ぜんぶ秦恒平文学の話

歌舞伎 2010年

 

* さて、歌舞伎がある、俳優座の『どん底』がある、建日子「秦組」の『月の子供』もある。これは初演を、やす香と一緒に下北沢で観た。今度は大塚だ、小さな劇場だけに爆発的な亢奮に舞台と客席が熱中するだろう。よりよく手が入っているといいが。

* 疲労せぬように、はやめに休もう。
2010 1・5 100

* 壽 初春大歌舞伎。歌舞伎座で昼夜を楽しんできた。帰宅して十一時。配役のほか今夜は、簡単に。

* 高麗屋に年玉貰う。夫人、座席までご挨拶あり。重ね重ね、おめでとう。

* 昼の部 「春調娘七種」五郎・橋之助 十郎・染五郎 静御前・福助
「梶原平三誉石切」 梶原平三景時・幸四郎 梢・魁春 六郎大夫・東蔵 大庭三郎・左団次 俣野五郎・歌昇
「勧進帳」 弁慶・團十郎 義経・勘三郎 富樫・梅玉 太刀持音若・玉太郎   成田屋、さすがに弁慶の顔! よく勤めてくれました
。義経に中村屋、しみじみと。泣きました。梅玉、思い入れで、やや抑えぎみ。玉太郎君の可愛らしかったこと!!
「松浦の太鼓」 松浦鎮信・吉右衛門 其角・歌六 大高源吾・梅玉 お縫・芝雀   歌六が嵌り、芝雀うつむきがちにすてきに美しく見えました。

* 茜屋珈琲。花びら餅でお茶一服、感謝。コーヒーもココアも最上。今年も宜敷く。

* 夜の部 「春の壽」 春の君・梅玉 花の姫・福助 女帝・魁春
「車引」 時平公・富十郎 松王丸・幸四郎 梅王丸・吉右衛門 櫻丸・芝翫   圧巻の藤原時平。さすが、富十郎。嬉しくなる。当代でもまれな大顔合わせ。だが、芝翫?
「京鹿子娘道成寺 道行より押戻しまで」 白拍子花子・勘三郎 大館左馬五郎・團十郎   初春、一。勘三郎の魅力横溢、まだむかし勘九郎の頃の野崎村お光の愛らしさ、健在。座席で、拍子をとっていました。そして撒きモノも、みごとゲット! 團十郎も最高!
「世話情浮名横櫛」 切られ与三郎・染五郎 お富・福助 蝙蝠安・弥十郎 和泉屋多左衛門・歌六 番頭藤八・錦吾   なにしろこれは名優達昔の名舞台が目の奥にガンと鎮座していて、くらべようが、ない。染高麗の大成を期待し、われわれ二人とも元気で老境に堪えたい。

* 初春、いい席をもらいまして、しんから楽しみました。
2010 1・6 100

☆ Comments of your Wednesday, Jan 6, 2010 by Chiyoko
「生活と意見」見て。
初春大歌舞伎。幸四郎の梶原石切 も きれいでしようけど 私は(市川)寿海の石切を思います。
切られ与三郎の染五郎は さぞかし 水もしたたるような与三郎でしょうね。私の与三郎は、先代團十郎です。
ああ見たいなあ。
後になりました。新年おめでとうございます。 どうぞお元気で。 宗千。

* はるばるロスから。われわれの若い頃は、関西歌舞伎に御大・市川寿海が、寿三郎、鴈治郎(先代)、富十郎(先代)、我當(先代仁左衛門)、蓑助(先々代三津五郎)、延次郎(延若)、又一郎らを率いて君臨していた。さらに若手に、扇雀(現在の坂田藤十郎)、鶴之助(現在の中村富十郎)という飛びきりの俊秀がいた。
昨日の「松浦の太鼓」でもわたしは先代吉右衛門とともにあの口跡美しい市川寿海をありありと懐古していたし、全く同じく切られ与三では、あの美しかった海老蔵(先代團十郎)や守田勘弥の文字通り凄みと美しさのコンデンスされた身震いするような舞台を思い起こさずにはいられなかった。
茶名もなつかしいこのロスのお茶人は、わたしなどより大先輩で、姉上とともども、わけて武智歌舞伎の颯爽花形だった扇雀・鶴之助の、熱くてさわれないようなフアンぶりであった。五十年余も昔ばなしになったけれど。「ああ見たいなあ」には、今の歌舞伎をと同時に往時渺茫の昔歌舞伎への恋しさも籠もっているはず。
2010 1・7 100

* 昨年末のうちにこの三月、四月の歌舞伎座を妻の分と二人、通しでと座席を予約しておいたところ、電話があって三月と四月は三部制になりますがと。むろん両月とも、三部通しで二席ずつ用意して下さいと頼んだ。
四月末でいまの歌舞伎座は閉館し、新築される。馴染んでなお名残多い歌舞伎座を、十分に楽しみたい。夫婦ともに、新築の新歌舞伎座のこけら落としに出逢えるかどうか、心許ないと覚悟している。ファックスされてきた三月四月の演目には、まだ配役は書かれていないが、一つ一つに自分たちの好みの役者を宛てて待つというのも楽しい。

* 三月の第一部は、菅原伝授手習鑑「加茂堤」 石川五右衛門の「楼門五三桐」 大薩摩連中の「女暫」
第二部は、菅原伝授手習鑑「筆法伝授」の三場とは珍しく、もう一つが「弁天娘女男白浪」浜松屋と稲瀬川
第三部は、菅原伝授手習鑑「道明寺」が、片岡仁左衛門と守田勘弥との追善狂言 そして文殊菩薩花石橋の「石橋」

* 四月の第一部は、「御名残木挽闇争」は総出演かな。 一谷嫩軍記「熊谷陣屋」 そして「連獅子」
第二部は、菅原伝授手習鑑「寺子屋」 「三人吉三巴白浪」大川端庚申塚の場 長唄囃子連中の「藤娘」
第三部は、黙阿弥の「実録先代萩」 大ギリ狂言は歌舞伎十八番の内、河東節十寸見会御連中での「助六由縁江戸櫻」

* 機会さえあれば、二度三度も観たいと思う。
2010 1・20 100

* 松嶋屋、我當、秀太郎、仁左衛門三兄弟連名の口上で、先代仁左衛門追善、三月歌舞伎座行記念にと、美しい「盆」を贈られた。我當クンは一部「女暫」の範頼、三部追善「道明寺」の判官代輝国に出演する。観にゆく。
2010 1・29 100

* 今月の歌舞伎座は演目を考慮し、夜だけにした。
「壺坂霊験記」のお里を福助、沢市は三津五郎、二人とも適役。この狂言は一人が盲目で、ということは、演技は一種の所作事としてなされる。踊りの巧い役者でないとなかなか満足に成り立たない。上演も少ない方か。今回打って付けの二人が当然好演して、まんまとわたしたちを泣かせた。
「高坏」 この狂言はもうもう中村屋の家の藝、キワだって現勘三郎のニンにあっている。彼の藝は、さながら満山を染め色にした櫻の花のよう。打って付け。弥十郎の大名、亀蔵の太郎冠者はお添えもの。高足売りの声割れ橋之助は、大味そのもの、自覚がない。ただただ勘三郎の高下駄タップダンスが、いつものように、さんざ楽しめる。こういう嬉々としたた狂言での中村屋を観ていると、酔っぱらってくる。
そしてお目当て大切りの大狂言は、勘三郎、玉三郎の『籠釣瓶花街酔醒』で、これがぜひ観たくて、夜にした。前から六列、花道から三席目に席を取ってくれていた松嶋屋の心入れで、花道八つ橋玉三郎の花魁道中、凄艶な流し目であばたの次郎左衛門を震え上がらせるのが堪能できた。愛想づかしの場も力入って凄みがあり、凄みは、切りの場の「籠釣瓶はよく切れる」まで、ゆるみなく堂々と大芝居が完成した。満足した。
鶴松が初々しい相方初菊として初登場していたのが目立った。わたしたちは、この鶴松という少年役者の大の贔屓なのである。仁左衛門の栄之丞、我當の立花屋長兵衛、秀太郎の立花屋おきつ、勘太郎の治六、花魁九重は魁春、七越が七之助、ほかに弥十郎の釣鐘権八や片市、片亀の相客など。
松嶋屋と中村屋との総力戦に、玉三郎が豪奢に美しく参加。

