* 帰ってきたら、テレビドラマ「八犬伝」が始まったばかり。少し見ていたが、予想通りのお手軽版で、原作を今の今に読んでいる眼にはあまりにチャチ。機械の前へ逃れてきた。
2006 1・2 52
* 夜十時十分、篠原涼子主演の「アンフェア(『推理小説』をドラマ化)」第一回をみた。一回目としてはそれなりの味と速度感ももち、通俗な画面であるが、ソツなく立ち上げた。ふつうの刑事物と、一味かわるか、半味ないしは幾味も変わり映えするかは今後に待つしかない、が、感動の押し売りはしないだろう、そのぶんドライに、また組み立て不思議に面白くひっ張れるかどうかが、成功と失敗への分かれ道。
建日子の刑事物では、以前に、アンパン顔の田中美佐子が、コワモテの女刑事役をやりわるくなかった。篠原の演ずる女刑事は、あれより個性がどぎつい分、ややこしい性格と過去を預けられている分、どこまで持ちこたえて盛り上げ腰砕けしないか、才能に期待したい。才能はある女優だ。少なくも今夜のところは主役を張るにふさわしい魅力と意地を美しく見せていて、好感。他の役者達のことは馴染みも殆どなく、分からない。
建日子の原作は、小説それ自体がブッキラボーに簡潔な、「ト書き」風の表現で終始持ちこたえていた、しかもストーリーの展開には駆け引きが多く、すんなりは読み取らせない方へ工夫がしてあった。タッチをわざと粗く創った、ぎらつくサスペンス。短い端的な文字表現に、ときどき光る砂金効果をみせていた。それが、いくらかドラマの科白にも反映していた。
とはいうものの、やはり文藝のおもしろさと、映像でひきだすおもしろさとは、よほどちがうことが、よく分かる。へたをするとテレビドラマは、結局凡百の刑事物へ映像的に滑落して行きかねない危険性をもっている。表現方法それ自体にはらんでいる。脚本家の大胆不敵な健闘を祈ろう。
2006 1・10 52
* しばらくぶりに録画した映画を一つ観た。邦題にすれば「ジョー・ブラックをよろしく」とでもいうのか、アンソニー・ホプキンスを迎えにきた死神が、ジョー・ブラックの名でアンソニーの次女を真実愛する物語。ときどき有る題材だが、なにしろ「羊たちの沈黙」や「偉大なる遺産」の名優アンソニー・ホプキンスと、カッコよくて演技もいいブラッド・ピットのコンビネーションは確かで、名前は覚えないスーザン役の女優もしっとりと静かで愛情深く、よかった。全体に科白の間合いをたっぷりとり、沈黙のながい濃い息づかいにリアリティーを汲み取らせる式の演出であった。
2006 1・11 52
* ドラマ「アンフェア」の三回目を観た。今回は問題なくすうっとドラマ線が延びてきて順調。雪平役の篠原涼子にうまい味が出ている。建日子の原作『推理小説』のストーリイは皆目記憶になく、とくに印象にもない。わたしは「どう書けているか」に重きをおいて読み、筋は二の次にしていた。だから脚本が、原作とどの程度に異なっているか分からない。妻は、原作に照らして言うと、ドラマの進行がとても早いというが、分からない。セリフの中に建日子の味は、ちゃんとにじみ出ている。
* その前に寅さん映画を一本観た。さくらにアメリカ版の外人寅さんが惚れる、ほろにがい佳作であった。好きな香川京子が夫を失い若い娘の林寛子の母親役で出ていた。昨日成瀬巳喜男監督の映画に田中絹代の娘役で、やはり香川京子が、それは清楚に演じていた。あぁいいねえと、妻と嘆声を漏らした。
2006 1・24 52
* 午後「いとしのローズマリー」と題した、グィネス・パルトロウのたわいない映画を観た。おもしろい着眼で、飽かせなかったが、保存するほどではない。耳に聴きながら、作業を前へ進めた。
2006 1・25 52
* 作業の傍ら、録画した「評決のとき」ひきつづき放映の「ゾラ」を観て聴いていた。おかげで作業は予定通りのところまで出来た。遅くても三十日には校了にして送れる。うまくすると二月第三週には発送できるだろう。
2006 1・26 52
* 日曜の昼過ぎは、きまって妻のみる「新婚さん、いらっしゃい」につきあい、続いて「お宝鑑定団」を見る。
新婚さんのおしゃべりを聴いていると、世の中には、ほんとに信じられないほどいろいろの人が暮らしていると思う。自分の知っている程度の人だけで、日本や日本人を早合点するのは危険だと思い知らされる。だが同時に、まぎれなく誰にも共通する日本人の心理や生理や好みのあることにも気付く。だから本気で笑ったり照れてしまったり出来る。
ああいう番組に、出て来る人と、けっして出てこない人とがある。だが、その二つのタイプは別のタイプとは言い切れない。根のところで、欲求している物は、感覚している物は、選択する物は、あまりかけ離れていないのてある。わたしにしても妻にしても、この番組に出ることはない。しかし少なくもわたしは、大笑いさせてくれる若い新婚さん達と、ひょっとしなくても、かなり似たところを持っているし、否認したいと思わない。
* 鑑定団のゲストで、久しぶりに千代の富士親方の素顔の笑顔をみて、なつかしかった。
絵と陶器の場合は、真贋はかなり正確に分かる。ここでも、佳いものは佳いのである。素直に胸をひらいて観れば、佳い物は佳いと話しかけてくる。もう少し映像でゆっくりモノを舐めてくれると有難い。
2006 1・29 52
* もう会期の切れる当代の「楽茶碗」を、もう一度観に行きたかったが、美ヶ原への留守二晩のあいだに黒いマゴが額や耳を傷めていたらしく、改善しないので獣医に診せに行った。完治にはしばらくかかるらしく、五日に一度ほど投薬を受けに運ばねばならない。
発送の用意もまだ半途、じりじりと手を付け、前進を怠けることはできない。六日の木挽町までに用意をほぼ終えておきたい。
めずらしくもう十日以上都内へ出ていない。おかげで心おきなく夜更かしして、いろんな本読みを楽しんでいる。
今日は一方で映画「マトリックスリローデッド」を面白く途中まで観ていたし、「志ん生正月」でひさしぶりに「大津繪」の喉に堪能した。古今亭志ん生の小唄は、秀逸の極み。三遊亭圓生も、もろもろの音曲に長けていた。わたしは彼等の咄や噺も大好きだが、歌藝にもゾッコンなのである。この先の老いの坂で、日々の暮らしではなるべく耳の楽しみをと思っている。眼をすこしでも労るために。
謡曲、鳴り物、小唄端唄、俗曲。
むろん西洋の古典音楽も、歌曲も、マドレデウスのようなのも。いきおい人づきあいからわたしは離れて行くだろう、少なくも我からそれを追いはしない
2006 1・30 52
*「招かれざる客」を観た。小説で言えば丹羽文雄の『厭がらせの年齢』みたいなものかと気乗りしていなかったが、大違い。ここでも父親役で健闘の大物スペンサー・トレイシーの、かつて演じた名作「花嫁の父」に相当するオハナシであった。白人スペンサーが例によって花嫁候補の父親、母親はキャサリン・ヘプバーン。二人の可愛らしいかしこい娘 (キャサリン・ホートン)が、出会って僅か二週間の黒人エリート医師、シドニー・ポアチエをつれて、結婚を告げに親元へ帰ってくる。
一般論では物わかりのいい家庭も、まさかと思う黒人婚約者の突然の登場にうろたえる。問題の突きつけ方としては待ったなし、自分の問題になる。いい映画であった。トレイシーやヘプバーンのうまさに驚かされる。
これと比べると、昨日観た中国映画の「英雄」は、いかに派手な映像美学として物量の夥しい投入、鬼巧の表現であっても、大味な見せ物であるに過ぎなかった。
2006 1・31 52
*「去年の夏突然に」「招かれざる客」をつづけて観ていた。前者はキャサリン・ヘプバーンとエリザベス・テイラーという超級大女優の火花散る競演。後者では、スペンサー・トレイシーとキャツリン・ヘプバーン夫妻の愛娘キャサリン・ホートンが黒人の結婚相手シドニー・ポアチエを家に連れてくる。スペンサー名演エリザベス・テーラーの「花嫁の父」を思い出させる。ヘプバーンのうまいこと。
その間に、発送用意の作業をだいぶ進めたし、もう次回分の原稿スキャンも始めた。スキャンの間には、志ん生の「中村仲蔵」「淀五郎」を聴いていたけれど、こういう芝居噺になると、三遊亭圓生の聴かせる藝に、古今亭志ん生の笑わせる藝は及ばない。
2006 2・1 53
* 三谷幸喜作・監督の映画「みんなの家」は、腰くだけで笑いがしぼんだ。同じなら、ドタバタほど烈しく新旧和洋が葛藤軋轢する真剣な喜劇が見たかった。その結果に、一つの思想なり主張なりが有るなら感じたく、無くても構わない。生煮えはツマラナイ。
2006 2・3 53
