ぜんぶ秦恒平文学の話

映画・テレビ 2014年

 

* 箱根駅伝 東洋大の往路復路総合優勝を見届けて建日子、仕事場へ戻っていった。元日、二日と泊まっていった。のべつまくなく仕事しているようだったが、昨夜はマリリン・モンローの映画二本「お熱いのがお好き」「帰らざる河」も楽しんでいた。
2014 1/3 147

* 昨日歌舞伎座で幸四郎夫人から、やがて封切りの松たか子主演映画の切符を貰ってきた。以前としてわたしは日本の若い女優の中で松たか子の実力をほぼ最高位に評価しているのだ、楽しみに、妻と見にゆく気でいる。
2014 1・11 147

* サンドラ・ブロックは好きな女優の一人だが、ことに印象深いのは「ザ・インターネット」。初めて見た時は、まさか此処までとおもいつつスリルだけを楽しんだが、いまではこれぐらいなことの出来ないコンピュータでないのをいやほど知らされている。その究極の線上に「マトリックス」があり「ターミネーター」がある。似たようなネット過剰の恐怖を描いた映画を幾つも幾つも観てわたしも懼れてきたが、サンドラ映画の引きずり込む怖ろしさをまたまた興味深く見直した。
凄みのリアル映画をみはじめると、いくら優秀そうでもテレビドラマの辛気くささには参る。

* とは言え、さきごろ終了した「ドクター X」の最終回、ことに想像を絶した難手術の成功がもたらす幼い生命への愛の成果には、感謝と倶に感銘をおさえられなかった。「大門未知子」に頭を下げた。十六時間の難手術!! わたしの胃全摘でも八時間かかったという。
2014 1・14 147

* 帰ってきて、途中からだが松本清張原作の三億円事件、好きな田村正和のたいした芝居ぶりに感嘆しながら、グイと惹きつけられたまま最期まで楽しんだ。楽しみながら、黒いマゴに輸液もした。ああ、もう日付が変わっている。
2014 1・18 147

* 妻はすぐ床に就き、わたしは仕事のため機械の前へ。ひとしきりでやめてわたしも休息した。夜前はほとんどわたしも眠れなかったから。食事もせず晩の八時過ぎまで寝入っていた。九時から、昨日に続く松本清張原作、ビートタケシ主演のテレビ映画を観た。楽しめるものではないが松本清張らしい、ビートタケシらしい、いい追究だった。秦建日子の「ダンダリン」で面白い仕事をしてくれた竹内結子が逸材ぶりを今夜の映画でも見せた。

* 何度も言うてきたが、敬愛する作家はと受賞の記者会見で聴かれ、ためらわず即座に藤村、漱石、潤一郎と答えた。当時のわたし、いやいまのわたしにも、この三人以外は、偏狭、不足または番外としか思われない。にもかかわらず、上の三人を足しても欠けているものを謂うとすれば、間違いなく松本清張の世界と考えてきた。成長世界は過酷で隠微で好きになれないが、そういう闇や蔭を人間の世界はいやおうなく持っていて無視は出来ないのだから仕方ない。
2014 1・19 147

* 近江の、石馬寺や近江八幡や信楽を舞台にとりこんだ永いテレビ映画を観た。十ヶ月の愛児を火事で死なせた母親と父親との永い深い苦悩と悲しみに絡んでなされた犯罪を、遺品整理業の女性の眼と思いと勘とで鋭く掘り起こしていた。
子を、不用意の内に死なせた親たちの悔いと悲しみとの深さ。何と言われようと子を死なせた母や父には、真っ先に自身への悔いと罪障感、そして猛烈な喪失感をともなうひたすらな悲しみがある。それが自然で当然、もしも、その自然当然を棚に上げ、わが子を殺したわけではないと他者(例えば自分たちの親)に向かい逆上して、誤解に誤解を積み重ねながら賠償金めあての裁判沙汰に及んで行くような恥知らずな欺瞞と偽善へ逃げ込んで行く親たちがいたならば、そんなに恥ずかしくも憎むべき非道は無いであろう。
岸本加代子と謂ったか、主演女優の哀しい哀しい母親の、また人生を謬っていったしかし妻子への愛深い父親の、真情はピュアであった。道に外れた自己弁護の醜さなど微塵も無かった。
2014 1・20 147

* 疲れも出て、「お宝鑑定団」を観ていた。高橋道八(道八二代)黒茶碗や、備前の傾いた大壺に惹かれた。偽物や不十分ものは、今夜のは一見して分かった。三朝温泉の町でいろいろのモノが出ていたが、温泉そのものに魅惑されていた。
このごろ、というより、よほど前から、温泉に浸かりに行きたくて堪らないが、黒いマゴの為にも旅はしにくく、そもそも妻は温泉は苦手にしている。独りで出かけられるか、どうか。第一、どこへ行くのか。温泉体験がじつに貧弱なことに我ながら驚く。
熱海まで出かけながら、予約無しのため温泉に入れず、しかたなく駅前の古びた魚屋食堂で、それは大きな伊勢海老や、いろんな刺身を豪快なまでたらふく食って帰ってきたのを、懐かしく思い出す。
袋田の「四度の瀧」を観にでかけ、地元の温泉にひっそりと、たっぷりと漬かってきた懐かしい記憶もある。
小松の井口哲郎さんに山代温泉に連れて行って頂いたのも嬉しかった。
交通公社出版の取材旅行で出雲、宍道湖へ旅して、何とか謂う大きな温泉で泊まったこと、そこの露天風呂に浸かったあと、外気に冷えて頸が石のようにかたまり死にそうな思いをしたこともあった。
そういえば、箱根山へ登ったことがある。温泉旅館だった。あ、そういえば、何かの取材旅行で道後温泉へ連れて行かれたこともあった。この程度では、貧弱な温泉体験と謂うしかあるまい。
2014 1・21 147

* 夕飯後、妻がひとに薦められてきて録画した評判の『東京家族』という映画を観はじめた、が、あの小津安二郎の「東京物語」とは月とスッポンほど下手なので惘れて画面の前をさよならしてきた。
このところ、録画した映画はときおり見直すこともあり、ことに、『愛と哀しみのボレロ』には途中で何度もおいおい泣かされた。収容所へ送られる列車の最後尾たれながしトイレから父親が赤ちゃんを線路へ棄てて行く場面、戦地から復員した夫を歓喜に包まれて大勢で待ち迎えた家の隣家では、やはり戦地へ送っていた双子の息子達戦死の軍通知を受け取って泣く両親達。不条理の極へひとびとを追いやる独裁者政権と悪辣な戦争。
そういえば昨晩は、大竹しのぶが主演の映画『一枚のはがき』を、うしろ半分ほど観て、胸のつまる辛さに堪えていた。没落農家の長男に嫁いで夫は応召そして戦死、老いた両親に請われて慣習のママ夫の弟と再婚し、それもまた応召し戦死。老父は死に老母は自殺。残された嫁は、村の世話役から妾になれと強いられていた。大竹のうまさには凄みがあった。
どうかしてどうかして、こんなことは繰り返したくない、強慾な利権政治にこんな悲劇をむざむざ繰り返させてはならない。こんど、こういう事が起きれば、悲劇の度は地獄に同じいだろう。何度でも繰り返しわたしは言うておく、政治と外交と軍事とをこんど一度び謬れば、日本列島が、沖縄は台湾に、九州四国は朝鮮韓国に、西日本は中国に、東日本はアメリカに、北海道はロシアに「分け取り」にされ、「日本」という国家は失せて仕舞いかねないことを、まさかそんなと馬鹿嗤いはよも成るまいとわたしは真実予感している。そんなハメに万に一つも我々の日本を壊滅させてはならないのである。
どうだろう、安倍晋三の政権は、日本銀行という国立銀行と、NHKという公共放送とを、すでに支配してしまっている。日銀総裁の、NHK会長の昨日今日の誠実と道義に逸れた発言を聴き、わたしは、呆然惘然たるを免れがたい。国民の「最大不幸」は確実に日毎に身に迫っている。まだまだ国民の大半は、殆どは、それに気づいていない、気づきたくないのだ、そしてまさしくその一点を狡猾に利して日本の政治は、祖国を他国へ売り渡そうとしているに等しい振る舞いに明け暮れている。
堪えて起って生きようと訴えるしかわたしには力がない。ときどき早く死にたいとさえ願ってしまう自分にも惘れるのだ。いま、わたしに出来ることはただ一つ、こうして書き続けることだけだ、せめて起って一足一足歩いて行くことだけだ、「いま・ここ」の足元の奈落を踏みながら。
2014 1・27 147

* トマス・ハリスは、映画が良かった『羊たちの沈黙』の原作者だが、それは読んでいない。いま彼の『ブラック・サンデー』を戦慄すら覚えながら読んでいる。八万人の観衆をひとり残さず爆殺するという緻密なテロ計画を書いている。この手の読み物の最秀作としてわたしは『女王陛下のユリシーズ』ほか五作を選んで愛蔵しているが、これはその内の一作。
たまたま昨日から、デンゼル・ワシントン、アネット・ベニング、ブルース・ウイリスというとびきり好きな俳優達が描き出す『族長』という録画映画を観ていて、重なり合う凄さに胸を圧されていた。アラブ、イスラエル、アメリカの三つ巴の激越な暗闘。なにが、それをさせるのか、そして日本は無縁の争闘といえるのかと、したたか胸苦しかった。
同じ苦しくてもレマルクの『凱旋門』のラヴイック医師とジョアン・マヅーの出逢いと愛のふれあいは、懐かしさにも満ちていて、有難い。
2014 1・30 147

* 息やすめには、録画しておいた感銘の大作「枢機卿」をみた。アメリカではKKKクークラックスクランが非道横暴を成し尽くし、ウイーンではナチスドイツの恐怖が描かれた。レマルクの世界に膚接していた。
このところ否応なくキリスト教に関連しても物思いのあるとき、佳い映画を保存の中から掘り当てた。

* もう日付代わって一時になる。
2014 2・1 148

* 診察までが長引いた。空腹だったので、また更科蕎麦へ行き、軍鶏と鴨を鍋で食べてきた。有楽町線で、小竹向原を平和台まで乗り越し、戻ったりしたが。
疲れた。映画「グレースと公爵(タレイラン)」を観て休息。フランス革命後の恐怖の成り行きを、英国人のグレースとタレイラン公爵の友情という視点に足場を得ながら、実感豊かに描いていた。 2014 2・7 148

