ぜんぶ秦恒平文学の話

映画・テレビ 2010年

 

* 夜は、建日子と、クリント・イーストウッドの新作、なにとやらアメリカ産の伝説的な自動車の名前の映画を観た。
2010 1・1 100

* 妻と、静かな三が日おしまいの夕食を済ませた。その前後に、ジェームズ・スチュアート、ジューン・アダムス、アーサー・ケネデイの「怒りの河」を観ていた。
2010 1・3 100

* 空念仏ならゆるさないが、いまのところわたしは信じたいと受け容れている、というのは、鳩山総理をはじめ官房長官以下の閣僚達も、わりに自然な口調で「国民の皆様」と云うている。かなり頻繁に自然に云うている。これは過去の諸内閣では絶無のことであった。
自民党内閣では「国民の皆様」は終始一貫コケにされて、「投票してくれるアホウ」扱いだった。めったなことに口先だけでも「国民の皆様のため」と云うことは無かった。
「国民の皆様」内閣とわたしは鳩山民主党内閣を受け容れ、且つ監視している。いまのところ軽薄なマスコミよりも「国民の皆様」内閣に期待している。

* わたしは、あの戦時下での日本の新聞がどんなに恥ずかしい報道をし、いやが上にも「国民」を愚弄し、馬・牛によりも手ひどいメに遭わせたかを思い起こせるように、いつも心がけている。あの頃はテレビがなかった。雑誌もすくなかった。それでも被害甚大であった。
いま、テレビの「狂騒」を見よ。
再々逮捕された痲薬タレントに象徴される連中を、高価な電波を濫費してお國がかりで遊びに遊ばせて遣っている。「国民の皆様」の生活に、報道してもらってなんら役立たない、関係のない、ホンガラの男と女のたわけて騒ぎ回り、くっついたり離れたりなどをカメラで追いまくるだけでなく、耳も汚れそうに「国民の皆様」にねじ込んでくる。「知らないでいたい」「見ないでいたい」権利をどうしてくれる。
秀でた藝、せめて水準の、まじめなタレントで喜ばせてくれる藝人やタレントがわたしは好きで、親愛も、時に尊敬も惜しまない。わたしは、早く早く早くから「藝能差別」に対し真剣に抗議し続け、そのために書いてきた作家の一人だ、懸命に書いた小説や批評の作を見てくれれば分かる。
そのわたしにして、藝のない、吹けば飛びそうな「藝ノータレントども」の放埒な跳梁ほど苦々しい五月蠅いことはない。マスコミが悪い。ひどい政治屋、ひどいマスコミ、ひどいノータレント、そしてひどい大企業主が、わたしは大嫌い。
もっと嫌いなのは、文学をじつは足蹴にしながら、文学者ふうの顔をして内心は、地位や勲章を待ち望んでいる、似而非の連中。
2010 1・5 100

* 大原麗子の出ていた「寅さん」映画に笑って、泣いた。大原麗子。いい感じの女優さんだった。懐かしい。
2010 1・7 100

* 宵のうち、映画「麦秋」を観た。原節子、柳智衆、三宅邦子、淡島千景、菅井某、東山千栄子、杉村春子、二本柳寛、佐野周二、宮口精二。名前を書き並べるだけで、懐かしい。昭和二十六年。わたしは四月に新制の高校生になった。小津安二郎の画面を見ているとずいぶんもう時代が落ち着いている。あんなだったろうか、もう、と思いながら京都の叔母のお茶やお花の稽古場を想い出すと、あのころからずんずん稽古に通ってくる人が増えていたと。そして、稽古場での話題は、縁談が有ると無いとだったなあと思う。わたしはあれでちゃんと耳を澄ましていた。
2010 1・27 100

* 昨晩は好きな藤田まことの「剣客商売」を、今晩はクリント・イーストウッドの「タイトロープ」を観ていた。二、三日前に観たピエトロ・ジェルミ監督の「鉄道員」は名画の一つだった。

* もう、日付が変わっている。すこし落ち着いて眠りたい
2010 2・6 101

* 藤田まことの急の死に驚愕し動揺した。
惜しい。
すばらしい役者に円熟していた、つい先日見た「剣客商売」も、そのまえに観たいわゆる戦犯映画の「明日への遺言」でも。素晴らしい「達成」とみえていて敬服していたのに。ほんとうに、てなもんや三度笠の昔からわたしは彼を見てきた。京都の刑事の「音やん」などもいい味であった。「必殺仕置人」なども藤田まことが出ているから観られた。平成に入って、最も惜しい俳優に死なれてしまった。
2010 2・18 101

* 仕事しながら藤田まことの最新の「剣客商売」と、映画「明日への遺言」を耳に聴いていた。惜しみて余りある。
2010 2・19 101

* 贔屓の田村正和の「樅の木はのこった」を観た。押しつけがましいほど明瞭な解釈で劇化していて、楽しめた。時代劇をやらせたら堂に入っている。むかし、あれは延二郎(延若)ではなかったか、の「樅の木」を観て、印象的だった。連続ドラマであったのかもう記憶が怪しい。歌舞伎で「先代萩」は何度も何度も観ているから、妻など、あの仁木弾正が原田甲斐にあたると分かって、目をむいていた。
2010 2・20 101

* 下前歯が不愉快に痛み、文字通り閉口。肩の凝る、目の疲れる校正でなしに、いい気分転換がしたかったが、明日は展覧会など観られないし。隅田川の橋を渡りに行くか。

* 痛み止めをのんだせいか、局所の不快感とともにぼんやりした気分もある。今夜は早くやすもう。冬季オリンピックに夢中で感激している人もいるようだが、わたしには気遠い。葛西がラージヒル予選で大ジャンプで一位だったとき、次の幸運を祈ったが、期待は出来なかった。
今回冬のオリンピックは、総じて不成績との予感が動かなかった。
勝つとか負けるとかに興奮するのが少し鬱陶しかった。
藤田まことの死の方が、はるかにわたしを深くで捉えている。荻野目慶子という不気味に臭い演技派女優と競演していた記念番組「追いつめる」も。「理屈にあわなくても」といったか「勘定が合わなくても」といったか「いいでしょ。男と女のことは」と女はモチーフを何度かくり返していた。一度二度で足りているのにと思ったが、このつよい把握が、表現もつよくしていた。大人が書いているなと感じた。ゆうべの「樅の木はのこった」よりも、いま一段人間の剔りを深くしていた。
2010 2・21 101

