* 建日子のつれてきた猫のグーとうちのマゴとが、ずうっと静かに見合っている。妻が、建日子にもらったデジカメで撮っている。
リメークの「秋刀魚の味」を、いかにも静かに観た。いまどきの作家がこの脚本をもちこんでも、テレビ局は洟もひっかけまい。しかしこのスローな小津映画のリメーク作品ですら、やはりいまいまのトレンディーな一夜漬けのドラマより迫ってくる実在感があるから、さすがである。フジテレビがこういう作品を正月にもちこむ真意は知らないが、つねひごろに、真実モチーフのこまやかな力作を手持ちに書けている作家がいてほしい。はなからそんなのは受け付けないよ、と、諦めずに。
2003 1・3 16
* 昨日と一昨日、ジャック・マイヨールによる「グラン・ブルー」と、リノ・ヴァンチュラ、アラン・ドロン、ジョアンナ・クロクスの「冒険者たち」を続けてみた。二つとも秀逸の名画。とても寂しかった。「上の世界に戻ってゆく理由がない」と海深くに潜っているジャックのつぶやきの、あの畏れの深さ。そして深海に棲むべき男達はもう帰ってこない、地上の女に忘れ形見をやどさせて。
「冒険者たち」の生のシンボルのような愛おしいレティシアも一瞬に死に、愛し愛された二人の男に見送られ、深海に帰って行く。「海は恋人」ということばを男達は信じた。
あきらかに二つともが「死なれて死なせて」の哀切であり「身内」として一つの島を共有した者たちの底知れぬ幸せを描いている。
身内――。死なれて 死なせて――。ほぼ一切の創作の、物語の、この二つがいつも真の動機になる。それがわたしの、理解である。把握である。
2003 1・4 16
* 映画「ロリータ」で、笑ってしまう。ジェイムズ・メイスンとシェリー・ウインタースのコンビネーション、それにピーター・セラーズの絶妙、スー・リォンの健康そうな美しい色気もみごと。物語が手堅くこの四人で語られてゆくので、耳で英語を聴いているだけでも楽しい。「痴人の愛」も「蒲団」も連想させる。重い破滅的な主題が、軽妙な喜劇のように展開してゆく。DVDだと都合良く細切れにしながらつき合える。「ロリータ」も「アメリカン・ビューティ」もうまい買い物であった。
2003 1・8 16
* 舌を噛みそうな題の、ケビン・スペイシーだかステイシーだかの映画をみた。脚本賞を受けているそうだが、少し困惑した。篠ひろ子に表情の似たキム・ベイシンガーがも一つだった。配役から、すでに底の割れていると分かるのもよくない。俳優のことを知りすぎていると、どうも残念な展開になる一例だった。安い映画でないのは分かるが。
2003 1・12 16
* 日本テレビ系で十時から、秦建日子脚本の連続ドラマ「最後の弁護人」がスタートした。順調な門出といえようか。以前の、主人公が七人も八人もいた「天体観測」とちがい、配役に的が絞れ散漫にならない分、ストーリイを安心して追えた。クオリティーも、案じていたより密度あり、磨きあり。
ただ、筋がはやくから割れ、犯人の予め分かっているコロンボ刑事型の臭いがした。長門裕之は根はいい役者だけれど、もっと腹のある、客のだませる芝居をしてくれなくちゃ。顔と目の安い芝居をみているだけで、底が割れてくる。
法廷場面は、うすっぺらなわりに簡潔に事が運んで、ま、可。捕り物は、いかにも安い。
ところで、主役のあの弁護士の、からだの動き(ダンス)と言葉の廻転(滑舌)とは、文字通り齟齬(ぎくしゃく)の気味目立ってあり、そのアンバランスが、今回だけは怪我の功名で滑稽感になっていたけれど、そんな効果はこの先長持ちしない。セリフを正確に面白くしゃべれること、正確に試聴者に聴かせるよう「話す」技術が、のっぽの弁護士クンに、ぜひ必要なようだ。女優は、あれでよい。
ま、第一回。70点ほど奮発、及第。右肩上がりを期待。
着々と、集中あれ、但し油断して、怪我せぬように、風邪もひかぬように。それだけしか心配していない。
2003 1・15 16
* 夜、メールでも勧められていた「シックスセンス」という映画を観た。なかなかのツクリで、深刻な筋書きを、とても辛抱強く誠実に押し切っていったのが、成功していた。可愛い子役少年の絶妙の演技にひきたてられ、大人のブルース・ウイルスまでよく見えた。怖い能力を備えた息子と母との、祖母(母)のことでかわす車の中での対話、それがそのまま母子の秘密の理解に成ってゆく解決に、泣かされた。医師に救われて行くと思っていた、その医師が、逆に少年に救われていたといえる結末の不思議にも、よく納得がいった。よく出来た純文学のようであった。
2003 1・17 16
* 観ていたときより、見終えてから昨日の映画は心に残って、ながい夢をみたように思う。あの愛らしい少年の面差しが、親愛なる東工大院卒の建築家クンの幼少を想わせるようであった。忙しくしていることだろう。
2003 1・18 16
* 歌集「少年」を読み直した。小説を書くのに殆どの時間を費やした。
痛いほど双方肩がつまってきたので、やめて、「シックスセンス」の続きを妻と観た。これで三度目か、見るつど佳さが深まる。佳い映画はあるものだ。「グランブルー」「冒険者たち」「シックスセンス」「女と荒馬」それにトム・ハンクスの看守もの、戦場ものや「フォレストガンプ」、ポール・ニューマンとメラニー・グリフィスとジェシカ・ダンディーとブルース・ウィルスで競演した、とてもピュアでビューティフルな映画。音楽も好きだが、繪や芝居も好きだが、佳い映画には魅される。ブルース・ウイルスは「ダイ・ハード」だけの役者じゃない。
* ニューイヤー オペラリサイタルで、トリを歌った、佐藤しのぶの貫禄の歌声にも容姿の美しさにも感心した。
2003 1・19 16
* 十時になると建日子のドラマが二回目。一回目が始まり、その後に気を付けていると、けっこう穏やかに好評の気味で、けっこうだ。だからといって、わたしの好感度があがるとか、見直すというのではない。真面目に続けていれば宜敷く、ちょっとでも不真面目に安直に走れば、どんな好評も消し飛んでしまう。気の入った仕事を続けて欲しい。
すこし湯に浸かり、全身を温めたい。違和感は晩飯のあとも消えていない。
2003 1・22 16
* 建日子の二回目は、前回より求心力があった。ひとえに黒貫薫の演じた「母親役」の効果であろう。最初っから、これは母親の芝居だなと感じさせた。タネは割れていた。子供の使い方など、的確とは思わない。
秦建日子の人物は、ドラマが殊にそうだが、これまで、よくもあしくも、「おひとよし」で「甘い」と特色づけられた。この作者、キツイことケワシイことは、性分として書きたがらなかった。父親のわたしの書いたり言ったりすることにも、親父、やりすぎだよと、ハラハラし苦い顔をする。根が、わたしより優しい。
創作者は、しかし、優しければいいというものではない。把握のつよさが、表現の強さになる。善であれ悪であれ。
今夜の母親役、古い物言いをすると、外は如菩薩、内は如夜叉ふうの、「ジコチュウ女」の昨今型である。少なくもドラマ終盤までの途中表現は、その意味で、オゥ、やっと「こう書く」かと、わたしを喜ばせた。いないようで、じつは昨今とみに増えていそうな、酷薄な母親のエゴが、ちらりと出た。ああいう表現は、ちらりとで宜い。くどくするとウソになる。そして終幕のあの母の顔を、わたしは、甘くわるくしたとは言わない。ああいうおさまり型はまことに月並みだが。よく音楽で、こういうことがある。変わった面白い曲であったのが、エンディングへ来て、さんざ聞き慣れたような節で着地する肩すかし。ま、そういうものか。
母親のドラマであった。父は添え物。子供の爆弾にも関心も共鳴もしない。作り話である。が、とにかくも、「アア、イヤだ、こういう女がいちばんきらい」と思わせるぎりぎりへ、一人の「女」を押し込んで書いたのは、収穫だと感じた。そういう人間の表現に腐心して欲しい。女優さんがまた、そういう内と外との酷薄な表情の層を、よく描き出してくれた。「うまい」ではないかと、眼を据えて観た。その他は、すべて平凡。
* 今一つ、わたしの感想を書いておく。いまぶんそれが好評され噂されているけれど、それがそれほど「いいせりふ」なのかどうか、いいせりふメイて書かれたお説教と皮一枚のようなキメせりふは、クサイとわたしは感じる。そんなせりふで妙にキメてくれるなよと、こそばゆい。ドラマからセリフが遊離してくると、世界が薄くなる。役者がへたなミエを切るように、作者がセリフで格好をつけだすと、劇的真実が遠のいて、田舎芝居めく。危険。その点、そうだな、映画「眼下の敵」でのクルト・ユルゲンスとロバート・ミッチャムのセリフなどは良かったものだ。
2003 1・22 16
* 帰ったら、「千と千尋の」何とやら。しばらく見ていたが、アホラシサに退屈した。たわいない子供だましで、まだしも以前の「もののけ姫」の方が、あれもつまらなかったけれど、呼び込んだ。宮崎アニメは、まずいつも失望させられる。観客をあまく下目に見てものを造っている。
2003 1・24 16
* 「最後の弁護人」三回目を見た。今回は謎解き・種明かし。それだけ。その分では「鮮やか」と言ってもいい、が、つまりは終始「つくり話」めくばかりで、感動は何も無い。ほろりともしない。作者の「どんなもんです」が聞こえてきそうで、拍手を献ずるにヤブサカはないが、本当は、わたしのような観客が、胸を打たれたいのは、弁護人の腕前なんかではない。
あんなに、一見感じの良いおとなしい女が、どうしてホストクラブへ行くほど性に飢えるのか、どうして殺人を犯してまであんなホストに貢ぎたいのか、その「必然」の心理と経緯を通して、人間が人間として「生きる」苦しさや弱さや醜さを「ドラマ」にして見せて欲しいのである。弁護人が主役だから「犯人の生き方」にまで手が回らないなんて、言わせない。悪人であれ善人であれ「犯人」の生きる「ぎりぎり」を理解し、その内面のドラマから「法を問う」のが弁護人劇のミソ、感動のありよう、ではないのか。
今夜のは、まとまりだけ良いが、感動は滴ほども無かった。ご都合で「謎」がホイホイと運用された。作者は、少しく「上手の手」に鼻を高くし、人間のはらんだ自然や不自然という「水=劇的感銘」のその手から漏れ出たのに、気付いていないのでは。
無期懲役の判決の出るほどの重罪事件が、わずか「三ヶ月」で結審というのも、軽いなあという印象、禁じがたし。
* 息子さんが懸命に書いているのだから、お父さんたるもの、厳しいことは書かないほうがと忠告してくれる人がいる。厳しいどころか甘い父親です、わたしは。ほめられないものを、わたしは、一心にほめて励ましているのです。わたしにしてやれるのは、批評ぐらいなもの。批評ぬきの賞賛や感動の嵐なら、他の場所で彼の耳に降り注がれている。しかし、創作者に大切なのは、褒められたことはなるべく忘れ、受けた批判に真っ向立ち向かうこと。
2003 1・29 16
* 肩凝りがアタマにまで登ってきて痛むので、仕事をやめて夜のニコラス・ケージの映画を観ていた。かなり烈しい映画だった。済んでから湯に浸かり、具合が悪くなり、かなり苦しかった。汗をかいて、横になっていた。機械を消しに来て、メールの来ているのを読もうとしてウカと消去してしまったり。
* 晩の朝日賞のパーティーには結局出掛けなかった。夕食は七草の粥を食べたので食あたりではない、辛くなったのはやはり心臓の不調のようである。昼過ぎ、「黒いオルフェ」のラストを観ていた。あれもなかなか身にこたえていたのかも知れない。
2003 1・31 16
* 四回目の「最後の弁護人」よく纏まって安定感もあったし、一応最後まで引っ張った。しかし、灰皿の燃えかすはともかくとして、引き出しについていた血痕、ドアノブの血痕があれぐらいハッキリ目に見えていたら、誰の血液かの判定などとうの昔に当然されていてよく、有働弁護士の云うとおりなら、なぜそこに父親の血液がついていたか警察と検事側は認識や判断を持っていなければおかしい。ドアノブについては説明があったが、引き出しとその中の手帳の血と、頁が破られてあるのとに、検察や警察が最後まで気づいていないとは、脚本のご都合がよすぎないか。真っ先に見えていていい捜査内容や証拠の筈だが。人情噺を急ぐ余り、明晰を欠くフレームアップになったのは惜しい。密室の謎のまえにそういう証跡がきちんと処理できないと、推理が、甘い甘い結果になる。
2003 2・5 17
* 帰宅後も眠くて。みんな投げ出して、見かけの「氷の微笑」で、好きなシャロン・ストーンのすてきなシーンを楽しんで、早く休もう。
2003 2・6 17
* 秦建日子脚本「最後の弁護人」第五話は、崖っぷちから乳母車を蹴落としたと聴いた途端、反射的に、そりゃ子供を抱いたから蹴るしかないと、あっさり種が割れたから、つまり察しが付いたから、あとはそうなるための説明のようなものであった。それ以外に大きな破綻はないといえばないが、電話や投石やファックスや、ハテは鉄パイプの登場まで類型づくめなのには賛成できない。子供を抱いた女のあわれも、子供を育てられない女の活きる苦しみも、「人性」の深みにおいて捉えられた書かれたとは、とても言えない。背の高い弁護士と押しかけの「ロバ」調査員のやりとりが軽妙に笑わせる。あの女優は、間の取り方も巧みで活気があり、なかなか良い。
2003 2・12 17
* 昨日、「ショコラ」という映画をビデオで観た。今日疲労して帰って、もう一度観た。佳い作品で、ケチのつけようがない。ジュリエッタ・ビノシュという地味な女優の、小憎いほど密度も味わいもあるうまい映画で、しかも、主人公の母子は、一種流浪の「魔女」的技能者であり、また「河鼠」ときつい動物扱いの差別を受けるこれも流浪の集団があらわれて、健全で知的な聡い魔女風の女と結託し、連帯する。結婚もし土着にもいたるらしい。土着するであろうそのちいさな町は、因習と保守との典型のような、お行儀のいい古い土地柄だ。その古くささを不思議なうまみのショコラづくり魔女の母親が、元気に巧みに内面から作り替えてゆく。味覚という根源の欲求を介して、土地の人間や、支配者的な伯爵をまで変貌させてゆく。意欲的な映画だと言える。
意欲的なだけでない、つくりが綿密で洒落ていてスキがない。作劇のうまさが光る。
* 制約が多いから、どうせテレビだから、視聴率がとれなきゃダメだから、とか、テレビドラマも自分で自分に言い訳の首かせをはめるばかりでない、人の無条件に頷く冴えた職人芸をみせてもらいたいもの。
後白河院のころに、いかなる上手の繪にも、まこと反抗しがたい精微なケチをつける「繪難坊」と渾名された批評家坊主がいたと、ものの本に出ている。そういう批評に鍛えられる形で、写実の傾向の深まるのが、鎌倉期以降の造形であるが、そういう「繪難坊」を一人、あらゆる作者は、自身の身内にもしっかり飼っておく必要がある。甘える作者は、甘えに甘え、それにも気付かず自己満足してしまう。創作の才能は、自己批評の才能にほぼ等しいのである。
2003 2・12 17
* 晩、映画「沈黙の戦艦」を途中からみた。スチーブン・セガールのものでは、敵役がトミー・リー・ジョーンズという達者にも助けられて、面白い方の一作か。騒動の戦艦に送り込まれた無名の女優役、たしかエレノア何とかいう女優がけっこう可愛くてこの映画に味を添えている。初めて見る作品ではなかったが、骨休めは出来た。
ま、何と、あれもこれもある毎日だろう。
2003 2・15 17
* ジーナ・デービスとサミュエル・ジャクソンの痛快アクションを、もう十度は楽しんでいるが、今夜も見ていた。ばからしいほどばかげた映画だが、映画だから楽しめる。女優の活躍する作品は、余程でない限り楽しめる。こういうアクションの片方で「ホブスンの婿選び」「シックスセンス」「ショコラ」「秋の恋」「冒険者たち」「グランブルー」の酔うな優れて静かな静かな作品が好きだ。
2003 2・16 17
* 建日子脚本の「最後の弁護人」六回目は、禁則? 破りの、前半分だけ。
しかし、画面も運びも、今までの中で尤もクオリティーよろしく、出だしから、おやおや「うまいよ」と感心していた。ま、法廷場面での検事役との張り合いなど、型どおりで、少しは変えてよと云いたいが、ま、それは続き物の場合ある程度守られる約束事かも知れない。ただ検事役の役者が芝居を投げたくなりはしないかと心配だし、気の毒である。欲をいえば「サル」君も、もひとつ冴えていない。
よく文章で推敲ということを云う。画面の運びにも当然推敲に匹敵する自己批評が必要で、その一つの場合は、ムダを書かず(見せず)に済む「手入れ」だろう。それが、今夜のはたいそううまく行っていて、画面に流れてゆく美しさすら時々感じた。これはだいじなことである。これが出来れば、科白のむだも省ける。
火曜サスペンスで、備前辺りの殺人事件を書いていた頃の建日子氏のセリフは、稚拙そのものだった。本人も分かっていて、いささか頭をさげてきたものだ。今はどうか、あの頃の彼は、「科白」という意味すら知らなかったのではないか。
「科」は「シナ」で、役者の動作を反映し、「白」は「いふ」で、言葉によりモノや場面を活かすのである。歌舞伎作者の基本の心得であった。
さすがに、うまく成ってゆく、少しずつは。真面目にやれば当然それが出来てくる。誰よりも、何よりも、自分をナメてはいけないし、自分の仕事をナメてもいけない、のだ。うまくなれば、いい仕事を見せれば、向こうから、自由の利く世界が必ず近づいてくる。
2003 2・19 17
* 途中から、寅さん映画の中で好きな一編を、最後までみた。前の片岡仁左衛門が佳い感じの老陶芸家で。丹後の女の石田あゆみがヒロインで。特段の纏まりも持たないお話でありながら、石田がうまくて、しんみりする。数十の寅さんものでわたしの印象に感じよくのこっている一作であった。最近では痩せ過ぎた石田だが、映画は二十年前の作で、細いなりに若くて、ときにはっとする美しさうまさを見せる。丹後の波止場での別れの場面など、なにもしないで「女の人生」のせつない哀情をにじませた。歌はいただけない歌手だが、芝居をさせると天性の表現力を持つ点では、惜しいことに横へ逸れた桜田淳子と、好き一対だったと思う。
石田あゆみとは、一度NHKのエレベーターで一緒になった。ラジオで「梁塵秘抄」を連続して話していた頃だ、彼女をみて、小説「初恋」のヒロインを感じた。よし書けると思った。背丈を七、八センチ小さくしようと思った。
* 石田あゆみ、桜田淳子にまさる上手は、大竹しのぶ、田中優子だろう。宮沢りえもたいへんな才能。異色では原田美枝子、秋吉久美子、そして藤真梨子か。
2003 2・20 17
* 忙しい合間に、あてがいぶち?(テレビ)で鑑賞する映画、それにまつわる秦さんの独り言と挿話が大好きです。ほっとします。寅さん映画の石田あゆみ評、つづいて名を連ねた女優。自分とぴったしかんかんだった時のひとりごち、うーん。映画評なんて堅くるしいものは置いといて、こんなストレートな好き嫌いがいいですね。それと芝居を観るたしかな目と好みがあって、ひとつのきわだった場面を心象の風景に刻み込んでくれます。映画や芝居や小説では、絵空事である全体の筋や運びの面白さは大事でも、心に残るのはやはりひとつのシーン、せりふであるかも知れませんね。
昨日は色気のある仁左衛門がよかったですが、ふだん、男優への言及にくらべ女優のそれがずっと多い? これ
も気に入っております。ニタニタ。 東京都
* ついでに云うと昨夜の寅さん、石田あゆみもさりながら、やはり十三世仁左衛門の稀有な映画という点で忘れがたく、また佳かったのである。むかし、寿海、寿三郎を頭分に、蓑助(後に三津五郎)、鴈治郎、冨十郎、延次郎(後に延若)らと轡をならべて当時の我当(後に仁左衛門)が、独特の鼻へ抜ける口跡で頑張っていた頃から、色気のあるオッサンやなあと好きだった。一つには中学同窓に同年の秀公(現在の片岡我当)やその姉がいて、先代我当はその父親だったから馴染みも感じていた。云うまでもないその秀公の次弟がいまの人気女形秀太郎、末弟がさらに人気抜群の現仁左衛門である。
彼ら三兄弟の姉が一つ上の学年にいて、三年生の文化祭で、「修善寺物語」のヒロインを演じ、それは松嶋屋指導であったに違いなく、わたしの見た生まれて初めての「本格」歌舞伎の少年版であった。その前年は、わたしの演出した劇が全校優勝したが、その年は問題なく「修善寺物語」が全校の人気をさらった。そういった思い出をもちながら、もう功も名も遂げていた老松嶋屋が「寅さん」に出るというのは興味津々だった。映画館に行くほどヒマではなかったけれど、後にテレビで観て、「よろしぃなあ、やっぱり」と嬉しかった。品のいい顔立ち、あれはそのまま現在の我が友我当の顔である。
わたしは、前々から、我当にはテレビの現代ものでの、すばらしい出番がありうるのではと渇望してきたが、まだ機会がない。風貌と品位からも、彼は舞台のほかにもっとさらりと気楽に演じられるテレビ劇での活躍場面が可能の筈だ。昨晩の寅さんで懐かしい彼の父上を観ながらも、何度も「ああ似てるなあ。仁左衛門や秀太郎よりも、断然似ているよ、味わいが」と嘆声が出た。いくぶん今の我当にカタイところの無くはないが、楽屋で顔を見ても、まして背広など着て一緒に写真をとっても、彼はりゅうとして美しい紳士の顔をしている。もっと働かせたいなあと云うのがわたしの願いであって、それもゆうべの寅さん映画をみなおした本音であった。彼に直接そんな不躾は云わないけれど。
* いま、「湖の本」の久しい継続読者でもある人から、自分の仕切っている或るNHK番組に出てくれないかと、電話があった。美術系統の番組には数多く出てきたけれど、文学系統のものは気持ちの上で避けてきた。詩歌や歌謡の方でだけ出てきた。今度も詩歌の話題だけれど、昔のようにはテレビに気がはずまない。いつも本音で本音を話すようにしてきたが、番組によってはゴアイサツを強いられる。それがイヤだ。
2003 2・21 17
* 眼鏡へ出掛ける前に、ひるすぎ、ペータ・ウィルソンの続き物「ニキータ」を観ていた。ニキータがハイ・ファッションで、個性的な佳いマスクを神秘的に光らせていた。いわゆる美しい人ではないだろうが、何とも言えず表情の底が深く、灰色の眼の湛えた光が魅力。生死のぎりぎりいっぱいを、非情な任務遂行のなか険しくあざやかに斬り抜けてゆくのが、なまぬるい凡常のドラマのなかでは、胸にこたえる。ほんの譬えだが、黒木瞳のような普通の美人女優を見ているなまぬるさからすると、ペータ・ウィルソンの顔には現状に堪えて闘うしかない人間の強さと哀れとが底光りする。黒木瞳が好もしく健康な美人なら、ニキータは、ひたすら、はちゃめちゃに魅力的である。
2003 2・21 17
* 手作業の促進剤にとビデオでみた映画も、放映されたのも、それぞれに気をひかれて見てしまい、すこし集中力も欠いていた一日で、能率が上がらなかった。トミー・リー・ジョーンズの「追跡者」は、ハリソン・フォードと彼とがナイスなコンビであった「逃亡者」のうまい焼き直しで、気楽な活劇としてはこの方がイヤミがなかった。つまり、けっこう見てしまった。ひきつづいて、ダンス・コンクールを舞台にしたポール・ジョルジオとタラ・モリス主演映画のダンスが面白くて、これも仕事から手を放して観てしまった。なにしろ和も洋も舞踊が好き。たとえ自分で踊れなくても、うまいかへたかは歌舞伎舞踊でもダンスでも確実に分かると、妙に動かしがたい自信を青年時代からもっている。それだけ、佳いダンスには惹きつけられてしまう。むろんミュージカルでも、ダンスのない音楽だけの「シェルブールの雨傘」よりは「ウエストサイドストーリー」の方により多く惹きつけられた。
こういう日はもう仕様がない。晩は、はやくからシュワルツネッガーの「ターミネータ」特別編をやっていて、わたしは、近未来ものはよほどでないと索然として逃げてしまうが、この作品には切羽詰まった不気味と哀れとがあり、ことにリンダ・ハミルトン演じるジョン少年の母親役の肝っ玉ぶりに、そう、「ニキータ」に関心をもつのとほぼおなじ感じで好感をもっている。「エイリアン」のシガニー・ウィーバーもそうだが、避けがたい不条理と「闘い抜く女」もわたしの強い好みであるらしい。
2003 2・22 17
* アガサ・クリスティ原作、マレーネ・ディートリッヒ、チャールズ・ロートン、タイロン・パワーの「情婦」を、名画劇場で観た。手仕事をしていたので殆ど英語だけを聴いていた、ろくに聴き取れないくせに。それでいて名画の名に恥じない、すばらしい作品だと納得した。すばらしい緊迫。
初めて観たわけでもないのに、はじける火花のような魅力を始終感じ続けた。俳優のタイロン・パワーが余り好きでないのが個人的に難であったが、チャールズ・ロートンの名優ぶり、惚れ惚れした。彼が父親として苦い目をみる「ホブスンの婿えらび」は、わたしの買ってきたDVD自慢の秘蔵作、この方は長女役が主役だが、ロートンが父親だから、あの映画はしっくり成功していた。
ふつうだと推理作品の場合、一度筋書きが知れてしまうと二度観る気がしないが、さすが「情婦」は名匠ビリー・ワイルダーの監督作品。一部の隙もない映画の文体で、何度観てもそんな「筋書き」なんてのは邪魔にも問題にもならない。原作は読み物作品だが、映画は純文学の優れた文体のように底光がして、いささかもダレていないのである。
いま、日本の推理作家協会が、新刊の推理作品を六ヶ月間は図書館で貸し出ししてくれるなと申し入れよう、趣旨に日本ペンクラブも賛成し支援してくれないかなどと、愚なことを考えているようだが、所詮トリックと筋だけで読み物を書いている引け目と不安とがあるのではないか。筋とトリックが割れてしまえば二度とは読まない読み捨てミステリーはいっぱいだ。図書館の貸し出しから口づてにタネが割れては、本が売れないと。ひっくり返せば、図書館の市民社会における意義の否定に等しい、気弱な我が儘というしかない。真実の読書とは「再読」から始まる。所詮初手から再読を諦めているようなものでない、優れたミステリーを書いてくれればいいのだ。口コミで益々売れるだろうに。
