伯」だと、またして も言い切っておく。ほかに、時間つぶしの読み物小説など、要らないち言っておく。
2016 6/23 175
* 機嫌の悪い体不調ではあるが、思い切って、というより、ふと思いつき思い至って、新作中の小説のために「勉強」を始めたのが、なんだかズンズン面白く 嬉しくなって、あたまの中へ相当な栄養分を蓄えたと思う。どんなとか何をとかはナイショだが、大岐に役立ちそう、役に立てたいと腹を括っている。これで、 今日一日、ムダにならなかった。ホクホクしている。このさきは、わたし自身のノーミソをつかうだけ。真夜中、めが覚めてしまっても、暗闇を睨んで思案の種 はいくらでも有る。
九時半。
今日はくろいマゴを医者にみせ、輸液も投薬もされていて、このまま床について好きなだけ本を読んでもいい。テレビも、滅多には面白い番組無く、やたら現れる安倍の顔など、見たくもない。
2016 6/27 175
☆ 切れ切れに
読んだ「湖の本130」に続いて「12」9を一気に読了、エッセイ1「蘇我殿幻想」へ戻り…と、久しぶりの「読書」を楽しんでいます。
「亂聲」と新しい歌集の名をうかがって最初に浮かんだのは、「夢幻の如くなり」でした。「敦盛」中の言葉でしょうか。
三十年の節目の桜桃忌を迎えて紡がれる「歌」が華やかで、艶やかでありますよう、「歌集」が成りますよう願っています。 岡山 九
* 偶然の一致かたまたまわたしは今夜「敦盛」と向き合っていた。ただし、心がけている「亂聲」が華やかで艶やかにまとまるかどうか、かなり「みだりがわしく」チンドンヤの鳴り物めいて乱雑かもしれませんよ。
* 作家以前というと、習作時代のようであり、事実そうに違いないが、その頃の仕事が、のちのちにいろいろに仕上がっていった。「或る折臂翁」を初めと し、「懸想猿」「畜生塚」「或る雲隠れ考」「斎王譜=慈子」「蝶の皿」そして「清経入水」など、みな「作家(受賞)以前」におおむね仕上がっていた。
そんななかでも最も手を掛け手を掛け手を掛け続けて苦辛を嘗めたのが、「或る雲隠れ考」であったのを思い出す。そのおかげで「選集」に収めたときも、なにとなくとても心嬉しかった。
ところが、その「或る雲隠れ考」の発想構想から推敲推敲の苦辛工夫を具体的に掴める「思案書き」がガバッとモノの中から現れた。ひょっとして手書き原稿も、一種と限らず家の中に隠れている気がする。
* 明日は建日子演出の芝居を見に行くが、一日、保谷へ顔を出そうかと電話呉れた。一日朝から、選集の送り出しで、家中のどこにも座ってもらえる場所がない。今回は、パスとあきらめた。
* 掻いた作が出回りだした頃、云われ云われて決まり文句だったのは「秦さんのはムズカシイ」と。なんで?と解しかねていた。
だんだんに分かったのは、漢字が読めないのだと。
それで、ルビを振った。ルビ不要の読み手が多いとは分かっていたから、ルビを嫌われると思いはしたがなるほど読めない人には読んでもらいたいと、ルビを 優先した。今此処で書いている文章ならなにも難しくはあるまいが、なるほどわたしの小説で、ふつうの読者が読めないといわれる語彙や熟語はやたら有る。
「点前」は、茶の湯では「てまえ」だが、茶の湯に縁のない誰でも読めるとは云いきれない。茶の湯、能、古典、歴史、古美術、工芸、そして人名など、ルビ なしでは読めない、ムズカシイと云われれば、せめてルビをふっておくしかない。別の言い方で置き換えると行った真似は、表現や文学の音楽からも安易に、軽 率に、は為しかねる。
ルビは、とにかくも漢字を発音として読めればいいとし、ルビのかなづかいなどムリには気にしていない。「秋色」は「しゅうしき」と二字漢字からハミださ せず、「しうしき」で良いとしている。ルビは漢字を読む方便として用いている。「阿若丸」なら「くまわかまる」でいいが、「西行」ならあえて「さいぎょ う」でなく、「さいげう」としてルビ長で字間が弛むのを避けている。
2016 6/29 175
* 新宿、全労済ホール・スペースゼロで、つかこうへい七回忌追悼特別公演、原作・脚本つかこうへい、脚色・演出秦建日子、出演キンタロー、芹那ほかの 『リング・リング・リング』を観てきた。いつもは建日子作・脚本・演出劇で、ひとの作・脚本を脚色演出したのは初体験だったろう、しかし、生前のつかこう へいに心酔師事し、その七回忌に期待されての初の機会であり、生涯に大きな意味と足跡をのこしたことになる。懸命・渾身の仕事であったことはよくよく感じ 取れ、観客の一人としても、まずは、慶びたい。
* 今日が千秋楽であったからかどうか分からないが開幕前に建日子が舞台へ出て、恩師との出会いや感激の記憶を、気持ちこまやかに、いい言葉でうまく観客に語ってくれた。ほんとうに自立し成長した「秦建日子」がもはや危なげなく舞台の前面中央に立って話していた。
* つかこうへいの芝居は、もう十数年以上もまえに、瀧野川とか謂ったあたりまで妻と一度だけ見にいったが、やかましい印象だけを記憶してみな忘れてい る。テレビで「熱海殺人事件」とかを観たが、テレビ画面で観る舞台からは、評判の高い作だったろうに、ほんものの感銘は受け容れにくかった。映画もなにか 観たかもしれない、が、記憶に残っていない。
つかこうへいの小説は文庫本で数作よみ、やはり同じ小説家として近づきやすく、どれにも強い好感をもった。むろん、彼と我との小説の「表現」は乖離して はいたが、つかさんのハートには純乎として共鳴・共感できるモノがあった。彼は秦建日子の父親が秦 恒平であることは知っていたし、どこかの劇場で言葉を交わしたこともあった。私の眼識たしは彼に心から感謝を述べ、彼は穏和に頭を下げていた。
思いがけない惜しい限りの死が彼を襲い、秦建日子はさぞや寂しくも哀しくも心細くもあったろう。つかこうへいは、わたしよりもよほど若い人であるはずだった。師匠の役はとてもできないが、つかさんの代わりにも、わたしが長生きしてやらねばと思ったことであった。
* で、今日の舞台であるが。
* まるで間違っていて、実は、それぞれにそれぞれの方法があるのだろう、けれども、芝居を喜んで観に出る機会の多いわたしには、今日の舞台以前にも接し てきた幾人かの、幾つもの劇作・演出家の舞台から得た印象が渦巻いていて、あげく、当節の新演劇における「当世風」とすら言い切れそうな「或る整理整頓し た理解」が出来ていそうな気がしている。素早く断っておくが、それは、劇団俳優座や劇団昴の芝居とはいわば「別種の方法・主張」をみせていた。
* 割り切った見方を、敢えて口にしてしまおう。
開幕して、二時間の芝居なら一時間以上。三時間の芝居なら二時間をかなり過ぎるまで。彼らの舞台は、よく謂う「おもちゃ箱をひっくりかえした」みたいな 雑踏・騒然、科・白のぶちまけ・かきまぜ・のまま進行して行く。俳優座や昴での舞台とは、また歌舞伎や、沙翁劇などとは、似ても似つかぬ大騒ぎ・小騒ぎを ネタに煮込んだ「猛烈なごった煮」のさまを呈する。そういう「ていたらく」が「絶対先行条件」のように舞台狭しとぶち撒かれる。
そしてである。
上演時間の押し詰まって行く中で、突如、まさしく、それぞ「劇的」に、途方もなかった混雑の奥から魔法の糸をふうっと手繰るように、物語が「核芯の筋と主張」を掴みだし、一気に、かなり説明的でもあるのだが、分かりよい劇の高揚と解決とが導かれる。
よく云ってそれまではただ面白がって舞台を見聞きしていた、或いは「うへえ叶わんなあ」「なんじゃこれ」と音をあげかけていたう観客が、ここへ来て、 ぎゅっと芝居の収束力に胸や腹やハートをつかまれてしまう。感動という、共感という、そんな躍動が「ウソのように」目の前で弾けるのにひっ掴まれたように 観客は「同化」してしまう。「そうなのか」「そうなんだ」という良い意味「降参」の心情や理解を舞台へ喜んで観客はなげこみ始める。そして大団円、終幕の 拍手を観客は熱く心用意する。
* こういう「作り」の芝居を、いくつも観てきた。
最近では、池袋の大きな劇場で観た松たか子の芝居がそうだった。
野田秀樹や、クドカンらの芝居からわたしは、上のような今日的な舞台のいわば「キマリ作法」めくものを、何度か感じた。
むかし遠くまで出かけ、つかこうへいの芝居を観た印象を、今にして思い起こすと、要するに雑然騒然のごった煮をギャグや大声や舞踏や格闘などの「科・ 白」、すなわち「科=肉体の躍動」「白=破裂音・騒音めく聴く必要すら無いほどの言葉」を、先ずは三分の二もの長時間、手を変え品を替えて舞台にぶち撒 き、その「ごみ屋敷」のようなギャグと乱雑の舞台を、ある時点から急速に、一気に、魔術的に「理解と感動」へ引き絞って行く。嗤ったり呆れたりただ面白 がっていた観客の眼に、ウソのように「劇」の狙いが見え始め、びっくりするような熱い涙が湧き出す。
* 今日の舞台も、概要をいえば、そのように構成演出されていて、ひたすら「やかましく」進行し、その果てに、激しいが静かな納得と感銘とを与えつつ収束していた。
* 少し憎まれるかも知れないが、現代の先頭で沸騰している若い演劇的才能の「手法」が、意外なほど解りやすい組み立てで、かなり皆さん右へ倣えしているのだなと、ちらと思ったりもしている。
「表現」の「方法」という点では、通俗読み物は論外としても、文学といえる小説表現者の方法は、はるかに「さまざまに異なって出てくる」「出てほしい」という感想を、小説家のわたしは、あらためて、持ち始めた。
但し明言せざるをえない、今日凡百の小説家に「方法」を探究する者のはなはだ稀であるということも。
2016 6/30 175
☆ 今年初の猛暑日
発送作業の追い込みに難渋なさったことでしょう。
午前中の幾分か涼しいうちに週末の家事を気ぜわしく片付け、昨夜から読み始めた「お父さん、繪を描いてください」を息を詰めるような心持ちで一気に読了しました。
同時代を生きた二人の芸術家の内奥に踏み込み、抉りだしていく「私小説」(事実如何は問題でなく)。
「湖の本」で拝見した時は、同時期に日大芸術科から藝大を出て銀座のデパートで個展も開いた画家の義父(当時は存命でした)の姿も重ねて読んだように思 いますが、いつの間にか「上」を失い、自身も五十の坂を越えての十数年ぶりの再読は、まるで初読のようで、「把握が強ければ表現も強くなる」、「私生活の 微妙さに煽られない芸術の創作はありえない」、「言葉なんて。」…幾つもの箇所で立ち止まり、また先を急ぐようにして読みました。
「寂しみ(闇)を抱いた」阿波野千繪(三輪京子)や「妻」が、幸田や山名にとって結句、どういう存在であったか、ありえるのかも、前回以上に気になりました。
夏バテなさらぬよう、お気をつけください。 小日向 九
* 最後の「気」がかりは、処女作とも云える「畜生塚」このかた作者がひたすら引っ張ってきた懸案。この「気」がかりは、幸田や山名が、千繪(京子)や妻にとって結句、どういう存在であったか、ありえるのか、という問いと、一対をなしていなくてはならないのだが。
とほうもなく難しいのである。自問自答は、作者に科された罰なのかも知れない。
2016 7/3 176
* 小説というのは、異様な素材を見つけたり作ったりして書けるというのではない、日頃、年頃の普通の生活の中から感性と想像力と言語的敏感を用いて紡ぎ 出すのである。そのためには、五官がいつも生き生きと環境や状況や世相や人相へむかって働いていなくては、と言うよりも、さように働いていれば自然に人は 小説家に成れる。うまいへたはその先の勝負である。この人は、手づかみするように小説の材料を虚空から掴みだしてこれる。精神に活気があるからだ。
2016 7/7 176
☆ 『秦 恒平選集』第十四巻を拝受いたしました。
各巻ごとの編集の妙に、またそれに相応しい内実の蓄積に感嘆しているのですが、本巻も驚嘆です。存分に楽しませていただきます。
前巻掲載の「迷走」(三部作)遅ればせながら拝読。秦さんが、このような”人間臭い現実”を作品化されていたことに驚きました。労働組合が不思議な力を 持っていた時代、私は幸か不幸か闘争に深くかかわったことはなかったのですが、同時代にすぐ傍にいたものとしてリアリティ以上のものが押しよせてきまし た。
これもまた秦文学の世界なのですね。
今夏は格別の暑さになりそうです。どうぞ呉々もご自愛下さいますように。
いつもながらのご厚意に御礼申しあげます。 敬 講談社役員
* まだまだ騒壇人で働いていた頃、講談社からは、単行本『初恋』『冬祭り』『愛と友情のうた』『茶ノ道廃ルベシ』など出して貰い、秋成の書き下ろしは書けずに迷惑をかけたりしていた。
しかし、なによりかより講談社とのご縁で感謝に堪えなかったのは百十巻前後の「日本文学全集」の配本だった、最初の配本は谷崎潤一郎集の一、わたしたち が上京し就職し結婚してまだ間もない頃であった、貧の極、大学院での奨学金の残りで敢然と購読し始め、その月々の一巻一巻がわたしの文学教室となった。読 みに読んだ、作品はもとより各作家詩歌人批評家らの「年譜」まで目を更にして読んだ。あの出会いがなかったら、わたしの文学人生ははるかにやせこけてとて も半世紀など保たなかったろう。
俳誌「みそさざい」主宰の上村占魚さんの丁寧な紹介があってかつて「群像」の鬼編集長といわれた大久保房男さんにも親しくして戴いて、もう「騒壇余人」 になっていた身でずいぶん心強い文学のちからを戴いていた。徳島さんや天野さんともペンの理事会や会合で出会った。このお三人からはあの「日本文学全集」 編纂に立ち会われたであろう文学の香気がいつまでも感じ取れてそれが有り難かった。
2016 7/9 176
* 明日は参議院選挙。この國の いや、書くまい。源氏物語を読み、「砲火」を読み、自分の小説を読む。詩を読み和歌を読み、芭蕉や蕪村を読む。そして小説を書く。
2016 7/9 176
* 黒いマゴの体調を心底案じながら日々を迎えている。シンとして寂しい静かな日々を送り迎えている。
* 元気づけのように、録画してある「ベケット刑事(キャッスル)」の美貌を二人で眺めている。
ビートルズのいう「ピースとラブ 平和と愛」とは、まこと真実である。「ラブ」という「愛」を、字義どおりそのまま、本当に容認できるのなら。そのへんの混乱を人の世はまだ見極めきれていない。「世のなか」というその「世」の意味も深くは悟られていない。
2016 7/12 176
* 文学作品のなかに数えきれず、親しい、敬愛できる知己がある。作者も作中の人も変わりはなく、願いさえすれば私の「部屋」へ襖一枚あけていつでも向き合ってくれる、洋の東西なく。
そして現実のこの世にも、無茶ものと嫌われてかもしれないのに、有り難いこと大勢の親しい知己や友を私はもっている。顔を合わすことはむしろ皆無にちかいのに、心親しいこと、有り難いこと、極まりない。
余生は、余命はけっして永くはあるまいが、「部屋」は静謐に堅固であり、よき人は、みな「身内」にふれあい心あたたかい。
ぬしとわたしはねからはなれぬ、
ぴつたりべたべた、しつくいにかはに、
はいとりもちやら石うるし、
ねつてかためた中じやもの
こんな、『払砂録』に謂う、「三下リいたこぶし」とは、全く、ちがう。ありがたい。 2016 7/13 176
* 『斎王譜』を読んでいる。「慈子」と在る、最も幸せな読書。このヒロインを世に出してわたしは男性の読者を多くつかみ、女性の読者を手放したとまで編 集者に観測された。こんなに佳いヒロインを書いては女性は離れるんですと笑われた。まさかと思うが。わたしは、最上徳内や新井白石を書きはしたが、圧倒的 に多く、すてきに佳い女ばかりを絵空事の主人公に書いてきた。なかばわたしはその世界に住んでいた。
2016 7/13 176
* 気分も 仕事上も すこし息をやすめている。こんなときにこそと、おっそろしく厖大なホームページの収録内容を、目次に沿って逐一点検している。
整理のきくところは処分して宜しく、「記録」として遺すべきは慎重に保存しておく。
大事をとって何もかも、幾重にも、保存してきたが、無用の重複があるかもしれない。それにしても、苦渋に満ちて言語道断で不当な歳月にも、耐え抜いてきたのだと、今更に、思う。よく崩れなかった。
* よく降った。明日にはすこし持ち直すかな。むちゃ暑くなければ昼過ぎにも、元気しだいで、久し振り街歩きに出たい今の気分だが、さて、どっちへ向けばいいのか、東京という大都会は、まことに不便。
京都なら、知恩院下の我が家から、自転車で、嵯峨嵐山でも鷹峰光悦寺や金閣、竜安寺、御室へでも、むろん東山は泉涌寺、東福寺でも、詩仙堂、曼殊院へで も、らくらくと行けたし、タクシーを使っても、電車やバスでも何でもなく絶好の場所がいたるところに在った、今も在る。食べる佳い店も、到るところに在っ た、今も在るだろう。ウーン。
ただ、今は街中が外人客だそうで。
仕方がない、「京の散策」は、わたしの「日録 私語」の中でらくらく楽しむとする。
2016 7/15 176
* 源氏物語全帖のうち、おそらく最も、わたしのような現代普通の読者が読みわずらい立ち往生する語句の多いのは、「掃木」第二だろうと思う。雨夜の品定 めというように、物語りよりも、堅く言えば論述に要所があり、直接話法という会話・対話の曲直に几帳面に語意を質しつつ付き合うのはかなり荷が重くなる。 物語りは流れで読めて行くのに、である。
しかし、此の巻、おもしろい。しかも後段、中の品とおぼしい空蝉へ源氏が忍び入ってハキといえば犯す、レープする場面は、女の思いが複雑なだけに読む思 いをも戦がせる。わたしはこの大長編に登場する女人達の多くに読者としての愛を注ぎ続けてきたが、この、後々までごく地味に書かれている「空蝉」という女 人の、情もやさしく、しかも光る君ほどの男を躱し通して崩れなかった聡い知性、わたしは敬愛を惜しまず記憶して来た。朝顔と呼ばれている高貴のひとの源氏 との男女の接点の全く見てとれない侘びしさにくらべ、空蝉と源氏のこの「掃木」での逢いと別れとは、男のむごい仕打ちでありながら掻き乱されながらの女の 思いの深切さが悩ましくも優しく哀れで、この「犯し」一場は源氏物語を読みはじめて最初のつよい衝撃とも感銘とも成ってくる。
* もちろん「掃木」のこの女人が次の巻でまこと「空蝉」と化して光源氏を美しいまで痛切に躱し果て、二度と身を許さない。しかも身は人妻ながら、闇にま みれたただ一度の情交を忘れず、源氏への愛とも恋とも情けともいうものを終生喪わなかった「空蝉」の生きようは、優しく聡い。多くの中でも敬愛して佳い 「中の品」の女性の一代表と、わたしは子供の頃から、見定めてきた。
空蝉には、もの露わな愚かさがまったくない。男に空蝉を抱かせておいて、恋し愛する女の身は、人妻である儘にも、乾いていない。情のこわさが無い。この「空蝉」のあとへ現れる「軒端の荻」のうわついた女臭さが、ひときわ効果的に空蝉の女を光らせる。
* 「軒端の荻」「近江の君」そして「女三宮」に通じた女の幼稚さ粗忽さは、今日只今でも、叶わない叶わない。要するにこの女たちは、一言でいうと、為すこと言うことが思慮に欠けて「露わ」で。とても、好きになれない。
* バルビュスの小説『砲火』のなかの「砲火」の章は、70余頁もの熾烈苛烈猛烈な弾幕をかいくぐる最前線塹壕戦。死屍累々の汚泥を這い泳ぐように生き 残っているあまりに僅かな兵士達の、生と死の、仔細かつ活眼の描写で埋め尽くされている。しかも文面から顔を背けるどころか、引き込まれるように一字一句 を読みすすめずにおれない筆致の的確・精確。こんな文学の達成をわたしは他に知らない。日本で言えば小田実の「玉砕」などか。あれは激しく苦痛に呻かされ る。
バルビュスは文藝のちからで、容赦なく、しかも読者が踏み込んで踏み込んで先を読まずにおれない表現の妙をみせる。
地獄さながらの死骸の破壊・解体・腐敗・悪臭・醜悪・信じられないような死勢や死貌のむごさ、しかもそれら死者たちとまさに抱き合い共寝し合うほどに敵 襲を防ぐしかない生ける兵士達の疲労困憊や絶望までが、決して一目何行読みをゆるさぬ文章のちからで、読者を引っ張る。つくづくと、戦闘の根底にある人間 の愚の深さ悲しさを想わせる。
参りました、まだ先があるけれど。
* 今日は、三つ、小説に手を掛けていた。息をつめている。そして「選集⑰」の校正。
2016 7/17 176
* ホームページの点検を終えた。点検に応じて、整理できる所は整理し、さらなる拡充も可能な余地あり、賢く組み立てたい。思いの外に時間を費やしたが、大事な作業であった。点検し整理すべきは、他にも大量にある。もはや保存よりも、整理し廃棄すること。
かなり眼を酷使した。霧の中にいるようだ。十時半。休まねば、もう。眠ることが、眼をやすめるのに最も有効。
2016 7/19 176
* 「HP コンテンツ備要」を印刷、項目だけで 42頁に及んだ。それも、内容の分かっている「日録」先月までの176ファイル分は外してある。好きな言葉でないが、モノスゴイと我ながら驚く。
ネット操作から離れたワープロ機能での原稿と文書の貯蔵は、重複も含めて、さらに莫大なフォルダとファイルの満載で。
* 小沢昭一がまず亡くなり、永六輔がつづき、大橋巨泉も逝った。一時代が、また通り過ぎていった。ますます世の中がうそくさく成る。
2016 7/20 176
* 『慈子』の原作「斎王譜」を読んでいる。わたしの魂のかけがえない「故郷」が、この作には在る。この作に取り組もうとしたとき、「世にも美しいかぎりの小説を書く」とわが声に出し、書き始めたのを昨日のことのように記憶している。明らかに「畜生塚」を承け、そして「或る雲隠れ考」へ。この三作がが三部作としての糸を紡いでいるとは、まだ指摘した人がいない。
2016 7/20 176
* 某チャンネルのネット書き入れは便所の落書きとまで嫌われていた、みながみなそうではなかったろうに。
わたしはソシアルネットでは、必ず「文責」者として氏名を公表の上発言してきた。「文責」を明かさず人を傷つけるだけが目的の記事など、無意味・無意義 な汚物にすぎない。ほんとうに本気で言いたいことなら、立場と姓名とを明かして、議論対論をさえ厭わない正しい行儀・態度を示すべし。またそういう行儀正 しい慣例を生み出して行かねば、あまりに見苦しい卑劣な人間破壊者になってしまう。情けないことだ。
2016 7/20 176
* 進行している二つの選集のために、大事な補足をし終えた。おそらく、今年中に私の選集は第十七巻までを成し遂げていよう。
* 今日、ある都内の「湖の本」読者から130巻の払込票に、「200巻を以て、継続購読をやめます」と。あと70巻を、年四、五巻の刊行で15年ほど。著作両の不安は無い。心身健康であらねばと、思いを新たにする。願わくは日本国の平安が保たれていますように。 2016 7/21 176
* 週刊誌による都知事候補への卑劣で悪質な中傷記事が出ていると聞いた。よくも人として恥ずかしくないものだ、唾棄してやまない。いずれ、中傷のたねを 売り込んだヤツがいて、恥知らずに買ったヤツがいたのだ。そういう売り込みに限って、売り手のそいつは卑怯な仮名に隠れているものだ。
デートDVとかが蔓延の傾向とも報道されている。
聞けば聞くほど、この国、いまや若者の芯から食いつぶしつつ、つぶされつつ、あるらしい。自然環境も大切だが、差し迫って日本人を食いつぶして行く 「毒」は、濃厚に執拗に「機械環境」に浸透しつつある。もはや言論表現の自由と言い古された旗をふってダラケていてはいけない、「機械環境」が国民の心身 を腐らせて行く怖さを懼れねば、と。日本ペンクラブの理事を務めていたとき、何度それを言ったろう、だが、失笑されてお終いだった。「バカめ」と腹の中で 歎き懼れながら、十二年務めた理事を辞めてきた。
2016 7/21 176
* 京都府文化藝術振興課 部長・担当 御中 秦 恒平
文化庁京都へ移転決定にもともない、京都文化藝術会議 の創設にかかわるご案内 確かに頂戴し、 ご趣意承知しました。
梅原さん 瀬戸内さん らの 「みやこ文藝会議」 へのお誘いも、たしかに拝承、異存なく賛同、可能な限りの協力・協調を惜しみません、健康もほぼ回復しており、必要に応じては京都へ出向きましょう。
「文化」の問題に ある程度の「行政」がかかわることは、必要です。
しかしながら、また、「文化」の問題を「政治」の支配ないし干渉下に置くという危険なあやまちも、身命を賭して文化に携わる者はよく心得ていなくてはなりません。この限界を、大切に意識し維持しながら、「京都」の文・藝をより盛んに育てねばなりません。
「政治からの自律」という矜恃を喪わない「京都文化藝術会議(みやこ文藝会議)」でありたいと切望します。
いま一つ「みやこ文藝会議」の称に即して申せば、私、京都を離れ東京で四十七年余の作家生活を重ねながら「故郷・京都」の文化に関わり続けてきた体験から 申しまして、京都発信の「文藝」部門の活躍や成果が、他の藝術分野(美術工藝や藝能、料理・製菓等)と比較して低調との印象をもちつづけ、残念の思いにい つも思い屈してまいりました。
どうか、梅原さんや瀬戸内さんのご見識にも耳を傾けながら、「京都文学・文藝」の伝統をしっかり汲んだ、しかも新世紀へ健康な羽をひろげた文学・文藝の新 展開をこそ、大切に心がけたいと願っています。健康さえゆるせば、勉強も尽力も厭わぬつもりでいます、八十老ではありますが。
ご推進方、関係各位のご健勝を心より願い居ります。 秦 恒平
2016 7/23 176
* ホームページの内容点検をほぼ終えた。要点だけを、コンテンツとインデックスに分けて取り出し、印刷した。見出しを刷っただけで、A4用紙に130枚もあり、あらためて、のけぞった。重複など、こまめに消去して機械の負担、ホームページ事態の負担を減らして行く。
一太郎のなかにも厖大な原稿や備忘記事が溜まっている。ここにも重複があるはず、用心して重複より消失をおそれてきた。もう整理していいだろう。
* 小説「清水坂(仮題)」に大胆な着想が湧いて出てきて、その処理に気を入れねばならない。
* 仕事がなくて困る、淋しいなんてことは、少なくもこれまで、全くなかったし、今も無い。したいことの交通整理を旨くやらないと、脱線転覆しては困る。ボケルわけに行かない。当座の咄嗟の記憶力
はたしかに落ちている。むかしのことは、懐かしさもあり鮮明に甦ってくる。
2016 7/23 176
* 「清水坂(仮題)」と「ユニオ・ミスティカ」とに手を入れて行く。後者は仕上がりに近いのだが、密封しておくべきか。
2016 7/24 176
* 「ユニオ・ミスティカ」 現在、450枚ほどでほぼ出来ている。が、三部構成の、めいめいにガランゴロン、ガランとまるで違う音響で鳴っているような放埒に、作者自身が戸惑って遠慮して縮んでいる感じ。
「清水坂(仮題)」も、展開が手の舞い足の踏むところない暴れようで、なだめ静めるのに苦労している。これは、手を掛けている割りに量的には長いという作ではない。アッとおどろくタメゴローのような題材化している。わたしがいちばん今、ガマンしている。楽しんでもいる。
2016 7/27 176
* 漱石は、岩波から「心」を出版のさい、いわば広告文を自ら書いていた。自作を「作物」と呼び「作品」とは謂っていない。漢学にも造詣の深かった漱石 は、創った「小説や文章=作物」を自ら「作品」とは謂わなかった。「作・作物」に「品・作品」が備わっているか否か、自作については自ら云うを避けていた のである。創作という行為は、ヘホ゛にも達人にも可能であるが、それが「作品」を備えて立派に美しいかどうかは、まったくの別ごとである。わたしも、迂闊 に自作を「作品」と自称していた時期が長かった、が、間違っていた。しかし、気持ちは、常に作品の備わった創作を都願ってきた。云うまでもない処女作いら いのことである。通俗読み物を書かず、下品・雑駁に文をやることは慎みつづけてきた。「選集」を自選し始め読み返しはじめて、確信がもてた。それだけでも 選集に踏み切った甲斐があったとおもう。
いくら調べに調べての労作であれ、才走った意欲作であれ、下品ななぐりがきの文章からは、文学・文藝は決して生まれず、「作品」は成らない。鏡花ははじ め例えば馬琴を好んでいたが、いつしか、あのねちねちの書き込みを厭うようになり、むしろ一九の膝栗毛に作品を覚えていた。わたしはそこまで膝栗毛を味読 し切れていないが、馬琴に関しては鏡花の厭悪を実感として受け容れる。
著作は、才弾けた人ならだれでも出来る。しかし、作品が認められ愛読されるには、謙遜な自覚と独自の文体が必要である。漱石の「作物」は、少なくも私にとって敬愛のほかない「作品」を備えている。
2016 7/29 176
* 鎌倉の橋本ご夫妻から、銀座千疋屋のジュース二種を頂戴した。
☆ 選集第14巻
有り難く頂戴いたしました。
お礼が遅くなってごめんなさい。
私達夫婦は、良い読者でいること以外に
お礼の致しようがないほどです。
少しでも体によいものを、
と思いジュースを送らせていただきます。
ご夫婦そろって、
この夏を乗り切ってくださいますように。
本当に有難うございました。
静 美
* 美しいお便りを。ありがとう存じます。
橋本さんには、まえに、「初稿・雲居寺跡」へ深くかかわる鎌倉武士家の今日へも到る系譜で長文のご教示のお手紙をいただいている。時間を得、集中力をかきたてて、あの作をより良い作にまで漕ぎ寄せたいと願っている。
2016 7/31 176
* ソシアルネットが、わたしからは開けないいろんな人の書き込みを報せてきて、ホンのすこしは何がいわれているか分かるが、身に沁みて全部読みたいと思 うモノは無い。息子もしょっちゅう呟いたり写真を加えたりしているらしいが、全然見えも読めもしない。願わくは、じっと胸に溜めた思索や苦渋や奮起の思い は「私語」の闇に秘かに書きためて後日に託した方がいいのにと思ったりする。
* 息子ではない、もう六十すぎた男性が、近年の発起で短歌に心を寄せ、或る大きな歌誌に加わったのはいいが、いきなり「賞」を狙って応募したりしてい る。それも励みになるのだろうが、「賞」のために創作される短歌とはどんなものかなあと、シラジラとしてしまう。創作には必然とまた得も言われぬ自然とが 力になる。賞狙いなど、そのどちらでもなく、よそごとだが、気色が悪い。
* 小説のために京都市東山区地図を長時間、見えない眼で見続けていて疲れたけれど、いろいろ仕事をし続けてもいた。無理が多いかなあ。
2016 7/30 176
* 心身障害で施設入所の老若を大勢殺した、世界でもまれに異様な犯罪が日本で起きてしまった。問題の根も深く、ひろがりにも容易ならぬ毒の蔓延が想われる。
それにつけて、私にも、今、思うことが在る。次回刊行の選集「第十五巻」二作の、とりわけ最初の「ディアコノス=寒いテラス」。
これまで、秦 恒平作で、世界に、世界の言葉で直ぐにも持ちだせるのは、これですねと二度、べつの人から言われた。一言二言では言いきれない、しかし、紛れなく心障の少 女と健常の少女の葛藤であり、背後に、善意の教師と母とが向き合っているが、善意の質はきしみ合うほどズレている。
「愛は可能なのか」と問うた作だったが、「愛」の問題だけで済まない、国・社会・人々の過酷な空気も問題になり、現に世界を騒がしている難民や差別の問 題へ真っ向衝突してくる。「反差別」と「反戦」は処女作いらい作者の一貫した主題であるが、なかでも今日的な難所をいち早く指摘し表現した作になってい る。品隲をお願いしたい。
* 昼過ぎに建日子帰ってきて、母と、投票に。しばらく寛ぎ話してから、次の池袋での用事に出かけて行った。
いくらか降ったけれど、それよりも濃厚に負担のかかる暑さで参る。三人とも、ふらついた。もう五時過ぎて、なおぎらぎらと障子窓の外が西日に熱している。
原作『斎王譜』で今日は「お利根さんの話」を聴いている。この作の中に、すでに「蘇我殿幻想」や「チャイムが鳴って更級日記」も芽生えていたと分かる。 「美しいかぎりの小説を書く」とひそかに口にも出し力んでとりくんだ作であった。大勢の「いい読者」らといっとう早くに出逢えた「慈子」の原作である。昭 和四十年(一九六五)四月三十日に稿を起こし、四十一年五月二日に一応仕上げていたと、私家版巻末に記してある。半世紀前、ちょうど三十歳、むろんはるか に「作家以前」の作だ。
* 「お利根さんの話(一)」を逐一言葉を追い押さえて、読み終えた。保谷でも、平成でも、都知事選でも、乱れ騒ぐ世界でも、リオの五輪でもない、そんな類をものの見事に消失させてしまうまったくの静謐・清明な別世界に今日はひたっていた。
それが、文学・文藝として良いことなのか、宜しくないことなのか――。そんなにも静かに現実世界から世離れていて、そんな小説世界はお遊びにすぎないのかどうか。
むろんわたしは、今でも「斎王譜」の描いた来迎院の日々、慈子との、朱雀先生やお利根さんとの世界を、深く深く慕い続けている。わたしの「生きる」の少 なくも一半は其処にこそ厳格に実在していて揺るがない。幸せという言葉で自身人生を思うとき、来迎院ははかりしれない深さと重さとでいまも私を魅する。 ま、笑われ嗤われるだろう、だからわたしは「騒壇餘人」であり、むしろ先に挙げた現実世界のあれこれを「ウソクサイ」とじつは嫌うのである。しかしいくら 厭おうとも「あの世」へ帰るまで私はこの現実を生きる。懸命に生きるしかないではないか。
2016 7/31 176
* 都知事選終え、次のお祭りはリオ・オリンピック。
そんな時に偉大な小兵横綱千代の富士、61歳逝去の報。こころから、引退まで応援していた。栃錦、北の湖、千代の富士、そして白鵬を応援してきた。また一時代が流れ去った。白鵬の敢闘を願うのみ。
昨日も若くしてあの世へもぎ取られた中村勘三郎の回顧番組をみながら感極まった。惜しかった。口惜しかった、あまりに酷い早い死が。
勘三郎にせよ千代の富士にせよ、何が彼らを「死なせた」か。人間の力不足か、自然の力が圧倒的に険しいのか。
* 極右女都知事誕生、ますます右傾してゆく利権政治日本の無責任なゲーム感覚。
安倍も、小池も、やかましいな、ウソクサイな。
なんだか贖罪も済んだ気分で猪瀬直樹がちゃらちゃらとテレビに顔を出してくるのも、病気治ってないなあと気色わるい。優れた論策・探索の著作でこそ、刺戟して欲しい。テレビ小僧は卒業したら。
* 「来迎院」の静かさ、懐かしさが、天与の甘露に感じられる。
そして……、久し振りに「梁塵秘抄・閑吟集」世界へ帰って行こうと、旅支度している。
2016 8/1 177
* 楽しみは、となると、結局は歌舞伎などの演劇へ。今月八月は三部制のまんなかだけ、染と猿との弥次喜多で笑いを期待。
九月の秀山祭、夜の部は、吉右衛門、染五郎、菊之助、玉三郎、松緑、東蔵。歌六、亀寿と名を並べるだけで腰が浮く。演目にも変わり映えがある。
十月は国立劇場での幸四郎、梅玉らの仮名手本大序から、そして十二月にも同じく八段目から討ち入りまで。
十一月のおかる勘平の愁嘆場などは失礼して、この月は先ず姉の松本紀保評判の舞台「治天の君」を観、ついで妹松たか子の翻訳劇、これが楽しみ。 みな、ちゃんと妻と二人の座席が恃んである。
思えば、仕事と芝居の他に楽しみらしい予定が、ゼロ。これも宜しくない。
選集はうまくすると十五、六、七巻まで年内に出来るだろうし、十八巻、十九巻の入稿も用意が進んでいる。
湖の本は、131、132巻までは確実に出来て、もう一、二巻分が先へ進行しているだろう。
「間に合うか」な。何に?
