ぜんぶ秦恒平文学の話

文学作法 2020年

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

62 *  2004 08・01     バグワンについて、ときどき人に聞かれます。雑念をもちたくないので、検索サイトで出て来るバグワンに関する総ての情報に、わたしは遠のいて無関心 でいます。ひたすら「個と個」で向き合っています。『存在の詩』『般若心経』『究極の旅=十牛図』の順にバグワンに近づいたのでした。『老子 道(タ オ)』その他にも。十数年、同じモノに躊躇いなく反復向き合ってきました。ただし内心から切実に求める気持ちになれない間は、バグワンに接してもたいした て何もえられず、逆に高慢のはたらくおそれがあります。無心に切実に望む気持ちがあれば、こよなき叡智に触れることになりましょう。少年の昔から多くの聖 典や啓蒙書を経てきて、たまたまバグワンに辿り着いたわたしですが、そう、確信しています。

この人、祖師でも教祖でもない。少なくもわたしはそのようには触れ合っていません。透関した人。達磨のようにコワイけれど、深い深い海のよう。高い高い青空のよう。知的興味で接しても無意味な相手です。

「降参」して「帰依して」かからないと。口先だけの興味では何のタシにもならず、多くをむしろ逆に失うでしょう。  2004 08・01

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* 一夜を久しぶりわが家で寝た建日子の、目覚めを待ちながら、八時前から、 寝床で長編の「初稿 雲居寺跡」を校正していた。「作家以前」の創作だが、読み替えしても瑞々しい筆致・語りで、心ゆくまでまさに歴史を物語っている、几 帳面に。巻頭に最新作の「花方 異本平家」を置き、次に対照的な処女作の一つ「此の世」を置き、次いでこれも「作家以前」の語りごと「資時出家」ついで此 の思いの溢れたような承久の変前夜を「夢・うつつ」に語りつぐ「初稿 雲居寺跡」を、『選集』32のアタマへ置いてみた。三十歳はじめ頃の真摯な語りと、 八十四歳へむかう老境奔放の語りとのコントラストがくっきり見て取れて作者自身が、ま、ビックリしている。選集に編んで少しもビビる思い、無い。「自分の 道」は、作家以前から「在った」のだと今にして自信をねって云える。校正そのものが楽しめる。

 

* 建日子 午后二時頃、仕事先へ帰っていった。たくさん、大事なことを話しあった。元日、二日、やはり建日子が云えにいるとそれだけで気持ち豊かに安まる。沢山たくさんわたしたち両親の元気なうちに話しあっておきたい、用向き以上に心身のなごみのためにも。

同じ創作の道に生きているという有り難さも噛みしめたい。

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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

63 *  2004 08・24     おまえの内なるブッダにごあいさつする、とバグワンは『般若心経』を語り初めています。

そしてこう語り継ぐ、おまえは夢にも気付いていないが、おまえは現に既に一人のブッダであり、ブッダフッドこそ誰一人の例外なく自身実存の本質であり中 核であり、それは、これから外からおまえに訪れてくるようななにものでもない、ブッダフッドはおまえの「最初」にあり「最期」にもある根源の境地なのだ が、ただおまえたは正体なく眠りこけていて、それに全く気付いていない。おまえが今在るのは、まさに、そういう「気付かない存在」としてであり、真に目が 覚めさえすれば、おまえは、すでに未生以前よりブッダフッドに住しているのだよ。

バグワンは、そう云います。

* 決定的な指摘だと感じます。では、どうしたら目覚めるのか。われわれはそこで手短かに how to を求めていろんな手段へ奔走し、しがみつき、苦労して修業したり学問したり信仰の柱に抱きついたり、心身を苦しめたりします。エゴそのもののむき出しの奔 命をもって尊しとしはじめます。ああ。すべてそれは夢の継続であり、妄執の睡りは醒めるどころで、ない。

* 世界史的な大哲ヴィトゲンシュタインは、哲学の役割は、「哲学」では何の役にも立たないことをわからせることだと喝破しています。

それはこういうことだと、バグワンはわかりよく謂います、高い梯子の頂上までは哲学でも連れて行けるが、その先の一歩へ歩み出すのには、「哲学学」など 何のタシにもならない。百尺竿頭一歩をすすめよと禅のいうその先の一歩へは、梯子世界とはまったくべつの「目覚め」で進み入るしかないと。

しかしそれには聖典も苦行も知識も何一つ役に立ちはしない、ともバグワンはニベもない。

ではどうすればいいのかではない、そのことに翻然目覚めねば、おはなしにならないと。目覚めが来る、それは待つ目覚めであり、本当に目覚めたら人はその瞬間おのづと高笑いして、その、自然なゆったりした境地を受け入れる、と。

いかなる聖典も目覚めるための役になど立たない、目覚めた人が、ああ目覚めたんだと自得するのにはすべての聖典はすばらしいけれど、と、バグワンは云う のです。その謂う意味はさこそと、奥ゆかしい。わたしのこのような言表も、かなしいかな目覚めぬ前の世迷い言にすぎません。バグワンが仏陀のように達磨の ように透関した人だとは信じられるけれど。

* 人は、じつは自分が見えても分かってもいないのに、自分のことは自分にはよく分かっている見えていると思いこんでいる。しかし、その自分像とは、取り巻いている他人たちが自分を見ての意見や感想や褒貶の「集合」像に過ぎない、と、バグワンは云います。

ところが、そういう大勢の「他人たち」が、また銘々に自分のことをそのように思っているのだから、滑稽なことになる。自分のことなど何も分かっていない 他人が互いに他人を見合っていわゆる「自分」が虚成されているに過ぎないとなると、これは滑稽なことだではないか、と。  2004 08・24

 

* そんな滑稽を、まだまだ担ぎ続けているなあと、笑ってしまいながら、滅入る。

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* 三ヶ日の雑煮を夫婦だけで祝い終えながら、作家五木寛之に「怨歌」と適切に聴きわけられたあの歌手藤圭子のウソのない生涯映像を、濃い共感と理解と共に見 通し聴き通した。正月気分にふさわしくないか、いやいや、真実感で徹底した若い歌人生の儚い成功と終結からは、凡百の創作を紙屑のように蹴散らす真実が痛々しく聴き取れた。感服した。

極めて短かった藤圭子の「怨歌全盛期」を、またそのリアルな生涯をわたしはよく知ってきたワケでない。美空ひばりの百の一も識らなかった。

しかも、不動の、或る切な 共感と理解とがその昔から生きていた。藤圭子の歌は、あの菊池章子の絶唱「星の流れに身をうらなって 何処を塒の」の、「こんな女に誰がした」の、あれを直に受けることで「敗戦後日 本」の地を這う呻きを「歴史的に伝えた歌手だ、と、そう、私は久しく理解し受け容れてそれを忘れなかった。

今朝の「映像と語り」を観て聴いていて、紛れもなくあの「こんな女に」と藤圭子の「新宿の女」「夢は夜ひらく」などが、当の藤圭子自身のことばで切にバトンタッチされてたと確認できたこと に、わたしは感銘し深く納得した。私は、「日本の敗戦」と「敗戦後日本の根底」を、斯く二人の歌手と代表歌とを結び繋いで、今もなお、胸の内をかぐらくも重くもしている。「戦争に負けた苦痛と無残」を背負うたのは、天 皇でも戦犯でも陸海軍でも男でもなくて、「女」だったのだと。

丹波山奥の戦時疎開先から京都の繁華へ帰ってきて、小学校、中学を終えて行きながら、わたしは胸のいっと う奥で、「こんな女に誰がした」と呻く乾ききった「女」の強いられた変容を、怖いとまで眺めていたのだ。一部の女の話をわたしはしていない、日本の女のはなしをしている。

そして、いま「令和日本」の女も男もこの機会にボケ金にボケた「精神壊滅」のアリサマは。

 

* 今朝 こんな年賀の所感メールが来ていた。むかし通信社の担当記者として、いろいろに私に原稿も書かせてくれ歓談も楽しんだ藤野氏の「声」 だ、上の藤圭子への思い にまんざら繋がらないモノではない。そして思う、藤野氏の此の思いは、私の「私語の刻」が二十余年繰り返し語ってきたのと変わらないと。成ろうなら、藤野 氏個人の「私」の声と言葉とでおっと思う感慨や主張を聞かせて欲しかった。このままでは記者さんの一年を顧みる綜説記事を出ていないのが残念。

 

☆  謹賀新年  新年のご挨拶

昨年は散々な年でした。安倍政権は国民を見くびり、勝手放題にして省みることがありませんでした。

日米貿易交渉では、トランプ大統領にいいようにされながら、WinWinとうそぶき、疑問のある政治的行為について丁寧に説明すると言いながら、説明責任を果たしませんでした。

経済や人権、暮らしなどの指標は先進国の中でも最下位クラスになってしまいました。

いまの日本には民主主義はもちろん、まともな政治は存在しません。こういう状況は日本に限らず、世界の多くの国や地方で排他主義、自国第一主義がはびこり、人々の分断が激しくなっています。

20世紀は「戦争の世紀」と言われ、21世紀に希望を込めた人は多かったと思われますが、その希望とは逆の方向に進んでおり、さらには温暖化が激しく急激に進展して、現状を打開する決断の勇気を持たないかぎり、地球自体が崩壊しかねない事態にあります。

また去年は、こういう現状を打ち破ろうと真剣に対応して尊敬すべき人が相次いで亡くなりました。

「難民の母」と慕われた緒方貞子さん、アフガンに緑を回復して農業を可能にすることに尽くした中村哲さんが志半ばにして銃弾に斃れられました。この人たち の遺志を受け継ぐことは何よりも必要なことだと思います。だが、今の日本の政権や経済界はそれに逆行しているように見えます。

そして、沖縄では、昨年の県民投票で七〇%が反対した辺野古基地の建設をいつ完成するのかもわからずに強行しています。南西諸島では米国の求めるままに、ミサイル基地の建設が島民の安全を無視して進められています。

こういう現状を顧みて一昨年から、かつて勤務した共同通信社の記者OB十数人で、今の日本の政治や経済、社会状況を論じ、メディアの現状について改めて 見直す会を続けてきましたが、今年早い時期に、メンバーが以上のテーマで自由に意見を世に示そうとブログ「ウオッチドッグ21」をスタートさせることにな りました。長年、メディアに携わってきた人間としての責任を示そうとの思いです。

共同通信社の先輩で、先年亡くなった原寿雄氏は、ジャーナリズムのあるべき姿勢を求め続け、その実践を通じて考察を重ねられました。その遺志を次ぐ活動でもあります。

私は新聞やテレビの記者や研究者で作るブログ「リベラル21」にも参加しており、時々、寄稿してきましたが、その一つの発展形となればと考えています。

与那国島援農隊は終了して五年になります。この間、島を再訪できていませんが、いまも島のことを忘れることはできません。昨年6月、40年前の初期の援 農隊に参加され、大いに助けていただいた渡辺和夫さん(81)ががんのために永眠されたことも忘れがたいです。今年はぜひ与那国を訪ねたいと願っていま す。

年末の地域の第九コンサートへの合唱参加は、五回目でした。米国で活動する原田慶太楼指揮・新日フィルの演奏は、ユニークなスタイルで面白い経験でした。また年末にはインフルエンザに罹り、大変でした。

今年もよろしくお願いいたします。   二〇二〇年元旦    藤野雅之

 

* こういう藤野さんらの声や働きがぜひ、「力」となって働いて欲しいと痛切に願っている。事実他にもいろんな動きは具体化していて、わたしの視野にも届 いてくる。私も健康で体力が残っていればなあと思う。創作者たちの団体や、文学・思想・芸術の教育者・研究者にも重い腰を上げて欲しいといつも願ってい る。せめてはと、此処に「おもひ」という火を燃し続けている。

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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

64 *  2004  08・25     昔から「悟る」という言葉を人はいともやすやすと使いながら、それがどんな境地であるのか想像すら出来ず、つまりは俗用の語彙に勝 手気ままに利用してきました。そしてほんとうに「悟る」ことの想像もつかない難しさに対して、畏敬の気持ちを、とても及びがたい断念をもち、悟ったといわ れる人たちの逸話を羨望しました。夏目漱石も参禅しては門の前から引っ返していました。あの人は「悟った」が、自分は「悟れない」といった気持ちを大勢の 修行者たちはもってきたわけです。

だが、あの人は、自分はと、つまりは個々の分別や自覚で「悟る」というような考えは、それ自体「悟る」という転機からは千里も万里も離れているとバグワンが云うのは真実でしょう。

自分が自分で「悟る」などという物言い自体が撞着しています。そこに「自分」があるかぎり、なんで「悟り」のありえましょうか。

「どうしてひとりの人が悟ることなんかできる?」とバグワンは云います。そんな観念自体が、悟らない心(マインド)の、執念き一部にほかならないと。 「私は悟った」などというその「私」が落とされていてこそ「悟り」はいつか来る。無心に待てない、待ち「かまえ」ている私・自分・人に、「悟り」の目覚 め・気付き・ enlightend は起こりようがない、と。

おそらくバグワンは正確に語っているのでしょう、わたしは、悟りを求めて待ちかまえてジタバタする気、ありません。「今・此処」になるべくゆったり自然 にいながら、その至福の瞬間を忘れて待っていたい。バグワンの言葉を頼むことすらなく、ただただ音読し聴き続けているのは、なにかが分かりたいからではな い。その時をただ楽しんでいるだけです。  2004 08・25

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* 七時過ぎから床で「初稿・雲居寺跡」の校正をというより再読を楽しむ。ここは今は高台寺、京のお寺で好きな五本いや三本の指に容れているお寺。現実早 朝の散策からすり抜けるように八百年の昔へ分け入って展開して行く承久の変前夜の京や鎌倉の動静をおさな恋をはかなく交わした芸道世界の少年少女の物語が 若い筆で我ながら瑞々しく美しく続いて行く。「語る」ことの喜びにわかいわたしは嬉々として溺れていた。その下地には平家物語り成立への、梁塵秘抄御口伝 への没頭の愛が働いていたのを思い出す。詳細に構想しながらそのあまりな長編化におそれをなして筆を擱いてしまった昔、まだこつこつとペンで原稿用紙の枡 をうずめては徹底推敲の毎日だった。その原稿が遺っている。平家物語、後白河院、源資時、そして梁塵秘抄が、いかに私を浸蝕していたか、まざまざと思い出 せる。勉強、勉強、自身を叱咤する訓練そのものだった。自分で自分を懸命に激励していたのだった。痛いほど、懐かしい。

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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

65 *  2004 09・04    己が神への狂信と、異なる神(徒)への憎悪。それどころか、ともに同じ神を信じながら、同じその神の名にかけて、何の痛みもなしに為しうる惨虐。信仰という抱き柱を凶暴にふりあげて、不毛の残虐が為されています。

我(我々)と彼(彼等)との、容赦ない乖離と、殺傷をことともせぬ利害衝突。バベルの塔の不遜に対し、さまざまに言葉を異ならせてしまった神の罰は、あまりに苛酷に過ぎたとわたしは思っています。

はっきり言います、人間の不幸は神の意志に胚胎しています。人間の愚かも又、同じ。

神は在るでしょう、が、人間はそれを忘れた方がいい。人間は己の足で立つのです。歩むのです。手を繋ぐべきは神とではない。隣人とです。それも偽善(ウソ)クサイかも知れない。

わたしは「真の身内」を願いました、神よりも仏よりも。

バグワンは、もうおまえはブッダであるじゃないか、気が付いていないだけだと、言ってくれます。

まだ気付けないし目覚められませんが、その時が来ると思います。待たずに待っています。

人を愛しながら待っています。人のためにも待っています。  2004 09・04

 

* 東工大では講義の毎時間に大教室を満たしていた学生君達に、容易には答えにくい「問一問」を強いて応えて(出席票の余白に書いて)貰っていた。ある日は「不安か」と問い、驚くべき多数が単なる目先のそれを超えて現代の不安を感じていると答えていた。

東工大の学生達の勉強は、広範囲に例話すれば「手・」技術」に関わっていた。わたし自身は時代と人間を批評し始めた最初から「手」を思い『手さぐり日本 手の思索』は私の批評の主要な柱になっていた。そのなかでも私が言うた一つは「手直し」の知恵の必要であった。

今、世界は、人間は、「手」の産む利便に引き入れられながら「手もなく」我を忘れて浮かれている。最たる一人がトランプであり、その追随者ないし迎合・ 便乗の政治・経済であり、遺憾にも多くの若い人たちではないか。「手直し」の利かない「手」ほど危ないものは無い。今こそそう思う。

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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

66 *  2004  09・05    エックハルトは、最初の説教で、神殿から商人達を追い出すイエスにふれています。神殿とは、神の己れに似せて創った人間の「魂」のこ とであって、魂はからっぽで、そこには神だけが在るべきだと言うのです。「商人」という措定にエックハルトは「取引」という言葉を引っ掛けています。「商 人」にアテツケて、あれこれをことばの質にして神に願い出る者たちをエックハルトは指さし、そんな「取引」に神はまったく応じないと。そういう取引に奔走 する商人なみの人間どもは、神殿に無用であるとイエスは追い出すのです。

祈願という言葉の虚しさにわたしが漸く気付いたのは、数年ほど以前からでしょうか。願い祈りたいのは人間の真情の尤も赴きやすいところですが、だからわ たしは自分自身にも悉くは否認しづらいのですが、すくなくも「吾が為に」いろんな誓いを差し出して「祈り願う」ことは控えています。

他者の為にはまだ祈り願うことは容易に止められません。  2004 09・05 2020 1/6 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

67 *  2004 09・10    思考・分別。良いことの代表のように思っていますが、それらが「外」世界を支配する「心=マインド」と称して、人をわるく愚かに利害本位にコントロールしてしまいます。

政治屋は、その尤も図々しい手先なのでしょう。

宗教屋と教育屋はこれに次ぎます。  2004 09・10

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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

68 *  2004 09・30    頭と頭とのただのコミュニケーションでありたくないですね。ハートとハートとのコミュニオンでありたい。知識で動かされるコミュニケーションでなく、フィーリングでとけ合えるコミュニオンでありたい。

コミュニーケーションでは、「ただ言葉のみ与えられ、言葉のみ語られる。ただ言葉のみ受け取られ、」単に知解されてしまいます。言葉だけでは生き生きと した本質的なものは伝わりにくい。言葉は不十分なツールに過ぎません、だからこそ叮嚀に活かして用いねば。言葉はとかく不足するか過剰になるか。それが言 葉。コミュニケーションにはそんな言葉に頼らざるをえず、コミュニオンでは往々、なにも云わなくてもわかり合える。

これが、バグワンから早くに得た、一つの強い足場でした。言葉では言いおおせない、その近くまではやっと達しられても。ということは、恐らく小さい頃か ら感じていたことなので、バグワンの曰くは、すぐ得心しました。老子らが、言葉にした瞬間に真理は真理でなくなるのだと何より先ず説いているのも、分かる 気がしていました。

過剰に言われると、往々かえって事がウソくさくなります。雄弁は銀、沈黙は金という機微でしょう。沈黙とは、言葉数を少なくしてひと言の表現力を強くする・高めるということ、あーあ、しかし、なかなかそう行かない。   2004 09・30

 

* いま、なにが心から悦ばしいことか。家族や友知人の健康。創造的な佳い言葉との出会い。

 

* このところ、毎日、静かな懐かしい音色のジャズ・バラードに身を包まれて機械部屋にいる。

 

御幸道(ごこみち)のむかし目に見え雪の朝   遠

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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

69 *  2004 10・01   人が一本の中空の竹となったとき、天籟がそれを鳴らす、と。響かせる、と。

このバグワンのイメージ、すばらしい。

かぐやひめが竹にひそんでいたように、竹誕生の伝説は、南海諸島にことに豊富で、やはり、中空の竹に対する憧れが多く語られています。

今にも自身が中空の竹であり得たらと、その実感を求めて、とても強く憧れます。なにかがその竹の空洞を鳴らすように近づいてきます。闇を懐かしむのと似 た感覚。エゴという余分な混雑物=フシが竹の筒からすっきり抜けきり、そうそうと風が吹き抜けて行くような、一本の中空の竹。

眼を閉じていて、いましも、しばらく眠っていました。とろとろと。いっとき、からっぽになっていました。ここちよかった。  2004 10・01

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* 古典研究会が編輯している汲古書院の「汲古」76に、岡田貴憲氏の「『源氏物語』紅葉賀巻管見ーー<佛の御、迦陵頻伽の声>の新説(=田口暢之氏)をめぐってーー」が載っていて、かねがね不審を覚えていた霊鳥とはいえ「佛」はそのままの「御迦陵頻伽」という敬称付きは異様で、そんな例が源氏物語と同時代ないし以前に見つかるかと、質問しておいた。「佛の御」の方は「御(おほん)」という名詞に意義確かに用例があり、ここでも「佛の御声ないし御経(=転法輪)」の意味で成立し得る。

私の質疑を岡田さんは調べて下さり、「御迦陵頻伽」という敬称付きは源氏物語のこの箇所の一例のみ、多には見つからないと報せて下さった。これは、私のように「御迦陵頻伽」を疑問視している上は、証例には相当せず、つまり「御迦陵頻伽」とはこの古典時代に他に誰も書いていない(口にしていない)ことが、ひとまず明確になった。私の、昔からの不審は、ほぼ当たっていたことになり、自然、田口氏の「佛の御」という読み取りの妥当性が認め得られる結果になったと謂えるのでは。

 

 

「御迦陵頻伽」という「御」の「敬称付きは在るのか」に触れて、源氏物語当該の一箇所にのみ「在る」というお返事には、やや肯きかねました。 田口暢之さんの新説では、此処「紅葉賀」巻の「御迦陵頻伽」 は、「佛の御、迦陵頻伽の声」と読まれていて、此の例以外に源氏物語より以前ないし同時代には、「不自然な敬称付き」の「御迦陵頻伽」が「一例も見当たら ない」なら(私も見たことなく、いかに霊鳥といえ、異様に感じていました。)、むしろ「佛の御」と切って、御仏の美しい御声・御経と読むのは、なだらかに 妥当と 源氏の原文を以前から読んできました。田口説の「御」の受容の、他例にも徴して優に納得できますだけに、ここの迦陵頻伽の頭にくっついた「御」に は、論者に一度立ち止まって頂きたかったなと直観し、お尋ねしたことでした。敬称の「他例」が「在れば」 難なく それでも済むのでしたが。

岩波文庫新版の源氏物語でもすーっと従来読みでしたが、久しいお付き合いで、校訂の新刊も下さっている資料館前館長の今西先生にも、一度聴いてみようと思っています。

素人の口出しで、ご手数掛けましたね、ゴメンナサイ。  秦 恒平

 

 

と、汲古書院編集部へは返信し、これで打ち止めとしておいた。

 

* ま、道草に類したが、ことが好きな源氏物語の好きな「紅葉賀」巻の話だったので、ふっと、立ち止まった。

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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

70 * 2004 10・04   わたしの脚色した俳優座公演、漱石原作「『心 わが愛』のキイワードは「身内」でした。

『身内』とは。

バグワンは、ヘッドトリップとハートトリップということをよく言います。ヘッドトリップとは分別心、それでは人間関係のなかで信じたり疑ったりを反復し思議しているに過ぎません。まだ他人と他人の仲です。ハートトリップなら「身内」に近づいているといえます。

疑いは半欠け、信用も半欠け、それは同じことの表裏にすぎないとバグワンは言うのです。

幼な子は父親の手にすがり

父の行くところならどこにでもついて行く

信ずるのでもなく、疑うでもなく――

これは「父よ」とただよんでみるだけで済む「子」の全的な信頼・帰依を示唆しています。

信じたり疑ったりの繰り返し、それを ヘッドトリップといいます。父と子との譬え、それをハートトリップといいます。恋は所詮ヘッドトリップ、わたしの 謂う「身内」は全的なハートトリップだろうと思います。「恋は罪悪です。しかし神聖にいたる道だ」と『心』の「先生」は「私」に向かって繰り返し言う。神 聖とは「身内」の意味でもありうる。「先生」も「K」も、恋の心で心騒いで「静」をついに得られなかった。彼らは「お嬢さん」「奥さん」のほんとうの「身 内」になりきれなかった。

ヘッドトリップの人であった漱石は。それに自身も気付いていましたから、則天去私を願った。願ったと言うことはそれに達したという証拠にはなっていな い。「先生」も漱石も気の毒な人でした。むかしむかし、中学前に、息子の建日子は『心』を父親のわたしに読んで聞かされて、「なんて可哀想な…K」と泣き 出しました。

わたしは今は、やはり「先生」の淋しさを、気の毒に感じます。  2004 10・04

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* 二十八日の「湖の本148」納本までに、病院・医院へ三度通わねばならない。煩多な送り用意のアレコレも 油断無く捗らせながら、『選集32』の初校了・要再校にも達しておきたい。

忙しいとは、ヘバッテるヒマはない、ということ。とはいえ、ぐたっと疲れている。すこし横になり、昔々の若書きの『初稿・雲居寺跡』を読もう。

すくなくも あの五月蠅かった「新潮」が一字一句にも注文を付けなかった『蝶の皿』や太宰治賞選者満票の『清経入水』より、一段と若い早い時期の、ひた すら小説が書きたい書きたいで書いていた未完の「草稿」だけれど、今の目で見ても、なんという瑞々しい清々しい筆致で描写し表現しているかと我ながら呆れ るほどの思いがある。「愛着の作」と自身に言い聞かせられるほど、小説の文章がもう存分に書けていて、読み替えしていて懐かしい。しかも、いかにも私なり の超現実、シュールの時空が彫刻されている。あの時期時代の、そして現在でも、この私の作は、異様に孤立していると評された『清経入水』らの一卵性の兄弟 と見える。身辺の些事を書いての私小説型リアリズム時代だった、あの頃は。まさに私の作風は中村光夫先生の評されていたように、異様なまで孤立していた。 「作家さよなら」と手記して、作家世間に入り交じるのは止そうと思ったのはムリなかった。常態は、ずーっと続いて、私は「群れを嫌い、拘束を嫌い、権威を 嫌」って、あたかもフリーランスの作家になった。必然の成り行きだったなあと、未完成の「初稿・雲居寺跡」は納得させる萌芽を見せている。

 

* まだ八時前だが、目はもふ潰れている。機械を離れる。

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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

71 *2004 10・05    ☆ 完全に女性的に子宮のように受容的にならなくてはならない と。読んだ瞬間に驚きました。バグワンほどの人物も、こういう表現をするのかと、びっくり。

子宮のように受容的という表現に、男の女への思い込みや都合のいい理想化、あるいは性的な力関係の優越性の匂いを感じました。大袈裟ですか? 受容的は よい意味で使われていますが、それでもわざわざ女性と子宮と譬えるのはどこか何かが「ちがうのとちがうやろか」僻みかもしれませんが、差別を受ける側とい うのは重箱の隅をつつきたくなるもの。

本筋で、バグワンが女性を低く見ているとはまったく感じませんし、この本のテーマに影響のあるものでもなく、こだわるつもりはありません。でも、この表 現、無意識の無神経さというか長い間の男性中心文化の厚みの壁なのかと感じました。バグワンの言葉に何度も心安らぐ想いがしているので突然のこの表現に狼 狽したのでしょう。 都内読者

* > 完全に女性的に、子宮のように受容的に

ユダヤ教、キリスト教、回教以外はといえるほど、信仰の深い基盤は「女性性」にあるとは宗教学の常識で、女性的な、時には露骨に女体に譬えたいろんなメ タファー(隠喩) が、いろんな宗教に氾濫しています。一例が、老子は「谷神」と謂い、また「玄牝」と謂っています。受容、帰依、降参、みこころのままに、みなその深い意味 は、底知れぬ豊かな慈悲にあふれた女性・女体的受容でしばしば譬えられて来ました。バグワンの失礼な偏見というのではなく、むしろ女性的なものへの信頼と 敬意に満ちたメタファと考えていいのではないか。バグワンは、どこからどうみても、最も本質的に深遠な世界の基本は、「女性性」だと確言しています、真実 に最も近いメタファとして。

だから、暫く目をつむって、「子宮」という語をメタフアとして容認して欲しいと思います。それに子宮・秘宮という語自体にもともと深い敬意が籠められていることにも気付いて欲しい。膣とは違う。

真の宗教家に男性中心文化の人は少ないのではないか、むしろ本質的な人ほどみな「女性性」に対する世界観上の敬愛を持っています。キリスト教徒でも例外でなく、むろんイエスも。

バグワンは男性本位者では全然なく、彼はここぞという機微では「女性性」に頭を垂れ、それなしに世界は無かったとしています。わたしはそう聴いて読んでいます。

> バグワンの突然のこの表現に狼狽したのでしょう。

これは、この人が、本当に神的なものに帰依し信仰し降参してこなかったことを告白しているのと、同じ。バグワンはここで「子宮」という一語に、愛の根源 を、世界の原型を見ているのですから。信仰とは、それへの信仰でしょうよ、どの宗教であろうとも。「母」と読み替えればいいのです、あたかも「母に受容さ れたい」のが信仰の喜びでありましょうから。

* 子宮事件で作者自身が有名に仕立てた話は、瀬戸内寂聴さん。まだ駆け出しの頃か、小説に「子宮」という言葉をつかったのが非難されて、以後永く仕事 の依頼が無くなったと、何度も書いたり話したりされています。それを聴いたり読んだりしたつど、わたしには現実のことと思えなかった。子宮は、鼻とか口と か胃とか腎臓とかとちがい、神経ともならんで、むしろ尊称にも近いのに。そして世界の生成の秘儀を創造するときに、男性原理などものの役に立たない、根源 は女性的受容にこそ創成の真意は成り立つぐらい、直感的に分かりそうなものです。

老子の、「玄のまた玄、衆妙の門」 と謂い、また 「谷神死なず、是を玄牝と謂う」 というのも、その喝破でしょう。  2004 10・05

 

* 「女という不思議」に感動を覚えてなかったら、小説は「書け」なかった。「読む」楽しみももてなかったろう。天照女神、木花咲耶媛、少将滋幹の「母」  光源氏の「桐壺、藤壷、紫上、宇治中君」芦刈の「お遊さん」谷間の百合の「モルソーフ夫人」心の「奥さん」たけくらべの「みどり」徒然草のはじめに点綴 される「俤の女」……

笑い話のようだが、小説を書こうと書き始めた最初は、国民学校(小学校)の一、二年生で、武士が武者修行に出かける場面だったが、ものの二行と書けなく て「ヤメ」た。バン・ダン右衛門や岩見重太郎を知っていたのだ、が、彼等は「男」で、何の「不思議」も感じにくい「石」のようなモノだった。ダルシネアや アルドンサを感じ、信じ、愛していない「ラ・マンチャの男 ドン・キホーテ」では、どうしようもない。

2020 1/11 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

72 * 2004 10・07    バグワンは云います。

帰依、降参、無条件の受容  そこまで行けば言葉やシンボルは必要ないと。

「本当のこと」はその言葉のすぐ脇で起こる。言葉はひとつのトリックでありひとつの方便にすぎなくなる。「本当のこと」が影のようにその言葉に寄り添う。

おまえがあまりにも心にとらわれてしまっているとき、(ヘッドトリップしているとき、)おまえは「言葉しか」聞こうとしない、読もうとしない。それでは「それ」は伝わらない。

もしおまえが分別のマインドに、心に、こだわらなければ、そのとき言葉に伴っているとても微妙な真実の影 とても微妙で、ハートだけがそれを見ることの 出来る不可視の影 意識の不可視のさざ波 波動(ハートトリップ)  それが伝わり コミュニオン(身内の愛と理解)が直ちに可能になる、と。

2004 10・07

 

* いまも、深く肯く。

2020 1/12 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

72 * 2004 10・09    バグワンには、なにかの「効果」「効用」を気ぜわしく望むことなく、静かな目覚めへの詩(うた)のように、ノーマインドで聴きつづけたい。聴くだけでいいと思います。「考え」なくていいと思う。

彼は云います、「考える」とは選択することだ、つまりトータルに受け容れることが出来ず、偏狭に、まず、いいとわるい、美しいと醜い、正しいと正しくな いなどと「分別=マインド」した上で、いいを選び、美しいを選び、正しいを選ぼうとする。だがそういう「分別」という判断は、所詮はわるいこと、醜いも の、正しくないものと表裏して、必然もう一方も引きずる。しかも瞬時にころころと態度や行為の中で反転し交替してしまう、と。

心=マインドは頼れない、善人も悪人もない、人間の心は瞬時に千々に乱れたり騒いだり砕けたり惑ったりするものだと、さしづめそれが漱石の把握した、「心」という頼りないシロモノの正体でした。

考えて分別するのでなく、あるがままに観じながら生きたい。だが、だれにでも出来ることではない。もし仏陀を、もしイエスを、もし老子を、もしバグワン のようなマスターを「観じ」得たならば、ためらわず聴き、求め、あっというまにすれ違ってみのがしてしまうことのないようにしなさいと、バグワンは云って います。彼が正しいとか正しくないとか考えているヒマは、もう、わたしには残されていない。ほかに何も見当たらない、感じられない。だからただ彼に聴いて います。抱きつきもしない、縋りもしない。ただ聴いています。

親鸞は地獄があるか極楽があるかも知らない、分かろうとも思わない、ただ法然先生が念仏すればいいと云われるのだから念仏するだけだ、それで瞞されていようが地獄へ堕ちようが、ほかにどうしようがあるものか、と云っていました。

親鸞は法然とすれちがって二度と逢えないこわさを、瞬時に悟ったのでしょう。  2004 10・09

2020 1/13 218

 

 

* また近く始まる大河ドラマとか、明智光秀と同時代をと。何度繰り返すのか、知恵が無いのう。中世の終幕から近世の幕開きは大時代に相違ないが、信玄も、信長も、伊達も、秀吉、家康も、徳川三代も、毛利も黒田も三成も利家も、みーんな遣ってきた。残るは光秀なのか。

 

* 大きな時代の変転をアッというまの勝敗で果てなく大きく歴史に刻んだ十三世紀はじめ公武と東西逆転の「承久の変」に何故着目しないか。

「時代」を大きく読む努力を欠いて、派手な武闘の「事変」に踊るのだけでは、味わいが薄い。

 

* 朝食夕食の刻限にはテレビは、もうもう、クスリ・食い物・化粧品の広告映像で溢れ、やすい芸人たちが騒がしく浮かれ声の「ウソ」をわめき続ける。「(出任せ大声の)叩き売り芸人」「ナント・スゴーイ(など叫ぶ)芸人」「(ワケ知り顔の)さくら芸人」そして、「(お引き立てをと)顔見世芸人」「しぐさだけで(見せる)芸人」「(自分の顔しか)売らない芸人」「(売りになど)出てこない芸人」。

これらが奇妙なほど浜の真砂の芸人や俳優らの「実力」や「評価」に比例してくるから、おのずと彼等芸人としてのの品定めは、業界一般、ないし本人の意識内で出来ている。

コマーシャルも観ようで、皮肉に辛辣な「バレ」場面を見せる。

2020 1/13 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

74 * 2004 10・14    人間の所業に「もっともっと」が価値をもつことも、無いではない。たとえば藝の道など。わたしはそれをしも、そんなに潔いとも崇高とも想わないのですが。

自然な鈍磨にはそれなりの美があるものです。若きより老いにいたる自然な曲線を幸いに設定されているのに、ことごとしく逆らってみることを時に勇ましくも、時に愚かしくも思うのですよ、わたしは。

ましてたかが企業利益の、前年同期**パーセント増などという見込みを果てしなく願ってみても、壁に突き当たり奈落へ沈むのは当たり前の話です。昔、管 理職のはしくれで年計画のそういう提示を飽くなく上に求められ続け、あさましいなあ企業というのはと、ほとほと苦笑ものであったが、バブルの夢はあえな く、世をこぞって潰れていきました。

ひとによれば「もっともっと精神」こそが文明開化の幸を人間にもたらしたと思っているでしょうが、それは機械文明にほぼ限られていて、その機械文明がも たらしたのもたんに「便宜・便利・安楽」という薬効に過ぎぬ事、この薬の毒性もまた甚だしいということは心得ていざるをえません。それが、ほとんど人間の精神を 根から荒廃させつつあるのかも知れぬという視点を、はなから喪失しているから、世間にも世界にも、ロクなニュースがないのです。バカらしい。

* バグワンは、例えば智者で哲学者であるバラモンたちを、「頭=ヘッド人間」として批判します。あまりにも多く知りすぎて、概念を、理論を、教理を、 聖典をかき集められるだけかき集めて「もっともっと」とヘッドに溜め込んでいるが、それは根から「開花」したものでなく、「起こった」ものではなく、すべ て外からの「借り物」であり、つまりは腐ってゆくだけのガラクタでしかない、真の無智を覆い隠す心のトリックにすぎない、と彼バグワンは言う。ほんとうに そうだと思います。

或る大哲学者は、もし「哲学」が真に「役立つ」とするなら、それは、哲学なんてものが人間の最後の最後には何の役にも立たないと「分からせる」ことだと言い切り、大事なのは、そんなヘッドトリップから、百尺竿頭さらに一歩をすすめるハートトリップであると言っています。

知識では決して賄えない秘密の世界が、明快な世界が、ある。あれかこれかという分別でなくトータルにその世界を enlighten する一瞬を、「求めず」に、つまり自我=エゴ=分別=マインド=心を「落とし」て、「待て」と、バグワンは云うのです。

「もっともっと」が、エゴの拡充でしかないトリップでは叶いません。

* 或る意味で優れた人は、たしかに、おおかた「もっともっと人間」であったでしょう。そこから綺麗に enlighten した人も、そうは願わなかった人もいるでしょう。中でも政治家は例外なく「もっともっと」の欲の塊であり、だが、バグワンはその生態はつまりは「梯子登 り」に過ぎないと言い切ります。

梯子のテッペンへ上がりたい。それが大統領、それが総理大臣、だが、それが何なんだと言うのです。それだけのことだ。「人のため」という巧言令色で権力欲という襤褸を隠した、大方がただもうあさましい無意味な存在だ。

明治維新の政治家達も、国民を利用するだけして、政体が整うと、あとはえげつなく国民を足蹴にしてくれました。歴史的な敗戦への素因をもののみごとに積み上げつづけたのでした。「もっともっと」の欲深さで蠢いたものらよ。

* 法然や親鸞は、優れた智者たる「もっともっと」を綺麗に棄てていました。蓮如は、優れた宗教家ではあったけれど、法権の組織者として 「もっともっと人間」で終わることを免れなかった。今にのこるそのシンボルが、本願寺です。宗教・宗派ほど政治とくっつきやすいとは、古今東西の実例が、 あまりに数多く如実に教えています。バグワンが徹底的に政治家と聖職者とを同列に批判するのも無理からぬ話です。  2004 10・14

2020 1/14 218

 

 

* じりじりと「湖の本 148」発送の用意も進めているが、『選集 32』の初稿を思いがけず妙に新鮮にかつ懐かしく楽しんでいる。面白い組み立ての小説集一巻に成っている。へえ、こんなのをこんなふうに書いてたんだ、若いっていいなと思ったりして。

2020 1/14 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

75 * 2004 10・18     バグワンは、人はどうかして自分が「誰かさん somebody 」でありたがる、と言います。自分は作家ですとか、弁護士ですとか、代議士ですとか、俳優ですとか。それも、どうしても、人気作家ですとか、腕利き弁護士 ですとか、大臣になりましたとか、売れっ子ですとか思いたがり言いたがる。支えているのはエゴで、エゴである限りにおいてお好きにどうぞというところです が、所詮は梯子のぼりの藝当にすぎません。梯子をただ高く登ってそれが何なんだと言えば、何だとも言えたことであるわけがなく、いずれ「死」の波にザアと 流され影も形も消え失せてしまいます。「誰かさん」けっこう。けれどはかない限りと気も付かぬまま、ちいさな裸の王様が無数に存在している、その一人でど うかいたいいたいとは、囚われているというしかない。そういう人は、いつまでたっても、「誰でもない人 nobody 」の強さや、確かさからほど遠い。

バグワンはずいふん聞きづらいことをジャカジャカ言ってくれる人ですが、なんでそんなに「誰かさん」でいたいんだと聞かれるときは、耳がちぎれそうに痛 い。だが彼のいうことは確かで、逸れていませんね。「誰かさん」という真っ黒いピンを針ネズミのように五体に刺して奔命し奔走してきた自分を、過去に否認 は出来ません。では、今は。それにしがみついていないか。いないと言いたい自分に十分気が付いている、とだけは言えるのすが。  2004 10・18

2020 1/15 218

 

 

* 『チャイムが鳴って更級日記』なんていう面白い小説も書いていたんだ、これはもう朝日子が中学生の頃の作だが、書きように、処女作時代の「承久前夜」 をのめり込むように物語っていた『初稿・雲居寺跡』とも、時を隔て呼応している。わたしはよほど「歴史・国史」に惹かれるタチなのだ、ちっちゃかった昔か ら。「歴史」にまるまる触れ合ってない自作小説は、とっさに思い出しにくいほど数少ない、今更に気づいてビックリしている。

2020 1/15 218

 

 

* 烈しい攻勢や抵抗に耐えることは出来る。作業や仕事の渋滞によく耐えるのは存外に難しいが、或いは人生とは渋滞に耐え歩き続けることか。

 

* 「秦 恒平・湖の本」が第150巻を迎える。何を書いて充てるか、出来れば、書き残しているモノを新しく書き下ろしたい、容易でないのだが。

2020 1/15 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

76 * 2004 10・19     云うまでもなく、バグワンは「梯子上り」を全否定はしていませんし、わたしも。そもそも、それが「梯子登り」以外の何物でもなさそうだとは、年を取 らないと分かりません。やるだけやった者にしかじつは分からないのかも。ヴィトゲンシュタインも、「哲学」をはなから否定するのでなく、哲学が「何の役に も立たない」ということを本当に分かって、それ以上のところへ出て行かねばと分かるために「哲学があるのだ」と云っています。

微妙ですが、「nobody」の確かさを分かるためには「somebody」の道を通らざるを得ない。そうすれば「somebody」であるだけでは本質の安心と無心には至れないことに気が付くと。

険しい道です。難しい。いや、難しい。  2004 10・19

2020 1/16 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

77 * 2004 11・08    くらい、あやうい夢をつづけざま見ていました。アンナ・テラスの世界、「先祖」の世界、明治十七年の悲惨な農民達の世界、応報を説いてやまない今昔物語の世界。

バグワンは、老子を語り、老子の本文から、ぎりぎりの限界まで弓弦を引き絞ってしまったら、そこまでしなかったらよかったと必ず悔いるものだ、と言っていました、ゆうべ。

人生の綱渡り、まっすぐ渡りたければ、右に左に、揺れては戻すのだとも。

わたしは、まだ、はるかに遠い。  2004 11・08

2020 1/17 218

 

 

* バグワンは澄んで曇らぬ鏡のようであれ、来る者は写し去る者は追わぬ。去来にとらわれることなく、しかもくっきり写せと。いい教えと思う。

2020 1/17 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

78 * 2004 11・09      いまバグワンの老子を読んでいたら、

弓をぎりぎりまで引き絞れば、

ほどほどのところでやめておくべきだったと思うだろう……

という言葉を、繰り返し、いろんな角度から語り継いでいました。

「老子」本文では、 持而盈之、不如其已、 の八字。 盈 とは、過剰に十分に至ろう、もっともっとと逸ることだと謂われます。わたしの手元の沢庵禅師 の解ではそうです。で、そんなことは、やめたがいいというのが、次の四字。つまり、ぎりぎりにまでものごとを追いつめてしまうと、総てを喪失しかねない。 バグワンは、バランスを忘れるなと言うのです。

レバノンの詩人・哲学者のカリール・ジブランは、恋人達は寺院(愛)の互いに「柱」のようであるべきだと謂っています。バグワンがそう話してくれまし た。柱と柱とは同じ屋根を支えてはいる、けれども彼等があまり近づきすぎたら、またあまり遠ざかり過ぎたら、寺院全体は崩れてしまう、と。(あまり賢すぎ るような気がして、わたしは少し不満ですが。)

バグワンはこれが愛のアートであり、コツだと言うんです、これにも少しわたしは拘りますが、バグワンは、愛し合う二人が近づきすぎるとお互いの自由を侵 害し合うと警告しています。誰しも自分のスペースを必要とするものだ、愛は、それが互いのスペースと共存するときはビューティフルだけれども、侵害し始め たら有害になる、と。

まったく聡明なバランス感覚で抵抗しにくい。けれど、愛、いや恋とは、余儀なくこういうバランスを乱し合ってしまうことで、悩ましくも、愛おしくも、烈しく深くも、憎らしくもなるものでは…という思いは、感想として持つのですよ、わたしは。

ただ、そういう喜怒哀楽に拘泥的には立ち止まらないでしょう。そういうものだと眺めて、やりすごします。所詮は「理」でも「理詰め」でもなく、文字通りの「解・決」などはつかない、ハートトリップなのが、愛や、いい意味の恋だろうなと思うですだ。

それにしても、つい、何かにつけ、弓をぎりぎりまで引き絞って、動きの取れないはめに自ら陥ることはあり、バグワンに叱られてしまいます。ダメなヤツであります、わたしは。

バーナード・ショウは、「ひとりの人間が愛に於いて賢明になるまでには、その人生は終わってしまっている」といっています、とか。ごく年老いた人は、愛に於いて賢明になるが、愛の可能性も終わっている、とも。

憎らしいことを言うなあ。彼ショウは、しかしこんな切実なことも言います。

「私はいつも、なぜ神が青春を若者達に費やしてしまうのか、不思議でしかたがない。それは、より賢く、人生を生きてきていろいろなことを知り、ひとつのバランスに達している老人にこそ、与えられるべきものだ。ところが神は、青春を若者達の上に浪費しつづける」と。

ショウは、老人を甘く評価しています。老人が「賢い」などと言えるかどうか、わたしは、我ながら疑問に感じています。  2004 11・09

2020 1/18 218

 

 

* 創作を書き継ぎの仕事をのぞけば、今は、もっぱら『秦 恒平選集 32』の初校を終えねばいけないのだが、慎重に進めたくて時間が掛かっている。幾らかは、読むのを楽しみにしているので。

しかし『選集』予定最終33巻の確かな、佳い編輯にももう手を掛けねばならない、しいて今年の桜桃忌に完結しようなどとは思うまいけれども。

それよりも、二十八日には出来てくる「湖の本 148」発送用意がまだ十全でない。きっちり用意できていないと発送のその場で齟齬や停滞が出て疲れてしまう。

そしてその上で、本気で思案すべきは「秦 恒平・湖の本」第150巻をどう編むかだ。そのためにも第149巻はもう入稿してある。私なりに満足できる一巻にしたいが、まだ思案が付いていない。

八十四歳、ちっともヒマでない。

2020 1/18 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

79 * 2004 11・23     何かを営まねば人は安心できない、そしてその営みから概して傷ついて、それも癒さねばならないんです。マッチポンプですが、それを射抜いて「弁証法」という方法論も生まれたのが人の世でした。

バグワンは『道(タオ)』の中で「九九の陥穽」ということを語っています。

無心に平和に生きて悠々とした人に、強いても九十九枚の大きな金貨をやると、ふしぎにもう一枚の金貨を加えたなら百枚になる、せめては百枚にしたいと願 い初めて、無心も悠々もまんまと棒にふるものだ、マインドという分別で生きねばならない人間の陥穽は、せめてもう一枚、もう一寸、もうちょっと、ちょっと の果てしない「もっともっと」で地獄に堕ちて行く、と。

そして百枚になればそれで満足しなくて百一枚に二枚にと追いかける。それが「向上」だと思いこむが、必ずそれが地獄への転落になる。事実成っているのが普通だ、と。

普通かどうか知りませんが、バグワンの辛辣な観測には服しています。「退蔵」の二字をわたしが、なかなか出来ないままにも「理想」として見ているのも、「九九の陥穽」を実感として予測するからです。

もっともっとと生きねばならない人生の坂道がある。息子の秦建日子など、まさにその坂を歩んでいます。登っている。それが価値的に輝く時期(ステージ) と、それがあさましく腐朽してくる時期とが、あるものです。誰にも。  2004 11・23

2020 1/19 218

 

 

* 「チャイムが鳴って更級日記」という旧作は、「更級日記」論ないし「菅原孝標女」論として成り立っている私には面白い小説に仕上がっていて、このころ はもう文藝誌に望みをもたぬまま手書き原稿用紙のまま抽斗に蔵われていたのを「湖の本」のために活かした。「初校*雲居寺跡」もそうだった。大化改新から 武蔵武芝や平将門登場までの不思議を現代の女子高校生登場を背後に存分に物語っている現代小説『チャイムが鳴って更級日記』は、まさしく古典と歴史に親炙 の所産となった。「読める」人には縦横無尽、興趣の読み物になっているな、と、納得した。

戸棚の奥からひきずり出したような、「承久前夜」の重苦しい曇り空のもとを史実と幻想とで夢見るようにさまよい歩いて書いた『初稿・雲居寺跡』も、公武暗転の時代にのめり込めばこその意欲の若書きであった。『選集32』 私には、おもしろい一巻に纏まってきた。

『選集33』予定の最終巻がどう編めるか、モノは溢れかえっていて、多くが未収録のママに残される。

2020 1/19 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

80 * 2004 12・06      知識は無際限にあらわれます。いくらでも教わり蓄えられる。しかしどんどん移り変わって行きます。知識に関しては若い者が確実に年寄りを凌駕して 行くのは当たり前の話。「知識という分別」に関する限り、若者はいつの時代でも年寄をバカ扱いしてきました。九十の老人の知識はそれだけ古びていて、二十 歳の若者の新知識に並べるワケがない。だが、それとてもどんどん移り動いてゆき、定着する知識というのは想像以上に少ない、いわば賽の河原。もっと適切に 謂えば、青空を覆い隠しながら湧いては流れて消えて行く、無際限な雲の群れのようなのが「知識」です。

「智慧」はちがうと、バグワンは云います。智慧は雲の彼方の不変普遍の青空のように在り、知識とはまるで異なる。青空は決して移動も消長も増殖も雲散も 霧消もせず、永遠の過去から永遠の彼方にいたって、なお実在します。智慧は青空のように在り、人がそんな智慧に至る(=気付く)には、普通の場合、滴が垂 れて湖になるほど時間がかかるそうです。

東洋では智慧を重んじたので老人が重んじられましたが、西洋では分別可能な知識が優先されたので、老人は歴史的に重んじられにくかった。

バグワンは、ゆうべ、そんなことをわたしに語って聴かせました。わたしはそれをもう数度も聴いています。聴いているだけです。分かったなどとは云わない。

普遍の青空と浮動の雲霧。智慧と知識。

なるほどと、そういうふうに受け入れられる実感への素地は作ってきました。  2004 12・06

 

* 打てば響く と教わってきた。ただ動けではない、向かうべきは正面で迎えよと。

2020 1/20 218

 

 

* 『当選作・初稿=清経入水』(発表作はこれを徹底推敲し、異なっている。)を読み返し、別世界を翔びめぐる思いがした。まこと、書かるべく書かれた最 初の噴火作だったと思う。井上靖はしみじみ私に教えてくれた、まともな作家には、人生「二度」の噴火があります、必ず二度噴火しますと。

最初の噴火がたまたまに、しかも達識の先達の後押しで起きた。無心に、なにの欲目もなく書いていた作、それも私家版の巻頭に置くほかに人目に触れ得ない孤独な仕事だった。

なつかしい。ヒロイン「紀子」は、一方に『畜生塚』の「町子」や『慈子』と対照の、数多い私のヒロインたちの明瞭な一原型を成した。正確に、「紀子」の ちの「冬子」は、最新作『花方』の「颫由子」へと生き延びた。河上先生が喝破された「現代の怪奇」は彼女らが表現し続けてくれた。

そして、まだ…と彼女らは命長く生まれ変わってくる。そう思う。

2020 1/20 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

81 * 2004 12・28    人は死を敵視し、恐れ、かつ死と闘って生きてきたと謂えるでしょう。だがこの勝負に勝った者はいません。死を「敵」と思ってしまうことが、人を不安と動揺のさなかに戦(おのの)き漂わせてしまうようです。

生まれた瞬間から人は「死とともに」生を歩み始め、死を身内に育みながら生きてきました。死は、「同行二人」の人生の最たる伴侶なんですね、そう思え ば、死を敵視した戦闘的な不安はなくなる、と、わたしの書くこれよりもっと効果的、適切な物言いで、バグワンはわたしにいつも語りかけます。

死と闘って一寸逃れに藻掻き苦しむ不安や恐怖から、人は所詮勝って逃れられるなどということは、ない。死は生の敵ではなく、生まれたその時から友であった。これ以上もないほどしっかり手に手をとって歩んできた、自分自身の「影」なのでした。

ゆうべ遅くに、こんなメールが来ていました。

☆ バグワンは言います。

人が<わが家>に帰り着いたとき

そこには何ひとつやることなんかない

人はただあらゆることを忘れ

そして、くつろぐ

神とは究極の休息だ

これを覚えておきなさい

482頁「存在の詩」

憧れています。でも、少し怖い。この神は死を通らないとたどり着けないのですもの。

自分はまだ中年の若者。試行錯誤して迷い惑い回り道して、いつかここに行きます。  蝸牛

* このバグワンの云う境涯を、この人は「死後」に得られる「休息 =神」だと考えるらしいが、おそらく、そうではあるまいと思う。

「人が<わが家>に帰り着いたとき」とは、死後のことではない。

「今・此処」にすでにわれわれはその「家」を持っていながら、気が付かない。

死を敵視し不安を抱いて無理な闘い、勝ち目のない闘いに奔命しているから、気が付かない。

バグワンはそう促しているのでは。  2004 12・28

 

* 15年も以前に、こうもバグワンに聴いていた。顧みて、肌寒いまで自身の未熟に思い当たる。

2020 1/21 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

82 * 2004 12・30     夜前音読したバグワンの言葉を、何と云うことはないが、今年の一つの締めくくりかのように、書き写してみます。これは和尚の、『TAO老子の道』上巻 (訳者はスワミ・プレム・プラブッダさん)の中ほど、250頁以降の数頁です。

同じ個所をもう数回わたしは翻読して、そのつど何かしらを感じ、つき動かされます。長冊の唐突な途中からではありますが、それは気に掛けません。どうや ら、これはとても大勢の聴衆を前にした和尚バグワンの講話であるらしい。しかし「あなた」と呼びかけていれば、むろんわたしは自分のことと思い、「おま え」と聞き替えてじっと聴いています。

 

☆ バグワンに聴く

 

意識というのはひとつの祝福にもなり得る。が、それはまたひとつの禍いにもなり得る。あらゆる祝福は、必ず禍いと連れ立ってやって来るものだ。問題は、 どう選ぶかはおまえにかかっている、というところにある。それをおまえに説明させてほしい。そうすれば、われわれはこの経文(『老子』)に楽にはいってゆ くことができる。

人間には意識がある。人間が意識的になったその瞬間、彼は「終点」をもまた意識するようになった。自分が「死ぬ」定めになっているということ—。彼は 明日を意識し、時を意識し、時間の経過を意識するようになる。遅かれ早かれ「結末」は近づいて来る—。

彼が意識的になればなるほど、それだけ死というものがひとつの問題、唯一の問題になってくる。どうやってそれを回避するか? (だが)これは、意識を間 違った使い方で使っていることにほかならない。それはちょうど、子供に望遠鏡を渡しても、その子がどうやってそれを使うか知らないようなものだ。彼はその 望遠鏡を、反対の端からのぞくこともできる。

「意識」というのはひとつの望遠鏡だ。おまえはそれを間違った端からのぞくこともできる。そして、その間違った端にもいくつかそれなりの利点がある。そ れが新しいトラブルを生んでしまう。望遠鏡の間違った端からでも、おまえは多くの利点があることを発見できる。短い目で見ると、たくさんの利点が考えられ る。「時間を意識している」人たちというのは、「時間を意識していない」人たちに比べると、何かしら得るものだ。「死を意識している」人たちというのは、 「死を意識していない」人たちに比較すれば、達成することが、たくさんある。西洋が物質的な富を貯えつづけ、東洋が貧しいままだったのはそのためだ。

もし死を意識していなかったら、誰が構う? (この東洋的な)人々は、瞬間から瞬間へと、まるで明日など存在しないかのように生きている。(それなら) 誰が貯蓄する? 何のために? 今日だけで、あまりにもビューティフルだ。

なんでそれを祝わない? そして、明日のことはそれ(明日)が来たときにしよう……。

 

西洋(の人達)は無限の富を蓄積してきた。みんながあまりにも「時間」を意識しているからだ。人々は自分たちの一生を”物”に、物質的なものごとにおと しめてしまっている。摩天楼……。彼らは大きな富を築いている。それが、間違った端から(望遠鏡を)のぞく利点だ。彼らは近いところにある、短距離の特定 のものごとしか見ることができない。彼らは遠くの方を見ることができない。彼らの目は、遠くを見ることのできない盲人の目のようになっている。

彼らは、それが最後には大きな代償を払うことになりかねないということを考えずに、いまのいまかき集められることだけしか見ようとしない。

長い目でみたら、こんな利点は、利点ではないかもしれない。

おまえは大邸宅を建てることもできる。が、それが建つまでにおまえはもう「さよなら」の支度だ。おまえは全然そこに住めやしないかもしれない。おまえ は、小さな家にビューティフルに住むことだってできたかもしれない。山小屋だって用が足りたろう。ところが(西洋風になった)おまえたは、自分は宮殿に住 むのだと心に決めた。(だが、)いま、宮殿ができてみれば、肝心の(住む)人がいない。おまえがそこに「いない」のだ。

人々は、「自分自身という代価」を払ってまで富を蓄積する。最終的には、結果的には、ある日彼らも、自分たちは自分たち「自身」を失ってしまっており、 そして自分たちは、役にも立たないものを買い込んでいる(いた)のだということに気づく。その代価は大きかった。しかし、いま(「さよなら」の時)となっ ては、どうすることもできない。時は過ぎている。

 

もし(「さよなら」への)時間を意識していたら、おまえは、狂ったように「物」を貯め込むことだろう。おまえは自分の生命エネルギー全部を「物」に転化してしまうだろう。

(「時間」だけでなく、)「全領域」にわたった意識を持っている人間は、この(今・此処の)瞬間を、可能な限り楽しむ。彼は浮かび漂うに違いない。彼は 明日のことなど気にかけまい。なぜならば、彼は「明日などけっして来やしない」ことを知っているからだ。彼は、最終的に達せられなければならないものは、 ただひとつ、自分自身の〈自己〉だということを深く知っている。

生きるがいい。それも、「自分自身」(の実存・本質)と接することができるくらいに、本当に「トータルに」生きるがいい。それに、(トータルに生きる以 外に、)ほかに、自分自身と接する方法などありはしない。(トータルに)深く生きれば生きるほど、おまえはそれだけ深く自分自身(の実存・本質)を知る。 人間関係においても、ひとりでいても…:.。

“関係”の中に、「愛」の中に、深くはいってゆけばゆくほど、おまえはそれだけ深く(トータルに自分を)知る。愛がひとつの鏡になるのだ。そして一度も 「愛したことのない」人は、”独り alone” になることもできない。せいぜいのところ”孤独 lonely” になれるだけだ。

愛し、そして(人間同士の本質的な)「関係」というものを知った者こそ “独り” になれる。いまや、彼の”独りであること” には(それ以前とは)全面的に違った質がある。それは(もう) “孤独” じゃない。彼は(これまで)ひとつの関係を生き、自分の愛を満足させ、相手を知り、そして「相手を通して」彼自身をも知った。(だが)いまや彼は、自分自 身を「直接に」知ることができる。もう「鏡」の必要はない。

ちょっと、誰か、一度も鏡に出くわしたことのない人のことを、考えてごらん。目を閉じて自分の顔を思い浮かべることが、彼にできるだろうか? 彼は自分の顔を想像することもできない。彼はそれを瞑想することなどできやしない。

しかし、鏡のところへ来てそれをのぞき込み、それを通して自分の顔を知った人間は、目を閉じて内側でその顔を見ることができる。(人間その他との)「関 係」の中で起こるのが、それだ。ひとりの人間がある関係の中にはいってゆくとき、その関係は「鏡」(の代わり)になって、彼自身を映し出す。そして彼は、 自分の中に(とうから)存在していたことなど夢にも知らなかった、たくさんのものごとを「知る」に至る。

その相手を通して、彼は、自分の怒り、自分の慾、自分の嫉妬、自分の所有性、自分の慈しみ、自分の愛を初めとする、彼の実存の何千というムード(生の実況)を知るに至る。彼はその「相手を通して」たくさんの空気と遭遇する。

(そして今度は)だんだんと、彼が(我から自然に)もう「独りになれる」瞬間が来る。彼は目を閉じて、自分自身の意識を「直接に」知ることができる。私が、一度も「愛したことのない」人たちには、瞑想はごくごく難しいと言うのはそのためだ。

深く愛したことのある人たちこそ、深い瞑想家になることができる。(本質的な)関係の中で愛したことのある人たちは、今度は、自分たち自身で(自立し自 覚して)いる態勢にある。いまや彼らは「成熟」している。もう(たんなる)相手は必要ない。もしそこに相手がいれば、彼らは(豊かに、自由に)分かち合う こともできる。だが、(殊更にそうしたい)その”要求”は(それ自体)消え失せている。もうそこには何の依存(関係も必要すら)もない。

 

* (   )内は、わたしが敢えて補足しました。いまぶん、その程度のわたしだということになります。「身内」は、関係(呼び名)をすら溶解していわば「匂い合う」 ような間柄だと以前にわたしが私語したのを、バグワンは、より平明に、深く語ってくれているのではないでしょうか。

バグワンはこの前の辺で、死は「敵」ではない、生まれた瞬間からの「友」だと示唆しています。死と敵対すればするほど、不安と恐怖は深まる一方で、然も絶対に勝ち目はない。死を敵視して藻掻きにもがくのは聡明ではないと。  2004 12・30

 

* 見に沁みて聴き、いまも聴く バグワン和尚の徹底した教えで、わたしは今も、十六年以前よりもなお身内深くに聴いて抱き容れる。これからもいつも此処へ帰ってくるだろう。

 

* トランプというアメリカ大統領は、なんと人格を欠いて下品な男の顔を晒トクトクと世界へ晒すか。あれこそは、アメリカの國史を根底から辱めている下劣な胴欲のシンボルだ。

わたしは、アメリカに負けた日本国民だが、それでも、ひところ『アメノカ史』に学んで、強い敬意と時に憧れをさえ覚えていた。

今は、ダメ。唾棄するしかない國に落ちぶれている。

そのトランプの「ワン」になり、ひとことの忠告も警告も窘めもできない日本国の安倍総理の首輪をつけて引き回されている図は、滑稽どころでない日本国民の悲哀そのもの。

 

* 妻より先に逝きたいが、孤独に妻を歎かせたくもない。もう日々に、生きの課題は死ぬになってきた。顔を振り首を振り、たしかな仕事をしながら気を励ましたい。

2020 1/22 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

83 * 2004 12・31

☆ 補陀落渡海と身内幻想

秦さま 丁寧にお答えをいただきまして、ありがとうございました。「身内」幻想と言ったら、お叱りを受けるでしょうか。

人間のエゴ(利己性)は体から生じるものだと思っています。意識は体を保全する目的で生じたのではなかったでしょうか。ひとりしか立てない島に二人、あ るいは多数で立つ、きっと体を乗せる余地はないでしょう。観念上でしか、あるいはネット上にしか、存在しえないと思うのです。

「ネット心中」については、マスコミは報道を自主規制しているようですが、沈黙して過ぎ去らせるなんて、言論の敗北ではないですか。

インドネシアの大地震&大津波のニュースになんともいえない傷ましさを感じます。目の前で濁流に流されていく家族を見送らねばなかった人たちのことを思 います。中世という時代には、疫病、飢饉、戦争、天災、こういう死が日常茶飯事であったことを思えば、浄土信仰というのは、生き残った人間がなおも生き続 けるための智恵とすら思えてきます。死が日常茶飯事になってしまえば、人間はあまりにも恐怖したり、脅かされたりしないように適応していくものではないで しょうか。

イラクの人たちにとっては、どうなのでしょう。

「こういう天災にあえばあうほど、人間の手で防げる人災だけは、せめて起こすなと望む。」――同感です。不幸は人間がつくりださなくても、地上にあふれていますのに。

来年、来年こそは、少しはちがった風が吹いてくれればと祈ります。

どうぞ、よい年をお迎えになりますように。

安物のワインの力を借りて、メールを送り出します。ぜーんぜん知性的でも理性的でもないので、恥じ入りつつ。   大阪・まつおより

* 「身内」は「貴重な錯覚=愛」であると思いつづけ、書き続けてきました。「幻想」と言い換えてもいい。しかもなお「愛」ゆえにそれの 「在る」ことも、わたしは知っています。「絵空事」の不壊(ふえ)の値いを。現世の論理や常識から、百尺竿頭なお一歩を踏み出す勇気があれば。

ひとつ、わたしには課題というか、気になる分岐点があるのです。

「人間のエゴ(利己性)は体から生じるものだと思っています。意識は体を保全する目的で生じたのではなかったでしょうか。」

後段の議論は措いて。

前半の「体」についていえば、わたしは逆に感じています。思っています。

人間を「エゴ」の苦へ誘い込み追い込みイタブるのは、「体」ではなく、「心」の方だと。モノとしての「体」など影のように実体がない。色即是空。物理学 もそれは認識しています。心という我執がすべて影を形にし働かせていると。「静かな心」「無心」「平生心」を久しい人の歩みが容易に得られなくて苦しんで 来たのは、それかと。  2004 12・31

 

* 懐かしい歳末のメール対話であった。大阪の「まつお」さんは延慶本平家物語に関した著書も持った詩人で、大阪の或る地区で懸命に働いていた女性だった、古典に取材し鎌倉初頭を書いた小説も読ませてもらった。私に出版への力があれば紹介して上げたいほどの力作だった。

この「まつお」さんとだけ、わたしは「花方」を書きますよと約束しておいた。上の年紀をみてもずいぶん久しい前のことになる。わたしはこれでけっこう根 気がいいようである。「まつお」さんからは「湖の本」の支払いが来る程度で、もう久しく話していない。会ったことはいちどもなく、どういう方か分からな い。作者と読者とは、そういう間柄である。

2020 1/23 218

 

 

☆ 病院に行かれた結果は如何かと

昨晩遅くになって HPを見ました。

原知佐子氏の訃報、そして鴉ご自身の追悼の想いを綴られた文章がありました。どうぞつらいお気持ちを敢えて奮い立たせて・・過ごされますように。忙しくお仕事があるのがせめて何よりの慰

めでしょうか。お二人の日々の静穏を強く願っています。

わたしの方はパソコンの不具合でネットに接続できませんでした。家電店に行ったらウインドウ7はウィルス対策などのサポートが14日に終了、そしてわた しの器械そのものが劣化しつつあることを否応なく認識しました。が、試行錯誤しつつ接続のルートを変更して何とか回復しました!!いずれパソコンの買い替 えも必要でしょうが、もう少し粘って見ます。

以前HPで語られていた「天皇制」のことは折に触れて考えています。日本の天皇制の独自性は興味深く考えてきました。

「簒奪独裁民主主義」という言葉の意味がまだよくわかりません。格差の問題は日本でも外国でも世界的な潮流としてありますが、例えば政治家の子孫が選挙 の地盤を受け継いでいく、伝統的な技術を特権的に継承していくなど、民主的でないものに、強者に、「乗っ取られた民主主義・・」ということでしょうか?

そして「家族」の問題も念頭にあります、ただし実にとりとめもなく。

「みづうみが以前に<秦>の姓を継ぐ人間がいな くなると嘆いて書いていらした時にも同じことを感じたのですが、夫婦別姓を認めさえすれば秦の姓は残せますのに そういう方向にはお考えにならない。みづ うみは結局旧世代の家制度に属している方です。」と書かれていました。

秦家に育てられたこと自体が、秦のご両親に子供がいないための方策でした。江戸時代や明治時代、意外と思われるかもしれませんが、養子は多かった、例え ば、やや特異な例かもしれませんが、湯川秀樹氏、貝塚茂樹氏は養子縁組して湯川、貝塚の姓を名乗ったのであり、小川家を継いだのは四男小川環樹氏でした。 「米糠三合有れば・・」の価値観でもなく、長子尊重でもなく、ただし{家名存続}は必要だったのでしょうか。

話の観点がやや異なりますが、男女別姓にしたとしても、其処に生まれた子供たちは父方の姓を名乗って疑問を感じてもいません。そしてその家族・ファミ リーこそが最も大切な砦、生きていく上での基礎、家族こそすべてという類のラヴラヴキャンペーンをほぼ毎日耳に目にして心に刷り込まれています。その中で わたしたちは暮らしています。

日本的な旧家族制度、家父長制を意識することも稀になりましたが、男だから、長男だから、というような価値観、意識としては抜きがたいものもありますが。

ただ ご指摘されているように女が生きようとすれば、あまりにさまざまな障害にぶつかることは事実で、何十年か前も、今も同じでしょう。

それでも時代は変わっています。男の子よりも女の子を望む家庭も多い・・老後の介護役という「担保」、女の子は育てやすい、可愛いなどの理由で。○○家 という権威は少数の旧家や上層階級でなければ最早必要ではなくなっているのかもしれません。晩婚化、少子化、核家族、周囲の社会との繋がりの希薄化、冠婚 葬祭の規模縮小・・(わたしたちにとっては家族葬・密葬の問題があります!)

恋愛と結婚は別問題と割り切っている若者たちのテレビの番組も見ました。

先日何気ない世間話の中で、成人を過ぎた孫たちが「結婚したくない」と言っている、と。そしてその会話をしていた祖母たちも「結婚して苦労させたくな い、孫娘は結婚しなくてもいい」と。ひ孫が欲しいとまで話は及びませんでしたが。同世代の女たちが孫の結婚を半ば否定したい気持ちも大いに分かりますが、 断言できるほどの強さをわたし自身がもっているかどうか。自分の過去の多くを後悔、否定するのは悲しいことです。

わたしが結婚したいと言った時、父は喜ぶよりも哀しそうな表情をしました。結婚によって曲がっていってしまうものをいち早く父は見通せたのだと思います。わたしには分かっていませんでした。

「主婦鳶」と書かれていて、さてわたしには「主婦」という自覚はあまりありません。主婦になりたくて結婚したのではない、でも「結果として主婦」だったのか・・とあまり肯定的に捉えてはいないのです。肯定的に見定めたことはありません。

現時点で思うことは、「女も働いて、経済的に社会的に完全に自立するのが不可欠」ということでしょうか。(出産、育児という大問題を無視できませんが)

女性の社会的な地位の脆弱さ、世界の基準からも遠いことを嘆きつつ、若い人たちに大いに期待したい。未来の夢を語るには些か年をとり過ぎましたが、思いは変わりません。

書き連ねれば際限ありませんが、お昼になってしまいました。

中国からの肺炎拡大のニュース、気に懸かります。

どうぞ元気にお過ごしください。くれぐれも大切に大切に。  尾張の鳶

 

* ああ、遺憾にも、わたしは、男女とも大半の若い人たちの「精神と機械との環境」を、頽廃そして脆弱、さらに無自覚と いう各点から、情けないが決定的なほど憂慮しています。トランプのような遣り手に真っ向ぶち当たってくれる「少女たち」が大々的なニュースに成るのは、結 構なようで、他の男子や学生や若者らは何をしているのと心寂しい。「女も働いて、経済的に社会的に完全に 自立するのが不可欠」は分かっても、「何のために」とも彼女ら(彼ら)は自身に問いかける力をもっているのかどうか。「経済的に」の意向は強くとも「社会 的に」という真実根強い「自覚」が、例えばこの「スマホ」的環境と耽溺と放心の中からどう生まれ出るのか、ああ「頼もしいな」という実感に励まされたこと が少なくも近年ゼロに近い。安倍政権をこうも野放しにして、働く人たちは勝ち得たはずの「労働三法」などをもう忘れ果てていて、その代わりを創り出そうと もしない、出来ない。民主主義はいまやボロボロに干上がって名目だけを吾がものに奪い去った権勢が「民主主義」の名を騙って独裁を強め、しかも強国に迎合 し服従している。「若い人たち」の近未来、未来をどうかして信頼したいが、その可能な兆候が見えない。少数の強いモノが利を求めて塊まり、弱くて力無いも のがお遊びに浮かれてばらばらに盲目的に現状肯定している。

わたしは、いい社会に、いい國に成って行きつつあると思えない。若い人たちの目が明いていない。

2020 1/23 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本108摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

84 * 2005 1・1      「意識」は、最後には「死」を意識するようになる。もし意識が最後に死を意識するようになると、ひとつの恐怖が(おまえの心に)湧き上がってくる。 その恐怖は、おまえの中に絶え間ない「逃避」をつくり出す。そうするとおまえは「生」から逃げ出そうとする。どこであれそこに「生」があると、おまえは逃 げてしまう。

なぜなら、どこであれ「生」のあるところには、「死」のヒント、一瞥、がやって来るからだ。

あまりにも死を恐れている人たちというのは、「人間」に「恋」をしない。「物」と恋に落ちる。物は死なない。生きてもいなかったからだ。

物ならいつまでも「持って」いられる。そればかりでなく、交換可能だ。もし一台の車が駄目になっても、きっかり同じつくりの別な車で埋め合わせられる。 しかし「人間」は埋め合わせられない。もしおまえの伴侶が死んでしまったら、それは永久に死んでしまうのだ。別の伴侶を得ることはできる。が、埋め合わせ ることなどできない。良きにつけ悪しきにつけ、同じ伴侶ではあり得ない。

もしおまえの子供が死んでしまったら、べつに養子をもらうことはできる。が、どんな「もらひ子」でも、自分自身の子供と持つことのできた、その同質の関係は持てないだろう。傷は残る。容易には癒やされない。

あまりにも「死」を恐れる人たちは、「生」をも恐れるようになる。そうして彼らは「物」を貯め込む。大きな宮殿、大きな車、何百万ドル、ルピー(インド の通貨)、あれやこれや、不死のものごと……。ルピーというのは薔薇よりずっと不死だ。彼らは薔薇などお構いなしで、ルピーばかりを貯め込みつづける。

ルピーは死なない。ほとんど不滅だ。しかし、薔薇となると……。朝、それは生きていたのに、夜までにはもうおしまいだ。彼らは薔薇を怖がるようになる。 彼らはそれを見ようとしない。あるいは、ときとしてもし(薔薇がみたい)その欲望が起こってくると、彼らはプラスチックの造花を買い込む。造花ならいい。 造花ならあなたは安心できる。不滅性という錯覚を与えてくれるからだ。造花は、いつまでもいつまでもいつまでもそこで咲いたかおをしている。

本物の薔薇……。朝、それはなんとも生き生きしている。だが夜までに、終わりだ。花びらは地に落ちている。それはその同じ源に戻っている。大地からそれ はやって来て、しばらくの間花開き、その香りを存在全体に送り出す。そうして使命が果たされ、メッセージが渡されると、静かにふたたび大地に戻り、一滴の 涙もなく、何のあがきもなく消え失せてゆく。

花から花びらが大地に落ちてゆくのを見たことがあるかね? どんなに美しく、優雅に落ちることか……。何の固執もない。ただの一瞬といえどもしがみつこうとなんかしない。一陣の風が吹いただけで、花全体が大地に落ち、源に帰ってゆく。

* 「死」を恐れる人間は、「生」をも恐れるだろう。「愛」をも恐れるだろう。なぜなら、「愛」とはひとつの花なのだから……。愛はルピーじゃない。生を恐れる人間は、「結婚」することはあるかもしれない。が、なかなか「恋」には落ちまい。

結婚というのはルピーのようなものだ。恋はバラの花のようなものだ。それはそこに在るかもしれない。そこに無いかもしれない。なかなかしかし、人はそれ が確信できない。それは法的な不滅性などなにも持っていない。結婚というのは何かしがみつくことのできる(抱き柱のような)ものだ。証明書がついている。 裁判所が後に控えている。背後には警察や社長のつっ支え棒がある。もし何かがおかしくなれば、彼らが全員駆けつけて来るに違いない。

ところが愛に関しては……。

バラにももちろん力はある。しかし、バラは警官じゃない。それは社長さんじゃない。バラの花は身を守ることなどできない。

愛は、来てまた去ってゆく。結婚はただ来るだけだ。それは死んだ現象だ。それはひとつの制度にすぎない。

人々が「制度」の中で生きたがるというのはまったく信じ難いほどだ。恐れて、死を恐れて、彼らはあらゆるところから「死の可能性」を一切締め出してしい たがる。彼らは自分たちのまわりに、何もかも「そのまま続いて」ゆくのだという「ひとつの幻想」をつくり出したがる。何もかも「安全で、安定」していてほ しい。この安全性の陰に隠れて、彼らは「ある種の安心感」を抱く。

だが、それは馬鹿げている。愚かしい。何も彼らを救えはしない。死がやって来て、彼らの扉を叩けば、彼らは(そのまま)死んでしまうのだ。

* 「意識」は、二つの展望(ヴィジョン)を持つことができる。ひとつは「生を恐れる」こと。なぜならば、生を通じて死がやって来るから だ。もうひとつは、「死をもまた愛しはじめる」くらいに、「深く生を愛する」ことだ。なぜならば、「死は生の内奥無比なる核心」なのだから……。

最初の姿勢は「考える」(=思索する)ことから出て来る。

二番目の姿勢は「瞑想」から出て来る。

最初の姿勢は「過剰な思考」(=過剰な分別=マインドという騒がしい心)から来る。

二番目の姿勢は無思考のマインド、〈静かな心=無心=ノーマインド〉から来る。

意識は、思考にまでおとしめられてしまうことも、反対に、思考はふたたび意識へと溶かし去られることも、できる。

ちょっと厳冬の川を考えてごらん。氷が張りはじめて、水の一部分はいまや凍りついている。そうして、もっとひどい寒さがやって来て気温が零度を割ると、川全体が凍りついてしまう。もうそこには何の動きもない。何の流れもない。

意識というのはひとつの川、ひとつの流れだ。そこに「思考=心」がはいり込めばはいり込むほど、その流れは凍ってしまう。もしそこに、あまりにもたくさ んの思考(=分別)が、あまりにもたくさんの〃思考障害〃(=動揺、迷惑、邪推、疑心暗鬼)があったら、そこにはどんな「流れ」(静かな心=無心・虚心) の可能性もあり得ない。そうなったら、その「川」は完全に凍りついている。あなたは、もう死ん(だも同然)でいるのだ。

* ある大学教授にバグワンの話をすこししてみましたとき、バグワンは「全否定ではないか」と案じられました。たちどころにわたしは結論を持ち出そうとは思いません。

「なぜ人は生きるのか」とか「生きている意味は何か」とかいう問いに対し、過去に地球上にあらわれた覚者=ブッダたちは、その手の質問に対し、みな「沈黙」で応えているとバグワンは云います。

そもそもそのような「問い」自体に意味がない、ないし誰にも答えられないと云うより、答えるべきではないと、バグワンはそこまで明言しています。そんな ことで「分別」したり「錯乱」したりするのは無意味だと。「いま・ここ」「今・此処」に生きているそのことを大切にせよと。

大切な大切なことがある、それに「気付く」のだ、「目覚めて知る」のだと。バグワンはそう云います。そして「死」を敵視してのたうちまわるのでなく、死を友として「生」を慈しみ生きよと。

* そういうバグワンを、わたしは「全否定の人」とは想いにくい。何が真実大事か。バグワンはそれを語り続けています。目覚めてしまえば大事なものな ど、何も無い。が、目覚めて気付く迄には「何が大事か」は在る。大事なのは「目覚めて気付く」こと。それまでは如何なる聖典も修業も役に立て得ようがない と彼は言い切る。だが、はっと目覚め気付いた瞬間からは、聖典と貴ばれるほどのものが、初めて自分は覚めたんだ、気付いたんだと正確に知らせてくれるとバ グワンは云うのです。

* どうすれば目が覚め、どうしたら気付けるのか、その方法論も、バグワンはたぶん何処かでは語っているのでしょうが、わたしはそのような「方法」を覚 えたいと今は願っていないのです。ひたすらバグワンに「聴く」だけでいます。聴いて「待って」います。「間に合う」かどうかは知らない。だが、それより大 事で大切なことが、少なくも今の自分に在る、在りうる、とは思っていないんです。

わたしの腹芯にいて幼來一度も立ち去らないでいる「友」である「死」に、わたしは静かにわたしの手を執らせていたい。現実に日夜あれやこれや熱心にして いるつまり「仕事」も「用事」も、いろんな営為がみな、だからこそ楽しめるし遊んでしまえる。「それだけのもの」と、云うしか、ないからです。   2005 1・1

 

* 十五年前、私、六九歳 元旦 の「バグワン」であった。十五年、わたしはどこをどう放浪き歩いてきたのだろう。ま、ま。このまま歩いて行くだけ。

2020 1/24 218

 

 

* 『選集 32』の創作部分全部の「要再校」ゲラを送り出し、巻に添えての「跋文」途中から、江古田二丁目まで約束の歯 科へ妻と出向いた。五時、中華家族で永年飲み続けてきたマオタイのいよいよ最期のグラスを飲み干してきた。もう、この東京で私のためにマオタイ酒を飲まし てくれる店は絶無だろう、じつに残り惜しかった。55、6度もあろう、世界一美味い酒と思ってきたが、もう手に入らないと。井上靖さんらと中国招かれて いったときは、どんな宴会でもマオタイが出た。あれは何処でだったか一度わたしは酔いつぶれたこともあった。今は中国政府は宴会用の他は輸出を止めている とまで聞いている。

 

* もう然るべき機会も場も無いと諦めているので『選集32』の跋文は思い切って我が「作風」の批判ないし陳述を赦して貰おうと思っている。

2020 1/24 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本108摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

85 * 2005 01・24     夜中に二度三度起きてしまう日がつづくと、いやおうなく寝床の中で真の闇にむきあうことになります。この機会を、わたしはむしろ珍重しています、ふしぎな体験ができるから。

眼は、明いていても閉じていても、ほぼ完璧な闇で。この「闇」に「深さ」は感じても、限定された「広さ」は感じません。無際涯に広いし、深い。闇って、なんて美しいんだろうと鑑賞しているときもありますが、ふつうは何も考えないようにし、じいっと闇に向き合っています。

すると、いつ知れず自分の「体」感覚が尽く滅尽し、内蔵は愚か五感も体感も無くなっています。「体」というものがなく「意識」だけがまだ生きています。 ああ「生」とは「意識」のことで、必ずしも「意識」に「体」は係わっていないのだ、「体」はもともと空無なのだ、と、そう分ります。意識そのものにだ け、成る。成れる。それが嬉しくてわたしは「闇」に包まれて在るのが好きなんです。闇の宇宙=全体=トータルに、「体」という個体としてでなく、「意識」 として溶け込んでいる安心と静謐。

この「意識」も、いつか失せるでしょう、それが「生」「死」の転帰。「体」もまた生死とは関わっていない。まして頼りない「心」なんて。

* ま、わたしはそんなふうに眠れない夜中を「闇」に包まれて過ごしています。

* 体をそのように見切ることによって、わたしは断然「心」より「体」に親しい。体の望むことは叶えたいと思う。体にしたがっている方が、心=分別=マ インドにしたがうより、同じ「しくじり」でも軽くすみそうな気がしています。つまり体と意識とをハートフルに仲良くさせ、分別に縛られずに自由に過ごした い。心に振り回されるのは、マッピラ。  2005 01・24

 

* 和尚バグワン・シュリ・ラジニーシと共生していたような十五年前をとうじの感想のまま顧みて一抹の不承もなく今も首肯く。首肯ける。

2020 1/25 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本108摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

85 * 2005 01・24 01・25

☆ 週末、バグワンを読みながら、躓いていました。

与えるなんて何ごとか?

あなたは与える何を持っている?

救うなんて何ごとか?

あなたは自分自身さえ救っていないのに

どうやって人が救える

キリスト教は、与えて与え尽くせ、自分の人生も命までも他者に与えろという宗教です。愛とは自らが痛むまで与えること。マザーテレサの言葉です。マザー テレサのように有名ではなくても、自らの命を与えて死んでいった多くの無名の人々を思うとき、与えるな、という言葉に戸惑いました。

スマトラ津波災害に寄付したり人道支援すること、国境なき医師団などボランティアやチャリティーには大きな偽善もあるでしょう。でも、偽善でも実際にお 金も手助けもないのとあるのとでは大違い。偽善でもしないよりするほうが遥かに正しいことと思わずにはいられません。救えなくても、救おうとする行為は、 行動は大切に思えます。

与えることでそうする本人が幸せになれるかどうかはわかりませんが、助けを必要とする人を捜し求めていく生き方を、私は讃美することはできても、否定することができません。

たとえば、シドッチ神父には、「よくぞ来てくれた」と感謝しますし、殆どの日本人が名前も知らないミッション、テストウィド神父にも、涙とともに敬服し ます。治療法のない時代に自分も罹患する覚悟で、日本で初めてのハンセン氏病の病院を設立して過労死のように死にました。その病院を継いだ四人の神父たち も、多くの患者を助けながら、次々と刀折れ矢尽きるようにして倒れています。

「あなた自身の内なる実存が暗いのだ あなたには救うことなんかできない あなたには与えることなんかできない」というのは、まるで何もするなというような響きに感じられて、納得できないまま読み進みました。

すると、やはりバグワンの素晴らしい答えが出てきました。

もしあなたが自然に与えられるなら

ビューティフルだ

ただし、そのときには心の中には何もない

自分が何かを与えたんだという計算などひとつもない

それが与えることと分かち合うことの違いだ

 

ティロパは分かち合うなと言ってるんじゃない

彼は取ることにも与えることにもこだわるなと言っているのだ

もしあなたに手持ちがあり

それが自然に起こって、あなたが与える感じになったら与えなさい

ただし、それは分かち合いであるべきだ

贈り物――

これが贈り物(Gift)と与えること(Gifting)との違いだ

人間愛に生きたキリスト者などは、この境地に達していたわかりやすい例かもしれません。アッシジの聖フランシスのように、自然に与えていたのですね。

でも、「分かち合い」というのは、黙っていて自然にできるようになることとは、思えなくて。

凡人は突然変われるものではありません。とりあえず偽善でも、まず与えることを訓練していないと、教えてもらわないと、急にはできないことだと思っています。

無理にするならしないでよい、という生き方もありますが、それでは誰が一粒の麦になってくれるのかと、友のために死んでくれる人がいない世界になど生きていたくないと、今のところ、バグワンに「問いかけ」ています。

トンチンカンを大いに笑ってください。ほんとうにおバカ。

なかなかこの手ごわいバグワンに近づけません。でも、これからバグワンがどのような道を示してくれるのか、とても楽しみにしているのです。   蝸牛

* この友人のメールには顕著な一徴候があります。「自分」ではない他者・聖者の例を次々に挙げ、顧みて「他」を「知識で評論」していま す。自分は、すばらしい聖者や宗教から「恩恵を受ける」立場にいる。自分自身で「分かち合う」立場には身を置いていない。自分には急には「何も出来ない」 と。

*   > 与えるなんて何ごとか?

> あなたは与える何を持っている?

> 救うなんて何ごとか?

> あなたは自分自身さえ救っていないのに

> どうやって他人を救える

『存在の詩』 504頁の下に出て来ますね。

この第9話は、バグワンの声のとてもよく聴えるところで、あなたのこの引用に至る二十頁ぐらいを深く感じ取っていれば、上の引用個所は、ごく普通に素直 に受け入れられる所であり、あなたの言っているような普通のリクツについても、バクワンはすでに深切に触れて語り継いでいると思います。

そして、これより先の頁へ読み進めば、ますます彼は、あなたの言うているようなリクツを超えた「深み」から、人間存在そのものに光をあてて語っているのが分かります。

どちらかといえば、この章でバグワンは、つねになく解析的に、そしてものを積み上げるように話していて、分かりよい、説得される章だと、わたしは感じてきました。

> 凡人は突然変われるものではありません。とりあえず偽善でも、まず与えることを訓練していないと、教えてもらわないと、急にはできないことだと思っています。

無理にするならしないでよい、という生き方もありますが、それでは誰が一粒の麦になってくれるのかと、友のために死んでくれる人がいない世界になど生きていたくないと、今のところ、あなたはバグワンに問いかけています。

「友のために死んでくれる人がいない世界になど、生きていたくない」というあなたの表白。この「友」とは、すなわち「あなた自身」のことと読めます。それははからずも露呈した利己主義でしょう。

ホカならぬ「あなた」が、人の友として、その「人のため」に、いざというときは死んで上げる、自分はその為にも「生きていたい」という覚悟こそ、望ましい、本当の表明ではないのですか。そういう自身への励ましが、少しもあなたの物言いに表わされていない。

これは「突然変われる」とか「変われない」の問題でない。自分を自然に何かの前へ「投げ出せる」のか、自分自身を「分かちあえる」のか(「与えて貰う」 のではなくて)、それに「気付く」か「気付かない」か、だけなのです。一瞬で「気付ける」のです。「訓練して・変わる」なんてことでは、全くない。

自分が、人の前へ、なにもかも身を投げて「分かち合おう」とはしていない、それだけのことをあなたは言わず語らず示しています。裏返せば、自分は「人から与えられていい立場だ」と思っている。ずいぶん甘えた姿勢です。

してもらうのでなく、してあげる。それが本当に無心に、無欲に、見返りや名誉への欲望なく「自分には出来るかどうか」を、自問しなさいとバグワンは言う ているのではありませんか。その間際に立って、「あなた」に、「与え得る」一体「何」があるのかと、バグワンは、ほかならぬ「あなたに」向かって問うてい る。問題を他の人達へ一般化して「評論」してはいけない、「あなた自身の問題」として考えなくちや。

> 与えるなんて何ごとか?

> あなたは与える何を持っている?

> 救うなんて何ごとか?

> あなたは自分自身さえ救っていないのに

> どうやって他人を救える

これは、世間の人に向けて言われているのではない、「あなた」一人に向かって言われているのです。「あなたの問題」として先ず考えなくては無意味です。

あなたは命をあたえて人を救えますか。「救えます」「救いたい」と自然に言い切れたときに、初めて他を顧みて「評論」すればいい。「知識」でこねまわさない。生きているのは「知識」でなく、「あなた」だ。  2005 01・24

☆ 今朝、HP、読みました。

「蝸牛さん」にはいつも「辛辣」でいらっしゃいますが、彼女は彼女で大真面目に考え、書かれているのですね。彼女にも大いに共感する部分がありますよ。

夜中の「闇」について書かれていること、とてもよく分かります。わたしにとっても幼い頃から、そのようにあった「闇」です。

どうぞ寒さ、そして花粉症に負けずこの季節をしのいでください。  鳶

* ゆうべのバグワンにかかわるメールの往来、わたしからの返信は、言い過ぎだったでしょうか。わたし自身は、「分かち合える」まして「与え得る」も のなどたいして持たないし、「命をなげだす」思い切りが出来るかどうかも、自身に問いつきれないのですい。だから人にも自分のためにそうしてくれないかと 依頼・依存することもしない、だろう、と思っています。

ただ、ものを思ったり考えたり知識を用いたり感想を述べたりするとき、自分をまっさき「受益者」の立場に置き、自分がどうするか、どう出来るかを考えに 入れずに、他者や一般を「評論してしまう」ことは、したくない。どんな疑問や不審も、自分自身との関わりは如何と、真っ先に、または最後に、問いかける。 自分の問題にこそ関心があります。立派な人を讃美したり、そうでないひとを否定・批評したりでは、顧みて「他を語る」だけの評論に過ぎませんから。

いちばん、その意味で、蝸牛さんの、「誰が一粒の麦になって<くれる>のか」、「友のために死んで<くれる>人がいない世界に など生きていたくない」という「なってくれる=なってもらいたい」「死んでくれる=死んでたすけてもらいたい」という受益の受け身姿勢に、わたしは驚いた のでした。

とても蝸牛さんは正直で、こんな揚げ足を取っているわたしのほうが不正直なのかも知れませんが、してもらって讃美する立場からでなく、自分はどうするのかが聴きたかった。自分のことは措くとして、ではなく。

* 蝸牛さんを非難したのではありません。やはり、この大事な問題で、「自分は」と内心に問い直す機会をもったのでして、また改めてバグワンにおける菩薩行(大乗) と羅漢行(小乗)との「見取り」如何にも思い至らずにおれなかったのです。

また、偽善であれ何であれ、百円千円は、困っている人には、同額の百円千円に通用して役立つではないかという、あまりにもよく耳にするリクツについて も、バグワンはどう語り、わたしはどう思っているのだろう、というところへ、押し付けられるのしたる。この「闇に言い置く私語」の場が、誰しものそのよう な思案の場になることをわたしは歓迎しています。  2005 01・25

2020 1/26 218

 

 

*  日曜朝は、結局はTBS関口宏司会の意見陳述番組を聴いている。今朝の「風を読む」は「世代間衝突」の問題に意見が「吐かれて」いた。この番組は意見が 「交わされる」という覇気と妙味が無い。出来ればスポーツなど別番組へまわし、もっと切実に所論を練って聴かせて欲しいのだが。

若い人らの力が盛り上がって勢力とさえ化して行かぬ限り、良きにつけ悪しきにつけ「世」は動きかつ変わっては行かない。したり顔にいい大人たちが若い声 々の行き過ぎや短絡を咎めるのは、居眠りしながらでも出来るだろうが、若い人らの口から真剣に絞り出される言葉には、深い不安も恐怖も絶望感すらも潜んで いるのを、心ある大人はもっともっと心して聴くべきであろう。愚かしくも傲慢なプーチンやトランプの発言は、彼らが悪魔政治家の座に在る現実と自慢とをた けしか語っていないのだ。その言葉にも表情にも知性や仁愛は現れていない。

それにしても自民党首脳らと傲慢所属議員らの悪辣なまでの鐵面皮は、あれはまあ…何なのか。

 

* 多くが、余りにも多くが、二十世紀この方の、過剰に過ぎた経済寄与にのみ偏した科学技術膨脹と金銭経済効果の独占権力機構によって人間味の世界を甚だしく汚染してきた事実を謂うしかない。

かてて加えて、人間の言葉と表現への謙虚な愛が、いまや悪しき政治力により軽蔑抑圧弾圧されている。

「言語による藝術表現者たち」の無力、尊敬に値する成果の目に余る寡少、謂わば漱石も藤村も潤一郎も朔太郎も白秋も茂吉も虚子も実在しない、実在させない、ただただ儲け本位出版関係者、追随作者達の招いた、文字通り文化の衰弱垂死のサマ。情けない。

2020 1/26 218

 

 

* 『選集32』の跋文を書いて電送入稿した。もう余す一巻となり、機会もなくなるので、たまたま今巻収録作にも充てて、私・秦 恒平作物のいわば性格、ま、短所かも知れないところを、八十四年の生涯を顧みつつ、逃げようのないところを不十分ながら書き置いた。此処にも、そのまま挙 げておく。

 

* 秦 恒平選集 第三十二巻刊行に添えて  (南山 帰去来の印形)

 

思いのほか、『選集』も末へきて、私自身に存外興のある編輯になった。

私が「小説」を本気で書き始めた「最初」の日付は、昭和三十七年(一九六二)七月三十日、満二十六歳半で、少年いらい念頭を離れなかった白楽天の詩「新豊折臂翁」に背を押されての『或る折臂翁』(選集七所収)だった。東京本郷の医学書院編集者時代であった。

そしてきっちり七年後、三十三歳半の六月十九日桜桃忌に、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫六選者の満票を得、「現代の怪奇 小説(河上)」「先ず以て第一等(唐木)「現代に際立って孤立した意欲作(中村・朝日時評)」等と評された『清経入水』で第五回太宰治文学賞をうけ、とも あれ「作家」生活へ歩を運び入れた。二足の草鞋だった。

以来半世紀に余って、いま令和の私は、旧臘元年(二○一九)冬至の日満八十四歳になった。今回この巻の巻頭に収めた長編『花方 異本平家』はその昨秋十月一日に脱稿擱筆の「最新作」で、その直前にも千枚の書下し『老いのセクスアリス 或る寓話』(選集三一)も刊行した。

今回の第三十二巻は、たまたま、そんな当選作『清経入水』より「以前」の、みな「処女作」と呼びたい長・短編作と、世紀を跨いで「最新作」に至るまる五 十年余の作とで編むことになった。当然か、奇妙か、それはそれ一貫して私・秦 恒平作の傾向ないし作風をよほど露わにしている。作の下地が、すべてが謂わば日本の「歴史」「古典」「文化」で出来ている。受賞作に先立つ『此の世』『資 時出家』『初稿・雲居寺跡 承久前夜』は、みな三十歳前後の勉強作。そして最新『花方 異本平家』へ至るちょうど作家生活半ばの『チャイムが鳴って更級日 記』『秋成八景 序の景』は、五十、六十歳時代の作である。

私が古事記・国史や百人一首の和歌に溺れたのはあの戦時、国民学校・小学校時代であった。ついで敗戦後の新制中学時代に平家物語や徒然草に、高校では上田 秋成の物語、また更級日記や源氏物語、八代和歌集等へのめりこんだ。その下地には般若心経や往生要集、浄土経等への私なりの親炙があったし、慈円の愚管 抄、親房の神皇正統記、白石の読史余論、山陽の日本外史も熟読した。まさしく「現代の怪奇」「際立って孤立した意欲」と批評された道筋を歩いて、それらの ほぼ全てから、私自身の「小説」や「物語」を、また論攷やエッセイを創ってきた。それに相異なかった。だが、それ故にも当初より今日まで、ただただ「お前 の作はむずかしい」「読みにくい」と叱られっ放しだった。つまりは私の作が「読める人」「興がって下さる読者」が極端に少なかったのは、余儀ない私自身の 不作であった。

雑に書いていたのではない。「文藝」という「把握と表現」の意義を私ほど執拗に求めてきた作者は、当節、そう多いとはとても思えない、が、平易に平易に 書こうともしてこなかった咎は私自身にある。題材が、多くと謂うより殆どみな「歴史」や「古典」に寄り添っていれば、人の名にも物の名にもルビ(読み仮 名)を添えねば「むずかしい」の苦情は和らげようなく、文字、漢字がただ読めたから小説が、物語が、即、平易になるわけでない。ことに史実や文献に、文物 や事変や身分社会に虚実にわたって微妙に接しながら人事や事件の表裏へ潜って行かねば「事」が運ばない。雄略帝と赤猪子の『三輪山』常陸風土記の『四度の 瀧』壬申の乱の『秘色』恵美押勝・東子の乱の『みごもりの湖』月のむすめ『なよたけのかぐやひめ』道風と大輔との国宝『秋萩帖』具平親王秘話の『夕顔』光 源氏の『或る雲隠れ考』紫式部集の謎『加賀少納言』源氏物語絵巻と待賢門院の美しい『絵巻』俊成・西行の『月の定家』建礼門院寂光平家の『風の奏で』徒然 草一期一会の『慈子』近代開幕の扉を叩いた『新井白石とシドッチ神父』アイヌの北の世界へ最先登の幕吏『最上徳内』与謝蕪村の好色世界『あやつり春風馬堤 曲』子規と浅井忠の『糸瓜と木魚』上村松園の『閨秀』村上華岳と國畫創作協会の『墨牡丹』等々、思い出せる作をこう並べてみても、私小説や身辺所感の直叙 に馴染んだ読者にはとっつきにくそうに、私にも思われる。私は太宰賞を受賞してすぐさま「作家さよなら」と作家生活断念の思いを書き置いた、『清経入水』 を「展望」に晴れて発表の翌九月号「新潮」新人賞作家特集を手にした時だ。私は、耽美の極のような『蝶の皿』を出したが、居並んだ他の先輩格作家らの作は 例外なく日々の「身辺所感」に類していて、私にはそれらがみな「小説」かも知れないが「創作」ではないように思われ、異様な孤立感に襲われた。本気で逃げ 出したかった。幸い私の『蝶の皿』を好評の声が幾つも届いてきて、辛うじて気を取り直した。

今回第三十二巻の「選集」に収めた『資時出家』は後白河院の梁塵秘抄御口伝に秘蔵弟子とあげられ、平家都落ちの危うい間際ただ一人院に扈従し深夜をとも に鞍馬へ奔った歌謡の天才後年の述懐であり、『初稿・雲居寺跡』はまさしく公家と武家、京と東国との政治勢力逆転を招来した「承久の変」前夜を平家語りの 祖と目される如一法師と昭和の語り手との滲み合うような一心同体を夢のように物語っている。『此の世』も含めみな三十前後、『清経入水』以前の習作、勉強 の作である。

また『チャイムが鳴って更級日記』は、上代日本史を介しての「更級日記論」でありまた作者「菅原孝標女」論を成している。『秋成八景』もまた秋成論をはっきり意嚮している。

私は、小説・物語という「創作」を用いて何かしら新たな論策や研覈を願う生来の癖があり、それが如何様に成功したにしても、尋常の現代小説、時代小説を 求めている読者には手強すぎるのであろう、咎は作者の性癖にすでに在るといわざるをえないし、そのぶん、そういう障壁をむしろ快感や美感で跨いでくださる 読者は此の半世紀を超えてなお愛読してくださるのである、とても多人数とは謂いにくいが。

終わりに最新作長編のことも少し話させて下さい。小説『花方』は平家物語に「花方・波方」の唐突な「出」の脈絡を追いながら、没落平家を率いた「宗盛」 という存在の異様さをも数多い「異本平家」の証言を利して見開いて行く。いわば見喪ったおさな恋の「颫由子」と「宗盛」「花方・波方」という「色のちがう 三枚の花びらを持った物語」へ創って行った。その花びら三枚が風ぐるまのように舞いながら、老作家・越智圭介の悔いとも物哀れともいえる「述懐の物語」 を、為しかつ成して行く。「清水坂」を永らく便宜に仮題にして書いていたが、「作世界の真の本拠」は「海」であり「海底」であり「海神達」で。「花方・颫 由子」は瀬戸内の海底をおのが世界として抱いた美しくて優しい怪奇の存在であり、それへ悪しく立ち向かった平家(宗盛・時忠)の無残が対置されている。要 は、こんな解説が必要では失敗作だが、私としては「(清経いらいの)怪奇小説」「(冬祭り)冬子の懐かしい再来」を意図して、深くかつしみじみ楽しんだ 作、自愛作ということになろう。

巻末『自筆年譜(一)』は、何はあれ斯くして私は幼来念願の「小説家・批評家」に成った成れたという赤裸々な告白と謂うに尽きている。どう笑われても仕方ない。

2020 1/26 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本108摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

87 * 2005 01・28     高校二年頃、角川文庫が創刊されてまだピカピカの頃、なけなしの貯金をはたいて高神覚昇という人の『般若心経講義』一冊を買いました。昭和二十七年 暮れか翌新春に買っています。今、背は、ガムテーブで貼ってあります。表紙の角はちぎれ、総扉も目次も紙が劣化してぼろぼろ、全体にすっかり赤茶けていま す。

この本について思い出を語り出せば、ながい話になります。

よく読みました。一つにはこれがたしかラジオ放送されたそのままの語りで、姿無き多数聴衆を念頭に話されているため、耳に入りやすい譬えや説話がふんだんに入っていて、高校生にも読みやすかった。

もう一つには、日吉ヶ丘という、頭上に泉涌寺、眼下に東福寺という環境に人一倍心から親しみを感じていたわたしは、知識欲はもとよりとしても、またもう 少ししんみりとした感触からも、しきりに鈴木大拙の『禅と日本文化』だの、浄土教の「妙好人」だのに関心を寄せていたのでした。社会科の先生の口癖のよう な倉田百三の、たしか『愛と認識との出発』や阿部次郎の『三太郎の日記』なども覗き込まぬではなかたっんですが、同じなら同じ倉田の戯曲『出家とそま弟 子』にイカレてもいました。

もう一つは、まだ仏典に手を出すちからはなかったものの、「般若心経」とだけは、幼くより仏壇の前でワケ分からずに親しんでいたという素地がありまし た。あのチンプンカンプンに少しでも通じられるならばと、勇んで『般若心経講義』を自前で買ったんです、その本が、いまこの機械のわきに来ています。

高神覚昇のことは皆目識らないも同じでしたし、今も同じですが、この文庫本からは多くを得ました。ことに知識欲に燃えていた少年は、講話もさりながら、佛教の理義に触れたいわゆる「註」の頁

に、それは熱心に眼を向けていました。「感じる」よりも遥かに「識りたがっていた」のです、何でも彼でも。

泉涌寺の来迎院で、のちに長編小説になった「朱雀先生」や「お利根さん」、わけて「慈子」と出逢った「少年」わたしの学校鞄には、まさしく、こういう知識欲も、詰まっていたのでした。

青竹のもつるる音の耳をさらぬ

この石みちをひたに歩める        東福寺

ひむがしに月のこりゐて天霧(あまぎ)らし

丘の上にわれは思惟すてかねつ    泉涌寺

十七歳の高校生が、ちょうどこの頃から短歌をわがものにして行きました、いつしかに小説世界へ心身を投じてゆく、前段階として。『般若心経講義』を読んでいたのと、こういうわが『少年』の短歌とは、ひたっと膚接しています。

そして四十、五十年。バグワンの『般若心経』に、なかなか落とせなかった眼の鱗を幾つも落とせたかと、わたしは感謝しています。   2005 01・28

 

* きちっと、15年前の感懐。そして今も思いはここに拠って、ズレていない。つまりは、いっこう進歩も深化もしてないだけか。

2020 1/27 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本108摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

88 * 2005 02・11    ☆ バグワンに聴きます。

最も上等の人士が道(TAO)を聞くと、     上士聞道、勤而行之

一生懸命にそれに従って生きようとする……            老子

ただし、一生懸命に精進することによって、人はだんだんと、変身の最終段階においては「努力」それ自体がひとつの障壁(バリヤー)であることに気付き始 める。おまえが一生懸命に〈道TAO〉に従って生きようとしているとき、その生はけっして自然な生でなどあり得ないからだ。それはひとつの強いられた生で しかあり得ない。統制されていて、自由じゃない。努力はすべて自我(エゴ)のものにほかならないからだ。〈真実〉を達成しようとする欲求すらもエゴから出 て来る。人はそれを落とさねばならなくなる。

ただし、覚えておきなさい。人がエゴの努力を落とせるのは、その最大限まで努力したときに限るということを。「もしそうなら、初めッから努力なんてやめ にしよう。なんでそんなことをする?」などとけっしては言えなのだい。無技巧い言えるほどの技巧を持つことは、どんな規律も通ってこなかった者たちにとっ ては不可能なわざだ。

最終的に、藝術家も、自分の藝術を忘れ去れるようにならなければならない。それが何であれ、彼は自分の学んだものを忘れ去るときが来る。しかし、忘れることができるのは、それまでに真摯に「学んだ」ものに限る。

最初にひとつのことを学ぶのも難しい。しかし、いったんそれを学んでしまったら、それを忘れるのはもっと難しい。ところがこの後段こそがとてもとても不可欠で重要なところだ。さもなければ、おまえは仮に巧みなテクニシャンではあっても、真実アーティストではあるまい。

完璧な絵描きは、筆やキャンバスなど必要としない。完璧な音楽家は、シタールやヴァイオリンやギターなど必要としない。いいや、そんなものは素人のものだ。

私は、ひとりのとても年取った音楽家に出会ったことがある。彼はもう死んでいる。彼は一一〇歳だった。ラヴィ・シャンカールは彼の弟子だ。彼はどんなも のででも音楽を生み出すことができた。本当にどんなものででもだ。彼が二つの岩のところを通りかかれば、彼はそれで音楽を作ってしまう。鉄のかけらを見つ ければ、彼はそれで演奏を始める。そしてあなたは、いままで一度も聞いたことのないようなビューティフルな音楽を耳にする。あれこそ本当の音楽家だった。 彼のひと触れまでが音楽的だった。もし彼がおまえに触れようなら、おまえの内なるハーモニーと音楽の、内奥無比なる楽器に触れたということを、おまえは目 のあたりに体験する。突如として、おまえは振動し鳴り響きはじめる。

最も上等の者たちは、一生懸命(真実)に従って生きようと、大変な努力をする。そうして、だんだんとおまえも、自分の大変な努力が、少しは役に立つものの、大いに妨げにもなるということをも併せて理解する。納得して生きかわる。  ― バグワン―

* わたし(秦)は、瀧に打たれたり、身を焦がしたり、峯々を渡ったり、穴に籠もったりというような難行苦行が「悟り」を「獲得」する行為であるなら、そ れで悟った人が本当にいるのだろうか? とながく想ってきましたし、今でもじつのところ疑っています。わたしには山林抖薮や断食への同情が余りなく、その 辺で宗教学者の山折哲雄氏との対談で、まともにぶつかり合いました。わたしには、あれは悟りへの道であるより、疲労の極の朦朧という無心に類似の境地のよ うなもので、座禅で得られる静謐な内奥とは似て非であろうと想われるのです。

普通に人為の日々をすごしながら、人為に拘束されたり束縛されたりしないで、平静に「そのとき」を待てばいいと、そう、わたしはバグワンに教えられてい る気がしています。勝手にしているので、正しいともあやまちともわたしは知らないのです。「今・此処」に文字通り一所懸命に、一期一会に在ること。一会一 切会、一新一切新、一斬一切斬。

ただ「努力」で、出来ることではないのでありましょう。  2005 02・11 2020 1/28 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本108摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

89 * 2005 12・09     ☆ バクグワンに聴く。

(ボーディ・ダルマ=達磨大師が、こう語っている。)  自らの(無)心を仏(ブッダ)と知る者は剃髪の必要がない。俗人もまた仏だ。自らの本性を知らないなら、剃髪者もー介の狂信家にすぎない。

「しかし、妻子ある俗人は愛欲を捨て去りません。いかに彼らが仏に(ブッダ)成りえましょう?」

私は自らの本性を見抜くことしか語らない。愛欲について語らないのは、ひとえにおまえたちが本性を見抜いていないからだ。ひとたび本性を見抜けば、愛欲 はもともと取るに足りないものだ。それは見性の喜びのうちに消え去る。たとえなにかの習わしが残っても害はない。本性は本来清浄無垢であるからだ。たとえ 五つの集積(五蘊)からなる物の身体に住まおうと、本性は本来清浄無垢であり、腐敗堕落することがない。

固執をやめ、万事をあるがままにあらしめるなら、ただちに生死中に大自在を得る。いっさいが変容され、あらゆる妨げをものともしない融通無碍の霊力が得 られる。どこにあってもただ安らぎしか見いださない。これを疑う者はなにひとつ看破しえない。最善はなにごとも為さぬことだ。ひとたび為せば、生死の輪廻 は免れえない。だが本性を見抜く者は、屠殺人であろうと自らを仏(フッダ)と成す。

「しかし、屠殺人は殺生することで悪業を犯します。いかに自らを仏と成しえましょう?」

私はただ見性の一事を語る。業を犯す云々は語らない。なにを為そうと、業は人を制しない。

西天(インド)の二七人の祖師たちはただ心印を伝授したのみ。私(達磨)がこの国(中国)に到来した唯一のわけは、この大乗の即座の教え、「(無)心こそ仏なり」を伝授するためだ。私は戒めや施し、苦行は語らない。

言葉や動作、見聞や覚知はすべて動いている心の働きだ。あらゆる動きは心の動きより起こる。だが、(無)心は動きもせず働きもしない。あらゆる働きは本来空であり、空には本来いっさいの動きがないからだ。

ゆえに経文に言う。「動かずして動け、旅せずして旅せよ、見ずして見よ、笑わずして笑え、聞かずして聞け、楽しまずして楽しめ、歩かずして歩け、立たずして立て」と。またこうも言う。「言葉を超えよ、思いを超えよ」

さらに説くこともできたのだが、この手短な論でこと足りよう。  (達磨大師語録)

* この達磨発語の大要はむろんすばらしく立派なもので敬服のほかありませんが、また明らかに一つの偏向をみせてもいるのを、以下に バグワンは 達磨に敬意を籠めつつ訂正しようとしています。

☆ (バグワンは説いています。) これら(上記)の語録におけるボーディダルマの教えは、尽きることのない興味を呼び起こすものであり、すべての真 理の巡礼者にとって計り知れない重要性を持っている。だが、ここにはいくつかの誤った言明がある。これは初めてのことなのだが、おそらくそれらの言明は弟 子たちの誤った理解から生じたものではなく、ボーディダルマ自身が犯した過ちだ。

それゆえに、語録に入る前に、私(バグワン)はいくつかのことを明確にしておきたい。

まず、ゴータマ・ブッダ(釈迦如来)の教えは、二種類の探求者たちを生み出した――ひとつは「アルハト(阿羅漢」と呼ばれ、もうひとつは「ボーディサットヴァ(菩薩)」と呼ばれる。

アルハトは光明(=悟り)を得るためにあらゆる努力をするが、ひとたび光明を得てしまうと、まだ暗闇のなかで手探りをしている者たちのことは完全に忘れ てしまう。彼は他人にはいっさい関心がない。光明を得るだけで充分だ。実のところ、アルハトによれば、慈悲という高邁な考えですらやはり執着の一形態とい うことになる――これには理解されるべき深い意味がある。

慈悲もやはり関係性だ。いかにそれが美しく高邁なものであろうと、やはりそれは他人への関心だ。それは依然として欲望だ。善い欲望であったとしても欲望 であることに変わりはない。アルハトによれば、善い欲望にせよ悪い欲望にせよ、欲望は束縛だ。その鎖が黄金でできているか鉄でできているかは問題にならな い。鎖は鎖だ。慈悲は黄金の鎖だ。

アルハトの主張によれば、誰ひとり他人を救うことはできない。誰かを救うという考え自体が誤った基盤に基づいている。人は自分自身しか助けることができない。

凡庸な精神(マインド)は、アルハトはなんて利己的なのだろうと考えるかもしれない。だが、いっさいの先入観なしで見たら、おそらく彼もまた世界に宣言 すべきこのうえもなく重要ななにかを持っている。他人を救うことですら、その相手の生や生き方、彼の天命や未来にとっての干渉となる。それゆえに、アルハ トは慈悲というものをいっさい信じない。彼にとっては、慈悲心は自分自身をこの執着の世界につなぎ止めておこうとするもうひとつの美しい欲望でしかない。 慈悲心とは欲望の別の名前だ――美しい名前かもしれないが、欲望する心(マインド)につけられた名前であることに変わりはない。

なぜ他人が光明を得ることに関心を持たねばならないのか? 自分とはいっさいかかわりのないことだ。誰にも自分自身であるための絶対的な自由がある。ア ルハトは<個>を、その絶対的な自由を主張する。たとえ善意からであろうと、ほかの誰かの生に干渉することは誰にも許されない。

それゆえに、アルハトはたとえ光明を得ても弟子を受け容れない。けっして教えを説かないし、いかなる方法でも誰かを助けようとはしない。彼はひたすら自 らの歓喜(エクスタシー)のうちに生きる。自力で彼の井戸から水を汲める者がいたら彼はその者を妨げないが、人を招待することはしない。おまえが自分から 彼のもとにやって来てかたわらに坐り、彼の臨在を飲んで旅を続けるとしたら、それはおまえが勝手にやっていることだ。たとえ道に迷うことになっても、彼は おまえを止めたりはしない。

ある意味で、かつて<個>の自由にこれほど大きな敬意が払われたことはなかった――まさにその論理的極限だ。たとえ深い暗闇に陥っている者がいても、ア ルハトはただ静かに待つ。彼の臨在がなにかの助けになるのなら、それはそれでよい。だが、彼はおまえを助けるために自分自身の手を動かそうとはしない。あ なたをどぶから引き上げてやろうと手を貸したりはしない。どぶに落ちるのはおまえの自由だ。それに、どぶに落ちることができたのなら、そこから出ることも 充分に可能なはずだ。慈悲という考えそのものがアルハトの哲学とは無縁のものだ。

ゴータマ・プッダ(釈迦牟尼如来)は、何人かの人々はアルハトになるだろうことを認めていた。そして彼らの道は、たったひとりの人しか彼岸に渡すことが できない「小舟」のようなものなので、「ヒーナヤーナ」「小乗」と呼ばれることになると考えていた。アルハトは、「大きな船」をつくり、そのノアの箱船に 群衆を集めて彼岸まで連れてゆこうとは考えない。彼はただひとりで行く。二人と乗れない小さな舟で。彼は独りでこの世界に生まれ、独りでこの世界を生き、 独りで死んできた。何百万回となく。彼はたった独りで宇宙の源泉に向かおうとしている。

仏陀はアルハトの道を認め、それに敬意を払ったが、一方にはこのうえもない慈悲心を持っている人々がいることも知っていた。彼らが光明を得たとき、まず 最初に起こってくるのは自らの喜びを分かち合い、真理を分かち合おうとする熱望だ。慈悲が彼らの道であり、彼らもやはりなにかの深遠な真理をたずさえてい る。

これらの人々はボーディサットヴァ(菩薩)と呼ばれる。彼らは他の者たちを同じ体験に招き、いぎなおうとする。彼らは道を歩む用意ができている者たち、 ただ道案内が必要なだけの、助けの手が必要なだけのあらゆる探求者たちを手助けしようとして、できるかぎり長くこちらの岸辺にとどまろうとする。ボーディ サットヴァは、暗闇で手探りをしている盲目の人々への慈悲心から、彼岸へおもむくことを延期することができる。

仏陀には、この両者を受け容れるに足るだけの包括的で広大な視野があった。彼によれば、ある人々がアルハトになるのは、それが彼らの本性だからであり、またある人たちがボーディサットヴァになるのも、それが彼らの本性であるからだ。

これがゴータマ・プッダ(釈迦如来)の立場だ。それはありのままの実情であって、どうすることもできない――アルハトはアルハトにとどまり、ボーディ サットヴァはボーディサットヴァにとどまる。どちらもその最終の目的地に到達するのだが、彼らの本性にはそれぞれに異なった天命がある。目的地に到着した あと、道は二つに分かれてしまう。

アルハトはこの岸辺(此の世)にただの一瞬もとどまろうとはしない。彼は疲れ果てている。このサンサーラの車輪に充分に長くとどまり、誕生と死のあいだ を何百万回も巡りに巡った。もうたくさんだ。彼はうんざりして、これ以上は一瞬たりともとどまりたくない。迎えの舟が到着すると、彼はただちに向こう岸 (彼岸・あの世)へと渡りはじめる。それが彼の<あるがまま>だ。

だが一方には、船頭にこう告げることのできるボーディサットヴアがいる。「待ってください。そんなに急ぐことはありません。たしかに私はこの岸辺に充分 長くとどまりました――惨めさや苦しみや、苦悩や苦悶のなかに。でも、いまやそれらはすべて消え去っています。私は絶対的な至福と静寂と安らぎのなかにい ます。それに向こう岸にこれ以上のなにかがあるようには思えません。 ですから私はできるかぎり長くここにとどまって、人々の手助けをしたいのです」

たしかにゴータマ・プッダは矛盾のなかにすら真理を見いだすことのできる人のひとりだった。彼はどちらにも自分の方が優れているとか劣っているとか感じさせることなく、その両者を受け容れた。

しかし、ボーディサットヴァは自分の道を――――アルハトの道に対して――「マハーヤーナ」「大乗」「大いなる船」と呼び、こう考える。「アルハトの舟 はただの小舟でしかない。なんて貧しい連中なんだ。たった独りで行ってしまうなんて」というわけで、ゴータマ・プッダ以後二五〇〇年の長きにわたって、こ れら二つのアブローチのあいだには絶え間のない葛藤が続いてきた。

ボーディダルマはボーディサットヴァに属している。それゆえに彼はアルハトを中傷する多くの、真実ではない言明をしている。

私(バグワン)は、アルハトにもボーディサットヴァにも属さない。私はいっさい仏陀の道には属していない。私には私自身の展望(ヴィジョン)、私自身の 洞察がある。だから、なにからなにまでボーディダルマに同意しなければならない筋合はない。それにとりわけこの点に関しては仏陀ですら彼には同意しないだ ろう。ボーディダルマはある特定の派閥の信奉者だ。

第二に、彼(達磨)は荒くれ者、きわめて恐ろしい人だった。彼の肖像を見たことがある人はわかるだろう……その絵は子供たちを恐がらせるには充分だ。だ が、それは彼のほんとうの姿ではない。彼は王子だった。南インドの偉大な王、強大なパラヴァス帝国の王、スハー・ヴェルマの息子だった。彼は美しい人だっ たにちがいない。これらの絵は彼の実際の姿を描いたものではない。それは彼の奇異な個性、その無法性を描写している。

だから、彼はいくつかの点でおまえ方が容認する必要のないことを言っている。彼は自分がマハーヤーナという特定の派閥、特定のイデオロギーに属している というだけの理由で誤ったことを述べているが、私はその箇所をはっきりと指摘したい。私はゴータマ・ブツダと同じように、アルハトとボーディサットヴァの どちらにもこのうえもない敬意を感じている。   (バグワンの語録)

* バクワンは達磨の否認者ではありません、彼ほどボーディダルマを敬愛し信頼し帰依している人はいないでしょう。バグワンは誰よりも老子と達磨とに、最も「自分自身」を感じている人です。

そのバグワンはまた、阿羅漢と菩薩との行き方を二者択一しない人です。人には人の本性があり、本性の無垢に随うまでと認め、さらに進めて慈悲心を優れて尊く認めつつ、それもまた高貴な一つの「我」であり「執着」であるとすら洞察しています。

わたしは、このような強い認識から遥かに遠い、無縁の存在でしかありませんけれど、こういうバグワンの理解に初めてふれたとき、やはり眼の鱗を落とした 気がしました。何度目にもなる読みの途中で、なぜともなくこの個所をわたしは自ら書き写したくなったのです。   2005 12・09

2020 1/29 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本108摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

90 * 2005  12・12     和歌山の読者から前に、お手紙をもらって「佛教」の話題に及びましたが、おおむね納得されたようでも、根本にまだ残る問題があるよ うです、「佛教本来の佛教」として、Sさんは、「佛教って何を説いたのだろう」と自問され、本当は「人間としてのふるまい」ではなかったのか、と自答され ています。

「佛教本来の佛教」を、「ブッダ」として大悟されたゴータマブッダ=釈迦如来の本源の導きと意味するなら、このSさんの自答は、まだ、よほど隔たって遠いものでしょう。

「ふるまい」というと、善き行いの意味ともなり、取りようでは、いわゆる「道徳=モラル」に近づいてきます。人間社会に道徳モラルは大切でありましょう が、菩薩が大乗の船にみちびいて、多くと共に彼岸に赴こうという慈悲の向かうところが、「人間としてのふるまい」よろしき善男善女をというのは、やはり 「佛教本来の佛教」とはかけはなれた、後生の解釈になるのではないですか。

もとより「無心」「無作」のうちにあらわれる善行は、尊い。

ですが、「無心」「無作」はそのように簡単な前提ではあり得ないでしょう。それこそが、在りたき真の核心であり、人は、容易に容易にはとても「無心」に も「無作」にもなれません、「静かな心」になれません。もし、そうなれるなら、忽ちに善悪、美醜、賢愚等の世の常の二元対立=単なる分別心から離れられる でしょう。自身を離れて自身の本性そのものが、分別ならぬ「ブッダ」であると気付くでしょう。

この「気付き」に到れば、極楽も地獄もない、善も悪もない、道徳でもふるまいでもない「無心自在」「自然法爾」を示現して、生死を超越するのではないか。釈迦は、そのように根元の佛教を体験し提示されたのでしょう、あやしげながら、わたしが推察しますのに。

「人間として」という前提にも、我執、が出ます。「ふるまい」に善悪や美醜を分別して、善につき美につこうとする、その際にも我執・我慢や我褒めが生じ るのは防ぎようがないでしょう。それらはみな「心=マインド=分別=我」の働きにあり、「無心」「無作」とは成りようがない。「困っている人が手助けをす る」「自分を育んでくれているものへの報恩感謝」「慈しみの気持ち」「悪に対する怒り」「善に対する賛同」等々、みな善きことであり、人間社会の道徳モラ ルとして結構であり、誰も反はしない。しかしそれらが「無心」「無作」の「行為」たりうるかというと、容易ならぬ、場合により自己矛盾や撞着を示すでしょ う。前提になっているそれら善行自体が「無心」「無作」と直ちには重なりにくいからです。「有心」の「作意」に成りやすいからです。

大事なのは、善行か無心かなどと「択一」の問題にすべきではないということ。ブッダは、善行せよ、宜しく振舞えとは教えていないのです。自身のうちなる ブッダに「気付き」なさい、そうすれば四苦八苦も滅し、生死の苦を超越できる。そのためには「静かな心=無心=無作意」の「無我」を「見性」「覚性」する こと、と、教えているのです。

こう言葉に置き換えるだけなら、愚かな私にも出来ます。これの真の体験は、しかしながら、容易でない。が、つまるところ、そうなのです。それだけです。それが難しい。成ろうとして成れるものでないからです。わたしは、ただ、「待って」います。

* もう一つ、Sさんの呈されている問題で大きいのは、「不立文字 (言葉に頼らない)」か「経典信頼」か、ということ。

Sさんは、大切なのは「経典」を「どう読むか」ではないか、と言われます。「不立文字」「教外別伝」となると、一寸……と。

これは大問題ですが、わたしの率直な思いでは、いわゆる仏法僧という、「法」は、大蔵万巻の「経典」にあるのか、あの「拈華微笑」にあるのか、むろん後 者だということです。見性し覚性し無心に達した人であるならば、はじめて万巻の聖典は(例えば)己の境地の確認の為だけの役に立つでしょうが、それへ達し ていない者には、ほとんど何一つの役にも立たないのが聖典というもので、強いて役に立てようとすると、忽ちに経典が即座にただの通俗な「道徳書」「指南 書」に変じてしまう。そのようにのみ使われてしまいます。それどころか、ますます自我について離れがたく、無我の無心へは遠のくばかりになる、と。

知識や解釈のための聖典・経典では何の意味もないのです。道徳的な意味でのみの善男子・善女人をあるいは量産するかもしれませんが、一つ間違うと道徳を 我褒めしてしまうエゴイズムに走ってしまう恐れがあります。悪人も困るけれど、自分は善人であると善行を勲章の替わりにしていると、偽善に陥る。偽善だっ て善のウチだからいいと思いますがという言葉を、以前、やはり読者のひとりから聴いたことがあります。議論のしようもないことです。

大蔵万巻の佛教の経典の全部が、釈迦ではないはるか「後生の著作」であり、著作者の理解と解釈と主張とをこめた意見であり、同じく佛徒でありながら、正 反対ともいえる立場をとっています。史的事実です。菩薩(大乗)派と阿羅漢(小乗)派とはずいぶん違い、互いに他を否定し合ってきました。

ところが「佛教本来の佛教」において、釈迦はその「双方の在りうること」を容認しているのです。それが「佛教」です。その釈迦は、生涯に一巻の聖典も自 身の筆で書いていない。厳格なこの「事実」をどう「読む」のか、それが大事と思われます。わたしは、万巻の後生の解釈より、「拈華微笑」の伝説に尊いもの を覚えます。同じことは「イエス」の聖書にも謂えるでしょう。  2005 12・12

 

* 15年前の 話し合いだったが、昨日のことのように思い出せて、しかも今の私、まだ、どうにもこうにもならない没分暁漢(わからずや)のままの毎日と謂うしかない、ああ。

2020 1/30 218

 

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本108摘録) 聴きつ・思い直しつ

 

91 * 2005  11・03    すぐれた、または偏って過剰な「知識」に惑わされた少女が、母の肉体を化学的な「実験」にもちいて瀕死に陥らせているというニュース。

行き方は過激ですが、この手の知識人種の犯罪行為は ときどき繰り返されます。

ひと言でいえば、いくら賢くても 「人となり聡明」でなければ何にもならない適例です。

知識こそがつまり心(マインド)であるとバグワンは喝破し、マインド、つまり文字通りそれかこれか、どれかあれかの「分別心」だけでは、結局は迷妄の夢を漁るだけに陥るしかないとも。

同感します。 知識は心、聡明は無心。   2005 11・03

2020 1/31 218

 

 

* 「湖の本 149」の初校が組み上がって届き、放っておく気になれず、校正し始めている。内容が気に嵌って興深いので、あれれという間にはかどるだろ うが、数のキマリの「湖の本 150」をどんな創作で満たすか、これは容易ならぬ難関である。材料がないのでなく、実は幾つも有って気迷いというムダ時間 を心して警戒せねば。

追いかけて、間もなく『選集 32』の再校分もどさっと纏めて飛び込んでくる、これは大量で、時間を要する上に、

ここまで来た以上 予定完結の「第三十三巻」を腰を据え腹を決めて編輯にかからねばならない。相当に骨が折れ、気疲れしそう。体調との闘いにも負けるわけに行かぬ。

なにより、恥ずかしい、ウソ出来のヤッツケ仕事は決してしてはならない。続けて、同題、二種類の

韓国ドラマ「心医 ホ・ジュン」を心して見続けている。すくなくも創作の姿勢としてあのユ・ウィテ先生と弟子ホ・ジュンとの及びも付かぬ精神と医の技術とに敬意を覚えつつ、気分として真摯に「後続」したいと願う。「ニゲ出す」わけに行かない。

2020 1/31 218

 

 

* 明日から、もう二月。「述懐」を寄せて古人の歌などもえらび、写真も気の晴れる色花や、ちょっと自慢の、柴又帝釈天境内で「偶然に」「咄嗟に」とらえた、「かくれんぼ」の鬼さん少年らの瞬間を選んでみた。柴又、もう一度行ってみたいなあ。遠いなあ。

しきりにまた行きたいところが思い浮かぶ。上野と浅草を懐かしむ。博物館、西洋美術館、寄席。食べ物では浅草の米久、上野の天ぷら、静養軒や西洋美術館 内のすいれん。鶯谷駅前の蕎麦の公望荘が無くなったのが惜しい。もう十何年も新幹線に乗ってない。窓から富士山が観たい。京都へ帰りたい。「マ・ア」に留 守番はさせられず、杖をついてもゆらゆらのわたし一人では、やはり危ない。やれやれ。

2020 1/31 218

 

 

* 私・秦 恒平には、ほぼ四枚平均の、独特と思って愛してもいる「掌説」が有る。康成の「掌の小説」とは別のモノであり、しばらく、それを、この「私語の刻 日乗」のアタマに順序なく、毎朝掲載してみよう と思う。

早稲田の文藝科に、頼まれて二年出講したときは、こういう短い作をひたすら「書かせ」ていた。いいものを書いてくる二、三人のなかに、今、活躍してい る角田光代がいて、「作家におなり」と背を押したのを彼女もよく覚えていた。二度三度、頼まれて応援してきた。教室で提出した作は「作家になった」と知れた時 に家の物置から捜し、返却して上げたのを記憶している。

「短く」しかも自立した世界を創作するのは価値あるトライである。勉強である。試みる人があっていいと思う。

 

☆ 夢

夢であることを知っていた。それどころか、同じこの夢をつづけて何度も見ていた。夢の中では一本筋の山道を上っていた。

道の奥に、門があった。仰々しくない木の門は上ってきた坂道のためにだけあるように、鎮まって左右に開かれていた。

門の中へ入ると、植木も何もない一面の青芝の真中に、一棟の、平屋だけれど床の高い家が建っていた。庭芝があんまりまぶしくて、家のかたちが浮きたつ船のように大きく見えた。

家の内も隈なく明るかった。日の光は襖にも床の間にも、鎮まっていた。

家の中に人影を見なかった。気はいは漂っているのに、闖入を訝しみ咎める姿がなかった。

はじめのうちここで眼ざめ、肌にのこるふしぎな暖かさを惜しいと思った。

夢の数を重ねるにつれ襖の直ぐ向うで、何人かの人声のするのを聴き馴染むようになった。優しい女の声も快活な童子の声も、訳知りらしく落ちついた年寄り の声もあった。顔を寄せ合い、日だまりにいてたのしそうに、しかしいかにも物静かに何か話しているらしい声音を、襖のこちらで聴いた。明るさの底を揺るが す美しい波立ちが色やさしくさも流れるように、憧れ心地で僕はあたりを見まわした。

耐らず声をかけて襖をあけると、そこは、何変わることのないもう一つの明るい空ろな

部屋であった。話し声は一つ向うの襖のかげにすこしも変わらず聴こえていた。かけ寄って襖をひきあけても、声はまた一つ奥から聴こえて人の姿はなかった。

笑いをまじえたたのしそうな声音はいつもすぐそこに聴こえた。あけてもあけても襖の向うは人のいない部屋だった。光が溢れていた。哀しかった。耳の底にたちまようそれは僕の存在も憧れも寂しみも何一つ関わることのならぬ、あけひろげな、談笑の幻でしかなかった。

夢はいつも虚しく佇ちすくんだままで醒めた。

 

* これだけは、「別もの」である、これは、1969年太宰賞当選受賞作『清経入水』の「序詞」を成していた一編であり、これを書いた体験(こと)が後々に断続の「掌説」への動機となった、それは間違いない。

2020 2/1 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

* 原稿用紙四枚以内、せいぜい五枚以内で、物語世界を整 えた小説を「掌説」と名付けています。私の命名です。昭和三十八年ごろから数多く書き、文藝誌にも「湖の本」にも『秦 恒平選集 九』にも収めています。さまざまな趣向の可能なこの試みを好んでいます。おもむくままに、書き連ねています。なにが、どう飛び出すか作者にも見 当のつかないのが、「泥を吐く」ようで、ちょっと怖い世界です。  (転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

☆  鯛

 

腕のいい漁師がいた。

或る日、見知らぬ老人が浜で漁師の帰りを待っていた。魚をとるのはやめてくれろ。老人はそう言って或るふしぎを漁師に教えた。漁師は舟をこぼち、網を破った。

岬と岬が真近く向かいあって、その奥に蛤のようにまるい渚の浜はあった。朝日は岬の真中から浜の一番深くまで鮮やかに照らした。

漁師は人の起きぬまに家を出た。

両の岬に足ふんばって水門(みなと)をまたいだ漁師は、外海に向いてぽんと一つ大きく手を拍った。すると忽ちかもめは中ぞらに翅こわばり、風はやみ、波はかたち崩さずぴたりとうねりをとめた。

漁師は海へ下りて、海づらを音もたかく一皮浜の方へ剥いで行った。朝日にきらめく大波小波に岬や山べの景色が浮かび、青空も、白い雲、飛ぶ海鳥の影も漁師の剥いでゆく海づら一枚には染めたように織ったように映し出ていた。

漁師は海づらにのしして美しい模様の布に仕立て、女房に小袖を縫わせた。小袖を着ると潮騒がきこえると町の者は評判した。

老人の約束は十日で布十枚だった。漁師は無事に目もまばゆい十枚の布を手に入れた。 その十日めの朝、漁師を追うように、小袖くれろと言いながら若い女 が表に立った。右の小指に痛々しい包帯した女は、朱い錦に銀色で青海波を描いた着物を着ていた。それは美しい女だった。

女房が出て小袖をみせたが気に入らなかった。漁師は今剥いで来た布をみせた。女は布をしらべて、このままで売ってくれろと言った。

女が金を積むと、漁師はまだまだと言った。さらに金を積むと、女房がまだまだと言った。女は今はこれだけしかないが、あとどれほどかかるのかと聞いた。 それから血のにじんだ小指をみせ、実はけさお前さまにこの生爪を剥がれてしもうてと、涙をこぼして布をゆびさした。そこには姫貝一枚ほどのみごとな桜色が ぴかぴか光って、黄金のようにきらめいた。まわりには透けそうな碧に点々と朱がにじんでいた。

漁師は怪訝な顔をした。爪というのは仮りのことで、自分は実は一尾の鯛なのだが、からだの一番恥ずかしい所の鱗一枚をうっかりお前さまに剥がれてしもうた。それがないとわしは他の魚に顔が合わせられぬと言って、女はしほしほと泣いた。

夜、残りの金をもって浜に来るがいい、布を渡そうと漁師は約束した。

夜になって鯛の女は浜で漁師と逢った。漁師は女に一夜懇ろにしてくれろと言った。女と浜の岩かげで寝たが、布は渡さなかった。

次の夜も、次の夜も漁師は女をだまして女を抱いた。女は胸乳の片方をえぐったように欠いていた。

漁師は、女房に小袖を縫わせ町の遊女に高く売った。鯛の女の爪がちょうど背中にみごとな模様になっていた。遊女が小袖を着ると、男の目には背の真中に ふっくらと椀を伏せたように桜色した乳房が一つ透けてみえた。それは誰のどんな乳より美しく、いたずらな男たちはかけ寄って遊女の背を吸った。遊女はやが て自分の乳房を片方腐らせ死んでしまった。小袖は着るものなく、野に棄てられて朽ちた。

