* 大河ドラマの一回目特番かと勘違いして「大友宗麟」を観ていたが、食い足りない駄作であった。宗麟は喰えないキリシタンであった。戦国大名としても腰は据わっていなかった、戦はむしろ下手な方であったし、経営の方略もすぐ破綻して、中国筋の毛利や大内と、南国の島津と、菊地の残党等とに囲まれて確乎とした領国経営ができず、キリシタンとしてもご都合主義のむしろ貿易の利にさといところが本音になっていた。結果は秀吉に泣きついて島津からの侵略を食い止めたけれど、六カ国の守護とか鎮西探題とか、所詮は荷が勝っていた。
なんで大友宗麟なんて大河ドラマにするんだろうと不審に思っていたら、簡単に生涯をスケッチしただけで終えた。正月早々つまらない時間をつかってしまった。
2004 1・4 28
* つかれて下へ降りて観た映画「アルマゲドン」が予期したより佳い映画でおもしろかった。ま、そのように成るであろうお話の行方は見えていたけれど、映画の魅力がしっかり画面から画面を繋いでくれて、少し長い時間であったのに、前のめりに観ていた。ブルース・ウイルスらしい。実録ではない劇映画ながら、実写も効果的に取り入れていた。こういう地球そのものの絶滅の危機に至ってしか、世界の民族は心を一つには出来ないというふうにも読み取れて、それは皮肉に過ぎる苦みであるが。
2004 1・9 28
* 今夜の007はごくつまらない。バーグマンとハンフリー・ボガートとの「カサブランカ」は佳い。本当にどの部分を観ても映画が粒立っている。眠気はさめ、少し酒をふくみ、いらぬことに少し夜食までして、また二階に来た。
2004 1・9 28
*「眼下の敵」という、只一人の女性も姿を見せない、潜水艦と駆逐艦の死闘映画を観た。十度できかないほど観ているのに、ロバート・ミッチャム駆逐艦長とクルト・ユルゲンス潜水艦長に痺れるように感銘を受け、終える頃は涙をたっぷり溜めていた。名画というのはほんと何度観ても、小説の名作と同じに、新鮮。くだらないものには、この幸福がない。筋などすっかり忘れていて、ただ、前にも読んだかなあ、観たかもなあと想う程度の通俗読み物や不出来映画は飽きてしまって投げ出すのに、筋は愚か、会話の端々まで覚えていながら、それに出逢うこと自体が楽しくて読み進み、観ていく、それが優れた文学藝術、映画藝術の紛れもない魅惑だ。「今度はロープを投げないぞ」「また投げるさ」とタバコを分け合って顔を見合う二人の艦長の、ただ立った後ろ姿ふたつに、みごとな反体制人間の心優しいドラマがにじみ出る。
妻が横で、「今(二十一世紀)は、こういう戦争も出来ないんだわ」と嘆息した。同じ言葉を、さらに以前の戦争と引き比べて、映画の中で、潜水艦の副長相手にクルト・ユルゲンスは嘆息していた。戦争に違いはないようなものだが、戦争自体が人間的な次元から機械的な、非人間的な、乾燥しきった無残なものに変貌してきているのは事実だろう。アフガニスタンやイラクの国土をどのような弾丸が貫くように底深くまで破壊しまた汚染しているか、その事実についかぶってくるのが、ブッシュ大統領の顔であることに、真実ゲンナリする。大統領選挙の行方を、他国の一人としてすら、よかれと願わずにおれない。ブッシュにはヤメテ欲しい。
韓国映画の「シュリ」はものの十五分とは観ていられなかった。
2004 1・18 28
* 一日呆然としていたのではない、解決を求めてくる用事が、ほんとうにヒマなく訪れる。気が急いて、階下に降りても椅子にも座らない、立ったままそそくさと用事をして、また機械の前へと思っていると、マット・デーモンが、見るから佳い映画に、ズブズブの新人弁護士役で孤軍奮闘している。悪徳と強欲の巣窟、海千山千のすれっからした恐喝的な保険企業の弁護士団。もう少し少しと、立ったまま、一時間半ほど観てしまった。損のない映画作品であった。
2004 1・21 28
* 夜前、おそく階下におり、しばらくトム・ハンクスの「フォレスト・ガンプ」を観ていた。トム・ハンクスという俳優をハッキリ認識した、きっかけの映画であった。彼のことをアメリカのやすいボードビリアンの一人なのかと全く錯覚していた時期があった。「グリーンマイル」その他、名画と呼んで憚らない作品を幾つも持った名優と、今は愛している。
「フォレスト・ガンプ」は心温まる。けれど底知れず寂しくもある。気持の衰えているときに観るのはすこし辛いが、佳い作品。フォレストの母親役をサリー・フィールドが演じていたとは忘れていた。この女優はたしかジェームズ・ディーンとの共演がなかったか。最近では、「ER」の終盤で、烈しい情動不穏の母親役を捨て身に演じていて強烈だったが、観た女優なのにと思いつつ、サリー・フィールドであったとは思い出せなかった。彼女の娘役のナースが、名前は忘れているが感じのいい女優であった。リチャード・ギアとローラ・リニーが共演の裁判劇「真実の行方」で、リチャード弁護士の助手役に出ていて、いい感じであった。
こんな風に頭の中に海外映画のおぼろな地図路線ができかけている。その意味では日本映画には興味索然として、ほとんど近寄る気にもならないのは何故だろうか。昨晩も「シャル・ウィー・ダンス」を放映していたが、一度観ていて佳い作品であったからもう一度観てもよかったけれど、そこまでの引力がなかった。ダンスものなら海外作品にとても魅力的な幾つもがある。
2004 1・24 28
* 夕食のあと、「フォレスト・ガンプ」を見終え、したたか泣かされた。ジェニイ(ロビン・ライト)と、発達にやや異状のあるフォレストとの純な純な波瀾に満ちた愛。ダン中尉とフォレストとの親愛。フォレストの無垢で盛んで「歴史的な」な生き方、そしてフォレストの母の愛と確かさ。そしてジェニイの残してくれたフォレスト・ジュニアと父フォレストとの、これから。ジェニイの墓の前で、「ジェニイ、さびしいよ」と泣いて呼びかけるフォレストにはまいった。映画の創りも見事で、少しの弛みもない。トム・ハンクスに脱帽、そしてジェニイ役の女優ロビン・ライトの優しさにも美しさにもわたしは傾倒した。佳い女だった。ジェニイや母親の終焉の描き方も静かに美しく、愁嘆場の無いことで、かえって深々と哀しみも感動も、胸へ来た。ジェニイの病気はけわしい難病であったに違いない、のに、映画は最期まで清潔な美貌を温存し、フォレストの悲嘆を庇ってくれたことにも感銘を受けた。魂のように、人生そのもののように、空に舞う一枚の羽毛のはてしなく遠くへ去っていったラストも、胸を揺さぶるはかなさであり、美しさであった。わたしが涙脆いのか、映画が素晴らしいのか、後者であると信じるが、こういうふうに溢れる涙は、やはりカタルシス。
2004 1・27 28
* 朝食の後「やまな」サンの番組で、いま若いタレントでは早くから特に注目してきたアヤヤこと松浦亜弥のトークを見聴きしていた。この子の魅力は尤も優れた意味での「健康」、むろん今まさに得意のときであるから、或る程度当然だが、しかし、十七歳にして、バランスよく、全く自分自身の言葉と生気とで目を輝かせて話すなかみが、想像以上に健やか。したがってスレず品良く、なによりも話す言葉にムダも乱れもない。ヤックンの矢継ぎ早な質問にも瞬発の確かさで、話題へ自然に試聴者をひっぱる。あれでは表情も冴え冴えと澄んでチャーミングなのが当然だと思う。清潔で聡い子だなあと嬉しくなった。
あややをはじめて認識したのは、テレビでも舞台でもない。あれはたしか東京駅の八重洲口あたりでみた大きな看板広告の写真であった。吹き付けてくるエネルギーに感心した。だれだろう、こんな子は知らないなあと印象づけられた。以来、気をつけてみているが、コマーシャルが多く、今朝のようにトークは初めて。よほど割引しても、十分われら老人二人を同時に惹きつける魅力であった。べたついて甘えた、気取ったところが無く、無遠慮に高ぶっていないのも、稀有の好感度。
もうひとり上戸彩というアヤもいい。この二人にはいつも目を向けている。
「やまな」サンの番組といった。これは番組の芯にいる美人ホステスの、むかぁしの出演ドラマでの役名で、その美しさと感じの良さから、本名は忘れても、というより覚えていなくて「やまな」サンで通っている、我が家では。典型的な日本の美女であるが、あややの前ではすっかりおばさんだった。致し方ない。そしておばさんにはおばさんならではの魅力が横溢しているものだ、やまなさんも、女のもっとも美しい時機にいることを活かし欲しい。それには姿勢だろう。背筋力がよわいかして、よく前屈みに卓に肘をつくのが木になる。
2004 1・28 28
* それに、またまた、ジャン・マルク・バール(ジャック・マイヨール)、ロザンナ・アークエット(ジョアンナ)、ジャン・ルネ(エンゾ)の「グラン・ブルー」を見はじめている。この映画は、いつもいつも、わたしを深いブルーに染めてしまう。危険な誘惑の、名作。
愛し合うジャックとジョアンナが、はじめてからだで結ばれる。そのベッドからジャックはそっと抜けだし、深夜シチリアの海で、余念なく、ながくながくながく一夜中イルカたちとともに泳ぎ戯れ、果てしがない。いるかはジャックの唯一の家族(身内)なのだ。ジョアンナが、そばにいないジャックを渚に探しに来ると、沖合で、ジャックは魂を海に溶かし込むように、いるかと泳ぎに泳いでいて、ジョアンナは砂浜にひとり寝入ってしまい、朝が来る。ジャックといるかの輪に入れないと感じたジョアンナは、別れてニューヨークに帰って行く、が、ジョアンナの愛は深く、ジャックもまた…。
海ほどおそろしく海ほどなつかしい世界は無い。海の子のジャックもエンゾも、やがて永遠に海へ帰って行く。陸にひとり、いやジャックの子をみごもって残されるジョアンナは、だが哀しみの深みから我が子と生きて行こうと決意する。
2004 1・29 28
* エンゾはジャックに抱かれて海の深みへしずかに帰って行く。そしてジャックは決定的な潜水病に。ジョアンナは妊娠、しかしもう助からぬ命と覚っているジャックは海の底へ帰りたがる。「いいわ、行って。わたしの愛をたしかめるたに」と妊娠を告げたジョアンナは、愛するジャックを手づからグラン・ブルー、深海へ放つ。
ジャックは愛していながらジョアンナに三度痛い目を見せている。いちどは、愛を買わしたそのベッドから、ジャックはいるかとの戯れに夜の海へ溶け込んで、ジョアンナを浜辺に置き去りにしている。二度目は、海中のことをジョアンナに聞かれて、海に入ってしまうと上の世界へ「戻る理由がない」と言い放ち、妊娠を告げようとするジョアンナに耳をかさない。かろうじてジョアンナも、そんなあなたのそばに自分がいる理由が見つからないと悲しく呻く。そして三度目は、海へまさに逝ってしまうのだ、ジョアンナに決定的に手伝わせて。
むごい、悲しい、しかも底知れぬ懐かしさにひたされてしまう。「戻る理由がない」別世界をもったジャック・マイヨール。それはジャックの大きな創作世界でもあるのだろう。創作する人間は別世界を胸に抱き込んでいる。ジャックの懐かしさはそのままわたしの懐かしさである、別世界への。
海の底でジャックを迎えて「すべるように」海の闇に欣然と消えていったいるかは、憎むべきなのだろうか。
* こういう映画を観ていると、国会で演じられている、酷い、あくどい欺瞞に満ちた茶番劇の不幸と直面する気も失せてしまう。政治家と聖職者ほど害悪な職業人はいないとバグワンが言うのは、あまりにもっともだ。
2004 1・30 28
* 好天が続いて気持がいい。
* 夜前は階下で発送アイサツを書きながら、ビデオにとっておいてもらった山田太一作のドラマを見たり聴いたりしてすごした。どれほどの時間であったのか。そのあいだに、やっと名簿の「い」と、「う」の半分ほどまで出来た。
ドラマは、松本幸四郎が妙な調子の演技で、以前は猛烈社員だったらしい突然のリストラ亭主を演じていた。役員にもなろうという手前の社内政変で、新社長の勢力によりあえなくクビにされた。幸四郎だなあという、実と情とのテレビ型表現で、絶賛もしないが、新味はあっておもしろく、ま、同情して見た。はりついたような表情に単調なあわれとおかしさをにじませ、老いた父に甘えていたりする会話に、ああよく勘定を付けて演じているんだと微笑した。松村達雄の老いざまは神技か、地にも近いか。この起用成功していた。
わたしの大好きな(とにかく大好きが多いが、これは、わたしが多情なためではない、公平で、囚われていないからだとしておく。)竹下景子が、さ、どこまでやるかという期待にこたえて、竹下景子なりの好演であった。いとおしいほどの造型であった。この人は(女優とも感じさせない)ごく市井の、聡明で心優しい、主婦と云うには美しすぎるけれど好感度の高い女性になれる。なれるというより生のママなのではないかと思わせるトクな素質をもっている。このジコチューな卑しげな時代に、清潔で聡明で優しいとは、奇跡的な表情のよさ、といわねばならない。そんな竹下を活かすべく書き下ろしたドラマかと感じた程だ。よく演じた。「妻」のありようとしてわたしから申し分を呈するのは、やめておく。
あの「夫」は、そうそうワルクはない。それの分かっている、分かっていく、受け容れていく「妻」の意識の流れが、かしこく、また素晴らしかった。幸四郎は我をはらず、竹下景子をいかすことで「夫」の芝居を巧みに按配した。
二十二歳もの年上、三人の子持ちの男と恋に落ちている娘瀬戸朝香が、なかなかのモノだった。等身大の落ち着きで、それらしき難しい立場の女を、グイと胸をはりたしかに演じ、その勢いを幕切れ場面の感動に溢れた涙の表情で、セリフぬきにとても多くを見せた。力量も感情の付け方も立派。この、突出してリキのある若い女優も、以前から、わたしのお気に入りの一人である。
もうひとり、息子役は、あまり馴染みのない役者であったが、陰翳あり情味も自然に出していて、父親の眼からは嬉しい息子を、そして心配もさせる息子を、巧みに提示していたから、わたしは感心した。岸部一徳の、二十二歳年上、三人の子連れ男、はいかにもという存在感と無言の演技で最後の場面をよく引き締め、瀬戸朝香の感動演技を自然と引き出した。引き出したのは、両親の、ことに母親の、ここは「とにかく笑いましょう」という決断でもあったろうけれど。ああいう場面で親はなかなか笑えるモノでない。