2016 8/2 177
* 柏叟筆「閑事」の軸を掛けた。いま、この二字にどうかして沈潜したいと、ついつい強く願っている。
今少しわがことに寄って願わくは、「来迎院」を胸の内へ今一度迎えとりたい。思いたい。
2016 8/4 177
* 「斎王譜」を大昔の私家版を参照して原稿を作っているが、絃歩の版面が薄れてきていて、霞んだ眼ではなかなか読み取れなくて弱り弱り、それでももう30頁ほどで済む。その30頁ほどがしかし大変で、読了まで一週間かかるかも。
2016 8/4 177
☆ 国民は
北朝鮮が次々とミサイルを飛ばすので、憲法改正を早くしてほしいと思っていますよ。
* こんな「耳打ち」めくメールが来ていた。
「国民は」とは、こう大きく代弁の利く足場をこの人の持てているワケがない。程度の低いアジに過ぎない。まして「憲法改正を早くしてほしいと思っていますよ。」の聴いてきたような放言の軽さ。一種の遠吠えに過ぎない。
ただ、上のアジと遠吠えとを理由づけて持ち出した「北朝鮮が次々とミサイルを飛ばすので、」 には国民の大勢が反応していると思われる。わたしも、とても、やり過ごせない。日本をとりまくこういうややこしい国々の包囲網的な刺激や危険、それらに対 するアメリカの支援などイザとなれば無に帰する懼れについても、わたしは短くも十年來、くりかえし此の「私語」で問題にしてきた。この問題と「憲法」とて は決して無縁でないことも自明のこと。
だからこそ、この今朝のメールの「憲法改正を早く」というもの言いの高見の見物に似た嘲弄口調は気になる。自身の思案や意見は無責任に仕舞い込まれてい る。そんなに「国民」の気持ちを承知し代弁している気なら、どんなふうな「憲法改正を早くしてほしい」のかを明かすべきだろう、それをしないまま「憲法改 正」を法衣の下の鎧のように隠して出さない、出せないのが、即ち今日の政権のあざとい「詭計」なのである。
おそらくは、関係諸国の最深の思惑は「先制攻撃」の是非ないし可否にあるだろう。日本国民の何割かが漠然と日本にもその可能力は持っていたいと願ってい るだろうことを、わたしは否定しない。出来ない。限りないその「危険」と「憲法」とがどう平穏にすり合わせ得るのか、無理なのか、「憲法」問題はその辺に 怖いモノを秘めている。いずれにしても日本という国の滅亡や壊滅や国民の奴隷化と兼ね併せながら思案し決断するしか無いのだと思っている。こわい問題のう わつらを無責任に撫でているだけでは済まない。日本列島を囲繞した原発のこともその観点で考えねば。
なにが不沈空母なものか原発を三基もねらい撃てば日本列島は地獄ぞ
と五年前の八月一日にわたしは懼れ歎いていた。「北朝鮮が次々とミサイルを飛ばすので、」もはやおなじこ とを懼れている日本国民は、たしかに少なくはあるまい。そういう眼前の問題意識とともに、「憲法」問題は議題化しているのであり、その際に「平和憲法」を 守り抜くいて国を護るのか、「戦争可能憲法」に変えて、ミサイル攻撃に対抗するのか、そういう議論が必須化している。それをごまかしごまかし党利党略を主 にして国の安寧や平和を棚上げしているのがろこつなアベノリスクであり「詭計」政治だとわたしは非難するのだ。
2016 8/5 177
* 「斎王譜」をもう少しで読み遂げる。じつに、読んでいてわたし自身が息苦しく、おそろしい。おなじ事が「畜生塚」にも言える。
2016 8/7 177
* 「畜生塚」と「斎王譜=慈子」とに、男の作者として崩折れるほどしんどい、つらい目を見ている。私家版の「あとがき」にも明記されているように、わた しはこういう小説を書こうとした最初から、「いやな、わるい男」を結果造形しようとしていたらしい。男は、よくない、わるいという、斬りつけられたような 先入主には、おそらく、実の父と生みの母の問題へ、ろくにモノも知らず分からずに先入主を積み立てていたのだろう、か。処女作の「或る折臂翁」にすでに明 らかにあまりに可哀想な「弥繪」が書かれる。シナリオ「懸想猿」も露骨にそうだ。「畜生塚」「斎王譜」「或る雲隠れ考」「清経入水」「みごもりの湖」「廬 山」そして「風の奏で」も「冬祭り」も「あやつり春風馬堤曲」や「秋萩帖」も、みな「いやな男」にいい女が苦いからい目に遭っている。もとよりわたしは実 話など書かない、が、わたし自身に相当する男の語り手をとても「いい人」には結局書けないで来たらしい。わたしをも含めてわたしは男が嫌いなのだ。信じ切 れないのだ。
秦 恒平論を書いてくれている人は、そんなことも読み取っているのだろうか。
* 長編の原作「斎王譜」を読み終えた。おもわず顔を伏せている。
* 明日、選集第十五巻が刷り上がってくる。本の納品は二十二日。
2016 8/8 177
* 「湖の本132」を入稿し、「選集⑱」の入稿用意も進んでいる。
わたしは小説家である。しかし批評家として、言論人としても仕事をし続けてきた。それらを下支えて分母となってきたのは、大学で文化学科に所属していた「文化学」「日本文化学」であったと、今にして、シカと思い当たる。それをさせてくれるもう一つ「底=其処」の思いは、「閑事」にほかならぬ「一期一会」である。
2016 8/9 177
* だいぶ前から気が付いていたが、むかし、わたしの青少年のころ、「恒平 コウヘイ」といった「ヘイ」名前の人にあまり出会わなかった。わたし自身、自 分の名になかなか馴染まなかった。同年輩の友人の中でも見当たらなかった。だから「菅原万佐」などとペンネームをつかって初期私家版の三冊まで「秦 恒平」を使わなかった。新潮の編集長に本名で書きなさいと云われてなければ作家・秦 恒平は無かったかもしれない。
ところが近年、「ヘイ」名前の人が増えている。オリンピックの選集達の中にも、体操団体優勝、個人総合優勝の内村「コウヘイ 航平」君をはじめとし、オヤ、マタ。ホラ、マタと何人も何人も現れて活躍してくれるので、妙に嬉しくなる。
わたしの「秦 恒平」は中国読みすれば「チン ハンピン」と立派な中国名のりで通用する。訪中日本作家代表団で渡り、北京の大会堂で周恩来夫人と会ったとき「ハタ先生は お里帰りですか」と諧謔を弄されたほど、むこうでは佳い名のりらしかった。山本健吉先生が、「わたしなんか、シェンポン・ゲンジイなんだぜ、冴えないモ ン。秦さん羨ましいよ」と笑ってられたのも懐かしいが。、国人には「ヘイ」名前は、国家主席にもトウ・ショウヘイ、シュウ・キンペイと、二人もいる。必ず しも「ヘイ」とばかりは初音しなくても日本古代いらいの王族、貴族や武家にも、たくさん「ヘイ」名のりの知名人はいた。行平、業平、具平、常平、時平、貞 平、むろん恒平という太政大臣もいた。
* それより気になっているのは女子の名のかなりハチャメチャなこと。月とかいてルナなんてのは微笑ましいが、あまりに命名感覚に節度を欠いて見えて、顔 をしかめてしまう例が街中に氾濫している。節子、文子、靖子、道子、華子、幸子、鶴子、雪子、妙子、徳子など、「子」名前は払底ぎみになかなか出逢えな い。「子」名前、清潔でいいと思うのになあ、若い親たちはあまり見向く気もないようだ。男の子達の名のりの方が、このところ比較的キッパリしてきている。 高校野球を観ていてそうかんじる。
* 個人的にわたしの、もっとイヤがっているのは、大相撲の力士達の四股名。ケチはつけたくないが、豪栄道だの琴奨菊なんてのは、大関になった時にもっと 美しい清々しい強い名に変えるべきだった。十両、幕下へ行けば行くほど混乱し混濁して、スカッとした名が少ない。観ても聞いても気が晴れない。なんとかな りませんか。
2016 8/11 177
* 選集十七巻の再校が出そろい、選集十八巻の原稿を入稿した。
選集十五巻の納品が二十二日に迫っているのにも発送用郵袋を買い調えておくという何よりも当たり前の用意が、出来ていると思いこんでいて、出来ていない のに気が付き、折しも業者も夏期休暇中で注文も出来ない。まさに「不用意」というもので、ガックリ来た。ただし約束の期日があるわけでなく、発送の仕事を すこし先延ばしして済むこと。
そんな基本の心用意・配慮が行き届かなかったのは、わたしも老いたということ。つい仕事の「なかみ」にばかり打ちこんで、編輯の基本の「雑用」に類するところが欠けたわけだ。
「閑事」のゆとりが、もててなかった。いつも、知らず知らず歯を食いしばって仕事している。歯が痛み、脆くなった歯がますます傷む。六七頭だての馬車を 駆っている現状で、幸い、どの馬にもさしたる疲れは出ていないが、馭者はかなり草臥れている。日野正平が自転車を駆って行くふるさと番組に見入っている と、いかに自分がふるさと京都を見喪いかけているかと、寂しくなる。
2016 8/12 177
* それでも、もう十一時、今日もいろんな仕事を効率よくすすめた。根気と精力とをうまく配分してすすめないと仕事が一つ二つに固まってしまい、歯車にモ ノが詰まってしまう。流れを詰めてしまうと、溜まる仕事がゴミのように見えてくるのは、危険。忙しがるのもたいへん良くなくて、文学の仕事は本質において 優れて閑事でなければ生きてこない。生きの弱い仕事は臭みを帯びてくる。
2016 8/13 177
* ひどく気が滅入っている。海に浮かんだ、足二つしか載せられない小さな島に、一人ぽっち立っているような、心の寒さ。
なぜか分からない。
こころ励まされる読書に浸りきりたい気分だが、さて、どんな本があるか。
2016 8/14 177
☆ 鞆の浦から敷名の浜へ。
内海大橋を渡って田島、横島まで行ってきました。
真白な大橋の袂には、高倉上皇が厳島詣の帰りに大納言隆季に歌を詠ませた〝千年藤″にちなんだ藤棚。ゆるやかにカーブを描く八百メートル余の橋からは、 鞆の浦に上陸した平家方・能登守教経らが陣取った能登原(能登原・平家谷では、討死した通盛も入水自殺した小宰相局も影武者だったと長く言い伝えられたそ うですね)も、源氏方・与一らが陣した田島も一望。
海岸線に沿って走った鄙びた島には、強い日射しも厭わず釣り糸を垂れる人がぽつりぽつり。沖行く小舟ものんびりと。かつて激しい合戦が繰り広げられた海とは思えぬからっとした明るさでした。
春に読んだ「資時出家」「初・雲居寺跡」に継いで、『風の奏で』を再読したところです。
「嘘も本当にしてしまう力さえあれば」とは、死なれ、死なせた者達の大いなるモウンニング・ ワークたる「平家物語」の、『風の奏で』の基本姿勢でもありましょう。
昨日は父の里の墓参りの帰りに美星町(井原市)の天の川祭に寄りました。
願いごとを書いた無数の灯籠を道に置き、一つ一つに火を灯して天の川に見立て、祭りの最後に願い事が成就するよう祈願し、一つの炎として天に届けるというお祭りです。
車の進入も禁じた灯のない街に揺らめく火は少し幻想的でもありましたが、井原市では今月下旬に与一祭も行われます。
合戦での功績から地頭職を賜わった荏原庄(井原)には、与一が屋島の合戦で弓を引く際に破り捨てた片袖を祀ったという袖神稲荷、那須氏の菩薩寺の永祥寺や与一の供養墓など縁の史蹟があり、与一を偲んで古典芸能祭や西日本弓道大会も開かれるそうです。
今日は街で買い物のついで、地酒をお送りしました。
「一番自信を持って贈れる地元のお酒を」とお店の人に言って出してもらった品です。お口に合えばと思います。
早ければ明日の午後、お盆なので明後日以降になる場合もあるとのことです。
元気にお過ごし下さい。 桃
* これは羨ましい。敷名は、今も苦しんでいる小説中に役だって欲しいと心用意してものの本では調べていた瀬戸内の要地、残念ながら行けていない。今日へ も瀬戸内へも、今は出向けない。詳細な地図など四国の木村さんに戴いて始終眺めており、関連の映像が見られそうなときはテレビに張り付いたりしているのだ が、分厚い実感が欲しい。
2016 8/14 177
* 大きな決断をした。
私の「選集」 現在十八巻まで入稿してあるが、当初、第一期分を「十七巻」でと予定し刊行を始めた。このまま続けるには造本材料の纏めての用意が必要に なるが、今後、どれほど巻数を出しますかと、印刷所に聞いてこられた。からだが保つかという心配無くもないが、この老境を、清閑でもありたししかし精悍に も生き抜いてみたくあり、思い切って「全三十三巻」での締めくくりをと思い決めた。私家版このかた、所詮は文学ひと筋を生き通してきた。妻とふたりで、さ さやかにも力を分け持って、行けるところまで行きたいと決心した。息子は両親の「破産」を心配しているらしいが、心配してくれるとは有り難い。
そもそも、いつまで掛かるだろうと肇めた刊行だが、創刊から二年半で十七巻までは確実に出来る。
東京オリンピックまでに、まるまる四年あり、少なくも四年後それを楽しんでからあの世へと思っている。四年、もう十六巻分の刊行に、いままでのテンポな ら、東京五輪会場などの竣工よりよっぽど早く「秦 恒平選集」全三十三巻は仕上がってしまうだろう。湖の本も、つづくだろう。
なにもかも百パーセントの出費覚悟ですすめている仕事、息子にも誰にも借銭せず、それが出来るためにも此の「売れない」作家は、五十年、通俗を排しつづけ、ありがたい読者や知友に励まされつづけてまさに頑張ってきた。
気を入れて、夫婦共々、ただ「蘇民将来」を願おう。
2016 8/15 177
* 『死なれて死なせて』を書き下ろしたのは、ちょうど東工大教授の文部省辞令を学長を経て受け取った頃であった。
せめて死なせまいと願いながら、日々黒いマゴが、ほそぼそと、しかし健気に生きてくれているのを、心から嬉しく喜んでいる、決して泣いて哀しんだりしてはならない。
* 長い創作一編の第二稿を得た。さらにより宜しく仕上げたい、「遺作」に終わっても構わない。
2016 8/16 177
* バルビュス『砲火』の収束部をながながとスキャンし校正していた。それ以前の、生彩にあふれた凄惨な戦闘場面の連続から、雨と雪と泥と洪水に ひたされたままの、兵士達の懸命の戦争論議が続いた。なんとしても言葉での舌足らずの論議は観念・概念にも空想にも激情にも流されやすいが、兵士達が云お うとしている意味もも意義も、分かる。大事なことは、筆者のバルビュス自身がこれら惨憺たる塹壕兵士の中に「僕」として加わっていて、けっして想像や作り 話はしていないという一点を見落とすまい。
『砲火』は、戦争の企画指導者や利益享受の上の階層、国支配の階層からは、甚だしく憎まれ嫌悪され排撃されたけれど、敵味方の別なく圧倒的多数の世界中の 「最前線兵士達」バルビュスのいわく「「戦闘の無数のあわれな労働者たち」の共感と感謝と気勢とを受けて文学としての高い評価と顕彰とに輝いたのだった。 「戦闘労働者」おお、なんという的確な定義であろうか、兵士とはそんな存在に他ならない証拠の文章や映像は、ナポレオンの近代戦争このかた、第一次第二次 大戦ばかりでなく、世界各地でのさまざまの戦闘現地で実証されている。「兵隊さんよありがとう」という戦時戦後の浮ついた唱歌が、わたしは嫌いだった、大 嫌いだった、なんというウソくさいイヤらしさ、と。
けっして恵まれること無い「戦闘労働者」 前線の兵士とはそれに尽きている。戦争を企画し決行し統率する指導層はぜったいと謂えるほど弾幕の中での「戦 闘労働」には従事しない。義経には共感しても頼朝をどうしても好きにならなかったわたしは、戦争で損だけを請け負う戦闘労働者と、戦争で名誉や勲章や得な 利益しか請け負わない指導層・支配層との、けわしい対立を、どのような理が働こうとも、納得はしない。あきらかにわたしの人生の第一章の門柱にはかの白居 易作詩「新豊の折臂翁」が掛かっていた。
* バルビュスの『砲火』二册と大冊『クラルテ』を、読みたいなと日記に漏らすとすぐ買いととのえて送ってくれた「尾張の鳶」の友情に嬉しく感謝してい る。この人からは、どれだけ多くの本を貰ってきたことか、しかも本の吟味はいつも行き届いていて、わたしの文学への姿勢や好みや作風をより以上に刺戟する 体に選んでくれてあるのが常であった。たとえば、今も綿密な再読を楽しんでいるA.S バイアットの『POSSESSION:A ROMANCE 抱 擁』など、わたし自身深く深く驚いているほどわたしの「文学」「創作」をかなりの相似性において刺戟してやまない。「いい読者」は分かっていて、好刺戟を 優しく厳しく送ってきてくれる。感謝している。
2016 8/17 177
* 「ユニオ・ミスティカ」の冒頭を読み返していった。無頼な語り口だが、語っているのが爺いなんだしと、ま、かってな言い訳にしておいて。
なんだか、あれこれ書き付けてみたくなったが、もう九時半、というのを引き留め役にし、今夜はなにも書かない。終日、いろんな仕事に励んでは疲れ寝で休 息、じつはからだがガチガチに硬く、食べていないのに、呑んでもいないのに腹具合もよくない。瞼は重い。視野は暗い。正直の、ウソにもわたくし元気ですと はなかなか云いにくい。自信がない。ひとつにはからだを働かせる活気がない。思えばわたしのこの数年、遊びの楽しみなんてものは、観劇ぐらいなもの、何に も無い。無いことはないが、それは「仕事」なのである。小さい頃からわたしは独り遊びの工夫にはたけていて、ひどいれいになると、畳の目に眼をすりつけな がら畳み目ひとつに世界大の空想を楽しんだりしていた。そういえば、わたしの一人遊びには「数える」という遊戯が色濃い。百人一首に副えて和歌をつくった り、歴代天皇を唱えながら、十、十一に当たる天皇二人づつの名前で当時の歴史を反芻したり、四十七士の名を数えたり、俳優女優の名を五十人ずつあげようと して、時にはウンウン唸っている。数えようと思えばいくらでもある。元素記号などもう増えすぎてカンベン願っているが、「数える」遊びは座り込んでいても 歩いていても自在に出来る。
あ、いけない。もう、やめて休まねば。
2016 8/20 177
* 岡本かの子を
川端康成は好意的に引き立て、少年の昔から親友の兄を介して少女かの子をよく見知っていた谷崎潤一郎は、全然として「かの子嫌い」に徹していた。どっちも分かる気がする。
「金魚撩乱」は瀬戸内さんが「かの子撩乱」(未読)を書いているように目に立つ作で、宇野千代と並べられた或る全集にも採られているが、人と作品を解説し た山本健吉さんは、他の「老妓抄」や「巴里祭」「東海道五十三次」などには叮嚀にふれていながら、「金魚撩乱」についてはパスしている。
わたしは自分の「e-文庫・湖(umi)」に「老妓抄」のほか「家霊」「食魔」を採って掲載している。わたしにもかの子への言い分があるということ。
彼女のマグマの凄みは、谷崎が拒絶的に嫌いながら暗には認めていたものかとも。
わたしもかの子という実物の女性を、川端のように「稚純」というふうには感じないし、時と場とをともになど断然したくないけれど、小説家としてのマグマの量と爆発力とには畏服の思いを隠さない。なかなかの女流作家にない濃厚に創られた美学をかの子は持っている。
「金魚撩乱」は、実は、兄の友の谷崎潤一郎を少女の頃から大好きで男としても惹かれていたかの子からの、遅そ遅そのラヴレターめく、その実、口悪しき年上の男へきつい竹篦返しのようにも、わたしは感じている。
2016 8/21 177
* 連載エッセイの処女作「花 と風」を読んでいて、或る箇所で、ググッときた。泣けてきた。おやおやと思い、つづく行文に目をやると、「私は毎度この物語を読むたびにここへ来てふっと 胸を熱くする」とある。それを書いたのは昭和四十五年の「春秋」十一月号であり、いまからまるまる46年も昔なのだ、半世紀もまえのわたしの感動の感触は すこしも変わらずまだ生きていた。ちょっとその辺をそのまま書き写してみる、と、谷崎の「細雪」にふれて書き進んでいたのだ。
*
その桜に逢った悦びのまま平安神宮の庭に繰展げた蒔岡姉妹の振舞いを、私は前に物狂いと言って置いた。「花のもとにて春死なむ」と願った西行の確信にも、同じこの物狂いがあったと想われる。
この、物狂いとは何か。
源氏物語「葵」の巻で、帝が代って新たに賀茂に斎院が入られ、その御禊の儀に光源氏が特に供奉として加わる場面。こういう特別な場合の特別の貴人には臨 時の随身が与えられるのが慣わしであり、この時は六位蔵人将監が誇らかに源氏の馬の口をとった。何しろ都大路を光りかがやくばかり美々しく進み行く源氏の ことだから、この六位の晴れがましさも大変なものであった。
が、場面が変って「須磨」の巻へ来ると、光源氏は朝廷の咎めをおそれて官位を捨て、今愛人たちにも別れ都を西へ落ちる間際に、父桐壺院の御陵へ参る条りがある。
この時、極く僅かの供の中にかの六位もいて、これも官を奪われ、落莫の源氏に随って都をすてる覚悟を決めているのだが、一行が下賀茂神社まで来た時、さ すがにこの若者は晴れがましかった日の誇らしい記憶に惹かれて、思わずわが馬を下り、光源氏の馬の口をとって昂然と歩んで見せるのである。
私は毎度この物語を読むたびにここへ来てふっと胸を熱くする。六位の気もちは想像するに難くなく、私はこれをも「繰返し」の催すみごとな物狂いだと思っている。
物狂いというのは、日本人の心情の特性を解く一つの鍵ことばであって、ある特別な美的状態をすすんで選択するちから、その状態へみずから嵌って行こうと する一種の美的能力なのである。一つの行為を殊さら繰返して見せるというこの自己呪縛の物狂いの中で、六位は、負の像でではあるがこの場合幸福という絵空 事を、我にも人にも強烈に構えてみせたのである、と私は思う。
*
おおっと感じたのは、わたしがまだ二十台から三十台のころ、源氏物語のここへくると必ず泣けた心情が、いまも、ここへ来て昔の儘に甦って一瞬も外さな かったこと。いい物語やいい作品から受ける感銘とはまことこのように涸れない泉のようなのである。むろんそういう作品に出会うのは容易でないが、一度出逢 えば宝石のような光は消え失せないのだ、こっちが八十の爺になっていようと、である。作品のちからであるが、わたしも老いぼれていない、まだと嬉しくなっ た。
* 谷崎が言っていて、若い若い日のわたしがつよく共感した一つに、年を取ったらもう他人の書いた物でなく、自分の書いてきた生涯の作を静かに身を入れて読み返したいと願っていたことがある。
あたりまえだなあとわたしは羨ましく共感した。わが谷崎愛の一例である。
いま谷崎潤一郎の年齢を超えて、わたしは、谷崎の述懐にも倣いたく、しかし加えて、日本の作家の作品ではただもう谷崎の、漱石の、藤村の作品を、そして源氏物語と和歌と、もうそれだけで好い心ゆくまで読み返しながら老いを重ねたいと願うのである。
* 今日も、いろいろと仕事をした。
2016 8/21 177
* どっぷりと老境に漬かっていらい、日の長さ短さのまこと停滞ない消長に、愕としている。そんな自分にも愕いている。
わたしは、日のもっとも短い冬至に生まれた。昼夜中分の春分を経て夏至までは、日一日と日は長かった。秋分まではまだ日の方が長いが、その後は冬至へかけてぐんぐん短くなる。ちょっと象徴的にわたしの生涯が示唆されているよう。
15.12 21 冬至傘壽
ひと日ひと日 日長になり行く日に生(あ)れていとも夜長の夜に逝くらむよ
冬至から冬至への生涯、いま、何月何日ほどをわたしは歩んでいるのだろう。
2016 8/25 177
* わたしはもうずっと先を歩いている。
明日には「選集⑱」の初校が出てくるし、昨日も今日もよたしは「選集⑲」入稿のために、日本の永遠を念いながら文字どおりのエッセイを叮嚀に読み返している。
今日「湖の本132」の初校も届いている。美しいかぎりの物語を仮構ときめて書き上げた作であった。エッセイの方も同じ。小説が書けてエッセイが書け、エッセイが書けて小説が書けた。ずうっとそうだった。
2016 8/26 177
* 「花と風」などというと、風情の綺麗ごとに思われそうだが、わたしの処女作に当たるこのエッセイは、その後に莫大につづいた各種のエッセイ、論攷、批評 等を束ねて締めくくるような、もっとも根底の哲学を抱え込んでいる。いままでわたしの小説を論じてくれた人も論文も少なくないが、この「花と風」の趣意す るところを深く酌みながら賞味された例は少ない、と謂うよりてっきりパスされていたように思う。すこし胸を張って大層にいわせてもらうなら、わたしの「花 と風」ことに「風」の思いは、谷崎文学に対する、かの「陰翳礼賛」の大事さに類して、さらに徹底の層が厚くもあり深くもある。
* 今日も、むろん必要に迫られて三つ四つ五つと仕事を追って過ごして、ふと、煙草の代わりではないが目の真ん前の書架へ手を伸ばし、春陽堂版、天金仕立 ての「鏡花全集」から手当たり次第に「巻八」を引き出してみた。この全集は岩波版よりもぐっと以前に贅を尽くして造られた版で、当然にも全十四巻、いずれ も千頁ちかい大冊だけれど、鏡花生涯の文学の半ばをも収め取れていない。それはそれでいい、それで取り出した「巻八」のなかみはと、函から出し、目次を見 た。おおッ、「婦系図前編」「後編」が真っ先に。以下になお十一編のなかには「草迷宮」「沼夫人」「星女郎」「海の使者」「吉祥果」そりに「神鑿」など が、ぞくぞくッとしそうなのが並んでいる。黙ってもとの棚へ戻すにもどしづらくて「婦系図前編」をいきなり読み出した、ら、やめられない。おいおいおい、 困るぜととめにかかろうにももう鏡花にとっつかまっては勝ち味がない。本一冊がべらぼうに分厚くて重いのが何だが美麗本で心地は好い。仕方がない、仕事の 方を少し切りつめてでもこの巻の何編かでも読みましょう。「婦系図」もじつに久し振りだ。
源氏は今、「花宴」で、朧月夜との懐かしく棟の疼く出逢いがあった。けしからん場面と叱る人は読まなければ宜しい、わたしは、好き。
「抱擁」も佳境を分厚く進んでおり、バルビュスもサホンも乗ってきている。小鶴女史の詩文や書簡にも心惹かれていて、さらに加えて英訳の漱石「心」もとにかくもどんどん通読している。
そこへ鏡花の割り込み、なにかワクワクしてきた。こんな読書にも「花と風」は地下水のように意味を持っているなあと思いつつ、もう眼が見えなくなってきた。
2016 8/27 177
* 昨日、近江五個荘の川島民親さんから頂戴した、少壮気鋭の学者と滋賀県とのコラボになる一冊『近江の商いと暮らし』を、夜前、おそくまでかけて読んで いた。なるほどこういう各論研究の集積が郷土史の着実な開明へ、また展開への機縁に成り得るのだと、とても新鮮な意欲を感じ取れた。作家でもある川島さん が最年長の辺に位置して、同じ五個荘のなかでの「枝郷」の史的問題を独特の熱意と動機とから腑分けしている。「枝郷」とは何かと思うなら対蹠のものとして 「本郷」の二文字を想ってみればよい。他は、はるかに若い、しかも各大学や研究施設の教授や准教授達が各自関心の主題へ組み付いている。わたしがもっと若 くて健康な意欲に満ちていれば、この一冊本のなかからまた新たな『みごもりの湖』が生まれ得たろうにと、少しく残念な気もした。
こういう各論的な探究地誌が積み上がれば、郷土への理解が層を成して分厚くも具体的にもなる。在地の出版社の応援も欲しいし行政の積極的な支えも望まれる。
2016 8/28 177
☆ 残暑 お見舞い申し上げます。
今年の夏は天候不順なようですけれども、お変わりなくお過ごしでしょうか。
明後日にかけて大型台風が近づいているとか、どうかご用心ください。
我が家の南面はちょっとした林になっているので、夏はセミの大合唱です。けれどもう夏の盛りも過ぎて、朝ベランダへ出ると蝉の亡骸が2つ3つと落ちてい る毎日です。長い間土の中で眠り、やっと表の世界に出て来たと思ったら短い夏をなき通して一生を終わる、そんな生き物もあるのですね。
そして先週は「秦選集 第十五巻」ありがとうございました。立派な厚い本で内容も濃く深く、なかなかするすると読み進むことができません…。少しずつゆっくり読ませて戴きます。
そして「逆らひてこそ、父」 完結おめでとうございます。そして大変お疲れ様でした!