* 夕暮れて、晩になり、だんだんと、なんだか知らないがなにもかもバカらしくて、此処にこう存在しているさえムダなことに思われてくる。このディスプレイで「マトリックス」完結編の「レボリューションズ」でも見ようか、三谷幸喜の「ラジオの時間」で泣き笑いでもするか。
* 三谷幸喜の映画「ラジオの時間」は傑作。徹底してバカをやりながらギリギリ一杯の結着へ運んで行く粘りに成果が出た。出演者達には楽屋裏の馴れがプラスし、その軽薄さも俗悪さもしかも本気なところも、うまくコンデンスされてなめらかに場面のリアリティーをつくっている。若い鈴木京香が演ずるラジオドラマの作者先生の困惑・迷惑・上気・銷沈・憤激・右往左往ぶりが身につまされて印象的な好演、わたしは鈴木京香というと反射的にこの役を思い浮かべてしまう。佳い作で、上質のコメディ=喜劇の可能性を感じる。三谷にはもう一つ、「検閲」をテーマにした芝居があった、あれも笑いながら辛かったほど面白い諷刺劇だった。今日のドラマに染五郎が出ていたのに初めて気付いた。
春には三谷幸喜作・演出の「決闘・高田馬場」があり、染五郎・亀治郎・勘太郎の芝居。楽しみにしている。松たか子の「メタル・マクベス」もある。
2006 2・4 53
* 昨日、夜遅く、気持ちを励ますために、映画『マトリックスレボリューションズ』を観た。完結緊迫編であった。すさまじい音響と映像。息つく暇もないテンポがそのまま危機と破滅への鼓動だった。キアヌ・リーヴスのネオ(救世主)が、恋しあうトリニティー(キャリー・アン・モス)とともに、世界の奧の奧へ回生の決死行。映像と音響とが必至のことばと化して物語ってゆく。スペクタクルの力づよさに揺すられ揺すられて観終えた。こんなにメタフィジックな活劇はない。
今から、映画化の噂を聞いている『ゲド戦記』をわたしは待っている。
2006 2・8 53
* ロサンゼルスから、わが息子の文庫本『推理小説』を読みながら、いましも脚色されて放映中の連続ドラマ「アンフェア」を観てるのえと、京言葉の電話。ウワオ…。
* 「ジョー・ブラックをよろしく」という映画は、題材の扱いに照れ隠しのドタバタがなく、とても落ち着いた懐かしい画面の展開で、生死と情熱の問題を、アンソニー・ホプキンスの父、クレア・フォーラニの愛娘、父を迎えに来て、娘に真剣な恋をした死神ブラッド・ピットの三者が、静かに心優しく解いて行った。予想をずっと超えた佳い映画で、二度見て二度目はさらによかった。六十五歳の華やかな誕生日に父アンソニーを連れて行くジョー・ブラック。情熱を尽くして愛するジョーと父とを見送るクレア。そこで、小さからぬ変化が訪れる。名優アンソニーのよいのはもとより、ブラ・ピの青年像はすばらしくセクシー。しかしクレアの父へ、ジョーへ向けた愛の真率は、涙を誘って、美しい。娘は父の死を、恋人が死神なのを最後には悟っていた。
観ていて、父と娘との、不幸どころかとても幸せな華やいだ終焉を、やはり…わたしは羨んだ。
2006 2・12 53
* 昨日は妻の留守居で一日、機械やテレビの前にいて、いろんな用事もはかどらせたが、一の感動は、映画『ビューティフルマインド』だった。プリンストン大学のジョン・ナッシュ教授の数奇な悲劇ともいえる生涯を描きながら、逆転するように「難しく生きる」ことへの希望と勇気とを熱く打ち出している。劇映画として静かな中につよい主張も秘めていて励まされた。
スケア・クロウの珍しい方に属する映画作品で、圧のつよい分厚い演技。エド・ハリスたちの侵しがたい存在感にも怯えながら、強い囁きを聴くようにわたしは、「生きる」難しさを自覚した。もう一度も二度も観てみたい。
2006 2・19 53
* ジョン・ナッシュ教授夫妻の映画「ビューティフル・マインド」をもう一度観て、隅から隅まで覚えているのに、やはり感動した。涙が熱く膨れた。幻覚の人たちを透視するように無視し、むしろ愛すらもって身内にとりこんでしまうことで、心身の荒廃を自ら克服してしまうノーベル賞数学者の、人類に対する豊かな論理的貢献。それへ周囲からのすばらしい深い尊敬。だが、それ以上に感動した、そんな病害と荒廃とを体験した夫から、妻は一歩も身を退くことなく、いかなる幻覚にも勝る本当の現実は、脳でも言葉でもない此処に在ると、互いの頬に手を触れ胸に手を当て合って、底知れない信頼と愛とを倍加して行く、その健康な本能的な「からだ」感覚の深さ。わたしはこれに敬服し感動した。
人は、けっしてマインド(分別・思考)や言葉では愛せない。幻像を拒むだけではボロボロになってゆく。幻像は在るもの、だが幻像は幻像だとおもって存在をゆるしてやれる余裕。その余裕を真実確保してくれるのは健康でリアリティを喪わない「からだ」感覚の満足。性の充足。
2006 2・19 53
*「アンフェア」おもしろく観ている。篠原涼子がまたとない嵌り役で、感情移入しやすい。「ばかか、おまえ」は、原作者の父親であるわたしのキメ癖で。娘も息子もだいぶやられている。ニクマレている。
2006 3・7 54
* 花粉か風邪か、大きな嚔を連発する。ゆっくり湯につかり、「八犬伝」を貪り読もう。そういえば、このごろ映画も観ていない。今夜はアンジェリーナ・ジョリイの「トゥームレイダー」がある。録画を頼んでおこう。
2006 3・12 54
* 連続ドラマ「アンフェア」が終わった。建日子原作『推理小説』に拠ったのはほぼ最初の二、三回と雪平夏美の個性的設定だけで、あとは脚本家の自主的な追いかけであったのは、脚本を建日子の書いた『ドラゴン櫻』の場合と同じこと、追いかけ部分に本の原作者としては全く関与していないそうな、そういうものだろう。
トラマは、力作であった。凡百の刑事物とは断然ドラマの空気がちがっていた。ま、所詮は殺しモノである、そこに感動が流れていたとは謂いにくいが、そして結末もいじくり過ぎてくどかったし、やはりかなりセンチであったけれど、視聴者のことを勘定に入れれば、仕方がない。
こういう類の作物をつぎからつぎへ提供しなければならないとは、さりとてもテレビ屋さんはご苦労さんである。
2006 3・21 54
* 映画「エルシド」を録画しながらとびとびに観ていた。わたしがこういう歴史画を好むと知って、妻は録画してくれていた。ソフィア・ローレンは放射する佳い魅力をもっている。うそいつわりなく、ひたっと吸い付いてくる誠意の魅力に、いつもほだされる。「美しひ顔より嘘が見事也」という古川柳もあるが。スペインという舞台ももの珍しい。
2006 3・22 54
* 明日遠雷の来客が延期に。七日にと言っていた人からもいまところ連絡がない。春はみないろいろ忙しい。わたしは明日は、ちかまの櫻を自転車で観てまわろうか、妻は医者に行く。
本当に久しぶり骨休めに、むかしのたわいない映画「恋愛専科」を三度ほどに繋いで見終えた。魅力的に愛らしい若いスザンヌ・プレシェットに年増のアンディ・ディキンソン。若く悩ましき健康美のトロイ・ドナヒューとしぶくエロチックな恋の指南役ロッサノ・ブラッチィ。そんなメンツがみな若々しい。しかも徹底的なイタリア観光映画で、写真はすばらしく綺麗。気楽に見るぶんには、恰好。スペンサー・トレーシーのいくら名画でも、いまはとても「老人と海」には気力的にとっつけない。
2006 4・2 55
* 朝から、かなりテキパキと仕事を進めた。合間に、楽しみもした。ピアノのスーパー・レッスンを午前(ドビュッシー)にも午後(チャイコフスキー)にも、ふんだんに聴いて観て、贅沢な感動に心から「サンキュー ベリーマッチ」と頭を下げたし、DVD映画の「KOTCH」にも切なく心惹かれた。
美しい佳いものにふれる喜びで、政治や犯罪のニュースでとげとげしく傷ついた胸の内を癒すなど、なんという勿体ない、しかし有難いことか。
2006 4・9 55
* ひさしぶりにテレビの「CSI」を観た。チームが一新され、チーフは、名前は覚えないが従前の記憶では、むしろ悪役の多かった、凄みの男優。まだチームを統一的に受け取れないほど新しい印象。
2006 4・11 55
* 結局一時半に寝て、三時半と六時に眼が覚め、六時半には起きてしまい、途中まで観てあったジーン・ハックマンの「フレンチ・コネクションⅡ」を見終えた。すぐ二階の機械の前へきて、いろいろと。午前中が永かった。
* 今日見た映画では、名匠マルセル・カルネがジェラール・フィリップとスザンヌ・クローティエで撮った「愛人ジュリエット」が、すばらしく面白かった。
