◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
〇 これらの言葉を語り終わったとき、ツァラトゥストラは民衆にむかい、つぎのように呼びかけた。
「見よ! わたしはあなたがたに「おしまいの人間」を描いて見せよう。」
『愛とは何か? 創造とは何か? あこがれとは何か? 星とは何か?』ーーー『おしまいの人は間』はこうたずねて、こざかしくまばたきする。
そのとき大地はすでに小さくなり、その上に、一切を小さくする『おしまいの人間』がとび跳ねている。その種族(やから)は、地蚤のように根絶しがたいのだ、『おしまいの人間』はもっとも長く生きのびる。
『われわれは幸福をつくりだした』ーーと『おしまいの人間』たちは言って、まばたきする。かれらは生きるのに厄介な土地を見捨てる。温暖が必要だからである。かれらはやはり隣人を愛している。隣人にからだをこすりつけたがる。温暖が必要だからである。」
ツァラトゥストラは民衆にむかって、さらに言いつづけた。
(第一部 ツァラトゥストラの序説 五 の2 )
2023 1/1
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
〇 ツァラトゥストラは民衆にむかい、さらに言いつづけた。
「『おしまいの人間』が病気になることと、不信の念を抱くこととは、かれらにとっは罪と考えられる。かれらは用心深くゆっくりと歩く。石につまづく者、人間につまづき摩擦を起こす者らは、馬鹿者である!
少量の毒をときどき飲む。それで気持ちのいい夢が見られる。そして最後には多くの毒を。それによって気持ちよく死んでゆく。
かれらはやはり働く。なぜかといえば労働は恵みだから。しかし恵みがからだにさわらないようには気をつける。
かれらはもう貧しくもなく富んでもいない。どちらにしてもわずらわしいことだ。誰がいまさら人々を統治しようと思うだろう? 誰がいまさら他人に服従しようと思うだろう? どちらにしてもわずらわしいことだ。
牧人はいなくて、畜群だけだ! 誰もが平等だし、また平等であることを望んでいる。それに同感できない者は、みずからすすんで精神病院に入る。
『むかしは世の中は狂っていた』ーーと、この洗練された気の人たちは言い、まばたきする。
かれらは賢く、世の中に起こることなら、なにごとにも通じている。そして何もかもをかれらの笑い草にする。やはり喧嘩はするものの、かれらはじきに和解する。ーーさもないと胃腸を害するおそれがある。
かれらは小さな昼のよろこび、小さな夜のよろこびを持っている。しかしかれらは健康を尊重する。
『われわれは幸福をつくりだした』ーー『おしまいの人間』たちはこう言い、まばたきする。ーー
ここでツアラトゥストラの「最初の教説」は終わった。これを世に呼んで『序説』とも言うのである。
ここで終わったのは、このとき民衆の叫びと歓びがツアラトゥストラをさえぎったからだ。
「この『おしまいの人間』を、われわれに与えてくれ、おお、ツアラトゥストラよ」と、かれらは叫んだ。「われわれをこの『おしまいの人間』にしてくれ! そうすれば『超人』はあなたにあげる!」
民衆はこぞって歓呼し、舌を鳴らした。しかしツアラトゥストラは悲しんで自分の心に言った。「かれらはわたしの言うことを理解しない。」
(第一部 ツァラトゥストラの序説 五 の3 )
2023 1/2
* 夢は見ないで、寝ながら「唄」に溺れていた。「夕焼け小焼けの」だ。それも「赤とんぼ」でなく、「十五ぉでねえやぁは嫁に行き」の「お里ぉの便りぃもぉお、絶えはぁてぇた」の「おしまいの一句」ばかり。歌詞の記憶が正確かも確かめられないが「絶えはぁてぇた」ばかりが眠りの底へ蘇り続けた。
「十五でねえやは嫁に行」くとうたうのが、わたしは小さい頃、苦痛だった。数え十三で小学校をあがり、二年の「実務女学校」なるものが、わたしの母校校門からすぐ突き当たり横一字の木造二階校舎が建ち、二階の窓辺に「おねえさん」達がよく顔を出し談笑していた。其処へ進学して卒業すれば、ちょうど十五、「嫁に」行く、行ける歳であったのか。秦の叔母ツルもそんな学校へ通い、裁縫など習ったと云うていた。叔母は布かし習性嫁がなかった。
「開校一」によく出来たという秦の母タカは、富んでいた家が俄かに零落し、その程度の学校へも入れて貰えなかったのを生涯の無念残念悔しさに、九十六歳で亡くなるまで、話題が「学校」になると悔しがって泣いた。
「絶えはぁてぇた」「絶えはぁてぇた」と終夜、夢にわたしは口ずさみ続けていた、ようだ。そして五時前には床を起ってきた。わたしを底でとらえる価値観は、思想は、そんなメロディに養われてきていたワケだ。一言にして「感傷」か。後年、シラーと出逢って彼の主著の題にこの「二字」の含まれたのを見、粛然としたのを忘れない。
あまりに屡々言われたが、「変な人」であるのか、やはり私は。
2023 1/2
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
〇 ツアラトゥストラは悲しんで自分の心に言った。
「かれらはわたしの言うことを理解しない。わたしはこれらの耳に説くための口でない。あまりにも永いあいだわたしは山に住んでいた。あまりにもわたしは樹々や渓流の言葉にのみ耳を澄ませてきた。まわたしは山に暮らす山羊飼いらに向かい話すように、かれら街の人らにに語っている。
わたしの魂は、朝の山のように,端然として明るい。だがかれらは、わたしが冷たく凄まじい冗談をいう嘲り屋だと思っている。
いま、かれらはわたしをみつめて、笑っている。笑いながら、かれらはやはりわたしを憎んでいる。かれらの笑いのなかには氷がある。」
六
しかしそのとき、すべての口を唖にし、全ての眼を見はらせるようなことが起こった。すでにその芸当に取りかかっていた綱渡り師を、道化師ともおぼしき五色の衣装をつけた一人の男がとびだし、綱渡り師を綱の上においかけ、悪魔のような叫び声をあげると、綱渡り師の頭上を飛びこした。飛び越された者は、足を踏みはずし、手にした長い竿を抛りだし、真一文字に落ちてきた。みんなわれさきにと逃げた。だが、ツアラトゥストラはじっと立っていた。すぐそばに綱渡り師の身体は落ちてきた。男はまだ死んでいなかった。 (第一部 ツァラトゥストラの序説 六 の1 )
2023 1/3
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
〇 ツアラトゥストラは、じっと立っていた。かれのすぐそばへその綱渡りの男の身体は落ちてきた。男はまだ死んでいなかった。かれは自分のそばにツアラトゥストラが膝をついているのを見た。
男はやっと言った。「わたしは、悪魔がわたしの小股をすくうだろうということを、前から知っていた。悪魔はいまわたしを地獄に引きずってゆく。あなたはそれを防いでくれるというのか?」
「わたしは誓って言う,友よ」とツアラトゥストラは言った、「あなたが言うようなものは、何もかも実在しない。悪魔もなければ,地獄もない。肉体よりもあなたの魂の方が、さきに死ぬだろう。もう何も恐れる必要はない!」
ツアラトゥストラは、さらに言った、「あなたは危険をおのれの職業とした。それはすこしも卑しむべきことでない。いまあなたはあなたの職業によって亡びる。それに報い、わたしは、あなたを手ずから葬ってあげたい」
死にかかっている者はもう答えなかった。しかしかすかに手を動かした。感謝して、ツアラトゥストラの手を求めるかのようであった。
七
とかくするうち日は暮れ、広場は闇につつまれた。民衆はどこかへ去った。ツアラトゥストラは死者をかたわらにして地に坐り、孤独に物思いに沈んだ。夜が来て、風が吹いた。ツアラトゥストラは立ちあがり、自分の心に言った。
「まことに、今日、ツアラトゥストラは人間を得ることなく、死体を漁り捕らえた。
人間の存在は不気味で、依然として意味がない。一道化師さえ人間の不幸な宿命となりうるのだ。
わたしは人間たちに、かれらが「存在の意味」を教えよう。それは「超人」だ。人間という暗雲から発する稲妻である。
しかし、まだ、わたしはかれらから遠いところにいる。わたしの心は、かれらの心へ通じない。わたしはまだ、人間にとっては道化と死体との中間にすぎない。
夜は暗い。ツアラトゥストラの道程は暗い。さあ、つめたく、硬直した道づれよ! わたしはあなたをこの手で葬ることのできる場所まで、運んでいってあげよう。」
(第一部 ツァラトゥストラの序説 六 の2 七 )
* わたしはまだ「ツアラトゥストラ」から、ほとんど何もえられていないが、心惹かれる「ちから」の働いてくるのは感じている。ツアラトゥストラへ「歩み寄る」だけだ。
2023 1/4
* 歩みもならぬ密林を分けてゆくようだ,創作は。頭へ、脚へ、なにが絡んで来るや知れないが,安易に立ち止まればそれまでとなる。それは凶器に似た脅迫だ。
2023 1/4
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
〇 ツアラトゥストラは死体を背負うて歩き出した。が、ものの百歩も行かないうちに、ひとりの男が寄ってきて、囁きかけたーー見よ、それは、あの綱渡り師を跳び越して落とした、塔の道化師だった。
「この町から去るがいい、おお、ツアラトゥストラよ」と、かれは言った、「ここではあまりにも多くが、あなたを憎んでいる。『善くて義(ただ)しい者たち』が憎んでいる。あなたのことを、かれらの敵であり彼らを軽蔑する者だと言っている。ひとびとがあなたを笑ったのは、あなたのしあわせであった。あなたがあの死んだ犬を世話したのは、あなたのしあわせであった。それほどまでに身を低くしたので、あなたは今日のところは助かったのだ。だが、この町からは出て行くがいい。ーーさもないと、あしたには、わたしはあなたを跳び越える。わたしが生き残り、あなたは死ぬ。」
こう言い終えて男は消えた。ツアラトゥストラは暗い小路をさらに歩いて行った。
(第一部 ツァラトゥストラの序説 八 の1 )
* 寒い。
2023 1/5
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
〇 ツアラトゥストラは、町の門のところで墓掘人たちに出会った。かれらはツアラトゥストラだとわかると、しきりに彼を嘲った。
ツアラトゥストラはそれらにはひとことも答えることなく、自分の道を歩いて行った。森と沼のほとりを通って二時間も歩いたとき、かれは空腹な狼の吠える声をしきりに聞いて、かれ自身も空腹を覚えた。灯のともった寂しい家のそばにたちどまり、門を叩いた。老人があらわれた。
「わしの浅い眠りをおどろかすのはだれだ」
「ひとりの生者とひとりの死者です。食べ物と飲み物をください。」老人は去ったが、すぐに戻ってきてパンと葡萄酒を差し出した。「空腹の者にはしまつのわるい土地だ。だからわしは此処に住んでおる。食べて、行くがよい。さらば!」ーー
それからツアラトゥストラはまた二時間ほど歩いた。朝が白みはじめたとき、ツアラトゥストラは自分が深い森のなかにいるのを見た。道は絶えていた。そこで彼は死者を、自分の枕もとの木の空洞に置いて、ーー死者を狼から守ろうとしたのであるーー、自分は苔の生えた地面に横になり、たちまち眠りに落ちた。からだは疲れていたが,魂は安らかであった。
九
ツアラトゥストラは、ながいねむりから目覚めた。静かな森のなかを見、自分の心の内を見た。かれは、とつぜん、陸地の影に接した船乗りのように、身を起こし歓びの聲をあげた。かれは我と我が心に向かってこう言った。
「わたしは大いに悟るところがあった。わたしには道連れが必要だ。生きた道連れだ。自分の好きなところへ担いで行ける死体の道連れではない。
自分自身に忠実に、わたしに従い、ーーそして、わたしの目指すものに向かってともに進む、そういった生きた道づ れが必要なのだ。
(第一部 ツァラトゥストラの序説 八 の2 九の 1 )
2023 1/6
* 清潔に,置いたモノの寡い書斎がよく褒められていたのを、子供心に覚えていたがる。が、まや私の六疊一間、壁には作り付け元朝名書架は造りつけてあるが、それにしてもナンという華麗とみまがう混雑の賑わいよ。障子も襖も戸袋も原形無くなく張ったり貼ったり継いだりネコにやぶられたり、凄まじい。美しいカレンダーの繪や写真も、お相撲のカレンダーも、気に入りの大ポスターも 必要な翁地図も、いただきものの絵画系美術品も、写真の気に入った郵便葉書も、何デモかでも貼ったり置いたり飾ったりしてあり、それでも、井泉水「花 風」の二大字額も、秋艸道人書の「学規」も潤一郎書「鴛鴦夢園」の超大な南洋大豆殻も、高城富子さんに頂戴した「浄瑠璃寺夜色」の美しい繪も,南山城当尾の父方吉岡本家国指定の有形文化財大写真も、朝日子の石膏顔自像も、沢口靖子大小七枚者写真も、のこりなくそれぞれに所を得て観にくくは衝突していない。白鵬、テルノ藤横綱土俵入りはじめお相撲さんのカレンダーもいきいき貼られてある。
一つには大きな書架に、私の「秦恒平選集」全三十三巻を囲んで多彩に何種もの全集や大事典の満杯なのが音楽っぽく賑やかな「書斎を睥睨」している。とても人サマはお通しならないが、恐がりのわたしも、はおかげで、此の室に何時間、夜通ししていても淋しくない。「湖の本」の全巻もならんでいるし、金原社長の下さった献辞入りの好い写真も、父や母や妻や建日子ややす香の写真も、愛ネコの「ノコ」と浴室で相見ている愛らしい写真も在る。ゴッホ描く「靴」も「阿修羅像」も、懐かしくも亡き龍ちゃんとしか見えない少女画も鼓さんの描き遺して行った風景額も谷崎先生の六代目の向こうを張られた御顔も、ピカソの「平和の鳩」画も、京博倉の「隅寺心経」の麗筆も、むかしむかし妹と愛した梶川道子の中学の修学旅行土産の飾り栞も、みな所を得てこの煩雑に場を占めている。私はえらい人ではない、こういう嬉しい人なのである。誤解しないで欲しい。
2022 1/6
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
〇 ツアラトゥストラは、我と我が心に向かってこう言い続けた、「わたしは大いに悟るところがあった。ツアラトゥストラは民衆に語るのではなく、自分自身に忠実に、わたしツアラトゥストラに従い、ーーそして、わたしの目指すものに向かってともに進む、そういった生きた道づ れ語るべきなのだ。ツアラトゥストラは畜群をまもる牧人や番犬になってはならない。畜群のなかから多くの者をおびき出すことーーそのためにわたしは来た。わたしは民衆と畜群を怒らせよう。ツアラトゥストラは牧人どもから強盗呼ばわりをされたい。牧人どもとわたしは呼ぶ。しかしかれらはみずから『善くて義しい者』と称している。牧人どもとわたしは呼ぶ。しかしかれらはみずから正しい信仰を持つ者と称している。
この『善くて義しい者』たちを見るがいい! かれらが一番憎むものはだけか? 価値を録したかれらの石の盤を砕く者、破壊者、犯罪者だ、ーーしかし、かかる者こそ創造者なのだ。 (第一部 ツァラトゥストラの序説 九の 2 )
* 真っ向「反基督教」が宣言された。ツアラトゥストラ一基本の宣告か。
2023 1/7
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
〇 ツアラトゥストラは、我と我が心に向かってこう言い続ける、「全ての信仰の信者達を見るがいい!
かれらがいちばん憎む者はだれか? 価値を録した石の盤を砕く者、破壊者、犯罪者だ!
ーーしかし、かかる者こそ創造者なのだ。
創造者の求めるのは道連れであって、死体ではなく、また畜群や信者でもない。創造者は相倶に創造してくれる者を求める。かれらは新しい価値を新しい石の盤にしるす者である。
創造者の求めるのは道つれであり、相倶に刈り入れをしてまれる者である。創造者の眼前ではすべてが熟して刈り入れを待っているから。
創造者の求めるのは道づれであり、自分の鎌を研ぐことを知っている者である。
(第一部 ツァラトゥストラの序説 九の 2 )
* 夢中、またしても、遠路帰路の電車に乗り損じて、馴染まぬ異郷を様々な悪意や嘲罵場に脅され堪えながら彷徨いつづける夢を見た。この近年、同様、馴染まぬ異郷に帰途を喪い帰路にに迷惑難渋するする孤独な夢を、数十度も見ている。これはいったい私にとって何であるのか。私のつまりは不徳が咎められているのか。
* 倦まれたあの日を思い出しながら、今から、カーサンと、建日子誕生日を祝い 赤飯を 戴きます。 おめでとう。 父
人間世界は烈しく動揺し 自然は衰貌に傾いています。が、動揺のみしているわけに行かない。建日子には建日子ならではの、父には父のいのちが「生・活」を求めて衰えては居ない。踏みしめて歩み続けたい,建日子は登り道を行け、父はしかと区下り道を踏んで行く気。それぞれの景色を楽しもう。
カーサンを、頼むよ、建日子の愛と配慮とに信頼しつつ。
建日子自身の健全/健康がとても大切と、父は見守っています、いつも。
父は、いま、毎朝『ツアラトゥストラ 斯く語りき』に聴いています。
2023 1/8
〇 ツアラトゥストラは、我と我が心に向かってこう言い続ける、
「創造者の求めるのは道づれであり、自分の鎌を研ぐことを知っている者である。かれらは善悪をひていする者、軽蔑する者と呼ばれるだろう、ほんとうはかれらは刈り入れる者であり,祝う者なのだ。
ツアラトゥストラは相倶に創造してくれる者を求める。相倶に刈り入れてくれる者、相倶に祝ってくれる者を求める。畜群や牧人や死体の類いに何の関わりがあるだろう!
時は来た。曙光と曙光のあいだに、ひとつの新しい真理がわたしを訪れて来た。
牧人や墓堀人に、わたしはなってはならない。ふたたび民衆に対して語ろうとは、わたしは思わない。死者に話しかけるのはこれぎりだ。
創造する者,刈り入れる者、祝う者とわたしは仲間になろう。わたしはかれらに虹を示そう。超人にいたるあらゆる段階を示そう。そして未聞のことを聞く耳を失わずにいる者がいれば、そのこころをわたしの幸福で重くしてやろう。
わたしは自分の道を行く。ためらう者、怠る者をわたしは飛び超える。こうしてわたしの歩みが,彼らの没落となるがいい!」
一〇
そのとき太陽は正午の空にかかっていた。
(第一部 ツァラトゥストラの序説 九の 3 十の 1 )
* ジンメルの著『ショオペンハウエルとニーチェ』岩波文庫に手が出た。昭和十七年五月定価八十錢の本。国民学校一年生の春早々だ。古本を、何歳頃に買ったろう、大學の頃に違いない。文庫本書架には、こういう傾向の古本がずいぶん数多い。哲学青年に相違無かったが、読んでいたのは谷崎や日本の古典だったろう。いま、ニイチェに惹かれて「ツアラトゥストラ」に聴き続けている。
大學からもう六十年は経っている。往時茫々。
2023 1/9
◎ ニーチエの『ツァラトゥストラ』に聴く (水上英廣訳(岩波文庫)に依り秦文責の抄出)
〇 一〇
ツアラトゥストラは、これらのことを我と我が心に向かってこう言い続け、そのとき太陽は正午の空にかかっていた。ふと何かさがすように上を見上げた。ーー鋭い鳥の声が頭上に聞こえたからである。と、見よ! 一羽の鷲がそらに大きな輪を描き、その鷲に一匹の蛇が懸かっていた。それは鷲の獲物ではなく,友であるように見えた。なぜなら蛇は鷲の首に巻き付いていたからである。
「あれはわたしの動物たちだ!」と、ツアラトゥストラは言って、心の底から喜んだ。
「太陽のもとでの最も誇り高い動物と、最も賢い動物ーー。かれらはツアラトゥストラがまだ生きているかどうか知りたいのだ。
人間達のもとにいるのは、動物たちのもとにいるより危険なことをわたしは知った。危険な道をツアラトゥストラは行く。わたしの動物たちよ、わたしをみちびいておくれ!」
ツアラトゥストラは、あの森の聖者の言葉を思い出し、ため息を吐き、わが心に向かいこう言った。
「0QFもっと賢くありたい! わたしはわたしの蛇のようにどこまでも賢くありたい! だがわたしは不可能なことを願っているのだ、それんらわたしはわたしの誇りに願おう,誇りがつねにわたしの賢さとつれだって行ってくれるようにと!
そして,いつかわたしの賢さがわたしを見捨てるなら、ーーああ、賢さは飛び去ることをのむ! ーーわたしの誇りが、そのときは、わたしの愚かさとともに空翔けてくれるようにと!」ーー
ーーこうしてツアラトゥストラの没落ははじまった。
(第一部 ツァラトゥストラの序説 十の 2 序説了 )
* ニーチエのこの壮大な「寓話」ないし「詩作」には、大きなキーワードが幾つか現れる。
「永遠回帰」はその「核」に同じいと謂われる。
「超人」はあたかもニーチエの代名詞かに注目される。
「神が死んだ」という強烈な認識がある。「超人」が痛切に要請される。神の天国は失せたからは,超人の「大地」が世界である。
「超人」の否定的対峙として「おしまいの人間たち」が戯画的に眺められて、「畜群」「余りにも多数なもの」「余計な者」「市場の蠅」「賤民」つまりは「大衆社会」が対峙的に意識される。「社会への嫌悪」がツアラトゥストラの心底にある。「孤独」をなみする社会の集団化・平等化への烈しい嫌悪がある。そのような人間の限界を突き破る存在として「超人」が意識される。人間は所詮は「克服さるべき者」に過ぎない。
しかもなお「超人」は自己目的で無く、「没落」し「破滅」することで救済される。ツアラトゥストラはそういう道を歩んで「亡び」を生きる。
戦慄と狂気の書が此処に厳存するとツアラトゥストラは「序説」している。そして以下に、綿密で、具体的な象徴性に溢れたツアラトゥストラの「教説」が展開される。それらを此処でかかる簡略な仕方での「紹介」は、過ちを避ける意味でも、難しい。2023/01/10
2023 1/10
〇 白楽天詩選 春風を歎ず
樹根雪盡きて花の發(ひら)くを催し
池岸氷消えて草をして生ぜ放(し)む
唯 鬢霜の舊によりて白きあり
春風我に於て獨り無情
* 日本人の好みと謂うことか。漢詩というと、まず白楽天詩集へ手を出す。
「やそしち郎」私の髪は、まだ、さほど白くないが。
2023 1/11
〇 白楽天詩選 府西の池
柳は氣力無くして枝先づ動き
池に波紋ありて氷盡(ことごと)く開く
今日(こんにち)知らず誰か計會するを
春風春水 一時に來る
* 七言絶句 「開」「來」が、韻字。「計會」は春風と春水が「もくろんで」の意。
* 実に春情美しい「詩」である。
2023 1/12
* 書きかけ、書きさし、それも殆どが「作家」以前ないし直前・直後と思われる原稿が、どさっと見つかっている。いわば「湖の本」でもう試みてきた「花筺」の3とも4とも5とも拾い摂って良さそうなのがある。手の足せる者から、もう二、三、機械に書き写しておいた貸が、まだまだ在る。
むかし、高校生だったが、気張って谷崎潤一郎の創元社刊「作品集」六巻を買ったとき、未完成途中作が遠慮無く出ているのに驚きながら、それらにも「作家」の息や体臭のおもしろみを覚えたことがある。書きかけるのにも、書きさすのにも作家の個性や意地が在る。
活字で公表するには、何としても出版・編集という厳重な関所が在り、或る「長さ」と「仕上がり」は要件で在った。信心の懸命の試みにもその壁は厚かった。たが作家は書きたい、心みたいモノをもってそれに引っ張られる。私もそうであったことが、今度見つかった大昔の試作・未成作にみてとれるのが、われながら愛おしくまた面白かった。幸いにわたしは誰も持たない「湖の本」という場と読者とを確保しており、「花筺」を拾い満たすことは出来る。試みておこうと喜んでいる。どういう木でこんなものをこんな風に書き出したのかと、我乍ら新鮮にびっくりもしている。
無数の「書きたい」志望者が世に在るのは、明治以来なんら変わりないが、明治いらい私のような「湖の本」レベルの世に通用する自前の発表場の持てる物書きは、事実、独りとしていない、この事実の意義をハキと認識されていたのは亡き鶴見俊輔さんであった。
* 終日よく働いたが、申告に疲労も。
2023 1/12
〇 白楽天詩選 紫薇花尾
絲綸閣下文書静かに
鐘鼓樓中刻漏長し
獨坐黄昏誰か是れ伴ふ
紫薇の花は紫薇郎に對す
* 宮廷の静謐典雅の景を叙している。 絲綸閣では勅書を扱う。
刻漏は 謂わば水時計、紫薇花は 百日紅、紫薇郎は 紫薇省の郎官
2023 1/13
* 夢には悩まなかった、が、書き継いでいる「或る往生傳」に決定的な想、乃至は論点を得、反芻し続けていた。
尿意に床を起つこと五度、か。どうしても睡眠は分断された、が、毎夜のこと。
2023 1/13
* 積む疲労困憊は払う術も無い、が、内から「やれ」と衝き上げられる「書き」置きの仕事が尽きなくて、追って追って行くのみ。
2023 1/13
〇 白楽天詩選 江柳を憶ふ
曾て楊柳を栽(う)ふ江南の岸
一たび江南に別れて兩度春なり
遙かに憶ふ青々(せいせい)たる江岸の上(ほとり)
知らず攀折(はんせつ)するは是れ何人(なんぴと)ぞ
* 江南の岸に楊柳を栽えおいて 職を辞し二度の春を経た。青々と枝葉を生うてい ようぞ だが 誰が手折らぬであるまいか、気がかりな、と。情致あり。
2023 1/14
* 来世無し 現世のみ 来世を祀れとは、今生・現世の祀りごと(政治)を怠る者のウソも方便。未生・後生の来世など、無い。
2023 1/14
* 来世無し 現世のみ 来世を祀れとは、今生・現世の祀りごと(政治)を怠る者のウソも方便。未生・後生の来世など、無い。
* 繰りかえすが『或る往生傳』への、これが我が發明、と。
2023 1/14
〇 白楽天詩選 春を尋ぬ
貌は年に随ひて老ゆ如何せんと欲す
興は春に遇ふて牽かれ尚ほ餘りあり
遙かに人家を見て花あれば便ち入り
貴賤と親疎とを論ぜず
* 年々容貌は老いて仕方なし それでも 春至れば心浮き立ち 花と見れば
何処彼処構わず入って 庭主の貴賤も親疎も構はぬ と。これぞ 白楽天
2023 1/15
* 昨日は多くの時間をつかい、往年、原稿用紙に手書きで「書きさしてやめた」が、「捨てはしないで保存」の、「小説」以外の何ものでもない文章の、有題・無題合わせて七、八種もを機械に容れていた。よほど長いのも、400字用紙に2枚から8、9枚ほどのも。書き殴った一篇も無く、長い短いこそあれ、今の私からも改め推敲や添削を要する何も無く、それぞれ「小説」を「書き出し」の文章として仕上がっていた。だが、そのまま見捨てられ、しかし廃棄処分されなかったのは、長い短いこそ措けば銘々に自立・独自の場面と趣味を擁していたから、と、想えた。それぞれに、このさき、どんな小説へ仕上がっていたか、と、微笑めた。用いている「原稿用紙」から見て、遠くは「作家」以前の就職なかから、「作家」として自前の用箋を作って以後早い時期と、総じて半世紀は以前の「仕事」だった。こんなふうに、さまざまに、いろいろに着想しては書き起こして多くは保留されるのが「創作者」の常だと思う。そんな多くの中から書き継がれ仕上がりの作として脱稿され、編集者の手へ渡る。
わたしは自身「寡作」と思い込んでいてそんな述懐を書きとめたことが有り、即座に当時著名な女性の装幀者に「寡作どころか」と多作を呆れられてビックリしたことが有る。事実、今日とも鳴って振り返れば公表し書物化した作だけで大きな選集が「三三巻」「湖の本」が既に160数巻にも成っていて、活字化されてない書き置きでもまだぞろぞろ見つかる。昨日触っていたのも、それらの一部で、しかも書き殴ったものはない。短い長いなりに誰に読まれてもいい「私の文章」を成している。捨ててはしまえないなと思った時に、たまたま「花筺 はなかたみ」という雅な伝統の容れ物のあるのに気づいた。
〇 つみためしかたみの花のいろに出でてなつかしければ棄てぬばかりぞ
「秦」は「恒平」はこんな風に着想し発送し書き始めるのか、とは思われてそう恥ずかしくない「かきさし」が見つかった、本人もビックリ」というだけの事であるが、文章での創作者の「これが本来」なのではと確信する。幸いに「湖の本」に収録できて読者も手を受けていて下さる。眞実、ありがたい。
2023 1/15
〇 白楽天詩選 嶺上の雲
嶺上の白雲 朝(あした)に未だ散(ざん)せず
田中の青麥 旱(ひでり)して將(まさ)に枯れんとす 自(おの)づから生じ自づから滅し 何事をか成す 貌 能く東風を逐ふて雨を作(な)すや無(いな)や
* 旱魃を嘆いて気象を憾(うら)む如くして、く裏に、吏の民を濟(すく)う能わ ぬを諷している。白楽天には懸かる批評の詩志がまま見られる。
2023 1/16
〇 白楽天詩選 曲江 感あり
曲江西岸 又 春風
萬樹花前の 一老翁
酒に遇ひ花に逢ふて 還(また)且つ 酔ふ
若(も)し惆悵(ちうちやう)の事を論ずれば 何ぞ窮まらん
* 老耄 もし泣き言になれば限りが無い 止めておけよ、と。身に沁む。
明快に清朗 だから白楽天の楽天に親しむ。
2023 1/17
〇 白楽天詩選 桐廬館に宿して崔存度と同じく醉後の作
江海漂々と 共に旅游し
一樽相勧め 窮愁を散ず
夜深けて醒後に愁ひ還た在り
雨は梧桐に滴るよ 山館の秋
* 旅游談笑醉後の寂漠 夢裡に訪のふ山館梧桐の雨 身に沁む
2023 1/18
〇 白楽天詩選 白蓮池 舟を浮かぶ
白藕の新花 水を照して開き
紅窓の小舫 風に信せて回る
誰か 一片 江南の興をして
我を逐ひ慇懃萬里に來ら教む
* 曾遊江南の今も瞼に懐かしい景色が、わが跡を慕うように万里遠方の今此処の舟 遊びでも覧られるとは。
* 白楽天は、明瞭 適確 雅致、共感。
2023 1/19
〇 白楽天詩選 潮
早潮纔かに落ちて 晩潮來たり
一月(いちげつ)周流 六十廻
獨り光陰の毎朝があつてのみ復た暮るるならず
かく杭州に老ひ去(いそ)ぐは潮の催ほすなれ
* 江湖麗しく楽天が愛惜やまぬ杭州は 相寄せては退く大河の潮鳴りももの凄い。 私も、中日文化交流協会に招かれて、親しく目に耳にしたことがある。
2023 1/20
〇 白楽天詩選 香山 暑を避く
六月 灘聲猛雨の如し
香山樓の北 暢師の房
夜深く起き闌干に倚つて立てば
満耳 潺湲 満面涼し
* 香山樓は楽天の樓 暢師とは、近隣の禅僧の名であり烈しい水聲をも謂う。
2023 1/21
* 吹上ちえ子さんの来信等に振れて書いた筈の日録・記事が消え失せている。ほかにも書いていたと思う、が、探索届かず、不可解にも不快。
記憶も鮮明に、書いたはずの記事が「消えてしまう」とは、いやほど繰り替えした体験ながら、アタマに来る。機械に悪意はない、私の操作ミスに相違ないのだが。財布を落としても諦めるが、「書いたもの」は「私そのもの」なのだから、我慢ならない。なにか私の粗忽があるのだ。
2023 1/21
〇 白楽天詩選 晩秋閑居
地は僻に門は深く送迎少なし
衣を披いて閑坐し幽情を養ふ
秋庭は掃はず藤杖をたづさへ
閑かに梧桐の黄葉を蹋み行く
* 閑適をただ羨む。
2023 1/22
* 自然な思いと考えているが、ながい将来を見込んだ計画はやはり控えないし諦めている。八七というこの年齢、「うしろ向き」とたとえ謗られようと私はじしんなりに、選り見て整うべきを整え置くのもいくらかは務めかと自覚し、「湖の本」の編集にも自然それは反映してきている。回顧が主なので無い、直哉流にはひさしい「暗夜行路」を納得して残年でさらに補いたいと思うのみ。それにもかかわらず、日々の予定には新作の小説が、一、二、三、四、五なお幾つも着手され進行している。見捨てることは出来ない、創作者として「あたりまえ」。
昨日、久しい実積を積んだまさに「専門」編集者伊藤雅昭君の「編集者人生」を締め括った一冊『編集後記』が送られてきた。必然必至の一冊哉と賞嘆拝見した。
私は、「創作者・文筆家・歌人」即ちいわゆる『作家以前・作家生活者」として少年來生きてきて、その途中もよほど早くからまた「編集者」でもある技倆・力量をフル開展させて、現に『私家版本四冊刊行』時期を通り抜け、現在までに『湖の本 百六十餘巻刊行』『秦恒平選集三十三巻刊行』を、すべてなんら停滞無く「編集し・製作し・刊行し」続けてきた。この同じ道を、心して終焉まで歩む、それが現在の心境で、無事安穏の最老境を手放しで喫しようなど考えない。そういうことには馴染まない体質で気質で願望の持ち主なのだと呆れる人、さげすむ人には、どうぞと、道を譲るだけ。私はそういう俗人なのであり、遁れようが無い。遁れたいとも願わない、逆なのである。もし私を弾劾するなら、作家・編集者としての「仕事」そのものを批評・批判して戴きたい。
2023 1/22
〇 白楽天詩選 菊花
一夜新窓 河原に著きて輕し
芭蕉新たに折れて 敗荷傾く
寒に耐ゆるは 唯 東籬(とうり)の菊のみあり
金粟(きんぞく)の花は開きて 暁は 更に清し
* 籬は垣根、敗荷は、蓮の花。金粟は、美しい黄色をほめている。
清爽 夢類
2023 1/23
〇 白楽天詩選 蟲を聞く
暗蟲は喞々 夜は綿綿
況んや是 秋陰雨降らんと欲する天
猶ほ恐る 愁人の暫く睡を得んこと
聲々移り 臥床の前に近づく
* 喞々(そくそく)の虫の聲に晩秋の雨音も加わらんと。安眠、得るや否やと。
京都に育って私の幼時にもかかる晩秋の夜更けに睡り侘びた覚え、あった。
* 上記の間、終夜の夢見の全部を忘れている。「アハハン」「アハハン」と唄っていた。「いい湯」に浸かっている快感は無くて。
2023 1/24
〇 白楽天詩選 白鷺(はくろ)
人生四十 未だ全く衰へざるに
我 愁ひ多きが爲に 白髪垂る
何の故ぞ 水邊の雙白鷺よ
無愁頭上 亦 絲を垂るは
* 愁い無げな白鷺夫婦が、なんで髪は白いかと、諧謔。
この私めは、はや人生九十に垂(なんな)んとし、梳りようも無く雑草然と白髪は乱 れ放題。白楽天先生、そんなにも未だお若いか…。
2023 1/25
〇 白楽天詩選 新雪
思はず朱雀街頭の鼓(こ)
憶はず青龍寺後の鐘(しょう)
惟(ただ)憶ふ 夜深けて新雪の夜
新昌臺上 七株の松
* 朱雀も青龍も都・長安街区の名。そこでの鼓聲や鐘聲の美妙よりも、はるか な、詩人往時の任地杭州で楽しんだ名高い新昌臺上で眺めた七株の高松を白く染め た新雪が懐かしいと。うむを謂わせない。
2023 1/26
〇 白楽天詩選 清明の夜
好風朧月 清明の夜
碧砌紅軒 刺史の家
独り廻廊を繞り行きて 復た歇ひ
遙かに弦管を聴きて暗に花を看る
* 冬至の後、百五日を「清明」と謂う。「碧砌」は碧い砌石での階段。「刺史の家」 とは、いわば県知事の官邸。ながい廻廊を漫歩しまたやすみ、はるか市中絲竹の 聲を聴き暗に花の色香に酔うとか。
2023 1/27
〇 白楽天詩選 亂後流溝寺を過ぐ
九月徐州 新戰の後ち
悲風殺氣 山河に満つ
唯 流溝山下の寺あり
門前舊に依て白雲多し
* 「徐州 徐州」と「軍馬」の進む軍歌をあれで太平洋戦争より前、私はまだ幼稚 園前頃によく聴いたと思う。惨状の戦地になりやすい地勢なのか。
中国の「九月」はたださえ物寂しいと聞く。そんな中、流溝山下の一寺ばかりは舊觀 のままに白雲門前を擁して、行き過ぎながらもさも清拙の別世界を静かに保っている と。情景、目にも身にも沁みる。
2023 1/28
〇 白楽天詩選 府池の西亭に宿す
池上の平橋 橋下の亭
夜深けて睡覺め橋に上りて行く
白頭の老尹重ねて來り宿すれば
十五年前の舊月明
*「老尹」は年取った官人、白居易自身、十五年経た再訪、再宿。橋上の月明は往時 に変わりなく明るく、自身はいまや白髪と。情・景 ともに深深。
2023 1/29
〇 白楽天詩選 李十一と同じく酔ひ元九を憶ふ
花の時 同じく酔ふて春愁を破る
酔ふて 花の枝を折り酒籌に當つ
忽ち憶ふ 故人の天際にに去るを
程を計れば 今日 梁州に到らん
* 友人李十一と花に酔ううち、俄かに天涯客遊の友元九を憶い、旅程を指折り数 えれば、もうはや梁州にも到って居ろうよと。
酒籌とは、友との醉飲に当たって酒盞の数を定めおく籤と。
2023 1/30
〇 白楽天詩選 舊詩巻に感ず
夜深けて吟罷み 一長吁す
老涙燈前に 白鬚を濕ほす
二十年前 舊詩巻に
十人酬和 九人無し
* 「二十年前の舊詩巻」に談笑酬和したあの「十人の九人」が今は亡い、と。
私の「舊歌巻」は「五十年前」にすでに独り編まれていて、仲間は無かった。今はも う失せたは、何か。思い歎くまい。己が「新詩巻」を寧ろ成せよと。
「長吁(ちょうう)」は,深々の吐息、ため息。嘆息。
2023 1/31
* 高校三年、誰もが切望の「京都大學」を見向きもせず、他大學受験も一切打ち棄てて、早々成績推薦の無試験で、ためらわず「同志社」に籍を得ておき、ひたすら独り探遊して「京都」なる歴史・自然の「栄養」を堪能し尽くしていた、私の、むかしのハナシ。十年余若い親愛なる「尾張の鳶」は、はるばる当時東海地方から京都大学生として京都へ來住した人。
「試験」なるもの、「生徒」時代だけで飽き飽きしていた。就職試験だけは通らずに済まなかったけれど。
* 生まれてこの方、袖も触れ合わず互いに「もらひ子」として別天地に育った「実兄・北澤恒彦」のことは,一言で言えば「よく知らない」まま顔も合わさず、五十歳ころまでも別天涯に「人為的に」離されていた。
初めて出会って、実感としては「あ」というまにもう「死なれて」いた。
彼のことは、私より遙かに、よく、多くを知った「知友」が大勢いて、私の出る幕はもともと「無い」のである。「出よう」が無い。
2023 1/31
〇 白楽天詩選 酒に對ふ
巧拙 賢愚 相ひ是非す
如何ぞ一醉盡く機を忘る
君知るや天地中の寛窄を
鵰鶚 鸞皇 各自に飛ぶ
* 酒の上ぞ、五月蠅い批評は止せ 天地は宏大 善鳥も猛鳥も各自自在に飛ぶ、 それと同じ、と。「忘機」詰まりは憂き世のことは忘れて酔ふべしと。
* そうは、行きませんなあ、なかなか。
2023 2/1
〇 白楽天詩選 酒に對ふ 二
蝸牛角上 何事をか爭ふ
石火光中 此の身を寄す
富は貧に隨ひ 且つ歡樂
口を開きて笑はざるは 是れ 癡人
* 区々たる冥利の争ひは止そう 石を打ち合わせて光るそれほどの短かな人生 ぞ。富であれ貧であれ成る樂しみを樂しめ、よく樂しんで、笑ひもならぬ痴人には なるなと。
2023 2/2
〇 白楽天詩選 秘省の後廳
槐花 雨に濕ほふ 新秋の地
桐葉 風に翻へる 夜ならんと欲する天
盡日 後廳 一事無し
白頭の老監 書を枕に眠る
* 樂天が文宗の朝に秘書監の頃、初秋廳中閑寂の景を謂ひ 白頭仮眠の自身を眺 めている。
2023 2/3
* テレビが認知症の話をしていたが、出演者の誰一人も、「読む・書く・読書/表現」に触れも云いもしないのに驚いた。読めていて、かけていて、本が面白く読めて、゛な生活中の表現好意が出来て、認知症とは云えない、ないし、殆ど懼れる段階にはいない。自然な物忘れは、若い人でも有る。年寄りにはまま有っても、大凡必要な読み書きや、好きな読書が楽しめれば、過大に認知症など騒ぐことは無い。せいぜい文通しせいぜい本を読み、テレビでも淹れ加野江南ニュースやドラマも楽しめばいい、楽しめ根なら「症」などと怯えなくて佳い。ものを忘れて行くのも老齢の一つの生き方・特権に部類できる。
なにより「表現行為」に自信と好尚をもち、服装でも、親書交換でも、たとえ紙風船造りでも、駄句や警句や干潟ジョークでも、部屋の模様替えでも、とにかくも何か「表現」出来れば、健康だ。歓びにも成る。「認知症」などと謂うアイマイ・モコに左右されるのは、愚。
2023 2/3
〇 白楽天詩選 禁中夜 書を作(な)し元九に與へんと
心緒 萬端 兩紙に書し
封ぜんと欲し重ねて讀む 意遅遅
五聲の宮漏初めて鳴る夜
一點の窓燈 滅せんと欲するの時
* 親友元九への手紙が意に満ちて書けない、時すでに宮中漏刻は深夜を告げて、 残りの燈火も消えなんと。
2023 2/4
* 前夜に床に就き、夜中はほぼ一時間余ずつ尿意に、起つ。尿量は各回十分に。これで体重は増えない。雲散「夢」消。ただ、起き際に「見送る」「見送らない」とう姿勢・態度・生きように思いいたっていた。日々の「生・活」で、見送ることも見送らないことも起き、わたしは、いずれかなら「見送らない」で執拗なのかと思われる。「見送った」らおしまいになる。「見送らず」に可能なら関わり育てて行く執拗を、私は生涯受け容れることで時々になにかを成し遂げ創ってきたと思う。「みおくる」という無為の清々を必ずしも好しとも良しともしてこなかったと、今しも気づく。「見送る」のは清々しくも想えようが、放任の怠惰のまま自堕落に落ちる。「見留め・認め」つつ見送る者は見送れば好く、私は立ち止まって、無考えには「見送らない」できた。そこに秦恒平の『私語の刻』が「意味」も「役」も成してきた。
2023 2/4
〇 白楽天詩選 村夜
霜草は蒼蒼 蟲は切切
村南村北に 行人絶ゆ
獨り前門を出でて野田を望めば
月明らかに蕎麦の花 雪の如し
* 蒼蒼は青白くてもの凄く 青青といえば春草の形容。野田は「やでん」蕎麦は 「けうばく」 秋寂 村落の夜景を吟じている。白詩の形容は日本人には明瞭、
判り良くて親しまれた
2023 2/5
〇 白楽天詩選 舟中 元九の詩を讀む
君が詩巻を把り 燈前に讀み
詩盡き燈殘して 天は 未明
眼痛み燈滅して 猶ほ 暗坐
逆風浪を吹きて 船を打つ聲
* 天未明までも友の詩巻をむさぼり読み、眼痛み 燈を吹き消してもなお詩 中の事どもを思うて暗中に坐しおれば、風浪の烈しく船端に逼るよと。
2023 2/6
〇 白楽天詩選 初めて官を貶(へん)せられ
草々家を辭して後事を憂ひ
遅々國を去りて前途を問ふ
望秦嶺上頭を回して立てば
無限の秋風は 白鬚を吹く
* 望秦嶺は、長安より東南への出路。初めて体験の左遷、極く凄切。
2023 2/7
* 前のめりにグイグイと登って行く感じの時、アレが好い。あそこへ逼らねば。その爲には何か強い刺戟が欲しい
2023 2/7
〇 白楽天詩選 草堂にに別る
三間の茅舎 山に向て開き
一帯の山泉 舎を繞り廻る
山色 泉聲 凋悵する莫れ
三年官満たば却て歸來せん
* 山色泉聲よ 別れをいたみ歎くな、すぐ歸って来ると。
2023 2/8
〇 白楽天詩選 秋房の夜
雲は青天を露はし 月光を漏らす
中庭に立つ久しう 却て房に歸る
水窓席冷やかに 未だ臥す能はず
殘燈挑げ盡して 秋の夜は 長し
* 私なりに 努めて美しい韻律の日本語にと願いながら。
2023 2/9
〇 白楽天詩選 梨園の弟子
白頭 涙を垂れて梨園を語る
五十年前 雨露の恩
問ふ莫れ華淸今日の事を
満山の紅葉 宮門を鎖す
* 「梨園」とは、日本風に言えば役者・藝人らの、詩中に謂う「白髪」の伶人ら の冷「所属」を謂う。「華淸」は今日の西安に玄宗帝が楊貴妃を寵愛した宮廷。 詩中の伶人の「問ふ莫れ」には、貶托されていた詩人にして官吏の樂天白居易 自身の感慨が託されているのだろう。
2023 2/10
〇 白楽天詩選 青門の柳
青々たる一樹 心傷ましむる色
曾て幾人 離恨の中に入りしぞ
都門に近う多く別れを送るが爲に 長條は折り盡され 春の風を減ず
* 「青門」は長安京に。立つ人も送る人も、都門に向き合うて互いに柳枝を折 って記念とするのが、往昔の風習 柳の春はやや風情を損ずるが常であったと。
2023 2/11
* 「建国」とまではシカと自覚しづらい。茫漠と「紀元節」の方が懐かしい。こんなのは、神話っぽいのが大らかに胸に納まる。紀元節というと、少年の昔は熱い粕汁がキマリだった。「酒粕」「酒」も大好きになった。秦の父は、雫ほども酒がダメ。母の話では若い頃は茶屋遊びしたと聞いたが。
* そういえば昨晩は妻と映画、最高に盛りの頃の木暮実千代・デビューしたばかりの若尾文子の『祇園囃子』(編集短縮されていたが)を久しぶりに観た。高校生も早い時季だったが、四条河原町の映画館、満員の立ち見で独りで観た。かなりの刺戟作と観た、少年ながら。
育った家は、抜けロージの一本で花街・甲部乙部の祇園町と背中合わせだった。尋常の道路は無く、「隔て」られていた。いくら隔てても、祇園のこと、子供にもよーく知れていた。秦の父に甲部と乙部とどう異なうと聞くと、現下に「藝妓と娼妓と」と。明快。とはいえ、藝妓の甲部とて…と子供心に「分かって」いた。その分かっていた内実をえぐるように描いて見せたのが映画『祇園囃子』、高校生とてなにも吃驚などせず、即、納得した。通った祇園石段下戦後新制の「弥栄中学」へは、乙部の子も甲部の子も同学年で大勢通学していた。じつに「異色」の新制中学だった。私の処女作で、好評注目されてそのごの足どりを華やかにしてくれたのが「祇園の子」だった。幼い実在したヒロインは、利発によく出来た「祇園乙部」の置屋育ちの子だった。知恩院新門前から通学のわたしは、その印象清潔な同年女生徒を、遠見に、敬愛すらしていた。昨晩観た映画「祇園囃子」は
変わりなく胸に食い込んだ。「男」という「獣を」概して「嫌う」ようになって「学んだ」映画であった。なにとなく、見聞体験の材料はまこと豊富なのに、わたしは「祇園」をめったには小説にしてこなかった。
2023 2/11
〇 白楽天詩選 長洲苑
春 長洲に入り 草 又 生ず
鷓鴣飛び起ち 人の行く少なし
年深うして辨ぜず 娃宮の處
夜 夜 蘇臺 空しく月明し
* 「長洲苑」は蘇州太湖の北、呉王遊猟の園庭、「娃宮 アキュウ」も同じ く。「蘇臺」は呉王が都した遺跡、すでに其の興亡また荒廃を嘆じている。
2023 2/12
〇 白楽天詩選 早(つと)に皇城に入り王留守の僕射(ぼくや)に贈る
津頭の殘月 曉 沈沈
風露は凄凄 禁署深し
城柳宮槐 謾りに揺落すも
悲愁は 貴人の心に到らず
* 柳や槐の落葉頻りに世情の不快を諷喩しつつ、貴顕の者らの、民の悲しみ を知らざるを遺憾と憎む、か。「津頭」は渡し場。「禁署」は宮中の役所。「王 留守(オウリュウシュ)」は職の名乗り。詩人の表情が窺える。
2023 2/13
* 自身で言う「拙著」なら、「本に為るな」と「喝破」した人がいた。つい口にもし字にも書いて謙遜を「誇示」するような始末になりやすい。決まり文句はラクでもあり、逆効果にもなる。物言いは素直が好い。
2023 2/13
〇 白楽天詩選 澗中の魚
海水桑田 變ぜんと欲する時
風濤は翻覆し 天も地も沸く
鯨呑し咬闘し 波血と成るも
深澗に遊ぶ魚は樂みて知らず
* 名利に狂い舞う世俗・権勢をよそに、民も詩人もさも深澗に游ぎ樂しむと。
2023 2/14
〇 白楽天詩選 家園
籬下の先生 時に醉ふを得
甕間の吏部 暫く眠りを偸む
如何ぞ 家醞の雙魚榼
雪夜も花時も長く前に在るに
* 籬下先生かの詩聖陶淵明はたまにしか呑めなかったし、吏部畢卓は隣家の酒 を盗み呑むしか無かった。比するなら我れ楽天には家醞の酒在り、恰かも好 し雙魚の榼(酒器)も在り、雪の夜にも花の時にも好きに呑めますわいと、 或いはいささか詩人の口惜しい法螺かもしれぬ、が。おもしろい。
2023 2/15
〇 白楽天詩選 霊巖寺
館娃宮畔 千年の寺
水澗く雲多くして客到る稀なり
聞説 春來りて更に惆悵たりと
百花深き處一僧帰る きく * 亡国の恨み多き呉王の旧蹟、水澗(ひろ)くひっそり閑。聞説(きくならく) 花の春には少しはと、ところが、と。「一僧帰る」が美しいまで「詩」を成した。
2023 2/16
〇 白楽天詩選 暮江の吟
一道の殘陽 水中に舗く
半江は瑟瑟 半江は紅し
憐れむべし 九月初三の夜
露眞珠に似 月弓に似たり
* 「瑟瑟」淸碧の名珠。ここに「可憐」とは「可愛」の意。 美しい。
2023 2/17
◎ 目覚めも近い時分から「思い想うこと」あり、長短はともあれ重い大きな創作、最晩年の大作を着想した。今日からそのための用意を心がける。粗忽に、慌てまい。
2023 2/17
〇 白楽天詩選 白雲泉
天平山上の白雲泉
雲自づと無心 水自づと閒なり
何ぞ必ずしも山下に奔衝し去り
更に波浪を添へ人間に向はんや
* 山中の静閒を去って、まして波風たてて人間(じんかん)に奔衝の、何要のあろう やと、戒めている。詩人心中の本意を寓したのであろう。
2023 2/18
* 「らしくても、らしくなくても、踏み出し出し今日を明日へ。老境へ逃げこむまい。勉強の一語は あだおろそかに転がっているので無い。勉強とも人とも、人は出会う。出会うことが、大切。
2023 2/18
〇 白楽天詩選 點額魚
龍門點額 意何如
紅尾青鬐 却て初めに返る
見説 天に在りて雨を行るの苦しみを
龍と爲る未だ必ずしも魚と爲るに勝らず
* 龍門は、俗に謂う黄河上流にあり、鯉魚の老いて遡れば、龍となると。成り損 ねたなら如何。いやいや、なまじいに龍と成れば成ったで、苦労して天下に雨 を降らせねば。龍必ずしも不遇の魚のママより好いとは言えぬよと。「點額」 は、しくじるの、ままならぬ の意趣。
2023 2/19
〇 白楽天詩選 王昭君
漢使脚回 憑て語を寄す
黄金何れの日か蛾眉を贖はんと
君王 もし妾が顔色を問はば
道ふ莫れ宮裏の時に如かずと
* 君王の誤選で匈奴に与えられた美貌天下一の「王昭君」の、はるばる異邦に 使いした漢使の帰国をとらえての悲痛の訴え。
財宝を賭しての私のお迎えはいつ来るのか、もし王様が私の容色を問われば、 後宮に寵愛されていた昔に及ばず、衰え窶れているなど、どうか道(い)う て下さるな、それでは、ますます買い戻してはくださるまいよ、と。
「宮女外交」政略の悲惨な犠牲者であった。漢皇は謀られてと悟らず、もっ とも醜い宮女と思って匈奴へ遣わしたのであった。
2023 2/20
〇 白楽天詩選 江客に贈る
江柳 影は寒し新雨の地
塞鴻 聲は急に欲霜の天
愁ふ君獨り沙頭に向て宿するを
水は蘆花を澆りて月は船に満つ
* 「塞鴻」は、邊塞より飛来の鴻雁を謂う。「欲霜の天」は、霜ふらんと欲す るの天気。江上の秋景を叙して、舟行の客を美しく慰めている。
2023 2/21
〇 白楽天詩選 江客に贈る
江柳 影は寒し新雨の地
塞鴻 聲は急に欲霜の天
愁ふ君獨り沙頭に向て宿するを
水は蘆花を澆りて月は船に満つ
* 「塞鴻」は、邊塞より飛来の鴻雁を謂う。「欲霜の天」は、霜ふらんと欲す るの天気。江上の秋景を叙して、舟行の客を慰めている。
2023 2/22 昨日と重複
* 追い掛けて「湖の本 163」入稿の用意が出来ているのを、念入りに確認して、これも今日明日に「入稿」する。「湖の本」は、汚く謂うてもしまうと、一種私の「吐瀉」でもある。私なりの「出産」でもある。生きている証である。
2023 2/22
○ 「昨今、何より小林秀雄や山本健吉のような怖れを感じる評論家のいないことに愕然とします」と同業某氏のメール。頷くしか、ない。不幸なことだ。
2023 2/22
〇 白楽天詩選 燕子樓
滿窓の名月 滿簾の霜
被 冷やかに 燈 殘つて 臥床を拂ふ
燕子樓中 霜月の夜
秋來 只一人の爲に長からん
* 「燕子樓」は、徐州知事建封が愛妓關盼々の寡居としていた。詩人は關女に 三詩を呈し、關は主の爲ならじと謗られたかに察し、同じく三詩を白楽天 に返してのちに自死した。「被」は被蒲団。
2023 2/23
* 若い天皇さんの誕生日。お元気でと祝う。
手もとへ、「反天皇」「反天皇制運動」「天皇誕生日奉祝反対」などのチラシが届いている。が、私は「天皇主権支配制」ならば断乎反対し抵抗するが、日本の「天皇制は独特な文化」の域をほぼ出たことが無かった、「天皇制」は「日本文化」であり「日本の政治制度」ではないと、ほぼ確信し認知し賛同している。
今日の天皇家に「血縁」として繋がるであろう祖先の先登は「継体天皇」と私は観ており、以降の天皇で「政権支配」意志を鮮明に「国民を抑圧」した天皇は、実は十指に充つとも見えていない。近江・奈良・平安・鎌倉・南北・室町、織豊・江戸時代を通じて、皇族間の跡目争いや貴族や武家統領との軋轢はともあれ、露骨に国民支配のために権力や武力を用いて専制支配した例はきわめて希薄ないし無く、むしろ籐橘・源平・北条・/足利・職豊、徳川の政権支配を「柔らかにさまたげる」役に起たれることが多かったか、ないし「文化と教養の装飾的権威すなわち文化的存在」であるのが常であった。この「天皇制」がもし日本国に無かったら、政権や俗權、支配欲の故に国民は「悪しき軛と服従」に喘ぎ続けたろう、ゼッタイに間違いない。藤原、平家、源氏、北条、足利、織田、豊臣、徳川、また明治の元勲ども、昭和の軍人ども、を想えば、露骨なまで「天皇制無き日本」は国民に無残な被支配と駆使とに喘ぎ続けたろう。
天皇家は元来が「祭祀の家」であった、歴史的に。祭祀もいろいろとはいえ、概してそれは武權よりは遙かに穏便に行われ、日々に国民を抑圧したりはしなかった。
「文化」としての「天皇・ないし天皇制」は日本国と日本人に、激痛よりは、おおむね慰撫と平和を恵んできた、それを「想う」べきである。後白河は平家と、後鳥羽・後醍醐は北条や足利と肘を突き合ったが、露骨な国民支配や搾取は念頭に無かった。むしろ天皇家は「勅撰」の名で和歌や文藝を支援し、祭儀を保ち、朝鮮や支那との接点として日本の存在意義を保ち続けていた。まさしく「文化適象徴」の天皇制であり、武權支配者では無かった、少なくも明治天皇、昭和天皇の外は。
誕生日を迎えた今の若い天皇さんを、わたしは親しいきもちで愛している。そう言うのを憚りも懼れもしない。深い考えもなく、ただスローガンのように「反天皇運動」などと云うている人の「落ち着いた」歴史認識や眞意をむしろ問いたい。
2023 2/23
〇 白楽天詩選 同上 燕子樓
鈿は暈り 羅衫 色煙に似たり
幾回着けんと欲して 即ち潜然
霓裳の曲を舞はざりしより
畳みて 空箱に在る十一年
* 主公在世の折は盛飾の鈿(でん=かんざし)も羅衫(らさん=うすぎぬ)も は虚しく藏はれてあると。
2023 2/24
〇 白楽天詩選 閨怨
寒月沈沈として洞房静かに
真珠簾外 梧桐の影
秋霜下るを欲し手先づ知る
燈底裁縫 剪刀冷ゆ
* 「真珠簾」は所謂「玉すだれ」 寒月沈沈 空閨の婦人が裁縫の実感を詠写。
2023 2/25
〇 白楽天詩選 後宮の詞
涙は羅巾を濕ほして夢成らず
夜深けて 前殿歌を按ずる聲
紅顔未だ老ひずして 恩先づ斷え
斜めに熏籠に倚り坐して明に到る
* 前殿では深夜まで恩寵を被る者らの歌舞の賑わい。時分は未だ老いも朽ちも していないのに主公の「恩先づ斷え」て落ちこぼれ、独り後宮に幽居し、眠 るに眠れず熏籠に倚ったまま夜を明かしている。「羅巾」はうすものの手巾。 「前殿」は宮中晴れの場。「按ずる」は種々に演奏演舞するのである。「熏 籠」で、衣裳を覆いかけ香を焚きこ込める。
2023 2/26
* 夕方、妻と、実に久しぶりに俳優座劇団公演,夏目漱石原作・秦恒平劇作『心』を、加藤剛、香野百合子主演で、懐かしくもしみじみと観直して、色んな場面と科白とで泣けた。気恥ずかしくもあり、しかし強く踏み込んで私なりの「想や情や劇」を真摯に打ち出していた。初めのうちは首もひねったがやはり「k」の登場からは私の創作度が深まり、妻とも頷き頷き観ていられた。この舞台のあちこちに妻の想も組み入れられていて、懐かしくも胸に響いて各場面からの放射が嬉しく快かった。ああこんな創作もしていたんだと王師の感慨が深々と蘇って嬉しかった。
漱石の『心』は、弥栄中学を私の一年早くに卒業していった慕わしくも愛おしかった「姉さん(梶川芳江)」が記念にと私の手にのこしい謂った文庫本、署名もしてあった。その『心』は我が聖書ともなり、数十百度も読みに読み返した名作なのである。そんなことは識らない俳優座を代表していた人気の加藤剛が、私に『心 わが愛』として脚色を強く希望し依頼してきたのだった。加藤剛も演出の村上安行ももう亡き人。お嬢さん・奥さんの香野百合子も母親の阿部百合子も,それ以上に「k」も「私」も美事な好演だった。懐かしく涙の浮かぶのは当然しごくの舞台だったのだ。幕が降りて、拍手が永くやまなかった。
* おかげで、色んな事を華々しくもさせて貰えた永い人生であった。
2023 2/26
〇 白楽天詩選 邯鄲冬至の夜家を思ふ
邯鄲の客裏 冬至に逢ひ
膝を抱て燈前影身に伴ふ
想ひ得たり 家中夜更けて坐し
還た應に遠行の人を説着すべし
* 邯鄲の客舎に一人悄然燈下に坐し故郷を思へば 故郷では家人らも夜更けて 還(また)應(まさ)に遠く旅中の我が上を語り合うていようよ、と。
2023 2/27
〇 白楽天詩選 竹枝の詞
瞿唐峡口 水煙 低れ
白帝城頭 月西に向ふ
唱へて竹枝 聲咽(むせ)ぶ處に到れば
寒猿 暗鳥 一時に啼く
* 「竹枝」は、風土を詠ずる「歌曲」の名、けだし巴人の俚歌、俗曲と。「瞿 唐(くとう)峡口」は揚子江の蜀より出る辺り。「白帝城」は蜀の古城。
巴頭の船舫 巴西に上る
波面風生じて 雨脚齊し
水蓼の冷花 紅 蔟蔟
江籬の濕葉 碧 凄凄
* 巴頭 巴西は、揚子江の四川省即ち蜀より湖北省に入る最も危険な川域。
* 白楽天の七言絶句鑑賞を 此処で結ぶ。
2023 2/28
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」より
