ぜんぶ秦恒平文学の話

映画・テレビ 2008年

 

* いましがたまで評判だった木村拓哉らの『武士の一分』を観ていたが、しんきくさくてやめてきた。
少なくも数十分というもの、「ドラマ」に価する展開も表現もない。尋常にカードを撒いているだけ。『雨あがる』や『上意討ち』や『阿部一族』にくらべれば、何が良くて賞をたくさん与えられたのか分からない。キムタクの演技も魅力的ではない。
原作者、監督、主演者の名に安易に人気の方で媚びたのではないか。そもそも「武士の一分」などという意地にも、わたしはテンと共感しない。バカげている。
2008 1・1 76

* テレビ朝日、古館夜十時の番組を、わたしたち夫婦は、いつも支持し共感している。今夜も温暖化問題に触れて、適切に、鋭く問題提起していた。ことにパック一つの「弁当」をとりあげ、一つ一つのおかずたちが、はるか海外の生産地からどんなに長距離を経て運ばれ、しかもその多くが廃棄処分されているかなど、目も耳も覆いたいほど。
今日も妻と買い物した石神井公園駅前のスーパーで、最も驚かされたのは、「弁当」の種類とパックされた量の多さであった。売れるのだろうか、売れ残ったらどうなるのだろうかと、それを案じあってきたのだが、まさしく古館番組は、その憂慮の背景を引き剥ぐように示して、はらんだ問題の無惨さだけでなく、それを敢えてしている、業者も消費者もともに「日本人」現今の無神経さに、悲鳴を上げたくなった。
京都議定書がどれだけのモノであったにしても、現実にムダにしている多くのエネルギーや排出二酸化炭素の莫大で有害なことの底知れなさには、思わずテレビの前から浮き足立ってしまう始末だ。 2008 1・4 76

* 夜前、妻と映画『奇跡』を観た。以前に、録画したものをわたしは観ていた。記憶がすぐ甦った。妻は初めて。惹きつけられて観ていた。
能舞台のような所作の静かさに莫大なメッセージが籠められ、眞向かって心して観ていた。妻も私もしいていえば無神論者であろうけれど、宗教的な感受性は、少なくもわたしは幼来過剰なほどもっている。だからこそバグワンを読みつづけ、多年わたしだけでなく、妻も聴いている。

* 映画には、象徴的な役割を帯びて牧師と医師とが登場する。
彼らの言葉や態度は、バグワンに聴きつづけてきたわれわれには、反射的辛辣に批評できる。理屈を超えて見えているものが、映画の観客である画面の外のわれわれに有り、映画の中の人物達になかなか見えないでいる。
信と祈りと。日ごろ、神と共に生きて語っていると自負している人たちに、神へのほんとうの信も祈りも、じつは生まれてこない。奇跡の生じようがない、と、映画は手厳しく進行して行く。
宗派的な信仰心で他宗派の信者といさかう老父、神に祈る気の全くない長男。その愛妻が死産し自身も命をうしなう。末の弟は父が諍い続ける他宗派の家庭の娘に恋している。純な若者達である。
この家には「乱心」狂気をもって困惑されているもう一人の弟がいて、神の子のごとく使徒のごとく預言者の如く言葉を吐き、振る舞っている。
牧師や医師や父や兄たちと際だった対照をなして存在し、語り、振る舞っている。示唆も預言も託宣も、聴くに値してむしろ尊い確かな響きをもっているが、誰も、いや兄夫婦の幼い娘以外にはただの「困りもの」になっている。
医師は電撃療法で治せると言い、牧師は「乱心」者は施設にと助言する。そして一家に愛され信頼されていた長男の嫁は、一度は回復し掛けて、しかし産後に命を落とす。「奇跡」は、どう起きるのか、起きないのか。
静かな静かな充満したエネルギーの映画であった。
2008 1・15 76

* そうそう昨日、「お宝鑑定団」の再放送を観ていて、やっぱり歌の読みが変だと思った。以前に観た、その時もすぐ不審を書いたが、肝腎の歌を書き控えていなかった。鑑定は、京都の思文閣社長の田中氏であった。
歌は、山本五十六元帥が、真珠湾攻撃の隊長であった人へ、為書きを添え呈上した軸で、布哇からの攻撃大成功の「電信」を聴き取った元帥感動の一首であった。
この歌の読みで、いつも自信満々の田中氏は、確信を持って、結句むすびの一字一音を、「よ」と繰り返し確言していた。「与」の崩し字と読まれたのだろう、しかし、短歌の結字が、「よ」という詠嘆・呼びかけ・強意の助詞で終わるのは珍しい。氏の読み通りに書くとこうなる。

突撃の電波は耳を劈(つんざ)きぬ 三千里外布哇(ハワイ)の空よ  山本五十六

しかし放映の短い瞬時ながら、わたしには最後の字は「由」の崩し字と見えた。「ゆ」である。「~から」を意味する大昔からの助詞である。こうなる。

突撃の電波は耳を劈きぬ 三千里外布哇の空ゆ   山本五十六

突撃成功を告げる電信速報の「声」が、三千里の彼方ハワイの空「から」耳を劈いてとびこんだ、という感動である。
「布哇の空よ」では、「三千里外」の「布哇の空」から「電波」で届いた「耳を劈」く 捷報に、雀躍りしている歌人五十六の「歓喜の現位置」が、生きて働かない。歌の言葉の一々が、「連動」して適切につかみにくい。感動が甘い。語勢も緩い。少し女々しくさえある。
動作の行われる地点また経由過程を示す「ゆ」の用例は、万葉集の「田子の浦ゆ打出てみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」ほか、幾らも有る。ただいかにもわたしにはその文字一字を丁寧にテレビ画面に観る余裕がなかった。「布哇の空よ」「よ、です」という鑑定人の強調だけが先に耳に来て、軍人五十六の短歌の結びが「布哇の空よ」ではピンと来んなあと感じたまでである。
それよりも何よりも、鑑定されたお値段のほどに仰天した。

* 映画『武士の一分』を見終えた。
果たし合いに至る男女の、見にくく聞きにくい経緯など、言われなくても必ずこうなると、はなから手に取るように推測出来ていた。だから果たし合いまでの全部の画面が退屈であった。どきどきも、はらはらもしなかった。
夫婦の愛、盲目の剣、家僕の気働き、それぞれに悪くはないが、映画としては半分の時間で仕上げて貰いたいほど、期待はずれの退屈な凡作であった。人気の木村拓哉主演、山田洋次監督に不当に評判だけを貢いだのではないか。檀れい演じる美貌の愛妻の、かんたんに上役に肌身を許して取り澄ましている心情、姿態。揺れ動いたに違いない人妻のリアリティが、全く受け取れない。女が肌身をゆるすなまなましさが映画に紙切れ一枚ほども反映していないウソくささ。『武士の一分』という題も、バカげて小さく歪んでいる。ただ、殺陣は面白かった。
三津五郎はいやらしくもお気の毒な役回り。
2008 1・15 76

* この数日、わたしを内深くで揺すぶり続けていたもの、感動、があった。恩地日出夫監督の映画『わらびのこう蕨野行』だ。今晩、もう一度、じいっと観た。
日本映画史の頂点に推したい名作であった。民俗学的な題材で「生老死」に膚接した完璧な写真と科白とで、美しくも凄惨な、しかし心にせまる愛の映像詩であった。市原悦子、石橋蓮司らの俳優が、わが友の原知佐子もふくめて、みなそんな実名を忘れさせるほど真実感に溢れて生き、そして死んで行った、雪の蕨野に。蘇りの雪野の風情が身にしみわたった。ちょっと軽率に感想が書けない。日本映画に、世界に誇れる名作、けっして数少なくない。映画好きなわたしは、たくさんそれらを見知っていて、しかもなお映画史のナンバーワンとすら言挙げしたいほどいい作だった、品格も実質も美も感動も、と言っておく。
2008 1・21 76

* 眼が渇いてくると眠くなる。目を閉じたくなるということ。

* すぐそばのパソコンで『蕨野行』を再生しながら、聴きながら、観ながら、ときどき深呼吸しながら静かに、用事をしていた。里をはなれて蕨野に入るのは六十歳としてある。いまなら七十五か八十か。他は知らずこの三郷に堅く限られた秘密の約定として、六十になれば無条件に蕨野に移り住む。里から半里・二キロほどの山中に三棟の藁屋が建っていて、けっして里の生活範囲を超越した他界ではないが、細い川と細い丸木橋に隔てられて蕨野は在る。だが、雪に埋もれる厳冬をこえて生き延びる六十歳は例年ただの一人もいないのである。
山に棄てられけもののように遇されて生きて死ぬのではない。蕨野の約定はあくまで人間の世間で堅く取り決めたそこもまた人の世である。ただ川ひとすじを隔てて、毎日、まだ少し働ける間は里へ生き返る、そして働いて「飯」を食わせてもらい、その日の内には蕨野の死の世界へ立ち返る。その繰り返しが厳しく、一人落ち二人落ち、しかもある日から、そういう制度もきびしく閉じられてしまうと、老人達の山野のその日暮らしが残酷に始まる。

* すべては余儀なく定めた堅い制度であり、貧富や家柄の別はまったく無い。

* 死はじつに精確に来る。老人達はさも死に上手を競うように、病葉の散るように音もなく死んで行く。『楢山節考』のように陰惨でなく、老死のすがたかたちがくっきりと写し取られて、わたしは、深い憧れに近い思いで画面に惹きこまれる。ふしぎなほど一切が愛に満たされてある。その奇跡のような愛が死を生に置き換えて行く。
2008 1・23 76

* わたしのなかに、「蕨野」がある。親しくも真実の美しい顔をして、手招いている。あれは不幸の映画ではなかった。叡智ではなかったか。
2008 1・24 76

* 名匠フレッド・ジンネマン監督の、短編といっていいコンパクトな『氷壁の女』に、心惹かれている。邦題より、原題の「一と夏の五日間」で受け容れた方が、より身にしみて観られそう。
初老とみえるショーン・コネリーと、映画では二十歳のベッチイ・ブラントリーが演じる、世間の目にはいわゆる不倫二人の夏山への旅。
山のガイドは、目に哀愁の漂う素朴な青年、ランバート・ウィルソン。
こう紹介すると、おきまりの三角関係が悲劇的な破局へ雪崩れ落ちると自然に読めるが、ジンネマンの精緻な「心理」の彫琢は、さすが陰翳に富んで俊敏、「もっとおそろしい展開」を予期・期待させた。
姪を愛した初老の叔父は、青年に不倫を詰られても、「ただの不倫じゃないんだ」と色をなす。とほうもない非ユークリッドなモラル幾何学を提示しそうに想われたが、だが残念ながら、そうは斬新に展開しないで、青年の氷壁での惨死後、従来世間の、尋常そうなモラルのほうへ映画は軟着陸し、エンドマーク。
わたしなら、もっと巍巍としてけわしい世界をひらいてみたい。そういう意味でいたく技癢を覚えたといえば言挙げが過ぎるか。よしよし、このこと覚えておく。
2008 1・26 76

 

* 帰宅。懐かしい賀来敦子さんが主演の映画、原作者の一色次郎さんも懐かしい、『青幻記』後半を観た。
賀来さんとは、惜しくも亡くなってしまうまで、ずうっと「湖の本」を介して親しくしていた。すばらしい感性の演技者だったが、すっぱり引退された。一色さんは太宰賞での先輩受賞者。いわばご近所ずまいで、尋ねていって二人で関町辺のサウナへ行ったりした。だいぶ年かさで、早くに亡くなられた。
2008 1・29 76

* 録画しておいた『青幻記』を全編、観なおした。何度も泣いた。
一色次郎さんはこういう小説を書くべき故郷・故旧を胸に抱いておられた。
賀来敦子さんは、こういう女、こういう母親を映画の中で生きるべく真摯であられた。
そしてやはり亡くなるまで「湖の本」を受け取り文通して下さった田村高廣さんもまた、このように母を恋い慕う息子の人生を、映画の中で体験しておられた。
懐かしまずにおれようか。
2008 1・29 76

* 『奇跡』『蕨野行』『青幻記』また『氷壁の女』を観て、いまギネス・パルトロウの『抱擁』を観ている。
なにかしらこれら一連の和洋の映画作品が、わたしを刺激している。逡巡せず、暴走でもいい爆進せよ、思い切りやれ、と促してくる衝迫がある。堅固な設定なしに動くなと抑えてくる我慢もある。
2008 2・2 77

* 夜前、『蕨野行』上演劇のVTRを観せてもらった。
この作品は、蕨野に入る姑(ばば)レンと、年若い、うら若い嫁ヌイとの「交感交響」を大事な「運び」にし、映画もそうであったが、舞台も同様に運ばれていた。姑役を、ほんとーのお婆さんになっちまった北林谷栄が、つねの洋服姿で、舞台脇の小机にむかい椅子に腰掛けて、恰も台本を読む形で演じる。
舞台のもう片方で、農家の嫁姿のヌイが、婆との時空を超えた対話を、美しく感動裕かに力演し、舞台中央、両者の間で、蕨野入りした老人達八人の(レンを数えれば九人の)生死の境が演じられて行く。
なるほどこういう演出があるかと、感じ入った。
洋服姿で分厚い台本を手にした北林「レン」と、農家の嫁姿のヌイとの、時を追うて、懸命に呼び交わしながら大筋の「運び」がみごとで、わたしも妻も泣いて惹き込まれた。深夜、もう寝ようかと途中で観るのをやめることが、どうしても出来なかった。

* すばらしい創作との「出逢い」だ。いろんな見方があるだろう、が、わたしは映画『グランブルー』に魂を掴み取られそうに感銘を受けたのと「等質」の溺れようで、『蕨野行』を受け容れている。

* 今朝から、DVDに置き換えている。

* ヒッタイト王国の興亡を、考古学や文献解読の苦心とともに、巧みに劇的に解説しているテレビ番組にも、惹き寄せられていた。
『世界の歴史』のなかで、その頃の諸国のはげしい浮沈のさまも読み通してきた。
この数年、わたしの毎日は、『日本の歴史』二十六巻ほぼ壱万三、四千頁、『世界の歴史』十六巻ほぼ八千数百頁の「縦列の読書」で括られて来た。
日本人の、そして人類の「歴史」を、わたしは絶対視はしないけれども、謙虚に尊敬せずにおれなかった。それが基本にあるから、たとえば『蕨野行』の深さやすばらしさや特殊さが、理解できる。
いくらものを識っていても、じつは仕方がない。そう腹をくくった上で、ものと向き合う「らくな姿勢」が出来る。そう大きく間違わないですむ姿勢が出来る。
2008 2・9 77