漁師に弄ばれた鯛の女も、空しい生命を漁師の胸の下で息絶えた。

漁師は或る日浜であの老人にまた逢った。老人はもう一度だけ岬に立つがよいと言った。 漁師は次の朝早く岬へ出て、足をひろげて水門をまたぎ、外海に向 いてぽんと一つ手を拍った。忽ち岬は後ずさりして漁師は真逆様に渦巻く波の上へ落ちた。どこからとなく一本の糸が漁師の足をからめ、漁師は宙に吊るされて 頭を海に漬けた。

潮をうならせ無数の鯛が群れて漁師の頭を微塵に砕いた。血しぶきに外海も内海も夕焼け頃のように染まった。

2020 2/2 219

 

 

* 選集最終巻には、私・秦 恒平が 何を どんなふうに考え、愛し嫌い重んじ疎んじてきたかを存分「批評」的に書き置き遺しておこうと思っている。

 

* 学生の昔 やがて妻になった人はわたしに、「小説家に」というと読んだこともなく判らないけど、「批評家」には必ず成れると思うと断言したのを思い出す。妻が何を「批評家」と思い私が「批評」とは何かをどう自意識していたか、判らない。

しかし、その後、多く読み、自身でも書き始めた頃から、「批評」の意義は身内を去らなくなった。くどい理屈から、いつしかに実に簡単に、「批評とは選 択・選別のこと、生きものの中でことに人間は日々夜々にもの・こと・ひとを<選び>とりつつ生きている生きものだ」と思うようになった。飯かパンかも、好 きか嫌いかも、するかしないかも、初手からの「批評」なのだ。そしてその当否や成否や正否や肯定・否定や好・悪の別が厳しく問われ始めて、結句は、それに 長けた「批評家」が出来てくる。

この意味でなら私は「批評家」という基盤の上へ「小説家」という「家」を建ててきた。自身のそんな「批評」の出方を、網羅は出来ないが「歴史に問い・今日を傷む」思いで取り纏めておく意味はあろう、誰の思いへつたわるとも計り知れないのだけれど。

2020 2/2 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  光        (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

ああ愉快、愉快ーーと、こんなふうに言ったことがただの記憶のかけらになり切っていた。男の子らしいいたずらをまんまと仕了せた時、また男の子らしい生真面目な仕事を成し遂げた時、すこし胸を張って、こんな言葉を使ったものだった。

男は、久しく愉快を感じたことがなかった。

毎日毎日、男の心には不等記号が愉快より一層多く不愉快の方に開かれ、もはや頑なに生活の下絵をつくっていた。

一、二、三、四ーー、歩けば男は歩数をはかっていた。一段、二段、三段ーー、昇れば階段の数をかぞえていた。

一人、二人ーー、道行く人影を男は意味なく数えていた。そして一日の暮れてゆくのを二時、三時、四時と、呟き呟き見送っていた。

数えられるものばかりが多く、数えても数えても、あまりに虚しくて男はしかとした印象を何事からももたなかった。俺は何をしているのだろうーー、そう考えることもあった。答えは見当たらず、男は自分が無数の数の一つであることだけを朧ろに知った。

数の内かーー。それは救われたような空々しいような気もちだった。

男は眼をつむることを覚えた。

眼をつむってしまうと、たちまち何一つ数えようがなかった。濃い闇の中では凝り堅まって確かな手ざわりで自分が自分に生き返った。静かな秩序が、整然と 歩調をとって男の中で高らかに活躍した。  男は眼をつむって嬉しそうに歩いた。 だが、十歩も行けば不安がはっと捉えてきた。眼をあけてみて、男の胸はときとき鳴った。男はほぼ真直ぐ歩いていた。危なげはなかったのだ。

十五、二十、三十歩とやがて安らかに男は自分の闇を支配して進めるようになった。歩数をかぞえることもやめて、男は大きな充実にとり包まれ、むさぼるように一足一足愉快に歩いた。

走ろうとすれば走れた、だが眼をあけて見る外の世界は、あまりと言えば狭苦し過ぎた。 広い場所、人のいない場所を探ね歩いた。そのような場所があれば ふっと眼をつむって、男は自在に足早に確実に、あたたかい陽ざしへうつつに顔をふりむけ、悠々と愉快に歩きまわって過ごした。眼をあいてくらす暮す世界よ り、眼をつむって確かと手に触れてくる世界の方が男には親しめた。安らかで、美しかった。ただのくらやみだったこの世界にあざやかな光と色彩が満ち溢れて いて、紛れもないものの像を日ごと男の眼の底にかたちづくって行った。

或る日も男がこの新しい領分をのどかに満ち足りて歩いていると、一人の少女に出逢った。遠い以前、男が男の子らしい清々しい声で、ああ愉快、愉快と言っていた頃愛していた、その少女だった。

昔通りの微笑を優しくふりむけ、少女は、あら、あなたもいらしたのと叮嚀に挨拶をした。あたくし、もう二年になりますの。それから、もっと早く来て下さると思ってたわ、と言った。

男は少女の傍を少年のように歩いた。ああ嬉しい、と少女は昔のように可愛く甘えて男を見上げた。

男は黙っていたが、幸福だった。闇にぱっと光が射して、なにもかも明るく、はっきり見えたーー。

崖を踏み外した男の死体は直ぐ見つけられた。

引き取り手のない死顔が愉快そうに微笑っているのを、人は無気味だと思った。

 

*   まだ医学書院で編集者をしていた。編集長の長谷川泉(鴎外記念館館長)は編集者は24時間勤務、なにをしていても宜しいと教えていた。わたしはこの一連の 創作をいわゆる勤務時間内に喫茶店や食堂や取材先で、立ったままでも書いていた、「毎日、つづけて一編ずつ書く」と決めていたので、厳格に行けるところま で行った。どんな泥を自分で吐くのか判らぬママ旨の暗闇を手まさぐっていたのを思い出す。

2020 2/3 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  雪        (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

浪人は子どもの顔を単衣の袖で蔽ってやった。子どもは寒さにふるえていた。風が鳴り、雪は大川の川波に鵞毛のように飛んで散乱した。

両国橋を一挺の駕籠がかけ抜けた。人影まばらな、正月の淋しい夕暮れだった。

浪人の腰には脇差の影もなかった。帯さえなかった。細い紐一本に結ばれた単衣も綻びがちに、やせた肌身が透けて見えた。

浪人は子どもを抱きあげた。雪は子どもの乱れた髪に花のように散った。

「所望」「所望」

橋の袖に立ち、浪人は往く人影に声をかけた。誰も耳をかさなかった。馬で駆けて行く武士もいた。流石に浪人はちらと眼を伏せた。馬の脚はなさけなく雪の泥をはねた。

浪人は子どもの顔をのぞいた。子どもは寒さと飢えにおびえていた。顔色は青かった。眼だけが、ひしと父親の眼を見返していた。まだ助かる道があるなら、この眼がそれを見つけて呉れるだろうーー。

浪人は凍えた頬に頬をすり寄せてやった。子どもの手の爪が、抱かれたまま浪人の背をぎゅっと掴んだ。どう抱き合ってみても、もはや互いに温めようのない父と子だった。

「所望」「所望」

浪人の声は高くなった。

「ショモウ」「ショモウ」

肩の上から子どもの声もそれを叫んだ。暗い涙をこぼして父は子どもの背を撫でてやった。

浪人の過去は浪人だけが知っていた。その過去もまた無残だった。妻は貧窮の内に身をやせて死んだ。江戸浅草の見るかげない小屋がけの中で、膝まで水漬くほど長雨の降る梅雨どきであった。

「ショモウ」「ショモウ」

はかない追憶に一瞬心をとられていた浪人は、絞り出すような子どもの声にはっとした。一台の餅焼き屋台が、ちろちろと赤い炭火の色を夕やみに洩らしながら通って行く。

思わず浪人はかけ寄った。

「へい」と答えて餅屋はとまったが、客を待つ顔ではなかった。浪人は辞を低うして、我らは此の所に袖乞いをしているが、昨日の朝から何も口にしていない。 御覧の如くいたいけな子どもがふびんでならぬ。何卒、今は餅一つ二つ恵まれよ、物乞いして餅の代は必ず払おうゆえにーー。

ぺっと唾をはき、「おきやがれ」と餅屋は怒鳴った。「ショモウ」と言いながら子どもは耐え切れず泣きはじめた。「所望じゃ」と浪人も地に手をついて懇願した。雪が容赦なく二人の上に吹きなぐった。

去って行く餅屋を呼びとめたのは、一人の女非人だった。

女は有り合わせの小銭を掴んで餅屋の前に投げ、二つ三つの餅を、走り戻って、泣いている子どもに持たせた。焦げてまるく膨らんだ餅は父と子の涙でじいっと熱くぬれた。

黙って行こうとする女を呼びとめ、浪人は、深く頭をさげた。御厚意には報いとう存ずるがお約束も叶わぬ身の上、せめて今一度この橋を渡らるる時、これな る柳の根方を御覧下さい。往来へ願って必ず銭乞い受けお戻し致したく、と言うなり浪人は子どもを抱いて橋の袖に立ち戻り、瞑れゆく宵やみの中で、物乞いを つづけた。

一刻二刻、ようやく五文ばかりの銭を得た浪人は、単衣の袖を裂き、柳の根方に、五文の銭を包んで置くと、子どもの手をひき両国橋の中ほどまで駆けたかと見るまに一瞬ひしと抱き緊めた我が子を、眼より高く差し挙げてどっと川中へ投げ入れ、我が身も続いて入水して果てた。

舞う雪は大川の波に揉まれ揉まれて、江戸の夜の底を真白に流れた。

 

*  この「雪」だけはまるまる私の創作といってはいけないかも。名高い遠山の金さん著す『耳袋』という書き置きにヒントになった一文の有ったのを記憶している。無残な思いに涙したのも忘れない。

2020 2/4 219

 

 

* 今回の「濯鱗清流」は、ま、文字のママに読んで頂いて、先人師友への感化に感謝し素直な敬愛を示した四文字でした。出典の原意で謂うと「よい時勢に会 えば名声を得られる」らしいのだが、私は、そういう思いは一向持っていない。先人往時の精華や達成を「清流」とみて我が拙い鱗を清く強く洗いたいというに 尽きています。

 

* もう初校を「要再校」で返した次149巻は、題して「流雲吐月 歴史に問い・今日を傷む」 容赦ない叱咤に満ちた「批評」の一巻になる。

これまた「流雲吐華月」とある韋応物の詩的な自然描写から離れて、「流雲」には「自身」を托し 「吐月」には「批評」を意味 させています。三月上旬にもお送りできるかと。

 

*   昨夜は三、四の、情景ハッキリと不可思議ながら気の晴れる面白い夢を見続けた。しかし、なるほどという根拠や関連に思い当たれる何一つもなかった、嶮しい 峡谷の一部に波飛沫も真っ白な絶景も観たがどんな記憶とも関わらない景色だった。見覚えがあるかしらんという人もいたが分からず、上機嫌の年嵩な誰かの兄 貴分のような男も盛んに私に構ってくれたが誰とも全く思い当たらなかった。総じて、不快のない、妙に嬉しい気分だった。場所は、都会を遠く離れた山や川や 街道のようだった。強いて再現せよとあらば不可能でない程度に何もかも妙に具体的だった。

 

* 昨日から、維新前から大正半ばまでの政局を調べ始めている。敗戦へ直結してくる機運や根底の露わな時代だけに、簡単明瞭にも引きこまれる。ああ、まあ、私の気の多いことよ。

しかし、この目がけた仕事は、私のそれらの中でも稀有なものになる見込みがある。稀有というのは変わり種とも謂え、しかし美味く仕上がれば私らしい物の 珍しい物となろう、ただし量も要して相当な手が掛かる、厳しい批評も必要になる。六月桜桃忌に「湖の本 150」として刊行するのは容易でない。これ一つ に六月まで掛かっているわけに行かない、『選集 32』の再校は、もう目前に迫っていて、これも容易でない仕事、作業になる。ムリしないで、いいミノ実の 熟して落ちてくるのを待つ気になっている、つまり可能な限りを少しずつ、なるべく毎日進めて行くということ。楽しみだ。

しかしながら、では「湖の本 150」には。知恵は無いではないのだけど。

2020 2/4 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  海        (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

男は海辺に坐って遠くをながめていた。

海は明るく、まぶしかった。きらきらとどこまでも波が躍っていた。

男は、さて坐ったままで、考えることももたなかった。

膝の下から小さな貝殻を拾い男は足を洗う波の一かけらをすくいあげた。たらたらと掌に受けてみた。

掌の底に刻まれた太い皺に針金のように曲がりくねって海の水がひかった。

男は無造作にシャツで手をふいた。

暫くして、男はまた同じことを繰り返し、そして想った、この一枚の貝殻で海水をすくえば、たしかに海の水はそれだけは減ったのであるかーー。降ろうが晴 れようが、海は大昔から今のままだった。だが今、俺は俺の意志を用いて貝殻一杯の水を海から奪った。俺は俺だ。俺の意志は単に客観的恒常の条件ではない。 海水は確実にそれだけ減らされたはずだーー。

男は黙々と、焦るふうもなく貝殻一杯ずつの水をすくっては背後へすてはじめた。

日当りのいい浜砂に霧のように撒かれた僅かな水はたちまち砂に灼かれて失せた。

男は自信たっぷり同じ仕種を繰り返した。

商人が寄って来た。何をしていなさるーー。

海を干してやろうと思っている。男は真面目に答えた。商人はからかわれたと思い行ってしまった。

漁師たちはそんな真似をされては食いあげじゃと嗤い戯れた。

学者は、仔細らしく男の愚かな誤りを指摘しようとした。

子どもらは暫く真似をして、直ぐ飽きて顧なかった。

思い寄らぬ儲けがあるかとわざわざ問い合わせて来る実業家があり、世の中への痛烈な批判である、非凡の警世家であると持ち上げる者、極まりなき愚者で怠惰人であると怒る者などもあった。

新聞は時の人と呼び、雑誌は写真を撮りに来た。そしてやがてみな呆れて寄りつかなくなった。

男は相変らず黙々と、悠々と、自信たっぷり貝殻の水を浜辺に撒き散らしつづけていた。 一年、十年、五十年経ち、男は営々と海辺に坐ったまま海の水を奪っていた。

海はしかし、来る日来る夜、まんまんとうねっていた。

いつか男の横に一人の女が坐って男を真似はじめた。

生ける彫刻の如く、嵐の朝も雪の夕も休みなく男と女は物静かな振舞を生真面目に繰り返す二つの黒い小さな影法師であった。

男の横に一人、女の横にも一人、可愛い子どもが親の真似をはじめるようになった。

子どもは三人、四人と増え、百年、三百年して海辺には渚のかたちに三十人、五十人、何代もの子々孫々が仲良く行儀よく一列にならび、やはり黙々とみな自信に溢れて海の水を一度また一度、着実に貝殻ですくっていた。

海の水はすこしも減ったようには見えなかった。

だが、男も、男の妻も、その子々孫々たちも、海の水はいつか自分らの手で奪い尽されるに違いないと信じて疑わないのだった。

 

* 三十前後の頃、多忙を極めていた編集者仕事のあいまに毎日毎日一編ずつを三週間ほどは続けていた。アタマの体操、トレーニングと思っていたのだろう。幼稚なりに「自分」を捜していた。

2020 2/5 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  地蔵        (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

地蔵様の前で童らはひねもすすもうをとった。荒縄で土俵をむすび、真白な尾花を束ねて軍配にしていた。地蔵様がちょいちょいと怪我をしそうな童をたすけてやっても、童らは気づかなかった。

童らの得意はその日一番の勝名乗りに地蔵様の首から朱い前垂れをはずして化粧まわしにすることだった。横綱の得意そうな土俵入りに朱い前垂れがひらひらするのを、地蔵様は胸もとすうすう秋風になぶらせながら、見ていた。

童らは帰り際には前垂れを丁寧に地蔵様の首に巻いた。ひょこんと下げてゆく童らの頭を地蔵様は見えない手で優しくなでてやった。

ある日、見なれぬ童が一人仲間に入っていた。小柄なくせになかなか強くて、童らをころころところがした。地蔵様はその童がこの辺りに住んでいる仔狸だと 気がついた。仔狸は真剣な顔で真朱になって童らに組みついていた。その恰好をみていると地蔵様はおかしくて堪らなかった。よほど毎日羨ましそうにどこかか ら眺めていたものらしい。そう思うと童に化けた仔狸を応援してやりたくなった。

地蔵様はそのうち自分もすもうがとりたくなった。童に変化(へんげ)すると地蔵様はわざとおずおず仲間に入れてくれろ、と童らに言った。

地蔵様の童と仔狸の童は最後の取り組みをした。もう夕焼けの山々のふもとの方はくらくなりかけて、野づらの穂すすきに西日がきらきらと光ってなびいてい た。地蔵様も仔狸も我を忘れてうんうんと組み合った。こりゃあ強いやと仔狸は呟いた。負けそうだわいと地蔵様も汗をかいた。地蔵様は汗を拭おうと思って、 さした腕を一本抜いて前垂れをさぐったが、これが失敗で、朱い前垂れはもと通りに土俵わきの石地蔵様の胸にかかっていた。童の仔狸はこの隙にすってんと童 の地蔵様をころがした。

仔狸は喜色満面、恭しそうに地蔵様の朱い前垂れをぶらさげてもらった。ぽんぽんと手数入りをしてみせる童の仔狸の露払いをしてやりながら、童の地蔵様はたのしくて堪らなかった。

ちょうどそこへ、里の犬が童らを迎えにかけてきた。さあどうするかな。地蔵様は横綱の仔狸を見ていると、四股を踏んでいた仔狸の童は脚をふるわせ、あま りの怖さにびしょびしょと地蔵様の朱い前垂れにしっこを流し、一声叫んで仔狸に戻ると一目散に森へかけこんでしまった。

童らが騒いでいるまに童の地蔵様も石地蔵様の中へ隠れた。 童らは口々に、狸だよ、狐もいたんだよ、狸と狐とがすもうをとったんだね言いあった。前垂れはびしょぬれになって土俵の真中に落ちていた。童らはまあいい やとぬれたままの朱い前垂れで地蔵様の胸をはなやかに隠してやった。くさい雫がぽたぽた地蔵様の花立て石に落ちた。

童らの影がなくなって夕星が光りはじめた。地蔵様は冷たくなった前垂れをかけて、静かな野はらを眺めていた。

そこへ仔狸がやって来て、思案顔に地蔵様を見上げはじめた。さっきのことを想い出すと地蔵様はまた笑いたくなった。

仔狸はまじめな顔をして、そっとくさい匂いの朱い前垂れを地蔵様の首からはずした。洗ってくれるのかなと想って見ていると、仔狸は化粧まわしのように腰の前にちょろりとさげた。

地蔵様は声をかけた、お前、前垂れをどうするのじゃ。

仔狸はびっくりしたが、ここが、寒うて。これはなかなか具合がええと言って可愛らしいちんぽこのぶらさがった前を指でさした。

仔狸か行ってからも、地蔵様は夜どおしにこにこ、にこにこしていた。

次の朝、胸もとの寒そうな地蔵様をみると、童らは真新しい朱い前垂れを里からもってきて、結んだ。

 

* 時 間を掛け苦心惨憺して書くヒマは編集者の勤務時間にはなかった、喫茶店に入り、何が何でも書いて出ると賭け事のように自身に強いて、まさに「やっつける」 一編一編だった、それがスリルで毎日一編ずつという自身への強いと相乗して書き続けられた、せいぜい二十編ほどだったが。それからまたかなり間をあけて思 い立つと奮発励行した。自身の内に、善し悪し、何が隠れ潜んでいるのか、それを余儀なく吐きだしている心地であった。

2020 2/6 219

 

 

* 実は今 私の頭と時間を所有しているのは「湖の本」「選集」「病院通い」のほか、幾つかの創作の「芽」を飼うことにまじって、明治の元勲山縣有朋とい うややこしい「人」なので。私のなかへ住まいを得るなど「とんでもない」遠い人物なのであるが、ひょこんと、しかも影濃く跳び込んでこられて動かない。仕 方なく、わたしは「尾張の鳶」さんの京都行きを煩わしてすこしでも情報が得たいと頼んだばかり。

なにやら気ぜわしい老人になっているものです。眼が、もっとすっきり見えると助かるのですが。

2020 2/6 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  壁        (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

思わず声をあらげた。涙が流れた。弱々しい笑顔で、女は縋る眼づかいもしてみた。

男は黙っていた。極端な無表情は壁に似ていた。壁は愛想もなく灰色の重い石に似ていた。こぶしを固めて女は叩いた。押してみた。壁はただ壁の顔をしていた。

眼のふちで涙が乾いた。広い喫茶店のどの隅々でも、流れる音楽をよそに楽しそうに話しあう顔と顔が揺れているのに、女の前には、それ自体が侮辱であるよ うな壁だけが動かない。女は肩を落とした。分らなかった。男の心に何が起きたか、分らぬ辛さで女は声をあらげたーー。「この壁」「この壁」と呟き、細い眼 をして女は男の顔を探した。暗い、灰色の壁しか見えなかった。

灰色の壁の上に、女ははびこる蔦を想い描いた。揺れる蔦の葉が、一枚一枚柔らかに肩をまるめ両腕を垂れたかたちに見えた。雨の町を一つの傘に濡れなが ら、優しい眼で、いつか背に手をまわしていた男の匂い。あの日、水玉の朱い傘に隠れ、おずおずと男は女の唇にはじめて触れた。眼をとじる前に、滴る雫の青 い蔦の葉を女は美しく見覚えた。

切なさが壁の上で渦を巻き、渦の底がぽかりと抜けた。くらくらする光線に叩かれて、崩れた壁穴の向うに紺青の海が揺れていた。男はもうパンツ一枚で砂の 上を駆けていた。声をかけて女も跳び出した。かがやく砂のそこここに真夏の花がちいさく血のように飛んだ。日灼けした男の肩から背へ、駆けよりながら女は 熱い砂を掴んで抛げた。拡がる空と海へ大の字に手足を踏んばり、男は跳びあがって見せた。青空がぎらぎらし、波騒に女は胸をはあはあはずませた。急に振り むき、男は大声をあげて水着の上から女の乳首に堅い歯を触れた。腕をしなわせて女は男の頬へ手を振った。二人とも力いっぱい笑っていた。

幸せだったあの夜のやみが藍色ににじんで流れ、女はふと人の声を聴いた。眼の前の壁に、誰彼の嘆賞を誘って、きれいな西洋女の横顔を描いた絵が懸かって いた。繻子という光る青い服を着た絵の女の、ゆったりと窓に倚って遠くを見る眼もとに、朱い秋の日ざしが漂っていた。女は男の手をそっと握った。肩で肩を 押し、男は笑ってちょっといやらしいことを耳に囁いた。一瞬、絵の女への嫉妬に負けて壁の前を離れながら、あの絵もこの絵も急につまらなかった。もっと暗 い、もっとどろどろした幻覚を女は渇くように欲望した。

焦点を喪った女の眼に鋭く動かぬちいさな角(つの)が見えていた。一間きりのアパートの壁に、いま脱ぎすてのコートを懸けたそれはただの粗末な懸釘で あったが、諍ってきたあと味で女の頬はおびえて歪んだ。ノックの音も乱暴に、男は酔って、追ってきた。横柄そうに男は自分のオーバーを釘に吊るした。柔ら かな、すこし汚れた黄色いコートに、抱きつくように、黒い大きなオーバーの蔽いかぶさるさまを女は見ていた。見透かすふうに男の腕が荒々しく女を立たせ た。「いやよ、いいわ、いやよ、いいわ」黒と黄の斑らにめくるめき、唄うようにそうも女は喘いだはずだーー。

工場の裏の、長い長い壁の上に、一つだった二人の影が二つに別れ、男は暗い尾を曳き曳き帰って行く。昼間の雪が凍てついて、乏しい街灯に照らされた重苦 しい灰色の壁が、定まらない虚ろな女ごころを冷たく突き放した。急ぎ足になって、男は振りむいてくれなかった。うずくまってしまいたい寒さだった。うめく ように、「この壁」「この壁」と叫び、夢中で女は両のこぶしをひしひし壁に当てた。がやがやと急にあたりがざわめき、はっと気がつくと、女は喫茶店の中で 棒立ちになって、両腕を振り、喚いていた。

「だめじゃないか、きみ」

男の薄笑う顔がなさけなく女の眼の前で白けていた。

 

* これは、凄い。喫茶店で、さ、十五分とかけて書いたろうか。

2020 2/7 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  鏃        (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

広々とした川原の上は、雲ひとつない蒼空であった。

諸国から自慢の弓の達者が集まって、川原でさまざまに腕くらべをした。

瀬を奔る魚を射たり、川向うの夫婦岩を射抜いて隠れていた小兎を倒したりする者からはじまって、次々と妙手を競っていたが、彼の為すところ我も能くするという次第で、なかなかに傑出する者がない。

うすら笑いながら傍観していた一人がやっと起って、見ろとばかりきりきりと弓を蒼空に引き絞った。

羽ばたいて来る中ぞらの鳥の列(つら)へ、目もとまらぬすごさで、矢つぎばやに三度弦が鳴った。矢はそれぞれに一羽の鳥の双の翼をぴしりと縫い留めた。男はきっと落ち来る三羽を睨むと、殊に細い鏃の一本を抜き取り素早く射た。

き、き、きと硬い響きを残して矢は翼を番(つが)えた三本の矢を一つに射つらね、あたかも一塊となってどうと三羽の大鳥は川中に水しぶきを散らして落ちた。

やんやと人はほめそやしたが、何のとまた一人が出て、飄々ととぼけた様子で皆の者の注目をうながした。男はごつごつした杖のような弓に銀の弦をいと細く 張らせ、矢をつがえる前に、たのしそうにかるく爪弾いてみせた。蕩々と行く水も一瞬流れをとめたほどのすずしい弦鳴りは、人々に言いようもない憧れの想い を」誘った。

男は、白竹に蒲の穂を植えたふしぎな矢をつがえると、事もなげに虚空へ射放った。

矢は、かすかなうなりを残して、蒼く蒼く澄み切って影一つない空高くへと吸いとられて行った。

何のことはない。

やがて矢は落ちて来るだけのことよと、みなは嘲みがちに弓を射た男の顔をみると、とぼけた眼もとがどうにも嬉しそうにゆるんでいる。

見ると、矢はあたかも生きものの如く蒼空いっぱい自在にかけずりまわっているではないか。勢いつのって、矢は白い雲を糸のように巻き起こしているーー。

やがて下界の者は、眩ゆく光る大空に、真白に描き出されたみごとな美女が、一糸まとわずうつ伏せに身をくねらせ微笑むさまを、口あんぐりと仰ぎ見たのである。

風が女をくすぐるのか、やわやわと女の肌はなまめかしく白日の下に身もだえた。

勝負はあった、と誰もが嘆声を惜しまなかった。思わず男たちは息を吐いた。

ところが、まだまだと名乗って、ひげ一本もない満月のような童子が、大人を押し分けて前へ出た。

童子は、背丈に足りない小弓に白羽の矢をぴたりとつがえ、川原の岩に片足踏んばってひょうと女を射た。

矢はみるみる立派な鏑矢と変じて、天地を震わせるほど高鳴りしたまま、身をよじり、のけぞりざまに待つ美女の大事な場所へ、ずぶと、みごとに一揺りくれて突き立った。

あっともだえ、女は輝く肌を日の光にもまれながらみるみる童子の眼の前に落ちた。

童子に肩を抱かれ、はだかの女は、さも嬉しそうに両の腕で肌を隠して、微笑した。

童子は女を連れ帰った。

矢は抜けたのに鏃だけ女のからだに残った。

童子が夜ごと鏃抜こうぞと指をかけると、切ない切ないと鳩の鳴くような声をあげて女は童子に獅噛みついた。

 

* こういうのが、我が筆先から現れるのかと、作者自身で一驚し、しかし、これもおれと思った。

2020 2/8 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  電車        (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

希望をふりすてた男は暗い中で退屈そうに人の顔をながめていた。

そのトンネルは、抜けるのにかっきり三十八秒かかるはずだった。

男は、これはと思った。三分以上は経っているーー。電車は轟々と暗中を疾走しつづけていた。

乗客はざわざわと席を立った。

窓をあけてもただ真暗で、ポツンポツンと飛び去ってゆく信号灯の赤や緑も今は見えなかった。いたずらに轟音が不安をかきたてた。

男はどこやら似たようなS・Fまがいの事件があったかと覚えていた。

どうなるかーー。

男だけがもうあきらめて、腰をおろしていた。

外の暗さこそ深まったようだが、電車には何の異常もなかった。

右往左往する乗客の異様な金属的な興奮が、しだいに蒼褪めた。起きたことの意味がつかめなかった。

騒がない方がいいんだと男は呟いた。

そうですわと、さっきから男の顔をみていた若い女が、すり寄って来て同意した。

乗客全部が何となく二人に倣った。

席へ戻ると、本を読んでいた者は本を開き直し、編み棒を持っていた者は毛糸の玉をまたとり出した。他に、平静を呼び戻す工夫がなかった。誰もが、精一杯の頑張りかたで黙々と、何かを、待った。

どうなってますの、と低声で若い女は男の耳に囁いた。

知るもんかと男は素気なく答え、若い女の肉づきのいい頬の辺りをちらっとみた。

まあ。

若い女は愛想よく睨んだ。

車掌のアナウンスが声ふるえていた。

線路のない真暗な洞穴を何処へとも分らず電車は走りつづけているらしく、運転手の話によると、電車そのままが奈落へ遮二無二落ちつづけているみたい、ですーー。

乗客は、アナウンスに反応することを頑固に拒む眼つきをしていた。

殷々と遠鳴りする響きが吹き矢のように窓外をかすめ去っていた。

せまい国土だなと男はまた呟いた。

若い女は男の声をきくだけで嬉しそうに、えゝ、と応えた。

これでいいのだと男はかまわず呟き、のっそり席を立った。

男は生まれ変っていた。

せまく、薄暗く、止まることのない巣箱じみた電車の五輌が、男の王国になった。

その気になれば、この窮屈な世界に、自然あり文化あり生産の在ることを、男は信じた。

男の信じたように若い女だけが信じ、他はまだ過去に救われ未来に戻ることばかり願っていた。男と若い女とには、ここが自立した一つの世界と成りえたのに、他の者には因業な電車の中に過ぎなかった。

乗客たちのそんな「希望」の如きものに男はとことんとうに飽いていた。

男は臆することなく若い女のからだに新しい血統を刻印した。

創らるべきものがこの世界にはあまりに多いーー。

男はしかし、全てが創り出されることを信じた。

ここで生きようと男は肚をきめた。遠い記憶の痕跡が蚤のように頭からとび出た。次の駅を永遠に欠いた電車は、轟々と暗中を疾走していた。

「希望」の重さにひしがれた暗い不安な顔、顔を、男は家畜の群のようにながめた。

 

* 地下鉄丸ノ内線、茗荷谷から後楽園までにトンネルがある。毎日本郷三丁目まで通勤に乗っていて、こんなことも思った。

2020 2/9 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  絵        (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

男は山を上っていた。なりわいのために男は毎日この山を越えた。向うには里があって、人が沢山住んでいた。物憂かった。何かしらもっと違ったことを望んでいた。

その朝も相も変らぬ山の頂へ男は上りつめた。と、見ると、一人の少女が向うむきに料紙を伸べ、髪をなびかせて一心に絵を描いていた。

少女の描く絵はほかでもなかった。細く長く、どこまでも一筋にのびている白い道の絵だった。道のわきは濛々と蒼く塗ってあった。黄の色もまじっていた が、またところどころの黒い彩りも鮮やかであった。だが、何としてもそれは一筋につづく真直ぐの遠い遠い、遙かな、ただ道の絵であった。

男は黙って見ていた。

少女も黙って描きつづけた。

道は幾千里となく寂しい白光をただよわせて延びて行った。男の眼に涙の玉がつむつむとふくれては、崩れた。風が鳴った。

少女はやがて、どうじゃ、と言った。

寂しいの、と男は呟いた。

少女は別の絵筆の先に眼もまばゆい紅色を染めて、道の遠い遠い涯ての所に芥子粒より小さな人の影を描いた。すると、万里もの道のりをかすかにも或る輝きが吹雪のように奔った。

少女は男を顧て、あれはわたくし、と言って微笑った。少女の声は山はらを流れるこだまよりも美しかった。だが遠い遙かな楽の音のようにも哀しかった。

わしの事も描いてくれぬか、と男は気弱に呟いた。

少女は返事をしなかった。だが、別の筆先に濃い藍の色を浸して、この道のこなたの端に、小さくくっきりと男のうしろ姿を描いてやった。と、男は見も知ら ぬ山中の道の上に寒げに佇っていた。山中と見たのはあんまり道ばたが青々と奥深ううるんでいたからであったが、山ではなかった。野でもなかった。少女の絵 に紛れ入ったことを、男は知った。足もとの道が白銀のように光っていた。

男は歩きはじめた。この道の向うの涯てから美しい少女がやってくるーー。

だが、本当に少女は来るのだろうか、と、男はふと惑った。頬をまたしても涙が流れた。あの少女は寂しいこの道の涯てをさらに遠く歩み去って行く人なのかもしれないーー。暫くのあいだ、男は両掌で顔を蔽って泣いた。

ーー男は、歩きはじめた。あの少女の美しくなつかしい事だけを考え、考え、歩いた。ただもう歩いて、行った。

 

* 芥川賞候補となり、瀧井孝作先生、永井龍男先生の推して下さった小説「廬山」に取り入れた。「慈子」を経て「花方颫由子」にいたる少女ということか。

2020 2/10 219

 

 

*  明け方、床の中でいろいろと思う。思うことで何も生まれず。為す、そして成すべくあるべし。

 

* 生まれてまるまる34年間の稠密な自筆年譜の再校分を終日掛けて読み終えた。これこそは人さまのために仕立てた「作」ではない。私自身の人生を、しか と顧み刻み留めたので、今にして思い出で、あそうか、そうだったんだと感慨を得るのは私一人、家族ですら、肉親にすら、これは無用の廃紙。幸い掲載される 私の選集はごく少数の「非売品」であり、何方にも無用のご負担は掛けない。しかも昭和十年から四十四年まで、まるまる五十年以前までの記録でしかない。生 まれ落ちてそして「作家」に成ったまでの年譜でしかなく、しかし私には、並大抵でない建造物であった。それだけに、いろんな思いに苦笑したり肯いたり悔い たり嬉しがったりが遠慮無く出来る。

はからずも確かめられたのは、人生はたった我独りで歩めるものでないということ。家族はもとよりであるが、数え切れない人たちと袖触れ合っていて、可笑 しいほどであるが不要な出会いや別れではなかったと今も思う。むろん今日の若い人たちが謂う「おつきあい」といったものは無い、殆ど全部が「仕事」の上の 必要や、「職場」を共にしていた日々の接触に、時に飲み食いの付く談笑とか歓談とか。わたしは、自分からも人に声を掛けるが、意外なほど向こうからも掛け られていて、そんな中から小説家に成って行く栄養が摂れていたと思う。わたしは小さい頃から友達をつくるのがヘタクソと痛いように自覚していたが、その実は逆に、大いに嫌われもしながら大勢の人の好意や親愛を受け続けてきたのだと気付く。そ して顧みて思い当たるのは、私の育った京都という都市の「女文化」が、どれほどそこに役立っていたかと思い当たる。わたしは少年以来、どうにも科学技術派 でなかった、美と藝と穏和な自然に親しんできた、有りがたかった。そう気付けただけでも有りがたいこと、と今にして思い返している。

2020 2/10 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  蛇        (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

蛇を飼う夫婦があった。

蛇はある日急にぐったりして死んだ。夫婦は庭に蛇を埋めて、そこになつめの若木を挿した。

若木は大きくなって青い葉をつけはじめた。すると、どこからかおびただしい虫がきて、さんざんに若葉を食った。食ってしまうと毛虫はぼたぼた土に落ちた。

夫婦は気味わるがって虫を追ったが、むだだった。いっそ木を抜こうとしたが、二人がかりでも抜けなかった。鋸の歯を当てると、かねの鱗のようにきしって歯こぼれした。

翌年になると、また青い葉がなつめの木についた。たちまち虫が来て、庭中を黒くするほどだった。

次の年もおなじだった。

次の年、夫婦の家に若い女が来て、女中にしてくれろと言った。夫婦は女を女中にした。季節が来て、庭のなつめに青い葉がついた。夫婦は憂鬱な顔をした。

毛虫の群はからだをねじり合わせながら若葉に噛みついた。なつめは無残にはだかになった。落ちた毛虫がじゅうたんのようになつめの根もとで揺れ動いた。

若い女は庭へおりて、乾いた紙に火をつけて毛虫を燃しつけた。水のはねるような音がして、虫はくるくるとからだを巻きながら死んだ。火はなつめの木に移って葉のない枝を焼きつくし、焼けぼっくい一本が残った。

焼けぼっくいの先は生木の裂けた肌白さを焦げの下にみせていた。突然、その薄白い中からあぶくが湧き、そして、どろっと赤いものが噴き出して焼け焦げた幹をぬらぬら伝って虫の死屍の方へ流れた。

若い女はじっとみていたが、急に傍へ寄って、片手で幹をつかんでぐいと抜いて捨てた。

その晩、夫婦は夢をみた。飼っていた蛇が寝ている夫婦ののどに巻きついて、鎌首たててこう言った。

虫を退治てくれたのは嬉しいが、焼きたてられては切ない。

そして、かっかっと歯をかみ合わせて夫婦の鼻先で威嚇した。

夫婦は若い女に暇を出した。暇を貰うのはいいが、なつめの木の下を掘らしてくれろと女は言った。夫婦は承知した。女は土を掘って、ながいながい蛇の抜け殻をするすると抜き出した。他になにももたず、抜け殻一つを懐へ入れると、出て行った。

夫婦もどこかへ越して行った。年老った大きな猫が一匹棲みついたそうである。この

 

* この気味の悪い一編こそ、京都の父がある日、突然として送ってきてくれた最初期の「テーブレコーダー」の嬉しさに、その晩、家族が寝静まった夜中、寝床に腹這いマイクに小声でいきなり吹き込んだ最初も最初の「思いつき」の一編であった。

2020 2/11 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  鬼        (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

まだ鬼が人とまじわって暮していた頃、女の鬼にまつわられて迷惑する男がいた。

男の家は峯ちかく、尾根づたいに山や谷へ出て狩り暮していた。鬼がどこから来るか男は知らなかった。だが世話好きな女鬼が家の内外で、日なが何くれと黙りこくって用を足しているのは、人影ささぬ暮しにはいっそ頼もしい事でなくもなかった。

困るのは夕暮れ、山鳥の声も慌ただしく、みるみる外面に夕翳の深まる時分だった。鬼は巨きなからだで戸口にもたれ、見るとなく見ぬとなく家の外を窺い内 を覗き、いっかな立ち去りかねた。栗の実ほどの眼を光らせ、だがよほど初々しくうるんだ表情で、要する所、此宵こそはお傍に呼んでほしいという風情だっ た。いじりもじりと戸を揺すられ、家の奥で男は大いに辟易した。

それでも男はむげに女鬼を拒み、事と次第では、兎を追うように手近な弓矢の厄介にさえなろう程だった。鬼はしおしおと宵やみの中をどこかへ消えて行った。

何であれ男はまさか鬼を抱きしめてみる気にならなかった。組み敷かれ鼻さきをかじられても、よも逃げおおせはせぬと、男は独り寝のまま苦笑いしたが、時 には怪しからぬ想像が下腹の方でもやもや奇妙な絵になりやすかった。暫く里へも出ぬ、明日は山を下りようと考え考え、色赤い鬼の顔は押しのけても真白な里 女のからだを夢見ようと男は願った。

だが、いたずらな里の女は山男をあっさり袖にし、鎮守様の生白い神官殿を引きずりどこかへ消えた。くさくさして男は山へ帰った。鬼は嬉しそうに湯をわかし、小鳥の肉を焙ってくれた。酒を飲み鬼の前でしたたか荒んでから、男は雄大に肌あららけ、日のある内に寝入った。

宵過ぎて、男がふと頭をあげると、帰りもやらで鬼がそこに坐っていた。鬼め何を見ているか。気がついて男は恥ずかしかったが、隠そうとするとそれはむっ くり首をもたげた。鬼が赤い顔を赫くして目ばたいた。男は慌ててしまって、それから先はあられなく逆上せた男が女の鬼に獅噛みついていた。

鬼はぶるぶる震え、男も夢中だった。

ふしぎに男が渾身の勇を絞り出して鬼を押えつけると、どんなにかむくつけき鬼のからだが、餅のような白い愛らしいぬくみで男の肌に吸いついた。顔も細う ちいそう、あえかに喘いで、角どころではない丈なす黒髪は瀧のように一面に流れた。乳房はふくらみ、唇を添えると渦巻く恍惚に男も女も闇の中で、盲いたま まに波立った。

だが、男がどさりと火のない炉ばたに退いてみると、紛れない浅ましい鬼の大女が大慌てで身づくろいし、疾風のように表へ飛び出した。

男は震え上がった。が、夢中で抱きしめたあの女は、里のいたずらめよりよほど情も深う、較べようがなく美しかった。朦朧として、男は惜しいやら怖いやらがまるで分らなかった。かすかにも、明日また来ればよいと思い思い男はまた睡りに落ちた。

鬼は星空の下を一気に飛んで、忽ち都の真中の立派な御殿の屋根から、ひらりと庭さきへ立った。と、鬼はうら若いひとりの貴女となって、静かに泉水の星明りを覗いていた。うしろ姿が寂しげだった。

別の女の声がして、側に仕える者らしく、一体どこに隠れていらしたのです、かぜをひきます梅雨にぬれますとうるさく御殿の中へ入るように勧めた。それで も黙然と池の上をながめていた人は、憂わしげに、侍女の方を振り向いて、お殿さまはと訊いた。お殿さまはまたまたお留守だった。侍女はだが口籠って、それ とは告げえなかった。

此宵ももう少しここにいたい、と呟き、美しい人はまたしても水ぎわに佇み、動かなかった。

 

* 自分のなかから何が飛び出すかと思うと、面白くも怖くもあった。

2020 2/12 219

 

 

* 「清経入水」当選作の再校終え、戦時戦後の丹波暮らしもマザマザ思い出し、ドキドキした。

極めて高等な六選者先生の満票は、正確であったと、「作家」暮らし半世紀余の眼で確信できる。あの昭和四十四年ごろ、文壇の多くは身辺雑記小説に溢れて いた。極めて孤立の異色の意欲、まず以て第一等、現代の怪奇という批評は、あの時代の埃っぽい文壇の空気を吹き払うていのものであったナと思う。今は?  時代に屹立する批評家は。学究からも、研究という名でのコマコマした作品論ばっかりでは。

2020 2/12 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  鬼        (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

まだ鬼が人とまじわって暮していた頃、女の鬼にまつわられて迷惑する男がいた。

男の家は峯ちかく、尾根づたいに山や谷へ出て狩り暮していた。鬼がどこから来るか男は知らなかった。だが世話好きな女鬼が家の内外で、日なが何くれと黙りこくって用を足しているのは、人影ささぬ暮しにはいっそ頼もしい事でなくもなかった。

困るのは夕暮れ、山鳥の声も慌ただしく、みるみる外面に夕翳の深まる時分だった。鬼は巨きなからだで戸口にもたれ、見るとなく見ぬとなく家の外を窺い内 を覗き、いっかな立ち去りかねた。栗の実ほどの眼を光らせ、だがよほど初々しくうるんだ表情で、要する所、此宵こそはお傍に呼んでほしいという風情だっ た。いじりもじりと戸を揺すられ、家の奥で男は大いに辟易した。

それでも男はむげに女鬼を拒み、事と次第では、兎を追うように手近な弓矢の厄介にさえなろう程だった。鬼はしおしおと宵やみの中をどこかへ消えて行った。

何であれ男はまさか鬼を抱きしめてみる気にならなかった。組み敷かれ鼻さきをかじられても、よも逃げおおせはせぬと、男は独り寝のまま苦笑いしたが、時 には怪しからぬ想像が下腹の方でもやもや奇妙な絵になりやすかった。暫く里へも出ぬ、明日は山を下りようと考え考え、色赤い鬼の顔は押しのけても真白な里 女のからだを夢見ようと男は願った。

だが、いたずらな里の女は山男をあっさり袖にし、鎮守様の生白い神官殿を引きずりどこかへ消えた。くさくさして男は山へ帰った。鬼は嬉しそうに湯をわかし、小鳥の肉を焙ってくれた。酒を飲み鬼の前でしたたか荒んでから、男は雄大に肌あららけ、日のある内に寝入った。

宵過ぎて、男がふと頭をあげると、帰りもやらで鬼がそこに坐っていた。鬼め何を見ているか。気がついて男は恥ずかしかったが、隠そうとするとそれはむっ くり首をもたげた。鬼が赤い顔を赫くして目ばたいた。男は慌ててしまって、それから先はあられなく逆上せた男が女の鬼に獅噛みついていた。

鬼はぶるぶる震え、男も夢中だった。

ふしぎに男が渾身の勇を絞り出して鬼を押えつけると、どんなにかむくつけき鬼のからだが、餅のような白い愛らしいぬくみで男の肌に吸いついた。顔も細う ちいそう、あえかに喘いで、角どころではない丈なす黒髪は瀧のように一面に流れた。乳房はふくらみ、唇を添えると渦巻く恍惚に男も女も闇の中で、盲いたま まに波立った。

だが、男がどさりと火のない炉ばたに退いてみると、紛れない浅ましい鬼の大女が大慌てで身づくろいし、疾風のように表へ飛び出した。

男は震え上がった。が、夢中で抱きしめたあの女は、里のいたずらめよりよほど情も深う、較べようがなく美しかった。朦朧として、男は惜しいやら怖いやらがまるで分らなかった。かすかにも、明日また来ればよいと思い思い男はまた睡りに落ちた。

鬼は星空の下を一気に飛んで、忽ち都の真中の立派な御殿の屋根から、ひらりと庭さきへ立った。と、鬼はうら若いひとりの貴女となって、静かに泉水の星明りを覗いていた。うしろ姿が寂しげだった。

別の女の声がして、側に仕える者らしく、一体どこに隠れていらしたのです、かぜをひきます梅雨にぬれますとうるさく御殿の中へ入るように勧めた。それで も黙然と池の上をながめていた人は、憂わしげに、侍女の方を振り向いて、お殿さまはと訊いた。お殿さまはまたまたお留守だった。侍女はだが口籠って、それ とは告げえなかった。

此宵ももう少しここにいたい、と呟き、美しい人はまたしても水ぎわに佇み、動かなかった。

 

* 自分のなかから何が飛び出すかと思うと、面白くも怖くもあった。

2020 2/12 219

 

 

* 「清経入水」当選作の再校終え、戦時戦後の丹波暮らしもマザマザ思い出し、ドキドキした。

極めて高等な六選者先生の満票は、正確であったと、「作家」暮らし半世紀余の眼で確信できる。あの昭和四十四年ごろ、文壇の多くは身辺雑記小説に溢れて いた。極めて孤立の異色の意欲、まず以て第一等、現代の怪奇という批評は、あの時代の埃っぽい文壇の空気を吹き払うていのものであったナと思う。今は?  時代に屹立する批評家は。学究からも、研究という名でのコマコマした作品論ばっかりでは。

2020 2/12 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  夢        (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

知らない町だった。

男は途方にくれていた。どうして此処にいるのか分らなかった。どの家の窓も寒々と灯を消していた。膝の上まで冷えた。

夜空に風を鳴らす巨きな樹のそばにひときわ黒いかげがあった。何かの記念碑らしかった。基壇にはただ「夢」と刻んである。

壇の高さは胸くらいあった。よほど大きな寝床ほどあった。

事実その上には、五つ六つの児を両方から抱いて男と女が顔を寄せあい眠っていた。ランニングシャツが肌に食いこんだ筋骨たくましい男は、力仕事に耐えて きた太い毛ずねを無造作に妻の寝巻の裾に載せている。髪はすこし乱れているが、温和しく胸もとを合わせた女の手が、子どもの背を抱いたついでに軽く夫の胸 へ指さきを触れている。つぶつぶとまるい子どもの足が空(くう)を蹴っていた。

「夢」か。甘い夢だと男は鼻を鳴らした。どんな顔をしているかと意地悪く寄って、男は立ち竦んだ。

女の寝顔がべったり一面の腫物である。優しそうな表情とまるで無縁に、目をそむけたい無気味なあざであった。そのあざが蠢(うごめ)いているのだ。よく 見ると、その蠢くものは頬といわず、額といわず、愛らしく顎をあげたうなじから衿から、寝巻の上へかけても黴のように微塵にこびりついていた。それ所か、 あどけない子どもにも、夫の露わな肌のどこかしこにも、泡だつように何かが動きひしめいている。

殊に、男の、骨をとがらせた平たく窪んだ頬には目立って目を惹く群があった。それはーー、山坂に喘ぎ疲れて今にも倒れそうに苦しみながら野砲を牽くいて ゆく泥まみれの兵士らであった。銃は折れ帽子は飛び散り血をにじませ、足をひきずり、渇き、飢え、倒れ伏し膝ですすむ、おびただしい兵の姿であった。

寄り添うて寝ている親子のからだは血まみれ泥まみれの幾山河であるらしく、蜿蜒と、惨憺と、死臭の湧き立つ山また山、谷また谷を敗走する兵士たちの喚ぶ声が殷々と響いてきたーー。

乏しい灯に浮かびあがった、空き箱のようなこの町をよく知っていた気がするーー。歩いて行こうと男は思った。

 

* 私なりにも「戦争」「敗戦」という逃げようのない負担があったということ。

2020 12/13 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  道士       (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

道士がいた。

道士は橋の上に坐って水の流れを見ていた。雨の日も風の日も道士はひるみはしなかった。

水の流れは道士にいろんなことを教えた。万物流転、諸行無常、不易流行、意識の流れ、持続する時間、浮薄、移り気、虚無、倦怠ーー。みな、とうに他人の言ったことばかりだった。

道士は何とかしてまだ他人の言わない真理に到達したいと思った。

黙々と道士は橋の上に坐りつづけたが、はかばかしい知恵も湧かなかった。

さすがに心たゆんだ道士は、ある日膝をのばして橋のふちから足をぶらぶらさせ、流れゆく水に爪先を洗わせていた。

やれやれと道士は嘆息した。嘆息はうららかな日の光に吹き払われて、いつしか道士は気らくそうにはな唄をうたい出した。

川岸には翠の柳が糸を垂れ、靉靆たる春風は川の向うの山なみから陽炎のようになびいてきた。

道士がふと足をなぶっているすずしい流れに眼を落とすと、奇怪にも水面には自分とならんで一人の美女が同じように腰かけ、まばゆい白いはぎを露わし、流れと触れて、微笑っている。

道士は仰天してとび退ったが、橋の上には誰もいなかった。おそるおそる元へ戻ってみると、やっぱり女がにこにこ笑って顔を水に浮かべていた。

道士はそろそろと腕を女の肩に巻いた。馥郁たる香気が肌に吹きつけてくる。が、何としても空気を抱くようで頼りなかった。

道士は川中の美女に問うた。

艶然と笑んだ美女は脛を柳の小枝で撫で、黒髪を弄びながら、おおよそはこのように道士に言った。

できるかどうかはお前様しだいだが、もしお前様が、淫欲こそは真実の中の珠玉であるという真理を考え究めたなら、はじめてお前様も賢者の一人だ、と。道士は顔をしかめて黙ってしまった。

女はざんぶと川に入ると、道士の前を身をくねらせて散々に泳ぎ戯れた。

来る日も来る日も道士は、橋の上から美しい女の水遊びを見ていた。道士の眼には流れる水が映らず、あたかも天女が空を舞うように、ただ桜色の女体だけが優しくゆらゆらと動いて見えるようになった。

女はときどきびしゃと川水を道士の顔へはねかけて、馬鹿よと笑った。

道士はまた黙った。思い屈した。

やがて道士は強いて淫欲をあおって女をながめはじめた。女の姿態が光り輝いて見えはじめた。

道士は女に一夜抱いて寝ようと言った。

その夜、道士は柳のかげで女のぬれた肌をひしひしと抱きしめ、脂汗を流した。

曾て知らぬ恍惚は、確実にまた曾て知らぬ虚無に直ぐと結びついた。道士は甘く声を放ってうなじを反らせる女を愛しはじめていたが、恍惚と虚無との隙間のない地つづきには驚いた。

道士は、次の夜もまた次の夜も女を抱いた。

淫欲が真実の珠玉であると究め明かすことは、少しも道士にはできなかった。けれど愛は夜ごとに深まった。

女は身籠って、ついに珠のような男子を産んだ。

道士はなお考えやめてはいなかった。

人はいつか道士が赤ん坊を抱いて橋上に坐すのを見るようになった。

やがてその姿も見られなくなった。

 

* とにかく「何か」を書いてしまわないと会社仕事をさぼっている喫茶店から出られない(と、決めていた)。で、とにかくは、「男がいた」の「女がいた」のと原稿用紙に(まだパソ コンなど影もない時代でした)書いけた。あとはもう出任せに書いた、が、ビックリするのは、書いている私自身だった。話にビックリしたのでなく、自分にビッ クリした。毎度だった。何を書こうと前もって見当を付けることは一切無かった。是を書いたのは「自分」だというのに毎度ビックリした。一編、十五、二十分で書き上げていた。

2020 2/14 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  鳩       (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

笛吹きが笛を吹きやめると、男は物憂げに銭を投げた。わしにもその笛吹かせてくれろと男が言った。

口ふくらせて男が一息ひょろろと笛吹くと、笛の中から鳩が一羽とび出した。銀色の翅をきらめかせ、かがやく春の中ぞらに舞い上がった。青葉の下に立って 男と笛吹きは鳩を見上げた。身もだえしながら鳩が翅すり合わすと、鈴を振る音になって晴れた山々を風がわたった。男は深い息を吐い

て、樹の下に坐りこんだ。

笛はぴったり鳴らなくなった。

庭に出て女が機を織っていた。垣根に菊が咲いて、機打つ音に合わせ秋草がなびいた。女には聞こえぬふうだった。鳩が来て垣根にとまった。女は鳩を抱いた。鳩は女の胸の中で身揺ぎしなかった。

女は鳩を愛した。昼はひねもす傍を放さず夜は床に入れて眠った。鳩は女の唇をつつき、女のふくらんだ乳房をくわえた。鳩は女のからだ中にかたい嘴を当てた。

女は鳩を愛撫しながら、声をたてた。女の親は女の声を聞き咎めた。床を剥ぐと肌を露わにした女の幽所に銀色をした鳩がまるい眼を見開いていた。

枕もとのかんざしをつかんで、親は鳩を刺した。

男は樹の下を動かなかった。笛を失った笛吹きは樹の傍に畑を打って、男の世話をしていた。男は日々に弱っていた。木枯らしが鳴った。男は衿をかき合わせ、腰に挿した笛をしげしげながめた。

夕暮れだった。山の端に黒い葉が散って風に流れた。男はもう死のうと思っていた。黒い葉と見えたのは鳩が力よわく木枯らしにあらがって落ちて来たのだった。

笛、笛だ、と笛吹きは叫んだ。男が眼を閉じて一息ひょろろと笛吹くと、鳩は身をもがいて笛に吸い込まれた。笛の傍には血塗られたかんざしが落ちた。笛吹きが笛を吹きすさむと秋のもみじが山という山はらを真朱に散った。

男は笛吹きと別れた。

ある村まで来て男は浮かれめと一夜寝た。女は飽くことなかった。男は夜が明けると懐からかんざしを出して、女に呉れた。女はかんざしをみると泣いた。男も哀しかった。

女は半ば腐れたからだから一粒の朱い真珠をとり出して男にみせた。男が珠をつまんで指さきでもむと、あの鳩が青空の下で鳴らした鈴のひびきがした。鳩の心臓を流れ出た一滴の血であるらしかった。

男は女をつれて、果てもない旅の夜を重ねて行った。

 

* 自分のどこかから、突として、こんな物語が生まれ出るふしぎに惘れたのを、昨日のように覚えている。

2020 2/15 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  賽       (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

賽を振る女がいた。

女は所在なげに賽を振っていた。額に髪がかぶって、灰色の眼が重そうに賽の目を追っていた。

賽は一つが出て、二つが出て、順に六つまで出ると、戻ってまた一つ二つと続いた。女の眼がすこし光った。賽は機械のように四つ五つ六つと続くとまた一つ へ戻って、果てしなくなった。女の眼は前よりもいっそう灰色に鈍んで、しまいに賽を振りながら眼は細く閉じてしまっていた。

女は賽を掌に握って、そのまま眠りこんでいった。やがて女は同じ姿勢で我にかえった。賽は掌の中で汗ばんでいた。

女は賽を摘まんでしげしげながめた。指の先で一つの所をこすってみると、賽の中から一人の男がひょいと顔を出して、つき合って呉れますかと言った。いいわと女が答えると男は賽の中へひっこんだ。

二つの所をこすってみると、さっきの男が首を出して、すこし歩きましょうかと言った。女は、いいわねと返事した。男は賽の中へひっこんだ。

三つめへ来ると男は、映画を観ませんかとすすめた。女はそうねと言った。四つめで男は、食事を御一緒して下さいと頼んだ。お腹すいてるわと女は承知した。五つ目になると男は、お茶を飲みながら話しましょうと言う。女ははいと頷いた。

女はあとの一つで男が何と言うか心配になった。女は六つの所をこする前に何かしら肚をきめないとと心焦っていた。熱くなっていた。男は叮嚀で優しくて心 配りも行き届いていた。女はもう叫びたいほどだった。ああ神様、私に勇気を与えて。女は賽をにぎりしめ肌をぬらしながら、病人のように蒼ざめて頭を振って いた。

六つ目、男は、この上もない微笑をうかべると頭をさげて、さようならと挨拶した。あの……と女は失望落胆で狼狽しきって、真朱になって、もうただの六と いう文字でしかない賽の目を睨んでいた。不覚にも涙がぽろぽろこぼれた。侘びしい退屈の霧が厚ぼったい外套のように女のうすい肩を包んできた。女は重そう に灰色の眼を閉じ、じっと身動きしなくなった。

夢から醒めた。賽は女の掌の中にあった。六つのところが上になって……。女は賽を窓の外にすてた。

男の声がして窓から賽が女の前へ投げかえされてきた。寄ってきて、男はにこにこしながら言った。

つきあって呉れますか。

 

* 賽のなかの男は ピエロの帽子をかぶってる気がした。賽をにぎった睡そうな女は…。好きなタイプと思えなかった。

 

* 驕り高ぶった腐った鯛の頭は、まさしく病害である。

2020 2/16 219

 

 

* 丹波に戦時疎開した国民学校四年生の私は、山一つをまるまる石崖のように登り降りし、隣部落の学校までへとへとになり往き帰りした。『清経入水』にその苦行の日々は役立ってくれた。

山のてっぺんを、土地のだれもが「峠」と謂うていた。峠には山肌を溢れて溜まる小さな「泉」があった。街人間には「峠」「泉」は言葉や文字で知っていても馴染みがない。めずらかな心地と疲労の極の峠の真清水は嬉しかった。

2020 2/16 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  蝶       (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

少女は、ちいさなてのひらに夕日のさいごの一しずくを受けた。ものみな、青いやみに沈んだ。

やみの中で少女はてのひらをそっと開いた。かがやく一粒の金無垢が、少女の眼もとをほのかな黄金色(きんいろ)に染めた。

少女は黄金(きん)の粒から一本の縫針をつくった。針は虚空を刺して光った。

少女は黄金の針で刺繍をはじめた。針は生きたように動いた。布地の上に、涯てしなく月夜の海が展がって行った。

あやつる人もない小舟が、どこからか少女の前へ漂い寄った。静かな波にはこばれて、少女と舟は、青い海の上を流れた。どこまでも、どこまでも、海は寂しい月夜の底を流れた。

舟べりに身を寄せ、少女は黄金の針を波間に垂れた。

針が鋭く波を砕くと、波の下から黄金色(きんいろ)の蝶が一匹、夜空にひらひら舞いあがった。

つづいて一匹、また一匹、七色の、無数の蝶が、いたいけに翅をたわめ、波を潜り、あとからあとから風に舞い月に酔って、大空いっぱい眼くるめく虹の大橋を懸け渡した。

羽ばたく蝶の懸け橋を、少女は一足一足登って行った。一足すすむと一足くずれ、蝶は踏みだす足もとから色を喪った。枯れ葉のように落ちて行く夥しい蝶の群が、遥かの海を灰色に変えた。

少女はなおも登りつづけた。月がいよいよ明るく照った。

とうとう、虹の橋がなかぞらに跡絶えた。少女の足もとには、波間を最初にのがれ出た黄金色の蝶がただ一匹、燦めき羽ばたくだけだった。

少女は夢中で最後の蝶の背を踏んだ。黄金(きん)の蝶は少女を乗せ、涯てない空の涯てへ、ゆらりと翔び立った。

 

* 自身を「蝶」と想いかつ願ったのであろうか。

2020 2/17 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  春       (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

若者は縄を投げるのが巧かった。縄を巧く投げたとて誰が褒めるわけでもなかった。若者はしょんぼり樹の下にうずくまった。腹も減っていた。夕闇が葉洩れに若者の上へ静かに落ちた。

春であった。

月影が淡く物憂くひろがって、遠い空はまだ薄紅の夕あかりであった。鳥が啼いて帰って行った。きれいな三日月であった。

腰の縄をまさぐりながら若者は夜空を見上げていた。 人影が去り、杜(もり)かげが沈み、家々には灯がともった。裏山に風が鳴って木を揺すった。侘びしかった。帰るとても独りずまいの火のない藁屋だった。

若者は裏山へ上った。山は真暗だった。えいえいと声を出して上った。

峯の秀(ほ)へよじのぼると、三日月がぐっと大きかった。樹々の梢が獣のように谷底に首をもたげていた。

若者は縄をつかみ、腰をひねって夜空へ飛ばした。

一筋の縄はひゅるるとうなりを生じ、高く高く星影を縫って発止と月を捉えた。三日月の輝く先端に食い入った縄を手繰りつつ、若者は力強く峯を蹴った。みごとな弧を描いて若者のからだは広大な空間に、一点の黒い影と化した。

三日月の真下に吊るされ、若者は縄一筋を頼みに宙を踏んでいた。

広い空。

しかし大地も広かった。若者は、見たことのない土地のすがたを月光を浴びながらはじめて知った。

壮烈に死のうと若者は思っていた。だが、暖かい春の夜空にぴたりと静止した今、何かしら香ぐわしくさえある宇宙のやすらぎに抗って、遥かの大地に我が身を叩き落とすのがふさわしからぬ事に思えた。

ままよと、若者は縄を揺すって上りはじめた。

烈しい渇きのような孤独が来ると、眼を閉じ、掌の感じだけを頼んで上りつづけた。聞こえるのは自分の息づかいばかりであった。高く高く、高く、もっと高くと若者は無二無三に上った。月は遠かった。

若者は幽かに縄の鳴るのを聞いた。

耳を澄ました。まぶしい月かげの中から確かに一つの影が縄づたいに近づいていた。滑るように影は奔ってきた。女だった。ひらひらと裾をひらいた女の姿は若者には一層まぶしかった。眉を寄せ、心もちはにかんで若者は縄の中途で女を待った。

月の世界とて退屈なものよと美しい女は物珍しげに若者の顔をのぞき見て言った、女は下界をゆかしく思うようであった。下まで行けはせぬと若者は眼をそむけて呟いた。

月の女とわかものは天と地の真中で縄によじれて顔を合わせた。何となくおかしく、また気の遠くなる世界の広さであった。

女は若者に戯れた。

若者は身をよじった。

ふくよかな肌が若者の顔や唇に触れた。二人は夢中で絡み合った。

月はいよいよ優しく照っていた。天涯にあまねく星の光が瞬き、地平遙かに春風はかすみとなってただよった。静かに、まどかに、縄一筋が銀色に光ってかすかに揺れた。天もなく、また地もなかった。

女と若者は抱き合ったままどちらからとなく心を協せてゆっくり、ゆっくり縄を揺すった。ゆら、ゆらと、やがて次第に二人のからだは大きく、力強く、烈しく天地の間を火玉の如く奔りはじめた。二人だけの永遠が、風を切って確実に月光の中で時を刻みはじめた。

 

* 気に入った。好きな世界であった。想像という以上の創意が可笑しくて嬉しかった。

2020 2/18 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  一閑人       (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

井戸があった。

井戸は深くて満月のように明るい一枚の鏡を浮かべていた。近在に、こんな美しい井戸は一つとてなかった。

一閑人(いっかんじん)は余念なく井の底をのぞいていた。くっきりと顔が映って、皺一本の揺らぐこともなかった。

一閑人は、自分と同じに井戸をのぞいているもう一人がそこにいるかと思うようになった。

思い屈した或る日、一閑人はつくづくあのよく似た男の傍へ行(い)て語らいたいぞと思った。一閑人は身を乗り出し、逆さに井戸の底へ落ちた。

逢えると思った男の姿がなく、一閑人は空の明るい見知らぬ土地を歩いていた。向うから子どもが二人やって来たが、一閑人をみると慌てて逃げていった。

やがてさっきの子どもをおずおずかばいながら美しい女が一閑人を出迎えて、旦那様お帰りなさいませと丁重にお辞儀した。

一閑人は面食って一礼を返したが、女も子どもも真顔で、慴えたように一閑人を立派な屋敷に連れて戻った。家中のものが一閑人の顔色をみてぴりぴりしてい た。 女は一閑人の妻で、二人の子どもは息子と娘であるらしいが、所詮合点のゆかぬ人違いに一閑人は途方にくれた。人違いとも言い出せなかった。

ところでーー、一閑人は侘びしい田舎道をまごまごと歩いていた。草むらのかげから子どもが二人出て、いやというほど棒切れで一閑人の向うずねと尻を叩きつけた。子どもらは歓声をあげた。

突然の不覚にうずくまった一閑人の首っ玉をつかむと太った女ががみがみ怒鳴って引きずった。一閑人はあばら屋に放りこまれた。女と子どもはしこたま耳も とで悪態をついた。 一閑人は立ちあがると猛烈な腕力でいきなり女と子どもを表の道へ張り倒し、瓶の水を逆さにぶっかけ存分に蹴りつけた。

女も子どももあまりの事に息絶え、泣いて代官所に訴え出た。

気の荒い一閑人は、見ず知らずの女子どもに馬鹿にされて耐ろうかいと代官にかみついた。代官はお前の女房と息子たちではないかと怒った。嬶天下に我慢も尽きたのじゃろと他所の者らは噂したが、一閑人には何やら訳が分らなかった。

一閑人はむげに鞭打たれ、気を失った。坊主が前へ出て一閑人をしげしげみて、これはと言った。

息吹きかえした一閑人に、坊主は、どこから来たぞとたずねた。一閑人は俺に似た男がいきなり俺の頭にとびかかって来た。わっと声をあげた途端に見も知ら ぬ井戸の傍に立っていた。女も知らん子どもも知らん。俺の女房子どもは美しうて温和しいわと歯を噛み合わせて、うなった。

坊主は代官に言って、一閑人を元の井戸へ投げこませた。わっと声がして、寸分違わぬ一閑人がその場に平伏していた。女房と子どもがかけつけ、いきなり一 閑人を怒鳴りつけた。一閑人は青い顔をした。涙を浮かべ、人違いでもよい、美しい女房と可愛い子どもの傍へ戻りたいがのうとこっそり呟いた。

坊主は、男も女も日頃の憤懣と欲望とを抱いて井戸へとびこまれたのでは、結局ろくでもない男女で此の世があふれるわけのものじゃと、代官に井戸を埋めさせてしまった。くそ坊主の生悟りというものではあるまいかと、誰も誰もがそれはわるく言った。

 

* 茶の湯道具の一つに「蓋置」があり、中節に竹の引切りなどよく遣うが、他にいろんな趣向のものもある中で、男の井筒を覗いている造りのを「一閑人 (いっかんじん)」と呼ん用いている。少年以来茶の湯を稽古していたわたしはこの蓋置「一閑人」の境涯に妙に心惹かれてきた。それが、急遽こんな掌説に なったのである。多くは謂わぬが花であろうよ。

2020 2/19 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  繭       (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

電車が動き出すと、満員の乗客はめいめいの物思いに沈んだ。窓の外をかすめて飛ぶ地下の騒音にくらべ、暗を奔る電車の中は無気味に静かだった。

静かさの底から、男の耳に湧き水のように絶えずかすかな音楽が聴こえた。人波でごりごり渦巻く地下鉄の駅に素気なくそらぞらしく流れていたバックグラウ ンド・ミュージックが、居苦しいこの箱の中へ紛れ入ったまま、逃げ場なしにただよい鳴っているのだった。男は首をそらせ、天井を見上げた。白茶けて薄く汚 れたその平たい侘びしさの上を、煙のようにひよわな旋律はただようらしかった。  ちょうど男の顔の上にマンホールの蓋に似た、多分換気扇なのであろうが、用を足していそうにもないそのような蓋があった。ぶざまに平たい天井にはそれな りにこのかさぶためいて貼りついたまるいものが目を惹く景色になっていた。男は飽きもせず見上げていた。

蓋の隙間から一本の糸くずが垂れていた。

ひょいと手をのばして、男は糸の端をつかんだ。するすると糸はのびた。

傍の客たちは誰も気にとめたふうでなかった。

心もち細めの、白い艶のある糸を男は所在なげに指先へくるくると巻いて行った。男の人さし指はすぐに糸の下に隠れてしまった。えへっと男は笑えてきた。

音がして糸が何かにひっかかり、男は片手を天井から吊るされた。糸にすがって、よいしょよいしょと、男はマンホールの蓋を押しあげ外へくぐり抜けた。奇妙な男の仕ぐさにも他の客たちは素知らぬふうであった。

地下鉄であるはずだったのに、電車の屋根の上はさんさんと陽ざしにあふれた澄んだ青空の下であった。電車はまぶしいばかりに明るい広い世界を、風を切って奔っていた。ただもうすばらしい青空の下を五輌の電車が疾走していた。

糸は電車の屋根の小さな金具に絡んでいた。男は丁寧に金具から糸をほぐして、さて所在もなしに手繰ってゆくと、糸はどこまでもどこまでも果てしなく、男 の腕から足からからだまでを巻きとって行った。ひえっと奇妙な歓声をあげて男はどんどん手繰った。からだが、糸渦に隠れてゆくにつれ、五輌の電車が前から 後から、少しずつ形を崩しはじめた。屋根からふり落とされまいと一心に手繰ったので、やがて男は蚕のように真白なまゆの中に自分をとじこめてしまった。そ のとたん、白い半透明なまゆがふわっと宙に浮かんだ。もはや電車という電車は影を失って、だがまゆ一つはたしかに、元のように、きらめく青空の下をどこか へ飛ぶように奔りつづけていた。

男はまゆの中で眼をつぶった。瞼のうらへ、まゆを透けた日の光がうららかなかげを落とし、心地よい睡気に誘われた。

睡るとも醒めるともなくこのまま光の中を飛びつづけるーー、と、その時、あの物憂い音楽が今は生き返ったように美しい永遠のリズムになって、明るいまゆの中を花の香りのように静かに、なつかしく、染めはじめた。

 

* 勤め人として通勤していたわたしは、脱出したかったのだろう。

2020 2/20 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  長者       (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

長者がいた。

贅沢に飽き、土の上で空をみて暮すのをつくづくつまらぬと考えた。酒と女の部屋から庭へ出た長者は、峯雲に巻かれ渓霧に包まれた遙かな大絶壁に、岩を噛 んで根を下した松の大樹が虚空に秀(ほ)を光らせているのを惚れ惚れ眺めた。松は四季に翠を粧い中ぞらに抜きん出て天下を睥睨し、些かも譲る所がなかっ た。清風颯々の境涯を思い、長者の心はただならぬ憧れで波打った。

長者は万金を投じて断崖絶壁の松のてっぺんから縄で家を編んで吊るさせ、独りそこに住み移った。

断崖には花が乱れ咲き、数知れぬ小鳥の巣がかかっていて、鳴く声は、嬌声と歓語に飽いた長者の耳には天の声であった。雲は朝に岫(みね)を出て夕べにひそんだ。日の光はさえぎられることなく、虹は広大な渓と空を夢の世界に変えた。

長者は独り酒を酌み珍を食して、揺られ揺られ窓に倚っていた。天あくまで高く地もまた深い霧の底にあった。小鳥が来て長者の肩で鳴いた。

夜は寂しい。星を仰ぎ風をきくと骨を虚空にさらす気がした。酒をあおって長者は寝ようと心急いだ。

夢の中で長者は人の声をきいた。

せっかく素晴らしい家を造ったのじゃもの、きれいな女の一人も連れて来れば夜の淋しさはまぎれようにとその声は言った。それなら訳なしじゃ。長者は寵愛 していた女を呼び寄せた。女も直ぐに淋しいわとひそひそ泣いた。長者はそこでもっと女を呼び、縄で編んだ家は人の重さにぎしぎしと鳴った。酒が流れ肉が 躍って、放歌の騒ぎに鳥も花も驚き呆れた。

下界で退屈したのとまるで変らいでじゃと長者は狂っている女どもを呆やりみていた。酒も苦かった。その時、松に結わえた縄の結びめが一つほどけた。仰天して女たちは松にしがみついた。出遅れた長者は千切れ落ちる家にきりきり巻かれて奈落へ逆さにとびこんで行った。

長者は夢から醒めた。

ああいやいや、やはり女は呼ぶまい、一人で居ろうわいと呟きながら、白む東雲(しののめ)に見惚れた眼を遙かの下界に転じた。すると昨日は見えなかった 霧の底に、まだ夜の明けを知らぬ里の家々のにぶい灯がみえ、さてよく見るとどの家の中にも、夢心地になまめかしく抱き合うて甘える男と女との姿がさすがこ の世ならぬ優しい絵模様となっていたる所に見えた。ため息が霧の中から絶え絶え洩れて、さもきこえた。

長者は窓に身を乗り出したまま、頭のすみで、わしほどの俗物がまたとあろうものかとちくっと思った。巣をはなれたつがい鳥が長者の肩に乗ってながく静かに鳴き合ってから、羽音を残して朝空高く翔んで行った。

長者は低声で、ここは寒すぎる、と呟いた。

 

* おもしろいことを想いつくものじゃと思った、アタマを掻きながら。

2020 2/21 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆ 雲       (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

痛みと一緒に裂ける音がした。肉が千切れるかと誰もが声をあげたが、裂けたのは服や着物や肌着だった。あっと思うまに人間は屋根を突き抜いて一人のこらず身の丈二十米に伸びてしまった。横へもがっちり大きくなった。生まれたままの恰好で人々は一瞬呆然と佇った。

驚きと恥ずかしさとで世界中が喚く声は天の雲を吹き払い、さんさんと明るい日光はまる裸の男女の狼狽ぶりを余さず照した。右往左往するうちにどうせ役に 立たない家も建物も蹴散らされ、夫は妻をかばい、恋人同士は抱きあって、互いにぎゃぁぎゃぁと他人を咎めあった。身を横たえるにも狭すぎた。人々は山に隠 れ海に漬って何よりもはだかを恥じた。食物がまるで足りなくなった。器械という器械は玩具と化し、文明は烏有に帰した。

政治家が集まって議論したが名案は一つも出なかった。学問も役に立たなかった。やはり、ます食わねばならない。草食にすすむべきか、水をどうするかという議論も、大地という大地の草の根を掘り、生き物を食いあさって多分一年という結論で寂しくなった。

真水の如きは半年で涸れるだろう。

人数の多少がすべてを決するだろう。

なぜなら乏しい資源を占拠することだけが生きのびる道で、占拠するには侵略しかないのだ。独りの賢者はそう警告した。

世界中の人間が大木を引っこ抜いて武器とし、大石を投げ合って武器とし、散々に闘い合った。文化の遅れていた山国ほど武器に恵まれ、軟弱な平地の人間は 忽ちなぐり倒され、食用に供された。地続きの大陸は凶暴な食肉人の領地となった。食肉人は勢威を張るつど激しい性欲をあおって子どもを生み、子供が増える と他と闘って食肉を手に入れた。水が涸れると海水を飲んだ。獣も草木も絶え果て、風雨が荒れ狂った。

海を渡る船ができなくて、大洋に浮かんだ島国では早くに人間は死んで行った。

食肉人は世界中に分散したが、もはや食うべき相手がなく、餓えが襲ってきた。賢者の予言を待つまでもなく、荒々しい淘汰が食肉人同士にも来るのだ。

食肉人は会議を開いた。

まず二十歳以下の子供と五十歳以上の老人とを食おう。食い終ったなら、男一人に女一人を、女一人に男一人を組み合わして行こう。すると男か女かが何人か 余って残るだろう。組みになった男女は快楽を尽くしあって死んで行こうではないか。残った者には神の御慈悲があるだろう。

会議は厳粛に人間の誇りを守って、そう決めた。

男と女に組み合わしてゆくと、女が三人のこった。他の者は、天地にこだまするほどの歓楽にふけって疲れ切って壮烈に死んだ。死屍累々の世界を見わたした 女たち三人は、やがておびただしい食肉の腐ることを心配しはじめた。しかし、女たちが三方に別れ、孤独に生きはじめると、夜ごと耐えがたく淋しさがつのっ た。思うことは男のことばかりだった。どうかして一人だけでも男を生かしておきたかったと、男恋しさに巨大な女は嵐のような吐息をついた。

ある晴れ上がった朝、女たちは、一人はアルプスに、一人はロッキーに、一人は崑崙に登って声を揃えて言葉にならないもだえを天空にむけて吠えた。する と、太平洋の真中にむくむくと白雲が湧き上がって、あたかもそれは巨大な陽物であった。女たちは歓声を挙げて山をかけおりると夢中で海を泳いだ。

太平洋の真中に緑したたる美しい小島があった。人間が死に絶えようとした頃から、僅かに生きのびた鼠たちが、ここに君臨して、人間の文化を相続していた。女たちの幻にみた雲は鼠たちのある驚くべき実験が打ちあげた物凄い水蒸気であった。

鼠たちは泳ぎ寄ってきた女たちを忽ち捕えて、新しい研究の材料にした。無数の鼠が女たちを見物しながら、女たちの耳には確かにただチュウチュウとばかり鳴いて騒いだ。

 

* やけくそで書いたが、書き終えてみると、何か妙な実感が残っていて、存外の批評作に思えたのを思い出す。

2020 2/22 219

 

 

* 第二段もやがて終え、もうすぐ第三段もかたづいて量の多い第四段へ来る。どこかで歩を休めて、別方角から手を掛けて行くか。駆け抜けて先へ行くか。体調は、はかり難い。成るがままにまっすぐ。それにしても、わたし、浮世離れした仕事に精出している。しかしなかなか味がある。

歩け歩け あーるけ歩けと唄う歌があった。

 

* なにが本当にはどうなっていて、どうすすみ、どう有効に対処できるのか、だれにもシカと分かっていない危なさに日々を送り迎えている。人の滅ぶとはこういうことか。これは蔓延の感染症のこと。

 

* 「ほどほど」という都合のいいもの言いがある。「いいかげんにしないか」という叱責も、親切な忠告に類すると見られている。どうも苦手、というより可能なら避けて通って、「目いっぱい」やりたい。遣りたくても出来ない事もあると承知しているけれども。

 

* 八時半。肩も背も胸もかるい痛みをおびて、さっきは、濃い鼻血をかなり零した。寝るに勝る健康薬はないか。つづけてきたなんぎな書写作業は、もう書き 原稿と併行しつつ追って行けば要が足せると見ている。印刷所の二月三月は予算消化の思惑で仕事が殺到するのが、常。私のしごとのような端物はちょっと遠慮 してしかるべき季節、むしろ幸便に、先々へ目配りも手配りもして置きたい。来週火曜、満員電車で朝早のCT検査通いは鬱陶しいのだが、これは避けて通れな い。

2020 2/22 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆ 風       (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

深い谷の底に一条の細い流れが瀬音を沈めていた。瀬音は朝に夕に、里の者の耳にはりんらん、りんらんと鳴って聴こえた。峯をかすめて空を雲が奔る。瀬音は雲にも響いてりんらん、りんらんと鳴った。

夕暮れてゆく谷の里には、木草に絡まれた流れの底から、紺と青との濃い淡い縞目が重なり重なって、漂う瀧縞のように谷から峯を蒼澄ませてゆく。縞目を ぬって夕餉の白いけむりが立ち、やがて深い暗やみの樹々をくぐりけて月が細い流れを銀の色に光らせる。すると、りんらん、りんらん鳴る瀬音を破って、湧い たように静かに冴えた一管の笛の音が流れはじめる。

おののく想いと酔い心地で里の者は息をひそめて笛の音を聴いた。笛は哀韻をたたえ、その時なつかしげな淡い遠いものの匂いが谷中に舞いたつかのようであった。人々は声を喪って、急に襲い寄る肌の寒さに、戸障子たてて家に隠れた。

里の長者は部屋の中から外をうかがった。籬の傍に笛を横たえた少年がちいさくうずくまったまま、己が笛の音色に聴き惚れるふうであった。宵々に、少年が 籬の外に佇みはじめて十日を過ぎていた。少年は眼をとじ、時おりひょうと高らかに吹き澄ます。庭に咲き乱れた晩れ秋の黄菊、白菊、穂すすきまでもあおられ てうちなびき、障子、棚、梁などあざやかに共鳴りして、かすかな塵の光って宙に浮かぶのが見えた。火を、火を運べと長者は叫んだ。寒気が真白な矢束のよう に家の内を吹き抜けて行った。

病の床に身を起こして少女は頬を紅らめするどく父を呼んだ。

「あたくしにも、笛を」

長者は顧みて、拒んだ。

「いいえお父様、どうぞ笛を」

少女は白い病衣の衿をかき合わせ、髪を揺すって父を見た。紅らんだ頬に透き徹った玉のような静かさが戻っていた。「どうぞ笛を」ともう一度少女は叫んだ。家の外でまたしてもひょうと笛の音が高まった。突風のように寒さが戸障子の隙を潜って長者と娘をとり包んだ。

少女は笛に愛らしい唇を添えた。ひいっ、ひいっと二声かん高く息を吹き入れてから、少女は凛と眉を張って戸外の笛に耳を澄ませ、やがて静かに合わせはじ めた。ひいひょろ、や、ひょうひゃら、ひょうひょう、や、ひいひりひろろと響き合う内にも、病み疲れた少女の淡い紅をはいた肌は、一息ごとに青い花びらを 沈めるように眼のまわりにも額にも頬にも、また可憐なうなじから胸もとへまでも切ない苦しみの色をにじませた。それでも少女はかすかな笑みを浮かべてい た。

少年はしずと立った。絹をうかべた光の波となって少女の吹く笛は少年のからだを月かげの中で洗うようであった。遠く近く、りんらん、りんらんと水の音も まじって、樹々も草花もあやしく揺らいでいた。笛を腰に挿し、籬の白菊を手折って少年は無言で庭の内を見入った。颯とかざされた菊の花が虚空に弧を描き、 その時少女は笛をやめて声佳く唱った。

「長安は銀漢の北に、洛陽は滄海の西に、天も地も何の命あらん、妾は東籬の菊を愛す」 少年は少しく笑みを浮かべて菊を天に抛ち、くるくると地を踏んで舞い遊び、再び笛をとって玲瓏と谷いっぱいに響かせた。少女も床の中から切なく和した。

一声ひょうと少年が吹き切った時、少女は笛を床にとり落とし、美しい髪をはらりと前のめりに崩したまま、韻々と風に乗って遠のく音色の荒寒に澄みかつ優 しいのをしみじみ聴くようであった。少女は再び起たなかった。少年の姿はすでになく、りんらん、りんらんと瀬の音のみ鳴って、谷の里は月光に埋もれてい た。

鵬を御して少年と少女は天涯に去ったと里の者は信じているが、峯深く住む風が少女に懸想したとも言われている。

 

* これも私・秦 恒平の世界。掌の小説とか、ちらほら見知ってきたが、こういう別世界には出逢った事がない。

2020 2/23 219

 

 

* 図書館から、私の自著を全部揃えて貰えまいかと頼まれ、やっと腰を上げて妻に手伝ってもらい書庫の棚からおろし始めたが、し終えなかった。「湖の本」「選集」を除いても、なんという著書の多さ、豪華限定本を除いても、創作、論攷、随筆、対談、座談会、講演、歌集、新書、文庫等々、百册を優に抜いて、床にひろげ置いても、もう置き場がないほど。続きは明日にしようよと痛む腰を伸ばしてやめてきた。

むろんこういう著作本は、悉く出版社の請いを受け入れ刊行を私が肯んじ承知したものばかりであり、ここに私家版や選集、湖の本は加えていない。いかに、 疾走する勢いで「本」を出し続けてきたか、受賞後十年と経たない頃、ある店で顔の合った吉行淳之介氏から、呆れ顔でどうするとああも書けるのと声を掛けら れた。べつだんの気持ちはわたしには無かった、ただ心して仕事し続けていだけのことであったが、生涯に一冊の著書が持ちたいと熱望している人、多いんです よと。担当編集者に笑って云われたこともあった。

ま、それだけの本をわたしは、九割九分は自身でも買いおき保管してきたから、今回図書館にかりに二部ずつ寄付しても、一二冊ずつは手もとに残る。幸か不 幸か朝日子にのこしても受け取るまいし、建日子は父親の作物にあまり手を出したり目をむけるタチでない。おいおいに外へ散らばってもも選集もあり湖の本も あって自身で、むかし谷崎先生の書かれていたように老来自著・自作を楽しんで読み返すのに不自由はない。幸せな書き手であったよと素直に感謝し喜んでい る。なによりも今なおいくらでも書けることだ、病気さえしなければ。完全な盲目におちいらなければ。

 

* 今日も、懸命にこころがけて書写の仕事にも耽っていた。当初はとてもとてもと仕事量に音をあげていたが、手がけて数日、ムリかなあと渇望していた段階 も通り過ぎ、総じての半ばを越えてきた。これ以下は割愛しても差し支えないというところまでは、もう32頁。すてに82頁の難儀な書写を終えている。この 仕事がまことに興味も趣味も豊かで、しかも背後に日本の近代を貼り付けている。「湖の本」記念の第150巻を「ホホーゥ」と受け容れて戴けるように折角努 めたい。

2020 2/23 219

 

 

☆ 眼       (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

男は妻をだましていた。

だが、妻は知っていた。

年がたち、男は侘びしく老い疲れた。妻ひとり若々しかった。

そして、妻が言った、「わたくし、知ってましたの」

陰気な眼で男は妻の顔を見た。妻はすこし横むきになって薄笑いした。

男は家を出た。

川岸の大きな岩かげにうずくまって、男は早く烈しい流れのさまに眼を据えた。昔、はじめて女とここに隠れた時もこのように烈しく湍ち流れる川を見た。女の暗い涙を吸いながら、瀬音にせめられ、渇くように悔いていたーー。

男は今、ゆっくりと着ものを脱いだ。骨立ったまずしいからだに、夕暮れ過ぎた残りの陽ざしがうつろに絡んだ。

くわっと口をあいて、男はまず右の脚から荒々しく喰い千切った。

右を喰い左を喰い、見るかげない股ぐらを喰い切り、臓物をつかみ出し音たてて啜った。肋らの骨を折りひしぎ、血糊をぼたぼた掌につかんで男は無念無想に吾が身をむさぼり喰いつづけた。

宵やみが寒々と川面をとり包んだ。

両の腕を支える肩と、あとは首から上だけになった男は、岩のかげで陰気に眼をあいていた。瀬音が高くなった。水面を弓なりにかすめ、黒い鳥の影が一散に向うの山はらに隠れた。

男は無表情に、やがて両の腕を真朱な口で噛み砕いたーー。血塗られたただもう一つの生首一つになって、男は物憂そうに川原を見ていた。川は暗の底を無気味に奔った。

鳥が、日々に男をついばんだ。

二つの眼の片方は、乱暴なからすが来てほじくり出した。雨が降り、霜が下り、雪に埋もれて片眼のされこうべはそれでも陰気に川を見ていた。

川風にさらされ石になった男の頭を、野ざらしの朽木ほどにももう小さな獣や鳥たちは、怖れなかった。

千年たち、万年たち、それでも、男は川のすがたを見ていた。

或る夕暮れーー

雨に追われて女が一人岩かげに飛びこんで来た。息を喘がせ、女は濡れた額髪をかきあげていた。妻だった。妻は夫に気づかなかった。顔は真白で、黒い瞳が光っていた。

直ぐあとから、ずぶぬれの若ものが来た。若ものは蒼ざめ、ふるえていた。女は若ものの胸を切なく抱き寄せた。

されこうべは一つ眼を若ものへ瞠いた。女に抱き締められ、若ものは血走った顔を暗い岩はだに寂しそうに向けていた、あの時のされこうべ自身のように。されこうべはかすかに揺らいで、陰気な眼つきにかえった。

やがて若ものが先に帰って行った。

女は濃い息を静かに吐き吐き、じっとそこにかがまっていた。

されこうべの男が呼んだーー。

夕やみに白くうるんだ顔を浮かべ、妻は夫を見た。無気味に、一つの目玉でじろりと生白く見据えたされこうべの男は、漸く重苦しげに呟いた、「ーー俺は、 知らなかったーー」 妻はあの時と同じに横をむいて、にたと薄笑いした。そして、立ったかと見るまにいきなり欠けて窪んだ男の鼻さきを蹴飛ばした。からん からと冴え返った音を流れに響かせ、されこうべは宵やみに紛れて、ざぶと川にはまった。

雨脚が二条三条、斜めにきらきら奔って、暗闇がたちまち濃さを増した。

 

* 狂気を抱いて生きているのだな、人は…、いや、俺は、と思いながら暗い喫茶店の二階から街の十字路へ出た。会社から百メートルほどの喫茶店だった。二 階は暗いラヴシートで、上司や同僚にサボを見つかる心配がなかった。毎日書くと決めていたから書きたかった。書き続けた、極くの短時間で、毎日。

2020 2/24 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆ 蛇       (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

太霖の西、靖安の北に方百里、蘆荻の生える広い澤があり、幽湖と呼ばれた。小舟をあやつり草を刈り営む数少ない人が見渡すかぎりの風波をかきわけここに住んだ。

幽は深さ数尺、大人は立って水を歩む事もできた。酷寒の時は氷にとざされ、氷の上で蘆荻は終日風に鳴った。人は舟をすて風に抗ってこれを刈った。刈り尽さぬうちに氷は溶け、草の茂りは前年にも増して、小舟は為にしばしば水路をさえぎられた。

幽湖の蘆の茎長く強靱な事は周く知られていた。それでも此処に生業を求める人は少なかった。幽湖には蘆荻の数ほど蛇が棲むからであった。蛇は蘆荻の髄を 噛み、時には太い茎に潜む事もあった。風波が方百里に美しい紋様を描き出す時、馴れた者の眼にはかすかに光る水面に蛇の群の奔るのが見えた。

蔡は蛇を怖れぬ若者であった。

靖安の街に生まれ、早く孤となり、人を頼って幽に住む身の上であった。孤独な蔡の心を重くふさぐには幽は余りに広漠と空明るい天地であった。鋭い風が容 赦なく少年の涙を払って涯てしない湿原を吹き募った。蔡はむなしさに馴れた。馴れればいっそ冴え返った境涯であった。来る日も来る日も草と水と、そして蛇 たちを見た。何れもが何れもの美しい絵模様を澄み切った空の下で幾重にも描きつらね、蔡を飽かせなかった。

或る午さがり、蔡は蘆むらの中に舟を泊めて仮睡していた。うつうつとして、そして眼醒めた時、二尺ばかりの小蛇が蔡の膝の下にいた。蛇は首を自分で捲き こみ、形よくとがった尾のさきを軽く蔡の足にもからめて陽だまりを楽しむように睡っていた。肌は鮎のように淡い青を透かせて銀色に輝き、少年のかつて知ら ぬ美しい色をしていた。足にからめた尾のしなやかさは優しい温みをさえ秘め、日光を射返す小さな鱗の一枚一枚が細工物のように翳を生んだ。

蔡は蛇の首をさぐって強い腕にからませて見た。光る細い舌が、怖じて蔡の鼻さきを赤い火花のように動きまわった。瞳は、つのぐむ頃の蘆の新芽より初々しく深くたたえた緑であった。蔡はたちまち蛇を心に想うようになった。

日がかげると、蛇はするする水に下りて行った。水の底が生白く揺らいで、また風が鳴りはじめていた。蔡は心蕩かされたふうに舟のともに佇立した。この日から蔡は小蛇を夢に見た。

日はひねもす、草刈る間もひまなしに、動く水面騒ぐ草の根に心をやった。あの青い瞳に唇を当て、あの美しい尾に肌を触れ、胸にも抱き、首にも捲かせて来 る日来る夜も倶に暮したいと、蔡は蛇に恋い焦がれて日を送った。あの蛇に逢う事はついぞなく、胸轟かす遠くの影も寄ればむなしい浮き木の端でしかなかっ た。それでも少年の寂しい恋は冴えた幽湖の明け暮れの中で孤独な焔をちろちろと燃えたたせていた。

蔡が再び蛇に逢ったのは次の春、太霖に至る幽邃な渓谷の見える辺りであった。

蔡はつくづく心に倦む所があって、呆けたようにゆるゆるとここまで舟をやってきた。僅かに露頭した岩に舟を泊めた蔡はそこで干しきびを掌ににぎって少し く飢えを癒した。食し了ると掌についたきびを舟ばたではたいた。さながら麩を追う鯉の如く、常はこのきびの散る時は蛇も寄るのであったが、この時は影を見 なかった。蔡はそれをしも淋しいと感じた。人の世を忘れて久しい少年に蛇はさも優雅でさえある温和しい友であった。

蔡は去ろうとした。その時、岩かげをめぐってするすると舟ばたをかすめて游ぐ蛇がいた。蔡は、その場にしびれた。夢にも忘れぬあの蛇がただ一尾、一年の 後にも一層美しく青澄んだ銀鱗をまとうて蔡を見ていた。しかし、蛇は蔡の傍まで寄ろうとしなかった。岩にのぼり、尾を捲きからめて首をあげたまま日のさす 方へ朱い舌を吹き矢のように飛ばして見せた。蔡が岩に下りると蛇はするりと水に入った。竿を出せば戯れてからみ、音をさせてはまた水にかえった。さながら 人に対う如く蔡は蛇を呼んだ。聴くかのように蛇は静かに舟のまわりをしなやかに游いだ。

だが、やがて今一匹のたくましい蛇が波を分けて蘆間から姿を見せると、一度は岩にのがれた青い蛇もざぶと游ぎ寄りからみ合って水に潜った。蔡は我を忘れ て蘆刈の穂鎌をこの黒い蛇めがけて抛げた。烈しく騒ぐ波紋を乱して傷ついた蛇は青い女蛇にたすけられたまま蔡の竿も及ばぬ方へのがれて行った。蔡は眼血走 り、空しく竿を振るって幽湖の面を叩いた。

その夜、蔡の舟は眠れる主を舟底に横たえ蘆荻の原をまっしぐらに東へ走った。あたかも人あって誘い後押す如くであった。

蔡は眼醒めて異様の物音を聴いた。

真暗な岩屋の内を、雫するように無数の蛇が群れ、舟はひしめく蛇に支えられ、舌うちの如きするどい息づかいは闇の中で微塵に光る真朱な火花の群となって冷たい洞の空気を揺るがせていた。蔡は忽ち失神した。

次に眼醒めた時、蔡は一人の娘に看とられて床に臥していた。娘はそこが靖安に近い村はずれで、蔡がこの家から幽湖に至る水路の端に倒れていた由を教え た。舟はと訪ねたが知らぬと答え、娘が蔡を見た時、その背に青い可愛らしい蛇が人を待つように居たと言った。蔡は青ざめて黙した。

蔡の背の真中に爪ほどの薄澄んだ青い蛇の鱗が一枚貼ってあった。娘が見つけて剥がそうと指をかけると、蔡はにわかに蛇身と化して床を這った。娘は飛び退って手近の鎌を叩きつけた。胸を剔られて血に染んだ少年の姿を見ても娘はもはや介抱しようとはしなかった。

ようやくこの村をのがれ出た蔡は、疲れ切って故郷の靖安に戻った。

当時大徳の尊者がたまたま靖安路上に蔡少年を見るや寺に伴い帰り、仏の前で南無仏と唱えよと訓えた。蔡が南無仏と念ずると忽ち無量の疼きが背を痛めた。 尊者は声高に更にと促した。南無仏、南無仏と唱え進めば蔡の総身はさながら波を揺する如く震えた。背の鱗はそれでも剥がれなかった。若葉に似た青い鱗が血 に染めるが如くなったと導師は叫んだが、蔡は倒れ伏してひたすら眠りに落ちた。

夢に蔡はあの蛇を見た。蔡の恋は生きていた。夢中、尊者の唱える南無仏の声が響くと蛇は苦しげに身もだえた。蔡は激して念誦を制した。ひらりと蛇は水にかえった。蛇の去ったあとの水絵の美しさはしみじみとたまゆらのうちに消えて行った。夢は醒めた。

蔡は起って仏像を見上げた。少年はかつて仏を知らなかった。だが、仏像の頭上より静かに首を垂れて蔡を呼ぶ青い蛇のうるんだ瞳をうつつに見出した時、そ して、蛇の背の一枚の鱗が無残に剥がれて血ににじむのを見た時、蔡は一心に南無仏と唱えていた。背の鱗がはらりと散り、蛇の傷ついた肌もこの時癒えた。青 い蛇はさしのべた腕へ来て優しく蔡の胸をなめた。蔡の傷もすなわち癒えた。

蛇に頬を寄せ、眼をとじたまま蔡は涙を流して暫く動かなかった。やがて、蛇のからだを静かになでいたわり、庭に下りて水に戻した。蛇は一度見返り、二度顧みざま深く潜って、再び見ることがなかった。

蔡は仏を拝し、何れへとなく、去って行った。

 

* 掌説と謂うには長編に属して小説として仕上がっており、異様の作でありながら自愛の作であり、この一作があって、「清経入水」の怪奇は甦って新聞連載小説「冬祭り」を迎え、さらに遙かに歩を運んで今度の「花方 異本平家」へ脈絡を繋いだとも謂えようか、

この愛すべき小蛇こそが「花方颫由子」へ生まれ変わったのであろう、わたしは守られていると思いたい、厚かましいが。

2020 2/25 219

 

 

* 奔放に過ぎたやんちゃな語り口ではあるが、『花方 異本平家』がわたしは好いていて、いい原稿にしておきたいと思う。この物語には平家物語だけでなく 源氏物語の深層世界ともかげを牽き合うている。海と海の神とを念頭からはずして此の二つの国民的遺寶作を味わうことは出来ない。

2020 2/25 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  盃       (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

李白は振りかえった。たしかに誰かが呼んだのに、人の姿がなかった。

李白は眼を惹く店先のひとつのさかづきを買った。わずかに掌にあまる、青みを帯びて美しい荊州の白瓷であった。

家に帰ると李白はすぐ酒がめを引き寄せた。眼を細め、李白はさかづきに酒を注いだ。とくとく、とく、くとく、とく。酒はさかづきに満ち、満ちたかと見る間に美しい琥珀色は汐の乾くようにさかづきの底に沈んでしまった。

とくとく、とく、とくとく、とく。

李白は眼を疑いながら徳利を傾け、燦く酒の艶を急いで唇に受けた。またもや酒は漏れるようにみるみる消え失せ、芳醇の香気がむなしく李白の鼻を打った。

これはひどい。思わず李白は呟いた。すると、答えるようにさかづきの底から酒が湧き溢れた。李白は大慌てで飲み干した。

三度めの酒は穏かにさかづきに波打って光った。李白は幸福そうに、盛りあがった酒の色香に顔を寄せた。白玉のさかづきの底に、李白を見て笑っている一人の男の顔があった。人の良げな男は、揺ら揺る酒の中で笑みくずれ、物言いたげな眼をしていた。

李白が問うと、さかづきの男はこんな事を言った。

自分は昔淅県の参軍まで務めた者だが、酒で官をあやまり市隠のまま一生を終った。好きな酒はやめられなかった。死に際に自分は人を呼んで、かならず我を 陶家の側に埋めて呉れよと頼んだ。願わくは百千歳の後に化して一塊の土となり、幸い採られて酒壺とも成らば、実に実に我が心を獲ん、と。

さて自分はかようなさかづきの底に栖む事を得たけれど、不運にも久しく店頭にさらされて美酒に遇わず、今日貴公の眼にとまったのは千秋の僥倖、はなはだ有難い。毒味までに一杯お先に頂戴したーー。

李白は手を拍ち大笑してこれぞ酒中の仙、莫逆の友と、それからは、先ず李白が一杯、つづいて男が一杯、仲良く代わる代わる飲みかわして夜の更けるのも厭わなかった。

李白が戯れて歌を所望すると、男はかがやき揺れる酒の下から、美声を張って朗々と唄った。

蘭陵の美酒は鬱金の香  玉椀盛り来たる琥珀の光

ただ主人をして能く客を酔はしめば  知らず何れの処か是れ仙郷

夢にも恋しい故郷の酒を   いざなみなみと酌みたまへ

この家の主の客あしらひに   酔うてうたへば花が散る

酒は百川をも吸う勢いでさかづきの底へ引かれて行った。李白は喝采して、そんな窮屈ところに居ないで出て来ないかと誘った。おうと叫んで、忽ち筋骨うるわしい精悍な武人が李白の前にどっかと坐った。

二人は庭上の春色をめでながら、今度は先ず客が一杯、次に主人が一杯、物も言わず泣きみ笑いみ応酬やむ所を知らなかった。

とうとう李白は盛んに酔を発し、ぐるぐると両手を振りまわして唄い出した。

両人対酌山花開く  一盃一盃また一盃

我酔へり眠らんと欲す君しばらく去れ  明朝意有らば琴を抱きて来たれ

花を浮かべて酌むさかづきに   夢も匂へや星あかり

酒がめ枕に寝たまへ倶に   明日も聴きたい君のうた

声の下で李白はそのまま酔い伏してしまった。男はひとり神色端然、しばらく美味そうに酒を口に含んでいたが、やがて皮ごろもを脱いで李白の肩に被せ懸け、かき消す如く春の夜のやみに去った。

 

* 此の作は、東博の東洋館で出逢うた武人像に魅されて成った。

 

* 今は自在に酒飲みの私だが、勤務の昔は酒に一切手は出さなかった。しかし「作家」としても世渡りし始めると、当時の風とし て、担当編集者や出版社は盛んに酒の席へ私を連れ歩いてくれた。そして言われた、「秦さんは、幾ら飲ませても酔わない」と。たいてい接待してくれる側が先に酔い潰 れていた。あの頃の出版社は景気よく、編集者はズボンの尻ポケットに札束をねじ込んだままわたしをあの店この店へ連れ回ってくれた。あの時代、あのような私の頃は、「出版」も、「作家」への対応も、ほぼそんなふうに「好景気めく最期の火の手」をあげていた。

しかし、やがて、「売れる本なら何でも」「売れる本を本を」と編集・出版者が私のような作風の者にも一つ覚えのように言うようになった。程度や水準を問 わない「文字本・読み物」を追いかけ、「文学・文藝」の質は問わずむしろ硬質・高程度の作品が「たくさん売れない」理由で敬遠されだし、純文学・高度文藝 の人はだんだん置き去りにされていった。私のように「秦 恒平・湖(うみ)の本」といった形で自作の文藝を数十年に亘り愛読者や各界人へ送り出せる作者は、他に、一人も出なかった。

言うまでもなく「湖の本」は雑誌ではない、装幀は簡素でも、作家・秦 恒平「ひとり」の書籍として150巻も送り出せていて、まだなお「先が有り」うる。「貴誌に広告を載せて」という希望が最近寄せられ驚いたが、「雑誌」で はない、明瞭に単著に類した一巻一巻が「書籍」なのである。

 

* 亡き鶴見俊輔さんと対談した折、秦さんの「湖の本」に倣いたい作家は大勢いますと言われ、但しそれには、「作品の絶えない提供と高い水準」「相当数の 愛読者・協力者」そして「編集・出版の技術」と「家族の熱心な協力」が「絶対的に不可欠」で、これが他の誰にも充分には出来ないと断言されていた。さすが に正確な見立てだと感じ入ったのを思い出す。

2020 2/26 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  盧生       (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

一炊の夢に人生をあきらめた盧生は、邯鄲の地に住し諸人に夢を売って、空々寂々の日々を過ごしていた。盧生のもとに来て一夜の夢を購う者は、すべて己れ の願望をあからさまに告げ、せめて夢寐(むび)の間(かん)にも所願成就のさまを味わいたいと言った。盧生はつくづく、諸人の心中に巣喰う望みの諸般にわ たって且つ浅間しいくことを知った。色あり金あり、立身、権勢、復讐、冒涜から怪力乱神に至るまで、凡といえば凡、しかし淡くかつ心虚しいさわやかな夢を 望む者の一人とてもなかった。

盧生は一々に百金を投ぜしめ、茅舎(ぼうしゃ)の傍(かた)えに一基の石塚を設けると、千金を得るごとに一階を重ねて行ったので、巨大な塚はやがて蒼天を摩するほどになった。人は「夢塚」と称えて、夢茫々の空しさに思い当ったものの、夢購う者はなお跡を絶たなかった。

ある朝、一人の若者が盧生に請うて、夢とも覚えぬほど平常と変らぬ平常の自身を夢みたいと言った。盧生は大いに首肯く所あって諾と応えた。若者は短褐 (たんかつ)を衣(き)て青駒(せいく)にまたがっていたが、下馬して夢塚の傍らに草に枕して平然と首を俛(ふ)して寝に就いた。

若者はやがて起き直ると長嘯して草をつかみ、千切って空に吹き払うと盧生を顧て、夢平常と異らず、平常もまた夢に異ることがなかったと言って笑った。夢 というものはただ平常時を淫するのみで益する所がまるでない、幸いにしてあなたのおかげで夢を振り切ることが叶ったと語ると、塵を払って青駒を駆り若者は 盧生の前を去った。

盧生は床几に坐して若者のことを考えた。彼の言う所大いに意に適ってはいる。しかし炊一飯中の夢に却って醒めた自分の生に処する態度と、彼が夢また平常に同じと観じてこの後の生に処さんとする覚悟とには太だ径庭がありそうだ。

盧生は巨大な夢塚を汚げに仰ぎ見ながら、曾て道士呂翁の神仙の術によって青磁の枕に俛し、生涯の経歴を夢みた日のことを想い起こした。波瀾万丈の生涯を 夢寐に終って寤めた時、一炊未だ熟してもいなかった。蹶然として盧生は、夫れ寵辱の道、窮達の運、得喪の理、死生の情尽(ことごと)く之を知ると呂翁に謝 して青雲の志を一擲したのだった。

果してあれでよかったのであろうかーー。

盧生は夢中に清河崔氏の女の極めて麗質なるを娶り、それより大いに立身栄達を経て燕国公にも封じられ、五子十孫を獲て年八十を逾えた後に病死している。 夢若し真ならば、尽く之を知ると擲つよりも、大いに勉励してたとえ万中一事たりと夢寐に極めた所をさらに越えんと試みてもよかったかしれない。凡といえば 凡、しかしそれも一の生涯で、また面白かったであろう。

盧生は若者を尋ねたが知る者がなかった。短褐を衣て青駒を御した若者は呂翁に遇った曾ての盧生の姿そのままであった。

盧生は夢売ることをやめ、夢塚を遺した。

 

* これもまた私をとらえた一閃の作物だった。ふっと目を閉じるとこういう世界が闇の奥から私に駆け寄ってきた。

2020 2/27 219

 

 

☆ お元気ですか、みづうみ。

検査結果が良好でとても嬉しく思いました。油断してはいけませんが、どうかこのまま心ゆくお仕事の日々をお元気にお過ごしくださいますようにお祈りいたします。

 

二月の連載、「夢の夢  秦恒平・掌説の世界」を読んで、毎日視界が青く澄んでいくように感じています。一日一話を読むという読み方が、この作品群にはふさわしいことに気づかされました。

 

じつは今までみづうみの「掌説」はみづうみの他の作品のようには愛読しないできていました。ごめんなさい。苦手意識があったのです。散文詩として読みたいなと以前から思っていましたが、正直読むのが辛かった。描かれている世界が凄絶で怖かったのです。

 

今読み直してみてもやはり恐ろしい衝撃です。みづうみの「掌説」に似ているものを探すと、たとえばカフカの凍えるような不条理の短編の数々が思い出されます。黒澤明監督の『夢』という映画も近いかもしれません。こんな夢を見た、と次々に登場する悪夢の映像。

 

カフ カを尊敬していますし、カフカなしの現代文学はないほどの巨大な作家だと思うのですが、その小説世界は底なしの地獄でありましょう。ただし、詩美の極北の ような言語で表現された地獄です。それがカフカの天才の在り方でした。ああ、でもこのような悪夢を見る人間がしあわせになれるのでしょうか。カフカを思う 時、天才というのは悪夢に生きざるを得ない「呪われた」人間だと思い知るのです。そしてみづうみもそんな「呪われた」文学者のお一人であることが「掌説」 では隠しおおせません。みづうみは「泥を吐く」と表現なさいましたが、カフカを悲しむように、みづうみのことも悲しみます。その言葉の詩美に酔いながら、 自分が、あるいは作者が刺される一瞬の刃物の輝きをみるように「掌説」でわたくしは救われないのです。

 

わたくしの容量では、一日一話の悪夢にしか耐えられない、だから今までまとめて読めなかったことがよくわかりました。みづうみに他の多くの小説や評論やエッセイのお仕事のあることをわたくしは愛して喜びます。

 

晴れやかな青空が広がる冬晴れの一日、みづうみの文学仕事を存分にお楽しみくださいますように。  鉢   これはこのあたりの僧や鉢叩   巌谷小波

 

* 私の「掌説」が、初めて正当に批評された思いに黙然と肯いている。

書いていた私自身にも怕い思いがいまも在る。こんなのがつぎからつぎへ跳びでてくる自身が不可解で始末のつかない怕さ。おそらく他の誰からも生まれてこないだろう孤立した怕さ。それは、それなりの強烈な自負でもあるのだったが。

 

* 一昨日から或る凄い論著一冊を久々に読み返し始め、今晩、浴槽の中で読み進む間に、また、自身の途方もない底くらい世界へ旅立って行きそうな、つま り、「書けそうな」着想に恵まれかけた。もうすこし押して行くか、諦めた方がいいか。わからない。書けるなら書きたいと突ついてくる私がいる。よせという 私もいる。

 

* 書きたい、書けるという着想が幾つもかぶってくると、これが狂気というのかと、嬉しくも怕くもなってくる。「雨月」「春雨」の上田秋成は、どうだったのだろう。

いま、寄り道のヒマのない仕事を進めていて、気の多くなるのがいささか難儀だが、着想が向こうから向こうからすり寄ってくるのは、有りがたいことである、大事にしたい。

2020 2/27 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界

 

☆  孔子       (作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

荒野の涯てに日が沈むさまを、寒風の丘に佇って孔子と童子が眺めていた。二人の影は草あれの斜面を伸び、刻一刻夕やみが野もせを蔽って来た。孔子は端厳 たる自然の法を領略する所あらんと惟っていた。落日と燃ゆる空の色とは、だが、しばしば孔子の頑なな物思いを美しさや寂しさの故にかき乱した。

童子はただまじまじと眼を瞠いていた。やがて率然と孔子の顔を見上げて問うた。日の入る所と洛陽の都とは何れが遠かろうか。童子の心もち冷えた頬に掌を 寄せ、孔子は言下に日の入る涯ての方が遠いと答えた。何という稚い問い、何という答え易い問いであることかーー。孔子は静かに笑ってさえいた。だが童子の 不審は払われなかった。日の入る方は眼に見ゆる、しかし洛陽に聳ゆる高楼の一つとても我が眼には見えぬ。されば、今眼に見ゆる方こそ近うなくては叶わぬ 筈。童子は眉をひそめ、寂寞たる荒野の彼方を見つめながら言い切った。

孔子は黙した。黙せる老翁と不審の童子は丘の上になお暫くは凝然と佇ち尽した。

童子を親のもとへ送ると孔子は家に帰った。弟子たちは孔子の語るを聴き、めいめいに破顔した。童子の為に不審の所由なき事を直ちに説かなかった師こそ奇怪であると戯れる者もあった。

弁舌に巧みな子貢は、空は見ゆるが汝の背は見えまい、空と汝の背と何れが遠いかとでも申されたら宜敷かったのにと言い、子夏は、見ゆると言うなれば、日 が雲に隠れた時は何として見えぬ洛陽との遠近を語る積りであろうかと一笑した。みな試みに童子の不思議を言い鎮むべき論法を順に述べて興がる中で、子路だ けは単に可愛い子であると述懐した。

最後に、子淵が穏やかに居ずまいを正して、天空よりも背の方が近いと本当に言えるものだろうか、子貢は童子の不審に関わりのない事を論じている、また子 夏の説も童子の為には空語に等しい、と語った。重ねて子淵は言った。師はその時黙されただけではあるまい、おそらくは童子を抱いてわれ等が国の美しい歌謡 を唱しつつ家路に就かれたであろう、と。

頷いて、孔子は若き子淵の能く吾を解するを賞美した。

弟子たちが退ると、孔子は例の如く灯を消した。遠きも近きも濃い宵やみにゆらめき沈んだ。眼を瞠くか、閉じるか、一瞬孔子は惑った。

ーー掌説の一 完ーー

 

* 以上は、昭和四十年代の初めから半ばにかけての作を集成しており、以後、数次にわたり、私家版『斎王譜』星野書店、限定豪華本『春蚓秋蛇』湯川書房、 単行本『閨秀』中央公論社、湖の本第十三巻『春蚓秋蛇』等に収録されています。殆ど全てが本郷界隈の喫茶店で会社勤務時間内に、三回にわたり一日一編ずつ 連続して書かれています。喫茶店に入ると書き上がるまでは出ないと決めていました。何を書くかのアテなしに店に飛び込み原稿用紙を広げるのです。

最初の一行がしばしば決め手になりました。かなりの泥を吐いています。

2020 2/28 219

 

 

* 私は、文学幼少年から、勉学・読書そして習作時期を経て、文壇作家として十年余で60册を超す著作を積んで、そのさきで自然に文壇からはなれ、実質に おいて他に例を見ない「フリーランス」作家の「独り道」へ歩んで出た。「秦 恒平・湖の本」がその存在証明となって満34年・150巻を達成してなお継続、更に600頁平均の『秦 恒平選集』33巻の予定も完結を目前にしている。

鷗外・漱石・藤村・直哉・潤一郎・康成・三島等々や大江健三郎その他の道を慕って純文学ないし藝術としての文学作家を真実心がけ願っている人には、私の歩いてきた作家道は、念頭に置かれ自問自答されていい課題になるだろう。これは広言でない、老いの提言なのである。

 

* 此処までで足りていると思えるまでを書写し終えて、なお、もう一段奥へも踏み込んでいる。

体調、宜しくない。気を入れて書写など続けている間は打ち込んでいるのだが、手をとめるとぐたっと頭が落ちてくる。掌を開くと指の十本の一本ずつに縦に 無数の縦皺が走り、掌全体は音のしそうに痺れている。もう八年、手術と抗癌剤いらい斯うである。それでも見えにくい視線を走らせてキイを押すことは出来て いる。これの可能な打ちは作家しているというわけ。

うろうろしていると、「湖の本」も「選集」も本が出来てくる。明日から三月。用意だけでも容易でない。狼狽えると潰される。一つ一つ一つ、仕憶えてきた作業を積んで行くしかない。疲れてくると、目を閉じつづけては開いて一仕事しまた目を閉じている。

2020 2/29 219

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界  二  (七曜)

(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

☆ 金

 

少女は、ちいさなてのひらに夕日のさいごの一しずくを受けた。

ものみな、青いやみに沈んだ。

やみの中で少女はてのひらをそっと開いた。かがやく一粒の金無垢が、少女の眼もとをほのかな黄金色に染めた。

少女は黄金の粒から一本の縫針をつくった。針は虚空を刺して光った。

少女は黄金の針で刺繍をはじめた。針は生きたように動いた。布地の上に、涯てしなく月夜の海が広がって行った。

あやつる人もない小舟が、どこからか少女の前へ漂い寄った。静かな波にはこばれ、少女と舟とは青い海の上を流れた。どこまでも、どこまでも、海は寂しい月夜の底を流れた。

舟べりに身を寄せ、少女は黄金の針を波間に垂れた。

針が鋭く波をくと、波の下から黄金色の蝶が一匹、夜空にひらひら舞いあがった。

つづいて一匹、また一匹、七色の無数の蝶が、いたいけに翅をたわめ、波を潜り、あとからあとから風に舞い月に酔って、大空いっぱい眼くるめく虹の大橋を懸け渡した。

羽ばたく蝶の懸け橋を、少女は一足一足登って行った。一足すすむと一足くずれ、蝶は踏みだす足もとから色を喪った。枯れ葉のように落ちて行く夥しい蝶の群れが、遥かの海を灰色に変えた。

少女はなおも登りつづけた。

月がいよいよ明るく照った。

とうとう、虹の橋がなかぞらに杜絶えた。少女の足もとには、波間を最初にのがれでた黄金色の蝶がただ一匹、燦めき羽ばたくだけだった。

少女は夢中で最後の蝶の背を踏んだ。黄金の蝶は少女をのせ、涯てない空の涯てへ、ゆらりと飛び立った。

黄金の針を心細く抱き、上も下も、左も右も、濛々と湧く雲の峰から峰を縫って、少女と蝶との旅はながかった。

少女は訊いた。

蝶は答えた。

ひときわ高い高い雲の峰からまっかに輝く日の光が射す一瞬、黄金の針を力いっぱい光の渦へめがけて刺すがいい、と。

少女は、また訊いた。

蝶が、また答えた。

わたしは日の神の末の子、怒りに触れ久しく海の底に逐われていたのを、おまえに救われた。おまえが、あやまたず日の神の御手に、その、黄金の針と化した 一しずくの光を無事戻してくれようなら、わたしはゆるされ、おまえはわたしの妻となって、望みの場所で幸せな一生を過ごすことができる、と。

少女は黙した。

蝶も黙した。

奈落を吹きあげる風に巻かれ、蝶と少女は涯てない空をなお空の涯てまで舞いあがりながら、行くてに黄金の針を燦めかせ、ひときわ高いという雲の峰をよもの暗闇にふり仰いだ。

少女は見た。蝶も見た。あまり遥かな高い高い峰は、昏く、大きく、近寄りもならない。少女と蝶は、だが、飛びつづけた。

一刹那、あかい光の矢が少女の眉間を射抜く、と見るまに少女は黄金の針を、炎える焔の芯へ、ちくと刺した。あっと声もろとも少女は、独りの満月のような青年と並んで、なつかしいもとの草野の原に立っていた。

まっかな朝日が、東の空に静かに上った。

 

 

* これには下地になる旧作があった。気に入っていたのだろう、補修して新聞連載に用いた。

2020 3/1 220

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界  二  (七曜)

(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

☆ 土

 

男は老いてなお役所勤めの貧書生だった。子はおろか妻もなかったが、酔えばかならず人を扼して妻子の自慢をした。嘲けり憐れみ、みなが酔生子と呼んだ。

酔生子は青春多感の昔、夢に川岸を歩いて、川向うを来る女を見た。青年は歩をとめ、女の視線を熱望した。女は応えてあでやかに笑んだが、川波にせかれ声は届かなかった。夢は卒然と醒めた。

二年後、酔生子はむなしく憧れやまぬ女と、また夢に出逢った。夢中の青年はやや官界に所を得て有能だった。或る時、市中に一箇の壺を購うべく、東西に歩 を散じ、いささか渇きを覚えていた。とある店の土間に立ち、さて宜しき壺をおびただしい鉢や皿の山から撰り分けながら、家人を呼んで湯を所望した。女が出 てにこやかに盆をささげるのを見て、男は声を放ちひしと手をとった。頬を染め、女はそっと頷いた。だが、夢はそこで醒めた。男の現実は、嗤うべきものだっ た。人は木の端を路傍に蹴転がすように遇した。あまんじて、受けた。男は夢に棲んで、かの壺を売る女をすでに妻とし、夢のなかで十分幸せだった。

夢中、男は次第に官長にも重く任じられ、琴瑟和して女は二人の子を産んだ。一姉一弟、すこやかに育った。女の親はかわらず市中に壺や皿を焼き、女が商った。

この家では女が土をもみ、父が轆轤を蹴った。火処(ほと)を守って、七日七夜の火を絶やさず焼くのは母の仕事だった。やがて娘が嗣がねばならぬそれは刻苦の業だった。母はさだめと訓え、女も眉を張って頷いた。人は女をほめて「陶家の玉壺」となぞらえ呼んだ。

酔生子は日々塵労を忘れて幸福な男の役を演じつづけ、上司、同僚、近隣はみな、酔生子の生くるに甲斐ない実人生を嘲りながら、その表情の、年ごとに晴れやかなのをすこぶる奇異に思った。

夢にも生きつづけた酔生子にも、不安はあった。夢を見失うことだった。幸いその夢は年ごとに頻繁におとずれた。時に益体(やくたい)もない酔生子昼寝の夢にも、愛すべき妻や子は敬意を尽くし、夫であり父である男のまえに健気だった。

齢五十、夢中、男が罪なく事に坐して官を捨てた年、娘は良縁をえてはや一女の母であり、息子は大学に学んでいた。だが女は老いた父と母を黄泉路(よみ じ)に送った。女が土をもみ、男が大小の壺に造り、そして夫婦して焼くなりわいの日々が来た。「陶家の宝壺」と人は出来のよさを褒めた。酒はより旨く、籾 はより新しくなった。枝挿せば花咲き、花挿せば実を結んだ。身に抱けば膚に馴れて潤んだ。

酔生子酔余の吹聴は、いっそ人の好んで聴くところとなった。嘘と知れた嘘の面白さをただ嗤うだけの座興だったが、一閃、酔生子の嘘にあてどない己が身の上の不安を照らし出される人も、なかには居た。

酔生子は夢に愛妻とはかって、一の麗しい骨壺を焼きあげた。子を呼びよせて男は姉に、女は弟に清浄の土を一掬いずつ壺に容れよと命じた。

「これが、わたしたちの墓だ」

父は言い置き、母は子らに頷いた。

酔生子の死は俄かに来た。酔って駟(馬四頭の乗り物)の速さを避けえなかった。人は、衰老の男の死顔にふと浮かぶ笑みを見て慄然とした。

もはや醒めることのない最期の夢路を、衰生子は、息子が美しい嫁をえた日の慶びを妻と語らうべく、足取り軽く急いでいた。

 

* これはよほど私自身の夢をかたちに創っていた。夢は容易には成らないことを知りながら。

交通事故では死にたくないと要心している。

2020 3/2 220

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界  二  (七曜)

(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

☆  日

 

男は日と争った。日を罵り嘲った。

日は男を地獄へ蹴落とした。地獄の底を、男は無二無三に走った。走りながら日を憎んだ。

足もとに、いつか一条の光る細い道が闇を裂いて延びていた。道の両側に、数限りなく男を見つめる青白い顔があった。発光体のように、顔は闇からにじみ出ていた。端正で、無表情で、虚空にうかんで、微塵も動かぬマスクの、眼だけが生きて男を見つめていた。

男は走った。前にも後ろにも数えきれない自分の影が飛んでいた。

光る道の奥に、真黒い扉が見えた。扉は押すとも引くとも知れぬ一枚の厚い板にみえた。

扉ではなかった。暗黒のはじまる所だった。男は倒れこむように、頭から闇の底へ底へ落ちて行った。落ちながら、もがいて虚空を蹴った。

逆流する血が脳漿を潜りぬけ、足指の一本一本をぼってり脹れあがらせる。下半身が寒く、顔は生ま温かく、落体の恐ろしい速度に鼻をちぎられ、鼓膜を引き裂かれて、男はやがて落ちる速さを、暗黒のただなかにふと忘れていた。

と、男は硬いよそよそしいものに支えられて、音もなく横たわった。

部屋ーーというのもあたらない厚ぼったい濃い闇が、男を隙間なくとりこめていたが、やがて、身ひとつをきっちり闇間に浮かばせて、物憂い微光が泥のような己れの姿を男の眼にみせた。

男を支えていたのは、無愛想に、冷たく堅苦しく、いっそ、ただの「場所」と呼んだほうがいい、そっけない、気味のわるい場所だった。

物惜しみするように男の身に触れて、まるで皮膚ほどにその場所は「在る」とみえたが、その先は濛々と昏闇に呑まれ、男は己れを泥のようにみたまま、闇黒の重さにひしがれて、ただ横たわっていた。

「暗いなあーー」

男ははじめて口をきいた。

どう追い求めても洩れる微光のふしぎなかたちが探れない。身を揉めばこぼれるようにものかげが揺れ、手をのべてまさぐると、いっとき、ほうっと光の粉をまいたように明るみ、またすぐ闇に沈む。

男はようやく起った。

やたらぐるぐる手を振った。歩きまわった。

すると、男の身に添っていたほの明るさが幾重にも闇ににじみあい、淡い色で流れ、そして、消える。

男はなにも考えず、ただただほんのすこしでも多く、すこしでも時間長く、身のそばに明るみをひきとめたいばかりに、一つ所を、輪を描いて、無二無三に手を振り足を躍らせ、走りはじめた。

息づかいのほか足音すら響かぬ闇黒地獄の底の底で、男は、そこから逃れ出たいとも考え忘れて、ひたすら、無限の円環を有限に返そうとでもするかのように、息を吐き、黙々と、無表情に一つ所をぐるぐると、それでも日の世界の傲慢を憎みながら、走りつづけていた。

 

* こんな「男」が私の内に居た、か。まだ居るかも。

2020 3/3 220

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界  二  (七曜)

(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

☆  月

 

男は走った。

男を追って、女が走った。

女のうしろを、影も飛んだ。

家は焼かれ、橋は落とされ、鞭が鳴り怒声が渦巻く。

右往し左往し、影はおくれた。

風にさそわれ、影は山のうえにいた。

田あり畑があり、影は呼んだ。

答えはなかった。

また風にあおられ、影は舟のなかにいた。

舟は瀬に、瀬は波にのって、影は海のうえにいた。

岸はなく里もなく、影は動かなかった。

影より濃い闇に繊い月がでた。

「知っているか」

影がきいた。

「知らない」

月はこたえた。

舷を波が打った。

波にきいた。

「知らない」

波もこたえた。

波と月とはひそひそ話し、そして、きいた。

「おまえは、だれか」

影はつぶやいた。

「知らない」

月と波とは、ながいあいだ影のために言い争った。

艫にうずくまり、かたくなに影は黙っていた。

黙って考えていた。

自分は、だれかーー。

どこから来たかーー。

と、舳に男が泳ぎついた。

と、女も泳ぎついた。

舟が揺れた。

波がさわぎ、月がかげった。

むっつり影はきいた。

「どこへ行くか」

「知らない」

男はたよりなく女を見た。

「知らないわ」

女もやるせなく男を見た。

影は、忽然と消えた。

月は隠れ、波も絶えた。

闇の底で男が身じろいだ。

女も身がまえた。

「おまえの子を、生もう」

声は一つに縺れて闇に沈んだ。

舟は、からだった。

からの舟は、あてどない波路の旅をただよい流れて、ある、青い島の、小さな砂浜に打ち上げられた。

浜べの岩に、とうに風にはこばれた影が、満月の光をあびてつくねんと腰かけていた。

「知っているか」

舟と影とは、両方から、同じことをきいた。

「知らない」

そして心細い同じ問いを、寒々と吐きすてるように満月に問いかけながら、舟は、誘う波をおそれ、影は、吹く風に身をすくめた。

月は、うなづき、微笑って、こたえない。

と、波を二つに割って、海のなかから片手に高く火をかかげ、片手に小ぶとりの黒い豚をひいて、男が、浜へ上がってきた。

男のよこには、竹籠や壺をかかえた女もいて、右に、左に、ひきつれた幼な子の、兄はちいさな弓矢を背負い、妹はたわわに稲穂を持っていた。

四人のあとを、美しく毒もつ蛇が、したがった。

男は火を守って家を建て、女は物を納めた。

兄は山に鳥けものを追い、妹は野を拓いて耕した。

影は、形をえた。

舟は、つながれた。

男はハヤト、女はアヅミと名のって、子孫を殖やし、アマ舟は、白銀の月のしずくに身を洗いながら、島から島、浦から浦へ漕ぎ渡った。

 

* これが、私の、「日本」を問うての「日本神話」だ。

2020 3/4 220

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界  二  (七曜)

(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

☆  火

 

女は、事あるごとに男を辱めた。

女は「火」と呼ばれ仕事ができて、男はといえば泥のようにだめな男だった。

火の女が罵りだすと、うすら笑いで肩をすくめ、くるりと背をむけて聞き流した。女は、なかなかの美人だった。

男は夢をよくみた。夢のなかで火の女は水より従順だった。優しかった。男が仮借なく、床のなかで意地を曲げて当たり散らしても、鳩のような目をして女はうつくしい声をあげた。

眼が醒めても男は夢の女のその声を忘れなかった。昼間罵られるのが苦にならなかった。しくじりを重ねては女の燃え熾る怒声を聴こうとした。

ある日も度のすぎた昂った声で女は男の失敗を責めはじめた。はたで聞く耳もしびれ、舌の先がいがらっぽくなった。眉をひそめた。

しかし男は平気だった。ゆっくりふり向いてにっと笑いかけた男は、洒落な調子で言った、やあ、実はゆうべ、君を抱いた夢をみてね、佳かったよーー。みな、くすっと笑った。

泥の男はそれから、意地わるな火の女と顔をあわすつど低声で必ず、前の晩にみたという夢のことを、すばやく囁きかけた。

執拗に、こっそり、狙いを定めて男は女のそばへ寄って行った。人まえでは女と喋らなかった。攻撃してくる時も好きにさせておいた。

しかし、女が廊下へ出ると、追って出て囁いた。部屋の隅で化粧を直していると、なにげなく近づいた。人がいないと、すこし身ぶりまでして、夢でする女のしぐさを、微笑を浮かべ浮かべ、まねた。

男の描写力は妖しいまで、巧緻だった。吐き気とともに女は刺激された。男に寄られると思わず服のうえで胸を隠すようになった。一枚、一枚、着ているものを剥がれてゆくようだった。

それだけではすまなかった。

男の指が、自分のからだに力強くかかるのを、はっきり感じた。

感じ足りないと女は想像で補うようになった。想像のなかでは、男が、見ちがえるほども豪毅だった。剛快だった。

馬鹿、と叫びながら女は夜ごと夢うつつに汗を流した。汗でぬめった肌に男の匂いがかぶさった。

女のほうで、避けるようになった。

男が来ると顔あからめ、あわてて用のない電話をかけたり、忙しそうなふりをした。両の肩がかすかに硬ばって、声もうわずった。

いつか人も、火の女が、消えたように肩をすくめて歩くのをみていた。しかし、だれが女の火を伏せたのかわからなかった。男は、だれの眼にも、あい変わらず泥のような、ぐずな男だった。

男は隙をみつけると、卑屈に背をまるめて女に近づいた。情けなさそうな、さも、詫びるような表情で、うすら笑って女をみた。そして巧みに、じつに巧みに、唾をはきかけるように、ちゅっちゅっと男は囁いた。

負けたわ、と、女はよそから電話をかけてきた、どうにでもして頂戴ーー。

男は口ごもって、それから、はっきり断った。

一瞬戸惑ったような沈黙、のあと、侮辱された女は低声で、鋭く、気違いーーと叫んだ。

気違いにゃ気違いの愉しみようがあるさと、男は笑って電話を切った。男は泥のように眼をとじ、劫火と燃えて罵りつづける女の声を耳の底に聴いていた。

 

* 会社勤めに口やかましい役付きの女性と、ぐだっとした男性の先輩がいて、デスクにいながら二人を見たり聞いたりしているうちに、妄想したつく り話だったが、読み返しても不愉快がよみがえる。この男女の不愉快より、こういう不愉快な話がアララという間に書けてしまう自身に気が滅入った。

泥泥の自身の暗闇に吐き気がした。今もする。

2020 3/5 220

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界  二  (七曜)

(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

☆  水

 

男はあむけに寝ていた。空はきれいに晴れていた。ちぎったような雲が大波にみえ、刷いたような雲は小波(さざなみ)にみえた。

高いところを速い大きな鳥が翔んで行った。たくさんの鳩も、一度、二度輪を描いて翔んで行った。魚みたいだと男は想った。

雲が波で、鳥が魚でーー、すると、あの真っ蒼な天ははるかな水面なんだ。男は波を乗せてゆっくり流れる水面を、気が遠くなりそうにじっとあおむいたまま見あげていた。

男はまた想った。あのきれいに蒼い遠くが水面なら、自分は深い深い水の底に横たわっているのか。そうだと男は自分で自分に返事した。

男は愉快だった気分に、すこし不安なかげが落ちかかるのを感じた。あの遥かな高いところから、どうしてこう深々と沈んでしまったのか。男はしだいに息苦しかった。起った。地を蹴っては腕をあげ、物狂おしく揺った。天は高く高く、眼にしみる蒼さではればれと照っていた。

女が来た。

女は男の話を聴き、うす笑いを浮かべて、面白いじゃない、と言った。男はすこし青い顔になって女をにらんだ。

女は山へ遊びに行きましょうよと男を誘った。山には鏡のように澄んだ深い池がある。池には魚もいる。泳ぐこともできる。女は上機嫌で、笑談らしく言った、水の底がどんなか、あたし魔法を使って、あんたを小石にしてその池に沈めてあげる。

女と男は、それから、山へ出かけた。鏡のような池は、山ふところに蒼空を浮かべて、ひっそり崖のしたに沈んでいた。あれは空を翔ぶ鳥か、水を泳ぐ魚か と、きらきら光るかすかな影を男は指さして女に問うた。女もうしろから覗きこみ、自分でたしかめて来るといいわと笑い声ともども、男を池につき落とした。 男は黒い一つの石ころとなって池の芯をまっすぐ沈んだ。

池の水はそれは澄んでいた。遠い水面が明るく蒼く輝いていた。雲か波か。魚か鳥か。石になった男はやはり分別をつけかねて、じっと、潤んで光る一枚の鏡を見あげた。その鏡を、女の顔が笑ってのぞいているのを、男は遠い想い出のようにつくづく見た。男は女を愛していた。

突如、白く燃えたかげが宙を飛んで、鏡はこなごなに割れた。だが無数の破片はやがてもとの一枚の鏡にみるみるもどる、と、さながら蒼空を舞う天女のように、裸形の女が悠々と、欣然と游ぐ姿をうつしだした。

身に水垢を生じながら、石になった男は池の底からまじろぎもせず、女のまぶしい姿態に見惚れていた。

水の底も住めば天国でしょう。

女は朗らかに笑った。男は女の声を聞いていなかった。

ああ、なんと美しい乳房の、水にさからいつむつむと盛りあげたあの、まるいはずみ。

大粒の真珠を見え隠れに光らせ、しなやかに屈伸する二本の脚のあわいに一条の翳を沈めて、なだらかにふくらんだ双つの丘。

だがーー美しいその裸形に、へそがない。

男のくらい沈黙に気づくと、女は深く水をくぐって池の底から石の男をすくいあげ、そっと地上へなげ返した。

へそなんか、無くてもいいさ。

男は、池の芯へ大声で叫んだが女の姿ははやかき消え、一枚の、天上とも池底とも知れぬ澄んだ鏡が、刻々とひび割れて行った。                                                                    ーー完ーー

 

* 以上「七曜」は、湖の本36『修羅』所収。もともと、長編新聞小説『冬祭り』のロシアの旅の中で、或る不思議な体験に誘われて、語り手が、一週間、毎日旅宿で書き次いで行った、作中作の「掌説」です。

2020 3/6 220

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界  三  (無明)

(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

私の「掌説 無明」各編に、競作で「絵」を描いてみようと思う人はいませんか。(平成十年八月十九日)

 

☆  電話

 

あ…分かった…。

男のもしもしを聞くときまって、それが女の最初の挨拶だった。二十五年電話をかけてきた。いつも男からかけた。最初三年も間をあけた。だから、あ…分 かったはその以後の科白だが、いつ、どこから突然かけても、女は声ひとつで男を受入れた。前置きはぜんぶ省けて、寄り添うほど温かに女からいつも話しかけ た。

「なにかあったの」

「なにもないけどね。そっちはどう」

「変わりないわよ。きのう膳所へ行ってきました」

「お母さんは達者」

「こっちより元気なの。いっしょに石山寺の紅葉をみてきました。すこぅし冷えましたけど、よかったわ。今日は、どこから。大学…」

「ちがう。出張費をもらって、天の橋立の根っこの…松林に在る宿屋です。すいててね。絶景をひとりじめですよ」

「蕪村なの、また。加悦…。それとも浦島太郎の方かな」

「ま、そっちに近いな。元伊勢の籠宮さんの狛犬に逢いたくてね。それと、国宝の海部氏系図がお宮に里帰りしてて、見せてもらえる段取りができた」

「やれやれね」

「なんだい、やれやれってのは」

「よかったわねということよ。それで…あと、京都に寄るの」

「逢ってくれるならね」

「逢ってあげたいわよ、そりゃ。でも逢うとあなた、命がないわ」

「命は惜しいな、まだ。もうちょっとね。やっぱり、やめとくか」

「電話が無難でいいって、いっつも、おなかン中で思ってるくせに」

「それはちがうよ。もう一度でいいから、いっしょにあそこへ行きたいよ」

「言わないでそんなこと」

女は毎度のこと、ここで、しおれた。男はじっと受話器に耳を押しあて、女がひそめた息のしたで泣いているのを聴いた。どっちからも、さよならとも言わず、男が先に、いたわるように電話を切った。

卒業生名簿に、旧姓なにがしの女名前に添えて「死去」とあることを、男は十年もまえ、東京駅の、新幹線ホームへ向かう改札口ちかくで擦れ違った昔の知り 合いから聞かされた。バカなと言い返しかけ、口を噤んだ。数日まえにも電話で彼女と話してるんだぜなどと、それは誰にも、妻にも、言えたことでなかった。 頬の毛のそそけ立つ恐れと悲しみに負け指定席に沈んだが、やがて立って、車内電話から本誓願寺町の女を呼んだ。あ…分かったと例の科白がすぐ出迎えて、

「なにかあったの」と、驚いたふうもない。いつものように、数日まえ話したことさえ無かったかのように、女は次々に話題を追い、笑いさえした。

とうとう男は絶句した。声を堪え、そして、もう一度でいいから、いっしょにあそこへ行きたいねと口にした。「言わないで」と女が声を放った。男は震える 手で受話器を置き、そのまま肩を縮めていた。目の前のベルがすぐ激しく鳴った。受話器から女の声が、こころもち遠く、しかしはっきり男の名を呼んで、

「またかけてね…」と、こと切れた。

 

* 今や言うまでもない、この「掌説」一編は、ごく最近に「湖の本 147」にした私昨秋の「最新作」長編小説『花方 異本平家』に、シンボリックな「前詞」として、やや想と筆とを加えて利用した、往年の一作である。東工大の教授時期にほぼ前後している。

『花 方』も、僅かに先だって書き下ろし出版した千枚の長編『オイノ・セクスアリス 或る寓話』(「湖の本 144 145 146」)も、この老耄の体躯にひそんで生きつづけてきた「少年の憧れと怖れ」とを書いた作であり、書かずにすまなくて書いた。

2020 3/7 220

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界  三  (無明)

(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

☆  卑怯

 

「生きている。だから逃げては卑怯…なんだって」と男は言った。

「それ、なによぅ」と女は長靴のかたちした大ジョッキに、もの憂い白い顔を隠して、「あたりまえでしょ…」

「そうかね。あたりまえかねぇ。…これは歌。短歌の上の句なんだ、ほらここに出ている」

雑誌を見せようとするのを無視し、女は苦そうなビールを、のけぞるほど流しこんだ。

「で、下の句はなんなのよぅ」

「(  )(  )を追わぬも、卑怯のひとつ…」

「なによぅ、それ」と、女は不機嫌に男をにらんだ。手はジョッキから放さなかった。漢字で二字のことばが入っているのだが、「当ててみろよ」と男は笑い声 になった。手をのばして雑誌を奪ろうとするのも、軽く男はかわした。ガラスの靴のジョッキには半分以上ビールがのこって、泡が消えていた。食い物の皿はか らだ。

「当ててみろよ。漢字で二字さ。簡単さ」

「ひとを試験したりして、いやなヤツ…。も一遍、読んでみなさいよぅ」

「読むよ、いいか。…生きている、だから逃げては卑怯とぞ、(  )(  )を追わぬも卑怯のひとつ…。はい、当てろ」

「かんたんじゃない。…(未練)よ」

「ウチのカミさんの説とは、ちがうな」

女は酔いがさめたような吊った目でじろっと男を見た。ガチャと男のジョッキにジョッキを突き当てた音に、近くの客が横目をむけてきた。堅い紙を揉むような乾いた音楽がビヤホールの低い天井をこすっている。

「(未練)なんて…つまらんね」と、男は女のジョッキからもぐように自分のを引き取ったが、飲みもせず、女の目をわざとニヤニヤと覗き込んだ。発作的に女 はハンドバツグからボールペンを探しだし、箸紙の裏にせかせかと大きい字を書いた。モンブランのいいペンだ、うつむいた女の髪のまだ真っ黒に照ってかすか に薫うのを男は意識した。

「なんだ、それぁ…」

「(情夫)ですよ。わたくしニゲませんわよ、もう」と女は、切り口上。

男は首をちいさく揺すって唸った、「あんたが、そんなことばつかうとはねぇ」

女はもともと上手に字を書いた。箸紙のうらに斜めに書かれた「情夫」を、二人は見ていた。もう一度ペンをつかい、女は、横に、ルビかのように「アマン」と黙って書き添えた。男はミルクでも飲むようにぬるくなったビールを、ツーッと干した。

「奥さんは、そぃで…なんてったのよぅ」と、酔ったふりの女は、一つ残った皿のからすみを指でつまんだ。さりげない口を利いてみせているなと男はゆっくり 見極め、催促されるまで、からのジョッキを両手に捧げ持っていた。女の顔がガラス越しに捻れて見えた。カシャカシャっと女は箸紙をにぎりつぶし、「ねぇ」 と声をとがらせ催促した。

「(幸福)…だってさ」

女は硬くなった。息もせず、ホールペンをバッグにしまった。表情が汚れた石だった。

「(幸福)だってさ…」作者の原作はね…とは、男は黙っていた。朝、パンの焦げをナイフでかすりながら、妻がクククと笑みを含み口にしたのは、「(二兎)のつもりでしょ。バカね」だった。

 

* 大学の教室で学生達に答えて貰ったある男性歌人の、いい歌であった。しかしこの一編のはらんだ狂気に似たえぐい苦みに驚く。地獄を覗いて生きていたの か、今もか。身の奥の怖い毒をこうも表して吐瀉していたのか。しかも書き手として、かかる業念の劇に惘れ脅えながらも一編のまとまりをよしと肯いていた覚 えも身内に残っている。

2020 3/8 220

 

 

* 九時半、原稿は順調に書き進んでいる。何故に書いているか、なにを言うべきかだけを置き去りにしてはならない。

取って置きの外国映画盤の一枚に「華氏80度」とかいう、息子ブッシュ大統領ののろまなボケざまを辛辣に暴いた一枚があり、ブッシュのいまいましさに観ていられなかった。日本の映画監督もこれくらい塩辛い批評が描けないものかね。

2020 3/8 220

 

 

* 十時になる。もう床に伸びたい。若菜上のうしろ近く、明石入道から、都で、東宮妃として男子を出産した孫明石姫君と、娘明石上と老妻とへ手紙が届く。 この手紙、遺書とも謂える内容に、源氏物語と「海」との深い縁が語られていて、とても無視ならず興味深い。これは平家物語の「海」とも脈絡豊かな、読み取 りのカンどころ、それがアタマになくては『花方 異本平家』は書けなかった。そのへんを深く示唆されていた佳い文献をよほど昔むかしに読んでいたのを、探 し出してまた読もうとしている。「若菜上」の明石入道と一統のはなし、好きである。そんなのを、昔の灯りで寝て読みたい。

2020 3/8 220

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界  三  (無明)

(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

☆  新年

 

久しく男は見て来た。毎日、ひまにあかして見て来た。そんな男をこころもち拒みたげに、それでも身をよじるでなく、女は、まっすぐ男のほうへ向いてすわっていた。

花柄のパジャマか、着もせずに若い女ははだかの両腋をつぼめ、むきだしの右腕と拳でおしあげるように乳の上をおおって、ベッドに坐っていた。なんて愛ら しい腋の皺だろう。かるく浮いた右膝と臑のほかは、なげ坐りの下半身を無造作に波打たせてパジャマが隠す。はずかしそうに視線はややはずし、きれいに紅い 唇をして女はちょっと笑んでもいる。かすかに覗いた膝うらが艶に翳をふくんで折れめになっている。あの奥ははだかなんだ…と男は想った。

女の、額も頬も鼻もふっくら若い。肩だけ、ややあげた左も、さげた右も、うすく尖って浅い鎖骨を浮かばせているが、項(うなじ)から肩へは澄んだ清い線 になっている。双の瞳も大きくよく光っている。あの手をのけてほしいな…。よく伸びた柔らかそうな左手が右のももで着物をそっと押さえているのだ。髪は豊 かだ、だが長くない。毛さきがふっさりとさばけて、紙シェイドのライトにうす紅く照っている。尻のうしろでピンク色の枕がすこしねじけていた。背中ははだ かなんだと男は想った。桃尻のほそいわれめを想い描いた。女は黙って頬笑んでいた。こらえられず男は両掌をのばした。乳と乳のあいだへくッとパジャマを押 しあげていた女の拳を、掌で包んだ。包んで、掴んで、そうっと拳を手くびごと引きとった。花柄が肌から浮きあがり、鋭く折れた腕のVの字が肘からゆるむ、 と、まさに双璧の乳房はわらうようにまんまるい二つの花と咲いて、ほの紅いちいさな乳首がこころなしツンとかたく見えた。

男はためらわず、膝坐りのままその紅い乳の芯を口に含み、かるく歯をあてた。唇にふれてまろんで、すこし膨らむ。おしひろげるように男ははずむ乳房をま るまると奥深く、まさぐり吸った。あまい肌…あまい香り…。右から左、左から右。男は夢の中にいた。女は右手を膝におとして、じっと動かなかった。

顔をあげ、男は女にキスをもとめた。顔を傾け、女は男の唇をややながくすこし舌をさしこむように吸った。男は女の肩を気づかうように抱いた。肉うすいは だかの背も抱いた。温かいまるい尻にも片手を滑らせた。男も、とうからはだかだった。女はぱっちり目をあいていた。微笑していた。

ありがとう…。男はそう呼びかけ、女から離れた。それからまた何日も何日もそのまま女を見ていた。女は美しい乳を光らせ、やや視線をはずして男のほうを 向いていた。花柄の布は右膝においた左腕へ垂れて、それより下を二重に隠していた。片膝とわずかな臑だけが見えていた。女の乳房も乳首もかすかにあから み、息づかいをじっとおさえて男は目をはなさなかった。もう一息だ…。何百日になることか、やっと女と男とはここまで来たのだ。女は初めのうち、白いなが い服と白い靴とでゆったりと籐の椅子に腰掛けて、膝に赤い鍔のひろい帽子を置いていた。いい女だった。男は女を愛した。なににもかえて欲しくなった。男の 視線に、女はすこしずつ向きを変え様子を変え、いまは接吻もし、二つの乳を揉むも吸うも、噛みつくのすら、男の望むにまかせてくれた。もう一息だ…。

そして、いそいそと男は年始先から女の部屋へまた帰ってきて、あぁッ…膝で崩れた。

悩ましい女の真実馴染んだ半裸の図が、バカげた富士山のカレンダーに換えてある。

役立たずの、妻の仕業!

