* 眼が覚めて二日の雑煮を祝いに床を出たのは、午後三時半。朝の七時半頃一度起きたがすぐまた寝床に戻って、そのまま熟睡、文字通りの「寝正月」をした。かつてないこと。黙って寝かせておいてもらって、よかった。
夢は沢山見ていたが、イヤな夢はなかった。それはもう澄み切ってきれいな湖か川か海かを、亡くなった新門前の父と釣りバカのハマちゃんと三人で泳いでいた。きらきらと一点のしみもなく照った真清水の「みづうみ」であった。もっとも、一個所で、うみへびの巣に出逢った。かなりのへびが固まっていた。幸い恐怖感もなしに泳ぎ離れていった。
そのほかにもいろいろ夢を見ていた。大きなバーでうまい洋酒を贅沢に飲んでいたりした。おおかたもう忘れた。
テレビの前に行くと、「北の国から」の最終幕のところだった、ほたるが子供といつしょに、離れ暮らしていた夫の所へ旅立ちたいと、父と兄とに告げる。中島朋子のきわだって見事な演技をみせる終幕だ、わずか十五分ほどだが、十二分満たされる場面で、その他全部を見逃したにしても満足した。泣いた。そして幸せな役者達だと祝福した。あれだけのドラマ、あれだけの役。人の胸に長く生きて行ける。
すぐ続いて、伝統芸能の番組で、望月太左衛がタテの鼓をうって出演している女組、京の四季の壽を聴いた。新門前の父が機嫌がいいとよく口ずさんだ、めでたいめでたい祝言唄である。笛も鼓もあれもこれも、太左衛さんの会ではすっかり顔なじみの組で、すこぶるめでたい佳い気持ち。よかつた。
司会の一人をタレント京野ことみが勤めていた。秦建日子の書いていたドラマ「編集王」の芯になっていた女優だ、感じが佳い。
それから遥か南の南の海の生物たちの生活を描いて、NHKの好きなアナウンサーの独り武内陶子がナレートする美しい番組を見ていた。たちまちに五時を過ぎた。
2005 1/2 40
* 夜前。寝ようとしていたところから、坂東玉三郎の深切な案内と解説で、歌舞伎の衣裳、おもに豪華な女衣裳をたっぷりと見せてくれて、あまりの美しさ、すばらしさ、おもしろさに寝に行くどころでなく、恍惚として魅入られた。
ところどころ玉三郎がそれを着て出演している舞台写真が出るのも、ほとんど全部を比較的何時も間近で見ているので、懐かしくも優しくもあり、接写で細部まで近寄れる色彩美、染めや織りの豪奢さ、言葉をうしない、ほおっとなってしまう。
玉三郎の言葉をよくよく吟味した美しい日本語での簡潔な解説も、聴きごたえした。西陣の織り屋などでの打ち合わせや職人気質との出逢いなども要領を得ていて、ほんとうに佳い番組であったが、出逢ったのが二時、終えて三時。これは堪らない時間帯。
寝床へはいってから今昔物語で前九年の役の源頼義らの悪戦苦闘を読み、歴史は大正時代の「日農」成立の頃の農村事情を読み、ライトを消したモノの昼の寝正月もひびいてかいっこう寝付けず、また電気をつけて、今昔巻二十六の解き放たれたような珍奇譚のかすかずに読みふけった。此の巻からはもうとてつもなく面白い話ばかりになってくる。佛教の説教臭がぬけてしまい、名もない庶民の珍妙な話がこれからぞくぞくと出て来るはずだ。
眼も休めてやらないといけないので、また灯は消したが寝られず、何も考えなければいいのだけれど、退屈なので源氏物語の巻の名を四十五巻まで思い出したり、百人一首を六十あまり思い出したり、般若心経を暗誦したり、海外映画の題を百六、七十も思い出したりして、結局寝た感触はまったくなく、八時半に起きて血糖値をはかった。87は低い。三が日の雑煮を祝い終えてしまった。
年賀状を少し書いた。少しだけ。春に湖の本を届けられる方々は失礼させて頂くとする。
* 好天。なれど、おそろしく冷え込む。下半身が痛いほど冷たい。
2005 1・3 40
* 若き日の柳智衆主演映画「五兄妹」を観ていた。あれで「訓練空襲警報」が出たり解除されたりのころ、つまり我々が子供のころの映画だ、女の人の着物姿、髪の形、もちものなど、あの頃の母や叔母を髣髴とさせる。起ち居も物言いも、際だって時代を感じさせ、わたしなどの年代がこういう映画のリアルな暮らしにそのまま共感できる最後の世代なんだろうなあと、目が離せなかった。かすかに俳優達の顔に覚えは有れども、柳智衆のほかひとりとして名前がでてこない。吉村公三郎監督、木下恵介脚本。なつかしや。
ところがデッキの使用に慣れなくて、録画は失敗。機械が複雑すぎるのか、こっちもノロイのか。
* 「ニュージィーズ」という作品は、テディ・ルーズベルトがまだ知事時代のティーンズによる労働団結物語。少年達をこきつかって平然と繁栄する企業への、ミュージカルな対抗を描いていた。
これを観てもわかるが、国レベルで民衆のちからを結集することこそ大切、一握りの政党指導者のちからだけで革新的な業績など上がるわけがない。民衆の潜在エネルギーをうまく組織し、意識に目覚めさせねばどうにもならない。
ただ、民衆は、よほど追い込まれないと目覚めたりしない。新年の福袋に殺到して何十万円も平然と投資できる主婦達の顔をテレビで見せつけられると、ああ、これはまだまだ少しも生活になど困ってないんだと、つい、思わせられる。これでは社民党や共産党の出る幕は、ほとんど無いに等しくなる。だが、果たして本当に、私民は、追い込まれてなどいないのか。
経済的には少し手綱が緩められていて、その半面基本的人権は気付かぬうちにおそろしく反動的に締め上げられ狭められている。ところがこのことの重大さに、まだ人は目覚めもしていない、気付いてもいない。これこそ野党の戦術的怠慢なのである。国民へは、ヘッドライン・ニュース、つまりお題目をならべるだけで、「お任せ下さい、わたしたちがやりますから」などと気楽な気楽なことを、政党は言っている。出来るものか。政治資金をたとえ幾ら集めても革新的な前進は成るものでない。「赤旗」がどんなに売れても、共産党はつよくなどならない。いかに「憲法憲法」と社民党が叫んでも、土井たか子も福島瑞穂も、企業や工場や街の市場をこまめに廻り歩いて、みなさん団結して頑張りましょうと手から手へ繋いでゆく津波のような勢いをおこそうとなど、ちっともしていない。そういう団結や提携をしないで大成功する政治運動など、あったためしは、日本はもとより世界中にない。
2005 1・4 40
* 題は覚えない、向田邦子原作のながいドラマをみた。渾然とした作ではないが、面白くできていた。考えていたことなど、急には纏めにくい。
2005 1・4 40
* 冷え込む。寝入って一時間半か二時間で、かならず一度手洗いに立つ。それから本当に寝入る。今朝はゆっくり寝た。「漱石の食卓」というドラマを妻が録画しておいてくれた。大好きな宮沢りえとモックンこと元木雅弘の主演である、見ざらめや。大いに楽しませてくれた。ふたりとも巧いもの。
奥さんの鏡子さんの書いたモノも読んでいる。「悪妻」と喧伝されてきた奥さんへの鎮魂譜であった、それが新鮮にまた漱石像を新たにしてくれている。なにしろ人の葬儀の日に喪章をまいて黙然と陰気な漱石の顔に慣れている。モックンの怪演にわたしは賛成である。りえちゃんの惚れた優しさも無類である。あれはあれで宜しい、大いに宜しかった。あの優しさは、コケティッシュに優しがってみせたのではない、ホンモノだった。
2005 1・6 40
* 一度目ざめたけれど幸い七時まで眠れた。六時間ほど寝ている、上等だ。さっぱりしている。
今日は秦建日子作・演出の芝居が、下北沢の「劇」小劇場で初日開幕する。明日には讀賣系テレビでの新連続ドラマ「87%」がスタートする。
2005 1・11 40
* めったなことでテレビドラマの脚本家の名前は新聞予告にも番組表にも出ないが、今夜十時からの新番組の紹介に、「秦建日子脚本」と明記されていた。落ち着いて書いているようすで、よかった。無意味なドタバタにだけはしないで欲しい。
2005 1・12 40
* 秦建日子のドラマ第一回を観た。とびきりいいとは言わないが落ち着いていて、静かながら緊張感のあるいい出だしになった。主演女優(竹内結衣)をわたしは初めて意識してみはじめたが、とても佳い。普通なままに、位と品があり、清潔感が佳い。安心して観ていられる。それに元木雅弘モックンが、またもサマ変わりに誠実な外科医師を演じてくれて見応えがある。
彼(黒木医師)の愛妻が早々に乳ガンで死んでいる。その執刀を夫であるモックンがしているのは、大学または大病院らしいのに、異例であろうと思う。隠れた事情があるのかも知れないが。またその両親が、愛娘の死後にも聟のモックンと暮らしているのはともかくとして、両親とも芝居が陰気に重すぎるのは、演出と演技とで今少し工夫が可能であろう。舅は製薬の方のエライサンのようであるが、奥さんもろとも、あれでは病的印象に過ぎる。変なところに音楽をはさむのも、効果を慎重に考えて欲しい。保険勧誘仲間、看護婦仲間など女が多くなる。そこで軽いドタバタに流れないよう演出的には引き締めた方がイイ、今日は、ま、その辺もきわどくすり抜けていたが。
医学的な扱いは、さきの夫が妻を執刀していた異例以外は、落ち着いた展開や解説ぶりで、あの辺は、見ている人にはサービスになっている。しかし保険の男主任が顧客の手紙を読む場面などは、さっさと巧みに切り上げて欲しかった、ああいう場面を一時間ドラマで二つ作ると、ぜんぶダレてしまう。
* とても好感が持てた。あれでいいと思う。あの感じのママで盛り上げて行ければ、前作に負けないだろう。
* 『87%―私の5年生存率』拝見しました。
大阪はとても寒い毎日ですが、東京はいかがですか? お変わりなくお過ごしの事と思います。
東京の劇場で終演まで仕事をしていると、テレビドラマをやっている時間に帰宅する事は不可能なのですが、今月は劇場から5,6分で帰れるホテル生活なので、息子さんの脚本のドラマ拝見する事が出来ました。
女性にとっては少し切実になりそうなドラマですが、テンポよくこれから色々な人間模様が展開されそうな感じがして面白かったです。夏川結衣さん、本木雅弘さん、古田新太さん、橋爪功さん、私の好きな役者さんたちも出ているし時間が上手く合えば又拝見したいと思います。
2月の歌舞伎座のチケットは、20日過ぎに東京へ日帰りしますので、その時に確認して又ご連絡いたします。
風邪等引きませんよう、ご自愛くださいませ。 成駒屋
* 今、建日子さんのドラマを拝見しました。医者を身内に持つものとして、考えさせられることがたくさんありました。 次回も楽しみです。 樟
* さ、安心したところでもう寝たい。夜前もせいぜい五時間睡眠だった。
2005 1・12 40
* 録画しておいたシャロン・ストーンの「グロリア」を観た。マイケル・ダグラスとの「氷の微笑」シルベスタ・スタローンとの「プロフェショナル」などで好感度抜群の女優の、この映画は代表作級か、同じ題材で別配役の別作品があり、それも面白かったが、これはリメーク作品らしい。出だしから快調で、子役も巧くて盛り上がる。やくざな気象烈しい女の、無垢に優しい本性がどんどん現れ出る、引き出される面白さに感銘が添う。妻がよこで泣いて観ているのに少し愕きながら、分かる気がした。
もう一度も二度も観たくなるだろう。シャロン・ストーンのガラス質の中身の熱い魅力である。リクツ抜きなのがいい。
2005 1・14 40
* 前夜に録画しておいた「ER」を観た。見終わるとヘトヘトになるほどボディーブローの烈しいドラマで、それでいて深く納得させる魅力が底光りしている。
「ペイトン・プレース」「脳外科医ケーシー」「コンバット」「ホワイトハウス」「ニキータ」「CSI」等々、たくさんな海外連続ドラマを見てきたが、この「緊急救命室 ER」は映像的にも映画劇としても随一ではあるまいか。筋書きという以上に映像それ自体が感動を提供する。映画はそれでなくては。演劇もそうだ、人間の肉体が活躍し(舞踏し)、人間の言葉が鳴り響き(音楽になり)、その両者で物語が語られる。そうでなくてはならぬ。わたしが能や歌舞伎を好むのも、端的に舞踊劇が好きなのも、それ故である。
2005 1・16 40
* ゆうべおそく、「サルバドル・ダリ」の伝記番組を観たのが面白く、釘付けになった。ダリにはガラという十も年上の因縁の妻がいた。ダリ世界に膚接して親密きわまりなかったことも、具体的に初めて教えられた。ダリは好みの大画家の一人であり、昔に、かなり大きめの美しいダリ真作の版画を買い、いまも居間にかけてある。居間にダリをかと驚かれるかも知れないが、その意味ではあまり問題のない、美しい無数の蒼い線で描かれた騎馬決戦図である。夢のようである。
2005 1・19 40
* 十時には建日子のドラマが二回目。妻は録画の手配をして出掛けた。建日子から電話があり、芝居は超満員つづきで、わたしたちがもう一度行く土曜の席は、離れ席で辛抱してくれと。けっこうです。
ドラマの方もまだ一回しか放映していないが、東京新聞の朝刊では記者たちの座談会で、倉本聰のドラマについで第二位にラクンされ、「ラストプレゼント」よりもまだ佳いと褒められていた。金八せんせいなどを書いてきた小山内美江子さんも、コラムで、建日子の脚本を特にとりあげ褒めてくれていた。本も増し刷りしているし、いい書評も出て来ている。ここは、彼第一度めの「噴出期」だ、この期を逸せず真剣に努めてくれるといい。
井上靖は、私に、人にはだれも生涯に二度の「噴出期」があるものです、その時機にタイムリーに噴出するかしないか、が分かれ目です、と。建日子は噴出しかけている。こういうときにこそ健康の維持がなにより大切。病気や怪我や事故に万全気を配りながら力限り気持ちよく精魂を注いで仕事することだ。
2005 1・19 40
* かろうじて結衣とモックンの演技で支えられているものの、周囲の芝居で比較的安心していられるのは、杉田かほるぐらい。橋爪健などでもいつものへらへら調子に近く、ともすれば軽燥演技に流れかねない。さもなければ逆に大谷直子のようなうまい役者も、その夫役の細川俊之も、ドラマの味を殺しかねないへんに陰気なな目立ちかただ。
今一つ、今回、フラッシュバックというのか、繰り返しによる説明が目立った。そこまで必要だろうかと思う場面もあり、こういうドラマでは生命線である、テンポをゆるめてしまう。こういう陰気な主題を毅い感じでテキパキ勧めるためにも、演出にテンポが生きて欲しい。あのフラッシュバックが脚本のママなら、これは要注意であろう。
それにしても竹内結衣には気迫が漲り、元木雅弘は静かに自身のペースを崩していないのが佳い。
2005 1・19 40
* ブラッド・ピットとハリソン・フォードの「デビル」を観た。前にはその設定がこわくて落ち着いて観られなかったが、今日は、ふたりの「身内的親密」をもおもしろく観て少しばかり感動もした。苦虫を噛んだか歯痛をこらえたようなハリソンの顔があまり好きになれないが、だいたいいつも真面目役をやっている。ブラピの方は陰影に富んだやわらかい芝居をしていた。やはりいい俳優の独りだと認知できた。
2005 1・20 40
* 建日子脚本「87%」の第三回を観た。おもしろく緊張もして観た。この調子で、佳い。二人の主人公に、ますます好感をもつ。医院院長の娘にも、ヒロインの息子ソウタ君にも、気が乗ってきた。このドラマ、乳癌も問題だが癌保険も大きな問題だ。よく抑えながらリアルに扱うと、思いがけない啓蒙ドラマにもなってゆく。目も気もはなせない視聴者が居るだろう、だから慎重に丁寧に書いていってほしい。
2005 1・26 40
* 国会予算委員会での菅直人と小泉純一郎との、噛み合わない愚かしい応酬に呆れてきた眼や耳には、こういう心優しいメールや美しい音楽がささくれだちそうな心臓を宥めてくれる。建日子のドラマのいましも乳ガンに立ち向かうヒロインも、いま、わたしにはとても美しい人として、繰り返し目によみがえってくる。あの、つよく光る眼が佳い。
2005 1・27 40
* 昼、チュニジアの後宮を舞台にした「或る歌姫の思い出」というそれは静かなそれはもの珍しい世界を描いた佳い映画をみた。「ゴアの恋唄」に感じの似た、さらに地味に静かにさびしい悲しい物語であった。ヒッチコックの名作「鳥」も、数度目をまた観て、今まで以上にヒッチコックのうまさに感嘆した。あれはただ鳥の怖さだけを描いたキワモノではない。じーんと響いてくる凄みの人間批評を感じて、なにとなく深く肯いた次第。
* 秦建日子脚本の「87%」四回目、保険外交の厳しい側面を直に打ち出し、息づまる。順調。黒木医師の入れ込みが、閾値を安易に超えないところで、しっかり緊張して欲しい。麻酔医のキャラクターに、少し先を期待する。
2005 2・2 41
* 題は覚えないが、ミシェル・ファイファーが、ピアノ連弾で稼いで歩く兄弟チームに、ボーカル役で参加する映画を、半ばまで観ている。二度目の気がする。ミシェル・ファィファーがわたしは好き。「イノセント」の伯爵夫人で初めて出逢い、いかれてしまった。次いで、あれは魔法をかけられ昼は鷹に夜だけもとの美女にかえる、「レディホーク」という浪漫的な中世物語でも再会し、さらにイカレてしまった。なかみがすこぶる上等な女優さんという、確信がわたしにはある。きのう「鳥」でみたティッピー・ヘドレンなどはなみの美女で、オーラは立たない。ミシェル・ファイファーはどきどきさせる放射能をもっている。ファシネーションである。
2005 2・3 41
* 夜中に熱発性の寒気があり、気分わるく寝ていたが、熱が高い。風邪をもらってきたか、他の原因か分からないが、電子文藝館漢、明日の委員会に備えて大事をとっている。まだ花粉症の自覚はないが。インフルエンザの予防接種はしてある、あれが効くものと思うことにしている。
機械の前へ来たが、足下で温風器、そして蒸水機も作動していて暖かいが、体を動かすつど背中から痛みが走るほどの不快感がある。左の肩がきつく張っている。
前夜湯上がり「恋のゆくえファビュラス・ベーカァボーイズ」をまた観て、さらに深夜に舞台劇っぽい珍しい「ER」を観たのが響いたか。しかし二つともとてもよかった。ミッシェル・ファィファーに痺れた。「ER」のモーラ・ティアニーもよかった。好きだ。
