日本語にっぽん事情 (湖の本エッセイ第21巻・2000年12月1日刊)
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日本語にっぽん事情 目次
日本語で書くこと・話すこと……………………………5
日本語のもどかしさ 京ことばと日本語・古典語
女文化と日本語 日本語で、書くこと・読むこと
いろは日本誌………………………………………………55
春・口上/い・今/ろ・論/は・箔/に・西/ほ・本/へ・変/と・友/ち・珍/り・利/ぬ・沼/る・類/を・男/
夏・閑話休題/わ・枠/か・株/よ・夜/た・為/れ・列/そ・損/つ・次/ね・猫/な・何/ら・埒/む・胸/
秋・閑話休題/う・魚/ゐ・委/の・野/お・音/く・癖/や・役/ま・万/け・権/ふ・不/こ・公/え・演/て・敵/
冬・閑話休題/あ・足/さ・差/き・機/ゆ・油/め・迷/み・未/し・質/ゑ・絵/ひ・費/も・門/せ・節/す・数/ん・?
日本語で「読む」ということ ―春琴と佐助―…………101
再び日本語で「読む」ということ ―名作の戯れ―……125
日本語にっぽん事情 あとがき
電子時代の作家の出版 …………………………159
闇に言い置く………
私語の刻……… 装画 城 景都
湖の本の事…… 表紙 印刻 井口哲郎
装幀 堤 彧子
日本語で「書く」こと「話す」こと
「NHKラジオ」一九九三(平成五)年二月七・十四・二十一・二十八日放送
日本語のもどかしさ
――言葉というのは、便利なようで、また、もどかしく思うときもありますが。
ありますね、あり過ぎると言いたいくらいです。言葉や文字を用いて仕事――小説を書いたり、エッセイを書いたりしていますでしょ、わたしの場合。そういう生活をしていますと、一方で、言葉や文字への信頼がなくては済まないのは無論ですが、もう一方では、逆に言葉や文字への不信――と申してはキツ過ぎましょうが、不十分感といいましょうか、言葉や文字で、なにもかも言いおおせるものではないといった実感、ないし断念、つまり諦めのようなものに、しばしば囚われます。
たとえば今ここにですね、嚠喨(りゅうりょう)として笛の音が流れているとしますね。その音色を、言葉と文字とで明確に言い尽くすことは、結局のところ不可能にちかい。説明に説明を重ねてみましても、それは、お日さまを背中に負いながら自分の影を踏もうと走るようなことになる。子供の頃に、そんな影踏みの独り遊びをして走りまわった思い出がありますが、追っても追っても追いつけない。文章や会話で、なにかを説明し尽くそうとしますと、この、自分の影が、自分で踏めないのと似たもどかしい不十分感に囚われますね。
だからこそ、そこに、説明ではなくて「表現」という工夫が必要になる。さっき「嚠喨として」などと言いましたが、そういう形容も一方法ですが、その「嚠喨として」だっていわば多年人が積み上げてきた、要するに言い古された言語的な了解によりかかっていて、了解可能な人になら、意味なり雰囲気なり、察知されるにいたしましても、とうてい現実の笛の音色や調子やその面白さと、明確には一致するものでは、ない。つまり言葉や文字と、事実と、の間に隙間ができている。できていて当然というしかない事情が、ある。
音もそうなら色もそうです。赤いリンゴや黄色いみかんの、その赤なり黄色なりの微妙さを明確に言いおおせる言葉も文字も、われわれは、もっていない。そこで、出来るかぎり接近した表現をなんとか工夫しなければならない。文藝という藝とは、まずは、そういう不十分感との、じれったいほど苦しい葛藤の藝でもありましょうね。
――明確に書くということは、すると……。
出来ないというのが、前提として、あると思います。
外国語のことは、この際、言いませんが。言えないんですが。
こと日本語にかぎって言えば、物・事・人の関係や輪郭を、日本語で明確に書こう、ないし書けると過信することは、大きな自己矛盾を犯すことになるだろうと、わたしは、考えてきました。それよりは適切に表現して真意を伝えなければならない。伝えるのは真意であって、極端に言うと、言語や文章そのものでは、ないんです。伝える工夫こそが大事なんです。そういう考えの根本には、所詮言い尽くせるものではないという認識があります。これを積極的に申せば、「言いおほせて何かある」という考えです。言葉には、相互の了解や納得を容れる、また容れなくては成り立たないという本来の性質が備わっていて、言葉だけで万事露骨に言い尽くせては、むしろ困る。そんなことでは人間の人間たる妙味が薄れてしまう、と、そういう考え方へ行き着くような言語なんでしょうね、日本語というのは。
――そこを、もう少し具体的にうかがってみたいですね。
さしさわりが有ってはいけないので、商品の名前は言いませんが、或る、テレビ・コマーシャルで、最近まで放映されていた例を引かせてください。有名な美人女優さんがお母さん役で、十ほどの息子のところへ可愛らしいガールフレンドが遊びに来ているんですね。お母さんが、おやつだかおひるだかを二人の所へ運んでくれて、行ってしまう。その後姿も消えないうちに、少女は少年の耳もとへ囁く。「お母様ってお美しい方ね。あたしたち、うまく、やっていけると思うわ」と。この通りの言葉であったかどうか、しかし、まず、この通りでした。にやりと笑えましたね。十歳になるならずの二人ですが、ここで女の子の口にしたことは、つまり求婚。プロポーズです。それも「お美しい」お姑さんとの仲に対等の自信をみせた、「大丈夫。だから結婚しましょう」という一種の「ご夫婦ごっこ」です、疑いも無く。
けれど、少女の口にしている言葉のなかに、結婚・求婚・プロポーズと直接繋がる言葉は一言も入っていない。入っていないけれど、意図・真意は、きちんと伝わってくる。
語られた言葉の表面の意味だけがすべてなら、この際の少女の言葉は支離滅裂です。ところが支離滅裂とは聞こえなくて、聞く人をして思わず笑わせる効果があり、その効果は、意図した意味が我々にも分かればこそ、あがっていると言えるわけです。
――よそごとを言っているようで、真意はちゃんと伝えているというわけですね。
適切にね。けれど、それが本当に適切である為には、やはり先立つ人間理解といいましょうか、暮らしのなかで蓄えてきた判断力が、いろんな了解や納得の基盤を成している必要がありますね。言語体験というだけじゃ、ない。言語はむろん大事に用いますけれど、もっと、いわば肌身に感じて、日々を、人とともに、生きて暮らしている体験、生活体験、が、そこに、基盤としても規範としてもしっかり働いています。生活体験が希薄だと、例えばさっきのコマーシャルの言葉も読み取れない。事実、少女の方はああ言ったものの、男の子の方でちゃんと分かったのか、どうか。しかし広告自体は大人の購買力をあてこんでいて、大人をくすりとやらせれば、それで十分なんでしょうね。
――いまどきの子供たちなら、理解するでしょうね。
そりゃ、そうだ。十分にね。そういえば、よく言いますね、「話せば分かる」と。しかし本当に何でも「話せば分かる」と言い切れるためには、「話す」「聞く」より以前に、その基盤としての生活体験が、やっぱり大きくものを言う。ものを言うのは、言葉や文字だけでは無いという理解が、大事ですね。
――目は、口ほどに、ものを言うともいいますね。
目だけでなく、からだは、その全部でものを言いますよ。
――どういうことですか。
人のからだは幾つもの部位に分けられ、それぞれに名前がついていますよね。そして、その部位に、いろんな言葉がくっついていて、もともとの部位としての意味を越えた言葉になる。わたしはそれを『からだ言葉』と名付けまして、以前にそれを論じた、辞書も付けた本(筑摩書房『からだ言葉の本』昭和五九年)を書いたことがあるのです。いまさっき出た「目にもの言わせる」もそうです、「背に腹はかえられぬ」もそうです。頭痛の意味の「頭が痛い」はからだ言葉じゃない、が、心痛の意味の「頭が痛い」はりっぱなからだ言葉です。骨折の意味の「骨を折る」はからだ言葉ではないが、苦労する意味の「骨を折る」はからだ言葉ですね。
こうした『からだ言葉』は、わたしの知るかぎり足の裏以外にはことごとく出来ています。掌には「掌をかえす」というのがありますよね。
こうした『からだ言葉』のなかには、ものを言うからだの表現がいっぱいです。例えば「頬笑む」は、いまでこそ微笑と書いて優しげですが、もともとは頬っぺただけ動かして笑う、つまり表向き失礼にならない慎んだ笑い。批評的になればむしろ冷笑ですからね。下から上をみて、声なく笑って、ないし嘲笑っているのが「頬笑む」です。大いに「頬」がものを言っています。その調子で申しますと、「舌打ち」「爪はじき」「肩をいからす」「首を傾(かし)げる」「顔を背ける」「鼻であしらう」「唇(くち)を曲げる」「腹を立てる」「及び腰」「お手上げ」「歯むかう」「眉をひそめる」「肘鉄」「膝まづく」等々、みな、からだがものを言うことを意味のある言葉にした例です。「手」に熟した『からだ言葉』だけでも千以上もある。唾や涙や汗や血にまで及べば、優に一冊の辞書ができる。
われわれは、こういうふうに、「ことば」で足りなかったところを、例えば「からだ」を借りて、ものを言ってきたんですよ。
――なるほどねえ。つまり、それは、なんでしょうか…もともと日本語としての語彙の絶対数が足りなかった、といった事情があったのでしょうか。
そういう事も一つ、あるのは確かですね。固有の語彙が比較的少ない。そのために、一つの言葉にあちこちから色んな意義をおっかぶせるという成行きになっていますよね。例えば、咲く花も、顔のまんなかの鼻も、端っこの意味の端も、みな同じ「はな」でしょう。仕方なく漢字を借りて書き分けるんですが、その結果として、ヒアリング、耳で聞いただけでは、正確な文字にならない。正書法、聞いて正しく書く方法が、極端に成り立たない。同音異義語が多すぎるんです。ついでに言いますと、字を見て正しく読む方法、正読法、も成り立たない。字をみて、さて、じゅんこサンだか、すみこサンだか、本人に確かめてみないと分からない。つのだサンか、かくたサンか、すみたサンかも、読み分けられない。
むろん、ひらかなだけを使っていれば、読み書きは解決しますけれども、千何百年来、培ってきた日本語の表現能力は、ひょっとして壊滅しちゃうかも知れませんしね。まして今日では、漢字だけでなく、カタカナやじかにアルファベットもつかって外来語さえも、日常に駆使しているような暮らしですからね。へんな話ですが、セックスとかヘアとか、これを日本語で口にしたり書いたりは、まだちょっと、しにくい。適切で簡潔な言い方も無い。世界が狭くなり交際が密になれば当然生じるはずのことが生じているだけの話といえば、その通りなんですが、こと「明確」にという一事から評価しますと、相変わりなく表記的にも文法的にも物言い自体にも、「不明確」なところが特徴的にのこっている。
――それでいて、われわれ、そうは、意思疏通を妨げられていない。つまり、分かり合っている…。
そうなんですね。むろん、日本人同士では、ね。会話のなかで同音異義語の、意味を取り違えてしまう危険性はあり、事実取り違えたり、よく、しています。つまり誤解という迷惑が生じます。
が、また思わぬ笑いや、くすぐりも、そこに生まれます。落語や漫才はそれを笑いを誘ういい武器にしていますでしょう。
そして、ここが要所ですが、つまり、誤解は誤解でも、通底した、下に通じた或る語感に支えられて、日本人同士ですと、実は、さほどの大事に至らない場合のほうが、結局は多いんです。少々の誤差や誤解はのりこえ、真意らしきものが比較的無難に伝わって行く。それどころか言葉のやりとりには、いっそ誤解や行き違いの有るのが自然なんだという、そんな了解や納得のうえに日本語の生活が成り立っている、とも、言い切れるくらいなんですね。
そうでしょう。あんまり言葉の一つ一つを詮議しながらでは、スムーズな対話は出来ませんし、言葉尻の詮索が過ぎると、かえって円満な付き合いがしにくい。そういう習いが、とうに性になっているんです。だから、「言いおほせて何かある」なんて態度も、互いに許しあって来た。それが極度に達すると、分かる相手になら、いっそ言わなくても分かる。分からぬ相手にはどう言っても、何度言っても分からない。つまり言葉に頼り過ぎてはいけないのだという程の、ずいぶんと抑制された感じの言語生活に、価値というか、徳というか、値打ちをさえ認めて来ました。「沈黙は金」で「雄弁は銀」だというアレですね。
――わるくすると、「黙れ」とか、「問答無用」ってことにも、なりますね。
おっしゃる通りです。言葉による論議を押え込んでしまう。日常の挨拶にもそれが出てきますよ、そう…、よく、われわれは「無論」とか「勿論」とか、言うじゃないですか。それから又、「返す言葉もない」とか「申し訳ない」とか「言葉に詰まる」「言葉に窮する」とか、ひどいのになると、今おっしゃった「問答無用」とか「言語道断」とか、要するに、みな、言葉の能力を万全には、絶対的には、信じ切っていないという挨拶ですよね。言葉に頼ってはいけないというか、言葉だけを相手にはしない・するな、というか……。
――愛していると口に出して言うよりも、じっと、目と目をみあわす……「万感胸にせまって」という場合、なまじな言葉よりも、ということはありましょうね。
こんな話がありますよ。
あの枕草子のなかに出ていますが、清少納言が何かのことで、ちょっとスネましてね、里へ帰ったまま皇后さんのもとへ、宮仕えに出てこないんですよ。そこへ皇后さんの手紙が来ましてね、見ると一言だけ書いてある「言はで思ふぞ」と。口には出して言わないが、心のうちでそなたを大事に思っていますよと。これでご機嫌をなおすんです。
「口先だけの人」というのは、随分な非難ですよ。「口だけなら何とでも言える」などとも言いますよね。思えば根の深い不信感と言いましょうか、不如意感が、言葉に対し培われている。もとよりそれも相手の人柄によるのですけれども、それでも、「相手の言葉は疑ってかかる」「言葉に惑わされてはならない」などと、もう、常日頃から言ったり思ったりしてきた事実は、大昔も今も、ほんとのところ、そう変わっていない。
――そういう言語環境の中での、日本の文学、なんですね――小説も詩歌もエッセイも。
こういうことは言えるだろうと思いますよ。「言はで思ふぞ」とは、また別の言い方をすれば、「書かで言ふぞ」と。言いたいことはわざと書かない。が、そこをちゃんと汲み取って欲しいと。「行間を読む」とか「闇に言い置く」とか、そういう持ってまわった、それこそ分かる者だけが分かる、分からない者には分からないという、難儀な表現手段で、いっそ相手を「心見る」ようなことをやるわけです。
これも、根のところに、要するに言葉、表面にあらわれる言葉を、全面的に信じてはならないといった、不信感・不十分感、言葉ですべては伝えられない、いやもっと強調すれば、伝えてはいけないんだ、とするほどの不如意感が、しっかり影響していると思いますね。
例えば光源氏の頃の恋文なんてものは、誰から誰へと、途中、人の目に触れて分かってしまうようでは、心用意が足りない。まさしく、真意は、ほのめかして、言い尽くそうともしないし、ましてや明確に書こう・書けるなどとは考えない。
日本の文学をながく代表して来た和歌の妙味は、そういう恋の場面を通じて洗練されましたから、暖昧といえば、あんなに曖昧な詩的表現はない。一種の暗号みたいなものです。「立ち別れ稲葉の山の峰に生ふる松(待つ)とし聞かば今帰り来む」なんてのも、隠し絵というか隠し文字というか、景色のなかに紛れて、「待つ(松)とさえおっしゃって下されば、すぐにも、あなたのところへ帰って来ましょうよ」と、真意を伝えている。不明確の極みとも、十分明確とも言えますけれども、要するに、分かる者にはちゃんと分かる。が、分からん者には、まるで分かりませんよね。
しかし、だれもそれ自体に不足は言わなかった。むしろ、分かるのが教養であり素養であるとされた。
それも文化ですが、やや特異な文化には相違ない。その特異さが、何に、起因するかとなれば、これはもう、日本語にというしか、ない。そうでしょう。
――俳句なども、その意味では、不明確そのものを明確な特徴にしていますね。
そう思いますね。俳句は和歌よりも、もっと直観的な参加を期待する表現力ですものね。もし、明確に、というなら、あんなに不明確な言語表現は無い。取りようで、幾重にも意味が動く。動くこと自体をさえ、詩的効果にしている。俳句や和歌は、その意味で、もっとも翻訳して読者に強いてはならない、翻訳して意味を一つに限定してはいけない藝術だと思ってきました。翻訳自体が多くのなかの一つの解釈になってしまい、それで読みを決めつけてしまいますからね。「岩鼻やここにもひとり月の客」という句の「ひとり」を作者は他人のつもりで作り、先生の芭蕉は己のつもりで読む方が優れるとした有名な話もあります。
何にしても、俳句は、その簡潔と複雑とにおいて、もっとも日本文学の一面を代表しえていると、和歌以上に、いまや国際的にも認知されているわけですよね。
――俳句こそ、「言いおほせて何かある」という……。
そうです。その点、昨今の俳句に、わたしは、ときどき不満を禁じえないときがありますね。
「言いおおせよう」としてしまう。十七音にぎゅうぎゅう詰めに多くを詰め込みすぎた俳句が多すぎますよ、最近は。
ま、それは措(お)きますが、日本語の伝達能力がけっして至れり尽くせりではないから、では、だから文学・文藝も、不十分で不如意な作品しか生まないかとなると、これまた、けっして、そう言ったわけのものでは、ない。なかった。それどころか、逆に、そうした日本語の素質に、素直に添いながら、その表現に、特色を出してきた。源氏物語のような、仰ぎみる達成も遂げてきています。
詩歌も、特殊ではあるが、量・質ともに、世界的にも、古くから藝術的に誇らしい成熟をみせていました。
そして、その特徴はといえば、端的に、物語、和歌、俳譜・連歌も、演劇言語も、歌謡も、また随筆や批評も、日常の手紙なども、すくなくも明治以前までの文学言語は、むしろ、物・事・人の関係や輪郭を、ことさらに、ぼかし、かすめとり、互いに滲(にじ)み合せる風に表現していた。明確に言えるとも、言おうとも、認めず、また努めもしていなかった。もっぱら、余情や、残心や、含蓄に、ものを言わせていました。それで、それなりの、達成を遂げている。他国の古典にくらべて、だから価値が低いなんてことは、全く、無い。日本の古典とは、つまり、そういう言語表現であったのですよね。
――でも、近代・現代ともなりますと、事情は、変わってきた、それも、大きく変わってきたんじゃ、ありませんか。
変わろうと、せざるを、えなかったと、そう、言えるでしょうね。そして、ほんとうに変わったか、変わりえたか、という、評価の問題が、次の世紀へと、持ち越されて行く気がします。
近代に入りますと、そうした日本語本来の素質に背いてでも、叙述に、新しみを強いて生み出すか・出せるのか、という課題が、作者も、読者をも捉えて来ます。近代文学も現代文学も、ともあれ、苦闘したんです。二葉亭四迷以来、自然主義文学や私小説・心境小説や新感覚派などの散文の試みも、新体詩や新傾向俳句の試みも、口語詩や新短歌の試みも、演劇言語にせよ、唱歌や歌謡曲などの作詞においても、思えば悪戦苦闘でした。
一言で尽くせば、日本語で「明確に」どこまで書けるかの、それは挑戦でした。下敷きには、言わず語らず、西洋の藝術・文学の歴史的な摂取と体験とが、いわば規範的に介在したろうと思われます。
なかでも西洋語の、日本語への「翻訳」という文化的に不可欠な事業が、とくにこうした挑戦には、実際的に関わっていたと思われます。その結果「翻訳調」の文章というのも否応なく現れて、その長所と短所とが、近代・現代の文学の達成に、さまざまな臭い付けをしたと思われる。知的でハイカラに感じた人もあり、イヤミに未熟なものだと非難する声も当然起こりました。皮肉にも西洋語に通じた人ほど、日本語での表現に、一種の板ばさみの苦痛を感じられた様子です。言葉の素質がちがうのですから、その間(かん)の認識に欠けたところが有れば有るほど、へたをすればギクシャクする道理なんですね。
昨今でも、明確に明確にと意識して書かれている作品の、不出来なものや、肩肘を張ったものほど、固い、臭い、翻訳調の、ファジーなまがいものが多い。ノリのききすぎたシャツを、バリバリいわせながら着込んだような違和感が、読んでいて、のこります。
来週は、この、日本語の素質という点を、また、別の角度から見直したいですね。
京ことばと日本語・古典語
――京都生まれなんですね。育たれたのも京都市内ですか。
そうなんです。京生まれの京育ちで。大学を出てから、就職のために東京へ出ましてね。以来、ずうっと東京で暮らしていますから、長さでは、東京での方が、うんと長くなりました。『清経入水』で第五回太宰治賞をもらい、作家として、ともあれ世に出たのが、昭和四十四年でしたから、京都にいた期間と作家生活のこれまでとが、ちょうど同じぐらいですね。ですが、書く方の仕事のほとんどが、京都ないしは琵琶湖のある近江滋賀に根をおいていますんで、ま、徹して「京都」の作家なんでしょうね。
――けれど、お住まいは東京ですね。てっきり京都にお住まいだと思っている人が、多いんじゃ、ありませんか。
そうなんです。会合なんぞで、東京へは、お仕事で見えましたか、とか、いつ京都へお帰りですかとか、聞かれてしまうことがよくあります。その一方京都へ帰ると、おまえは東京人。東京では、あんたは京都人。その上に、いい組合せは「東男に京女」と来るでしょう。東京暮らしの京男というのは、幾重(いくえ)にも、分(ぶ)が悪いんですよ。
でも、わたしくらい京都を書いていて、東京暮らしの方が都合のいいことも、あるんです。なまじ京都で暮らしていませんからね、離れて見ていますから、ずっぷりと京都に漬かっている人よりも、たしかに見える、というところが有ります。贔屓のひき倒しにならず、かなり批評的に、さめて、距離をおいて京都が見られる。燈台もと暗し、の逆でね。
――京都というと、歴史・文化・自然はもとよりですが、印象的なのが、京ことばですね。ものやわらかで、ふうわりとした……。
なかなか、あれが、くせものでしてね。
東京で暮らす京男は分がわるいと、さっき、言いましたが、それは、ま、冗談としましても、三十何年も東京で暮らしていますとね、概して、こういうことは言えますね。
つまり京都の、さっきおっしゃった歴史や文化や自然。これの人気は、高い。高くても当然といえる程で、憧れをもっている人が、全国的にみて、多い。が、ちょっとひがんで言いますと、なんだかそれと反比例したみたいに、京都人、に対しては、一般に、点が辛い。ま、噂では…と言っておきますけれども。
――噂にしても、でも、何故ですか。
噂では、こうです。京都の人は、腹が知れない。言うていることの、真意のほどが汲みにくく、いつも、こう、はぐらかされているような、わるくすると、だまされているような気がする、と。ま、やや面白づくに言えば…ですけれどね。でも、そういう定説のようなものが出来ているのは、なんとなく、事実です。
なんで、そういう評判が立つか。それはまあ、京育ちの者として、気になりますよね。で、慎重にその辺を見ていますと、さっき、おっしゃったでしょう、京ことばは、ものやわらかで、ふうわりとした…と。
どうも、その「京ことば」ないし、それに由来する態度や発想に、ひどく、他国の人たちを、苛立たせる何かがあるんですね。事実、有るんだと、わたしも、思いますよ。分からなくは、ない。言葉は、態度や判断や発想の、たしかに根になりますからね。
で、それについては、また、あとで、もっと、触れて行かざるをえませんけれども、その前に、ぜひ一つ……。
こう世界が狭くなりますと、日本人も、しきりに、海外へ海外へと出かけて行きます。各界の力のある人たちも行くし、一般の、老いも若きも、男も女も出かけて行く。そしておかしいことに、この際京都の者からいえば、笑止なことに、ちょうど日本国内で京都人が言われているのと、ほぼ、そっくり、よその国の人に、言われて来ます。日本人は、腹が知れない。言うていることの、真意のほどが汲みにくい。いつも、はぐらかされているような、わるくすると、だまされているような気がする……と言ったぐあいに、やられて帰ってくることが、けっこう多いンです。政治家も実業家も、学者でも。
ま、これも、やや誇張して言うてはいるんですけれども、たしかに、そんな気味はある。濃厚に、ある。べつに、ざまあみろ、なんて言いませんけどね。
それよりも、それは何故なのか。何故、そんな皮肉なことになるのか。
――日本語の、せい…でしょうか。ちょっと、気になるところですね。
そうなんです。おっしゃるように、よくよく思案してみるに、これまた、「日本語」に根ざした日本人の発想や、態度に、原因が、ありそうなんですね。外国で、日本語が話されるからというんじゃ、ない。日本語を話さなくても、日本人の発想や態度を、判断や認識を、支えているのは「日本語」なんです。「日本語的なもの」と言う方が、より正確であるにしても、です。
どうも、も一つ、右するとも、左するとも、外国の人の、目に、思いに、はっきりしない。こっちは、はっきりしている気でいるのに、相手には、その辺が妙に曖昧に映っているらしい。
「日本語的なもの」に戸惑っているんです。それは、ちょうど日本の国内で、京都の人が日本中の人にそう思われがちなのと、まるで入れ子のような有様です。同心円なんですよ、同じことが、言われているんです。
何故なのか。何故、そういうことが起きるのか。
つまりは「日本語」の素質に、「京ことば」の素質が、根深く浸透していて、程度の差こそあれ、結局広い世界というような場所へ出て行くと、日本人は、根本のところで、いわば「京ことば」ふうに、ものを言ったり、発想したり、その結果いろんな態度をとったり、判断や認識を見せたり、している…という事なンでは、ないか。
――そういう見方は、従来は、あまり、されて来なかった…かも知れませんね。ちょっとした、盲点ででもあった気がします。
おっしゃる通り、盲点だった。
言うまでもないことですが、日本の、いわゆる「古典」ないしは「古典語」というのは、おおむね千年の久しきにわたって、京都で創られ、京都で洗練され、京都から諸国全国に流布されて行ったわけです。おおまかに言う限り、これを、歴史的に、否定も否認もできません。それ自体が「都の文化」であった。
もとより、たんに書かれたものだけではない。言葉は、暮らしを根にして育っていますから、自然と、物言いや、発想や、判断なり態度なりに、濃密に、そうした京の古典語が、ボキャブラリイがというより物言いが、影響し浸透していたのもごく自然なことで、広い世界へ、まだまだ窓の開きの小さい間は、ことに、京の言葉、京の表現、京の趣味や判断が、一種伝染力のあるいわばパラダイム、つまり思考や表現の「大枠」を成して、大勢の日本人、ことに指導的な知識人の意識形成に、大きく関与したものと推定できます。
つまり、好むと好まざるとに関わらず、大なり小なり、日本人には、どこかで「京ことば」っぽく「日本語」を、話してしまう・話している、という気味があるということでしょうか。
先週に、日本語のもどかしさについて、いろいろと話しましたが、ああいう「もどかしさ」が、ま、強いて図式化していえば、世界語よりも日本語に色濃く備わっていて、日本語より京ことばには、もっと濃厚に備わっている。しかも古典語となると、昨今の京ことばより、いっそう特徴的・素質的にそういう「もどかしげ」な曖昧さ、よく言えば余情とか含蓄とかいったものが、たっぷりと備わってしかも機能しているということなんです。
――それは、文学的表現については、特に、そうだということですか。
いいえ。そうとも限りませんね。ちょっと意地悪になって調べてみますとね。例えば、もっとも明確・確実・正確な論理性を求められる学術的な論文や研究書の文章。あちこちから引き抜いて、オン・パレードにお聞かせしますと、こんな論調が、多々見えます。
「なかったとは言い切れない」「それ以外の道はほとんど存在してはいなかったと言ってよかろう」「その影響をどれほど評価しても、決して大きすぎることは無いと言えば言えるかも知れない」「別の次元においても、重要な意味をもっていたと言っていいかも知れない」「と言う意味合いをもって進展しなかったとも言えない」「と言って決して言い過ぎではないようにも思われる」「と言って誤りではないだろう」「と言うべきであったろう」「と言っていいように思われる」「と言っていいにちがいなかったと言うべきだろう」などと、ま、こんな物言いが、多々成されています。
日本人は、学者・研究者ですら、むしろ自然な感じでこういう曖昧な物言いを、しているわけです。習い、性となり、だれもかも、わたしもあなたでも、微妙な時と場合になればなるほど、こんなふうに、つい書いたり、しゃべったり、しているんです。それが幸か不幸か、日本語です。そして、わたしが申し上げたいのは、そういう「日本語」の根に、かなりの比重で「京ことば」ないし「古典語」の素質が、重大に、感化している、ということです。
こう言ってもいい。京都の人は、なかなか、東京の人のように、「違う」「それは違う」とは言い切りません。成ろうならば、「違うのと違うやろか」と言う。「ちゃうのん、ちゃう」とも言い、単に「そやろか」とも言いますが、要するに、自分では、なるべく物ごとを、決めつけてしまわない。出来るだけ、自分でなく、相手に決めさせる。相手を立てているのだとも言えるし、責任のがれでもあります。無難に成り行きを眺めていて構わない事なら、いつでも、人のうしろからただ頷いておく。最小限の言葉で意思表明しておく。それさえも、なるべく、どっちとも取れるような、あとで逃げを打ちやすい物言いにしておくわけです。
誤解して欲しくないのですが、京都の物言いを、ただ悪く謗(そし)っているんじゃありません。京都は千年の都、観光都市なんかである以前に、世界的規模の政治都市でした。文民政治の世界は言葉の世界でもある。言葉をどれほどの武器に出来るかどうかで、政治の勝負が決って行く。現代の我々だって、ごく最近にも、うんざりするほど実例に付き合っています。そうなんですよ、国会のなかでの日本語ほど、「京ことば」に学んだ、悪しく学んだものは無いんです。
――と言うことは、例えて言えば、あの、光源氏の昔から、そうだったと…。
源氏物語を読みますとね。とにかく、高貴な人らほど、わたしのいわゆる「京ことば」ですよ。お互いに嘘だと知れていて、しかも、お互いに嘘を、最後まで、つき切っている。それは、恋の場面でも、社交や儀礼の場面でも、いっしょです。優雅に、しかも、しゃあしゃあとしている。言語明晰・意味不明という、近年の、さる元宰相の言説に対する批評、あれですね。意味不明だけど、でも、言っている意図は、お互い、分かっていない訳じゃ、ない。分かったような、分からないような、フリはしている。
でネ。そういうのを、近くで見聞きしている下々(しもじも)の女や男たちが、当然、いるわけですよ。彼等は、そういう場面に居合わせても、身分高い人らに対して、失礼にも失態にもならないように、そういう時、声もなく、ただ「頬笑む」わけです。「頬笑む」というのは、或る意味では強烈・痛烈な、批評を示します、下から、上への。ボディ・ラングェージなんですよね。冷笑、ないしは声なき嘲笑、ですらありますから。