* 仕事へ時間を振り向けるより余裕がない。仕事していると眼が疲れて霞んだり滲んだり乱れたり。やすみやすみ、また機械へ、またゲラの前へ戻って行くしかない。やすんでいるとき、耳で聴いてたのしめる録画映画を観ていたりする。いまは「へスラー戦車隊」 ヘンリー・フォンダ、ロバート・ライアンらが出ている。やすみ中に酒が入ると、寝入ってしまう。
黒いマゴの輸液も済ませた。今夜もはやめに寝よう。安定剤のリーゼをときおり一錠服している。
2014 2・8 148

* 何日も掛けて少しずつ、ルネ・クレマン監督の大作「パリは燃えているか」を久しぶりに観終えた。胸が熱くなった。人間がなんだか感動しやすくなっているなあ。しかし善い映画であった。
2014 2・14 148

* 夕方から建日子が帰ってきて食事をしテレビを観、そしてシャリー・マクレーン、アン・バクスターらの映画『愛と喝采の日』を感嘆し合って行った。いいものを一緒に喜び合うのは幸せだ。黒いマゴも建日子に馴染んできて、今晩はすろーずに輸液できた。
2014 2・15 148

* 校正にも追われているが、たぶん明日には責了へのメドが立つだろう。消費税のアップ前に119巻を仕上げておきたい。
十一時前。もう眼が霞みに霞んでいて、休む以外にない。昼間は休むと云うて寝てもいられず、録画映画をきれぎれに観ている。このところはシュワルツネッガーの「レッドブル」やイーストウッドとチャーリー・シーンの「新米」とか、観た。今はダンスとタップとの「白夜」を、途中まで。
2014 3・2 149

* このところ細切れでながら大好きで面白くて感動をさそう映画「レディ ホーク」を観てきた。今朝一気にラストまで。泪がにじむほど惹かれた。ミシェル・ファイファーが大好き、此の作の騎士ルドガー・ハイファーも佳い。総毛だつほど好かない大司教(マシュー・ブロデリックが演じているか)と、彼が君臨する豪壮なカトリック大聖堂。この大司教邪恋の呪いに遭い、ルドガーとミシェルとは日の出を限りに交互に狼に鷹に姿を変えられ、愛し合う男と女として時を共有出来無くされている。呪いを解く至純の愛と闘いとの映画であり、ひとつには異様な権力と邪法による支配の大司教への敢然たる抗争の物語になっている。事実はどうか分からないが、わたしには、これがアイルランドの歴史に地生えしたレジェンドではないかと思われてならない。アイルランドのカトリック支配の強権強圧については今も読み継いでいる『アイルランド』に精しいのである。
それにしても、わたしは、よくよく、生来、こういう幻想のレジェンドが好きなのだ、『ゲド戦記』『イルスの竪琴』『指輪物語』『黄金寶壺』また竹取や住吉や狭衣等々の平安物語から秋成の「雨月」「春雨」に至るまで。
近代に入ると、鏡花のいくつかをおいて、さしたる名品に出逢わない。
わたし自身は、『清経入水』『秘色』『三輪山』『みごもりの湖』『風の奏で』『初恋』『冬祭り』『北の時代 最上徳内』『秋萩帖』『四度の瀧』等々、作の半ばが、絵空事の不壊の値をもとめた幻想のリアリズム小説になっている。「レディホーク」のような映画に心底魅される素質を抱いて生まれたらしい、妻も、それに頷く。そう観えると云う。

* 鳴り響くような豪壮華麗な大聖堂、大寺院、そこに君臨する猊下などと呼ばれる手合いが、とことん、わたしは好かない。憎しみすら覚える。宗教も信仰もそこから腐蝕している。イエスもブッダも、孤り、起って生きて死んで、あんなにすばらしかったのに。
2014 3・11 149

* 昨日の晩に観た鳴り物入りでおお囃子の「宮本武蔵」を観てみたが、通俗で新味の少しもない、情けないような駄作であった。

* いましがた「お宝鑑定団」では白鳥映雪の美人画、三宅克己の水彩画、石黒宗麿の作陶など、超絶とはいわないが心を洗うに足る名品がみられた。名品には深い「思ひ」を燃やすに足る活気と生彩とがある。「おもひ」という日本語は、古典の世界では、つねに燃ゆる「火」が感触されている。真摯に「おもひ」を深く燃やすことのできる「人、物、事」こそ生きる宝なのである。
2014 3・16 149

* 『ギリシア・ローマ神話』『眠られぬ夜のために』『アイルランド』『囲城 結婚狂詩曲』『南総里見八犬伝』を浴室で読んだ。中国の近代読み物はいまいち楽しめない。他は、それぞれに興味津々。
うってかわってチンドンチンドンと囃したてていたキムタクの「宮本武蔵」後編のつまらなさ。剣の道、剣の道などというが、所詮は「仕官」を考えている。これは、あの優れた繪を遺した宮本武蔵の問題でなく、武蔵を書いた読み物作者の気宇の問題ということ。この程度ならまだしも藤田まことらの演じた「剣客商売」の境涯の方がまだしも清々しい。
2014 3・16 149

* 黒いマゴの輸液には十五-二十分かかる。マゴをわたしの膝にのせ、その間に妻が注射針を皮膚と肉の合間へ刺しいれる。そのときの痛さが負担なのは当然でときには暴れるが、宥めるためにも二人がかりで実行している。マゴを膝に置いたその間は立って動けないので録画映画を部分的に観ている。このところヒッチコック映画がつづくが、彼にも駄作はある。「北北西に進路をとれ」はだが名作で、小気味よいテンポでおもしろく説得力もあってきびきび進む。何といっても、金髪のエヴァ・マリー・セイントのすばらしいオーラの代表作になっており、スマートを繪に描いたようなケーリー・グラント、存在感の名優ジェイムズ・メイスンも嬉しい限り。たいてい輸液が済むと映画は次回廻しにするのに、とてもとても、やめられない、とまらない魅惑に負けた。
エヴァ・マリー・セイントも、先日の「ホークレディ」ミシェル・ファイファーも、型にはまった美女ではないが、上の映画ではどんな大女優にも寸毫劣らないオーラを光らせて魅力満点なのだから嬉しくなる。
2014 3・17 149

* 疲れている。明日からのために、今夜はやすむのがいい。輸液などのあいだ、しばらくぶりに「相棒」を観ていた。巧みなつくりものがこのシリーズの特色。心の震えることは滅多に無い。
2014 3・19 149

* 夜遅くまで発送作業をつづけたが、明日で中途の一段落があり、その先へもう一つ大きな一山を越さねばならない。ま、慌てることはない。作業しながら、中国映画「この子をさがして」という佳い作を観た(聴いていた。)
輸液も済ませた。
発送の作業だけでも著しく眼の不調が加わり、しまいには半分失明に近い曖昧な視野をまるで游いでいるみたい。困惑。
2014 3・21 149

* 「プラチナデータ」という鳴り物入りのドラマを観たが、観念過剰、人間のドラマは陥没していた。映画「マトリックス」などに比して、おはなしにならぬほど退屈した。把握が弱いので表現がただもう意識過剰なまま乾燥していた。
そのまえに、ヾキャサリン・ヘプバーンの出た「去年の夏突然に」と「招かれざる客」は、ともに胸にしみ込んでくる作だった。機械劇の時代は来ているとも言えるが、まだまだ未消化。やはりまだまだ人間劇の名作・秀作が慕わしい。久しぶりに観たスペンサー・トレーシーもエリザベス・テーラーもすてきだった。
2014 3・23 149

* 今夜は黒いマゴが輸液させてくれなかった。よほどイヤなのだろう。可哀想に。
しかたなく、録画映画の「ジョー・ブラックをよろしく」に惹きこまれた。死の迎えを受けたよき父、よき経営者を名優アンソニー・ホプキンスがすばらしく演じ、金髪のブラッド・ピットが不思議な美しさと畏さとを演じ通した。令嬢役もいい大人だった、ことの次第と最期のちかづきに涙した。不思議に佳い映画だった。
さ、疲れをいやして、仕事も何も半端だがやすもう。「お迎え」は来る。いつか必ず来る。
2014 3・27 149

* 正午放映に転じた「徹子の部屋」での高麗屋夫妻を観た。舞台は数えきれぬほど観てきたし、手紙などは貰っているが幸四郎とまだじかに会ったことはない、その代わりに高麗屋の女房紀子さんとは歌舞伎座等のロビーでこれまた数えきれぬほどこの十余年、妻もわたしもお馴染みになっている。なにが何でも、怪我も病もなくお揃いでお勤めあれと願う。
この土曜には、幸四郎の「鎌倉三代記」高綱という剛毅な大役を観に行く。奥さんともかならず会う。佳い春芝居を楽しみたい、嬉しいことに片岡我當も出てくれる。三津五郎も病癒えて顔をみせるし、御大山城屋坂田藤十郎一世一代の「お初」にも逢える。櫻はまだ花盛りである。
そういえば今日高麗屋から三世今藤長十郎生誕百年を祝う今藤会二十七日の案内があった。幸四郎、三津五郎、染五郎三人が特別出演する。一日たっぷりと国立大劇場にひたって「独り」楽しんできたいと、もう座席を申し込んだ。
十九日土曜には、梅若万三郎の大曲「江口」のために最前列中央の席を用意してもらっている。美しく酔えるだろう。春爛漫。
2014 4・2 150

* ちょっと見始めた映画がおもしろくて一時間余も見ていた。通俗な読み物は堪らないが、高尚でなくふざけた映画でも映画として断然面白いという作は上等なのである。優れた原作の文藝映画に物足りない作があるのも当然で、それは映画として下手なのだ。映画の文法は映像の展開にある。文学の骨頂は音楽にある。
2014 4・3 150