* で、弁当は東武で「なだ万」を買っていった。酒は小瓶に持参。入場前に茜屋でうまい珈琲。手洗いに美しい花が生けてあった。妻はケーキも。
さ、いまの歌舞伎座、もう三月と四月だけ。三年掛けてすっかり改築になる。
東京での我々の暮らしをいちばん数多く心豊かに楽しませてくれたのが、歌舞伎座。松嶋屋にも高麗屋にも成駒屋にも、感謝。
三月、四月は、三部制。三月の配役はきまったが、四月は、さぞ大変だろう。
三月は、羅列するだけだが、第一部、「加茂堤」が梅玉、時蔵。「楼門五三桐」が吉右衛門、菊五郎。「女暫」は玉三郎、我當、松緑、菊之助、左団次、吉右衛門。第二部、「筆法伝授」が仁左衛門、魁春、芝雀、東蔵、梅玉。「弁天娘女男白浪」が、菊五郎、吉右衛門、左團次、菊之助、東蔵、梅玉、幸四郎。第三部、「道明寺」は仁左衛門、玉三郎、孝太郎、弥十郎、歌六、秀太郎、我當。そして大切り「石橋」が富十郎、鷹之資に、幸四郎。
楽しみ。とても。
2010 2・10 101

* 映画女優で親友の原知佐子を、三月の歌舞伎に誘った。舞台稽古に、うまいあわいが有り、行く行くと。大学で同期生、妻には一期先輩。橋之助の石川五右衛門が「つづら抜けの宙乗り相勤め申し候」という、南禅寺「金門」の絶景かな、である。扇雀丈が真柴久吉。彦三郎や万次郎が付き合っている。
2010 2・19 101

* 天気麗しからず、腹部やや不穏。三宅坂、国立劇場「金門五山桐」の通し狂言で楽しんでこよう、今日の観劇は三人、女優の原知佐子と一緒に。大学以来の旧友。からからと笑いあえる。演ずるは中村橋之助と中村扇雀ほか。気軽い。
本の仕上がってくるのに、もう数日ある。

* 雨冷たいといっても傘をもつ手に手袋がいらなかった。有楽町線の永田町でおりて、国立劇場へ向かう途中から「早道」がついていて、歩く距離が半減、助かる。
はじめて保谷の社宅に入った半世紀ちかく前は、なんて田舎へ来て了ったろうと思っていたが、いまでは電車一本で、池袋はあたりまえ、新宿へも渋谷へも銀座へも築地へもまっすぐ早く行ける。練馬で大江戸線に乗り換えれば、新宿、千駄ヶ谷、六本木、青山、月島、両国、上野御徒町、本郷三丁目へも難なく行ける。

* 田原さん(原知佐子、実相寺昭雄氏夫人)元気で、弁当場での「十八番(おはこ)懐石」も一緒に、とちりの「と」花道より中央通路ぎわの絶好席で、橋之助の石川五右衛門をはんなり楽しんだ。まだ貫禄でも、口跡の豊かな間の取り方といい、「絶景かな」も「一目万両、万々両」と満場を圧するには力不足はどうしようもないが、葛籠抜けの宙乗りは元気に空を奔って、けっこうでした。
この役者は柄もいい、声も悪くないのだが、「科白」への認識か稽古か、その両方か、がいささか欠けている。ひび割れた鐘のように口跡が締まらない。惜しい。
口跡は音量や音色だけではない、なにより「音容」とでも謂いたい造形美が伴わないといけない。「絶景かな」も「万々両」も、自分の声・言葉を耳で繰り返し聴き、何百度も繰り返し稽古して、「堂々として豊かな音容=姿・形・間」を把握すると好い。かならず「大成駒」と謂われるようになる。いまのままでは、張り子の大駒。
中村扇雀の真柴久吉は、なんだか愛想がよく、女形も立ち役も浮き浮きと楽しそうに演じ分けていた。元気といえば元気でよろしく。
元気といえば、亀三郎がそれなりの場を得て、颯爽。男前の亀壽に女形をさせたのは気の毒だった。亀蔵は、達者。高麗蔵は、どうして、ああだろう。万次郎の老け女がサマになっていて面白かった、本役の奥方に戻っての方が、化け物じみた。
通し狂言で「金門五山桐」はそう見られる演目でなく、珍しくて気楽に楽しめた。成駒屋さん、絶好席を用意してくれていた。花道からも舞台からも、橋之助、扇雀の視線と姿勢とがまっすぐ捉えられ、芝居に乗せて貰いやすかった。

* はねても、雨。三人で永田町駅までもどり、半蔵門線でかえる田原さんと、機嫌良く「さいなら」した。十月に芝居をするから、「ぜひ生きていなさい」と頼まれた。
2010 3・7 102

* また明日は、御名残三月大歌舞伎。先代仁左衛門追善で、名作『菅原伝授手習鑑』を縫い取るように、第一部に「加茂堤」、第二部に「筆法伝授」、第三部に「道明寺」が並ぶ。これは十四代守田勘弥の追善でもあり、片岡我當、片岡秀太郎そして片岡仁左衛門の三兄弟に、勘弥の子の坂東玉三郎もふけの難役「覚壽」で出る。
第一部では、他に吉右衛門、菊五郎の「楼門五三桐」と、玉三郎、我當そして吉右衛門の「女暫」が楽しめる。花道に真近く、玉の巴御前も、また引込みでは舞台番吉右衛門と玉三郎の掛け合いも、手に取るほどすぐそばで楽しめる。
第二部では、菊五郎の弁天小僧、幸四郎の日本駄右衛門、吉右衛門の南郷力丸で「弁天娘女男白浪」が華やかだ。
第三部の大切りは、富十郎・鷹之資父子の「石橋」に、幸四郎が寂昭法師という豪華版。