本題とも関わりますから、ここで付け加えて申しますと、この「頬笑む」つまり頬の肉だけで笑うというのは、大概、今も言ったように、下の者が、上の人を、なんです。そして、上の人がそれを意識して口にします時は、かなり多く、「頬笑まるる」と、文法的にも受け身のかたちで使われています。「わらう」と「わらわれる」との関係ですね。
ただし、声に出して嗤っていいのは、上の人。下の者は、声をつつしみ、飲み込むようにして頬っぺたを動かす程度、見咎められない程度に笑うのが、行儀なんです。
光源氏という人は、もう晩年ちかくに、兄上皇の幼い皇女であります女三宮(おんなさんのみや)を妻の一人に迎えまして、あげく、その妻を、若い藤原氏の柏木(かしわぎ)に、ひそかに奪われます。奪われたことを、源氏は知り、知りながら、表沙汰にはしないで、ある日、ほかの若者たちと一緒に柏木も招きまして、酒宴をもちます。源氏は自身も酔い、柏木にも酒を強います。そして、ま、分かり良く言えば、こんなふうに管(くだ)を巻くんですね、…自分は、こう年老いてしまって、若い盛りの柏木君に、ほら、あんなふうに「ほほえまれて」いる身の上さ、と。ま、それだって、長くはつづくまいよ、人はみな老いて行く身だからね、と、源氏は凄いような流し目で柏木をじいっと見るわけです。はたの者には、なに一つ分からない。柏木にだけは、なにもかも分かる。それで、もう、どうっと柏木は病気になってしまいます。無残に死んでしまいます。
この柏木と、女三宮との間に、ひそかに生まれた男の子が、表むき光源氏の二男として育つ、有名な、薫大将なんですね。そしてこの薫君(かおるのきみ)と、光源氏の正統の血を受けている孫の、匂宮(におうのみや)とが、例の、宇治十帖といわれる源氏物語後半の世界で、それぁもう、いろいろに、しのぎを削ることになるのですが、この二人が、一等激しく争いますのが、浮舟という美女をめぐってでした。あまりのことに浮舟は、いたたまれず、川に身を投げて死ぬ気になるのですが、つまり失踪してしまうのですが、その直後の、匂宮と薫君との対話などというものは、もうもう、涙ながらに、本音は腹を探り合いながら、口では、まったく当たらず障らず、互いに、まるでよそごとを言い合っているといった按配で、これぞ「京ことば」の見本のような具合です。
また、この浮舟が、どうやら死なずに人に救われて、どこかの山里に、隠れ住んでいるらしいと知りまして、時の帝の中宮(ちゅうぐう)が、匂宮のお母さんですが、弟に当たる薫大将をそっと呼び寄せて、それとなく教えてやる場面があります、が、この時も、教える方もけっして露わにそれとは言いません。ほのめかすだけですし、聞く方も、あいての親切は承知のうえで、しかも、まるでよそごとを聞くみたいに、逸らし逸らし、聞こうとする。
もって回って、ほのめかし、うち掠め、掠(かす)め、話し合う。クリアに言えば露骨になり、言う方でも聞く方でも、バツはわるいし、そういう露骨なものの言い方、口の利き方は、人間関係をギスギスしたもの、のっぴきならないもの、に、してしまうという双方の配慮があるんですね。率直が美徳だとは、すこしも思っていない。上手にウソをつき合っている。
――じつに、何というか、難儀なものなんですね。
よく、一言多いよと、ひとを非難しますよね、今のわれわれでも。でも、ちょうど過不足なく話すことさえも、要するに「言いおおせる」「ぜんぶを言う」わけですから、「言いおほせて何かある」で、つまり「言い過ぎている」ことになる。
一言どころか二言も三言も少なめに、しかも、遠回しに幾重にももって回って、もう、分かると分からないとの、限界ぎりぎり程度で「言いやめておく」くらいが、ちょうどいい。露わでなくて、いいとされた。
ことほど、さように、つまり「はっきり言わない」で「伝える」のがいいという価値観で、日本語・古典語が形成されていったわけですから、その影響は、よほど控え目にみても、大きいですよ。
それもですよ、源氏物語なんぞが、かりに、後世から無視されたり軽視されたりしたのなら、まだしも、ですが。ほぼ十一世紀のはじめに世に出て、熱烈な読者があとを絶たなかったわけでしょう。十二世紀にはすばらしい源氏物語絵巻が出来ていますし、十三世紀はじめには、源氏物語の本文の研究や写本が、多彩に広まって行く。公家の文化を室町幕府の武士たちも、まるで秘伝かのように大事がって、学びます。
平安時代以来の古典語が、鎌倉にも室町にも、がっちりと規範的に根をおろして行ったのですから、文学・文藝を離れて、日常の暮らしの場面にまで、言わず語らず、浸透して行きます。ものの例えにも、源氏香(こう)とか、もっと砕けて源氏名(な)といったふうに、庶民の世界にまで、さまざまに入ってゆきますにつれて、言葉は、暮らしの現場を流れる血潮・血液のようなものですから、影響を過少評価はできなくなってしまう。
むしろ思いのほかに津々浦々まで、むろん濃い薄いの差はあるにせよ、知らぬ間に、ま、日本語のなかに、京の古典語の言い回しや発想の素質が浸透していたと、そう言わざるをえない状況が出来て行きました。
――どうも、なかなか「明確に」とは行かない成り行きですね。
文字のことを、この辺で考えてみましょうか。漢字と、ひら仮名。
われわれは、千年来、漢字、仮名、両方を使ってきましたから、慣れてしまって、そのちがいを、さほど意識しなくなっていますが、用い始めた頃の日本人には、やはり、たいへん新鮮な、いわば使いでの差、が意識されていたと思われます。よく言われる表意文字と表音文字との違い、これは、むろんですが、わたしは、それに匹敵するか、むしろ凌駕するほどの違いを、漢字と仮名との「線」としての在り様(よう)の差に見ています。この点が、ほんとは、もっともっと広く深く認識されていい大問題であると思うのです。
――線…の、ちがい、ですか。どういう事でしょうね。なるほど、漢字と仮名とでは、文字を成している「線」の在りように、いわば、堅さの差のようなものは、見えますね。漢字は堅く、ひら仮名は柔らかい。
言い換えれば、漢字の線は概して直線的ですね。それに対し、ひら仮名は、概して丸い線ですね。それが、おっしゃるような、堅い、柔らかい、または、強い、優しいといった違いで印象づけられています。漢字は直線的で表意的、仮名文字は曲線的で表音的に出来ています。あたりまえのようだが、仮名文字じたいが、漢字から、よく工夫され作字された発明品であったという歴史的な経緯を思い起こしてみますと、この質的転換は、妙な譬えかたをしますと、男から、女が、生まれ出たとさえ言えるほどの、二重に、容易ならぬ変化であったことが、うすうすとでも察しられます。事実、平安時代を通じまして、漢字は男手、ひら仮名文字は女手と呼びならわすほどの、受け取られ様をしていたんです。
で、どこが、わたしの考えでは容易ならぬ、革命的な違いかと言いますと、意外に思われるかも知れませんが、「時間感覚」が違うと考えています。もっと分かりの早い事を言いますと、よくいう、「間(ま)」が違ってくる。漢字を書く間と、仮名を書く間とは、物理的な時間の長さの差、だけじゃなくて、もっと感覚的な間、心理的な間、精神的な間、創造的な間、空間感覚の間が、違ってきます。
「花」という漢字を書くのと、「はな」とひら仮名で書くのとの、微妙な差。もっと端的に比較してしまえば、漢詩を漢字で書くのと、和歌をひら仮名で書くのとの、まるで違う間の違いに相当します。
漢字でも草書体ですとかなり続け字になりますけれども、仮名文字でいうあの「連綿」とした続けようは、難読・難解・難渋の見本のようなものですね、とてもとても漢字を見るほど「一目瞭然」とは行きません。
この「一目瞭然」とは行かない文字に表現の大半を、いいえ、ほとんどを賭けて「文化」を成したのが、先ずは古今和歌集と蜻蛉日記と枕草子と源氏物語とに代表される「古典」世界でした。「一目瞭然」とは行かない文字で、「言語明晰・意味不明」な、しかし「ゆったりと」「優しい」物言いによる、「古典的表現」を磨き抜いていったという次第です。これを否認することは、だれにも出来ない。
わたしは、日本人の過去の発明のなかでも、仮名文字の創作ほど大事なものは少ないと見ています。それは日本人の心と体とに独得の間とリズム感覚とを植えつけました。さきにも挙げましたような和歌や物語や日記や随筆、ないしは消息文など、文藝的なものへの感化はむろん絶対的でしたが、そればかりでは、無かった。たとえば衣装、たとえば絵画や仏像等の彫刻表現、寝殿造のような住居、今様(いまよう)等の音曲や音楽の好み、果ては武器や鎧兜等の物具(もののぐ)にいたるまで、それらの意匠や装飾・造型のすみずみにまで、仮名文字的な柔らかに、円やかに、軽やかな、優美の追求が徹底して行った事実を見てゆかねばならないでしょう。
わたしは、それらの特質・素質・性質を総称して、この二十年来、それを「女文化」と呼んで来ました。この「女文化」と、「京ことば」ないし「日本語」とが、互いに深く交わり関わっていることは、想像に余りあります。それを、次回に考えてみましょう。
女文化と日本語
――前回は、「女文化」という言葉が出てきたところで終わりました。女文化とは、つまり女が主導する文化、女の、女による、女のための文化。そういうことでしょうか。
ああ、いや、そうではないと思っています。極端に言うと、むしろ半分は逆の感じですね。微妙ですがつまり、男の、女による、男のための、文化とでも言いましょうかね。
――ほう…。と、言いますと……。
日本の文化史は当然ながら、よほど遅くとも縄文式土器の時代から書き起こされねばなりません。そして大和に統一政権が出来、大化改新を経、奈良時代も経て、京都に都を置いたいわゆる平安時代に入る以前の日本は、それ以後、今日までの日本の歴史よりも、遥かに遥かに、長かった。その長い長い、いわば「京都以前」の日本を、特徴的に要約してしまえるような文化史的な一枚看板は、いまぶん、ちょっと見つけにくいんですね。何というか文化が文化になる下敷きの文化として、どうしても中国や朝鮮半島を主とした、西、ないし南や北から渡来の要素に、大きく引っ張られ続けていましたからね。質的な変化も、めまぐるしかった。
何千年にわたる歴史的背景をみな割愛して、一例として、万葉集という歌集を、ちょっと考えてみましょうか。
第一、万葉集の歌というのが、純然とした「和歌」ばかりでは、ない。万葉集には、長歌・短歌・旋頭歌などを含んでいますが、つよくは和歌集として、意識されていなかった。たんに万葉集でした。表記に用いられた文字からして漢字そのものでした。漢字を、強いて仮名かのように用い始めた最初の方の大きな試みであったとも、ま、言えるような表記でした。万葉仮名ですね。文字そのものは「訓み・読み」と関係なく、まさしく漢字を採用していました。漢字の利用というか、活用の仕方に、ようやく、日本的な工夫と発明とが加わっていたと見て、いい。
万葉集の成立について、その背後に海外言語ないし表現の、直接間接の感化や影響を説く人が、かなり、最近にも話題をひろげていましたが、その是非はここでは問いませんけれども、当時の日本が、確立した個としての一日本である以上に、広い東方アジア文化圏ないし漢字文化圏に取り込まれた、一地域的な存在であったと見た方が、より穏当であった事実は、否定できないんですね。固有の文字をまだ日本は持たなかった。で、その、漢字、文字、その文字による万葉仮名風の、かりに和風といっておきますが、和風の文章なり詩歌なりの表現行為を管理しえたのは、当時、おおかたは皇族、貴族、豪族ないし僧侶等の、先進的な知識階層であったこと、いうまでもありませんでした。性別でいえば、もう、圧倒的に男子の専管事項でした。かりに加わり得た女子があったにせよ、はっきり、例外的な存在であったと言い切れたでしょう。
古事記の成立を伝える事情を、象徴的に、思い出してみれば、いい。「女」の暗誦していた神話や旧辞を「男」が聴いて文字に書き表したと言われています。しいていえば文字を用いて書くのは「男」で、ことばで物語るのが「女」かのようでした。そういう対照が朧ろにも見えていました。それかあらぬか、漢字を、ひら仮名と区別して、真名(まな)、本来の文字と呼び、また漢字を書くことを、即ち「男手」と呼んでいた史実も、ここで思い起こすに十分値(あたい)するでしょう。
漢字は、漢字の渡来このかた、平安時代の幕が開くころまでに、「女」には手の出しにくい、「男」のまるで所有物かのように、日本の文化史に定着しかけていたのでした。
しかし、それでは、ま、「女」の、「女ならでは」の表現意欲は、満足できませんよね。すでにして万葉時代を通じて、額田姫王(ぬかたのおおきみ)その他すぐれた女の歌人が詩歌の世界に重きをなしていましたし、光明皇后のように漢字を学んでみごとな書をのこしていた人もいた。漢字で出来ないのなら、ほかの文字で、という気運は、当然にもつよく時代の底を走り流れていたに違いないんですね。
でも平安時代に入りましても、なおしばらくは、前代以来の風がつづいて吹いていた。かえって一時的に唐風文化への心酔の度がすすみまして、漢文や漢詩が、宮廷・貴族社会で、はなやかにもてはやされました。嵯峨天皇の時代はその大きな峰をなしたときで、その頃に、有名な三筆といわれる書の天才が、多大の尊敬をかちえていました。嵯峨天皇、空海、橘逸勢(はやなり)ですね。彼らの書は、まさしく漢字そのものでした。「男手」の極致でした。
ところが、これに続いて三跡(さんせき)といわれる書の上手が、やはり、熱烈に、もてはやされます。小野道風、藤原佐理、藤原行成の三人ですが、他にも能書をもって世にときめいた人は、少なくありませんでした。が、それはさておき、三跡といわれた三人、むろん漢字も上手ですが、仮名の文字もみごとです。とはいえ、そこに微妙な差もあります。
古今集の直後くらい、時代のやや早い小野道風では、その仮名文字は、草仮名(そうがな)といわれた、漢字そのものの崩し字に、まだまだ、ちかい印象なんです。が、枕草子や源氏物語の頃の藤原行成ともなりますと、連綿として美しい糸をよるような、典型的なひらかなになります。そして、そういう「ひらかな」を、またそれを書くことを、「女手」と呼んでいた意味も、われわれは、大事に大事に考えてみる必要があろうと思います。
なぜに、女手の、ひらかなが必要とされたのか。だれが、ひらかなを必要として用いたのか。
――道風も、佐理も、行成も、女ではありません、が、それでも女手を書いたというふうに言っていいのですか。
そこのところですね。女ではない男が「女手を書く」というのは、どういうことを意味していたのか。平安以降の日本文化の素質を考えてみるには、この不審に、ていねいに答えざるを得ないんです。
ここで重ねて時代をあげておきますと、小野道風は、古今和歌集から次の後撰和歌集の頃へかけて活躍した、天才的な書の名人です。十世紀前半の人。また藤原佐理は、十世紀中頃の、道風よりやや後輩にあたる一種の奇人です。三人目の藤原行成は、あの清少納言と、ごく親しく、十世紀末から次の世紀のはじめに生きた、優美でかつ知的な貴族の一人でした。
もう一度言いますと、道風の頃の仮名は、まだかなり漢字の味わいを、形として残していました。草仮名といわれます。こんにち、秋萩帖の名で尊ばれる国宝の巻き物の文字が、その、草仮名の典型をなしています。道風の筆とも伝えられています。
それが、その後百年にも満たず、行成の頃にまでなりますと、もうすっかり純熟した、文字どおりの「ひらかな」として完成されています。どこから見ても「女手」といわれてぴったりの完成度です。そしてこの女手で、事実、和歌が書かれ、物語が書かれ、日記が書かれました。恋文も書かれ、エッセイも書かれました。逆に言うと「ひらかな」だからこそ、和歌も、物語も、日記も、恋文も、書けたと言えるくらい、それは決定的な、よく調和のとれた実りでした。そして、それらを実際に書いたのは、言うまでもなく、多く、女性たち、才能ゆたかな、まさしく閨秀の名に相応しい女たちでした。
――だから、女文化と言う…。
いやいや、そうは簡単なことではなかった。そこには、こう、言わねばならないような実態がありました。女たちにそういうものを書かせて楽しんだのは、男たちであったと。また、こうも言わねばならぬ実態もあったのです。女たちが、そういうものを書けるようになる、その為に、相応(ふさわ)しい文字を創ってやり女たちに与えたのも、また、日記や物語はこう書くものと、女たちの前にその手本を与えたのも、やはり男たちであったと。
――大胆な発言ですね。女の人たちから、そうとう厳しい反応があるかも知れません。が、大丈夫なんですか。
いやいや大丈夫とも思いませんがね。けれども、その時代に占めた、男と女との、重みと力とは、遺憾ながら、そうは、対等なものでは、やはり、ありませんでしたからね。遠巻きに、その辺を手探りしてみましょうか……。
その当時、「漢詩」は、まさに「男歌」でした。晴れの歌でした。それに対して「和歌」は「女歌」でした。私的な場で私的な感情を盛る器でした。ところが、さきにもちょっと申しました、平安前期の漢詩文隆盛の反動のようにして、十世紀に入るしばらく前から、「女歌」として表向きにはされて来なかった「和歌」という名の国風、ま、国民文学の復活が大いに意識されてきますと、はじめて、勅撰による古今和歌集の編纂が、公的事業として、かつ趣向の遊び・楽しみとして、晴れて企画されました。まこと、後続千年の文化の在りようを律する、大きな趣向でした。規範的な趣向でした。
ここで注目すべきは、和歌、つまり女歌の集ではあれ、その選者たちは、身分こそ高くなかったが、紀貫之以下、すべてが男性でした。一方、古今和歌集を飾る頭抜けた女流歌人はといえば、小野小町が、たった一人とも言える寂しさでした。
ところがです。
そうは言いながら、しかし、この古今和歌集は、平安時代を通じまして、あらゆる子女教養の、絶対のお手本とされたんですね。古今集の和歌をぜんぶ暗記しなさい、それが女としての最上の嗜みと、そんな遺言を、一族の女たちのために遺した大貴族もいました。例えば『枕草子』には、そういう教訓が真実であったとの証言が、どっさり、書き込まれています。
言うまでもなく、古今集最大の歌人であった紀貫之という人は、また、土佐日記という日記作品を、ここが肝心ですが、女の身に、化(な)り変わりまして、女手で、即ち仮名文字を用いて、書き著(あらわ)しました。いわゆる仮名日記の最初の成果でした。言うまでもありません、土佐日記は、男性たちがふだんに漢字で書いている日記を、女の自分も女の仕方で書いてみましょう、と、そういう趣向で、けれども男の用いる真名、つまり漢字で書くのではなく、女手で、仮名で、書いてみせた作品でした。実の書き手は、男性である貫之ではありますが、作品の趣向としては、女の筆に成ったという、建前です。仮名で書かれた、女日記。後続の著名なものとしては、例えばかげろふの日記、紫式部日記、更級(さらしな)日記、和泉式部日記、讃岐典侍(さぬきのすけ)日記等々があり、大方は、女の手で、女手を用いて、書かれています。男の貫之の書きました土佐日記は、さながら、こうした後続の女日記の為の、いい、お手本となっていたわけです。
また、女物語にも、同じような事情がみえています。源氏物語のなかで、物語の出で来はじめの祖(おや)と称(たた)えられています古物語が、有名な、かぐやひめの竹取物語です。きびすを接して、伊勢物語や、大和物語も、出始めます。あとの二つの歌物語はともあれ、竹取物語は、明白な、男性の手に成ったと確信されております物語です。たぶん伊勢物語も、確実に男性の手に成っています。奇抜なお話を伝える、本来の物語と、和歌をたっぷり取りいれた、歌物語。竹取物語と伊勢物語という、この二つの典型的なお手本に触発されまして、女手による、女の作品としての、数多くの物語が世に流れ出はじめまして、その最高峰として、十一世紀はじめには、あの源氏物語が完成されました。その後にも、多くの物語がやはり女の手で、仮名文字を用いて書かれました。
では、女の作品は、ただ女子供にだけ楽しまれて、一人前の男たちは見向きもしなかったか。けっして、そんなことはなかったのです。時の帝や、高位高官にあった才能豊かな男たちが、こぞって、女の手に成った女の作品を、喜んで、もてはやしていました。
それは、いわば複合的に趣向された、さながらに男が、女を、より大きく、より豊かに味わい、楽しむための、文化的工夫とも言える成り行きでした。女という才たけた花を、みごとに咲かせて、男が楽しむ、文化。平安朝の才媛たちに、一見ゆだねたかに見えるそれら――和歌も日記や物語も、根の部分で、世を仕切る男たちのエゴと欲望とに根差した、結局は男が女を動かして喜ぶ、一種、栽培性の文化でありました。清少納言などは、その一切の才能を傾けて、結局は宮廷の男たちを、日々楽しませました「女文化」選り抜きの才女、最大級の才女であったと見るのが、ほぼ適切であろうと思います。
――枕草子というのは、有名なわりに、その本当の魅力とか意図のようなものが、よく知られていない気がしていますが……、いまおっしゃった「女文化」という点からみますと、どんな理解になるのでしょうか。
もともと、枕草子の原企画といっていいものは、一条天皇の後宮、ことに定子皇后のサロンで、皇后の指導のもとに、才たけた女房たちを選りすぐって、たぶん、日常宮廷生活ないし優れた会話の為の、一つのマニュアル、手本、見本、話の種本のようなものを作ろうという狙いだったに違いないと、私は、考えています。どういうマニュアルかといいますと、一種の、会話術と言いましょうか。折りにふれ、折りを過ごさず、どんな時と、所と、相手にも、もっとも適切な物の言いよう、口の利きようが出来ますようにと、そのための資料や実践の手本を作った。その編纂のために、いわゆるブレーン・ストーミングを盛んに試みた。そして有能な書記役を置き、整理させた。それらの、文藝的にもよく整理された記録、それが、本来の、「枕ごと=心覚え」の本としての、枕草子ではなかったか。けっして、たんなる随筆集なんかでは、なかった、と、そう、わたしは、思っています。
定子皇后のサロンは、当時、幾つか星座のように実在しましたサロンのなかでも、ことに、宮廷社会にあって、もっとも男性貴族たちの敬愛を集めていました。何故かと言いますと、女房たちの態度や物言いに、得も言われぬ洗練と魅力とが溢れていたんですね。感嘆させ、楽しませ、喜ばせて、その結果として敬意と親愛とを集めえた、それほど、趣味のいい女たちの大勢いることで、他に卓越した上品なサロンであったとされているんですが、それもこれも、定子皇后の、まさしく「女文化」的ご意向を汲み取って、常日頃から、女房たちが、そうした「男応対(あしらい)」にひときわ貴族的な心遣いをしていたからで、あったでしょう。清少納言は、なかでも傑出した一人でした。また皇后のサロンにあって、どんなマニュアルを作るにも、まことに優れた「書記役」でもあった。枕草子は、彼女の優れた文才とともに、その背後にあった定子のサロンの、みごとな「女文化」的意欲にも大きく支えられ培われた、実用むきの作品であった、そういう部分が芯になってその他を増殖的に結晶させていったと読まれていいものです。
――春は、あけぼの……ですね。他にも、山はとか、花はとか、ちょっと、それだけでは、名詞の羅列のようなものもありますが……。
あれが、ただ名詞の羅列では無かったんですね。おそらくは、いちいち、皇后から課題が出される、どんな花がいいか、とか、どんな山がいいか、とか。ブレーン・ストーミングのように、才たけて趣味もいい女房たちが、口々に花の名や山の名を答えるのを、簡潔に記録したんだと思いますね。ことに、巻頭の、「春は」という設問に対して出た答えのなかで、「あけぼの」の刻限こそ春の魅力の極みだという答えが、じつに見事にすばらしかった。中国の詩文にも例の見られない、すぐれて京都風の、美の発見でした。さてこそ第一等と、皇后も女房たちも手をうって喝采し感嘆したでしょうし、ひょっとして、それが、清少納言その人の見出した発明であったのかも知れませんね。
枕草子は、まさしく、いい趣味、といわれるものを編纂し編集しようと意図した「女文化」の粋であったのでしょう。
そして、ここで注目したいのが、その方法として、いわゆる番付を採用している点でしょう。「いいものは」「いやなものは」「ほしいものは」「困ったものは」「嬉しいのは」「恥ずかしいのは」と、課題に応じ設問に応じまして、具体的に答えが順序づけられ配列され、「春は、あけぼの」「夏は、よる」という具合いに並んで行く。
言い換えますと、物も、事も、人も、いわば一位、二位、三位というふうに順位を与えられて行くわけです。この一位とか三位とかいう「位」は、文字どおり当時の宮廷社会にありましては、命綱のようなもので、だれもが、その綱に縋ろうと、必死でたぐっていた。つまり「位取り」の社会であった。どこよりも「位取り」をより強く、より高くと願った都市が、即ち京都であったというわけです。
日本は、なぜか番付の好きな国で、律令社会の位階勲等や軍隊の階級はともかくとしましても、大相撲の番付も、歌のベストテンも、歳末の十大ニュースにしましても、ほぼ、無意識のうちにものに順位をつけて価値判断を決めたいタチをもっているようです。勝敗や優劣を順位で決めてゆく。何でもないようで、これは、よほど歴史の奥深くに根をはらんだ素質のように思われます。
そして、そうした文化的素質が、社会的なものに及び、暮らしにも影響してくれば当然のように、暮らしの現場を走り流れます血潮のような、日々の言葉、日々の世渡りにおいて、勝たないまでもむざむざ人に負けてはならない、その為の武器ともなる日用の言葉にも、どうしても「位取り」を優位にはかろうとする性質が加味されてくるのは、あまりにも自然な成り行きであったろうと、言えます。言い切れると言っても、過言とは思われないほどです。
では……、どういう風に「京ことば」は、鍛えられたか。
いま一度、われわれが世界に誇る二大文藝作品、つまり源氏物語と枕草子との、その、書き出しの言葉、文を読み直してみましょう。ナニ、長くもなく難しい表現でもありません。枕草子の方が、先ほどから繰り返していました「春はあけぼの」コレだけです。源氏物語の方は、「いづれの御時にか」です。コレだけで十分です。私に言わせますと、これが日本語であり、京ことばのエッセンスです。特色は、わざと、ちょっとキツい言い方になりまずけれど―一、言語明晰・意味不明、かつ、責任転嫁。ま、そういう事になります。
聞き捨てならんとお思いの方がありましょう。私の考えを、ちょっとお聞き願いましょう。われわれは、「春はあけぼの」と聞きましたうしろへ、一つの知識ないしは教養として、「が、よい」「春は、あけぼのが佳い」と補っています。しかし、そんなことを教えられたことのない、例えば外国人の耳には、ないしは目には、「春はあけぼの」とだけで、的確に意味の取れる人がいたら、いっそ不思議なようなもんですよね。妙な譬えですが、「春は春闘」と聞いた、または読んだ人は、そのあとへ、「が良い」とばかり補って意味を取るでしょうか。「が嫌だ」と思う人も多いはずです。「春はあけぼの」にしても、必ず「佳い」と取る人ばかりではなく、佳いとも嫌だともなく、つまり、何を言うているのやらと、戸惑う人がいても不思議ではない物言いであり、表記であるわけです。だけれども、「春はあけぼの」は、結局「春はあけぼの」で通用しているのが、日本語なんですね、そこに、語感もはたらき察しも利いている。要するに「春はあけぼの」と言って、また書いて、分かる者には説明ぬきに分かるし、分からん相手には説明してみてもそういう趣味は所詮は分からないという、そういう、一種排他的なお高い調子が出ている。言語は明晰です。そして意味も不明なのではなく、分かる者には分かる、分からん者にはどうしたって分からんのだという、そんな不親切といえば不親切な、説明抜きの投げ出し方を、常平生しているのが、つまり日本語のようです。世間が狭くて、狭い世間の中でだけ分かるように通用してきた、それで良いとしてきた、そんな言葉です。
落語に、こんなのがある。荷を積んだ馬を追ってきた人が峠の茶屋で茶をのんでいるうちに、馬が逃げ出した。それを捜し回って出会う人ごとに尋ねる言葉が、「馬ぁ見たけえ」です。そういう物言いです。そしてそれでは分からないとなって、やっと、荷を積んだ馬であるとか、荷はどんな荷で、馬の毛色はこう大きさはこうと説明が加わる。しかし、根っこのところは、それきりぽっきり、「馬ぁ見たけえ」だけなんですね。それと「春はあけぼの」とは、所詮同じ日本人の日本語なのです。言語明晰・意味不明に、相違はない。一を聞くだけで十まで知れ、と。
次に源氏物語の書き出しの、「いづれの御時にか」というのも、これまた特徴的です。たった、これだけの物言いですのに、疑問の言葉が二度も出ていますね。「いづれの」という疑問が一つ、「御時にか」という疑問が一つ。京ことばでこれを翻訳してみますと、「どなたさんの御治世(ごちせい)やったんやろか」となります。何でもないようですが、京生まれ京育ちの私には、よく分かる。つまり、この物言いは、やはり、このあとへ、「知りまへんけどナ」「どなたさんの御治世やったんやろか、あては、そんなん、よう知りまへんのやで」という意味合いが、気持ち、補われているんですよね。「違う」と言い切らずに「違うのと違うやろか」と相手方へ判断をゆだねておく物言いで、源氏物語の貴族たちの、殊にお得意の物言いです。なにか意に添わない反発を受けようなら、即座に、「そやさかい、あては、よう知らんて、言うてましたやないか」と逃げが打てるわけですね。これがまた、まさしく日本語、京ことばに色染められた日本語なんですね。この調子がつい今日の政治家や外交官にも出てくるんで、外国の人は、おそらく、じれったくて割り切れない、とどのつまり不信感につながる印象を持つ。日本の国内では、京都の人が、つい、このような感じをよその人には持たれてしまう。
それもこれも、根は、ひらかなの発明、その「女文化」的表現にあろうと言いたいのです。
日本語で書くこと・読むこと
――漢字とひらかなのことを、「女文化」との関わりから、いろいろに前回はお話を聞いたわけですが、念のためもう一つ、カタカナのことにも触れていただけませんか。
ひらかなもカタカナも、漢字という意味ある文字を、極度に略したり、また字の一部分を拡大したりして、その音訓みなり省略した訓みなりを、ただ一音の記号音に変え、表音の表記に利用したものです。が、先ず、線のかたちから見ますと、ひらかなの丸い感じ、曲線化を主にした作字であるのに対しまして、カタカナの方は、元の漢字からは簡略化されているのですが、どこかに漢字の印象をのこした、直線的な作字なんですね。
では、なぜ、カタカナが必要であったか。漢文や漢詩を和風に読みくだします際に、例えば「月落チ烏啼イテ霜天ニ満ツ」といったぐあいに、送り仮名が必要になってきますね。そういう必要は、当然、もっぱら漢字をあつかっている現場、例えば内典といわれる仏典や、外典といわれる中国古典の学習場面で、先ず生じたわけですね。そこで、漢字を操れる男子の、僧ないし知識人たちのなかで、いわゆる訓読の便宜のために、いつとなくカタカナや独特の記号が工夫され使用されて行った。漢字と漢字との間を日本語風に結び合わせて行くための、これは必須の発明でした。
