ぜんぶ秦恒平文学の話

文学作法 2024年

 

◎ 孫子曰、兵者國之大事、死生之地、存亡之道。不可不察也。
孫子曰く、兵は國の大事、死生の地、存亡の道なり     察せざるべからざる也。
○ まこと自明当然の理、備えてもなお憂いは有る。安    穏のバカ面をさげ忘れていて済むことか。私は断乎、    軍国主義者ではないが、「政治」にこれを忘れていて    貰ってはならぬ、「戰争は、ちょろっかにやるもので    ない。」。

* しばらく『孫子』を、明治の「處世應用」塚原渋柿園に聴きながら読んでみる。「孫子」は孔孟の類いでは無い、いわば「兵法」の人、そんな人から何が聴けるか。
2024 1/1

◎ 孫子曰、故、經之以五事、校之以計、而索其情。一曰、道。二曰、天。三曰、地。四曰、将。五曰、法。
孫子曰く、故に、之を經(はか)るに五事を以てし、     之を校(くらぶ)るに計を以てし、而して其の情を     索(もと)む。一に曰く、道。二に曰く、天。三      に曰く、地。四に曰く、将。五に曰く、法。
2024 1/2

◎ 孫子曰、道者、令民與上同意、可與之死、可與之生、   而不畏危也。
孫子曰く、道とは、民をして上(かみ)と意を同じ     くして、之と死すべく、之と生くべく、而して、畏     れ危ぶまざらしむるなり。
2024 1/3

◎ 孫子曰、天者、陰陽、寒暑、時制也。地者、遠近、険   易、廣狭、死生也。
○ 孫子曰く、天とは、陰陽、寒暑、時制なり。地とは、    遠近、険易、廣狭、そして死生なり。
○ 繰り返し謂うが、書物としての『孫子』も、人とし    ての孫子も、老子や莊子や、また孔子や孟子のような    道徳や思惟の人でも本でも無い、はっきり謂って兵法    ないし戦術に踏み込んで語っている。上はことに、戦    する「時機」や「戦場」の選択や把握に触れて、語り    手として、また読み手として、日本で謂うなら武田信    玄や、織田信長、羽柴筑前(木下藤吉郎)らを想い     浮かべて好い。
さらに敷衍すれば、民間の経営者、事業家らもまさ    しく「處世應用」が利くと、「明治人」らはなお信頼    していた。
2024 1/4

◎ 孫子曰、将者、智、信、仁、勇、嚴也。
○ 孫子曰く、人を、兵を、軍を、部下を率いて「将」た   るものは、智、信、仁、勇、嚴であると。

○ 謂い得て尽くしている。この場合、「将」とは軍将、    将校、に限らない。政治にも、官庁にも、企業にも、    グループにも「上長」の地位にいて人を率いる例は多    彩。「智」は賢い判断に加え日ごろの視野情報の広さ    慥かさが謂われ、「信」は信念ともに信頼し信頼され    る両面が謂われていよう。
「仁」には廣い慈心と、他を愛しうる心の豊かさが    謂われてある。「勇」は蛮勇で無く、「嚴」もけじめを    得て愛や仁を孕んでいる。明治の乃木大将や東郷元帥    を想うのは自然だろうが、けっして兵事・軍事の「武    徳」に限らず、「處世應用」人事を謂い得て的確なの    を汲みたい。
2024 1/5

* もの忘れ、記憶喪失が、徐々にと謂いたいが、足早に来つつある。それが自然と躱しながら歩むしか無い、どうこうは出来ない事。キイで、まだ自在に文章の打ち出せてるのが、有難い。* 幼少の頃、「心に太陽をもて」と、なにやら絵本の類に逼られていた。わたしは、どうじに「唇に唄を」とも教わって、これは好いこと、大事なこととと感じた。お蔭で、私は今にしてまだまだ、声に出さずもくちもとに唄を欠かさない、ときに、ウルサイヨと愚痴るほど、実にさかんに童謡や唱歌を無音で唱い続けている、
このとみろは、なぜか、「京都ヲ 大原三千院」とばかり聲無く口ずさみ続けている。とくべつ三千院に曰わくがあるのでない、流行歌の出だしだけが口に残って居るのだ、むろん大原も三千院も懐かしい。
懐かしいわけでは無いが、同志社美学藝術学専攻で、妻と同じ一つ下の学年に「三千院の御姫サマ」とやらが、いた。オソレ多くてくちを利いたこともないが、よく覚えている。「御姫サマ」と謂うのがどんな事実にあたつているのかなどは、皆目知らず聞かずじまいだったが。それで、このごろとかく「京都ヲ 大原三千院」という歌謡曲の出だしが口に甦っているワケでも無い。
「唇に唄を」は、私の場合はほとんどが童謡ばかり、それは五月蠅くも無く受け容れている、「サッチャンはね」とか「垣根の垣根の」とか、「柱のキズはおととしの」背比べ、とか。

* 時には口うるさいのだが、「心に太陽を」よりは「唇に唄を」のほうが親しめる。小さいから秦の叔母ツルの手ほどきで和歌、俳句の存在やカルタの百人一首和歌に興味を持ち、小学校四年生の秋には戦時疎開先の丹波の山なかで京都恋しい帰りたい短歌を創っていた。有済校に帰った五年生三学期の教室で、作文の課題に鴨川などをうたった短歌を二首詠みいれていた。文章の音感、音鎖を意識していたし、今も大切にソレを感じている。句読点のはたらきをとても大事に意識している。
2024 1/5

◎ 孫子の五に曰わく、法者、曲制、官道、主用也。
○ 孫子曰く、法とは、曲制、官道、主用である、と。

○ 「法」とは、憲法、民法、刑法、法律等々の、人の    従わねばならない、つまり「掟」だが、さすがに孫子、    ここは兵また軍・戰に即して云うている。
軍では、伍人を「伍」、「十伍」を「隊」そして「二    隊」を「曲」と謂ういうていた。人数にして「百」。    孫子の認識で「曲制」とはつまりは「軍制・備立て」    を意味していた。
「官道」とは、「役柄」にしたがって大将以下の「将    官」その下位の「参謀や左官」、以下の「将校や兵士」    らの「官位・地位」に相当すること謂うまでもなく「官    道」の「道」は個々の「勤め方」を指している。
「主用」とは、軍にとも限らず、どの団体にも「種    々主用・要用」の物の備えがあり、軍には当然、弾薬、    糧食、制服、器具機械等の備蓄が無くてはならない。
2024 1/6

◎ 孫子の曰わく、凡此五者、将莫不聞。知之者勝、不   知者不勝。故校之以計、而索其情。曰、主孰有道。
○ 孫子曰く、凡そ此の五つの者(道、天、地、将、法)   は、将たる者の聞かざる莫(な)し。之を知る者は勝つ、   知らざる者は勝たず。故に之を校(くらぶ)るに計を以   てし、其の情を索(もと)む、と。曰わく、主孰れの道   有る。

○ 上の五者のいわば「變通」の理に通達する者は勝ち、    通達せぬ者は負ける。しかもこれを「一打書き」の勘    定にし、その多少を比べ見ていわば「軍情・勝敗」の    如何を索ればよいと。知恵と比較とを働かし、勇断せ    よと。相撲で謂えば一場所八勝なら勝ち、八敗なら負    け、ならば、それに対応せよ、どんな道を選ぶのか。
2024 1/7

* 「秦恒平 湖の本」は、「創刊以来38年」 「第166巻」出来本が此の「令和六年一月十一日」に入品され、数日掛けすべて夫婦して送本し、「終結」とする.老夫婦の健康や体力・腕力からして、適切な判断と思っている。
その後は「その後」で良い.
私のことだから、また何か仕肇めるかも。両手をひろげ空むいて寝転がるかも。それもいい。それがいい。永らく『湖の本』を育てて下さった皆様に心よりお礼申します。

* 少しずつ少しずつ新作の尻を押している。心急いては居ない、ゆっくり馴染んで、と思いながら。
2024 1/7

◎ 孫子の曰わく、凡此五者、将莫不聞。知之者勝、不   知者不勝。故校之以計、而索其情。
曰、主孰有道。将孰有能。天地孰得。法令孰行。兵衆孰  強。士卒孰練。賞罰孰明。吾以此知勝負。

○ 孫子曰く、凡そ此の五つの者(道、天、地、将、法)   は、将たる者の聞かざる莫(な)し。之を知る者は勝つ、   知らざる者は勝たず。故に之を校(くらぶ)るに計を以   てし、其の情を索(もと)む、と。
曰わく、「主」孰れの「道」有る。
曰わく、「将」孰れの「能」有る。
「天地」孰れか得たる。
「法令」孰れか行はる。
「兵衆」孰れか強き。
「士卒」孰れか練れる。
「賞罰」孰れか明らかなる。
吾れ此を以て「勝つと負くる」とを知る。

○ 上の五者 孰れもいわゆる将兵と軍・戰を謂うてい    るが、孫子の意を汲めばくむにつれこれら皆私等市民    ・常民の「處世」をも謂うに同じいと知れる。私が祖    父鶴吉の遺藏書からこの『孫子』に触れたときから、    そういうアタタマで接して来たしそれで良かったと、    納得して、此処で筆を擱く。
「勝ち」「負け」でのみ此の世を生きてはいない
2024 1/8

* 昨日はじつに十八時間寝入っていた勘定になる。体調の如何、全く判らぬまま、たしかに草臥れている。十一日からの最期の『湖の本』送達の実務には怺えて乗り越えたい。その先の視野が、々晴れるか、曇るのか。歩み続けるまで。
2024 1/8

◎ 『天地陰陽交歡大樂賦』 白行簡撰

白行簡は、著名な詩人白楽天と兄弟。この著が 事実   然りかは確言出来ないが、わが平安時代の貴紳また姫新   にもひそかに愛読されていたのは、事実。
飯田吉郎氏編を学習参看、明瞭な読下文の魅力に順う。

◎ 夫れ性命は人の本(もと)なり、嗜欲は人の利(この   み)なり。本存し利資(と)るは、衣食既に足るより甚   だしきは莫(な)く、歡娯至精より遠きは莫し。夫婦の   道を極め、男女の情を合(やは)らぐるに、情の知(あ   らは)るる所交接より甚だしきは莫し。(原注 交接と   は、夫婦陰陽の道を行ふなり)其の餘の官爵、功名は、   寔(まこと)に人情の衰なり。

○ 編著者島田氏解説の冒頭に、中国古来「食と色は性    なり(孟子のことば)」という伝統的な考え方、セッ    クスが長壽につながるという宇宙観の、今日なお生き    続けているという指摘が有る。

* 「性 セックス 性行為」へのなにらか感慨や行動がなくして、少なくも「人」は「ひと」に成り難い。白行簡ほどに徹しては願いも思いもせぬまでも、助勢の気持は知らない、だんしであるかぎり、ごくの幼少から、性器への感触や関心から、独りでも、またイサ名仲間内でもそれが話題成らないことの方が異色であったろう。暗号めく字や模様や繪をちいさな仲間内が、また独りででも持ち合わさない、亦は見知らないことは、無い、あり得なかった。それらを幼少の耳や目に押しこむように伝えるのが、年齢のやや上長らのいわば生けるシルシかツトメかのようであった、おそらく、何万年にもわたって。
2024 1/9

* ひどい夢見であった。なにもかも、寄ってタカッテ、クチャクチャにいたぶられ、軽蔑され,乱暴され、しかしそんな世間からの逃げ道は無かった。堪えるに耐えがたい被害妄想とは、コレ。
わたしは、生まれて、「気がついたら」縁も故も無い大人達の家庭の「もらひ子」だった。それが、そもそもの「独り立ち」という意味でもあった、「自分を護れる」世界をハナから空想し妄想し想像し推察し認否して「創り上げ」て、身辺から、近在から、世間から,社会からの蔑視と否認に耐え忍ばねばならなかった。それが「夢」と化すると,、九十歳近い私の現在にして、見知ったような見知らぬような或る外壁を固く閉ざされた「街衢」を懸命に走って逃げ回り続けねばならない。
こうい子は,、「夢」にも、然様の想像、存在自体を徹底的に否定否認侮蔑され続けるのに,懸命に抵抗し反抗して生き続けねばならない。わたしには、「文藝・文学・そして創作」が,幸いに、ソレであった。

* ま、お正月さんは帰って行かれよう。何が大事か。健康、のようである。
2024 1/9

◎ 『天地陰陽交歡大樂賦』 白行簡撰

白行簡は、著名な詩人白楽天と兄弟。この著が 事実   然りかは確言出来ないが、わが平安時代の貴紳また姫新   にもひそかに愛読されていたのは、事実。
飯田吉郎氏編を学習参看、明瞭な読下文の魅力に順う。

◎ 夫れ造構、已(すで)に群倫の肇め、造化の端(もと)   を爲(つく)れり。天地、交接して覆塞(ふさい)均し   く、男女、交接して陰陽順(したが)ふ。故に仲尼(孔   子)は婚家の大を称(とな)へ、詩人は『螽斯(シュウ   シ)=螽(いなご)に寄せて子孫繁殖をうたった詩経の   一篇)』の篇をを著はせり。本を考え、根を尋ぬるに、   此を離れざるなり。遂に男女の志、形㒵(けいぼう)、   妍嗤の類を想ひ、情に縁りて儀を立て、像に因りて意を   取り、偽に隠れて機を變じ、悉く(此の書『天地陰陽交   歡大樂賦=白行簡著)有らざる無し。 童稚の歳より始   めて, 人事の終りに卒(や)む。猥談なりと雖即(い   へど)も、理(ただ)しく佳境を標(しる)す。具ての   所以に大樂賦と名づく。俚俗の音號に至るも、隠諱する   こと無し。唯 咲(わらひ)を一時に迎へ
(一)終える。  ○ 詩と散文の間の韻文の一体、「賦」を成していると。
『大樂賦』紹介はもう足りてよう。あとは独り読むよ。
2024 1/10

* 玄関に掛けていた岸連山「富士」の好い墨軸をはずして、明日『湖の本』最終166巻の納品に備えた。軸のアトへは、これも好きな弍羽の小鳥の色彩畫額を掛けた。
四十年近く年に数回ずつ手懸けてきた「湖の本」発送を終える、心残りは無い、165回ももう送り出し続けてきたのだ妻とふたりで。よくやってきたと思います。妻には、ただただ感謝。166巻は巻頭にやや長い小説『蛇行 或る左道變』を置いて、湖の本としての最終の「私語の刻」を編成した。

* 仕事は已むのでない、何か姿や顔つきを変えて新しいモノになって登場してくるかも、暫く休憩するにしても。
2024 1/10

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

白行簡を読んだので、しはらく、兄弟でありより著名   に平安時代の子女をも魅了した詩人「白楽天=白居易」   の多彩な表現に、日本人の最も親しみ慣れた『新學府』   に多く目を向けながら親しみたい。

◎ 海 漫漫 仙を求むるを戒むるなり (抄)
海は漫漫たり
直下 底無く 旁 辺無し
雲濤煙浪 最も深き処
人は伝ふ 中に三つの神山有り
山上 多く不死の薬を生じ
之を服すれば羽化して天仙と為ると
秦皇と漢武は此の語を信じ
方士 年年 薬を采りに去る
蓬莱 今古 但だ名を聞くのみ
煙水茫茫 覓むる處無し
海は漫漫たり
風は浩浩たり
眼穿たるるも蓬莱島を見ず
蓬莱を見ずんば敢えて帰らず
童男丱女 舟中に老ゆ
徐福 文成 誑誕多く
上元太一 虚しく祈祷す

○ 白楽天にはかなりに堅固な活眼あり反骨があった      と、わたくしは感じて来た。つづく「君看よ、驪      山の頂上 茂陵の頭 畢竟 悲風 蔓草を吹く       何ぞ況んや玄元聖祖の五千言 薬を言はず 仙を      言はず 白日に青天に昇るを言はさるをや」は手      厳しい。
2024 1/11

* さ、もうほどもなく、『湖の本 166』が出来てくる。

* 九時十五分、予期通り『秦恒平 湖の本』第166最終巻『蛇行 或る左道變 老蚕作繭』が出来て 玄関に山と積まれた。
太宰賞作家・秦恒平・私史の一つの大事なけじめである。
これから、ゆっくり手を掛けて妻と最終の発送に日にちを掛けるつもり。何を急ぐことも無い。

◎ 『秦恒平・湖(うみ)の本』全166巻
「結び」の あとがき

一九八六年 桜桃忌に「創刊」、此の、明治以降の日本文学・文藝の世界に、希有、各巻すべて世上の単行図書に相当量での『秦恒平・湖(うみ)の本』全・百六十六巻」を、二〇二三年十二月二十一日、滿八十八歳「米寿」の日を期しての「最終刊」とする。本は書き続けられるが、もう読者千数百のみなさんへ「発送」の労力が、若い誰一人の手も借りない、同歳,漸く病みがちの老夫婦には「足りなく」なった。自然な成行きと謂える。
秦は、加えて、今巻末にも一覧の、吾ながら美しく創った『秦恒平選集 全三十三巻』の各大冊仕上がっていて読者のみなさんに喜んでいただいた。想えば、私は弱年時の自覚とうらはらに、まこと「多作の作家」であったようだが、添削と推敲の手を緩めて投げ出した一作もないと思い、,恥じていない。

みな「終わった」のではない。「もういいかい」と、先だち逝きし天上の故舊らの「もういいかい」の誘いには、遠慮がち小声にも「まあだだよ」といつも返辞はしているが。 過ぎし今夏、或る,熟睡の夜であった、深夜、寝室のドアを少し曳きあけ男とも女とも知れぬソレは柔らかな声で「コーヘイさん」と二た声も呼んだ呼ばれた気がして目覚めた。そのまま何事もなかったが、「コーヘイさん」という小声は静かに優しく、いかにも「誘い呼ぶ」と聞こえた。
誰と、まるで判らない、が、とうに,還暦前にも浮世の縁の薄いまま、「,此の世で只二人、実父と生母とを倶にした兄と弟」でありながら、五十過ぎ「自死」し果てた実兄「北澤恒彦」なのか。それとも、私を「コーヘイさん」と新制中学いらい独り呼び慣れてくれたまま,三十になる成らず、海外の暮らしで「自死」を遂げたという「田中勉」君からはいつもこう呼んでいたあの「ツトムさん」であったのか。
ああ否や、あの柔らかな声音は、私、中学二年生以来の吾が生涯に、最も慕わしく最高最唖の「眞の身内」と慕ってやまなかった、一年上級の「姉さん・梶川芳江」の、やはりもう先立ち逝ってしまってた人の「もういいの」のと天の呼び聲であったのやも。
応える「まあだだよ」も、もう本当に永くはないでしょう、眞に私を此の世に呼び止められるのは、最愛の「妻」が独りだけ。元気にいておくれ。
求婚・婚約しての一等最初の「きみ」の私への贈りものは、同じ母校同志社の目の前、あの静謐宏壮な京都御苑の白紗を踏みながらの、「先に逝かして上げる」であった。心底、感謝した。、いらい七十余年の「今」さらに、しみじみと感謝を深めている。

私の「文學・文藝」の謂わば成育の歴史だが。私は夫妻として同居のはずの「実父母の存在をハナから喪失していて、生まれながら何軒かを廻り持ちに生育され、経路など識るよし無いまま、あげく、実父かた祖父が「京都府視学」の任にあった手づるの「さきっちょ」から、何の縁もゆかりも無かった「秦長治郎・たか」夫妻の「もらい子」として、京都市東山区、浄土宗總本山知恩院の「新門前通り・中之町」に、昭和十年台前半にはまだハイカラな「ハタラジオ店」の「独りっ子」に成ったのだが、この「秦家」という一家は、「作家・秦恒平」の誕生をまるで保証していたほど「栄養価豊かな藝術文藝土壌」であった。
私は生来の「機械バカ」で、養父・長治郎の稼業「ラジオ・電器」技術とは相容れなかったが、他方此の父は京観世の舞台に「地謡」で出演を命じられるほど実に日ごろも美しく謳って、幼少來の私を感嘆させたが、,加えて、父が所持・所蔵した三百冊に及ぶ「謡本」世界や表現は、当然至極にも甚大に文学少年「恒平」を啓発した、が、それにも予備の下地があった。
長治郎の妹、ついに結婚しなかった叔母「つる」は、幼少私に添い寝し寝かしてくれた昔に、「和歌」は五・七・五・七・七音の上下句、「俳句」は五・七・五音などと知恵を付けてくれ、家に在ったいわゆる『小倉百人一首』の、雅に自在な風貌と衣裳で描かれた男女像色彩歌留多は、正月と限らない年百年中、独り遊びの私の友人達に成った。祖父鶴吉の蔵書『百人一首一夕話』もあり、和歌と人とはみな覚えて逸話等々を早くから愛読していた。
叔母つるからの感化は、さらに大きかった。叔母は夙に御幸遠州流生け花の幹部級師匠(華名・玉月)であり、また裏千家茶道師範教授(茶名・宗陽)であり、それぞれに数十人の弟子を抱え「會」を率いていた。稽古日には「きれいなお姉ちゃん・おばちゃん」がひっきり無し、私は中でも茶の湯を学びに学び叔母の代稽古が出来るまでにって中学高校では茶道部を創設指導し、、高校卒業時には裏千家茶名「宗遠・教授」を許されていた。
私は、此の環境で何よりも何よりも「日本文化」は「女文化」と見極めながら「歴史」に没入、また山紫水明の「京都」の懐に深く抱き抱えられた。大学では「美学藝術學」を専攻した。
だが、これでは、まだまだ大きな「秦家の恩恵」を云い洩らしている。若い頃、南座など劇場や演藝場へ餅、かき餅、煎餅などを卸していたという祖父・秦鶴吉の、まるまる、悉く、あたかも「私・恒平」の爲に遺されたかと錯覚してしまう「大事典・大辞典・字統・仏教語事典、漢和辞典、老子・莊子・孟子・韓非子、詩経・十八史略、史記列伝等々、さらに大小の唐詩選、白楽天詩集、古文眞寶等々の「蔵書」、まだ在る、「源氏物語」季吟の大注釈、筺収め四十数冊の水戸版『参考源平盛衰記やまた『神皇正統記』『通俗日本外史』『歌舞伎概論』また山縣有朋歌集や成島柳北らの視し詞華集等々また、浩瀚に行き届いた名著『明治維新』など、他にも当時当世風の『日曜百科寶典』『日本汽車旅行』等々挙げてキリがないが、これら祖父・秦鶴吉遺藏書たちの全部が、此の「ハタラジオ店のもらひ子・私・秦恒平」をどんなに涵養してくれたかは、もう、云うまでも無い。そして先ずそれらの中の、文庫本ほどの大きさ、袖に入れ愛玩愛読の袖珍本『選註 白楽天詩集』の中から敗戦後の四年生少年・私は、就中(なかんづく)巻末近い中のいわば「反戦厭戰」の七言古詩『新豊折臂翁』につよくつよく惹かれて、それが、のちのち「作家・秦恒平」のまさしき「処女作」小説『或る折臂翁』と結晶したのだった、「湖の本 164」に久々に再掲し、嬉しい好評を得ていたのが、記憶に新しい。
さて、向後の「湖の本」をどう別途継続展開するかは一思案だが、勉めて読者の皆さんとのお付合いを、善い工夫で持続したい。
ともあれ三十八年ものご支援に感謝申上げます。 秦 恒平

