ぜんぶ秦恒平文学の話

歌舞伎 1998~2001年

* 大阪は、わたしにはあまり縁のない町だ。道頓堀も心斎橋も御堂筋もじつははじめて歩いた。「食い倒れ」といわれるほどのものを食ってみたかったが、時間がなかった。

 松竹座はほどよい広さで、花道にまぢかい佳い席が貰えていたので、勘九郎と玉三郎との「鰯こうぇぃ」の道行きが、楽しかった。

 三島由紀夫の「鰯売り」と真山青果の「将軍江戸を去る」では、歌舞伎の性根の捉え方が大違いで、文句なく三島の舌なめずりして書いたような歌舞伎耽溺の的確さに軍配が上がる。ばかばかしい楽しさに真実があり、真剣がった時代への視線に「概念の乾き」が残る。我當はニンに合っていて好感。梅玉は性に合わない。

 伊勢音頭の仁左衛門は男前できちんとやっていた。芝翫の万野は憎体をかなり抑え、見やすかった。ご祝儀感覚のせいか、陰惨な狂言にいちまつハッピーな余韻を含ませていて、それなりに有り難かった。せっかく大阪まで、貢の殺伐とした余韻を持ち帰るべく出向くのは、ちと辛いなと思っていたが。まず、めでたかった。

 舞踊が一つ欲しかった。歌舞伎の魅力は踊り。吉田屋が「仁」にはまって、佳い出し物だと思うが。

 弥栄中学以来の松嶋屋への親近感に、級友我當応援の気もこめ、今年は十分襲名劇を楽しんだ。

 

* 福田逸氏のお誘いで、次は「お国と五平」を歌舞伎座で。谷崎の戯曲ではもっとも上演回数の多い舞台で、読む戯曲としては物足りないものだが、かえって舞台にのせると役者にも演出にもしどころが多い。そうなくては面白くならない芝居。八十助(=のちに三津五郎)のストーカーぶりを味わってみたい。他に「船弁慶」と、「お祭り佐七」。

  団と菊との団菊祭。二人とも彼らの若い頃から、繰り返し楽しませてきてもらった。また酒を片手に、平場の前寄りど真ん中で観る予定。能より明らかに割安で、気がほぐれる。能ははんぶん寝ているのだから、それに行儀悪くもしてられないし。しかし美しい感銘においては、能は歌舞伎をしのぐ純度の高さがある。歌舞伎には佳い意味「安い」味がある。それが佳い。両方とも立場、立場。歌舞伎が能のようになっては困る。能が歌舞伎がられては困る。むしろ後者に心配な気味がある。

  1998 5/14 2

 

 

* 谷崎の「お国と五平」は活字で読んでもいまひとつ乗れない脚本だが、舞台に乗せて科白を聴いていると、また役者の芝居をみていると、きっちり惹き込まれる谷崎ならではの妙味がある。いま流行のストーカーのような友之丞だが、舞台ではそういう感じにはならず、徹して凹型の男の居直った気味わるさが、独特のマゾヒズムになって表現される。

 お国という女の造形にも、結局男三人に殺したり殺させたりするだけの魔性が意図されている。五平には、「春琴抄」の佐助や作者谷崎その人が、興ふかく、透けて見える。

 作は大正時代で、まだ谷崎は根津家との縁もゆかりも無かったけれど、すでにして根津清太郎と松子と谷崎とが描かれていると読めないではない「先取り」がある。谷崎はこの作の上演を比較的いつも楽しみに受け入れたというが、たしかに、ここには谷崎世界の見取り図というか骨組みのようなものが見て取れる。こんなので舞台に乗るのだろうかと思うような台本で、けっこう観客が引っ張られる。

 歌舞伎座五月夜の一番目で、八十助と時蔵と辰之助で演じ、とくに誰も秀逸の演技とは思わなかったが、谷崎作品はおもしろく具現されていた。時蔵のお国にもっと毒があってより谷崎風だったら、よかったろう。お国とは、だが、ちゃんと、見えていた。八十助もていねいにやっていたが、もっとずうずうしくてもよかった。

 

* 「船弁慶」前半は誰が演じても重い荷物で、案の定、静の菊五郎が重い。団十郎の弁慶は、きっちり舞台にはまって、沈着。芝雀の義経がとても美しいのに満足した。美しいのは、歌舞伎の舞台では無条件に有利だ。八十助の船頭に、「三之助」三人が水夫をつき合ったが、ご愛敬までのこと。

 八十助の踊り、はっと興奮しそうなほど、うまい。

 だが何と言っても菊五郎「知盛の霊」がよかった。菊五郎がよかったというより、知盛の、弁慶たちに調伏されて行く哀れさに、横で、妻が泣き出した。わたしも泣けた。この芝居はそれでいいのだと思う。

 くわっと、一度だけ真っ赤に舌を吐く、あの凄さを出す為に隈取りに朱を用いていない。さすがだ。花道を、凄絶に独りで引っ込むのもよかった。菊五郎は女形の口跡に難がありすぎ、このところ化粧も重いが、小柄ながら立ち役は、役によるが、引き立つ。弁天小僧や、「お祭佐七」の頭などさりげないがきりりと引き締まる。

 この音羽屋、踊りがもっと上手だと佳いのだが。

 

* 団十郎の佐七はわるくなかったが、元々芝居そのものが二流品で、気の毒だった。もっと佳い芝居で観たかった。いくらなんでも雀右衛門の小糸では乗らない。巧みにやっているのだが、科白の、息をうちへ引き込むので聞き取りにくいのももどかしい。幕切れもあっけなく、盛り上げが不足して、いい「男」の団十郎が、もひとつ引き立たない。

 1998 5・18 2

 

 

 

* 京都南座で、上方歌舞伎と銘打った成駒屋と松嶋屋との芝居を夫婦で楽しんできた。あまり期待もせず、ついでだからと券を取っておいたが、これが、予想に反し、幸い「当たり」であった。「壷坂霊験記」など分かりきっていると思っていたが、我当がツボにはまった演出で楽しませてくれた。

 成駒屋と秀太郎とが母と娘の「旅路の嫁入」は、じつにハマッテいて感動した。嬉しくなった。進之介の奴さんは、全然踊れてなくてご愛嬌過ぎたが、秀太郎五十半ばの嫁入り娘の踊り、成駒屋の堂々と頼もしい母親。なさぬ仲の二人旅のこまやかな愛情と不安と気の弾み。観に来てよかった。

 だが、それより上越す土産は、成駒屋がみずから演出の「宿無団七時雨傘」で、団七を演じた翫雀が、本役といっていいほどの活気で演じてくれ、いい役者ぶりだった。我当、鴈治郎、坂東吉弥らもよくて、儲けものであった。

  1998 9・8 2

 

 

* 七日は道頓堀松竹座で初春歌舞伎。「操り三番叟」を扇雀がきもちよく演じてくれた。後見の上村吉弥、千歳の愛之助、翁は我当の息子の進之介。いずれもきりりと若々しくてけっこうであった。新年の三番叟はいかにも清まはってよろしい。我当が段四郎と福助とに気持ちよく応援されて「天野屋利兵衛」を演じた。ちょっと利兵衛が小さかった。段四郎が大きかった。福助が熱心につき合いいい舞台になっていた。三幕目は、しかし蛇足かもしれない。新歌舞伎には何故かしら説教じみた臭みがつきまとう。おおらかに行かない。「三人連獅子」の鴈治郎・秀太郎・翫雀の父母子獅子に、大きな期待を膨らませていた。期待は裏切られず、すこぶる興奮した。嬉しくて堪らなかった。成駒屋父子の力量はたいしたものであり、子獅子の満月のような美少年ぶりには驚嘆した。加えて好きな秀太郎、これはしびれて当然であったが、心身ともに躍った。最前列にいたからよけいである。さらに続く上方風の「廓文章」吉田屋がまた大変な楽しみで、鴈治郎の伊左衛門に玉三郎の夕霧、それに段四郎と秀太郎とがつき合うとあっては、大阪が博多でも行ってみたくなる。玉三郎の美しさに場内がいきなりどうと揺れる楽しさ。生ける甲斐あり。今までに勘三郎と玉三郎、孝夫と玉三郎の吉田屋が印象にあるが、いまの鴈治郎型がいちばんめでたくて面白くて華やぐ。正月にはうってつけの行き方で、どうしても大阪へと思ったのは演目のよさであった。ばしっと期待に応えてもらい、はねてあと松竹座となりのはり重のすき焼きまでがうまかった。鴈治郎、玉三郎。いい役者だなと嬉しくなる。こういううれしさは、他の演劇ジャンルではなかなか得られない。

 1999 1・8 3 

 

 

* 歌舞伎座初日。「逆櫓」幸四郎、左団次、芝雀、宗十郎、団十郎。幸四郎の樋口、やや神経質なほど丁寧に、ゆっくりと大きく深く演じて行く。櫓をつかった殺陣が面白い。家橘、右之助、十藏が手伝って、歌舞伎らしい大柄なあじわいになった。長いものの途中の一段なので初めの内は科白の通りがやや分かりづらくても、だんだんにものが見えてくると良くなる。

「吉原雀」は、菊五郎と菊之助親子がしっとりと艶やかに踊ってくれた。菊之助はかなり踊れる。今まで見たよりもずっと手に入り心嬉しく踊っていた。父はつき合いの体。

「藤娘」の玉三郎はお目当て。なんともいえず可愛らしい藤の精で、色気も美しさも品の良さも。踊りは、やや内懐をつめて小さいが、そのぶん、なんとも女らしく優しい。幸四郎の樋口と玉三郎の藤娘が観たくて昼に決めたが、正解。カップ酒がうまかった。「ぢいさんばあさん」は成田屋親子と音羽屋親子。それに左団次。一幕は菊五郎のるんが太っていてしんどかったが、二幕の京都の場は視野が開け、つき合っていた友右衛門他のさらりといい顔ぶれが気持ちよく、三幕めはしたたか泣かされた。よこで家内が盛んに泣くのでこまった。さわやかないい芝居で、昔、猿翁と時藏、段四郎らのをテレビか何かで観たのが頭にあったが、団十郎もニンに合って、いやみがなかった。さすがに音羽屋も、老けての奥方、人品みごとであった。

 1999 3・2 3

 

 

* 国立劇場「本朝廿四孝」を観てきた。鴈治郎が八重垣姫と慈悲蔵実は直江山城介を、団十郎が武田勝頼と横藏即ち山本勘助を、我當は長尾謙信を演じた。宗十郎の女房お種、他に秀太郎、翫雀、扇雀、右之助、家橘、吉弥、新之助らがそつなく固めて、けっこう堅実な舞台になった。桔梗ヶ原から勘助住居を経て、十種香から奥庭狐火まで、鴈治郎はお疲れさまであった。

 座頭格の役とはいえ、我當にももう少し仕どころの多い役が欲しい。息子の進之介演ずる槍弾正は素人芝居のようで観ても聴いてもいられなかった。御曹司、本気で稽古に励まないと、もういい年齢だ、ここで放って行かれたらもうついて行けなくなってしまう。声、形、格。サマにも成っていない。心配でならない。