2003 2・23 17
* 映画と原作なら原作がいいに決まっているとよく云われるが、例外もある。「悲しみよこんにちわ」など、ジーン・セバーグのセシールも、ディヴィッド・ニーブンのレイモンも原作以上に画面によく現れているし、デボラ・カーやミレーヌ・ドモンジョもいい。わるくない。まことにふざけた頽廃的ムードの映画でありながら、そこはかとなくもの憂くてかなしい結末への流れは、映画的に無理なく美しい。いまもビデオで「聴いて」いたが、父親が亡き母の友人と結婚しようとする辺りから息苦しくなってきて、「一時停止」して二階へのがれてきた。
2003 2・24 17
* 「テレビタックル」が大学問題を話し合っていたが、東大の話から大学の経営問題へ。どこにも「教育」の、つまり「教室」や「教授室」での学生が問題にもされない。失笑し、退散した。なーんにも分かってないんだ。
大学であれ中学であれおなじこと、「教育」は入学式から卒業式までで終わるのではなく、その期間に種蒔かれたものが、卒業後に三年経ち五年経ち十年経って芽を出し枝葉になり花や実をつけて、はじめて生きてくる。そんなことも考え得ないで、経営だの機構だの学力だのと、云っている。文化というではないか、しっかりと「文」の本質が活かされるのでなければ教育はただの技術論や効率論にしかならない。アホかと云いたい。
2003 2・24 17
* お宝鑑定団に、みごとな墨が出た。みるから価値高き香気を感じ、鑑定はさこそと頷いたが、持ち主のそれを手に入れた「物語」が不思議であった。土手の下毎朝ジョギングしていた青年を、毎朝だまって見送る仙人のような老人がいた。その老人がある日青年を呼び止め、きみは自分の亡き父の若い頃によく似ている。その父の大事に自分に遺していった品物をきみにあげたい、自分には誰一人身よりもない、と。
青年はそれを半ば以上は押しつけられ、老人の姿は以後ふっつり消えたという。それは四十点の墨であった。鑑定は、五百万円、わたしは妥当な判断だと感じ入った。真に高貴な品が高価に見立てられるのは、自然の敬意である。
京焼の於福人形が出た。わたしはリアリティーのある佳いもので、高価でなくてもいいが、欲しいほどの品だと思った。姿も衣裳の意匠もよく焼き上がり、おもしろい。だが、五千円だという。わたしが側にいたら、あの人形なら三万か四万までなら欲しいと思う、まして五千円なら、テレビ画面に手を突っ込みたいほどだった。愚劣な箱書だけに二百万も評価するような志の低い鑑定士の「さかしら」であると、持ち主に代わり憤慨した。
2003 2・25 17
* さ、もうほどなく十時から、建日子七回目の連続ドラマ「最後の弁護人」が始まる。今日は、ゆっくりと休日だ。
* さて、その先週に続くドラマは、一言で、ダメ。もちゃくちゃとこねていただけで、切れ味もなく哀れもない。先週がよく纏まっていての期待が、無残にはずれた。
何よりいけないのは、トランプのカードのように、人物が記号的に薄っぺらい。ドラマとは、善悪や美醜をとわず内面のぎりぎりで斬り結ぶ人間そのものの葛藤で、それが、言葉に言い尽くせないむごさやせつなさを孕んで悶えているから「劇的」なのだが、薄い紙切れのカードのように、人物がめくられ動かされるだけで、ひたぶるなものが何も感じられないのでは、もう、「ドラマ」では、ない。父親の、証人席に崩れる芝居は見せ場だったものの、自殺した娘の悲しみも、無辜の、娘の友を殺してしまう大の大人の葛藤や呻きも、生徒を孕ませた教師へのまともな批判も、友情の結晶度も、みーんな、手抜きのいいかげん。
「把握が弱ければ、必ず表現も弱い。把握が深くて強ければ、表現も強い深いものになる」とは、創作者であるわたしの根底の思いであるが、このドラマの作者は、小手先のテクこそ学習しているかも知れないが、創作者として一番大事な「人間」をナメてかかっていないか。もっと謙遜に「人間」を学ぶべきではないか。
父親の期待が大きすぎて自殺する娘なんて、型どおりの何度も聞いたふうであるが、よく考えてみよ、それほどばからしい死に方もなく、ばからしさにもそれなりの真実哀れがあるにしても、それが少しも書けていない。
半年間もの日記をご丁寧に「書き直す」のもリアリティに欠けバカげているが、それほどの手間暇を掛けていれば、その間に、そのような自殺の軽薄さに、誰より本人がふっと疑問を感じるだろう。まして娘に死なれた父親の、スポーツ人生とはまた別の、もっと深い悲しさにも「思い至る」はずのものだ。半年もの日記を書き直すなどと云う「書く」行為には、何とも云えず人間を「正気に返す気付け薬」の効果の有ることぐらい、書き手は、体験的に分かっていて欲しい。
安直に人を死なせるドラマは、罪が重い。
友人の父親に殺された娘の身寄りのことも、その怒り悲しみも、まるで書き表されていない。健康保険証を取り替え、診察・診療を一度は受けたにしても、長期にわたるそのつじつまは、現実には簡単につくものでない。ご都合主義も極まっている。やれやれ、二時間に引き延ばした甲斐がなかった。
* 闇に「言い置く」にしても、我ながらいささか過剰でばかげているが、同じ一日のうちに、天下にときめく倉本聡の脚本と合わせて貶すのだから、秦建日子も辛抱しなさい。どっちかといえば、さすがに倉本の書いた老夫婦の「人間」は、しかとモノを言って胸に届いていたのである。百日千日の長。
2003 2・26 17
* 夜は、ピアーズ・ブロスナンとソフィー・マルソーの映画「007」を観てしまった。ソフィー・マルソーが好き。悪役というか、クセのある役が今日も適役だったし、美しかった。メル・ギブソン主演監督の「ブレイブ・ハート」でイングランド皇太子妃を演じていたときも、また「アンナ・カレーニナ」もよかったけれど、美しいことでは今夜のが光っていた。
似たような表裏ある女を演じ分ける若い美しい女優には、ウィノナ・ライダーやショーン・ペンがいると思うが、気品ではソフィー・マルソーがいい。もっと凄みに徹してセクシィな、となるとわたしは冷たく演じて熱い感じのシャロン・ストーンが好きである。いい女は善悪抜きに佳い。
*「蓬生」の巻の、常陸宮姫君の末摘花は美女ではないらしいが、すこし頑固にしかし光の再来を信じて、あばらやに待ちぬく気合いがとても佳い。わたしは昔からこの女人がいやではない。化けて出るような六条御息所は、インテリの貴女ではあろうが苦手である。 2003 3・2 18
* 留守中に、ビデオをとっておいてくれた映画「ベストフレンズ」が、とても、面白かった。キャンディス・バーゲンとジャクリーヌ・ビセット。まだ子役といえるメグ・ライアンまで。これはもう保存版で。
まだ勤めていた頃にキャンディス・バーゲンの西部劇を新宿の劇場で観た。主役はジョン・ウエインではなかったか。女優の方が目に付いた。
今日の映画のジャクリーヌ・ビセットはすてきな大人の女であった。しかも作中での純文学作家。キャンディス・バーゲンの方は売れっ子の読み物作家。それが学校の頃からの運命的な文字通りのベストフレンズと来ている。お伽噺のようであるが興味を惹かれるのは、やはり「身内」もの、なのである、かなりピュアな。
2003 3・3 18
* 秦建日子脚本の「最後の弁護人」八回目を観た。完成度は今日のが一番ではなかろうか。竜雷太というベテランに助けられて、アンサンブル自然ないいドラマになった。特別の感銘があるわけではない、特別に意外な展開でも巧妙なアリバイでもない、ただドラマの文法に格別の破綻をみせなかった点、うまい作であった。俺が犯人だが、捕まえられるものかという練達の弁護士の挑戦が、陽動作戦であるのはすぐ分かるので、田島令子の顔一つでバレているのだけれど、仰々しくやらなかったから、夫婦のあわれが出たと言えば出ていた。だが、そういう妻女の病状にたいして弁護士の情人の出方に、知性も人間味もなく、こんなくだらん女にとりつかれていた弁護士風情かと、シラケさせるところが誤算だろう。あれぐらいな男なら、あんな安い女にかかずらわないと思いたいところだが。ま、そういうものでもないかな、男と女は。ワインの持ち出し方など、わたしはそうは説得されなかった。安い手をつかうなと眉をひそめた。
だが、まあ、よかった、コレまでの中では纏まっていた。
2003 3・5 18
* アメリカの大地に根付いて百十一メートルも聳えたジャイアント・セコイヤや、荒蕪の砂漠に四千年も生きた樹木などの途方もない映像を観ていた。そのそびえ立つ梢まで根から水分をあげてなお生きている。なんという……。アメリカの初期の大統領がそのような西武の大地自然を買いたいと申し入れたときに、インデアンの長老が答えたという書簡の文言を、最後に聴いて息が詰まった。智慧のことばであった、詩であり箴言であった。もう一度読みたいし聴きたい。「買える」ものだと考えていた文明の代表者と、どうして空や山や大地や風や水を「買えるのか」と問い返す、人間の声。
2003 3・8 18
* 偏頭痛と歯の浮き痛みに、終日悩みながら、気が付くともう深夜の一時半だ。明日に出掛ける予定がないと、心からくつろいで何か彼にかして楽しんでいる。また「007」も観たが、今夜のボンド役ロッド・スタイガー?には男の色気無く、平凡に終わった。
2003 3・9 18
* 作業していてもわざとテレビはつけておいたり、ビデオを映していたりする。ハリソン・フォードの「逃亡者」を、また、聴いていた。
報道番組も努めて聴いている。イラク攻撃はどうなるか、筑紫哲也がドイツの少年少女たちに取材して、日本とのコントラストを際立たせていたのは、いい狙いであった。
イラクだけではない。株価の暴落。
含み損・含み益というへんな幽霊と付き合って動きの取れない経済にとって、三月決算はどうなるのかと、よそながら心配する。潜水艦が潜水深度の限界をさらに海底近くまで沈みこみ、艦体はめりめり音を立て、艦内いたるところで溢水している、そういう状況ではないか、日本丸は。
小泉首相にも失望の連続だが、さりとて、青木や古賀や野中や亀井らの幽霊どもに、もそもそと画策して回られるのは、もっと不愉快だ。
こんなときに、民主党も共産党も、も一つ燃えてこない。共産党など、すこしは「政権をとろう」という姿勢だけでも見せたらどうだ。他党を刺激する効果はあるだろう。もっともこんな時に党利党略政治屋どもにかきまわされるのは困る。思い切った誠実な若手たちの「蛮勇」政府へ切り替わらないものか。
「政党政治」というのが、もう古くさいともいえる。山折哲雄さんとの対談で、老年の政治的エネルギーの結集は不可能ではないだろう、参議院の代わりに、拒否権をもった各界代表の「老議院」がいいではないかと提案しておいたが、自民の社民のというのでなく、十年一世代で区切られた年齢党を、三十代、四十代、五十代、六十代以上でつくってみてはどうか。現在の圧倒的な「政党離れ」現象をみても、今日の既成政党が「諸悪の根源」なのを、国民は熟知しているのだ。いつまでも明治以来の政党政治にしがみつくことはあるまいに。
* 川の中で大人たちが「タマ」ちゃんとやらを網で追いまわす図というのも、いただけない。朝青龍が新横綱の三日でもう土をつけたのも、物足りない。大きな大きな福祉のハコものを、千円札三枚でおつりの来る捨て値で国が投げ売りするというのも、唖然。ああ、イヤだ。
2003 3・11 18
* 今夜の秦建日子脚本「最後の弁護人」は、きれいに纏まり、クオリティでは、ここまで九回の最良作か。出だしも、結びから予告編へも、上手であった。タイトルバックにとても恵まれている。
こういう番組では「犯人無罪」が自然の前提。その思いが底にあるから、これでどうして無罪なのかと、観客は考えざるを得ない。現場での少年達の暴行は作り話とは思われないから、それでなお無罪となると、通報者ないしは別の殺意ある真犯人の時間ずれの犯行を疑うのは、ペリイ・メイスンこのかた、いろいろ似た本をわたしも読んでいて当然察しが着く。被害者女性の聞き込み現場で同席の課長が突っ立った瞬間、こいつが絡むなとすぐ分かる。まして殺人現場が視野的な盲点にあると示唆されると、一気に全貌が見えてしまう。なぜそんな場所に課長が先ず来て隠れていたかの説明が欲しくなる。説明は、無かったと思わないが手薄であり、ま、その辺が唯一弱点であった。だが、その他では、少年の性格も出ていた。上司と部下の女との関わりよう、情けないけれどあんなところかと見えた。
純名理紗という配役に少し愕いた、意外性が利いた。今日の昼間にも、彼女と高島兄とのコマーシャルをみながら、純名理紗のようなのが、あれで日本的な下ぶくら美人の原型だろうねと妻と話していたばかり、その晩に本人が建日子の番組で殺人犯で出てくるとは思わなかった。はじめ純名だと気付かなかった。彼女は帝劇で「細雪」のこいさんを演じて地唄舞を見せてくれた。スサノオに救われる出雲八重垣の櫛稲田姫とは純名理紗のああいう顔だったろうと、わたしは、出雲神魂神社の壁画をよく思い出すのである。
ま、建日子はよくやったと、いい気分だった。ウドウ事務所の連中のかみ合いがたいへん宜しい。楽しい。ロバの須藤理彩には、何かにつけ点の辛いうるさいわたしも、殆ど手放しで満足している。ケチをつけるスキが無い。サルの翼クンもさまになってきた。
そして来週最終回の「結び」ようが楽しみだ。あんなに早々と帰らず、いっしょに観て行けたら、めったになく、面と向かい息子を褒めてやれたのに。
2003 3・12 18
* 階下で手仕事をしながら、加山雄三・星由利子の昔の若大将映画を、観るとも聴くともなくいたが、たわいなさに、しまいに大声で失笑してしまった。柏戸と豊山が千秋楽の相撲をとっている時代で、わたしもまだ青春の名残を生きていた。それにしてもへたくそな俳優達で、わずかに青大将役田中邦衛だけが、演技派として「北の国から」で名をあげた。星由利子は当時東宝の秘蔵っ子であったが、演技は先ず素人なみであった。テレビに出ない女優としてながく粘っていたが、こまかな芝居の出来ないことでは今もテレビ出演していて、がっかりさせる。東宝で並んでいた濱美枝よりも女の子としてはわたしは好きであったが、要するに科白(身動きと発語)が、ともに下手なのである。
口直しに、「ベストフレンズ」で、ジャクリーヌ・ビセットとキャンディス・バーゲンを楽しみながら、さらに一仕事前へ進めよう。
たった今、群馬の読者から電話が来て、湖の本の間が開いているが元気にしているのかと。有り難く、恐縮。少し早く送れるかと思ったが、たしかに三ヶ月以上、間があいた。 2003 3・13 18
* 作業しながらデンゼル・ワシントン、メグ・ライアン、マット・トーマスらの「戦場の勇気」を聴いていた。これぞ指さすように前の湾岸戦争に取材した戦争映画で、一つ間違えるとアメリカ軍のファイトを称えるかのようであるが、兵士は死に、司令部や政治家はかれらの奮闘を栄誉がらみの自己宣伝に供していて、戦争批判の映画とみていいだろう。
米英西三国は何としてでもイラクでの戦争へもちこみ、しかもそれを平和のためにと称したがっている。平和は戦争で購うものだと、あしき平和論者のブッシュや国防長官は、オカルトふうの狂信に、眼を血走らせて、ウズウズしている。オウム真理教のポアやテロとどう違うのか。
* 終日の作業で肩も凝り歯も疼いている。晩には、またシャロン・ストーンのセクシーなミステリーを聴きながら、荷造りを進めた。もうこれまでと打ち切ったとき、ほとほと、疲れていた。家の中にいても花粉を感じ続けた。
2003 3・15 18
* トム・ハンクスの名画「グリーンマイル」を聴きながら、泣きながら、作業をはかどらせて、さて、まだ済まない。
2003 3・16 18
* 美しいものにと朝書いていたら、たまたま、ちらと見た晩の大河ドラマ「宮本武蔵」で、蓮華王院の果たし合いに出る武蔵に、吉野太夫や光悦母子が。「美しいもの」の尊さは、武芸に凝り硬まった修羅場より、どれほど佳いモノかしれないと無茶者のタケゾウ相手に口説いていた。小泉キョンキョンが、すこし所帯じみた吉野太夫を演じていた。母親孝行の光悦の母を淡路恵子が渋からく演じていた。
2003 3・16 18
* 今日は、佳い見ものに、三つ恵まれた。見た順番に。
* 午すぎに、少し休みたくて、妻と台所でメグ・ライアン、ケビン・クラインの「フレンチ・キス」を、けらけら笑いながら見た。航空機嫌いカナダ住まいのメグが、婚約している恋人の医者を、ひとりパリへ送り出したら、出先でフランス女にのぼせ上がられてしまい、意を決して急いで飛行機に乗ったものの、怖くて堪らない。隣席に、フランス男の盗人で、葡萄畑ツクリに夢を持ったケビンがすわり、メグの恐怖をあおりたてる。
小洒落て、おかしくて、メグ・ライアンの愛らしいこと、この女優作品の最右翼に位置するのではないかと思えてしまう。パリにつくと、なんとジャン・レノ演ずる刑事がケビンを待ちかまえている。彼は葡萄の苗木の根に捲いて隠して、盗品のすばらしいネクレスを、税関逃れにメグの鞄に忍ばせていたのである。
どうという感動編でも何でもない。しかし、メグとケビンとの応酬が軽快で、写真は終始美しく、ときにはこういう映画が佳いなあと、しんから楽しんだのである。メグ・ライアンでは「戦場の勇気」や「恋の予感」その他トム・ハンクスとの競演作が二つほど見ているが、楽しいことでは「フレンチ・キス」が一番かと再確認した。
* 夜十時からは、秦建日子脚本「最後の弁護士」の最終第十回を見た。仕上がりのいいことは、随一で、会話も裁判場面も写真もよかった。犯意を抱いて人を呼び出し斬りつけた男が、斜面で滑り転げ、握ったナイフを自分のからだに突き立てた設定は、やや窮屈とはいえ、ことの最初に相手を傷つけるほどつよく斬りつけていたのだから、指は固まっていてナイフを手放せなかったことがありうる。ま、問題ないであろう。
と、すると、ストーリイも展開も結末も巧みで遺憾なかった。十分安定し、プロの作品として推敲も十分利いていた。読み物としても、上等の短編小説に近い仕上がりであった。おお、建日子も、とうどう早稲田大学「法」学部を卒業したなと思った。
佳いところは、エンタテイメントとしての面白さを、やすいドタバタで示さず、弁護士と二人の助手や老人たちの優しい関わりの中で表現したところで、この手の殺しモノとしては、出色・稀有の品の佳さにつながった。喜びたい。下品なモノなら、気の低い雑なものなら、飯など食わなくていいのだ、書いて欲しくない。そういうガンコ者の父親を観衆の一人としてもった作者は、少なからず迷惑だろうが、もう少しの辛抱だ、許せ。さすがに苦労してきた甲斐のある味と腕前が見えてきた。嬉しい。
阿部寛の弁護士、予期したところを何倍も超えて力演し好演した。なにより楽しかったのは須藤理彩で、わたしはこの元気で安定した柄の大きい女優が、大いに大いに気に入った。
* さて今日の最大の感動は、建日子のドラマに引き続いての、NHKスペシャル「ひばりの時代」の第一回。
船村徹と国井アナとの対話から静かに本編にはいって、「わたしは街の子」「悲しい口笛」「りんご追分」「悲しい酒」「港町十三番地」その他の、ひばり絶唱名唱のかずかずにのせながら、日本の戦後を、貴重な写真と証言とでみごとに綴り上げていった時代検証は、今まで見た多くのひばり番組中の傑作であった。懐かしいかぎりのわたしや妻たちの時代とひばりの時代とは、ぴたりと重なる。何を見ても聴いても、体験が、記憶が、ものの音や匂いや色や手触りや空気のざわめきが、ありありと瞼に、いや全身に蘇るのである。
ひばりの歌が、正真正銘の天才のものであることは、繰り返さない。彼女は楽譜がよく読めなかったそうだが、日本語は、精確に、美しく、底のところまで豊かに読んだ詩的天才でもあった。よくもああ、グロテスクななりで、平凡な歌詞を、ああも豊かに輝かしく歌えたものだ。
妻と出逢った頃に、好きな音楽家はと聞かれ「美空ひばり」と断言したのは、(妻は甚だシラケタと言うが、)わたしの自慢の一つである。妻もとうから断然ひばりを賞賛してやまなくなっている。わたしたちは、美空ひばりの歌を、なによりまず「巧い」と感嘆してきた。が、巧いが故に感嘆させるだけでなく、彼女の徹した野党性にもわたしは絶対的に共感した。彼女が、えらそうな政治家やえらそうな大企業の社長や富豪とはつきあわず、むしろ、ヤクザの大ボスに芯から可愛がられていたりしたことを、わたしは肯定した。そういうひばりに、深い信頼をすら持ち続けていたのである。つまりそういう思い出のひばりと、わたしは同じ時代を生きてきた。道は違い表現もちがう、が、どこかしら一条の信条において似通っていたのではないか。
その川の流れのような「時代」が主役かのように番組が進み、また最後の、船村徹と国井アナとの収束の対話が聴かせた。わたしは、一時間の番組中、何度も涙ぐんで感嘆の声と懐旧の声を放った。カタルシスであった。
ひばりは、たぶんわたしより一つ半ほど若いのではなかったか。新制中学の一年生の頃に、ひばりが祇園白川辺に来ていると聞いて、わたしは、はだしで家を飛び出し、人混みに割り込み、手の触れそうなところまでにじり寄って、美空ひばりなるモノをまじまじと見たのである。「ちっこい、黒いスズメみたいなやっちゃな」と思い、しかし、わたしはあの瞬間にひばりに恋したのかも知れない。
明日、明後日と続くらしい。楽しみだ。
2003 3・19 18
* 幸いに「最後の弁護人」は総じて好評であった。その他の連続ドラマが、たいてい根無し草のようにふわふわした筋書き本位のツクリモノなのに比して、画面の質(クオリティ)本位に「表現」に徹したのがよく、一つの「作品」としてだんだんに落ち着いて仕上がっていった。文学的に謂えば、推敲が利いた。「ムダを省いてテンポを的確に、独特の映像化文法をもつこと」とよく本人に話してきたのが、それなりの成果をもった初の仕事になった。建日子のホームページで、落ち着いて「総括と反省」をしていたが、その語調も、ようやくミーハー的未熟を抜け出そうとしている。観衆におもねったような、意を迎えた客寄せトークばかりしていたが、三十半ばの「作家」の言葉とは読みづらかった。自分で自分と静かに語り合うのを、聞く人は聴き、読む人は読む。それでいいのではないか。彼が自分で自分を意識して「作家」と書いていたのを、はじめて読んだと思う。そこまで来れているかどうかは別として、自覚は必要であった。「どうせ」型の言い訳はもう通らない。
落ち着いて、マジメに。それだけで仕事はずいぶん良くなる。次の飛躍へはまたその時々の覚悟が出来てくるものだ、アセル必要はない。
2003 3・21 18
* 「ひばりの時代」第二回が「哀愁波止場」を芯に放映され、懐旧の情をも圧倒するひばりの歌の魅力に、胸をつまらせた。歴史的な盛況であった沖縄公演を全身でなつかしむ人達の中で、一人の女性が、インタビューに答えて話し終えた最後に、声にも成らない小声で、おそらく誰も聴き取れなかったろう低い声で、「かわいそうに」と呟いたのにわたしは泣いた。むろん、ひばりの「夭折」とすら謂いたい若い死を嘆じたのであろう、わたしも同じ思いで、彼女にあらぬ薬剤などをすすめた悪しき民間療法を憎むのである。
今ひとつ、「哀愁波止場」ほか数々のひばりの名曲をつくった作曲家船村徹が、番組のおしまいに、美空ひばりに限っては、彼女の天才が歌唱力に有るは当然としても、その上越す魅力は、「文学的に」言葉を読み込み「独自の世界を幻出させうる」天性の資質だ、天才の最たる秘密はそれだと言い切ったとき、感動した。それは、何十年来わたしの力説し切言してきたひばり理解とピタリと重なっている。そうなのである、その通りなのである。ひばりが「夜の波止場にゃ誰もいない」と歌えば、みごとにその世界が幻となり目の前に現れる。どのような歌、中には実に程度の低い歌詞もいっぱいあるのに、ひばりは「言葉を読み込む」天才で、それを歌に生かしてしまう。
番組を見ていて、強いてわたしが、かくもあらばと深望みするのは、出てくる証言者たちのどの人もこの人も、いかにもひばり好きのうなづける人達ばかりではあるけれど、実に意外な、意想外な、意表に出たひばり歌謡の心酔者も出てきて、ひばりを大いに語って欲しいのである。じつは、わたしなども、そういう一人では無かろうか。「わたしだって話したい」という思いが、珍しくも、ひばりに限っては思い滾れるのである。
ひばりちゃんは、わたしの「命」ですねと静かに言い切っている女性の声と表情に、わたしもまたほぼ同感していた。少なくもひばりと同じ時期を生きていた巨人の長島にも映画の裕次郎にも、とてもそんな思いは持てない。そういうことの言えるのは、家族をおけば、美空ひばりと源氏物語だけではなかろうか、そして京都か。
2003 3・22 18
* 話はまるで変わるが、日本の歴史を読んでいてキッパリしないのは、女性の名前の読み方。式子内親王をたいていのひとは「シキシ」内親王と読んでいる。もちろん定家を「テイカ」とも読んでいるのは、「さだいえ」ではないと思ってではない。だが、式子内親王の場合は「シキシ」と読むのが正しくてそう読むべきだとすら大勢が言う。常識だという。
そうだろうか。わたしの「T 先生」である角田文衛博士は、それは間違いだ、そんなふうな読み方が「本来」ではあり得ないと力説され、わたしも、もともとそう思っている、でなければ、藤原良房の娘明子、が「メイシ」ではなく、史料にも「アキラケイコ」であるというワケがない。明子は「アキラケイコ」でありながら、同時期の紀名虎の娘静子は「セイシ」であるなど、おかしいではないか。