* チャールトン・ヘストン、ユル・ブリンナー、アン・バクスターらの「十戒」をもう何度目か、しかも惹き付けられ全部見通した。旧約聖書をつぶさに読み継いできて、印象が相乗効果をもったか。大作なのだが、大味の難覚えず。
2010 2・25 101

* 妻の留守番にまわり、終日、作業にうちこむ。能率良し。映画「インデペンデンスデイ」を面白く観た。三組の男女愛や親子愛を巧みに綯い交ぜて、破天荒のSFドラマニ仕立てていたのが成功していた。ウイル・スミスらのサッパリとした好演が利いた
2010 2・28 101

* 晴れて明るい。
夜前そして今朝、作業しながらステイーブン・セガールの三流映画二本を観るともなく「聴いて」いた。セガールの顔に馴染めない。ときにマシな映画があり、ハートのある俳優だと思っているが、昨日今日のはつまらない。ただ、馴染みのない印象的な女優が一人ずつ(アグニェシュカ・バグネル、アンナ・ルイーズ・プローマン)出ていた。それだけでも映画は観ていられる。映像の誘惑だ。発送の用意、またかなり進んだ。
2010 3・2 102

* 夜おそくなってから「ベン・ハー」の後半を観た。旧約聖書を悉く読み、新約聖書の四福音書も使徒行伝もよみあげて「ロマ書」に聴いているわたしには、胸にせまる。堪えきれず眼が熱くなる。「十戒」についで、大作だが大味に落ち込まない佳い映画だ、最期までよく描かれた。ありがたいと思った。
2010 3・4 102

* 日本のアカデミー賞、主演女性で松たか子、男性は渡辺謙が最優秀賞。当たり前のような結果である。
2010 3・5 102

* 妻が歯医者への、また整髪への留守に、ジョン・ウエイン、ロバート・ミッチャム、ヘンリー・フォンダ、クルト・ユルゲンスらの「ザ・ロンゲストデー」を茫然と観ていたが、午後一時半頃から六時半まで、ぐっすり寝込んでしまった。
2010 3・13 102

* 犀星原作という『火の魚』というドラマを観た。落ち込んでいた作家と孤心を抱いた若い女編集者との逢いと別れだが、老境へ入っている作家の境涯の甘さが物足りなかった。むしろガンで死んで行く女編集者の表情に表現されていた体温のある諦念の方をわたしは受け容れた。
2010 3・13 102

* 家に落ち着いてから、台湾製の映画か『五月の恋』というロマンチックな佳作を、しみじみと観た。台湾とハルビンというかけ離れた世間を不幸に引き裂かれた一家の歴史に巧みに事寄せ、初々しい恋が芽生え、育っていた。端倪すべからざる収穫と観た。
2010 3・14 102

* ずいぶん以前、なにげなく韓国の連続ドラマか、『イ・サン』という宮廷ものを見始め、暫くのあいだ観ていたが、中断したか飽きたか、それなりになっていた。先週、またたまたま放映の続いているのを見つけて、今夜も観た。どうも図式的な勧善懲悪ドラマへ集約されて行きそうではあるが、見知らぬ風俗で、なまじの西洋ものよりも珍しくて今夜も面白く観ていた。まだ先が長そうだ。
2010 3・14 102

* 始まっていた映画「大統領の陰謀」 少し尻切れトンボであったが、迫力があった。ロバート・レッドフォードもダスティン・ホフマンも見せてくれた。
2010 3・15 102

* いつも元気なコマーシャルで好感している相武紗希が、海老蔵や津川雅彦の向こうを張って、ヒロイン役を巧みに演じた松本清張原作の『霧の旗』、必ずしも秀逸の脚本でも演出でもなかったけれど、相武の人柄の出たおおどかにしたたかな好演で終盤を盛り上げ、納得させた。
反面、海老蔵と戸田菜穂とで演じた愛ある二人は、役者の下手で、ピンとこなかった。むしろ海老蔵の妻役や、マシンガントークで売っているポッチャリホステスが嵌っていた。
原作が佳いので、見せ場はきっちり出来た。
2010 3・16 102

* 関脇バルトと横綱白鵬の十一日目の全勝対戦は、真っ当に横綱の圧勝。これは面白かったし、バカげてもなかった。眼力の差が出ていた。

* 眼力といえば、映画「追想 アナスタシア」のバーグマンの眼が輝きと力と不思議さを帯びて美しかった。皇太后との会見の不可思議なほど懐かしくも妖しい「対座」の魅惑。文学といい映画といい、また美術工藝といい、そして演劇も加えて、面白くてバカげていない魅惑は、在る。だが、出来る限りその魅惑が「生きた人間の熱と誠実」とに支えられてあれば、なおさらだ。
2010 3・24 102

* 川越という町に、これで四度ほどは出掛けた。喜多院という櫻も咲きまた貴重な「職人尽繪」も持った、徳川家に由緒あるお寺がある。加えて火の見櫓などもある古い町並みを保存していて、しかも和も洋もけっこう旨く食べさせる店や、土産の店もある。土産物には興味はないが、花と職人尽繪と食い物の町並みには親しめる。所沢から行き、また池袋へも戻って行けたが、今は有楽町線の小竹向原駅をつかうと、もっと小回りで往来が効く。電車に乗りでもある。
ぼんやりしながら、ふと思い出しては『エイジ・オブ・イノセント』を読んで行く。エレンスカ伯爵夫人の魅力と個性とが横溢し始めていて、なかなか迫ってくる。魅され惹かれてゆくアーチャーの気持ちにのっかて行けば作中世界をドキドキしながら歩んで行ける。心身の疲れた七十半ばの爺の言うことでは、ない、か。いいじゃないか。

* ミッシェル・ファイファーというと、題は二つとも正確に覚えないが、一つ、夜は美女にしかし昼間は美しい鷹にかわるという神秘的な伝説絵巻、もう一つ、ショウ商売に落ち目の兄弟ピアノ弾きに雇われ、ボーカルの役をする翳りの濃い魅力の女の出る映画、をわたしは思い出す。題が思い出せると、話が今少しキマルのだが覚えがわるい。
2010 3・26 102