 翫雀はいい役者になると思う。市川新之助の颯爽とした荒事、負けじと上村吉弥の頑張り、それに何よりも嵐徳三郎の勘助老母役は品格みごとであった。

 前から七列目、花道にもちかいとても佳い席がとれていた。横藏と慈悲藏とのからみ、そして姫御前のあられもない十種香、八重垣姫の人形ぶりなど、見所多くて、のんびりと、実に楽しめた。いやぁ、歌舞伎だわいと、理屈抜きに堪能してきた。たっぷりとあった。

 劇場で竹西寛子さんに会った。もう大昔、マリオンでの源氏物語公開対談して以来であろうか。

  1999 11・4 4

 

 

* 風はあったが寒いほどでなく、晴れ上がって気持ちいい一日だった。国立劇場はやや閑散としていた。顔見世にみなが出役の留守舞台を、雀右衛門と幸四郎と八十助とで支えるのだから大変だ、それは分かっていたから無理は注文しない。渡海屋と大物浦は、三人が揃い彦三郎も助けて、なんとか一舞台にしあげた努力賞ものだが、脇役が小さくて薄っぺらでは何としても盛り上がりにくい見本のような芝居だった。典侍局の雀が八十の老体でしっかり演じ、ひきつづき可憐な手習子を艶やかに踊ってくれたのには、感謝感謝。安徳天皇役の子役が口跡あどけなく明晰で、なかなかのものだった。「深刻郎」の幸四郎知盛は、あらんかぎりに演じ尽くしてご苦労をきわめた。松緑の、富十郎の、知盛を観ているが、もっと大らかに「歌舞伎して」いたが、幸四郎は必死に「演技して」見せる。彼の誠実に相違ないけれど、「歌舞伎する余裕」も幸四郎ほどの役者には必要なのではないか。

ま、それでも泣かせた。

 困ったのは芝浜革財布。台本がヘタクソとしか言いようなく、こまぎれに芝居を刻み上げたから、煮えない煮えない。八十助がもひとつ、勘九郎などとくらべてはでな藝ではなく、温度の低い舞台になった。芝雀の女房はまだしもまともだった。なによりも台本が下手すぎる。落語を芝居にするぐらいなら、一幕かせめて二幕にきりっと纏め、じっくりと笑わせ泣かせる脚本にする藝が欲しい。五場も六場もを、ちょんぎりちょんぎりなど、工夫のなさに呆れ、役者が気の毒だった。前半を一幕、夫婦二人の掛け合いで笑い転げさせ、後半は打って変わって晴れやかなめでたい大晦日にする、それぐらいの工夫無しでだらだら見せられては、原作の円朝にもわるく、名演忘れがたい前の三木助にも恥ずかしいではないか。

 それでも噺がいいから、ほろりと泣かされる。サゲの「また夢になるといけねえ」で締めた方がいい、舞台でほんとに飲ませてしまうと、「また…」と、その先が心配になる。妻も言うように、噺にある佳いセリフがうまく活かされずに、手垢のついた通俗なセリフが乱雑に出てくるのにも困った。

 だが歌舞伎は楽しい。

  1999 12・9 3

 

 

* 「のぞみ」に慣れて、新幹線も関西ぐらいならほんとに楽になった。一時間寝て、残りいっぱいを書きかけの長い小説のプリントしたのを丁寧に読み直していると、もう京都を過ぎて、大山崎の辺を大阪へ疾走していた。新大阪から地下鉄御堂筋線にのり、難波で下車、松竹座はすぐだ。

 秀太郎「お光」の、文字通り青尼道心にはビックリした。芝居に狂っている名張の読者囀雀さんの注進で知ってはいたが、目の前に観て、ウォッと驚いた。大咽喉風邪のような悪声の秀太郎だが、喋らないととっても可愛い。頭を剃り覚悟の袈裟衣になり頭に被衣をかけると、切ないほど可愛くなる。そんなにあっさり久松を諦めるのかいと、尻を叩いてやりたいほどいじらしいのだが、扇雀のお染はいっこう冷ややかで、大店のご寮人さん=お嬢さんとはこんなものかも知れないけれど、わたしなら久松にはお光との祝言を勧めたいがなあと思いつつ、ぽっちり涙をうかべて観ていた。翫雀の久松がもひとつハツキリしない二枚目なのも、役柄とはいえじれったい。このところ男よりとかく女の方がしっかりめで、男はひ弱くジリジリするのだが、お染久松は数百年前のはなし。

 昔に、勘九郎のお光でさんざ泣かされた両花道の舞台が懐かしく、あのときは勘三郎の久作がさすがだった。

 我當は、見るからにニンに合っている割りに淡泊な久作だった。意図してああしているのだなと思って観ていた。やはり花道は、「野崎村」に限っては両方にほしい。哀れも舞台の大きさも断然ちがってくる。

 わたしの左席に愛知県の豊田市から独りで、高麗屋の「勧進帳」が目当てで来ましたという女子大生かOLのような人がいた。ふうん、そういう人もいるんだと嬉しくなった。

 幸四郎の弁慶、予想以上の大出来で、緩怠なところなく、足元がすこし寒いカナという程度で、堂々と大きい佳い弁慶だった。鴈治郎の富樫は、息込んで迫って行く口跡のかすれ気味に甲高いのが、弁慶の重いバスと釣り合い面白かった。何でもやれる役者だが、富樫は佳い役ではないかと予想していた。外れなかった。四天王も存外にソツなく一群を成して、気合いが入った。進之介もああいう中で揉まれるといいが、目をきょろつかせて行儀はいちばん悪い。秀太郎の養子に入った愛之助が一心に演じていた。松嶋屋の跡継ぎ二人、切磋琢磨して行かねば次代がお寒くなる。「勧進帳」翫雀の義経が、これは位も哀れもひとしおで、弁慶をよくひきたてた。幸四郎の、大杯を煽っての延年も、飛び六方もゆったりと大きく厳しかった。大杯を傾け尽くすのにならって、わたしもカップ酒の大関をぐいっと一呑みに楽しんだ。そのためにと、幕間に買って置いた。「勧進帳」が楽しめれば大阪まで来た甲斐はあった。

「椀久末松山」は、椀久の酔態と狂態の妙味に尽きる芝居で、「大成駒屋ァ」と声の掛かった鴈治郎のお手の物、当代で右に出る役者は居まい。上方のものゆえ、うま味だけなら勘九郎でも八十助でもやりはするが、椀久になるかどうか。この舞台では、扇雀の松山太夫が期待以上に大きくて立派だった。権にかかって、不埒な武士を退け、封印を切って節分の趣向に小判をまき散らしてしまう椀久の急場を巧みに救う。丈高い太夫の見識が出て、舞台を引き締めた。段四郎が、いやな侍の一役とは気の毒だった。この舞台での我當も、押さえ役にしてはもう一つ大きく見えなかった。面白い楽しめる芝居で、うん、来て良かったと納得した。

 急いで淀屋橋から京阪特急に乗り、空いた車両でのんびり一人で弁当をつかい、大きな上弦の月を車窓に眺めながら京都へひた走った。枚方公園から、やがて淀を過ぎると、中書島になる。兄恒彦の久しかった間借り住まいがこの辺であったはず、この駅から京阪電車に乗って京都へ通ったのかと、ほろりとした。伏見桃山、墨染、藤の森、深草、伏見稲荷、鳥羽街道、東福寺と駅の名前の物哀れなこと。だから、梅田から阪急ではなく、京阪電車に乗ったのだ。

 四条で降りて、からすま京都ホテルまで夜の町をそぞろ歩いて、チェックインした。四条通のそこここに、ホームレスの人たちのダンボールで囲ったね住まいというにはもの哀しい住まいがびっくりするほど増えている。自分は幸せに遊んで暮らしているが、胸は鈍痛に疼いた。汗が引いて急に肌寒くなった。 2000 1・24 5

 

 

* 早起きして検査も注射も三十分後の食事もして、十一時開演、三月千秋楽の歌舞伎座へ。

 お国山三の舞踊は、都の春をいっぱいの背景に、時藏と染五郎。可もなく不可もない綺麗な舞台。染五郎の顔に佳い意味のアクが欲しい、大きな役者になるには。父幸四郎にも歌舞伎顔の印象のややうすいのが、彼ほどの才にして難になっている。特色有る歌舞伎顔を創り出すことが若い染五郎の目標になるだろう。

 青果劇の「江戸城総攻」は、団十郎の西郷どんが一人舞台、幸四郎の勝麟太郎はじっと辛抱の聞き役。一場を一人で語り通すほどの長い長い弁舌を、滞りなく無難に、それだけ感銘深く語り抜いた成田屋は、充実し続けている感じで頼もしい。真山青果賞が待っているだろう。一場にちょっと出だけの山岡鉄太郎を、我當は、ややパセチックであるが眼光きらめく至誠の人を演じて、好感を深めた。こういう「いい」人柄が彼の持ち役であることは、友人として嬉しい、が、せめてもう一役欲しかった。

 序でにいえば、我當には父君の薫陶と鞭撻があった。息子の進之介を激励し訓練するのは我當の責任であり、責任の一つの取り方としては、進之介を誰かに預けて厳しく仕込んでもらうということも考えねばいけない時機かと思われる。遅きに失してさえいる。もうあの歳であのままでは、進之介は歌舞伎役者としての場を確保しきれないのではないかと憂慮する。

 

* 雀右衛門と富十郎の「隅田川」は期待に違わぬ美しい緊迫の舞台で、滂沱と涙をながした。声を忍んで感動した。なんという船頭富十郎の清潔な心優しい舞踊であったろう、最高に美しいほそい線で、微塵の揺れもなく虚空に動画を描いて見せてくれた。そして母雀右衛門が濃密に構築して行く極限の悲哀美。かどわかされた愛しい子を追い求めて都から隅田河畔にたどりついたとき、一年前の今日にこときれていた子の墓を目前にしたのである。こんなに単純で簡明なストーリーはなく、能舞台では何度も見てきた。しかも当代の歌舞伎界を代表する重鎮二人の心こもった芝居は、新鮮に立派であった。雀にはやや厳しく当たってきたわたしにして、今日の京屋には頭をさげた。いまこの役はこの人でなければならない。

 富十郎の踊りの巧さ正しさには、いつもながら舌を巻く。妻は、今日一番の舞台だったと息をのんでいた。舞踊が好きで、惹きつけられるというのは、歌舞伎見物では最大の徳いや得である。しみじみ、そう思う。

 

* 「雪暮夜入谷畦道」の直次郎に絶世の美男子菊五郎、三千歳には福助。江戸情緒纏綿の名舞台である。もうせめて一寸の背のほしい音羽屋だが、さすが今業平の直次郎のやさぐれた侠の味わいは、そばやの場から、しびれるほどの魅惑で、幕切れの花道にまでそれが維持された。感じ入ったのは意外なほどの福助の哀愁と愛嬌との殉情で、底知れぬ江戸の女の情愛を表現してくれ、わたしは堪能した。この役はいかに大阪の成駒屋贔屓でも、東京の成駒屋にゆだねたい。江戸のよさを出せるのは江戸の役者だという当たり前な理屈を再確認できた。児太郎時代から美しい女形であったが、一時期やや貧相な気がしていた。今日の三千歳は、見直した。「いい女」「かわいい女」に純なものをよく加味して、菊五郎に劣らなかった。しかし菊五郎の、捕り方に踏み込まれてからの一挙手一投足の活躍は、そのまま錦絵の一枚一枚のように烈しく定まって、痛快に美しかった。歌舞伎を満喫させた。

