* 源氏物語の映画を観、妻が煮たうまい椎茸と高野豆腐と蒟蒻とで、藤田理史くんのはるばる送ってくれた美味しい酒を呑んでいた。そばで京都から帰ってきた建日子がもくもくと機械で仕事をしていた。親子三人と黒いマゴと。静かだが温かい。
メールの賀詞も、数十。賀状も、昔ほどではないが二百近くか。まだかなり世間に繋がれている。
2009 1・1 88
* 夜前、おそくに、建日子と三人で黒澤映画の『まあだだよ』前半を観た。建日子は「ファンタジー」だという。こんな現実はありえないというのだろう、それはどうか。
あるかないかのリアルを問う映画ではない、この映画に向き合って、自身にこれほど上等の人間が生き得ているかを問われている、または自問せよときわめて辛辣な人間批評をまっすぐ衝きだされている作品だ、上等のユーモア映画のようで、人間を問いつめられている厳しい映画、また嬉しい映画。
観ているだけでほくほくと嬉しくなってくる。嬉しくなれる人間か、これをただあざ笑って取り澄ましている人間かと映画自体に尋ねられている。くどく云う。こんなことが「ある、ない」では、ない。この「金無垢」のリアリティーが素直に受け取れ共有できるかおまえはと、問いつめられている。
* こんな「金無垢」からみくらべると、二百何十億円をかけて制作された「乱」のほうは、画面は立派であるが、本質的にはふつうのオハナシ、物語映画に過ぎない。映画の美学や力学の精巧精緻を問うなら立派だが、それ以上でも以下でもない。
2009 1・3 88
* 昼と夜は発送のための挨拶を書いていた。晩は妻のピアノの時間を利して、机で、主に校正。
昼は、往年の時代劇大スターたちに美空ひばりも加わった、極め付けやくざの喧嘩を、聞いて観ていた。市川右太衛門、片岡智恵蔵、大河内傳次郎、薄田隼人、大友柳太郎から、中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵らまで。
笹川繁蔵と飯岡助五郎とやらの喧嘩で何一つ同情も共感もないが、このところ妙に時代劇が流行っているのは、現代物の人殺しドラマ、探偵ドラマにつくづく飽きがきたということか。「子づれ狼」ほどのものなら、チャチな現代ドラマよりよほど感じがいい。
* 夜はエディット・ピアフの映画『愛の賛歌』に胸打たれた。何度も何度も胸が迫った。何といっても「歌」そのものが「人」を生かしてモノを言う。
☆ エディット・ピアフ
今夜 秦とゆっくり観ました。
一頃 仕事をしながら ずっとシャンソンのCDをながし続けていたので この映画の中で聞こえる歌のたいていは 耳に馴染んでいました。
勿論彼女の声も 巻き舌も・・・
ピアフが 雀とは知らず 小さいときから唄っていたとも知らず あなたの何が ピアフの何を とらえて放さないのか・・・それもなかなか 解らぬまま 最後は おでこに痛みを覚えるほど 胸が詰まるほど 涙をこぼしました。
深い感想にはいたりませんが フランスの雀 と 日本の雲雀 に通うものを感じました。声量・天性の音楽性・病気・まだ早い死・ でも最後にいかにも うってつけの歌の提供に恵まれたこと。
明日は夫婦して歯医者へまいります。 おせち料理もすっかり食べ尽くして ようやく日常に戻ります。
新しい年を あなた 溌剌と生きて下さい。
久しぶりにシャンソンに酔った 迪子ばば
2009 1・9 88
* いつもその用が済むとほおっと太い息をはく、その用をもう日付の変わりかけた今し方、終えた。まだまだ気遣いの多い用が待っているが、一つ一つ片づけて行く。
今日は、幸いに、暮れに観たテレビ映画の橋田壽賀子版『源氏物語』上下の巻をことごとく耳に聴きときに目に観て、そのうちにたいそうな用の山を踏み越えてきた。有り難かった。
橋田壽賀子のドラマをほとんど毛嫌いして観てこなかったが、この橋田源氏の「理解」つまり把握と「表現」には「女」の視座がきちっと築かれていて、もとより原作をおおはばに省いたり変改してあったりしても、その意味はつかみやすく、よく納得させてくれた。要所では、したたか胸に応えて泣けたりしたし、干支一巡ほどの永きに繰り返し繰り返し読んで「源氏読み」を自認してきたわたしをも、シラケさせず、楽しませてくれた。オンパレードの女優陣の労を多としたい。そして片岡孝夫いまの仁左衛門の源氏は、いままで観てきたどんな源氏よりも身に染みた。
2009 1・12 88
* 沢口靖子を一審死刑判決の女囚役に起用した松本清張原作のテレビ映画『疑惑』に満足した。沢口は一心に素直に真面目に努める女優であり、性格の良さが、思い切った悪女役の内的に複雑な悲劇性をかなり確度高くとらえた、わたしは大いに褒めたい。やるじゃないかと、声援も半分、感嘆させてもらった。天成とびきりの美貌の、ことに目の輝きを幾重にも変化させながら、いいカメラワークで難役の内面を映し出していた。撮されることに沢口は踏み込み踏み込み、とても素直だった。
舞台では「細雪」の雪子がまず及第で、他にも舞台の芝居は劇場やテレビで観てきたが、沢口を責めるよりも台本や演出があまりに愚策であった。テレビドラマでは、売り物のしゃきとしゃき元気の一点張りで、好感度はともあれ、演技を堪能する嬉しさは滅多なことに見せてくれなかった。「御宿かはせみ」の縫といったか美しい女将を柔らかに情愛深く演じていたのがとても印象に好くのこっている。
沢口靖子ほどの素材を脱皮させるには、汚れ役か悪役かだと思いもし言いもしてきたが、この『疑惑』で、期待はちからづよく満たされた。飛躍への一歩になるだろう、願わくは好い台本を書いてあげて下さい、書き手の人たち。
2009 1・25 88
☆ 息子の芝居、そして歌舞伎と能と 1998 10・1 「舞台・演劇」
* お世辞にも息子のアングラ芝居を賛美する気はない、が、今度の前後しての新旧二公演は、及第点が出せた。二重人格に苦しむ美貌の女性と、新規採用試用期間中のカウンセラーとの「善意っぽい嘘」をめぐる悲劇的な葛藤と格闘は、双方の役に自己否定のきつい条件がからんでいて、「劇的」になった。ただ主題の重さにくらべ演技のこなれのわるさ、演出の力不足で、後味に、ある晴れたものを残せなかった。