* 明後日からは本の発送。その前に楽しんでくる。
2010 3・9 102

* 傘をもたずに歌舞伎座へ行けてよかった。
この三月は、ひと筋「菅原伝授手習鑑」で三部建てを縫い取りながら、他は、さながら歌舞伎の名場面集。
『女暫』は、なにより親友我當の範頼がとても立派で嬉しく、加えて花道ちかくで玉三郎の「巴の前」を満喫でき、言うことなし。成田五郎の左団次も立派で、彼ある故に團蔵以下の赤ヅラたちがひきしまった。中でやはり弥十郎の科白が、ああ居並んだときにお粗末でいけなかった。花道ぎわの座席から見つもって、いちばん期待していたとおりの楽しさで、我當贔屓もかけねなく満足させられ、ご機嫌。
しかし立派といえば、国立で橋之助・扇雀でみてきたと同じ「楼門」の、吉右衛門と菊五郎。これを観れば、いかに若手たちの技倆・科白が、大名題中の大きな役者とでは段違いなことが如実に分かる。吉右衛門の「絶景かな」の大きさ、菊五郎の「御奉謝」の粋なこと。なにより、若いのが「ぜっけえ」と発音するところを、名優は「ぜっけイ」と正しく発語している。うんと印象が違う。歌六、歌昇がそつのない芝居でワキをかためる巧さ、いい感じ。
「加茂堤」の櫻丸「筆法伝授」の武部源蔵ほか、中村梅玉が、赤星十三郎でもよく働いていた。まだまだからだが動くので、ますます働ける。魁春の御台園生の前、話すと耳障りな女形だが、位のある好い姿でひきしめるのは、流石多年の大女形、いつもながら嬉しくなる。秀調の三善清行、東蔵の左中弁希世、など面白い「役」を軽やかに達者に見せたのも楽しんだ。
「浜松屋」「稲瀬川」は人気の大どころのオンパレード、幸四郎、菊五郎、吉右衛門、梅玉、左団次。彼らならこれぐらいは当たり前の客サービス。あの「つらね」は、むろん花形の若手たちでも演じられて、未熟な客たちはそっちの方を或いは喜ぶかも知れないが、ベテランの科白には、先日も力説した「音容」の美しさが豊かに出る。若いのは、どうしても、逆立ちしても、そこで追いつかない。たとえば、左団次と弥十郎の科白の差、吉右衛門と橋之助の科白の差を聞き比べれば、歴然。
「筆法伝授」は珍しい場で、「道明寺」の場とあわせて、先代を追善する当代仁左衛門菅丞相の静かに深い美しさに、しばしば胸熱く惹きこまれた。
玉三郎は勘弥を追善の大役「覚壽」。これは玉三郎にしてなお、よほど難しそうであった。「道明寺」、最後の花道の引き込みに、判官代輝国役で雅友の片岡我當が、大切りを引き締め役についたのも、嬉しく、感動した。弟秀太郎は殺され役の立田の前一役で気の毒だった。日生劇場に出ている愛之助、吉弥をのぞいて松嶋屋の総員が出そろった舞台も珍しい。
第三部の最後を、富十郎、鷹之資が獅子と文殊菩薩で綺麗に舞いきり、幸四郎がみごとに寂昭法師で引き締めた。例のチャリでは、錦之助と松緑とが瀟洒なほど巧者な踊りをみせた。鷹クン、父君の薫陶ますます加わって、健気。上手に育てられていて気持ちがいい。

* 座席まで、高麗屋の奥さんが笑顔で挨拶に見え、それもいつもながら楽しい気の弾みであった。昨日でなくてよかったですかわと。昨日は終日寒い雨と雪であった。今日は寒さもゆるみ、傘いらず。「茜屋」の珈琲もうまかった。

* さ、明日から、新刊の発送。こんやは、もう休もう。
2010 3・10 102

* 歌舞伎座は四月で閉館されるが、五月以降は新橋演舞場等で観られる。五月の花形歌舞伎は、まだ若い役者衆の健闘で幕が開く。歌六、芝雀、福助らを先輩格に、染五郎、松緑、海老蔵、勘太郎、七之助とならぶ顔ぶれが若やかに元気。
歌舞伎との縁が果てるわけではない。
2010 3・11 102

* 晴天。五十一年。

* 日生劇場で、染五郎と愛之助との衆道かつ義兄弟の通し狂言『染模様恩愛御書(そめもよう・ちゅうぎのごしゅいん)』を楽しむ。
さすが河竹新七の作から復活した歌舞伎だけあって、「細川の血達磨」面白く、分かりやすく、渋滞する鈍さがない。わかり易すぎると云いたいくらい。難癖を強いて付ければ、一、二はあったにせよ、問題にならないほど速度感にのって、話は快くとんとん拍子に進行。「染高麗」と「ラブリン」という絶好・絶景の組み合わせが、観る前から大いにソソって、一も二もなく日生劇場で、七十半ばの老夫婦が結婚記念日を過ごしてきた。
猿弥が憎体な押し出しのつよさで横山(印南)図書に嵌り役。このところ抜擢の目立つ中村しのぶが、その前妻、後妻の二役を、優等生らしい女形藝で綺麗にこなし、美女春猿の腰元あざみも芝居に綾を美しく織り込んだ。門之助の細川侯、吉弥の奥方もところを得てソツがなかった。
染五郎が終始生き生きと芝居を楽しんで活かし、愛之助は神妙に前髪だち御小姓の印南数馬を優しく見せた。都合よく仕組んで運んだ「仇討ち芝居」であるのだが、それだけでは終わらないのが、此の通し狂言の見せ所。
ことの最期に、すさまじい城炎上のさなかへ、染五郎の大川友右衛門が決死の奮闘、ついに猛火の中で腹かっさばいて蔵の奥から細川家の大事も大事、本領安堵の御朱印状を救い出す。それも見せ場なら、染・愛の水も滴る男同士の濡れ場もあった。もっともわたしはその方に気は全くない。
舞台装置が面白く好く出来ていて、照明も音響もほどよかった。
それよりなにより、大おまけのプレゼントがあった。
前から四列目花道ぎわ前明きという絶好席をもらっていたが、その目の前で、花道芝居の大川友右衛門こと市川染五郎が、気もそぞろ矢立の筆をはしらせ惚れ込んだ印南数馬こと片岡愛之助にラブレターを書く。一度二度書き損じる。それをパッとわたしたちの席へ投げてくれ、妻が嬉しく拾いあげた。これぞ「付け文」とでもいうか。
「書き損じ候 大川友右衛門こと 市川染五郎」と書かれていた。ありがとうサン。
羨ましがられ、舞台のあと、近所の何人ものフアンから「付け文」を写真に撮らせて欲しいと頼まれた。

 

市川染五郎の大川友右衛門

* 日比谷も銀座も快晴。泰明小学校の前の店で、珈琲にくつろぎ、銀座一丁目までゆるゆる歩行者天国の銀座をブラつき、それ以上の深追いはやめ、まだ日も高い内に有楽町線でストレートに保谷へ帰った。駅の外で、佳いショートケーキを買って帰った。
2010 3・14 102

* 三月歌舞伎座へ、二度目。
松嶋屋(我當・秀太郎・仁左衛門兄弟)・大和屋(玉三郎)の先代片岡仁左衛門、また守田勘弥の追善興行をぜひ応援し、もう最期になる現歌舞伎座での学友我當の舞台をしっかり観覚えておきたいと思って。
『女暫』の蒲冠者範頼、『道明寺』の判官代輝国。ことに輝国役は、仁左衛門の菅丞相を揚げ幕の向こうへ見送ってから、一人花道の引き込みで幕を締める。なかなかそういう役は観られない。有り難かった。
第一部の「加茂堤」は時節柄のはんなりした和事風所作が楽しめ、春の陽気。南禅寺の「山門」は、一目萬両のうららかな春爛漫。「女暫」は玉三郎の巴が美しく愛嬌があって、強い。
第三部の「道明寺」は仁左衛門の菅丞相が父先代の神品に迫って、花道でのひと筋の涙がすぐ傍で観る目に沁みた。いい役者になったなあ。
そして大喜利の「石橋」は、清々しく心を洗われる名品となり、父富十郎の薫陶よろしく幼い鷹之資の健気な凛々しい文殊菩薩の踊り、おみごと。幸四郎の寂昭法師、松緑と錦之助との軽妙なチャリ、みな、すこぶる上品。有り難かった。

* じつは第二部は「節約」し、その間に、銀座松屋の「つな八」で特選江戸前の天麩羅を、二合の酒で。これで、腹痛を追いやった。
それから地下鉄で浅草へ行き、好天のもと吾妻橋を歩いて向島へ渡り、タクシーを拾って、多年念願の「百花園」散策を楽しんだ。
梅は過ぎ、櫻は未だ。白木蓮や連翹や、そうそうスズランスイセンも咲いていて、人影もあまりなく、静かだった。満足した。花の好きな妻は、一つ一つメモもとりたげに、みんな植物の名札の附いている「親切」を大喜びしていた。
ちょっと物たりないのは、幾らも建った句碑の句に、いまひとつ唸らせる秀句の乏しかったこと。
園のすぐ近くに豆腐料理の店があるらしく看板をみたが、なにもかも他は今日は割愛して。
そしてまた木挽町へ戻って、ゆっくり「茜屋珈琲」で四十分ほど小憩ののち、第三部の劇場へ戻った。
第一部はど真ん中の通路際の「ち」で、手に取るように舞台の全景が満喫できた。第三部は、松嶋屋の配慮で花道そばの「と」席、絶好。満喫。
第一列の真ん中にいた馬場あき子さんを見つけ、幕間、座席に並んで話し込んできた。前回は、堀上謙夫人に見つけられた。歌舞伎座で、こういうことは、よく、ある。
2010 3・17 102