深くはき出されたのだから、きっと今度はその分深く新しい息を吸うことができるはず。ずっと続けている朗読でも「腹式呼吸」は基本中の基本です。深くはき出すからこそ、その分深く息を吸うことができるわけですね。
私も二親とは早く別れ、父とは中学生のときにわかれて以来、最後まで会うことはありませんでした。(正確に言うと小田急線の中で一度見かけたことはあります。)
また私自身も三十代の半ばで小学生だった一人息子を連れて離婚していますので、たくさんの辛苦はありました。
けれどすべて分かれ道において自分自身の決断で決めたことですからまったく後悔していません。
先生の「愛憎」をのぞきみるたびに、本当に情が深いかたなんだなと感じます。お嬢さんへの複雑な想いについても、私などからすれば少しうらやましいほどです。
当たり前の事を申しますが、親子、夫婦といえどもまったく「別人格」ですから、それぞれがそれぞれの自己責任において選び取ってきた結果なのだと思いま す。お嬢さんも悩んだ末、実家を捨てて婚家をとる決断をなさったわけですね。後顧の憂いなく、それぞれの道をきっぱりといくしかないと感じます。
研究者であれ、芸術家であれ、スポーツ選手であれ、名が出るまでに実家の相当の経済支援が必要との話はよく聞きますし、実際そうなのでしょうけれど、やはり人として自分の力一つで世界に対峙すべきだと私も思います。
スヌーピー(漫画の哲学者風の犬)の言葉の中に「配られたカード(トランプの)で勝負するしかない」というセリフがありまして、笑ってしまいました。なかなか意味深で面白いことをいう「犬」なんですよ。
朗読は11月「朗読フェス」では「もっと本も読もう」(長田弘)、10月図書館朗読では「冬の足音」(藤沢周平)を読むことになっています。
「もっと本を読もう」は、詩のなかの言葉を自分の言葉とするために暗唱しました。
どうぞおげんきで!! 田無 ゆめ
* 蝉よ汝 前世を啼くな後世(ごせ)を啼くな
いのちの今を根かぎり鳴け と、聴きも思いもしてきた。
「配られたカードで勝負するしかない」のが当然で、たとえ親でも子でも、ひとの手の内を覗いたり無心したりせず歩んできた、自分(たち)の脚で。しかしまた世の大勢の方々の励ましは、いつもいつも有り難く享けてきた。
耳目をひらいてそれなり気に掛けてきたが、子が父を、舅を、被告席に立たせて「名誉毀損の賠償金」を請求したという実例に、わが実の娘や婿のほか、ただ一例も出遭わない。
では実際に、いったいどんな「名誉」が損なわれたというのか、彼らの訴因は、わたしの的確な反駁をうけるつどくるくる変わり続けて、裁判を経てなお、まるで何の裁判であったのかと、まるで解せない、判らない。良識ではかられる裁判員裁判がぜひ受けたかった。
2016 8/29 177
* 処女作エッセイ『花と風』の「補注」を読み返している。文の「補注」などは叮嚀に読まないかやり過ごしてしまう読者がおおいようだが、このエッセイで は、本文に匹敵という以上の重量感溢れた古伝道の髄を以て論旨を立たせている。ちょうど三十歳になる直前の仕事だが、以後にも多く書いた日本の芸術芸能創 作論の根幹を、すでにこの『花と風』はほぼ語り尽くしていて、自然わたし自身の創作の、腸にまでしみ通っている。小説を一つと云われると困るが、エッセイ を一つといわれれば、わたしはたじろがず『花と風』と答える。
2016 8/31 177
*京の清水の奥、清閑寺というお寺を深く愛したことは、長編『冬祭り』最期の閑居に選んでいることで明らか、文字も音も風を奏でて美しい。「閑」とは。多 くの場合、あの芭蕉の秀句に親しみ「閑(しづ)かさや」岩にしみいる蝉の声を聴く。閑静、閑雅、閑居。みないかにも清らかに静かな風情。
しかし「閑」の字は、もともとは「とざして、いれない」のである。閑静、閑雅、閑居のどの閑にもその原義が生きている。雑念・雑事を静かに、しかしきっ ぱりと拒んでいる。それ自体が生き方になる。即ち、閑事。だが、無為の閑居をいうてもいない。生きてあるからは何事かを為してまた成して生きる。その何事 かをも実はこの二字は端的に問うている。挨拶である。如何と挨(お)しまた拶(お)している。
* 裏千家十世 柏叟 認得斎宗室 筆「閑事」の二字を珍重している、筆が豊かに働いている。悠然とかなり厳しく、いささか俗をも見捨てていない。見飽かない。
この裏千家十世の、夫人も優れた茶人で、松平家から娘婿に迎えた十一世の精中・玄々齋宗室をよく薫陶し「中興」を以て樹たしめた。この夫人は京・洛北の旧家「舌(ぜつ)」家から千家に入った人。この家のこと、知りたい。
* 玄々齋の月を愛でた一軸を、久しく愛してきた。いずれ、紹介しよう、名月の時季に。
2016 9/1 178
* 癌で入院中の海老蔵夫人のブログ開設の意志と言葉とは感動を与えた。わたしも感心した。
わたしの感心のなかみは、少しズレているかも知れないが、若い母親である夫人が、借り物のことばでなく自身の言葉を取り戻して語りかけている、それに感動し、賛同した。
人は、といってもただのミーハーではないひとかどの知識人意識のある大人のおおくが、じつは自身の言葉を見失うか抛つかして、要するに新聞雑誌テレビ等々に氾濫しているいわゆる情報や解説のこまぎれだけを喋りまくりがち。日々の生活語が忘れ去られたのかと、心寂しい。
庭にこんな花が咲いた、とか、誰さんの孫ちゃん可愛いの、とか、やっぱりセザンヌよりゴッホが佳いな、とか、誰々さん元気にしてるかしら、この新聞小 説、ダメねとか、そういう表白のなかで自身の知情意を波動させるのが望ましい。たとえ片々と貧しくとも「自分自身の言葉」を見失って暮らすのでは生彩(イ ンテリジェンス)がない。
* 蝉鳴かず なぜ鳴かないか鳴かないか
蝉は鳴いている、やかましいほど。だが、人は自身本当の鳴き声を安易に見うしない、あの敗戦から最悪の独裁施政に、だらしなく引き摺られている。
2016 9/2 178
* 相模原の馬渡憲三郎さん、四国今治の木村年孝さん、奈良五条の永栄啓伸さん、新潟柏崎の藤田理史君、昭和女子大日本文学科から、選集への有り難いご挨拶があった。
今回作は、二、ないし三篇とも、相当読み手の胸に重苦しいものを投げ込んでいて、しんどい思いを強いている。感想もおおかたおつらそうなので、有り難く戴いておこうとしている。
* 『花と風』を補注まで全部、文字どおり「日本の永遠について」復習する嬉しさで読み終えた。勉強ということを、全力でできた三十歳の、例え比べようも ない収穫だった。八十八翁の俳人荻原井泉水先生から連載半ばにありがたい「フアンレター」をもらった嬉しさも甦ってきた。
八十八翁 荻原井泉水翁 來贈
* また、仕事の手をひとつ先へ伸ばした。十一時半。もう眼が霞みきっている。
2016 9/2 178
☆ ひたぶるに人を…
『新・罪はわが前に…』と「湖の本」では付されていた、限りなく「私小説と読める創作」を再読し終えたところです。
その何とも言えぬ重苦しさは、「二一」の末、14年半も化石になっていた「ムンクふうの」ラブレターを読み、娘の「片思い」に今更に気付いて流す涙の辺りから後の部分に、ある種の救いの可能性が秘められていたように思います。
(ムンク論を結んでいた「太陽」の詩は、私家版の詩集の序詞として一部表記を改められて既に引用されていた「四」へと戻る仕掛けになっていましたね)
殊に好きなのは、入れ子型に組み入れられた(475頁以降)の「萩」の文章と最後の「硯滴」です。
あのような「奥野」が(或いはそうした「奥野」なればこそ)このように艶かしくもたおやかな文を「長かった夏のなごり」に綴り、そしてまたしんみりと胸に沁みる師走の描写で、この「遺書」を閉じることができるのだなぁと、深く深く感じました。
この作の後の日々こそが書かれざる我が「私小説」そのもの、「老いの恋」「老いの性」を書きたいとどこかに書かれていた新作は、『罪はわが前に…』三部作の綴じ目とも、「起承転転」の真の「転」にもなろうかと心待ちにしています。 九
* 表題に引かれてあるのは、岡野弘彦さんの名歌で、愛誦惜しまぬこの一首。
ひたぶるに人を恋ほしみ日の夕べ萩ひとむらに火を放ちゆく
* 有り難い感想であった。
じつにじつに心重い仕事だった、どう静かに一篇を終えるのか、日々に痩せる思いだった。
しかし、わたしは書いた。「書く」ことにいささかの迷いも無かった。渾身の筆を運び続けた。
正直にいえば、このままで「終わり」にしたかった。
出来なかった。
2016 9/3 178
* 今は機械の前で、(およそ選集の一巻分に剰りそうな)長編新作の最終部の仕上げに唸っていた。頭、禿げそう。
2016 9/4 178
* 黒いマゴ、水が飲めなくなった。排泄の自律もむずかしくなった。見ていない瞳と見ている瞳とがぼんやりと交替し、時にわたしを見ようとする視線を向けてくる。
* 泣いている。
* 空也上人が歩いていると、ある家の門に年七つになる子が泣いていた。上人が訊ねるとその子は、二つの時父に死なれ、今朝また頼む母一人にも死に別れた哀しさに泣くという。
上人は「泣くな泣くな」と励まし、「朝夕歎心忘、後前立常習」と口ずさみながら行ってしまった。
子どもはぴたりと泣きやみ、近所の者はあんなに哀しんでいたのにといぶかしんで訊くと、その子は即座に、「朝夕になげく心を忘れなん後れ先立つ常のならひぞ」と詠った。上人の口ずさみをとっさに歌一首によみ解いたのだ。
ただものでないと人が感心した通り、この子はのちに立派な僧になったとか、と『古今著聞集』哀傷の項の、「空也上人詠歌慰孤児事」は書いている。
2016 9/5 178
* 堀上謙さんの訃報に動顛し、想い乱れたまま、宜しくない夢見から身を揉むように目ざめたら、六時前、妻はもうキッチンにいた。そのまま起きてしまった。
* 脱水ひどく腎臓、肝臓最悪と警告され輸液を指示されたのが三年前の真夏八月だった、以来、輸液と投薬をほぼ一日も欠かさず、想えば三年ものあいだ、黒 いマゴはわたしたちへの愛情のままに耐え抜いて生き長らえてくれた。何といっても黒いマゴ自身のガンバリは言語に絶していたのだった、しかもついこの夏八 月まで、黒いマゴが苦痛をうったえて啼いたり騒いだりしたことは一度として妻もわたしも、記憶がない。最期の最後まで静かだった、ただいつもいつも視線を 求め視線をひしと合わせて飽くことなくわたしたちの眼をみつめて、庭へ出たい、水をのみたい、砂でおしっこをしたよ、うんこをしたよとそのつど教えに来 た。後ろ脚はまったく脱臼してか使えないのにゆっくり家も庭も歩いて、夜中の便意尿意にも自分で砂場へ行って排泄していた、しようと努めてくれていた。
久しく久しいわたしの希望であった、自転車の前籠へいれていっしょに走り回ることも、八月、九月に入って亡くなる二三日前までじつに静かに、しかも顔を上げてご近所をたしかめ楽しむように一緒の時間をわたしのために創作してくれた。嬉しかった。
☆ 九月
悲しみの日々、死なれた者の思い、どうぞ堪えてください。
御身大切に。迪子様大切に。 尾張の鳶
* 書きかけの長い小説のなかへ黒い子猫の「存在」を、これまでも触れてきた以上に、もっとしっかり大きく造形してみようかと思い立っている。それあるゆえに「脱稿」しかねていたのかと。
* 往年 愛したネコを悼んで
1984.04.15 愛してやまぬ「ネコ」逝けり
ネコ逝きてふた月ちかくなりゐたる吾が枕辺になほ匂ひゐる
この匂ひ酸しとも甘しとも朝夕にかぎて飽かなくネコなつかしも
線香も残りすくなく窓の下に梅雨まち迎へネコはねむれり
* 母ネコはそれ以前、一九七六年春の頃、我が家の近くで娘のノコを生んで、我が家に引き取られてノコを賢く育てて、六年の間、暮らしていた。わたしを、千年の恋人かのようにいつもみつめて、ノコにもだれにも愛情あふれて静かな聡い優しいネコであった。
母ネコが亡くなったとき、テラスの遺骸のそばへ、いったいどこから持ってきたのか太ノコは、太い竹輪を一本銜えてきて、母のすぐ傍へ置いたのには天を仰 いで泣かされた。驚愕した。埋葬の時は、二階の屋根のヘリからじいっと母ネコの葬られるのを見下ろし見送って動かなかった。
1995.8.6
鳩啼くや愛娘(ノコ=母ネコの子)十九年を生きぬけり
この心優しいネコの子、つまり「ノコ」ちゃんは、十九年我が家に生きて、愛おしい限りのわたしたちの秘蔵っ子だった。不幸にして病魔に遭い壮絶の最期だった。泣きに泣いた。いまでも泣く。
黒いマゴは、十七年生きてわたしたちの無二の「身内」になった。
99.10.4
このマゴを斯うも愛しては良くないと
深くおそれて頬寄せてゆく
09.12.21
黒いマゴの我の湯槽で湯を呑める
ただそれだけが嬉しくて笑ふ
この十七年の間に、わたしはいとしい孫娘やす香に死なれ、死なせ、あげく、実の「娘、婿」の連名で、やす香を「死なせた」とは親が「殺した」と謂うの だ、名誉毀損だ損害賠償金を支払えと訴えられ、数年もの被告席裁判苦に、腸も凍えて千切れそうな苦痛と堪忍に堪えねばならなかった。かりにも哲学を学び説 くインテリ夫婦の、かかる実親への仕打ち例が、世の中に有ったりするのか、わたしは曾て知らない。しかも父・秦 恒平に、それよりずっと以前、ベストセラーにもなった志の文化叢書の一巻『死なれて 死なせて』の著のあったこと、それを読めば著者の説く「死なせて」の 意味は誰にもはっきり明確に知れるというのに…。
黒いマゴは、裁判沙汰の間、終始、私を慰め励まして最たる温かい命であった。彼に日々励まされてわたしたち祖父母は仕事にうちこみ、五百頁平均の「秦 恒平選集」を出し始めはや第十五巻、「湖の本」は創刊三十年を迎えて第百三十巻を達成、それらを皆きっちり見届けてから、黒いマゴは静かに静かに、かすか に身を顫わせて、わたしたち二人の眼前で息絶えていった。泣かずにおれない。
十七年のあいだに、わたしは胃癌で胃全摘し、一年間の苦しい抗癌剤にも堪えた。三度入院した。四年半が経った。
12.02.24
人の見舞ひ欲しくはなくも黒いマゴの
受話器の闇に鳴くがかなしき されど嬉しき
どんな遊具にも見向きもせず、黒いマゴはひたすら私や妻と「遊び」たがった。家中の隠れん坊が大好きだった。
12.09月
ちりんと鈴鳴らして在り処(ど)おしえつつ
黒いマゴはわれを隠れんぼの鬼に
12.10月 黒いマゴ 最愛の猫
われが着肌を好んでマゴの敷寝する
汝(な)が夢に かけて悪政などあらじ
13.01.19
隠れ蓑の根かたに埋めしネコ・ノコよ
しばし待てよわれもそこが奥津城
ネコとノコと黒いマゴもゐてさもこそは
和(おだ)しき後世(ごせ)のわれらの家ぞ
13.02.21
三角の帆がけのやうに黒いマゴは
耳だけ上げて熟睡(うまゐ)すらしも
三角の帆だけのやうに耳だけで
熟睡の黒いマゴが愛らし
13.10.05
黒いマゴの三角の耳の一つだけ
妻と寝ていてまだ六時半
16.04.05 妻傘壽
相あひの八十路に匂ふ櫻よと
傘かたむけてあふぐ此の日ぞ
黒いマゴと迪子とわれに咲く花の
天晴(あは)れ八十路を生きて行かまし
2016 9/11 178
* 六郎さん
まこと永きにわたり、わたしの老耄も手伝い「e-文庫・湖(umi)」への原稿掲載手順(かなりフクザツ)を見失い、どうにもこうにも成らなかったのを、執念の粘りと手探りとで、曲がりなりに機能回復へこぎ着けました。
永くお預かりしていた「『こころ』とはなにか」を無事掲載できました。「秦 恒平論」も載せてあります。まだ紹介などのスタイルなし、原稿のままの掲載ですが、ご確認下さい。お待ちかねで、憤然とされてたろうと、我ながら情けなく、しかし機能回復をとても喜んでいます。
星合さんらにも、作品ゆたかな自信作をどうぞ寄稿して下さるようお伝え下さい。ただし、原稿用紙からスキャンし校正してというのは、視力衰弱でたいへんつらいので、やはり電子化データをぜひ添えてもらって下さい。編集者として遠慮無く改稿や推敲をお願いしますけれど。
疲労でガックリしていますが、選集三十三巻完結させ、そのあと、莫大量の往年手書き日記の電子化にも取り組もうと想っています。
いま取り組んでいる新作小説、難航しながらも楽しんでいます。楽しみすぎているキライも有りますけれど。
では、また。 秦 恒平
2016 9/11 178
* こんどの「湖の本131」は、創刊三十年記念の内『原作・畜生塚 此の世 付・京の散策(二)』とした。作歌以前の私家版第二冊所収の記念資料作。こんな「あとがき」を私家版には書いた。
昭和三十九年十一月私家版 菅原万佐『畜生塚 此の世』あとがき
昭和三十七年七月三十日、私はとつぜん小説を書きはじめた。書きはじめてみると、書いてみたいと望んでいた頃とはまるで違った自分がそこにいた。べつに 感嘆した訳ではないが、たしかに自分のことを「ほうっ」という心地で見直したようだ。二年余のうちに七篇の小説と二篇のシナリオを仕上げ、小説を二篇書き かけにしている。四百字の原稿用紙にして千百枚ほど、驚ろくに当らない量であり、出来栄えがいいとは決して思わない。ただ、私なりの考え方があるので烏滸 の沙汰にもけじめをつけておきたい。
妻は結婚当初、藝術家は半ば狂人である、好かないとかなり強い牽制球を投げていた。藝術家きどりの傲慢で横暴な人間が僅かな誇りをも見失って、やがて裸 の王様と化してゆく実例を見知っているからであろう。二年、三年と私は妻の心中のこの負の像と秘かに抗争せねばならなかったが、この経験は良かった。もの を書く以上、妻の眼力というよりは素朴な批判を超えてゆく必要を覚えた。
百万の読者をもつ職業作家と百人にみたぬ知人しかもたぬ者とであっても、創作の第一義は等しく生きている。また賭博そこのけのサーカス的苦行で何かの懸 賞に当選せねば創作者の本義に叶わない訳はない。そういう印可がないとものを書くことに卑屈な恥じらいを覚えねばすまぬのなら、そんな割のわるい苦行はや めた方がいい。僅かの読者に恵まれ、自分の書く文章が自分なりに新天地を拓きつづけてゆくものなら、素人が素人のままいることに卑下することはない。生活 の中で獲た時間をそのためにつかう、それは誇りにもならぬし卑下するにも当らぬことだと私は思う。あってならぬのは努力を惜しんでの自己満足と不用意な妥 協である。文学はそれを許さない。
(編集者=)勤務の性質上、活字の魅力を表裏にわたってかなり承知している。私はむろん貧しいし、たしかに少からぬ金をかけてこの私家版を印刷したこと を、活字の魅力に屈した笑止の振舞と冷笑する人もいるに違いないが、弁解めいたことは言うまい。それどころか、これからも事情が許せば私はつづけて作品を 小部数ずつ印刷する気でいる。幸いにして師友知己の鞭撻がいただければ嬉しいし、未知の人の目に少しでも触れて認められれば、さらに嬉しい。
私小説ふうの拵えにはなっているが、詮索は無用である。作品の批評がほしい。簡単に心覚えを書いておく。
「歌集・少年」のことは後記に書いた。愛着が深く歌として自立できるものを選び、これ以前の作は思い切って割愛した。良かれ悪しかれこれは私の十代を記念するもののようである。
「少女」は最初に書いた百枚余の作の中途で、ふと思い立ってペンを走らせた即興的な作だが、筆づかいの粘っこさなどが、多少私なりに特徴的なので入れた。
「畜生壕」は、先にタイプ印刷したシナリオ「懸想猿(正・続)」の主題を承けている。小説としては五作めになる。情景の転換がいささか唐突だとすれば、 ちょうど(築地の松竹)シナリオ研究所に通っていて「懸想猿(続篇)」のまとめと時期的にだぶった影響があるのだろう。波乱の多い運びではないので、映画 的にカットしたりカットバックさせたりすることが多分に頭にあったと思う。
「此の世」は、筆つきはやや軽いが私らしい仕事だと思っている。軽みについた点など十分でないが、今の私には馴染んでいる。どうしても、このままで放っておかせない所がある。
いずれにせよ、道徳の欠落者という主題にはまだまだ関心がある。業念とか業執という方へ退避しないで積極的に手づかみにしたい。
「桔梗」は(現在四歳の=)娘の誕生日が来るたびに書いてやる童話の一つなのだが、すぐには読んでやれそうにないものになってしまった。
表紙と目次の絵は妻が描いた。原画は可翁と南岳である。
書いて見つける自分、それがうめきたいほど厭な男の像(もちろん、作中人物とか作品とかを意味しない。私自身の心にはねかえって来る或る自意識とでもいうもののことだ。)を結んでいても、顔をそむけのがれることはできない。二年余の私の.感想である。
昭和三十九年(一九六四)霜月 菅原 万佐 (=秦 恒平)
補注:此の私家版『畜生塚・此の世』に収録の
歌集「少年」は、出版を重ねたのち「湖の本」31巻に、
短篇「少女」は、「湖の本」16 巻、「秦 恒平選集」7巻に、
中篇「畜生塚」は、大幅に改稿し、「新潮」昭和四十五年二月号に、「湖の本」11巻、「選集」3巻に、
短篇「此の世」は、「湖の本」16巻に、
短篇「桔梗」は「露の世」と改題・改稿して「湖の本」13巻、「選集」9巻に、収録されている。
作者署名の、菅原万佐 は、高校以来当時の筆名。
* 本巻(湖の本131)跋「私語の刻」には下記の一文を敢えて記念のために入れた。
私語の刻
作家「以前」というと習作時代のようであり、私の場合事実そうに違いなかったが、その頃の仕事が、のちのち姿・形・中味を変え、新作同然の小説に仕上 がっていった。「或る折臂翁」を最初に、「懸想猿(シナリオ)」「祇園の子」「畜生塚」「斎王譜=慈子」五十作もの「掌説」たち、また「或る雲隠れ考」 「蝶の皿」そして「清経入水」「秘色」など、どれもみな、「作家(受賞)以前」に概ね仕上がっていた。そんな「原作」に更に手を入れ、「作家」ほやほやの 仕事として、諸誌・各社で活字にも本にもしていった。
作家以前に、師事した人も同人といった仲間も私には無かった。貧の極の新婚時代に、がんばって購読した講談社百余巻の日本文学全集、月々に配本の一冊一 冊が有り難い教科書になった。漱石、藤村、潤一郎そして直哉や川端、諸先達選り抜きの作と年譜とから、限りなく多く学んだ。通俗の読み物や時代小説は書か ないと姿勢を定め、なに迷うこともなかった。文学賞に応募しようの、文藝雑誌へ投稿しようの、そんなことはほとんど考えてなかった。本にしたいなら、自分 ですればいい。読んでくれる人は、自分で捜せばよいと。
昭和三十四年三月に結婚し、翌年七月に娘朝日子が生まれ、三年目の真夏から突如小説を書き始めた。
書けばこそ好機も来よう、書きもせずあだな夢を見ていて何になるか。そう友人に一喝され、すぐ応じた。
どう貧しくとも、ボーナスというものに一切手を付けない家政と家計であったが、私家版本のためにだけ、妻の同意を得て貯金を崩した。総じて五十数万円も かけた、昭和三十末年代ではかなりの経費であった。『懸想猿(正・続)』『畜生塚 此の世』『斎王譜』『清経入水』四册の私家版は、ごくごく少部数、編集 も装幀もまさしく夫婦の手造り本であった。送り出す先もほとんど持ってなかった。知友はすくなく、えらい人としては志賀直哉、谷崎潤一郎、中勘助、窪田空 穂、小林秀雄といった名前しか思い浮かばなかった。
ところがある日、突如として雑誌「新潮」の編集長から、「来なさい」と手紙をもらった。世界が波打つように足もとで揺れ、まともに歩けなかった。すでに 「三冊」出来ていた私家版中の何作かが、しかし、すぐに役だってくれたのではない、それどころか「新潮」という大舞台が目の前にありながら、わたしは果敢 に四冊目の私家版『清経入水』を、また自前で造った。表題作にした小説「清経入水」が、どうしても編集部をパスしなかったからだ、エイクソと本にし、美し い平家納経をあしらった色刷りの表紙に函まで造って、小林秀雄や円地文子といった、僅かな、縁りもない先生がたに送った。
と、これまた突如、昭和四十四年春すぎた或る日、今度は筑摩書房から家へ電話で、秦さんの「清経入水」という小説を、雑誌「展望」の第五回太宰治賞銓衡 「最終候補作」へ入れたいが、「応募」してくれませんかと言ってきた。「展望」も「太宰賞」も存在すら知らなかった、「どうぞご自由に」と承諾したら、 「新潮」ではあんなに通らなかった「清経入水」が、そのままで石川淳、井伏鱒二、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫という鳴り響くような六選者先 生の「満票」で「当選作」に大化けし、「展望」八月号に発表された。いわば賞まで添えて「文壇」の上へ私は引っぱり上げてもらったわけで、家に積んであっ た私家版の「原作」たちがつぎつぎ役立ってくれた。
とりわけ、今回復刻した原作『畜生塚』は、丹念な改作推敲を経て「新潮」翌年の二月号に掲載され、幸いに批評家桶谷秀昭さんが雑誌「文藝」の「一頁批 評」欄で、じつに丁寧に読んで下さり、或る意味、事実上のこれが「処女作」とさえなった。三部作のように長編『慈子』が筑摩書房から書き下ろしの本に、中 編『或る雲隠れ考』が「新潮」にと続いて、いわば秦の作風を「貫く棒」のような役をしたのである。今回本文のみ復刻した「私家版原作」『畜生塚』は、よほ ど多くみても刊行当時数十人の目にしか触れてこなかった。おなじ事は『此の世』にも謂えた。しかも見る人は驚かれるであろう、この私家版は私が勤務先医学 書院で編集製作刊行を担当していた医学雑誌とおなじ、大判での8ポ二段組み、奥付ともで64頁という珍種であった。
ま、編輯余話としてはこの辺で措くが、筆名「菅原万佐」のわらい話だけ記録しておこう。京都市立日吉ヶ丘高校のころ、校内新聞に、その年たしか生徒会長 をしていた男子が「男女交際」の行儀について四角四面に寄稿していたのがあまりバカげて読めたので、ひやかしてやろう、それなら女子からの方がおもしろい と、当時仲良しだった三人の女友達の姓や名からとって「菅原万佐」の署名で反駁の投書を入れた。それも載った。
以来、なんとなく女とも男ともつかぬ筆名が気に入って、なんと後年四册中三册の私家版までも「菅原万佐」で通していたのだが、「新潮」に呼ばれておそる おそる出頭そして初対面の編集長第一声が「男かあ」であった。即座に本名にしなさいと。で、紆余曲折あっての私家版第四冊め『清経入水』から作者名「秦 恒平」と、ま、本来へ立ち帰ったことであった。
その後の私家版といえば、創刊いらい三十年、一三一巻にまで達している全集「秦 恒平・湖(うみ)の本」が敢然として私家版、続いて、はや第十七巻まで進行中の特装美本『秦 恒平選集』もまた躊躇いない私家版少数限定の「非売本」として、稔りつづけている。とはいえ、終始「私家版作家」として歩んできたのではない。太宰賞授賞 このかた、筑摩書房、新潮社、講談社、中央公論社、文藝春秋、平凡社、集英社、NHK出版、淡交社、弘文堂等々からとうに百册余の本を出し、新聞連載小説 も、岩波「世界」や「アサヒジャーナル」「学鐙」等々での長編の連載も繰り返し担当してきた。なによりも、お名前はとても挙げきれないが、想えばどれほど 多くの文壇の先達や学界の碩学、藝界の実力者らの薫陶・庇護・鞭撻を戴いてきたか、これを多幸といわずに何を謂うかと、感謝の思いは、まこと、限りない。 決して決して我一人で生きて来れたのではなかった。
最期になるかどうか、『光塵』以後の新歌集の、永く惑っていた「表題」を昨夜定めた。
亂聲 らんじやう
残年はしらず、一箭は、すみやかに来るべし。
亂聲、破を調べて、念々死去の空晴れたり。
催事や演舞・演奏などの始まる前に、鼓笛など賑やかに拍ち鳴らす。「亂聲」と謂う。
2016 9/14 178
* 機械の「メモ」に手を染めたい、なるべく早く取り組まねばと願う仕事が書き上げてあり、それが、減るより増えていて、気持ちを圧してきている。残年を 慮る気があって胸を押してくる。家の中に黒いマゴの姿が失せていると思い知る寂しさにも負けがちになる。いかん、いかん。