平城天皇に愛された薬子は「ヤクシ」でなく「クスコ」「クスリコ」が正しいと思う。たしかに今どき、明子を「アキラケイコ」と難しく読みはしない、が「メイシ」とはまして読まないだろう。だからこそ平安時代の順子でも彰子でも、今となれば正確なもともとの読みは付けにくいにせよ、やはり「ジュンシ」でも「ショウシ」でもなかった、たぶん「よりこ」「あきこ」などと読んだに相違ない。かりに明子を「メイシ」と称える場合が有るとしても、それは、定家卿を「テイカ」と、父親俊成卿を「シュンゼイ」と呼ぶこともあるのに準じていると思う。清少納言の仕えた定子皇后も、時に便宜にないしは敬って「テイシ」であろうと、親たちはたぶん「サダコ」と名付けていたに相違ない。北条政子にしても、だれも「セイシ」とはいわない。建礼門院徳子も、「トクシ」でなくたぶん「ノリコ」とか「ナルコ」とかが本来の名乗りだと思われる。藤原鎌足が妻に得た采女「安見子」でも、「ヤスミコ」と誰もが読んでいる。常識だといわれるものが真に伝統であるなら、今でも美智子皇后は「ミチシ」雅子皇太子妃は「ガシ」でなければなるまいが。ばからしい。
気になることを書き留めておく。
2003 3・23 18
* 撮り置きの映画「フルモンティ」を見た。少しおかしな少し侘びしい地味な映画で、何も云うことはない。
2003 4・1 19
* じつは、いま、書き込みたいことがいっぱい有る、が、妻が近所を歩いて花を見たいと言うし、わたしもそうしたい。今晩は、ある初対面の家族と会う。その前に桜の盛りを見て行きたい。
夜前、深夜に映画「イル・ポステイーノ」をわたしが一人起きていてビデオにとり、今またそれをコマーシャル抜きの映像で妻と見て、深い感銘をうけた。こういう映画を「佳い映画だから、できれば見逃さないように」と薦めてくれる人にわたしは敬服し感謝する。今はそれだけを言い置く。
2003 4・3 19
* 映画はチリのノーベル賞詩人パプロ・ネルーダを大きな姿で登場させ、「詩」のいのちの「隠喩=メタファー」をさながら主題として描いていた。優れていた。莫大な知識や概念にはるかに優る一行の「メタファー」が人を根から動かす。この映画は稀有な共産党映画でありながら、しかも詩を讃え湛えてみごとであった。
ピーター・アネットたちの言葉に、どれほどのメタファーが生きていたか、生きているか、何が人を動かすか。
2003 4・3 19
* 現地集合現地解散で、店の前で別れ、地下で中国酒を物色したが望みの種類が見あたらず、方角違いの、しかしなかなか品質のいい関西から来ていた葛菓子(蕨餅)を買って帰った。少し疲れていたのでタクシーに乗った。おかげで木曜の映画の時間に間に合い、ケビン・コスナー、ショーン・コネリーらの「アンタッチャブル」などという二線の映画一本を見てしまった。
2003 4・3 19
* 映画「イル ポステイーノ」のことを書きたいと思ったていたが、もう一時。夜前も寝入ったのは明け方であった、今夜はもうやすみたい。闇にまみれて深く寝入りたい。
2003 4・3 19
* 宵のうちに、「ロミオ マスト ダイ」というドンパチの映画を観た。中国系のジェイ・リーの強いのは「リーサル・ウェポン4」の悪役で堪能していた。このペーソスのある俳優の別の映画を観たいと思っていた。彼はわるくなかった、思った通りの役者ぶりであった。意外な収穫は、黒人女優のアーリヤであったこと。美人で、魅力満点。二線の女優に個性的なおもしろいのが沢山いて、いちいち名前を覚えて行くのを、楽しい趣味にしている。駅まで歩くのに海外の女優八十人ほどを数え上げながら行く。退屈凌ぎだが、ま、クセのようなもの。イザベラ・スカルプコ、ペータ・ウィルソン、エリザベス・シュー、ロザンナ・アークエット、ゴールディ・ホーン、キャサリン・ロス、ルネ・ロッソ、アン・アーチャー、ジーン・デービスなどなど、大女優ではないが印象がよかった。
2003 4・27 19
* たくさんなメールや用事をさばいて、入浴。おお、なんと体重が何年ぶりかで七十八キロに落ちていた。糖尿の診断を受けた頃、八十六キロあり、半年もせぬうち七十八キロほどに減り、やがてリバウンドして、長いあいだどうしても八十キロちょうどを割れなかった。それが七十八というのは祝すべき成果、嬉しい。
先週につづき向こうのドラマ「ER=救急治療室」を観て、これもまた震えるほど緊張を誘われた。日本製のも一度二度みたが、比較して「医師たち休憩室」のようにしか見えない。海外版は、どんなカメラワークなのか、撮影現場が本気で見たい。
2003 5・3 20
* トム・ベレンソンの「野獣教師」を一服がわりに見た。傭兵のグループが麻薬売買で重汚染し荒廃しているスクールへのりこんで行くストーリーで、組み立てはわるくなく、けだるいような俳優のベレンソンがなんだか生真面目に活躍した。夕食をシッカリ食べて、それでも80を1.5キロ割っていて、機嫌もいい。
2003 5・8 20
* ミュータントを扱った映画を見始めたが、すぐ退散し二階に上がった。一昨日だったか、巣鴨で鮨を食って帰ったあと、クリント・イーストウッド製作・監督・主演の「目撃」を、またまた何度目か見たが、これは間然するところなきクオリティーの佳い映画で、大いに満足を新たにした。イーストウッドのほかに、ジーン・ハックマン、E..G.マーシャル、エド・ハリス、ローラ・リニー、スコット・グレン、ジュディ・デービスと、こう役者が揃っていては、「そんなのずるいよ」と思わず言いたいほど、画面は安定し、分厚くなる。大統領の性犯罪をめぐり、彼の側近や組織と、目撃者である稀代の泥棒と弁護士の娘と娘に惚れたらしいベテラン刑事と、そして妻を殺された富豪との、熾烈な闘いを描いていたが、そんなのは筋書きに過ぎない。やはり演技と写真である。
* そういえば、昼の再演ドラマに、惜しくも亡くなった氾文雀が出ていて、ラストシーンの「顔」ひとつをみた。この女優は、顔という皮膚一枚の奥に、静かに、くらいおもいつらい内容をにじみ出させる。それの出来る数少ない女優だった。その顔一つを観て、ドラマ全体の狙いがみな見えたほど、ただの黙った顔が、美しく雄弁だった。演技とはそういうもの、たいていの女優はそんなことは出来ない。だから何処にいて何に出ていても、いつでも同じ顔芝居を、うわべの皮膚一枚だけ使ってやっさもっさやっている。皮膚の奥に何も無い。
2003 5・11 20
* 気持ち悪いほど上手な女優に、亡くなった杉村春子がいた。どの役もどの役も「おんなじように」うまいのではなかった。「別人のように」うまかった。浪花千栄子? といったろうか、抜群にうまい女優が居たが、だいたい「おんなじように」演じていた。「ナニワチエコじゃなあ」と思わせた。いまの市原悦子もそうで、何を見ても先ず「市原」と感じさせている。限界だ。栗原小巻も固い限界をもっている。大竹しのぶは、杉村に近い。
2003 5・12 20
* 加藤剛と竹下景子とで、拉致被害者横田めぐみさんの両親夫妻を演じている。見ていてもつらく胸迫って、テレビの前を離れてきた。
2003 5・14 20
* 拉致被害者の横田めぐみさん両親、その他被害者家族団の苦痛に満ちた頑張りの始終を、また階下に降りて見通した。竹下景子をはじめ、まことに熱の籠もった真迫感で、画面が熱かった。かなりの俳優座陣が出ていて、よかった。なぜ俳優座があれを緊急に舞台でやらなかったかと思う。芝居にはそういう時事に敏感なところがあっていい。それにしても、小泉はピョンヤン宣言なる反古紙をいまだに手柄だと思っているのだろうか。北朝鮮への経済的な締め付けなどは、テンと、する気もないようだ。ピョンヤンで、ほとんど、嵌められてきたのだ。
2003 5・14 20
* 今日、とても感動したことを、口直しに、ここへ書いておかねば成るまい。
巨人軍の清原を大の大好きなある野球少年が、不幸な烈しい交通事故にあい、脳内出血も劇症で、医師はとうてい回復は望めないと命の保証もなにもなく絶望していた。母親は、すがる思いで清原選手に頼り、清原は即座に彼を病症に見舞って励まし励まし、かすかな応答の中で彼は大きな約束をした。そして、だれもが驚いた超弩級にでかいホームランを約束通りに病床の少年フアンにプレゼントした。
医師も親も信じられなかった回復があらわれはじめ、清原はビデオメールで励まし続け、つらいつらいリハビリの毎日に、「リハビリいたい、リハビリいたい」と繰り返す「詩」を書いて、歯を食いしばりながら、少年は「奇跡」としか言いようのない回復を遂げ、なんと球場にまで清原に逢いに行けるほどになった。
「幸福」な思いを、テレビのドキュメントは与えてくれた。このことを書かずに寝るのはいやで、機械の前にわざわざ戻ってきて、書き置いた。胸の奥まで、暖かい。
* さ、今夜はゆっくりやすもう。
2003 5・23 20
* このところ「ER」の展開が悲惨に烈しい。延命不可能な脳腫瘍、精神病の母親の狂乱に悩まされる娘、親の祝福を得られそうにない妊娠、甥を暴力団に殺され甥の恋人もおなじハメに陥りかけている伯父。あやうい誘いにレズビアンに成ってゆきそうな女。かすかな心惑いから致命的なミスを犯して訴えられている女。麻薬の後遺症のために薬を飲み続けねばならないおとこ。
これらが、みんな、このER=救急治療室の医師たちなのであるから、事態は凄まじい。しかも彼や彼女たちはひたすら誠実に働いて働いて日々の命をすり減らしている。極限状態の日常というパラドクスをぎりぎりいっぱいに、めまぐるしい展開で疾走するように映し出して歪みのない、リアルな達成。こんなドラマを見たことがない。小説では表現しきれないすばらしいメリットをもった優秀作、見るたびに感動し、震えてしまう。
2003 5・24 20
* そんな中で痛切な印象を刻んだのは、実は、昨日の夜中にひとり起きてみていた、テレビ「京都チャンネル」での「修学院離宮」の克明な案内であった。
その美しさ、こまやかな趣向、おおらかな趣向、それらの自然さの抱き込んでいる底知れない力強さと、寛永の都人の自負の大いさ。ささやかに澄んだだせせらぎの音や色にも、目に見えるか見えぬかの細かな木の葉、小枝ののそよぎにも、それは、したたかに感じ取れて、それそのもののじつに「文化」である真の意味が、うめくほどの感動と共感とで伝えられたこと、それにわたしは打たれていた。
ああ、この映像をしみじみひとり観るために京都へ来たようなものだと思った。しばらくぶりに「京都」の魅力・迫力にしんからまた打たれた。
2003 5・29 20
* 昨夜家に帰ってから、休息かたがた発端の「ターミネーター」を、また何度目か、観た。お目当てはシュワルツネッガーではない、リンダ・ハミルトン。とくに美しいわけでないのに個性的で、この一連の映画では、他を完全に圧している。
物語の組み立てがおもしろい。未来世界から、このリンダ・ハミルトンの演じる若い女性を殺す役目で送り込まれたターミネーターがシュワルツネッガー、凄まじい殺し屋である。同じく彼女を救うべく送り込まれた若い男がいて、これは人間である。この彼を過去の世界へ送り込んだのは、リンダの息子、未来世界の不幸と不条理とに敢然と立ち向かって社会を死と屈従の悪から守っている闘う救世主なのである。その救世主を産むことになっている母親を過去に溯って、出産前に殺してしまおうとする未来からの悪と、尊敬する救世主と社会のために何としてもリンダを救わねばならぬ男との死闘になり、男は闘って死んでしまうが、その前にリンダと結ばれリンダは妊娠する。これが未来の息子の父親になる。男の死後に不死身のターミネーターをついにやっつけたのは、闘う女のリンダ自身であったという、ヤヤコシイが魅力有る神話物語。そしてやがて核戦争で、地球は一度滅びることになっている。
* このところ、こういうクラスの藝達者な女優に惹かれる。イザベラ・スカルプコ、ジーナ・デイビス、ペーター・ウイルソン、ミラ・ジョボヴィッチ、マージ・ヘルゼンバーガー、メラニー・グリフィス、スーザン・サランドン、ロザンナ・アークウェットなど。
2003 5・30 20
* 夕方から晩へ、オペラ「トラヴィアータ椿姫」原曲を聊かも殺さずに映画化したビデオを、音量豊かに聴きながら、手作業を続けていた。エチェリ・グヴァザーバのソプラノ、ホセ・クーラのテノール。終始一貫して最良の映像とともに堪能させ、感動させた。
2003 5・31 20
* 終日作業していた。
そのそばでのビデオは、今日は、向田邦子原案、金子成文脚本、久世光彦監督の「風たちぬ」だった。テレビ劇場で、歴史物での最優作の一つが「阿部一族」だとすれば、現代物ではこの「風たちぬ」の達成をわたしは稀有な歓びの一つとする。母親に加藤治子。三人の娘の長女に田中裕子、次女が宮沢りえ、三女が田畑智子で、長女のもとから訳あって失踪していた夫が小林薫、仲人役が米倉斎加年と来れば、これで佳い作品にしなければきかないよという名人級の揃い踏みである。ことに田中裕子の演技はおそろしいほどの深みと情感とで、何度繰り返し観ても新鮮に舌を巻かせる。宮沢りえも、田畑智子も渾身の芝居をしてみせる。なによりも、終始静かな静かな昭和十四年の東京は池上辺、女ばかりの家庭であるのが懐かしい。私にも妻にも、なんとも、なつかしいのである。こういう落ち着いた佳い家庭があの時代の「私民」社会にまだまだ多く有って、しかながらもうよほど険しく開戦へ敗戦へと向かってゆく時代でもあった。押し止めようも無かったのか。
どんな物語かはここで云うまい、再放映されたらされたで、わたしはまた観るにちがいない。等身大の、物静かに悲しくも和やかな家庭の歴史が、音楽にも飾られずにいとも音楽的に、また人間的に自然に終始していた。
今だって多くの「私民」生活はこのような物静かな「当たり前さ」で推移していようものを、どうしてああも声高に逸脱した振る舞いや言葉ばかりでドラマを創ろうとするのだろう。いまほど可知のあるリアリズムの壊されたときはあるまいか。
作業の手はとまりがちであったが、佳いモノに触れるのは嬉しい。つまらないモノは単につまらない。時間つぶし以上にはならない。
2003 6・1 21
* ちゃんと取って置きのビデオは、もう処分しちゃっても良いかなと見直してみると、やはり佳いので困る。
今晩は冨田靖子主演、市川準監督の「BUSU」を見直したが、味わい良い秀作で、やはり消去にしのびない。冨田靖子という逸材を上手につかって個性的な青春、昭和の「たけくらべ」を再現し得ている。極端に科白が少なく、音楽もほとんどなく、モンタージュ編集に佳い味わいのしみた、極くリアルな演出のなかで、詩的に美しい写真を楽しませてくれる。
2003 6・4 21
* 名取裕子、藤真利子、西川峰子らの「吉原炎上」を、あらためて舌を巻きながら見直した。娯楽映画ではない、カタルシスのすこしもない、いっそ記録映画とみたいほどリアルに巧みに創り上げた作品で、腕前には敬服するが、観ていてつらくなる。上映を終えて、女の声でアナウンスが入り「女はこわいですね」と来たのには仰天した。「女のかなしみ」を極限の中で炎上させている作品なのに。
* 夜に見直した「少年H」にも素直に感動した。これまた「H少年」たち子供のうまいことは特筆大書ものだが、さらにトビキリ佳いのは父親役の中井貴一。また母親役の桃井かおり。「姉ちゃん兄ちゃん」役の窪寺洋介。素朴な筆致で丁寧に映像を連ねながら「あの時代」を織りなして行く。少し位置をずらしたまま、みごとに「反戦」を詠唱してことごとしくなく感銘は濃かった。
* 結局今日も古いビデオの消去処分は出来なかった。「吉原炎上」はよほどでないと見直すまいが、ド玄人のドうまい映画を観たいときは思い出すだろう。落語では頻出する吉原の場面をよく聴き込むためにも、この映像は貴重な参考になる。
2003 6・5 21
* 盛んに評判しているキアヌ・リーブス「マトリックス」2 の宣伝にだろう「マトリックス」1 がテレビで放映され、ビデオに撮った。ちょっと長さの勘定を間違えて最後を取り損ねたが、予想していたより面白く観た。
キアヌ・リーブスには特別の魅力は感じていない。むしろキャリー=アン・モスがピエタ風を演じるとき、なかなか佳いマリア風に成る。
興味を覚えたのは、世界観であった。どことなし、東洋的な思想を背景にもち、「本当の自分」を知らずに「夢」を生きている人間たちのうち、極めて少数の者たちが、「本当の自分」の世界へ生まれ変わって行く。生まれ変われぬまま、つまり夢に漂っていたまま、強力な「マトリックス」に破壊し支配されてしまった人間世界の救済に、己を自覚した者達が「夢」世界へまた「入って」行くような筋立てになっている。筋立ては、この種の作として常套のようでいて、少しはこじつけも目立つにせよ、基督教的に預言者も救世主も哀しみの聖母ふうなのもいて、その実、描いている根底に「覚醒」「気付き」「道」といった東洋的で仏教的な、禅にちかい理解が一筋通してある。もう一度観てみないとよく謂えないが、「エイリアン」などの即物的な描写ではなく、世界の「解釈」をしきりに試みているようなのが面白い。
2003 6・6 21
* 一週ぬけていた今夜の「ER=救急治療室」に、やはり感動した。小一時間、自分が息をしていないかのように感じた。今夜の作品にはことに「愛」が美しく結晶していた。交通事故に遭った父と子との愛。奇跡的な脳手術に身を挺していったERの医師とその子を身ごもっている同僚医師の愛。話をよく絞って、ぐうっと身にこたえた。
昨夜から今日へかけて断続的に昨日の「マトリックス」を見直した、考えさせるものを深刻に孕んだ、珍しく思索的ですらある活劇であり、近未来ものであった。映画館に続きを見にゆきたいほど。
* 生きて日々を暮らすことに困憊している人が、パニックに陥ろうとしているほどの人が、一人や二人でなく、いる。真っ黒いピンを五体にハリネズミのように刺して呻いて奔走している。それが生きることだといえば、それまでだが、余分なものを背負いすぎているともハタからは言いにくい。そんなことをいえば、わたしなど、人が嗤うだろう。わたしは、いまのところ、何でもない。誰がわたしをどう遇しようと冷笑しようとそれが何だろうと思っているから、その実感もない。
京都から、先日の理事会や授賞式場で撮影された写真が数葉届いたが、めったになくよく撮れているのにびっくりした。妻に、やっとこういう顔で写真に写るようになったのねと言われ、それはないぜと言いたいが、そんなところなのである。
映画「マトリックス」の言い分ではないが、存在している物なんか何もない、要するに「夢」の世に生きていて、「覚められ」ればいいなと「待って」いる。あの映画の中で、人類を縛り奪い滅ぼしている「マトリックス」とは、きわめて複合的な概念のようだが、どうどんな言葉に翻訳できるかと考えてみて、例えば「欲望」と「迷妄」と「支配」などと謂うことも可能ではなかろうか。人間として「自由」になるには、マトリックスに打ち勝ち、自分の実存に目覚める以外の道はないのだろうと思う。救われたいというような気持では、ものにしがみついてしまい、所詮は迷妄のなかでのたうつことになる。もっともバーチャルな世界とは「現世」なんだと実感で思い当たれば、黒いピンは失せる、かもしれない。わたしは、まだ、どうとも成っていない半端な男だが、落としていいものは落として行きたいのである。すると、落とさずに持っていたいものごととは何かという所へ突き当たる。だが、そんなモノゴトは滅多に見あたらない。
それならそれでよい、夢も迷妄も楽しんでおいてやり過ごせれば佳いではないかと思う。
2003 6・7 21
* 同じキアヌ・リーブスの別の映画を観ていたが、これは何のラチもないつまらないものだった。だが「マトリックス」は奇妙に気になり、立て続けに三度目を観ながら、考えている。
この映画の作者は、あるいは原作者は、たしかに東洋的な、ないしはバグワンなどの理解に親しんだ人ではなかろうか。人間が真の自分に「目覚めた」時、現世が迷妄仮象の世界、虚仮であったと気付いている。脱却している。現実だと思いこんている全てが脳による電気現象であるといっている。何も無いのだ、空だと思ってしまえば、何かが、例えば飛躍できると謂っている。体から出た血をみて、それも心が知っているだけで、心は虚妄だと謂っている。わたしが今・此処でパソコンのキーを打っているのを私の心は知っているが、それが「夢でない」という保証は私には出来ないし、「夢」に違いないとの確信がずうっと育ちつつある。眼を閉じて静かに暗闇に入れば、たちまちに現実中の現実として自覚していた自分の五体が、まっさきに何一つない透明な闇に溶け失せて無いことに気付く。気付きの意識と、意識を支えている静かな呼吸としか、存在しない。生きているから呼吸しているけれど、呼吸が止まれば死んでいる。死んでも意識は有るかどうかは知らないが、死んで行くことこそ「夢でない生命」へ「帰る」ことかも知れない。
今日も画面を観ながら、映画の謂う「マトリックス」を別のフレーズやワーズに言い換えるとしたら何だろう、何であっても無くてもいいが、映画では「支配」という言葉をしきりに使っていた。
* いよいよ、このホームページのなかで、わたしは本気でバグワンとの対話を始めた方がいいのだろうか。そうは、まだ思わない。「闇に言い置く」だけでいいだろう。
2003 6・8 21
* じつは深夜のキッチンでバグワンと源氏を読んで、次ぎにベッドで日本史を読む前に、映画「マトリックス」の後半を見終えて、見ながら、沢山なことを考えていた。床に入って電気を消してしまってからも考え続け、朝目覚める前にも夢うつつに考えていた。
この感覚、この思考、この行為。この感覚に触れてくる、物、物。みな「本当の自分」から逸れている。実の自身とはべつの仮象・虚仮として感じられる。
「五薀皆空」と心経は最初に教えているし、子供の頃に仏壇を開いてそこでもうその文句は覚えていたが、「空」の実感は、ながくながく持てなかった。知解はできても、何の役にも立たない、もっと深いところに根を置いた自覚でなければ。
それが、そうでなくなりかけている、気付き始めているという意識がある。枠のような限界をもたず、何一つ写していないひたすら澄んだ「鏡」のような意識=自分。今生きてあると思う一切のモノ、コト、ヒトは、その鏡がたまたま写している、来ては通り過ぎて行く仮象の影、影、影。
映画「マトリックス」のネオたちは、その鏡の中から、影の、夢の、仮象で虚妄の世界へ「入る」という言い方で出入りしている。そうして人類をマトリックスの地獄から救済しようと闘うらしい。かれらは、自覚してそこから「出た」そういうマトリックスを「落として」きた人達として描かれている。
映画の中では、言うまでもなく「ネオ=新しい」キリストが描かれ、彼を愛するマリアが描かれ、人類の救済に不退転の意志で闘おうとするモーゼのような存在がおり、予言する大天使やエンゼルたちも出てくる。それを読み取って行くと、あだかも基督教的でありながら、基督教の世界観とは質の違う東洋的な、わたしにいわせればバグワン・シュリ・ラジニーシや、その遙かな先達であるティロパのような把握に似せて「汝自身を知れ」と示唆している。この映画では救世主は語られているが、「神」の影は無いとすら謂える。人間が覚者=ブッダとなれると教え、そこに大乗の場を暗示している。それが高度のハイテク環境で説話化されている。
そういう思いで観ているから、映画の筋書きや映像や戦闘は捨象されて、じいっと映画の表現との間で「挨拶」を交わしている。立て続けに三度観たが、おそらくバグワンに聴いているかぎり、幾十度でも観るだろう。第二作を観たいとも思ったが、とくにそんな必要はない。わたしには、この映画のもたらす刺激がつまり「有効」なのだ。だから、いまも、映画を論じているのではない、ただ私の内なる「闇」をさぐって見詰めているだけのこと。
2003 6・9 21
* 朝十時前後にもう本が届いた。すぐ発送作業に入り、午には軽く蕎麦を啜った程度で、夕方六時まで、ぶッつづけに手作業をつづけた。
この間に映画「マトリックス」後半を耳に聴き、さらに坂東玉三郎監督、主演二役の「天守物語」を見・聞きした。作業は、妻もそばで一緒にしている。ふたりで玉三郎に感じ入っていた。妻は「天守物語」の大の理解者で、わたしもこの映画はしんから好きなのである。ああこれを、生前一度も「天守物語」の舞台化に恵まれなかった作者泉鏡花にみせて上げたかったという一点で、二人の感想はいつも合致する。鏡花の科白を生かし得たことで、玉三郎ほどの才能はかつていなかった。南美江、市川左団次、坂東弥十郎、それに宮沢りえ。さらに島田正吾と宍戸開。天守からの花釣り。富姫と亀姫との茜雲に色映えての鞠つき歌の美しさ。凛々しい図書之助との出逢い。まさしく藝術品そのものの映画だ。
なにより共感するのは、鏡花の徹底した反俗・反武家感覚。反リアリズム。
2003 6・14 21
* よく働いた。夜の作業では、深作欣二監督の「阿部一族」をまた観て聴いて、とにかく呻くほど泣かされた。涙が煮えた。なんという映画なんだろう。俳優の評判なんかしていいられない。むごい物語だが、鴎外原作の表しきれないところを、適切に、美しく、しかも無残に彫琢した。むろんこれはビデオ消去の可能性をさぐったのでなく、とうに永久保存にしてある。これはと思い残してあるビデオでは、なかなか消去してよしというようなチャチなものは残っていない。わたしは少年、といっても高校以降から、よっぽど映画が好きで敬意を払い続けてきたと思い知る。
2003 6・14 21
* 今日は黒澤明遺作脚本とか聞く「雨あがる」を観ながら、気持ちよく仕事した。日本の雨をうまく利し、国土の恵みの翠・緑・碧をふんだんに取り込んで、終始一貫清(すず)しやかな佳い物語をくりひろげてみせてくれた。