 

* 皮肉だが男の純情の一面であるのかも。男どもにナイショに尋ねてみたい。

2020 3/9 220

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界  三  (無明)

(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

☆   酔生

 

屈(く)んじて夢を見ていた。だれかに盛んにものを言い返していた。相手は覚えていない。分のわるい口喧嘩の喧嘩の種が何であったやら。それから、急な 坂をとめどもなく駆け下りていた。山坂のようでもあり大きな切り通しのようでもあった。まぶしいほど赤土の照った急勾配の、底がみえない。つんのめって胸 が土にふれそうなまま、ただ倒れまいと駆け下りた。臍がとび出しそうに痛かった。痛くて痛くて目がさめた。横に、はだかの女がいた。うつぶしてよく寝てい た。知らない女だ。夜中だった。

男は起こした半身をまた布団のしたへ横たえた。顔をすこしあげ、女は目もあけずになにか鼻をならした。うす明かりがして天井の高い部屋だ。男は夢のつづ きをみている気がした。手をうごかすと女の腰のへんにふれた。奇妙にまるい角度の誇張された、やわらかいような、こりっと堅いような。こんなモノは部屋の なかになかった…のに。女はかすかに尻をゆすった。自分のものが堅くなり、もちあがる。寝返りをうって男ははだかの女に背をむけた。吸いつくように、手も 脚もみなつかって女が男の背中を抱いてきた。女の毛がしめっていた。うまく手がつかえなくて目がさめた。横に妻がいた。だいじょうぶ、あなたと、半身をお こして男をみおろしていた。いまいましかった。夢をみていたよと男は半分口のなかで返事した。よくみるのね夢を。妻もいまいましそうだった。

台所へいって、ポットの湯で男は即席の焙じ茶をのんだ。テレビをつけると、ガンマンが腰だめに長い銃でだれかを撃ちつづけていた。チャンネルをかえると はだかの女の胸に男が顔を埋めて、女はのけぞって口をあき、とがった高い鼻をふるわしていた。叩くようにテレビを消した。消した。消した。テレビは消えな かった。スクリーンの女と男とは念入りにファックを遂げていき、テレビは消えなかった。リモート・スウィッチをガチャンとテーブルに置くと、男は立って 行って、テレビ画面を拳でなぐりつけた。画面の男ははだかの肩をすくめ背中をまるくして、巨大な尺取虫みたいに女の腹のしたに顔を埋め、呻いていた。女の 両手はそんな男の髪の毛を鷲づかみに、丼のような双の乳を突き上げていた。乳首が親指の尖のようだ。男はキョトキョトと台所中を物色し、なにも見つからず にやにわに椅子をふりあげ、椅子の脚を、体重ごとブラウン管へ突っ込んだ。爆風が椅子を木屑にして吹きとばし、ちぎれた男の首は血みどろに壁に穴をあけて 隣家の小屋根まで飛んだ。

ぎょろりと目をむいて目がさめた。男は湯槽のへりに頬をおしつけ居眠りしていた。脱衣場で、カセットテープの落語がまだ話していた。志ん生の粗忽長屋の 中途だった。浴室に入るとすぐこれで笑い、次に厩火事で笑って、鮑のしの中途でうとうとしだしたんだ、そうそう、知恵をつけられて嫁取りの祝いにまたして も鮑を大家のところへ持ち込み、啖呵を切ろうと、すればするほど與太のヤツのモタついていたのを男は思い出した。志ん生はうまいや…。

浅草の行倒れの死体を引取りに、死体の当人はてめぇだときめつける長屋の粗忽者と、死体はおれかも知れないと思いかけた熊公とが、現場へかけつけた。底 抜けにばからしく、そのため変にぶきみに、名人芸は調子に乗っていた。自分の行倒れの死骸をよっこらと抱き上げた熊公の、抱かれてる死骸と抱いてるおれ と、どっちがおれなんだぁ。……。男は、漬かっていた湯が一瞬に氷水に冷えてはだかの自分を圧し殺すと思った。悲鳴をあげ、男は目がさめた。どこなんだ… ここは。

男は、もう「どこ」にもいなかった。「ここ」は「どこ」でもなかった。

* 自身の現実を見失いそうに不安な心持ちで自分自身に惑っていたか。それでも立ち直ってきたのだと思う。

2020 3/10 220

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界  三  (無明)

(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

☆   星空

 

寒かった。男はほそい襟を立て首をちぢめていた。行くアテがなかった。叩けば音のしそうな星空だ。月はなかった。家ひとつなかった。

男は妻子を殺してきた。殺す理由はなかったが、刃物が目に入り、手にとった途端に殺意に満たされた。妻は、やっぱりという顔をして薄わらいしながら殺さ れた。白い喉のわきから血飛沫(ちしぶき)が壁を染めた。三つになる男の子は逃げ場をもとめてキョロキョロした。太い一の字を書くように男は力まかせに子 の胸を薙いだ。赤い口をいっぱいあいて、男の子は最期の息をした。ちいさな掌がなにかを掴もうとひくひくした。男は刃物を手から放し、家を出た。なぜだ か、ひどく眠かった。だが眠い以上に寒かった。戸外は、凍った無数のさながら針の束だった。身をもがくように男は天を仰いだ。天はなにも言わなかった。

男は歩いていた。歩いていた。ただ歩いていた。歩いていた。星が瞬(またた)いた。天にも地にも瞬いた。いつからか男は足下に踏むべきなにもかも喪い、ただ歩いた。歩いていた。

妻を愛していた。子煩悩な父親だった。暮らしに痩せ窶れたりもしていなかった。なぜ殺したろう。ようやく男はそれを思っていた。思い当たらなかった。

うしろから男は呼ばれた。妻が走って追ってきた。子供もおぶっていた。父親をよぶ男の子の声が、綺麗なガラスが割れるように朗らかだった。殺してなかっ たんだ、男は歩をゆるめ、それでも前へ前へ出ながら頷いていた。妻も子も殺してはいなかった…。母親の背を離れ、うしろから駆けながら抱きついてきた我が 子を男は掬いあげるように高くさし上げた。子供の胸が、斜めに太い一の字にざっくり裂けていた。しろい細い肋の骨が肉といっしょに砕けていた。ふりむいて 見た妻の喉のわきも、骸骨の目ほど刃物のあとが口をあいていた。妻も子も、だが、そんなことにはお構いなく、いつものように喋ったり黙ったりして男といっ しょに歩いていた。山も野も川もなかった。星ばかりがぴかりぴかりと大きく瞬いていた。

「おとうちゃん。寒いね」と男の子は言い、声はさほど寒げではなかった。「もう大丈夫よ」と母親が答えた。なにが大丈夫なんだろうと男は思った。自分が声と言葉とを喪っていることに男はやっと気がついた。

この前の前の前の世に生まれたとき、男は女だった。子供を二人産み、姉娘はめくらで弟息子はおしだった。娘の父も息子の父も、濃い煙のように女を息苦し くさせ、風に運ばれ消え去った。女はめくらの娘に笛吹くすべを教え、おしの弟に鼓を打たせた。母はいい声で歌をうたった。河原は寒く人はなかなか寄らな かった。三人はつむじ巻く雪風にあおられて高い崖から抱き合うて海に落ちたが、母ひとり死んで、子の二人は笛を握りしめ鼓を抱きしめて助けられた。めくら の目はあき、おしは口が利けるようになっていた。姉は長者の妻になり弟は長者のあととりになった。死んだ母親は馬に生まれ、長者の家で迫めに迫められこき 使われて、前世の子供たちよりさきに死んだ。

ーー男はいつのまにか馬になって、妻と子を乗せ、歩いていた。ひりひりほ、ひりひりほと妻が笛をふきはじめた。男の子はぽんぽんや、ぽんぽんやと鼓を鳴 らす。馬はすこしうなだれ、膝をこっぽり上げては空(くう)を踏んだ。行く手で大きな大きな光の輪がとめどなく膨らんだり縮んだりしていた。

殺したのか殺していないのか。馬になった男はまだ考えていた。ひりひりほ…ぽんぽんやと、大きなまぶしい星にのみこまれても聞こえていた。

 

* 印象に濃い一編だった。在るとも無いともいう世界が凍てて寒い星空というものになって実在した。夫婦親子とは、こんな寒い世界を「ひりひりほ ひりひ りほ」「ぽんぽんや ぽんぽんや」と囃し囃され、どこにも無い高い空を橋のように渡り続けているのか。寂しいとも嬉しいともなにも思い寄らなずに。印象に濃い一編だった。

2020 3/11 220

 

 

* 熱々に仕事の内、掌中のネズミ君、酷使を憎んでか、働かず。やはりネズミ君との久しい付き合いに馴染んでおり、不便この上なく。で、暫時、成嶋柳北の 「全集」を拾い読み、大方が漢文ないし漢文体の饒舌に近い雑談雑話、これが面白い。明治の人はこんな文や語りが分かって読めたんだと感じ入る。柳橋新誌も 雑談集も紀行のそれぞれもバカにおもしろいけど、誰がいま好んで手を出すだろう。美術骨董は千年にも堪えるが文藝話藝の殆どは灰と化して失せる。潔いではないかとでもガマンして、ま、好きに書き続けるだけのことよ。けど、成嶋柳北、おもしろいですよ。コピーしたいけど、和紙を和綴じの和活字、わたしのブリンタはマックロにしか写し取ってくれない。

2020 3/11 220

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界  三  (無明)

(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

☆   自分

 

湯につかってテープの落語を聴くのが、男の、じじむさい趣味だった。

いい咄家は、みんな死んじまってよぅ。小さんぐれぇかな。小三治も志ん朝ももひとつだし…サ。今晩は、小さんの「粗忽長屋」でばかばかしく笑っちゃお。 聴いてて寝ちまうかもしんねぇ、そいでもいいけどさ、長い咄じぁねぇんだ、重ね枕ってナぁ、いけねぇナ。小さんのも、掃除したての土間から独り者の熊公が 「このアカっ」と赤犬を追っ払ったのを、一つ長屋の粗忽者が「このカカぁッ」と聞いて仲裁に飛び出す辺で、間がのびてる。前の枕に、カブッちまってる…… 男は、湯を、鼻さきでボチャと爪はじいた。

目玉がかるく痛むほど急に眠くなった。咄はここからなんだ…、が、眠い。で、肩まで沈んだ。小さんの声が湯気をふくんでまるくなり、重くなり、遠のいて…、何だ…。行き倒れをかこんだ人の輪が、もやもやッと目に見えてきた。

何でぃ、何でぃ、みんな死んだおれッちのことを見てやがら、ちぇッ。行き倒れの死骸になって、けれど男は目をあいて、人だかりを睨んだ。留さんとかいう 世話役の男が汗だくで、死人の顔見知りが群れた中に誰かいねぇか、ちぇッ、呼ばわってやがら…。オヤぁ人のまたぐらを潜って、長屋の八兄ぃじゃねぇか、間 抜けな面で輪ンなかへ這い出てきゃがったぜ…やいやい俺だぜ間抜けメ、何グズついてやんでぇ。男は、死んだ目をぎょろりとむいた。凄ぇ凄ぇと、人だかりが また騒いだ。八兄ぃも目をまるくした。

あれれ、てめぇは、熊じゃねえかよ。

やっと分かったのけぇ、ちぇッ、いめいめしぃ愚図だぜ。

男の毒づいたのも聞こえないのか、八っあん、尋ねる留さんにむかって、こいつぁ同じ長屋の熊五郎ってやつでさ、おれッちとは、生まれた時ぁべつべつで も、死ぬ時はべつべつって仲の、でぇの仲良しだぁねと見えを切った。親きょうだいは。「いねぇ。」かみさんや子供は。「いねッ…」そぃじゃ死体の引取り手 は。「いねぇナ」で、留さん弱っちまって、八っあんに引き取ってともちかけた。そうしてくんな…。死んでいる男も、そう八っあんの顔を見て言ったのだが、 なにを勘違いしたか八っあんは、自分がそんな勝手な真似をしてあとあと恨まれちぁかなわねぇ、それよか、「長屋ぃ帰って、当人を連れてこようじぁねぇか。 当人が当人の死体を引き取るッてんなら、文句はあんめぇしさぁ」とバカを本気で言いはじめた。

弱るな、この人ぁ。留さんはあきれ、みんなも笑う。男もイヒヒと笑った。八っあんは、はじけたように飛んでってしまった。

男はいつ自分が行き倒れたか覚えてなかった、が、留さんは昨夜からここにと言い、八っあんは、俺ぁ熊の奴たぁ 今朝も会って話してんだから間違ぇッこねぇと「当人を」連れに長屋へ帰った。弱ってる留さんと男の死骸をかこんで、野次馬はなりゆきに散りもやらず、輪の まま騒いでいた。弱るな、あの人ぁ。留さんはまたぼやき、男は行き倒れの格好で寒くなってきた。俺は左官の熊のはずだが、その熊がなんで八公の長屋に死に もしねぇで生きてるんだ。そぅいや、たしか昨夜は飲んだくれて、この辺まで来てた気もしないじゃねぇが、そのあとで行き倒れたやら夢うつつに長屋ぃ帰った のやら……だけどこう死んで人に取り巻かれてんだから…。嫌だ、嫌だ、よしちッくれ。男は吠えて人を呼んだがだれも気づいてくれず、気味悪そうにただ男を 見ていた。

エイ、のけやぃ、のけやぃ。八兄ぃの盛んな声のうしろから、ヤイヤイヤイ俺めッ、なんてッて俺に黙って行き倒れになんかなりやがんでぃと、てっきり自分の顔が、死んでる自分の顔をぬうッと覗きこんだ。

 

* これは私の純の創作とは謂えない。一時期、圓生の百番を繰り返し聴き、うまい落語なら繰り返し聴いた、と、言うことは、つまり圓生と志ん生、せいぜい 小さんぐらいにしか耳を傾けなかった。この咄、無気味におもしろく、自分とは何かと考え込んで、東工大では教室でこれを学生君らと聴いたこともある。

2020 3/12 220

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界  三  (無明)

(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

☆   逐電

 

背がすこし低くなった気がした。なさけないな。男は唇をとがらせた。赤と濃い藍とがまじった胸の白い小鳥が、木にきて羽をならした。鳥になりたいよ。男 はうっとりと小鳥をみあげた。男は雀になった。小団扇ほどある緑色の丸い葉をゆっくり揺らし、鳥のことばで男は、もう一羽の鳥にたずねた。小鳥はこたえて くれた、鳥になりたいなと思ったら小鳥になっていたの。

「なんで、そんなことを思ったんだい」

「地べたばっかし歩いてて、イヤんなったの」

「どこから来た」

「川向こうよ。妹の結婚式だったの。なんだかイヤんなったの」

男はそれ以上聞きたくなかった。女の鳥もそれだけしか言わなかった。きれいだけど、何という鳥なんだろ。自分が雀であることに男は安心し、ちょっと物足 りない気もした。しばらく枝の上と下とで黙っていた。木のしたへ、鶏冠(とさか)の高い鶏が餌をついばみにきた。この鶏も、やっぱり人間の男がなりたいと 思って鶏になっていた。

「なんで翔べる鳥にならなかったんだ」と雀の男がきいた。

「人間よかましだと思ったのさ」と鶏はこたえた。

「この家の人だったんでしょ」 きれいな鳥の女も口をはさむ。

「ああ、そうさ…」あそこで、ホラ、若い女のまえで腰をまげている気の弱そうな作男がいる、三十年もいるんだ、あんなふうにだ、あれがオレだよと鶏はわ らった。鳥に化(な)っても、自分は自分でいままでどおりと知ってしまい、きれいな女の小鳥と雀の男とは頸を垂れた。鶏は行ってしまった。小鳥も翔んで いってしまった。男の雀は、鳥になんかなってみても、どうにもならんと、しかし人の耳にはただチュンチュンと鳴いた。鳴き声に、家から男の児が出てきてパ チンコで雀を狙い撃ちした。羽をかすって礫(こいし)がうなった。男はたまげて翔んだ。

男はこの日、女房とささいな言い合いをして言い負かされた。落語を聴いていたのだ。

ーーけちな旦那の若旦那が気を病んで死にかけ、旦那に頼まれた番頭は、気の病で蜜柑を食いたいというバカな話と分かって、安請け合いした。だが真夏だっ た。旦那は請け合ったからはきっと蜜柑を手に入れてこい、手ぶらで帰って倅が死んだなら、主殺しで「召し連れ訴え」して、磔(はりつけ)にしてもらうと番 頭を脅した。

八百屋という八百屋でコケにされたあげく、知恵をつけられ問屋街を探し歩いて、やっと一軒の店で、在るには在ると思うがこの暑さ、さぁどうだかとものの 奥を探してもらって、たった一個だけ見つかった。値段は、千両と。あのケチな旦那がとこわごわ訊きに帰ると、一人息子の命の値段、安いものだと千両箱を預 けられた。

若旦那はよろこんで、たった一個の蜜柑の皮をむく。皮だけで何両したかと番頭、溜め息が出てしかたがない。蜜柑は十房あって、一房、百両。それを若旦那 は一房一房食っていき、番頭はあぁ五百、あぁ六百両と眺めていた。来年には暖簾分けで店をもつが、三十年汗を流してきて三十両も旦那から出るかどうか。そ う長嘆息の番頭に若旦那は、残った三房の蜜柑を、一つはおばあさん、残る二つは両親にあげておくれと言いつけた。番頭は、三百両の蜜柑をもって逐電し たーー。

夫婦であははと大笑い、だが笑いはすぐ凍りついて、女房は男を罵りだした、あんたって人ぁ、この番頭の生まれ変わりじゃないのさ!

 

* 題は、「鶏」でもよかったか。あれになりたいと「想ったら」それになれる、なんて怖いこと。

2020 3/13 220

 

 

* はやく寝に就いたが左にかすかに頭痛あり、夜中ロキソニンを服し、よく寝て、気付いたら十時半、驚いた。熱はないがアタマ(髪の毛)の違和は残って、胸もかすかに重い。風邪を引きこむまいと用心している風邪のようでもない。

 

* 頭痛はあるが、『選集 33』最終の辛抱仕事になる「全書誌」追加の仕事へとりついた、創作・エッセイを区別無く追い始めたのが第百一巻の長編小説 『凶器』から。以降少なくも第百五十巻までを詳細に精確に原稿に仕遂げねば。ま、幸いといっておくが、版元をもった刊本はたぶん平凡社新書の『京のわる 口』だけだろう、これは簡単に追加が利く。辛抱仕事は辛抱すれば成って行く。辛抱も、その気で楽しめない物ではない。

2020 3/13 220

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界  三  (無明)

(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

☆  当尾

 

手紙を書きたくなった。誰の顔も、名前も、思い浮かばない。眉をひそめ、男は一度持ったペンを置こうとし、置かなかった。

逢いたいのです。ーーあいさつ抜きに男はそう書き、書いた字に恥じて細い息を吐いた。一瞬目をとじた。

どこへ行けば逢えるのでしょう。逢いたいのです。どこへでも行きます。ーーたてつづけに男は書いた。ひとり住みのがらんどうの壁を、小さい黒い虫が稲妻のように折れ曲がり折れ曲がり這いおりていた。

十年になります、いつか逢える、逢いたいと思ってから。十年、ここで待っていました。待っていても逢えない…。男は書きながら、同じ言葉をつぶやいた。

ーーどこへでも行きます。逢いたいのです。でも…、だれなのですか、わたしが、こんなに逢いたいあなたは。

男は耳をすました。いつもの、失望と孤独とを配達するくるまの音が近づいて、去って行った。いつもとおなじ、では、だが、なかった。郵便屋はいちど停まって行った。

女手らしい墨の宛名が自分のだと、男にはなかなか信じにくかった。自分の名も忘れていた。差し出しの氏名はなかった。遠い西の、なんの馴染みもない町 の、記憶もないまた字名(あざな)があまり奇妙で、男はおもわずふくみ笑いをした。ふりがながしてあった。大字「当尾(とおの)」字「尻枝(しれえ だ)」ーー。封筒の中は、からだった。一枚の紙きれも入っていない。書きかけの手紙といっしょにポケットにおしこみ、男は、腰をあげた。

 

バスを降りると山の上だった。相客がふたり、口々に下車すべきはもう二つ先だと教えてくれたが、礼を言い男は降りた。足のしたから山風が渦巻いて立ち、 道ばたの葛の葉がめくられたように茎ごと浮いてさわいだ。なんで降りたかったか、分からない。逢いたいのです。どこへでも行きます。枯れ葉の椎に巨大な松 の木がかぶさり、梢の奥で綿の雲がひかっていた。「峠」という文字を、傾いですこし錆びた停留所の札に男は読んだ。膝のうえを軽くはたくと、そのまま男は 葛の葉を踏みしだきバス道からわきへ、繁った山はらへずり落ちて行った。鞭でも振るように、木の闇の底をたぎつ水の音がしていた。

木の室(むろ)になって、崖に棚が出来ていた。狭い岩棚だった。男はころげ込んだ。つるりと一つ平たい岩が頭をだし、赤土が匂った。棚から覗くと、薬研 (やげん)の底のように山水が磧(かわら)をえぐっている。男は山はらを細く巻いて断崖を横伝いに、うつろな眼窩さながらの横穴に誘いこまれた。穴は深げ に、妙にほの白く、奥から風がうごく。からの封筒と書きかけの手紙とを掴み出して男は洞のなかへ力まかせに投げ込んだ。

おいで、ぼうや。

ーー男はためらった。おいで、ぼうや。ーー逢いたかった人の声がまた呼んでいた。いいえ。ここへ出てきて下さい、と、男は、自分でもびっくりするほど静 かな声を出した。ちょっと間があった。それからかすかに地を擦る音がした。背の青いきれいな細い蛇が洞のなかからあらわれて、岩棚のいちばん高い場所に音 もなくゆるい輪になって男をみた。

母は、男をこの洞で生むと、男の父の迎えも待たず、ひとり先に死んだ。父はまだ臍の緒も切れぬわが子を、年うえの女を拒んでゆるさぬ自分の親の家の門外にすて、行方しれずに失せた。容赦なく男も祖父母に棄てられたーー。

ぼうや、お行き。死ぬために生きるのはつまらないよ。

男は頷いた。母の蛇は身をしなわせ、渓あいを矢となって虚空に消えた。

 

* この一作はいまでも うら哀しくわが胸を打つ。題の「当尾(とうの)」は作者私の父方実家があった、いまもある南山城の地名、石仏が多く、村内に名高い 九体佛の浄瑠璃寺がある。母は父に捨てられ父は私を捨てた。私は一度だけ、事実、バスを峠でひとり降り、歩いて、父が逐電したという大きな祖父の邸を訪れ たことがある。母ははやく死んだ。父も死んだ。父の葬儀で父の親族は私に「弔辞」を強いた。

『生きたかりしに』と、母を長い小説に書いた。いま、父の「敗 戦」を書いてみようと用意している。

2020 3/14 220

 

 

* 「方丈」と、張即之の二字が顕れると、きりっと引き締まる。

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界  三  (無明)

(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

☆   桜子

 

能一番が見ていられなくて、男はよく眠った。鼾が気になった。それでも負けた。睡魔の誘惑は美しい極みで、舞台のシテがその睡魔人であるかのように、男 は、うっとり性根をとられて行くのである。演能にささげる最上の頌辞かのように男は寝入った。目をあくと、寝入るまえのままにシテは舞いつづけたり佇ちつ くしたりしていた。笛も、鼓も、さながら媚薬のように男を誘い、夢中の人にしてくれた。

その日の能は「櫻川」だった。人買いに奪われた子を慕う母なる狂女が、シテであった。散る桜を川波に網で掬う舞いあそびに、惜春の花の色が匂う。母を 慕って狂う子はいないのに、「隅田川」でも「三井寺」でも、うしなった子をたずねては、母が狂う。狂う母がなんでこんなに美しいのか、男は自分を生んだ見 知らぬ母のことを想像し、おなじ泣けるなら夢のなかでわが母と出会って、いっしょに泣きたかった。だが、これまで、何度「櫻川」をみて眠っても「三井寺」 をみて眠っても、一度も母の夢を見なかった。母の顔を男は覚えていなかった。覚えているのはもっとべつの顔だった。

ほどよく目覚めて、男は、舞台の狂女がわが子と再会の場面を、ぽっちり目尻に涙をためて見届けた。シテの黄色い装束が桜子を抱き寄せて、うつつの夢は羨ましいまで美しかった。三役も退き見所にいい拍手がわいていた。そっと男は眼鏡をとって、目をぬぐった。

しつれいですが、と、隣の女客に名を呼ばれた。

「鼾を、かきましたか」と男は恐縮した。きもちよくおやすみでしたわと、皮肉でなく和服の似合った人に、慰めるように言われたのだ。たまに会報などのは しに解説めく文章など書いている名前と知っての挨拶であった。少々男は恥ずかしかった。能を見ながら眠るのは功徳なんだとわけ分からぬ寝言も書いたことが ある。照れて、逃げようとした、だが逃がしてくれなかった。若い、四十にはまだ幾つも間のある、眉のきれいな女だった。狂言ともう一番の能は失礼するつも りだと言うと、わたくしもと女も椅子席から腰を浮かした。

能楽堂をでると、針をまくような雨だった。「矢来の雨はふりやまず、か」と、男が能楽堂の名前にひっかけ呟くと、女は朱い傘をぱちんと音をさせ開いておいて、タクシーを片手でとめた。袖をぬけた手首が白かった。乗ってしまうしかなかった。

女はだれと名乗るのも忘れていた。忘れたふりをしているのかも知れず、男はどうでもよかった。ひとこと行き先を告げたらしく、それきり女は行儀よく黙っ ていた。男も黙って前を見ていた。雨は勢いを増して、いっとき、どこを車は走っているのかも男は見失っていた。濠端だと思ったが川のようでもあった。「櫻 川」ですかと冗談のつもりで言った。「わたしが、桜子です」と女が名乗った。冗談のようでもなかった。はぐらかしたかった。「サクラコ…さんか…」だと、 お母さんは木花咲耶姫でしょうと愛想を言った。

「そうよ」とすかさず膝でにじり寄られ、そのとき男は色めき、そして悲鳴をあげた。若い女の向こう隣で、むかし棄てた女が、能面のように男を見ていた。年老いもせず、なんと…小蛇を髪の上でとぐろまかせ、満開の花の枝を刃さながら胸のまえに立てていた。

「お父さんは、お母さんのおなかの子を疑ったでしょう。一度の愛で孕むものかと。あなたのお母さんも、同じことを言われ、独りであなたを生んで死んだんだわ、知らないの」

お父さんは卑怯よと桜子は泣いた。いちめんの桜の馬場だった。桜子の母も男の母も花に霞んで姿を隠していた。男はふっと目覚めた。子方の桜子が今しも舞台で母御に抱かれていた。

 

* 何とも謂えない重石を引き摺り生きてきたかと憮然とする。敢えて言い替えれば「櫻子」のような子に顕れて欲しかったのか、「清経入水」や「冬祭り」このかたおなじような事を書いてきたと気付く。

2020 3/15 220

 

 

* 冷え込む書庫にいて、懐かしい一冊『古事記』を見付けた。此の本そのものでは有るまい、後年に懐かしく古書店で買ったのだろう(昭和十三年十二月一日 五版発行の定価八十銭とあるのを古本通例の鉛筆書き頒価は「30円」とある)が、間違いなく、私が国民学校一年生を終えて二年生進級への春休み中に、何用 あってか父に伴なわれ木津川ぞいに担任だった吉村初野先生宅を訪れての帰り際、先生手づからお土産に下さったのと全く同じ一冊、『昭和七年(一九三二)八 月に「文部省」が出している。(十二篇中最初の一巻に相違ない。)

「緒言」を此処に持ち出しておく、と思ったが紙も活字も「劣化して」か機械が受け取ってくれない。しかし書き写してみる。

 

☆ 緒言

過般の欧州大戦乱世界人心の上に未曾有の動揺を経験せしめた。此の間に在つ我が國民も亦思想上堅実を缺くものあるを示すは、邦家の為洵に憂ふべきことである。

此の時に際し国民精神を作興して皇國の丕基を鞏うするは刻下の急務にして、之が方途は諸政に亘つて頗る多端ならんも、深く古を溫ねて道を明かにし、肇國 の精神を不抜に培ふことは流弊の源を治る所以である。この意味に於て我が古来の文献中、特に愛誦すべき十二篇を擇びて日本思想叢書と名づけ江湖に薦む。

本篇は学習院教授次田潤氏に委嘱し、原文校訂編の外之れに解説を試み讀誦に便ならしめたものである。  昭和七年八月      文部省

 

* 企画と刊行は第一次大戦後にあたり、「此の間に在つ我が國民も亦思想上堅実を缺くものあるを示すは、邦家の為洵に憂ふべきこと」とは、軍国化して行く日本を承服しない勢力を見ているのだろう、当局官憲の思想と団結への弾圧はとみに嶮しくなって行く時期に当たっている。わたくしはそういう皇国を背景の警察国家をまったく支持しない、今も。

それにも関わらずこの先生に戴いた『古事記』は、まさしく生涯で強いて一冊と限られればこれを挙げるしかないほど愛読しまた愛読してほぼ諳誦したに近 かった。私の「國史(歴史)」好きはまったくこの一冊『古事記』により醸成された。国民学校一年生で読めたのか。らくらく読めたのである、この次田潤教授 の一冊は、「古事記解題」「古事記序解釈」についで「古事記 上 中 下巻」の「口語訳」で出来ていて、さらに全三巻「古事記」の「直訳」も揃っていたの である。私はいわば「神話」語に寄って先ず日本の古典語へ近付いたのだった、ほぼ諳記していたから、国民学校二年生の教室で「だれか、お話しをしてごら ん」と先生に望まれればいつも即座に教壇へ出て「神話」を「お話し」したのだった。

わたしは兵隊嫌いの戦争嫌いで 軍国主義をなんら望まなかったことは生涯の処女作小説が「徴兵忌避」の白楽天詩によっていた通りである、が、「古事記」 神話をいささかもウソだアリエナイという調子で侮蔑しなかった。現在只今の思い出もあるが、どこのどんな「国民」も自身の「神話」を愛して自然当然とわた しは自覚している。ギリシャ人もローマ人も自身の言葉で語りつがれた「神話」を軽蔑などしていない。神話への自然な国民愛と軍国支配主義・帝国主義とはイ コールでなく、ただ悪しき政治支配の思想が「悪用」したに過ぎない。

 

* いい本を買い入れておいたと、わたしは今この古色蒼然、表紙も反り返った古書を慈しむ目で手にしている。「お正月」の唄が好きだった。「今日のよき日 は大君のうまれたまひしよき日なり」という天長節の唄は全校合唱の中でむにゃむにゃ云うていたが、紀元節の「雲にそびゆる高千穂のたかねおろしに草も木も なびきふしけん大御代を」と唱うのは、神話の範囲内と詞も曲も容認して唱っていた。私は、国民が独自の神話をもって愛するのはなんら咎める気がない。

 

* 私は、真夜中眠れないと、よく唄の歌詞を思い出している。流行歌は、ない。子供の頃の唄か、白状すると、金鳶輝く日本の栄えある光り身に承けて」とい うあの忌まわしくもある「紀元は二千六百年」の歌ではなく、「見よ東海の空明けて 旭日高く輝けば 天地の生気溌剌と 希望は躍る大八洲 おお晴朗の朝雲 に 聳ゆる富士の姿こそ 金甕無欠ゆるぎなき わが日本の誇りなれ」という富士讃歌 これは、八十余歳になってなお、少なくもこの一番に限ってはこれこそ 国民国歌にしてオリンピックでもせいぜい唱って欲しいと思うのである。「富士山」が嫌いな人に出会ったことがない。「君が代」より盛大に晴れやかではない か。私は国際社会にあって日章旗は必要と思っているし、国家には「君が代」「や「さくらさくら」のなよびかなのより、「おお晴朗の朝雲に 聳ゆる富士の姿こそ 金甕無欠ゆるぎなき わが日本(国民)の誇りなれ」が、格別に元気で相応しいと思っている、悪用する政治を断乎斥けねばならぬのは、何事も然り。

2020 3/15 220

 

 

* 「方丈」と、張即之の二字が顕れると、きりっと引き締まる。

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界  三  (無明)

(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

☆  来客

 

ちいさなノックの音に、立って、ドアを引いた。色白な、はにかんだ顔が、髪の毛といっしょに傾いて、ほのぐらい廊下を背負っていた。お入り…。すみませ ん… と、小声で入って来た。工学部の「文学」教授室に招じ入れてもらって学生の発する挨拶は、「すみません」と「有り難うございます」と「はい」か「はぁ」か で、「すみません」は、アガッている初めての子か、新入生だ。真新しいすこし裾ながなワンピースに紫のこまかい花柄があるなどは、まちがいなく入学式に出 たばかり、それも地方から一人で出てきた子だ。男が十何倍もいる理系の大学なのだ、十日もせぬうち、ジーンズの上からしろいシャツを垂らしてベルトを巻 き、ズックを履くだろう。

お座り…。玄関番よろしく教授机はドアの近くにある。奥寄りに、こましな塗りの卓をおき、ソファで向き合えるようにしてあるが、学生と向き合うのは避け、いつも机の席から応対している。学生もその方が気楽でいいという。

「藤ちゃん…だね」

「はい。長沢藤子です。はじめまして。母が、よろしくと申しました」

「入学おめでとう。えらかったね、現役だもんね」

右の目尻に、耳のほうへかすかにそばかすのあるのが母親と同じだ。前期試験に出てきた日はその母親も東京へ付き添ってきていたのは知っていたが、朝早か ら試験監督に動員されていたし、受験生の気を散らしてもと、逢わなかった。藤子の生まれるころから逢っていなかったが、縁切れになっていたわけでもなく、 著書はとぎれず送っていた。手紙ももらっていて、娘が建築科志望で、できれば「おじさん」のいる国立に行きたがっていると告げられていた。

木津からなら京大が近いよ、東京へ手放すのはさびしくないですかと型どおりな挨拶はしていたが、藤子を見てみたい気も無くはなかった。ひょっとして…と も思うのである、母親の豊子が一切口をつぐんでいるのだから、ま、それに甘えて無事に来は来たのであるから、結局、何ごとも無かったものとしてこのまま行 くことになるだろう、豊子はそれでもいいとして、藤子はどうか。何か考えているのかしらんと、しかし、それも、藤子に聞いて確かめたいといった胸の高ぶり は無かった。

「建築は人気の高い学科らしいよ、ここへも、何人もはなしに来る先輩がいますよ。あんたも来るかな、これから」

「来ないかもしれませんよ」

思わず笑いかけた。笑ってしまった。木戸豊子の口ぐせがそんなであった。「行かないかもしれないよ」「買わないかもしれませんよ」「そうしないかもしれ ませんよ」などとよく言った。京都での取材や対談の仕事をすますと、気晴らしによく寄る昔なじみの道具屋に手伝いに来ていた親類の娘だった。

親の家は木津の炭屋だった。炭ではもう立ち行かないのと、近隣に開発都市ができるというので商売替えを考えていた。豊子は私立の大学へ通う足 場に京都新聞社にちかい親類の道具屋を借り、そのまま店番に居着いてしまいそうな、そんな頃に初めて口を利いたのだが、豊子には、木津で親たちも気乗りの 縁談があった。相手は家の近くの宮大工に勤める若い衆だといい、その相談にのったのが…、どうも、いけなかった。

嫁ぐ直前にも豊子は東京へ家を抜け出すように出てきて、逢って行った。最後の忍び逢いであった。

ーー藤子は五分あまり座っていた、が、ただ丁寧にお辞儀をして、出て行った。

 

* こういう夢を夢見ていたのかも。フイと、娘(らしき)がある日訪れ来ないものかなあと。あり得ないから、夢と謂うのだろう。

2020 3/16 220

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界  三  (無明)

(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

☆   恋慕

 

逢ったことのないあなたが、どこにいたのか気がついたとき、わたしは、飛ぶ車をもたない自分にも気がつきました。なんと遠い…。あんまりにも、遠い遠 い、あなた。逢いたくて、逢いたくて。銀河鉄道の切符を買おうとしたのですが、あなたの所へは停車しないそうで、がっかりしました。

あれから、もう千年経っているんですね。

昼過ぎての雨が夕暮れてやみ、宵の独り酒に、心はしおれていました。下駄をつっかけ、わびしい散歩に、近くの大竹藪をくぐるようにして表通りへ、いま抜 けようという時でした。東の空たかくに、白濁して歪んだ月がふかい霞の奥に、とろりと沈んで見えたのです。月が泣いている…。そう思いました。そして、 はっとした。泣いていたのは、かぐやひめ、あなたでした。天の使いの飛ぶ車で、月の世界へ羽衣を着て去ったあなた、あなただ…と分かった。

わたしは、あなたを、血の涙で泣いて見送った竹取の翁と姥との血縁を、地上に千年伝えて、いましも絶え行く、ただ一人の子孫です。もうもう、だれも、いない。妻も、また、子も、ない。

いま虚空に光るのは、三日の月。あぁ…待っていて、かぐやひめ。今宵私は高い塔の上に立っています、手に縄をもって。この縄を飛ばし、 遙かあなたの月に絡めてみせましょう。力いっぱい塔を蹴り、広い広い中空に私は浮かんで、縄を伝ってあなたに、今こそあなたに、逢いに行きます。縄を伝 い、あなたもわたしを迎えに来る。ふたりで抱き合って、一筋の縄に結ばれ、あぁ堅く結ばれて、天と地の間を、大きく大きく揺れましょう、かぐやひめ…。

 

また男がひとり死んだ。千年のあいだに、数え切れない男がわたくしの名を呼んで虚空に身を投げ、大地の餌食となって落ちた。やめて…。わたくしは地球の 男に来てもらいたくない。だれも知らないのだ、わたくしが月の世界に帰ると、もうその瞬間から風車のまわるより早く老いて、見るかげなく罪され、牢に繋が れてあることを。「かぐやひめ」という名が、どんなに無残な嘲笑の的となって牢の外に掲げられてあるかを。

牢には窓がひとつ、はるかな青い地球だけが見える。わたくしが月を放逐れたのは、月の男を数かぎりなく誘惑して飽きなかったからだ。地球におろされて も、わたくしの病気はなおらなかった。何人もが命をおとし、何人もが恥じしめられ、わたくしは傲慢にかがやいて生きた。人の愛を貪り、しかも酬いなかっ た。天子をさえ翻弄した。竹取りの夫婦の得た富も、地位も、むなしく壊(く)えて残らぬと、わたくしは、みな知っていたのだ。あまり気の毒さに、夫婦のた めにもう一人の子の生まれ来るだけを、わたくしは、わたくしを迎えにきた月の典獄に懇願して地球をあとにした。

だがその子孫のだれもかも、男と生まれた男のだれもかもが、なぜか、わたくしへの恋慕を天上へ愬えつづけて、そして命を落としつづけた。一人死ぬるごと にわたくしの罪は加わり、老いのおいめは重くのしかかって死ぬることは許されない。あぁ、ばかな、あなた…およしなさい、この月へ、縄を飛ばして上って来 るなんて。迎えになど行けないのだから。あぁ…、でも、ほんとうに来てくれれば、かぐやひめは救われる。来て。来て…。

2020 3/17 220

 

 

* この近年、十年も前からか、男性の名を「平」字で締めた例が、ドンドン増えている。

わたしは、昭和十七年(一九四二)の春、国民学校一年生になるまで、直前の幼稚園でも「宏一(ひろかず)」胸に名札をつけていた。近所の子も、いえに出 入りの大人も「ひろかずサン」と呼んだ。それが新入一年生の受付へ母に連れられ出向いていきなり「秦 恒平」の名札を胸に付けられ、唖然とした。母は、それでええのやと分かり切った顔をし、私は、じつに居ずまいが悪かった、なにより「恒(こう)ヘイ」とい うのがいやだった。悪童どもに「コーヘイ コーヘイ」と囃されて「橋かけろ」「道つくれ」などと兵隊の中でもシンドそうな「工兵」呼ばわりされ続けた。驚 いたことにいま機械で「こうへい」を引いても他の名はたくさん「*平」で出るのに、あの戦時中のキツそうな花形だった「工兵」という語は出てこない。は出 てこない。そして、じつに、子供の昔から還暦ころまでに「*平」という名の他人に出逢うこと稀と謂うに近かった。東京市長だったか明治の昔、抜群の立法知 識を持っていた、しかし末期は征韓論を唱え佐賀の乱を起こして敗れ佐賀城内で梟首刑にあった江藤新平とか、詩人の草野心平ぐらいしか思い出せない。

なのに、還暦過ぎた頃から、気が付くと「*平」クンのやたら多くなったこと、舌を巻く勢いで、しかも活躍している青年が多いのだ。なかには、私の名にな らって初子の男の児に「*平」と名付けましたと云うてくださる読者もあらわれたり。なんだかいつしかに人気のいい名前の内に入っているようで、ホントに吃 驚。

漢学者の興膳宏さんに、「恒平」は、「恒久平和」ですと教わったりもした。このごろは「*平」クンたちにテレビや新聞で出逢うつど、にこにこしている。

2020 3/17 220

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界  三  (無明)

(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

☆   天変

 

みな人は地上一尺の上をすべるように動いていた。地面を踏むものなど一人も無かった。身動きの静かな、うつつなき世界だった。それなのに男の一人が、あ る日、すとんと地におちた。信じられることではなかった。どんな病人にも老人にもそんなことは起きなかった。男は呆然と人より一尺ひくく立ち、まるで棒 だった。きたないものを見るように、みな、男からはなれた。

男の暮らしは変わってしまった。人は、男が手をふり土の上を歩くと言って、わらった。動くと足音がすると噂し、あきれた。男は町をのがれ、野なかの、川のほとりにひとり住みはじめた。引きとめる人はひとりもなかった。

兎が地をはしってきて、男のそばで足を折った。狐も音もなく寄ってきた。蛇は地を這い、男のよこでゆっくり尾を動かした。鳥の影が幾羽も草野を流れ、やがて舞い降りてきた。川では魚たちが跳ねた。

「どうしてこんなことになったろう。知っているものがいるか」と、男は聞いた。

兎も狐も、鳥も魚たちも、だまっていた。蛇だけが、わるいことではないと言った。そうのようだと男もつぶやいた。魚と鳥とは、男がもっと山のちかくへ移ったほうがいいと勧めた。兎も狐も同感だった。もうすぐ天気の変わることを彼らは知っていた。今にも旅立つ気だった。

男も去ろうとしていると、町の方から、降りだした雨に追われるように、大地に足をおろした女が一人駆けてきた。いっしょに行くかと聞くと首を縦にふる。女は灰色の脚のみじかい小犬を連れていた。黒い髪をぬらした若い美しい女だった。

川上は荒れていた。岩をころがす真っ白い波しぶきに、草も木も伏し靡いていた。男と女は山の中へ急いだ。玉の雨が断崖をまろび落ちてきた。寒かった。女も寒いと言って男の手をきつく掴んだ。男は女をひっぱって崖をよじ登った。必死に登った。

崖のうえにやっと立って、振り向くと、地平のかなたへ、身をよじって大地を蛇行する数百もの大小の川が、ましぶきを白い無数の鱗のように逆立てて奔って いた。町もなく野もなく、地の水かさは膨らんで、はや海になった。広い広い海であった。たける生き物のように海は吠えていた。

男と女は肩と肩を抱きあい、なぜ自分たちだけが助かったのか分からなかった。知らなかった。知る必要があろうか。わずかな鳥・獣といっしょに這ってきた蛇の一尾がつぶやき、男と女はうなづいた。

小犬がちいさく、だが元気に吠えた。雲という雲が波打って空を飛び、雲の切れめに青空が光りはじめた。

地上一尺を飛行していた人間たちの姿は消え失せて、生かされた男と女は、なぜ自分たちだけが地に足をつけたのか、分からなかった。知る必要はなかった。 必要なのは足を地につけた二人の子孫を地に満たすことであった。それだけが男と女の運命を語り継ぐに足る理由となる。口にはださなかったが男は女の目に、 女は男の目に、それを読んだ。蛇は地に輪をなして、見るまに、やわらかい二人のための新枕に、かたちを変えた。灰色の小犬が二人のための花をくわえてき た。鳥や獣はみな木の枝や根かたにいて、男と女を、励ました。

天がおおきく裂け、音楽が洩れて来た、時代の変わったのを告げるように。

 

* 私の「底」から「奥」から、なぜこんなはなしが涌いて出るか分からない。天変を待っているのか。いや、人災をほとほとイヤと思っているのだろう。

2020 3/18 220

 

 

* はぐれたようにフイとモノの蔭から手に触れた紙一枚、読んでみて今も同感なので、コピーしてみた。

 

☆ 無明抄 2       秦 恒平(作家)

漢文を、日本風に「返し読み」して行くのが、高校生時分には知的なスリルで得意技だった。だが、あれは一種のサーカスに過ぎず、下から上へ上へと引っ繰 り返して行くことにばかり意識を消費し、文章の意義は得にくくなる。漢文がのみこめてくると、いっそ白文を「お経読み」にした方が、およそ大意を逸しなく ていいと、いつしか気づいた。

浄土三部経をわたしは岩波文庫で読み始めた。小経(阿弥陀経)だけに「お経読み」のふりがながしてあり、大経、観経にふりがなはない。三部とも下段に訓 みおろした文章があげてあり、べつに原典の現代語訳もついている。くり返しくり返し、大経、観経の白文のほかは、すべて順ぐりに何度も読んだ、それも「音 読」が常であった。毎夜の、死者たちへの「供養」にも再三読んだし、人の安穏を祈ったりわが気持ちを静めたいときも、始終音読した。阿弥陀経はかならず全 部を一度に読み上げた、それもたいていは「お経読み」に誦んだ。

そのうちに「お経読み」のいわば訓み癖というか、慣用読みのようなものが自然に頭に入った。「爾時」とあれば「にじ」と読み、「若有」とあれば「にゃく う」と読む。これに慣れれば、じつは大経も観経も、ふりがな無しにおよそ読めるようになる。仏家の慣例に若干添わぬところもむろんあろうけれど、要するに それで大意のとれないことはない。漢文を「返し読み」などするより、端的に、胸に納まってくれる。

思えばこういうことは、幼い日々、家の「仏壇」に好奇心を放ってしきりと仏界の探索をこころみ、大きい字の総ルビ般若心経に行き当たって盛んに音読して いらいの、ま、稽古--もものを言ったにちがいない。般若心経は、だが、読めようが暗記しようが大人でも大意をすら把握できない。それにくらべれば浄土経 でも法華経でもおおよそ察しながら「お経読み」ができる。むしろ日本文に訓み下ろした文語文よりも、いっそ端的に経意が心にとびこんで來る。

そうは言いつつ、法然上人の選擇本願念佛集ほど「構造」のある「論議」の本になると、「お経続み」ではやはり手に余り、これは、もっぱら和字選擇集で愛読した。大正十五年四月刊の日本古典全集第一回配本の、「非売品」とはあるが古本屋で買った、ハードカバーの「法然上人集』に収まっている。やや幅のある文庫本型で、選擇集の原文もむろん入っている。一枚起請文、二枚起請文は本文にも組まれ、ペつに、知恩院蔵原本の影印も附録に挟んである。

いま、わざ「構造」と「論議」という指摘を強調したのは、まさにそれが我が第一印象なのであった。へんな譬えでいえば、高校生の頃の定期試験のまえになると、わたしは慎重に各課目の「まとめ」を作って暗記していたが、その「まとめ」に、選擇集の構造は似ていて、おそろしいほど上手に「まとめ」たものだと感嘆した。多聞一だか智慧一だか、さすがに源空サンの把握は強烈やなあと感じ入った。

 

* つい最近にもこの「私語の刻」で似た思いを述べていた。上の原稿はもはや大昔のもの、連載の一回分か。いま、この感覚で意気な明治人、「文豪」とさえ 評判されていた成島甲子丸こと『柳北全集』の漢文・漢語の「雑文」集など楽しんでいる。紅葉。露伴ころまではありえたろう、鴎外、漱石も当然ながら、作家 達が漢文でもの申す習いははやく推移して、そして「文豪」柳北の名ももう憶えている人すら無い。

2020 3/18 220

 

 

☆ 夢の夢  秦恒平・掌説の世界  三  (無明)

(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)

 

☆  男女

 

人に呼ばれている気がする。視野の隅を、わけの分からない黒いしみか糸か、そのようなものが斜めに走り抜ける。指も引っかからない空気のどこかに、男 は、なにか引き戸のようなものの隠れているのを、あわや引っ張りかけた。引き戸みたいだが引出しだったかも知れない、びっくりして手を引き、もう何にも触 れなかった。空気中に、一瞬、二十センチほどの紙を撚ったような筋が、ピカッと光って消えた。そんな気がした。

話を聞いても女は信じなかった。わらった。女はベッドの中のことしか信じなかった。 からだにからだを差し込んだまま、手と手を繋いで女はのけぞり合う体位が好きだった。すべって手が離れると女は男を罵った。罵り罵られながらからだとから だは、窪んだ箇所で痛いほど噛み合っていた。男は、人に呼ばれているような、黒いなにかが身のわきを通り過ぎるような気がしてならなかった。ばかばかばか と女は男をきめつけた。

男は旅に出たかった。女は離れなかった。泊まるとすぐ男をベッドへ誘った。開け放した窓の景色だけが夜ごと変わった。人に呼ばれているような、黒いなに かが身のわきを通り過ぎるような気がした。男は黙っていた。うしろ手をついてのけぞったまま、男はからだの尖端からひゅるひゅると草がはえて暗闇に花を咲 かせている気がした。それも男は言わなかった。わざと手を汗ですべらせ、女を頭からベッドに落としてやったりした。女は罵った。

山のうえの、周囲が一里ほどの、まるくて静かな湖へ来た。宿はおろか家も一軒もなかったが、舟が一艘もやってあった。女はしりごみした。人の呼んでいる 感じがいちだんとした。足もとの湖水の揺れをかすめて黒い何かがしきりに奔る。聞かれもしないのにお魚だわと女は逆らった。山が風に鳴るだけよと叫んで男 を制した。かまわず男は舟の艫に乗って、女を見た。いやよ。やめてよ。それでも渋々乗りこみ、男はもやいを解いた。舳先に女を座らせ、舟はゆっくり湖心の ほうへほうへ流された。櫓をつかう気も術も男は持たなかった。女はじっと男を見つめていた。いやよとも、やめてよとも言わなかった。女もそのうちに、だれ かに呼ばれているみたいだと頷きはじめた。舟のまわりに、波ではなく、波を侵してくろい皺のようなものが無数に集まり、固まり、湖水との見境もなしに舟は 前後左右を黒いメタルのようなものへ乗り上げていた。叩くとカンと鳴った。いまは名指すほど呼ばれている気がしたが、二人とも頭がずきずきするばかりで、 男の声とも女の声とも、ましてだれの声とも聞き分けられなかった。

男は皺だらけの黒いものの上に降りてみた。いやよ。やめてよ。女は降りなかったが、男の足元に、さも蓋をしたような四角い切れ目が見つかり、ちいさな鍵 穴があると聞いて女も見にきた。女の降りた舟はそのまま日差しににじむ影のように消え失せた。湖岸もなく山もなく、男と女に有るのはただ足元の鍵穴の蓋だ けだった。鍵は確実にかかっていた。

きっと鍵はあるさ、あんなに呼んでるんだもの。

でも、どこに。

男はここだと、指を一本まげて何かを虚空の中で引っ掛けた。めくるめく明るい刺激の奥でぱくっと小さな引き戸があき、真っ黒いちいさい鍵が見えた。女がすばやく掴んだ。

鍵をつかって蓋をあけると、梯子段が降りていて、その梯子段はやがて二手に分かれて二つの部屋の中へ降りていた。一方には男がはだかで、のけぞって待っていた。もう一方では女が腰掛けて本を読んでいた。女は男の方へ、男は女の方へ、べつべつに降りた。

 

* 「空間」という、空気に満たされた広漠としたあちこちに、指をかけてひけば、至る処に抽斗のような戸棚のような部屋のようなものが隠れていると想い思い、その取っ手を見付けたい気分でまだ田圃のあった田舎道を夢うつつに歩いていた時期があった。

2020 3/19 220

 

 

☆  春は――と仰せに

「あけぼの」

「しずかに、ものの見えわたるころ」

「ことに山ぎわ」

「ほっと明からんで」

「山はらは紫立って」

「雲も」

「ほっそりたなびいて――。佳いわね」

 

* 学研版で『現代語訳 日本の古典』が企劃・公表され、「枕草子」をと依頼された気分はフレッシュな好奇心に満ちていた。「源氏物語」は誰がと咄嗟に思い円地文子さんと知れてホ オッと声になった。円地さんは、私が医学書院の編集者のころ、懇意な順天堂大内科教授がわざわざ私のために会わせてくださった生涯初対面の大先輩「作家」 先生であった。谷崎の『少将滋幹の母』や源氏物語や円地さんの『かげろふの日記遺文』を話題に、教授室を借りて小一時間も嬉しい時間に恵まれた。円地さん は教授の患者さんなのであった。二度目は、私の太宰賞授賞式に瀬戸内さんと連れて真っ先に会場へ見え、「おもしろいところでまた会いましたね」と笑って 祝って下さったのを懐かしく忘れない。

円地文子訳「源氏物語」と並ぶのかと、また大いに奮起した。此のシリーズは全二十一巻、陣容は、『古事記=梅原猛 万葉集=山本健吉 古今集・新古今集 =大岡信 竹取物語・伊勢物語=田辺聖子 源氏物語=円地文子 枕草子=秦恒平 土佐日記・更級日記=竹西寛子 今昔物語=尾崎秀樹 山家集=井上靖 平 家物語=水上勉 小倉百人一首=宮柊二 徒然草・方丈記=山崎正和 太平記=永井路子 隅田川・柿山伏=田中千禾夫 奥の細道=富士正晴 好色五人女・西 鶴置土産=吉行淳之介 女殺油地獄=田中澄江 義経千本櫻=村上元三 雨月物語・春雨物語=後藤明生 椿説弓張月=平岩弓枝 東海道中膝栗毛=杉本苑子』 だった。私の『枕草子』はトップバッターかのように早々と世に出た。当時錚々の顔ぶれであったが、四十一年が流れ去って、永くお元気だったのは梅原猛さん ぐらいだったが、去年亡くなられた。無常迅速の思いに迫られる。

枕草子は、しみじみと読めば読むほど、源氏物語とともに平安女文化「大輪の名花」であり「抜群の至宝」と謂える。愛読をお願いしたい。

2020 3/20 220

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆  日は 月は

 

日は、(と仰せに。)

入日。

日の沈み果てた山の端に、光がなお残って茜に見える上を、淡々と、黄ばんだ雲の長うたなびいたのは、とてもすばらしい。                    (第二三四段)

 

月は、(と仰せに。)

有明月が、東の山ぎわにほっそりと出たころが、とても佳い。    (第二三五段)

 

* 京恋しさが、この書き抜きを、させている。西東京住まいの、「山」といもののまったく無い、見え無い我が家では、なあ。幸い私には、京の山河がくっきり目にある。これは誰でもない、私を慰めているのだ。

2020 3/21 220

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆  日は 月は

 

日は、(と仰せに。)

入日。

日の沈み果てた山の端に、光がなお残って茜に見える上を、淡々と、黄ばんだ雲の長うたなびいたのは、とてもすばらしい。                    (第二三四段)

 

月は、(と仰せに。)

有明月が、東の山ぎわにほっそりと出たころが、とても佳い。    (第二三五段)

 

* 京恋しさが、この書き抜きを、させている。西東京住まいの、「山」といもののまったく無い、見え無い我が家では、なあ。幸い私には、京の山河がくっきり目にある。これは誰でもない、私を慰めているのだ。

2020 3/21 220

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆  雲は

 

雲は、(と仰せに。)

白いの。

紫。

黒いのも、いい。風吹く折の雨雲とか。

夜(よ)が明けはなれるころ、黒雲がようやく散って行くにつれ一面に白みかかる風情もとてもよくて、「朝に去る色」とか、詩にあった、と思う。

月の皓々と照った面(かお)に、淡い雲、あれも趣深い。              (第二三七段)

 

☆  風は

 

風は、(と仰せに。)

嵐が、おもしろい。

三月ごろ、夕暮れからゆるゆる吹き出した雨風も。

八、九月時分の雨まじりに吹く風にも、しみじみした感じがある。雨脚が横なぐりに、ざわざわと風の吹き抜けて行く時、夏のあいだ、ときたま夜具にもしてきた綿入れのその辺に懸け

てあったのを、生絹の単衣に重ねて着たのも、移ろう季節が思われておもしろい。

生絹の単衣にしても夏のうちは大袈裟で暑くるしくて、脱ぎ捨ててしまいたかったのに、いつの間にこう涼しくなったかと思うのも、おもしろい。

明け方、格子や妻戸をおしあけたところへ吹く嵐にさっと顔をうたれたのは、なんとも言えず身にしみておもしろい。

九月の末、十月の頃、空うち曇って、にわかに風騒がしく吹きはじめ、黄色い木の葉がほろほろと散り落ちる風情もたいそう身にしむもの、桜の葉や椋の葉はとりわけ早々と散って行く。

十月時分、木立多い家の庭は、色々に落葉がすばらしい。      (第一八七段)

 

〔古典では当然のことだが、暦が今日の太陽暦と違う。したがって月と四季との照応が今の常識とは、ずれていること例えば七夕は初秋の星祭りだったし、九月九日重陽の佳節が菊薫る昨今の文化の日ごろに当たることなど、適宜に按配して読まないと誤解を生じる。〕

 

* 早稲田の文藝科を手伝った二年のうち、はっきり作家になれと背を押した只一人の「角田光代」が源氏物語の現代語訳を完成したと報じられたらしい、妻に聴いた。よく頑張った。佳い現代語を書いてくれたろうか。

2020 3/22 220

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆  降るものは

 

降るものは、(と仰せに。)

雪。

霰。

霰は気に入らないけれど、白い雪のまじって降る感じが、おもしろい。  (第二三二段)

 

雪は

 

雪は、(と仰せに。)

檜皮葺(ひわだぶき)の屋根に降ったのが、とてもいい。

その場合、すこし消えがたになったころがいい。

まだそうたくさんも降らない雪が、瓦の目かどに吹き溜って黒うまるく見えたのが、とてもおもしろい。

時雨、霰は、板葺きに。

霜も板葺きに。

そして庭に。                             (第二三三段)

 

* 枕草子を清少納言ひとりの文藝とばかり思っているとまちがう。定子皇后のいわば出題に何人もの女官たちが思い思いに答え、清少納言はそれらの声、声を的確に書き置いていると読める段段が多いのである。

2020 3/23 220

 

 

☆ 過日は

『湖の本』149 「流雲吐月(三)」お送りいただきありがとうございました。

読んでいて、八十五ページに私の名前が出てきて、びっくりしましたが。恐々謹言

庚子三月廿二日  静岡市   小和田哲男  歴史学者

 

* 2007.8.3日日付の項に、こんなふうに書いていた。

 

* あまりたくさんな『閑吟集』へのお手紙で、感謝してバンザイの体だが、歴史学の小和田哲男さんから、「戦国武将、信長、秀吉、家康の時代を勉強して いる者として、一一八から九ページのあたりの記述にハッとさせられました。自分なりにとらえ直さなければと思った次第です」とあるのに、感謝した。いちば ん戴きたかった指摘であった。わたしはそこでこう書いている。

* 十五世紀の百年は、足利義政による応仁文明の乱をまんなかに抱きこんで、いわゆる東山時代なる禅趣味貴族文化を、破産に導いて行きます。前にあげた 宗祇、珠光、雪舟といった人材の独創は、明らかに東山文化の似而非ぶりへ、内から外からつきつけた厳しい反措定としての、ほんものの性根をもっています。 三人に先行して反骨一休の禅をおいてみればもっとよく頷けるところです。

さきに、この時代、自然な趣向をうるに好環境だったかどうかの判断がむずかしいと私が言いましたのは、一般の説とはかけちがうかも知れないのですが、い わゆるまやかしの東山文化なるものと、雪舟、宗祇、珠光らが精神の重みをかけて求めたものとの、拮抗と隔差に、この時代の創造的環境としての意味や評価を 見なければならぬと思うからです。

一つの見当として、あの申楽の能の天才世阿弥の存在が、十六世紀へと近づいてくると、さすがに変容変質を強いられて、能の中に、傾(かぶ)きの要素が近 づき浸透してくる。それ自体は積極的な「趣向」要因なのですが、世阿弥が理想とした幽玄な〝花〟の美しさが、彼の直接の後進の手でより深められたとばかり は言うわけに行かず、むしろ雪舟、宗祇、珠光らの方が世阿弥の高邁と深玄そして優美とを、それぞれの分野で承け嗣いだ感がある。

世阿弥を世阿弥として消化も吸収もできなかった体質として、私は反庶民的な禅趣味に終った東山文化を否定的に考えています。さらに言えば東山文化と闘っ た雪舟の藝術は、狩野派がこれを受けとってやがて官僚的画風へ変質させ空洞化させます。宗祇の藝術は『閑吟集』という異色の子をなして、その後は、俳諧の 芽がそして芭蕉の新芽が芽ぶくまでのあいだ、立ち枯れを余儀なくされます。幸い珠光の茶だけが利休の茶へ大きく育つのですが、しかもそこで躓いた。利休は 秀吉の手で裁断され、後継者は茶の道を容易に立て通せなかった。あげく頽廃の繁栄へと今日にまで導いた。

この三様の挫折。それは信長、秀吉、家康の成功と当然に表裏していました。武家の側からみれば、十六世紀の戦国大名時代そして安土桃山時代は上昇そして 勝利の時代でしょう。が、民衆の側からみれば、全く同じ時代が雪舟、宗祇、珠光らの余儀ない変容変質へと下降そして敗亡した時代でした。

安土桃山時代は、実は、私の表現を用いれば、〝黄金色(きんいろ)の暗転期〟にほかならなかったのです。 2007 8・3

 

* いまも、およそそう考えている。

 

* 最近の優秀な日本史学者ほど、「日本国」号の歴史的成立以前に「日本人」はいなかったと強調する。いつ成立したか、推古天皇のとき小野妹子が唐へ渡 り、則天武后のまえに「日いづる國の天子」からの親書を呈し、受け容れられて以来だという。厳格な議論ではそうなのだろう、が、あまり拘泥するのも妙な気 がする。辛うじて聖徳太子らが「日本人」の第一号かも知れないが、父帝用明天皇は日本人でなかったとぜひ決め付けねばならないのか。万葉集巻頭をかざった 人たちは日本人とよんでは間違いなのか。古事記の神話を「日本神話」と呼称するのは間違いなのか。理は理会するが理に落ちて歴史の血の温かさを蔑ろにして も当然とは私は思わない。

私は「神話」を担いで神国日本などとバカなことは一切謂わないが、民族がおのづからな「神話」を持って親愛しているのは、日本人と限らず世界中に例があり、床しいこととさえ思い、嗤う気は無い。むしろ投げ出して顧みない乾燥した心情を病的に脆弱に思う。神話に囚われてもいけない、が、厳密に過ぎて議論先行「神話」軽侮・無視の「国号・日本」観にも感心しない。

 

* 十一時。もう休もう。

2020 3/23 220

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆  木の花は

 

木の花は、(と仰せに。)

濃くても薄くても紅梅。

桜は、花びら大きく葉も色濃いのが、枝細うにたっぷりと咲いたのがいい。

藤の花は、花房長う色濃く咲いたのが、一等すばらしい。

四月晦(みそか)、五月朔(ついたち)といった時分、橘の、葉は青々と濃いにまじって真白に咲いた花は、雨の降った翌る朝などまた無い風情でおもしろ い。花の中に実が黄金(きん)の玉かと思うばかり色佳うみごとに見えている趣など、朝露に濡れた朝ぼらけの桜に劣らない、まして郭公の棲む木と思い寄りも して、なおさらにほめ言葉も思い浮かばない。

梨の花も、いいと思う。ひどくつまらない例に数え身近にもてはやすことなく、ふだんに、手紙を結びつけて遣るといった役にも立てていない。魅力に乏しい 女の顔だちなどを見ては譬えに引くのも、なるほど、葉の色からして愛らしげもなく見えるけれども、唐土では、無上に佳いものとして、詩にも作られている。 何かやはりわけのあることであろうとよく気をつけて見ると、花びらの端がおもしろう心もち淡紅に匂う感じ。楊貴妃が玄宗皇帝の御使者を仙宮に迎えて泣いた という顔を「梨花一枝、春、雨ヲ帯ビタリ」などと形容したのは並みのほめかたであるまい、やはり梨の花の美しさは唐土の人にはたぐいないものらしいと合点 できる。

桐の花も。紫に咲いたのはむろん佳い。ただあの葉のひろげ様だけはぶざまだけれど、それでもほかの木と均しなみにものの言える木ではない。唐土では有名 な鳳凰という鳥が、特にこの桐の木だけに棲むと言われているのも、格別のことと思われる。まして琴に作れば妙なる音色の色々に生まれるというなど、ただお もしろいと通り一遍の讃辞ですまされようか。まったく、すばらしい。

木の恰好はよくないけれども、揀の花もなかなかしゃれている。かさかさと一風ある花の咲きようで、かならず五月五日の節供に咲き合わせるというのが、おかしい。  (第三四段)

 

(この段の後半など、よほど感覚の磨かれた女房が銘々にじっくり物を言いあう場景が髣髴とする。そしてこうも書き表して行くうちに、さながら清少納言の感覚がまた磨きをかけている。と、そう深い重ね絵にして読むととりわけ美しい、すぐれた段の一つに数えたくなる。〕

2020 3/24 220

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 花は咲かぬ木

 

それでは、花は咲かぬ木でおもしろいものは、(と仰せに。)

かえで。

桂。

五葉の松。

たそばの木は品はないけれど、木の花がみな散っていちめんの緑の中で、季節も何もなく濃い紅葉をつやつやと、思いもよらぬ青葉からさし出しているのは、いつ見ても目新しい。

まゆみ。言うまでもない。         ミ

どの木というではないけれど寄生木の名は、なにかあわれな気がする。

榊。臨時の祭りのお神楽の折などはとくに目を惹く。この世に木のたぐいは数多い中で「神の御前の木」として大昔から生い育ってきたというのが、とりわけめでたい。

楠の木は、木立の多い邸にも、ほかの木と一緒に生えているという事がめったになく、鬱蒼としげった姿は想像するのも気味悪いが、「千枝に分かれて」もの を思うと、恋する人の譬えにされたりしているのは、誰がそんな、数まで数えて歌にしたことかと思うにつけても、おもしろい。

檜の木。これもあまり身近に生えていない木だが、催馬楽に、「三葉四葉の殿造り」などと歌われ重宝がられこいるのがおもしろい。また五月、檜の木に風のわたる音が、夜もすがら雨降る音に似る、といわれているのも妙に身にしみる。

楓の木の華奢な感じに、萌え出た葉さきがほの赤らんで同じ方へ方へひろがった様子や、花もどこか寂しやかに、小虫かなにかがひからびたのに似ているのが、おもしろい。

あすはひの木もおもしろい。この辺りでは見も聞きもならないが、御嶽詣でして来た人などが持って帰るようだ。枝ぶりはちょっと手を出しかねるほど荒らか な感じだけれど、どういうつもりで「明日は檜の木」と名をつけたものか、あてにならぬ約束を。誰に対しそんな保証をしたかと思うにつけ、名づけた人に聞き たい気がしておもしろい。

ねずもちの木も挙げたい。一人前に扱う木でもないけれど、葉がたいそう繊細なのが感じがいい。

揀の木。

山橘。

山梨の木。

椎の木。常磐木は幾らもあるのに、この椎に限って、葉が葉が落ちない例に歌にも詠まれているのが、おもしろい。人

白樫という木は深山木の中でもひときわ人の世には縁遠く、三位や二位の袍を染める時かろうじて葉だけは人目に触れるといった物らしいから、おもしろいの すばらしいのと取り立てて言える物ではないが、一面に雪が降り積もったかと見まがうほど白くて、素戔嗚尊が出雲の国にお出かけになった時のことを偲び、 「白樫の枝もとををに雪のふれれば」と人麿が詠んだのを思うと、何とも胸打たれてしまう。そのおりおりにふれて、どこか一節感に打たれたり興味深く耳に 残っているものは、草、木、鳥、虫、何につけておろそかに思えないものだ。

ゆずり葉の、あんまりふさふさと艶めいて見え、茎も妙に赤くはではでしく見えたりするのは、品はないなりに、ちょっとめすらしい。ふだんの月には見かけ ないのに、師走晦夜には幅をきかせて、亡き人に供える食べ物の下に敷かれるかとあわれを覚えるけれど、一方、寿命をのばすおめでたい歯固めの膳の飾りにも 使われるというのだから、おもしろい。いつの世にやら古歌に、「ゆずり葉が紅葉でもしないかぎり、あなたのことは忘れない」と歌われていたのが頼もしい。

柏木もなかなか佳い。葉守の神が鎮まり給うとか、畏れ多い。兵衛の督(かみ)、佐(すけ)、尉(じょう)などの異名に使われるのも、おもしろい。

見ための趣は乏しいけれど、棕櫚の木は唐風の情緒があって、身分賤しい家の植木とは見えない。        (第三七段)

 

* コロナ猖獗、濃厚接触、五輪延期、訪問盗などという当節に比して、枕草子時代の雅にして優な想い趣き。人間世界の変貌のすさまじさ。

2020 3/25 220

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 鳥は

 

鳥は、(と、仰せに。)

異国のものだけれど、鸚鵡に心惹かれる。人の言葉をそのまま真似るというではないか。

郭公

水鶏。

鴫。

都鳥。

鶸。

ひたき。

山鳥。友を恋しがり、鏡を見せるとよろこぶそうだが、いじらしくて、とても心惹かれる。雌雄が、夜は谷を隔てて寝るという話もかわいそうだ。

鶴は、えらく仰々しい恰好だが、鳴く声が天にとどくとは、すばらしい。

頭の赤い雀。

斑鳩の雄鳥。

巧婦鳥。

鷺は、見た目がわるい。目つきなど、ともかく親しみにくいが、「ゆるぎの森に独りでは寝ない、と妻を争う」というのが、おもしろい。

水鳥では、鴛鴦に心惹かれる。寒夜、夫婦して場所をかわり合っては、「羽の上の霜を払う」というのなど、とても佳い。

千鳥も風情がいい。

鶯は、詩にもすばらしい鳥と書かれ、声をはじめ姿かたちもあれほど上品でかわいいというのに、宮中に来て鳴かぬ、とは感心できない。誰かが、「宮中では 鳴かないのよ」と言ったのを、まさかとは思ったが、十年もお仕えして気をつけていたけれど本当に、一度として声を聞かなかった。嘘でない。呉竹に近く紅梅 の木もあって、鴬が来て鳴くにはじつにうってつけの場所と思うのに。宮中から退って聞いていると、みすぼらしい民家の、貧相な梅の木などではうるさいくら い鳴いている。

鶯はまた夜鳴かないのも寝坊の感じでいやだけれど、今さら、どうしようもない。

夏すぎて、秋の終り頃まで年寄りくさい声で鳴いていて、そんな時季には「虫喰い」と下々の者が名をつけ替えて呼んでいるのが鶯のために残念だと、奇異な気がする。

それも、雀みたいにいつも居る鳥ならそう気にしまい。春に鳴けばこそ「あらたまの年立ちかえる」元旦からもう待たれるのは鶯の声だと、歌にも詩にも作ら れるのだろうに、やはり春のあいただけ鳴く鳥であったらどんなによかったろう。人のことにしても落ちぶれて、世間の評判もわるくなりかけたような人を、わ ざわざ非難はしない。鳶や烏といった手合いにそう目をつけ耳を立てる者も居はしない。

だから言うのだ、鶯は「すばらしかるべきもの」と思うにつけて老い声を嗤われたりするのが、納得できない、と。

それでも賀茂祭の帰りを見ようと雲林院や知足院の前に牛車をとめて行列を待っていると、郭公ももう待ちきれないでか鳴き出す、と、鶯がとても上手に真似て木高い茂みから声をそろえて鳴き立てるのには、さすがに聞き耳を立ててしまう。

郭公については、今さら言うこともない。いつしか鳴き声も得意げに、卯の花や花橘にいつも来てとまっては見え隠れしているのがじつに心にくいまでの、風情の佳訃さ。

五月雨の短夜に目ざめして、どうかして人の先に初音を聞こうと心待ちのあげく、夜の闇のかなたで鳴吝はしめた声のなんとも巧者に、魅力あふれた佳さというものは、まあ、心も空の思いでどうにもならない。

それが六月になるとけはいさえなくなってしまう、もう、何から何まで、言うもおろかというもの。

夜鳴くものは、郭公にかぎらない、みなすばらしい。

もっとも赤ん坊だけが、そうは言えない。                (第三八段)

 

* 今日 どれだけの人が「鳥」にこれほど視線や思いを送っているだろう。そんなヒマは無いということではあるが、失い、見失っている あまりに多くがあるという事実も疑えない。

2020 3/26 220

 

 

* 湖の本への支払いをかねた佳いお便りも大勢の方から戴いています。有りがたいことです。

十年も前の日記なのに、かえってそれが今にも当たっていてか、前回につづき、いい反応を獲ている。思ったまま 真っ向 書いている。不快に思う方もあろうけれど。

「批評家」とはホンモノへのなり損ないとか批評するひともいる。小林秀雄、山本健吉、中村光夫、唐木順三、福田恆存等々のホンモノに鍛えられたので、そん な批評には即、随わないけれど、一世を指導してくれる文学批評家の出動を待ち焦がれている。器が小さく、なにより批評の文章がホンモノの文藝に逸れすぎて いる。それでは創作者の宗に響かない。

2020 3/26 220

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 虫は

 

虫は、(と仰せに。)

鈴虫がすてき。

茅蜩(ひぐらし)。

蝶。

松虫。

蟋蟀(きりぎりす)。

促織(はたおり)。

われから。

蜏(かげろう)。

螢もいい。

蓑虫はことにあわれを誘う。鬼が産んだというから親に似て恐ろしい心があろうと当の親が粗末なものを引き着せて、「もうすぐ秋風の吹く時分にはね、迎え に来るから。待っておいで」と言い含めて逃げてしまったとも知らず、風の音を聞き知っては、八月、秋半ばともなれば「ちちよ、ちちよ」と、心細げに鳴くの が、あんまりかわいそう。

額ずき虫。これがまた殊勝な虫で。そんなちいさな虫は虫なりに、道心を発してあちこちと拝んで歩きまわるとは。思いがけぬ暗い所などをほとほと音を立てて歩いているのがおもしろい。

蝿ときいては「憎いもの」に数え入れたいくらい、これほどかわいげのないものはない。人並みに目の仇にするほどの大きさではないけれど、秋になってもむやみに何にでもとまり、人の顔に湿れたような足でとまるなど、もう……。

人の名前に蝿の字がついたのも、ほんとに気味がわるい。

夏虫はちょっと愛嬌もあってかわいい。燈火を近づけて物語など読んでいると、本の上を飛びまわるのが、おもしろい。

蟻は、いやらしいと思うけれど、身軽いことはなかなかで、水の上などをどんどん歩きまわるのがおもしろい。                            (第四〇段)

 

* 虫を愛で 鳴く音を愛でるなてどという風情は、田舎には失せていまいが、都会者はおおかたよそごとに忘れていないか。惜しいことと思うが。

2020 3/27 220

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 里の名は

 

おもしろい里の名は、(と仰せに。)

逢坂の里が、やはりおもしろい。

ながめの里。

寝覚の里。

人妻の里。

頼めの里。

夕日の里。

妻取りの里。妻を取られたのやら、妻を取ったのやら、気がもめるのがおもしろい。

伏見の里。

朝顔の里。                               (第六二段)

 

☆ 関の名は

 

おもしろい関の名は、(と仰せに。)

逢坂の関。

須磨の関。

鈴鹿の関。

岫田(くきた)の関。

白河の関。

衣の関。

直越(ただこ)えの関の名は、憚りの関とまるで正反対に思われておもしろい。

横走りの関。

清見が関。

見る目の関、があってそして、よしよしの関とはまた、なぜそう好きな人に逢うまいと思い直したか、わけが知りたい。

そういうのを「な来(こ)そ」(来るな)の関と呼ぶのでもあろう。人に逢坂を最後にそんな風に思い直す、というのは、さぞ、つらかろうよ。 (第一〇六段)

 

* こういう段をたのしみ読むとき、皇后定子の御前に寄った多彩にかしこい女官達の肉声がとびかうように聞こえる。「枕草子」のことにこういう段段はさ ようにこそ読み取り聴きとらねば意義をなさない。清少納言ひとりの思いつきの羅列のように千年もの永い時代を味気なく読まれてきたとは、信じられない。こ のように声声を読み取り聴きとってこその風雅な女文化と読んだのは、この私の現代語訳が最初であった。感じ入って呉れた人も多かったのをなつかしく思い出 す。

 

* ものに、名がある、その有り難さ、嬉しさ、楽しさ、優しさを、今の日本人はガサツに忘れ果てている。

2020 3/28 220

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 社は

 

社は、(と、仰せに)

布留(ふる)の社。

生田の社。

丹比(たび)の御社。

花淵の社。

三輪の神と御同体とか、すぎの御社は、その「しるし」もあろうかと、おもしろい。

ことのままの明神とは、とても頼もしいのに「果ては嘆きの森となるであろう」と言われる破目におなりかと思うと、お気の毒。

蟻通(ありとおし)の明神もありがたい。貫之の馬が病気になった時、この明神が祟りをなさるというので、歌を詠んで奉ったというのだが、たいそうおもしろい。

それにつけて(誰か物識りの話)、この、蟻通と名づけたわけはほんとうかどうか、昔いらした或る帝が、ただ若者ばかりを御寵愛になり四十になった人は殺 してしまわれたので、みな遠い他国に身を隠したりし、まるで都の中に年寄りがいなくなった。そのころの中将で、帝のお覚えことにめでたく思慮分別に長けた 人に、七十近いふた親があった。こうも年齢四十というだけでおとがめがあるのに、自分たちはましてどうなる事かと、年寄りは恐れ戦いていたが、中将はたい そう孝心深い人で、遠い所になど住ませまい、一日にせめて一度会わずにはとてもおられまいと思って、ひそかに家の内に土を掘り、中に部屋を造って両親をか くまい住ませ、折を重ねては会っていた。世間の人にも、帝にも、どこかに姿を隠してしまった、という事にしてあった。

どうして、そんな。家に引き籠っているような人は、そのままにしておかれればよいのに、いやな世の中--。

この親という人は、上達部などではなかったかも知れない、しかし中将ほどの人を子に持っていたからはもともと思慮深く、何事も心得た人だったので、子の中将も若いながらごく評判よく、何をさせても立派にやってのけて、帝も世に欠かせない人物の一人と、信頼なさっていた。

時に唐の帝は、日本の帝をなんとか計略にかけて、この国を討ち取りたいというので、絶え間なく知恵だめしや揉めごとを仕かけては脅しにかかられた。中で もある時、つやつやと丸うきれいに削った木の二尺ほどの長さのをこの国の帝に差し上げ、「これのどの先が、根か、末か」と難題を出され、誰も判断のしよう もなかった。帝もすっかりお困りなのを中将はお気の毒に思い、わが親のもとへ忍んで行って、

「これこれの事があって」と相談する、と、

「ただ、流れの速い川の、その流れに対し木を真横に、しかも水平に投げ入れて、くるりと先になって流れる方を、末と記して、送り返せばよい」と教えた。参内して、自分の知恵のような顔をして、

「そういうぐあいに試してみましょう」と人と一緒に投げ入れてみて、先になって流れて行く方へ「末」と印を付け送り返したところ、事実、そのとおりだった。

また二尺ほどの蛇の、まったく同じ長さのを、「この、どちらが雄か雌か」と問うて献上して来た。これまた、誰にも区別がつかない。例によって中将が親の所へ行って訊くと、

「両方を並べて、尾の方に。何でも細い小枝をさし寄せた時、尾の動かない方が雌と知れ」と言う。すぐさま、そのとおりに内裏で試みたところ、本当に一つは尾が動かず、一つは動かしたので、また、そう印をつけて送り返したという。

それからよほど後日、七曲りにくねくね曲った、しかも中に穴が通じていて左右に口のあいた小さな玉を献上して来て、

「これに糸を通してお返し頂きたい。わが国では誰でもする事です」という口上に、どんな器用な者も、これは無理と、多勢の上達部、殿上人をはじめ世にありとある人の誰もが音を上げてしまった。中将はまた親のもとへ行って、事の次第を言うと、

「大きな蟻をつかまえて二匹ほどの腰に細い糸を付け、またその糸の先にもう少し太い緒をつけて、向うの穴の口に蜜を塗っ

てみなさい」と教えたので、帝にそう申し上げて、蟻を一方の口から入れたところ、蜜のにおいをかいで、じつにすばやく蟻は向うの口へ抜け出て来た。さて、その糸に貫かれた曲玉を送り返してやってから後というもの、

「やはり、日の本の国は偉い国だ」ということになって、以来難題ももちこまなくなった。

帝はこの中将をかけがえのない人物にお思いになって、

「何を恩賞に、どれほどの官位を望むか」と仰せられたので、

「官職、位階ともに私はすこしも頂きとうございませぬ。ただ、年老いた父母が身を隠しておりますのを探し出して、都に住ませますお許しをたまわりたく」と言上。

「いともたやすい事を」と許されたので、世に人の親という親はこれを聞いて狂喜した。中将は、上達部から大臣にまで重く用いられたことであった。

こういう次第で、その親であった人が死んで神にもなったものか、その神におまいりした人の夢に、夜、現れて、

七曲によがれる玉の緒を貫(ぬ)きて

ありとほしとは知らずやあるらむ

(七曲りにも曲がった玉に緒を貫いて蟻を通した、その蟻通し明神と世人は知らずにいるのか) と、仰せがあったとか、そんな謂われをさる人に聴いた。      (第二二六段)

 

〔類想の対話から自然に創作風の説話に転じ、しかしそれにも途中相槌や批評がふと混じる感じなど、おもしろく読める。)

2020 3/29 220

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 格別の心地で聞けるものは

 

ふだんと違った心地で聞けるものは、(と、仰せに。)

正月の車の音。

また、新年の鶏の声。

暁のひっそりしたせきばらい。

暁にきく楽の音はむろんのこと。             (第一一○段)

 

☆ 陀羅尼と経

 

陀羅尼は、

明け方。

経は。

夕暮れ。                                 (第一九九段)

 

☆ 音楽は

 

音楽は、(と、仰せに。)

夜。

人の顔の見えない時刻に。                       (第二〇〇段)

 

☆ 笛は

 

笛は、(と仰せに。)

横笛が、何といっても趣がある。

遠くで聞こえていたのが、だんだん近づいてくるのが、おもしろい。

近かったのが、遠のいて、ほんのかすかに聞こえるのも、とても佳い。

車でも、徒歩であっても、馬上でも、どんな時も横笛は懐にさし入れて持っていてもとくに目立ちはしないし、これほどしゃれたものは他にない。まして知っている曲を耳にした時など、とても嬉しい。

明け方男が置き忘れて、佳い笛が枕もとに残っていたのを見つけた時などひとしおの風情。当の忘れ主が取りに使いをよこした時、紙にていねいに包んで渡すのがまるで立て文に見えた覚えもある。

笙の笛は、月の明るい晩、車からふと遠くに聞きつけたりしたのが、なかなか佳い。

あれは、但し、ものが大きく、さも持ちあつかいにくく見える。

それに、あれを吹く顔は、どんなものだろう。

その点を言うなら、横笛にしても吹きようによるのではないか。

篳篥(ひちりき)はうるさくて、秋の虫にたとえれば、くつわ虫の感じ、とても耐らない、近くで聞いて居たくない。

まして、下手に吹かれては腹が立つばかり。

それでも臨時の祭りの日、まだ帝のお前へは出ないで、物陰で横笛をすばらしく吹き出したのを、「まあ、おもしろい」と聞くうちに中途から篳篥が加わって 吹き立てるあの音色は、さすがに荘重なもので、きちんと調えた髪の人でもすっかり逆立ってしまうような、ぞくぞくした気持になる。それから段々に和琴や横 笛の音ももろともに御前へ歩み出て来る篳篥の容子は、さすがにけっこうなものと思う。                     (第二○四段)

 

* 「耳」のよろしさに、感じ入って読んだ。いまでも、似た、こういう対話や会話が女の人たち同士で、無くは無いだろう、か。

2020 3/30 220

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 興ざめなものは

 

興ざめなものは、(と仰せに)

昼吠える犬。

冬過ぎた、春の網代(あじろ)。

初春過ぎた、紅梅の衣も。

また、

牛に死なれた牛飼い。

赤ん坊が死んでしまった産屋。

火の気のない角火鉢や囲炉裏。

次々女の子ばかり産ませている男も興ざめ。

方違えに行ったのに、ろくに御馳走も出してくれない家。

そうそう、節分違えで御馳走は有るにきまっている時など、まして興ざめ。

遠国からよこした手紙にお土産の添えてない時。

この京都から同じようにしても、同じことを思われそう。

でもそれは、遠くにいてさぞ知りたかろう人の噂や何かを書いてあげるのだし、それで向うも世間の事情がいろいろ知れるなら、手紙だけで十分――、

などと。

 

人に、とくべつ丁寧に書いて持たせた手紙の返事を、もう持って戻りそうなもの、遅い遅いと待ちかねるうち、せっかく書いたものを、本式の立て文でも簡単 な結び文でも、いとも粗略に持ち歩きすっかり紙は手汗でふくらんでしまって、あげくは封じ目の墨も流れたのを「おいでになりません」だの、「御物忌みの最 中で、受け取らない」だのと言って持って帰って来たざまは、ただ情けなくて興ざめもはなはだしい。

また、かならず来るはずの相手を迎えの牛車(ぎっしゃ)までやって待っていると、どうも帰って来たらしい物音なので「きっとそうよ」と、みな端近へ出て 見ても、車寄せに寄るどころか車庫へ曳き入れ轅(ながえ)をポンと下になげおとしている始末に、「どうしたの」と訊いても、「今日はよそにいらっしゃる予 定がおありですとか。お越しになりませんよ」と言いすてて牛だけ車からはなし、曳き出して行ってしまうなども、もう何とも。

また、やっとこの家になじんだと思う婿君がふと通って来なくなってしまうのは、まことに興ざめ。しかし、身分も相当な人妻が、宮仕えの女などに夫を取られて、自分は「敵わない」と泣き寝入りしているなどは、みっともなくて同情できない。

赤ん坊の乳母がほんのちょっととことわって里へ帰って行った留守のうち、なんとか、さんざ赤ん坊をなだめすかして、たまらずに「早く帰って」と乳母へは 言ってやるのだが「今夜はもう、よう参りません」と迎えの車まで返してよこす始末は、興ざめどころでない、まったく肚が立って我慢ならない。

まして、人目忍び合う女をどこかで待ち受けている男がそんな返辞を想う女にされようなら、どんなに怒り狂うだろう。

約束の相手を待ちわびている家で、夜もすこし更けたころ、辺りをはばかる感じで戸を叩く音がしたから、いささか胸をときめかせ召使を出してたしかめさせ てみれば、用もないまるでべつの男が麗々しく名乗って尋ねて来たなども、なんと言うか興ざめ程度のなま易しいことで済まなくなる。

加持祈祷に来た坊主が物怪(もののけ)の調伏は任せなさいと、いかにもしたり顔に霊媒の女に独鈷や数珠を手に持たせ、蝉みたいな声を絞り出してお経を読 みつづけはするのだが、いっこう埓があく様子でなく、例の護法童子が活躍するふうでもないので、その場には家中の者が集まって祈念を凝らしていたのだけれ ども、もう男も女も「へんだ」と思いかけるし、坊主はそれと察して当惑しながら定めの時刻まではやっと経文を読み続け続け、すっかり草臥れ切って「まるで 護法さんがついてくれない。もう起ちなさい」と霊媒から数珠など取り返し、「あーあ、まったく効(かい)がなくて」とぶつくさ言い言い毛もない額の上へ撫 であげて、自分が真っ先にあくびするなり物によりかかって寝てしまうさまは、まあ。

また、ねむくてねむくてと思う時にかぎってろくに好意のもてない相手が、揺り起こしてむりに話しかけてくるなど、じつに肚立たしい。

県召(あがためし)の除目(じもく)に任官できなかった人の家も。今年はかならずと噂に聞き、以前奉公していた連中でその後めいめいによそへ行っていた 者や、近くの田舎めく処へ引き籠っていた者らがみな集まって来て、出入りの客の車の轅(ながえ)で庭先は埋まるくらいに見え、主が任官祈願の神詣りといえ ばお供に我も我もと随いてまわって世話を焼き、物は食う酒は呑む騒ぎにくれていたものの、除目の沙汰も果てた明け方になっていっこう吉報に門を叩く音もし ない。「おかしいな」と今はもう聞き耳立てて待つうちに、一行の先を払う従者の声など次々聞こえて上達部(かんだちめ)はみな内裏を退出してしまわれた。 様子を見聞きに宵から出向いて夜っぴて寒さに震えて来た下男が、なんとも鬱陶しそうにのろのろ帰って来たのを見てしまった連中は、もはや事の次第を尋ねる 気にもなれない。折悪しくよそから来た疎い客に声高に「御主人、どこの国の守(かみ)におなりでした」と訊ねられて、苦々しく、「どこそこの前の国司に、 というわけで」ときまった返辞をしている、その興ざめなこと。本心から任官をあてにしていた者ほど、ほんとうに情けなく思うらしい。夜があければ、あれだ け詰めかけていた者が一人、二人とこっそり座をはずして帰って行く。長年の義理でそうも退散しかねる者たちは、ただ来年欠員になる国の名を指折り数えたり して、のそのそと歩くくらいしか仕様がない有様は、気の毒を通り越して、じつに興ざめの極みだ。

まずは人並みに詠めたと思う歌を、知った人のもとへ送ってやったのに、返歌をよこさないのも興ざめだ。片想いの相手でもあるなら仕方ないが、それでも折にも叶っておもしろう詠みかけたのにまで返歌をしない相手には、幻滅してしまう。

また、人の出入りはげしく今を時めく人のもとへ、世間に忘れられた老人が、自分にはする仕事も何もなくて日ごろ退屈のあまり、古くさく変哲もない歌を詠んてよこしたのも。

晴れの儀式用の扇を、格別の品と思い、万事心得た人と知って頼んでおいたのに、当日になって、思惑になかったへんな絵など描いてよこしたのも。

産養(うぶやしない)や旅立ちの賤別を届けているのに御祝儀を出さないのも。

ちょっとした薬玉(くすだま)や卯槌(うづち)などのお目出度物を配って歩く使いにすら、やはり御祝儀ということはかならず、すべきだ。かりに思いがけ ず貰えたにせよ、御使者に立ったかいがあったと悦ぶだろう。まして、これはかならず御祝儀の出るお使いと思い期待して出かけながらそれが無かったという者 は、ひときわ興ざめもはなはだしい道理だ。

婿を迎え、四、五年経ってまだ産屋の賑いがないという家庭も、妙に興ざめだ。

成人した子が何人もいて、へたをすると孫も這いまわっていそうな年恰好のが、夫婦して昼寝というのも。そばで暮らす大きな息子や娘の気持も、ふた親が昼間から添い寝の間などは、どう仕様なく、興ざめてしまうだろう。

師走大みそかの夜になって、どこかで今寝起きたのが、男か女か、恥知らずに湯を浴びているらしいのには、興ざめどころか肚立たしくさえ思われる。師走みそかの長雨、とやら、「たった一日の精進も棒折って」といった諺は、こういう手合いを言うのだろう。  (第二二段)

〔この段など、清少納言その人の、記録者から随想の筆者へと聯想的に動いて行く過程が自然に分かる。〕

 

* 「枕草子」世間の女文化をささえている女たちの、これぞ素顔といえよう。

2020 3/31 220

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 心ときめく時は

 

心ときめく時は、(と仰せに)

子雀を卵からかえして、大事に飼う時。

赤ちゃんが這って遊んでいるすぐ前を通る時も。

佳いお香をくゆらせて、ひっそり独り夢見心地で臥ている時。

大事な唐の鏡にすこし曇りを見つけた時は行末までが不安で。

すばらしい人が門前に車をとめ、供の者に来意を伝えさせたり物を尋ねたりしている姿。

髪を洗いお化粧もしてすてきに香をたきしめた装束などを身にした時。とくべつ見てくれる人がいない場所ででも、心もちは、それは一段と晴れがましい。

恋人の訪れを待っているような夜はとくに。窓うつ雨の音、吹く風が戸障子を揺するのにも、ふっと胸は騒いでまどろんでも居れない時。                       (第二六段)

 

* 千年を隔て、それにわたしが男であっても、かなり、すんなり分かり合える。

2020 4/1 221

 

 

☆  秦 恒平・*子・建日子

秦*子という人から封書が来た。一瞬ドキッとした。敬愛する作家の奥さまの名と知っていたからだ。何かの通知かと…。

秦さんの典雅な作品に、まるで私小説(或いはエッセイ)のような感じで度々登場してくる優雅な人のお名前。

ちなみに、やはり作品に度々登場するご長男は、ぼくが知った頃はたしか高校生だったはずだが、今や有名な作家、秦建日子。

約40年前ぼくが詩集「嬰児行」をお送りしたとき、父子で読んでくださり、詩集に入っている楽譜(きみに)を見て、ギターを弾きながら歌ってくれたという建日子さんが、いつのまにか、ミステリー作家になっていようとは…。

結局、奥さまの封書は、ポストカードの注文であった。詩のついているものをと。嬉しくなって、言葉がついているものをほとんどすべてお送りした。約100枚。

ぼくの今度の詩集名「隠沼」(こもりぬ)という言葉は秦さんから教わった。同名の短篇がある。奥

さまが実名で最初から最後まで登場。「私」の恋人(いわば不倫相手)の名は龍子。親友の妹である。この兄妹の近親相姦めいた話といかにも魅力的な陶器をからめた名品。

こういう作品を読むと、僕なんかは、まっ先に、奥さまはどんな気持ちでこういう作品を読まれるんだろうと思ってしまう。素人の浅はかさか…。

いただいた「秦恒平選集(29)」から一首。

12・03・23 *子 ステント手術

術半ばかと胸に手を置き妻のため祈るなり

倶に永く生きたし

 

*   私の、ごくごく稀な私小説のほかの物語には、一貫して妻でない女性が輝やかに姿をあらわす。そのために私は書いている。女性は一貫して一人のようでありぜんぶ別のようでもある。あたりまえである。

添えられた私の歌一首は、私自身が二期胃癌で胃全摘の手術後のまま入院中の作であった。妻がどんな人かは私のここで謂うことでないが、つい最近に古いモ ノをかきまわしていたとき、間違いなく東工大院生だった頃の彼の子だなと思える手紙があり、息子の芝居を見てくれたとき、あとで私達とお茶をのんだのでも あったか。永い手紙のおしまいに、「奥さん」に会えてよかった、「幽霊のような人かとおもってましたが、『人』らしい人でした。」とあって、笑えた。

 

* 私にはまだ俳句を読むちからはない。芭蕉、蕪村、子規、虚子、孝作らの作を懐かしめるだけである。

2020 4/1 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 両極端なもの

 

両極端なものを挙げよ、(と仰せに)

夏と冬と。

夜と昼と。

雨降る日と照る日と。

人が笑うのと肚を立てるのと。

老人と若者と。

白いのと黒いのと。

好きな人と嫌いな人と。

同じ人なのに、愛してくれている時と心変りがした時とでは、まるで別人みたいに思えてしまう。

火と水と

肥った人やせた人。

髪の長い人と短い人と。

夜烏がたくさん樹にとまっていて真夜中に塒争いに鳴き騒ぐ、あの時には枝を踏み外したり木伝いながら寝慴れて鳴き立てたりするのが、昼見る面にくさとは、まるで犬違いでおかしい。

(第六八段)

 

〔この段など、自由発想の何人もの声音まで、そっくり書きとめた感じがする。中に一人二人簡潔に端的に答えない癖の女房もまじる感じも実感があっておもしろい。

こう見ても『枕草子』の幾分かはたしかに、詩であるより、何人もの会話ないし陳述、なのである。〕

2020 4/2 221

 

 

☆ 御礼

選集第三十二巻が届きました。誠に有り難く心よりお礼申し上げます。

まず年表(=「作家」となるまでの、自筆年譜)に惹かれました。『四度の 瀧』所載の年表も拝読しましたが、この度は、年表というより{長編の物語(作品)}のようです。

お疲れが早く取れますようにとお祈りしています。  吉備の人

 

* よかれあしかれ誰も書かない・書けない「息のつまる」ようなウソのない年譜を書いた。「作家」以後の事蹟は最終次巻にはいる「秦 恒平単行本等・湖の本・選集・私語の刻 全書誌」が自ずから語ってくれる。「作家・創作者」は作品を通してのみ自身を語りうる「存在者」で、普通に所謂 「私」は、実在はしているが存在しないのである。

2020 4/2 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ めったにないもの

 

めったにないものは、(と仰せに。)

舅にほめられる婿。

それなら姑にかわいがられるお嫁さんも。

毛をうまく抜ける銀の毛抜き。

主人を謗らない従者。

まるで癖というもののない人。

顔かたちも心ばえもすぐれ、久しく付き合っていて、すこしの非難も受けないで居れる人。

同室に住む女房で、互いに敬い合い、すこしのゆるみなく気配りはしていながら、さてそれで徹したといえるほどの人もついぞ居ないもの。

物語や歌集を書き写す際、もとの本に墨をつけない人もめったにいない。豪華な本など、ずいぶん気を配って書き写すのだけれど、きまってと言いたいくらい、ついよごしてしまう。

男女の仲のことは言うまい。女でも、よほどの約束ごとのように仲よく付き合つてながら、最後まで仲がいい同士というのも、めったにない。              (第七一段)

 

* 頷ける。よく観ているモノだ。

2020 4/3 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 癪なものは

 

癩なものは、(と仰せに)

こちらから人に手紙をやるのも、また人の手紙に返事をするにも、書いて持たせてやったあとで、一、二字書き直したくなった時。

急ぎの仕立物を縫って、さ、うまく縫えたと思ったのに、針を引き抜いたら、なんと結び玉を作ってなかった時。

それから、裏返しに縫ってしまったのも、癩なもの。

 

東三条院の南の院に宮が御滞在の頃、

「急ぎのお仕立物です。だれもみな、この一刻のうちに多勢手分けして縫ってさし上げよ」と布地をお下げ渡しになったので、南の廂に集まって、銘々お召物の片身ごろずつ、誰が早く縫うかと競争のようになって、銘々離れ離れに縫い急ぐ様子はもう物狂おしいまで。

結局、命婦の乳母がひときわ早う縫い終わって下に置いたものの、ゆきの長い方の片身を縫ったのが、生地が裏返しなのに気付かず、糸の縫い止めもするかせぬかであわてて置いて席を立ったはいいけれど、背縫い合せをしてみるとまるで食い違っていた。みなで笑いに笑って、

「さ、縫い直して」と言うのだが、

「この色目で誰に縫い間違いと分かるものですか、縫い直す必要はありませんよ。これが綾などなら、模様もあることだし、裏を見ない人にも縫い違えている と分かるからと納得して直しましょうが。無文のお召物だし、何も目印はないのだから。直したければ直す人は他にいましよう、まだお縫いにならぬお人に直さ せなさい」と聞き入れない。

「そんな事を言ってすまされましょうか」と源少納言、中納言の君などいう人達が、気も進まぬげに取り寄せてお縫い直しになったのを、乳母がじっと見やっていたのは、それこそ奇妙だった。

 

よく咲いた萩やまた薄の庭に植わったのを眺めていると、移し植えるためか長櫃を持った者が鋤などを引っ提げて来て片端から掘り取って行ったなどは、もう 情けなくてなくて、癩だ。かなりな男でもそこに居ればそうもしないのに、女がいくら口やかましくとめ立てても「ほんのすこし」などと言い捨ててはみな掘っ て行くのは、手の打ちようもなく、癩だ。

受領の家でも、しかるべき権門の下僕らが来て、無礼な口を利き、「さりとてこのわたしをどうできますか」とでも高をくくっているのは、まったく癪にさわる。

今読みたいと思う手紙を男が横取りし、庭におりて立って読んでいるのが、泣きたいくらい癪にさわって追いかけはするが、こちらは御簾の辺で立ちどまらさ れて立ったまま見ていなくてならぬ心地、もう、庭でもどこへでも飛び出してやりたい気がする。        (第九〇段)

 

〔途中に筆記者清少納言自身の回想が割りこんでいる。〕

2020 4/4 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ かたはら痛いものは

 

かたはら痛いものは、(と仰せに。)

来客に会って話している時、奥の部屋で露骨な話などするのを、制めようもなくて聞いている気持。

そういえば愛している男がひどく酔って、やはり露わに物を言いつのるのを聞くのも。

聞いていたと知らず当のその人の噂をした時。

それは、たいした人でなくても、使用人などでも、とても困る。

ちょっと外へ出た先で、そこの下男などがふざけている時。

かわいげもないただの赤ん坊を、親が自分だけはかわいらしく思う気持にまかせ、さもさも大事にいとしがって、その児の声まで真似ては、しゃべった片言などをむやみに人に聞かすのもかたはら痛い。

学問のある人の前で、無い人が、物識りめかした声でやたら古人の名前などを口にしているのも。

格別うまいと思われぬ自分の歌を人に聞かせては誰それがほめたといった話をするのも、かたはら痛い。                     (第九一段)

 

* よく分かる。世間の耳とはこういうものと心得ていたい。

2020 4/5 221

 

 

* わたしの「悪趣味」の一つは、若きも老いも売れている「女優」の、「人」および「演技」の実力の容赦ない品定めで。「売れない」にはもちろん、「売れ る」にはそれだけの鮮明な理由がある。壮年の内に『女優術』という本を書いておけばよかったなどと「バカ」なことも時に口にしている。おまえの即品や文章 が売れなかった腹いせだろうとわらわれるだろうが、次回、「秦 恒平選集」最終第三十二巻に載る予定、『秦 恒平 単行本等・湖の本・選集 全書誌』のもの凄い仕事量を観れば、わらいは凍るだろう。俳優と違い、「作家」の演技力は、「書いて」「版元に買われて」 「活字になり」「本にもなる」ことで決まる。それしかない。

2020 4/5 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 気がおけるものは

 

気がおけるものは、(と仰せに。)

男の心のうち。

すぐ目をさます夜居の僧。

こそ泥が、どこか物陰にひそんで見ているか知れぬとは知らぬが仏。暗いにまぎれてこっそり人の物をわがものにしてしまう人も居るか知れず、そういうのも、こそ泥は同類と思いおかしがって覗いているのかも知れない。

夜居の僧は、あれこそ気がおけてならないもの。若い女房が集まって居て、人の噂をして笑いものにし、謗ったりにくらしがったりするのを、つくづく何も彼も聞かれてしまうのには、まったく頭が上がらない。

「おやめなさいよ」

「騒々しいわよ」などと宮のおそば近くにいる女房からたまりかねて注意されるのを聞き流しにしてさんざしゃべったあとは、まるで気を許して寝入ってしまうのも、あの僧がどう思っているやらと、いっそう気がおける。

男は、えい気に入らない、じれったくていらいらする女だと思っていても、目の前の女には調子よく期待を持たせている、ああいうところがどうも気がおけて ならない。まして、情濃やかに感じもいいと、世間で評判の男ほど「月並みな」などと思わせる応対は決してしない。そういう男はただ思っているだけでなく、 じつはみな、この女のことはあの女に、あの女のことはこの女に謗り顔に言い聞かせているものらしいが、自分もそんなめに合うとは知らず、こうよその女をわ るく言うのは、やはり自分が一番愛されているからだなどと、ばかな女はうぬぼれてしまうのだろう。

そう、それだからすこしぐらい好意を持ってくれる人に出あっても、どうせその程度のあさはかな男よと見えて、とくべつ気がおけたりはしない、というわけ。

そんな男が、それはいじらしくて、気の毒で、とても見捨てててなどおけない相手の女を、まるでかえりみないのも、ぜんたいどういう料簡かと、あきれてし まう。その手合いにかぎって他の者がすることには非難がましく口達者に、まァまくし立てる臆面のなさ。格別頼りになる身寄もない宮仕えの女房風情に馴染ん では、身重にさせてしまう、と、もう口をぬぐって知らぬ顔という男も、あるのだから……。                    (第一一九段)

 

* 手厳しいが、観るべきは見逃していない「女文化」の塩辛い一面。

2020 4/6 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ ぶざまなものは

 

ぶざまなものは、(と仰せに。)

潮の引いた干潟にうち上げた大船。

風に吹き倒され、根を空にあげて横倒れになった大木。

身分も低くたいした者でないのが、家来を叱りつけているのも、ぶざま。

人妻がつまらぬやきもちを焼いたあげくどこかへ身を隠したらしく、女にすればきっと夫は大騒ぎで探しまわると思うていたのに、思惑にたがって小癪なほど 平然と構えているので、そういつまでも他所で世話になってもおれず、自分から仕方なく姿を現したのも、およそさまにならない。                                    (第一二〇段)

* シンラツ。

2020 4/7 221

 

 

* 私の性質には、懐かしむ、懐かしいという感情をだいじに、玉のように抱くきもちが特徴的にある。それも、この世の、およそ「もの、こと、ひと」の全部 に謂えてさらに色濃く「ひと」に対して有る。わたしが小説を書きたいと願い書き始め書き継いできた推力は、「懐かしい人たち」を大勢専有していたいから だった。懐かしくもない人を造形して何の意味がある、ムダではないかと思える。懐かしい人成ればこそ必然の「もの、こと」も起きてくるし懐かしくてならな い「場」が出来る。来迎院のような、東福寺のような祇園のような、黒谷や鞍馬や河原町や御所や、清水・清閑寺のような、大きくいえば「京都」だが、近江も 丹波も、厳島も仙台も四度の瀧も牧場の家も、大同もモスクワも、もっともっともっと、いろいろ、在る。懐かしい「ひと」と懐かしい「場所」とは切り離せ ず、しかも自分の脚では行ったこともない「創られた」場所がまざまざ生き続けている。私は、「オイノ・セクスアリス」に書いた西院も洛南もじつは知らな い。しかし西院は生まれ落ちてたった独りでたてた「原籍」のある場所なのだ。

 

* あの破天荒な長い小説で、もっとも私が懐かしむ場面は、西院の松院恵遠寺であり、その墓地に実父母が名もなくただ「倶會一処」と刻んで眠った墓であ り、さらに幻の姉と現在の妻と実の妹との夢のような出逢いと歌を詠み合う一期の一會なのである。桂川の西、「姉」の墓のある三慧寺で実に「世自在王佛」と ある床の一軸にみまもられ、「私・吉野東作」氏は、妻と妹と床をならべて寝、夢の中で三人は懐かしい美しい「姉」の手に運ばれて、洛南の歴史的景勝へとは こばれて行く。

 

* わたくしとは、その三慧寺の一夜を見まもった床の軸に何をと、じつは一瞬に「世自在王佛」の名をもってした。この佛如来の名を知った人とは、坊さんは ともかく、ふつう出逢わない。釈迦如来、弥勒、地蔵、観音勢至等の菩薩、そして阿弥陀如来や大日如来どまりだろう。しかも私はそこで「世自在王如来」の名にことに私は「懐かしい」という気持ちを寄せも籠め もしたのだった。

浄土三部経は岩波文庫で手にはいるが、大部で根本の「大無量壽経」を話題に人から聞いたことが無い、が、いわゆる法蔵菩薩のくちから「本願」が発出され ている最も基本の経なのである。宝蔵菩薩はじつにこの大願を師ともいうべき「世自在王如来」にむけて誓っていて、近いの成就されて西方百万奥土に極楽浄土 が実現したとき、法蔵さんは阿弥陀如来と呼ばれている。そうお釈迦さんは弟子に話されている。なんという「懐かしい」ことであるか、夢でない真実なのだと いうのだ。

ではその「世自在王」先生は、何時頃の如来さんなのか。

釈迦如来を溯ること、宇宙の果ての果ての果てまでを数えるほど大勢の如来さんたちのまだその先の先に居られて、法蔵さんは、その「世自在王如来」に向かい、衆生済度と極楽浄土へ迎える本願を立て、みごとに果たされたと謂うのである。

基督教の聖書でもはじめにアブラハム、イサクを生みから始まってイエスまで延々の系譜が語られ、読み手は音をあげるのだが、お釈迦さんのときから、はる か世自在王如来へいたる過去世の莫大も莫大な永さは、ここで大経に出逢った読者を埃のように吹き散らしてしまうのである。

わが『オイノ・セクスアリス』はそういう懐かしさに底を支えられた「或る寓話」なのである。

2020 4/7 221

 

 

☆ 間の悪いものは

 

間の悪いものは、(と仰せに。)

ほかの人を呼んだのに、自分かと思ってべつの顔が出て来た時。

何か物を遣ろうといった時は、よけいに。

なにげなく人の噂をしてつい悪口を言ったのを、幼い子が覚えていて、当人の前で、口に出した時。

気の毒な話をしはじめて人が涙を流したりしているのに、なるほどかわいそうなと聞いていながら、急には涙が出て来ないのは、えらく間が悪い。泣き顔を 作って、顔色を曇らせたりしてみても、どうにもならない。そのくせ、すばらしい事を見聞きしていると、もう止めどもなく出て来るのだから、間が悪い。

 

石清水八幡宮へ行幸からお還りの時、東三条女院が御覧の御桟敷の向うで、帝が御輿をおとめになられて御国母の君に御挨拶を申し上げなさる情景はたぐいもなくすばらしく、文字どおりに涙があふれせっかくの化粧もすっかり落ちて、どんなにみっともなかった事か。

帝の御使者として斉信の宰相中将が御桟敷の方へ参られたのを、それはご立派にお見受けした事だ。随身を四人、それにりりしく着飾った馬副舎人のほっそり と顔を白う化粧したのだけを引き連れ、二条の大路の広々と清められた上を、見事な馬を早駆けで急いで参上し、桟敷のすこし遠くから下馬して、わきの御簾の 前に控えられた御容子など、じつによかった。女院の御返事をうけたまわると、また帝の許へ帰り参って、御輿に近付いて奏上なさるところなど、なまなかな讃 辞では尽くせない。

そうした御会釈があって、さて帝が御前を通って還御なさるのをお見送りなさる女院の御心地を推量申し上げると、身も思いも空へ舞い立つほどの感動だった。こういう時は、いつまでも泣きやまず、とかく人に笑われてしまう。

並みの身分の人でも、やはり、わが子が出世したのはすばらしいにきまっている、但しこんな風に女院の御心中を御推察申し上げるのも、恐れ多いこと。(第一二二段)

 

〔この段後半は「涙」の縁で誘い出された清少納言自身の回想で、回想的章段の趣を備えている。類想的といい回想・日録的といい、あくまで便宜的な分類であらざるをえないところに、筆録者、記 録者としての清少納言の役目柄がありまた自在な裁量がある。〕 2020 4/8 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 清らかに見えるものは

 

清らかに見えるものは、(と仰せに。)

土器。

ま新しい鋺。

いまから畳に作る薦。

ものに水を注ぎ入れるとき光に透いて見える、影、かたち。    (第一四一段)

 

〔「水をものに入るる透影」の解釈は幾通りもある。「透影」を水そのものと取りたい気がする、が、   萩谷朴氏の解によった。〕

 

☆ かわいらしいものは

 

かわいらしいものは、(と仰せに。)

瓜に描いた赤ん坊の顔。

雀の子が、チュチュッと呼ぶとピョンピョン寄って来る容子。

二つ三つほどの赤ん坊が、急いで這って来る途中、ほんの小さい塵のあったのを目ざとく見つけて、なんとも愛らしい指でっまんで、ひとりひとり大人に見せてまわるのは、とてもかわいらしい。

頭は尼そぎ放ち髪にした幼児が、目へ髪のかぶるのをはらいのけもせず、ただ首をかしげるふうにして何か見ているのもかわいらしい。

そう大柄でない殿上童が、着飾ってもらって歩きまわるのも、かわいらしい。

愛くるしい赤ん坊が、ちょっと抱いてあやしかわいがるうちに、すがりついて寝入ってしまったりすると、たまらなくかわいい。

お雛様の調度もかわいらしい。

蓮の浮葉のごく小さいのを、池からすくい上げたのも。

葵の葉のとても小さいのも。

何もかも小さいものは、みなかわいらしい。

それは色白うふとった赤ん坊の年齢(とし)は二つくらいなのが、二藍の羅(うすもの)など丈にあまって長々と襷まで結って這い出て来たのも、また、ちいさい子が長い袖ばかり目立つものを着て歩きまわるのも、みな、かわいらしい。

八つ、九つ、十ぐらいの男の子が、まだまだ声は幼くて一心に書物を読んでいる容子も、しごくかわいらしい。

鶏の雛が、細長い脛を白う愛くるしく、まるで丈足らぬ着物を着た恰好で、ぴよぴよとやかましく鳴いて、人の後に前に立ってあちこちするのも、かわいい。

また、親鶏が一緒に雛に連れられたようにとっとと走り出すのも、みんな、かわいらしい。

水鳥の卵。

瑠璃の壷もかわいらしい。               (第一四四段)

 

* 女の目やなあ。

2020 4/9 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 人前で図に乗るものは

 

人前でとかく図に乗るものは、(と仰せに。)

身分低い者の子だけれど、相応に親が甘やかしつけてしまったのが、つい図に乗りやすい。

咳が、そう。立派な方と話そうとすると、とかく先ず咳いてしまう。

近くに隣り合って住む人の四、五歳ぐらいの子になると、ちょうどいたずら盛り、なにかといっては物を散らかしこわしもするもの、それを大人に引っぱられ制められて思うままにできないでいる所へ、当の母親が来たというので調子づいて、

「あれ見せてよ。ねえ、お母さん、ねえ」などとひきゆるがすのだが、大人は話に夢中ですぐには聞き入れないでいると、勝手に何でも引っぱり出して来てひろげ散らすのは、じつににくらしい。

それを、

「いけません」と強く言って取り上げもせず、

「そんな事をするんじゃないの」

「こわしてはいけませんよ」くらいにただ笑顔を向けて言うだけでは、母親までにくらしい。

自分はといえば、これまたそうきついこともよう言わずに見ているだけ、何とも歯がゆいかぎり。    (第一四五段)

 

* 「千年の差」が有ると思われない。

2020 4/11 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 遠くて近いものは

 

遠くて近いものは、(と仰せに。)

極楽。

舟路。

男女の仲。   (第一六○段)

 

☆ 得意げなものは

 

得意げなものは、(と仰せに。)

正月一日に、最初にくしゃみをした人。

並みの身分の人ならそういう事はない。下々の者の話。

競争のきつい時に六位蔵人に、首尾よう自分の子を任官させた人の顔つき。

それに、除目(じもく)で、その年の第一等の国の守(かみ)に任ぜられた人。

人がお祝いを言って、「よう見事におなりになった」と挨拶する返事に、「いえ、なに。もう度はずれて疲弊しておりますそうですから」などと答えるのも、いかにも得意げだ。

また、申し入れる人多く、互いに張り合った仲で選ばれて婿になったのも、鼻高々というものだろう。

受領(ずりょう)を歴任して来た人がとうとう参議になったのこそ、もともと名門の公達が昇進したのよりも得意満面で、見識高う、よほど自分のことをえらく思っているには違いない。(第一七七段)

 

* と、定子皇后の仰せに応じて。いかにも、何人もでモノを言い合っている。その機微とおもしろさとが、私が読み取るまで、千年ものあいだ、読まれ聴きとられ指摘されてこなかったなんて、信じられない。しかし事実だった。

2020 4/11 221

 

 

* コロナウィルスの跳梁は専門家達の叡智と学識・技術をあつめてなお、今日、令和二年四月十一日現在、恐るべき猛威をみせつけている。敢 然、覚悟を定めて病魔の前に立ちはだかる勇気と聡明とが「安倍晋三内閣とその与党」の政治感覚に抜け落ちている憂いは情けないまで深く、国難はいまや政治 こそが招いている。病魔はそれを嘲笑っている。

日本にはいま、「民」を護るという日本語が禁じられていて、あくまで「国民」のために国民が托した政治家らの行政能力に「国と国民の安寧や安心」は左右 される。いま、その幸・不幸の無惨なわかれを、日本の国と国民とは苦々しく体験している。政権は国民生死の難儀を救護かるより先だって、一握りの「経済」 占有者らのために「政治」が動いている。病魔の跳梁の足元で、医療は崩壊しつつ国民の生業・教育も破壊されてゆき、「国の政治」は厚顔にそれを見殺しに任 せつつ国民の税金を平然抱きかかえ「お気に入りたち」にバ撒いても恥じない。

今日にも、即刻にも、政治は本来の役務「国と国民の安全と健康」第一に勤めよと、だれよりも最高責任者である内閣総理大臣安倍晋三氏にむかい猛省を願う。

 

* 国をあげて病み苦しむ状況が刻々伝えられ苦渋に満ちて語り合われるテレビに吐息し、かりそめに動かした別チャンネルから、おお、「荒城の月」の合唱が 聴かれ、つっと泪が奔った。あいついで「めだかの学校」が懐かしく、そして圧巻の藤村「椰子の実」を傍へ来た妻としみじみ聴いた。「流離のおもひ」と聴き 「いつの日か故郷に帰らん」と聴くともう堪らなく呻いて泣いた。帰りたい…泣いた。

「子供たちに残したい 美しい日本のうた」という番組だった。心底、私もそう願う。

 

* この夜中にも私は、夢うつつのまま島崎藤村のあの、まだあげそめし前髪の「初恋」の詩詞を繰り返し追っていた。美しい日本語の精髄を近代詩の最初にう たいあげた藤村。誰を尊敬してきましたかと受賞の記者会見で問われ私は一瞬のためらいなく藤村、漱石、潤一郎と答えて記者席のざわめきとともにものすごい ほどカメラノのくフラッシュを浴びた。佳い美しい日本語、確かな日本語を佳い美しうたとともに子供たちに残したいと心より願う。いま私の耳には「春のうら らの隅田川」と唄う美しい歌声が聞こえてくる。

2020 4/11 221

 

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ いやな病気は

 

いやな病気は、(と仰せに。)

胸の病。

もののけ。

脚気。

どんな病も困るが、はては、ただどこが悪いというのではなくて、まるで食慾のない気分。

年のころ十八か九の女で、たいそう麗わしい身の丈ほどある髪をすそまでふっさり垂れた、それにしごく肉づきがよくて、色は抜けるように白う顔も愛くるし いいかにも美人が、歯痛になやんで、額髪もぐっしょり涙で泣き濡らし、顔に乱れかかるのもかまわず真っ赤になって痛む所を手でおさえて坐っていたりするの は、気の毒な中にも、ふと色気を感じるもの。

 

八月時分、白の単衣のやわらかな下に袴も適当につけて紫苑襲(しおんがさね)の表着の十分上品なのを羽織り、胸の病が重いものだから、親しい女房らが次々に来ては見舞っている、病室の外へも若々しい公達が何人もつめかけ、

「まったく、いたいたしい」

「ふだんも、こんなにお苦しみですか」などと、さりげなく言い合っている人もある。

病む人に想いを寄せる男が、心底かわいそうにと心痛の体でいるのも、それなりに、わるくない。見事に長い髪を引き結って、気分がわるいと急に起きあがった様子も、いたいたしいなりに愛らしい。

帝にも病気のよしお聞き及びになって、御読経(みどけう)の僧の中から声のよいのをおつかわしになったので、枕ちかく几帳を引き寄せ、それを隔てに坐ら せてある。いくらもない家の狭さなので、多勢来ている見舞いの女客が、お経を聴いたりする姿も露わで、その方へ気をとられとられお経を誦んでいるなどは、 あの坊主、仏罰をこうむりはしないかと、思われる。 (第一八〇段)

 

* 流行り病い、千年、千五百年前の日本にもあった。

 

* 都の、新感染患者数、また、ハネあがり……息をのむ。

2020 4/12 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 幻滅する言葉遣い

 

とたんに、幻滅するというか、そんなことを感じるのは、(と仰せに。)

男も女も、話し合うのに品のない言葉遣いをするのが、すべて何にもまして、いけない。ちょっとした言葉一つで、不思議と、上品にも下品にもなるのは、どうしたことなのか。

まったく。

むろん、こう思っている当人も格別りっぱな言葉遣いをしている、というではないわけで。

そんなことではどれがよい、どれが悪いと、判断がつくはずもない、が……。

とは言え、人がどう思おうと、ただ当人の気持しだいで、そうしたい、悪いは、判じわけているものよ。

下品な言葉も、まちがった言棄も、そうと知ってわざと使っているなら構わない、けど、それが身についてしまったのを、臆面もなしに口にしているといったのは、聞き苦しい限り。

また、それがふさわしい身分でもない年寄りやいい年をした男が、わざとがましくへりくだった言葉遣いをするのも、いやらしい。

乱暴な言葉でも、下卑た言葉でも、もう年輩の女房になると無遠慮に喋り散らしているのを、若い人がひどくきまり悪がってはらはらしているのはもっともな、むりもないこと。

何を言うにも、「その事させむとす」(それは、そうしよう)「言はむとす」(言おう)「なにとせむとす」(なになにしよう)の「と」の字をはぶいて、ただ「言はむずる」「里へ出でむずる」などと言うけれど、あれはずいぶん耳障りだ。

ましてその言葉遣いを手紙にまで書いては、お話にもならない。

物語などになると、下手な言葉遣いがしてあるだけで、もうがっかりして、作者その人までがだめに思えてしまう。

「ひてつ車に」と訛って言う人もあった。

「もとむ」という言い方を「みとむ」などとは、よく言うらしい。    (第一八五段)

 

〔この段など、ひときわ女房たちの会話ないし討論の口調が生き生き残っていて、これをはっきり直  接話法の体に表せば、『枕草子』のそも何であったかが十分納得できると思える。〕

2020 4/13 221

 

 

☆ 拝啓

ご無沙汰致して居りますが先生にはお変わりなくお過ごしのことと存じます。

先には『秦 恒平選集』第三十二巻をご恵送賜りました。ありがとうございました。ゆっくりと拝読させていただいておりました。所収の「自筆年譜」の詳細さは驚きでした。上下二段組みがで九十頁に及ぶ分量でありながら、まだ(一)ということにびっくりしていました。

かつて研究室で一緒だった横光利一研究家であった保昌正夫さんが年譜についての思いを、日ごろよく話しておいででした、わけても、「年譜は研究や論文などのための調べる資料でなく、作品と同じくらい読みこむものです」という話しは記憶に強く残っています。

先生の「自筆年譜(一)」を拝読させていただきながら、「エー」とか「ヘー」とかいいながら一行一行進みました、例えば「喫茶店という場所に生まれて初めて入った」という十八歳の記述は、ひどく身近さを感じたりしました。

先生の若い日の姿をあれこれと想像させていただきました。こういう拝読の仕方は失礼かと思いつつも一行一行にひきこまれていきました。

これだけの詳細な年譜の裏には、日々、しっかりした記録を残していらっしゃったはずと思いますと、そのこと自体が驚きでした。

今しばらくは「自筆年譜(一)」から離れられそうもありません、くり返し拝読させていただこうと思っております。(後略)  敬具   相模原  馬渡憲三郎  前・芸術至上主義文芸学会会長

 

* 何度も書いてきた、仲間というモノを持たなかった私の「文学の教科書」は、京都から上京の以前(角川・昭和文学全集)も以後(講談社・日本近代文学全 集)も、これらの作品と等質・対等に各先達作家達の「年譜」だった。食い入るように年譜を読んでいた。具体的に何が何をということでないが、底知れないエ ネルギーをわたしは作家達の、批評家達の「年譜」から汲み取って一度も飽きなかった。

それと今度の「自筆年譜(一)」との関わりを謂う道も術も持っていないが、これだけは書いておくべきだと思い、虚実を推し測る意味などではなくて、懸命 に生きて「必然」の呻きのようなモノに成ったと思っている。「作家に成ったまで」で留めたし、それ以降の半世紀の「年譜」を同じように書くことは何でもな く用意できているが、私は、「作家以前」はともかく、「作家」として今も生き続けている以上、私を語りうる資料は「作品・文藝」でしかない、あってはなら ぬと想っている。幸か不幸か今世紀に入る少し前からこの機械に書き始めた「日蔵 私語の刻」はすでに十万枚を超している。呆れて嗤ってもらっていいことで ある。

2020 4/13 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ ゆかしいものは

 

奥ゆかしいものは、(と仰せに。)

ものを隔てて聞いていると、女房とは思われず人を呼ぶ手の音が、ひっそり、品よう聞こえたと思うと、若々しく返事して衣ずれもさわやかに参上するけは い。ものかげ、襖など隔てて聞いていると、お食事を召し上がるのか、箸や匙を使う音が入りまじって聴こえるのも趣ありげだ。そんな時は提子の柄が倒れるら しいのにも、耳惹かれる。

打ってよくつやを出した衣の上に、乱れかかるというでなく髪のふりかかったのは、長さもさこそとゆかしく思いやられる。

調度など見事にそろえた部屋で、あかりはさし上げないで、炭櫃などにたっぷりおこした火が光ったようにあたり一面に照らすと見えて、御帳台の紐などつややかに目に映るのも、なかなかいい。