* 昨日の晩、秦建日子脚本の連続ドラマ最初の長時間版「マルホの女」があって見始めたが、わたしは十五分ほどで退散した。シナリオを勉強に研究所に半年通っていたのは、小説を書き出した頃であったが、名だたる巨匠先生達の口を揃えての曰くは、「最初の出で停滞すれば、あとがどんなにであろうと、客はさっさと逃げますよ」と。小説でも同じだが、小説よりシナリオやドラマ脚本は厳しい。映画館なら金を払っているから我慢して付き合うが、テレビなら容赦なくチャンネルを替えるか立ち去ってしまう。昨日のドラマは、出だしに快適なテムポも刺激もなく、役者ぶりの紹介が主になっていて、観客は軽く突き放されていた。台本は擁護できても演出は拙であった。退屈してわたしは自分の仕事へ立ち去った。今日、もう一度放映されたのを妻はまた観て、佳い線を描いていて悪くはないけれどねえ、出だし少し退屈したわねえと。二時間ものは、とかくそうなる。時間に追われて一時間でかちっと纏めた方が刺激も効果も感銘も良い。海外物で、以前「クロージャー」という取り調べ専門の練達女刑事の犯人追究ドラマに感心して毎回観ていたことがある。こっちが追いまくられるほどスキがなかった。「ドクターX」や例の倍返し銀行トラマや、藤田まこと時代の「剣客商売」など、或いは緊張させ、或いはゆったりさせてくれた。登場する人間の把握の強さ。深さであることは、小説もおなじだが、小説は文章の彫琢が人間の劇をしっかり確保しなければならず、花も欲しい。通俗はいけない。映像は、通俗をおそれずダイナミッキな時間の推移に劇を盛り込んで欲しい。建日子に、二回目以降を期待する。
2014 4・13 150

* 本の字を読む眼と、機会画面の字を読み書きする眼とが、異なる不自由さ。これに参る。このごろはもう戸外は、つまりは游いであるいている。むかし、メガネを外して水泳していた頃の滲んだぼやけた視野と同じ。

* 「海を飛ぶ夢」という、あれはスペイン産の映画であったか、「尊厳死」を主題に身にしみわたる表現と作品の深さ確かさに、泣かされた。さしづめヒルテイなら真っ向非難し否定するだろうが。 2014 4・14 150

* 黒いマゴの輸液は、わたしの膝に載せて、妻が針を皮膚と肉とのあわいへ入れる。はやくても十数分、点滴の点が短いと二十数分もかる。そのあいだ、わたしはマゴのからだを抱えてやりながら録画の映画を観る。この二日ほどアンソニー・クインが力演の「バラバ」を観ている。慣例に従いイエスかバラバかと問われたユダヤの民は、イエスの磔刑をと叫んだ。ならず者のバラバは命助かり、不思議の運命をたどってローマで剣闘士として勝ち残り、自由民になる。そして、いま、そのローマが燃えている。
基督教が、どのようにして、ギリシアやオリエントの文化を下敷きにしたローマで、ついには国教たり得たのか、わたしは、その関連の歴史映画を見逃さないようにしている。辻邦生さんの超大作『背教者ユリアヌス(皇帝)』も興味津々読んだ。
基督教の魂にはすぐれた光輝を見ないわけに行かない。しかし基督教という専制君主で巨大領主でもある組織宗教にはとてもついてなど行けない。基督教からほんとうに高貴なものを得たいとは願っている、それは荘子や老子やブッダに願うのとまったく同じなのである、わたしにすれば。佳いものは佳い。宗教も文学藝術も、変わりない。囚われてはいけない、汲み取るのだ。
2014 4・15 150

* エリザベス・テーラーとリチャード・バートンのシェイクスピア劇「じゃじゃうま馴らし」を久しぶりに。せいぜい二メートルあまりしか着慣れていないのに、大きろのスクリーンの、せっかくのエリザベスの美貌が霞んでしか見えない。

くらやみをとばりのごともあげたしとおもひかなはぬゆめのかよひじ
2014 4・16 150

* 達者なダスティン・ホフマンと、比較的好きなルネ・ロッソの離婚夫妻が、優秀な防疫医師として、おそろしい疫病がらみの軍の無道映画を、黒いマゴの輸液の間から、観た。映画の魅力は画面の展開・進行。文藝まがいに凝るとダメ、たいてい。映画の画面展開もまた音楽の味。録画のおかげで映画も本のように繋ぎで読めるのが有難い。
2014 4・22 150

* 昨日、われながら驚くほど腕も脚も働かせた、今朝も故紙回収の手伝いで重い束を幾つも運んだ。それから書庫に入り、とにもかくにも沢山な本に触れては積んだり崩したり読んだり思案したりし続けて、その間に胸が痛み始めた。筋肉疲労だけならいいのだが。
なにとなしダルい。目もよく見えない。書くのはさほどでないがたくさん機械の文章を読んでいた。眼精疲労もやむをえない。
休息がわりに黒いマゴの輸液を手伝いながらゲリー・クーパーの西部劇をたわいなく観ていた。観終えると、すぐぐれごりー・ペックの「アラバマ物語」が映りはじめた。それは後日の楽しみに電源を落としたが、もう仕事らしい仕事ができそうにない。
2014 4・23 150

* さ、今日は発送の下拵えに時間をかけたい。

* 作業しながら、黒澤明監督の「乱」を観たり聴いたりしていた。仲代達也畢生の猛演であり、原田美枝子、ピーター、野村萬斎といった異色の配役が効果ををあげていた。「ものものしい」映画だが、リア王の翻案としてもおもしろく、くろさわだから完成した監督作品だと思う。
2014 4・27 150

* 疲れた。晩はたいしたことも出来ず、「イ・サン」のシリーズでも最も劇的な展開の一時間を観てから、入浴。「八犬伝」とヒルテイと「結婚狂詩曲」という珍な取り合わせを少しずつ読み継いでいた。
2014 4・28 150

* 今日の午前に妻と観たテレビの、「春日大社」神秘の祭儀を超好感度カメラで写しだしたみごとな番組に、感動した。涙を流して観ていた。とても、感動の詳細を言葉で再現できないが、目にやきついた幾つもの場面場面は、いま読み返している自作の小説「初恋=雲居寺跡」とも結ばれ合うているのだ。
2014 4・29 150

* 森鴎外作、深作監督の映画「阿部一族」を久しぶりにテレビで観る機会を得て、したたかに哀哭、胸を絞られた。わたしは十数年以前であろう初めてテレビで観て感動し、録画で繰り返し観て、もし只一つテレビ映画で日本の名作をと問われれば、まして歴史映画の突出した傑作はと問われれば、なに迷いなく此の「阿部一族」を挙げると言い続けてきた。それで間違いなかろうかと久しぶりに観て、その確信を新たにした。堪えがたく声を放つほど哭いた。
言うまでもない、鴎外は希有の大作家であり文豪であるが、その第一等の名品はと問われれば、これまた躊躇なく昔から『阿部一族』と見極めてきた。揺るぎもない。六林夫の「遺品あり岩波文庫『阿部一族』」の名句を知って以後、ますますその思いを強くした。六林夫の句は、無季題ながら優れた戦争文学と大岡信さんは書いていた。然り、その通り。敗戦の季節と重ねれば「遺品あり」が強い季題になっている。
わたしの、政治というよりも、権勢・権力、支配・被支配、武士の忠義忠君などに対する憎しみに近い拒絶の思想を培ったものは、真っ先第一にこの鴎外作『阿部一族』であり、さらに確乎として憎しみを加えしめたのが深作映画の「阿部一族」であった。今も確実にそうである。湖の本で三巻の「ペンと政治」を編んだのは最近のことだが、政治悪、支配悪、権勢悪を心底憎む気持ちは、もうすでに高校時代に読んだ「阿部一族」に思想的に決されていた。
いま、心新たに、それを確認しておく。
山崎、蟹江、佐藤、真田、また一族の妻子らを演じ隣家の妻女を演じた女優子役らのだれもかもに、この映画での演技こそ一世一代の名品であったよと賞賛したい。
何度でも何度でも大事に録画してあるした此の映画を見直し見直して憎悪の念を手放すまいと思う。

* 批判すべきを批判し、怒るべきを怒り、起つべきに起つのは、自然でもあり必要でもある。看過し黙認し関わることを避けて大様がり超然がる人をわたしは敬愛しない。それだけに、批判も怒りも、また決起も、深切であらねば。情意において、態度において、、行為において慎み有るべきは当然である。
2014 5・9 151

* 録画してあった「ショーガール」というのを観ていた。烈しく露わな劇画面が続いた。こういうのを凄いといえばよい。こういう世界もある、それが世界。思いの外にカタルシスもあった。
2014 5・17 151

* 夜、輸液の前からクリント・イーストウッド監督の快作「ガントレット」、もう四五回めを楽しんだ。ソンドラ・ロックがよく、イーストウッドがまた佳いのだ。ペアの主役に清潔感があり、カタルシスに富む。佳い監督だ。
2014 5・18 151

* 副大統領急死に伴う指名をめぐる熾烈な駆け引き映画「コンテンダー」を観た、というより、何回目かで見おえた。アメリカ映画。カタルシス、無し。庭の花に水をやりたいところだが、もう、へとへと。なでしこジャパンの決勝戦を見続ける元気も根気も無さそう。ひたすら眠い。黒いマゴも背後のソフアで寝ている。
2014 5・25 151

* 昨日から、二度、フランス映画、ジュリエッタ・ビノシュとジァン・レノの「シェフと素顔と、おいしい時間」を十二分に楽しんだ。久々に仏映画の美味を満喫した。いつでも佳い映画なら観たい。このところクリント・イーストウッド式の映画ばかり堪能していたので、嬉しくなるほどジュリエッタとジァンのフランス語が心地よかった。
2014 5・31 151

* 昨日、
ジュリエッタ・ビノシュとジァン・レノの「シェフと素顔と、おいしい時間」を、二度観つづけ堪能しました。ひさびさに仏映画の魅力を満喫しました、映画好きのあなたをちょっと想いながら。
お元気ですか。新築前のいい仮の宿が見つかりそうですか。なにもなにも、宜しく収まりますようにと願います。
わたしは、もう残り少ない人生、新しい家をといった欲望はまったくなく、畳一枚在れば寝床は造れるぐらいの気で、家の不自由より、乏しいながらも適当にお金をつかって過ごそう楽しもうとしています。贅沢は不可能でもあり無用なことですが、楽しみは楽しんでいます。自分の「紙の墓・紙碑」といえる「文学選集」を人も驚くほど豪華に美しい私家版限定非売本で造り始めたのも、老境の気儘な励み楽しみになっています。もう三巻目の入稿用意にかかっています。湖の本も、28年、120巻めの「随筆選(一)」が進行中です。結局、文学以外には何にもできない人生でした。
そろそろからだが動かせるか知らんと旅心もうごめくのですが、家内も、猫の黒いマゴも、わたしも、いろんな健康の引っかかりがあり、半ば諦めています。せいぜい町歩きや相撲や芝居を楽しんでいますが、食べるという意欲が薄れています。胃袋がなく、すぐお腹が張って気分が悪い。お酒は飲めますが。
お元気で。いつでも声かけて下さい。 湖
2014 6・1 152