☆  映画監督の市川崑さんが死去  麗
在宅で仕事をするときは,たいてい映画を、BGM代わりに流す。昨日は,市川昆監督の『雪之丞変化』だった。長谷川一夫の藝の幅広さ,若尾文子の儚い美しさ,そして,市川雷蔵の軽妙な味,さらに,大映映画の「隠し味」のような伊達三郎の演技などに,仕事そっちのけで見入っていた。「訃報」に接したのは,まさに,その翌日。
例によって,勝手に縁を感じて,続けて書く。
市川崑作品は,雷蔵出演の映画を中心に,いくつも見ている。しかし,最も印象的だったのは,『東京オリンピック』。初めて泣いた映画だった。椅子に座った足が,まだ地につかないほど小さかった頃。長尺のあの映画を,封切館のテアトル東京で,身じろぎもせずに見ていた。どこで泣いたかは忘れたが,忘れられないシーンが,いくつもあった。
会場建築工事で,埃の渦巻く首都・東京。
大混雑の会場で開幕を待つ,ねんねこ半纏に日和下駄の母親。
開会式では,今井光也作曲の『東京オリンピック・ファンファーレ』,そして,入場行進とエンディングは,古関裕而作曲の『オリンピック行進曲』が,颯爽と流される。
しかし,ベラ・チャスラフスカの華麗な演技のバックには,流麗なピアノ曲ならぬ,「ドシン・バタン」の地響きを流す。
マラソンでは,沿道の民家の2階から見物する住人の目線で,アベベ・ビキラや円谷を追う。
随所に挿入された,実況中継の音声が臨場感を添える。
一方で,アフリカ某国から,たった一人で参加した選手の一日を追うなどの,ドラマツルギーも織り交ぜる・・・。
ドキュメンタリーのパラダイムを,様々な点で打ち崩し,見るものを安心させない作りの,「ドキュメンタリー」だった。
先日,縁あって全編を見直す機会があった。ファンファーレと行進曲を聞いて,全身が粟粒立った。泣いたのは,この場面だったかもしれない,と思えた。
この映画は,当時は必ずしも高い評価を得なかったという話もある。しかしこれは,オリンピックのみならず,オリンピック開催地・東京の当時を活写した,記録映画でもあった。往時の回想と感動に浸るには,『ALWAYS』にはるかに勝る,と私は思う。
アントニオーニ監督のときもそうだが,最近,何気なく映画を見ると,翌日あたりに,その関係者が死去する。しかし,市川監督は,つい先日,インタビューに答える姿を見て,その元気さに,「次回作が楽しみ」と思ったばかりだ。
一寸先は闇,なのだなあ。

* 合掌。

* 市川崑の才能に最初に痺れたのは、テレビで、あの伊丹十三の「光君」で源氏物語を見せて暮れたときだ。唸った。
個人的に有り難かったのは『細雪』。貞之助と雪子とのあやうさをおそれず表現してくれた。この映画で、わたしは個人的にもいい機会をもらった、新潮社から華麗な写真集を出したとき、撮影に立ち会い、ちょっと面白い解説を書かせて貰った。吉永小百合とも知り合った。
市川崑の特色は、斜に切り込める批評の冴えが、みごとに美しい映像を、皮肉なほどまっすぐ鋭く立たしめる魔術だった。お若いと思っていたが、残念。もう一つ二つは新作を見せて戴きたかった。
2008 2・13 77

* 小説に組み合いながら、そばの機械で北林谷栄の「語り」のDVDをしみじみと聴いていた。
先ず映画を観、ついで語りの演劇として観、最後に原作の小説を読んでいるのは作者の村田さんには申し訳ないが、たいへんけっこうな順番であった。吸い込まれるようにこの世界に、わたしは自在のよろこびで、かなしみで、安心と不安とで溶け入っている。わたしがあらゆる創作を創作として品隲するとき、この「蕨野行」は一種の原点となる気がしている。是と比べてはどうであるか、と鋭角に問いかけるであろうと思う。
2008 2・14 77

* グゥイネス・パルトロウの興味深い味な映画『抱擁』に心惹かれている。ロマンティックで優しくて切なくて懐かしい。いまどき、容易に存在しない美徳に薫染されてある。
パルトロウの映画は一癖も二癖もキツイものが多いが、この映画は優れた恋愛詩に彩られて、優美。面白い。
クリスタル・アモット役の女優が誰かに似ていて、誰と分からないのも歴史映画らしい。映画の造り方が、かつてわたしの小説のように、二つの恋、三つ四つの愛を時空を超えて奏でながら、詩的に苦渋の多層構造をもっている。そして女が、つよい。おもしろい。
2008 2・17 77

* 映画『抱擁」の後半を観る。ドライアイで出ない涙がこみ上げてくれて有り難かった。詩人アッシュとラモットの熾烈で清冽な愛。その足跡を追うグゥィネス・パルトロウたちの愛、巧緻に仕上げた映画藝術の純度の高い完成度にも感謝する。
グィネス・パルトロウもすばらしいが、ラモット夫人を演じた女優のみごとな存在感に打たれる。名が分からない。
2008 2・20 77

* 市川崑監督の『細雪』を観た。懐かしい。相当批評的に踏み込んだ理解を見せていて、原作の有名場面にあまり拘泥せず、むしろそこまで書かれていない蔭の場面を無遠慮なほど率直に再現して見せているのが優れている。岸恵子と伊丹一三との長女夫妻を大いに働かせているのが最大の利点。男どもの視線が雪子と妙子とに淫靡に働いている理解も鋭い。よくこそ表現されたと思う。松子夫人もよく堪えて協力なさったと感謝する。台風の場面が放映のためか、監督の意図でか抜いてあった気がする。いきなり板倉が死病にかかってしまう。わたしが居眠りでもしていたろうか。
2008 2・22 77

 

* 映画『蕨野行』を観つつ、「死」にじっと触れる。
2008 2・22 77

* わたしは昨日は、『ナバロンの要塞』を観た。もう五六回目になるだろうが、いつ見ても裏切られることのない緊密な出来の面白さを、グレゴリー・ペック、アンソニー・クイン、デビット・ニーヴンらが持ち味十分に創りだしてくれていて、科白のすみずみまで記憶しているほど観ていながら飽きない。佳い映画の持っている魅力は佳い文学と同じで、繰り返し接すればするほど、味わいに発見と磨きとが加わる。堅固な把握がいい脚本で提供され毅然とした表現が監督と俳優とカメラとで出来上がる。
しかし日本製の『三匹の侍』なんてものはお話にならない。なんでこんなものを造るのだろう、観るのだろうと、まず半分も行かずに逃げ出してしまう。志が低い、気が低い。低俗そのもの。
そんなとき、わたしは反射的に映画と舞台と活字との『蕨野行』を対照に思い浮かべる。下らない俗悪なものは忽ちに木っ端微塵にふきとぶ。
2008 2・24 77

* 好きなジェーンフォンダのきりっと美しい『ジュリア』を観終えた。映画としては消化不良で物足りないが、ジェーンの姿勢は、とてもよかった。
2008 2・28 77

* 休息したくて、晩には、大河ドラマの『篤姫』とやらを割り込んで観てみた。海のものとも山のものとも見えず。スチーヴン・セガールの『沈黙の戦艦』はまあまあの娯楽作。トミー・リー・ジョーンズが付き合っているので、わたしも付き合った。時間つぶしだが、のんびりしたか。
2008 3・2 78

* シェールとニコラス・ケージほかの小洒落た『月の輝く夜に』は、舞台劇でもあったろうか。上出来、文字通り軽妙のドラマ。
シェールというのが、いつ見ても不思議な女優だ。
2008 3・3 78

* 日曜は、なにもかも稀薄。東陽一監督、渡辺淳一原作の『化身』も、黒木瞳のはだかだけがきれいだった。アカデミー賞の『パットン』も、ただひたすらの「戦争屋」を書いて、あわれというしかない。
そんな中で、去年亡くなった小田実の遺言のような番組があり、録画している。静かに観たい、聴きたい。
名古屋での女子マラソンは初マラソンの新人が好タイムで優勝し、高橋尚子は惨敗した。からだのケアに不安の有りすぎるキューチャンが勝てるという実感は、最初から全くなく、索然として興味をもてなかった。今は野口みずきの時代になっている。野口のガッツに期待。
ガッツといえば、今日から大相撲の大阪場所、琴光喜を電車道で寄り切った鶴龍がみごとだった。
両横綱はさすが。
大関陣は揃いも揃ってだらしがない。ひとり千代大海が怪我の躰で奮戦奮闘、息を切らして勝ったのは誉めたいが、明日から保つのだろうか。
2008 3・9 78

* 映画『抱擁』を、今日も観ていた。よく出来ている。映画を先ず観てから原作に触れるのは、『蕨野行』もそうだったが、おそらく、その方が、映画化作をあとで観るより佳い気がする。『氷壁の女』も少し見かけた。
脇の機械で映画が観やすくなった。
なーんにもしないで、強いられないで、好きに書いて好きに観て好きに食べて暮らす日々が来ている。薔薇は薔薇であり薔薇である。
2008 3・11 78

* 好きな市川亀治郎のテレビインタビューを楽しみながら簡単な昼食、そしてデスク仕事。少しの休憩に機械の前へ。
2008 3・17 78

* 期待していた映画『ニュールンベルク裁判』を観た。スペンサー・トレイシー、リチャード・ウィドマークそれにバート・ランカスターという、わたしの最も贔屓のいい男優たちががっちり組合い、マレーネ・ディートリッヒが断然の存在感で佳い姿を見せる。大味になりがちな題材をかっちり主題を追究し造形して、あますとところなく、科白が生きた。マクシミリアン・シェルの弁護、リチャードの検事、証人として出廷のモンゴメリー・クリフト、スペンサー裁判長の場面など、また被告バートが起ち上がる場面。みなねすばらしい。
判決も出て映画も最後に、有罪被告バートの牢獄をたずねた裁判長の、静かな対決。スペンサー裁判長一語の、比類ない重さ。
心通わせていた裁判長からの別れの電話に、凝然と影と化して出ないドイツ貴族マレーネの厳しいシルエット。みな、すばらしい出来だった。
世界史を読んでいたときから、この映画をぜひ観たいと思っていたが、期待は満たされた。繰り返し観るだろう。『ベルリン最期の日』も見直したい。
2008 3・29 78

* 大江さんの『沖縄ノート』の名誉毀損裁判が、大江さんの勝訴に終わったのは、当然でもあり、いいことだった。軍の干与が強制性を帯びて悲劇を多く生んだことには「合理的」な状況証拠や証言が多年に亘り蓄積していて、特定個人への同定や推定があろうともその元にある事実は否定できず、名誉毀損とは言えないのである。
わたしも、親類筋から名誉毀損の執拗な攻撃を受けていて、この「四月」中にも本訴へ持ち込むと通達されているが、ウエブ日記に名前をあげて非難したり批評したりしてあること等が、それに当たるらしい。
しかし何にも先立ち、過去に蓄積された客観の事実には、わたしやわたしの家族が受けた苦痛を証明する「合理的」なものがたくさん在る。それを無視されては叶わない。わたしたちから仕掛けたことは何も無かった。ただ時々にその疎ましき被害に、つい怒りつい抗議したウエブ上の何度かの事例だけがある。なぜ、それが名誉毀損になるのか。

* 「ニュールンベルク裁判」のなかで弁護士が声を大にして、この被告の責任を裁くなら、同じ責任は誰にでもあったと叫んでいた。
そのような論鋒はしばしば人の肺腑をつくがごとくではあるが、わたしに言わせれば、かれは「殺した」ものと「死なせた」ものとの差に気づけないだけだと。
たしかに戦争に関わった同時代の国民には、ときには他国民にすら、それにより無辜の多くを「死なせた」自責があっておかしくない。しかし、それは自責のしからしむる原罪的な呻きである。
しかしナチは無辜を「死なせた」責任者なのでなく、明らかに「殺した」責任者達であった。そこを飛び越えた弁論も雄弁もひどくすると逸脱した詭弁にしかならない。被告ヤニングはそれが分かっていた。しかもなお、彼はガス室の事実を知らなかったといわずにおれなかった。
だが裁判長は、すべては、最初にひとりを無道に「殺した」ことから発したのだ、と突き放している。その通りなのである。
裁判長の決定的な判決には「合理的に非難されて然るべき」「最初の事実」が明瞭に見えていた。わたしは、それが「真の裁判」であると思う。
2008 3・30 78

* 十時半の予約で、先ず眼科検査。済んでから診察。検査と診察の間にながく待つのが眼科。『抱擁』を読むことになる。おっそろしくペダンティックな書き方の長編。映画の方がうんとすっきりしている。これも映画を先に観ていてよかったクチである。
2008 3・31 78

* 「TVタックル」など見聞きしていると、どういう国なのじゃと吐息ばかり。これでいいのじゃと言いたげな諸公に見えてしまうのが情けない。終日、なんとなく眠くて叶わない。
2008 3・31 78

* NHKの「ためしてガッテン」というあまり観ないで来た番組の再放送を、たまたまなにげなく観ていて、仰天した。
瞼が垂れる。
これがもろもろ健康の不具合の原因になっているという。事細かな解説と実験を観ていて、唸ってばかりいた。それどころか、すぐさま絆創膏で両瞼を上へ吊ってみた。
眼は、ぱっちり (?)。昨日から、今朝から、霞んで往生してきた眼が、霞まない。背筋が立っている。そして頸周りの凝りや肩の痛みなどが時間を追って少しずつ軽快している。細い絆創膏二本で両瞼の上を上へ吊り上げているダケである。
数え切れないほどの、まさかという症状や不具合が、顔の皮膚のたるみから起きていると云われて信じ切れなかったが、一つの実験は奏功している。外出時はさすがにムリでも、家で機械の前にいるときは、この絆創膏の瞼吊りはやめられないだろう。
目立ってと書いてダジャレではない、まず気持ちが断然いいのだから。「ためしてガッテン」した。この機械の文字が、いまもきっぱり明晰に読めるから嬉しい。
外出に邪魔にならないそれこそオシャレな瞼吊りの工夫がされれば、きっと「売れる」よ。わたしは「買う」。
2008 4・9 79