御簾の帽額(もこう)や、総角(あげまき)の緒、それに巻き上げた鈎がくっきり見えるのも、あざやかでわるくない。

佳い細工の手焙りの、灰際をきれいにならしておこした火で内側に描いた絵が見えたのがきれいだ。火箸がすっと光って、斜めにくっきり立ててあるのもきれいだ。

夜がたいそうふけて、宮様もお寝みになり、女房もみな寝てしまった後で、外へ来ている殿上人(てんじょうびと)と物越しに誰か話している、と、奥の方で、碁石を笥(け)に入れる音がくりかえし聞こえたりするのは、とても奥ゆかしい。

近くで、火箸をそっと灰に突き立てるのも、まだ起きていたのだなと聞かれて、なんとなくいいものだ。

夜寝ずにいる人は、どこか、奥ゆかしい。

人の寝ているのと ものを隔てて居る時など、夜中目をさまして聞くと、なにか起きているらしいけはいで、話していることは聞こえずに、男もあたりに気がねしながらふと笑ったのは、何を話しているのだろうと、好奇心にかられてしまう。

 

まだ宮様も起きておいでになり、女房などもお前に控えている所へ、殿上人や典侍(すけ)など、気の張る人々が参上した時など、おそばへ参って宮様がお話しなさるあいだあかりもお消ししてあるのに、長炭櫃(ながすびつ)の火で、あたりの様子もよく見える。

殿がたにすれば気になる新参の女房が、いつもお目通りのかなう身分ではないので、少し夜ふけてから参上する、そのさやさや鳴る衣ずれの音もやさしく、い ざり出てお近くに控えていると、宮様も小さいお声で何か仰せられ、初々しい遠慮がちな様子で声音も聞きとれそうもないくらいに御返事を申すらしく、しんと 静まり返っている。女房があちこちにたむろして話していたり、退出や参上の衣ずれの音など、うるさくはなくて誰方がとわかるのも、たいそう奥ゆかしい。

宮中の局(つぼね)近くへ、幾らか憚りのある人が来ている様子に、こちらの火は消してあるけれど、わきから灯が物越しにさし込んでさすがに内部の様子が ぼんやり見える、と、丈の低い几帳を引き寄せ、その蔭に添い臥して顔を寄せ合っているのだが、昼間はそうまぢかに顔を見合うという二人ではないから、こう なれば女の髪の色、形のよさ悪しさは、男の目に隠しようがない。直衣(なおし)、指貫(さしぬき)などは几帳にうち掛けてある。六位の蔵人(くろうど)の 袍(ほう・うえのきぬ)の青もまずは似合いだろう、但し緑衫(ろうそう)となると、足許へ丸めてあって、その分では明け方、探し出せなくて帰る男をあわて させかねない。

夏でも冬でも、几帳の片方へ着物をうち掛けて女が寝んでいるのを部屋の奥の方からそっとのぞいたのも、趣がある。

薫物(たきもの)の香、なんとも奥ゆかしい。

五月の長雨の頃、上の御局の小戸(こと)の簾(す)に、斉信(ただのぶ)の中将の寄りかかって坐ってらした時の香の匂いは、ほんとうに、すばらしいもの だったと思う。なにを薫(た)きしめたとはわからないし、一面しっとりと雨気ににじみ合って一段となまめき匂うのもむしろあたりまえだったけれど、それで もあのすばらしさ、どうして口にしないでおれようか。翌日まで御簾(みす)に高く移り香がしていたのを、若い人たちが言い知れぬまで感じ入っていたのも、 もっともではあった。

とくにどうという風采でもない従者を、背の高いのや低いのや多勢引きつれているより、すこし乗り馴らした手入れも十分な車に、いかにもきりっとしたいで たちの牛飼童(うしかいわらわ)が、すばらしい牛の逸る勢いについておくれおくれ綱に引っぱられて車をやっている方が、また、すっきりした従者が裾濃(す そご)のような袴の二藍(ふたあい)色か何かをはいて、表着(うわぎ)はなんであれ、たとえば掻練(かいねり)や山吹色のなど着て、よく磨いた沓(くつ) をはいて、車の筒の傍離れず走っている方が、かえって奥ゆかしく見える。     (第一八九段)

 

〔筆者心理の流れそのものをおもしろく読みたい。〕

2020 4/14 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 見ものは

 

見ものは、(と仰せに。)

石清水(いわしみづ)とそして賀茂の臨時の祭り。

行幸(みゆき)。

賀茂祭での斎院のお還り。

摂関家の御賀茂詣で。

 

賀茂の臨時の祭りは、冬の空かき曇って寒々と、いつか雪もすこし散らつき、勅使が挿頭(かざし)の藤の花や舞人たちの青摺の袍(ほう)にかかるけはい、えも言われぬ見もの だ。舞人(ぶにん)や陪従(べいじゅう)の尻鞘の太刀には虎の斑文(まだら)もくっきり黒う末広がって見え、半臂の忘れ緒が袍(うえのきぬ)の腋をこぼれ出てその鞘の上へ、みがいたようにきららかに懸かっ たのや、地摺の袴の下に、紅い大口袴の氷かと眼を瞠る光沢がのぞいて見えるなど、みな、じつにすばらしい。

いま少し多勢で行列してほしいもの、勅使は、身分の高い人とも限らず受領であったりするのは見ばえがなくしっくりしないが、それとても挿頭の藤の花に隠 れた風情は、わるくない。去って行く後ろを今しばし見送っていると、品下がった柳色の下襲(したがさね)に山吹の挿頭で陪従があとへ続くのはいかにも映えないけれど、馬 の泥障(あおり)を音高ううち鳴らして、「神の社の木綿襷(ゆうだすき)」と謡って行くのは、なかなか佳い。

それにしても行幸(みゆき)に匹敵する見ものが、ほかにあろうか。

帝が御輿にお乗りなのをお見上げしていると、明け暮れお近くでお仕えするあのお方とも思われず、神々しく、威厳あり、ご立派で、ふだんは目につかない、お供のなんとかの内侍や東孺(あずまわらわ)の姫大夫(ひめまうちぎみ)までが、丈高う、すばらしく思われる。

御輿を曳く”御綱(みつな)の次将(すけ)”と呼ばれる中将、少将がたがとてもいい。

弓箭(ゆみや)を帯びた近衛の大将は、何にもましてひときわすばらしい。近衛の武官は、やはりなんと言おうと見ものだ。

五月の行幸こそくらべようなく優美なものだったらしい。ただ、今代(きんだい)には廃れてしまった行事のようで、残念。昔語りに人の言うのを聞いていろいろ想像し てみるが、事実はどれほどであったことか。その日はどの御殿も菖蒲(しょうぶ)を葺いて、ただでもすばらしいのに、昔の有様を聞けば、到るところの御桟敷に菖蒲を葺き わたし一人のこらず菖蒲鬘(そうぶかづら)を垂れ、菖蒲の女蔵人(にょくろうど)には選り抜きの美人が召されて薬玉をお授けになると拝舞して腰に佩びたりなどしたというのだから、どんな だったろう。物真似に、夷の家移りを嗤って子供が蓬の矢を射かけたなどもさぞ滑稽で、おもしろかったろうと想われる。帝が武徳殿からお還りになる御輿の先 に、獅子や狛犬に扮して人が舞い、ああ、きっとそうもあったに違いない、折から郭公も鳴いて、季節から言っても、もうこの行幸に較べられるものなどあろう はずもなかったのだ。

行幸はすばらしい、というものの公達を乗せた車が、見るから晴れやかに衣裳の裾を簾の外に溢れ出しながら、都大路を南へ北へ走らせるような空気ではない のが、もの足りない。そうした車が、ひと波を押し分けて見物の場所に割り込んだりするのが、どれほどの公達の車がとさまざまな期待に胸がさわぎ出す。

賀茂祭、斎王がお還りのさまも、とてもすばらしい。昨日は、万事みごとに整い、一条大路も広々と掃除も行き届いてひときわ日ざし暑く、見物に立てた車に 日がさし込む、のが眩さに、しきりに扇で庇ってはながい時間を坐り直し直し待ち疲れて汗も滲み出たが。今日は、朝早うに急いで出てくると雲林院や知足院の 辺に沢山の車が立ち、御簾(みす)に付いた葵鬘(あおいかづら)も風になびいて見えた。日は出たけれど空はなお 曇っている。つねは、どうかして聴きたいと寝もやらず起きて待たれる郭公(ほととぎす)が、折からあまりしきりに思うほど鳴きたてているのは、なんともす ばらしいと思っ ていると鶯が、野太い声ながら郭公に似せようと精一杯声を添えて鳴いているのは、にくくはあるが、これまた一興というもの。

さて、今にもと待っていると、上のお社の方から、赤い狩衣(かりぎぬ)を着た男たちが連れ立って来たので、

「どんなようすなの。もう行列は来るかしら」と訊いてみると、「まだ、とても」とご返事して、御輿(みこし)など持って斎院に帰って行く。あの御輿を召されてお通りに なるかと想うにつけてめでたく、神々しくて、どうしてあんな下々の者などがお身近に御奉仕しているのかと、そら恐ろしくなる。

まだまだ先のように言われたのに、ほどなくお還りの行列が来る。お供の女房の扇をはじめ衣裳の青朽葉色などとてもおもしろう見え、蔵人所(くろうどどころ)の雑色(ぞうしき)たちが青 色の袍(うえのきぬ)に白襲(しろかさね)の裾をちょっと帯にさしはさんだ姿は、卯の花の垣根を目近に見る感じで、鳴きしきる郭公のめでたさも蔭に隠れてしまいそうな見ものだった。

昨日の祭日には、一つの単に多勢乗って、二藍(ふたあい)の直衣(のうし)、指貫(さしぬき)、あるいは狩衣(かりぎぬ)など、弛みがちに乱れ着て、車の簾もはずしてしまってもの狂おしいまで賑やかに 見えた公達(きんだち)が、斎院の御饗(おんあるじ)のお相伴役ということで束帯に威儀を正して、今日は一人ずつしんと乗ったその車の後ろの席には、かわいらしい殿上童(てんじょうわらわ)を乗せている のが、おもしろい。

行列が前を通ってしまったとたん、どう気がせくというのか、我先にと、あぶなくも恐ろしげに思えるくらい、人より先立とうと車を急がせるので。

「そう急ぐものでない」と扇をさし出して供の者を制するのだが、聞き入れなくてこまってしまう。それでもやっと、すこし道の広い所で無理に車をとめさせて 立っているのを、供の連中は気が気でなく腹立たしく思っているに違いないが、後ろにつかえたたくさんの車の難渋ぶりを見ものにしている方が、おもしろい。

男車の、誰だかわからないのが、自分の車のあとに続いて来るのも、何も事がないよりはおもしろいと思っていると、ふた道に別れる所で、「峯にわかるる」と古歌に寄せてこちらをつれながって挨拶して来たのも、おもしろい。

なお興が尽きなくて斎院の鳥居のところまで行って中をのぞいて来る時もある。内侍(ないし)の車の帰って行くのがとても混雑するので、違う道を通って帰ると、なか なかに郊外の感じで風情があるが、卯つ木垣根というものの何の手人れもなしに茂りに茂って、道にさし出た枝もいっぱいで、花は十分咲ききらず、まだ蕾がち に見えるのを折らせて、車の屋形のあちこちにさしてみたのも、葵鬘もみなしぼんでしまってみすぼらしい折から、思わぬ興をそそられる。とても狭く通れそう もなく見えていた道の先へ先へ、かまわず車を進めて行ってみると、それほどでもなかったのが、また楽しかった。              (第二〇五 段)

 

〔はじめに列挙して、あとで清少納言自身の感想や体験をうち重ねている。前後に分散して読んだのでは筆者の心の動きが見てとれなくて、おもしろさがそがれてしまうだろう。

それにしても古代人の衣裳、持物、風俗など、これは読者に予備知識をとかく要求する。或る意味で、当然のことではあるし、訳文をことさら解説的にはしていない。

 

* 京に生まれ京で育ち、京を歩きまわって目に胸にたくわえてから私は東京へ出て来た。この長々しい一段も、しみじみと面白く懐かしい。「女文化」という私独自の把握と表現のいい滋養になったのだと思う。

こういう一文を読んでいると、昨日今日そして明日も明後日にも避けがたい感染の病魔にも、政府与党の世迷い言のような思いつき発言などにもほとほと背を向けていたくなる、決してそうは行かないのだが。

2020 4/15 221

 

 

* 午後は、単行著書の書誌づくりもしていたが、二日がかりでやっと四十册分、もう六十册余のオチない記録を細字で作り上げねばならない。大概の人はウン ザリしてしまうだろうが、自分で書いて創って出版された本だし、詳細に亘って記載していると往時のこともありあり思い出せる。よくまあこんなに本にしてく れたなあと今更に感謝。そんな中で、時節という物か、信じられないほど私は数多く限定豪華本を書肆にのぞまれており、単行本が千円未満の頃に単価が万、何 万という立派に美しい少部数本を出して貰い、売れない作家の割にたいそう稼がせて貰っていたと分かる。そしていつか「本が売れない」とどの社も編集者も売 れる物を書いて書いてとやかましかった。決然と私は「秦 恒平・湖の本」時代へ行く手を切り換えたのだった。

2020 4/15 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 大きい方が佳いものは

 

大きい方が佳いのは、(と仰せに。)

家。

食べ物を容れて運ぶ袋。

法師。

くだもの。

牛。

松の木。

硯の墨。

男で目の細いのは女のよう。

でも、鋺(かなまり)のような目も恐ろしい。

火桶は大きいのがいい。

酸漿(ほおづき)。

山吹の花。

桜の花びらも。                                  (第二一六段)

 

 

☆ 短い方が佳いものは

 

短い方が佳いいのは、(と仰せに。)

急ぎのものを縫う糸。

下働きの女の髪。

いい家の少女の声。

燭の台。                                                   (第二一七段)

 

* 感覚の冴え。

2020 4/16 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 過ぎに過ぎ逝くものは

 

過ぎに過ぎ逝くものは、(と仰せに。)

帆をかけた舟。

人の齢。

春。

夏。

冬。                                                        (第二四二段)

2020 4/17 221

 

 

* さがしていた文庫本の『創世記』がみつかり巻頭の「創造記」を読み、深く頷けた。神の創造があったと頷くと言うより、世界を創造するなら「や はり」こうだナとおもしろく納得した。納得できるこの私の資質が、あの壮麗なミルトンの叙事詩『失樂園』の「詩」や、法蔵菩薩の世自在王佛への帰依と誓い などに納得し魅されるのだなと思う。

しばらく『創世記』を読み続けたい。

どうも『論語』は性に合わない、私はもともと老子、荘子に惹かれながら大人になった。茶名「宗遠」の「遠」一字も『老子』にもらっている。

佛教の経典では、やはり『般若心経』徹底の「空」に惹かれる。浄土三部経に親しむのも『般若心経』を胸の奥に抱いてのうえで「南無阿弥陀仏」へ素直に身が寄せられる。バグワン・シュリ・ラジニーシのおかげでもある。

2020 4/17 221

 

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ うれしいものは

 

うれしいものは、(と仰せに。)

まだ読んだことのない物語の一の巻を読んで、続けて読みたい読みたい読みたいと思っていた、その続きをやっと読めた時。

もっとも、がっかりしてしまう場合もある。

人が破り捨てた手紙をついで見るのに、ぴったり合う部分が何行も続いて読めた時。

どうかと思ういやな夢を見て、怖くなって不安がっていたのに、なにごともないと夢解きしてもらえた時は、とてもうれしい。

高貴なお方の御前に多勢控えている折に、昔あった事であれ、今お聞きになった事、あるいは世間で評判の事であれ、お話しになる時、自分の方へ目を見合わせてお話しいただけた時など、とてもうれしい。

遠い田舎は言うまでもなく、同じ都の中でも離れ住んでいて、自分にはかけがえない人が病気と聞き、容体はどうかどうかと見舞いもならぬ事をやきもき心配している時、よくなったと人伝てに聞くのも、とてもうれしい。

愛している人が、人にほめられ、高貴なお方も、なかなかの人物と認めて、そうおっしゃっても下さる時。

何か晴れの場で詠んだ歌、あるいは人とやりとりした歌が評判になって、打聞(うちきき)などに書き入れられた時。自分の事としてはまだその経験はないけれど、いかにもうれしいだろうと想像がつく。

そうは親しくない人がふと口遊(くちずさ)んだ古歌で、こちらは知らなくて困っていた時に、ふっとほかから聞き知ることのできたのも、うれしい。あと で、本など読んでいて見つけた時はことに目もとまって、この本のここに出ていたのかと、その歌を口遊んでいた人のことまで、なつかしくなる。

みちのくに紙、いや、普通の紙でも上等のを、手に入れた時はうれしい。

尊敬しているほどの人から、歌の上の句や下の句を訊ねられて、とっさに思い出せた時は、我ながらうれしい。いつも憶えていた歌なのに、人に聞かれて、きれいに忘れて思い出せずじまいになることが多い。

急の用でさがす物を、見つけ出した時がうれしい。

物合(ものあわせ)、その他何やかや、人と競い合って、勝った時は、どうしてうれしくない事があろう。

また、我こそと思い顔にいつも得意がっている相手にうまく一杯くわせた時、それも女同士より相手が男の場合は、いっそうっれしい。このお返しはきっとす ると思っているに違いないと、いつも気がおけてならないのもおもしろいが、向うもまるで平気な顔で、なんとも思っていない風をよそおってこちらを油断させ て日を送るのも、また、おもしろい。

にくらしい人が、不幸な目にあうのも、罰が当たるかも知れないと思いながらも、これまた、うれしい。

何か晴れの支度に着物を打たせにやって、仕上りを気にかけていると、きれいに出来てきた時もうれしい。

刺櫛(さしぐし)を磨かせたところ、見違えるほど美しくなって戻ってきた時も、これまたうれしい。

 

また、また、があんまり多いこと――。

 

幾日、幾月、ひどい状態で病気だったのがなおったのも、うれしい。愛する人の場合は、自分の時より一層うれしい。

宮の御前に人が隙間なしに坐っているので、おくれて参上してすこし離れた柱の所などに控えていると、はやお目にとめられ、

「こちらへ」とお声をかけてくださり、人も道をあけてくれて、おそば近くまで召し入れられた、そんな時は、なににもましてうれしい。           (第二五八段)

 

〔みんなで、「また」「また」と列挙して、宮にからかわれ、気恥ずかしくなっても、まだ挙げているるのが、また、おもしろい。 女たちが、正しく此処に居る。おもしろい。むかし、秦の叔母の花や茶の湯の稽古場ででも私はこのような口舌を黙って聴いていた。〕

2020 4/18 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 気の許せないものは

 

気の許せないものは、(と仰せに。)

つまらない人間。

その通り。中身ある人と違い、つまらない人間ほどしまりがないもの。

舟旅。

日ざしうらうらと海づらもまことのどかに、一面早緑色の絹をひろげたようなぐあい、すこしの怖いというけはいもないので、衵に袴などを着た若い女や、若 々しい侍が、櫓という物を押し歌を盛んに歌っているのはとても楽しそうで、高貴の方にもお見せ申したいと思い思い行くうち、強い風がにわかに吹いて、海づ らは見るまに荒れに荒れて行くので、気もそぞろに、急ぎ泊りの港へ漕ぎ着ける間も舟に波のうちかかる有様といい、じつに一瞬の変りようは、あんなに凪いで いた同じ海ととても見えない。

思えば、舟に乗って往来する人ほど、怖くて不安な暮しはない。たとえそう深くないにしても、あれくらい頼りない物に乗って漕ぎ出していいものだろうか、まして底知れず、千尋(たひろ)もあるうという海へ。

たくさんな積み荷に水際ほんの一尺もない船でも、舸子(かこ)たちはいささかも怖いと思わず走り歩く。すこし手荒にすれば沈むかと心配なのに、岸へ寄りぎわ、大きな松の木など二、三尺ほどの丸太を、五つ六つ、つづけざま海に投げ込んだりする有様は、見るも恐ろしい。

大きな船では屋形というもののそばで二人ずつ一丁の櫓を押している。内側で押す方はともあれ安心だけれど、舟ばたいっぱいに立って櫓を操る方は、きっと 目のくらむ心地でいるだろう。早緒とかで櫓にすげた紐の見るから心細くて、あれが切れてしまったら、あの船子はどうなることか、たちまち海に落ちてしまう であろう、それはどの命綱なのに、いっこう太くもない。

自分がかつて乗ったことのある船は、そこそこきれいには仕立ててあつて、妻戸をあけ、格子を上げなどして、荷船ほどは水面と同じに沈みこんだ感じはなかったから、ちょうど、家の小さいのというふうであった。

小舟のさまをながめていると、それは心細い。遠くのは、ほんとに笹の葉を舟に作ってうち散らしたのとまるで違わない。

舟泊りした港で、どの舟もどの舟もともした火が、また、めずらしいながめだった。

朝早に、はし舟というそれは小さいのに乗って漕ぎまわっていたのも、じつにしみじみとした景色だった。

歌にもよまれて「あとの白波」とは、あの通りで、すぐ消えてしまう。相当な身分の人は、徒らに舟などに乗って往来すべきでないと思う。陸路(くがぢ)の 旅もまた恐ろしいものではあろうが、それは、なんと言おうととにかく足が地に着いているのだから、ずっと安心だ。海はやはり不安、と思うにつけ、まして、 海女が物を探りに海に入るというのは、さぞつらい仕事と心がしおれる。腰に付けた縄が切れでもしたら、どうしようというのか、せめて男がするのなら、それ も仕方なかろう、女の身にはやはり、なみなみの心細さではすむまい。

男は舟に乗って、歌などのんきに歌いながら海女の栲縄(たくなわ)を海に浮かべて漕ぎまわっているが、あぶなっかしく、心配だと思わないのであろうか、 海女は浮かび上がろうとする時その繩を海の底で引くという。男があわてふためいて繩をたぐり入れる様子は、まことにもっとも、海女が舟端をおさえて烈しく 吐く息など聞くと、まこと、ただ傍で見ている者でも涙をもよおすのに、その海女を何度も何度も、海へ落とし入れるようにしては舟で海の上をただよい歩く男 とは、もう見て居れぬくらいあきれた情けしらずだ。         (第二八六段)

 

* さもあらん。

2020 4/19 221

 

 

* ぜひまた読みたいと念頭の、鈴木大拙『無心ということ』の門を、この歳になりもう一度叩きたくて身の側に置いた。丹念に読んできた跡が角川文庫本にあ りありと。昭和四十二年二月の改装初版本を買っている。受賞のまえ、もう懸命に孤独をいとわず小説を書きに書いていた頃、建日子が生まれてくる、きた頃。 『選集32』にのその頃の主な創作を収録した。

 

* コロナ禍は油断のならぬ事態にある。いま怖いのは、気鬱いわゆるノイローゼ不安に負けること、ここは「生・活」二字の本来をつとめて陽気に維持して、 気を入れて楽しめる、うちこ,めるまさしく「仕・事」を自身に与えること。来月の六日までとか、「一人一万円」とか寝惚けていてはことはますます重大化す る。最終的には「一人百万円」の無制限補助を繰り返すぐらいな覚悟が政府には絶対的に必要で、加えて医療崩壊をなんとか支える最大限の手立てが早急事であ る。

いま内閣総辞職には問題が多いが、例外緊急の跡詰め後発内閣を至急に用意し、政務の受け継ぎを進めつつ内閣の交替を願いたい、現内閣の対応能力には限界 が見えており、国民の不安を重苦しく増強、一億総気鬱のままコロナの列島蹂躙を許してしまう。便乗の凶悪犯罪も増えかねない。

 

* 老いも若きも自分自身の「良き時間」を家の中で創り出すべし。出なくて済む限りを外出せず接触しないようでありたい。

2020 4/19 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 折に触れて

この章には随想や創作ふうの文章を寄せてみた。前章の類想的章段によほど近似しているものもあり、明らかに次の章の回想的ないし日記的章段に近いものもあるけれど、訳者なりの思いも書き添えてここに入れてある。

随想であるからは順序はまちまちでいいわけだが、前半に四季折々を追うた段をつづけ、後半は原本の次第を踏襲した。それなりに「連想」の生きた配列になったかと思うので、この順で読まれたい。

この章の各段にも清少納言の背後に「定子後宮の多くの声、すぐれた感覚」を読みとりたい。

 

☆ 佳いと思う時季は

 

佳いと思う時季は、(と仰せに。)

正月。

三月、四月、五月。

七、八、九月。

十一、二月。

みな、その時季に応じて一年中佳い――と。

 

正月では元日が格別佳い。空のけしきもひとしおうらうらと美しく霞みこめて、誰もみな衣裳に化粧にとりわけ気をくばりながら、上御一人に対してはもとよりわが身の上にも幸をと祝い祈っている容子など、さすがふだんにない風情で、いいものだ。

七日は、雪間の若菜摘み。青々と濡れたまま、常はそんな物のけっして目にふれない場所にまで持てはやして、御祝儀に賑うのがおもしろい。

この日は紫宸殿のお馬渡しを観に、宮人の家族なども小綺麗に車を仕立てて出向く。待賢門の敷居をごとごと踏み渡る時は乗り合った者がみな鉢合せの大揺れで、刺櫛も飛び落ち、中にうっかり折ったのもいたりして泣き笑いするのも、おかしい。

左衛門の陣のあたりに殿上人が河人も出て、舎人の弓を取りあげ馬をつついては驚かせて笑ってなど――。

車から、宣陽門を通して奥をやっと覗いてみると、目隠しの立蔀が見え主殿司や女官が行きかう容子がゆかしい。どんな果報を恵まれた人がああも御所の内をわが物がおに振舞えるかと思ってしまう。

そうは言っても目に見るのは御所のごく一部分だからか、舎人など顔は生地あらわに、それがまた色黒うてうまく白粉が行き届かず、雪のむらむら消え残ったようではただもう見苦しい。

そのうえまぢかで気が立った馬がはねて騒いだりするのが見る目も恐ろしく、つい車の奥に引っこんでいてろくに何も見えない。

八日は、叙位にあずかった女房たちが然るべく御礼申しにそれぞれうれしい車を走らせる音が、ひとしお晴ればれ聴こえ、心はずんで来る。

十五日の小正月もいい。小豆粥の御祝い膳をさし上げたあと、その焚き木で作った粥杖を隠し持って、家女房の古いのやまだ若いのが銘々すきをうかがい自分 は打たれまいと用心して、絶えまなく背後に気を配る身ぶりそぶりもおもしろいのに、どう狙いすましたか誰か打ち当てた時などおかしさに手を拍って大笑いし 合うのが、至極陽気でいい。打たれた人がいかにも口惜しいらしいのももっともで、またおもしろい。

いつだったか、姫君に通い初めてまもない婿君の、もう参内のまぎわにも、自分だけはとゆるされ顔をして邸うちを気ままに振舞う或る女房が、気もそぞろ、 かげから容子をうかがい意味ありげに奥まった辺をためらい歩いている、と、婿君にちかい者ははや気取ってくすくす笑い出すのを、

「黙って、黙って」と大わらわに手まねで抑えているのだが、当の狙われている姫君がまたいっこう気づかず、おっとりとお坐りになっていた。

「ちょっと、ここの物をのけましよう」などと声をかけざま、件の女房、走り寄って姫君を打ってにげれば、居合わせた者、みな声高に笑う。婿君にすればめ でたく男のお児をと祈る祝儀ではあるし、まんざらでもなげに微笑んでいる一方、お若い姫君の方はとくに吃驚したふうでもなく、ただほっと頬を赤らめただけ なのも、わるくなかった。

時に女同士打ち合うのでなく、男をさえ打つ人もいるとか、またどう心得ちがいしてか打たれたと泣いて腹を立てながら、打った人を呪って不吉なことを口走る女房もいるなど、へんな話だ。

御所をはじめ高貴の場所も、この小正月ばかりは万事気ままに振舞えて遠慮しなくてよい。

小正月よりちょっと前、県召のころの御所も格別の趣。雪が降り凍てついた中を、伝手を求め申文を持ち歩く任官志願の四位、五位の中でも、年の若い意気盛 んな者は前途もありげで相応に頼もしく見える。年とって髪もしろい老人が何かと取次ぎを頼み主だった女房の局へ立ち寄って、自分にどれほど才智があるかを 老いの一徹でまくし立てている、のを近くで聴く若い女たちが後ろ向きに口真似して嗤うのだが当人はそれとも知らぬ佗しさ。

「どうぞよろしく主上に言上してください、皇后にも」などと、せっかく頭をさげても望みの官職をえた人の場合は申し分ないが、不成功に終わった人の気の毒さは言うもおろか。

さて三月は、三日の節供。うらうらとのどかに上天気なのが佳い。

桃の花が、つい昨日今日咲きはじめたかという時分も好きだ。

柳の色の、日に日に見ばえがして来る頃はさらに佳い。それも、まだ芽ぐんだという時季がおもしろい。葉さきまでひろがり切ってしまうと風情がなくなる。

美しく咲いた桜を枝長に折り、大きな瓶に挿してあるのもすてきだ。桜襲の直衣の下から袿の褄を見せた粧いのままに、客であれ、宮の御兄弟がたであってもいい、その大きな花瓶の近くに坐って御簾の奥へものなど言いかけられる容子は、譬えようなく佳い。

四月。

賀茂祭の頃がすばらしい。上達部、殿上人とも、束帯の表衣は紫にせよ二藍にせよただ濃い淡いだけのけじめで、白襲などもな同じに見え、涼しげでいい。

木々の繁りはまださはどもなく、若葉は一帯にみずみずしい色をして霞も霧もへだてぬさわやかな空の色、なんとも、ただわけもなく心たのしくてならない。 そんな時分の心もち曇った夕方から夜へ、郭公の忍び鳴く声が、ふと遠くて、そら耳かと思う思うやはりたどたどしいながら紛れない初音を聞きとめた時など、 これはもう、どんななどと有りふれたことを口にする気にもならない。

祭りが近づくと、晴れ着に染めさせていた青朽葉や二藍の生地などみな無造作に巻いて、紙に申しわけほどにつつんで、右に左にと持ち歩くあの往来の感じが佳い。ぼかして、まただんだらに染めたのも、ふだんほどいやみに見えない。

女の児が、髪は洗ってきれいに手入れもしてもらったが晴れ着が出来てこないで、常の服装のどこかしことなく綻び、引き裂れて、よほどぼろになりかけたのを着たまま、それでも、

「足駄に花緒すげて」

「沓の裏を打って」と口々に呼び立て、

「早くお祭りになればいい」と身仕度を急いで親たちの邪魔をし歩く時分も、あれで、なかなか佳いもの。

しまつのわるい腕白たちがさて祭りの日晴れ着に着飾ってしまうと、ちょうど法会の行道に先立って歩くあの善財童子のように神妙に練り歩いて見せる。それ とて一っ時のこと、腕白の本性が眼を醒まさないか晴れ着を破らないかとどれほど気がかりやら、分相応に母や叔母のようなのや姉がいちいちその子について 回っては世話を焼き焼き手を引っぱって歩いているのが、おかしい。

六位蔵人になりたいと、青色の制服を憧れながらなかなか聴されそうにない下役の男が、この祭りの当日に限って青色を着せて貰っている。あのまま脱がせずにおいてやりたいがと、身につまされる。もっとも青は青色でも本式の綾織でないのが惜しい。    (第二段)

 

* コロナ禍を、しばらくでも忘れてられる。

2020 4/20 221

 

 

* これはもうコロナ禍でなく、「コロナ戦争」であり、この戦争に「負け」を組み入れることは出来ない。おそらく「和睦」も難しいだろう、「勝つ」覚悟と方策をもたねば乗り切れないと思う。

 

* 八時半になる。今日は、ボヤーッとしながら機械の中の夥しいフォルダやファイルをせせり歩いては書きさしのいろんなアイデアものを拾い読んでいたりし た。疲れてはいけない、むしろのんびりしていたいと。幸いに尻を叩かれる要件はなく、こんなときこそ放心の世界を漂えばよろしく。二つ、三つ、いやもう幾 つかハリに掛かってくる手応えがあった。ひとつ「ハラスメント」という話題を、美しくも抉るようにも書いてみようかと思ったり。

傍の音楽は、今日は朝から、グレン・グールドのバッハ協奏曲1、2、3番が繰り返し鳴っている。もう一枚べつに協奏曲三つの盤があり、さらにフーガの技法とゴールドベルク協奏曲の盤もある。モノーラルが私にはありがたいのだが、グールドのピアノの冴えには凄みがある。

もう、目があかん。

また明日のためにも、心身やすめねば。

2020 4/20 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 節供の日の天候

 

元日と三月三日とは、ひたすら麗らかであってほしい。

五月五日は、一日曇ったまま、じっと家にいたい。

七月七日は、朝から曇っていた天気が、夕方にはよく晴れ、空に月皓く、星もたくさん瞬いて見えるというのが佳い。

九月九日は、明け方からすこし雨が降り、菊は露しとどに花をくるんだ着せ綿も濡れそぼって、ひとしお移り香がしみて薫るという風情が佳い。朝には、もう 雨はやんだがまだまだ曇り空で、ややもすると降って来そうなのも佳い。          (第七段)

 

* この段などは 清少納言の独白かも。

 

*   この「私語」の、この上の行までは、前夜機械を離れる前に、頭の日付と計測値はそのまま、筆頭の「枕草子」は選んだ箇所を即、貼り付けている。明くる朝 に、すぐその朝の新しい気分で新しい筆記へ入れるように。計測値は、その朝の値に書き直せば済む。まさしく「闇に言い置く」「私語」なので、「読者」を先 にアタマに置いては居ない。訪ねよられて読んで下さる方のあるのは嬉しい、が、読者を意識して書いているとは言えない、この想いや思い、どう伝わるか、伝 わってほしいと願うときもあるけれど。時には、賛否のまま「秦 恒平がこんなことを言うていた」とよそへ向け拡げて頂いても構わない、有難いと思っている、が、あくまで「闇に言い置く 私語の刻」であり、自分の都合で 記載している。体調をはかる数値も、医者に命じられているのでなく、何となしキマリをつける気分で勝手に計測したのを、当日最初の儀式のように気ままに構 えている。

2020 4/21 221

 

 

* 大事な資料 例えば「全書誌」など、神に印刷したモノをだけ保存していたも即の役に立たない、必ず機械に入れておかないと。「湖の本 全書誌」の前半 98册分が、印刷物で残っていて、機械を探しても見当たらず、細小活字で全部新たに機械で造らねばならない。またまた信じがたい労力とガマンが要る。しか し『選集』結巻に書誌が無くては締まりがつかない。ひたすらガマンして仕遂げるしかなく。

2020 4/21 221

 

 

* どうしても 八坂神社西楼門からの懐かしい祇園四條の街の灯へ、写真を取り換えたくなった。 十年の余も 帰れていない。 帰りたい。京都も、京都の人も、コロナとの戦争を堪えているのだろう。

 

* 倍賞千恵子の「かあさんの歌」「遠くへ行きたい」 岸洋子の「希望」 を 聴いていた。

私は生みの母を知らず求めず育ち 知ってからもはねつけ続けた。そのかわり想像(創造)の世界で好きにいとおしい母に向き合えた。わたしは妙なひとで、 「そう」想ったらもう「そう」なれる。去年、『オイノ・セクスアリス 或る寓話』を書いたと時、わたしの化身である吉野東作氏は、自身がさる子爵と祇園の 舞子から生まれたと書いて、その舞子「久鶴」像を手に入れた。

いまもこの仕事場にその「母」は額の中で落ち着いていい顔の舞妓でいつも近くにいて呉れる。部屋に出入り起ち居のつど胸の内で「おかあさん」と呼びか け、それで気がらくになる。なれる。人からみれば、気持ちわるくなんたる酔狂とわらわれようが、わたしは、「そういう人」としてこんな爺にまでなった。そ れでよかった。

 

* リアルといわれる価値を、リアリティのそれとまったく別物ほどに私は重んじていない。そういうことのようだ。

2020 4/21 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 耳無草

 

正月、七日に祝う若菜を六日のうちに人が届けてくれて騒々しくその辺へ取り散らかしたりするうち、見も知らぬ草を子供らが手に持って来たから、

「なんというの、この草は」と訊いても、急には答えないで「さあ」などと顔を見合わせていたが、そのうち、

「耳無草とかいったはず」と答えてくれた子がいたので、

「なるほど。聞いても知らん顔をしているはずね」と笑っていると、また、しごく愛らしい菊の芽の伸びたのを持って来たので、

摘めどなほ耳無草(みみなぐさ)こそあはれなれ

あまたしあればきくもありけり

(いくら摘んで集めても……つねっても……耳無草はかわいそう。ものを知らないこの子らもかわいそう。でも、たくさんな草の中には、つねった痛さがきくぐあいに、言う事を聞く菊も、それらしい子供も、まじっていたわ)

と言ってみたかったけれど、これもまた子供にはわかりそうにない。   (第一二五段)

 

* 「和歌」は、「日本の歌」の意味では有ろうけれど、一つには「和する歌」でもあり、この方面の才能と機知と言語感覚のよさを、清少納言や紫式部のこ ろの人らは、溢れんばかりに常日頃、胸に蓄えていた。「相聞 あい聞こえ」の贈答・応答歌に信じられぬほど年幼い頃から長けていた。説話の中には幼い子が ふと行き過ぎる咄嗟にうまい歌を口ずさんで行くような場面もある。

公家社会の官人も官女や女房も「歌いかけ」られて咄嗟に「和して歌い返せ」なくては、まともには生きられなかった。

2020 4/22 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 五月ごろの山里

 

五月ごろ山里へ出歩くのが大好きだ。

ものみな青やかに見渡され、こともなげに草の生い茂る野なかをずいっと車でおし渡って行く、と、そんな草葉のかげを深くはないがそれはきれいな隠水が流れていて、供の者や牛が歩くにつれ、白いとばしりを上げる心地よさ。

かと思えば小径の左から右から、垣の小枝や若葉が簾越しに屋形へ割って入ってくる、のを、手折ろうとするとついと手先をそれては、外へ外へはね出てしまう口惜しさ。

また車に踏まれた蓬が、くるくる車輪について、手もとどくまでふと薫ってくるおもしろさ。

(第二〇六段)

 

* ひときわ 私は、好き。京の市内の川風情のよさ。こういう五月が来てくれますように。

 

* テレビ朝日の朝の「コロナ戦争」検討は、女優の高木さんとそもそも総研の玉川さんと、立ちゲストの岡田晴恵先生。明快、適確な厳しい政府・専 門家委員会への批判や注文も分かりよく、もっとも信頼が置けると聴いた。権威主義でなあなあのオエラガタ世間では弾かれる顔と言葉かも知れないが、折角、 健闘願いたい。

 

* 私も、気忙しくならず、からだと相談しながら仕事をつづけたい。昨夜のような体調を繰り返すと危険な淵へ落ちてしまう。「枕草子」今朝の第二○六段  五月の京の山里の風情に思いを慰めている。

2020 4/23 221

 

 

*  昨夜おそくの発作的な苦しさは根が深いかも知れず、いまも「靖子ロード」で、やや重めに設定してあるいわゆる脚踏み機械を50回(いつもは100回)踏 んでみて、30回目頃から微かに胸の奥に痛みを感じた。日々を静養すべきなのだろうが、今世紀に入っての二十年だけ見ても、わたしの日常は静養なんて日々 ではなかった。

「作 家ってそんなに忙しいんですかと聞かれる」が、むかし、週刊誌の連載小説を三つも四つも書き飛ばしていた連中などたぶん今は昔語りで、今日「自称作家」の 500人 に450人は、作が売れる、本になる希望はかぼそく、昔なら腹立ち紛れ原稿用紙をクシャにして身のまわりに撒いていたのと大差ない日々を過ごさざるを得て いない。世の中も出版社も編集者もまともな書き手など期待していない、「売れる物書いて」が、少なくもこの40年は決まり文句だったし、まともに日本語も 書けない自称の文士が文藝団体の会員や役員にもぞろぞろいたのを私は「ペン電子文藝館」での具体的な校閲作業を通して呆れるほど知っている。

私の「湖の本」のように、書いた仕事が確実に活字になり、本になり、読者へ届くというのは、これは異様も異様なほど「世界的にも」例外なのだ。「書ける」「技術的 に本が作れる」「受け容れ支えて呉れる愛読者が相当数有る」「出版に協力ないし理解を示してくれる家族」無しには、ゼッタイに「作家」として作品を世に出しつづけるなど不可能。せい ぜい頁数も少ない仲間雑誌に拠る程度になり、これがまた維持できずに壊れて行く。

 

* こうアケスケに言うと嫌われてもしようがないが、仕方ない、政府からして挙げて大学の文学・文学部を屁のように掃きだしている今日だ。「文化」「文明」の 「文」とは如何なる基本の価なのかわれわれの総理や副総理やその子分達にはまったく分かってなさそうで、嗤えるのである。

 

* 流石に「明治・大正」を引き摺っていた元勲・元老・公爵・元帥といった 人たちは、わたくし彼らの政治や軍権を受け容れていないけれども、びっくりするほどの文化的素養をもち、詩文の世界を差得抱きかかえていた。森鴎外ほどの 文豪も恭しく山縣有朋を、また西園寺公望を囲んで詩歌文墨の「常磐會」や「雨声會」を楽しんでいた。囲まなくてもいいと私は想うし、夏目漱石なら、島崎藤 村ならぜったいに傍へも拠らなかったろうが、ただ言えるのは、囲まれる側に、官界・軍閥の権威・権力でないしおらしいほどの「文藝」の力量が備わっていた のだ、そこが、今日の、豆粕のような宰相達ちは大違いなのである。

 

* ああ、また、ちょい言葉が過ぎたかな。

2020 4/23 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 身なりのいい従者

 

細殿に、女房が数多く居坐って無遠慮に話しているそばを、身なりのいい従者や少年たちが見映えのする包み、袋に主人の着替えを入れて、ちょっと指貫(さしぬき)のくくり緒などのぞかして往き来する、また、弓、矢、楯など、持ち歩く、のをつかまえ、

「誰の」と訊くと膝まずいて、

「誰それ様の」と返事して行く者は気持がいい。気どったり、恥ずかしがって、

「存じません」とも返事もしないで行ってしまう者は、気に入らない。     (第四三段)

 

☆ ふとった人

 

若い女や幼児は、ふとったのがいい。

受領など、人の上に立つようになった者も、ふっくらしていた方がいい。  (第五五段)

 

☆ 男の児

 

男の児は、まに合せの弓か棒切れのような物をふりあげて遊んでいる様子が、かわいい。通りがかりになど、車をわざと止めて抱き入れてみたいし、抱いたまま連れて帰りたくもなる。

もし、その子の着物から薫物(たきもの)のかおりが香しく匂うのをそのまま抱いて行く、というのであれたら、どんなにかうれしいだろう。             (第五六段)五月

 

* フーン、そうかア という感じ。

2020 4/24 221

 

 

 

* 老子、荘子、孔子、孟子はよく知られていても、孫子はどんなものか。この人はいわば兵法哲学者のような人だった、戦・闘に必須の心がけなどを説いてい た。さんな人の『孫子講話』がなんで秦の祖父鶴吉の蔵書に入っていたか、私もそれを処分せず東京の住まいへもたらしていたか。読んで面白かったから。この 塚原渋柿園講述、東京京橋区の文泉堂書房と東京日本橋区服部書店で発行された明治四十三年一月初版 二月には再版て定 価金七十五銭の一冊は、『孫子講話』という主題の上に「處世應用」の角書きが付いていた、つまり孫子の兵法を「四民」の生き方に折角応用しようとの趣意で 書かれていた。祖父が気を入れて「応用」したかは判別しがたいが、人それぞれの人生には、生き方には、なるほど「戦・闘」の気味は免れない。面白いところ を見たいかにも明治人らしい勘所を衝いたのだろう。この本の出た頃私の秦の父長治郎は十二、三歳だったから、当然祖父鶴吉の蓄えた蔵書にちがいなかった。 ま、そんな詮議はみの際、もう意味もなく、あとは私の読み方になる。

渋柿園さんの高説にみちびかれながら、孫子の原文を少し引いてみる。

「始計第一」とある。いわば第一章、端的に 初めに大事なのは「はかりごと 計略・謀(はかりごと)」と。頷ける。

 

孫子曰く 兵は國の大事にして、死生の地、存亡の道なり。察せざるべからざる也。

 

むろん原文は漢文。「兵」は個々の兵隊さんでなく、いわば「兵事」即ち戦争。

 

故に之を経(はか)るに五事を以てし、之を校(くらぶ)るに計を以てし、而して其の情を索(もと)む。

 

「経」といい「五事」といい「校」といい「計」といい「索」といい「其情」といい、全て一字一字の漢字が明確に深い意義を体している。しかしもう一歩は前へ出て孫子に聴こう、先ず「五事」とは何。

 

一に曰く、道。二に曰く天。三に曰く、地。四に曰く、將。五に曰く、法。

 

道 天 地 將 法   孫子は孔子でも老子でもない、「道」をはじめとし五事みな「兵」を説いている。俄然、面白くも興深くも分かり良くもなる、が、 子供の昔に返って兵隊ごっこの戦争で、どう相手と闘うのかと、この「五事」いや「五文字」を考えてみなされというのがこの本である。たしかに、よく思案す るとアテズッポウにも孫子の曰くに近い感触は得られる。最初の「道」だけを書き写しておく。

 

道とは、民を令(し)て、上(かみ)と意を同じくして、之と死すべく、之と生くべく、而して 畏れ危ぶまざらしむる也。

 

おう、これぞ明治徴兵制から昭和敗戦にいたる日本国軍の基本の指導だったではないか、私がこのところねっしんに関わってきた山縣有朋元帥らの理想と謂う に大過ないだろう。断っておく、私はかかる「五事」を体して一兵卒とも大将にとも望まない児童だった。だが、孫子の曰く、まことによく謂えているのに感じ 入り、面白いなと読み進めてきたのだった。「一に曰く、道。二に曰く天。三に曰く、地。四に曰く、將。五 に曰く、法。」 軍事の戦争・戦闘と限らず、企業や商賈や人事や政局の各場面にもあり得て済まぬ心得事であるぞよというのが、著者渋柿園先生の目の付け所 であったに違いない。明治の鶴吉祖父がどう思惟し研覈したかは知らないが、令和の私は「おもしろいナ」と今も思っている。機会を得てはすこしずつでも孫子 の兵法、著者の処世応用の実をここにも書き出してみようよ。

2020 4/24 221

 

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 初秋七月の昼寝

 

初秋七月、風がつよう、騒々しいまで雨も吹き降りの日に、めっきり涼しく、扇などもつい忘れかけていた頃ではあり、夏の間の、汗の匂いのすこし籠った衣の薄いのを引っかぶってすっぽり昼寝しているあの気分ぐらい、いいものはない。            (第四一段)

 

* 七月とはいえ、今で謂う初秋である。こんな感じで安穏に迎えられると佳いが。

 

☆ 九月の朝露

 

九月の頃、夜どおし降りあかした雨が朝にはやんで、しごくはなやかに朝日がさした中で、庭面の木々はこぼれるくらいしっとり露に濡れているのも、じつに こころよい。透垣の羅文や軒の上などに架け渡した蜘蛛の巣の雨にも破れ残っているのヘ雫の落ちとまったのが白玉を貫(ぬ)きとめたように見えるのが、古歌 さながらのみごとな風情でおもしろい。

すこし日が高くなると、萩のひどく重たそうだったのが、露が散り落ちるにつれ枝がそよと動いては、誰の手も触れないのにふっと上の方に起き上がって行く のもたいそうおもしろい、と、こんな風に書いている事も、他の人が見れば露の話ではないがつゆおもしろくもないか、と、そう思ってしまうのがまたおかし い。             (第二一四段)

 

〔筆記者の幾らか照れたお素顔があらわれていて、こういう文章が、かえって清少納言ひとりの感覚にのみ『枕草子』は負うているのでない事情、しかし自然とそれも加わって来てしまう事情を明かしている。〕

 

* このHPをあけて、ずーっと下へ送って行くとやがて白川の花櫻が見えてくる。その優しい美しさに胸がさわぐ。祇園石段下の夜色も、わが写真ながら美しく胸にせまる。高木さんの浄瑠璃寺夜色とともに三枚の絵のようで、季節をとわず、どうも取り換え難い。

2020 4/25 221

 

 

* 国民の一人に十万円ずつという政府配布金の受取り方が所帯主の口座へ家族分一括振り込みとは、ああ相変わらずと、政権による市民権理解の謬った偏頗が なさけなくなる。日本ではまだ市民権は所帯の主(九割九分が男性)だけのものと、如実。これは往年の「兵役」に応じうる男性だけに「市民権」を認めてい た、西欧社会でも一般であった「歴史的偏狭・偏見の生き残り」なのである。そんなことを学びたければ、一例、上野千鶴子さんの『生き延びるための思想』を 読まれると良い。

たとえそれを今は措いても、「一人十万円」支給の家族五人分が独りの所帯主男性に振り込まれて、はたして穏当に家庭の成員のみなに利益するように遣われ るのだろうか。日本列島の東西南北で、事実上の市民権を持たぬ妻子老父母らと、独りの父・夫・息子との衝突が花火のようにパチバチと音たてておきるのでは ないか。

国民は例外なく平等に「市民権」を与えられているのでは「ない」という現実を、ことに女性そして子弟は心して知っておき、本来闘いとらねばならぬ市民権なのだと思い当たるべきだ。

 

* 昨夜に触れていた「孫子」の、もうちょっと先、せいぜい「五事」のつづき「天・地・將・法」だけでも、腹に一物を抱いて言い及んでおきたい。一の 「道」のことはもう書いた。「而してそれを畏れ危ぶまさらしむる也」と、兵隊や子弟や労役の従者らに「主君・上將・使用者」の命に心を一つに随わせるのが ゼッタイに肝要と、怖いことを、理においては分からぬでないことを言い切っていた。この「分からぬでない」ところに「処世応用」を『孫子講話』著者は目を つけているのだが、それは今、さい措いて。

 

天とは、陰陽、寒暑、時制なり。

 

織田信長が桶狭間に今川義元の頸をあげたあの襲撃などを念頭に思惟すれば分かりは早い。要するに「時機」の決断。

 

地とは、遠近、険易、廣狭、死生なり。

 

遠地、近地、険地、易地、廣地、狭地を見計らいそこが「死地」なのか「生地」なのかを覚悟して闘えと謂うのであろう、楠木正成の赤坂・千早城は「生地」だったが湊川は「死地」になった。処世としての商売や事業にも通じて肝要の判断になるはず。

さて、次なる「将」とは。これはもう「アレ・アキレ」たでは済まない。

 

将とは、智、信、仁、勇、厳なり。

 

あの「もりとも・かけ・はなみ・アベノマスク・とらんぷのワン、朝令暮改・棒読み、決まり文句の無内容、お友達と取り巻きのただただ支持稼ぎの 政治」等々の「アレ・アキレたアベノリスク」総理には悉く欠損した徳目「智、信、仁、勇、己れに厳」ではあるまいか。とても「将」の器でない。

では、「法」とは。

 

法とは、曲制、官道、主用なり。

 

幾多の法があるとして、主眼は憲法、これを安易に私物化して改変を事とするのは最も戒めねばならない。曲制とは、いわば官僚(兵隊)を適確な部局に組み 分け備えを立てて正確な政治(戦闘)をさせること。 軍では五人を伍とし伍長が先立ち、十伍を隊とし隊長が上に立つ。二隊をもとは曲と謂ったそうだがさし づめ中隊とか、部隊とか、聯隊とかになり、これは官界でも会社でもおなじ事。そこに官道という、一兵卒から大将・元帥に至る階級がそれぞれに機能する。任 命責任者の不徳や無能で官道が乱れれば安倍内閣の大臣答弁のひどさや更迭の多発、リスクが増しに増す。

主用とは、軍では弾薬、糧食、衣服、武器器機の確保と補給だが、政治では予算と使用の適切であり、これまた安倍内閣は、米国の古物化した武器兵器の購入 に「税金」を垂れ流しつつ、コロナ感染症に怯える国民には使い物にならないマスクをたったの二枚ずつ各家へ配布して何かの対策が立つような愚を重ねてくれ る。

 

以上「孫子」の「五事 道・天・地・将・法」をおよそ顧み読んで、いままさに「コロナ戦争」さなかのいささかの反省とも愚痴ともしたのであります、これも秦の祖父鶴吉の遺徳と感謝感謝。

2020 4/25 221

 

 

* 私の「私語の刻」へは、何方でも立ち寄っていただけて、不良な悪戯でない限りだれ一人も拒絶していない。ソシアルネットのように人寄せして数で何か稼 ごうなど考えていない。ただ、人様に合わせてもの言おうともしていない。私の思いを私の言葉でただ呟いたり書いたり思案したりしています。毎日必ず読んで いますという方も少なくないらしいが、声の掛かってこない限りそのまま私はスルーしている。

2020 4/25 221

 

 

☆ 野分(大風)の翌る日

 

野分の翌る日こそ、たいそう趣があって、見どころに富む。

立蔀(たてじとみ)や透垣(すいがい)は吹き煽られ、庭の植込みはみないたいたしく荒れている。大きな木も倒れ、枝の吹き折られたのが、萩や女郎花など の上へ横倒しに伏せているさまは想像以上のすさまじさ、格子の目などに、木の葉を、わざと手をかけたかのように、一一念人りに吹き入れてあるのは、とても あの手荒な風のしわざとも思えない。

ごく色の濃い紅の衣のつやのぬけたのに、黄朽葉の織物、薄物などの小袿(こうちき)を着て、ほんとうにきれいな人が、夜の間は風の騒ぎでねむれなかった か、いっそ寝すごしての起きぬけに母屋(もや)からすこしいざり出ているのが、髪は風に吹き乱れて、すこしふくらんだ感じに肩になびきかけたぐあいとい い、なかなか魅力がある。

そんな女が、しみじみ感に堪えたといった様子で庭面(にわも)を眺めて、

「むべ山風を嵐」などと口遊(くちずさ)んだのも情趣の分かった人と見受けられた。と、もう一人十七か八くらいか、子供とはいえず、たって大人と見るわけ にもゆかぬ若い女がいた。生絹(すずし)の単衣(ひとえ)の、ひどく綻び裂(き)れ、縹(はなだ)の色もあせて古びたのの上に薄色の夜着を着て、髪は艶や かによく手入れも行きとどき、髪の裾も尾花のようにふっさりと身の丈ほども長く着物の裾にあまって、袴のひだひだにまつわって見えている。童女や若い女房 たちが、根ごと吹き折られた植込みの草木をここかしこ取り集め、起こし立てたりしているのを、さもうらやましげに、簾を心もち手で押し張り、身を寄せて庭 面を眺めているそんな女の後ろ姿にも、魅力がある。 (第一八八段)

 

* なかなか佳いです。源氏物語の「野分」巻も、私は、好き。

2020 4/26 221

 

 

* コロナ害真相の半分も一般には理解されていないことが、岡田晴恵医師の解説を聴いていると暴露される。

日に日に何人の感染があったなどの棒グラフの高低や推移だけを見て「横這いだ、下方推移だ、緩和されている」など言うが、グラフのベースになるもっと もっと大多数国民や都民の基礎基本の検査値や検査数を知り得ないまま ただ棒グラフの高い低いだけを眺めているのだから、ほとんど無意味な観測にしかなら ない。政府・厚労省や取り巻いているお抱え医師団が、そういう基礎の数値を隠蔽し独占して公開しない意味は何であるか。

ソラおそろしい「感染戦争」や「感染攻撃」を念頭に秘めた戦時戦略的な意図に触れ合っているのかも、と、かつて「公衆衛生」という医学雑誌の編集と刊行 を体験し、また「疫学入門」という単行医書も企画し刊行してきた私には、ぼんやりとながら、思い当たるいろいろの物騒な「過去」世界「未来」世界が漠然と 見える。おそろしい。ヤッカイ極まりないウイルスは、実に我が身も滅ぼしかねない、原水爆にも匹敵の怖ろしい戦闘殺人兵器に、優になりうる。

 

* 私・秦 恒平の人生が、日本の女文化、和歌や物語や美術や信仰などとばかり組み合わさってきたのでないことに、この頃、ひときわ思い至る。その、他方大量の体験・ 知識・見聞を私は十五年半勤めた本郷台の出版社医学看護学研究の「医学書院」の編集者を精勤しながら得てきた。私はあの会社で、ただ「小説家になりたい」 だけの一青年ではなかった、長期に亘り、だれも信じてくれないほど、二百種を超す単行医書や教科書の自己企画をもち、次々に書籍化してきた。看護関係の雑 誌・図書にはじまり、医学分野でも「胃と腸」「脳と神経」「臨床婦人科産科」「臨床皮膚泌尿器科」「精神医学」そして「公衆衛生」「臨床検査」誌等を管理 職としても担当していた。専門の勝れたあるいは難しい、怖いほどの有力医師達と、全国の医学部や大病院で付き合いがあった。信頼もしてもらったし、いろい ろ耳学問もした。

もう何十年も、病院や医師と付き合わざるを得ない人の九割九分九厘が「病院と検査との不可分」、いや「病院とは検査機関なり」とすら思っている人が多いはず。

しかし私が医学書院に入社した一九五九年、全国の病院に今日風の「臨床検査部門」をもった施設はゼロだった。東大医学部の或るおっかない先生の熱心極ま る提唱から、全国で真っ先東大病院に本格の「臨床検査室」が起ち、それと同時にその先生の怖いほどの指導のもと「月刊」の「臨床検査」という医学雑誌がわ が医学書院で編集刊行され始めたのであり、私はその一等最初からの製作・刊行役の「担当編集者」だった。病院通いで今も検査検査検査の体験をつみながら他 の患者さん達とは相当異なる「感慨」を私が持っているとして何不思議なく、時に無量の思いに襲われる。

 

* 同様の事は、これは何度か「私語」してきたが、日本中どこの医学部、大病院にも産婦人科と小児科はあり、私の入社二年目頃まで、両科は、生まれる「赤ちゃん」のさながら「争奪戦」を演じていた。小児科は「新生児」と呼び、産科は「新産児」と呼んでいた。

そんなさなか、血小板数が人より寡なかった妻が長女の朝日子を妊娠し、これはぜひにも無事に生んで貰わねばならなかった。わたしはちょうどそのころ「助 産婦雑誌」また「臨床産婦人科」とい月刊の専門誌も担当を重ねていて、取材や原稿の依頼・入手で東大産科の医局や教授室へはしばしば脚を運んでいた、が、 ある日、産婦人科の医局に、産科と小児科との「合同カ」ンファレンスという小さな連絡用の貼り紙をみつけた。オッと思い、即刻、産科医局の芯にいる官川 (ひろかわ)統先生を先生に声をかけ、「小児科と共同」で、「赤ちゃん」の「出生前と後」との最新再校レベルでの医学的追究論攷集を「出版」しましょうと 「持ちかけ」た。

この「企画」自体がじつにもう「産気づいて」いたかのように、あっというまに両科の教授(産科・小林隆先生 小児科・高津忠夫先生)を押し並べて監修者 とし、小児科の馬場和男助教授と先の官川先生を「編集企画」者にし、両科医局中核の研究・臨床医を動員、五十人前後もの詳細な執筆課題を配し、当大学学士 会館会議室をかり、二教授以下総員出席という、医学書院としても嘗て例のない編集会議と会食からことは運んでいった。かくて大著となった東大産科小児科合 同の『新生児研究』なる東寺として最新最高レベルの研究書が成っていった。入社して二年目、編集者としてはペイペイの新人が出した企画は、雷と畏れられて いた金原一郎社長主催の企画会議をどよめかせた。執筆予定の総員医学者で用意ドンの「編集会議」を成功させた以上、あとは先生方のだれ一人も漏れなく原稿 を「書かせる」「早く書かせる」「手に入れる」ガンバリだけになった。

この画期的な『新生児研究』がついに本に成り、「新生児科」という施設が各大学大病院に実現して行く契機とも成って、さらには「日本医学會」の一分科会 として「日本新生児学会」も出来た、私は、仙台でのその第一回学会で「会員に準じて」いろんな先生に握手してもらえたりもした。

 

* 私の小説や批評等の世界では、未だ、医学書院での編集者体験に根生えた範囲が、ほぼすっぽり手付かずになっている。

それは、ま、それとして、今今のコロナ戦争に対してもつ私の観測には、いくらか往年のそんな、こんな経験や見聞が色添うている、とは云い得るのである。

『新生児研究』のほか、二百册へ手の野届く企画・刊書籍には、いちはやくエイズに触れていた『免疫学叢書』らがあり また「公衆衛生」誌 「胃と腸」誌 「脳と神経」誌 「看護学雑誌」等々、もう往年のと謂うしかない(今日ではもう古い)医学看護学世界をわたくしは歩いてきたのです、そういえば、太宰賞をうけた小説「清経入水」の語り手は、ヒロシマでの医学会へ取材に行く「医書企画の編集者」であったのだ。

思い出は尽きんなあ、キリがないよ。おかげで、しかし、最初の愛児 朝日子は多くに見まもられ無事に生まれた。次女ではない長男の建日子も馬場一雄先生のもとで元気に生まれてくれた。妻もよく頑張って、ま、安産してくれたのだ。

 

* 「湖の本」全書誌の残っていた前半分の五頁分を、懸命に整えた。あと10頁強残っている。8ポイントという字の小ささは目玉を突き刺すハリのよう。 ま、私にしかできない仕事。それにしても書き置いていわゆる稼ぎ・飯の種にしてきた作物・原稿の量の多さに、われながら息を呑む。よくもこれだけの仕事を 注文してくれた、私も手を抜くことなく書き置いてきた。いまの生活と家とは、この原稿の山の上に手狭ながら安全に建ってくれている。家にあるのは「本」 「本」「本」だけだけれど。

2020 4/26 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 雪の夜の来客

 

雪が、そう高くはなくうっすら降った景色というのは、たいそう佳いものだ。

また、雪のとても高う降り積もつた夕暮れから、端近にいて気の合う二三人で火桶に手を出し合っては四方山話をしているうち、だんだん暗くなって、それで もこちらには火もともさず、大方の雪明りに外面(とのも)はずいぶん白う見えわたせる中で、火箸を使って灰などいたずら掻きしながら、しめやかな話題も、 楽しいのも、次から次へと話し合うのは、じつに心ゆくものだ。

宵も過ぎたかと思う時分に、沓(くつ)の音が近う聞こえるので、おやと思って外を見たところ、時々、こういう風情のある晩に不意に顔を見せる人だった。

「今日の大雪に、どうしておいでかとお案じ申しておりながら、ちょっと用事に妨げられ、どこそこに一日過ごしてしまって」などと言う。「今日来む」人を 「あはれ」とか、歌の心をこめた挨拶らしい。昼間あった事をはじめ、いろんな話をする。簀子(すのこ)へ円座がさし出してはあるけれど片足は地面に、腰か けただけで明けの鐘の音が聞こえる頃まで、部屋のうちも、外のその人もこうして話し合うおしゃべりには、興の尽きる時とてない。明け暮れの闇にまぎれて帰 りがけ、

「雪、某(なにがし)の山に満てり」と思わず吟じたなどは、とても風雅なものだった。

「女だけでは、とてもこう居坐って語りあかすことはできなかったでしょうね。男の人が一人入るだけで、ふだんと違い、楽しくて、ちょっと風流なことね」と、女同士言い合った。

(第一七三段)

* 寒いだろうにと思うのだが、千年も昔の京の季候と気温はどうであったのか。こういう京の雪を風情と思い沁み、そのまま東京へ出て、富山での助産婦先生 と取材仕事のあとお喋りしていて、なりゆきで雪が好きと口にした途端に、吐き捨てるように叱られた。これは、私の心淺井ミステークであった。『北越雪譜』 を読んだのがつい二三年まえのこと。感覚的に、雪国の雪の凄みを私は知らなかった、いや知っていても念頭で生きていなかったのです。

2020 4/27 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 雪の中を歩く姿

 

雪がたくさん降り積もって、今まだ降っている中を五位も四位(しい)も眉目かたちよう若々しいのが、色目も至極すっきり石帯(せきたい)の痕のついた袍 (ほう)を宿直姿(とのいすがた)の後ろへかいこみ、紫の指貫(さしぬき)も雪にひとしお色よく引き立てて穿いて、衵(あこめ)は、紅(あか)でなければ 目のさめる山吹色のを出衣(いだしぎぬ)にしながら、さした傘を、風強く横なぐりに雪を吹きつけられてやや傾(かし)げ傾げ歩いて来る、その深沓(ふかぐ つ)や革靴の脛巾(はばき)にまで、雪が真っ白にかかっているのが、とてもきれい。       (第二二九段)

 

 

☆ 年端も行かぬ坊主

 

かわいいわが子を坊主にしたなどという話は、やりきれない。坊主を、もう木っ端(こっぱ)かなにか心ないもののように世間で思っているのは、あんまりか わいそうすぎる。精進物ばかりまずそうに食べてはつい居睡りしているけれど、年端も行かぬ者ならなにかと好奇心ももてあましているだろう、なんで女のいる 所ほど、さもいやそうに、ちょっと覗いて見もせずにおれるものか、だが、それさえ世間はうるさく言う。まして加持祈祷の僧となれば輪をかけて大変に見え る。験(げん)もなしにただ消耗して寝入ってしまったりすると、

「寝てばかりいて」などと苦情が出る。ああも身の置き所なくては、どんな気がするだろう。

もっともこういうのも今は昔のはなしらしく、当世の坊主はごく気らくにやっている。

(第四段)雪の夜

 

* 男だけが女を見てとやかく評判するのではない、紫清のむかしは、ご婦人連の男評判こそが日常茶飯事であった。

上の「坊主を木っ端」云々は、この一段以来僧侶の評判には決まり文句に使われたもの、「口さがない」とは、男よりも女のものようであった、昔は。むろん、今も…か<

は知りません。

2020 4/28 221

 

 

*   朝のテレビ朝日でのコロナ討議は、聴くに堪えて、私自身の三月一日時点では既に直感していた厚労省「お抱え」の「専門家会議」なるものが、「サイエンス」 よりも「政府対応」に利するが先の「忖度提議機関」「政府施策への同意機関」に成ってしまうだけではという「虞れ」を、痛切に裏書きしていた気がする。医 学・科学者らが真の専門性を活かして医療と政策とへ決定的改善をつよく迫れという、いわば発言者が面を冒しての勝れた意見陳述に成っていた。私の、当初来 の予感と危惧と懼れとを裏書きしされるような発言が明瞭に相次いでいた。

 

* 政府は、会議は、お座なり続きな政策をただ容認し後押しの体をとらせるための、かかる「お抱え専門家会議」の、「議事録」をすら全く公開していない。「会議録無し」の会議などありえない。なぜ、それの明かすべきをさえ明かさないのか。

このおそるべきウィルス感染が、場合により、国家的な危機に際し「守勢」としても「攻勢」としても利用に耐える軍事意味を持っていると保守政治家はかたく信じているのでは無かろうか、かつての日本軍政いらいの秘め伝えられた確信として。

サイエンス一本では公明化しない出来ないという秘めた確認が、今回も、「専門家会議」より以前にそれを「カムフラージュ」として利したい政治感覚が先 だってきたのでは。私は、感染拡大の様子に怯えるのと別に、ずうっと、そう、感じ懼れつづけてきた。今朝のテレビ討議は、それを、ああヤッパリ…と肯かせ てしまう「くらい背景」を何となく透視させてくれた気がする。

國は、政府は、見ようによれば、感染と、闘うは闘うでも、また別途には、或る得難いデータ入手の実験検証体験とも受け容れていて、それが「専門家会議」なる一種の「隠れ蓑」または核心へ「寄せ付けぬ外濠」の働きをさせているのかも。

まんざらの邪推とは思いにくい。私の思い過ぎであればいいのだが。

 

* 昨夜、床についてまた読み継いだ『北壁の死闘』はアイガー北壁に挑む登山兵たちの死闘でも

あるが、核心には、原子爆弾完成への鍵となる一人の科学者を米と独とて奪い合うという、国家の命運を賭したアイガーでの死闘であった。「サイエンス」と 「国家・政治家。軍人」との怖い関わり合いの世界史的な一例が主題になっている。コロナ戦争も例外ではあるまい。武漢に発したコロナの凄さを、中国政府は 精細なまでデータ化し得て、それを戦時利用の道を確保に近いまで手に入れたと習近平らは「初」の戦果かのように病害体験とともに抱き取っているだろう。愚 昧な籠めトランプはそういう「サイエンス」の魔性に気付いても居ないのだ。韓国も、コロナ体験から「得た」戦果を手に入れたと笑んでいるかも。私は、陰気 な悲観論者なのだろうか。分からない。

2020 4/28 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 官位のすすんだ慶び

 

官位のすすんだ慶びを謹んで申し上げている人ほど、颯爽と、心に迫るものがあろうか、下襲(したがさね)の裾を長くひいて玉座(ぎょくざ)に真向って立つ姿というものは――。

敬礼をし、左に、右に、はでに袖を翻して、舞い立つばかり喜びを身いっぱいに表して――。                                  (第八段)

* まさしく官位高下を意識の芯に据えた社会だった。女にも官位はあった。

明治になっての西京になった京都での、知事か市長かが高い場に参席のところへ、身形(みなり)もよろけた老人が入ってきて、なにの遠慮も斟酌もなしに最上席についた。知事より市長より「位」の高い貧窮の旧公卿であったとか。子供の頃にそんなことも大人から聞いた。

2020 4/29 221

 

 

 

* 遊んでられるワケない昨今であるが、ちょっと大量に、しかも文字を拾うに苦労の避けられぬ道草を貪りたい。幕府幕末の、文に騎に財に政に勝れた才幹豊 かな幕臣にして、維新後は野に立ち、明治初年のすぐれた新聞編集長でかつ筆力旺盛のジャーナリストであった奇才「成島柳北=濹上漁史ないし隠士」のどれか 「雑文」中の一文をでも此処に記録したくてならなかった、その願いを一つ果たそうというのだ、此処へ立ち寄られるおじいさん、おばあさん、どう読まれるで あろうか。カッコの読みがなはみな私がつけるので間違えてたらゴメンナサイ。

 

☆ 富翁ノ長策

余(=これは筆者の自称)ノ舊(も)ト相識ル一富翁(いちふおう)アリ、其(その)性 慳吝(けんりん)ナル古今比倫(ここん・ひりん)罕(まれ)ナ リ、平素悪衣(あくい)シテ悪食(あくじき)シ、妻兒(さいじ)ハ殆ド菜色(さいしょく)有ルニ至ル、其ノ家亦(また)矮陋(わいろう)甚ダシ、壁壊レ牀(とこ) 朽チテ敢テ修繕セズ、風雨至ル毎(ごと)ニ妻奔リ兒 叫ビ、戸ヲ柱ニ縛(ばく)シ盤ヲ席ニ陳(つら)ネテ以テ之(これ)ヲ避ク、全家(ぜんけ)沾濕(せんしつ)シテ寝食スル能(あた)ハザルモ翁ハ自若(じ じゃく)タリ、而(しか)シテ其ノ私ヲ省(せい)スレバ黄金白銀累々トシテ筺(きょう=はこ)ニ嚢(のう=ふくろ)ニ充溢(じゅういつ)セリ、

一日(いちじつ)其(その)妻兒輩(じはい)ヲ率(ひき)ヰテ翁ノ前ニ進ミ、哀請シテ曰ク、良人(りょうじん=夫、貴方)久シク富裕ノ名ヲ以テ郷黨ニ鳴ル、而シテ此ノ醜陋(しゅうろう=ボロ家)幾(ほとん)ド乞兒(こつじ=こじき)ノ窩(か=宿り)ト一様(いちよう)ナル家屋ニ住シ、常ニ風雨寒暑ニ苦シム、縦令(たとえ)自(みづ)カラ忍ブモ妻兒ノ困執(こんしゅう)ヲ憫(あわれ)ム無キカ、

翁頷(うなづ)イテ曰ク善シ、我レ卿(けい=妻なるそなたら)ノ爲メニ一大邸宅ヲ築カン、卿(  けい)試(こころみ)ニ看一看(かんいっかん)セヨ、妻大(おおい)ニ喜ビ兒輩 亦(また)喜(よろこん)デ拝謝ス、翁乃(すなわ)チ一金函(いちきんかん)ヲ啓(ひら)キ、金貨楮幣(ちょへい=紙幣)ヲ攫出(かきいだ)シ來リ其ノ前ニ 排列シ、指ヲ以テ席に畫(=かく、畫き示)シテ曰ク、此處ニ一堂ヲ造ル其値(そのあたい)千圓、乃チ(=即座に)千圓ノ金ヲ點ス(=てんず、置き、添え た)、彼處(かしこ)ニ一樓ヲ起ス其(その)價千五百圓、乃チ千五百圓ノ金ヲ點ス、金庫ハ左ニ築キ米廩(べいりん=米蔵)ハ右ニ設ク、其價若干、又若干ノの金ヲ點ス、園池(えんち)ノ費 門牆(もんしょう)ノ資、皆多少ノ價金ヲ配置シ、忽チ一大宏壮の邸宅ヲ眼前ニ畫(えがき)出セリ、而シテ之ヲ造ルノ金額現ニ累然堆積シテ函内幾千圓ノ豫備銭ヲ剰(あま)セリ、翁自カラ快ト呼ブ、

於是乎(ここにおいてか)妻ハ欣欣トシテ樂ミ 兒ハ嘻嘻トシテ笑フ、既ニシテ翁管(=煙管)ヲ援(ひい)テ烟ヲ喫ス、喫一喫 俄然絶叫シテ曰(いわく) 火起(クワジダ)々々(クワジダ)ト、忽チ膝前ニ點畫セル金幣ヲ両手ニ掬(きく)シ去テ之ヲ函中ニ収ム、席上復(ま)タ一銅銭ヲ留メザルナリ、

妻兒錯愕シテ一語ヲ發スル能(あた)ハズ、翁先ヅ金函ニ鎖(じょう)ヲ下ダシ、而後(しかるのち)襟ヲ正シウシ 徐々 妻兒ニ諭(さと)シテ曰ク、卿等(けいら=おまえがた)試(こころみ)ニ 思惟セヨ夫(そ)れ資金有テ大厦高樓(たいかこうろう)ヲ築くは、何(いず)レノ時ヲ問ハズ咄嗟ニ辯ズ可(べ)シトス、然(さ)レトモ一朝火發セハ鉅萬ノ 費忽チ化して灰燼と為リ了ル、若(も)シ金ニシテ函中ニ蔵(おさ)メ、時々出ダシテ絶美ノ邸宅ヲ我ガ前ニ起コシ、緩急有レバ忽チ一掬シ去テ之ヲ函中ニ収ム レバ、千百年モ豈(あに)火災ヲ憂ヘンヤ、コレ乃公(だいこう=俺サマ)ノ長策ナリ

妻兒答フル能ハズ、長嘆大嗟シテ止ミシト

是我ガ親シク見聞セシ一奇事ナリキ、

今(=明治の帝国議会開設の頃を謂うている。)ヤ 世ノ國會ヲ興シテ公議輿論(よろん)ニ従フ可シト談論スル者多シ、

而(しか)シテ其ノ弊害有ランヲ憂慮スルヨリ、未ダ容易ニ之ヲ行フ可カラズト為ス者有リ、

焉(いづく)ンゾ知ラン其ノ憂慮スル所或ハ此ノ富翁ノ火災ヲ畏ルヽト同轍ナラザルヲ、若シ火ヲ萬一ニ失スルヲ憂慮セバ、則(すなわ)チ翁ハ死ニ至ル迄長ク醜陋(しゅうろう)ナル家屋ニ栖止(せいし)シテ止マンノミ、是レ果シテ長策カ、余輩ハ之ヲ知ラザル也 吁

 

* 結びに吐息の如き一字の「吁」は「う」で「ああ」とは異なる。この気息を酌むのは゛みょうに難しいのだか。

この一文の含み、 どう読むか。 コロナ戦争の今にして どう読むか。安倍総理に、麻生財相に 解いてもらいたい。

2020 4/29 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 人目を忍んで逢う場所

 

人目を忍んで逢う場所では季節は夏が一等いい。短いうえに短く夜が明けて少しも寝ずじまいだった。前夜からどこかしことなく開け放ったままなので、涼し やかに庭も何もみな見晴しが利いている。残り惜しくまだ少し話しておきたいことは有って、互いに返辞し合っていると、二人して坐りこんでいるすぐ頭の上か ら声高に鳥が鳴き立つのが、何もかも見すかされていた心地がするのもおもしろい。

逆に、冬の夜ひどい寒さに一つ床に埋もれたまま添い臥して聞いていると、遠い鐘の音が底もなく深い闇の奥から聴こえて来る風情も至極いい。鶏も、最初は 翼のかげへ首を埋めたまま鳴くのが声も籠った感じなので、とても深く遠くに聞こえるが、明け放たれて行くにつれて耳近くになるのも情がある。                                               (第六九段)

 

* まことに平安盛期の宮廷や公家社会の風儀はこんなであったらしく、この前の戦後になって性の開放などといい大人の男も女も半ばわめいていたのは不思議な光景であった。

 

* 『創世記』を、むろん現代の日本語に訳されたものでだが、「三 カインとアベル」の冒頭で「その人(エデンの園で最初に生まれた男=アダム)は彼の妻 を知った。彼女ははらんで、カインを生み」と記述されている。「四 カインとセツの系図」でも、「カインはその妻を知った、彼女ははらみ、エノクを生ん だ」とある。「知った」、「知る」という言葉が即 男女の「最初の性交為」を意味して用いてある。これは、日本でも平安時代男女というより万葉集や神話の 時代へも遠く溯っても謂えたものいいであったはず。性を思いまた考えるうえでとても大事な勘どころと想う。「知った仲」という精妙なものいいが有った。そう いう機微に触れ合いながら「早稲田文藝科」の私の生徒だった彼女、『源氏物語』を、美しく訳して呉れたろうか、たのしみ。

2020 4/30 221

 

 

 

* 昨日 書き写してみた濹上漁史筆の「富翁の長策」は、どんなものか。翁の厖莫大に金箱に秘蔵の金銀は、おそらく彼が恐れる火災のためにも遣われない、 遣うまでもない陋屋で洩る雨風も何の苦にもせず暮らして金銀だけはしかと抱いている、まさしく守銭奴の無意味にエラソーな理屈を妻子にぶちあげて、これ「乃公(だいこう=俺サマ)ノ長策」と吠えている。家や命より喪うべきでない、守りたい、のは「金銀」なのだ、安倍サン、麻生サン、似ていませんか。「経世済民」という「経済」をあなた方、欲深く誤解していませんか。

2020 4/30 221

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 碁を打つ人

 

碁を打つにも、身分の高い人の方は直衣の襟の紐も解いて、ごく気らくな感じに碁石を悠然と盤上に播いているのにくらべ、身分の低い方は坐りようからかし こまった様子で、碁盤よりすこし離れて、及び腰で、袖の下はもう片方の手でおさえなどしてこわごわ打っているのが、おもしろい。                               (第一三九段)

 

* 昨今の会社内でも、こんな場面は有りげに想われて可笑しい。劫をへた女子社員の目も口も、今昔ともにシンラツですナ。

2020 5/1 222

 

 

* 暑いとさえ感じて汗ばんだ今日であった、夕方には汗が冷えてきて気分わるく、要慎したくて、夕食後はかるく床について、九十分ほど『凱旋門』下巻を読んでいた。ジョアン・マヅーに「恋」してしまった医師ラヴィックのむくわれにくいな情況になんとなく同情していた。

「凱旋門」のさきに、『大無量壽経』の漢訳を註にも手を牽かれながら、妙に懐かしい気分で読んでいた。その気分が奇妙にラゥ゛ィック医師の悩ましさに響き合うのも不思議な気がした。

私は、おそらく今では禅に接して想われる「般若心経」の空観に惹かれているが、それでも若くから親しんできた「浄土三部経」の世界にふるさとめく親しみ や懐かしみを忘れがたく、佛さまというと、法蔵さんの身から極楽浄土をみごと完成されて衆生の後世安楽を確約されている阿弥陀如来さんは、いついつもほぼ 念頭にある。我が家の長くもない二階からの階段を下へ降りるときは、片手は手すりに、もう片手でなにとなく「ナムアミダブ、ナムアミダブ」と降りて行く。 我ながら変わってると想うけれど、そんなことでも安心なら有難いことと思っているのです。

2020 5/1 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 有明けの月の別れ

 

ある宮仕え所でなんとかの君とかいわれた女のもとへ、公達(きんだち)と呼ばれるほどではないが、その頃たいした伊達者(ダテしゃ)と評判の、じじつ情も 趣もわかる男が、あれは九月時分だったか、尋ねて行った。折から有明けの月あかりが一面の霧ににじみあって情緒纒綿、男は自分の帰った後も女の胸に名残多 う思い出されんものと、心も言葉も尽くしてやおら立ち別れ出る、と、女も、もうあの人は帰って行くらしいと、遠くまで見送る風情は、言うに言われずなまめ かしかった。

男は帰ると見せて立ちちどり、立蔀(たてじとみ)の間の物蔭に添い寄って佇んだまま、どうあってもこのままは立ち去りかねる気持を、とくと、もう一度聞 かせようと思っていると、女が、「有明けの月のありつつも」と、恋の古歌を忍び忍び口ずさんで、そっと外を見出した髪が簾にからんで、下がり端(ば)五寸 ばかり開いたのがちょうど燈火にさし当てたように光って、そこへ月かげまで美しく光り添ったものだから、一瞬の光景に思わずはっと我に帰って、その日は そっと帰って来た――とか、誰かしらそんなことを話していたが。         (第一七二段)

 

〔この段の解釈は難儀で、人によって、女の付けていたかずらが簾に引っかかってはずれたところのように読んでいる。本文のあいまいさによるにせよ、ちょっと道化すぎる。

恋心と月かげのまさに魅する力にかえってはっと「心澄む」情景だろう。長編の『慈子(あつこ)』にも大事に引用した『徒然草』第三十二段の、『枕草子」此の段はさの原拠とさえなっていたろうと訳者の私は推察してきた。〕

 

* コロナ塗みれの朝早からの報道にも顔をそむけ、ただ    三つの「密」に嵌るまいとだけ。

 

* 昨夜、寝入る前にボブ・ラングレーの敢えて名著と云う、『(アイガー)北壁の死闘』を読み終えた。苛烈をきわめた死闘を心嬉しく収束しえた作者の想と 筆の冴えが心うれしかった。何度も何度も読んできたのに、「アイガー」との胸つまり息をのんでの「死闘」の背後に、原爆製作をめぐる米独の「死闘」もあっ た。憎しみも愛も恋も友愛もあった。肌寒くなるほどなアイガー北壁へ挑戦の恐怖に耐えながら、想像に絶した死闘の或る美しさ烈しさにも十分打たれた。また いつかきっと読み返したくなる一冊と、この創元推理文庫を私は愛蔵してきた。同種の愛蔵文庫本を私はもう三冊もっていて、この籠居を利して次々読んでやく 気で居る。

 

* 濹上隠士(成島柳北)の雑文に「風の嘆」があり、縷々述べてのちに(この筆者は、漢字と片仮名で書くが、失敬してひらがなにさせてもらって、)「唯だ最も以て憎む可き風にして一本(お面を

=)敲かざるを得ざるもの有り、曰く是れ何等の風ぞ、曰く聴いた風、曰く知った風」と。

これはもう、往々私も陥っている悪風よと覚よう悟していなくてはならない。しかしまたただ沈黙は金とばかり知らぬ存ぜぬも困るのである。「云うべきは云う」ということ。

この結語の前へ隠士のさらけている例を聴いておく。「風は天地自然に生ずるモノにて、いかほ如何程迷惑でも致し方無しとす、独り驚く可きは天地自然にあ らず<人造の風>ぞかし、熟々(つくづく)世上の情態を視察するに、方今奇々怪々風が流行す、人家の處女は藝妓風を學び、炊婢は権妻(=妾)風を學び。書 生はは大家ノ風を飾り、山師は金持の風を飾る、代言人の法律者風を氣取り、戯作者ノ新聞記者風を気取るは珍らしからねど、店者の役者風を為し、地獄(=淫 売)の娼妓風を為す如きは則ち棒腹絶倒す可し、斜めに帽を着て欧州風に擬する平氏あれば、竪てに筆を使ふて支那風に模する書家あり、薇の總菜眞逆が伯夷の 風と思ふもの無きも、小女(=女中)を抱いて柳下惠り風を習はんと欲する者は多し、然りと雖も是れ人情の免かれ難き所なれば、我々は敢て和之れを罵るを欲 せず」として、冒頭の警語を吐いている。

昔も今も、「風」俗の転変、そして慨嘆、ちっとも変わらない。

 

* 『椿山集』を慎重に原本のままに間違いなくと、読んでいる。

2020 5/2 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 色好みの男

 

色好みで、多くの女を知った男が、昨夜はどこに泊まったものか、明け方に帰って来てそのまま寝もせずに、ねむそうな様子ながら、硯を取り寄せ墨をていね いに磨りおろし、事もなげに筆まかせに書くふうでなく、考え考えて後朝の文を書いている打ち解け姿は、なかなかに風情よく見える。

白い衣を重ねた上へさらに山吹、紅などの衣を着ている、その白い単衣のすっかり萎えたあたりをじっと見守るふうにして、やおら手紙も書き終えると、前に 控えた女房にも手渡さず、わざわざ起って行って、小舎人童かこの使いにふさわしい随身などを近う呼び寄せ、ひそひそと言い含めて渡して、出かけて行った後 も長いこと物思いにふけっては、思いついたふうにお経などのしかるべき所々を小声で口遊みに誦している、と、奥の方で朝の粥や手水の支度をして女房がすす めるもので、とにかく歩み入ってはみるが、そのまま机に寄りかかって書物など見ている。思わず興に乗った箇所は重ねて声高に吟詠したのも、なかなか悪くな い。

手を洗って、直衣(のうし)だけ着て、法華経の六の巻を諳(そらん)じもするのがいと尊げに聞こえるそのうちに、存外近い所であったか先刻の使いが戻っ て、そぶりでそれと知らせるので、つと読経はやめ女の返事に心を移す様子は、罰が当たりそうでいながら、情があってなかなか佳い。

(第一八一段)

 

〔こういう物語の一場面一場面を銘々に発表し合う機会が、物語文学全盛の頃の後宮や、貴族子女の  交際の中では、かならず有ったに違いないと推測している。〕

2020 5/3 222

 

 

* さきに纏めた「歴史に問い、今日を傷む」湖の本で、今世紀のはじめの日付で私は、今後の世界の脅威は「中国」と確言している。それが現実になりかけて きた。まっさきに武漢にコロナ感染の災禍を起こして、これが複雑な変容を経つつ世界に及んだころ、中国は少なくも一時期の「武漢被害」をほぼ克服したとい う。いまや感染猖獗の炎は、「コロナなど風邪程度」と放言していたトランプ・アメリカで燃え盛り、いまや西太平洋に配されてきた航空母艦四隻を「コロナ」 は侵しているという。中国は、久しく太平洋への海路・開路を事実上ふさがれた観があったのを、今ぞ好機と航空母艦を太平洋へ押し出そうとしている。火花こ そ散ってなくとも新たな「太平洋戦争」の兆しとも憂慮される。「日本」は、こんな際に、どう外交し対応すべきか、コロナがある、仕方ないでは済まない。

2020 5/3 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 忍び逢い

 

南、でなければ東の廂(ひさし)の、影がうつるほどよく拭きこんだ板縁に真新しい畳をちょっと置いて、かたびらの感じが涼しげな三尺の几帳をかるくおしやってみると、すべって、思ったより行き過ぎて立ったが。

ちょうどその辺に、白い生絹(すずし)の単衣(ひとえ)に紅い袴、そして夜着に濃い紫の衣のそうは着くたびれていないのを、そっと引きかぶって女主人が横臥していた。

燈寵に火を入れたあたりを二間(ふたま)ほどはなれて、簾を高う上げて女房が二人ほどと女の子が長押に寄りかかり、また、おろしてある簾に添い寄って横 になった女房もいた。火取りの香炉に火を深う埋めて、空薫物(そらだきもの)のかおりをほのぼのと匂わしているのも、たいそうのどやかに、奥ゆかしい。

宵すこし過ぎた頃、はばかり顔にほとほと門をたたく音がすると、いつもの、わけを心得た女房が出て来て、気配りよく、男の姿をわが身の蔭に隠し、人目を慎んでそっと部屋へ招き入れた容子のよさ、それなりの風情で、奥ゆかしい。

かたわらにごく音色の佳い、細工も上出来の琵琶があるのを、男は話のひまひまに音を殺して爪弾きにかき鳴らしている、その風情もゆかしくてよかった。       (第一八三段)

 

〔清少納言に幕をあけてもらって一場の舞台を観る感じ、これなども一人で想って書いているのでなく、寄り合うて順に話した創作の一こまのように読みたい。源氏物語の叙景とすこしことなり、けれどまことに似通いもしていて、なんとも、懐かしいのです、私。〕

2020 5/4 222

 

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 大路に近い家で

 

大路に近い家にいて聞いていたら、車に乗った人が有明けの月かげをめでて簾を上げ、「遊子(ゆうし)なほ残りの月に行く」という詩をいい声で吟じたのが、とても佳かった。時に馬に乗ってでも、そんな風流な人が外を通るのがおもしろかった。

やはり同じような家にいて聞いていると、泥障(あふり)の音がするので、どういう人が馬で来るかと、している仕事も下に置いて出てみたのに、ごく賤しい男を見てしまったのは腹が立つ。

(第一八四段)

 

☆ 月夜の渡川

 

月のそれは明るい夜、車で川を渡ると、牛の歩むにつれて、水晶を割ったように水玉が散ったのは、すばらしい。             (第二一五段)

 

* こういう時代、こういう風情、こういう感受性があったんだと、当節の「機械禍」「コロナ禍」「政治禍」が胸にもたれる。

2020 5/5 222

 

 

* 終日、一字の誤植もゆるされない参考原本の校正に、草臥れた。ふい、ふいと寝入りそうになる。コロナ禍にはわるく馴れ抜けてはならないし。幸いに私の 仕事は、なにより気に入っている「読み・書き・創作」で飽きることは無いが、もとでは、視力と体力。疲れきっては危ない。なんだか、あっというまに大型連 休も、カレンダーによるともう明日一日。やはり仕掛け仕事の尻を追うということになります。なかなか無心につとめるというのも難しいが。

 

* 無心といえば思い出す。

京都の私の高校にはもと「美術コース」もあって生徒達は異色を放っていた、そんな彼らのための木造校舎の二階に、廣い畳敷きの作法室とならんで「茶室と 水屋」が作り付けられていて、そこを、わたくしは二、三年生時代わがもののように用い、校長に申し出て新設した「茶道部」員たちに点前作法の指導をしつづ けた。

茶室は「雲岫席(うんしゅうせき)」と名付けられていた、哲学者久松真一先生の銘名で、「雲岫」二字の佳い額を鴨居に掲げていた。

「雲岫」とは、陶淵明の詩句「雲無心にして岫(くき=山穴)を出で、鳥飛ぶに倦んで還るを知る」を汲んでおり、ともに「無心の境」を意味していると。私はこの茶室が好きで、授業を抜けだしては「雲岫席」にひとり時に寝そべり勝手な本を読んだり、炭火もなしに水屋のガスで湯を沸かし独り茶を点てていたりした。無心を気取っていたのではないが、雲になりたかった。

2020 5/5 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ この世でいやなこと

 

この世で、やはり何よりいやなのは、人ににくまれているか、という思いであろう。どんな気のへんな人でも、我から人ににくまれようなどと思おうか。それでも、とかく宮仕えに出た先でも、親兄弟の仲であっても、愛される、愛されない、が生じるのはじつに切ない。

高貴な方の場合は申すまでもない。ごく下々の者でも、親などのかわいがる子は、人の目を惹き耳に立てられて自然と大事にされるもの、見た目のいい子の場 合はとくにそうで、こんな子ならば愛さずにおれようはずがないとまで思われる。格別の事もない子は、これまた、この程度の子でもかわいく思うのは親なれば こそと、しみじみした気持になる。

親にでも、主君にでも、すべて付き合うかぎりどの人にでも、人に愛されるというほどすばらしい事はない。 (第二四九段)

 

* 清少納言の生きた世間は、現代生活から見ればまことに狭いものだった。

2020 5/6 222

 

 

* やはりテレビ朝日の羽鳥番組の「コロナ禍討議」を最も尊重し傾聴していた。東京都も、政府との過度の接触をぬけて大阪府知事のような賢明な事態の把握 と独自性の対策へ渾身向かってほしい。政府の「いい加減さ」はとてももう転換も修復もなるまいから。小池知事は「ことば」では明快に語っているが、「こと ば」のレベルで自足してはならない。コロナ禍のより明晰な理解の上で施策ありたい。

 

* おもえば、私の、癌による胃全摘・胆嚢摘除の手術が、2012年の二月だった。以来八年、私は通院検査と受診のほか、ま、歌舞伎座を楽しむていどで、ほ ぼ家居の仕事に終始し、社会生活はゼロに近かった。情報としての世情はなんとかテレビで掴めていても、視力を労り新聞は一切読まなくなった。出歩くという 習いは手術以前とは雲泥の差で減り、無くなったとすら謂えた。なによりも、新幹線に前後十年も乗っていない、つまり京都へ帰っていない。仕事の量は、むしろ そと目には旺盛とすら驚かれている。この老境に私はいま不満か。いや京都を措いていえば、私は性にあった家居の日々をいま前向きに受け容れているのだと思 う。

現在はともかく、未来に多くを頼める状態に「いまの日本」はない。科学技術的の恩恵はもはや受け摂る能を私は持たない。現在未来の藝術に心ときめかす余力も ない。私の残されたわずかな明日を生きて行く滋養と財産とは、あきらかに、精微なまで蓄えた「過去」のもつ力量であるとともに、リアルに拘束されず今も可能な読書が下支えしている「想像・幻想」のリアリティだと謂うしかない。恐れねばならぬのは、ただ一つ、陳腐である。

「自筆年譜(一)」で驚かせた精度といまも鮮 明な記憶と記録とで、私は、概ね二十世紀末までの自身を現在も所持している。今世紀以降はこの厖大な「ホームページ」がある。

つまるところ、私は作家。文筆家として「私」を表現し続けてきた。それがどんなに無意味なまで幼稚で未熟であっても弁明弁解など出来ない。

2020 5/6 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 男とは

 

男とは、何ともじつに奇妙な、解(げ)しかねるものではある。ずいぶんな美女を見捨てては不器量な女を妻にしているなど奇特過ぎるといおうか、禁中深く 公の御用をつとめる男や良家の子弟など、数ある中でもとりわけて佳さそうな女を選んで愛せばよい。手の届きそうもない高嶺の花であれ、すばらしいと思った 女を、命がけでなりと恋いこがれたらよい。人の娘や、まだ見ぬ女でも、きれいだと評判の女をこそぜひにも妻にと男なら思いそうなものなのに、とかく女の目 から見てもみっともないと思う人を男が愛したりするのは、一体どういう事なのだろう。

顔かたちはもとより心ばえも一段とすぐれた女が、字もりっぱに書き、歌もしみじみと上手に詠んで情の淡さを恨んで手紙をよこしたりする、と、男は、返事 だけはその場を賢くつくろってするけれども寄りつかず、可憐に世を嘆き悲しんでいるのを見捨ててほかの女の所へ平気で行ったりするのを見ていると、あきれ 果て、ただもう腹が立つ。男同士はたで見る目にはそんな不愉快さもよく分かるらしいのに、さて我が身のことになると、男は、全然女のつらい気持というもの が分からない。               (第二五〇段)

 

* ふーぅッ。

2020 5/7 222

 

 

* 睡魔に身をゆだねたいほど、心身疲労している。目をあいているのも物憂い。幸い、ことを焦らぬ限り、今朝の三校請求の様相で大きな一息がつけるのだから休憩すればいいのだ。

「休憩」というと思い出す、建日子が小学校四、五年生、せいぜい六年生初めの頃、一緒に浴室にいた時 彼は突如として人生とは「いっときの休憩室だって ね」と口にした。耳を疑ったが、彼はそれを『モンテクリスト伯』でエドモン・ダンテスが云うていたと。大デュマのこの作は、西欧の小説で五作選べと云われ たらきっと数え入れたいほど私は熟読していたのに、咄嗟に思い出せなかったが、建日子は彼なりの理解で「休憩室」と飜訳していたろう、深く頷けた。その感 触は、いま此のHP冒頭の写真「方丈」のしたにあげた

あの世よりあの世へ帰るひとやすみ

の述懐に息づいている。落ち着きのない私は、あまりにその「ひとやすみ」中にあれこれし過ぎたがる、それで疲れを溜める。まるで、八十五にもなろうという一少年かのように気ぜわしい。

2020 5/7 222

 

 

* 有難く。恐縮です。

「清経入水」を、当選作と受賞「展望」発表作と、両方を『選集』に別々に収め得たのは「心ゆく」有り難さであった。

受賞した五十一年前の文壇では、「清経入水」のような、「反リアリズム」の怪奇に「リアリティ」をもとめた小説は、事実として、ほぼ全く記憶がない。い まではリアリティに欠けた反リアリズム劇が氾濫気味に想われる。イズムはどっちでも構わないが「リアリティ(真実感)」は見失ってはならないと想う。

2020 5/7 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 情のある人

 

何がいいと言って、情のあるのが、男はもちろん、女の場合も一等いいと思う。ほんの口先の挨拶で心の深くから出たものでなくとも、気の毒な事には「気の 毒に」とも、悲しんでいる場合には「ほんと、どんな気でいるだろう」など言った話を、人から口伝えに聞いたのは、さし向かいに言われたのより、うれしい。 どうかしてその人に、自分が感謝していることを伝えたいと、いつも気にかかる。

愛してくれるにきまった人、安否を気づかってくれるにきまった人は、当然の事でとり立てて言うまでもない。そんな間柄でない人が、受け答えをちゃんとしてくれたりすると、うれしい。いと易いことなのに、なかなか、それができないものだ。

大体、気のよい人で、しかも才もあるという人は、男でも女でも、めったにいないと見える。

いや、そういう人もたくさんいるに違いない。              (第二五一段)

 

* 千年前の貴族世界の女たちの、愛らしいほどな感想です。

2020 5/8 222

 

 

* 京都は古い都で、人口多く、それをしも女文化と謂うてどうかと思うが祇園をはじめ遊所は方々に在った。私は、浄土宗総本山の知恩院新門前町に育ち、南 へ抜け路地を脇挟んで背中合わせに祇園町に接していた。祇園の女たち、甲部のお高い芸妓も乙部の遊妓も子供の目で多く見知っていたし、敗戦後の新制中学へ すすめば祇園の子らは大勢いた。弥栄中学そのものが祇園石段下、祇園町甲部の核心に位置していた。京都市立というまえに事実上、祇園甲部立の小学校から新 制中学へ転じた学校だった。指折って数えられる女友達の多くが「祇園の子」であった。同じ題の私の短篇は永井龍男先生等にかなり注目された。こんなのが 十、二十と書けたら「たいしたものです」と永井先生に言って頂いた。

さて、しかし、学生時代を強いて終えて妻と東京へのがれ出て来て以降、私は東京の遊所を全然しらない。神楽坂、上野、浅草、品川、新宿、四谷等々を市街としては馴染んでいても、遊緒の風情としては皆目しらない。「川向こう 濹東」の風情などまるで知らない。

成島柳北の全集では、いわば単行の著書ぶんほども「柳橋新誌」が入っていて、例外的に私と妻とは、あれで本所の劇場で息子のか誰かの芝居を観てのかえり に長い隅田の両国橋を西へ越えてそぞろ歩きの途中、「柳橋」という橋を渡った、「柳、無いね」などと呟きながら。小説世界では鏡花ものを大将格に「柳橋」 はすこしは馴染んでいた。

今日、柳北隠士のそれを読み始めるといきなり「柳橋」に柳のない謂われが全文漢文で語られていてほうと思った。漢文というのは、時には読んでこころよい音楽味があり、まして日本の明治のジャーナリストの筆である、無茶にむずかしいものではない。

 

「橋、柳を以て名と為す。而して一株の柳も植えず。旧地誌に云う、其の柳原のに在るを以て命じ焉えんぬと。而して橋の東南に一橋あり、傍らに老柳一樹有 り、呼びて故柳橋(モトヤナギバシ)とす。或いは曰く、その橋に柳有り 則ち往昔の柳橋、而も今の柳橋は則ち後架にしてその名を奪いしものと、其の説地誌 のすでに語りおえしもの。按ずるにもと柳橋の正称は難波橋と曰い、されどよく知る者少なし。彼此錯考するに、則ち地誌の説の當たるに似たり。夫れ柳橋の 地、乃ち神田川の咽喉也。而して両国橋と相い距たる僅か数十弓也、故に江都舟楫之利、斯地を以て第一と為す。而して遊舫飛舸、最多と為す。

 

以下この柳橋よりして濹上泗水を東西南北、便宜を極めて遊所への便を大いに紹介している。以下『柳橋新誌』したたかに長編なのである。隠士、かの「濹東綺譚」の荷風よりも相当の先輩、幕末地明治とをわたり歩いていた。洒脱におもしろい御仁で、いまや令和の私は大いに懐いている。

 

* 九時前。もう休みたい。

2020 5/8 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 人の噂

 

人の噂をするといって怒る人には、ほんとに困ってしまう。どうして人が人の噂をせずにおれよう、自分の事はさし措いて、人の事ほど、あげつらいたく、噂 してみたいものがほかにあろうか。けれど、そう褒めた事でないのも確かなようだ、そもそも自然と当人の耳に入って、恨んだりするかも知れない、それがまず い。

また、きらいになってもしまえぬ相手の事だと、気の毒だからと大目に見るので、そこは抑えて言わぬだけの話、さもなければ、話に花咲かせて笑いものにしてしまいかねない。

(第二五二段)

 

* もっとも清少納言らしいと定評の一段。まことに。

2020 5/9 222

 

 

☆ 鴉に

もうお休みになられたでしょうか。

HPの血痰の記載に驚いています。無理せずお身体休ませて下さいますよう。 尾張の鳶

 

* 「湖の本 150」を送り終え、『選集』最終33巻の納品をみるまで、たとえ、何かしら病状を呈しても決して入院しない。私にしか成し終え得ない仕事であるから。少なくも其処へは地力と自力とで辿りつく。要心はしながら、

2020 5/9 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 人の顔かたち

 

人の顔でとりわけ美しく見える所は、何度見てもああ美しい、すばらしい、と思う。絵など繰り返し観ているうちに目が見飽いてしまう。身近に立てた屏風の絵など、いくらすばらしくても、もう見る気もしない。

人の顔かたちというのは、おもしろい。見づらいような道具立ての中にも、一つよい所があれば、ついそこへ眼を惹かれる。但し一つ醜い場合も、それと同じで目立つだろうと思うと、情けない。                               (第二五三段)

* なるほど。

2020 5/10 222

 

 

* パリ 凱旋門にちかいドイツからの避難民アパートの一住民が家賃を三ヶ月溜めて追い出しを迫られている、その男の部屋には、アパートの女将には理解の 届かない、まぎれないゴッホ、ゴーギャン、セザンヌらの眞物が額に入っていて、その住人はいましもモネの繪をどこかで金に換えてきて家賃を払い、ひの金で 暫く暮らして残る繪を抱きかかえ南米へ迄も遁れて行く気と医師ラヴィックに話していた。ゴッホらの眞物とわかったときの戦慄に似た悲しみをいまも私は抱い ている。

ら日本の国土と国民はどうなってゆくのだろう。80数年以前、私が生まれてちょうど三ヶ月に起きた「2,26事件」の真相を語る長い映像に見入っていて も、もの悲しくて弱った。なにかがもう大きく間違って動いていた。いましも私の関わっている山縣有朋元帥が生きて陸軍を統べていたらどう処断していたのだ ろう。

2020 5/10 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 静けさの中の音

 

日のうらうらと照ったお昼ごろ、また、夜もすっかりふけて、真夜中、子の時刻にもなった時分であろう、帝はもう御寝みになってしまわれたろうか、などお思い申し上げていると、

「蔵人は」と、つとお呼びになられるのは、じつに奥ゆかしい。夜半に、御笛の調べが聞こえたりするのも、じつに、すばらしい。                   (第二七三段)

 

* 「奥ゆかしい」とは 覗き見がしたいほどということ。

2020 5/11 222

 

 

* 焼きつくほど心に残っているレマルク『凱旋門』のなかの言葉、昨夜すこし触れたゴッホやセザンヌなどの空恐ろしい名画をナチからの避難生活へ運び続け ていた男は、よぎなく一点また一点と身を切る思いで売りはなし苦しい日々を貧しく辛く生きていて、ゆがてパリからニュージーランドへまで逃げ延びたいと、 医師ラビックに呻くように漏らしている。

「それは遠いですねえ」という医師に、男は言下に「どこからですか」と反問していた。この作を初めて読んだ何十年も昔から、この「どこから」は私の胸に重い鐵の錨のように沈んでいて失せない。

2020 5/11 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 気が利いた恋文

 

いつも後朝(きぬぎぬ)の文を怠らない人が、

「もう、いけない。話にならない。今はこれまで」と言いすてて帰って、翌日、音沙汰もない。さすがに、夜が明けるとすぐ召使がさし出す手紙の今朝はないのが、淋しいことと思って、

「それにしても、思い切った気性だこと」と愚痴まじりにその日は暮れた。

そのまた翌日は、雨がひどく降った。昼までもたよりはないままで、

「それにしても見限られてしまったもの」などと呟いてぼんやり端近(はしぢか)に坐っていた夕暮れに、傘をさした使いの者が届けて来た手紙を、いつもよ り急いであけて見ると、ただ「水増す雨の」とだけ書いて、常にまさる気持をほのめかしてあったのは、やたら何首も歌など知んでよこしたのよりずっと気が利 いていた。                                          (第二七五段)

 

* 恋文で演説してはいけません。

2020 5/12 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 愛されるなら第一に

 

宮(=定子皇后)の御妹、弟がた、また殿上人など、お前に何人も伺候してぃらっしゃるので、廂の間の柱に寄りかかって女房と話していたところへ、宮が何か投げてよこしてくださったのをあけて見ると、

「愛そうか、どうか。そなたを第一にというのではないが、どうか」と、お書きになってぃらっしゃる。お前にいて、日ごろ談笑の折にも、

「何によらず人に第一に愛されないのでは、愛され甲斐もない。いっそそれならうんとにくまれて手ひどい仕打ちを受ける方がまし。二番目、三番目に、は死んでもいや。第一でこそ、いたい」などと言うもので、

「唯一無二、一乗の法、と言わん勢いね」と人にも笑われていたその筋、からのお戯れらしかった。

筆や紙を下さったので、

「九品(くほん)蓮台の間になら、たとえ下品(げほん)というとも」と書いて御返事申し上げたら、

「ひどく遜(へりくだ)ってしまったもの、いけないこと。きっぱり言い切った事は、それで押し通したがいい」と仰せになる。

「いいえ、それは、相手の人による事でございますもの」と申し上げると、

「いけないと言うのはそのこと。第一の人にまた第一に愛されようと、そう思うべきなのに」とおっしゃる。

お返し申す言葉もなく、ただ頷かれた。            (第九六段)

 

* 中宮定子と清少納言には、独特の緊張を孕んだ親愛と崇拝とがあった。日本の「女文化」を思う時、一条天皇の定子皇后の存在と感化力とは忘れがたいもの。

2020 5/13 222

 

 

☆ 香炉峰の雪

 

雪が、よほど積もっているのにいつになく早く御格子(みごうし)をおろし、角火鉢に火をおこしてお前近くで女房同士おしゃべりしながらかたまっていると、

「少納言、香炉峰の雪は、どのようか」とおっしやる。

すぐ人に御格子をあげさせ、御簾を高う巻いて宮にお見せすると、頷かれ、お笑いになる。朋輩も、

遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き

香炉峰の雪は簾をかかげて看る

という詩句はみなが知っていて朗詠の集いなどでもよく歌われることだけれど、こうしたやりとりが楽しめるとまでは、ちょっと思いも寄らない、

「あなたは、どこまでもこの宮様にお仕えなさるのがお似合いなのね」と、口々に言う。                         (第二八〇段)

 

〔正暦五年(九九四)晩冬から翌長徳元年早春までの間のことと思われる。枕草子のなかでも名高い一段。〕

2020 5/14 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 草の庵

 

頭中将斉信が、いい加減な作り話を聞いてひどく悪く言い、「どうして、まともな者と思ってほめたりして来た事か」と殿上の間で散々におっしゃると聞くにつけて、敬意をもった相手だけに恥ずかしくはあったが、

「ほんとうの事ならともかく。そのうち思い直してくださるでしょうよ」と笑っていたのだが、黒戸の前を通るのにも、声など聞こえる時は、袖で顔を蔽ってち らと見向きもせず、それはもう悪く思っていらっしゃるふうなので、こちらからも何一つ言いかけるどころか中将のことはまるで無視して過ごすうちに、二月も 果てる頃、たいそうな雨降りで所在なく、まして斉信は宮中の物忌みに殿上の間に詰めきりで、

「さすがにどうも、あれを相手にしないとなると、もの足りぬ事だな。何かひとつ、言ってやろうかと、そんなことおっしゃってた」と、同僚の女房が噂を伝えてくれたけれど、

「まさか」などとあしらっているうちに、或る日一日じゅう自分の部屋に居坐ったきりで、夜になってからお前に上がってみると、宮はもうお寝みになられた後だった。

女房たちは廂の長押(なげし)近くにともし火を寄せ、退屈そうに同じ扁の漢字を言い継いで遊んでいる。

「まあ、よかった。早く仲間にお入りなさいな」と見つけて声がかかるけれど、宮がお寝みでは興醒めで、なにしに参ったかと思ってしまう。

いろりのそばに坐っていると、そこにまた多勢寄って来て話に花が咲くうち、男の声で、

「おいでですか」とえらく派手に名を呼ぶ。

「おかしいわ。いつこちらへと知れたのでしょう。なに御用」と、若い人に口上を聞かせると、主殿司(とのもづかさ)だった。

「直にあなた様に。お取次ぎでなく申し上げよということでございまして」と言うので顔を出して聞いてみた話が、

「このお手紙を。頭(とう)の殿があなたにおさし上げになります。御返事をすぐに」とあって、ひどく悪く思っていらっしゃるのに、何の手紙かとは訝しかったけれども、今ここで急いで開けて見るわけにもいかず、

「お帰り。やがて御返事はしますから」とふところにしまったなり、そのまま前の続きに人が話すのなどを聞いていると、すぐまた引っ返して来て、

「御返事を頂けないのなら先ほどのお手紙をお返し願って参れと、おっしゃるのです。御返事を早く早く」と無体なことを言うのを、変な話と思いながらあけて見ると、青い薄様の鳥の子紙に、水茎うるわしくお書きになってある。内容は、不安に思ったようなことでなかった。

「蘭省花時錦帳下」

と書いて、

「下の句は。ぜひ返事を」とあるのだが、どう返事したものか、宮がまだお起きでいらっしゃるのなら御覧に入れて御相談もできようが、この下の句を、知って おります、といった顔つきで下手な漢字で書いてやるのも見苦しい限りだと、思案をめぐらすうちにもむやみに催促するので、ともかくその紙の奥に炭櫃(すび つ)に消え炭のあったのを採って、

「草の庵(いおり)を誰か尋ねむ」

と公任(きんとう)卿の句を借りて書きつけて渡しはしたけれど、それきり、返事もない。

一同寝て、翌朝、まだ早いうちに部屋に下りたところ、源(げん)中将宣方の声で、

「このあたりに、草の庵はおいでですか」と、仰々しく呼び立てているので、

「妙なお尋ねですこと。そんなみすぼらしい者が宮のお近くに居るものですか、玉の台(うてな)とでもお尋ねくださるのでしたら、返事もありましょうが」と言い返した。

「やれ、うれし、ここにいたね。宮の御座所の方へ探しに行くところだった」と言って、

「昨夜のことですが、あれは頭(とうの)中将の宿直所(とのいどころ)に、ちょっと気のきいた人間なら全部と言っていいくらい、六位の連中まで集まって、 いろいろ人の噂を、昔から今と手広くやって、批評し合ったあげくに、頭中将からあなたの話が出て、やはりあの女、ふっつり縁が切れてみるとその後どうも気 になっていけない。向うから何か言って来るかと心待ちにしていても、まるで気にかけた様子がなく平気でいるのもはなはだ癪だから、今晩こそぜひ黒白をつけ てしまいたいというわけで。それでみな言い合わせて届けたあれを、今ここでは拝見できない、とおっしゃって引っ込まれたという主殿司の報告だったものです から、また追い返すようにして、いきなり手をつかんでなりと有無を言わせず返事が貰ってこれないぐらいなら、例の手紙は奪(と)り返せ、ときつく言いつ け、ああも降っていた雨のさなかにまた使いにやった。ところが、すぐ帰って来ましてね、これをとさし出したのは、さっきの手紙なので、さては返して来たか と頭中将が一目見たとたん、大声をあげたのですよ。おや、どうしたのですかと、皆寄ってのぞきこんだのですが、頭中将は、なんとたいした盗人(ぬすびと) めが。これだから無視はできないわけだと感嘆される、みな口々に騒ぎたてて、この上(かみ)の句を付けて返そう。源中将、付けてみよなどと、それから夜の ふけまで上の句を付けあぐんで、あげくに投げ出してしまったのです。さきざきも語りぐさにしたい話だなどと、みなで言い合ったことでしたよ」と、きまりが 悪くなるくらい、それは大仰(おおぎょう)に話して聞かせて、「改めてお名前を草の庵とつけました」と言うなり急いでお立ちになったので、

「そんな侘しい名が後の世にも伝わるのでは、情けなくて」と口の中で言っているところへ、今度は修理亮(しゅりのすけ)則光が来て、「大いにお礼を申そうと思いましてね。宮の御座所の方かと思って参上して来たところです」と言う。

「どうしたのです。司召(つかさめし)の噂も聞きませんが。何におなりになったのです」と訊くと、

「そうではない。心底からそれはうれしいことが昨夜ありましたので、早うお知らせしようとじりじりしながら夜を明かしたのですよ。ま、あれくらい面目を施した事はなかった」と、例の一部始終を、今しがた中将のお話しになったのとそっくり同じに語り聞かせて、

「この返事の次第によっては勅勘(ちょっかん)の御沙汰を画策してなりと、今後、そういう清少納言などという者がいたとすら思うまいと頭中将がおっしゃっ たので、居合わせた者はみな知恵をしぼって手紙をやったのだが、はじめに使いが手ぶらで帰って来た時は、かえってほっとした。返事を持って帰った二度目の 時は、どうなることかと心配で、もしほんとにできのわるい返事だったら、兄である私にとっても不面目な事になると思っていたところ、一通りの出来栄えでな く、その辺の多勢が賞めそやし感じ入って、兄どの、こっちに来て、これを聞けと頭中将もおっしゃる。内心はうれしかったのですけれど、そういう方はいっこ うお付き合いしかねる人間ですからと申し上げると、考えを言えとか、判れとか言っのではない。ただ、当人に話してやれという意味で聞かせるのだとおっ しゃったのは、兄分としてはいささか情けない思われようでした。ま、皆で、上(かみ)の句を付けようとどう工夫しても付けようがない。それにわざわざこれ ほどのものに返しをやれるものだろうか、などといろいろ相談して、こんな物かと言われてもかえって癪だろうと、結局夜中まで評定(ひょうじょう)なさって いました。この一件、私にとっても、あなたにとっても、大変な喜びごとではありませんか。司召で少々の役についたくらい、うれしくもなんとも思わないで しょうよ」と言う。

そうまで多勢で、そんなわけがあっての手紙とも知らず、うっかりすれば恥をかくところだったかと、改めて頭中将らの企みに胸も波打つ思いではあった。

この則光の話に「妹」「兄」とあるのは、主上までみな御存じの事で、殿上でも、正しく役名を呼ばないで、「兄」のあだ名で通っていた。

女房らと話していると、

「すぐに」と宮がお召しなので、参上すると、この一件をお話しくださろうというわけだった。

「帝はお笑いになっておいでだった、こまかにお話をお聞かせくだされて。殿上人は皆、そのやりとりをわざわざ扇に書き付けて持っているともお話しだった」などおっしゃるにつけても思い切った事をしたもの、何ものが憑いてあんな返事をさせたかと呆れる思いだった。

この事があって後は、頭中将も袖の几帳をやめてしまって、機嫌を直されたようだった。

(第七七段)

 

〔長徳元年(九九五)二月下旬のことと思われる。この段の面白さには、やはり註釈を欠かせない。  頭中将斉信は白楽天の詩の第三句をあげて、原詩に 「廬山雨夜草庵中」とつづく第四句を暗に試みた。これをそのままうっかり答えればそれなりに軽く「心見られる」ので少納言は、歌道に名高い藤原公任の「草 の庵を誰かたづねむ」という句を借用して試みを切り返した。

「いみじき盗人を!」という感嘆は、少納言の一切に対する無上の賞讃になっている。「兄」則光とは、かつての清少納言の夫、橘則光のことである。

いまどきの大臣や代議士風情の趣味の無さを論っては実も蓋もないが、それにしても安倍総理も麻生副総理もあまりに「ことば」が薄っぺらい。恥ずかしくなる。〕

2020 5/15 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 無名という琵琶

 

無名という琵琶の御琴をお持ちになって、帝が宮(定子中宮)のお部屋においでになられたので、拝見もし、爪弾きもした、とは言うものの弾くのでなくて絃などをただまさぐるくらいのこと、

「このお琴の名は、なんといいましたかしら」と申し上げると、即座に宮が、

「ほんのもうつまらぬ物、名もなくて」と御返事をくださったのは、ああ、やはりおすばらしいことと思われた。

御妹の淑景舎(しげいしゃ)の御方がおいでになって、宮といろいろお話のおり、

「私のところに、たいそう見事なもの 笙の笛がありますの。亡くなった父君が下さったもの」と、おっしゃるのを、御弟の僧都(そうづ)様が、

「それは、この隆円にお譲りください。私のところにすばらしい琴がございます。それと取り替えていただきたい」とお願いになったけれどお聞き入れにならず ついほかの事ばかりお話しなので、返事をおさせしようと何度もやっきに話しかけられるのだが、それでも何もおっしゃらない。そのお気持を中宮様が、「いな 替へじ(いやです、取りかえません)と思っておいでなのに」と、解いてお上げになった御様子の気高いくらいのお取りなしのみごとさ、限りもなかった。但 し、この御笛の名を僧都様は御存じでなかったので、何とのううらめしげにお思いのようすだった。この話は、たしか宮が職(しき)の御曹司(みぞうし)にい らした間のことかと憶えている。帝のお手許に「いなかへじ」という御笛がある、その名のままを宮は口になさったわけだ。

帝のお手近の物は、御琴でも御笛でも総じて耳なれぬ名がつけてある。

玄上の琵琶、牧馬も同じ、井手も同じ、渭橋、無名なども同じ琵琶の名、また和琴などにしこも、朽目、塩釜、二貫などと聞いている。水竜、小水竜、宇陀の法師、それに釘打は笛、葉二も同じこと、その他にもいろいろたくさん耳にしたけれど、忘れてしまった。

楽器をほめて、「宜陽殿の一の棚に置くべきもの」とかいう言い方は、頭(とうの)中将がよく口癖になさっていた。                    (第八八段)

 

〔正暦五年(九九四)秋から翌長徳元年初夏までの間のことと思われる。〕

2020 5/16 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

中宮から拝領の紙

 

お前でほかの女房と話したり、また宮からもお言葉をおかけくださる時などに。

「世間の事が腹立たしく、むしゃくしゃして、片時ももう生きているのがいやで、どこへなり行って死んでしまいたいと思いこんでいるところへ、普通の紙なら 真っ白くてきれいなのに良い筆を添えて、また白い色紙とか、みちのくに紙などがふと手に入ったりしますと、すっかり気分が直って、ままよ、このまましばら く生きていてもいいかという気になります。また高麗縁(こうらいべり)の筵(むしろ)の、青う念人りに厚く編んであって縁(へり)の文様がくっきり黒うま た白う見えたのを引きひろげたりしますと、もう、なんの、この世はどうしてどうして思い捨てられるものでないと、命も惜しくなります」などと申し上げる。

「なにともつまらぬ事で気の安まるもの。慰めかねつと詠われた姨捨山の月は、はたして、どれほどの心の持主が見たものか」とお笑いになる。おそばの女房も、

「ひどく安直な、厄除けのお呪(まじな)いみたいだこと」などと言う。

その後しばらく経って、心から思いあまる悩み事があって里に退っていた頃、すばらしい紙二十枚を包んで御下賜になった。表むきの仰せには、

「早く参上せよ」などおっしゃって、その余に、

「この紙は、聞き留めていた事もあるので。さほど上等でないらしく、長命を祈って寿命経も満足に書けまいと思うが」とお言伝もあったのには、思わず微笑ま れた。思い忘れていた事を、おぼえておいでくださったのは、ただ普通の人の場合でさえ嬉しかったであろうに、ましてこれは、あだやおろそかに思っていい事 でない。感に迫られて、つい御返事の申し上げようもないので、ただ、

かけまくもかしこき神のしるしには

鶴の齢(よわい)となりぬべきかな

(申すも畏れ多い拝領の紙のお蔭をもちまして、千年も長生きしそうでございます)

「大袈裟に申し上げ過ぎましょうが、とでも、おとりなしください」と書いて、さし上げた。お使いには台盤所の雑仕女(ぞうしめ)が来たのだっ た。青い綾の単衣(ひとえ)を与えなどして帰したあと、心をこめてこの拝領の紙を草子に作って持てはやしているうち、気分の悪かったこともふとまぎれ行く 気がして、我ながらおもしろいものだと心ひそかに思い当たったことだ。

二日ほどたって、赤衣を着た男が畳を持って来て、

「これを」と言う。

「あれは誰です。まる見えじゃないの」などと下仕えの者が邪慳に言うので、そこに置いたまま、帰ってしまった。

「どこからか」と尋ねさせたが、

「帰ってしまいました」というので畳を取り入れて見ると、念入りに「御座」という畳の形に作って、高麗縁など、じつに美しい。心の中では、宮様が下された に違いないと思うけれども、やはり不確かではあるので召使を走らせて使いの者をさがしたが、わからなかった。不思議がってあれこれ言うけれど、肝腎の使い の姿がなくてはどうにもおさまりわるく、届け先を間違えたなら、そのうちにことわって来るだろう、宮の御所へ問い合せに人をやりたいが、さて案に違(た が)っていた場合間の悪い話になる、とそうも思い、しかしまた、ほかの誰がわけもなしにこんな事をしようか、たぶん宮様の仰せつけに違いないと、なんとも 心楽しい。

二日ほど、どこからなんの音沙汰もない。もう宮の下され物に違いないと思って右京の君のもとへ。

「これこれの事があったのです。が、そんな風な御様子を御覧になりましたか。そっと事情をうかがわせてください。そういう事はなかったなら、こんなお手紙をさし上げたとは他言御無用に願い上げます」と手紙をやったところ、

「ひた隠しになさっていらした事です。万一にも、私がお教えしたとは、口にしてくださいますな」という返事。思ったとおりで、楽しくなってしまって、宮あ てのお手紙を書き、また、こっそりと御座所の高欄の所に置いて来させたのはよいが、使いがあわてていたので、置いたはずみに取りはずして、御階の下に落と し込んでしまったとか。     (第二五九段)

 

〔長徳二年(九九六)六月から八月ごろまでのこと、と思われる。中宮定子と少納言のひときわ密に微妙な仲らいがあらわれている。〕

2020 5/17 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ いはで思ふぞ

 

関白道隆公がお亡くなりになったのを手はじめに、以来世の中に事変が相次ぎ物騒がしくなって、宮も絶えて参内(さんだい)なさらず小二条殿という所に忍 んでいらした頃のこと、何かあったというでなく、おもしろくない気分でいたので、長らく里へ退っていた。さりとて宮の御身辺は気がかりで、とてもそのまま 御無沙汰は通せそうにない気でもいた。

右(う)中将がいらして、いろいろのお話をなさる。

「今日、宮の御所へも行って参りましたが、じつにお寂しい御様子でした。女房がたの装束など、裳(も)も唐衣(からぎぬ)もこの季節にふさわしく、さすが にきちっとお仕えしていましたがね。御簾(みす)のはじの隙間からのぞいてみたら、八、九人ほど、朽葉(くちば)の唐衣、薄紫の裳に、紫苑(しおに)や萩 など、洒落た感じでずっと居並んでましたな。お庭の秋草はそれはもう生いしげるばかりですからね、どうしてですか刈り取らせれば、と口を出しました。する と、ことさら露を置かせて御覧になりますのでと、宰相の君の声で返事があったが、とても風流な気がしましたね。み

な、あなたのお宿下がりの久しいのが情けない、こうした所へお住み遊ばすような場合であればなおさら、余人ならぬ、何があろうとあなたこそきっとおそば 去らず仕えてくれるものと宮様もお思いになっていらっしゃるのに、その甲斐もなく、と、女房たちは口々に言っていたのは、そう伝えてくれるように、という つもりだったのでしょう。

「参上して御様子を御覧になるといい。しみじみとしたけはいの、胸打たれるお住まいぶりでしたよ。露台の前へ植えられていた牡丹などの風情のあることといえば」などと、気を引くようにおっしゃる。

「分かりませんわ。皆でにくらしいと思ってらした。こちらもそれがにくいと思いこんできたものですから」と御返事する。

「ま、そこは穏やかにね」とお笑いになる。

事実、どうお思いかとうしろめたく宮のお顔色をうかがう必要などすこしもなかったので、ただ、おそばの女房たちが、左大臣(道長)がたの人と、心得合っ た仲でいると噂して、集まって話している時でも、局からお前に参るのを見かけると、つと話しやめたり仲間はずれにする様子が、かつて無かったことではあ り、あまりにくらしいので、

「参れ」と何遍もあった仰せも聞き流しにしたまま、ほんとに長い御無沙汰になってしまったが、それはそれで、また宮の周囲ではまったく敵側の者のように言いなして根も葉もない事まで取り沙汰されていたようだ。

これまでと違って御消息も知れずに日数ばかり重なるので、心細うぼうっと身の廻りなど見まわしていると、宮の職(しき)の長女(おさめ)が手紙を届けに来た。

「宮様より、宰相の君を通してそっと下されたお手紙です」と言って、この家に来てまで気がねに声ひそめたそぶりなのが、情けない。だれか代筆のお手紙とは 見えぬと、どきどさして、急いであけたところ紙には何もお書きにならず、山吹の花びらただ一重(ひとえ)をお包みになっておられる。その花びらに、

「いはで思ふぞ」とお書きになられたお心もち、ここ何日も、ずいぶんと御消息が絶えて悲しかったのもみな慰められ、嬉しくて嬉しくて、長女もその容子をつくづくと見守っていたが、

「宮様は、それはもう、折にふれては貴女様を思っていらっしゃるそうでございますよ。誰もみな、長過ぎるお宿下がりと、いろいろお噂しているようでもございますし。なぜ、参上なさらないのでしょう」と言いさして、

「このお近くにちょっと立ち寄ってから、またおうかがいします」と出て行った。さてその間にも御返事を書いてさし上げねばと思うのだったが、「いはで思ふぞ」のもと歌の上の句がまるで思い出せない。

「おかしなこと。同じ古歌でもこれほどの歌を知らぬ人もないのに。すぐここまで出てながら、言い出せないなんて。どうしたのやら」と呟くのを聞いて、そばに居た子が、

「下行く水の、と申すのでは」と口をはさむ。なぜ、こうまで忘れていたか、こんな子供に教えられたというのも、おかしい。

御返事をさし上げてからすこし間をおいて参上したものの、宮の御機嫌もいかがかといつになく気のひける思いで、御几帳に半分隠れて控えていると、

「あそこのは、新参の者か」などとお笑いになって、「(いはで思ふ など)気に入らぬ歌だけれど、この際にはよく適(かな)うと思えて。いつもそなたをそばに見ずにいると、しばしの間も気が晴れそうになくて」などおっしゃり、変わった御様子もない。

女の子に上の句を教えられた事など申し上げると、たいそうお笑いになって、

「そういう事があるもの。知れているとたかをくくった古歌など、かえって、そうしたもの」と仰せのついでに、   以下 略   (第一三六段)

 

〔長徳二年(九九六)七月末のことと思われる。定子皇后の「いはでおもふぞ」とは、少納言への最愛の思いやり。この当 時、長兄道隆の死後、三弟道長の権勢が休息に強まり、道隆女定子皇后方はなにかと苦しく、しかも少納言は道長方に近づいていると同輩がたに囁かれてい た。〕

2020 5/18 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 鳥のそら音

 

頭(とう)の弁(行成)が宮の御座所に見えて、なにかと話しこんでおいでのうち、夜もふけてしまった。

「あしたは帝の御物忌みでご一緒に籠らねばならない。丑の刻(午前一-三時)を過ぎては、もう翌朝。遅れてはいけなかろうね」と、言いわけ顔で帰っておしまいになった。

朝になって、手近なお役所のわざとそまつな紙を何枚も使い、〈けさは残念でならなかった。夜どおし昔語りなどしあって明かす気でいたのを、暁けを告げる 鶏めの声にせき立てられ、仕方なく〉と、後朝(きぬぎぬ)めかして例になくつくづくお書きなのが、手蹟はもとより、何もかもとても佳い。

〈そんな――夜ふけの鶏とやらおっしゃるのは、孟嘗君(もうしょうくん)が逃げたというあの偽りの〉と御返事すると、折りかえし、

〈「孟嘗君の鶏は函谷関を開いて、三千人がやっと難を免れた」と物の本にあるけれど、われわれのは逃げだす関でなく、人目を忍ぶ逢坂の関のこと〉とあった。それで、

夜をこめて鳥のそら音ははかるとも

世にあふ坂の関はゆるさじ

(夜ひと夜、どう鶏のうそ鳴きをして時ならぬ時にあけようとなさっても、そうは女が男に逢坂の関の戸は、やすやすあけるものではありません)

と申し上げると、また、折りかえし、

逢坂は人越えやすき関なれば

鳥鳴かぬにもあけて待つとか

(近江へ越えるあの逢坂の関が、だれにもたやすく往来を許しているように、ほかでもない二人が逢うのに鶏など鳴かせなくても、あなたはきっと戸をあけて待っていてくれるはず)

と、そんなあれこれの手紙のおもしろさに、はじめの後朝めかしたのは僧都(そうづ)の君(隆円)が、それはもう拝むようにして持って行ってしまわれた。あとの二つは、宮に。

さて逢坂の歌には負けてしまって、お返しもようしないままになった。とても恥ずかしい。それはさて、

「あなたの手紙は、殿上人がみな見てしまったが」とおっしゃる。

「それはどうも。わたくしをほんとに思っていてくださると、よく合点が行きましたわ、佳いものは佳いと、人が言い囃さないのでは、もったいないお話です。 その反対に、見苦しいものをとり散らかすのも、いやなことですからね、あなたのお手紙は大事に隠して、ちらりとも人に見せておりません、ご安心を。あなた のお心づかいとくらべて、ちょうど同じでございましょ」と言うと、

「こうものが分かって何でも言えるところが、さすが、並みの者と違っているね。考え浅く迷惑なことをして、と、その辺の女と同じ言い方をするかと思っていた」と、お笑いになる。

「ま、どうしてですの。お礼を申したいくらいですのに」とこちらも笑う。

「見苦しい手紙をよく隠してくださった。何とも身にしみてありがたい。あれを人目にさらしてはどんなに叶わなかったか、ま、今後もどうかそういうぐあいにお心づかい願いたいもの」

などと、澄ましておっしやる。

後日、経房の中将がいらして、

「頭の弁がたいそうあなたをおほめなの、知っていますか。先日も手紙に、あなたが言ったことなど吹聴しておられた。恋しいと想っている人が他人にほめられる、これはじつに心うれしくてね」と大真面目なのも、おかしい。

「うれしいお話がそれでは二つになりますこと。あのお方はおほめくださる、そのうえに、あなたの思われ人ででも居りましたとは」と言うと、

「めずらしそうに今さら顔して、それを喜んでおみせになるとはな」などと、にくらしがられる。                       (第一二九段)

 

〔長徳三年(九九七)夏から長保元年(九九九)秋まで、約二年のうちのこと、と思われる。行成は三蹟の一人、実に美しい連綿のかなを今に遺してくれてい る。清少納言のようにすぐれた男性たちを感嘆させる才気と行儀、それこそが類い希な人柄の定子皇后が指導し得ていた女文化というものだった。いまの、上皇 后さんにも勝れて同じいものを私は感じてきた。〕

2020 5/19 222

 

 

* 午前中 書誌の仕事をしていた。疲れた。だが、生涯かけて積みあげてきた、ことに「創作」の書誌的な点検と回顧は、いろんな意味で身につまされる。と 同時に、井口哲郎大兄の立派な題字を戴いて着実になってきたわが「選集」本の手触りの良さ、適度の重さ、文字の大きさ、余の用はおいてゆっくり読み返した いとついつい思い入れてしまう。谷崎先生が、老後には楽しんで自作を読み返したいと述懐されていた頃、ああ、そんなものかなあと半ば余所に聴いていたが、 いまや七十九で亡くなられた先生より五年生き延びてきたのだ。感慨深い。やはり、書き継いで行きたいと願う。

 

* 仕事とは「用意」なのである、ことに連年連続して繰り返す仕事ほど、間隔によるが、間隔が短ければ数回分の前途を頭に入れてねば忽ち「用意・準備」の欠陥から仕事は停頓・渋滞し破産しかねない。

比較的間隔のある場合も、一つが終えればもう少なくも「次ぎ」のための「用意・準備」に掛かっておかねば、間際へ来て狼狽し結果渋滞して手数も増え疲労も加わり、仕事にキズのつくことも起きる。

 

* 私の、ほぼ単行書籍とかわらない「湖の本」が、創刊三十四年・百五十巻をどうにか迎える得るのも、文字通りさまざまな用意に用意を連携させてこれたから。行き当たりバッタリの思いつき仕事とは全然ちがう。

それでも小さな「迂闊」で辟易したことも数え切れない。機械を頼んでの作業・事業であるからは「機械君」の「ご機嫌や食べ物」に不備不十分があると、たちまち此方は「お手上げ」になる。それでは困るのである。

2020 5/19 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 雪の山の賭け

 

職(しき)の御曹司(みぞうし)に宮のいらした頃、西の廂(ひさし)の間で不断の御読経(みどきょう)があって、本尊の画像など掛け奉り、むろん僧侶は何人も伺候していた。

二日ほどたって、縁側で賤しげな者の声が、「どうか、あの仏様のお供えのおさがりを戴かせて」と言えば坊主は、

「とんでもない。まだ終わっていないのに」と答えているらしい。何者の言うことかと端近に出て見ると、もう年寄りと言えそうな女法師がひどく煤けた物を着て、まるで猿という恰好でねだっているのだった。

「あの尼、何を言うの」とかたわらを見て言えば、声をとりつくろって、

「私も仏の御弟子でございます、お供えのおさがりを戴きますと申し上げるのに、このお坊様がたは、物惜しみをなさる」と乗り出す。へんに調子づき上品ぶっている。こんな手合いはしょんぼりしている方が同情も引くのに、ご大層にえらく調子のいい乞食だと思って、

「ほかの物は食べないで、ただ仏様のおさがりだけを食べるのか。えらく殊勝な心掛けだこと」と爪はじいてみせるこちらの気配を見て取って、

「なんて、ほかの物も食べないで居れましょう。それも無い、とおっしゃるのでおさがりを戴きます」と言い掛ける。くだものやのし餅を容れ物に入れてやったためか、無遠慮にうちとけてしまって、際限もなくしゃべる。