○「殊にヨーロッパの産業学問が日本の学問に刺戟を與えはじめるや、日本にも自然 科学らしい学問、哲学らしい思索が生まれはじめた。三浦梅園(享保八年・一七二 三 ー 寛政二年・一七八九)は、そうした時期の(まことに優れた)哲学者である。」 三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫より。
◎ 人は天地を宅とし居るものに候へば,天地は學者の最先講ずべき事に御座候。尤、 天文地理、天行の推歩は、西學(ヨーロッパからの學問)入候ひて、段々精密にいた り 候へ共、 天地の條理にいたりては,今に徹底と存ずる人も不承(承知していない) 候。 かく悠久の年月をかさね、かく數限りなき人の思慮を費やし、日夜に示して隠す ことなき天地を、何ゆへに看うる人のなきとなれば、生れて智無き始めより,只、見な れ聞きなれ、觸れ馴れ、何となしに癖つきて、是が己れの泥(なづ)みとなり、物を怪 しみいぶかる心、萌(きざ)さず候。泥みとは、所執の念にして、佛式にいはゆる習氣 にて候。習氣とれ申さず候ひては、何分、心のはたらき出で來らず候。阿難(尊者)は 悟られしかども、前生、猴(猿)にて有しゆへ、猴の習氣やまざりしと申され候、是れ よきたとへに候。とかく人は人の心を以て、物を思惟分別する故に、人を執することや みがたく、古今明哲の輩も、この習氣に なやまされ、人を以て天地萬物をぬりまはし、 達觀の眼 は開きがたく候。 (つづく 二へ)
* 三浦梅園には、せめて此の一篇からでも、学び直し学び重ねておきたいと。
2023 3/1
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」より
○「殊にヨーロッパの産業学問が日本の学問に刺戟を與えはじめるや、日本にも自然 科学らしい学問、哲学らしい思索が生まれはじめた。三浦梅園(享保八年・一七二 三 ー 寛政二年・一七八九)は、そうした時期の(まことに優れた)哲学者である。」 三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫より。
◎ 其の習氣とは、人はゆく事をば足にてなし、拵(こしら)ゆる事をば手にてなすゆ へ、運歩作用に手足の習氣これあり。さる程に、蛇の足なく、魚の手なき、どふやら不 自由に思はれ候。天は足なくして日夜にめぐり、造化は手なくして華をさかせ、子を給 はせ,魚をもつくりとりをもつくり出し候。もし、己に執する處有候へば、其の運転造 化、甚だあやしむべき事に候。あやしむべき事にして、あやしむ人もなく候は、是も朝 暮に見なれ、空ゞとして貪着なしに打過るにて候。物の上よりして見る時は、天地も一 物にして,水火も各一物、我となり人となるも,各一物にて候。それを人には人癖つき 候ひて、我にあるものを推して他を觀候ひなづみ、やみがたく候。夫れ故、人の癖には、 何にても人になして、見もし思ひもし候。 (つづく 三へ)
2023 3/2
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫
◎ 子ども遊びの読本に、鼠の娵入り、ばけ物づくしなどいふあるをみるに、其の鼠 を鼠のまゝに致しをき候へば、鼠本来の面目に候ふを,其の鼠を悉く人になし、婿殿は 裃、大小、娵子は打かけ綿帽子、のり物つらせ、徒士若黨、すべ人の様に成し候。又ば け物の本をみるに、傘の茶臼にばけ、箒の手桶に變じたる圖はなし。只あるとあらゆる 物、目鼻手足出來り,とかく人の様なる物に化ざるはなし。涅槃像の圖をみるに、其の 龍王といふ物は、衣冠正しき人體にて、その本體の龍形は、火事頭巾かづける様に畫が きなしぬ。
かゝる心を以て天地を思惟する程に、天には上帝、地には堅牢、風の神、鳴る神なん ど、形はさもいやらしく描きぬれども、足を以て身を運び,手を以て技を出す。さる故 に、風は嚢に蓄はへ、雷は大鼓に聲をく。もし誠に嚢あらば、何を以て製するや。もし 誠に大鼓あらば、何の皮にてはる古都にや、いとあやし。もしかゝらましかば、天も足 なくてはゆかれまじ、造化も手なくては細工できるまじ。猶ちかきに引つけていはゞ、 すべて動物は牝牡有りて、草木には牝牡なし。牝牡なくて生々せざるは,動物の習ひに して、牝牡なくても生々に事缺かざるは、草木の習ひなり。己が習ひをもちて、己にあ らざる物に推さば、いかで其の理に通ずべき。 (つづく 四へ)
2023 3/3
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫
◎ むかし、何れの帝にてかおはしましけん、堺によき藤あるよしまこし召され、勅し て九重の内に移し栽へしめ給ひしに、帝ある夜の御夢に、いときよらなる女の、打ちし ほれける気色して、
思ひきや堺の浦の藤浪の都のまつにかゝるべしとは
と打ち誦んずると御覧じて、夢さめ給ひ、花も故郷や思ふとて。二度び堺に返し給ひし とぞ。
是等のモノがたりは、世に多き事なり。草木意なし。別れては馴れし故郷をしたひ、過 ぎてはこしかたを思ふは人の心にして、我が心の動く處、めで給ふ花に感じ、常になれ てもて遊び給ふ歌をなしけるものにして、藤のあづかる處にあらず。あづかる處なき花 にも我情態をこれに移せば花も又人なり。古來、明哲の輩も、 此の病に坐せられ、人 の境に居て人を離るゝ事能はず、目の翳障りをなすなり。さる故に、なれ癖に貪着なく、 是が泥(なづ)みとなりて、物をあやしみいぶかる心なき故に、一生を醒むるがごとく 酔ふがごとくにして終るなり。 (つづく 五へ)
2023 3/4
◎ 「かくあい(かくわい)ということば
久しくも久しい「友」であり「師」である「常用の辞書」、久松潜一監修『新潮国語辞典』の、もはや表紙も背も裏も頁の中にさえ手荒にガムテープで補強されて,片時も「読み・書き・読書と創作」の仕事のそばを去らないのに,心底感謝している。新潮社で「新鋭」の名のもとで「書き下ろし」長編小説が数人の新人にもとめられ、私は、一,二年も『みごもりの湖』と取っ組んでいた始めに、編集担当の池田君が上の辞典を呉れた、何よりも言葉と表現を大切に、と。
あれから何十年になるか、往時は渺茫と遠くかすんでいるが、此の辞典は無二の友として身のそばを離れなかった。有難くも心強かった。
「国語辞典」に身を寄せて愛し信頼していない「書き手」など、同じ文藝の仲間と私は思えない。思わない。正しく識らずに無茶に遣いかねない「ことば」は、よほどの手だれでもたくさん抱えていて、なに不思議なくも、当然。その事実・現実に畏怖しない「書き手」もいい加減なもの。いい加減な発語や表現は、じつは、やたらと多いのだ。
ところで、何日か前から、私、「かくあい(かくわい)」という「もの謂い」に引っかかって来た。まだ両親や叔母と京都で暮らしていた昔から、おとなは、ときどき、「かくあい(かくわい)」が、「いい」「わるい」と口にしていた。「うまいぐあいや」「なんか、うまいこと加減できん・調子が合わん」といった感じ方らしく、それなら「具合」と同じか、ちょっと感じ違うかなあと思っていた。「工合・具合」には、「体裁、対面、都合、それに健康状態」また「道具の遣い加減」を謂う「意味・意義」がハッキリしていて、どの辞典でもそう説明している、が、「かくあい(かくわい)」が「いい、わるい」と自分でも謂うたり感じたりとは、「ちがう」と子供なりに謂いも聞きもしていた。
それとても、しかし意識して記憶に値いするとも思わず、無数の日本語、日用語の「ひとかけら」で、平時に事ごとにいつも覚え、また用いる言葉では無かったし、忘れて不自由といった語彙でも無かった。
ところが、ここの処の、いつ時分からか、老耄のすすむにつれ、なにかしら、爲るも為すも不器用になってきたにつれ、「かくあい(かくわい)」がいい、わるいと、奇妙に日用の「機微」に触れたかの「単語の一つ」が、私の「暮らし」にありあり蘇ってきた。
例えばである、身につけて間もない不馴れな着衣の釦と釦穴とが変にシチくどく合わない、合わせにくい、のが、いつしかに馴れて、手探り一つで容易に役立ってくれる。身に添いにくいと感じたモチモノや道具や衣類が、いつ知れず身に合い着こなし使い慣れている。そんなときに「かくあい」が掴めてきた、知れてきた、「かくあい」を覚え馴染んできたナ、などと「謂う」て来なかったか。
「かくあい」佳いのはうれしく、何かにつけ「かくあい」の好いと悪いの差異は、意識するしないなりに、妙に生活上の行儀や作法の「コツ」かのように思い馴れているが、私独りの独り合点か。
2023 3/4
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫
◎ 物を怪しといぶかる心なくば、なきにして止むかとおもへば、さにもあらず。神鳴 り地震(ふ)りたりといへば、人ごとに頸を撚(ひね)り、いかなる事にやといひのゝ しる。我よりして是を觀れば、其の雷、地震をあやしむこそあやしけれ。故いかんとな れば、其の人地動くをあやしみ、地の動かざる故を求めず、雷鳴る所を疑ひて、鳴らざ る所をたづねず、是れ空々の見(けん)ならずや。此故に、皆人のしれたる事とおもふ は、生れて智の萌(きざ)さゞる始より、見なれ聞きなれ、觸れなれたる癖つきて、其 の知れたると思ふは、慣れ癖のつきたる事なり。
我、人に石を手にもちて、手を放せば、地に落るはいかなる故ぞととへば、それは重き によりて下に落る也、知れたる事也といふ。是も其人知りて知れたる事といふにはあら ず。なれくせ(慣れ癖)にて貪着(とんちゃく)なしにしれたりとおもふなり。然れば 是を醒たるがごとく醉たるが如しといはんも、我、過言にはあらざるべし。此故に其れ、 うたがひあやしむべきは、「變」にあらずして「常」の事也。孔子の、生をしらずいづ くんぞ死をしらんとおしへ給ふもこの事なり。 (つづく 六へ)
2023 3/5
* 私の、なにかにつけ呟くような口グセは、「ナンマミダブ」。久しぶりに阿弥陀如来の前身サマにお会いしたくなり、『浄土三部經』を書架から抜いてきた。お目にかかれるハズである。「イリアス」「源氏物語」「参考源平盛衰記」「水滸伝」「カラマゾフの兄弟」「薔薇の名前」「ホビットの冒険」に、「浄土三部經」が加わる。毎朝の日記のために「三浦梅園集」も読み進めていて、豪華な顔ぶれ、しかもみな、飛び抜けて面白い。これが私の,『読み・書き・読書と創作』とかかげた日課の表札。アタマの「読み・書き」はいわゆる「下調べ・下読み」に当たっている
2023 3/5
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫
◎ 人々死後はいかゞなるらん いかゞある覧と怪しめども、見在(げんざい けんざ かくしてを(居)る事も悉皆しれざる事なり。俗語にも、前の瀬わたりて後の瀬とこそ いへ。しかるに世の人前の瀬を置て,後の瀬の事のみおもふ。我怪しむ所なり。しかれ ば石、物いふといふとも、夫れより己が物いふを怪しむべし。枯木に花咲たりといふと も、先づ生木に花さく故をたづぬべし。
斯く物に不審の念をさしはさまば、月日のゆきかへり、造化の推し遷るは更にして、 が有と占め置ける目の見え耳のきこゆるも、態をなす手足も、物を思ふ心もひとつとし 合點ゆきたる事はあるまじく候。それを世の人いかゞすますとなれば、「筈」といふも のをこしらえて、これにかけてしまふ也。其筈とは、目は見ゆる筈、耳は聞ゆる筈、重 き物は沈む筈、かろき物は浮ぶ筈、是はしれたる事也とすますなり。然れば其の次手に、 雷は鳴る筈にて鳴り、地震は動く筈にて動き、枯木は華さかんもさけばさく筈、石の物 いはんもいへばいふ筈、とすまし度き物なり。 (つづく 七へ)
2023 3/6
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫
◎ 又少し書、讀などいふ人は、雷は陰陽の闘などいひて,人をさとすなり。其人に陰 陽といふものをとへば識らず。爰(こゝ)におゐて、我その智と愚とを辨ずる事能わず。 この故に、智を天地に達せんとならば、雷をあやしみ、地震をいぶかる心を手がゝりと して、此天地をくるめて一大疑團となしたき物に候。 疑ひ多き人さとる事と(疾)し。 疑なき人のさとる事鈍きは、弓に滿を持せずして、屋を放てるがごとし。此の故に世の 人の天地をしらざるは、慣れ癖に貪着なく、習氣を秘蔵する故にて候。
是に因て天地を達観せんと思召して,平生慣れて常とする事を疑の初門とし、觸るゝ事 悉く御不審を起され、我かくおもひかくうたがふもの、もと人なれば人の執氣ある處を、 御かへり見有べく候。 (つづく 八へ)
2023 3/7
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫
◎ 書籍と申候物も、むかしの人の面々に見たる所を書きつけたる物にて、造物者の書 たる物にてなく候へば 是れ又 大習氣の種子に候。 激論の様に思しめすべく候へど も、目のあたりたる事にて申候はんに、人生れて嬰孩の時、猶天然の眞を失せず、其の 子を一人は浄門の僧となし,一人は日蓮下の僧となし、各其師に従つて學ぶ事十年、帰 り會して各所見を呈せんに、十年の習氣氷炭相反し,死すといへども其守をかへず、嬰 孩天然の眞をもとむとも、いかでか再度かへる事を得ん。此の故に書に依て自得、是即 習氣人に憑つてしからしむ
書まことに主に候へども、天地はむかし新しき天地にもあらず、今ふるき天地にもあら ず。いつもかはらぬ無盬にして、我爐中の火即萬里の外の火にして、我盃中の水即千古 の前の水なれば、此天地をしり此水火をしらんとならば、先づ此の無盬に試みて、傍ら 書籍に参考し、あはざる處を置き、あふ處をとるべし。 (つづく 九へ)
2023 3/8
○ 「湖の本163」初校を明日9日午前着予定の宅急便でお届けいたします。
「湖の本162」は3月23日のお届け予定で動いております。
ご都合が悪ければ教えてください。 凸版印刷 関
* 加えて、私の方は『湖の本 164』入稿のための原稿編成に取り組まねばならない。何を「柱」にするか。休めるヒマは無い。
「休む」とは、「もういいよ」と応えて、天上の意味になる。そう思っている。
思い残すこと。もう一度でも 「京都」に身を置きたい。
* 三時半まで 一時間余り 潰れ寝ていた。身の保ちようなく、泣き言ばかり言うている。
口癖になっているが、窓やカーテンの明け閉めにも、階段の上がり折にもわたしには「ナンマイダブ」と呟く習いが、幾久しい。阿弥陀如来は、「法蔵」さんというお坊さんが、菩薩に成られ、如来にも成られたと『大無量壽經』にある。数あるお経の中でもわたしは、この事を一入懐かしく慕わしく感じ続けてきた。その一方で「反觀合一」を聰明に説く三浦梅園のような自然科学的「理性」の「哲学」にも、日々、深く聴こうとしている。
つまりは、私は、未だに、ただウロウロしているのだ、「ウロウロ」に眞実の籠もれるかと願うように。
2023 3/8
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫
◎ いかに廣大精微を説き出し候ても、天地にある廣大精微に候。いかに超越不群の人 に候ても、此天地の内に立ち、此天地の内をゆく人に候。其の達観する處の道は、則條 理にて、條理の訣は反觀合一、捨心の所執、依微於正の徴あり。依微於正とは、徴と見え ながら徴にあらざる徴あり。日月は慥に西にゆくの徴あれども、其實は東に行く。天地 の道は陰陽にして、陰陽の體は對して相反す。反するに因て一に合す。天地のなる處な り。反觀合一する事能はざれば陰陽の面目を見る事能はず。未だ陰陽の面目を見る事能 はずんば、博識多覧、聰明穎悟の人といふとも、天地の室をうかゞひ見ることは、得あ るまじく候。 (つづく 十へ)
2023 3/9
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫
◎ 慣るゝに安んじ、書籍の習氣を執し、徴に正による事能はず、是れ即 天地を師と せず、人を師とするの弊にて御座候。天地を師と致候は、反觀の工夫にて、反觀の工夫 熟し候へば、幽と隔て玄とふかく候とも、天地にある程の事は、推しいたるべき事に候。
天地かくの如く紛々擾々として、物多き様に見え候へども、只かたちある物ひとつ、か たちなき物ひとつ、此外に何も物なく候。其の かたち有物を「物」と申し、かたちな き物を「氣」と申候。 (つづく 十一へ)
2023 3/10
○ おはようございます。秦恒平 様
懐かしいおたより、嬉しく拝受致しました。
再読三読して やっと秦さまの近況がどんなに大変か、よくわかりました。
そのようななか、これだけの長文をパソコンに打ち込むのは、さぞ難儀なことでしょう。
秦さまが「血縁」に、複雑な想い というか 拘りをお持ちなのを 以前から不思議に思っておりました。
今回のお便りを拝読しても いまだに不可解です。(尤も私などに解ってもらおうとはお考えではないでしょうが。)
私にとっては「血縁」は、法制度上の存在ですので、親しくも鬱陶しくもある人々です。「親等」には関係なく相手によります。
でも、「身内」については、何となく実感できるように思います。
私の「身内」は、60年昔に亡くなった たったひとりだけです。今のところ、これ以上「身内」は増えそうもありません。
この冬は寒暖の差が激しいですね。三月というのに今日の最高気温は20度とか・・・。
北国仙台でも三月末には桜の開花が予想されています。
憂春の季節ですが、秦さまにとっては、優しい春でありますように。
どうかこれからもお身体をお大切に、ご健筆をお祈りいたしております。 恵
* 血縁 身内 明快なほど「恵」言、わかります。
世の大方の人たちに「血縁」はうまれながらに最も「身近に実在していた」はず。私には此の世に生まれ落ちたもうそっこくのように一切「血縁」を欠いていた。喪失していた。私は自身の「子」を得る日まで「血縁」を識らなかった、持たなかった。欠いていた。「亡くていいや」と思いいたって「身内」という私に独自の發明、発見、現実が「創造」されていった。 この字句、 この認識で、足りているだろう。
2023 3/10
〇 三浦梅園の哲学 「多賀墨郷君にこたふる書」三枝博音編『三浦梅園集』岩波文庫
◎ 解説者の結語より 人は、眞理を求めたいなら、學問的「問い」に心せよと、梅園 は此の書において思索的に縷々書き綴っている。一般に学問に於いて、博学は貴ぶが、 「問う」ことの意義の重要さを考えてみることはしなかったわが国の思想家のなかで、 三浦梅園のような学者は稀な存在。彼が「問う」ことを中心に、自分自身に問い掛けて いる問いこそ、哲学の精神。日本の哲学思想史のなかで不朽の価値をもちつづけている。
2023 3/11
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○ 一事を確實に處理できる人は、多のさまざまなことができるものだ。 1823 6 10
2023 3/12
二度測って低い値を採る。)
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○ 『藝術と古代』のはじめの十一冊を渡して、「この假綴じをよくしらべて、一般の索引をつくるだけでなく、不完全な點を書き留め、どの絲を再びたどって紡ぎ続けたらつづけたらいいか直ぐわかるようにしてくれ給え。私に非常なたすけになるだろう、又君にも非常にためになる。好き勝手にやる普通の読書よりも、かういう実際的な方法をとると、個々の論文の内容をはるかに細かく観察し理解できる。」 1823 6 10
2023 3/13
* ふっと、濃い深い孤りの淋しさを感じる。「人と逢う、話す」ということが絶えている。建日子とさえ、一年に三度ほども顔を見て、しかし對話の余裕はいつも殆ど無い。「さいなら。元気でな」と帰って行く車へ声をかけるだけ。毎日のように、ツイッターだか何かで「現状」は報じているらしい、が、「世間への發声」であろうし、それすら私にその「場面」を開く機械上の手順が無い、機械の技術に遮られて、わたしにはマッタク読めない。彼が、どんなに多彩に生き生きと活動し、何を感じ考えているのか、父の私には何も見えない、判らない。
「老いる」とは、こういうコトかと思いあたると、より早足に「今」を立ち去って行こうとの実感に逼られる。
思えば「読み・書き・読書」と自身を律した「日乗」に、いきいきと愉しく交わす「對話・会話・談笑の言葉」が、歴然、脱け落ちているのに気づく。妻とは話せるが、家庭的な日常語に限られやすく、「智・情・意」を分母にした生新の情報味を求めるのは「他人」で無いだけに、却ってただ尋常に停頓し、難しい。
自然「読書」にのみ頼って、これでは、生ま身の人間同士の「ぬくみ」に欠ける。「恰好の他者」として「猫たち」だけの居てくれる暮らし。「健康」とは言いかねる。
2023 3/13
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○ 「落ち着いて 静かに勉強しておいでなさい。結局 そこから定まって最も確実な、最も純粋な、人生観と経験とが生まれてくるからです。」
1823 8 14 マリイエンバアトで
2023 3/14
* 妻の学部卒業を待ち、二人で「京都」に別れ、上京、就職先に初出勤し、64年前の三月十四日、新宿区区役所で結婚届を済ませた。この日、荻窪の、妻の田所宗佑伯父宅で東京の保富家側親族に祝ってもらった。
* 人間の世界は年々に、日々に、穏和とは謂いにくいけれど、想えば始原の太古より人々は「難しく」「ややこしく」よほど「身勝手に」生き抜いてきたとよ。ま、その伝で今日も、明日も、行くか。行きたいが。
2023 3/14
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○ 「率直にいふが」「この冬はワイマルの私の側にゐてくれ給へ」「詩と批評とは最も君に適してゐる。君には生来さういふ素質がある。それは君の固守すべき職業だ。又今にそれで立派に暮らしてゆける。しかし専門外のことで、しかも知つてゐなければならぬことが澤矢間る。だが問題は長い時をつかはずに、それに早く通じてしまふことだ。さうして君は松籟の基礎をかため、何時でも確信を以て行動できる。」「この冬を一瞬間でも無意味に過さないやうにしたまへ。」 1823 9 15 イエナで
2023 3/15
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○ 「大作をしないやうにしたまへ。」「優れた人々でも大作には苦しむ。最も豊かな才能を持ち、最も真摯な努力をする人々でもさうだ。私もそれで苦しみ、それが身に沁みてゐる。さういふ時には何も彼も水泡に帰してしまつた。」「現在は現在としての権利を要求する。日々詩人に思想や感情を通じて迫つてくるものは必ず表現されんことを要求し、また表現されねばならない。しかし大作を目論んでゐると、それと一緒には他の何一つできない。その他一切の思想は排斥され、其の間生活そのもののゆとりがなくなつてしまふ。たヾ一つの大きい全體を心中にまとめ仕上げるのに、如何に多くの精神の努力と投資とが要るか。又それを流暢に適當に現はすには、如何なる力と、如何に静かなさまたげなき生活状態とが要るか。もし全體に於て摑みそこねると、一切の努力がむだになる。更にさういふ廣大な對象となると、その材料の個々の部分によく精通してゐないかぎり、所々に傷ができ、結局非難される。かうしてその非常な努力と獻身とに對して賞讃も喜びもうけず、何かにつけて詩人はたヾ深いと衰弱とを得るだけだ。これに反して詩人が毎日現在を摑み、提供されたもの、たヾ目前に在るものをいつも生新な気持で取り扱つてゐると、いつもきまつて立派なものができる。よしたまに失敗しても、何の損にもならない。」
1823 9 18 イエナで
* 實に謂い得ている。
2023 3/16
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○ 「誰も自分が一番よく知ってゐると考へてゐる。それで多くの人は失敗し、目のさめるまで迷はねばならぬ。」「君等のやうな若い人々がまた同じことを繰返すとなると、われわれが探ったり迷ったりしたことが何の役に立つ。後から生まれてくる人は---それ以上のことをしてもらはねばならぬ。---真っ直ぐ正道を行くべきだ。いつかは終局に達するといふやうな歩き方では駄目だ。その一歩一歩が終局であり、一歩が一歩としての價値を持たなくてはならない。」「人生は複雑だ。詩を創る動機がなくて困るやうなことはない。しかし詩はすべて機會詩(レエゲンハイトゲディヒテ)でなくてはならぬ。現實から詩の動機(モティフ)と材料を得なくてはならぬ。私の詩はすべて機會詩であり、現実に、現実を基礎としてゐる。ねつ造した詩を私は尊敬しない。」
1823 9 18 イエナで
* ゲェテは「詩」の一語に、文藝としての創作を籠めて謂うている。一ジャンルとしての「詩」のみを謂うていると狭くは聴かない。
2023 3/17
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○ 「現実に向かい、詩的な興味がないなどと言うてはならぬ。なぜなら、聰明にして、平凡な対象から興味ある方面を引き出せるくらい才気のある點にこそ詩人の価値があるのではないか。現実からモティフを、表現點を、眞の髄を得なくてはならぬ。そこから美しい生きた全體を創りあげるのが詩人の仕事だ。小さくても、日常的でも、よく通じ自由にこなせる題材をこそ避けるな。しかし大作となるとそうはいかない。回避がきかない。全體に関係しているもの、その発想に関連しているものはすべて描写され、しかもそれが如実でなければならぬ。大作には非常な博識が要る。若い人の見識はまだ偏頗で、それで失敗するのだ。」「まだ十分研究もせず、経験してもいないことになると、どこかで不足し、失敗し、個々の部分がどんなに巧くても、全體としては傷もので、完全な物にはならない。君の手に合うような個々の部分から、個々独立に書き給え、きっとよく出来る。」 1823 9 18 イエナで
* 謂うまでもなくゲエテは、文藝としての「創作全容」に触れて語っている。
2023 3/18
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○ ゲーテ宅の、優れた繪畫のまえで、ゲーテは語った、「むかしの人は大きい意向を持つてゐただけでなく、またそれが表現できた。それに反して我々近代人はよし大きい意向があつても、それを思ふままに力強く、生き生きと表現し難い。」 場面変わり、ゲーテの娘らも加わって「拙い芝居」が話題になり、「それもいい、まづいもの(=芝居とかぎらず)に向き合わねば済まぬ場合も。すると、まづいものの嫌さを痛切に感じ、ますます善いものに対する見解ができてくる。讀書となるとさうではない。気に入らなければ本を手放してしまふのだから。しかし劇場では辛抱しなくてはならぬ。」問題は本の場合。つまらなけれ、即、手放されてしまい、それでは「書く」「創る」意味が薄れてしまう。 1823 10 14 ゲーテ宅で:
2023 3/19
* 刷り上がってきた『湖の本 162』一部抜きを、珍しく読み返し読み耽っていた。
私の京都時代、とは、即ち「學童・生徒・学生」時期に相当る。そしてそれらを終え、直ぐ東京へ出て、就職し、結婚したのだった。
よくよくウマが合っていたか「学校」の昔は、先生方も学友たちも、みながみなしみじみと懐かしい。「育った家」「新門前通り」の「ハタラジオ店」を基点・地盤にしていたのだから、人にも地域にも一入の馴染みは当然のこと。有済少、弥栄中、日吉ヶ丘貴、そして無試験で同志社大へ。先生方の御顔も、大勢の学友の顔も声も名も、湧き立つように蘇る。惹き込まれて読み返していた。
無意味で無駄な、国立大への受験や受験勉強などに手間や時間を取られず、成績推薦の無試験ですっと大學へも進んだ。青春の貴重な時間をかけて私は「京都と日本史」とを「歩き回る」ことで身につけた。それで良かったと今もしみじみ思う。
2023 3/19
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○ ゲーテ宅の、優れた繪畫のまえで、「むかしの人は大きい意向を持つてゐただけでなく、またそれが表現できた。それに反して我々近代人はよし大きい意向があつても、それを思ふままに力強く、生き生きと表現し難い。」 場面変わり、ゲーテの娘らも加わって「拙い芝居」が話題になり、「それもいい、まづいもの(=芝居とかぎらず)に向き合わねば済まぬ場合も。すると、まづいものの嫌さを痛切に感じ、ますます善いものに対する見解ができてくる。讀書となるとさうではない。気に入らなければ本を手放してしまふのだから。しかし劇場では辛抱しなくてはならぬ。」問題は本の場合。つまらなけれ、即、手放されてしまい、それでは「書く」「創る」意味が薄れてしまう。 1823 10 21 ケーテ宅で:
2023 3/20
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○ 「近代の悲劇詩人たちの多くが流暢に生き生きと描写するチカラに欠ける。彼らはチカラ以上のことをしようと躍起になった。いわば「やり過ぎの才能 フォルツイルテ タレント」だ。
そして『スイスへの旅』を書いた三つの原稿を見せてくれた。「御覧の通り、みな刹那の感興にまかせて書いただけ。計画と、藝術的な仕上げをとは考えてなかった。まるで、一桶の水を空けたようなものだよ」と。「まるで無計画に自在に書いてみる効果」をも聴く思いだった。 1823 10 25 ゲーテ宅で:
2023 3/21
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○ 前日に見てもらった作について、「ただ二言。この作にもふれて言つておきたい。きみは、今、或る立場を切り抜けて、必然的に藝術の眞に高尚な、困難な地点に到達しなければ、即ち、個性を把握するようにならなければならぬ。無理にもそうしなければならぬ。骨を惜しまず、よくよく研究して書きたまへ。」「むつかしいのはわかつてゐる。けれども特殊なるものを把握し描写するのが藝術の本当の生命だ。且つ、個性を描いて満足してゐる間は、誰でも模倣をする。けれど特殊なものは模倣出来ない。なぜか。他人は経験してゐないからだ。特殊なものは他人の興味をひくまいかと心配する必要は無い。一切の性格には、よしどんなに特殊なものでも、また、石ころから人間に到るまで、一切の描写される者には 普遍性がある。なぜか。万物は繰り返され、ただ一度しかないやうなものは、此の世に一つも無いからだ。」「それから、創った作には一々日付を付け給へ。さうすれば、同時に君の境遇の日記になる。決してつまらぬ事では無い。わたしは長年さうして、その利益を識つてゐる。」 1823 10 29 ゲーテ宅で:
2023 3/22
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○ 「題材より大切なものがあらうか。あらゆる技巧論もそれが無かったら何の役に立つ。どんな才能の人でも、もし題材が適してゐなかったら、無駄になつてしまふ。それで
又、藝術と藝術家は行き納屋もまた苦しんでゐる。この点を会得せず、何が満足の行くほど役に立つかを認識してゐない。」 1823 11 3 ゲーテ宅で:
2023 3/23
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○ 「詩は、文藝は、すでに詞・言葉から出来てゐる。その上に(=説明的・指導的な)それを加へたら、ただ邪魔をする。理会なく未熟な注釈者や批評家が乗り上げる暗礁だ。」
1823 11 10 ゲーテ宅で:
2023 3/24
* 映画『ウインストン・チャーチル』に感動。わたくしも、もし日本国土と国民とが-暴國にに占領占拠支配されるよりは、国土と国民とを挙げての徹底抗戦を支持し決意して奮闘したい。國と国民とは、無道の占領と支配に徹底して甘んじてはならない。
2023 3/24
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○ 「人々が莫大な金を一枚のカルタに賭けるやうに、私は現在に賭け、誇張なしに、できるだけ現在の価値を高めようとした。」 1823 11 16 ゲーテ宅で:
2023 3/25
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○ 「一般に一個人のもっとも重要な時代は 発達の時代だ。」「青年時代や壮年時代を回顧して、いま、この晩年にあたって、当時ともに若かった人々のなかで残っている者のなんと少数であるか。」「世の人々はたえず私を運命の寵児のように賞め讃えている。また私も不平も云わねばわが來し方を歎こうとは思わない。しかしながら畢竟するにそれは、苦労と仕事とであった。」「我が七十五年間を通じて眞に楽しかったのは ものの一つと無かったと云うていい。繰り返し繰り返し上に上げようとして 一つの石を絶えず押し転がしていたようなものだ。私の活動の要求は、外からもまた内からも、余りに多すぎた。」 1824 1 27 ゲーテ宅で:
2023 3/26
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○「私の眞の樂しみは詩的な瞑想と創作とであった。」「もしも公の職務上の仕事から、もつと遠ざかり、もつと孤独に過ごすことが出来たら 詩人・作家としても更に多くのことをしたであろう。」「しかしながら或る賢人の言葉が事実となった。『人が一度世間のためになるようなことをすると、世間の人は手出しをして二度とそうさせまいとする』と」 1824 1 27 ゲーテ宅で:
2023 3/27
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○ 「私は今 十八歳でなくって幸福だ。」「私が十八歳の時には ドイツも亦やっと十八であった。」「今では万事が信じがたいほど進歩し、 その全部の見渡しもきかないほど。その上に我々は なお ギリシャ人やローマ人に、おまけに英国人やフランス人などに成れという。いやそれどころか、又 東洋の方へ向かえというほど狂気じみている。だから若い人々はまったく迷わざるを得ない。」「現にこういうすっかり出来上がった時代にあって、自分は青年でなくて有難い。若かったら、私は落ちつく術がないだろう。よしアメリカへ逃げても、もうおそい。あそこもとっくに夜が明けていようから。」
1824 2 15 ゲーテ宅で:
* 「明治日本」の若い意欲の知識人らは、まるで逆さま視線を飢えるほどに閃かせていた。出来上がっているゲーテよりも、なにがどう出来ると血眼であった目明治の若い新人たちに、やはり私は共感できる。
2023 3/28
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○ 「精神と高き教化とを、一般の人々が所有し得るものなら、作者・詩人は立派な仕事が出来よう。彼は少しも体裁をつくらず、少しも憚らず、信ずるところを口にも筆にもし得よう。しかるに彼はつねにとある限界内にとどまっていなければならない。自分の作品が雑多な世の人々の手に入るのだと考えざるをえない。従って又あまりに赤裸々に表現して、多数の善良なる人々の感情を害しないように注意しなければ済まない。
ところが時は不思議なものだ。時はむら気な、同じい人の言行に対して、世紀の変わる毎に変わった顔(態度)をする暴君のようなものだ。古代ギリシャ人に言って差し支えなかったことも、もはや我々が言うには適しない。」 1824 2 25 ゲーテ宅で:
2023 3/29
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○ 「私だって死後の生命を信じられるものならよろこんで信じたい。」「然しかかる解し得べからざることは、日々の反省の対象とし、思想を乱すような 瞑想の対象とするにはあまりに縁遠い。且つ又、永生をを信じている人はひとりでその信仰を楽しんでいるがいい。それを誇る理由はないではないか。」「現世の後に次の世が恵まれるものなら、私だって異論はありません。しかし私はああいう信仰を抱いている人々に、また次の世で出合うことは御免を蒙りたい。煩くてたまらなくなるでしょう。」「永生についてとやこう考えるのは、特にこれとい用事の無いひとのすること。然しすでに現在を秩序立ったものと考えて、日々活動し奮闘し、努力せねばならぬ人は、来世は来世にまかして、まず現世に於いて働き、有用な人となる。永生を信ずる思想は現世で幸福を取り逃がした人々に適している。」 1824 2 25 ゲーテ宅で:
* フイと目覚めたのでそのまま起きた。ゲーテに「聴いて」いた。偉大な文学者・しじんであり、しかも王に信頼された政治家でもあった、ゲーテ。その曰くにはやはり「時代」に制限された限界もあらわ、だが、そこは受け手の側で深く察知し思いは鍛え確かめねばならない。
2023 3/30
◎ 『ゲエテの言葉 抄』 若き友のエッケルマンに 一八二三・六月十日 初対面以降
○ 「愛とか憎しみとか、希望とか激情とか、その他 心の状態とか激情しかには詩人文人は生まれながらに通じ、また その描写も可能ではあろう。しかし、裁判の模様とか、議会や即位式の様子とかいうようなものは、豫想では分からぬ。實際と齟齬しないように、詩人たちは経験や傳伝などから學ばねばならぬ、自然や社会の観察・経験をないがしろのママでは済まない。」「それにしても、前もって世界を豫想によって會得していなかったら、見る目を持ちながら見えずに仕舞うだろう。すべての探究も経験も全く死んだ無益な努力に過ぎなくなろう。光りが先ず在って、それから色がわれわれを取り巻く。が、我々の眼の中に光りも色も無いとしたら、外界の光りも色も知覚できない。」
1824 2 26 ゲーテ宅で:
* ゲーテは独特の「光」「色」を認識に研究し「光学」化していた。ゲーテを卒業することは實に實に遙かに容易でないとよくよく承知しながら、暫く、ゲーテに聴いてきた。
2023 3/31
◎ 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
◎ 緒言 本書は、宋の名賢謝疊山先生の選に係り、唐宋諸家の名詩を輯(あつ)めしものにて、我邦(わがくに)にても支那にても、頗る名高かき詩藉なり。故に苟(かりに)も人の口にのりて、朗吟せらるるものは、多くは本書中の詩にて、今尚口碑(くひ)に傳はりて、人口に膾炙(かいしゃ)するもの多し。(以下・略)
○ 春日偶成
雲淡風輕近午天 雲淡く風輕し近午の天
傍花随柳過前川 花に傍(そ)ひ柳に随ひ前川を過ぐ
時人不識予心樂 時人は識らず予が心の樂みを
將謂倫閑學少年 將(まさ)に謂はんとす閑を倫(ぬす)んて少年を學ぶと
* 志士必誦と「明治」の本らしいが、私は気楽に臨んでいる。「千家」を尽すことは出来まいが、心行くままに選奨してみたい。明治四一年師走二十五日に初版、翌年三月十八には「訂正四版」が「定價金五午拾錢」で、東京神田の「光風樓書房」から出ているのを秦の祖父鶴吉が購っている。今日の文庫本大の上製本である。表紙には、題字等のほかに下半に雅な繪が刻されて金彩されていたのが、もう背文字もともに、すべて、擦れ果てている。愛翫に足る美しい本であったろう。
2023 4/1
◎ 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
○ 春日 朱文公 宋に仕へ 官 翰林学士に至る
勝日尋芳泗水濱 勝日 芳を尋ぬ泗水の濱
無邊光景一時新 無邊の光景 一時新たなり
等閑識得東風面 等閑に識得す 東風の面
萬紫千紅總是春 萬紫千紅 總て是れ春
2023 4/2
◎ 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
○ 春宵 蘇子瞻 號東坡 宋に仕へ 官 翰林学士に至る
春宵一刻値千金 春宵の一刻は 千金に値す
花有淸香来有陰 花に淸香有り 月に陰有り
歌管樓臺聲細細 歌管の樓臺は 聲 細細
鞦韆院落夜?? 鞦韆の院落は 夜 ??
* 歌管・鞦韆(謂わばブランコ)を謂うて 以て聲色戯玩の耽樂を戒むる願意・含意 あるかと。作者は蘇東坡(そ・とうば)の名で我が国に親しまれた。
2023 4/3
* 日々に「私語」を書き流している、が、行文上、無意識にも気をつけ、なるべく避けているのは、語尾の「ある」「である」「のである」で。いかに乱発されているかの実例は、手近な諸誌に署名記事を寄せている人の文章から、いやほど拾い出せよう。是が行く文をくさらせこそすれ、光らせることは、めったに、無い。
2023 4/3
* 何時頃からか、とろとろと寝入っていた。眼の底から疲れが湧いてくる。読書もままならないが、「書く」ことは途絶えてならない。
「湖の本」を収束して、ホームページで「書き続けては」という声は、身近からも私自身の胸の内にも去来はするのだが、せめて「創作」した文章は「本」にしてやりたい…。 2023 4/3
◎ 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
○ 城東早春 楊巨源 字 景山 浦中の人
詩家淸景在新春 詩家の淸景は新春に在り
緑柳纔黄半未? 緑柳纔かに黄に半ば未だ?しからず
若待上林花似錦 もし上林の花の錦に似るを待つなら
出門倶是看花人 門を出づるもの倶に是れ花を看る人
* 古來、君徳や陪臣の禮にかけて仰々しく解されたが、素直に、城東の早春、錦花に 惹かれ 倶に心弾んで門を出る風流と読み、かつ悦びかつ楽しみたい。
2023 4/4
◎ 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
○ 春 夜 王介甫 名 安石 宋 ?寧に相を拝し荊公に封せらる
金爐香燼漏聲殘 金爐に香燼きて漏聲は殘る
剪剪輕風陣陣寒 剪剪たる輕風 陣陣と寒し
春色腦人眠不得 春色 人を腦ませ眠り得ず
月移花影上闌干 月は花影を移し闌干に上る
* 王安石は、希世総理のの政治家 撫州臨川の人。詩は 齷齪の詮議や介意により推 して読まず、漢詩自体の妙味を字句の斡旋そのものに悦び、かつ楽しみ読みたい。
2023 4/5
* まるで気が弾まない。体調ととのわないからか、米大統領にまたもトランプかといった、あまりにばかげた報道などのせいか。凍えそうな孤独感、寂寥感を覚えている。からだと仕事が許してくれるなら、飄然と旅に出たい心地。何処へ。アテはない、京都としか。 京都へ帰りたいとは、ほとんど、「死にたい」というのと同義のように身内にあかい炎火が立つ。
2023 4/5
◎ 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
○ 海 棠 蘇東坡
東風嫋嫋汎崇光 東風嫋嫋 崇光を汎べ
香霧空濛月轉廊 香霧空濛 月廊に轉ず
只恐夜深花睡去 只だ恐るは夜深うして花睡り去るを
故焼高燭照紅粧 ことさら高く燭を焼いて紅粧を照せ
* 崇光は宮居の名。唐王と楊貴妃の逸事に取材。推して宋の時事時節を諷諫の要は 無い。
2023 4/6
◎ 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
○ 淸 明 杜牧之
清明時節雨紛紛 清明の時節 雨紛紛たり
路上行人欲斷魂 路上の行人 魂を斷てり
借問酒家何處有 お尋ねする 酒家は何處
牧童遙指杏花村 牧童遙か指さし杏花村と
* 名は牧 京兆の人 唐の太宗の初 信士に登る。時勢を諷して複雑に読む必要なし。 題のまま、しとどの雨に降られながらも、行人、牧童、清明余裕の光景を微笑して 味わうが良い。漢字一一の美しさ慥かさに心惹かれ、横溢の詩趣を喜びたい。
2023 4/7
* 歯科から帰って、ただただ寝入っていた。
建日子が、帰ってきた。……、もう建日子「との」時間、残り少ない、無いに近いのだなと、諦めるように思う。
朝日子との、みゆ希との時間は、もう希望の無い「ゼロ」同然のままに吾が世は果てる…らしい。次の歌に、いま、私は同感していない。
生涯にたつた一つのよき事をわがせしと思ふ子を生みしこと 沼波美代子
幸いに、「身内」の思いを、「肉親」よりも遙かに遙かに豊かにわたしは識っている、感触している。過去にも。現在でも。それが、「生きてきたわたし」が、「わたし自身にだけ」与えうる「遺産」だ。
2-23 4/7
◎ 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
○ 淸 明 王元之
無花無酒過清明 花無く酒無く 清明を過ぐ
興味蕭然似野僧 興味蕭然たる 野僧に似る
昨日隣家乞新火 昨日 隣家の薪火を乞ふも
曉窓分與讀書燈 曉窓 分與ふ書を讀むの燈
* 名は禹 歳七歳にして 能く文に屬すと。爲に、眞宗のとき其の才を忌まれ貶せ られている。薪火を乞われても 讀書の燈しかない貧に在り、しかも清明。
2023 4/8
◎ 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
○ 社 日 張 演
鵞湖山下稲梁肥 鵞湖山下の秋 稲も梁も肥え
豚柵?棲對掩扉 豚柵 ?棲は みな扉を掩ふ
桑柘影斜春社散 桑柘影斜の春 祭儀は今し散じ
家家扶得醉人帰 家家みな 醉えるを扶けて帰る
* 豊作を祈り喜ぶ春秋の祭日。
2023 4/9
◎ 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
○ 晩 春 韓文公
草木知春不久帰 草木春を知て久しく帰らず
百般紅紫闘芳菲 百般の紅紫は芳菲を闘はす
楊花楡莢無才思 楊花楡莢にはその才思無く
唯觧満天作雪飛 唯觧けて満天に雪飛を作す
* 強いて時事に託けて知解しようとするのは煩い。自然のママに眺めて佳い。
2023 4/10
◎ プラトン著 『國 家』抄 日本 岩波文庫 藤澤令夫譯 に借りて
* 記載の多くが、プラトンには「師ソクラテスの曰く」に借る体に発言ないし叙述されているが、 また参加のアテネ市民らの発言や討論も含まれている。。大意、趣意を失わぬまま玩味に堪えるよ う「抄」したいとお断りしておく。 秦 j.
○ ソクラテスに向かいケパロスの曰く、「いいかね、この私には、一般に肉体のほうの 樂しみが少なくなつていくにつれて、それだけ談論の欲望と歓びとが、ますます大きく なってきているのだ」
「ええそれはもう、ケパロス」とぼく(ソクラテス)は言った、「そういう方たちは、 言ってみれば、やがては恐らく我々も通らなければならない道を先に通られた方々なの ですから、その道がどのようなものか、ーー平坦でない険しい道なのか、それともらく に行ける樂しい道なのかということを、うかがっておかなければ」
「ゼウスに誓って、いいともソクラテス、話してあげよう」とケパロス、「われわれは、 同じくらいの年齢の者が何人かいっしょに集まることがよくあるのだが、そんな場合、 われわれれの大部分の者は、悲嘆にくれるのが常なんだ。若いころの快楽がいまはない ことを嘆き、女と交わったり酒を飲んだり、陽気に騒いだり、その他それに類すること をあれやこれや思い出しながらね。そして彼らは、何か重大なものが奪い去られてしま ったかのように、かつては幸福に生きていたが今は生きてさえいないかのように、なげ き悲しむ。なかには身内の者たちが老人を虐待するといってこぼす者も何人かあって、 そうしたことにかこつけては、老年が自分たちにとってどれほど不幸の原因になってい ることかと、めんめんと訴えるのだよ。
しかしソクラテス。どうもこの私には、そういう人たちは、ほんとうの原因でないも のを原因と考えているように思えるのだよ。なぜって、もし老年がほんとうにそういっ たことの原因だとすれば、この私とても、そのかぎりでは同じ経験を味わったはずだし、 私だけでなく、よそこの年齢に達した人なら、みな同じことだろうからね。けれども、 げんに私はこれまでに、そうでない人々に何人か出あっているのだ。作家のソフオクレ スもその一人で、私はいつか、彼があるひとから質問されているところに居合わせたこ とがある」 (つづく)
2023 4/11
◎ プラトン著 『國 家』抄 日本 岩波文庫 藤澤令夫譯 に借りて
* 記載の多くが、プラトンには「師ソクラテスの曰く」に借る体に発言ないし叙述されているが、 また街頭の談論に参加のアテネ市民らの発言や討論も含まれている。大意、趣意を失わぬまま、 玩味に堪えるよう「抄」したいと断っておく。 秦 j.
○ 「どうですか ソフォクレス」とある男が言った、「愛欲の樂しみのほうは? あなたはまだ女とまじわることができますか?」
ソフォクレスは答えた、「よしたまえ、君。私はそれから遁れ去ったことを、無上の歓びとしているのだ。たとえてみれば、凶暴で猛々しいひとりの暴君の手から、やっと逃れおおせたようなもの」
「まったくのところ、老年になると、その種の情念から解放されて、平和と自由がたっぷり与えられる。その原因はただひとつしかない。それは、ソクラテスよ、老年ではなくて、人間の性格なのだ。端正で自足する事を知る人間でありさえすれば、老年もまたそれほど苦になるものではない。が、もしその逆であれば、そういう人間にとっては、ソクラテスよ、老年であろうが青春であろうが、いずれにしろ、つらいものとなる」と、ケパロスの曰く、「人物が立派でも、貧乏していたら、老年はあまりらくではないし、人物が立派でなければ、金持ちになったとて、安心自足することはけっしてないだろうよ」。
2023 4/12
◎ プラトン著 『國 家』抄 日本 岩波文庫 藤澤令夫譯 に借りて
* 記載の多くが、プラトンには「師ソクラテスの曰く」に借る体に発言ないし叙述されているが、 また参加のアテネ市民らの発言や討論も含まれている。。大意、趣意を失わぬまま玩味に堪えるよ う「抄」したいとお断りしておく。 秦 j.
○ ぼく(ソクラテス)は言った、「自分で稼いだ人たちとなると、ほかの人の二倍もの 愛着をお金に対してもつものです。ちょうど、詩人が自分の作品に愛着をもち、父親が 子供に愛着をもつのと同じように、お金を儲けた人たちもやはり、お金というモノを、自 分のつくりあげた業績と思う気持から大切にするわけで、ほかの人のように実利的な観 点から大切にするだけではない。だからまた、そういう人たちは付き合いにくい。なに しろ、富以外のものは何ひとつほめようとしないのですからね」
2023 4/13
◎ プラトン著 『國 家』抄 日本 岩波文庫 藤澤令夫譯 に借りて
* 記載の多くが、プラトンには「師ソクラテスの曰く」に借る体に発言ないし叙述されているが、 また参加のアテネ市民らの発言や討論も含まれている。。大意、趣意を失わぬまま玩味に堪えるよ う「抄」したいとお断りしておく。 秦 j.
○ ぼく(ソクラテス)は言った、「もう少し質問させてください。あなた(=金満家の ケパロス)が財産をたくさん持っていてよかったと思うことで、いちばん大きな こと は何ですか」
彼は言った、「いいかねソクラテス。 人は、やがて自分が死ななければならぬち思う ようになると、以前はなにでもなかったような事柄について懼れや気づかいが心にしの びこんでくる。ハデス(冥界)のことが前よりよく見えるからでもあろうか生涯の内に 多くの不正を見出す者は不安につきまとわれ、かえりみて何一つ不正をおかした覚えの ない者には、つねに愉しくよき希望があって、『老いの身を養って』くれる。びくびく しながらあの世へ去るといったことがないようにする、お金の所有が、富が、最大の価 値を持つのは、ほかならぬ此処のところと私は考える」と、ケパロス。
2023 4/14
* とにもかくにも、気を確かに生き続けて創り続けてゆくまでのこと。いまさら世に出張って発言したり行動したりは出来ないし其の気は元々無い。成ろうならこの現在と、無限大の過去世からの種々「文化」の恵みを、老体の栄養に、よくよく味わい食したいまで。
2023 4/14
◎ プラトン著 『國 家』抄 日本 岩波文庫 藤澤令夫譯 に借りて
* 記載の多くが、プラトンには「師ソクラテスの曰く」に借る体に発言ないし叙述されているが、 また参加のアテネ市民らの発言や討論も含まれている。。大意、趣意を失わぬまま玩味に堪えるよ う「抄」したいとお断りしておく。 秦 j.
○ ぼく(ソクラテス)は言った、「身体というものは、ほかのものの助けを必要とする、 だからこそ、医術という一つの技術がいまでは発見されている。身体というものは欠陥 がありがちなもので、そのあるがままの状態では自足できない、そこで、そのような身 体のためさまざまの利益をもたらす目的で、そのための技術が考え出された。医術は、 医術の利益になることを考察するものではなく、身体の利益になることを考察するもの だよ。どのような技術も、其の技術自体の爲をはかるものでなく、その技術がはたらき かける対象の利益になることを考察するものだ。」
「ところで、トラシュマコス、そうしたもろもろの技術とは、それが働きかける対象を 支配して優越した力を持つものだ。およそ知識は、どんな知識でも、けっして強い者の 利益になる事柄を考えて、それを命じるのでなく、弱い者の、つまり自分が支配する相 手の利益になる事柄を考え、それを命じる。」「だからまた、およそどんな医者でも、彼 が医者で有る限りにおいては、医者の利益になる事柄を考えてそれを命じるのでなく、 病人の利益になる事柄を考えて命令するのではないかね。」「一般にどのような種類の 支配的地位にある者でも、いやしくもすぐれた支配者である限りは、決して自分のための 利益を優先することなく、支配される側のもの、自分の仕事が働きかける対象であるも のの利益になる事柄をこそ、考察し命令する。その言行の全てにおいて、彼の目は、自分 の仕事の対象である被支配者に向けられ、その対象にとって利益になること、適するこ とのほうに向けられているのだよ。」
2023 4/15
◎ プラトン著 『國 家』抄 日本 岩波文庫 藤澤令夫譯 に借りて
* 記載の多くが、プラトンには「師ソクラテスの曰く」に借る体に発言ないし叙述されているが、 また参加のアテネ市民らの発言や討論も含まれている。。大意、趣意を失わぬまま玩味に堪えるよ う「抄」したいとお断りしておく。 秦 j.
○ ぼく(ソクラテス)は言う、「人としてまともな人であるなら、人を支配することを 何か善いことであると考えたり、その地位にあって善い目にあうことを期待したりして 支配に赴くわけはない。もしすぐれた人物たちだけから成るような国家ができたとした ら、おそらくは、ちょうど現在、支配者の地位につくことが競争の的になって居るのと 同じ仕方で、支配の任務から免れることが競争の的になることだろう。そのときこそ、 眞の支配者とはまさしく、自分の利益ではなく被支配者の利益を考えるものであること が、はっきりと分かるだろう。いかにしてもぼく(ソクラテス)としては、トラシュマ コスに賛成しかねる、『正義とは強者の利益だ』ということにはね。」
* つくづくと、政情、世情、現状、因循姑息、沈滞しつつ腐敗して行く感じに、滅入る。自身野言葉を持たずペーパーを頼ってボソボソとしか喋れない総理の、なにもかも「閣議決定」で強行もにげきりもしてのけね陰険総理。爆発物を投げつけて震えるタマではない。だれがこうしたか。我々国民である。日本国民は何処から観ても、逆立ちして見直しても、愚民である、私も含めて。社会党を徹底的に自壊してテンと恥じなかった土井たか子の愚行を私は憶えている。その愚を継いだ小娘党首主も輪を掛けてグレていた。野党の枯れ果てた民主政治なんて在るものか。今の野党は、われもわれも与党の内と思い込んでいる、いまや共産党すらも。
こんな今日に、こんな朝メールをもらうと、夢の世と想われ、もう一度寝入りたくなる。
2023 4/16
◎ プラトン著 『國 家』抄 日本 岩波文庫 藤澤令夫譯 に借りて
* 記載の多くが、プラトンには「師ソクラテスの曰く」に借る体に発言ないし叙述されているが、 また参加のアテネ市民らの発言や討論も含まれている。。大意、趣意を失わぬまま玩味に堪えるよ う「抄」したいとお断りしておく。 秦 j.