恋人ジュリエット(スザンヌ)のために盗みをはたらいて掴まり、デートも出来なかった獄中の青年ミシェル(ジェラール)は、獄房のベッドから、夢のなかの光溢れる村山里へ入り込んで、ジュリエットを探し求める。
里人たちは、誰もが自分の名前すらも記憶からうしなえ、「過去の想い出」を、昨日のそれですらまるでもたない・もてない人たちばかりであった。現在を楽しく元気に謳歌できるのに、わが名もしらず、「過去の想い出」をいろいろに「買って」手に入れても、すぐみな忘れて行く。「夢」の世界のはかなさ、あてどなさを、あざやかに描いていて真実感に満たされている。
そんな中へ、ジュリエットとの嬉しい「未来」だけを求め、ミシェルは恋人を捜し求め捜し当てる。二人はそれこそ「夢」さながら純に愛し合うが、その美しい輝かしいジュリエツトは、二人して楽しかったであろうさまざまな「過去の愛の想い出」ばかりを、ミシェルに話してとせがむ。切望する。しかしミシェルは、過去などどうでもいいのだった、二人の「明日に希望」を持ちたい。だが、ほんの短時間離れても、ジュリエツトはもうミシェルのことを忘れてゆき、強引な村里の領主の求婚に応じて、にわかな結婚式に臨もうとする。翻意を迫るミシェルに、かすかに記憶をよびもどしかけるジュリエットであるが、そこで、監獄の起床ベルが鳴り響き、ミシェルの夢は醒めてしまう。
ミシェルは、獄房から裁判所に呼び出され、唐突に不起訴で釈放される。金を盗んだ勤め先の主人が、告訴を取り下げたからだ、だが事実は、主人が、ジュリエットの嘆願を容れ、かわりに主人はジュリエットに自分との結婚を承知させていたのである。
つらい現実に絶望したミシェルは、追ってくる恋人ジュリエットを夜の闇に振り切り、物陰に隠れて、目の前の、「危険」と開扉を禁じているどす黒い扉をムリに押しあけてしまう。と、もうそこは、またも、あの光溢れる「夢」の山里へ導く世界なのであった。
話をこう書けばたわいないが、「夢」と「現実」とのただ対比でなく、「過去」の「記憶」をすべて喪失して「現在」だけに生きねばならない「夢」世界の光と、明るい「未来」を渇望しつつも「現実」の闇の険しさ・望みなさ。その、おそろしい「断絶」「落差」を映画は問いつめ、映画それ自体が凄みの「公案」と化し、眼前につきつけられる。
わたしは、ひょっとして昔々に、この映画、観ていたかも知れない、題は、はっきり覚えていた。だが若かりし昔昔のわたしに、この映画は到底つかめず、途方に暮れ投げ出していたのではなかったろうか。
夢のジュリエットの大きく黒い瞳。スザンヌ・クローティのエジュリエット役が堪らなく佳い。ジェラール・フィリップはどちらかというと毛嫌いに近いほど受け容れないスターであったが、この映画のミシェル役は、最初に夢世界にうきうきと紛れ込んで行く後ろ姿からとてもチャーミングで、終始好感をもてたのは、彼のためにも収穫だった。
* マルセル・カルネの深い世界からすると、大原麗子をマドンナにした「寅さん」は、あまりに通俗であった、例によって「さくら」役の倍賞千恵子には感嘆したけれども。
2006 4・12 55
* 浅丘るり子のリリー版「寅さん」映画をみた。まず、寅さんのシリーズではこの辺が第一等だろう。もののあはれ、これに極まるか。今日は、しばらくぶり「映画日」になった。あすは芝居。お岩サンには抱きつかれたくない。にげたい。
2006 4・12 55
* 「新・極道の妻たち」を観た。もとより好もしい世間ではない、もっともイヤな世間であるから喜んでは観ないが、ややこしいことに、贔屓の岩下志摩はこの役がとびぬけて巧い。岩下の演技が観たいだけで観とおしたが、唸るほど巧い。これがあの小津安二郎の監督映画の可憐で品の良い少女女優の成長した姿かと想うと、ビックリ仰天。ほかの何人かの極妻も知っているが、抜群に、というより日本映画でのいろんな女優達の主演の歴史の中でも、ずしんと重い名演だから脱帽する。ほんものの大女優の貫禄、役の把握と表現で。映画は、どうしようもない極道だが、一人の主演女優の姿は、そう、これぞ凄いというしかない。
2006 4・14 55
* 春もたけなわ過ぎ、千葉のE-OLDとデートしたいなと妻と話していたばかりだった。おじさんの足袋繕いか。繪になりそう。上野の寄席鈴本のあと天麩羅はと言っていたが、このところ血糖値が右上がりでヘキエキし遅滞していました。
いま、テレビで金馬の「御神酒徳利」を聴いていた。あの騒がしかった金馬がとしとって佳い噺家になっていて、噺もうまく隙間無く、嬉しくなった。萬斎と染五郎との珍しい三響会版「二人三番叟」もけっこうであったが、あの金馬 (小金馬)とみえないほど顔もよくなった老金馬が、若い二人の上を行く噺で感心した。
マルセル・カルネの「嘆きのテレーズ」も流石の映画で、寡黙なまま存在感に満ちあふれたシモーヌ・シニョレの静かに深い演技も、また、みものだった。
佳いものは、藝術・藝能の世間にはまだまだ幾らもある。困りものは政治・経済。じわじわと悪辣に既成事実化してゆく、増税と物価高傾向。民の怒りは鈍磨して起きず、官の怠慢と強欲とは顕著化している。
2006 4・15 55
* 「黒い瞳」は、チェーホフ原作「犬をつれた奥さん」の映画化で、マルチェロ・マストロヤンニが好演の、写真の美しい詩的な一編に、キラリとチェーホフの呼吸と視線とが、差し込むように光る。
ジーナ・ローランズの「オープニング・ナイト」はジーナの演技賞モノのつっこんだ演技でみせる演劇論的な映画で、終始惹きつける。女優・脚本家・演出家・プロデューサーが互いに刃渡りするほどの緊迫・緊張の中で開幕する。みごたえあった。
* かなり眼精疲労。湯につかって、すぐ寝てしまいたい。明日はペンの理事会。
2006 4・16 55
* 午後から、全くインターネット働かず、疲労困憊して頭も全然働かない。途方に暮れたまま、今日は投げ出す。
一ついいことがあったのは、映画「卒業の朝」の観られたこと。ケビン・クライン主演のこの「教育」を主題にした優れた一人の教師の物語は惹きつけてやまなかった。甘いモノでも安いモノでもなかった。厳しい現実の悪意とも直面しながら、それに屈しないものが、画面にも人物にもしみ通っていた。見終えて心嬉しい後味。初めて観た映画。
今一つ「ルル オン ザ ブリッジ」は以前に観ているが、佳い作品。主役の男女のコントラストが物語の不思議をリアリティ確かに支える。
2006 4・23 55
* キッチンで仕事しながら、ヒッチコックの「眩暈」を観たり聴いたりしていた。
ジェームズ・スチュアートという俳優が、いかにも憎めない。グレース・ケリーとの「裏窓」でも、キム・ノヴァクとの「眩暈」でも、また同じキム・ノヴァクとの「媚薬」でも、ジェームズ・スチュアートは、うまいともそうでないともそんな感想よりも、ただただ憎めない人のいい男。
しかしまあ、キム・ノヴァクという女優の魅力、気味悪いほどの美しさには、いつも参る。キムにくらべればあの冷たい美しさのシャロン・ストーンですら、可愛いものだ。キムと対抗的に思い出せるのは、健康なソフィア・ローレン。きてれつな美しさではキムに軍配をあけるが、ソフィアの突風に似た健気さと迫力はたいしたもの。此の二人からすると、グレース・ケリーはすばらしくもあるが、気取っている。だが「裏窓」では、ジェームズ・スチュアートめが羨ましいほど、グレースはキレイで、可愛らしくて、しびれた。
いやいや、みんな甲乙ないのである、いま観ているその人がいちばん美しいと想える。わたしはトクな性質をしている。
2006 4・28 55
* 好きな映画の「釣りバカ日誌」シリーズの初回分を、繰り返し二度見た。浜ちゃんといいスーさんといい石田えりの演じる愛妻みち子さんといい、文字通りの我が「身内」映画であり、面白さも感銘も第一級。映画づくりがじつに美味い。いやもう、涎が出そうに美味いのである。
2006 5・5 56
* 発送用意が、今日で一段落する。ほんとはこの後の二段落めに神経を疲れさせるのだが、それとて一段落しないことには始まらない。今日は「飛ぶ教室」というケストナー原作の学園映画を「聴き」ながら仕事していた。
2006 5・6 56
* 今夜観た「ER」は、最高級のドラマであり映像であった。「臨終」をまぎれなく把握し映写して重厚であった。
2006 5・8 56
* 仕事しながら「東京物語」を観て(聴いて)いたが、鬱がひどくなりそうで途中でやめた。当たり前の話だが、柳智衆や東山千栄子に寄り添って観てしまう。原節子のような嫁がいるわけでもない。香川京子のような娘がいるわけでもない。アホらしくなった。写真はすばらしいが。