これに対し、ひらかなは、漢字の漢語を主にはせず、大和言葉という日本語をそのまま書き取れるための工夫であったと言えましょうね。ひらかなが、やがてカタカナに代わって、漢字まじり日本文の、いわば主役級になって行くのはこれは時の勢いでしたけれども、「女文化」の粋である古今集も、源氏物語も、そういう「ひらかな文化」の真の代表作でもあった。「ひらかな」の文化的意義は、まさに革新的なほど、日本語による日本の「表現」を変えた、一新した、ないしは創り上げたと言えましょう。いいえ言い切れると、私は、思います。
そして、そういう文化を支えたのは、京都の宮廷を中心に生活した、大勢の、才たけた女たちであったのは、事実です。ことに十一世紀中ごろの宮廷社会は、まれにみる才媛たちの競いあいによって、世界史にあっても、特異な「日本」の盛りを現出していたと言えます。
言うまでもなく、ひらかなによる日本語の表現が、女たちのセンスによって、もののみごとに成熟して行った事実と、京ことばの鍛錬や洗練とは、無関係ではありえなかった。また日常的・社会的な判断なり態度形成なりと、無関係ではありえなかった。言葉とは、日々に、時を経つつ、成長し、変貌し、しかも根本の素質は、そうそう変え得るものでも変わるというものでも、ない。むしろ文化的な優位性、アドヴァンテージを得て、拡大・拡散し、影響力をもって行く。
京ことばないしは大和ことばの文化的権威性は、例えば江戸時代に至っても、なお、したたかに古典語を通じて生かされていました。国学の研究者らは、意図して、あまりにも意識して、いっそ奇妙な大和ことば風の日本語を弄んだ気味さえありました。漢字とひらかなとの、それは文化的な対決の一場面ですらあったのであり、大著『古事記伝』を著した、大和ことば派のチャンピオンのような本居宣長が、京都に成った「ひらかな文化」の粋であります源氏物語から、「めめしさ」という「女文化」的な価値を積極的に評価し、「もののあはれ」という日本の美と倫理との一大標語を打ち樹てて行ったことには、大きな意義と必然とを認めていい気がいたします。
――本居宣長の日本語というのは、たしかに、くねくねと特徴的ですね。
あの当時の、大なり小なり国学に関与していた人たちは、上田秋成だってそうなんですが、みなよく似た日本語を書いています。古事記の訓読、日本書紀の訓読等の学問的成果も関わっていたことですが、いっそ儒学者たちの漢文の方が、より日本語として読みいいぐらいです。つまり、それだけ漢語的表現に慣れてきていたわけですね。ひらかな表現の源氏物語よりも、漢字とかなとの入り交じった平家物語の方が、ずっと読みやすいという伝統も、たしかに、われわれ日本人は築きあげて来ていたわけで、一方で対決しながらも、ひらかなと漢字とが融和してきた歴史も、見落としてはいけないわけですね。
話はちょっと変わりますが、小林秀雄という、一世を靡かせた批評家がおられましたね、そして晩年の代表作に、『本居宣長』がありました。たいへんな大著でした。ところが、この頃になって、ときどき耳にすることなんですが、小林秀雄の批評というのは、表現としては文藝美をよく備え、魅力的なのも十分認めるけれども、それにしても、どうも分かりにくいと言われ出しているんですね、何を、どう、言い切ろうとしているのか、分からない、と。ま、そうまで言っては身も蓋もない、が、いささか頷けなくもない。私の頭がわるいのかも知れませんけれども、私にも、小林秀雄は分かりにくいなあと思えるところが多く、その印象は、皮肉なことですが、京ことばでの、「違うのと違うやろか」的なんですね。明確に何かが言われているとは、なかなか、思われない。と言うより、こういう日本語では、所詮、明確になんか、書けない・謂えないんじゃないのと思わせるところが、あるんです。言い切ってしまえば、妙に「京ことば」的な日本語を、小林秀雄ですら、用いている、書いていると思われて来る。ま、ここで、具体的にその一々を吟味するゆとりは無いんですが。
――では、この辺で、いよいよ「京ことば」というものを、どう素質的に理解すれはいいのか。ちょっと、まとめてお話しいただきましょうか。
大きく言って三つの特徴がありますね。一つは、何度も言ってきましたけれども、つまり物・事・人にかかわる関係なり輪郭なり、これを、クリアに説明するための言葉では、むしろ無い、というのが一点です。逆に、それらを意図したかのように、おぼめかすと言いましょうか、強いてものごとを、はっきりとはさせないまま、しかし、真意は伝えたい、分かってもらいたいし、それで分かるのだ、伝わるのだという、そういう相互の了解に頼った物言い。それが、ま、千年来の「京都のことば」なんですね。
そして、これも何度も申してまいりましたが、日本語といわれるものが、およそ、そういう素質に色染められていて、そのため世界の人から、眉をひそめられたり、分かりにくい言葉だ、国民だと、誤解されたり言われたりされている、と。その意味で、京ことばと日本語とには、入れ子型の、同心円型の、深い関わりが在ると認めるべきではないかというのが、わたしの主張の一つなんですね。
次に、京ことばは、もの優しく柔らかく耳には聞こえます割に、なかなか厳しいものを持っている。つまり「わる口」と聞こえますようなキツい「批評語」を、じつに豊富に抱え込んでいるのが、京ことばなんですね。ちょっと聞いていますと、べつに「わる口」とも聞こえない。むしろ「ほめ」たのではないかと聞こえる物言いが、じつは、底意地のわるいくらいに、しっかり、ケナシている。批評している。けっして、たやすくは褒めない。うっかり、褒めない。
何故かと言いますと、とても、京都という町は、腕力や武力で競い合う町ではなく、それを言うならば、「言葉」で競い合ってきた町なんですね。もとより町が、という以前に、宮廷を中心にした公家社会がそうであった。と同時に、「言葉競い」のその前に、もっと体制的・制度的には「位」というやつで互いの地位や権勢を競い合って来ました。「位」がものを言い、次いで「言葉」の力や能力で競った。よく手を書く、つまり能書とか名筆というものも含めて、例えば和歌をはじめとする文藝の才能が、世に認められる・認められないというのも、大きな競いであったわけですよね。
で、競うかぎりは、他者を褒めてばかりいたのでは、自分の位置・地位が相対的に下がります。だから「わる口」が「わる口」と聞こえないような「わる口」を駆使する才覚が、ばかばかしいとは言ってられないほど、大事になります。
歌合・繪合といった左右に人が分かれて競い合う遊びでも、自陣の提出した歌や繪を褒めるよりも、相手方から出た作品を徹底的・批評的に批判し非難して、それとの比較で、自分たちの側に勝ちを誘い込もうとするんですね。これが、京都での、言葉を武器にした世渡りの、いわば原型です。鋭い批評、もののよしあしを見定めながら、究極は自身の、かりに勝ちにつながらなくても、それよりももっと大事に、自分に負けを持ち込んでしまわないような「物言い」――これが「京ことば」の肝心・要(かなめ)の勝負どころなんです。
では、どうやって、勝つのか。どうやって、勝たないまでも、負けないようにするのか。
言うまでもなく、「批評」そのものに優秀な内容を見せるべきは当然です。例えば「春は」と問われれば、「あけぼの」と答えの出せるセンス。この、センスというものが、結局は「京風」「和風」の趣味のよさを歴史的に積み上げ確立して行った。京都のものは上等だ、極上の品だ、風情だといった名声や評判も、そうした趣味能力の結果として出来上がって行ったんです。
だが、それだけでは済まない。もっともっと日常のなまぐさい世渡りの現場で、人ひとりひとりの勝負が、無いというわけにはいかない。当然のように、ごく瑣末な場面場面でも人は競い合って暮らすより無いと、政治都市人間の京都人は、歴史や時代そのものによって、そう仕付けられてしまっている。どんな些細なことでも、他人より、むざむざと下めには付けない。ここでも、上に立てないまでも、けっして、いたずらに他人の下には立つまい・立ってはならない、そんなことをしていたらウダツは到底上がらないという、激しいほどの見通しをもって京都の人は生きてきた。それが言葉に現れまして、じつに、もう、すさまじいような「位取り」の言葉が、微妙に微妙に、うわべもの柔らかに、本音は負けじと、駆使されるわけです。
なにを思い、なにを言いたいのか、容易には掴めない・掴ませない「物言い」というのも、そうした表現なんです。なるべく自分からは結論めいたことは先には言わない。人に言わせて、それに賛成したような反対したような物言いをしておくことで、うっかり、尻を持ち込まれないようにします。責任のがれと言えば、そうですね、責任はなるべく取らなくて済む物言いが賢いとされている。「違います」とは、だから言わない。「違うのと違いますか」というふうに、ぼかす。あんたさんは、どうお思いやすか、はぁそうどすか、あんたさんが、そうお言いやすんやったら、そうなんやろな、あては、そこまで、よう言いまへんけれど……、テナ調子に、つい、なります。どうでもいいこと、火の手がはげしく降りかかって来ないことなら、十のうち十まで、この調子でボールは相手方に手渡しておくわけですね。「うなづく」も、前に話しました「ほほえむ」もそうですが、声や言葉をあとさき見ずに早出ししない。かすかに首を縦のようにも横のようにも振るか、人のあとから、慎重に、肯定とも否定ともどっちつかずのように、ものを言う。賢いともずるいとも言えますが、少なくとも、あとさき見ないで喋り散らして、なにもかも手の内をさらけ出すといった処世を、京都の人は、率直だとは褒めない。口の利きよも知らん、不細工なやッちゃと軽く見る。これじゃ、漱石が書いた『坊っちゃん』のような江戸っ子からは、腹の知れない、ヤな野郎じゃないかとやられるのも、無理からぬところは、有る。たしかに、有るには有るんですよね。
なかなか褒めない。なかなか本音は言わない。それでいて、京ことばを操るとは、他人を自分の上には簡単に立たせたくないということですから、相手を「上げたり下げたり」しながら、結果、自分はあんたさんよりも、上である、少なくとも下ではない、という所まで事を言葉で運んで行こうとするんです。「位取り」の言葉ですね。
どうするか。一つは、世にも名高い「京の敬語」を、相手の顔色を見ながら、微妙に、微妙に使い分けます。
面白いのは、面と向かっての敬語を使い分けるだけでなく、むしろ、その当人とは現在面と向かっていない相手、その場に今は不在の相手の噂や評判をする、その際に、敬語を容赦なく使い分ける。これは例えて言う方が分かりいいでしょうね。こんな具合いです。
「梅原せんせに、こないだ、ひょこっと出会たん。向こうの方から先に、元気にやったはりますかお言(い)やして、ポンと肩叩いて行かはった。気さくな、ええお人どすえ」と。
この「梅原せんせ」というのを、かりに、あの日本学の哲学者梅原猛氏のことと想像してみますと、この話し手は、「せんせ」「お言いやして」「行かはった」「ええお人」と敬語を連発しているのも頷けますが、注意すべきは、その梅原先生が、当のその話し手に対しまして、「元気にやったはりますか」「はり」「ますか」と、直接話法のかたちで敬語を使っているところです。事実そうであったかどうか、保証の限りではないんです。事実は、こっちから挨拶し、「元気かね」だけだったとも、十分考えられます。向こうから先にも、肩を叩いたというのも、脚色かも知れない。しかし、現在の話し相手に対しては当座「位取り」の効果は、あるんです。梅原氏ほどの知名の人と出会って、先方から先に、しかも敬語を使ってボディアクションまであったという。聞き手が十分に梅原氏の名声を心得ていればいるほど、ここでは、話し手の聞き手に対する「位取り」は、強くなり高くなり、微妙に、押す・押されるという攻防にアヤがついて来るわけです。
これに対して、今度はこの聞き手が、こんなふうに打って返すこともありえます。
「ああ梅原はんナ。ええ人や。わたしも、こないだ、ちょっと用を頼まれましてナ、研究所へお届けに行って来ましたんや。喜んでくれはってナ」と。
きつい逆襲ですよね、「梅原せんせ」から「梅原はん」に変わる。どっちがより近しいか、歴然としていて、まさに遠回しに「位取り」「位の取り返し」が露出しています。「気さくなお人」と「ええ人や」でも、はっきり距離感の差で、「位」を取っている。まして「用を頼まれ」「研究所へ届け」「喜んでくれはった」となると、もう、行きずりに肩を叩いてもらう程度の接近ではない。こと「梅原」氏との関係に限っては、この両者の「位取り」はみごとに上と下とが逆転するわけで、これがまた、「梅原」氏との関係とだけは言えない、微妙な世間での「幅」の問題、「力関係」の分かれにまで触れ合ってくるのは、せまい地域社会にあっては、自然な成行きと言えるでしょう。
京都の人の、言葉を武器にした「位取り」の競い合いというのは、今あげました一例のような、さりげなく、かつ、遠回しにもって回った、虚実とりまぜての話法の駆使によって、かなり真剣に、とにもかくにも目の前の相手よりも、下めにだけは立たされまいと気張る・頑張る、そういう世渡りの努力によってなされて来たし、なされて行くんですね。つまらない事のようだけれど、われわれ庶民の日常に、そうそうつまる話ばかり有る道理は無く、つまらない瑣末なそうした人間関係の力関係を、より自分寄りに高めに、強めに、維持しつづけたいと、誰だって願っているわけです。低めに、弱めにもって行き続ければ、どうしてもこの世間で、人のしもてから、したてに出て、まことにへたな人生を強いられ兼ねないからですね。京都の人は、歴史的にみて、そういう日常という名の戦場へ出て、「京ことば」という不思議にしなやかな、しかし、したたかな武器を千変万化、駆使することで生き抜いてきたという、無意識の自覚と誇りとを持っていますよ。だからこそ「口の利き様」「物の言い様」の「じょうず」「へた」ということを、ほとんど人格とも関係させて強く評価します。「口の利きようも知らんやつ」と言われては、京都という町で、まともには人に付き合ってもらいにくい。つまり非常識なやつという意味にさえ、なってしまうんです。ま、こんなことを公然とラジオなんかで話しているわたしなんぞは、さしづめ、同じ京都育ちの者としては、いちばん非常識なやつであるわけでしょうね。
――さて、おおよそ、おっしゃるように、日本語と京ことばとの、まあ、かなり根の部分での関わりについて理解を深めてきたわけですが、もう一度、問題を最初に戻しまして、そういう日本語、物・事・人にかかわる多くを明確に言いおおせるのではなく、むしろ言いおおせて何かある、言いおおせないままに真意や事態を伝えて行くという素質・性質の日本語を用いて、どう「書く」か、「書ける」かという……。それをお話しくださいませんか。
大事なご質問ですね。
一般に、近代・現代の素養をもった人間は、言葉による伝達ないし表現行為として、申すまでもなく、「読む」「書く」「話す」ということを、誰しもがしています。それは世界中の人がしている、もっとも一般的な日常活動ですよね。ただ内実は、それぞれの言語、国語、ネイティブ・ラングェージというものが質的に関係してきますから、けっして一概なことは言えないわけです。われわれ日本人の場合ですと、ここに、「日本語で」「読む」こと、「日本語で」「書く」こと、「日本語で」「話す」こと、と、その特質を認知していなくてはならない。「日本語で」という、この、「で」の一語のところに、問題が凝縮しているわけですよ。
「読む」と「話す」とが、意外に日常的には重なっていまして、わりと「話す」ことの微妙な日本語性については、お話をしつづけて来ましたね。自然それは「読む」ことの微妙さにも、通じる点が多かったはずです。
しかし、体験的にもそう感じていますが、「書く」というのは、一過性に「話す」ことや、受動的に「読む」こととは、ちょっと行為としての性質が違うんですね。意識的だし構築的だし、また、推敲といった批評行為で、いわば時間を重ねて使えます。口にしたことは、なかなか言い直しが利かないけれど、筆で書いている最中は、書き直しが出来る。それだけ、より一層・意思や意図を効果的に表現するための工夫も努力もできるのが、即ち「書く」ということです。今は私も、もう十何年ワープロを愛用していますが、これはやり直しのラクなことで、革命的な器械ですが、かつては、書き直し書き直し第一稿を書くと、次にそれが真っ黒になるほど添削推敲して第二稿にし、とても編集者に渡せる原稿ではないので、さらにそれを家内に清書してもらい、人の字になった原稿を、又もう一度私が丁寧に推敲してから渡す。そういうことをしていました。
そういう手間暇を、では、何の為にかけるかといえば、私の場合、事実を「明確に」伝えるというよりも、真実を「効果的に」伝えるという努力であると言えます。「明確に事実を」となると、どうしても「説明」に陥りますが、日本語での説明は、語彙の点でもそうですが、とくに、語法的に無理の有ることは、日本語で「書いて」いる人なら、みな、よくよく肝に銘じていますよ。例えば、句読点ひとつ打ち損じただけでも、意味が変わってしまうような語法・文法なんですから。そのうえに正書・正読法がまったく出来得ない言語です。漢字を利用してやっとその辺の混乱を防いでいますけれども、もし、ひらかなだけで、或いはローマ字だけで「書く」となったなら、例えば「かける」という一語だけでも、字が書ける、ばくちに賭ける、ものに手間を掛ける、走る意味の駆ける、不足の意味の欠ける、絵が描ける、ものを引っ懸ける、橋を架ける等々、いろいろです。
だけれども、だからまた、そういうあやを逆に利用して、縁語とか掛け言葉とか枕詞とか語呂合わせとか、いろんな工夫や言葉の遊びを開発しても来た民族です。曖昧なら曖昧なまま、曖昧ななかに的確な「表現」という工夫により、意味や意図を面白く打ちだし、誤解ならば誤解をも、そのままに理解へと誘いこめる言葉の道を探り探り「書いて」きた文学・文藝の伝統というものが有った。厳然と有った。中世以降に限りましても、謡曲の表現は、歌謡の表現は、西鶴や近松の表現は、芭蕉の表現は、「説明」的な明確さでいえば、ほぼ落第点でしょうが、日本語の表現では魅力ある世界をそれぞれに確立しています。文藝・文学の表現の方が、「説明」を事とする評論的なものよりも、もっと効果をあげています。たとえば世阿弥らの能楽論は、もっとも優れた芸術論の一つではあるけれど、しかも難解をきわめています。難解の理由は、まさに、その「日本語」そのものに在る。
同じことは現代にも言えます。同じ一人の作家が、小説を書かれると効果のいい「文学表現」になるのに、明確さを意図してエッセイを書かれると、乾いた砂を噛むような味わいの堅い、「読む」妙味に乏しい、わるく難解な文章になってしまうというような事が、まま、有るんですね。
日本の文学・文藝の真の目的が、事柄の明確な「表現」に向かうということには、私は賛成です。しかし、明確な「説明」に向かうというのは、さほど大事とも、また可能とも思われない。と同時に、賛成だとは申しましたが、さきの、「明確な・表現に」向かうという、そのこと自体が一種の矛盾関係にあるということも、私は、日本語ないしは古典語体験を通して実感しています。「明確」とは行き兼ねればこそ、「表現」という手段に工夫と創意とが必要となり、それへ「文藝」という藝・術を洗練する。むしろ明確なではなく、「有効な・表現に」「的確な・表現に」「みごとな・表現に」文学・文藝は、向かうべきであると思うのです。その意味で、西洋語に学んだ散文感覚だけで日本語を律してきたような近代以降の日本文学の主流ないし研究態度に対して、いささか、危惧を抱いていることも、申し添えておきたい。
時間の関係からも、いろんな具体例をあげて話すということが、十分できなかったんですが、この機会に、問題の所在を、なるべく、おおきく掘り起こしておきたいと願っていました。それほどに、この、「日本語で」「書くこと」「話すこと」という、「日本語で」の「で」の意味の大きさが、一般に検討不足と思って来ました。関心の深まることを願っています。
いろは日本誌
「共同通信」扱い各紙週一回連載 一九九一(平成三)年四月-四年三月
春……口上
四季一年を五十二週と勘定して、いろは今様歌の四句、すなわち「色は匂へど散りぬるを」「わが世たれぞ常ならむ」「有為の奥山けふ越えて」「浅き夢見じ酔ひもせず」の都合四十八音に四十八の漢字をあて、いささか「日本と日本人と」を思い、また考えながら、「春夏秋冬」四度の中仕切りを立てて閑話休題の息をつごうという、趣向。
漢字は何十万字もある。かりに頭に「い」とつく漢字だけを拾っても、そら恐ろしい数であり、しかも思わず立ちどまらせる迫力ある、課題性もある、示唆にも富む「い」文字は幾らでも拾える。だが採れるのは、たったの一字。限りある「囲み原稿」のそれが枠というものであり、各五百文字で、選んだ一字に切り口をつける。どう選び、どう書けるか。さ、「いろは」一文字の旅へ、春四月。桜前線の北上が足をはやめ、しかも花見気分ばかりでは済まぬ場面が、国会に、外交に、市況に、労使に、家計にせち辛く迫っている。
旅は、だが、せわしないばかりでも味がない。せめて千年、千五百年を一つの同時代と眺め、大昔の人に微妙な現代をみつけたり、まっさらな現在の話題に存外な歴史や伝統の鼓動を聞いたりもしたい。そろりと参ろう。
い……今
今がいちばん大事と何度口にしたか、されたか。そういう「今」に何度もつまづきながら生きてきた。それなのに「今」の正体、よくつかめていない。
古風があり今様(いまよう)がある。その今々の風(ふう)や様(よう)がすぐ古臭くなる。無残にすたれる。人も物も事も、千年二千年はおろか、百年も生き延びるのは容易でない。三百年の寿命を保っている歴史上の人物を三百人思いだしてみよと言われたら、まず、お手上げだ。だが、その何万、何十万倍もの人がそれぞれの「今」を生きてはいたのである。
新熊野、新日吉と名付けて「いま熊野」「いま日吉(ひえ)」と読んだ昔もたしかにあったが、「今」が必ず新しいとも言えないことは、今が今も、古めかしい古臭い感覚や習慣や判断から抜け出せない人の多いことで知れる。そういう今は「現在」の意味でこそあれ、無条件に「現代」と同義ではない。「現代作家」を名乗る人も、ただいまの事件や風俗を古臭く描くだけの「現在作家」にすぎない例は多い。今の題材や今の舞台が「現代性」を約束はしない。
「現代」の名で時を越えて生きるには、果敢な「今」への批評と表現が必要だ。
ろ……論
論文と評論とは、ちがうもの。研究者も批評家もまた読者も思っている。夏目漱石には「文学論」「文学評論」という二つの主要著書があり、子供のころに読んで「論」と「評論」とのちがいをおぼろに感じたが、あれなどはしかし両方とも「論文」といっていいものであった。
昨今ではその差は恣意的なまでに広がっている。論客といえる人は少なく、肩書に評論家を名乗る者の数はおびただしい。いい論文は正しいうえに面白く、いい評論は面白くてかつ正しいとわたしは納得することにしている。漱石に、そう教えられたとしておこう。
日本人は、元来が論じるより感じる方である。論じる人間を理屈ッぽいとむしろ嫌う。敬遠する。理想論ないし筋論などという言い方にも、かなわないという嫌悪感がにじみ、むしろ足して二で割る式の腹藝を歓迎してしまう。「無論」「勿論」という反論理性や没論理性の納得をどんなにしばしば口にしていることか。なるべく反論などしないで済ます道ばかり探っている。「論より証拠」にも、潜在する「論」不信が動いている。一つには日本語が論じるに適さず、むしろ感じとってもらいたい曖昧語なのである。
は……箔
十年も昔、ある総合雑誌の記者に、すでに日本の問題の最たるものは「世襲」だよと言ったが、彼氏は首を傾げて「教育」でしょうと賛成しなかった。
教育どころか政治も経済も藝術藝能も、学問すらも、根に、独特の世襲期待があって動いてきた。それが昨今、やっとこさ話題にされている。世襲とは、いわば「箔」の張り重ねなのである。
「箔」にも金箔も銀箔もあれば、ただのボロもある。昔はボロボロの箔があり、しかもそれを拒絶したり脱ぎ捨てたりすることを世間が許さない、そういう過酷な世襲もあった。いまも無いとは言ってしまえないが、昨今ではおおむね世襲すなわち特権・既得権の確保を意味し、親は子に「箔」をかぶせ(つけ)たがり、子も親の「箔」を欣然として待ち受け、金銀の箔の光で世を押し渡ろうとする。
さりながら「箔」はうわべの飾りであり、内実の金無垢をなんら保証しはしない。もろくも箔の剥げる恐れは濃厚であって、当人のためには心配しないが、そんな「箔」づけの手合いが、こと政治や教育や経営にまさに当たりながら、化けの皮を剥がしていくソラ恐ろしさ、想うだに、怖い。
に……西
日本の世界は「西」を向いてきた。京都から望めば、朝鮮半島も中国も西に当たっていたし、南蛮・紅毛はもとよりであった。泰西という呼び方で西洋を意識した。泰とは大きなという意味である。
西洋を知って初めて東洋という認識も形をなした。それまでは唐(中国)・天竺(インド)で用を足していた。神国という尊大と、粟散(ぞくさん)極東の辺土(へんど)という卑下とが、かなり大ざっぱに精神構造に混在し、むろん地球的(グローバル)な発想は持てもしなかった。
大きな「西」の具体的な大きさは、火縄銃や時計や眼鏡や鉄の船が目の前に威力をあらわすまでは、思いもよらなかった。「東は東」とことさら考えてみる必要がなかった。その以前の「西」はといえば、日の沈む方角、せいぜい瀬戸内海や九州なみの西海・西国、ないしは西方極楽浄土のことであった。往生浄土がいちばんの「西」感覚であり、たとえば西行法師の名乗りももとよりその表現であった。
古い「西」にも新しい「西」にも、日本人の依存度はなお強い。だが、世界の歩みは早く、今や「南北」の座標で揺れている。
ほ……本
本当のことは、言うものではない。言わなくても分かるもので、分からない者にはいくら言うても分からない。
そう、中学のころに、ひとつ年上の女の子に教えられた。昔、「話せば分かる」とある政治家は殺される間際に叫んだとか。京の町なかの女中学生の喝破した方が真実に近い。話して話して、そして分かったと思うことが「本当」のところかどうか、実はおぼつかない。
本当の本と、本屋さんで売っている本とは、同じ「本」か。日本の本とは、違うのか、同じ「本」か。なぜか書籍を「本」という一方で、日ごろ、本質、本格、本物などとも口にしている。してみると「本」という名の書籍は、本質、本格、本物であると広く尊敬を受けているのか。たしかに昔はそう思われていた。だから「本」を読み、「本」に学んだ。
だが、幸か不幸か、そんな本質、本格、本物の本など、今では出版という名の「本」屋も書店という名の「本」屋も、また著者という名の「本」屋もはやらないと敬遠する。読者の多くも敬遠する。言うて詮ない「本当」のはなしで、分かる者は、ますます少ない。
へ……変
筆者の生まれ落ちた一九三五年ごろ、昭和なら十年ごろ、世は「事変」つまり支那事変や満州事変といわれる物騒なさなかにさしかかっていた。「変」の文字に、まことキナくさい実感があった。
やがて本を読み学校へ行くようになると、わが国の「変」な、ではない「変」の歴史も順次頭に入ってきた。変、乱、役(えき)、そして合戦。相応の使い分けがあり、意味も少しずつ違うのではあろう。が、要するに尋常ではない事態、つまり「変」なのである。だが、その「変」が時代を変え、人を変え、制度や文物をも変えていく。
新井白石という類(たぐい)ない歴史家は、日本の歴史に大勢(たいせい)と変とのふたつを認めていた。大勢を大きく変える変もあり、小さく変える変もある。変わったようで変わらず、変わらぬようで変わっていく、歴史の流れ。流れに棹さす身としては、「変」に敏感であっても苦しく、鈍感でもおれない。その微妙さは、ふしぎに老いへの対処に似ている。ハイテク器械化におびえないで、ある程度は高機能器械も使いこなしたい。そして、貨幣価値の変動にも置き去りにされたくない。わたしの「変」対策だが、変か。
と……友
友達がいない、欲しい。想像をこえたパーセンテージで若い世代の魂をきしませている、切ない願いであるという。
孤立感こそは現代の業病であり、見せかけの陽気は巷にあふれて「友達の友達は、みな友達だ」と謳歌しているかに思われるのだが、それが幻影にすぎないことを、大概の学生、生徒も、若い勤労者も、留守居の主婦たちも身に痛く心得ているようだから、さびしい。
日本人ほど「友」を持てない民族は珍しい。古来、「親の闇、ただ友達が友達が」と、わが子のことは棚にあげ、罪を友達になすりつける。今や受験戦争が輪をかける。真実の友に恵まれる環境が成り立っていない。友情をうたい描いた作品は乏しく、友情の逸話もめったに聞かれない。西洋人が「友達だ」と互いに認めあうときの、あの、力強い信頼が日本人同士ではめったに見られない。
親分子分または兄弟分とはいう。亭主役、女房役ともいう。どうしても家族の擬制になり、自立した個と個との間柄で不動の友情がつくり出せない。神の前に平等という信仰のないためか。政治家不信の深い理由もじつはここに根ざしている。
ち……珍
十七、八世紀の日本の知識人をとらえた一つに、「珍物」への好奇心があった。博物館は今では市民生活に定着した施設だが、「博物って何」と問われれば、「何でも彼(か)でも」とでも答えたくなる。より正しくは「何でも彼でも」珍しくて、しかも有用で価値あり、容易に手に入らない物への、好奇心・探求心が、博物学の土台になった。薬物薬草などを網羅的に把握したい意欲が、本草学(ほんぞうがく)などという「珍物」収集や探査の学問へ展開した。
珍物到来の噂がたてば、ワッと人が寄って、名前は、用途は、産地は、何に類し、再生や増産は可能かなどと、首をひねって談じあう。物産会は素朴なようで、徹した科学への基礎の作業、素朴な学会であった。胸を高鳴らせて野に山に海に異国にと、珍物を求めて行った。探検とは本来そうしたものであり、商人の物欲に塗(まみ)れがちであったにせよ、着実に新しい市民の知識欲もそれを追跡していたから、近代科学への弾(はず)みは強かったのである。
現代日本の物の豊富と底の浅い金余りは、この「珍」へのうずく魂の渇きをやすやすと満たして余りがある。だれより子供が物を珍しがらない。そのツケはほどなく、未来から突きつけられるだろう。
り……利
理屈を言うなと叱られた。理に働けば角がつとも諭(さと)された。理は理、現実は別、とも頭を押さえられた。理知の人というのは、融通の利かぬやつの意味らしい。義理とよく言うが、それは義でも理でもなくて、人情の言い換えか添え物にすぎない。要するに、日本人は古来、理よりも、情。されば「理」は見捨てても「利」につこうかという、長い目でみれば無理で不利なハナシになる。さりとて、道理と有利がいつもがっちり握手をしているという保証もない。
ならば長い目でなど言わず、短期に利を稼ごうと、株へ走って、損。横文字を並べた投資商品をあれこれ言われても、薄い利に厚い税金で、元金保証もなく、文字どおり、無残。
