ぜんぶ秦恒平文学の話

映画・テレビ 2024年

* 元日の能登地方大津波の大地震におどろき、海外からも喜ばしい報道は無く、テレビもろくに見ないまま。それで、よし。
2024 1/4

* 午過ぎ一時半、京も北の奥の奥「花脊」美山荘の七草正月の風情を美しいテレビ映像で見とれていた。
秦の母と戦時疎開していた真冬奥丹波のお正月が、しきりと懐かしい。あの母、あの疎開の頃が生涯で一に懐かしい、、良かったと九十六までの長い生涯に私によく洩らした。あの母、小学校四年、五年生だった私を「もーいいかい」と待っている心地がする。小声で「まぁだたよ」とは応えて居るが。「お母ちゃん」と謂うならともに暮らした覚えの無い実母ではなく、あの「秦の母」しかいない。
2024 1/7

* テレビドラマで、むかしの、笠置シズ子の元気溢れるうたと、淡谷のり子の懐かしい歌謡曲とを聴いた。
敗戦間もなく、街にも通りにも家近くにも進駐軍の米兵たちはが、もはや鷹揚に散策して、子供たちや女達に声を掛けたりモノを呉れたりしていた時節だ、わたしはチョコレートも貰ったし、綺麗な(ジョウカー一枚だけの欠けたトランプを貰ったりした。)「あの時代」をまざまざと元気に取り込んだ歌い手は笠置シズ子だった、そしてあの昭和後半を象徴した「美空ひばり」を呼び出してくれたのだ。
淡谷さんとは「対談」たこともあった。じつに巧い歌い手で、安からぬハートをしかと抱いてられた。

* 軈ては 「卆寿」へ手の届くわたしが、或る意味「時代の活気」を愛しもし「よかったよかった」と受け容れていたのは「敗戦後」の「學童・生徒」時代やったなあと、金銀の光るほどの眩しさで今も懐かしむ。何と謂うても「美空ひばり」へ誘われたのだ、その「ひばり」との出逢いは新制中学の一年生の真夏、ちょうど今は吉井勇の歌碑で知られた京の「祇園白川端だった、ロケーションであったのか其の下見のような小人数だった、「美空ひばりが来トルでとるデ」の声に実にパンツ一枚の上は裸で跣足のまますっとんでいった。囲まれている隙間を下からくぐり抜けるように前へ出て立つと、「ちっこい子やな」第一印象の美空ひばりとハダカの跣足で初対面した。「二度目」は無かったけれど。
笠置シヅ子は、あの頃がピクの歌声で「ブギウギ」を日本中に撒き散らしていた。好きとは謂えなくても忘れがたい敗戦後のひとりのシンボルだった。その連續ドラマを、いま、心親しく観ている。

* 菅原ツヅ子の「月がとっても蒼いから 遠回りして帰ろ」あたりまでは聴いていたが、今々の衣裳と化粧と身振り手振りで謳っている「演歌」の類いは、見向きたくも聴きたくもない。「うた」の持たねば意味の無い「活時世」がすこしも聞こえてこないのだ。
2024 1/13

* 晩、寅さん映画で久々に秋吉久美子に会った。寅さんといい勝負をしていた。
2024 1/13

* 朝から 「映画」を見比べるように観ていた。チャップリンの『殺人狂時代』は上等の作。康成原作の『雪國』は、岸惠子や八千草薫らの演じた篇に比べ、なんだか俳優座っぽいグタグタした芝居は感心しなかった。そして、トールキン壮大な原作の部分作『ホビット』の内の、「決戦の行方」はさすがにシカと觀せた。

* 怠けると謂うより芯の疲れを労っていた。
2024 1/23

* このところ 私としては珍しく、テレビ出の「こまぎれ」連續劇を二つ観る氣で観ている、一つが敗戦直後に爆発するようにラジオで歌声を発信していた「笠置シヅ子」の敢闘劇、もう一つは『光のきみへ』とか題した紫式部の人と日常と時代を追うて行く時代劇。双方に強い関心があるので、可能な限り欠かさず追うて観て惹かれている。
わたくしが源氏物語と紫式部ないし藤原道長周辺へめを話さないのはあたりまえのこと。けれど。笠置シヅ子の「ブギウギ」とは、と、思われる人もあろうか。いやいや。
2024 1/28

* 笠置シヅ子の「ブギウギ」は吾が昭和史敗戦の激変をことさらに陽気に刻印してくれて、大衆芸能の真価をはっきしたと評価できる。
紫式部の「光るのきみ」は、以来久しい日本男子の「紳士像」を提供したのだった、が、「日本男子史」はとうていよく応えられなかった。さすがに西鶴はよくその半面を男子ならぬ「男」として翻したが、嗣ぎ得た史家ないし紳士はいなかったよう。
2024 1/31

* 逼塞の、ここ三、四年、気の晴れぬまま、うち消すようにひびを費やしている。なにもしないでは、ない。やたら、なにかしている。テレビには助けられている。紫式部と道長とのドラマ、笠置シヅ子のドラマに無聊に嵌まるのを救われている。酒は日々強かに呑んでいる。誕生祝いに妻のくれた清酒一升の入る壺酒を、その後へもう二升も足している。良くも悪しくも酔うと謂うことが全然無い。酒故に気分を損じることもない。寝入りやすい。寝入るのはワルク無い。
2024 2/3

○ お元気ですか、みづうみ。
大雪になって驚いています。
明日から十日ほど海外に出ています。
どうか転倒などお気をつけて、暖かくお過ごしください。お元気にお仕事楽しんでくださいますように。 春は、あけぼの
* 私には、ほとんど海外・外国との濃い縁・足労ということが無かったが。孰れも日本の「作家」を代表して、中国へ二度。ソ連そしてグルジアへ一度、だけ。十分だ。船も飛行機も乗り気で、ない。
海外・外国は「映画」で無難に、ときに深刻に見知っているだけ。最も深刻に印象深いのは、放射能による地球と生物との切羽詰まった最期の静寂、生き残っていた最期の南半球オーストラリアへ遁れていた人たちが、配給の服毒死へ決意する『渚にて』が怕かった。
最近はテレビでの、『アストリッドとラファエル』でフランスの、『ドック』でイタリアの、大都会らしい世間の広さ、それぞれの顔つきや物言いを眺め聴いている。若い女性の「独り語り」で、珍らかな、それぞれに地方・田舎という感じの聚落や街なかを散策する映像なども、愉しんで眺めている。
2024 2/7

* 『ヴギウギ』というあの笠置シヅ子のドラマを「趣理」とか謂う初顔の女優でうちこんで愉しんでいるが、今朝は、あの『東京ヴギウギ』を繰り返し二度三度聴いて往年を熱いまで懐かしんだ。「敗戦後の歌謡曲」でなら、歴史的な記念としても真っ先に此の歌を私は珍重し評価し懐かしむ。敗戦し、「時代」の大きく動いたその実感を歌い籠めたみごとなうたごえであると、子供心にもいきいきと迎え入れていたのを想い出す。
2024 2/9

* そうそう。今日は音楽というより 「歌・唱歌」テレビをシッカリ愉しんだ。懐かしい佳い歌を聴くと 声に出て泣いてしまう。自分ではロクに唄えないのに、童謡も 懐かしい唱歌も 私は大好きで。今日は、美空ひばりの絶唱までも聴けて、よかった。ソプラノの「さくら」も素晴らしかったし、カウンターテナーの「秋櫻」も、いつも「愛らしい」モモカちゃんの「しょうじょうぢ」も嬉しかった。一緒に唄った。

* サッちゃんはね サチコて云うんだ ほんとはね
だけど チッチャイから
自分のこと サッちゃんて 云うんだね
可笑しいね サッちゃん
「可愛いね」かもしれず。間違えててもそこは大過なく、「サッちゃんはね サチコて云うんだ ほんとはね」は、「ほんと」。可愛い。

世の中、決して安穏でも平和でもないけれど、「クチビルに歌を」という 幼来の好みは私を随分励まし慰めてくれる。唄える歌は自分でも唄っている、いつも。
2024 2/10

* テレビの録画で、たまたま「美空ひばり」生涯の歌唱を通して「觀・聴く」事が出来た。「昭和」を眞に代表する唯一人の「天才」歌手。私は、独り勝手に「昭和の恋人」と想い入れ、懐かしく胸いっぱい充たされた。早起きして良かった。「平成」を代表した天才は、謂うまでも無い四十五回もの「本場所優勝」という途轍もない偉業の「横綱・白鵬」を措いて無い。
2024 2/11