2006 5・12 56
* あまり歯が浮いて気持ち悪く、階下で久しぶりに映画を観たのが、ウルグワイの「ウイスキイ」という、しがない靴下工場の経営者である兄と、ブラジルから亡母の法事にはるばる来た弟と、その間に挟まれたマルタという女性と、事実上三人だけのような映画。弟は兄よりも少し羽振りのいい同業、ないし今少しマルチに稼いでいるらしい、割り切れてやや陽気でもある男で、兄はおそろしく寡黙、弟の景気に気圧され気味。彼は従業員(女が三人だけ)弟の来ている間だけ妻のていで付き合ってくれないかとマルタに頼み込む。マルタは社長にいささか心を寄せているかも知れない独身の中年過ぎ。
時間はゆっくり動いて、変哲も変化もない画面がそれなりの圧力とテンポとであまりにも寡黙に流れて行く。それは東京やニューヨークでは信じることの出来ない時空間であるが、自律性は強烈で苛酷でさえあり、ドラマも辛辣であり、しかも何事が起きたとも起きなかったとも説明なしに、ポトンと線香花火の最後の火玉が落ちるように映画は終わってしまう。しかし、それで十分十二分に描き切れているのだから、たいしたシロモノであった。
このごろわたしは一本の映画を観きれなくて、途中で一度二度打ち切って、休むことが多いのに、このスローで寡黙で静かすぎる三人だけの映画は全編一気に見通してしまい、ボーゼンとしたのである。これは「すごい」と言っておこう。
2006 5・22 56
* 子供達三十人、三十一脚のむかで競走の全国一決勝トーナメントを、テレビで楽しんだ。ああいうのがいい。心から気持ちよく楽しめる。北海道の学校がすかっと優勝した。いいゲームだ。
2006 5・28 56
* ハリソン・フォードの途中でやめていたサスペンス映画を最後まで観た。終えてみれば、今少し物足りない。ひきつづき録画してあった市川雷蔵の「手討ち」は例の青山播磨とお菊の番町皿屋敷もので、興味がない。時代劇にも、振った鞭のなるように厳しいいいものも無いではない。「上意討ち」「切腹」など、また黒澤明の「羅生門」「七人の侍」や「用心棒」など、また溝口監督の「雨月物語」や「近松物語」などは素晴らしいものだったが。亡くなった田村高廣と高峰秀子との「笛吹川」も素晴らしかったが。
気の低いオール読物ふうは、よろしくない。わたしには、無くても構わない。小説も同じである。
2006 6・3 57
* 二三日前か、低調に思われる番町皿屋敷の雷蔵映画をやっていて、チャンネルを替えた。お菊は哀れであるが、やはり男の心をこころみるのは、こころみられた青山播磨でなくても気色わるく、好きになれない。播磨の役は忘れた、まさか長谷川一夫ではなかったろう、が、お菊は青山京子とかいった綺麗な女優で「青山播磨」という映画をみたのがお菊もの映画の最初だった。あのときもむしろ播磨に共感したし、映画も彼の気持寄りに創られていた。こころみる女は、けっく幸せになれないらしい。
2006 6・6 57
* いま「阿弥陀堂だより」という、ヤに静かな映画を観ていたが、京都から電話が入って中断。七月の対談の日取りがきまった。まだ梅雨はあがらないだろう。
2006 6・12 57
* 撮って置きの映画「モンテクリスト伯」を期待もなく見はじめたが、よほど優秀な脚本家とみえ、あの厖大な大作を、大胆に脚色して組み立てよく、写真も配役もよろしく、大いに楽しんだ。主役のエドモン・ダンテス役は、幾つも映画を観てきた中でこれがいちばんいやみのないスッキリした仕上がり。敬服。なによりも期待のメルセデスは、ダグマーラ・ドミンスクという女優がしっかり演じてくれた。読者や観客のためにまずハッピーな思い切った原作離れの収束、それも結構。リチャード・ハリスのファリヤ法師役も、ピタリ。また原作を読みたくなった。隅から隅まで覚えて諳んじているほどだけれど。
2006 6・13 57
* ルネ・クレマン監督、マリア・シェル主演の「居酒屋」は、エミール・ゾラの原作をみごとに描き込んだ重厚な把握の自然主義映画。大傑作といっておく。自然主義とは本来こうであった。荷風や藤村はこれを学んだ。だが花袋の「布団」で矮小化してしまい、ついに日本独特の私小説へさらに縮かんだというのが中村光夫説で、わたしもそれに賛同し同意してきた。四の五のいうよりも、マリア・シェル演じるこの映画の女をよく見ればいいと思う。「凄い」という言葉をこの作品のために最大の讃辞として用いたい。
* そういえば、数日前にみたクリント・イーストウッドの製作・主演映画「トゥルー・クライム」も映画的に堅実に運ばれた好フィルムであった。
2006 6・14 57
* 若き日の幸四郎(当時染五郎)と長門裕之との映画「秘剣」を途中からだったが、面白く観た。稲垣浩監督ならではの重厚ないい時代劇で、月形龍之介の演じた老いし宮本武蔵が立派な姿勢で感じ入った。どうなる運びかと引きいれられていて、あっと驚くよい終幕。五味康祐原作の厚みが良く活かされた秀作で。さすがに幸四郎は台詞がしっかり明晰に聞こえていた。そこへ行くと長門など映画人は、舞台の台詞の素養が無く、早口になれば何を言うているやらアイマイモコ。一流の舞台人は映画でも綺麗に発声するので、演技にも切れ味がしっかり出る。
わたしは、比較的早くから幸四郎贔屓であったけれど、若い若い頃の彼はいたって見にくい男子で、お世辞にも男前でないのがおもしろい。「笛吹川」でも、そう感じてびっくりしたが、今日はいっそおかしかった。それでも、きっちり演じられる染五郎ではあったのだ、いい作品に出逢った。
2006 6・16 57
* 通俗な娯楽映画でも秦さんはほめますねえと言われたことがあるが、これは映画の表現と文学・文藝の表現は質的に大違いだということを見過ごした人の批評である。映画には映画の文法と美学と力学がある。小説にすれば愚劣で低俗なもののようでも、映画にして映画的にすばらしければ、わたしは褒める。原作はいい小説なのに、映画になるとヘタクソな映画も有る。
2006 6・16 57
* 休息に、サンドラ・ブロックとヒュー・グラントの娯楽映画をみた。吹き替えでないと、映画を見続けてなくてはならず、仕事出来ない。ま、いいか。そろそろ、はやめに今夜はやすもう。「個室」に戻って、やす香は安眠しているだろうか。
2006 6・29 57
* 「シャンプー台のむこうに」いうイギリス映画の秀作を、とても面白く堪能した。イギリス映画は、アメリカものが何でもありのオール読み物や活劇とすれば、夏目漱石の後期の作品世界に近い、きっぱりとした小世界の中で堅実に人間と人間関係を把握し表現した秀作を見せてくれる。フランス映画は、もう少し味付けがつよく、やはりモーパッサンの国らしいロマンにもドラマにも、刺戟味が濃い。
今日の映画には好感をもった。昨日の「ツーウィークス・ノーティス」の読み物風薄さ軽さとはちがい、組み立てから巧緻で、それを技術よりは人間の劇として見せていた。感心した。
2006 6・30 57
* さて来週には京都での対談を控えている。この対談はラクではないが楽しいモノで在らねばならぬ。そして同じ来週には、岩下志麻と篠原涼子がぶつかり合う、秦建日子脚本の連続ドラマが、また始まる。熱など出していないで、作者クン、しっかりおやり。
2006 7・2 58
* 胸の底に、とぽんと黒い深い穴が覗ける。よく分からないが、寝起きに目に入った北大路欽哉の「子づれ狼」のせいかもしれない。この時代劇には、わたしのもっとも嗤う通俗の極みその代表例である「大岡越前」「水戸黄門」「暴れん坊将軍」とは抜きんでて異なる美質と強い訴求力があり、しかし哀しくも心楽しませないつらさもあり、画面に触れるだけで私の胸は塞ぐのである。そうさせる力があり、運命とか宿命とかの愚かなほどの苛酷さを横溢させている。
2006 7・6 58
* ミシェル・ファイファーのしっかりした映画をみたあと、息子の新しい連続テレビドラマの始まるのを、見た。
よくもまあ、というほどの駄作で、落胆。
場面と台詞をさわがしく繰り出すわりに、動的なテンポの練り上げもなく、リアリティーもなく、人間の造型もなく、むろん演劇的なクオリティーもなく、要するにドタバタのへたな作り物で、演出も写真も演技も、お話にならない。