* このドラマの娘息子たちは、つい我が家の朝日子、建日子の姉弟を想わせた。
2004 2・1 29
* 夕方息子からとても嬉しい電話が来た。
彼の書いた「共犯者」の、注文していたDVDが配達されて来て、母親が昨日から大喜び、テレビ画面で見ている。わたしのこの機械でも見られるが、見ている間にも仕事というわけに行かなくなる。
* 息子と深夜に交信、感謝。
2004 2・2 29
* 五時間寝ていない。「ターミネーター」1 を聴きながら発送作業を続けていて三時半。リンダ・ハミルトンが佳い。この映画作品のツクリが面白い。ただの活劇でなく身にソクソクと迫る哀情に惹かれる。それにリンダがきちっとはまっている。
2004 2・5 29
* 作業しながら橋爪健の赤かぶ検事奮戦記だかを聴いていたが、二時間ドラマの欠点が露出。前半の事件と捜査段階はばかばかしくて見ても聴いてもおれず、後半の法廷場面になってやっと引き締まり、つまり前半は全部カットしても、何の差し支えもない。後半だけで何一つ不足なく緊迫ドラマが見えてくるし、その方がドラマの出来として満点に近い。むりやり二時間にしようとするから、ダレてダレて仕方がない。なくてもいい部分は潔く削除する勇気が肝要。
* 昨日のうちに見終えたメグ・ライアン、ケビン・クライン、ティモシー・ハットンそれにジャン・レノの絡んだ「フレンチ・キス」は、文字通り軽いロマンチックコメディーであるが、メグが可愛くて、十分魅力ある作品になっていた。深夜には、カトリーヌ・ドヌーブの「悲しみのトリスターナ」のフランス語を、音楽、として聴きながら作業していた。ドヌーブとあのグレース・ケリーとは、体温の低そうな所がよく似ている。「シェルブールの雨傘」でドヌーブに初めて出逢ったのは大昔のこと。あの音楽名画でも、わたしは、もう一人の、地味な優しい妻になる女優のほうにむしろ共感していた。カトリーヌ・ドヌーブの魅力は、ちと独特。
2004 2・7 29
* ご近所さんからチケットがあるからと誘われて、映画「半落ち」を観てきました。息子の寺尾聡は好きだった宇野重吉を抜いたのではと思われる程、いい演技者になっていますね。
アルツハイマーの奥さんに手をかけて死なせ、自首をするまでの警部の二日間のブランクを追う物語で謎を含ませ、内部の恥部と工作もあり、辛口を云えば少しくどいかなと思う程に泣かせ場を作っていますが。
秘密を守りきろうとする優しみのある人間を描いています。
隣に座ったお爺さん(ひょっとすると私よりも若いかも)が泣いて泣いて涙を拭くので、泣き過ぎイーと思っていたのですが、気付きました。きっと奥様を亡くした老人なんだと。
今、ミシンをかけながら、イタリア映画「星降る夜のリストランテ」を観ていました。言葉の端々が理解出来る時もあり楽しく、内容も一晩、リストランテで食事をする様々なお客達のそれぞれの人間模様を写し、世界共通の悩み悦びをみせていて、面白く。只、そこに登場の日本の子供連れの家族の描き方が偏見で、いつも欧米の映画での日本人の描き方を不満に思うのです。白人第一、まだまだ残る有色人種への差別だと。
* わたしは昨日から今日に掛けて、デブラ・ウィンガーとアンソニー・ホプキンスの「永遠の愛に生きて」を観た。事実は、もうデブラが終焉の間際でやめた。
アンソニーは、イギリスの名門大学の初老の教授で、児童文学作家であり詩人でも。デブラはアメリカからきたユダヤ人の気品豊かな人妻で。聡明、そして自由な一人格。デブラの夫はアル中の暴力的な男らしく、その父親をおそれつつ気に掛けている少年の母である。そのデブラが、イギリスへ、アンソニーの講演を聴きに来る。手紙も来ていて逢って欲しいともある。ずうっと独身同士の兄と一つの家で暮らしているアンソニーたちはこの夫人の手紙にさしたる関心も寄せていなかった。アンソニーは、比較的には魂の自由を得ているが、正真正銘のイギリス紳士で名誉ある知識人、藝術家。彼の或る幻想的な児童文学が、それだけではないのだが、この女性をして太西洋をアメリカからイギリスへ渡らせた。
すばらしい映画である、もう三度は観ているのでそれとはよく知っているのに、また感動し泣かされた。最後のデブラの死をみていられなかった。彼等は、二度結婚する。一度目は紳士として、離婚してロンドンで貧しく生きているデブラ母子にイギリスの国籍を与えるために。その最初の結婚はデブラが必要からも望み、女の気持ちの分からないアンソニーは、形だけの行政的な結婚を与えれば済むのだと思いこむのである、心からデブラを愛しているにもかかわらず。デブラも彼を心から愛しているにもかかわらず。しかもその結婚は立ち会ったアンソニーの兄以外には告げられず、教授は、時にむき付けに所属する大学内社会からも非難される。
ほどなくデブラは悪性の骨癌にいためられて、治療を受けたときは、とうてい助からない、もう末期であった。愚かだったことを覚ったアンソニーは、再び、神の前に永遠の結婚式をあげたいと、病床のデブラにプロポーズする。デブラは喜んで受ける。手術によりほんの一時的な軽快を得たデブラの願いで、アンソニーが少年の昔に魅了されたという地方へ「新婚旅行」し、二人の幸福のそれは美しい最高潮となった。山の草原の雨をさけた小屋で、アンソニーは「死なないでくれ」と言い、デブラはやがて死ぬことをしっかり告げる、いまはこんなに幸せだけれど。
そこでデブラは、こうアンソニーに告げる、「わたしが死にあなたが生き残る深い悲しみ、苦しい不幸。それすらも、今のこの、大きな大きなかけがえのない幸福の一部を成している」のだと、「受け容れて欲しい」と。
家に帰ったデブラに、しばらくの幸福は続いて、予期された転帰のときが迫る……。落ち着いた美しい映像、静かなのに烈しく生動する劇的展開のこころよさ。
* デブラ・ウィンガーの丈高い、一分の曇りもなく若々しく活躍する自由な知性、美しい魂。すばらしい表現である。アンソニーはさらに有名な名優、「羊たちの沈黙」に驚かされた。映画ってすばらしいと、誰かさんと同じに、そう思う。どうも、今時の文学は映画の前でも分がわるい。
今月の「新潮」巻頭作の題がなんとか「殺人事件」で、開巻第一行目に、はや、どう考えてみても明白なケアレスミスの誤植。「新潮」がなあ…と、ビックリする。
2004 2・8 29
* ジョディ・フォスターとアンソニー・ホプキンスの緊迫の「羊たちの沈黙」に、やはり手に汗した。セリフの一つ一つまで記憶しているのに、新鮮で鋭い。深夜の仕事の手がついついとまる。グレン・スコットの役も渋い、この映画、圧倒的な競演の力学が支配しているが、殺人者の主題は、痩せて歪んだ渇望。ハートのない渇望は満たされるものでない。
2004 2・10 29
* あす、久しぶりの来客がある。嬉しい客である。お客さまを迎える余裕もない、つねづねひっくりかえった家なので、うまく、かたづけも出来ない。
新たにものをひろげて仕事するのも、珍客を待っての後かたづけを思うと、やめとこかとなり、そんな成り行きで、ふっと息のつける今日一日になった、アトへ皺は寄るけれども。
原稿を鞄に、街に出かけられるかなと期待したが、結局、そうも出来なかった。小宮豊隆の「中村吉右衛門論」という妙なものを校正し始めたり、山積みのものを押入に押し込んだり。わるくはない。思うように行かない、それが「日常」という気むずかし屋の顔なのだから。夕過ぎて、戦争物の名作といっていい、スピルバーグ監督、トム・ハンクス主演「プライベート・ライアン」をビデオボックスにさしこみ、最初の、オマハビーチ上陸場面を、顔に、烈しいシャワーを浴びる思いで観た。数多いあらゆる戦闘場面の、秀逸というよりナンバーワンではなかろうか。
2004 2・13 29
* 久しぶりに寅さん映画を松阪慶子のマドンナで楽しんだ。松阪慶子は、彼女がテレビというものに顔を出したそもそものアホラシ・ドラマの頃から知っていて、その時に、一目で、この子は大きく売れる、間違いないと妻にむかい断言した。実像は知らないが、女優としての素質はきれいに澄んで深くて、「可愛い女」の最右翼に位置している。それだから、底暗い役が効果的に演じられる。泣かせて旨く、笑わせるとこっちまで嬉しくなる。
同じようなアホラシ・ドラマの端役でデビューした藤純子も、やはり一目でこの子もこのさきむちゃくちゃ爆けるよと予言した。壺フリの女で名を成すとは驚いたが、音羽屋の女房におさまり、菊之助と寺島しのぶの母親になったのはホームラン。こっちは、そうは可愛くない澄ました女優であったが、藤も松阪も、兎にも角にも美しい。百難を隠してあまり有る。
2004 2・19 29
* サイエンス・フィクションだが、わりとまともな彗星衝突の地球聴きを描いた映画「ディープ・インパクト」をみた。もう今日では、かなりのものがリアル・サイエンス・フィクションと呼べるようになっている。彗星が地球に大接近しまた衝突するかも知れないことは、ありえない想像ではない。そうなれば、凡そどんな破滅的惨害により地球まで潰滅しかねないのも分かっている。シミュレーションもされているはずだ。それぐらいの感覚からいうと、今晩の映画は、切迫してよく出来ていたのではないか。ロバート・デュバル、ティナ・レオーニ、マクシミリヤン・シェルらが、とてもよく演じていた。導入から、ぐっと引きこんだ。
結果としてデュバルらの働きで彗星は大と小とに割られたが地球に激突の軌道までは変わらなかった。メサイア号は所期の目的を果たせなかった。「心中」を覚悟したロケット船員等は、彗星の大塊の腹部に氷解孔の出来た中へ突入して残っていた四つの水爆を爆破させ、粉みじんにすることに成功。
だが小さい塊は、先行して大西洋に落ち、想像を絶する大津波で、信じられないほど年も山野も呑み尽くし薙ぎ倒し命を奪い尽くした。それとても海でよかった、地上に落ちていればさらに凄かったろう。エベレスト大と謂われた主塊の方を、決死のクルーが自爆破壊しので、地球の破滅は辛うじて免れた。だが、それも起こりうる推定内のこと。
政治悪や戦争や。そんなもので人類が自ら破滅を引きずり出すぐらいなら、いっそこんな最期の方が、と、ふっと一瞬想ってしまうのが、怖かった。
2004 2・27 29
* 「たそがれ清兵衛」を観た、今晩は。大の贔屓の真田広之と宮沢りえで、これだけの評判だもの、前から観たかったが、映画館に縁がなかった。こんなに早くに観られてよかった。期待通り佳い作品であった。ロケーションがよく、真田は真田の魅力をよく抑えて光らせ、りえはりえの天才を発揮して随所で唸らせた。子役もうまく、最後の斬られの殺陣に応じた相手役の所作の見事さにも感嘆した。ああいうところへ来るとスポーティな真田を凌駕し、所作の歌舞伎的な舞踊性を表現しきったあれは誰だろう、うまさが際だった。脱帽した。
残念ながら、脚本に、ことに台詞のことばに気になるところが幾つもあった。そもそも「条件」などという言葉を田舎の下級の侍につかわせてはよくない。こんな言葉はふさわしくない。「笑い顔」だの「たにんごと」なども、かたわら痛い。「笑顔=えがお」「ひとごと=他人事」という美しい真っ当な日本語がある。こういうところに、通俗読み物を原作としたツケがまわっている。こんな変な言葉を平気で使うところから錆が吹いてくる。
真田の映画では「阿部一族」の隣家の武士にかなり近い役どころだが、いい勝負になっていて、ますます、この俳優が好きになった。
宮沢りえはもう、言う言葉もない。天成の女優であり、把握と表現との深いこと、ただごとではない。どんな役をやっても、この役がりえには一番だと思わせるのだからすばらしい。「北の国から」も「風立ちぬ」も何でも彼でも、役に融けいっている。
2004 3・5 30
* 期せずして同じ西からの便りが届く。宮沢りえは話題だけの人ではなく、天成の演技者であり藝のふかいものを、からだでかっちり把握し、目をみはるほど柔らかに、そう、美しい花びらのように女を、役を、にじみ出させる。中堅で天才的な女優は、田中裕子、大竹しのぶ、そして宮沢りえ。こう挙げてしまうともう根こそぎしたように他にすぐ思い浮かばない。あたりまえで、天才がごろごろいるわけがない。
2004 3・6 30
* 「たそがれ清兵衛」をもう一度観た。じっくり台詞を聞いていると、幕末の山形県の平侍ではまだ使うまいと思われる、近代製の漢熟語が、不相応に安易につかわれている。何度もつかっている。いずれも言いかえの出来ない言葉ではないだけに、イージィに感じた。「絶体絶命」はありえても「絶対」はどうだろう。瑕疵(あら)探しめくのでもう言わないし、あながちそれで悪いとばかり決めつけるのではない、が、気を付けて使った方がいいに決まっている。たとえば奈良時代に取材した小説でも、人物に現代の普通の会話をさせることはある。その方がばかげた昔言葉の不自然さをあえてデッチあげるよりスマートな場合が多い。しかしリアルな時代劇映像では、ともあれ安易にすべきではない。
この映画、たいへんロケーションもよろしく、すぐれてリアルなだけに、「笑い顔」などというきたない言葉を避け、「えがお」が聞きにくいなら、あんたの「笑うた顔」は、ぐらいに言い換えた方が、馴染んで嵌るにきまっている。
それにしても、懐かしい幸せな佳い映画に相違ない。あの「討たれ武士」は、嵐圭史ではなく、舞踊家であろう。田中泯か。決闘はみな優れた写真になっていた。真田の肉体的な反射神経もすばらしく、田中泯の所作は優れた音楽的舞踊であった。幼い二人の姉妹がみごとに後年の岸恵子(ナレーション)にイメージを繋いで、健気に好演していた。岸恵子のナレーションも美しい。佳い映画は佳いものだ。ただし「阿部一族」を抜いたかとなると、場面が違いすぎる。あれは純然の大悲劇。これは可憐なほどの幸福劇として肯定的に作ってある。阿部一族はやはりビンビンと鳴り響く純文学であり、「たそがれ清兵衛」は上品な時代劇であった。「雨あがり」といい勝負だと思う。
2004 3・7 30
* 連続ドラマ「ホワイトハウス」は、佳い緊張に哀切をたたえて、いったん終えた。そこにはホワイトハウスに限らない人間のつらい涙と意欲と思慮が働いていた。チャーリー・シーンが深いものを見せた。感動させた。