* 時節外れの『忠臣蔵』松平健の内蔵助版で見ていた。討入り直前で映像が斷れたが、部分部分、観るに堪えた。要は『忠臣藏』贔屓なのだ。
心神に疲労を蓄えていてシンドいが、氣のせく何用も無くてたすかる。ゆっくり歩けばいいだけ。故障は無い。
2024 2/15

* 和洋の映画、ことに外国映画は多く録画してあり、もう難渋る(?_?)も以前の作を時折り観ている。昔は尽く覚えていた主演級スターの、顔はやっと認知し得ても名前が、題名が、出て来ない、ソレが安げな西部劇でも、ふと懐かしさを逆に深める。つまりはそれほど齢をとったのである、が。今日も「誇り高き男」とかいう、慥かに見覚えの早撃ち西部劇を一本みた。ヒロインがヘプバーンなのにも「感動」した。

* 日本映画にも似た思いがしても、流石に記憶の濃度は「忠臣蔵」の配役など、大方馴染み深く、濃い。内容でも、日本のソレは「歴史」「時代」の心得があるから、記憶を超えてでも「食いつき」が好い。「映像」のもつ魅力は、たとえ始めて観る新作でも、何と云っても活字や文章より「直接」に濃い。それでも、文字と文章で接する「初めて」世界の刺激は、内容を超えてでも逼ってくる。文学文藝の価値は濃くて深くて、新しい。
2024 2/16

* 題を失念したが、メリル・ストリープとジュリア・ロバーツらの、画期的に烈しく見せる家族・家庭劇映画に喫驚、これは落ち着いてもう一度観なくては。
2024 2/21

* メールアドレスは、プライバシーではないかと。
いま,私に何が出来て、何が出来ないか。出来るのは、急がずにでも、幸いにキイで「字の書ける」事、寝て「本の字の読める」事。出来ないのは、食事と酒のホカの、しかとした立居振舞と。家の階段の上がり降りは、最低の生活のためにも,這うように慎重に。
來客は一切ご遠慮願っている。
何とかして、歩けなくても,自転車には乗れたらとしつこく願っているが、むろん危険。
幸いテレビの前には腰掛けてられる。口ワルク批評も出来る。優れていれば心から褒めている。

* 夜、映画「ウエストサイド・ストーリイ」のラスト近くから、トニーが討たれる辺から観終えた。映画優秀作の最右翼に在る秀逸、何度も何度も見ているのに胸に食い入る感銘がある。
2024 2/23

* めつたに、いや一度もなかたこと、目覚めたら正八時なのにビックリしした。テレビで「ヴギウギ」や「光るの君へ」観ていた。ま、惹かれているか。しょうじきなところ、睡い。
強い風が物音させてやまない。寒い。手の冷えるのは耐えがたく、布の手袋を重ねている。キイを打つ右手は指さきを出している。

* 「光るの君へ」は紫式部を介して「道長」時代への道案内をしてる。いわゆる藤原摂関家の軋轢に辻廷内と判り難い。紫式部と道長とには曰わく謂いがたい接触があり古典文藝と摂関聖政権とのつかず離れずか、ある。摂関家の動向に通じていないと,判り難くなる。道長は摂政兼家三子の三男で,長兄に道隆、次兄に道兼がいた。この二人を超え越して行かねばならない道長は、それに成功して「「わが世とぞおもふ望月」の大権勢を確保し、その予行すら帯びて紫式部の源氏物語は「世界理古典」へと成長仕上がっていった。
これだけを承知していれば「光るの君へ」は判り良く、より面白くなる。この西紀千年のほぼ直前に位置した「藤・紫の物語」に親しむ事で私は「平安盛期」の日本史をとにもかくにも手に摑んでいったと,思っている、高校生の頃から。和歌、短歌へむしゃぶりつくほどの関心と興味と賞嘆とが 役に立った。私自身が「小説家」によりも世ほど早く先に「歌人」という自覚と作とを積んでいたのだ,高校生の頃から。
2024 2/27

* 昼食後か、好きなスーザン・サランドンの『依頼人』を観ていた。トミー・リー・ジョウンズも共演で、もう昔に二度三度とみていた作、懐かしくもあった。スーザンのいま一つ別作も当時に観ていた、いずれコピーが出て来よう。
「映画」の面白さは、怺えようが無い。会社勤めの間いにシナリオ研究所の講座を半年も聴きに通ったほど、課題のシナリオ二作も書き上げた(『懸想猿』上下)ほど「映画」が好き。提出した二作に、講師で、当時「松竹」副社長(後に社長)に「小説を書きなさい」と助言されて「シナリオ書き」は断念、方向を「小説」一筋にと決意した大昔が懐かしい。
「映画/映像」には、「文藝文學・言葉」とは別の、凄い魅力がある。それを、私は優れた「小説」作家・谷崎潤一郎先生に学んだ。日本の小説家で「映画」の魅力と深切とを時代に先駆けて度々語られたのが先駆「大谷崎先生」であった。懐かしい。

* 谷崎先生はむろん、近代になって藤村・秋聲、鏡花、直哉、芥川、康成、由起夫らは今も熱く読まれているだろうか。「読まれて」の文學・文藝で、美術とは決定的にちがう。その「失」はいつも「読者」の質と連繋し合作しているのが,文學・文藝だ、「読者」が低俗では、文學・文藝は耀かない。
2024 2/28

* 夕食時分、また、今度はトム・クルーズ主演のお色気も濃厚なサスペンス映画『{ファーム 法律事務所』を愉しんだ。
録画しながらと謂うコトも多いが、すでに録画して板になった和洋の映画が背の高い抽出棚に、優に二百枚は貯蔵してある。いつでも映画の愉しめる用意がしてある。
書庫の書架には、むしろ小説本より、他の、勉強のための研究書や歴史書や美術書や地理書、そして大事典や大辞典の方が数多い。全集・選集以外の小説本はほとんどが原著者からの献辞や署名入りの戴き本であります。
2024 2/28

* 午前から午過ぎに政倫審の質疑、夕過ぎにも政倫審の質疑を聴いていた。又 美空ひばり生涯の絶唱も また 深く感動しつつ聴き惚れた。
その一方での心身疲労はどす黒くいまでわたくしを辛く深く項垂れさせていた。「休む」以外の道は無い。
2024 3/1

* この頃、引き続いて往年の『ヴギウギ』笠置シヅ子を描いている毎朝に小刻みな連續ドラマを愉しんでいる。「役」を演じている小柄な女優をかつて見覚えないのだが、演技も歌もシッカリ見せ、また聴かせてくれる。何十年と久しぶりの『ジャングル・ブギ』も『買いものヴギ』懐かしく聴いた。少しく胸も疼いた。昭和十年(一九三五)の冬至に私は生まれ、京都幼稚園に送迎バスで通った十六年(一九四六)十二月八日に日本軍は真珠湾を奇襲、第二次世界大戦勃発、十七年(一九四七)四月七日に京都市立有済国民学校(=戦時中の「小学校」)に一年生入学し、二十年(一九五○)四月に、同年三月下旬以来の戦時疎開先(当時の「京都府南桑田郡樫田村字杉生」の農家長澤市之助家)から山越えに同村字田能の樫田「国民学校」四年生として転校入学し、同二十年(一九五○)八月十五日、学校夏休み中「日本國敗戦」のラジオ放送を同地同家の庭で聴いた。広島・長崎の相次いだ「原子爆弾」も同家で聞き知った。
敗戦後、樫田「小学校」四年生の秋十月、同地戦時疎開先で急性の腎炎「満月状容貌」になり、秦の母の機転で迷い無く京都市東山区に昵懇の「松原医院」に直接「運ばれ」て危機を脱し、以降そのま、敗戦早々二学期の内に秦が地元の市立「有済小学校」へ復帰した。
そして、まだ美空ひばりの影も無い敗戦後日本のラジオなどで少年の私はあの「笠置シヅ子」が叫び歌の『ヴギウギ』を聴きしったのだった。街には疾走するジープ、進駐軍の兵隊や、その腕にぶらさがるパーマネントの日本の女達を至る所で目にしたのだった。

* 私は、あの「敗戦直後頃の、京都も日本も」、あえて謂うならむしろ心親しい新鮮に励んだ心地で承入れ、眺めていた。今にして、私はあの頃をとても大事で懐かしくさえある体験期と思っている。あそこで、大きいとは謂わなくても明るい花の咲いている「時期・時代」を眺め感じていたと思う。やがて新制中学に入った頃の男先生達の叫ぶほどの激励は「自主性 社会性 民主性」だった、わたしはそれを獄当然に受け容れて生徒会活動も活発に、二年生の内にも「生徒会長」として、先生方より数多く講堂や運動場の「壇上」に立ってあたかも「指揮さえしていたのである。
2024 3/2