一回目だけで全体を推測はしないけれども、一回を見た限り、篠原涼子も、まえの「雪平女刑事」の颯爽とした造型からくらべれば、陳腐でウソくさい、面白くもない芝居ぶりだし、筋書きの設定も、カードの撒き方も、真実感が少しもない。女優が可哀想みたい。騒々しさを面白さと勘違いした低俗ドラマの低俗演出、いただけない軽薄さに、しんから呆れる。このぶんでは、岩下志麻のミスマッチも予想され、がっくりくる。
そもそも京都のワコーめく会社に、何年勤めたからといって、福島育ちの青年に、あんな完璧な関西弁を柄悪く駆使されては、そもそも「ことばや方言、訛り」というものへの理解がどうなっているのだろうと想う。福島の桃つくり農家の母親岩下志麻は、どうやらかなり端正な標準語をしゃべり出しそうなアンバイだが、この脚本家は、「ことば」「方言」「訛り」「風俗」を、小道具として、今後巧みにドラマの筋書きに組み入れる算段なのか。それなら少し期待してもいいが、「ことば」はバカにならない生き物、またこの予定された筋書きから見れば、そんなことをすればするほど、不自然負けするのではないか。
* がっかり……。
2006 7・6 58
* 率直に励ましてもらっている気がして、有り難い。
私も帰宅して『女の園』のラストを観た。こういう映画の創れた時代、創った映画が時代をほんとうに刺戟し得たあの時代を、わたしは、胸が痛むほど懐かしむ。おそらく今の若い人達にはこのような映画は「ダサイ」のではなかろうか。
たとえば「**をするのがいけない」のではない、「校則で禁じているのにするのがいけない」のだと学校の先生が言われるのは理の当然のようである、が、それはその一方で「校則を適切に変えて行く自由と権利」の抑圧になっていては「いけない」だろう。この抑圧に闘ってきた時代があり、多くの大事な権利を人は手にしてきたのに、いまや、着々と奪い返されつつあり、わるいことに、もう『女の園』『日本の悲劇』『笛吹川』『野菊の墓』のような映画がまっとうに創られない、創ろうともしないし、創ってもひとが見ない時代になりきっている、それが実に辛いし、切ない。消耗娯楽映画はあたっても、時代を厳しく批評しつつよりよい時代を創り出そうとする映画は、たいがい頭でっかちの空疎な大作というだけで終わっている。なさけない。
2006 7・7 58
* 午前、折良く雨のなかやすみに、新刊の「湖の本」創作第五十巻が出来てきた。早速発送作業に入って、夕食前に第一便を送り出した。嵩の高い分、作業量は多い。用意はほぼ万全にしてあり、注意深く運んでいれば作業自体はむしろ単純なのだが。そばで、ジョルジュ・クルーゾー監督、ベラ・クルーゾーとシモーヌ・シニョレが主演の「悪魔のような女」を観ていても仕事は進む。
* 昨夜見なかった、息子が脚本の、題のまるで覚えられないドラマ、えーと、「花嫁は厄年!」篠原涼子と岩下志麻の連ドラ三回目も観た。
一般の視聴者にはまったく分かるまいが、息子の、ドラマを介しての私小説風発信がおもしろい。岩下志麻の母親役を此のわたしに、息子を娘の夕日子に置き換えると、およそは、きれいに当てはまってドラマが作られている。母親の死んだ夫、息子の父を、いわば夕日子の夫かのように読み取れば、取材と脚色はなかなかうがっていて、佳い意味でしたり顔に如才なく巧みに出来ている。
おお、やっておる、やっておると、わたしも妻も、特別の「桟敷」鑑賞で、笑ったり手を拍ったり話し合ったりできる。楽しめる。「メーッセージ」が如何様に優しくまたシンラツに展開するのかも、期待しよう。
2006 7・21 58
* もう日付が変わる、それほどまで今日は米寿を迎えた「湖の本」新刊の発送に没頭していた、と、ま、それに違いなくても大層な言いようだ。宮崎駿の「ハウルの城」なる童画を妻が観るというので、そばで付き合いながら作業していた。能率をあげた。
童画は、いつもながら、こんなものかと思った。原作というか構想というか、やわいし甘い。善意のお伽噺ではあり、繪は美しいが、『ゲド戦記』などの本質的な思想性からみると、月とすっぽんのように少女漫画めいて、すぐれた児童文学の原作、たとえば「魔神の海」などと較べても、魂を揺さぶられる刺戟がない。静かに考えさせられる佳い意味の負荷も軽い。
2006 7・21 58
* 建日子作の「花嫁は、厄年!」観た。建日子の、また岩下志麻と篠原涼子のだから観ている。
わたしには、自作ながら『北の時代最上徳内』の達成感に心を惹かれる。蝦夷地と現代とを把握し得た「方法」と、細部にいたるまで「表現」のこまやかさ、つよさに、あの旅の懐かしさがこみあげる。地味な仕事だと思い思われてきたが、「天明蝦夷地検分」の歴史的な仔細をただ説明的にでなく、北海道や、見も知らぬクナシリ、エトロフ、ウルッブ、の風光や厳しい自然とともに、あたう限り想像力を駆使して書き取れているのが、我ながら面白い。
わたしの、この方法も文体も、オリジナルで、こういう行き方の作をわたしは他に知らない。長編小説『親指のマリア』『冬祭り』『みごもりの湖』『罪はわが前に』そして『北の時代最上徳内』のどれ一つも同じ手口でなく、それぞれの「方法」と「趣向」を貫いた。今、読み返しながら、何ともいえず「徳内さん」がわたしは好きだ。キム・ヤンジァも好きだ。
* 「MIXI」の『死なれて 死なせて』も三十回連載で終わる。
『徳内』も終われば、そして、やす香ももういないし、「MIXI」を撤退してしまうかどうか、迷っている。
* ホームページに掲載されている未定稿の小説『聖家族』を、必要あって、丁寧に読了した。場合によって出版を考える。
2006 8・24 59
* 今日はクーラーいらずでした。涼しいといいですね。激しい夕立は歓迎しませんが。
家でのんびり過ごしました。
映画「真珠の耳飾りの少女」を観ました。
画面がすべて、フェルメールの絵のようでした。
風はおしごと三昧の一日でしたか。 花
* 「噂の二人」を観た。オードリー・ヘプバーンとシャァリー・マクレーンという、モノクロームながら豪華版。男優がジェームス・ガーナよりもう少し張り込んであるとよかったが、名匠ウイリアム・ワイラーの間然するところない作劇。
シャァリイ・マクレーンの陰翳ある分厚い細やかな演技力が、みごと、みごと。女学校の共同経営者で親友ヘプバーンへの愛に気づいて行く、そこへ追い込まれて行く女教師を、さすが宝石のように彫琢して行く。
ヘプバーンも悪かろうはずなく、顔合わせの意外さが大成功していた。名画の一作と数えていい、一瞬も眼がはなせなかった。
* 「真珠の耳飾りの女」は池袋の映画館で観た。ほんとうにフェルメールの絵のように確かな画面の深さに感嘆した。適役であった。また観たくなった。
* ジャン・レノ主演の凄いような氷河映画を観ていたが、途中から沢口靖子主演の舞台にチャンネルが変わったので、わたしは二階へ上がってきた。映画の続きを観るのが楽しみ。途中まで見応えがあった。「薔薇の名前」に感じが似ていると妻は言う。時代はちがうけれど、その感じ、わかる。
* 映画も、久しぶりだ。
2006 8・27 59
* 土田麦僊は画家として最高に近い域にあったが、まだ鈴木松年の膝下にあり、松岳と号していた十七歳頃の「幽霊図」が、紳助の「お宝鑑定団」に登場し、喫驚。初見。驚嘆した。
2006 8・29 59
* 加藤剛と俳優座が紀伊国屋ホールで演じ、NHKが「芸術劇場」に撮影したフィルムを、必要あって板にやきつけるため、二度観た。もう幾度も幾度も観てきたが、この「心」との出逢いが、わたしの人生の幕開きだったなあと思う。
* 長谷川一夫と香川京子との競演した溝口健二監督『近松物語』を、久方ぶりに観て、感動を新たにした。おさん茂兵衛の悲劇が、さすが近松の原作、きっちりと把握し表現して神撫にいささかのおろそかもない。宮川一夫の美しい黒白の写真にも魂を吸い取られて行く。なによりもあのようにひたむきな愛が、現代の作品ではもう払底しているのに、実に豊かに輝かしく描かれて、リアリティの正しさ美しさには驚嘆のほか無い。こういう作品にまた出逢った嬉しさは一日身内に生きていた。
2006 8・31 59
* 溝口健二の『祇園囃子』をひさびさ再見。公開当時はまだわたしはこどもだった。祇園育ちではないが祇園の真ん中の新制中学に通い、友達には祇園の女の子も男の子もいっぱいいたのである。それでも、いま齢七十、ああ、こんなに優れた映画であったかと感銘を深々と新たにした。木暮実千代の全盛期、若尾文子のデビュー売り出しの頃だった。若尾の可愛らしさ、戦後の少女らしい強さと柔らかさに、あの当時わたしはゾッコンであったが、木暮の作品としても、数々他の作も思い出されるけれど、ニンの美しさでは、これが最高の出来ではないかと思われる。浪花千栄子といい、進藤英太郎、菅井一郎、田中春男といい、どうしてこう巧いんだろうと、三嘆。佳い物を観せてくれるなあと嬉しくなり、二時間、動けなかった。花あり実もあり、あはれもあった。祇園囃子も懐かしいが、甲部の路地・露地の美しさも黒白の写真にしっかりとらえられていて、懐かしいかぎり。