 

* 築地も銀座も、つらい街になった、どっちを見ても食べたい呑みたい佳い店が、馴染んだ店がいっぱいだ。だが、せいぜいコーヒーしか飲めない。まっすぐ有楽町線で帰った。今日は歌舞伎見物の途中で注射した。1800カロリーに制限されているが、緩やかな方であり、量的にはぎりぎり足りるといえば足りる。一つ一つゆっくり食べるようになっているし、口淋しくなれば熱い湯茶に梅干しを浮かべて呑む。これが子供の頃から大好きだ。  2000 3・26 5

 

 

* おどろいたと言えば、もっとおどろく提案が、今日、池袋での出会いであった。電子書籍の企画制作出版を手がける株式会社から、「顧問」として参加して欲しいというのである。月に数日顔を出して、スタッフと接してくれればという、それだけの義務でいいそうだ。芯になっている人とは、個人的に過去にほとんど縁はないが、時間をかけて話し合ったことは今日が二度めで、しっかりした人とは感じていた、が、申し出は突然であった。

 

* 「ミマン」の原稿催促が来た。ウウッと唸る。次の出題は、難しかったかな。

  2000 8・23 6

 

 

* 中村扇雀丈のお世話で、歌舞伎座、五世中村歌右衛門六十年祭の歌舞伎公演、昼の部に出かけた。願ってもない花道にもまぢかい佳い席が用意されていて、妻ともども、半日を堪能した。一世一代中村芝翫の「京鹿子娘道成寺」には、孫三人、福助の子の児太郎襲名、橋之助の子の国生と宗生との初舞台お披露目のおまけがつき、勘九郎、扇雀らが所化をつきあう華やかな舞台だった。あの歳でああもよく踊れるものと舌を巻く、芝翫の、白拍子変じて清姫の幽霊を存分に楽しんだ。いったい、この道成寺を、これまで何度観てきたことか、それでも、新鮮に心から惹きつけられる。早くから踊りは芝翫と富十郎と思ってきた。鴈治郎もいい。とにかく歌舞伎踊りの楽しさというものは、独特のファシネーションであり、踊りのない番組では楽しみが半減してしまう。

 

* 一番目に「鬼一法眼三略巻」菊畑の場で、橋之助の智慧内、梅玉の虎藏、福助の皆鶴姫、そして羽左衛門の鬼一法眼というコンビが、不都合なく、けっこう楽しい舞台になった。橋が、儲けものの智慧内じつは鬼三太を大らかに演じて柄の大きな素質を見せていた。二枚目の梅玉が、いつもよりギスつかず、優しい見やすい顔をしていた。『義経記』で読んでまのない話である。羽の、沈着な腹藝がさすが。福助も、まずまずの性根を見せた。チョボに乗っての芝居がはずみよろしく、歌舞伎歌舞伎していて、序幕から大きめの舞台が出来、儲けものだった。

 

* 二番目は吉右衛門の光秀、富十郎の春永が張り合う「時今也桔梗旗揚」が、珍しく饗応からはじまって愛宕山まで。幸四郎、吉右衛門系で練り上げられてきた芝居であり、吉二代目にもぴたりとはまっている。骨格の太い大柄な時代劇で、熊谷陣屋などよりもさすがに取材の時代が若く、心理的に彫り込みが利く。吉右衛門が標準的な光秀を好演したのは当然として、感心したのは、光秀の呂律の音声に対して、甲高く主君春永を語りきった中村富十郎の風格に頭を下げた。また、隅っこにいながら、松江が、馬盥の恥辱のあたり光秀の妹桔梗役を、とても丁寧にフォローしていたのがよかった。宗十郎が立ち居にかなり足腰の痛みを堪えているらしいのが辛かった。

 

* 上の三番、配役もゆつたりと贅沢で、堪能できた。堪能しながら、カップ酒大関を二盃も呑んだ。とろり、いい気分だった。ものあわれに泣く芝居もなく、初舞台のチビくんたちにだいぶ笑わせて貰ったり、帰りに、和服の丈高くよく似合った橋之助夫人三田寛子とも逢ってきて、ふしぎとめでたい、申し分のない芝居見物だった。扇雀丈との出会いに感謝し、迪子に疲れの出ない内にと、銀座でパンとサラダとチーズを買い、どこへも寄らず、有楽町線で六時には帰宅、家で夕食した。前夜、ザ・クラブルームで残してきた赤ワインが少しあり、純焼酎も少し。扇雀の番頭さんの、お土産に呉れた扇雀飴も一粒なめた。

 

* 明日は、夜の部を観る。

 2000 9・11 7

 

 

* 歌舞伎座の夜の部。昨日以上に楽しめた。「妹背山婦人庭訓」で、福助がお三輪の大役を懸命に演じて好感をもった。吉右衛門の鱶七は、大きさ厚さをさほど感じさせてくれなかった。松江の赤姫と梅玉の白塗りとは尋常に似合っていた。今夜のは、だが徹してお三輪の芝居で、福助の試金石であったが、熱演、満足させてくれた。

 その福助の子の児太郎襲名、弟橋之助の子、国生、宗生の初舞台披露を、祖父芝翫、福助・橋之助、義兄の勘九郎とその子七之助が、花を添えての創作舞踊の舞台さなかに、楽しく行い、うまい見せ場を作ってくれた。満場割れんばかりの喝采で、めでたかつた。役者の子は役者であるというと語弊が有ろうか、蛙の子は蛙で、二歳と十ヶ月の稚い子が花を咲かせる。五世歌右衛門六十年祭の花でもあった。

 断然の花は、だが、富十郎と雀右衛門とで水も漏らさず踊りきった「二人椀久」で、富十郎は微塵のキズもない完璧の歌舞伎踊りをみせ、感嘆の余りなんども唸った。雀右衛門の松山の、位の高い深切な踊りにも感心した。芝翫一世一代の道成寺のわるかろう道理もなかったが、今夜の椀久は完成された藝と藝術の美しさであり、当代至福の舞台の一つであった。

 勘九郎と福助の夫婦に、扇雀、鶴藏、獅童、また富十郎、東藏の付き合った「魚屋宗五郎」は、さすがに勘九郎が大いに楽しませたし、皆鶴姫ともお三輪ともさまがわりの魚屋女房お浜を、福助が好演した。しっかりもので実のある世話物女房が、芝居でも落語でも味わい面白くわたしは好きだ。

 ただ、この芝居は、後半の玄関先、奥庭の場は割愛して、魚屋の場をさらに充実させ、宗五郎が花道へ出、お浜が追うて、そこで盛り上げて終えても一芝居ではないかという気がする。後半は、やや呆気なくなるのが、惜しいのである。ま、富十郎の殿様が実をみせる場面、贔屓には嬉しいのだが。

 扇雀丈は、尋常に、情味のある御殿女中を演じていた。

 

* 歌舞伎は、およそは無条件に楽しめるのだが、今回は昼夜とも、演目がとても良くて、なによりであった。妻も、おお満足。大の贔屓の父芝翫、福助・橋之助兄弟、義兄の勘九郎とその子七之助らのおめでたというのが、花あり=はんなりと、気持ものびのびしたのである。ひょんなことからご縁をえた扇雀丈の親切をいただいたのも、有り難かった。昼夜ともすてきに嬉しい座席であった。

  2000 9・12 7

 

 

* 木挽町歌舞伎座で、昼の部・夜の部を通して一日で観てきた。幸い、妻も疲れなくて。夜の、猿之助骨寄せの岩藤と玉三郎の二代目尾上に、すっかりよろこんでしまい、どこへも寄らず、帰り道も元気だった。

「後日の」岩藤は、けれん芝居らしく趣向沢山で、宙乗りも観て楽しく、骨寄せも早変わりも大化けも笑ってしまうほど面白い。なにがさてと言うことなど何も残らないのに、とにかく満場をかっさらって沸かせに沸かせる。わたしも妻も沸いていたのだから、勝負は猿之助たちの勝ち、負かされて機嫌よく疲れも忘れていた。負かされて楽しかった。

 玉三郎はやはり佳い。位と品があり、自信のせいか、することが、すべて悠揚せまらず、安心させる。尾上もよかつたが、昼の部の仁左衛門との「お祭り」がしごく上等で、禁断の酒がひとしお旨かった。仁左衛門と玉三郎のコンビは、まだ仁が孝夫の昔の「天守物語」以来だもの、久しい。ゆったりと仲良いこと、「チキショウメ」と笑って声をかけたくなる。仁は、いっこう踊らない。踊っているマネのような大まかな踊りだ、これが八十助だったらピンピンうまく踊って楽しませるだろう、が、だから佳いかというと、そうではないのである。うまそうになんか踊らないから、玉三郎がしんから惚れるのである。

 仁左衛門は他に御浜御殿の綱豊を、段四郎、我当らと、また切られ与三を玉三郎と演じた。姿の美しい芯からの美男子をというと、この役者に当今は落ちつくらしい。演し物としては今日の三役とも、水も滴るばかりに綺麗であった。仕分けも出来ていた。わたしも妻も、それでも玉三郎との「お祭り」にいかれた。

 我当の出番が少なく、寂しい。新井勘解由はニンに合っているものの「新井白石」の理解は不十分で、納得できなかった。段四郎のやった富森助右衛門役を我当にやらせたかった。段四郎は科白が入っていなくて不出来だったし、孝太郎のおきよの方はへたくそで興をそいだ。アンサンブルを大きく欠いて、ぎくしゃくした御浜御殿だったが、真山青果の戯曲は、かすかに武士道本位で好戦的なものの、さすが充実している。序幕としては大きく、どこか満足させる。劇に位がある。

 玉のお富と仁の与三は、わるかろうワケはない程度によかっただけで、普通の出来。木更津見初めの場がおマケでつき、ついで源治店。分かり良くはなるが、それでもまだ尻切れトンボ。あまり好きな演目ではない。玉三郎が気を入れて芝居をしていた。仁は、すこし景気がよくなかったと思う。

 もうひとつの「英執着獅子」を、姫で、福助が踊ったが、先月のお三輪の好演を帳消しにするような、チマチマした小さな手踊りで、歌舞伎舞踊の大好きなわたしにも、この福助には落胆した。

 

* 昼の部が終えて四時十分、四時半にはもう夜の部が始まった。劇場で二度食事し二度インシュリンの注射をした。カップ酒を二盃飲んだ。「と」の28と29、最良の席であった。

 2000 10・2 7

 

 

* 南座があいて、前から四列の真中央の席にならんだ。扇雀丈の女番頭さんに、来月の平成中村座「法界坊」二人分も含めて支払いをし、礼を言い、花形歌舞伎「鏡山縁勇繪=かがみやまゆかりのおとこえ」通し狂言を観る。