* 帰宅し、贔屓のミシェル・ファイファー主演、珍しいニューヨークの上流社交界に取材の、テレビで録画しておいた映画『エイジ オブ イノセンス』を濃く目に観た。原作小説も読み応えの堅い文藝作品だが、複雑な車高心理の錯雑のなかで、一組の執拗なほど交錯する男女愛を強かに描ききっていて、妻と観ていて、かなりの長編にしっかり満足した。わたしは原作を過去に二度読んでいる。この手の作は概してヨーロッパの社交界取材に固執気味なのだが、珍しく、アメリカ・ニューヨークの上流社交界での男女模様なのが、不思議と新鮮なのである。しっかり描いていた。わたしは、ミシェル・ファイファー映画を三作観てきた、が、孰れも個性的で気に入ってきた。この原作のある映画作での『イジ・オブ・イノセンス』も二度観ているが、なかなかの好演。
いま一つは『ファビュラス・ベーカー・ボーイズ』と着迂遠で美味い歌唱をたりしませてくれたし、今一つは上古のロマンスの中で夜は狼に、悪司教の魔法に罹っていたのを、抜け出して行く面白くも不思議な映画であった。

* 実は今日はもう一作、日本製とも海外ものとも忘れてしまうような映画も観ていた。吟味も要心もしているきだん゛
「映画」には、とかく、トビついてしまう。
2024 3/6

* 凄い数の和洋の、「映画」を観てきたなかで、ともすると私を心底怖いと怯えさせるのは「人類滅亡」をすでに告げてシーンと静まりかえった「北半球」放射能死がはや現実に南半球へ迫り来る、映画『渚にて』の、もう避け得ない絶望と、覚悟と、愛と。

* ああ、可能ならば、ボヤーッとしながら静かに死にたいが。
2024 3/13

* この頃の大河ドラマとか、紫式部と藤原道長を描く『光るの君へ』が気に入っている。背後の風景も当時の史実にも幸い京の東山育ちで歴史好き。
いま一つの、敗戦後、笠置シヅ子が活躍の『ブギウギ』の方は、もう盛りを過ぎた感。
西洋モノでは『アストリッドとラファエル』に好感をもっている。
テレビでは、いい映画、そして概して「唄と音楽」とを愉しんでいる。
2024 3/17

* この日ゴロのテレビドラマで、淡谷のり子の役九が大事に登場しているのが懐かしい。敗戦後にも「ブルース」という謂いようで聴いていた。美空ひばりや笠置シズ子とくらべなんとも「大人っぽい」と 聴きながら不思議に耳を澄ませていた。はるか後年に、ペンクラブか文藝家協会の会長だった、可愛がって戴いた山本健吉先生と淡谷さんと「鼎談」したことがあり、「存在感」のあるひとだった。淡谷さんは「美空ひばり」に厳しいと聞いていて、山本先生も私も「ひばり好き」だったので、鼎談中にも話題が賑わったりしたのを憶えている。あとで山本先生の曰わく「ひばりをけしかけて、面白かったな」と。
和揺る流行歌首都ちがい、淡谷のり子のブルースなど、流石に逸品と聴いてきた。鼎談にも、こころよく乗ってきてもらえた。あれから、もう何十年になるかなあ。
20243/21

* それにしても、寒い。そして、体にちからが無い。蛋白質・脂肪、ともに不足か。炭水化物も、尠いと謂えば足りないか。日本酒をついつい、すこしずつだがクチにしている。街へ出たい出たいと謂いながら、思えば三年「出かけて」いないのだ。「食」「美食」の機会が無い。
メールが利かない。郵便も無い。なるほど。「讀書」しか無いのだ。テレビも、相撲ぐらいしか観ない。心惹く優れた「映画」が観たいけれど、出会わない。
2024 3/21

* テレビで、懐かしい映画『ナバロンの要塞』を、潜入したグレゴリー・ペックとアレック・ギネスとで爆破のあたりから観る事ができた。何度も何度も見覚えの作ながら、見応えがして忘れない。
『ヴギウギ』特集の、いわばトリの笠置シヅ子と新鋭・美空ひばりとの師走紅白歌合戦で、気負って競合すの歌唱場面も、懐かしく、興奮して観られた。
ついで、お気に入り『剣客商売』の一幕も愉しんだ。この連續ドラマは「創り」の真摯に落ち着いた風情が、主演の藤田まこと他にも浸透していて、ほぼ籤とらずに昔から繰り返し愛して観ている。
2024 3/22

* テレビにかすかにも御勢に雑音が混じってきている。さして不自由なく観・聴きできているが、新しくしたいと妻は云い、それもいいが、業者持ち込みの商品定価も確かめず、いきなり請求書のいいなりに支払う気でいるから、それは大きな小品を購入の仕方ではあるまいと止めた。何よりもこれをと向こうは得る気で値まで付けてきた大きなテレビの「商品としてのカタログ」も視ず、定価と支払いに関わる何のやりとりもなく品物をもう搬入させる気でいるから、それはあまりにズサンに過ぎる、「ハタラジオ店」の息子として育った見聞からしても、「定価」も「カタログ」も視ぬまま無条件に、「サービス」して貰っている気で買い込むなど、売り手としても、買い手のお客さんに向いても奨めない。高価な商品であればなおさら、カタログでの機能や特色や、なにより「商品正價」をちゃんと確認の上で、売り手の「サービス」を「期待できるなら、期待すれば」良い。ハナから「売り手の言いなり」を聴き入れてしまうのは、大根の一本や鰯の一尾であるまいし、鷹揚と云うより「抜け」」ている。どうも妻には、そういう抜けたところがあり、それは鷹揚なんてものではない。

* もう『ヴギウギ』は終わるが、紫式部の『光る君へ』は先が永いはず、おおいに更に楽しめよう。紫の役も、道長の役もよく嵌って遣ってくれている。予備知識の時代・事件・人物達もかなりに心得ていて、怪訝に惑わず、楽しめている。コトに有難いのは謂うなら「舞台装置」に相應の家屋や衣裳や對話・会話、また官位や身分差から来る人間関係の様態など、身辺にも逼って分かり佳い。わたしには、源平盛衰や南北朝や、応仁の乱や大阪落城などより西暦一〇〇〇年前後が、遙かに懐かしく分かりいい。。
2024 3/25

* 『モンテ・クリスト伯』が、大好きで飽きないご馳走のように嬉しく、また、中国「現代」の大長編、陳彦作『主演女優』菱沼彬晁譯の引きずり込むお話し上手の面白さ、縦横に満点の読み物です。お薦めできる。
だが、今、それ以上に改めて和手櫛をワクワクさせる一冊は、大判で千頁もあるドストエフスキーの大作『悪霊』で。一行一行 嘗めるように嬉しく 読み進んでいる。
ま、どれもこれも読み終えるに相当な日数をかぞえるだろうが、「買いものに出る財布」にお金が詰まっているような乗り気で読める。
実を謂うと、いましも、テレビでは『光る君へ』かという、紫式部と藤原道長とのナイスなロマンスを展開しており、加えて手もとに保存の映画で、多彩に女優たちを起用の市川雷蔵『新源氏物語』が観られる。それなら、いっそ、物語原典を「いづれのおほんときにか」と首巻「桐壺」から結語「夢の浮橋」までまたまた読み返そうかなあ。なんと豪華に豊かな読書環境である事か、大概な不興や不快や退屈は「吹き飛ばせ」る。
2024 3/25

* それにしてもの戦後の笠置シヅ子から美空ひばりへの力士的なバトンタッチ乃至は推移は必然の意義と大いさ力強さを孕んでいたと、ドラマ『ヴギウギ』を借りて改めて肯き懐かしめた。初めて見知った主演の趣理とか、よく判らせ呉れた。
2024 3/27

* わが洋映画体験の第一位作とも感動し評価している『ベン・ハー』に、またまたまた感動し、視力を遣いツクしたように視野が暗い。
わたくしは、顧みるまでなく、信仰への深い熱い敬意はもっていて、しかし仏教徒ともキリスト教徒とも謂えない、ただただ『ベン・ハー』のような精神世界に格別の親愛や敬意を惜しまない。惜しめないタチに人間が出来ている。
今し方ももう寿條数回も観てきた「ペン・ハー」の終幕に胸打たれ、心清くおれた。
「法然」や「親鸞」や「一遍」の、「日蓮」のでもいい、仏教世界としての『ベン・ハー』水準の「日本」の秀作に出逢いたいが。日本の、映画人と限らず真摯の佛徒がいそうに思われない。日本人は、「自然」信仰信徒と謂うにほぼ同じい、私も。ま、ペン・ハーに憧れながらも同然に感じている。
引き継いで、『十戒』を観る。これはイエス・キリストをはるかに遡る。
2024 3/31