* 四月末、松たか子のコクーンでの面白そうな芝居、日と座席とが決まりましたと知らせがあった。

* 現歌舞伎座での歌舞伎興行は、四月で閉幕する。妻七十四歳の誕生日に、昼夜三部を通して楽しむ。歌舞伎役者たち、出られる限りの全員が出勤する。演目も、すばらしい。
吉右衛門、富十郎、魁春、藤十郎、梅玉の『熊谷陣屋』、
勘三郎親子、扇雀の『連獅子』、
幸四郎、玉三郎、勘三郎、仁左衛門、時蔵の『寺子屋』、
菊五郎、團十郎、吉右衛門の『三人吉三』、
藤十郎の『藤娘』、
芝翫、幸四郎の『実録先代萩』、そして
團十郎、玉三郎、勘三郎、三津五郎、福助、左團次、仁左衛門、菊五郎、東蔵の『助六』。
ほかに朝一番には、『御名残木挽闇争(おなごりこびきのだんまり)』には、三津五郎、時蔵を筆頭に、芝雀、染五郎、菊之助、海老蔵、勘太郎、七之助、獅童、松緑、孝太郎ら若き花形が、歌舞伎座最期の趣向で「だんまり」を演じてくれる。
歌六、歌昇、彦三郎、萬次郎、橋之助、梅枝らもいろいろに、出演する。
こう並べてみるだけで、わくわくする。

* 無意味に不愉快なことは、頭からみな投げ捨てて、ゆるされた楽しみを、罰が当たるほどに楽しもうと思う。罰はいずれ当たるのだ。
2010 3・26 102

* 四月歌舞伎座の幕開き「だんまり」の夢をあれこれ創作風に夢の中で想像してしまい、興奮して動悸がたかまり早起きしてしまった。ヘンな人。
2010 3・27 102

* 市川染五郎丈の、見返しに署名の新著『歌舞伎のチカラ』が贈られてきた。感謝。
「楽屋に入ると、まず浴衣に着替えて、お茶をたてるのが習慣」と。微笑。高麗屋格子の浴衣で座布団にすあしのあぐら、茶筅を使っている写真が真っ先に目に入った。そしてもうほとんど全部読みました。おもしろかった。
ほんとを云うと、もっとほかにも触れて欲しい話題がたくさんある。染五郎だから触れて欲しい。
たとえば、先行藝としての能・狂言、人形浄瑠璃のこと、科白と舞踊のこと、役者とは何の「役」で今はあるのが、本当か。藝能と藝術のこと。歌舞伎と演劇のこと。歌舞伎からつかんできた日本と日本人のこと、そして世界のこと。理屈屋さんになって欲しくはない、が、本質を観ている視線を、年齢相応に独特の言葉と感性で感じ取らせて欲しい、いつか。
2010 4・2 103

* 小雨。冷。

* 木挽町名残の歌舞伎座(三部)を、終日楽しみ、十一時半に帰宅。

木挽町名残の歌舞伎座 (写真割愛)