* 黒いマゴに六時に起こされ、そのまま起きた。血糖値、105。正常値。ニュースのあと、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーの気取ったアクション映画の後半を独り観ながら、発送のための追加作業をし、機械の前へ。
早起きすると一日が長くなる。疲労や睡魔が襲わない限り、いいこと。
2008 4・12 79

* 二週間かけて映画『ヒューマン・トラフィック』前後編を観た。国際的な少女達の拉致と強制売春組織のあくどさ悲惨さ、立ち向かう潜入捜査のスリルなど。
こういう通俗前後編ものでは以前に『大統領をつくる者たち』が面白かったが、これも負けず劣らず惹きつけて放さない。
2008 4・13 79

* 荷造りしながら、二つ、映画を「聴い」ていた。ひとつは『キー・ラーゴ』ハンフリー・ボガードと、ローレン・バコール、もう一人名のある懐かしい顔の女優も。もう一つはヒットしたという『日本沈没』。映画としては甚だ通俗かつ不出来極まるけれど、柴咲コウとかいう地味な演技派に興味を持った。
2008 4・14 79

* 秦建日子が脚色・脚本の「監修」とやらに任じているという『ホカベン』という連続テレビドラマが、今夜から始まっているらしい。「成り立てほかほかの女弁護士」が主人公で上戸彩が主演とか。上戸菜には明らかにオーラが看取できてわたしは好感をもっている。録画したのを明日にも観てみよう。
おやおや、もう第一回を観たという感想が出ていた。

☆ 初回に、旧傷が。 2008年04月17日00:56  珠
思わず見入っていた。
きっと、私にもこういう時があった。。
そんな想いに口の中は苦く、胸苦しい。今夜初回のドラマ「ホカベン」。
さて、さて、、という程度で見始めたが、主人公の真っ直ぐさと、理想に燃えるその若さに、初めは鼻につく大袈裟さを感じていた。でもその早い展開と、依頼人役を演じる富田靖子の抑えた感情に、気がついたら引き込まれていた。
仕事に就いた頃の自分を思い出す。
国家試験に合格し、看護婦(当時は、、)として病棟に勤務し始めてたった4日目には、既に受け持ち患者をもたせられ、右も左も、それこそナースコールもろくにとれないまま動いていた。患者さんに「痛い」「苦しい」など訴えられると、もうどうしていいかわからず、ただ楽にしてあげなくちゃ、、と、医師や先輩を必死に探してどうしたらいいか聞いていた。なかなか来ない医師を、患者さんの傍では自分も苦しくて、待てなかった。指示通りの注射をしても、効くまでかかる時間が申し訳なくて、その間がいられなくて、ほかの仕事に逃げていた。何とかしたくて、でも自分には誰かを呼ぶことしか出来なくて、苦しかった。
1、2週間たった頃だったか、準夜勤務で受け持ったお爺さんの痰を吸引したら、その後咳が止まらなくなり苦しそうになってしまった。側に付き添っていたお婆さんは、
「あなたがやったからこんなに苦しくなったのよ! もう来ないで! 誰かほかの人を呼んで!」と激しい口調で言った。
患者さんを苦しくさせてしまった、、、、このショックもさることながら、それよりも、良かれと思ってやった事を真っ向から否定されたのは、多分生まれて初めてだったと思う。
私はもう看護婦は無理なんだ、、お先真っ暗に落ち込んだ。先輩との反省会では、それでもあんたは看護婦なんだからやるしかないのよと言われたが、そう言われても無理だ、、と思った。
それから2、3日後だったか、再び準夜勤の時にナースコールで呼ばれた。病棟は48床、夕食時間はスタッフの休憩時間も重なって人手が少ない時間。たった2人で48床を観ているまさにその時で、先輩は休憩中、もう一人も手の離せない処置中だった。鳴り続けるナースコールにどうしようとオタオタしながら、とにかく病室の小さな扉から顔だけ出し、
「看護婦が今自分しかいないので、誰か他の人を呼んできますからちょっと待っていてください」と言った。するとお婆さんは私の腕を掴んで言う。
「あなた看護婦さんでしょ! 早く痰を採ってあげて! 苦しんでるじゃない! 早く!」
「でも、、、私でいいんでしょうか。。。」
「いいわよ! 早く楽にして!」
私は震える手で痰を引いた。看護婦免許はあるけれど、本当に自分が採っていいんだろうかと不安に脅えながら。。。痰を採ったら、お爺さんの呼吸は楽そうになった。お婆さんは笑顔でお爺さんに話しかけ、私には繰り返し
「ありがとうございました」と口にしながら頭を下げていた。私はほっとして、泣きだしそうだった。
否定から一転赦された事に、心から感謝した。部屋を出てトイレに行き泣いていたら、また別のナースコールが私を呼んでいた。
同じ行為でも
「私が楽にしてあげます」的な一生懸命さは、押し付けとなる。その結果、相手が望むことと違えば、×、バツ、あっち行け、だ。
「私が、、」「~してあげる」
この自分本位な傲慢さを、スパッと斬られた看護婦最初の出来事。今夜のドラマは旧傷を疼かせた。マゾ゛ではないが、こう記憶を揺さぶるには何かあるかも、と期待して。
でも、自分の真ん中が揺れてる時に観ると、ちょっと苦しいかもしれないな。

* 数十年前、医学書院の編集者だったわたしの最初の守備範囲は、看護婦、助産婦さんらの仕事であった。大勢の指導的なナースたちと付き合いがあった。そのご苦労もたくさん聞き識っている。そしていまもその頃の看護婦さん助産婦さんが何人も「湖の本」を読んでいて下さる。
2008 4・16 79

* 建日子が「脚本監修」とやら深く関わっているらしい連続ドラマ『ホカベン』の、一度目を観た。
これは、尻上がりに視聴者に訴えるのでは無かろうか。
題がよくない。わたしも妻も「弁当屋」の話だとばかり思いこんでいたら、なりたてホヤホヤの新人女弁護士の奮闘記らしい。それなら「ホヤベン」だろうに。なににしても安い題だ。
上戸彩も富田靖子も、わるくない。あの陰気な男上司は、『北条時宗』でデビューしてきた性格俳優というのだろうか、あの時から、注目していた。期待したい。
法と人間との世の中を抉って行くドラマとして、思い切り展開して欲しい。

* 法と人間とについては、わたし自身がこの二年三年さんざ悩まされ続けてきた。弁護士たちとも、実に気の張るむずかしい付き合いを重ねてきた。
弁護士も裁判官もかなりカチンコの専門家であり、依頼人はまた、なにもよく知らないがアカハダカの只の人間である。云うこと為すこと、噛み合わないことが多かった。
「人間的」という言葉はじつにアイマイモコとして両義的なしろものであるが、法律家は人間的の遙か先の方であくまでも「法律的」にういなにごとも考えて、ビクともしない。アイマイモコとした人間的な価値観の人間である依頼人は、この法的なガチンコになかなか馴染めない。なんやねそれは、ちがうのとちがいますかと、悲鳴ばかりあげるが、弁護士の方でもあまりのワカラズヤに悲鳴をあげているようで、申し訳ないのである。
双方で相手方の悲鳴の意味がなかなかのみこめないというか、折り合いがつめかない。
秦建日子が、親の苦境だかバカさ加減だかを、どうこれまで眺め、弁護士や法律をどう嘆賞や慨嘆の目と思いで見つめてきたか、どうやら『ドラゴン櫻』同様に原作マンガでもあるらしいけれど、それはそれとして、ウンウンといえる、うなづける、苦くてカラいところをいい味付けしたドラマに、料理して食いつかせて欲しい。
2008 4・17 79

☆ NHKのスペシャルドラマを書きました! 秦建日子
八重山毎日新聞に記事、出ましたね☆ 地球温暖化防止訴えるNHKのスペシャルドラマ『僕の島/彼女のサンゴ』、今、石垣島でロケの真っ最中です。
記事、転載させていただきます。
☆  ☆  ☆
「僕の島/彼女のサンゴ」石垣島ロケ始まる。
沖縄のサンゴ礁を舞台にしたドラマ「僕の島/彼女のサンゴ」(秦建日子作)の撮影が14日から石垣島で行われており、出演者が17日、「石垣島のきれいですてきな面が残る作品になると思う。楽しみにしてください」(美波さん)などとPRした。
ドラマは、地球温暖化防止のメッセージを伝える特別編成番組のプロローグとして制作されるもので、若い世代に環境問題に関心をもってもらおうという企画。若者の純愛を心温まる作品として描く。オール石垣島ロケ。
出演者は美波さん、田中圭さん、藤岡弘さん、麻生祐未さん、星井七瀬さん、岸部一徳さんら。17日のロケは川平の民宿「前高屋」で行われ、ドライブに行くシーンが撮影された。
ヒロイン役の美波さんは「初めて石垣島を訪れたが、海がきれいで感動した。撮影3日目だが、東京に帰りづらくなった」、藤岡さんも「自然のぬくもりや人の優しさがあり、感動した。都会モードから自然モードになってしまった」とすっかり気に入った様子だった。
撮影は川平を中心に30日まで行われる。放送はNHK総合テレビで6月6日午後10時から50分。
☆  ☆  ☆
ぼくにとっては、初のNHKドラマです。
オールロケで、いったいどんな映像が今撮られているのかな。。。とてもとても楽しみです。
石垣島は、今まで何度も遊びに行きました。ダイビングのライセンスもここで取りました。初のファンダイブでは、マンタに歓迎してもらいました。
大好きな島です。
でも、地球温暖化の影響は、石垣島も直撃しています。
珊瑚は次々と白化し、死滅していっています。
NHKは、このドラマを皮切りに、大々的に延べ3日にわたる「地球温暖化特番」を組むようです。ぼくも、その特番は心して見ようと思っています。
今はまだ、人は、地球しか住むところはないのだから。
ドラマのオンエアは、NHK総合で6月6日です。
そして、6月8日まで特番は続きます。
どうか、たくさんの方に観ていただけますように。。。
2008 4・18 79

* 連続ドラマ『ホカベン』第一回を念のためもう一度観てみた。この出だしでいい思った。犀利な追究・追尋を期待しよう。
2008 4・18 79

* 「笠」さんの「アイヌの舟」と題した動画が、すてき。心より感謝。

* それとくらべると、凄まじいばかりのアメリカ映画『マーシャル・ロー』、テロと、軍とCIAと FBIとの文字通り死闘を観ていた。デンゼル・ワシントン、ブルース・ウィリス、そして好きなアネット・ベニング。迫力とスリルに溢れる虚しい死闘。このあとで、「笠」さん作「アイヌの舟」のゆっくり、ゆっくり「二人」の影に漕がれて行く光景は、涙のこぼれるほど。
2008 4・19 79

* 建日子等の「ホカベン」二話を観た。富田靖子も上戸彩も、上司の弁護士等もあれでいいが、脚本は上出来ではない。
視聴者にはもう知れてある場面をしつこくフラッシュバックしたり、情緒的に佇んだり、子どもの手を引いてしんねり歩いたり、ドアをあけて上司のもとまでの歩行をそのまま撮ったり、裁判場面での裁判官入場や人定質問のような、他のドラマでいやほど見知っている手続きを追ったり、テンポのゆるさ、目に余るものがあった。脚本もそうだが、演出のセンスがわるい。もっと「劇」そのもので進めて呉れよと、何度もじれったかった。
一時間のうち少なくも十分分は引き締め、テンポを動的にし観客を前のめりに惹きつけられるはず。
せっかく上戸彩の勉強で、「弁護士」でなく「証人として」という戦法も、ほかの時間のムダに食われて、適切に観客を説得しきれぬママ、ヘッという納得ともいえない納得を強いられることになったが、アレこそが、此の二話のミソだったろうに。
それでも、ニッチもサッチも行かなくなったところから、法廷が開始し、「楽勝」した意外性(とも謂えないが)の面白さは、買う。「楽勝」なりのねちこいうま味を表現して欲しかったが、結果だけへただ転げ込んだ感じであった。
性根はかなり真面目なドラマなので、真面目ブリに陰気に沈んで行かず、生き馬の目を抜くような現代の鼓動さながらに、説得力在るいいい画面をテキパキ畳み込んで行く「テンポの作劇」を期待したい。画面の運びをしんきくさくしてはいけない。
ドメスティック・バイオレンスや、幼児への男親の性的虐待のような大きな問題の扱い方としては、参考書のウワッツラを撫でたような型どおりのお料理で、深刻な問題の本質をえぐるすさまじい気力や勉強が、脚本段階で足りなさすぎる。
視聴者が素人なりに思いつく程度の浅い彫り込みでは、熱気は盛り上がってこないぞと心配する。
2008 4・23 79

* ニコラス・ケージとティナ・レオーネの映画『神様のくれた時間』を心持ちよく観た。

* あるがまま、今日は気を休めていた。いつか、そういう時がきてそういう風に過ごしたいと願っていた時の迎え送り方。
すこしずつ実現している。そうも謂える。
2008 4・24 79