そして今日も朦朧と起きてみて、寒気と熱とに参っていたが、録画しておいたミシェル・ファィファーとロバート・レドフォードの「アンカーウーマン」を、二回にわけて観おえた。映画としてはあのピアノ弾きの兄弟と心を通わせるミシェルがすばらしいが、テレビニュースのコメンテーターを美しく賢く演じて、ロバートを魅了するミシェル・ファイファーにも脱帽した。いい映画はほんとにいいもんだ。
2005 2・6 41
* 夕食の少し前から「アメリ」という映画を観ていたが、寝床へにげこんだ。映画は面白い方の異色作であったが、からだがしんどくて。そしてゆめを観ながら九時まで。機械を消すために此処へ上がってきた。熱で口が苦い。
2005 2・8 41
* 建日子の「87%」は勢いが付いて、安心してみていられる。ヒロインがもういちど別れた亭主の妻に金を受け取りに行くだろうとは察していたが、その金の半分を保険の勧誘でミスッた相手の癌患者の枕元へ持ち込むまでは、考え及ばなくて、脱帽。
麻酔医というのは或る意味で医者の花形であった、わたしの医学書院に勤務していた頃は。女性の麻酔医でじつに優秀なお医者さんとも知り合いであった。ドラマの主治医に信頼されている若い麻酔医が、現場を離れてラーメン屋で働いていたりするのは、わたしにはあまりリアルに思えないけれど、いいかたちで登場してきて、よく働いて欲しいなと見ている。
癌の話は好きになれないけれど、グイと引っ張って毎週少し待ち遠しいのは、けっこうなこと。ドラマのはしはしに「今・此処」に立ち向かおうという考え方など、離れて暮らしていても、父と息子とに知らず知らず共鳴があるのかなあなどと、親は平気でバカになれる。
2005 2・9 41
*「アメリー」という映画を四五回に分けて見おえた。フランス映画ほど「フランスとは」の問や不審にフランス風に応えてくれるモノはない。少し皮肉のつもり。この映画、ああそうですかとかなり納得して面白がっていたけれど、見おえてとくべつ何ものこらず、「アメリー」の顔だけがくっきりと記憶された。あれは一つの典型だ、いや天恵かな。「純」映画だな。
「オーシャンと十一人」は、このジュリア・ロバーツのどこがいいんだろう思いはしたが、男どもは、ワキに廻っていたブラッド・ピットもパット・デーモンもその他もよろしく、そこそこの娯楽作。
「恋するシェイクスピア」は録画。わたしは発送の用意をついついサボリ気味に、雪山や雪崩をものともせず滑りに滑る、コマーシャル撮影の若者達の冒険映画を眺めていた。この先は当分、映画のお世話になりながら「発送用意」に奮励して風邪をかわさねばならないが、お約束のように、わたしの風邪はすでに妻にうつっているようで、これにも気をくばらねばならぬ。
2005 2・10 41
* 前の戦争で待ったなしに夫や恋人を戦地へ拉し去られて永別した女性達が孜々としてその体験を書き継いでいるのを、テレビの映像がレポートしていた。どうみても、ものを書くのが天性であったという人達ではないが、書かずにおれなくなった「血しぶきのような文章」を綴っている。みなもうわたしよりも高齢のおばあちゃん達であるが、その一人が、こういう体験を「書く」以上は、はだかに成った気で書かねばかえってウソがまじる、「腰巻きもはずした気持ちでなければ」と言っているのに、わたしは首肯いた。なにもむりむり何もかも暴くように書くべしと言うのではない、必要ならソレにたじろがない覚悟で書くのである。
この覚悟が容易に、世の「書きたい、書きたい」人達にもてない。その覚悟ができてない著述はツマリ概して綺麗事におわり、つまりどこかで浅いウソから出来上がってゆく。
2005 2・11 41
* 夜前、就寝前にたまたま「刑事ジョン・ブック 目撃」の終幕への後半を観た。例のハリソン・フォードが主役なのだが、ケリー・マクギリスという女優が、人柄のシンから清潔で健康な、質朴で美しい女を演じていて魅力があった。ケリー・マクギリスに逢いたいばかりにこの映画の再映を心待ちにしていた自分をはっきり意識した。信仰に結ばれた人や家庭の宗族としての共同生活にまぎれこんだ、イギリス人の刑事。とくにストーリイがどうこうという作品ではなかったけれど、一人の女優がそびえ立つように光っていた。
2005 2・11 41
* クリント・イーストウッドとソンドラ・ロックの小気味よい「ガントレット」に助けられながら、やっと「あ」行読者へのアイサツを書いた。先途を思うと気が遠くなる。まだからだが恢復していない、気力も持続力もよわい。思い切って盛り場へ出、美味い肴で強い酒を楽しむなんてどうかなあと、考えることが当たり前すぎる。
この映画では、めったになくクリント・イーストウッドが「甘ちゃん」になるところが魅力といえば魅力。こんなイーストウッド、見たことない。
夜分は、「氷の微笑」をちらちら観ながら、作業。シャロン・ストーンにマイケル・ダグラスの翻弄されるのが面白い、が、ちらちら見ているのは、そんなところじゃないけど。
この映画の眼目はシャロンの綺麗なお色気、そしてはげしいファック・シーン。
2005 2・12 41
* 大河ドラマとかいう「義経」を初めて覗いたが、散漫で低調愚俗。あまりバカらしくて早々に退散、二度と見ないだろう。書かれた科白を言うためにだけ役者が居る。
2005 2・13 41
* ゆっくり目覚めて、遅い遅い昼前の朝食をしながら、「八丁堀の七人」というつづきものの時代捕物帖を見ていた。片岡鶴太郎という、たぶん松島屋系の藝達者に、男前の村上弘明やミスなんとかの京都出らしいいきな美人女優、萬田久子が出ていて、ま、ましな方の時代劇で。
はじめは嫌いでだんだん好きになり贔屓にしている役者がいる。鶴太郎はその一人。歌舞伎では中村梅玉。映画では小林桂樹。逆はあまり気付かないが、色あせて見捨てる贔屓はある。はじめから嫌いでいつまでも嫌いというのもいる。ウマがあわないだけだろうが、水谷豊とか。
出逢って以来ますます好きなのは、映画では三国連太郎、田村高広ら。歌舞伎ではむろん三月に新勘三郎の舞台が楽しみな勘九郎や玉三郎や幸四郎や鴈治郎や、いっぱい。
* わたしは自認している「ミーハー」であるから、人への興味は人一倍、ふだんには平気で好き嫌いをハッキリさせている、わざと口にすることはしないけれど。ただ、一定の印象を固定しておくほうでなく、よく眺めて、新ためていく。眺めてというより、鏡のように写しておいて、見定める。
「モノ」は財産ではない、出逢う「人」が或る意味で宝であるから、甘いことは考えない。
2005 2・14 41
* 秦建日子脚本の「87%」はごく尋常なドラマとして展開している。夏川結衣と元木雅弘ががっちり取り組んでいるので、安定感、確か。まだこの先に話の展開しそうなタネ撒きもされていて、週のこの時間は楽しみにしている。
2005 2・16 41
* 「CSI」も、「ホワイトハウス」も楽しめるけれど、なんといっても「ER」にはいつもわたしも脱帽する。花さんのいうジョージ・クルーニーのドクターぶりはよく覚えている。たしか転勤してやめていったが、どこかで最近見たと思ったら、間違いかも知れないが「オーシャンと11人」の主役、あれがジョージ・クルーニーではなかったかしらん。あれだとすると、ブラッド・ピットやマット・デーモンより格上でジュリア・ロバーツと元夫婦というおおきい役だった。「ER」とはうってかわった娯楽大作だった。ちがうかな。
* 今日もいろんな仕事をしていたが、階下の作業では二本、映画をそばで流していた。昼間のリンゼイ・クローズ主演の映画が大も忘れたけれど小味に面白く惹きつける作品だった。リンゼイが、医師で人気著作者でもある女性の内面の疲労をうまく演じていた。詐欺師集団の男達にわれから紛れ込み、巻き込まれ、被害にも遭い、しかも劇的に抜け出してゆく経緯をとても面白く見せた。
夜分のは超級バイオレンスで騒々しいものであった。ジャン・レノが実悪のマフィアを演じていた。
わたしの仕事もその間に着々捗った。坂本四方太の「夢の如し」を起稿と初校し終えた。ながいので、もう一度通読しておきたい。こういう時代にこういう生活と自然と風儀とがあったのだと、しみじみさせる。
* スキャナーは力を見せてくれている。助かる。
2005 2・17 41
* トム・ハンクスの「フォレスト・ガンプ」を見て、感動を新たにした。もう五度は見ているのに、映画の深みは増している。名前が覚えられないが、幼なじみのジェニーとの身内愛の深さは崇高というしかない。フォレストは、ダン中尉とも戦死したバーバとも、すぐれた身内の愛を完遂して行く。一期一会というめずらしい邦題をつけているが、フォレストはなにをだれとどう繰り返しても、新鮮に、一期の一会。彼には「かなふ」しかない、「かなひたが」らない。なにもかもムリにも不自然にもならずに、なみのものにはとても真似の出来ないことが出来てしまう。純然のリアリズム映画ではないけれど、それが成功している。
* あすとあさってと、テキパキと事を運べば、さきが少しらくになるかと期待している。今夜は、もう寝よう。
2005 2・19 41
* 作業しながら、ニコール・キッドマンの「アザーズ」というホラー映画を見ていた。「ホラー」という小説のジャンルをわたしはあまり好みも信用もしていないし、ロクなものに出会ったおぼえもないのだが、但し雨月物語や春雨物語のように上等な成果もある。あれはもうホラーでも怪談でもない人間の深い闇を書ききった藝術文学なのである。
それにしても「アザーズ」は佳作であった。最後の最後にはキリスト教のちからで死霊が灰のように崩れるといった愚俗なおきまりに流れず、みごとな裏返しで唸らせる映画効果を見せてくれたのはケッコウであった。たった七人の登場人物がそれぞれの役を適切に演じ、ニコールの剃刀の切れ味ににた美しさと厳しさに、惹きつける魅力があって感心した。美しい女優で、むかしのグレース・ケリーよりも綺麗だ。
もう一度見たらタネが割れているのでどうだか分からないが、もう一度見てみたい気がする。ふしぎにこの映画には純なファシネーションがはたらいていた。
2005 2・20 41
* ニコール・キッドマン主演の「アザーズ」がどうにも気になり、二度目をゆっくり見直してみた。
これをホラー映画と紹介するのは間違っていると思った。ある意味で基督教に対する批評性を孕んだ、観る人からは「背教の匂い」のする映画作品かも知れないし、そうではなく、みごとに基督教の愛の、神の愛の新しい側面を創出したモノであるのかも知れない、わたしは後者の感想に今は傾いている。
巧緻に創られているので粗筋を書いてしまってはいけないだろう、が、この映画には「自殺者」が大事な役をしていて、神の愛が、慈悲が、それをゆるしたものと観られる。それにふさわしい綿密な演技を美しいニコール・キッドマンは気品に溢れて見せてくれる。子供達二人も、母を愛している。母も深く子を愛している。それにもかかわらず……。
夫がドイツとの戦争に妻子をうちすてて出て行った。妻であり幼子の母であるニコールは悲歎と、優勢で凶暴と伝えられるドイツ兵への恐怖に怯えた。そして…。
大きな屋敷に住んでいる彼女ら母と子とは異様に神経質になにものかのために怯え続けている。姿の見えない「アザーズ」の侵入と侵害にしんから悩まされている。しかし、姉娘のアンだけはその「アザーズ」が見える。「アザーズ」の中の少年ヴィクターもアンと交流できかけている。
基督教といえば自殺を絶対にゆるさない宗教と教わったり聞いたりしつづけてきた。わたしには、いつも、その頑強で偏狭ですらある教義に、異和感ないし反感すら感じていた。ところがこの映画では、自殺者が、心からキリスト教徒として神の力と愛を崇高なほど信仰しきっている。そして彼女が、自殺者であると分かってなお神のみゆるしとしての心の平安はむしろ強まったのである。彼女達は健康で安定した安住(と言えるかどうか「アザーズ」の侵入は未だ続くであろうけれど。)の「家」を確保するのである。
この映画では、生ける者たちが「アザーズ=他者・侵入者」として把握され表されている。死者たちの、現世の攻撃性に対する指弾の思いの方が、美しいぐらいに作品を貫いている。じつに珍しい思想で創られているとわたしは、妻も、あらためて感嘆した。ハードディスクから削除しないで、DVDディスクに保存したいと結論した。
2005 2・22 41
* 矢はもう弦を遠く放れているので、秦建日子脚本のドラマ「87%」は、ただもう、きゅっと体をかたくして観ていた。夏川結衣、元木雅弘ふたりの演技に未熟という疑問符をつけるムキもあるらしいが、わたしは、そんな風には毛頭観ていない。むしろ此の二人の演技で全体が緊迫度を得ていると観ている。わたしがこの二人に惚れているということであるかも知れないが、そんな身贔屓ではなく思われる。
2005 2・23 41
* 雨が来ていて、やがて霙か雪になるという。ほどよく切り上げて、温かく湯にでもつかって、……おっと、そこまで。あとは映画「JFK」でもゆっくり観て寝よう。あす出掛けるのはムリなようだ。本の搬入は、よくて土曜、来週の頭になりそうだ。
2005 2・24 41
* ニコール・キッドマンとジョージー・クルーニーの「ピースマン」は予期したとおりの尋常でバイオレントな活劇であった。それだけ。ニコールにはもっと内面に食い入る題材を演じて欲しい。
2005 2・27 41
* 午後二時を過ぎてから新刊が届いた。すぐ作業を始め、夕食をはさんだだけで、ぶっつづけ十一時過ぎまで作業。かなり捗らせた。その間、そばのテレビがいろんな映画の音声と映像を流していてくれた。
昼間に見た無声映画の「第七天国」は、第一次世界戦争の純愛劇で、女優のJ.ゲイナーがすてきに愛らしかった。無声映画としては上々の部類ではないか、珍しくて、可憐純情、楽しめた。
晩には、リチャード・ギアとなんとデブラ・ウインガーとのこれも純愛もの、「愛と青春との出発」という邦題はちといただけないが、この品のいい美しい女優はだれだろうと思っていたら、さいごにデブラ・ウィンガーと出て仰天した。この女優、名優アンソニー・ホプキンス教授との恋と結婚と死とで、しみじみとわたしを泣かせた、丈高い、上品な夫人役を演じたことがある。同じ人とは想われないほど役柄はちがったけれど、まぎれもない品の良さは共通していて、途中で妻と、「綺麗な人だねえ」と感心しあっていた。
「ER」も見た。ずいぶん様変わりがしてきた。
2005 2・28 41
* よほど作業は捗った。三食をのぞいて、朝九時半頃から、夜十時まで。
作業の間に、昼間は「三匹の侍」という不出来な日本の時代劇映画を途中から。
気分直しには、美の極致というべき坂東玉三郎の舞踊をDVDで堪能した。「鐘が岬」「黒髪」「稲舟」「山姥」そして歌舞伎座での「鷺娘」。清元有り地唄あり荻江あり長唄あり。音曲だけでも痺れそうに美しいのに、舞い手は玉三郎。こっちの魂が宙に浮かびそう。
夕方にはお気に入りアネット・ベニングとマイケル・ダグラスの「アメリカン・プレジデント」を楽しんだ。そして、夜は。
2005 3・1 42
* BS映画「今を生きる」を、見てられるかしら? 鳶
* はい、しっかり観ていました。ロビン・ウイリアムス演じる「文学」教授が、人間と文学と人生を教える、温かさと深さ、新しさ。いい土の、雨を吸うように、生徒たちはこの「キャプテン」に懐いて、内側から目に見えて成長してゆく。
ああ、それなのに、一人の優等生、学業でも感性でも、何がしたいという目的を持っていることでも、第一等の生徒が、シェクスピアの「真夏の夜の夢」の主役を好演した直後に、ピストル自殺してしまう。
責任――学校と親とは、ロビン先生にすべてを負わせて、放校する。
…ちがう。生徒達の多くはそれをはっきり自覚して、去ってゆくロビン先生に「感謝」を伝え、学校に対しても無言の抗議を体で表現する。もっとちがった視野で、新鮮な視覚で「状況」を観よう、と。
ああ、だが、親は…、子の体制内立身栄達を頑強に願う父親は…、分かっていないのだ、子を死なせてなお、いついつまでも…。
* すぐれた個性や感性や天才は、往々にして超絶少数派でしかない。あまりにもたやすく社会は、秩序や常識はそれを窒息させ抹殺してしまう。
2005 3・1 42
* 秦建日子脚本の「87%」第十回を観た。あれこれバラバラしていたものの、もう此処まで引っ張ってきた力があるので、多少のことは気にならずに、ヒロインの精一杯の生きに惹きつけられて観ている。妙なトップ屋の登場、ふつうには考えにくい、実力のありそうな麻酔女医の異様な(不自然なともいえる)漂泊が、輻輳して説得力ある感動へドラマを引きずってゆくか、その辺で統一感が歪み崩れてジタジタと終えてしまうか、もう残り少ない回数が気になる展開である。夏川結衣は、確かに演じている。
2005 3・2 42
* ゆうべ観たショーン・ペン演じる「アイ アムサム」は佳い映画だった。ミシェル・ファイファーがスマートに助演していた。わたしの生まれる一年前の「或る夜の出来事」も楽しかった。クラーク・ゲーブルが粋で、また滑稽で、若い。クローデット・コルベールの独特な美貌も見応えがする。
先日無声映画のクララ・ボウを初めて見たが、クララ・ボウといい「或る夜の出来事」のクローデット・コルベールといい、またマレーネ・ディートリヒといいJ・ゲイナーといい、ははあん、谷崎潤一郎が映画熱にとり憑かれた原動力はこういう女優達だったんだと、妙に嬉しく納得した。
しかし案の定、抵抗していたBSテレビを、とうどう茶の間に取りこんでしまったので、わたしたちの映画好きは、いささか締まりなくこの機械に魅せられている。文学文藝ではわたしは低俗通俗な読み物をほぼぜったい許容できないけれど、逆に映画ではそういう通俗低俗に通じるストーリーでも、映画手法や表現が卓抜でさえあれば、藝術性のある魅力の仕事として、十分堪能できる。通俗のお話を娯しみ楽しむうえで、映画をおおいに「活用」しているわけである。