○ (不正な人、正しい人に関わる、トラシュマコスとのやや長い議論の先へ来て、ソク ラテスが言う、「結構。きみの曰わく、不正な人は、知恵ある人とすぐれた人に似てい るが、正しい人は似ていない、ということになる?」
「あたりまえだ」と彼(トラシュマコス)は答えた。
「結構(と、ソクラテス)。すると、両者のそれぞれは、それぞれ自分が似ている者と 同じような性格の人間だということになるね?」
「そうでなければ何としよう」
「では、トラシュマコス、全ての知識と無知識について観てみたまえ。音楽家でもよい、 医者でもいい、誰でもよい、きみの理解では、正しい知恵の無い、優れた技も無い人間 は、自分と相似た人に対しても相似ない人に対しても、分をおかして相手を凌ごうとす るような人なんだね。他方、正しい人間は、自分と相似た人に対しては、分をおかして 相手を凌ごうとせず、相似ない人を凌ごうする。してみると、正しい人間とは、知恵の ある、優れた人に似ていて、そうでない人間は劣悪で無知な人に似ていることになるね。 つまり、正しい人間とは知恵のあるすぐれた人であり、不正な人間とは無知で劣悪であ るということが、いまや、我々の前に判明したわけだ。」
2023 4/17
◎ 秦 恒平短歌集 去来 12-01 — 15.12
『光塵拾遺』 2012 01 10
* 荻江 細 雪 松之段 秦 恒平・詞 荻江 壽友・曲
あはれ 春来とも 春来とも あやなく咲きそ 糸櫻 あはれ 糸櫻かや 夢の跡かや 見し世の人に めぐり逢ふまでは ただ立ちつくす 春の日の 雨か なみだか 紅(くれなゐ)に しをれて 菅の根のながき えにしの糸の 色ぞ 身にはしむ
さあれ 我こそは王城の 盛りの春に 咲き匂ふ 花とよ 人も いかばかり 愛でし昔の 偲ばるれ
きみは いつしか 春たけて うつろふ 色の 紅枝垂 雪かとばかり 散りにしを 見ずや 糸ざくら ゆたにしだれて みやしろや いく春ごとに 咲きて 散る 人の想ひの かなしとも 優しとも 今は 面影に 恋ひまさりゆく ささめゆき ふりにし きみは妹(いもと)にて 忍ぶは 姉の 歎きなり
あはれ なげくまじ いつまでぞ 大極殿(だいごくでん)の 廻廊に 袖ふり映えて 幻の きみと 我との 花の宴 とはに絶えせぬ 細雪 いつか常盤 (ときわ)に あひ逢ひの 重なる縁(えに)を 松 と言ひて しげれる宿の 幸(さち)多き 夢にも ひとの 顕(た)つやらむ ゆめにも 人の まつぞうれしき
昭和五十八年三月七日作 五十九年一月六日 国立小劇場初演
◎ 小劇場での初演を谷崎松子さんと並んで観た。舞手もも松子夫人のご指名であった。亡き谷崎先生を偲ばれ、先生にも奥さんにも影のように添われて、やはり亡くなっていた妹の重子さんをも哀悼の思いに涙されていたのを、今も、私は想い出す。
* ここ、しばらく、往時をしのび、われと我が心根を慰め励ましたい。
* 気が沈んで、弱みになっている。それと分かっていて、躰の芯にちからなく、励みがない。すてきなメールでも来ればありがたいが。
2023 4/18
◎ 秦 恒平短歌集 去来
『光塵拾遺』 2012 01 10 本巻の序に替えて
以下に編んだのは、いわゆる歌集でも句集でも詩集でもない。あえて謂えば「述懐」であり、谷崎潤一郎にならって謂うなら、小説家が流した「汗」のようなもの、あるいはわたくしの「口遊(くちずさ)み」に過ぎない。お笑いぐさながらそれをしも編んでおこうかと願ったのは、これも「文藝」のうちと考えたからである。
題だけ、すこしいばって、『光塵』と名付けた。
組み立ても無い。まこと気恥ずかしいほんのわずか「少年拾遺」を巻頭に添え置いた他は、長男・秦建日子誕生の数首以降よほど間をあけ、もっぱら東工大教授六十歳定年退官以後の老境、さらに七十五叟の後期高齢に向かうまま、短歌、和歌・俳句・詩のようなものをことさら区別せず、ほぼ編年、甚だ気儘に並べたに過ぎない。それはそれで老濫無頼な不良老年に相応と思っている。
わたくしには、昭和三十九年(一九六四)秋に初編の歌集『少年』がある。十五、六歳より結婚後の二十七歳頃の短歌をおさめ、そして「歌」に別れ「小説」や「批評」を書き始めた。歌集『少年』はその後いくたびも版を替えて出版され、上田三四二氏、竹西寛子さん、前田透氏らの推讃をいただき、岡井隆氏は二度にわたり氏の『昭和百人一首』に『少年』の各一首を選んで下さったし、短歌新聞社刊の文庫版に田井安曇氏は懇切な解説を書いて下さった。嬉しかった。明らかに少年のわたくしは「歌集」を編んだのであった。
但しその以前も以後も、わたくしは「歌人」であろうとは願わなかった。もう一度云うが、歌集『少年』の後は、働けば「汗」をかくほどの自然さと当然さとで和歌・短歌のようなもの、俳句のようなもの等を、ただ谷崎流に分泌し排泄してきたに過ぎない。云うまでもない、そういう姿・形での「述懐」をわたくしが好んでいたのである。
述懐するだけではなかった。古典物語はもとより、少年以来わたくしは大の和歌好き、ことに「恋」の和歌好きであった。歌謡も謡曲も好きであった。俳句は難しいと敬遠していたが、芭蕉にも蕪村にも虚子らにも傾倒した。現代の短歌俳句も講談社刊の浩瀚な「昭和萬葉集」はじめ、歌誌も句誌もよく読んできたし、『千載秀歌』『梁塵秘抄』『閑吟集』『愛、はるかに照せ(愛と友情の歌)』『青春短歌大学』等々鑑賞の著も出しつづけてきた。自分は排泄物なみの述懐で済ませていながら、プロを自称の作者達には概して辛辣、有名に遠慮せず無名にはなるべく叮嚀に立ち向かって、外野席から批評もしてきた。
そんな中の、主に短歌に限って、ホームページ中の『宗遠日乗』から、ごく僅か抄して巻末に添えてみたが、失礼なだけの蛇足であったろうか。よろしければ、十五年に及ぶ『宗遠日乗』をご自由に拾い読んでいただきたい。URLを掲げておく。 http://hanaha-hannari.jp/
(此のホームページが、令和5現在故障し閉口している。八七老の手に負えず、ただ頓首。)
2023 4/19
◎ 秦 恒平短歌集 去来
山みざる日は 昭和三十六年ころ
山みざる日は
心のそこの底に
それはあの
木蓮の
そらさす枝の花をもたず
冬かたむき果つるゆふべ
人恋ふる
悔いの痛さを
おもふなり
前世 昭和三十六年ころ
柿の木
柿の実
柿の木坂を
ころころ落ちた
どこまで落ちた
秋の夜
秋の夜
たあれも知らぬ
栗の木
栗の実
栗の木坂を
ころころ落ちた
どこまで落ちた
秋の夜
秋の夜
たあれも知らぬ
2023 4/20
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
大学生の頃に
死にいそぐ道には多き春の花
菜の花に埋められたる地蔵哉
迪子に
鋏おいて長嘆息の黄菊かな
私家版『畜生塚 此の世』扉に 昭和三十九年十一月
小説「みごもりの湖」に
月皓く死ぬべき虫のいのちかな
小説「糸瓜と木魚」に
雨の日の雨うつくしき秋桜
2023 4/21
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 山吹
水の清瀧から高尾へ遅い春の山川をさかのぼ
って小半時、何年前になるか、「───」とま
だ大学生だった妻が指さした。川なかをうず
高く占めた岩のてっぺんに、黄金色の日を浴
び、ちいさな蜥蜴が虚空に美しく首を反って
光っていた、黄金色の蝶を高々と銜えて。蜥
蜴は動かなかった。蝶も動かず妻は私の手を
握って息をのんでいた。山吹が向うに群れて
咲きたわんでいた。蝶、と思いこんで来たが
風に舞ったあれも明るい花の色であったか。
2023 4/22
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 菖蒲
たれの腰巾着でもあったはずのないなつかし
いキンチャク先生の、あれは頬から頤の輪郭
と、やがて三十年のクラス会に出て気がつい
た。お達者で。いや年をとったよ。そんなこ
とありませんともう三人もの母親が先生のネ
クタイをほめた。藍をふくんでしっとり色濃
い杜若の紫。──今時分でしたね先生を先頭
に教室を出て、平安神宮の奥のお庭へ花菖蒲
を見に行った。杜若とはここが違う、と習っ
たが──今だに先生、孰れがあやめ、杜若。
2023 4/23
* 「片付ける」「しまう」が、どんなに難儀か、混雑を極めた自室を見れば、瞭然。あーあ。 できることは、出来るかぎり正確にしておく。少なくも分類しての保存と不要分の消却。今はそれが大切。
* 走り書きのまま記載保存していなかった短歌などかなりの数を、「歌集 老蠶」にに記録した。
2023 4/24
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 躑躅
二人めの女の児が生まれたという、「おめで
とう。名前は」と訊くと「ひとし」ちゃん。
「いい名だ。どう書くの」「相生──」なる
ほど、と納得してみれば亭々と比翼連理の枝
葉を茂らせた高砂の松も目に見えてくる。そ
れに相生結びは女結びの豊かに育ったもの、
「いよいよめでたいね」と祝うとひょいと指
をさす。指先に、春蘭けて私自慢の盆栽は、
相生の松ならぬ花も盛りに燃えたつやまつつ
じ。「うまく育てろよ」「任して、下さい」
* 穏和な、はずみのいい一日ですように。
2023 4/24
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 戀紫
与謝野晶子は戯れに「紫」と名のって寛と出
逢い、与謝野寛は歌詩集『紫』に燃ゆる恋を
うたひあげて、秋かぜにふさはしき名をまゐ
らせん「そぞろ心の乱れ髪の君」の一首をお
くつた。炎と化した晶子は、四ヶ月後『乱れ
髪』を世に問ひ、巻頭九十八首にひときわ赤
く「臙脂紫」の題を副へ二人は結婚、近代の
光源氏と紫の上を「血のゆらぎ」「さかりの
命」で熱演した。何のことはない晶子は色を
好む寛の頸を恋の玉の緒で緊めあげたのだ。
2023 4/25
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 朝顔
「ひさこ」と読んで瓢でも柄杓でもあるのは
分るね。細い瓢箪を真っ二つに縦に割った形
は、さも柄杓だよね。それも湯水でなくて、
酒甕から酒が汲みたいね。酒は一献参ると言
うけど汲むとも言うぜ。汲みかわすって言う
ぜ。柄杓酒こそ、枡酒や茶碗酒やコップ酒を
はるか溯った酒本来の呑み方さ、まして夏場
の朝酒はね。朝顔の鉢なんか眼の前に並べて
さ。赤や紫はいやだねえ。朝顔はやっぱり、
昔ながらの露草色でなくちゃ、酒が苦いよ。
2023 4/26
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 紫草
紫衛門──ご存じか。紫。夏、白い小花をつ
ける多年草。その根で染めた、赤と青との中
間色。朱ヲ奪フとか、似而非あつかいもされ
ながら、紫冠や紫衣は最上等。紫の袖が高位
の人の袍なら、紫の庭は畏きあたりを意味し
た。古代紫と敬って江戸の助六もそんな色の
鉢巻、に揚巻太夫が惚れたそうな。その揚巻
とは、つまり総角。東西、千秋楽、土俵上は
四つ房の水引幕。真中できりり引き絞った飾
りむすび、あれが、あげまき。あれも、紫。
2023 4/27
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 紅葉
萬葉集では黄葉と書き、古今集では紅葉と書
いた。それだけ気温が上がったか下がったか
知らない、それより、奈良時代にはモミチと
清んで訓み、動詞は四段に活用した。これを
モミヂと濁って上二段に活用したのは平安時
代からで、晩秋の霜に燃えて草や木の葉が色
変わる美しさを謂った。源氏物語に紅葉の賀
も佳かったが、晩秋初冬、鰭は紅に肉厚くて
美味い琵琶湖の鮒を、紅葉鮒と呼んで賞味し
たなつかしさ。色気がぬけて食い気の四十?
2023 4/28
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 雪の下
鎌倉雪の下にN先生をお訪ねした日は雨だっ
た。ぜひお寄りと教えていただき、瑞泉寺ま
でゆっくり歩いた。久米正雄のお墓参りもし
た。雪の下が純白の花をつけていた。表は白
い斑が入って、裏は濃紫がおお赤らんだ、ま
るい葉だ。初夏だった。何というのか細う朱
い触手のようなものを吐き、地這えに殖えな
がらしたたる青葉楓の雨を受けていたのが、
耳にある。佳い帯〆めを結んだ老婦人と、墓
の前でそっとすれ違ったのも、憶えている。
2023 4/29
* 半日をかけて進めた「入稿」のための作業が、なぜかまるで「保存」出来てなく、落胆。 それでも今日は妻と、私のいわば不覚敬愛する名作映画、一つは『ウインストン・チャーチル』と、もう一つは黒澤明が書いて監督し、スピルバーグが製作協力した『夢』、此の二作に、心魂を揺すられ感嘆できた幸福を衷心喜びたい。
私の前途はもう短く且つ険しいと覚悟しているが、楽しみたい。
* もう刷了され、五月半ばに納品される『湖の本 163』巻頭の新作『或る往生傳』は、いま、私なりの思惟とも祈願とも、また覚悟にほど近いものを、いわば露わにしている。どう読まれるだろうか。
* 「処女作」からみれば六十余年、「湖の本」創刊から「三十七年」にもなり、新しく加わって下さった読者の皆さんには「初期作品」を読む機が無いと云われている。「湖の本」巻頭に「処女作」以降の極く初期作も載せて行こうと画策している。私に、私で無くて出来ない仕事は、まだいろいろとある。『或る往生傳』には貧苦の夫婦して百十二歳まで生きたとあり笑えるが、ま、頑張ってみて佳かろうよ。
2023 4/29
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 茶袋
山寺の和尚さんが猫をおっ籠めた袋は紙袋か
茶袋か、いや駄荷袋だろうと喧しく、甲論乙
駁で話にならない。そういえば畏れ多いがダ
マシいいお袋はさておき知恵袋、頭陀袋、信
玄袋から守袋あり匂袋あり状袋も浮袋もいっ
さい合切袋というのもあった。金袋や米袋な
ど欠かせぬ大事、どれも常磐堅磐にしっかと
紐を懸けた。それが今ではまっこと袋らしき
物ゴミ捨て用のビニール袋しかない、とは、
結ぶに結べないシマラヌ国になったものだ。
* 四月が往き、櫻の春が往く。
2023 4/30
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 紅梅
ちいさな聖像画を懸け、真前に愛らしい燈明
の台を吊した一画を指さして、「紅い隅」とロ
シヤ人の通訳は教えてくれた。あれはモスク
ワの、文豪トルストイの旧居で誰だか子ども
部屋を覗きこんだ時のこと。「紅い──とは」
と訊くとロシヤでは昔から「美しい」意味に
使ってきたと。さしずめ神棚か、お仏壇か、
ナルホドと呟いたまま遠い日本の紅い色を眼
の奥で追うた。「濃きも淡きも紅梅」と言いき
った枕草子、女作者の口ぶりが懐かしかった。
2023 5/1
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 華燭
晴れて華燭のお招ばれに、「一句謹呈」、即ち
「雛の日や」と発したが、あとが無い。やけ
っぱち「われら右大臣左大臣」とやってのけ
た。色佳う桃の盛りの弥生三月、櫻だよりへ
もほど無い時分のおめでただった。陣笠の旗
持ち奴が「右大臣、左大臣」もお笑い草だが
世はおしなべて「中流」自任の時代とて、皆
の衆盛大に喝采はまた一段と、おめでたかっ
た。照れもせず正面切ったあの春のお内裏と
姫君も、もう三人の人の親。頑張ってますか。
2023 5/2
◎ 日本唱歌詩 名品抄 1 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」す。)
○ 蛍の光 明治14 11
一 ほたるのひかり、まどのゆき。 二 とまるもゆくも、かぎりとて、
書(ふみ)よむつき日、かさねつつ。 すたみにおもふ、ちよろづの、
いつしか年も、すぎの戸を、 こころのはしを、ひとことに、
あけてぞ けさは、わかれゆく。 さきくとばかり。うたふなり。
* 一番の四行の(すぎ)の戸には、(過ぎ 杉)の意が読み取れる。 同様二番 四行の(さきく)には、(幸く 先久)の意を汲みたい。詩は「四番」まであるが、 悪しい。好まない。一、二番は、極めての、秀逸。
實を吐露すれば、私、唱歌「蛍の光」一、二番は、一番は本人洲苑の述懐、二番は見送る人等の合唱と「新解釈」を敢えてし、私「臨終」の場を透視しているのであります。 2023 5/3
◎ 日本唱歌詩 名品抄 2 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」す。)
○ あほげば尊し 明治17 3
一 あほげば 尊とし わが師の恩。
教えの庭にも、はや いくとせ、
おもへば いと疾(と)し、このとし月。
今こそ わかれめ、いざさらば。
三 朝ゆう なれにし、まなびの窓。
ほたるのともし火、つむ白雪。
わするる まぞなき、ゆくとし月。
今こそ わかれめ いざさらば。
* 二番途中の「身を立て なをあげ、やよ はげめよ」は、いかにも「明治」の いと、国民学校のころから、顔をそむけていた。
2023 5/4
◎ 日本唱歌詩 名品抄 3 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 四季の月 明治 17 5
一 さきにほふ、やまのさくらの、花のうへに、霞みていでし、はるのよの月
二 雨すぎし、庭の草葉の、つゆのうへに、しばしは やどる、夏の夜の月
三 みるひとの、こころごころに、まかせおきて、高嶺にすめる、あきのよの月
四 水鳥の、聲も身にしむ、いけの面(おも)に、さながら こほる、冬のよの月
* 誰の詠作と知れないのが惜しい。四首とも瑕瑾もない秀逸。ことに短歌としての 「字余り」効果を優秀に遂げていて、感嘆。
2023 5/5
◎ 日本唱歌詩 名品抄 4 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 庭の千草 里見 義 明治 17 3
一 庭の千草も、むしのねも、
かれて さびしく、なりにけり。
ああ しらぎく、嗚呼 白菊
ひとり おくれて さきにけり。
* 一番は 峨々廣大の国土でない我が国のいとも親身に心親しい「我が家の庭」 で、心親しい。しみじみと、こういう「にっぽん 日本」が、日本人の胸に 染み入っていた。たいせつにしたい。 歌詞のの二番には「明治」の臭みの 教訓調が露わで、好んでこなかった。節は、アイルランド民謡と聞いたが、 私は、日本語のすぐれた「詩」として愛してきた。
2023 5/6
◎ 日本唱歌詩 名品抄 6 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 数へ歌 里見 義 明治 20 12
一 一つとや、人々一日(ひとひ)も、忘るなよ、忘るなよ。
はぐくみ そだてし、
おやのおん、おやのおん。
三 三つとや、みどりは一つの、幼稚園、幼稚園。
ちぐさに はなさけ、
あきの野辺、秋の野辺。
* 幼稚園唱歌としての「数へうた」で、十番まで、だが当然のように「くに」「き み」へ最敬礼の教訓目的が濃い。
2023 5/7
◎ 日本唱歌詩 名品抄 7 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 紀元節 高崎正風 明治 21 2
一 雲に聳ゆる高千穂の、高嶺おろしに、草も木も、
なびきふしけん大御世を、あふぐ(仰ぐ)けふ(今日)こそ、たのしけれ。
二 海原(うなばら)なせる埴安(はにやす)の、池のおもより猶(なほ)ひろき、
めぐみの波に浴(あ)みし世を、あふぐけふこそ、たのしけれ。
* 四番まであるが、例の君皇尊崇が過ぎて、臭い。しかし、私は幼時この歌をほぼ 溺愛し、好んで「文語・仮名遣い」の魅力や「和漢の語彙」の多彩を幼稚園頃から 身に承けてきた。まして国民学校一年生の末に口語訳『古事記』を担任の女先生に 戴いて以降、天孫降臨などの日本神話に心酔・暗記暗誦して、『百人一首一夕話』 とならび、国民学校二、三年生当時、最高最良の愛読書になっていた。此の唱歌「紀 元節」など、なんて美しい日本語だろうと感嘆し続けていた。「神話」じたいは民 族の「遙かな想い出」と心嬉しく親愛してきた。
2023 5/8
◎ 日本唱歌詩 名品抄 8 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 故郷の空 大和田建樹 明治 21 5
夕空はれて あきかぜふき
つきかげ落ちて 鈴虫なく
おもへば遠し 故郷のそら
ああ わが父母 いかにおはす
すみゆく水に 秋萩たれ
玉なす露は すすきにみつ
おもへば似たり 故郷の野辺
ああ わが兄弟(はらから) たれと遊ぶ
* 実感を催すことに於いて、もはや少年が青年期をすら越えての望郷歌として つい唇をもれて出たのを想い出す。
2023 5/9
◎ 日本唱歌詩 名品抄 9 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 旅 泊 大和田建樹 明治 22 6
磯の火ほそりて 更くる夜半(よは)に
岩うつ波音 ひとりたかし
かかれる友舟 ひとは寝たり
たれにか かたらん 旅の心
月影かくれて からす啼きぬ
年なす長夜(ながよ)も あけにちかし
おきよや舟人(ふなびと) おち(遠)の山に
横雲なびきて 今日も のどか
* 明治の「文語」唱歌で、詩も曲も、幼少の私は、最も是の『旅泊』を、ことに一番 を愛した。 私の抱いていた内深い寂しみに、妙な物言いをすれば「正確にせまっ てくる」美しい言 葉、美しい歌声であった。
2023 5/10
◎ 日本唱歌詩 名品抄 10 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ う さ ぎ 明治25・6
うさぎ うさぎ
なにを見てはねる
十五夜 お月さま
見てはねる
* 独りでいるとき、声を洩らすように そっと唄っていた。「埴生の宿」などこ とに一番の曲はかったが、詩は、仰々しかった。『うさぎ』には胸の深くに懐かし 夢がのこっていた。
2023 5/11
◎ 日本唱歌詩 名品抄 11 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 一月一日 千家 尊福 明治26?・8
年の初めの 例(ためし)とて
終なき世の めでたさを、
松竹たてて、門(かど)ごとに
祝ふ今日こそ 楽しけれ。
* 文字通り この通り 幼少 少年 お正月を歓呼していた。容易にお年玉の出 る家でなかったけれど、三箇日の白味噌お雑煮、四日は焼き餅のすまし雑煮、七日 は七草の雑煮、十五日は小豆雑煮。門松も立ち。鏡餅も飾られ、そして祇園さん(八 坂神社)への真夜中の初詣でなど、なにもかも私は嬉しいのだった。心機一転の宜し さを全身に漲らせていた。
2023 5/12
◎ 日本唱歌詩 名品抄 12 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 勇敢なる水兵 佐佐木 信綱 明治28・2
一 煙も見えず 雲もなく
風も起らず 浪立たず
鏡の如き 黄海は
曇りそめたり 時の間に
* 数えてほしい。この短い詩に、「カ行音」が如何に多く含まれるか、それがこ の詩を「うた」に替えて清明簡潔なのである。「カ行音」の遣い勝手はなかなかに 至妙、美事に成功したり堅苦しく失敗もする。すぐれた和歌は「カ行音」を巧みに配 している例が多い。
「詩・うた」してのみ、わたしは少年來此の「一番だけ」を愛唱した。二番以下に後 続する「勇敢なる水兵」の情景は唯無残としか想わなかった。
○ 婦人従軍歌 加藤 義淸 明治27・10
一 火筒(ほづつ)の響き遠ざかる 跡には虫も聲たてず
吹きたつ風はなまぐさく くれなゐ染めし草の色
* これはもう「うた・詩」以上に「曲」の深沈に惹かれてよく口ずさんだ、が、二 番以下の戦地の惨状を唄う気には、とても、ならなかった。
2023 5/13
◎ 日本唱歌詩 名品抄 13 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 港 旗野十一郎(たりひこ) 明治29・5
一 空も港も夜(よ)ははれて、
月に数ます船のかげ。
端艇(はしけ)のかよひなぎやかに、
よせくる波も黄金(こがね)なり。
* 詩句も曲もさっぱりして、港の景色が目に浮かぶ。二番には詩人の「我」 が出て混雑している。「詩」境の一貫は難しいのだ。
2023 5/14
◎ 日本唱歌詩 名品抄 14 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 夏は來ぬ 佐佐木 信綱 明治29・5
一 うの花のにほふ垣根に、時鳥(ほととぎす)
早もきなきて、忍音(しのびね)もらす 夏は來ぬ。
二 さみだれのそそぐ山田に、早乙女(さをとめ)が
裳裾ぬらして、玉苗うふる 夏は來ぬ
三 橘のかをるのきばの 窓近く
蛍とびかひ、おこたり諫むる 夏は來ぬ
四 楝(あうち)ちる川べの宿の門近く
水鶏(くゐな)聲して、夕月すずしき 夏は來ぬ
五 さつきやみ、蛍とびかひ、水鶏(くゐな)なき、
卯の花さきて、早苗うへわたす 夏は來ぬ。
* なにのいやみなく全詩を読んで「夏は來ぬ」の気の弾みを満喫させる。希 有の唱歌詩。この季節感、たしかに身にも心にも覚えがある。
2023 5/15
◎ 日本唱歌詩 名品抄 15 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 靑葉茂れる櫻井の 落合 直文 明治32・6
靑葉茂れる櫻井の 里のわたりの夕まぐれ
木の下蔭に駒とめて 夜の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上(え)に 散るは涙かはた露か
* 楠木正成・正行(まさつら)父子「櫻井の別れ」六番の第一番、二番以降は殆ど 唄いも憶えもしなかったが、この一番だけは、他に、また他歌のすべてに超えて、幼 稚園の頃から、よく大声で歌った。近所の友だちとも唄い競った。さしたる詩句とも 思わないのだが、何故か愛唱した、ただしこの一番だけ。
兵庫の決戦へ馳せ行く父正成、後日また後年に期し備え、あえてあとに残った子の正 行。南北朝前後の歴史は、源平の時代と並び、幼い頭にも既にかっちり納まっていた。
2023 5/16
◎ 日本唱歌詩 名品抄 16 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 鐵道唱歌(東海道編) 大和田建樹 明治33・5
一 汽笛一声新橋を
はや我汽車は離れたり
愛宕の山に入りのこる
月を旅路の友として
* 六六番もあるが、強い印象は、「汽笛一声新橋を」に尽きる。東海道線は、最初、 新橋駅発であった。終点は。京都とおもいがちだが、「神戸」で山陽道へ繋がった。
2023 5/17
* 今回の「湖の本」では何と云っても 『或る往生傳』が作家人生をしめくくる「結語」の一作とこころしていたこと。すぱっとそこを観てとっていただいた天野さんに感謝して敬礼する。嬉しかった。
2023 5/17
◎ 日本唱歌詩 名品抄 17 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ キンタロウ 石原和三郎 明治33・6
一 マサカリカツイデ、キンタロウ、
クマニマタガリ、オウマノケイコ、
ハイ、シィ、ドゥドゥ、ハイ、ドゥドゥ、
ハイ、シィ、ドゥドゥ、ハイ、ドゥドゥ。
* 私は、幼少時も、今も、腹掛け一枚で熊に跨がった「きんたろう」が好きで、 きらきらに着飾って家来も連れて「オニガシマヲバ ウタントテ、イサンデ」出 かける「モモタロウ」の、「ハゲシイイクサニ、ダイショウリ、オニガシマヲバ、 セメフセテ、トッタタカラハ、ナニナニゾ、キンギンサンゴ、アヤニシキ」なん てには喝采も共感もしなかった。今もしない。
二 アシガラヤマノ、ヤマオクデ、
ケダモノアツメテ、スモウノケイコ
ハッケヨイヨイ、ノコッタ、
ハッケヨイヨイ、ノコッタ。
の「キンタロウ」が、愛らしい。「モーモタロさん モモタロさん、お腰に付けたきびだんご、一つわたしにくださいな」「ヤーリマショウ、ヤリマショウ、これから鬼の征伐についてくるなら、ヤリマショー」など、虫ずが走った。
2023 5/18
◎ 日本唱歌詩 名品抄 18 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 花 武島 羽衣 明治33・11
春のうららの隅田川、
のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る、
ながめを何にたとふべき。
見ずやあけぼの露浴びて、
われにもの言ふ櫻木を、
見ずや夕ぐれ手をのべて、
われさしまねく青柳を。
錦おりなす長堤にに
くるればのぼるおぼろ月。
げに一刻も千金の
ながめを何にたとふべき。
* 詩をかいた武島羽衣の名は、国民学校時期の幼少で、まだ存命だった秦の祖父鶴 吉蔵書の何冊かに見ていた。つねな「美文」の二字を冠される人だった、私は幼い名 からに警戒して、そんな、明治前中期に流行ったらしい「美文」とやらに馴染まず、 意識して目もそむけた。夏目漱石は「美文」を軽蔑していた。「美文」を旗にかかげ 文壇を制覇していた連中を花で嗤っていた。私はその後も永く漱石にくみした。羽衣 のものを読み知ったのは此の唱歌でだった、私は「東京」とまるまる縁の無い年齢で、 この唱歌で「東京」「隅田川」を想像し、なにかしら懐かしんだ。
なによりこの詩を私に印象づけたのは、弥栄中學二年生当時に、構内の催しの中で、 講堂の壇中央に独りで出てこの唱歌「はな」を読唱した三年生女子を、全人類女 子を超えて 魂の底から愛し慕っていたのだ、それは「やそしち歳」の今にしても も変わらない、其の人とは早くに死に別れていたけれど、あの講堂の壇上でこの 「花」を歌い上げた人の声も姿も忘れない。この人も私を眞に「弟」と愛してくれた。
一年早く卒業の日には、私に漱石作の文庫本『心』に自署して記念に呉れた。そし て、どんな事情でか天涯の遠くへひとり去って行った。
「心」は、私の聖書となった。
気恥ずかしいが、この「姉さん」が「花」の隅田川を唄った同じ講堂の檀上で、一 年遅れて同じ催しの日、私は先生に命じられ、『ローレライ』を独唱したのだった、 あれは気恥ずかしかった。「なじかは知らねどこころ侘びて」、天涯に去って行っ た人が私はただ恋しかった。「小説家」に成って行く運命だった。私に、「われさ しまねく」東京とは、唱歌「花」の隅田川かのようであった。
今、八十七歳の私が書いたのである、この感傷の文を。
2023 5/19
◎ 日本唱歌詩 名品抄 19 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 箱根八景 第一章 昔の箱根 鳥居 沈 明治34・3
箱根の山は 天下の険 函谷關も物ならず
万丈の山 千仞の谷 前に聳え後(しりえ)に支ふう
雲は山をめぐり
桐葉谷をとざす
昼猶闇き杉の並木 羊腸の小径は苔滑らか
一夫關に当るや万夫も開くなし
天下に旅する剛毅の武士(もののふ)
大刀腰に足駄がけ 八里の岩ね踏み鳴す
斯くこそありしか往時の武士(もののふ)
* まさしく大言壮語「オーバー」な見本だが、こう謂うのを大声で唄うこ とで「ことば」や「漢字」や「表現」を憶えた。「箱根」に憧れたのでは無い。
2023 5/20
* ヒロシマに集った主要國のトップ等が、バイデン米大統領はじめ、集ってあの原爆資料館に40分の時をもちい、あの悲惨を極めた原爆今回被害の資料や実情に触れたこと、これにまさる今回サミットの成果は在るまい、主催した日本国岸田総理の大きな成果であった。あの原爆資料館へは、往年、ヒロシマへ編集者勤務の一環で出張したとき、思い切ってはいり、痛い極み胸打たれて這う這う出たのを想い出す。その脚で奔って、会社の仕事は投げだし船で安藝の宮島へ渡ったのだった、胸の騒ぎを静めねば居れなかったのだ。
あの宮島体験から、後に太宰治文學賞へ結ばれた受賞作『淸經入水』が生まれたのだった。往時渺茫とはいえ、胸に刻まれ忘れがたいヒロシマ体験では在ったよ。
2023 5/20
◎ 日本唱歌詩 名品抄 20 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 荒城の月 土井 晩翠 明治34・3
一 春高楼の花の宴
めぐる盃かげさして
千代の松が枝わけいでし
むかしの光いまいづこ
二 秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁の數見せて
植ふるつるぎに照りそひし
むかしの光いまいづこ
三 いま荒城のよはの月
替らぬ光たがためぞ
垣に残る葉ただかつら
松に歌ふはただあらし
四 天上影は替らねど
榮枯は移る世の姿
写さんとてか今もなほ
嗚呼荒城のよはの月
* 少年の思いに、これが「詩か、詩なのか、そうか」と繰り返し肯かせた感銘を 忘れない、歌としても詩としても愛唱また愛誦した。すでに日本史に首まで浸かっ ていた少年・私に、「荒城」の月の冴えはしみじみと目にも胸にも光った。その後 に白秋や朔太郎に出逢った。
2023 5/21
◎ 日本唱歌詩 名品抄 21 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ お正月 東 くめ 明治34・7
もういくつねると お正月
お正月には 凧あげて
こまをまわして 遊びませう
はやく来い来い お正月
* まったくこの通りに「お正月」を幼少の、いやこう遊びこそせずとも青年に なっても大人になっても私は「お正月」を待ち、心新たな感謝や嬉しさを覚えて きた。
二番は、女の子の。それでも「追い羽根ついて」わたしも、凧揚げなんぞよりも 好きで、独り表の道へ出て遊んだ。羽根突きは得意で、独りで百もつけた。
お正月の朝は通りに人影もなく静かな静かな「新門前通り」下駄を踏む音が綺麗 に鳴って、われ独りの天下だった、懸命に羽根をついて楽しんだ。
2023 5/22
◎ 日本唱歌詩 名品抄 22 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 戦友 真下 飛泉 明治38・9
一 ここは御國を何百里
離れて遠き満州の
赤い夕日に照らされて
友は野末の石の下
三 ああ戰ひの最中に
隣りに居った此の友の
俄かにはたと倒れしを
我はやもはず駈け寄って
四 軍律きびしい中なれど
これが見捨てて置かれうか
「しつかりせよ」と抱き起こし
假繃帯も弾丸(たま)の中
五 折から起る突貫に
友はやうやう顔あげて
「お國の爲だかまはずに
後れてくれな」と目に涙
* 一四番まであるこの実情の軍歌詩を私は愛して唄ったと言うではない、が、 こう書き写していた今も泪に目は濡れていた。もろもろの想い思いが重く少年私 の心にのしかかり、いつか小説の処女作となった『或る折臂翁』へと連繋したの は、相違なかったこと。
2023 5/23
◎ 日本唱歌詩 名品抄 23 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 大こくさま 石原和三郎 明治38・12
一 おおきな ふくろを、かた に かけ
だいこくさま が、きかかる と、
ここに いなばの、しろうさぎ、
かわを むかれて、あか はだか。
二 だいこくさま は、あはれ がり、
「きれいな みづに、み を あらひ、
がま の ほわた に、くるまれ」と、
よく よく おしえて、やりました。
三 だいこくさま の、いふ とほり、
きれいな みづに、み を あらひ、
がま の ほわた に、くるまれば、
うさぎ は もと の、しろうさぎ。
* 私の、生涯初の出会いの古典は、国民学校一年生を終えた直後の春休み中、 一年生で担任だった吉村女先生に頂戴した文学博士次田潤校訂解説、口語訳のつ いた『古事記』だった暗記するほど熟読してことに日本神話は『吾が所有」にま で帰していた。「しろうさぎ」が何故に「あかはだか」であったかなど、判りき っていた。概してスサノオ、大国主系の神話伝説に心親しく惹かれていた。
「鬼」よりつよい「一寸法師」などの不自然はむしろ嫌っていた。美文で鳴らし た武島羽衣のご大層な『美しき天然』など、むしろ軽蔑した。
2023 5/24
○ 紅萌ゆる岡の花 舊国立第三高等学校 逍遥の歌 澤村胡夷 明治30・7
一 紅(くれなゐ)萌ゆる岡の花
早緑(さみどり)匂ふ岸の色
都の花に嘯(うそぶ)けば
月こそかかれ吉田山
二 緑の夏の芝露に
残れる星を仰ぐ時
希望は高く溢れつつ
我等が胸に湧返る
五 嗚呼故里よ野よ花よ
ここにも萌ゆる六百の
光も胸も春の戸に
嘯(うそぶ)き見ずや古都の月
六 それ京洛(けいらく)の岸に散る
三年(みとせ)の秋の初紅葉
それ京洛の山に咲く
三年の春の花嵐
* 私自身の校歌としてどんなに歌いたかったろう、しかし敗戦で学生はすべて 「六三三新制」されアコ枯れていた京都一中も二中も三高も消え失せ、私は新制 出来立ての「市立」弥栄中学一年生としてごく当たり前に進学した。「京洛」の 風光を描いて美しい『紅萌ゆる』は私には故郷京都が恋しい唱歌と変容した。「三 年」と繰り返されているのは舊第三高等学校での「三学年」の意味。詩的な歌詞 は十一番まである。
私は、敗戦後の京都大学には何の魅力も憶えず、受験勉強に精力と時間をむだづ かいせず、市立日吉ヶ丘高校の三年を、ただただ京洛の風光に歩いてしたしみ、 歌詠みと、茶の湯や能楽などへの親愛に心身をゆだね、受験などせず「成績優秀」 の「推薦無試験」でためらいなく「同志社大学」へ。間違わなかったと今も思う。
2023 5/25
◎ 日本唱歌詩 名品抄 25 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 靑葉の笛 大和田建樹 明治39・7
一 一の谷の 軍(いくさ)破れ
討たれし平家の 公達(きんだち)あはれ
曉寒き 須磨の嵐に
早緑(さみどり)匂ふ岸の色
聞えしはこれか 靑葉の笛
二 更くる夜半(よは)に 門(かど)を敲(たた)き
わが師に託せし 言の葉あはれ
今はの際(きわ)まで 持ちし箙(えびら)に
残れるは「花や 今宵」の歌
* 国民学校の幼いより愛唱してやまない身に沁みて好きな歌であった、私は、 源氏より平家、よりともよりはむしろ清盛に、そして平家の公達に心惹かれた。 小説のいわば出世作、太宰治賞をうけた『淸經入水』も、長編『風の奏で』もそ イワナも文庫の『平家物語』上下巻は『徒然草』とほぼ同時、中学生で乏しい貯 金で買って、愛読に愛読したが、赤旗 白旗の源平に興奮した時期は、もう絵本 などで幼稚園時代には始まっていた。論攷作の最初となった「十二世紀美術論」 もわが「源平」へ親近体験無しには思い付きもしなかったろう。
2023 5/26
◎ 日本唱歌詩 名品抄 26 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 旅 愁 犬童 球渓 明治40・8
一 更け行く秋の夜、旅の空の、
わびしき思ひに、ひとりなやむ。
戀しやふるさと、なつかし父母、
夢ぢにたどるは、故郷(さと)の家路。
更け行く秋の夜、旅の空の、
わびしき思ひに、ひとりなやむ。
二 窓うつ嵐に、夢もやぶれ、
遙けき彼方に、こころ迷ふ。
戀しやふるさと、なつかし父母、
思ひに浮ぶは、杜のこずゑ。
遙けきかなたに、こころまよふ。
* 国民学校の昔によく口ずさんだ、すこし小声で、複雑な思いで。私には恋し い「ふるさと」は無く、「なつかし」い実父母を識らなかった。日々の暮らしは 「もらひ子」された京都市東山区東大路西入ル(知恩院)新門前通り仲之町だった 家の脇の、細い、途中ひとくねりした「抜けロージ」を南へ駆け抜けると、そこ は謂うところの「祇園花街」北端の新橋通りだった。こっちは有済小学区、あっ ちは弥栄小学区だった。故郷では無かった、「現住所」であり生みの母の顔も實 の父の顔も覚えがなかった。近所の子やおとなからは「もらひ子」とささやかれ また言われていた。この唱歌はまさしく私が幼少來、青年・結婚までの「人生旅 愁」の歌であった。大声では歌えなかった。
一つ付け加えておく、京都市は幸いに戦災にほぼ完全に遭わずに済み、敗戦直 後の、戦時「国民学校」から京都市立「有済小学校」に戻った校庭には、全国各 地から、また海外から帰還家庭のまさに種々雑多の識らない生徒が加わっていた。 女生徒立ちの服装はもんぺからハイカラまで、目を奪った。好きな女の子も見つ けた。そういう此の大方は、時期が来るとみな銘々の故郷や移転先へ散り戻って ゆき、おのづと「別れ」体験が生じた。わたしは、横浜へ帰ると聞いた「新田重 子」という成績優秀でスポーツもよくした女生徒と人生初の「別れ」体験を時勢 により強いられた。寂しいものだった。女の子たちはそんな私を囃して何人も出 声を揃え「コーイシや新ィッ田さん、なつかし重子さん」と囃した、それが少年 小学生、私の『旅愁』であった。忘れない。
* 自身に断っておく、いま、此処にこういうふうに書いてきたことは生まれ育ちの「愚痴」なんかでは、ない。その後の人生を豊富に活きるために蓄えていた、謂わば「堆肥」であった。これらがあって、自身の歩みの紆余曲折に「味」がついた。その「味」こそが創意や創作や發明をうながす契機活動へと多様に押し上げてくれた。
「堆肥」という言葉は、戦時疎開ののうそんで目の当たりに実感した。「堆肥」無くては実りは瘠せる。人の個性は、活くべき「堆肥」の量や質に養われると識らぬままでは、かぼそい草のようなものしか生まない。
2023 5/27
◎ 日本唱歌詩 名品抄 27 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 故郷の廃家 犬童 球渓 明治40・8
一 彧年(いくとせ)ふるさと、来てみれば、
咲く花鳴く鳥、そよぐ風、
門辺の小川の、ささやきも、
なれにし昔に、変らねど、
あれたる我家に、
住む人絶えてなく。
* こういう「故家」「故郷」を私は持たない。戦時疎開していた、元京都府南桑田郡樫田村字杉生に、僅かに近い思いは持っている、が。今では、何と云おうと「京都」が、「京の川東、東山区の歴史と女文化」とが私精神の故郷と極まっている。東京は、西東京は人生最長のせいちではあったが、実感としては「出先き」で合ったし、今も然り
2023 5/28
◎ 日本唱歌詩 名品抄 28 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ ローレライ 近藤 朔風・譯 明治42・11
一 なじかは知らねど心わびて、
昔の伝説(つたへ)はそぞろ身にしむ。
寥(さび)しく暮れゆくラインの流れ、
入日に山同かく映ゆる。
* 弥栄中学三年生で習った。へたな歌詞(詩)だと馴染まず、唄としても歌い づらいきょくであった。のに、こともあろうに私は音楽の先生に命じられ、全校 生が「講堂」に集まる催しの折り、講壇の真ん中へ出てこの「ローレライ」を歌 えと命じられた、仰天もし辟易極まったものの女先生の「厳命」は揺るがなかっ た。仕方ない、歌ったのである、が實に歌って楽しくない奇態な歌と思えた苦々 しさを、今も忘れない。こういう、翻訳の外国歌が教科書にも幾つかとられてい て、私は悉く馴染まなかった。
2023 5/29
* さてさて、昨日から鷲津君のおかげで、「ホームページが復旧」したらしく、つまりは此の「秦 恒平 私語の刻」が、そのまま世界中へ搬送/展開しているというコトらしい。逼塞していた間は、各巻『湖の本』後半部へ「文意・文面を正して」送り出していた。それが、日々原文のまま無際限に出て行くとなると、気配りが何倍にも増し必要になる。日々の書き放しをホームページから避け、このところの「湖の本」編集なりに「文意と分量」を調整しつつ「ホームページ」発信すべきか。
今日只今の現状だと、過去「超長大な日々の私語」が或いは「すべてそのまま公開」されている、ということ、らしい。是より、非の気味が気がかり。
* 書いている小説のためには機械クンとの「やっさもっさ」は、只の障害。取り組む順番を間違えてはならぬ。いま、疲労の極ヘトヘトの現状とどう向き合うか。今朝も五時半に目覚め十一時半まで六時間の後半を寝入っていた。午後も三時から五時、宵も、六時から七時半まで寝込んでいた。すこし熱気があるかどうか。油断はしていない気だが。
* 当座当面、手がけ片付け始末せねば済まぬ要は、無くしてある、書き継ぐべき創作のほかは。にも焦って心身疲弊せねば済まぬことは、機械の整備もなにとなし出来ていると感じるなら、なにも無いのだから、せいぜい読みたい本を読んで、疲れれば眠っていたらいいのだ。
2023 5/29
◎ 日本唱歌詩 名品抄 29 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 星の界(よ) 杉谷 代水 明治43・4
一 月なきみ空に、きらめく光、
嗚呼その星影、希望のすがた。
人智は果なし、無窮の遠(をち)に、
いざ其の星影、きはめも行かん。
* ご大層な「つまらない詩、つまらない歌」と見捨てていた。わずかに 第一行に、キ キ、キ、ク、カ と 堅い「カ行音」の疊み込まれている のを意識して歌っていた。
2023 5/30
* 佳い「読者」とは、少なくも「辭典・辭書」をつねに重寶し、且つ二讀、三讀、くりかえし読んでくれる人と、むかしに「誰か」が謂うていた。自身に徴して「そのとおり」といまも確信している。
作家への出発が太宰治賞で認められ、新潮社の依頼で「新鋭書き下ろし長編」に『みごもりの湖』を書き始めたとき、担当編集者の池田さんは、まっさきに『新潮国語辞典』を我が家にただ黙然ともたらして呉れた。気持は、即、理解した。
以来、はるか半世紀の余におよんで、現に今も私の手にその『新潮国語辞典』は在る。表紙は手擦れに傷み、背はすべて、小口も、ガムテープで労られてある。
「辞典」を用いない「書き手」を私は尊重しない。手もとにも書庫にも、明治以来現代に及んで大小各種の「事典」「辞典」はまぎれなく五十種は愛蔵し愛用している。むかし老いの黒川創が「マサカァ」と私の書庫を実見し納得して帰ったのが想い出される。辞典も事典も、ただただそれらを手に「読書然」と「愛読」してきた。歴史的仮名遣いのためにはゼッタイに必要だった、容易に正しくは覚え切れていまいが。
いまも池田さんの呉れました手擦れに満身創痍めく『新潮国語辞典』は私の寶典。今も目の前の手もとに在る。
* 「ことば」は私ら書き手には「寶」である。宝は遣われる使い方使い道により値打ちが替わる。昨今は謂うなればコマーシャル時代、テレビからは肉声の宣伝がいやほど乱射されてくる。わたくしは、それらの実演上で「ナント スゴイ」と聞く売り言葉は信用しないと決めている。「現代」を説明し批評するに不快に大仰な「売り言葉」は、「ナント スゴイ」そして「ヤスイ」か。
2023 5/30
◎ 日本唱歌詩 名品抄 30 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ ツ キ 文部省唱歌 明治43・7
一 デタデタツキガ、
マールイ マールイ マンマルイ
ボンノヤウナ ツキガ。
* たわいない唱歌ながら、締まりの付いた「盆のやうな」の一句に子供な り「実感」の覚えがあり、不思議と忘れがたい歌と、いま、この老耄の記憶 にも、なつかしく蘇ってくる。独りで、大声に月と向き合い歌いたくなる。
2023 5/31
◎ 日本唱歌詩 名品抄 31 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 春が來た 文部省唱歌 明治43・7
一 春が來た 春が來た どこに來た。
山に來た 里に來た、
野にも來た。
* むしろ嫌って、軽く見すてていた。意気も生意気も伸びようとする幼少 には たわいなく、なにより、人の世を、「山、里、野」と田舎に限って、 「町や街」が欠け、海国日本でも在るのに「海」も外れてる。農村型の世界 観に傾き過ぎていると物足りなく、さらには歌の三番までを「春」「花」「鳥」 で日本の四季自然を象徴と観るのか、謂い得ているのかと「幼少なり」に疑 問を持った。アホらしくて歌わなかったなあ。
2023 6/1
◎ 日本唱歌詩 名品抄 32 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ われは海の子 文部省唱歌 明治43・7
一 我は海の子白浪の
さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家なれ。
二 生れてしほに浴(ゆあみ)して
浪を子守の歌と聞き、
千里寄せくる潮の気を
吸ひてわらべとなりにけり。
* 七番まで在る、が、二番で尽くされていて、十二分に気に入り、大声で 愛唱した。わたし自身は「海」など、見知りもしない観念の世界だった、そ れが想像に精気味気活気も与えた。さらには、此処この歌詞に親きょうだい も友だちの姿も無い、それが私を、ひろびろと自由自在にした。嬉しかった のである。
2023 6/2
◎ 日本唱歌詩 名品抄 33 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 鎌 倉 文部省唱歌 明治43・7
一 七里ヶ浜のいそ伝ひ、
稲村ヶ崎 名将の
剣投ぜし古戦場
* 八番まであるが、一番で私は満ち足りた。佳い地名が利き、なにより「名将」 の一語に 圧倒的に 同感と謂うより共感した。名将と謂うにはややあまいもののある「新田義貞」ではあったが、圧倒的に、いろんな意味合いから敬愛した。贔屓した。その裏返しに「足利尊氏」を嫌った。神威をたのんで稲村ヶ崎の岩頭に「剣」を高く捧げもって海に頼む義貞の姿は色んな絵図で身に沁み馴染んでいた。蹶起して北条の「鎌倉」を撃ち抜き、南北朝に別れてもあくまで吉野の「南朝」に味方して諸国に転戦、壮烈の最期を日本海の間近で迎えた実意の名将に「剣」という美しい一語が光った。この一番だけをただただ歌いやまなかった。
2023 6/3
◎ 日本唱歌詩 名品抄 34 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 菊 の 花 文部省唱歌 明治44・5
一 見事に咲いた
垣根の小菊・
一つ取りたい
黄色な花を、
兵隊遊びの
勲章に。
* 兵隊ゴッコという遊びはあった。無縁であり得なかったけどまるでアホ らしかった。勲章と謂うのをぶらさげた軍人は、馬でも徒歩でも平時にも見 られた、白衣の傷病兵も。わたし、大きくなったら兵隊さんに「ならねばな らん」のを運命として、かつ厭い嫌っていた。シカモ此処に掲げた「唱歌」 の、節も言葉も優しくやわらかなのは愛したのである。いわゆる軍歌ははっ きり、みな嫌った。「勝ってくるぞと勇ましく」とか「父よあなたは強かっ た」など、憎むほどに嫌ってた。学校での儀式に歌わされた「海ゆかば水づ く屍ね」など、「白地に赤く、日の丸染めて」の歌とともに、歌の意味はよ く承知しつつ毛嫌いしていた。
「かきねの小菊」の可愛さは、格別だった。
2023 6/4
◎ 日本唱歌詩 名品抄 35 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 紅 葉 文部省唱歌 明治44・6
一 秋の夕日に照る山紅葉、
濃いも薄いも數ある中に、
松をいろどる楓や蔦は、
山のふもとの裾模様。
二 渓の流に散り浮く紅葉。
波にゆられて離れて寄つて、
赤や黄色や色様々に、
水の上にも織る錦。
* 抜群の唱歌と愛してきたが、詩は、書き写してわかるけれど、速度感の 快さのほか、措辞は陳腐な概念仮構に近い。
しかし、唄ってみる佳さ宜しさ懐かしさは全唱歌「五指のうち」にも席を占 めようか。しかし、私、こんな景色に接した記憶が無い。
2023 6/5
◎ 日本唱歌詩 名品抄 35 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 雪 文部省唱歌 明治44・6
一 雪やこんこ霰やこんこ。
降つては降つてはずんずん積る。
山も野原も綿帽子かぶり、
枯木残らず花が咲く。
二 雪やこんこ霰やこんこ。
降つても降つてもまだ降りやまぬ。
犬は喜び庭駈けまはり、
猫は火燵(こたつ)で丸くなる。
* 今も懐かしい、佳い歌。盆地の京都市内でこういう雪降りは何年に一度 としか。雪が珍しく嬉しい幼児の想いには稀々で。抜群の唱歌と愛し、詩も書 き写してわかるけれど、速度感の快さも犬や猫登場のリアルな、むしろ「心温 かさ」もうれしい、措辞はほぼ陳腐な仮構に近いけれど。
こういう雪景色を、しかし昭和二十年三月下旬、、戦時疎開先を淡い縁故に頼 って丹波の山奥へ、それも木暗く小高い山の高みの農廃家を借り、秦の母と祖 父とで心細く籠もってからは、まだ春は来ず、したたかな深い烈しい雪降りに 仰天、したたかに難渋した。犬も猫も、あの当時は影ひとつも見たこと無く、 それだけに幼時に記憶の「雪やこんこ」がウソのように懐かしく恋しかった。
2023 6/6
◎ 日本唱歌詩 名品抄 36 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 茶 摘 文部省唱歌 明治45・3
一 夏も近づく八十八夜、
野にも山にも若葉が茂る。
あれに見えるは茶摘みじゃないか。
あかね襷(だすき)に菅(すげ)の笠」
* これも佳い歌、今も懐かしい。京都には「宇治」という特上の茶の廣い 名産地があり、目に見えて心親しい唱歌であった。ことに子供の頃、「夏」は 一等みどりも映えて、自由の予感に胸の鳴る季節、その「夏もちかづく」のだ もの、はずむこころの「茂り」来る期待が有った。二番の歌詞は、よくない。
2023 6/7
* 「日記・日誌・私記」の習慣の無い人には、「對話/会話」はあっても、書いて「私語」する時は少なかろう。「私語」は「独語」に類し、そこに当人の「知情意」が必然働く意味で、たんに断片的な「独語」を超えている。
しかし「私語」は必ずしも世間や他者の快く受け容れるものでなかったし、今日も明日も、世間や社会で「私語」は窘められる「悪役」に近い。教室で、会議で、集会で、「私語」は窘められる代表格、幼稚園でも国民学校・小学校、高校大学、会社勤めしても「私語」は、先生や上位者や管理者には嫌われた、ま、きらう理由は立ってもいた。だから「私語」材料が身内に溢れて「随感・随想」を愛して生きまた暮らす者は、「日記や日誌や感想文や詩歌創作」へ顔を向けてきた。
私は近年に至って、と謂うより「パソコンという機械」を使い始めたちょうど前世紀末、「東工大教授」を六十歳「定年で退官」の直後、東工大生の手引きや手ほどきで「ホームページ」を開いた頃から、固有名詞ないし看板としての『私語の刻』という「自在な述懐の機構」を機械の上に持ち始めた。
以来、私の『私語の刻』は厖大な量の「吾が、最大著作」と成り続けている。人によっては「秦恒平文業の最大の表現」と評され、かなり廣く受け容れられている。『秦恒平・湖(うみ)の本』現在まで「164巻」進行のすべてに「私語の刻」が活動しているのは観られての通りである。
2023 6/7
◎ 日本唱歌詩 名品抄 37 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 汽 車 文部省唱歌 明治44・3
一 今は山中、今は濱、
今は鐵橋渡るぞと
思ふ間も無く、トンネルの
闇を通つて廣野原。
* たいした詩句ではないが、何と云おうと「汽車」は珍しくて。記憶にあ る私が汽車に乗った最初は、敗戦前昭和二十年の冬か春か。ご近所の口添えを 微かな頼みに戦時疎開先に、当時、京都府南桑田郡樫田村字杉生の、それも山 の上の一軒空き農家に、秦の母と祖父とで転がり込んだ三月まだ深い雪の中か ら明けて四月の樫田国民学校四年生へ転入進級の頃であった。バスで亀岡町へ 降り、山陰線の汽車で保津峡に添い、嵯峨、二条など経て清うと易まで乗った ことが、そう、以降二年近くの内に七、八回もあったろうか、最期には私が腎 臓炎で満月のような顔に成り、咄嗟の決断で母が引っ担ぐように京都へ連れ帰 り、いきなり松原通の樋口医院へ運んでくれたのだった、危うい命であった。
宇治の汽車の満員は言語に絶して、ホームから窓へしがみつついて割り込んだ 覚えもあり、窓にガラスなど何処にも無く、山陰線保津峡駅から京都花園駅ま でにトンネルが、七、八つ、凄まじい煤煙に泣かされた。顔が黒ずんだ。
そんな「汽車」初体験だったもの、この唱歌の「阿呆らしさ」は嗤えた。
弥栄中学の修学旅行で初めて席に坐れて汽車旅をした。結婚してからも東京京 都の往復に、終始立ちっ放したことも度々あった。「汽車」の想い出はすこぶ る悪しいのである。上の唱歌など゛わらってしかうたえなかったが、一沫の懐 かしさへも惹かれた。
2023 6/8
* いまも「文壇」なんぞと謂うことばが活きているのだろうか、在ったはあったが、私は百に余る単著・共著の本も出しておいてから、東工大教授を定年で退いて以降「秦恒平・湖(うみ)の本」そして、「パソコン活用」の『私語の刻』という自由自在の著作姿勢で、文壇とは、ほぼ一切の縁を私の側から絶ってしまった。むやみと有った放送にも講演にも対談・座談にも出ず、「湖の本」は、もう数旬を経ず「第164巻」を刊行する。ほとんと近代の文学史に他例の無い仕事振りで多彩に著述を積んできた、まさかと嗤えるヒトはいないだろう。
私は、根が「編集・製作職」に着いて堅固な出版社勤めを15年積んでおいてから、専業の作家生活へ転じた。「作家・秦恒平」を「編集し製作する」術を先に手に入れておいて、「文壇」という煩わしい世間から離れた。離れてよかった。そんな私にはやめに目に留めていて呉れたのは惜しくも早く亡くなった江藤淳であったろう、彼の推薦とも知らず私は東京工業大学教授に招聘された。コンピュータを活用の執筆や創作という縁は、それなくて私には訪れなかったろう、間違いなく。
2023 6/8
* こういう鬱陶しい時節・季節には、疲れれば「眠る」が勝ちだ、怠けたなどと思わない、良薬に類している。五時六時に目覚めればすぐ起き、足せる「事や用」は足しておく。たとえ二時間を寝入っても、また目覚めて午までにまだ一時間余っている。早起きの徳というべし。午後には久々に建日子の顔が見られる。朝日子彦の顔も見たいがなあ。
* 建日子二、三時間も話していった、か。
* 朝日子やみゆ希の話題になると、予期を超えて話題が凍えて行くのに私の身は縮まった。私に有る情愛や懐かしさが、建日子にも妻にも、つまりは母親にも、冷え切っているのに愕然とした。
孫の一人、亡きやす香の妹みゆ希の住所さえ探しようも探す気も無いという。朝日子は我々にとって完全にアカの他人になっているという。わたしにはそんな気は毛頭無いのに。
実父母との暮らしの記憶を毛筋ほどももたない私、「もらひ子」として秦家に養われ成人した私、血縁の実兄ともただ一日として一つ屋根の下で過ごして記憶の無いまま自殺され、その息子、甥の独りにも自殺されている私、娘にも離れて娘の子孫の一人には病死されもう一人には毛筋ほどの思いも分かち合えないで往き別れているわたくし、息子の建日子には妻として紹介されたことの亡い同居女性に、孫の恵まれる気配もない、父の私。
徹底的に私は此の世に血縁の暖かみをすべて奪い取られるべく産まれてきたとしか謂いようなく、やがては根性を終えるだろう。
肉親をたのまず、ひたすらに他人の内に「身内」としての篤い合いをただ求め続けてきた私。ま、肉親の愛に溺れていたならとても創作家になどは成れなかったろうが、寂しい生涯の儘果てて行くのだと苦い笑いただ噛み殺して行くのだと断念し果てているよ、もう。
2023 6/8
◎ 日本唱歌詩 名品抄 37 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 村 祭 文部省唱歌 明治45・3
一 村の鎮守の神様の、
今日はめでたい御祭日(おまつりび)
どんどんひゃらら、どんひゃらら、
どんどんひゃらら、どんひゃらら、
朝から聞える笛太鼓。