主人公夫婦のよろしさに加えて、あれは三船敏郎の遺児であろうか三船史郎の殿様役が純に面白く、また原田三枝子演じる質感豊かな哀れな女心の表現にも胸打たれた。小品と謂っていい映画作品ながら、心地澄んで、美しいことは無類。
* その一方で、伝えられる国内外ニューズの情けなく殺伐としたことは、如何。
2003 6・15 21
* マトリックス 「夕刊」のキアヌ・リーブスの弁によると、撮影前に監督ウオッシヤウスキー兄弟(知りませんが、ロシア系?)から、哲学書を沢山読んでおくように云われて、ショーペンハウエルやニーチェ等々を読んだとか。
人類の視点がコンピューターに変ってきたこと。予言者さえもコンピュータ、ネオは人類の都市ザイオンが監獄に見えてきて、救世主として旅をし、そのコンピューターに理解を深めていく。
二部と秋封切の三部と合わせてたった72時間の出来事。
競争社会の中で、思いやりある選択を意識的に行う事、これが背景だとインタビューを締めくくっている。
うちの娘は、お母さんにはあの現実と仮想の社会の交錯するのが理解出来るかしらねと、チョイトバカ扱いですが、この若夫婦は大のフアンです。この間のテレビ放映も当日の視聴率一位で、今、映画館も待ちかねたフアンで溢れていると。 西多摩
* ただに「現実と仮想の世界」という二元に見立てて、バーチャルに見えている方を「仮想」世界だと眺めていると、「マトリックス」の設定に逆さ吊りにされてしまう。簡単に現実とコンピュータ世界との二元かのように思わせながら、「哲学」を意図しているらしい実は「反哲学」的な人間観は、もっと深い闇の真実を説こうとしているかと、わたしは観ている。ニーチェやショーペンハウエルで解ける哲学的構想ではなく、それら哲学を根源から再否定するむしろ「禅境」に接した、全くべつの理解を映画は底の方で示唆している。二部三部は知らないし、第一部だけで少なくもわたしへの「問題提起」はほぼ完全に出来ていて、魅力を感じる。「スターウォーズ」「エーリアン」「ターミネーター」等々の近未来宇宙がらみのSFものとは、問いかけの質の微妙さで、一線を鋭く画した作品だと思う。人が、真実の己れに気付いて自覚することの、覚醒することの本義にも触れていて、それはバグワンの説き続けている禅境、ブッダフッド、の「気付き」にほぼ同じいと言いたいほどだ。たくみに基督教の世界観や終末観を謂うがごとくして、むしろそれが批判されている対象なのではないか、根の深みでは、と想われる。エージェントたちは基督教的な「悪魔」かのようでいて、時に基督教的な「神」そのもののようにも描かれている。その神のような悪魔のような存在自体が解脱を求めている、真実の自覚=気付きへ「脱出=悟り」を願っているかのようにも映画は描いている。この問題は、さらに深められ得る。
2003 6・16 21
* ちょうど九時前で。妻と、ハリソン・フォード、クリスティン・スコット・トーマス主演の映画「ランダム・ハーツ」を二時間あまり見た。
これは映画のツクリとしては実に達者なソツのないテンポで、話も面白いうえに主演女優クリスティンがすばらしい。知的な潤い豊かな表情でたっぷり魅惑してくれて、気に入った。何度か観てきた女優だが最も印象的な代表作ではないか。ハリソン・フォードの方は例の苦虫をかみつぶした演技。だが今宵大寄せ文壇集合の騒音など、全部きれいに忘れさせてくれた、とても感じいい映画だった。もっと日本風のピタリとした題はなかったか。
* それから、また沢山なメールをそれぞれに処置した。
2003 6・20 21
* こんなメールも同僚委員の加藤弘一氏にもらっていた。
* ホームページで『マトリックス』を絶賛されておられるのを読ませていただきました。
第一作は情報処理の考え方を絵にした傑作ですが、純文学畑の人たちは拒否反応を示すのが通例なのに、あのすごさを見抜くとはさすがと敬服しました。
「攻殻機動隊」のパクリという指摘があったようですが、「攻殻機動隊」は新文芸座の「『マトリックス』への道」という
特集上映の八本の中に選ばれたように、「マトリックス」の先行作品の一つではありますが、パクリというほど似ているとは思いません(もっと似ている作品があります)。
「攻殻機動隊」自体、世界観的には「ニュー・ロマンサー」、視覚的には「ブレード・ランナー」の「パクリ」です。
20年ほど前からサイバーパンクと呼ばれる小説が夥しく書かれていまして、それがアニメや映画になって、「攻殻機動隊」や「マトリックス」等々が出てきたのだと理解しています。
「マトリックス」の第二作は残念ながら第一作にはるかにおよびませんが、完結編は気になっています。
サイバーパンクではありませんが、唯識的な世界ということでいえば、21日封切の「ソラリス」という映画がすごいです。 加藤弘一
* いろんなことに精通している人が多いなあ。たまたま「マトリックス」観ただけで、普通の映画の一本だと思っていた。「『マトリックス』への道」などという映画特集まであったとは驚いた。
2003 6・21 21
* 仕事部屋が暑くて暑くて、なんだかとりとめのない一日が経ってしまった。映画「ランダム・ハーツ」にひかれて、続けざま、断続して都合三回見た勘定になる。不倫の男女が飛行機の秘密の旅で事故死する。その互いの遺族である男と女との物語であり、愉快ではないはずの材料なのに、ヒロインを演じるクリスティン・スコット・トーマスが映画のあるところで述懐するように、「なかなか立派に」渦中の二人ががんばって、清潔感と切なさとがきれいに表現されていたと思う。そこがウソだといえばそうかも知れないが。むかし山田太一の脚本で、やはりそれぞれの夫と妻とがそれぞれのもう死んでしまった妻と夫の深い仲を縁にして、ちいさな旅に出たりするのを八千草薫主演のテレビ映画でみたものだが、比較すると、あの山田作品の方が、淡々と書いていてしかも粘っこく、へんな後味を持っていた。八千草も好きだが、クリスティンを確認したのも収穫。
2003 6・22 21
* 昨夜おそく、また今朝も早起きして、最優秀テレビドラマ賞を受けていた久世光彦演出「小石川の家」を少しずつ楽しんでいた。森繁久弥の幸田露伴、田中裕子の幸田文、田畑智子の幸田玉。これはもう間然するところなき映像であり、思わず衿を正してうかがい知る祖父と娘と孫娘の三代記。森繁のこれは最傑作か。田中のこれは、もう、絶品というしかない。そしてわたしが初めて見知った田畑智子であり、その初々しい好演は、画面の玉が、とても女優が職業的に演じている図とは思われないほど、感心した。このドラマの魅力の芯はこの孫娘の輝きにあるように、かつても感じたし今また感じる。純真無垢なものの美しさである。田畑智子につよい関心をもちはじめた、これが出逢いの映像であった。
露伴は、わたしが少年の頃に名前だけでまず尊敬した文学者の、最初の人である。ここに描かれている父と娘の姿など、いまどきの渋谷や池袋をうろついている女の子たちには想像を絶して、反感をすら容易に抱くことだろう。だが、この不思議に透徹した人間の魅力をも知ることは、すばらしい何かを胸に植える。反感を持っても構わない、こういう世界のあり得て美しいモノであったこと、ここに、「生きる」ということの文化も素養もあったのを知るだけでも、すばらしいことと、わたしは思う。
がさつなのは、現代の、私も含めて陥っているもっとも見苦しい悪徳である。
2003 6・27 21
* 大過なく、しかも早く診察が済んだ。午後一時半の予約ながら、午前中早めに行って検査など済ませて置いたのが奏功し、一時にはすべて終わっていた。検査は済ませての、十二時半までに、病院近く「さがみ」という店で、肴と鮨をつまみ、銚子を二本。病院に行く日は、検査あとのこれが楽しみで。
で、病院をアトにしてから日比谷に戻り、芸術座のわきで映画「ソラリス」を封切り上映していたので、入った。うろ覚えであったが、たしか加藤弘一氏が、「サイバーパンクではありませんが、唯識的な世界ということでいえば、21日封切の『ソラリス』という映画がすごいです」とメールをくれていたのが、頭にあった。キャッチボール出来そうなほど館内は空いていた。
映画の意図しているところは分かったように想える。が、映画のツクリとしては、主張というか力点というか、或いは親切さというか、やや把握が弱くて表現も曖昧さをたっぷり残している気がした。そこがこの映画世界の「意味」だろうとも言えなくはないが、映画を観る者の充足感からいうと、「マトリックス」1よりは、だいぶヒケを取っている気がした。また、わたし自身の内面的ないわば関心・主題からも、遠くはないが甚だアタリは弱いな、このままでは私自身のコトとは成ってこないな、という気持だった。
そうはいえ、ジーンと映画の余韻は生きていて、今でもものを言いかけて来る。
2003 6・27 21
* レオナルド・デカプリオとケイト・ウインスレットの「タイタニック」は、DVDで繰りかえし見てきたが、テレビで前半の大方を、帰宅してから見た。大作の陥りがちな大味にならず、胸にしみいって娯楽作ともいいがたい本格大作で、写真も美しい。明日の後半は、つらくてよう観ないであろうなと思う。 2003 6・27 21
* きわどく変なタイミングで起こされ、これはもたないと思いもう一度横になったら、熟睡。
起きて、「小石川の家」を見終えた。生きて暮らす、それそのことが即ち「文化」を成していることを、蝸牛庵の歳月が感動深く教えてくれる。そして露伴と文という稀有の父と娘。ファザーコンプレックスなどという心理的なことではない、絶対の敬愛と頼り合いの清潔な結実。田中裕子が演じた文の顔の、いつもいつも磨き抜かれて澄んで美しかったこと。田畑智子の無垢の自然さ。そして文豪露伴のヴィヴィッドな魂。
わたしは文の作品はあまり読んでいないが、露伴は大好き。ことに「運命」で再出発して以後晩年の悠々たる大文學が。戦後まで生きて、國中の敬意をうけた人として、あれはまだわたしの小学校時代であったが、そしてもう漱石には触れかけていた頃だが。懐かしい。慕わしい。露伴、露伴、露伴。まことに文学者であった。大人であった。
2003 6・28 21
* 暑くてダラけるのを引き締め引き締め、仕事の合間には煙草はやらないから、ビデオの映画をチョッチョッと観る。シルベスタ・スタローンとジャニン・ターナーとの山岳アクション「クリフハンガー」が、何度見ても面白かった。わたしのもう絶対に体験することのないのが、山。山岳。こんな山がほんとに在るのという奇抜な山巓で、どんな撮影上の裏技があるのか知らないが、人間ばなれしたことをやってみせてくれるスタローンには、敬服以上に呆れてしまう。この映画では、大きな潤んだ黒い瞳の、美しいジャニン・ターナーが魅力的で、この女優が見たくてビデオを引っ張り出してくるのだとも自覚した。
* 夜は夜で、ハンサムなケビン・コスナー投手の「完全試合」を、手に汗して観たが、これもヒロインの品のいい美貌に心惹かれるから、ひとしお映画も緊迫したのである。こんなぐらいで、ストレスなんか飛んでゆくのだからラクなもんだ、有り難いことだ。おまけに妻が差し入れの日本酒のそばには、頂戴したすこぶる上等の笹蒲鉾がある。
それでも、きちんきちんと機械の前に戻っては仕事、仕事。もう深夜である。
これから、バグワンと源氏物語のそばへ行き、寝床へ入ってからは「南北朝」と「歌麿」とを楽しむ。
2003 6・29 21
* 深夜に、大学の先生の、折りも良し「悪党」の講義を、一人で聴いた。南北朝を分解する強烈なバクテリアのような悪党の働きは、これを見落としてはとうてい時代が読み取れないほど。「日本の歴史」で、いましも読んできたちょうどその主題の講義なので、寝るのはやめて聴いた。有名な「峰相記」やその環境、また多彩に絵巻物など見せながらの、纏めのよく利いた講義であった。
悪党の張本ではないが、チャンピオンとは謂えるだろう楠木正成の魅力も、かげの部分も、悪党の一人とみてこそ、よく窺える。
2003 7・3 22
* 寺内小春脚本の永井荷風原作テレビ映画「踊子」をビデオで、久しぶりに見た。あの語りは米倉斉可年のようにも聞こえるが、顔が出ない。
このビデオを保存してきたのは、村上聡美の抜群の芝居に惹かれてであるが、かたせ梨乃もおっそろしく佳いし、永島敏行も上乗。
梨乃の作品はたくさん見ているが、極妻ものよりも、わたしは此の「踊子」が最上等の芝居のように想える。
初めて見て、村上聡美というズブの新人のすばらしさに、驚嘆した。うおぅッ…という感じだった。この子は、もうこれ以上の芝居が出来なくなりゃしないかと懼れたほど、モノが憑いていると想うほど、上手で自然で美しくあわれであった。この地味な芸名はあまり人に覚えてもらえなくて、うまくないなあとも案じた。案の定、その後この女優はサスペンスなんかの平凡な役ばかりやって、あまり光っていない。勿体ない。岩下志麻の娘役で、津川雅彦との愛欲の場面をそれは美しくけなげに演じた頃の新人七瀬なつみも、ちょっとその後が平凡に映えない。惜しい。
「小石川の家」で玉役の、初々しかった田畑智子がその後も、いい作品で活躍しているのと比べると、村上も七瀬も可哀想だ。村上聡美は、それは美しい眼をして、肌も輝き、すてきに化ける女優なんだがなあ。生んだ女の子を姉夫婦に育ててもらい、数奇な人生の最期を空襲の直撃弾で木っ端微塵に。
最期に姉たちを田舎にたずね、母とは名乗らず幼い娘に帰りを見送られた野中道で、日傘をまわして、かつてのレビュー小屋での踊りをチャチャラチャチャ チャチャンと踊りだす。と、いとけない娘も真似て踊る。踊りながら遠ざかって行く、もんぺ姿の若い母。佳い場面だった、忘れがたい。
なんということもない巷間の物語だが、真実感に詩のかがやきがあり、こういう作品をこそ敬愛するのである、わたしは。
* わたしは、ビデオレンタルということをしたことが、ない。我が家にはたぶん百五十本にははるか余るだろうビデオテープがあるのは、ぜんぶテレビから撮り溜めたものばかり。映像というのは、時空間の擬似保存だと谷崎は、何時までも美しい西洋の女優を映画で見ては羨ましがっていた。今では簡単にビデオに撮り手元に置けると知ったら、谷崎はどんな作品を保存したがったろう。すぐ脇の谷崎のこわい写真にちらと聞いてみかけて、おそれをなしてやめてしまう。
2003 7・4 22
* ジュリエット・ビノシュの「ショコラ」をビデオで。とても佳い映画作品。土と水とのさすらい人たちが、ガチガチの固定観念に毒された小さな町の常識を変えてしまう。おいしいチョコレートやカカオの味が大きく働く。ビノシュはもとより、「OO7」で「M」役のジョディ・デンチがいい。伯爵役もうまい。なんと「マトリックス」でわたしを惹きつけたキャリー=アン・モスがこっそり出演しているのにびっくりした。
2003 7・5 22
* 日曜かと思っていたら土曜だった。今夜はやがて「ER」が始まる。先週、うかと見逃した。
今日は昼間にチョコッ、チョコッと「ロック」を観ていた。休息の煙草代わり、何度も見ていて科白まで覚えているが、間然するところなく面白くて、こまぎれに観ても十分だった。ショーン・コネリーとニコラス・ケージ、それにエド・ハリス。三人のタイプの異なる個性満点男優の競演である、ストーリィーもよく練ってあるし、アクションは徹して烈しい。「コン・エア」のニコラス・ケージも好きだが、あれには極重の凶悪犯罪者がワンサと出てくるので気分重いが、エド・ハリス演じる反逆の将軍の動機はよく分かり、最初に雨中亡き夫人の墓参の場面があり、よく利いている。
ショーン・コネリーの佳いこと、この映画は最高で、有名な「レッド・オクトーバーを追え」ソ連原子潜水艦の亡命館長にならぶか、それ以上に魅力がある。
映画のこの手の出色作品は、文藝での読み物に当たると謂えそうで、そうは思わない。映画的な技法や手法を発揮しての娯楽大作は、それだけで映画藝術の優れた表現であり成果であり、読み物小説とは比較できない。
読み物小説の多くに安易に見られる技術的な類型化と陳腐さとを以て「ロック」や「マトリックス」や「目撃」や「エーリアン」や「ターミネーター」や「タクシー」や「ダイハード」と一緒クタにしては、映画表現に対し失礼である。わたしは、はっきり、そう思っている。
2003 7・12 22
* 昼、マイケル・ダグラスとアネット・ベニングの「アメリカン・プレジデント」の放映を観た。半分ほど観て、ビデオ撮りを妻に頼み仕事に戻り、夕食の前後にもう一度通して観た。軽いお伽噺ではあるが、初めて観た作で、十分、十二分、楽しめた。アメリカでは大統領の陰謀的な暗い面を描くモノと、大統領への敬愛を素直すぎるほど描くものと両極端が多いが、これはすこぶる感じ佳い方の、それだけにお伽噺ふうな、それがまた今日只今では批評として生き返るような、娯楽秀作であった。
マイケル・ダグラスがそもそも嫌いではない、安心して観られる好きな方の男ッポイ男優である。父親のカーク・ダグラスの渋い毅みとちがった、甘い味も舌に触れてくるハンサム。ときどきキャスリン・ターナーやデビー・ムーアなど、女にきついことを作中やられていたりする。だが「ブラック・レイン」のようなハードな仕事も男らしくこなす。
だが、この映画では何といってもアネット・デニングが素晴らしくチャーミングで、その表情の演技の冴えには、佳い浮き彫りをみるように感情の振幅が躍る。日本人には好みの容貌ともいえるだろうが、大統領の公式晩餐会でダンスに出るあたり、また大統領からのカードのついたハムをどさりと贈られたりするあたりの、またラストシーンあたりの集中力にも、ほろりとくる魅力横溢、参った。この女優の他の映画を思い出せない。この映画の成功している所以かもしれない。
* ちょいちょいとビデオで継ぎ観を楽しんでいるのは、マレーネ・ディートリッヒの「情婦」で、映画史上にのこる名品の一つ。チャールズ・ロートンの弁護士とともに、ほんの十数分ずつに細切れで観継いでいても、こういう作風安定の名画は十二分に楽しめる。おいしいおやつを、惜しみ惜しみ食べた子供の頃を思い出すほど、ながながと観ている。
東工大の頃、秦さんは映画なんか観ないでしょう、面白いモノですよと、いまいま流行の映画を書きだして教えてくれた学生もいたが、なんの、秦さんの映画好きは谷崎潤一郎譲りと言っておこう。
ことのついでにいえば、ポアロものやメイスンものは全て言うに及ばず、フォーサイスその他の海外の「読み物」は、何百冊と目に入っていて、いつ処分してもいいようにダンボールに幾函か詰め込んで積んである。「オイディプス」等からシェイクスピア・ゲーテを経て、「高慢と偏見」から少なくもカフカまで、泰西文学のそれはそれは多くの他に、である。
大学の頃は好んで西欧の哲学史をいろんな記念碑的な仕事を践み渡るようにたくさん読んだ。その感化は浅くはない。そして最後に(と思う)バグワン・シュリ・ラジニーシに出逢った。幸せである。他の聖典の殆どを落として捨てることが出来た。
源氏物語や徒然草だけで生きては来なかった。
* アメリカの科学捜査班を描いている連続ドラマ(CSI)も、現場のリアリティーを尊重したヴィヴィッドな画面と追究で惹きつける。ご贔屓の女優マージ・ヘルゲンバーガーが活躍している。もっと凄みのある優れた「ER=救急治療室」は、配役の大方が地味で、映画等で記憶のある役者もほとんどなく、それが大きな効果になって息をのむ画面の連続へひきずりこんでくれる。
2003 7・14 22
* 秋九月から始まるらしい連続ドラマのもう六回分まで書き上げてきた息子が、秦建日子が、一人で夕食に帰って来た。三人と一匹とで嬉しい夕食であった。食後には、わたしたちが今や大のお気に入りの「アメリカン・プレジデント」を三人で観た。
気持の佳い映画はこれだけではないが、それでもどこかで心に暗い影も落ちるように創ってある。偽の大統領が善政をしく「デイブ」だって気持はよかったが、ほんものの大統領は腹上死して遺体は匿されていた。
だが、この、もうわたしは四度目にも成る今夜の映画は、マイケル・ダグラス大統領とアネット・ベニングとの純な恋愛映画でもあり、それをアネットは絶妙の演技で光り輝かせているのである、魅力的に。それは魅力的に。
この映画をたまたま観たのは、いつであったろう、本の少し前である。そして、このアネットの、恋もするが政治的なロビイストとして抜群の才能ももった魅惑には、素直に降参してきた。わたしの気分は、アネットの演じるこの女性の優しさや輝かしさに薫染されて、すこぶる幸せですらあったことを認めざるをえない。
2003 7・20 22
* わたしは昼前、「マトリックス」を観ていた、覚めるとは、どういうことかと。キャリー=アン・モスのピエタ。「支配」といい、「システム」といい、いたるところに充満した「電気現象の影」といって、「マトリックス=人間の迷妄=現実でありえないもの」が語られていた。そういう「言葉」をはるかに超えて、生きているという底知れぬ寂しみが伝わる。
2003 7・21 22
* 前の土曜の「ER」は、もう妻はテレビの前からにげだしてしまうほど、凄まじい救急場面の連続であったけれど、今夜の「CSI」もすばらしい出来であった。マージ・ヘルゲンバーガーが芯の所にいて活躍しているとすら見えた。「アメリカン・プレジデント」のアネット・デニングの、聡明で愛らしい魅力超満点にくらべ、マージはシャープに情況に生彩を与える聡明な演技力で惹きつける。気持がいい。
2003 7・21 22
* 秦建日子のホームページを久しぶりに覗いたら、こんな予告が冒頭に。「おやじは、かおをしかめるよ」と、先日帰ってきたときに予防線を張っていた。ふざけた芝居でなければ、いい。
犯罪モノは、ふつう犯人を追いつめる側が主になるようだが、犯罪を犯す側が主になって進めるドラマらしいと、母親を通じて漏れ聞いている。三回目ぐらいまでは黙ってみてくれよと、二重に予防線を張っている。
眼をつぶって見ようか。
浅野温子はあたりはずれあるが、活気はある。活気がドタバタにならなければ魅力ある女優で、うまくすれば、逸材である「雨あがる」その他黒澤映画での原田三枝子に近づける。北条時宗の母親役はまずまずであった。
* 10/15より毎週水曜22時! NTV系にて、また連続ドラマを書きます。
「共犯者」 主演 浅野温子 三上博史
既に、クランク・イン。 脚本は、現在、6話を執筆中。
2003 7・29 22
* 昨日、二度に分けて黒澤明の「羅生門」ノーカット版を観た。導入がやや渋るものの、流石に間然するところない映画・映像藝術であり、感動をぐっと分厚く湛えた人間批評の名作であった。京マチ子の美しいことったら、無い。それだけでもお宝映画であるが、黒ダイヤのように光るモノクローム写真の美しさにまみれたように、三船敏郎と森雅之とがこれぞ死闘といえるリアルな肉迫戦を繰り返す。汗と息づかいとが画面からしぶいてくる。男同士がへとへとに闘うおかしさとみごとさ。多くの映画で男どもの格闘はみてきたが、黒澤演出の三船と雅之とのあの場面ほど見事なリアリティーに溢れつつ、しかも様式美に達していたあんな例は知らない。ジョン・ウェインの「静かなる男」やグレゴリー・ペックとチャールトン・ヘストンであったかの「大西部」の肉弾戦にしても、「羅生門」にくらべるとお話にならない大まかなものであった。殴り合っているだけ。
土砂降りの羅生門のセットも荒廃した美観を深々と堪えてシンボリックだし、其処での志村喬、千秋実のラストシーンもみごとだった。雅之の霊を憑かせた巫女の演技も鑑賞にたえた。
芥川の観念的な原作「藪の中」が、こうもハツラツとして生彩豊かに深刻に映像化されるとは。賛嘆と驚異を禁じ得ない。それにしても京マチ子の美しさよ。日本人女優の達成したスケールの大きい最高の境地を、最良の典型を、一つ実現している。原節子の幾つかの魅力作のほかに、そうは並ぶモノが思い出せない。うまい女優は幾らも幾らもいたけれど。
2003 7・29 22
* 美しい、魅力溢れる女を心底讃歎しているとき、男は、いやわたしは、やはり無垢に幸せである。そのためには映画という藝術は絶対に不可欠で、その余の俗世ではなかなかそんな真似はできたものではない、危なくて。
映画の良いのは、畫中の美女がけっして歳をとらないで永遠に美しいことだと、大正時代の谷崎は繰り返し熱をこめて映画を語り、論じていた。わたしは、映画の「食べ方」を谷崎先生に教わったと謂ってウソでない。どんなに見事に創られた映画であっても、男ばかりで右往左往する映画は、やはりも一つ、わたしを完璧に魅了する決め手を欠いている。むろんトム・ハンクスらの「グリーン・マイル」でも、「ザ・ロンゲスト・デイ」でも「恐怖の報酬」でも、文句なく素晴らしかったとは悦んで認めるけれど。
この二ヶ月ほどの間にも、何人もの佳い海外女優と出会った。アネット・ベニング、クリスティン・スコット・トーマス、リンダ・ハミルトン、キャリー=アン・モス、イザベラ・スコルプコ、ジャニン・ターナー、テリー・ポロ、ルネ・ロッソ、ペータ・ウィルソン、ミラ・ジョボビッチ、ローラ・リニー、マージ・ヘルゲンバーガーなどなど、どれもエリザベス・テーラーやイングリット・バーグマンやキム・ノヴァクや、ソフィア・ローレンら大スターとはちがうけれども、映画を、さらにさらに好きにさせてくれる底光のする魅力満点の女優達であった。
国際的な大女優の列に入った日本人は、京マチ子一人であろう。男では「羅生門」「七人の侍」が有る限りはやはり三船敏郎をおいて無い。石原裕次郎なんて、ましてや気色わるい石原軍団なんてものは、掃いて捨てても惜しくも何ともない。何なんだ、渡徹也らのあのけったいなコマーシャルは。
* と、まあ、こういうことを書きトバしているとき、わたしは吸わない煙草を一服しているのであり、頭は、次の仕事に向いている。こういう休息を発明して楽しんでいるだけのこと。