後半の旧作は初演時のまずさをほぼ克服して、集団自殺にちかい大量死を経てなお人を生かそう、一人でも生きて下界に生還しようとする、自殺願望登山遭難者たちの再生劇が成熟した。贔屓目なしによくなった、よかったと思った。
アングラの芝居になじむと、もうとても大劇場の説明的な芝居はかったるくて、菊人形芝居のように感じてしまう。それなら歌舞伎の方がよろしい。歌舞伎には舞踊の楽しみがある。今わたしを誘惑しているのは、来春正月の大阪松竹座。鴈治郎と玉三郎の「吉田屋」それに鴈治郎、秀太郎、翫雀の「三人連獅子」である。台詞が音楽を成し、肉体がおどって音楽を成している演劇でなくては、つまらない。なにも舞踊劇だけを謂うのではない。楽劇を謂うのでもない。
* 会が果てて、息子のアングラ芝居『朝焼けにきみを連れて』をまた見に行った。ひろい能楽堂の閑散とちがい、狭い小屋が超満員の興奮だった。終わって明るくなると、客という客が目を真っ赤に涙をため、しかも「元気」そうだった。「能と、似ているんですね」と能の好きな知人の歯医者さんが云った。その通りだ。
書き割りも何もない。そこでダンスのまじった現代の、そう「能」手法が、元気いっぱいの演技をみせる。作者は、能なんか殆ど一度以上は観たこともなく、何も知らないのに。
そこが、おもしろい。 1998 10・3 「むかしの私」から
2009 2・3 89
* 「単行本等全書誌」百冊分を校正しおえた。「湖の本全書誌」の初校が出たら組み上げになる。年譜に添えて適切な短編小説二編も、推敲はできている、校正も終えている。
少し寛ぎたくて、英国映画だろうか「眺めのいい部屋」というスケッチ映画と、日本の二線三線の国防映画を観た。海外物は小洒落ていたし、日本のは竹内結子が達者に抑えて出ていたのが新鮮だったが、ま、そんなところ。もう休んで明日に備えたい。日曜はメールもほとんど来ない。
2009 2・15 89
* 詳細な年譜の再校が出たので、それにかかり切っていた。ただし黒澤明の「姿三四郎」を観た。録音も撮影もさすが昭和十八年、戦時中の粗悪さで。藤田進と轟夕紀子にニッコリ。
歯医者がよいの往復には前田愛氏の「一葉論」に没頭、一葉晩年の充実を思うと胸苦しいほど。
2009 2・17 89
* 短編アニメ映画のオスカーに加えて、劇映画「おくりひと」がアカデミー外国語映画賞を得た。ただすばらしいというだけで済まない大きな快挙だった。
映画世界でのオスカーの大いさもさりながら、この映画の功績は、あるいは攻撃的な痛切な批評性は別に在る、と、わたしは考えている。大方の日本人が意識化にしまい込んできた、しかしもし意識の表層にそれが現れたなら、まちがいなく口を歪め顔を強張らせて叫んだろう(=映画の中で主人公の夫の若い妻が見せたような)手ひどい「死・死者・死体」への差別的な厭悪感。それを、もののみごと、大舞台の幕を切って落とすように一気に無に(=近く)してしまった現実、あれよというまに、日本の「美しい文化」を眼前に観たといったようなところへ、「死と死者と死体」の問題点を、力点や争点を持ち込んでしまったあざやかに決定的な力量が称賛されていいと、わたしは、そう考えている。
そして事実そのような工合にこの問題が、この先々平穏に文化的に日本人の社会と生活とのなかで「落ち着く」ものかどうか、その辺に、また別の「日本人に対する批評」の刃が突き出されてくるだろうと想っている。
* それとは別に、凡百の「映画作りびと」凡百の「演技びと」たちが刮目して学ばねば恥ずかしい映画作品が、モックン元木雅弘くんたちの真摯きわまりない努力で実現したことを喜びたい。
覚悟と力においてこの「おくりびと」より劣るモノなら、「ノー・サンキュー」であると、みなが腹をくくることが大事なんじゃないか。
安易で片手間の仕事がはやる時節、つい、そういう釘を刺したくなる。
* 「看護基準」「看護手順」といった本や企画を、むかし、医学書院で担当していた。こういう本の最後のパート、看護教科書の最後のパートに出てくるのが「死後の処置」である、今もそうだろう。
死者のからだから排泄されるものを適宜に処置し、遺体を清拭するのである。それにも基準があり手順があり心がけというものがある。「おくりびと」の文化に重なっている。看護師たちもまたこの映画に目をむけているだろう。
2009 2・24 89
* 佳いものならわたしは、どんな題材でありどんな扱い方であろうとも支持する。佳いと謂う、それですでに一の昇華がなされている。だが、よくなくて悪くて迷惑至極なモノが、「表現」を口にするなど、厚かましくおこがましい。世界ペン憲章は言論表現の自由を守ろうと説いているが、その言論も表現も、人間の尊厳と誠実とに背くモノであっても佳いとは決して言っていない。そこが忘れられ過ぎている。
あまりにくだらない下劣なテレビ番組が名指しで批判されていることを、わたしは当然と思っている、名指しされている限りの番組は、である。一般論はしない。だが、引っ込めれば仕舞という結末には満足しない。衣裳を替えてすぐ似たようなのが出来、当分の間は世にはびこるのだから。
一般論をするとすれば、あくまで言論表現の自由は守られるべきものである。ペンの言論表現委員会に籍を置く一理事一委員として、これは譲らない。個人としても譲らない。だが、無条件でではない。ペン憲章の趣旨を体してのことである。悪辣で下劣な暴力的な言論は恥ずべきだし、表現とは、佳いもので在りたい。 2000 11・29
* このところ、近未来の、荒廃し尽くした不毛でバイオレントな世界を映像にしたアメリカ映画を、たてつづけにテレビで見て気が滅入っていた。しかし「マッドマックス2」などは、何度観ても不思議に身にしむものがある。バイオレントに過ぎているかも知れないが、それが映画表現の痛烈な効果になっていて、訴えてくる神話的なひらめきがある。