* 夜前、一時近くまでかけて、ショーン・コネリーとロブ・ブラウンの秀逸の映画「小説家を見つけたら」に惹きつけられた。感動した。競演の二人が誠実で真摯で人間としてもすばらしく優秀だった。ショーンは生涯にただ一册しか本を出していない、しかし大作家。黒人の十六歳ロブは作文ないし創作の天才に溢れたシャンと精神的に独り立ち出来ている優秀生。しかもバスケットの超人的能力も兼ね持っている。
あきらかにわたしの謂う「身内」もののドラマで、これと比すればあの洒落ておもしろかった「シェフと素顔と、おいしい時間」は映像の確かさはそれとして、リッチな巧い読み物に属していた。「小説家をみつけたら」は、すぐれてフェイマス。その文学作法は立派で適確だった。佳い物は佳いなあ、佳いわねと言い合って一日を終えたが、そのあと、わたしは眠れなくて。真夜中に、明るいライトと裸眼とでたくさん本を読んでいた。
2014 6・2 152

* 小刻みに観つづけてきたコッポラ監督映画、ミュージカルっぽい「ワン フロム ザ ハート」は、見終えて、とても斬新であった。女優の二人、テリー・ガー、ナスターシャ・キンスキーが魅力に溢れて男を悩殺。ことに馴染みの無かったテリー・ガ゛ーの、特別美人でもないのに殉情を帯びた肢体も表情も蠱惑あふれてしかも不潔でも退廃的でもない愛の表現に感心した。性と愛とがおどろくほど切り離れていて、こういう人間理解や表現は観たことがないと感じた。それを不可とは思わなかった。愛の実現に性が大車輪にはたらくのはいわば歴史的通常であったけれど、性は性、愛はそれに左右されないという理解や表現は新鮮で衝撃的だった。映画表現としてもミュージックも「あもしろ」く、これはまた観なおしたい。
映画は文学ではない。映画の独創的な表現や追究には敬意を払っている。
2014 6・11 152

* 発送用意を推し進めた。「選集」に関しても考慮を重ねた。今日はほとほと眼が見えない。字を読むよりはと、マレーネ・デトリヒの、と謂う以上にチャールズロートン名演の「情婦」に引き込まれながら疲れも増した。アガサ・クリスティ原作だが、脚本・監督ビリー・ワイルダーの手腕の冴えであり、無数の映画作のなかでも屈指の名画と躊躇いなく癒える。
なにをしていても食欲薄く、よろしくない。はやく休みたい。早く寝て、ゆっくり寝るに限る。「選集③」の校正が山のように重く目の前に。
2014 6・14 152

* ミラ・ジョボヴィッチの「ジャンヌ ダルク」をまた観ている。オルレアンの激戦まで観て。むかし中学生の時に観たバーグマンのそれとはよほど調子が違う。昔、初めて見た美しいバーグマン「總天然色」映画のツクリは、華麗であったけれど、物語っぽかった。ミラのジャンヌは問題を孕んで、かなり深刻、それだけに惹きつける。
2014 6・16 152

* ミラ・ジョボヴィッチの「ジャンヌ ダルク」を観終えた。ジャンヌの神は、まことの神ではない、彼女が欲して観たかった神の妄想に過ぎない。神はフランスのむもの、イギリスのものであるわけがない。この映画世界にあるのは徹して英仏王族や騎士達また聖職者たちの厭わしくも卑しい我欲だけである。結局は魔女狩りの一例として終始した。その情けなさにジャンヌののこした感銘がある。
2014 6・17 152

* fはからずも午後、映画「ケイン号の反乱」を、また見た。映画のいい意味のテキパキが適確に表現されていて、終始惹きつけられる。艦長ハンフリー・ボガート、弁護人ホセ・ファラー。荒れる海も揉まれる艦も美しかった。軍事法廷も節度あって潔かった。いい映画にはいつも脱帽する。脱帽させる現代小説に久しく久しく久しく出逢わない。「選集」を思い立った大きな一つの理由だ。
2014 6・18 152

* 一日の終わりに、文楽の竹本住太夫引退への取材番組をしんそこ感動、涙ながらに逐一観おえた。すばらしい番組だった。浄瑠璃のおもしろさ、むずかしさ、深さを「音(おん)」一字に打ち重ねて、わたし自身、初めてかなり納得の行くまで教えられた。老齢と体力の衰えは深い強い烈しい藝に打撃を与える、それでも住太夫は諦めず投げ出さず好いて好いて好いて苦しみ抜きながら藝を究めて、なおされを弟子に伝えて行く。
大阪と文楽との切っても切れない文化の臍の緒をもしかとみせてくれた。維新の会の橋下市長は、その文楽維持の予算を真っ先に削減しようとした。新に大阪をささえる文化の根底なのに、あの軽薄モノは分かっていない。それにも泣けた。
引退公演のみごとな感銘、幕のあと、幕外で超満員の客に感謝感激の拍手喝采されながら、簑助らのつかった菅原伝授手習鑑の櫻丸の人形の手をとって、藝の鬼のついに泣いた場面はどんな名舞台の終演にもひけをとらないすばらしい光景だった。
ありがとう、と、わたしも泣いて拍手を長く惜しまなかった。
2014 6・21 152

* なにしろ電話というのが鬱陶しいのだが、それでも声を聴きたい人はいる。口に合うおいしい御菓子を食べる気分かなと思いつつ、相手の気の重さを思うとそういう真似もしない。めったにしない。声を聴かせたら、きっと嬉しいと言ってくれると思うだけで電話機を観ている。
わが家では、と云うかわたしだけの思い習わしに妻も相槌をうっているのだが、息子の、秦建日子のドラマに出演していた男女すべての出演者達は、例外なく、みな「うちの娘」「うちの息子」と呼んで「おお」「おお」とテレビへ声をかける習わしが出来ている。とても心賑わって嬉しい習わしなんです。電車の中の広告などでもよく見つけて、横の妻に「ほら息子がいるよ」「娘だよ」と教える。こういうタワケた七十八爺、ま、ゆるされよ。実の娘に去られ、孫娘を死なせ、息子と黒いマゴ猫しかいない。やはり寂しい。その意味でも大勢の「息子・娘」を贈りものにしてくれている秦建日子、親孝行してくれているわけだ。松たか子は「ヒーロー」に出てくれていた。願わくははやく沢口靖子も「娘」と呼びたいです。
2014 6・23 152

* 夕方、用意の出来ていた分の全部を発送ないし発送前にまで、し終えた。あとは何の用意も出来ていない分を、手を掛け手を掛け明日以降に送り出す。作業しながら、録画してあるう映画を二本、観た。ひとつは潜水艦もの「U-571 戦艦シュベー号の最后」。ひとつは教育ものケビン・クライン主演の「卒業の朝」。両方とも、凡百のテレビドラマに比して十倍二十倍の秀作だった。作品も豊かに優れていた。何といっても創作の出来不出来は、作の「品」格のよろしさに極まる。

* もう一つ。韓国歴史劇の大長編、いろんな編輯で三度目の「イ・サン」最終回を見終えた。十八世紀に没した国王と、幼なじみのソン・ソンヨン、パク・テスと三人の優れて親密・誠実ないわば「真の身内」としてドラマでもあり、聖帝と称えられた「イ・サン」の優れた資質が理想的に丹念に描かれていた。これほどの帝王ものは希有であり、日本では残念ながら一人の天皇もこうは描かれていない。
この大河劇に弾かれて、三度までわが家では愛し続け、きょうもなお深く感激した。同時にわたしは、こうも思い当たっていた。
プラトンの「国家」は理想的な国家の何たるを問うた超大作記であるが、わかりよく云って、かれは理想的な国家の政体を民主主義とは考えていない、その相対的なヨロ示唆は評価しているのだけれど。プラトンは、最も理想的な政体は、往々にして無残な失望に陥るおそれのあまりに多いものながら、真に優れた哲学と徳とをそなえて優秀で慈愛と誠実と正義感に富んだ帝王国家を望ましいとしている。
わたしは、少年の頃の洗礼をうけて主権在民の民主国家を望ましいと言いもし望みもしてきたが、議会制度の腐蝕と多数を頼んだ権力独裁政治へ流れやすい疎ましさをも、イヤほど味わい続けてきて、いまやその嫌悪・厭悪の極度に達している不快さに日々堪えきれない癇癪を起こしている。
「イ・サン」の聖帝思想とその飽くなく根気良い実践と達成とをみていると、おそらく、こんなふうに「治められて」みたい人は想像を絶して多いのではないかとさえ思える。
かつて、田中角栄の意気盛んだった頃、「角」を将棋に見立てて、むりやりな「王」よりは躊躇いなくわたしは「角」を頼むとコラムに書いていたのである。いま、安倍「違憲」内閣の権道に虫酸を奔らせているわたしは、「イ・サン」に感じ入った反射もあって、ハルカギリシアの哲人が考えていたような国家・政体もやはり在るのかなあ等と思いもする。
だか゜゛待て。人類の歴史でそんな理想的な帝王が、ないし神がいた国も時代もじつはゼロに等しいのである。インドの古代のアショカ王がわずかに伝説の聖国家を言い伝えているが、西欧にも中東にも中国にも日本にも「聖帝」は繪に描いた餅ほどの痕跡すら残していない。
生きがたい人の世。その歎きばかりが、何時の代にも現実そのものだった。征服王は数々実在したが聖帝は名ばかりで実を挙げた例は絶無である。
やはり真に聡明で勇気ある民主主義を確立するしかない。そのためには、「違憲」政権は一日も早くどうかして潰さねばならない。

* 「ザッツ エンタテーメンツ」の第一部でダンスを堪能。した。十一時、やすむ。
2014 6・26 152

* 八時半には、疲れて、作業を明日に見送り、村上開新堂の山本道子さんに頂戴のクッキーをお茶で楽しみながら、テレビの映像をいろいろ眺めていた。なつかしい黄檗山万福寺や、アメリカのショウや、スリリングなDlifeドラマなど。染五郎と木村佳乃の「蝉しぐれ」は見逃した。
2014 6・27 152