* テレビでの『ブギウギ』は終わった。私のそれよりも関心と好みと問題意識とで觀続けているのは『光る君へ』の紫式部と藤原道長の出会いと環境と時代とで、日本史のうち、もっとも私の幼来馴染み親しんだ,親しもうと心がけた世間で在って。式部も道長も配役がいい。総じて私には「勉強」にもなってます。有難い。
2024 4/1

* 朝の九時になっている。何してたろう。テレビか,本か。あちこちしていたか。『ヴキウギ』から代わった『虎と花』とか、に乗れそう。
2024 2/4

* テレビのドラマで笠置シヅ子の「ブギウギ」や「ワテ ほんまによう云わんワ」を嬉しく堪能して聴いた。ところで,此の「ワテ」だが、渡しは少年の昔に耳にタコほど聞いた物言い・自称だが、「ワテ」は大阪臭くて、いやだった。京都では、と云うてもいいだろう、尠くも我が家では母も叔母も、ご近所の小母さん達も「ワテ」は無く、「アテ」だった。「アテ」には「貴て」の意義がかぶって、クチにもミミにもアタマにも自称は「あて」でなければイヤだった、但し子供はまず使わない、が、父でも、母方の伯父でも、ご近所のおじさんたちも、京都では「あて」と自称の人が断然多く、聴きよかった。「ワテ」はクサイと嫌った。
笠置シヅ子は、典型的な「ワテ」女で、それゆえ私は美空ひばりが東京弁で引き継ぐまで、笠置の唄聲は遠慮し続けた。「ヤカマシイ」と身をよけていた。「あて(貴て)」と想いながら話して欲しかった。
潤一郎現代語訳の『源氏物語』よりも早く与謝野晶子の現代語『源氏物語』を叔母宗陽の社中から借りて耽読したのは、あれで、中学生の修学旅行より以前であった。「貴(あ)て」なる価値にもう魅惑魅了されていた。「ワテ」はイヤだった。
2024 4/9

* もう、晩の九時前。昼間は、寝入っていたり、イーストウッドが雪のアイガーを這い登って行く映画や、紫式部と道長らのドラマ『光る君へ』などを、テレビで観、また横になって、丁度長父「兼家」兄「道隆」頃の歴史、『蜻蛉日記』背景の頃の歴史を読んで人の名など確かめたり、一転してドストエフスーの『悪霊』 陳彦の『主演女優』 ヒギンズのサスペンスなど読み散らしていた。
ふと、郵便局のポストに用の妻に連れ立って、静寂そのものの下保谷奥の、もう盛りはすぎて行く「櫻」を観に散策したりしていた。
私には、もう、義務のようにして果たさねば済まぬ何事も「無い」のです、なんという境涯を八八年通り過ぎて来れたことか。有難いと思う。
2024 4/13

* 十一時過ぎ。遊びの楽しみにも似て、ドストエフスキー『悪霊』 陳彦『主演女優』 『鳴雪俳話』『源平盛衰記』日本の「十世紀末の歴史」、ヒギンズの『鷲は舞い降りた』などを読み続けていた。映画では『ウインストン・チャーチル』(ゲイリー・オールドマン)に感動の涙すら漏らして觀入った。西洋区の映画では、いまぶん此の『チャーチル』とあの放射能による人類終焉を静かに描ききった『渚にて』そして『ヘン・ハー』(チャールトン・ヘストン)ないし『戦場ノピアニスト』を挙げげたいと感じている。

* 連續ドラマでの、紫式部と藤原道長を描いている『光る君へ』を愛して観つづけている。まさしく日本の十世紀末の絵図になっていて、私が年久しく日本史で最も親しみやすい十世紀待つかに十一世紀初の「歴史図絵」が゛愉しめている。大勢の男女が錯綜しつつ登場するが、幸いにして主上も藤原氏も源氏も、多く貴族男女らの名も系図もかなりに広く頭に入っているので、余慶に安心しつつ面白く観ていらる。
2024 4/14

* 朝九時。なにとなく撮って置きの好きな映画『ファビュラス・ベーカーボーイズ』兄弟と、ミッシェル・ファイファーとの、ピアノと歌とて聴いて、観て、いた。何とも謂えず大都会の底で這うように生きるタレントの寂しさが、ミッシェルのうまい歌、ピアノ兄弟連弾絶妙の哀調に、底光りしてくる。
もう十度近くも此の映画が好きで惹かれて観ている。心淋しいときはコレに静かに励まされ慰められる。
いま一つは紫式部と藤原道長の『光る君へ』に馴染んでいる。』
2024 4/15

* テレビでは『光る君へ』を、気を付け見続けている。同時代史も丹念に書物で追尋しつつ。画面でよく捉えていても呉れ、有難いと見続けている。
2024 4/22

* テレビでは『剣客商売』をことに喜んで観ている。わたしは昔から「田沼意次という老中」が妙に贔屓なのだ。
江戸時代も 白石以前はうっとうしいが、白石以降の江戸時代には、いつ心寄せている。ガムシャラに気に入っている事や人や時代へ浸かってしまうことで、心身のとかく不調を払いのけたいけど。
2024 4/26

* 早くに起き、ひとり朝食しながら、テレビで落語「たらちめ」を聴いて笑ったり、二階で片付け仕事。
2024 4/28

* 三時半。機械不調、いやいや私の運転が拙いか。烏衣にほしい画面が安定しない。
ま、それはそれ。『日本の歴史 4』の「十世紀末」を丹念に勉強した。次いで十一世紀初、紫式部や清少納言や藤原道長の時代、いま大河ドラマ『光るの君へ』に関わって、一つの好機に平安朝文藝・文華の最高潮をとくと游いでみたいのだ。日本史に幾つも在られるお山の最も美しい雅びな山と謂える。ちょうど今しも全四八冊長『参考源平盛衰記』を読んでいるが、それとはまったく対照のかがやきをもっていたの゛十一世紀初の文華、そして施政、と謂える。
2024 4/28

* ドラマ『光る君へ』に惹かれ、とかく「十一世紀初」の京都へ、宮廷社会へ想いが翔ぶ。
2024 4/29

* 米軍基地内での「兵」らに起きた「致死ないし殺人」事件の軍事裁判映画で、最優秀かとも想ってきた一作、『ア ヒュー グッドメン』を、久しぶりに強く心惹かれながら半ばまで観た。疲れるので後半を残して置いた。映画の結末もよく記憶していて、観るに堪えて優秀作なので、後半はアトの愉しみに「中起ち」。軍事裁判映画としては屈指の秀作。このところ日本のドラマや映画にも「裁判場面は頻出」しかし、出来は総じて型にはまり、緩くてぬるい。
つい先日の『ケイン号の反乱』も 艦長の横暴を追い詰める副長との軋轢がよく描かれていた。
2024 5/2

* 数日前、洋映画の「軍事裁判」劇で、先に陸軍の『ア・ヒュー・グッドメン』を、同じく、今日は海軍の『ケイン号の叛乱』を観た。孰れも二度目か、三度目。
日本映画では、歴史・時代劇のほかに、現代に属する秀作に、もう久しく噂や評判にすら出逢っていない。いつまでも「寅さん」であるまいに。
ま、私が今々の映画館へ出張らないのだから、しょがないか。
2024 5/5

* 大河ドラマとやら、道長や紫式部の頃(一条天皇の頃)の宮廷社会を『光る君へ』が、テレビで描き続けている。ちょうどこの十一世紀玄初頃の歴史は、幼少の昔から多大の興味と関心で読み耽ってきたので、公家貴族宮女たちの入り組んだ系図的関わりも氏名もほぼアタマに入っていて、それでこそ「歴史」もろともに鑑賞できて、頗る有難くも面白い。
現代人の予期をうわまわって、この頃の「女たち」の存在意義も価値も活躍ぶりも、識って観ると観ないでは「歴史の読みや味わい」が天地ほど動く。一例、藤原兼家の女(むすめ)で、一条天皇皇后、以降三帝の母で、藤原道長ら歴代摂関藤原兄弟の姉妹に当たる「安子」の実在感の大いさなど、知ると知らぬとで「歴史を見守る視野」は大きく質的に変わる。
どんな本にも、だから、関連「系図」は繰り返し掲載され、これを諳記している・いないの落差は歴史の読みに大きく深いのである。「系図」はしかと見覚えるのが、実に有効、私は幼少來そう確信し勤めて記憶してきた。
2024 5/6