* 蕗の薹、たらの芽、椎茸、玉葱などを天麩羅で。
卒業生が富山の美酒を送ってきてくれたのと焼酎とで、気持ちいい夕食。
そのあと、三度に分けていた映画「ジュリア」に感動。ユダヤ人女性の最良の知性と意気とが、ことなる方向へ展開した二つの人生のなかで、生死をわけて激しく沸騰し悲劇を迎えて行く。深い愛を演じて見応えあるジェーン・フォンダとバネッサ・レッドグレーヴの競演は、アカデミー賞を競うに足りたちからある包容と抱擁の美しさ、敬意を覚えた。
こういう渾身の愛と人間とを描いて見せられると、安易で安直な吹けば飛ぶようなつくりものに奔走し、ひとかどの顔をしてしまう作り手にだけはなりたくないと思う。
2010 3・28 102

* テレビは観ないと云っておきながら、思い立ち、『熱いトタン屋根の猫』のエリザベス・テーラーに逢いたくなった。文字通り「絶世」の美貌と真っ向から迫ってくるリアルな、しかも精神的な演技力などくどく云うまでもない。夫役ポール・ニューマンの屈折を陰翳の美しさで発射してくるリアリテイーの確かさも、父親役の演技賞ものの好演も、それぞれにしたたかな存在美を輝かせながら、しかも人間のウソのかなしさと真実の恐ろしさの前で、思わず泣けてしまったのは、思わぬ感動、嬉しい感動であった。これぞ「科白」劇の極致。ほとんど一瞬の脇見すらゆるさない、間然するところないさすがの名画で。気まぐれから、儲けものの好い時間が獲得できた。
2010 4・30 103

* 資料やゲラを読みに出掛けなければ。どうしても机のある階下へおりても、目の前でテレビが鳴っていては思案も何も。なんであんなにテレビを付けっぱなしでないと暮らせないのだろう。
来週は月曜歯医者、それに演舞場歌舞伎がある。、次週は夏場所、次いで俳優座があり、そして講演旅行。それらの間に、「湖103」を、桜桃忌メドにうまく進めないと、これが遅れると、七月法廷の心用意に障ってくる。忙しい老人だこと。
2010 5・7 104

* 夕食の後、ルノアールの絵画と人とをテレビで観ていた。息子のジャン・ルノアールや親しかった画商の想い出の証言や、ルノアール画法に理解の深い女性画家の画技をまじえた実地の解説などを織り交ぜながら、ルノワールの中年以降、生涯の愛妻となったアリーヌとの出逢いの頃から死までを、つぶさに見せてもらった。感動で胸がつまり、涙の溢れるまま見入っていた。
こういう番組を、息子に、建日子にぜひ見てもらいたかった。
2010 5・8 104

* 発送のための作業をしながらジョン・トラボルタの低級な映画を聞いていた。何の楽しさもなかった。これなら先夜観たクリント・イーストウッドの『許されざる者』は優れていた。画面はしばしばまっ暗に近かったが、西部曠野の夕焼けなど、繪も美しかった。
2010 5・22 104

* 今日明日はすこし落ち着ける。発送用意を少しずつ進めるかたわら、むしろこの機械の操作にへこたれていた。いつもの通りに扱って転送するのに転送できない。五度も六度も繰り返したが出来ない。ま、機械も暫くしたらこっちを素直に向いてくれるだろう。
チャーリー・シーン主演の「ホットショット2」とかいうお遊びのアクションものを観たり聴いたりしていたが、映画はたわいないが、すてきに色気の美しい女優が出ていて、名前はとても覚えられなかったが、久しぶりに少なからず熱くなった。もうひとり結局は敵役で似た女優がいたが、似ていても、色気のタチと品とが違っていた。
2010 5・27 104

* わたしは「被告」として尋問を受ける。自分の弁護士からも、娘夫妻の弁護士からも受ける。資料を持参していいのなら、あらゆる形で完璧にちかく大量に揃っているが、素手で立つのであろうから当座の臨機応変で答えねばならない。講演のアト質問を受けるのとは様子は違うだろうが、忘れたことは忘れたと言う。なにしろ、今階下で観ていた映画の出演者の名前ですら、二階へ来るともう思い出せない。
『恋愛適齢期』のジイさんはジャック・ニコルスン、バアさんはダイアン・キートン。覚えていた。女の監督は、忘れた。軽量映画であった。
2010 6・7 105

* とにかく、しかし、眠い。四時半起きがこたえている。それでも一つ好いことがあった。「シャーロット・グレイ」という感銘作を観た。美女ではないがケイト・ウィンスレットの代表作として「タイタニック」を凌ぐのではないか。グググッと泣かされた。戦争の凄さ、国のために、愛のために戦争そのものと闘う市井の男女の不屈。こういう映画が好きだし、つとめてでも観るようにしている。
へとへと。さ、やすもう。
2010 6・12 105

* 昨日、映画「ウエストサイド物語」後半を見終えた。いろいろに大きな意味を手厳しく探った批評的な秀作・オリジナリティーに富んだ名作と謂えよう。映画館で初めて観たのは、日本医学會総会が名古屋で行われて取材に出張していた間の、或る晩の休息時だったと思う。シネマスコープの大画面は新鮮で刺激的で、海外のダンス映画にオリジナルな新生面をひらいたもの、音楽も歌詞もおもしろいと感動し興奮した。
その後にも繰り返し観てきたが、感動も興奮も衰えていない。敬意は増幅されている。ヒロインのナタリー・ウツド。リタ・モレノ。さしてジョージ・チャキリス。音楽のバーンシュタイン。振り付けは誰だろう。
ミュージカルとしてはそれより後に観た「シェルブールの雨傘」など習作は数々あるが、初めてダンス・ミュージカルを観たぞと心底実感したのはこの大作であった。
わたしは、ダンス、舞踊・舞踏が好きである。歌舞伎公演にいい所作事が予定されていると嬉しくなり観たいと思うし、「踊れる」役者や俳優、科白でいえば「科」の上手にはいつも敬服する。ダンスのうまさからいえば、チャキリスやモレノをしのぐ名手は幾らもいたし、今もいる。ただこの映画は、いろんな意味で「劈頭」を飾った。ジーン・ケリーやフレッド・アステアらのダンスを過去へ押しやる力を見せた。群舞の面白さを教えてくれた。今の目で観てけっして洗練されていないし絶対的な上手でもないが、心意気は若々しくて批評的なのである。名場面が幾つも幾つも有り、忘れられない。
2010 6・14 105