今度の深作映画「バトルロワイヤル」については、わたしは「観ていない」のだから批評しない。筑紫哲也の言うように、良く出来ていれば必ず人に訴えうる。わるければ、存在理由をそれ故に喪う。
盗撮が顰蹙の話題になっている。写真撮影も表現の自由であると居直れるか、バカな。「公然の盗撮」としか、それだけとしか言いようのない映像に対して、言論表現の自由などと言わせていいとはわたしは思わない。
往々、「言論表現の無条件・利益追求の自由」が、真に価値ある「言論表現」を冒涜している事例が多い。
「児童ポルノ」の規制が言われたときに、雑誌や出版が「言論表現の自由」を守るという口実のもとにそれらの「販売や制作の自由」を抱き込みたがっていたのなど、適例ではあるまいか。利に飢えたそういう態度が野放図になり、官憲の法的規制策にまんまと口実を与えてしまう。世論までを敵にまわしてしまう。
日本ペンクラブは、ペン憲章の確認のためにも、「真に守らるべき言論表現の自由とは何か=ペンの反省」を主題に、大きなキャンペーンを企画すべきだが、理事にも会員にも、大小の出版人・編集者が大勢いる。さ、彼らがそういう企画に乗ってくれるか、むしろ阻止にかかるか、判定は難しいな。 2000 12・3 「むかしの私」より
2009 2・22 90
☆ やはらかい女 2000 2・2 「女」
* 熱風の地底を朦朧と風邪に巻かれつづけて、馬場あき子を推した朝日賞のパーティーにも出なかったし、俳優座の「肝っ玉かあさん」も観なかった。
まだ余燼は燃えていて、あさっての久しぶりの言論表現委員会も、出てよいものかどうか、迷っている。約束の原稿もまた溜まってきた。
帝劇からは浜木綿子の新作、藝術座から十朱幸代の「雪国」に、また招かれている。浜の前回「八木節の女」には落胆したが、今度はどうか。
十朱の舞台は初めて観るのだが、テレビでは本当に久しい久しい「バス通り裏」の昔からの贔屓である。
あの頃は本番一本のナマ放映であった。珍なことも起き、可愛らしかった十朱幸代のとちって舌をぺろっと出したのまで、はっきり覚えている。
親友役でピカピカの新人の岩下志麻が初めて顔を出した日のことも覚えている。うわあ綺麗と思ったものだ、この子はきっと大きい役者になるなと直感した。
十朱幸代を、最もセクシイーに感じていた時期が永かった。何ともいえず健康に柔らかいのである、印象が。性的な思い入れがぴったりとはまる点では、年齢的にも容貌でも姿態の懐かしさでも、普通の安心感でも、最高だなと眺めていた。
あのエロキューションは他の人でなら嫌いになるが、彼女の演技力を通してあれが出てくると、不思議な音楽に変じる。『雪国』の駒子は手に入っている筈だ、わたしは向いていると思っている。そうでないようでいて、そう成りきれる巧さを十朱幸代はもっている。凛として深いところで燃えている女の演技を、楽しみにしよう。
ご招待に感謝する。 2000 2・2 「むかしの私」より
2009 3・4 90
☆ 「秋の恋」「黄昏」そして「カラーパープル」 1998.12.22 24 1999 4・17 「映画・テレビ・小説」
* 日比谷で、久しぶり妻とにフランス映画を見た。『秋の恋』…どこかの映画祭で最優秀の脚本賞などを得ていた映画で、久々に静かに大人の作品を楽しんだ。写真も録音もリアルで、叙情的な映画だった。自動車のタイヤが葡萄畑の中の砂利道を踏んで行く音までが、しみじみと懐かしい田園の匂いや日差しを感じさせ、誰一人知った俳優などのいない映画のよさを時間いっぱい堪能した。
もともとフランス映画の持っているモーパッサンの短編に似た厳しい、静かな、人間の把握が好きだが、テレビではどうしても「ダイハード」っぽいものにばかり惹かれてしまう。映画館のよさがまた胸に戻った。
妻に、アルパカのコートを買った。 1998 12/22
* 私の日々は、そんなふうに、静かにいつも賑わっている。寂しいのは、年ごとに「死なれた」人の訴えを多く聴くことだ。聴いて、話しかけて、少しでも私が役に立つのならと思う。
今日、聖ルカに出かけた妻の留守に、ひとり映画『黄昏』を見て泣いてしまった。朝日子は、元気にしているだろうか。 1998 12・24
* テレビで映画を観ていた。都会の少年四人がふとした度の過ぎたいたずらから少年院に送られ、四人の看守たちから徹底した性的虐待を受け続けて、出所する。少年の一人は「モンテクリスト伯」を愛読し、虐待に耐え抜いていた。
彼らが出所し、それから復讐が始まる。最も凶悪だった無気味な看守は真っ先に撃ち殺された。そこで映画の先は見えたので、ここへ、機械(パソコン)の前へ戻ってきた。凄まじいものにも堪えられはするけれど、つまらないものには時間を惜しむ。
いま『カラーパープル』という黒人女性の小説をよんでいるが、これは、ユニークに優れた表現で胸を打つ。悲惨に育ちながら魂の無垢を守り抜いている黒人の若い女の、女は母であり妻であり、母ともされず妻ともされない境遇に生きていて、彼女の神に語りかけるモノローグで小説は進んで行く。
凄まじいけれど、不思議に清い。
女は父に産まされた子を二人も喪っていて、何人もの子持ちの妻になっているが、男は他の女に夢中であり、当のその女に小説の語り手である女は、純に憧れている。
まだ読みかけて半ばだからどうなるか知らないが、佳い作品に触れているという満足感がある。(東工大の講義の帰りに=)大岡山の本屋で買ってきた二冊の一冊だった。いい買い物をした。
いまさきまで観ていた映画には、そういう満足が得られない。ただもう人間の無残に捻れた悪行の汚さを、看守たちにしたたかに見せつけられた。うんざりした。 1999 4・17
2009 3・10 90
* 録画しておいた『黒部の太陽』を観はじめた。超大作のようだが、出だしからなかなか惹きつける。一気に観てしまう時間の余裕はないのだが、何度にもひっぱりながら、面白く楽しめそうで、気が弾んでいる。
芯になる若い人気タレント香取慎吾の活舌がもう少し明確だといいのだが。
2009 3・26 90