若い女房たちが出て来て、

「夫はいるのか」

「子供は」

「住まいはどこか」など口々に訊けばいちいちおもしろおかしく、冗談も言うので、

「歌は歌えるか」

「舞なども出来るか」と訊ね終わらぬうちに、

「夜は誰と寝よか。常陸の介と寝ましょ。添い寝した肌のよさよ」

いやはや、この先がまだまだあった。

また「男山の峰のもみじ葉、色よい名が立つはサ、浮き名が立つはサ」と、夢中で首を振りまわして歌う。とんでもない歌ばかりなので、皆、笑い出すやらにくいやら、

「お帰り、お帰り」と手を振るのに、

「このままでは、かわいそう。藝の褒美に、さて何をやりましょう」と言うのを宮はお聞きになって、

「まあ、恥ずかしいか真似をさせたもの、聞いても居れず耳をふさいでいた。そこの巻絹を一つやって、早くお帰し」とおっしゃる。

「これを、宮様が下さる。着物も煤けているようだし、これできれいに着るがいい」と言って縁から投げてやると、伏し拝んで、絹を作法通り肩にうちかけて掃 舞の礼をするではないか。真実にくらしくなって皆奥に引っ込んだ。が、その後、癖になったかして、いつもわざと姿を見せてうろつく、のを、あの歌からその まま「常陸の介」とあだ名までがついた。着物もきれいにならず、同じ煤けたのを着ているので、どこへやってしまったかと、皆にくらしがっていた。

右近の内侍がこちらに参上した時、

「こういう者を、女房たちが手なずけて出入りさせているらしい。うまい事を言っていつもその辺りまで」と、はじめての日のことなど小兵衛という女房に口真似をさせながら宮はお聞かせになる。

「その者、ぜひ見とうございますこと、きっとお見せくださいませ。おなじみのようでございますから、万が一にも手なずけて横取りするようなことは」など、右近の内侍も笑う。

その後、もう一人尼姿の乞食ですいぶん品のいいのが姿を見せたのを、また呼び寄せてあれこれ訊ねてみたが、この方は身のほどを恥じ入る様子があまりかわ いそうで、例によってな巻絹一反を宮からお下げわたしになったのを、伏し拝んで頂いたまではよかっだのだが、さてうれし泣きに喜んで帰って行くのを、めざ とくあの常陸の介が来あわせて見てしまったものだ、その後長らく姿を見せなかったけれど、そんな事ももう誰が思い出すわけでもなかった。

師走十日過ぎた頃、雪がたいそう降ったのを、女官たちに縁の上にどっさり積ませて御覧に入れたが、

「同じなら、庭に本物の雪の山を作らせましょう」と侍を呼び出し、宮の仰せとして言いつけると、集まって作り出した。主殿寮の官人が雪掻きに参上したのな ども皆一緒になって、たいそう大きな雪の山を作る事になり、中宮職の者も集まって来て、おもしろがってあれこれ指図したりする。三、四人だった主殿寮の者 がいつか二十人ほどになっていた。自宅に下がっている侍まで呼びに使いを出したりする。

「今日雪の山作りに加わったものには、お休みを三日下さる。参らなかった者は三日の休みを召しあげる」などと言わせたので、聞きつけた中には、あわてて参上する者もいる。家の遠い者には知らせをやる事ができない。

作り終えたので、官司を呼んで、人々に禄として巻絹の束を二つに結ったままどっさり縁に投げ出したのを、銘々に一巻ずつ取っては、拝しながら腰にさして皆退出した。宮司で袍の者は狩衣に着換えていたが、この場はそのままでいた。

「この雪の山は、いつまであろう」と、宮はおっしやる。

「十日はありましょう」

「十日以上はありましょう」などと、一様にその辺の見当を皆お答えするうち、

「そなたは」とお訊きになるので、

「正月の十何日かまではございましょう」と申し上げると、とてもそうは、と宮はお思いになるふうだった。女房たちは年内、それも大晦日まではもつまいと皆 申し上げたものだ、あまりに気遠い御返事をしたもの、たしかに、雪の山がそうはもつまい。せめて元日までとくらいに言えばよかったと、内心では思うが、ま まよ、正月の十幾日まではもたぬにしても、一度口に出したのだからと頑固に言い争った。

二十日の頃に雨が降ったけれど、消えそうな様子もなく、少しずつ丈だけが低くなってゆく。

「白山の観音様、これを消えさせないでください」とお祈りした、あまり気違いじみてはいたが。

話をもとに戻して、雪の山を作った日、内裏から帝の御使いで式部の丞忠隆が参上したので、敷物をさし出して応対していると、

「今日、雪の山をお作りにならない所はありません。清涼殿の中庭にもお作りになりました。春宮にも、弘徽殿にも作られました。京極殿でもお作りになりました」などと言い募る。

ここにのみめづらしと見る雪の山

所々にふりにけるかな

(ここ宮のおそばでは雪の山をみなめでよろこんでい     ましたけれど、よそでは風情もないただ事古りた遊     びにくらい思っていらっしゃるのですね)

と詠んで、そばに居た女房に口遊ませると、しきりに頭を振り振り、

「拙いお返しをしてお歌をけがすような真似は致しませぬ。何とも――風雅な。帝がおいでの所で女房がたに御裕恵披露いたしましょう」と感服の体で帰って行った。和歌には執心と聞いていたのに、遁げるとは奇妙だ。宮も耳になさって、

「よほどの返歌でないと、と思ったものか」とお笑いになる。

例の雪の山は、大晦日ちかくすこし小さくなったようだけれど、それでもずいぶんうず高う残って見えたそんな昼時分に、縁に女房たちが出て坐っているとあの常陸の介が姿を見せた。

「おやおや、長いこと姿を見せなかったのに」と聞くと、

「それはもう。おもしろくない事がございましたので、それで」と言う。

「どうしたの」とわざと問い返せば、

「それ、あの時でございますよ、こうも思って居りましたので」と声もながながと引いて。

うらやまし足も引かれずわたつ海の

いかなる人に物賜ふらむ

(どこのどんな尼に禄を賜るのかと、羨しいばかりにこちらへ足が向かなかったことで……)

と詠うのを、皆はにくがり笑って相手にしない。尼は仕方なく雪の山に登ったりして愚図ついてから帰って行った後で、右近の内侍に、

「これこれで」と言いやると、すぐの返事に、

「どうして、人を付けてよこしてはくださらなかったの。その尼が立つ瀬なしに、雪の山にまでよろよろ這い登っていたなどと、まあかわいそうに」とあるのにも、また皆で大笑いした。

さて雪の山に変りなくて年が改った。元日の夜には、雪もたくさん降ったのを見て、うれしや、また降り積んだことよと胎眺めていると、宮が、

「これは話が違う。もとの山までは残して、新しく降った雪は掻き捨てよ」と、仰せになる。

翌朝、自室へごく早いうちに下がると、識の侍の帳らしい者が、柚の葉のように青い宿直衣の袖の上に、青い紙を松の枝に添えたのをささげ置いて、寒さにふるえながら姿を見せた。

「それは、どこからのお手紙か」と訊くと、

「斎院から」という答えに、ああすばらしいと胸も鳴って、すぐ受け取ってお前にとって返した。

まだお寝みだったので、とにかく御帳台の前の御格子を、碁盤など引き寄せ踏み台にして、ひとり力んで上げた。重かった。片側をかわるがわる押し上げるので格子がよじれてきしめくのに宮はお目ざめになり、

「なぜ、そんな事をするか」と、おっしゃる。

「斎院のお手紙がございましたからは、どうして急いで上げないわけにまいりましょう」と申し上げると、

「ほんに。ずいぶん朝早なこと」と、すぐお起きになられた。お手紙を御覧になると、五寸ほどの長さの卯槌二つを、卯杖に見たてて頭を紙で包んだりして、山橘、日かげ、山菅など、めでたい山の草木でかわいらしく飾ってあって、文面は別にない。

「ないはずがあろうか」と呟かれながらよく御覧になると、卯杖の頭を包んだ小さな紙に、元日の初卯を祝って、

山とよむ斧の響きを尋ぬれば

祝ひの杖の音にぞありける

と、お歌があった。

御返事をお書きになる御様子が、たいそうすばらしい。斎院へは、こちらからお手紙をおさし上げになる時も、またお返事をさし上げる時も、やはり格別で、 書き損じもくり返し、念入りの御心づかいがうかがわれる。斎院からのお使いに賜った禄は、白い織物で、もう一重、蘇枋色に見えたのは梅襲のようだった。雪 の降り敷いた中をそんな衣裳を色よく肩にうち掛けて斎院に帰って行く姿も、美しく見えた。その時の御返歌を、うかがわないでしまったのは、返す返すも残 念。

さてさて例の雪の山は、本物の越の白山もかくやと思われて、いっこう消え果てる気色もない。黒くよごれて、見るかいもない姿にはなったけれどもう賭けには勝った確信ができて、なんとか約束の十五日までもたせたいと、こちらは祈念をこらす、女房たちは、

「とても七草さえ越せないでしょうよ」などと盛んに水をさす。是非ともこの雪山の先途を見届けようと皆が期待していたのに、急に宮は正月三日、参内なさるらしい。ああ残念、雪山の結末を見届けられない、と、心底落胆した。女房たちも、

「成行きを期待していましたのに」と言うし、宮もそう仰せられるし、同じ事なら言いあててお目にかけたいと思っていたのに、仕方もなくて宮のお渡りの諸道 具を運ぶ大変な混雑のまぎれに、お庭掃きの木守が築土塀のそばに廂をさして小屋掛けして住んでいるのを縁近くまで呼び寄せて、

「この雪の山をよくよく守って、子供たちらに踏み散らさせず、壊させないで、首尾よう見守って十五日までもたせなさい。その日まで山が残っていたら、宮様 からいい御褒美の品を下さる事になっている。わたくしからも、たっぷりお礼勧上げるつもり」と持ちかけて、この木守がいつも台盤所詰めの女房やその下部ら に賤しまれているのに、果物や何やかやをたっぷり与えたので、相好をくずして、

「おやすい御用でございますとも、しっかりとお守り致します。ただ子供たちの登るのが心配ですが」と言う。

「それをきびしく言って、言う事を聞かぬ者があったら、報せなさい」などと言い含めて、宮が内裏へお入りになったので、お供して、七日までお側に仕えてか ら里に下がった。内裏に居た間も、雪山が気がかりで、女官のすましとか長女を使いにやって、絶えずきびしく注意させていた。七日の節供のお下りまで持たせ てやったので、

「最敬礼していましたよ」と、使いの者の報告を皆で笑い合った。

里にいる間も、何よりまず夜が明けるとすぐ雪山大事と見せに人をやる。十日の頃に、

「あと五日もつくらいは残っています」というので、やれうれしと思う思う、それからも昼も夜も人をやって確かめさせるうち、十四日、夜来相当に雨が降った ので、これでついに消えてしまうかと気をもみにもんで、あと一日、二日のところをもちこたえられぬとは、と、夜の間も寝ずに愚痴をこぼすので、聞く人は気 違いじみていると言って嗤う。朝になり出かけて行く者もあるので、自分は夜もすがら寝もやらずいたまま、下人を起こしにかかるのだが一向に起きて来ない。 むやみににくくて腹が立って、ようよう起き出して来たのを追い立てるように様子を見にやると、

「まだ円座くらい、残ってございます。木守が、もう一心に見守っておりますとも、子供たちも寄せつけは致しません。明日と言わずあさってまでも、ございま すでしょう。ぜひ禄を頂きたいもので、と申しておりました」と言うのでひどくうれしくて、早く明日になったら、歌を詠み添え雪は容れ物に入れて、宮のお目 にかけようと思うにつけて、まったく気がもめ、心配でならない。

十五日はまだ暗いうちに起きて、折櫃など持たせて、

「これに、その雪のきれいな所を入れて、持ってお帰り。きたない所はのけて」と言いつけて使いにやったところが、あっけなく早く、持たせた物をからでぶらさげて、

「とうに、なくなっておりました」という有様、あんまり情けなく、うまく詠んで世間の語り草にもと苦労して作った歌も、まるで役立たずになってしまった。どうして、そんな事になったか、昨日までそれ程あったらしい物が、一夜のうちにかき消えたとはと情けながっていると、

「木守が申しますには、昨夜ももう真っ暗になるまではたしかにございました。禄が頂けるものと思っていたのにと言って、手を打ってそれはうるさく申しておりました」などと、言い騒

いでいると、内裏から宮のお手紙が届いた。

「さて、雪は、今日まであったか」との仰せなので、あまり口惜しく残念だけれども、

「『年の暮れか、せいぜい元日まで残ってはいまい』と皆が宮様におっしゃってでしたのに、昨日の夕暮れまで残っておりましたのは、たいしたものと、存じ居 ります。今日までもとは、あまり出来過ぎと申してよろしいでしょう。それでたぶん夜の間に、予想の当たるのを誰かしらにくんで取り捨てたのでございます。 と、そう申し上げてくださいませ」と、御返事をさし上げた。

二十日に参内した時にも、何よりまず、この一件を宮のお前でも話題にした。「身は投げ捨てた」と蓋だけ持って来たとかいう猿楽者のように、下人が、行っ たかと思うとすぐからの容れ物をぶらさげて帰って来た時のがっかりしたこと、硯箱か何かの蓋に小さく雪山を作り、白い紙に歌を見事に書いて添えてお目にか けるはずだったことなど、つくづく申し上げれば宮はたいそうお笑いになる。お前の女房たちも顔見合わせて笑っている、と、

「こうまで心にかけて思いつめていた事を無にしたのだから罪深いこと。じつは十四日の夜、侍どもをつかわして、取り捨てた。そなたの返事にそれも言い当て てあったのがとてもおもしろかった。木守の女が出て来て、たいそう手を合わせて頼んだようだけれども、宮の仰せだから。少納言の里かららしい者が来ても事 情をしゃべってはならぬ。しゃべったら、お前たちのその家を叩きこわしてしまう、などとおどして、侍が、左近の司の南の築土あたりに残った雪は皆捨ててし まったとか。堅くて、たくさんあったと言っていたそうだから、ほんに、二十日までももったろう、立春すぎての初雪さえ降り添いかねなかった。帝もお聞きに なられて、なかなか確かな見通しをつけて皆と言い争ったものと、殿上人たちにも仰せられていた。それにしても、その苦心して詠んだという歌を披露するがい い。今は、こう真相をあかしたのだから、同じ事、そなたの勝ちよ」と宮も切に仰せられ、上臈の女房がたもそう勧められるけれども、「まあ何のために。それ ほど情けないことを耳にしたうえで申し上げるものですか」と、心底からむきになり、がっかりもし、情けながっていると、折から帝もこちらにおいでになっ て、

「むりもない。これまで御寵愛の女房らしく見て来たが、この様子ではあやしいものと思うぞ」などと、おからかいになるので、ますます情けなくつらくて、泣きだしたい気がする。

「なんと、まあ。ほんとに情けないこの世だこと。あとから降り積んだ雪をうれしいと思っておりました時も、それは話が違う、掻き捨てよと、わざわざ仰せになったりして」と申し上げると、

「お前に勝たせまいとお思いになったのであろう」と、帝もご一緒にお笑いになる。(第八二段)

 

〔この段は長徳四年(九九八)師走から翌長保元年(九九九)正月半ばまでの話と思われる。すぐれておもしろう、また貴重な内容をもっている。中でも賤し い尼法師や木守の家族などの登場は、『枕草子』世界に厳存する階級社会の最底辺をまざまざ見せている。尊貴の御所のこうまで近辺に卑賤の者が或る”役”を 持った「役者」として出没し生活していた実情には、深い驚きを覚えるし、この辺から平安朝時代のもっと広い庶民社会への視野を鮮明にして行く研究があって 欲しい。

今一つは宮と清少納言との或る危うい緊張が表現されている点にも目をとめたい。この二人は余人の忖度をゆるさぬ互いの敬愛と、またそれ故の緊張とを頒ち持っていた。

この後宮で、とくに宮仕え後半は 清少納言がかなり危うい孤立感ももっていたこと、忘れてならぬ視点である。〕

2020 5/20 222

 

 

* 『創世記』というのは、まことに容易ならぬ寓意の満ちて溢れた書物、文庫本のたった一、二頁を読み進むのも恭しいまで私は慎重に向かっている。神は、なぜ、弟アベルの貢ぎは嘉され、兄カインのそれには目も当てられなかったのだろう。そんなことも、私は、しらない。

前にも触れたか、「その人(人間=アダム)は彼の妻エバを知った。彼女ははらんで」と、ある。「カインはその妻を知った、彼女ははらみ」とも、ある。男 女・夫妻の性の交為が、「知る」という言葉に明示されてある。少なくも人類の歴史とは男女が「知り」合って成された結果なのだ、「知識」の根底に神はまず 性の合致を確定されていた。巨きな深い「教え」だと謂わざるを得ない。軽薄な今日人のように「知る」重みを軽んじてはいけないのだ。

2020 5/20 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ ”此の君”の詩

 

五月のころ、月もなくたいそう暗い晩、

「女房がた、おいでですか」と、男の声で口々に言う様子に、

「出て見よ。いつになく騒々しいのは、誰を呼ぶのか」と仰せなので、

「いったい、どなた。まあ大袈裟に声など立てて」と言う。返事はなくて、御簾を持ち上げさらさら音をさせてさし入れたのが、呉竹だった。

「あら、此の君でいらしたの」と呟いたのを聞いて、

「さあさあ、このことをまず殿上の間に行って話そう」と、式部卿の宮の源中将頼定はじめ六位蔵人らもいたが、皆、帰って行った。頭(とう)の弁の行成ひとりはお残りになった。

「みな妙なぐあいになって、帰ってしまったな。お庭の竹で、歌を詠もうと折って来たところ、どうせなら、職(しき)の御曹司(みぞうし)に参上して女房 などお呼び出しして、というつもりで持参したのに、呉竹(くれたけ)の名をすばやく言われてもう退散してしまうとは、情けない。それにしても誰に習って、 そう、人のあまり知っていそうにない事を言うのか」など、おっしゃるので、

「竹の名とも存じませんのに。失礼、とお思いになったのでしょうね」と言うと、

「そうとも、そなたが知ろうわけがない」と恍けておっしゃる。表向きの用件など打ち合わせてからもそこにいらっしやるうち、

「栽(う)ゑて此の君と称す」と吟じながら、先の殿上人らがまた寄って来たので、

「殿上で打ち合せた目的も果たさず、どうして帰ってしまわれたかと、へんに思っていたところでした」とおっしゃると、

「あんな秀句に、どんな返事ができましょう、へたなことを言っては恥ずかしいしね。殿上の間では大騒ぎでしたよ。帝もお聞き入れになって、興がっていらっしゃいました」と、様子を話す。

頭の弁も一緒に「此の君」の詩をくりかえし何度も口遊(くちずさ)まれ、あげくは興に乗って女房がたもみな銘々に殿上人と夜どおし語りあかし、さて帰って行く段になって、また、一行は同じ詩をもろ声に吟じ合う声が左衛門の陣を入り切るまで聞こえていた。

翌朝、たいそう早く、少納言の命婦(みょうぶ)という人が帝のお手紙を宮にお持ちした時、この事を申し上げたらしくて、自室に下がっていたのをお召しになって、

「そのような事があったか」とお訊ねになる。

「いえ、よく存じません。そのような評判とも知らずにおりましたもの。行成の朝臣(あそん)が、そんなぐあいにひき立ててくれたのでございましょうか」と申し上げると、

「ひき立てるにしても」と、何もかも合点なさったようににっこりお笑いになった。

どの女房のことにしても、

「殿上人(てんじょうびと)がほめていた」などとお聞きになるのを、そう評判される人の分までおよろこびになる、そんなお人柄が、なんともゆかしい。           (第二二〇段)

 

〔長保元年(九九九)五月のことと思われる。この段の面白さは、やはり、もとの故事を知っていた方が、より深くなろう。中国の晋のむかし、王徽之(お うきし)が竹をうえて愛し、一日も「此の君」なしにすごせない、と言った。日本の詩人にもこの故事をうけて、「晋ノ騎兵参軍王子猷(おうしゆう)、種 (う)エテ此ノ君ト称ス」とうたっている。そんなことまで清少納言は識っていて、とっさに呉竹を「此の君にこそ」と呼んだのである。〕

 

* 紫清・源枕 たがいに冒しがたい名品の面白さに満ちていて、双方共に何処を読んでも卓越した書き手の魂に照らされている。しらずに過ごすには勿体ない。

2020 5/21 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 大進生昌の家にて

 

大進(だいしん)生昌(なりまさ)の家へ行啓というの で、この平氏は東の門をとくに四脚の御成門に造り直し、宮の御輿(みこし)はそこをお通りになった。女房の車は北の通用門から警固の者の出揃わぬうちに と、髪の乱れた人もろくにつくろわないまま、間違いなく人目に立たず乗り打ちに階(はし)の間まで行けると思い、たかをくくっていた。それが、大きな檳榔 毛(びろうげ)の車は門がちいさくつかえて入れぬ有様で、例の筵道(えんどう)を敷かせ庭づたいに歩いて通るはめになっては、なんとも気が利かず腹も立つ が詮方ない。殿上人(てんじょうびと)や、昇殿を聴(ゆる)されていない者までが衛士(えじ)の詰所へ出て見物しているのも、じつに癪のたねだった。

宮のお前へうかがい、事の様子を申し上げると、

「こんな家だとて、人目がないはずはあるまいに。なぜそうも気をゆるしていたか」とお笑いになる。

「でも、それも気の持ちようでございますね。日ごろ私どもの至らない有様はみんな見知っている者たちですもの、念入りに身づくろいなどして居りましたら、事の意外さにそれは仰天する人も出たでございましょう」

「それにしても、宮様をお迎えするほどの邸で、車が通れない門なんて、有っていいことかしら。顔を見せたら、嗤ってやる」などと言い合う折も折、

「どうぞお召し上がりください」と生昌(なりまさ)が来て、御硯の蓋に菓子など盛って簾から女房の手許へ差し入れた。

「ま、間のわるい時にいらしたこと。でも、どうしてあの北の御門をああ狭くるしく造ったまま、お置きになりますの」と突っかかると、笑って、

「家門相応。身の程にあわせてございます」とかわす。

「けれど、門だけは立派に造った、という人もいたと申すではありませんの」と畳みかけると、

「これは、もう敵(かな)いません」とわざと眼をみはって、

「于定国(うていこく)の故事をあっしゃっているのですね。古い文章生(もんじょうのしょう)ででもございませんと、そうはお聞きしても、何事と、とて も判じかねますでございましょう。たまたまこの道にいささか足を踏み入れた私でしたから、その辺までは、やっと呑みこめますのでございます」などと、した り顔をする。

「あなたの御道とやら、たいしたものとも思えませんわ。筵道(えんどう)は敷いていただいてもその下のあのでこぼこ、足をとられて、それは大騒ぎでしたよ」と、わざと文章の道はよけて通ると、生昌はあわてて、

「雨も降りましたことでございますから、さようでもございましたでしょう。いやはや、このうえまだ何か厄介なことをおっしゃりそうな御容子、退散しましょう」と遁げて行った。

「どうしたのか。生昌はずいぶん恐れ入っていたが」とお訊きになる。

「たいした事ではございません。車がよう入れなかった苦情を言ってやりましただけでございます」と申し上げて、部屋へ下がった。

同室の若い女蔵人(にょくろうど)だちと、もう見さかいなく睡くて、みなですぐ寝入ってしまった。

この部屋というのは、東の対の屋の西の廂(ひさし)で北へも幾部屋かつづいていたが、その北側の部屋と隔ての襖に、じつは戸締りができていなかった。それさえ睡いばかりに確かめなかったのを、そこは家あるじの生昌が勝手知っていて、その襖をあけに来た。

へんにかすれて上ずった声で、

「そちらへうかがってよろしいですか。うかがってもいいですか」と何度も言うらしい声に眼が醒めて、見れば、几帳の後ろに立てた燈の台の明かりでみな露 わ、生昌が五寸ほど引きあけた襖の向うから呼んでいた。なんともおかしい。これまでこう好色めく振舞など夢にも見せぬ男だったのが、宮をお迎えして気をよ くしたあまり好き勝手な真似をするらしいと、そう思い寄る寄るたまらなく笑止だった。

そばで寝ていた人を揺り起こして、

「あれ御覧なさい。あんな見かけない顔がこっちを向いてるようよ」と囁けば、重い頭をやっともたげ、思わぬ見ものに吹き出してしまった。

「あれは、誰なの。女の部屋と承知で来てるのね」と若い人がきめつけると、

「めっそうな。この家の主としてご相談申したいことがございますので」と恐縮している。

「門のことなら先刻申しましたけれど、そんな、寝所(しんじょ)の襖をあけひろげなさい、などと申したでしょうか」と言ってやれば、

「さてその事でもお話は致すわけですが、とまれ、そこまで、うかがってよろしいか――そこへ、うかがってもよろしいかどうか」と繰り返すものだから、そばの女房たちが、

「まあ恰好のわるいこと」

「よくないに決まってるではありませんか」と嗤い返す様子に生昌は気が抜けたか、

「あれお若い方がご一緒でしたか」と忽々襖をしめて行ってしまったあとが、もうもう大笑い。

「襖をあけるくらいなら、ずっと入ってしまえばいい。夜中女の部屋へ都合を訊かれて、どうぞお入りをと誰が言えるものですか」と、本当に滑稽と言うしかない。

翌る朝、お前に参り宮にも申し上げると、

「浮いた噂はついぞ聞かぬ相手なのに。きのうの、門や道の問答に感じ入って、思わずそこまで誘われ寄ったのであろうが、不憫な、そなたたち、あの者にあまり手厳しく当たったらしい。そう思うと、気の毒で」と、それでも宮もついお笑いになる。

満二歳と八月におなりの姫宮にお付き申すお相手の女の子らに、装束を新調してさし上げよと宮の仰せがあった時も、生昌は、

「仰せの衵(あこめ)のうわっぱり、なに色に致させましてよろしゅうございますか」などと、耳馴れないおうかがいを立てて来る。まともに汗衫(かざみ)と言えないそんな「うわっぱり」とやらを、またしても女が寄って嗤い話にするのもむりはない。

「姫宮様の御食膳は、大人並みの大きさではいかつうございましょうな。ちゅうせい折敷(おしき)にちゅうせい高坏(たかつき)などがようございましょう」と相談に来たから、

「むろんそれでこそ、うわっぱりを着たちいさな子らも御膳をお運び致し易うございましょうね」とからかう、のを宮は制されて、

「そう人並みに生昌をあまり嗤い者にせぬがよい。ごく真面目一方の男ゆえ」と、とうとう同情までしておやりになるのが、畏れ多かった。

後日、或る手の離せぬ用事のさなかに、

「大進が、あなたに急いで申したいことがあると、そこまでいらしてますが」という取次ぎを宮がお耳にとめられ、

「またしても生昌は、何事を口にして嗤い者になろうというか」とおっしゃるのが、いつもながらお優しく、またおかしかった。

「行って、聞いておやり」とおゆるしがあったので、用事は措いて、端近へ寄って行くと、

「あの先夜の、門の話です。兄の惟仲(これなか)中納言に聴かせましたら、たいそう感心されて、ぜひ適当な機会にゆるりとお目にかかり、あなたのお話も聴 かせてもらおう、そうお伝え申せと言われて参りました」とそれきりで、他に特別の話題もないのだった。いつか忍んで来た夜の件を何か言い出すかとちょっと 胸がときめいたのも本当だが、

「そのうち、ゆっくりお部屋へうかがいましょう」とあっさり帰って行ったのでまたお前へ戻るしかない。さて宮からは、

「何事であった」とお訊ねがあり、生昌の話を言葉どおりこれこれと御返辞申し上げた。

「まあ、わざわざ取り次がせてまで人を呼び立てることでしょうか。いつだって、端近になり局(つぼね)に下がってなりしている時に声をかければいいの に」と、案に違わず女たちは笑いだすのを、 「生昌にすれば、あの者なりに立派な兄と思う惟仲が、とりわけてそなたをほめたという、これはそなたとて当然 うれしかろうと、きっと聞かせたくて来たのに違いない」と、そうまで察しておやりになる宮の御容子は、ふり仰ぎたいくらい気高くていらっしやる。    (第五段)

 

〔この一段に限らず、とくに回想された章段やひときわ感想をはらんだ章段では、文面の外に、定子皇后ないし父関白道隆や兄内大臣伊周らの置かれてい た、また自然清少納言の置かれていた王朝内部での微妙を極めた政治的、心情的環境というものが、或いは漂い、或いは淀んでいる。一々斟酌に及ばないとはい え、機会あれば『栄華物語』『大鏡』も読まれるといい。

ここでは、定子にすれば仇敵と言っていいその道長方に通じていたかと猜される平生昌のことが書かれている、と知っていた方がいい。宮(定子)と少納言と生昌の、また目に見えぬ一面に触れられる。 長保元年(九九九)八月前半のことと思われる。

女たちの世間 なかなか男にむいても喧しくあった、あれた のは、記憶に値する。〕

2020 5/22 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 高き梨の木

 

臨時の内裏と定められた一条大宮院の東御門も、正式に、北の陣と呼んでいた。

その陣のそばの梨の木は見上げるほどの大木で、

「幾尋あるか」などと言い合っていた。権中将(源成信)は、

「根もとから切って、葉付きであれをのっぽの定澄僧都に枝扇として進呈したいね」と冗談をおっしゃっていたが、当の定澄僧都が山階寺の別当に任じられたお慶びの拝礼があった日、権中将も近衛府のご職掌でお立合いになっていた。

件の僧都は、ただでも長身のうえへ高足駄ばきという出でたちで、もうむやみに背が高い。退出のあと権中将に、

「どうして、例の枝扇とやらを御祝儀にさし上げなかったのでしょうね」と声をかけると、

「もの忘れしない人だね」と一緒にお笑いになる。

「定澄僧都の身にあう袿はないね。小柄なすくせ君が着られる衵もないね」と秀句を吐いた人のことがおもしろう想われる。                                            (第九段)

〔こういう章段の筆致には、明らかに、兼好法師のあの『徒然草』へ通って行く趣味がある。長保二  年(一〇〇〇)三月十七日のことと思われる。梨といえば、張り合っていた漢字の少納言も紫式部も、当時一般に人気のない「梨」ややさびしい白い花を好んでいた。〕

2020 5/23 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 翁丸

 

帝のお傍近く飼われた御猫は、五位まで頂戴して、お召し名も命婦(みょうぶ)さんなどと、とてもかわいいので慈しんでおいでだった。

ある日も端近に出て寝そべっていたのを、お世話申す馬の命婦は、

「まあお行儀のわるい。奥へお入りなさい」と呼びかけるのだが、日ざし暖かに心地もよく、どうやら眠っているらしい。ちょっとおどしてみようと、

「翁丸、どこなの。お行儀のわるい命婦さんを噛んでおやり」とけしかけた。真に受けて大きな犬の翁丸が一散に飛びかかったから、猫の命婦は脅えきって悲鳴をあげ御簾(みす)の内へ逃げこんだ。

朝餉(あさげ)の間の御食膳から、折も折、帝はこの様子をぜんぶ御覧になって殊のほか吃驚なさって、御猫はふところにお抱き上げあそばし、六位蔵人(ろくいのくろうど)などをお呼び立てになる。すぐさま忠隆となりなかが駆せ参ったところで、

「この翁丸、打ち懲らして淀の中州の犬島へ流罪に行え。今すぐ」と厳しい仰せに、所衆や滝口の男どもを集めて、罪せられた翁丸をさんざ追いまわす。馬の命婦へもお譴(とが)めは厳しく、

「御猫の世話はほかの者に替えよ。安心がならぬ」と痛く御不快の御容子に恐懼(きょうく)して、お前へも出られない。

犬はとうとう狩り出され、滝口の武士らの手で禁中を追い放たれて行った。

「かわいそうに。あんなにいつもノシノシ歩き回っていたのに」

「三月三日、頭(とう)の弁がわざと翁丸のために柳を輪飾りに桃の花をその挿頭(かざし)にさせ、咲いた桜の枝まで腰帯に刺させたりして練り歩かせなさったあの時は、よもやこんな目に遭おうとあの犬も思わなかったでしょう」と、口々に哀れがった。

「宮がお食事の折など、きまってお庭先からこっちを見て、畏っていたのに――淋しくなってしまった」と顔が寄れば言い合っていたあれから三、四日後の、昼時分だった。けたたましく啼く犬の声がするもので、

「どの犬がこういつまでも啼くの」と人に訊くうちにも、御所中の犬たちがそっちへ駆けて行く。御厠人(みかわやうど)の女が走り寄って来て、

「まあたいへん。犬を蔵人(くらんど)が二人がかりで打ちのめしておいでです、死んでしまいます。お流しになったあの犬が帰って参ったと、それで懲らしめなさるのですよ」と泣き顔になっている。気がかりな。翁丸に違いない。

忠隆や実房が折檻するという話なのでその女を止めに走らせ、やっと啼き声がやんだ。

「死んだので、御門外に棄ててしまいました」との報せで、しきりとかわいそうがっていたその夕方になって、無残に脹れて目も当てられない犬が、さも辛そうに胴顫いしながらよたよた歩くので、

「翁丸かしら。近ごろこんな犬がうろつくこと、なかったわね」と言う下から、誰かが、

「翁丸」と呼んでみるのだが、見向きもしない。

「翁丸よ」と言う者もあり、

「違う」とも、みなまちまちなので、宮が、

「右近なら見分けよう。お呼び」と召されて、やがてお傍へ参った。

「これは翁丸か」と右近にお見せになる。

「似ておりますけれども、これはあんまり容子がひど過ぎますようでございます。それに、翁丸と呼んでやりさえ致しますときっと喜んで寄って来ますもの を、この犬は参りません。やはり違うのでございましょう。先ほどの翁丸なら、打ち伏せて死骸は棄てましてございますなどと蔵人も申しておりました。男が二 人がかりで打ったのでは、まさかあのまま生きていまいかと存じますが――」と自信なげな御返辞に、宮はすっかり眉をひそめておいでだった。

暗くなる時分に物を食べさせてみたが、食べない。やはり違うようだということで、もう犬の話はおやめと決めた翌る朝、宮がお髪(ぐし)をおすきになりま たお手水(ちょうづ)を使われるなど、例の御仕度ごとの間にも、お持ち申し上げた御鏡を覗いていらっしゃる所へ、まぎれない昨日の犬がお庭先の縁の柱した まで来て、坐りこむ。つい、その方を見やりながら、

「ああ、まあ昨日は、翁丸のことを手ひどくいじめたこと。死んだと聞けばほんとうにかわいそうに。何に今度は生まれ変わったやら、あれで死ぬまぎわはど んなに辛かったでしょう」と、問わず語りに口をついて出た。するとこの坐っていた犬がにわかにぶるぶる総身を顫わせ、涙まであとからあとから流すのには、 魂消(たまげ)た。

さてこそ翁丸だった、ゆうべはこれでもひた隠しに己(おの)が素姓(すじょう)を忍ばせていたかと分かれば、ひとしおの物哀れにもまた優って、事の次第のおもしろさは、ちょっと言い尽くせそうにない。思わずお鏡を下に置いて、

「では、翁丸なのね」と念を押してやると、もうひれ伏して盛んに啼く。宮もほっとされた御容子でお笑いになった。

右近内侍を呼びにやられてこれこれであったと仰せになる、と、居合わせた女房もみなで大笑いになった騒ぎは畏れ多くも帝のお耳にまで届いてしまい、宮の方へお出ましになった。

「驚いたね。犬にもそんな分別があるものとは」と、やはりお笑いあそばす。聞き知った帝の女房がたもみなこちらへ集まって、口々に呼んだりすると、もうそれへも翁丸は、身を起こしてしきりに動きまわる。

「とにもかくにも翁丸、その顔や何かの腫れ上がったのを手当てしてほしいわね」と呟いていると、朋輩がみなで、

「あなた、とうとう犬の正体を見露わしてしまったのね」など言い囃す。

ちょうどそんな時に、蔵人忠隆がどう耳にしたか台盤所の方から、

「あの犬めが戻りましたとか。そんなこと、ございますものか。検分致しましょう」と呼ばわるものだから、

「おお縁起でもない。けっしてそんな一度死んだようなものはここには入れませんからね」と取り次がせたが、うるさい忠隆は、

「どうお隠しになっても見つけ出す日がきっと参りますよ。お隠しになりとおせますものか、ね」とにくいことをうそぶく。

その後は翁丸への御勘気も解けて、もとの身の上にかえった。それにしても、

「かわいそうに」という言葉ひとつに身を顫わせ声を立てたあの容子というもの、ちょっとよそにためしが無いほどおもしろく、また心打たれたことではあった。

他人に同情の声をかけられて泣き出したりするのは、同じ人間同士だけ、と、つい思いこんではいたが。                     (第六段)

 

〔翁丸の身上に、定子の悲運の兄、あの内大臣伊周(これちか)、世に時めき、一転して無残に流罪され、かろうじてまた都に入ることを赦された伊周、への 清少納言の深い思い入れが加わっていると読める。これは長保二年(一〇〇〇)三月のことと思われる。「女文化」の精のようであった定子皇后はこの年十二月 十三日に、二十五歳の若さで惜しくも亡くなっている。

その後の少納言について知る人はない。〕

2020 5/24 222

 

 

* きのう すこし濹上子=成島柳北の雑文を読みかけたが、「吊」の一字に辟易し、書き写すのはやめた。ほんの少し、こんな書き出し。

 

☆ 吊西京妓流文

鳳輦東ニ回(めぐっ)テ宮門長ク閉ヂ、千乗萬騎盡ク東山ヲ背ニシテ去リ、故京ノ風物頓(とみ)ニ索然タリ、鴨河冷ニシテ流水将(まさ)ニ凍ラントス、仄 (ほのか)ニ聞ク、祇園三百ノ妓流、争テ一滴千金ノ涙ヲ濺(そそ)ギ、歸轅(きえん)ヲ攀(よ)ヂ征驂(せいさん)追ヒ、悲慟號哭シテ半死半生ノ情態ヲ現 ジ來レリト、濹上子 曾テ屡(しばし)バ西京ニ遊ビ、色々オ世話ニ成リシヲ以テ、甚ダお氣ノ毒ニ存ジ、一篇ノ文ヲ綴リ、恭シク妓流ヲ吊ス

 

* この「吊ス」という一字は漢詩の題や古漢文には珍しくないが、尋常の辞典ではひろいにくいほど雑言に類してみえる。ひところ盛んにゲバ族行った「吊る しあげ」の語感を含んでいる。手近な「日本語 語感の辞典」でも、充分適切的確に「吊す」が謂えてない、しかし文題の頭に「吊」の字のくる例は少なくな く、やや物騒な、険呑な、嘲弄気味の詠める例がまま有る。上の一文でもこのあと祇園の名妓達は手厳しく「吊るされ」ていて、惻隠の情から私はめったになく 投げ出したのです。

2020 5/24 222

 

 

☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)

 

☆ 鞍褥(しき)に負けない馬鞍(まくら)にも

 

『枕草子』にはあとがきが付いている。世にあとがきは多いが、これくらい洒落ていて要領をえたものはあるまい。訳文には序章に呼応させて訳者なりの『枕 草子』の理解をとおすべく、一部括弧内に文章を補った。こういう性質の本の場合、あの『徒然草』などと同様、当初の意図が自然の勢いで動いて行くものであ る。類想が随想に、そして回想をも混じえて行く大きな心の動きに『枕草子』のおもしろさも魅力もある。天皇方の「史記」に対抗して後宮の「枕」という卓抜 な趣向に驚嘆するのもよい。「枕ごと」とはまさに日常生活の規範、美的・情緒的規範となる細目の集成を意味したのであり、『枕草子』はじつにみごとにその 意図を達してあまりあるものと言えよう。

 

あとがき(跋文)

 

この草子は、目に見え、心に思う事を、よもや人は見まいと思い所在ない里住みの間に書き集めておいたのを、筆の勢いで、人によって不都合な言い過ごしと いう事になりかねぬ箇所もいくらかあり、ちゃんと隠して置いたつもりでいたのに、まったく思いがけなく世間に洩れ伝わってしまった。

宮様に、内(うち)の大臣(あとど・伊周これちか)がりっぱな紙を献上なさった際、「これに何を書けばよいか。上(うへ・帝)の方では、史記という書物をお写しになられたが」と、(宮様・定子皇后の)仰せであったので、

「それなら鞍褥(しき)に負けない馬鞍(まくら)にも、ということでございましょうか」と申し上げると、

「それなら、取らせよう」と御下賜になったので、その任ではないがこれも、あれもと、たくさんあった紙を(枕ごとで)書き尽くそうとしたものだから、まるで筋の通らぬ言い草ばかりがいっぱいになってしまった。

もともと、(はじめ心がけたとおり)この草子に、当代評判の名言秀句、人がすばらしいと思うたに違いない物の名をよく選んで、和歌にせよ、木、草、鳥、 虫のことでも書き留めてもおこうならば、思ったほどではない、心の浅さも見えた、と、我が身一つでふせぎかねる悪口を言われよう。それで、(強って、途中 から)自分一人の心に自然思い浮かんだことも、たわむれに幾らも書きつけて行ったから、まともな書物に立ちまじって、人並みに扱われるような評判など期待 はしていなかったのに、「たいしたもの」などとも、読んだ人はおっしゃるようだから、ほんとうに妙な気がしてしまう。

ま、それも道理で、人のきらうものをいいと言い、人のほめるものもよくないと言う人は、心のほどが知れるというもの、ただ、この草子が人目にふれてしまった事が残念だ。

左中将(源経房)が、まだ伊勢の守と申し上げていた時分、里の方へおいでになった事があって、端の方にあった畳を縁側までさし出したところ、置いてあっ たこの草子も一緒に外に出てしまった。あわてて取り込もうとしたけれど、そのまま持ち去られて、だいぶたってから、返って来た。その時から世間には知られ 初めたらしい。 と原本には。

 

* 源氏物語にはまだしも数種の現代語訳が通行しているようだが、枕草子には やいのといわれるほどの前例がなかった。それで源語に比して面白くない随筆集と見られてきたきらいがあるが、なかなかどうして平安の「女文化」理解には絶 好の「まくらごと」と詠めるし読んで貰いたい一冊なのである。一つの罪は、かつての識者・学者・読者が例の単語列挙としか読まなかった格段を、中宮定子の 定期に才ある女たちめいめいにせんすの程を披瀝したのを少納言が記録していったのが肇めとよむべきであったのだ。こんなまっとうなことを私が言い出すま で、ほとんどだれ一人も昭和の御代まで千年の余も気付かなかった迂闊さは、惘れることであった。学研版で全訳はしなかったが、いつかはと思っていたのに八 十五の爺になってしまい、日々お疲れである。源氏物語とはまたちがった日本語表現で現代語訳をと望まれるが、物語でないだけに筋にのりにくい枕草子の現代 語訳は難しいよ。

2020 5/25 222

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。秦 恒平

 

☆ まずは 「手はじめ」にチエのない話から

 

「知恵」は人間の専有ではない。時に動物の方がはるかに鋭い知恵を生かしている。かえって我々の学ばねば、また思い起こさねばならない知恵を彼らは見せ てくれる。彼らに「知恵を貸す」どころか、人間こそ彼らに「知恵をつけ」られてきた。もっとも、そこに人間の動物を超えて「知恵者」たる所以はあった。

「知恵がある」分には大概の人が平等である。「知恵をしぼる」そのしぼり方で差がついてくる。この本(「湖の本エッセイ32  からだ言葉の日本」)など、「知恵自慢」の巧者ならもっと上手に面白く仕立てるだろう。

もっとも、言いたいことは〝からだ言葉〟の事実おびただしいこと、表現効果は無視しかねること、それを実際に用いて相応のことは発言できようこと、そして不束(ふつつか)ながらその実例のようなものを試みてみたいこと、に尽きている。

以下、いささか文章を舞わせても見る。ただ大きなウソはつくまい。それどころか頑固に一つ事を繰り返すうちにも、「チエ」こそ無いが本音は噴出させた い。気の弱り、気の強さ、気の粗さ、みなさらけ出したい。上手に隠せないのが「チエの無い」ところ、それはやむを得ない。とにかくも〝からだ言 葉〟で、 終始考えてみよう。

もとより人さまざまの考え方が別の表現で十分可能なわけだが、しかも〝からだ言葉″に頼らなくてそれが可能とは思わないとだけ、コケの一念を添えておく。

2020 5/26 222

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。  秦 恒平

 

☆ 頭の話

「からだ言葉」はいろいろに数多いが、「からだ」の部位として日常に意識せざるをえない相手も、人さまざまに違いない。たぶんその中で 「あたま」などというのは、手足や目や耳にくらべて、そうそういつも気にかけてなどおれない相手の、一つではあるだろう。

いや、そんなハズはない。「頭がいい」とか「わるい」とか、これくらい日常的に、互いの位取りに陰に陽に用いている物言いは、ざらに無いだろう。頭は、いいに限るのさ。

それは違うね。頭のいいわるいもタカが通知簿なんかが頼りじゃ、実際は判断のつけかねるものでね。学校を出てしまえば、存外に、もっと別の能力のほうが世間では高く買われているよ、例えば「度胸」だの、「体力」だの、如才の無さだの。

しかし、それだって結局は「頭の働き」あっての話だろうじゃないか。めくら滅法の、やたら「クソ度胸」だけでどうなるものでなし、丈夫で長保ちッたっ て、何にその長所をぶつければいいのか考える「頭」がなければ、いくら「力持ち」であってもただの場所塞ぎで済んでしまう。まして変に如才がないばっかり で、判断に方向や角度が欠けていては、大きな落とし穴にも逆にはまりかねない。

いやいや「頭のいい」人はこれだから困る。そんなふうにラチもない議論でいつも話をクチャクチャとかきまぜるばっかりで、それが知性か教養かのように 思って「鼻をうごめか」している。その間にじつはそんな「頭越し」に、さっさと政治屋なんぞが「先手」をとり「手下」をつかっては世間の大事を先へ先ヘス イスイとずるく汚く押し流してってしまう。自称「頭のいい」人なんぞはこの流れの早さに追いつけなくて、あわれ河童の川流れと終わるのさ。

ひどい話になってきた。

だが、こう、いろんな物言いを聞いているうちに気がついた。なるほど「あたま」はだいじに違いないけれど、その実、「あたま」の絡んだ話というのは内心 あまり人気がないということだ。なるべくなら「あたま」なんぞの話題に割り込まれずに済む世の中で、なるべく呑気に暮らしていたい。「あたま」という言葉 ひとつに出会うと、もう「頭が重く」なってくるばかりか、妙にウサンくさくてヤバイようなイヤな予感に、人は、脅かされるのだ。そのくせそういう人の世に わざわざしてきたのが、即ち、人間による文明の、ことに「頭のいい」近代や現代の文明の、それこそ本意ない本意ではあったのだ。「頭の痛い」話ではない か。

もっとも「頭」必ずしも知能的な意味の武器ばかりでないのは、もっと即物的な武器にもなりうるのは、例えば「頭(ず)突き」といった〝からだ言葉″によ く窺える。「頭から突っこむ」などという血の騒ぐような行為や表現が、案外、日本人には好まれていそうな気がする。なるはど「頭は使いよう」と言われる通 りに、いっそ悪知恵にたけた政治屋サンの「頭(ず)の高さ」よりは、血を見そうでも(大関)朝潮太郎のガーンといっぱつ「頭でブチカマシ」のはうが、第一 気持ちがいい。ただし朝潮関、そこはソコソコに「あたま」も使ってもらわないと、バッタリお手つき、前途「頭打ち」ッてことにもなりかねないから、ご用心 よ。

 

* 相変わらず夢見はよくなかった。わたしの心奥はよほど病んでいるらしい。静かな心にはほど遠い。

 

* 今は大むかしバナシですが、「共同通信」の全国配信で、各地のたくさんな新聞に毎週・まる一年のあいだ「連載」されていた、第一回分であります。とうぶん、お付き合い下さい。

2020 5/27 222

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。秦 恒平

 

☆  目の話

小学校の一年生から「眼鏡」のお世話になっている。やがて五十の声がかかるまでに、い ったい何度これを壊しこれを取り替えてきただろう。まったく「頭にくる」クサレ縁だが、「口惜しい」ことに、それを放っておけないのだから、厄介。医学の 分野、数ある中でも、この眼鏡とのイヤになるほどの付き合いを思うつど、眼科学における、この、目の外側からガラス玉をあてがうばッかりの治療法くらい姑 息なもの、ネェよなぁと「腹立たし」くなってくる。なにが眼の鏡かと、小洒落た名前までがシャクの種になる。さりとて無くても済まされず……。それより本 来の意味で「眼鑑にかなう」という、あの方が物言いとしてもピタリと来る。

「眼目」とは、日本製の〝からだ言葉″とは言えまいが、的は射ている。作った仏に入れる魂なみに眼を見ている。「目に入れても痛くない」というのも、入れる子だか孫だかと同じかそれ以上に、「目」は、命から二番目と言っているのに相違ない。

「目が見えない」とは、それが「盲目」を意味していなくても、いやそれならなおさら、人間としてかなりの危機的状態だとは言わねばなるまい。「めがね」 の「かね」とは、物指の目盛り、尺度の意味だろう。「目分量」より今一段「内面」的な価値認識がからんだ言葉になっていて、この尺度なり「目盛り」を「一 目で」はずさないのを、「目が利く」「目が見える」と言ってきた。「目利き」でなければ「名人上手」にもなれず、人を使って人の上にも立てないものとして きた。そしてそういう者に、所詮己れは成れぬものと、要するに諦めるべく、その種の〝からだ言葉″を我々は多用してきた気味がある。「目あき千人、目くら 千人」なども、いささか自己慰安の趣に感じられなくはない。

「目」というと、私はまま眼鏡の必要な近眼なンかでなく、楽しいスリルの囲碁のことを想いがちだ。「両眼」そろって是が非でも必要なのは、人間以上に碁 の勝負の場合である。碁は「目」を作り、「目」の数をいわば自陣の広さとして競い合う勝負。「目」はこの場合、なんとしても最少二つ要り、いくら大きな目 でも一つだけでは結局潰され殺されてしまう、という微妙に「面白い」約束になっている。「目になる」と「ならぬ」とが、黒白烏鷺の死命を制するのだが、正 しくは「両眼」有って「生き」となる。「目がねぇ」なァと嘆くのは、だが今では碁の打てない人にもご同様なのが、可笑しく、どこかホロ苦い。人生の味とい うのだろうか。

これが、「目が出ねぇ」なァというと、サイコロの話になる。「ウラ目に出た」と愚痴るのも、やはりサイコロ博打が起源だろう。あーあ「いいメに逢いたい」と夢見るのも、「わるいメに遭った」とクサるのも、出どこは同じ「目」が根の〝からだ言葉″に違いない。

とかく「目クソが鼻クソを嗤う」ような滑稽を演じかねない我等風情のこと、常日頃から「目の塵」をよく払っておく位の「身嗜み」だけは、していたい。 と、なると妙な「色目を使う」のも「色眼鏡」も禁物。まして「目には目を」「目にもの見せん」なんぞと、「目をイカらせ」「目にカドを立て」ていても、結果「目もあてられぬ」始末となる。簡単に「目は出ない」ものと心がけたがいい。

 

* 目を明いてられない。目そのものが朝から疲労して、じんじん鳴っている。

2020 5/28 222

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。秦 恒平

 

☆ 鼻の話

鼻の話題ならいくらもある、が、さしずめ気になるのは鼻より腹のほうが出ばってきたこと(=昔のです。今は胃癌で割腹の刀キズだけ)である。本来、腹は 原ッぱのようにいわば平たいもの。それに比べて鼻は文字どおりに端(はな)へ、先へ、出ばったもの。その本来を、わたしの体つきがぶざまに逆立ちさせたの では、見ためも見苦しく、当人もやりきれないのではあるが、……マ、それはそれ(昔ばなし)として、鼻という御仁、元来が出しゃばりものであるらしい。い や出しゃばることをさして、とかく「鼻を突っ込む」というのであろう。あの美しく咲く花(はな)にしても、もとはそういう意味合いから出た言葉に違いな い。「はなばなしい」「はなやぐ」という物言いには、かすかながらそうした批判なり風刺なりの語感もこもって感じられるではないか。

鼻の〝からだ言葉″には、だから、そうした出過ぎを辛辣にとがめる気味のものが多い。たんに「お鼻が高い」程度ですまさない、たとえば「鼻もちならな い」感じのキツイ物言いが、ここでは続出してくる。いかに「鼻にかける」ものが世にはびこり、いかに「鼻をうごめかす」手合いが嫌われてきたか、よく分か る。そのくせ「鼻息の荒い」やつがいれば、その「鼻息をうかがう」やつもいる。「鼻がきく」ようでいて、けっこう「鼻毛を読まれて」もいる。「鼻の下を伸 ばす」のは遺憾ながら男の常態であるらしく、そういえば鼻の〝からだ言葉″で、女性向きとハッキリした例は、ちょっと見当たらない、か、と思ったがさにあ らず、特製の「鼻を鳴らす」「鼻声になる」などといったけっこうな武器が、ある。いずれにせよ〝からだ言葉″にあまり善意溢れた例の乏しいことは、かねて 本論で触れた議論、多くを言うまでもない。

で、今すこし趣の違った話が面白かろう、手はじめに「ハナやか」なところでとなると、例の「クレオパトラの鼻」など華麗かつ壮大なイメージを誘ってくれ る。難儀な議論に踏みこみたくないが、要するに「鼻の高い低い」が容貌の美醜にいちじるしく関与するらしいことを、この「一センチ低かったならば」という イヤミな物言いは意味しているに相違ない。「鼻ッ面」という言葉はふつう馬の鼻稜をさすのだが、また「一面」の語感に、イヤに鼻の目だつ顔、要は「目だ つ」顔の意味も含まれるようだ。顔が顔として印象づよく他人(ひと)の目に映じるには、個人的な感情がまじる場合はともかく、さもない時は目以上に鼻こそ 「目だつ」のである。能面の美にはまことこの効果が巧みに織り込んであって、少なくも目に力点のある大飛出や「泥眼」などといった面(おもて)のほかに、 はっきり鼻に視点をおいた面があるのに気がつく。それが天狗のような鼻に限らず、美女であれ美少年であれ、けっこうデカい鼻だと感じてきた人は、少なくあ るまい。あの幽玄無比の能面にして、鼻はおおかた比例を欠いてまで顔の真ん中に大きめに鎮座しているのが普通だ。演者が自分の「鼻を突っ込む」のだから余 儀ないといえばそれまでだが、それにしても鼻は顔のいわば勝負所なのであり、さればこそ「出鼻をくじく」という物言いが、意味深い効果を持つ道理なのであ る。

あの可憐なるシラノ・ド・ベルジュラックにせよ、芥川の『鼻』の僧正にせよ、鼻に泣いたのは、同じ、目だって鼻の大きすぎたのに泣いたのであった。とくべつ高慢に「鼻にぶらさげた」人物でもなかったのに、気の毒な話ではないか。

2020 5/29 222

 

 

* 「選集 全書誌」もう一息にまで進み、肩で息。昭和を十年から生き、平成を三十年間生きて、令和に入りつづけざま長編小説を二作『オイノ・セクスアリ ス 或る寓話』『花方 異本平家』を本に出来たこと、両作とも初期作と臍の緒はしかと繋ぎながら、「第一部・ひとこそみえね・ながくもがなと・八重垣つく る・みちこそなけれ・ひとこそしらね・名にしおはば 亂聲 幾夜ねざめぬ 吉野のさとに われならなくに あはでこの世を 松としきかば  第二部・みぢかき蘆の  さしも知らじな しづこころなく いでそよ人を  みを尽くしてや 松もむかしの  第三部・ゆくへね知らぬ みを尽くしても さてもいのちは ぬれにぞ濡れし なほあまりある いまひとたびの むかし はものを おもひ絶えなむと ふりゆくものは 身をばおもはず あまりてなどか たえなば絶えね 「生きたかりしに」」と続。くこの老境でこそ新たに書け た一種の奔放と哀情とを備えてい ると思い知り、感慨深い。

み短篇の「黒谷」もふくめ、書いて、書けて、有難かったし、まだこの先へと励ましてくれる。

先日 どなたであったか、「平成の文学」 として此の『オイノ・セクスアリス 或る寓話』の名をあげましたと言っておられたが。少なくも生まなかには書けない作であったと、いまも、ときどき、ところどこ ろ読み返している。

 

* 六月六日に「湖の本」のすこしく変妙の第150巻が出来てくる。どんなふうに受け取って貰えるか、楽しみにしている。ものすごいバッシングが来るかも知れない。

2020 5/29 222

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。秦 恒平

 

☆ 耳の話

「耳順う」という言葉は、若者には「耳になじまない」だろうが、私のような年かっこうの人間には、「身に触れ」て、さ、どうかな、と、そろそろ待ち迎え る、「身構える」感じの、いささか厳かな「指標」の一つに違いない。「耳に従って」ただぼんやり聞くのでは、ない。孔子の説に、五十にして天命を知り、六 十にして耳順ひ、とあるその「耳順」の年齢に私もおいおい近づきながら、果たして、そんな境涯に自分が到達できるものなのか、はなはだ心もとないからこ そ、半分は照れかくしに立ちすくむのである。

人間六十ともなれば、ほんとうに松のことは松に聴いて、竹のことは竹に聴いて、その声なき声に素直に「耳を傾け」られるように、なるものだろうか。なれ れば、どんなにいいだろう。が、なれないと分かったらどんなだろうと、恥じらいも入りまじって、今から不安がる思いも、存外に深刻なのである。誰のどんな 言葉に対しても「耳を貸さない」ような「耳順」の年齢に、まんまと凝り固まってしまう恐れは、十分ある。いや、どうやら現にそんなふうに日々「耳に栓 (蓋)して」暮らしているのではないか。「耳より」な話ばかりは追っかけるが、「耳の痛い」ことには「耳をふさいで」いようとする。「王様の耳はロバの 耳」と、よそごとには嗤いながら、けっこう自分がそれと同じ耳の持主であることを自覚しない。自覚したがらない。

耳となれば、その〝からだ言葉〃は、物音というより我と人を問わず「声」へのいろんな反応や態度を言い表わしている例が多い。「馬の耳に念仏」「右の耳 から左の耳へ通り抜け」もそうなら、「聞き耳をたてる」「地獄耳」も同じその例。「耳を澄ます」のはわるい姿勢ではないが、さりとてその先でどう振舞う か、良いほうへか良くないほうへか、人間のすることは一寸さきでどう転ぶか安直には言えないのである。

果報は「寝て待て」という物言いがある。そこへ「耳果報」などという味な〝からだ言葉〟が絡んでくると、つい「耳をそばだて」たくなり、万事、狸寝入りをきめて「耳よりな話」をただ待ち構えるのが上分別そうに思えてくるから、イヤになる。

世に三猿といって、見ザル、聞かザル、言わザルの教えだか唆しだかがマコ卜しやかに説かれるが、いったい右の三ヶ条のうち一等始末にわるいのは、「耳を 覆って」知らんふりの聞かザルを決めこまれることだろう。「口に出し」て言ってくれなくとも、「目をつむ」って仮りに見ていなくとも、「耳に聞い」て分か りまた納得してくれさえすればことははかどるし、また改めるのも変えるのも、前向きに可能になる。「聞く耳もたぬ」という頑張りくらい厄介なものはない。 さてこそ稀代の賢者として名高い聖徳太子は、一時に十人の話が聞きとれるほどのお方であったとか、「トヨトミミ」の皇子と呼ばれた伝説は、耳の働きに対す る人々の期待をよく反映しているかに思われる。

耳は、がんらい「パンの耳」とか堤防などの一等外側へ補強的に置いた「耳石」のように、端ッこの固いものや部分も意味している。耳は、なかなかの「強情」者でもあるらしい。それならそれで、しっかり、何事もよくよく「聞き分け」てもらいたいものだが。

2020 5/30 222

 

 

☆  口の話

 

人間の顔から、「口」が一切機能しなくなった時を想像すると、その不自由や不如意よりも、もっと非人間的な滑稽な感じをもたずにおれない。「入り口」 「出口」「攻め口」「逃げ口」「トバ口」「序の口」などと、ふつう「口」はなンだか位置や場所のように思われてい勝ちだけれど、それ以上に、れっきとした 文字どおりの「働き口」なのであって、人間が食う仕事と喋る仕事との、一つで「二た口」、極めて大事な用を果たしてくれている。

言葉は必ずしも口だけにかかわっていない。

しかし「喋る」「話す」「語る」「言う」、また「叫ぶ」「呼ぶ」「喚く」といったことになると、とても口がなくては考えられない。「口を利く」という〃 からだ言葉″の本来がここにかかわっている。少なくもここから始まって、言葉本来の意味を生かし伝えるというところへ、意志や意識が動いて行く。「口は災 いのもと」と言われたり「口じょうず」や「口ベた」が世渡りの明暗を分けたりするのも、要は「口の利きよう」が響くということだ。「口が立つ」ので「身も 立った」お人は古来数知れない。沈黙は金になったのもその裏返しであったろう。むろん軽薄才子へも、この「口が軽い」ところからつい堕落して行く。口はほ どほどに利いて利かせてしかも「口車」に乗りも乗せもしないのが、「口を失」わずに「口に糊する」賢い「やり口」なのかも知れない。

「口」と漢字で書くより、「クチ」とでも言うしかないクチがある。「どのクチ」ですか、ああ「あのクチ」でしたか、などと。あなた「いけるクチ」ですね、などと言われると、思わず、へへッと笑えてきたりする。

顔にある口は一つだが、世間の「クチ」は「幾クチ」も在るのだ。どの道選べる「クチが幾つも」あるわけではないが、それだけに我々は日ごろ何をするにも 「ひとクチ」乗ろうとさまざま賭けをつづけているようなもの、人生は「目の舞う」大抽選会に似ている。そこで「口を利いてやる」人も「口を利いてもらう」 人も出てくる。

なかなか飯は食わねど高楊枝などとキレイな「寝言」は言うておれない。「腹が減っては戦は出来ぬ」のが、正直でマットウな戦士の覚悟と私などは考えてい る。「身すぎ世すぎ」でどうにか「口を養な」っていくのが、人間ありのままの姿、食わずに生きてはいけぬように出来ている。もし食わずに我々生きていける となったら、それこそ地獄、ハリアイもなにも無い。「働き口」「就職口」「儲け口」「稼ぎ口」ありとあるそんな「口」を捜しまわるのは苦しいことだが、だ がこの辺が、人間凡夫の我々のために、神様がギリギリ設けられた怠け心への「歯止め」、生きる意欲へのバネだとでも思うよりあるまい。やまやま「口がお ご」って、悪しきバベルの塔などにまたぞろ色気を出すのは止めにし、大いに「口は慎し」んだ方が、よさそうだ。

もっとも、これとて要らぬ「さし出口」いや「へらず口」なのである。「口に封をする」のはなまじ「口が有る」人間には容易でなく、いつかこじれて「口争 い」「口喧嘩」になって行く。アイヌのチャーラケや戦はじめの「口合戦」くらいはまだいいが、心ない「口先ひとつ」で、どうにも収まりのつかぬハメにこの 世の中を、陥れてはならない。総理、分かってますか。

2020 5/31 222

 

 

* 細菌学 感染学 の微妙に果てなく底知れぬ展開をもつことを日ごと専門家はテレビで教えてくれる。そしてその病害展開がいかに内政・外交にかかわるも のかを、地球地域を東西南北に四分してそれぞれの曰く謂いがたい実情を介して思い知らされている。「日本」の地域情況だけでモノを謂うていても背後の複雑 怪奇は計り知れない。克服なのか共生なのか、細菌やウイルスとの妥協なのか。

 

* こういうとき、置き忘れてならないのが、「美しい」モノ、コト、ヒトとの触れ合いかと思い当たる。美術とはたやすく触れ合えぬ今だけれど、我が家の狭 い庭にも佳い草葉は群れ花も咲いている。アコもマコも家中をかけまわる。老夫婦は つかれたら横になり、それぞれの読書と仮眠に憩うている。建日子や朝日 子はどうしてるかな。

 

* とはいえ、朝から、今まだ九時にならないのに、芯の疲れが眠けの渦巻くように自覚される。

機械のまぢかでは、静かなジャズバラードが、終日。建日子が呉れたもののなかで、この音楽機械とジャズCDとが、いっとうわたしを癒やしてくれる。

五月が、今日でおわる。

2020 5/31 222

 

 

* 「選集 33」の分量が多くなり過ぎ、許容限界頁数をはるかに超えている。造本・製本がぎりぎり可能なのは820頁と注意されている。今まで最多頁の巻も650頁は超えていないのだから、強硬にに減頁を試みねば。

『秦 恒平選集』としての「最終巻」ではあり、此処は「作品」より「私」を主にしようと思い編輯を進めてきたが、それにも「私像」に即するか、してきた「仕事内 容の記録」に即するかの境があった。「作者・秦 恒平」のことは「仕事」を通して知れれば良いという考え方もある。「仕事」へ読者・利用者・研究者から目や手足の落ちなく届く「道標としての記録」が有用 という考え方もある。

ちょっと今、棒立ちになっている。巻数も頁数も増やすことは出来ない。

ま、所詮はお前の勝手だ、どっちにしろ「遠からず廃物」とわらう私自身の声も聴いている。やれやれ。昔の大人らなら「好きにしぃ」と云うたろう。

2020 5/31 222

 

 

* 西隣に入って、必要なモノを捜したがみつからず、そのうち、昔々の講談社文学全集で、まっこと素晴らしい見付けもの、というか「着想」を得た。「選 集」後の先々の「大きな新しい創作」へ、ガチッと繋がりそう、嬉しくて、ほくほく。「湖の本 150」を送り出し、「選集 最終の33」を入稿し終えた ら、新しい大仕事へ、周到に、大胆に用意にかからねば。そのためには、何としても歩かねば。何としても歩きたい。歩いて「調べる仕事」から始めねばならな い。コロナを横目に、奮発、何としても電車に乗らねば。暑い暑い七月からになるか。参考文献をあつめねば。ねばねば、ねばだけで終わるまい。

 

* じつを謂うと、以前に一作書いた『女坂』という題の作を三、四も色合いを変えて書こうと用意してあるのだが、手先仕事にしたくなく、「女坂」に拘泥し ないでしかとした物語を大事に先ず一つ書きたいとも。前の「女坂」は『選集』にも入れていない。ああいう調子でなく書きたい、むかしまだ初心の

昔、小説集『廬山』に「祇園の子」などを入れた時、永井龍男先生が「こういうのが幾つも書けるなら、たいしたもんです」と励まして下さった、あの思いに立 ち帰って短篇を幾つか書きたいと時機を待っていた。一作一作自立の「女」短篇でありたいと心用意を新ためている。大作の方は、しっかり勉強し、まぎれなく 「男」を書く気。

2020 5/31 222

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 歯・舌・喉の話

 

つまり、「口」の中の話をすることになる。ただし「のど」は内もそうだが、外もいう。「喉もとをおさえる」というと、やはり外の急所へ攻勢が掛かるの だろう。だが、「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」となると、内。「喉笛」そのものは内側にあるにせよ、それへ「喰らいつく」場合は外の感じが強い。「喉も と」は、もう少し広げた使われ方もしている。要所ないしは急所、さらに相手方の弱点といった意味合いが出る。「のど自慢」「のどがいい」になると、内も外 もない。〝からだ言葉〟としては、この方が熟した感じだ。「のど仏」も一応のものだが、概して「喉」の〝からだ言葉〟は、融通の点でいささか物足りない。 カタい。意味ははっきりしているのだが、はっきりし過ぎても〝からだ言葉″の妙味は増してこない。

例えば「ツバをつける」など、目に見えるその行為とはだいぶ違う、べつのことが表現できている。この一つだけでも、「唾」は大威張りで〝からだ言葉″の仲間入りができている。

「舌」も負けていない。「舌なめずり」なんて、何を言い表わしているようでもなくて、微妙に幾種もの態度を暗示しえている。「舌つづみをうつ」のも「舌 なめずり」の一種だが、それだけでは終わらない。犯罪へもあと一歩のところで、利権や美女を目がけて「舌なめずり」している手合いは世間に仰山いる。そう いう強心臓に対して「舌を巻く」か「舌打ち」するか、人さまざまであろう。が、悪い奴が「舌を出し」てペロリというのは、見ても見なくても愉快でない。

「舌足らず」も、ウマい〝からだ言葉″だ。論理そのものにも言えるし、人物への信用の度合いも言い表わせる。「舌ッ足らず」とすると、もう「一味」がシ ミ出てくる。その反対が「舌長」の「舌がまわる」だ。「巻き舌」というと、ベランメェの「口調」をまず思いがちだが、必ずしもそればかりでなく、もう少し その人間を見てみるのがいいだろう。それを怠っていると、「舌先三寸」「二枚舌」の「舌先でごまかさ」れ、「舌の先で丸めこま」れてしまう場面も無きにし もあらず。そうなってから「舌をふるう」ても遅い。

「舌」がこうも八方に生きた表現力を持っているのは、ある意味で当然と思う、言葉に直結しているのだから。本当ならもっと味覚に結びついたものが拾えて いいのに、「舌が肥える」程度のことで、たいして面白くない。それよりは、シンラツだが「舌の根もカワかぬ内に」などというのが、やっぱり「毒舌」の批評 性に富んでいる。

さて「年齢、年歯」というくらいだ、人の寿命を歯ではかるのは、老若の実状に深く関与していることを示していよう。年々歳々にとうてい無視しがたいのが 「歯」である。「歯が立たない」「歯向かう」「歯を剥く」「歯牙にもかけぬ」などで察しがつくように、「歯」は元来が闘う武器の一つだった。「歯切れがい い」「歯応え」にもその名残りはあるが、今ではいい感じのホメ言葉になっている。「歯がゆい」の逆だ。

ところでこの現代、物騒なのは暴走しがちな「歯車」だ。「歯を食いしばっ」てシッカリと「歯止め」をかけたい。

 

* 「からだ言葉」「こころ言葉」という言葉で「言葉」を発見したのは、私だった。東工大から江藤淳教授の後任へ迎えられた時、前任の川島至教授から、 この際博士号をとったらどうですか、「からだ言葉・こころ言葉」で充分ですから論文の体にしてみませんかと熱心にすすめられた。教室で漱石をを講義する気 のわたくしに「博士」はねとお断りしたが、川島さんが「からだ言葉・こころ言葉」の発見という発明というか、を評価してくれているのが嬉しかったのを忘れ ない。「なんだあ」というようなもんだが、「なんだあ」という気が付く機微に発明は起きる。「ことば」は生きている宝なのである。

2020 6/1 223

 

 

* 選集最終巻の編輯 「湖の本」にして一冊分ほど、分量超過している。

「私」か「記録」か。

「業績記録」としては、「受賞後満十年自筆略年譜」 詳細な「選集全書誌」「単行書籍101册全書誌」「湖の本150巻全書誌」が用意出来ている。文字通りの「記録」に徹している。私個人としては重い記録である。

「私」の開陳としては、「バグワンに聴く」「読み・書き・読書と、<ペン電子文藝館>創立」「歴史に問い、今日を傷む現代批評」「一筆呈上 匿名批評集」「秦教授の自問自答」「平成は穏やかであったか」となり、「受賞後満十年自筆略年譜」は、私的記録は簡略に、「作家」としての活動内容となっている。時代・現代と深く接触している。

 

* しばらく このまま放置する。

2020 6/1 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆  顔面の話(一)

 

手と腕との違いは、分かりやすい。少なくも、「顔」と「面」とよりは分かりや すい。二つの「かお」があるというのでなく、「顔面」という「文字づら」から推して、面は顔の平たい状態を謂い、それがそのまま顔を「代弁」するように なって行ったのであろうか。ともあれ、「面」には「めん」「つら」「おもて」「おも(も)」という訓みがある。「真面目」と書き「まじめ」と普通読まれて もいる。「しんめんもく」とも読んでいる。「百面相」ではないが、「面」もいろいろ有る。ソ一言えばこの「相」だって、顔の状態をいう言葉だが、まぁ、ソ 一押し広げて「デカイ顔」をさせてもナンだから、そこまでは触れずにおく。

「めん」と出てくるとどうしても、漢語になってしまう。その中でも、もう日本語ふうに徹底している言葉は多い。「面食い」「面喰らう」は全くべつの意味 だが、こもごも実に「面白い」。「お面」というのが、また面白い。マスクの意味のも、だれかしら噂の人の容貌をヤユ気味にいうのも、剣道で一本参るのも、 ある。「面喰らう」について、ずいぶん凝った解説を読んだことがあるが、エィと一本「お面」をいかれた感じで通じないだろうか。

「面目ない」「面会する」「面識がある」「内面」「初対面」「赤面する」「体面を保つ」「難局に直面する」「正面攻撃」「背面跳び」「面と向かって」 「得意満面」「同志の面々」「手紙の文面」「面接試験」等々、どれ一つを欠いても、今では日常会話が不便になる「体(てい)」のものばかりだ。「面子(め んつ)」など明らかに中国語だけれど、この「メンツ」、日本の社会でも大いに通用している。「メンを切ったナ」などと盛り場で凄む奴がいるのも、「その 筋」と言える。「面目」を「潰し」た、「傷つけ」た、「施し」た、「失っ」た、「一新し」た、「立っ」た、と、際限ないのも、いかに「メンツ」社会である かをホーフツとさせる。

「つら」も同じだ。「外(内)づら」「どの面さげて」「面当て」「面汚し」と、いっぱい。「面つき」「面構え」「面魂」「上ッ面」「面の皮」など、相当 に面白いのが「目白押し」。「おも」になると、「面影」「面輪」「面やつれ」「面持ち」「面映ゆい」など、どれも感じがよい。「矢面に立つ」「細面」と並 ぶと「面」の本義が見えても来る。

さて、顔。「顔つき」に同じのは、無い、肖てはいても。「甘い顔」「大きな顔」「イヤな顔」「泣き顔」「イイ顔」「心得顔」「したり顔」と「顔見世」は 賑やか。だがどの顔も平等に世渡りできるのではない。「顔で通る」には「顔役」になって「顔を売って」いないとダメだ。「顔が広い」ほどエライ、と、少な くもそう信じている人間が多いようだ。「顔負けする」とは、全てをその流儀で割り切っている連中と、仕様ことなく「顔を合わせ」ている時の、ウンザリした 「気分」に近い。

この世の中、ただ「知らん顔」をしてやり過ごすというわけには行かない。かと言って「顔つなぎ」の毎日を、「顔色をうかが」いながら、いつもいつも「人 待ち顔」で暮らすのも、ずいぶんシンドイ。ついつい「他人様(ひとさま)の顔」を潰しゃせぬか、「顔むけ」ならないハメに落ちやせぬかと「気に病んで」ば かりは、辛い。時には、「ノッペラポー」でいたくなる。

 

* いやはや。

2020 6/2 223

 

 

* 「記録=書誌」より、やはり「私=秦 恒平」を語ってはという強い意見に従うことにした、それでも更に量を絞らねばならぬ。

2020 6/2 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆  顔面の話(二)

 

顔の造作の主な道具立て、目、鼻、口、耳そして髪の毛の話はべつにした。が、 顔面にはまだ有る。いろいろ有る。「眉に唾をつける」人はいまい。

「眉のような」と、美しさが称えられるのは三日月さん。私は今、ごく尋常な西東京のある市に住んでいるが、地上にはたいした何もないなりに、空はひろび ろと気持ちがいい。はるかに富士山の影が夕茜を背に黒うくっきり浮かぶ、と、真実美しい人の「眉」としか想われない繊い月が中天に照る夕暮れ時など、春で あろうがなかろうが値千金と喜ばずにおれない。「眉をひらく」というのは、不安から解き放たれた表情を謂うのだろうが、もっと意味を強めて、こういう心澄 んで嬉しいときにも用いたい。ただ「愁眉をひらく」ばかりでは、この〝からだ言葉″がもったいない。

同じことは「眉を張る」のにも、謂える。ことにこの言葉が好きなので、出来るだけ効果的にひろく用いたい。たんに気を張っている時だけでなしに、心の内の冴えざえと明るい場合なども、こんな「物言」いで「気持ち」を伝えてみたい。「眉をひそめ」ないで欲しい。

〝からだ言葉″には今の例で知れるように、中国での詩句や表現を日本的に言い直したものがかなり、ある。「眉に火がつく」もそうで、「焦眉の急」より、 ずっと感じが生きて伝わる。しかももとの意味を超えて、赤ちゃんが激しく泣くのなども「眉に火がついたように」と、的確に利用していたりする。

「頬杖」も秀逸だ。「頬」を「こわばらせ」たり「膨らませ」たり「ほころばせ」たり「頬笑ん」だりして、人は自分の気持ちを外へ出す。そうかと思うと 「額を寄せ」て一緒にあれこれ考え合ったりしている。「額にシワを寄せる」という表現は、いかにも事実そのままのようでいて、やはり、それ以上の多くを タップリ言いえている、〝からだ言葉″の尽きぬ効果だろう。「からだ」で生きているのだナと、納得せざるを得ない。

「唇」は皮膚の一部だが、セクシィな感覚に彩られる点で、「乳」と同じだ。あまり品がよくないが「乳繰り合う」などは、いわば大人同士のしぐさで、飲む オッパイとは懸け離れている。その伝で「唇を盗む」は「気の利い」た表現だし、不快感も弱い。もっとも盗まれた側では、「唇を噛む」思いがするだろうが。 「もの言えば唇寒し」も、もともとの出典などともかくとして、用いようで相当うまく生かせる。

さて「顎」も顔面の内かどうか、「首」との境ということになろうが、まぁ「顔」のほうにやや近いと見ておこう。「顎が干上がる」という意味が、どっちか といえば「口」の領分に重なっているのだから。顎は、心持ちユーモラスな存在に目に見えている。「鼻がアグラ」をかいた顔もあるけれど、人相の面白さのか なりの比重は、顎の感じが占めている。ただし人を「顎で使う」のなどは憎らしい。「顎を出す」格好も見よくないが、ちょっと哀れっぽく「同情」の余地はあ る。

また、はじめは意味がとりにくくて、分かってみると「面白かった」台詞に「えらい顎じゃな」というのが『膝栗毛』に有った。お喋りをからかって言うのだった。思わず、にんまりと「顎を撫で」た。

 

* 「からだ言葉」でものが言えなかったら、「からだ言葉」が無かったら、どんなに不自由だろう。外国語にも、きっと在るのだろうが、そこへ着目した解説や議論に触れたことが無い。

2020 6/3 223

 

 

* ヒトラー、ナチスがああも暴威をふるった根底に、民衆を「アトム それ以上分別できない孤立の単位」と処置し尽くした支配原理があった。人間の「公共性」を徹底的に剥ぎ取り此処のハダカの「アトム=孤」に孤立化の上で圧倒支配したのだった。

山縣有朋を調べていて気づいたのは、彼が、終生、人民の集合ないし団体化するのを厭悪したことだった、ヒトラーは、民衆を「アトム」化し尽くして支配力 を全うしていた。団結権は民主主義を支える基本の権利なのに、日本人はそれを無思慮なまでに脱ぎ捨てている。そして「働く」立場を孤立化して多大の不利益 を自ら招き蒙っている。労働組合など、有名無実ですらなく実働も実質も労働者自身が見捨て見失っている。民衆の「アトム化=孤立化」が巧妙な戦後の統治肩 保守主義により徹底謀られてきて、土井・藤本社会民主党の文字通り無残な壊滅を招いた。共産党も、吾関せずかのように保守の「アトム化支配」をシラーっと 傍観気味。沼正三」が警告して逝った「家畜人ヤプー」化はイヤな末路を指さしている。

人よ。「アトム」になってはならぬ。

2020 6/3 223

 

 

* 七時前から、床で、鷗外集を手に『澁江抽斎』に引き込まれた、えらいモノに捉まったぞと思いつつ、はるか以前の初見時同様もの凄い勢いで引っ張り込ま れた。で、姿勢をかえ、た途端、喉もとへ顔もゆがむ強烈な苦みで濃厚な胆汁ようの粘分がこみあげて、呻くように手洗いへ吐きに走った。

この一月の余も、明け方になると同じ苦みが胸もとより喉もとへこみ上げそう、ないしこみ上げて、辟易していた。が、今日の、先刻ほどの量と烈しさの吐液 までは無かった。今は、二種類のヤサイジュースを混ぜて飲み下し、これまでも焙じ茶や水で喉もとを洗っていた。うがいも、手洗いではきまりほどに重ねてき た。

痛みは何もない、ただもう顔の歪むほどな苦さにヘキエキした。

 

* それはそれ、今また『澁江抽斎』に引き込まれたのは、大ごとである。なにしろこの著者の史伝ものでは最長編で、しかも捉まえたら離さないという名筆、「鷗外」で挙げよといわれれば『阿部一族』と『澁江抽斎』を甲乙なく最高作品と受け容れて躊躇わない。それどころか『澁江抽斎』の文体文章の「力」は波打つように夢をも襲ってくる魅力なのである。「露伴」にも同様の何作かがあるが、いくらか面白すぎる。『澁江抽斎』を面白いなどといえば滑稽なほど見当を失してしまうが、読み始めると恐るべき魅力で「掴んで離さない」のだ、怖いほど。これで、なにがあろうと当分のあいだこの名品に文学の力をしみじみ覚えなおし鍛えられる。

2020 6/3 223

 

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 首の話

 

「首」という字、やたらに見る。「首相」「首席」「党首」「首脳」「首位」「首長」「首都」「首府」「首謀」「首犯」「首唱」そして「首尾」と、どれも これも今日ただいま、読みかつ書いている。漢語の体裁は備えているが、ほとんどが今や日本語になりきっていて、しかも、「首」本来の意味を生かしている。 〝からだ言葉〟としての有効性をどれもきちんと備えている。

これで見ると、「首」が、人間の「からだ」の中で大事とされているのが、ハッキリ分かる。だからこそ「首」は攻撃の目標にされ、「取ろう」「切ろう」 「討とう」と狙われることにもなる。「首尾よく」狙った「首」が手に入れば、おのずと天下も「手に入る」次第。そういう時代が過去にだけ有ったのではな い。現代とて権力の、論理はともかく、手段は少しも変わっていない。

だが、想えば、「首座」なんて、かなり表裏かけ離れて、あまり「首尾は上乗」と頼りになりそうでもない、「打ち首」になってチョン、どこが良いのだろう。首相だの社長だのと「寝首」を掻いたり掻かれたり、ご苦労なことだ。

で、今すこし〝からだ言葉″らしいのを拾ってみよう、「首をひねる」「思案投げ首」「鳩首協議」など、人がものを考えているポーズを巧に描写していて面 白い。そんな中へとかく横から「首を突っ込む」奴もいる。度が過ぎると深みにはまり「首まで漬かっ」た格好になる。そんな具合に自分で自分の「首を締め」 ていると、あげく「首をくくる」ことになりかねない。

何かしらに、しかし「首ったけ」になるというのは、悪いことではないだろう。「首っ玉にかじり付」いたり「付かれ」たりというのも、また楽しかろう。メ デタイ知らせや好きな人を「首を長くし」て待つのもいい。必死の想いに、「首をタテに振っ」てもらえたりしたら、さぞ嬉しいことだろう。

だが、なかなかそうも行かないらしいのが「首筋のうすら寒い」ところとみえて、どっちかというと、「首をヨコに振る」テの物言いが目だつ。いたる所に 「クビキ」が横たわっている。借金で「首がまわらぬ」とか、不況で「首を切られた」とか、不始末で「首が飛んだ」とか、まるで「晒しッ首だ」とか、こと露 顕に及んで「首の座に直る」とか、ロクなことはない。

そもそもが、「クビ」と聞くなり、たいていの現代人なら明日から失業というハメに思い至ってドッキリする。刀を、なにかと言うと振り回した昔はヒドかっ たろうが、さりとて現代の「首」も、かなりお寒い条件下に苛酷に投げ出されている。誰が守ってくれるという保障も定かでない以上は、いかに「やせッ首」と はいえ、自分の首は自分で確保するしかない。「首を洗っ」て「クビ」になる日をムザムザ待つなんてことは御免だ。

よく分かってたい、民主主義の本来からすれば、首相や首長らを「クビにする」権利は「国民の手」に在るのである、忘れちゃいけない。「首相」も国民も、 もう一度も二度も憲法と「首ッ引き」になったがいい。そしてわれわれも「首を廻らし」て、ぜひ良い方へ、国民の安寧と福利の方へこそ政治の行方を変えて行 きたい。

 

* 政権や政府の批判的批評を言うたり書いたりする者らを、監視的に「閻魔帳」に書き上げているらしいなどというバカな噂が報道も伝聞もされている、らし い、と聞いた。明治初年には『新聞讒謗律』というむちゃな悪法で、無法な権力を筆誅のジャーナリストや文筆家が、斟酌なしによく牢へ入れられていた。そん な時代がまたまた悪夢のように甦ってくるか、どうか。トランプのワンのようなのが、見まね聞きまねで、テロだ特高だなどとたわ事を吠えませんように。

2020 6/4 223

 

 

* 「湖の本 150」 「刷りだし」が届いた。医学書院の頃は「一部抜き」と謂うていた。かなり気の張る通過点だった。難儀な刷り替えを要するミスを見付けねばならぬ関所だった。

医学書院時代を書いた仕事は『迷走 三部作』ただ一つか。「清経入水」の主人公は廣島での小児科学會取材の編集者だったし、「風の奏で」の語り手も東北 大の先生への要用出張で先代へ出向いていた。体験は、まことに有難く生きてくれている。「湖の本」を150巻、34年も跡絶えず刊行し続けて成り立ってい ることが、例のないことだった。気をいれた攻めの「体験」は何にでも役立ってくれる。

2020 6/4 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 肩の話

 

肩のお世話にはなっている。「肩を貸して」もらったり「肩代わりして」もらったり。「肩を組んで」一つ事に向かうこともある。「肩車」の思い出も嬉しい一つだ。

〝からだ言葉″の「肩」で無視できないのが、一つある。「肩書き」だ。どこの国でもそうなのか、日本は特にそうなのか知らないけれど、とにかくも、これの 好きな人の多いのは事実らしい。好きで多いだけならまだしも、これを振りかざしてクサい政治力を発揮する人の、各分野にあんまり多いのには、参る。

「肩書き」欲しさにゴマもすり「揉み手」もし、苛斂誅求をガマンし、搾取と酷使もガマンして、組合も作れない労働者諸君の「瘠せた肩」が、日本中に満ちあふれているサマはどうだろう。

それどころか学問・研究の世間にすら、また企業の上層や政界官界にも、地位という「肩書き」を漁って狭い世間を欲と得のために這い回る人も大勢いる。その多くが、あわれや「肩すかし」に遭う。

文学の世界にすらも、賞の選考委員の席をあっちでもこっちでも数多く占めて、それを自派の人や作品に分配することで多大の影響力を発揮している御仁は、 遺憾やちょくちょく見受けられたものだ。穢い舞台裏を平然と喋る人さえいた。「肩書き」の数の多さをご自慢のムキも、世間に沢山おいでのようである。

肩書きほど「死んで行く身」に空しいものは、だが、あるまい。いかに「肩をそびやかし」「肩で風切る」身も、要するに老若の順送りで、力衰え忘れられて行く。閻魔様には役に立たない。

わたしは横綱双葉山やホームラン王大下弘の名声を「肌身に覚え」ているが、若い人には朝青龍や松井秀喜でなければ意味がない。それとてもいずれ「肩の荷をおろして」退場して行く。

よほど世に時めいた連中も、およそ三十年以上も日々に記憶されているエラモノは、めったにイタタメシがない。たとえば文壇に生きて物書きの歴史を眺めて いるとよく分かる。いっそ名もなく貧しく美しくありたいものだと思わせられる、いやでも。それほど無残に無常なのが俗な「名声」や「肩書き」というもの。 それとも知らずくだらない虚名で「鼻高々」なセンセイやシャチョウたちを見ていると、「肩をすくめ」て笑えてしまう。「肩書き」ではない、恥ずかしくない 「仕事」だと言って置くしかない。

「まだ肩あげもとれない」幼い頃から、「背伸び」ばかり強いられては堪らないが、しっかり「肩幅も出来」てくれば、人は何かしら「肩の上に」負うに足るも のを見つけたいと思う。その行く先を無意味な「肩書き」に書き換えてしまわぬがいい。「肩身が狭い」という「言葉」の意味を、世の出世狂い達ははき違えて いるといった方が当たっている。

「肩すかし」は、相撲の「決まり手」の一つだが、もっと自在に利用している。あざやかに決まると、見ていても小気味よい「勝負手」に相違ないが、さて、さ ほど愉快な「勝ち手」でもあるまい。一瞬人のスキをつくのであり、力勝ちの感じはうすい。この手が、だが時にしてやったり、鮮やかに決まるのは、「肩」と いうやつ、往々力が不自然に入ってしまうからだろう。「肩肘はる」からだ。「肩で風切ろ」うとするからだ。

 

* 善にも悪にも「肩入れ」という言葉があった。「肩が凝る」と謂うとからだの容態だが「肩の凝る」と謂うとつづく言葉次第に裏も表もある「からだ言 葉」となる。「日本語」の表現力の奥底までを論証しして組み立てれば、いい「博士論文」が出来る。長谷川泉さんの司会で座談会の折にも、作家により「から だ言葉」多用の人とあまり用いない作家との差違にふれて発言した折りにも、熱を入れて「検討と考察」の要がありますと応じられていた。作家論や作品論に手 強く触れてくるからだ。

2020 6/5 223

 

 

 

* さて、中仕切りは立てたから、新たな一歩へどう踏み出すか。けんとうのついた幾つかが用意できていて、妙なもので意欲のさかんな相手にほど勉強という 下調べや探索が必要になる。そんな必要のない「もとで」はもう身に蓄えてあるのもある。大事なのは、ヘンなもの言いではあるがとにかく「相手」へ「手」を 出す「手」を付けること。あたりまえ、始めねば始まらない。創作や仕事をある種の闘いと見た時、いちばんの御苦労は「此の時」なので、始まってしまえば、 もう、うち克つしかない。

 

* 午前の十時半 もう目が、視野が霞んでいる。

2020 6/5 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 胸の話

 

「胸が痛みます」と聞いて痛み止めの薬を持ち出す人も少なかろう。その意味でこれは代表的な〝からだ言葉″の一例である。時に鬼が棲むか蛇(ぢゃ)が 棲むかと邪推や臆測の的になる「胸の内」ではあるけれど、それで狭いのか広すぎるのか、ともあれ「胸三寸」が喜怒哀楽やもろもろ思案の栖と謂える。

「男の胸」「女の胸」と、こう並べたときどちらが〝からだ言葉″になっているか、いっそアンケートで知りたい気がするほど。どっちにも昔から鬼も蛇も棲 みついてはいるらしいが、多分に「男の胸」は義理が蝕み、「女の胸」には人情がクスブりがちなようである。意外に人の「胸、晴ればれ」とばかりはしていな いで、我、人、にかかわらず、つい痛んでいる時が多い。それだけいつも誰かに察して欲しいのが、「胸の思い」であるらしい。

「胸騒ぎ」はイヤだが、「胸が鳴る」のは悪くない。「胸がふくらむ」のも悪くない。ふくらんだ「女の胸」となると、男はもう「胸板」の厚さを誇るぐらい で、太刀打ちならない。私など「胸」と聞けはなるべくあまり精神的なことは思わないで、せいぜい「豊かな胸」の豊かな恵みに憧れ寄りたい方だ。

「胸の底」の其処に何があるか、それを問いつめるには安易な態度は許されない。「胸いっぱい」のものを、ただ吐き出すばかりが能でなく、むしろだいじに日ごろ「胸の内」を養う気持ちが必要だろう。ただしそれは「胸算用」に明け暮れるのとは、チガいますぜ。

ところで、奇妙に思うのは、「胸を叩く」のがどうして安堵や、安心の保証になるのかしら。

〝からだ言葉″ではなく、ただ胸の在処を指し示して、ワタシの思案に任せなさいという、むしろ一般のボディ・ランゲージといわれる類いかとも思われる。た しかに胸を打ち、叩く所作や動作は、古今東西にわたって意味深長にいろんなことを言い表わしている場合が多い。わが国にも鉢叩きや鉦叩きといった信仰藝に かかわる職能があったほかに、ズバリ「胸叩き」といわれる「祝言」の徒も、かつては、いた。

「胸」は決して頑強な機械ではない。ある意味ではよっぽど抽象的、理念的な漠然とした働きを暗示している部位の名にすぎない。繊細で神経質で、すぐに 「痛ん」だり「溢れ」たり「詰まっ」たり「塞がっ」たりする。その「胸」を、ことさら打ったり叩いたり力を加えるのは、ヒョッとして、文字どおり「胸を打 ち」「胸に響き」「胸に届く」なにものかの霊能を以て、死の彼方から生の此方へ人間の「生きる」意欲を、蘇えらせ高揚させる行為なのでもあろうか。「胸を 叩い」て他人を「安心」させるというのには、どことなし太古のシャーマンなり司霊者なりの振舞いが生きのびているように想われ、「面白く」も畏しくもあ る。

「と胸をつかれる」という物言いも、面白い。芝居でいう、ト書きの「ト」なのだろうか、前段に何事かがあって、その挙句に、「……ト、胸をつかれる」つ まり、ハッとなる。それが「と胸」と煮つめてしまってある。いつ、だれが思いついて使い出したか知らないが、言葉の生かしようが自在に印象的だ。

それにしても「胸の苦しさ」や「悩み」に、何故こう人は日々うち沈むのか。これも思えばアダムやイヴの犯した罪を負うているのかも知れない、いっそ医者 と薬の利きそうな「胸の病い」や「胸焼け」の方がラクな気もしてくる。ただし惚れた「胸の痛み」は草津の湯でも治らぬとか。

が、いけないのは、こういう愚痴な態度。スカッと「胸の晴れる」思いがしたいなら、それこそ豊かに「胸を張る」しかないのだ……が。

 

* 「胸焼け」にこのところ悩ませられる。これき「からだ言葉」ではなく、症状なだけか、な。

2020 6/6 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 腹の話

 

腹は、ある意味で胸より近い。私の場合(=少なくも十年ちかくは昔のことです。胃袋のない今は、ペチャンコ=)其処が出ばっているせいもあるが、とにかく自分の視線が余りにラクラクと腹に落ちる。手足と並んで腹は「目に親しい」のである。

〝からだ言葉〟の最も多いのは、「手」。そして、「目と顔(面)」などが次ぐ。個々の内臓に比べると、「腹」もいろいろに多い。だが、気をつけて見ないと、単に腹を形容しているだけのが、かなりの数ある。「抱腹絶倒」などと面白い漢語もあり、注意が要る。

腹には、「腹違い」「劣り腹」「めかけ腹」「腹を痛めた子」のように、女の出産と関係した言いまわしが、かなり有る。「はらむ」という言葉も、もとは 「お腹様」に絡んだ〃からだ言葉″であったのだろう。いわばこの産科的な腹に対して、消化器としての腹、胃や腸と重なる腹も当然、有る。「腹も身の内」 「粥腹」「水腹」「空き腹をかかえる」など、そうだ。「腹もち」のいい食い物、「腹ペコ」「腹ごしらえ」あげくの「腹下し」なんてェことになり易い。「腹 いっぱい」も過ぎれば毒、適当な「腹ごなし」を大事に考えていないと、ほんものの大事になる。

ただしよく謂う「腹八分目」には、ただの食欲を超えてもっと融通を利かした表現効果が読み取れる。

「腹の虫」もそうだ。ただ「泣く」虫は「空腹」のためだが、「腹の虫がおさまらぬ」と来ると、ひと騒動を覚悟しなければなるまい。

「詰め腹を切る」「自腹を切る」など表現効果が高い。これだけのことを、べつの言葉で謂うとなると、ずいぶん余分に話さねば済むまい。「業腹(ゴウハ ラ)」「裏腹」「太っ腹」もそうだ。「あと腹」は、産後の腹痛のほかに、一度済んだことの、あとから生じた故障のことも意味している。いろんな「腹」があ るものだ。

「胸の内」とあまり違わない意味で、「腹の内」ともいう。「腹に一物」の有無が知りたくて、互いに相手の「腹をさぐり合う」ことも、する。 「腹藝」だ。この藝にこだわり過ぎると、「腹が汚い」「腹黒い」という噂も立つだろう。「腹立たしい」ことも増えてくる。あまり我ひとりの「腹に納め」て おかず、「腹を見せ」「腹を割って」話したり、付き合ったりが無難。結局その方が、「腹が出来ている」「腹が据わっている」感じになる。人間も大きく見え てくる。

栄養分で「腹を肥やす」のは、悪くない。が、妙に知識や情報ばかりで「腹ふくるる思い」をするのもシンドイことになる。まして政治家や大企業が賄賂で 「私腹を肥やす」など、「片腹痛い」どころの騒ぎでなく、「腹が立つ」し、「腹に据えかね」る。容易には「腹が癒える」ことなどないのだが、残念無念、適 当な「腹癒せ」もならぬ仕組みに、今の世の中、なってしまっているから始末が悪い。せめて選挙の当日くらい、ワルイ奴らを「ハラハラ」さしてやりたいの に、そっちへもうまいこと「手がまわって」いるのか、利に走る裏切者のせいか、なかなか成功しない。「腹を切ら」せたい「手合い」ほどノホホンとしてい て、「高笑い」に「腹の筋をよっ」ている様子だ。こン畜生め、「土手ッ腹に風穴あけたるでぇ」とスゴんでみたくなるが、所詮、犬の遠吠えか。

これじゃ「腹具合い」、日に日によくない。

 

* 「腹の立つ」ことばかり。何という日本の政治だろう、惘れてモノが言えない。 2020 6/7 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 背の話

 

やはり話はここから始めよう、「背に腹はかえられぬ」とか。どういう意味と、説明の必要こそ無いけれど、この物言い、いつ、だれが、どういう場合に始めたのか。

狂言に『ぶあく』というのがある。勤めをおろそかにしている「ぶあく」を、主人の言い付けで朋輩の太郎冠者が手討ちに行く。行かねば、太郎冠者が主人の 手討ちに遭う。朋輩同士はかねて仲良しなのだが、さて太郎冠者にすれば「背に腹はかえられぬ」と言いわけするしかない。この際の「背」は命であろう、そし て「腹」は友情に当たろうか。ただし『ぶあく』の用例が最初とは思えない。もうよほど双方で了解が利いている。

ここで気にもなるし、面白いと思うのは、腹より背のほうが大事そうに言われている点だ。絶対的なことは言えないにしても、やや常識をはずれている。どち らかなら、逆ではないかという気がする。いや、この言いかたでは、腹と背とに格差はつけていない、という意見もある。なるほどそうも読める、ちょっと苦し いが。

少なくも現時点では、やはり背が目前に大きく在って、腹はいささか遠くに在る。そんな感じに読める。そして、それはヤッパリやや奇異に思える。邪推がしてみたくなる。

「腹は借りもの」というゾッとしない物言いがある。「腹違い」「腹が大きくなる」「同(異)腹」などともいうし、それなら、妊娠を謂うのに「はらむ」と 表現してきたことも思い合わすことができる。「お腹様」など、甚だ「気色の悪い」言葉だが、要するに「おんな」をハッキリ指さしている。

一方、背は「背の君」で、正しくは「兄の君」の当て字にもせよ、「妹背の契り」などと、けっこう「背」の字で一般に「おとこ」を指してきた。慣用という意味では、これは決してマチガイではない。だが、これまた何で? と聞きたい。

「背に腹はかえられぬ」また「背の君」という典型的な〝からだ言葉″の「背景」に、そんな男女の性の様態などを看て取っていいのかどうか、私に確信があ るわけではないが、〝からだ言葉″にいわば隠語の効果が秘められてもいたのは間違いないのだし、存外こんな分かりやすそうな表現のウラに、「腹位」より 「背位」がもともとの「体位」などと、イワク言いがたい性技の含蓄が籠めてあったかも知れんなぁ、とも想像している。

「背」は、「背丈」「背格好」と同義に用いられてもいる。「中肉中背」もそうだろう。「背後」というように、ウシロを意味した背の熟語も少なくないし、 「面従腹背」でソムク意味の言いまわしも多い。「背戸」など前者だし、「背を向ける」は後者だろう。「…を背にする」となると、どっちにも取れる。面白い のは、ドタン場へ来て「背負い投げ」を食ったり食わせたり。これなどは例の「背水の陣」に通い合うのだろう。

「背負(しょ)ってる」人が、いる。また、「背負(しょ)いこむ」人も、いる。同じようでも、微妙に違う。どっちもウンと「背伸び」しているのだが、そ の仕方に人柄の違いが微妙に出てくる。どっちも、ある意味では困りモノなのだが、そうとばかりも言えない。「一家を背負って立つ」人もいれば、他人のイヤ がる「苦労を背負いこむ」人もいるからだ。

紙一重の「背中合わせ」で評価が動く。考えようで「背筋が寒くなる」。

 

* 「背筋をのばせ」と戦時中の学校でよく言われたなあと思い出す。「背中合わせ」というのが、存外に懐かしいもの言いではなかったかとも思い出す。

2020 6/8 223

 

 

* 猛暑と湿気、寝ころんで次々にあれこれ読み耽っているまに蚊に食われ、腫れて、痒い。難は、どこにも、いつでも在る。

まだ七時半にならないが、なにもせず、休息しよう。

と、云いながらちょっと遊んでみた。下記は、全面幕末の漢文体で書かれてあるのを、なんとか読み下してみたものである。原文の漢字を拾うのに苦辛した。読みは、おおかたこれで通じていると思う。

 

柳橋新誌序

 

往日 静軒居士なる者有り、『江戸繁盛記』を著す。つぶさに八百八街の景状を摸し、勝場劇區、載せざる所無く、説かざる所なし。其の文極めて 詼謔にして、其の事は則ち明詳、讀む者をして臥して其の地の有る所を知らしむ。闔都の風俗を諳熟するの人有ると雖も、亦一事を附益すること能はざる也。然 れども其の今を距ること二十年に過ぎ、物換り俗移り、地の熱閙冷索相ひ變ずる者少なしと為ず。往時新地深川の妓院、綺羅叢を為しし者、今は乃ち索然として 踪と無く、神明芳坊の孌、章肆すと。娼楼と相抗する者も亦寥として影を斂む。其の他各處の繁華、日に衰へ月に瘠せて、能く古に及ぶ者鮮し矣。芳原品川の若 きも、亦當日説く所に比すれば、則ち五六分を減ず、嗚呼。居士をして方今の状を観せしめば、乃ち愕然として驚き、慨として将に嘆ぜんとす。知らず、其の人 尚を存するや否や。

然れども此の大都の繁華、奚ぞ其れ地を払って尽くす可けんや。古へに微にして今に盛んなる者も亦た有り、柳橋、是也。柳橋は何に因て然るか。深川の廢す るに因る。凡そ物の太だ盛んにして頓に衰ふる者、復た興らざること靡し、諸れを将家に譬ふれば猶新田氏のごとき歟。乃ち今の柳橋は亦深川の死灰再び燃る者 にして、其の盛ん殆ど舊に踵ぐと云ふ。噫。其の盛んを記せざれば、乃ち亦五年十年を過ぎ、安んぞ知らん凋零して今日に如かざるを。余や、狂愚の一書生。凹 硯禿筆、僅かに其の口を糊する者。居士の才無く、居士の學無し。是に加ふるに赤貧洗ふが如く、未だ曾て一にも其境に遊んで、而して其の実を験せず。焉んぞ 之を記するに足らん。然れども喜んで蕩子の説話を聞き、市街の図册を覩て、其の墍略を窺ふことを得たり、遂に一夕の閑を偸んで記す。文の鄙俚、事の猥褻、 正人君子をして之を読ましめば乃ち将に唾して棄てんとせん焉。然れども正人君子の能く記する処のものは、固より余のこれを記するを俟たず。正人君子の記す ること能はざる所のものにして、而して余輩の正に記すべき所也、蓋し余の知る所を記するのみ。知らざる所の者は亦た将に狂愚余の若き者有りて附益せんとす べし。

安政屠維協洽之歳。早梅将に綻びんとするの月。何有仙史。鎖春楼之南軒に於て書す。

 

* 思わず微笑のわくを覚えまして、読み・書きを遊びました。初編の序で、本部ははるかに長編、二編も在る。読むは読めても、上の程度にすら書き写すのは、とても、とても。

「安政屠維協洽之歳」とある。安政といえば、大獄があり、井伊大老に桜田門外の変があった。そういう余の騒がしさを云いつつ、よそにみて狭斜の「柳橋」を謳歌しようとか。

九時になる。

2020 6/8 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 腰の話

 

「腰の物」といってすぐ分かる人は、齢のいった人か、時代物の好きな人。それは刀。そんな物のハバを利かした時代は好きでない。私は、いったい侍が好き でない。まして刀などという物騒で、そのくせ武士の魂のなんのと、へんに取り済まし思い上がったのには好意が持てない。ご免蒙りたい。「腰巾着」もとうて い歓迎できないけれど、まだしも刃物三昧よりは人臭いだけ、諦めがつけ易い。「腰元」も、歌舞伎の舞台で見るかぎり、ぞッともしないが、見ためはナンボよ いかしれないと。

コクではない、「コシがある」という。コクが、どっちかと謂うと味わいの感度なら、「コシ」の有る無しは、ものの粘りに通じる、つまりは「粘り腰」と いった強度の方と関係がありそう。たとえば、そば、そうめん、うどんの類を品評するのに、「腰がある」からいいとか、「ない」からまずいとか。「強腰にで る」「弱腰になる」のがまさか麺類の品定めから転じた応用とも思えないが、そこには通じ合った表現上の根が認められていいだろう。

言うまでもなく腰は身体の半分に在り、上半身と下半身とを分けている。しかも「身動き」の要になっている。ここが強いか粘れるか、または弱いか砕けるか で、たしかに体の勝負は左右される。相撲、レスリングその他、およそ力技やスポーツ一般にこの理屈は当てはまる。ことに古来の相撲競技には、腰の強弱や鍛 練の度合いがものを言うこと、相撲放送の解説者らが口を酸っばくして説きに説いており、日本中の人が、もういっぱしその辺の通になっている。

放送を聞いていると、「腰が高い」「腰が低い」と頻繁に謗ったり褒めたりしている。要するに闘う姿勢が守れるか砕けるかの「岐れ目」であるのだろう。 「面白い」といえばちょっと気を惹かれるのは、人間ないし人物の場合にも、どっちかというと「腰の低い」人が世に容れられ、「腰高」いや「頭の高い」人の 嫌われやすいこと、理が有るわけだ。

土俵に直に「腰をおろし」ては困るけれど、相撲の取組で「腰を入れ」「腰を引き」「腰を振り」さらに「腰を割り」「腰を捻っ」たりが、まさしく、さまざ ま勝負の掛け引きになっている。あげく、使い過ぎて腰の病気や怪我で泣く力士が多い。「ギックリ腰」という厄介なのもある。腰は彼らには、「腕力」より大 事、ことと次第で「命取り」になりかねない天与と鍛練との賜物と謂える。

ただし相撲でいう腰は、みな文字どおりの体の部位を言うのだから、仮りに「決まり手」の「腰砕け」にせよ、私のいわゆる〝からだ言葉″とは少し違う。しかもなお、「腰を入れて」シッカリやれと言えば、もう立派に〝からだ言葉″として働いている。

もっとも、この「腰を入れる」「腰をつかう」には、「生真面目」な意味のほかに、いささか色ッぼい、性の場面での馴れ合いをいう「気味」も、ある、らし い。そこがこの「腰」というヤツの、甚だ油断ならない粋なところ、子供の頃の一等にがてな単語の一つが、例のホラ、母や叔母の赤い「お腰」だったと言え ば、その感じ分かるなぁと同感してくれる人、男の人、は少なくない気がする。

モノは同じでも「腹巻」の方は、物書きになり「本」など出してからは、気にしない、イヤ、以前よりも、気にします。

 

* 「からだ言葉」って、おもしろいでしょう。

2020 6/9 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 股・尻の話

 

歩幅を表わす「おお股」「こ股」は分かりやすいが、「小股の切れ上がった」女の、「小股」とは何ぞや、どこをどうサスのやと、高名の画家やら学者やらが 盛んに議論をしていた。決着はついていないらしいから、私が割りこむのは止そう。相撲の決まり手に「小股すくい」というのもあるが、同じこの言葉が、相手 のスキに付け入る意味も持ってきている。相撲の技とまるで無縁とは言えないが、「決まり手」そのままの転用でなく、「上手に」ふくらませて用いているの が、いい。

股の話なんぞハバカリが多いが、意外に〝からだ言葉″は、ある。道中を「股にかける」意味なのだろうか、「股旅」とは面白い。日本のある側面を語るの に、見逃がせない言葉の一つだろう。すっかり過去のもののように思っているが、だから「股旅もの」が変わらぬ人気を得ているのか、それとも今日にも姿こそ 異なれ、その種の境涯が生きつづけているからなのか。「ふた股膏薬」のもとの意味も今日ではハッキリしなくなったが、単に「二股かける」感じで、ただ日和 見よりエゲツない意味に謂われているのが普通だ。

「尻」には、からだの一部としての「尻」のほかに、後ろ、終わり、底、の意味が加わってくる。〝からだ言葉″も自然その両様に分別できるようだ。「尻馬 に乗る」「尻押しする」「帳尻を合わす」「尻取り遊び」「目尻をさげる」などは、むしろ、あとの方に属していよう。だが「長ッ尻」「尻くすぐい」「尻から げ」などもともとの尻に絡んで、しかも微妙にそれから浮上している。「尻を端折る」「尻癖がわるい」「尻ぬぐい」「尻がくる」「尻ごみする」「尻を出す」 など、皆どっちともつかず、たいへん有効に用いうる〝からだ言葉″だと言えよう。

尻なんてのも、まことに尾寵、おおかたの人は「目を背け」そうでいて、実はなかなか古来ことに男どもには人気があり、とかく幼時から「女の尻を追いか け」たり「触っ」たりしたがるのが、相場と決まっている。所詮「尻子玉」をさげた身の因果ではあろうが、これを抜いて男を「腑抜け」にするのは、河童ばか りではない。女の「尻に敷かれ」ていても、やはり「腑抜け」になる。

ためらう意味の「尻足を踏む」のも、調子のよしあしや、字を書くときの「尻上がり」「尻下がり」も、コト露顕の「尻が割れる」も、やりっばなしの「尻切 れトンボ」も、まことに「心にくい」〝からだ言葉″になっている。強靭なネバリに欠けるのを、「尻腰(しっこし)がない」と言うのだそうだ。思わず、ふぅ んと感じ入る。じっくり「尻を据え」て拾い出すと、いろんな尻があって際限なく、頼もしい気分になってくる。「尻喰らえ」どころか、日本人は、いや日本語 は、明らかにお尻のフアンであるようだ。

もっとも、呑気な顔をして尻の談議などしているうち、「尻に火がつく」ということも起こりかねない。いや、とうに火はついてしまっているのに、気がついていないのだ。そう思い直すべきだ。

どうも、することなすこと、このところの日本人は「尻ぬけ」の感じで締まらない。「尻目にかけ」られ「尻の持って行き場」がないばかりでは、無責任すぎる。

 

* 「重っ尻(ちり)」とも謂うたが、「尻軽る」もいい勝負で、どっちがどうとも。

2020 6/10 223

 

 

* 僥倖というか配剤というか、こんなことが有るのだと、昨夜就寝直前の偶然の出会いに思わず天を仰いで驚嘆した。いきなりこへ書くのが惜しい気さえする。

 

* 秦の祖父鶴吉が市井の一小商人にしてはたいそうな蔵書家であったとは繰り返し語ってきた。現に出版したばかりの「湖の本 150」 山縣有朋の『椿山集』を読んだのも、明治の祖父の旧蔵書一冊に令和の私なりに日の目を見せたのだった。

ところで、それとは全然無関係に寝床のわきほ持ち出していた百何十年の埃の垢のようにこびりついた和装本の大冊、分厚さが七、八センチもの和綴じ和紙・ 和活字・和装の一冊を、特別の関心もなくなく、というより軽い面白半分の気まぐれで寝たまま手にしたのである。和紙の本は、大きさよりも軽いので仰向きに 持ってももてるだった。

何の本か。無残に禿げ禿げのしかし、和装のママシッカリした大冊の表紙題簽には『増補明治作文三千題』とあり「文法詳解」と二行に割った角書きがある。 「ナンジャ、これは」と思うだろう、だれでも。「明治四十四年三月求之」と奥付の上に毛筆、祖父の手跡と見える。本の発行は「明治二十四年三月二十九日出 版」「明治三十年十月増補出版」「同十一月訂正再版」とある。著作者は「伊良子晴州」増補者が「川原梶三郎」発行者は大阪市東区安土町四丁目三十八番屋 敷」の「花井卯助」発売者は大阪市、福岡県、広島県の『積善館本店・支店』とある。東京本ではない。

それにしても、ざっくりした、しかし多彩に多様多用な「編輯」で、そもそも「総目次」がなく、組みようも頁に三段二段 字の大小も、その区分されたそれ ぞれの内容も目が舞うほど色々に異なってある。ちなみに第一頁を見ると、上段に『論文門』と大きく「○学問論」と題した文章が「天地ノ間一モ恃ム可キ無シ 矣」と書き出してある。中間には細い段があり「類語日用文の部」として先ず「○時代の風俗にて無是非候」「○無御遠慮御申附被下度候」などと細字で居並ん でいる。下段はやや丈高くて、「明治作文三千題巻之壱 伊良子晴州編述」と総題らしく、ついで「日用文之部」と掲げ、「◎揮毫を頼む文」と例題し、即、 「粛啓然は拙者故郷の者京都本願寺へ参詣いたし立寄候処先生の御高名承り居今度是非御揮毫度願紹介の義依頼せられ候就而は近頃甚だ願上兼候へども右は需に 応じ被降度即ち料紙為持上候間御領収の上御一揮可被下候先は御願まで筆余は拝跪を期し候頓首再拝」とある。こんなのが延々と、次は「◎烟草の商況を報ずる 文」また「◎雑誌を贈る文」等々と大量に頁を追って行くが、実は大題の項目は他にいろいろあり、先に『論 文門』というのがあったが、類似に何種もあって、いささか様子も表情を変えて二段組みの下段に丈高く『◎文門』とかかげた頁がある。上段には『和歌和文 録』と構えてまず「和歌の部」がはじまり、高崎清風、福羽美静など私でも承知の有名人の作が以下並ぶらしい、で、その下段『文門』の初ッ端をみつけて私、 思わず起きあがった。

西南ノ役征討参軍トナリ総督ヲ輔翼シ参籌戦闘敵ヲ破リ平定ノ効ヲ奏ス

と表題され、次行に、『◎熊本陣中私(ヒソカ)ニ西郷氏ニ贈ル文」とあるではないか。紛れもない山縣有朋が西郷隆盛を案じて私「ひそか」に送った親書が此 処に上がっていると見えた。「おおう」と私は唸った、実は、この二人の間にこういう往来があったのでは、きっとあったとろうと予測しながらとても確かめる 方途がなかった。「湖の本 150}の65頁に、「明治十年西南の役参軍として肥後の国にくだりしとき」以下の三首和歌に私は何度も立ち止まっていた。こ とに

薩摩の國大口に戦ひけるとき

ともすれば仇まもる身のおこたりをいさめかほにもなく郭公

に切ない心地で立ち止まりモノを思った。「仇(あだ=敵)まもる身のおこたり」とは。「まもる」には「見守る」意味に「護る」心地も重なりやすい。「郭公 ほととぎす」は死に近縁を詠われることの多い鳥である。西郷の最期へひしひしと迫る山縣のかなしみがここで歌われているなと、傍証をもたぬまま私はむしろ 山縣の苦衷を察し、または感じていた。

そこへ「明治作文三千題」などいう珍な大冊の中、山縣の、苦境西郷隆盛に送っていた衷心の長書状を目にし手にしたのだ、唸ったのである。そうそうに此処へ書き写すことは出来ない、ほとんど漢文なのである、が、胸に響く。書き写しておく。

こんなのに目をふれたことこれまた「秦のおじいちゃん」の遺徳と感謝し、『椿山集』を今度は「論攷する仕事」にもしなくてはと思い至っている。

 

* 上に、「征討参軍トナリ総督ヲ輔翼シ参籌戦闘敵ヲ破リ」ちあった。「参軍」とはよく謂う参謀であり、「参 籌」もまた戦闘の謀りごとを能くする意味である。山縣有朋の軍歴ではこの「参謀」「参謀長」「参謀本部長」「参謀総長」という一線が目立ち、いわば智慧す るどい「いくさ上手」であったようだ。軍事にかかわりながら国家の安寧と戦略的外交に能力をそそぎ、そこから國の「主権線」「利益線」を世界地図上に敷い て行くべくこと思い至った太のであろう。事の是非は問わず、そういう方針為しに世界列強との海を航海はならないと山縣はだれよりも恐れかつ備えていたということか。

現下の日本には、戦争戦闘体験者はもう一人も実在しないまま、国防の防衛のと構えているが、真剣で有効な「参籌」 能力は、山縣級の眼からはゼロに近いのではないか。肌寒いほどの現実である。戦争は、シテはいけない。もう一つ、シカケられてもゼッタイにいけない。この 後者の備えが「日米安保」では、限りなく頼りない。トランプ型のアメリカは、すこしの損でもすたこらと日本など棄てて立ち退く、これ、間違いない。

2020 6/10 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 胴体の話

 

胴体というと、四肢を除いた首から下、の全部に当たる。

もっともこの言葉で自身のそれを想うことはむしろ稀で、飛行磯の「胴体」などがまず目に浮かんでくる。竹刀や剣を使う人なら、まだしも「お胴」と気合い が入るかも知れないが、「胴丸」などという鎧の一種を今日に意識できる人など、有ったら不思議なくらいなもの。「胴衣」「胴巻」にしても同様である。

まあ昨今では「胴上げ」が一等ポピュラァだろう。「胴震い」というのも聞かなくなった。「胴忘れ」と書く人もあるにはある。しかしこれはド忘れと書いたほうがいい、強意の接頭語かとも思われる。

関西でよくいう「胴突く」などは、もともとはこの文字どおりであったかも知れないが、「ドツイタル」という攻撃語に、ことさら胴体がターゲットという印象は今では薄れているように思う。

「胴」には太い感じが読み取れるらしい。「胴間声」だの、ばくちの「胴元」「胴親」にその気味がある。「胴欲」も同じだろう。太ぇ奴だというところか。

胴体にもいろいろ含まれている。肩や腹や背や腰や尻や股やの話はべつにしても、腋やへそや乳や鳩尾の〃からだ言葉″はここへまとめておこう、例えば「垂乳根」とは面白い。

いくつになれば「乳離れ」と揶揄される人。この頃では親の子離れのほうが大切だという人もあるが。

「乳臭い」もかなりきつい〃からだ言葉″。赤ちゃんの乳臭いのはあたりまえだが、いい若い者が、いや大人が「乳臭く」ては堪らない。「乳母」や「お乳の 人」を〃からだ言葉″と謂えるかどうか、たんに「貰い乳」ならそうではない、が、人間関係やときに特権身分にまで成ってくるとややこしい。「乳繰り合う」 など、まともに口にはしないけれどいやみな〃からだ言葉″に数えるしかないか。

腋を脇またワキとも表記すると、「ワキ役」という天下に響いた〃からだ言葉″が活躍する。能舞台の「ワキ」はいわば見所(けんしょ)にいる全観衆の代理 人的な重みがあり、舞台の格差をワキの巧拙がはっきり決めてしまう例が多い。映画や芝居の「脇役」が助演の名において主役よりも評価されることが増えてき た、あれは世に望ましい一例である。

「脇道へ逸れる」「脇口を利く」「脇の者」などと使いでの多い〃からだ言葉″も有る。

さて「鳩尾」だが「水落ち」とも書くし、それは胸の真ん中の窪みを指していて、それ自体が「喩」なのである。〃からだ言葉″に熟した例を思い出せない。 そういう意味では「へそくり」「へそ曲がり」などが優秀、それ以上に「ホゾを噛む」に感じ入る。日々に実感の増すところが、ニクいけれど。

 

* まったく以て、つき合い甲斐があります「からだ言葉」ってのは。

2020 6/11 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆  手の話

〃からだ言葉″のダントツ多いのは、「手」。わたしが〃からだ言葉〟と名付けて調べかつ拾い上げ、〝からだ言葉〟で考えようとしたそもそも最初が、「手 の思索」からだった。「足」と「目」のそれもずいぶん沢山だが、「手」は何倍も何十倍もある。その当然さに思い当たるのも、難しいことではない。拾い上げ ても、たちまち「手に余る」ほどだから、ホンの「手安」な「お手もと」の例でお茶を濁そう。くわしくは私の『手さぐり日本  「手」の思索』(玉川大学出版 部・一九七三、湖の本エッセイ)や、『面白い話』(法蔵館・一九八五)に収めた「手の文明」などをお読み願いたい。

「手ごろ」な物やことに出会うのは、言うほど簡単ではない。そして、それが必ずしも最適とばかりは言えない。時には「手に負えない」「相手」にぶつかっ てみないと、自分の力を見失ってしまう。「お手軽」にやってのけたいのは人情の常だが、「手いっぱい」「手が回らない」なかで「手を尽くす」頑張りが、活 路に繋がることは、まま有る。

「手」は、汚す気がなくとも汚れやすい。たとえ「キタナイ手」でなくても、「手を使う」と謂うと妙にいやな「気分」になってしまう。日本人の淡泊という より、ヘンに「気どった」ところがこの辺に出る。いろんな「手」を、お互いにもっと使ってみたらどうだろう、それなりにもっと藝のある毎日をこの「手」で 生み出していいのではないか。

むろん趣向倒れでも困る。「面白さ」に自然さは欲しい。が、自然に、自然にばっかりでは「手詰まり」は見えてくる。

小説一つとっても身辺雑事の垂れ流しでは、「手づつ」なことおびただしい。「手詰まり」といえるほどにも「手を尽くし」てきたと見えない日常茶飯のママ なタダのジュン文学とやらが多いが、志賀直哉ほどの文章力もなしに「手抜かり」な藝抜きリアリズムが、いつまでハバを利かすのやらと、永く歎いてきた。責任は誰でもない、 この私らにある。「手もなく」こんな「手間のかかる」道草を、「暢気」そうに食ってきたのが悪いのだ。

どこかに「手違い」がある。「手抜き」もある。正しい「手順」を踏まず、しかも「手直し」のタイミングを錯っている。たかが私の文士稼業のことだけでな く、現代日本の全体が今そういう状態に陥ち込んでいないとは、言えまい。反核も大事だ。反戦も大事だ。それを叫ぶのも必要なことだ。その他にも、もっと もっと沢山な大事がある。要は「声を大に」それについても言い続けねばならない。分かっている。分かっているけれどもコワイのは、叫び、呼ばわり、署名し声明 しているうちに、「手放し」のゴッコ遊びに似た「呑気さ」で、次の「瞬間」には「手ン手ンばらばら」銀座や新宿のハデな酒場で、理想や愛や真実の顔に「唾 を吐き」かけ、ご機嫌で酔いどれている文化人とやらもけっこう多く、その本音の那辺に在るやがツイ疑われる。

「本音」は問題じゃない、叫び呼びかけている「言葉」そのものが大事だという人もいる。が、そんなことでは、ギャングの親玉のようなオッサンが、公然と「お父さん、お母さんを大切にしよう」などとテレビで呼ばわるのへ、「正気」で「拍手」や勲章を贈るのと大差なくなる。

言葉は人間が支えている。その意味の重さを、言葉を用いて日々生きる筈の別して文学の徒が、「厚顔」に押し潰していては、天に唾する、これに過ぎたるはない。

 

* 「手」というヤツ、往々にして「手に負え」ません。

2020 6/12 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 足の話

 

なにごとにも「出足」が案じられる。投票率の心配な選挙当日などそうである。「ご足労」 だが大事な権利、簡単に放棄しないで欲しい。「後足で砂をかける」ようにして公約を守らぬ手合いを淘汰できるのは、この機会を措いてないのだから。「足摺 り」してアトの祭をただ「口惜し」がっていたって、間に合わない。

「足手まとい」という。「足止め」「お手あげ」――いずれ人の自由を奪うのに、手と足は狙いの的にされやすい、それと「目隠し」「目つぶし」「目くらまし」の目も。それだけ、これらには「身にしむ」〝からだ言葉〟が多い。利にも不利にもご縁が深いのだ。

「足を洗う」「足を出す」「足がつく」「足掻く」「揚げ足をとる」「足を引っばる」「二の足を踏む」「浮き足だつ」「足もとを見る」等々、一つ一つ説明 するとなると、どれだけ言葉数が要るやら計り知れない。うまく用いれば、みごとに生きること受け合いで、こんな言いまわしを、いつとなく工夫してくれてい た昔の人が有難い。と同時に現代も、またこの上の、効果ある追加の勤めがありはせぬかと、思う。

そんな「面倒」そうなことに「足を突っ込む」のは御免と言うなかれ。日常のことに、一期一会、よく繰り返し「足をとめ」「目をとめ」「手をとめ」て暮らすだけでも、思わぬ発見は有る。「手とり足とり」他人に教えて貰わないと出来ぬといったことではないだろう。

大きな「足跡を残す」のは偉人で、現場に「足跡を残す」のは泥棒の「泥足」だ。日本語の「面白さ」であり難しさである。前のは確かな〝からだ言葉″だが、後のは違う。「足どり」は、この両者に等しく辿ることが出来るが、偉人がまさか「逃げ足」は使わないだろう。

「逃げ足」というと、早いのが相場だ。だが「足がはやい」は、生ま物の腐れ行く日保ちのわるさも言う。「足掛け三年」とか「足踏みする」とかいうのも、 どんなに人が人の振舞いに、よく「目を注いで」きたかを想わせる。もし、日本語の語彙が十分に豊富で、また必要に応じていくらでも新たに補充が利くようで あったなら、こんな、一種意味のうえの飛躍が、こうしばしばは成されなかったことだろう。幸か不幸か日本語では、同じ「手」といい「足」といいながら、そ れその物から懸け離れた微妙な意味を含ませるようにしないと、「手広く」は「用が足せない」ほど基本になる語彙の乏しさが認められた。日本人はそれを独特 の想像力でいろいろに補ってきた。この「含蓄」という民族的な能力が、ことに〃からだ言葉″で著しく発揮されているとは、もはや誰しも認知せざるをえない であろう。

〝日本語のレトリック″を論じて、〝からだ言葉″の功罪や消長に「注目」されないで来たのは、いっそ国語学者らのタイマンに属することではなかったか。これは、日々に日本語で文章を作っている一文士の提言として、「足蹴」にしないで「耳にとめ」ていただきたい。

私は、物書きとしてはそう「脚を使う」方でない。「二足のわらじ」をはいていた、時間「不足」の不自由時代の名残りが今に災いしているとも言える。「人足仕事」などと言わず、健康のためにもよく歩き、いい「足掛かり」「足溜り」をえて「足場を堅め」たい。

 

* 「足踏み」というのも、微妙に意味の利く「からだ言葉」やなあ。

2020 6/13 223

 

 

 

* 熊本陣より私かに西郷隆盛に送った山縣有朋の書簡切々の衷情に胸打たれた、西郷は黙したまま割腹とた果てたが。勝海舟と山縣とは西南戦争のおきる前、 海軍卿と陸軍卿に任じていて、ともに征韓論には慎重にむしろ蚊帳の外におかれていた。あの勝が、「いい男だ」と評したという山縣には、備えなく無謀に挑む 闘いの無事でありえないのが分かっていた。識っていた。山縣は奇兵隊の狂介時代から日露戦争の参謀総長まで、もっぱら「参籌・策戦」に長けた知謀の将軍 だった。

或る時期、永そうなドラマで「西郷隆盛」劇を遣っていたのは聞き知っていたが、一度も見なかった。少年の昔から、西南戦争、西郷を担いだ壮士らの蹶起を、征韓論もふくめ、無謀な私計にちかいと感じていたから。

2020 6/13 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 四肢の話

 

「腕」と「脚」がそれぞれ二本で、四肢という。「いい腕」があり「速い脚」がある。 双方に「指」と「爪」と「関節」つまり「節」がある。腕には「手の甲」や「掌」や「挙」があり「肘」がある。脚には「膝」があり、「股」や「脛」や「踵」 がある。「手」といい「足」というのは、そうしたものの総称でもあり、「手首」や「足首」の部分を小さく指すのでもある。

「この指とまれ」と遊んだ記憶が、大人の社会でうまく利用される場合がある、ようだ。バスに乗り遅れるな、といった文句に通い合うものがある。似たよう な物なのに「指輪」と「指貫」とは大違いなのも面白い。輪を「はめる」のと指で「貫く」のと、微妙に態度の差が現われている。約束や拘束の意味も「指輪」 にはあるのだと分かってくる。「指折り」の勉強家がいる。「後ろ指」をさされる金持ちもいる。「指をつめる」ヤクザがいれば、「三つ指」ついたネエさんも いる。「指をさし」て、ハッキリ悪を糾弾できる国民でありたいものだ、そのためにも「折り節」の出来事によくよく「注意」が必要だ。

昔は、「能ある鷹は爪を隠す」ものとよく訓えられた。押しつけられた、と言ったほうが当たって いるぐらいに。隠していないととかく「爪はじき」に遭っ た。三味線などを「爪弾く」のは「情緒」があっていいものだが、人はそんな風流事に「指を染める」より、えてして自分が他人に「はじかれ」ない先に、なん とか他人を「はじき」たがる。かと思うとエライ人の「爪のアカを煎じて飲む」ような卑屈な追従も「平気」でしかねない。いっそ「爪に火をとも」してでも、 コツコツ自分で金勘定しているような人のほうが、分かりやすい。

私自身はかつて、誰かの「右腕」になって仕事をしようと考えたことが、ない。「腕利き」の職人肌になりたいと願ったことも、ない。「腕ずく」で人の物を 奪い取ろうなど、思いもしないで来た。「掌に汗を握」ったことは無いではない、が、どっちかと言うと「腕組み」をして、沢山のことをやり過ごしてきた嫌い がある。「肘鉄」を食わすほどの「目」にさえ遭っていない。幸い、食った覚えもない、有っても気のつかぬタチでもあるが。まぁ「肩肘はって」暮らすよりは マシな程度か。一度は「本気」で「拳を振りあげ」てみたい。

さて、とんだ「馬脚を露わし」たものだが、所詮人生、「脚光」どころか「失脚」の「心配」さえない「馬の脚」で終わるものと承知している。この「膝栗 毛」はや「脚の衰え」も見えてきていることだ、今からどう「脚色」もなるまい。「きびすを返し」て人生「脚本」からやり直し、というわけには行かぬ。

思えば久しく「親のすねをかじっ」てきた。そのワリに、老いた親に楽をさせてきたなど到底言えない「体たらく」。ハタと「膝を打っ」て、大きくことを成した、進めたという覚えがない。「ナサケない」話になったものだ、話を変えよう。

「膝とも談合」という「面白い」〝からだ言葉″がある。誰とでもいい、よく相談すればそれなりの益がある、という意味らしい。「膝づめ談判」ほどギシギシしない味な表現だ。はやばや「膝を屈し」てしまわず、ここは「膝を交え」「腕を組ん」で、皆で考えたい。

 

* 「四つン這い」という「からだ言葉」は、苦いなあ。

2020 6/14 223

 

 

* 今回の出版は、少しく「趣向の一冊」でこそあったけれど、或いは読者の大勢さんのお好みからかなり逸れるかも、逸れたかなと、気づいている。たんに 「読み煩われる」前に、和歌や漢詩に当節ほぼ「馴染みがない」こと。加えて歴史人として「問題の多い」しかも勲章だらけの明治の元勲の家集では、どう取り ついていいかと惑われたでもあろう、やや秦 恒平の悪趣味が嵩じたというところか。すなおに謝っておきます。が、

実を云うと、ちょっと「このまま」では済ませない、なおこの先へ小説世界と時世とを少し溯ってみたい魂胆でいます。それもあくまで現代や現実を忘じ抛ってという算段ではなく、サカサマの積もりで居るのですが。

ま、やがての八十五楼、建物ごと取りつぶされるハメになっても、命があり古馴染みの機械君が応援してくれる限りは書き置き言い置くとします。

2020 6/14 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 毛髪の話

 

毛髪の色は、気にしないようでいて、今でも常時なんだかだと誰もが気にかけている。

一般には金髪がいいとか、赤毛のナンだとか、みどりの黒髪だとか、ロマンス・グレーだとか、あんな色に髪を染めたいとか、まァ昔とはだいぶ様子は変わっ た。昔は「毛唐」の「紅毛人」のと呼んだところに端的なように、「毛色が違え」ば即ち人種が違うとされてきた。異人サンとは、文字どおり「毛色の違」った 異国人を意味していた。それが日本人による、最も簡便な西洋人識別の、つまり「目の付けどころ」だったのである。もっともこの「毛色」の場合には、それに 先立って、例えば家畜の飼育体験における親に似ぬ子や珍種変種に対する、ごく即物的な「物言い」が出来ていただろう。「紅毛人」などにも、鬼や天狗を見る ような奇異の蔑視が働いていた気がする。そしてその段階では、まだ〝からだ言葉〟であり得ていなかった。今では「毛色」の違いは、人や生きものに限らず、 含みのある〝からだ言葉〟として、まさにイロイロに使われている。

だがもっと日常的に我々が今も気にしているのは、若い者なら、まず髪型だろう。「髪容貌(かみかたち)」というれっきとした〝からだ言葉″があるよう に、結髪や調髪は、昔から人の思いを楽しくまた悩ましく揺すりつづけてきた。いい若衆が「濡髪」なんぞと嬉しそうに名乗ったりした。ただし洋の東西をこれ は問わない心情であるらしい。

中年過ぎともなると、髪の毛の白くなり増さるのが気にかかる。いやいや「若白髪」というのもあり、それなら「若はげ」もあって、所詮愉快な話題でない。人間、これで相当以上に「毛の色と嵩」とには、「苦いメ」をみているのだ。

だが、「毛色が違う」くらい所詮たいしたことでなく、個人的、日常的なレベルの話とも言える。相応に手がほどこせる。それより社会的にみてもっともっと問題の大きいのは、「毛なみ」の差ということを、世の中があんまり気にし過ぎることではなかろうか。

明治維新は古い「毛なみ」「毛色」をかなりぶッ壊してくれたが、代わりにけっこう「毛色」こそ違え、厄介なべつの「毛なみ」を生み出して、日本の近代社 会をオカシくしてしまった。その点、この前の敗戦の方がまだしもきれいサッパリ一掃の感があって、大いによかったのだが、またゾロ「毛なみ」復活の兆候年 々にとみに著しく、宮様と家元とのオメデタとか、やたら勲章族とか、「総毛だち」「怖じ毛づき」「オゾ毛をふるう」ほどの「気色わるい」世のさまに成り変 わりつつある。

「毛頭ありません」などとシラジラしい言いわけをエライさん相手に聴(ゆる)しつづけていると、今にもモノ凄い階級社会ヘアッという間に逆戻りしてしま う。「眉にツバをつける」のなら、私のこの不安に対してでなく、どうか、さもオメデタそうなお祭り騒ぎへ、そうしていただきたい。「間一髪」だろうが「危 機一髪」だろうが、なんとしても「身の毛のよだつ」堕地獄から、我々の日本を守りたい。反核も大事、しかし反「毛なみ」という姿勢も真剣にとっていない と、あぶない、あぶない。

「旋毛(つむじ)を曲げ」て言い募るのではない。「お髭のチリをはら」って生きるなんて、マッピラ御免を蒙りたい。

2020 6/15 223

 

 

* 劣化して行くような体感を荷のように負いながら、せっかく取り組んだのだからもう少し「山縣有朋」の時代を見返しておこうかと。史書はこの多年のうち に繰り返し読んでいて、人と時代とを大きくは見間違ってはこなかったと思いつつ、そこにまた、多く激筆により指弾され続けている山縣有朋にかかる『椿山 集』や詩歌のあるに触れていた論者には、ついに出会わなかったのである。元勲、元帥、公爵の山縣がほぼ徹しての民権迫害者であり他国への侵略という形での 國の「利益線」拡張も思い詰めていたことも、それを少年来嫌い憎み疎んじてきた自身の思いも知っている。ただ、その間の八十余年というもの、私は秦の祖父 の蔵書に『椿山集』あるを知りつつ、山縣有朋の家集としてただ一度の通読も卆読も果たしていなかった、そして今は、その少なからぬ作をおさめた一巻を尽く 自身の手と機械とで透き写し読み通している。この「新たな視野・展望」を慎重に熟読してみるのは確かに「悪くない一仕事」だと思って「湖の本 150」と いう中仕切りへの到達の記念ともしたのである。少なくも日本の詩歌に久しいよろこびを感じて触れてきた一人として、いまこの一巻の美しい家集を介し山縣有 朋なる史上の人となりをそれなりに読みかえしても必ずしも不当な無駄骨と私は思わない。所詮は「鬼の目になみだ」であれど鬼は鬼という評価はそうは動くま い、私はそれを理解している。私は長州出の山縣を以て同じ長州出の安倍某を揶揄してみたが、日本の近・現代史に徴してみれば、所詮は比較にならぬほど山縣 は巨魁であった、優れて有能な軍人であったが、反民権の鬼でもあった。それに比すれば今日の総理の安座然たる無能など、良くも悪しくもとうてい比べものに ならないのだ。