* 黒澤と三船との映画『野良犬』は観ごたえした。若き三船敏郎代表作の一つとして、彼の演じる野良犬刑事の汗みどろの奮闘は、わたしなど、用心棒や椿三十郎よりも好意を持つ。
しかし第四回になるか、テレビドラマの『ホカベン』は、期待を裏切り続けている。欠点は露骨だ。
「ドラマ」を撮すべきなのに、主役の上戸彩の、「顔や歩きや感傷」をばかり撮って、ムダな時間をつかいまくり、間延びしたワンパタン感情過多で、「弱者」「正義」などの空疎な言葉ばかりが、シャボン玉のように、見た目も騒がしく浮遊している。むしろあの、陰の濃い上司役北村一輝の杉崎弁護士に、早い出番から力ずく表へ出て闘わすべきで、新米上戸は、キリキリ舞いして彼から学べばよろしいか。
黒澤映画の新米三船刑事は、まんまと懐から盗まれたコルト拳銃が、つぎつぎ犯す殺人傷害事件にうちのめされながら、奪還と逮捕のため喘ぎに喘ぐ。それが、画面の効果とともにちゃんとした「ドラマ」を成して行く。「人間」とも「社会」とも「犯罪の闇」とも総身を擦り合い、満身創痍勝ち取るべきを勝ち取っていた。
三船敏郎と志村喬と淡路恵子と。時代の隘路が蜘蛛の巣をかけたように荒くれて、行く手を阻む。新米はのたうちまわる。追いつめられた犯人木村功にも、追いつめた刑事三船にも、人間の運命はホンの裏表の差しかないなかで、懸命のドラマが、汗みずく実現していた。さすが。
「ホカベン」の今晩など、こしゃくな詐欺ネエちゃんも、バカな限りの甘ちゃん男も、闇金融連中の凄みの無さも、変な夢も、安っぽい弁護士事務所群像も、駄作の条件を全部揃えて煮えないまま、紙芝居同然にあっけなくおしまいになる。このドラマの「脚本監修者」が独りで創っていた『最後の弁護人』など、もっとしゃっきりして描くべきはちゃんと描いていた。
「ホカベン」は、もう見る気がしない。
関係者は、せっかくの『野良犬』など、勉強し直したらどうか。海外ドラマなのか、『ダメージ』とかいうやはり新米弁護士の奮闘ドラマが、「骨太ですよ」と教えてくれた読者がいる。
「脚本監修」などと、意味不明の看板をかけている人も、いっそそんな道場破りの難敵に安い看板を持って行ってもらった方が、いいのではないか。
「脚本の監修」って、何なの。監修されている脚本家達はその蔭に隠れて責任をとらない、とれない「半端モノ」なのか。半端モノの作品をテレビ局はみせているのか。
それともつまり、監修という「キャプテン」がいて、「何人かで合作」しているという体制なのか。そういう意味か。それなら「ホカベン」の低調は、キャプテンである「監修者」の責任だ。ハダカの王様になっちゃいけない。
監修者その人の「全力の実力」でドラマを見せてもらいたい。それが作者たる誠意と姿勢というものだろう。
2008 5・7 80

* 黒澤明の特集を丹念に保存している。
敗戦の夏に出来、ばかげた横やりや意地悪に妨げられて七年遅れて公開された映画『虎の尾を踏む男たち』は、言わずと知れた、勧進帳、安宅の関の映画化であるが、能や歌舞伎では想像もつかないエノケンが登場し活躍するところが、脚色の絶妙。一代の喜劇俳優の天性が発露し、魅力十二分。縦から見ても横から見ても通俗時代劇の親玉の大河内傳次郎を弁慶に起用して、オール読み物役者を純文学の俳優に仕立て直しているのも、凄い。藤田進の不器用千万がそのまま温情の腹藝になる富樫左衛門も面白い。
そしてまたしても、ほろりとした。それにしても、検閲はなにを目してイチャモンをつけ黒澤を激怒させたものか、その推理の方がよっぽどむずかしい。
2008 5・10 80

* 黒澤明の昭和二十二年頃、わたしの小学校六年生頃の映画、原節子の『わが青春に悔いなし』を、うち震えそうな感動で観た。戦前京都大学の滝川教授事件に取材した久板栄二郎の脚本で、主人公は、まさしく戦争の「時代」だ。
上等の脚本とは思わないのだが、原節子の変貌・変容をつらぬく悔いなき青春の、戦い抜く生気・生彩。それを引き出した藤田進演じる非合法の戦士。それを方向付けたのは弾劾されて京大を退いた自由主義の、父・元教授だった、「自由のためには犠牲に堪え責任を持て」と彼は娘に訓えていた。対照的に、時流に迎合していった河野秋武演じる検事の卑屈で妥協的な人格。
滝川事件をはじめ、昭和のはじめ大学の自治と自由ははげしく弾圧され、気骨ある教授の多くが放校され隠忍した。そのことに胸も震えて怒りながら、わたしは、日本史を読んできた。滝川事件のことははやくに学んでいた。

* 敗戦、教壇への復帰。闘って死んでいった自由の闘士。あとをついで、第二第三第四の後輩は、ほんとうに、現れたか。
現れたともいえるし、大概は映画で河野の演じたような、如才ない世渡り男たちばかりが世間にはびこっての「今日」だ、とも謂える。情けない。
政見の違いはいい、思想の違いもいい、むろんマイホーム大事もいい、豊かな生活を望むのも好い。が、我も人もの「基本的人権」を守り抜く気概、卑屈にでなく幸福に生きられる自由への譲らぬ気概、それを喪って、ながいものに巻かれながら自分だけは少しでもいい目を見ようなどという者ばかりがはびこっては叶わない。
いまは農民の日々に根を下ろした原節子、かつては大学教授の教養豊かな娘の原節子、のちには非合法の罪に自身も下獄し夫は殺された原節子は、ヤニさがって訪れた夫の友人河野の墓参を凛とはねつける。はねつけるだけの人生が、リアルにもイデアールにも映画に表現されていて、映画は渾身の力で河野の演じている男どもへの、侮蔑と警戒とを表現していた。原節子の美しい「顔」が示した、凄いほどの、怒りと非難・軽蔑。
この怒りと非難・軽蔑にしか値しないような今日、政治の現実、企業社会大半の現実等を思わざるを得ない悔しさが、わたしをうち震えさせたのである、映画の間も、済んでからも。

* 冷静にわたしは思う、こう怒り続けるわたしは、たぶん病気なんだろう、正常ではないんだろうと。ハハハ
2008 5・10 80

* 五回めの「ホカベン」を、それでも観た。上戸彩「ホカベン」さんの気持ちは分かる。世ずれた先輩弁護士の云うことも、だいたい聴かなくても分かっている。どっちがどうと判定する立場にはないが、このドラマが、世の弁護士さん達の「フツー」の在りようものの言いようと、よっぽど「フツーでない」価値観とを、啓蒙的に宣伝している気だとすれば、それなりの効果はあげそうな気がすると、そもそもの最初から感じていた。
お世辞にも上手なドラマではないが、積み重ねれば、いま言っただけのことは果たしそうである。作劇としては賛成できないこれは「説明的な定義好き」ドラマであり、「それが弁護士の正義だ」「それは人間の正義とはかけ離れた法的みかけの正義だ」といった「言葉の上の対立」を役者を駒に働かして、単に「説明」している。したがって、極めてリクツだけは分かりやすい、何が言いたいのか聞き漏らすことは、ない。
しかしそれだけでは「ドラマ」ではない。「演劇」ではない。せいぜい紙芝居だ。上戸ホカベンさんには好感が持てるけれども、この人が弁護士試験に受かり弁護士研修を経てきたその「試験」「研修」の味なさを「想像」させて余りある。
とはいえ、最初にすすどい対立を、しつこく繰り返すことで視聴者に何か「弁護士」なるものに関して認識や判断や意見を持たせうるならば、あやふやな裁判員制度を強行したりするよりはるかに価値あるプロパガンダかも知れぬではないか。
仕方がない。せめてわたしは、その点で大いに上戸さんに頑張ってもらいたいです。
2008 5・14 80

* キャロル・リード監督のミュージカル『オリバー』を好感をもって観た。惨劇を一つ挟むのがつらいが、運びも必ずしも緊密ではないと感じたが、ハートは温かかった。
せめてはそういうものが、ちいさな息をつかせる。
2008 5・17 80

* 「ホカベン」前回の続きを観て、今日の作劇と展開と、演技者たちにほぼ満足し、終えて、小さな拍手を惜しまなかった。
堂本灯という新米弁護士の「筋」に関係者の全員がかきまわされ踊らされたのだが、筋はきちっと通っていて、たしかにこの弁護士は誰を救ったわけでもないが、いちばん守らねばならないものを「救った」ようだ。ドラマを観ている大勢はほぼ納得しただろう、工藤というやり手のベテラン女性弁護士は、終始、他の誰をどう不正にねじ曲げようともクライアントの利益を守るのが弁護士の正義だと言い切っていたけれど、それへ横やりを入れて貫いた新米の「筋」を、法律事務所の「解雇」という処罰からは、内心の理由はどうあれ、工藤は守った。解雇の提案にはっきり反対したのだ。
さあ、現実の弁護士世間では、このドラマの推移と結着は、どう受け取られるのだろうと、その方が、興味深い。あさはかな噴飯モノであるのか、黙って頷かれるのか。分からないが、より前者に傾いて嗤われたのではないか知らんと、案じる。

* このドラマは、ちっとも作劇として優れた戦慄を与えないと、わたしは不満であった。しかしながら「法」と「弁護士」という一般にはあまりに疎い専門社会の少なくも「問題」を抉って積み上げることの「効果」はしっかり持つだろうと、積み重ねに、期待してきた。期待が実ってきた。
もともと上戸彩のホカベン、北村一輝が演じる幾クセもある上司、戸田菜穂の演じる助手の、三人のアンサンブルは好もしかったが、その効果も上がってきた。わたしは、工藤という名の女弁護士がとかく暴走する「堂本センセイ」の解雇に冷静に反対した理由がどうドラマに出てくるか、それも期待している。

* すこし別の「法」適用に対する「法的」感想を書いてみようとしたが、今はやめておく。
2008 5・21 80

* 今日も仕事はたくさん、した。晩は、黒澤明の『我が青春に悔いなし』を観ながら、いやほとんど聴きながら、たくさん必要なスキャンを進めた。
原節子の映画に、おしまいは、泣きっぱなしだった。
感動すれば、真実こみあげるものがあれば、ましてすばらしいそれだけの価値が有れば、へたな小理屈はいわず、手放しでもわたしは泣くのである。
藤田進の京大学生が、時代の不条理に敢然と立ち、地下運動のなかででも自由と人権と平和のために闘い、ついに官憲に、官憲に阿るものらに、殺されてしまう。彼の闘いが客観的にも主観的にもどれほどのものか具体的に映画的に語られていないのは惜しいけれども、これもまた心からの愛と尊敬とから妻になった原節子には夫のすばらしさが我が為にも日本の為にも、ともあれ理解できていた。自身も獄中苦にまみれながらも、出獄後は、夫の暗殺されてしまった後は、スパイの家と迫害されている夫の老親の盾ともなって、田畑の仕事に堪えに耐え抜いて、放心の老人達をも起ち上がらせる。
ここには教条的に強いているなんのプロパガンダもない、ただひたすら悔いなき青春の愛に殉じてしかも倒れなかった若い女の敢闘が描かれているだけ。それだけ。それだけが美しい。女の父も、つよく生きていた。だがそうでない連中もいた。彼らの後輩達がどうであったか、わたしは知らない。
わたし自身は、けっしてそういう敢闘の学生時代を過ごした者ではない。それを謂うなら、高校の教室から敢然と京大の火炎瓶闘争に身を投じ、官憲に絡め取られ裁判もされたわたしの実兄・北澤恒彦は、真実つよい人であった。実践した人であった。京都のべ平蓮をりっぱに支えた一人であった。
黒澤の映画から、自然と、いまは亡き兄恒彦を、惜しみてあまりあるものに懐かしむ感傷がわたしにはある。
わたしは、世に阿らず生きた人たちを、心のうちにいつも称えている。そう成りたくないと老境を励ましている、自分を。
この映画は、わたし自身に多くを思わせ泣かせた。
2008 5・25 80

 

* やはり黒澤明の、『素晴らしき日曜日』を観た。昭和二十二年の作、中北千枝子主演。演技賞ものだ。
わたしはこの頃小学校六年生で、まだ「映画」という表現を実体験していない。映画という言葉は知っていたかどうかも覚束ない。しかし新潮社の世界文学全集で『レ・ミゼラブル』や『死の勝利』だのという小説の題を観ていた、入院していたお医者さんの二階の座敷の本棚で。あの装幀の、漱石全集も観ていた。
この映画のこういう無垢の純情をもあの時代は所有していた、今にして切実にそれを誇らしく思う。
2008 5・26 80

* ゆうべ『野良犬』を観ていたからか、黒澤監督とえらく仲良く歓談している夢を観ていた。起きて、血糖値は、正常。
しかし昨日は昼に夜に二度三度、梗塞気味、心臓の痛むときがあった。
2008 5・28 80

* 満を持する思いで、今度は「おれが書くよ」とかねて自負の弁をもれ聞いていた「ホカベン」を、妻と見た。
いきなり裁判場面から入る、それはよかった。若者が強姦のドラマ。信金の窓口の女の子が、自分の原付バイクか何かで家に帰ろうとすると、パンクしていたという。そこへ若い男が親切顔に現れて、とどのつまりニャンニャンとすぐ目の前のカラオケに入って、その個室で、男は女をレイプし傷つけ、訴えられている。
上戸さん、じゃないホカベンの堂本灯女性弁護士は、こともあろうにこの犯人の弁護をあてがわれていた。犯人の親が政治家かなにか、法律事務所としては是が非でも示談か執行猶予へ持ち込まねばならない。
さてわたしは、ドラマの開始早々「パンク」と聞いて、ウンザリ。忽ちドラマの粗筋が見えてしまい、索然とした。
走っている車のパンクなら別だが、駐車中のパンクには「誰か」の悪意・故意がありがちで、まさかレイプ男の仕業ではチャチが過ぎる、かならず「共犯」かそれに近い「別人」が現れるだろうと待つ間もなく、「コーヘイ」という名の、作者の父親であるこのわたしと同じ名のへなへなしたのが現れた。筋が進まなくても、犯行の手口は、もはや見え見え。反省しようが泣こうが誓約書を書こうが、ドラマの筋立てからして「死刑になりゃいいんだ」と杉崎弁護士が吐き捨てる前から、犯人はまさにえげつない犯人そのもので、弁護の余地がない。
さあ、どうするか。それが「筋」の眼目だが、はなから共犯か従犯のある犯行なのは作劇的に見えている。どうしらじらしく勝とうとしても、法廷では勝てないだろう、というより、この堂本連中は「勝たない」主義で、所属事務所にあえて苦杯をなめさせる気だと「作のつくり」からも、わたしには、分かり切っていた。
もう何回か前から、この連続ドラマの終局では、北村一輝の杉崎、上戸彩の堂本灯そして事務方を演じている戸田菜穂の三人が、バカでかい法律事務所から「独立」するんじゃないのかと冗談半ばに推量してきた。それならいっそ「最後の弁護人」の阿部寛を特別出演させ独立に協働させたらいいよ、アハハとも。
それはそれとして、上戸彩も、北村一輝も戸田菜穂も、なかなかいいんです。
ただ、今回、作が安直に過ぎた。前回・前々回よりガッタリと落ちたのは、大きく期待はずれ、残念であった。
何がいけないか。意外性を、作者の安い手立てで見え見えにした。それだけでなく、人間の把握があまりに薄い。オリジナルな人間表現でなく、ぜんぶ見たことのあるような将棋の駒。ふくらんでない。
犯人の男が意外な人間の苦渋をドラマチックに秘めていて、被害者の女にも信じられないほどドラマチックな人間劇が隠されていて、想像もつかなかった展開から、驚きの判決が出る、というほどの苦心惨憺が作劇に出ていない。どんなもんだい、チョイチョイと手品っぽくお手柄にした気なら、職人藝としても安すぎる。パンク、共犯、カラオケ個室、みんなあまりに「お手近」です。人間の問題が、シンシンと胸に残ってドラマのあとにも視聴者に生きの命の余韻がのこるというドラマを書いてもらいたい。