*映画「戦場のピアニスト」に泣き怒りおののき恐れながら、朝の仕事を続けていた。ショパンの曲がこんなに美しく烈しく深く聴けたのはこの映画が一だ。何度観ても震えるほど魅され観せられ考えさせられる。
いま日本人のほとんど全部が、自分たちがこのピアニストをはじめとするユダヤ人らのように虫けらのように殺され撃たれるようなことはあるまいと思っているのだろうが、わたしは是に近い惨害を五日一度は受けるかうけかねない羽目に追い込まれるだろうと懸念し怖れている。わたしや妻は、死んで惜しくない年齢であり、やすやすと死を受け容れうるが、若い友や子や孫やその子孫はどうなることだろう。日本はかつて日本軍と政権とが暴戻を尽くした国々とその国民に今極東の海のなかに囲まれている。一朝こと有れば、ナチスドイツがユダヤ人や占領国の国民にしたと変わらない暴虐と無残を、強いられずにはきっと済むまい。断乎としてそれをこそ起きさせない優れた判断の政治が必要なのだ、いたずらに好戦、交戦、攻撃姿勢へのめりこむような危うい政治をして貰っては困るのだ。 2014 6・28 152

* 愛らしいメグ・ライアンとしては異色の配役、映画「戦場の勇気」も観た。途方もない数々の映画が多年に亘り録画してある。CDだけでなくテープというのかDVDでも我ながら吃驚するほど録画してある。すばらしい映画作品を百選せよと言われてもたじろがない。それほど映画が好き。しかし映画館には、この五十年に二十度も行ったことがない。録画の技術サマサマである。録画だと長い小説を段々に読むのと同様にでも観られる。それが有難い。
2014 6・28 152

* 染織の志村ふくみさんの糸染め糸織り世界観のみごとさに朝一番に感嘆。みごとな作品世界の新鮮で宏遠なこと、目を吸い取られたかのように見入っていた。自然の情を人が静かに深く探り当てて白絹糸に染めそして織り上げて行く優美さと毅然とした共感の確かさ。すばらしい日本。すばらしい日本の自然。だいじにだいじにしたい。
2014 6・29 152

* 米倉涼子の「黒い蟻」(清張原作)を見ていたが、途中で二回へ戻った。小説「誘惑」を読み進んだ。はるかに大げさなテレビ映画より楽しめた。この小説の「繪屋槇子」は、何人もの往時のヒロインたちをうち重ねながら、わたしにやっと書けた初めての「女」のように思われる。「たづねびと」を尋ねるようにわたしは何人ものヒロインたちを生み育て「身内」として愛してきた。そのために小説を書いてきたとさえ思う。しょせんわたしは文壇の作家ではない、わたしが読みたいものだけを書き、そのヒロインたたちを愛してきた、それだけの創作者にすぎない。私家版からはじめ、私家版の「湖の本」を二十八年120巻もつづけ、そしてまた私家版の「選集」を紙の墓のように建立し始めている。
2014 7・2 153

* パラグァイにみごとな日本語学校があり、幼児から大学生まで。茶の湯の稽古までなかなかの行儀できちんと出来ているのに仰天するほど感心した。毎日、無心に君が代をだれもが唱い、日本語の浸透度にも感服。寄付したいとさえ思った。みなの表情の穏和に柔らかなことにも驚嘆し、日本のていたらくが恥ずかしかった。
2014 7・6 153

* 久しぶりに映画「ダイハード2」を楽しんでみた。五回は観ているのに、惹きつける。ブルース・ウィリス一面の代表作だ、ただし彼にはもっと味わいを異にした渋い佳い作もある。
2014 7・7 153

* 早稲田の「文藝」教室での教え子で、はっきり背を押し出した角田光代原作のドラマを、ちょっとだけ観ていた。原作は知らない。ドラマの配役はいいが、演出に冴えもテンポも無く、永くは観ていられなかった。
2014 7・12 153

* 今夜の鑑定団には佳い物が出そろって楽しめた。美術品には多方面への展開があるものの美しい、貴いという求心力があり、真実楽しめる嬉しさがある。こういう嬉しさを奪われてしまったら生き甲斐の多くを見失うだろう。
2014 7・15 153

* 黒いマゴの輸液には十数分か二十分かかる。太い針を刺されるのはイヤだろう、で、わたしの膝に抱きかかえているうちに妻が刺す。うまくいけばそのまま輸液できるが、刺しようが浅かったり皮膚を塗ったりするとたちまち水が溢れるように洩れる。これが難しい。
輸液の間わたしは動けないので、そのあいだ、録画の映画を小刻みながら毎日見続ける。昨日までは「ショコラ」をとても面白くみていた。ジュリエッタ・ビノシュがすこぶる魔女ふうに魅力的で、ジュディ・デンチもなかなかの存在感。中世を思わせるほど牧歌的でかつ閉鎖的な因習にもしばられた小さな町での物語。初めて観たときから、好きな、佳い映画の一つと数えてきた。いまの体調ではジュリエッタのつくる多彩な「ショコラ」を味わう元気がないけれど、魔術的なうまみが、不当にアタマを抑えられて暮らしていた町の人たちをめざめさせてゆく。漂泊の魔女母娘も呪縛から解き放されて行く。

* その気になればどんなに忙しい中でも楽しめることはいくらでもある。いい映画ならちぎりちぎり観ていても十二分に惹きつけられるし、本にしても、いっきに沢山読もうとしないなら、存分に楽しめる。詩歌を読むのは小説や論攷を読むよりも、別の打ち込みがようが利く。小説を読めば、たちまちに他界へとんでゆける。また庭の花を、草や葉を、ふと観ているだけで堪らなく嬉しくなる。まして、家の内にかけたり置いたりしてある繪や、書や、壺や、蒔絵のものをへ眼を送る嬉しさ、しんそこ楽しめる。人間の才能の中で、こういうふうに豊富に容易に静かにものの楽しめるちからがいちばん貴いのかもしれない。
2014 7・24 153

* リチャード・ギアとゼブラ・ウィンガーの「愛と青春の旅立ち」、以前にも観ているが、見せるいい作だった、小泉純一郎に似たこの主演男優はあまり好きでないが、ゼブラ・ウインガーは魅力に溢れていた。今晩は、九時までこの映画で休憩した。花火には行けなかったが。
2014 7・26 153

* このところ妻はDfileのドラマ「NCIS」に嵌っていて、わたしもときどき付き合って観ている。マオタイのあと帰宅して、今夜は続けて二本、二時間観てしまった。日本製のドラマにくらべて展開も映像も会話も、かくべつに切れ味がいい。ダラリペタンとした日本の刑事ドラマの鈍感で説明的で低俗ワンパタンな氾濫。何でああなるか、誰の責任か。
言うまでもない、視聴者があんなものを見続けているから、書き手も作り手もそんな視聴者を舐めきって怠けているのだ。
文学についても言える。
評判の名作がちっとも世に出ず、文豪がちっとも生まれてこない責任は、(本音を言う)一に読者にある。「いい読者」が少ないのだ。数少ない、けれど「いい読者」に恵まれてきたわたしは、秦恒平は幸せである。さもなければ私家版の「秦恒平・湖(うみ)の本」が二十八年も、百二十一巻も続くわけがない。
2014 8・4 154

* 「阿」や、秦建日子は、邦題『真実の瞬間(とき)』という映画を観てきただろうか。ハリウッドを舞台に、名優ロバート・デ・ニーロとアネット・ベニングが、前の大戦直後のアメリカで二十年ほども吹き荒れた「赤狩り」マッカーシー旋風と戦い抜いた(しかし惨憺たる目に遭ったのだけれど)、アーウィン・ウインクラーによる監督作品だ、凄絶、観ていて息をするのも苦しいほど、リアルで、ダーティで、非道と悪政を相手に人としての節操と誇りとを枉げず、勇敢無比に闘った名画だ、マッカーシーズムへの怒りにうち震える名品だ。観てなかったら観て欲しい。文化とは何か、創作とは何か、人間とは何なのか。
優れた映像の持つ説得力の美しさ強さ。おなじことは、文学でも演劇でも美術でも、思想でも、敢行されねばならない。屈服してはならず、問題を抛擲してもならない。
この映画で為されていた非道・無道・脅迫は、日本では戦前戦時に為され続け、アメリカではヒロシマ・ナガサキに原爆を落として戦争に勝ったあとで、思想と表現との自由を壊滅させるために為された。
いま、日本ではまたもやそういう時代・時勢への反動志向が安倍「違憲・棄憲」政治の露骨な反民主主義とともにまたぞろ復活しそうに蠢いている。さような無道と闘うべきは、文字どおり「今でしょ!」。真剣に生きていこうとする若い精神と肉体とを、政治悪の餌食にしてはならぬ。
2014 8・7 154

* 夕暮れ前、あおむけに体を伸ばして湖の本を再校し、「慈子」を初校し、何冊も本を読んだ。「書く」仕事もした。「書き起こす」仕事もした。妻につきあい、Dfileの映画も観た。わたしはわたしの録画から「プライドと偏見」についでデカプリオの「ロミオとジュリエット」を機械に入れてある。黒いマゴに輸液の時、マゴを膝に載せたまま15分か20分、好きに映画を観ることにしている。
今夜は、新しく運んできたどれかから読みだそう。もう眼は水に浮いているが。
2014 8・13 154

* 根をつめたいろんな仕事で今日も終始した。眼もアタマも足腰もかなり疲れている。それでも、デカプリオの「ロミオとジュリエット」を打ちこんで見終えた。また注目している武井咲の監察医ドラマも、おもしろく見た。表情は十分に善い。ただマスクのせいもあるにせよ、言葉がきれいに聞こえないのは大きくなって欲しい女優としては自覚が足りないのでは。名優の大特徴の一つは、科白の明晰にある、どんな役柄であっても。
火野正平が自転車で、福井県の田園の真ん中にある「三昧 サンマイ」を訪ねていた。なかなかの原風景で、静謐のうちに感動をたたえた写真がみられた。よかった。
食べにくいので、つい酒を飲んでいる。もう十一時。
2014 8・14 154

* 今朝の輸液からは、録画映画は「イヴのすべて」に。これぞ震えの来るほど凄いとのけぞる藝術豊かな作品。ベティ・デイビスとアン・バクスター。息を呑む。
2014 8・15 154