2004 3・20 30
* いかりや長介が亡くなった。建日子は通夜に行くとか行ったとか、いう。いかりやに演じてもらった特別番組の二時間ドラマ「孫」は、建日子にはとにもかくにも小さな出世作であった。建日子がほんの小さいときから、ドリフターズの番組は彼のお気に入りだった。わたしも、ああいうドタバタ・バラエティーそのものは好きでないにしても、いかりや長介抜群ののセンスには、いつも共鳴し、笑わされながら大好きであった。彼の力でクレージー・キャッツのあとをドリフターズは大過なく嗣いで発展させた。
演技者に成ってからのいかりやにも、何度も楽しませてもらった。彼が出ると分かるとかなり安心して見る気になれた。植木等や谷啓もわたしは大好きであるが、いかりやの個性には練り上げた神経のこまやかさがあった。そのおかげで、余り上出来とは謂いかねた建日子の「孫」も、助けられたのである。建日子の感慨無量と悲しみとをわたしは感じている。死なれるという怖い意味にも、彼はおそらく初めてブチ当たったであろう。
2004 3・23 30
* 久米宏のニュースステーションがいよいよ終わる。彼の功績は偉大と謂うに値した。賛否の声を新聞が拾っているが、あの愚か宰相の森某が、選挙前日に有権者は選挙当日「寝ていてくれるといい」と発言し、久米がすばやく反応したのを「偏向」放送だと愚なことをガナっている現国会議員のいるのには、呆れた。「どうか国民は選挙権を行使して政治に対する姿勢をみせてくれるように」と言うのが憲法を誰よりも奉ずべき総理大臣の態度であろう、こともあるに「選挙に行かずに寝ていてくれると都合がいい」とは、ムチャクチャなのである。久米宏の反応を当然至極のコメントであると支持するのが国会議員であって欲しい。ことほどさように愚かしい代議士達を国会に送りこんでいるのが、投票率の低い選挙の結果だとしたら、ますます久米の反応は当然の是正発言で、偏向は森某総理にあったのである。
久米の退陣に至った経緯は知らないが、いかりや長介を芸能界が失ったより以上に、日本の社会政治の批評世界の痛手だと言っておく。
2004 3・24 30
* 夕飯に呼ばれたので階下に下りてみると、人気時代劇「御宿かはせみ」の新シリーズをテレビが広告し、主演の橋之助、高島礼子が話し、原作の女作家も話していた。わたしはこのシリーズで「ビタミン愛」の沢口靖子がるいの役をしたとき、彼女のたけ高くて柔らかい情愛の演技を、たいへん好もしく感じたものだから、或いは靖子が演るのかなとふと耳にも目にもとめていた。
そうもしながら、わたしは、このところNHK中心に盛んに放映している「人情時代劇」なるものの「人情」の安さと押し売りにあまり感心していない自分を感じていた。時代劇というとどこかで人情話ふうになる。暴れん坊将軍でも大岡越前でも水戸黄門でも、ベースは人情に甘えて類型化している。出来映えは、佳いモノでも雑なモノでも、質的には同じにつくったウソの都合良さによりかかっている。
「カチンの虐殺」に触れて行く詩人の旅日記は、うまい時代劇の足元に及ばない無造作なつくりと文章であるけれど、どきっと突き立ってくる感銘はホンモノなのである。
ま、このへんでやめておく。
2004 3・29 30
* 秦建日子は、ご機嫌さんで頑張っている様子。
* 3.30 近況。 (秦建日子のホームページから)
突然ですが、秦建日子脚本作品が、6月に上演される運びとなりました。作品タイトルは『5(=フアィブ)』。演出は、私の以前からの舞台仲間であり、ワークショップの共同演出家でもある、松下修。脚本協力に、先日、テレビ朝日から脚本家デビューをしたばかりの栗本志津香。ワークショップの一期生から数人、キャスト並びにスタッフとして参加しています。
浅野ゆう子さん主演の土曜ワイド劇場のシナリオを書きました。現在撮影の真っ最中。「Re-Birth」の築山万有美、「TAKE1」の五十嵐貴子、杉本瞳が出演しています。
浅野ゆう子さんといえば、4/6オンエアのCXのゆう子さん主演ドラマのラストに、Cry&FeelItの「さくらさらり」が劇伴としてかかるそうです。自分の書いた詞がドラマでかかるというのは初体験で、とても嬉しく楽しみにしています。
そのCry&FeelItの初アルバム、4/7から発売です。私は一足先にMDで聴きましたが、本当に「GOOD」なアルバムです。ぜひぜひ、一度、CDショップで試聴してみてください。きっと気に入っていただけると思います。
映画のシナリオは、2稿目に入りました。手応えバッチリです。
小説も、楽しく書いています。
ようやく、家でTVが見られるようになりました。カーテンはまだついていません。部屋から、満開の桜が見えます。春ですね。完全に。初心にかえって、新しい年度も頑張ろうと思います。
2004 3・30 30
* 役所宏司と鈴木京香という好きな二人の、バカに前評判のうるさいドラマがあったので、では見ようかと見はじめたものの、出だしそれほどと思われず、自分の作品の前へ戻ってきた。あれなら、ピアス・ブロスナンとレネ・ルッソの活劇映画を楽しんだ方がマシだったろうか。全部は見ていないのだから判断は控えておく。その前に、巨人・阪神開幕第一戦で阪神が逆転勝ちした(ろうと思っている)方が、活気づいて面白かった。テレビ画面は見てなかった。浴室で、そんな様子が聞こえていた。
2004 4・2 31
* 夜前のドラマ「砦なき者」は、後半をあらためて見たけれど、印象はさして変わらず純熟した作劇とも画面ともわたしは見なかった。鈴木京香が残念なことにブレーキ。あんなに主役の役所にはなから惚れた目つき口つきで全面傾倒されると、そこから作品が甘くなる。そんな鈴木京香の感じがわたしは好きなだけに困るのだ、どの一部分をとってもリアリティーに乏しい、ごたついたつくりものに感じられた。
2004 4・3 31
* 昨晩、テレビで映画「セヴン」を観た。初めてではない。初めての時はグィネス・パルトロウと初対面だった。今は別の作品でも馴染んでいる。このブラッド・ピット刑事の妻の役が、最期に無残といえばこれ以上はない殺され方をしてしまう。その殺し場面や周辺は編集されていて目に見えずに運ばれるけれど、それでも烈しい堪らないショックを受ける。妊娠していたグィネスは、ケビン・クラインが演じたのだったろうか、ニヒルに狂った知能犯により、腹に抱いたわが子とともに一気に殺されている。その殺人が夫ピット刑事の目前で晒されるのであるから凄い。作品としては堅実に追っていてわるい映画ではない。七つの大罪にあわせた殺人の、追いつめられた殺人犯による途中プラン変更による予定通り「七人の殺し」になる。どんなアヤがついていようと、酷いばかりの映画で、ビデオに残そうとは思わない。
* それに較べればインドの映画か「ゴヤの恋歌」は、巧緻に美しい東洋の魅力に富んだ名作である。秘蔵のビデオの一つ。ポルトガルのチャドもふんだんに活用され、原語のナレーションもカメラも物語も、魅惑に富む。もう六七度も観ているがあきない。導入から本編へ入ってゆくのも、その逆も、美しいだけでなく巧みである。ナレーションも一つの音楽に聞こえる。そして音楽が生き物のように効果的に用いられる。
ゴヤの或る頽廃の歴史をもった名家で、主人がよその家で死んできた。少し前から、息子を連れたリスボンの名家夫妻が、ポルトガルからはるばる此の家を訪れている。この家の孫娘アナとの婚約式をしたいのだ。ゴヤでは、インドとポルトガルとの抗争が末期化していて、革命ムードに入っている。
一家の主は夫に急死された大奥様で、娘と婿夫婦には適齢期の姉妹娘がある。アナは妹の方で、やってきた婚約者候補をひどく嫌っている。この家にはもう一人、死んだ主人の私生児で大奥様が養女兼小間使いとして育てた、美しい年頃のミラグレニアがいる。さらにややこしいが、この家には大奥様の信頼厚い、しかし「部外者」でしかない医師とその甥が出入りしていて、この甥がアナに惚れに惚れながら、叶わぬ恋をミラグレニアで果たそうという、青春無頼のロマンチスト。この青年が、映画全体の文字通りの語り手である。
時代は、はるかに後年、もう大奥様もいないし、名家の邸宅は荒れている。かつてこの家から逐われた青年は、いい大人となりこの村へ旅してきた。彼の追憶から始まり、現実で終わる映画だが、その現代と過去との出入りの仕方、みごとである。
魅惑の芯には、深い諦念に生きてきた大奥様の知性と聡明と運命観がある。もう一つは鏤められたゴヤの恋歌である。これがすばらしい。
先日手に入れたポルトガルの音楽グループ「マドレデウス」に惹かれるのも、ボーカルが、歌曲とポルトガル演歌チャドの中間にあり、そのムードに実はもう「ゴヤの恋歌」でやや洗礼されていたからだ。蠱惑の音楽。
2004 4・19 31
* ビデオで「ウエストサイドストーリー」を見はじめた。ナタリー・ウッドと、あ、忘れた、覚えていたのに。そしてジョージ・チャキリスとリタ・モレノ。唄もダンスも古典的、むしろ今では時代の錆もふいていそうなものだが、そうじゃない。絶対に古びていないのが、アントンとマリアの純な恋。歓喜。これ以上に価値あるどんなものごとがあり得るかと、感動する。泣けてくる。すれっからし達は、例えばテレビで、政治や外交や経済やまた犯罪や芸能人の噂をしては意げだが、そんなモノからは、何一つ感動は得られはせぬ。ゴミため同然、臭い臭い。
しかし、若者の不如意と哀愁を素地にした、命を賭した恋は、栄誉とも富裕とも名声とも関係なくても、大いなるモノの前に出て無垢に光りを放つ。人間の究極は死であるが、死を前に光りを放ちうるのは、人を深く励ましうるのは、結局は愛でしか有るまいし、それが文学や映画の、そこに盛られるダンスや音楽の、魅力だろう。シェイクスピアを下敷きにしていながら、このミュージカル映画にはオリジナルな力が溢れる。古びてなどいない。
2004 4・24 31
* 十時に帰ったら、好きなキョンキョン小泉今日子と柄本明とで「センセイの鞄」というドラマが、後半へ掛かっていた。むかし国語の先生だった白髪の老柄本と、教え子なのだろうか四十前の小泉とのさらりと味わい深い恋物語であった。フーンと思いながら観た。ちょっと意表に出た劇を、持ち味で、キョンキョンもエモもみせてくれた。
2004 4・24 31
* 久米宏が引っ込んでから、彼の持っていたメリットは喪ってならぬと考えてくれたか、このところ、マイルドが物足りなかった筑紫哲也も、ハキハキと、云うべきをまっすぐ云うことが多い。有り難い。
今朝の田原番組で、田原総一朗も時宜にかなった話題をとりあげ、たとえばイラクで拘束されていた三人ないし五人への不当なイジメに過ぎた政府筋や便乗国民達への当然な批判を、真っ直ぐに取り上げていた。五人へのいちはやき批判派であった、学者の森本某など政府お雇いのうさんくさいスポークスマンも、へなへなと批判の前に軟化していたのは見苦しい見ものであった。
2004 4・25 31
* 映画「ショコラ」を見たとき、ジュリエッタ・ビノシュやジュデイ・デンチは印象的であったけれど、あそこに少しエキセントリックな印象のキャリー・アン・モスが出ていた事には直ぐには気付かなかった。それほど、妙な役であった。それがどうだろう、「マトリックス」三部作では、キアヌ・リーヴスのネオ(救世主)をしのぐチャーミングで崇高感を湛えたヒロインを演じ、それも、めざましい運動力・能力を発揮しつつ胸にしみ入る献身の愛をネオに捧げて活躍する。マトリックス三部作の主題は、この二人の、一対一の愛が、恋が、真に自由の国「ザイオン」を救うところに凝って来る。
キャリー・アン・モスが本当に美しい。美貌だけを云うのではない、その真摯にひたむきな愛の姿が美しい。
* 最近、わたしを感動させた、どんなことが有っただろう。音楽や美術や演劇や文学や、むろんそれも有る。それらの中でも、やはり愛のかたちが胸に鳴り響いてくる。わたしの源氏物語音読は、ついに最終冊に達し、「東屋」の巻でいよいよ浮舟物語に入る。
あの更級日記の著者が少女の頃に源氏物語に恋いこがれ、ことに浮舟に憧れて、后の位よりも浮舟のようでありたいとかき口説いていたとき、高校生であったわたしは、この一点に限り著者の気持ちを承け引くことができなかった。いぶかしかった。わたしには、浮舟のようにたよりなく薫と匂との間にただよい、宇治川に身を投げたがる女は好きになれなかった。高校生の時のことである。
遥かに遥かに、帝の愛を頼んで源氏を生んでいった聡明でつよかった桐壺更衣。光源氏の愛の手に育てられ敬われ、苦しみつつも生涯を光の愛一筋に全うした、紫上。薫に深く慕われながら、夫匂宮との間に物語世界を完結するであろう男子を生んで、すらりと立っている、聡明な宇治中君。
むろん、この「紫のゆかり」の中で忘れがたい一人は、藤壺中宮である。光源氏の義母であり、光源氏との仲に冷泉天皇を生んでいる。源氏が女として真に理想的に愛したのはこの藤壷であり、そのことはしかし二人の賢さと強さとで秘め隠された。だが紫上が、藤壺の姪で生き写しであった意味はあまりに深い。紫上が源氏の妻になり、そして望んでそこへ戻って死んだのは、二条院。即ち生母桐壺の実家であり、源氏が此の邸でこそ「思ふやうならむひと」つまり義母藤壺と一緒に暮らしたいと渇望した邸であった。紫上は此の邸を「わが子」かのように最も愛した孫匂宮に遺し与え、匂宮は此処へわが子の生母中君を迎えているのである。
藤壷は、意志と愛との女人であった。また忘れがたい物語中の最高位置をしめたヒロインの一人であった。
「マトリックス」のトリニティーを見ているとき、わたしは藤壷と紫上と中君との三位一体の聖母像を感じることがある。わたしの、わたしらしい放恣な想像であるが。
2004 4・27 31
* 吐きけのする仕事なんぞすぐやめてしまいなさい、と、云ってくる人がある。はいと答えるのはたやすいが。日付もとうに変わったし、春の嵐はまだ鳴動しているし。眼はじんじん痛むし。なんだか、シャクだ。階下で「マトリックス・レボリューションズ」でも見て、夜更かしを楽しむか。昼間に抜いたフランスワインの白がのこしてある。そうだとも!