二 年も豊年満作で、
村は総出の大祭り。
どんどんひゃらら、どんひゃらら、
どんどんひゃらら、どんひゃらら、
夜まで賑わふ宮の森。う朝から聞える笛太鼓。
* 街なかで育ったが、昭和二十年三月下旬からの戦時疎開とその延長とで、 秦の母と国民学校=小学校三年末から、四年、五年秋まで「丹波の山奥」に農 家を借りて暮らしていた。一村と謂わずともその一部落の、みな農家の子や家 族とは自然に、「都会もん」と嗤われながらも馴染んでいた。ささやかながら 鎮守の宮もり祭りもあつた。この唱歌はけして他所のことでなかった。
そして京都へ帰り、戦後新生の弥栄中学一年生になった年の「全校演劇大会」 で、私の一年二組は、ね私の熱心を極め演出した「山すそ」と謂う農村の児童 劇で「全校優勝」した。その舞台で私は此の「どんどんひゃらら、どんひゃら ら」の歌をうまく遣った。二位には隣の一年一組が成って、その日のことを私 は後年に『祇園の子』という短編小説にし、これを良しと観た何人もの評者が いて、ちいさいながら一種の出世作のように遇された。懐かしい想い出です。
2023 6/9
◎ 日本唱歌詩 名品抄 38 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 冬の夜 文部省唱歌 明治45・3
一 燈火(ともしびちかく衣(きぬ)縫ふ母は
春の遊びの樂しさ語る。
居並ぶ子どもは指を折りつつ
日数(ひかず)かぞへて喜び勇む。
囲炉裏火(いろりび)はとろとろ
外は吹雪。
* 「過ぎしいくさの手柄を語る」父親の二番には、きのりしなかったが、一番 「衣縫ふ母」の歌には心惹かれて、ひとりで、こっそり唄った。「居並ぶ子ども」 には、びっくりした。「ひとりッ子」の「もらひ子」だった私には、その賑わい、 羨ましい前に異様でもあった。とは言え、私にもこういう囲炉裏端の体験はあっ た、戦時疎開した先の丹波の山奥のちいさな部落で、二軒めの宿りに画につくら れた築山の奥の「隠居」で寝起きし、始終母屋の農家族から呼び迎え可愛がられ ていた。農学校へ通学のお兄さん、女学校を卒業していたお姉さんが二人。お父 さんは戦死されていたが、働き手の優しいお母さん、上品に物言いも静かなやは り働き手のお祖父さんお祖母さんの六人家族だった。みなが心優しく、まして囲 炉裏を囲んで談笑の真冬は、寒い寒い雪の積む夜は、わすれがたいのだ。懐かし いのだ。
2023 6/10
◎ 日本唱歌詩 名品抄 38 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 早春賦 吉丸 一昌 大正2・2
一 春は名のみの風の寒さや。
谷の鶯 歌は思へど
時にあらずと 聲も立てず。
時にあらずと 聲も立てず。
二 氷解け去り葦は角(つの)ぐむ。
さては時ぞと 思ふあやにく
今日もきのふも 雪の空。
今日もきのふも 雪の空。
三 春と聞かねば知らでありしを。
聞けば急(せ)かるる 胸の思ひを
いかにせよとの この頃か。
いかにせよとの この頃か。
* これぞ、これこそ、私の人生歌、「生歌」そのものであった。ただ季節とし ての「早春」ではなかった、若者の、青年の、奮い立つ蹶起、決志を励ましてく れる「みごと」としか謂えない美しい「声援・応援」歌と「青年の私」は聴き、 かつ、心して胸中に歌っていた。
学生時代からついに故郷「京都」を離れ「東京」で就職したの「早春」、社内新 聞から入社の思いを短く言えと求められたとき、なに躊躇うことなく、ただこの 「早春賦」一番の詩句を書き抜き、余の一言も加えなかった。まこと本意・本志・ 決意であった、会社も仕事も、組合も、上司も、同輩も心頭に波立てず、ただ私 は「此の先へ」のびてゆく吾が「春夏秋」をどう生きて行くか、今まだ「ときに あらず」の視野へ目を見開いて自身を正すほか何もなかった、ああ、いや、明確 に私はもう「希望」していた、「創作」「小説「文學・文藝」へ。だが「時にあ らず」と「聲」ひとつ立てなかった、新婚の「妻ひとり」の他の誰へも。そして 「翌60年初夏」から、時の「安保とうそう」を背に感じたまま、処女作『少女』 『或る説臂翁』へ踏み出したのだった。ありがたい、すばらしい、美しい唱歌の 『早春賦』であったと、感謝はいま「やそしち老」の胸にも篤い。
掛け替えの無い私さようの「早春賦」に、むろん黙したまま、永く心そえて下さ ったのは、当時いくつもの大學での講壇に立たれながらも、株式会社『醫學書院』 の「編集長(のちに、副社長・社長・相談役」)であった、もうすでに鷗外研究、 康成研究に「新生地」を開かれていた長谷川泉であったのは、間違いない。そし て私の入社受験、最期の「面接」をされた社主の、鬼よまむしよと恐れられた金 原一郎社長も、私在職の15年半、いやその後も亡くなるまで實に永きにわたっ てり、一社員に過ぎなかった私の「早春賦」に聞く耳を向けていて下さった。
* 「葬式」は反対だ、これは『告別写真だよ』と、「秦恒平君 社長」と日付も手書され、「写真一枚 お織りします お受け取り下さい」と書き添えられた、實に佳い、懐かしい上半身写真を、金原社長、或る日、突として私の当時一課長として勤めていた五階自席へまでお持ちになり、笑顔で手渡して下さった。そのお写真、いまも此の私書斎の一等間近に頂戴したまま大切に荘ってある。「拙い谷の鶯の声」をいまも聞いていてくださるだろう、長谷川先生も、もとより。
2023 6/11
◎ 日本唱歌詩 名品抄 39 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 鯉のぼり 文部省唱歌 大正2・5
一 甍の波と雲の波、
重なる波の中空を、
橘かをる朝風に、
高く泳ぐや、鯉のぼり。
* 京の町なか、家並みをそろえたような、ま、閑静な門前通りに育って、まず屋 根より高い「鯉のほり」にも「凧揚げ」にも縁がなかった、せいぜい「羽根突き」 や「陣取り」「ドッヂボール」が関の山で、夏休みの地蔵盆には、路上真ん中に幕 をはり、町内会が「青い山脈」とか映画を写して呉れた。「原節子」に恋したりし た。繪や写真で見る「鯉のぼり」にはテンと気が無かったが、歌は唄っていた。
2023 6/12
* 夢の内で、いかにもそれの謂えるらしい人から、かなり年嵩な先輩作家から言われていた、「秦さんは、作家として、大きなトクをし、ソンもしましたね。いわば文壇の寵児でしたからね」と。
じつは、おなじことを色んな機會に何度も色んな人に小声で言われてきた。
つまり、どういうことか。
私はいわゆる「同人雑誌』体験とか「文學仲間」のただ一度も一人ももたず、突如として筑摩書房「展望」誌の「第五回太宰治文學賞」をもらった。芥川賞とは異なってとうぜんのように「応募・選抜」賞なのであったが、私は当時「筑摩書房」の名こそ知っていたが綜合誌「展望」の名も存在も、まして「太宰賞」の在って、すでに四度も選考され、第二回に吉村昭さんが受賞されていたなど、一切が私、知見知聞まして関心の真っ白な「以外」であった。
そんな、会社勤め全く無名の私に宛て「第五回太宰治文學賞」に当選されましたと社宅の一室ずまいだった我が家へ「電報」がきたと妻が会社へ電話してきた。「ナンじゃ、それ」としか、かけらも覚えがなく、筑摩書房から写真を撮る社まで来いと「展望」編集長の電話も来た。選者は「井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、川上徹太郎、唐木順三、中村光夫」と畏怖しいような六氏の「満票当選」と聞いてもただ私はボーゼンとしていた。選考対象は、私がそのしばらく前に、例の独り合点で自費製作出版の四冊目の私家版作品集『淸經入水』のその巻頭表題作だと。読売はじめ各紙が「時の人」と報じ、私の見知らぬ「実父」は入院中に新聞で知った、読んだと手記を遺したが、ハテ何が何して斯うなるのか…。私家版本の『淸經入水』が、やみくもに送り届けてあった先のお一人、敬称は略してあの「小林秀雄」から選者の一人「中村光夫」へ回された、らし、かった。果然、選者満票で「現代の怪談」とも評(川上、唐木、中村)された「淸經入水」は「第五回太宰治文學賞」
推されていた。「応募」の態に処置されたのであろう、作者の私にはただ「寝耳に水」の驚愕であった。「秦さんは、作家として、大きなトクをし、ソンもしましたね。いわば文壇の寵児でしたからね」とはこういう「スタート」をも謂われていたに相違なく、それだけで終えてしまわなかった…、と、思っている。
2023 6/12
◎ 日本唱歌詩 名品抄 40 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 海 文部省唱歌 大正2・5
一 松原遠く消ゆるところ
白帆の影は浮ぶ。
干網濱に高くして、
鷗は低く波に飛ぶ。
見よ昼の海。
見よ昼の海。
二 島山闇に著(しる)きあたり、
漁火(いさりび)、光淡し。
寄る波岸に緩(ゆる)くして、
浦風軽(かろ)く沙(いさご)吹く。
見よ夜の海。
見よ夜の海。
* いささか仰々しくも、音調のしらべ和やかに技巧は優しい。このような「海」 など、京都市内、円山のふもとか丹波の山奥しか知らなかった少年にはあまりに縁 遠かったが、そのゆえに心ゆるして惹かれていたと謂えよう、か。
2023 6/13
* 『参考源平盛衰記』前三分一の悲惨また凄惨は、さきに「俊寛」 そして 「高倉宮以仁王・源三位頼政の挙兵惨敗。「もの凄い」。時間さえあらば書き写したくてしょうが無い。
* 「ことば」と「文字」とは、有難いこと、湧くように、機械のキイに誘われ産まれて出る。しかし、こんな述懐に時を費やしてなど、いられないのだが。ま、成るにも為すにも委せておくか。
2023 6/13
◎ 日本唱歌詩 名品抄 41 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 冬景色 文部省唱歌 大正2・5
一 さ霧消ゆる湊江の
舟に白し、朝の霜。
ただ水鳥の聲はして
いまだ覚めず、岸の家。
二 烏啼きて木に高く、
人は畑に義を踏む。
げに小春日ののどけしや。
かへり咲の花も見ゆ。
* 三番まであるが、ことに一番の、音韻の協鳴がうつくしい効果を得てい て、思わず知らず景色に融けて入つて歌っていたのを懐かしく想い出す。
一番の、湊江の風情に縁はなかった。二番の風景に身を置いた敗戦直後の 小学生体験は忘れない。佳い詩と、受け容れていた。よく歌ってもいた。
* 論策に執する夢を見続けていた、か。
2023 6/14
◎ 日本唱歌詩 名品抄 42 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 朧月夜 文部省唱歌 大正3・6
一 菜の花畠に 入日薄れ、
見わたす山の端 霞ふかし。
春風そよふく 空を見れば、
夕月かかりて にほひ淡し。
二 里わの火影(ほかげ)も、森の色も、
田中の小路を たどる人も、
蛙(かわず)のなくねも、かねの音も、
さながら霞める 朧月夜。
* 最優秀唱歌詩かというほど、詩句の斡旋に共感を惜しまずよく唱った。 あの戰争に佳いことは一つもなかったが、山に掩われた静かな小村に疎開生 活していればこそ、かかる「朧月夜」もまさに「体験」できた。忘れない。
2023 6/15
* 私が京都の弥栄中二年の三学期以前に小遣いを奮発して買った岩波文庫『平家物語』上下巻の開巻筆頭は例の「祇園精舎の鐘の声」だった。そしてすぐに「祇王妓女と佛御前」の噺だった。
今、読み続けている『参考源平盛衰記』全四八巻の第十八巻へきてやっと「祇王妓女と佛御前」の嵯峨の隠れと母子・佛四人の往生譚が読めた。ことのほかに異本の多い『平家物語』の「編集」ぶりは千差万別。その事実にこそ吾らが「十二世紀」の「妙趣」を感じ取らねばならない。私が、百冊に余る著作の「論著最初」に『十二世紀美術論』を書き下ろした動機もソレへ触れている。
2023 6/15
○ 故 郷 文部省唱歌 大正3・6
一 兎追ひしかの山、
小鮒釣りしかの川、
夢は今もめぐりて、
忘れがたき故郷(ふるさと)。
二 如何にゐます父母、
恙(つつが)無しや友がき、
雨に風につけても、
思ひいづる故郷。
三 こころざしをはたして、
いつの日にか帰らん
山はあをき故郷(ふるさと)。
水は清き故郷。
* これほどに実感に打たれ目に涙をためて唱いつづけた唱歌はない、むろん 故郷京都から東京へ出て家庭を持ち職場を持ち、そして朝日子、建日子が生ま れて、私は「こころざしをはたし」小説家に成った。
「山はあをき故郷(ふるさと)。水は清き故郷」とは、文字通りに私の生まれ育 った「京都。 東山 白川 鴨川」の景色そのままで。妻にも子らにも聴かせ ず、ひとりの思いを抱いたまま、どれほど、この「三番」歌をひしひしと独り 唱っていたことか。 京都。然り京都よ。
2023 6/16
◎ 日本唱歌詩 名品抄 44 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ と ん び 文部省唱歌 大正8・1
一 とべ とべ とんび、空高く、
なけ なけ とんび、青空に。
ピンヨロー、ピンヨロー、
ピンヨロー、ピンヨロー、
たのしげに、輪わをかいて。
* 斯ういう唄を、人には聴かせず 独りでよく唱っていた。じめじめはしてい なかったのだ、なにかしら「先途」を期してわたしは、ことに東京へ出てきて、い つも自身を励ましていた、らしい、と、今にして気づく。
2023 6/17
◎ 日本唱歌詩 名品抄 45 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ ウ ミ 文部省唱歌 昭和16・3
一 ウミハ ヒロイナ、
大キイナ、
ツキガ ノボルシ、
日ガ シヅム
* 「明治/大正」を経て「昭和」になると、唱歌の教科書にはこういうア ホラシイ唱歌詩が蔓延した。唱わせられ、ウンザリした。そして昭和二十年 八月十五日、国民学校四年生の私は、秦の母と戦時疎開していた丹波の山村 で「敗戦」の日を迎えた。京都へ帰れる、と、雀躍りしたのを忘れない。
明治大正の唱歌詩との、懐かしんだツキアイを、これで終えたい。「屋根より高い 鯉登り」という端的な歌声がいまも耳に懐かしいが。
2023 6/18
◎ 日本の形と心
〇 出雲大社の大注連縄 神域と畏怖とを分かつ偉大な結界
電話帳をみればわかる。「大」の宇ではじまる姓が圧倒的に多い。高橋、鈴木、佐藤、田中といった姓でも追いつかない。大きいことは、いいことなのである。偉大で雄大で壮大でありたい人の思いが表れている。大きいものは強く揺るぎなく豊かに確かなのだと、人は信じていたかった。自分がそうは成れないから、いっそう信じていたかった。自分は中くらいでもいい、大きいものを親しく見ていたい。たとえば富士山を仰ぎみる心地にもそれがある。それがあるから、画家が富士山を描くと、自然そのままの山にならずに、なんだかいつも目出度そうな山に描けてしまう。
日本で一等高い太古の建物は、出雲大社の本殿であった。当時の技術でどうしてそれまでにと、信じられないほど高く高く高く造られていた。十世紀の記録では十六丈・48メートル、世界最大の木造建造物である東大寺大仏殿の高さに優に匹敵した、が、現在では、半分の高さに改まっている。
いまの出雲大社でわれわれの度肝を抜くのは、拝殿正面の、白い白い白い、太い太い太い、大きな大きな大きな、注連縄である。はあッと息をのんで、あとは言葉を喪いただ立ちすくむ。ただただ見上げて畏れる。むくむくむくと生けるもののように、ぎりぎりぎりと互いに締めかつ結ぼれて、悠久に豊かな生産のサマを、かぎりなく簡潔に、美しく想像させる。大巳貴、おおなむち、大きな大きな貴い巳ィさん、の、みごとな相愛のカタチ、だ。祭られた神さまは、大穴持(おおなもち)の、大国主(おおくにぬし)の、大巳貴神(おおなむちのかみ)。
出雲とかぎらず、わが上代の神々のおおかたは、水と川と海とを占め、豊かな大地の生産を保証する「蛇体」の伝承をもっている。諏訪も三輪も住吉も、また八幡も、その他もろもろも。
注連縄は、聖と俗とを分かつ境界を成し示している。ここから先へは入るまいぞ、出て来てもくださるな。出雲大社の注連縄がかくも超弩級に大きいのは、太いのは、それ程にも神威強大で畏怖も深甚であったこヒの端的な証明であった。日本の造型と信仰との原点が見える。
2023 6/19
* 今日は、熱い記念のあの桜桃忌、小説『淸經入水』が第五回太宰治文學賞に選者満票で推薦されたあの桜桃忌から、滿五十四年。幸い昨日も今日も明日も私は一作家としての文筆・創作の日々を送り迎える、迎えている、ことにただ感謝のみ。
2023 6/19
◎ 日本の形と心
〇 王子稲荷の鬼繪馬 奪い返す執念のわが腕
厳島神社の大繪馬殿で、首が曲がるほど見上げていた遠い日の記憶がある。あつい季節なのに肌が冷えた。森の奥にいる心地であった。人の祈願を支えた底しれぬ業(ごう)の深さを想っていたかも知れない。生れ育った京都でも、たとえば間ぢかな八坂神社や清水寺や安井金毘羅などでよく「繪馬」をみた。それらの多くはいかにも文化財といった相貌も備えていたけれど、たとえば縁結びの清水地主神社へ行けば、なまめかしく彩られた優しい恋や愛の祈りの色々が、小さな懸け繪馬になって、社殿のここかしこに無数に群れていた。松尾神社へ行けば、また北野天満宮へ行けば、合格祈頓の小絵馬がここにもあそこにも溢れかえっていた。半ば神様商法のそれらの小繪馬は、裏か表かに出来合いの簡素な繪がすでに描かれ、もう一面に、願いの筋が人それぞれの筆跡で神妙に書き込まれる。それを一々読んでまわって、感心したり同情したりしているヒマな人も、どこへ行ってもいる。
もっと田舎でこころがけて見ていると、繪柄も自身で描くなりして、素朴な、だが身につまされる祈願が、じつに具体的に繪馬として奉納されている鎮守様が数多い。民俗も特異に、一風ある仕來たりもよく目に見え、地方地方の喜怒哀楽のさまが多彩に塗りこめられ書きこめられている。また遊廓のそばの神社へ行くと、廓の女たちの小説よりも奇抜な願いの筋が、趣深い繪と言葉とになっていたりする。「今後男を断ちます、但し三年間」というのを見たことがある。おれ様も、よくよくヒマ人じゃわいと苦笑したこともある。
そんな中で、東京の王子稲荷に柴田是真描く「茨木」の鬼女は、繪も抜群の名作であるうえに、奉納した旧東京市の砂糖組合であったか、なんでも一度はお上に奪い去られた多年の特権だか利権だかを是非また奪還したい旨、渡辺の綱に切られた腕を奪い返して宙をとぶ鬼の図に託した趣向が、猛烈に凄い。むかしの商人の度胸と風格とが生んだ本物だ。
2023 6/20
◎ 日本の形と心
〇 背後の闇に光る能面 生死を跨いだ人間解釈の美しさ
「仮面」(ペルソナ)は「人間」(パーソン)の原意である。お芝居の「役」の意味でもある。つまり人には、その人の本来の顔があるにせよ、時に応じて仮面をつけて生きている存在だと言える。極端なことを言うと、そんな本来の顔などもともとなくて、いろんな仮面を、時に応じ人に応じまた事柄に応じて付け替え付け替えして生きているのであり、もし本来の顔が在るとすれば、それは仮面をのせるノッペラボーな面台のようなものだとも考えられる。二十歳前後の優秀な若者たちに、仮面をかぶるのは何時かと尋ねると、十に九人の割合で「四六時中」と答えてくれた。安心なのかと反問すると、便利なのだと答えた。顧みて、いささかジクジたるものがあった。
能の仮面(マスク)は、「面(おもて)」と言い慣わされている。なかなか暗示的で、「うら」に隠された存在を想わせるが、そのモノの何かを正確に指さして謂うことは容易でない。
能は現在(いま)も三百番ほど伝わっていて、面をつけず、演者が素顔をみせてする即ち「直面(ひためん)」の能もわずかにあるけれど、おおかたは、神・男・女・狂・鬼の魅力溢れる能面を多彩に使用する。
つまり仮面(マスク)をつけて役(ペルソナ)を演じ分ける。面を外すと、おそらく悠久の神性ビ人間味とをともに湛えた「翁」の顔が在るのだと信じて、この世界では『翁』の能を天長地久を祝うもっとも大切な祈祷の能にしている。三百番の能はすべて「翁」がペルソナと化して「世界」を実演してみせているのだと、そう理解するのである。
どんなに美しい女面であれ、どんなに恐ろしげな鬼の面であれ、ど んなに不思議な色気をただよわせた永遠の少年面であっても、例外というものはないと覚悟して「能」の世界は成り立っている。たぐいない中間表情の美しさの彼方に、無限に可変的で絶対に不変の「人間存在」を「神」とともに容認しようという、生と死とを跨いで、「能」とは、譬えようもなく強烈な人間解釈の演劇だと言わねばならない。
2023 6/21
* 機械の不安絶えない。
『秦恒平 湖(うみ)の本』の今後の続刊を近々にもどこかで(170巻あたりで)収束し、あとは「機械」の安定・確実な「ホームページ」『作家・秦恒平の文學と生活』で黄海を継続できればと願懸けている、が、不幸にして「ホームページ」の精確な建設が、いや『再建』が、東工大卒有志の好意と応援にかかわらず、確かとまだ起ち上がらない。この「難所」を何としても無事通過しないでは、「先途」が望めない。ぜひにも妙案が得たいところ。
い゛んのホームページ組み立ての何か記録らしきが在る気もしている。晴々と誇らかな『ホームページの顔』をしていたが。「顔」はもういい、実質『私語の刻』により「文學とせいかつ」とを発信しつづけたい。知恵がほしい。
2023 6/21
◎ 日本の形と心
〇 環型土器 水と大地に祈りを秘めて
六、七世紀、古墳時代後期の仕事としては、おそろしいほどの技の冴え。無脚の環型(かんがた)土器を見ていると、これはモダンアートだといわれても信じてしまいそうだ。色はほとんど無い。濃い灰いろのまま、ふと、自転車のタイヤのはずんで跳ね返すような力感と、簡潔な「かたち」だけがもつ魅力に溢れている。
広島県の、それも北の、山ちかい一部の地域でしか出土例が無い。みじかい脚をもったのも見付かっているが、むろん脚の無いほうがデザインも完璧で、かつ、ふしぎなモノに見えてくる。注ぎ口がきっぱり付いていて、用途は疑わせない。携帯可能な風がわりな水筒の感じがある。酒を容れても、いい。それにしても、どう置くのか。横倒しに臥かせては酒も水もこぼれてしまう。使い勝手では、不備のそしりを免れない。だが、来歴のことに久しい古社の近くや神葬地にかぎって出土しているのを思うと、この「かたち」自体に、なにか意味があるのかも知れない。
蛇(じゃ)の目といえば、単簡に、太い黒で丸が描いてある。昨今でこそご縁は遠のいたが蛇の目傘は、まさにそういう紋様で雨に似合いの洒落た意匠であった。蛇の目には瞼がないという。それでそういうまん丸の紋様も出来たという。この環型土器の形といい色といい太さといい、一つには蛇の目、一つには蛇体を、ズバリ表していたのではなかろうか。まるで蛇の目のまん丸い「茅(ち)の輪」潜りの風(ふう)は各地に見られるが、この「ち」は、「おろち」「かがち」の、つまり蛇を元の意味にした「蛇(ち)の輪」「巳(みN)の輪」であり、転じて「三の輪」「三輪」ともなった。豊産と増殖とを蛇神・水神の精力に祈った太古の風が、おそらくは蛇神に酒を捧げる習いとも結ばれ、かかる見事な土器の「かたち」を成さしめたかと想像すると、遥かに遥かな日本国土と信仰の歴史が目にうかんで来る。おそらくは日用の器ではなく、神威への畏怖と崇拝との造型、土中に深く眠らせた神秘の祭器であっただろう。
2023 6/22
◎ 日本の形と心
〇 鞍馬の火祭り 山奥に伝えられた遙かな海の漁り火
火の祭りは、ただただ美しい。絵のなかでも、闇に光で描く絵はなにより美しいのだが、火の乱舞で彩る火祭りには、ただ絵模様でない、太古の昔からの人の暮らしと祈りとが息づいている。火は大地をあたため、空気を浄め、神霊の来臨を誘う。
京の鞍馬の由岐神社に年久しく伝えられた火祭りにも同じことが言える。そして、それだけではないのである。大きな大きな、魚たちを追い込む筌のかたちをした大たいまつには、太古このかたの漁具が懐かしく記憶されている。そして祭り子たちの彩り豊かな衣裳にも締めこみにも、海や川に生きた水の民たちの、はんなりと潮や磯や藻の香のする漁りの風俗が伝えられている。よく見れば、お相撲さんらの「まわし」に「さがり」で塩じみた風体とも微妙に重なっている。お相撲さんのはるかに遠い根が、どんな世界へおりていたか、これまた懐かしく察しがついてくる。
鞍馬は、京の北郊の木深い山里で、そんなところにどうして海の民の風俗がとおもわれるが、日本列為のいずくの山奥にも、ふしぎに似た海の民俗や祭りは伝えられている。海辺を伝い、川を遡る。そんな舟の旅を重ねたわれらの祖先の多くが、火をまもり火にささえられて、夜から夜へ、夜ごと日ごとに生きついでいた。貴船に近い鞍馬の火祭りの夜は、渓谷を包み込んだ山々からおびただしい火の波がわきたち巻きおこって、魚を筌へ追う「サイレイ」「サイリョウ」の掛け声いさましく、神社の鳥居前へ大漁を祝うようにひしめき集うて来る。
勇壮でも華麗でもある、が、なにより心にのこる思いは、悠久の神秘に身を包まれた嬉しさであり、また寂しみである。同じ日の昼間、京都の街を時代祭りの行列が行く。そして鞍馬のその夜をこがす火の祭礼では、時代の分別などを超えた日本民俗の根の歴史が、美しい炎をしみじみとかつ激しく噴き上げるのだ。
2023 6/23
〇 日本人の座り型 だれが正坐ときめたのか
人は、立つたままでも寝たままでもいられない。電車に乗れば坐りたいし、茶の間や座敷では坐ることになる。電車では腰を掛けるが、座敷や茶の間ではどう坐るだろうか。
西洋や中國では椅子に腰かけることが多い。お隣の韓国の人は美しい片膝立てで自在に振る舞っている。しゃがんだままの國もあり、足を投げ出し尻を落としている人らの暮らしもある。イスラムの人は礼拝のときは正坐にちかい跪きようで深々と頭をさげ、だが、日常はあぐらッぽい。
仏様たちもたいてい結跏趺坐や半跏趺坐や胡坐で、正坐の姿はめったに見ない。熱海のMOA美術館に、本尊阿弥陀如来座像の両脇侍のじつにみごとに正坐したのが稀有な一例で、他に思い浮かばない。京都大原三千院の阿弥陀三尊座像の脇侍二体も、正坐よりやや前かがみにかかとを起こした跪坐の美しいことでよく知られている。上古の女神像に横坐りして楽器を弾じる姿の例があるが、神様も仏様も、天子様も公家も武家も僧も神官もふくめ、十七世紀半ばをさかのぼって日本人で正坐している図など、土下坐を強いられた罪人か、閻魔様の前の悪人か、えらい人や尊い人の前にいる庶民の他には見られない。つまり極度の服従か極度の謙譲の場合の坐法が正坐なので、正坐と土下坐とはつまり同じなのである。
花は桜というが如くに、日本人は大昔から正坐してきたかと、とんでもなく勘違いしている人が多い。正坐の本家のような茶の湯の千利休も、茶をたてる際に正坐していた証拠はなく、軽い立て膝に近かったろうとはむしろ近来常識となりつつある。能のシテもワキも決して正坐しない。
われわれは目なれたことは大昔からと思い込みがちだが、ちょっと気を配って彫刻や絵巻などを見ていれば、正坐の日本人が一般に現れるのがやっと江戸時代も元禄頃からだと気づいて、目から鱗を落とすだろう。
思い込むばかりに命懸けは、こまる。思い直す大事さも忘れまい。
2023 6/24
◎ 日本の形と心
〇 簡素に美しい脱穀機 稲霊の恵みに生きた農具
米の問題は、幾揺れもあって、とどのつまりにひと騒ぎもあって、そしてもう水が無い無いという声も聞こえては来なくなった。どこやらのお國の米ばかりがなにやら冷たくされたり転用されたりしているうちにも、季節は移りきて、さて今年は豊年か満作か、それとも二年つづきの不作かと、天候を眺め眺め、そろそろまた気がかりになっている。
それにしても千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國として生きつづけたわが日本國が、もはや、そうでは無くなっているのか、それとも、まだまだ農業國である基本に深切な配慮を忘れてはならないのか、選択を一つあやまれば簡単に國がほろびてしまう気がする。農と人は、日本の未来を大きく沈ませるか、浮揚力を保てるか、微妙に微妙な民族の岐路が、目前に浮きつ沈みつして見える。苦渋をうかべて心配そうな二十一世紀の日本の顔が、もう、はっきり目に見えて来ている。
そんなときに、こんな美しい、こんな簡素に美しい農具の「形」に目をふれていると、不思議にご先祖様の慈愛の激励をうける心地がする。
現代のデザイナーも思わずたじろぎそうな、なんという、曲線と直線との簡潔かつ的確な交響! 脱穀も選米も、いまでは轟音をひびかせ機械が一気に大量に処置してくれるが、むかしは、脱穀ひとつに、こんな素朴な、手まわしの道具を穏やかに用いていた。お百姓さんたちの暮らしの気合いがそのまま乗り移り、稲霊の恵みを「米」に変えてくれていたのだ。
籾の金いろが一面に匂い、木のあたたかみが木目の波うつ美しさとなって、「お國柄」というものを人々の胸に確かに刻んできた。民具にはさまざまあり、派手ではなくとも尽きぬ「形」の魅力が、幾百千年の暮らしの工夫そのままに結晶した例が多いのだ。権力の交替だけが歴史なのではない。こういう道具の形にも忘れ難い歴史の肉声を聴く耳をもちたい。
2023 6/25
◎ 日本の形と心
〇 超現代の朱の造形 水に映え空に映えて舞う龍
清水焼(きよみづやき)といえば京の陶磁器の代名詞みたいなものである。その清水焼のまた代名詞のような江戸時代このかたの暖簾と陶工が「清水六兵衛窒」であることは、ま、いまでも常識にちかい。むろん現在も何代目かの六兵衛さんが、ユニークな陶技で、伝統の先頭をさらに前向きに沸騰する作柄をみせ、活躍されている。その陶器の「六兵衛」さんが、世界的な彫刻作家でもあるのを知っている人、どれほどあろうか。じつは彫刻家としての名前は「九兵衛」さんなのである。材料も焼物の土ならぬ軽金属の、たしかアルミ。
東京お茶の水、某大手の保険会社の広い中庭に、巨大にみごとな清水九兵衛作『朱龍』が生きて呼吸(いき)をしている。ただに朱(あけ)の龍だけが九兵衛さんの作品なのではない。龍の生きて呼吸をしているその石の庭、その池の形、その水の色、みんなが渾然として空気を吸いかつ吐き、空の色、雲の流れ、ときには雨も風も雪も、みなたがいに馴染みあって、大きく、やわらかく、優美に、一切が九兵衛彫刻のためのいわば「作品」と化(な)っている。
中国へ行って、もしそこに「龍」をまったく見なければ、これはもう中国ではないだろう。壮大な九龍壁、壮大な故宮の龍群。そして万暦の鉢からラーメンの鉢までを彩る、さまざまな龍。西洋にも龍の伝説は、アーサー王物語からル・グゥイン作『ゲド戦記』まで、底知れない深みに根をおろしている。
人類と龍。その不思議な交錯からは無数の「象(かたち)」が表現されてきて、わが日本でも例外ではなかった。龍宮への憧れは神話の彼方にすでに疼いていた。そしてやがて二十一世紀……の、わが東京のどまんなかで、造型の粋を尽くした朱の肌美しい巨大な龍が、日ごと夜ごと、ハイカラなサラリーマンやオフィスレディーたちの視線に磨かれ、呼吸(いき)をしている。この保険会社、この朱龍の力でどんな保険をこの世の為にかけたつもりか知らないが、地上で見ても屋上から眺めても、いかにも生きている。
2023 6/26
◎ 日本の形と心
〇 秋田の水の餅・臼の餅 米の文化が演出した男女の祝祭
正月を無事迎える嬉しさなどといえば若い人には笑われそうだが、無事がなによりと思う気持ちの、ひとつの仕切り・けじめとしても正月は節季の元旦。いくつになっても「お正月」と、ぜひ敬意をはらい、我と我が身を祝いたい。それが信仰であるか、心掛けであるのか、はたまた単なる思い慣いか、理屈は人それぞれでもよろしかろう。
「お正月」といえば「お餅」である。まれに、餅と付き合わない習俗を太古来まもっている地域もあると聞くが、一般には「お餅」を搗き「お鏡」を荘(かざ)ってめでたいというハナシになる。実感がこもる。その作法や習慣にも土地土地によって磨きあげた「かたち」が出来ている。家の風が土地の風になり、お國ぶりになる。正月の作法や形は、いわば「お國自慢」のいい意味の根になっている。それだけの洗練や、また頑固さを、備えている。
秋田の「水の餅・臼の餅」を選んでみよう。意表をつく気はなかったが「簡古」の美が感じられる。「お鏡」の大きさを誇った餅かざりは各地にあるが、ここでは「臼」が、そして「水」が、主役になっている。
臼に杵はつきもので、杵は、力いっぱいいい餅の搗けるいわゆる横杵が発明されるまでは、ただ「キ=本」とも呼ばれた縦杵であった。両端を太めに、中ほどを握って縦に搗き下ろす「木の捧」であった。そして「杵」は男を、「臼」が女を謂い表すようになったのは、「かたち」からして自然の成り行きであった。されば「お餅」が臼杵から生まれた「子」餅として愛されたのも、また自然であった。よく見てほしい、「臼の餅」の「お重ね」の、しおらしいほどの愛らしさ。「餅」誕生のよろこびが清々しく表現されている。
言うまでもない「餅」の風俗は「米」の文化であり、南方から海を渡ってもたらされた「水」の文明と習俗に由来している。水の民、水の神を祭り畏れた人々の、年のはじめに先ずはその神、蛇神に象(かたど)って堆(うづたか)く「とぐろ巻く」かたちに造って神前に捧げたのが「鏡餅」であり、「かがみ鏡」は「蛇身」の訓みでもある。諸国の「餅」「鏡餅」をまつる風の根っこに、それが微妙によみとれるのが意味深い。
2023 6/27
◎ 日本の形と心
〇 御陵、根源の形象 歴史と自然美が出会う他界
人生、いたるところ青山(せいざん)ありと古来いわれてきた。墓たる場所はどこにでもある。そいう意味であった。昨今、だが、なかなか墓所は求めにくい。ビルのなかの引き出し墓やロッカーの墓が現実に登場しつつある。一寺一墓制の合葬を余儀なくされる時節到来も、大都会ではさけられないかもしれない。むかしは、死者と生者の共存する世界にいささかのゆとりがあった。が、住みにくい世の中になってきた。
若い人に聞くと自然葬が増えて、墓の必要はだんだん亡くなるという者と、人が人であるあいだは墓はけっして無くならないという者とに、二分される。わたしは、ま、後者の言に聴くほうである。
墓地を訪れて、墓碑や墓碑銘の間を静かに散策するのを、子供の頃からむしろ好んできた。思わぬ所に思わぬ故人の墓に出逢って心うたれることが、よくあった。そういう経験は、京都という、都市じたいがいわば歴史的風景である世界に生まれ育ったことと切り離しがたい。俳人去来の墓や、初代菊五郎の墓や、蕪村の墓や、関白忠通の墓や、洋画家浅井忠の墓や、敬愛した谷崎潤一郎の墓の隣に日本画家福田平八郎の墓などをみつけた、そう…、なんといえばいいのだろう、やはり……感動。あの、感動。一気に、溢れそうに、もろもろの思いが形になり、絵になり、胸のうちにひろがる。
しかし、京都で、いちばん歴史的風景として身にしみて魅力的だった墓地は、まちがいなく、御陵であった。東山にも北山にも西山にも、南の郊外にも、無数に天皇陵や皇族の墓地がある。まさしく清寂の明浄処--。足を運べばものの一時間も二時間も身を白風にさらして心洗われてくる。からだ中が透きとおったようになり、立ち去る。だれもいない。だれもこない。しかしまちがいなくそこには「日本」の風景があり、端然としてゆるみない造型がある。東京の昭和御陵も、いつの日にか、そんな歴史的風景に透徹するであろう。
2023 6/28
◎ 日本の形と心
髪飾り 女を彩る文華の粋
女の髪の、色と薫りとなら、どっちに魅力を感じるだろうか。両方と言いたいが、強いて言えば、わたしは薫りにひかれて来た。かならずしも嗅覚からくる薫りだけではない。照った黒髪のめでたさそのものにも薫りを感じた。
わたしは比較的おそくまで、母に連れられて銭湯の、それも女湯に漬かっていたが、まぢかな京の祇園の廓うちの湯へ行くと、お座敷まえの舞子・藝妓とよくいっしょになった。まだこどもながら、と言うより、こどもなればこその一つ湯ぶねのはだかの付き合いで、湯の香にも酔うて、女の髪がどんなにいい薫りのものか、肌を寄せ合うほどにして、自然に覚えた。
むろん湯屋では、飾り気のなにもないただ黒髪であった。その髪に、いわゆる女の髪飾りがとりどりに添えられたときの、息をのむほどの嘆賞の念というのも、育った場所柄で、ほとんどそれは日常のものになっていた。その思い出を懐かしむ気持ちから、わたしは東京へ出てきてからも、美術館の特別展などで女の装身具展があったりすると足を運んででも覗きに寄ったりするのだが、期待に背かれたことがない。妙な比較で実感を持ってもらうのは難しいかも知れないが、刀剣や武具の展覧会で享けるのと不思議に質的に変わりない感銘を、櫛やかんざしの精巧を極めた細工なり、また使い込まれて何とも言えない色合い風合いに磨かれた感触・光沢から、わたしは享けとって帰るのである。
女の髪や肌に添えて匂いたつモノの美しさには、独特の粘りと軽みと華やぎとがあるものだが、髪飾りには珠に繊細に薫る魅力がしみこんでいて、たまらない。埴輪の昔から女の髪飾りには優しみ深く、江戸に至っては、ひときわ愛しげに誇らしげに髪飾りの品は、まさに文華のさまを成している。それからすると昨今は、あまり女性が髪飾りに工夫を見せてくれないのは寂しい。
それにしても職人藝の冴えの瑞々しさよ、目が星になる。
2023 6/29
◎ 日本の形と心
〇 元伊勢籠宮の狛犬 神秘の宮居を護った石の霊獣
狛犬サンには優作が多い。古いものも多い。石像美術の穴場などというと勿体ないが、お宮の鳥居本や拝殿の前に「ア、ウン」の一対で鎮座し、子供にも親しまれ、しかも火にめっぽう強い。ご本殿に事故があっても狛犬はたいがい生き延びる。古くて佳いのが遺る道理で、しかも古くなればなるほど石質の妙味から、個性さえ露われてくる。生けるが如くなる。とりわけ丹後一の宮の籠(この)神社、この狛犬サンは、凝灰岩が縁相を帯びてむくむくと大きく、威力充満の霊気を吐いている。迫力のあまり夜ごと絶景の天の橋立を疾駆する。おそれをなし、豪傑に頼んで前肢の一部をわざと欠いてもらったのが、狒々(ひひ)退治でも名高い岩見重太郎だったと伝説が生まれている。阿形(あぎょう)、吽形(うんぎょう)ともに、四肢といい胴といい尾といい神獣の活気に溢れ、籠(この)神社の神秘を、さながら体現して見せる。 S19る。
聞いたこともないお宮だという人が多かろう。天の橋立に鎮まりいますこの元伊勢吉佐宮(よさのみや)つまり籠神社は、伊勢の内宮(ないくう)・外宮(げくう)の元宮(げんくう)であった。丹波の、國造(くにのみやつこ)であった海部直(あまべのあたい)が連綿として今日まで祭祀し、その『海部氏(あまべし)系図』はまぎれもない現存日本最古の系図、国寶になっている。
唐突なようでも一つ「将軍」を思い出してみよう。江戸、室町、鎌倉の幕府将軍だけが将軍ではなかった。征夷大将軍坂上田村麿よりなおなお遥かの昔、第十代崇神(すじん)天皇の御代に「四道(しどう)将軍」を任じて北陸、東海、西海三道とともに「丹波道(たにわのみち)」へも将軍が派遣され、慰撫と安寧とが図られた。丹波丹後へ、そして出雲へとつづく道は、大和の政権には特別に重い意味をもっていたが、元伊勢の籠(この)宮は、この丹波道(たんばぢ)の要(かなめ)の位置をしめた。さてこそ狛犬サンの偉容に、いっそう箔がついて見えるのももっともではないか。
諸国には狛犬がたくさん遺っている。相当な変わりだねもあれば、夢に見そうな凄いのも大きいのもいる。由緒あるお宮参りでほど、境内への目配りを楽しみたい。
2023 6/30
〇 大将さんのおお鎧兜 五月節句に生き延びた「女文化」
「大将」が最高位だった。元帥の大元帥のという話は近代軍国の位取りであって、それは「大関」に対する横綱や「太政大臣」に対する摂政関白なみに、いわば制外、令外(りょうげ)の位であった。大将こそ律令制武官本来の最高位なのであって、自然と「さん」づけにして呼ばれた。まして公家ふうの都の趣味には、武張った印象よりもいっそ「美しい」「貴い」もののシンボルかのように「大将さん」と仰がれた。男の「粋」といった受けとり方であった。だから成りたがった。自然、五月の節句の主役にされるようになった。季節の花の「菖蒲」が「尚武」に読み替えられるという趣向も加わった。大臣大将とならび称した心根には、かならずしも軍国主義めく殺風景が隠されていたわけでなく、雅びやかな、むしろ美学がはたらいていたのである。「大将人形」は、強いものの象徴ではなかった。強きをくじく美しきものの如くに造型された。
芯に、気稟(きひん)の清質かしっかり埋めこまれていた。だから人は「大将さん」が好きなのである。そこには「男」の清さが祈りこめられていた。
「大将さん」の鎧は、兜は、存外忘れられがちだけれど、いわゆる戦国時代の行動的なものではない。いわゆる「大鎧・大兜」という、源平合戦の昔に突如として現れて華麗を極め、かなり急速に実戦の場からは失せていった、すぐれて美術的な遺品を模している。工藝の粋を繊細な色彩感覚でバランスさせ、用いられた材料も、金銀から皮や絹にいたるまで多彩に精巧に配された。戦場を疾駆するにはかなり重く、戦にぜひ勝つためには、早晩改良され代替(だいたい)されるしかない「美術品」というに近かった。しかし神々しいほど美しかった。だから遺品の多くが、各地の神々に捧げられて来たのだ。
宮廷の女たちの視線には、大鎧・大兜の平家の公達はまこと美しき「をのこ」であったろう。大鎧・大兜は、平安女人の十二単(じゅうにひとえ)のいわば最上の「をのこ」ぶり変化(へんげ)なのであった。「女文化」の所産なのであった。その美しさの故に時代を超え、年中行事の五月節句に生き延びた。
2023 7/1
〇 吉凶を結ぶ水引 祝い斎い忌む國の美しい呪術
「みづひき」という響きには独特のやさしみがあり、言いしれぬ深みもある。深みには、実は、かすかに悲しみが秘められている。慶弔はものの表と裏、人の世はそう出来ている。祝儀には紅白・金銀・金赤などの水引を用い、しかし不祝儀には黒白や黄白の水引を用いる。ここで「みづひき」というのは、細い紙撚(かむよりり・こより)に水糊を引いて固めた意味に読んでいいだろう。吉事と凶事により品などに掛けたり添えたり飾ったりしてきた。豪華に趣向の技を誇るものあり、簡素にしみじみと実意をあらわすものも、ある。だが「みづひき」は、もともと神輿やまた仏の座に張った幕、神事に由来の藝能の舞台や相撲の土俵のうえに張った「水引幕」に由来があるように、どことなし霊魂をひき沈め、また祭りこめた、いわば魂封(たまふう)じに玉手箱に蓋をするに似た働きをもっていた。いや、今でも、かすかにその気持ちは残っている。ただの装飾でないことは、日本人なら微妙に感じ取っている。鶴や亀や、また翁や姥がかたどられたりするのにも、「祝」意もさりながら、いわば「霊」意をも心深く畏怖して慎む気持ちもよく示されているのだと想われる。
「言祝ぐ」と書き「ことほぐ」と読み、むろん「いふ」「いはふ」意味であるけれども、その一方で「斎ふ」と書き「いはふ」とも上古来読んできたのである。「いふ」「いはふ」から潔斎・斎場の「斎」の字義をはさんで、「いむ」「いまふ」の「忌」の意味まで、ほとんど距離はなかったのだ。
「みづひき」は「祝・斎・忌」の三字をまさに引き結ぶかのように用いられてきたのであり、死者を忌み斎ふ思いと、生者を斎ひ祝って励ます思いとが、表裏して引き結ばれてきた真実を、水引ほど如実にさし示す物証は、またと無い。この国では「祝」が「はふり」とも読まれ「葬(はふ)り」の意味を秘めた事実に、謙遜でありたい。
2023 7/2
〇 神輿は景気のもの 金色燦然、かつぐなら神様
「みこしをかつぐ」という。わけはよく分からないけれど、なにやら有り難そうなのと仲間も多そうなので、とりあえず「わっしょい」「わっしょい」声もろとも仲間入りをしておく意昧である。「みこし」の本尊については、ま、分かったようなフリををしていれば済む。「御輿」または「神輿」の中を本気で本当に覗いてみた人など、もともと、いないか、あまりいるものでは、ない。神様か、神様ナミの人をかつぐのだと思っていれば足り、だから有り難い(らしい)のである。大昔は、僧兵や神人(じにん)のようにお神輿を振りまわすヤツまでいた。
変わり神輿といい、風の変わった趣向のお神輿も、世間のお祭りにはいっぱい出る。酒の樽をかつぐ連中もあれば、収穫の野菜をかつぐ連中もいる。親分をかつぐ陣笠もいる。
それでも西の祗園会も、東の浅草三社や神田の祭でも、まこと神様の御神輿はほぼ似たもの同士の美しい造りで、違うのは、かつぎッツぷりもそうだが、掛け声や囃子、つまりは景気の付け方であろうか。亡き志ん生で聴いた落語「祗園祭」では、江戸の男と京男とが、自慢の祭り囃子を汗だくで競演するのが堪らなくおかしかったが、気持ちは分かる。
かつぐのはただの神様では、ない。地元に腰を据え、住民と共存共栄のゆえに「有り難」ければこそ、ご神体が如何様であれ、喜んで人間はその「神輿をかつぐ」のである。うかうかとヨソ様のお神輿に負けていられない。だから、はためには贔屓の引き倒しのような滑稽も、また、大いに許されるわけである。「わたしの人形はよい人形」と同工異曲、「おいらの神輿は最高の神輿」なのだ。どんな世間にも、「我」が集うて「我々」になり、「彼等」と張りあう。結集の芯になるのが「かつぐ神輿」であった。まさに「氏神サン」であった。「わっしょい」「わっしょい」「景気をつけろ」「塩まいておくれ」である。
それにしてもお安い「御輿の主」は、今や時世おくれの、かの「派閥」の親分衆であった。誰も、かつぐ気にもなれなくなった。まるで景気がわるいんですもの、当然です。
2023 7/3
◎ 日本の形と心
〇 鬼瓦の気品 災厄を攘って魅力横溢
いかつい顔をした人を「鬼瓦のような」とワル口を言う。だが、ふしぎに親しんでもいて、悪意ある悪口とは思われない。本気で恐ろしいとは思っていない。むしろ恐ろしいモノから守ってくれそうな、頼みがいありげな「鬼瓦サン」であることが多い。大屋根たかく虚空をにらんで棟の端を守っている鬼瓦も、やはり守っていてくれる鬼であり、攻めてくる害敵の鬼を追払(やら)う鬼サンである。それかあらぬか、鬼瓦の鬼サンも本心ではこわくない。頼もしい。それだけでなく、たいがいの鬼瓦は美しくすらあるから、うれしい。りっぱに家を守りながら、家を飾ってくれる。飾るというのが弱々しければ、荘厳している。
鬼瓦はれっきとした彫刻美術である。建造物の一部にまさに嵌り込んでいるけれども、観賞に耐える優物の多いことでは、狛犬サンと並んで、より堅固に壮烈な気概に富んだ美術品なのである。ただ、見るには高く、遠い。大建築になると、やっと下がり棟の端を固めた方の鬼瓦は視野に入っても、大屋根の天辺(てっぺん)を左右で守っている鬼サンの顔は、なかなか拝ませて貰えない。
なにも鬼瓦といえば、鬼サンばかりでは、ない。名古屋城で名高い金の鯱鉾のような、あれも、「鬼瓦」なのである。鬼サンの変型とみてよく、つまりは建物を守っている。鬼瓦が鬼サンになったのは八世紀ぐらいからで、奈良時代は蓮華文の大瓦をあげていた。それにも幾変化も見られた。平安時代になると鬼瓦が普及した。京の大極殿の鬼サンは鬼瓦族の紳士である。なかなかの紳士の多い社会なのである。出入り門の鬼瓦は向かい合いに置き、家屋敷の鬼瓦は背を向け合って置くのだそうだ。背中合わせでは可哀想との声に、なあに夜中は人知れず、向き合っているさ、と。鬼瓦もあれで、ご夫婦であるらしい。ハテ、お目通りの鬼サン、殿方であろうか、奥方なのであろうか。
2023 7/4
◎ 日本の形と心
〇 能舞台の清寂 影向の神を松と迎えて
能舞台といえば松羽目であり橋掛りだが、橋掛りは短くとも、また無くともとさえ言って構わぬくらいだが、松羽目は無くてすまない。そこに能楽堂の魅力があり、魅力の秘密がある。能舞台が多く神社に付属している意味も、また、その秘密に属している。
「春くれば門に松こそ立てりけれ 松は祝ひのものなれば、君が齢(よわい)もながからん」と昔の歌謡にもある。「めでためでたの若松さまよ」という民謡も、思いの外ひろく各地で歌われてきた。ただ正月松飾りの単純な頌歌(ほめうた)ではない。松に、もっと正目(まさめ)に神さまの影をみて頌めている。影向(ようごう)の松として、神の来臨をそこに感じ、そしてよろこび、畏(かしこ)み、かつは襟を正している。
そのむかし春正月ともなれば、いずれからとなく、松を手に手に人々が御所に繰り込み、「君が齢」を祝って、舞い、そして囃した。「松囃し」は一つの祝言の藝能であった。神事ですらあった。「松」によせて神の光来を「待つ」思いがなければ、立ち別れいなばの山の峰に生ふる「まつ」とし聞かばいま帰り来む、と歌える下地はなかった。「去(い)なば」「待つ」のが「神」に頼む人の思いというものであり、その思いをまさに「松」にこめた。「松は祝ひのもの」という真意である。したがって能舞台の松羽目はただの景色ではない。道行きの風景を象った書き割りなどでは、ない、のである。そこに神はそれとなく来臨し、舞台の能は、照覧あれと献じられているとも言える。また、神そのものが、時に翁となり、さらにはさまざまの神男女狂鬼(しんなんにょきょうき)と変幻して能を演じているのだとも、言える。そういう仕掛けの不思議の時空間である能舞台だからこそ、「松」が、真の主役なのである。
いい松が全国にたくさんある。まれに日輪を松に添わせた神々しくも古朴な舞台がある。「村の鎮守の神様の今日はめでたいお祭り日」にこそ能舞台の臍の緒は繋がっている。
2023 7/5
◎ 日本の形と心
〇 あなありがた、円空仏 ほのかに夢に見えたまへ
「十牛図」といって、悟りに至る境涯を人と牛とがいる十のステージで繪解きした、趣向の畫題がある。禅味横溢の好畫題で、牧牛図、帰牛図などには独立して素晴らしい画蹟がいろいろ遺っている。中国に多いが日本にもいい繪がある。現代では徳力富吉郎の版画で表したのなど、味わい深い。
この「十牛図」の第十図は、ふつう、筆太に、ただ、ぐるりっと円相だけが描いてある。牛も人も、もう影もかたちもない境地が示される。まるで「円遁」の術、まさに円空・円悟のさまである。はっとする。
円空は十七世紀に実在の天台僧で、生国(しょうごく)は美濃といわれているが、その実像を、ほとんどその名のとおり、感じさせない。むしろ虚像の実在感に満ち溢れていて、たとえば、どんなお顔のご仁であったか、背丈は、声は、からだつきはといったことが気にならない。諸国を遍歴し、数千本の仏像をいろんな木材の奥から鑿一つで彫(きざ)み出しだのが、じつに有り難くその土地土地にのこされている。まさに一体一体の仏たちが円空円悟の表情となっている。円空という人物は消え、木材も消え、仏さまが見えてくる。ただし円そのもののような仏さまとは味わいは大いにちがう。彫みの痕が、息づかいさながらに定着し、揺るぎない。目を耳をこらしていると、なにかしら空(くう)を躍る「手」さきと木の放つ命の「音」とだけが、見え、また聞こえてくる。
世間にはときどき、これら円空仏を「蒐集」したいと思い立つ人がいる、が、あまり賛成できない。散らばっていてこそ円空仏であろうにと思う。また、これは何仏であると、熱心に名前を決めたがる人もいるようだが、それも余計なさかしらに思われる。花は紅、柳は緑、仏は仏の円相を示している。人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見えたまひし仏さまを、円空は彫んでいたのに相違ないのである。
2023 7/6
◎ 日本の形と心
〇 万能風呂敷文化 変幻、敷いて包んで結んで自在
風呂敷は「ひろげる」ものでなく、本来は「敷く」ものである。蒸し風呂、つまりサウナでの尻敷きであったが、いわゆる「湯」の時代になっても、入湯・入浴のさい洗い場に敷いた。湯殿番の女に「お手がつく」といったセクシイな場面にもお役に立っただろうが、浴場が一般のものになり簀の子が用いられ腰掛けも用意されれば、しぜん風呂敷は浴室から脱衣場へ所替えとなって、脱いだ衣類や持ち物を「包み」「結ぶ」ものになって行った。そうなれば人は実用一点張りでは済まさない。用いる人、人の生活感覚つまりはセンスに彩られて、はたらきに幅が出る。趣味の色がつき匂いがつく。「湯」や「浴場」から大きに羽を伸ばして、人と暮らしのあるところ、さまざまに役に立った。実用にもこれほど便利な発明は少ない。「大風呂敷をひろげる」という慣用句がお人柄や人智のの批評語としてまで用いられるほど、なにしろ一切合財を適当に「包んで」しまえる。用のない時はびっくりするほど嵩ばらずに畳んでおける。ひと趣向すればけっこうなお洒落もできる。
敷く、包む、結ぶといった以外に、じつは人は「懸ける」という仕方でものを「覆う」「飾る」習いももってきた。その用に、大昔からわれわれは風呂敷ならぬ袱紗というものを使った。そしてその袱紗でも、やはり敷いたり包んだりしたし、「拭う」ことさえあった。茶の湯の袱紗には、そうしたいろんなはたらきが良く活かされている。
風呂敷よりややハレの面持ちで袱紗は用いられ、風呂敷の方は、もっと日用・日常のいわばケの場面で活躍してきた。それは扇にたいする団扇ににていて、正味のはたらきは大きく広くそして気軽に扱える。外国への旅で、御土産に用意していちばん喜んでもらえる品の一つであり、美術品並みに歓迎される。軽くて、お荷物になる心配がない。しかも織りあり染めあり、大小あり、生地もいろいろ。
風呂敷は日本の歴史を「結ぶ」最良の発明だと言い切っても、「大風呂敷」ではないのである。
2023 7/7
◎ 日本の形と心
〇 由来遙かな畳と襖 日本家屋の嬉しい名脇役
畳や襖を「たたみ」「ふすま」と書き直してみると、漢字慣れして忘れていたことが、また見えてくる。畳は、もとは「たたむ」ものだった。用があって敷き、用がすめば「たたん」で蔵った。蔵っておけた。今日の畳は、むかしは「厚畳(あつじょう)」とわざわざ呼ばれ特別の用途のものだった。ふつうは茣蓙や筵(むしろ)ようの、畳める薄縁(うすべり)がまさに「畳」であった。
敷くと畳むが一対の便利さでむろん包むことも巻くこともできた。その点は風呂敷と似ていたが、さすがに畳のほうが歴史は古い。倭建命が海路の難に遭ったとき、妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が海神をなだめようと畳とともに海に身を投じた話は、絵本でよく読んだ。だが厚畳ではなかった。中世の書院や茶座敷が、かつては玉座などに用いた厚畳を、徐々に一般化していった。庶民の家庭に定着したのは古いことではなかった。
板間に薄縁の畳よりも、はるかに厚畳は暖かく柔らかく快適で、日々の暮らしにはかり知れぬ恩恵と安堵の思いをもたらした。青やかな畳表の香気は、湿潤を吸い騒音も吸い、日本家屋に独特の柔らか味を添えた。その上で寝たりまた死んだりする嬉しさを恵んでくれた。厚畳の普及は、日本の豊かな植生が育んだ國土の恩であることを忘れてはなるまい。
畳と対(つい)になるのは「障子」で、「襖」は広い意味で障子の一種であり、また、壁の変形でもある。障壁なのである。襖を「ふすま」と読み、さらに「衾」と書き換えてみると、寝る、夜具、寝所との深い関わりがすぐに察しられる。繪=障壁畫のある襖の出現と普及も、寺院や宮殿をのぞけば、そう古いものであるわけがない。もともと、衝立や屏風ないしは几帳や衣桁(いこう)で囲った「ふしど」「ふすま」つまり寝所や夜具の意味が、生活上の必然で障子化・障壁化して行き、建築要素のなかでも殊に美しい装飾機能をもつようになった。繪襖もまた無地襖も、畳に映えて美しい。繊細な工藝美の「引手」の意匠も見落とせない。
2023 7/8
* 「小説を書く」「創作に類する文章を書く」微妙さ、容易に判って貰えていない。他の人のことは謂わない、謂えない、が、私に限っていえばその「作・文章」をもう「これまで」と手放す直前まで、何ら極端で無く「句読点」や、「…」「・」「ー」「!」等々にまでまだ決定を慮るのは常のこと。それらのただの一つを容れたり省いたりで「變化」する「何か」を、作家は、私は、いつもしみじみ「実感」している。あらかた書いておけば、アトの「公表や発信」は機械的に人手に委ねるなどということは、ゼッタイにあり得ない。手放す最期の最後の微妙に目を瞑り、人頼み、人任せで「発表・発信」したりは、決してしない・出来ない。作家/文章家の他の誰もが、などとは云わない。「私は」そうである、と謂うこと。
2023 7/8
* なにともなく、なにもかも煮詰まってきたかと感じる。人生の「煮詰まり」とは何か、頼りない、なかみの無い「予感」に左右されることか。想えばあまりに大勢がもう先へ逝ってしまっている。新制中学一年の音楽教科書に「オールド・ブラック・ジョー」が載っていた。音楽の女先生はあれを「通過」され一度も教室で唱わなかった、のに、私はあの歌を独りで覚えた。物思いをする「中学一年生」には「荷物」になった。
2023 7/8
◎ 日本の形と心
〇 お神籤を結んで 神の声を良い方へ聴く
ちょっと自慢させてもらうが、筆者の(当時=)勤務校は、理系の最優秀生をあつめている。その理系学生の何百人もを抱えた教室で、「神(的なモノ)は必要か」と問うと、十人に七人が「必要」と答える。「罰は当たるか」と問うと、やはり十人に七人が「当たる」「当たるべきである」「当たった方がいい」と答える。「頭脳」「心臓」という語のどっちか一方に「こころ」と振り仮名せよと言うと、案に相違し、やはり十人に七人ちかくが「心臓」の方に「こころ」にルビを振ってくる。理系の知識からいえば「頭脳」こそ「こころ」と考えがちであるが、だからこそむしろ「心臓」に「こころ」を感じていたい、感じていると、それが現代から未来へ生きて行く人間の、大切なセンスであると思っているらしいのである。彼等の日々の学習や実験や研究の、精緻に高水準なことはたいへんなものだが、そういう中から、これらの判断や選択が生まれている重みは無視できない。
「お神籤をひくか」とはまだ聞いてみないが、受験前に湯烏の天神さんなどへ参ったという学生はいっぱいいる。「お神籤」はひいていたのである。
「神意に問う」という行為は、「知」という表意・象形文字の根源に刻まれてあることを、もう、われわれは忘れ果てている。「神意を請け」た、つまり「知を授かった」神への感謝の捧げ物、それが「美」という文字の原意であったことは、もっと深く忘却している。知と美の歴史は、じつは「お神籤」に結び龍められていたとさえ譬えられる歴史があるのだ。そして今日われわれは、良い「お神籤」をひいて罰ならぬ好結果に恵まれたなら、ぜひお礼参りをして、即ち、捧げ物の「美」に代わる「お賽銭」などをはずんでいる。 「お神籤」の深い意味は、神と人の意を通わせ、いわば通路(パイプ)となる木の枝に「結ぶ」「結う」かたちを示すことに在る。だてに結ぶわけでなく、それももう意識にはあまり無い。だから気軽にあんなに繁盛するわけで、それも妙におもしろい。
2023 7/9
* 廊下の奥に 仏壇とは謂うまい、正面奥に「秦」両親の佳い写真を懸け、前方に,亡き孫「やす香」が五歳頃の愛らしく玄関外でポーズの写真を中に、右寄りには、妻が描いた生けるごとき亡き「ノコ」の彩色の顔、左寄りには私の目にとめ買ってきた「ネコ・ノコ親子」と觀える・観たい仲良い坐像と、「黒いマゴ」のシッケイしているような小さな愛らしい黒い坐像を置いている。
わたしは、夜中、利尿効果で多いときは五六度も手洗いに起つが、その途中、かならず「秦の父母」に挨拶して語りかけ、また愛らしい「やす香」はじめ猫たちの肖像や彫像とも、きっと「ひとしきり、あれやこれや」話し合うてくる。得がたくなつかしい,胸の熱いいわば「秘密の刻」を喜び楽しんでくる。そしてまた寝床へと戻る。妻は知らない。
2023 7/9
* 何としても永く掛けてきてまだ半ばかと心している新創作の仕上げにこそ邁進しなければ。構想してあるのを、なぞり追っているのではない。作の内から必要としてくる性急を懸命に聴いて追い掛けている。成否の程も判っていない。創造と創意と執筆の混然這うような漸進であるが、怺えて、作の要求に応じて「展開」を追っている。「創る」しんどさを怺えている。
* やすやすと人づきあいし世渡りして行けない男とは、諦めている。くどい、煩いことは疲労の種にこそなれ、そこからモノは生まれ難い。「読み・書き・讀書と創作」と自身納得している中に「話し」ないし「付き合ひ」が脱けている。所詮「人なか」で生きて行きにくい本性のようだ、私は。
2023 7/9