* サッカーは観なかった。吉右衛門と、岩下志摩・梶芽以子の、つねなら観ない「鬼平犯科帳」をぼんやり観ていた。もうやがて、日付が変わる。
2010 6・19 105

* 十時から、建日子が脚本監修の連続「逃亡弁護士」第一回を観たが、安心した。堅固に書けていて主人公の状況に相応に胸も騒いだ。中村獅童がさすがに役の味を滲ませ、歌舞伎の舞台でよりもしっかり演じた。むろん、これにはあのハリソン・フォードとトミー・リー・ジョーンズの秀作映画「逃亡者」が前提に思い出せるし、このドラマ自体になにか劇画風の原作が有るとも聞いている。それはそれで、それなりに第一回がっちり観せて呉れた。贔屓の北村一輝も大事な役で憎体にすでに登場している。ま、本で謂えば読み物だが、映像としてリアリテイとクウォリテイのある作に繋ぎつづけて欲しい、最初から及第点が出せる。うまくなったものだ。

* 建日子の弁護士ものは、阿部寛の「最後の弁護人」、上戸彩と北村一輝の「ほかべん」があって、「どらごん櫻」の阿部寛も職は弁護士だった。みな印象的に成功していた。世の中、いい弁護士もいるしイヤな弁護士もいる。わたしもこれで多少の体験を持っている。

* 気をよくして、今夜はもうやすもう。あすもガンバラねばならぬ。目が霞んでいる。
2010 7・6 106

* 先日、イングリット・バーグマンとウル・リブマン(?)の「秋のソナタ」を観た。以前に観ている、母と娘と娘の夫ともう一人の娘と。凄いとは、こういうズタズタの心理映画の揉み方を謂う。名優揃いで、女優だの俳優だのと思われない完成度。妻とだいぶ議論しながら観た。
今晩は休息の体で、娯楽活劇とでも謂うか、ジョン・トラボルタとクリスチャン・スレーター、それにサマンサ。二流作であるが、とにかくも睡いままにほぼ通して観ていた。
2010 7・15 106

* つかこうへいの代表作といわれる「熱海殺人事件」の舞台をデレビで観た。分かるという意味合いではもわーっと大体の推移は呑み込めている。つかさんの薫陶を受けた息子の多くの舞台からも察しがつきやすい、そして終幕へ来て圧倒的に盛り上げ、感動を胸の奥から鷲掴みに掴み出される。なるほど、と思う。
2010 7・19 106

* 八時前に血糖値測り、昨日ビデオ撮りしておいたつか芝居「熱海殺人事件」の見落としていた冒頭の追悼部と、開幕二十分ぶんほどを感銘ふかく面白く聴きかつ観た。いいものは、いい。
2010 7・20 106

* 夜前、疲れてもいてもう寐ようと思っていた目の前へ、松たか子のコクーンの舞台、サマセット・モーム原作「二人の夫と私の事情」がいま始まるという画面に遭遇、妻も私もこれはこれは断然観るべしとテレビに向かい居ずまいを直した。松たか子がとてもいい、よかった、からで、美しいいいモノに惹かれるという姿勢だった。
三幕芝居だが、第一幕だけでも完結したおもしろさおかしさに満ちていて、あれだけで寐てしまってもよかったが、とにかく笑わせてくれるので、蛇足の何本も出たような二幕三幕まで観てしまい、二時近く床に就くところりと寝入った。たわいないと謂えばたわいない笑劇のようで、モームらしいしつこさでこれでもかと積み上げられる人間の阿呆らしさと人の悪さにやはり消しがたい後味があった。そしてやはり松たか子のバカげて美しい人のよさ悪さのおかしさは特筆してよかった。
2010 7・24 106

* 田宮二郎が演じた映画「白い巨塔」の後半を観た。不愉快な映画だ。とにかくイヤな感じの、医学部教授達のうろんな顔つきの芝居を観ているだけで、昔、医学の編輯者生活をしていた頃の記憶もいろいろ甦り、ウンザリした。医者にしてかつ大学、国立大学、の教授や家来達の、医師会の親玉達の、ああいう感じ。最悪。
なにも医者に限らないけれど、大きな組織や大学に繋がれた奴隷達を見せつけられる不快。イヤだ。
2010 8・4 107

* 今日も終日、読んで読んで読んで過ごした。

* そのあいま、夕食のあいだに、ヒラリー・スワンクが主演の気楽な映画を観ていた。
2010 8・5 107

* 昨夜倉本聡の書いた敗戦ドラマで、びーとたけしや八千草薫の出ているのを、後半だけ観た。今日は敗戦前後の証言をいろいろ聴いた。お定まりのようであった映画「日本のいちばん長い日」を今年はやらなかった。やらなくてもよい。今年は猪瀬直樹の『ジミーの誕生日』や『昭和十六年八月の敗戦』などを読んでいて、かなり敗戦が腹に据わっていた。
2010 8・15 107

* さ、建日子が関わっている連続ドラマを見て来よう。
2010 8・17 107

* 脚本に建日子が関わっている連続ドラマ「逃亡弁護士」は、一回一回が力作で、気を入れて見ている。しっかり見るに堪える展開でサスペンスとしてクオリティはわるくない。主人公の成田誠役の俳優をわたしはまるで知らなかったが、なんでも「オバカ扱い」されるのを持ち役とするようなタレントであったらしい。それを聞いて知って観ていると、この真剣な役をこう堅苦しくも真剣に演じていることが逆に迫る力になっていて、好感をもって観ている。毎回ゲストスターが出てきて狂言が回って行く。その一人一人も堅実に持ち前のカラーを生かしよく観せている。今日のゲスト女優は初めて観るような美人さんだったが、面白かった。
2010 8・24 107

* それでも昼食後にロミーシュナイダーの「プリンセス・シシー」を通して観た。一種の歴史映画だが。連作として続くのではなかろうか。
2010 9・6 108

* 今日も休息かたがた昨日の続き、ロミー・シュナイダーの「若き皇妃シシー」を楽しんだ。不思議に輝いた女優で、女優よりプリンセスや皇妃の方が似合って見える。フランツ皇帝の方がいまいち。
2010 9・7 108