2004 4・27 31
* 「マトリックス・レヴォリューションズ」三部の最後までをDVDで観た。DVDを買ってから二度観た。要するにネオとトリニティとの愛に一切が「結ばれ」て、この乾ききった機械支配の世界に革命が起き、潰滅の戦争は、ともあれ果てた。部分部分に示唆的な台詞も多く鏤められており、この一連の作は、繰り返し観させるだけの内容をもっている。その特質はシガニー・ウィーバーの「エーリアン」とはっきりちがい、またあのリンダ・ハミルトンの「ターミネーター」ともちがう「創世記の哲学」を持とうとしている。しかも、コンピューター世界を虚仮であり、虚仮であればこそ危険きわまりないプログラム世界と見切って、だがそれは神なる善意ばかりとも言い難い造物主の創った世界なのであると突きつけてくる。その虚妄と危険との世界をのがれ、人間的な世界が機械の支配から確立され、人間の手が機械をもう一度平和に支配しうる、そういう革命の原動力は、愛、それも漠然と抽象的な観念的な愛でなくて、むしろ一対一に根底をもった運命をともにする愛、私風に言い直せば「真の身内の愛」を「結論」に置いている。おもしろいと思う。
2004 4・28 31
* 電話で建日子が頼んできたので、九時からの倉本聡作という「離婚式」(この題からしてお安い限りの狙いだが、)を録画していた。ついでに見ていたが、もう出だしからバカらしいほど低調な設定と台詞と演技で、げんなりして逃げだした。通俗物の作者のわるいところ全開という印象で、岩下志麻とは永い馴染み、嫌いではないのだが、薄い芝居をしてくれて、ガッカリ。
昼間に、あの、ヘンリー・フォンダの「怒れる十二人の男たち」を見ていたから、反動のひどいこと。ヘンリー・フォンダやE.G.マーシャルたちの映画の、と云うより演劇の劇的な面白さったら、名作とはコレだ、という代表格。
倉本聰のものでは、以前、舞台でもテレビでも顔を顰めた記憶ばかりで、あの「北の国から」の感動とは、落差の烈しいこと、どっちかが作者がニセモノではないのかと訝しまれる。もっともっと好いテレビドラマ、無いではない。視聴者をナメちゃいけない。
2004 4・30 31
* 司馬遼太郎原作、篠田正浩監督の「梟の城」を見はじめて、しぶしぶ一時間半ほどがまんしたが、あと一時間は堪らぬと、見捨てた。はなから大味で大げさなツクリだなと胸にモタレていたが、体温の低い駄作である。そもそも司馬遼太郎という人は思想家としてはそこそこであったけれど、小説は至って通俗で下手であった。文学的に感心したものはほとんど無い。篠田監督の映画も、なにか近年の作はへんに大げさで空疎ではなかろうか。黒澤明的な様式をねらっているようでいて徹しないし、時間に甘えて、だらだらと造っている。以前の「写楽」は篠田作品ではなかったろうか、真田や里緒菜を旨く使っていたが、その辺どまりではないか。どうも名前だけを売った大家のものが、いっこう面白くないという例がつづく。大江健三郎の作品も大方が独善的に混乱し感想していて、無用にお高くはなかろうか。
2004 5・1 32
* 昨夜の「梟の城」をビデオで観たが生煮えに終始し、何のとりえもない駄作そのもの。あれと較べれば今夜の「猿の惑星」は秀作の一つだと思うが、妻はゼッタイいやだと云う。あれは日本人を猿に見立てて作った映画だと。なるほど。あきらめた。
* K1の幾つかの試合をテレビで。すさまじい。
2004 5・2 32
* ジェームス・ディーンの「エデンの東」を観ていた。この映画、好きである。ディーンもすばらしいが描かれている父と息子と恋人と母との表現が、吐く息や声音まで、みじろぎまでもリアルで、余の劇映画と比較し、現実空間を呼吸するような静かさ。不自然な大声で誰も話していない。ディーンが、この優れた映画の優れた演技でいわば永遠の人気を獲得したのもむべなるかなと納得する。表情、身動き、声音、そして気持ちの出て来かた。切なく美しい。
いまわたしの悩みの一つは、こう佳い映画作品ばかりビデオで持っていると、減らずに増える一方、狭い家がさらに狭苦しくなること。
2004 5・4 32
* 久しぶりに映画「釣りバカ日誌」を観た。へんに尻切れ蜻蛉。三国連太郎、宮沢りえ。何度も笑えた。
2004 5・5 32
* 疲れるとこの機械のDVDでまぢかに「マトリックス」特別版を見ている。映画と音響を独占している感じで感情移入がつよい。キャリー・アン・モスにこう間近に直面するとドキドキする。
そして新しい小説を二篇、「ペン電子文藝館」に送りこんだ。
少しもの憂い気分でいる。しっくりと気持ちがおさまらない。マドレデウスの「エレクトロニコ」を今は聴いている。金属的な機械音に刻まれて、テレーザ・サルゲイロのえもいわれぬ優麗柔美な声音のつくり出す不思議なマッチとミスマッチ。とろりと、聴く耳から溶けて行くよう。映画「黒いオルフェ」の音楽とはちがうのであろうが、通い合うものをやはり持っていそう。あの映画ももの憂く悲しい物語であった。「エレクトロニコ」。はじめは異様に聞こえていた演奏の面白さが、繰り返し聴くに連れ生き生き伝わってくる。躰をすこし揺らしながら、ぼんやりしている。
2004 5・6 32
* 母の日だという。育ての母も生みの母も、とうに、いない。わが子の母が、いつまでも、健康に長生きしてくれますように。
* 小雨であったけれど、妻と、池袋メトロポリタン・プラザ八階にある映画館で、「真珠の耳飾りの少女」を観てきた。画面が正に克明で重厚で艶麗な十七世紀世界。運河と橋と煉瓦と地下室と屋根裏とランプと雪の、オランダのデルフトであったか。ヤン・フェルメールの名画「真珠の耳飾りの少女」が描かれるまでの、抒情的な、しかもリアルタッチの映画づくりには、何といっても繪と酷似して繪よりも美しいヒロイン、繪の動機にもモデルにもなっているスカーレット・ヨワンセンの純に憧れ多き下婢の役が、抜群の魅力であった。映画の全部が美術品であった、その方面でアカデミー賞にノミネートされていたのは当然だ。おもしろかった。
見おえて、こらえかねたように妻が感動の声を放とうとし、わたしはかえって慌てたほど、満足は大きかった。画室、絵具づくり、色だし、筆、箆。そして画家とパトロンの画商。みな興味深かった。それに今度わたしの出す藝術家小説の長編とも無関係ではないのである。もっとも、わたしの作品は此の映画のようなこってりと濃厚な脂っ気はからっと抜いてあるが。
前から観たかったし、池袋で観られるというのも気に入っていた。妻へ「母の日」のプレゼントとしては佳いだろうと思い、誘った。帰りに東武の地下食品売り場で多めに買い物し、また京都美濃吉の店で「母の日弁当」を一つ買って帰った。一つで二人に十分な、味付けもよく品数も豊かな佳いサービス品であった。
2004 5・9 32
* アルカイダによる米民間人の首切り写真だとか、アメリカ兵によるイラク捕虜の陵辱写真だとか、民主党の混乱、公明党の欺瞞的な年金対応とか、小泉内閣の対北朝鮮おろおろ外交とか、皇太子の切実よくよくの抗議会見とか。ゲンナリとしてヤになることばかり。
* それで玉三郎監督の「天守物語」前半を観て、気分直しをした。鏡花にも、見せて上げたかった。そう想うとしきりと目頭に煮えるものがある。この今や著名な鏡花劇の代表作は、作者の生前、ついに舞台にならなかった。
とても簡単に実現できる作ではない、玉三郎のまさしき天才がなければ、ああは見事に実現ならない難しい幻想劇。美しくて怖くて、したたかな幻想劇。
南美江という力強い名女優の表現力を活かし、市川左団次の柄を活かし、そして、ふっくらと初々しい宮沢りえを起用した玉三郎の配役が生きた。むろん主役の富姫は、玉三郎。そればかりか舌長の姥と二役で。
超現実の場面場面に、鏡花ならではの精緻で奇妙な演劇言語。これを活かせる才能が、玉三郎出現までに実に一人も期待できなかった。鏡花は、地下で辛抱よく坂東玉三郎の天才を待望していただろう。よかった。鏡花に見せて上げたかった。
観ていて、ほんとうのカタルシスを覚える。すかっとする。うっとりする。鏡花はたんなる藝術至上主義の唯美派ではない。それだけではない。彼は生理的に「権力が嫌い」であり、従ってこの物語の時代でいうと、大名や、偉ぶった武士たちが、大の大の大嫌いである。その好みが痛烈に表現されていて、現世でなら、姫路城天守の富姫や、はるばる五百里の空と雲を踏んで猪苗代から遊びに来た宮沢りえ演じる亀姫も、みんなみんなみんな化け物で、播磨の太守は地上の権威なのであるのに、みごとその価値関係を逆転して書かれている。吐いて棄てるようにあしらわれて、播磨の太守は雨に濡れ、名鷹を奪われ、秘蔵の兜を嘲笑われ、それのみか、実の兄弟の猪苗代の城主の生首が、亀姫から富姫へのご馳走の土産にされている。それが実に、この私にも痛快。わたしは、徹底して鏡花の徒であり、単に文学においてのみでなく、その思想や憎しみに満ちた偏見の類にまで賛同を惜しまない。世俗虚飾の権威は大嫌いなのである。
イヤなこったの毒消しか吐瀉の特効薬として、わたしが殊更に選んだのは泉鏡花であり「天守物語」のフィルムであった。クスリはよく効いた。佳い藝術は、嬉しい。嬉しい。
2004 5・12 32
* エリザベス・シューの出ている「セイント」という映画を半分観ながら、発送の作業を続けていた。そうイヤな映画ではなく、そこそこ楽しんでいた。
今日も、いろいろと前へ用事を押し出していった。わたしの事業は、上のメールの人とちがい、営利とは滴ほども関係がない、あるとすれば、少しでも気と手をぬけば出銭がふえ、赤い血が全身に滲む意味で、非営利に関係がある。気にしていない。気にしたりすれば、わたしもこの人のように、針鼠のように、痛い黒い針を全身に刺したまま飯を喰い、外出し、仕事をし、本を読まなくてはならない。わたしはもう、稼ぎたい儲けたいなどと云うことをてんで考えていない。わたしにはそういう能力のないことを可笑しいほど知っている。むしろ怪我や病気をしたくない。
2004 5・28 32
* タクラマカンに雪解けの河が流れ込んで、五百キロの砂漠の旅をしてタリム河と合流するのを、映像で、ていねいに追ってくれた。流れる砂上の河も圧巻だが、四分の三は砂漠に吸い込まれるという、その荒漠とした砂の国の地下海を想像するのも限りなくおもしろい。流れ走る水勢が砂漠の表皮をひんめくるようにして地下へ烈しくもぐり込んで行く凄さ怖さ、また美しさ。一日の終わりに佳い映像に恵まれた。
2004 5・29 32
* 晩、作業しながら、知床半島の自然の不思議さ美しさを、テレビ映像で堪能した。
ひきつづいてビートタケシ、阿川佐和子の「テレビタックル」を聴いていたが、ハマコーのわめき声ばかりが耳に響き、興を殺ぐ。おちついた議論を聴きたいのに。
古館のニュース番組はとかくの評判に晒されているが、登板早々の出だしとしては十分及第点を出している。姿勢はあれで良い。年金問題で質問に応じない議員達の名前も連ねて出したのはいい狙いだし、小泉のあまりにばかげた驕り高ぶりをきちんと衝いてゆく取材姿勢にも賛成である。
2004 6・7 33
* 秦建日子が七夕から一夏の連続テレビドラマをはじめるらしい。わたしの好きな、演技の上でも評価高い「最後の弁護人」の須藤理彩や「天体観測」の田畑智子や、それに初見参の宝塚天海祐希が主役であるらしい。前田利家とまつのドラマでの天海は、長身をもてあまして見えたけれど、最近、保険のコマーシャルをしている彼女はチャーミングで「いいね」と我が家で好感し褒めてもいたところで、息子の脚本を演じてくれるというのを、おやおやと喜んでいる。あのコマーシャルはなかなかけっこう、自然な笑顔。少し惚れていた。秦サンは、いけずな根性悪女でさえなければ、すぐ惚れる、と云われている。ま、それが平和である。
建日子も、脂ののった、勢いのあるうちに、意欲と基本のしっかりした良い仕事を、どしどし続けてくれるといい。演劇舞台の仕事とも、いまのところ両翼うまく羽ばたいている様子であり、功を急がずに手堅く精神性の地盤を築いて欲しい。
2004 6・9 33
* 久々に大竹しのぶのサスペンスドラマを観た。彼女の演技は大いに楽しめる深い表現であった、さすがに。ま、そこまで。脚本には今一つのノリがなかった。
このところ、佳いテレビの映画とも出会わない。うちの機械はテレビも録画機械も再生機能もみな古すぎる。そろそろ、せめて衛星テレビも観られるようにしたいと思うときもあるが、それでは怠け者はますます怠けてしまうかも。
2004 6・28 33
* 巣鴨へもどり鮨の「蛇の目」で夕食した。この、妻とは二度目の芝居帰りの鮨が、うまかった。いいタネをつかうなあと感じ入り舌鼓をうった。若い板さんはわれわれをよく覚えていて、息子のことまで尋ねてくれた。
秦建日子脚本の天海祐希主演「ラスト・プレゼント」は七夕の十時から始まる。
2004 6・30 33
* 久しぶりに映画を観た。ドイツの「Uボート」だ、ドイツ映画であり俳優に全く馴染みなく、あのロバート・ミッチャムとクルト・ユルゲンスの「眼下の敵」が上出来のお話しに想えてしまうほど、渋いリアリティに充ち満ちた潜水艦映画であった。ラストまで凄惨で無常を覚えた。納得し、息を呑んだ。
2004 7・1 34
* ショーン・コネリーと、キャサリン・ゼタ・ジョーンスの面白い映画をビデオ撮りしていたけれど、やはり秋聲を校正し終えたくて妻にビデオの方は頼んで、読み終えた。入稿した。次は、藤村の「伸び支度」を。「嵐」が既に入れてあるが、同じ時期のこれまた心温まる名品。「ペン電子文藝館」に温かい佳い血液をたっぷり輸血しておきたい。
2004 7・4 34
* 日付がかわって月曜に入っている。さっきの映画を見終えて、やすもう。
2004 7・4 34
* 秦建日子さん脚本の「ラストプレゼント=娘と生きる最後の夏」主演天海祐希は、東京上野出身、娘の従兄弟と高校の同級生で、名前で呼び合う程の友達だそうです。建日子さんとも同年ではないでしょうか。
宝塚での、面接試験で、「落ちたら来年は受けません」(大抵は来年も挑戦しますと答えるらしい)と、意表を突く返答で、その容姿、素質も含めて合格したと、伝説的に聴いています。最短距離でトップ(組の主男役)になり、溢れる贈答品は受け取らず返品、トップになるやまた最短距離で退団してフアンを惜しませ、当日フアンの待つ道を愛嬌を降り巻かずに淡々とした態度で去っていったのも初めてのスターだったとか、風説は数限りなく、一風変ったスターだった、らしい。
かなりのマタ聴きですけれど、さっぱり気質が、私の好む処です。 東京都
* わたしも「さっぱり気質」大好きだ。さっぱりせず、品もない。これはイヤだ。天海祐希の最近のコマーシヤル、すっきり綺麗で、嬉しく見ている。明日夜十時から日本テレビ(讀賣系)の建日子のドラマは、かなり内容はシビアでつらそうだが、佳い顔ぶれが主役を力で助けてくれそう、こころよい展開を願っている。「さっぱり」「品良く」美しく物語が運びますように。
2004 7・6 34
* 秦建日子作・脚本「ラストプレゼント」の第一回(日本テレビ)。主演天海祐希以下、みな気持ちいいさらりとした芝居で、文句をつけるほとんど何物も無い佳い出だしとなった。つらい苦しい設定だが、画面を清潔に明るくたもたせ、陰惨な重みを過度に打ち出さなかったのは佳い演出。ま、この出だしならば温和しい、大過ない、次への確かな繋ぎになったと思う。