うじゃじやけた通俗読み物は時間の無駄。しかし映画的に良くつくられた通俗作品なら安心して「映画藝術」として楽しめる。「ダイハード」「リーサル・ウェポン」「ランボー」「ダーティ・ハリー」「ターミネーター」「エイリアン」のような類のいわば読み物シリーズでも、映画的によく仕上がったものは、映画的に理解し納得して、たっぷり楽しめる。ヒッチコックやジョン・フォードでも、キャロル・リードやエリア・カザンや誰それでも、映画的な力では差がない。
そこへ行くと、日本文学の世界では、読み物しか書けない人には文学たる表現性が低い、というより欠如している。読み物を五百万人が愛読し、たとえば黒井千次を三千人しか読まなくても、その文学文藝としての大差、いや比較を絶していることは断然変わらないのである。
* いい作品とつまらない作品とは、必ずしも読み物と文学というふうに分けられるとは限らない。いい文藝作品は、題材の如何に関わらず、ファシネーションを湛えて「読ませる」佳い文章で書かれている。この「佳い」を言い換えれば、即ちその散文に独自の「文体」と「表現」とが、天来の音楽として刻印されてあるということ。
2005 3・5 42
* 秦建日子の「87%」は、案じたように、女麻酔医のあたりから型が崩れて不自然な結末へ行きそうな按排なのは、心配。黒木医師の奥さんの手術死を、ドラマ全体が引きずりすぎて、お荷物にしてしまう気がする。トップ屋があらわれたり暴露記事に記者会見したり、なんだか普通のドラマになってきた。
黒木医師とヒロインとの医療をめぐるかちっとした信頼関係が、比較的ボロの出ない医療場面を背景に進行してきたのだが、来週はもう最終回とか。すっきりと、感動を盛り上げてくれるのだろうか。終盤へかけて、収斂するよりも話題が散開してきた。そんなハラハラを感じながら観ていた。
ヒロインはよく役柄を彫り込みながら、患者として母として生活者としての存在感を健康に見せていて、好もしい。それが美しさにも見えるところが、演技か。気持ちのいい女優である。
2005 3・9 42
* じつに久しぶり「戦場にかける橋」を、半分近くまで観た。構成のいい映画で、鞭を鋭くふるうように批評念が吹き付けてくる。時に殺気を感じるほど。早川雪洲演じる日本軍の大佐、アレック・ギネス演じるイギリス軍の大佐、それにアメリカの上級将校でかろうじて脱走しながら、またしてもクワイ河上流での作戦に参加するであろうウイリアム・ホールデン。兵士ないし人間の誇りをかけてクワイ河に、立派に使い物になる美しいほどの橋を架けたイギリス兵士たちと、より高度の作戦からそれを破壊すべく任務を果たす米軍将校、武士の面目を果たせず誇りを喪った日本軍指揮官の追いつめられた最期。幾何学的にきっちり描けていて、封切り当時にものすごい任期であったことも思い出せる。ま、日本人の目で観ると、齋藤大佐が英軍士官達の粘りに屈して一人啜り泣くあたりはどうかなあと思わぬでなかったけれど、口笛だけという「クワイ河マーチ」も印象的で、あの戦争時の映画の代表的一対としては、この「戦場にかける橋」と、モンゴメリ・クリフト主演の「地上より永遠に」を思い出すのが常である。この二作が最高というような意味合いではないが、印象に濃く残っている。よく出来ているなと、まだ半分なのに、少しも古びを感じることなくまた見始めている。
2005 3・12 42
* 土曜日曜はメールが少ない。小旅行などに出掛ける。中にはインドへ行きます、シチリアまで行きますと、おおがかりな旅支度をしていた人もいる。わたしたちは、気恥ずかしいほど何処へも出掛けないで、黒いマゴと暮らしている。黒いマゴの「マーゴ」が留守番を強いられても、まずその日のうちに吾々は帰ってくる。よほど気まぐれを起こしても夫婦して二泊とは家を空けない。
黒猫「マーゴ」はいまや私たちよりも有名かも知れない、息子のドラマで黒木医師の家で舅姑のそばで暮らしているからだ。
* さ、こういう日はさっさと階下へおり、寝てしまえばいいのだが、そうも行かない。今夜は夏川結衣という、息子のドラマのヒロインの、別の映画があるので見ようと思う。それに「ER」もある。
2005 3・12 42
* 秦建日子作「87% 私の五年生存率」第十回で無事に完了した。心配していたが杞憂であった、気持ちよく、さほどの無理不自然にも陥ることなく、ま、テレビドラマとして下品にもアホクサクもならず終えてよかった。衝撃の盛り上がりなど無かったけれど、このドラマはこれでよかったと思う。拍手を送った。楽しんだ。夏川結衣がショートヘアで若々しく美しく似合い、元木雅弘はさいごまでモックン流を貫いて右顧左眄の揺れなく、ともに清々しいペアであった。この二人がじつにしっかりしていて、ワキ役が逆に二人に引き立てて貰っていたと言っておく。ごくろうさま。
2005 3・16 42
* ラッセル・クロウがたしかアカデミー賞をとった、それにふさわしいローマ歴史劇「グラディエーター」を観た。前にも一度観たことがある。メル・ギブソンの「ブレーブハート」だったか、スコットランドの伝説の英雄を描いた作もよかったが、今夜の映画はさらに緻密で写真が美しく、マルクス・アウレリウスの登場するのも印象深い。腰をすえ、ゆっくり観た。花粉の涙とも感銘の涙ともつかず、わたしの花粉目は、むちゃくちゃ。今日は花粉にやられっぱなし。もう寝てしまった方がいいだろう。花粉目になるとただもう眼を閉じているだけで堪えるよりない。
2005 3・18 42
* ニコラス・ケージの「ウインドトーカーズ」を観た。サイパン島の日米死闘殺伐の限りを描きながら、兵と兵との深い目覚めと最期とを突きつけてきた。サイパン島玉砕は、わたしのような子供にも、これは大変なことだと戦争の行方に本気で刮目した敗北戦であった。「玉砕」という美しい表現が隠した陰惨なうめき声を、確実に聴きとめたあれが最初であった。大本営発表に胸を轟かせながら、わたしは負けるのではないかと思いこそすれ、勝つに違いないとは思いにくかった。国民学校の職員室外の廊下に貼られた世界地図を眺め、日米の国の大きさをただ指さして、「勝てるわけないやんか」と呟いた瞬間、たまたま通りすがった教員に壁にぶちあたるほど張り飛ばされた。「むちゃしよる」とは思ったけれど、感想は感想であった。日本の神話には教室でみなに話せるほど親炙していたけれど、神話は神話で、現代世界の広さは現実に眼の前にあった。粟散の辺土という物言いもわたしはもう頭に持っていたのだった。
2005 3・21 42
* ダスティン・ホフマンとローレンス・オリヴィエという贅沢な顔ぶれなのに、つまらない深夜映画をひとりで観てから、例の、本を五種類読み継いで、寝た。
「ファウスト」のブロッケン山の百鬼夜行が面白かった。バグワンの知識と認識を語る例話も。そして、新安保条約で国会議事堂が揺れに揺れた昭和三十五年六月の大国民闘争を復習した。変なはなし、あの問題の六月十九日が太宰治の桜桃忌であることを、あの晩わたしは毛筋ほども覚えていなかった。太宰も桜桃忌もまったくわたしのモノではなかったのである、まだあの時は。小説も書き始めてはいなかった、ひたすら初の我が子の恙ない誕生を願いながら、毎日国会デモに動員されていた。それでも、わたしのなかで、「或る折臂翁」の思いがもう胚胎していたことは慥かであった、書き出すまでに、もう二年必要だったけれど。
「戦争と平和」では、庶子ピエールの父伯爵がものものしくも騒がしい人々の思惑のなかで亡くなるのを読んだ。幸か不幸か、余儀なく映画「戦争と平和」が思い出されて、ピエールにはヘンリー・フォンダが、ナターシャにはオードリィ・ヘップバーンの面影が、声音や身ごなしが髣髴とする。二人ともわたしは大好きなので構わないけれど。
そして最後には「今昔物語」を読む。とうどう最後の「巻三十一」に入った。宝の山を踏み越えてきた実感がある。
2005 3・29 42
* ウンベルト・エコー原作の「薔薇の名前」だったか「薔薇の記憶」だったか、題のことはあやしいがショーン・コネリー主演のすこぶる上出来、中世僧院のミステリー映画を観た。みごとな写真、みごとなロケーション。初めてではないが、初めて観たように新鮮で、深い、怖い、いやな世界であった。
わたしは、イエスは好きであるが、キリスト教会や僧院・修道院や修道士などは、てんで好きでない。宗教は大切に思うが、優れた宗教家の少ない、ほとんどいないらしいことに呆れる。彼等のおかげで世界はいつも不幸だ。仏法僧を譏ると地獄に堕ちるといわれたが、僧だけはたいていべつものだ。信仰が恐怖から救うことはない、恐怖が信仰をつよめるのだ、悪魔がいるから神が必要なのだ、とこの映画で、偽善者にすぎない審問官は言い放っていた。おお、いやだ。
* その映画の後でバグワンを音読すると、バグワンがいかに透徹した人かが分かる。バグワンはすばらしいねと思わず声を上げると、妻もよこで聞いていて、同感する。
2005 4・7 43
* シャロン・ストーンの映画も、ジェームズ・ステュアートのも、たわいなくて。
2005 4・12 43
* 谷崎は晩年まで映画が好きだった。美学者では中井正一が、映画など軽蔑されていた頃に慧眼にも映画独特の美学・藝術学を積極的に認識していた。が、谷崎は専門家の中井以上に栄華フアンとしてよく映画を識っていた。映画と演劇を分別し、片方ずつ好き嫌いをいう人もいるけれど、わたしは谷崎のように両方好きである。テレビへ衛星放送を取り込むのに随分抵抗してきたけれど、案の定映画が多く、そちらへ向かう時間が増えている。殆ど海外映画しか観ないが、たまに市川雷蔵の「大菩薩峠」なども観ている。海外女優の名前は今では百十人ぐらいはすうっと挙げられて、就寝時の眠り薬のかわりに数え上げている。楽しむ余りに眼が冴えることも。とにかく出逢った新しい名前をずんずん覚えて行く。レイチェル・ウォード、キャサリン・ゼタ・ジョーンズ、ニコール・キッドマンなど最近出会って、綺麗だなと思った。
2005 4・13 43
* オードリー・ヘップバーンが愛らしく、主題歌がうたうキュートな魅力横溢の「パリの恋人」を観た。いかにダンス・ミュージカルとはいえ、だが相手がフレッド・アステアでは、どうダンスが巧くても興ざめ。オードリーの魅力と観光パリと、やはりダンス。オードリーがそこそこ踊って唄ってわるくないが、ワキ役年寄りの二人が、あやしげな男の巣へ変装して入り込み、さんざ踊って唄ってみせる場面は、オードリーのファッションショウが問題にならないくらい、味な興奮であった。
2005 4・14 43
*「シェフと素顔とおいしい時間」という長ったらしい題の映画を見た。「ショコラ」のジュリエッタ・ビノシュ、「グラン・ブルー」や「レオン」のジャン・ルネの終始二人舞台で、ケイタイ電話がうまく使われ、見終えてみると小味なロマンスだった。ジュリエッタがあの「ショコラ」での顔とはまったくちがう化粧上手な変貌の妙を楽しませてくれた。不出来なときの日本のヒラミキ(平幹二朗)のようにも見えた疲れ役のジャンが、やっぱりそれなりに実感たしかに、おかしみも実意もよく出していた。
「ダブルトラップ」という、よくある手の遺産と殺人とのセクシー映画もみた、俳優は男弁護士も女人妻も名も知らないが、ヒロインを聾唖につくり、弁護士と女検事が好意をもちあってきたお互い親友で、しかも複雑に事件にからませたところは、ま、ストーリィとしては及第、すべて初お目見えで新鮮だった。もう一度だけ見たら割愛しても惜しくはない。しかしもう一度見たい。
2005 4・17 43
* クリント・イーストウッドの「許されざる者」をみた。初めてではない。異色の西部劇として記憶されていた。美しい写真で、彼の作品の中でも、「目撃」「ガントレット」などと並び反骨と情味を漂わせたヒューメンな厳しさが好い。この俳優は制作と演出でも秀でた力をもち、「ローハイド」の昔の気障に気取ったカウボーイのまま、好もしく大き充実した。ケビン・コスナーの「ダンスウィズウルブズ」もよかったが、こういう人達の西部劇で、ジョン・ウエインの昔とは佳い意味で様変わりを見せてくれたのが有難い。
2005 4・18 43
* このところブリジット・バルドーの映画を何作も録画している。この女優は静止した写真で見ていても、そう魅力はない。スクリーンで動いて話して笑って怒っていると、魅力満点のたいした妖精。むかし何かしら一作、期待もしないで見た彼女の「映画する」魅力に、感嘆したおぼえがあり、かなりその点の信頼度は深い。ちょっと口をとんがらせ、妙にぎごちない歩きようなのに、スクリーンにオーラが充満する。宮沢りえなどが優に匹敵するか。その点、沢口靖子は静止写真の美女。動いて深い不思議の出てこない、お人形。
2005 4・20 43
* ゴッホとゴーギャンの「二つのひまわり」をめぐるBSのいい番組を感動して見た。感動して泣いた。ゴーギャンが最期に遺した椅子にひまわりの繪。あれを見て、泣いた。
2005 4・23 43
* わたしは今日、ブリジット・バルドーの映画を二本観た。「ドンファン」そして「月夜の宝石」を。どちらも写真がすてきに美しかった。映画としては「月夜の宝石」のブリジットの、無垢で放埒な一途の恋に、胸打たれた。「ドンファン」はいわば一種男の理想主義であるが、それを若い女として身を捨てるように演じきって行くブリジットの意気込み、力があった。男達には魅力がなかった。
ブリジット・バルドーは、とても特殊なとても特異な、観ようでは半端な、観ようでは宝玉のような、観ようでは堪らない、観ようではふるいつきたいような、ヘンに愛らしい女で、美女にもなり、醜くすらもなれる。いい女優はみな、この人にしかなれないという存在感を噴出させるが、ブリジット・バルドーはオードリー・ヘップバーンといい勝負の、めったにいないダイヤ原石の魅力。
この映画は二本とも、ふしぎなもののあわれに濡れていた。どちらも女の芯の気持ちに、うそ、がなかった。
2005 4・24 43
* 少しずつ反復見ついできた映画「ローマの恋」は、ミレーヌ・ドモンジョ主演で、ピータァ・ボールドウインとエリザ・マルティネッリが添っていた。ミレーヌ・ドモンジョといえば、わたしが西洋の映画をその気で映画館で見始めた、早い頃の、すてきなヒロイン、「女は一回勝負する」などというたわいない表題のモノクロ映画で、天地がひっくり返りそうな感動、いや昂奮にひきずりこまれた覚えがある。ま、セクシーな力、であった。
ほかに、わたしを仰天しそうに惹きつけた映画には、初の総天然色映画という触れ込みで、新制中学から全校引率されて観にいった、イングリット・バーグマンの「ジャンヌ・ダルク」と、もっと後年に学生同士で妻と観た、カーク・ダグラス、トニー・カーティスの「ヴァイキング」だったろう。
2005 4・26 43
* 夜分、すこしノンビリしようかと、好きな真田広之の映画「助太刀屋助六」を観た。仲代達也、小林桂樹、岸田今日子、鈴木京香、村田雄浩、岸部一徳らワキが堅く揃って真田の芝居が、また一つ新たに、佳い切れ味。彼の映画は、「阿部一族」「たそがれ清兵衛」「写楽」「南総里見八犬伝」それにテレビの「高校教師」と、どれもみなけっこうな及第点で、大我ドラマの端役ですら彼が現れると活気が出た。今夜のBSも岡本喜八の晩年なお衰えない才気迸るおもしろい画面構成で、気楽に気楽におもしろく人情活劇を創ってくれていた。
鈴木京香は「君の名は」ではじめてみて、なんと綺麗な女かと思ったが、今ではなかなかうまい演技派になっていて、観るものの大方で活躍している。不器用めいてうまい小味のにじみ出る美女だ。
三国連太郎、仲代達也、小林桂樹、この辺では申し分のない名優になった。真田広之には「タケる」男を感じる、若手では一番好きだ。
嫌いはどうでもいいが、縁もゆかりもない男や女を、好きだ好きだと言うて評判しているのは、気が良くて、ストレスもなくて、気の妙薬だ。
2005 4・30 43
* 中国映画「初恋のきた道」を見た。秦建日子がむやみと褒めて奨めるので、珍しく市役所のホールへ、妻と見に行ったのが最初だ、気持ちの佳い温かい作品であつた。ことに主演のチャン・ツィイーがめっぽう良かった、巧いうえに愛らしく、純な恋とはこういう心身の躍動だと、胸のふるえる感動を表現していた。最近、BSでやったのを録画しておいて、夫婦で今朝ゆっくり観た。気持ちよく泣かされた。
中国映画はそう沢山は観ていないが、香港製のカンフーものは好みでない。時代物のケバケバしいものも。
わたしの挙げうる双璧は、いまのところ「初恋のきた道」ともう少し以前の「黄色い大地」だろう。黄土地は木訥として嶮しい風土に刻んだ見るもつらい悲劇であったが、感銘は胸にしみいり消えない。
「初恋のきた道」は淡泊に温かいツクリで、何といってもチャン・ツィイーの美しい魅力が画面に躍動する。劇とはセリフではない、肉身の内的な躍動が劇的美と感動に成る。そのママに、成る。すばらしい女優だ、日本でなら宮沢りえ、か。
2005 5・3 44
* ブリジット・バルドーの「殿方御免あそばせ」は、シャルル・ボワイエも登場するロマンチック・コメディー、ブリジットがやはり生き生きとしていて憎めない。
2005 5・3 44
* 題も俳優達もよく分からぬまま、数組の男女をバラバラに撮って行き、一家族の物語へ巧に引き絞って行く、魅せる、洒落た映画を観た。ショーンコネリーがいわば座頭格。これは一収穫だった。昼食をはさんでの、またまたブリジット・バルドーの「裸でご免なさい」も、ドタバタとテンポの、言語道断にお洒落なコメディだった。
2005 5・4 44
* 連休は今日で終わったという声も聞くし、八日の日曜までが連休だと遠出している人達もいる。わたしは、すつかり腰を家に据えていた。
晩にはまた真田広之の「助太刀屋助六」を楽しんだ。ふっきれた映画づくり、岡本喜八監督のタダものでない才気を面白く笑って堪能した。あの「高校教師」がねえと真田に惚れ直したり、あの「君の名は」がねえと鈴木京香の、タレントでない「女優」の可塑性・可能性に気を入れて声援したり、村田雄浩の「間」取りの工夫を応援かたがた褒めたり、岸田今日子や仲代達也の濃いおかしい味わいを堪能したり、大勢の贅沢なワキ役達の出映えを楽しんだ。ワキでは本田博太郎だと思う、小鎗遣いの工夫のある役作りに強く目がとまった。ナイス!