* 歯医者を出たときが土砂降りで。篠つく雨に傘が役立たず、ずぶ濡れ。道は川のように。かろうじて西武線の駅までタクシーにのった。駅のそばで、手もみのラーメンとギョウザを一皿。二人で千円におつりが。店内頭上からの冷房がきつく、濡れたからだが凍りそうだった。
電車では上巻「あとがき」の初校。小降りになっていた保谷駅からもタクシーを使った。
ロミー・シュナイダーのオーストリー皇妃シシーを観て、休息。
2010 9・8 108

* 両国行きが暑くて疲れて。休息して「デイ・アフター・トゥモロー」を観た。何度も観ているが、もうこういう映画が作り話とは想われなくて、緊張を強いられる。
異常気象は「政治の問題」だと、まえに書いた。この映画でも政治が判断をあやまり悲惨を倍大した。政治こそ目先の判断に終始してはならないのに、政治ほど目先の問題に拘泥し左右される。
内心に、こんなイヤな世界に人間がしてきたのだ、こういう事態にいちど立ち至った方が好いのではないかという、むちゃな判断や潜在願望が頭をもたげる。おそろしいことだ。
いつの日か、政治は、厚生行政の一環として本気で、「自殺援助局」を考え出すのではないか。
異常気象だけでなく、少子高齢化が急角度で増して行くとき、老人の、また不如意生活者たちの安らかな「自殺願望」を支援し幇助するための行政の必要が、あたりまえのように現実化してくるのではないか。意外にも是に志望を寄せる人達が多く、どんどん多くなるのではないかと恐れる。
その前に政治は、少子化の亢進におそれて、日本の家族制度の枠組みを根底から揺り変えようとするだろう。せざるをえないだろう。「子供」を家庭の保有物から「社会の共有物」とする考えは、早く、プラトンの『国家』に説かれているし、「男女の共有」という徹底した家族解体へ、原始化への逆流を政治が望み始める時期も意外に早く、数百年以内に起きてくるかも知れぬ。
* いやな世の中だなあと想うにつれて、思案が過激化し、しかも、それが妄想どころか、最も冷静に対応しなければ済まないような時代を、人間が、いま正に導いている気がしてくる。思案の軸が、仰天するほどはげしく滑って移動して行く時代が来かけている。
2010 9・12 108

* 脚本作りに統括的に建日子の深く関わってきた「逃亡弁護士」が終わった。昨日の最終回を今朝観た。
法の運用も含めて、最も深い好い意味で、「人間を人間が裁け」という裁判へのメッセージは、この三年、わたしの求め続けてきたこと。必ずしも法律家が無条件に法の精神を体現しているわけでない、逆に法律家もまた犯罪に表裏してもっとも近くにいることをこの連続ドラマは告発していた。ことに冤罪の場合にそれが露呈する。地裁の法廷で証人席に一度立ってきた体験が、法廷ドラマをなまなましく思わせる。
2010 9・15 108

* 芯の疲れか、七時に起きたのに、ふと、も一度横になって十時過ぎまで寝過ごした。歯医者をわたしは失礼した。留守の間に、少しでも仕事を前へ。屈託があるか、少し腹痛がした。背を撫でおろしてもらい、精神安定剤で痛み失せた。観ていた映画「コーマ」が響いたか。ジュヌビエーヴ・ビジョルドとマイケル・ダグラスの異色の病院犯罪ものが神経に障った。面白いと謂うより、怖ろしい。画面も冷え冷えして怖ろしい。
2010 9・18 108

* 用事を前へ前へ押し出しながら、映画「真空地帯」にも観入っていた。野間宏の原作は高校の内に読み、胴なかを大砲でぶち抜かれたような気がした。日本の軍隊小説では一に指を折ったまま、久しく触れてこなかった。映画、山本薩夫と木村功の代表作であろうか。仕事の手をとめて、眼が離せなかった。こういう映画をこそ若い人に観て欲しい。
2010 9・20 108

* 終日、いろいろ、していた。仕事も用もはかどる。嵐の前の静けさのよう。「ミス・マープル」を妻につられ、ちょくちょく観ている。
2010 9・29 108

* 韓流ブームになど苦々しいほどの思いでいたのに、いつ知れず韓国ドラマ「イ・サン」を見つづけている。概念的な、筋書き通りという運びではあるが、宮廷風俗の珍しさと、主人公である「王さま」の気高く創られた人格、幼少いらいの友である、ソン・ソンヨンやパク・テスの人柄の美しさに、今一人パク・ウネという女優の演じる若い王妃の気品などに、贔屓の心を誘われている。
宮廷や後宮の権謀術数ぶりは大昔藤氏の北家をしのぐあくどさだが、それだけに中心を成している王や王妃やソンヨンたちの清潔感がとても引き立っていて、この国の文化力を肯わせる説得力もある。
いやなにもそんな理屈を言わなくてもいい、このところこんな純潔な愛や求愛のシーンを本でも映像でも観たことがないので、引き寄せられている。それと、この調子では益々厖大に混乱の劇が待ち受けていて、その必然の行方にも引き寄せられている。
日本のドラマでなく、韓国の宮廷通俗ドラマに思いを寄せるとは思わなかったが、毎日曜の晩の九時を楽しみにしている。
それにつけても、自分が隣国の韓国・朝鮮史に疎いことを、少し恥じている。分厚い上下の二冊で韓国史が買ってあるというのに。
2010 10・24 109

* 撮って置いたシルベスタ・スタローンとジャニナ・ターナーの映画「クリフ・ハンガー」、何度見てきたか知れないが、最高級のアクションもので、スタローンでは、あの「ランボー」シリーズよりもこれが好き。ジャニナ・ターナーの愛らしい憂い顔も相変わらず佳い。こういうのを、兎に角も楽しめるようになり有り難い。
2010 10・26 109

* 発送の用意しながら、篠原涼子主演の「金の豚」とかいう題のドラマの初めらしいのを観た。この女優は、息子の書いた女刑事の「雪平夏見」役で弾けて、抜群にイメージアツプされた。もっと昔から、ちょっと味わい有る女優だが脇役かなと気に掛けていたのが、雪平夏見で俄然生彩を発揮し、トップスターにのしあがり、魅力ますますのいい女に成った。コマーシャル写真を見ていても表情完熟、いつも目を惹く。是は観たいと思った。
うん、いい出来だった。会計検査院の検査員というのが新しい。
このあいだ、似た名前のもう一人売れっ子、米倉涼子の国税査察官もの「ナサケの女」も観て、ま、面白かったけれど、あれには今や懐かしいほどの宮本信子がご亭主の監督映画で大活躍した「マルサの女」という先行作がある。会計検査院の、しかも元刑事かと間違えられるような隠れ前科者という設定が、篠原涼子の味を引き立てていて、ちょいと身を乗り出して観ていた。
2010 10・27 109