それでも、私は秦の「お祖父ちゃん」がかかる『椿山集』をまるで私の為かのように遺しおいてくれた恩を喜んでいる。私の眼は、この一巻に惹かれともあれパッと光ったのだから。

2020 6/15 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 皮膚の話

 

言われるまでもない。肉体の表面には、たしかに幾つか「穴」があいている。が、この際、穴には「目をつむろ」う。

話題は体表、即ち身体髪膚コレヲ父母ニウク、の「髪膚」両方といいたいが、毛髪のことは別扱いにして、皮膚表面に現われる話に限ろう。

以前は、大学病院やお医者さんの看板に、思いきりよく「皮膚・泌尿器科」と掲げてあるのを、ちょくちょく見かけた。それなりに理由がなかったわけでな く、専門の学術雑誌にも『臨床皮膚泌尿器科』というのがあった。この私、それを二、三年間も編集担当していた経験があるのだから、信じてもらいたい。とこ ろが、それがハッキリ二つに別れることになった。医学的に見て、皮膚科学はむしろ内科学の領域、泌尿器科学は外科学の領域に属すると考えたほうが、より正 しいからだ。皮膚病変の多くは広義の内科的異常の「体表」への現われ、という認識が一般化してきたことになる。

医学を学んだわけではない門外漢が、これ以上「ツラの皮突っぱって」カタい話をしても「化けの皮」はすぐ剥げる。まァ「ヒト皮剥いた」とてまるッきりの 「嘘の皮」でなし、およそそういうこととしておこう。その程度の責任ならとれそうだ――と、これで今〝からだ言葉〟皮の例を四つ出してみたのだけれど、ど れもいたって感じがよくない。なんとなく化けのホドの「皮算用」を「皮肉」られているようで、愉快でない。せいぜい「脱皮する」くらいが上等な方で、この 場合〃からだ言葉〟としてあまり上等の適例でなくても、受け入れておきたい。

思えば、「痘痕(あばた)も笑窪」というニクい「言いまわし」もあることだ、所詮は化かし化かされるように人の目をだまくらかすのが、皮や膚の、つまり「お肌」のハタラキではあったのだろう。毎度「お手入れ」の必要不可欠が鉦や太鼓で騒がれる所以でもあろう。

もっとも男五十の皮膚のハリだのツヤだのに「着目」すれば、ことここにホトホト極まってとても若づくりになんぞ、化けられない。全く落第、内からも外か らも「お手入れ」不十分のソシリは免れない。幸いその辺は、「にきびヅラ」に「アブラ汗」や「ヒヤ汗をかい」てこのかた、達観も諦観もとうの昔に極めてお り、いまさら華厳の滝へ跳びこむような不可解なマネはしないから「ご安心」だが、ご婦人連は本気で五十、六十なんのその、シミ、ソバカス、コジワの類に果 敢な挑戦をつづけられるらしい、さりとは平和な戦いで、男も協力を惜しんではなるまい。女の悪戦苦闘をよそに、男だけの「シワ伸ばし」即ち老後の気晴らし をこっそり愉しもうなどと、ウカと不平等な行為に出ては後生に障りかねない。ただし不平等の一点に限っていえば、皮膚や肌のために投下した生活資金の嵩た るや、男女の差はあまりに歴然、これを遺憾とするムキもあろう。が、そこはいとしや「柔肌」「餅肌」のため、「ヒト肌」「フタ肌」「もろ肌脱い」で男の 「気前」を見せたがよかろう。まぁナニにせよどうも「皮」や「膚」は「赤裸々」な感じがモロに出ていけない。〝からだ言葉〟としても「肌」の方がいい味が あって、事柄は微妙だが「肌をゆるす」なんてェのは、ビクンと来るではないか。「肌が合う」「肌ぎわり」も有難い、あまり皮膚科学的な話ではないが。

2020 6/16 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 内臓の話

 

「心臓やねぇ」といえばホメ言葉に近い。健康状態を論評したのではない。モノに恐れぬ「大胆不敵」を呆れ半分にホメたのである。今言う「大胆」と同義の 〝からだ言葉〟と見ていい。医者にお前の心臓は弱いと診察されれば青くなるが、自身で「おれ、心臓ヨワいんだよ」とやれば、これも〝からだ言葉〟になって いる。内臓をそのまま〃からだ言葉″に用いた代表例の一つだろう。「心」となると、むしろ別扱いに考えた方がいい。

なにしろ日本人の目に、内臓が内臓らしく識別され始めたのは、そう古い話ではない。『解体新書』からまだせいぜい二百年余り、しかも我々庶民が生み出す 〝からだ言葉〟には、「目に見えない」部分への知識がそう反映するはずがなかった。自然、「関心」も薄かったろう。今日の常識だと心臓なみかそれ以上に、 内臓として重い意識や関心を集めているはずの、胃や肺に絡んだ〝からだ言葉〟ふう表現は、予想どおり数少ない。「腸が煮えくりかえ」ったり、「腸がちぎ れ」そうだったりするのは、この際の好例と言える。にも拘らずこの「はらわた」という言葉も、胃とならぶ今日の腸とはややかけ離れた、あの「腑分け」の解 剖学的知識とは別もの、なんだか知らないが腹の中でどろどろトグロを巻いたあれやこれや、といった感じの「ワタ」だったかも知れはしない。それとも「切 腹」という物騒な武士の風儀がもたらした実地の「見聞」が、腸に限って人々の目によく見えていたということか。「腸の腐ったヤツ」という物言いに、そんな 事情も察しられる。

五臓六腑という。何と何が五で、何と何が六だか言える人がいたらオドロキだが、「カンジンかなめ」というぐらいだから、「肝」や「腎」は大切なものと名 は知られていた。ことに「肝」は「胆」とともども、「きも」と読まれて、なかなか〝からだ言葉″としても重きを成している。「どギモを抜かれる」のと「生 きギモを抜かれる」のと、どっちが叶わんかなァんて「キモが坐った」ような「キモが太い」ような、さも「胆っ玉」そうな「呑気」なことを言うていると、 「キモを冷や」し「キモを潰す」めに遭わないとも限らない。「キモに銘じ」ておいたがいい。と、まぁ、「耳馴れた」「言いまわし」が、順繰りに「口を衝い て」出る。

これに比べると、脳は、あまり「口の端」にのぼってこない。「脳味噌」にしても、脳の状態を形容してはいるのだが、はたして〝からだ言葉″と謂えるか、 疑問。いささか柄が悪いが、「脳天カチ割るでェ」などとやられた時の凄い効果のほうを特筆しておこう。新聞の一面でよく見かける「首脳」は、和製だか本来 の漢語だかにわかに判断できずにいるが、いずれにせよエラそうなイヤな感じで、私の好きな言葉では、ない。

いっそ「キンタマが縮みあがる」というのは、どうか。事実のママで〝からだ言葉〟とは言えまいとも、いやいや言い尽くせぬ微妙なところを、「腑抜け」ら しくオカシク言い得ていて、りっばに〝からだ言葉″だとも、言い得る。「腑抜け」呼ばわりされるのは、間抜け野郎と呼ばれるより、感じが厳しい。〝からだ 言葉〟では、「相手」を苛責なくやっつける批評語の多いことは明らかなのだが、私の場合、言われてイヤなのも、その実いちど経験してみたい気がするのも、 「腑抜け」らしい。どんなやろう。

2020 6/17 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 骨の話

 

「気骨の折れる」ことになりそうだが、「骨折り損」の「ムダ骨」をいとわずに「骨のある」話が出来るといいが。

「骨」はそのまま〃からだ言葉″になっている。「これぁホネだぜぇ」とやって、十分話は通じる。傘や団扇や扇の「ほね」をも意味している。

「屋台骨」「土性ッ骨」など、なかなか「気が利い」ている。頼みがいのあるものとして、骨は人の世の中でしっかり役に立っているらしい。期待に「背け」ば、たちまち「骨無し野郎」と「怒鳴られ」る。とても「骨惜しみ」はしていられない。

どこの「馬の骨」だかと「相手にされ」ない、また「相手にし」ない、ということが遺憾ながら世間には、まま有る。義朝公何歳の時のシャレコーべなどとい う、しゃれにもならないような話もある。話の背景に、骨つまり「おコツ」を大事に考えた(考えなかった)風習が偲ばれる。由ありげな骨かただの「馬の骨」 かを気にかけているのだ。骨を血と同じほどに、「身内」のものと強く意識していたからに相違ない。

「おコツ」はともかくとして、骨を「コツ」と音読みにしたものは大概が漢語になる。いきおい日本語の〃からだ言葉″とはしにくくなるが、「骨柄(こつが ら)」はどうだろう。「人品」と照応して「面白く」イキている例の一つに思える。「愚の骨頂」なども、「息づかい」からしてりっぱに日本的な〝からだ言葉 ″で通っていい。「老骨に鞭打って」「硬骨の士」の「気骨」を示すのなども、「骨ッぷし」があって「骨ッぽい」が、仲間入りさせてみてはどんなものか。

最近のちょっと耳に残る物言いに、「小骨が多い」というのがある。人柄や言動にチクチクしたものの「目だつ」のを言うらしい。ホメてはいない。が、必ず しもソシっている一方とも聞こえない。とかく人間も法案も「骨抜き」に遭うご時勢だけに、少々「骨立った」感じで頑張る人がいていい。さもないと、「骨と 皮」どころか「骨がらみ」「骨までシャブられ」て、「恨み骨髄」に徹するまもなく「骨なし」に成り果てる。むろん「骨の太い」のがいいに決まっているが。

それにしても、昔ほどは「骨」に人気は無さそうに思われる。うかうか「骨身を惜しまぬ」「骨折り」を求めたりしようなら、総スカンを食いそうな風潮になっている。

それよりは「骨休め」の時節のようだ。これにも理はある。

いったい、私くらいの年齢(=この頃、五十前後か)までがそうなのかどうか、あまり「骨休め」ということを考えない。なにか、いけないことかのように 思ってきた。休んでいると、「気がとがめ」るのだ。「あいつ、骨がある」と、先生や先輩や上司に言われるのを生きがいのように考えては、ガムシャラにナン でもカンでもやって来た。間違ったとばかりは思っていないが、たしかに疲れた。「骨の髄」まで疲れは通っている。これは、ひとり我々世代のものでなく、古 来、良かれ悪しかれ日本人に通有の性癖なのでもある。昨今の若い人が「骨惜しみする」としたところで、まだまだ程度の差に止まっているだろう。「骨身にし み」て「骨休め」を大事がっているのとは、違う。

2020 6/18 223

 

 

* むりむり話したいなにも沸き立ってこない。人間世界の意思が、私自身のそれが、沈滞し切っているのだろう。

漢文の幕末江戸の地誌を克明に読み解いて行くのをいっそ娯楽にしている。終始ほぼかなもじで書かれた物語があり、和漢混淆の史書があり、漢字だけでの趣味の本もある。和歌有り俳句有り漢詩漢文がある。日本人のこれって、けっこう「トク」をしているんやなと思う。

2020 6/19 223

 

 

* 明日は桜桃忌。太宰治賞をうけて、満五十一年めになる。湖の本創刊から満34年、150巻を積み重ねてきた。雑誌ではない、総べて定価がついての優に 単行書並みの量、そして秦 恒平個人の創作と文筆とで出来てきた。日本の近代文学に例を見ない。たぶん世界でも稀有と思う。

「コロナ籠居」の日々で、どこへも出かけない。妻と二人で乾杯か。

2020 6/18 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 血の話

 

人間関係の一番濃いのが「血縁」だという考えかたは、分からぬではない。だが一番大事なものかどうか、私は、そうは考えていない。兄弟は他人の始まりと いうし、その実例はやたら多い。親子か夫婦かといえば、私はためらいなく夫婦が大事と言う。親子は神様の領分だが、夫婦は人間の理性と責任とで結び合った 関係だ。危なッかしいのも事実だけれど、それだけ人間的だし倫理的だ。「血の紐帯」より、出逢いに賭けた愛と理解のほうが貴い。

親は子に、子は親に、求め過ぎている。その度が過ぎたところに「血筋」社会が出来てくる。門閥だの階級だの世襲だのと、ロクなものはそこから生まれてこ ない。いろんな戦いが人間世界にはあるが、いずれにせよ「血を引い」た「血筋」「血続き」の繁栄や権勢の維持に「血道をあげる」ところから「血なまぐさ い」戦争は起きてきた。「過言」ではないのだ。「血ィ見るでぇ」という脅し文句には、尻ごみした方が自然だろう。脅しに負けず反抗できれば、越したことは ない。「血迷った」「血眼」で「血で血を洗う」「血まみれ」の「血祭り」になんぞ、参加しない。「血刀」かざして「血煙をあげ」「血の雨を降らす」騒ぎ ほ、「血の池」地獄で鬼さんに任せておけばけっこうだ。

だが「出血大サービス」は、ちょっぴり歓迎したい。「無血革命」などは夢の夢だけれど、可能ならば、結果の是非にかかわらず、一度どこかで理想的に実現 してみたいと「空想」している人は多かろう。毎日の新聞を見ていると、「血も涙もない」人がこの世の中に本当に、いる。だから驚き、だから恐ろしい。自分 は例外だとは、容易に言い張れない、いや言い張れるものでない。やりきれない「気持ち」だ。ドンづまりで、どこに「血路を開い」ていいのか「見当」がつか ない。

予測はしていたが、「血」の話、「血の気が引く」話になって行く。それだけ文字通りに血は大事なのだ。これを失なえば、確実に命の危険に繋ってくる。逆に、命に危険が迫れは「血相が変わっ」てくる。「必死に」なる。

「必死」という言葉も、辛か不幸か軽くなっている。せいぜい「頭に血がのぼった」程度のことを言っている。そうそう「王手」ばかりかかっては叶わないか ら、その程度で有難いわけだけれど、タマには「血相変え」て、真実「心血を注ぐ」ほどの仕事を仕上げたい、と、誰もがそう願い、だが誰もがなかなかそう出 来ないでいる。何故だろう。

体液の循環を「血のめぐり」という。しかし、「血のめぐりが悪い」というと、これは医学的にいう循環とは違う。説明を要さぬハナシではないか、結局は 「血」の話で一番の要点は、この「血のめぐり」が「いい」か「悪い」か、ということに懸かってくる。「血の道」順調で「血色」がよくなるというハナシでは ない。ことは健康の問題からハミ出て、極言すれば政治的な問題なのだ。自民党にノホホンと何十年も連続して政権を預けっぱなしで、好き放題にされていると いうのも、単に野党の「血のめぐりが悪い」から、つまりバカだからという問題じゃなく、行きつくところ、我々国民のアタマの問題なのだ。

2020 6/19 223

 

 

* 山形の「あらきそば」さん、久しいお付き合いの又三さんがおしくも亡くなられ、娘さんの手で、今日、此の桜桃忌にもどっさりと見事な珠玉桜桃を賜っ た。ほんとに嬉しい。心より御礼申し上げます。お父上に何度も誘われていたのに出向けぬママのお別れとなったのが、残り惜しい。そして「あらきそば」さん を湖の本の読者にとご紹介下さったあの福田恆存先生の温かな御厚意も懐かしく有難く思い起こされる。大勢の方にお力を戴いての半世紀を超す創作と執筆と出 版の日々であった。有難い日々であった。すぐ目の前の谷崎先生御夫妻の写真にも目をむけ、感謝している。

2020 6/19 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 筋・肉・体の話

 

「にくし」「にくにくし」とは言うが、古いところでは、あまり「肉」という字や言葉に出会わない。それだから、明治になって、若々しいインテリたちがしきりに「肉の悶え」や「肉の悩み」を書きたてたのが新鮮だった。

もっとも私くらいの昭和ッ子になってしまうと、新鮮の度合いがぐっと薄れて、むしろ「肉」「肉」と見るつど古臭い感じがしたのも事実だった。

肉と血とを並べると『ヴェニスの商人』を思い出す。愉快な劇ではない。ニクい。「骨肉相喰む」のもむろんイヤだが、人種や信仰の違いから互いにムチャを やり合うなど、人間の叡智ごときでは超克のとうてい不可能な、畏れ多いがこれは、神の犯罪として根源から糾弾なさるべきことではあるまいか。

「肉」の〃からだ言葉〟は多くない。ひとつには訓読みが利かないので、「肉体派」だの「肉感的」だの「肉筆」だのをどう扱うかに惑ってしまう。「肉眼」 「肉親」「肉声」「肉欲」みなよく使う日本語になり切っているので、我々の〝からだ言葉″としてこの際登録しておきたいのが、私の「本音」だ。

「中肉中背」など妙に生まぬるい感じがまた象徴的に日本的で、よく謂えている。「肉がつく」「肉づきがいい」などはチョット直かづけの「気味」があるうえ に、このところの悩みの種なので「気分的」に重いけれど、「肉づけ」は「一味違う」なかなか有効な〝からだ言葉″、ことに物書きなどは忘れてならない「肝 腎カナメ」だ。

「肉太」「肉細」も批評面で応用が利く。「皮肉る」感じにも使える。

筋肉、筋骨というわりに、〝からだ言葉″に「筋」ほはとんど意識されていない。概念が異なるとすべきだろうが、この字はむしろ「すじ」と訓まれ、こうな ると「無視」できぬものがある。「筋を通し」て、「本筋」「道筋」に適うという行き方や考え方は、少なくも過去には道理として尊重されてきた。「一筋に」 という形容も愛された。「この一筋につながる」は芭蕉翁の名文句、大いにシビレた。

もっとも「スジ」とは何ぞやと開き直られると、これが「一筋縄で」括れないから困る。額に「青筋立て」てよくよく考えると、意外や「背筋が寒くなる」よ うな日本の歴史の深部や暗部に陥らないとも限らないから、「スジ」の話は恐い。ウカツにできない。「筋違い」か「筋目正しい」か、とかく「筋がいい」の 「悪い」のと「気にする」日本人だけれど、それもせいぜい技量技術の「手筋」の面に限って欲しいもの、「血筋」や家柄がものを言い過ぎる社会はヒズんでい る。

肉体の体は、肉よりは多少読みに融通が利く。この「体たらく」で「体裁がわるい」が「有り体に言えば」相手が「無体」――といった調子になる。この手の 「体」は「面体」や「体面」や、また世阿弥ふうにいう「風体」と一緒で、かなり態度の態に通い合っている。「失態(体)を演じる」というのも、そのクチだ ろう。「体あたり」「体をかわす」はやや直接で妙味に欠けるが、土俵ぎわでの相撲のもつれから意味の広がった「死に体」という謂い方は、応用の範囲も微妙 に広く、使い方しだいで言葉が「面白く」生きてくる。

2020 6/20 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 性器の話

 

性器の話は、露わにはしないのが心づかいというものだった。暗黙どころか瞭然の約束事だった。しても、さほどおもしろ可笑しい話になる道理がなく、強 いて「可笑しがって」みても、いつか「天に唾する」に似た陰気な所へ陥ち込むのがオチ。せいぜいのところ、大きい小さいの、太い細いの、また深い浅いの、 狭い広いの、と、ヨタな評判や自慢話で終わる。どう性的な〝感じ″を探ってみても、所詮は「上っ面」をクスグリ撫であう程度のことになる。

現に性器の名前をハキとは口にできないで交わす会話であってみれば、隠微に終わるのは当然だろう。その隠微さが好ましくてワイ談を愛好し得意にする名人 の少なからぬことも噂に承知しているが、ある意味で「からだ」の中のからだに触れた会話でありながら、隠微・淫靡が本来のワイ談では、まともな〝からだ言 葉″は登場の余地がない。隠語を駆使して暗示の効果を愉しみあう習いだからだ。医学的な名称など、もともと関係がない。「陰茎」「睾丸」「亀頭」あるいは 「膣」「陰唇」「子宮」などを熟して、面白い〝からだ言葉″にした例を、私はまだ、目にも耳にもしたことがない。例えばその形から推したのであろう「きん たま火鉢」とか「きんたま柿」なども、そもそも「きんたま」が一種の隠語である上に、〝からだ言葉″としては全然熟していない。

では、性器は我々の会話のなかで全く活かされない、使われないのかというと、そうではない。少なくも青・少年や幼児らの世界にあっては、何らかのかたち で、その種の言葉づかい・物言いが無くて叶わない。何らかのかたちというのが、おそらくは隠語に類するその土地土地の方言だろうと考えられる。必ず、そう いう方言を蒐めた本がすでに何冊も世に出ているに違いない、それほどに、男女の別なく性器を意味する方言は、全国的におびただしいであろう。残念ながら私 にはその方面の知識や情報は極めて乏しいので、的を射た「物言い」はできないのだが、幼かった昔や、戦時中に疎開していた田舎での国民学校生活を思い合わ せて、少なくも、ここまでのことは自信を持って言える。ただ、その実例の一々を挙げて何らか回顧する、解説するというのは、不可能だ。「口に出来ない」の だ、日々に口にし耳にしていた、その時々の気恥ずかしさがみるみる蘇えってくるから。

私の場合は、京都の市内か、府下丹波地方の南寄りでもっぱら使われていたものに当たるが、その後に東京へ移り住んでからタマに聞いたその種の物言いは、 関西でのそれと甚だ異なっていた。確かめないととてもそれとは合点できない例も、ママあった。従ってまたそれは、私自身でかりに口にし字に書いても、さは ど恥じらいやためらいは覚えない。「ペニス」とか「ワギナ」とか外国語を口にする時の同じあのカラリとした感じが、まるで隠微な気分を振り払ってしまうの である。自分の根ッことそれらとは直かに触れ合うてはいないのだから、といった安全感や無縁感が働くらしい。言い換えれば、その種の言葉づかいこそ、人さ まざまな出自を支持し保証し証言している。「オマンコ」と聞いても見てもヨソごとめいて平気な内は、東京に四半世紀(今や61年)を閲(けみ)して今もっ て私は京生まれ京育ちの「オメコ」人の域を抜け出得ていないことになる。その辺を巧く説いた心理学や社会学が欲しい。

2020 6/21 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 排泄・分泌物の話

 

からだから排泄し分泌した物を、即「からだ」呼ばわりもなるまいが、しかも 我々が日頃「からだ」を意識する機会としては、否応なく、唾、鼻汁、汗、糞尿、涙、垢、乳汁さらには目やに、鼻くそ、歯垢の類を、見たり、触れたりする時 が、とくに濃厚、強烈かつ具体的なのではなかろうか。時と場合で、「からだ」以上にからだを感じるのが、その種排泄・分泌物との付き合いだと言えなくもな い。当然〝からだ言葉〟に準じた表現、少なくない。「無視する」わけに行かないだろう。

「なにクソ」「くそッ」という物言いは、人によって眉をしかめるかも知れないが、私は大事に思っている。「クソぢから」「クソ度胸」「クソ勉強」「クソ 落ち着き」「クソ真面目」など、どれを採っても、必ずしも人や事態を謗った「物言い」とは限らず、むしろ、いささか呆れ気味にではあれ、なにか感じ入って 「ワルい気持ち」はしていない、と聞こえる。エェィ「やけクソ」だァとやっつけるのにしても、ただのやけに「クソ」が加味されて、けっこうスカッとしてく るのだから、この効果は面白い。

「くそ」の実益は、仮りにも農業国のこと、十分理解は行き亙っていたろうが、これが言葉の面でも公に市民権を得てきたのは、何時の頃からか。強意の助詞 の「こそ」と繋がりが有るかどうか。だが、あまりに深入りして、スカトロジーの何のと「クソ味噌」にやられても困る。余分な「冷や汗」はかきたくない。

ところで「冷や汗」が即座に〝からだ言葉″かどうか微妙にせよ、これを「冷や汗モノ」と使えば、もうこの汗、別モノになっている。

では「血と汗の結晶」なンか、どうだろう。表現のカタさは気になるが、こういう認識や評価がなされることの意味なり意義なりは、軽く見過ごせないだろう。

話変わって、塩ッばい汗、つまり「涙」の出番。「ナミダ、ナミダです」「ただ、涙です」などと、言わば実況の描写がされることが、ある。実の涙が、その 実質を超えて状況化されている。ただ泣くという行為より、もっとヤヤコシそうな事態がヤユされてさえおり、俗筋ではあるが、ニクい表現には相違ない。

「血も涙もない」が、表現としては「手垢にマミれ」てきたが、「すずめの涙」の「涙金」といった「涙ぐましい」ハナシの方は、渡る世間にあとを絶たない。「泣きの涙」では悲しい。「ソラ涙」の「お涙頂戴」も、もう、けっこう。

どんなに「固唾をのむ」試練のあとでもいい、真実「うれし涙」がこみあげるようなメに一度逢ってみたいものだ。

ただし「なま唾」ゴックンといった場面や物言いは、時によりけりで、そう毎度願ってはいない。やたら「唾をつけ」てまわる意地汚ないのがいるものだが、 所詮「天を仰いで唾する」結果に終わりやすく、そんな「手合い」はとかく「乳臭い」「小便臭い」「ハナ垂れ小僧」扱いされるのがオチ、「ハナもひっかけら れず」「庇とも思われな」くなってしまう。そうなってからでは「くそッ」も「なにクソ」も容易に間に合うまい。テキは「生あくび」か「高いびき」か「おく び混じり」に、「くそ喰らえ」とでも「尻目に」ホザクことだろう。

 

* 「からだ言葉」が生めてなかったら、どんなにもの言い、不自由でしょう。

2020 6/22 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 身・体の話

 

「からだが元手」という時の「からだ」には「こころ」の働きも含まれている。「命」 があり、「生きとし生ける」といわれる状態は、まともに「からだが動い」ている「安心」と切り離せない。その「からだ」は、漢字では普通「身」「体」と書 き表わしている。「心・身」と対に考えている。「身・命」ともいう。同じ「からだ」でも「肉体」に比べ「身体」は、より多く広く、深い意味に関わっている ように見える。〝からだ(身体)言葉〟の多さ面白さがそれを証してくれる。

「生身なンですからね」と、「身にこたえる」痛みに顔をしかめる時がある。この「生ま身」の感覚が「相身互い」にもっと徹底するといい。かなりのトラブ ルが未然に防げるだろう。「身にしみ」「骨身にこたえる」体験が互いに重なり合ってくれば、そのために起きる争いより、避けられる戦いの方が多いのだと思 いたい。「勇気」から、「用心」から、「情愛」から、たとえ「臆病」からであってもいい、時に「身を引く」という配慮や、「身を慎しむ」という思慮を働か せたい。「身がまえ」「心掛け」とは本来そういう「気働き」であっていい。

「身だしなみ」「身づくろい」「身じたく」「身を入れる」「身を以て――する」「(相手)の身になる」「身持ちをよくする」「身につける」「身を粉にす る」「身を捨ててこそ浮かぷ頼もあれ」などと、思いつくまま拾ってみて、「この身」一つが、なかなか目に見え手に触れているだけの「からだ」ではないと分 かってくる。

たとえば「身分」という厄介な「身の程」への分別がある。いろんな「身勝手」がこの分別の濫用から生まれてくる。「身の上」が即ち「身上」「身代」の差 になり、「身の毛のよだつ」生き地獄を人間同士で実演しはじめる。「身の者」「身内」への「身びいき」が複雑な「コネ」の世の中を形作って行く。なにかに つけ「出身」が問われ「身元調べ」が横行する。「肩身が広い」の「狭い」の、「身に余る」のと「気にし」ながら暮らす人が、またまた戦後四十年(=今では 七十五年)してやたら多くなりつつある。ヌクヌクといつも「身銭を切ら」ずに済む連中と、「身を切る」思いで「捨て身」「死に身になって働い」ても報われ ない者とが相変わらずある現代日本なのに、恐いのほ、それを「一笑」して全く信じない「気楽な」人が、いわゆる知識人にも多いことだ。そういう「手合い」 の「日本」はというと、「東京」のことでしかないのだから始末が悪い。だが、東京の内でさえ今謂う亀裂や格差は歴然と存在している。知らんぷりしているに 過ぎない。

「身ぐるみ剥ぐ」なんてイヤだが、「剥がれる」のも真ッ平だ。お互いが、剥ぐ剥がれるのギリギリへせめて追い込まれずに済む程度の此の世であって欲し い。「身代わり」に十字架にかかって下さる方も見つかりようのない末世の悲しさ、「身を守る」のに絶対の集団保障も望み薄になってきた。「身も蓋もない」 話だが、「身も世もなくな」らぬ前にまず「身近」なところから一つ一つ体制の「身勝手」をチェックし、「先手の勝負」をかけざるをえない土壇場へもう来て いるのだと、「身にしみ」て納得し合いたい。

そして「身の終わり」に一つ、世にも美しい切ない「身を任せる」という一語を挙げておきたい。

2020 6/23 223

 

 

* 私の知る限りの過去に、「山縣有朋」を語って、評して、『椿山集』にもふれていた一例も記憶がない。刊行の際すでに「編輯兼發行者」養嗣子公爵「山縣 伊三郎」の名で「非売品」と奥付に明記された特装美本であれば、心知った、ないし係わりの先々へ遺族からの寄贈品であったろう。たまたまと謂うよりない、 その一冊がいつか市井に溢れ出たのであろう、大正末ないし昭和初にかけていつ頃か「秦の祖父鶴吉」が手に入れていた。祖父の思いは察しもつかないが、上 の、東都の椿山荘に遠からぬ暮らしといわれる「ばあさん」と同じに、私も、この「有朋家集」を読まぬうちと、読んでのちと、「元帥山縣」を観る目と思いに 明らかに添えて加わるものの有ったことは、とても否認・否定できない。

私は現代の文士であり。「日本の言葉」を用い、詩歌をふくめ文藝・創作を衷心受け容れてきた八十四老である。尊皇倒幕と明治維新を経てほぼ大正時代を通 じ表向き「元勲」として生きた一軍人政治家に、かように私的私情の文字と言葉の慎ましい「表現」も在った、在りつづけた事実を、また一面の真実・真情と受 け取るのは、こと「人物」の観察・批評に及ぶかぎり妥当で至当の姿勢と思わずに居れない。「湖の本」の読者に同様の反応や感想のうかがえたのも自然な情意 であり、むしろ「有朋詩歌」には自身触れぬままの「山縣嫌い」だけが吐き出されていたのなら、ま、余儀ないことと、私自身も強く思い合わせて頷くしかある まいが、私は「秦のお祖父ちゃん」のお蔭でこの『椿山集』と出逢えたのを、やっぱり。「よかった…よ」と思っていて、それを羞じない。

 

* 何とはまだまだ明かせないが「新しい仕事」になる筈の「用意」や「検証」にすでに取り組んでいてる、が、大方参照する本の活字は小さく、古く、ひどく難しく、目の負担で、とてもつづけて長時間は取り組めない。

慌てる必要も、無い。亀のように歩いて行く。

2020 6/23 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 心の話

 

〃からだ言葉″の議論に「心」とは何だ、と詰問されたら返事に窮する。が、一応の大人であれば、永の歳月かけて、「こころ」と「からだ」とが如何に緊密に、いや緊密過ぎるほどに絡み合い食い入り合うていて、引き離すに離せない事情が、つくづく合点できていそうなものだ。

そんなこと「意に介しない」とは、言うておれないのが「こころ」と「からだ」との余儀ない仲らいであって、どっちがどうと言えない、何ごとにつけて「鐘 と撞木の間(あい)が鳴る」ぐあいに「こころ」と「からだ」は互いに押し合い引き合いしながら、我々に日ごろ「生きている」実感を与えてくれている。くれ なくてもいいと言ってみたところで、この協働は人間が死ぬるその日まで、それこそ我々の思惑など「意に介する」ことなく続くのだと受け入れるしかない。

身から出た錆は心の吹き出物  恒平。

意志や意見や意地は、ことに「こころ」の働きとして大事なものと誰も承知している。「意を尽くす」「尽くせる」ことがどんなに「心ゆく」もので、それが また「からだ」のためにもどんなに有難いことか、ストレスという、もう嫌ほど耳なれた言葉を思い出すだけで、十分だろう。「意を察し」「意を体し」て思う さま動いてくれる人が「身方」にあれば、それはそれで「わが意を得た」「得意」の状態と言うしかない。人生、「意中」の人と「心を許し合」えれば、「相 手」が男でも女でも、それが幸せと言っていいだろう。「入魂(じっこん)の仲」とはこれで、こういう出逢いに恵まれて、もう「死んでもいい」といえるよう な時、人は一番生き生きしている。

「心おきなく」「心ばかり」「心尽くし」「心を寄せる」「居心地」「心細い」「心づもり」「心持ち」「心無い」などと、いい表現が「こころ」の周辺には 数多くある。その用例を丁寧に当たっていって、日本人の心の有様を具体的に見直す「試み」が、学者さん、必要ではないですか。

えてして「こころ」のことは、抽象的・観念的になってしまい易いが、それを避けるには、こうした言葉が実際に用いられている現場へ立ち戻って、一つ一つ に「心配り」の利いた観察をするしかないと私は思っている。いわば〝こころ言葉″が古来沢山ある、そして使われてきたということは、「こころ」の現場や歴 史がそこに在るということでもある。

「こころみる」という言葉を我々は、試みる意味に取り過ぎてきた。本来の「心見る」意味で謙虚に自分の「心の内」を「心静かに」よく見なおす時間も持た ねばならぬ。今では、日常せわしなくてとても「心見」ていないようだが、それでも古来の伝統はなんとなし生きていて、日本人の社会には「心比べ」「心競 い」という風が根強く残っている。気の付かない人は、従って日々にその比べや競いに知らぬ内に負けていることになる、例えば年賀状一枚にさえ、いつ知れず 自分が批評家の立場に立ち、字の巧さ、趣向のよさ、文言の適切さ、といったことを一々に品評しながら、自然それを差出人の「心ばえ」「心入れ」の評価、い や人柄の評価にまで及ぼしているのに気づくはずである。あの『源氏物語』や『枕草子』の昔に、いかに「心競い」が日々激しかったか、武器こそ使わないがな かなかのそれは大戦争であった。

往々、文化は、こういう「こころ」の戦争に鍛えられてきたのです。

2020 6/24 223

 

 

* 倒幕維新の原動力になった「薩長」両藩に、共通して、特徴的な苦い一大体験のあったことは、ともすれば忘れられがちだが、西欧列強の軍艦に、鹿児島 を、下関を、強烈に砲撃され、なに為す術なく屈服した過去があった。どうお侍たちが槍や刀を振り回し弓を引いてもお話しにならず、奇兵隊の隊長山縣狂介も あえなく手ひどい負傷を体験している。軍人山縣有朋にとって此の体験こそは決定的な認識になったろうこと、察し得て余りがある。

外国に、戦争を仕掛けては、いけない。しかし、外国から戦争を仕掛けられては絶対ならず、仕掛けられた以上、国土と国民のためにも絶対に負けられない。が、負けぬ為にはどうあらねばならないか。

山縣有朋の生涯は、この一点を「不動の基に堅い信念」となって築き上げられただろうと思われる。徴兵制、軍人勅諭、強力な陸軍(海軍)の創設と構築と強化、列強に対峙できるだけの不断の軍拡に国家として費用を掛けても「備え」続けること。

これらを、即、山縣有朋の「悪」「欲」と決まり文句に決め付けてばかりで、当たっていたのだろうか。軍艦からの砲撃に縮み上がったまま、相変わらず二本 差しのお侍たちに国防を任せ得たろうか。朝鮮、清国、ロシアとの紛争や戦争に日本がともあれ負けなかった、征服されずに、むしろ勝ったとも謂える優位の講 和が出来たどの場面でも、山縣有朋は外交をも含む終始知謀の参謀であり、事実上の最高指揮にいつも当たっていた。

この点のみに就いて云うなら、「時代」という問題もふくめて、山縣のおそらく真意とよめる辺へ、ただただ無批判な批判を加えるだけで済むのかナと、私は、『椿山集』の詩歌ともしっかり触れ合うて、しばし、立ち止まった。考えてみた。

「戦争はしなくていい」と山縣は、征韓論にも西南戦争にも慎重であった。しかし「外国から戦争を仕掛けられたなら、日本は、決して「敗北」してはなら ぬ、国体と国土と国民を「占領」されてはならぬ、それには日本国の自力で備えねばならぬが、「備える」とは何を謂うのかと、闘い勝てる力とは、軍の統率・規律であるとともに相応に強力な防備と戦闘力の用意・蓄えであったろうとは、常に常に山縣は考えて確信していたろう、そう、私は ぼんやりとでも、今は、山縣有朋という人を少しく想い直すのである、「反民権」等々の、真っ向責めたい、責められて当然な「悪」項目の、他にも幾らも有ることはよくよく承知 し認識しての上で。

2020 6/24 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 気の話

 

「気イつけなさいや」と子供の頃に、親や先生から声をかけてもらった。今では同じ言葉を自分の子供たちや女房に向かって日々投げかけている。いささか呪 (まじな)いめいてさえいるが、だが大事な一言という自覚はある。「気がつく」「気付く」とは、何と嬉しいことだろう。時にはそれが煩わしいことも確かに ある。が、「気を失なっ」ているばかりでは、人間、生きていることにならない。

お元気ですか、僕も元気です。これがまァ少年時代の手紙の、他に知恵のない書き出しだった。理屈を言えば「元気」など、やたら小難しい語源があるに違い ないが、今の日本人で、これくらい気楽に、親愛を籠めても籠めなくても「口にしている」言葉は、そう無いだろう。だが、誰もがまた、この元気の「気」の字 が、電気、空気、磁気、意気などの気と一緒だ、ハテ、と一度は思い至ってにわかに哲学者になった「心地」も味わって来たのではなかろうか。儒学とりわけて 宋学の話をするなら知らず、ここで「気」の詮議は思いもよらないが、〃からだ言葉″との関連なら「気を入れ」ないでは済ませない。

「人気」も、「人け」「じんき」の意味ではあまり問題はない。が、「にんき」となると、これは古来の大課題の一つ。人類の歴史は、ひょっとするとこれこ そが動かしてきたか知れやしない。なにを大層なと思う人は、幼来うかつなのだ。いつ、どの社会なり場所なり歴史にも「人気者」が必ずいて、その存在の言う に言われぬ不思議な支配力や「陽気」な魅力について、その時々につくづく物を感じなかった人は少ないだろう。天性の人気と、大がかりに人為的に演出される 人気との違いにほ、ぜひ「心し」なくてはと用心しつつ、つい今日では宣伝の威力に翻弄され、泡のような人気に人は容易に振りまわされている。困ったといえ ば、現代これほど困った苦々しい話はない。

「気配」という言葉が、また、私には「気になる」が……。株式用語としてではない。「目にはさやかに見えねども」感じとらねばならぬ「気配」のことだ。 どうも、その種の本能的・動物的な鋭さが、この世の中で少しずつマヒして行ってはいないだろうか。何かしらタカをくくって生き過ぎてはいなかろうか。気配 を「気くばり」と書き直しても同じだ。いろんな意味で、人間と言わないまでも、日本人が小器用になって行く一方、本質的な部分で鈍にもなりつつある「気が して」ならない。そこを衝いて『気くばりのすすめ』などという本がバカ売れするという。「気色の悪い」ことだ。

ちょっと、我々、「いい気になっ」ていないか。現状にへんな具合いに満たされ「自足している」なんて「気味が悪い」というあたりが、一番「正気」ではな かろうか。それとも私が「気取って」いると言われるのだろうか。あまり「気を病む」と「病気」するぜ。こんな物言いをされてしまうだろうか。

「病は気から」とも謂う。同じ事をこういろいろに謂うのは、大袈裟に言うと真理だからだろう。たしかに「気づまり」では困る。何事にも「気乗り」がする ようでありたい。「気に入り」たい。それに引きかえ「気の毒」とは、なんとニクい表現なのだろう。この毒、他人に食わせたくないし、まして自分の口にも入 れたくない。

「気疲れ」するなァ。

2020 6/25 223

 

 

* 倒幕維新の原動力になった「薩長」両藩に、共通して、特徴的な苦い一大体験のあったことは、ともすれば忘れられがちだが、西欧列強の軍艦に、鹿児島 を、下関を、強烈に砲撃され、なに為す術なく屈服した過去があった。どうお侍たちが槍や刀を振り回し弓を引いてもお話しにならず、奇兵隊の隊長山縣狂介も あえなく手ひどい負傷を体験している。軍人山縣有朋にとって此の体験こそは決定的な認識になったろうこと、察し得て余りがある。

外国に、戦争を仕掛けては、いけない。しかし、外国から戦争を仕掛けられては絶対ならず、仕掛けられた以上、国土と国民のためにも絶対に負けられない。が、負けぬ為にはどうあらねばならないか。

山縣有朋の生涯は、この一点を「不動の基に堅い信念」となって築き上げられただろうと思われる。徴兵制、軍人勅諭、強力な陸軍(海軍)の創設と構築と強化、列強に対峙できるだけの不断の軍拡に国家として費用を掛けても「備え」続けること。

これらを、即、山縣有朋の「悪」「欲」と決まり文句に決め付けてばかりで、当たっていたのだろうか。軍艦からの砲撃に縮み上がったまま、相変わらず二本 差しのお侍たちに国防を任せ得たろうか。朝鮮、清国、ロシアとの紛争や戦争に日本がともあれ負けなかった、征服されずに、むしろ勝ったとも謂える優位の講 和が出来たどの場面でも、山縣有朋は外交をも含む終始知謀の参謀であり、事実上の最高指揮にいつも当たっていた。

この点のみに就いて云うなら、「時代」という問題もふくめて、山縣のおそらく真意とよめる辺へ、ただただ無批判な批判を加えるだけで済むのかナと、私は、『椿山集』の詩歌ともしっかり触れ合うて、しばし、立ち止まった。考えてみた。

「戦争はしなくていい」と山縣は、征韓論にも西南戦争にも慎重であった。しかし「外国から戦争を仕掛けられたなら、日本は、決して「敗北」してはなら ぬ、国体と国土と国民を「占領」されてはならぬ、それには日本国の自力で備えねばならぬが、「備える」とは何を謂うのかと、闘い勝てる力とは、軍の統率・規律であるとともに相応に強力な防備と戦闘力の用意・蓄えであったろうとは、常に常に山縣は考えて確信していたろう、そう、私は ぼんやりとでも、今は、山縣有朋という人を少しく想い直すのである、「反民権」等々の、真っ向責めたい、責められて当然な「悪」項目の、他にも幾らも有ることはよくよく承知 し認識しての上で。

加えて謂う、どうか思いのある人には思い出して欲しい、大政奉還からのち、伏見の闘いなどあって徳川慶喜は大阪から船で江戸へのがれ、京都では朝敵討つ べしと錦旗をかかげて各道から江戸への大軍を送った。この時であった、幕府は西欧国の支援や介入の申し出を「はっきり謝絶」した、江戸を征討の朝廷政府も また西欧列強の支援を截然と謝絶していた。京都と江戸とに、この点の申し合わせは一切無かったのだ。しかも両者とも明確に手出しを謝絶した。既に不平等条 約を押しつけられていながら、きっぱり無用の介入を断ったのだ、維新以後の日本の歴史を顧みて、後世が真実当時に心から感謝を覚えていいのは、何よりこの 一点であったろう、深く頭を下げたいと思う。

何故であったか。説明が必要か。維新の「元勲」たちは、その人格や経歴を多彩に異にしていて、なお「日本」を「日本人」の手でこそ守らねばと信念を侍し ていた、そう思いたい。それなくて、以降、韓国朝鮮や清国やロシアや、欧米列強との思惑や軋轢や戦争をどう小さな島口日本が対処し得たろうか。戦争はしな いのが良い、しかし戦争を仕掛けられたら負けない対策がなければならぬ。三百年の鎖国を体験してきた日本は、世界の一後進小国に過ぎなかったのだ、幕末 も、維新後も、大正時代になっても、なお。山縣有朋はそんな時代の日本を護るべき地位に、、その中枢に、先頭に位置していた。『椿山集』を読んで、心新た にそんなことへも気づいたといえば、私は迂闊であったとも、ものが見えてないとも謂われよう、か。

2020 6/25 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 息・脈・声・言葉の話

 

「そりャお笑いだ」「叫び声をあげよう」「ウナッちゃったぜ」「風のささやき」など微妙に元の笑う、叫ぶ、うなる、ささやく、から離れている。その分の 効果が出ている。坂田三吉の名文句「銀が泣いている」にしてもそうだ。端的に「天の声」も、広義の〝からだ言葉〟に数えていいのではないか。「脈がある」 「息をしている」とは、即ち生きているのだし、そういう生理もまた「からだ」の「からだ」たる所以に違いない。

「脈がある」は「味のある」言葉だ。いかにも命が生きて繋がってくれる安堵がある。命に限らない。仕事でも恋でも、同じだ。「脈がないね」とやられて青 くならぬ人はない。だからこそ「脈々」とか「血脈」とか「気脈」とか、ずばり「命脈を保つ」などという言葉が大切に今も用いられるわけだ。私らの領分では 「文脈」の確かなことが大事だし、新幹線が、いくら問題はあるといえ、日本列島の今や「動脈」であるには相違ない。

「声」となると、ここに「ことば」との関係が生まれる。新聞に「声」の欄があるのを、誰も文字どおりには取らない。「発言」の意味は紛れなく生きる。「ことば」がそこで働く。紙面を介して互いに「声をかけ」合う意味がある。

「名声」は、純然の日本語ではないかも知れない。「声名高い」という「物言い」もする。が、この声、表現的には「味がある」。そういう「声に踊らされ る」ことが無いではないだけに、要注意。そうも思いながら「地声」「作り声」「裏声」という言葉を吟味してみると、人の「声つき」も、「どら声」や「奇 声」ぐらいはまだしも、おろそかに聞いていては危ないなと、一寸反省させられる。

むろん「言葉づかい」となるともっと慎重さが要求される。「言葉が足りない」ことからどれだけの紛争が起きているやら、計り知れない。もっとも「百万 言」を費せば足るわけでもない。そこが言葉の大事でも難儀でもある所で、所詮は活かすも殺すも人間しだいということに落ち着く。言うまでもない、言葉はた だの遊び道具ではない。それなりに精一杯の遣い方がある。それを知ってか「知らぬ顔」をしてか、「勝手に」捻じ曲げて使うのがトクという連中も世間には多 い。しかもその輩が金と力とを持っている。文字と言葉を支配するのが、もう一つ加えれは暦(時間)を支配するのが、独裁への十分に近い必要な条件だった。 歴史がそう証明している。「声を失い」「言葉を失う」のは、まさに敗北の印なのだと、よくよく「胆に銘じ」たい。「息をひきとる」のは、まだ早過ぎる。

「ため息がでる」「もう一息」「息をのむ」「息が切れる」「息巻く」「息の緒」「息の根」「息吹き」「息が合う」「息が通っている」「息をつく」「息づ まる」など単に呼吸以上の、いい「イキの通った」言葉に出来あがっている。と同時に「息」が「生き」だという事情もよく伝ええている。うまく使えば、「息 苦しく」なった表現に「息を吹きかえ」させるのも不可能ではない。

ところで、「息む」と書いて「イキム」なら全身に力を込めて頑張るのだが、「やむ」とも読む。「息」にはとかく、停まり、絶える不安がつきまとう。

「息長く」ありたい。

2020 6/26 223

 

 

* 昭和四十四(一九六九)年の桜桃忌受賞から、まる五年で医学書院を退社自立し、以降十年、あわせて十五年間の、「仕事」中心の略年譜を見ていて、夜に 日をつぐほどの原稿依頼や連載依頼、出版依頼の連続、講演や対談・座談会やテレビ・ラジオ出演また取材の旅などの連続に、われながら、仰天した。単行本は もうすでに六十册の余も出しており、原稿の執筆量は、往年の売れた作家が週刊誌などになぐり書きしていたのとちがい、どれも慎重に叮嚀に書いていて、なお 呆れるほどの分量になっている。あーあ、このおかげで、わたしは今、売りもしない特装美本の選集なども「造れ」て、かつ、老夫婦で日々まずまず「喰え」て いるんだと、夢見ている心地がする。

そういえば思い出す、ある出版界の人に、「わたしは寡作ですから」と呟いた時、言下に、怒るほどに叱られ、書きに書いてるでは無いですかと云われたことがある。あの時でも、わたしはそれが信じられなかった。慎重に慎重に要は「寡作」であると自分では思っていた。

 

* それにしても、草臥れている。疲れきっている。おもしろい着想や好奇心が絶えないので日々書いて書き継いで「私語の刻」も溢れているが、それがなかっ たら、もう、ストンと落ち込みそう。けれどコロナ禍が退いてくれたら、独りで都内へも京都へも温泉へでも行ってみたい、と、いう腹もある。

むかし、秦の父から近くの祇園町について耳学問したときに、芸妓と娼妓ということばと違いを教わった。私はいましも、この歳になってから初めて此の道の 題の先達から、著述を通じてその辺の機微や微妙の悦楽について日々教わっており、足腰の立つ間に、一度でも藝妓にも娼妓にも女郎にも出会ってみたいもんや なあなど想っているのです。いよいよ狂ってきたのかな。

2020 6/26 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 生・命の話

 

「生きる」「死ぬ」と無縁に「からだ」や「こころ」の話が成り立つわけがない。「命 あっての物ダネ」と、ちょっとシャレて言いたいくらいなもの。

「生き甲斐」という言葉は絶えず人の思いの奥に潜んでいる。が、これぐらいまた捉えどころの不確かな言葉もない。幸福の青い鳥よりも尋ね当てにくい。有 るのは確かなのに、無い以上に実態の無い励ましが、これだ。強いて捜し求めても何にもならない。しかし、これをただもう見失なっていてはやはり「生きた心 地」はしない。

「生き生き」という形容はよく使う一つだが、真に「無意識に」この形容が使えてピタリ、といった時にこそ、「生きがい」は影をのぞかせているのだろう。

仏は常にゐませども、現ならぬぞあはれなる、

人のおとせぬ暁に、ほのかに夢に見えたまふ。

名高いこの今様の「仏」のようなもので「生きがい」はあるのやも知れぬ。

「生きる」という黒沢明監督の映画を見て、この言葉の重みに触れた。今の息子の年ごろだった。人生、いかに「生くべきか」という問いかけに、その当時読 んだ本のなかで何度も出会った。こんな自問自答を繰り返している間に、「生きる」意味が逆に薄められてはしまわぬかと「心配な」ほどだった。へんな日本語 の「生きざま」が、このところファッションのように問われ、いや喋られている。

「死にざま」を深く心がけるのと「生きざま」とやらを気にしているのとでは、私には径庭があり過ぎるように思われる。「生き」のいい「生き方」に思えないのだ。

「命より大事な」「命から二番目」「命にかけても」といった物言いがそれ相応に平常に用いられているとは、なかなか思えない。それでは余り「気がシンド イ」。この辺の感じには、さすがに時代が影響していそうだ、なにかと言うと「命を寄越せ」の「命からがら」「命乞い」のと「命の縮む」物騒な時代でもなく なってきて、昔ほどは「命の有難さ」が意識はされていない。よはどの危急に迫られねは「命びろい」の安堵感など、人は覚えはしない。「鈍感」なようで、そ れも有難い神経の安全弁なのだろう。

それよりも、存外なことだが我々は「天命」「運命」といった命に幾分惹かれつづけている。それもそう深く思い入れたものでなく、どこかで「命ずる」「命 令する」の命へ短絡させて、微妙なサド・マゾ心理をクスグルだけなのかとも思える。日本人は余計な儀式も好きだが、他人に「命じ」たり「命じられ」たりも 意外に好んでいる人種のようだ。この時代になってなお、「天皇」といったアナクロニズムに、建前の上ででも「頭を下げ」つづけて居れるのだから、マァ不思 議に可笑しいお国柄と言うしかない。いやいや建前どころか本音の本音に化け返って、こんな物言いがいつか私の「命にかかわる」「命取り」になりませぬよう に。

いくつ有っても「命が足りない」ような時代へ逆戻りするのは、それこそ歴史の訓えるところ、ナンでもない容易いことなのだ。むしろ政治倫理とやらを浄化 する方がよっぽど難儀なのである。「命のある内」に「命の洗濯」なんぞと太平楽を言うてはおれそうにない。「命ばかりはお助け」と土下座の時代は、「命が け」で拒みたい。

2020 6/27 223

 

 

☆ からだ言葉 ”で” 考えてみませんか。 秦 恒平

 

☆ 老・病・死の話

 

「からだ」にとって老いることがいかに厳しい意味を持つか、この頃、しみじみ分かってきた。老い、また、看過ごすわけに行かない一項目と思われる。正直 のところ、当初はこの本でここまで引きずられるとは、予想していなかった。同じことが病気にも死についても言える。〝からだ言葉″を考える内にも、確実に 私は老いの坂を登るか下るかしていたとみえる。

いつ頃のことだったか定かでないが、「老い木に花」という句に出会い、いたく胸を衝かれたことがある。明らかにまだ少年の昔だったのだから、私も変な子 だったと思うが、喜ばしいようなひどく寂しいような気がしたのを忘れない。「老いぼれ」は、イヤな罵倒語に成り下がってしまった。が、よく味わってみると 決して悪い一方の言葉でなく、その底に、ある自然な感じも伝わっていて、考えようでは貴い気持ちも汲みとれぬではない。

『徒然草』には、この種の感慨をもらした人にヨボヨボの犬を持ち出して愚弄する話が載っていたが、私は必ずしも兼好の筆致に賛成しかねていた。「自然に 老いる」そして「老いぼれる」のは、不自然なその逆の場合より好ましげに思われる。化けものじみて若づくりな年寄りには、時に浅間しい感じを受ける。

「年寄り」とはいい言葉ではないか。今では相撲の世界に本来の意味がやや残っている程度だが、「親方」と並んで、必ずしも排斥や顰蹙の対象にせず、その 良さは生かしたい。参議院などにその機能をもっと期待したい。「大老」の「老中」のと大層なのは困るが、「-老」といわれるような人物に、いわゆる「老い ぼれ」でも「年寄りの冷や水」でもない程度に「老いの一徹」の役どころを任じてもらうのは、悪いどころか必要な気がしている。日本の社会にそれが有ると無 いとで、プラスとマイナスとどちらが働くかというと、私はややプラス寄りに期待したい方だ。

余りに「歯どめ」のない坂道を我々ほ今転げ落ちかけている。老人たちにも確かに過去失敗は多かったが、失敗を体験化しえているのも老人だという認識や評 価を、「若気の至り」でかなぐり捨てているのは、どんなものか。(往年=)我が家の老人たちを、いっこう大事にしていなかった私の、これが漱石のあの「広 田先生」流にいう「露悪的の偽善」そのものなのを恥じつつ、あえてそう言いたい。

病気に関わる言葉は、いささか拾うだけに止めよう。「盲点」「盲目的」「盲愛」「文盲」など、すっかり日常化している。「脚気」はどうか。「頭痛の種」 「つんぼ桟敷」や「オシになる」「脹れものに触わる」「腹を痛める」「胸を痛める」「気に病む」など、いろいろに使える。

最近のものでは「五月病」「はとんどビョーキ」というのが面白い。特にアトのは、批評語として「面白い」なみに使える。「あれはアイツの病気さ」「悪いビョーキだよ」といった半畳も、近代以後の愉快な発明かに思われる。

「死に急ぐなよ」「死んで花実が咲くものか」まだ「死に体」じゃない「犬死にするな」とは、生きるに苦労の少ない人の気楽な励ましだ。だが励まし合って 「生き延びる」しかない。よく「生き抜いて」しか「死にぎま」は飾りようがない。私なども時として「余命」ということを考える。

「必死」に「死に花を咲かす」より、サッパリした「死にぎわ」を迎えたい。  (この連載 終わり)

 

* 数々の「からだ言葉」を生み育て使いなれてきた日本人の日本語感覚は、「こころ言葉」ともうち重ね重ね、しっかりした「日本人理解」の一仕事としてぜひ「「學究」されてほしいものです。

2020 6/28 223

 

 

☆ 日本の「古典の、からだ言葉 と こころ言葉」 を楽しんでみませんか。

 

☆ 古典の、こころとからだ

 

古事記や万葉集の時代、「からだ言葉」は熟していない。胸といい乳といい腕といい、ただ肢体の名がそのまま出てくる。「からだ」の各所が遠慮なく直視さ れている。「蛆たかりとろろぎ」いる腐乱死体すら直叙される。恋愛や愛欲にも、そのままの「からだ」が直叙される。「からだ」が隠喩の材料に意外なほど使 われないのである。

一方で「こころ」の苦悩や歓喜は、恋の場面で、生活の場面で、多彩に「こころ言葉」と熟して活躍している。当然のように「からだ」はリアルに、「こころ」はサイコロジカルに、少し距離をおいて対峙していたようである。

平安時代にはいると、古今集にも源氏物語にも、露骨な「身体部分名の直叙」は水の引くように影をひそめ、ほとんど「身」の一字に総称されて、「心」と対 になる。「からだ」は卑下されたか、ときどき露骨に性的な隠語はあらわれるものの、ことに文字表現において「肉体の直視はむしろ忌避」されてしまう。

「身と心」と。これはことに和歌のような短い表現には便利な把握で、そうでなくても「心身」は、現代でも常用語になっている。腹、首、目鼻口、尻の肘の 爪のと言っているかぎり、端的に「心」と一対には並べにくいが、「心・身」となると、無縁の一対どころか、緊密に連携・連帯した何かであると、いやでも納 得できる。

「心身の発見」と呼んでよいこの認識は、ほとんど最上等の哲学とさえ成る。紫式部も和泉式部も西行も、中世歌謡の作者たちも、また芭蕉ら近世の俳人たち も、みな「身と心」の兼ねあいに、折りあいに、また齟齬や違和に、身を揉むように心を悩ませていた。現代人の日々の悩みとて例外であるわけがない。

江戸時代に入って、俳諧や川柳が市民の声と言葉を喚起しはじめると、爆発したように「からだ言葉」が日々活躍し始める。自分や他人の「からだ」がまた目 に入ってきて、上古の人のそれとは違っていた。「からだ」が「からだ」から氾濫したようにはみ出て、べつのとは言わないが、もっともっと豊かな「表現」を 獲得していったのである。

むろん俳諧や川柳にも「こころ言葉」は多彩に豊富である。和歌や歌謡にも、圧倒的数多くは「身」であるが、「朝顔」「人目」「眉ごもり」「面影」等の 「からだ言葉」は効果的に生きている。ここでは、大きく対比し、和歌と歌謡とから「こころ言葉」を、俳諧と川柳から「からだ言葉」を、目に付くままに拾っ て、「古典センス」を代表させてみたまで、また当分のあいだ、お楽しみ下さい。明日以降の叙述は、もう二、三十年前の文章です、お断りしておきます。

2020 6/29 223

 

 

☆ 日本の「古典の、からだ言葉 と こころ言葉」 を

楽しんでみませんか。   秦 恒平

 

☆ 古典の、こころとからだ

 

「心・身」かずならぬ心に身をばまかせねど

身にしたがふは心なりけり     紫式部

 

「心・身」心から心にものを思はせて

身を苦しむるわが身なりけり    西行

 

稀に見る哲学を内蔵している二首を先ず併記してみた。「心」と「身」と。古代の人はこう対置し、統一し、しかも、やや、もてあましてもいた。

心が身で身が心というような、統制のつかない微妙な関与と反発との隙間を縫い取るように、われわれは生きている。暮らしている。心だけ、身だけで、喜怒哀楽はしていない。

しかもなお紫式部ははっきりと 「身にしたがふは心」と呻くほどに認めている。

西行も 心任せにすれば「身を苦しむる」と嘆いている。

「身」に「心」をしっかと繋ぐこと。「心」を、「具体」の連関において働かせてしか、「身」の安堵つまりは「安心」もないとの認識であったのか。

興味ふかい詮索の余地が、ここに、在る。

2020 6/30 223

 

 

 

☆ 日本の「古典の、からだ言葉 と こころ言葉」 を

楽しんでみませんか。   秦 恒平

 

「心・身」 野ざらしを心に風のしむ身かな  芭蕉

 

「身・心」 身から出た錆は心の吹出物    古川柳

 

昔の詩歌に「からだ」という語彙を見いだすのは至難で、記憶にも無いほど。繰り返して云うが、ほとんど全部が「身」と用いて、「心」に対置されている。

芭蕉の「野ざらし紀行」巻頭をかざる句は、紫式部や、ことに西行いらいの風興にしたがい、しかも悲壮ないし風狂の味わいがあえて強調されている。季節の 「あはれ」「もののあはれ」を身内にしみじみと覚えて、もの冷まじき境涯に心身一統の己れを自覚している。メタフィジカル(形而上的)で、つまり、読者は 容易には至り難い。

そこへ行くと川柳は、フィジカルに心身相関のメカニズムを、ずばりと、つかんでいる。遅疑逡巡がなく、まるで精神身体医学の標語である。患者自身の病識とも、納得ともいえる。この納得、心身のせめぎ合いに「身悶え」た古人の日々より、かなりラクであるかも。

2020 7/1 224

 

 

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「心を開く」  ひさかたの月夜を清み梅の花

心開けて我が念ほゆる君    紀小鹿女郎

 

「心に持つ」    あしひきの山路越えむとする君を

心に持ちて安けくもなし           狭野茅上娘子

 

澄みわたる月夜に馥郁の梅ヶ香。胸いっぱいに念じて待てば、恋しいあの人の影が、そのそこに立って見える。もう心の内に宿っている。「心を開く」とは閉 ざしていないのである。受け入れるのである。受け入れの用意が調っているのである。明け渡して「心待ち」に待つのである、何かの到来を。「心行く」嬉しさ に溢れている。恋は苦しいものと自覚していた万葉女人にはむしろ珍しい紀小鹿女郎の歌声である。

狭野茅上娘子の歌は、開け放ち得ずに、むしろしかと「心に抱き・持ち・保っ」て、いっそ堪えるように恋しい人の途上・路上の安全を祈っている。無事に来て 欲しいのか、無事に帰って欲しいのか、いましも山路を越えてゆくであろうその人の無量の重みを「心に持」ち、愛ゆえに女は「心ふるへ」ている。「気がおけ ない。」「心を開」いて安心しておれないほど好きな人と一体なのだ。

2020 7/2 224

 

 

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「我背子」  我ガせこが夜着ほす弥生丗日哉   伊藤 信徳

 

「お身」   殿様にお身といはれし我がいもと   古川柳

 

古来なぜか、夫は、愛する男は、「我背子」と書かれる。「我背子が来べき宵なり」「我背子に吾が恋ひをれば」「吾背子が朝明の形よく見ずて今日の間を恋ひくらすかも」などと。大昔は通い婚が背景。

近世信徳の句は、あす四月一日の衣更(ころもがへ)に備えた妻の思い。吾妹子(ぎもこ)と対(つい)で「妹背」とも書く。

夫とは、恋しい男とは、背から大きくおおうように庇い護ってくれる存在、性的存在なのか。それとも大きな、まだ背に負ってやりたい我が子なみなのか、呵々。

川柳の方は、落語「妾馬(めかうま)」の世界。「腰元」奉公に出た妹が寵愛されて御側室に、そしてお世取りでも孕むとなれば、殿様からももう名前の呼びつけではない。「お身」と呼ばれ、家中(かちう)からも「お身お大切に」てなことになる。

「身」は、重宝な「からだ言葉」の筆頭格。「身が身なら心のままにあらうもの」の嘆息とは逆の、ほろ苦い「目出度」さ。

2020 7/3 224

 

 

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「浅き心」  安積香山影さへ見ゆる山の井の

浅き心を吾が思はなくに   作者不詳

 

「心の闇」  かきくらす心の闇にまどひにき

夢うつつとは世人さだめよ  在原業平

 

こんなに「深い心」で愛しているのに、と。あさか山も山の井も、「吾が思はなくに」も、歌一首すべて「浅き(恋)心」を否定のために、美しく配置されている。心が、浅いとか深いとか、あたかも湛えた水のように彷彿とされている。

水は自然に流れ、逝き、また走り、また淀む。古人はそのように自然のたたずまいからも心の「かたち・すがた・いとなみ」を類推しながら 「自身」を律していたのである。

だが、律しきれない「心の闇」に「心を秘め」「心を隠し」て、韜晦の「生き」にさすらう業平のような恋の逢瀬をも、人は、時に、さまよう。伊勢の斎宮と の禁断の愛欲を「世ひと」の裁きにすべて委ねたと見える、このしたたかな業平の「心根」に 伊勢物語の魅力はかがやく。「心底」を露わすようでいて、どう してどうして、行方も知らぬ恋の道である。

2020 7/4 224

 

 

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「神の顔」   猶見たし花に明行(あけゆく)神の顔   松尾芭蕉

 

「手のうへ」  手のうへにかなしく消ゆる蛍かな     向井去来

 

「仏はつねにいませども うつつならぬぞあはれなる 人の音せぬあかつきに ほのかに夢に見えたまふ」と。

だが芭蕉の見たい神は、葛城の神様。醜貌を恥じて夜の間だけ仕事をなさる。花は春のあけぼのに、しかし一言主の神様は入れ替わるように姿を隠されるのだ、ひょっとして「花の顔ばせ」ではあるまいか、一度でも佳いお目もじがしたい。

句の背後には ひと夜をあつくなじんだ初花の女神が隠れているのかも。

去来の句は、ただ手の上ではない、目のあたりに今しも我が手からこぼれるように見喪う、愛しい者の、人の、はかない命がある。

「手にする」「手につかむ」「手に入れる」のは、いかにも確かさの保証のようで、ところが、その「手からもれ」「手の届かない」ところへ「手もなく」失せてゆくものが、ある。すべてはそうと、人は生きることで、識らされているのだ。

2020 7/5 224

 

 

* 「方丈」の二字が機械に大きく現れると、肅然とする。

祇園石段下のきららかな夜色に眩しく見入ると、真実、ああ此処だと思う。思い当たる。帰りたい。

2020 7/5 224

 

 

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「心の花」     色見えでうつろふものは世の中の

人の心の花にぞありける   小野小町

 

「心にかなふ」  とことはにあはれあはれは尽くすとも

心にかなふものか命は     和泉式部

 

人の心は色佳く咲く自然の花のようには目に見えないが、その花の衰えて散りゆくように、男と女の「心に咲く花」も、いつ知れずうつろい色さめる。それば かりか、咲く花はひとたび散ってもまた咲く春のおとずれが待たれるのに、「心の花」は一度失せれば二度とは咲かずにあたらあだ花となり、よその花になって しまう。

それもよし、うつろう可能が、「心を解き放ち」「心を遊ばせる」とも謂える。

「和泉式部の花心」と謡曲に謡われたように和泉は、大方の「浅き心」の男の「口舌」にくらべれば、「あはれあはれ」を尽くし「命かけ」て色を好んだ、色佳い大輪の花であった。

「心にかなふ」ほどの恋には、あまりに人の命は短い。式部の嘆きには「和泉式部日記」のいとおしい二人の恋人、兄弟皇子の姿が「あはれあはれ」に刻印されているのだろう。

「心にかなはぬ」のが世の常なのだ。

2020 7/6 224

 

 

 

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「雛の鼻」   たらちねの抓までありや雛の鼻  与謝蕪村

 

「手鞠」     汁鍋に手鞠はね込む笑ひかな   夏目成美

 

雛の鼻がひくいと。母親は高くなれよと、つまんではやらなかったのかと。それだけのことではない。雛の鼻が低いのではない。それだけでは「からだ言葉」 ではない。「身の傍」の「目の前」の少女を、いとおしく、からかっているのだ、蕪村は少女大好きのじいさまであった。雛のように無垢な時節の少女のちいさ な鼻を、ちょと摘みたいのが、蕪村老。

「抓む」という身動きと字遣いに色気がある。

成美の句にも少女がいる。少女のまだあどけない「手」が見える。いたずら少年だと「投げ込む」になるが「はね込む」という粗相に少女の咄嗟の可愛い泣き顔も見えてくる。あまり可愛くて大人達はむしろ祝福の「笑ひ」を少女のために献じている。

「まあ、ご馳走さま」とでも両親は声をあげただろう。「手鞠」の手を想像力を尽くして透視したい。

2020 7/7 224

 

 

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「心沈む」   奥山のいはがき沼に木の葉落ちて

沈める心人知るらめや      源実朝

 

「心強い」   憂き人よわれにもさらば教へなむ

あはれも知らぬこころづよさを  藤原為子

 

鎌倉の将軍であるゆえに、奥山の磐垣沼の底深く人知れず木の葉の沈むように、「心沈む」ことはあったろう。人は容易に分かってくれない。

歌はすべて「沈む」にかかる譬え話であり、しかし「心沈む」先は、「心の底」や「心の闇」や「心の襞」であるのだろう。沈んで来る心と受け入れる心と、 木の葉や小石かのような「物」の感じの心と、奥山の人も通わぬ古沼のような「場」の感じの心とが、ともに把握されていたのである。

為子の方は当たり散らしている。冷淡で薄情な男に、それほどわたしを悲しがらせて平気な、「あはれ」も知らない鈍感で過酷な「こころづよさ」に、どうす ればわたしもなれるの、教えて頂戴と。「心強い」は「心丈夫」な頼もしい意味によく用いるが、このブチ切れた女歌のような「こころづよさ」の用例は珍し い。

心は強くも弱くも在る不思議さ。

2020 7/8 224

 

 

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「尻声」     びいと啼尻声悲し鹿の声     松尾芭蕉

 

「息を殺す」  我息を殺さずいつか寝足る程  古川柳

 

日光の奥山に妻と泊まった日の、夕過ぎてゆくころに近くの牧場を散歩していて、芭蕉の句のままの思いを実感したことがある。「尻声」は珍しい例の「から だ言葉」で、むろん屁のことではない。すこし後引くまま、かすかに尻をはねて打ち切れてしまう。鹿は雄も雌もそう啼くのかどうか知らないが、「声きくとき ぞ秋はかなしき」と古来歌われた鹿の声は、ふつう妻を求めた雄鹿のものと相場が決まっている。

山のしじまから打ち出すように遠く近く響く「尻声」の「びい」「びい」が耳にある。

そんな広らかな山野でなく、江戸市民の長屋は板一枚の隔てで、夜の睦言も、隣家や隣室をはばかり「息を殺し」「声を殺し」て、ままならない。

「寝足るほど」の一句に、「寝もやらず」何憚らず、一夜の愛欲に声を放って耽溺したい切望が、ため息になって籠められている。

2020 7/9 224

 

 

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「心痛し」   今朝の旦開(あさけ)雁が音(ね)聞きつ春日山

黄葉(もみぢ)にけらしわが心痛し   穂積皇子

 

「心もしぬに」  暮月夜(ゆふづくよ)心もしぬに白露の

置くこの庭に蟋蟀(こほろぎ)鳴くも   湯原王

 

明けそめるころに雁の鳴き渡るのを聴いた。春日山も色づいたらしい。言い淀むようで叙景は印象鮮明。それへ、パチッと物の響くように「わが心痛し」が、 適切に、愛する人・しばらく逢わぬ人に訴える。季の深まりとともに燃え、「雁が音」によそえても届けたい思い。愛。逢いたい愛。

「心(は)痛む」ものと、どんな他の「こころ言葉」よりよく知っていたのが万葉の昔人であった。

その「心」はまた季節のうつろいにも、「しほれ」また「しぬ」ものと繊細を極めて痛感していたのも万葉人。

「淡海(あふみ)の海夕浪千鳥汝(な)が鳴けば」と人麿は大きな景色に「心もしぬに」と歌い、湯原王は月下の白露と蟋蟀の命に「心萎える」寂しみを歌う。

「しぬに」はしおれ、しなび、しぬる語感を受けている。「月皓(しろ)く死ぬべき虫の命哉」と、遠い昔、「心もしぬに」「心痛い」日々の心を、私も抱いていた。

2020 7/10 224

 

 

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「手を組む」  人に似て猿も手を組む秋の風  松尾芭蕉

 

「目が行く」  はつ鴈(かり)や夜は目の行物の隅   炭太祇

 

「腕組み」はそのままでは「からだ言葉」ではないが、「手を組む」は協働し連帯する意味をもつ。芭蕉の句は「手短か」に解釈すれば、秋風に吹かれた孤猿・老猿の「腕組み」風情がおもしろい。

だが一転して想えば、昔も今も猿の世間は人も「顔負け」に「手を組む」社会である。動物園の猿山はなくても、芭蕉属目(しょくもく)には群れた猿たちも あり、秋風に頬をなぶられ、ウーンと慨嘆する場面もあったかも。「猿も腕組む」でない表現の隙間からちょっと「心を遊ばせ」てみた。

太祇の句は、もう理屈抜き。この「夜は」はむろん寂びた秋夜であり、べつに何かを見つけたのでも探しているのでもない、ただただ翳り濃い物の隅、物の隈へ「目が行く」のである、理屈抜きにそこに底知れぬ季節感の、繊細で、尖鋭で、的確な把握がある。

俳諧の妙とはこれであろう。電灯の暮らしではなかった。

2020 7/11 224

 

 

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「心にかなふ」  とどまらむ事は心にかなへ共

いかにかせまし秋のさそふを  藤原実方

 

「心の秋」      人の心の秋の初風 告げ顔の

軒端の荻も怨めし                   室町小歌

 

都にいたい。心はそう望んでいても、あんなに秋が誘うものを、どうすればいいのか。そう言い置いて実方は遠く陸奥へ旅立つ。実は勅勘をうけ、朝廷から追いやられるのである。

心に「かなう」とは、釦のホックがパチッと適うのに似ている。心と状況とがうまい具合に適合することは恒に望ましいが、現実は多く齟齬して「心にかなわない」。余儀なくいろんな言い訳も強がりも必要になる、「秋のさそふを」などと。

「秋」は、往々「飽き」に言寄せられ、実方卿、都の日々になんか飽いたよと力んでいる。

恋しい人に「心の秋(飽き)風」が吹きそめたのかしら、「告げ顔」に軒端の荻のそよと揺れて、今宵もあの人は来てくれないの、と、室町の女は男心を「飽き」へ誘うらしき風のたよりが怨めしい。

「心の秋」は、好き逢うふたりには、いつも脅威で難敵なのである。

2020 7/12 224

 

 

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「身にしむ」   身にしみて大根からし秋の風  松尾芭蕉

 

「鳥肌」      鳥肌は比翼のまくら詞なり     古川柳

 

ただ大根が「身にしみて」からいという句ではない。痛いほどなにか「身にしむ」感慨が五体を疼かせている。大根のからさまでがそれを無性に触発し増幅し、いよよ「身にしみ」る。

だからイヤだと嘆いているのでもない。受け入れているとも謂える。身をまかせて通り抜け吹き抜けて行くのを許しているとも謂える。

芭蕉が「秋の風」と口にするときはそう いう境涯の寒さに「身を曝し」ていることが多い。光源氏の須磨の秋風以来、「身にしみる」のは、風雅の資格と人は受け入れてきた。

川柳の方はそんな風狂の寒さではない。寒くなくても「おお寒む」「ほら見て、鳥肌よ」は、今しも湯上がりのまま一つの寝床に滑り込んで、比翼の鳥と化し愛欲の夢中に身をからませようという、いわばお熱い前置きの、つまり合図の、「枕ことば」だそうで。

うまいねえ。佳いねえ。

2020 7/13 224

 

 

* ラコニックな志賀直哉の名文には衷心敬服する、が、私は、直哉とは異なった創作世界を築いてきた。その構築の、もし「手法は」というと、何だろう。

冗談を云うのではない、それは、「と思う」 「と想う」 のである。それを「信じる」のである。

自然でも人でも情況でも、「と想い」「と思い」「信じ て」書く。どのように幻怪異様ななフィクションでも感情や思索でも、人でも自然でも情況でも、「と想い・と思い」それを「信じて」創れないなら、書いてもヤワに脆い、ロクなこと にはならない。

2020 7/13 224

 

 

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「心にあまる」   思ふこと誰に残して眺めおかむ

心にあまる春のあけぼの  藤原定家

 

「心にうかぶ」   何となく過ぎ来し方のながめまで

心にうかぶ夕ぐれの空    後鳥羽院

 

定家の歌は、清少納言このかたの「春曙」のよろしさ・美しさを褒めそやしているが、じつは「身に添え」て、或る理想の女人の面影や感触を、まぢかに想い 描いているのだ。「あまる」とは溢れる意味でもあり、また「手にあまる」のと同じ、或るじれったい身もだえも伴っている。

定家は、いま春の曙を、もろともにここで眺め合い褒め合いたいと願うその人を、どうしようもなく、欠いている。「心にあまる」にはその不足感が読める。

後鳥羽院の御歌はなだらかで、実感に素直なところ、巧緻な定家よりは自然な西行がご贔屓の院の風情満点。「心にうかぶ」その心が、広大な海かのように広く大きく、つまり大洋のようにひろがる「夕ぐれの空」そのものに化している。

遠い過去からの次から次への記憶が、「ながめ」という一語に、具体的な映像になって甦り「うかび」来る。

2020 7/14 224

 

 

* いま、数月來の事情よりして家集「椿山集」を遺した山縣有朋を見直しているが、私は、その先に今一人「魅力横溢の明治人」登場を用意し、すこぶる期待 し楽しんでいる。早くと気は急くが、深呼吸して、ことの順を、ものの順をうまく踏んで渡りたい。何のためにも彼のためにも何とか「コロナ禍」の早い終熄を 願う、不測の中途に病に躓くのでは残念であるから。

どうにも「コロナ禍」への国家をあげての抵抗と鎮圧の姿勢と策とが窺えない。安倍晋三総理の陣頭に立っての退治の熱意も行為も見えない。内閣はもはや死 に体を自呈しているとしか見えぬ。一日も早く総辞職して意欲新鮮の「内閣」にせめて交替せよ。そもそもかかる時期に「国会を閉じたまま」という非常識な無 責任姿勢には、怒りを超え、侮蔑の思い旺然と湧き立つ。失せよと願う。

 

* テレビで宮内庁参与の五百旗部氏の今日の世界観、納得しえて傾聴した。前半に話していた医師のコロナ禍対策へのもうガマンできないという率直な警告に も肯いた。埼玉県知事の決意表明等も熱と本気があった。おなじ事は、朝の番組での岡田晴恵医師にも言えた。今日はこの四人の発言に頷いた。安倍総理、菅長 官、西村大臣、そして小池都知事、まるで、ダメ。

 

* 疲れてしまうわけに行かない。まだまだ「仕事」がある。

2020 7/14 224

 

 

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「目には青葉」  目には青葉山郭公はつ鰹    山口素堂

 

「目に立てる」  白菊の目に立て見る塵もなし  松尾芭蕉

 

人口に膾炙する、と、それは人みなの共通の記憶と化して生きて行く。「目には」の字余りの「は」がこの一句を、不動の箴(しん)にした。「春 は曙」と同じである。山郭公とはつ鰹のことは忘れても、もうだれも「目には青葉」という季節の嬉しさを忘れることが出来ない。

「青葉」以外でありえない。

「目に立てる」は意思であり、「目立つ」は受け入れである。似た「からだ言葉」だが、働きはちがう。親愛した園女の亭に招かれての挨拶の句。「白菊の」「塵もなし」に、凛然と名句のすがたがある。句に現れない一枚の鏡を想像したい。鏡は女人の魂、面影の宿りである。

「曇りなき鏡の上にゐる塵を目に立ててみる世と思はばや」と歌った西行を念頭に、芭蕉は、属目の白菊に塵をおかぬ無垢の面輪を見定めた。「目に立てて」見たのだ。

2020 7/15 224

 

 

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「心まどはす」     聞きつとも聞かずともなく郭公

こころまどはすさ夜のひと声                 伊勢大輔

 

「我が心」        うらやましや 我が心 夜ひる 君に離れぬ 室町小歌

 

心の内がハンドル不能の混雑状態になることは、日頃よく自覚している。乱れたり迷ったり千々に砕けたり。だが、心は自ずから「まどう」こともあり、他に よって「まどはされる」こともある。高嶺に咲いた美人や、目先の物慾・名誉心に撹乱されることもあれば、あ、聴いたのかな、空耳だったかなと、郭公の小夜 の一声に「心悩ませる」風雅もある。

心ほど「こころごころ」なものはない。

そんななかで、「我が心」のことは俺はよく分かっていると嘯く人がいる。それがいちばん分からないと嘆く「心知る」人もいる。好きな人にどうしても逢え ないが、「我が心」はひたっとあの人に寄り添って。あぁあ、羨ましいヤツ、と。「我が心」がじつは自分の所有とは謂いえぬ機微をとらえて、ずばり「こころ 言葉」に。

「寄辺なみ身をこそ遠く隔てつれ心は君が影となりにき」と古歌にも。

2020 7/16 224

 

 

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「眼にひかる」     石も木も眼にひかるあつさかな  向井去来

 

「目につく・鼻につく」 目に附きて鼻に付く事遠からず   古川柳

 

暑い寒いの表現が自ずから詩になる機微は、季節の風情を知る知らぬの機微でもある。涼しさを呼び込んで暑さをみせる句や歌が多い。暑さそのものをまざま ざと感じさせる作は、むしろ少ない。去来の句は珍しく、そして傑作である。暑い夏のいぶきを喉もやけそうに呼吸した者には、覚えがある。「まなこに光る」 という絶妙の把握に驚く。真実「石も木も」光る暑さ。不快なのではない。まさに炎える夏の容赦なさは、「心よい」とすら謂える。

正確に「からだ言葉」か、は微妙だが。そこへ行くと川柳の方は、びしゃり「からだ言葉」ですが、句意は皮肉なもの。オッと、気をそそる女に出逢いました、 「目につい」て、ねんごろに。こうなると、古茶(こちゃ)の方がやがて「鼻につく」こと、案に違わずという観測。

もてない連中のやっかみ半分の観測だが、「からだ言葉」の隠語めいた活用見事。

2020 7/17 224

 

 

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「人の心」   人ごころ移りはてぬる花の色に

昔ながらの山の名も憂し      後鳥羽院

 

「人の心」   よしや頼まじ

行く水の 早くも変はる人の心   室町小歌

 

隠岐に流された院は、都人から歌を送らせては、歌を合わせ、判を書いておられた。「昔ながら」とはとても行かない、院にはひとしお時勢も人もうってか わった世の中と成りはてていた。送られた歌の中に、花の名所近江の「長等山」を詠じた作があったのであろう。小町の「花の色は」の古歌も念頭に、天武天皇 に敗れた弘文天皇悲劇の長等山のことも思われ、「人の心」は移り変わり頼みにならぬとの嘆息も久しい。

一方の室町小歌は端的で簡潔、そしてたった一句の「行く水の」が利いて、じつに美しくすらある。「早くも変はる人の心」よ、「頼むものか」と。

「心は頼れるか」とは、この十五年、わたしが思案に思案してきた主題の一つであるが、「こころ言葉」の多彩に驚けば驚くほど、否定に傾いてゆく。

ドント マインド。ドンマイ。「気儘」「心まかせ」は、危うい。

 

* HPを開いて、「方丈」と現れると、気がひきしまる。

2020 7/18 224

 

 

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「口上」     文もなく口上もなし粽五把     服部嵐雪

 

「骨が折れ」  女房からあやまらぬので骨が折れ  古川柳

 

この「口上」は前口上と同義の「口頭」でのアイサツである。歌舞伎役者襲名披露の「口上」はその大がかりなもので、そっちの方はアイサツの中味も「藝」のうち、大向こうはなみの演目よりも大いに喜び迎えて、いわば「祝言」でもある。

「切り口上」というのもある。「腹に一物」あってツケツケやる。借金を頼みこむ「口上」も、断るための「口上」もある。かなり「口実」に近くなる。

そういうご大層ななにもなしに一握りのうまい粽をくれた有り難み、嵐雪の句、イキである。

川柳の方は難儀に夫婦喧嘩の後がこじれている。はじめは男が剣幕であったのに、風向きが変わって、挙げた手を一つに合わせて亭主は謝ってもいい気だが、せめて女房から先にと待って焦れている。ところが女房、あやまらない。

いやもう「骨の折れる」こと。

2020 7/19 224

 

 

* まことに難儀な、隘路ともいえない難路へ私の「仕事」は首から突くッ込んでいて、しかし避けて通れない。なにも、今今に見る隘路ではなく、決 して変節でもなく私自身の実意・思いであるのだから避けて通れない。前へ進むしかない。この籠居の折から、建日子と議論などしてということも出来ない。 メールでは少しく「ヤバイ」かとも。

2020 7/19 224

 

 

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「心がへ」 心がへするものにもが片恋は

くるしきものと人に知らせむ  読人知らず

 

「乱れ心」 柳の絲の乱れ心 いつ忘れうぞ

寝乱れ髪の面影              室町小歌

 

肩こりの辛いとき、部分交換がきけばいいのにと思う。どんな患部にも取替えが出来たらどんなにいいだろう。古今集の昔人は片恋に呻いて、「心換へ」できる ならしたいと、あの憎い恋しい「人」にくるしさを吐きかけている。珍しい、まぎれもない「こころ言葉」だ。

「するものにもが」というもたついた物言いに、「ええい、できるものなら、してやりたいわ」という「身もだえ」が受け取れる。

小歌は、この前に、「花の錦の下紐は 解けてなかなかよしなや」とある。身をまかせた女の嬉しい恥ずかしい悩ましさ。掲出の後半は、男の、逢うて見た恋 の手放しのよろこびようと愛欲。「柳の絲の乱れ心」は、男女で唱和するところ。前後を恋のデュエットと聴くと、ひとしお官能的でうつくしい。

乱れることの嬉しさ、心と髪と、面影。けっこう。

2020 7/20 224

 

 

☆ 日本の「古典の、からだ と こころ」 を

楽しんでみませんか。   秦 恒平

「腰ぬけ」   腰ぬけの妻うつくしき炬燵かな  与謝蕪村

 

「舌を出す」 睦言を聞て盗人舌を出し       古川柳

 

蕪村の句を、この妻は起居不自由の障害者だと解説する学者ばかりだが、アホくさい。蕪村はカタリの名手、写実を超えて創作した詩人。たいしたスケベイで もあった。この「腰ぬけ」が、官能と愛欲の極致から、今しもほっと蘇った、それゆえにひとしお「うつくしい(=美しい、愛しい)」よろめきの風情なのは言 うまでもない、だから寄り伏す「炬燵」が利く。濡れ場が目に見える。

「腰が抜ける」のは臆病や卑怯からだけではない。

川柳の方は、むろん、覗き盗人。おかげで盗みもやすやす、思わず「舌を出す」 目や耳法楽にもあずかっている。たまったものでないが、「睦言」であるのが救いとも。修羅場や痴話げんかでは、その隙に盗み稼ぎは出来たにしても、「舌」 は半分がところしか「出」せまい。この舌は確実に涎も零している。

世の中の「世」とは、もともと「色好む男女の仲」の意味。西鶴の一代男は、「世」之介。

 

* はからずも書庫に永く死蔵の、明治本『文法詳解 増補明治作文三千題』を、やっと書架より救い執って、こは、それなりのすぐれ「本」 一種異色便利な 「事典」であるなと見直した。和紙・和装・和字の分厚な大冊を繙きかつは拾い読んでみると、じつに「明治時代」を驚き教わるいろいろに満ち充ちている。

表題に見える「文法」という二字には、あの敗戦直後の新制中学に進んで、真っ先「口語文法」の教科書に好奇の目を光らせ、主語・述語の、名詞、形容詞の と習って、大好きで得手で「文語文法」も得々と手に入れたが、此の手に執った「明治本」にいう表題「文法」の、また巻中「諸学科大意」篇冒頭に堂々たる 「文法學」は、よほど意気盛んにむしろ「文学」「文藝」を語って本格であるのに驚いた。令和の今日、疲弊かつ余計モノかのように政治経済から嫌われ者の 「文」「文学」と真っ向の真逆なのである。

この明治本は、さらに追って「修辞学及論理学」の解説も詳しく、次いでは「地理学」次いでは「歴史」、さらに「動物学」「植物学」「金石學」そして「化 学」と続き、「地質学」「星學」「生理学」「数学」に次いで、おお、私苦手な「簿記学」まで延々定義し解説されてある、そして、やっとこさ、「政治学」が 呼び出され、ビリっ尻を、「経済学」で結んである。「時代の容貌」がまこと露わにみえて、今日只今との差違に驚嘆する、が、ハテ、「明治は遠くなりにけ り」もう昔ばなしと「忘じ去って」本当に「済む」のかどうか。

2020 7/21 224

 

 

☆ 日本の「古典の、からだ と こころ」 を

楽しんでみませんか。   秦 恒平

「たぎつ心」   あしびきの山下水の木隠れて

たぎつ心を堰きぞかねつる  読人知らず

 

「さても心や」  あら何ともなの さても心や    室町小歌

 

心は静かではなかなかいない。奔騰する。奔走する。防ぎようなく、堰きとめられない。ひとつには「内心」「本心」を、外に自在に出せない、知って欲しい 人に分かってもらえない、からだ。「堰」くから「たぎつ」のである。そういう「心」は、お定まり、「世心」つまり恋の悩みなのである。

昔の人は「恋」をして、結果として愛欲相許す「逢う恋」に至った。悩ましいが風情があった。

「付き合う」という殺風景な言葉ひとつで恋を省略してセックスへ直行の昨今の「世」の仲らい、「情けない」とは、これか。「あら何ともなの さても心 や」と爪弾きしたくなるが、この室町小歌は、この前に「恋の中川 うつかと渡るとて 袖を濡らいた」という、いわば「ひと目惚れ」の嬉し恥ずかしい嬌声を 聴かせている。

この「何ともなや」とは心配ない意味ではない。どうしようもない、のである。

2020 7/22 224

 

 

* 選集最後の「函表紙」「總扉」の初校届く。さすがに残り惜しい。創刊の頃、これは選集でなく全集ですねと云われたりしたが、なかなか。全くの「選集」で、容れ余した作物がまだたくさん残っている。それはそれ。心新たにまた書き積んでゆくだけ。

 

* 九時。 また明日があると思おう。

2020 7/22 224

 

 

☆ 日本の「古典の、からだ と こころ」 を

楽しんでみませんか。   秦 恒平

「女は髪」   蚊屋くぐる女は髪に罪深し   炭太祇

 

「身の垢」   身の垢は七十五日世に残り  古川柳

 

茶髪や短髪ではない、緑なす黒髪の魅力である、その黒髪を、蚊帳にはいるとて今しもはらりと長く解いてみせた。

「今結うた髪が はらりと解けた いかさま 心も誰(た)そに解けた」という室町小歌もある。

こういう女の美しい風情に、代々男は魂を奪われ続けてきたのだと、わけしりの炭太祇が、「罪深し」とまで、らしくもなく判決しているのが面白い。

「女は顔」とも「女は脚」とも「女は肌」ともいわない、「女は髪」の選択に決定的な美学が生きる。かくて男と女の世の中を生きた生きたと夢うつつに、人はそのうち死んで行く。

いい噂もわるい噂も七十五日。娑婆の暮らしに「骨身にしみた」垢も匂いも、善悪とりまぜていずれ綺麗さっぱりと七十五日もすれば、失せてしまう。

七十五日までは、いろいろ有るさ。

 

* 唸りますね。

2020 7/23 224

 

 

☆ 日本の「古典の、からだ と こころ」 を

楽しんでみませんか。   秦 恒平

「心一つ」  伊勢の海に釣する海人の泛子(うき)なれや

心ひとつを定めかねつる     読人知らず

 

「通ふ心」  文は遣りたし 詮方な

通ふ心の 物を言へかし     室町小歌

 

心は一つどころか千々にも砕ける。だが、往々にして「心ひとつ」の「我が心」と御している気でいる。わたしの「心一つ」ですよなどと、気儘に自在に分かり切った気で「安心」し豪語もする。

ところが、どうして。あの水に浮かぶ泛子のように、ふらふらと、いつ知れず「人」の思うままにあやつられている。我が物のはずの「心ひとつ」が、とんと、自分で決められない。

「心」とはこういうもの。なのに二言目には免罪符か万能薬のように「心」を口にするうさんくさい識者たち。

昔の人は、こうもいろいろに、さまざまに「頼りない心」を見つめて、人間とは、世の中とはと思案にくれていた。それが哲学というもの。好きな好きなあの人に手紙も出せない、なさけない。「通ふ心」よ、告げて来ておくれ。「心は通ふ」との信頼の背後には、いろんな人生が。

今では、ケータイとメールが。名高いスマホとやら、見たこともないが。

2020 7/24 224

 

 

☆ 日本の「古典の、からだ と こころ」 を

楽しんでみませんか。   秦 恒平

「肌へつく」    しみじみと子は肌へつくみぞれ哉  秋色

 

「耳をねぶる」  約束で耳をねぶるがきつい智恵   古川柳

 

寒くなる、くらくなる、霙が降る。降り籠められて家の中も「胸の内」も重い。そういう日は、もののあやめも見定めぬ幼い者が、ちいさな不安を抱きしめたまま、とかく母親の胸に抱かれたがる。ひしと抱きついてくる。しがみつき顔を胸に埋めて離れない。

母と子との理屈抜きの一体感を季節の底でひたととらえた秀句。「肌へつく」体感に母と子の本能的に身を守る自覚が生きている。

褒美はいらない、そのかわり好きなときにお耳に口を、と。そして曽呂利は、ここぞというと、そろり君公の「耳をねぶる」。「告げ口」されているかと重臣ども気が気でなく、よしなにと、袖の下から、届け物の山ができたとさ。

智恵とはいうが、「手」というもの。「手を使い」「手に入れる」「手だれ」の知恵者。ごますりの「やり手」は、どこにもいる。

2020 7/25 224

 

 

☆ 日本の「古典の、からだ と こころ」 を

楽しんでみませんか。   秦 恒平

「色なき心」   色もなき心を人に染めしより

移ろはむとは思ほえなくに  紀貫之

 

「花心」      散らであれかし桜花

散れかし口と花心       室町小歌

 

純白純真だったわが心に、あの人の面影がいつか色濃く染みついて、もう生涯この色は抜けまいものをと、むしろ願ってさえいた。それなのに、またいつ知れ ず情熱は冷め、花心の色も香も移ろいはてて褪めている。「我が心」ながら、なんとはかない。そんな日が来るとは思われなかった。

心とは、色に染むもの、また褪めるもの。多情にして多恨、これ即ち無常か。

美しい桜にああ散らないでと願っても、小夜の嵐に余りに潔(いさぎよ)く散ってしまう。散って去って消え失せて欲しいのは、憎いアン畜生のあだな「花心」であり実(じつ)の無い「口車」の軽薄さなのだが、そっちは、「尻の重さ」でだだらに居座って、恥ずかしげも無い。

うまくいかない。ほんとうに、うまくいかない。

2020 7/26 224

 

 

 

☆ 日本の「古典の、からだ と こころ」 を

楽しんでみませんか。   秦 恒平

「へらず口」  あつき夜や江戸の小隅のへらず口  小林一茶

 

「知つた顔」  よびかけて知つた顔する茶屋女   古川柳

 

江戸も東京都も、無数の「小隅」が群集して成っている。一つ一つの小隅に人が群れ、「へらず口」の「口車」が空(から)景気よくまわる。人のうわさと 「かげ口」ほど楽しいことはない、やめられないと宣いしは、清少納言。床几が出たり出なくても、老若男女、暑い夏は戸外に涼を求めるしかなかった。

「口べらし」はきつい、が、「へらず口」を叩く分には天下は太平だい。クーラーもテレビも家の中になかった。

川柳の方は、季節を問わない客引き・達引(たてひ)きの商売女。「手もなく」客を乗せねばならぬ。で、さも以前から「知った顔」かのように「あら、ちょいと」などと声がかかる。女の愛嬌にひっかかる客もいる。

どの世間でも小隅でも、「顔」は世渡りの信用状。「いい顔」で「顔を利かせる」「顔役」がのさばる以上、「顔つなぎ」にと奔走するヤツの多いも、ムリないか。

2020 7/27 224

 

 

*   一寸先も闇 と、聞きも読みもしてきたが、さほどの実感を何度ほど持ったろう。二十歳目前のやす香に死なれる時はつらかった。妻がICUで苦しんだ時も怖かった。自分が癌と宣告された時はわれながら冷静だった。

戦争の折は山奥へ遁れ、困窮も度を越していたが、どこの誰を見廻しても同じなので、ごくの少年でもあったし、ふつうだった。

この「コロナ禍」のようなめに実感で出遭った覚えがなく、永く永くなりそうなトンネルの歳月かもと、ゾッとしない。

 

* それでも休まない。「湖の本 150 151 152」の、なんだコリャという「妙な仕事」を存分に遊ばせて貰う。病気などしてられない。

 

* もう十時。よく頑張ったよ、「湖の本 151」の追い想ってきた分の半ば過ぎたまで運びきれて、場面がガラッと変わって行く。変わって行く先の景色も もう予期できている。「新型コロナ・ウィルス」にやられず、粘って、書きたい思いを通したい。「152」まで事を運べるのか、「151」で仕遂げるのか。 まだ分からないが、それでよい。

2020 7/27 224

 

 

☆ 日本の「古典の、からだ と こころ」 を

楽しんでみませんか。   秦 恒平

「心澄む」   行方なく月に心の澄みすみて

果てはいかにかならむとすらむ  西行法師

 

「情あれ」   ただ人は情(こころ)あれ 槿(あさがほ)の

花の上なる露の世に        室町小歌

心は濁りやすいが澄みに澄む境地もある。とらわれの思いが無くなる。かがやく月に胸の底まで照らされて、自然の深みにむかい瞑目しているような時、そう いう気分になれる。だが、心のどこかに、吾が魂(たま)の緒を、思いの糸を、やはり一筋現世の何かに安心に繋いでおきたい、ふっと吾にもない未練の心細さ が襲う。

「果て」の果てまで身を委ね、澄み澄みておれるものだろうか、と、こわくなる。

西行ほどの人だから、それが分かるのだろう、深いとまどいに尊いものが感じられる。

心は、有るが常か、無心が到達なのか。あさがおの花の上の露ほど命をはかなく思えばこそ、「ただ人は情あれ」とお互いに願う。情の字を「こころ」と読んだ例は万葉集の昔から。「三輪山をしかも隠すか雲だにも 情あらなも隠さふべしや」などと。

人よ 情あれよ。

2020 7/28 224

 

 

* 『選集 33』 後半部の初校を送り返した。受賞後「満15年」(現在51年)の詳細年譜や、単行著書等全書誌細字の校正に芯が疲れた。それにして も、15年のうちに、我ながら仰天の仕事量を積み重ねていた。出版や原稿依頼も多く、ほかに講演、テレビ・ラジオの放映・放送が記憶新たに数多く、講演・ 対談等枚挙に遑ないありさまだった。超多忙なのに、娘・朝日子のお茶の水女子高PTA会長まで頼まれていた。

中・高・大学・卒業後も、朝日子は、それは数多くいろんな会合や旅にも嬉々として父親と一緒に出ていた。谷崎先生の奥様には就職のお世話もして頂き、さ まざまな頂戴ものなど、それは可愛がって頂いたの、みな、ありありと年譜に見えている。押村高(青山学院大)と結婚後にすら、私の雑誌「ミマン」取材の四 国中国の旅に、望んで母に代わり父や編集者・カメラマンと一緒に楽しい旅をしていた。「朝日子」とは、本人にも両親にもうれしい自慢の名付け・名前であっ たが、それが、いつのまにか改名して、「宙枝」とか。

私達両親が死ぬるより前に、弟建日子もいっしょに、たくさんな幼來の思い出話がせめて一度でも楽しめるといいが。そうそう、亡いやす香の妹、みゆ希とも。みゆ希は、もう「お母さん」になっているのかな、住まいも知れないが。

2020 7/28 224

 

 

* どう見映えもない作家だが、想ってた以上にいろんな世間のいろんないい人たちと私は出会って来れた。大きな励ましであった。

 

* さて、からりと様変わりに、「仕事」の舞台うまく廻したい。慌てまい。

2020 7/28 224

 

 

☆ 日本の「古典の、からだ と こころ」 を

楽しんでみませんか。   秦 恒平

「胸涼し」   胸涼しきえをまつ期(ご)の水の淡(あは)  石田未得

 

「美しひ顔」 美しひ顔より嘘が見事也    古川柳

 

「未得」の名に似ず、ちと悟り得た句である。そこが、へんに怖ろしい。仏来迎(ぶつらいごう)を前に「消え(帰依)を待つ(末)期の水の淡(泡)」と、こう縁の語彙を巧みに重ねられると、妙にギクリと来る。

だが作者は、まぢかい臨終のときを迎えて「胸涼し」と言い切っている。いいな、よかったなと見送りたい。草創期の江戸の俳人で、芭蕉登場にすこし間がある。

「風ならで誰かあぐべき柳髪」などと伊勢物語を軽妙に叙景にとりこむ俳味など、遠い昔のものになった。

川柳の「美しひ」というかなづかいも懐かしい。「美しひ顔して」といえば、ただ美貌を褒めてはいない。辛辣な「からだ言葉」である。「美しい顔」だか ら、よけいお返しが辛辣になる。美人は薄命かどうか、しかし美貌が人徳を保証はしない。あたら美人のゆえに「もの凄い」悍婦が現れる。

「美しひ顔より嘘が見事也」とは、凄みに見切ったものだ。

 

* ハイ。この連載は、今日で、お終い。

2020 7/29 224

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 男女の愛

 

☆ この巻では「恋」を除いた「愛」の詩歌を読むのが建前 で、いきなり「夫婦の愛」などから始めてもいいわけだが、それを承知で、「男女の愛」の歌にもまず触れておきたい理由はもう繰返さない。本篇のまえにやや 長い序篇が置かれていると位に受け取って欲しい。いわば番外の序篇であるから、解説や鑑賞より、むしろ、次から次へなるべく作品を多く口遊(くちずさ)ん で行くうち、いつしか「愛の詩歌」のリズムに馴染んで、本篇へ、スムーズに読者も筆者も入って行きたい。

さて、日本の詩歌の歴史を、便宜に「和歌時代」と「短歌時代」とに私は分けており、もっと分りよく「明治以前」「明治以後」とはわざと呼ばないでいる。 ほぼ同じことを指しているが、「和歌」と「短歌」とでは、韻律や発想や声調にまぎれない差異が見え、それが俳句にも詩にも微妙に及んでいると思う。当然の ように、現代の我々の心に響く訴及力の差にもそれがなっている。

いかに技巧的に勝れた往時の名歌名句といえども、微妙なところで現代の心にもう十分は届きかねる昏さ疎さというものを、往昔の作品は余儀なく蔵してい る。『小倉百人一首』の歌はたしかに佳いが、さりとて百首が百首とも現代の詩心を直かに代弁できるとも言いかねるのである。

 

★ 夢の逢ひは苦しかりけりおどろきて掻き探れども手にも触れねば   大伴 家持

 

相手が生者でも死者と読んでもいい、「おどろきて」は、「目が覚めて」の意味である。むしろ『萬葉集』のこういう歌には、率直ゆえに、身近に響いて心を騒がせる共感もたしかにある、が。

 

 

 

 

* (二〇二〇)七月三十日 木

 

* 起床 8:00  血圧 132-59 (55)  血糖値 86  体重 60.15kg

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

よく選んで読んだつもりです。   秦 恒平

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

 

亡き孫・やす香に贈る

 

やすかれとやす香恋ひつつ泣くまじと

われは泣き伏す生きのいのちを

つまもわれもおのもおのもに魂の緒の

やす香抱きしめ生きねばならぬ  祖父

 

原題・書下し『愛と友情の歌 詩歌日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊

 

☆ 愛のこと  この巻を編むにあたって

 

「旅の歌」「四季の歌」「恋の歌」という選びかたは必ずしも無理でないが、それらと別に「愛の歌」と限るとなると、容易でない。旅や四季自然もおのずと 「愛」の対象に相違なく、まして「恋愛」という言葉もある。そもそも詩歌とは、ひろい意味の「愛」に湧き出で「愛」よりほとばしり出るもの、の謂であろ う。これを人に対する愛と限定し、さらには恋愛を除いたにしても、なお実にさまざまな「愛」のすがたかたちが有る。この巻の表題にあげてある「友情」も、 そうした「愛」のありようの一つと考える。

私は思案して敢えて「愛」を、窮屈に限って考えないことにした。恋愛も、また死者への愛も、この巻が自然に必要とする限りにおいて、他の巻との重複をお それず、大切に扱うと決めた。自愛ももとより 他の生命への愛、さらに人生や時代や理想や思想への愛も、愛と切り離せない深い痛みとしての孤独も、怨憎の 思いすらも、避けては通るまいと考えた。

もともと詩歌にせよ何にせよ、秀でたものであるほどなまじいの限定を大きくはみ出て行くつよい勢いをはらんでいる。そういう作品が、一見「愛」らしくな いだけの理由で採られないのは、残念だが、残念をすこしでも払える工夫は試みたい。すくなくもこのシリーズで拾い採れると限らぬりっぱな詩や歌が、他にも 実に沢山あるという事を、私は読者に知っていて欲しいと思う。

この撰を依頼されてから三年余になる。その間に、記紀歌謡から最現代の詩歌まで我ながら驚くほどの多くを読んだ。わずか数百の作品を選び出すのには、そ のような作業はむしろ苛酷に過ぎた。しかもなお私は、今、それを「出会い」と呼ぶしかない。「出会い」をえずに通り過ぎた作品の量は、他にはかり知れない のである。その事実に私は謙虚でありたいと思うし、読者にも、きちんと断わっておきたい。

歌謡があり和歌があり発句がある。連歌連句もある。狂歌川柳も都々逸もある。むろん漢詩もあり、能や浄瑠璃の歌詞もある。近代になれば短歌、俳句、詩がある。歌謡曲や浪花節その他の歌詞もある。散文詩というのもあり、翻訳詩も時に無視できない。

努めて見渡しながら、私は、落着くところ近代以後のもの、現代の我々が親しみかつ記憶に値するものに重点をおこう。具体的には短歌を軸に、これに俳句、和歌、歌謡を配し、近代以後の詩をごくわずかに添えるにとどめる。

結果として私の力がそれ以上に及ばなかったのであり、しかし、紙数とのかねあいとも言える。さらには所謂「和歌時代」の詩歌、近代以前の詩歌で「愛」と いえば概ねは「恋愛」に属しており、しかも、このシリーズでは別に一巻が『恋愛の詩歌』のために用意されてある。敢えて近代以後の作に重きを置こうとする 理由は、そこにも有る。

さてまた、作品か作者かという重点のおきかたも問題になる。なるべく多くの人のものをという配慮の方が、この種のいわば詞華集・秀歌撰の類では優先され るのかも知れない。が、私は敢えて文字どおりに「作品」本位でありたいと態度を決めている。その結果同じ作者から数重ねてえらぶという事もある。けっして 安易にするのではない。

同じ意味から作者や典拠についても、作品に対する以上に筆を用いることはしない。詩歌本来の無名性に立ち帰ろうというほどの頑張りではないが、かりに「作者」の名は忘れても「作品」が記憶され、「作品」に心惹かれる体験の方が、遙かに大切とは思うからである。

作者を知名度に応じてえらぶという事も私は避けたい。「うた」は「うったえ」でもある。表現の技においてプロフェショナルがアマチュアに勝るのは当然だ が、技ゆえに「うったえ」の本来を心なく犠牲にしてしまうのも、プロフェショナルの陥りやすい弊に相違ない。しかも「うた」は人世を映す鏡であり、鏡に映 る「うた」の世界は、到底一握りのプロフェショナルの作品だけで尽くされはしない。必ずしも十分の表現をえていないのかも知れない作品に、思いがけぬ真実 の感動や興趣を覚えることは多く、それも「うた」の「うったえ」であるならば、むしろこういう際に「専門」と称する人らに反省を促そう。

いわゆる詞書に頼らないで済む作品をとも心がけたい。この姿勢は、一歩進めて作品の鑑賞や理解に幅を生じる際、敢えて、作者の意図や作の成る特殊な事情、また時代的な制約から、ある程度自由に読む、読んでいいという、いわば「読者本位」の立場を私にとらせる。

また、古典に属する作品とはいえ、これに現代語訳を付することはしない。むろん、つとめて意は伝えねばならぬ。が、従来も、「詩歌の現代語訳」には、私 はけっして与(くみ)してはこなかった。物語や随筆ならば知らず、そういう賢しらはしなくても済むのが、すくなくも「同じ日本語で」味わえる詩歌の魅力で はなかろうか。「うた」の「うったえ」は、繰返し、よく舌にのせて、かつ深く聴きとるのが正しい。私も余分の解説に筆を用い過ぎず、必要に応じ一読者の鑑 賞例として、私自身の読みをただ参考に供するまで。

とにかく自分の声と言葉と心とで「読む」のを臆病に避けて、謙虚という以上に姑息に、誰か他人の読みにしたがおうとする人が多いが、繰返し敢えていうならば、詩歌に、「読み方」という「規則」は、ないのである。選ばれた詩歌そのものを味読していただきたい。

他巻との重複は、いぶかしむより、むしろ楽しんでいただくように。  (一九八四年 秦 恒平)

 

* 前置きの長かったの、勘弁して下さい。明日からは読みよく続きます。

2020 7/30 224

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 男女の愛

 

☆ この巻では「恋」を除いた「愛」の詩歌を読むのが建前 で、いきなり「夫婦の愛」などから始めてもいいわけだが、それを承知で、「男女の愛」の歌にもまず触れておきたい理由はもう繰返さない。本篇のまえにやや 長い序篇が置かれていると位に受け取って欲しい。いわば番外の序篇であるから、解説や鑑賞より、むしろ、次から次へなるべく作品を多く口遊(くちずさ)ん で行くうち、いつしか「愛の詩歌」のリズムに馴染んで、本篇へ、スムーズに読者も筆者も入って行きたい。

さて、日本の詩歌の歴史を、便宜に「和歌時代」と「短歌時代」とに私は分けており、もっと分りよく「明治以前」「明治以後」とはわざと呼ばないでいる。 ほぼ同じことを指しているが、「和歌」と「短歌」とでは、韻律や発想や声調にまぎれない差異が見え、それが俳句にも詩にも微妙に及んでいると思う。当然の ように、現代の我々の心に響く訴及力の差にもそれがなっている。

いかに技巧的に勝れた往時の名歌名句といえども、微妙なところで現代の心にもう十分は届きかねる昏さ疎さというものを、往昔の作品は余儀なく蔵してい る。『小倉百人一首』の歌はたしかに佳いが、さりとて百首が百首とも現代の詩心を直かに代弁できるとも言いかねるのである。

 

☆ 夢の逢ひは苦しかりけりおどろきて掻き探れども手にも触れねば   大伴 家持

 

相手が生者でも死者と読んでもいい、「おどろきて」は、「目が覚めて」の意味である。むしろ『萬葉集』のこういう歌には、率直ゆえに、身近に響いて心を騒がせる共感もたしかにある、が。

2020 7/31 224

 

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 男女の愛

 

★ 吉野川岩波高く行く水の

早くぞ人を思ひ初めてし      紀 貫之

★ かりそめに伏見の野べの草枕

つゆかかりきと人に語るな    『新古今集』読人しらず

 

★ 逢ふことも今はなき寝の夢ならで

いつかは君をまたは見るべき  上東門院

 

『古今集』撰者の、また『新古今集』に採られた貴族男女たちのこういう歌になると、もう萬葉の五七調から離れ、近代にまで目に耳に馴染んだすっかり七五 詞でありながら、どことなくまぎれなく古代そのものの遠い疎い印象を、禁じえない。旨いし、優しいし、よく分かるし、一首の姿も声も美しい。それなのに、 疎く遠く感じる。そこに詩歌のもつ微妙な時代性がうかがえ、そこには恋の歌であれ旅の歌であれ、「近代短歌」とは別の 「和歌」として受け止めざるをえ ぬ、何かがある。何かが、我々との間を隔てている。

まさしくその何かに対する認識として、「近代」の詩歌制作者たちの覚悟も生まれた。

むろん話にはいつも例外がある。幸せな例外もある。私はこの巻を進めるに当たり、そういう幸せな例外にも出会いたく、しかし根ははっきり「短歌時代」に 据えたいと考えている。過去の遺産を主に拾うより、現代に十分通用する、ないしは現代の文化としての、詩的感動を求めたいから。

2020 8/1 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 男女の愛

 

★ さねさし 相武(さがむ)の小野(をぬ)に 燃ゆる火の

火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも   弟橘媛(おとたちばなひめ)

 

倭建命を慕って歌われたという、『古事記』に名高いこういう歌を私は好む。また『萬菓集』はもとより、和泉式部、西行らをはじめ久しい「和歌」の表現と 歴史をも私自身は余念なく今も愛しているが、さてそこから「愛」の歌をとなればおおかたは「恋愛」の歌であり、しかも恋の秀歌撰はすでに数多いため、いき おい見覚えのものに出会いがちになる。

それよりも私は、いっそ「和歌」ならぬ「歌謡」の分野に、まだまだ多くは人に知られぬ、しかも現代の心に十分訴えうる佳い歌詞の多いことをここで強調し紹介しておきたい。もっともそれにも限界はある。

すこし割切り過ぎのきらいはあっても、ことさらここでは十二世紀以前の古代末期歌謡をあつめた『梁塵秘抄』および、十六世紀以前の主として室町小歌や小 謡をあつめた『閑吟集』の歌詞で、次には代表させておく。それ以前は遠く疎く、それ以後のものはあまりに俗化が過ぎるからだが、少なくもこの二冊の歌謡の 集に限っては、和歌の萬葉、古今、新古今集にもけっして劣らない、現代に通うという意味ではむしろそれらに勝る、住い内容と面白さとを持ち合わせている。

ことに『閑吟集』からは、愛や恋に関心のある若い読者なら、なまじな現代詩集などよりよほど新鮮鮮烈な詩的興奮を、たっぷりと、かつ容易に面白く味わえよう。

 

★ 葛城山(かつらぎやま)に咲く花候(そろ)よ あれをよと よそに想うた念ばかり

 

★ いたづらものや 面影は 身に添ひながら 独り寝

 

★ 思へど思はぬふりをしてなう 思ひ痩せに痩せ候(そろ)

 

* 明日に、つづく。

2020 8/2 225

 

 

* 「湖の本 146」ほぼ、思ったように人物の把握も初稿も進展している。少なくも、私は、付き合っていて我が意をえている、此のもう一人の「明治人」 に。山縣有朋は嫌われても知らぬ人は私の読者ではほとんどいない、が、「この人」はもどうかな。しかし、満足して貰えるのではと期待している。気を入れて いる。

2020 8/2 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 男女の愛

 

★ 身は浮草の 根(寝)も定まらぬ人を待つ 正体なやなう 寝うやれ 月の傾く

 

★ 来ぬも可なり 夢のあひだの露の身の 逢ふとも宵の稲妻

 

★ 独り寝はするとも 嘘な人は嫌(いや)よ

心は尽くいて詮なやなう 世の中の嘘が去ねかし 嘘が

 

★ 後影を見んとすれば 霧がなう 朝霧が

 

★ あまり言葉のかけたさに あれ見さいなう 空行く雲の早さよ

 

★ うらやましや我が心 よるひる君に離れぬ

 

★ お堰(せ)き候(そろ)とも堰かれ候(そろ)まじや

淀川の 浅き瀬にこそ 柵(しがらみ)もあれ

 

★ 泣くは我 涙の主(ぬし)はそなたぞ

 

★ 籠がな籠がな 浮名もらさぬ籠がななう

 

★ とりたてて佳いものだけを引いたのでなく、解説の紙数を惜しんで、分りいいのをここでは選んでみた。

それでも、『閑吟集』歌謡の孤心を秘めた愛恋無限の魅力の一端は、察して貰えよう。

2020 8/3 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 男女の愛

 

☆ 『閑吟集』を遡って 『梁塵秘抄』からも胸に響くいくらかを挙げてみる。

 

★ 思ひは陸奥(みちのく)に 恋は駿河に通ふなり

見初(みそ)めざりせばなかなかに 空に忘れて止みなまし

 

★ 吾主(わぬし)は情なや 妾(わらは)が在らじとも棲まじとも言はばこそ憎からめ

父や母の離(さ)けたまふ仲なれば 切るとも刻むとも世にあらじ

 

★ 聖(ひじり)を立てじはや 袈裟を掛けじはや 数珠を持たじはや

年の若き折 戯(たわ)れせん

 

★ 恋ひ恋ひて たまさかに逢ひて寝たる夜の夢はいかが見る

さしさしきしと抱くとこそ見れ

 

★ 東(吾妻)屋の つま(妻)とも終(つひ)にならざりけるもの故に

なにとてむね(棟=胸)を合はせ初(そ)めけむ

 

★ 水(見)馴れ木の水馴れ磯〈衣〉馴れて別れなば

恋しからんずらむものを や 睦(むつ)れ馴らひて

 

★ いざ寝なむ夜も明け方になりにけり 鐘も打つ

宵より寝たるだにも飽かぬ心を や 如何(いか)にせむ

★ 恋しとよ君恋しとよゆかしとよ 逢はばや見ばや 見ばや見えばや

 

これら大らかにも赤裸々な愛欲の歌声には、思わず人を感動させる真実があらわれている。しかも『梁塵秘抄』を全部通して読めば、こうした感情がただ人間的な真実だけでなく、信仰の心とも分厚く表裏した、いわば時代的な真実にもうらうちされていた事が、よく理解できる。

ともあれこの勝れて面白い古代と中世の二冊の歌謡集については、別に、NHXブックスに収めてあるそれぞれ『梁塵秘抄』と『閑吟集』とで、とくと楽しんでいただければ幸い。

2020 8/4 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 男女の愛

 

☆  いわゆる「和歌時代」には別れを告げ、近代現代の詩歌を主に読んで行こう。もっとも、此の「男女の愛」の章では、先例にならい、紹介を主にしておく。

近代の歌声となれば 明治三〇年の 『若菜集』を抜きには語れまい。その中でも 「初恋」の歌は有名に過ぎるとはいえ、永遠に初々しい魅力がいささかも古びない。

 

★ まだあげ初めし前髪の

林檎のもとに見えしとき

前にさしたる花櫛の

花ある君と思ひけり

 

やさしく白き手をのべて

林檎をわれにあたへしは

薄紅(うすくれなゐ)の秋の実に

人こひ初めしはじめなり

 

わがこころなきためいきの

その髪の毛にかかるとき

たのしき恋の盃を

君が情に酌みしかな

 

林檎畠の樹の下に

おのづからなる細道は()()ゅょ

誰(た)が踏みそめしかたみぞと

問ひたまふこそこひしけれ     島崎 藤村

 

★ 「あげ初めし前髪」「こひ初めしはじめ」「踏みそめしかたみ」と、いかにもものの初めの初々しさに、詩一篇が処女の胸さながらに美しくふるえている。この詩人を小説「家」や「新生」や「夜明け前」の作者とばかり思い込んではならない。

 

吾胸の底のここには

言ひがたき秘密(ひめごと)住めり

身をあげて活ける牲(にえ)とは

君ならで誰かしらまし

 

★ とも歌ったこの詩人の呻きは、近代日本人の 覚め行く魂の自覚にほかならなかった。その自覚が、かくも抒情味に富んで優美に表現されながらあしき感傷をまぬがれ、しかももう「和歌時代」の和歌的な発 想でもリズムでもなかった事にこそ驚いていい。恋を歌った近代詩は、藤村以後の方が、佐藤春夫にせよ北原白秋にせよ室生犀星にせよ、むしろ過剰な感傷と修 辞に酔い気味であったのかも知れぬ。国民的に愛誦されてきた恋の名詩をその後ほとんど持たない詩史…に、日本と日本語との不幸があるといえば、詩人たちは 何と応えるのだろう。

ま、へんに絡んでみても仕方がない。

2020 8/5 225

 

 

 

* 『選集』最終巻の巻頭には、ためらいなく、「死の間近で」の『バグワンに聴く』を置いた。小説や論攷のほかで、私・秦 恒平とのしみじみ「対話」をと想つて下さる方には、この一編を遺して行きたい。

 

* 気を入れて書き継いでいるが、なみの文でなく、書くのに気も遣い時間もかけている。次ぎの一冊の半分に達したかどうか。そんなことは宜しく、心して心ゆくように進める。幸いに書きたい内容はむしろ溢れんまで手に入れている。主題へしかと結び合いたい。

2020 8/5 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 男女の愛

 

☆ 男から眺めた女ということで、ひとつ、山村暮鳥没後の詩集、大正十三年『雲』から挙げてみよう。

 

★  野良道

こちらむけ

娘遠

野良道はいいなあ

花かんざしもいいなあ

麦の穂がでそろつた

ひよいと

ふりむかれたら

まぶしいだらう

大(でっ)かい蕗つ葉をかぶつて

なんともいへずいいなあ     山村 暮鳥

 

☆ ナイーヴといえば言えるし、素朴な味わいが「いいなあ」と思うが、こんなでいいのかなあと思わぬでもない。

2020 8/6 225

 

 

* どうでもいいんだと思っている。

したい仕事はしていくし、余分に疲れるほどの何もしていない。

私の日々に退屈は無い。八十年の記憶は生き生きしているし、読みたい本も山のようにあり、好奇心や好色心や批評心や、片付けを要する用事にも、幾重にもぐるぐる巻にされている。なによりも私には「歴史」という思索や受容の無尽蔵の寶庫がある。

いま劇場へこそ残念、出向けないが、好きにいろんな音楽は聴けるし、二百もの映画もよりどり観られるし、美しい場所や景色や花や木や、家族や人や物の写真も、色っぽい写真も、整理し始めれば、何日かけても足りない。

一通も捨ててない莫大な手紙の山が六十年分、数万はあろう二十数年分の夥しいメール、そして自分で書きためてしまった十万枚を優に越していよう「私語」のプルがあって、何よりその気になれば私自身の読み返せる著作が、あちこちの書架に夥しく溢れている。

2020 8/6 225

 

 

* 動きのとれなくなる怪我はしたくない。

妻にも、建日子にも、義妹達にも、どこで何をしているか知れない娘にも孫娘にも、身内と親しむ大勢の読者の皆さんにも知友にも、さらにはわが創作世界にいま生きてある友だちにも、それを願う。

 

* 今日も、また昨日に次ぎ、そんな、『維新の二人』とつき合い、対話し続けたい。教わりたい。興味津々。胸を掴んで引き寄せてくる話材って、いくらでも在るのだ。

あの店やあの店でうまいものを食べに街へ出たいとも願う、が、この時節、ばかげた無謀を強行の気はつゆほども無い。

 

* ことの捗る時は幸運も近寄ってきて、とてもムリと諦めながら書庫に入って、ポコンと最適本に手がついた。中村光夫先生に戴いていた、戯曲『雲をたがやす男』、この男を問題にしているのでないか、時代の空気が読めてくるのは助かる。

 

* 原善君から冊子「文藝空間」を送ってくれたが、あれは8ポならぬ7ポ組みでないかと疑う自の字の小ささに、とても読むに読めない。いろんな論攷も、い かにも小さく、またかと思う重箱の隅せせり、それで済む世間のあるのも承知だがわたしはもう卒業させて欲しい。私の眼識しは谷崎潤一郎の策士またまた堪能 して愛読したいが、谷崎論に類するものは、百册に及んで書架を防いでいたのを一切ダンボールにつめて廃棄処分ときめた。まして、誰それとなく原作原著は珍 重、しかし誰それ「に就いて」書かれたものは、全てもう読む余裕なく「廃棄」と決めている。仕方がない。

心静めて楽しんで、ただ漱石や藤村や鴎外や秋声・鏡花や、直哉、潤一郎、龍之介、康成、由紀夫らの小説作品を読み返したい。作品「に就いて」云々の論著はもう要らない。

私も、この間の『椿山集』のような稀有に珍しいもの以外にはもう新たには書き起こさない。書くなら「読み・書き・読書」の『濯鱗清流」式に日記にだけ書きおく。もう時間が足りない、無い。分かっている。

2020 8/6 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 男女の愛

 

☆  昭和元年に出た伊藤整の『雪明りの路』は青春の気に富んで、しかも、しっとりと深い色彩をたたえた、佳い詩集だった。「青葉の朝に」をここに挙げる。

 

★ 青葉となつて雨の降る朝

おまへは硝子戸のかげで

そつと黒いまつ毛の涙を拭いてゐる。

 

それほどの思ひがあつたのなら

何時かのあの月のよい

さう僕が十九の秋の一夜

不思議な情緒にとりつかれて海辺の丘をさまよつた夜更けに

なぜ素足で出てきて

身体も白く透き通つたまま

僕といつしよに海で死んでしまつて呉れなかつたの。     伊藤 整

 

☆ 日本の近代詩は、外在律から自由になったその時から、むしろ詩の表現としては窮屈になり、妙にしどけなくもなり、短歌や俳句の厳しい表現を容易には 超ええなくなった趣がある。その一方で、流行歌の作詞表現がけっこう若者らに浸透して、詩的満足がもっぱらそこで購われている。

「詩」の市民性が稀薄になっていないか。それでもいいのか。

それにしても詩を紹介するのは、紙数に恵まれない時は難儀な仕事になる。私は原則として、詩にせよ絵画にせよトリミングは、「批評」や「研究」ででもない限り、許されていい事とは考えていない。自然、この巻では詩の紹介は数限ることになろう。

2020 8/7 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 男女の愛

 

☆ ひたぶるに人を恋ほしみ日の夕べ

萩ひとむらに火を放ちゆく   岡野 弘彦

 

★  何ともいえない気分になる。やすらかなような、胸をかきむしられるような気になる。涙ぐましくて、激しくて、歌は美しい。五つの「ヒ」を陪昔に、「萩」「放ち」の二つの「ハ」音が輪郭正しく浮かびあがる「うた」の効果。しかも「詩化」を遂げた一語一語。

詩も歌も「うた」にほかならず、音楽の美を見捨てて言葉の藝術が成るはずがない。ただに音の美を言うのではない。言葉の一つ一つが十分な「詩化」を遂げ ているかどうか、そういう基本の語感が歌でも詩でも俳句でも大切なのは言うまでもない。のに、それがなかなか実作者らにも分かっていない。

以下の読み、実情と或はかけ離れているかも知れぬが、出会いの昔の感銘にしたがいたい。

「萩」は一夜豊産の「風土記」伝説このかた不思議になまめかしいものを身に負うた花で、「火」もまたこれの根をより強く肥やすために「放つ」のである が、この歌では「火を放つ」という行為により、「人を恋」うる魂鎮めも魂ふりもが願われていそうな気がする。「ひたぶる」といったつい言い過ぎになりがち な言葉が、これくらい適切に美しく用いられた例は少ない。現代の、恋の名歌と言い切っていい。昭和四二年『冬の家族』の巻頭歌。

2020 8/8 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 男女の愛

 

☆ さて、現代の若々しい「恋」の表現を、説明も鑑賞も抜きに並べたい。それぞれに様式への意欲も新鮮な表現ももち、なにより(少ぅし、もはや以前っぽい=)現代の「恋」の感覚に溢れている。

 

★ 双腕に若やぐ鹿を追ひつめて

撃ちたき意志を華と呼ぶべし   勝部 祐子『解体』

 

★ 海を見にゆかなとひとの言ひしかば

それよりぞわが裡に鳴る波   池戸 愛子『未知』

 

★ 梢たかく辛夷(こぶし)の花芽ひかり放ち

まだ見ぬ乳房われは恋ふるも   小野 興二郎『天の辛夷』

 

★ 海風は君がからだに吹き入りぬ

この夜抱かばいかに涼しき      吉井 勇『酒ほがひ』

 

★ 草原を駈けくるきみの胸が揺れ

ただそれのみの思慕かもしれぬ   下村 光男『少年伝』

 

★ あの胸が岬のように遠かった。

畜生! いつまでおれの少年   永田 和宏『メビウスの地平』

 

★ 動こうとしないおまえの

ずぶ濡れの髪ずぶ凍れの肩 いじっぱり!   永田 和宏『メビウスの地平』

 

★ たとへば君ガサッと落葉すくふやうに

私をさらつて行つてはくれぬか   河野 裕子『あかねさす』

 

★ 抱かれてなおも哀しき夕ぐれに

水甕のみずあふるるばかり   佐藤 よしみ「国学院短歌」昭和四九年第七〇号

 

★ 音たかく夜空に花火うち開き

われは隈なく奪はれてゐる   中城 ふみ子『乳房喪失』

 

★ ましぐらな矢に真二つ裂かれたる

リンゴの肉の散るやうな逢ひ   東 淳子『生への挽歌』

 

★ 月光に見えざる君を頌むるより

まづ簡潔に歯を磨くかな   柏木 茂『功子』

 

★ 雲は夏あつけらかんとして空に浮いて

悔いなく君を愛してしまへり   柏木 茂『功子』

 

★ 手を垂れてキスを待ち居し表情の

幼きを恋ひ別れ来たりぬ   近藤 芳美『早春歌』

 

★ 逢ふことが「栄養」となり夏こえて

うつすらと肉をおびゆくからだ   松平 盟子『帆を張る父のやうに』

 

★ あの夏の数かぎりなくそしてまた

たつた一つの表情をせよ   小野 茂樹「地中海」昭和三九年三月号

 

★ 泣くおまえ抱(いだ)けば髪に降る雪の

こんこんとわが腕に眠れ   佐佐木 幸網『真の鏡』

 

★ 君かへす朝の舗石(しきいし)さくさくと

雪よ林檎の香のごとくふれ   北原白秋『桐の花』

 

★ 今宵ひと夜あづけてよしといひたれば

君の片手を持ち帰るなり   篠塚 純子『線描の魚』

 

★ いつまでも美しくあれといはれけり

日を経て思へばむごき言葉ぞ   篠塚 純子『線描の魚』

 

★ わかれがたきおもひを断つはいつも君

今日はわたしがさよならをいふ  正古 誠子『あけぼのすぎ』

 

★ 色刷りの小鳥の切手はがされて

郵便箱に君の愛濡れている   河野 深雪『短歌年鑑』一九八○

 

★ パッと目をひらくと好きなひとがいる   森中 恵美子『番傘』

 

★ 弁当を忘れし彼女毛絲編む   茂木 蓮葉子『稲含』

 

☆ 思い切って並べてみた。佳いから並べたとも言え、好きだ からと応えてもいい。人によっては判じもののようにしか受け取れない作品も交じっていよう。判じものならそれを解いてみせるのが私の役なのだが、強いて加 えた「恋愛」の歌のこと、ここは紙数を惜しんでおく。どれも口遊んでいて、自然に魅力は胸に残るはずの歌ばかり…の、つもり。

2020 8/9 225

 

 

* 現実と非現実とに鬱陶しく葛藤させたくない。現実とは、うとましい安倍政権「政治」で、「コロナ」ですら、ない。「非現実」とは、わたくし。わたくしは、浮遊している。地に足などつけたくない。

2020 8/9 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

 

* 令和(二〇二〇)八月十日 月

 

* 起床 7:30  血圧 133-58 (55)  血糖値 86  体重 60.8kg

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 男女の愛

 

☆ 昨日は、私の好みのようなものが、先ずはサンプルとして出たという位にして、もう一首。

 

★ 割烹着の裾よりスカート少し見えいよいよ君をいとしと思ふ   吉村 睦人

 

☆ 発見の歌であり、しかも誰もが分かる納得できる意味では共感の歌であり、思いの底にあったものが、いみじくも代弁された喜びをもつ。「割烹着」だ けでは、気がつかない。ふだん見ている「スカート」だけの姿でも気づかない。いつもは見なれない働き者の「裾」からいつも見なれて心をひかれてきた「ス カート」がちらと見えた。好きな少女の思いがけない好もしい一面が瞬時に結晶した。

好きになって行く時は何を見てもこうなのではあるがと、スタンダールの『恋愛論』は教えている。昭和五八年『吹雪く尾根』所収。青春の恋をうたって心晴れやかな歌集である。

2020 8/10 225

 

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 男女の愛

 

☆ 次には発想と表現の質において、やや年かさな印象の作品も挙げてみます。

 

★ 脣(くち)に指押しあてて聴く春千鳥   上村 占魚

 

☆ 事実は知らず私は愛の営みのまさしく、さなかと読む。それでこそ面白い。「花龍に月を入れて 漏らさじこれを 曇らさじと もつが大事な」という『閑吟集』屈指の名吟を思いだす。昭和五九年『かのえさる』所収。

 

★ 白椿われに冥加の痣ひとつ   藤田 湘子

 

☆ これも濃厚な愛が恵んだきぬぎぬの発見と読んでこそ面白い。昭和五七年『朴下集』所収。

 

★ ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜   桂 信子

 

★ 七夕や髪濡れしまま人に逢ふ   橋本 多佳子

 

★ 乱れたる団扇かさねて泊りけり   長谷川 かな女

 

☆ 前の二つは『月光抄』(昭和二四年)『信濃』〈昭和二二年)から採り、かな女の作は記憶から採った。こう三つ重ねると、佳い短編を読んだような後味がある。

2020 8/11 225

 

 

* 東近江五個荘の乾徳寺さんご住職から『「近江商人の魂を育てた 寺子屋』一冊を頂戴した。同じ川並の川島民親さんからも以前近江商人を主題の共著本をいただいたことがある。

乾徳寺さんの本に、「寺子屋」の先生に書を教えた勝見主殿(本姓越智)という先生が、私の育った新門前通りの「狸橋」を「住所」とされていたらしい、わたしの朧ろな記憶に「越智さん」「勝見さん」の覚えが絡んでいる、今となっては確信は持てないが。

手先の痺れと不自由でわたしは今、ペンで字が書けない、メールだと何とかなるが。

ひょっとしてこの日記、川島民親さんの目にもしとまれば、本のお礼と上のうろ覚えだけを、お伝え下さるだろう。

 

* 参考にと「湖の本 43 もらひ子」をめくってみた。憚って多くを仮名で書いていたのが今となっては残念だが、克明にものをよく覚えて記録していて、 なつかしい。この前に「丹波」が、このあとに「早春」が書かれ、三部作で私の幼少から新制中学「入学」頃までがほぼ言いつくせてある。そして長編「罪はわ が前に」へつながる。読み返し始めたら「子供の昔。少年の昔にありありと立ち返れる。気恥ずかしかったが、思い切って書き置いてよかった。

 

* 『戦争と平和』(最後のトルストイその人の論文は、暫時措いて)読み上げた。戦傷死したアンドレイ、妹のマリア、アンドレイの許嫁であったが、アンド レイの最も親しかったピエールの理想的な妻となったナターシャ。作者はこの四人に真の意味で敬愛に足る「人間」のドラマを書いてくれている。

トルストイの詞藻と思想の豊かさ深さ自在さは、他に類を見ない活気を行文に溢れさせている。驚嘆と羨望のほかない。

2020 8/11 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 男女の愛

 

☆ 発想と表現の質において、やや年かさな印象の作品も挙げてみます。

 

★ かまつかの静かに朱けの深みゆく

夕べゆふべの君の恋しさ   馬場 あき子『早笛』

 

★ 抱くとき髪に湿りののこりいて

美しかりし野の雨を言う      岡井 隆『斉唱』

 

★ なつごろも透きてかなしく逢いしかば

戦のごと抱きたまいき   中野 照子『しかれども藍』

 

★ 床の辺にあかき羽織をたたみゐつ

母に秘めたるこの一夜はや   喜田 聿衛「多摩」

 

★ うかびくる面影胸に愛しければ

人には告げずほのぼのと抱く   大山 芙美「白珠」

 

★ 花八つ手日昏れはしろく眸(め)にたちて

ひと待ちがたき刻過ぎてをり   金津 於菟「水甕」

 

★ 見つめ給へば顔よせたりしたまゆらが

一生の思出となりにき泣かゆ   両角 千代子

 

☆ 両角の作はおそらく「師」または「夫」との別れを歌ったものなのであろうが、歌の情緒には深い恋情が生きているとみてここに置いた。「アララギ」昭和四七年二月号から採った。

2020 8/12 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 男女の愛

 

★ 音信不通になってから七年になるが、実はその間に一度、

私は汽車にゆられ、船にのり、その人を訪ねて行った。が、

その人は学校の父兄会に出掛けて不在だった。私は黙っ

て気付かれぬようにしてまた帰ってきた。

神の打った終止符を、私はいつも、悲しみというよりむしろ

讃歎の念をもって思い出す。不在というそのささやかな運命

の断層に、近代的神話の香気を放ったのは誰の仕業であろ

うか。

実際、私の不定貪婪(たんらん)な視線を受ける代りに、その

人は、窓越しに青葉の茂りの見える放課後の静かな教室で、

躾けと教育についてこの世で女の持つ最も清純な会話を持っ

ていたのだ。              井上 靖

 

☆ 昭和五四年刊の『井上靖全詩集』から、「不在」と題され た散文詩を採った。このような愛と別れとが、また、ある。男と女とには、ある。この「不在」を「神」の叡智として受け容れている「私」は、「その人」に対 し愛うすき者であったろうか。逆である。これほどの愛を知らぬまに受けていた人の幸せを、私は思う。愛は、肉の領分にだけあるのではない。