利益とは儲けの意味とは限らない。物・事・人のすべてに有利があり不利がある。金で換算できる有利不利があり、換算できない有利不利がある。換算できる方が便利という利の感覚が人の世を動かしてきた。それが資本主義社会である以上、「利」とは究極、利子とか利率とかいうことになる。問題は利子も利率もがっちり管理されていて、「自由金利」時代などというのも、だれに有利で、だれに不利か、ハナから決まりきっていることだ。
ぬ……沼
池と沼と湖と海とを、覚えた。沼だけが、何となく分かり切れなかった。つまり、子供のころ、沼だと言われて沼を見たことがなかった。池沼といい湖沼という。どっちつかずな、しかし、暗い泥々した底知れないものを感じていた。池より広いのか深いのかどうかも、判じがつかなかった。
深さが五メートル以下で、底に泥土がたまり、沈水植物が繁茂している池を、沼というらしい。池より広い沼も狭い沼も、ある。池には、人工のものもあるが、沼は、自然天然の池だと思っていいのだろうか。「ぬま」という言葉で、要害ないし要衝を遠い時代には意味していた。沼とかかわるかどうか知らないが、やはり天然自然の語感がある。たしかに、泥と藻の広い沼は要害であったろう。生物も豊富に育てていただろう。
そんな沼や湖を、政道の名において干拓し始めて、何百年を超えた。自然の沼がどれほど日本列島から影を消したか、一度、公は、公の報告をすべきだろう。地面が足りないからと、なおこの先、乏しい一方の沼や池をつぶし、また生きた川や小川を殺し続けて、それが政治だと居直られては、人は知らず、いずれ日本の自然が復讐に出るだろう。
る……類
同じ人類同士とは思えども、言葉が違い、肌の色が違い、住む場所が違えば、たやすくは同類感覚になれないで、そこに我と彼、我々と彼らの区別や差別ができる。
共存や並立の均衡が崩れると、ときに激しく対立し抗争する。むざむざ負けてはいられないから、一つの手段として「我々」仲間の数を「彼ら」より増やしたいと人は願う。当然いろんな妥協が必要になる。肌の色は塗り換えられないが、言葉は学んで通わすことができる。住む場所は違っても、往き来はできるし、産物や技術を通いあわすことができる。どの違いを捨て、どの違いを生かしあうか。それがどう互いの利害をバランスさせるか。工夫もし、すこしは無理もしあって、同類としての態度や立場を納得するようになる。
「類」としての異と同とを慎重に人はいつも推し量り生きている。孤立して暮らせないことを、やむなく承知しているからであり、しかし、「類は朋(とも)をよぶ」にしても、その効果に無批判に頼っていると、孤のとは言うまい、個の、真実が、ただの類似的な日常にまみれ、麻痺摩滅していく不安も実は深まってくる。多様で多彩に見えながら、類につながる安住が、人の、根の力を衰弱させてはなるまい。
を……男
二十年ほど以前、「女文化」という言葉を、かく申す秦恒平が初めて世間へ持ち出した。
女性文化でも、女の文化でもない。いささか露骨なもの言いをすれば、「男が女になった気でつくり、男が女の気分で楽しむ」文化である。この規定にしたがって、およそ十世紀以降の日本の「文化の素質」はたいてい説明が利くと思っている。
歴史的にもっとも著名な例は、紀貫之の『土佐日記』である。男の貫之は、女になった気で女の文字である平仮名を用いて、男が慣用の漢文でなしに、女子供の和文によって、土佐から都への旅日記を書いてみた。「男がよくする日記というものを、女のわたしも書いてみよう」という趣向で書いた。追随して女たち自身の日記や随筆が美しい花を咲かせた。
男の漢詩ではない、女歌(をんなうた)といわれた和歌の道に『古今和歌集』という千年の規範を授けたのも貫之ら男であったし、物語の手本を与えたのも男だった。絵も書も、茶も花も、旅も遊びも、もろもろ同じだった。
女は化けるといわれるが、日本の男も負けず劣らず、女を掌に踊らせて多くをつくり出させながら、女の気分でそれを楽しむ化け方を知っていた。その化けの皮がいまや心細い。
夏……閑話休題
夏休みに宿題さえなかったら、楽しみは二倍三倍にと、片付かない宿題の山をうらめしく睨んだ記憶は、三十年すぎてまだ新たである。その嘆きを解消するには、秋九月を新学年のはじめに制度がえするのが、特効薬だろう。九月新学期という時代は過去にあった。四月に改められ統一されたには、それなりの理由があったろうが、理由も何も、桜咲く春四月に、ものごとの初めを喜び勇んできた心の歴史は、軽いものではない。
筆者は、九月から始まる二学期が好きだった。期間もながく行事も多く、新しい友達との友情が定まって行く時期でもあった。ちかづく新年へ、充実の自覚できる時期でもあった。そして学校を離れ、ひとしおの宿題を背に大人の渡世に喘ぐにつけ、なにかしら「人生の二学期」といった思いようで、まだまだと、自身を励ましつづけてきた気がする。
だが、あの長い「二学期」のまえに、あの長い「夏休み」がもし無かったとしたら、これは堪りません。そして「宿題」も何もないただ長いだけの休暇であったら、ああもコクのある夏休みが楽しめたかとは、今にして思う。宿題のない春休みの、ただ短いからというのでなく妙に頼りなかった記憶、大勢の方がお持ちだろう。
わ……枠
枠組ということばを、ちょいちょい聞く。予算編成の枠組とか、プロジェクト・プランの枠組とか。枠をはめる、枠にはめる、とも言う。競馬では一枠、二枠とか、内枠、外枠などと言う。予算予定の外にあることを、枠外などとも言う。そうかと思うと黒枠に入った写真に手を合わせたりする。世紀を越えて人類と時代を規制するパラダイムという枠もある。
障子の枠や糸枠などは目に見える形であるが、なんとなく限界や範囲や、それに伴う制限の意味の「枠」は、目に見えずに人の世と暮らしとを絞り縛る意味で、なかなかの曲者(くせもの)である。学校や会社や施設に入りたくても、どこのだれが決めたとも目に見えずに、「枠」に阻まれる。社会が複雑に機構化すればするほど、「枠」は一種の威力として、世間の至るところで通せんぼ役をしている。よく言えば混乱や氾濫を防いでいる。いくらか「手順」「手続き」にちかい。面倒で迷惑なのだが、さて、無くても収拾がつかない。
それならば、なるべく率先計画的に自身のためになるように「枠」を生かす日常が望ましく、それと他から迫られる「枠」との折り合いを賢くつけることが、こうややこしい現代を生きるには、余儀ない知恵となる。いやそれが本当の意味の「思想」かも知れない。
か……株
「家と株を持たぬもの、人にあらず」とか、途方もないセリフをどこかで聞いた。金がその二つに化けている。つまり現代の神でも、ある。金にも神にも見放された者には、手ひどい絶望の壁がすなわち、家と株である。
「株」とは、これほど耳に目にしながら、奇妙に即物的な文字も例がない。木の切り株。そんなものが、現代を動かせるのか。いやいや現代の話ではない、一時代も二時代も前から「株」は資本資金の動く根拠であった。「株」は、事業を起こし広げる、そのいわば権益と保証とを意味してきた。
「株式」という二字に、資本主義経済や政治や社会の、ほとんど全部が鋳(い)こまれていて、「株式会社」が日本だけでなく世界を世界たらせている。だれでも知っている。「株価」の動きに目を背けて国は動かない。だがそれほどの「株」の、たったの一株にも手の届かない人数が、圧倒的多数。「人にあらず」とは、やはりこの世は地獄か。
よ……夜
「五時まで男」「五時から男」という認識には、ハムレットかドン・キホーテかなどというよりも、もっときわどい日本の歴史性がこめられている。「働き人(ど)」と「遊び人(にん)」と翻訳すれば、その先には「庶民」と「貴族」といった遠い時代のことも見えてくる。
日本の貴族の代表的イメージは、なまじ実在の人より架空の「光源氏」をあげるのが分かりいい。その光とは、けっして太陽のさんさんとふりそそぐ昼間のそれでは、なかった。むしろ夜の闇の底から女の色香ももろとも、ものの映えとしてきらめく微妙に特権的な光であった。彼らの暮らしは夜(よ)に夜をついでこそ営まれ、日に日をついで生きねばならなかったのは、農や工や商や、つまりは体をもとでに立ち働く人らであった。
一方で「二十四時間、戦えますか」というアピールも声高なら、「五時から男」の遊びの意欲も臆せず世に受けている。両方とも強壮ドリンクの広告であるのも面白いが、日本のこれからが、より「働き人」をめざすのか「遊び人」をのぞむのか。二十四時間働かせたい側と、五時からの夜の誘いに悩ましくも憧れやまぬ側と、やっぱり差別分担は微妙かつ過酷に維持されつづけるのか。無明長夜(むみょうぢょうや)か。
た……為
ちょっとした何かを話したあと、切り返すように「為になりました」とやられると、本気にせよ、ごアイサツにせよ、かるく頬を打たれた気がしてしまう。
思い起こせば「為」という字を初めて覚えたのは、頼朝や義経の叔父さんに当たる鎮西(ちんぜい)八郎為朝(ためとも)の名からであった。強弓(ごうきゅう)の為朝は英雄だったし、為の字にも魅力があった。
だがその後は、よろしくない。「お為を思って」だの「為にならんぞ」だの、気色のわるい場面に何度出くわして来たか。「為にする」ことばかり、つい考えたりしたりする人間が、自分もふくめて、なんと人の世に溢れていることか。
「世の為・人の為」また「お国の為」を思ってわるかろう道理は、ない。のに、どうもその為に人は何かしら、偽っている。気取ったり飾ったりしている。建前の「為」をふりかざしながら、まんまと「わが為」をはかり、「為にならない」ことは損かのように振り向かない。政権政党が、率先して、日本の「為」を「為にし」て「わが為」をはかり、抵抗すれば「為にならんぞ」と押えにかかる。「人」の「為」と称する「偽」りに、つよく怒ることも覚えたい。
れ……列
国民学校の一年生だった。登校は上級生の引率で二列縦隊。校門の五十メートル前へくると、号令一下(いっか)、歩調をとった。そして配給物のために行列し、切符を買うのにも行列し、「列に外れ」てはすなわち生きていけない有り様だった。
「列」というものを、見なくなった。そう言いたいが、必ずしも、そうではない。タクシーは少ないし、競技場に入るのにも前夜から列んでいる人はたしかにいる。しかし、少なくもいまは国是(こくぜ)かのように強いられた不自由で苦痛で貧しい列ではない。
むしろ暗にいまも日本を支配し人を悩ませている列は、「年功序列」という列だろう。ところが、それさえ様変わりの気配。離婚同様に転職も現代の風俗となり、フリーターがけっこう羽をのばしている。年功序列も鉄壁ではなくなった。
現代の見え見えの長蛇の行列は、高齢者施設入りの順番を待つ列だ。
そ……損
損して得とれと教えられた。これは凡人には実践しにくい教えではあった。兼好法師は十目の石をまず捨てることで十一目の石を取れと説法を垂れたが、碁盤上のことでもなかなか容易でない。まして世渡りの現場では、いったんの損は永久に損、それも損に損が重なっていく気がして、そうは徒然草(つれづれぐさ)みたいなわけには出来かねるのが凡俗の久しい習い性というものである。
損して得などというのはもともと少々の損、一時の損に、慌てなくても済むお人の話かも知れない。そういえば政治の理屈というのは、概して保証のとぼしい先の得を説くことで、目前の損を国民に我慢させるというたぐいが多すぎる。
損ということを口にするのは卑しいように、躾けられてきた。それでいて得ということを口にしてもやはり卑しいのだと、思い込まされてきた。どうすりゃ、いいの。妙にここでマゴマゴしている間に、損は手元に、得はよそサマヘ、という具合にいつも、なる。
どちらかならば、得へ得へ目の色をかえて走るよりも、「損」はいやですと、せめて、そうハッキリ言うべき空気に世の中をつくりかえたい。「得」がしたいと言いすぎる世の中よりは、その方が健康ではなかろうか。
つ……次
次の一手で、事態が動く。変わる。碁や将棋だけのことではない。なにより政治がそれである。今と次との間隔をどう読んでいるか、どんな次を判断し選択するか。
ポストといえば、あの愛嬌ゆたかな赤い郵便ポストでは、今やない。次期の人事。次の人を待っている椅子。その椅子と人とで金が舞い、血と涙も流れる。次から次をどう読むか。世渡りの、それが正念場。そう本当に考えているのなら、大切なのは「歴史」に深く学ぶ態度だろう。
むかし古橋という水泳の選手がいた。日本一どころか世界一だった。古橋のかげに橋爪という世界二の選手がいた。いつも古橋の次にいた。わたしはファンだった。次でもいい、頑張ってほしかった。
だが、なかなか、次でもいいという世間ではない。甲子園でも選挙でも、準優勝や次点に流す涙はとびきり苦いだけでなく、扱いもちがう。勝てば官軍、副社長のまま終りたい人はいない。まして社長の息子に社長の椅子をさらわれる古参の副社長はつらい。
世の中、つらいことが多い。それは上があり下があり、先があり次があり、さまざまに位取りというものに、卍がらみに人が金縛りを食っているからだ。だが次官、次長、次席の辺りの頑張る社会がいい。関脇の強い本場所ほど、おもしろい。
ね……猫
猫とはなんだ、ふざけるな。ふざけては、いない。熱、閨、念。そんなのと比べれば、猫で上等である。なにしろ源氏物語の貴公子だって、猫で運命が変わった。かわいいのだ。
ことに白と黒との純和猫がいい。(真っ黒だって、いい。)絶妙の藝術であり、龍安寺の石の庭にちかい。こと猫に関しては、筆者は国粋派である。世界中でうちのネコの子だったノコほど、上等でいとおしい猫はいない。母猫のネコは残念にも死んだが、欠かさず、天国での平安を祈っている。
猫なで声とは、なでられた猫の声か、猫をなでながらの人の声のことか。筆者はそれにつき無数の実例を駆使してながい論文を書き、高い原稿料を取ったことがある。
猫舌ではないが、猫の手も借りたい時はある。もっとも忙しいから借りたいのか、あの当たりのやわらかい猫の手で痛いところをなでられてみたいのか。おっとりと心をゆるし合ったときの猫との握手くらい、優しいものはない。
だが、猫の気持ちは繊細で、たしかに猫の目のようにくるくると藝術的に変わる。それとうまく付き合えなくて猫をかわいがるなんて、できない。
もっとも猫の目のように人の世の中が、あんまり変わり過ぎるのはいただけない。落ち着きのない日本である。
な……何
謎とは「何(な)ぞ」と問いをかける意味である。「何」を問うか、その判断と選択とがどんなに大事か、もし神さまが一つだけ、どんな問いにも答えてやろうと言われた場合を想像すれば、察しがつく。
いちばん大事な一つを問う。出来そうで出来ない。緊急の際に何を一つだけ持って難を避けるか、その場になって慌ててへんな屑をつかむようなもの。
「春は」と問われて「あけぼの」と決定的に答えられる力は、つねづねの自問自答がなくては身につかないと、枕草子の時代の人は知っていた。
社会が成熟から爛熟の段階に入って、大概のことにもタカをくくるようになると、人は驚いたり思案にくれたりするのをやめ、何をみてもしても、何事とも何物とも何者とも、新鮮に問い返す体験を面倒がる。慣れ馴染んだ空気を一度無にかえして入れ替える試みを面倒がる。
どうしたの。何でもない。何かあったの。何もない。何にする。何でもいい。あげく何があっても驚かない、感じない。何なんだ、これは。
「何ぞ」と目をむき耳をそばだて、千里を遠しとせず身も心をも運んで、何かしらより良い物・事・人に出会おうとする、その好奇心・関心が文明を花咲かせた。動かなければ出逢えない。
ら……埒
ラチもない。フラチな。放ラツ者。そんなもの言いはいつもしているが、ラチを踏み外すという、その「埒」の意味など考えてはみない。
ラチが明(あ)く、明かない。いろんな感覚で日常そういう思いは実はしている。自分は余儀なくそれのラチ外(がい)に置かれているナと、ちょっとわびしい疎外感にクサる事もある。
「埒」とは。もともとは馬場周囲の垣のことで、高いのを雄垣、低いのを雌垣といったと辞書には出ている。転じて物事の限界や秩序を意味するのだが、やさしく言えば、この先出入り禁止の目には見えないもろもろの垣・壁・仕切りだと想像すればよい。
さ、そうなると、この人の世、縦横無尽の「埒」の乱立とも思われる。いや、昔からみるとずいぶん楽になっているとも思われる。箱根に関所はないし、大井川に川どめもない。
だが差別に苦しむ人も場合も数えあげればキリがない。教育、行政、情報、福祉、就職など、埒の明かなさにジリジリする事は山ほどある。
かと言って、渡る世間に適当に「埒」が設けてあればこそ安心であったり便利であったりもするのを、けっして忘れてはいけない。少なくも懲りない面々の多い現実は現実。国会と刑務所とを直結させまい。「埒」は厳しく構えたい。
む……胸
胸三寸というから小さいものであったが、大きな意味をかつては持っていた。胸の内を見たがったり見せたがったりし、胸を割っての話し合いが好まれたりした。そこには赤心(せきしん)が宿り、誠意や魂胆の住処(すみか)と見られた。
鎌倉の沖でボート遭難した学生たちのために「ましろき富士の嶺」と歌いあげた女先生は、感極まって「ささげまつる胸と心」と叫んでしまって物議をかもしたとも聞くが、「胸」には、女のからだの美と神秘とをそのまま指さすほどの感動も、性への誘いの気味もあった。すべては昔話で、今では女の胸のあらわなこと珍しくもない。と同時に、胸の意味したものは「ハート」と呼びかえられて、それは心臓ではなくて真情なり共感なりのやや浅いような、深いような表現として乱用されている。
そういえば胸の病いつまり肺結核がすっかり忘れられている。結核菌はかなりしぶといから、突如帰ってくる恐れは無くなっていない。しかし胸の痛みや胸の悩みと表現されたあのわくわく感覚は、もう戻っては来ないのだろうか。日本の胸はすっかり「バスト」と「ハート」とに翻訳されきって、胸に迫るふかい感動や感銘からは、日々、なんだか腰が引けてしまっている気がする。
秋……閑話休題
雅号をつける人は、まず少なくなったが、俳句や書の畑ではなお珍しくない。ただし思わず声の漏れるようなよい号は、そう多いわけでない。北原白秋という名乗りには感じ入った。この四文字がそのまま詩に思えた。この白秋は、秋を「若き紳士」になぞらえた。
秋といえば、私などもう五十半ばのいい歳をして、まだ「二学期」の感覚でいる。「二学期」にはからだの内側で何かが実るという充実感が実感として、あった。どっしりと落ち着いた楽しさがあった。
もっとも「秋」は「みのる」ともよまれ、またしばしば「飽き」にかけて人間関係のそこはかとない心のうつろいや別れの予感にも重ねられる。季節感にも二面性があり、そのときどきに人間の側からするその選択で世界は静かに色をかえる。季節ほど自然の表情をあらわして顕著なものはないのに、しかも季節を色染めているのは実に人間の日々の生き方や態度なのである。
九月、明るい夏のをはり。
九月、しとやかな秋のはじめ。
九月、楽しい休暇のはて。
九月、新しい学期のはじめ。 (堀口大学)
う……魚
上も歌も嘘も海も運もある「う」だが、押して「魚」と言いたい。魚は古来良質のタンパク源である。魚を食わない日本の暮らしは考えられず、むしろ獣肉を公然と食卓に乗せ始めたのは、比較すれば最近のことである。しかも肉食に慣れること実に速やかに、今日では肉好きは、魚好きや野菜好きを圧倒している。
好き好きについて、強いてあらがう気はないが、米問題が国民世論を右に左におおきく揺すっているほどには、魚の手詰りについては、ま、タカをくくってあまり不安も無げに見受けられる。しかし、はたしてそうか。日本の魚資源に不安がないどころか、サケ・マスに限らず、ことに川を殺し湖を殺して淡水魚の量も質もガタ落ちになっているではないか。海の魚の味もなぜか年々にまずい。
米すら他国からの輸入に頼って国内減産は事実上の政策とされつつある。タンパク源の自給確保は国家自立の基本であり、日本は必ずしも不可能ではないのに、田を殺し海や河川や湖沼を殺してきた。漁に対しては民意も政治も冷淡を極めてきた、海国日本。これだけ長い海岸線と多くの港をもちながら、海のまぎわまで田畑は迫れども漁師は少ない。怪談である。
ゐ……委
「委」の一字をつきつけられても、へんになじまない。しかし気を配っていればずいぶんお付き合いの多い一字なのである。位とか式とかと、その点では似ている。敗戦後に初めて学級委員というものを選挙したとき、委員の語感が文字からは把握しづらかった。おいおいに、委任、委嘱、委託、委譲などということばを覚えてゆくにつれ、ま、「まかせる」くらいな意味でよかろうと、胸に落ちた。それでも政府委員、選考委員、編集委員、常任委員などの文字に、なじみきってはいない。落ち着きはわるい。
じつは永い歴史のなかで、この委員の「委」の意味にはあまり出会わなかった。その点は先に挙げた位や式と、大いにちがう。「委」は「ワ」で、これには別の意味があった。ヤマトや日本の意味にもなったし、ちいさいという意味ももった。あまり任せていた様子はない。
考えてみると、委員の「委」だが、こっちは何も任せますと言った覚えもないのに、向こうで勝手気ままに任された顔して、なにやかや好きにやってくれているという、どうも、そんなコソバユイ感じが有るのである。任せる任せないの決め手は、間違っても委員なんぞにならない側に有るのである。委員さん、そこを間違えないで欲しいな。
の……野
野道、野原、野山。なつかしい言葉になった。言葉に対応する「野」そのものが、急速に減ってしまい、子供たちにも「野」遊びの楽しさを教えてやれる場所が無い。無いが言い過ぎなら、少ない。少な過ぎる。
野があれば、仇のように開発してしまう。ていよく野を殺しているにすぎず、似て非なる野のイメージのゴルフ場に、金あまり日本人は紳士淑女の顔をして、裕福そうにプレーを楽しんでいる。無限の「野」の退化と衰弱の裏返しに国土開発だのリゾート開発だのという力ずくの裏金政治がのし歩いて、かつ立ち枯れたりしている。利権にむらがる業者と政治屋とが、陰険に「お手々つないで」野をつぶし山をつぶし、それで「ふるさと創生」もないものである。
野は、歴史的ないし民俗的に、おそらく日本語として「死者の世界」を意味していただろう。野辺送りという。いたる所になつかしい「野」があったし、そこになつかしい故人たちのやすらかを祈りこめてきた。その「野」を、平然と生存者が侵略しはじめて反省がなくなった時から、日本中が「墓」や「墓地」に困りだしたのは皮肉なはなしだが、ただのはなしでほうってはおけない。与野党一致での野放しは、困る。
お……音
音の管理のへたなことでは、先進国のなかでも日本は、頭抜けた一つであろう。乗り物に乗って騒々しく、街を歩いて騒々しく、観光地へでかけても騒々しい。種々雑多の音響が相乗りで渦巻き波立ち、しずかに会話が楽しめるような喫茶店さえ乏しく、家にかえると声がつぶれていて、イヤになることが多い。静かに話し合えないのもつらいが、静かにものを考える場所のあまりに乏しいことは、いっそ恥ずかしいほどである。
一例にすぎないが、ハバロフスクというシベリアの街で、飛行機待ちのあいだにほんの夕方の数時間を過ごしたことがあるが、夕方になるにつれて、いたるところから湧き水のように人が街へ出て、それは静かにゆっくりゆっくりと散歩をたのしむ。夫婦で、家族で、大人も子供も。騒々しいどころか、じつに、優しい静かさに街が和んでいた。
歌をわすれるどころか、日本の國はやたら歌だらけだが、静かな散歩といった市民の習慣は育っていない。音をほんとに楽しむためには、音の質と量とにもうすこし、こまやかな配慮と抑制があっていい。「騒々しい」という批評は日本の美学では決定的な非難であった。音に鈍感な人間は振舞いも騒々しい。
く……癖
物真似の藝が人気をあつめるのは久しい伝統そのもので、演劇などというのも、根は物真似から出発している。能も狂言も歌舞伎も人形も変わりはない。そして昨今人気の物真似サンらの藝をみていても分かるが、つまり「癖」をつかんでいる。見ためには個性といえども、つまり癖に近似しているのが普通であり、だから「ひとクセ」有るの無いのとその人物を批評することになる。癖ゆえにほめることも、また、けなすこともある。
癖とは、要はその人のつかみどころ。まして個性の才能のと言い換えれば、なにやら癖も有り難い。その伝では、日本の政治も政治家もいい意味の癖を極度に欠いている。
物真似藝に人気の沸騰する時代は、しかし、概して世間が没個性化して傍観者になっているのだとも危惧される。人の癖を笑うばかりで、内発する自分自身の一癖をよう磨かないのでは、真実の劇を演じる側にはなれず、終始観客のままに固定されてしまう。無くて七癖などというが、自覚と意欲とにつながっていないただの癖では生理の域にとどまり、人間のよい味にはならない。癖も、大事に育てたい。
や……役
役人とか役者とかいう。れっきとした現代語であるが、さかのぼれば、これほど古い言葉も少ないくらい、遠いはるかな背景をもっている。背景とは、死ないし死者ないし死体であったと読み取らねばならない。
死者ないし死体にまつわる霊魂を慰めるために、葬と藝能とが一対になっていた。いろいろの配役があった。配役にこたえる日常があり、家常があった。そういう遠い背景から時代をこえ社会をなしてさまざまな役割分担という名の人間の分業化と差別化がすすみ、そこに極端な不公平が、不平等が、固定されていった。配役の変更はめったなことでは実現しなかった。世襲というのは、そういう意味である。少なくともそういう意味に近いのである。
官吏のことを役人と思いなれてきた近代現代であるが、不浄役人とか首切り役人とかいわれた時代はそう遠い過去のことではない。そういう際に人が役という一字に読み取っていたものは、例えば藝者という名の役者でもあった。「ヤク」にせよ「エキ」にせよ、危険な差別への後戻りは警戒した方がいい。
ま……万
八百万と書いて「やおよろず」とよみ、それほどこの国には大勢の神さまがおられると教えられてきた。嘘八百の八百代言のと、八百は多数の代弁をしてきたが、さらにその万倍だから、すごい。よろず屋というのは、百貨店どころか「万」もの品物をとりどりそろえた店の謂いであった。
京都に百万遍という、今では地名、がある。事実はあるお寺の呼び名であって、その知恩寺では百万遍もの不断の念仏行がなされていた。そういえば百万塔といわれた小さい供養塔もあったしその辺から百万陀羅(尼)といった口うるささへの悪口も生まれたようだ。そして極め付けは、百万長者。
百万どころか、一万円札ができたときでも、そこそこに驚いた。ご老人ほど驚きは大きかっただろう。銭という通貨の単位は為替相場には生きのびているが、若い人ほど知らない。たとえ五万円札が出るという噂があっても動じない。百万長者なんてお笑いぐさになった。若者が毎シーズン買い替えるというスキー用具や衣服の、ひとそろえがらくに二十万円はして、それが親のクレジットの家族カードで支払われている時代である。つまり「万」はもはや「億」に。ボケる、道理だ。
け……権
先の戦争に負けたとき、小学校(国民学校)四年生だった。新制中学に入ると社会科という授業があったし、そのころに、選挙権とか女子参政権とかいう言葉を覚えた。「権」という文字は、筆者ぐらいな年齢だと、なにより選挙権、参政権として身につけ、むしろ土地家屋の「権利」証だの「利権」だの「権益」だのという言葉には縁が遠かった。
教室では「権利と義務」としきりに習うのだが、学校の外へ出てしまうと、昔からそうだったに相違はないが、義務や責任は妙に脱落していて、「権イコール利」「益イコール権」とばかり実例を突き付けられ続けてきた気がする。
思えば選挙権がもたらされるまでの一般大衆には、とても「権」の意識も感覚も、身にそぐわなかった。不相応だと思い込んでいた。それが昨今はなんでも「権」の主張になる。いいことである。よくない面も多いと思う。よくない方の利益の独占や隠匿が、実にしばしば「政権」周辺で汚職がらみになされることには、ことにウンザりしている。それを徹底して追求しそういうことをさせない「権利」こそ、国民本来の「参政権」だろう。
もっともっと用心して「選挙権」を用いたい。
ふ……不
現在われわれが用いている漢字のなかで、「不」は、最も便利な覚えやすい一字である。ひらかなでももっと書きにくく覚えにくい字はある。「不」の意味するところを言葉で言えといわれるとメンドくさいが、ナニ、否定的に反対や逆の意味にする符号だと思えばわかりが早い。不都合は都合がわるいのであり、不可は可でないのであり、不運は運がないのである。もっとも不純は純でないのだが、不順、不足、不当、不服など、早合点をすると意味のやや逸れてしまうときもある。
あまり便利で、なんでもかでも「不」にしてしまう傾向になるのも、しかし、怖い。不幸で不吉で不安な傾きをもつ「不」の字であるだけに、どっちかといえば、あまり目につかずに済むほうがありがたい。そうでは、ないだろうか。「ふ」という音は、口をとがらせて発音される。自然、不満や不平の表情を強いられ、見聞きする側でもそれが目ざわり耳ざわりに不快になることも、ある。
そうはいえ「不」の感覚や意志や認識なしに、とても人の世渡りがなるまいことも、事実として分かる。あたかも「不」は人の危険や不利をまさぐる触角に似て見えてくる。筆者にはとりわけ不思議の「不」が好みである。
こ……公
公害訴訟で裁判所が和解をすすめ、被害者も企業もその気になったのに、国(環境庁)は応じないと言う。こういう話が、いちばん、やりきれない。むろん和解が被害者のためにならないと配慮した判断なら、けっこうである。
しかし、ぶちまけた話は和解は国側の損だというわけである。情けない国であり、またそういう国を「公」と頼まねばならない「私」すなわち国民は、たまったものでない。
「私」が安楽に豊かに平和に暮らせて、それゆえに「公」はいささか貧しく苦しいというくらいが、いい。「公」が「私」の頭を好き放題におさえつけ踏みつけて大国がるなどは、最低である。「私」のうしろからゆっくりと「公」も充実して行く国がいい。少なくも「私」の幸福と安全と利益のために、きめ細かに奉仕する「公」であってこそ、「私」もそれを誇りに思い支えがいがある。
滅私奉公は、いかなる意味でも誤りであり、それが正しいとされた時代は、必ず、「公」そのものがだれか一部のゆがんだ欲望で「私され」ていた時代である。歴史はそれを痛いほど、実証しつづけて来た。教育のもっとも大切な根は、正しい言葉による「歴史教育」であり、それを文部省という「公」に公然と私させてはならない。教科書も、西欧なみに自由教科書がよい。
え……演
一字で「演」とみせられても、すぐ、ピンとこない。しかし演劇とか演奏とか、はたまた演技とか演出とか、講演とか公演とか、みな、今日あまりにもなじみ深い日常の文字であり言葉である。そして、なにかしら人は、昨今のわれわれは、こうした「演」を内心にむしろ楽しみ迎えている。わるいものではない、どっちかと言えば娯楽や愉快、気の晴れる方面のこととして受け入れている。今あげたようなどれもこれも、急に世間から影も形も消えてしまえば、まちがいなく寂しいと感じてしまいそうである。
「演」という字は、もともと豊かに水が流れて停滞しないという意味であるから、不快感からは離れた語感を誘ってくれる。式次第、つまりていねいに練られた順序に従って、もの・ことの行われるのを転じて「演じる」というようになった。シナリオ付きの所作である。手当たり次第の逆を行くのである。