* 強い颱風の過ぎるのを待ち、湖の本下巻の搬入を二日に延期して貰った。天佑と思い心身を寛がせたい。と、云いながら、一日延びた余裕を活かそうと、発送の前仕事を一気に沢山し終えた。大阪のお笑いのハマダ某のまことにまことに下らない検事ものに惘れ果て、撮り溜めの「刑事コロンボ」で口直しをしながら用を捗らせた。女検事達も多かったが、検事ものの秀作にはめったに出会わない。キムタクに松たか子を組み合わせた「ヒーロー」などマシな方であったが、今夜のハマダ某に大器とみているとびきりの女優を宛がっているのも「ヒーロー」の二番煎じ、見え見え。このお笑いさんも、そもそも脚本たるもの、まるで、ど素人が見よう見まねの落第作としか思われない。

* さ、日付が変わろうとしている。六代目圓生を聴いて夢を見よう。
2010 10・29 109

* 十月尽の晩を、撮り溜めたナカカラ、キャメロン・ディアス、ケイト・ウインスレット競演の、楽しい一方の甘ぁい映画「ホリデイ」を観て過ごした。
2010 10・31 109

* 「枢機卿」という映画を観ていた。もうすこしアトがある。以前にも観た。大作。すこし緩む感じもあるが、落ち着いていて、見応えがする。
2010 11・1 110

* 発送の作業をすすめながら、バーブラ・ストライサンドの「ハロー・ドーリー」を楽しく観た。バーブラの魅力の最高に発揮されたミュージカルで、ダンスはもとよりその歌声のじつに美しく練れて輝きのあることに惚れ惚れした。観ていて幸せであった。
2010 11・2 110

* 篠原涼子の「黄金の豚」を楽しんだ。脚本に少し緩みあったけれど、意図は掴んでいた。篠原、感じ佳い。惚れた。内側への情の膨らみでは、つまり人間のよさは、いまのところ「ナサケの女」米倉涼子の芝居より前へ出ている。
2010 11・3 110

* いま、千住真理子の「Caprice」を聴いている。
昼過ぎには、エリア・カザン監督でグレゴリー・ペック主演の「紳士協定」をおもしろく観ていた。日本名の題はわかりにくいが、アメリカでのユダヤ人差別の問題を取り上げていた。すこし運びがムリかなあと思いながら観ていたが。
2010 11・4 110

* 映画『秋日和』を「聴き」ながら、ぐうっと一気に作業をほぼ片づけた。
原節子、司葉子、岡田茉莉子、三宅邦子、沢村貞子などのほかに、この映画にはまだ駆け出しの岩下志麻の名もどこかに出ていたと思う。
佐分利信、中村伸郎、北竜二、佐田啓二。
なんともいえない小津監督の映画の文法。わたしたちからすれば世間・世の中とは「こういう」感じに近い、のに、今のテレビでは、殺人、警察、裁判、陰謀、暴力、そんなのばっかり。小津安二郎の世界の方がつくりものに思えてしまう不幸、計り知れない。だが、そんなに云うわたしとて、娘や婿の口汚い裁判沙汰に苦しめられつづけている。なにかとんでもない間違いが起きている。

* 日本が敗戦して、一つ変わったのは世の「私民たち」が街頭に立って自分の言葉を口外しはじめたこと、そのきっかけはラジオの「街頭録音」だった。びっくりするほど人が話し始めた。そんな回顧番組をみていた妻が、録音マイクの前にたつ人達の言葉が、びっくりするほど美しいのに驚いたという。
世の中がわるくなった、ひどくなったと思う最大点は、「ことば」の乱暴になり口汚くなったことだと、もう数十年前からわたしは歎いていた。原節子らの映画を今も愛するのは、彼女の美貌の故という以上に、言葉の美しさや正しさが慕わしく懐かしいのだ。
テレビで放送記者やアナウンサーが敬語を駆使しようとするとき、敬語らしいのは話し始めの二、三語に過ぎず、たちまち馬脚をあらわして乱脈になる。敬語をムリに使えというのではない。美しく、優しく、きまりよく、話して欲しい。

* 直哉の全集で、直哉のまだ年若い娘さん達がたまに手紙などで父直哉にふれてものを云う時の、びっくりするほど美しい正しい敬語がやすやすと話され書かれていることに驚嘆する。家庭教育のよろしさか、人間味の豊かさのゆえか、敬服する。

* 肩の荷をすこしおろして、頭に佳い風を通したい。
2010 11・6 110

* 昨日今日。二人の涼子は、昨日の篠原が圧倒した。今晩の米倉のほうは、脚本が痩せている。
2010 11・11 110

* おきまりの「イ・サン」を観た。王妃が光っている。すっかり王朝の絵巻語りに惹き入れられてしまった。
2010 11・14 110

* 誰の作であったかど忘れしたが、鈴木京香が作者役の映画「ラジオの時間」を見ていた。苦い、痛い、腹立たしい、きわめて面白い作だ。
2010 11・22 110

* きのうの篠原の会計検査と、今夜の米倉の税務査察と。ま、どっちもどっちだが、後者にはドタバタ気味が濃く、前者にもそれはあるけれど「篠原役」の多面体構築のほうに、情感のリアリティもクウォリテイもが感じられ、やや好ましいか。
2010 11・25 110

☆ お元気ですか。

『中世の非人と遊女』が、地元図書館にあるようです。今度行ったら借りてきます。
私語を拝見しますと、とても興味深い内容に思われます。
私の大学の卒論は、近代における歌舞伎に対する認識の変化について考えようとしたものでした。
民族や階級差別の数多くある中で、藝能はどうして差別から脱却できたのかを(脱却できた、は言いすぎかも知れませんが)。
神事にまつわるところから発生した藝能が、近世の身分制度で最下層に組み入れられ、近代以降、国策もあり引き上げられ、映画やテレビが登場してからは蔑視されることが少なくなったと感じます。
藝能は、ほかの被差別層と異なり、独自の変遷を辿っているようにも見えます。
近世の藝人差別は、身分制度上のことであって、たとえば歌舞伎役者は、実際には錦絵が売れ、やんやと大向こうのかかる大衆のスターだったからなのでしょうか。
私の卒論は、思い返せば、とてもとても論文なんてものではありませんでした。
卒論は、やり残した宿題のように、いつも引っかかっています。  花