 中村翫雀、扇雀の兄弟、中村橋之助、市川染五郎、それに吉弥や高麗蔵らがワキを固めた、本当に若手花形だけの舞台だが、それが活気をうみ、また台本がばかに面白くて幕間はごく短いというテンポのよさ。もう頭っからの歌舞伎・歌舞伎なのだが、歌舞伎の根の趣向だけでなく、岩藤の骨寄せや尊像の宙浮きには現代の超魔術テクニックを借用するなど、盛りだくさんにけれんと手管を嫌みにならぬ鮮やかさで連発したから、ただもう、引き込まれて面白がっていられた。おおッと手に汗もしたし、蝶の乱舞する演出など、なかなかやるなと感心もした。

 常の舞台でなら、年季の入った大幹部の俳優たちに立ち交じって、若い生きのいい芝居をみせる若手四人が、此処では互いに競い合って一芝居を支え合う活気と協調。気持ちよく、若い芝居が若く元気に盛り上がり、終始いやみなく成功していたのは、大いにめでたかった。見栄えもした。「男岩藤」という趣向を掘り起こして存分に新脚色した意欲も利いた。「こんなのも、いいな」と思わせてくれた。

 橋之助の由縁之丞が、女役、若衆役、本悪まで多彩に元気いっぱいに、なんだかとても楽しそうに演じ分ける。扇雀も、まずは滅多に見られない、老職の武士役と、絢爛の花魁や世話の女房を演じ分けながら、自害までしてみせるから、ご苦労であったし、しどころも有った。フアンは喜ぶ。

 なにしろ四列目のまん中にこっちはいるので、橋とも扇ともしっかり目があい、ひょんな初対面の按配なのも、とても面白かった。すくなくも扇雀はわれわれが東京からわざわざ来ていることは知っているのだろう。こっちも一心に見るし、舞台の上でもうんうんと確認しているような按配。それほど近いところにいたので、よけい面白かった。

 座頭格の翫雀も、大名と二枚目とを彼らしく颯爽と演じて父親の鴈治郎に生き写しなら、扇雀は母親の建設大臣に瓜二つというところ。立ち役にもはまるいい顔立ちをしていて、妻など、そっちの方もすてきねと、痺れていた。染五郎にはまだヒレがないが、これまた随所に高麗屋の芝居ぶりが出て、父松本幸四郎にそれはよく似ているからおかしかった。そんなことを言えば「歌舞伎さん」(寛子夫人の婚約の頃の表現)こと橋之助が、また若き日のお父さん芝翫丈にそっくりだ。「若手花形」とは、名実ともに偽り無き看板であった。たいして期待しないで来た分、大トクをしたほど面白い芝居見物が懐かしい南座で出来て、夫婦して、いたく満足。

  2000 10・13 7

 

 

* 平成中村座の勘九郎「法界坊」の前景気がいい。楽しみが、むくむくと膨れてきた。浅草の、その中村座屋のある辺までは行ったことがない、それも珍しくて。切符は扇雀丈のところでお世話になった。

 2000 11・3 7

 

 

* 平成中村座「法界坊 隅田川続俤=すみだがわごにちのおもかげ」 なんだか、このところ「ごにち」ものばかり続けてみましたが。理屈抜きに、むちゃくちゃ楽しんできました。待乳山聖天の目の下に仮設された劇場でした。浅草のあの辺まで行ったのは初めてで、「待乳山聖天」といい「今戸橋」の橋標といい「花川戸」の地名といい、なんだか江戸に踏み込む嬉しさでした。

 顔と顔とがくつつくぐらいまで宙乗りの化け物勘九郎がきて、じゃれて行ったり、膝の触れるところまで福助、扇雀、勘太郎らが来て芝居をしたり、平戸間「松」の席のおもしろい経験をしました。芝居は趣向、趣向に加えて、勘九郎法界坊のしたい放題で、それが隅田川べりの小屋にピタリはまって、爆笑また爆笑の渦という、繪のようなカブキ、カブキでした。割れんばかりの拍手喝采と俗に申しますが、それがそのままでした。そういう俗のよろしさにむろんわたしも大浮かれで渦に巻かれておりました。

 聖天の法界坊のような、途方もないキャラクターを生んだ江戸のはずれ、所も待乳山聖天下でという興業じたいが、大きな趣向で、昔の中村座にも近くてごく自然な企画と言え、これは当たったなと納得しました。芝居そのものも、同じ吉田家ものでも「桜姫東文章」などのように陰惨でなく、勘九郎は、藝ともみせぬ地の藝まじりに大はしゃぎの達者なものでした。父勘三郎とはちがった当代のイキを通わせた法界坊で、根が中村屋大フアンのわたしたちには、少々早い時間に保谷から遠くはせ参じても、是非にも楽しみたい狂言でした。理屈ぬき、それに徹していられる歌舞伎は、肩になにの荷もなくて、しんからくつろげます。ばかばかしさが、そのまま面白い文化なんですね。

 扇雀丈も関西から参加して、例の律義な芝居でヒロインを熱演。贔屓の美吉屋吉弥もうまく加わり、いうまでもなく成駒屋の福助、橋之助兄弟も義兄をもりたてて大活躍でした。とりわけ中村勘太郎が、いいところで大化け物で奮闘これつとめ、客の大勢が父勘九郎に相違無しと思って手に汗していたところ、さにあらず、綺麗にだまされましての、終幕の口上には、袖から、はれやかに綺麗な勘九郎があらわれて、やられました。

 座布団でもゆっくり座れて、多かった花道芝居へ自在に姿勢が変えられます。思ったより身動きはラクな席で、儲けものの平戸間でした。役者ときゃくとが入り混じりに、芝居小屋全体が芝居に取り込まれ、活気と風情に溢れました。歌舞伎座や国立劇場の大歌舞伎が、ある種の冷えた変質を余儀なくされていることがよく分かります。幕間が短くて、とんとことんとこと芝居が運び、時間の経つのがもったいないと妻は申しました。小屋の上を飛行機がブンブン飛ぶ音のするのも面白いものでした。

 大満足でハネてのち、道の向かいの聖天さんにお参りしました。お芝居の書き割りのなかへ紛れ込んだような懐かしいところです。円生の人情噺などて、何度も聞いた待乳山。今戸、花川戸。向島、言問橋。なんと嬉しい佳い地名でしょうか。ここらから吉原界隈への不思議に人臭くも人懐かしくもある歴史の遠景が脳裡にさまざまに再現されてきます。以前から浅草に小さい家が欲しいなと空想していたのが、色濃くなりそうな気分でした。

 浅草の境内をぬけて、喫茶店で一休みした真向かいが、「地元」で人気の鰻の店。たまりかねて、早めの夕食に銚子一本、それも、けっこうでした。小屋での弁当もおいしかったのですが。

 よく遊んでいるなとわらわないで下さい。できるときに、したいことをし、みたいものもみ、思いをよく養っていたいのです。

 2000 11・6 7

 

 

* だめかと諦めていた正月の大和屋襲名披露初春興行に、佳い席が取れた。妻もわたしも八十助の踊りが好きで、三津五郎に化けての「喜撰」が先ず楽しめる。高麗屋の「熊谷陣屋」もある。団十郎の「式三番叟」が殊に初春祝言として有り難い。新世紀新春早々に佳い夢が見られる。嬉しい。

 2000 12・16 7

 

 

* 二月歌舞伎座昼夜の券が我當の番頭さんから速達で届いた。嬉しくて、そわそわする。初春昼興行はもうすぐ。新三津五郎の「喜撰」、そして玉三郎を楽しみにしたい。

 2001 1・7 8

 

 

* 大阪松竹座での「ちょいのせ」が評判で、扇雀のお染に、なんと我當の息子の進之介が久松役と。お誘いというか、誘惑というか、が、複数でかかってきている。京都へのついでに見てきたいが、去年、この松竹座でもらってきた風邪がとてつもなく執拗で猛烈であったのを思い出すと、二の足を踏まずにおれない。歌舞伎座の大和屋襲名を一月二月と続けて観るのだから、と、虫を、ぐっと抑えている。

 2001 1・8 8

 

 

* 歌舞伎座。十代目三津五郎襲名初春興行。真中央の六列目。遠めがねの必要、全然なかった。定式幕に替わり、艶やかな祝い熨斗の幕に「十代目坂東三津五郎」の名も晴れ晴れと大きく。

 お目当ての「寿式三番叟」が断然の佳さ。羽左衛門の翁、菊五郎の千歳、そして団十郎の三番叟。当代、これ以外に考えようのない顔ぶれで、清々しいかぎりであった。能舞台の翁や三番叟にくらべると遊び心が先立つけれど、羽は老いて尊げに、菊は艶に清潔に、団十郎は若々しくも美しく、黒い尉殿と素面の成田屋とを冴え冴え演じ分けて、凛々しかった。嬉しく、清まはった。成田屋贔屓の妻は、「いとしいほど可愛らしく舞ってくれた」と大満足も、褒め過ぎと思われない三番叟であった。

 「熊谷陣屋」は、高麗屋。女房相模の雀右衛門が姿形よく、じつに正しい歌舞伎。藤の方の福助は悪声が気になったが、演じるにつれて落ち着き、敦盛母らしい格と若さが出た。宗十郎が病気休演で田之助の義経は気の毒だった。弥陀六は左團次で、今ひとつ芝居が静かに乗らなくて、まだまだの宗清だなと思った。彼はそれより「御所五郎藏」の敵役の方がはるかに柄も生き、面白かった。一つには、橘屋で観たかつての弥陀六の枯れた凄みが目に残っていて、左團次ではそこまでやれなくても致し方ない。

 さて熊谷の幸四郎だが、前半の口跡にねばりが出て明晰を欠き、それで損をした。そういうことになるのは、いつも言うことだが、彼は「歌舞伎」をやるよりも「演技」を考え過ぎるので、実情というヤツを役柄に乗せよう乗せようと演じてしまうから、かえって熊谷がせせこましく情に迫って、情に流れてしまうのである。大柄に悠々と演じても自然に哀れはにじみでる役なのであり、泣くまい泣くまいとしても泣かされてしまう芝居だけに、幸四郎には、もっと大きく剛毅に直実をやってほしかった。父親たる哀れが勝ち、子をすら殺してしまう武家の辛さと哀れがかすれ散ってしまうのは、この大歌舞伎の味をこぢんまりと薄めてしまいかねない。幸四郎が好きなので言うのである。

 

* さて、襲名の演目は「喜撰」で。新三津五郎は、八十助のままでなら、もっと鮮やかに気楽に踊って喝采をえただろう。すこし家賃高いか、緊張か、踊りが重い。権高く美しい限りの玉三郎に、きれいに踊りを食われていたのが、ま、致し方ないが気の毒だった。仕方ないところもある、大和屋の藝は、ひとつは舞踊、ひとつはワキ役である。華やかな襲名舞台の最初から頭を剃った坊主役で出てこなくてはならないのが、出しものとしても気の毒なのである。以前の仁左衛門なら、熊谷も、助六も、伊左衛門も、松王丸も、つまりどんな主役も演じられ、華やかな上に華やかだが、三津五郎ではそれが利かない。所化に大勢が出て応援してくれても、それだけの人数を従えて舞台を盛り上げる大きさを、もともと要求されてはいない役者で、家で、気の毒を繰り返すようだが、その通りであった。大事に至らなかったが玉三郎の櫛がからりと落ちたのは珍しいことだった。そこはソツのない仕草で玉さん、綺麗に通り過ぎたけれども。

 