若尾文子の舞子性根には、たしかに新制中学時代の「社会性」の雰囲気が匂っていた。あれも懐かしかった。わたしの青春とも、この映画まんざら無縁ではなかった。
2006 9・5 60
* 溝口健二監督の『祇園の姉妹』は山田五十鈴と梅村蓉子の昭和十一年の作品、五十鈴の若くて綺麗なこと、はげしいこと。祇園とはいってあるが、よその人には気がつきにくい、祇園には藝妓の甲部と娼妓の乙部が截然と分かれていたし、この映画は、戦後の『祇園囃子』が明瞭に祇園甲部の物語であるにたいし、見るからに祇園乙部の物語になっている。女達の悲哀も烈しさもむきだしの男への敵意も男の立ち回りのずるさも、乙部の感じが濃い。わたしは、そのどっちにも間近く育っていたのである。
『祇園の姉妹』には命がけの女の闘いがある。「祇園囃子」にもあったけれど、ブルジョワっぽい。『祇園の姉妹』はプロレタリアの戦闘精神であり、しかも勝ち味は薄い。あはれ深い。
* 今一本、島原を舞台の『噂の女』は、田中絹代の絶品の演技に久我美子と当時の大谷友右衛門とが絡んでいる。今の大立女形中村雀右衛門である。田中絹代の絶頂期だった、このあと女優第一号の監督作品に取り組み、そのために「スクリーンの夫婦」と歌われた溝口健二監督と袂を分かっている。溝口は東京湯島に生まれ育ち姉の湯島藝者に育てられて人と成った。苦界の女達に対する同情と共感と観察とはひときわ深い。
まだ『山椒太夫』という名品『 雨月物語』という名作を見残している。
2006 9・6 60
* ゆうべ全部は観られなかった建日子脚本の「花嫁は厄年!」を見直し、少し泣かされた。桃農園の母親と十二年も仲違いしていた長男一郎が、ニセ花嫁の竹富明子の奔命で母への誤解をとき、仲直りが成る。
建日子の作意は、はやくに見通したとおりに、(或いはわたしの推察又は批評に乗ってか) 父わたしと娘夕日子の確執に取材してハナシをうまく煮詰めてきた。岩下志麻 篠原涼子 そして一郎役の役者。それをとりまくみんなの熱心に心をあわせたうまさで、アホラシイようなドラマであるのに、随分質実に優しいドラマづくりになった。佳い意味でも、よくないとも云われかねぬ意味でも、作家秦建日子の「気の優しさ」がにじみ出てきた、美味しく熟した桃のように。息子に感謝している。
* 来週から二十一日まで忙しくなる。
2006 9・8 60
* 寅さん映画の第三十作、ジュリーこと澤田研二と田中裕子。
さぁその田中裕子のうまいこと、うまいこと。美しいという以上に、品良くて感じのいいこと。舌を巻いてただただ感嘆。理想の女。わたしの作品のヒロインそのもの。
演技のうまい女優はけっこういるけれど、当代、もし一人をあげよといわれれば、わたしは「田中裕子」というのだけれど、もう一人というなら宮沢りえか大竹しのぶというのだけれど、今夜の寅さん映画の田中裕子は、飛び抜けていた。女優の田中裕子がすばらしいのでなく、田中裕子の演じていたケイコさんが、堪らなくいい。情の熱さ、人品の美しさ、懐かしさ。優しさ。女の魅力の全部を出し切って、しかも、いっぱいいっぱいでない、みごとな余裕。これくらいうまい女優、うまさが人品を磨き上げている女優は、歴史的にもそうそういないが、このケイコさんに匹敵する役柄もそうそういない。寅さんの妹役の倍賞千恵子の「さくら」もりっぱな日本の女の代表格だが。
2006 9・9 60
* 溝口健二監督の『山椒太夫』を観ていたが、あまりに写真の美しく、またあまりに物語のむざんなことに、胸をかきむしられ、半ばで中断し、つづきは改めて観ることにし、機械をとめに二階へきた。
2006 9・13 60
* 映画『山椒太夫』の残像・感銘、胸奥に色濃い。分かりよく観れば、映画の上では国司と右大臣家荘園(山椒太夫経営)との衝突であった。衝突という現象は、人の割拠して住むところにはいくらでもある。
2006 9・15 60
* 昨日宵寝して見損ねた建日子脚本の『花嫁は厄年!』を観たが、今回は味うすく戴けなかった。老人の病変を借りてクライマックスをつくるのは安直、もっと奇想天外な展開を期待していた。おいおいおいという失望感。どう次回で大団円にするのやら。しっかりしぃや。
2006 9・15 60
* 映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」を観ていた。ロバート・デ・ニーロ主演の芥子の利いた、しかし、どことなくノスタルジァにも包まれた悪漢物語。一寸の虫にも五分の魂というようなことは、おくびにも出さない粋がりようもおもしろい。あのボルガの若いときの女優はだれだったのだろう、とてもチャーミングなのだが。老けてからのはよろしくない。
これで三連休も終えた。三日間でいちばん気の晴れていたのは今日の自転車での二時間だけ。
2006 9・18 60
* 四時間近い映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』を二度にわけて観おえた。妙に画面の運びに惹かれて退屈せず見続けるのだが、分かりいい割り切れた話ではない。もの悲しい。この副題「伝説」も、ひとつのロストジェネーレーションの昔をとらえたエピソードなのか。容赦の全くないヴァイオレントな画面が、粛々と静かに去来する。性的な場面もなんの躊躇もないというあらくれたアケスケなものだが、リアリティがあり、他の映画のその手の場面のほうがウソくさく感じられる。
ロバート・デ・ニーロという俳優の独特の個性が浸潤し、映画を支配。不思議な俳優だ。『タクシー・ドライヴァー』がそうだった、『大いなる遺産』でもそうだった。退屈そうでいて、惹きつけて放さない。他にも幾つかこういうデ・ニーロ映画があった。この、題まで長い映画、もう一度、ゆっくり観てみたい。
ケビン・クライン主演の『卒業の朝』は、デ・ニーロのとちがい模範的な教師の教育映画で、優れているけれど、二度に分けても見終えるのがすこしシンドイ。
* 花が二つのブログを駆使して、一つに好きな映画紹介をしている。批評というところまでは行かないかも。『真夜中のカーボーイ』など、わたしは映画での「身内」ものというと代表例に挙げたいほど感銘をうけたけれど、花にはそれほどでなかったようだ。今日は『めまい』を書いていた。キム・ノヴァクは『媚薬』が好きだ。ジェームズ・スチュアートも『媚薬』でのほうがイイ男だった。キムときくと、好敵手だったソフィア・ローレンを思い出す。キムの方が好きなときも、ソフィアの方が好きなときもある。
圧倒的な大女優として、わたしが脳裏の最上段に並べるのは、順不同、エリザベス・テーラー、イングリット・バーグマン、キム・ノヴァク、ソフィア・ローレン、ジーナ・ロロブリジータ、ブリジット・バルドー、ヴィヴィアン・リー、ジョーン・フォンテイン、クローデット・コルベール、ベティ・デイヴィス、デボラ・カー、スーザン・ヘイワード、キャサリン・ヘプバーン、オードリー・ヘプバーン、マリリン・モンロー、シャーリィ・マクレーン、など。これで、わたしの歳がわかる。
若い綺麗なのを並べ出すとこの何倍もいる。
歯医者で、ガリガリ、キーキーやられるときわたしは、いつも両手を使って指折り数えている。歴代天皇百二十五人などあっというまに済んでしまうが、海外の女優のフルネームを百も思い出していれば、たいがいガリガリもキーキーも済んでしまう。
2006 9・19 60
* もう日付は変わっているのだが。
思えばやす香が自分は白血病と「MIXI」に公表した日から、きっかり二ヶ月経った。二十年経ったような、昨日のような気もする。
* この不快だった一日に、なぜかそれでも一掬の、しかもちからづよく澄んだものが胸に残っているのは何だろうと、さっきから思っていた。
それは「MIXI」に今日連載を終えた小説『三輪山』への想いであった。昭和四十九年の末に平凡社の看板雑誌「太陽」に書いた。妻は好きな作の一つだといい、読み直してくれている。わたしは久しぶりに読み返したが、何度もこみあげるものがあった。『秘色』もそうだったが『三輪山』もそうだ、わたしは「生みの母」のことをずうっと想っていた。顔もろくに知らない、口もほとんど利いた覚えがない。秦の家にその人が姿を見せるとわたしは二階から屋根づたいに逃げだした。あんな振舞いをわたしは今も自身にとがめはしないが、悲しくなる。