2020 8/13 225

 

 

 

* わたしの此の古機械はADSLとかを遣ってきたのだが、そのサービスが中止になるとか郵便が来ている。では、どうするのかが判らない。難儀な新規の設 定を私のいまのアタマとウデとでは到底ムリ。とすると、最悪、HPの転送が出来ず、メールが使えなくなるのかも。とすると、どうするか。

まったく判らないが、「もう潮時だよ」と宣告されているのかも。

この機械で、世間の人様と全部の縁が切れても、「字」は書き続けられるなら、自分自身との「対話」と「創作」「述懐」だけは辛うじて出来るということか。

わたしは電話で話すのは苦手、手書きの郵便はこの痺れ手では久しく書いたこともめったに無い。つまり「外」世間が、最悪機械的には私から消滅するということか。そういう「時機」をいましも老境の生活が迎えるということか。

その覚悟をしておこう。昔昔に帰って、ワープロ機能だけは生き残ってくれるといい。ただし今、プリンターも働いてくれてない。せめてコピーとブリントとは利いていて欲しいが。

 

* おそらく、よほど遅くても九月中には『秦 恒平選集』33巻は完結して送り出せる。今、書き継いでいる「秦 恒平・湖の本 151」だけは仕上がって送り出せるだろう、あるいは其処で、文字通りに「私達の帰樵」は成るだろう。たとえそれ以降「湖の本」の継続が不 可能になっても、私独りの執筆は続けられる。最小限、それだけでも独りの、ないし二人での老境は「方法」としても可能と思う。

書き置いてさえおけば、いつか建日子が処断してくれるだろう。建日子こそ、健康で怪我なく日々を大切に生きて欲しい。

 

* 四時半ちかく 激しい雨。ああ生きているなあと雨を聴いている。「聴雨」 そして「雷鳴」。幸いわたしは雷さんを怖がらずに大きくなった。こころよく迎えるほどに聴いてきた。

2020 8/13 225

 

 

☆ 「ざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 男女の愛

 

★ 少女のわれが合せかねたる貝合(かいあはせ)

会はざればいよようつくしかりき     斎藤 史

 

☆ 「短歌」昭和五九年七月号の誌上で出逢ったこの歌には、感動した。「貝合」は一対の、もともとは一つの貝殻と貝殻とを多くの中から捜して合わせる、優美 な古代からの姉様遊び(ゲーム)であるが、いわば男と女との運命の出会いを祈る思いを併せ寓意していること、勿論だろう。「合せかねたる」には、ハキとは 言わないその辺の根の深い嘆きの声が聞こえる。

だが、この近・現代を通じて稀にみる優れた詩人は、優れていればこその資質として、この嘆きをあしき感傷には流してしまわない。下句の毅さには、目をみ はっていい。「会はざればいよよ」とは、運命を乗り超える気迫なくては出て来ない詩句である。同時に、虚実の魔法である「詩」の本来の境涯をも暗示しえて いる。

愛と美の意味を兼ねた「うつくしかりき」という過去への物言いに籠めて、事実ならぬ、「会はざ」りし真実在を一層大きく、美しくも愛しくも把握できてい るそういう「現在」の生きが肯定されている。あつかましい肯定ではない。しみじみと寂しい静かな肯定である。そういう寂しさや静かさによく耐えられる毅さ が、この、よく永く生きていまも健在な詩人の、人間としても女としても、優れた美質であろう。 (斎藤史さん、もう亡くなられている。)

人生、「会ふ」ばかりが男と女との愛とは限らない。そうも思いつつ、世の恋人や夫婦たちは「会ひ」えた喜びを、さらにさらによく培うべきなのである。

2020 8/14 225

 

 

* この時節、この日々、この朝晩、私をシンとして励ましてくれるのは、冒頭に掲げてある『方丈』の二字、機械をあけ、この欄をあけてまっさきに見入るの が此の二字『方丈』 文字の美しさ確かさが ひしと私を立たせる。ありがたい。ホームページへ導いて容れる峻厳の誘いである。

そして先達の詩歌。

それから愛して已まぬ 何枚かの写真。

明日は 敗戦の日で お盆。明後日には例年には「大文字」の送り火。何人にも何人にも何人にも「死なれ」て来た。もう今夜にはみな帰ってきているのだと、身内にうずくような温みを感じる。明後日には送り火でまた見送らねばならない。

2020 8/14 225

 

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

☆  男女の愛があって、結婚し、夫婦になる。そして子が生まれる。子を持って知る親心。あまりに尋常なようではあるが、このサイクル、当分変わるまい。

では、ものの初めに、「求婚の広告」という詩から読んでみょう。山之口獏の『思弁の苑』(昭和十三年刊)から引く。佐藤春夫が序詩に、獏の詩を、「枝に 鳴る風見たいに自然だ しみじみと生活の季節を示し 単純で深味のあるものと思ふ 誰か女房になつてやる奴はゐないか」と書いているのも、この詩を受けて のものだろう。

 

★ 一日もはやく私は結婚したいのです

結婚さへすれば

私は人一倍生きてゐたくなるでせう

かやうに私は面白い男であると私もおもふのです

面白い男と面白く暮したくなつて

私ををつとにしたくなつて

せんちめんたるになつてゐる女はそこらにゐませんか

さつさと来て呉れませんか女よ

見えもしない風を見でゐるかのやうに

どの女があなたであるかは知らないが

あなたを

私は待ち佗びてゐるのです               山之口 獏

 

☆ 「若しも女を掴んだら」というケッサクな詩もこの詩人にはあり、表現の軽みの底にたゆたう時代の重い嘆きは昏いのだが、獏の詩は持ち前の「正直で愛するに足る青年」(春夫)の詩情で読ませる。独特の「考えかたのおもしろさ」(金子光晴)に、詩がある。

2020 8/15 225

 

 

* 死ぬために生まれてきたのではない、あえて謂えば 生きよと生まれた。今・此処の連続、それが生なら、今此処を、過剰に観念と化さずに生かしたい。

2020 8/15 225

 

 

* 死ぬために生まれてきたのではない、あえて謂えば 生きよと生まれた。今・此処の連続、それが生なら、今此処を、過剰に観念と化さずに生かしたい。

 

* 「京の食と人と行事」に取材して美しくも懐かしくい番組が、例年放映されている気がする。今日も、パン屋や菓子や焼き物や鱧の骨きりや植木やそして大文字などを多彩に巧みに組み合わせて、京ことばも懐かしい佳い映像に、思わず泪がこみあげた。

京都へ 帰りたいなあと、つくづく思う、しみじみ思う。もうダメと判ったなら、躊躇わず東京駅へ駆けて新幹線に乗りたいとまで思う。

2020 8/15 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 春の夜のともしび消してねむるときひとりの名をば母に告げたり   土岐 善暦

 

☆ 「男女の愛」があり、そして成る成らぬの別はいくらかあれ、「夫婦の愛」がいつか期待され、実現して行く。

「ひとりの名」とは 何という初々しい佳い表現だろう。「春の夜」であり「ともしび」があって、「母」もまぢかに一日の果てを寝入ろうとしている、そう いう時に、決意と愛とを秘めて静かに結婚の意思とともに、「ひとりの名」は「告げ」られる。仰々しくはなく、しかも場面は適切に描き尽くされ、リアリティ は確保されている。

昭和二六年『遠隣集』所収。

2020 8/16 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 襟カバー替えて布団を敷き終る

佗しいのも君が来る迄の二月      加藤 光一

 

☆ 「君が(嫁いで)来る迄」と読んで自然だろう。「二月」 を「にがつ」と読むか「ふたつき」と読むか。私は「布団を敷き終」った今、現在――の表現として「にがつ」と読む方が春待つ季節感もあらわされ、音調、声 韻ともに優れると思う。あと「ふたつき」の意味はその言外に汲んでいい。

歌の懐はそう深くないが、人生の春をことぶれして心地よい。 「未来」昭和三一年三月号から採った。

 

★ 木に花咲き君わが妻とならむ日の

四月なかなか遠くもあるかな   前田 夕暮

 

☆ これは極め付けの秀歌として知られる。前の加藤の歌にく らべ、一段と歌としての整理が利いている。だから一見して一首が澄んで明るい。音も文字も整っている。表記という事も詩人はもっともっと考慮に入れるべき だろう、と、この夕暮の歌を見るつど思う。お手本のようにきりっと佳い姿だ。

それにしても男の純真な抒情、ここに極まれりの観がある。「木に花咲き」とは、「君わが妻と」なる「四月」の桜であるとともに、待ちわびる今、の梅も、重ね言われていようかと私は読んでいる。

「木の花」は古くは梅、のちに桜と思われて来た花の謂だろうから。 明治四三年『収穫』所収。

2020 8/17 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 暗がりに汝(な)が呼ぶみれば唯一人

ミシンを負ひて嫁ぎ来にけり    遠藤 貞巳

 

☆ おぅと声が出た。そして破顔一笑。快い笑みに祝福の思い が湧く。「呼ぶ」のがいい、声が聞こえるようだ。いじけた声ではない、貧しくとも心豊かに健康に、若い生活を倶に支え合って行こうという、気迫に溢れた 「汝」の声だ。女の、「ミシン」ひとつの愛と活気と決意とを受けて、迎える青年にも思わず一歩を力強く踏み出す気概が湧いたであろう。

「暗がり」を、人目を恥じてとは読むまい。決意して即刻に今夜から、と私は読む。そこに、「夫婦」の出発点がある。宵から朝へ。原始の暦はそのように数えられていた。 「国民文学」昭和二六年四月号から採った。

 

★ いまよりは妻といふべし手を執れば

眉引(まよびき)ふせてすがるかなしさ    長谷川 通彦

 

☆ 「眉」を「引き伏せて」ではない。「まよ(ゆ)びき」で 一つの意味があり、眉墨で引いたその眉とここでは取った方がいい。たんに眉を美しく表現したと取ってもいい。それで「ふせて」が音としても意味としても姿 としてもさらに美しく情深く感じ取れる。初夜の床の情景、「すがるかなしさ」が利いて来る。むろん「愛しさ」の意味である。

「日本」の夫婦だなぁという気もする。それも、やや古い昔の「日本」だろうか。そうでもないのだろうか。床ならぬベッドでは、こういう感じにはなるまいなぁ…などと思い入れが濃やかになる。 「アララギ」昭和十五年七月号から採った。

2020 8/18 225

 

 

* ロレンスの長編『息子と恋人』は亡き吉田健一さんの訳。吉田さんには、太宰賞受賞のパーティの晩から亡くなるまで、よくして頂いた。なによりも展望に 上村松園を書いた『閨秀』一作を、朝日新聞の文藝時評全頁を用いて絶賛して頂いた嬉しさは忘れられない。受賞式後のパーティで、選者のお一人であった河上 徹太郎先生と吉田さんとか歓談されている側へ行き、お礼申し上げた。

河上先生が「で、これから、どうするんだね」と尋ねられた、わたしは出版社務めの会社員だったが、畏まって、「私なりに私の世界を」といったような事を 申し上げるや、言下に「そんなの、あるのかい」と謂われ、わたしは棒立ちになり、まさにハタと悟った。吉田健一さんはビールの盃をかかげて会場にひびくほ ど愉快そうに高笑いされた。優しい笑いであった。

「そんなおまえの世界がもう在るのなら、賞なんぞやらないよ」と謂われたのだ。即、直観した。

そしていつしか吉田先生は『閨秀』を絶賛して下さり、河上先生も『雲居寺跡 初恋』を書いた時に編集者を介して、「あれでいいんだ」と伝えて下さった。 小林秀雄先生は大著『本居宣長』に秦 恒平様と自署して勤め先へ届けて下さり、選者だった中村光夫先生はある会合での席で、「あんたのような人がいなくちゃいけないんだ」と呟かれ、やはり選者 の唐木順三先生は「秦 恒平の独自性」という一文を筑摩の文学大系のために寄せて下さった。やはり選者の臼井吉見先生も、あるところでの篠田一士さんとの対談中に「秦 恒平のような存在が大事なんだ」と話しあわれていたと、編集者が伝えてくれた。

わたしは、五十年、こういう方々の、いやもっと数多くの諸先達の言葉や声にいつもどこかで励まされ包まれていた。なににもまさる力でであり励ましであった。

2020 8/18 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 夕汽笛一すじ寒しいざ妹(いも)へ   中村 草田男

 

☆ 広漠とした宇宙大の想念から、糸をひくように「夕汽笛」 に誘われて「一すじ」に、つまりは一途に「いざ妹へ」と、思わず肌を寄せて行く、愛。「寒し」を、ただに気温の低さと取り、だから温かな妻の側へとのみ 取っては浅くなる。それでは「寒し」が負価だけを負う。どう読んでもこの「寒し」には一句を生かしている霊的な「詩」の効果が感じ取れるはず。それは、お そらくは想念にも愛にも湛えられている凛々と清冽なものを言い当てているのだ。負の語が醇乎として詩化され、「夕汽笛」が、大空から「妹」の懐袍へ名人が 射た矢のように射抜いて行くのだ、

詩の魔術だ。  昭和十四年『火の島』所収。

 

★ 細雪妻に言葉を待たれをり   石田 波郷

 

☆ むろん「ささめゆき」と読む。どんな雪かは、人それぞれの想像で読み込めばいい。優しい濃やかな夫婦の沈黙を、その魅力を、かく雄弁に言いおおせた句は賛嘆に値する。夫婦の心寄る波がしらが今しも崩れ合おうとする瞬時の、愛。

同じ作者の次の句とともに、昭和二三年『雨覆』所収。ほし

 

★ 牡丹雪その夜の妻のにほふかな   石田 波郷

 

☆くこういう魔力に溢れた秀句をつづけざま読んでいると、ほとほと俳句に惹かれる。十七音の俳句の方が、三十一昔の短歌以上になお春秋に富んでいる気が してしまう。近代短歌の第一・二世代の歌人の作品にさえ、裾の方が、つまりは下七七が寒い弱い、無くもがなのような歌が、拾い出せばずいぶん有る。「現代 短歌」よ、第三藝術とまでわらわれるなかれと言いたい。 さてもこの句の、夫婦ふしどのまどかに優しいことよ。安らかに「夫婦の愛」を極めた溢美の一句と 言える。

2020 8/19 225

 

 

 

* 映画「戦場のピアニスト」 もう何度めかだが、感銘。しみじみと人と藝術とに感謝した。

 

* つづいて祇園の芸妓、舞子の映像を楽しんだ。京の「祇園」は私には「よそ」ではない。新門前通りの秦家に預けられて東京へ発つまで、祇園とともに暮ら し呼吸してきた。わたしが通った弥栄中学はもともと祇園町が子弟のために肝いりの市立小学校が、戦後新制六三制のもと市立弥栄中学となり、わたしは有済小 学校から進学した第一期の一年生であった。教室には「祇園の子」が男女とも何人もいっしょだった。思い出話をはじめたら大きな本が一冊書けてしまう。

秦の家のあった新門前通りの東の梅本町には祇園甲部でとびぬけた芸妓で、「都をどり」に忠臣蔵がでると決まって「由良之助」役の人のいわば隠れ家があっ た。西の西之町には祇園芸妓舞子たちの藝を総理錬成する井上流家元の八千代はんのお邸が今もある。今の八千代はんは私の少し後輩にあたり、兄上は観世流の 有名なシテでしかも大学で同専攻の先輩だった。今の八千代はんにはわたしの「湖の本」を応援してもらってもいる。

そしてわたしの仲之町ずまいの真隣り、祇園町へ抜けて行く抜け路地に入ったすぐ際には祇園甲部で知られた練達の「男衆(おとこし)」の住まいがあった。

 

* わたしの文壇へ送り出してもらった出世作は間違いなく異本平家の『清経入水』だが、その後に親密に識者に認められて強い足場になったのは短篇の『祇園 の子』だった。永井龍男先生はこういうのが十も十五も出来れば「たいしたもの」と人に話されていたと聞いた。笠原伸夫さんはとてもありがたい文章で「祇園 の子」を賞讃して下さった。それらはみな祇園乙部の女の子たちを書いていた。祇園町には甲と乙との地域差がわたしのこどみの昔から確然と区別されていて、 しかし同じ中学の同じ教室でいっしょだった。祇園に抜け路地一本で地続きの町に育っていたわたしの「批評」の眼は、そんな教室や校舎や運動場で磨かれ鍛え られた。ただの綺麗事ではけっして済まない世界であった。「小説家になるしかない人だね」と亡き詩人の林富士馬さんとの対談で判決されてしまった思い出も ある。八坂神社の西楼門から夜の繁華の四條大通りの写真を私が懐かしむのは、ただ懐かしいだけの趣味では無いのです。

2020 8/19 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 枕辺の春の灯(ともし)は妻が消しぬ   日野 草城

 

☆ 「灯(ともし)」と読みたい。これまた口舌(くぜつ)を 無に帰するすばらしい一句。どの一語一語も抒情万倍、描写万倍の効果を挙げている。私がいつも強調する、語の「詩化」とはこのことで、「枕辺」も「春」も 「灯」も「妻が」も「消す」も、みな何でもないいわばその辺りの尋常そのものの言葉に過ぎない、のに、この句のなかでは、挙げて夫婦祝祭の甘美へ向けて、 さながらに花咲いて見える。ことに「灯は妻が」の、「は」と「が」との助詞の効果はまことに的確、「消しぬ」の言い決めを万全に支持しえている。「妻が」 の含みの面白さ、脱帽。 昭和十年『昨日の花』所収。

2020 8/20 225

 

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ はばからず仰伏す妻に面(かほ)を寄す

恋愛は何か何か稚し       千代 国一

 

☆ 選り抜きの俳句を三、四読んで来て、短歌に転じると、い わゆる短歌的抒情といわれるものの長短が際立って目に見えてくる。よくも悪しくも下句七七にそれが出る。この歌も、恐れげなく言い切れば、「はばからず仰 伏す妻に面を寄す」だけで佳い一句に成っている。むろん季題のこともあり直ちに俳句とは言わなくても、片歌としてこれで一首と押さえて差支えなげに見受け る。

「恋愛は何か何か稚し」と読むのはどこか気恥ずかしい。だが、この下句があっての一首と無くての片歌とでは、微妙なところで歌われている内容が別に読め る。そういう岐れが生ずる。そこに作者の意図が現れ出て、やはりここがものを言う。気恥ずかしいと感じさせたまさにそこの所へ作者は一首の「世界」を形 作っていて、下句は必然なのだ。同時に、俳句ならばこの必然を拒絶ないし止揚してしまうのかも知れぬとは思う。あるいは、「恋愛は何か何か稚し抱きしめ る」というぐあいに、最初からナマにぶつけて行く道を取るのかもしれない。そうすることで作の「私性」をむしろぬぐい取る。

さてこの歌の歌い起こしの魅力源は、「はばからず」の率直さだろう。率直でいて、しかも含みがある。「はばからず仰伏す」と読んで妻の姿態を想い、「は ばからず面を寄す」と読んで夫の動作を想わせる。但し作者の技巧がそこにあったとはわたしは見ていない。作者から作品が離れて立った時に生じた含蓄だろ う。 昭和二七年『鳥の棲む影』所収。

2020 8/21 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 新樹(しんじゅ)揺る荒れも好もし妻籠めに   篠塚 しげる

 

☆ 「荒れも好もし」がやや息短く説明的なのは気になる。 が、初句と結句とのイメージや文字面の照応は美しく、家の内外の対照からかえつて「荒れ」に含みが出てくる。まして「新樹」に清潔なつよい男の性が表現さ れていると読めば、なおさらに「好もし」までも閨房の愛を想わせ、みじかい息づかいが生きて来る。 昭和三三年『曼陀羅』所収。

 

★ あさ皃(かほ)や少しの間にて美しき   椎本 才麿

 

☆ 朝顔の花が、ほんの少しの間に美しく咲きそめたという句 であるのかも知れぬ。美しいのはすこしの間だけと嘆いているのかも知れない。それならここに採るのは見当外れになる。だが私は「花のような妻」が歌われて いると読んだ。「すこしの間にて」も、そこにまだ暁けがた夫婦相愛の無垢の寸時があって、そして夫は、妻を「美しき」と愛でているのだと読んだ。作者は江 戸時代中期の人。 『続の原』所収。

2020 8/22 225

 

 

* 旅はおろか、都心はおろか、駅前へも病院へも出ない日々、出任せの歌など副えて、好きな「写真」に見入って憩う。

蓮の花盛りの池は、上野の不忍池だったと思うが、もっと遙かな昔に、むかぁし、京の山科へ、いまも愛している小説『秋萩帖』のために取材散策のおり、勧 修寺(かじゅうぢ)で出会った蓮池への思いがかぶっている。平安學の泰斗で今は亡き「T博士」が電話口で「蓮の花はソーラきれいです。きれいやけど…その きれいな」とおそろしいことを云われた。蓮の盛りのその池は観てはきたが、とても怖くもあったのを、まざまざと忘れない。しかもかすかには懐かしいとすら 感じている。『秋萩帖』を懐かしく読み返してみたくなった。選集第六巻に入れてある。

2020 8/22 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 幾度(いくたび)か口ごもりゐしが一息に

受胎を告げで窓に立ち行く    吉田 よしほ

 

☆ 文字どおり感激のあまりの反射的な振舞いに女らしさも見て取れる、といった歌なのだろう。緊張した男女の葛藤も読めなくない歌い口だが…、悪しき深読みに過ぎよう。

うぶに心熱い喜びが爆発した、そして母となる日へのもうひそかな決意も秘めた「窓に立ち行く」だろう。夫婦の道が一段の前進を遂げたには相違なく、誰しもが共有しやすい歌である。 「国民文学」昭和二六年十月号から採った

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ ふくよかなパンの包みを押しあてて

妻はその胸もちて戻れる    石本 隆一

 

☆ 私はこの歌を見た瞬間に聖なる母の映像を持った、目の底に。小市民生活を場にした素朴で健康な「夫婦」の姿とその感想とは矛盾しないものだったし、エロスをアガペに置き換えて行く手順が言葉の魔術で果たされている気さえした。

「ふくよかなパン」とおそらくは若い妻の「胸」とに映像の重ねを読むのは容易い。が、それを聖い印象に満たした表現が、「押しあてて」という実に何でもない物言いに尽くされていたと気づくことは、大きな鑑賞上のポイントだろうと思う。

さりげない言葉の駆使により新鮮な表現効果を挙げたこういう歌を、私は好む。自然に「愛」が流露している。 昭和四五年『星気流』所収。

 

★ 洗濯物とりこみてゐる妻の胸

みるみる白きものに溢れつ   橋本 喜典

 

☆ この歌も「妻の胸」に愛を覚えている。「洗濯物」の 「白」で聖化を遂げている。そしてこの歌でも、「みるみる」という一見安易な表現に一首の効果を、挙げて預けている。私にはそう読める。初句、三句と体言 による渋滞がいささか気になるが、存外それある故に下句の速度感が、清々しいものになったとも言える。 昭和五二年『黎樹』所収。

2020 8/24 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 内職の終り待ちゐし夜の床に

寒い寒いと妻が入りくる      吉川 禎祐

 

☆ 「寒い寒い」は事実寒いのだし、夫の待つ床の中は温かい のだし、なにを夫が「待つ」のかちゃんと妻は承知なのだし、同じ思いで余儀ない内職」を頑張って終えて来たのだし、だが、そうは顔にも素振りにも出したく ないから……「寒い寒い」と夫の胸のなかへ飛び込んで行く。ちょっと照れくさい夫も おかげで受け入れ易い。

まっとうな、じっくりよく馴染んだ夫婦の共演が、そつなく描かれた。 「多磨」昭和二四年三月号から採った。

 

★ 湯上りの匂ひさせつつ売り残りの

饅頭を持ちて妻が寝に来る   荒武 直文

 

☆ これも同想の一首。微笑ましい。しかも十分に短歌たりえている。どのような思想歌や観念歌よりも的確に、市民が身を賭して守らねばならぬ愛と自由とはここに歌い切られている。それが、説明抜きに伝わってくる。 「アララギ」昭和二八年八月号から採った。

 

★ しまひ湯をながくたのしみゐし妻が

湯槽(ゆぶね)に蓋を置く音がする   前田 米造

 

☆ これも同想。夫はもう床にいて「しまひ湯をながくたのしみゐ」る妻のことを想っている。早く来いと待っている。だが妻の「たのしみ」をもまた夫はたのしんでいる。あぁ…もう湯からあがったな…。

佳い所を正確に写し取っていて、下句(しもく)が十分にものを言っている。暮しのなかでの、夫と妻との隙間ないコンビネーションが表現された。  『昭和萬葉集』巻十五から採った。

 

★ 胸深く吾が掌を抱きゆく

妻の表情の夜は美し   藤村 利男

 

☆ ほとんど夫婦の秘事にふれる心地がする。いささかの軽薄も醜悪もない。こうしか表現できなかったと受け取らせる力を持っている。 「アララギ」昭和二六年八月号から採った。

2020 8/25 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 手花火に妹がかひなの照さるる   山口 誓子

 

☆ 「妹(いも)」は若い花妻と取った。手花火は線香花火と想像して佳いだろう。すっと浴衣から伸びた白い妻の腕。

いまはかなり遠退いてしまったかともなつかしまれる、佳い夏の情景。 昭和七年『凍港』所収。

 

★ 蛍火や夫婦に乱れ龍一つ   市川 恵子

 

☆ 「蛍火」は、夏の宵の、細い灯ぐらいに見ておいても佳い。なかなか蛍も見られなくなっているだけに、実の蛍についた想像をするより、風情に、思い入れてみたい。

夫婦なればこそ「一つ」に「乱れ」てよろしく、「一つ」で済ませてすむ二人の「乱れ龍」とは、情緒満点、憎い句だ。 「鷹」昭和五九年九月号から採った。

 

★ 燃立て皃(かほ)はづかしき蚊やり哉   与謝 蕪村

 

☆ 「燃立」ったのは「蚊やり」だけでは、なかった。だからそんな「蚊やり」の細い火に顔を照らされても「はづかし」い。夫婦とは限らないが、夫婦と取った方が句の色気、濃やかに健やかであろう。

 

★ 腰ぬけの妻うつくしき炬燵かな    与謝蕪村

 

☆ 「上さに人の打ち被(かず)く 練貫酒(ねりぬきざけ)の仕業かや あちよろり こちよろよろよろ 腰の立たぬは あの人の故よなう」と 『閑吟集』にもある。

蕪村の官能が美の極敦を描く。「うつくし」はむろん美しく愛(うつく)しいの意である。

2020 8/26 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ うつくしい女房を呵(しか)るのが自慢にて   『武玉川』

 

☆ 慶紀逸の編著になる、『武玉川』の第十篇から採った。ああそうですか、そうですか…。

 

★ 俯けば言訳よりも美しき   『武玉川』

 

☆ よく分かる。むろん男ではない、女…それも娘というより、結婚して間もない新妻の風情と眺めて、ひとしお佳い。誰の作だか、ともあれ川柳の批評性こまやかに、情に富んだ一句。

 

★ 稲は刈取る穂に穂が咲いて、どこに寝さしよぞ親二人   『山家鳥虫歌』

 

☆ 近世の民謡。親孝行の歌ではない。若い二人のはばかりない愛の営みに、ちと親二人が目障りなのである。

おおらかな自然の愛が 人の暮しにも実りあれと誘っている。

 

* 読まれているといいがなあ、いいでしょ、ね、と呟いてます。

2020 8/27 225

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 家計簿もつけますだから今すこし

影も曳ます青春すこし    田中 あつ子

 

☆ 結社誌のなかで表彰されていた若い歌人の、面白い作品。 「家計簿もつけます」という前に、若い夫婦の間にいささかの応酬があったものか。その挙句の協定事項らしいが、だが…という感じに「だから」とスッと出て いる。その切返す気味の盛んな口調に、たしかに「すこし」「青春」が「影」をまだ「曳」いている。若い妻はその「影」を愛している。捨ててしまいたくない と思っている。なるほど「家計簿」は「青春」との対向地点にあるらしい。

反抗の声なのではない。若い妻が若さを愛惜してなにがわるい。たとえそれがなお世間的には未熟の証であろうと、妻として一歩未だしと言われようと、すす んで振り捨てていい「青春」は持たなかったわという意気が、この一首から私には感じとれて、思わず微笑に包まれた。けっこうだと思う。歌も、精いっぱい新 鮮で佳いい。 「かりん」昭和五九年十月号から採った。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 幾たりの人に背きて得し妻か

雪ふれば雪の日のことおもふ    久保田 登

 

☆ 人は生涯にどれほどの選択を重ねながら生きるものか。とりわけて結婚は大きな選択であり、それ故に、母の胎内を通過して来た以上に重い自覚で選び取らねば済まない。

世に、やすやすと結婚して来れた人は数すくない。さながらの闘争としてようやく夫を得、妻を得て来た人の方が多いだろう。夫婦はそのような意味では陣営を一にして相戦い助けあう戦士・戦友であり、厳しい思い出を多く頒ち持って生きている。

この一首の感慨はさぞ多くの人の、夫婦の、胸に共鳴を誘うだろう。  昭和五〇年の合同歌集『序章』所収。

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* 永く眠れたが手洗いに起きたアト、またすーうッとは寝入れず、126代を一気に諳誦するとか百人一首の50首をとか30人をとか、それが睡眠を誘うより妨げるのではないかとイヤになる。

冷房をはじめた機械の前で、わたしとしとは珍しく汗ばんでいる。大病後、汗をかかなくなっていた。いつも脱水気味なのかと要心している。今も引き込まれるような睡魔のおとずれを感触している。

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* 私自身はなんとも健康といいにくい日々をこのところ重ねている。端的にはとにかく睡い。横になっていたい。横になると『イルスの竪琴』に手を だし、ついで『息子と恋人』へも。対照ともいえず懸け離れた世界であり表現であるが、ぐいぐい引き込まれる。満足して、そして寝入る

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 妊るを昨夜は母に告げたれば

縄なふ汝(なれ)のしきりに唄ふ     中島 権之助

 

☆ 若い妻が初の子を妊娠しましたと、その妻み ずからが、と私は読みたいのだが、夫の母に告げた。それが「昨夜」のことだった。一夜あけて、あんなにもこれまでは家のなかで遠慮や気おじの過ぎた妻が、 はればれと歌う唇をもち、元気に「縄」を綯っている。夫の家で夫の子をみごもり、やがては母になる。その自信が歌わせている。夫はそう聞き、姑(はは)た ちもそう聞いているのだろう。

デッサンの利いた、とにかくも面白い一首に成しえている。ぐっと押し込んだ「告げたれば」も「しきりに」も、微妙なところへよく届いた表現になっている。  「アララギ」昭和三一年二月号から採った。

 

★ 吾妻(あづま)かの三日月ほどの吾子(あこ)胎(やど)すか   中村 草田男

 

☆ 「かの三日月」には愛を籠めた思い出が、熱い記憶の一夜 が生きている。そうも読んでなお、胎児のみごもりの姿態へも「三日月」の繊(しろ)さ細さを重ね想うが佳いだろう。「吾子」を待つ愛が目前の「吾妻」への いとしみを何倍にも促している。「吾」という所有形が、この句でほどみごとに生かされた例はすくない。  昭和十四年『火の島』所収。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 森閑と冥き葉月をみごもりし

妻には聞こえいるという蝉よ   永田 和宏

 

☆ 八月をあえて「葉月(はづき)」と置いたのが厚みを生み、四句までさながら、全体によく統一のとれた自律した「歌」の世界に成った。「蝉」は、生きとし生けるもの の象徴であり、真夏の象徴であり、母なる妻の胎内にひそんで今しも生き続けるものの象徴であろう。

現代の「気鋭」と呼ぶにふさわしいこの作者の知性が、し みじみ佳い感性化をも遂げている一首ではなかろうか。 昭和五〇年『メビウスの地平』所収。

 

★ 妊れる妻さはやかに髪切りて

項(うなじ)のあをし愛しかりけり   横山 岩男

 

☆ 季節的にも長い髪がうっとおしかったのか。それとも妊娠期に独特な気の詰りを果断に突破したものか。あんなに長い美しい髪をいとおしんでいた妻の思い切 りに、夫は、あるがままを幾分超えた感動を誘われている。それが「愛しかりけり」といった、やはり思い切った表現に繋がった。 昭和五〇年『弓弦 葉』所収。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平假

☆ 夫婦の愛

 

★ 三月の産屋(うぶや)障子を継貼りす   石田 波郷

 

☆ 夫が妻のために「継貼りす」る句と取りたい。春は近く、風はなお寒い。簡明に言いおおせて気の澄んだ秀句である。  昭和二三年『雨覆』所収。

 

★ 妻の肌乳張つてゐる冴返る   瀧井 孝作

 

☆ 昭和十一年三月の句。まだ寒気に冴え返った春という季節の恵みが、みごもっている妻の肌の照りに満ち溢れ、力ある愛を感じさせる。 昭和五○年刊の『山桜』所収。

 

★ 人間のひとついのちを生み出だし

妻が面(おもて)にあはれ紅斑   来嶋 靖生

 

☆ いまひとつしっくり言い尽くさぬうらみは、ある。「あは れ」などの効果に実感と表現との微妙なずれがあったかも知れず、時が経つにつれ、そうなのかも知れぬ。だが、こう「うた」いだすしかない感動を作者は瞬時 に一首に捉えた。その意気の探さ確かさが「うた」を成立たせる。

この「紅斑」、人みなが感動をもって共有出来る一期の一会なのである。 昭和五一年『月』所収。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ ジャンケンに勝負の意味を子に教へ

仮借(かしゃく)なき世を妻は生きをり    島田 修二

 

☆ この「子」がかりに病弱な子だとしよう。そう読めばその 子に、たとえ「ジャンケン」ほどの事にも「勝負の意味」を教えねばならぬ母は、母自身の「勝負の意味」にも挑んでいる、のだ。愛する「子」に「世」は「仮 借なき世」であるだろう、それならば、まちがいなく母にとっても「仮借」があろうわけがない。そして同じ思いをひしと頒ち持つ目で「子」の父はそんな 「妻」を見ている。肯定している。肯定し続けねばならないのだ。 昭和三八年『花火の星』所収。

 

★ 妻の手は軽く握りて門を出づ

常の日一日(ひとひ)加はらむとす    畔上 知時

 

☆ 「軽く握り」と「常の日一日」という表現で、中年を過ぎた年配のサラリーマン朝戸出のさまが目に浮かぶ。地の塩のような働き手。よく己れが見えよく暮しが見えていて高ぶらない。

しかもこの初々しい夫婦の身ぶりには、いたずらには老いさらばえない愛が匂っている。秀歌とさだめて躊躇わない。「常の日一日加はらむとす」は教えられる一句であった。

なかなか「常」とは守り切れない日々のあえぎに、多くはあくせくしている日ごろだ。 昭和五八年『われ山にむかひて』所収。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 潮干狩夫人はだしになり拾ふ    日野 草城

 

☆ 「夫人」は「奥さん」と呼びかけるほどの用いかただろうし、それも人の「奥さん」ではない我が女房殿をわざと「夫人」呼ばわりしているのだと読みたい。事実は知らない、そう読めばこそ洒落て面白い俳句世界が目の前に在る。

「夫人はだしになり給ふ」の句には、たとえば『裸足の伯爵夫人』のような西洋映画の題も読み込めるだろう、かすかにエロスの匂いも楽しめる。妻を見て、 感じて、微妙に濃やかな感覚を表現してきた此の作者の、軽妙なこれは批評の句でもあるのだろうか。 昭和二年『花氷』所収。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 夏影の房(つまや)の下に衣(きぬ)裁つ吾妹(わぎも)

裏まけてわがため裁たばやや大(おほ)に裁て   柿本人麻呂歌集

 

☆ 涼しげな小部屋で裁縫しているのは、妻か。このごろすこし太ったよ、服はこれまでより少し大きめに作っておくれ…。

ここで「うらまけて」の読みが気になる。こっそりと私のためにも作っておくれならば…と読みたい語感があり、それだと「吾妹」は公に裁縫の職に任じてい る女性なのかも知れぬ。いかにも古代的な、民謡風の味わいにも富んだ旋頭歌だ。だが「うらまけて」はまた心籠めてとも読めそうだ。その方が素直だろうか。

人麻呂その人の歌とは思えない。採集された、むしろ歌謡的なもののように思われ、心かけた女への親しい呼びかけの歌、と取って置きたい。 『萬葉集』にある。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 長き脚のべてまどろむ髪ちかく

つぶやき言えり雪止みしこと    中野 照子

 

☆ こういう歌は、微妙に評価にまどう。「長き脚」かと見て 行くと「髪ちかく」と急に視線が逆へ向く。「脚」の方から「まどろむ」表情へ、そして「髪」へと視線は自然に移動しているのだとも取れるが、「雪」の季 節、まさか身一つで「長」々と寝そべってもいまいに先に「脚」へ目が届くのだろうか…などと、いろんな事を考えこませる。そこで、「長き脚のべてまどろ む」のが作者自身であり、「雪止みしこと」を「髪ちかくつぶやき言」いかけているのは、夫なのだろうと読み直すことが可能になる。しかしそれも女の寝姿に 「長き脚のべて」は当たるまい。女が男の「髪ちかく」へ口を寄せているのであろう、早い話が女も男の身に添うて一つふしどに今まで「まどろ」んでいたのだ ろう。

ふと気がついて、「雪…やんだらしいわ、あなた…」とまだ半ば夢心地にささやきかけている。遡って思えば、「雪」ふりしきるなかこの男女は「愛」に燃え たって、そのあとの「まどろ」みに、いつしか時を経ていたのだろう。「雪」に愛欲熾盛(しじょう)をすべて清められ見守られ、二人は一つ夢をまどかに頒ち 持って来た、だから私は夫婦の「愛」の歌と取った。

事実は知らぬ。こう読んで私には面白く納得が行ったということ。 昭和五〇年『しかれども藍』所収。

 

★ 風の音とも雨の音ともうたたねの

夢深々と夫(つま)に入りゆく   山本 佳芽子

 

☆ 「うたたね」ではあるが、この「うたた」には初、二句を うけて、なにかしら作者の心境に深く揺れ動くものをも感じ取りたい気がする。事柄は知れないが、なにかしら頻りに募る情緒の誘いがあるのだ。はたして 「夢」に「夫」との逢いが成就し、一首はなまめかしいほどにエロスの色を匂わせる。「夢深々と夫に入りゆく」はおそらくは願望にも彩られた倒叙でもあろ う。「夫」の方からも「深々と」妻に「入り」来る「夢」でなければならぬ。

「風」「雨」ともに深部の性感に触れてくるシンボルと読める。 昭和四四年合同歌集『澪標』から採った

2020 9/5 226

 

 

* 夜前ははやく床に就き、一時半までに、本を、『イルスの竪琴』第二部「海と炎の娘」(レーデデル)を一気に読み遂げた。やめられかった。この作では、 いつも、こうだ。海外の作であえて生涯の出逢いとまでいえるのは、アーシュラ・ル・グゥインの『ゲド戦記』と此のマキリップの世界。一つ加えれば、やはり 大デュマの『モンテクリスト伯』になる。

深甚の敬意で繰り返し最期まで手を出すのは、ミルトンの『失楽園』、トルストイの『アンナ・カレーニナ』 になろうか。モーバッサンの『短篇集』、ツルゲーネフの『猟人日記』にも。

なににしても、結局は優れた文学の創りだした世界の深さと美しさとに心底共感し合体する。人生をシンに構築する意味では、音楽も美術も、いつかは精神の芯からは抜け薄れて行く。

2020 9/5 226

 

 

* 裕かには育たなかったので、趣味判断は十分に出来たけれど、日々に辺幅を飾ることなど全然してこない八十余年だった。

いま私が身に纏うて心から落ち着けて心暖かで時を忘れて居れるのは此の何とも彼とも雑然と本やモノに溢れて身動きも窮屈なまるで「穴」ような仕事部屋 だ。謂うなれば、此処が私の生きながらの墓になっている。骨の少しは、テラスの隅のネコ、ノコ、黒いマゴたちの寝所へ埋めて欲しい。妻もいずれはそこへ一 緒に。その余は、可能な限り、「京都市」の川東、疏水以南、東福寺以北ノ東山区内に目に見えぬほどずつ撒いて欲しい。寺も、墓も、要らない。

2020 9/5 226

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 春昼や男の眼もて妻を見る   藤田 湘子

 

☆ やや観念的な句で、類句もありげに想像されはするが、一つの風情として、健康な夫婦生活になら、むしろ有って自然な句に相違ないからと、採った。 昭和五七年『朴下集』所収。

 

★ 探しても妻の居らざる昼寝ざめ   日野 草城

 

☆ 『人生の午后』に収められている。取りようではふと寂しく挽歌めきもするが、そうは読まない。ふっと空をつかむような寂しさにも、しかし「妻」の存在を疑わない思いのようなものが、逆に句に深い安堵を保証しえていると私は読む。

そばに居るはずのものが居ない、しかしそれさえも「人生の午后」のごく当たり前と「昼寝」からさめて苦笑いしている間にも、なに変わりなく近くで「妻」の声がし、「あら…おめざめ」などと顔も見せる。そういう夫婦の静かな愛が見える。

 

★ 夕涼しちらりと妻のまるはだか   日野 草城

 

☆ 行水をつかうのであろうか。だが、すべて夫の幻想であっても面白い句だ。

「夕涼し」の嬉しさを、ニンフのように幻想の「妻のまるはだか」がかすめて通る。それも佳い。

そういう夫婦も佳い。『銀』所収。

 

★ 秋団扇とてもねむいわまた明日   岡田 史乃

 

☆ 昭和五八年の句集『浮いてこい』から採ったが、これは川柳ふうに読んでこそ面白い。「秋」に「飽き」の気味を重ねながら、団扇であおるように閨の夫を追いたてている妻。倦怠期か。

ま、これで済む程度の仲のよさと読みたい。「また明日」どころではなかったかも知れないのだ。

2020 9/6 226

 

 

* 朝 一番に此の欄をあけて目に入れる 「方丈」二字の美しさ確かさ厳しさに心を洗われる。どう譬えていいか、私は、時として この上ない神意の刀身に向き合う心地がして、引き締まる。

いま、と謂うよりももう久しいことだが、単純に自身のごく狭い範囲に起居して、世間のことは、テレビでの報道や見聞の他なにも知らないし、著作を読んで 下さる方々の他は、人付き合いということもほぼ耐えて無くなっている。有るとすれば、それはいつも外から来るので、自身で動くことは、達磨さんではない が、脚が無いかのように、無い。「方丈」に、ただ安居しているだけ。

ネット世間の如きとは、ごく僅かにメールを授受のほか、そして「私語」や著作を送り出す以外に何一つ無い。私の機械は文字通りの筆記具、そして私用の抽斗に過ぎない。

あの世よりあの世へ帰る「ひとやすみ」の気分が年々に、日々に、実感で実態になっている。このような「私語」も、文字通りに自分で自分に呟いている独り言に過ぎない。 2020 9/6 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 茄子もみて染みし布巾をさらしをり

妻ならざれば離(さか)り住みゐて    青木 ゆかり

 

☆ 「妻ならざれば」は重い表現であり、「夫婦の愛」の歌に、かかる負の表現も加えて見なくては片手落ちだろう。

上句と下句とに隙間を読む向きもあるや知れないが、私は上句がただの描写だと思っていない。明らかに「妻ならざれば」の心境が譬喩的に託されている。一 言にしてそれは十分心行かぬ、満たされぬ、それゆえに激しい「性」への固着した意識のように読める。 そういう難しいところ言いえて、この歌は感動を内に 守り切った。 昭和五三年『冬木』所収。

 

★ 離婚せしわれはいささか不幸なる女として子の心に住めり   篠塚 純子

 

☆ 「子」の推量に負けているのではない。余裕をもって逆に 「子の心」を覗き見ながら、「離婚せしわれ」をさえ距離を置いて観察している。「いささか不幸」なのか、たいへん「不幸」なのか、それとも「離婚」ごとき に幸、不幸を左右されない生活力のある「われ」なのかは、想像の限りでない。

こういう風にあっさり乾いて、しかも韻律を守ったた歌が、従来の歌壇に見られなかった事だけは言えよう。 昭和五八年『線描の魚』所収。

 

* よく、美しく、確かな表現で「詩」であり「うた」でありたい短歌が。思いつきだけの「がらくた語」で書き綴られている最近の歌誌大方の作のデタラメには惘れてモノもいえない、それも一誌の主宰顔の作にまで醜いまで露わときては。

2020 9/7 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 向うから女房もつかふ硯箱   『武玉川』第八篇

 

☆ 気のおけない同士の夫婦でなら、昔は、ザラに見られた図なのであろう。

商人でよし、風流人でよし、武家の夫婦でも佳い。

 

★ トクホンに赤くなりたる妻の肩

医学博士吾がひたすらに揉む   小国 孝徳

 

☆ 上句などなげやりな位に技巧のない歌いざまだし、「トク ホン」という商品名も本当に一首のなかで適切かどうか気になるが、だがそれは「医学博士」という権威との、対照の効果を見ているのだろう。「赤くなりた る」「ひたすらに」にもそういう軽い味の諧謔趣味がうかがわれる。

「なげき」の歌でなくてこれぞ「のろけ」の歌。「吾が」は、「われが」と音を余して読みたい。むしろ「われが」と、意識して表記して欲しかった。 「アララギ」昭和四八年六月号から採った。

2020 9/8 226

 

 

* このところの私は意識して怠け、というより心身を休ませ憩わせる方へ気遣いしている、つまりは体よく怠けることで平静を維持している。この烈暑はやが ては往くだろうと待っている。「仕事」も急かないで、成り行きでよしと。『選集 33』完結本の仕上がり、そして発送などは早くて今月末になろう。送り出 しのための用意は日々に出来ていつつある。落ち着けと自身に言い聞かせている。

2020 9/8 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 口紅が落ちますと拒み働きに妻行きし日の雨を見てゐる   山田 一穂

 

☆ 結びの句、やや形にはまってゆるい気がせぬではない。夫 は病気か、失業中か。家で仕事をしている人か。妻は、余儀ない「働き」に出るのか、働く事に心を惹かれ押して家を出て行くのか。「口紅が落ちますと拒み」 はきわどい表現であり、「愛」も読め、しかし「愛」の冷めた状態かとも読める。

だが一首の魅力を汲もうならば、妻は「働き」のない夫に代わって「雨」の日にも余儀なく出て行くのであり、夫はそんな妻に感謝もし愛しているのだろうと取りたい。たとえ自身のふがいなさを嘆く思いと表裏していようとも。 「アララギ」昭和二八年九月号から採った。

 

★ 葱買ひに行く我が夫よ

拇指(おやゆび)の足袋の破れに墨塗りて行け   平林 たい子

 

☆ 「小説家の歌」にはそれとしての一つの特徴が抜き出せるものかどうか、試みた人があるかないかも知らないが、そんな詮議と関係なくこのズカリと踏み込んだ歌いくちは、この作家の男まさりな魅力をよく表現している。夫は「おっと」でよく、「つま」とは気取りたくない。

こういう夫婦こういう暮しもあって、そこに境涯が生まれる。覚悟も出来る。ふしぎに大きなゆとりが感じとれて面白い。 『平林たい子全集』第三巻から採った。

2020 9/9 226

 

 

 

* もう残り少ないであろう日々のために、「省ける」ものを省くという決心も本気で要り用になる。何を棄てるか。一切の「現今政治への関心」と謂うのが一等早いのだが。それでいいのかという惑いは残る。残るけれど、棄ててしまいたい気、濃厚。困惑。

 

* 毎日をこらえこらえて過ごさねば過ぎても行かぬ日々、コロナの方は落ち着いてきたともとても未だ謂えない。高齢者の感染死は率も高く、とても、もうい いでしょうとは楽観などならない。十月国立劇場の歌舞伎案内も来たが、はいありがとうと請け合うわけに行かない。「籠居」での「読み・書き・読書」に徹し てひたすら待つあるのみ。その線で、ひたすら頑張ります。籠居とばかりでは済むまい、建日子がガマンして日々を無事に乗り切ってくれますように。朝日子は 何処でどうしていることか。

 

* 故網野善彦氏の『「日本」の國』を熱心を極めて読み終えようとしていて、満腔の敬意を惜しまないのだが、もう巻末まできて、一つ、重大な不審を抱き込 んでいる。あらためて、せめて一通の手紙にしてでも歴史学者の誰かに「問うてみよう」と思う。これは大きな論点であり、しかも網野さんの論攷にはっ きり欠け落ちている問題かと思われる。だれに問いかけていいのか、それに迷う。

 

* 疲れて横になれば 手の届く範囲に大小三十册ほどの本が書庫から出してある。わたし自身の近刊もおいてある、そのなかで、もうむかしむかしの力作でな く、ごく近々の書き下ろし長編につい手が出る。『オイノ・セクスアリス 或る寓話』『花方』で、その老いて出放題の語り口に我ながら惹かれて読み返し読み 耽る。そこには、老いてにじみ出る或る懐かしさが表れていて、それにふと溺れそうになる。ともに途方もないフイクションではあるが、しかも露わに吐きだし ている本音が読める、私自身にしてなおかつ。完成度に老いては昔の作には行き届いた格ができていて、それらに較べると近作はむしろ不行儀な語り口を憚りも していない、しかし、それが見に沁みている。今日も「花方」の、「或る寓話」の終わりをフムフムと楽しんだ。

2020 9/9 226

 

 

* これ以上の市街戦映画を観たことがないというほどのモノを観てぐったりした。

九時。もう機械を離れる。

明日には三校のゲラがどさっと届くだろう。また当分、念入りの日々がイヤ応なく続く。そういう日々がわたしの日々だと思っている。みな誰もがそういう日々を持っているのだろう。

2020 9/9 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 明日よりは恋ひつつあらむ今夕(こよひ)だに

速く初夜(よひ)より紐解け我妹(わぎも)    読人しらず

 

☆ 防人(さきもり)に召されて行くのか。再会を期しがたいほどの永の旅立ちを明日に控えた、切ない夫婦の歌。遠い昔に限ったことではない、今は幸いにそんな事も忘れているが、この前の大戦争でも、これと同じ思いに泣きに泣いた無数の夫婦や恋人たちがいた。

「紐解」くのは、床をともに肌を合わす意味、それでこそ夫婦。だが、明日からは恋いこがれながら満たされない。 『萬葉集』巻十二の所収。

 

★ 防人(さきもり)に行くは誰(た)が夫(せ)と問ふ人を

見るがともしさ物思ひもせず     防人歌 武蔵国の人

 

☆ これは行く夫の歌ではなく、夫を遠くへ送る妻のやりきれない歌。よりによって当のその妻に、ね…今度防人に行くのはどなたのご主人…などと問いかけて来たものだ、つまりは自分の夫は幸い選に漏れていたのだ、だから物思いなげに気の利かないことを口にした。

うらやましい…腹立たしい…。「ともし」いとは、羨ましい意味。この歌のあわれさは、ひとつ、こう気の利かないことを口走った女の夫とて、いつ召しにあうか知れないのにと思わせる含みにもある。

サラリーマンの転勤と単身赴任を思い合わせてもいい。 『萬葉集』巻二十の所収。

 

★ 神風の伊勢の浜荻折り伏せて旅寝やすらむ荒き浜辺に   碁檀越妻

 

☆ これも『萬葉集』から採った。どういう人のどういう妻だ かは知らない。夫は旅に出ていて、伊勢の方かと歌の言葉から察しはつく。「伊勢の浜荻」は後の時代には決り文句の一つになったほどお定まりの名物だったら しいが、この歌などでは、まだ新鮮な叙景として訴ええたことと思う。

「折り伏せて」に、「荒き」「伊勢の神風」に「浜荻」のなびく感じと、手ずから旅人が仮寝の宿りにそれを折り敷いているさまとが、うまく重ねられている。どこにも情に直かにうったえた言葉づかいは無いのに、読むにつれて深い情愛の受け取れる佳い歌である。

2020 9/10 226

 

 

* 昨夜、故網野善彦氏の「日本」を論攷した名著に、ただ一点の不審を覚えたと「私語」しておいた。昨夜の内に最後近くまで読み進み、私の不審とするとこ ろへ「言葉」という二字に托して氏の見解が書かれており、不審の一半は解消した、が、氏の見解の最後にまで、「日本語」という観点、視点から「日本國」の 超長期にわたる把捉の無い(とみえる)点への意識は残った。

日本が「日本國」という名称と共に自覚的に成立したのは網野さんのいわれるように「七世紀」頃に相違ない。もしそれ以前に仮に「原日本」と認識して当然 の長大な「人間の時間」があり、そういう「人間」たちが聾唖であったワケが無く、地域と時間との差違や重複をかさねつつしかし「言語」を持たなかったワケ がない。その言語のさまざまな変遷が如何にあろうともそれは「日本語」に糾合・集合・複合されていった「原日本人」らのそれぞれに「原日本語」であった、 さもなくて具体的な生活や行動が成り立つわけがない。それは「ことば」の域を超えた「言語」の問題として、七世紀より以前、もし永く観れば数万年にも溯っ て「原日本」は否定しにくい。

網野本の索引に「言葉」はあるが「言語」のないことから、私は上の観点を意識した。

ま、歴史学には素人の、しかし「言語」とは縁の切れない文士からの、ふっと思い浮かんだ視点と書き留めておくに過ぎない。

2020 9/10 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 夕霞棚引く頃は

佐保姫の姿をかりて訪はましものを   谷崎 松子

 

☆ 「昭和八年 京都高雄山の地蔵院に在りて春琴抄完成近き頃に贈る」とある。昭和五十四年『十八公子家集』の巻頭を飾る思い出の一首。集の題が作者「松子」の字に因っていること言うまでもなく、大谷崎をして真に文豪たらしめた夫人であることも知られている。

この歌の頃はまだ結婚まえながら、事実上の夫妻として愛し認め合っていた。谷崎潤一郎は名作『春琴抄』の仕上げに余念なく取組むために地蔵院に詰めていたのであり、古代の女物語にでも出て来そうな、これぞ生粋の恋の和歌である。妻が夫を恋うる歌である。

近代短歌の表現意欲から、かく艶やかに身をかわして伝統和歌もまた生きつづけて来た。潤一郎にも昭和五二年刊『谷崎潤一郎家集』があり、「けふよりはま つの木影をたヾ頼む身は下草の蓬なりけり」といった「松」子賛歌を多く残している。余裕に満ちた歌ごころである。それとても日本の歌ごころなのである。

2020 9/11 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 庭のそとを白き犬ゆけり。

ふりむきて、

犬を飼はむと妻にはかれる。   石川 啄木

 

☆ 遺歌集『悲しき玩具』(明治四五年刊)の最末尾の歌であ るのが胸に残る。何ともない只事歌にみえて、これは不思議に劇的に思われる。「庭のそとを白き犬」がとことこと歩いて通り過ぎた…のは、あきれるほど平凡 な光景としか思われないのに、作者がそれを眺めていた姿勢や視線や気分に自分のそれを乗せて行くと、「白き犬」の「ゆけ」る「事実」が途方もない「運命の 影」のように想像されてくる。

だが家のなかにいる「妻」にはその重大さが分からない。目にも入っていない。作者はだからはっきり「ふりむいて」そして、「犬を飼」おうよと提案するのだ。

現実には犬を飼うはおろか人間の食うにも窮していた作者夫婦の、それは「死」という「運命」を感じながらの、最期の象徴的な対話であったろう。「白き 犬」は、幸運や力や、また死など、一切の不思議を託されたシンボルとして作者の視野を通り過ぎて行ったのだと、私は読みたい。またその理解のまま、敢え て、「庭のそとを白き犬ゆけりふりむきて」という片歌の形でも読みたい。つまり「犬」が「ふりむき」「ふりむき」通って行く。作者は見送ってしまう。「妻 にはか」った時にはもう「犬」はいなかった…と。

啄木短歌のかなしみが、この歌ではひとしお象徴的に出ている。

2020 9/12 226

 

 

* 午後四時前、最良最深の感動とともに三部作の『イルスの竪琴』を、泪も流しながら読み終えた。

平成二十六年十一月に、これが「たぶん第七度め」の感銘と、文庫本の末に書き添え、次いで「平成三十年三月二十二日の果てる時刻、一字一句あまさず深い 感動となつかしさに満たされ読了」と記している。不思議なことだが、これが此の「世界」と私との出逢い様であり、こんな体験は他に例がない。不思議としか 謂いようのない喜びである。

日本人には、こういう「愛と不思議との広大な世界」は書けない。精確に、精緻に、しかも愛を込めて美しく描かれた「こんな世界」の例を、知らない。

 

* さあ本格に『選集 33』責了へ、そして手放し、次へ、その次へ向かいたい。少なくも「山縣有朋」をあのままにはしておかない。これは何不思議の介在 もしない現実的な「歴史」もの。しかし、わたしは相変わらず、超現実の不思議を創作的に体験したい気でもいる。そういう世界をいつもまさぐるように引き寄 せようとしている。「現実」はいつも奇態に痩せている。やせこけて乾涸らびている。その痩せや乾涸らびに直面して書き写すのが「文学」と心得ていた人たち の時代があった、よく知っている。そのアトを追いたいとは思わないだけ。

2020 9/12 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平*

☆ 夫婦の愛

 

★ 海みゆる窓べを吾にゆづりつつ

旅の日も言葉すくなし夫は   岩上 とわ子

 

☆ 「夫」を「つま」と読んでみたが、「おっと」でも差支え ない。こういう「夫」はかなわんという人もあろうが、この「妻」はこの「夫」にたしかな愛を覚えていよう。「言葉すくな」くてもいい愛の品質を、作者は永 の歳月をかけて身にも心にもしかと磨き込んだのに相違ない。

「日本」の夫婦の原型のようなものを感じさせてくれる。 昭和五二年『冬の潮』所収。

 

★ いつの時もこの夫ありて耐へて来つ

優しき言葉いはれしことなく   松木 ふじ子

 

☆ 「この夫ありて」に尽くされている。

「耐へて来つ」を間違って取ってはならない。「夫」の存在を堪えてきたのでなく、「夫」ゆえにいかなる苦難にも耐えて来られたと、この「妻」は自覚して いる。歌はお世辞にもうまくないが、「優しき言葉」を言わぬ夫でも佳い夫があるように、巧みな言葉は用いえなくとも、はっきり共感をあがないうるいい短歌 はある。処置に困るのは、共感しようもなく、しかも当の作者ひとりが巧いとご自慢「ゴロタ石」出来のガラクタ詩歌だ。 昭和四一年『土に刻む』所収。

2020 9/13 226

 

 

* まくら元の手の届く小棚へ、上田秋成に 関する研究書や、『秋成遺文』等々の十册足らずを昨夜は夜更けまで次々に読んでいた。当代一の研究者にじかに確かめても「それは、判りません、論文も無い です」と言われてしまう「或る一事」に久しく眷戀の思いでいるのだが、なんとかして暗闇から掴みだしたい。「遺文」を読み尽くすのも大事だが、有名すぎる 雨月や春雨物語でなく、久しく私自身放置していた初期秋成の浮世草子を無心に愛読する中から何か手に触れてくる素地や措辞が見えてこないかと願っている。

2020 9/13 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

☆ 次に尾崎喜八の『田舎のモーツァルト』(昭和四一年一月刊)から「妻に」を挙げる。内面的知性的な人道詩人として、また自然詩人としていい仕事を残した人である。

 

★ 晩い午後のひとときを私がなおも机にむかって

ペンを手に一篇の文章と闘っている時、

お前は音もなくこの部屋へ入って来て

静かに憩いと慰めの茶を置いて去る。

 

四十幾年の生活を倦みもせずにいそしんで

お前が常に私のかたわらに在ったということ、

遠く人生の大河を共にくだった私たちの小舟で

お前がいつも賢い楫取りであったということ、

 

それはお前が私にとっての守護の天使、

この家と家族にとっての守護の霊だということだ。

そしてそのお前への深い信頼の中心に

私は安んじて生の錘を下ろしてきた。

 

人々への善意と、自分自身へのきびしさと、

撓むことのない忍耐力とはお前にあっての三つの徳。

私のたまたまの我執の闇を明るく優しく照らすために

お前は静かに愛と警告の灯を置いて去る。       尾崎 喜八

 

☆ 重厚な、誠実な、けれん味の微塵もない真正面からの賛歌に、「詩」が生きている。

2020 9/14 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 飛ぶ蜂のつばさきらめく朝の庭

たまゆら妻のはればれしけれ   古泉 千樫

 

☆ 蜂そのものに直かにかかわって「はればれし」いのではな い。蜂の羽音のいかにも澄んできららかな「朝の庭」の朝そのものの心地よさが、「妻」と「夫」の心持ちを引き立てている。「たまゆら」の一句はその双方 の、理づめでない、もっとも不思議に感覚的な瞬時の契合を言い当てている。

この「妻」の身に、あるいは作者自身の身に、日ごろ「いたづき」でも有って…と、取ってみるのも佳い。 大正十四年『川のほとり』所収。

 

★ めづらしきけさの朝けや

うつそ身のすこやかにして妻の恋しき   古泉 千樫

 

☆ これも気分のいい朝を歌いながら、気分のよさが「妻」の上へ反映反照してゆく心根が、しみじみ出ている。

「夫」である作者は「すこやか」な朝の目覚めの心地よさに惹かれて、「妻」への愛を、「妻」との夫婦としての愛をふと自覚した。願望した。そういう事は 「うつそ身のすこやか」ならぬ作者のこの日ごろとしては「珍し」いのだ。だから「けさの朝け」が、いと「愛づらし」いのだ。「妻」もいといと「愛づらし」 いのだ。 大正十四年『川のほとり』所収。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ かりそめの妻が病と思ひ寝て

何ぞも胸のかくは騒げる    泊 良彦

 

☆ ぶこつな歌いかただが真情のきわまれること、おみごと! な一首。

言うまでもなく「かりそめの」は、「妻」にでなく「妻が(=の)病」にかかっている。めったにない、ちょっとした発病だった、だが、ギクッと夫の胸にはなにかコタえた。何でもない…何でもない…と思いつつ寝にくい一夜をひとり不安にもてあましている夫の気持ち。

とても巧いなどと褒められた歌ではないが、こういう思いを事実繰返してきた私には、なんというか、ああと頷けて、有難い歌ではある。 「国民文学」昭和五年一月号から採った。

2020 9/16 226

 

 

* 映画『女の園』を、かなり感じ入って観た、観るのは、ごく若い学生時代の初上映のころ以来三度めぐらいか、かつてはてんで失笑ものと思っていたと思 う、が、こう老々になって見直して、なかなかのものと見直した。「時代」と、「女子大」や全寮制なるものは確かに捉えられていた。出演の女優達が、女子大 生としてはトウは立っていたが、主演の高峰秀子、高峰三枝子はじめ、久我美子も岸恵子も、みなみな余りに懐かしい顔であった。こういう映画が創られていて 当然で必然であった「時代」の顔もよく見えた。この「女の園」とは、太閤坦にある京都女子大(私はそこの京都幼稚園に通ったし、女子大同窓会百年記念に講 演を頼まれたこともある。)と聞いていて、事実かどうかは知らないが、京都にある女子大らしいとは映画でも理會できた。女子高も女子中もあり、小学校や中 学のの女友達の何人もが入学していたし、かなり身近に実感しやすい学校だった。京都では、同志社か京女かと評判されていた。そういう懐かしさにはたいして 添わない映画であったけれど、女優大勢の表情も声音もみな懐かしかった。

映画という創作の良さも面白さも再認識できた。ああ遠い昔になったなあとも、しみじみ思えた。

 

* ここらで白状しておいていいかも知れない、長編『ある寓話』の終始の語り手「東作」は、久慈子爵家の庶子であり、異母姉である子爵家の娘・久慈芳江 (はるえ)は、実在の久我侯爵家実子であると聞いていた女優久我美子に「宛て」てある。実名は「はる子」、女優としては「よし子」だったとも聞いていて、 わたしは女優久我美子がむかぁしから好きであった。映画『女の園』では久我美子の役は、もと華族の令嬢でもあった。はじめてこの映画を観たころは、そんな ことは何も識らなかったが。

2020 9/16 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 隣室にひとたびたちしもの音を

ある夜に妻の嗚咽(おえつ)と思ひき   上田 三四二

 

☆ この優れた作者の短歌としては、必ずしも言葉の斡旋に十 分でないところは有る。「ひとたびたちし」などは判りいいとは言えぬし、「ある夜に」も、かなりな察しを読者に強いている。それにもかかわらず、またそれ が事実「嗚咽」であったかどうかにかかわらずこの歌一首は、世の夫たるもののかように「妻」の一挙一動に心を寄せ、かすかな物音ひとつに心を配ってもいる ことを、とにかく証している。

「ある夜…」あ、そうだったのか…とこの夫は思い当たった。そこに妻への思いの深さも、また浅さもいやおうなく表現されてしまう。歌のこわさを感じさせる。

この一首は昭和三〇年刊の『黙契』に収められていたが、「人」昭和五九年一月号でも同じ上田三四二の、

ある夜半にこころ冷えつつわが思ふいつにても献身を妻に強ひにき

という一首を読むことが出来た。「こころ冷えつつ」には作者の身をせめる厳しい生きかたが反映しているのだろう、これもしみじみと夫婦の愛の在りどを偲ばせる述懐歌である。

 

★ 夜半に咳きて起き上りし妻が表情の

かく寂しきを吾知らざりき   吉田 隆雄

 

☆ いつもは気もつかず寝ていた夫が、たまたま妻のいつにない咳きこみようにおどろいて、ふとその妻の「表情」に胸をつかれた。

夫婦といえども容易に相手の内面までは見えていない。だから思いやりも浅かったり見当はずれだったり、つい、しがち。

「吾知らざりき」は直かな物言いだが、瞬時に沸いたつよい愛をとらええて、感動させる。 「日本短歌」昭和二六年九月号から採った。

2020 9/17 226

 

 

* 中世和歌に殊にくわしい東大名誉教授の久保田淳さんから、新著『「うたのことば」に耳をすます』を頂戴した。「万葉から現代まで、歌に通底するものと はなにか」と帯に。この「現代」が子規以降、長塚節や斎藤茂吉でとまっていて、まさしく「こんにち現代」の歌風と「ことば」への批評が無いのに落胆してい る。この本の表題こそこんにち多くの歌誌に集まる指揮者や仲間の人たちに真剣に「考えて」「考え直して」欲しいのだが。

私自身は 万葉から子規、節、茂吉までの「うたのことば」をいま新ためて問い直しているもう「いのち」の余裕もなき、さほど新たな問題意識ももたずにお れる、が、今日短歌誌の多くと短歌作のまるで穢い「がらくた」を捲き散らし積みあげたような歌風(数少ない例外もむろん在るけれど)は、大嫌いである。 「文藝」としての美も真実感も藝も、受け取れないから。

2020 9/17 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 平凡に長生きせよと亡き母が

我に願ひしを妻もまた言ふ   池田 勝亮

 

☆ 次第送りとか順送りとかいう。嫁いびりのような事では有難くないが、こういう事なら穏当でもあり、誰にでも納得が行く。「平凡に長生き」するのがそんなにいい事かなどと理屈を言いかけるがものはあるまい。

べつに事々しく申し送ったでもないのに、自然と昔に母が口ぐせにしていた言葉を、今は妻が口にする、その暗合を「愛」と受けとって歌が成っている。  「あさひね」昭和二五年三月号から採った。

2020 9/18 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 浮いたり沈んだりしながら

夫婦のかいつぶりが泳いでくる

そのあとから一羽だけのが泳いでくる

かれはひとりものだ 顔をみればわかる

かれもやっばり沈んだり浮いたりする

そうして浮きあがるたびに

どういうわけかきまってうしろを振り向く

うしろには 彼のほかだれもいないのに    伊藤 桂一

 

☆ 昭和五〇年刊の『伊藤桂一詩集』から「土浦にて。」と付記のある、「かいつぶり 1」を採った。

未婚の「ひとりもの」か。伴侶を失った「ひとりもの」か。それも「顔をみればわかる」らしい。おかしく、あたたかく、そして寂しい…。

「うしろには 彼のほかだれもいない」ひろい海を「夫婦」ものの「うしろ」になって泳いで来る、寂しそうな、物足りなさそうな独身「かいつぶり」よ、いじけるなよまだ若いのだから…と、声をかけてやりたくなる。

 

★ かいつぶりは

ときに水の上を

水中翼船のように

飛沫をあげて颯爽と駈ける

 

一羽が駈けると

もう一羽が追って

あとは並ぶ

 

ゆらゆら揺れる

ヒガイ釣りの小舟のほとりを

かいつぶりの夫婦は澄まして通る

 

かれらはちやんと籍のある夫婦のようだ

波の上の ゆらゆらしながらの

そのなんともいえない満ち足りた泳ぎぶり    伊藤 桂一

 

☆ 「かいつぶり 2」である。「3」もあるのだが、紙数ゆえに割愛した。十分に擬人化もされていて、というより感情移入が利いていて、作者の眼のおだやかに行き届いているのが心嬉しく楽しめる。

2020 9/19 226

 

 

* 漢のむかしの王充は、自著『論衡』の題意を論の平(はかりで重さをはかること)と謂うている。口を開けば、その任務はことばをハッキリさせることにあり、筆を執れば、その任務は文を明瞭に書くことであると。

私の名のり、「恒平」の「平」について教えられた、が、白川静博士の名著『字統』では、「平」は「たいらか、やすらか、ひとしい」意義と先ずあげ、手斧 の形である「于(う)」と、その「手斧で削った破片が左右に散るかたち」つまり、「平らかに削る」意を示すとされている。「平らかに舒(の)ぶる」のだと も。

今は昔になるが当時京博の艦長をされてた興膳宏さんに「恒平」は「恒久平和」ですよと教わった。

ついでに『字統』で「恒」を教わっておく、と、「亘・亙(こう)」は上下二線の間に弦月の形を加えたもの、「月の亙(ゆみはる)が如き」を原義としている、と。「月中の女神を恒娥」と謂う。「恒」は「常」であり、「恒久」ともしてある。

「恒平」は、平常に恒久と読んでいいのかも、私の場合、名は体をよく表せてはいないなと恥じいる、呵々。

2020 9/19 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 買物に出で来し妻と道に逢ふ

可笑しきまでに心寄りたり    国見 純生

 

☆ 腰折れの気味あり、例えば昭和十五年『颱風眼』に収めた加藤楸邨の句に、

はたとわが妻とゆき逢ふ秋の暮

のあるのと、この歌の上句とは、要は似た一句ではないか、句とみて成り立っていないかなどとふと思ってしまう。なかなか、加藤の句の方は「秋」という季節 を深読みさせて人生不思議の寂かな空気を射当てているが、国見の上句だけではただの描写に過ぎず、季節感も出ていない。どうしても、無器用な表現だが下句 の支えを必要としている。

あたりまえの日々をあたりまえに常は過ごしている夫婦が、路上で思いがけず出会ったとたん、あたりまえを裏切って心が互いに走り寄った。その自覚が「可 笑しきまでに」とあるのは、ほとんど「嬉しきまでに」と同義だろう。それを「可笑し」と軽くかわしえたところに、夫婦の年輪も余裕も出ていると見ておく。  昭和二九年『化石のごとく』所収。

よく似た歌で『昭和萬葉集』巻十に、今村寛の

何気なく経て来し如き妻と吾と街に相逢ひ手を挙げて寄る

というのもあった。「相逢ひ」だから、あるいは時と所を約束しての夫婦のデートであったかも知れない。やや何も彼も言い過ぎてしまっていて、かえって初・二句がぼんやりとなった。

ともあれ、こういう「夫婦の愛」もあるわけだ。

2020 9/20 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 赫らんだ落葉緑の上に散り、

かゞやく金の隙間洩るひかりに

小箱の中の鳥ら黙す

風落ち

窓から見る遠方の町のうへに

黄の塵埃がわづかに舞つてゐる。

 

ふかくも秋は

私たちの生活のゆふべを彩る、

見交される無為のなかの二人の瞳、

あらゆる情熱も、望みも、

かなた遙かな過ぎ去つた季節のうちに失はれ、

たゞ声なき憂愁のみ

たちのぼる香のごとく残る……

 

妻よ灯を点ぜよ、

一点の血のくれなゐをわれらが中に置けよ、

輝きいづる妍々の夜光の下

もし新しき相貌のわれらがなかに生れきたるならば、

生れきたるならば……               古田宗治

 

☆ あるいはこれは「愛」の萎えた夫婦の状況とも取れよう。が、この詩の深い気息に私はなお「愛」の命の燃え立とうとする力を感じる。美しく感じる。美しい詩が、ある。 2020 9/21 226

 

 

* 書庫から、ついに明治三十九年刊の『日用百科寶典』を持ち出してきた。むしろ今では『<明治>百科寶典』と呼んで至当だろう、日露戦争の翌年の刊行 で、「大正」の「た」の字も無縁な「明治」だけのほぼ一切を「一○八一頁」につめこんである。さしさわりというのだろうか、『國體及び皇室』だけは、「各 國の國旗」「各国々旗の解」「各國政体及び帝王大統領」「各國国主権者歳費」まで取り上げてあり、『歴史』という大項目もあるが、各界の人名等は、他部門 の詳細稠密に比して「無い」のが面白い。多般に渉って惘れるほど詳細に項目が上がっていて、実にこの大冊は字を覚え始めた幼稚園まえから丹波へ戦時疎開す る国民学校四年生までの、文字通り何にもねましての私の知識の寶庫だった。久し振りも久し振り、よく遺して置いたなあと思う大冊を書庫から持ち出してき て、手ばなせないほど、フンフン、ハーハーと面白い。

むろんこれも畑の祖父「鶴吉」お祖父さんの誰にでもない私独りへの貴重この上ない「遺産」であった。明治三十七八年に日露戦争、明治二十七八年に日清戦 争があり、戦歴の詳細も読み取れる。かと思うと、生まれて初めて「歩す」を「孺」 七歳を「惇」 十五歳以上を「童」 二十歳を「弱」 三十歳を「壮」  四十歳を「強」 等々と教わると、童子とか弱冠とか壮士とか屈強とかまで分かるようで面白かった。こんな面白がり方で合点し記憶し知識した無数が、この一 冊に満載されていたのだから、いかに私をひきつけてやまなかったか、日本列島の地理知名も、山川の名も、数量の称呼も、「養子縁組届」の書きかたも、男女 のからだの子細もみな此の本で覚えたの。「日用」といわぬまでもまさに『百科寶典』であった、世界事情もかなり教えてくれた。

 

* この一冊、次なる創作のためには大いに役立つだろうと、書庫の棚をかきさがして見付けてきた。これも「一と仕事」と謂えた。

2020 9/21 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

 

★ 湯豆腐やひよんの弾みの夫婦にて   大井戸 辿

 

☆ 蕪村の、「御手討の夫婦なりしを更衣(ころもかへ)」を ふと思い合わせた。類句ともいうまいが、蕪村風には読める。「ひよんの弾みの夫婦」ということは、たしかに在りうる。それへ「湯豆腐」を添えることで、 「弾み」も何も、しっくり静かに馴染み合った夫婦の、枯れた温かい落着きを句にしている。「琅 」昭和五八年十月号から採った。

 

★ 夜なべせる老妻糸を切る歯あり   皆吉 爽雨

 

☆ わが身の衰えと辛く見比べてはいても、また、「老妻」の堅固健勝をよろこび願う心持ちはよく出ている。俳味にもすぐれて、調子確かな佳い句だ。昭和三十一年の句である。

2020 9/22 226

 

 

* 「選集 33」 漸く「責了」へまで運んだ。これて゜「おしまい」とは思っていない。

しかし、昨日の自転車操作の顛倒のような、今々階段での、全身の硬直と不自由のようなことが続くと。不慮の致命も避けられなくなる。

2020 9/22 226

 

 

* すーうッと目の裏から潰れそうに、気力も体力も沈んで行く。よほど宜しくない。意気軒昂でありたいのに。後頭部が凝っている。目ははんぶん塞がっている。

それでも、とうとう『選集 33』全責了の荷造りまでした。明日、送り返す。これで最終の送り出し用意と、いよいよ「選集 151」の気を入れた書き下 ろしに掛かれる。作家生活「五十年」の『秦 恒平選集』三十三巻出版という仕事は、きつくこそあったが、持ち堪え成し得られ、無事に仕上がりそうなのは、さらにさらに明日へ繋ぐ意味でもいいことだっ た。

2020 9/22 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 子を連れて小綬鶏庭に這入り来(く)と

声ひそませて我を呼ぶ妻   吉田 雄司

 

☆ 孫たちを連れて娘が(息子が)、庭さきからふと訪れ来て 欲しいといった老夫婦の願望が重なっていないか。あるいはこの老夫婦にはそういう不時の訪れで心をなぐさめられる子や孫の、無い境遇でもあるか。なににせ よ「子を連れて」という歌い出しから「小綬鶏庭に這入り来」とまで読み進むにつれ、もう老境の夫婦のときめきが聞こえてくる歌である。それだけに下句がや や説明的に追加されたという感じも、かすかに残る。今の私なら、上句(かみく)だけで句として読みたい。昭和五〇年『老 の歌』所収。

 

★ 買物籠さげていでゆく老妻に

気をつけて行きなさいといふ 何となけれど   前田 夕暮

 

☆ 「気をつけて」という呼びかけを、この私も、家族の誰彼 ということなしに贈れる最低限の愛情ではないかと、うるさがられながらも励行している。たった一つのそんな言葉が、もし事故や怪我から身を避けうるよすが ともなるなら…と、つい思う。まさに「何となけれど…」なのではあるが、つまらぬ事とは思えない。 昭和二六年『前田夕暮遺歌集』に収められている。

2020 9/23 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 紅梅を未生の子やと見惚れゐる

老の愚かを妻のあはれむ   川浪 磐根

 

☆ 子のない夫婦の、年老いての寂しみに美しい表現でふれた 秀歌。ことに上句の艶(えん)に美しい幻想は、「梅」の花にふさわしい清い印象で、また、ここまでですでに言い尽くせてもいる。「紅梅を未生の子やと見惚 れゐる」は、優にすぐれて俳句的である。俳句だとすら言ってしまいたい。しかもなお…一抹、その抒情の質に短歌的発想が息づいている。この辺りの微妙さ を、短歌の、あるいは俳句の独自の表現のためにもよく説き明かし道しるべして欲しいものだ。

この同じ作者に、「身のために費えをなしし事なしとためらひつつも言ふか老妻」という一首もある。

こういう妻がかつては多かった。こういう妻にいたわられ、また「あはれ」まれて世の夫は老いて行った。 昭和四五年『梅花集』所収。

 

★ 落葉焚く焔囲みて妻と佇つ

此の家に老いて残りし二人   和田 政夫

 

☆ 夫婦が健康に歳月を送れば、余儀なくいつか「老」が忍び 寄る。「残りし二人」は寂しいが、「二人」在るのは、せめてもの幸と言わねばならぬ。私なども久しく親たちにそういう思いをさせている。しかもその私たち 夫婦にして、この歌の夫婦のように「残りし二人」となる日がもはや遠くはない。(現に、来ている。)人生次第送りの意味が身につまされ分かって来るにつ れ、こういう歌に目がとまる。 「地上」昭和五〇年六月号から採った。

2020 9/24 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ たすからぬ病と知りしひと夜経て

われよりも妻の十年老いたり

そひ臥してはぐくむごとくゐる妻の

さめざめ涕(な)けば吾(あ)は生きたしよ   上田 三四二

 

☆ 昭和四一年五月の作、昭和五〇年に成った歌集『湧井』中のもっとも印象強烈な歌だった、私には。

「何もしらぬ子が甘へよるいひがたくそのやはらかき髪もてあそぶ」という歌もあった。「たすからぬ病」と歌われている「病」が何かとは、あえて書くま い。そんな「病」の一日も早く無くなってしまう事を医学の進歩にむけて祈るばかりだ。幸い作者は病に克ってこの後を大活躍されて来た。それを心から喜びつ つも、しかしこの歌に費やされた生死の格闘を、その莫大なエネルギーを、割引いて想う気にはならぬ。

一度は死に臨んだ人の、死をおそれての「生きたしよ」ではない。かけがえなく愛する者に今しも「死なれる」か知れぬ「妻」「子」への愛が、この歌をはげ しく感動させている。「死なれる」というもっとも苦しい受身を、作者は、愛する妻子に強いねば済まぬかと、おそれ、かなしみ、耐えている。

有りそうで、こういう優れたこの種の歌は、むしろ近代に入って以後は、無いにひとしい。作者の心根に、深く底流れて和歌世界の人の優しい愛や涙も汲みと れる。光源氏も平家の公達も、かく悲しみかく愛していた。いやいやすべての人がすべての時代にかく愛しかく望んで来た。まさに「あ、はれ」とうめき出た 「うた=うったえ」である。

感傷とおとしめ、かるく遠くに読み過ぎるようでは、なるまい。

2020 9/25 226

 

 

*  生きる、生きて行く、のも衣食住と行為・行動がかかわる以上、明らかに複雑な技術である。人はそれぞれの力量と知恵と欲望とで技術的に生きている。上手下手が係わっている。

そんなことが面倒で不快で抛とうとして抛てた人はいない。抛つのも技術なのだから。

そこで、面倒くさいという「投げやり」の技術が顔を出してくる。若い人にも無くはないが、老耄してくると、これがバカにならない。

 

* 気がつくと寝入っている。目が覚めて、仕事を続ける。頸筋や肩が堅くなっている。構っていられない、出来る時に出来るだけ仕事を積む。積み重ねに励まされて、前へ出る。また前へ出る。それで良しとして、前へ出る。心身疲れているけれど、少しずつ前へ出る。

2020 9/25 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 病む人をぬぐふと絞る手拭に

夫の臭ひのして哀しけれ   脇 須美

 

☆ 「夫婦」はまさに生涯の付合い。新婚の昔から思えば、こ うして「歌」の上でみてもはるばる来たと思う。子は去り、老い、そして病が来る。のがれがたい人の道というものか。拭うた手拭いに「夫の臭ひ」がしている のではない。いまから「拭ふ」べく「絞」った手拭いに、すでに「夫の臭ひ」は染みついている。同じ営みが繰返されてきたのだ。永煩いなのだ。

下句はほとんどため息に聞こえ、上句の拙をしみじみと救い上げている。 昭和五九年『散りてまた咲く』所収。 木保修らと「形成」創刊にも携わった老練の歌人だったが、この歌集の出た年にはかなくなった。子や孫が編んだ佳い遺歌集も有る。

 

★ 死ぬるまで抱かるるなき君ながら

吾の選びし服著給へり   土田 豊子

 

☆ この歌をここで取り上げて正解なのかどうか、やや心もと ない。幾重にも取れるのだ。夫である「君」は病の床にあって、すでに夫として妻と相抱くこともならぬ病状かと、ふと読める。最初私はそう読んだ。が、妻が 床にあり、夫は妻がかつて選んだ服を着て病室を訪れていると取るのも自然だろう。

いや、もっとちがう歌と読む余地もある。たとえば抑圧された愛を秘め合ったまま、さりげなく友達のように付合ってきた男女の愛の歌のように取れなくもない。

だが…、やはり私はこれを、みずから重い病の床にある悲しい妻の歌と読んでおく。言葉の上では上句の方が悲しいはずなのに、表現としては、下句に感銘が深い。具体的であることの「うったえ」の方が胸をよく打つのだ。

それにくらべ「死ぬるまで」は、一読具体的にみえてその実はややあいまいな表現でしかない。その辺りからすでに病む人は作者か「君」かと惑わせる罪が生じている。

「服」という言いかたに、病衣らしくない普通の服を感じるので、それならば健康な夫(男)が病む妻(女)を見舞っていると取れる。一首の表現としては惑わせるが、女の気持ちに共感は惜しまない。 「日本短歌」昭和二六年七月号から採った。

2020 9/26 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 逢ふたびに抱く力の失せし君

涙うかべて吾が手を咬みぬ   武内 弘子

 

☆ 名歌秀歌を選んでいるという気持ちでは、ない。短歌とし て表現されている「愛」の諸相を、気づく限り拾っているというのが、当たっている。これも、上三句で状況が呈示されて、下句で「うったえ」ている。どんな にナマな物言いであろうと、「涙うかべて吾が手を咬みぬ」は容易に言えも書けもしない「人間」についての、「愛」についての「証言」に相違ない。 「アラ ラギ」昭和二七年六月号から採った。

 

★ 血をはきてまことに死ぬとおもひし夜

汝が陰(ほと)に触れ安けくゐたりき   斎藤 金吾

 

☆ 肌で「触れ」たというより、かつがつ「手で触れ」た意味 ととる方がせっばつまって歌が生きるだろう。夫婦愛の極限を告げられたような思いがする。但し事過ぎて後の歌であるだけに、いささかの誇張はないかという 不安はある。歌としては、むしろどう「安けくゐたりき」なのかの表現こそ、欲しいところ。

答はきいているが、だが歌の面白さは、式をどう立てたかの面白さでありたい。 「アララギ」昭和三一年三月号から採った。

2020 9/27 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平

☆ 夫婦の愛

 

★ 八月の西日除(よ)けむと丸窗(まるまど)に

板戸を閉(とざ)して汝(なれ)を病ましむ   吉野 秀雄

 

☆ 子を先立たせた親の悲しみは言うまでもないが、夫婦の死 別また、極まりない悲しみに相違ない。子のあとを追い親のあとを追うた例はめったに有る事ではないが、夫に死なれた妻は、妻に死なれた夫は、すくなくも一 度は生きながら死ぬのである。それほどに心を破られるのである。それほどであればこそ真実夫婦なのでもある。

人とし生まれてもっとも不思議な選択と決意とを示した人間的な行為は、結婚である。その結婚を決定的に破壊する死別のむごさを歌った詩歌はさすがにすく なくはない。が、私はそれを広く拾うより、この歌を筆頭に、昭和二二年『寒蝉集』所収の吉野秀雄の一連の作で思い切って代表させたい。労を惜しむのではな い、吉野の歌の極めて優れているのを信じるからだ。

 

★ 病室の隅に雙膝(もろひざ)抱くわれを

汝(な)は怪しまめすべもすべなき   吉野 秀雄

 

☆ 妻は病状を十分自覚していない。夫は万感を下に秘め隠しつつ何ひとつみずから打つ手をもたぬ。「すべもすべなき」に極まる、悲しみ。

 

★ 服ますべき薬も竭(つ)きて買ひにけり

官許危篤救助延命一心丸   吉野 秀雄

 

☆ 「官許」などということを夢にも信じないこの豪毅な詩人の心に、薬という以上に薬の「名」のもつ力を頼むほどの「あはれ」が深まっている、それに胸を打たれる。

 

★ 病む妻の足頸にぎり昼寝する

末の子をみれば死なしめがたし   吉野 秀雄

 

☆ 本筋を逸れた議論で恐縮だが、この歌では「末の子をみれ ば」の「を」の字余りに妙味がある。「足頚(を)にぎり昼寝(を)する」とすでに二つ寸を詰めてある。定形にこだわる人だともう一つ「未の子みれば」と やってしまいかねない。だがそう口遊(くちずさ)んでみれば分かる、歌は息を詰めてしまっている。たった一つの字余りで歌が生きて来る。定形も大切だが、 定形の底を走る命としていわば内在律が生きている、それを言葉で彫り起こすのが、歌だろうと思う。「末の子を」と正しく言い当ててこそこの歌に芯が生まれ る。

「うったえ」は、この「末の子を」「みれば」に重ねて妻を、子の母を、「死なしめがたし」にあるのだ。デッサンが正確というのは、こうした点をきっちり生かすという事。

 

★ をさな子の服のほころびを汝(な)は縫へり

幾日(いくひ)か後に死ぬとふものを

をさな児の兄は弟をはげまして

臨終(しまは)の母の脛(はぎ)さすりつつ   吉野 秀雄

 

☆ 感情を露出した言葉を一語も用いていない。この一事だけ でも、「表現」の二字とともに多くの歌人は考え直してみる必要があろう。この瀬戸際へ来てこの夫が、子らの父がどう泣き叫んで「悲しい」「辛い」とかりに 言ったとて、誰もそれをとがめはすまい。しかし歌の上では、そう叫んで人を痛ましく動かすか、そうは叫ばず、その故にひとしお人の胸を打つか、これは「表 現」の藝としては勝負どころになる。

一つ一つの言葉の粒々が、よく詩化されていれば、かならずしも「悲しい」と言われなくとも万倍する「悲しみ」は伝わる、その代表のような秀歌を、この作者は、妻の死という貴重な損失の底からはげしく手づかみにしている。

 

* 此の吉野の歌はなお続いて数あるのだが。あまりに胸痛く、今朝は此処まで とする。

2020 9/28 226

 

 

 

* いまも有るかどうか、角川文庫に鈴木大拙の『無心ということ』という佳い講話が有った。高神覚昇の『般若心経講義』に、少年のおりまず惹かれて繰り返し返し愛読し、成人後に上の「無心」講話に辿り着いた。いまなお、今朝も、手にしている。

2020 9/28 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 夫婦の愛

 

★ これやこの一期(いちご)のいのち炎立(ほむらだ)ち

せよと迫りし吾妹(わぎも)よ吾味

真命(まいのち)の極みに堪へてししむらを

敢てゆだねしわぎも子あはれ    吉野 秀雄

 

☆ 「せよと迫りし」を奥歯にものをはさんで読んでは、この 夫婦の愛に失礼である。かくも美しく激しく「せよ」「する」という言葉が詩歌の言葉として「詩化」された例を古今に知らない。性交を暗示して、「する」と いう時のこの言葉にまつわりついた隠語ふうの陰湿さが、この歌の「せよ」という「真命(まいのち)」を賭しての妻の「炎(ほむら)立」つ求愛には、微塵も みえない。「ししむら」とはまさに臨終(いまは)の妻が糸一筋にこの世にとどめた赤裸々(せきらら)自体である。それを「敢てゆだね」て夫に抱かせて今し も逝く妻の、愛。

生きの命の証(あかし)として、夫婦として無比に生きた愛の証として、「性」の交わりが一期(いちご)の最期に燃えあがる。こんな美しい真実の歌こそ、我々は「文化」と呼び「詩」と呼んで記憶したい。

あとへも吉野の詠歌は数つづくけれど、悲哀にたえずこころして割愛する。

2020 9/29 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 夫婦の愛

 

★ 思ほえず我れに行き逢ひ立ち止り

面紅めて我れ見し人はも

美しく来む世は生まれ君が妻と

ならめ復(また)もと云ひし人はも

眠らせてあるに堪へなく児が顔を

つつきたりきと云ひし人はも    窪田 空穂

 

☆ 昨日までの吉野秀雄とは趣かわって、また極めて佳い。こ の三首、おそらくは妻との出逢いの不思議から、妻となり愛しあい、母となりなお美しく優しく、そして今は惜しくもこの世にないかけがえのない人を、愛情ゆ たかに偲び想うている。「云ひし人はも」いう回想の真情がそれを証している。まさに太古の人が「吾妻はや」と絶句したそのままの、あつい心根で歌われてい る。

今よりもっと美しい人に生まれてきて、もう一度あなたの妻になりたい…と。

眠っているわが子の可愛らしさに、辛抱がならず頼ッペたをつついちゃったの…と。

運命の紅い糸に導かれたように、はッと出逢い、はッと一切を受け止めて妻たるべくこの自分を「見」た、あの人…。たかぶる悲しみによく堪えて、歌はしみ じみと、生き生きと、よく歌い抜かれ、措辞も調べも微塵も浅くは流されていない。 大正七年『土を眺めて』所収の感動作である。

 

★ 門川(かどかわ)の汀の草に居る蛍

子にとらせけり帯とらへつつ

其子等に捕へられむと母が魂(たま)

蛍と成りて夜を来たるらし    窪田 空穂

 

☆ 「門川」は、家の前を流れている川くらいの意味で、情景 は生きる。むろん二首めの歌へ、初めの「帯とらへつつ」の歌も吸収される。「蛍」は、古来人の思いの凝って身から浮かび出るもの、憧れ出るもの、魂そのも の、のように想像されて来た。その伝統にしっかり触れながら、「門川」の蛍を、亡妻の魂がわざと「子等」に取られようと憧れ出たかと、たぐえ想っているの だ。もとよりはかない生者の願望と大人の「父」は承知している。しかし子の帯をしかと掴みながら、心底から妻の思いの蛍であれよと誰より強く願っているの は、この作者である残された夫なのだ。

「夜」の闇にまぎれてその目に涙が光るのを、「蛍」だけは見ていただろう。同じく『土を眺めて』所収。

2020 9/30 226

 

 

 

* 世界中で「戦争」している、「負けたら仕舞い」だから。

戦争する前に、「妥協・協和・解決」を外交で計れればいいのだが、「外交」とは 人間の歴史が肇まってこのかた、私の表現によれば、洋の東西とも大小と 無く「悪意の算術」以外のなにものでもない。人間の世界はいつか確実に「算術の破綻」で亡びるように創られている。神の悪意と謂うべきか。

2020 9/30 226

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 夫婦の愛

 

★ 雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く

枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く

 

朝風は人のやうに私の五体をめざまし

あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

 

私は白いシイツをはねて腕をのばし

夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる

 

今日が何であるかをあなたはささやく

権威あるもののやうにあなたは立つ

 

私はあなたの子供となり

あなたは私のうら若い母となる

 

あなたはまだゐる其処にゐる

あなたは万物となつて私に満ちる

 

私はあなたの愛に値しないと思ふけれど

あなたの愛は一切を無視して私をつつむ    高村 光太郎

 

☆ 昭和十六年刊行の『智恵子抄』から、詩人の妻智恵子没直後の「亡き人に」を採った。巻末の「梅酒」という詩も好きだが、表現のしなやかさ、悲しみのなかにも愛の自然がうるわしいこの詩で、名高いこの愛の詩集を代表してもらおうと思った。付け加える何ももたない。

2020 10/1 227

 

 

* 昨日 書庫からもちだした昔むかしの「文藝春秋」一冊の長い長い「特集」記事を深夜まで克明に読み通し、たいそう有難い収穫で興奮もし、寝そ びれて、かはたれの朝五時にひとり床を出て、猫の「ま・あ」にも気づかれず、二階へ来た。で、すぐ原稿を書き継ぎたいところ、やはりいささかボンヤリして いる。はれならと、もう一冊持ち出しておいた箱入り本から関心の知識を汲んでおこうと読んでいた。これは深夜に熟読してたよりは深妙に難しい資料でなく、 持ち合わせの予備知識でかなりを補い読み進めておれた。命に代えても断然復活は阻止するぞと決めてきた階級的特権族、乃ち明治二年六月十九日新制定の『華 族』を、あらためて追尋・追究・再確認しておきたかった。

明治維新が制度化した「華族」と伝統の歴史が謂う「華族」とは、ちがうといえばハッキリ違う。伝統の「華族」とは公家社会で最高級の「五摂家」に次ぐ「清華家」なる公家の家格をさし示した「別称」であった。

明治政府はそんな久しい慣習など忘れたかのように、旧公家と旧武家藩主層とをひっくるめて「華族」にしてしまい、公爵 侯爵 伯爵 子爵 男爵の五階位 を区別したのだった。孰れにし。ても庶民である「士族」「平民」からは隔絶して上にある「身分」の謂い・称呼がつまり「華族」となって、さらにそこへ、明 治御一新に功績有った士族らにも爵位を与えだした、それが「新華族」という存在であった。さんな身分制度が、昭和の敗戦までつづいて、そして撤廃された。 戦争に負けてよかった最良の華族制廃止であった、二度とそんなものを復活させては成らぬ。

 

* ゆらゆらふらふら揺れながら、五時起きの身で、「湖の本」次回初稿の中ほどをしかと太らせ得たと思う。もう十時だ。

2020 10/1 227

 

 

* 新政府菅総理の言動に黙って注意してきた、が、極限の要注意と見始めている。私民・社会の言論と表現の自由は、露わにまで制限・抑圧されるだろう、す でに兆候は見えている。米トランプ政権への、健康で正当な批評より阿諛追従の姿勢はあらたまる気配が無い。外交に「悪意の算術」を高等に駆使し得そうな気 配も無い。経済感覚もあらわに大法人利益の保護に重く傾いて、私民経済は結果的にますます抑圧され貧相に陥り続けるだろう。それ以上に、国民の個人情報や 資産も露骨に官憲が盗み取ろうとする方向へ行政は舌嘗めずりして動くだろう。

日本人の健康で優れた知性は、多く反政権という貼り紙で、社会の隅へ逼塞を強いられて行く。   「大学の自由」という近代以来世界史的に培われた理智と懸命との行動力は、もう日本では気息奄々に臨終を迎えている。「政権」に無条件に奉仕しない学者た ちは、巷の埃のように散らばり失せて行くだろう。これからの「日本文化」は政権保証という「お墨付き」なしには価値うすき無駄モノかのように縮んで行くか と深く懼れる。

目の前に、春草描く、大きな夕焼けの山をちいさく仲よく「帰樵」夫婦の名画がある。帰ってゆく、すくなくも私たちには、また明日も山へ木を樵りにのぼれ る脚力の残りが乏しい。「日本の國」とはよく永く付き合ってきた、日本の明日や明後日にどんな希望があるのか、もうほんのすこし、埴生の宿の小窓から覗いて いよう。

2020 10/2 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 夫婦の愛

 

★ 身にしむや亡妻の櫛を閨(ねや)に踏(ふむ)   与謝 蕪村

 

☆ 蕪村一流の想像句だろうと大概の人がいう。蕪村の句が、 難解になると「想像の句」だとして片付けたがる。なるほど知られている彼の妻は彼よりも長生きした。その妻は江戸から関西に帰って、蕪村四十代も半ば過ぎ てから得た妻である。人は、それを不自然にも初婚かのように言って疑わない。

蕪村が関東ですでに妻をもち子ももち、その双方に死なれての悲しみのまま関西へ帰って来たかも知れぬ自然さを、もっとよく考え直すべきだろう。多くの句 のなかからそれは十分に察しられる。この句も、好き好きしいただ想像の句と読むには、句が練れ、しかも情の流れに自然の深さがある。

 

★ 南無女房乳をのませに化けて来い   『誹風柳多留』

 

☆ 付け加える何ものもない。とは言え、誤解があってはなるまい。ただ「子ゆえ」に「化けて来い」なのではない。本音は、「化けて」でも「来」てほしいのだと、子の父が、亡き妻を、恋しがっている。

2020 10/2 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 夫婦の愛

 

★ 筆硯煙草を子等は棺に入(い)る

名のりがたかり我れを愛(め)できと   与謝野 晶子

 

☆ 「入(い)る」は、気になる。ここはものを「入れる」意 味で「入る」意味ではないのだから。読み損じはしないけれど、敢えて文法を侵してでも、より正しく「人るる」と律の内的必然にしたがうたうべきである。字 余りになっても確実にその方が一首の訴及力は強いし、美しい。この作者の歌には往々こういう点でのなげやりが見える。

そうはいえこの歌は佳い。そんな品物を「お父さん」は愛していたんじゃない、この「わたし」を一等一緒にあの世へ連れて行きたいはずなの…よ。

だがそれを心の内の叫びとして、「名のりがたかり」と抑えているのは作者の「母」としての愛でもある。それ故に先立った「夫」への愛と悲しみとはいっそう深くせつないものになっている。みごとというしかない。

同じ昭和十七年『白桜集』所収の悲しみの歌に、

山々を若葉包めり世にあらば君が初夏われの初夏

いつとても帰り来給ふ用意ある心を抱(いだ)き老いて死ぬらん

なども印象にあるが、やや甘い、か。

2020 10/3 227

 

 

*   懐かしい童謡の合唱番組を二時間も聴いて観て、たくさん泣いた。「親をたづねて」なく濱千鳥の歌などを、どれほど人に隠れて此の「もらひ子」は独り唱い独り泣いていたことか。

童謡の詩に、たくさん日本語表現への美しい道を案内されていた。百人一首と優れた童謡とが、私の、最初の日本語の「先生」であった。秦の親たちに幼稚園 にいれてもらい、戦争の日々を迎えて山奥へ疎開し、進駐軍の無数に往来する京都へ帰って少年は民主主義と、新制中学へ入って社会性と自主性を習い、そして 「ほんとうの身内」という身に沁みる出会いに恵まれた。たった半年で、そんな往時は渺茫と、わたしはやがて八十五になるが少年の懐と疼きとは、いまも涸れ ていない。つい近作である「オイノ・セクスアリス 或る寓話」も、「花方 異本平家」も、出来不出来など知ったことでなく、ただ少年の往時とともに懐かし いのである。

2020 10/3 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 夫婦の愛

 

★ 思ひきり生きてみよとぞ聴く哀し

春の墓辺のきみは風にて    長谷 えみ子

 

☆ 妻は死なれた。今は風となった夫の声が、はげますように 「思ひきり生きてみよ」と聴こえる、かなしさ。歌としても、ことに下句はすぐれて美しい。「風」は、この作者の夫だった志操の文人村上一郎がみずからのた めにえらんでいた墓碑銘ではあるが、そんな事実を超えて、みごとに「詩化」を遂げている。 昭和六〇年『風に伝へむ』所収。

 

★ たまかぎる夢にみえつつ魂匣(たまはこ)を

ゆりゐるわれをあはれみたまへ    山中 智恵子

 

☆ 夫の死を悼んで、ただひたすらに莫大な数の挽歌を崇高なまでに歌いつづけた作者。その昭和五九年『星醒記』所収の一首であり、それも「あはれみたまへ」という大きな嘆きのその行方に心を惹かれて採った。

「死ぬ」の状態は「萎ぬ」に同じく、その時にある活気を与えるとよみがえるという信仰は、久しい起源を持っている。夢のなかででも、恋しい人の「魂匣」 を揺り動かしその名を呼ばわって、よみがえりをひたすら祈る妻…。死んで逝く夫へ、そして神へ、大いなる宇宙のはからいへ、ただもう「あはれみたまへ」と 訴えるしかない「死なれたもの」の悲痛を、この歌は、掴み切れたともなく掴もうと必死に手をのばしていて、胸に迫る。

 

* いまも何種も歌誌が送られてきて。夥しい歌らしきが満載されているが、私がこのシリーズに選び取っているような胸を打ち心に逼る表現ゆたかに美しい作 歌に出会うのは、極めて極めて稀も稀。堪らないという気持ちを「砂を噛む」とよく謂うが、最近の歌誌の歌は、主宰と称する人の作からして、ゴミまじりの瓦 礫を噛むほど汚いのが多い。時代を率いるほどの歌人がいないということか。

2020 10/4 227

 

 

* 俵万智さんが、新しい歌集を送ってきてくれた。もう若くない、が、言葉は吟味できていながら創作としては「お子様ランチ」の味とすがたのようであっ た。二千年の歌史のこの辺が「終点」ということなのだろうか。日本語の内的な発火力はもうこの辺で「停止」するのだろうか。

2020 10/4 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 夫婦の愛

 

★ わが夫(つま)は吾(あ)を遺しては死にまさじと

思ひてをりき謂(いは)れなけれど     稲富 歌子

 

☆ まったく「謂れ」ない安心であった。そんなことは百も二百も承知で、しかしそう信じて来て、信じたとおりではなかったこの…「死なれた者」の辛さ。「死にまさじと」という敬語が痛切に利いている。そこにこの作者夫婦の愛の姿までが読める。

心にしみる歌。 「コスモス」昭和四九年五月号から採った。

 

★ 我も覚め夫も目覚めて暗闇に

言葉交しし夜もありにき    川村 千代

 

☆ 身も世もなく崩折れた辛い死を見送ってから、いつしかに 歳月は流れた。やっと、昔、夫と枕を並べていた夜のことどもがこんなふうに静かに思い出せるようになった。とは言え、年老い静かに、夜半も過ぎて眠りがた い独り寝の床でのこと…と、言い知れぬ寂しみに歌一首がしんみりと優しい。

作者は、だが、たしかに今また、「暗闇」でといわずいつ何時といわず、夫と、自在に「言葉交し」えているのだろう。

この作者、父親のちがう、母親がおなじ、私の姉。とうに死なれてしまった。生前に一度だけ顔を合わせ、たくさんたくさん文通した。 昭和五七年の合同歌集『箱舟』所収。

 

* 「夫婦の愛」の章を、終える。

2020 10/5 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 子への愛

 

★ 十五年待つにもあらず恋ひをりき

今吾に来てみごもる命よ      長崎 津矢子

 

☆ この慶び、いかばかりか。「十五年」がものを言う。しかも感情をよく抑えて一首の表現は誇らしいまで端正に、かつ活躍している。

「子」への愛は、何といってもこの「みごもる」ところから始まる。しかも身龍りの歓喜には、それに与(あずか)って力あった夫ないし男への愛も重なる。

この作者の場合、ほとほと諦めにちかい「待つにもあらず」であったかも知れず、それゆえの「恋ひをりき」は、ギりギリの表白として力がある。ことに下句 の一気に言い放った感動の深さには自然な「大いさ」さえ感じとれる。「命よ」の「よ」までしっかり働いている。 昭和四○年『三春柳』所収。

 

★ 花びらにくちびる触れてねむりいん

子のこと未生(みしょう)の仄明き闇    永田 和宏

 

☆ 現代短歌の若い旗手の一人。「ねむりいん」と、切れては いないのに切れた感じの三句に物足りなさはのこるが、愛するものが胚胎した不思議の「みごもり」を、「花びらにくちびるよせて」などとほのかに母子のエロ スの甘美も漂わせながら、いわば一の絶対他界かのように幻視した「視線のリズム」は美しい。

作者の意図にそこまで含まれていたかどうか判じかねるが、もし、「未生」の二字に、「子」ばかりでなく、「父母未生以前」も深々と覗き込まれているのな ら、第五句の魅力は神話的なシンフォニィを秘めている。私は、そう読んで愛誦してきた。 昭和五〇年『メビウスの地平』所収。

2020 10/6 227

 

 

* 今日は惘れたことに午前午後に二時間ずつ三度も寝入り、晩には『チャタレイ夫人の恋人』完訳版を、たいそうにいえば、こころ籠めて読み耽っていた。わ たしは処女作このかた「性」を大事に考え描写や表現にも心を用い続けてきた。「性」に真向かわない、真向き合えない作家をわたしは信用しない。

2020 10/6 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 子への愛

 

★ 芋の秋初孫ふぐり忘れずに    西島 麦南

 

☆ 男の子が生まれた。「芋」の連想で「ふぐり」が見えてく るおかしみ、が、めでたい。十七音が微塵の揺れなく「詩化」されている。この「詩化」の分からない歌人の多いのにグッタリくる。尋常な平明な言葉の一つ一 つが、朝日の光を浴びたように、新鮮に凛と立っている。「うひまご」が正しいだろうが、「はつまご」と読む人もあろう。その方が語感的に共鳴できるという のなら、この音楽、けっしてワルくない。 昭和五八年『西島麦南全句集』所収。

 

★ 万の朝万の目覚めのふしぎより

われの赤子の今朝在る不思議    池田 季実子

 

☆ 「万」の字は「まん」と思う。それとも「よろづ」と読ま せるのか、表記にもうすこし美学があってもいい。が、歌一首は率直を極めて、むしろ言い尽くし過ぎているくらい。だが言いたい気持ちはよく通じて、思わず 「そうでしょうとも」と声援したくなる。作者の過去に幾波乱が読み込めるほどの表現でも加わってあれば、この「不思議」にさらに感動が添うだろう。

言い尽くすことの微妙なマイナスも秘めながら、それでも 「今朝在る」の一句には惹く力がある。 「かりん」昭和五四年十月号から採った。

2020 10/7 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 子への愛

 

★ 産みしより一時間ののち対面せる

わが子はもすでに一人の他人    篠塚 純子

 

☆ 措辞は乾いていっそ不器用に粗いが、「わが子はも・すで に一人の他人」とある表現に、いわば文明なり時代なりに対する批評を読むことが出来る。「他人」とは何で、他人でないなら、ではその相手は自身にとって真 実何なのかを問う思考の体系と、「親子」を不動の軸に人間関係を組立てる思考の体系とは、この日本でも鋭く一度衝突していい時期に今はある。

親子を、この作のように「他人」同士からの「愛ある出発」と考える歌は、かつて無かったかも知れない。 昭和五八年『線描の魚』所収。

2020 10/8 227

 

 

* また一人、また一人、肅然 生死の巷に見失った知友があり、どう焦っても手の施しようがない。そんなまた一人に自身も加わって行くのであろう、それま た為すすべ無い。仕事をする、し続けるだけ。この数日は颱風のなか降り次ぐ雨と予報されている。天気は天にゆだね、わたしは機嫌を損ぜず仕事するだけ。

昨夜は、いつになく、愉快に心嬉しい夢を観つづけていた、のに、もう思い出せない。かき消すという、まさに夢はかき消すように失せる。だから、いいので あろう。しつこく記憶に居坐られては叶わない。とはいえ、身に沁みて忘れるのの惜しい夢も、愉快な夢もある。有るには有る。

 

* 亡き出岡実さんの「持幡童子」の写真を久し振りに持ち出した。展覧会の場で即買い取った気に入りの作だった、胃全摘八時間の手術をして下さった聖路加 病院外科の先生にお礼に差し上げた。出岡さんは同じ保谷に住まわれていて、中日新聞文化部長の林さんに紹介された。『四度の瀧』や中公新書『古典愛読』ほ かいろいろの装幀や挿絵でお世話になった。もうはるばると遠くへ行ってしまわれたが、こうして強い佳い繪に見入っていると、何かしら守られているような励 まされるような力を感じる。好きな繪を三つならべ、「うん」と肯いている。

 

* 今日も、書きながらの勉強日、勉強しながら書いて行く日だった、勉強とは、調べて読んで書き控える。芯から疲れるが、仕事している間は感じていない、そして、知らぬうち時間が過ぎている。

2020 10/8 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 緑子(みどりご)の欠(あく)びの口の美しき    『武玉川』第八篇

 

☆ 「あくび」の口、である。句そのものが、美しい。思わず口をついて出た、こういう物言いで「みどりご」を眺めていた視線も美しい。

何となく、と言うよりもたぶん間違いなく男の視線なのだろうと想うと、ひとしお句が面白い。江戸狂句の澄んだ佳い味わいである。

 

★ 水中に冷やせる桃のほのあかく

この涼しさをみどりご眠る    高野 公彦

 

☆ ほのあかい「水中の桃」の膚(はだ)が、「みどりご」のいとしい肌に重なり想われるのはむろんである。間然するところ無い、美しい短歌表現に、愛が匂う。 昭和五九年『水木』の巻末を飾った秀歌である。

2020 10/9 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 乳のますしぐさの何ぞけものめき

かなしかりけり子といふものは    斎藤 史

 

☆ 「何ぞけものめき」といったアクセントの利いた盛り上げ かたに、歌一首の内懐をぐっと深くする内在律の魅力がある。ここは認識といい表現といい、まるで、らくだの背のこぶのように歌に景色をつくっている。一字 一音といえども無駄に働いていない。しかも、なまじな人間味のうすっペらな感傷を超えて、互いに「けものめ」くことで初めて真実繋ぎ合わされた「子」への 共感を、母親は「かな(愛)しかりけり」と肯定している。斎藤史は「昭和」最高の歌人であった。 昭和十五年『魚歌』所収。

 

★ 乳房吸ふにそれぞれの持つ癖のあり

母のみが知る五人のわが子    塚越 つね

 

☆ 「子への愛」となると、勢いこういう捉えかたのものが多くなる。うなづくのにやぶさかではないが、必ずしも上出来の歌にはなっていない。いわばこれだけの事で、それ以上の表現は何か堅いものに浅くコツンと突き当たって、果てている。

さきの斎藤史の歌の、「何ぞけものめき」といった鋭い屈折がない。多くの母の思いを代弁しえていようが、「うったえ」の力は意外に弱い。多く、一般の歌はこの辺で力がとまりがちであるとの感想もふくめて、敢えて挙げておく。 『昭和萬葉集』巻二〇所収。

2020 10/10 227

 

 

 

* どの時代の人も斯くまで{現世現在}を唾棄してきたろうか。

敗戦後の少年・私は、現実を、今を、生き生きと歓迎し愛していた。幸福とすら感じていた。東京へ出て来てからも、かろうじて「三・福・大・角・中」ぐらいまでは「生気」を抱いて世の中を眺めていた。ないしガマンしていた。

橋本、小泉、安倍ときて、一気に日本の現在は汚泥のようになった。

 

* 「方丈」そしてピカソの「平和」 「秋色・三四郎の池」 清潔な「少女の横顔」 「夜色・浄瑠璃寺」そして前途へ導いてくれる「持幡童子像」  ただ趣味的には掲げていない。ただただ汚泥に塗れたくないと願うのである。

2020 10/10 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 万緑の中や吾子の歯生えそむる   中村 草田男

 

さんさんと木々の緑を洩れてふりやまぬ日の光のこまやかな恵みを、句の魅力そのものとして感じたい。「歯」一字に緑したたる木々の「葉」の光るちいささも重ねて読みたい。草田男俳句のすこやかに毅い一面が大きく「うた」われた。昭和十四年『火の島』所収。

 

★ 真白なる大根の根の肥ゆる頃

うまれて

やがて死にし児のあり     石川 啄木

 

☆ 「ましろ」でなく「まっしろなる」と読みたい。ぜひ同じ作者の次の二首とともに読みたい。

 

おそ秋の空気を

三尺四方ばかり

吸ひてわが児の死にゆきしかな

底知れぬ謎にむかひてあるごとし

死児のひたひに

またも手をやる

 

☆ ものみなの実りの秋である。

第一首一行めのイメージは豊かに象徴的だし「秋の空気」は明るく澄んでいる。その生きの命の健やかさに背くようにして、いとけない「わが子」がひとり死 んで行く。人と生まれ親となって最も悲痛な一瞬が歌われる。生も死も無力な親の目のまえで「底知れぬ謎」と化している。ただもう、死んでしまった子の額に うつけたように繰返し「手」を当てている。はかない「手当て」である。

この作者には「手」をうたった歌がひときわ多い。無神論者啄木でも 何か不思議な力が信じたい、こういう切羽つまった時こそは殊にそうだったろう。

啄木はそういう時「ぢつと手を見る」人だった。「死児のひたひにまたも手をやる」手当てびとだった。くやしい、せつない愛の「手」だった。

「手」を信じ「手」に失望した詩人。  明治四三年『一握の砂』所収。

2020 10/11 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 若ければ道行き知らじ賂(まひ)はせむ

したへの使ひ負ひて通らせ       読人しらず

 

☆ 「古日」という名のいとけない男の子をなくした親の、長歌につづく反歌の一首で、二度と帰らぬ他界へ去って行く子を恋い思いわずらい、袖の下は使うから、どうか旅路の道案内の者らよ、幼い子を負うて行ってやってくれと歌う。切実。 『萬葉集』巻五所収。

2020 10/12 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ たらちねの抓(つま)までありや雛の鼻    与謝 蕪村

 

☆ 雛の鼻が低いのをからかっている。いやいや実は雛祭りを して祝ってやる子の鼻を、母親に抓んで貰わなかったのかとからかっている。本当はそう低いわけでない。それどころか年おさなくもない女を、わざと「抓まで ありや」と笑ったのなら、それも可笑しい。美しい句にエロスが匂う。

 

★ 既に寝し吾子(あこ)の小さき掌に

触るれば軽く指をにぎりぬ    小林 渓泉

 

☆ 正直、歌としては物足りない。あたまから順に直叙の散文にただ書き直せてしまう。歌の外形をなぞってみただけのこと、とも言える。

それなのに旋律が乏しいのではない。ごく自然に物を言ったのが、そのまま歌や句になったという例は、けっして古来すくなくない。これなどは普通の物言い とは明らかにちがうけれど、普通の物言いからの短歌的翻訳に過ぎぬとも言える。それならばかなり音感も語感もいい翻訳だ。

一等佳いのはここぞと思う瞬間を柔和に優しく把握したこと、そこの感動を逃さず歌ったことだ。親なら誰もこの嬉しい瞬間はよく記憶している。わが子の掌が夢に花ひらき花びらをとじるように、寝入ったまま指をそっと握って来た感触。 「歩道」昭和二九年三月号から採った。

 

★ 春のめだか雛の足あと山椒の実

それらのものの一つかわが子    中城 ふみ子

 

☆ 「なにもなにも、ちひさきものはみなうつくし」と書いた枕草子「うつくしきもの」の感覚を襲うていよう。強いてとれば、いま少し積極的な「生命賛歌」を読みたくもあるが、無理読みの必要はない。枕草子は佳いなと今さら見直す。

昭和二九年刊の著名な歌集『乳房喪失』の一冊で現代女流短歌のさきがけを成した歌人の、むしろ可憐に初々しい一首。

2020 10/13 227

 

 

 

* 書き下ろし「湖の本 151」の前半を或る程度まで堅めた。ここは置いて後半へ専念していいかと。後半の半分ほどは書き進んでいる。書くというのは機 械的な労作でなく、主題や人物との力角力で、いつ、引っかけられるか、肩すかしや足くせを食うか、押し出されるか、油断ならない。だから食いついて行く。 しかも要は「人間」との出逢いである。

 

☆ 父からは、熟慮の結果一旦決断したことはゆるぎなく守り通すこと。いつ緊張し、いつ緊張を弛めるべきかを経験によって知ること。倦怠もしなければ夢 中になりもせずに友人を持ちつづけること。悲劇的なポーズになしに、細小のことに到るまであらかじめ用意しておくことを学んだ。 マルクス・アウレリアス

2020 10/13 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ ぢいちやんかといふ声幼く聞え来て

受話器の中をのぞきたくなる    神田 朴勝

 

☆ 昭和四八年四月二九日「毎日新聞」から採った。絵に描い たような素人の歌、投稿歌である。直接話法あり文語と口語との混じりもあり、ほとんど散文そのまま並べ換えもせずにチョッとはさみを入れた程度だ。が、だ から詩でないか歌でないかというと、すばらしい詩だ佳い歌だとはよう言わないが、「ぢいちやん」の耳と目に、その反応や動きに、共感を惜しむ気はしない。 一緒に耳を澄まし、一緒に「受話器の中をのぞきたくなる」。

事柄に共感するのと、詩歌の効果に共感するのとは違うと異を唱える人があっても私は反対するものでない、が、さて、この歌の場合がどうなのか。六・四・ 四・五音で組み立てた上句に意外にいわば鼓動する律がある。「受話器の中」という、いわば意味を詰め込んだ音の塊から「のぞきたくなる」という率直簡明な 和語が流れ出てくるのにも、巧まぬ誘いがある。藝能の方の言葉に「へたうま」というのがあるそうだが、無意識に出た巧みがこの作品にはある。

「ぢいちやん」の心の旋律と「孫」の心の旋律とが相乗効果を素直に生んだのなら、これはやはり詩のよろこびに相違ない。

 

★ 花びらの如き手袋忘れゆき

しばらくは来ぬわが幼な孫    出浦 やす子

 

☆ 「しばらくは」の一句に「おばあちやん」の待ちかねた・ いくらかはスネタみたいな可愛らしい「平気顔」が透けて見えて面白い。それだけに「来ぬ」が「きぬ」でなく「こぬ」である否定の表記に一工夫欲しかった。 そこでの一瞬の判断を読者としては嫌うからだ。歌の効果としても嫌うからだ。

初二句は、必ずしもオリジナルな表現かどうか分からないが、なおこの一首の中では佳い歌声になりえている。 昭和四三年『紫蘇の実』所収。

2020 10/14 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ ふといでしをさなのおならちひさくて

拾へと言へば拾ふ真似する    吉井 千秋

 

☆ これも枕草子の「うつくしきもの」の段に、いとけない子が這い歩きながら、小さい指さきにふと塵をつまみあげるのが愛らしいと眺めていた、あの系統の視線に支えられている。ひょっとして直接の示唆をえていたかも知れぬ。いないかも知れぬ。

「平和」も「愛」も、こういう場面を見落とさぬ視線や態度から鍛えられて行くのだろう。情に訴えるナマな表現はひとつもなく、しかも情に溢れている。 「ことたま」昭和二八年十二月号から採った。

 

★ 混み合へる人なかにして木耳(きくらげ)の

如く湿れる子の手を引けり    長谷川 竹夫

 

☆ 「木耳の如く湿れる子の手」に私は感心した。幼稚園まえ の手は確かにこうだ。「湿れる」といいつつ湿っている事よりも、柔かい事にことに父親は愛を感じている。まして混み合っている「人なか」なればこそ紛れな い我が子の「手」である事に、心動く。離してはならぬと思う。その気持ちが伝わるのか「子の手」にもふと力が龍もる。

群衆に揉まれ父も子も寂しくて、だから、愛が在る。「引けり」という力に意味が出る。 「歩道」昭和二二年三・四月合併号から採った。

 

★ 一家みな襤褸(らんる)なれどもをさな児は

紅(こう)を刷きたる耳朶(みみたぶ)をもつ    草野 比佐男

 

☆ 「まされる宝子にしかめやも」以来の心意気か。「耳朶」 は「みみたぶ」と読みたい。「じだをもつ」と五音で引締めて読むのも可能だが、ムリをせずともよい。「一家」「襤褸」「紅(こう)を刷く」といった締まっ た音に「をさな児」「みみたぶ」が対照の妙を得ているのだから。

小児の清潔感を、かほど澄んだ空気か梅の花かのように描いた詩句を知らない。「襤褸なれども」とは、言うまでもない物質的には貧しいけれどもの意であり、心までは貧相でないとの気概を、愛が支持している。 昭和三二年『現代襤褸派』所収。

 

* 短歌は 詩 であり うた である。それが根元の約束だと思う。この三首のうたの 美しく 心やさしく 言葉の清いことはどうだろう。最近に送られて くる結社歌誌にこんなみごとな「うた」はめったに見当たらず、瓦礫や汚泥を踏むようなのが悲しい限り。しかも主宰の作の、逃げ隠れたように、探さねばみつ けにくいのも数ある、ヘン じゃないですか。

2020 10/15 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 吾と臥す肉薄き孫の背を撫でつ

此の子を召さむいくさあらすな     吉岡 季美

 

☆ 上句はいかにも練れていないが、「いくさあらすな」の願いにも、この表現にも、心ひかれる。

最愛の夫に死なれた作者の歌集『捧ぐる花』(昭和五六年)に収められていた。短歌にせよ俳句にせよ、しみじみ日本人の暮しと心とに根をおろしていることを思う。この根、大切にしたい。

 

★ あはれ子の夜寒の床の引けば寄る    中村 汀女

 

☆ 寒夜、親は子の、子は親の肌のぬくもりに思わず「引き」もし「引かれ」もするのだが、それとても親は暖めてやりたさが先立ち、子は嬉しさで待っていたようにすばやく寄り添って来る。「あはれ」は母の愛の、だが母が自愛の声でもある。 『汀女句集』所収。

もっともこの句、汀女の句、当然母の子を吟じた句と知らずに読めば、男が女を「引けば寄る」とも読めて、それはまたなかなかの佳句になる。「子」という物言いにその情趣、用例として矛盾しないからだ。

いわばこの句の魅力には、言い知れないエロスのそれが下に隠れているのである。

 

★ 物言ひてもえぎの蚊帳をくぐり来る

我児は清しうら寒きほど    与謝野 鉄幹

 

☆ 煩わしいが、「モノいいてモえギのカヤをクグりクるわガ コはキヨしうらさむキほど」とこう書いてみて、カタカナの音鎖が、一首のなかで、うるさくなくハーモナイズしているのに気がつかれるだろう。「モノ」 「モ・ノ」の調子のいい繰返し、「カ」行音の清く寒き反復をやわらげている「ヤ」行音の暖かい効果。

意図して出来ることでなく、やはり天性の語感がさせる言葉の斡旋。但し斡旋もやや過ぎたかこの歌は、それでも必ずしも十全の成功作と私には見えていな い。息づかいが浅く短く、「我児は清し」もセッカチに露骨なのだ。だが「うら寒きほど」の表現力で持ち堪えた。「うら」は「心」 しいて謂えば「心裏」です。 大正四年『鵜と雨』所収。 2020 10/16 227

 

 

* ちょと、街へ出てってやろうかと思っても、なにも、こんな時節にわさわざと酔狂に思ってしまう。ものを思いまた想い起こして行けるさきは幾らもある。

八坂神社の拝殿が国宝に指定されたとか。しみじみ懐かしい。もう一度詣りたいな。

 

* 読み返すととほうもない乱文が見つかり、縮み上がるが、解けないクイズのようだと嗤われている、ごめん有れ。

冷えてきたのが分かる。それでも、この、珍妙奇妙に乱雑で心稚ないなこの部屋のこの機械の前のこの席がわたしは好きで、気に入っていて、出来れば此処でこ そ最期を迎えたいし、死後もこの部屋のこの席にいたい。しょせん悟り済まして積んできた歳月でなし、末期でもない。目慣れ手馴れた本や写真や繪や書や雑物 のぬくみが馴染んで身に沁みている。

2020 10/16 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ わが顔を描(ゑが)きゐし子が唐突に

頬ずりをせりかなしきかなや     岡野 弘彦

 

☆ 「かなしきかなや」に音楽がある。「かなしからずや」で は一首がもろともに平凡に落着いてしまう。子への「愛」と、それをいわば「煩悩」とも感じ微妙な「かなしきかなや」の葛藤が読める。「唐突に」は、子のふ るまいの突然以上に、それに反応している親自身の、のどもとへこみ上げてきた突き刺すような「かなし=愛し」へと繋がる効果がある。

子も生きもの、親も生きものだ。底ぐらい生きものだ。  昭和四二年『冬の家族』所収。

 

★ おどおどと世に処す父に頬を寄す

子は三年を生きしばかりに     島田 修二

 

☆ 生きがたく生きてようやく三歳になった可憐な子、その頬ずりに力づけられている父。

世に生きるキツさをこう歌ったのが、胸を打つ。 昭和三八年『花火の星』所収。

 

★ 立人(たつと)君また政子君幼な子の

抽象ならぬ友なれば愛し     島田 修二

 

☆ 同じ『花火の星』所収の歌。 たぐい稀に面白い歌の一つだ。子の世界を傍観しつつ大人の世界により太く苦い根が下りている。「抽象ならぬ友」ほどの心憎い表現にお目にかかることは、三年五年のうちにも稀だ。

まこと 大人が「友」と抽象的にただ呼んでいる日常世間の、ほこりッぽく心苦いこと。

この歌には「愛しい」子らもやがてそうなる日々への、余儀ない恐れや哀れみが籠もっていると読みたいが、それほどの余裕すらなく、作者は、自身の現在を、苦く胸底に見つめているようだ。先の歌とともに、作者の悲しみは深い。

2020 10/17 227

 

 

* 父ローマ皇帝からは、神々に対しては迷信を懐かず、人に対しては人気を博そうとせず、きげんをとろうとも媚びようともせず、卑俗に堕さず、新奇をてらいもしなかった ことを学んだ。

大部分の人間が節するには弱すぎ、享楽するには耽溺しすぎることを 父は 節しまた楽しめた。不屈の魂をもった人間のそれは特徴だ。 マルクス・アウレリウス

 

* かかる往古も往古の聖者が自省の弁んら、いま二千歳数万里を遠のいた日本国の幕末と明治初をわたくしは、オモロイはまことに面白い著述を延々漢文で訓 み解き書き写しているのだから、なんというヒマ仁かとだれより私自身が惘れているが、藪しらず八幡の藪に踏み込んでしまったのだか、することをし終えない と脱出できない。せめてはこの苦心惨憺が酬われてくれるといいのだが。

二編ある一編30頁の6頁ほどを平文にするだけで何日を要したろう、今日も草臥れて倚子のまま機械の前で居眠りしていた。ああ寝てしまってるなと二度ほど気づき掛けたが、そのまま暗闇にいた。

もしそれ全部が読みやすい今日日常の言葉に訳されていたら面白さに手放すまいが、堪えて口訳のの任に誰も就かず本になる時は漢文のままなのは、ま、原著 者の学殖ただならず漢字漢語の多彩に豊沃に過ぎて、大字典が手放せない。しかも、少なくも私は引きつけられた。やれやれ。

2020 10/17 227

 

 

* 息やすめに、こころよく愛らしい写真一枚を、前面で交替した。

写真また、「詩」でなくては。

これといい、秋色三四郎池といい、「詩」ではありませぬか。「詩」題が付けたいが、写真に勝てない。

 

* 本格のボケか、この日記のどこかで、一日 日付が抜けていたようだ。今日が十八日 日曜として、溯って行くと 一日 トンデいる。一日も書かない日は無いのだから。ま、厳密に日付の必要な記事でも感想でもない。ま、いいや。

2020 10/17 227

 

 

* 上野樹里の「朝顔」再放送を久し振り懐かしく観た。実にサッパリとして情もありセリフも佳い、好きな女優さんの、娘に欲しいランクの高い一人である。

今は、デッカイ男らと格闘中だけれど、また、老少となく女人が書きたい。澄んだ水に顔をつけて、わたしの記憶の池を泳ぎ回っているどんな人らに 手をさしのべようか。 2020 10/17 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

このあたりで、娘と息子とを歌った詩二篇を挙げよう。

 

★ 神は自分に一人の女を与へた。

女は娘といふ形で

おれとともに生活をし出した。

おれは剣をさげ

この城の番人になり

神をもまだ軽蔑しないでゐる。     室生 犀星

 

☆ 昭和三年の詩集『鶴』から「愚者の剣」を採った。

この作家の詩として 特に優れたものとは言えまい。「子」を歌って陥りやすい甘さに、やはりまみれている。最後の一行がやや面白い。

次は佐藤惣之助の『季節の馬車』(大正十一年)から、「女の幼き息子に」を採った。

 

★ 幼き息子よ

その清らかな眼つきの水平線に

私はいつも真白な帆のやうに現はれよう

おまへのための南風のやうな若い母を

どんなに私が愛すればとて

その小さい視神経を明るくして

六月の山脈を見るやうに

はればれとこの私を感じておくれ

私はおまへの生の燈台である母とならんで

おまへのまつ毛にもつとも楽しい灯をつけてあげられるやうに

私の心霊を海へ放つて清めて来ようから。          佐藤 惣之助

 

☆ すぐれた詩人だった。ことにこの『季節の馬車』は佳い詩集であり、もっと広く愛されていい。

この詩には、死の後にさえも久しく愛児を見守ろうという親の愛と覚悟とともに、子の母への純潔な愛も籠められている。

言葉の選択や響きも美しく、愛誦に堪える。

2020 10/18 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

このあたりで、娘と息子とを歌った詩二篇を挙げよう。

 

★ 神は自分に一人の女を与へた。

女は娘といふ形で

おれとともに生活をし出した。

おれは剣をさげ

この城の番人になり

神をもまだ軽蔑しないでゐる。     室生 犀星

 

☆ 昭和三年の詩集『鶴』から「愚者の剣」を採った。

この作家の詩として 特に優れたものとは言えまい。「子」を歌って陥りやすい甘さに、やはりまみれている。最後の一行がやや面白い。

次は佐藤惣之助の『季節の馬車』(大正十一年)から、「女の幼き息子に」を採った。

 

★ 幼き息子よ

その清らかな眼つきの水平線に

私はいつも真白な帆のやうに現はれよう

おまへのための南風のやうな若い母を

どんなに私が愛すればとて

その小さい視神経を明るくして

六月の山脈を見るやうに

はればれとこの私を感じておくれ

私はおまへの生の燈台である母とならんで

おまへのまつ毛にもつとも楽しい灯をつけてあげられるやうに

私の心霊を海へ放つて清めて来ようから。          佐藤 惣之助

 

☆ すぐれた詩人だった。ことにこの『季節の馬車』は佳い詩集であり、もっと広く愛されていい。

この詩には、死の後にさえも久しく愛児を見守ろうという親の愛と覚悟とともに、子の母への純潔な愛も籠められている。

言葉の選択や響きも美しく、愛誦に堪える。

2020 10/19 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 送り火や音なくそよぎゐる草木   上村 占魚

 

☆ 昭和四〇年に作の、『萩山』所収句。 作者の実情をはなれても、悲しみにたえた挽歌として、如何ようにも深く読めよう。「送り火」をちいさな門火とみてよく、京の山焼き大文字かのようにみてもいい。

死なれた悲しみに 草木の「そよぎ」が無量の言葉で語りかけるのだ。まして先立ったのが、我が子ならば。

 

★ 此秋は膝に子のない月見かな    上島 鬼貫

 

☆ 「ことし正月のけふ子にをくれて」とある。

膝のうつろに籠もるように月明りが皓い。「月」世界に去った子と詠嘆しているのである、かぐや姫のように可愛い女の子であったか。

「月見かな」にのせられ、ただ風流にこの「月」を見てはならぬ。作者は江戸時代前期の人。

 

★ 色紙にカアサマとある小(ち)さい竹    真苦呂

 

☆ むろん七夕、星祭り。笹の葉さらさら揺れる軒端の色紙や短冊に見つけた悲しい、カタカナ。

「いろがみ」と読みたい。「カアサマ」に似合う。「小さい竹」なのが哀れ深く、いまも貰い泣きをしながら書いている。

母への愛だが、幼な子の悲しみに優しく目をそそぐ大人の愛をよしと見て、ここへ採った。 昭和五八年刊の林富士馬著『川柳のたのしみ』から採った。

2020 10/20 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 養家にも吾家にも容れられがたき子よ

家庭裁判所の廊下を駈け来る     古谷 浩章

 

☆ 判事か調停委員か。行き悩んだややこしい事情の事件を手がけているのだろうか。その焦点にある当の少年が、屈託があってか無くてか廊下をむやみに駈けて来る。

可哀そうにというよりも、一首の口調に、幸せになれよというほどの愛と励ましが感じられる。 昭和五二年『実存』所収。

 

★ 病める子よきみが名附くるごろさんの

しきり啼く夜ぞゴロスケホウッホウ

梟(ふくろう)は梅雨竹群(たかむら)に啼きてをり

病む子の寝汗拭きてやるとき     宮 柊二

 

☆ 昭和二八年『日本挽歌』所収の好もしい歌として記憶して 来た。「ごろさん」は「梟」の、地方によって通称である筈。啼き声からきた愛称なのだろう、それがこの歌では実に心暖かに利いている。「梅雨竹群」が「つ ゆたかむら」なのか「つゆたけむら」なのかルビはないが私は「たかむら」と読んだ。この四字に季節と夜との空気が濃縮している。

ここは「梟」でなくては絶対いけないなどと余計な事まで思う。父と「梟」とで「病む子」を祈り励ましているのだ、少なくも父親はそう願い「梟」に援軍を 依頼してさえいるのだろう。この二首には「世界」があり、深い「交感」が生きている。「きみが」といった呼びかけが甘くなく、またそこに父親の励ましも、 祈願もが表現し尽されている。

2020 10/21 227

 

 

 

* 今日も辛抱の力仕事が続く、続く。慌てまいと自身を宥めなだめつつ。

丹波へ戦時疎開していた昔、京二条駅と亀岡駅を汽車で往復することが何度もあり、嵯峨から保津峡駅までに、七、八つもの長短のチンネルがあった。満員の中で車窓からの黒煙に巻かれるのが常だった。しかし、それも走り抜けた。

走り抜けたい、走り抜けたいと願っている、何ごとも何ごとも。もう「着駅」は遠くない。

2020 10/21 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 子を打てばあまりに淡く細きゆゑ

花打つごときかなしみ走る     新井 貞子

 

☆ 気持ちはたいそうよく分かる。歌一首に代弁された思いの、殊に母親は多かろう。言うまでもない走る「かなしみ」には「愛」と「哀」とが入り混じる。

歌に即していえばいくらか気になる点もある。キイの一つは「子を打てば」「花打つ」だろう。照応して妙か「打」ち重なりか。また、「あまりに」「細く」 そして「かなしみ」と、みな直に過ぎた感じ。ひとかどの歌人と思うだけに表現への根気が望まれる。 昭和五五年『霊歌祭』所収。

 

★ かなしきは、

(われもしかりき)

叱れども、打てども泣かぬ児の心なる。

児を叱れば、

泣いて、寝入りぬ。

口すこしあけし寐顔にさはりてみるかな。   石川 啄木

 

☆ 子を叱る歌のオリジナルであろうか。「叱れども、打てども」泣くに泣けぬ心で親は叱り打っている。暮しの不如意が親を叱らせ子を泣かせない。せめてひとなみに泣いて欲しい、自分の代りに泣いて欲しいと、親は空しく悲しい。

(われも然りき)は、単純に性質の事だけが言われていない。交替という事のない貧しさへの憤りもある。結局泣かせて寝入らせて、親はますますやり切れない。

「死児のひたひにまたも」置いたと変わりない祈願の「手」が、ここでも愛児の頬へ動いている。 明治四五年没後の第二歌集『悲しき玩具』所収。

2020 10/22 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ おとうさまと書き添へて肖像画貼られあり