* 山田太一の、なんとかかんとか「テキーラ」とかいう二時間ドラマの手堅いおはなしも、あまり手堅くておかしくもなかったけれど、今夜の「ホカベン」には、若い(イヤ、もう、ちっとも若くない)作家の体当たりの冒険も熱情も感じられなかった、小手先でやっつけていたのは、いただけない。ナメちゃいけない。
2008 5・28 80

* 一日をほとんど空費した。浪費した。

* わずかに、新藤兼人脚本、岡本喜八監督の、あの沖縄の無惨な戦争を描いた映画を観たこと、胸をかきむしられたこと、辛く苦しく、しかも「今・此処」のように思われたこと。この凄惨な現実(過去ではない、断じて。)の前で、無意味な争いに心身を無意味に揺すられて在る愚かしさが、虚しく空しい。

* それだけ。目に触れて胸のあたたまる何一つ無い一日だった。
2008 5・30 80

* 昨日であったか、今日であったか、ボンヤリしてしまったが、染五郎と木村佳乃の映画『蝉しぐれ』を観て、まえの『武士の一分』よりはいいが、あまりに感傷的・抒情的な写真の、ただしずしずと流れ去るだけのような演出に、ドラマの強さが伝わらなかった。このシリーズ、いつも殺陣には工夫がある。すばらしくいいものもあった。染五郎のは、まずまず。しかし彼の突出したよさが引き出せていない、てぬるい映画の一例に見えた。ザンネン。

* 今日も眼が霞みきっている。もうやすもうと思う。六月が始まったが、どんな一月が始まったのか、そんなことは忘れていよう。
2008 6・1 81

* 今夜の「ホカベン」は杉崎・堂本チームがかなり懸命に動いて、解決への手際がよかったとは言えないまでも、大まじめに医療過誤という厄介なケースに挑んだことは、ほめられる。上戸彩・北村一輝・戸田菜穂のトリオが初めから好き、だんだん好きの度が強まっている。逃げていないから、愚直だがすじに嵌っているから、ながいものに巻かれてよしとはしていないから。
もう三回ほどで終わるシリーズと漏れ聞いているが、このドタバタやヘラヘラに逃げ込まない、おおまじめなドラマがもっと長くつづけばいいのにと、わたし一人は少なくも思っている。
2008 6・4 81

* 今夜十時のNHKが、秦建日子脚本の、なになに『僕の島、彼女のサンゴ』という環境問題キャンペーンの一翼趣旨のようなドラマを放映すると。「脚本家」はなかなか名前すら取り上げてもらえないらしい。ちょっと応援しておく。河出文庫の『アンフェアな月』は凄いように売れているらしい。売れているときに売れておくのがいい。いい次作、新作を。
2008 6・6 81

* 「未来を救え」というキャンペーン三日間の幕開きドラマ『僕の島、彼女のサンゴ』を、秦建日子が書いて、放映された。いま見終えた。
沖縄の海の、かなしくも白化し絶滅した珊瑚礁を背景に、難しい病気を背負った東京の少女と沖縄の青年との好いドラマが、心優しく、厳しい現実に直面しながら、ひるまずに描き出されて、こころよい出来であった。建日子ならではのまっすぐな気持ちが表れていて、欲をいえばもう少しつっこんで欲しいエコの問題は幾らもあるけれど、ま、キャンペーンの出だしを美しく飾ったと思う。
作者としては、亡き姪・やす香を沖縄の海もぐりに連れて行ってくれたのでもあろうと、それに感謝している、妻もわたしも。

黄の花にサボテンの露の匂ふよと在りしやす香の声きく今朝ぞ  爺

* 病魔に奪われたとき、孫★★やす香は二十歳成人の直前であった。
2008 6・6 81

* バレーボール日本男子がアルゼンチンに競り勝って北京オリンピック出場を十六年ぶりに決めたのは、感動ものの大熱戦だったけれど、そのあとへ続いた三谷幸喜作の題もよく覚えない『有頂天ホテル』だか三時間半のくだらなさには、呆れた。
売れっ子が図に乗るのは構わない、が、そのかわり納得のいく藝を見せよ、そうする義務のようなモノがあるはずだと云いたい。
かつて検閲の珍妙を徹底的に捉えた舞台はすばらしかった。鈴木京香の新人女作者を悲惨な目に遭わせた『ラジオの時間』だったかも、すばらしかった。感動と呼んでいい「珍な笑い」が涙すら誘ったが、『有頂天ホテル』だか何かの薄汚いほど間抜けてノンセンスな作劇の低調さは、無意味にメイワクだと吐き捨てたい。好きな松たか子や、役所広司や佐藤浩市や西田敏行や、原田美枝子や戸田恵子や、さらにはYOUの歌に惹かれてムダな時間つぶしをしてしまったけれど、あくびを何度もかみ殺していた。見どころのない藝のないあざとい駄作であった。情けない。
2008 6・7 81

 

* 黒澤明監督の『酔ひどれ天使』を、感動と称賛の思いでしみじみと観た。三船敏郎と志村喬。中北千枝子、久我美子、千石規子、飯田蝶子。役者も役者だが、主役は、徹底した「どぶ池」。劇的な展開をあたうかぎり必然に運んで、醜悪な世界であるのに写真は美しく、たしかに此処には天使が臨在していた。昨日の思い上がって愚劣な三谷幸喜に煎じて飲ませたいほど力作であった。笠置しづ子のジャングル・ヴギ(作詞・黒澤明)も、胸がキュンとするほど懐かしかった。
表現とは、斯くありたい。
2008 6・8 81

 

* 連続弁護士ドラマの「ホカベン」は、今夜分と次の終回とを、秦建日子脚本でやるという。
今夜のドラマは、上出来。「ぬきさしならない情況」づくりに映画も推理小説も自らうまく飛び込めたときに、成功の道がほの見える。今日の「ホカベン」は劇的に展開し、どうなるか先が読めないまま、ドキドキする事件になった。
脚本の成功であり、此処まで来たら写実ではない、意想外の展開がリアリティーを持つかどうかだ。うまくいって欲しい、次週が待ち遠しいと、親バカはよろこんでしまう。少し恥ずかしいが。
この前、あんまりチャチに恥ずかしいモノを見せられた。今度はみちがえる、は失礼か、いい出来だ。よかった。少し興奮している。
2008 6・11 81

* 夕食後、ヘンリー・フォンダ、ロバート・ショウらの『バルジ大作戦』を観た。むかし一度観て、また観たいなと久しく思っていた。これは『パットン戦車隊』の殺伐とした戦争好き映画に較べて、格別に追究鋭く展開の面白さに必然味がある。この手の戦争映画では『ナバロンの要塞』などと同じに、繰り返し観ておもしろい優作の一つ、とても中断しては起てなかった。
2008 6・12 81

* 早起きしたのをしおに、とても気になっていた建日子脚本の「ホカベン」第九回めをもう一度見てみた。はなしを此処に繰り返すのは避けるが、法廷技術に長けた(わたしはそれを「優秀な」とは言いたくないが、)気負った若い弁護士が、強姦犯を二度まで執行猶予にし、犯人は三度目の犯行を犯してついに入獄するが、被害者の娘は自殺する。弁護士ははじめて深く自身を責めつづけている、それがこの連続ドラマの主人公、上戸彩演じる「ホカベン=新米弁護士」の上司、杉崎弁護士(北村一輝)。
その杉崎が、強姦被害自殺者の母から訴えられることになった。敏腕のゆえに強姦魔を執行猶予にし、そのために三度の再犯をさせ被害者を死なせたという告訴である。人権派の弁護士がこれを敢えて推進し、しかしそれはいわゆる「弁護士」という職業のまさに首を絞めてしまう業界の大事である。
しかも杉崎弁護士はむしろすすんで、この己への告発を自分で仕掛けた気味がある。彼はその趣旨をハッキリ、ホカベンに向かって語り、それは実に用意ならぬ大きな問題を含んでいる。彼の言い切るようには、たとえ彼が有罪になったとて、怠慢警察がなくなりダメ政治家がなくなりイジメ無視の教師や校長が裁かれる、とは思いにくいけれども、杉崎が提示している世の権威の名における怠慢や間違いや犯罪に対する厳しい糾弾の意味は小さくない。大きい。じつに腹が立つほど大きいのである。
しかも、ドラマはそこで急変して、次回を大いに期待させている。
秦建日子がそこへ「脚本」という手段で切り口をつけた意義を、わたしは一私人としてハッキリ認める。高く買う。甘いけれども、ただのリクツとしてでなく、ドラマのかたちでこれを突きつけ得たのは、創作者の立派な手柄である。
この、先の見えないドラマの、そして連続ドラマの収束が、どうなるか。最終回は、コクーンの勘三郎と日が重なるが、帰り時間は十分間に合う、楽しみに待ちたい。
2008 6・13 81

* はやく起きて遅くまで、仕事を前へ進めた。世界中でたいへんなことが起きている。日本でもひどい地震があり、ひどい殺人があり、ひどい政治がある。梅原猛さんが新聞に書いておられた、後期高齢者どころか、あなたの年では末期高齢者ですと役人に笑われたと。ひどい。
こんや初めてキムタクが総理を演じるドラマ「チェンジ」を一部分観た。お人形総理が自分の思いで善政へと動き出すという、そんなアメリカの映画もかつて一二観たことがある。
北朝鮮との拉致問題交渉は、自賛の気味らしいが、ちっともホメられない。せめて三人でも五人でも確実な名前の拉致被害者を引きもいで帰ってこなくてはハナシにならない。本音はアメリカにも小突かれて「制裁をゆるめる口実」だけをとりに動いたか。
総選挙を求める。すべては、それだ。
2008 6・16 81

☆  ありがとう存じます。   紀
メッセージありがとうございました。今朝、通勤途中で携帯から拝読させて頂きました。
生きているだから逃げては卑怯とぞ幸福を追わぬも卑怯のひとつ
秦様からのメッセージに胸が熱くなり、込み上げ、電車の車内にもかかわらず、涙が溢れて参りました。
私は、おかげさまでつつがなく暮らしております。私の周りの友人、知人、そして何より両親のお陰です。本当に、「おかげさま」です。元気にやっておりますので他事ながらご休心下さい。
6月1日より、**県内の医療法人にて無事勤務しております。そして今は、両親の元で暮らさせてもらっております。今回のことで、両親には心配を掛けました。
これから、精一杯の親孝行ができたらと、思っております。
私は、ソフトボールを幼い頃から続けております。
高校時代には、全国大会にも出場いたしました。
東京都の選抜チームの代表選手にも選ばれ、 オーストラリアに東京代表として遠征もしました。
ちょっと、自慢話になってしまいましたね。ソフトボールが大好きです!! 元気満々に白いボールを追いかけています。
今月から、なんとか就職することもでき、やっと、社会復帰いたしました。今月の20日が、社会復帰して初のお給料日です。初のお給料は、みんなにお礼したいなぁ~と、早速ですが、使い道を決めています。
秦様からの前回のメッセージでも、私の新しい幸せを祈って下さってること、とてもとても、嬉しかったです。
ですから実は、秦様にも、そのころに近況をご報告させて頂こうと、ずっと思っておりました。秦様から先にメッセージを頂戴し、大変恐縮しております。
本当に本当に嬉しかったです。
ありがとう存じます。
今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。では、ご無沙汰をお詫びするとともに、秦様のご健康をお祈り致します。

* 息子のドラマのフアンだった人だが。わたしの誕生日まで綺麗なローズの花籠で祝って頂いた頃は、幸せになって欲しいなと想う若奥さんであった。人知れぬ勇断があったものと思う。元気に、ソフトボールをまた始めたと聞いて、ソフトボールはわたしの唯一楽しんだ球技であり、嬉しくなり、今朝早く励ましのメッセージを送った。
うろうろとためらっていないで、新しい幸福へ飛翔してください。

* 週刊新潮は、「記事にするのは確実」とわたしに電話で告げて、再三会いたいと言ってきている。わたしは、あやふやな口頭での聴き取りのまえに、作家であるわたしの「書いた」もの、「書いて既にウエブや本として公表してある、小説や日記など」を、きちんと読んでくれれば、「それでいい」と思っている。
週刊誌から突然電話が来た此の十三日に、すぐ対応を問い合わせた法律事務所は、今日十八日初めてメールの返事をくれていて、渋谷から帰った晩に、読んだ。「取材には応じないのがいい」とある。だが、代理人としてどう対応するかは、思案中なのか、なにもメールには書かれていない。おまかせくださいというメッゼージだと読んだが。
週刊誌記者が、朝日子や夫の大学教授に会って取材しているのかどうか、全く知らない。知りたいとも思わない。