* 諸般の用意遅れで、在来予定の「謹呈者(事実は、しばらく以前から、全送付先に「呈上」してきたが。)」へは送り出せたが、「読者」「高校」「大學」への送付がアトへ続かねばならない。ともあれ、一月下旬は一切に片付くよう、残さぬようにと願っている。
とにもかくも、「最終送付本」は予定通り全巻出来て届いていて、慌てずに送り出せば、それで「38年」続けて来た『秦恒平 湖の本』事業の、一切が、済む。

* 読者と寄贈先とへ「湖の本」最終第166巻を送り終えた、なお「高校・大學等」への寄贈草本が済めば、それらを以て、38年の『秦恒平・湖の本時代』が「収束」される。『作家・秦恒平』の時代はまだ途絶えない。

* 明日は、寝室等の設えをすこしく模様替えする。
2024 1/11

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

白行簡を読んだので、しはらく、兄弟でありより著名   に平安時代の子女をも魅了した詩人「白楽天=白居易」   の多彩な表現に、日本人の最も親しみ慣れた『新樂府』   に多く目を向け音読しながら新たに味わい親しみたい。

◎ 法 曲  列聖の華聲を正すを美(ほ)むるなり
法曲法曲 大定を歌ふ
積徳重凞(ちょうき) 余慶有り
永徽の人 舞ひて詠ず
法曲法曲 霓裳(げいしょう)を舞ふ
政(まつりごと)和し 世理(おさま)りて音洋々
開元の人 楽しく且つ康し
法曲法曲 堂堂を歌ふ
堂堂の慶 無彊に垂る
中宗粛宗 鴻業を復し
唐祚中興 万万葉
法曲法曲 夷歌を雑(まじ)ふ
夷歌は邪亂にして華聲は和なり
亂を以(も)て和を干(おか)す天宝の末
明年(めいねん) 胡塵 宮闕を犯す
乃わち知る 法曲は本(も)と華風
洵(まこと)に能く音を審(つまびら)かにせば
政(まつりごと)と通づるを
一たび胡曲の相參錯(あひさんさく)せしより
興衰と哀樂とを弁ぜず
願はくは嚝を求めて華音を正し
夷夏を相ひ交侵せしめざらんことを

○ 国粋の唱歌が,夷狄の侵入により調子や拍子や歌詞     を犯され変形し変害されることは、日本の敗戦後に     も見聞きしたし、まして中国のように転変ただなら     ぬ国情では、まま起きて人を啼かせ歎かせたはず。
2024 1/12

* 『秦恒平 湖の本』終刊・終結の『第166巻 蛇行(だこう)或る左道變  老蠶作繭』を、無事、全国の寄贈者、読者に宛て発送し終え、余すは「全国高校・大學等の施設」へ送り届けて、まさしく「大団円」となる。
「創刊から38,年」の感慨は、いずれいろいろに胸に湧くだろう。
こういう「,独り」の作家、その個人の「創作と本と」が、きちっと纏まった編成編てき輯により、多年文壇や学校や識者・読者に「寄贈・送達」されてた事例は、明治以降の日本の文界に無く、世界にも知らない。

* 相応の資財が有ったのだろうと想う人も居る。どっこい、わたくに歯丁度100冊ほどの単行著書が有るが世に謂う私は居たって「ベストセラー作家」ではない。資産家に育ったのだろうとも。とんでもない、私を人手から「もらひ子」した秦の父は小さな「ラジオ屋」,祖父は小さな「餅屋」、嫁がなかった叔母は終生「お茶・お花」の先生をしていた。私は大学で奨学金を貰い、すべて返却し、就職した初任給、最初三ヶ月の支給は12000円の8割、新婚の妻は無職で家をまもっていた。私の財布には、会社の援助で昼食の白飯一碗と味噌汁とが買える「15円」しか入ってなかった。
しかし、年に二回のボーナスに私たちは一銭の手も付けず無条件に「貯蓄」した。これが、徐々に利いてきた。とにかく茂繪に描いたようなスカンピンの新婚夫婦として何年もを平然とすごしていた。貯金以外に先途は無い、が、必ずそれが利いてくると確信していた。事実、そうなっていった。
作家になっても、出版社に泣きつくような真似はしなかった。それよりも、かのになれば自分の手と資金とで堂堂と「出版」すればいい。幸いに私出版社の編集製作で15年半鍛えられた管理職の一員にも成り、『編輯・製作』本づくりの巨細まで学習していた。いま一例が,誰もの感嘆してほめてくれる大冊『秦恒平選集』33巻は、まさしく私の謂わば「手づくり」全集、むろん166巻もの『秦恒平・湖の本』も皆、然り。

* もう早や一年の「卆寿」へ、人生の、ゆるやかな収束へと、私は、妻と共にゆっくり歩いて行く。
2024 1/12

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

白行簡を読んだので、しはらく、兄弟でありより著名   に平安時代の子女をも魅了した詩人「白楽天=白居易」   の多彩な表現、日本人の最も親しみ慣れた『新樂府』に 多く目を向け音読しながら新たに味わい親しみたい。

◎ 二 王 後  祖宗の意を明らかにするなり
二王の後
彼れ 何人(なんぴと)ぞ
介公 邢公 国賓と爲る
周武・隋文の子孫なり
古人言へるあり 天下なる者は
是れ一人(いちにん)の天下に非ずと
周亡びて天下は隋に伝はり
隋人(ずいひと)之を失ひて唐之を得たり
唐興こって十葉 歳は二百
介公 邢公 世よ客と爲る
明堂太廟 朝享(てふけう)の時
引(みち)びかれて賓の位に居り威儀に備ふ
威儀に備へ
郊祭を助く
髙祖・太宗の遺制なり
独り滅びし國を興こすのみならず
独り絶えし世を継ぐのみならず
位を嗣ぎ文を守る君をして
亡国の子孫をば取つて戒めと爲さしめんと欲するな     り

○ 唐に先立つ北周、隋.前代二王朝の後裔を優遇す     るのは古典時代の理想であった。しかしながら天下     は一人の天下で無い,天下の天下。滅國を興し、絶     世代を嗣ぎ、逸民を挙げてこそ天下は心を帰する。」     平和の文徳をこそと、詩人は謳ふ。
2024 1/13

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 七 徳 舞 乱を撥(おさ)め、王業を陳(つら)ぬるほ美(ほ)むるなり

七徳の舞
七徳の歌
武徳自(よ)り伝えて元和に至る
元和(げんな)の小臣 白居易(はくきょい)
舞を觀 歌を聴きて 樂(がく)の意を知る
樂終わり 稽首して其の事を陳(の)ぶ
太宗 十八にして義兵を挙げ
白旄黄鉞 兩京を定む
充を擒にし竇を戮して四海清し
二十有四にして功業成り
二十有九にして帝位に即き
三十有伍にして大平を致す
功成り理定まること何ぞ神速なる
速きは 心を推して人の腹に置くに在り

○ 唐に先立つ北周、隋.前代二王朝の後裔を優遇す     るのは古典時代の理想であった。しかしながら天下     は一人の天下で無い,天下の天下。滅國を興し、絶     世代を嗣ぎ、逸民を挙げてこそ天下は心を帰する。」     平和の文徳をこそと、詩人は謳ふ。
2024 1/14

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 新豊折臂翁  乱辺功を戒むるなり

新豊の老翁 八十八
頭鬢眉鬚 皆な雪に似たり
玄孫に扶けられて店前に向かって行く
左臂は肩に憑り右臂は折る
翁に問ふ 臂折れて来(よ)り幾年ぞ
兼ねて問ふ 折る事を致せしは何の因縁ぞと
翁云ふ 貫は新豊県に属し
生まれて聖代に逢ひ征戰無し
梨園歌管の聲を聴くに慣れ
旗槍と弓箭とを識らざりき
何(いくば)くも無く 天宝 大に兵を徴(め)し
戸(こ)に三丁(さんてい)有れば一丁を点ず
点じ得て 駆り将(も)て何處(いづく)にか去る
五月 万里 雲南に行く
聞く道(な)らく 雲南に濾(ろすい)有り
椒花(しょうか)落つる時 硝煙起こり
大軍徒渉するに 水は湯の如く
未だ過ぎざるに 十人に二三は死すと
村南村北 哭聲哀しく
兒は翁嬢(やじょう)に別れ 夫は妻に別る
皆な云ふ 前後 蛮を征する者
千万人行きて一の廻る無しと
是の時 翁の年は二十四
兵部の牒中に名字有り
夜深けて敢えて人をして知らしめず
偸(ひそ)かに大石を将(も)て鎚いて臂を折る
弓を張り 旗を簸(あ)ぐ 倶に堪えず
茲より従(よ)り始めて雲南に征くを免がる
骨砕け荕破るることは苦しからざるに非ざれど
且つ図るは楝(えら)び退けられて郷土に帰ること
臂折りてより 来来(このかた) 六十年
一肢廃すと雖も一身全し
今に至るまで風雨陰寒の夜
直ちに天明に至るまで痛みて眠れず
痛みて眠れざるも
終いに悔いず
且つ喜ぶ 老身 今独りあるを
然らずんば 当時 瀘水の頭(ほとり)
身死し 魂(こん)孤にして 骨収められず
應(まさ)に雲南望郷の鬼と作(な)り
万人塚上に哭くこと呦呦(ゆうゆう)たるべし
老人の言
君 聴取せよ
君聞かずや 開元の宰相宋開府
辺功を賞せず 武を黷(けが)すを防ぐ
又た聞かずや 天宝の宰相楊國忠
恩幸を求めんと欲して辺功を立つ
辺功未だ立たざるに人怨みを生ず
請ふ 問へ 新豊の折臂翁に

○ いま、老折臂翁翁穴地、私、八十八歳。
私の文學歴で云うと、まず幼稚園か戦時国民学校へ進んだ頃からの、日本の『小倉百人一首』和歌に馴染み、敗戦の前後、戦時疎開していた丹波でのくらしで、持参していた祖父鶴吉蔵書の中から掌に掴めるほどの小さな本、東京神田の崇文館発行、井土靈山選『選註白楽天詩集』の漢詩で,中でも此の『新豊折臂翁』に幼い心のまま深く深く共感したのだった。秦家には、祖父蔵書にも父母叔母の領分にもいわゆる「小説本」は絶無にちかく「婦人倶楽部」なとのなかに「愛染かつら」などの通俗作は混じっていたが軽蔑し見捨てていた.誰だかのユーモア作だけを時に読んでいた。
『新豊折臂翁』がいかに私に特別であったか。私は「兵隊さんにはなりとない」と幼稚園の頃から口にする当時の大人らの目に「変な子」「妙な子」だつた。国民学校へ入って一二年頃には、がっっこうの職員室そとの廊下に張られた世界地図を友だちと見ながら、真っ赤な米国土の広さを指さし「勝てるワケない、きつと負ける」と口にしたとたん、通りがかった若い男先生に壁に叩き付けるほど殴られていた。
『新豊折臂翁』がいかに私に特別であったか。私の六十余年前に幕の開いた「小説を書く暮らし」の記念の第一作・しょじょさこそは『或る説臂翁』であったことは、『湖の本 163』に久々に採録、どうかしらとあんじたが幸いに得に注目し好い感想を下さる読者の少なくなかったのに感動しました。嬉しかった。いわば白楽天に私・秦恒平は「作家・小説家」として育てられていたのだった。

* 体調は崩れていて、このまま歩けなくなるのかと案じている。気張ってでも,天気が定まってきたら,歩かねば。
2024 1/15

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 閑適  常樂里閑居翁

帝都は名利り場
鶏 鳴けば安居すること無し
独り爛漫の者有り
日高くして頭(かしら)未だ梳(くしけず)らず
工拙 性 同じからず
進退 迹 遂に殊なる
幸いに大平の代に逢ひ
天子 文儒を好む
小才 大いに用ひらるるに難(かた)く
典校して秘書に在り
三旬に両(はつ)か省に入(い)り
因つて頑疎を養ふを得たり

茅屋 四五間
一馬と二僕夫
俸錢は万六千
月づき足りて亦た余り有り
既に衣食の牽無く
亦た人事の拘(こう)少なし
遂に少年の心して
日日(にちにち) 常に晏如たらしむ

言ふこと勿かれ知己無しと
躁と静と 各おの徒有り
蘭台 七八人
出處 之れと倶にす
旬時 談笑を距つれば
旦夕(たんせき) 軒車(けんしゃ)を望む
誰か 能く讐校(しゅうこう)の間(かん)
帯を解きて吾が廬(ろ)に臥せん
窓前に竹の翫(もてあそ)ぶべき有り
門外に酒の沽(う)る有り
何を以てか君子を待たん
数竿 一壺(いっこ)に對せん

○ 知り合いが無いなんてことは無い。出世を思わな     い者にもそれなりの友も仲間もある、と。「窓前有     竹翫」が わか身にもたぐえて懐かしい。障紙にゆ     れる笹竹の風情、わたくしも、好き。
2024 1/16

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 閑適  官舎小亭の閑望

風竹 清韻を散(さん)じ
煙槐(えんかい) 緑姿を凝らす
日高くして人吏(じんり)去り
閑坐して茅茨(ぼうし)に在り
葛衣(かつい)もて時の暑さを禦き
蔬飯もて朝(あした)の飢えを療(いや)す
此れを持(ぢ)すれば聊(いささ)か自ずから足り
心力 営為すること少なし
亭上 独吟罷(や)み
眼前 無事の時
数峯 太白の雪
一巻 陶潜の詩
人心 各おの自(み)づから是(ぜ)とす
我が是とするは良(まこと)に茲(ここ)に在り
廻(かえ)りて謝す 名を争ふ客
甘んじて君が嗤ふ所に従(まか)せん

* だ凝っと時の遷るのを観るような俟つような心地で、何を堪えているとも分別していない。
2024 1/17

*些かの残務はあろうと、本日『秦 恒平 湖(うみ)の本』全166巻、1986年に「創刊」。38年間の「送付」作業を終えた。完結とは謂わない「集結」。私には大きな「一時代」を越えたと、感慨は、それまで。要は、作家として私の当然の「仕事」であった。この仕事が済んでも、当たり前に「次ぎ」がある。用意もある。
2024 1/17

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 閑 適   松 聲

月は好くして獨坐に好し
双松 前軒に在り
西南より微風来たり
潜かに枝葉の間に入(い)る
蕭寥 発して声を爲す
半夜 明月の前
寒山 颯颯の雨
秋琴 冷冷の絃
一たび聞けば炎暑を滌(あら)い
再たび聴けば昏煩を破る
竟夕 遂いに寐(い)ねず
心体 倶に翛然たり
南陌には車馬動き
西隣には歌吹繁し
誰か知らん茲の簷(のきば)の下(もと)
滿耳 喧を爲さざるを

○ ま、こんなものか。
2024 1/17  1/17日付重複

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 閑 適   適 意

十年 旅客となり
常に飢寒の愁ひ有り
三年 諫官と作(な)り
復たシ素の羞らひ多し
酒有れども飲むに暇(いとま)あらず
山有れども遊ぶことを得ず
豈(あ)に平生の志無からんや
拘牽せられて自由ならざりき
一朝 渭上に帰り
泛たること繫がざる舟の如し
心を世事の外に置き
喜びも無く 亦た憂ひも無し
終日 一蔬食
終年 一布裘
寒来たれば弥(いよ)いよ懶放
数日に一たび頭(しら)を梳(くしけず)る
朝睡 足りて始めて起き
夜酌 酔へば即わち休む
人心は適なるに過ぎず
適外に復た何をか求めん

○ 母の喪にあい官職をやめ、渭水のほとりに退去      のおりの作。白居易、四十歳。
2024 1/18

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 閑 適   九日 西原に登りて宴望す

病みては枕席の涼しきを愛し
日高(た)くるまで眠り未だ輟(や)めず
弟兄 我を呼び手起こす
今日は重陽の節なりと
起って西原(せいげん)に登って望めば
懐抱も同じく一たび豁(ひら)く
座を移して菊叢に就き
餻酒(こうしゅ) 前に羅列す
糸(こと)と管(ふえ)とは無しと雖も
歌笑 情に随ひて發(お)こる
白日は未だ傾くに及ばざるに
顔酡(あか)くして 耳 已に熱し
酒 酣(たけなわ)にして四もに向かって望めば
六合(りくごう) 何ぞ空濶なる
天地は自づから久長なるも
斯の人 幾時か活きん
請ふ看よ 原下(げんか)の村
村人 死して歇(や)まざるを
一村 四十家
哭葬 虚月無し
此れを指さして 各おの相(たが)ひに勉め
良辰 且(しば)らく歓悦せよ

○ 人間世間の苛烈な生害死苦を容赦なく認識しつつ、     かかる「佳日」にこそ。まずまずは酒食談笑眺望に     心身を委ねて寛ぎ楽しまん。怕(おそろし)くもある。
2024 1/19

* 何度も夜中に目覚めて、あれやこれと思案していた。終えた『湖の本』に次いで、好い感じの「新書版」で「小説」のための本を作りつづけるのはどうだろう、など、と。「励み」にも為るのでは、と。
2024 1/19

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 陶潜の体に效ふ詩 序

余 渭上に退去し 門を杜じて出でず。時、属(たま    雨多く,以て自ずから娯しむ無し。会(たま)たま家    醞(かうん)新たに熟す。雨中に独り飲み、往々,     酣酔して 終日醒めず。懶放(らんぼう)の心、弥(い    よ)いよ自得するを覚ゆ。故(まこと)に此れに得て    而(しか)も以て彼れに忘るる者有り。因って陶淵明    の詩を詠ずるに、適(たま)たま意(こころ)に会(か    な)ふ。遂ひに其の体に倣う效(なら)ひて十六篇を    成す。醉中の狂言、醒むれば即ち自づから唖(わら)    然れども我を知る者には、亦た隠すこと無し。
2024 1/20

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 陶潜の体に效ふ詩 其一

○ 動かざる者は厚地
息(や)まざる者は高天
窮まり無き者は日月
長(とこ)しえに在る者は山川
松柏と亀鶴と
其の壽(よわひ)は皆な千年なり
嗟嗟(ああ) 群物の中(うち)
而(しか)も人のみは独り然(しか)らず
早(つと)に出でて朝市(ちょうし)に向かへるに
暮れには已(すで)に下泉に帰(き)す
形質及び壽命は
危脆(きぜい)なること浮煙の若(ごと)し
堯舜と周孔と
古來 聖賢と称す
借問(しゃもん)す 今 何(いづ)くにか在る
一たび去って亦た還らず
我に不死の薬無し
万万 化に随(したが)ひて遷(うつ)る
未だ定(たし)かに知らざる所の者は
修短遅速の間(かん)なり
幸ひに身の健やかなる日に及びて
当(まさ)に一樽(いっそん)の前に歌ふべし
何ぞ必ずしも人の勧めを待たん
此れを持(ぢ)して自(みづ)から歡しみを爲さん

○ 人生は無常、健康なうちは酒でも呑んで好きに      愉しむが良い、と。
2024 1/21

* まだ暗い六時すぎ。雨の音か。床を起つまえ、最新のやや長い自作し『蛇行(だこう) 或る左道變』を拾い読みした。「湖の本」最終166の巻頭にこれが置けたのを少しく自負している。読み返させてくれる一種の「気負ひ」で米壽の人生を結び終えたのを喜んで、さらに此の先へと気負い無く思わせてくれるのが有難い。