* さて、散髪などして連休あけの気分一新に備えたい。さ、階下で、今日の仕事の仕上げにかかる。もうすぐ一時だ。
2005 5・5 44
* 現今のジヤーナリストとして信頼していい一人に鳥越憲太郎氏がある。滑舌ではないが、言葉につっかえながら誠実ななかみをねじこむように話しかけてくれるし、取材してくる内容は、今日のひょろけたジヤーナリズム世間ではむしろ敬遠され白眼視されかねないような、しかし最も知りたいし云いたいし広く知られたい材料を適切にとりあげている。今日の昼すぎに放映された、アメリカによる原爆投下、枯れ葉剤散布、劣化ウラン弾の霰打ちなどを、厳しく追及した番組は、九十分、得難いすぐれた姿勢を貫いていて、あまりの悲惨見ていられないほどの画面ながら、ああこれをアメリカで放映して欲しいと想わずにいられなかった。
アメリカは、あまりにこの六十年、非道に非道過ぎたではないか。神と正義の名においてする、憎みてもあまりある傍若無人の悪行アメリカを、遺憾なく番組は剔抉する。地獄におちて当然当然当然なのはアメリカのかかる暴虐無惨を加速度化してきた政治家と軍人と死の商人達であること、絶対に神よ、許し給うな。
こういう番組に会うと、テレビもわるくないと思う、つくづくと。同時に、これが放映されるだけで輿論にならない悲しみも深い。妻も傍で嘆いていたが、こういうジャーナリストがえてして危険視されてブラックリストにのせられ、とかくマスコミ世間からも敬遠されかねない、いつも優れた少数派になってしまう。惜しいことだ。
2005 5・15 44
* 建日子と昼飯。おやじはヒマでいいなあと。半分は本音かも知れない。六時、朝青龍の優勝相撲をみて、次なる打ち合わせに帰って行った。
*「中野ザ・ポケット」で、六月七日(火)から十二日(日)まで、秦建日子の舞台では一の代表作・演出作品といえる『タクラマカン』が、「大幅改稿を経て、更なる高みへ」とうたい、公演する。「月あかりすらない嵐の夜、ぼくらは「あの国」目指して船を出す。」これは批評のある、イデアールに激しい芝居である。七日から十一日まで晩の七時開演、十一日土曜には二時開演もあり、十二日ラク日は、正午開演と、四時開演とがある。
* 七月八日スタートのTBS系連続テレビドラマは、毎週金曜十時、劇画原作のある『ドラゴン桜』とか。安部寛、長谷川京子、山下智久、長澤まさみ等の出演と聞いている。秦建日子作の連続テレビドラマも、『ラストプレゼント(天海祐希)』『87% 五年生存率(夏川結衣・元木雅弘)』『共犯者(浅野温子・三上博史)』『最後の弁護人(安部寛・須藤理彩)』『天体観測(小雪・長谷川京子・田畑智子ら)』をこの二年ほどのうちに経てきた。出来の浮き沈みは幾らか有るにせよ、ややこしい業界でよく頑張ってきた。次はどんなものか、予測も付かない。
* ちと一服しよう。眠気に襲われている夕飯どきのワインのせいか。
* 三四度め、トム・ハンクス主演の映画「グリーンマイル」を観て、嗚咽のやまらないほど感動した。撮ってあるビデオでは、最悪の死刑執行場面が幸か不幸か撮れずに飛んでいたのが、今夜は新たな放映で、その無惨きわまりない場面までみな観てしまった。この現実ばなれりのした奇蹟映画が、いささかの不自然なイヤミも無しに、強烈に胸を打つリアリティの確かさ、驚歎。トム・ハンクスは作品に恵まれ、感動の映画がことに多い。「フォレスト・ガンプ」も「プライベート・ライアン」も「アポロ13号」もみなすばらしいが、この「グリーンマイル」はさらにすばらしい。
六時に建日子が帰ってから、ジュリア・オーモンドのグィネヴィア、リチャード・ギアのランスロット、ショーン・コネリーのアーサー王という伝説的な大作を楽しんだ。そして眠気覚ましに「グリーンマイル」をつづけて観てしまった。
映画は面白い。いい映画はしっかり人生に根付いてくれる。
2005 5・21 44
* エド・ハリスとマデリーン・ストウの「チャイナ・ムーン」を観た。初めて観たときの不愉快感は相当薄められて、そこそこ同情的に観た。主演の二人はわるくなかった。
夜はハリソン・フォードの「K19」を観た。この手の映画では、「レッド・オクトーバーを追え」や「Uボート」さらには「眼下の敵」のような名作がある。今夜のは、政府の理不尽という怒りが感動につながるものの、劇映画としてはハリソン・フォードが例の一本調子で、今一つ盛り上がらなかった。
2005 5・22 44
* ジーン・ハックマンらの「エネミー・ライン」という戦闘映画を見ながら、寄贈大学と寄贈者への宛名貼り込みをしていた。この配本は、講読してくださる方々への送付だけでなく、一つの文学活動として広範囲への寄贈も大きな意味を持っている。誰に寄贈するか、試験的に送本するか、それを決めて行くのに、痛くなるほど毎回アタマを使うのである。今回上下巻を送り終えると、通算して八十四巻に達するが、これがどんなに大変なことか、積み重ねた在庫の嵩を想うだけで、当のわたしでさえため息が出る。機械の中にアーカイブするのととは物理的にまるでちがうのである。
おそらく、「百巻」はその息の根をとめる限界であろう、そこまでも達しうるかどうか。来年には創刊して満二十年になる。今のうちに全国の力ある高校図書室へも寄贈して狭まる一方の家の中を寛げられないものか、思案している。高校を選ぶのは出来るだろうが、荷造りが容易でない。本はあまりにも重い。
2005 5・29 44
* 雨しとしと、肌寒いですね。お気張りやして、お疲れ様。
今朝、ゴミ出しと新聞を取りに出て、玄関脇に植え込みの蕾を一杯つけた紫陽花の内、初花一輪だけが大好きな渋い古紫に色づいて、主のわたりを待っていました。梅雨入り間近です。
昨日のデ・ニーロのアメリカ赤狩りの時代を描いた「真実の瞬間」は録画していますか。
何度目かをまた観ましたが、「アメリカが自由の国」なんて、どなたの言葉なんでしょうね。
文化人が思想信条を表明する手段としては、映画は最適の一つ、それを貫いたかのチャップリンの偉さを思い出します。
まだ白川夜船でしょうね、今朝は早くに食事を終えました。 泉
* 昨日作業の最中にソニーが、不具合で修理中だったビデオデッキを届けてきた。映画「真実の瞬間」はロバート・デ・ニーロの渾身の訴えがみごとで、作業の手もとかくとまりがちに強烈に惹きこまれていた。マッカーシー旋風であったのだろう、ハリウッドの映画人の「表現」を好餌として、徹底的なアカ刈りをやったアメリカの、ともすれば民主主義どころか忽ちにファッショの恐怖体制へなだれ込める悪体質を、映画はひしひし迫る恐ろしさ口惜しさで描きとっていた。好きなアネット・ベニングもデ・ニーロの妻の役で出ていた。最期の委員会喚問で、はじめは仕事のために心にない証言もする気でいた主人公が、友人他者の不利益証言を強いられてグッと踏みとどまり、敢然と委員会の暴圧に反駁し対抗し発言していた姿は、痛々しくも崇高であった。それに対し、高い場所から見下して非道横暴残忍な言葉の暴力を浴びせる政府委員達の顔つきの怖ろしいまで狂ったざまは、あれだけで「映画・映像」という「表現力」をみせつけ、圧巻だった。実話であることが映画を小さく固くする例は幾つも見知ってきたが、ジャック・レモンとジェーン・フォンダで見せた「チャイナ・シンドローム」に匹敵する凄みでこの映画は終幕へ盛り上げた。
このアカ刈りの大旋風は、実に二十年もアメリカを萎縮させ、アメリカの自由は紙屑のようにうち捨てられていた。有為の映画人の多くが投獄されたりキャリアと人生とを空しくされた。一九七十年代にはいるまで、こういうアメリカン・ファシズムはのさばっていて、しかし、それでは今のアメリカはそうではない自由と民主主義の国だといえるのか、と、この映画放映は、われわれに問いかけていた。ぜひ、それを言い置く必要がある。
2005 5・31 44
* 夜前、思いがけず遅くまで、バーバラ・ストライサンドの監督主演映画を途中から見始め、やめられなかった。名前を失念した男優の方の映画は、じつは、昼間見ていた映画で、副大統領を選任する大統領役をしていた。日本語でいえば「抗争」だろうか、その政治映画も主演女優のガンバリでたいへん面白い好劇であったが、別の映画でその大統領役と夫婦で演じるバーバラが、自ら製作して演じる「マンハッタン・ラプソディ」は、単なる喜劇をずっと超えた優れた「フーフー(夫婦)」劇で、出色の出来映えだった。
バーバラ・ストライサンドはただものでない個性、実力。ロバート・レッドフォードと演じた「レッド」でも、あの凡で普通のロバートを完全に食ってのけた。あれも印象深い好い映画だったが、この「マンハッタンラプソディ」は、彼女の監督主演が、美しい焔のような意欲と化していて、画面もストーリイも生彩を放った。性関係を排除した夫婦生活を「理想」として結婚したある夫婦の、それがいかに空疎な「フーフー」でしかないかを思い知らされるのは、云うまでもなく当然であるのだが、そのプロセスを、無理なく自然に見せてほろりほろりとさせたのは、主演の二人の、ことにバーバラの間然するところなき演技力の成果。ローレン・バコールが好い感じで複雑な老母親役を演じていた。
2005 6・2 45
* 迷宮美術館という番組を初めて始めと終わりを観た。長谷川等伯の「松林図」これはもう日本画の最高峰の一つ。そしてピカソの「ゲルニカ」圧倒的な黒白での大表現の何と云う感動と美しさだろう。藝術家の魂にはいつも「現代」を見据えて憤りかつ悲しむ激しい焔が燃えている。どんなに世離れた小さな世界に向き合っていても、人間の把握を通して、時代を見つめ自身を見つめ、社会の思潮と取っ組み合っている。そうでなくて、何が藝術か。日本の静かな花鳥画でも優れた作品は「ゲルニカ」に並びうるのである。わたしの直ぐ近くに速水御舟えがく「墨牡丹」が咲いているが、それから受ける生き生きした感動はピカソの「ゲルニカ」の感動とも、無理なく通底する。それが、すばらしい。
2005 6・5 45
* 湖の本のきまりの作業をたんたんと前へ運んでいた。下巻のあとがきも表紙も入稿した。その間にも、ヴィットリオ・デ・シーカ監督、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニ主演の三話オムニバスの「昨日・今日・明日」を見たり、秦建日子作の連続テレビドラマ「天体観測」のオリジナルかと想われるほどよく似た、ロブ・ロウやデビ・ムーアら七人の同窓生たちの青春映画をおもしろく見た。
2005 6・12 45
* ブルック・シールズと、なんとか・アトキンズの「青い珊瑚礁」を流し見ながら用事をしていた。いやみのない、しかも極限状況におかれた少年少女の愛情物語。たわいないのに何度見てもイヤにならない。孤島の海の美しさもあるが、やはり主役の二人の純に無垢なことを心に喜ぶのだろう。一度は文明社会への復帰を二人して(赤ちゃんもいたが)拒みながら、ひょんな事故から少年の父の捜索船に拾い上げられるラスト。
気持ちのどこかに、捜索船に意志的に背をむけて孤島の木蔭に隠れた親子の、あの場面で映画を終わらせたかったという…。それではあまりにと思うものの、あの人間のうようよといて心理の網のいかがわしい汚さと危険さとのなかへ、こんな無垢の親子をわざわざ返すのか、可哀想にという気も抑えきれない。
2005 6・18 45
* ショーン・コネリー、ロブ・ブラウン、アンナ・パキンらによる「小説家を見つけたら」という映画を、ゆっくりビデオで観た。異色といえる、そして興味深い映画であった。ウイリアム・ウォーレスという生涯にたった一冊しか本にしなかった伝説的な大作家、まさしくフェイマスな老作家と、天才的な作文力と柔軟な感性、技術に対応できる頭抜けた才能の、十六歳、貧しい地区に育ってバスケットボールにも目を瞠る力を持った黒人少年との、まさしく「身内」としての出逢いと緊密な日々。
作家は世間に背を向けて隠遁したように黒人街のビルに引きこもっているが、少年との出逢いを経つつ、この老境の人も部屋を出て新たな旅先へ、故国スコットランドへ帰って行き、少年はその才能の開花により、若い自立の基盤を得て行く。
文学・藝術、それもラチもない通俗読み物を通じてリッチに流されるのとは違い、厳しい、しかし暖かい人間理解を通して独自の表現を確保し確立して行くのである、老作家の愛のもとで、少年は。その成長の質実さに眼をみはる。
こういう心温かな師弟物語も、決して数少なくはなかった。だが、「小説」が主題という所に異色があった。納得できるところ深くまた多かった。
* 文学は美術と違い、なかなか教え・教えられるものではないが、真に優れた出逢いがあらば、成り立たぬモノではない。一人しか立てない小島に、二人でも立てると信じあえるならば。
2005 6・24 45
* 梅雨なんてどこへやら、晴れてばかりで暑いです。暑いのは苦手。
さっき、なっがい映画「飢餓海峡」を見ていました。さほど時間を感じなかったけれど。
「釣りバカ」のスーさんが大好きなので、三国連太郎の昔出た映画に興味があります。
暑くなってきましたが、風、体調にお気をつけて。
花は風のことを思って、元気、元気です。めずらしい花でしょう。
* 嬉しいことを言ってくださる。心身ともに健康な若い人のひゅうッと吹いてくる生気に、うそのないはんなりとした生気に、わたしも元気をもらう。
わたしも、あの「スーさん」が好きで、三国連太郎が好き。「異母兄弟」の昔の三国連太郎はキツかったけれど、忘れられない演技をみせた。もっとも、この頃はスーさんをみるつど、からだ大事に、ながいきしてくだされやと励ましている、口の中で。
三国とはまたちがって、ショーン・コネリーもわたしは大好き。髪黒々の昔のショーン・コネリーが「007」なんかをやっていた頃は、或いは、あの美貌輝くジーナ・ロロブリジータを追いつめた「わらの女」で、色男ぶった執事役なんかやっていた頃は、むしろ顔を顰めたいほど嫌いな役者だったが、近年の、髪の薄いショーン・コネリーがやる映画は、どれもこれも好い味わい、まさにいぶし銀の好演作が多く、いま、彼の年代の向こうの男優では、一、二に指を折りたい。「レッド・オクトーバーを追え」のソ連の原子力潜水館長ごろからはじまり、ニコラス・ケージと競演した「ロック」でも、リチャード・ギア(ランスロット)やジュリア・オーモンド(グィネヴィア妃)と演じた「トルー・ナイト」のアーサー王も、キャサリン・ゼタ・ジョーンズと共演した泥棒モノでさえも。さらに昨日観た「小説家を見つけたら」の老作家も。天才的な書き手の少年を演じていたロブ・ブラウン、なんて美しい黒人だったろう。
2005 6・25 45
* もっぱら休息している。録画しておいたブルース・ウィルスの「ラスト・カウボーイ」を観た。予告のあった「スコア」を撮りのがしたのが惜しい。マーロン・ブランド最期の出演作でロバート・デ・ニーロとの共演だったのに。
2005 6・26 45
* 小津安二郎監督の「お茶漬けの味」を観た。佐分利信、木暮三千代、淡島千景、津島恵子、鶴田浩二それに柳智衆。この顔ぶれの懐かしさよ。
柳智衆がさびた喉と節回しで懶い戦歌を聴かせたのがたいへんいいサービス、この歌一つのためにも保存したかった。それと好きな佐分利信の渋み。低音の魅力とは彼のために云いたい。淡島も津島も佳い品位の時代をよく表していた。木暮三千代は主役である、が、他の女達ともつろくしない藝妓のようなあだっぽさが過ぎていた。なにしろ大色気の大女優であった、「千羽鶴」の太田夫人がぴったりであろう、あの感じで佐分利信の奥様を演じて、わるくはないけれど、久しぶりに色気でドキドキさせられた。
2005 6・28 45
* 昨日作業しながら、小津安二郎監督の昭和三十四年作品「おはよう」を観た。柳智衆、佐田啓二、久我美子、三宅邦子、杉村春子、東野英次郎、田中春男、澤村貞子、長岡輝子、三好栄子等々、挙げていくだけで懐かしい俳優達のなかに、初めて映画館で観たとき印象強烈だった大泉滉もまちがいなく存在。
この映画をみた映画館は、新宿区河田町の比較的近くにあった。わたしたちは河田町の女子医大裏に上京結婚後の新居(六畳一間のアパート)をもった。都電の最寄りの停留所「若松町」から、ゆるやかな坂を「北町」方面へおりてゆくと、映画館は電車道の左にあった。小さかった。あのアパートに昭和三十四、五の両年暮らしていたから、「おはよう」もその間のいつかに観たわけだが、朝日子が生まれるまぎわやアトでは妻と歩いてそこまで映画を観に行くまいから、封切りの時であったろう。
正直のところ、あの若さでみる小津映画は、よほどの秀作でなければかったるかった。この「おはよう」もへんに物足りなかった、どきどきしなかった、という印象のまま忘れかけていたが、忘れなかったのは大泉とあれは折原啓子だったかの、カップルだけは鮮烈で、なんて不思議に頓狂な二人なんだろうとビックリしていた。
ところが、昨日観たとき、この二人はなんらスットンキョウでない普通の若者達で、佐田啓二や久我美子のすばらしくお行儀のいい方がビックリするほど「昔」めいてみえた。そして誰にもみな好感を覚えた。みなうまいのである、芝居が。
ただ小津演出にはとくべつの感嘆符はつかない。「秋日和」「東京物語」「麦秋」などのすばらしかったのに比較すると、やや各所で間延びがしていたのである。
なんであの大泉・折原の風俗にああも異様に愕き印象づけられたのか、時代は川の流れのように過ぎて、あの二人をとうに追い越しているのだ。
映画では、テレビを買う、洗濯機が家に有る無いなど、三種の神器と言われた電化製品が大きな役割を帯びていた。わたしは小なりともハタラヂオ店の息子であったから、東京へ出る前からテレビも洗濯機も炊飯器も見知っていたし、家で使っていた。
テレビはいらない主義だったから、新婚のアパートにもながく無かったけれど、炊飯器も洗濯機も、京都の父は、新居のために店頭の品を分けてくれていた。やがて半世紀になる。