* 充実したドラマ作品に出会い、とても気持ちが励まされている。
2008 6・18 81

* 映像の『マーシャル・ロー』そして『ディープ・ブルー』をわきで流したまま、仕事していた。少し眼が霞んでいる。もう今日はやすもう。
2008 6・20 81

* 今日も仕事をたくさんした。眼はかすみっぱなし。裸眼でいるのが何となく、ラク。

* 息子のオリジナルである「ホカベン」最終の二話をずっと聴いて作業していたりもした。こう繰り返してみても、良く書けていたし大事なところへまっすぐ切り込んでくれたのが嬉しかった。ふつうは科白で動かされることは無いのだが、何度か、科白に動かされて目頭を濡らしていた。
八月には「PAIN」をまた磨いて舞台に載せるらしい。わたしはこの舞台を建日子劇作・演出の大事な一つと思ってきた。しかし「磨けよ」とも。磨けば、珠だ。「月の子供」もまだ磨き甲斐がある。
初めの頃は観てくれ観にこいと両親に喧しかったのに、このごろは、お客だけで溢れるらしく、建日子の芝居にも機会が少なくなった。むかしは、東工大の学生君達に券をいっぱいあげたり、友人知人に頼んで観に行ってもらったり、むろん券はみな買い上げていた。そんな時代もあったのが、もうだいぶ過去のこと。朝日子にもそうだし建日子にもそうだが、人生の先はまだおまえたちには永い。心身の健康を、そして怪我と事故とを本気で恐れて巻き込まれないように。この時代、どこへ転げ落ちているのか、得体知れない。
2008 6・24 81

* 六月二七日仮処分審尋の報告書が届いた。法廷のことは書くと叱られるからあまり謂えないが、『かくのごとき、死』に問題が絞られてきていて、書かれていることの「真か偽か」など問題にしていないと★★★らは主張し、『かくのごとき、死』により★★★夫妻の社会的威厳というか尊厳というか価値というか、が「損なわれた」のを問題にするのだという。
あわてないで、この主張をジックリ吟味してみようではないか。もし「偽」なることが書かれているので社会的地位の名誉を損なわれたと言うなら、書かれていることの真偽、この場合「偽」を追究すればいいではないか。
「真偽は問わない」「問題ではない」とは、『かくのごとき、死』の書いていることはすべてが「真」「本当」だと認めているのである。そうでなければ「真偽」を争えば自ずと先の主張に繋がるではないか。
それが出来ないと言うことは、「本当のことを言われたから」傷ついたということになり、これは「名誉毀損」ではない、自分たちが「恥を掻いた」だけの話である。
「木洩れ日」日記のようなひどい捏造と虚偽によって恥を掻かされたなら、私のような怒って自身の力で証明すればいい。『かくのごとき、死』でそれは★★★らには出来ないだろう、出来るならこの審尋に一年もかかるワケがない。べんべんと「用意」が出来ないと延ばし延ばし、肝腎のモノは何一つ的確に提出できないまま「本訴」へ持ち込んだ。民事の提訴は誰にもゆるされている。しかもその訴状の謂うところがよく裁判所にも理解できなかったらしく、受理に五週間もかかった。よくよく裁判官もこんな長丁場に呆れ、本当なら仮処分と本訴とは別建てであるのが普通だが、一緒の法廷で同時進行することにきまったらしい。有り難いことだ。

* 「法を以て理を破るも、理を以て法を破らざれ」と初めて読んだとき、仰天した。そう書いたのは昨日のことだ。「禁中並公家諸法度」などを京都に強要した江戸幕府の鉄則だった。家康の言ったことだが、「秀忠の時代」に、これが冷酷なまで貫徹されて、後水尾上皇は切歯扼腕、いかんともしがたかった
「いかなる人間の情理も真実も法の力で押し破ってかまわない、いかに人間の情理や真実であろうとも法を破ることはゆるさぬ。」
なんという凄い、物凄い暴力かとわたしは書いた。法治国家なら当たり前などと思っている出来損なったのが賢いつもりでいるから、此の世は住み辛くなると書いた。★★★夫婦の、事の真偽はどうでもいい、『かくのごとき、死』で自分たちは社会的価値を損なわれたと唱えているらしい、法廷の報告によると。語るに落ちて馬脚を露わしている。

* それに較べ、映画『バティニョールおじさん』の美しい人間の真実はどんなに輝いて胸にしみ透ったことか。パリの街、占領ナチ軍に捕らわれてユダヤ人一家はドイツに拉致され、終生行方知れない。この逮捕と拉致とに、ちょっとした気分の揺れから関わってしまった隣家の料理人バティニョールおじさん。彼の家族もよくなかった。ことに娘婿として婚約している男は、ナチに媚びて権益を漁り、隣家のユダヤ人一家を密告して捕らえさせている。
ところがある日その隣家の長男である少年がひょっこりバティニョールおじさんのところへ顔を出したから、彼は恐慌をきたした。
だが、結局このおじさんは、少年と二人の従姉妹とをスイスへ送って救おうと、木訥な中にしたかな工夫もガンバリもみせて、虎の尾を踏むスリルを幾たびも必死に味わいながら、ついに四人でスイスの地を踏んだ。おじさんはもうパリには帰らなかった、帰れもしなかった。よろこぶ三人のユダヤ人少年少女三人との人生へ踏み込んだのである。このフランス人に、実は五十年秘めてきたユダヤ人の血が流れていたかどうかは、分かるような分からぬままのような。
ナチは、「法を以て理を破るも、理を以て法を破らざれ」の権化だった、彼らの法とはすなわちゲシュタポであった、情理や真実はおろか命も屑のように扱う冷血であった。
いま日本の政権のしていることも、自分たちに都合のいい法を乱立しておいて、真実と情理に富んで誇らしいわれらの日本国憲法は平然と押し破るのである。其処の所を読み違えてはならない。
そもそも法と理とが対立するモノのように思う法理解が歪んでいる。真偽のなかに真実と情理を問わずにどうしてまともな法判決が可能になるか。或る知識人が行きずりの女性の恥ずかしい写真を撮ったり、ウエブに載せたりするのと、祖父母が幸福感に溢れて撮った孫や我が子の写真を、嬉しさ愛おしさ懐かしさで自分のウエブに掲示するのと、ひとしなみに積みするような法は、いくら法律家がシラーッと「それもこれも同じ違法行為」ですと謂おうとも、わたしの理と真実とは受け容れない。そういう一律の強行こそを「無法」と謂うのである。

* ではでは。六月よ。 突きあたり何かささやき蟻わかれ 柳多留
2008 6・30 81

* 昼過ぎまで睡眠を取った。起きてみるとインターネットがアウト。それならと発送のための作業に。
ブルース・ウィリスの『キッド』を聞いていた。彼には『シックス・センス』とか謂った秀作があった。その系統の佳作であった。ブルース・ウィリスは子供が好きなのかほかにも胸に染みるいい映画があった。こういう映画も撮るんだと思う、意外な、だがしみじみと良い作であった。
2008 7・5 82

* 迪子がていねいに編輯した版で、もう一度ブルース・ウイリスの『キッド』を観た。感動作であった。
明後日四十になるイヤな遣り手男の前に、明後日八歳になる少年が現れる。かすかな感傷を漂わせながら厳しい人生への真摯な反省が甦ってくる。少年の昔から断ち切れてしまった孤独で我が儘で好戦的な大人が、「オンラインで少年の昔」に接続し直してゆく。

* 「過去に拘泥しない」ことは優れて健康な強い生き方である。覚者はそれが出来る。そうありたいとわたしも願っている。
しかしまた「少年少女の昔」をゴミを棄てるように「切り捨てる」という無意味なガンバリから、感性の柔軟を喪い尽くした人が、ときどきこの世間にはいるものだ、「過去を擲つ」ことが何か潔いことかのように生半可に考え、生賢しく昂然としているものの、甚だ淋しい人である。所詮考え違いなのである。
映画のラスという男は働き者で優秀でかっこよく見えるが、じつにじつに淋しい。自ら棄てた過去により深く傷ついているからだ。その淋しさ侘びしさが心身に、言葉ににじみ出ているので、かえって優しく迎えようとするごく少数も身の回りにできる。それにも気づけないほど頑なが身に染みている。徹底的に神経が弱いから「過去が怖い」のである。「擲つ」「シカト」ということでどう強がってみても、無意味なのである。効果は全然ない。友達はつまはじき出来ない。孤立してゆく。家庭の中でも孤立する。我が子からでさえ孤立する。頑なに生きてきたのである。
頑なということからは何も得られない。映画のように、八歳になる少年、三十二年前の自分が登場して、愛と智慧の手をさしのべてくれるなんてことは、ふつう、ありえない。たいていは、自分の自覚で頑なから立ち直らねばならない。

* わたしは「オンライン」で「少年の昔」にいつもコードが繋がっている。
たとえば『客愁』一の一から三まで、『丹波』『もらひ子』『早春』という三部作千枚を一片の記録も日記もたいした資料もなく、ほとんど一気に書き上げた。少なくも幼稚園から大学を出るまでをわたしは克明に記憶している。拘泥しないが栄養はたくさん今も得ている。だいじなものは大事なのである。頑なな人間にわたしもなる素質は持っているが過去の魂が、それからいつも救い出してくれていると思っている。
だから、ブルース・ウィリス演じるラスの蘇生は涙なしに観られない感動になる。嬉しいのである。
2008 7・6 82

* 映画『博士の愛した数式』をとても面白く観ながら、発送の用意を続けていた。素晴らしい映画で、うまいはうまいが浅丘ルリ子の義姉だけはやや重苦しかった。深津枝理など主役の三人、子役も含めて上出来の佳い画面が、佳いストーリィが十分楽しめた。
ありのままの身内がありのままに数学のエッセンスを把握し咀嚼して水ももらさない。八時間以上は記憶の保てない博士役が自然にやった。若い数学教師吉岡秀隆も嵌り役になった。数のセンスに富んだ家政婦役深津が、魅力イッパイの知性と愛とを発散した。数も数式も美しかったが、人間も美しかった、それが嬉しい。
2008 7・7 82

* 梅雨が気長に頑張っている。

* きのう遂に、バーネットの『抱擁 POSSESSION』を読み終えた。難渋したのではない、すこしずつ熟読してきた。いわゆる素朴な感動作とはちがっている。巧緻に編み上げた構想力や独創力に素直に感嘆してきた。あまりこの手の小説は読んでこなかったなと思わせられ、べつになぞらえるわけでなく、自分の小説がよく「むずかしい」といわれてきた意味を、少し呑み込んだりしている。
やはりアッシュとラモットとエレンとの関わりに中心の劇があり、感銘もあり、大勢の登場人物のかき分けにも的確な作者の把握が感じ取れる。
この大作を終始変わらぬ関心と興味とで読み切る人は少ないのかも知れない。或る特別の作品という気がした。すくなくも原作『抱擁』と映画『抱擁』とでは厚みがまったくちがうこと、これは知っていた方がいい。映画は原作の効果的な案内にはなった。この作に限っては映画を観ていて助けられたと感謝する。
この本を見付けて贈ってくれた播磨の鳶に感謝する。
2008 7・8 82

 

* 室生犀星作・水木洋子脚本・成瀬美喜男監督の『あにいもうと』を何十年ぶりかに観た。京マチ子、森雅之、浦辺粂子がよく、久我美子も出ていて、しんみりした。
2008 7・9 82

* 午後いっぱいそして宵まで猛烈にがんばり、いつもは二日半も掛ける仕事を、一日で片づけ、手順の先行きを明るくした。仕事に熱中していると不愉快なことは忘れているし、疲れず活力があった。なんだか東京都心には雷雨もあったとか、そんなことも知らなかった。汗ぐっしょりで、いま、一息ついている。妻がピアノで遊んでいる間に汗を流してくる。
仕事しながら、つい最近放映していた『ゲド戦記』を観て聴いていた。
テルーという名の主人公の少女が、アニメだが、目をパッチリの佳い顔、可愛く描けていた。宮崎父子によるアニメ化は成功した秀作とはいえないが、ま、真面目に原作に迫ろうとしていた姿勢だけは汲んであげたい。しかし読みは深くない。脚色もよろしいとは言えない。
それよりもこの一両日でいえば、、熊井啓監督、黒澤明脚本の『海は見ていた』は、清水美砂と遠野凪子ほかの女優陣も、永瀬、吉岡、奥田、石橋ら男優陣も、それぞれにたしかな人間像を彫みながら、海に近い辰巳の岡場所と台風の凄さを生かし、見応えのする映画であったし、また、
吉田喜重監督の『人間の約束』が、老耄と死と介護とをめぐって凄いほど彫り込んだ秀作であった。名品とすら謂いたいが、観ていて辛かった。三国連太郎、村瀬幸子の老夫婦、河原崎長一郎、佐藤オリエの若夫婦とも演技賞ものの徹底した好演で、堪らない感銘を覚えた。

* 特筆すべき一つは、京都でいましも岡本神草展をひらいている星野画廊の感謝したい有り難いクリーンヒット。それは「岡本神草日記」の翻刻である。
翻刻というのが相当しているかどうか別として、貴重なことこの上ないいわば手帖日記であるが、この夭折の天才画家の内面の軌跡を外気ににじみ出させて体臭もにおうばかりの、佳い意味で物凄いほどの記録の出版。一冊頂戴して、のけぞるほど驚き、つい手で拝むほどわたしは感謝した。
やるなあ、星野画廊は。わたしこの画廊に京都美術文化特別賞を「文化」の名において授賞したいと推す。選者であるわたしは常は候補を推さないことにしているが、作家でない画廊にというこの特別賞には意義があると信じる。

*  映画にも文学にも、絵画にも、感銘を覚え、身を乗り出せるものがまだ自分に生き生きしていることを喜んでいる。まだ「大丈夫」かなあ。
2008 7・12 82

* 木村拓哉主演の総理大臣ドラマ『CHANGE』をここ数回断続して観ていて、今夜終えた。
最後の総理の国民へのメッセージそして衆議院解散の決議を聴いた。
ドラマのおとぎ話めいたことは問わない、そのおかげで寺尾聡らの演じた汚い既成政治の毒や膿がよく見えたのだから趣向は成功している。国民主権の政治と社会というわれわれの基本の要請にもてらいなく応えていたのが嬉しい。いつも上に掲げ続けて旗をおろさない「即時、衆議院の解散・総選挙を求め」る私の思いによく照応してくれた。キムタク総理の演説はわたしの思いを、分かりやすい言葉でよく代弁してくれたと感謝する。
2008 7・14 82

* 宇野千代原作、市川崑監督、吉永小百合、大原麗子の『おはん』を観た。爪の垢ほどもリクツを云わない、「心」など振りかざさない、情痴に徹してこゆるぎもしない。えらい。いまわたしにはこういう作品が最も望ましい。おみごと。
宇野千代というと女流作家たちがとりまきかつぎあげて大変な存在であったけれど、なみの女作家達がとても書けなかったように書いている。
リクツがないから汚れない。一途に深くなれる。
「それでいいのだ」と誰かの科白ではないが、協賛する。
2008 8・3 83