* 雨が来ている。なぜか、ほっこり疲れている。映画『マハトマ・ガンディー』を観ていたが、途中で起った。彼の闘い方は立派だったと思うが、大英帝国の国民として英国人と平等でなくてはいけないというインド人としての「誇り」「自覚」が前面に出てくると、妙にやりきれなくなる。インドでほど大英帝国がひどいことをした例は他に少ない。
ガンディは英国で教育を受けて弁護士にもなった、そういうことが出来たから大英帝国の同じ国民という物言いも無反省に自然であるが、そこに限界も感じてしまう。
2009 4・1 91
* 昨日、映画「シューシャンクの空に」を録画して観た。すこし出来すぎた、しかし感度のいい佳作だった。沢山な部門でアカデミー賞にノミネートされていたが一つも取れなかったのがエピソードになっている意味が、こころもち分かる。トム・ハンクスの「一期一会」などと同じ時機だったという。あれは素朴なようでしたたかなモチーフが必然の感動を創り出していた。あれからすると「シューシャンクの空に」には素直だが強烈な感動がうすく、巧んだうまさ、つまり趣向だけで破顔一笑させる。
2009 4・5 91
* 晩はビートタケシの映画『座頭市』を観ていた。これも『シューシャンクの空に』と同工異曲、娯楽秀作。同じ大作なら、『シネマ・パラダイス』の完全作を数日前に観たが、編輯作は以前に観て感心し感動したし、今回もきゅうッと魂を掴まれ、なんどか嗚咽をのみ込んだ。
2009 4・5 91
* 夕方だったか、カーク・ダグラスとトニー・カーチスとジャネット・リーとオーネスト・ボーグナインの映画『バイキング』を、妻といっしょに懐かしく面白く観た。まだ恋をしていた頃、京都の松竹座であったか、一緒に観た。刺激的でしかも北欧の海の美しさ、民俗の懐かしい感じに二人とも気を奪われた記憶があった。
その後にも一度二度はテレビで観たと想うのに、今日の写真はすこぶる美しく、それどころか映画のつくりがしっかりしていて、無疵モノの秀作であることにも改めて気づいた。若いカーク・ダグラスに惚れ直した。トニー・カーチスもこんなにカッコいい役の映画はすくないんじゃないの。
2009 4・27 91
* 二三日かけ、ライザ・ミネリとロバート・デ・ニーロの『ニューヨーク・ニューヨーク』を、長編小説を読み継ぐように数度にも少しずつ観次いで、寝る前におえた。すばらしい作であった。作「品」も豊かに濃やかで、間然するところ無く安心し信頼して二人の愛のある、不自然のない、しかも厳しい人生を見せてもらった。ライザの歌の素晴らしいこと、すてきにチャーミングで惚れ惚れした。デ・ニーロも出だしから最良の気合いで、名優ぶり遺憾なく。佳い映画で魅された。
2009 5・2 92
* 九時から映画「ダヴインチ・コード」がある。観るかな。どうしょうかな。
* 映画は観かけていたが、やはり機械へ戻って、「上巻」分の校正を仕上げてしまった。明日送り返すと、伴って、万事忙しくなる。
2009 5・16 92
* 映画『黒い雨』が凄い。
2009 5・19 92
* コピーして置いた、トム・クルーズ、ジャック・ニコルソン、デミ・ムーアらの軍事法廷映画『ア・フュー・グッドメン』が、久々に興奮で震えさせてくれた。
こういう享受の幸福がもっと積み重ならねばと思う。ウッディ・アレン、ミア・ファローらの『夫たち、妻たち』も面白そう。半分観て、あとはまたの楽しみに。今はどうしても「仕事」に気を向けてしまう。
とはいえ松嶋屋の我當のところから七月歌舞伎座の案内があり、昼に『海神別荘』夜に『天守物語』がある。玉三郎と海老蔵。他にも昼の『五重塔』夜の『夏祭難波鑑』は猿之助一座が加わり、若手でやる。鏡花の作を四つ昼夜で観たのはやす香が入院中だった、凍えるほど辛くて辛くて、座席で凍り付いていたけれど、それでも鏡花の舞台はすばらしかった。
あれからマル三年。今年もまたその頃にキツイことが起きていそうな気がする。それでも鏡花は観たい。
2009 5・26 92
* 映画「ダ・ヴィンチ コード」を見おえた。おもしろく観た。
2009 5・28 92
* 久々、ブルース・ウィリスの「ダイ・ハード 2」を観て、やっばり見せられた。もう十回ほども観ているのに。映画の名作と文学の名作とは、当然ながら創作手法の違いがあり、文学の名作の映画化が映画の名作には必ずしもならず、通俗小説のすばらしい映画化が映画の名作として不朽の名を獲ることもある。
2009 5・29 92
* あれこれ気ぜわしいのを、統御もせずウロウロもせず、「いま・ここ」で眺めている。仕事も用事も、一つずつしか片づかないものだ。
* とにかく一歩一歩、用を前へ運んでいる。クリスティン・スコット・トーマスとハリソン・フォードの映画『ランダム ハーツ』がとびきり佳い映画で、助かることに耳で日本語の会話が聞ける。発送のための手作業がうんとはかどった。見さしだった娯楽作の「トゥルーライズ」も、シュワルツネッガーのというより、細君役のジェレミー・リー・カーティスが可笑しくて、笑いながら超大アクションを「耳」で観ていた。スリルがおもしろいというだけならこの映画は第一級。クリスティンとハリソンとの作品はぬきさしならない心理劇が思いのほかの真率な愛を育んでいく。クリスティンの清潔でセクシーな魅力、ハリソンの頑固なほどの一本気。観たいとこのところ思ってきたのを、ビデオテープで観られた。仕事の進行にも幸いした。
2009 5・30 92
* 映画「黒い雨」は厳しかった。創られた劇映画ではなく、リアルなドキュメンタリータッチ。黒白のしっかりした映像で、日本の田舎と田舎の日本人とが描き出され、しかも原爆恐怖の余波がじんじんと神経を叩いて鳴り響く。
田中好子を芯に、文学座のバイプレイヤー達が強烈なアンサンブルで日本の悲劇を彫琢する。映画に惹きつけられると机を離れられず、仕事がかえってはかどる。今は、いつもの例にたがわず、そのようにして細かな辛抱仕事をつづける時なので。
2009 5・31 92