ヒロインの離婚した夫も、母に逢いたい八歳の娘も、ヒロインの若い同棲男も、前の夫の新しいフィアンセも、ヒロインの勤め先も、故郷の親たちも、みな、少なくもうわべでイヤな人は一人もいない。願わしきされが普通の人の世というもの、リアルというものでもある。温和な設定だ。したがって不自然なドタバタではない。ありのままの、誰にいつ降り懸かるか知れない悲劇の幕開けである。「余命三ヶ月」の無自覚の死病。そういうのも、有るのである。
天海祐希は、素質的にあの大地真央より「普通」であることにおいてスケールの大きいみりょくてきな芝居を見せている。普通人の清潔さで、異様な困難と不幸にどうにかして立ち向かわねばならない虚脱と哀しみと、まだ信じ切れないようなとまどいを自然に演じていて、好感度すこぶる高い。
建日子の作品としては、むしろ彼の生来の持ち味によく根ざしている。もうこれ以上は異様な状況をムリにつくる必要はない、人間の深い悲しみと勇気とを書いていって欲しい。娘の役をしている女の子は、なにかしら異様なショックを与えるコマーシャルを以前にやってはいなかったか。このドラマではその印象も少しひきずりながら、屈折痛ましい、抑圧された感性を、とてもリアルに出していて、目が離せなかった。
*「天体観測」は元気であったが、混雑・雑駁の元気さであった。船頭が多くて船ががさつに揺れる、それが青春の哀歓を成すという体であった。
「最後の弁護人」、は主人公を演じた阿部寛の芝居と助手の須藤理彩の活気とが、気持ちよく噛み合い、脚本の纏まりもよく、読み切りものの連続ドラマとして、やや異色に成功していたが、それ以上には出なかったし印象も長くは残らなかった。ただ、うまくなったなという段階に入って、真面目に創っていたのがよかった。
「共犯者」は、作者が、創作者という意欲をそそぎこんで、ケレン味をいとわずに特色有る物語を組み立て、大いに凝った。不真面目には堕していなかった。プロの仕事になってきていた。あの意欲は一つの脱皮に相当していたと思う。
「ラストプレゼント」は、これまでの彼の連続ドラマと全く異なる佳作に成ってゆくであろうと、信じたい。切実な、だが決して稀有ではない題材を通して、秦建日子なりの「死なれて・死なせて」を、作者として体験するのだろうと思う。
まだ未熟に幼稚な頃、「死なれ・死なせ」る堪えがたい重いテーマ性について、どうしてもまともに向き合えず、軽く逸らしていつも茶化していた息子が、本気でそういう主題に進んで直面している。感慨深い。わたしも初めて落ち着いて、テレビの前で、ともに感じたり考え直したりしてみたい。
2004 7・7 34
* 昨夜のTV、ご子息の脚本、よかったですね。鑑(み)てから知りました。天海祐希は昨朝4CHの番組に出ていましたが、好感印象を増しました。すでに、明らかに「ひとつ抜けた、性を超えたもの」を持っていますね。 西多摩
* 二シーズン程前だったか、一つだけ楽しみに観ていた、大きく評判になったテレビドラマが、同じ年頃の夫婦が離婚して、同じ年頃の女の子を仕事人間の父親が引き取り、子育てはしているが、母親不在で、子供は少し屈折している処から始まる、ほぼ同じ設定でした。
それとは全く情況も違い、男の子だったけれど、ダステイン・ホフマンの楽しめた映画「クレーマー・クレーマー」を、誰もが思い出すだろう、と、その時思いましたが。
離婚の場合、母親が子供を引き取るケースが普通であり、父親が引き取る事によって、何らかのドラマが生れてくるワケです。その折の女の子の演技がうまく、評判になり、今、CMでよく顔をみかけます。
終盤は予測される出だしですが、例によって登場人物たちのテンポよく、感覚のいい今風のセリフを楽しみに観ます。 東京都
* 秦建日子の今度の作品は、主題が離婚でも、子供でもなく、動かぬ「余命三ヶ月」という決定的な「生死」のこと。「自分自身に死なれてしまい、自分自身を死なせてしまう」切羽詰まった「生きる」ことが主題だろうと見ている。そうあらねばならぬ。上のメールには、その点が抜けていて、軽い。
2004 7・8 34
* いつごろに仕入れておいたのだろう、引っ張り出して「パラダイス」という素晴らしい映画を、ビデオで観た。すばらしいとしか謂いようがない。「イル・ポステイーノ」とか「ショコラ」とかと、作の空気は似ていて、さらにはるかにリアルなリアリティーが美しい。シチリアの質素な村の風土が手に触れるように映し出され、村の娯楽はちいさな映画館の映画。映写役のおじさんアルフレッドと、おじさんも映画も大好きな小さな小さな少年トトとの、切ないほど愛ある関わり。そのアルフレッドおじさんの葬儀の日に、ローマで映画製作者として立派に成功しているトトが、三十年ぶりに帰ってくるまでを描いて、「夢」のようである。
もう一度も二度もおちついて見直したい。
* この村の映画映写には、村の司祭さんがまず毒味をして、キスなどのラブシーンは全部アルフレッドに命じて割愛させていた。その割愛されてたフィルムシーンを、ラストで、トトは丁寧に再編集し、一人試写室でじっと見入る。キス、キス、キス、キス、キス。そういうシーンを全部削り取られた現実世界を、村の人達はそれでも熱狂して観ていたのだ、だから僅かにそんなシーンが生き残っているときのみんなの歓喜と喝采と興奮はいやが上に素晴らしかった。その映画讃歌は、胸に食い入るよう。だが讃歌は「映画」に対してだけであったろうか。
アルフレッドおじさんのきつい忠告と愛の示唆・指示とに従い、いつか、決然と故郷の村を出て行ったトト、成人し成功したトトは、亡くなったアルフレッドの形見としてのこされていた、そういう「割愛され切り刻まれたフイルム」の粋を再編集して、遠く失った「恋」の嘆きと思い出を胸にしたまま、数々の名画、秀作、娯楽映画からの、キス、キス、キス、キスのシーンにじいっと観入って、ついに「FINE}マークに到る。理屈を言うな、ぐだぐだ云うな、人生の極致は、つまりは愛に溢れたキスの一つ一つに如(し)くはないと、この映画「パラダイス」は痛烈に言い切っている、さながら、「いのちみぢかし恋せよ」と。このキスシーン(愛)を欠いた映画(現実・人生)の、何と味気なかったことか。人生の「パラダイス」とは何か。劇場公開では「ニューシネマパダイス」とされていたが、この改題には必ずしも賛成しない。「映画」が主題のようで、実はもっと「人生」の深部に批評の錘がしかとおりている。
2004 7・14 34
* 秦建日子脚本の「ラストプレゼント」二回目も、さらりと済んだ。あまり軽妙がった投げぜりふのやりとりが過ぎると、平凡な普通のトレンディードラマっぽくなるから、注意して欲しい。軽妙でもいいが、その辺で安く気取ってしまって、大事な重いものを零さないように。ま、うまく進んでいる。ヒロインの魅力と子役の存在感とがしっかりからまって来ている。
サバイバルゲームとは驚いた。余命少ないと確定しているヒロインである、あまり遣りすぎると、リアリティーに響くだろうからね。
2004 7・14 34
* 「ニューシネマパラダイス」は、映画の中の映画館に名付けられているが、映画讃歌の映画という以上に、何の観念的な言葉一つも用いずに「人生の幸福」を示唆している。この映画ほど、映画のキスシーンやラヴシーンに深い象徴の意義をもたせた映画は他にないだろう。そのことを、そういうシーンを「割愛」した映画から、逆に指摘している。それが不思議なほどの示唆や刺戟になっている。「心」をどう観念的に幾ら語ってみても、その断片もリアルに捉えられないのに、「体」からの表現でかえって「心」が感動にふるえる。
繰り返し映画を観たが、どの小さな部分部分からも吹き付けてくる感動や共感がある。哀しみもわき哄笑もふきあげる。すばらしい。今度建日子が来たらぜひ一緒に観たいなと話している。
2004 7・21 34
* 秦建日子脚本の「ラストプレセント」三回目、かなり息苦しくなってきたのは「余命三ヶ月」を追うドラマとして余儀ないことであり、同じような宣告を受けた「半年余命」のいいおじさんが転落自死をとげもした。
ドラマはヒロインの印象がきれいに生きて、すっきりとしたいやみなさで進んでいる。観ていてさらにさらに辛くなるであろう、ふつうはわたしたちはこういうドラマは敬遠してみない方なのだが、こんどはヒロインを見詰めざるをえない。ヒロインがさらっと美しい天海祐希でよかった、みやすかった、と思う。
海岸でひとり、「いちばんうまいはずの鍋物」を、「うまくない」と呟きながら食べるシーンはこたえた。
また、取引としては大成功しかけた不満な設計を、これが自分の最期の作とは云われたくないと毀してしまう気持ちにも、共感できた。ただ、どうして自分の子供にあれを云ってしまったのかと、母親としてのある種のブレーキの聞かない子への甘えのようなところが、辛さを濃くする。連続ドラマとしては稀有なほど、技術的にケチをつけるところが見つからない。すらりと綺麗に進んでいて心地よい。空気はリアルに近く、軽薄ドラマには堕していなくて気持ち佳い。だが、かなりきわどい低空飛行をもドラマは強いられている。うまく飛び続けて貰いたい。
2004 7・21 34
* シュワルツェネッガーのいかにもマッチョなジャングル映画をテレビで観てしまった。ドラマも何もない、ただもう「設定」だけで強引に作り上げたもの。
あすあさって、少しずつ涼しくならないものか。
2004 7・25 34
* 秦建日子脚本の連続ドラマ「ラストプレゼント」今夜はひとしおすっきり清んで、美しく流れ、テンポもドラマも各俳優達の演技も、申し分なく心地よく、うまかった。ほぼ何一つ引っかかるイヤミもなくて、しみじみと感じ入って観た。贔屓目でなく、うまい、良くできた演出で写真で、そして台本だと、てらいなく褒めてやりたい。うまくなったなあ、やはりこういうふうになるんだ、真面目に続けていればと、それが嬉しく、場面場面の人物に共感し笑い泣きながら、嬉しく見終えた。早く来週が見たいなどと思った建日子脚本は、初めてである。
天海祐希というヒロインが逸材であること、よくよく合点した。べたつかない、自然ないい女を創作している。「最後の弁護人」の須藤理彩、露伴の孫を演じて出色の田畑智子、それにあの「踊子」の巧いヒロイン、さらに「時宗」の博多商人以来印象濃い設計事務所のキャップにしても、花屋の二人にしても、みな確実に働いている。そして子役がニクイほど胸に来る。
けっこうでした。ありがとう。建日子は三十六歳になっている。ああわたしの「廬山」や「閨秀」の頃へさしかかっている。前者は瀧井孝作先生や永井龍男先生に芥川賞に推して頂いた。後者は吉田健一先生に高く評価して頂いた。そういう具眼の人に建日子も出逢いますように、と祈っている。
2004 7・28 34
* あの名画「ニューシネマ・パラダイス」でトトの胸に焼き付いて離れない行方知れない恋人は、戦後の名作「禁じられた遊び」の可愛いヒロイン、ブリジット・フォッセイであったとは。またあのトトを可愛がった写真技師アルフレードは「イル・ポステイーノ」で亡命大詩人を演じていたフリップ・ノワレ。巧いはずだ。
2004 7・29 34
* 昨夜は午前五時に電気を消した。もう床にと思いつつつけてみたテレビで、たまたまの映画アマンダ・シュール主演の「センターステージ」に惹きつけられ、四時まで、やめられなかった。バレリーナを夢見るニューヨークの名門バレエ団の練習生が激しいレッスンに挑むのである。ダンス=舞踊はわたしの最も好む藝術のひとつで、ただもうレッスンのリアルな情熱と表現に魅了されて最後まで楽しんでしまった。
2004 8・4 35
* 秦建日子脚本の「ラストプレゼント」 躓きなく、たとえばコクのある清水をさらさらのどに流し入れるように無理なく楽しんで、胸に迫って観ていた。あの建築事務所の大水漏れは、最近建日子のマンションで起きた突発事故を取り込んだらしい。うまくなった。今度のは安心して、ただもう天海祐希とその娘役とに眼をそそぎ思い入れしながら観ていられる。嬉しいこと。ヒロインの元良人も、その新しい妻候補も、ヒロインの助手役のような佐藤理彩も、田舎の家族達も、みな、気持ちが佳い。初めて、純然と建日子の作劇を無心に鑑賞している。
ヒロインは、建築上大きな商談に結びついたが、俗っぽくて気に入らない自作設計を、客の目の前でぶちこわし、心から気に入っている自信作の料亭で、娘と食事の最中に、余命三ヶ月の病状を俄に悪くしている。この辺の作品の、藝術的かどうか、ともあれ作者としての満足感の落差が、二三日前の建日子の「藝術論」に少なくも反映していたのだろう。
彼は、依頼の「小説」も書き下ろしたらしい。どんなものになったか、その苦労もあの批評に反映しているのだろう。まさか予防線ではあるまいな。
建日子がこうして地道に自身の道を切り開き続けているにつけ、朝日子にも同じような生き甲斐を持たせてやりたかった、まだ遅くないよと言ってやりたい。
2004 8・4 35
* ウービー・ゴールドバーグ主演の「天使にラヴ・ソングを」をキッチンで独りで観ていた。初めてではないが。佳いところへ来て佳い歌声が上がると、声に隠れてクーゥッ、クーゥッと、喉を鳴らして感動して泣いていた。音楽には弱い弱い。若い瘋癲だと苦笑した。
2004 8・6 35
* 秦建日子脚本の「ラストプレゼント」は、今夜も申し分無し、したたか泪を堪えて堪えきれなかった。三人で医者に会いにゆくあたりがきわどく危ないと云えば危ないすれすれだが、ヒロインの、毅いものあはれに支えられて、ドラマは美しくはりつめて前進した。けっこうである。天海祐希がこのドラマにピタリとはまって自然に上手い。こんなに優れた演技者であると知らなかった。建日子は主演女優に恵まれた。観ているわたしたちも恵まれている。
2004 8・11 35
* ジョディ・フォスターの映画を観ていたが、も一つ火がついてこないので機械の前へ戻ってきた。
2004 8・16 35
* 秦建日子脚本の「ラストプレゼント」は終盤に向かい、天海祐希の死期をはやめてゆく美しさと深い寡黙な演技が見栄えしたが、とてもつらくなってきた。犬づれの男の子と子供が家出したりというのは、ナミのドラマの安易な成り行きで賛成しない。ナミのドラマで妥協してはいけない、あの子はその定位置にいたまま長い歳月を忍従してきた、その辛さを濃縮したまま魅せる方が視聴者は深く胸をつかまれる。ああいうガス抜きのような家出は有効と思わない。ああ軽い伏線だ、家出だとわかって少しシラケかけたが、天海祐希のやつれと気丈と緊迫が、騒ぎ立てずに見栄えしたので救われたと思う。つらくなってきた。あんなむすめに死なれる親たちは、子供は、身の回りの者はみなが堪らない。「死なれる者は堪らない」というわたしの主題を、現在進行形で死ぬ者の上におきかえて、作者が誤魔化しなく渾身の表現を与えうるように、つよく深く事態を把握して欲しい。頑張って欲しい。
2004 8・18 35
* 秦建日子脚本の「ラストプレゼント」は、今夜の集結部で、一つの展開が約束されたように見える。実現するためにはきつい垣根をみなそれぞれに越えねばならない、それがドラマというものだ。