* キリの芝居は菊五郎の「御所五郎藏」で、言うこと無しの粋な歌舞伎。左團次が憎体をしぶく抑えてそれなりに立派な敵役をみせた。芝翫の立女形が、この舞台では、大きなしどころ無く気の毒千万、気が入った芝居とはとても見えなかった。むしろ菊之助の若々しく美しい女形姿が、見栄えもし口跡も美しく、この若手、観るたびにみごとに育っているから頼もしい。

 肝心要の「十代目」は、菊と左の喧嘩仲裁役に、一幕にちょいと出だけの、しかも降るようにゾメキの景気が寄らねばいけない場面でも、役者が間を外しかねないほど、声がかからない。なんともなんとも気の毒千万であった。しかも二幕には顔も出ないちょい役なのである、もう少し人気の元八十助のためにも、初春開幕、昼の部の演目を工夫してやれなかったかと、松竹のお偉方に、大和屋にかわって苦情を言いたい。

 

* とまあ、そんな按配であった。一つには、終始、左の肩から二の腕に掛けて津波のように痛みが寄せてくるので、思わず呻くこともしばしばの悪条件。それで芝居を見損じたとは、だが、思わない。

 銀座元木屋で、大安売りしていたセーターを、わたし用に二着買い、一丁目の「銀座アスター」で、久しぶりに中華料理を食べた。料理以上に、加飯紹興酒と、妻に睨まれながら追加したマオタイのグラスが、断然旨かった。マオタイという酒はなんと旨いのだろう。「クラブ」へは寄らず、明治屋で大好きなブルーチーズばかりを三種類ほど買い、有楽町線で保谷へまっすぐ。駅の近くの、この頃気に入りの「ペルト」で、熱いモカを飲んでから家に帰った。

 二月は昼夜襲名興行を観る。昼の部は前から四列、花道の真傍という好位置で、我當にも逢える。そして「襲名口上」のある夜の部は、中央のとても観よい席が取れている。親友で歌舞伎学者の倉持光雄氏は天井桟敷からの観劇にも味があるという説だが、もう目のよくないわたしたちには、やはり落ち着いてよく舞台の見える、見渡せる席がうれしい。あえて贅沢をいうのである。

 2001 1・11 8

 

 

* 片岡我当の方から、三月歌舞伎の案内が来ている。沼津と石切梶原に。玉三郎は昼が鳥辺山で、夜は忠臣蔵の戸無瀬初役。仁左の保名の夜か、勘九郎藤娘の昼か。幸四郎と雀右衛門の金閣寺も昼にある。今ひとつ、決め手に欠ける。 

 2001 2・2 8

 

 

* 歌舞伎座、坂東三津五郎襲名披露二月公演を昼夜通して観てきた。口上を含めて八つの舞台を、十一時から九時半まで。一月と大違いで充実みちがえるばかり。

 ただ、昼一番の「猩々」だけは振付に妙味とぼしく、名人富十郎としては大きく豊かに舞い遊べずじまいの、不燃焼感が残った。ひとえに振付の咎であるが、今ひとつ感興をそいだのは中村松江の不出来。姿、顔かたちは、もともと嫌いでない女形の凛々しい男姿、わるかろう筈がない。だが所作に冴え無く、一月菊五郎の千歳とは大違い。この一番だけがつまらなかった。

 つぎの「吃又」は中村吉右衛門と雀右衛門の夫婦、好演。前に別の役者で観た記憶に比しても格別面白く楽しめた。片岡芦燕と中村吉之丞との師夫婦も、大谷友右衛門、中村歌昇のワキの締めも過不足無く、最後まで舞台がよく煮えた。吉右衛門の「土佐光起」の名乗りを与えられよろこび勇んでの舞が、おおらかに余裕のある男舞で、うんうんと頷けた。拍手を惜しまない充実の一番、結構であった。

 手洗い石の片面に己の画像を描くと、向こうの面にしみ通って画像が浮き出す。入木・入石道の奇跡であるが、そこのところが際だつと舞台が甘く浅く白ける、のを、役者の芝居の方へ客をひきつけると、そんな奇跡のふしぎさがまんまと落ち着くのである。そこを吉と雀と芦燕とで、うまく演じた。さすがに長けた役者の功である。

 つづいて坂東玉三郎の十六夜、尾上菊五郎の清心、市川左團次の白蓮、尾上菊之助の若衆で、四場のお馴染み「十六夜清心」は、以前にも菊五郎の清心、息子の菊之助の若衆で観ている。大きな芝居の前半で終わる舞台ながら、どの場面もしっとりと情緒にあふれて「江戸」への郷愁を養われること、格別佳い味の舞台なのである。玉三郎のしびれるような美しさにはほとほといつ観ても感じ入る。多大の功徳、これに優るものはない。芝居の纏まりよく、一人一人の役者にしどころが丁寧に配してあり、満足のゆく大見せ場集といえる。お富与三郎の源氏店の芝居よりもわたしは十六夜清心の、心中に始まる「悪」への回心劇を面白いと思う。谷崎もこういう芝居に魅せられていたにちがいない。黙阿弥の佳い感覚が横溢した好舞台であった。前から四列め、花道のほんのきわにいたので、どの役者たちの花道芝居も息づかいも聞き取りながら楽しめたが、玉三郎の美しさ、菊五郎の悪にめざめた怖ろしい目の輝きも、すぐまぢかに。妻は、清心の引きの花道、「こわくて目をつぶってたわ」と。

 さて、昼の部のキリは、お目当て十代目の「奴道成寺」で、これはもう文句無し。八十助以来魅力の大和屋らしい演目で、一月の「喜撰」が緊張気味に期待ほどふくらまなかったのにくらべ、奴に戻ってのきびきびと軽妙、かつ、かすかな哀愁と秘めた恨み。すべて華々しく美しくて、十分、新三津五郎及第点のお披露目であった。何と言っても道成寺ものは舞台が晴れ、音曲のことごとくが面白く、なぜ、これを一月襲名初名乗りの披露に出さなかったかと惜しまれる。所化たちもみな若々しく、みずみずしく、色気ある若坊主達であった。花四天も映え、気分のいい変わり種の道成寺に、新三津五郎の面目躍如として、堪能できた。彼の将来、ますます楽しみだ。

 

* おきまりの茜屋珈琲店で一服し、すぐ、また夜の部に入った。

 

* 夜の部幕開きが「女暫」は玉三郎初演のお楽しみ。「しばらく」の声から、花道へ出てのつらねの小気味よさ、一睨の威力、荒事藝の華やかさ、すっきりといなせに粋な女巴の剛の者ぶりを、堪能した。それに加えて我が友片岡我当の蒲冠者範頼は、堂々の座頭、青隈の巨悪の大役。口跡のいい我当が満場をひびかせて演じきったのは嬉しく、ほくほくした。秀太郎の義高も静かに華やいで美しい二枚目ぶり。福助の女鯰も今宵はしっとりと役のツボをおさえて情けあり。左團次、辰之助も憎まれ役の滑稽をきっぱり演じ、存在を見せた。幕外の花道へ出てからは、玉三郎に戻った巴と、座付きの吉右衛門とで六方談義大笑いのやりとりに、満場満足、大喝采の幕切れ。歌舞伎のたのしさが胸のシンにまでしみ通る。

 そして「襲名口上」は幹部と一門総出のご祝儀。人気役者達の素顔を楽しむことが出来るが、連日、ご苦労なことである。

 次の「め組の喧嘩」では新三津五郎が辰五郎役、正直のところさほど期待していなかった。だがこれはわたしの浅慮であった、十代目、なかなかの「カシラ」ぶりで、颯爽と喧嘩場までの長い芝居を、やすむまもなく元気に演じきって、儲けものだった。いい男だった。富十郎、左團次の相撲取りがよく似合い、健闘相勤めた。菊五郎が最後のトメ男役で働き、中村時蔵の女房役も、辰之助らしい気っ風の纏持ちも気分良く、あんな派手でリアルな喧嘩場ははじめて観た。今月は客サービスが行き届いていて、一月のやや陰気な気の毒を、綺麗に帳消しにしてくれた。

 大ギリは、一枚歯の高下駄でさらしを振りぬく新三津五郎家の藝の「越後獅子」がよかった。文字どおりの奮励努力、疲労にうちかって踊りきった。踊りも、これはもう八十助以来の魅惑もので、文句のつけようがない。感謝また感激、よくやってくれた。昼夜の長丁場を退屈ということを知らずに堪能させて貰えた、これは片岡仁左衛門の襲名興行でもこうはなかなか行かなかった。夜の部は、中央前寄りに席を移して、舞台を大きく見渡し佳い心もちであった。

 ハネて外へ出ても、酷寒がむしろ心もち良かった。有楽町線までゆっくり歩いて、どこへも立ち寄らず地下鉄で一路保谷へ帰った。

 2001 2・8 8

 

 

* 機密費のことなど、KSDのことも、堪らない気分だ。ま、今夜は忘れて、三津五郎奮闘の「奴道成寺」や「め組の辰五郎」や「越後獅子」の夢を見よう。大和屋、今日は颯爽としていた。玉三郎の「十六夜」「女暫」にも堪能した。玉三郎と三津五郎。それだけではない、「女暫」の座頭格蒲冠者範頼役をみごとに勤めた友人片岡我当も特筆したい。いやいや、もう寝よう。

 2001 2・8 8

 

 

* 中村扇雀から名古屋御園座四月の「小田原騒動」を誘ってきた。三月の歌舞伎座夜の玉三郎「道行旅路の嫁入」仁・富・玉の「山科閑居」それに仁左の「保名」と、幸四郎、我当の出る「鳥辺山心中」も、観たいなあと言うていたのだが。

 2001 2・15 8

 

 

* 三月に歌舞伎座のいい席が取れた。玉三郎また初役の戸無瀬の「道行」に嫁入りの娘は勘太郎。そして「山科閑居」となる。仁左衛門の「保名」も楽しみ、どう見せるか。帝劇も招待してくれる、また浜木綿子。藤田まことが参加するという。笑わせてもらいましょう。

 2001 2・24 8

 

 

* 二階へ上がってメールを開くと、こんな、遠く西の方からのメールが届いていた。

 

*  そうか 魔法の粉だったのか。  

 昨夜七時半からのNHK TV、 新三津五郎をかこんでの歌舞伎入門的な番組の中で、水谷八重子が、玉三郎や母である初代八重子のことをこう表現しているのをききました。

 「あの人たちは、舞台に現れたとたん、観客の頭上に魔法の粉をふりかけるのだ。」

 あまりにひとのほめそやすものはつい敬遠しがちな悪い性分でして、たまさかの歌舞伎見物にも玉三郎だけは避けていたのですが、仁左衛門の襲名興行だけは致し方もなく、(なにしろ朝から晩まで電話をかけつづけてようやく手に入れた切符でした。憧れの仁左衛門でした。)期待に胸躍らせて舞台をみつめる私の眼に、揚巻に扮した玉三郎が登場したとたん、他の一切の人物がスーッと色あせ遠のいてゆきました。並んで立った白玉の福助はいうまでもなく、お目当ての助六仁左衛門その人までもがーー。