* なんとなし、とぐろを巻いた感じに怠けてしまった。テレビ映画であったろうか、松本清張生誕百年、向田邦子脚本という『駅路』を観た。役所広司、十朱幸代、深津恵里。「逝く昭和」という弔歌を低音ながらしっかり響かせた老境のドラマに、若い女のつらさが被さっていた。
2009 6・6 93
* 昨日だったか、映画「ターミネーター」②を観た。このシリーズには、①から心惹かれていて、①も③もこの最近に続けてみていた。とりわけリンダ・ハミルトンの健闘が光る②が好きで、善意と自覚の「自己犠牲」が立派に描けていて感動する。シリーズを貫いて働く趣向の「時制」展開が知的にも映画的にもよく利いていて、齟齬がない。シュワルツェネガーの映画でも一二の作だし、リンダの聡明と愛の確かさにいつも惹かれる。
2009 6・14 93
* 午まえ歯医者に行く。
* 歯医者からゆっくり帰宅して、偶然、太宰治を描いたドラマを観ることになった。豊川悦司演じる太宰役が出色の感銘と感触とで、味わいあった。寺島しのぶの夫人、菅野美穂の太田静子、伊藤歩の山崎富榮、みなよく胸に届いた。
「子どもより親が大事」と繰り返す太宰のことばを聞きながら不覚の涙を流した。しかも心の何処かで、分からない人だという戸惑いは抜けない。愛は分からないと太宰は云う、しかし人を喜ばせるのが何より好きだった、じょうずだった。というのは、性根のところは演戯なのか。そのように受け取ると分かりやすくなるところが太宰治のように想われるのが、わたしには、やはり苦手。
* ドラマの人で、太田静子さんとは逢っている。娘の治子さんに誘われ、日曜美術館に出演したあとお宅へ行き、しばらく話した。太田さんはわたしの『みごもりの湖』を読んでとても気に入って下さっていた。
長女の園子さんとも、太宰賞のパーティで二三度会って立ち話している。
晩年の太宰に寄り添って口述筆記などしていた野原一夫さんは筑摩書房にいて、桜桃忌などで何度もいろいろお付き合いがあった。労作の『太宰治』も戴いた。
2009 6・20 93
* 平塚八兵衛「刑事一代」後半をまた面白く、感銘を受けながら見おえた。俳優がみな一新に努めていて気持ちが良かった。
* 三億円事件で、みずから降板した平塚を、遙かな末輩がこころなく嗤っているのへ、平塚のえらさを熟知してきた上司が激怒する場面があった。
これだと思った。
高村光太郎の苦渋も痛悔も知らないいまどきの詩人や非文学者たちが、平然と光太郎の戦中の戦争讃美詩や戦意高揚の文章を芯にとりあげ「作品・抄」を成して、体裁上は「招待席」に置き、ひとかどの批評や言論の積もりでいる。わたしでも激怒する。
2009 6・21 93
* マイケル・ジャクソンが急死した。
彼のダンスの天才には真実舌を巻き敬意を覚えてきた、彼のまだ小さい頃から。いろいろ問題も多かった若者だが、棺を覆うて遺るのはやはり卓越した彼の天才であり、惜しみて余りある。正直のところ歌は言葉のハンデで受け取れていないのだが、ダンスは翻訳して貰わなくて済む。わたしは、ことにダンス、舞踊という藝に心を惹かれるタチなのであって。
明らかにマイケルの登場によって、人間のダンス表現が飛躍的に面貌と表情と技術とを革新したことは、理解できている。どんなスキャンダラスなゴシツプがあっても、彼が踊り出せば忽ちに魅された。
* 大げさに騒がれている亡き石原裕次郎には、彼の生前からまるで何も感じなかった。胸にさざ波も立たなかった。まして、あとへぞろりとくっついた「石原軍団」なる白痴的な大根男どものつまらなさ。群れて束ねられた、漱石が軽蔑した「槇雑木(マキザッポウ)」の男なんて、見苦しいだけ。みんなで歩けば怖くないのか。
2009 6・27 93
* 来るモノを待って、ボーゼンと過ごしている。それもいい。
晩は、思いがけずブロードウエーのトニー賞のパーティを放映していて、最初から最後まで観ていた。こういう根気はめずらしい。さすがにショウの本場らしい構成と演出、それに顔ぶれに魅されていた。
2009 6・28 93
* 本の出来てくるどんヅマリへ来て、今日は奮発、たくさん作業をした。明日もう一日フンバルと、まあまあメドは一通り立つ。
一つには、今日は、何度も何度も観てきたサンドラ・ブロックの映画『インターネット』を二度耳で観ながら作業に精を出した。面白い映画だ、昨日観たアレック・ボールドウインとキム・ベイシンガーの『ゲッタウエイ』よりサスペンスの味に自然な画品と急迫とが生きている。機械に馴染んで暮らしているから、もう何度目か、新しく観るつど機械の怖さも真に迫る。見飽きない映画の一つ。
2009 7・1 94
* 仕事、仕事。進んでいる。前半をプリントしてみた。外へ持ち出して読みたい。プリントしながら、久しぶりに隣の機械で映画を観ていた。
2009 8・2 95
* 晩、完全版ルキノ・ビスコンティの映画「山猫」に惹かれて観ていたが、寺井から井口哲郎さんの電話があり、久しぶりに和やかな話題でお喋りを楽しんだ。井口さんとは話したい話したいと思っていた。堅苦しくなく義務的にでもなく、なにか一緒にできること無いかなあと考えていた。メールと電話とをうまく使いこなせば、これからも話せる。嬉しくなった。
2009 8・5 95
* 昨日、バート・ランカスター、アラン・デュロン、クラウディア・カルディナーレの完全版『山猫』を観おえた。ルキノ・ビスコンティの歴史的な名作として聞こえ、シシリーが舞台の近代歴史劇。意想外に深刻な感銘を受け、思わずたじろいだ。
シシリーは、ギリシア、ローマ、エジプト、オリエント等の文化、またイギリス、フランス、スペイン等の侵略と支配とにもみくちゃにされながらイタリア國の独立に必然巻き込まれて行く。
数千年、混淆し爛熟してきた地中海文化の宝石のような島國。そのややこしさを一身に象徴的に体したサリーナ公爵の身動きもママならぬ誇り、苦しみ、底知れない諦めと抱き合った絶望の吐息を、少し身を固くして聴いた。行方知れぬ街の小路の暗闇に音もなく姿を消して行く公爵。凄い終幕。