* 実は『秦恒平 湖の本』を嗣いで 岩波新書等の「新書版」で新作や私語を追おうかと思っていた、が、「本つくり」に精力を費やすよりも、「創る」「書く」にソレを用い、読者の皆様へは、とうせつのことではあり、パソコン内の「ホームページ」設営により電送する方が老境を労れるのではと。但し私には、以にかなり華やいで設営し得ていたような「ホームページ」を自作はできない。以前のは、東工大当時院の一年生であった学生君が、我が家まで来て呉れ,目の前でチャカチャカとすぐさま設計して呉れたのだった、前世紀の末であった。あの彼は、いまや大会社で重い地位にあるだろう。
誰か、今の東工大院生でパソコンの天才君を紹介してくれないかと夢見ている、が。  2024 1/21

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 陶潜の体に效ふ詩 其二

○ 家醞 飲(いん)已(すで)に尽き
村中 酒の沽(う)る無し
坐して愁ふ 今夜醒むること
其れ秋の懷(おも)ひを奈何(いかん)せん
客 有り 忽ち門を叩く
言語 一に何ぞ佳なる
云ふ 是れれ南村の叟(そう)と
榼(こう)を挈(ひっさ)げ 来たりて相ひ過(よ)ぎ     らる
且つ喜ぶ 樽の燥(かわ)かざることを
安(な)んぞ問はん 少きと多きを
重陽(ちょうよう)は已に過ぎたりと雖(いへど)も
籬(まがき)の菊は残花有り
歓び来(おこ)つて晝の短きを苦しめば
覚えず夕陽(せきよう)斜めなり
老人 遽(にわ)かに起つことなかれ
且(しばら)く新月の華(か)を待て
客去つて余趣有り
竟夕(きょうせき) 独り酣歌(かんか)す

○ 南村来の叟客と一日の歓を酒に尽くした余趣を、     客去って後も新月華とともに酣歌し、ご機嫌。

○ 私はめったに来客を得ない。好きな酒は仕事と      仕事の間(あい)に常に独り酌んでいる。家の外      へ出て「酒の沽(う)る」店を求めもしない。
2024 1/22

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 陶公の旧宅を訪ふ 幷びに序(まえがき)
○ 余 夙(つと)に陶淵明の人と爲(な)りを慕ふ。
今 廬山に遊び、柴桑(さいそう)を経(へ)、栗里    に過(よ)ぎる。其の人を思うて,其の宅を訪ね、黙黙    能(あた)はず、又た此の詩を題(か)きつくと云ふ。

○ 垢塵(こうぢん)は玉を汚さず
靈鳳は鱣(なまぐさ)きを啄(ついばま)ず
嗚呼 陶靖節(とうせいせつ)
彼(か)の晋宋の間(かん)に生まれ
心 実に守る所有るも
口 終いに言うこと能はず
永く惟(おも)ふ 孤竹の子の
衣を首陽山に払ひしを
夷(い)と斉(せい)とは各おの一身なれば
窮餓するも未だ難(かた)しと爲さず
先生 五男有りて
之れと飢寒を同じうす
腸中には食充(み)たず
身上には衣充(まった)からず
連(しき)りに徴(め)さるれども
竟(つ)ひに起たず
斯(こ)れ眞賢と謂ひつべし

○ まさしく、かの、私の自作にも借りた「斯(こ)      れ眞賢と謂ひつべ」く白楽天が反戦、厭戰、兵役      拒絶を説いた律詩『新豊の折臂翁』に早く先立つ      思想信条の系列に「先駆」している。
2024 1/23

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 陶公の旧宅を訪ふ
○ 我は君の後に生まれ
相去ること五百年
五柳の傳を読む度に
目に想ひ 心は拳拳たり
昔 嘗(かっ)て遺風を詠じ
著はして十六篇と爲しぬ
今来たりて故宅を訪ふに
森(おごそ)かにも君は前に在(いま)すが若(ごと)     し
樽に酒有るを慕はず
琴に絃(いと)無きを慕はず
慕ふは 君が榮利をを遺(わす)れて
此の丘園(きうえん)に老死せしこと

○ 詩人白樂天が五百歳を超えても 詩人陶淵明を      いかに思慕したか。
2024 1/24

* 謂うまでも無く、私、いわゆる『引退・隠退』作家になるのではない、ただ『秦恒平 湖の本』と謂う「発表の式」を終えただけ、また何を考えるか何も考えずに無鉄砲を撃ちまくるかは、これから先のこと、と。思えば何もかもこの勝手調子一つでやってきた。出版社や編集者に多くを頼まないままで「驚異的」といわれる多作を、毀誉褒貶の外で、好き勝手に送り出して来た。来れた。悔いるよりも、感謝して喜んでいる。
2024 1/24

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 陶公の旧宅を訪ふ
○ 柴桑(さいそう)の古村落
栗里(りつり)の舊山川
籬の下の菊は見えずして
但(た)だ余(のこ)すは墟(さと)の中の煙のみ
子孫 聞こゆる無しと雖(いへど)も
族氏は猶ほ未だ遷(うつ)らず
姓は陶なる人に逢ふ毎(ごと)に
我が心をして依然たらしむ

○ 江西省九江市に近く、陶淵明の郷里によせる懷慕の     実情を告げている。五百歳を超えての思慕・敬愛。
2024 1/25

* 「湖の本」を終えたと「伝えた」以降の在りように予定も計画も無いことに やや うろたえてないとは謂えぬ。シャッキリ考えて迷いなく処して行きたい、が。

○ 「湖の本」最終巻有難うございます。
そして、このような形での、まさに前人未到のご編集・ご発刊・ご発送を、長きに亘り 本当にお疲れ様でした。
「最終巻の発刊ご準備は順調でしょうか。」とメールをお送りした翌日、まるで木魂するかのように手元に届きました。
二〇日締め切りの書評も、月末締め切りの論文もありましたが、「私語の刻」(私のメールも載せていただいておりましたね)を読み、来月に取っておこうと思っていた『蛇行』までも、熱海へ移動する日の未明に、とうとう読み通してしまいました。
随分前にお伺いしていた「花筐」の、そして蛇の物語。
恵美押勝など多少馴染みの人物もいましたが、系図を整理しながら(歴史的人物は全てが実在人物でしたでしょうか?)、近江の地図等も確かめながら再読したいと思いますが、今は、こうして「作家として書き始めた」のだと改めて聞かせて頂いた心持ちです。
最終巻のための新たな創作としてぴったりと思うと同時に、「湖の本」が本当に終りなのかなあと淋しくも感じています。
一六六巻の編集も終えられていた今年のお正月は、熱海のお酒もゆったりとお召し上がりになられたでしょうか。
今、熱海糸川は熱海桜の花盛りですが、今日の午後は山の方から雪雲がかかり、浜辺にも海にもさあっと雪が舞いました。
この冬一番の寒気が降りてきているようです。
大仕事を成し遂げられた後ですから、しっかり体を休めて下さい。
そしてまた、新たな創作や歌などが生まれましたら、是非読ませていただけたらとも願っています。
どうぞお元気で。 深澤晴美  国文学者 大学教授

* 今の 私の感懐に寄り添うようなメールを貰った心地。感謝。大勢の方々の親愛に励まされてきた「秦恒平 湖(うみ)の本」であったよとしみじみと首肯く。三十八年前に第一巻「清經入水」を刊行したとき、十巻もとうていムリと笑った人も居た編集者のなかには。いつしかに百六十六巻へ来ていた。その気なら二百巻も難儀で無かったが。心神とも相談しての.潮時と決意した。どんな形でも仕事は続けられる。

* 自身の現状を認識把握して仕事しなければ。それが、ラクでない。

* なにもかもよく判って把握しているというワケに行かない。それが当たり前と心得ながら勉めるべし。
2024 1/25

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 潯陽樓に題す
○ 常に愛す陶彭澤(とうほうたく)
文思 何ぞ高玄なる
又た怪しむ韋江州(いごうしう)
詩情 亦た清閑なり
今朝(こんてう) 此の楼に登り
以て其の然るを知る有り
大江(たいこう)は寒くして底を見(あら)はし
匡山(けうざん)は青くして天に峙(そばだ)つ
深夜 湓浦(ぼんほ)の月
平旦 鑪峰(ろほう)の煙
清輝と靈気と
日夕(にっせき) 文篇に供(けう)す
我に二人(ににん)の才無きに
孰爲(なんすれ)ぞ其の間(かん)に来たるや
高きに因(よ)りて偶(たま)たま句を成し
俯仰(ふぎょう)して江山に愧(は)ず
○ 「二人」とは陶淵明 韋應物 白樂天が敬愛し思     慕した詩人。江西省九江の名高い高楼にいて詩句は     生まれている。陶彭澤(彭澤県の知事だった)とは     陶淵明、韋江州(江州の地方長官だった)とは韋應     物。ともに盛唐の孟浩然や王維とならび賞された山     水派の詩人。我々のいわゆる「漢詩」の粋。
2024 1/26

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 香鑪峰下、新たに草堂を置き、
事に即して懷を詠じ、石上に題す

○ 香鑪峰の北面
遺愛寺の西偏
白石 何ぞ鑿鑿(さくさく)たる
清流 亦た潺潺(せんせん)たり
松有り 数千株
竹有り 千余竿
松は翠の傘蓋を張り
竹は青き埌玕を倚つ
其の下 人の居(す)まふ無きこと
惜しい哉 歳年多し
時有りては猿鳥聚まるも
終日 風煙空し

○ 江州司馬のおり廬山の香鑪峰下に草堂を新築、       多く感懐を石に書き付けていた。時に詩人は四 十五歳余。秦には『廬山』の作が有り、髣髴と       懐かしい。

○ 時に沈冥の子有り
姓は白 字(あざ)は樂天
平生 好む所 無し
此れを見て心依然たり
終老の地を獲たるが如く
忽乎(たちまち)還るを知らず
巌(いわ)に架して茅宇(ぼうう)を結び
壑(たに)を削りて茶園を開く
何を以て我が耳を洗ふや
屋頭に落泉飛ぶ
何を以て我が眼を浄むるや
砌下(せいか)に白蓮生ふ
左の手に一壺を携(たづさ)へ
右の手に五絃を挈(ひっさ)ぐ
傲然として 意(こころ)自づと足り
其の間(かん)に箕踞(ききょ)す

○ 白樂天の述懐、憧憬 心惹かれて已まない。

○ 興酣(たけなは)にして天を仰いで歌ひ
歌中に聊(いささ)言を寄す
言ふ 我は本(も)と野夫
誤つて世網に牽かる
時来(ときあ)つて 昔は日を捧げしも
老ひ去つて 今は山に帰る
倦鳥は茂樹を得
涸魚は清源に反(かえ)る
此れを捨てて焉(いづ)くに往かんと欲する
人間 険難多し

○ 久しい「湖の本」を捨て去っていま孤り佇立の      思いを代弁されている。しんしん 胸に鳴る。
「人間(じんかん)険難多し」とは如何にも奈何にも真相であるなあ」
2024 1/27

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 食 後

○ 食罷(おわ)りて一覺の眠り
起き来たりて両甌(りょうおう)の茶
頭を挙げて日影を看るに
已(すで)復た西南に斜めなり
楽しき人は日の促(あわただ)しきを惜しみ
憂ふる人は年の餘(なが)きを厭ふ
憂ひも無く楽しみも無き者は
長きも短きも生涯に任す

○ 生涯に任す難しさ、それに呻くのであるよ。

* 拘泥のない余生でありたい、それが一等難しいであろうよ。
2024 1/28

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 閑居に自(み)ずから題す

○ 門前には流水有り
艢上には高樹多し
竹の径(こみち)は荷(はす)の池を繞(めぐ)り
縈(お)れ廻(めぐ)ること百余歩
波閑(しづ)かにるに魚鼈(ぎょべつ)戯れ
風静かなるに鸚鷺(おうろ)下る
寂として城市の喧(かまびすし)さ無く
渺(びょう)として江湖(こうこ)の趣有り
吾が廬(しおり)は其の上に在り
偃臥(えんが)す 朝復た暮(くれ)
洛下に一の居を安(を)けば
山中も亦た去るに慵(ものう)し
時に過客(かかく)の愛づるに逢ふ
問ふ 是れ誰家(たれ)の住まいぞと
此れは是れ白家(はくか)の翁の
門を閉じて老いを終わる処なり

○ 晩年六十五、六歳。当時の詩人白居易は太子賓   客という非職の大臣として東都洛陽に隠栖して いた。
2024 1/29

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 送  春

○ 三月三十日
春帰り 日復(ま)た暮れぬ
惆悵(ちうちょう)して春風に問ふ
明朝は應(まさ)に住(とど)まらざるべしと
春を送る 曲江の上(ほとり)
拳拳と東西に顧みる
但だ見る水を撲(う)つ花
紛紛々として数を知らず
人生は行客(こうかく)に似たり
両足 歩を停むること無し
日々 前程を進む
前程 幾多の路ぞ
兵刃 與(と)水火は
尽(ことごと)く之れを避けて去るべし
唯だ 老いの到来する有る
人間 避くる處(ところ)無し
時に感じて良(まこと)に已(や)めりと爲し
獨り池南の樹(じゅ)に倚(よ)る
今日 春を送る心
心は親故(しん と こ)に別るるが如し

○ 前程 幾多の路ぞ
兵刃 與(と)水火は
尽(ことごと)く之れを避けて去るべし
唯だ 老いの到来する有る
人間 避くる處(ところ)無し
時に感じて良(まこと)に已(や)めりと爲せ
よと吟じている、かの「新豊の折臂翁」の述懐に ヒタと接してあるのを痛切に思う。白樂天の眞 意が此処に読める。

* 白樂天(白居易)に親しんだ日々、彼を介し陶淵明へも遠く親しめたのを大いに喜ぶ。
2024 1/30

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 晏 坐 閑 吟

○ 昔は京洛聲華の客爲(た)りしも
今は江湖潦倒(ろうとう)の翁と作(な)る
意気銷磨す 群動の裏(うち)
形骸變化す 百年の中(うち)
霜は残鬢(ざんびん)を侵して多くの黒無く
酒は衰顔に伴ひて只だ暫く紅(くれなゐ)なり
賴(さいは)ひ禅門の非想定(ひそうぜう)を学び千愁 万念 一時に空し

○ 白樂天は、江州司馬の四十四、五歳。わたくし倍に     近くも、斯うはいかん、晏坐どころか。

○ 幸便とも謂えて 幼来名を知り覚えてきた「白       樂天=白居易」の詩に少しく親しめた。良かっ       たと思う。いまテレビで「紫式部」を劇化して       いる、藤原道長を「光るの君へ」引っ張りたい       のだろうがそれは、ご勝手に。女ながら白樂天       はあの紫式部等にも世ほど親しい詩人であった       ろうと感じているが。
2024 1/31

* 笠置シヅ子の「ブギウギ」は吾が昭和史敗戦の激変をことさらに陽気に刻印してくれて、大衆芸能の真価をはっきしたと評価できる。
紫式部の「光るのきみ」は、以来久しい日本男子の「紳士像」を提供したのだった、が、「日本男子史」はとうていよく応えられなかった。さすがに西鶴はよくその半面を男子ならぬ「男」として翻したが、嗣ぎ得た史家ないし紳士はいなかったよう。
2024 1/31

* 平家物語は「異本」の多いことでも厄介なほど名高いが。巻末は大概『大原御幸』で結んでいる、らしい。巻頭は、よくよく知られた「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響き」と覚えてきたが、なおその前に長大な『剣巻』を据えた完本もある
私の坐右に常置して愛読の四十八巻本『参考源平盛衰記』では「巻之一」より以前に行き届いた「凡例」更に通計一百四部の「引用書」が壮観を呈し、次いで本文「巻之一」から「巻之四十八」までの克明な内容「目次」が居並んで、そして直ぐ引き続きいわゆる「總目」には含まれていない長大な『剣巻』が四十八巻本の巻一余す全部を占め、据え置かれてある。何故に、そうであるのか。どんな「剣」がどんな重みで大長編の巻頭を占めるのか。通読だけでもたいへんな「貫禄」なのである。じつは、私もまだ読み切り読み採れていない、しかしこの『剣」こそが『源平』を必死に闘わせた、まさに「代物」だ。此の『剣』はいわゆる「三種の神器」の一に挙げられ、日本武尊の手で「草薙剣」とも改め謂われるようになった「神剣」、平家は壇ノ浦でこの神剣を海底に沈めた、源氏が後に苦辛して拾い上げたとされている。この「神剣の事変」こそが、まこと武家として『源平の戦い』であったと重く示唆して巻頭におかれてあるのが長編の『剣巻』。流布本の『平家物語』では割愛されがちで、目に触れる機会も私所持の『参考源平盛衰記』によらねば、まず誰も全文は読めていない。早急ぎせず、やはり、第一等の第一番に読みたい、これぞ「源平角逐・盛衰」をものがたるシンボル。読み落としたくない、可能なら「現代語訳して紹介」したいと願うほど。えらい仕事を背負い込みそう。
2024 1/31

◎ 『語源辞典 東 雅 』
新井白石=筑後守従五位下源君美撰・ 借覧
面白そうな語彙を摘まんで味読したいものと。
◎ 天 アメ
○ 義不詳 我国太古の代に。アメといひし其語同じく    して その義異なるあり。アメ 亦た転じてアマとい    ひしは、其れ 斥(サシ)言ふ所 ありと見えたり。    漢字採用(とりもち)ひて、天 読みてアメとなし、    アマとなすに至ては 古語の義 隠れしもまたありと    見えけり。
▲ このあとへ白石博学の講話は永い、時に永すぎるが    「語」なるややこしい生きものの転変は余儀ないものか。
2024 2/1

◎ 『語源辞典 東 雅 』
新井白石=筑後守従五位下源君美撰・ 借覧
面白そうな語彙を摘まんで味読したいものと。
◎ 月 ツキ
○ 舊説に 日に「次ぎ(つぎ)」の義也といふ。舊事古事日本紀    等共に。先(サキ)に日神を生み次に月神を生むと見えて。又    其光彩 日に亜(ツグ) 以て日に配(=娶す)べしなども見    えたれば 舊説の如き其の義に合へるなるべし。
凡(およそ)上古の語に。ツといひしは。次ぎの義あり。配の    義あり。「妻」の字の下、併せ見るべし。
又 弦月をユミハリヅキといふは、其形の弓を張るに似たるの    謂也。望月をモチヅキといふは モチはミチの轉語にて。満ミ    チ月ヅキといふが如し。
* 新井白石と限らず、近世国学者の日本語、和語を検討の仕      方には、奇妙のクセが露わに自己主張として出る。真淵、      宣長ら前邊・以降にも奇態なまで日本語がネジレ書かれ       る。島崎藤村の『夜明け前』までも感じられるが、検討さ      れているのだろうか。
2024 2/2

◎ 『語源辞典 東 雅 』
新井白石=筑後守従五位下源君美撰・ 借覧
面白そうな語彙を摘まんで味読したいものと。近世・江戸      時代の「国學・學問」の性向も、白石の、と限らず、やや、      読みとれよう。
◎ 雲 クモ
○ 古語に「ク」といひし。黒し といふ詞なるあり。クロとい    ひクリといふは、黒色なり。「暮」をクルといひ、クレといひ、    「暗」をクラといふが如き 皆 是也。
『萬葉集抄』に、「日の暮るゝ」をクルともクレともいふは、    黒くなる詞(=意)といふ。此義也。
雲蔽ひぬれば、天暗(クラ)きによりてクモといふなり。即     轉語なり。又 天陰をクモルといふは、「雲生ふる」の謂ひ也。    これは「雲」に因りていひし所の語也。
2024 2/3

◎ 『語源辞典 東 雅 』
新井白石=筑後守従五位下源君美撰・ 借覧
面白そうな語彙を摘まんで味読したいものと。近世・江戸      時代の「国學・學問」の性向も、白石の、と限らず、やや、      読みとれよう。

◎ 都 ミヤコ
○ ミヤとは宮也。コは古語にコといひ、カといひしは、    天皇の宮居し給ふ所をいふ事。大宮處などいふが如し。    京の字よむ事も亦同じ。城の字また讀てミヤコといふ    は、皇城京城などいふの義也。天武天皇八年の冬 初    て關ヲ龍田山大江山ニ置キ扨テ難波ニ羅城ヲ築クと見    えしは、羅城といふ事の始なる也。
漢には羅城とも。外城とも。羅郭ともいひしなり。    今俗に外廓(トクルハ)などいふ者の如し。郭の字古    訓を知らず。近くは讀てクルワといふ。義亦詳ならず。    クルとは囘(わ)也。車をクルマなどいふも亦しかり。    ワと又た囘(わ)也。浦囘 里囘などいふ事の如く。    さらば郭をクルワというも、是等の義にて、城を囲繞    の義にや。
2024 2/4