2005 6・30 45
* 花田家の元横綱はじめ、きょうだい喧嘩の話題が、五月蠅い五月蠅い。早く仲直りしろの何のと、外野も五月蠅い。「他人の始まり」だか何だか、そもそも日本では、幽明の境を隔ててイザナキ・イザナミの夫婦喧嘩で歴史が始まり、そのあげく生まれたアマテラスとスサノオとが、日本で最初の大姉弟喧嘩をしているお国柄だ。あの時はお日様が世界を照らさなくなったのだから、おおゴトであった。そしてまもなく、ウミサチとヤマサチの激越な兄弟喧嘩がはじまる。後にヤマトタケルになるオウスも、兄をひとしめに絞め殺して平然としていた。天智と天武も壬辰の乱に至る不仲で揉めたし、桓武は兄皇太子を追い落として殺し、弟皇太子をも憤死させている。藤原氏の兄弟喧嘩など珍しくも何ともなく、保元の乱では、崇徳と後白河、藤原忠通と頼長とが、そして源氏の義朝と為朝らも兄弟が相闘っての大騒動であったし、頼朝・義経の御仲不和も大変だった。北条時宗も兄と闘っているし、足利尊氏と直義兄弟の争いもしつこくややこしかった。
仲良し兄弟もあれば、仲の良くないきょうだいも大勢いる。ワカとタカの場合など、一番よくないのはマスコミの強欲な口入(くにゅう)である。
ダイアナ妃の暴露本に、読むヤツの品性を疑うとテレビで胸を張った当人が、一分後には貴乃花と若乃花の問題を熱心に是非しているのだから始まらない。
2005 6・30 45
* 今日のこの「気分」は何だろうとさっきから思っていた。それは昼に妻と見ていた映画「ルル・オン・ザ・ブリッジ」の、青い不思議な光の、照り返しであった。割り切れた筋書きではない、不思議な出逢いに結ばれた、もとサックスを吹いて人気のあった中年過ぎの男(ハーベイ・カイテル)と、「ルル」という映画主役を切望している清々しい若い女(ミラ・ソルビーノ)。この二人に「絆」をもたらしたのは、男が、通りすがりの殺人現場からはしなく拾い持ち帰った、正体不明な一つの石ころであった。これがために二人は別れ別れのまま、妖しい連中に追われ、ふたたび逢い逢うことなく悲劇を迎えてしまう。
この二人の出逢い方と愛し方が、とても魅惑に富み、清純また運命的に熱い懐かしいものであった。二人とも好演していた。わたしはいささかボーッとなって見終えたらしい。不思議の愛の不思議を、割り切れる筋書きのようにいくら受け取ろうとしても、この映画では不可能・不必要なほど、強い。それに打たれていた。
2005 7・3 46
* さっき暫くぶりに「ER=救急治療室」の凄いのを観てきた。その前のヒッチコック映画は録画しておいたから、このあと、元気があったら観てみようと想う。
いま、秦建日子作の一人で書いた最初の連ドラ「天体観測」十何回かを昼間にたてつづけ放映しているが、もう一週間ほどして、人気の劇画「ドラゴン桜」をベースにした、同じ題の連続テレビドラマが金曜夜十時に始まるという。小説の第二作初稿も順調に進んでいるらしい。どう今後に曲折があろうと、しっかり粘り、決して安直にしないこと。前作よりも一段踏み上っていること。それが、「第二作」の秘鑰だ。
2005 7・4 46
* 野球中継の延長のため、秦建日子脚本の「ドラゴン桜」初日、三十分遅れ、いま、十時半から。また阿部寛が吠えているらしい。長谷川京子や野際陽子が出るらしい。
2005 7・8 46
* 「ドラゴン桜」の第一回を観た。あれこれ批評するようなドラマではないが、これは、この線で図太く進むのがいいだろう。同じ題の人気の劇画原作があるというから、建日子は、どれだけ下敷きにしながら、はみ出て纏めて行くかだろう、第一回めは、見終えて、来週も見ようと思った。それで十分だろう。
学園ものは昔から、大昔から、有る。明治時代にもとくに女学校ものがあった。藤村の「春」など、どこか「天体観測」の先駆めいてもいるのを、建日子は夢にも知るまい。石坂洋次郎の「若い人」「山のあなた」もそうだった。映画や連続ドラマにもたくさん学園ものは有った。
この「ドラゴン桜」の趣向と主張には、しかしうまく乗ってくれば、一種の「個性」も「抵抗」も「批評」も出せるうまみがある。そこまで行くなら、画面がかなりハチャメチャでも構わない。雄志をもって、バカにすべきは大いにバカにし、衝くベキは大いに衝き抜いて、それでも結局は学歴社会を鼓吹して終わるなら、所詮その程度のものに過ぎない。阿部寛は、「最後の弁護人」より可能性が見えている。腰砕けないでやってもらいたい。建日子の作でなかったら、だが、観るかな。観ないかな。なかなか面白い。
珍しく、終えて直ぐもう一度録画を見直そうとした、ら、「予約」の手違いか、半分近くで他の番組と混線していた。こういうドジがこっちへも感染するドラマなのか、呵々。
2005 7・8 46
* 「スターウォーズ」も見ないで機械の前にいた。ああいう映画はイヤだと一度思うとついて行けない。録画で見てみようと。夕方、録画したほぼノーカットの「ペリカン文書」をまた見た。テープで吹き替え録画したのは数度見ているが、幾度見てもパチッと新鮮で面白い、この種の映画の傑作である。ジュリア・ロバーツも絶対にいいし、デンゼル・ワシントンは何といってもこの一作が圧倒的魅力、妻もわたしもイカレてしまった。見直して十分満足した。
2005 7・10 46
* 秦建日子脚本の「ドラゴン桜」二回目を楽しんだ。ま、こういう調子でやるならば、せめてこれぐらい、せめてこの程度の所までで、大いに大いにハジケタ方がいい。半端にやるとダメなのだ、こういう手筋は。
面白かった。「編集王」の頃はまだヘタでハラハラしたが、かなり安心していられる、今は。一日中、へんに腐っていたが、少しスッキリした。
2005 7・15 46
* 秦建日子脚本の「ドラゴン桜」が、「好評につき」急遽あすの午後(TBS)に、すでに放映した第一、二回目を再放映すると決まったそうだ。わたしが息子のドラマで、二度ずつ見ようとしてきたのは、この「ドラゴン桜」だけだ。
劇画原作が下敷きと聞いていたが、実は、第一回分だけが、厳密に忠実に劇画を再現し、第二回目からは大胆に離れているのだと。原作者からも自由自在に好きにやってくれるように言われているらしく、楽しみがさらに増してきた。
* カトリーヌ・ドヌーヴ主演トリュフォー監督の「終電車」を見終えた。地味ながら滋味に溢れた戦時下ものの映画で、二人の女を内面にかかえたドヌーブの冷たい熱い芝居に見応えがあった。それにくらべると、何度も見てきたがマイケル・ダグラスとキャスリン・ターナーとの「ロマンシング・ストーン」は、キャスリン役の女作家の書いている手の付けられない低俗でリッチな小説なみ低調な笑いで。とても吹き替え無しの画面をじいっと見てられるシロモノではなかった。
2005 7・21 46
*「ペン電子文藝館」「詩」の室に展示された最近五人の詩作品を、かなり丁寧に率直に批評したアクセス読者の長文が届いていて、それを読んで、委員のメーリングリストにまわしたりしているうちに、十時の「ドラゴン桜」三回目が始まった。なんだかむやみと面白く、一人の女生徒が勉強の結果が上がらない「くやしい」と泣くあたり、わたしまでほろっとした。もう脚本はほぼ全面秦建日子のツクリと聞いているので、それだけわたしは楽しんでしまう。
*「十二夜」について書いたのは、そのあと。もう日付は変わっている。
2005 7・22 46
* 夕方、プーシキン原作の英国映画らしい「オネーギンの恋文」を観ていたとき、めったに無い強い地震に襲われた。横揺れ。すぐ雀や鳶のお見舞メールが来た。地震はイヤだが、来るものは来る。防ぎようがない。
ロンドンなどでのテロは、どこをどう取っても人災で、有って犯罪、無いのが当然だ。海外へ遊びに行く人達が次々キャンセルしている。日本でテロはないとも云いきれない。イヤなことだ。
あの9.11、ニューヨーク超高層ビルへの爆裂テロは憎い行為であった。またアメリカをはじめとする何カ国かのイラク侵攻・潰滅・占領行為も許し難く、いまのテロの連鎖には幾重もこの無茶な攻撃が引き金になっている。テロが狂気の沙汰であったようにアメリカのブッシュやイギリスのブレアの戦闘行為も、判断の冷静を欠いた狂気の沙汰、テロ連鎖を生み出さずにいない無謀の仕打ちだったことを、両方見ないと間違ってしまう。
* 愛は可能か。そういう主題で小説を創ったことが何度もあった。
「イフゲニェ・オネーギン」もそういう小説であった。プーシキンの像が公園の真ん中に立っていて、そのそばの、レニングラードのヨーロッパホテルに泊まった。劇場でバレーの「オネーギン」を観た。遠い昔だ、案内してくれたソ連作家同盟の通訳エレーナも死んだ。同行した二人のうち一人の男性作家も亡くなった。女性の高橋たか子さんとは久しく会わない。
イスラエルとアラブとに愛は不可能らしい。旧約聖書で昔風に謂うとエホバなるイスラエルの神の言葉を聴いていると、タカミムスビやアマテラスやニニギら日本の神々とずいぶん違い、ひと言で尽くせば、烈しい。「出エジプト記」でエジプトをこらしめ、モーセらを指導するエホバの烈しく厳しく容赦ないことは、神様仏様などと甘えられるような力ではない。
* 愛はとても尊い錯覚に過ぎないというわたしの根の認識は、変更出来ない。それは愛の可能への未練に似た信仰なのであろう。レイフ・ファインズが演じたオネーギンの前で、リブ・タイラーが演じた人妻は、互いの愛を暑い涙で確認しあいつつ愛の重さを、現実の安泰の壁のうしろへ逃げこんでしか持ち堪えられない。それが、良識で常識。そして良識・常識のゆえに人生は掌を崩れ落ちる砂のようにあとはかない。
*『ドラゴン桜』第3回を観たという好評のメールが飛び込んでくる。わるくない、おもしろい、すかっとする。異論はないが、あまり大層に持ち上げないで落ち着いて観て行きたい。これが閾値を超えた作品になるか、要するに毒にならないが薬にもならないアハハもののエンターテーメントで終わるか、何か或る動かし難い記憶と推力を掘り当てて残してくれるか、平静に観ていたい。
2005 7・23 46
* そして、今夜は秦建日子脚本の「ドラゴン桜」第四回であった。終わるとすぐ、東大卒の年輩の女性から感想が届いた。今夜しか観ていないとあり、残念。
* ドラゴン桜 今夜やっと見ることができました。「最後の弁護人」役だった弁護士が、落ちこぼれ高校の生徒五人を東大合格に向けて特訓するというコミカルなドラマですね。五人はそれぞれ なかなか個性的で魅力的。
原作の劇画も読んだことがないし、今夜一回しか見ていないので分かりませんが、「東大受験」を徹底的に戯画化してこのまま数学の特訓だけ続けて行くのでしょうか? 見れば見るほど「東大合格があほらしくなる」とういうことで、それが視聴者の共感を得て人気があるのでしょう。反権力 反体制的な思想を表現しようとしているのかとも取れますが、どうでしょうか?
プラスのものに向っていくのではなく、マイナスのものを追い求めているような気がして、それが面白いのでしょうけれども、個人的には、夢を追い求める若者を描いた「天体観測」のほうが感動的で好きでした。 波
* ちょっと、今夜の一回だけでは読み取れないだろうと思います。ほんとは、最初回からみて批評して欲しいなあと思っていました。たんなるキワものにはしていないためか、歯切れも思想も受け入れられているのか、批評は、このシーズンのトップにランクされています。今回は、ちいさい曲がり角を通ったようです。
「天体観測」はさいきん再放映され、見直しまして、あれなりに清潔に書けていたと思いました。「ドラゴン桜」は行き方は変わっていますが、思い切り弾けていて、妥協の少ない興味ある展開をみせているように感じています。
また機会が有ればつづけて観てください。 湖
2005 7・29 46
* 家に帰ると、秦建日子脚本の浅野ゆう子主演二時間ドラマの途中であったが、妻に聞くと案の定、お定まりの「つまらなさ」と聞いてみもしないで、シャワーをつかつたあと、機械の前へ来たのである。
さ、これで九月第一週はカレンダーも白いまま休息できる。秋にさきがけ気を惹く美術展など、楽しめたら楽しみたい。メガネを新調したい、もう一年も一年半もサボっている。
2005 7・30 46
* 引き続いてすぐこんなことを謂うのは少し問題かも知れないが。建日子脚本の「ドラゴン桜」は、視聴率はともあれ、批評的には今季いまのところ独り勝ちにちかい好評のようで、妻がよく覗いているらしい、業界筋のサイトへの視聴者の書き込みは、凄いような熱気だそうだ。で、そんな中の一人に「東大卒」の人がいて、あれこれむしろ共感や批評を書き込んでから、「そういう僕もじつは東大生で、なーんて云うところがイヤミなんだけれど」と言い添えている、と、妻は教えてくれた。
ああ、こういう引っ込んだ自意識は持たないで欲しいなと、わたしは思う。「東大生」は東大生になっちゃった定めをすらりと受け入れた方がよく、世間へ向いて無用の「イヤミ」自意識など持たない方がイイ、むろん無用の「誇り」意識も鼻高に持たない方がむろんイイと思う。不正な手段で合格したというならハナシはべつだが、それなりにまともに合格したのは一結果であり、それ自体に「イヤミ」は無い。「イヤミ」がるからイヤミになる。それだけのことだ、東大生は東大生なのである。
わたしは、そういうことで仮に他人が「いやみ」に感じようが感じまいが、自分のことで、例えば作家、太宰賞、東工大教授、ペンクラブの理事、電子文藝館館長などであったり今もあることを、普通に平気で示しもするし隠したりしない。わたしはそのどれにも不当な画策をして成ったわけではない。わたしは成るように成ったし、成れと云われて成ったまでで、それが「いやみ」のタネになど、少なくもわたしの内では成っていない。そんなことは、どうだっていいと思うぐらい、そういう経歴も余儀なく「わたし」なのであり、気を付けるのはバグワンの言葉で謂えば「同化」しないことだ。そんなことに「同化」してしまって、本質の自分を他に預けてしまう、侵蝕されてしまう、ほど馬鹿げたことはない。軽い譬えになるが、つまりわたしが「わたし」であるよりも「教授や理事や館長」のほうがあたかも「わたし」自身かのように転化してしまえば、それほど滑稽な笑劇はない。その「東大生」君にも「東大生」であることへの「同化」が起きているから、その「いやみ」ぶりを自己意識してしまうのだろう。
そして究極、わたしは「わたし」にすら同化してはならないのだ、が。
2005 8・1 47
* マリリン・モンローの「ナイアガラ」を、四度にも分けて少しずつ本を読み進む工合に観ている。一度に観てしまう時間がない。それでいて、同じモンローの「バス・ストップ」も少しずつ前から観ている。何でもかでも併行して幾つもという余儀ない生活をしていて、それでいて気は落ち着いて、平常に平生につづけねばならない。早く「ナイアガラ」のラストを観たいよ。
2005 8・3 47
* 秦建日子脚本の「ドラゴン桜」を楽しんで観た。ぱっちりハジケているので、これでいいと思う。面白く観られる。生徒達も桜木弁護士もよくやっているが、始まる前は案じた長谷川京子が、終始楽しんだ演技でワキに徹している余裕が、好感が持てて観ていて惚れ惚れする。「天体観測」のときはみすキャストだと思ったが、今回は、ドラマの佳い一面の芯になって長谷川京子が働いている。すっかり好きになった。終わりの方で、少年の一人が一人に、「なら、ヒデキにあやまれよ」というさりげない小声のセリフ、うまかった。バチッと、ボタンがボタン穴にはまるように利いたセリフで、わたしの思っていたまさにそのタイミンクで必然のセリフを、息子が書いていたのに満足した。
2005 8・5 47
* 秦建日子脚本の「ドラゴン櫻」が好調。きらいだった「試験」「模試」なんて場面の続出にへこみながら、オモシロク見た。楽しんでいる。
2005 8・19 47
* 木下恵介監督の映画「女の園」を二度に分けて見終えた。むかし映画館でみたとき、わたしが何歳頃であったか朧ろげになっているが、明らかにわたしの思想はまだこの映画に追いついていなかった。印象はわるかった。と言うよりわたしはこれを掴みきれなかった。
高峰三枝子、高峰秀子、久我美子、岸恵子、そして東山千栄子、毛利菊枝、浪花千栄子、原泉、その他数え切れない往年の女優達が目白押しに出ていたし、田村高廣、金子信雄なども。その懐かしさも手伝ったけれど、明らかに自分の一歩前を歩んでいた映画であったと感銘に少し痺れた。わたしは長い間、あれは木下恵介の監督作品だったんだから、「日本の悲劇」や「カルメン故郷に帰る」や「二十四の瞳」や「野菊の墓」などの巨匠の社会的批評を帯びた作品を、機会があれば、ぜひもう一度観たい観たいと思い続けてきたのである。
期待に背かない佳い映画であった、引き込まれて目が離せなかった。モデルの大学が京都女子大だということもわたしには親しみやすかった、わたしの通った幼稚園は京都女子大の傘下にあったし、あの太閤坦(たいこだいら)も馬町(うままち)もわたしにはごくごく親しい場所であった。
あんな学園がほんとうに在ったろうか。在ったに相違ない、日本列島の諸方にああいう「女の園」は、明治このかたイヤになるほど存在した。現代にも実は存在してときどき物議を醸しているではないか。
この映画で「校母様」と奉られているモデルが、本願寺裏方であるのは相違なく、わたしは、京都に育って巨大寺院に対し少しも尊敬も親近感ももてずに育ってきたのである。京都女子大に奉職している大学教授に対してすら、わたしはながい間、かすかな軽侮の念を持していたぐらいだ、無茶な話だ。
舎監役の高峰三枝子には気の毒であったが、あれほどの美人女優を、わたしはこの映画からすっかり嫌いになっていた。へんな話だ。高峰秀子は演技力を買われたのに違いないが彼女らしからぬ役を、めそめそとよく演じていた。その恋人の田村高廣とは、今、本のやりとりや文通があるが、昔から田村三兄弟のなかで一等好きであったのも、この映画の感化であろう。