* 晩、九時過ぎ。夕飯後、寝入っていたが、快眠でない。乗り物で帰れない夢、街なかを迷い彷徨う夢、悪意や虐めに遭い続ける夢。ばっかり。心和んで嬉しくて溜らない夢とは奇蹟のていどにしか出逢えない。よくよく私は出来悪の性根なのか。とにかく裳寝入って,夢見て其の爲にさらに疲れるとは情けなくなる。目覚めている間は着る辛さ湯苦しさは感じない、のに、寝入るとサンザンな目に遭う。 目覚めている間は心神を自律できるが、寝入るとどうにも手に負えない
それでも、もう十二時、はや零時へ跨いで、永らく思案に思案してきた小説一つの難所を、やと跨いだか、と思う。がんばった。
2023 7/9
◎ 日本の形と心
〇 着物は遠くなりにけり 生活していた女文化
和服・洋服という。着物と服と、対照的にいうこともある。総称して衣服という。和洋の差はあいまいなようで、常識は確立している。着物ッぽい洋装はある。洋服仕立てにちかい和装も無いわけでない。その辺の事は、あまり気にしないことになって来ている。日本語といいながら、漢語もヨーロッパ語も混じる。字に書けば漢字もかなも横文字も混じる。あまり気にしないで書いたり話したりしている。同じ事情である。食い物も、住まいも、衣服も、そして言葉や文字も、暮らしにだいじなものほど、いろいろに入り交じり交じり便宜にしたがっている。当然のことだろう。
むろん和風・洋風というセンスは、仕分けも見分けも立っている。むしろ、いつでもどこでも、だいじに立てている。たとえば映画は洋服で見に行き、歌舞伎座へは着物で行くといったぐあいに楽しんでいる。日本人は、外來の文物を咀嚼の力の旺盛なぶん、そうした和洋の仕分け見分けが豊富に楽しめる。あまりこだわりなく受け入れて行く。
だが、食生活も住環境も変わってきた。畳に座るより出歩いて立ち働いている。ふだんの身働きを着物でできる人はすくなくなった。ただ晴れ着・お洒落着になり、日常生活から遊離してきた。帯も結べずに着物に着られている人、似合わない人の方が多くなった。上村松園描く昭和の戦前・戦中ころの家庭婦人の着物姿をみていると、生活の気稟という、なつかしいものをしみじみと思い出す。
肉体の曲線に添わせて裁断され縫製される洋服とちがって、着物は、直線的に平たく裁縫されたものに肉体の方を添わせ着こなす衣服である。立ち居振舞いに肉体の美をひそませ、秘めた色けを発散するのが着物の魅力になっている。晴れ着でただ澄ましているよりも、立ち働いてからだを動かしているときに、直線の着物がみごとにまるい隠し味を匂わせ、気稟の清質を日常空間ににじみ出させるのである。優れた美人畫はそれを描いたのである。
2023 7/10
◎ 日本の形と心
〇 鹿おどし=添水 必要が生んだ水と竹と石の合奏
澄んでかたい佳い音が響く。視線を送ってみると、前栽にかくれ、切り口も美しい青竹が、落ちる清水をいましも潔く含んでいる。溢れるかと観るまに水の重みで竹は傾き、ざあっと水を吐く。軽くなった受け口はたかくはね、反動で竹筒の尻が岩を打つのだ、カーンと。と、もう竹は顔をあげ、新たな清水を口いっぱいに呑んでいる…。やがて、また、カーン…。風情を知る人のいかにも趣向の仕掛けで、「鹿おどし」と書いて「しし威し」と訓んでいる。俊寛僧都の別業が「鹿谷(ししがたに)」あって平家物語に名高いように、訓みは間違いではないが、昔の辞書に「ししおどし」は無「しかおどし」で、それも、今言ったような鳴り物の仕掛けだけに限らず、慶事をさまたげ、安眠をさまたげるたぐいの、鳥や獣を逐い払う、いろんな工夫や仕掛けの総称であった。私などは、ここにいう「鹿おどし」はむしろ「添水(そおづ)」と呼び慣れてきた。僧都ならぬ「そほず」と沸かしに謂ったのは、案山子の呼び名で添水のことではないが、ともに、鳥や獣への「おどし」に相違なかった。
趣味一方の面白い趣向かとみえたものの背後に、久しい人の暮らしの知恵であった道具がよく生かされている。淀の川瀬の水車(みずぐるま)は潅漑にも治水にも役立っていたが、そういう水車が、ギッタン、バッコンと米を搗いていたり、臼をまわして麦を粉に挽いていたりする。風情を求めた面白ずくどころか、生活に必須のたいした発明であった。添水の鹿おどしにしても同じで、あの小気味いい音がただ鳥や獣を威すだけでなく、じつは水のくつがえた反動の力で、あの音を立てる部分に杵を仕組み、「添水唐臼(そおづからうす)」などといって、米などしっかり搗いていたものである。水の走る力を、ちゃんと日々の為に使っていたのである。竹や木や石と、まさに親しくともに生きていたのである。「形」を愛でるだけでなく、日本の暮らしに生きた自然のメリットへの敬愛を、忘れたくない。
2023 7/11
◎ 日本の形と心
〇 めでたや傘は末広 手放せぬ取り柄のある友
「かさ」には、少なくも傘と笠がある。「きぬがさ」とてもいわれる蓋(かさ)もある。「こうもり」や「蛇の目」などは、傘である。落下傘もかたちが似ている。開いて、さして、雨や雪をふせぐ。さすというのは、物を手で上へさし上げる意味である。かざすとは、まさに「傘さす」ことである。「天蓋」や「おおがさ」のような、長柄の傘をさしかけるのも同じで、そういう役目の者を「おおがさかざし」、平安末期の歌謡などにも歌ってある。国宝の源氏物語絵巻に見える、蓬生の巻の光君も、「おおがさ」に雨を避けながら、従者とともに、今しも末摘花をひさびさに訪れようとしている。長い短いはべつにして傘は取柄の部分が頼りなのである。だが笠にはふつう柄がない。笠はじかに頭にかぶる。陣笠、編笠などそれで、笠は、いわば雨や日ざしを避ける帽子の一種なのだ。
もともと傘や蓋は、法具であり葬具でもあり、必ずしも雨よけではなかったが、笠より余裕のある役に立つ形をしていて、雨具に転じていった。まして、夜目遠目傘の内という。傘のかげでは、ふつうの人も美人らしく、ゆかしく見える。たとえ春雨に濡れて行くにも、傘はたいしたお洒落な小道具になり、粋な意匠とくふうが愛された。実用一点張りではなかった。雨の日だけではない。日傘、繪日傘も、優しくかざすとなかなか佳い。むきだしより、すこしもののかげに入るだけで、色気がにじむ。思案のしどころである。
男でも、けっこう傘の手放せない人がいる。とびきり粋なのは、ご存知、白浪五人男が稲瀬川の土手に勢揃いし、世にもみごとな連ねの名台詞を吐く、アノ場面。大盗ッ人の五つの大傘が、花より華やかに、大向こうを唸らせる。女文化のあざやかな登用である。
傘をささせぬ市街地の設備も増えた。だが傘の用意、無くては済まない。服装が替われば傘の色も柄も形もまだまだ変わる。アメアメ降れ降れの唱歌が、今も、耳の底にある。
2023 7/12
〇 秦先生 メール配信の不具合か、本メールを今日受信しました。(もしかすると、私が見逃がしていたかもしれません)
七夕の日に熱中症とは、 星に思いをといった情熱的な熱を感じることなら雰囲気良いですが、ただただ暑い、というのは本当に気をつけなければなりません。指がじんじん鳴るというのは、重い熱中症(水分不足)かと思われますから、水分補給をこまめに行ってください。
さて、15日の件、了解しました。私の予定表から「省き」ましょう。
ただ、度々お伝えしておりますが、拙宅は秦先生の家から15分の、それこそスープの冷めない距離ですから、秦先生の調子を確認することも兼ねて、電話でご連絡差し上げようかな、とも考えます。私個人は 週末はそれほど忙しい身ではありません。(なら、博士論文書けと言われそうですが) 先週末に庭の葡萄の手入れを終えましたので、今週末は時間が出来ましたし。
先生が自分で「読者へ手渡す」ことに責任一貫持ち、それが「湖の本」として続いてきたことは、私が先生に出会った1992年「冬祭り 全三巻」を発行していた先生56歳の頃から、私自身、理解しているつもりです。また、
「残年」も「体力・余力」ももう少ないと自覚しています。
もう、いつ「終える」か知れません。
だからこそ、自身で、責任をもって努めたいのです。」
と、いう気概も理解しているつもりです。
ただ、それが「「発信」「公開」は他に委ねるという道は行きません。」には直結しない、と考えています。
なぜなら、先生が著作を刊行されていたのは、編集者がおり、発行者がいる、出版という社会でのことでしたし、先生自身、医学書院時代はその編集者であった訳です。
先生は、自身著作のすべてをコントロールしていたとは思いますが、周辺に人が介在していなかったわけではない、と考えます。
(ホームページにも スキャン後未校正のものが多くあります)
ウェブの更新を待っている人がいます。
わずらわしい元学生だな、と思われるかと思いますが、
1991年10月56歳で東工大に着任した秦先生の年齢に あと4年と近づいてきた私が 私なりに大事に人間関係をしてきた その「最も大事な関係の一つ」である秦先生の残年も少ない今に対して、一期一会で向き合いたい、と考えていることも、ご理解いただければ、と思います。
教授室で先生から
「きら星のような太宰賞選考委員の皆さんも含め、私は人間関係は大切にしてきましたよ」と言われたこと、 とても強く憶えております。そういった言葉が私の血肉になっていると再認識することが多くあります。
「お仕着せ(=押し着せ)みたいですみません。
が、それは人間関係を大事にしていることになりませんよ、と、また云われてしまうかもしれませんね。
よろしくお願いします。 櫻
* 感謝 感謝 ありがとう 深切の実意 親身の言葉と胸に響いて入ります。 秦
* 「編集者」という他人手を介さないといわゆる「出版」という関所は、むかし、おそらく今も、通れなかった。確かに私自身関所を守る「代官」であり、また時機を越えては自身「義経」であった。然様の編集者介在の「出版」であれ、今日のようにパソコンでの自身「発信」の創作や著作であれ、「手渡し」また自身「発信」ギリギリの間際まで、著者は(誰元など広げはしませんが)、私は、「句読点」の一つにさえ、「ウツ・トル」「何処・此処・其処」の仕上げに「腐心・執着・苦慮」するのです、(たとえ後日に校正という機械があると判っていても、です。)
むかし原稿用紙で脱稿の時代の私の「原稿」の蜘蛛の巣の乱れのような「手入れ」の凄みは、一つには「嗤い草」ですら有ったでしょうが、「私」という作者・著者には原稿は呼吸遣い微妙な生きもので、よく活かせるのうりをくこそが「才能」と心得ていました、だから、今も最期の最後まで自身の文章・創作に執着して「、」「。」の位置や数にも気を遣うのです。「ソコ、の、トコロ」は安易に人任せし難いのです。一種の「アホウ」なんです、が。最後の「発信」まで自身納得の作業が出来る(らしい)『ホームベージ発信』に私がしつこく願いを託するのは、それ故です。
いつも 櫻くんに逢いたい、話したい、昔のように歓談したいと願ってます。金曜の治療の日ガ「無事」に通過できて、週末に顔が観られればとは,今も思っています。もとより家内の健康もとても無視できない「老耄夫婦」なんですが。 秦
2023 7/12
◎ 日本の形と心
〇 燈籠の美しい畏れ 籠でなく燈が主役の祈り
恋しい新三郎のもとへ、夜な夜なおぼつかない足元を照らして幽霊のお露主従が手にしていたのは、牡丹燈籠。あの場合はいわば提燈として使われていたが、出どころは墓場だった。燈籠は、もともと、ただの照明具ではなかった。神仏にささげた御明(みあか)り・御明しの燈明を、囲い、飾るものであった。その場合の「燈(ひ)」とは、霊魂や神・仏を待ち迎える導きであり、歓迎のしるしであり、同時に、訪れ来たまさに霊魂や神・仏の実在を、人の思いに印象づけるシンボルでもあった。神事・法事の席に、またお寺や、ことに神社に燈籠の多いのは、美しい燈籠の多いのには、そういう意味がある。ただの照明ではなかった。燈籠は、必ずしも現世の人の用をなすのが本来ではなかった。石燈籠も提燈も、たとえば「雨傘」と同じく、むしろ後発の、人くさい巧みな転用例であった。
私が育った京都では、祇園の近くでは、盆が来ると、町内のどの家の軒先にも、めいめい趣向の繪やことばを描いた掛け燈籠が掛かる。夏のみものの風物詩であった。一つ一つ楽しんで観て歩いた。それも、やはり魂(たま)迎えであった。
やがて地蔵盆の夜になると、道路の高くに夢みるような淡い色合いの、大きな大きな、木と紙との飾り燈籠が掛けられ、その下で夜更けまで盆踊りを踊ったのも、やはり、ただ人の楽しみというだけではなかった。無意識に子供も大人も、そんなときには死者の霊を慰めているという思いを抱いていた。日本人の信仰の根もと、足もとを、燈籠はいつもほのかに照らしてきたのである。
燈籠にはさまざまな形が工夫されてきた。しぜん美術として章に耐える遺品も多い。萬燈会(まんとうえ)のように、おびただしい数の燈籠に一斉に燈を入れて、幻想的に現世と他界との境を溶かしてしまうような行事も、春日大社をはじめとして、各地にのこされている。
燈籠をただ照明具と観るだけの感性では、日本の心と形を、未来へ生かすことは難しい。
2023 7/13
◎ 日本の形と心
〇 橋を架けて 愛と夢との歴史が渡る
人はどのように「生まれて」来るのだろう。たとえば広い広い海に無数の島がちらばっている。島には人影が見え、しかしその島は、人ひとりの両足をのせるだけの広さしかない。人は「海」という世間のそのような島に、あたかも投げ出されるようにこの世に「生まれて」来る孤独に孤立した存在なのである。島から島へ「橋」は架かっていないのである。寂しい世界である。寂しさに堪えかねて人は島から島へ呼びかわしている。愛を求めている。あげく、一人しか立てないはずの島に、いつか二人で、三人で、十人で、二十人で立っていることに気がつく。愛が実現したのであるが、もとより、それは錯覚なのである。しかし貴重で必要な尊い錯覚である。この錯覚をもてるかもてないか、それはある意味で人が人へ、人が物へ、人が時代や歴史や他界へ、「橋」を架けながら付き合って行けるかどうかの大きな分かれになる。人は架からぬはずの「橋」を架け続けて生きて来た。歴史を創って来たのである。
「橋」の来歴は古い。おそらく人類という生物が地上にあらわれたと同時に、もう「橋」は架けられはじめただろう。心の通うコミュニケーションという「橋」もあり、蔓や蔦葛(つたかづら)の掛橋も、丸木を渡した橋も、飛石を渡る橋も、いつか吊り橋も反り橋も撥ね橋もできて、そして今やハイテクの粋といえるみごとに美しい橋が架けられた。太陽系をさぐる衛星も、ある意味で人が架けている「夢の浮橋」と言えなくもない、その意味をときどき真剣に考えてみるのは大事なことではなかろうか。人間のかぎりなく見る「夢」が、そもそも未来へ、未知へ架け渡す「橋」なのだ。
それにしても美しい「橋」は古今東西無数に在り、これぐらい数多い美術的また生活上の成果は他に無いかもしれない。山奥に、名勝に、都市に、海に、そして故郷に。選ぶなんて、とても出来ない。
2023 7/14
◎ 日本の形と心
〇 坪庭の壺が可愛や 家庭が抱きしめた家の庭
広い屋敷内に内々の墓所を築いた例がむかしにはいくらもあった。墓はなるべく遠方にという思想と身近にというのとが、死にかかわる態度として揺れ易かったのは当然で、埋め墓と参り墓との二墓制も生じたが、愛したものの死をそう遠のけてしまいたくないという実感は、だれにもある。漱石の猫しかり、可愛がったペットの死を庭の片隅に、などという例も多い。もともと庭は、生死和合の半他界的な意味あいを添えられていて、例えば親の子に示す指導や助言を庭訓というときにも、ただ親でなく、親のことばに祖先の導きも加わっているぞといった双方の実感が尊まれていた。庭に豊かに木々を育ませるのも、それが青山(せいざん)という奥津城つまり墓所・墓地の意味にも通じてきた証拠で、たんに園藝趣味ではなかった。庭作りには墓作りの精神が龍もっていた。家庭というプライベートなことばにも、だからなおさら庭のいわば生者死者あい寄った家族的親密の享受が期待されている。
そんな家の庭のなかでも、ほぼ四面を家屋や生け垣、築山、塀などに囲まれてごく小さく設けられた場所を「つぼ」「つぼには」と呼び、ひとしお静かに懐かしい家の庭と愛してきた。それがいわば家の女主人や女人たちのあたかも所有であったことは、源氏物語に桐壷、藤壷などという名乗りが、女身の秘め持つ「つぼ」の名に借りていることでも明らかである。「つぼ」には「つぼみ」
のように小さく愛らしくとじて、内に花ひらく可能性を秘めた魅力が意味されている。「つぼい」という中世語が、身をよじるほどの可愛さを感じながら、少女や、また少年のまだ女にも男にもならない女や男そのものを見ていたのは間違いない。「つぼね」という女の部屋やその女主人をさすことばにも、部屋や付属の坪庭の小ささ、やさしさとともに女の魅力が謂われている。寺院などの坪だけがつぼではなく、本来は「坪庭」こそが親密な「家庭」のエッセンスであった。
2023 7/15
◎ 日本の形と心
〇 散髪とおかっぱ 藝人ほど髪をいしせってきた歴史
髪が濃いといえばふさふさと豊富なことをいう。色のことではない。坊さんのように髪のないのも、一種の髪型といっていい。髪は烏の濡れ羽色はよく分かるが、緑の黒髪となると割り切れない。うまい説明がない。いずれにせよ髪型ではない。乱れ髪、寝くたれ髪も髪型とはいえまいが、散髪、ザンギリは、新時代を象徴しえたりっぱに新髪型だった。尼さんやおばあさんの切り髪が、形を整え、いつしか少女のおかっぱに変わってきたのも面白い。どの辺で切りそろえたかで、年齢や色気がちかって見えるのも切り髪の面白さで、古今東西、基本の髪型は切り髪だった。その長いのを髷にあげたり巻いたり結ったりしてきた。髪飾りも付随して生まれた。
ただし女だけが髪型をもっていたのではない。ちょんまげも、さかやきを剃るのも剃らないのも、総髪も、ザンギリも、お相撲さんの大髻(おおたぶさ)も、男の歴史をもっている。神代や埴輪の昔の、みづらに結った男の髪も懐かしい。
髪との付き合いは日常のもので、だが、晴れの場合にはまず髪を調える。髪結いさん、散髪屋さんのような商売や職業は、早くから必要不可欠だった。江戸ともなれば髪結新三のような職人が、いろんな家庭の奥まで出入りしていたし、文七元結の噺のように、髪を結うための元結を売るだけのお店が出せた。かと言って珍な髪型を競ったのではない。
髪型の珍なのは、遊び女、歌ひ女、浮かれ女のような妓女・楽女の特殊に囲われた社会で発達した。歌舞伎の舞台、廓の中、また神事藝能の相撲社会など、みな同じ「遊び」の根をもっていた。ふつうの世間で日々尋常に生きている男女は、おおかた変わり映えしない堅実な髪型をしていた。今日のサラリーマン男性の一律な頭を見ていると、それがいやほど分かる。珍にごたついた髪型を、わたしなどは面白いと思ったことがない。髪は清潔でかすかに香ったのがよろしく、ふつうの人は髪型などに奔命しないものだ。 (了)
2023 7/16
◎ 私・秦 恒平 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇『古事記』 次田潤 現代語訳
昭和十八年初春、京都市立有済国民学校の二年生へ進級前の春休みに、一年時担任・吉村玉野先生を木津川畔のご自宅にはるばる訪れての帰りぎわ、「お土産」に戴く。ことに國産みに肇まり神武天皇の東征と即位にいたる「神話」期全文を「暗誦」したほど読みに読み、読み尽くし、教室で、「前(教壇)に出てお話の出来る人」と先生に需められるつど、率先、日本の「神々が活躍」の幾場面をも「お話し」していた。
幼稚園での「キンダーブック」などモノの數でなく、「文学」へ歩み始めた第一歩の「愛読」「愛読書」だった。今も手もとに在る。
2023 7/17
* 「口癖」のように自身の日々を「読み(調べ読み)・書き(私語の刻)・讀書と創作」と謂うている。ほぼ言い尽くせている。娯楽や慰安は、ま、テレビで映画(「ホビットの冒険」や「剣客商売」など)、そして(在れば「酒」とか)。「讀書」なくては、生きた心地がしまい、これはもう幼少來の姑癖に
当たる。枕元には日々に読み継いで手放せない本が何冊も並び、積まれている。「積ん讀」では無い。今ぶん…
日本文学 「源氏物語 少女」 「参考源平盛衰記 巻二十一」 藤村「新生」 秋聲「あらくれ」「新世帯」 坪谷善四郎「明治歴史 下巻」越
中国文学 「四書講義下巻 孟子」 「聊齊志異」 「水滸伝」 「遊仙窟」 文彦「主演女優」 西欧文学 ホメロスの神話 ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」 トールキン「ホビットの冒険」ま、穏健な楽しみようであろう。勉強に類するのは「孟子」と「名詞維新 下巻」くらい。
* 午後三時。本を読んでは寝入り、また読んで。是を休息の休憩のと謂うのは当たらない。心神に活気の無いままヘバって居るだけのこと。情けない。それても手に執るどの一冊とてみな選り抜きで、魅される満足には不足は無い。秦の父長治郎は、本というモノを手に読んでいたことが無い。一度も観た覚えが無い。あ、それは謂いすぎで、この父は能舞台の観世流地謡にかりださるほどに謡曲がたくさん謡えた、私にも一時期教えようとしてくれた。
叔母つる(茶名宗陽 華名玉月)父の妹は、師匠という仕事がら茶道誌「淡交」は講読していたし、若い頃は婦人雑誌もみていたようだが、所詮は読書に気が無かった。
秦の母たかは、手近に,小説本が在りさえすれば喜んで読んだが、そんな本のまるで無い家で、わたしは少年の頃から「本」は買う物でなく他家他人に借りて読むモノと思っていた。自前で本を買い始めたのは、中学を終える頃に「徒然草」「平家物語」がはやく、谷崎本へひろげた。『細雪』一冊本を奮発したときは、秦の母は喜んで読んで「ええなあ」と共感を示してくれた。嬉しかった。
* ところが秦の祖父鶴吉は途方も無く蔵書家、それも大方が漢籍、史書、古典、事典・辭典か、私もお世話になった山縣有朋の『椿山集』や成島柳北の『柳北全集』あるいは「神皇正統記」や「史記列伝」や「唐詩選」や「十八史略」や「四書講義」や「老子」「莊子」「孟子」や「唐詩選」「白楽天詩集」等々信じがたい名著が押し入れの奥の長持ちや、たんすに犇めき遺されていた。私は、全面的に是等書物の「文化」に薫染されて黙々と成人した、いや念願の小説家・作家に成れた。小説の処女作は『或る折臂翁』それは白楽天の長詩『新豊折臂翁』に想をを得ていた。
不思議なモノだ、「人生」は。
2023 7/17
* 24時間の17、8時間を床に就いた暮らしとなっている。暑いなかで、ゾワゾワ、ゾクゾク寒けしたり、水洟をかみ続けたり。宜しくない。緊要の仕事としては、八部方書き進んでいる永い小説の推敲と進捗を一に手懸けている。この脱稿に望みをかけている。「湖の本 165」入稿を当然用意して居るが、これへ長い新作が宛て得れば気がいいのだ、が。
* メールのやりとり意欲か、意志か、が逓減しているのではないか。わたしも送らない、が、送ってくる人も減ったと思う。精神を細切れにまき散らすより、我独りの「ことば」「こころ」を養う姿勢へ戻れること、大事に思う。つまりは「私語の刻」をむしろ豊かに深めては、と。
2023 7/17
◎ 私・秦 恒平 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇『百人一首歌留多』 秦家所蔵
〇『百人一首一夕話』 祖父秦鶴吉蔵書
私(戸籍名吉岡恒平・昭和十年冬至に生まれ)が、京都市東山区新門前通仲之町の秦家(ハタラジオ店)へ貰われ、ないしは預けられた三、四歳の当時から、上に謂う「歌留多」は、購読家庭へ新聞社が配った「景品」であったらしい、家の、中三畳間押入れに「筺」入りで置いてあった。秦の祖父、両親、父の妹ら大人は誰一人見向きもしてなかった。「(和歌一首と歌人名の)読み札、(和歌下句の)取り札」とも、漢字かな入り交って流麗の行書で書かれ、「読み札」の「歌人たち百人」は、男女僧俗ともまこと気ままな衣服・姿勢・情景で、「人柄」までも特色豊かな肖像として「彩画」されていた。国民学校一。二年生の頃から気ままに一枚一枚手にして見飽かず、年がら年中私は好き勝手に愛玩し、疊に撒いては独りで読み上げ独りで「はい」と採って、「うた」も「ひとの名」も、行書の漢字・変態のかな文字も、自然とまるのみに「覚え」て行った。昭和の大戦も始まっていた、そんな国民学校一、二年生ごろから、毎晩「強いられる早寝」に添い寝してくれた叔母「つる(茶名裏千家宗陽・華名遠州流玉月)」から、「日本の國」には古來「和歌・五七五七七」「俳句・五七五」という述懐の道があって、「誰にかて創れるのえ」と教えられた。私には途方もなく大きな示唆と教育とであった、いま「やそしち」の爺になるまで生涯の、私への實に立派な「知の宝」となったのである。ちなみに読み札に描かれた歌人らの「絵像」では、大火鉢を胡座に独り抱きこんで歌を思案らしい「皇太后宮大夫俊成」や、素晴らしい黒髪を疊に這わせて長け高う起った待賢門院堀河の美貌を贔屓した。色美しい軽妙な雅致の故に「百人」の「歌」も「名乗り」もしっかり覚えた。
〇 謂うまでもない、祖父秦鶴吉がしまい込んでいた『百人一首一夕話』が、歌や人の逸話などをたくさん識って覚えるにつれ、私には「平安の歴史」も「百人」とりどりの逸話や奇癖などまで「記憶」されていった。日本の「歴史」「文化」への親愛がそのまま、「学ぶ」と謂うより「息を吸う」かのように私の「文学愛」を美しくしてくれた。
祖父鶴吉のタンスや長持に詰め込まれ、もはや放置されていた各種の「蔵書」には源氏物語を説いた『湖月抄』全三巻も賀茂真淵講義の『古今和歌集』も、老荘韓非子も『唐詩選』も漢・和・英の大事典や通俗生活宝典も、『神皇正統記』や『日本外史』や浩瀚な坪谷善四郎著『明治歴史』上下や、さらには「通信教育の各種教本」もあり、汽車を利用の『日本全国旅行案内』なども、なにもかも目まぐるしいまで多く遺されていた、だが、いわゆる「小説」本は、只の一冊も無かったし、それらの本を手にしている大人は、当の祖父もふくめ、父も母も叔母も、少なくも幼い私の目には、手も触れていなかった。わたくしがそれらの「本」にしがみつくように夢中でも大人は誰も、関心すら持たなかった、父が「目をわるくする」とだけ注意してくれた。たしかに、私の眼鏡の最初は国民學校二年生に上がるとき。あんまり可哀想と大人の方ではずして呉れたが、五六年生からまた眼鏡に成り、今日に到っている。
2023 7/18
◎ 私・秦 恒平 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇『阿若丸・萬壽姫』 講談社絵本 借用)
講談社絵本というのは、わが幼少、大方は幼稚園から国民学校一年生までの「圧倒的な存在」で、大判各ページの繪に、何にでも恐がりな私は、掌で眼を蔽いながら指の隙間から繪をこわごわ点検のあとで、字の方を読んだ。「字や文を読むには、幼稚園以来母や叔母の「婦人倶楽部」ていどなら何の苦労もなかったが、こわい「おはなし」には文字どおり辟易し、萎縮した。どんな話材に縮かんだか、「子が親に別れてしまう」噺が一等こわかった。「囚われ」の父をもとめ、丈高い竹によじ登ってその撓いに頼んで父のもとへ密かに尋ね行く「阿若丸(くまわかまる)」や、やはり土牢に囚われたたしか母の唐糸を尋ねて偲び忍び近づく「萬壽姫」のおはなしに戦いたり、つまりは「怖い、怖ろしい、悲しい」ことの大方をわたしは、何より早く、先ず「講談社絵本」で体感し実感したのだった。
わたしは幼年來、いわゆる「漫画」を軽蔑し、めったに受け容れなかったが、「ノラクロ」と、すこしおそくに「長靴三銃士」だけは受け容れて,機会あれば何度でも読んだ。前者はユーモラスに軽妙な繪に、後者は「怕いような繪とおはなし」に惹かれたのだろう。こま漫画の「フクちゃん」にも軽く軽くいつも共感できたが、しかし要するに「漫画」「つまらん」と自身諒解していた。「猿蟹合戦」や「桃太郎」などの絵本は一瞥払いのけていた。
* 今、この「私語」を、真夜中の一時半に書いている。床に就いても實に孤独に寂しく、とても寝付かれない。「やそしち爺」にもなり、まだ幼稚園前の昔に養なった「感じやすい」孤独感が生き存えているのだナ。「萬壽姫」や「阿若丸」に悲しみ歎きながら、わたしは、しかも「生まれながらに肉親を知らない、喪っている」という実感を、まるで「個性」のように見誤って蓄え育てていた、きた、のだ。結果、どうしても肉親、血縁に親しみ愛する励みが私に無い。とてもさびしいけれども、無い。そのお蔭でわが子にも背き叛かれる。
眞の「みうち」は「世間の他人」から見つけるしか無いと、わたしは、「今日只今」でも実感している。「眞の身内」と眞実愛した、血縁など無かった数少ない生涯の「人たち」を、いまも、どんなに恋しく慕い愛し親しんでいることか。だが、そのような人らの大方は、もう「天」にいて、そして呼び掛けてくれる。「行くよ」「もうすぐ行くよ」と黙語している、今も。
* 終夜 寝なかった。眠るのが、肝に障るほどイヤだった。本も読んだが、読んでなくても茫然としたまま、頑固に寝入らなかった。要するに生気を失っていた、六時十分、今も、だ。
いい爺が何に抗がうのだろう、目玉も痛いほど疲れ切りながら。
2023 7/19
◎ 私・秦 恒平 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇『日本國史』 通信教育教科書 秦家架蔵
単行書籍ではなかった、印刷の書き物を一冊にきちんと束ね 質素な紙表紙で和綴じし、題字に「日本国史」とだけ。部厚かった。他にも二三冊、算数や理科っぽいのもあったが、幼い私、国民学校の二、三年生には断乎として『日本国史』でなければならなかった。
「通信教育」というレベルを読み取れるチカラは幼少には無く、とにかくも「日本国史が、オチなく神代から明治まで読めた」のだから断然惹きつけられ、戦中・戦後も六年生まで、まさしく「緯編三度びも五度びも絶つ」ほど重宝して愛読を重ね、しかとする「日
本史」覚え、記憶した。他に小説本など、欲しくも秦家には一冊も無かった。「通信教育」という制度について私は殆ど知識が無い、家にこんな「本」が在る、在った、それだけのこと、祖父か、父か、まさか叔母であるまいが、そんな詮索には無関心、ただもう私の手に「日本歴史」と題された掌に重いほど堂々の(当時幼少の私から見れば)、大人の爲の「教科書」が存在して、どう捲ろうが読もうが脇から抑えるような大人は、コソともヒソともいなかった。有難く嬉しく、こんなに面白い本は、例の一年生を終えて担任の女先生に戴いた例の口語訳『古事記』だけ。まさしく此の通信教育『日本国史』は『古事記』の尻へ密接に継続していたのだった。
論著でなく、誰の選定ともしれない「教科書」なのが「良かったなあ」と、いまも思う。
さすがに、此の假綴じなみの教科書「日本國史」、机辺にもう残存しない。
2023 7/20
◎ 私・秦 恒平 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇『日用百科寶典』 文学士 玉木崑山・閲 小林鶯里・編
東京 尚榮堂藏 明治三九年八月 編纂者 小林鶯里自序
凡例 巻中を類別して左の二十類とす
國體及皇室 教育 宗教 文學 國文及國語 英文法 歴史 地理 法制 經濟 社會 科學 数學 商業交通 農工藝 軍事 生理衛生 家政 音楽遊戯 雑
日用百科寶典索引 (秦註 今日で謂う「目次」の極く詳細な「一覧」で全冊の 内容が、一覧できる。 )
〇 明治二年生まれの秦の祖父鶴吉は 少なくも人生半ばには「餅つき」を業に京風に謂うと「かき餅」「煎餅」等を波座のような劇場や寄席などに卸していたときいたが、その方面のことはまったく私は知らない、ただ、驚嘆に値して大事典,大辭典、英和辞典、大部の古典に類する漢籍を愕くほど多彩多数所蔵して、欠か此の私への事実上の遺産にしてくれた。知る限り祖父には男子長治郎、女子つるがあり、長治郎に妻たか(福田氏)を娶れて、「もらひ子」の私恒平の養父母であったが、知るかぎり指一本触れずメモ呉れていなかった。祖父は幼い私が蔵書に興味や関心をもち手当たり次第に疊へ持ち出すのをむしろ黙認して一度も𠮟らなかった、私も幼稚園を出る頃露から持つも重いほどの祖父の本で「城」を創るようにし頁も繰っていた、「読めない」のに。そしてだんだんに「読めそうなモノ」を見つけては「私有」意識で障りつづけた。
『白楽天』の漢詩集や『日本国史』『百人一首一夕話』に早くとりついた。『神皇正統記』に魅され、『啓蒙日本外史』を大声で読み出した。「歴史と詩歌」から私は書物の世界へ潜り込んだ。白楽天を知らねば文学の処女作に『或る折臂翁』の生まれ出るよすがは無かったのだ。
だが、祖父の本には通俗の『日本旅行案内』や『日用百科寶典』などがあり、ことに此の後者は吾が雑学の「宝典」となって呉れた。「一〇八四」頁もの大冊に、「此の世の、ありとある雑知識」が整然と犇めき集うていた。上にその収録範囲を凡例という目次概要で示した。昭和十年末(一九三五)に生まれ素だった幼少の私にはしびれるほどの世界知識の宝庫まさに雑学の「寶典」であった。「国軆及皇室」についで四番目に他の大奥に先立ち『文学』という大きな見出しが来る、その物言わぬ鼓舞と共感が無くてわたくしが、漢字やかなや和歌や古典や小説や能や歌舞伎に早々にも興味を持ち得たろうか、あり得ない。
次いでは「歴史」にそして「地理」に惹き込まれた。「九」州「四国」とは何故か、越「前」「中」「後」とは何故か。京都はなぜ「山背」で大阪はなぜ「浪速・浪花・難波」なのか。退屈な゛してられなかった。
想い出す、春夏の野球大会を識る歳になって、出場する中学や商工業校のなのっている「地域名」を昔の地理地図に即してひろびろと覚えていった。
それはたんに知識で無い,それ以上に「面白うて堪らん」かったのだ、山の名、川の名、海棠の名等々、もう今では何割とも憶えず忘れているが。「尚榮堂」とかの『日用百科寶典』に私は幼少を培い鍛えられたのだ。
2023 7/21
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『選註・白楽天詩集』 國分青厓閲 井土霊山選 秦の祖父鶴吉旧蔵
崇文館 明治四十三年八月廿五日 四版 定価六五錢
よく校閲された「漢詩集」は漢字に惹かれる少年なら、難なく惹き込まれ繰り返し親しめる。この詩集は戦時戦後暫く、一緒に疎開していた丹波の山中へも秦の祖父鶴吉が手放してなかったのを、昭和二十一年二月末祖父の死去以降私が愛翫の一冊となった、版型は袖珍と謂うのか、いわゆる文庫本より一回り以上も小ぶり、三三八頁もある。私も古典的な日本人の血をけているということか、平安時代にはいわば第一等の教養として、紫式部や清少納言のような女流にも日々に愛読されていた「白楽天」の名声に惹かれていた、それにつれ、やはり祖父蔵書の『唐詩選』酢冊などもしばしば手にしていた,味わえずとも空は少年にも「読めた」本であった。
ことに此の青厓閲、靈山選の一冊中いち早く深く感化され繰り替えし読んだ作は「七言古詩」と分類されていた反戦詩「新豊折臂翁」で、この詩こそが後年の「作家・秦恒平」処女作『或る説臂翁』を惹き出してくれた。いろいろに繰り返しこの反戦詩や白楽天に触れてはかたってきたので、繰り返さない。「漢文」は容易に読めなくても「漢詩」には小学校の少年でもよほど難なく親しめ、むろん良き「選」と「閲」あればこそだが。
2023 7/22
〇 鴉に 何やらよく分からないような梅雨明けでしたが、夏本番でしょうか。今年は京都にも行けないまま、あまり外出もしないで日々が過ぎていきます。
夜十分にお休みになれないご様子、とても気に懸かります。お二人の暮らしに是非とも公共の介助が必要かと。それが実現できないのでしょうか。以前問い合わせをなさったか、定かでないのですが、改めて再度相談・申請をされた方が良いと思います。或いは民間のサポート体制を探すことも考えられます。どうぞどうぞ速やかに解決されますよう。
藤村の『新生』一部を読み終えました。これから「岸本」が日本に帰国する二部になります。鴉は『新生』に「しみじみと魅されてます。」と書かれていました。女のわたしはやはりどうしても岸本、つまり「藤村」を肯定できませんでした。「書く」ことの重さをどんなに考えても。節子はさぞや大変な生涯だったろうと思います。そのことと文学としての価値はまた別ですが、様々な面から考えることは必要です。今日的な問題でもあるはずですから。
繰り返し、眠れる時間にゆっくり身体を休めてください。眠れなくても横になっていることで幾らか休めます。眠ること、食べること、とてもとても大事です。
「近年では際立って長い小説をまだ書き継いで・・」とあり、「日々が滅入るほどシンドイ」とも。それでも「鴉は書く、それは生きている証」です。遠くからエールを送ります。 尾張の鳶
* 藤村への「しみじみ」は、かなりきつい批判をも籠めています。
藤村には「見る」「して見る」「見て見る」「聴いて見る」「書いて見る」等々の、よほど「くさみ」の表情や語調や態度が、「述懐」として臆面なく頻出することに、「やめてよ」とボヤキたくなる。
谷崎潤一郎が藤村「嫌い」を公言にちかく漏らし、、松子夫人と飲食の愉しみを交わした二度三度にも、谷崎先生の藤村に触れたソレへ、私は同感しつつ聴きも言い添えもして、同じ非難の感触を云い合い、同感し合ったのを覚えています。
私自身は、しかし、藤村の本領ににケチをつけるどころか、太宰賞受賞時の記者会見で「敬愛の作家は」と聴かれた際も言下に「藤村・漱石・潤一郎」と答えてどよめかせた本人です。
こと『新生』の姪「節子」に関わる藤村が「分がわるい」どころでないのは当然ですが、節子との事件そのことよりも、作品『新生』について謂うなら、藤村の「語り口」、それにくっついての述懐や文章表現の「くさみ」が、より厭わしいのです。が、しかし「コレ」は別の機会に云いましょう。
「若菜集」「破戒」「家」等々から、超大作「夜明け前」に到達した島崎藤村は、やはり果然として、大きい。文壇へ登場の先後もありますが、わたしが、漱石、潤一郎の上に,先に、「藤村」と挙げている気持には、やはり大きな尊敬が働いています。
藤村への「しみじみ」は、かなりきつい批判を籠めています。藤村には「見る」「して見る」「見て見る」「聴いて見る」「書いて見る」等々のよほどくさみの表情や語調や態度が臆面なく頻出することに、「やめてよ」とボヤキたくなる。谷崎潤一郎が藤村「嫌い」を公言にちかく漏らし、私の、松子夫人と飲食の愉しみを交わした二度三度にも、谷崎先生の藤村に触れたソレを聴いたし、奥さんも私も同じ感触を云い合い、同感し合ったのを覚えている。
私自身は藤村の本領ににケチをつけるどころか、受賞時の記者会見で「敬愛の作家は」と聴かれ言下に「藤村・漱石・潤一郎」と答えどよめかせた本人です。
こと『新生』に関しての藤村のはいわゆる「分がわるい」のは当然だが、わたしは節子事件そのものよりも、作品昨『新生』について謂うなら、藤村の「語り口」、それにくっついての述懐や文章表現の「くさみ」が、より厭わしい。が、コレは別の機会に云おう。「若菜集」「破戒」「家」等々から超大作「夜明け前」に到達した島崎藤村は、大きい。文壇への登場の先後もあるが、わたしが漱石、潤一郎の上に,先に藤村と挙げている気持には、やはり大きな尊敬が働いている。
2023 7/22
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『歌舞伎と近代演劇論』 伊藤鶴松著
株式会社 文献書院 大正十三年十二月十五日發行 貳圓八拾錢
私が此の本の家に,京市市内の養家秦家に「在る」と手にもし現認したのは戰時末国民学校四年生で丹波の山中へ疎開するより以前であったけれど、「手」にし内容に「小年の私」なりにれまた拾い読みつつ、我が国に「歌舞伎」という芝居が江戸時代早くから在ったと、近松門左衛門の名や『国性爺合戦』などという芝居が観客を集めたなどとかすかに知った、認知したのは敗戦後も一年余してやっと京都の我が家へ帰還しての後であった、小学校、六年生になったかその寸前かの頃だったのは間違いない、祖父鶴吉は新門前の家で亡くなり間もなかったが、その事実は私を一入熱中して祖父蔵書の様々へアクティヴに手も目も触れていったノへ繋がる。此の装幀堅固に400頁に及ぶ「大人の本」へ「我がもの顔」に手を出した、背を押されたその動機は、結句、書中ふんだんに活字は小さくしながら選抜紹介されていた「歌舞伎という芝居」のいわば「粗筋や長科白や、作者や役者の名」に、面白く、興深く、好き放題に拾い読みが出来たからだ。小一年とせぬまに小学校六年生は、弁慶・富樫の「勧進帳」も小岩さんの「四谷怪談」もお軽勘平の「仮名手本忠臣蔵」も「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」も「五大力戀緘(ごだいりきこひのふうじめ)」も「與話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)」のお冨与三郎も、さらに数々もの粗筋・名科白(めいぜりふ)等々、純不同に片端から声高に読み囓り続けた。團菊左や歌右衛門、梅玉、勘三郎、芝翫など役者たちの名も多数「聞き囓」った。どんな小説本よりもこの「歌舞伎概説」のお堅い本がおもしろかった。それが主の「論」に類する文章は失敬し、ましてまた沙翁のイプセンのといった西洋の演劇概論は、ハナから敬遠・無視・割愛した。本文の大きい活字でな亡く、小さな字に落としてくりひろげてある歌舞伎芝居の粗筋や名科白だけが狙い目で繰り返し読んでいた。や
このお堅そうな一冊から「小学六年の私」がいかに短期間に多彩な「別世界日本」といえる文化の「ご馳走」にありついていたか、もう贅言は弄すまい。
2023 7/23
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『源氏物語 与謝野晶子現代語訳』 函入り豪華二巻 繰返し「拝借」
版元等の記憶が無い。後年、ナミの箱入一冊本が中央公論社から出たのは、 自身で買って、今も所持。
〇 私の育てられた京都市東山区新門前通りと同じ有済小学区に、藏が建ち「根生いの分限者」と子供心に想っていた「林家」の本家、そして分家三軒ほどが古門前通りに居並んでいた。同じ小学校に通った先輩女子が二人、同年女子が一人猪、固より顔見知り、そして時期こそ少しずつズレていたが三人倶に秦の叔母(茶の裏千家宗陽、花の遠州流玉月)の稽古場へ稽古日ごとに通ってきて、私も小学校六年になるならずから、三人のそれぞれと親しく顔を合わせていたが、いっとう年嵩な、つまりは小学校の「先輩」に当たる本家の人が、或る日、「お藏」から出たような豪華な箱入り、豪華な装幀造本の『与謝野晶子現代語譯』を稽古場へ持ち運んでくれて,私に、「お読みやす」と。
私の「文學」生涯で『源氏物語』が占めてきた重みは、云うまでも無いあらゆる他の和漢洋の文学作品を高く越えた「上」に在る。その贅沢に創られた豪華本をいかに繰り返し熱烈に愛読したか、そんな容態はむろんフィクションながら私の小説『或る雲隠れ考』の冒頭に、熱っぽく書かれてある。「与謝野晶子」の名も業績も、前にも謂う『小倉百人一首』で育った私は、すでに敬意と関心とで覚えていたから、この『現代語譯 源氏物語』がいかにみりょくであったか、謂うまでもない。年齢で謂うと、新聞に丁度谷崎潤一郎の『少將滋幹の母』連載の初め頃、戦後の新制中学に進学前後であったろう。私は言辞もの゛足り世界につながり合うようにして『谷崎潤一郎』世界へも俄然熱到していった。「源氏物語世界」を識らないままいたなら、私の青春もその後の文学上の感性もまったく大違いであったろうと、懐かしい叔母の稽古場、懐かしい林家の先輩、懐かしいあの豪華二冊の与謝野譯「源氏」を、今八十八歳へと歩んでいる私は感謝とともに思い出す。
2023 7/24
* 心して書き継いでいた相当量の文章が、瞬時に失せた。やれやれ。
* もう残年わずかと思っているので、追憶の昔へ自身の思いと筆とを放ちやるのを意識して許している。俗物が無慚無残の「遊戯(ゆげ)」と嗤ってもらえばいい。
2023 7/24
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『谷間の百合』 バルザック 岩波文庫 梶川芳江に借覧
八坂神社石段下四条通りの南側、戦後新制の京都市立弥栄中学二年生二学期の早くに、一年上級、眞實心から「身内」の想いの「姉さん」と「恋い慕った梶川芳江」が、「読んでみよし」と奨めてくれた。西欧近代の一流作家代表作の翻訳小説に、「初めて」出逢えた。生涯の、まこと忘れがたい人と本との「出逢い」だった。
それまでにも日本の古典や史書や漢詩などに接していたもののに、本格の 「西欧文学の翻訳本」とは出逢えてなかった、魅惑のモルソーフ夫人登場の『谷間の百合』には心底魅了された、一つには「読みなさい」と奨めてくれた人への熱い深い敬慕がはたらいた。このあとへ、ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』が続いたのも忘れない。私の敬愛と思慕とに溢れたまさしく「初戀」は、間を置かぬ余儀ない芳江の「卒業」や「家庭の事情」で遠い永い別れへ押し流されたものの、そのまま近代現代の「文學・文藝」への「吾が戀」とも成長していった。死んでも,忘れまい。
2023 7/25
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇『モンテクリスト伯』上下巻 アレクサンドル・デュマ 山内義雄譯
新潮社世界文学全集15 16 弥栄中学二年秋に 三年梶川芳江に借覧
世の中に斯くも「おもしろい小説」が在るのかと興奮冷めやらず、続けざまに繰り返し読んだ。膨大冊の各場面をそれはもうくりやにみな覚えてしまい、それでも「姉さん」に本を返すのも惜しむほど愛着した。「純」とか「通俗」とかの文学談議などまだ識るよしもない中学二年生。しかし、のちのちも、今にも、『モンテクリスト伯』はあらゆる諸他に絶し、私の「読書史」に断乎他に聳立し王者然と場を占めてきた。モンテクリスト伯ことエドモン・ダンテス、永遠の恋人メルセデス、悪役モルセール、ダングラール等々、そして時代背景にナポレオンの興亡。マルセイユもシャトー・ディフもとりわけてモンテクリスト島も、ローマもパリも、そして誰も彼もが生き生きと少年私の胸を敲いた。
もとより私はのちのち沙翁もゲーテもトルストイもドストエフスキーねモーパッサンとも出逢って感激した。それでも『モンテクリスト伯』は「別格」でありつづけた。「姉さん」と恋い慕った上級生「梶川芳江」の呉れたまさしく文学・文藝の「徳」であった。「ねえさん」はおそくこの『モンテクリスト泊』も、自身のモチモノではなく借りていたのだろうと、あの頃にも私は察していたが、そんなことはまったく問題外、そこはたらいた「姉さん芳江」ノ私への愛情に眞実感謝したことだ。
往時渺茫。しかし、けっして忘れない。
2023 7/26
* 機械の前へ、よりも横になろう、なりたいと思う方が久手、惹き込まれる。井江は冷房していて、暑さにバテテいるというより、要は心神身体が疲弊しているのだ。
それでも、とにかくも毎日、毎時に斯様「私語の刻」が書けて記録できているという、それだけに満足しよう。機械あらば後日に『湖の本』に「編輯」して毎度のように全国の読者へ「呈上」すればよい。
いま私の知りたいのは、今、また今日、「こう書き置いている文章や述懐」を、即、今にも、今日にも、機械的に「読み取れている」人等も居るのかしら、そうは出来るもので無いのか。私は常に「書いて・保存」しているが、ひろく外界へ「発信」している気は無いのだが。
2023 7/26
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇『若きウエルテルの悩み』 ゲーテ 岩波文庫 梶川芳江より借覧
こういう人間関係や哀しみのあるということを、骨身に痛いほど痛感して、中学生は清酒なの炎の中へ移行して行くのが、怖かった。ゲーテ世界と思考との出逢いだった。『モンテクリスト伯』も「本」 「これも本」 はいと文庫本を手渡してくれた「姉さん」の、一言だった。確かに。誰よりも誰よりも慕わしくもまた聡い人であった「梶川芳江」は、三年生を卒業すると、ほぼそのまま少年の想いも及ばない「遠くはるかな別人生へ」と天女のように去って行ったのだ。
2023 7/27
* 深夜三時頃か、妻苦悶し、付き添い看護。「熱中症」とも思われ、そうまで寝室が暑いとも私は感じてなかった、妻が固陋と思しい円背による上半身の前傾圧迫で息苦しくなるかと私は察しているが、背の丸さを意志的に矯正ようとしないでは、繰り返す苦痛となる。背筋は勤めて伸ばそうと努めて欲しいが。
* もう五時半をまわっていて、この頃の私には普通の朝の起床、だが、流石にやや睡いけれど。六十三年もの昔になるか。朝日子が、東邦医科大学で森田久男先生のおせわで生まれた。森田先生には朝日子の、のちに青山大教授となる「押村高」との結婚式にもおいで戴けた。
「押村」朝日子が、今日、どう暮らしているのか、私たち両親は、もう久しくも久しく「片端」も知らない。知りようが無いのだ。「親類」としての縁が完全に絶えてしまっていて、それもそれ、今日「七月二十七日」を「命日」として、孫娘「やす香」が二十歳になるならずで敢えなく病死して以来のことだ、「事理滅裂」のうちにだ。、私たち両親・祖父母は、突風に首をもがれたように情けなくひたすら悲しい運命を怨む。悲しいめに遭ったものだ。
2023 7/27
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇『平家物語』上下巻 岩波文庫
弥栄中学三年生三学期 『徒然草』とほぼ前後して 自分小遣いて、河原町オーム社打ったか駸々堂であったか、延々と思案して、買った‥初めて書店で「岩波文庫」に手を出したのは、是より少し先、シュトルム『みづうみ』があった、岩波文庫につきものの「*」一つが十円の時期だったが、この翻訳小説には特別の印象を得なかった。
そして半年も後れてたか、明らかに「古文の原典」を意識しつつ「*」の『徒然草』を買った。正直に言うとこれは中學二年生には荷が重かった。それで、決心して『平家物語』上下巻買った。お年玉を役立てた。すでに通信教育本『日本国史』を緯編幾たびも絶って愛読していた中学生には『平家物語』世界は、根底に於いてもう「手に入って」いた。「和漢混淆文」というのがらくらく「読みやす」かった。
この『平者物語』体験が私を大いに裨益したことは、作家としての出世作が第五回太宰治文学賞を「知らぬ間に」に牽き寄せた小説『淸經入水』やのちの『風の奏で』上下巻が証ししている。
それのみか『平家物語』2巻本の愛読は大いに古典原典への「懼れ」を解消してくれて、もう中学生の私は、今度はなんとか『源氏物語』をと決心していた。高校へ入ってほどなく岩波文庫『源氏物語』を躊躇わず手に入れたのが懐かしく思い出せる。
2023 7/28
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇『少将滋幹の母』 谷崎潤一郎 毎日新聞 昭和二十五年朝刊連載
谷崎潤一郎の「最秀作」というのでは、ないが。少年の一等初めに出逢って、子供心に(当時、新制中学の二年生に成る成らずの春であったか。)こんな所説もあるのかと、挿絵にも牽かれながら毎日の新聞をややおしんびた想い出待望し堪能した。滋幹の母、滋幹両親の運命を踏みにじって行く藤原時平という貴顕の無茶モノを私はスカ干せ道真を筑紫に追いやったヤツと、すでに「歴史」として識っていたし、時代の表情も見えていたので、理解にまどうことは何も無く毎日読み進んだ。我が家の大人たちは、新聞小説なども触れていなかった。新聞小説体験区最初は石川達三の「風にそよぐ葦」であっ、覚えているが、「少将滋幹ノ母」と前後していたか。なににしても少年の保タクシの「新聞はょ迂拙」初体験として自身記念してきた。そして「谷崎潤一郎」の人と文學への、また後年松子夫人との「であい」となった意味でも『少将滋幹の母』の意義は私に重い。
2023 7/29
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『こころ』 夏目漱石 春陽堂文庫
京都市立弥栄中学を自身「卒業」の日の姉さん「梶川芳江」が、二年生の私へ「献辞署名」を添え生涯の記念にと遺し贈ってくれた一冊。
「思慕しひたすら最愛した姉さん」から心して私のために選んでくれていた、これぞ、少年私の、いや青年になり社会人になり、夫また父親となっても、尚、「不動の聖なる一冊」であって、いや、老境の今も、漱石の『こころ』は私・秦恒平の不動の「こころ」なのである。成年し社会人となりまた小説家・批評家となってなお、けっして忘れない一冊が漱石の、それ以上に梶川芳江の『こころ』として吾が手に在る。
そして、遂にはそれと知るワケの無い「劇団俳優座」と大看板の俳優「加藤剛」とは、私に『こころ わが愛』なる脚色を熱心に懇望してきた。なんという不思議の成り行きであったことか、そしてその『舞台』は俳優座劇場と加藤剛ら著名の俳優女優らにより公演を繰り返し新聞にも大きく採り上げられ賞讃されていた。付随して、私は脚本『こころ』の出版に加え人の「こころ」を多様に論じ語っての何冊かの著書をも世に送った。加藤剛らの舞台は、放映もされた、録画もした。私は関連して何度も講演にさえ呼び出された。
だが、だが、残念至極にも「姉さん 梶川芳江」は、それらより早くに亡くなっていた。いちばん舞台やテレビも觀て聴いて批評してほしかった「姉さん」であったのに。
おそらく、小説『こころ』は、漱石文学中でも一二に大勢の読者を獲得してきただろう、今も多分と聞いている。
ああ、こういう人生でもあったのだと、私は、しみじみと「出逢い」の神妙に今も感謝をささげ、また胸打たれている。「生まれてきて」よかった。
2023 7/30
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『若山牧水歌集』 岩波文庫 梶川芳江より借覧
〇 和歌への親愛から幼少の私は「文學・文藝」へ心神を預け傾けていった。戦時の国民学校四年生の秋には、丹波の山奥の疎開先で、京都へ帰って行ける日を願待ち焦がれながら山合いの狭い高空を渡る雁の群れを、生まれて初めて短歌一首に創った。いらい、中学高校の頃を高潮時に、八十七歳の今日までに私は『少年前』『少年』『光塵』『亂聲』そして『と門』と、五冊もの私歌集を本にして持っている。
そんな私が少年の昔に、中学二年生の私に、ほんものの「近代短歌」なる魅惑の「創作と述懐の妙」を教えてくれた最初が、心底「姉さん」と慕った三年生梶川芳江の、「読んでみよし」と手渡してくれた岩波文庫『若山牧水歌集』であった、歌人の名は、教科書でか、もう識ってはいた。
「姉さん」が自身歌を詠んだ作ったという事実は、無い。この歌集も、むしろ姉さんが「誰か」から強いて借りて、そして私に「意図して回してくれた」ものと、何と無く、当時既に察してすらいた、「姉さん」はそうもして下級生「恒ちゃん」に配慮してくれていた、らしい。有難かった、嬉しかった。さもなくて、秦の家の大人たち、文學の「本」など全然目も手も触れる人たちではなかった。私は、俄然、幼稚は幼稚ながらに短歌の自作に目を見ひらいていった。中学の先生も読んで下さった。高校へ進むと『ポトナム』同人の先生が大いにわが短歌制作を推して下さり、京都府による高校生対象の「文藝コンクール」では最優秀賞を取った。その頃の作は、岡井隆選『現代百人一首』にも採られていて、そんな「歌人」としての人生へのいっぽを刺戟して背を押してくれたのが、「姉さん 梶川芳江」が「読んでみたら」とわざわざ手渡し貸して奨めてくれた『若山牧水短歌集』だったのだ、のちのち深く敬愛した斎藤茂吉短歌よりも「これ」が先であった、ありがたい道しるべとなって呉れた。「幾山川」の歌も、「白鳥はかなしからずや」の歌も、茂吉歌より先に覚えていたのだ。
2023 7/31
* 作業の成行きで、不愉快きわまりない「箇所」の整理もせねばならす、吐き気がした。東都での人生、平穏でない不快な何年かに脳みそが泥塗れに汚されていた。
2023 7/31
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『北原白秋詩歌』 岩波文庫 梶川芳江より借覧
日本の詩人による「詩 ないし 詩集」からの文学的感銘・吸収は、 私、恥ずかしいほど貧相で、告白にも耐えない。藤村の『若菜集』 そして白秋、朔太郎、後れて井上靖、その余はもう「つまみ食い」の程度と白状する。「歌集」は和歌また子規また茂吉らに始まり近代の歌史をほぼ通し読みながら、詩集はなんでとも謂いようが無い。それでも北原白秋の名と詩作とにはこころ寄せていた。名も作も、すっきり清く受け容れていた。
白秋詩集を「読んでみよし」と私に奨めた「姉さん」梶川芳江自身も、「読む」人ではアレ、「蔵書家」とは思われなかった。この「姉さん」に「本を貸す人」が有り、「それを私へ」回してくれている、と、そう想われる事情等を私は「察し」ていた。「姉さん」の貸してくれた本を私が持っているのを見つけて、怪訝な顔をした別の上級生を、私、一度か二度は感触していた。「姉さん」のなにか「はからい」が働いていると感じていた。
私が「梶川芳江」という美しい存在を一つ上の学年に見つけたのは、運動場での全校集会、朝会などのおりだった、遠目にも身の周りが耀いて見えた。私の新制中学二年生、夏休みへ向かう一学期の六月ころであったろう、其の人はどうも他校からの転校生であるらしく、よけいに新鮮な風情だった。
どんなきっかけから「二人」の時空間に親しみはじめたか、学年のちがいを越え「ふたり」の「ひとくみ」が出来るのは、「学年差」の厳然としがちな学校社会」では滅多に例の無いこと。しかし、永い夏休みを隔てながらも二学期には、それはもう親しみ敬愛深く「ふたり」の空気がもう完成していた。よほども私から寄り添うて、「本の貸し借り」が双方から縁をふかめ、ひたすら私は借り「ねえさん」は貸してくれた。「北原白秋」とその「詩集」とは早い時期での「結ぶ」の神のようであった。「詩」も暗誦にすら足りた。貸して貰えてこそこの詩人と出会えた。
2023 8/1
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『天の夕顔』 中川与一 借読か。買ったか。「妹」梶川道子と耽読
懐かしい。この作が、「恋愛小説」という意識と受容で「耽読」した最初であった、「姉さん」と慕った上級生「梶川芳江」ははや卒業後何処と知れぬ天涯に去っていて、その妹、私しより一年歳下、弥栄中学二年生の「梶川道子」を私は「妹」という意識で「戀」した。指導できる部の先生のいない、というより不必要な、弥栄中学「茶道部」を主宰しはじめた私は、校内・校庭内に備わった本格に佳い「茶室・茶庭」を{校長先生・職員室の容認放任の儘まこと気ままに使って、部員に「茶の湯初級の作法」を難なく教えていた。私は「叔母宗陽」のもとで小学五年生から茶の湯を「猛烈な勢い」で稽古し学習し「裏千家の許状」も得ていて、中学生三年にもなればもう疾うに「叔母の代稽古」もちゃんと勤めていた。
まして佳い茶室の本格に遣える弥栄中學で、三年生生徒会長として新しい「茶道部」を起こし、参加の部員に点前作法を教えるなど誰の不審も受けず、先生方もまるまる信頼して私に「部の運営・指導」を任されていた。
あの慕いに慕った「姉さん・芳江」の妹たち、二年生「梶川道子」一年生「梶川貞子」は、真っ先の「新入」茶道部員でもあったのだ、もとより二人を、古都に「梶川道子」を「妹である恋人」のように私は熱愛した、精確に「距離」も保ちつつ、私は高校生になってからも「弥栄中学茶道部」の指導に通い続けた。歌集『少年』昭和二八年私十七歳での短歌集「夕雲」二十首は顕著な記念作になり得ている。
朱らひく日のくれがたは柿の葉のそよともいはで人戀ひにけり
窓によればもの戀ほしきにむらさきの帛紗のきみが茶を点てにけり
柿の葉の秀の上にあけの夕雲の愛(うつく)しきかもきみとわかれては
『天の夕顔』は、そんな二人して憧れ読み合うていたが、手と手を触れあうことも、ついに、無かった。「道っちゃん」は、いま、どこか療養施設のベッドにいて、気丈にしていると「梶川」三姉妹の弟夫人からかすかに伝わっている。
2023 8/2
〇 『蘆刈・春琴抄』 谷崎潤一郎 岩波文庫 「*」一つ 購読