劇的とは、自分に起きる切羽詰まった問題に身をすてて取り組む状態、どうしようもない自己否定によって向こうへ駆け抜ける意味であるが、このドラマは、そういう意味で正統に「劇的」な試みになろうとしている。それでよく、それはとても厳しく悲しく辛いことである。書き上げてからひとり泣くといい。それまでは作者は堪えねばならない。
2004 8・25 35
* ジャン・クロード・ヴァン・ダムの香港映画はあまりに殺伐としているだけで、投げ出した。
建日子が骨休めに数日どこかしら温泉へ行ってくるので猫を預かれと云ってきた。何度か経験している、戸外へ出せない猫なので気を使うが、特大の図体のわりに鈍色の気の優しい温和しいオスである。うちの漆黒金眸のマゴとは互いに敬してやや離れて互いに意識している、いつも。
2004 8・26 35
* 秦建日子脚本の「ラストプレゼント」緊迫し切迫してきて、つらいほど。こらえて泣かされる。天海祐希の、美しさ以上に表情の深さに惹かれる。いいもので魅せて呉れる。リアリズムだとは思わないし、それでいいのである。リアリズムだけが表現ではない。
2004 9・1 36
* ケビン・ステイシー、ラッセル・クロウそしてキム・ベイシンガーの映画を観た。前にも観たような観ていないような。まずまず、しばらくぶりにそれらしい映画を観た。今日はほんとうになーんにも出来ない一日であった。
2004 9・5 36
* 秦建日子作のドラマ「ラストプレゼント」、五分前まで昏睡していた。
ああいうドラマだもの、済んでからも暫く水をかぶったようになっている。書きようによれば、にっちもさっちも行かない悲惨のかぎりであり得る状況を、ああいう具合に持っていく、あれが建日子のもちまえなんで、どうしても彼のドラマは、本領としてああなって行くことが多い。甘くて優しい。優しすぎるのかも知れないがピュアであり、意地悪くない。ひがんでいない。あれでいろんなことを配慮しながら我々の家族へもメッセージを送っているのだろう。
これまでに、もう結構多作してきた建日子の仕事の中で、この「ラストプレゼント」と天海祐希の家族達とを、わたしは大切に記憶し続けるだろう。感謝している。
2004 9・8 36
* ラストプレゼントのようなドラマは設定が苦手で、普通なら絶対敬遠するのですが、建日子さんの作品ということで何気なく観て以来、惹きこまれています。とくに娘が夢中で観ていて嬉しく。
日本のこの手のドラマのちゃちなことは耐えがたいものがありますが、この作品は佳いなあと思います。まっすぐで甘そうでいて決して甘えなくて、真実に触れている。心に伝わります。来週最終回でほっとしています。苦しくて、そろそろ天海祐希さんを終わりにしてあげたいのです。
このドラマはよい脚本を得て、天海祐希さんの代表作になるかもしれません。以前桐生夏生さん原作のドラマでその演技力に感心していましたが、回を追うごとに明日香のしぜんに美しく、澄んでいくことに魅せられました。
「ER」でグリーン先生が脳腫瘍の再発、診察も困難になり今日で病院の仕事が最後という回で、観終えたあと、私はしばらく口もきけませんでした。ドラマとわかっているのに、何年も観てきたドラマなので、数日間友人に死なれたくらいの重さで落ち込みました。胃薬まで飲みました。バカでしょ。それだけ真に迫るドラマだったのだと思います。
きっとラストプレゼント最終回も胸に堪えるでしょうが、明日香に拍手しながらさよならと見送ってあげたいと思います。 東京都
* 今日のバグワンで印象に残っている言葉。
もし地上が地獄であるとしたら
その創造者はあなただ 94頁
思考は暗闇のようなものだ
それは内面に光のないときだけしのび込んでくる。 99頁
もう一人のわたくしに、もっと早くに読ませてあげたかったと思いました。 都内
2004 9・8 36
* 天海祐希のような娘を喪うなんて、親は、子は、たまらない。ただの一視聴者なって自分をひとり励ましている。
2004 9・8 36
* 何はともあれ散髪した。スッキリした。理髪店は夫婦と息子とでやっていて、息子は読書が好きという触れ込みだったので、見繕っては読みやすそうな本をあげている。奥さんは建日子脚本の「ラストプレゼント」の熱愛者で、ご亭主は本気でサインが欲しいと言う。有り難くも奇妙な理髪店。だが奥さんの言う、「あんな風に本当に人を感動させるお仕事というのは、すてき」とは言い得ている。つまり不真面目な、おもしろづくの出鱈目ドラマは本音ではいやがられているのであり、中身がどうあれ、せめてまじめに創れよと言ってきたのと軌は一にしている。
* 散髪はしたしと、勇んで街歩きにと着替えもしたのに、世の中真っ黄色に太陽燦々、あまり暑げなのにたちまちヘキエキし、ビデオの映画「ディープインパクト」を観て、少し泣いた。それからスキャンを初め、快調に五六本、今日はこれまでと終わろうとして、マンマと全部消去。グッタリ。そのまま横になって六時半までまた寐てしまい、さんざんの体調、さいていの気分。
気分直しのいいメールが来ていて、もちなおす。用事は沢山あるのに、日々が、夏以来やや単調に推移している。数年分も一時に老いてきた気がするほど、両肩も背中も肉薄く硬ばっていて痛む。ふっと目をとじさえすれば、椅子のママ機械の前でもスースーと寐てしまう。そういう自分を別のひとのように傍観している。
2004 9・12 36
* 失敗のダメージを取り返すには、いくら疲れていても失敗した仕事を即座にやり直すこと、その方がはやく忘れられる、口惜しいけれど。それで、さっさとまた同じだけのスキャンをやり直した。それから夕食し入浴し、ま、好きな方のクリント・イーストウッドと好きなルネ・ロッソとの映画「ザ・シークレットサービス」を楽しんだ。秀作でも感動作でもないが、よく出来ていた。イーストウッド主演監督の「目撃」もよく出来た娯楽作だったが。
2004 9・12 36
* 今日は誕生日だった。秦建日子脚本「ラストプレゼント」の最高のヒロイン「明日香」の。ドラマは美しく終えた。ま、よく考えた無難で、感動も静かに盛り上がる佳い終焉であった。よくやった。ありがとう。よくやった。初めて心からの称讃を息子の創作に送れて、嬉しい。
もっと、という物言いは自分には避けているけれど、若い建日子には、ちいさく自足しないでもっと大きな感動作をまた見せてもらいたい。満足してしまってはいけない。健康で。怪我無く。どんな素材であれ題材であれ、仕事にはまじめに取り組んでください。それが佳い視聴者からのたぶん大きな期待だろうと想う。すてきな誕生日でした、あけぼのの明日香よ。
* ラストプレゼント、淡々と切なかった。 鳶
* ラスト プレゼント 何度か切れ切れにしか見ることができなかったのですけれど、最終回 拝見しました。最後のろうそくに火の灯らない海辺のバースデイケーキのシーン、心に残りました。断片的にしか述べることができませんので感想は控えておきますが、ぼろぼろ涙を流しながら見ました。ちなみにわたしの携帯電話の着信音はこのドラマのテーマソングです。さらなる建日子さんのご活躍を楽しみにしています。 川崎市
* ラストプレゼント 悲しくて、哀しくて、愛(かな)しい、娘から母へのラストプレゼントは、「限りある命を生き抜くことができる力」でしたのね。
昇りくる太陽に希望の光を残してのラストシーンには、もしかして奇跡が起こるかもしれないという思いさえ抱かせられて…。
浄化される心地で、今夜も、涙をぼろぼろ流しながら観ておりました。
建日子さん、本当に素敵なドラマを有難うございました。 花籠
2004 9・15 36
* 一時には寝たが眠り浅く、五時半に起きてしまった。眠気が失せたのでなく、眼も疲れたままからだが起きてしまった。ジュリアン・ムーアらの「理想の結婚」を見て、新聞も読んで、仕事もして、いま午前十時になった。
七八本の「ペン電子文藝館」作品が「校正室」に一気に出揃ってたので、誰方でもいい、どの作品でもいい、常識校正をと委員各位にメーリングリストでお願いしておいたが、誰一人からも反応がない。仕方なく一つ又一つと自分でまた読み直し、校正し、業者に連絡を入れて、もう残り二つしかない。
2004 9・19 36
* 演技派と聞いているジュリアン・ムーアは、そんなに惹かれる女優ではない、「ダイ・ハード」のブルース・ウイルスの妻役や、「逃亡者」の中で検査士に化けて病院にもぐりこんだハリソン・フォードを疑い、胸の身分証明書を老化で引きちぎる女医役などやっていたと思う。記憶違いかも知れない。
とにかくこの映画に較べると、さすがに「ロリータ」は名優揃いの名画だった、繰りかえし観ても面白く笑ってしまい、心惹かれる。スー・リオンのロリータも適役だが、ジェイムス・メイスン、シェリー・ウインタース、ピーター・セラーズが三人揃って角逐すると、ただただ呻ってしまう。適役なんてものじゃない。そろって主演賞ものだ。シェリー・ウィンタースは女としては苦手型ながら、「ロリータ」の母・妻役の生彩に満ちて女臭いところは、三度も四度も脱帽する。ピーター・セラーズがまた堪らない。どういう役者じゃいと悩ましくなるほど、うまい。イヤミ臭みもあれまで行くと至藝というしかない。そしてジェイムス・メイスン。「北北西に進路をとれ」などよりも、これだ、と思う。
わたしは「ロリコン」系ではない。女の魅力は「歳」ではないかと思う方である。だがナボコフ原作の「ロリータ」は読んでみたい。うちの世界文学全集に入っていないかな、ナボコフの在るのは分かっているが。
ずっと昔に集英社から全巻貰った「世界文学全集」はお宝もので、二十世紀世界文学。それで何十巻かあるのだから、これを読まずに死ぬのは勿体ないわけだ。プルーストあたりがいちばん最初の巻だったと思う。一巻の量もびっしりと二段組みで多く、かなり永年敬遠してきた。勿体ない。
2004 9・19 36
* 五時間半の睡眠だった。七時前に起き、しばらくソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの「ひまわり」を観ていたが、大味な展開と写真でこまやかな映画的感銘はうすく、途中でやめた。ソフィア・ローレンは好きだし、この映画でもらしさは横溢しているが。マストロヤンニは、リチャード・バートンとともに、何故かあまりピンと来ない方で。
で、機械にはりついて、福原麟太郎の随筆を校正し、とうとうこのところの招待席も物故会員の作品も、一貫して校了まで一人でやってしまった。
2004 9・20 36
* 結局もう寝入れる事はなく、それならと映画「ひまわり」を見終えた。こういう映画に違いないと予想したような、切ない映画であった。「シェルブールの雨傘」はほんとうに悲しいが懐かしい感じもある佳いミュージカルだった、が、お話はあれとも似ていた。ソフィア・ローレンも切なく、マルチェロ・マストロヤンニのちょっと鼻につく哀愁ぶりも、ま、よかったとしよう。ロシアでの妻の役が可憐であった。この映画では、出征で一度別れ、ジョヴァンナがアントニオをはるばるロシアまで探しに行って、よくぞ捜し当てたものの、すでに可愛らしい妻子があって、口惜しく二度別れ、さらにはアントニオがミラノまでジョヴァンナに逢いに行き「やり直したい」と二人は一度は燃え上がりかけても、もうジョヴァンナにも可愛い男の子が生まれていて、三度別れることになる。
「戦争」が裂いた愛、だがその戦争がそれぞれに別の人生も与えていた。戦闘の無惨はすこし描き、ただ男女のまことを愛と別離とで描いた、やはり一つの名画であるが、つらくて繰り返し観られない。ソフィア・ローレンの全身で表現する愛と悲しみと。すばらしい。
2004 9・22 36
* 元のデパート「そごう」アトの電器店で液晶のテレビと、デジカメとを、未練がましく長時間観ていたが、あまりの品数に、衝動買いもならず、パス。デジカメは心惹かれるものの、何にぜひ使いたいかと問い直すと不用不急。その点テレビはもうぜひ買い直したいのだが、それをすれば、わたしは外へ出歩かずにテレビ映画に、ますます家に足止めされてしまう。ひいては隠居してしまいそうになる。それも望ましくはない。で、パスした。
2004 9・28 36
* 小泉内閣の改造人事になど何の興味も湧かない。それよりもイングリッド・バーグマンとゲイリー・クーパーという世紀の美女美男の「誰がために鐘は鳴る」を観ている方が気楽で宜しい。
2004 9・28 36
* この機械へ持ってきて映画「理想の結婚」と「誰がために鐘は鳴る」とを観た。前者も最初に観たときはさて何ほどにも感じなかったが、二度目は、こういうものとしてはこれなりに面白く上手に描いていると映画的に感心した。ヒュー・グラントが出ているように言う人もいたが、あの垂れ目のヒューはやはり出ていなかった。主人公があの「逃亡者」でハリソン・フォードに痛い目を見せる悪医者だろうかと思ったのも誤解だった。あの俳優はこの映画に別の役でやはりわるいことをしていたが。
イングリット・バーグマンにわたしは感動した。ゲイリー・クーパーもとても好い。この俳優は「昼下がりの情事」などでは可愛いヘプバーン相手に冷たい冷たい男役が好きになれなかったが、この「誰がために鐘は鳴る」ではしびれる好い男で、純粋一途に彼に一目惚れして打ち込んで行くバーグマンの愛しいまでの演技のうまさにもぞくぞくした。
「ガス燈」でシャルル・ボワイエに脅され続ける若妻バーグマンは、神経を病んだほど痛々しかったし、「カサブランカ」でハンフリー・ボガートを魅了するバーグマンはかなりお高い美しさであったが、この映画では、けがれなき「マリア」の名にふさわしい美しさに、輝きがあった。
2004 9・29 36
* 風がものを鳴らしているが、天気はいい。郵便物を送りがてら少し自転車で走ってこようか。
* その前に、ジョン・フォード監督のヘンリー・フォンダとビクター・マチュア共演「荒野の決闘」を楽しんだ。ジョン・ウェインとディーン・マーチンとが共演したのちの「リオ・ヴラボー」の前篇にあたるモノクローム映画で、活劇というより、しっとりとしたいわば西部情話である。写真がとても美しい上に、リンダ・ダーネルとキャシイ・ダウンズという二人の女優が夢見る夢子さんのように、大時代に美しい。キャシイの演じる役の名前が、主題歌は「愛しのクレメンタイン」で耳にいやほど馴染んでいる。ヘンリー・フォンダのちょいと粋な独特の歩き方と表情は、そのままあのオードリイ・ヘップバーンと共演した「戦争と平和」まで思い出させるし、ヴィクター・マチュアの名は体をあらわした熟した美貌のニヒルな陰影も、久しぶりに大いに懐かしかった。
これで、わたし、西部劇を結構見ている。新宿の安い映画館に取材途中でもぐりこみ、昼寝半分に、インディアンものも含めてかなりの数の西部劇を見てきた。ジョン・ウエイン、カーク・ダグラス、ロバート・ライアン、バート・ランカスターなどの名優とはたいがいこの辺の映画館でご対面したのだった。
2004 9・30 36
* ニコール・ジャクソンとフェイ・ダナウエイ主演、ジョン・ヒューストン参加の「チャイナタウン」は、今一つ。最後まで画面も暗く冴えず、物語も煮えなかった。
2004 9・30 36
* 地元の銀行二つを廻って帰ると、骨休めに、見かけていた映画「翼よあれがパリの灯だ」を見終えた。ビリー・ワイルダー監督、わたしの一二に好きなジェイムズ・スチュアート主演。一にも二にも、G・スチュアートの映画である。彼の映画では「スミス都へ行く」やキム・ノヴァクとの「媚薬」が好き。