* 「兄者」の輸液を終えながら映画「イヴの総て」を驚嘆の思いで見終えた。ベティデイビスの圧倒的な存在感、アン・バクスターの戦慄の演技。映画藝術の最たる一つであること間違いなし。ただラストシーンのなぞりは、本当に必要だろうか。
2014 8・21 154

* 輸液の間の録画映画「スペシャリスト」を三日ほどかけて二回繰り返して観た。シルベスタ・スタローンとシャロン・ストーンという好きなペアの、緊迫と哀愁。爆発のもの凄さ。外国人女優の裸形でもっとも惹かれるのは、シャロン・ストーン。「ランボー」を演じたスタローンの滲みでるものの哀れにちかい愛と迫力。
それにしても我が家には何百の録画映画の在ることか。よほど好きなのである、映画・映像の表現が。
昨日の歌舞伎「吉田屋」にも長唄「二人椀久」にも魅された、すばらしい書画や詩歌・物語や陶磁器・漆器にも、仏像にも、むろん小説にも心惹かれる。よほど好きなのである。
そしてすばらしい女性にも。美味い酒にも。花にも。
2014 8・23 154

* 遅々としているが、もう二日もすれば根気仕事の山を越えるだろう。今晩は骨休め半分、ブルース・ウィルスの映画、少なからず陰惨な「スリーリヴァーズ」を観終えた。Dlifeの人気番組らしい「NCIS」も観ていた。新しいコーヒーカップで珈琲をのみながら。
もう十一時半になろうとしている、かなり睡くなっている。
それでも、ラ・ロシュフコーによる「箴言集」への彼自身の「考察」を、ことに「恋と人生について」を面白く読んだ。すこし考えの違うのを感じるけれど、これも一つの明快な観察で考察だと思われた。公爵で歴戦の武人で皇帝や后妃やリシュリューらとも関わり深い宮廷貴族で、相当に辛辣でも如才なく社交的でもある人物の「考察」である。スエーデンのクリスチナ女王はこの「箴言集」の愛読かつ容赦ない批評家であった。『クレーヴの奥方』で名高いラファイエット夫人ともしたしかった。               ちょっと「恋と人生」考察の全文を引き出してみたいが、もう眼がもたない。
2014 8・25 154

* 濃いお茶にのまれたか目が冴え、電気をつけて本を読んで早朝を迎えた。「選集③」の「誘惑」を初稿し終えて、要再校で戻すことが出来る。かなり綺麗なゲラなので早くに再校が出るだろう。その間に前・後ろのツキモノを入稿してしまう。追っかけて「湖の本122」
が出来てくるはず。
読書は、マキリップに心酔している。鏡花の触るのさえ惜しいほど美しい造本の「山海評判記」では耽溺の嬉しさを満喫。フォークナー、マルケス、ジョイス、グリーンに乗っている。八犬伝も気の向くままに。
七時に独りテレビの前でシャロン・ストーンのセクシーな魅力をたのしみ、見終わってからはブルース・ウイリスの風変わりな「キッド」を機械にセットしておいた。
昨日の晩、武井咲で注目しているつづきものの「真実の瞬間」をまずまず面白く観た。来週には完結。ま、佳い方のみものだった。これが終わるとまたもや米倉涼子の「わたし失敗しません」の外科もの。川の映えしてますます佳い写真を見せて貰いたい。

* 不愉快で情けない政治・経済ニュースばっかり多いのにうんざりしている。マスコミも、今少し「朗報」をひろうことに熱心になってくれないか。感動を送り込んで元気づけて欲しい。
和やかに懐かしい番組もある。日野正平が自転車で故郷へ故郷へ力走しては、投書のいい手紙を読み静かに美しい日本の凡山凡水を見せてくれる。かと思うとカメラマンが海外の街で徹頭徹尾のどかな猫たちとの心和む対話を写真でみせて呉れる。

* それにくらべ、日本の政治家たちも地方自治体の姿勢も、機械呆けして遊びくらしているわかものらのばからしさ、まるで此の世のハナクソのようだ。
2014 8・29 154

* ブルース・ウイリスの「キッド」 滋味掬すべきものがあった。今夜は、もうやすまないと、睡眠が足りなくなる。
2014 8・29 154

* とても気に入っている「NCIS」一時間を楽しんでから機械の前へ来た。もう日付が変わっている。
嬉しいメールが一つ飛びこんできた。
2014 9・1 155

* 黒い兄者の輸液のときに小刻みに観てきた映画、ブルース・ウイリスの「キッド」そしてバーブラ・ストライサンドとオマー・シャリフの「ファニー・ガール」はともどもに観せてくれた。ブル゜ス・ウイリスにはときおりこういう渋い作があってそれが似合いもする。「スリー・リヴァーズ」と大違い。そしてバーブラの圧倒的な存在感と歌唱の魅力、感嘆。異色の大きな才能、敬意を覚える大きな女優。

* 昨日歯科の待合いで週刊朝日をみていて読者から投稿の、「クロサワ・アキラ」のどこがいいのか、じつにくだらない、「七人の侍」など黒白で汚いだけではないかと、識者に訊いていた。わたしも驚いたが、回答者がカンカンに怒っていたのが可笑しかった。
今朝、機械が始動するまでの短時間にラ・ロシュフコーの「箴言集」で「趣味(グウ)について」考察した一文を読んで大いに共感し感心した。すぐにも此処へ引き合いに出したくて堪らないが早や眼が茫漠と滲んでつらいので諦める。こんな時はとにかくも機械から離れるしかない。
2014 9・2 155

* 昨夜 寝る前に、山中さんに戴いた「三千盛」超特を、これも頂き物の祝盃で味わいながら、録画してあった小津安二郎最期の名作「秋刀魚の味」をしみじみ観入って、今朝黒いマゴの輸液からのあと、ほんとうにしみじみと観終えた。完璧に推敲された名文を読むような嬉しさで、志賀直哉への小津さんの私淑がよく分かった。一語一分のムダも、科(動き)白(ことば)にない。俳優たちに芝居をさせず生のままの「人」を写し取っている。しかも十二分に足りている。あの演技の上手い杉村春子にも完全に芝居を封じてじつに佳い。落魄の昔の教師先生東野英治郎にだけ存分に演じさせている。柳智衆、中村伸郎、北竜二のみごとな実在感、佐田敬二、岡田茉莉子の長男夫婦、ほんの一瞬のように出てきて美しかった有馬稲子、またいい味わいで素のままに生きていた三宅邦子の奥さんぶり、そしてもう何よりも岩下志麻の気稟の清質最も尊ぶべき美しさ愛らしさ、「バス通り裏」に現れた瞬間から大成を一瞬も疑わなかった確かな存在感。
小津映画を愛していると、世の映像・ドラマのなんという推敲不足のむだ沢山かに嘆息を禁じ得ない。
画像作家も、小説作家も、なんというムダを沢山に盛りあげて得意がっていることか。推敲こそが才能だとわたしは少なくも小説世界では確信している。むだを書くのは罪悪である。むだを書かずに豊穣の嬉しさを「作品」とともに静かに深く与えてくれる作者。生ける文豪が今日只一人もいないとわたしが嘆くとき、そういう幸福を恵んでくれる作を想い描いている。
(この日記は、書きっぱなしで、推敲のための時間を取っていない。総じて時間が足りないので。で、文としての仕上げは、本になるときに、と。)
2014 9・4 155

* 朝食には卵納豆と桃、それにクスリと思って小さい猪口いっぱいの赤ワイン。食前にインシュリン注射。食後に各種服薬。
黒いマゴの輸液から、ダスティン・ホフマン、キャサリン・モスそしてアン・バンクロフトの、主題歌美しい「卒業」を観た。
2014 9・6 155

* 発送作業に集中、バート・ランカスターならではの映画「終身犯」を観る。男優のいろいろが好きだが、バート・ランカスターは筆頭にも置きたいほど。ジョン・ウエイン、ジェームズ・スチュアート、グレゴリー・ペックほか多数の好きな男優がいて、以前ならたちまち五十人以上を、ほどほどに好きな程度なら百何十人も名を挙げられたのに、もう、いけない。とにかくも終身禁獄のなかで小鳥を育て、世界的な鳥類学者になった男の感動編であった。
2014 9・10 155

☆ 今朝
日本に戻りました。
まださまざまな疲れがあります。
今夜 10時からNHK _BSで漱石のこころに関する番組があるので見ようと思います。
どんなアプローチをするでしょうか。  尾張の鳶

* こころの番組、妻が興味を持ち、わたしも横でみていたが、物足りなくて二階に上がってきた。もっと重量感のある真摯な検討が欲しかった。発言者たちの姿勢が浮ついていて、おおっと刺戟される発見・発言は現れ出ず、みな、大勢が言い古してきたところを摘み食いしていた。ま、途中で起ってきたので決め付けはしないけれど。

* さ、もうやすもう。
2014 9・10 155

* 五時、今回の発送終了。ロバート・デュバルやトマス・ハリス、そしてシャリイ・マクレーン、サンドラ。ブロックらの老年の哀歓を描いてあまりに渋い「潮風とベーコンサンドとヘミングウエイ」を観ながら、いや聴きながら作業していた。
2014 9・13 155

* 建日子が帰ってきて、仙台の遠藤さんに戴いためずらかな蒲鉾料理をさかなに食事し、三人で小津安二郎の「秋刀魚の味」を観た。建日子は小津作品との初対面だという、いささか惘れた。岩下志麻の、柳智衆、佐田啓二らのよろしさに心底惚れた。
建日子がいると、しんからくつろぐ。黒いマゴと二人だけの日々は、やはりどこか寂しいのだと分かる。
とにかくも、発送を終えて、寛ぐことが出来た。
2014 9・13 155

* ヘレン・ミレンが夫人を演じてトルストイの最期を描く映画を一両日まえに作業しながら見聴きしていた。トルストイの死は胸つかれて、劇的だ。
いまわたしは、フォークナーの「アブサロム アブサロム」 マルシア・ガルケスの「族長の秋」など二十世紀アメリカ文学を翻訳で読んでいて驚きが大きいが、顧みて、トルストイの大いさをより強く豊かに感じ直している。どう理屈を付けてみても、トルストイの三大作を凌駕し得ている、二十世紀、二十一世紀文学を認め得ていない。わたしの古さであるとしてもいいが、どんな新しさなら、フォークナーやマルケスの方がトルストイより優れていると認めうるのか、教わりたい。
2014 9・14 155