この小説は、「織物」を特集した雑誌の「特集小説」として依頼されたので、どうしても織物に的をしぼる約束があった。どうしようかなあと思案しながら、ある夕暮れ、保谷野を妻と散歩に出た。そして自然にものの熟するあんばいにラストを創った。唄も創った。一個所だけ、わたしは「おかあさん」と書いている。その言葉は、わたしの堅い禁句であったのに。あの小説は書きながら何度も泣いた。
今日も建日子の「花嫁は厄年!」最終回を観ながら、ふっと『三輪山』の感じに重なってくるものを感じていた。篠原涼子がさいごまで気を抜かずによく付き合ってくれたし、誰よりもさすが岩下志麻はリッパに我をとおして美しかった。俳優のみんなが、ま、あの娯楽作にしんみりと朗らかによく付き合ってくれたなあと、建日子の喜びが伝わってくる。ものを創るという嬉しさを建日子は覚えてきた。わたしは造る醍醐味を懐かしみながら、ひそかに構想している。
* これだけを書いて寝ようと想っていた。疲れた、とても。
2006 9・21 60
* アリソン・ローマンとミシェル・ファィファーの映画『ホワイト・オランダー(白い花の夾竹桃)』を観た。藝術にも優れた母(ミシェル)と娘(アリソン)との、秀でた人間ドラマ。母は殺人を犯した終身刑囚であるが、そびえ立つように揺るがない自由でつよい精神、娘はおかげで不幸に育った、しかし母を深く敬愛するやはりつよい美しい精神。静かな、胸にひびく映画だった。
2006 9・24 60
* 夜は、女刑事雪平夏見の「アンフェア」二時間半ちかくを見た。凡百の刑事物、警察物の安いドタバタや人情ものやパタンものに比するなら、異色のクウォリティーを持っていて、ドラマとして引っ張られた。原作は秦建日子『推理小説』としてあったけれど、このテレビのスペシャル版は、前の放映連続ドラマ「アンフェア」をほぼ独自に脚色していた佐藤嗣麻子の作品のように思う。
いくらか気になるコンピュータ万能ぶりで、いかに公安といえども、十数年二十年前の日本のコンピュータ駆使の水準は、サイバーポリスにはほど遠かったと思うけれど、まして中年を越していたろう雪平刑事の父親などに、どの程度の技術またどんな優秀機がありえたかと気にはなるけれど、概して、しっかりドラマは構造化されていた。
篠原涼子の女刑事役には、もっともっと乾燥した硬質の芝居をさせてみたかったけれど、魅力は十分発揮していた。
2006 10・3 61
* エドワード・ノートンとアンソニー・ホプキンスの映画「レッド・ドラゴン」は、ジョディ・フォスターとアンソニーとの秀作「羊たちの沈黙」の前編に位置して、劣らぬ力作だった。釘付けにされた。
2006 10・5 61
* マイケル・ダグラス映画を特集しているらしく、彼の映画なら何十度観てもぜったい厭きないで心から楽しみ感銘を受ける作品がある。『アメリカン・プレジデント』だ、シビアな作ではないむしろロマンティックな作り話である。だが、シェファード大統領のクライマックスの演説は、それへ向かう姿勢は、もっとも優れた大統領と、もっとも優れたアメリカとの理想とを、きっぱり表現してくれている。アメリカ憲法の理想とする基本的人権と真の自由について遺憾なく語ってくれている。悪意に満ちた発言もアメリカではゆるされている、自由の名において。それに真っ向立ち向かう自由もゆるされている、アメリカでは当然に。もっとも悪しき政策をうちだす権力に対して、国民の自由と基本的人権を蔑(なみ)する権力の悪意に対して立ち向かうとき、国旗を焼いて抵抗することもまたゆるされているのがアメリカの自由でありアメリカの憲法に許容された自由であり権利であり良心であると、此の大統領は演説する。
闘うべき相手にむかい闘わないことを恥じよと。
2006 10・6 61
* いくらかボーゼンとしている、睡眠を欲しているのかもしれない。三連休で、休んでいる人は大勢。わたしも休んだ方が佳い。で、寅さん映画を楽しんだ。妻もわたしも贔屓にしていた、最近は余り顔を見ない中原理恵がマドンナで、寅さんの常のパタンを少し変え、詫びたなかに良い情味の心優しい一編のロマンであった。釧路、霧多布・根室、中標津などと、懐かしい地名や景物が画面を流れて、わたしは徳内さんやキム・ヤンジァまで思い出していた。
2006 10・7 61
* ウルグアイで創った『WHISKY』という映画をワキのノートパソコンで観た。これぐらい言葉のすくない音声の低い人数の少ない動きのない映画を観たことがない。ウイスキーとは洒落た題だが、写真をとるときのチーズと同じ。その時にしか登場人物は笑顔をつくらなかった。さよう、つくり笑いである。
遠国から、兄と同じような事業で成功しているらしい弟が、久しぶりに親の墓参に兄のもとへ帰ってきた。兄はしがない自分の工場の、歳のいった従業員に、弟の滞在中だけ臨時の妻の役をしてくれと頼む。そうして、奇妙に静かでちぐはぐな三人ぐらしが始まる。
兄らしい気位はある、が、うだつの上がらない寡黙を繪に描いたような愛想もコソもない不機嫌そうな兄。兄の現状を察して援助の手も差しだそうとするすこし気軽な弟も、兄の機嫌には弟としての気を使いながら、仕方なく臨時の妻役のマルタ、映えない映えない極度に寡黙なマルタを少し喜ばせ、心を少し動かす。
マルタは、妻を喪っている工場の主人からの「働きかけ」を暗に期待しているようだが、主人にもその気がまるでないとは言えないのだが、彼は動かない。そんなときに、やや気散じな弟の滞在はマルタにも段々に刺戟である。
そして弟は帰国してゆく。また前のママの毎日が繰り返されるのだ、しがない町工場の中で。
マルタは、どうするだろう。
版で捺したように変わりない、靴下編みの古びた機械が動く工場に、その翌日、マルタは出勤しなかった。機械だけが変わりなくゴトゴト。そこでバサリと映画は終わる。
そんな映画だが、世の中には『タイタニック』や『マトリックス』や『風とともに去りぬ』や『ダイハード』や『ヘン・ハー』のような映画が溢れているのに、なんでこんな映画を観ているか。映画の力がわたしをとらえて離さないからである。映画の力学が美学とともに理屈抜きに強烈で途中でやめて投げ出せないのである。
2006 10・9 61
* 夜前、深夜ひとり録画してあったテレビ映画「信長の柩」を観た。松本幸四郎が、『信長公記』を書いた物書き太田牛一の役。珍しい役だ、「物書き」がこんな劇で主役をするとは。
信長には、あまり好きな顔ではないがこの役には似合った、松岡某君。
梅雀の秀吉が、さすが凄みあるこの役者らしい力演で、微妙な場面を、裂けそうに緊迫させたり、積むように盛り上げたのには、感心。そうかそうか、これは舞台では観ることのない、派のちがった歌舞伎役者の競演なんだ。
高麗屋はひたすら静かに。役どころのツボツボを構築して、芝居を一つの彫刻のように創り立てて行く。この優らしい、そしてこれは佳い役である。なかなか体験できない役である。こういう役に目を付けたのは原作者のお手柄である。
西郷輝彦が家康役をちょいと出て、重く見せていた。浅野ゆう子はダメ。ヒロイン役は、ま、あんなところかな。幸四郎の上の娘さんの松本紀保が、ちいさな役なのにセリフは勿体ないほど美しく話し、ああこの女優のための佳い芝居が必要だなと思った。
さてドラマであるが、二時間余、夜中にかかわらず飽かず見通したけれど、もう一度観たいだろうかと思うと、微妙に物語りの味が薄い。感動が無い。秀吉や家康や光秀や公家の近衛などの絡まり合った陰謀に陥って、本能寺と南蛮寺を結んだ抜け穴の途中で窮死する信長と森蘭丸。それだけでは推理作家の思いつきがぎらつくだけで、通俗読み物の限界あらわ、底が知れている。塗り込めた石土の硬度を異様に高める工夫、それが温泉の湯道をふさいでいたり、抜け穴をふさいでいたり、も、思いつきだけが露骨に口をきいていて、こなれない。劇化されていない。
こういう凡作に出くわすと、わたしは忽ちに「阿部一族」というテレビ映画が、いかに優れた藝術品であったかを懐かしく思い出す。原作の落差は、おおいがたい。
だが幸四郎は面白い役を演じて、決して損をしていない。が、この録画は、むりに板に焼いておくまでもない。自然に削除。
2006 11・6 62