懐かしい、そして佳いものを観て、満足している。日本映画の黄金時代であった、あの頃の映画ならわたしは繰り返し繰り返し観てみたいのである、今日の日本がまたも見失ってしまったすばらしい視野と視線とを、この時期の日本映画はもっていて、わたしをリードしてくれた。
2005 8・24 47
* 颱風が来ている。黒いマゴに起こされ、また数時間に足りぬ睡眠で早起きし、機械で原稿を作っていたが、十時頃に潰れるように床へ戻り三時間ほど寝ていた。なんだか、へんな、逃走劇めく冴えない冒険の夢をみていたり。雨が、遠くから急に迫って来たり、またふっと遠のいたりしている。
* 世間劇といえばつまりは政局選挙のあれこれで、ニュースとも言えない矮小化された政治の笑劇が主で、騒々しさよ。うんざりして頭も働かない。自分の仕事に少しずつ立ち向かう以外にない、それはけっこうなことであるのだが。
ほとんど、食欲すらない。
昨日の映画「女の園」の余波が身内にゆっくりうねっている。雨でも風でも、またざあっと来たら、子守歌がわりにまた寝てしまおう、へんに疲れている。明日予定の会合も颱風に煽られて流れた。
2005 8・25 47
* 台風は関東を直撃したようですね。何事もありませんでしたか。こちらは雨も降りませんでした。
> 鉄分摂取は、苦痛な便秘をともなうのが普通で、
知りませんでした。教えてくださって、ありがとうございます。購入したのは、手軽に摂取できる栄養補助食品です。一日の量が決まっていますので、過剰摂取にはならないと思いますが、注意します。
「女の園」という映画は知りません。どんな映画なのでしょう。興味あります。女子ばかりの社会には、独特の空気がありますが、そういうことも表現されているのでしょうか。 花
* 京都の女子大生高峰秀子と東大生田村高廣とが姫路の出で、はかないデートの別れに、女は姫路城の天守から、男は東京へ向かう東海道線の汽車の最後尾から、ハンカチを振り合って別れる場面など、ほんまかいなと思ったけれども、ああいう場面を本気で撮影していた時代であったなあと、ほろ苦い。
2005 8・26 47
* 秦建日子脚本「ドラゴン櫻」大好調。すこし涙が出た。
ただ、いわゆる教員室にたむろしている学校教師への軽蔑・侮蔑が助長されて行くことに、危惧も深い。ドラマの主題が其処にあるわけでないのでこれ以上は言わないが、あの紙屑のようにひらひらと右往左往している教師達を、ドラマの上のバランスというだけで観ているのは、あまりに情けない。このドラマの主題には感動を誘う本質があり、それは東大でも偏差値でもない。それはそれ。
しかしまた学校教師とは何であろうか、わたしは、過去に垣間見た幾つかの学園ドラマでも満足したり感動できたことは無かったことを告白しておく。「学校の先生」と謂ってしまっては大雑把になる。小学校の一年生から高校三年生まで、一年刻みに実は「先生」のありようは微妙にちがうだろう、それを一括りに一様の「聖職」とくくっても「紙屑」とくくってもならないだろう、まして「ドラゴン櫻」の受験の魔術師のような教師だけを仰ぎ見ていて良いワケがない。
「先生」とは何かをいちばん知らないのが職業「教師」かも知れないと、わたしのドラマで流した涙の一粒二粒はそちらへの情けない涙であったことを告白する。そして、櫻木健二とかいう弁護士「先生」をより良くもより悪くも誤解してはならないだろう、「東大」や「受験」や「野心」を下支えている人間の命=人生をしっかり観ていると想われる彼に、わたしは心惹かれている。
2005 8・26 47
* このところ柴又フーテンの寅さん映画をいろいろ見ている、妻は全編録画する気らしい。昨日から池内順子のマドンナ篇を繋ぎ繋ぎみている。ほんとに煙草一服という見方であるが、ことは足りる。志村喬が「ひろし」の父親役、夫人を喪った印度哲学の先生役で、そりゃ渋いいい顔を見せてくれる。映画で男に魅入られたことは多いが、志村喬の「生きる」「七人の侍」がよかった。例の「さくら」の倍賞千恵子も佳い役で、この役一つで映画史に永くのこるほんものの好演だ。好きな吉永小百合にも沢口靖子にも、倍賞千恵子の「さくら」ほど記憶に残る映画代表作を、残念ながら、わたしはまだ覚えないのである。
2005 8・28 47
* お宝鑑定団、おおかた繪はまちがいなく真贋の判断が出来る。ニセモノには生彩がない。昔の人は気韻生動と言った。
2005 8・30 47
* 昨日だか、勧められていた映画「マレーナ」を見始めている。まだ半ばも行かない。「ニュー・シネマ・パラダイス」や「船上のピアニスト」と同じ監督作品なら、かなり期待して結末が迎えられるだろう。美人女優としてきこえたモニカ・ベルッチの生き生きした魅力はまだ伝わってこないけれど。
イタリア映画というと「自転車泥棒」の昔から出逢ってきたが、あいかわらず映画一方の雄で、さまがわりした佳い作品が次々出て来る。フランスものをしのぐ生気がある。
* 映画の事 「戦場」ではなく「船上のピアニスト」です。送信したメールは削除しているので分かりませんが、間違って送ったかも。間違いはキライ、即、訂正します。
あれも佳い映画でしたね。「戦場」の監督は「テス」が佳かったロマン ポランスキー監督です。
ジュゼッペ トルナトーレ監督はそれ以前に、マストロヤンニ主演「みんな元気」を撮っています。年老いた父親がシチリア島から本土で生活する子供達を訪ねて、大人になった子供達の虚栄の中に巻き込まれる哀歓、孫による、ほんわかとした暖かい終盤、ホロリとさせる佳作でした。11chの夜中にでも、また放映があるでしょう。
「マレーナ」はイタリア男性いや世の男性の本質を描いているとみました。二度目ですが、まだ途中です。これも戦争の悲劇の一つといえるでしょう。
まあ、ストーリー云々よりも、イタリア随一の美人女優とシチリア島を観て欲しかったのよ。
サア大変、とりとめもないけれど、時間切れ、これから秋刀魚を焼いて、夕飯、夕飯。 泉
* 「マレーナ」は、稀に見る、戦争ものの傑作であった。見終えて、深い歎息。
イデオロギッシュに戦争を批判しているのではない。戦争のもたらす異様にねじくれた暴力的動揺、容赦ない人間性の破壊、その爪痕。
男のいやらしさも底知れず穢いが、そんな男の傍にかたまった女達の、ふつうの女達の、毒牙のように隠し持った醜悪な嫉妬と差別心の暴発。そんな世間の険悪な視線と暴力とに翻弄されなぶり者にされる美しいたった一人きりのヒロイン。しかも一脈の澄んだ矜持で毅然と街を歩きつづける。死んだと信じさせられた兵役の夫への忘れがたい愛がその若く肉感的な美しい女の胸に残っていた。
それらのすべてを、なみなみでない本能と愛情とでみつめつづけた一人の少年の、さいごに言う「お幸せに」のひと言は美しい。少年は、女の姿を終始一貫後ろから自転車で追いかけながら成長してきたのだった、そしてそのひと言を女と夫との後ろ姿へなげかけて、彼は、初めて愛した人から逆向きに自転車で走り去って行く。「ニュー・シネマ・パラダイス」の監督作品らしい。
* ケビン・コスナーとロビン・ライトが主演しポール・ニューマンもつきあっている「メッセージ・イン・ア・ボトル」という映画を深夜になって半分観た。胸にしみいるロマンスで、主演の二人がめったにないと云えるほど静かに好感の持てる画面を創っている。すばらしいモノに出逢ったという印象で、明日が楽しみ。
2005 9・2 48
* ルイス・マンドーキ監督の「メッセージ・イン・ア・ボトル」を見終えた。稀に見るロマンティックな感動編で、ケビン・コスナー、ロビン・ライト・ペンの清潔な好演、ポール・ニューマンの暖かい渋み、一人としてイヤな感じの人間が現れない終始一貫した人間の愛への愛を描ききって、美しい写真とともに最高の出来であった。また一つ、わたしの映画館は宝物を加えた。
2005 9・3 48
* 日曜日は孫が来ないので、静かに過ごせます。
次男も結婚してからは、顔をみせる時間が減りました。いい傾向です。
庭いじりにマメではなく、最低線です。
残暑も厳しいですが、食欲落ちず、軍鶏にはなり難しで、汗をかきかき家で秋刀魚を焼くよりは、据え膳がいいな、と、そんな歳。痩せるわけがない。
映画、お知らせしてよかった。
モニカ ベルッチは「マトリックス」に出ていたのですね。
12chはいつもいい映画とは限らないので、見過ごすかもと。
映画は吹き替えでない方が好き。
9月8日、ジョニー デップが切り裂きジャック役の映画が、面白そう。
BSは何度も何度も同じ映画を放映します。「メッセージ・・・」は落ち着けるロマンチックないい映画で、保存版にしています。
寅さんは、仕事のお得意様だったので、欠かさず映画館で観ていましたが、今も観ては笑っています。 泉
* 吉永小百合との寅さんは、映画として今一つパチッとした盛り上がりに欠けた。やはり「さくら」の、兄寅さんをみやる横顔や視線や表情に感銘がのこる。「とらや」で支えている寅さんだと分かる。
篠田正浩が丹波哲郎や岩下志麻その他出来る役者の大勢をつかって撮った「暗殺」も観た。浪士組の清河八郎伝のような映画で、原作は司馬遼太郎。こんなものしか書けなかったところが、小説家としては司馬の小ささで、大きなフィクションが書けなかった。
近年日本の映画監督には、黒澤晩年のいくらか悪い感化からか、美学はあってもハートの乾いた「見かけ映画」の創り手が多いのではないか。大島渚の「御法度」も同じような新撰組を描いて、はなはだ「美学そのもの」の無感動作であったが、篠田のこの映画も同じ。こんなものを創って何になるのと言いたい。
日本映画の黄金時代、昭和二十年代後半から三十年代への映画にはゾクゾクするような血のにじんだ人生や現実が把握され、表現されていた。そのあとへ助監督級が監督へ昇進してきた時期の競作映画に、まま、美学偏重のものが出始めてきた。そのお手本に大監督黒澤明がいた気がする。黒澤は、美学的に勝るかも知れないが、率直に言うとしらける映画も創り始めていた。「用心棒」ではガマンできても「椿三十郎」になるとかなりツクリモノになっていた。彼の「生きる」や「七人の侍」には、後年の名前も忘れてしまう美学的に凝ったばかりの映画とは段違いに、刺し込んでくる感動があった。
同じ時代劇でも篠田の「暗殺」より、大島の「御法度」より、小林正樹だったかの「切腹」や、また「上意討ち」などの方が震えがきた。岩下志麻をつかった「五辨の椿」は誰の映画だったろう、岩下の美しさには、テレビにデビューの頃からはっきりした認識と好感があり、この映画でも、「暗殺」ででも岩下志麻には心惹かれ、そればかりか丹波哲郎にも岡田英二にも早川保らにも好感をもったけれど。篠田正浩の映画そのものは、ただ殺伐として志が感じられなかった。気の低いものだと思った。
2005 9・4 48
* 二時頃灯を消し、三時半に黒いマゴに起こされて外へ出してやり、四時半に眼が覚めてしまい、起きて映画「アサシン」のつづきを観た。ブリジット・フォンダのこの「ニキータ」のリメーク版は、前にも観ている。普通の娯楽映画で、テレビ版で連続で放映したペータ・ウィルソンの「ニキータ」の方がずっと出来が良かった。あのニキータは個性的であった。
2005 9・5 48
* 七時に起きた。血糖値尋常。
朝食の間、林芙美子原作・成瀬巳喜男監督、原節子・上原謙らの「めし」をしばらく観ていた。
日本映画戦後黄金時代の終期ちかい頃の作であったかと思う、あの当時に観ていて、あれだけ好きな原節子なのに、ちっとも心ときめかない侘びしい印象であった。今観ると、上原謙のすばらしい美男子ぶりといい、懐かしい懐かしい原節子のまた一味ある好演といい、しみじみするのである。だが思うに、わたしは、妻もそうだろうか、「めし」という映画作品でなく、じつに、「昔」というものを「観て」懐かしがっているのだなと、我から納得してしまう。
昔の原節子、昔の上原謙、昔の島崎雪子、昔の二本柳寛、そして昔の大阪、昔の日本を、観ているのである。
島崎雪子のこんなに佳い映画は、もう観られない。彼女が「七人の侍」に捨て身の好演のとき、わたしはどきどきした。美しい若い女優であった、心も、体も、惹かれたものだが、あっさり彼女は映画界から消えていった。
「めし」は、成瀬監督らしい、視線を低くから起こしてゆく確かなリアリズム作だが、当時若かりしわたしは、原節子や上原謙という映画史にも日本史にも稀な美男美女をつかって、何といううらぶれた映画を創ってくれるかと、心楽しまなかった。そしてあのあたりから日本映画は黄金期を脱していったのではないか、あまり時を違えずにわたしは、妻と一緒に、映画館で総天然色の「バイキング」を観ている。カーク・ダグラス、トニー・カーチス主演の美しくもバイオレントなスペクタクルだった。この映画や、またミレーヌ・ドモンジョの「女は一回勝負する」などを観て、少なくもわたしは、急旋回して日本映画からはなれ、西洋映画にほぼ完全に乗り換えていった。いまもなお、だ。
ちょうど今、「世界の歴史」を読んでいて、デーン人たちのイングランド侵掠の烈しさを見直しているとき、あれがまさしく「バイキング」だったと思い出し、無性にやはり昔懐かしかった。我老いたり。それも良し。いまにして「昔」を観ている日本映画の懐かしさは、深い。ま、その感傷も、良いと思う。
2005 9・6 48
*「めし」を見終えないうちに同じ成瀬巳喜男監督が日本映画として最初に海外で営業し称讃された映画「妻は薔薇のごとくに」を観た。昭和十年、即ちわたしの生まれた年の監督作品なのである、英百合子や藤原釜足ぐらいしか知った顔のない大昔ものだが、主演女優の娘やその婚約者や娘の異母妹がなかなかうまく、見応えがした。劣化した画面と録音のまずさは観にくくも聴きにくくもあるのだが、それをしも凌ぐ映画の質的なよさがあった。これぐらい昔ものだと、かえって「昔」が気にならないから面白い。成瀬監督は、黒澤、溝口、木下等の花形監督のかげになりやすく、しかも佳い物を撮って存在の隠れることのない大監督の一人であった。
2005 9・6 48
* 昨日、原節子と上原謙の「めし」を見終えた。さすがに成瀬巳喜男監督作品、落ち着いて巧く仕上げてあり、文字通り見直した。「昔」懐かしいにも相違ないが、それだけではない。主演二人の好演、杉村春子ら脇役の好演、島崎雪子のあれはあの当時なりのアプレゲールぶり。
「昔」というなら、顕著な「昔」は、大阪と東京の市街風景で一目瞭然であるが、それ以上にいつも痛いほど感じる、女性のしっとりした正しい言葉遣い。正しいは正しくないかも知れないが、ともあれ落ち着いて丁寧で品が良い。ことに原節子の日本語の美しさは、たんなる音声としてでなく、すべてが身ごなし、行儀と、みごとに連動した生彩にある。
最近の女の子達の、わざと音声を、くねるようにねじ曲げ潰した「ニャアニャア言葉」の品のなさは、堪らない。
原節子に「お嬢さんに乾杯」というさらっとした好作品があったが、あのお嬢さんの物腰と言葉遣いの美しさなど、忘れられない表現であった。
* テレビは早朝から当然に、北海道へ再上陸した颱風の消息と、選挙情報で、むろん焦眉の急といえばこちらだが、そして被害に遭われた各地各所の大勢にはお気の毒この上ないが、それでもなお、気持ちは、それら一切とバランスして、原節子の表情・物腰・物言いの一つ一つが呉れる深い安堵の方へ寄って行く。
2005 9・8 48
* 今日一の感動は、成瀬巳喜男監督、山田五十鈴に配して新派の花柳章太郎、喜多村碌郎、伊志井寛、柳永二郎らでがっちり固めた、鏡花原作『歌行燈』の観られたこと、これには泣いてしまった。鏡花文学の最高の名品とおもってきた「藝道もの完璧の表現」であると同時に、「水=海」文学でもある鏡花本質の持ち味を湛えた名作の、佳い映画化だった。山田五十鈴が佳く、素晴らしく、喜多村、伊志井もおみごと、花柳も柳も懐かしくて。藝道も好き、人情噺でもあり、鏡花の気持ちに共感の余り、泣けてならなかった。
さらにおまけに、やはり成瀬監督、川端康成原作の映画「山の音」も観た。原節子、山村聰、上原謙、中北千栄子、丹阿弥谷津子、角梨枝子、杉葉子。
この映画は東工大の頃、副手で来てくれていた当時お茶の水院生だった谷口幸代さんが、ビデオテープを貸してくれ、初めて観た。谷口さんは今は名古屋市立大学のもうそろそろ教授ではないか。あのころ川端や「山の音」を論じて大学の帰りに一緒に食事したこともある。できれば息子のお嫁さんにしたかった。
* 日付が変わる。今夜はもうやすもう。
2005 9・8 48
*「ドラゴン櫻」が早くももう来週で終わるという。少し淋しくなる。みんな合格すればいいなあなどと、人のいいことを思ったり。
林芙美子の「放浪記」を高峰秀子が演じていた。あのようにして地を這う暮らしと熱烈な文学への愛と執心とで、しかもごく数少ない才能だけが、幸運に導かれて文壇に、創作者の世界に、踏み出して行けたのである。
わたしですら、小説を書きたいと思っていた時期のアトヘ、書き始めて七年の私家版時代を積み重ね、全くの幸運一つで、いきなり太宰治賞が先方から舞い込んできた。林芙美子と同じように苦労したとは言えない、またそれゆえの別の歩み方を選んできた。
秦建日子の場合は、ある人の「おまえ(代わりに)書くか」「はい書きます」の唐突なやりとりの時点で、作品(三十分のテレビドラマ)はもう売れ口が決まっていたという。以来ほとんど休みなく彼は戯曲を書いて演出しつづけ、テレビドラマの脚本を書き続け、演劇塾を経営して卒業公演の面倒も見、いきなり小説『推理小説』を河出書房という一流の版元から出し、週刊誌にエッセイを連載している。まだ名前はとても売れているなどと言えないが、「放浪記」時代の林芙美子らが聞いたら、ぶったまげるほどウンに恵まれている。
また、それだから、それ自体がコワイのである。少々の挫折に少しも動じないど根性をも人一倍養っておかないと、青い顔をするハメに成りかねない。驕ってはいけない。