* 小林正樹監督のオムニバス映画『怪談』も、優れている。
三国連太郎と新珠美千代の「黒髪」、岸恵子と仲代達也の「雪女」が、それぞれに好短編。新珠も、ことに岸恵子が、胸の深みを波立たせた。
つづく「耳なし芳一のはなし」が雄編。修羅闘諍の哀れもひとしお、幻怪の味を美しいまで表現した。耳慣れたこの八雲怪談のみごとな再現。中村賀葎雄の芳一を、志村喬ほかのベテラン俳優が確かに支え、ロケーションも、みごと平家壇ノ浦の悲惨な悲歌を感じ取らせた。平家琵琶の演奏も半端でなかった。
小泉八雲の『怪談』がこんな優れた映画になっていたのを心よりよろこぶ。もう一話か二話ありそうだ。
2008 8・18 83

* 契約書を作ったのでと、先方捺印済みの、つまり内容を確認済みの契約書を送られ、こっちも署名捺印し契約が成立した。そのあとで、契約内容に「残存ミス」があったのでと、契約とはちがう請求があれば、そりや変じゃないですかと言わずにおれない。
契約書は、むずかしい。
世の中はややこしい。

* それにくらべれば、八雲原作の映画『怪談』は二度目を通して観て、心を洗われた。怪談は怕い。この怕さ。心が白く澄むのでもある。「黒髪」も「雪女」も美しくあわれだった。「いかがなものか」もなく「残存ミス」も無い。
鬼哭啾々の「耳無し芳一の話」も、凄いという以上に森々ともの哀れであった。胸が疼いた。
おしまいの「茶碗の話」は怖かった。不条理の深い淵をのぞいて立ちすくむ。それでも、現世のいやらしい怠惰や傲慢よりすばらしく胸を打つ。心を真っ白に洗われたという実感だ。
20098 8・19 83

* ブルース・ウィリス、リチャード・ギアらの映画『ジャッカル』はもう三度は観てきたお馴染みなのに、引き込まれた。娯楽映画であるが一級品は引きつけて放さない。ヒッチコック監督の『北北西に進路を取れ』がそうだった。ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の『捜索者』もそうだった。この映画にはヴェラ・マイルズ、ナタリー・ウッドが出ている。
2008 8・28 83

* 午後、夕食前にかけて妻と見た北野武監督・主演『菊次郎の夏』は上出来の感銘作であった。この監督作品にはじめて優れた才能を覚えた。
単調に見えるほどのロングショットの時間を、「人間」の味わいで満たしうる力量がすばらしい。時間を人間化して生かせる才能は、一種の魔法であるが、魔法が生きていた。この作中の菊次郎には「enlightend」の佳い「かるみ」「おもみ」が共存し、なんらの「抱き柱」ももたない自在の静かさ。すぐれた宗教性を感じた。
夏休み、何の楽しみもないまま豊橋にいる「生みの母」を捜しに衝動的に浅草の家を飛び出した少年を、いわば行きずりの菊次郎はただただ一緒に連れて行ってやる。
母とは悲しく逢うことができなくて、また東京へ帰って行く。
いろんな人たちに二人は出会っている。
建日子は観ただろうか。
2008 8・30 83

* 夜九時。
いま、わたしは黒澤明の『生きる』を観ている。志村喬の演じる課長が、胃ガンを宣告されてぼろぼろになり、若い生命力の権化のような小田切ミキに、ほとんど抱き柱のように抱きついていたが、自分に「出来る」ことにフト思い至り、残り少ない余命を尽くして区民の求める小公園造りに腐心挺身しようとする。
この映画を、映画というものとの付き合いの本当のトバ口でわたしは出会って、映画館でひどく泣いたのを思い出す。昭和二十七年、高校二年生だった。それ以来、あまりの映画の厳しさと悲しさとで、避けてわたしは二度と見ようとしてこなかった。
それを、わたしは今夜観ようとした。他の手作業をしながらであったけれど、『生きる』か…、「観よう」と踏み切った。そして、やはり昔と同じにこみ上げてくるものを堪えられなかった。
昼にはマクベスを翻案した『蜘蛛巣城』を観ていた。能がかりの様式美、写真の美しさ、三船敏郎や山田五十鈴の演技に感服はしたが、『生きる』は数等胸に深く落ちて粛然とした。

* 昔と今とで、だが、ちがうものが有る。年齢、だけでない。あの課長とどこか通いあう何かをわたしが担いでいるかもしれないのだ。

* 今日も終日、いろんなことをした。身内にしんしんと沈黙する空気がある。
2008 9・3 84

 

* 昨日もう一度妻と『生きる』を観た。すばらしい創りだった。
2008 9・6 84

* 昨晩と今朝と、二度にわけて黒澤明の大作『七人の侍』を感銘深く観た。へんなことを言うかも知れないが、この映画は、トルストイ三代名作でいえば『アンナカレーニナ』の高い完成度を思い出させる。間然するところ無き名作とは映画では『七人の侍』小説では『アンナカレーニナ』というほどに感じてきた。黒澤映画の人間の把握、人間のうごきにつれての世界の把握。圧倒的な魅力。
ただ、黒澤映画にほぼ共通して言える難点。科白のうち「白=発声・発音・発語」の聴き取りにくさ。臨場感を増し説明感を減じている利点も考慮して、なおかつ「科=行為・躍動」の言語を絶した見事さには負けている。
だが、久しぶりにノーカツト作品をしみじみ観せて貰った感動は大海原に、大山岳に真向かって胸を開いているような心地よさであった。どの俳優も俳優も、端役に至るまでみごとだった。偉大な映画監督の渾身かつ悠々の成果。
『羅生門』『生きる』『七人の侍』で黒澤映画は絶巓をすでに極め、あとへあとへ様式美という爛熟へ磨き込まれて行く。
2008 9・7 84

* 今日もたくさん仕事をして、前に進んだ。創作と読書と、「e-文藝館=湖(umi)」、「湖の本」、そして「闇に言い置く 私語」も。余儀なく裁判関係の用事も。夜は、映画『デイ アフター』を楽しんだ。機械から離れて、これから就寝前の本をたくさん読む。
2008 9・14 84

* ほっこり疲れている。ムリもない二時に寝て五時半起きだった。黒澤監督の『隠し砦の三悪人』はいっこう面白くない。槍の試合、疾走する騎馬の闘いだけに爽快感があった、まだ途中だが投げ出してきた。さ、やすもう。
2008 9・21 84

 

* 映画『ジーザス クライストスーパースター』が良くできて佳い映画であった。黒澤明の『隠し砦の三悪人』は、部分的に、たとえば槍一筋でのながい一騎打ちとか、馬を疾駆させての激闘など面白かったが、一つの映画としては成熟していなかった。途中でやや退屈した。
2008 9・23 84

* 黒澤明の『生きものの記録』を観た。観ながら別の作業を進めていたが。
批評の鋭い、着眼と切り込みの言いようなく鋭い優れた作品だった。三十代の三船敏郎を倍以上の老人に仕立て、「本気で。こころから」水爆の被害をおそれて一族郎党をひきつれ、ブラジルへ移住しようと頑強に(家族や調停委員などはためには非常識な、老耄、耄碌としか思われないのだが)主張させる。準禁治産の宣告をうけてしまうが、なお頑張る。工場に火をつけ、精神病院に入れて仕舞われる。
しかもなお、どっちが本当に本気で精神も正常であるのかという怖いような問題を観ているわれわれにも突きつけて、実感けわしくいろいろ考えさせる。
「一人(ないし少数)」を非常識とみる「大多数」の常識がはらんでいる狂気のようなモノを突きつけられ、わたしもドギマギした。かなり恥ずかしかった。
2008 9・27 84

* 俳優緒形拳への哀悼は、「珠」さんに代わって貰う。

☆ 「今」 2008年10月08日03:17 珠
緒形拳さんが亡くなられたと聴き、しばし呆然。
好きな役者さんだった。以前は頑固なおじさんというイメージで、時折怖くも感じるけれど憎めないところのある役が多かったが、ここ10年くらい懐の広い温かさを感じるようになっていた。つい少し前、モントリオールだったかの映画祭で受賞した作品にボケた老人役で出演されていて、予告編だったが髪がまっ白になっていて一瞬吃驚した。随分年をとった役をされるようになったなと思いながら、小さな子供と同じ目線で旅をするその映画にとても惹かれ、何とか観たいと思ったが叶わなかった。
その後、テレビで広島原爆についてだったと思うがドラマに主演されていて、ふと見ていたら引き込まれた。呉だったと思うが、その街にたった一軒残る帽子屋さんのお爺さんだった。東京に住む息子が独居老人の父の安否確認を依頼する巡回警備会社の担当者をからかったり、少々ボケて我が侭を言ったりする日常生活。それがその若者の落とした手紙を拾った事から、末期の病にある彼の母親に逢うために共に東京へと旅をする。
彼の母は幼い頃に彼を置いて出て行き、それ以来逢っていない。今更、、と躊躇う。そして帽子屋お爺さんは、その手紙にあった名前に、若い頃の大事な女性を想いだす。家の都合で呉から広島へ転居することになった彼女を、必ず見送りに行くと約束しながら、出征する軍人さんの急な帽子の直し作業に、間に合わなかったあの日。
以来逢うことのなかったその人は、その後広島で被爆したらしいと聞いていた。若者は母の被爆は知らなかったが、調べるなか、母が自分を置いて出て行かざるを得なかった理由に、その被爆があったと知る。そして二人は東京へ。ようやく探しあて、その女性と再会。帽子屋さんは、田中裕子さん演じる女性に、自分は、あの日見送りに行かなかったのではなく、行ったけど間に合わなかったことを、ただただ詫びるのだった。穏やかな笑みで逢えたことを感謝し、二人は懐かしい時間を語り合う。若者もまた、母との長い時をうめ、二人で呉に戻るのだった。
見ていて、これは被爆をあえて話しの中心に置かず、その時代を生きた人を描くことで今もある身近な被爆を作品にしたのだろうと思った。それでも、この展開は少々無理があるだろうと感じていた。ところが、緒形拳さん演じる帽子屋さんから目が離せなくなったのだ。その旧い店のように朽ちてゆく仕事や家族、そして自分。その事実を感じながら、今出来ることに頑固に突き進む。悲観的でなく、大切な物・人にはとても優しい穏やかな視線。
そうかぁ、、出来ないこと、うまくいっていないこと、哀しいこと、そう見ればそれに違いないのに、誤魔化しでなく、投げやりでなく、人は「今」を大事に生きられるんだ。「過ぎてきた時間」に「今」が生きる。減ったとあれこれマイナスを思ってしまうけど、マイナスを多く感じた時は、それまでの時間につながる「今」をみればいい。その表情に、間に、演技とは思えない人生をみせてもらって、温かく元気になっていた。
こう在りたい。これからも。心からご冥福をお祈りします。

2008 10・8 85

* 晩の仕事も終えてから、黒澤明の『天国と地獄』とを初めて観た。すさまじい画面とドラマでありながら、その映画的達成のすばらしさにわたしは、妻もであるが、幸福感をすら覚えた。映画とか映像の物語はかくこそありたしと思った。なみの映画やドラマはそれからみれば、吹けば跳ぶような「記号」のような画面と科白を連ねた紙屑のように思われるほど、黒澤の映画追究の迫力と美しさと真実性に吸い込まれるようであった。七十をとうにすぎた半分崩れたような老人が青年のように緊張しながら、幸福感にとらわれながら、地獄のような画面の底光りに打たれていた。

* もうとうに日付が変わっている。明日がある。やすむ。
2008 10・18 85

* わたしも、なぜかしらんこのところ『子連れ狼』のような出来のいい時代ものに目をとめている。『篤姫』も相当回数観てきたのはヒロインもいいし、周囲の女達がよく人選されているからか。男どもはすこしかったるい。
昨日も、松平健が三船敏郎や晩年の錦之助のあとを追うかなと期待したい新シリーズの初回特別版を観ていた。初めて観るような佳い若い女優が出ていて、目がとまった。
2008 10・21 85

* 昨夜、棟方志功を「劇団ひとり」(一人の未知の俳優の「藝名」であった)が演じた、いまどき極めて珍しい真っ当の「藝術家ドラマ」を観せてもらった。
棟方志功は稀に見るほんものの藝術を独創した人。志功夫人の眼と思いと立場から志功の人と藝術を観察していたが、仁左衛門が演じた民藝運動と思想の巨魁柳宗悦の批評と誘導・激励をも大事に描いていた。
こんな魂のやせ衰えて貧しい時代に、よくぞこういう一心不乱の藝術家を本気で描いてくれたと感謝した。彼の作品は要所は観てきたつもりだが、私生活や伝記的背後をよく識っていたわけでない。ドラマをその面で正確に批評も批判も出来ないが、描かれている限りにおいて頷かせる場面や科白は豊富で、素直に感動した。

こういう藝術家魂の躍動した時代があった、あの戦時中でも戦後ですらも。わたしなど棟方志功というと谷崎潤一郎の晩年の傑作本を美しく装幀してくれた人としても殊に懐かしい。いまも宝物のように『夢の浮橋』や『鍵』などを書庫に置いている。優れた人が優れた人を敬愛し合った成果が如実に遺っている。
棟方志功の美しい烈しさ、大いなるものへの真実深い帰依に、いまの、なみなみでしかない創作世間では容易に出逢えない。大多数の常識を軸にしてその人気という空疎な利得ばかりを綿飴のように巻き取っている。とほうもないと見える「非常識の真実」になど見向きもしないで、ゲーノー人なみに小手先の記号をだけあやつって作家も画家も安いモノを売りまくっている。大いにケッコウである、この世はまさに膿みツブレ行く金融時代。

* このところ、幸いわたしは黒澤明の『生きる』『七人の侍』『天国と地獄』などの呵責なき表現、徹底した豊かさ美しさ厳しさに、嬉しく触れてきた。柳宗悦が志功に示した、烈しいだけではない、深く迫って静かな美しさをという教えに共通する、まさに「凄い」追究が黒澤の映画にも、志功の「板行」にも見受けられる。人気タレントの尻を追って、心にもなくこびへつらうように如才ない世渡りで食えている映像作家や、最大多数の常識に身を寄せることで作品を売りたいばかりの画家たちの話を聴いているのが、ほんとにイヤだ。
いまどき、こんな棟方志功をぶきっちょに熱演してくれた「劇団ひとり」氏ほかの誠実に、わたしは感謝する。
2008 10・26 85