旅行ということを意識もし無意識にも、想っていた。旅行に出てもいい状況になってしまったが、妻は遠出して疲れる気にはなれないらしい。独りで…ハテ、どこへと。京都では宿が容易にとれないらしいと。それと杖に頼っていては旅の荷が満足にもてない。
* 結局は目前眼前の「仕事」に打ちこむことになる。それがイチバン好いと思うべし。
2016 9/16 178
* 消え入りそうに疲れる。機械をはなれ、床に横にし、明るい近い照明と裸眼とで、ゲラ校正を進めるのがわたしの休息です。今は、 「慈子」の初稿である『斎王譜』の二章を読んでいる。市販の『慈子』よりだいぶ長い。「うつくしいかぎりの小説を書く」と決意して書き始めた日を思い出 す。書き上げたら、あまりに悲しい作に成っていた。
最初に『畜生塚』を書いた。次いで『或る雲隠れ考』(昭和三十九年二月から四十二年末)を書き、さらに『斎王譜』を書いた。昭和四十年四月末から四十一 年五月初まで書いて十月に初稿を私家版で出版したが、太宰賞受賞後筑摩書房から『慈子』と題して出版までに相当量推敲した。『或る雲隠れ考』も「新潮」 に、さらに出版までに、精魂込めて推敲を重ねた。
この三部作が、その後多くの基盤になった。もう一つの反リアルな基盤は受賞・発表作『清経入水』で出来た。
2016 9/16 178
☆ 今宵(=昨夜)は満月
薄く広がった雲間から時折漏れる月影を、仰ぎ仰ぎ帰宅しました。
創刊満三十年の記念号、「原作・畜生塚」を巻頭に、新歌集の表題を『亂聲』と定めた桜桃忌の「私語の刻」で結ばれているのを、嬉しく拝見しています。
まずは活字の上での「京の散策」を楽しみ、私家版で読ませていただいた「原作・畜生塚」を「湖の本」でも再読・三読したいと思っています。
温め続けられた歌集、艶やかに晴れやかに、花と開きますよう願っています。
どうぞ、御身大切になさってください。 九
* 『亂聲』 とは、ま、洗濯機へ汗くさいものをなにもかも投げ込みかき混ぜるような意嚮に過ぎず、優雅でも艶麗でもない、がちゃがちゃとやたら喧しいような一巻になればとの、横着な表題。過剰に期待しないで下さい。
2016 9/18 178
* 六郎さんの長いエッセイ「『こころ』というもの」を預かって久しく、「e-文庫・湖(umi)」の起動手順を見失ったままモノに埋もれていたのを掲載 し、湖の本新刊に書き添えて報せておいた。以前にはやはり長編の「秦 恒平論」を掲載した。ただしわたしは目下のところ所謂「作品論」は別として「総論」されたような「秦 恒平論」には影響されまい為に目を通さぬ事にしている。山瀬ひとみさんの長編も、だから敢えて読んではいない。これらは、読者の皆さんに批評・批判して頂 きたい。
六郎さんの「こころ」というものへの所感は、論攷と云うより元気な述懐をこめたエッセイまたは感想のように読める。
たまたまわたしの方は『選集⑰』のために自分の「こころ」についての旧稿など読み返していた。わたしは観念的に「こころ」を語って語りきれる者でないと いう見極めから、わたし自身の発見・考察した「からだ言葉」「こころ言葉」を用いながら人間生活の場面場面に生きた「こころ」のはたらきや問題を論じ続け てきた。「言葉」という具体的な働きを介し通して考えてきた。
六郎さんの論にもそういう生活感の裏打ちされた手がかり足がかりがあれば「こころというもの」がさらに目に見えてきただろう。
四国の榛原六郎さんは、「e-文庫・湖(umi)」にべつに何編も小説も送って来られている。長い「志賀直哉論」もあった。もう相当の老境に近いだろう人だが、文学青年の意気がまだ行文に疼いている。
2016 9/18 178
* 仕事づめの一日だった。「湖の本132」の「私語の刻」も書いた。ツキモノ、表紙などとともに初校をを戻すことが出来る。選集⑱の初校が滞っているのに手が付けられる。選集⑲の入稿原稿ももう数日で用意出来るだろう。
* 「ユニオ・ミスティカ」はすでに長編を成しているが、大きな大事な新たな構想を(というと大層だが)できれば、軽妙にしかも厳しく書き加えたいと用意している。
2016 9/20 178
* バイアットの『抱擁』、文学・言葉・創作・構想・表現等々に関して、ともにものを思うに足る刺激的なフィクション。残念ながらわたしはバイアットらの もつ神話・伝説とともに彼女らの「詩」と「韻律」とを倶にはもてていない。散文は飜訳でもなんとか理解出来るが、「詩と韻律」は言葉を理解して発音。発声 出来なくては話にならない。
* 日本人は和歌・俳句・今様等の詩は持っていたが、西欧詩とおなじ詩はもてていない。日本人が詩と称して創っているのは、九割九分、小洒落た散文の気 取った分かち書きというに過ぎない。むろんそういうのを指して「詩」と呼んでもそれなりに構いはしない、が、定型詩とも韻律詩とも呼べはしない。定型や韻 律には構わぬ美しい短散文の洒落た表記を今日日本では「詩」と謂うのですと、それだけのことである。それだけのまま見事に美しく心打つ表現が成るなら、 成っているなら、それで良し。定型や韻律の効果を期待できないぶん難しい創作だと自負するのも、べつに構わない。おおよそは、そんな自負で日本人の現代詩 集は編成されてある。それ以上でも以下でも、ない。
2016 9/22 178
* 朝一番に、「秦 恒平選集 第十九巻」を、全部入稿した。この一巻は、全巻中の一つの代表作となるだろう。
2016 9/23 178
* 池袋東武スイパイスの「美濃吉」で青田吉正さんと食事してきた。
料理が不味く、配膳もお粗末でガッカリした。むかしはもっとマシな料理で気が入っていた。こっちの体不調も、あるといえばあったが。
病後の青田さん、かなり窶れていた。励まし続けてきた。
* 池袋改札口で別れた直後、はげしい脱水症状で、あやうくペットボトルの茶を買い、飲み干した。頸筋がこわばって痛く、腰砕けのよう。覚悟を決め、西武 線の改札外で床にすわりこみ回復を待った。準急で、座席を譲られるまでが辛かった。保谷駅のタクシーもなかなか来なくて、しかし座り込むには小雨で地面濡 れていて、ガマンして車を待った。両手の指が捩れ曲がって痺れ、足も攣っていた。辛うじて帰れた。
先日の眼科診療後は、極暑のなかを保谷駅まで帰れたものの、炎天下で祈るように車を一時間も待った。とても歩けなかった。あの日は、黒いマゴが命がけでわたしの帰宅を待っていてくれたのだ、
その翌朝に死なせてしまった。
* 慎重に、慎重に動かないと、むざむざ潰れてしまう。厳重注意し、亡くなった友人堀上謙さん、京都の写真家、美術文化賞を受けてもらった井上隆雄さんら の分も長生きしなくては。その思いがつよく、この十月に十六巻を出す「選集」を三十三巻までガンバルと決めたのだ。無用の旅なども控えて、無事是好日を重 ねたい。
2016 9/23 178
☆ 朝夕凌ぎやすい季節になってまいりました。その後 恙なくお暮しでいらっしゃれば嬉しく存じます。
さてこのたび 「e-文庫・湖(umi)」に 私の寄稿をお許しくださるとのこと、ありがたくお受け申します。 とりあえず 未発表の歌稿 まとめて五十首 同封いたしますので どうか よろしくお願い申します。
このたびの「湖の本」私語の刻にて、新歌集ご上梓のこと尻ました。 すばらしい表題も定まり ご上梓が待たれます。まことにおめでとう存じます。
余談になりますが、「湖の本」のお作品『生きたかりしに』拝読した折り お母様の昔おすまいになられたとイウ住所が「東城戸町」とあり、そこは今 私のおります「杉ケ町」のすぐ隣町なので驚きました。
小野医院、酒屋の都鶴の看板などみつからないものかと、なんどか足をはこびましたが わかりませんでした。 内科の「奥医院」というのは昔からあり、そのあたりの町の人にたずねても「小野医院」は知らないということでした。
奈良のこのあたりは、昔のままの民家も少々残っておりますが、 この数年 どんどん取り壊され、新しいマンション等が 建ちはじめました。 私には 少々残念な気がいたしおります。
それでは くれぐれもお大切にお励み下さいませ。 東淳子 歌人
* 早くから歌人としてもっとも信頼をおいてきた方であり、「e-文庫・湖(umi)」に是非新作をとお願いした。ほかにやはり詩人にもおねがいしてあるのだが。
「e-文庫・湖(umi)」 しっかり充実させたい。
なお「小野医院」は実を憚ったので、本当は内科の「奥医院」です。
2016 9/23 178
* 梅原猛さんのガンと鳴る「面白し!」一言をはじめとし、幸い「原作・畜生塚」「原作・此の世」が受け入れられている。「新潮」作と比較すれば、原作に は省かれたいろんな言葉や表現がかなりの量混じっている。省いたのだから無駄と言えるし、しかしそこに志をたてた若い書き手の奇妙な熱も意気も残ってい る。作家以前に書かれていた生涯の処女作といえる「畜生塚」「斎王譜=慈子」そして「清経入水」だけは、ほとんど人目に触れていなかった三十年「私家版原 作」を愛読して下さった方々に読んで頂きたかった。次巻の「原作・斎王譜」も、筑摩版単行本や集英社文庫版では相当量省かれた徒然草との分厚い絡み・重ね など、楽しみに待っていただきたい。
それにしても愛するヒロインに対してあまりにむごい男を書いてしまったと、読み返し校正しながらわたしは息苦しい思いをした。しかし、「美しいかぎりの小説を書くのだ」と息ごみ書き始めた大昔が懐かしい。
* いまこの時機にこのような「原作」を持ち出したのは、一つには「湖の本」三十年を記念しているのだが、今一つには、今まさに現在進行中の「秦 恒平選集」十五・十六巻をさわっている堪らない苦渋の重圧をわたし自身慰めたいからでもある。一生涯を、ただ一色に平穏無事にいきることは出来ない。あり がたいことに、此の三十年に此の肺腑をえぐるような辛かった日々をも私の有り難い佳い読者のみなさんは倶に堪えて下さったのである。
2016 9/24 178
* 怪我多くなさけないほど負けた大関豪栄道が全勝優勝したのは、えらい。来場所も優勝すれば横綱昇進に何の異議もない。が、ひとつ異議がある。本名の「豪太 郎」君は好い。しかし四股名の「豪栄道」には、わたしの美意識にはガマンならない。このまえに優勝した「琴奨菊」にもおなじ事を感じていて、彼らの人柄は べつにし、こんな四股名の日本力士を応援する気にはとてもなれないで来た。大阪の大先輩力士大錦や山錦にならぶ清冽の名のりをよく親方と相談して付け替え て欲しいと希望しておく。
* 先日、日本語でのもの言いに拘わる調査結果が話題になっていた。詳しくは知らないが、関わって一つ日頃の注文をのべておく。NHKをはじめ各放送局 が、率先し得意げに、あまりに符牒めいた悪語を用いているのは、日本語を美しく保ち育てる役目もあるはずの公共放送として悪行というに近い、すなわち「シ ブゴジ」等々の類いで多く書き出す気になれないが、各局で競ってこの手を言いひろげている。
放送局に「日本語」をよりよく守り育てる自覚と節度とが無いのは実に恥ずかしいが、世のいわゆる「俳優」として名のある実績のある人たちにもおなじ事を つよく希望しておきたい、わたしは、ちいさかったころにだが、外国の演劇や俳優には国語を見守り育てるという天職があると聞いて、子供心に感じ入った。
今日、日本のテレビ番組からどんなに乱雑で時に猥雑な「汚い」日本語が吐き出し続けられているか、身のちぢむ不快を覚えることが多い。ユーモアや健康な 笑いを尊重する気は十分持ち合わせているが、ただただダラシない放言や言葉いじりは、少なくも日本語で生きている役者や公共放送には心してヤメテと言いた い。
2016 9/26 178
☆ 阿波の花籠です。
月様 季節の変わり目、どうぞ、どうぞ、お奥様ともにお体をおいといくださいませ
選集第十五巻の『ディアコノス=寒いテラス』。
作中、「妙子ちゃん」に対し、あちらの親御さんの言うように、初期対応で、「節子ちゃん」が、見たことのないような憤怒を眼に燃えたぎらせ、「帰ってちょうだい。逢いたくないの。来ないで」と大喝し、家族全員で強硬に拒絶できていたなら、事態は変わっていたかもしれません。
過去に、2年間知的障害者の世話人として彼らや彼女たちに接して生活の補助をしてきた経験があるから言えることで、それがなければ、作中の家族と同じような対応しか出来なかったでしょう。
* 作の提出した「問題」は、やはり、それだけのことではなかったと思っている。定規をあてて線をひくようなアンバイには「妙子ちゃん」を怒鳴りつける真 似はしにくい、できない、という機微もあるとともに、とりまいていた近隣や世間や社会からの対応・是非をも見きわめて見たかった。此の作に於ける「被害」 は微妙すぎるほど表裏し膚接している。あんまり難しくて、書きは書いたがなかなか発表できなかった。亡くなられた神学者の野呂芳男(立教大名誉教授)さん がつよく奨められなかったら活字に成らずじまいにホコリをかぶっていたか知れない。野呂さんの本音を、しかし、わたしは追求して聴かなかったのである。
もしわたしの作が外国語に翻訳されるなら「これ」と、ヨーロッパ住まいだった日本人読者に、また海外への視野のひろい日本人女性に、言われたときに、作者自身も目の鱗が一枚落ちたような教わり方をした。
それにしても、難儀な小説である。つよい反響は概して「妙子ちゃん」に即して経験的に返ってくる。「節子」ないし家族への助言は上の「花籠」さんのに尽きている、が、ウーンと唸ってしまう。
2016 9/26 178
* 近江の佐々木へわたしの関心の深いことは「みごもりの湖」の沙々貴山君や後に佐々木道誉を書いたり、「初稿・雲居寺跡」にも近江佐々木氏を大事に書き込んでいて歴然としている。「冬祭り」でも佐々木との血縁に触れている。
いま仕掛かっている「仮題「清水坂」でも問題になるのかも知れない、まだハキとしてはいないが、ケリを付けうれば付けたいのが「中断」のままの「初稿・ 雲居寺跡」で、承久の変の成り行きへ踏み渡るのか、ナラティヴにうまい収束を考えつくのか、その際に語り手の「僕」なり「兵衛」なりの身辺で「佐々木」を どう生かすかが、とても気になる。今夜は、見えない眼で大きな重い本の小さな活字に悩みながら、調べ仕事にも手を付けていた。
仕事をしているとアタマもしゃんと働いている。中断して機械から離れて起つと、狭苦しい部屋の中でも二階の細い廊下でも電灯を二つもつけた階段でも、危なくよろよろする。
考えるまでもなく、いまのわたしには幸い仕事の他のしごとは無い。世間へ出ていって理事会の委員会の宴会のという何も無い。稼ぐ仕事も頼まれ仕事も一切 していないのだから、純然自身の興味・関心に応じて励めばいいのだ、これはこの上なく幸せな日々であればこそ、元気でなくてはいけない。元気でさえあれ ば、読んで書いて思案しての仕事を誰よりも先に独りで楽しめる。
いま、だれにも、わたしがあそび半分の道楽をしているとは思われていない。文学のために日々を生きている点では、誰にも負けない気でいるし、努めている。ああ、そのためにも元気でなくてはいけない。元気でいたい。
2016 9/26 178
* バイアットの「創作」は、わたしがずうっと追いかけ心がけいくらかは実現してきた、異なる時と処と人とを「層」構造に積み上げる行き方とかなり密接 に、より複雑緻密に広範囲にわたって、間近い。その辺を見て、奨めてもらったのだと思う、さもなければとても出会わなかった作と作家であった。バイアツト はたしか、わたしとそう年齢も違わない。「慈子」「清経入水」「秘色」「みごもりの湖」「風の奏で」「初恋」「冬祭り」「秋萩帖」「四度の瀧」などを、こ の同世代作者に読んでもらいたくなる。
こういう書き方は、通俗読み物は知らないが、日本の近代文学では、少なくも極めて少数派で、泉鏡花の一部作品にみられるほか、なすぐには思い浮かばない。潤一郎は他界や他次元を書かないし、川端や三島にもこういう「層」を重ねて展開する書き方の例は知らない。
健康さえゆるしてくれるなら、意欲を深めて奇妙世界を作の中に築き上げたい、もっともっと。
* 明日には、選集第十六巻の刷りだし一部抜きがもう届くという。十月七日送り出しの用意に、もう掛からねば。ここを一気に乗り切って、いわば選集第二期へ分け入って行きたい。それ自体がまたわたくし晩年の創作を引っ張って呉れる筈。書くのが先、本は仕上げの形だけ。
2016 9/27 178
* 昨日は書架から、持った手の痺れるほど重い平凡社版『日本史大事典』六巻のうち二巻を引きずり出し、承久の変、和田合戦と和田義盛、近江の佐々木氏、 関東の渋谷氏などの項を、あまりに小さな活字に泣き嘆きながら、読み耽ったりしていた。「初稿・雲居寺跡」の中断のあとへ何か弾みがつくかと思案している が、サテ。
久しいわたしの読者でご夫婦で愛読してくださる方、奥さんから、すこし以前に長いお手紙を戴いた。ご主人が鎌倉武士「渋谷平氏」の延々とした子孫であ り、知行国の薩摩に久しい由来と多彩な展開とを経てこられた由を、かなり細かに教えて頂いた。東郷平八郎も一族の一人であったとも。
この渋谷氏と近江國由来の「佐々木源氏」とには、かなりこまやかな関わりがあった。佐々木は、和田合戦で北条義時と果敢に闘って壊滅した「和田氏」とも縁の濃いことは、歌舞伎の「盛綱陣屋」を観ても分かる。
あの承久の変前夜に取材していた「初稿・雲居寺跡」は、上のような経緯と微妙に縺れ合っており、それゆえに上のような「渋谷氏」後裔ご夫妻のお手紙も戴いていたのである。
* 「初稿・雲居寺跡」で優に半世紀余もむかしに意図もし触れもしていた時代や人物と、関わりないと言えない、ややこしい「現代」「志異」小説をも、今ま さにウンウン唸りながら楽しんで書いているのです。出来映えも大事だけれど、この、楽しむという動機が生きないと、この歳になって小説を書く意味がありま せん。
2016 9/28 178
☆ 前略
「亂聲」 刻してみました。 新歌集へのご期待です。ただし全く他意はありません。ただのお便りとお見捨てくださってもかまいません。
印字のしまりのなさは 刻者の性の表れでしょうか。隠しようもなく、正直に出てし
印材の同封は ちょっと躊躇しましたが、思い切ってお送りします。(お贈りではありませんのでお取り扱いはご自由に願います。)
奥様ともどものご健勝をお祈りしています。 井口哲郎 前・石川近代文学館館長
* 嬉しい贈り物です、有り難く頂戴致します。「新歌集」としての「亂聲」編纂には少し時間を掛ける気でいます、あるいは最期の集に成るとも思われますので。
しかし「亂 聲」は、まさしく私の毎日毎日の仕事が、そのまま体を表していますので、頂戴の印章もその方面からも愛用させて頂きます。なんだか源氏物語っぽい優艶な歌 集を想われている人もあるらしいのですが、元来の語意が文字どおりなので、ジャンジャカ、ゴチャゴチャと、なんでもござれの日々を表現した意嚮と寛容いた だきたいものです。しかし妙に惹かれて好きな言葉です。
2016 9/30 178
或る詩人の長めの散文詩の書き出しであった。のこる散文の二もこのままの散文分かち書きで終始していた。
感銘の有無や可不可は云わないが、日本の詩人から戴く日本語での詩集の、オーバーにいえば大半、いや、ほとんてどがこれに類している。日本人の現代語詩 はおおかたこういう表現と共通理解されているらしく、それはそれで日本語の口語詩の約束された納得ごとなのであろう。で、もし「詩」とは何なんですかと問 われて、詩人はどんな回答をしてきたか、解答例は詩の雑誌や過去の文献に山のようにあるけれど、かなり、みな、ムズカシい。小説や随筆の文章と詩の表現と のチガイは何ですかとつい口の中で呟いてしまう。このさいの「つぶやく」という日本語にはやや非難めいた口吻がひそんでいる。ぶちまけたはなし、これらが 「詩」に相違ないのなら、わたしの小説や随筆から、ま、たくさんな「詩」が収穫され、わたしは小説家で詩人でもありえそうな気がしてくる。
眼から鱗のおちるような日本語の「詩」論が書かれていたら、どうぞ教えて戴きたい。
* わたしにも、「詩」の思いがある。小説をもじつは「詩」として書いている気が無いのではない。「詩情」をよほど大切に重んじてきたし、それは、なにも 言葉の表現に限られてなどいない。絵画にも演劇にも、また自然の景色や人間関係にも、「詩」は在る。「詩情」は横溢する。疑っていない。だから日本の詩人 の詩集もああで佳いんです、と云われると、分かりきれない不可解なうすぐらい余白が拡がるのだ。困惑しています。
2016 10/2 179
* 後拾遺和歌集の六撰を終えた。おもしろい歌が多すぎます。
2016 10/3 179
* 疲れていても、嬉しいことも、励むことも、思い出すことも、思うことも、することも、もっとしたいことも、ある。生きているのだもの。
2016 10/3 179
* もう一度 後撰和歌集を読み進んでいる。拾遺、後拾遺とのあいだに明らかな差異が見受けられる。たんに歌風の差異でなく、時代・王朝の「熟」の進みと読むと、歌人の表情や姿勢の差まで見えてくる。
2016 10/4 179
* ガッカリ。 福田恆存飜訳全集最終巻中の「聖女ジャンヌ・ダルク」を福田先生の解説というよりまこと見事な「論」とあわせ夢中で読みはじめたことを、関連の感想もろとも気を入れて書き継いでいたのに、あっというまに消え失せてしまった。ガッカリ。
しかし本は消え失せない、読む楽しみがドッカーンと増えた。恆存先生は劇作家であり、偉大な翻訳者でもある。全集八巻 飜訳全集八巻、しかし一巻一巻の 内容の猛烈なほど大量なこと、したがって本の重たいこともたいへんで、覚悟を決めて手に取らねばならないが、つい手に取りたくなるのである。この機械の席 からそのまま立つと、手の届く目の前にほぼ書架の一棚を占めて恆存全集はぜんぶ並んでいる。じつはその下の棚にわたしの「選集」がすでに十五巻並んでい て、三日後には十六巻になる。ま、それはいいとして、「ジャンヌ・ダルク」は中学生の昔から重く重く頭にあるのだ、エリザベスやメアリやヴィクトリアや、 多くの西欧女性のなかでも、「マリア」とならんで気になる、気にし続けてきた女人なのである。
それを言い始めると長くなる。また機械に嫌われて消え失せかねない。
* 今日もいろんなことをした。蚊がいなくなったので、テラスへ、ネコやノコや黒いマゴたちのそばへデッキ・チェアを出して、閑吟集や斎王譜をきもちよく 読み、この機械では、久々に谷崎先生の「夢の浮橋」論を読み返しはじめた。ほかにもいろいろと。そして、腰を伸ばして立ち上がり、フウッと恆存飜訳全集の 一冊を抜いていたのだ。
オイディプス王 アンティゴネ ヘッダ・ガーブラー サロメ それにT.S.エリオットの 寺院の殺人 等々とならんで、バーナード・ショウの 「聖女ジャンヌ・ダルク」が入っていたのだ、おうと声が出て、機械をはなれてソファへ移り、福田先生の解説と称された猛烈な「論」から読みはじめたのが 面白く、待ちきれずに論の半ばで「第一場」を読んでしまった。 2016 10/4 179
* なんということなく休息かたがた前回「湖の本」131の「京都散策」をばらばらっと読んでいて、いつしかに読み耽っていた。文春専務だった寺田さんの 感想に、京都の人にしか分からない京都、「京都は魔都」と書かれていたのを反芻する気であった。ははーん、こういうところを寺田さんは言われていたんだと 納得してニヤッとした。ここ二度ほど「京の散策」を本文のうしろへ添えて、二度ともえらく好評なのに嬉しいやら照れるやらしていた。なるほどね…ともう一 度ニヤッとした。
なんといっても、わたしの文学は「京都」に太い根をよほど深く下ろしている。
もっともっと書いて置いていいなと思う。
* 七時半。よほど今日も疲れている。このまま機械の前ではもう奮発が利かない。躯を横にして「読んで」過ごす内に、すこしは回復する、か。
2016 10/7 179
* 昨日も今日も、わたしたち夫婦を泣かせるのは、黒いマゴの、見えないこと。生きの命の芯にまで共生していたのだとつくづく思い知らされている。
* おりしも選集は第十六巻、むごくもわれわれの日々を酸蝕した事件を書き表している。ひどくて、不快で、毎日を生きているのが辛かった日々の表現であり、いまもって遁れきれない、死にたいほどの惨憺とした毎日だった。
人間として、人間同士で向きあう不快の極限をわたしは味わった。
それに比しては、黒いマゴは真実われわれの身内としてともに生きてくれた。愛しても愛してもなお愛しあい足りないままに死なれてしまったと、妻は泣き、わたしも泣く。
2016 10/8 179
☆ 眠られぬ夜に、自分の生涯の決定的な洞察や決断を見出した人びとは、かぎりなく多い。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* この、ヒルティの言、真実にちかいと実感している。
2016 10/9 179
* しょうのない不徳人であるが、幸い「孤」ではない。孤独でもなく孤立もしていない。幸せである。
世には、孤独・孤立のさびしさに呻いている「おとな」たちがいるらしいのを、余儀なくも身の遠く近くに「感じ」ている。「わかい人」の孤立感・孤独感を 大学でかれらとじかに接してしばしば驚き燃し胸を痛めたが、「おとなたち」「高齢者」のそれは今やいや増して問題だと思われる。
ついでながら引いて置くが、ヒルティは『眠られぬ夜のために』の冒頭の弁でこう云っている、「体が衰弱して安静と養生を必要とする人びとにとって、とく に大切でありながらあまり注意されない問題は、<人との交わり>である」と。これもあたりまえのようで実は機微に触れた一難所である、というのも、こうい うところへ引き沈んでいる人が、意外なほど人嫌いになっているから。さびしいことだ。
2016 10/9 179
☆ 執念ぶかい憎しみは内的生活をむしばみ、憎しみの相手よりも憎しみをいだく当人の心を害うものである。
悪い人たちをすてておけ、争いはやめよ。おなえに任せられないことをすてておけ。かれらは恵みに浴することのない重い鎖をひきずっているではないか。(カール・ヒルティ 1833-1909)
* こういうヒルティにわたしは同調しない。こういうお高いことを言うているまに、安倍総理は独裁ヒトラーの真似を本気で演じ、厚顔無恥の稲田防衛大臣は 平然と変節し、菅官房長官や高市総務大臣はあからさまに法の不備を口実におのが悪徳を肯定する。彼らは法以前の良心と見識とで政治すべきそんざいではない か。かかる悪質で低劣な政治家や政治を「憎み」「正す」のは主権者国民のあまりに当然な義務である。「悪い人たちをすてておけ、争いはやめよ」などと寝言 を言ってられる日本の現実ではない。
ヒルティ自身も、実はこう言っている。「改めさせることのできる、また改めさせねばならない明白な不正に対しては、沈黙してはならない。不正を心ひそか に憎みながら黙っているのも、まちがいである」と。当り前である。ヒルティはこうも言っている、「われわれの目に入るあらゆる悲惨を、われわれみずからの 恥とすべきだ」と。恥多く生きている。なさけないと思う。
2016 10/10 179
* 創刊三十年記念の第三「湖の本132」を全紙責了にした。入れ替わるように「選集第十九巻」の初校が届いた。この巻も、つづく第二十巻も、秦 恒平として代表的な記念の一巻にきっとなると思っている。
2016 10/10 179
☆ エゴイズムがつねに自分自身に悪い結果をもたらす。これをふかく理解し得た人は一大進歩を遂げる。
人生はたえざる克服か、もしくは屈服である。地上においては、いかなる人間にもそれ以外の道はありえない。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* 人生は、苦しい、ないし悲痛なほどの克服の連鎖であった。だからこそ、ちいさなオアシスほどではあっても、温かい喜びも味わえた。そして、この道はまだ終えていないのだ。