◎ 『語源辞典 東 雅 』
新井白石=筑後守従五位下源君美撰・ 借覧
面白そうな語彙を摘まんで味読したいものと。近世・江戸      時代の「国學・學問」の性向も、白石の、と限らず、やや、      読みとれよう。
◎ 金 カネ
○ 義不詳。我国太古の世には、珠玉をもて寶とし金銀を寶となせし事は見えず。陰陽二神 天降ませし始に、矛剣の類ありと見えたれば、銅鐵の如き、すでに其用ありしこと疑ふべからず。正しく其物の名見えし始は、日神、天磐屋戸にこもり給ひし時、天金山の銅を採りて矛造り、天香山の銅を採りて鏡造りしといふ事、舊事紀に見えしを 古事記には天金山之鐵を取て鏡造りしと記せしが如き即是也。
金銀の如きは、神功皇后新羅を征し給ひし初に彼國王進貢の物に始て見えて、これよりして、後 彼國をば寶の國と称じたりける也。
其後天武天皇の御世に、對馬の島始めて白銀を貢し、聖武天皇の御世に至りて、陸奥国始め黄金を貢す。我国の金銀を産せし始也。元明天皇の御世武藏國 銅を献せしによりて、元(号)を和銅に改められ、始て鋳錢司を置て、銅錢を鋳られ、是年また始て銀䬻を行はると見えしは、我国の「銀銅をもて錢幣を造られし始」にして。
凡そ「カネ」といふは、五金の総名にして、コガネといふは即「黄金」也。キといひコといふは、轉語也。銀シロカネ、銅アカカネ、鐵クロカネの如き、皆其の「色」をもて呼ぶ事これに同じ。鉛は青金也。ナマリといふと見えたり。  以下略
2024 2/5

*『モンテ・クリスト伯』では、荒海への脱獄、地中海で半商半賊の船と海員等に救われたエドモン・ダンテス、慎重に慎重にめざすモンテクリスト島へちかづきつつある。
読む・読み進むことが、即、嬉しくて堪らない。心地よい湯にとっぷり浸かっている懐かしさ、これが此の先 数十倍もつづく。
演劇のシェイクスピア、文學のゲーテ、大衆文藝の大デュマ。そしてロシアには巨大な文華が咲こうとしていた。まさに「大時代・大文化」時代。日本でも近松や西鶴が立派に咲いていた。
ああ 敗戦後日本の文藝世界は、ことに「内向」などと謂われた連中以降の文壇とやらは、「文壇」と固まりながら何をしていたのだか。
2024 2/5

◎ 『語源辞典 東 雅 』
新井白石=筑後守従五位下源君美撰・ 借覧
面白そうな語彙を摘まんで味読したいものと。近世・江戸      時代の「国學・學問」の性向も、白石の、と限らず、やや、      読みとれよう。
◎ 舟 船 フネ
○ 倭名鈔に舟船の字、並み読てフネといふ。舊事紀に、陰陽の二神、御子を生れし始に、水蛭子を生む。此子「葦フネに入レテ」流し給ひきと見え、古事記、又これに同じく。其後また鳥之石楠船神(トリノイワクスフネノカミ)を生給へり、亦は天鳥船神(アマノトリフネノカミ)ともいひし事、二書に見えし所亦同じ。
これら我國の舟といふ事、見えし始にて、フネといふ羲の如きは、いひも傳らず。崇神天皇の御世に、諸国に令して、始テ船舶ヲ造ルと(日本紀ニ)見えしは、これよりして、舟楫之利、普(あまね)く天下に通ぜし始と見えたり。
2024 2/6

◎ 『語源辞典 東 雅 』
新井白石=筑後守従五位下源君美撰・ 借覧
面白そうな語彙を摘まんで味読したいものと。近世・江戸      時代の「国學・學問」の性向も、白石の、と限らず、やや、      読みとれよう。
◎ 幡 ハタ
○ 倭名鈔に考工記を引て、幡は旌旗之總名也、読みてハタといふと注せり。我国の旌旗之制、其始不詳。舊事紀に、伊弉諾神(イザナギのかみ)を紀伊国熊野有馬村に葬る。土俗、此神之魂を祭る者、花時花を以て祭る。復(また)鼓吹幡旗を用ひ歌舞して祭ると見えたれば、其の因の来たる所、既に久しき事也。推古天皇記に、上宮太子(=聖徳太子)の奏請によりて、大楯及び靱、又た旗幟に繪がヽれしと見えしが如きは、本朝の状旗、此の比(ころ)にや備りぬらむ。
萬葉集抄に、ハタといふは、古語に「ハ」といひしは、長(ハ)也。「タ」といひしは手(タ)也。手の長くして、かヽれるをいふ也と見えたり。古(いにしへ)に手といひしもの、後にはまたアシともいひけり。倭名鈔に唐韻を引いて、施は旌旗之末埀者也、読みてハタアシといふと見えし即 是也。
2024 2/7

◎ 『漢代の思想家 王 充  論 衡 』
大滝一雄氏の「訳(東洋文庫)」に学びつ。
○ 六歳で書物を教えられ 八歳で手習塾に通った。手    習いが仕上がると、師『論語』と『書経』を学び、日に    千字ずつを暗誦した。
:経書(四書・五経など儒教の経典)に通じ道徳も備わ   ると師のもとを離れて独自の思索・研鑽に励んだが、い   い加減に書きなぐることは好まなかった。語るに足る相   手がなければ終日無口だった。
2024 2/9

* ,午過ぎから、寝入ろう寝入ろうと。あらがわない。心身を潰してはならない。心神の均衡が砕けている感じ。何を書いているのと吾ながらアヤシい。
こういうときは、「本」を「読む世界」へ駆け込んで、そこで「別の人間」に成ってしまうのがいい。

*『参考源平盛衰記』の長大に巻き込まれ、「源平武士」の夥しい死闘を、克明に、漢文原文のママ読み積んでいる。「武士の戦(いくさ)」とは斯うかと、国土の狭隘・険峻の不思議に美しい魅力にも惹かれ、読み耽っている。岩波文庫での『平家物語』上下巻、上の「盛衰記」の一割に満たない程度で納得していたなど、ウソのよう。

* そして、寝入っている。「仕事」へ、勝って「戻ろう」と今はしていない。尠くも、『モンテクリスト伯』を、ただただ堪能し読み終えて、あのラスト、美しい「エデ」との新たに遙かなエドモンの旅立ちを「見送る」までは。

* それと、大きな残生の「楽しみ方」をわたしは見つけた、『秦恒平 湖(うみ)の本』全166巻を第一巻『清経入水』から、「一読者」のように「読み通そう」と。著作者以外の誰にも出会えない「境遇」に、もぐり込めそう。私の「湖の本」一冊量は、孰れも、世に通行の「単行単著の一冊分」にほぼ相当している。166冊の自著単行本をみな読み返そうと。いま、真似の出来る誰一人も無いだろう。

* などと呟きながら、要するに、ナアンにもしないで知日を休んだ気分。八日の「私語の刻」 すつぽかされている。やれやれ。
2024 2/9

◎ 『漢代の思想家 王 充  論 衡 』
大滝一雄氏の「訳(東洋文庫)」に学びつ。
○ 世間に名を売るような事は好まなかったし、損得に動かされるような事も無かった。自分が行き届く事を願ってはいたが、自分を引き立たせようなどとはしなかった。品行を第一にし、才能を看板にするような事を恥じた。中傷されたとて辯明しようとはせず、地位が進まなくても恨みにするようなことは無かった。
2024 2/10

◎ 『漢代の思想家 王 充  論 衡 』
大滝一雄氏の「訳(東洋文庫)」に学びつ。
○ 世間の書物や世俗の話には、納得のいかないことが    たくさんある。それらが眞か偽りかを究明した。      よく友をえらび、いい加減な交わりを避けた.友とす    るのは身分や年齢にかかわらず、行いが俗離れしてい    さえすれば、進んでも親しんだ。俗物どもと結ぶ事は    しなかった。
2024 2/11

◎ 『漢代の思想家 王 充  論 衡 』
大滝一雄氏の「訳(東洋文庫)」に学びつ。
○ どうなりたいとか、なりたくないとか言わない。孔    子は命(天命)を言い、孟子は天を謂うている。吉凶    安危は人に有るのでは無い。命(めい)にまかせ、時    にまかせ、心を大きく持ってこだわらず 安危に囚わ    れることなく死生も差別せず、吉凶に左右されず、成    敗も気にせず、天にまかせて自分から釈明するような    ことも無い。
充は慎みぶかくてさっぱりしており、富貴をむさぼ    るようなことはしなかつた。
2024 2/12

◎ 『漢代の思想家 王 充  論 衡 』
大滝一雄氏の「訳(東洋文庫)」に学びつ。
○ 見習えるものといえば、孔子にまさる人は無い。其の孔子は仕官するのに選り好みしなかった。嘆きも喜びもしなかった。あの、舜が山東の歴山で農夫で在ったときも。その彼が尭から帝位を譲られたときも、自然にそうなった気でいたように。晋の伯玉と瓦のかけらとが、明月の珠といしころとが、ヽ袋に入っていても、二つの宝の実質さえ備わっているなら立とう世人に混同されたとて、べつに差し支えは無いのだ。
2024 2/13

◎ 『漢代の思想家 王 充  論 衡 』
大滝一雄氏の「訳(東洋文庫)」に学びつ。
○ 相手の心が求めているものを差し出せずに、尭や舜や聖人のことばのあるたけをならべてみても、それは牛に酒を飲ませ、馬に乾肉をくわせたりするようなものだ。雄大で美しく、深遠で心のこもったことばというものは、器量の大きな人には通じるけれども、そうでない人にはつうじようがない。世間一般はあからさまなことばでないと納得しないのに,深遠雄大な文章で伝えようとするのは、不老不死の薬を調合して風邪を直そうとしたり、貂や狐の皮の着物を仕立てて,薪や野菜を採りにに行こうとしたりするようなもの。
禮にも整えないでよいところがあり,事にも採りあげないでよいところがある。世には「必要」でないものも「適当」でなものも在る。弁が立つとは、浅いものによって深いものを理解させること、、知恵があるとは、易しいものによって難しいものごとを理解させるこし。眞の賢者,聖者にはその工夫があるからその言葉も文章も深い浅いの加減が出来ている。
2024 2/14

* 私・秦恒平の「日本」「故郷・京都」への基礎認識は
『女文化』の女世間
と謂うに尽くせる。
大學より以前から、「男はキライ 女バカ」が私の変更の無い「日本人」認識だった。「女バカ」は最上の賛辞・共感と謂うに尽きている。
京都の「祇園花街」にまぢかく育ち、幼時から秦の叔母ツル(遠州流・玉月 裏千家・宗陽)の花と茶の稽古場で成人し「宗遠」と茶名も承けている私には、「男」とは社交と競合の相手、「女」は懐かしみ親しむ相手と、人間觀がほぼ固定固着していた。「それで八十八(やそはち)までも生きて」きたのだ、どうしようも、どうしたくも無いのです。
2024 2/14

◎ 『漢代の思想家 王 充  論 衡 』
大滝一雄氏の「訳(東洋文庫)」に学びつ。
○ 充は、世間の人情を憎むところがあって、『譏俗』という本を書いた。君主たる者の政治がなりゆくさまもわからない、という有様なのを憐れんで『政務』という本も書いた。偽りの書物や低俗な文章など、眞実でないものの沢山なのを歎くがゆえに此の『論衡』も作ったのである。
いったい、昔の賢者、聖者がよをさったあと、「大義」という壽経の根本精神の解釈は分裂し、いちう學問に通じた程度の人では調べて正す事もできない。充は、飾り立てた偽りを糺し「伏羲(ふっき 古伝説中高徳の天子)の昔にもどそうとしたのである。
2024 2/15

◎ 『漢代の思想家 王 充  論 衡 』
大滝一雄氏の「訳(東洋文庫)」に学びつ。
○ 賢者、聖人のことばはとかく雄大荘重で、美しくも洗練されていて、され過ぎていて、おいそれとは理解しにくい。容易には世俗に通じない。
玉は石の中に隠れ、珠は魚の腹にひそみ、ことさらに深く覆われている。書く文章が胸の中に仕舞われている間は、玉は隠れ、珠はひそんでいる。ソレが外に表れるとは玉の色が石を透し銖の光りが魚の腹から差し出る、文字と言葉とはそのようでありたいものだ。そうすっきりすれば、ことは独りでに落ち着くのである。
2024 2/16

* 昨日戴いた作家、歴史家の相原精次さんのお手紙が胸に熱く響いて感謝している。長文なので措くが、私の近作『蛇行』ほかへも深切の批評・感慨を寄せて戴いていた。

* 夜の不通の常識として作家・作者は出版社・編集者の「判断」にまかせて仕事を買い上げてもらって「本」にも成り、雑誌等にも載せてもらえる。わたくしの場合も初期はそうであったが、「作家」と世に認められた些少は「私家版本」巻頭に載せてお他『清経入水』が、全く与り知らぬうちに与り知らない選者先生達により『第五回太宰治文學賞』に選出されていたのだった。以降も、多くの読者はご承知のように、私は、自作のほぼ全てを自身の手で書籍にし世に送り出してきた。(とは云え、出版と編集者」の手で作られた単行書籍も、数えてみると大小百冊を二三越すほど在り、しかし自身の手で作り送り出した浩瀚な『秦恒平選集』は三十三巻、『秦恒平・湖(うみ)の本』は百六十六巻に及んでいて、「湖の本」一巻分の原稿容量は世間に小売りの単行本一冊にほぼ全て「相当」している。総量は、我ながら愕くばかりの数え切れない原稿枚数に成っている。世界にも禮は尠い、そういう生涯出版を、私はほぼ『自分自身』の手で進め、進め得てきた。懸けた全費用は、全て私と妻との協力で、スカンピンの新婚以来に蓄えた貯金を宛てている。「頒価」を附けていた時期も長かった、が、近年はすべて「呈上」に切り替えて、千を少し超す冊数を餘ニ送り出していた。書いた創作で儲かる・儲けようという気は希薄だった。
* 私・秦恒平とは、そういう「作家」なのであって、そういう後続の「作家」が跡を継いで出て来ないらしいのが、当然なのか、歯痒いのか、判断がついてない。
私はこれを、いわば「日本近代文学史」の史実と自覚して書き置いている。ご批評・ご批判も得たいと願う。
2024 2/16

◎ 『漢代の思想家 王 充  論 衡 』
大滝一雄氏の「訳(東洋文庫)」に学びつ。
○ 「論衡」とは、論の平(はかりで重さを計る事)ということ。口をひらけば「ことば」をハッキリさせること、筆を執れば「文」を明瞭に書くこと。
およそ文章というものは「用語」しだい。文字と言葉との趣くところは同じなのだ。
2024 2/16

◎ 『漢代の思想家 王 充  記憶も論 衡 』
大滝一雄氏の「訳(東洋文庫)」に学びつ。
○ 口で論じる場合にも、はっきりとして聞き取れるようにつとめ、深縁げにまわりくどく、ワケ判らないような具合につとめてはならぬ。文章を評価するには、意味がわかりやすいか、を無下に見捨ててはならぬ。
2024 2/18

◎ 『漢代の思想家 王 充  論 衡 』
大滝一雄氏の「訳(東洋文庫)」に学びつ。
○ 「論」というのは正しさが尊ばれるのであり、はなやかに飾りたてることは無い。「事」というのも、当を得るのが宜しく、世人と合うのを髙しとはしない。「説」を立てて当否を明らかにし、偽りを取り除き眞実を立てようとするなら、世俗の耳に逆らったりせずに済む事で無い。それでは古きに沿い、お上品さを守り、古書を暗誦しているだけのことになる。どうして筋道を立てる事が出来ようか。
2024 2/19

◎ 『漢代の思想家 王 充  論 衡 』
大滝一雄氏の「訳(東洋文庫)」に学びつ。
○ 見掛けを飾ってむりになにかと類を同じくさせようとするならば、其のために形をこわしてしまう、字句を整えてなにかに似せようとするならば、其の爲に真情をにがしてしまう。思慮するところは必ずなにかに合致せねばならず、文章字句は前例に従わねばならぬとすれば、ことは、大きに間違ってくる。美人はめいめいに同じ顔をしているわけでない。それでいて、みな目によくうつる。優れた音楽はそれぞれに同じ音ではないが、しかもみな耳をよろこばせる。
2024 2/20

◎ 『漢代の思想家 王 充  論 衡 』
大滝一雄氏の「訳(東洋文庫)」に学びつ。
○ 真実のことばは多弁でなく、派手な文章は眞実でない。けれども世間の役に立つならば百篇あっても害はないし、もし、みな役に立つのなら、文が沢山有るのは尠いにまさる。いま、眞実を喪った事柄が沢山有り、飾った偽りの詞が横行している。言葉や詞が適切なら文は豊かに成り、水が広ければ魚もたくさんいる。
2024 2/21

* メールの、発信は、「必要」と「緊急」と「返信」に限る。 受信は、原則「歓迎」する。

* いま夜の九時半。一日中、寝はいっていたのが実態。幾らでも寝入れる。心身が明らかにそれを望んでいる。抗う必要は、何も無い。心神を酷使してきたとは思わないが、趙岐によたって疲労の蓄積は否認できない。
無理なガンバリを、幸いい今要求されていない。『休む』という息のつ付き方を覺えていい山坂へ来ている。わたくしの「やすむ」の大きな比重は、幸いにも一に好きな「讀書」に在る。今も、これ以上無いと謂いたいほどの書目を身近間近に確保して読んでいる。飲・食の比重は後退している、それでも、久しぶり、一度街へ出てみたい。池袋メトロポリタンホテル地階で、最良の焼肉を200グラム、最良のワインで。

* 認知力の一層の低下なのだろう、「パソコン」関連の、複写や印刷の手順や、またカメラ使用法などが混乱状態。当惑しながら、もう幾らか諦めている。
大事にしたいのは「読み・書き・創る」意欲。在る、残って居ると信じている。
2024 2/21

◎ 『漢代の思想家 王 充  論 衡 』
大滝一雄氏の「訳(東洋文庫)」に学びつ。
○ 古くは太公望、近くは董仲舒など、百篇余の本を遺しているが、わたくし(王充  私・秦恒平)の本もまたやっと百篇を越えたばかりだ。一篇一冊ずつは小さい、が、黄河が漲って流れていてももろもろの河川の総和とは比べものにならない。それに栄達する者、必ずしも知者では無い。貧窮者、必ずしも愚者では無い。人材の偉大さ、孔子に勝る者は無い。その孔子にしても才能が受け容れられず、「魯」でも「宋」でも「斉」でも「匡」でも「衛」でも「陳・蔡」のいだても迫害と飢餓」に苦しみ」弟子達も生きた色が無かった」。
2024 2/22

* 目を見ひらいているのが鬱陶しいのでは、視野の無い日々になる。困惑。「生きる」「生きている」事に拘泥するのを已めてはどうか。ソレよりも「秦恒平」に拘泥するのを先に已めるが適切か、それが出来るのか。
2024 2/22

◎ 『漢代の思想家 王 充  論 衡 』
大滝一雄氏の「訳(東洋文庫)」に学びつ。
○ 士は立派であればこそ独りで立ち上がる。醴泉には古くからの水源があり嘉禾にはもとからの根がある。
士たるものは、才を洗練して慎重に身を起こす事を尊び、高い足場をして栄達するようなことはしない。
祖先は汚れていても子孫が清らかであれば,すぐれた人物とするに妨げない。鯀は悪人だったがその子の禹は聖人だし、叟は頑迷だったがその子の舜は神人だ。孔子も墨子も祖先は愚物だったが、丘(孔子)も翟(墨子)も聖賢であった。*
2024 2/23

*「湖の本」の終結は、私が読み書き添え作を終結したのでなく、単に,従來版の「本」をもう従來の条件で業者が「宅配」してくれなくなったこと、千にかなり數越す部数を妻と二人で「発送」するのは作業として無理と自明なので「終結」ときめたというに過ぎない。「潮時」が来たと謂う事で、別儀は何も無い。

* 私は一種の「思い出」人間で、八十八歳の今モ、遠い記憶は、南山城の吉岡本家から京都の「秦ラジオ肆」へ引き取られた数歳の幼少へも帰って行ける。その時から自分が「もらひ子」なのを間違いなく確認し得ていたし、抗う術の無い自身の運命と心得ていた。事実にむかい反抗したり否認したりして暴れたリしなかった。
2024 2/23

◎ 『漢代の思想家 王 充  論 衡 』
大滝一雄氏の「訳(東洋文庫)」に学びつ。
○ 充は、元和三年(西紀八六年) 六十歳に住居を移して乱を避け、その後官途に着いたが目覚ましい何事も無く章和二年(西紀八八年)には隠居し「養晣」という本を書いた生気を養い身を護り、はょ雲ほどほどに酒を慎み、精を惜しんで己を持し、長命も願い、本も書いた、が,所詮は年齢が尽きてしまえばやはりあの世へ行って、身は灰土と化するまで。
2024 2/24