* せっかくのメールに、いま話題沸騰の海老蔵暴行事件が触れられていないのは、物足りない。
こういう問題に一等必要なのは、徹して地道な通史の勉強だろうと思う。一例にして、「河原」とは、「河原で生きる」とは何事であり、何によりそれが強いられたり、可能であったりしたのか。簡単には言い切れぬ途方もない奥行きがある。そしてそんな穿鑿が今必要なのかという問題もある。
海老蔵個人の「思い上がり」を咎める声はすでに出始めている、が、海老蔵「個人の問題」ではない。彼は藝能全容を代表する一象徴的存在として、ほぼ確信的に叩きのめされたと思えるフシがある。もしそうなら、それは何故かを、海老蔵に代表される仲間内広範囲の人達も、その人達を過剰なまでに甘やかし持ち上げてきた国民も、この際、考えてみたが好いと、わたしは感じている。

* いま、能役者の能装束の豪華な美しさに感嘆しない人はいないが、あのような現実を超えた華美の衣裳の定着しはじめた慣例は、能よりも遙かに古い。大事なお使いなどの、駄賃というにはあまりであるが、なにかといえば女の衣裳を使者にあたえて酒を飲ませ、使者は衣裳を頭にかぶって一舞いして帰っていた源氏物語の頃の風習までは仮に言わぬまでも、南北朝以降の能役者達を「褒美」した何よりの授けものは、派手な装束や衣裳である事が多く、役者はその戴き物を身に纏うて御礼に舞ったり、それを身につけて新たな曲を創ったりもした。
すばらしい栄誉のようでもある、が、むやみと豪華に装わせる習慣は、貴族や武将達が下級の家来達にさせる一種「差別」の見せつけですらあったのだ。バサラの行列で、珍奇な装束をつけて行列の先を払うのは、そういう下級の家来連中であった。はでな能装束も、極端に言えば、その手のあてがい扶持の「御恩」に類していた。演ずる藝は「奉公」であったとも謂える。
そういうバサラが横行し始めたのも、十四世紀の中世末期であった。それらの褒美自体が権勢による卑賎視にほかならなかった。「千両役者」も、いわば政治的に黙認された「権勢自体の安全装置」であったといえる。いわゆる世界的に行われている「3S(ショウ・スポーツ・セックス)政策」なんぞと、なんにも異なりはしなかった。目を向く「榮爵藝人」も、根底では政治的にも社会的にも卑賎視されていた。
それが、今日では、卑賎視が幸い稀薄になり、藝の力を認めるところへやっと伝統の力で近づいてきたのだ。海老蔵暴行事件は一つ間違うと、藝を台無しに元も子も無くしてしてしまい、さらには「藝能職能人卑賎視時代へ自ら逆行して行く」ことになると、それにまるで「気付いていない」のが、つまり浅はかな梨園御曹司中の御曹司の「思い上がり」なのである。

* それにしても「近代における歌舞伎に対する認識の変化について」は、容易ならぬ大研究の主題である。
そもそも「近代」とはどういう時代規定で、そのなかに何期を分かたねばならないか、から始まらねばならない。役者だけでなく歌舞伎界は、座と小屋の基礎的構成から、関係する人的参加者の広範囲に大勢なこと、など、目次を展開するだけで厖大で、しかもそれを「外」の社会や制度や人達が「認識」し、それが変移・変質して行くのを、たとえばテレビ「以前」と「以後」とで正確に観測し論攷して行くにしても、むしろ畢生の大仕事に部類される。まだ誰一人として大がかりにはやれた学者も批評家もいないのではないか。だからこそ海老蔵暴行事件が「象徴の意味」を持つのではないか。 これを徹底的に一生仕事にすることも出来る。ウーン。
2010 12・3 111

* 明日はもう、日曜。ほんのこのまえ「イ・サン」を観たばかりなのにと、あまり一週間が早さに惘れる。あすには舞台は回って、難儀の要のいわば第一幕に一仕切り入れたい。
2010 12・4 111

* 昨日の夜、ポール・ニユーマン主演の「評決」を身を乗り出すようにじっくり観た。
「犯罪」の「弁護」とは何であるのだろう。「裁判」とは何であるのだろう。ポール弁護士はどん底の悪条件のなかから、被害者の「惨状」に直に触発されて、不利も覚悟の正義の評決を陪審人から得ようと悪戦苦闘する。
他方、とんでもない医療事故から悲惨な被害者を出した知名な基督教病院は、もみ消しの高額示談金を用意するが、ジェイムズ・メイスン演じる依頼された弁護士団はありとあるまやかしの不正弁護に狂奔して恥じるどころか、それを売り物にして誇っている。
わるいことに裁判長は示談で収めようとしないポール弁護士をあからさまに非難して、裁判の指揮にも明らかな不正義を強行しポールを屈服させようと、強引そのもの。
そのなかかで法廷でポール弁護士は闘い抜く。
しかし、悪徳不正の弁護士の弁護を苦心惨憺の証人の証言でひっくり返したポールの大きな得点も、相手側弁護士の判例を持ち出した詭弁での潰しにあい、裁判長も適切で決定的な証言の全部を「無いこと」として取り消し、陪審員にはこの証言をすべて無視するようにと指揮し決定する。
ポールに最後に許された最終弁論は、押し殺したほど静寂な法廷に、静かに、言葉数多くなく、苦渋に満ちて呻くように吐き出されて終わる。
陪審員の一致した評決は、ところが、病院側と医療過誤の医師達の全面敗北であった。ポール・ニューマンの苦闘は酬われた。
映画の背景は、不正な医療過誤を多額の示談金ででも「裁判無しに片づけたかった病院」が、基督教という神を背負っていた事実を濃厚に匂わせていた。神は不正をしない、神の名に隠れた悪しき人間が悪へのがれようとする。超のんだくれで落ち目のポール弁護士は、神の前で祈れる人物だった。