* 歌舞伎役者たち、出られる限りの全員が出勤。
第一部 すばらしい充実。
『御名残木挽闇争(おなごり・こびきのだんまり)』には、三津五郎の悪七兵衛景清が後刻、芝雀の典侍の局と左右奥からあらわれ、花道の引っ込みを大和屋が一人颯爽と。
開幕の引き落としで、武蔵国晴海が浜に俳優の舞台造営の柱立て。奉行職は市川染五郎が座頭格に悠々演じた工藤祐経。席はこの染高麗とまっすぐ「対面」という七列目の絶好位。彼祐経を親の敵とねらう、おきまり海老蔵の五郎、菊之助の十郎の花の赤衣裳を中央に、松緑の黒い秩父重忠、時蔵の華麗な小林舞鶴、孝太郎の大磯の虎、勘太郎の小林朝比奈、七之助の片貝姫、獅童の鬼王新左衛門ら、若き花形が盛大にならんで、歌舞伎座最期の趣向の「だんまり」を面白くも華やかおおらかに演じてくれた。見映えもおおらかに「闇争」のまえには所作も台詞もにぎわって、工藤家臣の團蔵演じる半沢民部も加わった。あざやかな顔見世で、満場やんや。上出来。
中幕は『熊谷陣屋』 熱演の吉右衛門演じる熊谷次郎直実に、御大富十郎がみごとな白毫弥陀六実は弥兵衛宗清を持ち前の工夫で明快に立派に観せ、花やかに位高く丈高い梅玉の義経と縦横上下に大きく対峙し、この大歌舞伎の格を弥栄に高くした。姿美しい魁春の藤の方、意気を秘めた歌昇の堤軍次、気格の友右衛門亀井六郎もみなそつなく所を占めて、とりわけさすが山城屋、藤十郎相模のわが子小次郎の首をみた動顛と悲しみの深さには泣かされた。播磨屋、山城屋、天王寺屋そして高砂屋、加賀屋、明石屋。この顔ぶれよ。
ここで昼食、名残の「吉兆」卯月之御料理。 三十分で食べきるのはいつものこと、惜しいし慌ただしいが。
八寸(鯛白子真子煮氷いんげん豆胡麻和え海老旨煮櫻すし一寸まめ) 造り(たい いか あしらい) 焼物(雉あゆ鰆南蛮漬け) 焚合(筍 ふき 粟ふ 蒲焼) 椀盛(油目 わかめ 木の芽) 御飯(白ごはん 香物) 果物(ゼリー寄せ) 歌舞伎座店
さて一部のキリが、また颯爽・清冽、上々出来の勘三郎親子が『連獅子』、満場を割る大喝采とはこれであった。勘太郎、七之助という梨園でも比類無い才能の兄弟が、父中村屋の鞭撻と薫陶を得て一分の隙もなく親獅子のまえで谷へ落とされ跳び上がり、歓喜の毛振りも目をみはる奮闘。床を践む足音も高く心地よく、微塵崩れず。つかう指先まで凛々と空を彫琢する気味のよさ。期待を裏切らぬ清颯の陽気に胸の底まで照らされ洗われた。感謝。
「茜屋珈琲」で一服し、すぐまた第二部の開場へ。真中央通路際、四列目という最上乗の席をもらって、身震いのする晴れやかさ。
そこで開幕は、これぞ当代一選りすぐりの顔ぶれで『寺子屋』。松王丸は当然の高麗屋、松本幸四郎の本役。これほどこの歌舞伎役者で当代に傑出した演劇俳優でもある人にうってつけの役はすくない、祖父吉右衛門・幸四郎、父白鸚の大きな基盤を践みながら稀代の彫刻家の如く役の藝を流暢に緻密に彫り起こして行く。「科」という動きも「白」という言葉も精妙で。その幸四郎に優るとも劣らぬ気魄で武部源蔵を演じるのが松嶋屋の片岡仁左衛門、四列目という間近真ん中から直視できる源蔵の眼光はおそろしいまで不安と覚悟に剣の如くかがやき、この松王武部の対決ほどこの四月名残の歌舞伎座で期待させたものはなく、期待に応えて名作の舞台は緊迫して爆発しそうであった。加えて中村屋勘三郎の武部妻戸浪、松王妻の千代は大和屋、坂東玉三郎の対峙である。この二人を凌ぐ人気の役者はいないのだ。さてこそ戸浪の気魄、千代の覚悟と悲しみ、打ち砕かれるように泣かされたのは、当たり前。
歌舞伎座最後の興行を藝術的に完成させた『寺子屋』に、しんそこ感謝した。
中幕の『三人吉三巴白浪』大川端庚申塚の場は、これは、ご愛敬で。なにしろ音羽屋尾上菊五郎のお嬢、播磨屋中村吉右衛門のお坊、そして成田屋市川團十郎のお坊吉三が出そろっての大顔合わせだ、木挽町に名残を惜しむ観客へこれはもう歌舞伎座が贈るサービスそのもの。
それにもいや優る美しい、真っ盛りの藤と松との大舞台を独り占めに懐かしく愛嬌の色気こぼるる優美の極致は、やはり山城屋、あの大名題の坂田藤十郎の『藤娘』が第二部を盛り上げて締めくくった。なんという美しい色気の役者か、舞台を圧倒する大きな大きな翠したたる松壽の大樹、その松をさらに凌ぐ沸きたつような藤波の美しさ。その大舞台をものともせず出入りして、そのつど替わる色香の女衣裳で、ものの二十歳とみえていささかの老優ともうかがわせない藤十郎には、以前の成駒屋鴈治郎、さらに前の花の扇雀時代の大活躍がしっかり裏打ちされてある。中村屋の『連獅子』とともに山城屋の『藤娘』は、いかに懐を痩せさせようがためらいなくわれわれ夫婦を四月歌舞伎座へ吸引する大の誘惑にほかならなかった。大満足で二部を観終えました。
そのまま予約しておいた劇場内の喫茶室「櫓」で休憩して、いよいよ第三部へ。
開幕は、いわば長老中村芝翫のための、黙阿弥作『実録先代萩』で。乳人浅岡を演じる御大成駒屋には孫、橋之助の末子宜生を浅岡一子千代松に、松嶋屋仁左衛門の孫、孝太郎の子千之助を幼君伊達亀千代に選抜し、老巧の名優とあどけない子役たちとが懸命の対照芝居を客に満喫させる演目。その舞台を堅牢確実に枠づくりを手伝うのが、大高麗屋の松本幸四郎の演じる、伊達の客老片倉小十郎。そのコンビネーションでなかなか味な心理劇に出来ている。舞台を華やかに、局たち、京屋の中村芝雀、立花屋の市村萬次郎、成駒屋の中村扇雀、松嶋屋の片岡孝太郎らがとりどりに江戸の櫻を籠にして幼君を慰めに顔を揃える。妻曰く、「芝翫、さすがね」と。その通りの舞台であった。
そしていよいよ名残の大歌舞伎大切りの大芝居が、ご存じ歌舞伎十八番の内でもとりわけ花も実もある河東節十寸見会御連中の『助六由縁江戸櫻』で。花川戸の助六実は曽我五郎は籤取らずの本命本役、病癒えてめでたい成田屋の市川團十郎、豪奢華麗で実のある花魁三浦屋揚巻は大和屋の坂東玉三郎、他に考えようもないこの上ない配役。豪華なこと歌舞伎の醍醐味の凝ったような美味しさで、江戸歌舞伎座の真実大喜利に「助六」と来て異をとなえる誰一人も無い。
この芝居は、『寺子屋』や『勧進帳』のような筋書きの生きた名作とちがい、美しくて面白くて見映えの名場面をスケッチとして次から次へ積み上げて行く。さてこそ勘三郎のような途方もないうま味と愛嬌の役者が通人として立ち現れ、助六や、音羽屋の御大、尾上菊五郎の演じる白酒売新兵衛実は兄曽我十郎の「股くぐり」を強いられる場面など、満場爆笑の喝采となる。登場人物の多いこと派手なこと、数えようがない中で片岡仁左衛門のくわんぺら門兵衛役もわれわれ観客にはすてきなサービスで。そんな中で、敵役の髭の意休実は伊賀平内左衛門の左団次・高島屋、一昨年にも平成十六年にも観ているが格段の充実・完成度でまことに美しいほど堂々と内面の大きい立派な意休であった。感じ入った。玉三郎のことなど、もう何にも云うことはない、揚巻やまた「吉田屋」の夕霧太夫を演じに生まれてきたような最良の美の化身。此を追うのが三浦屋の白玉を演じた中村福助やあの尾上菊之助になるだろう。実は端役の若手ながら傾城八重衣で舞台に並んでいた尾上松也も、底知れぬ美しさで成駒屋や音羽屋を追いかけるのではないかと予測しておく。このままでは勿体なく、もう少し「助六」舞台から呼び出しておくと、福山かつぎ寿吉の坂東三津五郎、朝顔仙平の中村歌六、五郎十郎の母曽我満江の中村東蔵、三浦屋女房お待つの片岡秀太郎、それに冒頭の「口上」を相務めた市川海老蔵など。
やんやの拍手喝采で、まこと名残惜しく惜しくわたしと妻との「歌舞伎座」体験は閉幕した。十時。三年後に新歌舞伎座が出来るという。オリンピックの四年間より一年短い直ぐだという声もするが、永くも感じる。気をつけ、慎重に長生きをはかるとするか。

* その足でタクシーを拾い日比谷の帝国ホテルへ。新年度の「ザ・クラブルーム」の会費を払い込んできた。ゆっくり、地下鉄と西武線で帰宅。
妻の誕生日も、かく、無事に。
2010 4・5 103

☆ 再び、本のこと  播磨の鳶
吉川幸次郎、駒田信二という名前が気になっています。と言うのも吉川も駒田も中国文学者なので、水滸伝は中国の原本の水滸伝ではないかと。そうでしたら「綾足のとほうもない大作が読んでみたくなった」と言われる鴉の希望とは外れてしまいます! 早とちりだったかもしれません。もし中国の原典の訳でしたら、まあ暇なときに楽しんでくださるよう。
綾足の本朝・・の抜粋でしょうか、本朝水滸伝;紀行;三野日記;折々草は新日本古典文学大系に収められているので、もしかしたらお手元にあるかもしれません。1959年に出た『本朝水滸伝』は後篇だけが入手できそうですが、いかがですか?
ここ数日テレビで『伝統芸能の若き獅子』というシリーズを見ていて清々しい気持ちになりました。尺八の藤原道山、津軽三味線の上妻宏光、歌舞伎の市川亀治郎、みな背負うものの大きさ重さを知り、しかし彼らは才能とひたむきさ柔軟さをもち、伝統からさらに新たな境地に進んでいこうとしています。わたしは全くの傍観者だからこそ、いっそう「凄いな」としか言うしかありません。それにしても若いとはピカピカ。いいですねえ! と嘆くばかり。

* ウーン 中国原作の可能性が高いですね。もしそうでも喜んで読みますから、感謝に変わりなく。
綾足の『本朝水滸伝』がどの程度の長さかも知らないでいます。新日本古典文学全集が岩波のモノなら、その一冊で足りているのかもしれませんね。いま目録を持たないので分かりませんが。岩波の古典全集なら見付かる書店があるだろう思います。尋ねてみます。
綾足のこの本は、いかにも私好みで、『みごもりの湖』の昔の世界を放胆に拡大した「叛逆物語」のようです。これは読んでみたい。
しかし中国の『水滸伝』も実は読んでいませんので、楽しみです。中国文学は詩や詞や説話はまずまず、また長い三国志は読んでいますが、金瓶梅も西遊記も、とにかく大きな小説物語は殆ど読んでいません。ま、敬遠してきた、或いは手がまわらなかったんです。
イーディス・ウォートンの「エイジ・オブ・イノセンス」は、面白く昨夜読了。わがコトの穿鑿や思案に負けて目が冴え眠れないので、読み切ってしまいました。映画で主演した好きなミシェル・ファイファーをイメージしながら、魅力横溢の「女性」を実感しました。
亀治郎というのは、初対面で逸材だと確信した役者です。まだうんと若い頃、猿之助といっしょに「湯屋」の「なめくじ」役でしたが、所作の奇妙な美しさと巧さに驚歎しました。踊れるのです。その後の活躍は、当然です。問題はこれからの「科白」であろうと観ています。
いろいろ気を遣わせまして。ありがとう存じます。ともあれ、よしなに。 保谷の鴉
2010 4・15 103