西部劇ではジョン・ウエインの方が似合う。この二人が私の好みでは、男優の両横綱。女優ではイングリット・バーグマンとエリザベス・テーラーということに。どっちが東方かは難しい。その時の気分になる。
クラーク・ゲーブル、ハンフリー・ボガート、ユル・ブリンナー、グレゴリー・ペック、ゲイリー・クーパー、スペンサー・トレイシー、ローレンス・オリビエ、ヘンリー・フォンダ、カーク・ダグラス、リチャード・ウィドマーク、バート・ランカスター、ヴィクター・マチュア、クルト・ユルゲンス、ロバート・ミッチャム、ウィリアム・ホールデン、ポール・ニューマン、シャルル・ボアイエ、イヴ・モンタン、ジーン・ハックマン・ジェイムズ・メイスン、チャールズ・チャブリン、オーソン・ウエルズ、アレック・ギネス等々、往年の銀幕スターの名前がみなそれぞれの映画とともに、もっと若手も入れると百三十人ほど思い出せる。女優はやっと百人以上思い出せるようになった。退屈したり眠れないときは、指折り数えている。
2004 10・1 37
* アンジェイ・ワイダ監督の高名な「灰とダイアモンド」はよくつかみ取れなかった。ルイ・マル監督の「さよなら子供達」はしんみりとした厭戦映画であったが、「橋」の興奮と感動には及んでいない。
2004 10・2 37
* 久しぶりに、加藤剛主演の俳優座公演「心 わが愛」をNHK藝術劇場が撮って放映したのを、ビデオで見た。いささか照れくさかったが懐かしくもあった。盛り上がってくると、少し泣いた。漱石の原作をダシにわたしの「心」論にしたような舞台であった。「身内」論でもあった。俳優座の公演はほぼ欠かさずに見せて貰っているが、あの公演ほど客が入って、階段通路にもどこかしこにも補助席がぎっしりだったのを、他にわたしは記憶がない。漱石で「心」で加藤剛でという三拍子が揃ったのだ、当然だった。
2004 10・4 37
* 昨日も今日も、マーロン・ブランドの昼映画を放映していた。昨日の「欲望という名の電車」はとてもいいもの。殊にマーロン・ブランドが驚嘆に値するよろしさで、ヴィヴィアン・リーを完全に喰っていた。だが、二階に用事があり、途中で断念した。
今日の「戦艦バウンティ」はクソ意地の悪いエゴと権力まるだしのトレバー・ハワード演ずる艦長に、マーロン・ブランド副長が抵抗するたしか原作も有名な作品。これまたマーロン・ブランドが佳い。映画は大味だが見通してしまい、少しの間アトを引いた。
マーロン・ブランドは、「地獄の黙示録」もマフィアの大親分もとくに好きにはなれなかったが、昨日今日の映画、それにその前日に放映したのではないかと思うが、エリア・カザン監督の「波止場」がすばらしい。ジェームズ・ディーンもたしかに逸材であったし惜しい死であったが、新人としてのデビューとその後の柄の太さではマーロン・ブランドの魅力は底知れない。
2004 10・13 37
* ゆっくりと気が沈んでいる。たった七日の一週間が、三日熱くて四日冷え込んだり、その逆だったり、茶碗の中に冷や飯と熱つ飯とがまじってよそわれたような、揺すられ揺すられ落ち着かない気分になっている。
あさって朝に新しい本が出来てきて、午后は理事会。夜には実は三つもの会合や催しの予定がひしめくが、三つともサボッて、一人でどこかで息を入れ、翌日からの肉体労働に備えようかなと。「山名」画伯の新作を飾っている割烹の店がある。それもいいし、クラブでもいい。
幸い本を送り出す用意は調っている。勢い、数日は荒い波にわが筏は波間を乱高下して流されることになる、今、マリリン・モンローとロバート・ミッチャムの「帰らざる河」で、そんな筏の闘いを、ぽつりぽつり一服の代わりにDVDで観ている。発送はたぶん十九日中には済むだろう、済ませたい。二十日はユックリ鴈治郎と我當の芝居を、妻と楽しみたい。妻の夏バテがまだ少し尾をひいているのを、うまく切り上げたいところ。二十二日の晩もいっしょにピアノリサイタルに招かれている。
その辺まで来れば、もういろんなアキラメがついてしまい、落ち着いているだろう。月末に、京都で美学藝術学の学会と親睦会とがあり、来ないかと誘いがあるが気乗りしていない。
2004 10・13 37
* 「キリング・ミー・ソフトリー」という初めての映画をテレビで観た。三級作品だったが物語へ導入のテンポよさにはみるべきものがあった。どの俳優もほとんど初めての顔で、筋書きに途中から察しはついたが、主演の二人(ヘザー・グラハムとジョセフ・ファインズ)はそれなりの存在感をみせていた。写真がもっと美しければ。すばやい一目で、のがれようなく惹かれ逢って行く男女の、いきなりの登場が新鮮だった。男の姉(ナターシャ・マケルホーン)も含め、もっと綺麗にもっとセクシイに写真になる素材だったのに、類型的な物語でおさめてしまった。
良人をおそれる妻の心理映画なら「ガス燈」でイングリット・バーグマンとシャルル・ボワイエが演じていたし、犯人がじつは別にという映画も掃いて棄てたいほどあるのだから、もう少し執着した映画に作らねば。これではシャロン・ストーンとマイケル・ダグラスの「氷の微笑」に映画の美しさで遠く及ばない。
2004 10・14 37
* フルスピードで作業している。疲れが度を超すか、作業が先に済むか。作業のあいだ、少しでも疲れないために、昨日からつづけざま、アネット・ベニングとマイケル・ダグラスの「ザ・アメリカン・プレジデント」、エリザベス・テーラーに、スペンサー・トレーシとジョーン・ベネットの「花嫁の父」、エドワード・ノートンに、リチャード・ギアとローラ・リニーの「真実の行方」の三作を、聴いたり、ちらちら観たりしていた。三本とも永久保存に、ビデオの爪が折ってある。それぞれに素晴らしい。
2004 10・16 37
* けれど森銑三先生の長編「最上徳内」をじりじりと校正し、またテレビを聴きながら、さらに発送の為の作業をつづけて、やがて十一時。NHKスペシャルで「慈恵会医大青戸病院」泌尿器科の最悪の前立腺癌手術ミス事件を。いかに悪質に隠蔽糊塗とされようとしたか、いかに開明のメスが入ったかのレポートを、興味深く聴いた。
わたしは医学書院で十五年半も編集者をしていたから、その時期はまだまだ医学部絶対王政時代であったから、これと似た陰気な噂にはたくさん触れざるを得なかったが、今なお病院の体質、ちっとも変わっていないなあと、深刻に驚かされる。開明されたから良かったが。
水俣病告発の闘争にもにもようやっとメドがたちそうだ。かつては新潟の痛い痛い病の疫学的調査で悪質なねじ曲げが企図されたこともあった、エイズのこともあった、わたしの接したエライ医師達の関わっていたことは、幾らも有る。それにしても、青戸病院での内視鏡誤用と未熟による大出血失敗手術には暗澹とした。開腹すればむしろ安全な手術なのに。
またテレビでは「ER」の新バージョンが始まっていて、わたしは前週も昨日もちゃんと見た。あそこでも、まさにマンマと思い上がった未熟医者が患者を手術ミスから「殺して」いたりする。あの忙しさではなあと堪らぬ思いもして見ているが、慈恵会青戸のあの手術は、明らかな手続き違反の功名心だけが逸った、むちゃくちゃな計画的殺人のようなもの。功名心にめり込んで、気が付いたときは時既に遅かった。それでもそこまではまだしも、その後の病院や泌尿器科や本院の諸対応の総てが、言語道断の悪質さで、からだが震えるほど腹が立つ。殺された患者家族の怒りはもっともである。
2004 10・17 37
* ウイリアム・ウォレスというスコットランド独立伝説の勇者をメル・ギブソンが監督した「ブレイブ・ハート」を見ていて、「自由」という言葉の、山のような重さを痛感する。ジャンヌ・ダークは祖国フランスのために立ち闘うが、彼女の場合には不幸にして彼女を支える民衆がなかった、と言うより、彼女に、王室よりも民衆の幸福をという信念が内に乏しかった。神という言うにいわれぬ者の、或る意味で気まぐれがそこに働いていた。フランスにもイギリスにも神は同じ神であり、対立があるとすればカソリックと英国教との無用のいさかい(としか我々には思われない。)だけがあった。ジャンヌ・ダークはその犠牲にされて終えた、燃えさかる火刑の炎に焼かれて。
その点、ウォーレスの蹶起には、英国王エドワードへのあらゆる意味での怒りと恐れ、貴族達への不信と不満、民衆の生命財産生活信条の自由と安全を願う気概が熱烈だった。やはり貴族達に裏切られてイングランドの絞首台に果てはしたけれども、その伝説の生涯は美しいまでに民衆の為に、隣人達の為に果敢であった。
わたしはそういう人物に出会うと、血が煮えそうに共感する。
2004 10・31 37
* 桂三枝と山瀬まみが司会している「新婚さん、いらっしゃい」番組を妻が大のひいきで、つられて見ていることがある。無数に現れる新婚さん、一組として同じような夫婦はいない。しかし出逢いから結婚へとなると、びっくりするとほど同じパタンを踏んでいて、それが可笑しい。性格はちがうが、人が幸福になるのも不幸になるのも、だいたいパタンは似ているらしい。
2004 10・31 37
* 機械をやすませて、ではない、わたしが休んで、建日子が呉れたディスク七八枚もある劇映画を、DVDでゆっくり楽しもう。
今日は少し気が冷えていたので街へ出なかった。留守に少し酒をのみ、妻が買って帰った「なだ萬」の弁当を夕飯にした。
明日は銀座の個展を二つ見に出掛けたい。
久しくクラブの酒も飲まない。昨日久しぶりにメールしてきた卒業生君と近いうちに逢おう。逢うたびにみないいオッサンになってくる。生彩あるオッサンたちであって欲しい。
昨日のE-OLDは穏やかに静かな、しかも写真に写ればじつに生彩有る人で、わたしなどとても及ばない。根津美術館で他の何物よりも相変わらず、常展の、北斉砂岩の仏頭の温厚大度、あれに感じが似てられた。まいった。
* ロバート・ミツチャムが探偵マーロウを主演する「大いなる眠り」は娯楽大作として落ち着いたタッチで且つ快適に進むようだ。ジェームズスチュアートまでが助演している。女はサラ・マイルズだろうか、いや怪しげなのがもう何人も出て来ている。これは時間を取って楽しみたいと思い、出だしだけでストップした。
結果は、たいしたものではなかった。これはマーロウものの原作がよくない。やたら探偵が気取っていて、たくさん読んだけれど、結果的には探偵ものをかるく軽蔑させてしまう軽薄シリーズであった。
2004 11・11 38
* レオン・キューブリック製作・監督作品「2001年宇宙の旅」を見終えた。茫然としている。
2004 11・12 38
* もう一度「2001年宇宙の旅」を観た。1968年の製作だから、わたしの「作家」になる一年以前。その頃に想像した新世紀早々の只今の現実は、こうまではとても行ってない。正直の所、ひどく割り切れた物でない難しい製作意図に思われるが、おもしろかったのも事実。
2004 11・13 38
* ルイ・マル監督の「死刑台のエレベーター」は、小憎らしいほどの逸品映画であった。脚本にも演出にも間然するところがない。ジャンヌ・モローは好みの女ではないが、うまいものだ。ちんぴらの青年がひときわの好演で、少し惚れた。つれの女の子も可愛いバカ少女を気負いなく演じていた。エレベーターに閉じこめられた男は、見覚えのない俳優だが、寡黙に、イヤな状況に堪えたまま映画の風変わりな味によく合っていた。「冒険者たち」のリノ・バンチュラもうまい刑事役で出ていた。フランス映画にはときどきこういう渋い逸品が出る。
かと言って三日にあげず観たくはない。あの静かなしんきくさいほどの「2001年の宇宙の旅」はたちまち二度観たのだけれど。
2004 11・14 38
* 昼過ぎに、「ER」なみに気に入っていた「CSI」の再放映があり、いい休息になろうとしている。この時間帯には「ニキータ」とか「ハワイアン・アイ」など小味な外国物の連続ドラマがときどき来る。「CSI」は小味どころではない、科捜研ものでは日本のちゃちなものの足下にも寄れない佳いテンポの秀作で。
で、それからふらりと外出した。昨日の今日では笠間までは大儀、だが、いいお天気の空のしたには、秋の誘いがあった。日展。あの厖大な量の美術の暴力にはとても気が乗らない。美しいものなら他にもいくらもある。晩景へ流されることなく、さらりと夕刻には帰宅した。明日も出来れば歩いてみたい。
2004 11・17 38
* 何とも、気の弾まないお天気で。
建日子の置いていったBSの映画もいずれも、しんねりむっつり、気の晴れ立つ秀逸の娯楽作がない。
文学の娯楽作はたいていボンクラな駄文ゆえに文学として楽しんで読めないが、映画はたとえ娯楽作でも、映画性において秀逸の表現なら、ドタバタもまた傑作名作に成り得て興奮させられる。しんねりむっつりと純文学の私小説をわるく真似たような映画では、退屈する。
映画の表現技法はきわめて多彩多角、一通りのものではないが、テンポと切れ味と、設定、ことに極限状況の巧みな設定が必然の急を告げに告げて行くとき、魅せられる。わたしは、ハリソン・フォードの演じるスピルバーグの「インディー・ジョーンズ」ものは必ずしも好きでない。「シンドラーのリスト」の方に感動する。インディはおもしろづくが過ぎ、それならばむしろ「007」の上出来のヤツが面白い。「ダイ・ハード」や「ランボー」や「リーサル・ウエポン」や「エイリアン」や「ターミネーター」などの方が、どこかに現代(ないし未来)が生きてくる。
もっとも、歴史的なもの、幻想的・神秘的なものも好き。ミッシェル・ファイファーが昼は鷹に、夜は美女になり、恋人は昼は騎士に夜は狼になって、辛い美しい旅を重ねる「レディ・ホーク」など、胸にしみて何度観ても魅せられる。どこかにかけがえのない人間の苦悩と歓喜とが疼いている作品は、映画で表現されるとき我を忘れるが、どうやらBSの映画は、黴の生えたような古びた「名画」が多いのか。テレビを買い換えようと云うのに、すこし腰が引けてしまう。
こんなつまらない日は、「オペラ座の怪人」のように音楽も美しい大柄な人間劇に埋没したい。それとも、ひたすら仕事をするか。いやいやそれよりトルストイの『戦争と平和』が久しぶりに読み返したくなってきた。
2004 11・19 38
* 夜前、遅くに建日子が来て用を足して帰った。けっこうなことだ、寸暇もなくいろんな仕事をしているらしい。来年も、ずっと先までもう追われ仕事の予定がありそうだ、テレビの連続ドラマも舞台も、演劇塾の運営も、そして小説も。
彼のテレビ社会の先行きを観た観測には、ようやく「時代」を読みながら生きて行かねばならぬ立場の反映が看て取れ、わたしは腹の中で頷いていた。
「テレビドラマ」の未来は、テレビそのものの未来は、そう甘く容易なものではない。電子化の技術自体が首を締め付けてくる時機が意外に早いのだ。ことにスポンサーの広告提供でかなり安易に成り立ってきた商業性が、むしろ電子技術の振興自体で脅かされてくる。ある種の機械化と技術化とが加われば、すでにデッキ録画のなかで実現しているようなコマーシャル抜き録画が、なにでもなく可能になってくるし、そうなるとコマーシヤル提供という宣伝方法に徹底的な見直しが進むことになる。商業テレビのありようは余程の水平思考と工夫とを強いられるだろう。それは東大の坂村健さんらの提唱し普及がいわれている「ユビキタス」との或る意味で猛烈な兼ね合い現象を喚び起こして行くのと、同じ方向を向いている。