* いい映画だった。しかも弁護士や裁判官や裁判に多くを負わせていたのが強い印象であった。
ジェイムズ弁護士の事務所や、いい加減な判事のいいかげんさに、歯ぎしりを噛むほど怒りを覚えた。
2010 12・5 111

* テレビを地デジに替えた。是までのは映画と音楽とのために、そのまま使う。
2010 12・13 111

* ずうっと以前に撮って置いて何度も観てきた映画、「船を降りたら彼女の島」という、愛媛県が支援して成った作品を、前の機械を茶の間に移したので、観た。観たい具体的な目当てがあったのだが、それでなくてもしみじみと佳い作品で。木村佳乃主演の映画では最高作だと思っている。東京で編集者をしている娘が、ふらりと瀬戸内の小島に帰省してくる。両親は廃校になった小学校の校舎を民宿にし替えて静に静に暮らしている。兄は松山に出て先生をしている。娘もかつては松山の高校に通っていたという。
父親と母親とが娘よりなおなおよく描けている。父は寡黙で母は穏和にものをよく観ている。娘は結婚を告げに帰ってきているが、むかし、この島の小学校でお互いに好きだった男生徒への思い出も抱いている。

くちにがきけふの朝(あした)にめざめつつ少女と少年のむかし恋ひゐつ

頽(くづ)れてなほはなやぐ淡紅(とき)の山茶花を見すぐしかねて我はさぶしゑ   湖

両親と娘との通い合う気持ちの優しさに、思わず泣いていた。
だがわたしの映画を観ようとした目的は、瀬戸の海と島にある。そしてもう久しく手がけてきた「仕事」にある。直哉の鞭撻を心身にしかと受けながら、またまだわたしは謙虚に書き継いで行かねばならぬ。
2010 12・14 111

* テレビ画面がまた一段と横に広くなって、大きな自然の写真はひとしお楽しめる。アメリカのパームスプリングスなどを観光案内している若い女性の話を聴いていた。
横顔も正面からも好感の持てるいい表情なのに、舌ったるい「甘えた喋り」なのが興ざめで、「わあーっ、スゴイかわいい」などと叫ばれるとうんざりする。
「スゴイかわいい」って何なんだ。お岩さんが愛らしいのか! 「すごい」と「かわいい」としか批評語、感想語をもっていない現代の日本人、そして若い人の当たり前な「甘えた喋り」。「凄い」とは、肌に粟立つ怕さをともなう感動であり「可愛い」とは正反対。それの混合するのが或いは「面白い」とも謂えなくはないが、はなはだ貧しい表現でもある。

* 日本語は、これで多彩な批評語をもともともっている。むかしに、『京のわる口』という一冊を出した、あれはみな京都市民の日々の「批評語」批評であった。『日本の批評語辞典』がなぜ研究意図ももって実現されないのか、私は今も物足りなく心寂しい。

* 上のナレーターは、なかなか感じのいい子だった。あのきりっとした表情にふさわしい大人しい話し方が出来れば、立派なのになと惜しい。すぐアトヘ、大好きな美人の「ヤマナさん」(これは昔々のドラマの役の名前。その方で覚えてしまった。)が話していたのは、ふさわしい話情の味であった。美しく落ち着いて話せる女性にこそ惹かれる。
2010 12・18 111

* リュック・ゴダール監督、ジャン・ポール・ベルモンドとジーン・セバーグの「勝手にしやがれ」に牽き込まれていた。むろんジーン断然の魅力だが、あまり好きでないジャンもこの映画では佳い。乾いた映画だが映像の内容はとても濃い。しかもなぜともなく、あ、幸福の絶頂で「FIN」マークが出たんだ、という感じがする。
2010 12・20 111

* 大きくなったテレビで、食事しながら、瀬戸内海の劇映画、「船を降りたら彼女の島」を観た。何度観ても佳い。あまりに身につまされて困るほど。
2010 12・20 111

* クリスマス・イヴのようだ。会社によってはもう歳末休暇に入ったそうだ。わたしの勤めていた頃は、二十九日まで出社した。正月五日が仕事始めだった。
昭和三十三年の「タイムトラベル」を全部録画で観たが、まさに経済的繁栄へ時代の上昇期であったことがわかる。所得倍増政策、そして岩戸景気へまっすぐ階段を上っていた。東京タワーが建った。あくまで経済だけだ。人は小粒になっていったように思われる。文豪が、払底した。
あのスカイツリーが建ち進む今だが、この時代はどう進んでいるのだろう。
2010 12・24 111

* やはりテレビでも「忠臣蔵」を観た。田村正和の内蔵助は田村の声帯の故障でか大声は出ないし寡黙を極めたが、障りに成らずなかなかの存在感であった。吉良はダメ。この間の幸四郎の師直の憎体は凄かった。
正味二時間で刃傷から討ち入りまでを片づけた脚本は称讃ものであるが、やはり名場面集になっていた。中では九条家御用の場面の腹藝、北大路欣哉を出してくれて盛り上がり、南部坂の別れも團れいがさすがに美しく梶芽衣子も嵌っていて雪景色が立派だった。
なんともかとも忠臣蔵に惹かれるのが半ば可笑しいけれども、声をつまらせて感動するからもっと可笑しいと笑われる。忠臣蔵と勧進帳には勝てぬ。
2010 12・25 111

* 私は、今、胸が苦しい。映画「敬愛なるベートーヴェン」を見終えてきて、音楽との一体の感動のまま、興奮した。心臓が苦しい。
エド・ハリスのベートーヴェン、ダイアン・クルーガーのアンナ・ホルツ。第九初演の場面の聖なるオルガスムスに、わたしも酔った。すばらしい映画。アンナのボイフレンドの、栄誉を夢見て建築コンペに出した「橋」の模型を、面前でたたき割るベートーヴェンの素晴らしさ。藝術家の魂が、天才が、あれだ。そして、最期の大フーガの先見性。

* 危険なほど胸が苦しい。痛む。
2010 12・28 111

* また録画の映画「船を降りたら彼女の島」を観ていた。妻は父と娘との映画だという。親である老夫婦の温かい静かな映画のようにも思われる。映画としての文法に優れている。息子にも、こういう静で深いドラマをつくってほしいものだ。いやいや、わたしがそういう小説を書けばいいわけだ。さ、日付が変わる。
2010 12・29 111

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