* 西武ライオンズが八回逆転勝ち越しの一点、さらに巨人ラミレスの内野ゴロで九回決勝の瞬間を観た。第一戦に勝ったとはいえ終始ジャイアンツが押し気味であった。若い渡辺監督のライオンズはよく勝ち抜いた。投手も野手も、選手という選手をほとんどわたしは知らない。巨人では原監督、上原投手、阿部捕手ぐらい。西武では誰一人知っていたという選手がいなかった。
わたしの野球は「プロ」野球でなく、「フロ」野球で始まった。少年のあの頃、銭湯へ行くと脱衣棚の扉に大きく書いた番号で、「3」か「16」が欲しかった。大下弘か川上哲治か。それでまだ空いている早くに銭湯へ行った。

* じつはセとパとの決勝戦とは忘れていて、湯につかり大野晋さんの『日本人の神』を熱心に読んでいた。のぼせかけた。
その前は「篤姫」を観ていた。若い名も知らぬ女優がいい芝居を懸命に演じていて好感をもっている。ただ、ドラマの原作であるか脚色であるか分からないが、必ずしも適確な歴史の把握であるか、かすかに不審も覚えている、が、主演女優の存在感は、なかなかけっこう。
なににしても日本の近代の幕あきには問題が多々ある。その問題がいまの自民の保守政治にもイヤな感じでまとわりついている。
わたしが言いたいのは、はっきりと「いま、『中世』を再び」である。
2008 11・9 86

* なんとなく体調よろしからず、胃の腑が、ぐぅるりぐぅるりとまわっている。仕事もたくさんしたが、アラン・ドゥロンがコンコルドの機長をやる乱暴な映画も観た。

* もう、やすむ。かすかに寒気もあるか。
2008 11・10 86

* 国会での、元航空幕僚長の途方もない発言事件をめぐる麻生総理や政府答弁を聞いていると、そして例の現ナマばらまきに関する無定見迷走を見聞きしていると、これが「政治空白」でなくて何なのだと思う。
きちんとした民主政治の手続きを踏んだ、つまり民意を受けた総理と内閣とが腰を入れてすべき対策を、総理の座の延命に懸命の「仮置き総理と内閣」が居座っているからこういうチャランポランになる。

* それとくらべ筒井たまよが脚本を書き吉野光彦が演出した『小石川の家』の露伴と文という父娘の愛の物語は美しい。
ひとによれば異様に感じるかも知れないが、何と感じようと娘の父によせる至高の愛と尊敬の純真は玉と光る。昭和二十年の空襲に、ひしと父を老境最晩年の父露伴をまもって、くらがりのなかでする娘の述懐。田中裕子の畢生の、といっては若い彼女に気の毒だが、演技と横顔とが、わたしを泣かせた。
露伴は真に文豪であったが、漱石のようにこの後も悠々生き延びるには、文学の境位が今世紀の若者達には高すぎる。一国の総理大臣にして言語能力は恥ずかしいほど低い。漢字もまともに読めないというのだから、お粗末が過ぎる。いったい祖父吉田茂のどこに憧れていたというのか。
2008 11・13 86

* 今日は、映画『ジーザスクライストスーパースター』『マトリックス リローデッド』そして『女優マルキーズ』に助けられながら、ほぼ一冊分のスキャン原稿をつくった。これがかなり気になっていたので、一つ山を越した気持ち。しかし識字率は高くはない。慎重な校正が作業としてつづく。
映画はそれぞれに個性的で比較しようなく佳いものだった。ちょうどいま、マルキーズの最期の場面が過ぎて行く。女優はソフィー・マルソー。モリエール、ラシーヌの愛をうけた女優の、印象分厚い佳作である。単調な作業を一気に長続きさせるとき佳い映画はこの上ない連れで。機械二機を並べていてこそ出来ること。
2008 11・17 86

* 根をつめすぎるのか。歯が痛む。目も霞む。

* 一休みに階下のテレビで、ポンペイ遺跡から石膏により死者たちの最期の肉体を文字通り復元したのを観た。あの噴火の凄さは史上稀な烈しさで、火砕サージの奔った速さは時速二百キロ、たった十キロ距離のポンペイはたった三分で呑みこまれた。シミュレーションと再現ドラマにも泣かされた。
心幼いことだが、わたしは、歴史上のこういう惨事の数々を念じて思い起こし、ケチな悪意に汚されるわが身のちいさな不快など、笑殺する。不幸なことに、そういう哀しみの極限例はなんと記憶に多く堆積していることか。
ヒロシマ・ナガサキ。アウシュビッツ。沖縄。東京大空襲。関東大震災。世界中に起きた無惨な虐殺・餓死・弾圧のかずかず。不条理で無道・極悪な無差別殺人。冤罪のママの死刑。全く無意味な被差別。
ああ、わたしたちのただただ醜いだけの「子」難など、何であろう。

* さ、また読書の寝床へ、そろそろやすみに行こう。
2008 11・24 86

* 晩、録画した映画から、フランス革命前夜からロベスピエール失脚に到る経緯『グレースと公爵』を、観た。たいへん興味深く、惹きこまれて画面の前から立てなかった。
ルイ十六世の従弟で、革命派に微妙に身を寄せ、王夫妻の死刑に賛成票を投じていたオルレアン公。その、かつて愛人であった熱い王室贔屓の一英国貴婦人グレース・エリオットの立場から眺めた、静かな、緊迫したフランス革命裏面史で、わたしの好きな歴史映画だった。
かろうじでギロチンの直前から遁れ得た気丈なグレースをルーシー・ラッセルがしっかり演じ、ついにロベスピエールらに処刑された公爵を、ジャン・クロード・ドレフュスが演じていた。二人とも知らない俳優で、かえって画面からリアリティを感じた。昼間に観たヒッチコック監督の『マーニー』より数段心を惹かれた。ヒッチコック映画は性被虐の深刻な心理映画であったが、ショーン・コネリーもヒッピー・ヘドレンも物足りなかった。
2008 11・29 86

* 「徹子の部屋」で、高麗屋の女房・藤間紀子さんのインタビューを聴いた。初めてどこか劇場のロビーで口を利いていらい、何年になるだろう、わが家ではもっとも心親しい人の一人で、外づきあいの少ない妻には気の置けない気持ちのいいお知り合いになっている。歌舞伎座などへゆく嬉しい気のハリのひとつに、この奥さんの笑顔と気軽な立ち話の楽しみがある。
この人を通して、幸四郎の舞台にも染五郎にも松本紀保や松たか子の舞台にも心おきなくわれわれは親しんでいる。いつもホントウにいい席を用意して貰っている。
いいインタビューだった。東大寺での千回勧進帳にもほんとに行ってみたかった。
幸四郎、染五郎、齋三代の連獅子など観られるまで、われわれ二人とも元気でいたいモノだ、待ち遠しい。
一月早々には松たか子と宮澤りえが競演の野田秀樹の芝居があり、幸四郎が座頭の工藤祐経をつとめる「壽曽我対面」もある。二月には松本紀保のでるチェーホフ劇のとびきり、「ワーニャ伯父さん」もある。春にはまた「ラ・マンチャの男」があるだろう。
少年の昔からの「高麗屋」との不思議に有り難いご縁をわたしも妻も心から喜んでいる。

* 去年の暮れは、その幸四郎が大石の、真山忠臣蔵だった。それで、手元にのこしてあったたまたま、直木三十五の『討入』を、「e-文藝館=湖 (umi)」に載せてみた。四十七士の名前など思いだした。
歴代天皇百二十五人は順序正しく暗誦できるが、赤穂の四十七人はなかなか全部覚えきれない。
直木のこの作は、『南国太平記』から見ると気も手も抜けていて、やはり今日読んだ梶井基次郎の『のんきな患者』や昨日の宮嶋資夫の『坑夫』などとは遙かに比ぶべくもないが、本懐遂げた翌日の読み物としては恰好であろう。
2008 12・17 87

* ジョン・ウエインにリタ・ヘイワースとクラウディア・カルディナーレのサーカス映画が、ほろりほろりと胸つまらせて泪を誘う映画だった。
昨日戴いた「めで鯛」の片身を肴に赤いスペイン・ワインを晩の食事前に呑んだ。
「鯛」って、なんでこう美味いのか。臭みのみじんもない白い身のホクホクと美味い鯛を口に含んで、ワイン・グラスをしとっと傾ける。
下関から、純米大吟醸の「獺祭」を二本戴く。
富士の「松」くんには、木曽の栗きんとんを戴く。
2008 12・22 87

* いま蜻蛉日記を読んでいるが、日常の述懐にも、それどころか対話・会話のあいだにも頻繁に、呼吸するのと変わりなく「和歌」が出る。男でも女でも、詩的な言葉のあたりまえのような斡旋力におどろかされる。俗談平語がよほど洗練されていないと、そこから瞬時の飛沫かのように和歌がああも適切に生まれうるワケがない。貴族達の日常言語がどんなであったか、奥ゆかしい。
口ぎたないのは、二十一世紀当節の恥ずかしいありのままだが、テレビジョンと、タレントと他称される人たちとの我が物顔が、日本語をひどく汚くしているのは間違いない。年末年始、高い電波代を濫費し、なに厭う顔もなく各局ともに鉦と太鼓で埒もないタレントたちを好き放題遊ばせ騒がせて「見せ物」にするのが決まりのようだ。正直、苦々しい。「藝」への敬意は心底深いけれど、藝無し猿の程を知らぬ放埒を「時世粧」かのように容認する気はわたしには無い。テレビ局番組関係者達の低俗度がそのまま氾濫しているに過ぎない。
この時節、電波に掛かる費用をもっと節約すべきではないのか。
2008 12・23 87

* 黒澤映画で仲代さんを初めて観たのは『用心棒』だったと思う。『天国と地獄』でも準主演していた。
私の親しい読者が、ひところ仲代さんのツキビトをしていて、無名塾が出来て以後は俳優座の制作にいた。この人から、再々俳優座や無名塾の芝居をみせてもらうキッカケが出来、今以て、俳優座との久しいご縁がある。四十年近い。
手元には、その人が気を利かせてくれたのだろう、仲代さんや加藤剛さんや岩崎加根子さんらの色紙がある。直に著書のやりとりもあった。仲代達也も加藤剛もいい俳優だ、みな、年取ってきたけれど。
2008 12・23 87

* 晩になり、延々と、「あの戦争は何だったのか」というTBSの番組を観ていた。こういう番組は、その時代を生きてきた者として、義務かのようにわたしは真向かって観る。今夜の番組は、徳富蘇峰をもちだし、当時の新聞記者や軍務局の上級将校をもちだして、真剣に取り組んでいた。概ね異存のない進め方であったけれど、蘇峰の、あの当時のありようや言説にも、敗戦後になっての理解にも、反省が薄く素直に頷くことは出来なかったし、事態の推移に理解ある記者や将校のそれらも、無惨に押し流されていた事態の恐ろしさは、歴然。
まして「統帥権」という魔物の跳梁は、肌に粟立つ仕掛けであり、明治憲法の抱き込んできた「癌」というしかない。
武器を持った軍人は、所詮、戦をしたがる。またそれがあらゆる国の軍に謂いうることだとすると、では、軍なくしてどう国と身とを守りうるのかという問題が消えてなくならない。
外交という「悪意の算術」に天才的に長け、外交を全うすることで「すべて守れる」のであれば、守りたい、有り難い。だが、日本の外交と政治の拙劣は、実に蔽いがたいものがある。
おそろしい事態は、現に今も在る、ということだ。
2008 12・24 87

* 黒澤明の映画『まあだだよ』を観た。奇跡に逢うような「金無垢」の映画で、こういうのが創りたかった黒澤内心の無垢の繪ごころに泣かされた。松村達雄と香川京子の内田百閒夫妻のよろしさは天下一品だったし、弟子達の無垢ぶりにも奇跡のかがやきがあった。参りました。美しいものを見せてもらった。
「金無垢」などハナから鼻先で嗤うモノの方が多かろう現実だが。天に唾しているに過ぎぬ。
2008 12・27 87

* 晩に黒澤明の「乱」を観た。これだけ徹して好きにものの創れた人を幸せだなと羨む気もあり、しんどいことだとも思う。「乱」は超大作でりっぱな出来であり、能も歌舞伎も狂言も、シェイクスピアまでも入り交じって躊躇いないが、感動からすると、昨夜観た「まあただよ」の境地の方が胸に届いた。
なるべくバタバタしないようにして、少しずつ趣くまま仕事を進めているが、歳末歳末と身の回りを片づける気にはなってない。
2008 12・28 87

* 源氏物語を、説明としては要領よく映像化していた長時間番組を、今朝途中から見始め、録画した。録画したのを夕方に見た。
女たちの配役もよろしい。最も、桐壺、空蝉、夕顔までは見のがした。葵上の竹下景子、三条の宮の若尾文子、六条御息所の長山藍子、大原麗子の藤壷=薄雲、弘徽殿の水谷良重、朧月夜の岸本加世子、泉ピン子の末摘花、明石の古手川祐子、明石の母の香川京子などまで見たが、若尾、香川、水谷などの「大人」に存在が感じられ、朧月夜は思い切っていた。
源氏の君の東山紀之はやや物足りなく、わたしならモックン元木君に願いたかった。
2008 12・30 87

* テレビ映画の『源氏物語』下の巻を、明石の姫の二条院うつりまで観た。紫上を、上の巻で藤壺を演じた大原麗子がおっとりと愛らしく引き継いだ。原作のことばでいえば「らうたく」見せて、かどかどは強く出て、懐かしい感じに、好演。明石上の古手川祐子と母尼の香川京子も、原作よりよほど上品に凛々しく演じている。
脚色も制作演出も女性であることが立派に効果を挙げている。
だいたいに男が男の目で源氏物語を読みすぎ語りすぎてきた。
より適切にはこうして女の目とセンスとで源氏物語は読まれ味わわれて佳いのだとわたしは思っている。女性の感情で女達も、そして光源氏も、しっかり理解され表現されているのがこの映画の成功だ。こんな作がもう十年近く前にあったのを、わたしは看過ごしていた。
2008 12・31 87

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