2005 9・9 48
* 成瀬巳喜男監督の映画人生を、現場のいろんな証言で構成された映像番組を、おもしろく観て、それから八冊の本を順に読んで、寝た。そして黒いマゴに四時半に起こされ、六時前に起きて連載エッセイの用意をしたり、「ペン電子文藝館」原稿の校正をして送ったりしていた。さっさと投票に行き、昼間すこしやすもう。
2005 9・11 48
* 寝ようと思いつつ「U-ボート」の戦闘映画をみていた。
2005 9・15 48
* 録画しておいた秦建日子脚本「ドラゴン櫻」最終回を見終えた。
建日子はいい仕事をした。そして終点ではない、まだまだいろんな「正解」の道を逞しく踏破していってもらいたい。
2005 9・16 48
* 琵琶湖で恒例の「鳥」ヤング達の飛行ぶりを、堪能するほど楽しんだ。日大グループの飛行がみごとだった。
2005 9・19 48
* 今日は惘然と遊んでいた。一日中、機械の前でうとうとしていた。気が付いてみると「ペン電子文藝館」の仕事の手を全く止めている。すると、わたしの時間はこんなにラクなのである、ラクだからよいということはなく、それならそれで、すべき仕事は山になっているが、この時期、本当に心身をやすませる必要がある。ゆっくりした気分でいたい。
日付が、わずかに動いた。もう、やすもう。いま鏡花は「湯島詣」を読んでいる。トルストイの「戦争と平和」論は遅々としているが、読み飛ばさないで思考を受け入れ受け入れして読み進めている。旧約聖書もじりじりと読み進んでいる。「世界の歴史」は快調に、いましも第一回十字軍の聖地奪回と暴虐のかぎりを。
ポーランドとコサックの闘いを描いた映画「隊長ブーリバ」はややドラマとして単調だったが、写真は綺麗。ユル・ブリンナーは嵌り役。トニー・カーティスはすこしとらえどころのない俳優。ヒロインのクリスティン・カウフマンも温和しすぎた。しかし映画の舞台キエフや大草原の時代は興味深い。コサックという「戦争と平和」の軍隊内ではやや下目にみて白人に追い使われているが、果敢な騎馬の兵士たちであり、匈奴やフン族やデーン人や、蒙古やタタールなど、いろんな強烈な闘士たちのこともあわせ想われる。裁くとはまた一味異なるアジアとヨーロッパのあわいに拡がった草原世界のことは、詳しくない丈に興味も津々。
2005 9・19 48
* 休息に、トミー・リー・ジョーンズ主演の、ロス市内が噴火してマグマが流れるパニック映画をみた。
2005 9・26 48
* ニコラス・ケージの「スネーク・アイ」は何度も観ているが、一級の娯楽作。ニコラスはこの手の映画に才能発揮の個性的俳優で、ショーン・コネリーと演じた「ロック」も、ジョン・トラボルタと二人の男を入れ替わりに演じ分けた映画でも、おもしろく観せた。
2005 9・30 48
* お宝鑑定団の後半を観ていた。最後に、年輩の婦人が富岡鐵斎の軸を出し、一目見てわたしにも贋物とわかった。婦人は多年かけて調べ、確信を持って出品していたので気の毒な結果だったが、鐵斎について調べ、鐵斎に関して確信を持つことは出来ても、所持する作品が鐵斎の真作である保証にはならない。厳しい事実が典型的に現れてわたしも身の引き締まる感じだった。
おもちゃの類は分からないが、焼物と書画とはわたしも熱心にテレビの画面越しに鑑定を試みる。たいてい当たる。
2005 10・2 49
* メル・ギブソンの「ワンス・フォーエバー」を見終えた。トム・ハンクスの「プライベート・ライアン」に匹敵する傑作、胸に突き刺さる戦争無惨。いまも、どきどきと胸が鳴っている。
2005 10・5 49
* 映画「スピード」1を楽しんだ。
栃木の渡辺通枝さんに頂戴した、おいしい葡萄巨峰をたっぷり賞味しながら。キアヌ・リーヴスの活躍もさりながら、この映画では何といっても危険なバスをまさに運転しまくるサンドラ・ブロックのスカッとするキャラクターに魅了される。彼女の「ネットワーク」も面白かったけれど、颯爽と快活な魅力ではこの「スピード」1にまさるものはない。
2005 10・9 49
* 演技派でからだのすばらしくよく働くアンジェリーナ・ジョリーの「トゥーム・レーダー」を観ながら・聴きながら、だいぶ作業をはかどらせた。もう一息で、校了出来る。作業の時の映画は、ふきかえでないと、または日本映画でないと困る。
もう一仕事しに階下へおりよう。
明日は、理事会に出かける。明後日は日中文化交流協会の歓迎会がある。そして今月の歌舞伎座はどう楽しめるだろう。金曜日は中央公論社のバーティ。土曜は原知佐子の芝居。もう一週間、フル回転する。月末の一週間はラクになっているが、湖の本が出来てくればたちまち重労働になる。なるべく、のんびりやりたい、腰の痛みを庇いながら。
2005 10・16 49
* ジェフリー・スナイプスのバイオレントな映画を、耳に半分、眼に半分、「ながら仕事」をしていた。一日、すこし気分がゆっくりした。
2005 10・20 49
* 夜前、夜更かしの仕事を少しずつ進めながら、若いロバート・デ・ニーロ主演の「タクシー・ドライバー」を、聴いては、観ていた。なかなかユニークな映像であったなかに、ひときわ眼に刺激的にうつる少女売春婦が出て来て、おおッこれはすごいなと観ていた、が、はと気が付くと「羊たちの沈黙」のあのジョディ・フォスターではないか。なるほどなるほどと納得した。彼女の映画はもう一本、男達にレイプされたと裁判で争う蓮葉な女を演じてすさまじいのを観ているが、「羊たちの沈黙」の印象がつよく、比較しにくかった。だが、「タクシー・ドライバー」の少女を観ていると、そうか、栴檀は双葉より芳しかったんだと納得した。ロバート・デ・ニーロは優れて個性的な名優の一人だが、こういう映画から歩んできたのだなと、深く納得した。
2005 10・21 49
* 映画、寅さんとリリーとの恋物語を、ことのほか心優しく心よく、観た。
もうやすもう。すこし英気を養っておかないと、十一月の前半は、やっさもっさ。
2005 10・22 49
* 篠田正浩監督の「少年時代」を観ていた。戦時、富山へ疎開した東京の少年(わたしの場合は京都の少年で、地元の子らに「都会もん」または「疎開」と呼ばれた。)の一年を、柏原兵三の原作から描いている。おどろくほど体験や感情に共通点があり、ひどく切なくも懐かしくもある。いまわたしの「丹波」をひもといてみると、四年生三学期の通知簿記録で体重25.7キロ、慎重1.26メートルしかない。視力は左右とも、既に0.2。ひ弱い少年であった。映画の少年も、小柄なひ弱い少年であった。
2005 10・23 49
* 映画「リトル・ブッダ」を観た。キアヌ・リーブスが幻想場面でなかなかのシッダルタを演じていた。まじめにつくられた般若心経の啓蒙のような映画であるが映像的に成功していて、静かに、瞑想的に観ていられた。妻も言うように細部の説教でバグワンの域に達していない人達の製作であると想われた、けれど、よく注意しつつ観ていれば、つくりは誠実で、観念的にうわずってもいなかった。
心という部分で英語がみな「マインド」と言うていたりする辺に問題がある。製作者達の解釈になっているが、それが間違ってしまっている。
2005 10・23 49
* バート・ランカスターとジーン・シモンズの『エルマ・ガントリー』を興味深く観た。愛くるしい小柄なジーン・シモンズが、美貌のヴィヴィアン・リーと混線してなかなか名前が出てこなかった。
2005 10・24 49
* アラン・ドゥロンとマリー・ラフォレの「太陽がいっぱい」は、朝日子の生まれた年の映画。わたしは敬遠していて観たのは初めて。手際のこまかいひっぱる力のある映画で、さすがにアラン・ドゥロンが佳いが、刑事的な追究があまいといえば甘い。いたるところに指紋をのこしているのに、状況証拠だけで殺された男を自殺した犯人にいったん信じて落着させている。そして最後は、たぶんそうに違いないと思う結末でバレてしまう。しかし経緯の写真の上での処理はそれなりに落ち着いて美しく、そして主題曲のよさ。
* 映画的という点では「太陽がいっぱい」に越されているが、副長ヘンリー・フォンダと艦長ジェイムス・キャグニイの対立する輸送船上の確執から、一点、悲劇に到る人情劇風の海洋映画もわるくなかった。ジャック・レモンが霊の軽妙に付き合っていて、一抹胸に残る仕立てであった。
2005 10・25 49
* アラン・ドロンの連続ものらしい「刑事物語」をたまたま深夜に観て、ひきつけられた。
「ペン電子文藝館」の仕事を意識して控えるようにしてから、夜更かしの必要がなくなったのは、からだや眼の休養には二重の効果。零時過ぎに来るメールは翌日に開けばいいとも半ば思いきめて、出来れば日付の変わる時刻には機械から離れるようにしている。
メールも、わたしは、だいたい「返信」主義にきめている。ときには「私語」に一般化することで「返信」にかえている。わたし一人の話題では惜しいと思うときは、むしろ思うままを「私語」するようにしている。「発信」に気を入れると乏しい時間がかなり大量に奪われるのは、必至。それはメールの性質からしても本末転倒なので、「返信」主義にほぼ徹し、それも「私語」へ吸収するよう心掛けている。
2005 10・26 49
* いま思い出しても気の毒に笑えてしまうのだが、『親指のマリア』の挿絵は、なにしろほとんどの場面が小日向のキリシタン牢内なもので、池田さんはよほど苦労されたと思う。池田遙邨の孫の良則氏は、繪コンテどころか線の冴えた清々しい挿絵を毎回工夫してくれた。あの小説は、「ヨハン」つまり神父シドッチの章と「勘解由」つまり新井白石の章とを交互におき、しかも同じ一人称で通すことで、二人の「一体=身内」感をはかった。
この作品も『冬祭り』同様、新聞連載後にほとんど全然いじっていない。構想通りに書き進んで、新聞連載という条件には媚びなかったから、読者はめんくらったろうか。本になって読み直してみたとき、あまりすらすらと全編が一気に読み通せたのには、作者ながらおどろいた。白石を書いた小説は通俗読み物も含めてあるだろう、が、シドッチと白石とを終始対等に対決させたこれほどの長編小説は無い。これは、徹頭徹尾、わたしの小説である。映像に出来るものならしてみよと思う。これはどんな作品の場合にも思っている。わたしの文学は絵画ではない、音楽=文体なのである。
2005 10・26 49
* 夜前もアラン・ドロンの三夜連続最終回の「刑事物語」に、ひきつけられていた。刹那的な歓楽に浸っているではないかと言われても、否定も肯定もしない。そう望むことをそうしている、それでいい。心にもない何かにとりついて悪闘するのは、生きるためならともかく、この年齢ではバカげている。あるがままに成ることを成して行く。それでよいか同化も、どうでもよい。
2005 10・27 49
* カトリーヌ・ドヌーブとオマー・シャリフの『うたかたの恋』が、オーストリー宮廷の大公(皇太子)とブルジョアの娘の「貴賤相婚」を果たせぬ悲恋の心中を、真っ向けれん味なく描いて、二人の大きな男優・女優の演ずる恋を美しく見せた。カトリーヌ・ドヌーブは、「シェルブールの雨傘」以来いくつか観てきたが、不思議なクセのある陰翳の濃い女優で、ひたむきに好きにはなりにくかったが、この映画では豊かに純な表情と言葉とを魅力的に駆使してくれた。オマー・シャリフがまたクセの強い男優であるが、底ぐらく深い不思議な魅力を眼光にたぎらせ、それが邪のない揺るぎない恋情に表現されるのがすてきであった。
またジョディ・フォスターの『コンタクト』も、異星人との接触を、科学と信仰との二筋から問題にした優れて真剣な真面目な追究であり、映像の美しさにジョディの知的で硬質なキャラクターがきらきら反映して、魅力あふれる秀作であった。
さらにグレゴリー・ペックの『白鯨』が迫力満点の象徴作で、メルヴィルの原作といい、この映像化といい、人間と大自然との苛酷な対決をこれほどシンボリックに把握して強烈な感動を与える文学も映画も少ない。たしかノーベル賞をえたのではなかったか、優にそれに値する文学史・映画史の一つのみごとな光芒である。
* だれであったか「映画ってほんとにおもしろいですねえ」と売り言葉にしていた批評家がいたが、掛け値なくわたしも昔からそう思ってきた。
2005 10・29 49
* チャン・ツィーイの中国映画「LOVERS」を中途からテレビで観た。この女優は「恋人の来た道」で可憐に好演した印象的な美女。うって変わった武藝の達人としてめずらしい闘技を、美しい自然の緊迫のなかでふんだんにみせてくれた。概して中国映画はみないのだが、現代物でないのと主演女優に惹かれた。
明日からに備えて、幾らかまだ用意は足りていないのだが、気長にやるつもりで今夜はやすもうと思う。
「千夜一夜物語」も、西欧の「中世史」も面白い。まだ「フアウスト」の前半も読み返している。「日本書紀」はいま雄略天皇紀。最も個性的な天皇の一人。面白い。弱るのは「旧訳聖書」で、まだ叙事詩としても物語としても展開せず、ユダヤの部族ごとの人数を克明に数え上げたり、掟を説いたりしている。じりじりと読んでいる。バグワンの「ボーディダルマ」は強く胸を打つ。説得の力というより、感じさせる真率さと深さに、感動。
2005 10・30 49
* いましも日付が動き、十一月に入った。いままで、アラン・ドゥロンとジェーン・フォンダの「危険がいっぱい」を横目に観ながら、荷造りをしていた。よく頑張った。
2005 10・31 49
* 夕食前に、暫くぶりに「マトリックス」を観ていて、この映画だけは、バイオレントなサイエンス・フイクションもののなかで、決然としたフィロソフィーに支持されていることを、あらためて感じる。基督教へのアナロジーをみせていながら、映画の示しているのは明らかに禅ないしブッダの世界に近似する。バグワンをこれだけ読んでいると、分かる。分かる気がする。
主演の「ネオ」役キアヌ・リーブスが、「リトルブッダ」でデビューし、その役がゴータマ・ブッダであったことが無意味ではなかった気がする。
2005 11・2 50
* オホーツク海より 昴
昴という名前、ありがとうございます。あまりにも綺麗な名前で、少し気恥ずかしい感じがします。でも、うれしいです。
ゆめさんからのお返事メール、うれしく、また、そうなんだと勉強しながら読みました。
海は「死」というのは、私が生まれたときから知っているオホーツク海の印象をそのまま述べたものです。なにも深い考えはありません。海の表面が凍って、波が水銀のように鈍く打ち寄せる様子をみたり、流氷に乗って遊んでいた子が行方不明になったという話を聞いたりしているうちに、私の中で、海と死が結びついてきたのだと思います。
ゆめさんの見た能登の海、とても綺麗だったのでしょうね。夕暮れの日本海、見てみたいです。オホーツク海とは違う、厳しさと優しさを持った海なのでしょうね。
海について一人ひとりが様々な思いを持っているのに、あまりにも単純に、安易に意見を書きこんでしまったと恥ずかしく思い、反省しています。ゆめさんも秦先生も、海に対する思いは深いのに…。
秦先生の『湖の本』、ご注文しようかと考えていましたが、発送が一段落した直後のようですし、また、自分の考えや行動があまりにも浅く単純であったのが恥ずかしいので、今回の『湖の本』は見送ろうかと考えています。いずれ必ず、ご注文します。
四半世紀しか生きていないですし、頭も良くないので、秦先生の深い思想を読み取れないと思いますが、少しずつ勉強して、先生の作品を楽しんでいきたいと思います。
今までずっと遠くにあったものが、突然近づいてくるネットの世界に驚きと恐れを感じています。
* 最後の一行、まことにその通りである。映画「マトリックス」を昨日、吹き替えとスーパーとで二度も見直したが、現世を支配しようとする人間は、最終的にインターネットの制圧と管理支配とを当面の目標にして、なりふり構わず突き進んできそうな気がする。昴のいう、そういう機能に驚き、そういう機能を介して成されて行くであろうことに恐れをわたしは持つ。人間が機械を使っていると思っているうち、機械がまんまと人間を駆使し使役している逆転の時機が、そう遠くないのではないかと懼れている。
2005 11・3 50
* 病院の顛末は、とうに転送しているものと思い込み、歌集のための略年譜を半分ばかり書いたり、最終の念校を念に念を入れて版元へ郵送の用意をしたり、その間にも耳でジェニファ・ロペス主演の「メイド・イン・マンハッタン」という気楽なラブ・ストーリィを聴いていたりした。ま、イイこともワルイことも波の差し引きがある。ほんとは気にしなければいけないのだろうが、正直なところ、受け入れて、あるがままでいる。
2005 11・4 50
* 寅さん映画(京マチ子・檀ふみ)をみたあと、三十頁ものスキャン原稿を、名前を付けて保存していなかったばかりに、うかと消去してしまい、水の泡。おまけにCD-ROMのドライブが破損したか、音楽が聴けなくなっていた。いやはや。もう寝てしまうとしよう。
2005 11・19 50
* モーガン・フリーマン主演のなかなかやるサスペンス洋画劇場に惹かれていた。これから一人会員の出稿を処理して、寝る。明日は浜町明治座で「細雪」をみせてもらい、そのあと茅場町で電子文藝館の委員会。
親戚筋の望月洋子さんから「ラ・フランス」という洋梨をたくさん頂いた。
2005 11・20 50
* ケビン・クラインとクリスティン・スコット・トーマスらが出演の映画『海辺の家』が佳い。行く先ははなから察しがつく作品だけれど、しかし、つくりは新鮮で落ち着いて強烈な感動がある。ふつう夫婦の愛にゆくところを、それも無論あるが、父の息子への深切な愛の深さで物語が盛り上がるのが珍しく、またとても佳い。皮肉な皮肉な秀作だった『アメリカン・ビューティ』とは、全くちがう。