* 彼岸花、か。あの曼珠沙華とヽ花であるのなら、むかし平凡社での焼き物取材に九州中をくるまで走り回ったとき、至る所で目にした。また「ミセス」の取材で千葉県の久留里へ弘文天皇の墓を探しに行った途中でも、目に染みてたくさん見た。縁起のよくない花いとかは、いくらか聞き知っていたが、そんなふうには少しも感じなかった。以来、好感を持っている。ことに小津安二郎監督の名品「彼岸花」には今も懐かしい愛情を覚え続けている。あれも「秋刀魚の味」にまけない懐かしい映画だった。また観たいな、録画してあるぞと思っている。
さてさて、雀さんといい鳶さんといい、上のようなエスプリとグウとの「便り」とともに、それとなく身近に生きていてくれて、こころよく励まされる。強い流れに誘われるようにわれわれみな老いて行きつつはあるのだが、とはいえ二人とも、この鴉=わたくしよりは一回りもその上も若いはず。元気に長生きして下さい。
2014 9・15 155

* お寶鑑定団に寛永三筆の筆頭、近衛三貘院信伊の真筆書簡が出てきて感動した。
2014 9・23 155

* 映画「去年の夏、突然に」を途中まで観て、疲れてきたので今夜はやすむことに。
22014 9・24 155

* 韓国の歴史劇は「イサン」「トンイ」「馬医」「ホジュン」などを観てきて、いまは「根の深い木」という、朝鮮文字創始の歴史劇を興味を持って観ている。朝鮮文字のこと、まったく予備知識がなかった。このような視点から歴史劇が工夫されるということに、日本の時代劇との質や志向の差を感じる。このドラマでは、ただ新文字創始をめぐる秘話にとどまらず、王政と宰相合議政治との思想的な対決や、支配するものと支配される民との根の問題、さらには儒の朱子学か仏教かといった思想的文化的な問題にまで手を触れている。日本にもこういう思索度の濃い歴史劇がほしいが、将軍慶喜を扱った大河ドラマぐらいなものか。新井白石とシドッチとの対決を介して、また北の時代をきりひらいた最上徳内の人間性をとおして、日本の近世が近代の世界へと目を開いて行く経過などに着目できないものか。
2014 10・2 156

* 目が見えず、仕方なく機械仕事をはなれて、ぼうやりとでも何とかわかる映画「故郷への遠い道」を観て、泣いた。パイパー・ローリーの母親が一家の芯にいて、悲劇を抱き込んできた一家を幸せに恢復させる。胸を衝かれた。
2014 10・2 156

* 能と文楽(浄瑠璃)と歌舞伎のコラボレーションで「隅田川」をテレビで観た。野村四郎の演出で、文楽からは咲太夫、歌舞伎からは菊之助が参加、しんみりと佳い舞台が創られた。
2014 10・3 156

* 今朝まで、韓国の連続歴史劇「根の深い樹」を見続け、最終回を見終えた。「日本のかな文字」に似て、はるかに徹底した人造文字の生誕と公布までの烈しいドラマだった。たんに文字作りの経緯が烈しかったのではない、「王政」と、密本(ミルボン)と名告る秘密の階層、ずばり宰相総裁政」との激闘でもあった。王の世宗は民衆にも読める文字の創成を大願とし、密本の主宰は、これを徹底阻止しようと暗躍し続けていた。
新生文字についてわたしは適確にものが言えない、何も知らないのだから、だが、わずか二十数字で言語の表記をかのうにするという発明の努力には讃嘆すら覚える。
同時に「王政①」と「宰相総裁政②」との対決は、まことに興味深い人間の歴史ないし国家論にかかわる基本問題であったことは、世界史が照明している。これに「民主政③」を加えれば、まず、この三者が世界史を動かしてきたと言い切れるだろう。いまや「王政」国家は少なく、「宰相総裁」国家が「民主主義」の擬制の体で圧倒的に多く、少なくも「日本」は、三権分立をいいながら行政の長である「宰相・総理」のしたい放題国家になっている。じつは日本の総理大臣は、けっして大統領でも国家主席でもないのに、そういう横風な権力で好き勝手な横車を押しているのだ。
優れた名君としての王政が望ましいとする国民は少なくないのだが、その王制がいかに簡単に腐敗し弱体化して最悪の利用に身を委ねやすいか、これまた誰もが知っている。日本は天皇制だが、天皇が賢明な善政を有効に布いていた期間は、実は無いに等しかった。蘇我、藤原、源氏、平家、北条、足利、徳川、みなまさに「宰相」として国事を総裁していた。新憲法では民主主義と唱えていても、事実われわれの憲法の理解通りに「民主」であったことは、無いではないか。そもそも中国語で「民主」とは即ち「皇帝・王・民の朱である支配者」の意味なのである。
それへ「文字」という宝物が絡まった。まことに希有に難しいしかし考えさせられる興味深いドラマだった。日本の演劇・ドラマでこういう問題を「文化と政治」の肝要として取り上げた例をわたしは知らない。
2014 10・9 156

* 新しいシリーズの「ドクターX」初回を観た。毎週観るだろう。「手術」という微妙で高度に精密な、しかも人間的な「場面」を凝視するだけで感銘を受ける。ドタパタの芝居はオマケのようなもの。
2014 10・9 156

* ドラマ「大門未知子 ドクターX」今期初回の録画を、ことに手術場面をもう一度観ながら、黒いマゴ毎朝の輸液を。椅子に掛けたわたしの膝に専用の座布団を置き、穏やかに坐らせてから妻が点滴のため注射する。うまく刺せないと液が体外に零れてしまうので、簡単ではない。零さず、ひどく痛がらせず、液の流れが順調なように刺さねばならない。もう一年余も欠かさず続けてきて、見違えるほど黒いマゴ、元気を回復してきた。遊びたくて仕方なく、我々を誘いに来る。我々の言葉もおどろくほど理解できるし、ハッキリした意図や希望を告げてくる。対話が、よほど利いている。誰にもまして「身内」として共生している。
2014 10・10 156

* 出掛けたかったが、出来なかった。目前の機械仕事に終日打ちこんでいた。もう目はほとんど見えない。へとほとに疲れている。しかし、厄介な手間の掛かる仕事を仕遂げたと思う。
妻も懸命に、十篇の対談・鼎談・座談会のコピーブリントをスキャンしてくれた。この校正の難しさ、原本プリントが年経て劣化しており想像を絶する。ま、根気よく根気よく根気よくやる。それだけのこと。
失せモノの捜索も手を抜けない。手書き原稿の電子データ化、これはもう自分でやるしかない、馴染んでいる妻にも読みづらい手書きだから。
酒が和洋とも切れ、ビールも切れ、クスリ代わりの赤ワインを呑んでいる。
マリリン・モンローの笑える映画で休息、ただし二メートル余の距離でモンローの顔がグジャグジャで見えない。

* 明日はまだ颱風が来ないとか。出掛けられるかな、早い内に。 2014 10・11 156

* 終日作業、そして仕事。作業の時は、「科捜研の女」「ドクターX」の初回を見聞きしつつ。夜には「NCIS」も楽しんだ。
2014 10・19 156

* 「ドクターX」 おもしろく観た。医学書院時代に看護学雑誌や助産婦雑誌の編集にもあたり、看護系の書籍企画もしていたから、エラーイ看護婦(当時)先生等ともお付き合いはいろいろ有った。今夜のドラマにはいわば看護協会会頭のような岩下志麻が現れたが、ああいう「先生」との取材上の接触も珍しいことではなかった。厚生省の技官級も「エライ」ものであったが、編集者としてヘイコラした憶えなど無い。むしろ親しく、ないし仲よくしていた。書けるナースは大方が看護学院や大学の「先生」になっていった。
病院では、院長・総婦長・事務長が対等という組織作りを理想化していたけれど、やはり医者が圧倒的に強かった。とても「いい先生」でずいぶんお世話になったえらい医師先生でも、看護婦は掃除婦などと放言する人もいてあっけにとられたこともある。
事務系の人とはほぼ無縁であったけれど、医師と看護婦とのたくさんなお付き合いはそれぞれに悪くない体験が多かった。文学する上でも応援して下さった方々が多かった。東大等の大教授にも、大病院の院長や総婦長・婦長にも、会社を辞めてからでも永く親しんだ方があった。わたしの小説の最初の読者といえば、医師やナースの何人もの「えらい人達」だった。

* 「白い巨塔」などという映画は、かなり「うそ臭い」ものだった。ふあんなのよりもフリーランスの外科医大門未知子の「手術」場面の方が身に響いてくる。それあるゆえに他の場面のウソクサイものが効果になっている。「手術」は凄い。

* 映画といえば、昨日一昨日と中国映画「この子を尋ねて」と「グリーン・デスティニー」とを観た。圧倒的に前者の真実味が優っていた。十三歳少女がみせた学校教師としての奮励努力は徹底していて、とてもそれが映画という作の演技とは思えなかった、見えなかった。それにくらべると、物語はあっても後者の武道ものは、どう面白くても「うそくさい」極みだった。「極み」といえるだけが出来の佳さで、極まらないで半端に「うそくさい」のは堪らないものだ。
2014 10・23 156

* 住太夫と清治との「阿古屋」の出会い・立会いをテレビで観た。文楽をはじめて観て聴いたのはやはり高校ないし大学の初め頃。山城小掾や綱太夫、津太夫の頃だった。
今は住太夫の藝や藝の語りに心惹かれている。最初は、もともとは、三味線の音色の深さに魅されていた。いま、浄瑠璃語り・義太夫の、住太夫の説く「音(おん)」いの魅力に合点が行きつつある。歌舞伎座や国立劇場での義太夫のうまさ・まずさが少しずつ感じ分けられるようになってきた。
2014 10・24 156