◎ 『青春有情  東工大余話』

やはらかに人わけゆくや ー序にかえてー

突如、見も知らない国立大学から「文学」教授就任の依頼があったとき、ただの作家に何を期待されているのか、分かりにくかった。二足のわらじを五年間はいていた。その以前はサラリーマン。えらいお医者さんが相手の編集者だった。免疫学や小児医学などの研究書をいっぱい本にした。そっちのわらじを脱いでからは、ずうっと小説を書き、批評を書き、医学とはほど遠い世界を浮遊していた。著書の数は多いが、ベストセラーは無い。教育者でも研究者でもなかった。
東工大は味なコトやりますね、一種の名人事ですよ、やって下さい…などと、各大学にいる友人や大勢の読者に嬉しがられ、けしかけられた。
辞令から授業までに、幸い半年間があった。大学の先生は、高校・中学とちがって「無免許運転なんですよ。お好きになさればいいんです」と、若い同僚教授に目からウロコを落としてもらって、好きにするかと肚を決めた。平成七年春から教壇という高いところに立った。学生と顔を合わせた。
だが心掛けとしては、ただ学生と向き合って、こっち教授、そっち学生には、なるまいとした。学生の横に一緒にならんで、同じ視線でものに向かいながら、学生の見方と私の見方とを自然に突き合わせよう。そして双方で、教えあい学びあおうと思った。譬えれば、すばらしい美術作品を寄り添い見ながら、おのずと対話や意見交換が成るように、願った。だから、知識を授けようとは考えなかった。得ている知識をどう生かすか、そこに働く、感性や知性のことを専ら考えた。考える力が、あるかどうか。あっても、それを表現する力が、あるかどうか。
表現の道はいろいろある。私の場合は工学部「文学」教授なのであるから、基本は言葉であり、文章である。背後の体験である。借り物でない自分の考えを、借り物でない自分の言葉で、どれだけ実感をもって表現できるか。それを引き出すことに、関心と興味と意義を私は覚えていた。問題はどう仕向け、どう参加させるか、だ。こっちの必要ではなく、学生の必要でなければ意味がない。逆にいえば、どんなに難儀な持って行き方であっても、興味がもて挑発されてみたいと学生が思ってくれるなら、何かが出来る。
工学部も理学部も人間理工学部もひっくるめて私の教室へやって来た。一、二、三年生各主体の、三つの教室を私はあてがわれていた。メインの授業内容はみなちがうけれど、そこへ持って行く導入を私は工夫した。しかも、いちばん彼等が苦手で、これまではたぶん避けて来たことを、やりたい。それは、何だろう。一つは詩歌で、一つは文章を書いて自分を表現することだろう。術もなくて泥を吐かないのだ、若者は。
優秀な理系の頭は、いつも文系のセンスをナメてかかっている。その頭を「文学的」に挑発し刺激してやるのが効果的だった。「古池や蛙とびこむ水の( )」とでも黒板に書き、漢字一字の虫食いを補わせれば、芭蕉の名句、学生は何も考えずに知識や記憶で「音」と答え、心には何ひとつも残すまい。しかし、「やはらかに人わけゆくや( )角力」と出題すれば、そして試みに「( )角力」にフリガナを打って答えよと言えば、いっぺんにヘコたれる。仰天する文字と訓みとが続出し、しかも一人一人、句意を案じてその一時は自身俳人たらざるを得ないのである。そして、そこから先は、こっちの力量もものを言うが、おそろしく莫大なものを学生の胸に送りこめるのである。詩の、句の、表現の、言葉の、想像力の、世界や人間の、底知れない魔力や魅力について。能力について。
東工大の学生ですら、いま、「角力」が「すもう」と訓めない。「角界」「力士」というじゃないの。あッそうか。で、「勝角力」と出たのは百人に二人見当。他は、では、どうなるか。何人かが大角力、押角力と出て、腕、尻、独、紙など、合わせて二割に満たない。「四角力(こうさてん)」「風角力(かざぐるま)」「馬角力(ばかぢから)」「牛角力(かたつむり)」「人角力(じんりきしゃ)」「車角力(くるまひき)」「錯角力(テクニック)」「多角力(にんげんせい)」「鬼角力(かぶとむし)」「無角力(はるのかぜ)」「頭角力(リーダーシップ)」等々七十幾種が収集できた。それでも、そこそこ詩の世界に足を踏み入れかけているのもある。「やはらかに人わけゆくや」につけて、「かざぐるま」も「はるのかぜ」も「かたつむり」も、いやいや「くるまひき」でも面白くて、原作の高井几董も苦笑するだろう。まさに、そこに、文学に生きた、創作の、批評の、鑑賞の、不思議というものが露出してくるのである、面白くも、厳しく。
授業はじめの十分間で、十分。先週の結果を披露し、爆笑し感嘆し、今週の問題を出しておく。若い彼等の心根にびりりと響く主に現代の短歌や俳句を精いっぱい選び、いつしかに自分の現在や過去・将来に重ね、物を思い考えてもらう。考えずに済まない「難題」を更に与えておき、時間内に、授業を聴き聴き、必ず書いて提出させる。書かれた挨拶、四年で、三万五千枚。
2024 2/25

1 結婚は「建築学」である
飽くをもて( )の終と思ひしに此のさびしさも( )のつづきぞ  与謝野晶子
こういう虫食い短歌には、いまの大学生、らくに漢字を入れてくる。まして同じ一字をといえば、七割見当が、原作どおり「恋」と入れる。恋は青春のメインテーマ、東工大生ほど時間に追われてよく勉強する学生たちでも、マメに恋をしている。恋を求め恋に飢え、もう恋はあきらめている者もいる。入学式がコワかったと漏らす女子がいるくらい、今でも優に十倍以上の男子大学だから、内でも、また外でも出会いの機会が比較的少ない。
だが、ほんとうに「恋」なのだろうかと、ふと訝しむときがあった。彼らの恋のボキャブラリィは「告白」「付き合う」「別れる」の三つで、恋というより「性的付き合い」に他ならないから、ボヤのように燃えついては消え、また飛び火もして行く。学生がいわば無常感を感じとる機会として「恋」は機能し、「はかないですよ」などと嘆いてくる。恋愛と結婚は、同じ地平に虹をかけていない。
極端な例でいうと、ある女子学生は結婚を「経済学」に譬えて、男性のメリットをなるべく数字に置き換え優勢な総合値をもった男と「お見合い」でしか結婚しないが、恋は結婚までの性的な「オアシス」として満喫したいと、真面目に答えている。
「結婚を学問分野に強いて譬えるなら、あなたにとって、結婚は、**学か」と聞くと、たちどころに七十種以上もの「学問」が登場し、数百の学生の「結婚」観が提出されてくる。一、二を紹介する。いずれも現に授業を耳に聴きつつ、考えて、書いている。

*「建築学」 まず材料力学。相手、自分をよく知って、どれだけ強いのか、どういう性質を持っていてどう使えば最適なのか分析しないと、一緒になんか暮らせないでしょう。知らないほうが良いこともありますが。次いでそれをどう組むのか、構造力学です。どこまで大きく高くして行けるのか、結婚の成功もそれにかかっているでしょう。また建築設備学。家も家庭も快適でなければならず、環境設備学とも言います。夫婦の暮らしにも大切なことです。建築史も関わりますね。結婚ということの歴史的な理解もさりながら、互いのここに至る背後や基盤を知り合うことは大切な手順です。いよいよ建築計画が物を言い始めます。将来への覚悟を定め不安材料は解消すべきです。そして意匠・デザイン。味のある豊かな生活に、変化もなければ長続きしません、これが難しいです。他が必ずしも参考になるかどうか。こういう検討があって初めて、製図が始まります。他にも建築心理学、建築人間工学なども関わります。それらをみな頭に入れて製図します。綿密に図面上で計画します。状況・条件が調ったところで施工します。しかし結婚という建築はどの段階で完成するのでしょう。と、まあ計画大事と言いましても、実際は勢いや感情=勘定でやっちゃうんじゃないでしょうかね。   (男子)
*「有機化学」に限った事ではないが、「反応」は一つの物質だけでは殆ど起こらない。大部分「或るもの」と反応して新たな物質をつくり出す。反応する「或るもの」も様々で、生成物は「それ」によって大きく異なる。結婚も同じで、元々在る物質を自分とし「或るもの」を異性であるとすると、そのパートナーによって人生は大きく変わってしまう。人生、いろんな人と出会うことで自分が成長し変化して行くのも同じだ。また「或るもの」が同じであっても、触媒や温度、pH等によって反応が起こらなかったり、まるで違うものが出来たりもする。これは環境ー例えばセックスの相性等ーによって離婚に至ったり裕福に暮らせたりするのと似ている。   (男子)
こういうのを、どっと何百人もが提出して行く。仕事も忘れて読んでしまう。

* 東工大を定年退任して、もう思えば三十年近くなっているか。それでも今も何人もの当時卒業の院生達が、広い世間の銘々の座席から「秦先生」へと寄ったり声を掛けてくれたりする。このところの疲労困憊と聞いて「慰労会」をしましょうとまで、一升瓶を四本も送ってきてくれた人も。
あの当時世の中の誰も豫想もしなかった作家秦恒平の東工大教授任命、なかには「名人事」とまで驚いてくれた人もいた。私は国立の東工大などと謂う大學の存在すら識らぬも同然の、そんな或る日の夕食時に、突と先任の主任教授からの電話がきて、いきなり教授就任を依頼されたのだった。のちのちには、著名の批評家で退任された先任教授の江藤淳さんの強い推薦があったと聞いた。「大学教授」は、小中高校の先生と違い「無免許運転」です、好きに発射して下さいとも励まされた。
おかげで、私には若ーい友人達がたくさん出来た。有難い。

* それにしても、父の「ハタラジオ店」もよう嗣がなかった、いまも徹底して「機械バカ」の私に、たとえ一般教育の「文学教授」にして国立東京「工業」大学とは驚いた。承けた電話のたまたままぢかにいた建日子が、「東工大?」と夢にも名も識らなかった名をいぶかしむと言下に「名門だよ!」謂う多にもまたビックリしたのを想い出す。
昔の学生君、ハナの季節にはあの東工大構内のすばらしい「櫻」を觀に行きましょうよと誘ってくれている。それはそれは見事な「櫻・櫻」なのだ。
2024 2/26

◎ 『青春有情  東工大余話』 3

1 結婚は「建築学」である  つづき
「恋」にはへんにおどおどした学生諸君が、「結婚」となると、なんとハツラツと我が田に水を引くことだろう。しかも思わずかなり真剣な実感を交えていることも、疑うわけにいかない。自分の実感と言葉で、既成の学問への理解や批評もしぜん露出してくる。結婚という未知ではあるが近未来の重い現実にもかなり真面目に身構えている。故郷へ帰れば身近には、もう結婚し、子供まであって「稼いでいる」友人がいたりする。そういう現実に想像以上に学生は厳粛な視線を送っている。「親の金」に頼っている学生身分のアキレス腱が見える。
とにかくも、恋よりは「結婚」観の方が、はるかに堅実に落ち着いている。東工大生は将来の「仕事」に希望も自負もよほど具体的にもっているので、後顧の憂いなき「家庭」に対する願望が、特徴的に、強いのだろう。
ただそういう願望と、例えば学生のうちに好きな人との「同棲」を体験しておきたいといった「性」付きルームメイト志向とが、やすやすと共存もしている現実でも、ある。異性の「同居人」との生活を、ごく日常感覚でさらりさらりと話してくれる学生を、幾組も知っている。
むろん「性」の結果があわや妊娠の心配と化し、青くなったり赤くなったりの学生が、一年生にもいる。子供をおろしてしまった、つらい、死にたいと打明けて来る女子もいる。それには実は驚かない。が、私のような道草教授とちがう十年二十年もの同僚教授たちが、「まさか…」と絶句のあげく、学生にカツガレているんじゃないですかと宣まうのに、驚いた。そういうセンセイほど、今の学生は何を考えているのやら、さっぱり分からないと匙を投げている。それどころか、現代の学生は何も考えていない、幼稚だ、バカですよと来ると、どう割引きしても、危険だと思う。
四年間に、そんな学生に三万五千枚の「泥」を吐かせ、一心に読んで応えてきた私には分かるが、何を考えているのやらと嘆かれている学生たちの殆どが、内なる思いを発信したくて機会を、聞き手を、渇くように求めている。そういう青春に、「自分の言葉」を見つけさせ、「実感」をせめて書いて表現させ、噴出させてみたかった。個性的な研究や創造の発想も構想も、そこから得させたいではないか。遠回りのように見えて、もっとも健全な文学教授の「道」の一筋がそこに望めるのではなかろうかと思ってきた。
2024 2/27

* 「光るの君へ」は紫式部を介して「道長」時代への道案内をしてる。いわゆる藤原摂関家の軋轢に辻廷内と判り難い。紫式部と道長とには曰わく謂いがたい接触があり古典文藝と摂関聖政権とのつかず離れずか、ある。摂関家の動向に通じていないと,判り難くなる。道長は摂政兼家三子の三男で,長兄に道隆、次兄に道兼がいた。この二人を超え越して行かねばならない道長は、それに成功して「「わが世とぞおもふ望月」の大権勢を確保し、その予行すら帯びて紫式部の源氏物語は「世界理古典」へと成長仕上がっていった。
これだけを承知していれば「光るの君へ」は判り良く、より面白くなる。この西紀千年のほぼ直前に位置した「藤・紫の物語」に親しむ事で私は「平安盛期」の日本史をとにもかくにも手に摑んでいったと,思っている、高校生の頃から。和歌、短歌へむしゃぶりつくほどの関心と興味と賞嘆とが 役に立った。私自身が「小説家」によりも世ほど早く先に「歌人」という自覚と作とを積んでいたのだ,高校生の頃から。
2024 2/27

◎ 『青春有情  東工大余話』 4

2 恋は「大変」である 1
「恋は盲目」とは、恋をする以前から口碑のように聞いていた。さもあろう、それぐらい、小学生でも朧ろに心得ている。覚えのある人、少なくないはずである。だから、「恋は**」の「**」を学生諸君に定義してもらうと、「盲目」という返事がやはり多く戻って来る。だが、「思ったより少ない」のも事実である。
夏目漱石作『心』の「先生」は、彼を尊敬している大学生の「私」に、「恋は罪悪です」「だが神聖なものですよ」と訓戒している。なかなかのモノである。
で、この「**」を埋めてもらい、東工大生の「恋」託宣を聴こうと試みた。10項目ほどで纏まるだろうとタカをくくっていた。
とんでもない。ほぼ五百二十人から、三百通り以上もの「ちがう表現」で返事が出てきた。
見たところ「恋」の手習いはむしろ「へたくそ」な学生諸君だが、「だから」と謂うべきだろう、実感と自分の言葉で、「恋」は思案の「内」に、しっかり「主題化」されていたのである。いちばん多い「盲目」で四十人。以下、頷いたり思わず笑ったりしたのを、「**」の箇所だけ、多い順にここに挙げてみる。玉石混交などといってはならず、ほんとうは、笑ってもいけないのである。
「恋」は、告白・大変・病気・忍耐・生きもの・活力(源)・本能・魔法・人生・不思議・苦悩・戦闘(戦争)・罪悪・魔薬(麻薬)・ときめき・若さ・難しいもの・自然なもの・駆引・分からん・憧れ・迷路・一瞬・永遠・無限・悩み・水もの・必然・偶然・春風・大切・束縛・財産・孤独・切ないもの・青春・純粋・詐欺・冒険・いいもの・幻想・暗闇・悪魔・お天気・事故・混沌・鏡・狂気・残酷・運命・苦痛・やすらぎ・不可解・試練・命・最高・つらい・魔物・危険・奪うもの・賭・神聖・夢・創造・楽しい・真心・自分勝手・変・義務・秘密・栄養・パワー・無情・博打・快感である、と、ここ迄が、ともあれ「少複数者の託宣」であり、これだけでも十分「恋」の現象や心理や本質に迫っている。一人に尋ねても意義をなさない問いが、五百人を越すと、全体で実に多くを証言してくれる。一般教育「大教室」のメリットであり、こういう問いかけを内心で待っていたかのように、生き生きと答えてくる。所感も弾んで書かれる。
一人きりの「託宣」がこの後へ二百何十と並ぶのは壮観だが、中に「妙なの」を、摘んでみる。
「恋」は、殺気・唐突・変換・空虚・電車・未経験・積木・come on・片思い・興奮・ガン・理屈じゃないン・気紛れ・欲求・想像・自慰・涙また涙・一喜一憂・はずみ・宿題・狡猾・花・片道・我慢・宇宙・雷・競争・犠牲・悩みの種・信号・たわこと・楽勝・白昼夢・勝負・思いやり・ベンゼンのスルホン化・余韻・気合い・簡単・訣別・一寸先は闇・成り行き・性欲・芸術・楽しそうなもの・はかない・錯覚・縁がないもの・粘りつく重い液体・心の酒・不毛・H OにMnO を入れO を発生する反応・胃炎・偽善・記念・泥棒・しない方がいいもの・三面鏡・動力・曖昧・侵略・炎・なすがまま・なるがまま・もやもや・道草・天国・遭難・放棄できない我慢・熱演・砂漠・無いものねだり・経験・付録・たるいもの・勘違い・支配者・早い者勝ち・時を早めるもの・波・本音・策謀・毛針・禁物・様々・愚か・風邪・いつのまにか・隷属・面倒・独占欲・誤解・嘘のつきあい・未練・山あり谷あり・盛り上がり・火傷・発作・台本のない芝居・重荷・挫折・幸福・極楽・地獄・すべて・オロナミンC・贅沢・ゆるすこと・お金・悩ませ喜ばせ悲しませるもの・心痛・疲れるもの・心の支え・迷惑・愛へのステップである、と。
もう十分だろう。
どれ一つも無意味ではない。それどころか一編ずつの「私小説」すら読みとれて来るではないか。
こと「恋」に関して、学生諸君の胸のうちを十把一からげに推し量るなど、失礼というもので、一人一人が、かくもべつの言葉で捕捉している。なまじな「恋愛論」で頭を痛くするより、端的なこれらを纏めて聴き届けるほうが「恋」は早分かりするとも言える。 つづく
2024 2/28

* 昼食後か、好きなスーザン・サランドンの『依頼人』を観ていた。トミー・リー・ジョウンズも共演で、もう昔に二度三度とみていた作、懐かしくもあった。スーザンのいま一つ別作も当時に観ていた、いずれコピーが出て来よう。
「映画」の面白さは、怺えようが無い。会社勤めの間いにシナリオ研究所の講座を半年も聴きに通ったほど、課題のシナリオ二作も書き上げた(『懸想猿』上下)ほど「映画」が好き。提出した二作に、講師で、当時「松竹」副社長(後に社長)に「小説を書きなさい」と助言されて「シナリオ書き」は断念、方向を「小説」一筋にと決意した大昔が懐かしい。
「映画/映像」には、「文藝文學・言葉」とは別の、凄い魅力がある。それを、私は優れた「小説」作家・谷崎潤一郎先生に学んだ。日本の小説家で「映画」の魅力と深切とを時代に先駆けて度々語られたのが先駆「大谷崎先生」であった。懐かしい。

* 谷崎先生はむろん、近代になって藤村・秋聲、鏡花、直哉、芥川、康成、由起夫らは今も熱く読まれているだろうか。「読まれて」の文學・文藝で、美術とは決定的にちがう。その「失」はいつも「読者」の質と連繋し合作しているのが,文學・文藝だ、「読者」が低俗では、文學・文藝は耀かない。
2024 2/28

◎ 『青春有情  東工大余話』 5

3 今、真実、何を愛しているか
Pity is Loveを訳して「可哀相だた惚れたってことよ」と喝破したのは、『三四郎』に登場の帝大生与次郎君だった。異性との好いた惚れたは、まこと「若い」「青春」につきもの、それも不気味に憑きものと書いてみたいほど、日常事になっている。しかも必ずしも「愛」がぜひ必要というのでない人間関係、「性的誘惑」の力に先導されたような浅くて軽い「付き合い」ようが、そんな「好き」や「惚れた」の内実を成している例が多い。そうも垣間見えてくる所が、三四郎や与次郎の学生時代と、よほど今はちがうのである。 愛ぬきの「有性関係」「有性付き合い」は、不健康ともいいかねるほど現代の大学風俗の一つの芯になっている。少なくもカッコつけとしてでも、常識化してきている。驚く気にもならないほどである。
ただ「愛無き」ことへの、かなりの、まだためらいやうしろめたさの有ることも否定できない。その証拠のように、「今、真実、何を愛しているか」と問うてみると、たちまち学生はグッとつまる。「真実」という厳格な限定と「愛」の文字とが、化合して、目に見えない縄となり、金縛りに思考を渋滞させて、いささかの反省・内省を強いるらしい。
あげく、「好きなもの」「気に入っているもの」「欲しいもの」「執着しているもの」は幾らもあるが、そしてそれに「愛」が無前提に参加していると思いこんでいたが、さて「今、真実愛しているか」となると、そんなものは無いようだし、これからも有るのだろうかと愕然とする。
次ぎに、自分がなにもだれも「愛していない」らしいのに、自分はだれかに「愛されている」と思うのはムシがいいという現実に気づいてくる。やっと真剣に考え始めて「家族」「親友」から、行き着くところ、愛しているのは「自分、自身」だと煮詰める学生がうんと増える。でも、自分って、何なの。
「親友」と心安い気安い「知り合い」とを峻別する学生が多い。そして「親友」と「恋人」
も微妙に対立しているのだ。「愛」は親友により多く深く捧げられ求められて、恋人にはむしろ独占したい信頼感がつよく求められている。不安や不信は、友によりも恋人に対して動きやすく、恋ははかないという心配を抱きながら、あらぬ嫉妬にも悩みながら、日々に相互気象図を書き替え書き替え一喜一憂している。親友とは比較的長くつづき、恋人とは比較的短い。そこに、結婚に至るまでの不安をもつ特に理系男子の、出会い難き女性に対する期待と不安とが渦巻いている。
*今、真実愛しているものは、おそらく無いと思う。両親を、愛していないとはとても答えられるものではないが、真実かと問われると真実の前では首をたてには振りにくい。今愛しているものは無いが、強く求めているのは「安らぎ」と「女」である。現代、前者に頷かぬ人はいない。後者の「女(異性)」には、はっきりそう言うのはためらう人があると思うけれど、内心は、半分 の人が納得してくれると思う。「愛する」と言えるのは、人間として成長した者だけ だと思う。(男子)つづく
2024 2/29