* わたしも贔屓にしていた酒井法子という女優の痲薬がらみの失踪が騒がれている。もっと馴染み深くもっと贔屓にしていた美人女優大原麗子の難病に蝕まれた凄惨な孤独死も聞く耳につらく盛んに報じられている。胸ふさがる。
2009 8・7 95
* 女優の酒井法子容疑者が出頭したと。うんざりだ、へんに痛ましくてやりきれない。
2009 8・9 95
☆ hatakさん 終戦の日に maokat
永く抱えていた論文の一つを、米国の雑誌に投稿しました。これから審査で安心していられないのですが、肩の荷は一つ下ろした気持ちです。
久しぶりに書いたものをお送りします。今日に間に合いました。
自転車転倒、よろしくありません。くれぐれもご注意ください。
たん熊北店で昼飯をごいっしょしたいです。機会ありましたら。
立秋も過ぎました。ご自愛下さい。
* 幸いいま用いている貼り伏せのゴムが優秀なのか、膝下も肘下も痛痒無く経過し歩行にも動作にも違和感はない。繰り返していると骨に損傷や大怪我が出るとまずい。注意します。
* maokatの寄せられた長いエッセイは或る映画を語って、気が入っている。わたしは観ていないが映画好きの人は此処で「私語」を聴いて下さる人たちにも多いのを知っている。正確に言えば映画『愛を読む人』を語りつつ原作『朗読者』に入り、また映画を観てさらに思いを原作と映画とに注いでいる。「終戦の日に」の思いが戦争とも生とも死とも人間とも濃く関わっている。数日の内にさらに推敲が加わるかも知れない、「e-文藝館=湖(umi)」はよろこんで頂戴する。
若い友達には映画を勉強している院生もいる、刺戟になればして欲しい。
映画はわたしも大好き、だが、ここまで踏み込んで感想を書いたことは無い。それでも執拗なほど胸の思いを少しずつ吐露した感動作は幾つも過去にあった。『グラン・ブルー』が思い出せる。『蕨野考』もそうだった。いま一升瓶の空き箱にぎっしり入れて手近に運んである映画の録画板をざっと観ていたが百数十枚ある。階下に数倍もある。題名を拾うだけで胸がわくわくする。ことに日本映画は選りすぐっているので今すぐにもつぎつぎと観なおしたいが、そうは行かない。だが「蔵書」にならぶ「蔵画」とでも謂おうか、大切に思っている。
2009 8・15 95
* 一九四五年、満十歳に四ヶ月余をあましていた。敗戦後の開始。暑いがからっと空の青い真夏だった。
* 今日昼過ぎ、あの真夏敗戦から二年ほどの「日本」を、克明に証言してくれる人たちの話を聴き、いろんな映像を観ながら、何度も何度も何度も声がつまり涙溢れた。証言している人たちのおよそ下限齢にわたしも妻も当たっている。およそどんな話も場面も実感とともに観も聴きも出来る。
わたしたちが観るだけでなく、子供達に孫達に曾孫達に見せたい聴かせたい証言だった、映像だった。惨憺、悽愴、無念。敗戦後のあの日本を二度と再現したくない。しかも、ある懐かしいほどの価値も「あの空気」は秘めもって、その「空気」を六十四年の内に我々は、日本と日本人とは、無残に見失ってきたというべつの無念も甦る。くやしく甦る。
二度とイヤだ、だが今日只今はそんなに素晴らしいかと顧みるのさえ悲しく、人も國もじつは衰えている。
* 娘よ、息子よ、孫よ、若い友どちよ。手放しに生きてはいけないと思うよ。
2009 8・16 95
* 晩、名画「ニュールンベルク裁判」を暫くぶりにまた観た。裁判長スペンサー・トレイシー、検事リチャード・ウィドマーク、弁護士バート・レイノルズ、被告四人のうちにバート・ランカスター、証人にモンゴメリー・クリフト、ジュディ・ガーランド、ドイツの元貴族夫人にマレーネ・ディートリッヒ。この錚々たる顔ぶれを微塵のブレもなく活躍させて息を呑む劇映画が、ナチスドイツの犯罪を、最も納得行く地点から感動豊かに判決した。多くの裁判名画を観てきたが、最右翼に位置し、襟を正させる。
2009 8・21 95
* 晩になり、小津安二郎監督の大映映画『浮草』を観た。みごとな現代の名作。
海外で優れた賞を得てきた溝口健二の『雨月物語』もちょうど観かけているが、この『浮草』は凌駕している。先代中村鴈治郎、京マチ子、杉村春子、若尾文子、川口浩らを取り囲んで、柳智衆、三井弘次、田中春夫、平凡太郎、野添ひとみ、櫻むつ子、浦辺粂子、賀原夏子、菅原通済らががっしりワキを固め、脚本の、科白の優秀堅固、比類がない。
小津の映画はたくさん観てきたが、わたしは、この作に一二の指を折りたい。大感動作でもスペクタクルでも壮大な物語でもないが、印象は志賀直哉の優れた短編の文体・文章に通う。リアリズムの極が象徴性を帯びている。鴈治郎の、杉村の卓越した演技力、京マチ子の意気地と女、若尾文子の可愛い限りの色気と純。痺れた。こんな好い映画をわたしは久しく見遁していたのだ、情け無い。
「小説」として読んでいたら、とてつもない通俗な筆で人情劇にされているだろう、志賀直哉の味などどこにも出ないに決まっているが、ひとたび小津安二郎の「映画」に成ると、即、直哉の名作秀作に匹敵し相似した感銘のリアリズム作品になる。
小説と映画とはまるで「べつの表現」なのに「精神が通い合う」ことがある。箸にも棒にもかからぬ通俗小説が、映画の超一級に成る。成りうる。それを覚えていたい。
2009 8・26 95
☆ お元気ですか、風。
BS2での「浮草」を、三十分くらい過ぎてしまっていましたが、見ましたよ。
これまでわたしの見た小津映画の中で、ベストでした。
なんだか、誇らしくなりました。今も、少し高揚しています。
どの場面も、隅の隅まで神経の行き届いた構図で、見ていると、それが窮屈でなく、とてもいい気持ちになってくるんです。
あの独特の棒読みみたいな台詞演出が、効果的に感じられました。
プロフェッショナルだなあ、と思いました。
空が、うろこ雲。早すぎる秋ですね。
一つ、一つ。元気にやります。ではでは。 花
* 「浮草」を観てしまうと、名品と評価された溝口健二の映画「雨月物語」すら、つくりものに感じられます。「浮草」は小津映画のなかでもひときわの名品で、ああ見遁さなくて良かったと、溜息が出ました。