* 昭和の敗戦直後に爆発的に日本中を湧かした、あの笠置シヅ子の『ヴギウギ』を、長編の謂わば世代社会ドラマにしたのを、主演「趣理」の好演と歌唱とで、想わず懐かしく涙ぐんだほどに共感し、観終えた。

*「懐かしい記憶」の再生に役立つ「表現」は、すすんで待ち迎えるのが、老境の「佳いビタミン」であるよ。
2024 5/6

* たまたまテレビが映画『ハイジ』を見せる、と。懐かしさに喜んで観た。大いに懐かしかった。「少年」の冒険小説は苦手であった。少女「ハイジ」には大いに共感した。そういう少年であったよ、私は。ましも読んでいる読本(よみほん)『近世説美少年錄』は、『ハイジ』の淸純に比しては、世界が不気味に混濁し、ジョロジョロと白い、青い大小の蛇がのたうち出てくる。が、もう読み出してしまった、読み已められまい。『南総里見八犬伝』よりも、なお、よほど物騒に気味悪く混雑してくると知っている。怖いよ。  2024 5/9

* 馬琴も読み進んだが、総じて、グタッと寝入っていた一日。「健常を持して元気」とは謂えぬまま、晩も、今まで寝入っていた。
テレビは、新幸四郎クンの新『鬼平犯科帳』が始まり、紫式部の『光る君へ』が順調に伸びている。
高麗屋の舞台は、今度の新幸四郎クンまで三代、かならずというほど観てきたが、コロナ禍に禍され、歌舞伎座へもほぼ四年出かけていない。新染五郎君の元気な豚テモ観たいし、久々幸四郎夫人の御顔も観たい。健康でありたい。
2024 5/11

* 大河ドラマの『光る君へ』が断然おもしろくよく描かれている。人物の造型も役回りも善い。愉しめると、もてる知識への補充もありがたい。
2024 5/12

* 昨晩の『光る君へ』はことに関心と興味によく応えて呉れ呉れた。平安朝歴代の天皇・上皇で、矢を射かけられたのは花山院と小どの頃から知っていた.その場面が昨晩のお終いに現れた。道長はコレを利し咎めて政敵を逐うだろう。
秦の家の内で見つけた、「日本歴史」という「通信教育」用の質素に部厚い造本の教科書が、国民学校の三年生頃から私の最愛の本で、読みに読み、更に繰り替えし読み諳記するほどに愛読した。「歴史」に親しみ「念頭」にいつでも働いて呉れる知識、これが私を育てた。幸いに更に早くに「神代」と「神話」が諳記暗誦されていた。谷代えがたい私の財産であった。紫式部はともかくとして、藤原道長には最も早くに多大の関心と親愛感すら抱いていた。
「この世をば我が世とぞおもふ 望月の ×地付きのかけたることの無しとおもへば」などというアホラシイ歌とともに常に平然と語られる「摂政関白」を私は面白いと感じていた。紫式部との縁は、モッと後々になるまで識るわけもなかったが。

* 何しろ日本の歴史が覚えやすくもあり、識れば知るほどトクが大きかった。
2024 5/13

* 寝床わきに、『紫式部日記』『大鏡』『栄華物語』そして『平安朝史』が持ち出されている。ドラマ『光る君へ』は妻も気を入れて観つづけていて、出会いを喜び愉しんでいる。
2024 5/14

『光る君へ』で、お忍びの花山院へ矢が放たれたり、まひろ(紫式部)の父爲時が従五位下に叙せられたり。道長と姉安子(一条后・三帝母)と心通じた仲良しであったり。心親しく愉しんでいる。比較しては、公表と聞いている『寅と翼』よりも。
2024 5/17

* 何用も無いまま、ゾロリと過ごして。晩、これまた久しぶりに映画『ウエストサイド物語』を、トニとマリアの出会い篇まで観て、そのまま寝入る。
2024 5/24

* 大河ドラマの『光る君へ』にのみ親しんでいる。作の進行も、配役の優れて適切なのにも心許して向き合えている。 眼がつらく、細かい字の、印刷のうすい本が、読みづらい。「読んで居過ぎ」を控えよと、体に、望まれている。
2024 5/28

* 敗戦後に「新憲法」の成ったとき、未だ幼稚なアタマにも不思議と嬉しくて、男女平等、あたりまえやと思ったのを覚えている。朝のドラマ「寅に翼」さほどには観ていないなりに、「配線」といつた或る意味では歓迎すらしていた子供心の昔へ誘われる想い出は多い。
2024 5/31

* テレビでは,圧倒的に『光る君へ』に肯き愉しんでいる。
2024 6/1

* 今日の印象は、やきり『光る君へ』か。現代を生きようにも現代が私から隠れている、どこかに。わたくしの眼が見えていないのだ。
2024 6/2

* 場所を塞いでいる長け高菜ケースに、なんと、多年にわたり映画を録画し溜めたいたのが優に数百枚を越すほど在るのに,吾ながら惘れた。余生を賭してみんな観るなどおもいもよらず、さて、ナニがナニと想い出せぬままみな棄てるかと思うと惜しい。人生の難儀、なにがあるか判らない。喜んで「貰って」「引き受けて」呉れる人は無いかなあ。全部でも差し上げるが。
2024 6/3

* 『光る君へ』が場面を「越前」へ転じて、道長が理会し赴任する新任の越前守に、商人と称して寄ってくる宋の國ノものを唯一の開港地である北九州、肥前の辺へ向かわせよ,越前は都に近く,萬一に入來のものらが「兵士」出逢っては危険と指示していたのは聡明な見地であった。
おなじことは,今日でも政治と外交の大きな一要点であること、ウカ忘却し放擲していては成らない。海に浮かぶ「ウクライナ」と化さぬよう、北海も西海も南海も 東海すらも要心を怠るまいぞ。日本列島ほど「口にに唾して欲しがられ」てきた國は尠いのだから。
2024 6/3

* 21世紀昨今のザワザワした報道より、『光る君へ』まひろ父の越前守赴任先のそ宋國、宋人との折衝の方にビリビリするスリルがある。スリルを案じながら寝入ってしまいたい。グタリと五体・心身疲れて居る。 ***ニ

*ヶ
2024 6/7

* 『光る君へ』 惹かれて観ていた。生き生きとした芯のしかとした脚色、賞讃を惜しまない。
2024 6/9

* 今日は散歩に出なかった。映画「マトリックス」の続偏を観てる気でいたが、間違えて、もっと「先の」をアケテいたらしい。ドジなこと。
『光る君へ』とは,大違い、いま私の真情心境からいうと、平安朝」の「今日毎日の風情」が懐かしい。
「マトリックス」は刺激がきつい。
2024 6/13

* 『光る君へ』越前でのようすが目新しくよく架空に描かれて,感じ入る。よく勉強し下調べの上に構築された物語画面にはムダが省かれていて力づよい。感心している。
「勉強」という「根」の無い「思い付きのしごと」では、所詮往昔の歴史劇など書けはせぬ。それが書けねば、いくら昨今の風俗を好き勝手用いても、紙切れのように「軽薄」で、吹けば飛ぶ。
人間の久しい歴史から深く汲み取る努力や勉強「無し」のドラマの書き手の映像は、人間,日本人の根底に学ばず、ただ手先口先で風俗を描き殴るばかり、どう組み立てても、ただ他愛ない。
『光る君へ』脚本の大石静に共感と敬意とを送る。

* 次の日の深更一時五十分。

目覚めてひとりきちんで酒を飲み『シックスセンス』という映画を暫く眺めていたが。 二階へ.用も無しに。
2024 6/14

* 『光る君へ』が、いろいろに葛藤し、胸に刻まれて行く。良し。
2024 6/16

* 世界に、現在各国で抱き込んでいる核弾頭は、一万数千萬発を越すと謂う。
わたくしの、いつも念頭に、記憶すべき映画の第一位に意識し認識している『渚にて』は、世界中での格爆発戰争の結果、はや「北半球世界が完全に死滅」し、かすかに生存者らは、やっと南半球のオーストラリア大陸へと遁れ棲んでいるが、それも、日々に刻々に核放射能に怯え侵されている。世界と人間・生物は明らかに避け得ない放射能死に逼られていて、映画『渚にて』は、既に「自殺」用の薬物を全ての人に配布しようとすら準備し、実行しかけている。
今日既に世界が保有の核弾頭による戰争が起きれば、人間および生物と社会の死滅へ露骨に繋がるであろう。
警世の映画『渚にて』を、テレビは、せめて半年に一度全世界へ「繰り返し放映」して欲しいとまで私は願い,懼れている。
2024 6/18