2003 7・29 22
*映画の話を お元気ですか。秦さんの隅田川の花火をご覧になっていた日、わたしは大学の先輩の結婚披露があり、つくばへ行っていました。そこで誰かに風邪をうつされてしまって、微熱と喉の痛みがありますが、明日には、よくなりそうです。
「アメリカンプレジデント」、わたしも見ました。現在の”アメリカンプレジデント”に見せたい話でしたね。環境問題については、マイケル・ダグラス大統領と正反対のことをしていますからね。
もう前のことですが、レオナルド・ディカプリオという若い俳優が、アメリカの映画関係者に声をかけ、世界の地球環境保護運動に協力するよう、ブッシュ大統領へのアピール集会を行ったと、記事になっていました。素行の悪さばか
り報道されるレオナルド・ディカプリオですが、ちょっと見直しました。あの、気のちがった大統領にもの申すのは、勇気のいることでしょうから。
そして他にも、ネオコンとやらが幅をきかせる中で、戦争反対の発言をした有名人たちを、わたしは尊敬します。ティム・ロビンスにスーザン・サランドン、ショーン・ペン、ダニー・グローバー、ダスティン・ホフマン、シェリル・ク
ロウ・・。彼等は有名であるということに、責務を感じているのかもしれません。
「アメリカンプレジデント」の、アネット・ベニングがはじめてホワイトハウスヘ入る冒頭シーンで、警備の人に向かい、「(大統領たちが)キャプラみたいだといいんだけど」と、眼を輝かせていましたね。イラクに戦争をしかけていたころ、ハリウッドに対し、戦意昂揚映画を作るようにとのお達しが、国からあったと聴きました。アメリカ政府の、映画の影響力を看過していない証拠ともとれますが、だったら、「アメリカンプレジデント」を観たのでしょうか。キャプラの「スミス都へ行く」を、ティム・バートンの「マーズアタック」を観たのでしょうか。
「マーズアタック」は、火星人の地球に襲撃してくるブラックコメディです。ジャック・ニコルソン扮する大統領は、ついに眼の前まで来て銃を向けた火星人たちに、「なぜ殺しあうんだ、なぜ違いを認めてわかりあおうとしない」と諭し
ていました。大統領渾身の演説に、ぽろりと大粒の涙をこぼした火星人は、ですが、直後に大統領を撃ち抜きます。なんという皮肉、そして、なんという批評性。
ああいった映画を作るアメリカと、ブッシュのアメリカ。今、アメリカはバラバラに見えます。
話を変えまして、「羅生門」はわたしも大好きです。高校生のとき、国語の教科書に「薮の中」が載っていたので、先生が授業中にビデオを見せてくれました。
迫力があって、藝術的で、筋まで面白いので、とにかく感心しました。芥川と黒沢明という、素晴らしい藝術家の出逢いだったなと思います。
淀川長治さんが、どこか外国の映画館で「羅生門」を見たときの話を、エッセイに書いていました。観客の中にリー・J・コップという俳優がいて、上映が終わると、「日本ではいつもこんな映画を作っているのか」と驚いた顔をして訊いてきたそうです。きっと、淀川さんは誇らしかったに違いありません。これが日本の映画ですよと、わたしも外国の人に言いたいです。そこで芥川の「薮の中」を読んでいると、映画の展開の意外さを、もっと堪能できるのに、と思います。
「私語の刻」に映画の話が出てくると、うずうずしてしまいます。映画はいいですね。
それでは、またメールします。
* こういうメール、読んでいてうずうずする。淀川長治さんのところが、いい。「淀川さんは誇らしかったに違いありません。これが日本の映画ですよと、わたしも外国の人に言いたいです。」と。ぐっと胸にきた。わたしでも言いたい。
この人の挙げている映画が、およそみな分かり、俳優達もみな分かる。それに驚いている。この人は小説を書いている。アネット・ベニングは「アメリカン・ビューティー」にも出ていたらしい、いま検索して知った。ラクロ原作作品の映画の題が分かると、それもDVDで確かめられるのだが。
* 「アメリカン・ビューティー」のケビン・トレーシー扮する夫の妻キャロリンがアネット・ベニングだった、髪型がかわるだけで、「アメリカン・プレジデント」のあの女性とは、がらりと演技も雰囲気も変えている。流石である。この作品はアカデミー賞最優秀作品賞を得ているが、苦い味の渋い映画である。 DVDを買ってきて観て、このかなりいかれた妻の役なのに、なんで好感を持ってみていたのだろうという不審が解けた気がする。
「危険な関係」についても、親切な情報が二度三度届いた。
2003 7・30 22
* あちこちひっくり返してアネット・ベニングの出演した原作『危険な関係』の映画のカタログを見つけました。
邦題は「恋の掟」です。原題は男性主人公の名をとって「ヴァルモン」監督は「アマデウス」の名匠ミロシュ・フォアマンでした。「危険な関係」はスティーブン・フリアーズ監督がミッシェル・ファイファー、グレン・クロースという豪華キャストでも映画化していますが、こちらの方は私は佳いと思いませんでした。原作が名作であればあるほど、映画は原作を超えられません。忠実に作ろうとして失敗した例だと思います。
「恋の掟」は切り口が面白く、アネット・ベニングは批評家にスパークリング・ビューティーと表現されていましたが、悪女メルトゥイユ侯爵夫人を清潔に溌剌と演じていました。女の魅力的な笑顔がどんなにスゴイ武器になるか、アネット・ベニングに教えられたような記憶がございます。
>> いまでも、帝国ホテル辺を往来されていますか。
帝国ホテルは昼食やお茶などに利用することが多いです。最近は不況のせいか、ゆっくり坐ってしずかに話ができるレストランや喫茶店が本当に少なくなりました。最後の牙城である銀座、有楽町界隈が渋谷や原宿のような子どもの街にならないことをひたすら祈っています。
* 映画という藝術が愛されていることがよくわかる。映画のことに触れると、メールが賑やかになってくる。
わたしは銀座・日比谷・有楽町あたりを、東京ではともあれ大人の落ち着ける街と思い、交通の便もわるくなく、ペンの例会や理事会もあり、親しんできた。この人の云われるように、わたしも、いくらかヒヤヒヤしながら願っている。よく行く店やクラブもこの界隈にほぼ集中している。次いでとなると、一足飛びに浅草をあるいているときわたしは意外に深くくつろいでいる。
2003 7・30 22
* 戴いたビデオで、バグワン最晩年の説法を一時間半、じっと聴いた。云われる一つ一つの話は、ほとんどすでに音読して胸に通っている。ただ師の風貌や声音には初めて接した。ゆっくりと英語で。それに同時通訳がついて。聴きやすい。話されている何十倍もをわたしはすでに繰り返し聴いている。聴いて聴いて、いる。
* 見掛けていた、DVDの「アメリカン・ビューティ」を見終えた。アカデミー賞の最優秀作品賞をとっていて、繰り返し四度目ぐらいか、アネット・ベニングを再認識してひとしお興味深く面白く観た。ケビン・トレーシが主演男優賞をとり、アネットは主演女優賞にノミネートされていた。それはよく分かる、が、子供世代の三人もよくやっていたし、隣家の元大佐も力演であった。三十年前ならこの映画は最も異端に属する稀有なる問題作として指弾すらされたかも知れないのに、今ではこれが「アメリカン・ビューティ」としてむしろ多数派的風俗の底で今しも発酵中なのであろう。アメリカも大きく動いていて、その影響は日本の家庭にも著しいと思われる。
2003・8・1 23
* 昨日貰ったビデオのうち、ショーン・コネリーのアーサー王、リチャード・ギアの騎士ランスロット、そして王妃グィネヴィアにはジュリア・オーモンドという、アーサー王伝説の映画化「トゥルー・ナイト」は、わたしの好みの歴史物、というよりも半分神話風の騎士物語。楽しんだ。ショーン・コネリーがすこぶる立派で、アーサー王の風格に恥じず、ジュリア・オーモンドも丈高い愛らしい好い王妃ぶりで魅せた。リチャード・ギアは少し間延びのした顔のランスロットで、今少し此の世界らしい清冽な颯爽感が欲しかった。展開はやや大味であるが、画面は美しく満足した。
うって変わって「チャイナ・ムーン」は、これは二度ほどテレビでみていた映画で、エド・ハリスの敏腕な刑事に、エキゾチックなマデリーン・ストウが悩ましく絡む、手のこんだ犯罪映画。エド・ハリスの部下を演じる刑事役が異色の面構えで記憶に残っていた。わるくはないが、よくもない。ただエド・ハリスという男優は贔屓の一人であり、この作品でもわるくない。
* 映画を煙草代わりに、少しずつ、疲れると観に階下に降りて、また機械にもどってきて仕事をする。今はひたすら辛抱一筋に少しずつ少しずつ、おやみなしに、あれもこれもそれもどれもを進めて行くしか「凌ぎ」がつかない。どれ一つでもだあッと手を抜けば、仕事のダムは決壊し収拾がつかなくなる。幸い、これから十日あまり、何の出掛ける予定もない。十三日の納涼歌舞伎をはさんで、その先また一週間の余裕があって、講演の旅に出る。いま根をつめておけば、講演のあと、少し足をのばせるかも知れない。
2003 8・2 23
* 昨夜、なにもかも用事をし終えてのちに、「ハドソン河のモスコー」という戴いたビデオの映画をひとりで観た。四時前になった。主演は、ロビン・ウィリアムス。いくつかの映画で馴染んだ、滋味と温かみのあるコミックな俳優だ、ジャック・レモンのような血のしたたるように切り口あざやかな喜劇俳優ではないが、ヒューメンな役者だ。それなりに何かよく勘定されたような見ようでは損な限界も感じられるけれど、じっと付き合っていると、いつしか、えもいわれぬ味わいが胸に残る。わるくない。時にはとても佳い。
この映画はアメリカに亡命した故国喪失ソ連(当時の)ロシア人のほろ苦い生活篇であり、深夜に眠気も飛ばして見続けさせてしまう魅力をもっていた。
魅力のかなりの分量を、やはりイタリアから移民してアメリカ人として市民権を得た、それは可愛らしい気分の好い女性が占めている。マリア・コンチータ・アロンゾ。初めてお目にかかるが、何とも魅力横溢の小柄で陽気で気持のいいセクシーな若さには、ロビンならずとも、イカレてしまう。
ことに二人がバスタブで演じたラブシーンは、天真爛漫のゆるしあった気分の好いもので、この場面にオッソロシク刺激されていると、かつて眺めてきた夥しい数の美しそうなすべてのラブシーンがつまりはつくりものであったことに、惜しいほどに幻滅をおぼえてしまうぐらい、自然に「出来」ていた。ロビンはむくむくに欲情していて、マリアは完璧に自然に愛に溢れて誘われて行く。ああいうラブシーンが描けていて、しかも映画の狙いがきちっとしたデッサンにより進行して行くのは、地味だけれど、まこと端倪すべからざるもの。映画の役の名の「マリア」ではない、これは女優その人の名前であるが、このマリアには、どこか聖母の無垢のエロスとアガペを感じたなどといえば、カソリックに怒鳴られるかも知れない、が、嬉しい出逢い、嬉しい懐かしい羨ましいラブシーンが観られたのは功徳であった。
* 田原総一朗のテレビで、政局をごたごたと語り合っている図などというのは、何と魅力のない、いやーなモノだろう。自分の生活に手ひどく影響してくる政局だとなまじいよほど承知していればこそ、じつに、いまいましい。「マリア・コンチータ・アロンゾ」を「開けゴマ」のように念じて邪気払いがしたくなる。マリア・コンチータ・アロンゾ。なんだか陀羅尼めくではないか。おんばら・さんばら・びぃしゅぅらの・おんろろ・しぁありん・そわか。そんな風に、丹波に疎開していた昔に、母屋のおばあちゃんに教わった。あの陀羅尼からわたしの「精経入水」は生まれ出てきたが、このマリアは、わたしに、忘れ果てていたような男の欲情をとても健康に思い出させてくれた気がする。ロビンのヤツったら。
* 昼食しながら、「大いなる遺産」という初めての映画を観た。ロバート・デ・ニーロとアン・バクロフトという豪華な前世代を背景に、イーサン・ホークとグウィネス・パルトロウのロマンティックなラヴストーリィで、なかなか静かに、魅してくれた。イーサン・ホークが画才に優れた少年来の藝術家なのだが、それにふさわしい「繪」が多数使われていて魅力横溢、その繪が観られるだけで儲けものの惹きつける作品だった。すこしひ弱そうなイーサン・ホークだが、グウィネス・パルトロウは、品格あるモナ・リザ風の美貌で、年頃の変化に不思議に美しい変わり身をみせながら、すてきにチャーミングであった。キスに舌をかすかに使って「魔」っぽくエロチックでありながら、清冽な印象を終始湛えて、愛に生きた半生の内面を、よく滲ませていた。
いただき物の五本の劇映画の、もう四本も観てしまったが、どれも変化に富んで甲乙つけがたい。有り難い。いい休養になる。
* 寝不足の眠気はやや残っているが、階下で仕事を前へ。そういう用事もいろいろある。日曜はメールも少ない。魚は水へ、鳥は空へ。わたしは、深い胸の闇へ。いや、妻を誘って街へ夕食に行こうか。
2003 8・3 23
* 映画「永遠(とわ)の愛に生きて」を観た。劣らぬ名優の競演、イギリス紳士社会でのアメリカ離婚女性との真摯な愛の物語。悲劇的な病魔によって断たれる愛ではあるが、その苦しみもまた「深い愛の喜びの一部である」という悟達を得て臨終の悲痛を乗り越えて行く。佳い作品であった。アンソニー・ホプキンスといえば「羊たちの沈黙」を思い出すが、演技的には今日の映画の方があわれも彫りも深い。死んでゆくデブラ・ウインガーの、美しくも丈高いことは。泣かされた。
戴いたビデオ映画五本をみな見終えた。「チャイナ・ムーン」(エド・ハリス、マデリーン・ストウ)は前に観ていたが、アーサー王伝説の「トゥルー・ナイト」(ショーン・コネリー、リチャード・ギア、ジュリア・オーモンド)も、ディッケンズものの「大いなる遺産」(イーサン・ホーク、グィネス・パルトロウ、ロバート・デ・ニーロ、アン・バンクロフト)も、実話でもある「永遠の愛に生きて」(アンソニーホプキンス、デブラ・ウインガー)も、ソ連人のアメリカ亡命生活「ハドソン河のモスコー」(ロビン・ウィリアムズ、マリア・コンチータ・アロンゾ)も、みな初見で、画面も演技も演技者の魅力も、甲乙ない佳作秀作ぞろいであったのが、とても嬉しい。また繰り返し見て楽しむだろう。
2003 8・4 23
* 凸版印刷の電話に起こされた。北斎の「富岳」を逐一解説と共に眺めていて、やはり三時半を過ぎていた。そのまえに、音読も済んでから、リノ・バンチュラとアラン・ドゥロンの名画「冒険者たち」の頭を、静かに楽しんでいた。この二人のハンサムに愛されたジョアンナ・シムカス演じる「レティシア」に、またわたしも逢いたかったのだ。愛すべきヒロインたちは無数だが、そのなかでも印象に深く沈んで生きている。レティシアも夢、しかし此の現実もじつは夢であるなら、レティシアやその他の夢の方が「より確か」そうにすら思われるのは、断念と虚無の深さであるのだろうか。
そんなことも云っていられない、凸版は早く校了にして欲しいと、夏休みがあるので、と。予期して、勘定に入れていたことが起きたまで。間に合わせられると思っているが、さて、他へ皺もきつく寄る。
2003 8・5 23
* 息子と夕食のあと、黒澤明の「羅生門」を観た。京マチ子、佳いなあ。森雅之の芝居も、みごと。千秋実の僧がやわらかいいいシルエットで存在しえており、確かさに感心した。羅生門のセットが、磚を敷いた地面といい柱の大きさといいホンモノの質感に溢れて生ける如くであるのにも、いつもながら、感じ入る。
一つの映画を一緒に観ていると、息子がどれほどの思いをしているのかが、それとなく受け取れ、父親は興味深い。彼の今の身過ぎ世過ぎでは、やむなく創るもの創るものが軽薄以上に出ることは事実上難しい。現に彼がよほど真面目に創った「最後の弁護人」のようなドラマでも、「羅生門」のいかなるワンカットにも遠く及ばないのは、次元も異なり余儀ない現実ではあるが、こういう「達成も」世の中には有る・有った、と痛いほど覚えていて損にはなるまい。できるだけ佳い・楽しい・問題意識のある映画をいっしょに観るようにしているのは、それが我々の最接近できるジャンルだから。会話している以上に会話が出来ていると思う。
2003 8・8 23
* 午後予定の作業を予定分終えてきた。よこのビデオで、黒澤明「用心棒」を。三船が大人になっている。この映画で仲代達也という逸材に初めて出会った、わたしは。
奥さんの宮崎恭子さんが健在であった頃、多年の読者である本間久雄氏の紹介で無名塾の仲代さんとも接触があり、芝居に招かれたり謹呈署名入りのエッセイを貰ったりしている。俳優座の雄であった、あの時代の「マクベス」などを観た。やがて彼は無名塾の時代へ入っていった。わたしは、あれ以来俳優座とのご縁絶やさず続いていて、わたしの脚色で漱石の「心 わが愛」を加藤剛が主演したりした。剛さんとのご縁も、今も絶えていない。
「用心棒」は巧みに創られている。「羅生門」のように大地から生えて出た自然の生命感は乏しい、巧緻な創作であり、その限りですべて面白く、その限りで限界がある。この限界が、此の後の黒澤作品の作一作に響いていくる。
初期の「生きる」また「羅生門」さらに「七人の侍」までが黒澤映画の輝く生命生動期で、「用心棒」からあとは様式達成期である。画面はますます美しくなるが、深い人間的な感動ははぐらかされてくる。自然より趣向が勝ってくる。趣向と自然との妙が躍動したのはやはり「羅生門」「七人の侍」が頂点かも知れない。
2003 8・9 23
*「リーサルウェポン」4 が好きで、もう画面を観ている必要もない、耳で聴いていてみな分かる。笑いのあるハードボイルドで、「リックス」役のメル・ギブソンも、「マータフ」役のダニー・グローバーも、彼の家族たちも好きだ。内心の深くに痛い傷を負うていたリックスを、愛して立ち直らせる「ローナ」役のレネ・ロッソも、前作以来このシリーズではとても良い役を演じて魅力満点。映画のビデオがまぢかで進行していると、すこしは影響されるが、作業に継続して集中できる大きなプラスもある。湖の本発行へのビデオは有効な隠しダマである。
2003 8・9 23
* サンドラ・ブロック主演の「ザ・インターネット」と、ハリソン・フォード主演のジャック・ライアンものを続けて、ビデオで「聴き」ながら仕事していた。格別に「ザ・インターネット」が面白く、仕事の手がとまりがちで逆効果であったが、満足した。コンピュータものは、昔は近未来のサイエンス・フィクションと思えたものが、今ではサイバーテロも現実感でいっぱい。わたしに出来なくても、現に優に起こりうる・起こしうるテクだとは分かる。凄い時代に入ってきている。
2003 8・12 23
* 鳥越キャスターの企画・取材になる、原爆投下後七年間の「報道空白」が招いた深甚の悲劇的影響、その詳細を伝えた番組は、無念の涙を熱く煮るほどの好篇であった。いかにアメリカの原爆戦略が露わに無反省なものであったか、いかにその後の被害報道に対する徹底した規制であまりに多くを隠蔽し隠匿し、ひいては核戦略をその後も今日にも及んで悪魔的に野放図にしてしまったか、を、イラク報道の悪意の操作や被害の深刻さをことこまかに映像と資料とで提供しつつ、文字通り「凄い」ほど、みせた。堪えがたい非道さ。唸るしかなかった。こういう報道を、もっと試聴者の多い時間帯で繰り返し流すとともに、海外で、アメリカで放映して貰いたいと思った。優れた仕事であった、感謝する。
2003 8・17 23
* 今日は平安高校をみごとに負かした東北高校が、茨木の常総学院高校に決勝戦で惜しい負けを喫した。常総は木内監督の引退甲子園であったようで、そういう大事な節目で監督に優勝の栄冠をもたらした選手達もえらいし、監督神話が一つ確立されたのもたいしたもの、感動した。
今回の大会は気を入れて幾試合かをテレビでみてきた。選手達はますます若くコドモらしく目につり、見ている自分には数々の記憶がよみがえること、で老いを思い知らされる。
夜には二三度抜けていた「ER」を胸苦しいほどに見ていた。
そして、もう一時半。これから中原中也の詩を、少し校正してみる。機械のまえにいると、不思議に孤独でない。
2003 8・23 23
* 世界陸上という伏兵に襲われ、深夜というより明け方近い女子一万メートル決勝まで見てしまい、あげく、「喪われた故国」上巻を読み切ってしまうなどしたため、目覚めたときは正午によほど近かった。あれこれ一仕事して、なにげなく階下に降りると黒いマゴが悠然とからだをのばして昼寝している、そのよこへごろり。そのまま五時まで寝入ってしまう。
この調子で一週間あまりもつづくと、わたしの仕事は潰れてしまう。
2003 8・24 23
* 夜前は、世界陸上を見るつもりで降りたテレビの前で、ふと映画「A ファイル」に出会ってしまい、緊迫感のある運びについつられ、競技はほどほどに映画の方を観てしまった。それだけのことはあって、面白かった。
2003 8・26 23
* 午後二時ちかく、湖の本エッセイ29 通算七十六巻めが届き、直ちに発送作業に入る。息をつめるように、六時まで集中して当初目的分を発送し、その後も十一時まで作業し、ずいぶんはかどった。晩は、エディ・マーフィーの刑事物二番煎じのような軽い映画を横目でみながら。
予告していた来週か再来週の、メル・ギブソンとエレン・ハートのお色気お笑い物が待たれる。二人ともアカデミー俳優のはずだ。メル・ギブソンは今いちばんお気に入りの男優の一人である。歴史物でも戦争物でも喜劇的なドタバタ活劇でも、「マッド・マック」のような深刻な近未来物でも、しっかり演じ分ける。重量感には欠けるが、マイルドなコーヒーの旨さか。バーボンか。
2003 8・29 23
* さてまた本日の作業、順調に捗りヤマは越した。ケーリー・グラントとデボラ・カーの「めぐりあい」は、典型的なメロドラマであるが、古典映画の域にランクもされているらしい。これを下敷きにしたメグ・ライアンとトム・ハンクスのめろめろの「めぐりあうまで」ビデオを、そばで流していた。メグ・ライアンは可愛らしい。しかしこの映画、子役が利いている。
2003 8・30 23
* 昨日と今日と、二日つづきに昼下がりのパニック映画を、三倍速で録画した。むかしに「大統領を作る男たち」だったか、をビデオ撮りしたことがあり、今もときどき観なおして損をした気がしないが、今度のも大過なくリアルに画面を連鎖し構築していて、わるくなかった。一人も名前を知った俳優の出てないのがよかった。キム・ノヴァクによく似た金髪の女優の名前がわからぬままで、惜しい。もう一人のローン・ローリーは普通の印象でしかなかったが。
2003 9・11 24
* 映画「英雄の条件」は、トミー・リー・ジョーンズとサミュエル・ジャクソンという強豪俳優の顔合わせで煮つめてゆく軍事裁判劇で、興味深い流れをみせてくれた。イェーメン大使館に襲いかかる民衆テロから大使一家を救出した海兵隊を指揮していた大佐が、攻撃されつづける危険から隊を守るべく応戦と攻撃を命じ、武装した民衆の多くを殺傷してしまう。国際問題化をおそれた米政府と軍とは大佐をみせしめに罰して窮地を脱しようと画策するが、大佐とともにベトナムで言語に絶する死闘を闘い合った先輩退役大佐の弁護活動により、ほぼ真相を追究し得て無罪をかちとる。イエーメン民衆が少女に至るまで武器を持ち烈しく大使館を射撃していたのを示す重要な証拠物件のビデオを、故意に破棄していた大統領補佐官が逆に失脚してゆく。
きわどい話題であるが、裁判劇の面白さを限度いっぱいの劇的状況下で展開し、二時間を堪能させた。
映画は面白い。映画のいいところは、映画藝術の手法自体によって、文学におけるような藝術文学と通俗読み物とのような対立評価が必要でないこと。あくまで映画的にのみ評価できるので、これは藝術、これは通俗というような対立ではなく、要するによく出来た映画か、へたなつまらない面白くもない映画か、だけの違いになる。
2003 9・13 24
* 渋谷のNHKまで、迎えの車でぐっすり寝ていった。ついてからも暫く眠かった。
例により、化粧、打ち合わせ、リハーサル、本番。
成るように成った。
番組としてアレで良かったのかどうか、私には分からない。リハーサルで、わたしとして言いたいことは全部言い、本番では時間的にも半分以上、いやもっと端折った。それは致し方ない仕儀で何とも思わない。時間がゆるせば一句一句にもっと委曲を尽くした批評は可能で、その用意はしていたけれど、そんなことは無理な話。可も不可もなく終えてきた。三十分に盛りだくさんすぎるのだ。六句ほどに厳選し、批評に時間を掛けた方がいい。投稿者に媚びなくていいのでは。
寺井さんとNHK出版のお誘いで、渋谷道玄坂上のエクセルホテルでそのあとご馳走になった。歓談、意を尽くせてよかった。食べ物もたいへんおいしかった。お酒もタップリ頂戴した。収録の場を飾っていた秋の花花をお土産にもらって帰った。
送りの車では青梅街道の関町三丁目までゆっくり眠り、そこから北へ折れた。
* 木曽講演とテレビ出演と、気の重かった用事は終え、これで秋も晴れ晴れ、かろがろと送り迎えられる。
とにかく、ゆっくり眠ろう。
2003 9・17 24
*「真実の行方」という映画を妻にビデオとりしておいてもらった。それを今日、二度見た。リチャード・ギアが弁護士、彼とワケありの検事がローラ・リニー。司教が私室で惨殺される。司教につかえている若者が現場から逃げ出し、血まみれのママにつかまる。州の検察局は被告の死刑を絶対の前提にローラを担当検事に任命し、リチャードは一文の金ももたない被告アーロンを弁護する。
アーロンは殺害現場にいたけれど、自分だけではなかった気がすると犯行を否定する一方、殺害現場で「時間がとまり」つまり失神状態になり何も記憶がない、司教は親も同然の恩人であり殺すわけがない、と言う。