これぞ、吾が「谷崎愛」の原典・原点を成した、自身で選んで買い求めた岩波文庫であった。何十度も繰り返し読んだろう。「小説」とは斯くも美しくおもしろく素朴な創意の結晶なのかと、嬉しくて雀躍りするほどの感激だった、この一冊、いまも書架で静かに七十余年の歳月を呼吸している。岩波文庫を自分の財布からおかねを支払って買う「興奮」もみじみと懐かしい。
で、今、書き留めておきたい一つは、この二作の、私は断然『蘆刈』を熱愛し耽読したという事実。何よりも此の一冊がのちのちまでの「谷崎論」を刺戟したのであった、他に添えて言うなに必要も無い。しゅとして『秦恒平選集』第二十、二十一巻に私の谷崎論は「結晶」している。
2023 8/3
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『徒然草』 岩波文庫 「*」一つ(15円)で 購読
高校一年生の国語(古文)教科書で出逢い、『平家物語』よりは読みづらいと自覚しながら、その「フィロソフィ」に牽引され、乏しい財布とも折り合えたので河原町の書店で、少しく勇躍気味に買い求めた。通読は容易でも、意讀・味読・愛読へは「時」を要し、後年、田辺爵著の大冊『徒然草諸註集成』を東京御茶ノ水駅そばの古書店で買い、大いに助けられた。私の初期小説では多く喜んでもらえた長編『慈子(あつこ)』で、私は『徒然草』への久しい深い「謝意」を小説の躰で表現できた。兼好という著者へのかなり手厳しい批評も私は「育て」て行った。古典講読のごく最初期に『徒然草』を選んだのが、たんに「*」一つ(15円)」ゆえでなかった、かなりの勇気と関心の濃さであったのを、「やそしち爺」のいまも、懐かしく思い出せる。
2023 8/4
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『朝の蛍』 斎藤茂吉自選歌集 古本 京・東山線白川脇の古書店で購読
中学いや小学校のうちから、わが「立ち読み」の宝庫のような「古本屋」であった。平場には敗戦後「いまいま」のけばけばしい表紙の男雑誌も女雑誌も並んでいた、「ロマンス」とか「スタイル」とか。男の「はだか」も女の「はだか」も、手に、目に、「盗み見・盗み読み」ながらふんだんに見知っていた。
もとよりいわゆる各種の古書に手を出して「読む」場所であった、實に大勢の作者・著者、また題材にされた人の名を覚えた。わたくしの「ものしり」と財源と謂うべき「恩誼」有難い古書店だった。盗み見に手を出し繰り返し愛読した読み物は、著作者は。沢山有ってもう思い出せないが、なんとこの本屋で小遣いを出し「買った二冊」の一冊が 『朝の蛍』 斎藤茂吉自選歌集 あった。私は国民学校四年生の頃から短歌を自作し始めていた、そして「与謝野晶子」のこてこての歌風は好かず、あきらかに正岡子規系の歌人を崇敬した、斎藤茂吉はその一の人で、『朝の蛍』を「買う」ことに躊躇無かった。
もう一冊部厚い本を買ったのが、『明治大帝』で。明治天皇に親愛など覚えてなかったが、この大冊の「売り」は、いわゆる明治の元勲や各界著名士らの大きな顔写真付きの「紹介」であった、少年私はそれら大勢の明治の元勲や偉人や名士らの人と生涯に興味を覚え、その本を抱きかかえて買い、繰り返し熟読してアタマに容れた。つまりは「明治」を「人」から納得しよう努めたので、この「物識り」れは大きな財産になった。「時代の理解」を「人の事蹟と官位官職」から覚えたのだ。
斎藤茂吉自選歌集 と 明治大帝
とにかくも、ひたすら私は「買わない・立ち読み少年」に徹し、またそれしか手は無く、帳場の「おばはん」は私の日参を大概黙認してくれたが、一度は、「ボン、もうお帰り」と追い出された。懐かしいなあ。
2023 8/5
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『細雪』 谷崎潤一郎 中央公論社一冊本 購読 梶川道子と耽読
谷崎先生の『細雪』ほど、「中央公論」に初出そして初版本以降、世に鳴り響いた「本」は数少ない。後続して太宰治や川端康成や三島由紀夫があったが、谷崎作『細雪』は如何にも横綱の土俵入りのように立ち現れた。私はまだせいぜいしょうがっこうから戦後の六三新制生中学へ、やがて高校へ、「文学」との出逢いを力強く導いてくれた小説家が「谷崎潤一郎」そして名作『細雪』登場であつた。「文豪」ということばを眞実初めて実感し「谷崎愛」という私製の造語を「旗」とかかげて私はほんものの文学少年へと闊歩し始めた。愛読者から、いつしか「研究者」とまで謂われるほどに愛読した。谷崎先生の無くなった比、たまたま京都へ帰っていた私は、生前に用意された法然院のお墓へと、夕暮れの東山辺を小走りにかけつけ、立ち尽くしながく黙祷した。私も作家にと、あの墓前で私は決心した。のちのちには松子夫人と親しく知り合った。新聞で読んだ『少将滋幹の母』 そして 「妹」と愛した梶川道子と、一冊の部厚い『細雪』を往ったり来たり親しく分かち読みした想い出も懐かしい。請われ感想を書き連ねた映画『細雪』の想い出も懐かしい。
2023 8/6
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『谷崎潤一郎選集』全六巻 創元社 高校一年生時 講読
完全に、高校生の私は 谷崎潤一郎世界の「虜」と化した。その堅い殻を内内から罅割って他の世界へも浸み出ようとする「何年か」が始まろうとしていた。憧れ、気張って、貧しい自前で買い入れ忽ちに読み尽くし、そしてその谷崎世界からも私は脱出して行くところは、もうかすかにも想い・思い・考えていた。世界文学へはまだ手がシカとは届かない、しかし同じ日本の近代文学にも「いろいろ」があると気付き、意識しかけていた。高校生の私は、文字どおり「日本の文学・文藝の世界」へ「きょろきょろ」と目配りを初めかけた「谷崎選集」六巻は、その次ぎへ進級の「手形」の役をしてくれた。「次」は「何」であったか。
2023 8/7
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『島崎藤村集(若菜集 破戒 新生 ある女の生涯 嵐 山陰土産)』筑摩書房「現代日本文学全集8」昭和二十八年(1953)八月二十五日發行く文学全集の一巻 発売即といえるほど早く感奮して書店へ買いに走ったのを覚えている。奥付に頒価が示されてないので小遣いをどれほど支払ったたか判らない、「島崎」と丸い朱印の筑摩印税紙が、だれの粗忽でサカサマに貼られているのも、今観ても、懐かしい。私、十八歳に四ヶ月余足りない高校せいぜい二年生。興奮の極であったろう。
敬愛の近代作家はと問われれば、ためらいなく、順序を謂うではなくて、「」明治に登場」順に、藤村、漱石、潤一郎と答えて、今も変わりない。付け加えるなら、直哉、鏡花、秋聲ないしは横光、川端と云うだろう。
藤村という作家は惚れ惚れと惹かれる人ではない、時には疎ましくさえ在るが、詩の『若菜集』にはじまり、小説は『破戒』から『家』『新生』を渡って『夜明け前』に到る、大森林にも長河にも似て「地響き」しそうな力作、問題作、秀作の山積にアタマを下げざるを得ない。
それほどの藤村に出逢って手にした最初が、筑摩書房の売り出した文学全集の一巻『島崎藤村集』奮発して直ぐに買い、その晩の内にも夜を徹して読み上げたのが『新生』であった。興奮を忘れない。詩よりも小説だとしみじみ思った、「好きな人」とは謂えない云わないが底チカラの強いエライ大作家だと疑わなかった。漱石とも潤一郎とも異なった視線で高く見上げて沈黙していた。
2023 8/8
* 入稿原稿つ゜くり午後からこの十時過ぎまで、懸命に取り組めば酌むほど機械に翻弄されて、混乱の極みに得王師左オウしてなお精確に出来たという堪忍を機械は呉れていない。機械のせいでなく、私の老耄のゆえであろう、此の仕事ももう打ち上げ時を強いられているのか、も。今夜はもう寝るとする。楽観出来ないが悲観しても始まるハナシでない。
2023 8/8
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『般若心経講義』高神覺昇 角川文庫 昭和27 11 3再版 七拾圓 講読
角川文庫發刊は昭和二四(一九四九)年の憲法記念日、私は十三歳半の新制京都市立弥栄中学一年生、『般若心経講義』高神覺昇を自前で選んで買ったのは高校一年生、その頃、『出家とその弟子』などに感動し、「仏教の世界観」に心惹かれ「岩波新書」の類書へも手を出していたが、何よりも「我が家の仏壇」にいつも在って、小学生の頃から『般若心経』は声高に音読するのが私の常だった‥生まれ育った「京都」は神社より数多く「仏閣・お寺」の街。浄土宗総本山「知恩院」の門前通りで育った「秦家」から近在には、建仁寺、青蓮院、南禅寺、清水寺、六波羅密寺、智積院、三十三間堂、更に日吉ヶ丘高校の上には泉涌寺、下には東福寺、かの校舎から望めば東寺へも東西本願寺へも手の届きそうな近まに在った。仏教には底知れない「世界観」が在るとは子供なりに察して、信心よりも知的好奇心の「仏教」が、他のなにより近まの「誘い」であった。「色即是空」「空」「因縁」「正見」「執着」「恐怖」「般若」「仏陀」「眞実不虚」等々、みな高校一年生を刺激的に誘う言葉たちで、この文庫本一冊の『般若心経講義』は美味絶好の誘い、それも講話されている本文以上に精微な巻末の『註』を目を剥いて読んだ。
このお蔭で私は文庫本の「仏經・仏典」は浄土三部經も法華経も禅の本にも手を出しに出しつづけた。「読んだのか」。読んだ。「阿弥陀如来」のはるかに遠い「前世」がいつも懐かしく慕わしい私で、今も、在る。
2023 8/9
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『出家とその弟子』 倉田百三 借讀
高校一年生の国語の教室にみの図化に美しい女生徒が居て、いつも静かに読書していた。歌集『少年』の巻頭に、
窓によりて書(ふみ)読む君がまなざしのふとわれに来てうるみがちなる
とある其の人で、名前はしかと覚えないが、このひとから、私は『出家とその弟子』ばかりか、堀辰雄の『風たちぬ』等々静穏な私小説系の何冊もを借りて読んだ。近代も後期の純文学へ道を拓いてくれた人だが、一年生の内に転居・転校してゆき、そして「亡くなっている」という噂も後年に聞いた。はかない出逢いで在ったが、貴重な想い出を『出家とその弟子』を介して私に刻印していった。明らかに『般若心経講義』を自前で買った時機と前後していた。
『出家とその弟子』は、小説でなく戯曲だった、例のごとく私は家の中で、一心に声につくって「出家」と「弟子」とを語りわけ、』家の大人等を辟易させた。倉田百三の『三太郎の日記』なども此の頃、社会科の先生が教壇で熱心に話され、手を出したモノの歯が立たず失礼したのも覚えている。
2023 8/10
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『源氏物語』全五冊 島津久基釈註 岩波文庫 購読 苦戦苦闘しつつ。
とうとう来た。「夢の浮橋」を渡り終えての尻に、
「1963 12 17 」読了し、「 1967 6 22」再読を了え、「遠」と書き置いている。二度目に、ほぼ三年半の「苦闘」の歳月を懸けている。高校二年生に岩波の五冊を買い求め、大学も出、東京へ出て結婚し親に成って以後も『源氏物語』は生涯と敢えて謂う、身辺を離れなかった。「遠」と書き添えたのは私、裏千家茶名「宗遠」を謂うているが、遙かなりし「遠路の嘆息」とも。
源氏物語への「親炙」なくて私の読書歴は成り立たない。これは「古典」という区別はしていなかった、藤村、漱石、潤一郎を愛読するように源氏物語、平家物語、徒然草等々を同じく「名作」と敬愛した、今も同じ。幸せと謂うしかない。
2023 8/11
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『更級日記』 岩波文庫 講読
京都市立日吉ヶ丘高校の二年時、友人二人と放課後の教室で「輪」読。
古典には『土左日記』以降「日記」というジャンルが出来ていて、かな書きの『紫式部日記』や『讃岐典侍日記』などかずかず読める、それらへのいわば「入門」気分で最初に『更級日記』を選んだのだ、親しみやすいと感じていた。独りでも、繰り返し、大人になってからも和かな古典の「日記」を読みつづけ、のちのちには『チャイムが鳴って更級日記』という妙に凝った小説も書いた。『更科日記』では、冒頭、父の任地から都へ帰る途次、富士足柄あたりでの深夜、何処からとなく現れて歌を唱って聴かせて、また去って行く女たちの出現に、もののあはれ、あこがれ ほどの共感を書き綴っていた箇所が、胸を打った。
「夢」をたくさん書いているのも此の日記、此の筆者の特色で、日吉ヶ丘高の校内新聞に『更級日記』を高校生なりに論じて投稿したのが、ま、作家・秦恒平、初の「論攷めく」一文になったのも想い出。
『更科日記』の筆者は、或いは紫式部のきびすに接して「物語の大作など」を書き遺している。その文藝も人ももっと論じられ、見極められて好い「超級の女流」であった。わたくしは、そう、今も思っている。
2023 8/12
* それより、内玄関の正面が寂しいので、このところ、あれをと架けたかった「久保比呂志」作の、實に立派、畏ろしいほど立派な『鯉』一尾の大軸を妻と二人がかりで架けた。金魚や鮒や鮎でない、川魚の王の「鯉」が画面を大きく占めて、一尾悠然と水に静まっている。こっちが「位負け」のてい。
架けたいと永く願っていたのが、この「お疲れさん」のさなか夫婦して出来たのだから、目出度い。嬉しい。
久保比呂志は、土田麥僊らのお仲間だった…はず。
*私の、この六畳の狭い仕事部屋には、障子際に不相応に佳い革のソフアともに、机が四卓、天井際の冷暖房機は別に、大小の機械が十機働いていて、大きな作り付け頑丈な書架に満杯の外の、各種大小の書籍や辞書・事典が山積している。抽出しの文書棚も満杯で四つ立ち、その余の雑物は床に置き放題、私の出入りの通路も、モノ、モノに侵蝕されて、文字通りの狭い「雑踏」なのだが、西と南の障子戸、障子窓、そして東の襖四枚は、それ自体がそのままかなりの「画廊」になっている、ただしみな貼り込みの写真や印刷物だがよく選び抜いてある。白鵬、照の富士、それぞれの見事な土俵入り写真もあれば、栖鳳、玉堂、土牛、曾太郎らの名品が、用済みのカレンダーから斬り遺して在る。加えて、高木冨子の美しい『浄瑠璃寺夜色』本作があり、亡き懐かしい富永彧子の清雅な「風景」も小さな額に入っている。
それより何より、この部屋には、高浜虚子にならぶ荻原井泉水が「秦恒平雅兄一餐」と献辞の『花 風』と二大字の大きな額、また宮川寅雄先生に戴いた、先生の先生「秋艸道人」筆の有名な『學規』も架けてある。ほかにも幾つか。
その上に、娘のように遠くから愛している女優澤口靖子のドデカイ写真がちらとみただけで少なくも四枚、みなにこやかに笑んで呉れている。わらはば、わらへ。
* ところが、未だ在る。読者や知友のお便りが「佳い繪葉書」でくると、倚子席の身辺に隙間を見つけては飾る、今も八、九枚が直ぐ数えられて、目の前の間真ん中に老いたのが、「日本の清潔」とはコレとしみじみ得心の、『紫宸殿と前庭』のすばらしい静謐。左近の櫻、右近の橘、一面白沙の広庭。吸い込まれる静謐の美。
また、村上華岳の『墨牡丹』 京「高山寺」の弓討つ「兎」らの『戯画』、建仁寺の『風神雷神』、菱田春草の『帰樵』 祇園会の『薙刀鉾』 アネス・ドルチの『親指のマリア』 能面の『十六』 さらには静寂のうちに花やいだ『飛雲閣正面』 さらに加えて、大恩を受けた医学書院『金原一郎社長』の献辞も添って頂戴した「告別用だよ」の上半身温厚なお写真 さらには妻が描いたいまは亡き愛猫「ノコ」の、生けるが如き肖像。
これらの繪や写真が老耄の私をどれほど寛ぎ励ましてくれているか、計り知れない。出来れば、この「仕事部屋で」こそ 私は、死にたい、と願っている、心より。
2023 8/12
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『旅愁』 横光利一 角川昭和文学全集 第一回配本 駈けつけ講読。
高校時代は他面・多方向への可能性で光っている、中核とも大學とも明らかに違っていた。踏み出す脚に、好奇心と自己肯定が、いまから思えば、ほとんど喚いていた。「手を出す」のが嬉しくて特異でためらいが無かった。この初めて触れる「横光利一」というな全一巻に一作の、西欧への旅立ちを表題が示唆していた、間にしては笑い出すしか無いが私はの一巻を買いに河原町のょんへ書けた得意満面の虚運河、張りなつかしい。これは、秦の父が設えてくれた二階三疊の私のための勉強部屋、しかも何段もの壁に作り付け不細工だが真新しい本棚に第一等に収まるピカピカの新刊本なのだった。「横光・川端」と何美賞された「新感覚派」一棒の頭領の大長編だ、じつは読者等の大方が横光よりも川端康成の「雨降りお月さん」のようなお話しぶりを贔屓らいのに片手オチを感じていたのだった。川端の情緒めくしんかんかくでな、年と社会と世界の「新感覚」を横光利一に期待したのだった。
で、『旅愁』は。鷗外や漱石や荷風等の「西欧」とは異なって感じ等屢「旅」がよれる、という讀中・讀後、、ま、満足があった、とておこ、實はもう、みな忘れているのである。しかも私はほぼ教皇に日本現代文学に「横光利一」の大きい存在、まさしく「あたらしい感覚」が濃い油のように流れこんだという感想を持った。川端康成の「千羽鶴」などは私には遣い慣れた、幾らか遣い飽きた「茶道具」のようだった。
2023 8/13
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『谷崎潤一郎集』 角川昭和文学全集 購読
三畳の二階勉強部屋に、父が大工を雇って作り付けてくれた武骨な木の本棚に、着々並ぶ本が増えていた。まだその大半は、秦の祖父が旧藏の大漢和辞典や大事典や、唐詩選六巻や、老子莊子韓非子や袖珍の漢詩集、或いは日用の便利本や日本旅行案内、『歌舞伎概説』などで占められていた。ソレらを徐々に追いだして私の手に入れた新刊本に置き換える それも一つ「目標」だった。気に入りの「角川昭和文学全集」にあこがれの『谷崎潤一郎集週』の桑わっの葉、いわば『花と風』などの「谷崎論」を自身書くことで「作家」へ道を切り開き始めの第一歩と成った狭い。勉強部屋の空気が泡立ち始めていた。
2023 8/14
* 濃い敗色に掩われていったあの藻掻くような南湖の島々での日本兵惨敗の地獄苦なども、敢えて承知の務めかのようにテレビで見入った、昨日。例年の此の時期には意識し務めて往年のサンクを顧み自身その中へ混じる様にしている。忘れたいが、わすれてはならぬという自覚は失せない。国民学校一年坊主の私に既にソレしか無いと判りきっていた敗戦必至の戰争だった。先生や上級生に亡くくられようが蹴られようが、「買ったらフシギや」という、あの祖父旧蔵の白詩『新豊拙臂翁』に頷き聴き入っていた少年は、どう先生に殴りトバされ上級生に胸倉取られようが蹴倒されようが、「負けるしかない戦争」という至当の確信は脱けなかった。戰争は所詮「おかねのいくさ」鉄砲や弾や舟や飛行機の「數」で決まってくると私は感じ、それで、入学し立ての国民学校教員角牢から貼られた大きな世界地図の真っ赤い「日本列島」と宏大な真緑りのアメリカ国土を見比べ、「勝てるワケがないやん」と友だちに語った途端通りがかりの男先生に廊下の壁にたたきつけるほど顔を貼られた、ゼッタイに忘れないし、誤ったとも決して想わなかった。
「負けるに決まった戰争」を、どう、藻掻きながら相手の「上」へ出るかは、一にも二にも『悪意の算術』と私の名づけてきた「巧みな外交の技と力」なしには凌げない、どんな大昔からも、弱小国はそれでかつがつ切り抜けてきた。「歴史」が好きで学ぼうとしていた小学生私の、本能的なそれが確信だった、そしてそのまま「処女作小説」の『在る拙臂翁』へ表現されたのだった、最近「湖の本 164」に再掲し、相当な反応のあったことに首肯いている。
2023 8/14
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『国民文学論 これからの文學は誰がつくりあげるか』
民主主義科学者協会・藝術部會編 厚文社
昭和二十九年(一九五四五月三十日発行)新刊 購読 大學一年頃か
文学部文化学科美学藝術學専攻の「大學一年生」という意識で買い入れたが、「国民文学」という思考か・志向が、当節のはやりとして左傾スー田した宣伝になるのでは内科と警戒し、警戒は当たっていた。そのような「国民文学」の認知はゆきすぎた主義かを伴う葉必然で、避けねば友想っていた。渡具にも自信の豫想や判断の狂ってなかったという認識きから、私は此の本を「捨てた」のである。大学院を去って東京に出、家庭をもってから創作者への覚悟を固めたときも、「国民文学へ」という意思も姿勢ももたなかった、その意味でもこの本との「意識的な出逢い」は、有意義であったと今も感じる。「私」小説にも引っ張られず、「国民」文學へも向かわなかった。私はただ「文學」「文藝」を、稚拙なまでに「創作・表現」したかった。しかし今も書庫に「此の本」がきちっと保存されていたのも、至当のことであったと、「堅い小型の本」に眺め入っている。読み返す気は無い。
2023 8/15
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『日本美術の特質 第二版』 『図録』 矢代幸雄 岩波書店
昭和四十年(一九六五)八五月十四日 第二版発行) 新刊 購読
自費で私の買った本では、最高価な「本物」「大判」の「研究書」であった。本巻だけで優に「八百頁、別巻に二百三十頁もの豪華な『図録』が附く」としても、平成の今からほぼ六十年以前に「定価七千五百円」は、もう医学書院勤務で給料を得ていても、いわば不要不急贅沢なと見られる買いものだった、そんなことは謂われなかったけれど。なにより、関心も興味も濃く、方面違いの「医学書院」社員ではあれ、「日本美術研究」無縁ではなく、渇望して躊躇わず買った本、それに、もう小説や評論を書き始めてもいた、わたくしが刊行の評論の一冊は『十二世紀美術論』であり、小説では、上村松園を書いた『閨秀』が朝日新聞文藝批評の「全面」を用いて賞讃されていたし、虎渓三笑図に触れて書いた『盧山』は芥川賞候補に挙がって「美しいかぎりの小説」と推された。謂うまでもない学界の「泰斗」と識られた矢代幸雄著の『日本美術の特質』を勇んで手に入れたのは、少年來美術が好きの行き着いたほくほくの買いもの。強いて胸を張れば、ダテに「美学美術史學」を専攻勉強してきたのでは無かった、「医学」書院勤務の方が寄り道、じつはいろいろに有難い寄り道であった。
寧楽法華寺の平安『阿弥陀三尊』のうち観音勢至の原色に始まり、明治の黒田清輝の『湖畔』 昭和の梅原龍三郎『雲中天壇』 平櫛田中の華麗と清潔をきわめた『鏡獅子』像にいたる210作もの『図録』大判の豪華には、嬉しさ、舞い上がりそうだった。眺めに眺め、ほくほくして書架に藏めた。貫禄、他を圧した。
2023 8/16
* 本音を吐いて、憎しみほどのものを吐き出した、が、消え失せた。そういうことか。もう、大文字が燃えているか。帰りたい。京都でこそ生涯を終えたい。
2023 8/16
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『夢の浮橋』 谷崎潤一郎 中央公論 昭和三十四年 購読
新宿区川田町のアパートみすず荘に新婚と就職の日々を向かえた年の初秋か、新聞広告でしり、矢も立てもたまらず書店へ走って芝翫の雑誌『中央公論」を會、夢中で、心身を没入して読んだ。読み返し読み返し耽読した。入れ込んだのである、根からの谷崎大好きに部厚く輪をかけた、何も何という大作で亡かった、せいぜい書き下ろしの中編、としかし、舞台も人も話も期待の儘谷崎好きのわたくしをさらに魅了した、「新刊の雑誌から新作を読む」というほとんど経験のなかった耀くような新鮮さ。谷崎文学の上に真新しさを見つけて耽溺した新味を得て良かったと謂うより、こんな風に自分も話材を選べて書けたらどんなにいいだろう、嬉しいだろうと謂う羨望の濃さと深さとに負けて心身を委ねたのだった。「出会い頭」の、それはそれは胸に食い入る儲けものに思われた。そういう出逢いが、有る、という「身に覚え」が「身に沁みた」のだった。
2023 8/17
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇『平家物語』 山田孝雄著 寶文館 古本 購読
昭和八年(一九三三))六月二十八日發行 定価金三圓八十錢
巻頭図版 例言 平氏系図 平家物語諸本一覧(20頁)平家物語概説(108頁) 目次(13頁) 本文(526頁) 類纂(読物 故事 出典 諺・類するもの 詩・謡詠 和歌 連歌 今様 朗詠 偈𩝐) 索引(年號 地名 官職・位階・人名 一般事項・主なる言語 290頁) 全900頁を越す無比の大研究書。
あらゆる方面から「索引」「参照」の利く希有に重宝の、読みこたえの「研究書」であり、「平家物語」と周辺の歴史で{莫大に教えられ続け」ている。「寶モノ」のように大事に参照し、秘蔵秘愛してきた。
が、いつ何処で買ったろう。東京へ出てきてから、きっと、国電御茶ノ水駅にくっいた駿河台上、病院間近な古書店だろう、めったに「本」のために神田まではお茶の水坂をおりず、私史的に「貴重な古書の買いもの」は、このお茶の水駅回りで果たしていた。古本屋の二階には喫茶店もあり、取材外出中、恰好の「サボリ場」だった。小説も書いていた。
* 長谷川泉医学書院編集長(森鷗外・川端康成研究の泰斗。詩人)日ごろの言では、「編集・企画者」という職は、二十四時間勤務、つまりは、いつ、どこで、何をしていても「勤務中」と謂うこと、と。
私は勤務上の仕事も人もビックリするほど大量に為遂げていたが、また徹底的に自由時間に転じて、都内至る所の喫茶店や食べ物病で小説を書き継いだり本を読んだり呑んだりしていた。太宰治賞の『淸經入水』もそんなサボリ時間に書き始め書き継いでだいた。時に喫茶店「二階」のマックラなアベック(ロマンス)シートへ潜り入って書いていた。小説を書いているなど、会社の同僚に見つかりたくはなくて。
2023 8/18
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇『徒然草諸註集成』田邊爵 昭和三十七年(1962)五月刊 右文書院 新刊を昭和三十八年(1963)三月一日購読 もう東京本郷台の「医学書院」に編集職で勤務し、長女朝日子も生まれていて、もう小説を書いていた。社には近代文学(鷗外・康成等)研究の泰斗長谷川泉が編集長としてあり、師事。本書は長編『慈子』成稿のために是非に必要な優秀な参考書であった。光広本、正徹本の写真、序、凡例、六頁の目次 六九〇頁の本文、一〇〇頁の概説・索引。精微に深切、文字通りいろいろに愛読し参照し学んだ。
『徒然草』を岩波文庫で買ったのは新制中学三年生、物語本ではなく、随感随想の叙事が手強く、難渋したが、しかも敬意を保って常に愛読、高校で二人の友人と放課後に教室で輪読の記憶がある。この大部、「壱千七百圓」の高価を押して本書を買ったのもよくよくであった。それのみか、勤務時間内に私は、目の前の東京大学文学部の研究室書庫に、医学部の先生の紹介状を戴いて、数ある『徒然草』参考書を読ませて貰いに入れて貰って、一篇の論攷を母校「同志社美学」誌に寄稿までしていた。作家として世に出たい願望は強かった。
2023 8/19
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇『梁塵秘抄』 岩波文庫 古本 古本屋の棚から購読
高校一年生の教科書で出逢った『梁塵秘抄』が好きで気に入って、以来しみじみと久しくも久しい付き合いになった。「信仰と愛欲の歌謡」と副題して「nhkブックス」に、もう一冊「孤心恋愛の歌謡」と副題して『閑吟集』もならび、各一冊の「書き下ろし出版」している、ラジオ、テレビでも「講話」出演している。「歌謡」とはよほど性が合っていた。和歌は和歌。しかし厳然として和歌よりも年久しい通うの歴史があった。しかもじつに「おもしろく」「おしえられる」のだ。
私は、和歌・短歌・歌謡には傾倒できるのに、不器用にも、現代語で書かれた近現代「詩」の、藤村、白秋、朔太郎らのほか、ほとんどが理解できず、味わえない。要は気取った「散文」のただ行替え「分かち書き」のようにしか感じない。味わえない。「詩歌」に期待しているのは「ことば・日本語」の旋律・リズムの美なのに、たいていの近現代詩は奇妙な哲学の「演説」「講話」「露表」のよう、詠んで、舌を咬みそう。かりにも私の魂とは無縁に遠い気疎いおしゃべり。
だが「梁塵秘抄」「閑吟集」また「謡曲」などは、ことばの「音と働き」とが胸へ、しかと「うた」に成り、徹ってくる、人間の生き生きとした「うた聲」として。人間は「うた」が好き、それなしに太古来生きて来れなかった。「うたを忘れた」詩人たちのまるで「演説」詩は、胸に美しくも有難くも響いてこない。
そんなことを、私は、和歌や物語や『梁塵秘抄・閑吟集』に教わってきた。感謝している。散文作家たちの魅力や精力の読み分けにも、評価にもこれが生きて関わる。
2023 8/20
* 走り去るように日々は過ぎ、京都はこどもらに嬉しい「地蔵盆」になる、町内中の大人たちが町内の子らをいろいろに愉しませ喜ばせて呉れる数日、だった昔は。今もそうだろう、路上での映画や盆踊りや、芸人を呼んでのマンザイや音曲も愉しめた、町内中で、それは、四方八方 何処の町内でもそうだった。胸のときめく、京都中がまさしく「夏休み」の娯しみだった。
東京で、七十数年。そのような 何も覚えない。無い。
* この八月なかば。原爆の思い出、そして開戦や敗戦・終戦「事情」にかかわるテレビ番組の幾つもを、例年のように心して見聞きした、務めかのように。『東条英機』と表題された一篇も、じいっと見つめた。あの「戰争」にかかわ見聞の何もかもを、忘れず、「向こう」へ持って行く気だ、美しく燃える「大文字」の夜景も倶に。
* 心身不快、ことに「心」の内に濃厚な不快と不信と不和が、ドス黒い団子のよう。体力が許すなら、独りで、旅に出たい、旅先に、孤心を憩わせる小さな家寓が欲しい。
迂闊な私は気付けてなかった。自分の島に、やっぱり自分「独り」しか立ててないと、不本意ながら気がついたとは情けない。ありていに言えば、私には「身内」と謂うに同じい良い・大事な「読者」が有難い、が……、いやはや。
*各地での「競馬」実況を幾つか続けてテレビで見た。爽快感に、不快に沈む気分、すこし明るんだ、が。
誰かさんからの絵葉書、啄木の歌集『悲しき玩具』に
呼吸すれば
胸の中にて鳴る音あり。
凩よりもさびしきその音
と。私の不快に、とてもとても然様の風情は影も無い。
2023 8/20
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇『西洋紀聞』 新井白石 岩波文庫 古本 購読
この辺で、もう私の「青年期」も果ててよい、歳若くより「読書」を介しての生活態度も、もう「作家」という自意識が道しるべしている。ただの興味で無く「仕事」としての必要が「本」を呼び立てている。
「中世」への関心はかなり執拗であり、「近世」に「近代味」を体して「学識と政見」とに生きた新井白石へも、その延長で「意識し」て近寄った。が、それ以上にも、もう、吾が「日本国」の『北の時代』へ「窓」を立派に開いていった「最上徳内」や田沼政見への関心と敬意とが、「必然を逆に行く」かたちで『新井白石』を「呼び戻した」という自覚もあった。
幼少成年時の興味を押し超えて「作家」である秦恒平が、つよい関心で『最上徳内そして新井白石』を「必要」としたのだった、もう青年時の「卒業」とその「先」への「論攷」に近寄っていた。
この「シリーズ」での、ただ「回顧・懐旧」とは色合いを変えた読書史、『古事記』に始まり『新井白石』まで…。成るほど、と。合点。
2023 8/21
* 起き明けに二階廊下の窓から、真東の遙かに、それは美しい「東雲の空」を眺め得た。至福の無堺で会った。感動の儘を書いた記事が、例の機械のまぐれに消え失せたとは、惜しい。
*『宗遠日乗』を、簡明にその日その日の独り私的な日録とし、「私語の刻」としての「公開意図を薄める」。私の機械操作の鈍磨は甚だしくなる一方、「私語公開」の「限界」がきている。「私のココロオボエ・メモ」の程度の日録に抑え、「思いのたけ」の「私語」は私の『日常行為』から外す。そのつもりで、日々を送り迎える。
2023 8/22
◎『論衡』抄録 王充 漢代の思想家 東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
〇 八歳で手習塾に通った。手習いが仕上がると師について『論語』と
『書経』を学び,日に千字ずつ暗誦した。經書(四書。五経などの儒教の経典)に通じ道徳も身に備わると,師のもとを離れ,筆をとっては、すぐれたものをたくさん書いた。才たけてはいたけれども、いいかげんに書きなぐるというようなことは好まなかった。弁もたったが,語るに足る相手でなければ一日中口をきかなかった。 (つづく)
2023 8/24
◎『論衡』抄録 王充 漢代の思想家 東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
〇 位は、州の所病に入って従事となった。世間に名を売る様なことは好まなかったし,損得にごかされることもなかった。自分が行き届くことは願ってはいたが,品行が第一、才能をかんばんにするようなことを恥とした。中傷されたとて辯明しようとはせず,地位が進まなくても無い恨みを持つようなことは無かった。
世間の書物や世俗の話には、納得のいかぬコトがたくさんあるので、それらが誠か詐りかを,静かな所でひとりで究明した。 (つづく)
2023 8/25
◎『論衡』抄録 王充 漢代の思想家 東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
〇 友をよくえらび、いいかげんな交わりを好まなかった。友とするのは、歳が若くても、行いが俗で無ければ、親交を望んだ。俗物を避けた。あしざまに言われても咎めも恨みもせず、何も云わず何らの陳弁もしなかった。自分には、どうなりたいとか、なりたくないとかいう思いが無いのだから、黙ったままいるのだ。孔子は「命(天命)」といい孟子は「天」と云った。吉凶安危は人に有るのでは無い、と。 (つづく)
2023 8/26
* 午前十時半。寝入っていた。心身に「元気」失せ、ハツラツとした何も無い。
書き散らした 歌の紙切れがひと塊り。記録済みか判らないが、書き写しておく。
* ネコ(我が家の初世)逝きてふた月ちかくなりゐたる吾が枕辺になほ匂 ひ居る
この匂ひ酸いとも甘いとも朝夕にかぎて飽かなくネコなつかしも
線香も残りすくなく窓の下に梅雨待ち迎へネコはねむれり 一九八四 六月下旬
大むらさき紅い小椿房やかに岩南天も先垂れてをり
あはれともいはであはれや久方の光をともに櫻かがやく
あはれともいはでやみにし人ゆゑに花ちらす風のにくまるゝなれ
あらし吹くみうちの闇にふみまよひせぜの地獄へみちびかれゆく
黒いマゴの首筋をつまみ輸液する健やかなれやもうせめて五年を
十月六日
逢ふことのたびを重ねて身をせめてあはじの關を越えぞかねつる
日脚ややに伸びて元旦の空明るし いもとせを寧樂(なら)と祝ふぞちとせまで
小椿の緋の色にふたつ咲きそめてゆたに靑葉のはれて明るし
朱鷺椿(ときつばき)莟める儘に匂ひたつ翠の七葉侍(さむら)ふまでに
可愛といふ言葉しきりに口をつく黒いマゴも朱けの椿も仔獅子三戦士も カレンダーなど
ひとつ落ちひとつのこりて姉妹(おとどい)の緋椿は今朝も咲き静まれり
一月二十七日
黒いマゴ(愛猫)の三角の耳のひとつだけ妻と寝てゐてまだ六時前
十月五日
傘の壽へとぼとぼと歩み寄る吾ら日一日の景色ながめて
たてつづけ蒲団の内へガスを撃つ病みて睡れぬ深夜のいくさ
真夜中にふと妻の手をつかみたるわれを如何ととふ吾もゐて
大根を薄切りに焼いて味噌置いて茶漬け喰わうと妻を笑はす
寒鴉カアと鳴くわれも鳴き真似す冬冴えてゐる行け寒鴉
八つ赤く一つが白き椿かな
惜しげなく花びら崩し大輪の赤い椿は地に花やげり
あらざらむあすは數へでこの今日をま面(おも)に起ちて堪へて生くべし
四月二日 生きめやもいざ
有馬山意のあら沼にふみまよひ返す情けの無きがくやしさ
ほととぎすななきそ今は亡き人の帰らぬそらに月も朧ろに
* これだけ書き出しても半ばに足りない。腰を据えて詠んだのでなく、ラクガキに近いが、結構にその時々を謡い、感じ、歎いている。「歌」であるよ。
残る半分余りは、折を見て書き取っておく。よく散らばってしまわなかった。
2023 8/26
◎『論衡』抄録 王充 漢代の思想家 東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
〇 充は、命(めい)にまかせ,時にまかせ,心を大きく持ってこだわらず、安危にとらわれることなく、死生も差別せず、吉凶に左右されることなく成敗も気にせず天にまかせてしまうので,自分から釈明することもない。
(つづく)
2023 8/27
* 昨日の「続き」を書き留めておこうか。何かしらとダヴって居るのだろうが、ま、ちっちゃな紙の切れ端にすべてが走り書き。ちっちやな挟みで括ってなければ細かな紙くずに終えて捨てられていたろう。短歌と謂うより「和歌」へ気を寄せ、「ものがたり」もをアタマに描いていると読めるものが混じる。。
〇 あしびきの山の瀬わたすかり橋の心細くも人を恋ひたし
あけぬれば来るといふなり
朝ぼらけうきもからきも川波にあらはれて行く宇治(憂事)のふるさと
夏の夜はまつに淡路(逢はじ)の風絶えてあてども波を来る舟もなし
心あてに小野の萱はら踏みわけて人とふまでのあはれ秋風
春すぎて浪速の夢もいろさめし夏の日ながに酒くむわれは
朝ぼらけ荒磯の海にましぶきて波騒(なみさい)光る吾れを喚ぶかと
さびしきにやがて孤りの胸を抱く何を此の世の旅づとにせん
瀬をはやみ言はでも洩るゝきみゆゑのなげの泪の流れやまずも
吹くからに朝原わたる小牡鹿の角かたむけて露はらふ見ゆ
村雨の月にはれゆく秋の夜の露けくも吾(あ)は人を恋ふらし
すみの江の霧の絶え間に浪よせて松におとなふ風のかしこさ
まだまだ有る、びっくり。
2023 8/27
◎『論衡』抄録 王充 漢代の思想家 東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
〇 名月の珠と石ころとが、同じ袋に入っていたとしてもその実質さえ備わっていれば、たとえ世人に混同されたとて、べつに差し支えはない。身分は賤しくとも、尊いモノと等しく操を持し、地位は低くとも、高い者と徳を競うというふうであれば、それでよろしいのだ。 (つづく)
2023 8/28
* 此の機械(久しく遣い慣れた舊機)いつ頓挫し世離れてしまうか知れない。拝むように頼んで働いて貰っているが、「新機」はベラボーにややこしく、もう一台は、今の視力には機械自体が余りに小さい。八十七歳が最新鋭のパソコンを宥め労り労りし、機械は老いて乏しい脳味噌を「舐め」たがる。
* 長めの小説は、それだけに欲深くより改良をと請求してくる。もういいか、この辺でと容易に想わせてくれない。小説を書くとは難敵と付き合うに同じい。さてさて「付き合わねば」ならない。
いま、同世代でどんな人が「書き続け」てられるのか、全然識らない。ほぼ同期の大江さんも、吉村さんや加賀さんら太宰賞の先輩も亡くなった、とか。
〇 めぐり逢ひていつも離れて酔ひもせでさだめと人の醒めしかなしみ
逢ふことの絶えてなげきのふみもみず幾山河の夢のかなしさ
人もおし吾れも押すなる空(むな)ぐるまなにしに吾らかくもやまざる
天つ風苦も憂(う)もはらへきみがためやすき陽ざしに花を咲かせて
かささぎの渡る夜空のかけ橋にわれまつ人の生けるまぼろし
あらざらむこの行く終(はて)の旅の果てと想へばさびし独り逝く道
百敷の達の山根に年ふりて人の絶えたる宮一柱
* 三日かけて書き写したこれら辛うじて散失前の「紙切れ歌」の数々は、私の「歌詠み」のさまを露わに謂い尽くしていて私自身、へえッとビックリ。根っから「和歌」にまねびて私は「短歌」を享楽していた。幼少(戦時の国民学校四年生)以来「結社」の「仲間」のという体験がまったくない、黙って読んで下さったのは、みな担任か国語の先生だけ、小学校の中西先生、中学の釜井春男先生、給田みどり先生、高校の上島史朗先生、どなたも作の全てに技術的な口出しはなさらず、お着に召したらしい作の肩に「爪シルシ」だけが着いた。結社入りを誘われたことも一度も無く、むしろ独りが佳いですと。
大學のおり、一度ある結社の短歌会に誘われ、請われて三首を提出。名無しで参加者の作全部がコピーされ互選の当票があった。結果は私の三首が一、二、三位を独占していた、なにとなくワルクて、以降、誘われても参加しなかった。
とはいえ、子規、節、茂吉らに傾倒しながらも、私の短歌はやはり「和歌育ち」を避けも、避けられもしないまま、『少年前』『少年』『光塵』『亂聲(らんぜう)』と四冊の歌集を成し、いま人生最期と覚悟の『閉門(ともん)』を成しつつある。「短歌」は私の人生で「小説」以上に身近であったということ。
2023 8/28
〇 お元気ですか、 ご体調が突然上向きにということは想像しにくいのですが、それでも残暑厳しい毎日をご無事にお過ごしでありますようにと願っています。
何かの広告で、「自分を楽しんで」というコピーがありました。たしかに人生楽しんだもの勝ちです。
秦恒平は、わたくしの知る限りで 最も自分自身であることを楽しんでいるひとであり、自分が自分であるためにこれほど苦しみぬいてきたひともいないと、そんなことを思っています。それだけのことですが、メールを書いたことがなかったのでお伝えしました。
もし叶うなら、将来数ヵ月でもいいので 京都に住んでみたいなあと妄想します。お勧めの場所はどのあたりでしょう。京都の土地勘がまるでないので、まちがえそうです。友人たちはコロナ前から あまりの中国人観光客の多さと、中国資本に古い京町屋から新築豪華マンションまで大変な勢いで買い漁られている実態に嫌気がさし、京都の不動産を売り払ったそうですが……。
京都を京都として守ること益々難しくなっているのかもしれませんね。
気の晴れないこと書いてしまいましたが、もっとも京都らしい「京都」、日本らしい「日本」は秦恒平作品の中で生き続けるので心配無用です。
お元気でいらしてください。 白川
* 私は、ま、比較的に中国の古典を読んでいて十分な敬意も払っているが、中国人の根性を、容赦なく辛辣にも把握している気でいる。『十八史略』なども的を辛辣に射貫いて徹底して中国と中国人の本性や原像を剔抉しえた古典と愛読してきた。中国には孔孟や老荘の優れた哲学がありながら土足で蹴散らしても平気なド根性で万民は「歴史」を好き放題に塗りたくってきた。「理知」などお呼びで無い、徹底した「利致」「利害」そして現世謳歌の「福禄壽」本位で権勢の威嚇をほとんど無意味化してしまうほどの距離を巧みに確保し、「生・活」してきた、いざとなれば「理」は捨て「数」で抵抗した。世界へ散った華僑は「利己」に徹して中国の、支那と志那人の、ビカビカの利己主義者としてまさに「活躍」した。いまや「京都」など絶好の彼らの美味になっていよう。日本人のお行儀では、百パーセント食いつぶされて行く。汚染水を海へ流すなどむしろ古來海岸線の長い支那のお家芸だが、今は日本への「批判」という虚勢で、「利致」の妙を決めに懸かっている。
日本の政治など、逆立ちしても、ひっくり返るだけ。呵々、嗚呼。
2023 8/28
◎『論衡』抄録 王充 漢代の思想家 東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
〇 相手のこころが求めているものを与えずに堯や舜の言葉のありたけを並べてみ、それは牛に酒を飲ませたり、馬に乾肉くわせたりするようなものだ。
あからさまなことばでないと納得しない世間に 深遠雄大に書いたり話したりしたがるのは、神仙不老不死のクスリで風邪を直そうとしたり、貂や狐の皮の美々しい着物で山へ柴刈り川へ洗濯にゆくようなものだ。
禮にも整えないでよい場合があり、事にも採りあげないでよい場合がある。
(つづく)
2023 8/29
◎『論衡』抄録 王充 漢代の思想家 東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
〇 では、どういうことを「弁がたつ」というのか。浅いものによって、深いものを理会させてやることだ。どういうことを「知恵」というのか。やさしいものによって、むづかしいものごとを理会させてやることだ。賢者・聖人は、よむひとの才能に適当なところを工夫するがえに、その文章は深い浅いの加減がうまく出来ている。 (つづく)
2023 8/30
◎『論衡』抄録 王充 漢代の思想家 東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
〇 また、 充は、さきに世間の人情を憎むところあって『譏俗』という本を書いた。また、政治が、世の、人の、なりゆくさきも分からない有様なのを憐れむ故に『政務』という本を書いた。逸話の書物や低俗な文章など、眞実でないものの沢山のを歎くがゆえに、この『論衡』という本を作ったのである。
(つづく)
2023 8/31
◎『論衡』抄録 王充 漢代の思想家 東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
〇 往昔の賢者や聖人が世を去ってひさしく、儒教の根本精神「大義」の解釈は分裂し、知ったか振りの通人では、それを正すことが出来ない。それで、心ある人たちは、飾り立てた詐りは斥け、真心の籠もった質朴さを遺し、古伝説に名高い高徳の天子「伏羲(ふっき)」の昔のしきたりなどにもどそうとしてきた、吾れ、王充も。 (つづく)
2023 9/1
◎『論衡』抄録 王充 漢代の思想家 東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
〇 充が各本は、あからさまで読みやすい。賢者、聖人のことばは雄大荘重で、美しくも洗練されていて、おいそれとは理会しにくいものだ。賢じゃゃ聖人の器量が大きすぎるのでその文章やことばが、即、世俗の耳に眼に通じにくいのだ。宝玉は石の中に隠れ、白珠は魚の腹にひそみ、珠の職人や細工師ででも無いと「採取」できない。容易でない。眞実の言葉もまた然り、容易には計り難い。充の著『譏俗』も、この『論衡』も、如何。 (つづく)
2023 9/2
* 二階廊下の窓開けて眺めた、真東、遠く遠くに朱(あけ)に燃えて棚引きに流れた、文字通りの「曉雲」「「東雲(しののめ)」颯爽の力みちみちて「美しかった」ことは。
早起きの、徳よ。
2023 9/2
* 自作ながら、発表して即「芥川賞候補」にあげられ、瀧井孝作先生、永井龍男せんせいからともに「美しい、美しいかぎりの小説」と声をそろえ激賞し推薦して戴いた『廬山』を読み替えも閉ちゅ、声を放って泣けた。私のこんな意識よりはもかに以前、早くより実兄北澤恒彦(生まれてより一つ屋根に両親兄弟で暮らした覚えの、全然無い兄)が指摘して呉れていたように、今して、脱稿初出より優に五十㊿余年、初めて「啼いた」の゛ある。身の深くに備わってきている阿弥陀如来への信仰と亡き生みの両親、育ての両親や兄恒彦への哀悼が地から噴くくように共鳴してきたものか。読み貸す機會をつくりえて、良かった。
20223 9/2
◎『論衡』抄録 王充 漢代の思想家 東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
〇 『論衡』とは、論の{平}(はかりで重さをはかること)ということ。口を開けば、その任務は「ことばをはっきりさせること。筆をとるなら、文を平明に書くこと。 (つづく)
* 「平」とは はかりにかけて 「恒」に 均衡をえること とか。へッ。私の、即ち「恒に平」とは、目映いほどの名乗りぞ。
* 狭い暑い我が家をうろうろと「疲れ増し」にうろついては、「必要な妄想」との出逢いつづけを願っている。妄想してこそ正気が實は正気の「はみ出し」と分かってくる。生まれ落ちたその時から「はみ出し」続けてきた、其処がつまりは親しむべき「世間・世の中」なんだ。
2023 9/3
◎『論衡』抄録 王充 漢代の思想家 東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
〇 およそ文章は用語次第、浅くて露骨で、ハッキリしてるも有り、深くて回りくどく、お上品なのも有るが、文字とことばとは、おもむくところはおなじなのだから、へんに趣意手指を飾ったり隠したりなどしないのがいい。
およそ、口での論議は、はっきりしているのを「公(明白)」といい、筆によるあからさまのを「通(よくわかる)」しいい、役人の文章は明快なのが良い。深く秘めて上品で有り、趣旨が摑みにくくてもよいのは,ただ「賦」「頌」だけである。 (つづく)
2023 9/4
◎『論衡』抄録 王充 漢代の思想家 東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
〇 秦の始皇帝は、韓非子の本を読んだとき、ため息をついて、「ひともあろうに、この人物と時代をともにすることができなかったとは」と嘆息した、と謂う。韓非子の文はわかりやすいのだ。
およそ、筆で書こうというひとが、わかりやすく書きたいと思っても、それはむずかしいこと。口で論じる場合にも、はっきりととして聴きとれるようにつとめ、深遠、わけが分からないような具合に気取ってはならぬ。
文章を評価するには、意味が分かりやすいかどうかに依る。 (つづく)
2023 9/5
* 夫婦でない両親に生まれて、一つ家に暮らした覚え全く無く、一つ遭うの兄とも全く無く、気がつけば、四歳ごろか、京都の「ハタラジオ店」の「もらひ子」になっていた。
そんな身の上からも、わたしは昔から夢見ていた、いつか、いい妻に出逢い、息子に優しい「お嫁さん」が出来て、可愛い孫を抱かせて欲しいと。
幸い佳い妻は得た、が、「お嫁さん」も「孫」も現にいない。せっかく私を貰い育ててくれた「秦家」は、心から秦の両親や叔母に申し訳ないが、建日子独りで「絶えて」しまう。八十八の齢を目前に、「運命」という二字がきつい針のように身を刺す。愚痴か。愚痴と思う、が。悟った顔はしない、が、何となく悲しくなり、悟らない爺は、小学生時期にじしん発明した「身内」「眞の身内」という「想い到り」が恋しくなる。すべて「罪は、わが前に」しかし「眞に身内の思い」で慕い愛した思い出が、ある。忘れない。「世間」があり、「他人」がいて、そこから「眞の身内」が得たい。「得られた」という実感がもてていた。おさなかった「もらひ子」は懸命にわが「眞の身内」を尋ね尋ねて「少年」になり、「うた」を詠み初めていたのだった。
2023 9/5
◎『論衡』抄録 王充 漢代の思想家 東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
〇 「論」には正しさが尊ばれる。「事」は、当を得るのが良く、他人と合うのを尊いとするのではない。「説」たてて当否を明らかにしようとするなら、、世俗の声などに惑わず、ただ偽りを取り除き、信実を起てようとすべし。
(つづく)
2023 9/6
◎『論衡』自紀篇抄録 王充 漢代思想家 東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
〇 堯や舜のの聖典を五代の権勢はみようとしなかった。孔子や墨子のしょもつを季孫も孟孫も詠もうとはしなかった。世を治めるに足る至言は、俗世間はけなしこそすれ、受け容れない。正しいとするものがとりしかいないような言葉は俗世は好まない。大衆をとまどいさせるような書物は、賢者は手にしても、世俗はごめんを蒙ってしまう。 (つづく)
2023 9/7
* 早く起きたからと謂うて、仕事が出来るわけでない。
* 「湖の本」の用意に『隠沼(こもりぬ』という小説を読み返していた。ヒロインに濃やかに懐かしい想いが凝っていて、読み返すのがすこし辛く怕くなる。生けるヒロインと書かれている仮構のヒロインの、もう、とうにとうに両方に死なれ死なせている。ああ、そろそろ呼びに来たのかと思い、なぜか「まあだだよ」と応えにくい。場面と情感を切り接いだような作柄、私には稀か、珍しくもないか、咄嗟に判じられない、ただ懐かし「すぎる」自作だけになかなか読み返そうとしてこなかった。「龍ちゃん」の死は、現実にも作中でも痛過ぎるほど早過ぎた。
2023 9/7
◎『論衡』自紀篇抄録 王充 漢代思想家 東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
〇 文章というのは、切りつ詰められて筋の通っているのが貴ばれ、ことばも簡素に意味のはっきりしたのが良いとされる。言葉を切りつめると話しやすいし、文章がごてごてしていると納得しにくい。
眞実の言葉は多弁でなく、派手なに文章は眞実でない。けれども、世間の役に立つものならば百篇も害なく、役に立たないならば、一章たりとも足しにはならぬ。 (つづく)
2023 9/8
◎『論衡』自紀篇抄録 王充 漢代思想家 東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
〇 およそ「気(万物生成のもとである兄の感応体)」が徐々にではなくて突然に発動するのを「変」といい、「物」が類を外れて勝手に生起するのを「異」とう。また、いつでもあるわけでない不意に現れるのを「妖怪」といい、ひとびとをたぶらかし飛び出るのを「怪」という。才が優れていても伸びられないのは、そういう時節に出会ったがためだ。「士」は立派であればこそ一人で立ち上がるのであり、、物は貴くあればこそ単独で産出するのだ。奇才の士が現れたり、卓絶したことばが出されたりしても、その尺度は世俗に合わず、なみの枡でははかる術も無い。 (つづく)
2023 9/9
* 今、何時なのかを心得ない。時計を観る。六時三十五分。それが朝なのか夕方、認知していない。日記の書きようからシテ朝かと想うが、調色したとは覚えず、私同様か、それ以上に妻の体調の違和が濃い。こういうとき、こっちもフラついている私に適切な手伝いが出来ない。こんな際の「嫁たのみ」が「時代遅れらしい」とは心得ている、が、それでも、たとえ一時でも素早い助力があればなあと嘆息する。
娘の朝日子とは孫「やす香」の病死を機縁に「切れ」ていて、もう多年私は娘の現状の片端も識らない。幼来多年「父の虐待」の被害を受けたと「父の私を法廷の被告席に立たせた娘」である。深く深く愛しこそすれ、なんで子煩悩を笑われた私があの「朝日子ちゃん」を虐待するものかと、知人はみな呆れて首を横に振るが。
弟の建日子には、「妻」と戸籍上も決まった人と紹介されたことも「結婚式」という儀式も紹介されたこともない。真面には緊急時の助けも願えない。顔が合うのは、正月、建日子と連れて我が家の雑煮を祝いに来る、事実として、只それだけの縁、なまじいに、なみの友人知人よりも、支援を頼みづらい。公共の支援を期待し依頼のほか無いということ。
* 幸いに助言や示唆はあれこれ貰えている、それに従わざるを得まい。
* 私は小学校の内に、ひとはみな、みはるかす大海洋に無数に散点する人一人が起てるだけの小島に「生まれる」のだと悟った。そしてよびかわし呼び交わし、人は人間たちを「身内」「他人」世間」と認識し、眞の「身内」とだけ、一人でしか起てないような「島に」倶に起てるのだと「観念」した。血縁や肉親を私は、生まれながらに喪っていた私は、ひたすら「眞の身内」に出会おうと努め生きてきた。よかったと確信している、
2023 9/9
* 何をしていたのか、何が出来たのか、自覚が無い。階段の最上階で前のめりに横転して撃った右腰の瘤に成った痛みが脱けない。何とも自分が頼りないままもう午になるらしい。何が急ぎのようだろう。
①「湖の本 165」「あとがき」を送らねば。
② 仕上がり近い長編を仕上げたい。
③ 「湖の本 166}を編輯し、前半と後半の原稿を用意せねば。
これぐらいを頭に入れていれば、いい。
* 心身のよわりのせいか、亡くなっている懐かしい人等のことが想い出されてならない。呼ばれていると感じるのは私の弱りで、みな、まだ頑張れよと言うて呉れる。それを聴かねばと思う。
* 九時半。もう視力が失せている。
2023 9/9
◎『論衡』自紀篇抄録 王充 漢代思想家 東洋文庫 大滝一雄譯 秦が,抄。
〇 ひとの生命には長短はあるにせよ、生死は一時のことに過ぎぬ。年齢が尽きてしまえば、誰もそれを留められず灰土と消えて果てる。寿命が延びることは無い。
(王充は「なんと悲しいではないか」と結んでいるが、それが「自然」なのだ。じたばたして何になろう。) (コレで結んでおく)
2023 9/10
* もう、私の「書き仕事」はほどなく「断念」せざるを得まい、「独想・静思」に無事に落ち着きたいが。
* ま、いい夢に部類できたのに、記憶からは消亡した。そういうモンだ。
2023 9/10
* ホームページの復旧を望まれ、私も望んでいる、が、私の機械操作では何ともしようが無い、情けない。深切な助け手を待つしか無い。
* 小説 ことに長い小説はとても歌詠みとは同断で無い。ことに長い小説を周到に「読み直す」のはおおごと。軸はもとより、句読点の一つ一つまで思い直す。私はそうする。
そんな気振も見えぬままだらしなく書かれた日本語にコトに「小説」で出会うと情けない。
2023 9/11
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を「明治」からはじめ気儘に、冒頭のみ。作者等の詳細は識らない。これは品川彌二郎の作詞か 真っ先に「トンヤレ節」を。節は、兵士たちからの自然発生か。
◎ 宮さん宮さんお馬の前に
ヒラヒラするのは何じゃいな
トコトンヤレ、トンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの
錦の御旗(にしきのみはた)じや知らないか
トコトンヤレ、トンヤレナ
〇 大将軍有栖川宮さんを先頭に「薩(摩)長(州)土(佐)」が意気揚々最期の江戸城を屈服せしむべく東征のおりの、たぶん軍中の知恵者が率先全軍に囃させ、軍歌めく口ずさみが民衆にも大流行したモノか。六番ほど有ったようだが、私ら幼少には一番で足り、「宮さん宮さん」という京風・御所風な呼びかけに親しみを持っていた。
囃子詞がどこから出たか分からないが。江戸攻めを「とことん、やれ」というけしかけであったか…どうか。
2023 9/12
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。作者等の詳細は識らない。
「ノーエ節」を陽気に想い出す。「農兵節」か。
◎ 富士の白雪ゃ、ノーエ
富士の白雪ゃ、ノーエ、富士の サイサイ
白雪ゃ 朝日でとける
解けて流れて ノーエ
解けて流れて ノーエ 解けて サイサイ
流れて 三島にそそぐ
三島女郎衆は ノーエ
三島女郎衆は ノーエ 三島サイサイ
女郎衆は お化粧がながい
お化粧ながけりゃ ノーエ
お化粧ながけりゃ ノーエ 三島サイサイ
ながけりゃ 大客が困る
自然発生ふうにもっと長いらしいが、子供時分は一、二番だけ。農事に携わる傭兵等の労働歌か、酒の席にはさぞ向いていたろう。中の洒落者のふとした口ずさみが大受けしたかと想う。
2023 9/13
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。作者等の詳細は識らない。
「オッペケペー節」は川上音二郎が「作詞」して、爆発的に唱われたとも、小声でだろう、とも。如何にもいかにも「明治」の唄声である。「主題付き」なのが佳い。
〇 「権利幸福嫌いな人に、自由湯(とう)をば飲ましたい」
オッペケペ、オッペケぺッポー、ペッポッポー
かたい裃(かみしも)かど取れて、マンテルズボンに人力車
いきな束髪ボンネット、貴女に紳士のいでたちで
うわべの飾りは立派だが
政治の思想が欠乏だ
天地の真理が判らない
心に自由の種をまけ
オッペケペ、オッペケぺッポー、ペッポッポー