* 午後であったか女流講師釈のみごとに「釋台」を響かせた名調子を、しばし感嘆、聴き惚れた。金原亭であったか三遊亭であったが、名前も、そういうのはスグ忘れる。
体調を慥かに元へ戻したい、あわてず急がず休息を主に。
2024 6/20

* もう夕方四時半に成る。なにをして生きのびてたか。本をニ,三冊読み継いでそれぞれに例の心を惹かれていた。順を問わねば.「玄関座」では、曲亭馬琴の超大作『近世説美少年録』で、珠三郞が伯父と巡り逢うていた。
この本では、したたかに近世「読み仮名ふり」が愉しめる。漢字での表現能が百層倍して教えられる。
次いでは手に重い大冊ドストエフスキー『悪霊』いささか行儀悪くダラシない講述と見えつつ、モノスゴイちからで人間共の「性格」が、読み手にを掴みかかる。お話しを興がるのでない、お話しの底を趨る走る人間という生きものの正気と狂気とが組み合ってくるのだ。
ヒギンズのサスペンス『鷲は舞い降りた』ハナチスの英首相チャーチル誘拐を目指して語られる迫力に惹かれる。私は此の手の本も東工大で講義の頃、肛門近い古本屋で拾っては沢山読んだ、保谷から大學へ往き来の電車で。恰好の読み物です。
もう一種は、「常陽水戸府」が編集ゅっぱんしていたわほん、漢字漢文での史籍集覧『参考源平盛衰記』全四十八冊の第参拾参冊、山育ちのただ荒くれ木曾義仲の軍勢が平安の京を暴れ荒らし回っている。
テレビでは『光る君へ』がタントツの意欲作、拍手を惜しまず見入り魅入られている。 配役が、設備が,至極上等。

* 「平安時代」という「平安」はかなりに時事無根で、宮廷の力関係はかなり険呑にみだれあうばかりか、当時の姿勢は都で云えば放火・火災・群盗・偸盗の被害に戦いていた。源氏物語やまくらのそうしだけで「平安時代」を鵜呑みにしては滑稽極まるのである。

* からだは病んで衰えている実感が拭えぬまま、私の参上している世界は、未だそうは汚れ弱っていない、らしい。
2024 6/22

* 清少納言があれほど敬愛・心酔した中宮「定子」のミスキャストは、如何にも覆いがたいとハナから感じていた。
そこへ行くと,道長の敬愛し信愛した姉、女御にして三帝の母ともなった女人の貫禄と魅力には舌を巻いてきた。
2024 6/22

* 映画『ウインストン・チャーチル』を、もう数度は繰り返し観てきたか、今晩もつよくつよく激励された。
この映画では このチャーチルを深く敬愛し支持する、自身の覚悟も込めて。命あらばこれからも何度も観る映画。
そしてこの反月夜もうちこんだ読んで居るサスペンスの一冊がヒギンズの名作と謳われてきた、ナチス・ドイツによる此の英首相チャーチルを誘拐を決行の『鷲は舞い降りた』 ドストエフスキーの名作『悪霊」とともに愛読しつつある。
* そして
おう、八時。『光る君へ』ほ観にテレビへ駆けつけます。

*『光る君へ』が俄然「道長」からも「まひろ」からも大きく開花してきて、面白さが濃くなった。羨ましいほどの作柄へ成熟してきた。配役もいい、展開もむりがなく、しかもかねてたくわえている都県に手強く触れて物語が香に肥えて行くのが嬉しい。ボロボロにするほど愛読した『日本歴史』の,他のどの時期・人物達よりもこの道長、紫・淸二女らの「時代」に子供の頃から抱き取られていたのだ。昭和の現実よりも親しく眞実の表情が印象に生きていた。

* 佳い有難い今晩のテレビ「耽読」であったよ。

* 『日本文化』を、すこし遠慮して『京都文化』とちぢめても、その本質は「女文化』と見極めてきた。著作・著書もそれにそって『女文化の終焉』等々沢山書き遺してきた。
八十八歳 もう遠慮無く日本『文化』に化けている多彩な 日本『女』を「私語」して見極めてみてもいいのでは、と思いかけている。如何。
2024 6/23

* 一度床に就いたアト十一時にキチンでテレビを入れると,劇画風に画も面白い「平家物語」のちょうど「クリカラタニ」逆落としの決闘場面を紙芝居か人形芝居のように演っていて,目新しかった。識らなかった。
2024 6/24

* 「玄関座」で、「手持ち」ライトで「近世説美少年録」「鷲は舞い降りた」を読んで居た。肩が凝り。目は重たく、うるわしい体調とは、とても。
テレビで観ている『光る君へ』がいま一等、て浮世離れして身にも目にも親しい。
都知事選も、両陛下の英国での歓迎の報道も、しとどの雨降りも、ただ気怠い。欲を謂うなら、本もソッチむきで、ぐっすり寝入りたい。疲れて余儀ない時は、そばへ置いた、頂きもの亀屋良永の「御池煎餅」を番茶でハリハリ咬んでいる。
京は、軽いも重いも、とびきり佳い美しい菓子づくりの、名都。安心して手が出る。
2024 6/26

* 朝食したら、もう、リクツもなく、床に埋もれ寝入っていた。
目が覚めたら午後二時。
アメリカナイズも露わな、しかもワケ判らない戦争映画を辛抱よく観ていたら、,三時半。
このサボリ様ま凄い!  のでは。
2024 6/27

* 芝翫らが演じるややこしくてスッキリしない時代劇「十三人の刺客」と謂うたか、を、テレビで長々観ていたが。つまらなく終えた。やれやれ。
『光る君へ』の方がよっぽどマシだった。
2024 6/29

* もう、深夜十一時になる。終日、何をしていたか。
晩八時の『光る君へ』にだけ、ま面に向き合うたが、余は,憶えも無いほど、ほとんと短かな間を置いては寝入っていた、らしい。

* 容赦なく人生終着か。右の頚の根、肩の痛みはげしく、痛み止めロキソニンのたぐいも、効かない。目はカラい泪にニ潰れている。睡眠へ遁れるしか今は手だて無し。やれやれ。  * しかし道長のまだ幼い女の「入内」が現実化、ほぼ道長にとり他にすべの無い瀬戸際へ来ているのが、まさしく「史実」のおもしろさで、惹きつけられる。「まひろ(紫式部)」「三郎道長」のドラマは緊密な道理をしかと追うていて、よく出来、よく描かれている。
2024 6/30

* 芯から疲れているが、ふんばる気は在る。憶えてる限りの「童謡」の断片・切れ端だけを、始終口ずさんでいる。「花は咲く花は咲く」「垣根の垣根の」「恋しや」「早も來啼きて」「櫻木を」「とまやこそ」「あるじは名高き」「岸の家」「おーぼろ月」「鐘が鳴ぁある」等々。頓服のクスリなみに。
そして京都の日々を想い、はるかな平安古代を想い、今日の世界の葛藤と汚濁をにくむ。ネタニヤフ、プーチン、を嫌う。
明日の都知事選を想う。蓮舫の新鮮を買うか、投票所までの酷暑を懼れる。

* それでも、ドストエフスキー『悪霊』と『参考源平盛衰記』は手放せない。明日には『光る君へ』の続きが観られる。
2024 7/6

* 昨夜 もう一時頃であったかテレビで劇画っぽい漫画で『平家物語』それも木曾義仲が一党の「平安京での乱暴狼藉」を見せていた。四八冊本『参考源平盛衰記』の三二冊めの辺、まさしく義仲らが乱行の迷惑が、「山出し」を軽蔑・侮蔑の語りと筆致で書き継がれているのを読んでもいた。その「マンガ」 なかなかの出来だった。今夜も観てみよう。
都知事選の煽りで、たのしみの『光る君へ』は、一回分トンだ。
2024 7/9

* 晩、八時。千切れた裂(きれ)っぱしのように一日を過ごしていたか、それすらも判らぬほど、文字通り「呆然」と間延びしていた。
つい今し方まで、時季外れ、雪の吉邸良討ち入りをみていた。長谷川一夫、鶴田浩二、京マチ子、若尾文子らが懐かしく。わたし独りか生き存えている心地がした。八時前だが、寝たい。瞼が重い。所用、無いのではない。心根が崩れているのだ。
2024 7/13