映画は弁護と検察との双方丁々発止の応酬のなかで、被告自身のなかに驚くべき多重人格の発現が認められてくる。アーロンは、どこからどうみても、どうきいても、あどけないほど善意善良のにじみ出る好青年なのだが、彼の内部にロイという別の狂暴な若者があらわれでてくる。その出現は思わずのけぞるほどの衝撃を与えるが、さらに事件の内奥に、殺された司教がみずから監督して、アーロンと彼の愛しているリンダという少女と、同じく司教に仕えている若者の三人に陰惨なセックスプレイを演じさせてテープに取っていたことが明るみに出てくる。検察を統べている責任者はそれをもみ消すためにも被告死刑を早急に実現させたいのが本音であったが、ローラはそれに反撥し、弁護士側の証拠ビデオを検事として自ら用い被告訊問に当たったが、その訊問に触発されてアーロンの内部からロイが烈しく立ち上がり、法廷でローラ検事の首をあわやへし折るほどの暴行をはたらく。心理分析の専門家も多重人格を確認し体験もし、裁判はこのままではアーロンの犯行としてはとても殺人が問えない混乱に陥り、結果として弁護側勝利で裁判は停止となる。
そこからが、凄いのだった。だれもがアーロンの中にロイが隠れていてそれが現れて殺人したと判定した。ところが、裁判も停止と決まった最後の最期になり、アーロンがロイを抱き込んでいたのではなく、実は巧妙にロイがアーロンを演じきっていたのであると弁護士の前に暴露されてしまう。暴露し嘲笑するのはうってかわったロイ当人であった。アーロンという善良で内気な少年は存在していなかったのである。
* 巧緻に組み立てた、まことにみごとな映画の勝利であった。間然するところ無く、優秀な弁護士も検事も医師もこぞってアーロンを、放免救助すべき被告として法廷から病院へ送ることに貢献しながら、それをロイにより嘲笑されてしまう結果になる。犯人役のアーロンならぬロイを演じた俳優の名前を知らないが演技賞ものであった、二度目をみて実に多くの仕掛けがよく見え、堪能した。
「緊急救命治療センター=ER」に出ずっぱりだった好感の持てる女優が、弁護士助手としてたいへんソツない佳い演技であったのも、よかった。黒人の女性裁判長、面談中にロイにすごまれる女性医師など印象的に働いた役がめだち、初見、いい映画にぶつかったものだ。
2003 9・18 24
* 寺井谷子選 視聴者入選12句 への ゲスト秦恒平の批評(2003.9.17 NHK俳壇収録分)を以下に掲げておく。僅か三十分に、番組内容が盛りだくさんで、結局どれ一つとて十分に話せず半端に終わってしまうのは、ことにこの番組では予想できたので、収録前にメモしておいた。
寺井さんの推薦句と、わたしのそれとが全く触れ合わなかったのは、「俳句」にせよ「短歌」にせよ評価や鑑賞がいかに主観的かの好例を提供している。ほんとうなら、その討議を二人で出来たら、よほど番組として質的に興味深かったろう。寺井さんがご意見を寄せて下さると嬉しいが。
なにしろ批判はおろか、批評も避けて「無理しても褒めてあげて欲しい」というのでは、わたしには向かない。幾らでも褒めたいが、心にもないことは言えない。
今朝放映されていたらしいので、このメモも解禁とする。
12.馬屋には大型農機鳳仙花
鹿児島県喜入町 永野ちづ子さん 秦 第一席推薦
① なんとなく大柄な俳味を感じさせる句。② 馬屋に馬がいなくて、馬より可愛いげの無い、しかしかなり働き者の、大型農機。 ③ そんな武骨な農家の風情を彩って季節の花の色濃い鳳仙花が、豊穣の秋を思わせる。④ 漢字ばかりだが、「うまやには」の柔らかな発語が生きて、⑤ 「大型農機・鳳仙花」という堅物と美形の取合わせを引き出したのはお手柄ではないか。
7.水郷にロケの一隊夕月夜
高槻市 河本利一さん 秦 第二席推薦
① 姿美しい句ではない、が、或る種の唐突感に、ふと「おかしみ=俳味」を覚える。
② 俳諧に根を発した俳句にとって、或いは「季語」以上に大切なのは、この「俳」の字が担い伝えてきた「俳味」の表現。③ 俳句は、三句の「短い詩」であればいいのか。そうではあるまいと思っている。 ④ 蕪村に特に、近代の子規にも、「俳の妙味」が、魅力の芯にある。
⑤ この句「水郷」という舞台が効果的。 ⑥ 夕深まり波きらめくなかで、何を撮影するのか朧ろにそれとも知れにくいけれど、多くの人影が動き、いろんな声も行き交う。⑦ すべて「夕月夜の薄明かり」に、刻一刻とシルエットになりゆき、幻想的ともなって、果ては昔風な狐や狸の「まどい」かのようにも想われて来たりする。⑧ それが現代的な「ロケの一隊」である点に、斬新な、把握と表現とがよく纏まった。 ⑨ ふとおかしく、なかなか美しく、時間の経過が、夕月夜のなかに静かに賑わっているのが、佳い。
9.妹の負けず嫌いや鳳仙花
奈良県平群町 谷川安子さん 秦 第三席推薦
① 鳳仙花は、爪紅ともいうように、女の子の遊び草。 ② 爪を赤く染めてみせて、どっちが綺麗と競い合ったろう、幼い日の姉妹。妹は、そんな昔にも、姉に対しなかなか負けていなかった。 ③ その思い出が、今しもまた甦るほど生々しい大人の場面が、ふと姉妹の間に「葛藤の顔」を出しているとも読める。 ④ 「や」という切れ字に、幽かな舌打ちを聴いてみても面白い。 ⑤ 或いは、今は遠くにある(亡くなっているかも知れないし)そんな妹の、昔と今とを面影も愛おしく思い出す姉の目に、今しも鳳仙花が、赤い。 ⑥ 句の姿もわるくなく、かすかに句の調子から、おかしみも、哀れも、受け取れる。 ⑦ ただ、際だって個性的とは見えず、類句を見る「おそれ」もある。
11.温和しき孫が来て居る夕月夜
福岡県宗像市 國安啓一さん 秦 佳作推薦
① お祖父さんの、得も云われぬ嬉しさが、雰囲気よく出ている。 ②「居る」という日本語=漢字の本来の意味、謙虚に膝を折ってひかえている意味が、「温和しき」とうまく響き有って、「語感の正しさ」に感心するが、ひらかな表記なら尋常。
1.夕月夜一つ残れる砂の城 茅ヶ崎市 平野健夫さん
① 子供の遊びのこした砂浜の「砂の城」に夕月夜。 ② 装置が出来すぎ。頭でつくりあげた「観念の臭い」がする。 ③ 「一つ」というわざとな物言いが、それを感じさせる。 ④ わたしなら、「一つ」と気取らず、気張らず、むしろ「幾つ」というふうに大小・出来不出来、いろいろばらばらに見渡すことで、逆に「幻想感」に現実の基盤を与えてみるが。
2.母のよな姉の命日鳳仙花 長野市 丸山祐司さん
①「よな」という、寸足らずの「ような」が、何をどう把握したかが、適切に伝わってこない。 ② 容貌が、性格が、家庭内の立場が、作者への接し方が、「母のよう」だった「姉」としてみて、それら総てを「よな」で代弁させるのは、表現として弱い。 ③ また「母」その人は、句の中でどう働いているのか。 ④ 「命日」とあれば、母も姉も亡くなっていて、現在とはともに間があることになり、句の哀切が、遠々しい。⑤ これが姉眼前の「命終」であるならば、鳳仙花の種が弾け散った感じにつながり、強い哀切感とともに「鳳仙花」が印象鮮やかになるけれど。
3.遠き日に触れて弾けし鳳仙花
長野県飯田市 竹下きよ子さん 選者第三席
① 鳳仙花の種のはじけ飛ぶ生態に直接触れている句。 ② それにしても表現が弱い。何を把握しているのか、把握が弱いので表現も弱いのである。 ③ 「遠き日」は、遠い昔の思い出に属する意味とも、遠い日当たりのなかで日光に射られたように赤い鳳仙花がぱっと種を散らしたとも(むりに読めば)読める。 ④「遠き日に触れて」ではいたって意味が弱く、具体的な印象として訴求する力が無い。
4.夕月夜帰る漁船の舳に座り 三重県明和町 西口才助さん
① 耳で聴いて「舳 =へ」が、ひ弱い。 ②座り か 座る か。 ③ 座 の主が作者なのか、 夕月夜の帰り船を、よそから遠望しているのか。 ④ 遠望なら、座影は、夕闇を流れるシルエットとなり、座り とよそに眺めてもいい。⑤ 作者が座っているなら、はきと、「座る」と主体化した方が句勢がつよい。帰る・座る と韻も生き、漁=労働のアトの放心ぎみの「安座」感が出る。 ⑥ このママでは句の語調はやや乱雑、⑦ 字配りも無雑作すぎる。 体言=名詞が三つも。ひらかなはたったの四字。見た目の美しさも考慮して欲しい。
5.逝きしとは応へなきこと鳳仙花
三重県菰野町 内田あさ子さん 選者第一席
① AとはBである、すると、なぜ 鳳仙花なのか。 ② 鳳仙花を、はかない死= 死別と、どう匂いづけしたのかが、分かりにくく、単にご都合に感じ取れる分、初・二句が「理」に落ちて聞こえ、美しく昇華されない。 ③ 詩歌の魅力に十分は届いていない。
6.仲よしの誰も来ぬ日よ鳳仙花 福知山市 植村太加成さん
① 大人から見て我が子の「仲良し」なのか、作者自身の「仲良し」なのか。 ②自分=作者のでは、「仲良し」という甘い表現も、「鳳仙花」との組み合わせも、まして作者が大人の男性なら、すらりとは受けいれにくい。 ③ 鳳仙花で爪など染め合って遊べる女友達が、今日はなかなかやって来なくて、心持ち寂しげな「わが娘」を見ているなら、分かる。 ④「誰も」そして「よ」のところに、句の、ゆるみと甘えが感じられる。 ⑤ 例えば、「や」「ぞ」などとの「推敲」はされたろうか。 ⑥ 把握と表現に、徹したものが、やや欠けている。
8.夕月夜届く所に居て会えず
兵庫県明石市 川木明光さん 選者第二席
① 思いあまり舌足らず。「届く所に居て」が不十分。 ② 思慕の哀しみかと想われるが。 ③「居て」と漢字にするのも。 ③ まだしも「近い所にいて」の方が素直か。「手」の届く所のつもりなのだろう、それなら「手が届きそうでいて逢へず」が率直な佳句になる。
10.夕月夜瀬戸に真白き警備艇 岡山市 大森哲也さん
① 「背戸」の海にならまだしも、「瀬戸」と書かれると、瀬戸内海があらわれて、かなり俯瞰遠望の印象となり、訴求力が淡くも、弱くも、うすくもなる。 ② 夕月夜の下で、白い舟が白く見えるだろうか、むしろ黒ずみはしないか、これは自信ないが。
* NHK「俳壇」拝見しました。お元気そうなお姿もお声も嬉しくて、喜びに溢れております。男前も、変わらず。いえ、一段と輝いてらっしゃる。「うまやには」の響きに、あ、いいな、と私も思っておりました。お仕事すすみますように。お幸せをお祈りいたします。 奈良県
* これはもうご贔屓筋の冗句(ジョーク)のようなもの。
幾昔前はテレビに出るとなると気が騒いだが、今は、なるべくそんな機会はパスしたいとしか思わない。
2003 9・27 24
* 大河ドラマ「武蔵」の一の山場である巌流島での決闘を、ビデオで見た。ま、あんなところであろう。日生劇場の「海神別荘」で海の公子を玉三郎の美女とともに颯爽と演じた市川新之助が、いつ知れずそこそこ佳い武蔵に成人していた。勝負が呆気ないのは仕方がない、その前後は一応の緊迫を演出し得ていたのではないか。
この決闘はやや時代がおくれて江戸時代に入っていたが、わたしの「日本の歴史」は、北条早雲、武田信玄、上杉謙信、そして戦国大名へのし上がっていった先代伊達政宗より以前の五代などを読み進んできて、予備知識あり、俄然読んで面白いところへ雪崩を打っている。やがて織田、松平(徳川)の登場になる。
第百代天皇が南朝の後小松天皇なのは知られていて、足利義満の頃にあたる。後小松帝は一休の父かともいわれている。後小松のあと、後土御門、後花園、後奈良、後柏原、正親町、後陽成、後水尾ときて、室町時代の中世はいつか近世に入る。
室町の前半は守護大名の時代で、応仁文明の乱のあと、太田道灌を皮切りに北条早雲の登場から世は戦国大名の時代に移動する。天下布武の織田、天下統一の豊臣秀吉も潰え死に、関ヶ原合戦の頃にやっと野心を鎮めた宮本武蔵の画業が世にのこり、稀有の著述の『五輪書』が書かれる。
2003 9・27 24
* スペンサー・トレーシイとエリザベス・テーラーの、懐かしい映画「花嫁の父」を暫くぶりに観て、大いに笑い、そして最後にほろりと泣けた。何という美しいいい娘だろう。いかついスペンサー・トレーシィの父親ぶりがたくまずして可笑しく、優しく、何といってもジョーン・ベネットが素晴らしい妻と母親とを演じ分け、基調を成している。まず無条件にいつみても楽しめ、しかも映画的に堅固な組み立て。ビデオはとうの昔に永久保存ようにピンが欠いてある。
2003 9・29 24
* 松原泰道さんの話をテレビで聴き、感銘を得た。禅の人らしく、その細部に至る述懐のあれこれに矛盾がなく、透徹した理会が感じ取れて、一会一切会の人だと敬意を覚えた。それはダメということには、わたしもそれはダメだと同感できた。それが大切といわれる大切なことが、わたしもまた大切に思われた。バグワンの把握の的確なところと通っている、力づよい静かなものをビンビンと感じた。わたしの問題として、いま暫く松原さんの談話を反芻していたい。
2003 10・5 25
* 秦建日子が、しばらくぶりに、作・演出の演劇公演を発表した。新年早々に五日間ほど、下北澤でと。いいことだ。旧作のリメイクらしいのは少し失望で、楽しみは薄れたが。
連続ドラマ「共犯者」は、十月十五日からスタートする。讀賣テレビだったか。十五日は理事会で、晩は国立小劇場で「鼓楽」を聴く。コマーシャル入りで観るよりビデオで見る方がいいので、差し支えはない。
2003 10・8 25
* 秦テルオといい、バグワンといい、また政局といい世情といい、何と多彩にわたしの脳みそをまたハートを刺激して已まないのだろう。昨日の晩、ジャック・レモンとサンディ・デニスらの「おかしな夫婦」に夫婦して大笑いのあげく、今度は「種の起原」とやら恐ろしく気味の悪いホラーに胸がわるくなったり。
これもまた非生産的な「優雅」な暮らしとみられるべきか。いやいや、ありのままということである。
2003 10・10 25
* 「ホワイトハウス」というアメリカのドラマを、「ER」や「CSI」とはまた別のドラマの傑作と感じている。新しい二部の初回をみて、面白いと思った。救急治療室や科学捜査班のリアリティとは当然ことなって、なにもかもハデな物語になるが、その通俗さはこのドラマでは大事な要素である。引きつけて放さないドラマの運びにわたしは賛成する。楽しみにしている。
息子の新連続ドラマ「共犯者」が、通俗は構わない、リアリティのあるクォリティーの高いものであればと願う。
2003 10・11 25
* 少しずつ少しずつ、オリビア・ハッセイの「ロミオとジュリエット」を見ていて、見終えた。シェイクスピアで一つ傑作をなどと言われると閉口するが、好きな作品を一つ二つといわれれば、この神話的にオリジナルな恋物語をその一つに選ぶかもしれない。いま俳優座や昴などの舞台でシェイクスピアに出会うと、ときどき閉口することがある。しかしシェイクスピアをかなり忠実に映像化すると、それはもう素晴らしい劇的時空が堪能できる。わたしが、ビデオやDVDで欲しいと思うのは、よく創られたシェイクスピア劇の映像である。有るのも知っているが、高価すぎてというより、大部過ぎて手が出ない。場所をとるからだ。
この映画は、俳優の名は知らないロミオがすてきな好青年、そして、オリビア・ハッセイのジュリエットの愛らしいこと。それだけでもう大方成功してしまう。原作のオリジナリティーは抜群で、そのエネルギーの強さが、あのミュージカル「ウエストサイド ストーリー」を大成功させたのだ。神話をみているほどに、そのオリジナリティー、独創性は偉大である。
2003 10・12 25
* 十月十五日スタートの秦建日子脚本「共犯者」の前宣伝が動きはじめている。スチールなどを見ていると、その他の予告ものよりもクォリティに手応えありげ。浅野温子という女優は気がはいると底ぢからが強い。三上博史という主演男優のことはよく知らないが満々と気が入っている感じはする。時効三ヶ月前の女の前に謎の男があらわれ同棲生活になるという設定も、どう展開するか、スリリングには運びそう。
初日は、わたしは妻にビデオを頼み、コマーシャル抜きで見せてもらう。国立小劇場での望月太左衛「鼓楽」の旗揚げを先ず楽しんでくる。その前が理事会。新会員に俳優の浜畑賢吉氏、二松学舎大学の松田存教授らを推薦する。浜畑氏は小説家でもある。松田氏は能狂言等の優れた研究者。
エディターとして、またエッセイストとして、佐和雪子さんも推薦したかったが、ためらったようだ。人不足の電メ研委員にも推したかったが。
2003 10・13 25
* 本を読み継ぐ按配にビデオで映画を観る。いまはアネット・ベニングを観ている、「アメリカン・プレジデント」だ。お伽噺だがアネットの笑顔を観ていると幸福な気分になれる。
夥しい映画を観てきたが、忘れられない佳いシーンというのが有る。この映画ではフランス大統領を招いたホワイトハウスでの晩餐会で大統領とアネットがダンスするシーンと、それ以上に、職場のアネットへ、マイケル大統領からカードつきの山のようなハムが贈られてきて、そのカードを読む彼女の笑顔。それはもう「ナンバーワン」と言いたいほど心嬉しい場面。
「タイタニック」では船の劈頭へ出て若いデカプリオに支えられて、大洋へケイト・ウィントレットが羽ばたくように手をひろげるシーンが忘れがたい。「アパートの鍵貸します」のラストでジャック・レモンのもとへ走るシャリー・マクレーンの髪を靡かせた姿もよかった。
こういうことを想っていると、わずかに憂鬱を忘れていられる。
2003 10・13 25
* 「クオリティー=質感=リアリティー」そして「テンポ」を大切に。
東京新聞朝刊に大きな讀賣テレビの挟み込み、何と秦建日子脚本「共犯者」のハデな広告だから驚いた。そして番組頁下のコラムに、この欄でも珍しいほど期待と称賛・推賞の弁があり、ハリウッド映画なみのスピードと切れ味と。少しずつ少しずつ評価を高めてきたのは、つまり作品の「クオリティー=質感=リアリティー」そして「テンポ」を大切にする気が、秦建日子に定着してきたからだ。エンタテイメントであるよりない以上は、むしろ映像の本質に身を寄せて、いい意味の通俗に生きながら映像化への「クオリティー=質感=リアリティー」そして「テンポ」を大切にするのが、「作者」の意気であり志気でなければならないだろう。そのようにそのようにと、冷酷なほど批評し続けてきたつもりだ。まだ出だしを見ないのにここまで言うのは親バカ過ぎるが、親でなく批評家として言うのだし、また言ってきた、のである。耳に入れていてくれたなら、嬉しいことではないか。
2003 10・15 25
* 三輪山は傑作だよと褒め、太左衛さんの嬉しそうに崩れた笑顔と歓声を目に耳にして、一路帰宅。秦建日子のドラマ「共犯者」がはじまって数分というところへ間に合った。
* さて、何と云おうか。第一回目はどうしても種蒔きどきである、そうそうはうまくはかどるまい、助走であり序奏であるから。本人も言っていた。役者も言っていたようだ、次、そしてまた次へと見ていって欲しいと。一回目には一回目なりの問題はあるので、と。
まず、われわれ創作の世界では「運転中に声はかけるな」という不文律がある。昔は、あった。今は知らない。ただ建日子はとうに十回分をみな書き終えているし、撮影録画も、おおかた、終えているというからもう「運転中」ではない。いやに前評判の高い出だしで、めでたかった。各紙でとりあげていたらしい。だから、あえて苦言も批判もしておこう、忘れてしまうから。
* 第一回めは、いわばカード撒きでもある。お目見えである。気張っている。画面の伝えるクオリティーは悪くない。だが、役者も、えらくえらく気張っている。率直にいえば、だが、画面からはリアリティー(真実感)の、良い衝撃、快い感銘は受けられなかった。
ネチコチと、何もかも無理に作っている感じがもたつく。速度感はあるのに、自然な佳い「流れ」は出ていない。場面場面の身振りの大きさばかりめだち、ゆったりと大きな「時間」が効果よく「流れ」ていない。「設定」は凝ってあるが、それが、第一回目に限ってかどうか、ドラマの顔付きをウソくさくしている。
最初の「怪電話」でしたたか脅迫されたあたりは、恐怖感がある。あと二ヶ月で、殺人罪時効。そのまま何が何でも「逃げに逃げる」というのが、以前大竹シノブのやった実話ドラマだった。逃げ切れなかったが。
浅野温子演じる今回のヒロインは、だが、全く、逃げのびたいそぶりすら見せていない。それは凡夫の想像力からすると心理としてどうにも解せない、かりに逃げ切れないにしても、だ。「逃げ出す」という選択肢が一顧もされていないのがウソくささの一の罪ではないか。
刑事が会社へ尋ねて来るのも、恐い。あれは効果的だ、が、あの場面で、なんと女自身が、「いたずら電話」に触れて口走るのは、石橋蓮司刑事にそういう事実を感づかせてしまうのでは、犯人の「怯えや本音」がこの作者に掴めていない感じ。あんなこと、彼女は絶対に口にしないはずだ、せめて「内心」の叫びぐらいに抑止しておいていいことではないか。なにしろ「あと二ヶ月」というところまで多年逃げ延びてきたほどの犯人の女の、絶対に自分から出すわけないな「尻尾」を、作者は、「作」の都合で手軽に出させたとすれば、チョンボというに等しい。必死で守らねばならないボロを出させているのだから、ウソくさいし、アホくさい。
自宅に帰って、カレンダーの日付を消させている、ああいうことも、ホンモノの犯人なら絶対にしないだろう、もっと効果的な、別の、人目だたない日消しの「手」はがあろう。刑事がいまなお彼女を狙っているというのに、家の中とはいえあんなことをしているなんて、信じがたい。万一他人の目に触れれば多くのことがバレてしまう。足も地につかないほどフワフワとあわてふためき、必死に「あと二ヶ月」を消化しなくてはならない人間のすることとしては、いかにもバカげている。
へんな男に家まで押し込まれたのは仕方ないとしても、翌日も、又、のこのこ家へ戻ってゆくのは、どうか。普通の恐怖感に怯えた女には、男でも、出来ることでなく、むしろ、どこかよそのホテルか宿屋へでもとっさに逃げこみ、姿を隠して男の次の出方をみるなり、震え上がっているだろう。或いは思い切った一散の逃避行に走ってしまおうと少なくも考えあぐむだろう。殺人犯として逮捕されるよりは、課長の職なんて軽い軽いはずではないか。三上博史の演じる謎めく男が、警察へ訴えて出るくらいなら、とうの昔に出ていていいのだから、ともあれ、そんな変な男と闘うためにも、男の言いなりに浅野が動いていてはおかしいだろう。必死に逃げ出すスキぐらいはある。男からも逃げだし、刑事からも逃げだし、「二ヶ月」をなんとしても塗りつぶす。それが当面生きる目的のはずだ。逮捕されては元も子も無いのだから。
なのに、あそこまで身近に現れ威されても、暴走すら出来ない浅野女課長の反応は、全体にあまりに不自然過ぎて、ひたすら作・脚本の「趣向」に、律儀に付き合っているだけ、まるで人形ぶりに見える。ウソである。
家に帰ると、べつの若い女が新たに死んでいる。殺されている。乱暴だが、あれにはわたしも驚いた。さ、どう処置するかと期待した。しかし、そのあとは旨くなかった。近所の、それもいわくある男の新車を借りに行ったり、若い女を殺したという男と、二人だけでマンションの高いところからクルマまで、重い大人の死体をとにかく人目の心配もなげにやすやす運び出したり、これまたご都合がよすぎるだろう。少なくも浅野はあそこで、もっともっとリアルな心理と行動とで苦しんで苦しんでいいところだ。そこに劇=ドラマがある、のだから。解決の仕方がチャチチャチと安すぎる。さらに「目撃者」としての佐藤珠緒の出て来かたも、あんまりご都合よろしく、リアリティに大いに欠ける。
* 前作「最後の弁護人」の出だしは、もっといい意味で「力が抜けて」いて、そのぶん巧妙だったと思う。今夜は、だれもかれも、力が、不自然に入りすぎ、ドラマの「自然な流れ」を阻害し塞いでしまった。そのためか、途中でわたしは退屈さえした。浅野温子の恐怖感を、もっとリアルに把握し彫り込んで欲しかった、妙に作りすぎたお話しにしてしまわずに。
これが「共犯者」となるのだろう三上博史の芝居など、今夜の限りでは、分かりにくい上に巧くもなく、好感もあまり持てなかった。
だが、万事は万事は「これから」のことなのだろう、と、好意的に次回に大いに期待する。ご苦労でした。ほんとのところ、これから先なのだろうと期待している。
* 少し厳しいかもしれないが、苦言は出ていたほうがいいだろう。新聞などが、少々褒めていたとて、あれは商売用の提灯持ちでもあるのを忘れてはいけない。上り坂の作り手は、鼻が高くなって自分が見えなくなりやすい。劇場でいえば作者は最後列の隅へ身をひいて謙遜に見守っていた方がいい、自分自身を。
2003 10・15 25
* エディ・マーフィの「ドリトル先生」は彼の映画の中では心地よい一つだ。楽しんだ。
2003 10・17 25
* 名古屋出張やNPO設立の届出など、あわただしい日々が過ぎました。
先日は楽しみにしていた「共犯者」拝見しました。かつてみたことのないカメラの動きに息を呑んで画面を見つめたのですが、最後まで観る事はできませんでした。そういう意味では非凡な作品だと思います。設定に多少無理があろうとも、私が見続けることができなかったのは、恐怖感があまりに強かったからです。「人をかつて殺した」ということだけでも恐ろしいのに、時効2ヶ月前にひたひたと追ってくる脅迫者。不可思議な出来事。ちょうど、逃げても逃げても、どの小路を曲がっても追いかけられ、どの家に飛び込んでも追跡者が迫ってきて、恐ろしくて恐ろしくて、最後に断崖から飛び降りる悪夢を見るように。
井上靖さんの詩集「北国」(「ペン電子文藝館」で)読み始めています。