あの会話、あれこそわれわれが日頃の会話ですよ、われわれは片言を繰り返しているだけで用を足しています。演説なんかしていない。文学では、久保田万太郎のほかにはあんな会話は書きませんが、映画での、小津の、人間と日本語への理解は優秀です。
京マチ子の国定忠治には笑っちゃいましたが、あれでいい。いい顔をしていました、あのラストのよろしさ、バンザイしました。
成駒屋は真実名優でした、映画でも。あの間のいい上方のことばづかい。杉村春子もさすが。
文化財に指定したいような好い映画でした。 風
2009 8・28 95
* 溝口健二の『雨月物語』は、小津安二郎の『浮草』のあとでは、いまいちだった。
ジャック・レモンとシャーリイ・マクレーンの『あなただけ今晩は』のほうが楽しめた。シャーリイは美しくジャック・レモンはうまい。
2009 8・29 95
* 九月には単発だが息子のテレビドラマがあり、十月には小劇場で作・演出の新作を「秦組」でやると聞いている。新作の小説もうまくすると二冊相次いで出版されそうと。いろいろ、やるがいい。
2009 9・1 96
* 韓国のドラマ「イ・サン」を初めから、興味深く面白く観ている。いままで「チャングム」を時々観ていたが。韓国であるのか李朝朝鮮であるのかうかと見過ごしているが、とにかくも宮廷文化が、どの程度まで厳正に写されているかは分からないけれど、かなりの位高さは察しられ、画面の品位に、中国映画のそれらより清潔な魅力を覚える。こういう魅力を最初に教わったのは亡き立原正秋さんの『冬のかたみに』であった。
少し心して朝鮮半島の貴族的文化のいかようであったのか、見つづけてゆきたい、これまで余りに蔑ろにして来すぎたのを反省。
2009 9・13 96
* アメリカは原爆を利用した国であり、その限りにおいて「戦争終結のため」などとどうリクツをつけようと、その戦略はテロ行為に等しかつたし、許されない。許さない。
あの「九・一一テロ」と、ヒロシマ、ナガサキの無辜の市民を一瞬に十万、二十万殺戮したのと、なにも、決して、「ちがわない」のである。アメリカがリクツを立てるように、タリバンも同じリクツを云っている。それだけだ。
ブッシュが報復の戦争をアフガニスタンに、またイラクに仕掛けて恥じなかったことは、アメリカの恥でもあった。だがアメリカ人たちはそれを自覚出来なかった。「九・一一」犠牲者の「名」を利してブッシュはアメリカの国民を平然巻き込んだ「報復戦争」にリクツをつけたが、少数ながら、ブッシュのそんな恥無き行為に対し犠牲者の遺族が、敢然と不同意・反対の声をあげていたのは、それこそ「自由と言論表現」のためにアメリカが誇っていい勇気あるプロテストであったし、理性と愛による平和希求の声そのものであった。
だが、ほとんどのアメリカ国民は、犠牲者少数遺族のそのような理性と平和願望の声を、暴力的に蹂躙した。迫害した。少数意見としても受け容れる度量と知性を欠いた。アメリカの魂は、ほとんど悪魔に売り渡されたに等しかった。
少数意見を容れる寛容と自由の精神を、自ら棄てたのだから。
* ピースフル トゥモロー。少数の虐げられた運動に思いを送る。いい番組と出逢った。
2009 9・19 96
* 映画「おくりびと」 完璧。
笑って、泣いた。監督・脚本・出演者その他に、敬意を表する。アカデミー賞に選んだ識者たちにも敬意を。本木雅弘、広末涼子、山崎努、余貴美子、吉行和子、笹野高史、杉本哲太、その他、また死者をみごとに演じてくれた人たちにも感謝する。
* 息子に云ったことがある、日本映画が少なくも数年前から俄然また良くなってきているよ、甘い考えで半端に映画に手を出したら恥ずかしい目に遭うよ、と。
嬉しくなるほど日本映画近年の秀作を幾つもコピーしてきた。この「おくりびと」は、中でも完璧の達成で、身震いするほど、観ていて嬉しかった。
* わが家では、少なくもモックンが徳川慶喜を演じて以来、そしてお茶の「伊右衛門」のコマーシャルも含め、演技派本木の大フアン。
広末涼子は、多少苦手なのにかかわらず、特異なセンスと演技力とで掴まえてはなさない実力を、十年も前から認めている。「おくりびと」でも期待に応えて余りあった。
余貴美子の存在感も端倪すべからざるモノと以前から知っていた。
山崎といい笹野といい、みなちから溢れた俳優達がこの異色の映画に「打ち込んだ」感触はみごと。満足、満足。
2009 9・21 96
* 「ダメイジ」という「性悪説」の証左のような妙なドラマを観ている。気分が悪くなる。複雑そうなツクリをしているけれど、これでもかこれでもかとやっているワリに、手口はワンパタンで深い感銘は無い。優れた連続ドラマを幾つも見てきたが、それほど「ダメイジ」が上出来とは思われない。「コンバット」「ER」ほどではない。
2009 9・24 96
* 局編成上の都合であろうが、衛星洋画が、これでもか、これでもかと刺戟的なバイオレンス場面を見せつける。こういう映画の造り方は「質」に重きをおかず、量的にもっともっとと刺激を強めるのをコトとしているから、印象は意外にワンパタン。
洋画がせっせとその路線を強めているうちに、日本映画が「質的」感銘作の例えば「おくりびと」などを完璧に創ってくれる。一層期待をかける。
2009 9・29 96
* 息子が脚色した「ドラゴン櫻」の何度目かの放映があり、今朝、いいところを観た。この父親は、息子の書いた連続テレビドラマでは、この「ドラゴン櫻」と、「ほかべん」とがお気に入り。二つとも原作漫画の脚色であるらしく、オリジナルでないのは残念だが、ふたつとも彼の創意創案もふくまれているらしく、「好き」である。「反骨の表現」が好きである。
「ラストプレゼント」もよかったが、時が経つと甘い残り味がかえって感興を薄めている。「ドラゴン櫻」は主役阿部某クンの颯爽とした芝居が目立った。若い生徒諸君もたいへんよかった。
* マリリン・モンローとジョゼフ・コットンとジーン・ピーターズの映画「ナイアガラ」は、かねて観たいと待望していたのを、今日、やっと観られた。
主役は「ナイアガラの瀧」。どきどきした。モンローの悪女役をはじめて観た。