2016 10/11 179
☆ 生きる意味について
「湖の本エッセイ20」・『死から死へ』の31頁に、「生きる意味なんてものは無い。」と。
まったく同感です。なかなか言い切るには勇気が要ります。
我が意を得ました。
しばらく前、高校生相手の出前授業を頼まれ3年間ほど出かけていました。
与えられたテーマは二つ、①「なぜ仕事をするのか」、②「銀行の仕事について」
「なぜ仕事をするのか」の命題は、「仕事の意味」延いては「生きる意味」にも
つながります。
結局、私自身が信託銀行で「どういう仕事をしてきたか、その中で仕事のやり甲斐、生き甲斐をどう感じてきたか」などについて話し、あとは学生に考えさせることにしました。
**大に通い始めて12年目になります。教授に頼まれ、「就活」について時々相談に乗っています。現実的な話がほとんどですが、哲学科の学生相手なので、時に「生きる意味」、「生きる目的」などと言う議論になります。
私は18歳の時にヒルティの『眠られぬ夜のために』を読み、「自分がほんとうにめざしている目標はなんであるか」と問われ一所懸命考えていましたが、もちろん答は見つかりませんでした。さいわい深刻には悩みませんでした。
秦先生のこのページをこれから学生たちと話をするとき参考にさせていただきます。( “日々をきっちり「生きる」” という生き方は、お釈迦さまの教えに通じるように思いました。)
今月16日に入院をすることになりました。
『湖の本』を一冊携えて参ります。(さて、どれにしましょうか。) 仁
* その考えは変わっていないが、言われているエッセイの巻は、江藤淳の「死から」実兄北澤恒彦の「死へ」かけて編んだ日録であったとはっきり覚えていて、抜き出してその辺りを読んでみたら、はからずも黒いマゴが我が家へきた日でもあって、ハタと思い出した、
* 一九九九年八月四日 水
* 親友でもある新潟の高校生クンが手紙をくれた。いつもながら、言うこと無しの佳 い文章文面で、元気と知性とではちきれそうに言葉が生きている。冗長でなく情は熱い。多彩な読書は、ま、高校二年生の頃の自分を思い出せば、なに不思議も ないけれども、昨今の読書嫌いな学生も大人もいっぱいのなかでは、驚かされる。コンピュータ、放送部活動、それに彼は大の競馬好き。そして創作。生彩に富 んだ旺盛な少年の送ってくる友情には励まされる。
* 六百グラムの黒い仔猫が舞い込んできた。とても可愛くて、もう手放せそうにな い。軽くて、やわらかくて、ノラ経験が皆無とみえ、全然怯えないで視線を合わしては啼く。初めのうちは弱々しかったのに、慣れるに連れて元気に歩きまわ り、後をついてきて、仕事をしている上に乗ってきたりする。することなすこと、かつての、母「ネコ」仔「ノコ」の思い出につながり、いとおしい。あの母子 猫はしんからの我らが「身内」であった。ノコは十九年も生きてくれた。そのノコの写真に、この仔猫を「置いてやっていいかい」と尋ねている。
むかしのアパート時代から数えると、わたしたちが愛して付き合った猫は、今日の仔で七匹めになる。セブ ンと呼ぼうかと言うと、妻はそれなら「ナナ」が可愛らしいと言う。それでは差し障りが有るといえば、有る。同じ呼び名で、わたしの好きなすてきな女子学生 が以前東工大にいて、輝く星のような人だったから、猫の名前にするのは少なからず抵抗がある。ま、可愛いのだから、可愛がるに決まっているのだからと多少 言い訳も用意はしているが。
ノコに死なれたときは悲しかった。あんな辛い悲しい思いはもうしたくないと言い合ってきたが、明後日 が、その愛しかったノコの満四年の命日なのである。そういうところへ添い寄るようにして訪れてきた仔猫であることに、心を動かされている。ちいさいちいさ い漆黒の猫である。久しぶりの感触に胸の内があたたかい。
* 直哉の和解三部作『大津順吉』『或る男、其の姉の死』『和解』を読んだ。『流行 感冒』もここに加えていいのではないか、これと『和解』の二作は、文藝の香気も高く、ともに繰り返し読むに堪える。
直哉全集第三巻へ来て、目白押しに佳作秀作がならんでくる。小説という限定をつけないかぎり、どれもみな佳 い文学・文藝であり、感じ入る。結晶度の高い硬玉を掌中にした心地で、やはり「エッセイ」の最もよろしきものという実感である。小説だけが、物語だけが文 学ではない。この作家にもっと戯曲があればよかったのにと思う。
* 『或る男、其の姉の死』のなかに突如として鏡花作品のことが出てくる。わたしの 方は、これから鏡花作品を心して多く読んで、十月の鏡花を語る講演に備えなければならない。
* この時季に珍しく、今強い雨の音に家がすっぽり包まれている。涼しくなるだろう か。
* 同・八月五日 木
* 仔猫に一晩啼かれ、眠れずに朝の七時まで相手をしていた。それからやっと眠っ た。眠りたくて眠れない頭や胃がかなり苦しかった。
黒い仔猫はすっかり慣れ、ものも食べ、見違えるほどの元気さで、私や家内のうしろをついて廻って遊び戯 れ、甘えて啼き、お腹を空かして啼き、我々の姿を見失ったと言っては啼いている。仔猫の習性を一日でほとんど思い出してしまった。ひさしぶりの仔猫の柔ら かい軽い感触にしびれる。
正直の所、もう手放せないだろうと思うが、せっかく夫婦で家をあけて外出や旅が出来るようになっていたのにと思うと、ウーンと 唸ってしまう。留守の時は預かるかと、息子を、夫婦して口説きかけているが、向こうはわたしよりも出歩く商売のようだから。さあ困った。
* 「人間とは何だろう、生きるとは、老いるとは、死ぬとはなんだろう、といつもい つも胸に問うています。就職してから2年半、ずっと問い続けています」とメールの裾に書いてきた。親しい、東工大の元女子学生の若い友人が。
思い切ってこ う返事を送った。
* あなたは反芻するように繰り返しこう書いてきました、「人間とは何だろう、生き るとは、老いるとは、死ぬとはなんだろう、といつもいつも胸に問うています」と。
「老いる」「死ぬ」のことはすこしワキに置きますが、前半の問いは、じつは「無意味 な問い」であることに気づいています。
少なくも「生きる意味」なんてものは、無い。意味づけするまでもなく「生きている」ことが「生きてい る」意味なのだと。そんな無意味な問いに、どれほど大勢が無駄に悩んできた・無駄に悩んでいることかと呆れています。
「生きる意味」なんて、問うべき問題では無い。「生きる」のに「意味」は無い。「何だろう」と、答えのあ るはずもない問いを重ねているまに、「日々生きる」実質を見失うなんて、なんて無意味なんだろうと。
「問う」ことは、ことにより極めて大事ですが、「問い癖」になって、本質を逸れたと ころで、つまり「問うているぞ」という自意識だけが残存し続けて、かんじんの「日々の生き」が荒んで行くのは、はなはだ無残なことです。「意味を問う」の をしばらく落として、やめて、日々をきっちり「生きる」のに精力と誠実を注ぐこと。わたしは、そう考えるようになって、すうっと明るい場所へ浮かび出た気 がしています。もっとも、もともと、そういう「問い」はあまり持たなかったけれども。
あなたを煩わせているのは、つまり「マインド=思考作用=頭脳=心」なのだと思う。こういう心が、「静 か」になれない。そんな心は捨ててしまった方がいい。
他の人になら、こんなに乱暴そうなことは敢えて言わない。あなたは「気づく」のではないかと思い、言い ました。お元気で。
* 日記を、義務的にでなく、書きついできた。コンピュータでホームページをもち、そこへ「闇に言い置く 私語の刻」と題して日記を書き初めたのは一九九八年 三月であった。それ以前の日記は大学ノートで数十册、これは読み返すのも大変、電子化しておくのはて、もっともっと大変。しかしホームページ内の日記は以 来二十年ぶん、厖大な量だが、簡単に引き出すことも読むことも出来る。本にも出来て、もう何冊も「湖の本」として編輯してきた。わたしだけでなく、どんな よそのひとでも、自由に読まれて構わないようになっている。「作家・秦 恒平の文学と生活」と總題した厖大なホームページを検索すれば、読める。読まれて困るような何も無い。
2016 10/11 179
* ダスティン・ホフマンが神を、ミラ・ジョボビッチがジャンヌを演じた映画の秀作「ジャンヌ・ダーク」を気を入れて観た。バーナード・ショウの戯曲の優れていることを納得した。
イングリット・バーグマンの主演映画を新制中学でみた決定的な感化は、わたしの世界から神・仏はともあれ、教会・教団・宗派そして聖職を称するものらをほぼ決定的に掃きだしてしまったこと。
* 徹底的に谷崎潤一郎の「源氏物語体験」を論及しつつ、少なくも昭和の谷崎文学を決定的に読み込み得ていたと、しみじみ、幸せに想える。
研究だか批評だかはどうでもいい、作家と作品とを論じるならば、わたしの「夢の浮橋」や漱石の「こゝろ」論の水準になければ価値がない。平野謙の藤村 「新生」論などにわたしは刺激を受けてきたが、谷崎や漱石の「こゝろ」を検討し探究していたのは、平野謙らを知るよりずっと以前であった。論攷になじまな いと想えば、たとえば紫式部を語って「加賀少納言」のような小説を書いた。上村松園を語って「閨秀」のような小説を書いた。
眼光紙背に徹するといわれるほどの論攷・探究でない限り、おおかたの作家論や作品論は石地蔵のあたまを掌で撫でているようでしかない。
2016 10/11 179
☆ 悪い読書は、よくない交際よりも危険である。一冊の書物が人の一生の不幸を(もちろん同じように幸福をも)招きよせることさえ珍しくない。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* そうも言える。しかし同じ「一冊」が人によって幸福へも不幸へも導くこともありえないわけでない。読書に限らない。映画でも演劇でも、そうである。ただしその書物や映画や演劇じたいの「質」評価は別問題である。
書物についていえば、わたしの場合、わたしの人生を音高くもプッシュした書は、中学時代、まっさきに出逢った与謝野晶子現代語の手引きによる「源氏物 語」 すぐ追いかけて、潤一郎の「吉野葛・蘆刈」 漱石の「こゝろ」 そして大デュマの「モンテクリスト伯」 高校へ進んで、藤村の「新生」 そして「般 若心経講義」であった。それらの全てに先立って挙げるなら、国民学校時代の「小倉百人一首」と 白楽天の詩「新豊折臂翁」と が、電光のように思い出せ る。有り難い出逢いであった。だが、あくまでも「わたしの場合」と謂うに尽きている。出逢いは人それぞれというしかないだろう。
* 空也上人が歩いていると、ある家の門に年七歳になる子が泣いていた。上人が訊ねるとその子は、二つの時父に死なれ、今朝また頼む母一人にも死に別れた哀しさに泣くという。
上人は「泣くな泣くな」と励まし、「朝夕歎心忘、後前立常習」と口ずさみながら行ってしまった。
子どもはぴたりと泣きやみ、近所の者はあんなに哀しんでいたのにといぶかしんで訊くと、その子は即座に「朝夕になげく心を忘れなん後れ先立つ常のならひぞ」と詠った。
上人の口ずさみをとっさに歌一首によみ解いたのだ。
ただものでないと人が感心した通り、この子はのちに立派な僧になったとか、と『古今著聞集』哀傷の項の「空也上人詠歌慰孤児事」は書いている。
もう二ヶ月もすると八十一爺になろうというわたしだが、とてもそうは、行きません。「常の習いだから」が「泣かない」力になるとは思いにくい。ある禅の高僧は、親に死なれ、弟子や人が驚き呆れるほど泣いたと謂う。当然のこととその禅師は言っている。
2016 10/12 179
* 「夢の浮橋」についで在来「蘆刈」の読みを根底から覆したわたしの読みを発表したのだった。「夢の浮橋」論を大岡信さんは朝日の文藝時評で、また単行 本の帯で「眼光紙背に徹した」読みと例のないほど絶賛された。作品論にせよ作家論にせよ、それが書かれてその作家なり作品なりが面目を一新してしかも一段 と人も作品も豊かに面白く読み取れるように成らねば、ほとんど意味がない。ほとんど意味がないような論や研究が多すぎると、わたしはいつも不満を覚えてい る。
「夢の浮橋」を発表し追いかけるように「蘆刈」論を発表した後、わたしは近代文学の大きな学会から呼ばれて、秦さん自身の口からもういちど「蘆刈」の読み を聴かせて欲しいと頼まれた。感激したのは、谷崎松子夫人もご一緒に学会に出て下さり、話して下さったのである、そのため早稲田大学での会場は廊下にも人 が立つほど超満員だった。わたしは、思いかつ読み取ったままを熱心に話した、じかんもかけ、原作本文もていねいに読み上げながら。
「ウーン、どう聴いても、秦さんの言うようにしか蘆刈は、読めなくなったなあ」とは、会場の最前列で聴いてられた当時学会の大御所のようであった先生が、 大声で、まっさきに感想を述べられたのを、照れくさくも嬉しく覚えている。わたしの「谷崎愛」が、確乎と認められた大きな機会の一つであった。昭和五十一 年(一九七六)秋であったと思う。騒壇餘人を自覚し「湖の本」を創刊した年、三十年前、わたしの四十歳をわずかに過ぎた頃だ。
あの学会を満たしておられた知名の学者、研究者の大方が、ほとんどが、もう居られない。
* とうに亡くなっている画家の出岡実さんと対談で「月」を語り合った思い出がよみがえる。
保谷か大泉かに住まわれていて、暮れになると干支を描いたおもしろい短冊をきまって自転車に乗って届けて下さった。美しい限定特装本になった『四度の瀧』を、心籠めて装幀して下さったのも、出岡実さん。
出岡さんも、やはり地元の能楽通堀上謙さんも亡くなられた。
久しい知友の訃報が相次ぐと、胸が冷えて、悲しい。
わたしも八十、もうすぐ一、だもんなあ。
子供の時、とてもそんな歳まで生きるなど、思いも寄らなかった。おかげで仕事も出来た。
2016 10/12 179
☆ 近代の自然科学と宗教とを和解させようとしたり、すべての自然現象をいきなり宗教的に説明しようとするすべての企ては、あまり効果がなく、また現代人の精神にとってはかなり無益でもある。
神を把握することも、定義したり公式的に表現することもできない。
だが、神を愛することはできる。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* 二十世紀を代名詞化しようとした三つの特徴ある思想は、ニーチエ、マルクス、そして進化論であったろうが、ヒルティは肯定しなかった。神は死にはしな かった。しかし形式的・封建的な教会も否認していた。彼にとって、真に人の「生活に影響すべきものは、(神という=)名前の背後にある実在(=神)で あ」った。その敬虔と謙虚は酌むに足る。
2016 10/13 179
* 朝晩の冷えがほんものになってきた。そろそろ乗り物に煖房が利いてくるかも。
* 三十三巻も編輯できるのか。それでも足りないほどに、出来る。しかも仕事を続けているのだから、寿命さえあれば選集は三十三巻、かならずならぶ。質や 程度を落とすことなく、ならぶ。ただし、健康は、からだの健康も、こころの健康も、脳の健康も維持しなければならぬ。分かっている。すくなくも当座、怪我 や事故には遭うまい。
* 校正ゲラを持って池袋へ、西武線に乗った、が、めざす和食の店が閉店していて落胆した。
服部珈琲舎へ入った。珈琲の量がたっぷりだったためか、酔った気分に陥り、よぎなく、すぐ帰宅した。陰気な空模様に、気が晴れなかった。残念。「閑吟集」校正は、五十頁分もおもしろく出来たのだけれど。
2016 10/13 179
☆ こころみに、しばらく批判することをすっかりやめてみなさい。
いたるところで力のかぎり、すべて善きものをはげまし、卑俗なものや悪いものを下らぬものかつほろび去るものとして無視しなさい。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* ヒルティのこの言をもっとも喜ぶのは、今の日本では悪しき安倍政権であり、またスマホやゲームで愚民化を大車輪に手伝っている儲け主義の企業家であろう。「すべて善きもの」といわれるいったいどれほどの「善きもの」をわれわれは、今、所有していると言えるのか。
2016 10/14 179
☆ 秦恒平様
11日の火曜日に『秦恒平選集第十六巻』をいただきました。いつもながら、忝のう存じます。最初の一編と巻末添え書きのみをまず拝見しましたが、後は昨 夜に読み始め、今日は朝からご著書に取り組んでおりました。「死なれて、死なせて」は『湖の本』で一度読んでおりました。改めて読んで、感銘をより深くし ました。
キリスト者は自己の生と死を、人間が抱えている被造者の制約からの解放、被造物全体の救い、という終末論的観点から考えるので、死別を相対化していま す。他方ではしかし、キリスト者は普通の人々と同じ感情を、生と死について抱きます。いわば二重に規定された人生を生きていますので、愛する者との死別を 重く、かつ軽く、受け止めるでしょう。キリスト者には吉野秀雄のような絶唱は歌えないと感じます。今生の別れをこれほど絶対的なものとして重く受け止めら れませんから。しかし、すごい絶唱だなと感じ入ります。圧倒されます。人間の真実を垣間見ます。私も100% 人間ですから。以前に拝見したときにもそう感じました。
愛するお孫さんを急に失われた悲痛事と名誉毀損の被告になられた無念、そして訴えを巡る概略については『湖の本』を通して知っておりました。『父の陳述 かくの如き、死』は初見です。昨日来、この苦渋に満ちた詳細な叙述を読みました。事の次第を書き尽くさねばならないと決意する一人の作家の、人間の真 実、現実に迫ろうとする気迫を真正面から受け止めました。
人は理不尽な事柄を語り尽くせば、それがその人には課題設定でもあり、解放でもあるでしょう。他方、娘さんは真実の前に打ちのめされ、たじろぐことが求 められるでしょう。それで人は変わっていきます。その可能性を考えれば、この書は娘さんに対する、お孫さんに対する愛の書です。人はみな、過ちます。赦さ れない過ちはありません。赦し、赦される体験を積み重ねて、人と人との結びつきはかえって深まるでしょう。それを切に祈ります。
私は月末の日曜日に横浜のある教会でなさねばならない礼拝説教と午後の講演の原稿作りに苦労しています。どうやら自民党に所属の教会員がいるようで(そ のことが教会の活動を制約しているようですから)、教会の方々にはかなり耳障りな話をしようと決心しています。政教分離はキリスト教の、同時に近代市民社 会のいのちです。現政権は政教分離の原則も、思想・信条の自由も平気で侵し、国家が個人の生き方を決めようとしています。今、戦わねば、時を失すると強く 考え、私は昨夏以来、多少の実践をしてきました。
ありがとうございました。平安を祈り上げます。 浩 ICU名誉教授
* ありがとうございます。わたくしどもには、巻頭の処女作の題のまま「朝日子」とは生まれた日のママの朝日子です。志賀直哉全集の第一巻の第一作が、と ても初々しいアンデルセンを意識された童話なのである。はるか後年にそれを見知って、わたしが娘満一歳の誕生日に書いておいた「生まれる日=朝日子」を思 い出した。やはりどうみてもわたしの作のようである。
2016 10/15 179
* 梁塵秘抄と閑吟集とをつぶさに読み返した。「閑吟集」はわたしならではの精彩在るよみに成っていて中世への思いも勉強もいい感じに浸透している。谷崎先生の「蘆刈」の読みも徹底して正鵠を射ている。いいかげんな仕事はしてこなかったと、すこし嬉しくなっている。
初校を戻せるところまで読み切った。
2016 10/15 179
* 梁塵秘抄と閑吟集とをつぶさに読み返した。「閑吟集」はわたしならではの精彩在るよみに成っていて中世への思いも勉強もいい感じに浸透している。谷崎先生の「蘆刈」の読みも徹底して正鵠を射ている。いいかげんな仕事はしてこなかったと、すこし嬉しくなっている。
初校を戻せるところまで読み切った。
2016 10/15 179
☆ ひとから受けた不正をいつまでも思いつづけることはつねに有害であり、たいていは無益である。払いのけて元気を失わないようにするのが一番よい。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* なかなかそれが出来ない。
2016 10/16 179
☆ 人間のあいだの友情と愛とは、上品なお楽しみに堕してはならない。おたがいの内的進歩をつねに眼中におくことが大切である。内的進歩は魂の震撼によってのみ実現する。魂の震撼をあまりに恐れてはならない。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* 八十の人生を省みて、このヒルティの言には納得する。具体的にアレコレと記憶が甦るわけではないが、「上品なお楽しみ」のままな友情や愛は稔り少なくただ流れ去りやすかった。
2016 10/17 179
* 禅僧が座禅時の脳波の静謐に驚いたことがある。とても凡夫には叶わないことだ。あんな境地で創られる小説や藝術を想うことは出来ない。
創作や藝術品は、禅定のような平安の行為でも平安な産物でも、ない。つよい感動あるいは豊かな遊び心で生まれる「風狂」の所産である、しかも個性は静謐でありたい。そう、わたしは思っている。
* 昨夜、ソポクレスの「オイディプス王」を読み切った。底知れぬ恐れに無垢に襲われた。感動とはこれかと思った。ギリシャ悲劇の極致・原点にあり、世界の藝術の原点にありしかも静謐の極致を成している。
「父の陳述」など、生やさしいものだ。まだまだモノが抉り出せていない。
ソヘポクレス、引き続いて「アンチゴネ」を読みはじめている。
2016 10/17 179
☆ 人間のあらゆる性質のなかで、「最良のもの」は「誠実」である。この性質は、ほかのどんな性質の不足をも補うことができるが、この性質が欠けているとき、それをほかのもので補うわけにはいかない。
ところが残念ながら、この性質は人間にはむしろまれで、かえって動物の方にしばしば見られる。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* ふっと、微笑ましい。ヒルティは、これで、回り道をとりながら「進化論」を否認しているのだ。人間の方が動物より誠実の性質をもっているのなら「進化 論」を信じても好いが、遺憾にも人間が動物たちより性質としての誠実に富んでいるとは認められないと彼は、言い切っている。かなりびみょうなところでヒル ティは躊躇っている。
わたしはどうだろう。わたし自身も含めて人間の誠実に太鼓判をおす居直りはできない。亡くなったネコやノコや黒いマゴは徹底的に信愛しているのに。
2016 10/18 179
☆ 完全に健康でなければ、立派な仕事はできない、という見解を信じ込んではいけない。たんに「健康を守るためにのみ生きる」という考え方は、心ある人にふさわしくない。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* 人に強いる気はないが、自分としてもそう感じている。
2016 10/19 179
☆ 厭世観は、けっしてよい徴候ではない。肉体的か精神的に、かならずなにかが欠けている。こういう人の晩年に憂鬱や怒りっぽさや不機嫌が伴わなかった実例をただの一つも知らない。
力の許すかぎり、中絶せずに有益な仕事をすることは、およそ人生が与えうる一切のうちで、最も良い、最も心を満たしてくれるものである。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* 何が誰のために「有益」なのかを納得する難しさはあるが。つまるところ、自分の納得や満足に帰するのか。
2016 10/20 179
* 「春琴抄」論を気を入れて読み直した。「夢の浮橋」「蘆刈」「春琴抄」 これを越す谷崎潤一郎論が、谷崎作品論が、読みたい。残念ながら、この昭和と平成に、出会えたことがない。
2016 10/20 179
☆ 自分でものを考え、自分の意見をもつ人がもっと数多くいさえすれば、世の中はかぎりなく良くなるであろう。ロックは言っている、「世の中に間違った意見と いうものは一般に考えられているほど多くはない。というのは、たいていの人は意見などまるで持たないで、他人の意見か、ただ噂や批評などの受売りで満足し ているからだ」と。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* ま、そんなようなものだ。
2016 10/21 179
☆ われわれが人生において人の憎しみをうけるとき、その大部分は、相手の嫉妬か、報いられなかった愛のためである。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* おもわず、わらえた。
こうもヒルティは言うている、「内的進歩をしめす最もよい徴候は、善良な、心の気高い人といると心地よく感じ、愚昧で乱雑な人たちのなかでは不快を覚えること」と。
ヒルティは、性本来かどうか「お高い」気味の濃い紳士であり、自信に満ちて言い過ぎていることばもあり、しかも熱誠のクリスチャンであることもそれへカブッテ来る。その辺の顧慮をもちつつ聴けば、彼のことばは正確であると感じやすい。
2016 10/22 179
☆ 今日の人間社会の状態において、おそらく最も必要と思われるものは、真実を見わけるある種の本能である。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* ヒルティの「今日」とわれわれの「今日」はちがうが、今日のわれわれにとっても同じく言えるであろう。
また、こんなことも彼は言っている。
☆ 死後にもその人柄の印象を長く残すような人は非常に少ない。たいていの人は、重要な地位にあった者でも、数年ならずして忘れられてしまう。最も長く心にのこるのは、その人の誠実の追憶であり、また女性の場合は、彼女のやさしい愛情の思い出である。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* 「誠実の追憶」というのは微妙にアイマイだが、「やさしい愛情の思い出」というのは女性と限らず、うったえてくる。
2016 10/23 179
☆ どんな仕事でもすべて、長い間かかってまわりくどい「下準備」などはせず、即座に元気よくとりかからねばならない。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* ヒルティさん、ちと乱暴ではあるけれど。それでも彼は言う、「人生の重大な別れ目においては、つねにまず敢行することが大切である。そうすれば、おのずから力が生じ、最後に、その行為が正しかったという洞察が与えられる」と。
結果を見た洞察などどうでもいいが。
* 湖の本132の郵袋へのはんこ捺しを始めた、が、頸が痛み始めたので、機械の前へ戻ってきた。なぜ、こうなるか。何かが過剰なのだろう。しかし、前へ歩いて行く。立ちどまる気は無い。死はいつ来るかしれない。
じつは今度の入院で一度、退院時にもう一度、死を感じた。
入院中の一夜、俄かに暑いと感じ、それが熱くなり、目の前が白濁しながら激しく揺れ始めた。このまま寝入ればいいのかなとも感じたが、夜中巡回のナース に告げるとすぐ「血糖値、低い」と。それですぐ分かった、これに近い体験はインシュリンとご縁の十数年來に数度は体験していた。価を確かめると「41」と 言う、それはあまりに低すぎる。ナースは駆け戻ってブドウ糖を一袋呉れた。それで、すぐに持ち直した。だが、幸いに糖の補給が得られなかったらやがて 「ショック」が起き、死も優にあったのだ。「110」で正常という血糖値が「41」というのは、あのりに低い。しかしまた糖分を摂れば回復もする。