お元気でお過ごしくださいますよう。この休日は娘夫婦や母たちと過ごします。 渋谷区
* この感想などは、或る程度脚本作家秦建日子の本意にちかいモノを観ているのであろう。有り難いことだ。ただ、観つづけていられない、という其の処を、エンタテイメント作者として何とか乗りきりたいところ。もともと不自然な設定、それでもそれを観させつづけるアイキャッチャーは何なのだろうかと、批評し思案してゆくなら、作者の苦心と同じ次元に、同じ地点に、例えばわたしも合流できるのだろう。
2003 10・18 25
* 幸福感がもてることなど、そう有りそうにない。映画「アメリカン・プレジデント」は、観ている間も観おえても幸福感を覚えるほどだから稀有の現代お伽噺である。簡素で単純な思想であり恋であるが、そのためだろう。一つには今のアメリカがあまりにこうではないのも、逆に訴求力をつよめている。やはりアネット・ベニング。他の映画ではまあ普通なのに、とびきり佳い。
2003 10・18 25
* 気に掛けて、日本シリーズの阪神・ダイエー戦を繋ぎ繋ぎみていた。最後の最期にダイエーのさよなら勝ち。熱戦だった。これまた繋ぎ繋ぎ「釣りバカ日誌」を観ていたが、この方は途中。スーさんこと鈴木社長に少し元気がなく心配したが、役のうちだといいが。
今夜は「ホワイトハウス」があり、もうすぐ、また階下におりる。アメリカの池宮夫妻から明日にも日本に着くとメール。関西から九州方面を楽しんで。月末ちかく東京へ来ると。
2003 10・18 25
* 「黄色いロールスロイス」という洒落たオムニバスを一題ずつ三度に分けてみた。短編小説集のように。
まず、レックス・ハリソンとジャンヌ・モローの夫婦の破局、しかし、うわべは何も変わらない。夫公爵から遅れて贈られた結婚記念日の祝いの「黄色いロールスロイス」は、妻と外交官との不倫の隠れ部屋に一度つかわれただけで、販売店に返却される。短くて、序曲めいて、あまり愉快でもない。ジャンヌ・モローは苦手である。
第二話はシャーリー・マクレーンとアラン・ドゥロンという豪華版で、二人ともしびれる魅力を発散してうまく、せつなく、美しい画面がつづく。黄色いロールスロイスを駆ってイタリアを旅するアメリカの大ギャングの純な情婦と、観光地の「恥知らず」な写真屋青年との哀歓あふれた束の間の恋、そして別離。この一編のゆえにわたしはこのビデオを愛蔵してきた。シャーリー・マクレーンは最も愛する女優の一人、その感覚も演技力も可愛らしさ美しさも。アラン・ドゥロンは「冒険者たち」やこの作品ではじつに佳い。すかっとして哀れでもある。心をここちよく濡らす。
第三話はこれまた最も敬愛するイングリット・バーグマンに加えて、男の魅力のオマー・シャリフ。初めて見たときはバーグマンが老けて見えて辛かったのに、今夜見ているとじつにチャーミングに美しく、凛々として魅力満点なのにビックリした。うわぁ、と内心に叫びそうなほどうまくて美しくて、しかも切れ味のいい作品。黄色いロールスロイスが山国でのオマー・シャリフ率いる民衆の抵抗戦争に、なんと彼女の運転や献身で大活躍する。ああ、ビデオを取っておいて良かったと、大きな得をした喜びで見終えた。
わたしが年をとって、中年バーグマンの美しさを再発見し、受け容れたということかも。なにしろ、エリザベス・テーラーとともに最も幼い昔に初見参の女優がバーグマンであったのだ、どんな評判が彼女を襲っていた時機も、わたしは絶大な彼女の信徒であった。 2003 10・19 25
* 十時から「CSI=科学捜査班」を観た。見応えがあった。
2003 10・20 25
* 建日子作の「共犯者」が、質的に「今季一オシ」と担当記者に押されているほど、まずまず好調に評判されているようだ、今夜は第二回。回を追ってよくなるよと当人自信をもっている。アメリカから来る友人のお土産にと、妻はこの前の「最後の弁護人」のDVDを取り寄せたりしている。やはり親バカ。
2003 10・22 25
*「共犯者」第二回を見た。
* その前に、林屋辰三郎さん担当執筆「天下一統」の巻頭を読んでいた。
日本人の過去の歴史観が、著しく下降先途感を基底にしていたこと、島国での鎖国的情況、仏教の末法観、天皇制という三つに緊縛されて、日本人は、上昇して行く明日の歴史を期待しにくかった、と。
それを突き破り得そうであったのが、戦国時代の末からはっきり意識されてきた「天下」という認識だった、と。
天下という広さで島国の枠は突破されそうであった。天下という深さで仏教的なまた神や儒教も覆い取れそうになった。天下は天皇よりも強力な「天下人」の可能を導いた。織・豊そして徳川家康は「天下」にしたがい時代を動かし革新した。だが、それも寛永の鎖国でまったく頓挫した、というのが林屋教授の論調であり、概説としてたいへん興味深く説得された。
そして種子島銃の渡来とキリシタンの世界観の渡来。
まずは鉄砲に新旧の二種類が日本に、早く、また後れて入ってきたという。たんに「鉄砲」ということばなら元寇の頃に既に、そして不十分な鉄砲というより火砲なら、中国から早めに日本に入って堺で製作されてもいたし、武田や後北条は手に入れ用いもしていた。だが種子島銃ははるかに強力で正確に機能した。武田や北条は、なまじ旧式砲に油断して、織田や松平の新式銃に敗北したとも言えると。これも興味深い解説であった。
* そんな知的興奮のあとで「共犯者」を見たのは、ドラマのために気の毒であった。わたしは何度も退屈した。
身振りは大きいが、ドラマがてきぱきと進行していない。テンポも流れも前回以上になかった、良くなかった。
あんな死体をつくっておきながら、携帯電話も社員証も財布なども全く処分しないまま毛布にくるんで山中へ運び出すなんて。隣家に借りた自慢の新車で、どろんこの山の中に入り込み、あげく埋める間際に死体の携帯電話が鳴って、慌てて目の下の社員証も見つけるなどという、あんなあたじけない芝居を観ていると、苦笑のほかはない。
あれだけの高みから崖下へ落ちた女が、一夜の雨でぱっちりよみがえり、顔にも何処にも傷らしいものも見えず、よろめき歩いて人の助けを求められるというのも安易すぎる。あれだけの山中を三人して必死に追いかけ合い、その間、うしろの開いた車も、死体も、ただ放置されていたに違いなく、共犯の二人はあのあとどうすらすらと元の場所へ戻れたのか。雨もよいの深夜の山中が、どんなに右も左も分からぬ危険で処置なしの闇黒世界であるか、多少とも私には体験がある。またそれほどの暗闇で辺鄙な場所だから、見つかるまいと死体も埋めようとするのであろうに、簡単に簡単に事が運んで、すべては軽薄な「筋書き」のためにばかり、役立っている。
それにしても、ドラマは浅野温子のためには、むちゃくちゃ、にっちもさっちも行かないドツボにはまっている、それだけが、確かだ。それさえ支離滅裂な成り行きなのだけれど、確かにそういう情況にタチ至っている。
さ、こんなアンバイでこの先はどうなるのという、客の引っ張り方、引っ張られ方でドラマはひたすら進行するわけだ。窓からのぞきの少女や、むかしの上司のへんな愁い顔や、スーパーの無気味な店員など、思わせぶりにまだ働いてこない人数が、あちこちにどうやら撒き置いてある。隣家のマンガ先生もどう慌て出すか。
なにもかもあまりにヤバイ情況に辻褄を合わせながら、何が何でもスリリングにただもうむやみに突っ走るしかもたない仕組みで、仕掛けで、あるらしい。それなら、もっとめざましくテンポをあげ、視聴者をあれよあれよと眩惑し去らぬかぎり、もうそろそろ、「こりゃ、ナンジャイ」と思いかねない視聴者の数も増えて来よう。
浅野温子の芝居も三上博史の芝居も、むやみと気張っているものの、身振り沢山が深い心理の衝撃にはちっとも繋がらず、ただ騒々しくて、わたしは少しも感心しない。つまりヘタクソてある。率直に感想を言うと、およそは、こうなる。
いいところが無いかなあと思い返してみるが、石橋蓮司の刑事がそろりと現れると、恐い。彼のうまさである。それにくらべると浅野のも三上のも、演技に意外性も陰翳もなくて、次はこうやるだろうなと見ていると、予想通りの仕草や表情をする。声音で凄んでみてもはじまらない、ドラマは。
今日妻がDVDを買ったばかりの、前回の「最後の弁護人」では、阿部寛弁護士と佐藤理沙押しかけ助手とのコンビが、もっと流動的に大きくリアルにも軽快にも弾んで、狂いがない。コンビネーションだけでも大いに楽しませている。今回のスター二人は、いまのところ大きく期待はずれ、深刻がったドタバタ演技である。少しも巧くない。
* だが心配しなくても、「共犯者」へのいわゆる掲示板への書き込みは、感動的な称賛の渦であるから、わたしがこれぐらいの批評でもとてもバランスしないほど、熱い好意の人達に見守られている。それにもわたしはじつは仰天しているが、そこへ来て「共犯者」とは、じつに、わたしの謂うところの「身内」を描いているのであるらしい。また魂の色の似ている大勢の視聴者が、作者建日子を称賛しているのだ、ここにも低調ながら「共犯」関係は出来ている。わたしなどは彼等の垣の外だ。
2003 10・22 25
* 保谷駅からタクシーで帰って、ちょうどお目当てのドラマ「ホワイトハウス」に間に合った。息をつがせぬテンポと切れ味の、含蓄ある科白を鏤めた佳い作品だ、目が覚めるほど刺激を受ける。あまったれたものがない。それは「ER」もそうだったし、「CSI」もそうだ。緻密に練り上げてイキの佳い脚本とは、こういうのを謂うのである。
2003 10・25 25
* 池宮夫妻との約束を、帝国ホテルで五時半としていた。時間はたっぷり有る、日比谷まで車に乗って宝塚劇場の前で降り、思い切って映画館に入った。時間のアンバイのちょうどよい「恋は邪魔者」という、気楽なだけの朗らかな映画を観た。ドリス・デイとロック・ハドソンの演じた四十年ばかり前の映画のリメイクで、みるからに往年のドリス・デイに似た、あれより少しセクシイで美しい、若いはち切れたヒロイン。あれのこれのというほどの何もない、たわいない映画で、気楽に見ている分には抵抗のすこしもない、疲れもしない、恰好の作品だった。残念にも男性俳優の方がわたしの好みで全くなく、それが口惜しかった。
2003 10・28 25
* 「共犯者」第三回目を観た。いまどきのウンザリする低調な殺しドラマの中で、ここまで丹念に映像本位に劇性を映し出した実例は、稀有であった。秦建日子のこのドラマが成功するのかどうかまだ分からないにしても、現代のテレビドラマのイージィな殺人ものミステリーの業界に、これだけ映像としても手の込んだサスペンスを番組として持ち込んできた冒険性は、相当高く評価されてよい。成功失敗にかかわりなく、一つの警鐘をならしつつ実験的な実例を提出していて、それは良かった、作者の意欲としても良かったと、少なくも此のわたしは、若い作者の意欲をつよく支持する。うまいかどうかは、どう視聴者に、また創るプロたちに受け取られるかは、未知数とするも、である。
なぜかならば、こういう凝った映像は、裾野の視聴者にははなはだ分かりにくいと、歓迎されない懼れがある。かつての「ヒーロー」がスターの顔と名前によりかかり、ラチもない説明的なストーリー本位で、ばからしいほど高視聴率を得たのと、ちょうど正反対の、練り上げた映像を此の「共犯者」は打ち出している。曲がりなりにも打ち出している。映像の文法を心得ていない初歩的視聴者には、こういうのは理解しにくいだろう。
今日の昼間に観てきた浜畑賢吉らの芝居は、いとも説明的に連鎖する短い場面の繋ぎで出来ていた。分かりいい舞台だと思った。ところが隣にいた中年の二人の婦人達の、少なくも一人は全く筋の運びも俳優達の演技の意味も理解できなくて、もう一人の人の解説するのを聞き聞き、ふうんふうんという有様であるのが、十分間の休憩中にもおかしいほど見て取れた。そういうものであるらしい。
それからすれば、今夜の「共犯者」など、八方でことが蠢動し始めるのでその連携に視聴者は想像力や推理力を要請される。つまりドラマに踏み込んで参加してゆくことになる。そういうことは、事実問題として誰にでも出来ることではない。できなければこそ、あまりに下らない低調に説明的な筋書きドラマばかりが濫作されて、ウンザリするのだが、それは少数派のウンザリなのである。「共犯者」ははじめて少数派への理解を求めた凝ったドラマを打ち出した。そういうものをわたしたちも求めていた。
* 幸福を追わぬも卑怯のひとつだという意味を作者は作中人物に言わせていた。思わず、妻と顔を見合わせて笑った。殺人者が幸福にな労として何処がわるいか。この反社会的な提言を作者がどう追いかけて行くのか、なるほど、三回目からいよいよドラマはきんぱくしてゆくのであるらしい。今夜の分では、一、二回目のような間抜けた不自然はとくには感じなかった、佳い意味でも筋をトバシはじめたからだ。病室の前を守る刑事があんなに簡単に殺されるのは可笑しいが、一つの既成事実として納得を強いてしまう緊張をドラマが孕み出せば、それはもう意志から落ちてしまう。不自然を、不自然と気にさせないアリティーというものが創作には必ずある。ルーベンスの描写力なら、空に舞うエンジェルの腹から腕が映えていても気にならないだろうと謂われた。そういうことが出来れば創作は勝ちなのである。覚えていて欲しいことだ。力業である。めったに成功しないが、成功することもあり、成功させねばならぬ時は成功させねばならぬ。
2003 10・29 25
* 「スターリングラード」という、異色の力作映画をテレビで観た。ジュード・ロウ演じるソ連の国民的英雄狙撃手と、エド・ハリスが演じるドイツの貴族的経歴を持つ天才狙撃手との凄い対決を描いた、ソ独攻防、戦争映画。
スターリングラードの死守はソ連に立ち直りの力をあたえ、ナチドイツは衰運に追い込まれた歴史的な戦場であったが、烈しい戦闘場面を、主旋律が縫い取るように二人のスナイパー(狙撃手)が、いわば国運を賭して互いに狙い合う。レーチェル・ワイズとジュード・ロウの、またソ連の政治将校ジョセフ・ワインズも割り込んだ恋のさや当ても息詰まる切なさで、ラブシーンは迫真の力をもった。
こういう佳い映画も有るのだ、感心した。多くの戦争映画の中でも、見応えある秀作の一つで、人間もシッカリ描かれ、異色の構図をもって光っていた。拍手を惜しまない。
2003 10・31 25
* ジュード・ロウとエド・ハリスの「スターリングラード」は素晴らしかったが、今夜の「グラデュエイター」もローマの昔の時代劇ながら、スケア・クローがなかなか佳い、観るに値すると教えてくれるメールが来ていたので、喜んでテレビの前に座った。ウン、たしかにわるくなかった。はなから出てくるのがマルクス・アウレリウスという哲人賢王であって、まず驚いた。この人の『自省録』は、ほんとうの愛読書の一冊で、心をゆすぶられるように岩波文庫を繰り返し読んできた。わたしの『親指のマリア』シドッチ神父にも愛読させた。
2003 11・2 26
* 国際ペンの理事として日本ペンクラブから送り込んでいる堀武昭さんのメールが、昨夜遅くに舞い込み、『世界マグロ摩擦!』という本の中から、わたしの希望していた章を「ペン電子文藝館」にいただけることになった。今日は「終わりに」の章とともに、スキャンした。長く気に掛けていた宮田智恵子さんの小説「風の韻き」もスキャンした。
沢口靖子の案内するイタリア、パルマの街の美術環境を観たかったのに見損じて、スキャンにかかっていた。妻の話ではとてもきれいであったらしい。或るサイトから沢口靖子がブランコに乗っている珍しい印象の写真を手に入れ、不用な周囲をカットしてデスクトップ中央に置いてみた。
2003 11・3 26
* 「CSI」が魅せた。科学捜査班の、名前のなかなか覚えられない主任役もいいが、目の碧い海のように光るマージ・ヘルゼンバガーの存在感に、凄みまでも感じる。これにはわが沢口靖子ちゃんの「科捜研」は、とてもとても太刀打ちならない。
2003 11・3 26
* さて秦建日子作のドラマ、四回目の「共犯者」を見た。話はますますややこしく展開し、しかし最初の死体が山の中で発見されたし、車を貸したマンガ屋が浅野温子をドライヴに誘い出し色にからんで威し始めた。ところがバックシートには浅野と共犯の三上博史が乗りこんでいて、マンガ屋は甚だ危ない。
三上の神出鬼没ぶりを、彼は実は浅野の「心の鬼」つまり幻影であるかと、作者のフアンたちは秦建日子のサイトの掲示板でおお騒ぎなんだそうだが、わたしの妻は、そういうことだとあなたの「加賀少納言」のようねと謂う。ブルース・ウイルスの演じた映画「シックスセンス」のような哀しい物語もある。「加賀少納言」と謂うなら、建日子はこの作品にかかるより以前に、と謂うより少年の昔から『ゲド戦記=影との戦い』の大フアンである。建日子が原稿依頼されて原稿料を稼いだいちばん最初は、小学校か中学初め頃の『ゲド戦記』感想文であった。
もっとも三上博史は、十五年前に浅野に殺された娘の親たちとその娘の墓参りをして、言葉も交わしている。霊的な存在と言葉のかわせる「生きた人間」は、よくよくでないといないものだ。わたしの『冬祭り』でも、冬子や法子は、わたしとは言葉を交わして互いに正目に見合っているが、そういう人は他に冬子の妹ぐらいしかいないのである。まして敵意をもった同士ではそれはかなわない。
どんな展開が待っているのか、正直の所わたしには見当がついていないから、途中多少停滞して退屈感もおぼえるけれど、けっこう興味深く先を望んでいるのはたしかだ。
* こんなドラマこそが、テレビ世界では最も受けないのだそうだ。一時間ドラマよりは圧倒的に説明的な、「二時間で一話完結する殺しドラマ」が受けるのだと、そんな、調査と解説の番組が今晩あった。それによれば、真っ先に、金持ちが不幸になり殺されるに至る筋書きでなければならないと言う。それが二時間ドラマで視聴率を稼ぐのに第一に必要だというから可笑しいが、大多数の心理は、そんなものらしい。そして最後に、切り立つ「断崖」に立って犯人が告白する場面が、いくら馬鹿馬鹿しくても絶対に必要なんだそうだ。こういうドラマツルギーがテレビのプロデュースの至上命令だという以上は、一時間ずつ連続するストーリーで、かくもややこしい物語で、しかも殺しまくるお話では、あっちからもこっちからも総スカンを喰らいそうなものだが、おそらく「共犯者」レベルへのドラマ水準の移行は、事実ゆるやかに進みつつあるのであろう。一旗手としてこの道を敢えて拓いて行くのなら、わたしも建日子に声援を送ろうと思う。
2003 11・5 26
* 選挙の日がちかくなった。映画「ザ・ロンゲストデイ」で、ジョン・ウエイン、ヘンリー・フォンダ、ロバート・ミッチャム、クルト・ユルゲンス、ロバート・ライアン、リチャード・バートン等々、懐かしい昔の男優達の顔をたっぷり眺めながら、選挙のことを思っていた。
田中真紀子が、投票の前日あたりに民主党のシャドー・キャビネットに入閣しないかしらん。
2003 11・6 26
* 「ホワイトハウス」は、シンポジウムよりも何倍も面白かった。
2003 11・8 26
* 今夜の「CSI」には久しぶりに恐怖心を味わった。このドラマはだいたい、いつも二つの異なる事件を班で分担し併行して究明して行くが、今夜の、マージ・ヘルゼンバーガーら女性陣の追及した、娘の、水に転落死の方は察しが付いていた。主任ら男たちの担当していた猛犬による咬殺後の或る女性の「絡み」については、想像も及ばなかったので、事のサマが割れてくるにつれ恐怖心が鋭い棒のように突っ込んできた。映像にもおそれをなした。しかし、それはつくりごとのむちゃな恐怖の煽りではなく、科学的に推定の利く、「事実」のもたらす恐怖であった。心が白くなる「怕」さというよりも、深く上下に震動する恐怖であった。予告編によると、来週も凄いようだ。こういう凄みが日本版の科捜研には滴ほども表現できない。
書き手がいないのでなく、製作責任者たちのノータリンに硬直した先入主が、害をしているのである。視聴率の愚は、低くてもいいではないかというのでなく、物差しの目盛りが単純すぎる点にある。視聴率稼ぎでスポンサーに気兼ねのないNHKドラマなどが、勇気をもって、悪しく瀰漫したイージードラマの改造をしてくれなくてはいけないのに、相変わらず講談・講釈まがいの人情時代劇や、紙芝居のような連続ドラマばかりが目立つ。
2003 11・10 26
* ちょうど建日子の「共犯者」第五回に間に合った。見ようによれば支離滅裂。しかしそれは途中でのハナシ。終わってみないと何とも言えないのが長編である。わたしが『冬祭り』を新聞に連載していた途中、面と向かってわたしに「支離滅裂なんじゃありませんか」と言った他社の編集者がいたけれど、その同じ人が、単行本にしたのを読んでくれて、「こんなに完成度の高いものだったんですね」と言ったことがある。完結後にほとんどあの作品には手を入れなかった。ま、みてらっしゃいという気分で連載していたのである。建日子もそうなら、それでいい。
2003 11・12 26
* 選挙投票率の低いところは、高齢者が低いのでなく若年層だというのは、そうであろうと思う。これを回復する秘策の一つは、「選挙権年限を十八歳以上」と引き下げてみることだ。少年犯罪等で罪責年限を引き下げる動きがあるのは、責任能力を読み込んでもいるのだから、逆に国民としての基本の義務を与えてみるべきではないか。わたしは、ずうっとこの二三年、家では、妻を相手に言い続けていた。選挙権を与えられた高校卒から大学初年範囲は、少なくも当初は選挙に参加し、うまくすると時代を引っ張りうるかも。参加して変化を経験した者なら、継続して参加する。選挙権の無責任放棄を、大学で教壇に立ち政治学に籍をおくような似非教員がうそぶいてやまない実例を、わたしは身近に知っていた。情けなかった。
* 土井たか子が党首を辞任した。当然である。筑紫哲也の番組に先ず土井が、ついで田中真紀子が出るというが、筑紫も、この二人を同席させて話し合うと面白いのに、そういうことはしてくれない。個別でなら、二人とも言うことは決まっている。土井と田中とが一つの席で互いに顔を見ながら何をどう話すかが聴きたい、それならテレビの前にすぐ行くのだが、筑紫のセンスではそういう機転は利かない。自分がホストだと思っているからだ。そういうエゴのつよさは、久米宏のエゴのつよさとは、味がよほどちがう。久米なら視聴者が願う面白さや興味深さへ随時に場面を動かす機転があるのだが。
* 社民党という「旧・社会党」の強さは、労働者の意識に結びついた都市型闘争意識にあった。土井はそういう意味での労働者の気持ちが分からない。労働体験もない上に弱者に冷たい。だから憲法一点張りで、学者的になった。しかし「憲法」は投票してくれないのである。投票してくれる支持母体や基盤をすっかり痩せて干からびさせて、それで代議士を増やそうなど、ばかげた錯覚である。憲法がどんなに大切かをよく分かって投票してくれる「市民労働者」を組織するどころか、嫌悪し見放してきたツケが、社民党の決定的な衰弱を招いた。今この期に及んで、まだ「働く人達」の政治エネルギーを結集しようとしないで、バカの一つ覚えに「観念」としての憲法を連呼している。愚直というより迂愚にちかい。今一度言うが、憲法は投票所に歩いて行かないのである。
「労働者」を見捨てたまま党勢を立て直そうというのなら、もう、「女性」を組織する以外にない。女性は選挙に行く。もし女性を纏めるという此の不可能なと謂える課題をクリアできる指導者がいれば、「女性党」は現実味をもっていい。だから言うのだ、冷たいのと熱いのと、ともに我の強い我執の強い田中真紀子と土井たか子が二人で話すと、どうなるのか聴きたかったと。
2003 11・13 26
* 歯が痛いのは本当につらいですね。顔がなすびのようにゆがむほどはれて痛むのに、仕事に行かなければならなかったこともありましたっけ。こんなに医学が発達しているのに、歯の治療は昔と同じに麻酔をかけて削ってつめるだけ、そして手遅れになると抜くしかありません。一番簡単に作れそうな人工臓器なのに「歯」の世界は遅れていますね。歯医者は大嫌い。よほど痛まないと行きません。お大事になさってくださいね。
「共犯者」きのうは、なんとか最後まで見ることができました。漫画家の唇が噛み切られそうになった「本当の恐怖」は、やはり見続けることができないほど怖かった。殺されたOLがかっと目を見開いていたのも怖かった。車で崖から飛び込んだ共犯者たちは、きっと命は助かるのでしょうね。それも怖い・・・。相変わらず、かつてみたことのない構図、非凡なカメラの使い方も楽しめました。そう・・・ やっと楽しみながら恐怖を味わえるようになってきました。
* 歯のはなしは実感が持てるが、ドラマの方はちょっとご挨拶を戴いた感じもある。ああいう恐怖の煽り方は、ほんとうは、なにでもない。恐いとはああいうことだろうかと、わたしなどの感覚は少し違っている。見て戴けるのは本当に有り難いが。
2003 11・13 26
* 忙しいのにシルベスタ・スタローンの不出来な映画につきあってしまった。
2003 11・13 26
* 発送作業へ手が附くと、自然、バックサウンドのようにしてビデオ映画を、聴く。昼にはビデオで「ランダム・ハーツ」を見た。クリスティン・スコット・トーマスとハリソン・フォード。これは断然女優が佳い。シナリオもほぼ完璧だ、目立たないが秀作である。不倫の男女が航空機事故で死に、その夫と妻とがいやおうなく出逢う。男は内務捜査班の巡査長で、女はいわゆる二世議員。不自然でなくハナシのすすむところが快いのであろうか、監督の手腕を感じる。