さて昨今のわれわれは「生きる」ということを、演じているのだろうか。そうではならじと、拒んでいるのだろうか。実情は右をみても左をみても儀式だくさんに「演」は氾濫している。それも一長一短。だが、政治家が過剰演技の空疎な演出好き過ぎるのは、確かと見える。
て……敵
「敵は幾万ありとても」と歌いながら、賛成できなかった。自分自身も「烏合の衆」の一人かも知れぬという自己批評を欠いた言(こと)あげは、聞き苦しい。そうはいえ多少過剰にものを言ってみなければ「戦争」など、戦う気にはならないだろう。人が過剰に声を高くするときは、つまり時代の剣呑な時である。警戒した方がいい。
受験も戦争なら世渡りも戦争という理屈をたてれば、「七人の敵」どころで済まない。いつもいつも、どこにもかしこにも「敵」はいるのである。つまりいつでも、どこででも人は「戦争」をしているということになる。同じなら「敵」がはっきり見えていた方が生きやすいと思っていないでもない。
「戦争」をしているとそれが分かりいいのだが、表面、平和だとその辺がアイマイになる。だから仮想敵を持とう、それを本当の敵にしてしまおうと、つい「戦争」へ突っ込んで行きたがる。そういう人たちがいる。政権とか武力とかを手にしてしまった、あまり知性も理性もない人種ほど、「敵」がほしいらしい、物騒なはなしだ。そういう手合いこそ実は、我らの「敵」なのである。
冬……閑話休題
漢字の「冬」には、糸の端末の結び玉つまり終末の意味があり、四季の果てて終わるときを指している。いかにも寒い、寒々した感じであるが、和語として「ふゆ」と発声するとき、不思議とあたたかい感じの音であることに気がつく。なにかしら「殖(ふ)ゆ」という気分があり、冬ごもりの間に不思議の命やその力がいつ知れず殖えていて、そして春を待ち望んでいる気がする。
収穫の秋が過ぎて、冬を迎えるちょうどそのころに日本の民俗では、いまは言葉も忘れられてしまったが、「冬祭り」ということをした。十一月二十三日を今は勤労感謝の日といっているが、かつては十一月中の卯の日を新嘗祭(にいなめさい)とさだめて、それが陰暦でのまさしく「冬祭り」であった。穀物の命、ひいては国土国民の命の殖えてなお力あれと祈ったのである。
天皇即位の歳にかぎってこれを大嘗祭とよんだが、祭儀はともあれかくもあれ、もっと根深く、日本の風土に「冬」を迎える思いの底に、「ふゆ」と呼んで、温かく心ひそめて命をいとおしむ季節感が生きていたことは、忘れたくない。あったかい、よい冬であってほしい、ほんとうに平和な。
あ……足
何も持たない手、素手、というのは不気味なものである。出した先で世界が動く。変わる。人は文字どおりにいろんな手をつかってきた。必ずしも心清い手ばかりではなく、陰謀策謀、生き馬の目を抜く手もつかってきた。むしろそういう手をさんざんつかってきた連中が、世間を大手をふってのし歩いてきたとも歴史は教えている。苦い教訓である。
では足はどうか。昔の足は、よく歩いた。歩くしか世界のひろげようがなかった。
しかし、いつか馬に乗り牛に車をひかせて乗り、他人に車をひかせたり押させたり、輿(こし)や駕籠をかつがせたりして、それに乗った。また舟に乗った。
人力車ができ、自転車ができ、自動車や汽車・電車が走り出すとそれにも乗った。飛行機がとび宇宙ロケットまでとんで人はそれに乗っている。そして「足」と呼んでいる。限りなく足は足の代用品を開発してもらって、ラクをしているといえる。
それだって「手」ほどではないという認識もあるだろう。だが「手」はそれなりに器械をつかっているし、頭とも連動している。手練手管も絶えはしない。「足」はその点、怠け過ぎてはいないだろうか。
足弱車のよろよろと、人類の末期症状がまず「足」へ来ている。
さ……差
差を付ける、付けられる。とかく位取りの差を突きつけたり突きつけられたりして、勝った負けたの世渡りを、人は、している。悟り澄ました人や世をあきらめた人はともかく、俗の世間を俗に渡り歩くしかない同士は、たとえちり紙一枚ほどのことにも、人に差を付けたと満足し、付けられたと不快がっている。気にしない顔で気にしている。
古い歴史を読んでいると、けじめの折ごとに「シナあり」という表現に出合う。翻訳すると品質にせよ数量にせよつまり格差が付けてあるという意味である。ご褒美が出るにも、人により差が付けてある。差別してある。思えばサラリーやボーナスがそうである。それどころか差の無い物や事、すなわち同一・均等など、実はめったに無いのが世間の仕組みかと納得を強いられている。
小癪にさわるけれど、ここ二千年来の世の中がそんな具合に動いてきた。それを「共産」「平等」と太古の仕組みへ押し返した国が、いま軒なみ失敗に帰している。人生つまり、差が、血になり涙になり、また笑いや喜びになっている。
それでも、差別はやっぱりイカンなア。
き……機
ワープロという器械でこの文章を作っている。生活のなかへ、機械ないし器械が、おびただしく参入参加している。子供のころ、つまり戦争前、中、いや戦後でも昭和二十年代までは考えられないことだった。蓄音機、扇風機、ラヂオはおろか、テレビ、炊飯器、電気洗濯機、電気冷蔵庫、電気掃除機などが普及してからでも、電気のものと限らず、大小とりまぜていろんな器械や機械が自在に使われ、人の手足になり目にも耳にも口にもなっている。なんだか、生きながらロボット化してきたような気になる。
そんな事を言いながら、器械音痴のくせに器械が好きで、広告も、カメラやハイテク製品のものは飽かず眺める、美しいから。虫眼鏡でちいさな宣伝用の活字も繰り返し読む。ところが読んでもよく分からない。だから、また読む。ばかみたいとつぶやきながら。
思えば、器械らしい器械のまるで存在しなかった時代が永く永く永く続いたあとへ、ほんとうのところ近世あたりから器械化ということが、徐々に進んできた。器械や機械の時代というのはまこと最近に属するのだが、それにも気が付かないでいる。まさに機械的に暮らしている証拠であり、人間的という文字が「愚」の見本にならぬようにしたい。「機事ある者、必ず機心あり」(荘子)と謂うから。
ゆ……油
「あぶら」の「あ」の方が自然の読みだが、時節柄、夢々「油断」のならない石油や原油や灯油の「ゆ」の話をしたい。火に油をそそごうという気はないが。
昭和天皇の直接話法で記録された貴重な資料が公開されて、とびつくように読んだなかに、さきの大戦の引きがねが、まちがいなく「油」であった、油の輸入が思うに任せなかったのが大事に発展したと語られていた。やっぱりそうかと、当時日本のおかれた国際環境が、なにやら現在とも引き比べがちに思いやられ、重苦しい気分になった。
人間も油ツ気がぬけてしまうと先が寂しいが、こうまで機械そのものと化した日本の現代に、もし油切れの状態が襲いかかったなら、冗談じゃない、どうなるのか。このテクノ文化に慣れ切った日常から、一気にあの防空壕時代へ戻れる世代は、もはや総人口の何パーセントもいない。電気釜でなく生(なま)の火加減で飯の炊ける主婦が現在どれほどあろうかと想像すると、いっそ、そうなってみるがいいやとヤケクソに陥りかけるが、いやいや、何としてもそういう後戻りをしてはならぬ。心底そう願う。
それにしても日本の「外交」はヘタやなあ。油さして、頑張りや。
め……迷
漢字を覚えるのは幼い昔のけっこう楽しい負担であったが、「迷」の字は記憶しやすくて、へんに気をひくものがあった。「米」が行き場に惑うといった感覚だった。米というヤツ、どの家へ行こうか行くまいかと迷い惑うて、その結果が、家によって富みも貧しくもなるのかしらんなどと思った。いつも腹が減っていた。米の夢まで見た。
そのせいか、わざと米を少なく作るとか、田を減らすとか、そんなことを言いながら外国の米を買ってはどうかなどと目に耳にするつど、割り切れない思いをする。国際化の時代だという、それは分かる。しかし人間の欲がいっこうに減りも廃りもしないどころか、ますますあくどくなっていることに気づくにつれ、イザとなれば日本が世界で孤立する日は、むしろ遠くないぞと筆者など覚悟している。
世界の大国も隣国も、とどのつまりは自国本位を確実に選ぶだろう。「米」のような基本の命綱を米国の力づくに握られるだけの外交では、いずれ飢えに喘いで路頭に「迷」う迷惑を国民は強いられるだろう。生き方を、また行き方を、あやまり惑うことを「迷途」(めいど)という。日本の政治がその途上にないことを望む。
み……未
未と末とが混乱して、悪筆も手伝いよく間違えた。「世も末(すえ)」と書く気で「世も未」と書いたりした。書いてみて、「世は未(いま)だ」しという認識の方が「世も末」より、「未」来があっていいじゃないかとブツブツ言いわけを言った。
「未」が「まだ」「いまだ」の意味である以上に、今年は、干支(えと)の「ヒツジ」に当たっている。なぜ、これが羊サンなのか知りませんが、羊がいつごろから日本人の目にふれていたのかも、知りません。源氏物語にも、さかのぼって万葉集にも、もっとさかのぼって古事記にも、羊の実物は「未だ」で、羊の歩みといったのろい意味の物言いだけがあった気がするが、分からない。江戸時代には「カミ」で食っているので髪結いさんを「羊」と言ったらしい。
干支の未は、だいたいが、あまりいい年や日ではないという。ただし兵法修行を始めるにはいいとされたとか。平成三年はやばやと、ロクでもない兵法など繰り出してもらいたくないが、イラクもソ連も、どうなるのか、気になる、気になる。おまけに五年で二十二兆円とやらの莫大な軍事予算が、日本国民の肩にかかってくる成り行き。「世は未だ」しどころか。やっぱり「世も末」が、正解らしいぞ。
し……質
この一字をみて、むかしなら「質」屋の看板を反射的におもい浮かべた人が多かろう。昨今でも「質」の看板は通用しているが、かならずしも国民生活に占める意識した重さはもう重くない。むしろ例のイラクの「人質」といったことか、一般には質がいい、わるいと「品質」の意味で取りざたされる場合の方が多い。それが喜ばしくめでたいことかと言うと、かならずしも性急にはうなずけない。
昔は「品質」「良質」と、大声では言わなかった。技術段階のおくれから、今から見て水準及ばずという一面もあるにはあったろう。が、半面には、する以上は、造る以上は、力のおよぶ限りの最上・最良のものを、つまり質のいい仕事をすることを当然とし、また当然期待する風儀があったからである。職人気質のいい意味での頑張りを、だれもが歓迎し評価して「腕のたつ」者は、相応に世間に認められていた。
それからすると、昨今は金を余分に積まないと「質」のいい仕事が頼めない。金になれば「質」は二の次になりやすい。人の「性質」も「素質」も磨かれにくい世の中である。
ゑ……絵
映像の時代で、名前はいっこうに覚えないのに、映画スターたちの顔は忘れない。その辺を心得ているのだろう、トーク番組でも、タレントはとかくカメラに入って「絵」になりたがる。
コマーシャルでもポスターでも、だれそれと名を出すことがさほど必要でないとみえ、こっちも、「あの」とか「あれ」とか言って見た目のほうで納得し、「わかる」「わかる」などと了解している。ニュース番組も、つまりは「絵解き」している。新文盲(もんもう)時代である。
「絵になる」見栄えが、どうも内容以上に先へ出てゆくから、自然との接触にも、絵はがきふうのパノラマが追われて、一木一草のかすかなそよぎや、日の静かな照りかげりなどに深い永遠の刻みこまれているのが、忘れられて行く。
ひとつのあらわれが、たとえば俳句に、盛りだくさんな語彙をつめこむ傾向となって見える。五、七、五音にいかにいろんなことを盛りこむかで俳句表現が競いだされ、切れ字のかるみや妙味がうすれ、やたらごつい体言どめの句ばかりはびこるのが、寂しい。
「絵」と「音」とのやさしい兼ね合いを美しく生む語感。その湊合された調和に乏しくて、映像という絵が必要以上にはんらんし、世間の顔つきは妙に厚化粧で見苦しい。天才画家も出ない。
ひ……費
消費税のすったもんだで、「費」の字は日本中が覚えた。書けなくてもだれでも読めるようになった。
「費」は、「ついやす」「つかう」とも訓んでいる。意味は、これまた、だれ知らぬものもない。家計費・旅費・遊興費そして飲食費・学費・学級費・住宅費さらに経費・予備費・臨時の出費。もっともっと大きな軍事費という乱費もある。つまりは消費である。なんらかの形へ値打ちが消えて失せるのである。ピタリ、費消するという言い方もある。
むかしは代・お代といった。代金だった。また、お手当ともいった。だが金だけが通貨や支払い手段でなくなってからは、費用という感覚へ拡散させている。つかう感覚が優先して、なにかの代わりに等価的に代(だい)を渡すといったものでなくなってきた。だから物の本当の価値・値打ちが分かりにくい。それだけ支払って妥当なのか、訳が分からないで消費している。
だれかの庇護的な手当もアテには、もうできない。カードになるとこの傾向が加速される。まったく我一人の責任で「ひーひー」言うことになる。
費は肥大し手当は細る。幸か不幸か物はあふれて目が舞うほど。「費」鳴(めい)が上がっている。
も……門
生まれて初めて「門」をくぐるという実感をもったのは、昭和十七年四月、国民学校一年生にあがった時である。だいたい門のある家など、遊びまわる範囲にはめったになかった。
それにもかかわらず「門」という字は覚えていた。育った町が京都の新門前(しんもんぜん)通。一筋北に古門前(ふるもんぜん)通もあった。浄土宗総本山知恩院の「門前」町であった。知恩院サンの三門は、鳴り響くほど豪快に大きい。高い。それを門というなら、なかなか「門」はザラにあるものとは子供心に思われなかった。
それでも門のある家はあった。ない家ははるかに多かったが。門構えの家。あこがれる気持ちと反発するものとが、微妙にちいさい胸に渦巻いた。門地。家門。おもえば縁のない言葉でありながら、遠く広く見渡せば、そういう「門」の有無ないし広い狭いに、人は苦いめもみたし、甘い汁も吸ってきた。
「門」は、時に通路であり関所であり、容赦ない壁にもなる。縁なき衆生は門前払いされ、力ない者はただ門前にたたずみ、後戻りを強いられる。人間の一生に、どれほどの「門」を数くぐれば無事に死ねるのか、目に見える門あり、見えない門もある。「門」は在っていいのか、無いほうがいいのか。叩けよ、さらば開かれるとも限らず、難しい。
せ……節
中学のころ、「節子」という名の生徒が同じ学年に三人いた。まるで違う三人なのでおかしいくらいだった。しかしいい名前だなと思っていた。高校へ進んで堀辰雄の『風立ちぬ』という本を女生徒に借りて読んだ。読むより、その子から借りる方に重き「思い」があったかもしれないが、作品にもしびれた。ヒロインがまた「節子」だった。いい名前だと感じ入った。
節度という二字には、いささか頭をたれる思いが、ある。守りにくい、が、守りたいとはいつも願っている。ふしめ、おりめ、けじめ。むりに従うのは不自由だろうが、一度からだで覚えれば、生きる日々が美しくもなる。そういう信仰のごときものを持っている。季節といい節季といい節するといい節をまもるという。晩節を汚さなかった人は、はためにもすがすがしい。この、すがすがしいという感覚と節度を正す態度とには、なんとも言いがたい表裏相応の光彩が添うている。
節度は、いわば仁政を底支えた美学であったが、思えば思うほど、そんなものとは百万億土もへだたった濁政のヘドロにまみれて、いましもあえいでいる。世をあげて見失ってきた最大の損失が「節」かもしれない。悲しいだけでなく、わが身が恐ろしい。
す……數
「數」は、もともと女髪の千々に乱れたさまであり、不思議・運命というほどの意義をもっていた。數奇な運命などという。運命のありようをまさぐるのが、算數、わかりよくいえば占いであった。算數とか算術とかいえば、ないし數学といえば、もっとも合理的な科学の粋でありシンボルであるかに感じてきたし、事実そうであるが、しかも根に「數」のもつ神秘といいたいほどの不思議や運命を察しておくのは、わるくない。まして近年の宇宙認識とロケット開発の精微をきわめた躍進をみていると、「數」の不思議が本来きわめて科学的なものであった壮大さと緻密さとを、また納得させてくれる。
數を數える。おそらくこの基本の意欲がなければ科学は進歩できなかったに相違ない。
とはいえ、われわれのレベルでは、せいぜい乏しい家計の金勘定を出ない次第で、帳じりをそろえるにも割るにもたいした「不思議」は、願っても、無い。国の運命に今が今かかわりそうな「數」勘定は、それは無數にあるだろうが、国民の一人一人で考えもし、かかわりもできる、それは、たぶん、五十年、百年後の日本の人口という「數」だろう。減らしてもならず、増えすぎても困る。まさに民族と国の運命の帰趨(きすう)をはかる「數」勘定になり、国任せでは済まない。その為にも、心して投票に行く人すう數を多くしたい。
ん……?
むかし、今様(いまよう)といわれたいわばはやり歌があった。「いろはにほへどちりぬるを」といった七五の句を四句重ねて、四十八音でひとつの歌になる。この「いろはうた」も今様のかたちを踏んでおり、と言うことは「いろはうた」必ずしも、弘法大師の昔にさかのぼれるほど古い所産ではないことを示している。今様の全盛は十二世紀半ば、平家がのしあがって来たころとみていいからである。
ところが「いろはうた」の四句のうち「わがよたれぞつねならむ」のところだけ、実は七五音でなく六五音になっている。型が崩れている。そのかわり、最後に、「ん」とくっつけるのが、なんだか習いになっている。そして、納得している。「ん」で始まる言葉はないというのが、しり取り遊びの約束である。だが「ん」という音はゲンゼンとして実在する。名前のしりに「ン」と付けた薬は、なぜかよく売れるとも聞いている。
女流陶藝展に頼まれ、審査員を引き受けた年の或る作品の題に、「ん…?」というのがあり、思わず「ん…?」とうなった。妙なものに出合うと、なるほどわれわれは「ん…?」と反応している。「ん…?」との出合いは、楽しくも怖くもある。世界の平和は、「ん…?」。
日本語で「読む」ということ ー春琴と佐助ー
「第13回国際日本文学研究集会公開講演」 一九八九年十一月十一日
いわゆる「読者」から、「読者」でもある「作者」に、「作者」でもある「読者」に、いつしか移行した一人の「作者」として、話したい。言い換えれば、「研究者」の仕事にいつも教えられながら、時に作者になり、時に読者になっている立場で話したい。けっして研究者では、わたしは、ありません。それを先ず前提とさせていただきます。
もっとも「作者」であるわたしに、「研究者」の仕事だけが栄養なのではありません。わたし個人に属したあれこれは措くといたしましても、なお、読者、それも「いい読者」の反応にも恵まれねばなりません。とはいえ、まこと「読者」も色々です。研究者・批評家も読者なら、同業の諸氏も読者です。知人や家族も読者です。むろん、一般大多数…だかどうだか、いわゆる読者もおられる。しかしやっぱり、「読者は読者」なので、分別したり区別したりして作品を提供するわけでは、ない。研究者・批評家・創作者の読みだからどうの、初心・素朴・一般の読者の読みだからどうのとは、少なくともわたしはあまり区別して考えないし、考えても構わないが、考え過ぎてはよろしくないと思っています。
「作者」になる以前のわたし、例えば子供であった読者のわたしを、ときどき思い出します。世界中のどんな作家・作品も、読者であるわたしの前にまずは平等に登場していました。わたしは全(能)権の批評家でありえました。偉大なと聞いた作家・作品も、無名・通俗の作家・作品も一視同仁、好き嫌い、面白い面白くない、退屈する・わくわくする、すべて遠慮会釈なかった。さよう、まことに「いわゆる読者」こそ、作者には身も耳も痛い批評の権力を、あまりに自在に行使しうる存在だとも、申せましょう。
しかし一つ立場を換えれば、そういう幼い、ないし稚(いと)けない読書体験の積み上げから、より確かな批評の為の何本もの物指(ものさし)や多様な目盛を、読書人は持つようになるわけで、研究者でも批評家でも作家でも、普通の読者であっても、けっして例外ではない。
ここで、素人の素人ッぽいことを申し上げたい。
日本の、と、あえて申しますが、価値評価というか趣味判断には、ないし日本人の創造(作・意)の原則には、注目すべき二つが考えられる。
一つは、妙なことを言いますが、「番付」の伝統です。ベスト・テンを選ぶ伝統とあえて謂うても、いい。佳いもの(わるいもの)を選んで、それに順番を付けられる能力。その最適の例が、あの「春は、あけぼの」だと申し上げてもいい。歌合(うたあわせ)等の勝負も、官位等の位取りも含めましよう。微妙ないわば「批評の根」がこの伝統を通じて養われているのを、意外に我々は、大相撲など日常に番付けを楽しんでいながら、かつ忘れています。
いま一つは、「趣向と自然」ということです。話を早くすれば、趣向とは人を面白がらせて自分も楽しみたいという、かなり高度に構築的な精神の働きです。やり過ぎれば趣向倒れや悪趣味に陥る危険をはらんでいる。それに対し自然とは、「ありのままに・なだらかに・なじみやすく」という意向です。これも大味で尋常すぎた退屈への危険をはらんでいます。したがって日本の創作ないし遊びには、いつも、優秀な仕事や作意ほど、この相反する働きの「趣向」と「自然」との均衡に意を用いています。少なくとも、万葉集・古今集の昔から、物語にも演劇にも遊藝にも、美術にも、衣食住にも、「趣向の自然」「自然な趣向」をという原則が支配的に機能していたと言い切れるようです。正岡子規のような写生の人がいかに熱心に「趣向」の二字をその最期まで大切にしていたかを思うべきでしょう。わたしは、この「趣向と自然」という意向の奥に日本の「創作の根」を見ます。少なくとも正岡子規や尾崎紅葉・樋口一葉の時代までは、その伝統が露(あら)わにモノを言うていたと考えます。
但し趣向と自然とがバランスしているといって、創作や設営の絶対価値が保証されはしないのは無論であり、「作」「受」ともに体験やセンスが、技術や運・不運が物を言ってきます。批評(研究)や創作(藝術性)にとって、視野の展開なり洞察の深化なり、それこそが必須の「才能」といえるものになるという事です。
同じことが「読む」力についても言えるでしょう。自ずと方法論をひっさげた「読み」の専門家と、自ずと楽しみないし主観的欲求を一途(いちづ)に求めやすい「読み」の普通人とは、たしかに同じレベルの読者では、ないかも知れません。しかも、なお、いま申し上げた意味の「才能」はそれなりに両者ともどもに備わってはいて、時に意外な素人の読み巧者が、専門家の専門家ゆえに読み落としたものを、的確に拾っていたりします。それというのも読者背後の「生活」が、知識や方法以上にものを言うのがことに文学の読書であり、作品や作者を往々死体のように解剖して事たれりとしがちな専門家よ、驕るなかれと言いたい「生活」感覚の希薄な読みが、ちょくちょく学者の世界に有るのは事実です。
源氏物語を、与謝野晶子の現代語で読み始めました経験から申しますと、子供ごころに、いろんな所でつッかかりますが、一つに、名前の不思議さに魅力も感じ、不審も覚えたものです。例えば薫と匂。体臭だとかすぐれた香の使用とか高貴さの表現とか、いろいろ聞いても、妙に、まわりくどい。
わたしは、それは「光」との関係から来た、作者による或るメッセージだと察しました。匂いは、桜のそれのように色に出でてこその香りですから、光とはとくべつに縁の濃いものです。光が無くては色も見えず匂いもしない。ところが薫りは色とも光とも無縁に「闇」にも紛れない、いわば夜の闇に咲く白梅の香りです。「色こそ見えね香やは隠るる」です。宇治十帖の二人の貴公子が、「光」源氏とどんな縁に結ばれて、それゆえにどんな運命を担うかを、二人の名(あだな)は象徴的に示しています。いまは亡き当時慶応義塾大学の池田弥三郎教授が、わたしのこの子供まるだしの「読み」に、ほとんど即座に賛成の手紙をよこされたことを懐かしく思いだします。
すでに言い古されていた事かもしれない、それは、知りません。ともあれ一源氏読者のそんな読みも、つまりは繰り返して読むからいつか見えてきたとは言えます。熟読し愛読する、それへ知識(文献だの研究成果だの)の方から参加してきてくれる。程度こそちがえ、研究者も、素人も、じつは同じ道を歩くことで「読者」たりえている事実は事実なのです。つまり、こういう事です。本は、作品は、織り目も縫い目もないいわば不織布(ふしょくふ)を見るように、本来、一行めから最終行へと順次に読んで楽しんで行くべきものでありますとともに、また、繰り返し反復して、すでに読み終えた部分を、また前回までの読み体験を、また他の読書体験や知識を、自然に参加させ湊合させて読んで行くものである。人は、こばみようもなく、そのように本を読むものですから、逆にいえば、「読み方」という「規則」は読書には「無い」のです。そこに素人にでも、専門家の気づけない読み筋の残されている楽しさがある。素人もそれを忘れがちですが、もっと罪ふかいのは専門家がそれを忘れていることです。
さて、ここで一転して、「作者」の側から申しますと、「書く」ことと「書かない」こととは、表裏一体の、同じ「表現行為」なのです。「書かない」という「書き方」もあるという意味です。「肯定」したり「否定」したりして、微妙に攪拌する自由をもっています。本音を紙背の闇(行間)に言い置いて、表に文章を立てておくことも、ある。しかも、それをその文章・本文に即して背後の闇に沈めたものまで読者に読み抜いて貰いたいと願っていることも、ある。本文無視で、本文を置き去りにして、やたら賢こがった当てずっぽうは、言われたくない。それでは作者は浮かばれないし、勝手にしてくれと思いたくなります。いい読者だと、本文に即して作者も気づかなかった深みや浅瀬を教えてくれます。それには作者とて抵抗したり否定したりの権利は持ちえないのです。
そこで「いい読者」とはどんな人、ということになる。作者もめいめいにそれを願望する自由は与えられています。わたしは、世界的な作家ナボコフの挙げている条件に共感しています。
先ず、記憶力のいい読者。次に、想像力のある読者。さらに、辞書を引く読者。最後に、僅かなりと藝術的センスのある読者、です。これに加えてわたしは、こうも望みます。一度で読み捨てず、作品世界をさながら曾遊の地として再訪し探訪する読者が、いい、と。
この一つ一つの意味づけでは、あるいはナボコフとわたしとでは差があるかも知れません。大事なことなので、すこし、注釈を加えましょう。
先ず、どんな記憶力か。たんに作中の前後関係・人間関係などを忘れないだけでは、ない。読者の身についた体験や蓄積を、可能な限り現在只今の読書に効果的に投げ入れることのできる記憶力、いわばさまざまな「点」を「線や面」へ構築できる記憶力、片言隻句を通しても作の本質的な意向へ切りこんで行ける記憶力、です。さまざまな記憶の連携が、即、現前の作の読みを深める求心力となって立ち戻ってくる、そういう記憶力です。もとより作者もまたそれほどの記憶の重みを、よく支えうる作品をと努めるべきです。
次に、なぜ想像力か。研究者によるとむしろ軽視し警戒し、排除されるむきも有る。むろん空想や妄想は困ります。本文の表現ないし行間や紙背に秘めた真実に即さないで、ただ論者の論や観念にのみ都合をつけた作為的な読みは、困るのです。例えば本日の主題に関連して言いますと、『春琴抄』における佐助犯人説などは妄想に属するのです。
しかしながら、作品の本文に即し、自然かつ趣向されたその流れに即しながら、真実感(リアリティー)を掘り起こし彫(きざ)み上げてゆく想像力の参加なしに、読書も創作も研究もけっして十全ではありえない。たんに死体解剖のような読みや研究に終わらせないいわば秘薬としての想像力の適切が、ぜひに必要なのです。
なぜ辞書か。これは申すまでもなく、略します。
さて、なぜ藝術的センスを望ましいと言うか。批評も研究も否定的追及のやむをえない場合も有るは有るとして、本来は意義評価的に接してしかるべきものでしょう。その為にも、そこに解剖目的の死体のような作品があるのでなく、生きた文体と動機とを読み取らねばならない。つまり読者の魂の色と作者の魂の色とが必然似てくるといった境地へ、互いに深まって行けるのが、広い意味の読書の嬉しいところであろうと思うのです。それ自体が即ち藝術的センスというものでしょう。
で、少しずつ残り少ない時間に本題へ迫りたいのですが、今日のこの国際的な場であればこそ言いたいことが、あります。「日本語」について日頃感じ考えてきたことです。それは不可分に、文学史的にみても、「京ことば」ないし「古典語」と関係してきます。
わたしは東京で三十年暮らしている京男です。東男に京女といいます。分のわるさは歴然たるものがある。で、僻(ひが)むわけではないが、どうも京都には人気があり京都人には人気が出ない。その傾向は、世界へ出たときに日本の自然や文化には人気があるのに、日本人に人気の乏しいのと似ています。要するに、なんだかハッキリしなくて、腹が知れないというわけです。思うに、世界で日本人が、日本で京都人が、「分かりにくい」とされてしまう素地に、言葉の素質・性質、ないしそれに根ざした態度なり発想なりが、認められると思うのです。これは、大切なもっとよく考えられていい課題です。
俳句は、合理的なクリアな言語感覚ではとても納得しがたい表現そのものです。和歌もそうです。物語の多くがそうです。毛筆で書かれた過去の多くの消息類がそうです。しかしそこに日本の古典語は成立し成熟している。それは、どこからみても、物・事・人の世界を輪郭・関係ともどもにクリアに示そうとして出来た言葉では、ない。まったく逆に、物・事・人の関係も輪郭もぼかし・かすめつつ真意を伝えるに事たれりとする言葉です。
明治以前はそうかも知れない。しかし近代日本文学が散文精神を確立してからは、そうではない、などと言えるものか言えないか。そこに近代・現代文学を言語の藝術表現として理解する際の、微妙な迷路がある。一つの意味と一つのことば、その明確な結合の力で紡ぎだして行く文章、即ち理想の散文。曖昧さを微塵も許さぬクリアな表現、即ち理想の散文。はたして、そんな散文が日本語で可能なのか、それが真実理想的なのか。わたしはそれに対してあまり肯定的ではありえないのです。日本文学研究がそういう日本語理解に無批判に立っていたのでは、根深い誤解を生みそうな気がいたします。
「クリアな表現」という、それ自体が自己矛盾です。「表現」とは、日本語のばあい、いやでも含蓄という名の多義と重層化に支えられます。「はな」と書きまた聞けば、花でも鼻でも端でもありえて、誤解を生じそうでいながら、そうは誤解しない。誤解しても、そこにまた通底している語感が働いて、真意へちかづく道を見失わない。時には、ふしぎに魅力ある誤解の誘惑に「作」「受」の双方から遊ぼうとさえします。誤解自体が正解だというほどの語感の文化があるわけです。源氏物語の人物は、そのように話し合っています。そして京都人は、今日でも、上手にウソをつけることを、社交上の美徳と数えてさえいます。