問題はなぜそんな数値が夜中に来たか、だ。
「点滴」中の抗生物質などの影響であったかもとかすかに聴いたが、正確には聴いていないし分かっていない。要するに「死」はすぐ目の前まできている「事実」だけをわたしは自覚した。
退院して昼食後の堪えがたいほどの激しい苦痛も、もし、わたし独りでいたなら、かなり危険な症状であった。まぢかな喫茶店へ入り、「水」を繰り返し返し 摂り続けながら、手探りで、いつも用意している手持ちの「クスリ」箱を取り出し、硬結してくる頸の痛みを大目のアリナミンで和らげようと努めた。これが幸 い奏功、しかし、今度は付き添っていた妻に変調が起き、病院救急へ車で駆け戻った。
* 何が起きるか分からない、だからこそ、敢然と生きて行くしかない。
2016 10/29 179
☆ 拝復
『秦 恒平選集』第十六巻をご恵送いただき、誠に有難うございました。
秦文学のキーワードといえる『死なれて死なせて』が「核」ですが、
異色作(と言ってよいでしょうか)『父の陳述』は、時代へ社会へつながって批評のある、主張のある、凹まない「私小説」の実作として、関心も持って読ませていただきました。
今年も京都の秋は遅いようです。
まだ紅葉は見られません。 草々 田中励儀 同志社大教授
* 「つくり」の難しい小説であった、何故なら裁判所へ提出して相手側と闘う「陳述書」とは、正当で尖鋭な事実と主張(攻撃・反駁)、それらの緻密な時系 列を誤らない具体的な叙述、柔軟な説得力と批評により、でつとめて分かりよく書かれねばならない。小説にはありがちな自然描写やムーディな世話・会話は必 要としない以上に、無用の邪魔になる。普通にはあまり無い「小説」表現になる。しかも田中さんの言われているように、「時代へ社会へつながって批評のあ る、主張のある、凹まない『私小説』の実作」でなければ、つねづねわたしの言いかつ求めてきた「作家として実験に富んだ」創作にならない。
うまいかへたか、は、一応今は論のそとに置いておくが、わたしは、徹底的にうえの通り実験を貫いた。そして「私小説」であると、あるいはこれが一人の作 家であり市民である秦 恒平が抱きかかえて苦しみ闘ってきたモノと読み取られ、何の間違いでもない。前巻に所収の長編『逆らひてこそ、父』も準じて読まれてまったく差し支えな い。以上、一言しておく。
一週間前のこの言葉も大事に再掲しておく。「 今日の人間社会の状態において、おそらく最も必要と思われるものは、真実を見わけるある種の本能である。 (カール・ヒルティ 1833-1909)」
2016 10/29 179
☆ 世の多くの人びとは、自分が何を欲するかを、まるで知らない。また、それをよく考えることもほとんどしない。
可能なこと、つまり、自分の力と現実の世界秩序とに相応したことを、確固として辛抱づよく欲する人びとは、つねにその目的を達成してきた。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* 上のヒルティ二段落はじめの「と現実の世界秩序と」を、わたしは抹消する。端的に「自分の力に相応したことを」で良い。今日、「現実の世界秩序」を安易に受け入れてはならない。革めねばならない。
同じヒルティの言に聴くなら、「われわれが自己を改善しようと努力する場合に、あらゆる悪を避けようようとするよりも、すべて醜いものや卑俗なものを避けようと決心する方が、直ちに、もっと効果があがることが多い」と言うているのへ、概ね、頷く。
2016 11/1 180
* 篠崎仁さんに、「臨済録」を愛読していると書いた。書きはしたが、要するに「臨済」師に手ひどく叱られ叱られ叱られ続けるのを感謝しているという話。 臨済の獅子吼にただただ反して背いてはなはだ事多くのみわたしは生きて生きて汚れにまみれているだけのこと。恥じ入るすべも知らない。
寒暑に代謝有り
人道も毎(つね)に玆(か)くの如し
達人は其の会(え)を解し
逝くゆく将(まさ)に復た疑はざらんす
忽ち一樽の酒と与(とも)に
日夕 歓びて相持せん
陶淵明にも、臨済禅にかよってかつ心優しき清閑の美がある。
2016 11/3 180
* 八十老ふたりだけの暮らしを、いろいろに案じて下さる人が増えてきた。先日の入院では、妻の負担を憂慮して可能な限り家でやすんでもらい、わたしは病 室で黒いマゴをその上で見送った毛の膝かけと一緒に静かに過ごしてきた。保谷から聖路加は有楽町線で一本という幸いはあっても、保谷駅まで、また新富町か らの歩きは、ましてモノを持ってでは、けっこう遠い。妻は心臓への動脈にステントがもう数本も入っている。
これからの暮らしをどうすこしでも安全に立てるか、息子は忙しく、まだ老境の安全についてしみじみ具体的に話し合えたことがない。
わたしは運命のように、生まれつき気をつけ気を利かせ気を働らかせ、東京で多忙に暮らしながらも、京都の、大恩も義理もある秦の父や母や叔母との連絡をたやさず、ついには三人ともに我が家へ引き取りもした。妻も、健康をゆがめるほど、よく老人のため働いてくれた。
いま建日子は仕事が面白くて生き甲斐をすべてひこへ注いであり、幸せなこととわたしたちもじっと見守っている。わたしも負けないほどまだまだ忙しく仕事 を続けている。が……正直なところ明日のことも必ずしも万全とは保証がない。どう困っても、手伝い手は、いない。そのけわしい現実を見据えながら、極力要 心に用心しつつ後期高齢の翁媼の日々をどう設計し続けて行くか。幸せにも今まだ夫婦で暮らせているが、妻の負担は日々に重いのだ。
西ニ疲レタ母アレば 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 宮澤賢治
* 望むべくもない。ひたすら慎重に、協力しつつ生きて行かねばならぬ。イージイな抱き柱は、我が家には、仮に望んでも無いと諦め、しっかり暮らさねばならぬ。いまなお暮らせている幸せをわたしは、天に、そして妻に、支え励まして下さる読者に、感謝している。
2016 11/4 180
* 夜中に手洗いに立ったあと、また寝入るまでにすこし間があり、そんな時に不快なものおもいをしたくなくて、なにかしら自身に問題を問いかける。話材はたいてい小倉百人一首だが、昨夜は、誰のどの歌がいちばん好きだろうと。
しばらく思案し穿鑿して、やはり「伊勢」かと思った。
難波潟みぢかき蘆のふしのまも
逢はでこのよを過ごしてよとや 伊勢
そういえば、こんな反歌をわたしは添えたことがあった。
伊勢うつくし逢はでこの世と歎きしか
ひとはかほどのまことをしらず と。
2016 11/5 180
* 「選集⑲」の本紙初校を、要再校で送った。この巻が出来てきたらわたしはそれは嬉しがるだろうと想う。
「湖の本132」の刷りだしが届いた。これで「創刊三十年記念」企画の結びとし、以降、平生心でさらに刊行し続ける。発送用意もほぼ仕上がっている。
「湖の本133」の初校をすでに始めている。
「選集」第二十巻の入稿原稿づくりも半ばを過ぎている。この一巻も、秦 恒平のためには重い懐かしい一巻になる。
2016 11/5 180
☆ 古代の知恵の最も美しい表現は、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの有名な日記の一節に含まれている(この日記は、皇帝が急死したさいに、その長袍の襞のなかから発見されたとつたえられている)、
「たえず何かしら人びとの役に立つ者になれ。そしてこのような不断の鷹揚さをおまえの唯一の楽しみとせよ。しかも、時おり神性へ一瞥をささげる義務があることを忘れるな。」 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* わたしも実にこのアウレリウス皇帝の遺著に心酔し敬服を惜しまずに来た。シドッチ神父の来日行に際してあえてこの日記を所持させたのも、わたし自身の 願いであった。ヒルティの引いている一節も美しい。まだまだ、まだまだ心を打つ美しくて深くて静かな思惟の輝きがアウレリウスの「内省録」には籠もってい る。懐中書としてもっともっと広く親しまれ敬愛されていい一冊だと思う。岩波文庫にして、軽量の一冊、文字どおり懐中に値いしている。
☆ 陶淵明に聴く
閒居すること三十載
遂に塵事に冥(くら)し
詩書 宿好を敦くし
林園 世情無し
如何なれば此れを舎(す)て去らんや
* 此の三十年、「湖の本」とともに「騒壇餘人」を自覚し、「塵事」の世をただ「ウソクサイ」と恥ずかしく眺めつづけてきた。わが「林園」は「いま・ここ」に在り、それすらも無い。
2016 11/6 180
☆ 信念の欠けた者はいつまでたっても埒のあく日はない。(少信根の人、終に了日無けん。) (臨済 唐末期・九世紀の禅師)
* 真っ向、打たれている。『臨済録』は宗派の聖典とはまったく違う。見識が師以上でなければ無意味とされた厳しい師資相承の唐代禅の大雄峰。「埒のあかない」一人であるが、ただただ向きあって聴いている。バグワンにも同じい。
☆ 人との交わりにおいて、最も有害なものは、虚栄心である。虚栄心はつねに見すかされる。虚栄心は決してその目的を達し得ないのだから、悪徳のなかでも一番ばかばかしい。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* このヒルティには素直に聴くべきである、その通りである。
☆ 陶淵明(365-427 晋の詩人)に聴く。
人も亦た言へる有り
「心に称(かな)へば足り易し」と
玆(こ)の一觴(=盃)を揮ひ(=飲み干し)
陶然として自ら楽しむ
* ま、せいぜい、このへんですか、ね。
2016 11/7 180
☆ 拝啓
朝晩、急に冷え込んでまいりました。お変わりございませんか。
早くに「選集⑯」お贈りいただきながらお返事遅くなりました。申し訳ございません。
「私」小説の、あまりに重い内容に、どうお返事すればいいかわからなくて戸惑っておりました。
以前「湖の本」に発表されたときは、すぐ、娘の結婚、離婚と孫たちの事件を思い出し、とても辛いお気持ちでお書きになったのだろうなと思いました。今回は加えて、作家として書かなければならないという宿命のような覚悟すら感じました。
「糸瓜と木魚」論、初校をすませました。また出ましたらお送りさせていただきます。
どうぞくれぐれも身体大切にお過ごしください。 奈良県 研究者
* 往年の葛西善蔵、嘉村礒多、また志賀直哉にしても徳田秋声にしても、その他多くの私小説作家の作には、文字どおり凄いのがあった。研究者も批評家も何の こだわりも臆面も無く読んで語っていたと思う。このほどの読者、研究者、温和しすぎるのではないか。本気でわたしに書くなと諫め顔だった若いべつの研究者 を思い出す。
昔の文学者たちの論争の猛烈だったこと、懐かしいほどに思い出す。最近、まっこうパンチをくり出した文学論争など聞いたこともない。文学精神がひよわく 解体しているのだ、まさに「文学」の姿勢が総じて通俗化している。スマフィ作家や批評家や研究者に成り下がろうとしている。
* 選集⑱の「あとがき」を書いたので、その余ツキモノを用意すれば、先がはかどる。
* 2005年の「京の散策」を読んでいて、ほ とんど小説の中での描写や表現に近い精度で気を入れて京の風光を書いているのに、すこしビックリした。あ、このまま小説のなかへ溶け込ませて少しも差し支 えない、と思った。「私語の刻」はいわば日記、それに自然と小説を書くときと同じ密度で描写したり表現したりしている、わたしに、そうさせるものが「京 都」にはあるのだな。十年以上もむかしの記事が、すこぶる懐かしい。文藝として、文学として日記も書いているつもり、それが、往年の京への旅日記に綺麗に 見えていて、かえって少し驚いた。
* 京都へ帰りたい。
2016 11/7 180
* 山折さんの『ひとりの哲学』、大事なことへ触れてきておられる。読んでみたい。が、「ひとり」の問題は哲学とともに生活行為学でもないと、やって行けないでしょう。
2016 11/7 180
☆ 陶淵明(365-427 晋の詩人)に聴く。
采采たる栄木 玆(ここ)に根を托す
繁き草 朝に起るも 暮には存せざるを慨く
貞(=正しく身を持する)と脆(=もろく折れる)とは人に由り
禍と福とは門無し(=定まった原因は無い)
* この後ろへ、「道」に依り「善」に敦かれと二句あるが、そこまでは引かない。引けないのかも。
2016 11/8 180
* そんなことより、今日の大事件、驚愕、はアメリカの大統領選挙で、政治未経験の半ばならずものとしか見えず聞こえない、がさつなトランプが、ヒラリーー・クリントンを凌いで勝ちそう、もうほとんど勝ちを決めかけているということ。
ヒラリーが勝てば初の女性大統領、トランプが勝てば「アメリカ最期の大統領」と謂われていて、この成り行き、アメリカは自滅の世紀へ「身投げ」するらし い。日本への悪影響も想像を絶するだろう。我と我が身の高齢を、ふと、助かるなと謂った気分で自覚しているのが、情けない。「二十一世紀」を語った「秦教 授(はたサン)」はこう言い置いていた。
「 もう来てしまっているので、未来を指向したり待望したりは、出来ない。だが、世紀二十年もまだ経ってはいない。世紀の八割方は残されてある…と言いきれる。
いや待て、本当に言いきれるのか。
世界の残る今世紀と、日本の残る今世紀とを分別するとして、どっちの残り今世紀も、「残れるの、ほんとに」と危ぶむ不安が濃い。具体的な危害や侵害や戦争や大天災・大地災を、在来のどの世紀以上に孕んでいるのも、諸観測・諸測定に拠れば否定できない。
ま、それは暫く措くとして、具体的に今世紀が特徴づけられのは、生産や技術や生活の面にとどまらず人間の精神の深くにまで「機械」が侵略の歩を進めてき て、便利と快適を謳歌している尻にもう火がついて、事が機械を使うのでなく、機械に人が使われているという「機械環境」の普遍化と「人類社会」の劣化が恐 ろしいまで拡大するだろうという予測がつく、すでにそんな恐怖の跫音がまぎれなく聞こえて来ているということ。
「環境」といえば山や川など自然環境を語って居れば済むというふうに知識人は旗を振っていた、もうその頃にすでに人間の精神環境は、機械の浸潤・浸蝕・侵略に無抵抗化しつつあった。
たいへんなことになるだろうと、今年八十歳のわたしは憂慮している。なにもかも機械がしてくれて、人間はみな機械のゲームにウツツを抜かして幸福がっているか知れないのだ、情けない。
もう、日々にそうなりつつあるではないか。」
トランプがどれほど乱暴に向こう見ずに世界を引っかき回すのか、分からない。予断は出来ないが油断も出来ない。
情けない世紀が、徐々に腐臭を放ってきたか。誤解であって欲しい。
2016 11/9 180
* 「湖の本133」を「要再校」で戻した。手元にすき間を造っておかないと仕事が息苦しくなる。明日からの発送前に、「選集⑲」「湖の本133」と再校 待ちで印刷所へ戻せたのは有り難い。「選集⑱」の再校ゲラが出ており、「選集⑳」の入稿用意が半ばへ来ている。年内に「選集⑰」も送り出せる。肩の荷をす こしでも軽く軽くかつ慎重に進めて行くのが編輯という作業の要諦である。およそ半世紀にも近くわたしはこの作業にわたしは手慣れてきた。併行して、無数に 原稿を書いていた。自身は「寡作」と感じて時に口にもしてきたが、今になってみると寡作は自己誤認であったよ。
* 文藝誌「新潮」の突然の手紙で呼び出され、筑摩の太宰治賞を受けてほどなく新潮社の新鋭書き下ろしシリーズに加えられて『みごもりの湖』を書いた。そ の創作途中に担当の編集者池田さんから戴いた現代語・古語の入った久松潜一監修『新潮国語辞典』を、四十七年近く文字どおり手近に愛用し続けてきて、つい 先ほども「刺」という字が「名札」を意味し「名刺」の「刺」であることを確かめたばかり、それにしてもさすがに手擦れで、表紙はガムテープで剥がれは防い であるが、気の毒なほど表紙じたい痛んで反り返り裏剥がれたりしている。お世話になったなあと、つくづく。どう見た目は窶れても、版型といい厚さといい、 じつに温かに手慣れて懐かしいのである。
小説の良い読者とは、いい想像力、優れた記憶力、創作性のいいセンス、そして、進んで辞書をひく気性と挙げていた世界的な作家がいた。辞書を座右に愛し うることが優れた読書の基礎の条件だという、わたしは諸手を高く上げて賛成した。今一つ加えれば、「繰り返し読めるちから」「本当の読書とは、再読から始 まる」とわたしは思ってきた。自身そう楽しんできた。上の条件を皆満たしている読者に、再読を誘わない作や本は、足りないのである。
わたしはこれぞという本を一読だけで棚上げしたこと、ほとんど無い。近年読んで、いま強く再読を心誘われているものに、ミルトン『失楽園』がある。宇宙 を飛翔するように我と現実とを忘れうる。詩といえる作の最大規模の最優秀作ではないか、しかもほぼ失明のまま書かれたという。
* わたしもほどなく失明に近いことになる、が、限界までは体力を保ち根気を保ち、時間を惜しんで半歩でも一歩でも仕事の前へ出たい。ムダに遊んでられる ヒマはない。わたしの仕事に不二の価値があるの無いのではない。意義は何もない。他のだれにも出来ないこと、というだけの話。笑い話であるが。
* 腹具合はよくならない。すこし間違うとまた入院になる、心づかいしてそれは極力避け、よく寝て視力をすこしでも労りたい。元気の少しは残っているうちに、いちどでいい京都へ帰りたいが、叶いそうにない。
☆ もしあなたが憂鬱であったり、不安であったり、そのほか不機嫌なときには、すぐ真面目な仕事にとりかかりなさい。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* これぞ、わたしの信条でもある、心情でも真情でも身上でも、ある。
2016 11/10 180
* このあとは「梁塵秘抄」「閑吟集」を読んで行く。米国のトランプ騒ぎから、少しく雅にしんみりと、逃避したい。語っているわたしが、生き生きしている。病気など綺麗に忘れてしまう。
* 朋あり、遠方より帰り来る、また嬉しからずや、という心地になれる。
2016 11/12 180
☆ すべての苦難は、それがのちに現実となった時よりも、その前に想像されていた時の方が、よほど困難・難儀・厄介に思われる。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* そう実感したことは数えきれず多い。例外は有るが。
2016 11/13 180
* 昭和初年の谷崎先生に触れ続けていると、あまやかな苦痛すら覚えながら、久々に「吉野葛」を読みたくなる。わたしが日本現代作家の作を最初に岩波文庫 を買って読んだのは、「☆」一つの『吉野葛・蘆刈』だった。その本は、まだ大事に持っている。岩波文庫「☆」一つが十円であった、のが十五円になってから だったか、そこまで覚えていないが大事に大事に読んだ。西洋のものではシュトルムの「みづうみ」でやはり「☆」一つ、古典では同じく、「徒然草」を買っ た。上下本で合わせると「☆」五つの「平家物語」を買ったのは大奮発であった。とはいえ、どの一冊も、後年の作家・秦 恒平の大きな滋養にも助けにもなってくれた。なにしろ「湖の本」とまで名が付いた。「蘆刈・吉野葛」は、一つには谷崎論の要に成ってくれたし、また母もの 谷崎の感化からいつしかに『生きたかりしに』へも導かれたと思う。
「徒然草」は『慈子』に成ってくれた、「平家物語」は『清経入水』『風の奏で』などに化けて出てくれた。まだ今もあわよくば、新作『清水坂(仮題)』へ跳ね返ってくれそうである。
* 幼いながらも、文学の優れた名作や秀作に出逢う有り難さは、人生に響いてくる。詰まらない読み物からは、所詮得られない、深い熱い刺戟がある。わたし も「小説を書く」なら、そんな力有る「作品」を生み創りたかった。わたしの作が、人の或る苦しかった時期の「救いでした」と何度か何人かから打ち明けられ てきた。昨日も、「二十年前」を回顧した「救いでした」というメールを、久し振りに貰っていた。なにがどう働くのかは人それぞれであろう。わたしは、ただ 心籠めて書くだけである。「救う」ために書くのではない。
2016 11/13 180
* クロネコやまとに荷を渡しても、どういう事情でか、発送されていないという。経営に無理が重なっているのか、従業ら問題が出ているのか、分からない。
ま、わたしは、身を休めることを主にしたい。
もうすぐ、待っていた松たか子の芝居を観に行く。先日の姉・松本紀保の『治天ノ君』は秀逸であった、負けない面白い舞台を期待している。
今月半ば以降は、月曜ごとに聖路加の診察がある。月が変われば、五日に「選集⑰」が出来てきて、送り出したあとの師走は、かなり寛げる。思い切り、創作へ重きを置く。一度、遠くないあたりまで新幹線に乗れないものか。
* 歴史に取材した文学と、時代読み物とは、まったく別と思っている。亡くなった元「群像」の鬼編集長大久保房男さんは徹底して時代物、歴史物を嫌われ た。わたしは時代物は低俗だが、佳い歴史小説は有り得ますと抵抗していた。しかし大久保さんの姿勢には基本与していた。講談社の日本文学全集には吉川英治 も入っていなかった。直木賞作家で入っていたのは井伏鱒二ただ一人だけだった。それほどの厳しさが文学の名において守り抜かれていた。もうあのような厳格 な文学全集は編まれない。
* そんななかで、テレビドラマの時代もので、藤田まこと、山口馬木也、堀島しのぶの「剣客商売」は愛している。本格の歴史ものでは、鴎外原作の「阿部一 族」を超えたテレビ映画には出会えない。劇場映画では優れた作品がいろいろあり、それはもう文学でなく映画芸術なのである。「羅生門」「七人の侍」「近松 物語」など。ほかにもいろいろ。しかしテレビドラマでは、時代物の九割九分が屑である。もっとも現代物の九割五分も屑である。電波が勿体ない。
2016 11/13 180
☆ われわれは、あの事この事について、なにが最も賢い処置であるかを問うかわりに、なにが「最も愛の深い仕方」であるかを問う方が、たいていの場合、たしかに良策である。
なにが愛の深い仕方であるかについては、才分の乏しい者でも、自分を欺こうとしないかぎり、そうたやすく錯覚に陥ることはない。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* これは「達者」の示唆である。従えるならこの示唆に随うのがもっとも心よくはあるだろう、かならずしも容易ではないが。
わたしはヒルティの示唆になにもかも賛同はしてこなかった。こうして引いて挙げている彼の所感や示唆は全体の一割にも満ちていない。ことに神や基督教信仰と触れ合った言説からは、たとえ共感できる何かの有るときでも、あえてすり抜けている。
2016 11/14 180
☆ 魂の底にふれることなく、ただ良心をなだめるためにのみ存在する、外面的な、わざとらしい宗教を持つよりも、全く宗教など持たない方が、おそらくましであろう。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* つよく同感する。
が、この際の「宗教」を「信心・信仰」と置き換えても、そうか。迷信と異ならず迷信と承知しつつ、われわれは凡庸なまま平然と念仏したり神様を呼んだり、まま、している。そんな安定剤なみの信心もとりあげてしまうべきか、どうか。
2016 11/15 180
* さきの「選集」第十六巻は、さしあげた方々にかえって苦渋を強いた虞れもあって恐縮してきたが。
☆ 秦 恒平様
謹啓 「秦恒平選集」第十六巻(「生まれる日 または朝日子」「死なれて 死なせて」「父の陳述」)をご恵贈賜り、まことに有難く心より御礼申し上げます。この度も発刊早々に賜りましたこと、重ねてのお心遣い有難く、感謝いたしております。
重い重い作品、三作。軽々には読めないという思いで拝読させていただきました。じっくり読み、どれほどの理解に、また共感に至れたかは、非才忸怩たるところですが、一生懸命読みました。
「生まれる日 または朝日子」は子を生む親 一 我がなした子を世界に送り出す親の、造化の神のごとき覚悟と期待、深切なるイデーを感じました。天上の湖は、さながらノヴァーリスの「青い花」のように、 涼々と「永遠の命」を生み出す命の湖であり、万物の過去・現在・未来をはらみ、天地のすべてを映して超然と存在しています。また両性具有の老人「昨日」 は、預言書を持つ隠者ホーエンツオレルン伯でありますが、預言されたハインリヒの未来をマテイルデの霊的分身ツアーネが可能性としての未来に導いたよう に、夕日子が「昨日」を封印して、朝日子の未来の無限性を拓いたと感じました。因果の小車を断ち切って、全く新鮮な純粋自己となって、朝日子は未来に向 かって生きていくのです。命の顫きを感じます。
私の母や父も、またすべての子の親は、期待を不安に、不安を期待にして、我が子を懸命に育て、この世に送り出してくれたのだろうと思います。しかし、 「昨日」も「夕日子」も、決して消滅してしまって、完全なる無となったわけではなく、朝日子の命のなかに、影の形に添うごとく存在し続けます。眠り姫を導 いた十三番目の魔法使いの預言のように。小車のごとく永遠に回転し続ける輪廻世界に咲いた、一輪の花「命」、それが「運命」ではないかと、神秘的な思いに 打たれました。
「水底からふくれあがるふしぎなうねりに波の花がやさしくくずれる」湖は、まさに命の根源としての「湖」を観念する秦文学の濫觴、根源的イデーの象徴と感 じさせていただきました。真の処女作ともいうべき「生まれる日 または朝日子」は、直哉の「菜の花と小娘」ではなく、むしろ「母の死と新しい母」に比すべ き作品と感じます。「菜の花と小娘」には小娘のエゴの強さや、小娘の不合理な感情にもてあそばれた菜の花の奴隷的な哀れさに、自然感情を絶対イデーのごと く信じて行動した志賀直哉の心性の一端をみることは出来ると思いますが、後年の諸作品の萌芽の影をみることは出来ないし、処女作としての象徴性がないと私 には思えます。童話的語り口という点では、「生まれる日 または朝日子」も同じラインにあるといえますが、生意気を言うようですが、創作意図も覚悟も、そ の深さに於いてまったく異なるレベルの作品と感じさせていただきました。
「父の陳述 かくの如き、死」は湖の本101号「凶器」(原題)で読み、再読になりますが、またいろいろ考えさせられました。
命、法、親子、他者、狂気、悪意、非情、無関心等々が不合理の裡に渦巻いていますが、少女の消えてゆく命の前に、それら命を除くすべてが、空しく実態も なく薄い紙切れのように舞い去って行く感じがいたしました。問われるは良識であり、法の精神ですが、ここでは、「良識」は一回限りの命の絶対尊厳の上に 立っての「良識」であるのに、問われる「法」は機械的機能的な「法」であって、まったく命の観念すらない無機的な観念の「法」として、対峙していると感じ ました。
狂気は三分の理をもって言いがかりをつけますが、言いがかりを無視し、三分の理を採って狂気を正気かのごとく擬装してしまう「法」は、真に法の精神を活 かしているとは思えません。法が結果として、法を施行する人間の感情や性格に左右されるとしたら、法の正義はどこで保証されるか、と思いました。特措法の 成立に与って違憲を合憲と言い切った法制長官の政権におもねった厚顔、そして無恥を思い出しました。