 それは呼吸するのを忘れるようなひとときでした。

 したたかに酔わされました。

 依怙地にそっぽを向いていた狭量を恥じると共に、天分、精進、華などの言葉でもとうてい言いつくせない、あの圧倒的な魅力のことは、以来ずっと胸から消え去ることはありませんでしたが、なるほど「魔法の粉」だったのかと、妙に頷けるものがあったのです。

 あの瞬間、私もまた玉三郎の魔法の粉を浴びて、しばし夢の世界をさまよっていたのでありましょう。そして、それこそが、客の舞台に求めるものでもあるのでしょう。

 わかりきった芝居を、この役者ならどう演ずるか、どう楽しませてくれるかと期待に胸をときめかせて幕の開くのをじっとまつーー。そういう想いは、何も芝居だけではなく、文芸でもと、けさの朝日紙上では、長谷川櫂氏の文章にも教えられました。

 誰もが知っている題材をどう詠むかどう捌くかこそが、成否にかかわるのだ、と。

 「この世界に新しいことなど一つもありはしない。何かを新しいと賛美するのは、その人が無知で傲慢なだけである。文芸とはどれもそうした諦念の賜物だろう。」という文章を読みながら、三寒の日曜日を過ごしております。

 

* 今夜は頭が少し重いので、内容に触れては何も書かないが、隅から隅まで共感するし、よく分かるつもりだ。わたしの方へ何を呼びかけようとしているのかも。感謝。

 新三津五郎のこのテレビ番組は他にも感想を寄せてくれていた。

 

* NHKの土曜特集で「ようこそ歌舞伎の世界・華麗に襲名十代目坂東三津五郎」というのがあり、湯上りにゆっくりと楽しみました。

 初心者が親しむためには、贔屓の役者を持ち、その所作を楽しむことから始めては、と。一度来ていただければ、けっして離さない。それだけの力量(演技力)は発揮している、と。

 稽古の風景なども放映されていましたが、語る一言、一言が静かな口調のなかにも迫力があって、う?ん!と肯きながら目の保養をさせてもらいました。

 実物にはとうていお目にかかれないでしょうけれど、月様の観劇感をも重ね合わせて(テレビ内容だけではなく)楽しんでいます。お抱え専属案内人?をもっているって、なんて素敵。

 2001 2・25 8

 

 

* 一時過ぎに銀座「シェモア」で、時間をかけて食事した。前菜二皿、スープ、魚、肉、そしてデザート。申し分なく期待した通りにうまかった。わたしは、うまくさえあれば料理がどうつくられていたとか、食材が何であったかなど気にしない、ワインと料理がうまくてリーズナブルな値段であれば何の文句もない。「シェモア」は、小粋なセンスのいい食堂であり、食べさせてくれる料理は、池波正太郎が町なかのフランス料理なら「シエモア」と推していたとおりの、旨い、そして有り難いことに手頃な値段の、親しめる店である。問題は一つだけ、圧倒的に女性客ばかりで、ときどき気恥ずかしい。今日は妻といっしょだったが、そういうペアの客は一組もなく、すべてが女性客のように見えた。わたしは壁の方を向いて席を取った。セーブルの焼物などが瀟洒に飾られていて、こぢんまりと静かである。むろん、妻も満足し満腹であった。

 改装の成った松屋をのぞき、銀座、東銀座をぐるりと歩いて、四時前に歌舞伎座前で昼の部のハネるのを待った。

 

*「とちり」の「り」の中央に席が取れていた。

 

* 幸四郎、時蔵、我当、弥十郎の「鳥辺山心中」は、思いの外に時蔵がうぶにお染を勤めた。我当は手慣れており、幸四郎には役が軽い。この舞台はさほどに期待していなかったから、失望もなかった。三条大橋から比叡山を遠望の四条河原の光景が、ただ懐かしかった。

 つぎの「保名」はひたすらに長身の美男子仁左衛門を堪能するだけの、舞踊とはいえたわいない、なかみのない男狂乱であり、期待に背かぬ仁左衛門は、大様に可も不可もない踊りを見せてくれたが、あまりに背が高くて恋にやつれて狂ったあわれなどは感じなかったが、妻は「美しい」と初めてこの松嶋屋に高い拍手を送っていた。たしかにいい男前であった。三階の席か、新聞社のサービスで団体で入っていた客席で私語まじりのざわめきが絶えず、仁左が可哀想であった。

 で、彼の踊りであるが、わたしは、大様の美と言っておく。これは共感のこもった評価であり、踊れるとみている。むかし孝夫の頃に玉三郎の夕霧に伊左衛門を演じたときに濃艶耽美の色模様をわかい仁左がしんみり魅せた記憶が生きている。これからも彼の歌舞伎踊りは注目しておきたい。

 

* さ、次なる仮名手本忠臣蔵の八段目「道行旅路の花嫁」九段目「山科閑居」の二幕が断然楽しめた。二幕を通して初役玉三郎の加古川本蔵妻戸無瀬を期待していたのはいうまでもなく、力演、力演、玉ならではの緊迫の芝居であったが、この母親を食うほどに勘太郎の娘小浪が堪らない娘ぶり、圧倒的におもしろかった。以前に祖父芝翫の戸無瀬で勘太郎がこれを演じたときからみれば、もう舌を巻く初々しいうまさで、感嘆した。涙が出て仕方なかった。勘九郎が由良之助妻の小石を丹念に付き合い、由良は富十郎が渋く仕上げていた。そして加古川本蔵は仁左衛門、これが力演ながら、もう少し何とかならないかという疑問のある本蔵であった。悪かったのではない。あんな悪相で出てこなくてもと思ったのだ、かりにも現役の家老職である。虚無僧にたとえ身をやつしていたにしても、由良之助とくらべどっちが浪人とみまがう窶れ顔なのは、よく分からない。妻の戸無瀬や娘小浪がじつにきちっと品格を保って出ているのだからなおさら落差が気になった。私の気づかない理由があるのだろう。

 ともあれ、この二幕はよかった。じわっと湧く涙が終始熱かった。こころよかった。

 

* もうどこへも寄らずに帰ってきた。

 2001 3・14 8

 

 

* 中村歌右衛門が亡くなった。もう久しく舞台は見られなかったので、俄かにという嘆きは淡いが、喪失感は大きい。わたしの歌舞伎というものを見始めた最初の南座顔見世が、初世中村吉右衛門を中軸にした、立女形は中村芝翫即ち亡くなった後の歌右衛門、脇備えに中村もしほ後の勘三郎、市川染五郎のちの松本幸四郎=白鸚であった。芝翫=歌右衛門は籠釣瓶の絢爛豪華な花魁をみせてくれたし、襲名後には素晴らしい京鹿子娘道成寺を見せてくれた。後見に出ていた大谷友右衛門いまの中村雀右衛門が、食い入るように歌の踊りに見入っていたのも印象につよくのこった。

 歌右衛門というと、前の松本幸四郎との真の夫婦者のような風情が忘れられない。幸四郎が白鸚にかわってからの、もう最晩年の「井伊大老」の二人の舞台には泣けた。大老の死を覚悟しての登城と、病の重いと伝えられていた白鸚、それを見送る歌の奥方。じつに息のふかい佳い芝居であった。歌右衛門に感じ入った。

 大きな名跡がまた途絶えるのだと思う、一方で、新たな襲名の噂も華やいでいる。

 2001 4・1 9

 

 

* 河内屋  「関西にも、佳い役者が」とおっしゃる筆頭の壽海も、先代の富十郎、先代の仁左衛門、先々代の三津五郎も、わたくしは観ていません。辛うじて、先代の鴈治郎と延若くらいでしょうか、その舞台に間に合いましたのは。

 拙い見手ながら、延若にふしぎな魅力を感じていました。いかにも上方風のこっくりした味、国崩しなどに見せた悪の魅力。かと思えば品格ある覚寿を見せてくれました。先代仁左衛門の菅丞相、立田の前が秀太郎、宿禰太郎が富十郎で、……。と、このへんでやめませんと、とんだ長メールになってしまいます。

 吉行淳之介の、というより、文章のことをおっしゃっての今日の湖のお部屋、怖くなったと申しますのはおろかなことでございましょう。

 

* 河内屋は、まこと、佳い役者であった。早く死んだのがあまりに惜しかった。この方は、とてもよく観ておられたと思う。あの「こっくり」とした味わいで、国崩しや、品のいい老女。そんな役者が、いま思い当たらない。

 2001 4・17 9

 

 

* 名古屋の四人組 : 昨日は、御園座「小笠原騒動」の千龝楽。今回、雀は見ませんでしたが、南座初演を一緒に見た二人の女友達が、二人とも点が辛い。橋(之助) & 染(五郎)やり過ぎ、役者だけで遊び過ぎ、と。舞台も、外も、仲良しこよし。雀は、そういうの、いや。

 TV で、伊東四朗・小松政夫の舞台ドキュメントを見ましたが、アドリブに見えても、本当に良く稽古され、練られた動きと、絶妙の間。雀の見たいのはそういう喜劇、体を動かす笑いなの。贔屓の翫雀さんには、汗をかいて絞ってほしい、身体も芸も。狐の化身が狸に見えるんですもの (ご本人が、狐より狸が好きとの事)。囀雀

 

* 扇雀丈に誘われてはいたが、ちょっと気乗りしなかった。四人の組み合わせが固定すると、さび付いてきたり、ねじがゆるむもの。一期一会の繰り返しは容易でないからだ。 2001 4・25 9

 

 

* 富十郎の「喜撰」をテレビで堪能した。お梶の藤間勘十郎との藝質のちがいも面白かった。富の絶妙の踊りを観ていると目尻にポチット涙がわいてくる。

 2001 5・5 9

 

 

* そして夜おそめには、再放送の芸能まわり舞台で、なつかしい守田勘弥の舞台をみて嬉しかった。いなせに粋な、万能の役者だった。籠釣瓶の榮之丞とか、伊勢音頭の貢とか、斧定九郎とか切られ与三とか、勘平とか、まあ、きりりと引き締まって惚れさせた。嫁入りの戸無瀬のような女形もちゃんとやれた。そして息子の坂東玉三郎を世紀のいい女形に育て、またいまの水谷八重子の父ともなった。玉三郎が勘弥を継いで一段と大きな看板になってくれればと、なんだかこのごろは、先にちらつきだした大名題役者たちの襲名興行が楽しみで長生きしたい気分なのがおかしい。妻もすっかり歌舞伎の魅力によろこんで囚われているようで、それもおもしろい。

 2001 5・7 9

 

 

* 必要あって、歌舞伎の舞台などで、ときおり花びらがひらひらひらと散り落ちる、とても佳いものだがあれは何と謂うのか知りたく、歌舞伎通の友人に甲府までメールで問い合わせた。

 

* お申し越しの件ですが、歌舞伎座に確認したところ、「散り花」というそうです。

 かっては、三角形、いまは、四角形の紙で作られた雪は、例えば梅川忠兵衛「新口村」などでは、舞台天井の「葡萄棚」に仕掛けられた数個の「雪籠」から落ちてきます。

 これが、「金閣寺」になると、雪の替わりに、花弁形に造られた紙が落ちてきますが、その場合も、花弁を散らすのは、やはり、「雪籠」です。

 しかし、ときどき、舞台と関係なく雪や花弁が落ちてくることもあります。それは、前の演目で使用したものが、なにかの弾みで落ちてくるという場合もあります。

 