わたし自身は、この映画の父親のように今にも死のうという重病には侵されていないと思うけれど、息子達に日頃、いや息子達が生まれてこの方抱いてきた愛情は、まったくこの映画の父親ジョージのそれと変わりない、と、自身信じている。斯くありたいというより、斯く愛している、と、いままた信じられた。そういう刺戟をわたしは受けた、この優れた映画に。
ケビン・クラインの代表作ではないか。クリスティンには他にも佳い演技の作品があったけれど、この映画でも感動的に好演、わたしはこの人が好きだ。そして、この離婚していた夫婦の問題の息子(ヘイデン・クリステンセン)が佳いのに感動した。初めから妙にビジュアル系ぶった少年に心惹かれていたが、だんだんと健康に光って見え、まぶしいほどだった。この少年を愛している隣家の少女(ジーナ・マローン)も美しかった。演技者の手応え十分な存在感と生彩とで、また、秘蔵フィルムが一つ増えた。
2005 11・29 50
* 昨日観た「海辺の家」の余韻が胸にたまっている。
2005 11・30 50
* 木下恵介監督「野菊の如き君なりき」を観た。回想場面はことこどとく楕円形のなかに画面が出て、独特の映像表現になる。
人によって、よく分からない言うが、日本の「扇面」画や「団扇」絵は、得もいわれない不思議な「画面」美学を持っていて、わたしは高く買っている。木下監督の映画が、その楕円画面をわざわざ用いた動機は知らないけれども、とても優れた構図の美を成就した。その画面へ徹底して日本の凡山凡水を、野や畑の、季節の草花の、樹木の美しさを誘い込んで、夢のような風光と景色のなかで、うぶな純愛を描いた美学は、大成功している。
わたしは、映像の美学では、晩年の黒澤の計算された美より、木下が早くに実現していたこの映画などでの冒険に与している。そこには、はてしれぬ人間への愛と哀しみとが浸透している。
有田紀子の民子、田中晋二の政夫、杉村春子の母。浦辺粂子の民子の祖母。とても佳いが、それはもう演技などというものではない。画面に溶け込んだ自然の一部として彼等は生きている、野菊や竜胆とおなじように。過ぎ去って二度と戻ってこない日本の風景と純情。こんなに今では辛くて観たくない映画、だのに、始まれば観て泣かされて離れがたい。わたしなどは、かすかにかすかに、こういう日本も、こういう思いも哀しみも知っている。この作品だけでなく、伊藤左千夫はほかにも優れた小説を書き、すぐれた短歌世界を表現した。「糸瓜と木魚」という子規と浅井忠を書いたわたしの小説には、子規門の伊藤左千夫への何というか、恋めく思いの潜流しているのを、幸か不幸か人に見抜かれたことがない。
* 忘れかけていたほんとうに佳いものを、またわたしは見つけたと思う。よろこばしい。
2005 11・30 50
* 立川談志という噺家は必ずしも好きではないが、今夜深夜になって日本近代の藝人達をものの百人以上もたてつづけに思い出語りして聞かせてくれた話藝には敬服した、惹き付けられて、妻も私もテレビの前を動けなかった。ああなんと懐かしい名前と顔と藝とが登場したことだろう、すっかり忘れかけていて、しかしフィルムが出ると歎声の漏れるほど懐かしい人・藝・風貌。懐かしのメロデイではない、懐かしい藝風にふれてふれて堪能した。ちょいと嬉しい時間であった。
* あすから少しのあいだ、落ち着ける。
2005 12・2 51
* このところ木下恵介監督の映画を集めて放映しているが、原節子と佐野周二の「お嬢さんに乾杯」は、わたしの最も好きな原節子作品の一つで、しっかり録画。また坂東妻三郎主演の「破れ太鼓」はさほどの作ではないが、ロバート・ミッチャムに似た坂妻が気張った芝居をみせて好ましい。
2005 12・6 51
*「カルメン故郷へ帰る」を観ていた。高峰秀子、小林トシ子や、柳智衆らのこの映画を封切り当時にみたときは、違和感に耐え得なかったが、久しく時間をおいて、何年ほど前であったか、もう十年二十年たつだろう、その時久しぶりに観たとき、すぐれた批評性に手を拍った。今夜観て、そのときより更に面白く、感じ入って、木下恵介の洞察に脱帽した。
2005 12・7 51
* 朝飯あとに、ちょうど録画からディスクへ転写中の映画「バラバ」を観た。これ以外にないアンソニー・クイン演ずる、バラバ。ナザレのイエスが十字架にかけられたとき、イエスに代わって死刑を免れた男、バラバ。
いい着眼。
主のことなど理解できないまま、主との胸中の対話を続けずに居れなかった、主にいと近き男の生涯が巧みに描き出されて、終焉を、静かに盛り上げた。チャールトン・ヘストンの「ベンハー」や「十戒」ほどの大作ではないが、またケビン・トレイシーの「グラディエーター」ほど劇的でもないが、主題は深いものに満たされていた。金環日食のもとでのイエスの死。シルバーナ・マンガーノが石打ちの刑にあい、アンソニー・クインが硫黄鉱の落盤からのがれる場面など、印象に残る。この手の映画は、つとめて観ている。
2005 12・9 51
* 夜前、二人で、中国映画「この子を探して」を観た。寒村の老朽学校に、口約束五十元の給与にひかれて代用教員に引っ張ってこられた、たった十三歳の、なーんにも出来なかった少女「先生」が、一人のいたずらっ子の、貧ゆえに「街」へ出稼ぎに出されたのをガンとして取り戻そうと悪戦孤闘するうちに、先生も生徒達も豊かに成長して行く経緯を、リアルに、あまりにも感動的にリアルに描き切って、稀有な映画作品に結晶していた。
もう映画も後半という深夜に、預かっていた猫のグーを引き取りかたがた、小旅行から帰ったばかりの息子が、お土産持参でわれわれ婚約記念の「お祝い」にかけつけてくれた。土産は「幻の名酒」とふれこみの、沖縄の泡盛。ケーキとお茶とで談笑、猫をつれてまた仕事場へ帰っていった。
そのあと、映画の続きをまた楽しんで、気持ちよく感銘をうけた。すっかり機嫌がよくなった。
わたしは、それからも沢山本を読んで、おそくに寝た。そういう十二月十日であった。
2005 12・11 51
* パイパー・ロウリー、パトリックス・ウェイジらの「故郷への遠い道」が佳い映画であった。ジャン・ポール・ベルモントの「パリの大泥棒」は愚作であったが、マリー・デュボアは凄いほどの美しさ。
2005 12・11 51
* 行間に元気が湯気をあげている感じ、羨ましい。寒さに逼塞し、機械の前でまるくなっていては、イカンなあ。この人のメール、書かれることのみな具体的なのも、惹きつける力がある。文章がだあッと走っている。
今日サロマの人に「北の時代」中・下巻を郵送した。むかし、六月の尾岱沼で、寒さに震え上がった。とても二月のオホーツク行きは今のわたしには発想できない。
「この子をさがして」は素晴らしい映画で、今年見た五指のうちに数えたいぐらい。「恋人のきた道」「黄土地」そして「この子をさがして」などと、中国映画にはときどきドキドキする秀作が現れる。
2005 12・12 51
* メル・ギブソンの「マッドマックス2」を観て、気分を換えた。この映画は、昔から一種の「名作」という見方をしてきた。近未来もののバイオレント映画だが、ふしぎにハートがあり、リアリティーがある。好漢メル・ギブソンの功徳であろう。彼の映画はずいぶん観ているが、ひどい駄作はほとんどない。製作・監督をして主演してもまともなものを作っている。顔も、マイケル・ダグラスよりよほど佳い。
2005 12・15 51
* ゆうべ、チャン・ツィイー、ミシェル・ヨーらの中国映画「グリーン・デスティネイ」を楽しんだ。これに似た映画を、一月ほど前にやはりテレビで観たが、それは録画できなかった。二つとも娯楽作であるが、今度のは、北京市街も場面に多くあらわれ、邸宅や飯店・茶廊など、二度の訪中で少し見馴染んだところもあり、親しみやすかった。見れば見るほど美人ではないのにチャン・ツィイーの懸命さに惹かれる。やはり「初恋のきた道」で出会った好感がしっかり道をつけている。
2005 12・17 51
* 冷え込みます。
午前中、ガレージの吹き溜まりに栗の木の枯葉が山をなし、なんと45リットルのゴミ袋に詰め詰め一杯になりました。
風は大分治まったよう。
壺井栄原作、木下惠介監督、高峰秀子主演二時間二十分の「二十四の瞳」を観ました。
1954年の作品というから、終戦後九年、初めて観たのが多分高校生の頃だったというのに、「戦争反対」の大きなテーマを当時は理解していなかったようで、師弟の絆を描いた映画とばかり記憶していました。
大石先生は両親の世代、小豆島は疎開をしていた淡路島とは目先にあり、時代は少し遡っても、こんな国民学校に一年程は通ったし、先生の夫は輸送船に乗り、三、四人の子供を残して戦死したけれど、父は乗る予定の輸送船すらない敗戦間近が幸いして生還出来た、などを想い、殆ど全編を流れる幾つかの懐かしい小学唱歌が心に沁みて、涙腺が緩みました。
矢張り、秀作です。
古い映画を観ると若い頃の俳優さんを観られますが、大石先生の夫役が、生前、ちょっと気になっていた俳優天本英世で、まだ俳優座の研究生の若い頃、ホウと嬉しい声が出たり。
今日は働かない安息日です。 泉
* たしかに「二十四の瞳」は、わたしもつい「師弟の絆」感傷編とでも見過ごしてきたのだろうと思う。青春の昔の映画を新たに見ると、やはりあの同時代において作品の真意を見落としたり見抜けなかったりしていたことに、気付かされることが多い。惜しい、口惜しいことである。
2005 12・18 51
* 明後日二十五日から連続して、建日子脚本の「ドラゴン櫻」全編が歳末再放映になると聞いているし、新年の早いうちから建日子原作『推理小説』が、女性脚本家の脚色で連続ドラマとして放映されるとも。主演は市村正親との結婚で話題になった篠原涼子。この女優、ガッツがある。
建日子たちとわたしたちは、正月の松の内に、厳冬をおかして二泊の旅を予定している。あるがままに、なるがままに、その時その時を楽しんで過ごしながら、仕事も前へ前へ進めて行く。なるべくは自分の仕事を楽しみたい。
2005 12・23 51
* 粗忽なことで、同様のご無礼がかなり有るやも知れない。お詫びしておく。
秦建日子の文庫本『推理小説』が出ると聞いていたが、まだ見ていない。
昨日から連続で再放映している毎日系列の「ドラゴン櫻」は、見直しても、骨格たしかで、モノの感じ方・考え方に頼もしく同感のところも多く、阿部寛・長谷川京子のコンビが気持ちいい。「特進」教室へ入ってくる生徒諸君にも親しみを覚えている。凡百の学園モノのなかで、一等地を抜いた一つであろうと、贔屓目なく思う。今日二回目を見てもそう感じた。あと十時間分ほど、明日からは、何回も取りまとめて再放映するのだろうか。
2005 12・26 51
* 映画監督で口を利いたことのあるのは、二人。その一人が篠田正浩で、彼の映画作品で最も完成度の高い魅力あふれる写真は、「写楽」だろうと思う。
版元の蔦屋という、とらえどころが利いた。あの時代は真に天才たちの時代であったし、時代は閉塞しつつあった。天才は太平楽では生まれない。が、名伯楽の存在は大きい。蔦屋重三郎役のフランキー堺が水を得て、彼の晩年を、生彩豊かに飾った。それに真田広之だ、日本の映画俳優の中でわたしの好きな、と、三本の指に入れている。
そして岩下志麻がいる。岩下とご亭主の篠田とその親族の書家桃紅との四人でほんの僅かな時間だったが、立ったまま歓談したことがある。
岩下志麻は、たわいない朝テレビの連続ドラマで十朱幸代の友達役で顔を出して、ゼッタイにこの子、十朱よりも先に十朱より大きい女優になるよとわたしは思いこみ、人にもそう言った。わたしは間違えなかった。
彼女の出る時代劇は、よくてもつまらなくても彼女の出る場面で、凄みも深みもあらわれる。「雲霧仁左衛門」などという五社英雄作品がそうだった、とんでもない講釈映画であったが映画的におもしろかった。
* 映画は、文学ではない。第一級の文学を原作にしたのと、原作なしの徹底娯楽作とでも、前者が勝つとは限らない。映画としての映像の勝負で、言葉での表現や文体を問うのではない。映画・映像としての表現やいわば構成を問うのであるから。
岩下志麻は清純な現代娘でも印象に残ったが、「五辨の椿」や「切腹」やいろんな時代劇でのしあがったとわたしは観てきた。そして「写楽」では佳いワキの助け役になった。ご亭主への内助の孝である。
歌麿、京伝、また一九なども蔦屋の身辺に渦巻く。歌舞伎のイナリマチから怪我であぶれてきた真田の写楽が劇的に活躍し始めると、この映画、かつて日本の映画黄金時代がよう創れなかった一つのサンプルをみごとに提示した。南北、北斎、馬琴、南畝らも顔を出す。後半生黒澤映画の、いい摂取であったかと思う。
* ひとつ映画「写楽」で夜更かししよう。
2005 12・27 51
* 秦建日子作『推理小説』の文庫本が河出書房から出ていた。今朝版元から一冊急送されてきた、鄭重な編輯室の手紙も添って。忝ない。幸い、刊行たちまちに版を重ねているとか。父親の分もどうかバランスするほど景気よく売れてくれると、わたしは安心して売れないものを書き続けられる。呵々一笑。深く感謝。
新年に、この小説がいま話題の女優篠原涼子主演でドラマになる。版元の刊行勘とこの話題とがうまく出会い、波頭を双方から盛リ上げたのも、著者に幸運な、配剤であった。おりしも連続ドラマ「ドラゴン櫻」歳末の一気放映も佳境に入っている。
建日子は佳境に浮かれず、おごらず、おちついて心行く仕事を、自身に恥じない仕事をして、大勢の人の心琴をすこやかに弾じて欲しい。
なによりも、次なる第二作を、心新たに、集注し、他に優先して、(放恣にでなく)奔放に、(小心にでなく)細心に、折角勉強願う。
2005 12・28 51
* 篠田正浩監督「写楽」再見は、期待に応えてくれた。着眼も脚本も宜しく、なにより登場人物達が文句なくすばらしい。俳優のことではないが、俳優も真田広之はじめ、ピチピチやっているし、寛政抑圧の風俗「江戸」のおもしろさも満喫できる。風俗を創り出している当時のマスコミの雄の蔦屋を中心舞台にしているのが、真っ当な選択。
其処へ来て、わたしや妻には、歌舞伎場面、舞台裏の場面が、みな心親しい。画面の舞台で「暫」を演じる千両役者団十郎を一瞥、「あ、富十郎」などと妻がすばやく口走るほどだもの。芝雀の雪姫も、団蔵と富十郎とで対決の「床下」もある。それらがみな劇として映画にからむ。
で、登場するのが、蔦屋を芯に、山東京伝、喜多川歌麿、十返舎一九、曲亭馬琴、鶴屋南北、葛飾北斎そこへ東洲斎写楽が加わる。風俗の華美を取り締まる幕府の立役者には筆頭老中松平定信をいまの三津五郎、腰巾着の才人太田南畝に竹中直人。脚色にはかなりいろんな都合もつけてあるけれど、それは映画のこと、構わない。こういう人物が一堂に同時代人として活躍したわが日本の「十八世紀後半五十年」は、まことにまことにどえらく眩しい「天才」たちの半世紀であったことを、わたしは四半世紀も以前に何度も指摘して書いた。作品としての一結晶は、岩波の「世界」に長く連載した「最上徳内」であった。
上の連中は、いわば藝能・美術の分野だが、学問・思想・博物・探検・天文・実学・経世、あらゆる分野に、この五十年が輩出した凄いヤツラは数え切れないのである。
上の連中のもの凄さが分からない人も多くなっているが、歌麿も北斎も南北も馬琴も、当節のヘナチョコな文化勲章が何十人かたまっても太刀打ちできないような天才たちであった。写楽の如きは奇蹟のようにあらわれてまた巷に消えた。いまも実像を追いかけて、有象無象たちが売文に奔走するほどだ。
篠田の「写楽」はこれら鳴り響く連中をみごとに統御して一編の映画として結晶させ、少しも大味にしていない。岩下志麻もやはりよかった。とにもかくにも吉原風物をとりまぜ濃厚に淀み猛烈に爆発するある時期の「江戸」の魅力を、画面に取り留めてくれたのは、有難かった。
2005 12・29 51
* 歌を挙げてくださるのが、お一人お一人、みな異なっているのが面白い。歌の好き好きとは、そういうものであって、百人一首のおはこがいろいろなのも当然という話。
いま、機械のディスプレイの両脇に、同じ文庫本でわたしの文字通り処女作品集であった『少年』と、秦建日子の処女小説『推理小説』とが、立てて置いてある。わたしの表紙は簡素に清寂そのもの。息子の本の帯には篠原涼子扮する敏腕美貌の刑事姿が大きく、TVドラマ「アンフェア」原作 2006年1月10日スタート! フジテレビ系毎週火曜よる10時 と案内してある。
2005 12・29 51
* 建日子の脚本「ラストプレゼント」で好演した天海祐希が、つづいて他局の連続ドラマ「女王の教室」の先生役を演じて、「ドラゴン櫻」をリードする勢いで評判をとったのを、今朝から、連続でまた見せていた。「ドラゴン櫻」との競走がまた繰り返されていた。「ドラゴン櫻」のうしろで「金八先生」も集中放映しており、期してか期せずにか、小学校の「女王の教室」中学の「金八先生」高校の「ドラゴン櫻」が一斉に歳末の一気放映競作となったのは、一企画だろう。「女王の教室」は今日で全部を放映し終え。「ドラゴン櫻」は大晦日に盛り上げて終えるらしい。
天海祐希の出ているドラマ、やはり見せてくれる。一時間番組を連続でやられて、つい仕事しながらも観たり聴いたりできる魅力と迫力を持っていて、感心した。ドライなようでいて、これもまたどこかに「金八先生」とシッポを結び合っている。教育現場への批評はかなり辛辣で、賛同できる一方、つくりはよほど強引でもある。
2005 12・30 51
* 今日、「女王の教室」最終回を録画しておいて貰い、帰って「ドラゴン櫻」の最終回とあわせて手仕事しながら観た。ふたつとも、なかなか。好感を持った。「女王の教室」の最後がやや「金八先生」の「大乗仏教」めく熱さに接近しすぎ、また蛇足気味かなと思ったが、職員室の描き方は、「ドラゴン櫻」より働かせていた。「ドラゴン櫻」は「小乗」ではないが、問題点を絞り抜いていて、あれでいい終わり方であった。
2005 12・31 51