不合理で理不尽な訴えに、正面から陳述する清家次郎氏の姿には、カフカの「城」の永遠に来ない指令書を待って、迷宮のように寒村をさまよう測量師Kが重 なります。「額」小説的構成で、清家次郎氏の、結局非常識であるところの世間との交渉、若くして、見捨てられたように命はてていく孫娘飽海ふじ乃の悲壮な メール、母親としての自覚が欠如した飽海櫻子の不可解な行為と小説-そこに表現された飽海専太郎の常軌を逸した行為や悪意の発露などが、モザイク模様に展 開されますが、正義の脆さと正義を踏みにじって居直る悪のしたたかさが実に不気味であり、厭悪感に襲われました。
最後に清家次郎氏が亡くなられて、懸命な陳述書が、本当の「遺書」になってしまった結末には、言葉もなく深い悲しみに襲われました。陳述が祈りになり、 祈りとなった陳述は、読者の胸裡に哀しい叫びの木霊となって響きます。そして、その叫びのなかに、従容として死を受け入れ、なにもかも許して天に還ってい った少女一孫娘飽海ふじ乃の清らかな姿が浮かび上がります。
さながら飽海ふじ乃は「生まれる日 または朝日子」の朝日子がこの世にすすんで生れてきたのとは、逆の道をたどり、天上の森深い、しずかな湖で、ふたた び「夕日子」にまみえていると、思えます。ながれる波紋が、「湖の真ん中でぶっかりあって、白い波の花をきれいにさかせ」ている、命の湖のほとり、ふじ乃 と夕日子は二人相並び、岩に腰かけ、月と満天の星々を眺めている。そして、再び、この世に生まれる日を待っているのです。孫娘飽海ふじ乃の天上の救いが、 清家次郎氏の救いとなることを確信し、祈らずにはおれない心になりました。
感傷的な感想になりました。三作の有機的なつながりが、第十六巻を誕生と死、そして背きと許しを雄大な流れにして読ませます。方向のちがった著述が 「私」から流れ出て、「私」に向かって流れていく、あるいは「私」という塔を築いていく、そこに確かな、固有の人生と人格が浮かび上がっていると感じさせ ていただきました。深いところは、とても汲み尽くせませんが、感じ取った限り、未熟、拙劣ですが書かずもがなのことども書かせていただきました。勝手な思 い込み、多々であると思います。どうぞ、失礼の段はご宥恕のほど、お願い申し上げます。
早くも冬季を迎え、日々寒さが募ります。体調の不具合いろいろ出てくる季節かと存じます。どうぞ先生には、奥様ともに、ご健康専一にご自愛くださいますよう、心よりお祈り申し上げます。
まずは、御礼まで。
ご本大切にいたします。本当にありがとうございました。 敬 具
平成28年11月14日 作家 小滝英史
* 遙かに遙かな昔の処女作となった、パパのおはなし「生まれる日 朝日子」を心して巻頭に置いた願いとも祈りともいえる短編を、正確にとらえてこの一巻 のうちに意味付けて下さったのを、心底 深々と感謝申し上げる。「本望」とはこういうことかと、掌を堅く熱く握っています。
* もう一通、それは今度の選集や湖の本とはちがい、敢えていわばあの「初稿・雲居寺跡」とふれあう鎌倉時代の武将家のことどもお書き頂いたお手紙を、神 奈川二宮の高城夫人から頂戴していて、お手紙と別に、絵本「牛若丸」復刻版から一頁の繪語りを添えて頂いた。これがまた、実は書きかけ書き進んでいる新作 に触れ合ってくるので、感謝し喜んでいる。
高城さんからのお手紙は、以前の一通も今回の一通も、ちょっとこのままはご紹介できない貴重な一歴史証言なのである。高城さんからの刺戟で、じつは、私も鎌倉武家の一二の動態をまさぐっているのです、佐々木氏、河野氏を。
* 読者は有り難いのです。まことに、有り難いのです。
2016 11/15 180
☆ 全体として善い生活をすごしてきた場合でも、それが陥る最も危険な時期は、ときとして、生活がいくぶん退屈になりはじめる頃である。 むしろ苦悩を、新たな種まきの時期として利用するのが良い。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* 同感する、そして努めてそのように生きてきた。魂の凍えるほど日の下が苦しく寒かった日にもわたしは「新たな種まき」に励んだ。人によれば作家・秦 恒平後半生の汚点かのように見られかねぬ「逆らひてこそ、父」も「父の陳述 かくの如き、死」も、わたしは決然と書いた。作家なら当然と心決めて書いた。 浅い私憤や逃避のためになどわたしは書かなかった。
* もっとも、ヒルティにこう聴いて頷いたわたしは、同時に詩人陶淵明や臨済和尚にも聴いている。彼らはまた別の境地を聴かせてくれてわたしは憧れる。これは矛盾や撞着なのか。たんにわたしがバカであるに過ぎないのか。
☆ 陶淵明に聴く
去り去りて当(まさ)に奚(なに)をか道(い)ふべけん
「さっさと隠遁するだけのこと、何をためらうことがあろう。」
世俗は久しく相欺(あひあざむ)けり
悠悠の談を擺(はら)ひ落とし
「世間のよいかげんな取沙汰など払い捨てて」
請ふ 余(わ)が之(ゆ)く所に従はん
「わが道を行けばよいのだ」
* 「わが道」も人それぞれであろう。
☆ 臨済に聴く
少信根の人、終(つひ)に了日無けん
「信念の欠けた者はいつまでたっても埒のあく日はない。
2016 11/16 180
* その前に、仕上げ前の「ユニオ・ミスティカ」に新しい着想での書きくわえを試みたい。
2016 11/17 180
* NHKのBSプレミアムで「恋する一葉」という佳い番組に出逢い、妻と、感動しつつ見通した。画面を通じて言われている大方は、ほぼ全部は知識として 持ち合わせており意外ななにものも無く、思いを新たにした嬉しさであったが、しかもなお「文学の人・樋口一葉」の「存在感」の大いさと毅さと確かさを再確 認できた歓びも感銘も深かった。大きな人は、年齢にかかわらず出だしに於いてすでに大きく確かでブレていない。一葉のまわりには、まことにさまざまに男ど もがあらわれたが、真実惚れたのは二流作家の半井桃水であり、真実知己の思いを持ったのは斎藤緑雨ひとりであったろう。しかしまた正岡子規の讃歎の弁も、 鴎外、露伴、鏡花、また文学界の連中の称讃も本音に相違なかった、ただその本音のかずかずも一葉貧苦のたすけには成らなかった。じつに一葉は緑雨の見抜い てかつ奨めたように、貧という「怨み」を「冷笑(あざわらひ)」に換えて「まっすぐ」闘い抜いた。「たけくらべ」「にごりえ」の只二作だけであっても、そ の基盤に生涯の日記と短歌とをもち、比類無い近代作家、いやしくもよそ見をしない純文学藝術家として屹立しえていた。
* 瀬戸内寂聴が番組の中で語っていた、一葉その人の女と男のあれこれなど、かりに何が在ろうと問題ではない、真実大きいのは一葉が断然として優れた小説 を書いたという「それ」だと。まことに、その通りである。優れた作品の書き遺せない作家など、商売人として以外には、無意味なのである。
2016 11/18 180
☆ 略啓
御壮健何よりです。「湖の本」有難く頂戴致しました。
小説作法として 井伏鱒二のやうに 版を改める度に大きく手を入れる人と さうでない人がありますが、 今度 秦さんのお考へをおきかせ下さい。
向寒の砌 御自愛を祈ります。 不備 前・文藝春秋専務 寺田英視
* 井伏鱒二の「山椒魚」が初出稿からはげしく変化したといった噂を聞いた気はするが、何も知らない。
私ごとに限っていえば、作が、一字一音といえどもより良く、より「作品」を湛えて美しくなる限り、作者は精いっぱい作を推敲して当然と考えています。
2016 11/18 180
* 「秘色」を書いてから、47年、まだ往時は渺茫とは思っていない。歩けさえすればまたあの寺址まで登ってみたい。創作の秘鑰は「旺盛な想像力」と「文 章」だと、しみじみ思う。個性的な文体を駆使して佳い文章が書けるのは、創作の場合、豊かな想像力があってこそ、である。
2016 11/19 180
* 血尿を出してもう半月も入院しているという八十五歳、立教大名誉教授の平山城児さんから、ちょいとは書き写せないほど長文の、震え歪んだ字のお手紙を もらったのが、もともと歯に衣きせない方の人のようだが、意表に出て面白かった。「『斎王譜=慈子』を一字のこさずよみおえました。とにかく実におおこし い複雑な話をよくもここまでまとめたものかと感心しました」がお褒めの一行で、すぐ、「実話かと思われる朱雀家にまつわる部分は、二人の自害者(それもほ とんど同じ形での)を生むという悲惨なものがたりで、事実かどうかは別としても、物語としても悲惨すぎて読み進めたくなくなります」とつづくのに、思わず ニタッと笑えた。「実話」かと想われるほどとは有り難いが、「死」を描いて「悲惨」といえば、世界中に、ぞおっと総毛立つほど感銘を得る悲惨にして優れた 物語は、山のようにある。源氏物語にしても雨月物語にしても。漱石の「こころ」にしても。子供の頃に読み耽った「嵐が丘」は、悲惨そのものが美しく激しく 換えがたい糧になった。「ハムレット」も「リア王」も。遠くは「オイディプス王」も、また「クイーン・メアリー」も。
平山さんはさらに追い打ちして、「慈子」の存在こそ「最も欠陥」であり、「大体、あれほどの事件が身近で起きているのに、のん気に”古瓦”の卒業論文を まとめたいなどと言っている人間は人間ではないと思います。私が慈子なら線路にとび込んで自殺してしまいます」と。こういうふうに文学を読む文学教授がい ても構わないのだろうけれど、同じ立教大におられた神学者の野呂芳男名誉教授の「『慈子』を読む」との際立った対照がおもしろい。
平山さんはわたしや作中の人らの「徒然草」観は「おもしろい」と納得されたようだが、小説の構成からみれば「要するに壮大なムダであったと思うのです」 と言い切られていて、これはこれで一つの論かと思われる。わたしが、市販の現『慈子』がありながら、『私家版原作・斎王譜』をもちだした理由のひとつに、 この徒然草考の作に対する適正な配置と量を念頭にしていたからであり、どの程度まで市販の決定版で配慮されているかを見て貰いたかった。但し、この小説に 徒然草がかなり決定的に意図され趣向されていることは、「野宮」という謡曲に触れあいながら「斎王」ないしそれに似た時代を超えた女人の「譜」をモチーフ にしていることで十分明らかで、「壮大なムダ」は言い過ぎか、読解力不足の妄評に思われる。
ほかにも、谷崎や漱石らにかかわって何かしら放言されているが、ニコニコと読ませて頂いた。
こうした「ご挨拶」で終わらない批評は、どう曲がりくねっていても、じつは有り難いのである。わたしは根の素質からするといつも「文学論争」に臨みたい 厄介な「芽」を胸に育んでいる。昔の著名な批評家や作家たちが悪罵にも等しく、思わず読みながら目を剥き耳を覆ったような多く激越な「文学論争」を、わた しは仔細に愛読しつつ、自分自身の「読みぢから」「書きぢから」を育ててきた。「読解」の豊かさや深さは、しかし、最後はその人の「人間力」になってく る。放言ではダメなのである。
* ものの下にもぐっていた2006年の文化手帖が、ほとんど使われていないまま現れた。記事としては一月十六日十時半に「聖ルカ 糖尿」 同十九日二時 に「迪 聖ルカ」 三月二十三日十二時に「迪子 聖ルカ」と有るだけ。手帖が何冊かダブルとこういう運命にアブレるのが、まま出来る。
ところがこの手帖の、左欄十一月六日から十二日までの頁の右の白い頁に赤のボールペン字の走り書きで、こんな今様らしきが縦書きされていた。
たがいひおきし いましめと
しるもしらぬも かなしけれ
かなはぬこひに みをまかせ
しぬるおもひに みをやけと
明らかに今様の曲調であり、走り書きの字の勢いからみて、よそのを書き写してはいない、わたし自身の「うた声」になっている。あたらしい物語りをでも想い描いていたのだろうか。
こんなのが、ひょいひょいと現れるから、ごみのやまのようなモノが捨てきれなくて。困るのです。
思いついて『光塵』をあけてみると、
06.10.26の日付で、
あはれこの雨に聴かばやうつつとも夢とも人にまどふ想ひを
みづうみをみに行きたしとおもひつつ雨の夜すがら人に恋ひをり
と、ある。やがて「七十一老述懐」として
あはれともいふべきほどの何はあれ冬至の晴の遠の白雲
あすありとたがたのむなるゆめのよや まなこに沈透(しづ)くやみの湖
「歳末述懐」として
これやこの一途の道に咲く花のつゆも匂へとまぼろしにみる
あらざらんこのよをよそにとめゆかめあかきは椿しろきも椿
はんなりと老いの一途を歩みたし来る幾としの数をわすれて
大晦日には、「今年 やす香を喪った。死なせてしまった。つらい一年だった。
秦建日子の活躍したのが せめても喜びだった。
私は、迪子も、日一日を精魂こめて迎え、送った。」と前書きして、
逝く年の背を見送れば肩越しにやす香は我らに笑みて手を振る
* 小説に書きかえる必要なく、いわば、半身を「ものがたりの影」のように生きているらしい、わたしは。へんな人ある。
2016 11/19 180
* 九時過ぎ、明朝を考えて、早めに休息しぐっすり寝たい。トランプ以来の情報や推測の過剰で、やかましい限り。今分は勝手にしという気分。遙かに遙かに自身の創作や仕事へ姿勢を崩さぬことをだけ大切に考えている。
2016 11/20 180
☆ 創刊満三十年記念の
第132巻を拝受いたしました。あらためておめでとうございます。
作家は事実上の起点である「処女作」に戻るといいますが、秦さんもまさしくその通りですね。それにしても通算百三十二巻。執念に作家の心意気を感じ頭が下ります。
ますますの御健筆を。 文藝家協会理事
* ありがたい激励だけれど、この先わたしは「処女作」を後ろ足で蹴散らそうというのである。その馬力が得たくて「清経入水」「畜生塚」「斎王譜=慈子」 の原作を、なんというか露地の関守石かのように置いたのです。百三十二册ぐらい、べつに執念の所産なんかではなく、要するに秦 恒平流の「仕事」をし続けてきた、積んできたから出来ているという過ぎないのです。
2016 11/21 180
* 今にして新ためて心血を注ぐほどの思いで読み返しているのが、長編の『神と玩具との間』で、なまじの小説を読むより遙かにしみじみ面白く、谷崎愛をこ めたわたしの打ちこみに、ふと、我と我が拳を握りしめていたりする。「読む」という行為の面白さと難しさと楽しさに満たされている。谷崎先生、松子奥さま のまぢかな佳い写真に手元を見られている。いいかげんなことは出来ない。
* もう眼が見えず、手も痺れ、痛いほど攣れてくる。けれど、そんなことには凹まない。目の前にやす香も、可愛かったノコも、いとおしい黒いマゴの静かな 永眠の像も、わたしを見てくれている。「斎王譜」を書いていた頃といまも気持ちちっとも変わっていないのに、成長しないんだと苦笑もされる。
* 字がよく見えないのと、古い機械の不調も手伝い、文章が千切れたように飛んで行ってしまったり、ややこしいことだ。妻が読んで、メモで直してくれるで、また機械へ戻って訂正したりしています。
2016 11/21 180
* 高野山に籠もって谷崎が『武州公秘話』を書いていた頃を『紙と玩具との間』で論じていた辺りを丁寧に読み返しつつ、たまたま妻が録画しておいてくれた 市川崑監督の映画『細雪』を観た。何度目かでありながら、新鮮に面白く観た。胸のつまるほどの感銘も得た。岸恵子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子と いう顔ぶれ。目黒の雅叙園で篠山紀信が彼女らの写真を撮ったときにわたしも立ち合い、豪奢な写真集にわたしの細雪の読みを入れた思い出がある。四人の女優 ともその際に出逢って、言葉も交わした。
大きな作品であった『細雪』というのは。なまじいな姿勢でははじき返されてしまう凄みの世界でもある、美しさそのものに凄みが秘められていた。
* 幸せというものか、わたしはわが「谷崎愛」の行方の中で、誰よりもこの『細雪』世界の主人公である、二女幸子、即ちというてもよい谷崎松子夫人と親し く識りあうことが出来た。作家水上勉は、秦 恒平は谷崎夫妻の隠し子かと一時期本気で推量していた。それほど、亡くなるまで親しかった、ほんとうに佳くしていただいた。
いま思えば、わたしの谷崎夫人とのおつきあいは、また「谷崎愛」は、あまりに「書く」ことに尽くし過ぎていたかも知れない。ひたすら谷崎を読みかつ書いて夫妻への敬愛を表現しつづけた、つづけ過ぎたとすら云えるほど。
『神と玩具との間』を書き下ろして世に問うたとき、松子夫人は一言もわたしに苦情を云われなかったが、書かれていた内容は、或る意味で「わたし」だから 赦していて下さったかと想える険しいものだった。いましもそれを読み返し進めていて、ありありとそれを思う。わたしは「書く」ことに全身全霊熱中し、熱中 できるようにと、松子夫人をはじめ微妙な関係者の何人にもあえて取材もヒアリングもしなかった。徹底して自身の「読み」を通し、それで良いと確信していた のだった。
* いまわたしの目の前直ぐに、谷崎潤一郎自身が最も気に入っていた、またわたしの見る限り最も松子奥様らしい優しい美しい顔写真がわたしを見ている。親 の写真の一枚もないのに、谷崎夫妻の最良の顔写真にわたしは一日中見られている。ときどき、こんなに書いてしまってごめんなさいとあやまっている。
明日からは「第三章」ゑ進む。
2016 11/24 180
* 「ふりがな」の仮名遣いの「不統一」を注意して下さる読者があったので、ちょっと言い訳しておきたい。わたしは、古典の原文へのふりがなは努めて「旧 かなづかひ」で、その余のふりがなは、なるべく1漢字に2ふりがなを宛て、ふりがな字の多さで組版の乱れるのをむしろ嫌っている。
例えば「永正」という年号二字には「えいしょう」よりも敢えて「えいせう」としている。古典言語にはもとのよみがなを宛てて当然だが、現代語や普通語の場合は「その漢字が読めれば良い」と割り切っている。
また「奨子内親王」の名を「しょうし」と読まれては「困ります」と注文がついて、しかもその方は、内親王のその名を「スケコ?」「ススムコ?」と疑義されている。即ち、正しい読みが分かっていないのであり、そんな際は通例に順って「しょうし」としてある。
角田文衛先生に多くを学んできたわたしは、古典女性の本名は、分かっている限りは「明子アキラケイコ」「高子タカイコ」「北条政子マサコ」「日野富子ト ミコ」のように読むが、遺憾にも、女性本名の正しい読みは「たいてい不明」であり、そんな際は久しい慣例にしたがい「式子内親王ショクシ又はシキシ」と読 んでおくか、読み仮名を振らないことにしている。
☆ 秦 恒平 先生
メールをいただきながら失礼をいたしました。
上洛して、長くリウマチを病む妹を見舞い、留守に致しておりました。
お身体の調子が良くないとうかがいましたのに、端々まで気を配って頂き恐縮でございます。
門脇照男先生とは、十年余り「瀬戸内文学」という同人誌でご一緒させてもらい、教えて頂くことがたくさんありました。静かな、胸に落ちる文章を書かれる優れた作家でいらっしゃいました。
秦先生お奨めの作品をあらためて読もうという気持ちが強くなりました。
三原誠氏のお作も(=「e-文庫・湖(umi)」の中で)読んでみたいと思います。
藤江もと子さん(=京大薬学部で、年次が近いかと。)という方も、ご教示いただかなければ知らないままでした。ありがとうございました。
『斎王譜(=慈子)』が送付されてきて、覗いてみて、細やかでゆきとどいた文章に、読みやめられなくなりました。自分の文章がぶっきらぼうなのがよく分かり、どうにかならないか考えたいと、強く
思います。11/24 かしこ 香川 星合美弥子
* 永いあいだにたくさんなお付き合いもありまた読書も積んできた、そのなかで、はなばなしく文壇で名前ばかり売っていた人でなく、創作の実力と姿勢とで 感心し続けてきた作家、は、上のメールに出ている門脇照男と三原誠のお二人だった。二人ともとうに亡くなってしまったが、その優れた代表作は「e-文庫・ 湖(umi)」に戴いてある。
星合さんは最近「e-文庫・湖(umi)」に一作「似たひと」を掲載されたばかりだが、同じ四国住まいの方であり、遺作から学ばれていい作家と確信して 「門脇照男」さんを奨めた。ついでに「三原誠」さんも強く奨めた。星合さん、門脇さんとは同人誌仲間であったとか。そして今はやはり「e-文庫・湖 (umi)」に何作も寄稿されている榛原六郎さんらと同人であるとか。
* 先頃亡くなった作家葉山修平さんの門下生かのように、ずいぶん沢山な同人誌めく雑誌が出ていて、いつも送られてきていた、が、いまいち、これはと読め た作が乏しかったのは残念だった。本腰の入った、作文の域を抜けた小説を「e-文庫・湖(umi)」にぶつけてきて欲しいが。新人であれ初心・無名であ れ、書こうというかぎりは頭抜けていなくてはお話しにならない。秀作に出逢いたい。
小説に限らない。詩歌でも研究や論攷・批評でもおなじ事。
2016 11/25 180
☆ 予報をきいても、まさかと思いましたのに雪がふり 庭の紅葉の上につもっています ビックリ…。
選集。湖の本(30年記念)お送りいただきありがとうございます。読ませていただいています。
過日大学のクラスメートにそひわれ奥能登へ旅し、念願の時国家も見学に参りました。幼いとき ヨコハマで近くに「時国さん」というお宅があり、おじさま に可愛がっていただいたことや、それにしても、京からここへ移った平家の人々はさぞや心細かっただろうなど思いを馳せました。 藤
* 葉書一面に淡彩で「能登 千枚田」が基子の印とともに描かれてある。繪も文も書ける人である。 触れてある 「時国家」のことも、いま書いている小説へ因縁の糸を垂れている。早く書かなくてはと思いあわててし損じてもイヤと思っている。
2016 11/25 180
* 世界が確実に動揺し動乱をはらんで今し息を呑んでいる。咎もなくただ平和に生き生きと生きたい人々の願いが踏みにじられて行くと、被害感から責めるこ とはしやすいが、本当に人は、今日を生きる人々はただの被害者の席に拘束されているのだろうか。わたしをむろん含めて人々にもキツイ責任が掛かっている、 その自覚があまりに希薄なのが怖ろしい。『マウドガリヤーヤナの旅』でわたしはさまざまに苛烈な地獄苦を描いていた。そのどの地獄よりも酷い地獄を現代は みずから造りあげてしまう。
トランプ、プーチン、習近平、金正恩、安倍晋三、彼らは自身がすでに鬼面鬼心の政治にのめり込んでいると気付かないのか、気付いているのだ、分かったま まやっており、更にやろうとしているのだ。われわれはそれを唖然とみて仕方ないと呟いているだけ、まさしく「ツウィート」世界にこの世は塗り替えられてい る。鬼にひとしい各種の「機械」が高笑いしてわれわれを飼育しようとしているのが、聞こえていないのだ。わたしも、現に機械に日々追い使われている。
2016 11/27 180
* 和菓子らしい和菓子、ということは京菓子になってしまい、とても保谷駅の売店では買えなかったが、茶を点て、和菓子を食べ、とかくいらつく気分を静かにした。
年下の自転車少年のいやがる背をバイク青年が押しながら併走し、暴走気味に自転車の少年だけが踏みきりで電車に轢かれて亡くなっている。
医学生たちが女性に暴行している。
どうなっているんだ。学校教育は、家庭教育は、社会教育はいったいどうなっているんだ。
わたしの出逢ってきた限り、小学校、中学、高校、大学の大方の先生方は、みなさん敬服し思慕するに足る先達であった。懐かしい人格の持ち主であられた。生徒や学生は、先生方の言動をみながら教えられていた。(戦時中には軍国がる先生もいたけれど。)
こんにち、生徒や学生らの、また青年の、目に余る非行がつぎつぎ惨事をうみ、イヤなニュースになる。いじめや差別から目を逸らして逃げ隠れしてしまうこ の頃の学校の先生たち。教育委員たち。卒業式には平然として「仰げば尊し我が師」と卒業生徒に歌わせているのかと想うと、忸怩とする。忸怩とは、たまらな くて芋虫のように身を揉みくねらせてしまうこと。
* くさくさすると、小説や戯曲のなかへ入り込む。ピーター・パンの生みの親であるバリーの戯曲『天晴れクライトン』こほど「読んで」面白い戯曲は「初め て」でした。グツグツ笑ってしまった。たわいない笑いではなかった、人間社会の自然と不自然の構造的な怖い根を、目の前に突き出され、唸りながら感慨に耽 り、しかも思い切り尻を蹴飛ばされたような思いをした。舞台でも観たいなあ。
ひきつづき、福田恆存訳で、T.S.エリオットの戯曲「寺院の殺人」を読んで行く。
光源氏は六条院へ夕顔の遺児玉鬘を引き取った。新年の晴れ着を紫の上とふたりで選びながら、女たちに配る晴れやかに艶やかな場面を読み終えた。玉鬘十帖といわれる源氏物語のはなやかな場面がここから盛り上がって行く。
* もう一週間、すこしは寛ぎながら「選集⑰」の出来を待つ。無事に、送り終えて、歳末を心静かに過ごしたい。
2016 11/28 180
* 昨日、歯科の若先生に、「痩せましたね」と云われ少しビックリし、納得もした。68キロ台にいてその上へリバウンドしてしまうのかとヒヤヒ ヤしていたのが、先日の入院以降64キロ台にほぼ落ち着いているのだから、なるほど痩せて見えたかも知れない。もう少し痩せていいかと思ってると云ったら 娘のような先生に叱られた。今のままで十分ですと。
入院していた一週間の大半は点滴だけの絶食に等しかった。
* 腸閉塞のこわいことは聞くし、だれより朝日子盲腸の術後退院後に、何が理由であったのか激しい腸閉塞で緊急入院し再度開腹した苦い記憶がある。
わたしの場合胃全摘し、十二指腸をそのまま引き上げて食道に繋いでおり、食べ物の細い通路を胃での消化を経ず、ま、消化不良のママ細い腸へ行くのだか ら、食べ損じると、または食べ物によっては詰まってしまう。わたしはこれを胃全摘後の三月にやって長く入院し、今回も同じ症状だったが、比較的食道と腸の 接点の辺で、つまりは高い位置で詰まり、下へ通らないのを強制的に嘔吐することですこし和らげられていた。えづいてえづいて、そして吐いて吐けたのが幸い した。それでも、入院中に便通無く、退院して数日、やっと開通した。下剤も何度も試みた。
* 痩せたワケだ。
* そんなことより、世間の、世界の、サンタンたる不快感にまいる。125歳を生きている人の報道をみて、カンベンして欲しかった。
十七巻でおさめようと漕ぎ出した「秦 恒平選集」を、エイヤと33巻まで行ってみよと決めた、その自分自身へかけた負担の約束が無かったら、わたし、思いの外に、われから「さよなら」と命の店じまいを望み始めたか知れない。
文学の世界と眺めてきた世間にも、文学・文章の「作家・文章家」は寥々とし、声高に身振り沢山な噺や咄の「話し家」ばかりになってきた。騒壇が本来の意義を喪い、ただに雑音ばかりを撒き散らしている。
2016 11/30 180
* とにかくも、終日、孜々として、仕事を前へ前へ押し出している。漸く「選集⑱」も責了へ近づいている。「湖の本133」も。「選集⑲」はこれから再校、「選集⑳」は着々入稿用意が進んでいる。
* 新しい小説の吟味も出来つつある。まったく新しい小説も書きたくなっている。
* 「湖の本」刊行にともなう出血つづきは、なにしろ読者の方々のご高齢を想えば、詮方ない。しかし値上げは考えていない。ありがたいご支援、ご助勢もい つも頂いている。「湖の本」は刊行が「続いて」行くことにも意味が生じかけている。わたし自身が気弱に投げ出してはならぬと誡めている。
2016 12/3 181
* 百人一首のなかで一人、一首をとならば、「伊勢」の「難波潟みぢかき蘆のふしのまも逢はでこのよを過ぐしてよとや」を挙げ、思い入れの反歌まで詠んだ と、ここでも書いた覚えがある。しかし伊勢のことはそれ以上多くを識らなかった、ただ勅撰和歌集のいずれにおいても多く名と歌とに触れていたし、その前詞 により華麗な人渦に巻かれていたことは優に察していた。宇多天皇の皇子を生み御息所と呼ばれ、さらにはその宇多上皇の子の敦慶親王との仲で、やはり有数の 歌人中務も生んでいたのは識っていた。小説に書けるヒロインだと目星をつけたまま、ま、有名すぎるかなとそのままになって、『秋萩帖』で、後撰和歌集や大 鏡の「大輔」を穿鑿し推理して書いたのだった。