* エチェリ・グヴァザーヴァの唱う歌劇「ラ・トラヴィアータ 椿姫」を聴いていた。ことに第一巻が躍動する。アトヘ行くのは辛い。
* エチェリ・グヴァザーヴァの唱う歌劇「ラ・トラヴィアータ 椿姫」を聴いていた。ことに第一巻が躍動する。アトヘ行くのは辛い。
* ものをみて、読んで、そして熱を入れて「仕事」していると「私語」は減る。
* 九月も逝く。
2009 9・30 96
* このところスティルバーグの「ジュラシックパーク」を三作観たが、やはり二番煎じ三番煎じほど「これでもか」となり、要するに気味が悪い。第一作は単純に驚きながら楽しんだが。
なにを観ても読んでも、このところでは阿川弘之『志賀直哉』と、新約聖書『マタイ傳』が圧倒している。永井荷風の『腕くらべ』のあと『あぢさゐ』『つゆのあとさき』と次いで、いま『ひかげの花』など、みな、特別の情緒も感じない。『墨東綺譚』で清い感じに触れて荷風を終えたいもの。
2009 10・3 97
* 晩は休息して「爆笑問題」の長時間番組をおもしろく聞いていた。この二人がはじめてテレビに現れた頃から、気になるヤツらだった。順調に爆笑とバクダン爆発に励んでくれている。こういうテロリズムには賛成だ。
2009 10・9 97
* ウォーレン・ビィティーとフェイ・ダナウエイの名作『俺たちに明日はない』に、やはり強烈に惹きつけられた。二つが一つになり空になった。「身内」の劇として最高の一つ。それが分からなければこの映画など意味もなくなる。
2009 10・12 97
* 小津安二郎の映画『秋日和』をまた観た。気持ちよく笑った。笑う映画ではないのに笑えるのは有り難い。原節子、司葉子、岡田茉莉子、三宅邦子、沢村貞子、それに佐分利信、中村伸郎、北竜二、佐田啓二、柳智衆。何度観ても心地よく笑って、ほろりと。そのまえに『CSI』のどぎついストリート・ギャングの暴行映画を観ていた。比較を絶していた。
2009 10・21 97
* 予定したよりやや多く作業を進めた。
その間に、幸田文の原作、市川崑監督の「おとうと」を聴いて見ていた。川口浩の弟、岸恵子の姉、森雅之の父、田中絹代の継母。画面の色調に一風は感じたが、物語はさほども変化無く。室生犀星の原作で、森雅之と京マチ子の「兄いもうと」の方がおもしろく観られた。韓国のドラマ「イ・サン」はもうただの俗流ドラマになっている。
2009 10・25 97
* 法律事務所からの大量文書、昨夜に全部プリントしておいたのを読んだ。事務所へも、返辞をした。
疲れて、夕食前、倚子でうたた寝した。夜分は予定の用事をこつこつと。この用事の時には、日本語の映画をそばで流しておくのがいちばん効率がいい。今晩は渡辺謙がいい仕事をしている「硫黄島からの手紙」を。切なかった。
* 体力をかばいかばい、いまは余計なことは何もしない。
2009 10・27 97
* 手も掛かり気も遣う作業を一つ済ませた。次の段階へ今晩の内にも移行し、先を急ぎたい。仕事も用も済ませてしまうほど、心身も解放される。溜め込んではしんどくなるばかり。長谷川一夫、山本富士子、若尾文子、中村鴈治郎、市川雷蔵、柳永二郎らの娯楽大作「雪之丞変化」を聞いていたが、ばからしい。若尾文子のとろけそうな可愛らしさ、山本富士子の美しさだけがご馳走であった。娯楽ものもこう程度がわるいとしらけてしまう。
2009 10・30 97
* ビデオで少しずつ区切ってみているが『渚にて』という映画に引きよせられている。核爆弾の戦禍で北半球が死の世界に成ってしまっている。むかし評判だった作にいまごろふれている。
2009 11・2 98
* キャメロン・ディアズが妹役を演じる「イン・ハー・シューズ」とか謂った、いい、心優しい姉妹の映画を観た。グレゴリー・ペック、エヴァ・ガードナー、アンソニー・ホプキンス、フレッド・アステアらの、「渚にて」も凄いと叫びたくなる怖い深い佳い映画だった。佳い映画に出逢うのは幸せである。
2009 11・3 98
* 髪をかきまぜても痛みはないから、風邪とも思わない。なんにもしないで、日を送り迎えている。かなり長いと思える映画「ドクトル・ジバゴ」を、深い関心をよせて、半ばほど観た。昨日はマギー・マクナマラにウイリアム・ホールデンとデビッド・ニーブンという色男二人が絡みつく、シンプルな会話劇を観た。台本が手もとに在ればいい英会話の練習になりそうだった。
明後日に始まる今度の発送は、常に倍する重労働と分かっている。いまアクセクしても始まらない。
2009 11・8 98
* オマー・シャリフとジュリー・クリスティーの映画『ドクトル・ジバゴ』を観た。胸にしみいるロシアの「風景」──階級・政治・人民・人間・恋愛・家族・別離・死と希望──辛い映画でありみにくい世界が描かれながら美しい作であった。原作を読んでいないが、読んでみたいと思う。
2009 11・9 98
* ベルリンの壁が無くなって、二十年。東ドイツのまだ少女だったウルリケ大統領が、こころからの謝辞を当時のソ連大統領ゴルバチョフ氏にささげていた。感慨深い。ワレサ氏の一押しで長大な、あれは将棋倒しとでもいうのかパフォーマンスが。
極東の我々には当時でも遠い遠い異国のことといいながら、とうとう…という感慨があった。「二十年後」の感慨は、観ようによれば「二十年前」よりもズシンと胸に残る。あの9.11のテロも凄かったが、匹敵するベルリンの壁崩壊だったと思い当たる。
* 「ドクトル・ジバゴ」また「上海の伯爵夫人」と昨日は祖國と世界との激動に揉まれながら見出されて行く人間愛の劇をしみじみと観た。つらい映画だったが、どんなに心救われていたことか。ジュリア・ロバーツが美術の教師として、超級保守名門女子校で、爽やかな独特の授業を続けて生徒達の親愛をかちえながら、決然と学校を去って行く映画も二三日前に観た。自立そして自由。大切。
2009 11・10 98
* 尊厳死を描いた映画「海をとぶ夢」に、惹きつけられた。胸に迫った。
2009 11・13 98