* 晩、建日子が帰ってきた。機械をだいぶ触ってくれたが、どうなったワケでなく、問題はまだ解決しない。はらはら。
建日子と一緒に観て三人で楽しみかつ感銘を受けたのは、昨日録画しておいたBSプレミアム、住太夫と清治との「阿古屋」での出会い・立会い。建日子は津軽三味線を習っており、また演出という仕事も手がけていて、超級の名人二人の「勝負」の気合いには相当の刺戟を受けたようであった。文楽をテレビででも観るのは「初めて」だという、不勉強なことだ。歌舞伎は両親の楽しみに任せておいて、文楽の人形、語り、三味線の渾然の藝から、多くを学んで欲しいもの。
仕事場から我が家まで、今は西武線と地下鉄とて一本で行き来が出来る。
とにかくも怪我せず事故に遭わず、意欲をもって立ち向かって欲しい。、
2014 10・25 156

* スペインとフランスが合作の映画『海を飛ぶ夢』は尊厳死をあつかったすばらしい名品だった。中国映画の『あの子を探して』も名品だった。
佳いものは、佳い。つまらぬ仕事はつまらない。簡単なことだ。
2014 10・26 156

* 阪神タイガース、今一つ踏ん張りがきかず、スリリングな、勝ち味見得たかという九回ワンアウト満塁の好機を逸して、ソフトバンク・ホークスにホームチームでの日本シリーズ優勝を献じ、引退をきめているらしい秋山監督に名を成さしめた。ま、阪神もよく頑張ったといえるし、秋山監督の胴上げもめでたい。このところ、何度か珍しく野球をみてきた。
「ドクターX」も面白く観ていた。
2014 10・30 156

* 雨は降らないはずと言う。バスを待つ間に雨がきた。
三井ガーデンホテルへはソニービル前からタクシーに乗った。
十三年ぶり、奥さんとはもっと久し振りに、和歌山の三宅貞雄夫妻と会った。懐かしい。越後湯沢の親戚が経営の温泉旅館へ行っての帰りと。和歌山から長途の電車旅行はさぞおつかれであったろう、わたしはとてもまだそんな自信がない。
選集③巻をおみやげにさしあげた。
今日午後に東京のホテルへ入って、なんとスカイツリーへ。夫妻ともとても草臥れてきましたと。さもあろうと気の毒だった。あの塔は都内のあちこち遠方から遙かに眼にするのが一番だ。
それでは、すこし夜の銀座を歩きましょうかと。ただし小雨がつづいていた。ホテルの傘を借りてあるいたが、銀座の灯、うるんできれいだった。わたしのわるい眼も潤んでいて、まるで水の中を泳ぐようだった。まぶしいほどキラキラした。
夫妻の希望で、前を通ったおでんの「やす幸」に入った。歓談。空腹にうまい酒がはやく周って、しっかり疲れてきたので、街頭、ソニービルの前で、健康を祈って別れてきた。うまくホテルへ戻られたろうか。送り届ける元気がもう抜けていた。
「墨牡丹」の校正ゲラを持っていたので、電車で仕事して疲れを躱した。喉が渇いた。保谷でタクシーが一台待っててくれ、無事に八時半に帰宅。酒の上へ疲れが出て、脱水と貧血気味だったか。番茶をガブガブ呑んだ。ほっこりして座り込み、例の「ドクターx」を観た。
2014 11・6 157

* 靖子の「科捜研の女」とデーモンの「ドクターX」を楽しんで、とっておきの能登のお酒を。我が家ではわたしも妻も沢口靖子などと呼ばない。娘のように「靖子」「靖子」といつも話している。ドラマはデーモンの方の弾け方が断然おもしろいが、靖子の清潔で親切な美貌に親しんでいる。「細雪」の客席と楽屋とへ招かれ、握手し、一緒に並んで我々が写真に写ったというような女優は沢口靖子しかいないし、それで十二分。

* 校正だけでなく、機械仕事もいろいろして、今日は眼の負担がよりきつかった。病院の眼科医にデーモンのような「ドクターX」がいないかなあと、痛切に希望する。
2014 11・20 157

* 好きなイングリット・バーグマンとイヴ・モンタンそれにアンソニー・パキンスの「さよならをもう一度」を観た。いかにもという仏映画の、しかし英語で演じられていた洒落た佳い映画だった。年増のバーグマンのすてきなこと。四十歳。どこがわろかろう、若い娘の十倍も魅力がある。それにしても、危うい恋のはかなさ。「武玉川」という、川柳の始祖といえる上質の付句集のなかに。
おもしろい恋がいつしか凄く成り
というのが出ている。この「凄く」など、わたしの何時も拘る「凄い」の原意・真義にまぢかい。上の三人の恋も「いつしか凄く成」っていてそこにもののあはれが光るのであるが、幸せという実感からは遠いのである。およそこいをしてこういう凄みのものあはれから逃れようとするのは虫が良すぎる。覚悟がなければ恋などできるものでないのだ、もともと。
但し、こういう分かったような真面目な物言いもくせもので、或る意味でとてもイヤらしい。
「武玉川」の付句では喝破されている、「まじめに成るが人の衰へ」と。こえいう洞察の恐ろしさが古典の生き延びて行く「まこと(真言)」なのであろうよとわたしは降参する。無難に「衰へ」たいか。いいえ、と、まだまだ思っている。たからバーグマン演じる四十のポーラが愛おしく輝いて見え、バーグマンに似た日本の沢口靖子の演じている「科捜研の女」榊まり子を、胸きめかせて観るのである。

* この前、木曜の「ドクターX」は格別面白かった。あらゆる駆け引きを超えて「命」への愛と勇気とが無垢の感動を誘った。
2014 12・1 158

* 今夜は「湖の本」発送には手を付けず、五百数十頁分の赤字合わせしながら、昨日の「ドクターX」と、Dfileでの「クルーザー」観て過ごした。
2014 12・5 158

* 晩も、残る作業をつづけながら、観るともなく松本清張原作のドラマ「霧の旗」を見聞きしていたが、出だしは良かったが進むにしたがいウソくささばかり目立って光る感銘を喪いきって行った。堀北真希( といったか) の柄に合わなかった。昨日も同じ清張原作のドラマをやっていて、ガラのわるさに辟易して半分も見なかったが、凄みは昨日の方が優っていた。清張文学の存在感をわたしは買っている、が、わたしの所謂「作品」は感じにくく、文豪とはやはり言えない。
清張とは比較にならない人だが、正岡子規の生涯などは文豪とたたえるに相応しい品質に富んでいる。品質という批評のポイントをもっともっと大事に確保したいものだ。
2014 12・7 158

* 一日、午後から晩にかけて疲れと腹部の不快は深まる。「あやつり春風馬堤曲」がわれながら(あたりまえだが)面白く読めるのには気をよくしているが、不可解な曇り日のようなからだの不快は気持ち悪い。じつは二月にはぜひにも京都へという誘いを受けてきたが、お断りと決めた。今日は酒も飲めない。
そのかわり、ドラマ「ドクターX」には満足した。共感が過ぎるほどで、少しく苦しくさえあった。次回で今回のシリーズを閉じるようだが、一日も早く新シリーズを見せて欲しい。このドラマに先行した、Dfileの「クローザー」もシンドイ思いを強いるスリルに溢れていた。西欧のカソリック教会がらみの映像では、久しい各時代の歴史にからみついた聖職者たちのとてもガマンならない悪行がよく話題にされる。不快を覚えることが多い。
2014 12・11 158

* 晩飯のころから、たまたま始まったばかりの映画、ジョディ・フォスターとケリー・マクギリスが熱演、好演の「レイプ」を観た。評判はいつしれず何度か耳にも目にもしていたので、優れて訴求力も告発力もつよい秀作とわかっていた。映画として一度は観ていたか今晩初めてかは言い切れないが、実に見事な追究であり、映像の凄みも法廷場面の迫力も屈指のリアリティに富んで、惹きつけて放さなかった。ジョデイ・フォスターとは「羊たちの沈黙」で出逢ったので理知的な初対面だったが、デビューに近そうな「タクトー・ド ライバー」の家出してきた売春少女役も印象的で、むしろその延長上の「レイプ」輪姦される若い奔放な女の役は優に演技賞ものであった。望旅魔笛奈性犯罪やその実行犯・教唆犯に対する強硬で正当な抗議姿勢も鮮明に賢明であった。感動した。佳い映画を見せて貰った。
いま一つ映画を、これは朝の黒いマゴ輸液の際に観た「シャムプー台の向こうから」とか謂うたヘア・コンテストに題材をとった家庭映画もなかなかの秀作であった。これは初めて観たときにも感心したのだが、なんとなくその後は敬遠していた。しかし、面白くて上出来の娯楽作だった。
2014 12・13 158

* 「ドクターX」の少なくも今期シリーズが終えた。ぐうっと来た。なによりも「手術」に魅されたドラマだった。それが他の部分の莫迦騒ぎをすら「効果」にし得ていた。わたしは、天堂をはじめとする医者やもとより政治家・権力者どもを好かない。シンに医師でありスキルにおいて卓越し私しない大門未知子の「医界余人」としての徹底した生き方を好む。またぜひ逢いたい。
2014 12・18 158

* 「秋萩帖」が面白く運べている。おやおやこんなヒロインたちが現れるのか、懐かしいなと文字の見えない目尻をさげながら読んでいる。今日は郵便もこない。出向くのも重たい、「和加奈」からすこし美味そうに刺身の大皿でも取り寄せて酒を飲もう。睡くなったら寝よう。寝られなければ鏡花の美装本を読み上げよう、そうそう今晩は澤口靖子主演の特別番組があるはず。
2014 12・21 158

* 今日の一の感動は映画「カサブランカ」。映画史のベスト3には入れたい、ハンフリー・ボガードとイングリット・バーグマンの飛び抜けた名画。バーグマンの美しいこと、ボガードのかっこいいことも極まっていて、しかもこの「カサブランカ」は戦争悲劇の一焦点であり、いつかは日本人もこういうカサブランカに陥らねば済まなくなるという懼れに迫られる。何度も何度も観てきたが、そのつど、胸に迫り来るものに泣かされてしまう。小説で言えば、あの「凱旋門」などの必然の行く先のように見られる。
この数日前には、やはり映画「華氏9.11」を見てまた新たに突き動かされていた。あの二代目ブッシュ大統領を頭に据えた途方もない権力と資本との結託した悪世界への痛烈な批判だった。
日本の今は。国民は浮かれている、いや浮かされて、しかもなにもかも浮き足立っており、ヒトラー志向、ブッシュ型愚昧政権与党の暴走は降り坂へ突っ込んで行きつつある。
三人に一人は不正規雇用、弱者はさらに突き落とされて行く。
2014 12・27 158

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