 

◎ 『青春有情  東工大余話』 6

3 今、真実、何を愛しているか  承前

( )の最もむごき部分はたれもたれもこのうつし世に言ひ遺さざり  東淳子

入る一字は「愛」だが、生、死、恋、命などと答えてきても、愛とは入れてこない。二十歳の学生に「愛」は、いろんな意味でまだ難しく、けわしいのである。恋は傷つくことなく享楽される道ももっているが、愛は傷そのものであるかも知れない。「愛する」と言えるのは、人間として成長した者だけだというこの男子学生の言葉は、本人が思っている以上に重いのである。

*好きなものは沢山ある。友ダチ、親など。でも愛と呼べるのかどうか。「愛」に偏見あるのかもしれない。愛とは一途なもの、とても重たいもの、そう私の中で定義されている。私はあまり自分の心をさらけ出さない。とても親しくなり深刻な話ができる仲になっても、自分を全部なんて出せない。その友ダチを信用していない、つまり愛が無いことになってしまうのだろうか。愛を知らずに愛を欲しているのかもしれない。
私は親に冷たく当たる。その中で親の私に対する愛を捜しているような時もある。一方で私は親をとても重たいものに思うから、拒みたい時もある。結局私は今、何も愛してはいないようだ。淋しいことだ、が、そう思う。   (女子)
*私は、父が借金を残し蒸発してから、高校一、二年のあいだ、すべての人をうらみ、にくみました。その二年間は友人にさえ心を閉ざし、好きな部活もやめ、ただ生きているという生活でした。三年のときに、ある女性、高校受験に失敗し行きたくもない高校にいっている友人の女性に会ったとき、なぜか心がふるえ、人をうらんだ自分が消え去りました。その女性を愛するようになりました。今は信じあえる友人もでき、だれでもとはいかないが人嫌いでなくなりました。その女性を愛しつづけています。   (男子)
*秦さんの問題はいつもたいへん考えさせられます。愛のこともこの頃少し疑問に思っているのです。今私には恋人がいますが、本当に愛しているのでしょうか。人間(特に自分)は淋しがり屋であるので、心を支えてくれる人がいると、つい頼ってしまうのです。でもそれは愛かなぁ。絶対違いますよね。今言えるのは、自分は自分しか愛していないことです。自分勝手なようでもこれが事実です。かわいいのです、自分が。人を好きになるのも自分を好きになってほしいからです。自分が可愛いからこそ自分の向上もはかれます。私はまだ自分以外の対象を真実愛せるほど成長していません。最終的には「愛する」真実を知りたい、知れるなら本当に幸福だと思います。(女子)

だが、この「自分」が自分ではよく分かっている気で、尻尾も掴めない。自分で自分が見えない袋小路で、学生諸君はうろうろと悩みだす。
2024 3/1

◎ 『青春有情  東工大余話』 7

4 なにが「大人の判断」か
年度内に成人する、つまり二十歳になる学生の格別多いわたしの教室だった。
二十歳になったから大人に成ったと言えるものでもないが、まだ子供ですと甘えていられては困る。居直られてはもっと困る。
学生諸君にしても辛いところで、これまで、子供のくせにとやたら大人の判断とやらを強いられて来なかった段ではなく、二十歳ともなると、今度は大人としての判断を、まるで義務かのように、都合よく、要求される。
で、「大人の判断」について述べよ、と。「大人」とは何かを問う意味もある。自分を大人と自覚してものを言うか、大人なるものを向こうに置いた感じでものを言うか、それを問う意味もある。「大人の判断」を価値あるものと肯定して自身もそこへ近寄って行くのか、批判的に論難するのか、微妙な移行期のこと、その辺も悩ましく岐れてくる。
*この冬は渋沢龍彦の世界にどっぷりつかっていたので、「大人の判断」と聞いたとたん、
パラケルススや、シュバリエ・デオンや、サドや、ジル・ド・レエ等、大人の判断が出来なかったため、みじめに死んでいった人々の事が頭をよぎった。大人の判断が出来ていればパラケルススが大言を吐くこともなかったろうし、デオンは女装しなかったろうし、サドもアナーキストを名乗らず、ジルも子供を犯さなかったろう。
「大人の判断」と芸術性とは相反するらしい。「判断」が理性の支配下にあるに対して
「アート」は狂気が司る。芸術家は理性という当局の目を盗んで狂気を走らせる、いわば自己崩壊的なアナーキストなのではないか。   (男子)
*判断にあたって、他人の気持や視線を過剰なくらい意識しているとき、それは「大人の判断」だと思う。「本当はこうしたいんだけど…」と自分の気持は決まっているのに、もう一人の理性的な「大人」の自分が「やめておけ」と言っている。世間体が気になりだしたらもう大人だと思う。そう考えると、最近の自分は大人だなぁとつくづく思う。そして周囲に「大人でない」判断をしている人を見ると、「大人気ない…」と思ってしまう。でもそれを自分で情けないとか、「大人になってしまった」と感傷的になることもない。忘れもしない去年の3月(東工大合格)に、「おかげさまで」という言葉の意味が心から分かった時から、子供のころイヤだと思っていたような大人ばかりではない、私は私の思っていたような大人にはなるまい、良い大人になりたいと思っているからです。私は今とても前向きな気持です。   (女子)

明確に内心や事情の語りきれている文章ではないが、「青春有情」の感は漂っている。毎週書いてもらっていると、どちらかというとクライ感じだった学生がだんだんに明るい心境へすすんで来るのが、またその逆も、よく見える。読み上げて励ましたり共に喜んだりしやすいし、他の学生にもその気分はよく反射していたと思う。他の学生が何を感じ考え、それをどう表現してくるか、お互いにそれこそ興味津々というのが教室の空気だった。   つづく
2023 3/2

* この頃、引き続いて往年の『ヴギウギ』笠置シヅ子を描いている毎朝に小刻みな連續ドラマを愉しんでいる。「役」を演じている小柄な女優をかつて見覚えないのだが、演技も歌もシッカリ見せ、また聴かせてくれる。何十年と久しぶりの『ジャングル・ブギ』も『買いものヴギ』懐かしく聴いた。少しく胸も疼いた。昭和十年(一九三五)の冬至に私は生まれ、京都幼稚園に送迎バスで通った十六年(一九四六)十二月八日に日本軍は真珠湾を奇襲、第二次世界大戦勃発、十七年(一九四七)四月七日に京都市立有済国民学校(=戦時中の「小学校」)に一年生入学し、二十年(一九五○)四月に、同年三月下旬以来の戦時疎開先(当時の「京都府南桑田郡樫田村字杉生」の農家長澤市之助家)から山越えに同村字田能の樫田「国民学校」四年生として転校入学し、同二十年(一九五○)八月十五日、学校夏休み中「日本國敗戦」のラジオ放送を同地同家の庭で聴いた。広島・長崎の相次いだ「原子爆弾」も同家で聞き知った。
敗戦後、樫田「小学校」四年生の秋十月、同地戦時疎開先で急性の腎炎「満月状容貌」になり、秦の母の機転で迷い無く京都市東山区に昵懇の「松原医院」に直接「運ばれ」て危機を脱し、以降そのま、敗戦早々二学期の内に秦が地元の市立「有済小学校」へ復帰した。
そして、まだ美空ひばりの影も無い敗戦後日本のラジオなどで少年の私はあの「笠置シヅ子」が叫び歌の『ヴギウギ』を聴きしったのだった。街には疾走するジープ、進駐軍の兵隊や、その腕にぶらさがるパーマネントの日本の女達を至る所で目にしたのだった。

* 私は、あの「敗戦直後頃の、京都も日本も」、あえて謂うならむしろ心親しい新鮮に励んだ心地で承入れ、眺めていた。今にして、私はあの頃をとても大事で懐かしくさえある体験期と思っている。あそこで、大きいとは謂わなくても明るい花の咲いている「時期・時代」を眺め感じていたと思う。やがて新制中学に入った頃の男先生達の叫ぶほどの激励は「自主性 社会性 民主性」だった、わたしはそれを獄当然に受け容れて生徒会活動も活発に、二年生の内にも「生徒会長」として、先生方より数多く講堂や運動場の「壇上」に立ってあたかも「指揮さえしていたのである。
2024 3/2

* 午過ぎの一時前。疲弊の重みに毀れそう。政界のあまりにバカげた茶番の辯明や、二度と破られまい「本場所四十五回優勝」角界の「偉大な横綱白鵬」への、引退後のジトジトした排斥・虐め・追い出し騒ぎなど、耳に目にするつど吐き気がして、サヨナラだこんな「日本」とはと、疎ましい。まこと実力優れての「出る杭」を打って「卑しい快」を求める非力日本人の傾向を恥じる。
2024 3/14

* 無慙に、横綱「照ノ富士」が負けを重ねる。どう見てもあの両脚は働かない。気の毒、だが潔い引退をと願う贔屓は多かろう、私も其の一人に数えられて仕方ない。奈落まで一度落ちて其処の底からみごと這い上がって強い「横綱」に成った美しい眞実を忘れていない。生なかの覚悟で出来たことでない。栄誉ある引退が「大相撲」のためにも「横綱照ノ富士」のためにも望まれるのではないか。

* 「瓦解」を重ねて行くだろう私にも「思い切り」の覚悟が必要と心得る。幸いに「読み・書き・創る」ことはお相撲のように「勝ち負け」でない、精魂の限り一人でも独りでもできると信じていて、可能に遵う気は捨てない、が、体力気力が効くなら、実は、静かな海や山野へ、もう一度の「旅」がしたいのだ、「四度の瀧」や「伊勢・大和」や「橋立」や「奥日光」や「瀬戸内」や「丹波の窯」や「仙台」起きの松島」などへ。 ああ。京都へ、それも知恩院下の白川や狸橋や新門前通りへ。東福寺境内や泉涌寺の来迎院へも。

* このような「感傷」を、わたしは大事に胸に仕舞っています。ひさしぶり。小説家もいいが歌集『少年前』『少年』以来の「歌詠み」に戻ろうか、など。

* 要は、一度。何もかも諦めて忘れてしまう事か。
2024 3/15

* 機械が 手に負えず 困惑 なにもかも故障かと。そして私の体調も アタマの働きも グチャグチャです。此のメールが送れるのかドーカも判らないで居ます。元気でいて下さい。 今は、それだけを願います。 ボヤーッとしています、なにもかも。けれど、生きていますから、それは安心して下さい。 読めるかどうか、読めたら 読めたとだけでも返信しておいて下さい。

* なにもかも おハナシにならず「衰弱の気味」。それでいて「着手」したいあれこれの「仕事」に心惹かれている。
『参考源平盛衰記』巻初の『剣巻』は「読むに値い」の力編、清明に訓み下してみたい、とか。「平家」の、副都「福原」を西国へ陥ち行く前夜の、一問を挙げての管絃舞踏の宴もまことに美しく、この、全四十八冊もの「盛衰記」は広く読まれたいとしみじみ思うているが。もっと早く元気なうちに敢然「全訳」に手を染めたかった。まさに残念。

* メール機能を機械から見失い、なんとも、淋しい。
2024 3/20

* 昨日から、『信じられないことだけど』 新しい、少し長いめの小説を、いくらか奔放に、成って行くにまかせ書き継いでいる。
書きたい材料や想像が底をついて、埃だらけな地ベタがあらわに、という気味は感じていない。書き飛ばさないまでも、抱いたままに、「オイ睡るなよ」と突ついてやる「想い」「アイデア」はいつも胸にある。我独りで済むなら「それ」だけでも宜しいのだけれど。
2024 3/23

○ 前略・御高著『湖の本』(166)お贈りいただきありがとうございました。拝読してからお返辞をと思ったため御礼が遅くなり、いたく失礼いたしました。
「これにて「最後の一巻とされるとのこと、とても残念な気がしますが、お手ずから発送の労を執っていただいたものをうれしく頂戴していた身としましては、「続けて下さい」とおこがましくお願いする資格はないとも思います。これまでのご芳情にに、心より御礼申し上げます。
それとともに、ぶしつけなお願いですが、創作の方は少しずつでも続けていただければこれほどうれしいことはありません。薄ぺらくなってしまった現代文学の世界に、王朝古典の文学遺産を受け継ぐ秦さんのような重みのある作家が存在することが是非とも必要だと感じております。
どうか御身ご大切にお過ごし下さいますよう。
都 世田谷区上祖師谷   土方 洋一

* 厚く熱く 感謝。「湖の本」の終結通知に寄せられた沢山な読者の皆さんからのお便りをおおかた取り纏めたようにお書き下さっている。

* で、今、此処で取り纏め「作家の私・秦恒平の今後」を希望とともに展望しておきたい。
私は、相変わりなく「読み・書き・読書と、創作」の日々を続ける。その餘に、私の生きようは、無い。
「本」の形で「百六十六冊」刊行し続けた『湖(うみ)の本』は、以降「第二百巻」までを目途に、この『秦恒平 私語の刻』欄を基本取材の「場」とし、途絶えず、「すがた・かたち」も工夫し、日々書き継がれて在る「原作・原文を編輯・編成」して、いまも「此の此処」に、「掲載し続け」ます。「本のカタチ」で印刷・製本し発送するのは、やがて「卆歳」の夫婦の手には流石に余るからです。ご理解ご承知下さい。
メール便での送付は手安く、「それがいい」とお考えの方は「原稿送付先となるメール・アドレス」を「秦宛て」予めお教え置き下さいますよう、別途に私用、まして悪用する事はありませんので。

みづうみのうれひもなみの行くはてを
たれまつとなく 光るおほうみ   恒平
2024 3/27

* 指先が痛いほど寒く、冷たい。

* メールでの交信や對話が不可能になっていては、湖底に沈んだ一粒の砂利のようだ。やれやれ。われ独りの時空を紡ぐ「静かさ」よ。いま、早朝の七時二十分。両脚が、痛むほどの冷え。上ハむやみと着重ねられるけれど。
ま、メゲていないで、新規造成、第二百巻をめざす『私語の刻』態りに新たな『秦恒平・湖(うみ)の本』第百六十七巻を創って行く。太宰治賞がまさに舞い込んできたころ、大きな俳人であられた荻原井泉水さんは大きな字で『花 風』の額を下さった。山本健吉先生は、師であられた「秋艸道人」がさらに師から承けられた『学規』を自書されての扁額を下さった。優れた鷗外學に稠密の新生面を築かれた國文学者長谷川泉先生は部下でもあった私の「作家」への旅立ちに即座に『文質彬彬』の四大字を書して行く手を示して下さった。信じがたいほど大勢の先達・先師から私は、「創り 成し 学び 続けよ」と「励まし」て戴いた、戴き続けたのだ、それは今なおなんら変わらない、私は「卒業」してなどいない。
寒くても、痛くても、シンドクても「道に、先」はある。

* 午前十一時過ぎ。「先」 容易には見えない。沁みるように両眼痛く、空腹感。
人の、聲や言葉が聞きたいが。メール機能が働かない、というより働かせ方を忘却しているのか、も。
2024 3/28

*  どうしょうかと思いつつ、やはり早起きした。猫チャンのアコもマコも喜ぶ。 寒い。
やはり第一義の仕事は途中の新創作を巻頭の要に追いつつ、いわば「私語の刻版」、『新・湖の本 第167巻』めを、もう郵送でなく、「メールで引続き<電送>の利く読者」宛て送り出せるよう着々「用意」「進行」する事。印刷所とも製本所とも縁が切れて、ますますの、本格の「パソコン作家に腰を据えてかかるのである。人生、弾むように推移する、永かった過去も、卆寿をまつ夫婦での最晩年の「仕事」も。

* と言い続けながら、私、いま大肝腎の「メール機能」を見失ったまま、唸っている。認知欠損気味に「卆 九十歳」へ滑り落ちて行く「生涯一作家」を、誰方か援けてと、やっと弱音になる。。
2024 3/29

* わが洋映画体験の第一位作とも感動し評価している『ベン・ハー』に、またまたまた感動し、視力を遣いツクしたように視野が暗い。
わたくしは、顧みるまでなく、信仰への深い熱い敬意はもっていて、しかし仏教徒ともキリスト教徒とも謂えない、ただただ『ベン・ハー』のような精神世界に格別の親愛や敬意を惜しまない。惜しめないタチに人間が出来ている。
今し方ももう寿條数回も観てきた「ペン・ハー」の終幕に胸打たれ、心清くおれた。
「法然」や「親鸞」や「一遍」の、「日蓮」のでもいい、仏教世界としての『ベン・ハー』水準の「日本」の秀作に出逢いたいが。日本の、映画人と限らず真摯の佛徒がいそうに思われない。日本人は、「自然」信仰信徒と謂うにほぼ同じい、私も。ま、ペン・ハーに憧れながらも同然に感じている。
引き継いで、『十戒』を観る。これはイエス・キリストをはるかに遡る。
2024 3/31

○ 三月下旬の天候ですっかり遅れた桜の開花、そして一斉に桜開花宣言です。が、昨日はまだ開花の気配を感じられませんでした。そちらはいかがでしょうか。桜を精一杯楽しんで欲しいと心より願っています。
シンガポールに暮らす娘は桜の時期に出会うことなかったので、今年こそはと思っていたのですが、3月29日に帰って行きました。腕白クレイジーな孫たちも・・。急に静かになりました。山ほども家事、用事があり、わたしは「お疲れ」です。
でも何より気に懸かるのは、鴉 あなたのこと。気力確かに、うららかな日々であって欲しい。  尾張の鳶

* ぐったり  尾張の鳶へ
凸版印刷の担当者宛て たった今 送ったメールです。鴉の近情です。

在来の『秦恒平 湖の本』を百六十六巻で一先ず「休止」しましたのは、「卆寿ちかい夫婦」での「発送」作業がもう無理と感じられ、体制を替えねばと思ったからです。
結果として、尠くも第二百巻までは、私の「ホームページ」ないし日々の「私語の刻」の上ニ、毎回その「最新巻」に「『秦恒平・湖(うみ)の本』 (長短編小説) (秦恒平・私語の刻)」』という <従來通り>の大構成で{継続公開}し続けまjすとともに、すでに年久しい「メールアドレス読者の皆さん」には、全一巻ごと、全員「電送」でお届けをと「計画・予定』しています。
これですと、家内に負担掛けず、私の手慣れた日常「創作」過程の儘、私独りでの発信・送信作業で、みな「要」が足ります。
「第二百巻まで」「もう三十四巻」仕上げられれば、ま、わたくしの「作家人生」も もう いつ「綴じ終えても」宜しいか、と。「命」続くかの方が よほど案じられますが。 この一年・半年の,私 疲弊・疲労困憊は甚だしく、今日も、近くの病院通いでしたが。「栄養失調」に「相当」していると。酒よりも 蛋白質・脂肪を「食べよ」と 𠮟られてきました。
じつは  いわゆる「新書版」で やはり「本」の形に創り続けたい気がありました、が、やはり「発送作業」の疲れは夫婦に及びますので、断念。「出来本」は、ホームページで観て戴き、メール可能な方々へは全て「電送」でさし上げると 覚悟しました。
以上、只今の存念です。ご懸念恐れ入ります。感謝申しあげます。今後とも、お見守り下さい。
秦恒平 「湖(うみ)の本」版元
2024 4/1

* 結句 花見に朔歩もしなかった。櫻はいつも肌身に添うて咲いている。
櫻さくら 弥生の空は 見渡す限り
かすみか くもか にほひぞ出づる
いざや いざや 観に行かむ
京都の山野が 震えるほど恋しい。雑踏でたのしむ櫻、花では、ない。京の東山をあるいていて、ふとした山はらに、木々に隠れて誰にも観られず満開の櫻の咲き匂うていた嬉しさ、忘れられない。
2024 4/6

* テレビのドラマで笠置シヅ子の「ブギウギ」や「ワテ ほんまによう云わんワ」を嬉しく堪能して聴いた。ところで,此の「ワテ」だが、渡しは少年の昔に耳にタコほど聞いた物言い・自称だが、「ワテ」は大阪臭くて、いやだった。京都では、と云うてもいいだろう、尠くも我が家では母も叔母も、ご近所の小母さん達も「ワテ」は無く、「アテ」だった。「アテ」には「貴て」の意義がかぶって、クチにもミミにもアタマにも自称は「あて」でなければイヤだった、但し子供はまず使わない、が、父でも、母方の伯父でも、ご近所のおじさんたちも、京都では「あて」と自称の人が断然多く、聴きよかった。「ワテ」はクサイと嫌った。
笠置シヅ子は、典型的な「ワテ」女で、それゆえ私は美空ひばりが東京弁で引き継ぐまで、笠置の唄聲は遠慮し続けた。「ヤカマシイ」と身をよけていた。「あて(貴て)」と想いながら話して欲しかった。
潤一郎現代語訳の『源氏物語』よりも早く与謝野晶子の現代語『源氏物語』を叔母宗陽の社中から借りて耽読したのは、あれで、中学生の修学旅行より以前であった。「貴(あ)て」なる価値にもう魅惑魅了されていた。「ワテ」はイヤだった。
2024 4/9