この古典語ないし「京ことば」の素質から、自分は自由だと思っている現代日本人は多いのですが、世界へ出ると、その同じ素質に色濃く染められた「日本語」を通じて、批評ないし批判されて来ます。つまり日本語は本来「違う」と断定的には言わず、「違うのと違うやろか」と包み込んで言う、そういうタチの言葉なのです。何が何やら分からずに、分かった顔をしている。そして分かる者にだけ分かってもらえばいい気でいる。そういう言葉への不信頼感といいますか、言葉の不自由さといいますか、それを日本人は日本語の特色ないし限界として認めまた育ててきたように思います。それかあらぬか、「申し訳ない」「返す言葉がない」「言う言葉がない」「言葉に窮する」「黙る以外に仕様がない」そして「問答無用」などと、いつでも口にしています。
ある堅い本のなかに、こんな物言いが多いと皮肉に指摘していた人の文章から、その物言いとやらを、無差別に列挙してみましょう。「なかったとは言い切れない」「それ以外の道はほとんど存在してはいなかったといってよかろう」「その影響をどれほど評価しても、決して大きすぎることはないだろう」「別の次元においても重要な意味をもっていたといっていい」「という意味合いをもって進展したともいっていい」「といって決して言い過ぎではないように思われる」「といってよかったろう」「といって誤りではないだろう」「というべきであったろう」「といっていいように思われる」「といっていいにちがいなかったというべきだろう」と、ま、こんなふうに日本人は、笑われる側だけでなく、笑っている方だって、書いたり話したりしています。それが、幸か不幸か、日本語なのです。そしてそれが明治以降に急に変わりえたわけがない。つまり依然として「違う」でなく、「違うのと違うやろか」の表現力に依存せざるをえないところが有り、千年余の文化と社会とを引きずってきた「京ことば」の表現力や批評性(わる口)は、依然として感化の力をもっているのです。国会答弁などの政治家が、それを、いちばんイヤな感じでよく知っています。そして、いい感じでは、やはり谷崎潤一郎や泉鏡花らがよく心得ていました。表現の力として活かしていました。
いったい、クリアな散文観に固執しますと、つい、書いてあることだけを信じ、書いてないことは「無い」ことと信じてしまいます。とんでもない事で、そんなセンスで日本語表現に向かう手はないでしょう。書かず言わずに、書いた以上言った以上のことを「表現」する工夫を日本語での作者たちはしています。とりわけて、谷崎の、少なくも昭和期へ入っての文体に、関西古典語への親炙(しんしゃ)を経ての文体に、それが見てとれます。その一つとして、わたしは、『夢の浮橋』を、また『蘆刈』を、さらに『春琴抄』を論じてみたことがあります。むろん一読者、一愛読者としてであります。
ここでそれを文学論ふうに、作品論ふうに、文体論ふうに繰り返すつもりはありません。その方角でなく、もう一度「読み」つまり一読者の想像力、記憶力、センスに戻って考えたい。つまり、「なんでやろ。違うのと違うやろか」と疑い直してみる一、二の実例として取り上げたいのです。
例えば『蘆刈』です。わたし自身孤児としての率直な感想であったのですが、この作品の事実上の語り手の男は、母(静)がいるのに、なぜ伯母(お遊)さんが恋しいのか疑わずにはおれなかった。まして「母もの」の谷崎と識れば知るほど「違うのと違うやろか」としか思えなかった。しかし男は繰り返し自分は「お静の子でござります」と言う。ことさら言うわけです。書いてある事だけが真実と読む立場からは、どうにもならない。しかし、書かずに「表す」という立場を一つ認めて、そして本文を慎重に読めば、丁寧に読めば、じつはやはり男がお遊さんと慎之助という父との間に生まれた、まさしく『蘆刈』は母恋いの物語であることを、わたしは「立証」できたのです。(湖の本エッセイ?『谷崎潤一郎を読む』をご参照下さい。)
母でも伯母でも、作品の鑑賞にたいした関わりはない、変わりはないなどと言うのは、おかしな逃げ口上でして、関わりなくて済む道理がない。母とも呼べなかった切ない母恋いの物語なればこその谷崎文学であり、そこに濃密な世界の演出、趣向の自然があるのです。伯母恋いではたいした話にはならないのです。しかし、もう一度言いますが、「書いてある」事しか読み取らないのでは、『蘆刈』はついに半端な作品に終わったでしょう。事実、発表いらい久しく、この男は、お遊さんの甥である不自然さのままになんだか漠然と読まれていたのでした。
「なんで匂ったり薫ったりなんやろ」と、少年の読者は自然に思う。現にわたしはそう思いました。思いつつ物語に惹かれて繰り返し読む。そして好色の、「色」好みの物語であることを理解するにつれて、色と光(源氏)との縁を察し、光に対する匂と薫との縁に、その意味合いに、気がついて行った。自然に、こだわりなく、不審を培いかつ解きほぐして行った。行けた。そういう読書の姿勢があれば、母をおいて、伯母に魂を抜かれるような男をえがく谷崎文学の不自然さに、自然に気づける筈ですが。
すこし別の例も挙げてみます。夏目漱石作の『こころ』を短大の女子学生と読んだこと
があります。教科書に載るためか、ずいぶん若い読者も多勢の作品で、話題になる機会はしばしばなのです、が、若い読者の初心の、専門家は未熟なとか幼稚なとか嗤うようですが、初心の読みにきっと出てくるいくつかの特徴というか、不審がられる点がある。
先ず、「先生」はなぜ自殺したのか、ひどいと思う、「奥さん」がかわいそう、と彼や彼女たちは言うのです。これには、なぜ、その時までに自殺出来ないでいたのか、なぜ今になって死ぬかという不審も付随しています。
次に、「私」はまさに臨終の父をなぜ見捨てて、すでに「先生」の死後で間に合わぬと知りながら、田舎から遠い東京へ飛びだして行くのか。明治の世に、倫理の厳しい田舎で瀕死の父の枕べから出奔するには、よくよくのことが無ければ納得できないが、「先生」はもう死んでいる以上、なぜ自分の父を見送って子としての務めを果たしてから上京しないのか。そう言って、若い読者は「私」の行動につよい不審を抱くのです。申し上げますが、この一々は、中学以来バイブルを読むように愛読したこのわたし自身のかつての不審とも、まったく一と重ねなのです。自然に無心に初心で読めば、この疑問こそ太い「こころ」根の一つの筈です。作中の「私」はごく尋常な青年に書かれていて、しかもここの行動に限って常識に、世の掟に、反し背き、作者の書き方が「下手」――という人もいる位ですが─―なのかとさえ思わせます。
もう一つ、『こころ』という作品は、ないし「先生の遺書」は、現に「私」の手で公開されているという作りになっている。この公開がなぜ可能であるのか、公開進行の現在時点で「私」はどのような暮らしを、何処で、誰と、しているのだろうかという事を、少なくとも、わたしなどは問題にしていたのです。
中学や高校の国語の先生方にわたしは「先生」の自殺時の年齢を尋ねてみました、これは近年のことです。すると、考えたこともなかったがと言いつつ、中には六十過ぎなどと言う始末ですが、若い読者たちもおおかた似た感じでいるのです。つまり「奥さん」のことも、その「先生」に相応の、年かさに感じている。一方大学を卒業するまぎわの「私」は、昨今の大学生なみの年齢と読んで納得している。これが、すでに違う筈です。漱石その人は二十七歳で大学を出ています。明治末年ですと、まだ学制に出入りがあって、「私」でもまず似たりよったり。昨今の二十二、三で卒業するよりもかなり大人なのです。一方「奥さん」の女学校は、十七歳で卒業です。高等科へ進んでいる様子はないのです。次に先生の自殺は奥さんとの結婚からどれ位たっているか。時点は明治四十五年ですが、よほど長くて「K」の自殺そして結婚いらい十年余で、「先生」も自殺しています。作中に現れる史実日清戦争その他の年代年数を読み込んで行けばかなり容易に正確に証明できます。つまり、間違いなく先生と奥さんの年齢差よりも、奥さんと「私」との差の方が極くちいさい。ほとんど同年齢に近いのが、明瞭に分かります。(湖の本エッセイ?『漱石「心」の問題』をご参照下さい。)
「私」が「先生」宅を訪問して最初に会い「美しい」と思うのは「奥さん」です。物語ののっけから、「先生」についてのいろんな過去を告げられるのも、「奥さん」との差向いの対話からです。「私」は明らかに「奥さん」にもつよく、心惹かれて訪問を繰り返し、そして何度も三人で微妙な微妙な会話を重ねます。
その一つをいえば「こども」です。この話題になると夫婦の間に氷のような緊張が生まれます。「私」は、そんな際に、ほろりと漏らしています。自分は当時は妻を持たなかったし子供も知らなかった。だから、先生と奥さんとの「結婚」や「こども」に関するやりとりの意味が十分つかめなかったが、「いまはそれも分かるようになっている」と。やや説明的に申しましたが、『こころ』本文を丁寧に読まれればその箇所に気づかれる筈です。つまり、「私」が「先生の遺書」を公開できている現時点で、彼は「結婚」して妻と暮らし、「こども」さえ身近に在ると作品はほのめかしている。『こころ』は大正三年春から、「先生」自殺の二年足らずの後には、公開されています。あの、故郷を飛び出し、しかも「先生」一家のほかにとくに華やかに色めいたところには出入りしていなかった「私」に考えられる「結婚」可能な女性は、妻になれる人とは、実に「先生」の「奥さん」をおいて他に在るべくも、無いのです。実作者の体験からも申しますが、それが小説作品を支配している力学というものです。
先生は「私」に心の身内を感じて愛していた。だから安んじて「奥さん」を「私」にのこして、あずけて、自殺できた。先生は「私」との運命の出会いを永く待っていた、それまでは「奥さん」をのこして死ねなかったのです。同時に「私」の「先生」への迫りかた、時に攻め─責め─かたを見ると、まさしく「K」の変身として「私」が先生夫婦のまえに登場していることが分かります。「先生」は、「K」に「お嬢さん」を返し与える体に、「私」の「奥さん」への愛をじっと観察し周旋していたことも、しかと、本文に即して読み取れる、実証できるのです。
また、それでこそ、「私」が臨終の父をおいても東京へ奔った真意が明らかになる。むろん「奥さん」の身を慮ったのです、「奥さん」の後追い死を恐れたのです。「先生」の遺託に正しく応えるために余の一切を放擲して、それで小説の力学としては、相応していたのです。
これが、わたしのオリジナルな『こころ』の読みです。少年の読みの最初から、私は「上、先生と私」の章が好きで、まこと心を入れて繰り返し読みました。そして、「先生」と「奥さん」と「私」との、それぞれの真意を悟って行ったのです。観念過剰の専門家の解説を知れば知るほど、「そやろか。違うのと違うやろか」と思い続けました。それまで論文にしたことは有りませんが、このわたし自身の理解を徹して、戯曲『こころ』を、既に昭和六十一年八月に本にし、加藤剛主演で俳優座公演(「心-わが愛」)もしています。脚色に関心のある方は、湖の本?『戯曲・こころ』を御覧下さい。
なににせよ、先に挙げた若い初心の読みのもたらした不審を、専門家は無視し軽視して問答無用であっていいとは、思われないのです。戯曲発表いらい、どんな『こころ』議論があったか、実は怠けていてよくは知らないのですが、よほど騒がしかったように仄聞(そくぶん)しております。それとても、本文に即した入念な議論がなされれば、かなり明白な話なのです。専門家は面子(めんつ)に拘りすぎています。
それにつけ、フト今思ったのですが、読書会によばれることがちょくちょくある。研究者グループのも、いわゆる読者の読書会もあります。それは、また、可笑しくなるほど様子の違うものです。概して研究者のは選んだその作品のみに徹しての議論です。読者たちははるかに自在に、作者の他の作品や言動をさえ斟酌して、縦横無尽です。前者は精到といえるが、時に死体解剖にもさも似てきます。後者は素朴ですが放漫にも流れます。にもかかわらず、やはり研究者の務め・努めとして、ひろい読者の初心であれ幼稚であれ感想や不審にも背を向けてしまわずに、むしろそれを満たし答えて行ける「成果」を、挙げてもらいたい。そっぽを向くのは簡単です。しかし簡単に逃げてはいけないでしょう。
さて――いよいよ『春琴抄』へ到達してしまったわけですが、時間があれば、本文をいちいち吟味し検討しながら論じてみる気でした。一時間では無理なので、趣旨を変えて以上のような長い長い導入部の最後に、しかも『春琴抄』の全体論でも作品構造論でもない、つまりは、やはり「読み」の在りようについての発言・提言を添えようと、ま、趣向立てをしてみた次第です。
『春琴抄』のあらすじについては多言を要しません。盲目の美女が顔に火傷をした。美女の侍僕はそれを見まい為に自らの手で失明をあえてした。要点はそれで足りていましょう。いろんな『春琴抄』論があり解釈がありました。それらへの挨拶は省きますが、論や解釈の流れのなかで、いつしか、佐助が、主人でも師匠でも性的パートナーでもある美女春琴に対して大火傷を負わせたという、いわゆる「佐助犯人説」が出て、本文に即した吟味をなんら受けないまま、定説化・通説化の様相を帯びてきたわけです。吟味され証明されての議論なら、うけがうにやぶさかで、ない。しかし、面白いが面白ずくの言いッぱなしに乗ることは出来ない。わたしとしては、『春琴抄』を、そういう方面から佐助へ佐助へと「佐助抄」化して重点を移動し偏向させることに、ほとんどメリットを覚えなかったどころか、作品の本来を見失うものだと、そもそも同意しかねておりました。誰か研究者がきちんとチェックされるだろうと思いましたが、どうも、ズルズルと「佐助犯人説」が大きく居座って、最初はいわば「読者」から出ていた提言に、いつのまにか谷崎学の専門家や読み巧者で通った人らまでが、けっこうお手軽に乗りはじめた。わたしは、「ほんまかいな。違うのと違うのかいな」と、しまいに、おせっかいにも反撃に乗り出してしまったという次第なのです。
で、短時間のことですから、要点へ入ります。先ず、「春琴火傷」は否定できない作中の事実で、(疑うことも不可能ではありませんが)それを否定していては物語が瓦解してしまう。火傷が現に事実であった以上、必ずその「現場」がありかつ当事者が存在する。素朴な確認ですが、しかし物語のこれは芯の一つですから、ここから、「佐助犯人」ということも言われたわけです。「火傷」は現に起きた。では、どう起きたか。そこで「犯人の犯行」が言われた。作の語り手が現に「賊の犯行」を熱心に示唆しているのですから、「犯人捜し」必ずしも無意味でなかった。つまらない話題なのでもなかった。それで「読み」が動いたり左右されたりするとなれば、なおさら『春琴抄』にとっての「犯行」論議は、むしろ作の動機そのものに根ざしているとさえ断言できるのです。だから「佐助犯行」が言われると話題になり、話題にし、大勢が定説化を黙認さえし始めていた。そうではなかったでしょうか。
「佐助犯人」と言い出した人がいる。次いで、持ち上げた人がいる。わたしは、その説は面白いが、信じられない、やめた方がいいよと、ひどく持ち上げている若い学者に何度も言いました。しかし、やめない。それなら「本文に即して、証明しなければ」と言っても、それも、いっこう誰もしない。
では、考え直してみましょう。作品の表現と要請とにしたがって、「春琴火傷」の現場に関わりえた者は、火傷をした当人である「春琴」と、隣室に寝ていて現場へ馳せつけた侍僕の「佐助」と、そして忍びこんだかも知れない「(姿の無い)賊」以外には、まったく在りえません。佐助と賊とでの共同犯行という想像には、一点のリアリティーもない。
先ず「佐助」ですが、本文を最初から最後まで丁寧にかつ自然に読めば、佐助が、いかなる「エゴイズム」からにせよ、春琴の寝ている顔へ熱湯を浴びせておいて、しかも後日の夫婦に準じた性的な相愛を満喫できるような苛烈な人物でないことは、溢れるほど数多くの内証を挙げて断言できます。また、谷崎独特のそのような仄めかしも全くないのです。
「佐助犯人説」が定説化していたと申しましたが、昭和六十三年八月一日の、よみうりホール文藝講演で、また六十四年一月号『新潮』で、さらに筑摩叢書『谷崎潤一郎』で、わたしが徹底的に否定した前後から、しきりに「佐助犯人説」なんて、はなから可笑しいと思っていましたよと言う人の多いのに、実は、驚きました。公然と持ち上げていた人までが、「固執しない」と言い出しています。少なくも「佐助犯人説」否定のわたしの趣意は、すでに達したようであるのです。
が、ところが問題がまだ残ったのです。「佐助犯人説」は否定できました。そのうえ、残る加害者の可能性をもつ「賊の犯行」をも、本文に即して、わたしは否認してしまったのです。必然、わたしの主張は「春琴自害(=自傷)」という、未曾有(みぞう)の説に帰着したのですから、これは、関係者たちをびっくりさせました。
「賊の犯行」については、作品が、信じよ信じよと読者に迫ります。
それは、あの『蘆刈』の男が繰り返し自分を「お静の子でござります」と言うのと同じカタリ口です。『蘆刈』の読みについて、松子夫人と同席の上で、早稲田での近代文学会でわたしは演説しました。終わって、今は亡き大学者吉田精一さんが、わざわざ、この作品はもはやきみの読み以外に僕には読めなくなったと言いに来て下さったのを思い出します。
それまでは、誰も伯母お遊さんの子であるなどと言わなかったのです。そうは「書いてないから」です。その後も、妹お静の子でも姉お遊さんの子でも、どっちでも大差ないとか、作品の実質とはかかわりないとか間抜けたことを言う人が有る。これには、呆れてしまうのです。どうして、これは、たいした違いなのです、ほかならぬ「母恋い」谷崎の作品としては。
『春琴抄』の賊の事は、少なくとも春琴が火傷した晩には忍び込んだと言えないように、少なくとも賊が春琴に熱湯を浴びせたり鉄瓶を投げつけたりしていないと読むしかないように、実に慎重に言いまわされてあるのです。信じよ信じよと言いつつ結果として否定するカタリが語ってあるのです。賊がしたことという証言が混線し撞着し、何が何とも知れなくするように作者は一流の手法を巧みに駆使しています。佐助が犯人などでとても有りえないのと同様に、作品は、かなり明確に「賊の侵入と犯行」とを、何とも曖昧裡に決定的に否定し去っています。本文に即して丁寧に読めば、誰にでも見抜けるのです。
かくては、火傷の春琴のそばには、当の春琴自身しか残りえない。超自然の所為でない限り、春琴は、自身の手で、自身の顔に、熱い湯を注いだ、ないし何らかの手段で火傷ないしそれに準じた面貌自傷を決行したとしか、言えなくなる。『春琴抄』は、実に慎重かつ巧妙な段取りで、それを示唆という以上に、ほとんど指さし示している作品なのでした。信じられないと投げてしまう前に、わたしの詳細な論証を、前に挙げました雑誌『新潮』に初出の「春琴自害」なり、湖の本でなり、検討してみて載きたい。
わたしは最初に、「春琴の火傷」は否定できないと、前提を設けました。これが否定されれば、まさにハナシにはなりません。前提がいれられる以上、「春琴自傷」を否定する人は、「佐助犯行」か「賊の犯行」かを立証しなければなりません。わたしが逆のことを詳しく果たしているように。そして、目下のところ、佐助が、賊が、犯行に及んだとみごと説得しえた論文には、ただ一度も出会ってはいないのです。
むしろ論調はこう動いて来ている。これも全く『蘆刈』のときと同じで、犯人捜しは「無意味」である、そんなことは、『春琴抄』の本質を読むうえでは、どうでもいいことだと言うのです。とんでもない。「佐助犯人説」の提唱や黙認は、では、何であったのか。それによって作品の「読み」に深まりを求めたからではないでしょうか。
わたしは、「春琴も自傷」した、それに対して「佐助も自傷」した、それが末尾で峩山(がざん)和尚の嘆賞を得ている、つまり禅にいう「挨拶」の厳しさだと言っている。そこに、まさに「春琴と佐助と」の、愛欲無残ではあるが「聖人」も口をはさめないような至福の絶景が「共演」されており、それでこそ佐助にも春琴にも偏向しない全幅の物語になる、と、そう読んでいる。はたして『春琴抄』の読みは、それで歪んだでしょうか。それどころか、従来の「佐助抄」風の、傾き歪んだ読みを順当に正したものと信じています。
もう一度言います。春琴は火傷をしていて、たんに「事故」ではない。作為し作動した主体が物語には潜んでいる。佐助、賊、そして当の春琴しかいない。そして、その誰によって「火傷」がもたらされたかは、作品の深い読みに響くのか響かないのか。むろん響かざるを得ないのです。読みは、そのどれかにより動かざるを得ないのです。考えなくてもよく、決めなくてもよく、『春琴抄』の読みには影響しないなどとこの問題から目を背けてニゲを打つのは、安易というより姑息です。間違いです。ま、決めつけなくても、いいでしょう。佐助や賊の仕業ではあり得ないと読めれば、自然はなしは決まって来るのですから。そして決まった上は、それに応じて「読む」こと、より正しく深く「読む」ことは、もはやゾルレン(当為)になって参りましょう。
『春琴抄』の読みは、「春琴」の決意から、もう一度始まるのです。「春琴自害」のわたしの説から始まるのです。いままで、あたかも脇役かのように扱われてきた「春琴」に、主役たる当然の位置と重みとを復権することは、そのまま「佐助」の位置と重みとにも、より自然で大きな視野と意義を与えることでしょう。
「春琴の火傷」に次いで「佐助の失明」がついに「実現」します。物語の頂点であり、それへ到る経過にこの作品の「表現」の主部がある。ある人が力説するような、「春琴死後の佐助」に主部があるのでは、ありません。それは小説の美学にも力学にも疎い感覚です。そんな重点の掛け方では、小説の妙味に水をさしてしまう。「佐助抄」と読みたい一心の誤解である。
さらにまた佐助内部に生まれた「観念の春琴」というがごときも、それが面白くてまた大切な観点なのはその通りですが、それすらも「意想外な後日の結果」として「意想外な三昧境(さんまいきょう)」を実現したという、「後日談」に属しているのであり、もしも作者にしてそれを最初から主眼とするなら、おのずと別の物語のはこびが必要であった。しかし事実は、読者を十分に引き付けての物語の頂点・クライマックスは、春琴「火傷」と佐助「失明」とにある。ともに互いに火傷と失明という「自己加害を敢行」し、而してともに闇を抱いて相(あい)擁し相愛した物語が、玉成の美を遂げているわけです。
「読書」の大切なところは「本筋」の把握でもある。把握しなければならぬ。事態の把握を逸れたり度外視した作品論・文学論ではならぬところです。
佐助失明後が占める量は作品の一割程度でしょう、が、量は問わない。むしろ語り方がいかにも「後日談」としての評価、解説調の評価で、しかも「夢想せざりし三昧境」であったとしています。作者の渾身の力は、佐助失明が実現にいたるまでに、三昧境への到達までに、絶妙にそそがれていて、だから後日談の部分がだれるどころでなく、奔流の静まるに似た落ち着いた説得力を持ちえているのです。主筋・主力からわざと逸れて、あたかも「後日談」のみを後生大事に論じたりするから「佐助失明後」が本来の眼目だなどと言う失見当を犯します。もっと、柔らかに読んで欲しい。これは「起承転結」の物語であるよりも、むしろ「序破急」のあとへ書記者の「跋」が副っている感じの、巧みに構成された構造性豊かな記述体なのです。
最後に申したい。
本文の流れに自然に乗って読む。普通の読書の、それが普通の姿勢であっていいでしょう、と。専門家は「構造」とすぐ言います。しかし構造を考え考え読むのではない。部分(ディテール)と流れとの、本文に即した強い把握、それが構造美をも自然に直観させて来る。反復の読書がだから大切になる。知解はその後へ参加するものです。自然な柔らかい読みを反復しないで、「観念」的「構造」論議へのみ急げば、そこに脱線と失当との陥穿がすでに用意されて来ます。「本文」をあくまで大切に読みながら、行間と紙背をも、想像力・記憶力・センスを駆使して、併せ、読む。繰り返し、読む。そのようにして、いかなる種類の「読者」も、作者が背後の闇に言い置いた真実の声に、耳を澄ませようとする。それこそが日本語で「読む」という事であると思います。
* 闇に言い置く(平成十二年四月八日 土)
* 明治四十四年一月十日の日記に、気になることを志賀直哉は書いている。「自分は総て物のDetailを解するけれどWholeを解する力は至つて弱い、小説家としてはLifeのDetailを書いてゐればいいと自分は思つてゐるがホールが解からないと考へると一寸不快でもある。ケレドモ、自分にはホールは解かるものではないといふ考へもある。Detailは真理であるがホールは誤ビヨオを多く含むと思ふ。 / 又かうも思ふ、今からホールが解かる、或はホールに或る概念を易く作り得るやうになる事は結局自己の進歩を止まらせはしまいかと。 / 兎も角今はLifeのDetailを正確に見得る事を望む。」と。よく考えてみたいところだが、甚だ直哉の芯に触れた感想のように読める。
二週間ほどして、また直哉は、「健康が欲しい。健康なからだは強い性慾を持つ事が出来るから。ミダラでない強い性慾を持ちたい。(略)自分は年寄るまで左うでなくていいが、四五十才までは左うでありたい。 / いい子孫はそれでなければ出来はしない」と。これも志賀文学の根幹につよく触れている言葉だろう。
* 二月二十五日には藤村の『犠牲』を「少し読むで」直哉のこう書いているのが、たいそう興味深い。「書かれた事が作者の頭にハツキリうつつてゐるといふ事はよく感じられる。けれども直接読者の頭へハツキリとは来ない。書かれた物と読者との間に作者がハサマツテゐる感じがある。/藤村の物を見る時には上手ないい芝居を遠い所から立ち見をしてゐるやうな感じがする。兎も角読者に面接して来ない。いい句でもいい科(せりふ)でも遠くでやつてゐるので何所かオボロ気な感じがある、時々ボンヤリしてゐるといい句やいい科を、聞き落したり見落したりしさうである。夏目(漱石)さんとはマルデ反対である。」と。漱石も出てきて、面白い。藤村について言われてある「感じ」が、よく解る。
それにつけて想い出すのは瀧井孝作先生がわたしの『糸瓜と木魚』を褒めて下さり単行本に帯の推薦文を下さったとき、表題作になっていた『月皓く』は、美しい物が遠くで動いているようだと評されていたこと。瀧井先生のこの批評は、直哉のここにいう「上手ないい芝居を遠い所から立ち見をしてゐるやうな感じがする」に当たっていた。これを見ても、わたしは間違いなく直哉の孫弟子でもあったのだなあと思える。瀧井先生は、作品がそう落ち込まないように文学・文体・文章をいつも力強く彫り込んでおられた。
再び日本語で「読む」ということ
ー名作の戯れー
『名作の戯れ ―「春琴抄」「こころ」の真実』初出 一九九三年四月 三省堂刊
茨城から、お便りを、ありがとう。転職先の新しい学校が、うまく見つかって、ほんとうに良かった。元気に「国語の先生」をしている様子が、送ってもらったM君自前の教材に溌刺とうかがえ、安心しました。
ところで「読む」という事について、以前の私の考えに、また付け加えるところが有るのではないかと、君は、水を向けてきてくれた。つい最近(平成四年の)、『新潮』九月号に私の発表した「漱石作『こころ』の心見」を読んでの誘い水とも思えるし、そう言われれば今すこし詰めておきたい問題も、たしかに在りそうです。こころもち長い返信になりそうだけれど、M君の誘惑によろこんで応じてみようと思います。
おさらいの必要もない。が、M君とはW大の文芸科で出会ったんだよね。昭和六十一年春から一年間でした。H教授外遊の留守番役を頼まれて、三年生になっていた学生諸君に、年に三作の小説を書いてもらい、教室で私が批評する、そういう、あの大学ならではの面白いゼミでしたね。私が編集長役を演じ、君たちは作家のつもりだった。君も課題の「小説」をきちんと書いて提出していた。ただし君の本来の関心は「戯曲」「シナリオ」にあった。そのほうの作品もときどき読ませてもらいましたし、卒業し就職して以後も、君は何度か同人誌や個人誌など、送ってきたね。でも、それについては今問題にしない。君が「創作」する人でもあることを、この手紙を書いているあいだ念頭においていたいと、そう思ったまでのことです。
あれは君たちの卒業後まもなくだった。昭和六十四年十一月、「読む」という事――をサブ・タイトルに、『春琴と佐助』という題で、私は、国際日本文学研究集会の公開講演を引き受けました。その記録も君は読んで、すぐ手紙をくれた。よく覚えています。
ついでに、ここで報告かたがた言ってしまえば、君たちと別れて以来、また筆一本、でもないか…ワープロ好きな文士稼業に私は戻っていた。それが、だれの、どんな善意のいたずらでやら、去年、平成三年十月から、今度は非常勤でなく、専任のT工大教授を引き受け、今まさに毎週毎週「文学を読む」ことを学生諸君との共同の課題にしてしまっている。いやはや、作家と、「湖(うみ)の本」版元と、教授と、そして至らぬ戸主としても、もうはや二兎どころか何兎もかまわず追いに追っている毎日で、われながら、ぶッ跳んでいるわけです。定年の六十歳まで四年、なら、何とかなるさと好奇心にかられたのも事実です。
今度の学生は、M君らとちがい文学部青年じゃない。残らず理工系の人たちで、九十パーセント近くが大学院へ進むそうだ。だから文学には関心がうすいかと言うと、これが認識不足でね。たしかに理づめに考えがちな人は多いが、しかも、なかなか広くよく読んでいます。カフカも村上春樹も「とりかへばや物語」のような特異な古典にでも、ぱッと反応が出る。しかも読み方も熱意いっぱいです。うかうかしていると、いろんなことを逆に質問ぜめにあう。文学部の人とはまた幾味もちがった文学好きが現にいるという事さ。
そして彼等の関心も、根に立ち返って言おうなら、つまりは「どう読む」か、なんです。「読み方」という「規則」が無ければこそ、だから「どう読む」かに素朴な、本質的な関心があつまるというわけで、なまじ私が研究者でも学者でもなくて、つい昨日まで、いやいや今日も明日も相変わらず、教授であるよりは一文士、一作家であるという事実を承諾したうえで、愛すべきT工大の学生諸君は、私に、「どう読む」かと真剣に問いかけて来る。自分ではこう考えこう読んで来たと返事のできるせめて心用意だけは、いつも、していなくちゃならない。M君の誘いを多として返事を書きたい動機が、ここにあるわけです。
ご承知のように、私の「読む」仕事は、ここ近年にかぎると、主に谷崎潤一郎と夏目漱石とをめぐってのものでした。作品でいうと、潤一郎作『春琴抄』および漱石作『こころ』に就いての「読み」でした。学界で話題にされたのもこの二つでした。
二作の私の「読み」には、共通の性格があった。いわば作中の「人間関係」の確認を通して、作そのものの大きな受容に及ぼうという筋道をとっていました。この手紙でも、その筋道の確認や再確認を、やや大事に思案して行く気です。それも「谷崎愛」の看板をかかげた私らしく、漱石よりは潤一郎のほうへ深く多く関わり気味になることを、了解してください。
『春琴抄』の「読み」では、いわゆる佐助犯人説のあわや定説化に、私は強い「待った」をかけました。
思い起こしてほしいのです。私の「待った」以前に、佐助犯人説は、何の論証といえる手続きも経ないまま、ほぼ無批判に放置され受容されていたのです。永栄啓伸氏がいわゆる春琴佐助黙契説をもって佐助犯人説へのつよい危惧を表明していたのにも、当時、だれもさほど耳を傾けた様子はなかった。それどころか、それまでは一部の作家ないし評論家といった「学」周辺の声に過ぎなかった佐助犯人説に、いつしか谷崎文学研究者のなかからも積極支持としか思われぬ『鑑賞』などが出はじめたのでした。これはまずい。私は、いささか激しい「待った」を、かけてみずにおれなかった。