* 奇妙に艶な滑稽な夢をたぐりたぐり寝過ごして、午を越していたには惘れたが、午後からをたっぷり好きに使い、もう時計の針は十時半過ぎている。
かすかに腹部の不穏を感じないではないが、楽しいことなどを考えたり、実際に予定を立てたり、コクーンや演舞場のチラシを眺めてにこにこしたり。
連休明けの六日には勘三郎や、名子役の鶴松たちを、ちょいと覗きに行く。幕の時間も場所がらもほどよく、あとを、どう、どこで楽しもうかなと。もう呑むと食うとをメインの楽しみに組むのは自粛した方がいいと思っているので、夕景夜景の場所を求めたい。
本命は十三日の演舞場。昼の部、「寺子屋」を海老蔵と染五郎が松王丸と武部源蔵、勘太郎と七之助兄弟が千代と戸浪の女形で対決。先日幸四郎・仁左衛門の、玉三郎・勘三郎のすばらしい『寺子屋』を観たばかりだ、さ、どう肉薄の好演を約束してくれるか。
二番目は好漢勘太郎といまや立女形福助の「吉野山」。分けて優秀な二人の創造力が花やかに物哀れに期待できる。
三番目は妻の喜ぶ力感溢れる実力松緑の「魚屋宗五郎」が、黙阿弥劇の辛味をどうビリリと利かしてくれるに違いない。
キリは染五郎の晴れやかに粋な独り舞台の、所作事「お祭り」です。この優の新著『歌舞伎のチカラ』面白いですよ。
夜の部がまた豪壮哀切「熊谷陣屋」で幕が開く。これまた歌舞伎座四月に吉右衛門、梅玉、富十郎、また藤十郎、魁春という顔ぶれで第一級の舞台を創作したばかり。それを若い染五郎、海老蔵、また歌六、さらに若い若い七之助、松也で演じるのだ、その意気壮と謂うべし。一にかかって、この幕は、期待の市川染五郎がどんな勢いと歌舞伎「チカラ」とで、父幸四郎や叔父吉右衛門の豪快で緻密な藝へ肉薄するかの正念場になる。情に流れず、内なる剛力の姿美しい爆発を期待する。こういう時機を待っていたのだから、わたしは。
次いで踊り達者な松緑がお家藝の「うかれ坊主」を観せる。お祖父さん松緑晩年の「うかれ坊主」に顎の先から浮くほど持っていかれた想い出がある。或る意味で期待一の独り舞台。
大喜利がこれまた「助六」と来たものだ。海老蔵、満を持して身構えている。三浦屋揚巻は四月玉三郎に対抗して、籤取らず次代を担う福助。染五郎が白酒売りで花を添える。四月左団次の意休が絶妙だったが、五月は歌六。この人が梨園の重鎮にのし上がって行く大きな試金石になろう。
ま、多大の期待をかけて楽しみに行くのが礼儀というもの。
2010 4・29 103

* 卯月尽、そして歌舞伎座が今日とうどう閉場する。閉場にも、あの建物にも、名残惜しさはあるが、まず一通りの思いで。
それより三年後の春新築を楽しんで待とうと思う、元気に。その間の日本丸の無事航海をこそ願う。

 

木挽町名残の歌舞伎座

* では、新装歌舞伎座「こけら落とし」の大歌舞伎興行発売の筋書に、「ご挨拶」を寄せる総理大臣は、さてさて、誰だろう。無事鳩山由紀夫のままであるか、じつはその方が気になる。鳩山は崩れ去り、政界再編後の誰かがいかにも型どおりの「祝辞」を寄せるのか、またぞろ、悪夢のような自民党総理が書くのか。
民主党に、誠心誠意の政治を、せめてもう三年続けていて欲しいとわたしは願っている。菅も、前原も、長妻も、枝野も、仙谷ら大臣も、また蓮舫その他副大臣・政務官諸君も、どうか、わき目ふらず他念も他意もなく、真剣無比に自身の職務と職能に前向きに励んで欲しい。いたずらな権勢への仲間争いや、建前での安い自己主張の快などを道草のように貪らないでいただきたい。

* 「歌舞伎」は、歌舞伎座が無くても滅びない。だが「日本」はほろびて行く懼れ極めて濃厚。
なぜなら「少子化」問題一つでも、あっというまに日本国は世界に類例なき悲惨の荒波を真っ向浴びるだろうとは、世界が、既に注目しているのだから。
温暖化での世界不安に加算されて、我が国では少子化による数十年内の大没落は各種の統計から必至とされている。
実はそんなことは、今から四十年以前に、わたし自身、国立公衆衛生院の、常は温厚そのものだった林路彰先生にガーンと叱られ、識っていた。まだ家に娘一人だけと聞いて日頃穏やかな先生が本気で怒られた、日本は人口減少で真っ向亡国の懼れが現に統計的に分かっているのに、秦さんのような人が、子ども一人で澄まし込んでいていいと思うのか、と。わたしは当時「公衆衛生」という月刊誌を実に熱心に編輯担当していたのだった。

* 福島瑞穂は、担当大臣として、少子化改善のため何をしているのか、よく見えてこない。それより担当大臣の職務以上に、社民党党首意識が強く、党勢拡大のため、あたかも防衛や外務の仕事の監督でもしている気だ、連立内閣を揺さぶって党の存在感をマスコミへ売っているつもりらしい。
普天間などより、少子化問題の方が、現実の確率において、じつは百倍も日本のためには怖ろしいのだという事を認識して、あの人、少子化担当大臣を務めているのだろうか。心許ない。
2010 4・30 103

* 連休は、型どおりには今日で終わる。まだ数日、公認で会社が休みというようなところも有るらしい。
明日は、わたしたち、後楽園で、勘三郎らの小芝居をたのしんでくる。これから月末へ、楽しみもあるけれど、緊張の高まってくる日々がつづく。校正が出揃ってくると、これとの格闘はなまやさしくない。約束の講演に、久しぶりに乗り物に乗らねばならぬ。
2010 5・5 104

* 文京シビックホールでの中村勘三郎公演は、北条秀司作の演目を見たときから歌舞伎というより所作事めくレビューと予期していたとおり、甚だ低調な舞台で、いかに勘三郎、扇雀がよく踊って笑わせてくれても、波野久里子が平凡、坂東弥十郎が下手とあってはお手上げ、終幕は寐てしまった。
せっかく勘三郎をタテに立てるなら、いっそお得意の松羽目狂言を高坏でも、身替座禅でもいい、二つ見せて欲しかった。演目の企画がまるで失敗と、予想したとおり、思う。あたら、中村屋の顔見世、勿体ない、惜しい、と。
受付で成駒屋夫人の挨拶を受け、しばらく立ち話した。
立ち役の扇雀は、とても宜敷く、また踊りの師匠役らしく踊りの手がたいへんスマートで感心した。中村屋もさすがに柔和に美しく踊ってくれる。踊りの好きなわたしは、巧い踊り手だと少々演目が安くても、嬉しくなる。

* 二時半開演で四時過ぎにはハネていた。車で春日通りを一路、厩橋手前まで。
日盛りで晴れ渡り、橋越えにいま評判の押上の造り掛けハイタワーが、みごと目の上にそびえ立っているので歓声を上げた。これなら何も足下へ出向いて首が痛いほど仰向かなくていい、最良のスポットだった、厩橋あり隅田川あり朝日ビールのタワーもあってしかも群を抜いて高空に晴れやかに見える日本一高いタワー。がっしり太い。