書庫に二册、伊勢を書いた参考書、エッセイ本を永く蓄えていたが、国文学者の参考書はまことに索漠たる義理か厄介の頼まれ本のようで、見捨てた。未知の女性著者の「伊勢」は身を乗り出すようにはきはきと親切な筆で、いま、寝床わきへもっ来てある。
要するに、「人」への興味で歴史も古典も見てきたと思う。まだ何人か小説家として気にしている「人」を、胸に蔵っているが。
* 「湖の本133」の後書きを電送、「選集⑱」の責了用意をほぼ最後まで進め、「選集⑳」の入稿用意も七割方進んだ。
あすからの「選集⑰」の送りがすめば、歳末は「湖の本133」の再校、「選集⑲」の再校「選集⑳」の入稿に集中する。
新作小説への見切りや見通しも、重い仕事になる。その間に、祝い日もあり、八十一の誕生日も迎える。
明日からの作業、無事にし終えたい。急ぐまい。
2016 12/4 181
* 『秦 恒平選集』をと思い立ったとき、十 七巻で小説等の創作は編みとれるかと思ったが、そうは行かなかった。少なくも新作、未刊行作と詩歌の巻に届かないし、わたしの仕事は小説等の創作だけでは 半分にしかならない。三十三巻でもじつは足ると思っていないが、定命をむ甘く見積もるわけにも行かない。道半ばと思って、淡々と、坦々と、歩んで行くだけ のこと。まずは資金が尽きることだろうが、妻の余命を支えるだけはと心している。「歩一歩」と若い日から腹におさめ、「歩み歩み」とこの三字を読んでき た。わたしは走らない。
* 作業、ゆっくり、捗った。
2016 12/5 181
* 漱石百年と、少しも意識していなかった。しかし潤一郎を縷々思案していると、自然漱石に思い及ぶ。谷崎先生は若い頃に初の文藝評論、作品論として漱石 の『門』を論じ、のちに漱石の絶筆となった『明暗』を痛撃している。漱石への潤一郎微妙な意識はかなり顕著で、しかも否定には傾き得ていない。松子夫人に 京料理をご馳走になった宵にも、漱石にからんだそのようなお話しを聞いた。私の理解では、谷崎先生は漱石とは重ならない世界を開拓し書き抜こうという意思 を堅持されていたのだと。同じその意味では、これまた松子夫人にお聴きしたことだが谷崎は島崎藤村に対しても独特の対決感のようなものを堅持していたと。
わたしは、まだ谷崎夫人を存じ上げない時期、まさしく第五回太宰治文学賞を受賞その時の記者会見で、誰を敬愛してきたかと聞かれ、言下に漱石、藤村、潤一郎と答えていた。
この三人は、申し合わせたかのように、それぞれにまったく異なる世界を小説によって組み立てていたとわたしは理解し納得し深く敬愛してきたのである。
2016 12/6 181
* 『選集』第十八巻を責了で送った。この暮れは第十九巻の再校、第二十巻の入稿、そして「湖の本133」の再校、と、自分で裁量の利く仕事をしながら、創作へ手を伸ばせる。
2016 12/7 181
* 『神と玩具との間 昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』 いよいよ最終章へ。谷崎夫妻のお写真に手元を覗き込まれながら読み続けている。谷崎論が書きたくて「小説家」になりたかった私の、紛れもない一代表作になった。読まれれば、分かる。
2016 12/8 181
* 漱石歿百年などと、まったく念頭にも記憶にもなかった。偶然に今回の「こころ」作を編んで送り出すことが出来た。「無心」の所為である。
2016 12/9 181
* 宵のうちに好きな「剣客商売」を画面ににじり寄って観ていたが、今夜のは、乗れなかった。退屈した。なかみが薄いのに一時間、時間をもてあましているのだ。
ふと思い出した。むかし井上靖、巌谷大四、清岡卓行、辻邦生らと中国政府に招かれて旅し、北京、大同や杭州、紹興、蘇州、上海をまわり、帰国後に大同華厳寺壁画に取材した小説「華厳」を書いた。
一緒に旅した伊藤桂一さんが「読みましたよ」と云われ、「ぼくらだと、秦さんのあの小説一編で、三作も四作も書きます」と笑われた。
あ、それがいわゆる「時代・読み物」小説家の「方法」なんだなと悟った。わたしは、そういう薄い仕事はしないと感じた。
伊藤さんも亡くなってしまった。もう同行した人では詩人大岡信さんと日中文化交流協会秘書の佐藤純子さんと私だけになってしまった。
2016 12/11 181
☆ ボブ・デイランさんノーベル受賞スピーチ全文 東京新聞12/12/夕刊
皆さん、こんばんは。スウエーデン・アカデミーのメンバーと、今晩ご臨席の素晴らしいゲストの皆さまに心からのごあいさつを申し上げます。
出席できずに申し訳ありません。しかし私の心は皆さんと共にあり、名誉ある賞を光栄に感じていることをご理
解ください。ノーベル文学賞の受賞を、想像したり予想したりすることはできませんでした。私は幼い頃から、このような栄誉に値すると見なされた 人たちの作品に親しみ、愛読し、吸収してきました。キプリングや(バーナード・)ショウ、トーマスーマン、パールーバック、アルベールーカミユ、ヘミング ウェーなどです。作品が教材となり、世界中の図書館に置かれ、恭しいロ調で語られる文学界の巨人たちには、常に深い感銘を受けてきました。このリストに私 の名前が連ねられることに、本当に言葉を失ってしまいます。
これらの人々が、ノーベル賞にふさわしいと自ら思っていたかは分かりません。しかし本や詩、戯曲を書く人なら世界中の誰もが、ひそかな夢を心の奥深くに抱いていると思います。恐らくあまりに深く秘められているため、本人でも気付かないほどでしよう。
私にノーベル賞受賞の可能性がわずかながらあると言われたとしても、月面に立つのと同じくらいの確率と考え
なければならなかったでしょう。事実、私が生まれた年とその後の数年間は、世界でこの賞にふさわしいと見なされた人はいませんでした(注・一九 四〇~四三年は文学賞受賞者がいなかった)。だから控えめに言っても、私は自分が非常にまれな集団の中にいることを認識しています。
この驚くべき知らせを受けた時、私はツアー中で、正確に理解するのに数分以上かかりました。私は文豪ウィリ
アムーシェークスピアのことが頭に浮かびました。彼は自分を劇作家だと考えていたと思います。文学作品を書い
ているという考えはなかったでしょう。彼の文章は舞台のために書かれました。読まれることではなく、話されることを意図していました。「ハム レット」を書いている時、彼はいろいろんなことを考えていたと思います。「ふさわしい役者は誰だろう」 「どのように演出すべきか」「本当にデンマークと いう設定でいいのだろうか」。創造的な構想や大志が彼の思考の中心にあったことに疑いはありません。
しかしもっと日常的なことも考え、対処しなければなりませんでした。「資金繰りは大丈夫か」 「後援者が座る良い席はあるか」「(小道具の)頭蓋骨をどこで手に入れようか」。
シェークスピアの意識から最もかけ離れていたのは「これは『文学』だろうか」という問いだったと確信します。 歌を作り始めた十代の頃、そして私の能力が認められるようになってからも、私の願望は大したものではありま
せんでした。カフェやバーで、もしかしたら将来、カーネギーホールやロンドン・パラディウム劇場のような場所で聴いてもらえるようになるかもし れないと考えていました。少し大きな夢を描けば、レコードを発表し、ラジオで自分の歌が聴けるようになるのではと想像したかもしれません。それは私の中で 本当に大きな目標でした。レコードを作り、ラジオで歌が流れるというのは、多くの人に聴いてもらえることであり、自分がやりたかったことを今後も続けられ るかもしれないということでした。
私は自分かやりたかったことを長い間続けてきました。多くのレコードを作り、世界中で何千回ものコンサートを開きました。しかし私のしてきたほとんど全てのことの中核にあるのは「歌」です。私の歌はさまざまな文化の、大
勢の人たちの中に居場所を見つけたようで、感謝しています。
一つだけ言わせてください。これまで演奏家として五万人を前に演奏したこともあれば、五十人のために演奏し
たこともあります。しかし五十人に演奏する方がより難しい。五万人は「一つの人格」に見えますが、五十人はそ
うではありません。一人一人が個別のアイデンティティー、いわば自分だけの世界を持っています。物事をより明
瞭に理解することができるのです。
(演奏家は)誠実さや、それが才能の深さにいかに関係しているかが試されます。ノーベル賞委員会がとても少人数だという事実は、私にとって大切なことです。
しかしシェークスピアのように私も、創造的な努力とともにあらゆる日常的な物事に追われることばかりです。「これらの歌にうってつけのミュー ジシャンは」 「このスタジオはレコーディングに適しているか」 「この歌のキーはこれで正しいか」。四百年もの間、何も変わらないことがあるわけです。
これまで「自分の歌は『文学』なのだろうか」と自問した時は一度もありませんでした。
そのような問い掛けを考えることに時間をかけ、最終的に素晴らしい答えを出していただいたスウェーデンーア
カデミーに感謝します。
皆さまのご多幸をお祈りします。 ボブ・デイラン (共同通信・提供)
* よく分かる。
そして、むろん、歌も「文学」だと思うことにためららわない。我が国では、和する歌や相聞の和歌も、朗詠される漢詩も、催馬楽、風流、今様、平曲、謡曲、浄瑠璃等々の歌謡も、歌われる「文学・文藝」に他ならなかった。
ボブ・ディランの良い表明に接し得て、よかった。
2016 12/12 181
* 「神と玩具との間」はほとんど凄絶な成り行きであるが、書いている私の筆は、あくまで「谷崎愛」に立地・立脚して微動もせず遠慮もしていない。しては ならないと思い決め、真っ向書き進んでいた。松子夫人もさぞ困惑なされていたと想うけれど、一言も私に向かっては苦情を仰有らなかった。わたしの真意・誠 意がひたむきに「谷崎文学」のより正鵠を射た解明と理解に向かっているのをご理解下さっていた。
あるパーティで三島由紀夫夫人につかまり、松子夫人がお気の毒と叱られたが、わたしはただ黙礼だけして離れた。「気の毒」で書ける世界でなく、しかし 「昭和初年」のあの峨々たる谷崎文学の理解に「三人の妻たち」の意義を究明することは絶対に不可欠であり、それならば気の毒がって遠慮して筆を枉げるなど あってはならないと確信していたのである。
2016 12/13 181
☆ 拝啓
(前略) 今度の巻は漱石の『こころ』をめぐっての御作でしたが、公演台本と戯曲をまず拝読させていただきました。俳優座の好演は観ておりませんが、と ても興味深く思いました。(中略) 読むための「戯曲」と、上演のための「台本」を読みくらべることが出来ましたのは、とても勉強になりました。冒頭近く の「(声声)」の「心」の箇所など新鮮でした。
漱石の「こころ」の読みの要点としてあげていらっしゃる「三点」は、あらためて読みとしやすい(考えおとす)ところと思いました。作品を読むということの困難さを思っています。
読むことは、ことば(表現)との全力をかけての格闘だと思っておりますが、そのことを心に強くした気持でおります。ひょっとしたら、読書は格闘技のような気がしております。
これから他のお作を拝読させていただきます。
今年もいよいよ師走になりましたが、一層のご自愛の上、お過ごし下さいますよう祈念申し上げております。
ありがとうございました。 敬具 憲 前藝術至上主義文藝学会会長
* まことに、「読む」とは、文章表現との徹底した格闘にほかならない。観念や概念を弄くっただけの作品論など、批評にも研究にもなりはしない。学者と自称する人の多くが、えてして観念論に足を取られている。
わたしは漱石の「こころ」でも、潤一郎の「夢の浮橋」「蘆刈」「春琴抄」でも、徹底して文章表現に即した読みのうえでの評価に徹した。そうでなければ余人追随できない発見も理解も評価も出来るものではない。
2016 12/13 181
☆ 前略
いつも「湖の本」をいただきながら、お礼もせず失礼しています。
先日の「斎王譜」を、ふくよかな古典世界と、ういういしい恋とが一体となった世界に心遊ばせていただき、ありがとうございました。
今回の『選集』「こころ」集成は雑誌「星灯」で小森(陽一)さんに論じてもらったばかりでしたので、いっさう楽しみです。小森さんの住所は、「**」です。草々 隆 アカハタ編集部
☆ 早いもので、今年も年の瀬をむかえます。選集第17巻ありがとうございました。湖の本132「斎王譜=慈子」とともに年末年始の楽しみがふえました。じっくりと味わいたいと思います。
先生が、「体力はゼロに近いが、気力と意欲と覚悟とは衰えていない」と、お書きです。ただ、ただ、頭が下がります。
月並みです。お体いつまでもお大切にご自愛下さい。 今治市 木村年孝 元図書館長
* 木村さん、ネーブル大のすばらしい新種のお蜜柑を一箱下さった。感謝。この方には、とりわけて新作の約束がある。しまなみ海道を目に観ず、息をつめて堪えている。
2016 12/13 181
* 正古誠子さんの久し振りの第二歌集『のこるおもひを』を戴いた。落ち着いて深みのある言葉と表現で、最近出色の歌集であると観た。
例によって乱立もいいところの小説教室から同人誌が送られてくるが、感心できない。「小説ごっこ」に堕していないか。行文から熱い血が垂れていない。
もっとも、知名の画家も交え何十回と続いている画会の「選抜展」の繪など(写真で)見せて貰ってもなんと貧相な売り繪ばかりよと泣けてくる。時代に、旺盛で創意豊かな藝術精神が憔悴してしまっている。
2016 12/17 181
* 世は末世に及ぶといへども とは、古人の事あるごとに、さりとてとか、されどもとか思い直しては事に処した常套句であるが、プーチン、トランプ、それに近 習平、金正恩やシリアのアサドなど、さらに独裁嗜好の安倍晋三をも末席にならべての「来年」を想えば、さは「いへども」と思い直せる余地のあまりに乏し く、まっ逆様に世はますます乱れつつ最大不幸へ雪崩れ落ちそうである。
数十億もの人間が、わずか数人の横暴や短慮な貪欲により押しつぶされて行く成り行き、浅ましい限りである。みんなが、まさか自分の生きているうちはまだ大丈夫と楽観しているのだが、無責任を絵に描いたごとくである。
* ある種の宗教や信仰が人間不幸の原因へと腐敗を深めている。
わたしは、仏教に、それも禅への懐かしさを力にし余生を過ごしたい。現世の和尚であったバグワン・シュリ・ラジニーシに聴き続けて此のわたしを見つめ、わたしを脱したい。
2016 12/18 181
* じりじりと、仕掛かりの新作「清水坂 仮題」を押している。またまた皆さんに怒られそうな八幡の藪のように入り組んだ物語だが、はて、どこへ辿り着け るのかわたしにもよく掴めていない。できた線路の上を走ってはいない。じつは、この小説、完結できなければ、湖の本で「未完」のまま発表してもいいかなあ という目論見ももっている。そうしたい、気の急く問題点を、いや発見を、抱えているのです。
とにかくもガンガン進みたい。
2016 12/18 181
* えもいへぬ疲れに負けそうになるが、負けていられない。まだ九時過ぎだが、横になってこよう。エリオットの戯曲「カクテルパーティ」を、サフォンの「天使のゲーム」を読みげたい。「源氏物語」では可哀想な近江の君がわらわれている。そろそろ夕霧に存在感が見え始める。
笠間書院に貰った中世の「石清水物語」 しっかりした長編で、「夜の寝覚め」ほどに読めると嬉しいが。もういちど、平安期の、源氏のほかの物語も読み返 したくなっている。こう昔語りが懐かしいばかりでは困るが、柳田国男の全集にもまた手を出そうとしてるし、満を持して書庫に蓄えた中世の「音頭説経」本を もぜひ読んでおきたい。書庫へはいるのは今は冷え切った寒いけれども、何といっても宝の蔵。いっそ、近代現代の小説、エッセイ本、評論、詩歌また美術の単 行本は、惜しいけれどもうそのまま「処分」し、書棚を開けたくもなっている。つい歴史や古典や史料ものへ手を出したくなる。が、どう処置するにももう体 力・膂力が用に届かない。老いらく、ムリはすまい。
* そう云いつつ奇妙な小説世界にまたもぐり込んでいた。なんたる我がサガであるのか。
* 三冊目の新歌集「亂聲(らんぜう)』の用意もだいぶ出来てきた。あちこちへ書き散らした歌や句もなるべく拾いとって、まず「湖の本」で出版し、以降拾 遺を取り纏めつつ、「選集」最後の方で既刊の『少年』『光塵』といっしょに纏めたいと願っている。名歌名句など願っていない、好きこそものの上手でなくて も私の心やりとしてカタを付けてやりたい。
2016 12/18 181
* 読み疲れたまま潰れ寝ていた。夕食というほどの食も摂れぬまま、谷崎潤一郎に触れて論じたり書いたりの夥しい旧稿を読み継ぎ、校訂している。眼疲れし て眼を閉じると背いっぱいに疲労の重みが乗り被って来る。また眼を開いて、その「世界」へ立ち帰り立ち帰りする。立ち止まってはならぬ。
2016 12/23 181
* あの途方もないバカげた限り大失敗「もんじゅ」の廃炉をやっと決しながら、何の成果を望むべくもない技術レベルのままさらに段階上のいわば核生産施設の新 設を安倍政権と経産省とは決めてしまっている。貪欲と傲慢の果てなき東電等の電力と國との背後での結託、あげくは大負担が弱小国民の一人一人に無惨にのし かかってくる仕組みだ。
それでも、経済効果の空疎でうそくさい一語に「お上」の慈悲でも仰ぐ気分で大勢が、人間喪失の生き地獄を天国並みに妄想して安倍政権を担ぎ続けている。 なさけない。立派な野党が育たないのが情けない。選りに選って野田のようないわば「戦犯なみ」の幹事長を持ち出すような蓮舫の大大のチョンボ人事をみただ けで、わたしは膝から崩れた。福島社民党も火を見るほどの「愚」を侵し続けて完全に自壊した。いまや信仰を押しつけない限りでの公明党、志位思想の安定し た共産党の「夢」のような共和協調があり得ないだろうかと願うほど、視野は暗い。
* 日本文藝家協会、日本ペンクラブの二大文藝団体は、政権と業界による大学からの文系学排除傾向に、どのような思想批評を表明しているのか、寡聞にして知らない。分からない。
日本の今日の文藝世間は、もはや「文学」絶息症状をあたかも容認・公認・醸成し、むかしの文士なら見向きもしなかった通俗読物とその支配に食らい酔ったように、ブザマに堕落している。わたしはそう観ていて、情けない。騒壇餘人を以て辛うじてその弊を自身に遠ざけている。
いま此処に、戦後の昭和と限ってでも、「文学」と謂うに値する名品・秀作・問題作の名を、その作者の名を列挙してみたいとつい願ってしまう。幸いにもそ の作例も人数も多いのである、が、不幸にして「平成」に入って三十年ちかく、いったい誰のどんな作を思い出せばいいのかと、長嘆息する。
本当のホンモノの「文学」全集は、昭和三十五年から四十年すぎまでの講談社版「日本現代文学全集」あたりを頑強な最後の砦に、だんだんとウソクサク変わり続けてきた。お話は書けても文章の書けない書き手集団に、上の文藝家・ペン二団体も大勢は沈下している。綴り方教室の域をでない安い同人誌が雑草然として多産され、自称作家は泡のように溢れつつある。
2016 12/24 181
* 弥栄中学で、同志社で一緒だった松嶋屋惣領の我當君の名が見えなくて、ひとしお寂しい。
秀太郎を或る大きな賞に推してあるのだがなあ。三男仁左衛門の健勝を祈らずにおれない。
それにしても顔見世が南座から逸れたなど、初めてのことか。奇妙に寂しく心もとない。
喜寿を祝いに南座顔見世へ妻と出向いてから、もう十一年も経った。あの祝い年の「京の散策」(三)は、明けて新年に送り出せる「湖の本133」巻に入れ ておいた。あれから京都は「もの凄い」までに変容しているらしい。それでも、来年には一度帰りたいな。帰りそびれていると、もうわたしの余命残年の方が尽 きて了いかねない。
2016 12/24 181
* いま一つ、これはもうずっと前から読んでいて、しかもこれほど難儀で理解を絶する、しかも不思議な牽引力に富んだ本は在るものでない、即ち、『無門 關』 南宋の無門慧開の編んだ公案集四十八則である。とにかくも心を新たにしてただ文字を読んでいるが、まったく歯が立たない。しかも惹きつけられて動け ない。かろうじて二十三則「不思善悪」など、今日の詞に直されたのを読んで、かすかにモノに触れたような感激が湧いてくる。しかし原文の難しいことはどの 則もまるで歯が立たない。
それでも、読んでいる。読まずにおれなくて読んでいる。
禅のものは、現代の詞で説かれてあるバグワン和尚のものは別として、『臨済録』にもっとも親しんできた。浄土経は三大経を覚えるほど読誦してきたし、菩提寺から戴いた経文集にも折り有れば目をふれている。
根本の『般若心経』講義は、高校の昔から心して愛読愛聴を重ねてきた。岩波文庫で『ブッダの言葉』にも近年目をふれることが出来た。
今は 禅に…という願いを抱いている。分かろうなどとは願っていない。思っている…のである、ただ。『無門關』 読み続けるだろう、分かろうなどとは間違っても願わずに。
2016 12/25 181
* 谷崎愛に凝り固まって、読んでいる、自分で書いて書いて書きためてきたものを。
* 寝床では沙翁劇と源氏物語を芯に読み耽る。もう年内、さしたる用事はない、雑煮の味噌ももう用意があるというし、なかなか手に入らない蛤のために歳末 の百貨店を右往左往は諦めた。正月が楽しみという気分は失せている。新年つまり来年には何が自分に出来るか、それがたのしみだ。
2016 12/26 181
* 真珠湾へ安倍総理が出向いて「儀式」を演じてきたが、そんなウソくさい芝居にわたしたちは目をつむっていられない。日本国内ではあれほどの福島原発破 壊で避難を強いられた人たちの避難支援をもう打ち切るといい、延長を懇願する避難家庭にむかい「勝手に避難しやがって、何を云うか」と自民党議員が罵倒し たというではないか。総理のパフォーマンスが政治ではない、本当に迷惑を蒙り困窮の暮らしを強いられて其処から遁れ出られない人たちへの慈悲心なくてなに が政治かとわたしは怒る。
政治も宗教も根底に慈悲の願がなくて何の存在理由有るかとわたしは怒る。
悲そして慈。この二字こそ優れた宗教優れた善政の根底の姿勢・思想であるはず。安倍のいかがなパフォーマンスにも騙されまい。かれは国民の友でも味方で も代表でもない。彼は、知性に乏しい自党議員と、おなじく、金儲けオンリーの経済亡者たちとの親分で親友でこそあれ、国民への慈愛と正義とに生きる政治家 ではない。悲という慈愛をまったく持たない独裁政治へ胸を張るしか能も気も無い。一刻も早く、政権を取り戻さねばならないのだ、救世主、出よ。
2016 12/27 181
* めんめんと大谷崎の人と文学についた書いた旧稿を、このところ休みなく読み返している。ああこういうことが書きたくて作家になりたかったんだと、少し笑え てしまうが本音であった。学者や研究者や批評家の「仕事」で書いた原稿とはちがう。それらとは劣るのか。ちがう、その人らには所詮書けないところを観て 思って書いている。
2016 12/28 181
* 「大きすぎる靴をはくな」とは、アラビアの諺と聞いたことがある。身に合わない地位について躓くのを誡めている。お相撲さんでも番付なみに白星があげられ ないのを「家賃が高い」と謂うらしい。「家賃が高い」地位・肩書きに 「大きすぎる靴を履」いて、身に過ぎた栄誉にしがみついている総理や大臣や議員や、また学者・研究者や作家・藝術家の、なんと多いことだろう。「うそくさ い」という臭気が人の世にしみついてしまい、幸か不幸か臭いに人はすぐ馴れてしまう。
2016 12/29 181
* 疲れが溜まってか、晴れ晴れとせず、ひき沈んだ不快感を払いきれない。着のみ着のままでいいフラーっと独り旅に出たい気さえする。しかし仕事は投げ出 せない。日々、余命と残年を擦り減らしている。心がやせ細って行くようで、情けないが、来る新年になにも期待していない。仕事の他に、楽しいという時間が まるで見えなくなっている。
老鬱かな。
沙翁の毒の凄い戯曲より、いっそ若い日々の憧れへ帰って、谷崎全集を読み直そうか。それには眼が弱りすぎている。
いっそ画面の大きい映画を映画館へ見にいこうか。テレビには飽き飽きしている、ニュースも不快、ドラマも映画もサッパリ面白くない、テレビ画面では人の顔もキッパリ見えないのだから。 2016 12/29 181
* 閉じていた「部屋」の奥へ、最期の襖が明いた。
* たまたまテレビで、蜷川演出の「ハムレット」の舞台を、ひとしきり、非業に殺されていた亡き父王の幽霊から王子ハムレットが復讐をせまられる場面だけ観ていた。平幹治朗の語りに引き込まれて。
沙翁劇の科白を聴き、また読んでいると、この世で「演劇」といわれる世界は、天にも届く沙翁劇をはるかな頂上に、余の群れははるかな麓で右往左往してい るかに見える。言うまでもなく日本には能があり、近松門左衛門もいたし、現代には福田恆存や三島由紀夫がいた。そさそされはされと認知して深く頷くけれども、か りにもわたしなどが、戯曲を書いたことがあります、上演されたこともあります、などとは、恥ずかしくてバカらしくて言つてはならないことに思われる。猛毒 をはらんだ神かのように沙翁は文字取りに「もの凄い」世界を突きつけてくる。遁れ得ず、引き込まれる。
それにしても酷い。読んだばかりの『タイタス・アンドロニカス」の通称とも副題とも謂えるまさしき「凌辱」(殺しと犯し)との烈しさに読みながらわたしは肌を冷たく硬くした。
いま読んでいる「リチャード三世」では、開幕していきなり殺しと犯しとが宣言され、殺された王子の美しい妻アンを、殺したグロスター(リチャード三世)が、葬列のさなか、旺盛で剣呑極まる雄弁一つで、さながらに犯して自身の妻にしてしまう。
いまテレビで垣間見た場面によっても、王子ハムレットの父王は、父の弟である現王に殺され、王妃は現王の妻となっている。
沙翁劇ではむしろこのような愛憎・害被害の輻輳はナミの事であり、だが何故にそうなのかと「人間」の暗く深い淵の底を覗き見るという勇気を人は持ちにくい。持ちたがらないまま沙翁をはるかな高みに鬼である神かのように振り仰いで柏手だけを貢いでいる。
* 読み物の例は無視するとして、漱石文学ほど愛読者の多いはあるまいとおもいがちだが、そうでもない。わが谷崎潤一郎も「先生」ながらも漱石に冷ややか であった。はやくにわたしを認めて親愛をよせてくれた文藝春秋の前専務寺田さんも漱石には冷ややかだ。『心』は岩波一の読者を得た作だが、馴染まないで終 えてきたという読者にも、まま出逢う。
2016 12/30 181
* 馬渡憲三郎さんが「読む」とは格闘技だと言われていたのを思い出す。佳い作品であればあるほど佳く読むのは途方もない力技である。わたしは、好きな作ほど真っ向微塵に作の懐深くへ飛びこんで骨に肉に血に思いをそそぐ。「身内」の愛をそそぐのである。
* おりしも、わたしの『慈子』へ吶喊し、作者であるわたしのもっとも深く秘めた創作の扉へまで、大胆に率直にかなり的確に手を掛けてきた長編の「論攷」 を読んだ。震撼した。いまだかつてだれ一人としてそこまで読んでは呉れなかった。感謝している。すこし戦いてもいるが。が、もう少し、もう半歩一歩踏み込 めるのではないか。
* 選集二十一巻の入稿用意も大詰め近くなった。第十九、二十、二十一巻の口絵写真を選んでいるが、もう眼は二時間も前から限界を割っている。キイがよく 見えない。機械から離れ、階下仕事に転じる。テレビ画面も、人の顔がよく見えなくてアテズッポーに誰か彼かと確かめている。
2016 12/30 181