建日子も、いやでも業界の生理や病理に鍛えられて行く。時間や時代を多重層にくみ上げて未来を構築する構想がないと頓挫しかねないと覚悟しているのだろう、大事な視野だと思う。
* また沢山の劇映画ディスクを建日子は土産に運んできた。わたしは、のんきなとうさんを演じながら、眼はパチリと明いていたい。
2004 11・23 38
* ケビン・コスナーが製作・監督した「ダンス・ウィズ・ウルブズ」の四時間特別編を新しいテレビの画面で観た。驚嘆する美しいインデヤンの大自然。その絶境の砦に志願して孤絶の生活を狼と過ごす中尉ジョン・デンバーの寡黙で情味豊かな誠ある暮らし。そしてスー族と出逢い、しみじみとした信頼と友情と、愛とが育ち行く。ストーリイは単純にメテ会に綴られているが、その表現は深沈としてかつ温かく、深く、懐かしい。そしてもの哀れな別離の日が来る、狼と、馬と、スー族と、そして故国との。第一級の名画であった。ケビン・コスナーに有り難く脱帽する。 2004 11・23 38
* 秦さんのアドレスをお借りして。
「波」様へ 藤江もと子
わたしの「ふつうのくらし」に感想をお寄せ下さって感激しています。
そして先のテレビドラマ「たった一つの宝物」と結びつけて読んで下さったと知り(さすが視聴率30%!)、こちらは予期していなかったので、そういう読み方もあったのかと驚きました。
私はあのドラマの制作に全面協力した日本ダウン症協会(JDS)の古くからのメンバーで、10年来事務所で電話相談員をしています。
私達相談員も脚本の段階から読ませてもらい、意見も聞かれました。なにより驚いたのは、会を通じてダウン症の子役や運動会シーンのエキストラを募集したら、テレビ局が困惑するくらい沢山の応募があり世の中変わったんだなあと思いました。
アメリカのテレビに出ているクリス・バーグや、カンヌ映画祭「八日目」で主演男優賞をとったパスカル・ディユケンヌにも会った事があるのですが、二人とも”れっきとしたダウン症”のナイスガイで、チャンスを与えればこんなに活躍できるのだと確信しました。日本もこれからです。
仰せのように辛い思いをしているお母さん、疲れて居るお母さんも多いです。それで、私達ちょっと先を行く先輩が”しろうと相談員”をしているのです。
離婚するカップルも確かに多いです。順調なときには、なあなあで済んでも、困難な事態に出会うと夫婦は試されるのだなあ、と感じます。
「波」さんは福祉関係のお仕事をしておられるような気がします。
どうかみなさんの力になってあげて下さい。
何かお役に立てそうなことがあったら、JDSを思い出して下さい。
HPのアドレスを書いておきます。(PRです。) http://www.jah.ne.jp/~jds97/ 2004/11/24
2004 11・24 38
* ひたすら眠いが、寝てもいない。
ラクロ原作のむちゃくちやの「危険な関係」を見終えた。フランス映画の中ではむしろ駄作か。ジェラール・フィリップも彼の演じる男も、嫌い。ジャンヌ・モローも彼女の演じる女も嫌い。「男と女」の男役ジャン・トランティニャンが出ていた。この俳優はわるくない。マリアンヌ役とセシル役とが似て見えてややっこしかった。
今晩は何ももう出来ない。明日は三時に理事会、ひきつづきペンの日の懇親会になる。
2004 11・25 38
* 今夜はわたしも眠くてもうもたない。学会で鶴見までと思ったのも断念した。出れば食べて呑んでしまう。良くないに決まっている。睡眠が一の薬だ。みづうみに沈透(しず)いて眠る。さっきまで月光、情熱、悲愴を聴いていた。階下ではウッディ・アレンの「マンハッタン」を観た。眠い。
2004 11・27 38
* 北野武監督作品の「座頭市」を観た。とくに傑出した映画とは美的にも質的にも感じなかった。ヴァイオレンスが独特の美を示しうるという気だろうが、古くさい黴の生えた美学に感じる。切った張っただけのこと。人間がほんとうに行き着くところとは単なる見当違いの、娯楽読み物に過ぎない。「七人の侍」「羅生門」「切腹」「雨月物語」あるいは「阿部一族」などとはとても足元に及んでいない。面白いというのなら、まだしも「写楽」や出来のいい忠臣蔵ものの方に真の劇性がある。北野の「座頭市」は美しさにおいて大島渚の「御法度」にも黒澤遺作の「雨上がり」にも及ばない。少なからず先行した過大評価に甘えてはいないか。
2004 11・28 38
* 映画は何をご覧になっているでしょう。
ジャンヌ・モローは粘着質のようで、私もあまり好みではありません。あの手の大人の女、カトリーヌ・ドヌーブ、あるいはミッシェル・モルガン、マレーネ・ディートリッヒ、アルレッティなどは日本では大スターになれなかったかもしれませんね。
本質的にはかわい子ちゃんの好きな日本の男性には、扱いかねるような凄味があります。温かく包むというよりじんじん痺れさせるような感じ。でも、ちょっと彼女たちに憧れて、羨ましい。あんなコケットリーで強い女にはなれませんから。 春
* 「マンハッタン」「座頭市」を観ました。どっちもどっちでした。
ジャンヌ・モローだけが、好みではないので、マレーネ・ディートリッヒも、シモーヌ・シニョレも、ミッシエル・モルガンも、グレタ・ガルボも、カトリーヌ・ドヌーヴもみな好きです。ジャンヌ・モローは顔つきと歩き方が嫌いなんです。
日本でもやはり根強いフアンがいて、みな、やはり大スターでしょう。「本質的にはかわい子ちゃんの好きな日本の男性」かどうは知りませんが、「本質的には」の意味も解しませんが、わたしの好みは広いのです。捨て身になれる情の深い女達です。ただのコケットリーなんかでない。ほんとうに強く、冷たくも熱くも燃え上がれる女達が演じられて、ウソつきのようで、ウソがない。溢れ出る女を感じさせます。憧れる気持ち、少し分かる気もしますが、春とタイプはやや違うのではないですか。 冬
2004 11・29 38
* 晩、熾烈で無惨な戦闘映画の「ブラックホークダウン」を二時間半近く観た。
2004 12・2 39
* すッごいノルマ。週一回授業でですか。
わたしの頃のシナリオセンターでは、映画用に仕上がったシナリオを要求され、授業は毎日でした。勤務のあと精勤に出席するのが大変な苦労でした。
講師は日替わりで、超有名なシナリオライターや、映画監督や、松竹のエライさんも来て話してくれました。おかげで面白かった、わたしには。断片的にですが、多くを習いました。
最初七十人とった教室が、最後の方では三、四人しか出席せず、規定のシナリオを二本とも提出したのは、わたしが一人か、せいぜいもう一人だけだったと事務の人に聞きました。
当時松竹の専務か副社長だった城戸四郎さんが一作目をよんで85点ほどくれまして、わたしには「小説家になるように」と助言してくれました。むろん小説のための勉強をしていたのですから、とてもとても励まされたことを忘れません。二作目は、映画批評家として知られていた荒松雄氏がやはり城戸さんと同じほどの高い点数を呉れました。
懐かしい思い出です。
やり始めた以上は頑張って何か掴んできて下さい。
映画、大好きです。いまも「殺しのファンレター」という、ローレン・バコールの映画を、息子の呉れたディスクで観ていました。昼間にはフランク・シナトラやディーン・マーチンやサミー・デイビス・ジュニアらの「オーシャンと十一人の仲間」を観ていました。今夜はこれからしばらくしてのテレビ映画、「ER」を楽しみます。 矢
2004 12・4 39
* 建日子の小説を少し読みすすめ、日本史をたくさん読み耽り、今昔物語を二語。その前にジョン・ウエインとキム・ダービーとの「勇気ある追跡」を観おえた。ジョン・ウエインとキャサリン・ヘプバーンとの「オレゴン魂」の姉妹編。どちらも好感の持てる小味な西部劇だが、キャサリンのうまさを以てしても、やはりキム・ダービーの若々しい可憐で強靱な表情や声や演技には魅力を一歩譲っている。キム・ダービーのような娘が欲しかった。で、寝たのは四時半。
2004 12・6 39
* 「CSI」に出ているマージ・ヘルゲンバーガーが、別の映画で初対面以来、好き。冴えている。この冴えに日本で比較的近いのが池上希美子(表記がちがうかも)か。型どおりの美人では少しも無いけれど、生彩に富んでどきどきさせる毅い魅力が横溢する。マージを初めて見た映画は、環境問題を扱ったスチーブン・セガールの監督作品ではなかったか、不幸な過去を秘めて静かに聡明な女性を演じていて惹かれた。
「CSI」では優秀な科学捜査員として信頼感溢れる大人の女をきりりと冴えて演じている。「ER」のモーラ・ティアニーも、少しちがうが佳い女の味をみせている。
建日子が持ってきたディスク映画の「新・明日に向かって撃て」は、テンポぬるく、てんで期待はずれ、途中で放棄。「ER」や「CSI」など抜群のテンポものを見ていると、なまぬるくゆるゆるした説明過剰の画面が我慢ならない。
2004 12・7 39
* 「戦場のピアニスト」を観終えてきた。ゲットーものでは、私たちは最初に、随分昔に、新宿の大きな劇場で「アンネの日記」を観た。怖い思いをした。胸がつぶれそうであった。近年、「シンドラーのリスト」や「ソフィーの選択」を観た。今夜の映画はそれらに伍して遜色ないが、映画的にはわたしは「シンドラーのリスト」のモノトーンの凄み、ドラマの緊迫に胸打たれたのを思い出す。また「ピアノ」ものでは「海の上のピアニスト」のずば抜けた構成とピアノのおもしろさ、また切なさが魅力に満ちていた。「戦場のピアニスト」の最後の方でドイツの高級将校に聴かせるショパンはじつに美しかったし、ラジオで流していた曲も夢のようであった。
こういう映画はつらくて、おもしろがってなど居れなかった。作中のだれかが、「なんていうことを。なんていうことを」と言い続けていたのが、私たちの気持ちであった。佳い映画だったけれど、悲しすぎた。ピアノ曲の美しさに泣かされた。
もう少し、ドラマとしての彫り込みがあってもいいと思う。そうでなければ、ピアノがもっと流れていて欲しかった。
2004 12・12 39
* これも恒例か、自然と忠臣蔵の最終回を本望を遂げた場面まで見た。瑶泉院との別れや、源蔵徳利の別れやおきまりの名場面を幾つも見て討ち入りになった。去年の今頃わたしは四十七士の姓名を全部言えたが、もう半ばは忘れている。
昨夜から映画「ポセイドン・アドベンチュア」も観ている、これは名画の内に数えたいほどの一作、少なくも主演ジーン・ハックマンの映画では、いちばん好き。何作も観てきた俳優だが、これはすかっと来る役を演じて、英雄的な最期も、後味がいい。
2004 12・13 39
* 一日中、いろいろ仕事していた。
* 夕食のあと、見かけていた「ポセイドン・アドベンチュア」の感動する最後三分の一を見た。デブデブのシェリー・ウインタースの水と闘った、勇敢で愛ある死。大きな山の一つだ、彼女の映画は「ロリータ」がわたしは演技賞ものの最高だと思うが、この映画の彼女も感銘深い。老境ひとしおに胸うつ夫婦の姿である。そしてジーン・ハックマン「牧師」も誠実で勇敢な愛ある死を遂げる。アーネスト・ボーグナイン「元刑事」役も彼の佳い代表作だろう、愛妻が悲しく死んで行く。一人一人の人間をきっちり表現して、感動深い作品だった。極限状況をよく生かしていた。
2004 12・14 39
* 「戦場のピアニスト」をもう一度見始めたけれど、あまり残酷でやめた。どうして人間はこうだろう。どんな猛獣でもこんなことはしないと嘆くと、「猛」獣と呼び付けにしているのも人間よ、と、妻。
* 気に掛けてコツコツやっていた仕事が丁度半分がた出来た。半息ついている。息子の置いていったたった三枚の写真印刷用紙に、二枚、デジカメで気に入ったのをプリントしてみた。すこし赤味が加わったが綺麗に出来た。
これから「ER」を見てから、今夜、少し早く階下へおりよう。早くどころか見おえるともう二時前だ。やれやれ。
2004 12・18 39
* 快速電車のように、校正、また校正で、日付が替わった。月曜日になった。
あす、早くに電器屋が屋根へ衛星放送受信のアンテナを立てる。
テレビをつけると、木っ端のようなゲイノージンの「遊び放題」番組ばっかり見せられ、アキアキしている。ヘキエキし、フンゲキしている。衛星放送というのを実は殆ど知らない。家では見られなかった、ムダな時間を奪われたくなく、回避してきた。しかし、ちゃちな殺しや瞞しのドラマも不快なら、高価な電波を濫費してのふざけたタレントお遊び光景を、野蛮なまでに家の中へ送りこまれるのにも、とことん、ウンザリしている。
ほんとはテレビそのものを投げ出してしまいたいのだが、そうも行かない、息子はテレビで世渡りしているのだし。で、少しでも「映画」や「世界のニュース」のうつりそうな方へ、視線と躰とを逸らそうという魂胆である。テレビも、録画デッキも新しくした。楽しみと言うより、いささかおそろしい。
2004 12・19 39
* なかなか眠気が抜けないが、会報への「ペン電子文藝館」原稿も書いて、電送した。その間に階下のテレビに、機能の新しい「録画デッキ」がとりつけられた。テレビとデッキとがすっかり新しくなった。丁度今日NHK関連の会社から送ってこられたのが1991年のテレビ、「エッセイ・ロマン」出演のビデオ。東福寺・高台寺の分を二日連続で話していたのと、作州津山の作楽神社境内で、後醍醐天皇と児島高徳の逸話を話しているのと、三つ分が一つになっている、それを新しいビデオデッキに入れて見直した。
懐かしいのは何と云っても、東福寺、高台寺。雨降りだったが急遽スタッフが借りだしてきた蛇の目の女傘をさして、ゆっくりゆっくり話しているのが印象的。心静かなおしやべりエッセイになっていた。わたしの顔を見わたしの声を聴いてみることに興味のある人は、この「東福寺」の放映分をすすめる。
「高台寺」は連日の早朝撮影ですこし表情の疲れているのも面白い。わたしの小説『初恋』の舞台である。
2004 12・25 39
* 新しい「すご録」こと録画デッキの操作が難しくて閉口している。たくさんビデオにしてあるのを再生してみると、妙にもやもやと画質がわるい。どこかで設定がまちがっていはしないか。これでは、前のデッキの数倍もおかねをかけて役に立たない。新しいすぐれものの機械ほど、落ち着くまでに、時間が掛かる。
2004 12・27 39
* スマトラ沖地震の津波被害は、想像を絶する歴史的大惨事となり、死者だけで既に二万何千と報じている。地震そのものを感知もしなかったか知れない遠国の海岸で、突如押し寄せた大津波に、無防備でみな海に掠われてしまった。地球の威力のすごさに慴伏する。
* 深夜「全球凍結」という科学映像を見た。惹きつけられ、寝床に行けなかった。
地球が生まれて三十五億年めぐらいに生物の化学合成が原因で地表体温が冷凍化してゆき、千メートルもの厚い氷で地球は「全球凍結」してしまう。その間の生物の生き残りと変化と。そして数百万年を経ての地球凍結の緩解と再生、それがまた飛躍的に生物の進化を可能にしたことなど、あまりの面白さに寝に行く気がしなかった。
地球は、まさしく生きている!! だが、だからこそ地球もまたいつか死に果てる。
2004 12・28 39