* こういうことに関心をもち、調べたり教わったり、こんなメールに接すると疲れも夢のように癒える。時ならずして舞台へ紛れ落ちてくる「散り花」のひらひらひらに、最も美しく空間化された日本の時間をわたしは見てしまう、そして遡って、あの、紀友則の名歌「ひさかたのひかりのどけき春の日にしづこころなく花のちるらむ」の、悠久と永遠の繪を思い起こす。

 2001 8・8 10

 

 

* しばらくぶりに松嶋屋の我当が歌舞伎座にもどってきた。楽しみにしていた。

 2001 10 16 11

 

 

* 「への18 19」という絶好の席で、昼の部が、先ず、中村福助と市川新之助に美吉家上村吉弥や片岡愛之助が手伝っての、「おちくぼ物語」。宇野信夫の脚色は、原作の前半を巧みに再現して、じめつかせない楽しませる継子イジメの芝居になった。達者な吉弥が憎まれ役の継母で活躍し、左近少将新之助が澄まし返ってて面白かった。福助にも好感をもった。原作の落窪姫もこんな感じかなあと思った。原作は、源氏物語よりも古い時期の物語とは思われぬほど話がしっかり決まっていて、読みやすく、面白く、割り切れている。継子物語と聞いて久しく忌避していたのが大損であった。むろん、この演目と知って、普通は新歌舞伎はあまり歓迎しないのだが、どうやるのかなと楽しみにしていた。歌右衛門と先代幸四郎が初演と言うから、もう歌舞伎界の財産の一つになっている。学芸会みたいなところもあるのだが、ま、からりと笑えて気楽になれた。新之助の美しいのにも感嘆した。親父の団十郎より、祖父の華奢だった海老蔵時代に似ている。

 つぎが「絵本太功記」のたしか十段目、「現われ出でたる武智光秀」を、その親父市川団十郎がおおらかに演じ、妻には今や大御所の中村雀右衛門、死に行く母にベテランの沢村田之助、そして初々しい光秀子息の若武者十次郎役が、えらく二枚目の息子新之助で、親子での親子役、梨園ではこれが多い。で、祝言を上げて夫を死地に見送る花嫁初菊に、中村福助を配したのがこれまた神妙で、この日の昼夜を通して、福助の充実というか気を入れての自信のようなものが感じよく伝わり、印象を良くした。言うまでもなくこの「太十(山崎閑居)」には友人片岡我当が、間柴久吉での座頭役。いつもながら音吐朗々の惚れ惚れする口跡だが、もう一段力強く大きく光秀に対峙して欲しいところ。

 昼のキリに、坂東玉三郎と片岡仁左衛門、まさしく「ご両人」でお定まりの、夕霧伊左衛門。むろん「吉田屋」の夫婦役には我当と同じく片岡秀太郎という、松嶋屋三兄弟が競演の「廓文章」だ、わたしの大好きな出し物である。これは関西役者の仁左衛門に、いまいちばんふさわしい芝居だろう、遊冶郎ぶりがいやらしくなってはならず、妙に可愛く見えるように演じるから憎まれないで済む。玉三郎の夕霧は、もう当節では極めつけの一人舞台で、美しさも大きさも一番。大いに満足。

 

* 夜の部開幕が、福助と片岡孝太郎の「相生獅子」。仁の息子の孝太郎が、まだ踊りがうまくなく、この辺と組むとさすが成駒を背負って歌右衛門襲名の声もあがっている福助は、美しい上に、場数も格段に踏んでいるから、踊りは悠々としたもの。席を二つ前へ出て、舞台は手に取るよう。、わたしは孝太郎は見捨て、福助に終始ひたと視線を合わせていた。連れ舞いものは、席が舞台に近いと、視野に二人をおさめるのはやや困難。

 お目当て「伽羅先代萩」の通しがとても面白かった。花水橋の序幕で、又しても福助の太守頼兼おしのびのダンマリがサマになっていて、坂東弥十郎もおおらかにタテを踏んだ。

 二幕めは言うまでもない「まま炊き」の政岡と千松。政岡の大役を玉三郎は実意豊かに美しく演じて、いささかの粗忽もなく、大きな役者になったものだなあと感心した。栄の前に田之助。八汐役には団十郎が大柄につき合い、添えには秀太郎や孝太郎が政岡同格の気構えできりっと並んだ。玉三郎はともかく、可憐な子役千松の上手にほとほと舌を巻く。昔から千松、鶴千代というこの子役は、後年大きな役者になる幼年の試金石のような大役だが、今日の千松、おみごと。

 次の、問注所の場から大詰刃傷の場では、仁左衛門の仁木弾正と我当の渡辺外記が力いっぱいがっぷり四つに組合いもみ合い、まことに充実の好舞台を作ってくれた。本悪の仁木弾正に篤実の老外記の必死の対決は、この松嶋屋兄弟(長男が我当、三男が仁左衛門。女形の秀太郎は二男。)の、記念に値する力の入った死闘ぶりで、さすが団十郎細川勝元も片岡蘆燕の山名宗全役も、遠慮して脇に引いていた感じだった。ここに我当の息子の進之介が出たが、これはもう、まだまだで、甚だ心許ない。

 それよりも縁の下の場で、大鼠をがっしと踏まえての男之助役の荒事が、市川新之助であったのには、なにも不思議でない家の藝なのだが、実は仰天するほど驚かされた。大音声なのである、じつに小気味よかった。ところが彼新之助は、昼の「十次郎」役では声かすれてそれはひどかったのだ、おやおや若い役者が声なんか潰してと思い、しかし一つ前の「左近少将」ではさほどでもなかったのになあと、気の毒に感じていた。それが夜の部の男之助役では、大きな歌舞伎座が鳴り響くような堂々の大音声なのである、綺麗に化かされてしまった。だが、とっても心よかった。

 

* わたしの体調が万全でなく、疲労困憊のなかで「昼夜通し」の歌舞伎見物は、じつは、気分としてはすこし荷が重かった。だが、今回の出し物が昼夜に変化に富み、しかも舞台の出来もよくて甲乙なく、お目当ての我当君が渡辺外記左衛門や吉田屋の喜左衛門で活躍してくれたし、仁も玉も団十郎親子も、さらに福助、新之助も大いに大いに楽しませてくれて、不足を言うことは何もなかった。躰は重かったが、気持ちは暖かに楽しんでいた。この日は、妻との、忘れがたい記念の日でもあった。

 夜には、幕間に「吉兆」の懐石を、「吉兆貞寿」一合の酒で賞味、これにも意外に大満足した。よくない体調も、このご馳走でなんだか持ち直した。我当の付け人が、お土産の菓子袋を席まで届けてくれた。九時二十分にはねて、そのまま銀座一丁目から、有楽町線でまっすぐ帰宅。

 

* 十数本のメールに返事や仕事の処理をして、いろいろ片づけているうちに、もう午前二時。すべては明日に譲り階下へ降りる。

 

 

* 国立劇場の通し狂言「義経千本桜」を昼夜見てきた。我当が川越太郎重頼と覚範実は平教経という昼夜に座頭格の重い役で出るので。

「堀河御所の場」は我当の川越に義経が市川新之助、静が芝雀、これが美形。卿の局が沢村宗之助。すてきに新之助の義経が綺麗であった。右之助の駿河次郎がすっきりと佳い役者ぶり。ほどほどの序幕。

「伏見稲荷鳥居前の場」は忠信狐の登場に必要なお狐場。団十郎の狐忠信、おおらかに。愛之助が逸見藤太で儲け役。しっかりやっていた。団蔵の弁慶は初めて見たが、この場より大物浦での方が見馴染んでよかった。ここでも新之助の義経がすてきに綺麗。静は芝雀、可も不可もなし。

「渡海屋の場、大物浦の場」は、これはもう団十郎の渡海屋銀平実は平知盛が圧倒的。新之助の義経はやはりすかっとしていたが、我当の息子の進之介がよくない。入江丹蔵で出たが、控えていても目の玉がキョロキョロ行儀悪く、つまり役に入っていない。困りもので、これでは良い役が付かない。雀右衛門の典侍の局は前にも見ているが、今日は終始普通の出来。

「道行初音旅」は雀右衛門の静に団十郎の忠信実は源九郎狐の道行で、大らかに美しく。

 これで前半の昼の部、それぞれに楽しめて退屈させないのは、配役の妥当もいえるが、原作の名作であることが強みであろう。通し狂言で見る長所が、名作であればこそ生きてくる。

 

* 「下市村椎の木の場」ではいがみの権太の出で、団十郎が歌舞伎役者の味で終始一貫大柄にこせつかずに演じてみせる。若葉の内侍の友右衛門はいかつく、やはり新之助の主馬小金吾が二枚目で出て、「竹藪小金吾討死の場」で凄絶に死ぬ。その死首をとる坂東吉弥の鮓屋弥左衛門が、終始味よく演じて、上手い役者なのだと実感させる。ここで秀太郎が権太女房小せんで出て、人気。いい女形でわたしも好きである。

「下市村釣瓶鮓屋の場」は大きな舞台で、団十郎が大きな芝居にしてみせる。梶原平三景時役の団蔵が花道でじつにみごとで、弁慶よりもずっとよく、花道近くで手に取るように花道芝居をみられたため、芝居が肌身に通る心地がした。昼の部は五列目の中央、夜の部は四列目の花道に近く、近眼の私には最良の席が取れていた。この場では、芝雀のお里が可愛らしく、権太はべつにすれば、吉弥の父親役にしみじみ納得した。妻がとなり席でしきりに涙を拭っていた。

 大詰「河連法眼館の場」は狐物語に決着の付く大事の場であり、今度は、わたしが、団十郎の狐にさんざ泣かされた。ここでは芝雀の静による狐詮議の場面が哀れに美しく、この女形の気の入った佳い演技に心惹かれながら、初音の鼓に父母を慕う子狐源九郎の情にほだされて泣いた。

「同奥庭の場」では、我当が座頭として全幕をしめくくる大きな平教経役を、左右で団十郎忠信、新之助義経の成田屋親子が引き立てて、晴れやかに幕。

 

* わたしも妻も十分に満足して、一日がかりの国立劇場を引き揚げてきた。家に着いたら十一時前。ざっと心覚えを書いて置いただけで、もう一時半だから、今夜はこれだけで寝よう。通し狂言を通しで見るのは体力的にはかなりな消耗だが、そこは長編小説の魅力と同じで、作品がよければ魅力は増して盛り上がる。あとへ行くほど退屈など吹っ飛んで、ぐいぐいと引込まれる。当然の功徳である。

 2001 11・7 11

 

 

* 今日は、高麗屋父子を芯にした「三人吉左廓初買」を通しで観てくる。一部分なら観ているが、通しは初めて。しかし大筋は、ごく子供の頃に、明治版「歌舞伎概説」という家にあった本を繰り返し読んで、つぶさに知っていた。覚えていた。へええ、そんなややこしいめぐる因果ってあるんだと、驚く筋書きであった。有名な「月はおぼろに白魚の」の長科白も暗記した。一番早く覚えた歌舞伎の「知識」であった。理屈の所はとばしとばし読んでいた。