* 午後四時。左頚肩, 凝り凝りと痛い。両腕から指の十本の、細長いこと。
大相撲が始まって。今夜には、『光る君へ』が観られる。
なにやかやと為残しているが、執濃くは気にしないことに。「平然」と生きてれば,ソレで宜しい。どうなるものでなく、どうしなくてならぬという「モノもコトも」無い。慕わしい懐かしい逢いたい名前や顔や声が無いではないが、それも今や当然にそれはソレダケのこと。馴染みに馴染んだ「祇園囃子」はちゃんと耳に届いて聴こえている。懐かしい色んな人の名前、笑顔も言葉も歓声も、湧くように想い出せる。「私の京都」は、,春や秋より、はるかに、暑い極みの「真夏」が懐かしい。七月には祇園祭、八月には大文字もあり、地蔵盆や盆踊りも花火もある。町内会から、バスで琵琶湖へ水泳にも行った。

* 23時48分 宵より寝入っていた。このまま明日へ、寝入る。アメリカでは、トランプ大統領候補が耳を掠めて狙撃されたと。どんな意味の狙い弾であったのか。
2024 7/14

* いま惹き込まれているヒギンズ作のサスペンス『鷲は舞い降りた』は、ドイツの落下傘部隊による英国首相チャーチルの「誘拐」作戦を書いている。なによりもその「チャーチル」なる存在感の超級のおおきさに遠いはるかな日本人の私が感嘆してしまう。最近観た映画『ウインストン・チャーチル』の魅力にも真っ当に脱帽した。が、あの戦時中に国民学校のかきゅうせいであった私たち少年仲間では、米大統領「ルーズベルト」と英首相「チャーチル」とを悪口雑言で笑いものに敵視するのが「慣習」であったから、なんとも、ややこしい気分だが、むろん日本の少年には何も判ってなどいなかった。ヒットラーも判ってなかった。
安易には モノ、コト は判らない。
2024 7/15

○ もう、午後三時二十分。いい中国映画などみていたが。呆然としていた、ボケているかマトモか、判じもつかず身を竦めている。中国の胸に沁みる「郵便配達夫」の映画を観て。視力の弱っているばかりを「ヒシと」感じる。心神の疲れに屈してはいられない。が、むやみと頭の中にサマザマが絡み合い縺れるように固まって蠢く。強いても「其の後」に備えておきたいが、重い。生き存えていなくては仕方の無い「混雑した荷」が負担を日々に増して行く。
肉親、血縁、縁戚。私には、本来ソレが幸いと欠け落ちて無いに等しかった。それが、妻が出来、子らが出来、縁戚や親類が出来、その重さ、軽快ななにもなく、ひたすら重たい。煩わしい。
2024 7/16

* 何の記事も遺していない。出かけたのでも無い。呆然と過ごしていたか。玄関や身の周りに触れ、「片付け」たり「整え」たりしていたか。横になったり寝入ったり、「光る君へ」や「大相撲」を観たり。要は、何もしてなかったと、いうこと。
久しくも久しく「する人生」を歩いて来た。「しない」ことを、「しまう」ことを、いま「覚え」かけているの、かも。
2024 7/20

* 夜中の十一時が過ぎていて。
終日、身辺整理していた。玄関も、寝室も、仕事部屋も。身辺整理が、ないし「いわゆる模様替え」が,少年の昔から好きで、まあま、巧みに目新しい「小環境」が造れた。満足しても、その分、よほど疲れ、疲れました。今日は大相撲の取組,一番も見なかった。
ただ大河ドラマと称する『光る君へ』の、今日の放送分は、二度、繰り返して観た。たやすくは入り込めない十世紀最末ないし十一世紀最初、つまりは西暦千年直前後のわが國の日本の宮廷社会、それも一条天皇、「モンダイ」の定子・あき子の二后並び立ち、疲労に堪えて踏んばる左大臣道長、ユースケ・サンタマリアがナカナカの陰陽師役や、紫式部モデルの「妻として母として」の暮らしから、いよいよ物語の「書き手」へと躙り寄る気配など、むずかしいところを、今日現代の作者は懸命に見事に描き出していて、賞讃を惜しまない。
むかしは、天皇家、皇室、天子樣を「映像で描く」など絶対にゆるされなかった、その「せめぎ」を越えて、このような力量に富んだ映像化に出会えているとは、「満足じゃ」。
2024 7/21

* テレビを見聞きしていて、コトが昨今の電機・電子の「技術」の話題になると、ほとんどツイテ行けない。笑ってしまう。
2024 7/24

* 好きなクリント・イーストウッドが静かに「老境」を演じて、ふと涙ぐんで観ている。

* 大相撲を観ていると、過ぎし昔の、今は亡い贔屓の横綱や大
が目に甦り、粛然と、テレビの前から遠のいたりする。人生という川は遡っては流れない。
2024 7/24

* 独り横綱の責任を果たして、照ノ富士、順当に七月場所優勝。

* 巴里五輪開幕。ほどほどに付き合うことに。

* ドラマ『光る君へ』順調に、こころよく魅し觀せてくれる。
2024 7/28

* 『光る君へ』に誘われ、『紫基部日記』を読み始めて、書きだし修辞の見事さ,なつかしく、感嘆。

* ヘトヘト。頚廻りの硬い痛みに呻く。それでも,小説は書き継ぎたい。『信じられない咄だが』執拗に手を牽かれる。なのに『悪霊』に惹かれ、『女王陛下のユリシーズ號』なんて凄いサスペンスも読み継いでいる。映画『インディ・ジョーンズ』の続きも観たい。なんたる浮気よ。
2024 8/1

* 「信じられない咄だが」、くちゃくちゃと掌に丸めるようなアンバイに書き続けていた。疲れれば寝ていた。ウソにも健康とは謂いにくいが。それでもテレビで長岡の花火の美しさに感嘆したり。五輪の柔道を観たり。
朝日子、どうしてるやろ、建日子には文運をと、願ったり。
2024 8/2

* 明日は、一週間ぶりに『光る君へ』が。妻も手もとへ「日本史」の平安朝前半を持ち出し、「紫・清・道長の頃」を勉強の気配、結構なこと、デス。
2024 8/3

* 『光る君へ』が充実して好調、よく描けている。とても此処までは期待できてなかった.関係者に敬意、そして感謝。
2024 8/4

* 流石に、巴里五輪の劇的な「さまざま・いろいろ」に目を惹かれる。陸上の、走る、跳ぶ,投げるなど、心惹かれて観入っている。

* 米大統領選挙の行方が、とても、気になる。トランプへ態勢が動くようなら、いよいよ「人の世界も末」かと懼れる。
2024 8/5

* 私の知る限り、堅固に美しい映像と構成と出演者で出来た、数少ない「江戸時代劇」のうちの優れた一本、中村吉右衛門と岩下志麻との『鬼平犯科帳』を、久々に観た。充実して、お見事、満たされた。
岩下志麻は、十朱幸代で幕を開けたテレビドラマ『ハス通り裏』へ途中から割り込んで登場した、美女中の美女、魅せられて、数々の映像に親しんできた。映画監督の御亭主とも一緒に、ある賑やかな会場でしばらく談笑したこともあった。有数の二本を代表する女優、まこと美貌に増して柔軟に賢い人。それが、なにより、「役者」として「売れる素質と魅惑」になる。ツンとお鼻だけ高い「売れない女優さん」とも何人も出会ってきた。「役者バカ」と謂う。聰明にバカに成れる役者が長く生きている。
2024 8/12

* わたしは「一年」という目算と覚悟でおり、妻とも、「あと」のとで、段々に「深切」に話し合い初めている。
わりと長く書き継いでいる新作の小説も 先ハ未だ だけど熟してきている。
五輪が静まり、ま、テレヒの前へは『光る君へ』ぐらいしか坐らない。読み継ぐ本は、当分のうち、大変な「長編」作を三作だけに絞らざるを得ない。三作が三作とも かけ替えなく、優秀。満足。
2024 8/14

* 夕食後に、崩れるように寝入っていた。もう明け方かと思ったが。妻は沢口靖子ちゃんの新しい連續ドラマに観入っていた。帝劇での『細雪』だったか、楽屋へ誘われて写真などとってもらったが、どう並んでも、靖子との横並びは、わたしも、妻も、サマにならんかったなあ。
2024 8/14