2023 9/14
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。
〇 「第三高等学校校歌」 澤村胡夷 作詞・作曲
紅(くれなゐ)萌ゆる岡の花 緑の夏の芝露に
早緑(さみどり)にほふ岸の色 残れる星を仰ぐ時
都の花にうそぶけば 希望は高くあふれつつ
月こそかかれ吉田山 われらが胸に湧き返る 以下 十一番迄
* 此の欄の趣意としては早や「脱線」を承知で。
私が生涯で最も早く「憧れた」のは、国民学校(小学校)を出たら京都一中か二中を経て、あの吉田山の「三高」に合格し、美しい校歌「紅萌ゆる」を「わがもの」にうたうことであった。「校歌」に惚れていた。
だが、敗戦。学制も「六・三・三(小・中・高)制」に変わって夢は「泡」と消えた。
私は、試験を受ければ必ず受かる京都大學には、「気」がまるで無かった、当時火炎瓶だのデモだのの騒がしさも好まなかった、受験はせず、ためらいなく高校三年までの成績優秀の推薦で、三年生二学期の内に「同志社」への無試験入学を決めた。京都御所の静謐にひたと接した、あの「新島襄」が創立の「私学」、赤煉瓦の建物も美しいキャンパスも気に入り身も心も同志社に預けて、以降を、自由自在に私は「京都」の久しい歴史と山水自然のこまやかな美しさへ「没頭」した。「小説家」「歌人」へと「七十年の道」がもう見えかけていた。
2023 9/15
* 馴染みの「唄」番組があり、歌唱プロらしい正装の男女が合唱してくれる。
今日、「青い月夜の浜辺には」という唄を妻と聴いていて、私は嗚咽を忍べなかった。泣き出した。
子供の頃、養親たちや人に隠れ、孤りこっそりと口に唱う唄だった、泪を流しながら。街育ち、「青い月夜」も「浜辺」も「濱千鳥」も識らない、が、「親をたづねて(さがして)啼く」小鳥とは、数歳から幼稚園、国民学校一、二年までの「私自身」に相違なかった。生母があり実父があり「夫婦でない」大人たち。家出傍に居る秦の祖父も両親も、叔母も「もらひ子」してくれた人たちとだけは「知らされずに」も、幼少、感知し察知していた。唄の{ハマチドリ}には成りたくなくても;以外の何でもない、あり得ない幼少だった。此の手の唄には、過剰にも弱かった。
今にして思う、私には幼・小・中・高・大學の何時時期にも「親と慕い」「愛された」先生方がおいでだった。「あおげば尊し」「わが師の恩」を私は、もったいないほど戴いて来れた。決して忘れない。
2023 9/15
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。
〇 『デカンショ節』 東都の一高生らが民間へも流行らせたとか。
デカンショ デカンショで 酒は呑め呑め 茶釜で沸かせ
半年暮らす ヨイヨイ ヨイヨイ お神酒あがらぬ神はない
あとの半年ゃ寝て暮らす ヨーイヨーイデッカンショ
ヨーイヨーイデッカンショ 以下 延々
* 「デッカンショ」の囃子は、丹波篠山の盆踊りからと謂われ、しかもいろんな解釈も連れ加わって酒の肴にされたと。「デ」カルト、「カン」ト、「ショ」ーペンハウエルの頭(かしら)を借りたなど、伝わり聴いても面白かった。
2023 9/16
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。
〇 『人を恋ふる歌』 与謝野寛(晶子の夫) 作詞デ
妻をめとらば才たけて ああわれコレッジの奇才なく
眉目うるわしくなさけある バイロンハイネの熱なきも
友をえらばば書を読みて 石をいだきて野にうたふ
六分の侠気四分の熱 芭蕉のさびをよろこばず (他に幾番も)
* 才もなく眉目うるわしくもないが、「なさけ」はふかい方の「妻」と信頼してきた。
「書を読んで」書ける「友」には嬉しいことに、コト欠かない。
昨日も留守中、寺田英視さん(文藝春秋「文学界」等の編集者を経て「専務さん」まで)の新著『泣く男』が贈られて来ていた、倭建命にはじまり、大伴家持、有原業平、源三位頼政、木曾義仲、大楠公、豊太閤ら、さらに吉田松陰にまでも「男泣き」の系譜を「古典」からも論攷されている。いかにも「寺田さん」であるなあと、読み始めへの興味、はや溢れている。
この寺田英視という久しい「友」こそが、すでに「165巻を刊行」して、なおなお続く、世界にも稀な『秦恒平・湖の本』刊行を「可能」にと率先「凸版印刷株式会社」を紹介して下さった、それなしに「湖の本」がもう40年近くも途切れなく刊行しつづけられたワケが無い。「わが作家生涯」のかけがえない恩人であり久しい読者のお一人なのである。心して明記しておく。
2023 9/17
* 零時過ぎには機械前に居て、いま真夜中三時過ぎ、手洗いに立ってそのまま、機械の前へ来てしまった。寝るより、起きてしまいたかった。蛇行する長い小説を脱稿へ追いたてたい、そのために。
此の作には、私自身抱いている或る「懐かしみ」が溶け入っている。
* も一つ、この際特記しておこう、「作家秦恒平」の久しい読者の、半ばを大きく越し「女性」の支援に強く支えて戴き続けていること。
「秦恒平の文化論」の個性と謂えば、京都に生まれ、育ち、学び、以降書きつづけて久しい「日本」の『女文化』論に極まるのでは。
寺田英視さんと対照になるが、私は生涯「女」に敬意と親愛と批判を呈上し続けてきた、
強いて標語にすれば「男はきらい、女ばか」となる。この「ばか」一語の秘奥を読み解いて貰えねば「作家・秦恒平」論は「山」を越えまい、か、な。
* とにかくも 孜々として「読み・書き・本を読んで・創作を」先へ先へ伸ばしたい。如何にも体調は「自壊進行中」の心細さであるが。
投げ出すまいよ、挫けて。
「寝入って、休む」のが、結局は「薬効」になるか。とにかく、やすもう、と思いはするけれど、も。晩、八時過ぎ。ウーン。
2023 9/17
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に> 歌詞の一、二番のみ。
〇 『戦友』 真下飛泉・作詞 三善和気・作曲む
一、 ここは御国を何百里 二、 思えばかな昨日まで
離れて遠き満州の 真っ先かけて突進d
赤い夕日に照らされて 敵を散々懲らしたる
友は野末の石の下 勇士ははここに眠れるか
(十二番まで)
* この歌が 少年私の気に入っていたか。好きで唱ってたか。
いいえ。ノーである。「戦死兵」を痛み悲しむばかりであった。「御国を何百里」の「遠き満州の」「野末に」独り葬られた兵隊さんの、誰より家族遺族の身になった。「敵を散々懲らし」て日本「国の手」が収めて行く「満州」とは何であったか。私自身すこしずつ成長し、そしていろいろに読んで聞いて蓄えた「大日本帝国ないし皇軍」の意図や所業は、子供心にも剣呑な自利自欲・征伐征服欲のあまりな露呈、とても「勇ましい」とは思われず、其の爲に「満州の土」と化し孤絶に戦死する兵隊さん、また強い日本の兵隊さんに殺される側の人たちのことも、ごく当たり前に「無慚にも意味なきこと」と思われた。
「兵隊さんには成りとない」というのが、こういう歌から受け取った幼少負荷のメッセージだった。しかと「書いて」おく。
2023 9/18
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に> 歌詞の一、二番のみ。
〇 『スカラー・ソング』 神長瞭月・作詞 (「箱根の山は」曲で唱った)
なんだ神田の神田橋
あの九時ごろ見渡せば
破れた洋服に弁当箱さげて
テクテク歩きの月給九円
自動車飛ばせる紳士をながめ
ホロリホロリと泣き出だし
神よ仏よく聞き給え
天保時代の武士(もののふ)も
今じゃ哀れなこの姿
麻糸つなぎの手内職
十四の娘は煙草の工場へ
においはすれども刻葉(きざみ)も吸えぬ
いつもお金は内務省
かこそあねなれ 生存競走の
活舞台
* 当時三銭の電車賃が四銭に値上げで「焼き討ち事件」が起きていた。貨幣価値はむちゃに混乱、明治二十三年に建った「浅草の十二階」施工費は「月給九円(食えん)」の時節に「五万五千円」。わずか前「天保」の二本指しお侍達は廃刀令のもと、金主だった主君とも縁が切れて飯も「くえん」窮乏をかこち歎いていた。士農工商は逆転、「士」は落ちぶれ「商」が力を付けてきた。
2023 9/19
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に> 歌詞の一、二番のみ。
〇 『ハイカラ節』 神長瞭月・作詞
ゴールド眼鏡のハイカラは
都の西の目白台
ガール・ユニバシチ(女子大学)のスクールガール(女学生)
片手にバイロン、ゲーテの詩
早稲田の稲穂がサーラサラ
魔風戀風そよそよと
歩みゆかしく行き交うは
やさしき君を戀し川 (小石川か)
背(せな)垂れたる黒髪に
挿したリボンがヒーラヒラ
紫袴がサーラサラ
春の胡蝶のたわむれか
〇 二番は、おそらく「御茶ノ水」か。『魔風戀風』という通俗な新聞小説が爆発的な人気を得ていた頃。
2023 9/20
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 演歌『おえどこ節』
おいとこそうだよ墨田堤を三人連れ立つ女学生
モスト・ビュテイ(一番美人)で目に付くレディ(令嬢)は 人も知るな り駿河台 紅葉學校のセコンド・クラス(二年級) 姓は月岡名花子 滴 るばかりのその愛嬌を 双の笑窪にに噛みしめて 歩む姿はエンゼル・ス タイル(天女型) おいとこそうだよ
* 「のんき節」などとともに、世上に字義のまま、まさに「演歌」が唱われ流れた、大正時代。ラジオやレコードの未だ無い時代には「演歌」が唯一、唄、唄の伝え手であった。だが、「演歌」は、もとは明治半ばのの『政治運動』に胚胎されていた。しだいに「評判」という意図から「唱って」「伝え」「広げる」社会性。忘れがたい意欲の根も葉も感じ取れる。
2023 9/21
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 演歌『ノンキ節』 添田唖蝉坊 作詞という
学校の先生は豪(えら)いもんじゃそうな
えらいからなんでも教えるそうな
教えりゃ生徒は無邪気なもんで
それもそうかと思うげな ノンキだね
成金という火事ドロの幻燈など見せて
貧民學校の先生が
正直に働きゃみなこのとおり
成功するんだと教えてる ノンキだね
* バイオリンの哀愁の旋律などを伴奏に第一次大戦後の光景が生んだ「成金と成金と貧民」との懸隔は大正初年に際立った。「ノンキ」という皮肉と苦渋の「批評」が誰の身にも滲みたのだ。
2023 9/22
〇 『湖の本164少女 』をご恵送いただき、誠に有難うございました ”始筆書き下ろしの「創作」”或る折臂翁を拝読、戦中・戦後にまたがる話の院櫂に惹かれました。初樹の父・弥繪・康岡それぞれの人格が゛心に迫り、崖が重要な役割を持つ構成と結末の急展開に驚かされました。白楽天詩からの発想にも独創性を感じました。秦さんの幼稚園生にして真珠湾攻撃を無謀と案じ、ぜったい「兵隊さん」になりたくなかったとの感覚は凄いと思いました。「不敬」「非国民」といった言葉が散見し、何の留保も無く自衛隊への好意的な論調が流通している昨今に危機感を持ちます。 励 名誉教授
* 此の、祖父鶴吉旧蔵、國分青厓閲 井土靈山選『選註 白楽天詩集』(明治四十三年八月四版)を手にした国民学校時期に巻中の七言古詩『新豊折臂翁』加えてに感動的に出会ったのが、加えて敢えて云えば「敗戦前に戦時疎開」していた丹波の山奥の借り住まいで、裏山深く独り登って見つけたある「崖」の誘いが、この、作家生活へ向かう第一筆処女作の「原点」となった。作家になってからも直ぐには世に出さなかった。期するあり、温存していた気がする。
いま此の様な「的確な読後感」を頂戴できたことを、生涯の喜びに数えたい。佳い「詩集」を遺して行ってくれた畏怖に値した秦鶴吉祖父に深く深く感謝している。秦家へ「もらひ子」された幼少はまことに幸福であった。
2023 9/22
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 演歌『船頭小唄』 野口雨情 作詞 中山晋平 作曲ノ
一、おれは河原の 枯れすすき 二、死ぬも生きるも ねえおまえ
おなじお前も 枯れすすき 水のながれに なにかわる
どうせ二人は この世では 俺もお前も 利根川の
花の咲かない 枯れすすき 舟の船頭で暮らそうよ
* 陰気な唄の代表のように、幼少の胸にも、冷ややかにもの哀しく蟠るメロディだった。メロドラマという言葉を覚えたとき、まっさき、まっすぐ喉元へ戻ってきた唄であつた。船頭さん夫婦が気の毒とさえ思った。好きになれないメロディで、歌詞であった。
2023 9/23
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『鯉のぼり』 文部省唱歌
一、甍の波と雲の波
重なる波の中空を
橘かおる朝風に
高く泳ぐや鯉のぼり
〇 二番以降の歌詞はくどくて戴けないが、一番は胸の奥まで颯爽と澄むようで、「唄」「歌詞」の代表作の一つに数えていた。それは音韻の晴朗な連鎖・連繋に由来していると、子供心に「カ行音」の配置、「ア行音」の設置に、それがもたらす歌詞世界の明瞭を汲み取っていたから。和歌でも短歌でも俳句でも詩でも文章でも「カ行音」「ア行音」を一に心しているといないでは「唄」としての印象に大差が出る、と、私はこんな『鯉のぼり』をうたっていたころから感じ、感じ入り、教えられていた。「カ行音」「ア行音」そして「ハ行音」の配置の効果に無知・無神経な詩人歌人文人は、「ことば」という「こころ」の濁りに無神経なのである。
2023 9/24
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『朧月夜』 文部省唱歌
一、菜の花畠に 入日薄れ 二、里わの火影も 森の色も
見わたす山の端 霞ふかし 田中の小路を たどる人も
春風そよ吹く 空を見れば 蛙のなくねも かねの音も
夕月かかりて におい淡し そながら霞める 朧ろ月夜
〇 この唄で歳幼かった私は「日本の国土と言葉」とを深く美しく教えられ学び取った。これが「日本と日本人」の最も普段に平和な「生活」であり「景色」であった、今もある、のを悟るほどに信頼した。今日謂う街なかから小さな山村へ戦時疎開して、私のそう謂う感覚や理解が誤っていないと直観した。佳い教科書と美しい詩情とにふれる嬉しさを、私はもうこの老耄にも忘れていない。
2023 9/25
* 私の『廬山』を読んだ。感動して泣いた。「小説」を読んで、心底湧く涙に斯く深く動かされた覚えは無い。芥川賞に強く推して下さった瀧井孝作先生、永井龍男先生ともども国を極め、「美しい小説、まことに美しさを極めた小説」とまで推奨して下さったのを想い出しながら、久々一気に読了した。「代表作」と何方からも推されてきた、納得できた。吉行淳之介ですら、外に思惑有って芥川賞にはおさなかったけれど、「廬山」よかつたよと、或る会合で、わざわざ寄ってきて云って呉れたのが懐かしい。
2023 9/25
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『カチューシャの唄』 島村抱月・相馬御風作詞 中山晋平作曲
一、カチューシャ可愛や 別れの辛さ
せめて淡雪 とけぬ間に
神に願いを ララかけましょうか
〇 「カチューシャ」が人の、女の、名らしいとは察しても 他の何ひとつ 一切を識らないで、ただ聞き覚えに「カチューシャ可愛や」と唱っていた。大正の名女優松井須磨子が舞台でうたったとも識りようのない、昭和十年代の、国民学校下級生時期の私だった。トルストイ、『復活』といった背後の文学史には遅そ遅そに追いついていった、トルストイの「戦争と平和」「アンナレーニナ」「復活」こそが世界三大名作なとも追い追いにおぼえては「讀書」の大目標にしていった。実感として『アンナカレーニナ』が一、『戦争と平和』が継ぐと評価し、『復活』はやや気重もであった。そんな知識とは未だ全然触れ合うたことのない、ただの耳に入った流行り唄をうたっていた。カチューシャの「カ」という音のきれいな反覆を好感していた。
2023 9/26
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『新金色夜叉』 後藤紫雲 宮島郁芳 作詞」
一 熱海の海岸散歩する
貫一お宮の二人づれ 四 いかに宮さん貫一は
共に歩むも今日限り これでも一個の男子なり
共に語るも今日限り 理想の妻を金に替え
洋行するような僕じゃない
二 僕が学校卒(おわ)るまで
なぜに宮さん待たなんだ 五 宮さん必ず来年の
夫に不足かできたのか 今月今夜のこの月は
さもなきゃ お金が欲しいのか 僕の涙で曇らして
見せるよ男子の意気地から
三 夫に不足はないけれど
貴郎(あなた)に洋行さすがため
父母の教えに従いて
富山一家に嫁(かし)づかん
〇 尾崎紅葉の『金色夜叉』は新聞小説空前の大ヒット作、この唄も、私のような学校前の幼童でも口にした、つまらない唄とバカに仕切って。そしてもう成人し、紅葉の他の秀作など識るにつれ「読んでやるか」と読み出すと、コレがたいした文章の秀作力作だった、私は「尾崎紅葉」が「幸田露伴」と並んで「文豪」とされるのに承服する
2023 9/27
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『赤い靴』 野口雨情作詞 本居長世作曲
赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて
いっちゃった
〇 自身の口には滅多に載せなかったが、かなり強く意識して忘れがたい唄であった。私は昭和十年(一九三五)歳末に生まれ、大東亜戦争は昭和十六年(一九三六)十二が八日、日本軍の真珠湾奇襲て始まった‥私は送り迎えのバスで京都幼稚に通っていた、翌る年四月に有済国民学校一年生に成った。戰争前の私はちいさかったが、家の間を往来する異人さんは見知っていた。我が家「ハタラジオ店」の有った知恩院下の新門前通りには「異人さん」を客に向かえる美術骨董や日本衣裳の店が転々と建ち並んでいて、蹴上の都ホテルなどに宿泊の異人さんらの決まって立ち寄る通り道だった、異人さん店をのぞかれることも、声かけられる子供達もいた。「赤い靴履いた女の子」を見た記憶は無い、が、大人に手を牽かれ通ってってもちっともふしぎでなかった。二番に出てくる「横浜のはとばからふねに乗って 異人さんに連れられて等吏手いっちゃ」う光景とは無縁だった。だが、なんとなく「いっちゃ」うのは、つまらなくイヤであった。あの気分に今でも帰れる。
2023 9/28
* ただもう息を詰め根を詰めて、「もののかたち」へ「かたち」へと押して行く、それが「仕事」。キンキン、カンカンの姿勢では宜しく無い、どこかにんに「安穏」という「ノン気」が働いてないとガチガチになる。ユルフンとガチガチは仕事の大敵。両方も仕事の「ハカ」の邪魔に成る。
2023 9/28
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『ローレライ』 近藤朔風 譯詞 ジルヘル作曲
三、 なじかは知らねど心わびて
昔の伝説(つたえ)はそぞろそろ身にしむ
寥(さび)しく暮れゆくラインの流れ
入り日に山々 あかく映ゆる
二、 美(うのわ)し乙女の巌頭(いわ)に立ちて
黄金(こがね)の櫛とり身の乱れを
梳きつつ口吟ぶ歌の声の
神怪(くすし)き魔力(ちから)に魂もまよふ
〇 敗戦後新制中學の一年、いや二年生の音楽教科書に載って居て、音楽の時間に音楽室で習った。まことにつまらん歌だと、譯詩の平凡にもイヤ気がした。なんで戦後日本の自主性・社会性・民主主義をと日々叱咤激励されるわりにはあまりアホらしいたわいない歌だとクサシていた。
ところが、である、その翌年の全学年より揃うて講堂での集会に、音楽の小堀八重子先生、嚴として、その全学集会で「ローレライ」を「独唱せよ」と。誰が。私が、である、マイッタ。音楽教室で、うちの組だけの音楽の時間なら、期末試験がわりに、みな、一人一人唱わされることはある、だが、ちがうのだ、それとは。京都市内でも人に知られた立派な大講堂の檀上で、先生のピアノ伴奏で「独りで唱え」と。「ローレライ」をと。講堂には、むろん全校生が倚子席にぎっしり。青くなり赤くなり、へどもどしたが、こういうときに断乎とニゲル気概と意気地がない。
じつを謂うと、同様の全校集会が前年のおなじ時期にもあり、そこで、やはり広い講堂の壇上真ん中でうたった上級生女子がいた。歌は、「春のうららの隅田川 上り下りの舟人は」という春の歌、唱った三年生女子は、一年下の私の、心から「姉さん」と思慕し敬愛していた「梶川芳江」だった、食い入るように舞台の「姉さん」を見つめ、美しい歌声を全身に体していた。その思い出があり、一年後に私に唱う役が与えられのにも、こりゃ困ったと閉口もしつつ、けれどあの卒業していった「姉さん」の「跡を継ぐ」のだからと、じわっと昨年を懐かしんだのである。あの聰明に優しかった「姉さん」も亡くなった。こんな妙チキリンな述懐を天井で微笑していることか。
それにしても『ローレライ』には歌詞も曲も馴染まなかった。以降も此の歌を口ずさむコとは絶えてなかった。だが、アレ、わが弥栄中学三年間の一のハイライトではあったなあ。とちりもせず、調子も外さずとにかく唱い終えたのだもの。
◎ めぐり逢ひていつも離れて酔ひもせでさだめと人の醒めしかなしみ
2023 9/29
* 至急を要する創作・出版上の要件・要事が波だつように逼っている。すべて解決する以外に余の前途が無い。
で、今朝から一つの「關」を駆けて脱けた。終幕の大きな山が残って居るのは、もう突貫あるのみ。
「湖の本165」の確実な「責了」を確認し、「166」の充実の「入稿」を精確に果たしたい。その辺が私「米寿」への足取り、老耄に怯えないで敢闘したい。「歯」が植えもした実なくて醜くても、ほどほどに食べられるし酒も旨い。私の見た目など、論の外。私の書けること、よく書けること、「湖の本」をありがたい全国の読者のみなさんに「差し上げられ、送り続けられる」なら上乗。私たちは、幸いに、お金を稼がねばという暮らしをもう前々からしていない。
何方でも、既刊165巻以降續巻の『秦恒平・湖の本』なら、ご希望の方、どんな欠番分であれ、全巻であろうとも、ご希望の方には「在庫」の限りは「無料呈上」する。できる。
* これぞ耄碌 印刷機械の操作も忘れてできず、それでもメールでんそうという手段を頼んで「湖の本 165」の「あとがき原稿を、書き上げて印刷所へ贈った。校正を終えた本紙と表紙とは明日にも郵送して「責了」。まず、十月下旬までに送り出せるだろう。しかし「もの忘れ」の被害や故障は今後ぞくしゅつするだろう、そのコトとの「いくさ」が新たに始まるのだと覚悟。
* いやあ、まあ、よくがんばったものだが、遺制に見れば、従來から見れば 何のたいしたことではないのだ。余儀ない必然から、けわしい老耄の「いくさ」」なるが、平和外交を心がけたい。
あとがき
ごく初期作から、自愛の「三作」を今回、巻頭に置いた。誰の場合も同様と思われるが、いわゆる「初期作」には、「作家」なる文士と世ひとのまだ識らない「以前」の作と、作の熟れる「作家」と識られて「以後」の作とがある。前回「湖の本 165」の巻頭『少女』『或る折臂翁』は九年も「作家以前」の、純然「処女作」であった。
今回の三作は、一九六九年桜桃忌に筑摩書房「展望」誌に寄託の作『淸經入水』がはからずも井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎。中村光夫ら選者の満票という強い推薦で「第五回太宰治文学賞」を受賞して以後、雑誌「展望」「太陽」等々に依頼されての「初期作」である。
今回巻頭の『廬山』は、最初、雑誌「新潮」から「作品持参で社へ」と呼び出されたが、私の気持ちがどうも折り合わず、作を引き揚げ、新たに筑摩書房「展望」に預けると、即、無傷で掲載され、さらに即、「芥川賞候補作」となった。芥川賞選者ではなかでも瀧井孝作、永井龍男が口を極め、「美しい、美しい限りの創作」と強く推され、受賞こそ成らなかったが、同じ選者の吉行淳之介、井上靖らにも後日、「『廬山』よかったよ」と聲を掛けられていた。
私を小説『廬山』創作へ誘ったのは、「日本の或る古典」のごく一部分の記述であったが、誰にもまだ気づかれていない。
この『廬山』が「新潮」編集室でハナから失笑されたのは、作中の男子兄弟を「太郎」の「三郎」の「四郎」のなどと呼んでいるのがバカらしく滑稽だなどというのだった。八幡太郎義家だの、佐々木四郎高綱、鎮西八郎為朝、源九郎義経だのと兄弟長幼につれて呼び名された武門は幾らもあり、『廬山』主人公「劉」の「四郎」も明らかに武門の四男坊。ものを識らない人らだと呆れ原稿は引き取って帰り、その脚で筑摩書房の「展望」編集室へ、一字一句の添削もなく預けたところ翌月にはそのまま掲載された。この作品『廬山』は以降、秦恒平初期の「代表作」かのように『筑摩現代文学大系』や平凡社の『昭和文学全集』等にも収録されている。自省のない高慢は論外だが、自作にまこと自負自信があるなら、「新人」と謂うとも卑屈に出版・編集者らの時に乱暴な「上から」目線に、縮み上がらなくて好い。「時機」の方から不思議と歩み寄ってきてくれることがある。
『廬山』』と並べた『三輪山』は、純然の創作であり、平凡社「太陽」編集室の寄稿依頼にほぼ即座に書き下ろした。一字一句に気を入れ、句読点の一つにもこまかに注意し、書き上げた。一気に書いたと覚えているが、一つには、私小説にも部類されそうなほど、作者自身の「生いたち」「育ち」「感慨」にズブと深くさし込んでいて、いくらかは作者自身の涙に、文章、表現、濡れてもいようか。虚構ながら、うそは書いていない。
三輪山をしかも隠すか雲だにもこころあらなも隠さふべしや
という萬葉古歌は。高校の教科書で習ってこのかた、私の「身も心も」しかと摑んできた。天智の近江王朝を書いた初期長編『秘色(ひそく)』にも上の和歌一首は濃い翳をさし掛けていた。胸のうち深くでしみじみと歌い続けている、今でもなお。
「奈良へ傷まんもん、買いにいこ」は、事実幼少の私が京都東山区知恩院下の新門前「ハタラジオ店」に「もらひ子」されたあとあとまで、呪文かのように秦の母や大人にせがんだそうである。この「創作」の舞台回しを務めてくれている「三輪君」のような職場へ配属の新人部下と『医学書院』勤めのむかし仲良かったのを懐かしく想い出す。ただし此の作品『三輪山』とは何らの関わりもない。
作品『隠沼(こもりぬ)』は、これこそ、作者が眞実自愛の、自分で自分に宛てて書いたせつない「恋文」と謂うておく、もとより全然無疵の完きフィクションであるが、わが胸の奥の奥、あまりに底深い「隠沼」へ此の自作を投げてもどすと、もうゼッタイに「龍ちゃん」の「マジョリカ」も「真葛の文ちゃん」の「明の宣徳染付」も生けるごとく真耀いて美しいのである。して幾らか困っテ居るのはこの二人、「もういいかい」「もういいでしょ」と私を呼ぶのである。こごえで「まあだだよ」と返辞はするのだけれど。
しつこい熱暑に喘いだ真夏、また、慘暑の九月であった。昨今の私は、昔の私を知る人の目には無惨に瘠せ、縮み、折れ曲がって、歯は無く、呂律まわらず、酒を呑んで、ろくに食べようとせずに、自身も同じ「八十七歳」の久しい妻を困らせている。もうやがての「冬至』になるとはそんな私が「米壽」を祝うとは、これは本当に赦されることだろうか。
そうは謂うが、やがて脱稿できるだろうかなり長い新作『蛇行 或る左道變』も、日々パソコンへの『私語の刻』も孜々と書き継いでいる。 まだ、死なない。
2023 9/29
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『虫のこえ』 文部省唱歌
二、 あれ松虫が鳴いている
ちんちろ ちんちろ
ちんちろりん
あれ鈴虫も鳴き出した
りんりん りんりん
りいんりん
秋の夜長をなき通す
ああおもしろい虫の声
〇 京の養家の猫の額ほどな奥庭でも、疊一枚ほどの泉水に金魚らが游いで、寝間の窓ごしに幼い私は松虫鈴虫の音も聴いて育った。ときに枕元の障子際を蛇の趨ったような怖い古い家であったが、わが埴生の宿ではあったし、此の唱歌も好きだった。
同じ文部省唱歌でも、「あたまを雲の上に出し 四方の山をみおろして かみなり様を下にきく ふじは日本一の山」なとと「上」にふんぞり返りたがる「ふじの山」など、同類歌は少なからず、みな、好かなかった。明治大正昭和の「唱歌」にはとかく「日本一」の「上」賛美や自慢があった、好かなかった。「天皇制」政体であるよりも「日本文化」とひとり理会していった少年は、「高嶺おろしに草も木もなびきふしけん大御代を仰ぐ今日こそ」などと唱いたくなかった。唱わなかった。
2023 9/30
* 夜前、日付の変わる少し前から独りキチンに入りテレビを見た。ふしぎと此の時間帯に好い映像が見受けられるから、ワールドニュースのついでに暫くめずらかな絵など見るのである。昨夜は潜入司祭や隠れキリシタンらの物語られて行く珍しい映像に、京都新聞連載『親指のマリア= シドッチ神父と新井白石』を書いた昔を懐かしみもした。「大きな仕事になりましたね」とわざわざ褒めて貰った大岡信さんも、もう亡くなって久しい。一律に着物を着せられ、折りごとにに「踏み絵」を強いられる棄教司祭等のそれぞれの最期など観てとれて、ああ書いた、みんな書いたなと感慨を強いられた。今朝のは、だれだったかの小説『沈黙』の映像化であったのかも。『シドッチと白石』、読み直したくなった。が、私自身の「選集」全三十三巻をみな読み返すとなると大変な精力と時間が要る。まだ死ねんなあと思う。
* わがパソコン機械環境の「ガタピシ」が日々に加わってくる。これはもう私の所詮手に負えず、もう久しい「機械での、読み・書き・私語と創作」は、やむなく遠からず挫折の懼れに摑まれている。もうやがての師走「冬至」には「八十八(やそはち)爺」になる、私。処置も無く唸り呻くばかり。 早朝・五時半
* 書き下ろし中の長編「蛇行(だこう) 或る左道變」の蛇行具合を大づかみに「点検」していた。書くべきには、相当にもう触れていて、その進み具合をアタマに入れてフクザツ・カイキな物語を力業で結んで行かねばならない。見えているようで、いやいや、容易でない。
2023 9/30
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『人形』 文部省唱歌
一 わたしの人形は よい人形 二、 わたしの人形は よい人形
目はぱっちりと いろじろで うたをうたえばねんねして
小さい口もと 愛らしい ひとりでおいても泣きません
わたしの人形は よい人形 わたしの人形は よい人形
〇 子供こころに不愉快な唄でった。わが子を「人形」に見立てて、都合良く愛想良く大人? 多分に母親? が、わが子を「ひとりでおいても泣きません」などと思うまま「人形」扱いに私有し支配している図と見え、イヤらしかった。「文部省」がこんな唱歌で少年少女・児童を、大人や親の「人形」扱いに委せるのか、バカにせんといてと思った。
2023 10/1
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『村祭』 文部省唱歌
一、村の鎮守の神様の
今日はめでたい御祭日
どんどんひゃらら どんひゃらら
どんどんひゃらら どんひゃらら
朝から聞える笛太鼓
〇 京都の町なかで生まれ育ったが、太平洋戦争に入ったのが昭和十六年十二月八日、京都幼稚園での師走、翌春四月に市立有済国民学校に。三年生をもう終える雪深い三月、戦災の懼れを避け、京都府南桑田郡樫田村字杉生(すぎおふ)に母と祖父と三人で縁故疎開した。四年生が目の前だった。
上の『村祭』の小規模にもソックリを私はその「杉生』部落のお祭りで体験していた。山中をはるばる仲間と歩いて越えて南桑田郡篠村の賑やかなお祭り日も見聞体験した。京都市には音に聞こえた『祇園会』の大祭がある、ソレとは比べものにならなくても「村祭り」村中の大人も子供も大賑わいに踊り唱う。懐かしい思い出。
そしてぜひ付け加え太鼓と。戦後新制の市立弥栄中学に入学の歳の「全校演劇大会」で、小堀八重子先生担任の吾が一年二組の『山すそ』という「農山村舞台」の児童劇を、学級委員の私が率先演出役になり、主役、クラスデモ最もおとなしい目立とうとしない女子を断然起用訓練したのが成功し、実に、三学年全生徒の投票で「全校優勝」したのだった。嬉しかった。「祇園の子」という短編の処女作にもその嬉しさを書き置いたのも、文壇への有効な足がかりとなった。
この舞台で私は此の唱歌『村祭』を、背景の合唱で気分良く取り入れた。懐かしい少年遙か遙か大昔の少年活躍の思い出、掛け替え無い。
2023 10/2
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『籠の鳥』 秋月四郎 作詞 鳥取春陽 作曲
一、逢ひたさ見たさにこわさを忘れ
暗い夜道をただ一人
二、逢ひに來たのになぜ出て逢はぬ
僕の呼ぶ聲忘れたか
三、あなたの呼ぶ聲忘れはせぬが
出に出られぬ籠の鳥
四、籠の鳥でも知恵ある鳥は
人目しのんで逢ひにくる
〇 たわいない唄ではあるが、幼稚園、国民学校の幼少には、何ともなくこれを「世の中」へ入門して行く道先案内か、先達の指導かのようにも聴けていたのを、まんざらバカラシクもなく思い出せる。斯う謂う「世の中」へ誘い入れる道とも声ともいつしか唄い憶えるのが、斯う謂う「唄」の無視はならない訓育めいていた。だからこそ親や大人は「唱うな」と角を立てて幼少が「物知り」になるのを拒んだ。
2023 10/3
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『ストトン節』 添田さつき 亦は父・唖蝉坊作詞か
一 ストトンストトンと通はせて 五 ストトンストトンと通はせる
今更いやとはどうよくな 一月かせいだ金もつて
いやならいやだと最初から ちょいと一晩通つたら
いへばストトンで通やせぬ キッスひとつで消えちやつた
ストトンストトン ストトンストトン
〇 演歌大流行のほぼ末尾ちかく、大正も末のほうで流行ったらしい、こんなアホウら しい唄で憂さが晴れていたか。
令和の昨今サラリーマンのそれも同様なのか。月給取りの暮らしから脱けて少なくも、私、半世紀ほど。作家生活の「読み・書き・読書と創作」そして家で一人飲む酒で「ストトンストトン」と遣ってきた。ストトンストトン…て、何かな。
2023 10/4
* 奇っ怪な「日本の古代・昨今」の暗澹・混乱に日々付き合っているのは、一つには興趣、津々。一つには不気味に怖い。ツイ「勉強」姿勢になりがちだが、それだけでは文藝が「創意の建築」に育たないので、要、用心。
世の未だ深々寝静まっている時間に、気に入りの大ぶり湯呑み(どなたかに頂戴した、その方の作品)に冷えた昨日の御茶だけ汲んで二階へ来るのが、なんとも「私語」がたのしめ」て落ち着く。また、格闘のような一日を始める。
2023 10/4
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『ヨサホイ節』 秋月四郎 作詞
一 一つ出たハナヨサホイホイ 七 七つと出たハナヨサホイホイ
一人寂しく残るのはホイ ながめしゃんすな迷うてもホイ
わたしゃ死ぬよりまだつらい 加茂川育ちの京をんな
ヨサホイホイ ヨサホイホイ
二 二つと出たハナヨサホイホイ 八 八つと出たハナヨサホイホイ
二人は遠く隔つともホイ やはり変わらぬその心ホイ
深く契りし仲じゃもの 勉強しゃんせよ末のため
ヨサホイホイ ヨサホイホイ
三 三つと出たハナヨサホイホイ 十 十と出たハナヨサホイホイ
みんな前世の約束かホイ 遠い京都の空の雲ホイ
ほんに浮世はいやですよ 一人さびしくながめませう
ヨサホイホイ ヨサホイホイ
〇 私自身は、大正も末、昭和をそこに臨んでの「京も祇園」絡みのこんな唄、唱った覚えも聴いたことも無い、が、妙に、もの哀しくも、うらさびしくもあります、ホイ。
「ラジオ」誕生、東京大阪の放送局がュースを伝えはじめ、また、イヤな「治安維持法」などの起った頃である。
2023 10/5
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『木曽節』
一 木曽のナア 中乗りさん 木曽の御嶽(おんたけ)さんはナンジャラホイ
夏でも寒いヨイヨイヨイ
袷(あわしょ)ナー中乗りさん 袷(あわしょ)やりたやナンジャラホイ
足袋(たぁび)ョ添えてヨイヨイヨイ
二 木曽のナア 中乗りさん 袷(あわせ)ばかりはナンジャラホイ
やられもせまいヨイヨイヨイ
襦袢(じゅばん)ナー中乗りさん 襦袢仕立ててナンジャラホイ
足袋(たぁび)ョ添えてヨイヨイヨイ ヨイヨイヨイのヨイヨイヨイ
〇 十番までも有る。は、幼少來耳にしていた。京都から木曽御嶽山は比較的近い霊場とみられていたろう、平安時代の女人でも参籠に出向いていたほど、観光にも木曽は山河の美しさを合わせていた、今も。子供でも、聲いっぱい張り上げられる快感があったと、忘れない。
2023 10/6
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『草津節』
一 草津よいとこ 一度はお出で(ア ドッコイショ)
お湯の中にも コーリャ花が咲くョ(チョイナ チョーイナー)
四 お医者様でも 草津の湯でも(ア ドッコイショ)
惚れた病いは コーリャ治りゃせぬ(チョイナ チョーイナー)
〇 一番など、よほど幼かった、しかも太平洋戦争が始まっていたころにも唱っていたのは、草津の湯に人気のあったためとは想う、が、ここで謂う「草津」を幼いわたしは、「南浅間に西白根」と唱う「草津の道」など知らず、京の町なかからは隣県・滋賀の「草津」のように想っていた。
私は「温泉」にひたと浸かった覚えを、九州のどこだったか、取材の必要で訪れた四国愛媛、出雲、石川の山中、群馬のどこか、箱根、四度の瀧 北海道の何処だったか、ぐらいしか持たない。
八七年を生きてきたこれまでに、私は「旅する」余裕と機會をほとんど持てず持たなかった。望みもしなかった。貧寒というでなく。家で好きに、が、落ち着いた。
京の新門前暮らしの少年時代に通った近所の「銭湯」、古門前の新し湯、祇園の清水湯、松湯、鷺湯、縄手の亀湯などへ、好みの、空いた早い時間に通って、ゆーっくり湯船に浸かるのが好きだった。秦へ「もらひ子」されてきた幼い日々には、父や祖父につれられ、、また母や叔母と女湯へもしばしば連れて行かれた。「銭湯」にはそれなりの「好さ」「めづらはさ」があったと、今でもはっきり「色んな思い出真夜中に起きて」が懐かしい。「女湯」で近所の、また国民学校の女の子と、湯からくびだけだして並んで湯船に居たことなど数え切れない記憶がある。冬至は当たり前の情景で、戦時に「家湯」の遣える家は無かった。焚き物が無かった。夏場は、井戸端で盥の行水だったが、我が家では時折りそんな行水を脅すように長い青大将が現れ仰天した。寝ている枕がみの障子際を蛇に通られ、添い寝してくれていた叔母つると共に着布団ごと空を跳んでにげたことも有った。近所を清流白川が趨っていて、石垣にも橋の上までもよく蛇が出た。どこの家にも蛇は出ていた。それも『花の京都』なのである。
2023 10/7
* いま、心して久々再読三読したいのが、『大無量壽經』の謂うならば阿弥陀如来伝。
私は大体がいわゆる宗教の信仰・信奉者では、ない。しかるにまた幼来「仏様」というと南無「阿弥陀仏」とごく限定されて、今も、今日只今も音無しい口誦「南無阿弥陀仏(ナムアミダブ)」は私・秦恒平の血潮のよう、窓一つ明けるにも、階段上がり下り一つ一つにも「ナムアミダブ」が欠かされない。
誰も識らぬ事だが、私、一青年が阿弥陀如来と成られるまでの『大無量壽經』が欠かせぬ愛読書でもあるのです、「南無」と常に頼んでやまないのです。
他人に話したことは無い、が、数ある私の著作・創作には諸方で表れている。私のような弱い男にはただ頼む方なので。告白しておく。
2023 10/7
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『酋長の娘』 石田一松 作詞・作曲 草
一、 私のラバさん 酋長の娘
色は黒いが 南洋じゃ美人
二、 赤道直下 マーシャル群島
椰子の木蔭で テクテク踊る
〇 日本の軍事勢力が太平洋をしだいに南下展開領有していった、無邪気なほど景気づいていた時機時節を反映しており、幼少の私でも、「ラバさん」が当時の少年少女言辞を用いて謂うなら「好きやん」に当たるだろう程度は察して平気で唱っていた。まだ戰争へ突入以降の陰惨を、国民はまるで胸にも萌していなかった、と想われる。「マーシャル群島」の名など、どんなにのどかに景気よく、どんなに危うく、どんなに不安に満ちて大人も子供も「つきあってた」ことか。
2023 10/8
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『洒落男』 坂井 透 作詞
一、 俺は村中で一番
モボだといはれた男
自惚れのぼせて得意顔
東京は銀座へと来た
そもそもその時のスタイル
青シャツに真赤なネクタイ
山高シャッポにロイド眼鏡
ダブダブなセーラーズボン
二、 吾輩の見そめた 彼女
黒い瞳で ボッブヘアー
背が低くて 肉体美
おまけに足までが 太い
馴れ初めの始めは カフェー
ここは妾(あたし)の店よ
カクテルにウイスキー
どちらにしましょう
遠慮するなんて 水臭いわ
五、 夢かうつつかその時
飛びこんだ女の亭主
者も言はずに拳固の嵐
なぐられてわが輩は気絶
財布も時計もとられ
だいじな女はいない
こわい所は東京の銀座
泣くに泣かれぬモボ
〇 こんな唄を少年私は エノケン(榎本健一か)というお笑いトーク藝人の「藝」として聴いた、むろん「ラジオ」か、ホヤホヤの「テレビジョン」かで。当時「お笑い藝人」の大御所格に、この「エノケン」と「アチャコ」が風靡。私は、そのどっちもたいして感心せず、この以降へつづいた数々の巧い笑わせる「漫才」ブームに惹かれた。
それにしても、明らかに「モボ(モダンボーイ)」ならぬ、西京京都の知恩院下、祇園街育ちの「女文化」少年の私に、「東京」「銀座」とは先ずはこういう「顔つき」で登場していた。東京に「憧れる」気持ち、全然と謂うに近く無かった。行くならよほど「要心」「覚悟」してと思っていた。私史としても記録に値する気だった。
2023 10/9
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『會津磐梯山』
エイヤー会津磐梯山は宝の山よ
ハヨイト ヨイト
笹に黄金がエーマタなり下がる
ハスッチョイスッチョイ スッチヨイナ
(囃子)小原庄助さん なんで身上(シンショウ)つぶした
朝寝朝酒朝湯が大好きで
それで身上つぶした
アもっともだ もっともだ
エイヤー音に聞えし飯盛山(いいもりやま)で
ハヨイト ヨイト
花と散りにし白虎隊
ハスッチョイスッチョイ スッチヨイナ
エイヤー会津磐梯山に振袖着せて
ハヨイト ヨイト
奈良の大仏婿に取る
ハスッチョイスッチョイ スッチヨイナ
〇 京の町育ち、會津も磐梯山も知らない、見たことが無いのに、幕末維新の昔に「會津」が色んな意味で京都で健闘したらしいとは、ボンヤリと子供心にも耳にも触れ合うていた。それに、大人も若い衆も上の「囃子」の「小原庄助さん」に共鳴してたらしく、早い時間の空いた銭湯で機嫌良く唄う大人はケッコウいたものだ。早い時間の空いた銭湯の好きだった私はこの唄、よほど早くから耳にし、口に倣うていた。「囃子」の「小原庄助さん」は一人のケッコーな先達ないしエラソーな人に想え、親しみ、敬意をすら覚えていた、子供のクセに。デ、私、この歳にして「朝寝朝酒」はいつも願わしい境涯と心得ているのです。
2023 10/10
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『うちの女房にゃ髭がある』 星野貞志 作詞 古賀政男 作曲
一、 何か言おうと 思っても
女房にゃ何だか 言へません
それでついつい 嘘をいふ
(女)なんですあなた
(男)いや、別に
僕は、その、あの
パピプペ パピプペ パピプペポ
うちの女房にゃ 髭がある
〇 何と無う「おとな」の世間はこんなかと、子供心地に察しながら、自分では唄わないが、ラジオなどで聞こえると、聴いていた。「ベンキョウ」になりました。「やると思えばどこまでやるさ それが男の魂じゃないか」なと虚勢の唄は、いっそバカげていた。
2023 10/11
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『露営の歌』 藪内喜一 作詞 吉岡裕而 作曲
一、 勝ってくるぞといさましく 三、 弾丸(たま)もタンクも銃剣も
誓って國を出たからは しばし露営の草まくら
手柄立てずに死なれよか 夢に出てきた父上に
進軍ラッパきくたびに 死んで帰れとはげまされ
まぶたに浮かぶ旗のなみ さめてにせらむは敵の空
〇 『曉に祈る』 野村俊雄 作詞 古関裕而 作曲
三、ああ堂々の 輸送船 四、ああ大君の 御爲に
さらば祖国よ 栄えあれ 死ぬは兵士の本分と
遙かに拝む 宮城の 笑った戦友(とも)の 戰帽に
空に誓った この決意 残る恨みの 弾丸(たま)の跡
〇 少年私は、概して「戰歌」と類されるどれ一つも好まなかった、嫌った。なかでも此の、「夢に出てきた父上に 死んで帰れとはげまされ」など、憎悪に近く嫌った、そんな「父親がいるものか」と。
「大君の御爲に 死ぬは兵士の本分」など、「遙かに拝む宮城」など、なんたる倒錯と思い、私は概して「天皇」の存在は「日本文化の一表現」と容認し認知はしていたが、「神」ともそのために「死ぬべきが兵士の本分」とも、容認も認識も出来なかった、少年の昔から天皇を一つの「象徴」とは認めていても、「戰帽を打ち抜かれて戰死した兵士」の「残る恨み」が何に向いていたかは、推測し得てあまりあるのではと,私は別の筝を思い「祖国」と「天皇制」とは元来が別ゴトと感じていた。私の祖国は「日本国」だか「宮城」でも「天皇」でもない。
海ゆかば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山ゆかば 草むすかばね
大君(=天皇)の辺(へ)にこそ死なめ
かなんとかえりみはせじ
は、学校内の「式」と称する機械には、「君が代」と前後して必ず「全校斉唱」を強いられた。幼少らい,私、断乎胸中に拒否し、憤然としていた、「死んで堪るか」と。
炎熱や酷寒の激戦地に苦渋する「父よ」「夫よ」に感謝し励ます「父よ、夫よ、強かった」と励まし頌える子や妻の歌は眞実同情できたが、これが戰争・戰闘・戦死の肯定・容認・感激になるなど、「子供ごころ」に恐怖とともに不条理だと断然容認できなかった。「兵隊さんにはなりとない」と何十度つぶやいたろう、私は「臆病」の罪を問わるべきだったのだろうか。
この歌のシリーズを敢えてした理由の一つは、かかる「幼少の批評」を忘れ去りたくなかったから。
2023 10/12
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『隣組』 岡本一平 作詞 飯田信夫 作曲
一、 とんとん とんからりんと隣組 二、とんとん とんからりんと隣組
格子をあければ 顔なじみ あれこれ面倒 味噌醤油
回して頂戴 回覧板 ご飯の炊き方 垣根越し
知らせられたり 知らせたり 教えられたり 教えたり
〇 これが戦時下 都市生活の「不安」に裏打ちされてのご近所暮らしであった、我が家だけの買ってと謂うことの物騒に 警戒警報や空襲警報に戦くじせつでもあったし、またこの「隣組」というしめつけで市民生活にワガママ化っての逸脱を懼れ禁じる当局の指導も指令もあったのだ。陽気な歌声と耳には聞き口にはうたいながら、「隣組」や「町内」の「常会」による締め付けは、大人世間や、男大人の出征や徴用による留守家庭の検束に当時不可欠であった。敗戦となればたちまちに「隣組」や「常会」の風は雲散したのをまだ子供心に憶えている。隣組班長」や「町内会長」はいつも「カーキ色」した国防服に身を固めていた。防空演習という,子供の目にも嗤いたいチャチなバケツリレー等もちょくちょく見た。あれど敵機飴あられの焼夷弾攻撃を消そうとしていたのだ、誰一人として勝てる戦争などと思ってなかった。
◎ 永く連載してきた この 『唄』ものがたり、を此処で終える。
2023 10/13
◎ もう六十年ちかい昔の「正月」を思い出す。三十歳になるかならぬ頃である。
〇 正月は静かだった。心に触れてくるものがみな寂しい色にみえた。今年こそはとも去年はとも思わず、年越えに降りやまぬ雪の景色を二階の窓から飽かず眺めた。時に妻がきて横に坐り、また娘がきて膝にのぼった。妻とは老父母のことを語り、娘には雪の積むさまをあれこれと話させた。
三日、雪はなおこまかに舞っていた。初詣での足も例年になく少いとニュースは伝えていた。東山の峯々ははだらに白を重ね、山の色が黝ずんで透けてみえた。隣家の土蔵(くら)の大きな鬼瓦も厚ぼったく雪をかぶって、時おり眩しく迫ってくる。娘も、はや雪に飽いたふうであった。私はすこし遅い祝い雑煮をすませ、東福寺へ出かけた。市電もがらんとしていた。
正月三日の東福寺大機院では、院主主宰の雲岫会(うんしゅうかい)が毎年定(き)まっての歌会で、初釜を兼ねてある。院主が歌詠みの仲間を集め、奥さんの社中初釜に便乗して喫茶喫飯の余禄にあずかろうという、欠かしたことのない催しであった。子供の時分から叔母の茶の湯の縁につながって時々出入りするうち、私も歌を詠むと知れて、高校時代から院主の招きを受けるようになっていた。特に喜び勇んで出かけたい場所でもないが、かといって、東京でのかすかすした日常から歌詠み茶喫みというすさびをなつかしむ想いには時として抗しきれぬものがあって、実はこの日も、私の方から詠草まで先に届け、久々の参会を申し出てあった。
高校への通学道がこの東福寺の境内をよぎっていた。毘盧宝殿(ひるほうでん)の森閑とした禅座、金色(こんじき)眩ゆくふり仰いだ正面の尊像、山門楼上の迦陵頻伽(かりょうびんが)たち、夕暮れに翳った僧堂、くずれがちにつづく土塀――。いささか広漠として、寂びしく荒れた寺内の静かさは、当時すさみがちだった少年の気もちをいつもいたわり迎えるふうであった。殊に、来迎院(らいごういん)の人をまだ知らなかったうちは、この大機院へよく立ち寄っていたのである。 ――長編小説『慈子(あつこ)』の書き出し――
2003 1・1 16
〇 人 それぞれの日常と歴史とがある。顧みる暇は容易に得られないし、その必要も無いと謂えば言えるが、ま、アルバムに手をかけたようなことと。
2023 10/14
◎ 『みごもりの湖』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
〇 直子は何によらず、することが叮嚀だった。前の人が稽古で使いあらした棗の中の茶を、姿よく盛りなおし、器の汚れも紅絹(もみ)の裂(きれ)で清めてでる人は多くない。まして濡れた茶筅にもう一度清い水をかけてくる直子のような人はめったにない。
直子の点前は姿かたちが美しいよりも何も、茶室へでてまた退(さが)って行くまでのあいだ、その所作の一つ一つがいかにもいさぎよく、心配りが行き届く態(てい)の、ちょっと言いあらわしがたい心地よいものだった。水になれ湯になれてさらさらと上手に長い柄杓を扱い、軽やかに茶筅を振った。静かに流れるものが、眼に見える点前の手さばきよりも直子の胸の奥にあった──。
薄茶の平点前で直子は茶室の戸をあけ一礼した。薄色の着物の、袖にも裾にも手描きで紅梅の枝が咲き溢れていた。もう直子の点前を見ることはあるまい。それなら母の代りでなしに、一人の客として直子の点てた茶が喫みたかった。
〇 存在じたいが静かにしみじみ美し女性とは、なかなか出逢えない。米寿にちかく、ハテ、何人そんなひとに逢えたろう、『みごもりの湖(うみ)』のような「自作」のなかで。
2023 10/15
◎ 『隠沼(こもりぬ)』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
〇 「いや、そんな顔」
龍子は髪を傾(かし)げ両掌で顔を蔽った。龍子の横の空いた椅子席へ薄い影になって文ちゃんの大柄な向うむきの背中が坐ったような気がした。
露地の外へ送り出され、宵闇に紛れて私は龍子を片手で抱き、頬にキスした。龍子はさっきから二度ももう自分のことは嫌いになったかと訊ねていた。両親とも健在なのにこの龍子が今天涯の孤児かのような気もちでいるのが分る。真葛が美しい妹を女として愛したかしれないことを、私は、やっぱりというのでなく、とうとうそうかと感じていた。
それでもよかった、死ぬことはなかった一一、私は一瞬怒りに衝き上げられてそう思い、だが彼が死んでぎりぎり守り抜いた何かが次第に輝く輪郭を眼の底に現わしはじめた時、それがあのマジョリカの壷の青年の顔に見えた一一。龍子に隠して私はとめどなく涙の筋を頬に垂れた。なんてこった、なんてこった。駿河台へ戻って行く坂下の暗い小道に私の舌打ちが響くと、龍子はなだめるように寄り添って背中を抱いた。「さきに死んじゃうなんて」と龍子は言いかけ、黙っていると、低声(こごえ)で、「ずるいのよ」と呟いた。かすかに甘えた語尾が、生まれ(2字傍点)て来たもの(2字傍点)の余儀ない根の哀しみに、寂しくかすれた。
2023 10/16
* なんとなく生きて行くのが心細く、寂しい。
ワケは私に判らず、京都で、ふっと自殺してしまったという、敬愛されていた市民活動家の実兄北澤恒彦が、「思われ」てならない。何で自殺であったのか。
2023 10/16
◎ 『畜生塚』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
〇 お互いに知らないことが幾らもあったのに、家庭の事情や身辺のことで訊ねあう習わしももたずにしまった。
何の遠慮なく、町子の傍で寝そべった。その恰好で本も読めばラジオも聞いた。時には町子の机のひきだしから勝手に白い紙をもち出して暇つぶしのいたずら書きをしてみるのだが、町子は平気で私を放っておいた。一時間も留守をさせたまま、思い立った買物に町子の方が出てゆくこともあった。なぜ、あのようなことが出来たのか、いぶかしいといえば余りにいぶかしく、傍で絵具を溶いたりして手伝ったことのある絵が美術コース展で好評なのを見聞きする時など、私まで興奮に押しつつまれ、私自身が名誉であるかのように思った。その照れくさい嬉しい気もちには私だけの現実感が漲(みなぎ)っていた。
二人の間に本当に現実離れしたところがあったとすれば、何はさておいて二人が結婚しなかったことを挙げねばならない。妻とはなぜ結婚を望み、町子とはなぜ結婚しなかったのかという問いかけが、今、理不尽に私の心を乱す。世離れて対(むか)い合えば、よけいにそれらしい恋しさも増そう道理でありながら、兄妹のように過ごしてしまった町子との日々が、絵空事かと、哀しくもあやしくも想われる。
妻を愛している。妻となら結婚しても構わないと思ったのだ。妻を町子よりも大事と考えたからか。そうだろうか。もしも問いつめられたら――。世のつねの妻の座に据え直す必要もなく町子こそは我が身内だったからなどと言って、だが、誰が正気の言葉ときいてくれよう。
2023 10/17
* しかし、はるかな若い日の舊作、ヒロインらとの再会は、しんみりと懐かしい。ああ、あの頃の儘に、静かになさけ熱く生きていて呉れる、という実感は、私独りの喜び。 2023 10/17
◎ 『秘色(ひそく)』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
〇 「あら、あれ何かしら」
見ると岩の側面、南に向いた側を岩の表と同様に平らに削った真中に、縦横三十センチ位にまるく彫りこんだ痕がある、いや痕でなく、明らかに岩の横穴をふさぐ同じ石の蓋に違いなかった。「舎利穴や」と叫び、妻がとめるのもきかず私は柵を乗り越えて、岩窟にとびこんだ。
石蓋はセメントで固めてあった。音させて、平手で心礎を叩きながら、照れて上を見た。眼の前に、覗き込む少女の瞳が微笑っていた。微笑いは、咎めるような静かなふしぎな焦点を私の眼に結んでいた。私は急いで這い上がった。
妻の傍に戻ると、女の子が握っていた右手を私たちに突き出して、開いて見せた。見馴れぬ、黝い一枚のまるい金属が載っていた。
「あげる」
自分の掌に載せ、妻は「重いのね」と呟いた。
何か分からない、子どもにありがちな埓もない寶物だと私は思った。大した理由ではなく返した方がいいと感じたが、女の子は急に「帰る」と言うなり飛び立つようにかけ出した。「ありがとうまりいちゃん」と妻の声に一度は振り返ったが、にっと笑顔になっただけで、細い滑り台のような山路を、たかたかと下駄の音をさせて見えなくなった。
妻はあれから得体の知れぬ鉱物をずっと手放さなかった。
2023 10/18
◎ 『淸經入水(きよつねじゅすい)』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
〇 とその時ドアがそっと押され、鉄線の花が動いて、女生徒が一人で入ってきた。
「鬼山さん――」と問うまでもなかった。紛れもない色の白さ、角度の鋭い印象的な眼。
和子は膝の上に白い手を重ねて、ではという風に質問を待っていた。
「亀岡のどの辺にいたの」
「はずれです。矢田ていう所です」
「矢田なら僕も知ってる。鍬山神社ってお宮さんがあるでしょ」
「はい、直ぐ近くでした」
僕は思わず眼をとじた。
「――あの辺、今でも千里様祀ってる」
「祀ってる家もあります」
「山の方が多いでしょう」
今度は首肯くだけ。
魔除けらしく、あの地方の山間では農家ごとに二尺に余りそうなわらじを門口に吊している。
2023 10/19
◎ 『蝶の皿』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
〇 呼びもどそうにもお名前も聴かいで、あのように夕暮れ過ぎた時雨の道へお見送り、もう何を待つあてもないと、つくづく気落ちしてしまいました。法然院から裏山越えにくる風と雨が心凄う、よう寝られずに割れた皿の残る一かけらを夜(よ)一(ひと)夜(よ)ながめあかしますうち、いつか、庭一面の月かげに惹かれて、泉水のきわまでも立ちまようたようでございました。何より先この蝶の皿にお眼をとめられたのがおなつかしく、とは申せ、今はこの部屋に、ゆうべ二人きり時を過ごしたのも何か夢うつつ、無かった事かと思われるのでございます。が、この皿の虧(か)け、たしかに二つに割って片はしをお持ちになりましたもの、そればかりは繪文様のすみまでよう覚えています。二度とお逢いできるあてもすべもなく、ただあの片割れ一つが残る縁かと心乱れて、読まれもすまい手紙を物狂おしくこうして書きはじめました。お顔の遠うけぶって参ります魂(たま)消ゆるような寂しさも御存じなく、今どこに、どのようにいらっしゃるのでしょうか、この山ぐらい侘びた住まいのかげから、そんな跡ない詮索に胸がふさぎます……。 この豆彩蝶文(とうさいちょうもん)の盤が真(ま)半(はん)に割れて、半ばは影も無うなっておりましたのをすぐにお見咎めなさいました。頑(かたく)なに口を噤(つぐ)んでおりましたのも、その訳を申し上げてしまえば、もうまさかにあのような夕山道へひとりはお帰しならなかったからでございます――。
蝶の皿を手に入れましたのは七、八年前
2023 10/20
◎ 『青井戸』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
〇 千利休の孫元伯宗旦に、”悟了同未悟”という書があり、依田(よだ)は茶名にその”未”の一字を貰った。当時の家元の命名で、家元は依田のことを、「お前はおとなしいから」と微笑(わら)われたそうだ。
依田は二十四になっていたが、家元の諧謔を解(かい)さなかった。生憎(あいにく)と彼は亥歳の生まれだった。
“ごりょうは、みごにおなじ”と、そう読まれていた宗旦のことばを依田は大事に覚えた。
“悟り了るは未だ悟らざると同じ”と読み直してもみて、よくは分らなかった。依田はもともと謎々のようなこういう文句を敬遠していた。痛いも寒いも面白いも、からだを動かしてそうなってみないと納得しないと.いう所が彼にはあり、おとなしいどころか意固地なのだと同僚は思っていたらしい。