* 妻と厩橋を東岸にゆっくり徒渡りし、そのまま隅田堤を上へ、駒形橋の東詰めまで川を見たり船をみたり木々や草を見たりし、楽しんで散歩。今度は逆に西へ徒渡りして、橋畔の「麦とろ」で健康食。
ぶらぶらと雷門からひさご通りを抜け出て、言問通りからタクシーで鶯谷駅まで戻った。今日は隅田の橋をまた二つ歩いて渡ってきた。
2010 5・6 104

* 資料やゲラを読みに出掛けなければ。どうしても机のある階下へおりても、目の前でテレビが鳴っていては思案も何も。なんであんなにテレビを付けっぱなしでないと暮らせないのだろう。
来週は月曜歯医者、それに演舞場歌舞伎がある。、次週は夏場所、次いで俳優座があり、そして講演旅行。それらの間に、「湖103」を、桜桃忌メドにうまく進めないと、これが遅れると、七月法廷の心用意に障ってくる。忙しい老人だこと。
2010 5・7 104

* 雨。血糖値95。たいへん、けっこう。六時間は寝た。出掛けたかった。仕事のため必要でもあり、気持ち安静のためにも楽しみにしていたが、雨。
仕事の進行状況からも今日明日集注しておくと、いい段取りになる。昨夜、ひととおり読書のあと、取り組んでいるゲラ後半を、一通り読み終えた。風変わりな一編の新機軸を、醗酵と純熟へ、一字ずつ一句ずつでも近づけたい。そして、跋も。
演舞場の花形歌舞伎が、近づいている。楽しみ大きく、入れ込むぶん心地よく疲れもするだろう。外歩きとあれこれ思案を兼ねた楽しみは、その後日に。そうこうするうち、講演の日が近くなる。あらまし用意したが、よりよい形へよく整えておかねば。

* 雨やまない。仕事は進んでいる。
2010 5・11 104

* さ、明日は、染五郎、勘太郎、海老蔵、七之助、松緑を大いに楽しんでくる。
2010 5・12 104

* 晴れ。新橋演舞場で、花形歌舞伎、終日。
主な演目の昼の寺子屋、夜の熊谷陣屋、助六が、四月の歌舞伎座と同じなので、なかば懸念と多大の期待をもって出掛けたが、全く以て上の三演目とも、若さは若さ、当然のこととして、若さが新たな時代を拓いて行くのだという実感を十二分に持たせた染五郎であり、海老蔵であり、勘太郎、七之助であった。
寺子屋の海老蔵松王丸も染五郎武部も、勘太郎戸浪も、七之助千代も、そればかりか松也の北の方も、若い世代の新味の「寺子屋」を力一杯演じて臆するところ無かった。新時代の幕開きと認めていいと嬉しかったし、したたか泣かされた。
同じことは、それ以上に染五郎の熊谷に言えた。
いつか染高麗の熊谷で満足したいと憎まれ口も叩いてきたが、じつに臆せずと堂々、しかも染五郎なりの新味も打ち出し、感動は、おさおさ四月の吉右衛門に劣らなかった。
海老蔵の義経がじつに立派に舞台を大きく盛り上げていた。歌六の弥陀六も感じ入らせたし、七之助の熊谷妻もさりながら、松也の藤の方が出色、目をみはった。
寺子屋と熊谷と甲乙つけがたく、期待したのを大きく凌駕して新たな感銘作を創作してくれた。
助六の海老蔵、福助の揚巻、七之助の白玉、歌六の意休、秀太郎の満江、猿弥の通人、もとより染五郎の兄祐成で、水入りまでの全員敢闘は、けっして四月の団十郎、玉三郎、左団次、菊五郎たちに負けず、むしろ「助六」は若い海老蔵のこの奔放が似合っていると想われた。こういう芝居なのだと想わせたのは、彼の手柄。
それに福助が、堂々と気の入った実のある意気のある揚巻で、立女形の貫禄を立派に見せた。水入りまでやらなくても仕上がっていた。
もう一つ勘太郎と福助との吉野山が、猿弥の藤太の上出来も添えて、堅実な舞台だった、所作の面白さを秀才の勘太郎が魅力イッパイに魅せてくれた。収穫。
染高麗のお祭り、松緑のうかれ坊主は、あれぐらいは当然。
残念ながら魚屋宗五郎は練れていなかった。

* 新橋演舞場は舞台が歌舞伎座より狭い分、芝居の密も熱も集注して悪くない。これからも楽しみたい。

* 助六の水入りで、はねて、銀座一丁目まで歩き、幸い有楽町線で坐れて幸便に一気に帰ってきた。楽しかった。
2010 5・13 104

* 昨日、国立劇場の人間国宝の会 座席券を頂戴しました。感謝。
昨日、新橋演舞場、些かの不安と多大の期待をもって参りました。
不安どころか、期待を上超す若い人たちの力演で、感動しました。新しい時代への大きな一歩の印されましたことをとても嬉しく実感しました。いつの日に、染高麗の、父上や祖父上の跡を慕う若く力強い熊谷や寺子屋の舞台が観られるのだろう、と、久しく想って待ってきましたが、若さは若さとして当然ながら、その若さに漲る意欲と新たな工夫、また責任感もありあり見受けられ、立派にサマになって新時代が新時代らしく動き出したなあと、舞台への感動に加えた感慨で、涙と共に拍手を送りました。演舞場の、適切に歌舞伎座より狭い舞台が熱も密も集注させ、いい意味で若さに応援していたのも有り難いことでした。
加えて、最良の座席を昼に夜に選んで下さいましたご配慮に、夫婦して心より感謝しました。
さて待望の十月「カエサル」の予告を劇場で、また帰宅して知りました。カエサルの『ガリア戦記』また、『ローマ史』は愛読書です。シェイクスピアの上超す舞台に出逢えますことを楽しみに。
勧進帳のご無事大成功の巡業を祈ります。お大切に。  秦 恒平 2010 5・14 104

* 小田島雄志氏が演舞場の「助六」海老蔵を新聞で褒めていた。わたしの思いとほぼ寸分違わない。観ている人は観ているモノだと頷いた。
海老蔵は新之助の頃から助六は数度やっていて、丁度助六を演じるにふさわしい若さの絶頂へ近づいているのだ。もう團十郎で観ると若づくりが気になるだろう。新旧交代の微妙な折衝期に在るのだとまた頷く。
その点、「松王丸」にしても「武部源蔵」にしてもまた「熊谷直実」にしても、海老蔵も染五郎もとても若さでは凌げない藝と年輪が必要になる。そんなこと彼らは充分心得ていて、精一杯背伸びもし、父や先輩たちに学びに学んで懸命に演じていたのが、胸に届いてくる。観ていて胸が熱くなる。
染五郎が今回熊谷を演じるにあたり、父幸四郎は、つききりで指導に励んだと聞いている。習う方も顔色をかえて必死で学ぶ。父も子も、ともに懸命。だから歌舞伎は生き延びて行く、力強く。
2010 5・17 104

* 夕方近く、歌舞伎役者中村屋の人達に密着取材しながら歌舞伎座の閉座までを追った懐かしい写真に、ホロリとした。
思えばこの十数年、わたしたちが歌舞伎にうちこみ楽しんできた体験は、筆舌の及びがたい幸せであった。それがもし無かったら、なんという味気ない十数年になっていたろうと思うほど、楽しんだ。高麗屋、松嶋屋、成駒屋の格別の厚意・高配に預かったのも幸運という以外にない。中村屋勘三郎、大和屋玉三郎、播磨屋吉右衛門など、卓越した役者たちとも時代を共に出来た。
こう気が衰えてくると、歌舞伎座のなくなった寂しさがじわっと身に染みてくる。
2010 6・2 105

* 明晩は国立小劇場で「人間国宝の会」を楽しむ。ひとりで行く。主に音曲だが、高麗屋松本幸四郎が最後に出演して舞を観せてくれる。雨が降るかも。雷雨とも。それもよし。
2010 6・3 105