* 太平洋戦争 開戦 大空襲被害 敗戦 敗戦後責任等処理 労使問題 戦後政治経済 経済発展 等々の流れを、近年の自民党政権うおうさうまで,概略テレビで復習していた。

* 戰争に負けてよかつたとは思はねど
勝たなくてよかつたと思ふ侘びしさ

たしか こんな風に 私は歌っていた。今も、心変り無い。
2024 8/15

* 大河ドラマ『光る君へ』の進捗に賛同し。充実を保って細部ヘマでシカ描けていると消散の気持ち。
2024 8/18

* 前触れの喧しかった暴風雨に遭わずに済んだ。アコやマコも機嫌がいい。わたしは視力の衰えにショボショボしている、が、不機嫌では無い。録画してあるはずの今晩の『光る君へ』を愉しんで、ドストエフスキーか、マクーンかを読み嗣いでから寝入ろう。
2024 8/18

* 『光る君へ』だけが「佳い新作」として愉しめている。ユースケ・サンタマリヤが演じている「陰陽師」にかかわる楽屋話や解説も、面白く見聞きした。
大東亜戰争の「敗戦」と謂い、源氏物語や道長らの「平安王朝」と謂い、つまりは「人間」の営み、編み揚げる「歴史」への「考異や理会」に、私は惹かれる。
2024 8/24

* 「京都」の濃い闇を、テレビがしきりと語ろうとしていた、祇園会とうち重ねて。
「京都」は平安を願う死者達の、うち捨てられた巷、山林。東山も西山も北山も、そのままの「あの世」。無数の墓地・墓所が犇めく。墓地でも墓所でもなく見える山林に、涸れよと願われ、そのまま死者達はただ「置かれ」て「骨」と涸れ・枯れてきた。私は高校生の頃、教室の授業を抜け出してまで、鳥部野の林を、うち捨ての人や獣の骨を踏むようにかきわけ歩いて来たりした。「平安京」の平安とはそういう弔いと倶に「歴史」成して在った。
2024 8/29

* 十一時過ぎ。懐かしい好きな唱歌番組を聴いていた。
義兄で詩人だった亡き保富康午(妻の実兄)の譯詩で「おおきなノッポの古時計、おじいさんの時計」など。私、この歌が、好き。懐かしい。
この唄番組も大好き。愛らしい「ののか」ちゃんの唄声も好き。
わたしは、唄が好き。幼少の昔、どんなに孤りの寂しさを独りで励まし、慰められたろう。
2024 8/30

* 陰気でいる。一つには機械画面が自在に処理できない。削除したい畫像が消えてくれない、など。消去したいものが消えてくれない、など。

* 『光る君へ』の続きは面白く見て、先を望んでいるが、肝腎なのは私自身の機械仕事が渋滞している。気が滅入る。
2024 9/1

* ドラマでは『光る君へ』 本では『参考源平盛衰記』 そしていま、ドストエフスキーの『悪霊』と、悲愴のスペクタクル『女王陛下のユリシーズ號』に ひたと向き合うている。満足している。
2024 9/7

* 馴染みに馴染み愛している「唄番組」で、「ちいさい秋みつけた」や「象さん象さん お鼻がながいのね」などを、しみじみ、聴いていた。唄の無い人の世、考えられない。
2024 9/8

* 日付を越えて、夜おそくに『光る君へ』等に触れた相当量の感想が、記録されていない。私の不始末か,機械の乱れか。
こういう事故がまま起きている。
2024 9/8

* 強硬を究めた残暑に、マイる。静かな楽しみは大河ドラマの『光る君へ』。この時代へ映像で戻れると、舊の故京へ帰った気がして、心身落ち着きます。
2024 9/15

* またまた『光る君へ』道長女の中宮彰子と一条天皇の、ようやく男女の仲へ向き合うた辺を観,確かめてから、いま、目覚めて午後三時十七分 よく寝入っていた。寝入っていれば、まさしく平和。私にはいま、そういう「平和」が 無償与えられている。有難いとばかり謂えないが、なにかの衝動があるまで、心静かに受け取っておく。

○ だーれかサンが だーれかサンが
だーれかサンが 見いつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 見いつけた

* 此の唄の 此の 「ちいさい秋 見いつけた」
という唱い出しが 好き。「秋」は 胸に沁みる。
私自身こんなふうに 口ずさんだ 覚えがある。

柿の木 柿の実 柿の木坂を
ころころ落ちた どこまで落ちた
秋の夜 秋の夜 だーれも知らぬ

栗の木 栗の実 栗の木坂を
ころころ落ちた どこまで落ちた
秋の夜 秋の夜 だーれも知らぬ

はてを知らず 落ちて行く命 と私は感じている。それならば「秋の夜」であって欲しいと 願うのでもある。
2024 9/16

* もう午後三時十分、這うように熱暑の身を避け、寝入れるなら寝入っていた。ナニもしていない、ナニも出来ない。幸い今は、それで済む,ナニの差支えも無く。

* 讀書も映画も弱り果てた視力に障る。ならば、音楽。幸いに、数えきれぬほど録音盤がある。古今亭志ん生なら落語での全集もある。
唄は、自身口ずさめる。

* 吾と我が身が誰と惑ったりする。
2024 9/18

* やすものの二本差し時代劇には愛想を尽かし、云ううことを聞いてくれぬパソコンにはヒヤヒヤしながら、ま、大相撲では横綱へ絶対の驀進と信頼の「大の里」に満足し、妙に愛らしかった元大関隆景勝の是悲ない引退を惜しみ、
2024 9/20

* たまたま、初めて、しかも最終回、大石静の作、テレビ連續ドラマ『オードリー』を観て、感じ入った。図抜けた歓声と構想力とに拍手を惜しまなかった。長嶋一茂君渾身の気張りようにも、拍手。
大石静は、我々夫婦の殊に愛している『光る君へ』の作者でもあり、私のペンクラブ理事の昔から、会員同士として知っていた。『湖の本』も送っていた。
すぐれた作者と、すぐれた「作品」を介して、出逢うのは、嬉しい幸せである。
2024 9/22

* 『光る君へ』の同じ中宮お産の回を,日に三度も観た。平安の京都似生まれ育ち、極く幼くから『百人一首』繪歌留多を翫び和歌も歌人も憶えて、与謝野晶子現代語訳の『源氏物語』へ小学生のうちに辿り着いていた私には、『光る君へ』世界は、幼来馴染んだ「故京・故郷」と謂うに近い。鬱陶しい「こんにち世情」にイヤ気すれば忽ちに還って行けるのである。
2024 9/22

* 再放送でも『光る君へ」は安心の休息を恵んでくれる。野球には,大谷シヨウ平にすらも、さして興味が無い。
新内閣の三役人事等にも、さして関心をもつ時機でない。人事より政治を、その石破政治はまだ発足すらしていない。
2024 9/27

* 午後から晩まで,三度も『光る君へ』を見直していた。
また 映画『ベン・ハー』も、さらに奥ヘまで観入っていた。
さらにまた夕方には、先の太平洋戰争へ「日本」が踏み込んでしまうまでの、内閣、陸海軍令部また宮内省、枢密院等々の右往左往、朝・中・東南アジアの、また米国等の情況を反芻するように回顧の映像で見聞きしていた。これは、私の半ば「きまり」めいて感覚を於いては見直し思い返す義務のような慣い。
2024 9/29

* 真夜中、映画『ベン・ハー』を胸打たれ観終えた。私の胸の想いの内には、久しく、基督教への美妙に濃い信愛が働いているのを自覚している。仏教へはアタマが働く。キリストへの思いには信と愛とが泪すら副うて流れて、幾久しく自覚している。チャールトン・ヘストンの演じた役へは「慕いよる」ほどの強い共感がある、もう昔から。

* 私には、これまでに大判函入り33巻、美装の『秦恒平選集』があり、さらに『秦 恒平・湖(うみ)の本』全166巻が在り、各社で出版販売の「単行書・新書・文庫本等々」が、100冊余在る。これほどの著作本を数多く遺してきた近代日本の純文学・文藝・批評・評論・エッセイの「作者・作家」は、たぶん皆無かと想われる。そして、いまなお新しい創作や執筆 さらに莫大量の『秦恒平・私語の刻』を、あくまでも「文学」「文藝」を自覚して、コンピュータに、日々、眞実・眞剣に生真面目に遺し続けている。私の「生きる」である。
あれは高校生より少し前ででも在ったか、黒澤明監督初期の名作映画『生きる』に胸のわれるほど感動したおもいでがあり、「生きる」一語は以来特別な意味で私に宿り続けてきた。
2024 9/30

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