だが元伯の一軸を床に掛けて家元に教えられれば、依田は悦んでそのことばを覚えた。七十四まで五十年、依田はひょっとしてときどき癖のように指を立て、空(くう)に「未 ひつじ」”未””未”と書いて来たかもしれない。ひつじ(傍点中ツキ)のようにと思っていたか、未だ悟らざると同じと諦めていたか、珠子と一緒に最期の一度きりのそんな場面に出逢った私は、依田との初対面から半年と経っていないこと、その間僅か三度しか逢っていないことが、訝(いぶか)しくてならなかった。
珠子は祖父をあんなに遅くに見直したが、私の方はそんなにも早く依田宗未と別れねばならなかった。依田は私を初対面から「身内」と思って呉れた。
2023 10/21
◎ 『墨牡丹』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
〇 「常一を、戦争にやりとないな」と、代々の墓の前で、華岳は妻に話しかけた。そうですねと佳子は応じながらくるくると墓のまわりを掃除していた。
「ほんま、何もかもお前にさせて来たんやな」
「あなたは村上華岳。わたしは華岳の妻。それでよろしいやないですの」
「そうか。これからも、ホナ、頼みますで」
「はいはい」
「一一牡丹が、また描きたいな。波光におだてられてるしな」
「お医者さんにも、ちゃんちゃんと、かかって下さいね」
「はいはい」
その一一晩、畫室で、華岳は妻のからだを時を忘れて愛した。
「畫室(ここ)で、ですか」
「そうや、ここでや」
佳子も声を殺して夫の求めに応えた。精進の室なるに牡丹の香満てり一一。季(とき)は、畫室の外は、深々と秋だった。
2023 10/22
◎ 『風の奏で』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
〇 湯を唇(くち)の線にまでゆっくり沈んで行キ、ぶくぶく泡を吹いた。これこそ微塵も思いかけて来たことでなく、そしてこれこそ本当に仙台に来た甲斐、と言っていいかどうか、自信はない。行き当りばったり「流れ平家」の芸人を顔も知らずにいた異母妹と、たぶん間違いないだろう、そうと知って徳子がその大井尭(あき)子や八木市子の妹に人づてになりと何ことか言い明かす気なのか。明かさぬ気か。
「よろしおすか」と声が近かった。
私は返辞半分に湯槽(ゆぶね)の中に突っ立ってちんと小窓をしめた。次の間から一段ひくく手水場(ちようずば)と湯殿が鉤(かぎ)の手に別棟に出ばっている、その手水場と隔ての木戸をそっと閉める音がしてもう浴室とは硝子戸ごしに、静々と脱ぎすてて行くらしい徳子の、やがて衣(きぬ)ずれの下からまぶしい白い石のような裸形(らぎよう)のあらわれ出る瞬間を、眼をとじたなり私は暗闇の彼方に見ていた。待っていた──。
──徳子を浴室に残して、出た。たぶん肌に着けたものはもう花紫の鼠呂敷に包み分けてあるらしく、乱れ籠の中は、その人のように静かにものが畳まれていた。
2023 10/23
〇 秦恒平先生 メールありがとうございます。秋らしい季節が続いてますが、いかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか(歌のお話をされているということは楽しくお過ごしのように拝察致しましたが。。)。
近況という程でもありませんが、昨日は柳君と午前に映画(アアルトというフィンランドの建築家のドキュメンタリー)を観て、午後はテニスをしました。
大学時代の友人は気楽でよいものだなと思いますし、大学時代に意識せず埋めた、埋めてもらった種が芽吹いているのだと思っております。先生からこうしてメールをいただけるのもこの中に含まれており、私の活力になっています。ありがとうございます。
朝晩が少しずつ冷えて来るようにもなりました。
何卒お身体ご自愛ください。 新野聡一郎
* 東工大には六十歳定年時代の最期の四、五年を教授として招聘されていた。新野君や柳君はその一年生入学からの付き合いになる。以来四半世紀を超えたこういう交友歴を他に聞いたことが無い。一つには私の「作家教授」という゛かかわったろう、私には大学出ノートを取らせるような「講義」の用意も気構えも無かった。「文學作家・芸術家」として「東工大生」に向き合うだけの用意を無遠慮に完遂し、それが未だに若いゆうじんたちとして、男女を問わず「秦先生」と声もかけてくれる、歓談の機会も得られる。型破りのただの作家きょうじゅで押し切り、それで何かしら為遂げるところがあった。私の幸せの顕著な一体現であったと感謝している。
機械の面倒を繰り返し我が家まで見に来てくれる神戸の鷲津君も、自転車でも往来できる吉祥寺の柳君も、国交省の丸山君も、みなあの昔の学生クンたち。みんな働き盛り、秦センセイは日々に老いている。
2023 10/23
* 起きてても寝ててもわたしは「唄っている」ひとで、一の「お気に入り」は、
サッちゃんはね
さち子っていうんだ ホントはね
だけど ちっちゃいから 自分のこと
「サッちゃん」テ云うんだね
可愛いね サッちゃん
日に、三十ぺんほどは唄っている、小声で、だけど。もひとつ云うと、
垣根の垣根の曲がりかど というのが、口をこぼれて出る。
わたたしは「歌」を詠むが「唄う」も好きで、岩波文庫の「日本唱歌集」は一冊をボロにし、二冊目を愛翫してるのです。
2023 10/23
◎ 『華厳』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
〇 手もとを照す燭の火影(ほかげ)はもう右左に二つ残るだけだった。それも夜風が吹きこみ危く細く絶えず揺れた。さながら華嚴浄土も風そよぐ夕闇の景色に見えていた。わきめもふらなかった。いつから、本当にいつ一一から、足場の下へ蹲踞(うずくま)って妻が、姫舟が歔欷(すすりな)いていたやら、お前、楊子昭が母の懐で寝おびれて泣き出さなかったらわたしはすこしも気づかなかった。
妻はからだつき窶(やつ)れてはいなかったが、頼りなく焦点を喪った眼でわたしの顔を探すようにして泣きつづけた。母譲りの形の佳いちいさな鼻が、大雄寶殿の闇にほの白く匂っていた。
妻は妊(みごも)っていた。
そんな覚悟もしていた。絶句しながら愕かなかった。冷たい腸をぐっと掴んで、ただ、頷いた。桓琇よ一一わたしが憎いか。彼はこの疲れ切った姪を実に己が妻の父に、満州旗人の好色の手に売ったのだ、可憐に妊った女はそして捨てられて来た。妻の手を取りわたしはぽたぼた涙を頬に伝わせながら、詫びた。罪はわが前に。趙岐よ、舅(ちち)よわたしを罰するがいい一一。風が募って一つ火が消え、互いの顔がよく見えなかった。ああ何と闇は優しかったろう。頬を寄せて妻と幼な子を双つながら抱き緊め、しかしわたしは闇の底に眼を瞠(みひら)いていた。かっと瞠いていた。
鶴の家で待つがいい一一。わたしは妻と子を胸から離した。
帰って来て下さるのですか。妻の眼が光った。
そうだ。あそこで待っていて欲しい、父の繪が今度こそはお前たちを護るだろう。
2023 10/24
◎ 『月皓く』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
〇 早くそこを遁れないと賽銭箱の柵に押しつけられ、右にも左にも動けなくなる。おけら火の火勢をもうそこに轟っと浴びながら、からがら拝殿の東側から円山公園へ飛び出す、と、ごうん一一と肚(はら)に響く知恩院(ちおいん)の鐘だった。暗やみに夢見るように幾つも火縄が舞っている。降る寒気をついて公園を抜けまだ東へ池を越えて、山の上の釣鐘堂まで除夜の鐘撞きを見に行く人が沢山いる。
「行ってみますか一一」
「いいえ、此処で聴いていましょう。もう押し合うのは大変。一一あの辺、ね、撞いているのは。あ、凄いの一一胸の底まで響くわ」
「一一」
「宏さん、あなた寒くありません」
「寒い。脚に何かが噛みつくみたい」
「歩きましょ。凝っとしてたら凍えてしまうわ」
「ね、清水(きよみず)さんまで行(い)こか」
「一一」
「あそこは人がぎょうさんお籠りしてはる。音羽の滝に打たれてる人もあるし、舞台へ出ると」
「きれい一一」
「きれい。今夜みたいに月があるとあの山の端(は)がきらきら光って、まあるいの」
「行きましょ行きましょ」
仁科さんは先に立つくらい元気に歩いた。
真葛ヶ原から二年坂、三年坂まで、流石にめったに人とも出逢わない。たまにまだ正月の用意の終らない家の前だけ灯が洩れて、その辺り二、三軒の門松や〆飾りが行儀よく
* 叔母(秦つる 裏千家茶名 宗陽・御幸遠州流花名 玉月)の「御茶の先生」「お花の先生」歴は永く 二十代から亡くなる九十近くまで。当然に稽古場へ通ってきた社中の人数も数え切れないが、私は小学校の五年生頃から稽古場に居座って、高校生の頃には代稽古し、自身も中学・高校に茶道部を起こしててまえさほうを永く教え続けた。
当然に、叔母の稽古場へ通ってくる女性の大方は私より年長、記憶の限り私より若かったのは早く亡くなって私を泣かせた「龍ちゃん」ら数人ともいなかった、か。
* 小説 『月皓く』の、上記「仁科さん(仮名)も叔母のもとへ通っていた社中の一人、六、七歳も年長だが、懐かしい人であった、後に渡米し、結婚し、亡くなった。大晦日、元旦にかけおけら日の燃え盛る八坂神社に初詣でし、淸水寺へまで行ったのも小説のママである。
* 私の思想的基盤である日本文化論が「女文化」であるのは謂うを俟たない。私は幼来京都の「女文化」と長幼の「女友だち」とで多く培われた。「懐かしく心親しい」いのはおおかた、ソレであった。
2023 10/25
◎ 『閨秀』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
〇 客が帰ると、もう下駄をはいたつね(2字傍点)の傍へ母は戻って来た。
「気いおつけやして、はよお帰りや」と例の、掌(て)でつね(2字傍点)の頬にさわって微笑(わら)う。仲の佳い母と娘(こ)の儀式のようにつね(2字傍点)もその母の手の甲をかるく叩いた。
「あ、そや。つう(2字傍点)さん、ほら、あの松つあんのこと覚えといやすか砂絵書きの」
つね(2字傍点)は潜(くぐ)りの向うから顔だけで覗いて「へえ覚えてます。なんでどす」と母を見た。安井の金比羅宮にはその松つあんの母親の風変りな絵馬があるらしいと、母も見て知っていたわけでなく、程良い返事だけで家を出て来たが、松造の名前は急につね(2字傍点)にもなつかしかった。死んでもう四年になる。たしか八十というえらい年寄りが、御幸町(ごこまち)錦寄りの路地(ろうじ)長屋に常は独り住まいだった。つね(2字傍点)はあの年、はじめて松年塾から師の推薦で東京の内国勧業博覧会に「四季美人画」を出品し、思いがけない褒賞を貰った。
絵は折よく日本へ来ていた英国皇族アーサー・コンノート公が買い上げるという華々しい成行きで、十六歳の少女の名は賑やかに新聞に持て囃された。
2023 10/26
kg 早暁起き・測
◎ 『或る雲隠れ考』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
〇 千代は沈鬱な表情をもちはじめていた。そう人に注意されると慌てて、「なにお言やすの、いやどすえ」と大仰に手を振って見せるけれど、そこそこにその場を立って行く後姿の細うちんまりした感じが弥一の気にかかっていた。暫くして、阿以子と「逢(お)おてみとおす」と言い出したのは千代であった。
「そうか、逢おてやってくれはるか」
それなら法然院でと自分から提案までした或る日の夫との会話に、千代はふしぎに安らいだ。法然院でと言ったのにも、わけはあった。
井荻徳蔵は若い妾のお舟が死んだ時、母親の意に逆らって、墓所を妾宅からも近かったこの東山の静かな寺に申し請(う)けていた。住持(じゆうじ)と懇意で、茶会にも好んで此処の茶室を使った。寂びた小間には由緒のある道具がよう似合うと言い、鹿(しし)おどしの音に鳥の声がまじる他は山風ばかりの茶の趣を、磊落(らいらく)な徳蔵らしくもなく愛していた。
「ここはな、どうも木イやら草やらが多すぎて、木(こ)暗いだけやない何やもさもさとまとまらん感じやが、そこが妙に懐かしてナ」
茶室のある内露地のたたずまいには、いつか父からこんなふうに述懐めいて
2023 10/27
◎ 『絵巻』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
〇 、千載集の恋三の中に、題しらずとして、
かりそめにふしみの野辺の草まくらつゆかかりきと人にもらすな
の一首がある。作者は、讃岐典侍の姉伊予三位と父顕綱の弟つまり叔父敦家との仲に生まれていた藤原敦兼朝臣、そして歌は永久元年(一一一三)秋、満座の中で白河法皇の不興を買ったといういわくつきなのである。
では、「かりそめに」の歌の何が逆鱗に触れたか。朝恋を詠み据えて機智に富むとはいえ常套を巧みにこなしたとも取れるこの歌、調べも詞もはっきりと、とりたてて咎める病は見当らない。かりそめに人と共寝した野辺の宿りの草枕に向かって、つゆそんなことがあったとは他所へ言うまいぞと口堅めしてみせただけで、「つゆかかりきと」の「つゆ」が、旅寝に濡れた恋の風情をエロチックなものにしている。所がらも秋草に朝日のさしそめた伏見の野辺に、はるか淀の川瀬の波の音も聴かれようという静かなきぬぎぬとあって、誰が耳にして不快と思われぬ、だが、それだけの歌である。
当代歌人のつねで、敦兼も体験をそのまま詠んではいない、どころか、この歌は朝恋、忍恋、初逢恋、別恋などと題を貰って詠まれた作でさえなく、一紙の画箋に、請われて書き添えた即興の秀歌なのであった。
繪は、鈍く光った唐紙の白に金銀の切箔を散らした上へ、大波が崩れ落ちるさまに花盛りの萩の枝が露いっぱいに画面の左上から右下へ寝くたれていた。根方にはいささか土坡)を盛り、その斜面に粗略に描き放した僅かな岩と渓ぐみ。そして萩の花籠に重々しく伏せられて水辺に二匹の鹿が寄り添い、可憐な仔鹿は前脚を折り首を高くもたげて、さながら花の露を顔に浴びている。花も葉も枝も、克明な、華奢な筆つきで、全体は磨き抜いた文様のような整った形に描き上げてあったが、その萩むらに来て遊ぶ二羽三羽のふくら雀は、囀りの声も聴こえそうに生き生きと翅を顧わせていた。
繪は、当時十四になる法皇御養いの姫君璋子が自ら彩管を揮って描いたもので、
2023 10/28
* 長いめの新作小説を新たに「湖の本」巻頭に入れた。
次は何を。むろん理想は{新作}の小説です。
* なにともなくすらりと「私語の刻」と名づけてきたが、これはいまでは私「文藝」のとても大事な大きな一画をに成ってくれている。「私語」もまた作家の腹中を創作的に支配しているのは歴然なのだから。
どなたかが謂うて下さっていた、秦の「私語の刻」は秦の最大創意の集結ないし燃焼だとも謂えると。「私語」「私語の刻」というなにやら厄介者めいたモノに文藝としての「存在理由」を副え与えた、と。
2023 11/6
* 新しい小説を、短くも長くもよし、気持ちよく一作書き上げて「湖の本」の最期を結びたいと想うている。「170」を忘れ、こころよい第「167」巻を編みたいものだ。
2023 11/6
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 訪道不遇 買島
松下問童子 言師採薬去
只在此山中 雲深不知處
* 山中の幽邃なる趣致、得も謂いがたい淸妙處の納得と喝采ではないか。
2023 11/13
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 春 夢 岑參
洞房昨夜春風起 遙憶美人湘江水
枕上片時春夢中 行盡江南数千里
〇 「春夢」には「相思」の意を託していると。
◎ 遠い遠いあなた
逢ったことのないあなたが、どこにいたのか気がついたとき、わたしは、飛ぶ車をもたない自分にも気がつきました。なんと遠い…。あんまりにも、遠い遠い、あなた。逢いたくて、逢いたくて。銀河鉄道の切符を買おうとしたのですが、あなたの所へは停車しないそうで、がっかりしました。
あれから、もう千年経っているんですね。
昼過ぎての雨が夕暮れてやみ、宵の独り酒に、心はしおれていました。下駄をつっかけ、わびしい散歩に、近くの大竹藪をくぐるようにして表通りへ、いま抜けようという時でした。東の空たかくに、白濁して歪んだ月がふかい霞の奥に、とろりと沈んで見えたのです。月が泣いている…。そう思いました。そして、はっとした。泣いていたのは、かぐやひめ、あなたでした。天の使いの飛ぶ車で、月の世界へ羽衣を着て去ったあなた、あなただ…と分かった。
わたしは、あなたを、血の涙で泣いて見送った竹取の翁と姥との血縁を、地上に千年伝えて、いましも絶え行く、ただ一人の子孫です。もうもう、だれも、いない。妻も、また、子も、ない。
いま虚空に光るのは、三日の月。あぁ…待っていて、かぐやひめ。今宵わたしは高い塔の上に立っています、手に縄をもって。この縄を飛ばし、遥かあなたの月に絡めてみせましょう。力いっぱい塔を蹴り、広い広い中空に私は浮かんで、縄を伝ってあなたに、今こそあなたに、逢いに行きます。縄を伝い、あなたもわたしを迎えに来る。ふたりで抱き合って、一筋の縄に結ばれ、あぁ堅く結ばれて、天と地の間を、大きく大きく揺れましょう、かぐやひめ.:。
また男がひとり死んだ。千年のあいだに、数え切れない男がわたくしの名を呼んで虚空に身を投げ、大地の餌食となって落ちた。やめて…。わたくしは地球の男に来てもらいたくない。だれも知らないのだ、わたくしが月の世界に帰ると、もうその瞬間から風車のまわるより早く老いて、見るかげなく罪され、牢に繋がれてあることを。「かぐやひめ」という名が、どんなに無残な嘲笑の的となって牢の外に掲げられてあるかを。
牢には窓がひとつ、はるかな青い地球だけが見える。わたくしが月を放逐れたのは、月の男を数かぎりなく誘惑して飽きなかったからだ。地球におろされても、わたくしの病気はなおらなかった。何人もが命をおとし、何人もが恥じしめられ、わたくしは傲慢にかがやいて生きた。人の愛を貪り、しかも酬いなかった。天子をさえ翻弄した。竹取りの夫婦の得た富も、地位も、むなしく壊えて残らぬと、わたくしは、みな知っていたのだ。あまり気の毒さに、夫婦のためにもう一人の子の生まれ来るだけを、わたくしは、わたくしを迎えにきた月の典獄に懇願して地球をあとにした。
だがその子孫のだれもかも、男と生まれた男のだれもかもが、なぜか、わたくしへの恋慕を天上へ愬えつづけて、そして命を落としつづけた。一人死ぬるごとにわたくしの罪は加わり、老いのおいめは重くのしかかって死ぬることは許されない。あぁ、ばかな、あなた…およしなさい、この月へ、縄を飛ばして上って来るなんて。迎えになど行けないのだから。あぁ…、でも、ほんとうに来てくれれば、かぐやひめは救われる。来て。来て…。
2023 11/14
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 蠶 婦 無名氏
昨日到城郭 帰來涙滿巾
遍身綺羅者 不是養蠶人
〇 市民の住まいは城郭内にあり、養蚕の行は城郭外に 在り蠶婦は稀に城郭内に帰れるばかり。養蚕の成果で ある「綺羅」を着飾っている夫人や令嬢らは、みなみ な涙滿巾の「養鱒婦」では決して無いのだと。
2023 11/15
* 書いたと記憶鮮明な文章が、日録から消失している。私の不器用か 機械の乱調か。いつもいつも私に歩は無いのだ、が。
戴いている書信等のぜひ記録したいと手懸けたものも、みな失せていたりする。あらたにする意気が失せてしまう。
せめてお名前を順序など無く。
相原精次さん。あたらしいお仕事と私の次巻巻頭即とが、微妙に歴史的に触れ合いそう。女真等の 宮本裕子さん。岩波「世界」のへんしゅうちょうだった高本邦彦さん、「廬山」久しぶりに読み返しました。初めて読んだ当時の感動が甦ってきました、しみじみと心に沁みます」など安井恭一さん。今回は巻頭の「廬山」「三輪山」「隠沼」三作のそれぞれに同様に触れて下さる方がの多かった。感謝。学生さんの昔から東大名誉教授までも久しく久しいお付き合いの長島弘明さんも。時間をかけてよむには今どきの若い作家らの作に全くあきたらないと。写真家の近藤聰さんは嬉しい名酒の一升びんまで副えて下さる。奈良女子大や神戸樟蔭女子大からも受領の来信。
画家松井由紀子さんもむかし夢中で読んだ作との再会を喜ばれ、むかしむかし娘朝日子と親しかった四国の糸川剛司君、世にも珍しい造りのワイン?その他沢山な贈りものを副えて「げんきにすごしています」と。お嬢ちゃんが同志社のヨットの選手で「朝子」ちゃんと。
九大名誉教授今西祐一郎先生、まことに心行くシカモ着眼にひびきのある新ろんこうとともに、お手紙戴く。東福寺大機院のお嬢さんだった直木和子さんも京のお菓子を副えて礼状を。そして聖教新聞社の原山祐一さん、それぞれに「心に沁みる思いで愛読再読」と。私語の刻での白楽天詩選にも反応され、皆々参と同じく私の老いと健康とにお心遣いを戴いた。京舞井上八千代さんのお便りも身に滲み嬉しく懐かしく。大阪池田市の陶芸家江口滉さん、今回は「湖の本」ならではの企画だったと喜ばれ、現在、閑吟集、梁塵秘抄を読み返していますと。久留米大学図書館からも謝辞を副えて受領の来信有り。
* ごく孤独に、つまり外向きに開け広げてない仕事をしてるのだが、「湖の本」継続166巻にも及んでいる刊行は、自ずとしんみり廣く濃く諸方へ浸透しつつあり、それに感謝しそれに励まされている。
2023 11/15
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 少 年 行 王 維
新豊美酒斗十千 咸陽遊侠多少年
相逢意気爲君飲 繫馬高樓垂柳邊
〇 少年行は貴遊少年の豪侠を写した題目。新豊は長安 の近くに漢の髙祖が親孝行で開いた陪都。咸陽は秦の 都で長安に近い。あくまで豪飲豪遊の気概をうたって いるが、所詮成人の仕業では無い。
2023 11/16
*「着想」とは、算数の分数で謂えば 「分子」かと。 「分母」を養い培うこと、「創作の母体で原義」かと思うけれど、七十年取ッ組んでも、みるから薄っぺらい吾が「分母」に呆れ、もうもう、保たないほど疲れた。何だか莫迦囃子でも踏んで遊び終えたくさえ。 老耄 謂うに堪えない。
* 「懸命に、元気に、洒落(しゃらく)にさえ遊び心も培いながら 創作続けて下さい。
視力を大切に。「見える」視力だけで無く、「観る」意思力も、と、涸れた「湖」の絶句です。
2023 11/16
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 憫 農 李 紳
鋤禾日當午 汗滴禾下土
誰知盤中食 粒粒皆辛苦
春種一粒粟 秋成萬顆子
四海無閑田 農夫猶餓死
〇 農夫の日々、生活。暦年久しく、今如何。
2023 11/17
* いま、どんな作家がどんな小説を読ませているのか、不勉強で知らない。しかし私は核なら小説を、と、忘れていない。
2023 11/18
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 讀李斯傳 李 鄴
欺暗常不然 欺明當自戮
難將一人手 掩得天下目
〇 史記列伝の一人、李斯を諷して謂う。「暗」は人の知らず己れの知ると。明は、人みな知ると。天下の目を以てすれば見えざる無し。李斯は欺くに長けた驍将相だったが、天下の目は掩えず自身明暗の不行き届きに潰えている。
2023 11/19
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 歩虚詞 高 駢
青渓道士人不識 上天下天鶴一隻
洞門深鎖碧窓寒 滴露研朱點周易
〇 淸遠寥亮 深く隠れた道士の境涯。
2023 11/20
* 新作にと「想い」寄せている仕事へ、あまり手がかりが多く書き出しそびれていた。へんなことと思われようが、しきりに「うろおぼえ」の童謡が口をついて出て、
サッちゃんはね サチコて云うんだ ほんとはね
だけど チッチャイから
自分のこと サッちゃんて 云うんだね
可笑しいね サッちゃん
「可愛いね」かもしれず、間違えててもそこは大過なく、「サッちゃんはね サチコて云うんだ ほんとはね」は「ほんと」。ただ私の知っているその「サッちゃん サチコ」は、可愛かったけれどもう「チッチャ」くはなかった、初めて顔をみた、見合うたころは、着たきり寸づまりな着物の母親が、ガラゴロ手押しで、たぶん煮焼きなどした小魚の類いを小さな「かけ声」で売りに来る荷車のわきを温和しくついて歩いて来た。我が家の前あたりに立ち止まると、待ち受けてたように近所の小母さん等が寄って気楽に喋ったり笑ったりし、わたしも母や叔母のちかくで、ボヤッと芸もなく立っていたりした。荷車の脇の(?_?)名のことくちをききうなど、あるべくももなく、しかし年格好は、わたタクシが敗戦後小学校の五年生なら向こうは三、四年かと見受けた。
2023 11/20
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 商山路有感 白居易
萬里路長在 六年今始帰
所經多舊館 大半主人非
〇 いま、京都の浄土宗總本山知恩院下、私の育った新門前通りへ数十年経て帰っても、まさしく斯様でろうなと想う。それでも帰りたい。東京での暮らしに、いま、何の魅力もおぼえない。
2023 11/21
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 遊三遊洞 蘇 軾
凍雨霏霏半成雪 遊人履冷蒼崖滑
不辭携被巌底眠 洞口雲深夜無月
〇 白居易が弟行簡や元稹槙と遊んで名づけた「三遊洞」 であり、この詩は、蘇東坡が、弟の轍や黄魯直と「三 遊洞」に遊んだ際の作。
2023 11/22
* 「湖の本 166」初校が出て、巻頭の小説を校正し始め、すくなくも、昂揚感が得られている。惑わず このまま校正し続けつつ、弱点が見つかれば立て直し直しして「本当の脱稿」へもって行きたい。いわば最晩年作のやや長い目の小説で、「秦恒平」なら在りうる「結構」にケッコウ挑んでいる。しっかり仕上げたい。それに成功すれば、更に次の、先の、創作へ気をしかと向けることも出来よう。まだ「終わり」ではない。
2023 11/22
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 金 谷 園 無名氏
當時歌舞地 不説艸離離
今日歌舞盡 滿園秋露垂
〇 豪奢豪遊の末路を端的単簡に描破している。
2023 11/23
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 漁 翁 柳宗元
漁翁夜傍西巌宿 曉汲淸湘燃楚竹 煙消日出不見人
欵乃一聲山水緑 回看天際下中流 巌上無心雲相逐
〇 欵乃(あいたい)は、いわゆる舟歌。湘川(せうせん) 清く照らす五六丈、下に底石を見る樗蒲の如し、白沙は 霜雪の如く、赤崖は朝霞の如し、と。
2023 11/23
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 遊 子 吟 孟 郊
慈母手中線 遊子身上衣 臨行密密縫
意恐遅遅帰 難将寸艸心 報得三春輝
〇 旅中、旅装束など慈愛豊かにしつらえくれた故郷の母 の、早い無事な帰還を胸中に願っていただろうことも 想うての「客中(旅中)」の感慨。
* サテサテ どんな日々がこれから「我が家」を導くのか、判りません。
2023 11/25
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 思 邉 李 白
去歳何時君別妾 南園緑艸飛胡蝶 今歳何時妾憶君
西山白雪暗秦雲 玉關此去三千里 欲寄音書那得聞
〇 邉塞に戊役する夫を想う女ごころ。青山は、雪山雪嶺 西都のにしにあり吐蕃の境。秦雲は長安を謂うている。
2023 11/26
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 子 夜 呉 歌 李 白
長安一片月 萬戸擣衣聲 秋風吹譜盡
總是玉關情 何日平胡虜 良人罷遠征
〇 胡夜呉歌は声調頗る哀感に溢れた女歌。「玉關」は古都 長安を去る西三千六百里の邉塞、征く者の願わくは生き 玉門關に入らむ」と嘆じた。
李白にはことに此の同情同感の作が見える。
2023 11/27
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 採 蓮 曲 李 白
〇 若耶溪傍採蓮女 笑隔荷花共人語
日照新粧水底明 風飄香袂空中擧
岸上誰家遊冶郎 三三五五映垂楊
紫騮嘶人落花去 見此躊躇空断腸
〇 舟を浮かべて蓮華を採る。李白の此の詩は採蓮をかりて 若耶溪の勝景を描いている。紫騮は「赤馬」。
2023 11/28
あとがき
一九八六年 桜桃忌に「創刊」、此の、明治以降の日本文学・文藝の世界に、希有、各巻すべて世上の単行図書に相当量での『秦恒平・湖(うみ)の本』全・百六十六巻」を、二〇二三年十二月二十一日、滿八十八歳「米寿」の日を期しての「最終刊」とする。本は書き続けられるが、もう読者千数百のみなさんへ「発送」の労力が、若い誰一人の手も借りない、同歳,漸く病みがちの老夫婦には「足りなく」なった。自然な成行きと謂える。
秦は、加えて、今巻末にも一覧の、吾ながら美しく創った『秦恒平選集 全三十三巻』の各大冊仕上がっていて読者のみなさんに喜んでいただいた。想えば、私は弱年時の自覚とうらはらに、まこと「多作の作家」であったようだが、添削と推敲の手を緩めて投げ出した一作もないと思い、,恥じていない。
みな「終わった」のではない。「もういいかい」と、先だち逝きし天上の故舊らの「もういいかい」の誘いには、遠慮がち小声にも「まあだだよ」といつも返辞はしているが。 過ぎし今夏、或る,熟睡の夜であった、深夜、寝室のドアを少し曳きあけ男とも女とも知れぬソレは柔らかな声で「コーヘイさん」と二た声も呼んだ呼ばれた気がして目覚めた。そのまま何事もなかったが、「コーヘイさん」という小声は静かに優しく、いかにも「誘い呼ぶ」と聞こえた。
誰と、まるで判らない、が、とうに,還暦前にも浮世の縁の薄いまま、「,此の世で只二人、実父と生母とを倶にした兄と弟」でありながら、五十過ぎ「自死」し果てた実兄「北澤恒彦」なのか。それとも、私を「コーヘイさん」と新制中学いらい独り呼び慣れてくれたまま,三十になる成らず、海外の暮らしで「自死」を遂げたという「田中勉」君からはいつもこう呼んでいたあの「ツトムさん」であったのか。
ああ否や、あの柔らかな声音は、私、中学二年生以来の吾が生涯に、最も慕わしく最高最唖の「眞の身内」と慕ってやまなかった、一年上級の「姉さん・梶川芳江」の、やはりもう先立ち逝ってしまってた人の「もういいの」のと天の呼び聲であったのやも。
応える「まあだだよ」も、もう本当に永くはないでしょう、眞に私を此の世に呼び止められるのは、最愛の「妻」が独りだけ。元気にいておくれ。
求婚・婚約しての一等最初の「きみ」の私への贈りものは、同じ母校同志社の目の前、あの静謐宏壮な京都御苑の白紗を踏みながらの、「先に逝かして上げる」であった。心底、感謝した。、いらい七十余年の「今」さらに、しみじみと感謝を深めている。
私の「文學・文藝」の謂わば成育の歴史だが。私は夫妻として同居のはずの「実父母の存在をハナから喪失していて、生まれながら何軒かを廻り持ちに生育され、経路など識るよし無いまま、あげく、実父かた祖父が「京都府視学」の任にあった手づるの「さきっちょ」から、何の縁もゆかりも無かった「秦長治郎・たか」夫妻の「もらい子」として、京都市東山区、浄土宗總本山知恩院の「新門前通り・中之町」に、昭和十年台前半にはまだハイカラな「ハタラジオ店」の「独りっ子」に成ったのだが、この「秦家」という一家は、「作家・秦恒平」の誕生をまるで保証していたほど「栄養価豊かな藝術文藝土壌」であった。
私は生来の「機械バカ」で、養父・長治郎の稼業「ラジオ・電器」技術とは相容れなかったが、他方此の父は京観世の舞台に「地謡」で出演を命じられるほど実に日ごろも美しく謳って、幼少來の私を感嘆させたが、,加えて、父が所持・所蔵した三百冊に及ぶ「謡本」世界や表現は、当然至極にも甚大に文学少年「恒平」を啓発した、が、それにも予備の下地があった。
長治郎の妹、ついに結婚しなかった叔母「つる」は、幼少私に添い寝し寝かしてくれた昔に、「和歌」は五・七・五・七・七音の上下句、「俳句」は五・七・五音などと知恵を付けてくれ、家に在ったいわゆる『小倉百人一首』の、雅に自在な風貌と衣裳で描かれた男女像色彩歌留多は、正月と限らない年百年中、独り遊びの私の友人達に成った。祖父鶴吉の蔵書『百人一首一夕話』もあり、和歌と人とはみな覚えて逸話等々を早くから愛読していた。
叔母つるからの感化は、さらに大きかった。叔母は夙に御幸遠州流生け花の幹部級師匠(華名・玉月)であり、また裏千家茶道師範教授(茶名・宗陽)であり、それぞれに数十人の弟子を抱え「會」を率いていた。稽古日には「きれいなお姉ちゃん・おばちゃん」がひっきり無し、私は中でも茶の湯を学びに学び叔母の代稽古が出来るまでにって中学高校では茶道部を創設指導し、、高校卒業時には裏千家茶名「宗遠・教授」を許されていた。
私は、此の環境で何よりも何よりも「日本文化」は「女文化」と見極めながら「歴史」に没入、また山紫水明の「京都」の懐に深く抱き抱えられた。大学では「美学藝術學」を専攻した。
だが、これでは、まだまだ大きな「秦家の恩恵」を云い洩らしている。若い頃、南座など劇場や演藝場へ餅、かき餅、煎餅などを卸していたという祖父・秦鶴吉の、まるまる、悉く、あたかも「私・恒平」の爲に遺されたかと錯覚してしまう「大事典・大辞典・字統・仏教語事典、漢和辞典、老子・莊子・孟子・韓非子、詩経・十八史略、史記列伝等々、さらに大小の唐詩選、白楽天詩集、古文眞寶等々の「蔵書」、まだ在る、「源氏物語」季吟の大注釈、筺収め四十数冊の水戸版『参考源平盛衰記やまた『神皇正統記』『通俗日本外史』『歌舞伎概論』また山縣有朋歌集や成島柳北らの視し詞華集等々また、浩瀚に行き届いた名著『明治維新』など、他にも当時当世風の『日曜百科寶典』『日本汽車旅行』等々挙げてキリがないが、これら祖父・秦鶴吉遺藏書たちの全部が、此の「ハタラジオ店のもらひ子・私・秦恒平」をどんなに涵養してくれたかは、もう、云うまでも無い。そして先ずそれらの中の、文庫本ほどの大きさ、袖に入れ愛玩愛読の袖珍本『選註 白楽天詩集』の中から敗戦後の四年生少年・私は、就中(なかんづく)巻末近い中のいわば「反戦厭戰」の七言古詩『新豊折臂翁』につよくつよく惹かれて、それが、のちのち「作家・秦恒平」のまさしき「処女作」小説『或る折臂翁』と結晶したのだった、「湖の本 164」に久々に再掲し、嬉しい好評を得ていたのが記憶に新しい。
2023 11/28
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 採 蓮 曲 李 白
〇 若耶溪傍採蓮女 笑隔荷花共人語
日照新粧水底明 風飄香袂空中擧
岸上誰家遊冶郎 三三五五映垂楊
紫騮嘶人落花去 見此躊躇空断腸
〇 舟ヶ
2023 11/29
〇 採 蓮 曲 李 白
〇 若耶溪傍採蓮女 笑隔荷花共人語
日照新粧水底明 風飄香袂空中擧
岸上誰家遊冶郎 三三五五映垂楊
紫騮嘶人落花去 見此躊躇空断腸
〇 舟を浮かべて蓮華を採る。李白の此の詩は採蓮をかりて 若耶溪の勝景を描いている。紫騮は「赤馬」
2023 11/30
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 王 右 軍 李 白
〇 右軍本淸眞 瀟洒在風塵 山陰遇羽客 要此好鵝賓
掃素寫道經 筆精妙入神 書罷籠鵝去 何曾別主人
〇 王右軍は書聖王羲之 右軍將軍でもあった。「鵝」を殊 に愛し,愛のいかほど篤かったかを詩は詠嘆している。
2023 12/1
* もつぱら読み継いでいるのは明治早々の和本『参考源平盛衰記』の、今、巻二十五だが、並行して、「かなり戻って」の巻十六。
私は、もののあはれに逼られてか「源三位頼政」という武人に昔から同情を寄せ、ひととなりも、武人、歌人としての風貌にも心惹かれている。時間と躰との余裕さえあれば、『頼政』語りを抜粋して現代語譯の『頼政ものがたり』にもしたいのだが。
2023 12/1
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 清 明 王元之
〇 無花無酒過清明 興味粛然似野僧
作日隣家乞新火 曉窓分與讀書燈
〇 元之七歳文を能くす。其の才を忌み長じて貶せらる。
2023 12/2
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 寒 夜 杜小山
○ 寒夜客來茶當酒 竹爐湯沸火初紅
尋常一様窓前月 纔有梅花便不同
2023 12/3
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 寒 食 韓弘啓
○ 春城無處不飛花 寒食東風御柳斜
日暮漢宮傳蝋燭 輕煙散人五侯家
○ 唐の徳宗の宰相ながら外戚に追われ、漢の成帝太后の 五兄弟に身を寄せ侯に封じられている
2023 12/4
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 霜 月 李 商 隠
○ 初聞征雁已無蝉 百尺樓高水接天
青女素娥租耐冷 月中霜裡闘嬋妍
○ 唐文宗の時 君危うく 寇盛んに國亂れ民賓し、と。
2023 12/5
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 海 棠 蘇 東 坡
○ 東風嫋嫋汎崇光 香霧空濛月轉廊
只恐夜深花睡去 故焼高燭照紅粧
○ 楊貴妃 酒に酔い臥し 帝の曰わく海棠睡り未だ 足らず耶と。
2023 12/6
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 登 山 李 渉
○ 終日昏昏醉夢間 忍聞春盡強登山
因過竹院逢僧話 又得浮生半日閑
○ 一隠にならい 時勢の談論を厭い 又 止んで一 世の閑人たらんと。
2023 12/7
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 觀 書 有 感 朱 文 公
○ 昨夜江邊春水生 艨艟巨艦一毛輕
向來枉費推移力 此日中流自在行
○ 行舟を以て學を爲すに喩えている。春水生は、資 深逢源の意。次句は衆物の表裏精粗到らざる無しと。 力を用うるの久しくして一旦豁然と貫通するを謂う
2023 12/8
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 觀 書 有 感 一 朱 文 公
○ 半畝方塘一鑑開 天光雲影共徘徊
問渠那得清如許 爲有源頭活水來
○ 理は静を欲し、而して天光の寂然たる、不動の性。 雲影感じて之が情を通ずるや,方寸の中虚靈昧から 深造自得して資深其の源に逢うの妙を謂うか。
2023 12/9
* 体調不安は掩えない。安眠もしていない、始終まさしく「夢想」の内に「京都」と「少青年の思い出」を拾い続けている。
* さすがに幼少、昭和十六年、しかも地元を離れ送迎バスで通った私立「京都幼稚園」での友も先生ももう影淡い、が、その年「十二月八日」、まさしく82年前の「真珠湾奇襲」そしてつづく「太平洋戦争・第二次世界大戦,のことは、いずれのヒロシマ・ナガサキ原爆・そして敗戦・戦犯裁判、闇市・進駐軍・街にあふれた売春婦等々、鮮やかに子供心に記憶している。
そう。「開戦」翌、櫻の春にわたしは京都市立有済国民学校に入学。そしてちょうど「三年生を終えた」ときに、当時戦時下の京都市東山区松原警察署管轄の技術者として「ラジオ班長」を委託されていた父長治郎の意向で、知縁を頼み、秦の祖父と母と私三人は、京都府南桑田郡樫田村字杉生(すぎおう)の富農長澤市之介氏宅の「隠居」を借り、いわゆる「戦時の縁故疎開」生活に入り、「四年生早々」から山をまるまる一つ越えた樫田村田能部落の府立樫田国民学校、実に程もなかった「八月敗戦」からは樫田小学校へ、「五年生二学期半ば」まで山越え通学していたが、五年生の秋、突発、私は満月様顔貌の急性腎臓病を発病、此の際秦の母は躊躇いない機転で即刻私を引っ担ぐように亀岡市経由京都市内へ帰り、家へも戻らずずその足で、東山区松原通に掛かりツケだった親しい樋口医院へ担ぎ込んでくれた、まさしく、それで命助かったのだ。
辛うじてその五年生二学期末から、久々に旧母校、有済記小学校に復帰、六年生では戦後の合い言葉、自主自治のなのもと全校生徒選挙によって初の「生徒会長」に選ばれたり、歯筒の戦後小学生生活を謳歌した。市内に一郭の只の使用学校経ったが、戦時戦後の海外からの機関や戦災等による家を挙げての京都市へ罹災避難家庭が充満し、学校の運動場はわたくしなどまた「モンペ」蔟の目をうばう洋服やスカート・ブラウス・カーディガン等の見知らぬ顔顔顔に、まさに「おったまげ」た。それでも、私、大いにがんばったのだ,五年生では卒業式に在校生送辞を、自身六年卒業式には卒業生答辞を読み、一の優等生として有済小学校を卒業したのだった。山ほどの思い出が、今もいきいきと身内に宿っていて、そして、相次ぎ、祇園八坂神社「石段下」の京都市立「新制」弥栄中学に入学した。実にこの年の春から、「旧制」の久しい憧れでも目標でもあつた京都一中や二中への「入試進学」と謂う制度は廃止され、京都市立に限れば、六年(私の場合、有済小学校) 三年(新制弥栄中学) 三(新制日吉ヶ丘高校 但し入試)制に、ウソのように一切切り替わったのだった。
2023 12/9
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 楓 橋 夜 泊 張 繼
○ 月落烏啼霜満天 江楓漁火對愁眠
姑蘇城外寒山寺 夜半鐘聲到客船
○ 幼少、漢詩として敬愛し吟誦した最初作。今も懐 かしい。いかにも「支那」の風土風光を感じた。
中国政府の招きで作家として二度訪中の機會にも、 この想い趣きをしばしば感じ、懐かしかった。
2023 12/10
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 漫 興 杜 工 部
○ 腸斷春江欲盡頭 杖藜徐歩立芳洲
顚狂柳絮随風舞 軽薄桃花逐水流
○ 愁いの大なる斯くの如く、国民の嘆きを想わずに 居れぬ、と,軽薄流落の極まるを嗤い歎く、と。
2023 12/11
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 茅 簷 王 介 甫
○ 茅簷長掃浄無苔 花木成蹊手自栽
一水護田将緑繞 兩山排闥送青來
○ 茅簷は「朝廷」に比して、一詩、詠者の権威意を 得て自在なまで気味の優渥と諸臣の己を奉じて隆厚 なるをい亙書信資材に謂うており、愁いの大なる斯 と広言している。かかる述懐も「詩」と生るか。
2023 12/12
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 烏 衣 巷 劉 禹 錫
○ 朱雀橋邊野草花 烏衣巷口夕陽斜
舊時王謝堂前燕 飛入尋常百姓家
○ 晋朝金陵での王導,謝恩ら大臣等が居地を借りな がら、「野草花」には政令のよからずを、「夕陽斜」 には君徳の正しからざる等を「借りて」諷諫、譏り 詠じている。
2023 12/13
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 田 家 笵 成 大
○ 晝出耕田夜績麻 村庄兒女各當家
童孫未鮮供耕織 也傍桑陰學種瓜
○ 昼夜安き無く 老若も男女もみな息する得ず、朝 廷賦役の繁を諷すると。
2023 12/14
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 絶 句 杜 工 部
○ 兩箇黄鸝鳴翠柳 一行白鷺上青天
窓含西嶺千秋雪 門泊東呉萬里船
○ 字は子美。工部は官。詩名を以て当時に冠たり。
2023 12/15
* 朝から、怠けて寝転んでは居なかった、が、「湖の本 最終166」を無事責了したいと勉めて、疲労は部厚く心神を絞めるように掩っている。やれやれ。その気になれば用も要も、ハイハイと寄ってくる。
* コロナいらい 街へどころか、医者以外に近隣へも出歩いてない暮らし。
*[「湖の本」今度の166巻で 終える。発送の「便」が業者側から無くなってしまうので。
むろん、「書く」は、書き続ける。
ホームページを適切に完備できれば、「発信」のカタチで「作と私語と」は送り出せる。が、カッコいい「ホームページ」を自分で「創れない」のが「遺憾」も遺憾。
*ま、なにもかも終焉へ。自然な歩みと謂うべく。
2023 12/15
* 目が覚めて,真っ暗の五時半。早暁かと想ったが、十五日の夕方。師走も冬至へ、わが米寿の日へちかづくと,こんなにも日が短いかと、ちょっと胸衝かれる気がした。日なかの、一年中で最も短い日に私は生まれた。
2023 12/15
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 秋 程 明 道
○ 清渓流過碧山頭 空水澄鮮一色秋
隔斷紅塵三十里 白雲紅葉兩悠悠
○ 孤立して賢臣の輔なき君主の無惨をも示唆し、主 は白雲の如く、臣は紅葉の如く、兩つながら悠々飛 揚、容易には相い遇い難きをも諷する、か。
2023 12/16
* いよいよ「秦恒平 湖の本」「最終」第166巻を「責了」で印刷所に託するところまで来た。ここでもまた一つ、作家人生の大事な,よけては通れないキマリが付く。
* さ,そうなったら、なったこと。いっそ手足を伸ばしすきなことをしてみるか,残年は短い、残念に潰されまい。
2023 12/16
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 竹 樓 李 嘉 祐
○ 傲吏身閑笑五侯 西江取竹起高樓
南風不用蒲葵扇 紗帽閑眠對水鷗
○ 「傲吏」はけだし隠士か、「諸侯の富貴」を嗤うな らん。「取竹」の貧賤に身を寄せて「蒲葵扇」を用 いず賄賂讃剰を求めず「紗帽閑眠」して在らんと。
「紗帽」は隠居のシンボルか、私も常々にチョン と筒ようの帽を、巻くように頭に被せている。呵々。
2023 12/17
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 直 中 書 省 白 樂 天
○ 絲綸閣下文章靜 鐘皷樓中刻漏長
獨坐黄昏誰是伴 紫薇花對紫薇郎
○ 白楽天 字は居易、號は香山居士、唐の貞元年中 に進士に擢げられ、「文輿」と謚(おくりな)されて、 日本でもあまりに著名な詩聖、
ここに謂う紫薇郎は白楽天その人。刻漏長く、獨坐 して伴侶なく、静の極を「絲綸閣」すなわち中書省に 「文章(もんじょう)」静かに「直」すなわち夜勤の 席に在る。
2023 12/18
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 題 屏 劉 季 孫
○ 昵喃燕子語梁間 底事來驚夢裡閑
説與傍人渾不觧 杖藜携酒看芝山
○ 昵喃は燕の聲、燕のうるさいように、讒邪の 小人、また喧しい、それを傍人渾不觧、愚な主君は 解しない。唐の時人、廉吏季孫、讒に遭い遠地での 酒税の「管」に逐われている。
2023 12/19
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 題 淮 南 寺 程 明 道
○ 南去北來休便休 白蘋吹盡楚江秋
道人不是悲秋客 一任晩山相對愁
○ 蓋し朝廷の腐心を悲しむも、己に官守なく、言責 なしと、慨嘆の深きを表するか。
2023 12/20
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 雪 梅 廬 梅 坡
○ 梅雪爭春未肯降 騒人閣筆費評詩
梅須遜雪三分白 雪却輸梅一段香
○ 君臣の葛藤かにもはや読むので無く、ただ『雪』 と『梅』との互譲相愛の風情に破顔し共感する。
◎ 又 雪 梅 前 人
○ 有梅無雪不精神 有雪無詩俗了人
日暮詩成天又雪 與梅併作十分春
○ 君臣際會などと愚なことは見ず、ただ雪あり梅 あるの静謐和合を微笑したい。残る歳あり、残る志も。
2023 12/21
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 有 約 司馬温公
○ 黄梅時節家家雨 青草池塘處處蛙
有約不來過夜半 閑敲棊子落燈花
○ 神宗、司馬公を用いて御史大夫としながら、命は くだらなかった。喜信をを待って虚しいいちやでは あるが、私はそういう「事情」よりも句句の興をあ えて楽しんで読む。
2023 12/23
* 起きて、寝て、腰骨の痛みやまず。視力の衰え甚だしい。機械の上でもいろんな制約や不本意が起きているのをむしろ僥倖とし、為ずに済むことは来る新年からはこころおきなく放擲してずんずん済ませる生活にしたい。姿もかたちも、わが文筆には無用というぐらいに。
* 誤植の校正は、まこと、この歳になっても、この歳になったからとも言いたいが、むずかしく、恥をたくさんかく。
* 歳暮に、メールで送れる何人かの人に『埋み火 京の底冷えに』を、恥ずかしい誤植もコミで、送った。
* 此処へ、「令和五年のあとがき」として、書き写して置こう。
◎ 謹賀迎春 令和六年
埋み火 京の底冷えに 秦 恒平 作
「さ、歳を送りましょ、おあがり」
「有難うございます。ご馳走になります。
その年の稽古茶席、最期に埋み火の客は、新年には京都を離れ、もう稽古にかよってこれないという年上の人だった。そのYさんを叔母と鈎の手にはさんで、まだ高校生だった私は、水屋に近い席で年越し出前の天ぷらうどんを、わざと元気よくふうふうふいてするする食べた。
「除夜の鐘、もう成增やろ」
「もうさっきから鳴ってるよ」
「ーーー」
「大晦日の晩にはお炭点前をして、こうやってお茶点ててつごもりそばをいただいてから、あしたの朝の大福茶まで保つように、炉の炭を灰で埋み火にしとくのどすえ。そして一年中お世話になった火ィに、えらいご厄介さんどな、ありがとうございました言うてお礼をな」
叔母が喋っているまに私は紙釜敷の炭斗を水屋から取ってきた。釜を揚げ、火種を起こし炭も新たにつぎ添えて灰匙でこなもり灰を寄せながら、山なりに、赤く燃えた火を埋めて行く。叔母も、爐縁へ膝行して出たYさんも、私が灰を盛り切った所で思わず三方から炉に向かって静かにアタマを下げた。知恩院の鐘が響き、路地を足音賑やかに連れ立っておけら詣りへ抜けて行く若い声が通り過ぎる。私は時計を覗いた。
「新年ですよ」
するともうYさんは炉端からつっと退り、叔母の方へ両手をついた。
「明けましておめでとうございます。旧年は、一方ならず、お世話になりましてーーー。どうか先生、幾久しく、お達者に」と、そこまで言ってYさんは急に両手で顔を包んでしまった。
「はい、おめでとうさんどす。あんたさんも何処へお行きやしても、お大事にな」
叔母は立ち、ひょいと床の間に片足かけてさすがに器用に、井泉水書く四字の軸の裾を三分の一ほど巻きあげて、掛釘から外して来た。
「一陽来復や。なんにもようしてあげられなんだけど、荷物にもならへん。これ、お年玉に差し上げますよって。な」
「ま、いけませんそれは先生、お大事なものを。よう覚えて、一陽来復、決して忘れませんから」とYさんは涙の顔も手も一緒に慌てて横に振った。構わず叔母はするする巻き切って、押入から箱と有合せの紙を出して来ると目の前で無造作にくるんだ。Yさんは弱ったという顔で私を見た。
「おめでとうございます」
私は両手をついて叔母とYさん半々にお辞儀した。Yさんも丁寧に返礼した。
「叔母みたいなシブチンが呉れる言うのやしーーー、遠慮せんかてええですよ」
「まあ」
あははと叔母が真先に笑った。自分で貰い物をしたほどに、私の方が嬉しかった。
叔母は立ってもう結び柳を持ちながら私たちには初詣を勧めた。毎年私は必ずこの茶室から祇園町を抜けて八坂神社へ参り、さらに知恩院か清水まで歩くのだ。
「ね、一緒に行きましょ」
私が誘うとYさんは初々しいほど一瞬含羞んだ顔をした。そして白い顔がうなずいた。急いでジャムパーを取りに離家をでた。庭に月が照って、銀色に瓦屋根が濡れていた。
八坂神社は石段も甃の参道も晴やかな初詣の人渦を幾重にも巻きこんで、見上げる空まで揺れるような賑わいだった。厄除けのおけら火を細い縄のさきにうつして貰い、、赤い火の色をちいさくくるくる回して帰る人波に、占領軍の兵隊やMPも混じっていた。
拝殿まで容易に進めなかった。もみ合うなかで足を踏まれたかいやあと叫ぶ若い女声までが新年らしく陽気で、寝おびれた鳩が屋根から屋根へ人の頭の上を羽音高く渡ると、そこまでも燃え盛る神火の焔は微塵の火の粉をばんばん吹上げて松の梢を真黒く夜空に浮かばせる。私はYさんの手を牽き引っ張るように一歩一歩神前へ近づいた。鈴を鳴らす太い綱にいくつもの手が一斉に取りつく。私たちもやっと片手だけ綱に触れ、そして掌を合わせればたちまち横から後ろから押されてよろけた。
「ずいぶん熱心に拝まれますね。何を」
Yさんは私を見て笑顔でからかった。何ということもないのだ、「恰好だけです」と返辞して、一刻も早くそこを遁れないと賽銭箱の柵に押しつけられ、右にも左にも出られなくなる。おけら火の火勢をもうそこに轟っと浴びながら、からがら拝殿の東側から円山公園へ飛び出す、と、ごうんーーーと肚に響く知恩院の鐘だった。暗やみに夢見るようにいくつも火縄が舞っている。京の底冷えをついて公園を抜け、まだ東へ池を越えて、山の上の大釣鐘堂まで除夜の鐘撞きを見に行く人が沢山いる。
「行ってみますかーーー」
「 いいえ、此処で聴いていましょう。もう押し合うのは大変。ーーーあの辺、ね、撞いているのは。あ、凄いのーーー胸の底まで響くわ」
「ーーー」
「恒平さん、あなた寒くありません」
「寒い。脚に何かが噛みつくみたい」
「歩きましょ。じっとしてたら凍えてしまうわ」
「ね、清水さんまで行こうか」
「ーーー」
「あそこは人がぎょうさんお籠りしてはる。音羽の瀧に打たれてる人もあるし、舞台へ出ると」
「きれいーーー」
「きれい。今夜みたいに月があるとあの音羽の山の端がきらきら光って、まあるいの」
「行きましょ行きましょ」
Yさんは先に立つくらい元気に歩いた。真葛ケ原から二年坂、三年坂まで、さすがにめったに人とも出逢わない。たまにまだ正月の用意の終らない家の前だけ灯が洩れて、その辺り二、三軒の門松や〆飾りが行儀よくしんと目立つ。
「ね、恒平さん」
「はい」
「ーーー」
「何ですか。言うて下さい」
「ーーーお茶習って、よかったわ」
その年の秋はじめ、叔母は嵯峨の二尊院ちかくに茶席を借りて、「正午の茶事」を社中の希望者に稽古させた。Yさんはお点前など役はつかなかったが、わざと「客」として席半ばに座っていた叔母の隣で、神妙に叔母のする通り真似て濃茶を喫み、懐石を食べていた。濃い藍ねずみにしだれ柳と籬に菊の着物がよく似合っていた。ーーーこの人に、またあんな機会があるのだろうか、本当にこの人は、京都を離れて行くのかーーー。
高い石段の上に清水寺の勅使門は凜と影を浮かべ、きらきらと屋根が光る。かすかに落ちる遠い瀧の音に聴き耳立てて空を仰げば、いっそ花やかに月かげに白く濡れて、柔毛のように木々の影がふるえて見える。
つと手を取り合ってYさんと私は石段を上り、塔の横から本堂の方へ急いだ。遠目に舞台が鏡のように照って、何人もの先客が心なし凝っとたたずんでいる。御堂の奥は大きな燈明が昏い影を常闇の底から揺り動かし、お籠りの白衣の老人夫婦や祈祷を捧げる二十人足らずの人が、みな黙々とひとかたまりの濃い翳になって蹲踞って見えた。
今度はYさんの方が永く眼をとじて合掌していた。
「何、お願いしてたん」と、私はからかった。
「また、きっとお目にかかれますように」
「誰に」
「恒平さん、に」
照れて私はあはあは笑いながら、とっとと舞台へ一人で出て行った。何だ、何だ、一体これは何だ、夢か、絵空事か、お芝居か。私は涙を頬に伝わせ、擬宝珠のある欄干に痛いほど胸を押し当てて真昏な谷底を覗いた。音羽の瀧に灯が流れ、人だかりがしている。經か陀羅尼か、声高に唱えて細い樋口を落ちる瀧に肩を打たせている白鉢巻の老女を、Yさんは厳しい横顔で息をつめて見下ろしていた。姉さんーーと、そう私は心の中で呼んでいた。死んだらあかん、死んだらあかんよと呼んでいた。寒い寒い京の底冷えだった。
あれからーー三十五、六年。Yさんは去年の師走に、カリフォルニアで、子供さんもなくひっそりと亡くなっていた。妹という人からのしらせで知った。
埋み火は、もう開くすべもな。この冬も、また、京都は冷えるだろう。 (結)
2023 12/23
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 登 車 葢 亭 蔡 確
○ 紙屏石枕竹方床 手倦抛書午夢長
睡起莞然成獨笑 數聲漁笛在滄浪
○ 亭中器物の反省のない享用愛翫を心に羞じるなき を非難していると読める。若かず紙屏石枕に甘んじ るが可ならずやと。
2023 12/24
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 入 直 周 公 益
○ 綠槐夾道集昏鴉 勅使傳宣坐賜茶
歸到玉堂清不寐 月鈎初上紫薇花
○ 唐の尚書省、別名に紫薇省に聞こえた槐樹あり 翳を垂れ、美しい紫薇花あり、夜直の帰路に嘆 賞を惜しみなく。
2023 12/25
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 滁 州 西 澗 韋 蘇 州
○ 獨憐幽草澗邊生 上有黄鴒深樹鳴
春潮帯雨晩來急 野渡無人舟自横
○ 韋應物、蘇州刺史。或いは「潮急多難」の時に 当らんの気概か。
2023 12/26
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 題 邸 間 壁 鄭 亦 山
○ 荼麼香夢怯春寒 翠掩重門燕子閑
敲斷玉釵紅色冷 計程應説到常山
○ 旅邸にあって嬪人の為に別を思うの意あるか。 夜色清翠さらに寂寞.渾厚温雅、詩情玩ぶに足 るか。
2023 12/27
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 上 元 侍 宴 蘇 東 坡qy
○ 淡月疏星繞建章 仙風吹下御爐香
侍臣鵠立通明殿 一朶紅雲捧玉皇
○ 一人の獻可賛否して賛襄の力を致すなき不出来な侍臣たちを諷諫の 眞意あるべし。
2023 12/28
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 北 山 王 介 甫
○ 北山輸綠漲横陂 直塹回塘灔灔時
細數落花因坐久 緩尋芳草得帰遅
○ 政事繁多 責任重ければこそ 精しく詳らかに、芳草を尋ぬるご とく、徐々とし、拙速あってはならぬ、と。
2023 12/29
* 風邪気味もあり、自まま気ままに寝置きしながら、歳を終える心用意はしていた.歳を終えて新年を迎える。ものこころついて八十年は繰り返し重ねて来たこと。ただ平穏に見送りまた新たに迎えるだけ。
* し残しの、ぜひ仕上げて行きたい「創作」への思いが少なくも二,三は積んである。平成にソレへそれへと向かって行く来年でありたい。
2023 12/29
◎ 寅日子忌 珈琲の苦味かぐはし寅彦忌 牧野寥々 ○ 寺田寅彦 十二月三十日 理学者 随筆家 俳人
* いくほどの歩みとも無く見返ればこやこの世とは地獄の隣り 恒平
* もう大人として世に出ていたか,大学生であったか、寺田寅彦の「随筆」に浸っていた。いずれ寅彦には師の、夏目漱石世界を経てきてのことであったはず。私には所詮縁遠な「科学」「理学」の匂いにかすかに触れ得たのが、いつも新鮮にもの珍しかった。
2023 12/30
◎ 鐵 齋 忌 爐の灰を縄目に掃けり鐵齋忌 黒田櫻の園
○ 富岡鐵齋 十二月三十一日 近代美術史に卓越の墨画家
○ この歳や為し成るままに見送りて振る手もちさく見えていとほし 恒平
* まあ、零時以降、何度手洗いに起った,起たねば済まなかったろう。正直なところ眠たいが、床を起ってきた。
* 大晦日とや。そんな気がしない。キイを捺す指先が痛いほど冷たい。
2023 12/31