晩には放映の「ダイアルM」を半分観て半分聴いていた。マイケル・ダグラスとグィネス・バルトロウ。ヒッチコク名画のリメイクである。凡そに聴いているだけだから、もう一度見直してあれこれ言わないと作品は可哀想だが、まずまずの映画のように感じていた。グィネス・パルトロウは「大いなる遺産」のヒロインだった。こわい夫の妻ものとしてはやはりイングリット・バーグマンとシャルル・ボワイエの黒白映画「ガス燈」が神経質にこわそうだった。あの映画でへんな女中役をしていた女優が、後年のテレビもので「ジェシカおばさん」を主演していてびっくりしたことがある。映画のハナシをしていると気分が和み疲れがやわらぐ。
2003 11・16 26
* 街で校正したかったが、冷えてきそうなので、銀座竹葉亭に開店そうそう駆け込んであっさり鰻懐石を喰い、有楽町線でまっすぐ帰った。「ダイヤルM」の二度目のうしろ三分の一ほどを見おえた。このマイケル・ダグラスは気持ちが悪い。父親のカーク・ダグラスほど個性的に渋い顔ではなくて、ときどき蝦蟇のように見える。しかしアネット・ベニングを魅了した「アメリカン・プレジデント」のマイケルはすてきだった。「ダイヤルM」ではグィネス・パルトロウがごく普通に佳い。
* 冷えて足先が痛いほど。冬の足音が聞こえる。
2003 11・18 26
* 秦建日子脚本の「共犯者」は、黙って最期まで見るしかあるまい。かなり複雑で、その複雑さを適切に観客にも分かりよくしてあるといいのだが、今のままでは木の枝から葉が散るように観客が減っても致し方ない。たまにテレビの画面にこういうのが映るのもわるいことでない、勇気ある冒険だと行っておく。成功か失敗かは最期まで見ないと分からない。
* 伊丹十三がおおむかしにテレビで光源氏を演じたとき脚本と監督は度忘れしたが著名な映画監督であった。源氏物語の映画はそれ以前に長谷川一夫、若尾文子らのを映画館で見ていた。説明的な美しい絵巻であったが、それに比べるとテレビのはシュールな画面と批評的な内容でしかも優れて藝術品に出来上がっていた。あれほどテクニックでも魅了された映像作品は、その後、めったに出逢えない。
建日子のものを見ていて感じるが、持ち前の才気をフルに出し尽くしていっぱいいっぱいになっている。だからストーリーの展開に深い水面下の分厚さが出てこない。「共犯者」はいわば現代の歌舞伎をなしているといえば、むろん褒めすぎだが、歌舞伎にはこの程度のカラクリや組み立てや妖しさはいっぱいある。院本にも世話にも怪談にもある。能など、みな幽霊が主人公だと謂えるし、うならせる不思議の趣向は幾らもある。
「共犯者」の作者は、そういう豊かな伝統からほとんど何も学んでいない。観てもいないし読んでもいない。蓄えがない。佳い底荷の乏しい航海をしているから、舟は息が浅くかなりアプアプしている。
鬼面人をおどろかすには、それなりに安定したリアリティーが必要だが、その辺の造作が手薄い。作者一人でよろこんでいる。観客はかなりマゴマゴしてシラケている。
*「共犯者」の前に映画「グース」を観てほろりとした。もう一つ前には自閉症の天才少年が軍事超機密の暗号をやすやすと読み解いてしまい、機関に追われて殺されそうなのを、FBIのブルース・ウイルスが守り抜く映画をみて、これも終幕でホロリとした。ともに手堅い台本であった。いつもいつもこんな手堅いばかりの画面ではつまらないけれど、切れ味のいい組み立てにこそ惹かれる。ジャクリーヌ・ビセットとキャンディス・バーゲンの「べすとフレンド」も、ビデオ途中にコマーシャルが挟まっていて少し癪であったけれど、そして物語の造りは図式的であったけれど、気持は分かる落ち着いた組み立てになっていた。落ち着いていると作の動機がよく訴えてくる。「共犯者」で作者を衝き動かした動機が何か、ほんとはもう伝わっていていいのだが。分からない。変わった作を書いてやろうというだけでは、観客は感動出来ない。あと四回に期待しよう。
* 発送用意の作業がビデオ映画の御陰で進む。本文とアトヅケとは責了にした。月末は難しくても、師走初めには送り出せるだろう。
2003 11・19 26
* 大幅に予定していた作業時間が食い込まれたが、ガンバッテ追い込んだ。もうホンの少しで何とか追いつく。昼から夜へかけて超大作「風と共に去りぬ」のビデオ映画を流していた。ヒビアン・リーのスカーレット・オハラ、クラーク・ゲーブルのレット・バトラーは、もうこれ以外に思いつきようのない適役で、スカーレットはじつに美しくまた好演。ゲーブルの魅力も、「荒馬と女」なみに魅力横溢。なによりメラニーを演じたオリビア・デ・ハビランドの聖母を思わせる愛ある淑女ぶりは、効果的な映画の底荷になった。そこへ行くとメラニーの夫になりスカーレットにも陰に陽に慕われ続ける男も、演じる俳優も、とても贔屓にはしかねた。
原作は少年時代に人に借りて読んだ。パール・バックの「大地」と、このマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」とは、面白い小説だとは感じていながら、たとえばゲーテの「若きヴェルテルの悩み」ほどには、あるいは「嵐が丘」ほどには敬意を持たなかった。だが映画で見る限り、やはり壮大な歴史絵巻の魅力は十分備えていて、仕事の邪魔になるほど画面に惹き込まれがちであった。スカーレットのような女は現実にはかなわないが、映画とはいえ、小説とはいえ、こういう女も神様は造られたと思う気持ちには感謝もまじる。
2003 11・21 26
* ドラマ「CSI」が終わってしまった。どきどきするようなマージ・ヘルゲンバーガーに逢うのが楽しみであったのに。
ディケンズ原作ではあるが、かなり脚色されて舞台も現代に置き換えた「大いなる遺産」は、森秀樹さんに戴いたビデオ映画、これがわたしも妻も好きで。ヒロインはグィネス・パルトロウ、男で画家の主役はイーサン・ホーク。それに大事な役、大きい役でアン・バンクロフトとロバート・デ・ニーロが出ている。豪華キャストだ。
作中の絵画がすばらしく面白い。それも楽しみで観る。そういえばグィネス・パルトロウは数日前に観たマイケル・ダグラスの妻の役でも、ならずものの画家に誘惑され愛して、最期には夫を殺すはめになっていた。二流の娯楽作であった。だが「大いなる遺産」はかなり楽しめる上出来のドラマに成っている。
2003 11・24 26
* 発送用意の取り残していた作業を、朝から晩まで。マリリン・モンローとクラーク・ゲーブルの映画「荒馬と女」を耳で聴いていた。とどき目をやるとマリリン・モンローがいかにも生きることに寂しげであわれであった。美しい。愛らしい。
2003 12・1 27
* 映画「荒馬と女」のラストを観たが、すばらしかった。こんなにいい作品であったかと、何度観ても感嘆する。忘れもしないが初めて映画館で観たとき、わたしは若かった。映画が見えていなかった。「見えていなかった」「読めていなかった」と、それに気が付くのは幸せなことだ。
2003 12・2 27
* 秦建日子作「共犯者」は八回を終えた。こまかな苦情をいえばキリはないが、それも抑え込むように漸く煮詰まってきた。ことのワケもスジも容易には分からないけれど、作者だけは大いに楽しんでいる様子、それらしくぐうっとハナシがうねってきた。興味が繋がってきた。大きな功績はむしろ第一にカメラワークにある。凡百のテレドラではこういうカメラの使い方はしない。タブーに近い。大胆に、カメラマンも演出家も楽しんで居直ったようにやっている。それに浅野温子も三上博史も大いに乗ってきた。はじめから彼等は乗って演じてはいたが、歯車のかみ合いはわざとらしく白けたが、今夜あたりからがっちり人間関係の立体化がサマをなしてきた。普通のドラマにしては性格の異なる人物を大勢配役しているが、それが成功の兆しを見せている。一時間がかなり短く感じられたし、今夜は少しも退屈させなかった。芸術祭参加番組としてあるが、至らぬまでも、テレビドラマでのこの冒険の意欲、高く買ってほしいものだ。
* 殺され役の中山忍は、わたしが好きだったビール広告中山ミッポ美穂の妹なんだそうだ。
2003 12・3 27
* 朝から夕過ぎまで集中して作業、「湖の本」大方を送り出した。リチャード・ギアとローラ・リニー、それに迫真の演技でうならせるエドワード・ノートンの「真実の行方」に、いつもながら唸った。こわい映画である。「目撃」のローラ・リニーもこの映画の、出来る検事役のローラ・リニーも、品良く、丈高くて、なかなか佳い。
2003 12・6 27
* アカデミー最優秀女優主演賞のジュリア・ロバーツが快演する、アカデミー最優秀作品賞の実話映画を、昨夜から二度つづけて見直した。題名は一人の実在女性の名前で、弁護士でもないこの女性が、ある弁護士事務所に勤務し大活躍して、大企業の公害垂れ流しに対し地域住民の先頭に立って、ついに史上最高額の賠償を獲得してしまうというストーリーである。
映画としては素直に実話に即して行ったらしいリアリティーが成功し、そのかわり、フィクションなら必ず創るであろういろんな派手な見せ場はなく、たとえばクリント・イーストウッドの「目撃」やエドワード・ノートンの「真実の行方」のような、佳い創作劇のもっているコクのようなものは感じられない。実話性に徹したある種のアッサリ感は、だが、やはりこの映画に生きた感銘をもたらしている。公害に抵抗し暴露し克服する映画は、スティーヴン・セガールのような活劇俳優も、肝煎りで、創っているし、同じジュリア・ロバーツがデンゼル・ワシントンと創り上げた「ペリカン文書」も、紛れない開発と公害告発の作品だった。
ああいうふうには創らなかったから今日の映画成功していたというと、貶すようでもあるが、そうじゃない。ジュリア・ロバーツを生き生きと働かせた弁護士事務所のオーナー弁護士の演技力もあって、彼等に、好きなように演じさせた自然さ自体が「趣向」されたのだろう。
それにしてもジュリア・ロバーツという巧い女優は、顔が毀れやしないかと心配するほど派手な顔芝居をみせてくれる。ふつうの女優は、一つの映画では一つの顔を通しているが、ジュリアは何人分もの表情で空気を動かす。
この映画に、大事な役の住人の一人に、「CSI」で光っていたマージ・ヘルゲンバーガーが佳い脇役を演じていた。佳い女優は化けるものだと感嘆した。そういえばわたしにマージを印象づけた最初の映画が、スティーヴン・セガールの、やはり地質汚染公害と闘う作品であった。
少なくも三人を演じ分けたマージを観ているのだが、どれも完璧に自律していた。むろんジュリア・ロバーツもそうだ。「プリティー・ウーマン」も「ノッティングヒルの恋人」も「ペリカン文書」も今日の女性も、だ、一人一人が際だって印象的に異なっている。 2003 12・8 27
* 好きな宮沢りえを犠牲にして、テレビタックルのイラク討論を聴いてしまった、討論はあれでは不毛だったが。ハマコーこと浜田幸一の出は、番組を賑やかにしているものの、しばしば議論前から行方が決めつけられている不満を覚える。ハマコー派の三宅某なる政治評論家が、わたしは以前から大嫌いで、しかしハマコーらと対立するようなしないような福岡某なる出口調査人のなんともうさんくさい物言いも、あまり好まない。ま、ああいう場所でいまどきハバを利かせている連中である、宮沢りえのようには行かない。
そのりえちゃん、何としても貴花田と婚約の頃の照り輝く美しさを覚えているもので、いまの痩せこけてからの回復不全なきつめの顔が痛々しく、つい避けてしまう。芝居のうまいことでは天才的だが。
2003 12・9 27
* 秦建日子脚本の「共犯者」は、もう、来週には収束する。よほど綺麗に合理的におさまめないと、客はガッカリする。仕上げをごろうじろと言って欲しいものだ、楽しみにしている。
2003 12・10 27
* 巣鴨の寿司「蛇の目」は、休日。一路、家に帰った。建日子が夕方から来ていると分かっていた。花籠さんに戴いたおいしい牛肉に、三人で嬉しい舌鼓をうった。建日子はすでに「共犯者」の最終回のビデオを持参していて、親子三人で観た。その感想は、だが、放映が済むまで書くまい。ひきつづいて、ニコラス・ケージのものすごいまで乱暴な「コンウエイ」を観て、ヒャアとみなで呆れた。ニコラス・ケージらしい主演映画ではあったけれど。
終えたところで、十一時前に建日子はまた五反田へ車で戻っていった。
秦建日子作・演出の「リ・バース」は一月松の内に一週間ほど下北沢で。その稽古もたいへんらしいが、「天体観測」「最後の弁護人」「共犯者」と続いた一人書き連続ドラマの稿料が揃って入ったのでと、少し裕福そうで、嬉しそうであった。親も、なにがなしにこにことそんな話を聴いた。来るたびに、新しいハイテクのツールを披露してくれる。今日は何機目かの、とても小さい胸ポケにも入る恰好いいデジカメを見せてくれた。ソニーであったろうか。先日の小闇@東京の「私語」に触発されて買ったらしいが、小さくて、裏のスクリーンの明るく大きいのが印象的だった。わたしにはお古のちいさな録音機を呉れたが、電池を入れておくとたえず消耗するので、使用してないときはいちいち電池を出しておけというから、こりゃメンドクサイ。 2003 12・13 27
* 秦建日子脚本の連続ドラマ「共犯者」が、予定通り十回で完結した。このまえの「最後の弁護人」のように一話完結のシリーズでなく、その前の「天体観測」同様、全体で纏まる長編ものであった。ふつうは複数の脚本家で担当分担する連続ドラマが多い中で、この一年二年の間に三作も単独執筆ドラマを仕上げたのは、建日子、よくやった。単独とはいえこの業界は、外野からの干渉や制約が多くて思うに任せないのがまた適当な「逃げ口上」にも成るらしいけれど、人間関係で成り立つ勝負を辛抱してし遂げたのだから、オヤジより、よほどえらいる。無事の収束、おめでとう。
* さて、そういうことであるらしいと云うところへ、筋書き的には落ち着いた。擬近似作があるなどと新聞に書かれていたが、少なくも日本のテレビドラマでは珍しい作り方であった。演出と撮影と俳優達とがかなり熱く、遠心化している作柄を、求心的に取りまとめてくれた気がする。熱意は上乗であった。
ドラマでは知らないが、他のジャンル、小説や演劇ではママ有る作り方である。はっきり云って作者は「影」を書いた。前にも触れたが、アーシュラ・ル・グウィンの名作『ゲド戦記』の第一冊は自分の「影との戦い」であった。建日子は少年時代にこれを「思想の科学」に「書評紹介」しているぐらいだから、深く焼き付いている。そして父親私には「加賀少納言」という小説がある。これは建日子は読んでいまいけれど、紫式部の自ら編んだ家集を締めくくる歌の読み手が「加賀少納言」という女房名の人である、が、これほど源氏物語研究や紫式部研究は無類に進んでいながら、「家集」を締めくくるほどの大事な人物が、今なお皆目謎のママになっていて、わたしは、これが紫式部の、またものを創り手の、「影」の別名であろう、と、想像した。我が影との対話でこそ、微妙な創作は成ってゆく秘儀に触れたのだ。
建日子の「影」は人間のうちなる、或いは外側から添い憑ってくる「共犯者」を書いている。そして「自分」を殺すことで「影」を殺そうとしていた。だがそういう影は、誰にでもいつでも憑いて来るとも示唆していた。その意味では、俳優座でこの間妻とわたしで見てきた、イヨネスコ作の「マクベス」の「魔女」にも相当している。あの魔女は「共犯者」であり、そして仕事を終えてしまうと、悪徳と悪行の種をしっかりその場に残して、また別の誘惑のために、共犯のために、時空を超えてゆく。
この世の者でない者が、人の目に触れたり失せたり変身したりしながら、自在に人に交じっている世界なら、そういう世界観は、わたしの、ある時期まで商標登録のようであった。幽霊の世界に半足を置いている作家とわたしのことを云った批評家もいた。「清経入水」も「蝶の皿」も「冬祭り」も「四度の瀧」も、そして「加賀少納言」も「北の時代」も、みなそんな「影」「非在の生」を書いた。だからダレに云われるまでもなく今度息子の書いたものは、わたしにはたいへん心親しく、またそれだけに批評も利くと思っている。
が、もうとうに済んでしまった仕事だ、仕上がった嬉しさは、またこの先への不安や期待は、本人に近い感じでわたしも分かっている。無事に済んでよかった、またがんばれよと云っておく。
* 妻もわたしも、やはり、ほっとしている。そして、こういうことなら、姉の朝日子にも、また別の創作の道を努めて開拓してみて欲しかったなあと思うのである。建日子は父親を世襲はしなかった。つかこうへい氏との出逢いを自力でバネにし、わたしとは別世間へ出て行った。それが良かった。朝日子にもまた別のなにかしら世界がありえたろうに、と、惜しい。娘が、「東京の小闇」のように、またちがったセンスのエッセイなどをホームページで書いていてくれたら、どんなにわたしも妻も嬉しいだろう。元気にしているのだろうか。娘達の「お受験」に狂奔したりしていないといいが。
*「共犯者」は、心の闇が創り出したもう一人の自分だった、という思いがけない結末に唖然としました。
現実に多重人格者が存在していることは知られていますけれど、こういう形で、映像で、表現されるとは思ってもいませんでした。
これであの異時空間的映像が、重要な意味を成していたのだと思い至りました。
「すごく怖かった!」というのが本音。
最近の残虐な犯罪事件を見聞きしていると、この「共犯者」がけっしてドラマの中だけに存在する者ではないのだということ。
自分の影に忍び込もうと隙をうかがっているかもしれない「共犯者」がいることに、目を逸らさず、見据えて、生きることが出来ればと。
そんなことを考えさせられたドラマでした。
花籠に佳い水を豊かに満たしたいものです。
ご無理なさいませぬように。ご自愛くださいませ。 徳島県
*「共犯者」の最終回拝見しました。なんとなくそのような気がしていた「共犯者」の謎解きがなされ、事件の全貌も解き明かされました。やはり他に類をみない非凡なドラマだったと思います。毎回楽しみでした。
ただし私は血を見たり人殺しのシーンを見たりするのはあまり好きではないので、そういう意味では、心に残る映像はありませんでした。
空気が冷たくはりつめてきました。お風邪を召されませんように。 神奈川県
* 「共犯者」は三回目あたりからは、身内に住む悪の分身と分かって観ていたので、まあ最後の種証しを驚くに至りませんでしたが、女性の共犯者に男性を、その体力を象徴的に持ってきた処に、女性の怖さ、底力を表現していると、私は解釈しました。そう、現代の女性は怖いのよ。
あなたが云っていたように、テレビ映像でのあのカメラアングル、特に顔半分の怖いアップなんて、とても若い売り出しの女優では撮らせてもらえないでしょう。
中山忍、温和な印象のかわいい女優さんだったでしょう。お姉さんの影に隠れて気の毒ですが、演技賞も数取っています。 京都 2003 12・17 27
* 久しぶりに「北の国から」再放送の、最終「遺書」前編を途中から見た。竹下景子の息子役が、富良野へ来ているが、母親とも誰とも話さず携帯電話から手を放さない。「恋人」と富良野で逢う約束だと云うが、恋人はいっこう現れないで、交信だけがあるらしい。聞くと、逢ったことも話したことも触れたこともない相手だという。
この挿話を前に見たとき、作者は凄いメッセージを発しているとつよく印象に残っていたが、今夜も改めてその箇所に衝撃波を覚えた。あの青年の「その後」こそは、現代のやるせない仮象的な人間関係として、ぜひ誰かに追及して欲しい。
2003 12・19 27
* 秦建日子の脚本「共犯者」をめぐって、かなり多彩に意見交換がされているのを、少しべつのサイトで垣間見た。その議論が、かつて単発に書いたり芝居を公演していた頃よりも、質的によくなっていて、中には作者がよく聞くべきだと思われる意見も少なからず見受けられる。作者の幸せである。一例だが、私の眼で記録に値する一つと、医学的な解説とを、わたし自身の興味と共感からも、転記させて頂く。改行と行アキとは、わるいが、このサイトの量的・表記的な都合から適宜つめさせてもらうのを許されたい。
* 僕の意見 投稿者:本田 投稿日:12月20日(土)02時55分53秒
僕も初回から毎回録画し、何度も見て、楽しみにしていました。このような良い場所(=掲示板)があるので、自分の意見を書かせて下さい。
まず、このドラマ(=共犯者)の魅力のかなり大部分を、浅野さんと三上さんの演技とカメラワーク、この2点が構成していることは誰しも異論がないでしょう。これは文句なく素晴らしかった。そして多くの人が、この点に惹かれて見ていたとも思います。(それが視聴率という商業的な成功に結びつかず、より多くの人の目に触れなかったことは、ファンとして残念ではありますが)
では脚本はどうだったか。
僕の見たところ、迷いやブレ(または詰め込みすぎ)があり、完全に煮詰め切れていなかった、という印象を受けました。その理由の一端は、様々なところで必要以上に一般化や可能性の示唆を行ってしまった点でしょう。
たとえば、この掲示板でも指摘がありましたが、ウエヤの継続的な服薬は、彼/彼女が何らかの病気に冒されていることを示唆しています。肉体的な問題はなさそうなので、当然、精神的なものと考えられるでしょう。
また、最終話ラストや引きこもり少女の「私にもそんな彼がいた」は、「ウエヤ」は誰にでも起こりうる現象(存在)であると一般化する内容と言えます。
こうした可能性の示唆や一般化は、視聴者に色々な想像をさせるのに役立ちます。言ってみれば「想像の余地=後味」を残すわけです。しかしながら、本作はその方法が雑だと感じます。それゆえ、「途中で放置した」「意味もなく謎だけをばらまいた」ような印象を持つ視聴者が出るのです。
どのパートをどのような意図で描いたか。こうした十分な意識がゆき渡っていないように感じます。
そのために、「十分な批評に足る水準の作品として練られていない」という主旨をもって、感情的な批判が目立つのではないかと僕は思います。そしてそれが、何よりも僕は残念です。
色々なテーマが盛り込まれていますが、それらをもっと適切に描くことができたのではないか。その「可能性」を想像してしまうこと。これは脚本家としても、視聴者としても、やはり残念なことでしょう。本当に素晴らしい作品というのは、「これは真似できない、素晴らしい、偉大な仕事だ」と、圧倒されるものだと思うからです。たとえば三上さんや浅野さんの演技には、誰もこんなに批判をしていませんよね。それは彼らの演技が、文句なく素晴らしく、圧倒的だからです。
色々なテーマの描き方については、たとえば、「ウエヤ」を一般化したいなら、「いつでも僕を呼べ」みたいな最終回ラストのシーンは冗長で興醒めします。舞に「ウエヤ」が見えた、というその一点だけで十分に表現できたでしょう。(「ウエヤ実在」と誤解される可能性を除くために冗長にしたのかもしれませんが、何しろあのシーンは興醒めです。せっかくの「ウエヤ」というあまりに貴重で魅力的な存在を、そんなに安売りして良いのですか?)
ただ、このドラマの中で、最終的に何より精彩を放っていたテーマ、「人間の心の闇」「罪を犯すことの重さ」といったものは、十分によく描けていて、相当な迫力があったと思います。
そういうわけで、僕の結論としては、「中途半端なところや煮詰め切れていないところもあったが、大きなテーマはかなりの迫力を持って描かれていて、いいドラマだった」・・・という感じです。
DVDを買って、「見たいけど途中からだと話がわからないから・・・」と言っていた母と友人に、見せてあげようと思います。
散漫になりましたが、僕の意見は以上です。
* 見るべきはよく見て見抜いた、秀れた感想だなと思った。われわれ夫婦も、こういうことを話し合いながら観ていたし、最後にわたしが呟いた感想も、優れて意欲的だったけれど、脚本は随所にヘタであった、と。こういう、強いて云えば幻想性の作品は、観たり読んだりの客に文句を言わせない魅力的・美的で強力で強引なウマサが必要になる。それが足らずに、自分の手際に説明がつくようになると、そこから腐り出す。
* (無題) 投稿者:因みに 投稿日:12月20日(土)14時10分6秒
解離性同一性障害(多重人格)というのは精神病ではなく神経症です。
<解離>の例
・行動した形跡があるのに記憶が無い。
・まるで自分に起きていることが夢のようでとても現実だとは思えない。
・気付けば知らない場所にいるが、どうやってここまで来たのか記憶が無い。
・(自傷行為を含み)身体的な痛みを感じない。(痛覚における解離)
・自分の身に起こっている事が他人事のようにしか感じられない。(離人感)
<解離後の現象>
・記憶していることが夢なのか現実に起きたことなのか区別が全然つかなくなる。
・移動したり会話したりしていた形跡があってもそれをまったく覚えていない。
人生の重要な出来事すら覚えていない。
・自分の知らない人が自分を別の名前として呼んで話しかけてくる。
・自分に買った覚えのない品物を見つける。
・ある場所にいて自分がどうやってそこへ来たのかまったく覚えていない。
主人格や他人格のタイミング、相性などによって稀に記憶の共有をできる時があります。
実際に表に出ている人は一人ですが、その人の視線での景色や外の音などを感じることができます。
コントロールもできないので本当に稀な出来事です。
人格によっては自分の意思でできる人などもいるそうです。
* こういう文章とこういう声音で、まともな感想が響き合ってきたというのは、いささかミーハー的に感じられた脚本作者が、少しずつマトモになってきたことの反証でもある。ホームページに書き込む作者その人の感想や意見や述懐や情報提供も、それ相応に誠実に落ち着いて読むに足ることが期待される。もうその時期へ入って行けて当然ではないか。
2003 12・20 27