* 手紙を呉れた新大学生の丸山葵ちゃんが「三島由紀夫」のなを書いていて、幾昔も以前の感懐を呼び覚まされたが、私の、ま、不勉強と云うておくが、「三島由紀夫より以降」の、いや「第三の新人など」といわれた人たち(私自身は、時世は大江健三郎らと同じくしていたけれど、しかも全くの孤立作家であったけれど)より「以降」の新人作家を、ほとんど、作も名前も覚えぬままとは、我ながら惘れてしまう。ま、どうでもいいことだけれど。
2024 4/12

* メールが機能市内ので、人さまとの縁が、文字通りに無残に絶えて行く。手書の便りをほぼ徹底してし忘れてきた。ハガキや便箋をほぼ全然遣わなくなっていた。「時代」ということに強かに気づかされる。
2024 4/15

* いま、午過ぎ 一時半。左翼の世界的先鋒を演じたロシアが、いまやプーチン大統領の「極右」勢力と変じて露骨な政治的軍事的侵略に勤しんでいる。寝ぼけていては、「國」も「国土」も奪われよう。表の欧州へは「声と言葉」で威嚇し、裏の日本へは「武と兵」とでたやすく北から荒い手を延ばして来よう。日本という國は、実は「世界中」に親密な力在る味方國を持てていない孤立國なのだと、へそくりの小遣い銭にうろめき、よろめく日本の自称だけの政治家・国会議員らは肌身に自覚でき認知できていないと見える。
「近未来の世界へ目を見開いて政治せよ」と委託したい。

* 私は自身の親近感から日本の十・十一世紀史に目を向けているが、今、最も学ばねばならぬ日本史は、「明治維新史」以降に極まると、身に痛く怕いいほど感じている。
「鉄砲と刀と」であれば 日本列島に攻め込まれても日本人は勝てる素質をもっているが、大きな飛道具と核での闘いにはひとたまりも在るまい。「世界地図」から「日本 japan」の文字が失せかねない近未来と子孫とに思い致して、聰明に、いまぞ「世界」と外交し親交して真摯な平和を保ってほしい。
2024 4/19

* JUST BE MYSELF  謂うは易いが。
2024 4/19

* 私の仕事ヘヤはヘヤは二階に六畳、私の大きな選集三十三巻はじめ、特大の事典・辞典・選集等々が百五十巻近くは収蔵の西壁に作り付け書架は別としても六枚の疊のに充満して本やモノが犇めき群れている。書も繪も写真も大小惘れるほど多彩に、かすかにも置ける限り荘れる限り餌も「場」を塞いでいて「鳴り」わたっている、つまりである、古來閑雅を、良し嘉し佳とした『書斎』の観念像をコナゴナに爆発させたように窓前と一瞥雑を極めている。当然に妻と建日子とは余儀ない例外に入ってこない、が、「機械の不機嫌など」あると万万仕方なく鬚髯の技の利く人には、何度か、東工大の卒業生学生くん何人かに入って貰わねば済まなかった、さぞ惘れたろう。趣味でそうなっているのではない。仕事暮らしに余儀ないモノの氾濫が収まりつかないということ。仕事とは、機械やモノを「片付ける」用事では無い、私の場合、どう散らかろうが毎日の「読み・書き・読書そして創作」が仕事。乱雑を整頓するのは年に一度二度で済ますしか無い。此の六ぢょうの書斎は、誠に温かい、暖かくも在る。くつろいで時には仕事の倚子や片隅のちいさなソファで寝入る事もある。全くの「私室」である。
2024 4/20

* 片付きようのない何もかもを しかと片付け続けて 熱い意欲で冷静に片付け続けて、この老耄の為しうる限りを見知ってやりたい。

* 五体が 粥のように崩れている心地。こんな時は、「米」の歳を投げ出し、幼少・少年の「記憶や想い出」を「食べて」凌ぐ。
2024 4/20

* 此の働いている機械、大きめの画面真下に、クッキリと鮮明な、しかし手札大とも足りない写真が一枚、立てかけてある。私の「貰われて入った養家」 京都市東山区(知恩院)新門前通り仲ノ町にあった和建築「秦家 ハタラジオ店」の表母屋から奥の離屋 藏 まで西向き全容が、幸運に恵まれ、真西側から 鮮明な写真に撮れている。その西側二階の やや大きい目のガラス窓の内向こうこそ、私が、中学生から、就職上京、秦の養家を去る日までの、まさしく「私室 住まい」であった。新門前通りから南の羲お新橋通りへ繫いだ細い抜け路地を夾んで、西側の樋口家が何故か取り払われていたので、まこと鮮明に「秦家の西向き全容が撮影できていたのだ、幸いに私が帰京の際に撮影出来ていたのだ。
その懐かしい限りの昔の秦家 ハタラジオ店の二階屋を私は、一日と欠かさず見続けて東京とか㋨保谷市下保谷の自宅で暮らしてきた、これからも暮らし続ける。

* 手札大もない小さな写真だが、幸いに実に鮮明によく撮れていて、想い出を誘う何不足もない、それが日々、私は嬉しい。「あの世」へも「連れ持って」行きたいと、それを書き置きたかった。
2024 4/23

* 抽出しの紙切れに 走り書きの歌一首を見つけた 記憶にある自身自詠の歌だ、

みづうみのうれひもなみの行くはてを
たれまつとなく光るおほうみ

辞世歌としても 遺しおく。恒平
2024 4/23

* 「生きる」とは一の煩瑣にややこしい「技術」・閉口して負けたら、お終いのようなもの。
わたくし、何ももう慌て急いで生きねばならぬ歳で無い。「悠然と南山をみ」ていて宜しいのだ。

* 大きな佛壇が、隣り西の家には在るが、日々に祀ってはいない。東の、此の住まい家の階下、十メートルとないメインストリートの廊下奥が壇に造られていて、其処に「秦」の両親のとても佳い写真を架け置き、始終 折りごとに、「お祖父ちゃん お祖母ちゃん」「お父さん おかあさん」「お父ちゃん お母ちゃん」と、呼び掛け、挨拶して、朝昼晩、真夜中にも、折りごとに暫くの間「咄」し合うている。
同じ壇には、亡き「いとしい孫」の「やす香」の愛らしい写真もあり、とり囲んで、亡き「ネコ・ノコ・黒いマーゴ」らの小像も置いてある。「やす香 やす香 やす香」と呼びかけ、猫たちとも一緒に、かならず「對話」を欠かさない。
2024 4/29

* 電灯がフッと消えたように、「ことば」から「詩」の光が擦れて行くのは、寂しいこと。「旅」体験を「ことば」に光らせるのも、尋常で無い。多くは浪費されている。
2024 4/30

* 以前に『容れ物』という一文を書いている。人類が、初めて「容れる」こと「容れ物」を発見し発明したのこそ、「文化最初の」であったろうと。
私、「容れ物」を安易に棄てられない、で、カラの筺や袋がやたら溜まる。「家屋」とは、むろん人や物の「容れ物」に他ならない。
2024 5/4

* いま私には 心安いことに、対外、外向き、に何の約束も気兼ねも無い。「老い」の一徳で、また一得一失と謂うことか。「好きにして、よろし」と謂うことか。

*「好きにして、よろし」で思い出す、
有済小学校から新制弥栄中学の少年時代、京都でも名高な「疏水」の水量を大きく長々牽き回してきて、鴨川の二條東あたりか、かなりに広い「ダムっぽい水域」が成されていた。
なぜか其処は「武徳會」と呼ばれ、京の少年・青年のおおぜいが真夏になると「入会」し、「組」「級」の階級別に、「組」のうちは水泳を指導者「教わ」り、「級」へ擧がると、「好きにして、よろし」と、広々とした水域を「自由に」游がせて呉れた。私も「好きにして、よろし」と許可され、夏休み、鍋底のような「京の暑い極み」を、「ふんどし」のまま新門前の家から武徳会へテクテクと通ったものだ。

* つまりは、今や義理立ての「たのまれ仕事」はしないし、無いと謂うこと。「好きにしやれ」の「老の坂」をわずかに上へ下へしてるのです。

* このところ 日録 重複等の混乱がある。ショがないとなかば放ってある。
2024 5/9

* 家には、妻がいて、「ふたり」のネコがいる。謂う事無し。不足なにも無い。健康でありたい。
せまい我が家には、東と西の二棟に、庭木の類いが極く尠い。が、書庫と家とのちっちゃな角地に、「隠れ蓑」一樹が、いまや書庫はおろか、二階家の大屋根を侵すまで伸びている。
この、ソレこそ猫の額ほどちっちゃな角地は、今は亡い愛猫たち(ブン、ネコ、ノコ、黒いマーゴ)の奥津城にも成っていて、「隠れ蓑」は人の膝もない小さな植木であった、それが今では背の高い高い喬木と育って、イキのいい翠・緑の葉を、まさしく「萬」と繁らせ美しく日に日に揺れ動いているのだ。
妻も私も、こんな、狭いテラスの一廓に満足し愛している。私は、とことん愛している。わたしに「墓は」要らないよ、「隠れ蓑の根もと」に、愛した「猫たちと一緒に」ただ「骨を埋めて」くれと言い置いている。その日も、もう遠くはあるまいよ。
「読み・書き・読書」は堪能してきたろう、「創作」に心残り遺すなよと自身に言い聞かせている。
2024 5/10

* この三日ほど、午後の日盛りに。小一時間ほどずつ、杖をひいて近隣を散歩している。歩ければこその老境、脚の弱りに嵌まるまいと。
メールの出し入れもともに払底して行くは知れたこと。「世の中」は、自身で創り出し働かせるより、先は無い。老境とは、ただのけぞるように受け身に煽られて済む、済ましていい、もので無い。『老境』こそは自身で「創らねば」ならない。私、八十八歳。やがては「クソ(九十)爺」の細道へと杖ひく境涯、さ、どう創るか。
2024 5/16

* 相撲に、「大須蒙」という雄々しい大らかさが失せて.「横綱」は事実上欠けて不在も同じく、「大関」達もさながらの「小」関取並み、贔屓としても励まないこと夥しい。
前人未踏どころか、今後もほぼ絶して現れまい「本場所四十五度」も幕内優勝の「白鵬(宮城野)」を、大相撲の誇りとも目標としても「樹てて」アトを追い慕うどころか、協会から「虐め出し」の悪手に陥っている見苦しさ。
「人」の居ない、貧寒な小相撲ぶりには、惘れるばかり。

* 幸いに野球には大谷ショウ平という、まこと希有かつ好感の「大スター」がいい顔を見せてくれる。
今「各界」に大谷君浪の「大存在」は在るか。歌舞伎・演劇・映画・歌謡」。
かつての「菊・吉」「團・左」「幸・仁・鴈」が見えてない。五十鈴も八重子も現れない。ひばり、ちえみも迹絶えている。
恥ずかしながら文壇にも「豪」と識られる成績の作家も、歌人・俳人・詩人も識らない、小林秀雄や中村光夫や唐木順三級の批評で唸らせる「読み手」も聞こえてこない。
2024 5/16

* わが感触では、ほぼ「私の作家人生」は、そして「人生」は、ようやく「挽歌」を以て幕を引く時節へ来ている。 まさかに自身で書いて歌うものでないと思っていた。
2024 5/20

* 保存していた、過去の発信、過去の受信の、殆どを消去した。何かを思案し覚悟してか。ただに衝動で敢行した。もう要らないと敢行した。

* 疲れた。
2024 5/22

* 三時半から独り床を起ったまま、乱雑にモノの混雑し乱雑な儘の私の身の周りを整頓し始めて、ちょっとの朝食もふくめ、午前八時半までも片付け仕事。書庫にしきりに出入りしつつ、サテ、何がどう片付いたとも謂えぬまま、二階の此処・機械の前に、八時半過ぎてやっと落ち着いた。やれやれ、何が片付いたのやら。朝から、ただ疲れた。

* 所蔵の古書は、全て祖父秦鶴吉のもちものだった。ラジオの販売と修繕・電気工事もという、昭和も早く時代に先駆けた新規の技術職へと、花街祇園の女性たち相手の貴金属や装飾品の売り手から鮮やかに身していたわが養父の秦長治郎は、ラジオ等の技術教科書以外、古書籍になど一切見向かなかった。明治二年生まれの祖父は「明治」の人、明治三十一年生まれの父は「明治」を置き去りにして行った人、だった。
四つか五つ頃にこの「秦」家へ「もらはれ子」の私「秦恒平」(戸籍の姓は、吉岡)は、明瞭に、祖父秦鶴吉遺贈・舊所蔵の古書・新書に育てられたのである。源氏物語を与謝野晶子の訳や井波文庫で余始めるより遙かはやくから、北村季吟著の注釈『湖月抄』三巻の美装本で幼かった私はもう『源氏物語』の何であるかを知識し、近世の国学者賀茂真淵の名も『古今和歌集』注解本も手にしていた。賴山陽による『神皇正統記』注釈本や『日本外史』通俗通祖急く本も本も、声を上げて読みまくっていた。
有難い事に、史や詩の漢籍も巨大な辞典・事典・年表までも、今なお、今朝のわが書庫になお居並んでいて、私はそれらに手寝触れず放って措く子ではなかった。秦の祖父には今モ感謝しきれない。
何が謂いたいか。祖父秦鶴吉はまさしく「明治の」人だったいうこと。私はその空気の悪阻諏訪家に預かっていたのだ「明治は遠くなりにけり」どころか、私を鼓舞したのは「明治」であったのだ。

* 何を、いま、私は、云いたいか。昨今の「日本近代文学」研究者と自認している人たちの論攷に「明治」の息や空気や匂いが抜けて居て、抜けかけていて、その調子のまま、平然と藤村や鷗外や漱石や、直哉や潤一郎や、芥川や川端康成らが語られろんじられていそうな危うさを憂慮するのでる。これら近代の文豪らは、明らかに根の呼吸を「明治」に学び承けている。しかも、論者らが「明治」など棚上げに「今日」の視野とじゅよとだけでろんじているのでは、それは勝手が過ぎていよう。それを私は、いま、改めて、云いたい、求めたい。
2024 5/25

* 信じられない事だけど,小説に「手」を掛けつつ書き継いでいる。急ぐより、愉しみにしている。成るか.成って行くか。アタマの中の幾つもの鈎を外し外し書き継いでいる。ああ、こういう、これだけの事をして終える人生であったんだと思い当たる。
さ、もう少し、もう少し。所詮は「読み・書き・讀書し創作」の他は出来ないのだから。
2024 6/6

* 六月には,桜桃忌、1969年、太宰治文學賞を受けたという節目がある。以来55年が流れたと。まさしく「我が道」を歩いてきた。走らなかっと思う。
2024 6/8

* しきりに 死へ歩み寄る前の「諸始末」を想うている。   このところ 念頭一の荷のように。 走り書きのメモに、
● めぐり逢ふて いつも離れて 酔ひもせで さだめと      人の醒めしかなしみ
メモに 2023 9/29 錄 と在る。何の記憶も甦らないが。

* 人間が とかく「愛憎」に苦しむとは、地獄の責め苦にも同じい。
2024 6/9

* 短歌とも謂わない、ただ「うた」が、ごくあたりまえな感じのまま、口をついて、ヒョコヒョコと出てくる。面倒なので「書き留め」もしない、イヤイヤ紙切れに走り書きしたのが、何枚も紙くず然とほうってある。いつの詠作と日付ももうまるでわからないが。

* 八つ赤くひとつが白き椿かな
(これは手洗いで、フト口をついたと覚えている。)

* 惜しげ無く花びら崩し大輪の赤い椿は地に花やげり
書いてみると オボエがある。

* 傘の寿へとぼとぼと歩み寄る吾ら日一日の景色ながめて      私らは、現今ではもう八十八の米壽。これは、八      十歳以前の呟き。

* キリがない。もう十一時近い。階下へ。
2024 6/13

* あらざらむ あすは数へで この今日を
ま面(おも)に起ちて堪へて生くべし 生きめやもいざ
(この詠、いつの歳かの 春四月二日 と記録している。)
2024 6/14

* 『光る君へ』越前でのようすが目新しくよく架空に描かれて,感じ入る。よく勉強し下調べの上に構築された物語画面にはムダが省かれていて力づよい。感心している。
「勉強」という「根」の無い「思い付きのしごと」では、所詮往昔の歴史劇など書けはせぬ。それが書けねば、いくら昨今の風俗を好き勝手用いても、紙切れのように「軽薄」で、吹けば飛ぶ。
人間の久しい歴史から深く汲み取る努力や勉強「無し」のドラマの書き手の映像は、人間,日本人の根底に学ばず、ただ手先口先で風俗を描き殴るばかり、どう組み立てても、ただ他愛ない。
『光る君へ』脚本の大石静に共感と敬意とを送る。
2024 6/14

* 午後二時半に近く。何をしてきたか。朝昼食を少しずつ、『悪霊』を数頁,アトは寝入っていた。「元気」という「気」が湧かない。此の暑さで、ときにゾクと寒けがする。
幸いに何事にも追われ襲われては居ない。ゆーぅっくりしていて少しも、もう構わないのだ、が、そういう心境にも状況にも、何十年、慣れてこなかった。人とも、はではでしく出逢う、付き合うことも,ごくごく稀な方だった。妻はべつとすれば、たいがいが、街へも独り出歩いて独り喰って帰ってきた。謂うならそれが「作家・秦恒平」のスタイルであったよ。
2024 6/15

* コレまでにも、尠くも数度は体(觀)験してきたと同様の、奇っ怪に怖い夢を一夜に二度 繰り返し観た。大きな「保津峡」のような崖の上をこわごわモノにもヒトにも脅され逃げ歩いていたかと思うと、遠路の混雑した汽車のなかでやはりモノにヒトに脅され怯えて肩をすぼめ立っていた。口々に脅され嗤われ足払いされていた。
なんと「夢見のわるい」私であることか。幼来、「定まっての安心のヨスガ」を見失っているのだろう。或いは「他」を信じない,信じにくい生来なのだろう。
深くたやすく心底信じ切れるヒトが、それでも嬉しい事に何人かは いた。「世間」でも「他人」でも無い、「身内」「眞の身内」と謂う独自の人の「受け容れ・受け取り」方が、まこと希少価値の輝きで、出来てきた。出来ていった。

* ああ,死なないで居て呉れたら、死なないで居て欲しかったと、今も追い縋るように懐かしむ人らが、尠くも十人は胸に居座って呉れて居る。「幸せ」とは、また「不幸せ」とは、そういう事,そういう意味、である。
2024 6/17

* 此の『作家・秦恒平の私語の刻』が、166巻で一息入れた『秦恒平・湖(うみ)の本』のあとを追う。巻頭にも居きったように私の『私語の刻』は「文藝の表現」をつよく意図しており、加えて、創作した「小説の新作」も効果的に工夫し「組み入れて」行く。大凡は「一ヶ月を三分する」どの分量で「秦恒平の私語の刻」にお付き合い戴く。メールを利用する、印刷して郵便では重労働に陥る。当分はなにかと「試みつつ」お届けしたい。むろん従來の儘に「無料呈上」のメールなので、お好きに処置して下さい。本然は、『私語』される「表現と内容と」に在ると、ご不要の方はお知らせ下さい。新たに「読み初め」たい方は「メール・アドレス」を御指定・ご通知下さい。決して濫用はいたしません。

* 「当分は不慣れで躓く」か知れませんが、半世紀を遙か超す「作家・編集者」新たな努力で、老耄と闘いながら、勤めてみましょう。笑って下さい。ご期待下さい。ナニ、「私語」を「お聞かせ」するだけのことです。  秦 恒平
2024 6/21

* 『日本文化』を、すこし遠慮して『京都文化』とちぢめても、その本質は「女文化』と見極めてきた。著作・著書もそれにそって『女文化の終焉』等々沢山書き遺してきた。
八十八歳 もう遠慮無く日本『文化』に化けている多彩な 日本『女』を「私語」して見極めてみてもいいのでは、と思いかけている。如何。
2024 6/23

* 俳句のことは謂えない、実作の経験にとぼしく、我が儘に読んで被疑し取捨しているが、和歌・短歌には八十年近く,打ち込んでの実作と鑑賞・批評の経験があり、容易くは譲らない。未熟な凡作をあげて和歌短歌の美質を汲み間違えている例の多さに、しばしば嘆いている。
「和歌・短歌」と謂われる「詩」は、ただ目で読んで是悲するには、琴線につたわる「音楽の微妙」がよくよく吟味され取捨され創作されていないと、まるで「散文そのままの受容」と變らない安易な鑑賞に陥って「気がつかぬ」事に成る。
駄歌の「字意」だけを汲んで、「表現の妙と不敏」とが汲めず、味わい分けられなくては、「詩歌」としての美妙は胸に落ちない。「鑑賞」の二字、は、実に容易く「読み手」の「精と雑と」に左右される。歌は、和歌・短歌の表現は、まさに「歌う」「音楽」のそれをハミ出て成る美質・藝術では無い。
まるで判ってない「歌詠み」「歌作り」たちの多さには目を覆い,耳を覆いたくなる。しかも弟子衆・子分衆を率い顔の「先生」「先導者」にまま露骨にその至らなさが見えて慨嘆してしまう。