 その本は蜜柑色の堅い表紙で、分厚く、今見てもきちんとした参考文献である。安っぽいところは少しもない。ところどころ主要な歌舞伎劇の梗概が小さい活字で書き出されていて、そこが、幼いわたしの目当ての読み物であった。能の稽古本でも、梗概をかたはしから読んだ。

 2001 12・10 11

 

 

* 今日は、高麗屋父子を芯にした「三人吉左廓初買」を通しで観てくる。一部分なら観ているが、通しは初めて。しかし大筋は、ごく子供の頃に、明治版「歌舞伎概説」という家にあった本を繰り返し読んで、つぶさに知っていた。覚えていた。へええ、そんなややこしいめぐる因果ってあるんだと、驚く筋書きであった。有名な「月はおぼろに白魚の」の長科白も暗記した。一番早く覚えた歌舞伎の「知識」であった。理屈の所はとばしとばし読んでいた。

 その本は蜜柑色の堅い表紙で、分厚く、今見てもきちんとした参考文献である。安っぽいところは少しもない。ところどころ主要な歌舞伎劇の梗概が小さい活字で書き出されていて、そこが、幼いわたしの目当ての読み物であった。能の稽古本でも、梗概をかたはしから読んだ。

 

* 昨夜おそく息子が自動車を置きに来た。いま、階下で朝食を食べているらしい。あいにくの我々の外出で。一日、こちらにいるのか帰るのか。

 元気ならいい。お互いに、怪我無く過ごしたい。

 

* 河竹黙阿弥作「三人吉左廓初買」は、珍しく「文里一重」の部分も通しての通し狂言で。おかげで筋立てが分かりよいだけでなく、ふくらむ。常はこうはやってくれない。

 黙阿弥の芝居はけっして華やかではない。ピカレスクものというか、悪漢の美学めいていて、所詮は社会の底辺に取材された陰惨なものである。この芝居も三人吉左の出逢う大川端こそ華麗な長科白で酔わせるものの、次々の幕は陰気に地味なほどの世話物で、たとえば「義経千本桜」や「助六」なんてのとは大違い。おまけに刀一振りと金子百両を生き物のように追い立てての趣向の底に、めぐる因果の、絶句するような近親相姦が書かれている。それも親が犬を殺した祟りで、双子の兄妹がそれとは知らず果ては夫婦になり、さらには二人とも肉親に殺され、末期の姿には犬のふりまでする。そういう下地のうえで義兄弟をちぎった三人吉左が、義理を重んじ「身内」意識に殉じた体で、降りしきる雪のなかで大勢の取り方にじりじりと追いつめられてゆく。

 

* 梅玉という役者は、これまで余り好きでなかった。ひとつには、痩せて酷薄な二枚目という、「籠釣瓶」の二枚目ふうの役が多かったから。ところが今日久しぶりに観ると、ふっくらと幅が出来て、科白に余裕があり、お坊吉左を、情もあり姿もよく好感の持てる佳い役にしていて、意外の儲けものだった。染五郎のお嬢吉左は精一杯のところ、ま、力演といっておこうか、妻は佳い佳いといっていたが、わたしは、可もなく不可も、ま、無いかと冷静に眺めていた。歌舞伎は冷静になど眺めさせていては、ダメではないか。

 幸四郎の和尚吉左は、はまりの役で、本人は自信の役のようでもあるが、声量のない科白に途切れかすれが出たり、情感過多で、はしばしにやり過ぎがでたり、歌舞伎にするより「演技」が先立ち、そこまで演じてくれなくても、もっと大らかに大らかに願いたいという、いつもの幸四郎へのじれったさを、相変わらず感じさせた。弟の吉右衛門の方が向いていよう。

 それでも大詰め火の見櫓の場面では、三人吉左が出揃って、少し切なく悲しく場面をしめくくったので、ウンウンと「歌舞伎」を観た気がした。楽しめた。松江の花魁一重は尋常なもの。東蔵の吉野がまるで甲斐荘楠音描く女のようなのがおかしかった。花道に近い「と」の席で、それは結構に、ゆっくり見せてもらえた。

 

* むかしよくカンヅメにされた、三番町、オークラ経営の霞友会館が、もうホテルではなく、企業の幾つも入った建物に変っていて、それならと車で逆戻りして、サントリー美術館下のイタリアンに走り、盛りだくさんに色々食べて、ワインをボトルで。のーんびり出来た。

 むかしむかし、黒谷で紅葉を狩り、叔母の茶室で妻を客に茶をたててからきっちり四十四年になる。年々歳々の思いはまことに遙かであり、走馬燈のように想い出ははてなくめぐりめぐる。イタリアンの料理はどうということのないものだが、騒々しくならぬ程度に店内は広く暖かく、あいたカウンターのコーナーに席を占めて、屈託なくいろんな話の出来る相手は、やはり、妻。

 もう何処による必要もなく、赤坂見附から永田町まで歩いて有楽町線で帰ってきた。建日子が夕方近くまで留守番をしてくれていたようで、玄関にはいると黒いマゴが嬉々として迎えに出た。

 2001 12・10 11

 

 

* 夕方、空腹で階下にゆくと仮名手本忠臣蔵の山科閑居の場を、玉三郎の戸無瀬、勘九郎のお石、勘太郎の娘、孝太郎の力弥、そして仁左衛門の本蔵、富十郎の由良之助で放映していた。由良之助山科閑居に玉と勘の母娘が入り、大星妻の勘九郎と渡り合いだすあたりから見始めた。これは実の舞台も観ていたので、すみずみまで面白く興味津々。どうにも仕事場へは引き返せずに、おしまいまでたっぷり観た。観させてくれた。玉三郎が頑張る頑張る、勘太郎は当たり役とすら言える初々しさ。当節では一の顔ぶれか、力弥がすこし軽いが、まずまず。

「阿部一族」の殉死犬死にのむごさを論じた周到周密な論考を読み終えたところであり、忠臣蔵の意義が関連して迫ってくる。人ひとりの命までかけて手順を踏み踏み、一夜切りの祝言がかない、しかし明日は花嫁をのこして花婿は江戸の仇討ちに立ってゆく。娘の父は娘の夫に自身の命を授けて死んでゆく。殿中での刃傷を半ばに抱きすくめて遂げさせなかった加古川本蔵と、主君の無念を報じに江戸へ向かう大星の、娘と息子は許嫁であった。いやもう、大層な作りたてでありながら、芝居はくまなく完成されていて、おそろしいほど美しく人が動く。色彩、音楽、腹と腹。

 気がつけば、この師走の、やっと討ち入りゆかりの芝居に触れていた。映画よりも凝縮した名作の名場面に堪能した。

 2001 12・15 11

 

 

* 小雨の心配もしながら、温かに着込んで、歌舞伎座へ。前から二列のま真ん中、これはもう役者の視線も捉え放題に、のめりこんで楽しめた。このところ歌舞伎座の昼夜、国立劇場での昼夜通し、また「三人吉左」の通しと、かなりハードだつたので、師走は昼だけにしたのが楽しい番組で、思惑通りの大満足。

 まずは猿之助演出、右近の孫悟空で「華果西遊記」はじつに気の入った猿之助子飼いの役者達の溌剌芝居で、はじめからしまいまで思わず口をあいたっきりのように引込まれて笑ったり驚いたり。端役まで行儀のいいきびきびとした舞台づくりで、小気味いい。孫悟空快演、西梁国女王実は蜘蛛の精の笑三郎、同じく女王妹の春猿とも、大らかに美しい

化けぶりで迫力満ち、盤糸嶺での多数の蜘蛛たちも、また孫悟空の分身小さな子役を大勢並べて見せた猿たちも、ともに隅々まで気の入った集団演技で、気持ちよかった。ま、これは大いに予想し期待していた通りで、この一芝居で、うん今日は最高と思えた。侍女の金枝役をした市川段之の女形ぶり、ことに横顔が若い頃の京マチ子のように冴えて美しく惚れてしまった。

 この幕間に二階予約の「吉兆」での昼食が、この前の時の上行く豊かな美味と佳肴で、冷酒もうまく、満腹した。かたわらに鏑木清方の美しい母子の画もまた佳いご馳走であった。嬉しい食事であった。

 次が団十郎の「弁慶上使」で、これは彼の大柄がはまり、おまけにおわさが当代の名優芝翫ではわるかろうわけもない。成駒屋の孫七之助が卿の君とおわさの愛娘腰元しのぶの二役。しのぶは父弁慶の手にかかり、主君卿の君の身代わりに母に抱かれて死に果てる。卿の君のもりやく侍従太郎と妻花の井には歌六と芝雀は、これはもう立派なものであった。舞台をしっかり引き締めた。無残な筋の途方もない歌舞伎だが、おおらかにゆったり演じられてカタルシスもあり、こういう後味のよさに、五人の役者がきちんと噛み合っていたのは、さすがに演し物の練り上げられた確かさであろう。七之助はまだ胴体がはたらかない(妻の説)が、可憐なせりふと初々しさとでわるくなかった。やっぱり泣かされた。

 だが、次の源氏物語「末摘花」では思いがけずもっと実のある泪にしたしたとせめられて、佳い芝居を観たなと、今日一番の心地よさであった。末摘花は勘九郎がピュアーな人柄に常陸の姫宮を創り上げて成功し、玉三郎の光源氏、勘太郎の従者惟光が抜群によろしく、さらに福助が侍従といういい役を懸命に演じていて、これまた前回前々回に引き続いてこのところたいそうウケがいい。とかく薄情そうな体温の低い舞台の美女であったのが、吹っ切れたように血の気の温かい気持ちよい演技を見せ続けてくれる。源氏物語の読み手としては、やはり光君の書き方に関心があり、玉三郎の位と品の演じ方、また日本語に、満足した。演技をさせれば比類ない魅力で人物が描き出せる役者である。団十郎が病でめしいた実直な求婚者、東国の受領雅国役でつきあい、姫宮は、久しく久しく待ちわびた光源氏の再訪をうけて幸せを噛みしめながらともに情けある一夜をすごし、そして源氏ならぬ受領のもとへ身を寄せようと決意する。脚色した北条秀司の心意気である。源氏物語絵巻「蓬生」の場面を髣髴させる舞台も、異色の源氏物語ものらしい。

 最後には、澤潟十種の一「浮世風呂」を市川猿之助が、水際だった湯屋の三助をさらりさらりと余裕の踊り。三助に惚れて花道にせり上がったなめくじ娘の亀治郎が軽妙にからみついて踊り、また花道で塩をまかれて沈んでゆく。湯屋のからんと明るく温かくいきな舞台に、刺青の若い衆が大勢出て三助にからむのを猿之助はらくらくと捌いてゆく。さながらに猿之助塾の公演のように、みなきびきびと一心に。「西遊記」といいこの「浮世風呂」といい、猿之助がたいした指導者で尊敬されていることがよく分かる(妻の説)気持ちよい歌舞伎だった。

 2001 12・21 11

 

 

* 昼間に前進座の討ち入りものをテレビでみた。梅雀の大石、梅之助の堀部弥兵衛。あれれと思う間に全編を見てしまい、けっこう泣かされた。玉・勘・仁・富・勘太郎らの仮名手本忠臣蔵「山科閑居」の場についで、やはり歳末には忠臣蔵に行き当たる。またそれが、わるくない。

 2001 12・24 11

 

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