* メル・ギブソンの戦闘映画を泣きながら観た。彼のつくる戦争映画にはもうひとつ「プライベート・ライアン」も立派であったが、このカタカナの長い題の映画は、何度観てもじつに優れている。最後に、映画の中では敵対して死闘をくりひろげたベトナム側の主将の静かな述懐までを、きちんと写し取っていた、そういうところがメル・ギブソンのハートの柔らかさで、嬉しくなる。かれは「ブレーヴ・ハート」のような歴史物でも「マッド・マックス」のような近未来物でも真情を披瀝し、まっすぐ観客に迫ってくる。そして娯楽映画もうまい。女優ゴールディ・ホーンとの、またルネ・ロッソとの軽快にかつハードな映画でも楽しませてくれた。
2006 11・9 62
* 湖の本エッセイの発送用意に、とにかくもじりじりと取り組んでいる。風邪をひいたのではないか。髪にふれると痛みがある。土曜日曜を大事に寝てすごそう。月曜には「ペン電子文藝館」の委員会がある。機械の前へ来てもインターネッが使えないのだからと、今日は主に階下でこつこつと手作業を。
栗原小巻も小巻ながら、美保純の感じのすこぶる佳い「寅さん」映画を観た。中越大地震で潰滅した「小千谷棚田の修復五百日」の努力をルポした映像にも、感動した。
その一方、国も行政も地方自治もむちゃくちゃ。公の傲慢と勝手放題は目に余る。「公」は徹して「私」に奉仕してこその「公」に過ぎないことを、「私」たちは心肝にしみわたるほど、自身の強い思想にしなければならぬ。
何故それが出来ないか。何故それが出来ないか。
2006 11・17 62
* 一仕事すませてから藤田まことの京刑事「音やん」ものを観ていた。これは妻もわたしも贔屓のドラマ、何と言っても藤田も娘役の萬田久子も、課長役も、完璧な京ことばなのが楽しめる。今日はこれへ岩崎かね子らもう一二のベテランががっちり芝居してくれ、能登の荒海や雪景色もふんだんに見せてくれて、堪能した。ヒロイン酒井美紀のために後段に少し説明的な場面が出来たのがきつい瑕瑾になっていたが、ま、情はよくつたわる脚本と芝居とで、凡百のドラマからみれば上等であった。
2006 11・18 62
* 委員会はこれということも無く。
帰りに日比谷の「福助」で鮨をつまみながら『人間の運命』を読んで、読みながら帰ってきた。雨に降られたが親切なご夫婦に傘を貸して頂けた。明日、親戚といわれる本屋さんへお返しに上がる。
映画「デイ・アフター・トゥモロー」を観る。ありうることとして観た。
2006 11・20 62
* ルキノ・ビスコンティの大作『ルートビッヒ』を三分の一ほど観て二階へ。
2006 11・25 62
* 秋吉久美子に河内桃子と五月みどりの加わった寅さん、三田佳子と三田寛子との寅さん映画を流したまま発送の用意をしていた。月初には送り出せるようにしたいが、作業停滞していたので成り行きが分からない。
寅さん映画でで分かることが一つあると、妻が指摘。これまで観てきた只一作にも「選挙権行使」の場面が現れない。寅さんや「とらや」の人達の選挙権がどう行使されるのか、場面だけでも観たいし、無いのは不自然過ぎると。わたしもそう思っている。このシリーズの瑕瑾であるのか、それも意思表示であるのか、ニゲているのか分からないが。
その余の点では、一作のこらず観てきて、日本と日本人と、日本の自然や生活のすぐれた批評であることに共感を惜しまないどころか、登場する誰彼にたいし自分は「及ばない」というほどの忸怩たるものが有る。しっかり有る。
2006 11・26 62
* 映画『ALWAYS』を思い和やかに妻と観た。われわれが大学を出て、京都から東京へ出てくる前年の「東京」が、舞台。あの時代まで戻らないとほのぼのとした日本人平常の人情は描けないのかも知れない。気持ちの佳い作であった。人の「常」を静かに考えさせた。
東工大の教室で、無常ならぬ「常」を英語で書けと問いかけたらいろんな回答がそれは沢山でたなかに、むろん「ALWAYS」もあり、わたしは「CALM」の一語に嬉しく頷いた。
2006 12・1 63
* 珍しくウイーンに外遊した寅さん映画を見ながら、遅ればせの作業をすすめてから、二階へ上がると、子機の方でインターネットが働いていた。メールは何もなかったけれど、「私語」は更新できたと思う。親機の方は相変わらず。古いルーターは四つとも緑点灯しているが、どのアプリケーションも開かない。機械をまともに閉じることすらできない。
2006 12・2 63
* 作業しながら寺尾聡・原田美枝子や柴田恭兵・鶴田真由らの映画「半落ち」を観た。秀作。
少し前、念のため録画しておいた舟橋聖一原作の『雪夫人絵図』を観たが、木暮実千代はいいとしても、案の定けしからん不快な映画で、女性を侮辱することで群を抜くキワモノだった。いかにたいそうらしい理由をつけても、不快で、男どももひどい。映画としても溝口作品らしからぬ不出来作でがっかり。
2006 12・3 63
* 十三日の第三回調停のための心用意に、昨日深夜と今夜とをつかった。録画してある「ミリオンダラー・ベイビー」を観たい。
2006 12・7 63
* 昨日はドン・ジョンソンの、今日はロブ・ロウの、イヤーな男特集めくイヤな映画を、むろん二つとも途中で消してしまった。ひところは日本映画にほとほと厭きていたが、「写楽」「雨あがり」「半落ち」そして寅さんなど観ている内、日本映画の佳いのに出逢いたいと思うようになった。溝口健二の「雨月物語」を録画しそこねたのが残念。
2006 12・15 63
* 毛沢東と紅衛兵の時代を、多くの同時代支那人たちの証言であぶり出す、テレビ映像での報告を観て聴いて、感慨無量だった。紅衛兵に関する詳細な総括本はかつて読んでいた。だが、あらためて証言の数々に接していると、興奮に肌に粟立つ思いがある。「大躍進」での毛沢東の深刻な失政、その後の劉少奇と鄧小平の台頭、この二人の追い落としに豪腕をふるった毛沢東の「紅衛兵」策動。すさまじい政治の権力闘争。操りに操られた国民の狂奔と失望と卑屈。
中国は「革命」の国であるが、古来の革命のいかに数多くが一種の催眠的な呪術的な策動や煽動にのっかってのものだったか、一つの「国民性」があらわれている。
紅衛兵のあとへ「文化大革命」がつづき、毛沢東が、周恩来が死んで、「四人組」のもの凄い時代がきた。だが、四人組は克服された。逮捕され投獄された。わたしが井上靖夫妻らと日本作家代表団で訪中したのはその「四人組追放」直後だった。上海でも北京でもまだ武闘のアトがなまなましく観られた。国中が大字報で溢れていた。我々日本の作家達を人民大会堂で接見したのは、いわば国会議長職に就任間もない故周恩来総理の未亡人だった。
明日であろうか、第二部に、「造反有理」と予告があった。ぜひ観たい。「造反有理」の四文字は、ただに中国でだけ流行ったのではない、昭和四十年代半ば過ぎまで、あらゆる日本の労使紛争の現場で、壁や紙や地面にまで殴り書きされた、いわゆる「過激派」のスローガンで「開けゴマ」ですらあった。
2006 12・25 63
* 階下のテレビでではなく、目の前のディスプレイをつかって、好きな映画「アメリカン・プレジデント」を見おえた。三度に分けて見た。映画の中でも一等数多く見ているので隅々まで覚えているが、気持ちよくなりたいときは、これが一番の秀作、一番励まされ、勇気づけられる映画。
アメリカが真実こういう大統領の国であってくれたらと思うのだ、それほどクライマックスの大統領記者会見の演説は、聴いていて嬉しい。マイケル・ダグラスの大統領、アネット・ベニングの恋人、チャーリー・シーンの首席補佐官、それにマイケル・フォックスたち。映画自体は甘いつくりであるが、主役の二人の真摯であることは疑いなく、二人とも最高の演技だというより「最良の存在」を演じていて遺憾がない。
*「基本的人権と自由」のうえに国と国民の行方があり、それを「憲法」が保障している。当たり前の話だ、が、現実のアメリカや日本の政治は、その当たり前から大きく逸脱している。憲法は蹂躙され、基本的人権も自由も狭められ、日々に国家や行政の管理権力に奪われつつある。
国旗を大切に思うのも自由なら、正しい真剣な見識からわるいと思う政策に反対して国旗を焼くこともまた自由な権利だと。その両方をともに認めているのが「憲法」であり「アメリカ」だと、大統領は演説する。個人的な感情から彼は話したのではない。
日本の都知事は、国歌や国旗への服従を強いてはばからず、思想と信条の自由を強圧的に無視して、思い通りに随わない者を平然処罰している。
わたしはこういう政治家を首長にいただく都民であることを、心から恥ずかしく思う。
2006 12・26 63