繰り返していいますが、佐助犯人説は、けっして『春琴抄』本文の丁寧な「読み」を経て論証・立証されたというものではなく、印象的に面白い放言の域を出ないもの、「説」とも言えない程度のものでした。本文をきちんと引き、しかも本文から隠された意図をも的確に読みとりながら「論証」して行く深切な手続きを、佐助犯人説は、当時はもとより現在でも、だれも果たしてはくれていないのです。果たしようが無いからでしょう。が、もうすこし踏み込んだ地道な努力はしてみるべきだった、それにもそれのメリットがあったことを、むしろ私は惜しんでいます。ともあれ余儀なく私は、佐助犯人説否認のためにも、あえて春琴自害=自傷説を果敢に持ち出したのでした。大勢の人が仰天したようです。なかにはよく読みもせず、嘲笑うだけの人もいたようでした。
あげく軽率に言われはじめたのが、「犯人捜し」は無意味だという、もっともそうな意見でした。佐助犯人説のまえに、ほとんど為すすべなくただ手をこまねいていた怠惰な人たちが、一転して、今度は「犯人捜し」といった愚劣なあてこすりで、「読み」の所在を曖昧に放置する責任のがれを試みはじめました。
「犯人捜し」の目的で佐助犯人説が言い出されたなどと、その説に否定的な私でも、考えたことは一度もない。もとより春琴自傷を私が提言した趣旨も、そんなところには、なかった。『春琴抄』の「読み」をより立体的に豊かにと願えばこそ佐助犯人説は世にあらわれ、また同じ願いから、その否認の説もあらわれてきたのです。それにくらべれば「犯人捜し」は無用とだけの批評から、どれほどべつの的確な「読み」が生まれえたか、甚だ、心もとない。作品の核心をわざわざ逸れたところからしか発言しようとしない「読み」では、所詮土台が無いようなものなんですから。
あとでも改めて触れて行きますが、作品の「構造」的美観を問題にすればするほど、ほんとうに大切な「構造」とは、作中人物が生きて生き生きと組み上げている「関係」であり、そこをどう確かに「読む」かの考察ぬきに「構造的美観」を論議するのは、あたかも無人の家屋構造を殺風景に論議するのと、なんら変わりないのです。谷崎が、「筋のない小説」を主張する芥川龍之介との有名な論争を通じて説きに説いた小説の「構造的美観」とは、あたかも、よく出来た家屋のなかで、人と人とが生きて織りなし彩なす生活的・心理的な「人間関係」の「構造」なのでした。人間ぬきに「小説」は立ちも生きもできるものでなく、人と人との葛藤や関係こそ、谷崎があれほど大事に説いていた「筋」「本筋」という生きものの命なのです。春琴と佐助との「構造」的関係がより正しく「読み」とられないままの『春琴抄』論など、どうにもならぬ。当然じゃないでしようか、M君。いろんな議論も鑑賞も、この本当の「構造」を土台に組み立てられて然るべきでしょう。ちがいますかM君。
私は、佐助犯人説の無批判なままの横行が許せなかった。「犯人捜し」が目的でなかったのは、その論旨からも明白で、関心は、ただ『春琴抄』の「構造的美観(=谷崎潤一郎が小説という表現において最も魅力を持ちうるとした特色。)」を真にさぐる「読み」にあった。「読み」を定めて行くための、ほんものの土台を造りたかった。佐助犯人説野放しの現状は、あまりにまずい。いっそ「春琴自害=自傷」説のほうが遥かに妥当であろうと、その理由を、懇切に本文に即して解釈・解説し、また作中の状況を、右から左から丁寧に明かしていったのが、私の『春琴自害』の筋道でした。表題だけへ気短かに反応するまえに、冷静に私の「論証」そのものを作の本文と照合し批議することをしていれば、意図は容易に読みとれたのです。もうすこし落ち着いて「読ん」で欲しかった。「読み」もせずに、いきなりの拒絶です。論説に説得されそうになると、そういう議論は無意味だとか次元が低いとかと、ニゲを打ちたがる。そういう姿勢で逆に「読み」の次元を我から下げていることに気のつかぬ人が、けっこう多かったようです。
もっぱら佐助ひとりに寄りかかり、春琴の存在など問題にもしないで、あたかも「佐助抄」的な「読まれ方」に傾いていた『春琴抄』という作品を、私は根から「読み」直したかった。より豊かにより大きく、春琴と佐助との「関わり」そのものから、より面白く、「読み」直したい、「読み」直すことが出来る――。それが、私の願いであり目的でした。谷崎の説く「構造的美観」への、それが私の共感であり、理解なのでした。
賊の仕業とは「読め」ない。まして佐助が春琴の顔に熱湯を注いだとは、とうてい「読め」ない。春琴の火傷と佐助の失明とは、ともに「自害」「自傷」であってこそ、作の構想において釣り合っている。二人の永遠を阻んでいたのは、春琴が盲目であるに対し、佐助はそうではないという決定的な不釣合にあった。春琴の悩みは、その一点においてあまりに深く、しかも女の老いは早晩迫ってくる。女の老いを男の目に見せず、神のごとき若さ美しさを男の内に永く確保すべく、佐助をあえて失明の世界へと誘いこめる道は、手段は、無いのか。春琴は佐助の献身の愛と自己犠牲とをともに達成すべく、渾身の気力であえて自らの顔に傷を加えることで、佐助の(自分の手で自分の眼を潰す)自己決断に、命運を賭けた。そして、成功した。作品を締め括る峩山和尚最後の、「転瞬の間(かん)に内外(ないげ)を断じ醜を美に回(めぐら)した禅機を賞し」た「達人の所為(しょゐ)に庶幾(ちか)し」という一句は、この賞賛は、その「禅機」溢るる双方「挨拶」の厳しさにおいて、よく、また十分に、納得できる─―。
そう「読ん」だ私の「春琴自害」説は、結果的に多くの関係者を驚かせました。いや、呆れさせたのかな。そればかりか、と言うか、そのおかげでと言うか、俄然として『春琴抄』論は、活溌に、あちこちから花咲き始めました。「犯人捜し」は無意味というのもその一つ、そのうちの極く貧相なあだ花の一つでした。
M君、繰り返させてください。
そもそも佐助犯人説にせよ春琴佐助黙契説にせよ、また春琴自害説にしましても、「犯人捜し」といった次元で言われた見解では、まるで無かったのです。『春琴抄』を「どう読む」か、それぞれの「説」によって「どう評価が変わる」か「どう鑑賞が深まる」かを、大事な問題にしていたのです。「犯人捜し」といった理解からこの議論に賢しらに水をかけてみせたつもりの人らは、浅い「読み」違いをしていたのでした。
その人たちの『春琴抄』の「読み」だと、春琴のあの「火傷」はどうだっていい些細な事故かのようです。が、あの春琴火傷とつづく佐助失明という一連の事件無くて成り立つ『春琴抄』ではありえない。二つの事件は、その意味でも、小説の「構造」の核心に位置しています。大きな山場を成しています。どのような成り行きから春琴の大火傷が起きたかなどは、作品が、作者が、わざと曖昧に「カタって」いる以上詮索の必要がないのだといった議論ほど、それほど、逆に、谷崎の「カタリ」にカタラレた図はないのです。そこに谷崎の読者への「意図的な戯れ」つまり正に谷崎好みの挑戦があるのですから。
M君記憶していますか。谷崎潤一郎の文学人生については、教室で、それは何度も私は話したものです。そのなかで、よく、こんなことを言いましたね。
だれでも谷崎潤一郎といえば「小説」家だと知っている。ところが、ちょっと意外にみえる少なくも、三つの側面を、彼はもっていた、と。一つは、彼のデビュー作品は『誕生』という題の戯曲でしたし、大正時代の彼は、時代の風にも同調してしきりに劇作品を書いていました。舞台にかかった作品も数あり、もともと潤一郎には「芝居」好きな「芝居っ気」が、たっぷりと身に備わっていたのでした。いま問題の『春琴抄』創作をめぐっても、結婚まえの松子夫人とのあいだに有名な「春琴抄ごっこ」「佐助ごっこ」と謂えるような演戯的日常が大真面目に演じつづけられていたことは、今や、文学史的な挿話です。ともあれそこにも、遠くは読者の存在を意識しえた谷崎の「意図的な戯れ」があったのだと言えましょう。
次に谷崎は、やはり大正時代にいっとき「活動写真=映画」に熱中していました。シナリオも書いた。製作会社にも製作の現場にも関係していました。家族中で自作のシナリオ映画に出演したこともあった。当時彼は、妻の妹であった人と深い仲にあり、この義理も曰くもある妹に藝名をつけ、一人前の女優にそだてることにも熱心でした。この義妹の存在は大正時代の作家谷崎にとってあまりに意味深く、その最も優れた文学的表象が、それがあの名作『痴人の愛』のヒロイン「ナオミ」ヘと極まったと見られています。そしてこの大正のヒロインが昭和時代に入ってあたかも転生したかの感を与えたのが、じつは『春琴抄』の春琴であったと言えるのです。私は、春琴のモデルというより原像に相違なかった松子夫人(谷崎三人めの妻)を、生前によく存じあげていました。お付き合いがありました。それで、ほぼ確信をもって言えるのですが、まことに魅力あふれる春琴であられたと同時に、お遊さんでもあられたと同時に、また魅力あふれる佳い意味でナオミの原質をも備えられていた方だと、承知しています。
ま、それは措きましても、谷崎が、日本の文学者のなかで最も早く最も深く「映画」の方法的な魅力を洞察し、また表現し発言していた人だという事実だけは、いくら強調してもし足りないほど、谷崎文学の理解に欠かせぬ大事なのです。彼はいわゆる「他界」という意味での不思議を語りも書きもしなかった。その意味で現実的な作家でありましたけれども、そのかわり「映画」的手法による非現実の幻影的効果には、甚だ敏感な作家であったのです。なかでも「映画」ならではの「カタり」の面白さを彼は小説のなかへ、意識して、また無意識にも、ふんだんに取り込んでゆくことを覚えていました。昭和初年の名作群にもその後の傑作群にもそれは濃厚に表されていて、今問題にしている『春琴抄』などは、最たる一つであることはいろいろに証明が可能です。この作品が何度も演劇化され映画化されたから言うのでは、ない。作品の「構造」と効果のなかに、まさに「映画」「演劇」の質的把握がみごとに生かされているのです。
でも、今、その議論に深入りはしません。残ったもう一つの側面に踏み込んでみたいからです。
残ったもう一つの側面。それは、谷崎潤一郎の小説における「推理」好きです。先刻から私はわざと、谷崎の読者にたいする「意図的な戯れ」ということを言いつづけましたが、この言葉は借用したものです。最近、谷崎潤一郎の『犯罪小説集』という文庫本がある社から出ました。その解説を書いている渡辺直己氏がこの「読者への意図的な戯れ」という物言いをしていて、それ以上に的確には言えないので、感心して借用しようと決めたのです。
谷崎は、これは大正どころか、明治末年の華やかな文壇デビューの作品群から、すでに濃密に「推理」「犯罪」好きを示しています。エドガー・アラン・ポーへの熱い共感は谷崎のむしろ生得のものですが、「演劇」「映画」好きの素質とも深く融けあいながら、彼は、『刺青』『少年』『秘密』のような初期短編の名作をひっさげて登場してきた作家です。大正時代に入ってからも彼は、意図して「推理・犯罪」小説を何篇もものしました。『柳湯の事件』や『途上』など記憶に新しいものですが、ことさらにそういう類いだけでなく、どの仕事にも大なり小なりその傾向のみえるのが谷崎文学なのです。「演劇」「映画」好きもふくめて、それが谷崎のつまり「芝居っ気」「芝居心」なのでした。
渡辺氏の解説の文章から、すこしく教えてもらいましょう。氏は、推理小説というものの特質の一つとして「読者への意図的な戯れ」ということがあると言います。作者は神の如くに知り、読者はなにも分からないところから「読み」はじめる。その通りです。
生得「推理・犯罪」ものの好きな谷崎のような作家の作品には、その「意図的な戯れ」というやつが、無意識にも、むしろいつも意識して、つい現れるのは自然なことです。つい現れるどころか、創作の本質のうちに、そのことこそが面白くて筆をうながすというところが出てくる。その性本来の「芝居っ気」からしても、谷崎には、自然な流露感とともに、この「読者への意図的な戯れ」が魅力ある動機を成し易い。分かりよく話を早くすれば、谷崎は謎かけの好きな作家ともいえましょう。解けるかい。解いてみな。そんな声がいつも谷崎の作品には、心地好い誘惑として生かされている。そんなことは次元が低いの、無意味のとニゲを打つ読者では、谷崎文学の楽しみは尽くせないといった素質があるのです。その意味でも谷崎はいつも広い多い読者のまえで楽しい仕事をしていた作家であり、観念的に高踏かつ晦渋(かいじゅう)を事とした作家ではなかった。読者を寄せつけない作家ではなく、ここまでおいでと誘ってくれる作家でした。素直について行って楽しい作家であり、その「カタり」にカタられまいとびくつき、問題の中心から逸れて逸れて「読ん」でいたいような読者は望んでいない作家、願い下げの作家であったのです。
『蘆刈』という「母もの」の名作を、わたしが、正しく「母もの」として「読ん」でみせた時にも、やはり、そんなことはどっちでもいいのだと頑張った専門家が、何人もいました。どっちでもいい筈が、どこに、ありましょう。谷崎における「母」の意味について常々それを問題にしていながら、『蘆刈』にかぎっては、子が母をおいて伯母恋いに夢中であってもどうでもいいという立場は無いのです。しかも「読め」ば、明らかに作品の「じつは伯母こそ母」であり「母はじつは叔母」だと、きちんと本文に即して論証可能だったのです。
「どっちでもいいじゃないか」「犯人捜しは無意味だ」と、こういう責任のがれの安易な逃げ足をつかわれるのは、愛読者の立場からみて、ほんとうに不愉快です。
今、「じつは伯母こそ母」「母はじつは叔母」だったと書きました。この「じつは」という変化の手法が、伝統的に「芝居」道のおはこであったことは、M君も、よく知っていますね。谷崎は幼少より芝居をよく見て、芝居のテクニックや場面に興深く魅され感化されてきた人でした。彼の「芝居ッ気」の核のようにもなって、実はこの「じつは」と化ける面白さが、たいへん意味深く生きていたんじゃないか。そう想像してあながち言い過ぎでない谷崎好みというものが、まぎれなく彼の小説にはよく仕掛けられていて、まだ解かれていないのも在りそうなのですよね。あの『蘆刈』の「じつは」は幸い解けましたが、『春琴抄』の「じつは」は解けていない…んじゃ、ないか、と、私の『春琴抄』への再接近に、そういう関心の強まっていたことも、事実です。
すこし方角をかえて話しましょう。
『春琴抄』の、主要な登場人物は、むろん、春琴と佐助の二人です。春琴や佐助の肉親たちは、さほど重要な要素ではない。鴫沢(しぎさわ)てるという佐助の弟子も(いくらか気になることが無いではないのですが、ま、今のところ)そう問題にしなくていいでしょう。強いて言えば、「賊」という言い方で括(くく)ってしまえる春琴の弟子筋ないし世間の他人(ひと)は意識せずにすみますまい、が、何といっても、この小説世界は春琴と佐助と二人で占めているといって、言い過ぎでも何でもありません。
それだけにまたこの『春琴抄』にあって、「春琴と佐助との関係」がどのように描かれているか、無視できる道理がない。そしてその「関係」にあって起きた最大の二つである事件、「春琴火傷」と「佐助失明」との意義は、「どうでもいい」で済まされることでは無いのです。事件は、正確に、「春琴火傷」があってこそ「佐助失明」へ導かれたと言うしかない、因果的に一連のものです。逆は無いのです。「春琴火傷」の事情を「読み」切ることは、「どうでもいい」ことどころか、作品の「読み」をやはり左右する大きな関門です。分岐点です。それをことさらに脇へ押しやってみても、それこそ理由のない賢しらに過ぎません。次元が高かろうが低かろうが「火傷」は有ったのですし、いくら「どうでもいい」と言おうとも、読者が、それでも春琴の火傷はどうして起きたのかと押して問いたくなるのを、撥ねつけるわけには行かないのです。「答える必要はない」のだと強弁してみても、「それでも教えて」という要請は無視できないのです。読書には疑問をもつ権利があり、学者には答える力量が望まれている。答えたうえで、でも、それにはたいした意義は認められないよと言うのなら分かるのです。答える気なら答えられることにもわざと答えないというのは、学者の読者に対する高慢という以外にない。しかも、これは、やはり答えることの必要な不審であり、質問なのです。
何故ならば――、仮にもし佐助が春琴の面上に熱湯を注いだというのが本当なら、『春琴抄』の「読み」は、何としてもそれに即して方向が定まってしまいます。「賊」が侵入して春琴に大火傷をさせた『春琴抄』と、佐助が火傷を負わせた下手人である『春琴抄』とが、おなじ『春琴抄』でありおなじに鑑賞されていていいものでしょうか。縷々(るる)解説に及ぶまでもなく、その「読み」は変化せざるを得ない。ちがいますか。ましてやその双方が作品本文のどのような吟味をへても立証・確認できないとなったら、どうなりますか。そんなことは「どうでもいい」ので、曖昧にしたまま「読め」ばよろしいという説が、じつは只今我がもの顔をしているのですが、あの佐助犯人説を放置してあわや定説に祭り上げかけたよりも、それ以上にそれこそは、滑稽なひどい話なのです。
M君。
『春琴抄』の人物を、春琴と佐助との事実上二人と認めるのは、そう不自然ではない。それほど、この作は、二人のおかれた「盲目」という結果も暗示しているように、「密室」状況を成しています。「個対個」の世界で、この二人は、渾身の存在理由を賭して「関係」しています。春琴がひとり優位なのでも、佐助がひとり優位なのでも、ない。二人は対等の力で作品世界を支えていますし、作品の力学は、あげて「二人」の存在を「構造」化しています。それなのです。そこなのです。ほんとうに理解しなければならない事は。
谷崎は、繰り返しますが、小説の呈しうる最大のメリットとして「筋」のあること、その「筋」をして「構造的美観」を成すこと、を主張してやみませんでした。いったい「筋」は観念でつくるものでなく、具体的に人物が生きて動いて成しうるものです。観念は人物の動きにくっついて来る意義であり、観念が先だって人物がそれに服従するような作品を、われわれは高くは認めかねるのです。むろん『春琴抄』は、そのような作品ではない。あくまでも春琴と佐助という二人の「関係」が「構造的」に動いて「美観」をかっちりと成し遂げている作品です。そういう名作です。
では二人の「関係」を「構造」的に成している事件は、といえば、何度も言うようにこの作品では「春琴火傷」とそれを踏まえた「佐助失明」でした。そして「佐助失明」には観念的意義を多く付与しながら、「春琴火傷」を通して春琴の内面に深く立ち入ることを怠慢に看過してきたのが、『春琴抄』の「読み」の大きな失錯であったことを私は指摘しているのです。どうして「春琴火傷」がありえたか、必然それの起きた理由について「読み」込むことをしなかったから、勢い『春琴抄』は「読み」損なわれつづけたのだと私は考えている。確信をもち、そう考えています。
『春琴自害』の説を繰り返す必要はありません。落ち着いて私の論証(湖の本エッセイ?『谷崎潤一郎を読む』)を読み直してみてください。趣旨は十分看て取れるはずです。そして批判できるところは、もう一度批判して欲しい。
でも私の今言いたいのは、もうすこし別のことです。いえ、やっぱり同じことです。
読者への「意図的な戯れ」を、たしかに谷崎はこの作品で仕掛けています。その証拠は「賊」への読者の引き込みに見えています。前年、昭和七年作の『蘆刈』でいうなら、作中の「男」に繰り返し「母はお静でござります」と言わせているのと、翌年、昭和八年作の『春琴抄』で春琴が「賊」の手にかかり火傷したかに読ませたがっているのとは、ぴったりと言いたいほど共通していて、底にあるのは「意図的な戯れ」という仕掛けです。よく「読め」ばそれは違うよと、いい読者になら誰でも言える・分かる、そんな誘いかけです。そこへ誘われるのが即ち谷崎の「カタり」に嵌まっているのだという嘲笑の声がちょくちょく聞こえるのですが、私に言わせれば谷崎がそこで読者をわるく陥れてみても、作品の手柄になどまったく成りっこないのです。『蘆刈』でいえば「男」の「母」が「お静」のままでは、「お遊さんの子」と「読め」ないままでは、結局作品の真価は曇ったままになり、谷崎文学生涯の本筋にこの作品を据えられないことになる。同様に春琴の火傷に春琴その人の覚悟をこめて「読ま」ないでは、つまり「賊」侵入という偶然の働きに火傷一件を漫然と委ねていたのでは、結局春琴と佐助という二人の真の一体「構造」は掴めないのです。偶然に、かつ本意なく、春琴は火傷をしたというのは、さも自然なようでいて、この稀有の物語の内なる「構造」的美観からは偶然に頼って大きく逸れているのです。そんな「読み」では、火傷へかかわって行く佐助の失明も、偶然に導かれたただの受動的な余儀無い怪我になってしまう。
そうじやないんです。
春琴も自覚して、佐助も覚悟して、双方で自身の要望や視力をみずから傷つけて行くのです。それあって、二人して、倶に「盲」の世界で吾を忘れて抱きあえる
のです。それあって、二人して、倶に「盲」の世界で互いを聴(ゆる)して抱きあえるのです。
作品は終始一貫、春琴の主導で展開し、圧倒的に優位であるかに見えます。しかし、決定的な春琴の佐助にたいする劣等感も最初から働いていて、それは、春琴が「盲人」であるのに佐助は「目明き」だという一点に凝縮していました。たしかに春琴の美貌に佐助は服していたでしょうが、盲目の春琴に、不幸にも自身の美貌はそうまで実感された価値ではありえなかった。それとても年とともに衰え行くことを、女三十七歳の春琴は痛いほど知っていました。春琴に必要なのは佐助その人の現存在であり、また目明きの佐助に記憶されてきた美しい春琴若さの永遠でした。その両方を春琴は確保したく、その為には佐助にも失明してもらう以外になかった。そうじやありませんか、M君。しかも同じような思いを、つまり失明への漠然とした願望を、じつは佐助その人も同じ理由から意識してじっくりと用意していたらしいことも、作者は手落ちなく巧みに随所に書いています。その辺、私も丁寧に検証したつもりです。
佐助の失明を、たとえば佐助のまことに不確かな不慮の眼病や事故に待つほど、三十代も後半の、四十前の春琴に、辛抱はもう無かったのです。かと言って、いくらなんでも「佐助、おまえ、自分でめくらになっておくれ」と無条件に言えるものではない。「お師匠さま、それは、いくらなんでも出来ません」と、一度でも言われてしまえば、もう春琴に立つ瀬はなくなってしまう。残る手段は佐助に自身で失明を選択させる以外に無いほどの、つまり春琴自身による美貌への「自害」の決断ではなかったか。もし佐助に真実の愛と献身の意思とがあるならば、きっと佐助自ら失明を敢行し、美貌を記憶の中に保全してくれるであろう。春琴の必死の賭けとして「火傷」はさよう企まれたと「読ん」では、どうか。「読むべき」ではないか。『春琴抄』の真価がそのために果たして傷つくか。それとも、深まるか。私の問いかけはそこにありました。「犯人捜し」などとおひゃらかすしかない「読み」手には、問いかけに応えて『春琴抄』を思い直してみる、深切な文学愛がなかったのでしょう。
つまり春琴も必死、佐助も必死に、賭けかつ応えたと「読む」のです。その方が、たった二人の物語をより豊かに充実させないでしょうか。「偶然」の春琴火傷に佐助が余儀無く仕方なく応えたというのでは、春琴の女の思いが、必死の悲しみが、読み」から漏れ落ちてはしまいませんか。
そしてM君。「賊」の犯行とは、じつは作品じたいが巧みに否定しています。語り手の物言いと、『伝』の記述と、佐助の証言や鴨沢てるの証言とを、うち重ねてよく「読め」ば、「賊」の実体のじつは空無であることなど、M君ならずとも簡単に分かるでしょう。いまだに「賊の犯行と読んでおいていいのだ」と主張している人たちは、つまりは『春琴抄』を、春琴と佐助との二人の意思に満たされた作品と認めたくないのです。作品を、本筋から素直に「読め」ない頑固さを暴露しているだけなのです。
『春琴抄』の「構造」もその「美観」も、春琴と佐助とが二人して生きた「関係」に目を背けたまま、言えるものではない。そもそもそれでは何のために「構造」を語るのか、意義を成しません。「犯人捜し」でも何でもなく、二人が成し上げている「構造」に目を向けるとは、具体的には、まず「春琴火傷」という事件の意義に目を向けるということなのです。そこに「春琴の心理」がしっかり描かれている。谷崎自身が女の心理は書いてある、十分あれで「分かつてゐるではないか」と言うのは、そこのことです。「火傷」自体に春琴の命が春琴の意思でしっかり賭けられていたのです。「賊」の「カタリ」など、谷崎一流の「読者への意図的な戯れ」でした。谷崎は読者に、分かったら、さぁ、ここまでおいでと、面白く趣向を仕掛けて誘ってくれているのです。谷崎のほんとうに佳い意味での「芝居っ気」が働いているのです。読者は素直に誘いに身をゆだねながら、作品のより深い意義と意図とへ近づいて行けばよい。そういう読者の好みを歓迎して、谷崎は読者にいつも挑んでいたような作家でした。「演劇」「映画」「推理」への潤一郎ならではの親炙(しんしゃ)が、『春琴抄』では、ひとしおの「意図的な戯れ」を文学的魅力へ昇華している事実に、気づくべきです。
佐助犯人説――。もはや、これは面白いけれども一場の夢ないし戯(ざ)れ言(ごと)として否定し尽くされたと見ています。なかには、まだ、「春琴自害」よりまだしも「佐助犯人」の方が有効だと世迷(よま)い言(ごと)を言っている向きもあるようですが、春琴の心理を無視して佐助だけの『春琴抄』かのような悪矛盾に陥った、よほどの重体と、いっそ同情を禁じえません。佐助に春琴を犯したい傷つけたいという内部葛藤のありえたことを、私は、否定しない。肯定し過ぎることもない。けれど佐助犯人説は、どう弁明しても、佐助が、春琴に熱湯を浴びせて火傷をさせた当人であるという事実認識に立つ見解です。たんに未必の故意といった心理だけを言っていたのではない。その限りでは佐助犯人説に成立の余地など、微塵も残されていません。論証できるものなら本文に即して説得してみればいい。説得の努力を欠いた、ただ感情的な、作品遊離の弁解ほど鼻持ちならないものは有りません。
さてM君。「賊」も、「佐助」も、春琴の火傷には直接関与していない。それでも、春琴の顔に火傷の生じた事実は疑えないのですから、その現場にあって「春琴」その人とその意思とを適切に「読み」とることに、どんな飛躍も必要では無かったのです。他に考えられることは、無いのです。しかも、その自然な推量にしたがって『春琴抄』を「読め」ば「読む」ほど、この名作は、より生き生きと「春琴と佐助」との緊密な物語世界を確保できるのです。春琴は佐助にも盲いて欲しかった。疑えない内証でそれは証明できます。佐助もまた春琴とおなじに盲目への願望を持っていました。それも証明できます。問題は、どうすれば両者の願望が実現しえたか、その「用意」と「覚悟」です。春琴はそれを「自害=自傷」で誘発しようと賭けました、佐助は「見ない」でくれるだろうと。火傷に傷んだ春琴の顔をしも平然と「見る」佐助ならば、所詮春琴に生きてゆく術(すべ)は失せるのです。賭けの大きさ――。峩山和尚はさすがにそこを見極めていました。賭けに応じた佐助の失明、その重さ――。峩山和尚は両人の打てば響いた挨拶のたしかさに禅機を認めました。谷崎風にいえば、そこに人間と人間とが成し得た「構造的美観」を確認したのでした。これは「犯人捜し」などという言葉でおひゃらかしの出来ることでなく、作品『春琴抄』の真生命であったのです。また谷崎が昭和初年を通じて求めつづけた文学と生活との「構造的美観」そのものだったのです。やがて夫婦として結ばれる聡明な男女が渾身の「芝居っ気」を文学作品として結晶させたのが、この名作『春琴抄』でした。「打てば響く」という、それが「芝居っ気」の神髄であることをよくよく承知の二人して、読者への「意図的な戯れ」をみごとに成し遂げた作品でした。当時松子夫人に宛てた、谷崎のあまりに有名な恋文の類いをよく「読ん」でみても、その辺の嬉しい事情はあまりに明確に察することができます。
M君――。
小説を「読む」という事は、まずは、人と人との「関係」を正しく「読み」とって行く誠意と、無関係ではありえません。「関係」は、すぐに分かるとは限りません。たとえば或る部屋に入って行くと、数人の人がいて、なにごとか劇的な事態にあるらしいとします。だれがどんな人で、だれとだれとが近くまた遠いか、そんなことはすぐには分からない。が、だんだん分かってくる。また分かってくるまでは、劇的事態の真相にも容易に手は届かない。そういうものですね。『春琴抄』のような、比較的劇の推移の分かり易そうな作品ですら、「関係」の「読み」とりの浅いうちは、劇的真相もそうは見えて来ない。
作品の「構造」などといくら言っても、それが作中人物の「関係」を深度のある「構造」として先ず把握しないうちは、いたずらに周辺をうろつくことに終わるのです。『春琴抄』の主要人物は「佐助」一人だといった見当違いでは、作品の「構造」もその「美観」も見えていない。「春琴」だけをあげつらってみても、この作品の場合失錯であることは同じです。「春琴と佐助」との世界なのです。だから事件もその二人しての視座から「読ま」ねばならない。当然の手続きというものです。そうすれば「火傷」と「失明」という二人に一連の、禅機に満ちたとみられる覚悟と選択とが、その意味が、意義確かに見えて来る。
M君。
ここで漱石作『こころ』のことにも触れておきます。
『心』は、『春琴抄』ほど、外見は「構造」堅固な作品と見えません。が、登場する主な人物は確認しやすく、だれしも、「先生」と「先生の奥さん=お嬢さん=静」と「お嬢さんの母=奥さん」と、その家族に割り込む同居人「K」および訪問客「私」との、要するに五人をあげるでしょう。周辺に、「私」と「先生」との、それぞれ、故郷の血縁を認めておいて、ほぼ全部ということになります。先刻から繰り返している、「構造」としての人間関係をいうなら、これはもう先の五人に尽くされるでしょう。『こころ』の「読み」の問題点は、その「関係」が、ほんとうに「構造」的に「読ま」れて来たかに在るのです。この基本の手続きを欠いたまま、とかくの議論をして来なかったかに在ったのです。
私の『こころ』の心見(こころみ)は、徹してそこから始めました。その結果、私は、作品『こころ』が作中の「私」により世に問われている「現在時点」を、先ず確認しようとしました。その現時点の「私」から、作品に書かれた過去ないし過去完了している事件を「層」的な「構造」として「読み」解いて行ったのでした。幾何の問題を解くように、いわば作品の外へ適切に補助線を引いた。すると、いろんなことが見えてきました。
何より目をみはったのは、作品内のまぎれない内証から、「私」と「先生の奥さん」とが、「先生」の自殺後に、作品自体の深い要請にももとづき、たぶん「結婚」「夫婦」という関係へもはや到達しているらしいこと、二人の間にはそれどころか二人の間の「子」まで予期されているらしいことが、本文に即して、十分推論できて来たのです。