何といふ吾が鼻のひらたさ     宮 柊二

 

☆ この手の歌はいくらもいくらもある。一度は親はこういう 嬉しい苦笑いで、幸福を味わう。さすがに作者は尋常な歌材をそつなく纏め切っている。初句の一字字余りがかえって一首の息を整えているのに気づいて欲し い。こうでないと二句の十音は保てない上に「貼られあり」が軽い技だ。ここの句切りが「何といふ」という弾んだ物言いを「うた」にしている。おかしい。く すんと笑ってしまう。

作者の鼻は事実平たいのかしらん、それとも平たくなんぞないのかしらんと想像し、そのどっちでももう一度くすんと来るに違いないところが楽しい。  『日本挽歌』所収。

 

★ ビイ玉を透かし見る子へ夕焼ける     奥田 杏牛

 

☆ 佳いところを見るものだ。

むろん子は夕焼けの方へ敢えてビイ王を挙げて「透かし見」ている。その子にもビイ玉にも、もろともに惜しみなく夕焼けている大自然の恵み、私にも覚えがある。

が、そんなふうにあたかも自分の心を1覗き見」ていた少年の寂しみに、こう的確に目をとめていてくれた大人が、あの時にもいたのだろうかと懐かしい。

都会でよし、田舎でもいい佳い句だ。  昭和五二年『初心』所収。

2020 10/23 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 下校せし児らそれぞれの性(さが)見せて

少しづつ向きの異なれる椅子    白土 のぶ

 

☆ 極めて具体的のようで、かなり観念的な処理の利いた歌か、とも私は思う。1それぞれの性」は「少しづつ向きの異なれ椅子」で、「見」えるとも、そうは行くまいとも言えるから。

だが発見に富んだ教師ならではの生活短歌なのかも知れぬ。前出の、「乳房吸ふにそれぞれの持つ癖のあり」という「母のみが知る」歌と、同巧異類か。 昭和五九年『川傍の町』所収。

同じ作者の 「古今」昭和五九年九月号 「わが痛む手を気づかひて跳びあがり跳び上がり板書(ばんしょ)消してくれし児」は、惜しいことに初二句が作者のことか生徒のことかどっちにも取れる難がある。なにより、発表前に自身の作をまず批評できることが大切。

2020 10/24 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 竹馬の伏目のまヽに通り過ぐ    福永 耕二

 

☆ むろん「伏目」が眼目だろう。緊張して足もとをしっかり見て見て通り過ぎて行く、それもあろう。

が、それだけでは「伏」せた「目」という効果が取りにくい。どうだい竹馬だぜ、見てよ、乗れるんだよという意気ごみと、微妙な照れと。そこに少年の心をすかさず見抜いた作者の、大人心。

きっと作者にも覚えが、あるのだ。気になる女の子の家の前かも。  『鳥語』所収。

 

★ こんにちわさよならを美しくいう少女    岸本 吟一

 

☆ 虚をつかれたような所がある。川柳の武器だ。こういう少女にこそいつも逢いたい。

それ以上はいっそ付け加えまい。 昭和五八年の林富士馬著『川柳のたのしみ』から採った。

 

★ うさぎ当番に行きていつまで帰り来ぬ

子は遊べるか兎とともに    篠塚 純子

 

☆ 「うさぎ当番」は分かる。これは一見、只事歌の見本のように読める。が、「子は遊べるか兎とともに」は考えさせる。「当番」の義務にかかずらわっているという風には見ない。「子」は「兎とともに」に没頭して別世界を築き、母との世界を忘れているのである。

「子」とは、そういうものと認識しつつ母の空虚は大きい。「子」は男の子と読める。そしてやがて「うさぎ当番」はひろい社会と取れて来る。「兎」は、学問とも仕事とも恋人とも取れて来る。

「子」は行ったら行った先に母の知らぬ「世界」をつくり「いつまで」も帰って来ない。そういう「子」を喜び励ましてもやらねばならぬ「母」かと、この作者は考えたかどうか。 深読みの利く歌になっている。 昭和五八年『線描の魚』所収。

 

★ 汗くさくおでこでクラス一番で    篠塚 しげる

 

☆ 俳誌「大桜」を指導している、虚子門の作者が、たぶん高 校はじめ位なわが娘を一筆でクロッキーした句か。「クラス一番」を学業成績と取るより、たとえば運動会の徒競走などと読む方が息づかいまで聞こえて、「お 父さん、やったでしょ」と観客席の父へ手を振るさままで目に見えて、面白いのだが。

だがその方が尋常過ぎて、やはり、日常なにげなく父と娘がパッと廊下ででも擦れ違う瞬間の「父」の自愛であっていい。 昭和三三年『曼陀羅』所収。

2020 10/25 227

 

 

* 九十五歳の色川大吉先生気概の新大作『不知火海民衆史』上(論説編)下巻(聞き書き編)を頂戴した。読むにしたがい進むにつれて、本の帯に謂う「畢生の大作」「渾身の大著」を裏切らない。畢生どころか、まだまだ井川先生、先があられる。私も一回り若く、気丈に別の道から、ついて行きたい。

私は、根が、山よりも海へ惹かれるタチ、それは「清経入水」「みごもりの湖」等から「四度の瀧」「花方」等へ眺めて歴然としている、が、まだ九州の海へは意識が遠かった。新しい世界が見えてくるかも。

2020 10/25 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 自閉症の子にやりたきをやらせをり

米をとぎ一粒の米も零(こぼ)さず    真行寺 四郎

 

☆ 愛と、憤りとが感じとれて胸に残る。作者の事情は知らないから、これをあるいは指導する教師の歌かとも読めるが、私は、親の歌と読んでいる。「親だなぁ」と思った。愛だけでない、せつないような憤りの口調にもそれを感じた。 昭和五一年『風葉』所収。

 

★ 強くなれ強くなれと子をわれは

右より大きく上手投げうつ    福田 栄一

 

☆ 「組みつきし子の手も足もあたたかしこの子の父かわれの貧しさ」とも、同じ作者にある。ともにやや感傷に流れていないでもないが、相撲の歌など、父親ならば、男の子をもてば(女の子でさえ)きっと同じ思いも同じふるまいもして来たはず。

一つの型が出来ているようで、しかも「右より大きく」には具体的の面白さが躍如としている。 昭和十八年『時間』所収。

2020 10/26 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 光の中を駈けぬけて吾子母の日に

花弁のごとき生理もちくる     嵯峨 美津江

 

☆ 初句にひと工夫欲しいが、歌はおそらく事実以以上に創作 された顔もしていて、それなりに新鮮に読めるし、微笑もさせる。「吾子」の置きかたはむりで、むしろ「吾子(あこ)は」とか、率直に「洋子は」とか「みど りは」とか実名で一字字余りくらいに訴えてみるのも手だったろう。

「花弁のごとき生理もちくる」は、母の心象と読みたい。「母の日」に当てて事実どおりでは、妙に作為じみ、ナマナマしくもある、か。 昭和四九年『鶴の序章』所収。

 

★ 生々(いきいき)となりしわが声か将棋さして

少年のお前に追ひつめられながら    森岡 貞香

 

☆ 間のびはいなめない末句だが、それを敢えてして何とか勝負に遁げあしの長きを計っている感じが面白い。

「少年のお前に追ひつめられ」ると自分の声が思わず「生々と」してくる、この発見に「母」の凄みがある。いっそ神の造化の不思議のようなものを想像させるほど、力がある。「少年」に、絶対の表現がある。さながらのキュピッドである。 昭和三一年『未知』所収。

 

★ 人間は死ぬべきものと知りし子の

「わざと死ぬな」とこのごろ言へる     篠塚 純子

 

☆ 「口の辺に髭ほのかなる子がわれに保護者のやうなものいひなせる」と同じ作者がうたった時には、もう「子」は大人に近づいていた。ここに出した歌では「子」はまだ、あどけない顔ともの言いをしていたかと想像される。

これは「子」から「母」への愛の歌といった方がいいのかも知れぬ。が、さらに言うなら、愛以上の本能的な予感が「子」を催している。作者は予感を肯定も否定もせぬことで、むしろ「子」の愛からかすかに身を守っている。

癒着型の「子」への愛の歌が多くなりやすいなかで、沈着に自立した「母」の「このごろ」が浮かび出る。「子」も懸命になにかを見つめている。「父」ない し「夫」の姿が欠け落ちているのが歌の「含み」になっている。巧者な詠み口ではまるでないが、きれいに乾燥した知性を感じさせる。 昭和五八年『線描の 魚』所収。

 

* 朝の、いの一に佳い詩句にふれる宜しさをわたくしは日々満喫している。

2020 10/27 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 海に向き思ひ切り叫ぶ少年の

総身直なる筒となりゆく     青井 史

 

★ くれなゐの椿の花を掃きてをる

少年のうなじ鞘なきかなしみ     前 登志夫

 

☆ 前者は昭和五八年『花の未来説』から、後者は『前登志夫歌集』から採った。ともに佳い歌だと思う。ともに、読者から歌の表現へ身を寄せ踏み込んで読む必要があると思う。

例えば「筒」に、例えば「鞘」に。

思い切り声あげて叫ぶ時、全身にみなぎる力と意気とが一瞬みごとな芯になって「少年」の姿態をかがやかせる。説明的な凹凸の一切を燃焼させて存在そのものになる。声という名の「命」をふき上げる一管の笛になる。それが母には「男」ともまた見えたに相違ない。

青井の母の歌に対し、前の歌では、成熟した男が少年を見ている。清潔そのものの「うなじ」を持った少年に目をとめ、そのような少年では早やない作者の 「かなしみ」が移入される。上三句の美しさに、青春の残酷を意識もしていない「少年」の無心が描かれ、それを知るゆえに作者の目には、ひとしお「うなじ」 の伸びの露出された清さがあやういとまで映る。

その剣のように清くて危険な美しいものを収めとれる、鞘。優しい鞘。豊かな鞘。そんな鞘があるとも無いとも気づかぬらしい「少年」を愛し、しかも自身 「うなじ」の清さも失い、佳い「鞘」ともなりようがない男性作者は、いわば少年のやがて鞘を望んで容易には出会えまい「かなしみ」を先取りしてやってい る。

2020 10/28 227

 

 

* ちかごろの若い人らの口にしている「ほっこり」とはちがっていそうな気がするが、さすがに大きなコトを終えた実感に京ことばふうに「ほっこり」している。もう一両日できちっと卒業したい。

 

* けじめに、最終巻に副えた「あとがき」を記録しておく。

 

* 『秦恒平選集』 全三十三巻の完結に添えて

 

完結最終巻の口繪に菱田春草の名品『歸樵』の左半を心して拝借した。一日の山仕事を終え、夕焼けに染まって今しも山を下り帰路にある「樵夫婦」の二人連れに生涯の感懐を托した。

筆名菅原万佐で私が「私家版本」最初の一冊に「まえがき」を書いたのはのは「昭和三十九年(一九六四)八月二十日」だった。日々、葱は一筋買い大根は半 分に切ってもらって買う暮らしだったが、妻は一言の否やもなく、繪を描いて、四度に及んだ私の私家本を飾ってくれた。ただ一人の最初の読者であった。作家 になった「秦恒平」の単行著作は、以来百冊を越えている。

フリーランスの思いで『秦恒平・湖(うみ)の本』を「創刊」したのが、「昭和六十一年(一九八六)六月十九日」だった。今年令和二年(二〇二〇)六月、 同じ記念の桜桃忌には、通算して「百五十巻」を出し終えた。毎度毎度の読者や謹呈先へ、妻は、一度も欠かさず荷造りと発送に励んでくれた。

そして今しも予定通りに「完結」する『秦恒平選集』の「創刊」第一巻に「あとがき」を書いたのが平成二十六年(二〇一四)三月十四日、妻と結婚届をして満五十五年目だった。

『選集』の制作を提案し希望したのも妻であった。「湖の本」だけでは作品が惜しいと云ってくれた。久しい知己の井口哲郎さんに立派な題字も戴き、『全三十 三巻』を以て、思いがけないコロナ禍の最中ながら刊行を了える日が近づいた。思い新たに妻・迪子に「ありがとう」と言う。私は「作品」を創り、妻は「作 家・秦恒平」を創った。われらが「歸樵」の降り路は、いま幸い穏和に夕焼けている。つつがなく家に帰れば、また新たな励みの「明日の朝」があるだろう。背 に負うだけの樵荷ではあれ、それはそれ、と口癖のまま二人して老いの坂を往き来の日々を、また、感謝して受け容れようと思う。

 

さて、先立っての三十二巻分には、殆どを創作や、論攷・批評、随筆、講演・対談等々で満たした。此の最終巻では、取り分けて秦恒平の「私」自身にいろいろに語らせている。

和尚と呼ばれた『バグワン・シュリ・ラジニーシ』との出逢いは、ソクラテスや仏陀や老子やイエスとのそれに同じい、言う言葉もないほどの「運命」であっ た。「死の間近で」ごく素直に述懐すべきを私も述懐している、どう是非されても仕方ない、この出逢いを心より徳として老境の坂道を私は歩んできた。歩んで これた。有難かった。

よほど片寄ってはいるが、少年来、「読み・書き・読書」を私は何より好んで、好みを慈しむほど身に負うたまま八十五年を生きてこれた。「濯鱗清流」の気持ちで、文藝に勤しむ日々を、好むままに満喫してきた。その片端を書き留めておいた。

同じ好みはいわゆる「歴史」へも向き、それは「今日只今」へ.なおざりに出来ない批評や感傷と表裏していた。流雲の月を吐くように自身を問い世間へも問 うてきた、いろんな言葉、かずかずの言葉で。パソコンのホームページの一部に「闇に言い置く 私語の刻」と呼んで日々欠かさない日録を根拠に、もう二十余 年「自と他」の視野・視界を私は「批評」し続けてきた。彪大な書き置きからのそんな一部を抽き出してみた。

生きるとは、日々に暮らすとは、つまりは「批評」し「選別」しているのではと想っていた時期があり、無私無心のバグワンふう禅寂には程遠いと恥じもしな がら、「東京新聞夕刊」で人気の『大波小波』欄に、文字どおり書きに書いていた時期がずいぶん長かった。優れた寄稿者にも富んだろう歴史のあるこの欄に、 私ほど回数多く方面も博く『一筆啓上』し続けた書き手は他に一人もなかったのではと、一気に公開しずいぶん知友からも驚かれた。新刊本をただ生ぬるく評判 して済む『大波小波』じゃあるまいしと、視野を、日々日本や世界の現実に拡げて書いた。便利が売り物の「機械」や「ネット世間」が、幼少年から成人もの精 神環境をあまりにやすやすと汚濁に沈めて行くのを、早くから、むろん今も、私は案じ続けている。

「秦数授(はたサン)の自問自答」はまさしく「自白」であり由来は瞭然、まことに書き難い答え難いサマザマを東工大の学生諸君に強い続けてた昔を、「秦教授(はたサン)」 なりの償いでケリを付けておかねばと。それにしても学部の、院の、千人もの学生諸君、三万枚、なんと気を入れて書いてくれたことか。一人として巫山戯な かった。わたしもよほど真正直に書きました。あえて一間付け加えようか、「文学の秘鍵は?」即答「女」。ご機嫌を損ぜず、嗤ってやって下さい。

締め括りはこれも「問われて」顧みた「平成の三十年」。間違いなく「不安の温存」の三十年だった。いまなお汚泥に似て機能しない政治の「アべノリスク」や「コロナ禍」に明け暮れての「令和」の開幕。夏目漱石が健在なら「アブナイ、アブナイ」と、また叱るだろう。

「作家」としての活動にほぼ限った『自筆年譜』の続きも単行著書の『全書誌』も、五十余年になる「作家生活」の「前三分の一」ほどを、ともあれ心覚えに具体的に証したまで。

 

* 以上

2020 10/28 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 子の未来語りあふ夜を風立ちて

父わが胸に鳴る虎落笛        来嶋 靖生

 

☆ 「父わが」の読みに、我なる父の意味とすでに亡いわが父 とを重ねたい。それでこそ「子」を思いつつ、そのように自分を思ってくれたわが父と生死の「境」を異にしつつ呼び交わすことが出来る。「虎落笛(もがりぶ え)」とは荒い垣根を鳴らして吹く風の音。そこまで「父」が来て、ともに思い悩み考えてくれているのだ。人生の風あらきさまをも想わせて、粛とする。 昭 和五九年『笛』所収。

 

★ もの言はず抗ふさまに居りし子が

部屋に竹刀を振り始めたり     大島 静子

 

☆ 「部屋」は、「子」の自室なのか現に母らのいる部屋なのかで、歌の表現は変わってくる。自室へ黙ってついと帰って行った子が、やがて素振りをはじめたらしいと母は察している歌だろう。親を威嚇しているのではない、子は子なりに堪えている。それを母は知っている。

親にも子にも覚えのある場面だ。 「アララギ」昭和四九年八月号から採った。

2020 10/29 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 安んじて父われを責める子を見詰む

何故に生みしとやはり言ふのか     前田 芳彦

 

☆ 「安んじて」にやや問題を感じないでもない。1安んじ て……責める」のか「見詰」めるのか。いっそ両方にかけて対抗的に読むのが面白いかと私はみた。それにしてもこの表現は適切なのか甘いのか疑問が残る。自 信をもっての意味が本来なのに、ふと、安易に軽んじての意味を読みたくなる。

一首の魅力を私は「やはり言うのか」の結びから受けた。この父子の背後に、読者のあずかり知りようのない複雑な家の歴史を勘ぐり読む必要はない。「子」 が「親」に一度は言う台詞、この父もかつては自分の父や母に言ったに相違ない台詞。その台詞が今とび出したのだ。いわば文脈として「やはり」「安んじて」 を受けているのだ。こんな決り文句を「安んじて」出してくる子を、父は「安んじて」「見詰」めているのだ。

愛がなければ「見詰」めもすまい。 昭和五〇年『像たち』所収。

2020 10/30 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 花菜漬しくしくと娘(こ)に泣かれたる     清水 素人

 

☆ 軽い句だが、こういう場面にも「父」に独特の表情は見えてくる。ま、たいした事件ではあるまいが、それならそれで娘の「しくしく」は父親には苦手だ。母がいないのか。娘が用意してくれたせっかく「花菜漬」での晩酌が冷めてくる。

「泣かれ」と、受身なのがタジタジとよく利いている。 昭和五五年の合同句集『大綿』から採った。

 

★ 親の闇只友達が友達が     『武玉川』

 

☆ のらものを子にもった親の、口癖。だが、大概は本気でこう言いたがる。

それにしても日本の「友達」は値が安い。西洋のフレンドシップはついに日本では育たないのか。「親の闇」ゆえ「友達」は軽くされたと思える。

この愛、愛に相違なくとも癒着が過ぎる。

2020 10/31 227

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ さからはず家業の大工となりし子に

行儀作法を強ひるな妻よ      前田 米造

 

☆ どういう作者か、出典すら知れない。私は『昭和萬葉集』 巻十六から採っている。大方の短歌作者や批評家は、私がこういう作まで採るのを顔をしかめて見るやも知れぬ。「火の用心お千泣かかすな馬肥やせ」ほどの表 現もなく一種合い口の域をこえていない。短歌藝術にほど遠い、と。

だが和歌や短歌がこの国で、すくなくも表面すたれずに繁盛しえている根のところには、こういう述懐の風流が生きつづけてきたのも忘れてはなるまい。私の 九十ちかい父は文藝と無縁な職人あがりのラジオ屋だったが、それでも元日の祝い雑煮のあとなどに、きまって妙な歌や句らしきものを箸紙に書きつけ家族に披 露したりする。型としての風流心。

口にして喋ればこの大工さんの物言いも、夫婦喧嘩の一幕でおわる難儀かつ日常的な応酬で済んだろう。そこをこう短歌の形に「する」「してみる」と、まるで動作が所作に転じたような余裕と感慨に彩られる。口やかましい「妻」も聞く耳をもつだろう。

これも日本の「うた」だ。なまじな「藝術」の独善に勝るユーモアとも読める。

2020 11/1 228

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ わりきりて父を批判す子の手紙

破りすつるにしかじ暑き日     高田 浪吉

 

☆ 「父を批判す」と五七調に句切れる寸づまりは気になるが、だから出来れば、「子の手紙は」とでも息を伸ばして欲しかったが、そしてそうなれば末句「暑き日」の体言どめに効果が更に加わったろうが、それでもなおサッパリと胸のつかえのおりる歌だ。

さよう「破りすつるに」しくはない程度の「批判」で、イキがるんじゃないよ「子」よ。

これも風流、父は、上手に心に立つ波を和らげた。  「アララギ」昭和三一年十月号から採った。

2020 11/2 228

 

 

*  秦恒平選集 全三十三巻の完結に添えて (あとがき)

 

完結最終巻の口繪に菱田春草の名品『歸樵』の左半を心して拝借した。一日の山仕事を終え、夕焼けに染まって今しも山を下り帰路にある「樵夫婦」の二人連れに生涯の感懐を托した。

筆名菅原万佐で私が「私家版本」最初の一冊を創ったのは「昭和三十九年(一九六四)八月二十日」だった。日々、葱は一筋買い大根は半分に切ってもらって 買う暮らしだったが、妻は一言の否やもなく、繪を描いて、四度に及んだ私の私家本を飾ってくれた。ただ一人の最初の読者であった。作家になった「秦恒平」 の単行著作は、以来百冊を越えている。

フリーランスの思いで『秦恒平・湖(うみ)の本』を「創刊」したのが、「昭和六十一年(一九八六)六月十九日」だった。今年令和二年(二〇二〇)六月、 同じ記念の桜桃忌には、通算して「百五十巻」を出し終えた。毎度毎度の読者や謹呈先へ、妻は、一度も欠かさず荷造りと発送に励んでくれた。

そして今しも予定通りに「完結」する『秦恒平選集』の「創刊」第一巻に「あとがき」を書いたのが平成二十六年(二〇一四)三月十四日、妻と結婚届をして満五十五年目だった。

『選集』の制作を提案し希望したのも妻であった。「湖の本」だけでは作品が惜しいと云ってくれた。久しい知己の井口哲郎さんに立派な題字も戴き、『全三十 三巻』を以て、思いがけないコロナ禍の最中ながら刊行を了える日が近づいた。思い新たに妻・迪子に「ありがとう」と言う。私は「作品」を創り、妻は「作 家・秦恒平」を創った。われらが「歸樵」の降り路は、いま幸い穏和に夕焼けている。つつがなく家に帰れば、また新たな励みの「明日の朝」があるだろう。背 に負うだけの樵荷ではあれ、それはそれ、と口癖のまま二人して老いの坂を往き来の日々を、また、感謝して受け容れようと思う。

 

さて、先立っての三十二巻分には、殆どを創作や、論攷・批評、随筆、講演・対談等々で満たした。此の最終巻では、取り分けて秦恒平の「私」自身にいろいろに語らせている。

和尚と呼ばれた『バグワン・シュリ・ラジニーシ』との出逢いは、ソクラテスや仏陀や老子やイエスとのそれに同じい、言う言葉もないほどの「運命」であっ た。「死の間近で」ごく素直に述懐すべきを私も述懐している、どう是非されても仕方ない、この出逢いを心より徳として老境の坂道を私は歩んできた。歩んで これた。有難かった。

よほど片寄ってはいるが、少年来、「読み・書き・読書」を私は何より好んで、好みを慈しむほど身に負うたまま八十五年を生きてこれた。「濯鱗清流」の気持ちで、文藝に勤しむ日々を、好むままに満喫してきた。その片端を書き留めておいた。

同じ好みはいわゆる「歴史」へも向き、それは「今日只今」へ.なおざりに出来ない批評や感傷と表裏していた。流雲の月を吐くように自身を問い世間へも問 うてきた、いろんな言葉、かずかずの言葉で。パソコンのホームページの一部に「闇に言い置く 私語の刻」と呼んで日々欠かさない日録を根拠に、もう二十余 年「自と他」の視野・視界を私は「批評」し続けてきた。彪大な書き置きからのそんな一部を抽き出してみた。

生きるとは、日々に暮らすとは、つまりは「批評」し「選別」しているのではと想っていた時期があり、無私無心のバグワンふう禅寂には程遠いと恥じもしな がら、「東京新聞夕刊」で人気の『大波小波』欄に、文字どおり書きに書いていた時期がずいぶん長かった。優れた寄稿者にも富んだろう歴史のあるこの欄に、 私ほど回数多く方面も博く『一筆啓上』し続けた書き手は他に一人もなかったのではと、一気に公開しずいぶん知友からも驚かれた。新刊本をただ生ぬるく評判 して済む『大波小波』じゃあるまいしと、視野を、日々日本や世界の現実に拡げて書いた。便利が売り物の「機械」や「ネット世間」が、幼少年から成人もの精 神環境をあまりにやすやすと汚濁に沈めて行くのを、早くから、むろん今も、私は案じ続けている。

「秦数授の自問自答」はまさしく「自白」であり由来は瞭然、まことに書き難い答え難いサマザマを東工大の学生諸君に強い続けてた昔を、「秦教授」なりの償 いでケリを付けておかねばと。それにしても学部の、院の、千人もの学生諸君、三万枚、なんと気を入れて書いてくれたことか。一人として巫山戯なかった。わ たしもよほど真正直に書きました。あえて一間付け加えようか、「文学の秘鍵は?」即答「女」。ご機嫌を損ぜず、嗤ってやって下さい。

締め括りはこれも「問われて」顧みた「平成の三十年」。間違いなく「不安の温存」の三十年だった。いまなお汚泥に似て機能しない政治の「アべノリスク」や「コロナ禍」に明け暮れての「令和」の開幕。夏目漱石が健在なら「アブナイ、アブナイ」と、また叱るだろう。

「作家」としての活動にほぼ限った『自筆年譜』の続きも単行著書の『全書誌』も、五十余年になる「作家生活」の「前三分の一」ほどを、ともあれ心覚えに具体的に証したまで。

 

* e-OLD勝田貞夫さんが「帰る樵夫婦」を拡大の絵葉書で送って下さった。若々しく仲よくみえて微笑む。勝田さん  感謝。

かくて ほんとうに老境に「帰って」ゆける。証拠かのように機械の扱いなどいろいろ、日々に忘れて行く。戸惑い戸惑い「何方様で」と伺いながら機械君と付き合っている。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 難波江にあしからんとは思へども

いづこの浦もかりぞつくせる     谷崎 潤一郎

 

☆ 歌という伝統によせた風流心が、たとえばこういう大作家を刺激すると、遊びの彩りがひとしお添うて来る。

「娘より送金の催促ありければよみて遣しける」と 『谷崎潤一郎家集』(昭和五二年刊 松子夫人のお許しを得て、私が編纂した。)には詞書がある。無くても察しはつく。

「あしからん」は、他人に「銭(あし)借らん」の意味と 娘にさぞ都合が「悪しからん」と察する意味とを兼ねている。「あし」「かり」には「借金」にかけて、難波を舞台の名曲『蘆刈』の趣も作者その人の同じ題の小説も思い出させる。

あちこち借金しつくしてこれ以上借りてやれる所がない。言いわけにしては余裕のある歌、だが、事実この昭和七、八年頃の谷崎先生は金策に困ってられた。

「近代短歌」の代表作をえらぶのなら、私はこれを採らない。が、『日本の抒情』となれば、こういう表白和歌の伝統の内懐、裾野の探さ広さは嘆賞の思いと共に無視できない。「現代短歌」が不勉強に喪失し尽くしていい伝統とも思わない。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 我が子は二十に成りぬらん

博打してこそ歩くなれ 国々の博党に さすがに子なれば憎か無し

負かいたまふな 王子の住吉西の宮             『梁塵秘抄』

 

☆ 「さすがに子なれば憎か無し」という ほとほと本音が、「国々の博党に」と「負かいたまふな」の間にひょこんとはさまっている。日常の話し言葉そのままで、その辺りの息づかいが この歌謡の妙味になっている。

境内か河原か、信仰と愛欲とを担った漂泊の藝能者たちが、たまたま寄り合うた場所で乏しい火を囲みながら、銘々と子の噂をし合う。

そして明日にもまた別れ別れに散って行く。 古代末最下層庶民の哀調豊かな歌声が聞こえる。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 藪入の吾がなさぬ子をいたはりぬ   会津 八一

 

☆ 歌人八一の句と思うと、愛づらかな気がする。

実は生涯に相当な句作があり、上村占魚に、『会津八一俳句私解』という親切な本も出来ている。

年に一度か二度、わずかな休みを得て親の家に帰るいとけない労働者たち。「薮入」だ。

「俳句」などと思わせもしない、作者の真実が 即座に「うた」と化している。有難いと思う。 「北人」明治三七年二月号から採った。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ ながながと毛臑(けずね)あらはに昼寝する

吾の生みたる眩しきものよ     水谷 三枝

 

☆ 思わず苦笑させる表現になった。「子」とは、かく野放図な存在でもあることを教えてくれる。「母」はそれすら呆れつつも愛してしまう。ほかの誰一人とて、そんなむさくるしい「毛臑」など「眩し」いとは眺めない。

下句での勝負に、佳い勝ちをおさめた一首。  「詩歌」昭和四八年八月号から採った。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 外国に留学したき娘(こ)の願ひ

抑へおさへてわがふがひなし    松坂 弘

 

☆ なぜ「ふがひな」いのか。経済的なことも有ろうが、むしろ「娘のねがひ」であることが父には先ず不安に耐えず、無性に反対してしまっているのではないか。

ふとそこへ気づいた意識の覚めに、日頃の言説や信念にもとるナニかが我ながらほの見えて、しかもなお到底賛成はしてやれそうにもなくて…、そのジレンマが「ふがひな」いのであろう。

こう読んで、結句から一首へと溢れ行く味わいが頷ける。 昭和五七年『春の雷鳴』所収。

 

★ 人の世のこちたきことら娘(こ)にいひて

娘(こ)が去りゆけばひとり涙す    村上 一郎

 

☆ 人の世の生きがたいことを一般論として娘に父が諭した…という歌ではあるまい。

「人の世」には、たぶん男女のこと、たぶん娘の恋愛のことが意味されていよう。娘には耳に入りにくい「言痛(こちた)き言」葉を父は言い募っていたのであろう。父とは、ことに 「娘」の父とはそういう生きものである。

言うて詮ないと承知で言わずにおれぬ。下句の直情に泣かされる。「娘が去りゆけば」は、私にも実感である、それがどんなに良縁であろうと。 昭和四六年『撃攘』所収。 2020 11/7 228

 

 

* 『秦 恒平選集 全三十三巻」 ま、体力を思えば、加えて、豪奢といえる「非売品」をここまで続けた何より資力を思えば、すくなくも一つの「上がり」時機であった。よく続きますねえ、どう算用が成ってるのですかと、不思議そうに、心配して下さる方も何人もあった。

「完」という時機がきたので、つまらぬ憶測で混乱させてはいけないので、ハッキリ記録しておく。

私が、降って湧いたように、今は亡い川島至教授から、慶應へ移られる江藤淳教授の後任として東京工業大学教授として就任してくれないかと一本の電話を受けたのは平成三年であっ た、受けた電話のそばに丁度建日子もいて、私が「そんな、工業なんて大学が あるのかね」と不審顔に応答しているのへ「名門だよ、父さん」と声をあげたの をよく覚えている、それほど意外な申し出でであり、結果的に平成三年十月一日付の「辞令」を受けたのだった。私はこれで、「太宰治賞」を受けてくれるかと いう筑摩書房からの電話と言い、変なことを謂うが「天からふんどし」を大小長短何度か受けている。いま謂う二つは最たるものであった。

私は、江藤さんの推薦とのちに耳にした「東工大教授」としての一切の給与・歳費・賞与の類に一円たりと手を付けないまま定年退官した。その銀行通帳には いわゆる年金も振り込まれている。私は、いつか、この通帳の一切を惜しみなく私の文藝のために費おうと決意していた。考え方としては困窮ないし有用な社会 へ、世界へという考え方もあり得たろうが、私は、「もらひ子」このかた私自身の「生き」と「勉強」と「文藝」を深く愛おしみ大事に思ってきたので、『選 集』という発想と実現のためにあの「東工大」体験のぜんぶを費やそうと決心できたのは、まことに自然であった。そして、事実、それで事は成って完結した。 最期の、760頁にもなった「第三十三巻」の製作請求書が凸版印刷株式会社いからま私の手もとに届いていて、さ、通帳の残高で足るかどうか、「年金」も加 わっていたこと、最終の支払いに当惑することはまず無くて済む。建日子はかねがね母親に囁いて、トーサンの選集、「一億」はかかってるんじゃないかと案じ て呉れていたらしいが、ま、幸い、其処までは行きませんでした。しかしまあ、まことに程よい潮時で完結出来、満足している。「東工大教授」という「お蔭」 を、私は、私なりに、きちんと「頂戴」したのである。感謝。 御心配下さっていた方々にも、ご放念いただきたい。

何処かでは、きちっと打ち明ける気でいた。「尾張の鳶」さんに、代表でお答えし、「続ける」よりも「収める」選択だったとお応えしておく。

「湖の本」は、これはもう、赤字を積みに積んでいるけれど、幼少来 お金は遣えなかったし、結婚してからも、医学書院に在職の十五年半、いわゆるボーナス には一切手を付けない生活をしてきたように、車の、別荘の、海外旅行のといったことには二人とも気がなく、日々の暮らしにほぼ満足して「売れない作家業」 を平然と為しまた成してきた。そして、いましも夕焼けの山を、かすかな「樵」の荷を背に負うて「家」に帰ろうとしている。子供の頃に、ひそかに想い描き期 待していたとおりの人生であったなあと、ほのかに、満たされているのです。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 花嫁の初々しさを打ち見つつ

身近く吾娘(あこ)といふも今日のみ     山下 清

 

☆ この種の歌は他にもっと上出来の作が数あるはず、だ。ご縁があったという事にしておこう。

もっとも、目をとめ書きとめたのに理由はある。我が家に適齢期の娘がいた。「朝日子」と名付けたその娘を、親はちいさくから「あ子」と呼んできた。佳い 縁が欲しいと心から願っていたら恵まれた。その嬉しい思いが、この歌の「吾娘」とあるルビに結ばれた。半ば同情し半ばよろこばしく、この歌を採った。聴 (ゆる)されよ。 昭和二八年『水ゑくぼ』所収。

 

* じつに辛い哀しい後日談ができてしまい、もう年久しく 私達両親は 嫁いだ娘・朝日子とも 孫娘のみゆ希とも、逢うはおろか、話すこともならない。上 に毎日掲載している詩歌の「原著」は、実に娘朝日子と押村高氏との「結婚披露」の日に、「あとがき」を書いて祝福したのだった、が。

娘は、嫁がせれば、もう「吾娘(あこ)」とは呼べないものなのか。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 娘よ、汝は五月に生れた。五月山の濃い憂悶の緑の中か

ら生れた。刺客が縦横に走っている五月闇の中から生れ

た。河童という河童が溺れ流れる五月雨の中から生れた。

ああ、娘よ、汝は無数の鯉が体を水平にして泳ぐ五月晴

の中から生れた。汝は汝の父と同じように五月に生れた。    井上 靖

 

☆ 『井上靖全詩集』(昭和五四年刊)から、 ―とつぐ娘に― と副題のある「五月」を採った。父と「とつぐ娘」との一体感を、幸せに高揚させた、こんなにみごとな歌声を私は知らない。緊迫した声調に、この機会ならではの愛が龍もる。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 旅人の宿りせむ野に霜降らば

我子羽含(はぐく)め天(あめ)の鶴群(たづむら)   遣唐使随員の母

 

☆ 『萬菓集』巻九から採った。この「はぐくむ」は暖かな羽に抱きとって寒さを防ぐ意味。天翔る鶴のむれは北をさしていたのだ。

「唐」がどんな国かさえ想いも及ばない母の、絶唱。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 子への愛

 

★ 生涯にたつた一つのよき事を

わがせしと思ふ子を生みしこと    沼波美代子

 

☆ 昭和二二年『山彦』所収。 よくもあしくも、「子」を歌 う「母」ないし「親」のスタイルを情緒的によく示している。「たつた一つのよき事」なのか…、真実。 人と生まれて生きて沢山の「よき事」はあったが、や はり「子」を生み育てたのは「最高」という位が、私など妥協できる限界だけれど、そこは「子を生みし」当の「母」の実感を尊重しておく。日本のことに「母 と子」とは、なかなか、まだ人間としてへその緒の切れた、いわば「他人」からの出発にはほど遠い。「我が子」と、いつも所有形で我が子を安易に言い過ぎて いる気がせぬではない。

 

結びに大正十四年『秋の瞳』から、「赤ん坊が わらふ」という詩をあげておこう。

 

★ 赤んぼが わらふ

あかんぼが わらふ

わたしだつて わらふ

あかんぼが わらふ      八木 重吉

2020 11/11 228

 

 

* 難漢字が拾い出せない。理解力だけでなく私のアタマに衰弱が起きているのでも有ろうが。

しかし漢字を拾えないなら余儀なく今日語に翻訳せざるを得ないが風味は格段に落ちてしまう。急がずに、なんとか待って備えてなんとかしよう。四苦八苦、それも有ること。

 

* 『秦 恒平選集』第三十三・結巻の、制作費支払いを完了してきた。これで、数年余に及んだ「選集」敢行作業は無事に完結。

また新しい目標へゆっくり歩を運んで行く。

そのためにも機械クンご機嫌を直してほしい。このご機嫌伺いにいまも四苦八苦。

くしゃみを連発。はて、いい手はないのかな。

2020 11/11 228

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 親への愛

 

★ 父母よこのうつし身をたまひたる

それのみにして死にたまひしか    岡本 かの子

 

☆ 残念きわまりないことだが、ほとほと「子を持って知る親の恩」であり、「孝行をしたい時には親はなし」と嘆くのが人の常であるらしい。

親への愛憎――と敢えていうが――の深まりこそ、その人その人の人生を浮き彫りする。

夫婦愛の表現では、どこか一途なところが魅力にも限界にもなる。子への愛にもそれがより感傷的に出てくる。

だが、みずからも親になり(また親になれずして)親を思った詩歌には、ともすれば人間としての悔いがからみ、愛が屈折して不思議な光を放つ。この歌など、すぐれた作家であったかの子の生涯を特に重ねて読む必要のない、それだけに普遍的な「子」の感動がうめき出ている。

「この」の特定、「のみ」の限定、「しか」の喪失感。いずれもふつう短歌的表現としてはナマになりがちなところへ深切な心を籠めている。だから「たま ひ」という優しい敬語の重ねが情をたたえて、深い「うた(うったえ)」の意味をもちえた。まさに大方の「父母」は子に「現し身」を与えただけかのように、 さしたる事も成し遂げず、地の塩となりこの世を去って行く。人の世はそれだけ険しい。はかない。だが「それのみ」という認識を、卑小と限っで読むばかりで は済まない。

それどころか「それ」以上のことは、人類の歴史始まって以来いかなる1父母」も成しえたわけではなかった──と、作者は感謝の愛を今捧げている。 「短歌研究」昭和十三年一月号所収。

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* 昨日、病院の行き帰りにロレンス「チャタレイ夫人の恋人」のハナシの乗って行くいいところを読みふけっていた。読みふけりながら、佳いね、悪くないね と惹き込まれながら、しかも、そうかなあ、これでいいのかなあ、なにか違ってやしないかなあとも感じていた。そのちがいを、わたしはわたしでもう書いたと 思っている。佳い性的昂揚と、日常的な時の流れとの間に、不思議な、違和ともいわないが裂け目、分け目といった問題が挟まっていないか。

読み終えてから、また考えてみよう。惑溺というものの性における貴重さと、日常の時間における惑溺なる魅力の弱さ脆さ。その辺に、ロレンスの「性」の思想へ襲うかすかにも険しい道が有りそうに思われる、のだが。

 

* 有り難いことに、これはと願っていたところを書き抜けた。ありがたい。この勢いで、なんとか書き下ろし書き上げたい。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 親への愛

 

★ 独楽は今軸かたむけてまはりをり

逆らひてこそ父であること     岡井 隆

 

☆ 現代の歌人を代表するすぐれた一人。時に含蓄に富んだ歌が、ずかりと出る。この歌も作歌の状況を越え幾重の読みにも耐えながら、父なるものと子なるものとの不易の相を想わせる。

「こま」遊びのさまをまず思い出す。こまとこまとを弾かせ合っても遊んだ。鞭打ち叩くように回したこともある。地面でも掌でも紐の上でも回したことがある。

父と子とでいま「こま」を闘わせているとも読める。父がなかなか子に負けてやらないでいるさまも見える。だが「独楽」の文字づかいから、子が独り遊びし、父は眺めながら、父としての現在と子としての過去を心中に想っているのかも知れぬ。

「軸かたむけて」は美しい表現だ。力づよくも力衰えても読める。どっちにせよ懸命に回っている。父は子とともに、子よりも切なく回っている。「逆らひてこそ父」と感じつつ心も身も子より早く萎えて行くさきざきのことも想っている。

「こま」はもはや心象であり、象徴として父の心に回るのみとも読める。だが、気楽にくるくる回る「独楽」同然の子の世代に対し、なお父として鞭もあてた い、弾き合いたい、それでこそ「父」だという思いの底に、過ぎし日のわが父の顔や声や落胆の吐息がよみがえっても来ていよう。

子への愛に父への愛が重なり、人生の重みに思わずよろけながら耐える。 昭和五七年『禁忌と好色』所収。

 

* 「逆らひてこそ、父」ち題した長編を私は書き下ろしている。

2020 11/13 228

 

 

* じりじりと書き下ろし、続けている。二十日過ぎの聖路加診察、以前の通り処方箋を近くの薬局へ送って頂きたいと速達で頼んだ。コロナ禍にはワルク馴れ てはいけないヶ。籠居を敢えてして、仕事を進めたい。すくなくも私個人には、成して良き仕事と納得している、読者のみなさんはどうか、今はそれを考えな い。「明治の政治小説」を話されていた中村光夫先生の言に、「ただここで読者にのぞみたいのは、表現形式の古さ(あるひは馴染みの薄さ)に辟易せず、現代 小説を読むと同じ気持で(わからないところはとばしてかまはないから)通読してほしいといふことです。そこに、ほかの小説を読むと違つた種類の感銘をもし 感じたら、それが自分が現代にたいして持つ文学的要求と、どうつながるか、あるひはまつたく無縁であるかを考へてほしいといふことです」と。まるで私日々 に苦心の書き下ろしを「解説」「助言して頂いたよう。

 

* 九時過ぎて行く。

2020 11/13 228

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 親への愛

 

★ まぼろしのわが橋として記憶せむ

母の産道・よもつひら坂

闘ひに死ぬるは獣も雄ならむ

父へのあこがれといふほどのもの     東 淳子

 

☆ すぐれた構想力で成長を遂げつつある歌人。 昭和五七年『玄鏡』と五三年『生への挽歌』から採った。

人の生きの底昏さと力づよさとを 父母未生以前の根の深みから歌い抜く姿勢がある。しかもからい断念と喪失感にむしろ支えられ、父も母もこの歌のなかで実在の重量をえている。作者はこの重みを負うて生きているのだろう。

ことに「母」の歌は、日本神話の世界を畳み込み、「橋」一字にとこしえの「他界」を実感させながら「産道」といった言葉に緊密な詩化を遂げている。

「よもつひら坂」という「橋」を余儀なく渡って来たことの幸不幸を超えて人間は、生まれ―死なれ、生きて―死ぬ。父を負い母を負い、闘って、死ぬ。闘いのさなかほとばしり出たこの、親への「愛」を 私は心して聴いた。

 

* 東 淳子さんはいましも久しい病床にあり、渾身の手跡で手紙を下さった。先人のひそみにならい、「たのしみは」と歌い出すのを楽しみとしていますとも。私も倣おうと思っている、たとえば、

 

たのしみは 難しい字を宛て訓んでその通りだと辞書で知ること

 

いまはそんな私の毎日。

 

たのしみは居眠りの池をうかび出で夢に泳いで飽かざりしこと

2020 11/14 228

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 親への愛

 

★ かくれんぼいつの日も鬼にされてゐる

母はせつなきとことはの鬼       稲葉 京子

 

☆ 巧みにオリジナルな表現を遂げつつ、途方もない深い所へ ズーンと自覚が届いている。「されてゐる」で軽く浮いて1せつなき」で危うく受けて、表現の妙に耐えて二つの「鬼」がみごとに一首に生きている。「隠= 鬼」説など持ち出すまでもなく、なべて角なき「鬼」の「役」が負わねばならなかった、辛抱と負担の根の哀しみ。

「とことは(永遠)の」の語が、このすぐれた現代の短歌一首に、時空の旅のはてない不思議の魅力を添えている。己れの胸の底を探る視線が、生みのわが母の胸の底にまでよく届けばこそ歌いえた、「母」なるものの調べ豊かな悲歌である。

人は、母の目をふさいで生きて来た。母とは妻でも女でも、ある。 昭和五〇年『柊の門』所収。

なお、昭和五八年、有本倶子は『モンキートレインに乗って』に、「子らの遊びにいつも出てくる母われはおかへりなさいと待つ役ばかり」と歌っていたのも私の記憶にあるが、やや認識と表現との相乗効果が軽い。「役」一字にもっと叩きつけるような批評が出れば面白かった。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 親への愛

 

★ (父島)と云ふ島ありて遠ざかることも

近づくこともなかりき      中山 明

 

☆ 人生という海を青年は航(ゆ)く。ただ漂うのではない。距離を計り行方を望みながら、しかし心細く、(父島)の存在から目を逸らしてしまうことは出来ない。こんな風に私は読んでみた。

太平洋に事実在るという「父島」や「母島」のことは私には分からない。 昭和六〇年の間奏歌集『猫、拾遺』所収。

 

★ 雲青嶺母あるかぎりわが故郷    福永 耕二

 

☆ 「くもあをね」と私は読んだ。故郷の山なみが、見えてい てもいい。見えていない山なみが雲のはたてに幻に見えるのでもいい。「青嶺」はまた「青山」(墓所)であり、人生至る処に在る。だが「母あるかぎり」は、 あの「母」の生きて住む場所が自身の根であり真実故郷だと思うのである。母の生きの命が一句に籠っている。いつか母を見送り天涯に孤りとなる日のことも覚 悟されている。

だが、「故郷」とは、ただ生れ故郷ではないようだ。「よもつひら坂」のかなたに「母」なる偉大な故郷が横たわり待っている。いずれそこへ帰って行く。 「母あるかぎり」とは、現世に限らない「とことは」への子の願いなのである。 「俳句とエッセイ」昭和五八年六月号から採った。

2020 11/16 228

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 親への愛

 

★ 回帰するのに

入口はひとつしかない

ははよあなたの眠りに溶けると

それが果たせるというの?

老いは敵それは恐怖 だから少年

でも戻れない大きさ

胎児になる夢を買おう

つるりと滑って

水脈をわけてゆけるのかしらん

小さい塊り

その絶対の孤独とやらの

栄光

それをどうしてははに言える?    松永 伍一

 

☆ 昭和五二年に刊行の詩集『少年』から、「子 宮へ」を採った。「少年」の心を抱いた男の、母胎への永遠の愛がうたわれている、などと鹿爪らしく喋っていると「つるりと滑って」しまいそう…、だから私 は力なく黙って、それでいてこっそり…「オモシロイョ、コレ…」とつぶやこう。

2020 1/17 228

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 親への愛

 

★ あヽ麗はしい距離

常に遠のいてゆく風景……

 

悲しみの彼方、母への

捜り打つ夜半(よは)の最弱音。    吉田 一穂

☆ 吉田一穂の『海の聖母』大正一五年刊)から、「母」を引く。

いかなる「最弱音」といえど、しかし「母」へは常に伝わるのである、正確に。子の、それが信仰である。

2020 11/18 228

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 親への愛

 

★ 母の胸には 無数の血さへにぢむ爪の跡!

あるひは赤き打撲の傷の跡!

投石された傷の跡! 歯に噛まれたる傷の跡!

あヽそれら痛々しい赤き傷は

みな愛児達の生存のための傷である!

 

忘れられぬ乳房はもはや吸ふべきものでない

転居の後の如くすたれ

あヽ 愛はすでに終了されたのだ!

 

さるを今 ふたヽび母の胸を蹴る!

新しき世紀の恋人のため!

新しき世界に青年たるため!

あヽ われ等は古き父の遺跡を

見事に破壊するを主義とする!     萩原 恭次郎

 

☆ こういう「古き父の遺跡」たる母の像もまた否応なく子は胸に抱く。萩原恭次郎の『死刑宣告』(大正一四年刊)から、「愛は終了され」を引く。

社会と政治とに働きかけて敢然と立つ青年のまえに、或いは押しはだかる「母」もいる。そういう「母」なら乗り超えられねばならない、その向うに古き全ての管理者である「父」の存在が見えている限りは、なおさらに。

「あヽ 愛はすでに終了されたのだ!」という嘆きの奥で、しかし「母」は子の愛を享けつづける。

2020 11/19 228

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 親への愛

 

★ 雪女郎おそろし父の恋恐ろし    中村 草田男

 

☆ 草田男という大俳人をはなれて、句のおそろしさに打たれ たい。「父の恋」のかげには泣き憤る母がいる。だから恐ろしい。父の恐れと母の恐れとを底知れぬ影のように子はくらぐらと打ち重ねて胸に抱く。黙然とかき 抱く。美しい、しかしぶきみな雪女郎。因果なことに子はそんな父の恋人にかすかに自分も恋していることさえあるのだ。

見たこともない、母。見たこともない、恐ろしい父。のめりこんだ父。真剣な父。ヤケクソの父。そういう「父」にいつか自分もなりそうな恐ろしさ……。肯定とは言わぬが、けっして否定否認の句ではない。いわば、悲しいまでに藝術が美しい。 昭和十四年『火の島』所収。

 

★ 十六夜の長湯の母を覗きけり    津崎 宗親

 

☆ 作者の実情をはなれて自在にいろいろに読める。「いざよひの」以下の調べも面白い。 岸田稚魚門下の昭和五五年合同句集『大綿』から採った。

老母の長湯を心配して覗きに行つたのかもしれない。「いざよふ」に「長」いへの語感の繋ぎも見えなくはない。が、この句にはまぎれない「母」へのかそけ きエロスの感触がある。「十六夜」のなお豊かな月かげにまだまだ若い母の裸形が湯気をふくんで光っている。「長湯」には、ある満たされた安らぎや心足りた 自愛の含みも取れる。母は湯のなかで女にかえっているのだろう。

どうしたかなと案じて覗いたには相違なくても、一瞬、母なる「女」に目をふれた息子もまた、その時、男になり、父にすら化(な)っていたのだろう。浴室 の明りよりもほのあかるい月明を身にまとうて、実は母はこちらへ背を向けていたのでなく、目ざとくもわが子と視線をまじえさえしたかも知れない。神話的瞬 間である。原初の愛が空に舞ったろう。「十六夜」に民俗の背景を探るのも面白く、「覗きけり」の露骨さが句を大柄にしている。

2020 11/20 228

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 親への愛

 

★ 進学をあきらめさせた父無口

 

☆ 林富士馬著『川柳のたのしみ』(昭和五八年刊)から採ったが、作者は知れない。

「無口」は含みのいい「からだ言葉」だ、ここへ万感が龍められている。言いたかろう、言いわけもしたかろう、いつまでもグズグズ言わんでくれと、叫びたくもあろう。

せつない親の愛だが、そういう父の横顔をじっと黙って見つめている視線にも、愛が籠もる。この愛が行動に転じて時代を変革させるエネルギーにならねば……と、思う。

同じ本に、「父に似る性質父に叱られる 一夫」というのもあった。

2020 11/21 228

 

 

☆ 過日は

「選集第三十三巻」ご恵贈下さいまして、有難うございました。

「私」を編むというご主旨は巻頭の 「歸樵」とご夫妻のお写真から最終ペイジのページ(p176)の「文学の秘鍵は?」 即答「女」。まで見事に(!) 納得いたしました。

 

* 以下、練馬の宮本さん 便箋の二枚にぎっしりと共感箇所を取り上げて下さり、さすがにと著者もドキッとしつつ感銘を受けた。その全部をここへ写したい が、仕事前の視力も気遣われ、冒頭に取り上げられた一項にのみ、少しく触れる。いや当たり前のことで触れるまでもないかとも思うが、「文学の秘鍵は?」 「男」と即答する作者もあろう、その先が思案の課題になり、私の思いでは、ホメロスの「イリアス」 ソクラテスの「饗宴」 旧訳の「創世記」また「失楽 園」 ゲーテの「フアウスト」 日本なら「浦島」「かぐやひめ」「伊勢」以下、「源氏物語」 「夜の寝覚」 「とりかへばや」 平家物語も謡曲も 西鶴、 近松、また馬琴の「八犬伝」等々もすぐ思い浮かぶ、が、「女」が動力源になっていない「男」にのみ寄りかかって成り立った文学作品は、無くはないが断然数 少ないか、殺伐としやすい、その意味では支那、中国には「三国志」「西遊記」ほかかなり顕著な男世界ものが見える。芭蕉や上田秋成が比較的「男」寄りだ か、蕪村はよほど「女」を鍵にしている。

 

* こういう鍵を遣って作家や作品を論じた例をあまり、ほとんど、知らないが。女と男としかいない世界なのだ、あまり当たり前と思いこみすぎて、しかしだ いじなものを見落としてきたとは謂えないのだろうか。たとえば、三島由紀夫など、どうなのか。ロレンスの「性」は、女に鍵か、男の方か、『息子と恋人』 「チャタレイ夫人の恋人」を読んで一気に通読して、ふっと立ち止まっている。西鶴も微妙に思案を遂げてみたいと思わせる。

で、私は。上に引き出されてある、私の文学は、女で鍵があき、鍵の奥に女がある。ナニ不思議もない。この一句を咄嗟に付け加えたのが、『選集33巻』の結語となった。宮本さん、よく見て下さった。

2020 11/21 228

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 幼子のわれのケープを落し来て

母が忘れぬ瀋陽の駅      佐波 洋子

 

☆ とりたてて勝れた歌とは思わないが、この時代なればこそ なお記憶にあり、同時にとかく記憶を遠ざかりがちな、だが大事な場面が歌われているので、同時代の「母」の悲しみの歌として採った。おそらく、子にもよく 伝ええない苦い敗戦・敗走体験がこのさりげない表現の背後に、今も傷口を開いているだろう。 「かりん」昭和五七年一月号から採った。

2020 11/22 228

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 抱かれて少しずつかわりゆくわたくしを

見ている風は父かもしれず      伊藤 靖子

 

☆ 思い切った五・十・五音の上句に、手粗いが素朴に新しいリズムも生まれている。「わたくし」を「われ」として強いて五・七・五に音数を揃えなかった感覚に、誠実な若さが感じとれる。「わたくし」と「父」との対応に、おそらく一首の真実は隠されているのだから。

作者の意図をあるいは超えて読めば、恋する男の愛の手に「抱かれて」「少しずつかわりゆく」うら若い女の状況は、まさにさまざまに「風」のなかにある。 その喜怒哀楽のそれぞれの場面で、「わたくし」は、男でもある「父」の目と存在とを体温のように、体重のように同時に感じ取っている。

おそれ、愛、怒り、不安、希望。父と娘とだけの余人のはかり知られぬ交感を率直に歌いえている。忘れがたい一首。  「未来」昭和四六年十一月号から採った。

2020 11/23 228

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ あなかそか父と母とは目のさめて

何か宣(の)らせり雪の夜明を     北原 白秋

 

☆ 大正十年『雀の卵』に収められ「父と母」と題されたこの歌は、ぜひ次の二首とならべてしみじみと読みたい。

 

あなかそか父と母とは朝の雪ながめてぞおはす茶を湧かしつつ

 

あなしづか父と母とは一言のかそけきことも昼は宣(の)らさね

 

日本の父と母との、すくなくも戦前までのこれは「悠久」を思わせる典型的な姿であり、愛され尊敬された姿であり、この静謐に、美も倫理も覚悟の深さも意気の毅さすらも秘められていた。

「日本」は好むと好まぬにかかわらずこういう父母の国であった。子もこういう父母にまた成ろうとした。すくなくもそういう時代が長かった。

むろん現代の読者は、せめてここに青い畳と白い障子との暮し、火鉢と縁側と庭先との暮し、寒くて静かで寡黙な社会の、しかも自負をたたえた厳しい空気も察して読まねばならない。

作者はこの「父と母と」を現実の父母を超えてシンボリックに歌っていよう。慈愛の深さをただしく汲みとって、歌の「格」というものが備わっている。愛誦に耐えて心温かい。なつかしい。

2020 11/24 228

 

 

☆ 親への愛

 

★ 草まくら旅にしあれば母の日を

火鉢ながらに香(かう)たきて居り     土田 耕平

 

☆ 島木赤彦門下の著名な歌人。上二句は常套に過ぎるが、しかも「火鉢ながらに」など下句の飾りけないわびたふるまいの美が、「旅」中なのでということわりに面白い真実感を与えて、母おもいの情深い一首が成った。

「香」をたくという行いに、「母の日」がそのすでに命日であることを思わせる。つまり昨今のいわゆる母の日とはちがう。が、もしそのいわゆる「母の日」 にたまたま旅にいた子が、故郷にいます、あるいは泉土にいます母のためにカーネーションならぬ火鉢に香をくべ、はるかに愛のメッセージを贈ったのだと読む 人がいても、私は、嗤わない。それもその読者の境涯で、なるほど作者の意とは離れようが、歌の真実を決してそこなうものではない。  大正十一年『青杉』 所収。

 

★ いねがたき我に気付きて声かくる

父にいらへ(返事)してさびしきものを    相坂 一郎

 

☆ 「ねむれないのか……」

襖ごしにでもあろう、父は子を気づかってくれる夜ふけ。多少のいらだちも抑えて、「えぇ」と答えたのか「いいえ」と返事したか。ここまではごく分りよく、そして「さびしきものを」に無限の情が龍もる。

この父は自身衰老の坂をはや下りつつあるのやも知れぬ。

この子は、たとえばせつない恋を失った直後であるのやも知れぬ。失意とも不安ともつかぬ日々の夜の底で、言葉にもならない声を父と子とはかけ合い答え合いながら、縁のきづなを手さぐりして、しかもそのように生きつぐ寂しさに「生きの命の重さ」をおし量っているのだろう。

子は父の健康を、父は子の幸福を。しかも父であり子であることの測り知れぬどんよりとした、くらさ。

秀歌と思う。  昭和七年『地下の河』所収。

2020 11/25 228

 

 

* 毎朝、選んだ愛の歌を日記の頭に出していて、これが私をしみじみとした優しい気持ちにしてくれる。えり抜きの作歌を心して読み味わっているつもり。毎朝、これだけでも読んで下さる方の多いのを願う、こういうややこしい時節には殊に。

2020 11/25 228

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 父の髪母の髪みな白み来ぬ

子はまた遠く旅をおもへる    若山 牧水

 

☆ 明治四三年『別離』所収。 これだけの歌とつい取ってしまいそうだが、作者の現実や性癖がいかにあれ、ここにも親と子との永遠の、しかも余儀ない係わりかたが象徴的に露出していて、思わず知らずに読者は感銘を強いられてきたのだと言える。

親は老いゆき、子は際限もなき「旅」立ちの試行錯誤に己が可能性を夢見つづけている。

言うまでもないこの「旅」一字に、どれほど多くを深く読み込んでもいい。しかも旅は、子にして「遠く」なくてはならず、だが、髪白き親の身にも心にも、 真実「遠く」価値ある旅の難(かた)さは知り尽くせている。その微妙を極めた親と子の齟齬にも、「人生」という名の「旅」の寂しみはにじみ出る。一首の哀 情は、「子はまた」の「また」に凝っている。

2020 11/26 228

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 薬のむことを忘れて、

ひさしぶりに、

母に叱られしをうれしと思へる。    石川 啄木

 

☆ 明治四五年の第二歌集『悲しき玩具』から採った。似た歌が第一歌集『一握の砂』にある。

 

よく怒る人にありしわが父の

日ごろ怒らず

怒れと思ふ

 

この作者のことに秀でた歌として引いたのではないが、しかも心に残る率直の表現に無垢の詩と真実が鳴り響いている。

啄木短歌の魅力は、歌われている事実以上に「ことば」が「詩化」を遂げていて、しかもそれすら忘れさせるほど最短距離に事の真相へ言葉が、日本語が、肉薄している点にもある。

ただこういう歌にふれた時、ただに一方的に子から見た父や母が歌われでいるとのみ、読み過ごしてはならない。「うれしと思」い「怒れと思ふ」子である作者の日々の苦闘、人世を生き抜く格闘の、けわしさ、はげしさがあって、だから親を、親と頼みたいのだ。

2020 11/27 228

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ わが父と老女のあひだ桜餅     藤田 湘子

 

☆ 一日十句を三年の余も今なお続けている、旺盛な現代俳人の句集『一個』(昭和五九年刊)から採った。

清潔な和風の客間を想像している。「わが父」と「老女」とはきれいな仲なのだろう。おだやかに会話がつづく。年配ゆえの落着いた雰囲気に、卓の「桜餅」 がはのかに匂う。わが父の客ながら、そして「老女」とはいいながら美しい色香が匂う。やわらかに美しい餅の桜葉が、ほんのり餅肌の桜色をも匂わせながら、 だが、しんと二人の「あひだ」を占めている。

何事が起きるのでもない。季節と時のめぐりの静かな深まり──だけが、心優しく感じられる。

2020 11/28 228

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 寝よ寝よと宣(の)らす母ゆゑ目はとぢて

雨聴きてをり畳の産屋に      田中 民子

 

☆ この「母」は、いわゆる姑かもしれない。「宣らす母ゆ ゑ」という敬った表現を私はそう読んでみた。「寝よ寝よと」いたわる母にもそれを敢えて受ける嫁にも「愛「がある。しかもなお微妙な「建前」もある。母は 家事にいそしむ再びのハリを得ている。嫁は生まれ来るものへの予感に励まされながら、今は母の親切に身をまかせ目はとじて、じっと雨を聴いている。ありと あらゆる価値のあるものを身に浴びているような暖かい思いなのかも知れない。すこしは煩わしい姑の声すらやがて微笑に溶かして聞き流せるのだろう。

母もよろこぶ健康ないい子を、まちがいなく生まねば……。「寝」ていよう…と思いつつ静かな興奮に包まれてもいる。 「多磨」昭和十六年十一月号から採った。

 

★ 女子(をみなご)の身になし難きことありて

悲しき時は父を思ふも     松村 あさ子

 

☆ プロを自称するような歌人は、こうはかえって歌えまい。 こう真率に「悲しき時は」と一見露骨には歌えまい。しかしこの歌では「悲しき時は」以外の表白はあり難いだろう、ここに「女子」の「をみなご」ゆえの一切 が託され、男の私にもその重みは察しられる。まだまだというより、いつまでもなお女ゆえ「身になし難きこと」は増えても、減りそうには思われない。

母ではない「父を思ふ」と歌われているのは、けっして母が無みされている意味ではないが、どうしてもここは「父」であらねばならぬぶん、娘の今が今「女子」として生きる苦しさや険しさも、痛いまで想像がついて来る。

息子は母を慕い娘は父を慕うといった「通りいっぺん」の解説とは、かけ離れて厳しい人の世渡りが目に見える。「父」には、なにかしら「娘」の思い及ばない不思議の「力」でもあるのか。

悲しいことに在るわけもないそんな力が、あると想像できてそれがいざという時に娘の力になるのなら、片思いにそう思いつづけていて貰うしかない。いとお しい娘の父でもある私は、そう願う。この歌のようには娘に自分を思い出させたくないな…と、祈る思いでもある。 「国民文学」昭和十一年三月号から採っ た。

2020 11/29 228

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 先づ吾に洗礼をさづけ給ひたり

中年にて牧師となりしわが父    杉田 えい子

 

☆ いわゆる、じょうずな歌とはとても思いにくいが、感慨深 い人間の歴史が下に透けて見える。「中年」に至って牧師となったという、そんな「父」の歴史を正しく読みとるのは容易ではない。が、そこに魂の葛藤や苦闘 があり、勉強と努力があり、なにより人間への愛があったであろう。

そういう父を、娘である作者は深い共感と敬意とで見つめている。しかもその中年牧師の父は、愛を傾けて最初の洗礼を「先づ」わが娘にさずけたという。

「父」一字には文字どおりの父親と、さらに父なる神の姿もかぶっていよう。莫大な背後の人生を思わせて 拙いなりにも感動を誘う、それも「詩歌の本領」 であって、言葉いじりの技巧をいくらうわべに誇ってみても、「うったえ」の意味の「歌」には届かない。歌壇を占めて時めく、「専門歌人」とか「プロ歌人」 とか一部自称のおごりは、嗤われよう。 この歌は「多磨」昭和二六年六月号から採った。

2020 11/30 228

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ <ありがとう> 深々と頭を下ぐる母

おかしくわびしくやがて悲しき     中田 文

 

☆ 歌の技巧としては拙というしかない。上句にはナマな感情 表現が相次ぎ、「やがて悲しき」には芭蕉鵜舟の句の記憶もからむ。腰折れでもある。どこを褒めることも難儀な歌ではあるのに、歌の内にまぎれもない「母」 の姿がある。「おかしくわびしくやがて悲し」い母の姿が確かにある。娘の悲しみはやがて己れにかえって行く嘆息でもあり、しかも直接話法で強調された「あ りがとう」は作者その人の真率の声と化し、一首の歌のなかでしみじみ共鳴しはじめる。 「かりん」昭和五六年十二月号から採った。

 

★ 背負ひ籠が歩めるごとき後姿を

母とみとめて声をかけ得ず     平塚 すが

 

☆ 「しょひ龍」と読みたいが。 娘はもう都会での暮しが長いのだろうか。だが、この歌はそうした風俗のちがいにたじろいだといった類の作とは思われない。

たわむれに母を背負ってあまりの軽さに三歩も歩むことが出来なかったという 名高い啄木の歌の系譜を踏んでいる。

娘の帰郷を心に待ちわびながら母は山畑からの戻り道を黙々と歩んでいたのだろうか。その姿をいちはやく認めながら、「おかあさん」と声をかけためらう娘の胸には、一人の「女」の寡黙でかつ苛酷な人生への 言いがたいいたわりとおそれとが一瞬葛藤する。

娘もまた場所こそちがえ懸命に生きて来たという実感に満たされている。「母」のちいささに、娘は万感を一瞬に籠めてたたずむ。心に泣く。

歌が、生きた「時」をとらえたのである。 「形成」昭和四九年六月号から採った。 2020 12/1 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 眠られぬ母のため吾が誦む童話

母の寝入りしのち王子死す       岡井 隆

 

☆ 「アララギ」昭和二六年一月号から採ったなんとも心惹かれる一首である。が、理にあてた解釈や解説を深々と拒んでいるような、ふしぎな哀調に魅力が秘められていて、なまじの物言いをおそれたくなる。

「誦む」「童話」「寝入りしのち」「王子死す」などの尋常な言葉のひとつひとつがよく「詩」化して、不思議の光を静かに放っている。夢の飛行機が音もな くいつか大地を離れて行くような、また、かぐや姫を天上へ見送った人間の悲しみにも似た印象が残る。「詩」だなと思う。かすかに挑戦的な「詩」でもある。 読者の深読みをさまざまに誘っている。作者から離れ、自分の所有としてまだこの先も抱き込んでいたい歌の一つである、私には。

 

★ とろとろと鰈(かれい)が煮ゆる

ちちははの食(は)むものなべて淡雪のやう   青井 史

 

☆ すぐれた語感に貫かれた美しい歌である。どの音を聴いて も微塵の無理もない調べを奏でている。「鰈」も「淡雪」も「とろとろ」も「食む」も「煮ゆる」も、これくらい優しい音楽となりおおせれば この歌のすべて が、さながらの象徴性を帯びる。その芯に「ちちはは」が生きる。

これほどこの尋常な言葉が美しく優しく定着した例は珍しい。「詩語」という特別の言葉が在るのではない。すぐれた語感と文脈のなかで、ナミの言葉がみご と詩語に「化るか化らないか」に過ぎぬ。珍奇な言葉づかい、文字づかいを競い合うのは滑稽だ。  昭和五八年『花の未来説』所収。

2020 12/2 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ どっと笑いしがわれには病める母ありけり     栗林 一石路

 

☆ はっと一瞬涙を誘われた。それ以上を言う必要など、あるまい。 昭和三〇年『栗林一石路句集』所収。

 

★ 卯月浪父の老いざま見ておくぞ   藤田 湘子

 

☆ ひねもす波が大きく寄せて、その波に身も心も清まわりながら久しい祖霊の加護を蒙る、そういう日がこの島国には一年に何日かある。四月八日もその一日に当たってきた。

悠久の時をこえて人が人の不思議の血脈にひしと思い当たる日でもある。繰返し繰返す波のように、命の糸は紡ぎ続けられてきた。作者の覚悟のほどを横から説明できるものではないが、手強い表現に籠められた「生きる」姿勢に心地よい響きがある。

「父」は「老いざま」をもってしても子の境涯を正すのである。正されようと子は願うのである。 昭和五七年『朴下集』所収。

2020 12/3 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 挫折とは多く苦しきおとこ道

父見えて小さき魚釣りている    馬場 あき子

 

☆ この歌人としては舌を噛みそうな出来の歌だが、「小さき魚」の一句が父と、その父の挫折多かりし人生の実りのさまとをともに言い尽くしていて、父の場所と、その場所の「見えて」いる娘の場所とを、一筋に繋いで見せる。

「おとこ」でありつづけねばならなかった「父」への視線に、作者の苦く乾いた涙がにじむ。 昭和四六年『飛花抄』所収。

2020 12/4 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 夜半を揺る烈しき地震(なゐ)に母を抱く

やせし胸乳に触るるさびしさ     野地 千鶴

 

☆ 短歌的には腰折れ歌のうらみがのこる。上句で実は言い尽 くせている。思わず母を抱かせた地震のはげしさと、下句の「さびしさ」とには一瞬のズレがあるはずで、この歌ではその時間差のもつ意味は大きい。へたをす ると下句にウソが出る。そういう不満をもたせつつも、おのずと母の老いを知らしめて 子の嘆きと不安とをかきたてた一首の身震いには、「地震」なみの衝撃 がある。

「烈しき」といわずはげしく、「さびしさ」といわずさびしければ、歌はもっともっと読者の胸に向かって物を言うのだろうが。それにしてもこの「さびしさ」は「烈しい」。 「短歌人」昭和五〇年十一月号から採った。

 

★ 病む母の生きの証(あかし)ときさらぎの

夜半(よは)をかそかに尿(ゆまり)し給ふ    綴 敏子

 

☆ 秀歌である。年中でもっとも寒い二月の夜半を、ことさら「きさらぎの」とかそけく美しい音で調べて「ゆまり」の音を静かに聞かせた手腕。

病む母はひとりで用は足せないのではないか。かたわらに作者がいて、そしてそのような母に手を貸し身を添わせながら、母がなお生きていてくれる嬉しさと底知れぬ不安とに耐えている。

「給ふ」という敬語が実に利いている。 昭和四六年『暁の雨』所収。

2020 12/5 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ ぬばたまの黒羽蜻蛉(くろはあきつ)は水の上

母に見えねば告ぐることなし     斎藤 史

 

☆ 水の上をおはぐろが飛ぶ。私は子供の頃すでにこの景色だけで他界の存在を想像した。そういう感受性で「水」を思い「黒羽蜻蛉(おはぐろとんぼ)」を眺めていた。

「母に見えねば告ぐることなし」は、なまなかに出て来ない詩句である。「母」は目が不自由なのだ。見えにくいものをことさら口にのぼせて母の意識を乱す のをはばかるのだ。が、それだけなら上句の景色に必然性はない。日一日母が近づきつつある他界の景色が、この卓越した詩人には見えていて、敢えてそれを口 にしないで、じっと老母を見守っている。この歌は、一連の次のような歌とともに感銘深く読み込むべきだろう。

 

老はいかにさびしきものぞ 抽出のもの整理されておほかたは空

小抽出のものを破きて母が居る昏れがたの部屋に立入りがたき

 

どう老いようとも「母」には母の領分が厳然と在る。それを認めてなお「母」を見守らねばならない子の視線もある。「老」は親だけが負う重荷でなく、子も すでに負うている。「親」への深いため息のような愛は、すでに自身への苦しい吐息でもあらねばならない、それほど「子」として生きるのもまた寂しいつとめ なのだ。 昭和四二年『風に燃す』所収。

同じ歌人の同じ『風に燃す』所収、次の歌も参考までに挙げておく。

 

他界への門の扉は見ゆるほどの視力残れよ老母(おいはは)の眼に

 

やや物言いが直接に過ぎるかとは思うが。

 

* この旧著をこう端切りに連載しながら、私は、ともすると目頭を熱くする。詩といい歌というなら、さほどの表現で二つと無い詩句がよくよく「詩化」されていてこそ当然なのだ。それでこそ歌人・詩人と名乗れる。身に恥じ入って思いつつそう思う。

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☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

☆ この辺で小説家・文藝批評家である伊藤整の、詩人としても注目すべき昭和十二年の第二詩集『冬夜』から、「病む父」と題したやや長めの詩を挙げておく。

「弟よ父には黙ってゐるのだ。」以下のフレーズに私は感銘を受けた。

 

★ 雪が軒まで積り

日本海を渡つて来る吹雪が夜毎その上を狂ひまはる。

そこに埋れた家の暗い座敷で

父は衰へた鶏のやうに 切なく咳をする。

父よりも大きくなつた私と弟は

真赤なストオヴを囲んで

奥の父に耳を澄ましてゐる。

妹はそこに居て 父の足を揉んでゐるのだ。

寒い冬がいけないと 日向の春がいいと

私も弟も思つてゐる。

山歩きが好きで

小さな私と弟をつれて歩いた父

よく酔つて帰つては玄関で寝込んだ父

叱られたとき母のかげから見た父

父は何でも知り

何でも我意をとほす筈だつたではないか。

身体ばかりは伸びても 心の幼い兄弟が

人の中に出てする仕事を立派だと安心してゐたり

私たちの言ふ薬は

なぜすぐ飲んで見たりするやうになつたのだらう。

 

弟よ父には黙つてゐるのだ。

心細かつたり 寂しかつたりしたら

みんな私に言へ。

これからは手さぐりで進まねばならないのだ。

水岸に佇む葦のやうに

二人の心は まだ幼くて頼りないのだと

弟よ 病んでゐる父に知られてはいけない。   伊藤 整

 

☆ なにを余分に言うことがあろう。伊藤整の詩魂は近代詩人に卓越していた。昭和元年の処女詩集『雪明りの路』もすばらしい青春の拝情味にあふれている。もっともっと若い人に読まれて欲しい。

2020 12/7 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 膝にごはんをこぼすと言つて叱つた母が

今では老いて自分がぼろぼろごはんをこぼす

 

母のしつけで決してごはんをこぼさない私も

やがて老いてぼろぼろとこぼすやうになるのだらう

 

そのときは母はゐないだらう

そのとき私を哀れがる子供が私にはゐない

 

老いた母は母のしつけを私が伝へねばならぬ子供のゐないため

私の子供の代りにぼろぼろとごはんをこぼす      高見 順

 

☆ さて伊藤整に劣らぬ詩人に、やはり小説家の高見順がいる。昭和二五年刊のひときわ勝れた詩集『樹木派』に収められた、こんな「無題」という題の詩を読んで欲しい。 高見順には、文字どおりかけがえのない愛しい母であった。子のない子よ。こ のさりげない詩句に、私小説風に籠められた母と子の寂しみの、なんと深いか。

2020 12/8 229

 

 

* 悪年なる哉と、あまり威勢の上がらぬも「明治十八年師走」の文章を読んでいた。人間世界に「悪年」はいつもいつも訪れるらしい。

 

* ほぼ書くべきの大方を書いてきたよう。落ち着いて「脱稿」へ仕上げたい。

 

* 夜前 床の中で 夢かうつつか、まだまだ小説に書ける場面も人物も「有るやないか」とコウフンしていた。

わたしのヒロインたちは、何度でも生き変わり蘇って別世界を創れる。もう何度も創ってみせてくれている。

2020 12/8 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 死に近き母に添寝のしんしんと

遠田のかはづ天に聞ゆる    斎藤 茂吉

 

☆ 大正二年『赤光』所収の「死にたまふ母」からは、この歌を筆頭に、次のような一連を挙げずにはおれぬ。

近代短歌の原質がここに凝集している。ただただ反復愛誦したい。

 

はるばると薬をもちて来しわれを

目守(まも)りたまへりわれは子なれば

 

寄り添へる吾を目守りて言ひたまふ

何か言ひたまふわれは子なれば

 

我が母よ死にたまひゆく我が母よ

我を生まし乳足(ちた)らひし母よ

 

のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて

足乳根(たらちたね)の母は死にたまふなり

 

☆ 臨終の母をかくも壮大に歌いあげた歌人の、詩と「うたご え」の力づよさに私はおどろく。短歌の感動はここに極まっている。言葉の斡旋だけを歌と心得て得意顔の歌人は恥じよ。茂吉の歌は、さながらの大噴火であ る。あかい炎に岩も灰も混じって、それすらも噴火(歌)ならではの魅力となる。

2020 12/9 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 今絶ゆる母のいのちを見守りて

「お関」と父は呼びたまひけり         谷崎 潤一郎

今死にし母をゆすりて春の地震(なゐ)    岸田 稚魚

 

☆ 「なゐ(地震)」と読みたい。好一対の短歌と俳句、ともに日本語の達人である。

昭和五二年『谷崎潤一郎家集』にみえる文豪谷崎の、やすやすとしかも端的に母と父と自身との場所を見定めたゆとりのある視線。ずばり「お関」が利いている。生と死との関の別れをさえ含みにしえていて、母の名がそのまま歌になってしまう。おおらかな名歌だと思う。

「琅玕」主宰の稚魚の句はこまやかな詩情をたたえ、匂うように、悲しみのうちにも仏果をえた安堵のごときものが漂う。岸田の句は記憶から採った。

母への溢れる愛が、歌をも句をも大きなものにしている。

2020 12/10 229

 

 

* 六十三年以前の今日、求婚した。京の黒谷は紅葉の盛りだった。一と枝もらって、二人で新門前の叔母の茶室へ帰り、茶を点てた。

六十三年、往時渺茫ではあるが、わたしは、物覚えよく、いろいろな思い出の日付けを忘れていない。何月何日はなにごとのあった、した、できた日と、妻も呆れるほど覚えている。

十二月十日 橋田有子さんに送って頂いた京松茸などの漬け物で、ホンの少し瓶に残った朝飯の酒を飲もう。

 

* 身の回りを少し片づけて、つぎの仕事への気分を新ためたい。「活動しすぎて人生につかれてしまい、あらゆる衝動と思念とを向けるべき目的を持たない愚 かさ(マルクス・アウレリウス)」に嵌らないこと。彼は戒める、「自分自身の魂のうごきを注意深く見守っていない人は不幸に陥り」やすいと。いまさら幸不 幸かと笑う人もいよう。「幸福を追わぬも卑怯のひとつ」と歌った人もいる。

2020 12/10 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 父をわがつまづきとしていくそたび

のろひしならむ今ぞうしなふ    岡井 隆

 

☆ 「逆らひてこそ父であること」と歌った歌人の、「父」をうしなったまさに悲痛の一点鐘。

父ほど、ある意味で邪魔な存在はない。くそッと思わせることで、父ほど「幾十度」憎らしかったものはない。その「父」を死なしめるのが、実は自分自身で はないのかと、「子」は「今ぞ」思い当たる。その時には、だが、確実に「父」はいなくて、自分がその「のろひ」の的の「父」親にすら成ってしまっている。  昭和五七年『禁忌と好色』所収。

 

★ 思ふさま生きしと思ふ父の遺書に

長き苦しみといふ語ありにき    清水 房雄

 

☆ 拙い歌だが、だが、父と子の身にしみて合点の利く係わりがよく捉えられている。

子の目に、往々 「父」という存在は思うまま好き勝手にしか生きていない生きものとして、映じるものではある。

「長き」「苦しみ」の文字を、まだ必ずしも全面的に受け入れているわけではない作者だろうが、それでも、そうだったのか、やっぱり……と子の胸にふと突 き当たってくる実感がある。子もまた、それだけの人生を歩んできたということか。そんな自分を、今はすこし離れた場所からわが子が、お父さんは何でも好き 勝手にして…と眺めていないでもないのだ。

死んだ父が、そういう時、涙ぐましいまで懐かしい。 「アララギ」昭和三一年八月号から採った。

2020 12/11 229

 

 

* 「方丈」二字が墨色あざやかに大きく現れると、シャキッと気持ち洗われる。他人さまのホームページを、建日子のも、観たことがないので何も分からない が、自身のこれの出から本文へ至るまで、わたしは気に入っている。「文学と生活」といい「作家・秦 恒平の生活と意見」といい、名実伴って四半世紀をとぎれず書き置いてきた。たくさんな写真もいれてきた。カメラを持ち歩くような日ごろではないが、機会が あれば撮り溜めてきて、存外写真好き・写真自慢なのである。いろんな写真を送ってきてももらうが、敵わないと思うほどの撮り手、いないんだなあ。呵々。

 

* コロナ禍のイヤな時節で、通信のフツッと途絶えている人もある。心配しながら、あらわには大丈夫ですかと健康や生活の問いかけにくい人もある。ただただ無事でと願うのみ。

 

* 夏このかた私の執筆生活を特徴づけたのは、かなの寡少、漢字の莫大な日々であったこと。難漢字を苦心惨憺検索した数、数え切れない、一覧表をみても、舌のもつれそうに難しい字が溜まっている。もう大方、訓みを忘れてしまっている。

反面、漢文や漢詩を苦にしなくなった、逃げ出さない。

仕事との縁は直には無いが、日々に『史記列伝』の愛読できて面白いのも、漢字に辟易して逃げ腰になることが無いから。われわれの薄っぺらな常識では、中 国の歴史はさかのぼってもせいぜい唐か漢かまで程度。だが『三国史』もふくめて、私の名字「秦」まででも大変な昔。その「秦」という字一字でもふんだに現 れて、老子、荘子、孔子、孟子、韓非子、孫子などの名がぞろぞろ出てくるのが『史記列伝』で。それでいて、ナマな中国が身近に四分五裂のまま活躍する。年 がら年中攻防し戦争している。いまさら勉強という気持ちはなく、ただ面白さに惹かれているだけだが、木の葉や小枝なみの日本史などとくらべると巨木が風に 鳴っているよう、身震いも来るが躍動の興味がある。

 

* 山縣有朋の家集『椿山集』と触れ合っていご、秦の祖父鶴吉さんの遺したたくさんな蔵書にわたしはまみれ気味にすごしてきたが、まだまだ心惹く中国古典 が私の手つかずにたくさんと謂えるほどあるのに今更に驚いている。じつに有り難い、その中でも明治大正に出来た「大辞典」「大事典」「字書」の類がどんな に有り難いか。手に取ると時間を忘れてしまう。明治人はじつに勉強家だったんだと、恥ずかしくなるほど。

 

* 手のついた仕事が、きのう調べただけで少なくも10件はあり、的を絞りたくて、今日午後はずって寝入ったまま、それを想いつづけていた。前々からこれ ならと願って気に入りの「作」の思案、下書きが二つ三つ有り、夢うつつに「作』にして行く空気と色あいを目で追っていた。

慌てず、取り付きたい。

2020 12/12 229

 

 

* 実の父方のことはかなり詳しく知れている・大きい家が大きいままによく連絡されているように想われる。生みの母方も大きな家であったようだが、本家が消散して、もう私にはとらえようが無くなっている。

養家の秦家は、もともと私が四つ五つで入った時に祖父、両親、叔母が一家に揃っていて、親類という付き合いがほとんど無い家だった。明治二年生まれの祖 父が昭和敗戦の翌年に亡くなり、ずうっと遅れて東京で、叔母が次いで東京で、母ず最後に東京でなくなり、「秦家」は、妻子を持たない秦建日子を最後に失せ ることになる。私たちの血筋は、行方知れない孫の押村みゆ希へかろうじてつながっている、が。事実上、私や息子の跡に遺るものなら遺るのは、二人の「著 作」だけ。それもみないずれは塵と散り失せる。そういうものと、すがすがしく想い明らめている。はかないのではない、確実なそれが人の歴史という営みなの だ。

2020 12/12 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 山茶花の白をいざなふ風さむし

母は彼岸に着き拾ひしか    佐佐木 由幾

 

☆ 下句は、人に死なれた者ならばきっと、一度ならず口をつ いて言わぬ人はいない、それだけ共感をごく自然に誘う表現になっている。この歌ではその下句の自然さを平凡におとしめない上句の美しさに、意外につよい表 現力がある。花の白が風に徐々に寒空へうつろい匂うような、そんな寂しみを身に負うて、悲しみもあらたに亡き母の行方をひとり思いやる娘。明日からはひと りで生きて行く娘。

死なれた者は堪らない…のである。 「心の花」昭和五〇年一月号から採った。

 

★ 命惜しみ四十路(よそぢ)の坂に踏みなづむ

今日より吾は親なしにして     安江 茂

 

☆ 「踏みなづむ」とは、生き難い人の世を一所懸命に苦しみ生きているという意味に繋がろう。それでこそ「今日より吾は親なしにして」という思わずも洩れた真情の声が、ひよわな甘えとして響かずに済む。

親のまだ元気な人には分からない。五十になり六十になっても、まだ「親」が生きていてくれるのは無類に嬉しく頼もしいものだ。海山を越えて生きて来た豪の者でさえも、いざ「親」に死なれてみるとすぽっと頭の上が寒く心細くなる。

「四十路の坂」ではまだ人生は定まっていない。下句の「うったえ」は覚悟のほども響かせてよく胸に届く。 「人」昭和五八年十一月号から採った。

2020 12/13 229

 

 

*  『論衡』を遺した漢の昔の王充は、端的に、「良い言葉と文章を用い得なかった國」は、人もろとも脆く頽れると、適切に例を挙げて語っている。

「昭和敗戦」後まではまだしも、「平成」以降の日本には、「良い言葉と文章」とは頽れ去り、久しい日本史をベースに認めて時代を代表する文学と作家とが まったく「國」の生活に姿を見せ得なかった。明治には、数え切れない優れた作家と作品があった。漱石、鴎外、藤村、露伴、紅葉、一様等々、「明治」に比べ 時期は短かった「大正」にも優れた作家と作品とが時代を印象づけた。鏡花、秋声、直哉、竜之介等々、「昭和」は長かった、そして大きな文藝の遺産は孜々と して績み紡ぎ続けられた。潤一郎、康成、太宰、三島らは先立つ誰とにもおとらない巨星たちだった。「平成」以降の日本語力の沈滞は、露骨に政権担当者等の 日本語に露わになり、総理大臣の安価に醜いでたらめ日本語が時代の顔を腐らせ出した。麻生、安部、菅とならんだ総理の日本語の安っぽい貧しさは、これほど 今日の「日本」のなさけなさを象徴するものはない、国民の前へ政権政策を語りに出て「カースー(菅)です」などと喋り出した総理大臣の時代にどんな日本語 が耀くかと哀しくなる、なればこそ、いま、文化・文学・文藝は渾身の実力で花咲いてこなくてはいけないのだ。政権や財界は、官僚は、日本の「文」の首を絞 めようと躍起になっていて、文学・文藝の側からの渾身の反抗と奮起の兆しもなく、文藝団体は偉大なリーダをもてずに、うろうろとさえも出来しいない。昔の 出版人なら絶対に奮起し先頭で頑張ったろうに、突出して発言し行為している出版社も見あたらない。

王充は『論衡』の「超奇篇」 もっともすぐれた文章とは何か のなかで、「儒生」「通人」「文人」「鴻儒」などと語っているが、現代、「鴻儒」に値して 日本の「文」「文藝・文章」を先導してくれている文学者は、どなたであるか。総理大臣でも文部大臣でも、ない、のはあきらか。

あれだけ嫌われてきた軍人政治家山縣有朋にも、清雅な家集『椿山集』が在った。

2020 12/13 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 斑雪(はだれゆき)山に残りて葬りし

母に雪解(ゆきげ)の水は浸み行く    武川 忠一

 

☆ 現代では著名な歌人の一人だが、この歌、意外に含蓄には乏しい。そのかわり言葉で表されている限りはくっきり出ている。死なれた者には共感はあつい。しかし詩としてはもう一段の追究があっていい。 『氷湖』所収。

 

★ 暮れてなほ氷雨降りしむ楉(しもと)はら

吾を呼ぶ黄泉(よみ)の母の声する    岡野 弘彦

 

☆ 折口信夫(しのぶ)の志をもっともよく享けついで、師に 優るとも劣らないすぐれた現代歌人の一人である。とくに言葉の読み込みと音楽性に佳い味わいがあり、砧でうったような語感はきめこまやかに腰がつよい。 「楉」とは、文字どおり枝の茂った若い木立ち、木の細い枝々を謂う。

四句の「吾を」の字余りと「呼ぶ 黄泉」と「よ」の音の重ね効果が、一首の速度感に適切なあやを成しえてうわ滑りしない。結句もそれで座りのよさを保っ ている。わびしい哀しい光景ではあるが、表現の妙で陰気をまぬかれている。一読して忘れがたい。 昭和五三年『海のまほろば』所収。

 

* こういう 真率にして美しい「音の楽」を「自称短歌」世界から、なかなか聴き取れなくなっている淋しさを、嘆く。

 

* 「平和」の二字が金科玉条となり、人間の心をひとしなみに「率い」ているかに想われる。

が、果たしてそうか。

「平和」と「戦争」とは有史この方、つねに同次元の一対で、「理想」には相違なかったが、ひとしなみの「世界平和」など実現されたことは、一度も無い。 つねに自国ないし同盟諸国の「平和」のために他の國ないし諸国、諸同盟国と、「戦争」してたんに均衡が揺らめく保ってきただけ。それが人間たちの「世界 史」であり、例外は、事実上「無」であった。

「平和」を願うだれもが、「自国ないし自国なみ同盟諸国の平和」であり、それを死守するためにも他国ないし他の同盟国と争って、烈しい「戦争」も避けなかった、避け得なかった。

「世界平和」が見果てぬ夢なのは明瞭な「人間の史実」であり、かつて「諸王・諸帝」が各地に併存はしたが、「世界王」による「世界平和」など、有史以来一度も無かった。有り得なかった。

この事実ないし現実を絶対的に克服できた「実例」を誰一人として挙げられない以上、「世界平和」はただ「美名」の域にとどまる「空想」なのである。

人類が、人間たちが望んできた「平和」とは、自身ないし自国・友好國の「平和」なのであり、その獲得や保持は、「戦争する」という「意思と力量」とにしか支えられていない。今日二十一世紀世界の世界中を見渡して、此の「私の理解」を否認できる「ただの一例」も無い。

いま、『史記列伝』に読み耽っていて、「伍子胥列伝」まで読み終え、つぎに「孔子」らの記事がはじまる。

中国の歴史時代が、「殷」にはじまり「聖帝」伝説を抱いたまま続く「周(春秋)期」にはもう「戦国」が続く。秦始皇帝の統一までの中原の葛藤ははげし く、「秦統一」時代は短期で「前漢」へ、さらに「新」を経て「後漢」ヘ転じ、以降、どの帝国も「戦争」を介して険しく交替しつつ、今日の「中共中国」に 到っている。「中国」という大国内にして、実は、慨ね途切れなくいつも四分五裂の「戦争と平和と」の闘いなのであった。

私は、「世界平和」という理想を否認しないが、当の「人間」こそが、それを動かしがたく拒絶し続けて例外なかった。「人類の史実」は世界平和を恰も拒絶し続けたと「確認」せざるを得ない。

言い換えれば乃、ち、「平和」とは極まるところ「自国の確かな防備」無しには保持できないという簡明な現実を、否定否認できないということ。前回、今回 も、「湖の本」で山縣有朋を、そして昭和天皇痛嘆の声をも採録した、それが、大きな理由と云うしかない。日本の久しい「鎖国」による平和は極東孤立の賜で あったが、いつの時代にも安穏と自立していたと思うのは錯覚である。強いていえばいつも狙われていた。防備に「海」が幸いしていたに過ぎない、が、もうと うにそれも不幸に転じたことを昭和の敗北は明証した。二十一世紀のあます八十年、「日本人」が平和と安穏を願うなら、「世界平和」とは久しい人類史の寝言 のように破れ続けた夢に過ぎぬと承知して油断なく「國」を護る気概が必要だ覚めた。私の「思い違いだ」と、さっぱりと教訓して下さる方に出会いたい。

 

* 書き出していると明言には、もう少し、いや、まだまだ試行錯誤のまま自身に向かい私語してゆくが、この「私語」は私自身にももうよっぽど妄想めく別世 界へ入って、出鱈目に幾筋にも心騒ぎ、独りで面白い。「コロナ禍」とも、あの愚かしい「ガス抜き」の必要とも無縁も無縁で、面白い。面白いことがないと此 の窒息じみた逼塞の日々、生き苦しくて。疲れたら、ためらいなく本を読み読み、何時間でも寝入ってしまう。

2020 12/14 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 凍(し)み蒼き田の面(も)に降りてみじろがぬ

雪客鳥(さぎ)の一つは父の霊かも    大滝 貞一

 

☆ こういう思いをするものである。死なれてなお愛し慕い畏 れてやまぬ子の思いである。しかし末句はややナマに物足りない。また、これだけルビに頼って歌うならば、微妙な「降り」にも「霊」にも欲しい。「おり」 「れい」と読んだが、わざわざ「雪」客鳥としてあるのだから、敢えて「ふり」とも読みたいし、「たま」とも時には「みたま」とも読みたくなる。

短歌表現とルビの問題は、もっと検討されてよい。 昭和五九年『白花幽』所収。

 

★ 病む祖母が寝ぐさき息にささやきし

草葉のかげといふは何処(いづこ)ぞ    岡野 弘彦

 

☆ 一首の歌が、言葉の上で歌いえている、なおその上の い わゆる「突っ込み」があるかないかで、歌の魅力は大きく変わる。この歌も、末一句「いふは何処ぞ」の問一問(もんいちもん)で尋常の域を突き出た。病みか つ死んだ祖母、というよりもおよそ「死者」なるものと不思議の問答をかくて作者は交わすことになった。

四句に至るゆるみのない具体的描写でこの間いを、観念の遊戯に陥し入れることなく、作者はわが心の内にも「死の世界」の所在を問う。問いつつ、生きてなお人のわざの重く貴い現在を感じている。

ここに沈潜した愛は始原のものだ。 昭和四七年『滄浪歌』所収。

2020 12/15 229

 

 

* 日野正平が、自転車で自、今治市、しまなみの伯方島へ渡っていた。伯方にくっついた隣りに能島があり、能島の海底では『花方』の「颫ぅ」ちゃんの親族たちが、私の生母らもいっしょににぎやかに暮らしている筈。「颫ぅ」ちゃんも帰っているだろうか。いやいや、いまも此の私の部屋でおとなしく本を読んでいるのかもしれぬ、ウカとは呼ばないが。

2020 12/15 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 玉棚の奥なつかしや親の顔    向井 去来

 

☆ 神棚くらいに「玉(魂)棚」は取っていいだろう。神棚のわきに正月に限って新しく設ける玉棚もあるけれど、意味は神棚にほぼ同じい。日本の神は、ほとんど先祖神の意味にも同じいのだから。

「追悼」の意はこの句から容易に汲みとれる。近代の歌ほど深刻の表現ではないが、おそらくこの「追悼」には、なにか事あらたまってのハレの感情も加わっているのかも知れない。日本人が「おめでたい」とものを思うような日に起きがちな「なつかしや」の気持ちでもある。

死ぬことをおめでたくなると言う土地もある。亡き「親」は、もう神に近い存在になっている。作者は言うまでもない松尾芭蕉の高弟。

 

★ いくそたび母をかなしみ雪の夜

雛の座敷に灯をつけにゆく    飯田 明子

 

☆ 「かなしみ」には、愛しみと哀しみとの重ねを読みたい。どこにも「母」がもう故人であるとは無いが、母が遺愛の雛を座敷に飾っている人自身が、もう娘をもった母なのだと読める。私はそう読む。

母がなつかしく、だから愛しく、かなしく、日のあるうちから繰返し思い出されてならなかった。そして雛祭りの夜も更け、幼い娘たちはもう床に入って座敷 に灯は消えていたのだが、やはり母のことが思われてならぬままに作者は、ひとり「母」と声なき会話をかわしたくて、座敷へそっと「灯をつけにゆく」のだろ う。

事実は知らぬ。説明がましいことをつい言いたくなるほど優しい、しつとりと流れる調べの、いい歌だ。 昭和五〇年『唖狂言』所収。

 

★ 庭戸の錆濡れてありけり世にあらぬ

父の家にして父の肉われ    河野 愛子

 

☆ 昭和四七年『魚文光』所収の、渋い味わいに言いがたい魅力のある歌。

雨のあとでもあったろう、「庭戸の錆」が「濡れてあ」る亡き父の家へ、その家に今は住んでいない作者が、しばらくぶりにでも訪れ寄ったか。こういうとこ ろは、読者も、歌の状況へ想像の視線をこまやかに走らせて欲しい。この作者の視線は敏感に、かつ個性的にモノをとらえている。「世にあらぬ父の家」では、 もう、あのよく行き届いた父の目ははたらくべくもなく、ふとしたところに父非在の現実が致しかたなく目につく。「父の肉」であると痛感できるような娘なれ ばこそ目につく。それを誰に訴えもならぬまま作者は、今ぞ身にしみて「父の肉われ」と胸の底から歌わずにおれない。

せつない死者との共感であり、身に痛い喪失感に思わずたじろぎそうな追慕である。「われ」という異例の歌いおさめがよく利いている。

 

* 歌をよみながら、ほろと、熱く涙した。しかし、此の俳人も歌人らも、父を慕い母を恋い「しあわせや」としみじみ想う。

わたくしたちの行方も安否もしれない娘は、今、どこでなにを想い、どうしているのだろう。

2020 12/16 229

 

 

* 心重いまま、甥の恒がつくって置いてくれた実兄、北沢恒彦遺著の『隠された地図』巻末の「年譜」を通して読んだ。何をあらためて云うことはないのだ が、心しおれた。母ふくも、父恒も、兄恒彦も、大きく大きく「生き残し」たまま、自死かそれに斉しく、世を去っている。病で、とばかりは言い終え得ない死 に方をしている。とはいえ、双親が、恒彦と恒平とを世に遺したのは(敢えて云うが)手柄であった。残念なことに思想家で活動家で社会人として北沢恒彦が闘 いつづけた願いは、いま、日本の國では気息奄々として気配ほども感じにくくなったのが、痛恨の思い。

兄は 母や父に似て、ロマンチックなリアリストのまま栄養失調に近く生きて死んだようだ。

生まれながら親とも兄とも触れることなく生きた私は、「秦」という家に育てられた幸いをひたすら我流に造形できた。京都、日本そして歴史と言葉と、更に 云えば愛を、私は贅沢なほど貪食してこれた。それが本当に幸福で良かったかどうかなどは、自身で言うことでも言えることでもない。

ただ ただ いま 切に切に兄に会いたい。兄は ただただ「いつも」励ましてくれる人だった。わたしは、いまもまだあの兄に「はげまされたい」「はげましてほしい」のである。

2020 12/16 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ お父様 ほんとは一番愛されたと

姉妹はそれぞれ思っています    利根川 洋子

 

☆ この一首に出あったとき、私は、女学校のしずかな校舎でふとつつましやかな合唱の声を聞いたような心地よい微笑に誘われた。なまじな説明を一切要しない、しかもこれも「うた」には相違ない。佳い歌だと思う。

「お父様」で、一字分あけた表記も利いている。感傷に堕していない短歌表現の妙味を汲む。 「かりん」昭和五八年五月号から採った。

 

★ 亡き父をこの夜はおもふ

話すほどのことなけれど酒など共にのみたし    井上 正一

 

☆ 十分の出来ではない。だが「うったえ」は強い。第三、四 句の大きな字余りに難があるのではない、ここは、うち口説く感じがそれなりに調子づいて出ている。私が不十分と読むのはむしろ「おもふ」三字の含蓄の薄さ だ。ここはもっともっと切実な心の嘆きや寂しさが的確に表現されて欲しいところ。こういうことを作者が「おもふ」のは、よくよく生き苦しく辛く寂しい事件 がこの日にあったのだ、Tが、男の世界ではそれをどこへ訴えることも成らぬ場合が多い。

あんなに邪魔に思い煙たく感じていたおやじの顔が、そんな「夜」はふッと目の底をはしる。酒がのみたいなあ一緒に。「父」なればこそ、何をことさら話し 合う必要もなく励まされも慰められもするだろうと、作者は、やっとやっと「父」を全身に感じている。 昭和五三年『冬の稜線』所収。

 

* この井上正一の歌には、泣かされた。どう取り返しようもない悲しさに泣かされた。

* 不調極まってなにも出来なかった。床についても強い「不安感」に、「死期」にまで迫られる体調 で、異様だった。ナチに抑えられていたローマのユダヤ人らの必死の逼塞をテレビで観たり、東京コロナの爆発的な増加を聞いたり。自分が、ちっとも強い人間 でないのが分かる。それ自体は構わないが。

2020 12/17 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 子を連れて来し夜店にて愕然と

われを愛せし父と思えり     甲山 幸雄

 

☆ 「愕然と」が、とくによく利いている。これはもう「悟 る」というに近い、「突発的な自覚」なのだ。真実思い当たったのだ。だから下句のナマな物言いにかえって率直な面白い効果がでて来る。まこと、「子をもっ て知る親の心」であったろう。あああの「父」ったら、いつも心のよめないむずかしい顔ばかりしてウンザリだったけれど、あれと同じ顔をいま、俺もしている じゃないか……その俺にして、夜店に連れ出したこの子が内心可愛くてならない、のなら、「父」も…そうだったのか。俺を「愛」してくれていたのだったか。

ちと面映ゆいが 微妙に心嬉しい一瞬にふれ、胸も暖かくなる。短歌は、斯く歌いたい。 昭和四五年『ひたいと耳』所収。

 

* 35年も昔のわが著書ながら、並ぶものない、「読みの名作」と読者からほめて戴いた嬉しさがいまも熱い。創作のほかで胸にしみいる本をと望まれたら、今も躊躇わずこの一冊を選ぶ。まだまだ先があります。味わって下さい、こんな剣呑な時節なればこそ。

2020 12/18 229

 

 

* 衰弱ということばが忍び寄る。活気が沈滞している。

気忙しくならず、骨休めの時季と思えばいいのだ。没入できる本を、もう幾作か選んで枕元へ置こうと思うが、気づいてみると、少年の昔没頭できた十九・二十世紀泰西文学へ心誘われていない、不思議なほど。

藤村、漱石、潤一郎などへ帰ろうか。

わたし自身の小説作を選集本で読み直そうか。なんだか、お別れするみたいで景気が悪いが。

いっそ新しい「湖の本」の難儀な校正刷りが届いたら、イヤもオウもなく没頭できるかも。

 

* 印象畫『澄秋』と題された「木守り」の「一つ柿」が静かに美しい。

2020 12/18 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ これひとつ生母(はは)のかたみと赤き珊瑚

わが持ちつゞく印形(いん)には彫りて    給田 みどり

 

☆ 昭和三九年『むらさき草』所収。 「生母」は「はは」と 読んであるが、「せいぼ」と字余りに読んでかえって「赤き珊瑚」の句座りに旋律感が匂う気味もある。生みの母をよくは知らない、ないし覚えないで成人した 作者のかなしみ。満たされざりし愛が愛を呼んで、ひとつの印形(いんぎょう)に凝った。母から貰い受けたものは珊瑚「だけ」でなかったのだ、女らしい優し い「名」もあったのを、作者はいとおしむ思いで言外に歌い籠めている。

給田先生は 私を母かのように愛して下さった京都の新制中学時代の先生。短歌づくりも教わった。読書も教わった。夏休み中のある日に、ふっと家のまえに 立たれ、私を、奈良の薬師寺と唐招提寺へ連れて下さった、お寺にも仏像にも、解説めく何ひとつも無しに。しかしあの日のそれは多くを私は覚えている。あの 日にも幾つも私は歌を創った。

 

★ この鍬(くわ)に一生(ひとよ)を生きし亡き父の

掌(て)の跡かなし握りしめつつ    佐竹 忠雄

 

☆ さきの歌の「印形」と同じ象徴的な意味が、この歌では 「掌」の一字に凝っている。「手」から「手」へ、人の営みの意味も実績もが伝え継がれて行く。必ずしも父の農業を子も継ぐとは限らず、もうすこし内面的な 受け渡しが「手」や「掌」を経て成される。だからこそ、思わず「握りしめ」るのだ。 「多磨」昭和二一年二月号から採った。

 

★ 明珍(めうちん)よ よき音(ね)を聞けと火箸さげ

父の鳴らしき老いてわが鳴らす    藤村 省三

 

☆ 初句は、「この火箸はモノがいいんだよ、明珍の作なんだ よ」という直接話法。「明珍」は具足鍛冶師で、他に火箸や鐶や鈴(りん)など茶道具の名品も多く製した作者の家名。金の含量が多めで、チーンチーンととて も佳い音色がする。今は亡い父の自慢の品で自慢のしぐさだったのを、いつとなく年老いて自分も、そっくり踏襲しているのだ、苦笑いの内にも、感慨深いもの がある。

作者のまぢかで自慢の「しぐさ」に小首をかしげているのは、はたして子か、孫か。

私も子供の頃、叔母の茶室で実はよく鳴らして遊んだもの。 「国民文学」昭和五〇年八月号から採った。

 

* いい思い出が、じつに無尽蔵にある。そういう一つ一つは、言い換えれば私が多く愛されていたということ、それを、今にしてしみじみ思い当たるのでは、疎いなあ。

2020 12/19 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 春の日に人はゆらりと土橋(どばし)すぎ

父の在処に雲雀はうたう    村松 静子

 

☆ 作の事実には背くのかも知れないが、敢えて想うまま読み たい。「在処」は「ざいしょ」でもよく、しかし私は「ありど」と読んだ。雲雀うたうのどかな現実の村里に、父は生きて今も健在なのではなく、父の魂ははや 昇天して、現実にはその父の葬列が奥津城(おくつき)へゆっくり向かっているのだ。晴れた春の日だ。

「土橋」は、死んだ者と死なれた者との「在処」を分かつ境界。「ゆらりと」に、人手に運ばれ境の橋を渡されて行く死者の柩の重さが、みごとに表現されて いる。絵か夢かを見るようなこの暖かい描写に、父の死後を祈る愛がにじみ出ている。 「かりん」昭和五八年五月号から採った。

2020 12/20 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 夏は来ぬ昔伽耶山の眉の月知らざれば遠き母のまぼろし   馬場 あき子

 

☆ 正直のところこの歌がいい歌なのかどうか、私に自信のも てる判断はない。歌われていることも、的確に分かっているわけでない。しかもこの歌、「母」を知らぬ私には、忘れがたくいつも口をついて出る。唐突な「夏 は来ぬ」の、一首にしめる必然はつかみおおせない。「夏は夜、月のころはさらなり」か。そこに遠く喪失した「母」初原のイメージが結ばれて行くのは、私自 身の実感でもある。実感に添うて感慨をつよく喚び起こす歌。

理についた解釈ばかりが大事なのではあるまい。琴線に触れる。それでいいと思う。この歌人の作で心惹かれるのは、いつも、こうした「母」の歌である、私には。出会いであろう。 昭和五四年『雪鬼華麗』所収。今ひとつ挙げたい。

 

★ 母を知らねば母がくにやま見にゆかん

ほのけき痣(あざ)も身にうかぶまで   馬場 あき子

 

☆ 魅力は下句の「ほのけき痣も身にうかぶまで」に尽くされている。愛以上のほとんどこれは「恋」である。他の言葉に置きかえての翻訳や説明を拒絶した、絶対にちかい表現になっている。それでも分かる。私は「詩」とはそうしたものでありたいと思う。

機械的に言葉の解説力に頼った詩歌の拙い翻訳や現代語訳を、だから、私は嫌う以上に憎みさえする。それは「詩」の、「言葉」の暴力による扼殺である、本歌取りの創作ならばまだしも。 昭和五二年『桜花伝承』所収。

2020 12/21 229

 

 

* 85年前、たしかなこと、私はどこでどう生まれたのだろう、京の「西院」と戸籍謄本にはあるが、助産婦の家かのようにも想われる。「西院」という土地 を私は実は何も知らない。『オイノ・セクスアリス ある寓話』では「西院」を大事な地ないし心身の古跡として書いたけれど、知識に類するところは外から、 書き物などで得たのであり、わたくしの実体験には無い。また無いからこそ、上の長編では身にしみて懐かしく恋しいほどに思いを深めて書いている。先日、西 村テルさんは、『オイノ・セクスアリス』がきみの゚代表作と指摘してくれていた。完全なフィクションのなかに「思い」が籠めてある、読み返しはじめて、 あ、この「語り口」は私のかつてない発明だなと思った。フィクションだからこそ私はそこに本音をしみこませている。それは、続いて書いた平家異本の『花 方』にも色濃い。『畜生塚』や『慈子』の境涯からここまで歩いてきたんだと、今、しみじみ思われる。

2020 12/21 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 墓石の裏も洗って気がねなく

今夜の酒をいただいておる    山崎 方代

 

☆ 親の墓なのだろうか。「いただいておる」という表現にそう読みたい気分がある。しかし実は吉野秀雄の挽歌だった。「短歌」昭和四二年十月号から採った。

いわば師父の慈愛でありいわば弟子の敬愛である。生死の境を超えた対話があって面白い。このまま、ここに置く。

 

★ たふとむもあはれむも皆人として

片思ひすることにあらずやも

 

今にして知りて悲しむ父母が

われにしまししその片おもひ    窪田 空穂

 

☆ 昭和二六年『冬木原』所収のこの歌をはじめて知ったと き、私は、横びんたを張られた思いをした。「片思ひ」三字に見抜かれた、おそるべき真実。愛というも恋というも、尊敬といい思慕というも、本質においてど こか「片思ひすること」ではないのかという認識。その認識の上に立って第二首めを読むとき、私は重い首を垂れるしかない。

わが親の、子へ、まぎれないこの自分へ傾けてくれた愛は、みんな親から子への「片思ひ」だったか。いや、子の我の心なさで、力ずくその海山の愛を「片思ひ」と同じ結果に終わらせたのではなかったか。

作者は親として、父として、今、その「片思ひ」をしていればこそ、痛切に亡き親たちの心が分かるのだ。世にありとある親はそう思い、世にありとある子も、いつかきっとそれに気がつく。

人間のすることは、いつも、なにかから、一歩も二歩も遅れている。

 

* 空穂(うつほ)の歌に泣けないような人間でいたくない。

2020 12/22 229

 

 

* 変なことを云うが、いま、この前の行文の「結び」を、

「つい背へ掛け回して温まっている。」  と結ぶか、 「て」音の重ねを避け句点「、」を一つはさむか、しばらく思案していた。この「私語」は、そうい うことで、文のつくり、推敲の実習場に意識して利用している、いつも。いそいで、慌てて粗雑になっている例が多く、独り恥じ入っている。文章の生き、息、 の、良さ悪しさは意味を抱いた語彙よりも、助詞、助動詞の「音」勢が支配してくることが多い。小説を書き始めた頃からそう気づいていた。そしてなかなか、 うまくは行きません。

2020 12/22 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 親への愛

 

★ 百石(ももさか)ニ八十石(やそさか)ソヘテ給ヒテシ、

乳房ノ報(むく)ヒ今日ゾワガスルヤ、

今日ゾワガスルヤ、

今日セデハ、何(いつ)カハスべキ、

年モ経ヌべシ、サ代(よ)モ経ヌベシ。

 

☆ 「親への愛」 この項の最後に、いわゆる「和讃」のなかから、比叡山所伝の「百石讃歎(ももさかさんだん)」をえらんでみた。

文字どおりの、深い歎きである。気がついていて 為すあたわない嘆きである。

なんという、なんという愚かな私だろう……。

生みの父母には顔も知らず死なれてしまった。

(一九八○年代後半の現在=)八十路を超えて生きにあえぐ育ての老父母たちは、遠く故郷(京都)にうち捨てて顧みていない。 胸の内に、すでに地獄が在る。

2020 12/23 229

 

 

* 居間の棚、観音像のわきに高麗屋さんに戴いた深紅のポインセチアの鉢、持田晴美さんに戴いた濃紫に華奢なミディ胡蝶蘭、そんな居間からはテラス越しの 書庫真正面の棚には、作家久間十義さんに戴いた清楚に丈高い早翠ともみえる白色胡蝶蘭・茶人吉田宗由さんに戴いた多彩な薔薇の花束が、華やかな盛りの色を 盛り上げている。

我が家の歴史で、いっとう花やいで歳を越してゆく一年になるのたせろう。感謝しなくてはならぬ。

オーと思いつく誰よりも「大事な感謝」を捧げたい「今年の人」は、まちがいなく、明治二年に生まれ、昭和二十二年に亡くなった秦の「鶴吉」祖父だろう、 今にしてなお仰天してしまうほど貴重な漢籍や漢詩集や、日本の古典や巨大に重い事典・辞書などの「蔵書」を、まさしく「私・恒平のために」遺してくれたこ と。

『山縣有朋の「椿山集」を読みて』についで、もういちど山縣有朋の「覚悟」を問う一冊も用意できているし、いましも『史記列伝』に読み耽っている。与謝 野晶子の訳源氏物語よりはるか早く、四つ五つで秦家に入るはるか以前から『源氏物語湖月抄』の帙入和本も、真淵講・秋成訂の『古今和歌集』や、『百人一首 一夕話』だの『神皇正統記』『日本外史』『歌舞伎概説』だのと範囲は広かった。

幸いに私はそういう「本」という形に魅されて頁を繰らずに折れない「幼少」であった。よかったと思う、しみじみと。そして祖父への感謝を新たにする。

このごろは、『柳北全集』の数多紀行の名文や随時に呼吸でもするように挟まれるハツラツの漢詩を、とても面白く楽しんでいる。こんな貴重本、いまどき欲しいと探しても、神田ででも難しいだろう。

 

* このまま棄てちゃうかと、一山に括った荷を物置から出して、自身の原稿や作の初出誌や初出本だと気づくと、「待てよ」となる。今にして「寶」のようなモノが束ねてある。ウーンと、参ってしまう。

朝日文芸文庫が今も刊行され続いてるか知らない。新刊ピカピカの岡井隆編著『現代百人一首』が混じっていて、まちがいなく私も「百人」に加わり「一首」 を採られて、岡井さんの感想や批評が添っていた、記憶はしていた、本が何処にあるかは忘れ果てていたのだ。読み返してみると、面白く、興深く、なにかしら たしかに「歴史」を成している。

釈迢空の「たゝかひに果てし我が子を かへせとぞ 言ふべき時と なりやしぬらん」を第一首に、斎藤茂吉の「あかがねの色になりたるはげあたまかくの如 くに生きのこりけり」を第百首に、百人百首が読み出せる。第四十首に俵万智がいて、私は第六十首にいる。第八十首に斎藤史がいて第二十首に大橋巨泉がい る。もう亡くなってしまった懐かしい、今も若々しい歌人の名がたくさん採られてあって、これはとても棄てていい一冊ではなかった。

 

* 「初出」本というのは、当人には{個人史}的に、時に{研究者には論考のベース}になる大事な用の残ったモノであり、一作家一批評家が生涯の「稼ぎ」 の種だったモノ。ことに私のように百冊も単行本の類を出版していても、一冊一冊が地味で「稼ぎ高」に大きく寄与しては呉れないが、出版百冊分のいちいちの 原稿枚数への原稿料積算となると馬鹿にはならない、現に私はこの老境をほぼゆっくりと好きに生活していられる。初出原稿というのは「書き手」にはそれこそ が「稼ぎ」なのである、昔風には原稿用紙一枚の原稿が数千円という具合に。

 

* 上野千鶴子さんが、岩波で新刊の『近代家族の成立と終焉 新版』に手紙を添えて送ってきて呉れた。江藤淳に触れて書いてあるのを「読んで」と。東工大 教授へわたしを推薦しておいて慶応へ「帰って」行ったといえるのが、江藤淳。上野サンとは思想的に合うという人でなかったが(上野さんがそう云うている) が、批評家としては「戦後批評の正嫡」と尊重していたらしい、そういうことはあり得る。私は、生前の江藤さんには 彼のなにか大きなお祝いゴトのパーティ で、かなり遠い場所から、しかし、丁寧に黙した一礼を送り。すると打ち返すように江藤さんはすてきに穏和な笑顔で返礼された、その一度しか会ったことがな い。東工大の「と」の字にもお互いに触れなかった。その後に、最期ちかくに、二冊、自著を送って下さった。

江藤さんのの亡くなった衝撃のまま、後半季を黙々耐えて、今度は歳末ちかく実兄「北澤恒彦」に同様に自死された。いまも残ってある『湖の本エッセ1イ20 死から死へ』(2000 2 20刊)は、その折りのいいよう無かった痛苦の名残だ。

 

* この二三日、自分の『オイノ・セクスアリス ある寓話』を読み返していたが、この長編作の前半

をかなりの気負いと勢いとで爆走いや無茶走りが出来たには、察している人が多かろうか上野千鶴子編輯の、ウーマンリブ生き残りたち合巻共著を無礼なほど踏 み台の一つにしていた。上野さんの本は沢山もらっていて、かなり読んでいる、手堅い論考ものなどを、むしろ気を入れて読んできた。ま、私はシンパシィのあ る方の上野読者なので。ま、彼女やそのお仲間たちへ都合良くツケをまわしたりしてわたしはあの新しい「セクスアリス」を、あれこれと引き出しの隠し戸から ひみつの「私自身」を楽しんだのだった。 「近代家族」が「終焉」したのか変容しているのか、その辺は上野新著でまた勉強しましょう。

2020 12/23 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 血縁の愛

 

★ 捨てかぬる人をも身をもえにしだの

茂み地に伏しなほ花咲くに     斎藤 史

 

☆ 「え にしだ」に「金雀枝(えにしだ)」と「縁(えにし)」の重ねを読み、しかもここは地縁や職業の縁であるより、重い血縁の思わず地に伏すほどの「茂み=しが らみ」と読んだ。一首の高揚は、むろん、それでも「なほ花咲くに」の感慨に在ろう。ここにこの詩人の不屈の人間愛がある。「捨てかぬる」のである、重い思 いには遁れようもなく相違ないのだが。

姿、調べ、思い、滞ることなき「表現」の美と質感である。 昭和五一年『ひたくれなゐ』所収。

 

★ 傘を振り雫はらえば家の奥に

父祖たちか低き「おかえり」の声    佐佐木 幸綱

 

☆ 私らが子供の頃から遠く仰ぎ見て、海山の学恩も被った佐 佐木信綱。そのような欝然たる大家を祖父にもった人の作とは、敢えて考えないでこの一首を読む道もある。「父祖たち」というほど、切実にいつも大きくは考 えていないにせよ、大なり小なりこれは「子孫」が共有してきた「家」の威圧であり、安堵であるからだ。

「家の奥」が、つよいイメージを持ちえている。

「おかえり」にも象徴的に重く強いる響きがある。こわいと思い、うとましくさえ感じ、しかもいつの間にか「おかえり」と家の奥でつぶやいている、自分。 自分はそうはならぬと言うは易く、だが逃れられない呪縛に安住もし服従もする日がやがて来る、そのおそろしさへ 早や断念すら兆している。「傘」「雫」 「振り」「はらう」も、ある日の作者の状況というだけでない、しとっと重く湿った余儀ない心象への「縁語」と読むべきだろう。 「短歌現代」昭和五七年三 月号から採った。

2020 12/24 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 血縁の愛

 

★ こころ濡れて親族は垣つくれども

われはさぶしゑ父に価(あた)はねば     岡井 隆

 

☆ 単に「父と子」との関係が孤立して在るのではない。まま、親族に囲まれてそれは在る。葬儀や法事の際にはそういう垣根が堅固に目に見える。捨てかねる「えにし」の輪だ。

いやおうなくその輪の中で、垣の内で、子は父との「相い対」を強親族や知人らから強いられる。容赦ない比較の視線を浴びる。浴びなくとも浴びる気がする。

人の世を「親族」として羽翼を張ろうとする隠れた意向は、まだ、個人の行動や思想をすら制限している。この歌の「こころ濡れて」では、おそらくは垣内ら が挙って「父」をいたむ情緒がいわれているのだろうが、「親族」なるものの濡れた、ウェットな結ばれようもこの一語で批評されていよう。

それにしても「われはさぶしゑ」には、賛成しない。あつあつの飯に冷や飯が混じったような白けがのこる。いっそ「俺はさびしいぞ」とぐらいに率直に歌って欲しい。また上句、「垣を」と一字送って欲しい。 『人生の祝える場所』所収。

付け加える、「価はねば」には、人、男同士としての値うちばかりが謂われているのではなかろう、「子」として父に対しふさわしい懐かしい自分であり得たろうかという慚愧の念にも傷むことであろう。私は、実の父の死に顔をほとんど生まれて初めてみたのだった。

2020 12/25 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 血縁の愛

 

★ 家族とも言えど異なる部屋に居て

人はひとりで生きているなり    冬道 麻子

 

☆ すぐれた歌だと思う。何の説明の要もなく、大きなことを しっかり口にだして教えられた気がする。事実はこの歌のようでないという感慨も私にはある。その感慨に立ってこの歌を読めば、一首は毅然と人間の自立を勧 め、癒着しがちな「家族」なる関係過剰を本質から批評しているようにも読める。銘々に「ひとり生きている」現実を、力づよく肯定していると読める。

だがまったく逆に、分裂し分散した「家族」の現実を批判しているとも取れる。あるいは表面は癒着しながら、実情はみなバラバラに「異なる部屋」を心に持ち、「ひとり」に閉じ龍もつていると批判、または批評しているのかも知れぬ。

「家族」について日本では、まだ一般には思索も反省もはとんど行き届いていない。「現代」がそこまで成熟しないまま「風俗」ばかりが疾走して行く。

まだ年若いといえる作者は、想像を越えた重病の床から、そういう「日本」を澄んだ目で見つめている。どう読むかは、読者が問われている、のである。 昭和五九年『遠きはばたき』所収。

 

★ 家族とふ毒を煮つめて吾ら居れば

赤の他人来て清く呼ぶ声    佐々木 靖子

 

☆ 「家族」をうたった詩歌は、例えば「子」への愛を歌ったそれとは、様子がだいぶ異なる。「親」を歌った詩歌にも愛憎の思いは交錯するが、そこには他人に成りようがない宿命とあらがう感情が濃い。

これが「家族」という単位に拡大されると、ここに「他人」の要素が利害からんで毒の味を生み出す。「夫婦」ももとは他人なら、「兄弟」は他人の始まりという警句もある。しかも「赤の他人」というほどに割り切れた道は望めない。親族が加わればもっと毒の味も濃くなる。

「家族」の愛は清いものと限らず、修羅と相剋の渦に毒気を煮つめている場合、少なくない。そういう渦のさなかへ何げない「赤の他人」が舞いこんできた時の銘々の反応やいかに。

この歌が実際にどんな状況を具体的に歌っているのか私は知らない。知らないから自由に想像しても読める。読者である私の、それは権利である。

この「家族」に例えばお嫁さんが加わって、ほがらかに甘い調子で新婚の夫を呼んでいるのではないか。「家族」の歴史も癖も利害も良いも悪いも、およそ何 ンにも知らないで来た新参の「他人」の、無責任とさえ取れる屈託ない「声」に、一同バカらしいハラ立たしい、だがいちまつホッと心和む思いで、すばやい目 まぜが交錯する。

凄い、が、そういうものかも知れぬ。 「人」昭和五八年十一月号から採った。

2020 12/26 229

 

 

* 郵便物には当節のこと活字モノが断然多い。

今日来たなかでは、例年正月に公表二月に授賞式や会同の「京都府文化功労賞」の連絡によると、授賞式は受賞者だけで行いお祝いのパーティなどはコロナ 「中止」と。仕方ないですね。私が受賞の時は、授賞式やパーティに私自身が欠席した、体調のためであったろう。ごめんなさい。

郵便物のなかに、日本文藝家協会事務局から、これで何年がけ何度目になるか、私の「マイナンバー」を提出せよと。完全に「個人情報」そのものであり、 「国会成立」の際にも、公開や伝達を強いられるモノでないとの「国会確認」があった。協会は、何を考えているのか。文化庁など國が強いてくるのか。大きな 考え違いをしてませんか。

 

* 雑誌類で表紙目次をみる私一の楽しみ本は、汲古書院の古典研究会編『汲古』の目次。眺めるだけで慕わしい別世界へ顔を寄せる気がする。今日は第78号が届いた。目次の、第一行が、

伝後鳥羽天皇筆 古今集切の出現   岡田直矢       以下少しく

「倉庫堅完破」条の運用と量定基準 熊本藩「刑法草書」の分析を通じて  安高啓明

李鼎祚『周易集解』の流伝   藤田衛

ほかにも気を惹かれるのが三、四。心惹かれじつに興味深い探求や考察に引き入れられる。

「汲古」とはじつに懐かしい一語。しかし此処へ論題だけここへ引くにも、漢字がどうしても見つけられないのがあり、こういう世間がいつも私の「興味」という尻尾にブラ下がっていて、時には佳い安静薬になってくれる。

文藝家協会やペンクラブは、どうもこういうわけに行かない、タチが違う。

2020 12/26 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 血縁の愛

 

★ 君を打ち子を打ち灼けるごとき掌(て)よ

ざんざんばらんと髪とき眠る     河野 裕子

 

☆ もっとも豊かな感性で現代の女歌をリードしている若手の 旗手。『森のやうに獣のやうに』で注目を浴びて以来の活躍はめざましい。一瞬に金無垢の炎と燃えあがれる語感の魔を秘めている。歌のなかで火の玉になって しまうような歌人はそういない。この歌など、他に余分な何を言うこともない。 惜しんであまりにあまりある足早な生涯であった。 昭和五七年『あかねさす』所収。

 

 

★ 起き出でて夜の便器を洗ふなり

水冷えて人の恥を流せよ   斎藤 史

 

☆ 友らに、父に、母に、夫に。多くの最期をすべて目をそむけることなく見据えて来た、毅い詩人の愛の歌。「水冷えて」の一句に籠もる清冽の詩魂を汲み たい。「冷え」はふつう心理的には負の印象に結ばれ易いのだが、ここでは「便器を洗ふ」「恥を流」すという意図に応じて、極まりなく清く、清まわる印象を 喚起し、ほとんど呪術的効果を挙げている。結びの句の祈願に愛がほとばしる。何の奇矯な字句も技巧も用いずに、心から溢れ出る「うったえ」を果たしてい る。

蕪雑に言語と文字とをあたかも玩弄して得意顔の無感動現代短歌の数々は恥じよ。

言葉を生かして、詩化して、深く感動して歌わねば 「うた」には成らぬ。 「短歌」昭和五九年七月号に引かれていた歌を採った。

 

* 与謝野晶子はともかくとして、わが近代短歌史の女性歌人として、斎藤史と河野裕子とは 忘れてはならぬ。

2020 12/27 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 血縁の愛

 

★ 夜半にさめ涙ながれぬ夫(つま)や子と

生きたき希(ねが)ひせつなくなりて    前山 潤

 

☆ 直ちにこの表現ひとつで佳い歌とは思いにくい。読者は言外を汲んで想像力を用いるしかない。たとえば作者は重い病気で、生命の危機に今あるのだと。危機感を共有することが深ければこの一首に同情を寄せるのはたやすい。

「夫や子と生きた」いとひしと願われる思いには、自身の悲しみを越えて妻を死なせ母を死なせる夫や子の悲しみが、先取りされている。そこを見落としては甘くなる。

表現は稚拙だが、「うったえ」る力はある。どう技巧的にうまくても、この「うったえ」の力ない歌は心に残らない。 昭和十六年『前山潤歌集』所収。

2020 12/28 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 血縁の愛

 

★ 石斑魚(ゴリ)鳴いて母と娘の浴(ゆあみ)哉    池西 言水

 

☆ こういう光景は一生に一度も見られない世の中になって来た。佳いものだろうなと想像され、心懐かしさに採った。「石斑魚」はいわゆる「かじか」のこと。だから鳴く。清い山川の瀬音も響いて来る。江戸時代前期の俳人の作。 『遠眼鏡』所収。

 

★ 我にあまる罪や妻子を蚊の喰らふ    吉分 大魯

 

☆ 与謝蕪村の弟子。「妻児が漂泊ことに悲し」と詞書があ る。数奇の後半生を送った人で、家族にも重い負担を強いねばならなかった。真実味のある句で、しかも余裕がある。いや余裕と取るのはやはり酷なので、作者 のまごころには、妻や子を蚊が喰うすら己が大罪に感じられるのだ。「我にあまる罪」とは、背負い切れない罪であり、どうにもしてやれぬという無力感と大罪 責とを共に言い籠めている。 『蘆陰句選』所収。

 

★ 諸共に住めばかしまし

諸共にすまねば寂しうたて妻子(めこ)ども    大隈 言道

 

☆ 江戸時代末期の歌人。「妻子」と題がついている。「うたて」は、「あーあ、どう仕様もない」慨嘆。述懐歌、まぁ、率直なだけが取柄。近代短歌のはしりとも言えよう。 2020 12/29 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 血縁の愛

 

★ 霧立てる秋の夜なり弟よ

いにしえびとは〈わが背子〉と呼びき    日吉 那緒

 

☆ 萬葉集のいくつかの歌、たとえば大和へ帰す大津皇子見送った姉大伯皇女の「わが背子を大和へやると小夜ふけてあかとき露にわが立ちぬれし」といった歌を作者は十分念頭に置いて、「弟よ」と呼んでいる。大津皇子の時はまさに死地にやるのであったから、いたましい。

この歌にそこまで読んでいいか、いとも平和な 「かりん」昭和五八年二月号の発表歌だから、そうまで読み切れない。そのかわりいろいろに場面は想像が利 く。十代の姉弟、二十代、三十代の姉弟で情感も大いに異なってこよう。が、古典趣味の優しい諧謔に、溢れる愛情を託したと取ることは出来よう。

むろん内心に呼びかけているので、「弟」へ、こう言葉を直かに用いているとは思わない。弟がどこかへ旅立つ間際の歌と本歌からして取るべきならば、たんなる夜発ちの若者らしい現代の旅行とも、戦地へとも、いやいや取り返しつかぬ挽歌とすらも十分読める。

作者を離れ一首の歌をいろいろに読み込むことは許される、節度と自由ある読者には。愛する「弟」をもった「姉」たちは、この歌をさまざまな状況に応じて共有していい。

 

★ 陽をあびて畳にねむるおとうとよ

青年となりよき恋をせよ    正古 誠子

 

☆ ふっと口をつぐませる歌だ。なにか言いかければ、この歌 の佳い余韻を殺してしまいそうだ。深読みせず、この言葉どおりに、それもつとめて生直(きす)ぐに健康に私は読みたい。上句の「おとうと」の姿態を、「青 年」以前のけがれなさ健康さで作者とともに受け入れたいからだ。

力のある歌いかただ。 昭利五七年『あけぼのすぎ』所収。

2020 12/30 229

 

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』

一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

 

☆ 血縁の愛

 

★ 初めてのわが口紅に気づきしか

口あけしまま見入る弟     中島 輝子

 

☆ この歌も、言葉に表れているかぎりでは説明も解釈もな い、簡明な作だ。ただの写生的な歌だ。だが「姉」が「初めて」「口紅」をひくという事は、そんな姉を呆然と見る「弟」とは、それが即ちもう人生の劇であ る。かりにこの弟がもういくつか年若ければ「口あけしまま見入」ったどころか、姉の「口紅」になど気もつかずじまいだったろう。もう少し年が行っていて も、こうは驚くまい、ひやかす位が関の山だったろう。

この歌で「姉」と「弟」とは、微妙に出会い しかも離れ始めたのである。「口紅」をひいた「姉」は、もはや「弟」だけの姉ではなくなっている。そう弟も姉も気づき始めた歌。

この歌が只事歌と見えながら心を惹くのは、その微妙なドラマのためだ。作者の意識より「歌」の方が先へ行って大きくなっているのかも知れぬ。 「ぬはり」昭和二六年八月号から採った。

 

★ 窓によりて夕となれば笛を吹く

妻の弟をさびしがりける    前田 夕暮

 

☆ この前の、中島輝子の歌の「姉」が人妻となってしまったあと、あの「弟」が「笛を吹く」のだと読んでみても、佳い。そういう「弟」でかつてこの歌の作者もあったか、すくなくも「妻の弟」の憂鬱が理解できる作者だった。

「笛を吹く」青年は何かを待ち、満たされぬ期待を胸のうつろに抱いている。メランコリックな青春の放心。一人の姉を人の妻にしてしまった弟の、そんな無意識の喪失感を当の姉の夫が察している。いたわり深い、内懐も深い一首。

この歌、「窓によりて夕となれば笛を吹く」だけでもまた別趣の、あえて俳句とは言わぬが、十分独立した詩句になる。 作者の著名な処女歌集明治四三年『収穫』所収。

 

★ 煙草ひと箱くれてやりしが何時までも

燈が点りゐる弟の部屋    佐藤 博

 

☆ 作者の言いたいすべてが、残りなく歌い切れているのでは ないか。そう思うほどこの際の「兄貴」と「弟」との、佳い歌になった。この際がどういう中身の「際」かはいろいろ想像してよいが、歌の芯は場面が変わって も揺らぐことはない。励まして「煙草ひと箱くれてや」ったのか、恵んだか、そそのかしたか、いずれ青年同士の兄と弟。「部屋」で、弟が今ほんとは何をして いるのか分からない。「何時までも燈が」ともつている、それだけを「兄」は知っていて、それだけで他人のうかがい知れぬ多くを「弟」の上に察している。満 足もし安心もしている。

ものがよく見えているためか、歌に律動する快感がある。 「国民文学」昭和二九年八月号から採った。

2020 12/31 229

 

 

*   大晦日。あらたまった感慨も用意もなく、昨日と明日のあいだとだけ、普通に過ごす、いや心持ちやすやすと何の義務感もなく、片づけ仕事もせず、のんびりと 酒を戴いて過ごすだけ。明元日のことも明年のことも思わない。東京へ出てきて、朝日子が生まれ建日子が生まれ、嫁いだ娘はともあれ、息子と共に祝わない雑 煮は無かったが、明日は夫婦二人だけの、つねの食事と同じに何身構えもない味噌雑煮を戴く。

 

* 今年は、紛れもなくコロナに逼塞を強いられて竦んでいる一年だった。来年とて感嘆には免れないだろう。

しかし仕事はした。「秦 恒平選集」全33巻完結は、神戸の岡田さんから「大偉業」と祝って戴いたのは気恥ずかしいが作家生涯の一つの山だった、『山縣有朋の「椿山集」を読』んで「秦 恒平・湖(うみ)の本」が150巻に届き、151巻も初校半ばというのも小さからぬ山であった。実に多くを読んだ歳であった。

 

* 気負わないで、健康と相談相談しながら新年を、幸いに元気にしている妻と、無事は無事に、有事は有事なりに賢く歩んで行こうと願っている。老齢と健康と、この二つとよくよく相談しながら、無理なことはムリと諦める落ち着きも失うまいと。

2020 12/31 229

 

 

* ほぼ十五、六年も愛用し続けた胸ポケット用のカメラ、コニカ・ミノルタの寿命が尽きた。からだの一部ほどに愛用し、たくさんな佳い写真をもたらし呉れたじつにいい写真機だった。アリガトさん。

さて、次なるソニー機、うまく馴染み合って、佳い写真が撮れますように。わたしは、自分の写真機を、欲しい欲しい欲しいと願い、高校三年頃に叔母の代稽 古を口実に、とうじで数万円もしたニッカ・カメラを使い始めた。佳い機械だった。だんだんと廉価のものへ換えていって、最期に軽量小型のコニカ・ミノルタ に到達した。買う時に、相手をしてくれた若い女店員に、「あなたのおじいさんに買って上げるとしたら、どれ」と訊ね、選んでくれたのを買った。大成功だっ た。

わたしは、写真機自慢ではない、しかし写真自慢とは謂えるかも。それを、このホームページにもいろいろ入れてきた。「保谷の大紅葉」も、「秋色三四郎の 池」も、八坂神社からの「夜色四条大通り」も、たくさんな木の花や草花も。小さな軽いソニー新機、うまく使えますように。

2020 12/31 229

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