○ 秋の田の苅穂(かりほ)の庵(いほ)の苫(とま)をあらみ    わが衣手(ころもて)は露にぬれつつ  天智天皇

上句に結晶して「あ」「の」「か」「ほ」の音妙「た」行音のの調べはみごとで、一首の歌意がそのまま「歌」「音楽」の詩と成り、自然の巧みに「成って」いる。古歌だから、きんげんだいたんかだからという区別に言い逃れる道は無く。歌詠み創るものの真摯に聴く耳こそが大事。「詩歌」は,散文では無い。
2024 6/28

* 三十三巻の『秦恒平選集』も百六十六冊の『秦恒平・湖(うみ)の本』も終結した。
向後は、私も八拾八歳 コンピュータ画面を利して『秦恒平の「私語の刻」』を、うまい「かたち」を創りながら 終焉の日まで悠々愉しみたい。何方かに聞いた、「むかしは『私語するな』と𠮟られました」と。慥かに。 しかし「私語」には含まれた發明や発見や含蓄が火花のように散りもします。自信をもって「私語の刻」を誰もが蓄えてよろしいのでは。
「沈黙は金」と押しつけられた時代は、とうに破綻破滅腐蝕しているのです。
自負と責任で「私語の刻」をわが身に豊かに蓄えましょう。

* 視力の混濁、これが命取りか。
孤独に耐えること、これが向後をしかと生き抜く力。
2024 7/2

* 明治の文が訓級や文学論には、現代文學の発展や展開への意志と視点・視線が、当然に顕著だった。大正になると、今日只今の文学の現代・現実・近未来を問う批評や批判や展開への期待が当然の論点であった。昭和の戦前・戦中は文學自立の危うさと期待が、地下水のように流れていた。
昭和から平成は、新らしい文學区の発行を刺激する面での専攻文学の評価と反省とが重い題目になった。
さて、平成末から令和近年の現代文學研究や批評は、時代の現今ないし先行きを見据えての眞に批評テハ名開発や牽引の力を持っているのだろうか。相も変わらぬ「過去の文豪」の名に凭り掛かっての「受け継ぎ論」が散点するばかりで、新人や新聞学や眞未来を移行し批評した論文・論攷にはめったに行き当たらない。こさに、「明治」錚々の文学気概への評価や研究は萎みきって、「大正ないし昭和」という「近い過去」の一二、ないし二三のもう、やや「黴の生えた文豪」の「名」に凭り掛かっての文学論で「停滞気味」に陥っているのではないか。是は謂わば悪しき派閥気味とも批判され革新さるべき、一首「半断停止」の傾向なのでは無いか。
2024 7/5

* いま読んでいる中でドストエフスキーの大作『悪霊』は、こと突き抜けて手厳しくも剛力の「文學・文藝」そのものと、舌を巻き、目を剥いて惹き込まれ愛読している。馬琴の『近世説美少年録』どバカケげて長長しくて、要は、近世日本の読本に氾濫していた漢字漢語への「ふりがな・よみがな」だけに感じ入り納得しているばかり。
西鶴、そして、ま、秋成のほか、近世日本では、近松初めの戯曲・芝居が出色。本格に次代で受け継げる小説の無かったことが逆に幸いし、西欧にも学びつつ、明治大正の諸文豪が自力で起った、起てた、のだ。鴎外、漱石、露伴、藤村、秋聲、鏡花ら。直哉、潤一郎、龍之介ら、が。その点では大戦と弾圧に屈した敗戦後日本文学は概して「瘠せて細って」妙に「皺・皺」だった。わづかな例外のほか、創作世界に豊かな照りを欠いた。昨今は識らない。
2024  7/11

* 何の記事も遺していない。出かけたのでも無い。呆然と過ごしていたか。玄関や身の周りに触れ、「片付け」たり「整え」たりしていたか。横になったり寝入ったり、「光る君へ」や「大相撲」を観たり。要は、何もしてなかったと、いうこと。
久しくも久しく「する人生」を歩いて来た。「しない」ことを、「しまう」ことを、いま「覚え」かけているの、かも。
2024 7/20

* 寝室での身辺もろもろの書籍などの整頓もし終えて、良し。謂うところの夏バテか、心身の弱りか、ま,逆らわずに、休み休み凄そうと。あれも、これも、それも、しなければという共用を自身に仕向けないようにしている。寝入りたいときは自然と寝入って宜しいと自身に許可。しかし,創作の筆は運びたい休まずに。生きるとは,私の場合一に、それです。余は,付け足し。

* 23時29分 頚周りが堅い石のよう。休もう。
2024 7/29

* 縁あって,早くから俳優座劇団ほかと親しくなった、漱石の『こころ』を劇化し上演もされた。福田恒存先生のお手引きも戴いた。仲代達矢、加藤剛、また松本幸四郎、片岡我當、中村扇雀ら大売れの男女俳優さんらとの親交・交際も、いろいろと。役者人気の「売れる・売れない」には、まこと険しい山坂のあるのも遠目に眺めてきた。どっちにも、顕著な「ワケ」が「ひと」としても絡んでいたようだ。高慢をちらつかせた「生意気」こそが悪しい見本の「売れない毒」だった。要は「バカ」なのだ。
2024 7/30

* もっと短歌を詠んでおきたいが、と思う。「文藝」の芯は、たとえ散文であれ、詩・歌と思っている。
2024 8/4

^* コロナ禍はつづき、熱中症の懼れも日々に増し、食欲も薄れて体調は低迷。こんな愚痴何の意味も無い。寝入る、酒を呑む、讀書に心身を委ねる。
メールもしない。手紙も書かない。務めて自身の「読み・書き・讀書と創作」を励ますのみ。幸いその意思は乾いていない。
2024 8/5

* いま、午前十時になろうと。朝食後に,寝床で、玄関座で、寝つづけていて、うつつ心無かった。寝てようと起きてようと現つ心無きに似た容態で,本も読まず、ただ睡魔へ手をさしのべ、、五輪にも、テレビや新聞の報道にも心身、ハキハキとは反応しない。それで済むなら、それで、と、私。
しかし、昨日知った、少年来の「励みカタキ」桑山の「嘉三(よう)ちゃん」訃報が、黒い砂のように胸の底に溜まっている。
報せてくれた森下君、達者に色んな主張や提言に、音楽の趣味に、元気にして呉れているか、そう、いて欲しい。

* 新制中学の昔、同じ一年二組で組み合った無二の友の田中勉は、あまりに若く、ほとんど自ら、海外で亡くなった。相い伴うようにわたしたちが親しみ慕ったお若かった諸先生方のお名や御顔が眼に甦る。息がつまるよ。

* 十人に九人 百人に九十余人が、天上でわたしに呼び掛ける、急がなくてもいいよ、と。それが嬉しい時も、それが切ないことも、有るなア。「身内」「眞に身内」をと、私は烈しく少年來、恋い焦がれ、待ち望んだ。出逢えもしたよ。ああ。

* 「根気」 これだ。これを投げ出さない。大事に。
2024 8/6

* かなり手を尽くしての 長いめ小説の仕上げを願っている。八十八爺 日々孤独なれども。訃に遭わでと願うのみ。
2024 8/6

○ 保谷の鴉に
如何お過ごしでしょうか。
関東は毎日のように雷雨もあるようで大変でしょう。
こちらも連日38度が続いて、立秋とも思えません。
創作が進んでいますように。
今は 鴉の{千載和歌集と平安女文化}に関するものを読んでいます。
尾張の鳶は、元気です。元気にしています。

* オウ嬉しい。「元気です。元気にしています。」
最高 「元気です。元気にしています」と。
{千載和歌集と平安女文化}は私の日本史理会の核芯と謂うに近く。熱中して考え書いていたむかしが胸に蘇ってくる。俊成・千載集 そして紫・清の源氏物語、枕草子 とが在ってこその私の唱える「平安(日本)女文化」よ。
2024 8/8

* 昭和十七年(一九四二)四月に開戦早々の京都市立「国民学校」に入学し、二十年四月四年生から当時京都府南桑田郡樫田村へ戦時疎開し、敗戦後の二十一年秋に重くも患って、もとの京都市立有済小学校五年生二学期末へ復帰し、早々、戦後を機の、初の「生徒会」「生徒大会」を提唱、立ち上げて六年生になり全校生選挙で初の「生徒会長」を勤め、翌年には戦後「六三三新制」第一回の中学へすすんで、生徒会を事実上芯で支え、三年生卒業まで「生徒会長」をつとめながら、校内に「茶道部」を起て、指導の先生が無いまま、幼来秦の叔母宗陽に習ってきたけんで部員生徒達に作法の手ほどきも指導も一人で引き受けた。
市立日吉ヶ丘高校では生徒会にはふれあわず、「雲岫」という佳い茶席のあるのを「占領」して「茶道部 雲岫會」を三年間、卒業後も暫く率い指導していた。嵯峨 嵐山 鷹峯などへ部員を連れて「野懸け」の茶も愉しんだ。教室の授業は兵器でサボっては「京都」の自然や歴史に親しみ始めた。大学出は講義を抜け出ては京都市内・郊外を「本」を読むように尋ねまわっていた。そして、妻と出会い、その学部卒を待ち、大学院を中退して「東京」へ出、本郷東大赤門前の出版社「医学書院」(金原一郎社長 長谷川泉編集長・国文学者・詩人」)に就職、小説を書き始めて第五回「太宰治文學賞」を選者満票で得、社長・編集長のアクティブな支持・支援も戴いて退社、作家・批評家として「自立」し、今日に到っている。一時期、四年間、新聞等に「名人事」と書かれ国立東京工業大学に「文學」教授として招聘され、さらに「大学院」教授として残って欲しいと望まれたが、辞退した。市販の著書は小説と批評など「百冊」に及んで、以降は私版『秦恒平・湖の本』に切り替えて「一六六巻」にまで到り、以降は、純然、私事としての「読み・書き・読書と創作」へ落ち着くこととした。
以上、「作家 秦恒平」の、「少年以降」ほぼ「著作生涯」をのみ「略述」しておいた。ウソは書いていない。
2024 8/10

* 「読み・書き・讀書と創作」の日々を一歩二歩でも「外へ跨ぎ出て」何の手助けも出来てない、私。ひっこんでいるのが「爺い」の立つ瀬であるか。
久しく忘れているような「短歌」世界へ思い入れるか、捨てがたい慨嘆と希望とを。いやいや。何が いやいや、か。
2024 8/13

* 浅い夢見の夜明けだった。

吾(あ)がいのち 吾が歩み あな幾十歳(いくととせ)
佇むことも 無くして あはれ
ありし人も 亡くて 吾(あ)が名を 呼ぶと聞く
夢にも馳せめ 醒めざらましを
人の世は あまた「座席」に影も無い
空ッぽのままの 雑踏 の夢ぞ
命といふ いと細い一筋しかもたぬ
この「賜り」を 賢(かし)こしといはでや

* 字を大きくし、眼を労るしか、ない。

* わたしは「一年」という目算と覚悟でおり、妻とも、「あと」のとで、段々に「深切」に話し合い初めている。
わりと長く書き継いでいる新作の小説も 先ハ未だ だけど熟してきている。
五輪が静まり、ま、テレヒの前へは『光る君へ』ぐらいしか坐らない。読み継ぐ本は、当分のうち、大変な「長編」作を三作だけに絞らざるを得ない。三作が三作とも かけ替えなく、優秀。満足。
2024 8/14

* 機械、此のパソコンが、何やら 決定的に「潰れ」ようとしている。ひとつしくじれば、収蔵の然記事・記載が滅失しかねない。々困っても,今や私はワケ判らずとも,何もかも自身野手さぐりで、かき混ぜながら脱出の歩道をテテ背探り脚にまかせるしか無い。遣ってみる、しか無い。

* 大暴風雨の東北冲から上陸かといわれて、都北・下保谷でも烈しく風雨のるつぼに在る。
仕方が無い,わたしは「信じられない咄だが」「創作」と謂いながら妄想を吾と吾が指先に命じキイを叩き続けている。創作とは「酔狂」なのである。
2024 8/15

○ 秦先生 「私語の刻」お送りいただき、ありがとうございました。
連日の猛暑に負けて 半病人の情けないありさま。今夏の暑さにはほとほとまいりました。
昨日の全国一番の高温40度は、美濃市 でした。ごく近くです。こちらもほぼ毎日、37、8度台が続き、睡眠不足も相俟って、ひたすら部屋にこもってボンヤリしているばかり。
昨夜の送り火は、偶然TVで観ることができました。
もう何年、いえ、何十年前になるか、人波のなかで眺めた京都の夜を思い出しました。
「紫式部日記」と「和泉式部日記」、先生はどちらがお好きでしょうか?

* 同じく日記と謂うても、「紫」は自覚に満たされた述懐・批評 「和泉」は創作にちかい強かに濃厚な表白。ともに凄みを秘めた自意識の所産、感嘆を惜しまない。感筆致に甲乙無く、比べ難い。人間的な幅から女性として眺めるとき、紫式部は、やはり「ごっつい。大きい」と感じています。
2024 8/17

* パソコンを自分・秦恒平の記録・記事にするのを已めてはどうか、うんと手間が省けると気づいているのだが。「作家」根性で、どうしても「書いて、人さまに呈する」という、あまり理も利も無い意向にひっくくられている、よけいなご苦労ではないか。

* 新聞は、もう三十年来、むしろつとめて「手にも執らない、読まない」でいる。一つには、視力の衰弱。一つには,邪魔くさい。テレビの「国際ニュース」にだけ,出逢えば、向き合うている。国内のことは、世間ばなしや、噂で聞こえるだけで、足るとしている。減って行くばかりの精力はただ「読み・書き・讀書と創作」のために。
コロナでもう四年も街へ「食いにも」「観にも」出てない。「美食への欲」は有るのだが。

* 寝入ってて、ふと目覚めて午前十時四十五分。朦朧の老人とは気楽なモノよ。強いてのツトメの何も無い。「これ」は多年の努力で蓄えた「命の資産」か。しかも,誰に強いられるで無く、したい、つづけたい「コト」も心得、すぐにも手が付く。
難敵は「機械クン」で。時に、どころか、しばしば手に終えぬ。愚痴は、目下、コレ。
2024 8/21

* 平和 それは 国王や大統領や大臣の所有でなく、人間や生きもののモノです。

* 「読み・夏期・讀書と創作」を活かし働かしているのは「機械」では無い。「私」。見失ってはならない。
2024 8/21

* 至福の絶境、懐かしい熱い想い出に浸って、まこと生き生き「夢」見ていた。
人生八十八、なお「夢」に見るか、ああ、と励まされて嬉しく 耀く心地した。

老熟など望まない、老いの春を たとえ夢にも楽しく歩み眺めたい。下記の想いとも倶に。

随感 随詠

吾(あ)がいのち 吾が歩み あな幾十歳(い くととせ)佇むことも 無くして あはれ

ありし人も 亡くて 吾(あ)が名を 呼ぶ  と聞く 夢にも馳せめ 醒めざらましを

人の世は あまた「座席」に影も無い 空ッ ぽのままの 雑踏 の夢ぞ

命といふ いと細い一筋しかもたぬ この「賜 り」を 賢(かし)こしと謂はでや

あなといひ ひしと抱かせつ 草山の 夕告 げ鳥の こゑのさびしさ

茂りあふ 萬の靑葉の かくれ蓑 な揺りそ 揺りそ 連れの ひよどり

世の仲を かしこみ祭れ 連れ添ひの さだめ承け 會(え)て 六(む)そ五つ十とせ

* 夢の余韻の 生ける心地に被さってくる。「生」とは「幾程」のことであるのか。
2024 9/7

* 今朝の 目覚め前に見ていた「夢」がまざまざと残っていて、懐かしいような 怕いような情動に揺すられていた。
いま、リアルの世界に共感も感銘も薄く、ゆすられるような感銘は 結局「読み」からの刺激に拠る。

* 四十八冊のまこと克明にちからづよい漢文の叙事読みついでいる『参考源平盛衰記」第三十三冊では、専ら「木曾義仲」に関わる生き生きとした筆跡にただよう「もののふ」の「もののあはれ」に しみじみ惹き入られて居る。女ながら凜然と勇猛果敢な「巴」も美しく描きだされ、私は 昔から暴れん坊の儘に寂しみを身に抱いた『義仲』物語を 信愛し親愛てきた。
通った京都市立有済国民学校・小学校の校庭には「義仲愛妃」の一人の墓が、枝を張って長け高い橡の大樹の根方に鎮まっていたののを、昭和十七年四月のの「入学式」のひから見知ってきた。
私は、どっちかと謂えば赤旗の平家贔屓の方、源氏では義家や頼朝よりものの哀れの為朝や義経や義仲が贔屓の少年だった。

* ドラマでは『光る君へ』 本では『参考源平盛衰記』 そしていま、ドストエフスキーの『悪霊』と、悲愴のスペクタクル『女王陛下のユリシーズ號』に ひたと向き合うている。満足している。

* 今朝見ていた「夢」の泉は、この、私日録の表紙を飾っている、アイズビリの描いた 美しくも力ある仰向きの線描「裸婦」ではあるまいか。
私、昔から、このアイズビリに力づよく心惹かれてきた。
2024 9/7

* わたしは、人前では唱いたくないが、ひとりではショッチュウ何かしら 聲は無くも、くちずさむも、唱ってることが多い。新門前の秦家に「もらはれ」たころ、近所に友だちが出来なくて、それで口ずさみの独り歌に親しんだ。
以下、かなりキザに想われかねないが、本郷の医学書院に就職して直ぐ、労組の簡素な新聞様のモノに、「新入社員は「入社の感想」を書くのだと、高飛車に強いられた。出版社の社員誌に「作文」などしたくない。
で、これだけを書いて「係りサン」に手渡した。「はるは名のみの かぜの寒さや」と。
先輩社員の「係りサン」はふざけるなと怒り、わたしは黙っていた。「たった、そのまま」が私の署名で活字に組まれた。
笑われた、嗤われた、が、当時の「編集長」は、著名な国文学者で詩人の「長谷川泉さん」で、若い管理職社員を怒らせていたわたしの「投稿」を、即座に、「春は名のみの風の寒さや」に続いた「渓の鶯うたはおもへど 時にあらずと声もたてず」まで、識られた「唱歌」の儘に読み摂って下さり、金原一郎社長も「心よい」と喜んで下さった。なつかしく、今も、うれしい。
「歌」が好きである。
親しく願っているエッセイスト宗内敦さんの文庫本『歌は心の帰り船』を手近に置いている。
2024 9/12

* 生きて行くのに、より強固な意欲と健康がぜひ必要になってきた。妻迪子の「存在と健勝」の大切も。どう老いても二人で生きたい,二人で死ぬまでは。
2024 9/14

* 娘・朝日子 息子・建日子が。今のうち、父の遺すこれら「私語」に 目を留めていて呉れますように。
これ以外に遺す遺産は、創作、批評、エッセイ、日記・私語、そして狭い土地・家屋・書庫と書籍等のほかには、現金も証券類も ナーンにも呆れるほど「無い」からね。
2024 9/24

* 私には、これまでに大判函入り33巻、美装の『秦恒平選集』があり、さらに『秦 恒平・湖(うみ)の本』全166巻が在り、各社で出版販売の「単行書・新書・文庫本等々」が、100冊余在る。これほどの著作本を数多く遺してきた近代日本の純文学・文藝・批評・評論・エッセイの「作者・作家」は、たぶん皆無かと想われる。そして、いまなお新しい創作や執筆 さらに莫大量の『秦恒平・私語の刻』を、あくまでも「文学」「文藝」を自覚して、コンピュータに、日々、眞実・眞剣に生真面目に遺し続けている。私の「生きる」である。
あれは高校生より少し前ででも在ったか、黒澤明監督初期の名作映画『生きる』に胸のわれるほど感動したおもいでがあり、「生きる」一語は以来特別な意味で私に宿り続けてきた。
2024 9/30

* 睡り浅く、夢も見ず、目覚めやすい。体調不安 頚まわり硬い。視力不安、讀書も負担。
こんな寝床では、大概、「幼来近所の遊び仲間から,学校時代の友だちを年度を追い、教室や運動場へ帰り、さらには就職して、作家と成って、と、当時当時、知友関心の名前を、なかば夢寐にさまよいながら拾って拾っている。心地、心持ちの安定に効果あり、またやの睡眠へと滑り落ちて行ける。
男女比は、女子・女性の方が圧倒的に數多いのは、育ちが京都、それも川東祇園花街に「至近」とも「その中」とも謂え、加えて、一つ家の中で茶の湯・いけ花を教えた「叔母つる(生け花・御幸遠州流・玉月)(茶の湯・裏千家・宗陽)の稽古場の華やぎからも、自然当然ではなかったか。私も新制中学三年の内に裏千家で茶名「宗遠」を許されていた。
あえて無茶ぶりで謂うなら、少年の昔むかしから段々に積み上げた感懐と理會は「男は嫌い・女ばか」と成る。この「嫌い・ばか」が占め持った「含蓄」は、ほとんど哲学を為し成しているだろうよ。記憶に在る男女友数々の苗字と名前を書き出してみるか、と、想っていたりする。自然当然に女名前が男のそれの十倍をらくに超して余るだろう。
寝そびれて、未だ真夜中四時の、色よい雑念・私語の刻、で、ござるよ。
2024 10/4

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