そうなれば、むろん、『こころ』の「読み」に、この新事実としての「人間関係」は動かしがたく関与してきます。当然の自然な成り行きです。
「先生」は「K」を出し抜いて、「お嬢さん」を獲得し、「K」は自殺しました。「先生」はその罪責感の重みに屈して自分も自殺したのですが、その自殺決行を可能にした前提として「先生」と「私」との鎌倉の海での出会いがあった。上の事実からは、例えばこういう認識が可能にも必然のものにもなって来ます。
鎌倉での出会いがあり、「私」は、その後東京にある「先生」夫妻の家へしげしげと訪れます。そして初対面いらい美しい「奥さん」に心ひかれていました。作品にはそれが意味深長によく書かれています。そして「奥さん」も「私」に心を許すところがありました。それも面白くうまく書かれています。そしてまた、夫である「先生」にも、若い二人のそれが見えていましたし、さきに、『行人』という作品で、弟二郎と妻お直との間を疑う兄一郎を力こめて書いていた作者漱石の作意にも、そういう展開は、自然に用意されていたかと思われます。「先生」は若い二人の節度ある親愛の気持ちを、『こころ』において一度も阻もうとはしておりません。それどころか、その状態を頼みにすら思っていたふしが見えています。そのあげく、愛する「奥さん」を孤りぼっちで残して自殺など到底出来なかった「先生」が、「私」登場のゆえに、安んじて「奥さん」を「私」にゆだねて死んで行けると判断したことは、作全体の「読み」の上で、たいへん示唆に富んでいます。「先生」の罪の思いからすれば、あるいは「私」が実はあの「K」の再来かに見えていたかも知れないのです。
もし「先生」が、「私」のことを、あたかもあの「K」の再来かのように思いこもうとしていたのなら、その死後に「奥さん」と「私」とが結婚にいたる事情は、作品の「構造」からする強い深い要請であったと「読み」切れます。私は、「読み」に「読ん」で、結局、『こころ』という小説をそのようにも「読み」取ったのでした。それで作品『こころ』が痩せるわけでなく、より「構造」的に大きく面白く「読め」る、そこが大事の点でした。私は、その「読み」に応じて戯曲『こころ』を加藤剛ほかの俳優座の諸君に演じ(昭和六十
一年十月に初演し)てもらい、また、より論証的に長いエッセイにまとめ、平成四年九月号『新潮』に発表したのでした。それ以前にもちょくちょく、短い文章で趣旨は述べてきました。
これらもまた、『春琴自害』(昭和六十三年七月脱稿、六十四年「新潮」新年号掲載)におとらぬ衝撃の「読み」で、漱石学者たちを騒がせました。「私」と「奥さん」とに親しみを認める動きこそ、現在、かなり広く認められるようですが、「先生」没後の二人の「結婚」や「子」を予期するところまで、明確に推論を試みた人は、まだなお、いないのです。最も「過激な」説の先頭をどうやら私は走っていると、この論壇では見られています。
ただ、私が、こういう『こころ』論を、論証の意図でもって表向きに公表したのは、つまり文章にしてきちんと発表したのは、「新潮」でのエッセイが最初なのですから、それへの批評や批判は、私自身、まだ、全然目にも耳にもしていないのです。あまり過激で黙殺されているのか、素人がうるさいぞと叱られているか、それも何も知りません。一読者としての発言を専門家がどうフォローするのかは、やや、私の日常を超えたことでもありますから。
要するに私は、『こころ』の人間関係を「構造」的によく確認もせぬまま「読み」だけ上滑りさせてみても、それでは「読み」自体、ごく悪しき観念論になってしまいかねないと、「待った」をかけたのです。
小説の「構造」としての土台は、そこに生きて暮らす人物たちの「関係」そのものです。その「構造」を「読み」違えていたのでは、何をその上に構築しても、じつに危うい話になると、ただそれだけのことを言っておきたかった。『こころ』という小説は、「先生」の死後に、結婚もし子もなしえているような「私」と「奥さん」との、深い合意と協力の上に建てられて行く「構造」物なんじゃないですか、その確認が先ず必要なんじゃないですか、と。それを見落としたまま物を言ってきたんじゃないですか、と。それだけのことは、言っておきたかったんです。
小説を「読む」のに、こういう基本の確認をより正確にと努めるのは、M君、「読書人」として当然の話ではないでしょうかね。
もう十分だと思うのだけれども、念のため、もう一度『春琴抄』にもどって、ぜひ言い添えておきたい。作者が、読者に、「意図的な戯れ」を仕掛けるということは、事実、在るはなしです。一作家として、私は、それを体験的に証言できる。趣向といってもいいでしょう、そういう趣向にのって筆をやることはごく自然に創作に意気と息とを吹き込むという例が、確かに在ります。劇やシナリオを書いている君にも、その辺の機微は分かってもらえると思うのです。
芝居好きから出発し、活動写真の面白さに熱中し、さらに推理・犯罪小説に素質的に親しんだ谷崎潤一郎という小説家の場合、作の趣向へ性本来のつよい志向・傾向のあったことは、生涯の全作品が、反論の余地なく自証しています。体現しています。「筋」そして「構造的美観」ということを言いながら、つまり「人間」の質的な関係にほとんど舌なめずりをしていた、良い意味で「人くさい」作家です、谷崎潤一郎という作家は。なかでも『春琴抄』は際立っていると私は見ます。演劇的構図を映画的手法で展開し、しかも、事件をめぐる筋立てに推理・犯罪的な誘惑をかっちりと盛り込んでいるのが『春琴抄』です。
そうであればこそ、読者への「意図的な作者の戯れ」に応じて行くのが読者の「読み」というものであり、その「カタり」掛けに快く乗せられながら「趣向」の筋へ内面的にしかと手を触れてゆくことが大事なのです。作者の手に乗っていって、はじめて作者の魂に、読者も己(おの)が魂の色をよく似せて行けるのです。うれしく似せて行けるのです。賢しらに作者の「カタり」に嵌まるまい、逃げよう逃げようとして、人間不在、周辺をうろうろの「読み」に奔走してはならないのです。「作」「受」の幸福な出逢いとは、さもダマし・ダマされたようでいて、その実は、相寄り「作品世界」を完成して行く本筋の「読み」に内在しています。
『春琴抄』の場合は、「春琴火傷」と「佐助失明」との一連一体の意義を、それぞれの愛と決意を秘めた、互いに「自害」「自傷」という「自己犠牲」の真相を通して「読み」切れてこそ、より豊かに作品の面白さも大きさも深い意義も掴みとれる。繰り返しますが、「佐助が自ら眼を突いた話を天龍寺の峩山和尚が聞いて、転瞬の間(かん)に内外(ないげ)を断じ醜を美に回(めぐら)した禅機を賞し達人の所為(しょゐ)に庶幾(ちか)しと云つたと云ふ」とあるのも、余人が語をさしはさみ得ないほど緊密な「春琴と佐助と」の、個と個との直面した協同の真実を看て取っていたのだと、私は理解しています。(永栄啓伸氏の「黙契」説も、現場的・具体的には、ここへ尽きて来るもののように見ています。)そこに作者の和尚への共感と、読者への「意図的な戯れ」つまり「謎解き」の誘いとを、ともに正当に「読み」込んでいいのです。作者の意図した挑戦から逃げを打つばかりでは、作品は痩せてしまうのです。作家と作品とは、いつも、文学の「読め」る「いい読者」を渇望しているのです。
M君、以下こんな問答で、ながい手紙を結んで行くことを、笑って許してください。
「犯人捜しは無意味だとおっしゃっていますが」
「無意味です」
「無意味は無意味でいいのですが、それでも、あの春琴の火傷は、どうして起きたのでしょう」
「質問自体が無意味です」
「無意味でもいいのです。火傷は起きています。どうして起きたか聞かせてください」
「無意味なことです」
「無意味で構いません。知りたいのです」
「知らなくてもいいでしょう」
「知りたいものは知りたいのです。教えてください」
「賊が入ったのです」
「それを信じているのですか」
「……」
「どれを信じてもどれを疑っても、要するに賊の侵入など実は無かったと謂わんがために、わざと賊のことが、あれこれと書かれてあるようですが」
「……。佐助がやった、という説があります」
「それを信じているのですか」
「……」
「本文に照らし作の意図に照らして、とうてい立証できそうにありませんが」
「つまり、そんなこと、どうだっていいのです」
「どういう意味ですか」
「そういうことを考えるのが、そもそも無意味で、何の意義も無いのです」
「意義がないなんて、どうして決めつけてしまえるのでしょう」
「作者が、わざとはっきり書かないでいることですからね」
「わざと書かないのは何故かと、そこへ読者が興味をもつのが無意義なのですか」
「作者の術中にみすみす陥ってしまうようなものです」
「かたくなに頑張るものですね。作品を、作者と読者とで真実完成して行くのだという、そういう『作』と『受(じゅ)』の良い関わり方からすれば、作者の趣向へ、読者も自然に誘われていって、なにも術中に陥るなんて僻(ひが)んだことを言わなくてもいいじゃありませんか」
「作品の真価は、べつに在るんです」
「作中の大事件と関わろうとせずに評価される作品の真価って、何なんです。春琴の火傷なんてどうでもいいと」
「佐助の失明の方が大事です」
「佐助の失明は春琴の火傷なしには無い事件ですよ。切り離して考えるのは我が儘が過ぎませんか」
「火傷のことは結局よく分からないのですから」
「分からないようにわざと書かれている、ということでしょう」
「そうです」
「だからこそ、そこを、どう読むかに、作者の誘いがあり読む面白さもある」
「しかし確かに、賊とも佐助がやったとも言い切れない」
「春琴がいますよ」
「春琴の火傷に、春琴が自分からは関係できないでしょう。被害者ですよ」
「そうとは限りませんが」
「まさか」
「春琴が、自分でやったというのは、だめですか」
「だめです」
「なぜです」
「考えられないからです」
「考えられないという考えが、分かりませんね。賊はいなくて、佐助もやるわけがなく、しかも春琴の火傷は事実起きている。考えられないどころか、結局春琴自身の関与を考えてみるしかない書かれ方がしてあるようですよ。そうでしょう、わけもなく自然に火傷は起きませんし、天災もなかった。事故のおきる状況でもなかったんですからね」
「美貌が自慢の春琴が、自分の顔など傷つけませんよ」
「思い出して下さい。春琴は九つの幼い昔から自分の顔は見ていないんです。自慢の実質はあまりに稀薄です。ところが対照的に、佐助をうしなう女三十七歳老いの恐怖感は加わって行く一方です。生きて行くのに切実なのは、どっちでしょうか」
「そんな詮索が無意味なんです」
「そうは思えないから聞いています。だって仮にですよ、賊が火傷をさせた、佐助が火傷をさせた、春琴が自身傷つけた、その三通りしか火傷については考えられません。しかも、どの一つを選択しても、『春琴抄』という小説の意義や読みは、すっかり変わってしまうじゃありませんか。読みや評価のがらりと変わってしまうほどの大事な重々しい条件を、検討も吟味もせず、ただ無意味だなんて目を逸らしてしまって、それで、いいのですか。作品を、それでも、ちゃんと読んでいると言えるのですか」
「……」
「?春琴はたまたま火傷をし佐助は余儀なく失明したという読みと、?佐助が手を下して春琴に火傷をさせ自分も失明したという読みと、?春琴は覚悟の火傷で佐助の決意に賭け、佐助も春琴の誘いに自身の決意で失明を敢えてしたという読みとでは、まるでべつの作品というほど、読みが根から分かれます。なのに、肝心の箇所をあいまいに読んで、いえ読みもせず放っておくのが、本当に『春琴抄』への最良の向かい方だと言えましょうか」
「作品の真価とは関係が無いんだと…」
「本気でそんなことをおっしゃるのですか。そこが作品の真価を読み解く、肝心要(かなめ)のところじゃありませんか。あなたは、谷崎の仕掛けている意図的な読者への戯れに、わざとそっぽを向いて『だまされないぞ』と肩肘を張ってただ澄まし返っているだけです。滑稽ですね。愛読者にはとても出来ない作者への非礼のように思えるなあ」
「小説というのは、漠然と読めばいいのです。決めつけてはいけない」
「正しく読むのと、決めつけて読むのとは、別ごとじゃありませんか。いかにも含み豊かに書かれている日本語の魅力を、谷崎風にいえば含蓄や余情を、適切に小説の文章に即して表から裏から読み解いて行く鑑賞。隠されている核心へ丁寧に迫って行く鑑賞。それこそ、谷崎が読者にいつも仕向けてきた面白さだと思いますが、ちがいましょうか。大事な土台を半ちゃらけに放っておいたまま、砂上の楼閣のような危うい頭でっかちな議論をどう構えたって、本末転倒じゃないのですか」
「ただの犯人捜しですからね。あなたの言うのは」
「まだ、そんなこと、おっしゃっているのですか。いやはや。さようなら…」
もう十分でしょう。ワープロが悲鳴をあげないうちに、今夜はおやすみにしましょう。親愛なるM君。また、いつでも遠慮なく手紙をくれ給え。お元気で。 一九九二(平成四)年 文化の日に
「日本語にっぽん事情」あとがき
「書く」仕事をしていると「書ける」限界と取ッ組んでいる気持ちになる。否応もなくわたしの場合、日本語「で」思い考え、読みかつ話し、そして書いていて、どこまで日本語「で」明確ないし効果的に「書ける」ものか、不断の課題である。そんなときに思うのは、やはり「日本語」そのものの素質である。長短である。外国人が日本と日本人とをどう理解するかという際にも、たぶん「日本語」が難儀にそこに介在しているに相違ない。もし日本人が分かりにくいのであれば、おそらく日本語「で」考え話し書く日本人が分かりにくいのだろう、日本語「的に」発想する日本人が分かりにくいのだろう、と、想像されるのである。
思いがけず、五十代も後半になって東京工業大学の「工学部(文学)教授」に招かれた。もちまえの好奇心で、定年の六十歳迄ならと引き受けたが、若い人たちとの毎日がなかなか楽しい。学生諸君への話の通りもいい。やわらかい良い土へ水をかうように、十分に話せる。大学の機構や運営に関心は全くないが、学生の声は聴いていて飽きない。僅か二年間に、学生から、原稿用紙にしてのべ二万枚(在職中に、三万五千枚)もの内心吐露のメッセージをもらっている。元編集者とはいえこんなに「書かせ上手」だったとは我ながら驚くばかりで、読むのはたいへんだが、それがまた楽しい。読みながら、夜更け、ひとりで涙ぐんでいることもある。老いも若きも、なぜ人は「嫉妬する」のだろう。なぜ「寂しい」のだろう。なぜ「地位」が欲しいのだろう。なぜ「嘘をつく」のだろう。なぜ「結婚する」のだろう。「なぜ裏切る」のだろう。なぜ「死後を思う」のだろう。なぜ「恥ずかしい」のだろう。なぜ「孤立する」のだろう。だれのために答えるのでもない、めったにない機会に自分で自分に問いかつ答えようとして学生諸君は、ひたすら考えて、書く。書くことに魅されたように書く。日本語「で」書くのである。
その書かれた日本語の文章一つ一つを介して、「文学」のかかえた課題へ話題をひろげて行くのは、そう難しいことではない。わたしは概論も講義もしない。ひたすら文学「的」主題へ自身の思いを丁寧に置くようにと学生諸君を誘導するだけである。上のような設問に自分の言葉で問いまた答える力がなくて、どうしてドストエフスキーが読めようか。夏目漱石が読めようか。わが東工大の文学の授業は、知識を授けるアカデミックな時間でなく、自分の言葉を噴出させる自問自答の時間なのである。作品を読み、作者について知るのはその気なら独りでも出来る。けれど、上のような問題に自分らの仲間がほんとうはどう考え悩んでいるのか、知る機会はめったに無い。学生が互いに知りたがっているのは他者の思索や苦悩や打開の道なのである。それほど互いに孤独なのである。
国公立大学では留学生諸君を受け入れているが、異国である日本の大学での青春には、ひとしおの苦労がある。日本語「で」読み書き考え話さねばならない。低くはないバーであるが、じつに巧みにクリアしている人が多いのに感動する。留学生対象に「日本語日本事情」という授業のあるらしいことも東工大で暮らしはじめて知った。わたしが教室でしばしば話しているこの本の内容など、さしづめ「日本語にっぽん事情」そのものかなあと思い、本の題に拝借することに決めた。
一九九四(平成六)年五月三日 憲法記念日に
電子時代の作家の出版
作家の生涯にも、自ずと階段がある。活字の本を出版してやっと存在の証の立つ時期。落ち着いて仕事の出来る、ある程度人に記憶されている時期。書き続けながら、それまでの仕事を意識して整えて行ける時期。
第二期の半ば頃までに、百種にちかい本を出版していた。いたる所で自著の広告の出ているのを見ていた時期が、かなり永く、あった。だが、作品の命が尽きたわけでなくても、純文学本の品切れや絶版は早い。「出版」事情に即していえば無理からぬ面もある、が、作家や作品や読者側からすれば、不運で不幸な、やや理不尽な状況が、業界では当たり前のようになっていた。わたしの場合も例外ではなかった。
第二期の半ば頃から、愚痴は言うまい、いつか自分の手で何とかしようと、大胆不敵に腹をきめていた。そして、一九八六年の桜桃忌を期し、私版『秦恒平・湖(うみ)の本』を刊行しはじめた。太宰治賞『清経入水』定本を創刊第一巻に選んだ。本が読みたいのに、手に入らないと言われる読者のため、簡素に美しい装本で、在庫を常に用意し、希望に応じて、即日わたし自身が送り届けるという、出版・取次・書店は不要、「作者から読者へ」作品を「手渡し」の、稀有のシステムを作り上げていったのである。作家が「出版」の非常勤雇いの地位に甘んじていていいわけがない、もっと自由に、という思いがあった。
以来、十四年がとうに過ぎ、今年末わたしは満六十五歳に、『湖の本』は創作とエッセイとを通じて、第六十五巻を無事刊行する。この年数、この巻数。しかもなお継続刊行を維持して行けるという事実が、さまざまな意味で、「多く」を語っている。伊達や酔狂で成る話ではないからである。
わたしたちは、これを、読者網の親切な口コミを頼みに、夫婦二人の手作業で続けてきた。金銭の利はむろん望めないが、読者と作品には、大学・図書館等の施設にも、喜んでもらってきた。作家から「出版」へのキツイ批評として、実践として、近代文学史にあまり例のない、これも、わたしの意欲の「創作」となって、現に働いている。
「紙の本」時代の最後尾に細々と生きてきたような、この『湖の本』出版が、昨今、少しく意義を新ためてきた感がある。
あけすけに言えば在来の「出版」と疎遠になったわたしは、東工大教授に招かれたのを機に、パソコンに目をむけ、インターネット上にホームページを開いて、それを、自分の「原稿用紙」「発表誌」「著書」「作品所蔵庫」「作品展示場」として、思うまま広く世界に公表することを夢みた。ネット社会はいわゆるマス・コミでなく、ワイド・コミュニケーションの双・多方向社会であり、出版の性質も従来とは面目を一新している。
そして、夢は、今や、そのままに実現途上にある。ホームページ『秦恒平の文学と生活』(http://www2s.biglobe.ne.jp/?hatak/)は、日録「闇に言い置く」も含めて、一万枚に及ぶコンテンツを日々更新し増殖している。さらに、わたしの場合は、それらが冊子本『湖の本』に次々に成り代わって、継続予約の読者に、ごく自然に買っていただけている。まだまだ液晶画面では読みにくい「電子本」が、わたしの場合は、容易に「冊子本」に置き換えられ、右から左に読みやすい本になる。つまり『湖の本』に、冊子版と電子版とが並立して、全国の固定読者の支援で、創作のための「文学空間」が常に安定して確保されているのである。
もとより小さな「湖(うみ)」だが、作者と読者との思い通いは、深い。さもなければ、こうは永く、こうは多く、続かない。
言うまでもなく、新世紀の前葉、「紙の本」の命脈は少しずつ細り、より貴重本と化して行くだろう。他方「電子本」の占める率はかなり増えて行くだろう。日本ペンクラブは、すでに、「電子本」をも「著書」と認め、入会審査の対象にすると画期的な判断を下している。
だが、契約や著作権保護の上で、また技術的・心理的にみて、「電子本」で食べて行くことは、この先も当分は極めて難しいであろう。ホームページ上で自分の作品を公開して行く「作家以前」の作者はますます増えて行くだろうが、器械の上で「課金」して売れる望みは極めて薄い。方途も確立されていない。文壇に名を成している作家たちですら、「紙の本」の売れないと泣き言を並べている図は、まさに十年二十年一日の光景だが、いきなり「電子本」に移行してみても、簡単には生活を支えてはくれまい。そんなうまい話は、目下は、有り得ない。
そこで、言う。優秀な在野の編集者が、純文学作家達の絶版・品切れ本を、わたしの『湖の本』のように仕立て、直接、愛読者のネットを日本列島にかぶせる工夫をすれば、その作家の愛読者も作品も大喜びし、それが「電子本」の設営にも大いに力を貸すことになるだろう、と。そういう状況が実現してきて、初めてレベル沈下の「既成出版」も、余儀なく質的に目覚め直さねばならなくなるだろう。
わたしの冊子版『湖の本』と電子版『湖の本』との新たな連繋は、いま、思いなし活況を呈し、同業者達にもかなり関心を持たれている、ようだ。浪人の傘はりに似たワキの存在のわが『湖の本』が、いつしか、思いのほか、時代の先頭を走っている現実を、わたしより、他人様(ひとさま)の方で驚いていてくれる。時代は、ほんとうに動いている。
―「産経新聞」二○○○年九月二十五日 夕刊―
私語の刻 ─跋─
京都では、十二月二十一日を「終(しま)い弘法」とも謂い、東寺(とうじ)に、ひときわの市(いち)がたつ。駄洒落をいうようだが、冬至でもある。わたしは、昭和十年(一九三五)のこの日に生まれたので、今年は、新世紀到来を十日後にひかえて、満の六十五歳になる。その日とその歳とにうち重ね、「秦恒平・湖(うみ)の本」も、創作とエッセイを通算して、第六十五巻めを無事刊行できるところへ来た。心より御礼申し上げる。
遙かな昔に「西暦」というものを覚え、二十一世紀を迎える元旦は、満六十五歳と十日めに当たるンやなと指折り数えて、そんな日を自分はほんとに迎えられるのかと、なんだかぼうとした気持ちになったのを、ありありと思い出す。その頃、世界の人口が十一億人だと、明治版の啓蒙的な家庭事典には書いてあった。そのうちの一億を日本が占めたか占めそうな按配であったのも、ある種の驚異であった。
思えばわたしは幸せに今日まで過ごしてきた。いい教育も受けたし、いい家庭ももてた。お宝の藏はもたないが、小さいながら狭い庭に書庫は建てた。成りたかった小説家になり、三十余年の間に百冊におよぶ単行本等が出版できたし、いい読者に恵まれて「湖の本」という稀有な文学環境を、十五年に及んでなお維持し持続している。世にときめく人からすれば憫笑される程のことのようであるが、わたしは、この境涯を深く誇りに思っている。何故か。わたしは、本をこそ売ってきたが、自立心と自由は誰にも渡さなかった、これまでは、少なくも。幸せなのは何よりもそれである。
誰も、わたしを有徳人とは思うまい。「多数」の世間に背を向けて有徳でいられるわけはなく、だが「不徳ナレドモ孤デハナシ」と偽りなく思うことの出来る、それが幸せでなくて何であろうか。「逢ひたい人がいつでもいる」と、或る催しに請われ、テディベアのお腹に妻の描いた花の繪に添え、そう書いた。それが我が宝である。
このところ、宗教学の山折哲雄氏とつづけて対談し、「自然に老いる」ことについて考え合ってきた。無事に本になるかどうかまだ微妙に思われるほど、話題の行方は厳しく交錯して、わたしはそういう議論こそ必要なこと、面白い対談とはそういうものと思うけれど、要するに「老い」を語る難しさに、まだ戸惑いがあるのだ、少なくもわたしには。
ひょんなご縁で「八十路過ぎ」られた俳人の句集『芒種』を頂戴したのも今年だったが、ちょっと類のない優れた句集で、対談にも、何句も取り込ませていただいた。引きたい句は多いが、なかでも、
明日への信いくらかありて種子を蒔く 能村登四郎
が、胸に響いた。「橋なかばにて逝く年と思ひけり」も「春愁に似て非なるもの老愁は」も「花疲れ生きの疲れもあるらしき」も胸に来た。だが、とりわけ先の掲句に、ふと立ち直るものの身内にある気がした。我と我が身への信より、もっと大きい何かに「信」そのものも預けておき、明日へなお、ほんの少しでも「種子を蒔く」気があるのだった、わたしには。
一昨年、田中孝介君に正確な基盤を置いてもらい、昨年、林丈雄君に間口を広げて便利な受付を置いてもらった我がホームページ「秦恒平の文学と生活」が、この十月、布谷智君の厚意と尽力により、さらに豊かに内容を拡充一新した。冊子版「湖の本」に併走して電子版「湖の本」がいよいよ機能しはじめたのであり、その他にも新しい内容のページを思い切り多く用意した。ホームページの1ファイルを仮に全集の一巻分と勘定すると、およそ百巻分ほどの「所蔵と展示」が可能なように増設してもらった。事実は1ファイルの容量は紙の本一巻の何倍も大きく、その気なら現在の三倍大までわたしの器械はまだ拡充できる余地をのこしている。過去の主な文業はすべて電子化できるし、今後の活動もおよそ取り込んで行けるのである。
新設のページの中で、わたしは、亡兄北澤恒彦を偲び彼の個人誌「SURE」の記念にも、と思い切って「e-magazine湖(umi)=秦恒平編輯」という電子雑誌の創刊に踏み切った。ホームページ「秦恒平の文学と生活」の中に、雑誌が入れ子に成って抱き込まれる。何年何月号などという在来雑誌の常識を超えた、いわば広範囲な「文学サロン」なのである。小説も、詩歌や戯曲も、研究も、エッセイやも批評も、紀行や書簡・消息も、講演録も、対談も座談会も、論争も、すべてファイル別に収録可能な「底」無しの大きな「器」であり「場」であり、誰に対しても残りなく開かれている。ただ「秦恒平が責任編輯」するので、取捨の権利がある。ただそれだけのルールで、原稿の長さも縛らない。むろん課金もしないし、そのかわり一切原稿料は支払わない。わたしは、わたしのホームページの一部を、文学に心ある人に廣く開放し利用してもらおうと意図しただけ。そして誌面はもう着実に、日々に満たされている。
そんな場所へ寄稿して、どんな利があるかと世知辛く考える人も有ろうが、これだけは言える。わたしのホームページには「いい読者」が集まっていますよ、と。作家・芸術家・詩人・学者・研究者・学生・それに「湖の本」を核とした上質の読み手たちがつねに訪れて呉れているのが、ほぼ分かっている。公衆便所の落書きのようなひどいことには決して成らず、いい文章や表現は十分に楽しまれまた評価も受けられるだろうし、「ワールドワイド」の、だが「ミニコミ」をむしろ標榜しているので、後日の出版等の障りには成らない。
とは言え、わたしは、このマガジンが、せせらぎの小ささから、大河に成るのに、五年も十年もを予期している。ただ「明日への信」がいくらか有って蒔く「種子」なのである。こういう地道な「耕作」を経て行かねば、電子の「畑」から、優れた文学・文藝の実が生る日はなかなか期待しにくいということを、わたしは一編集者的な眼で、切に実感しているのである。
数年前、わたしが日本ペンクラブの理事に選挙されたとき、自分がこの畑で発言したり議論したりするとは実は予想もしていなかった。
だが、結果として、ペンクラブはわたしの提唱で「電子メディア対応研究会」を設置した。座長の義務から情報処理学会の文字コード委員会にも参加したし、日本ペンのホームページをデザインし立ち上げた。冊子本とならんで、今後は電子本も「著書」と認めることを理事会は正式決定してくれたし、電子本たる具体的な「条件」も定めた。
なんでこんなことを自分はして来たのだろう。そう思い返すと、要するにそこに東工大が在る。あの教授就任がもし無かったら、すべては夢のまた夢であったろう、わたしは今でもワープロ以上に機械など使えず、軽薄にパソコンの悪口を叩いていたかも知れないのである。
九月に、ペンの言論表現委員会が主催して「ネット社会での表現」を主題にシンポジウムを開いた際に、司会の猪瀬直樹氏に指名され、幾つかの報告と意見とをわたしは会場から述べた。内容はペンやわたしのホームページにもう掲載してあるが、一つ、パソコンは高齢化社会に適さないかという問題点に関連して、そうではあるまい、むしろ来る新世紀は文字通り「e-OLD」の時代になるように想われるし、体力的な衰えをカバーして、インターネットは、老境の人を、ないし心身の不自由な人たちを、新たな世界への「旅立ち」に誘い出す「電子の杖」になろうとしているのではないか、と報告し、提唱した。重々ネット社会と機器機能の毒性を承知して、なおである。反響は小さくなく、賛同の声が大きかった。機械の難しさは、まさに日ごとに減じており、少し親切な助言者があれば、わたしのような機械音痴で親の電器商売を顧みずに美学など勉強した者にさえ、曲がりなりに「表現の日々」が実現でき堪能できるのである。
「湖の本」の親しい読者のなかにも、頑としてパソコンなんかと拒む人もあるけれど、そしてそれも少しも可笑しくはないのだが、そういう方にもお願いしたい、わたしの電子雑誌「湖=umi」へ、手書きでも構いません、どうか、どんな性質のものでも原稿が頂戴できますようにと。インターネットはいわゆるマスでもミニでも実はなくて、ワールド・ワイドな表現力なのである。あっというまに世界中に表現・表出の伝達される可能性を蔵している。世界という「闇」の彼方へどうか、わたしのホームページを利用して「美しく」「より深く」発言して下さいますように。出来れば「個と個」の電子メールで、私との「対話の刻」をお持ち下さいと「私語」此処に添えておきたい。
我がメール・アドレスブックには、学生・読者・知人・同業・マスコミと分けて、約三百人。他に、ペンや文芸家協会のメール使用会員が二百人以上。
学生とは、むろん、わたしにパソコン生活の扉を親切に開いてくれた東工大の大勢の若い友人たち。早稲田文芸科の頃の懐かしい学生も、少し。大半が社会人になって各地に散り、だが修士・博士課程で研究生活にある諸君も多い。進路の、恋愛の、人生の相談も受けるし、器械の手ほどきも受ける。楽しみは、研究や仕事上の珍聞をわたしにも分かりやすく話してくれるメールで、その点、わが東工大の学問分野は多彩に精微をきわめ、話題の豊富なこと、面白いこと、そのうえ若い息吹に、すばやく、気軽に触れることができる。「逢いましょうよ」も、簡単に話が決まる。
また住所と電話付きフルネームでおつき合いの久しい読者が、列島の南端から北端にまで、海外にも、点在している。読者と作者とはどこかで「魂の色が似ている」ので、お顔は見知らなくても気心が溶け合っていて、感じの深いメールつき合いが存分に楽しめる。手紙や電話とは比較にならない隔てのなさで、とっておきの話題が交換できる。ご挨拶ばっかりでは続かないし意味もない。恋文も来る。恋文を返す。老若男女をとわず、パスワードに守られた個と個と直通のEメールは、美しい秘密の恋文ににた性質を自然と帯びやすいのである。手紙とは、年齢差・性差に関係なく、本質は恋文かのように書かれるべきモノとわたしは昔から思ってきた。
メールアドレスは、ホームページアドレスとともに、奥付に掲げてあります。
萬福聚来 新世紀を、お健やかにお迎え下さい。年賀状に代えまして。 秦 恒平