* むかし「蘇我殿幻想」の取材で亀戸天満宮を訪れたことがある。久しぶりにもう一度行ってみたいと思っている。地図を観て、そこから十間堀川まで歩いて、川沿いに隅田川まで浅草通りを歩いてみたい、業平橋も渡ってみたいと。

* 今日は予報の雨もなく雷雨もなく。暑さに負け、酒を飲んだ。それから、国立小劇場へ。開場の五分前。
開場して中へ入って、三十分後に開演、開演して河東節の「松竹梅」を聴いているその途中まで胸が苦しく、荒縄でグルグル巻にされた按配、脈は急行電車ように早い。苦痛と不安の中、落ち着いて、持っている血圧降下剤をやや間隔を置きながら、結局三錠のみ、効果の程のややあやしい古いニトロを、やはり間隔をあけて二度飲んだ。よほど危ないなあと思ったが、国宝山彦千子の三味線で河東節の浄瑠璃を聴き惚れている内、いつかかき消すように苦痛が去っていた。助かった。
家を出がけ、玄関で俄かに血圧をはかったとき178もあり、降圧剤を一錠飲んで出掛けた。京都で講演直前に血圧が高いと感じて咄嗟にクスリを飲み、おかげで成功裏に話を聴いて貰えたのだったが、当分、用心しなければならない。

* つづく新内「千手の前」は、米川俊子の箏や田中之雄の琵琶、それに国宝堅田喜三久の鼓も加わって、新内仲三郎が弾き語りで人間国宝の藝をしっかり聴かせた。物語は熟知した平家物語もの。うっとり聴いていた。
NHKのカサイ・アナの司会はとても好きになれないシャベリであったけれど、要領よく曲の妙味を告げ知らせていて、その点はプロであった。
休憩のアト、義太夫「新版歌祭文 野崎村の段」 浄瑠璃は可憐な娘義太夫ならぬ国宝竹本駒之助のオババ義太夫、よくよく筋の知れた名場面であり、鶴澤津賀寿の三味線が安定感抜群、鑑賞に堪え、音も美しかった。さらに終幕、土手と川との野崎詣りをさらに六人の美しい三味線が加わって悲しい場面に賑やかな迫力のツレ弾きは、まこと聴き物であった。嬉しくなった。
そして今夜のトリは、高麗屋松本幸四郎が悠々としかも端然かつ閑雅な風情でくりひろげた「広重八景」、これが美しかった。人間国宝は新内の弾き語りに仲三郎、小鼓に喜三久、加えて上調子の新内仲之介もなかなかよかった。

* 幕になったところへ高麗屋の夫人がみえて、立ち話を少々。会員に推薦した松たか子が、今年のペンの催しに「朗読」してくれると。感謝。
今日は全席自由席と聞いていたのに、前から五列目通路脇の最良の席をもらっていて、幸四郎の踊りがとてもよく目にも胸にも届いた、これまた感謝感謝。
出だしは苦しく不安だったが、帰りは気もしゃんとして、タクシーで市ヶ谷まで行き、地下鉄で幸便に西武線へ直通に乗れて帰ってきたが、保谷で、今日初めて雨に遭った。タクシーが直ぐ来てくれた。
2010 6・4 105

* 昨日は晩までで作業をやめ、入浴し食事をし、上腹部に膨満痛が来た。横になり、、軽快したかなと起きたところへ、和歌山の親しい読者から電話が来て、話している内に腹痛が満潮のように襲い、電話を切ったアト激しい悪寒をともなう発作が起こり苦悶状態になった。狭心症様の苦痛と腹部の苦痛とをこらえたままニトロと降圧剤と精神安定剤とを間隔を置いて呑み、苦痛は一時間に及んだが、そのまま寝入ったらしく、今朝まで。
痛みはぬけているが脱力して活気なく、コクーンへ勘三郎を観に出掛ける前に立て直せるかどうか。左の肩がきつく張って痛んでいる。
これが現状。
お天気は回復し、戸外は明るいようだ。肩の上に巌を負うたような痛みがある。散髪屋がイツモビックリするほどわたしの肩も背も石のように硬い。

* それでも、渋谷へ、串田和美新演出の「佐倉義民伝」に最前列真ん中でかぶりついてくる。いい気分転換になればよろしいが。

* 串田和美と中村勘三郎だから出かけた。歌舞伎座に掛かればもともと陰々滅々の芝居だ。それをどう渋谷のコクーンでまた一つの現代的別世界に構築するか。
それにしても保谷から渋谷まで、歩くのも大儀で屡々立ち止まり、ガマンならず渋谷駅から歩いて直ぐの文化村まで、タクシーを使った。全身ガチガチに硬く痛く腰にも脚にも厄介な痛みが固まっていた。舞台が始まればと気の変わるのを期待していたが、始まって早々に寄せ来る嘔吐感がありビニール袋にすこし粘状の唾を吐いた。それですこし落ち着き、精神安定剤を二錠、ニトロを二錠、間隔を開けて呑み、降圧剤も二度呑んだ。痛みは和らいで、打ち込んで舞台を楽しめたけれど、五体の硬い窮屈感と腹部のむかむかする違和感は終始収まらなかった。
しかしながら舞台は素晴らしく展開し、串田和美に心から感謝し、勘三郎以下の俳優たちにも席を立って絶讃の拍手を献じたかった。最前列中央上手の通路際に平場の絶好席をもらい、舞台の演技は手に取る如く、しかも少し足を投げ出せて助けられた。
悪しき政治に虐げられ疲弊と飢渇に喘ぐ領民のために、名主宗五は一揆暴発を懸命におさえて果敢に手を拍つが、代官も領主も、また終に直訴に及んだ将軍家綱も、佐倉の宗五ばかりか妻も、稚子の三人も惨殺して憚らない。
串田はこういう状況を、悪性の権力支配と手も脚も出ない民衆との対比に置いて、現代に到る諸事情にまで視野を延ばしながら、宗五郎の生き方に共感と共に当然の批判も加えつつ、断乎とした民衆の戦いに期待する契機をきっちり舞台に残した。群舞というべき多人数のラップの刻みも興奮と共感とを盛り上げた。

* わたしは最前列で思わず声を漏らして泣いた。嗚咽は、舞台の盛んなカーテンコールが果て、劇場の外へ出ても収まらなかった。こんなことは、初めて。
こういう新解釈と歌舞伎の現代化とを、俳優座なども大胆に心がけて欲しい。なまぬるいホームドラマなど俳優座の為すことだろうかと何時も思う。

* 劇場の外へ出てもわたしの体調には元気のしずくもなく、ゆるゆると、よろよろと歩くのが苦痛だった。辛うじて「松川」まで来て体力も必要かと店が自慢の鰻を食べた。ビールも少し呑んだ
鰻の「松川」二階で、瓢の掛花入れの花があまり小気味よいので、写真に撮ると、店内の或る婦人客から「お花のお好きな人は長生きなさいますよ」と声を掛けられた。感謝。
そしてゆるゆると地下を歩いて副都心線を、小竹向原乗り替えで保谷まで帰ってきた。
2010 6・15 105

* 九月の秀山祭、九月の国立劇場の案内が来た。
2010 7・15 106

* 九月演舞場での秀山祭を予約。吉右衛門と播磨屋、仁左衛門、梅玉、段四郎、東蔵、染五郎、松緑ら。ほかに重鎮の藤十郎、富十郎、芝翫。女形は魁春、芝雀、福助ら。
十月国立劇場の真山歌舞伎も予約。 萬屋あらため新しい播磨屋復帰の歌六、歌昇を率いて吉右衛門。それへ高麗屋染五郎、京屋芝雀が加わる。
2010 7・16 106

* 今日はやす香の仲良かったお友達を誘い、やす香もきっといっしょに、中村勘三郎の楽しい芝居を観に行きます。
2010 7・27 106

* 赤坂ACT劇場で、中村屋の「文七元結」と、七之助の「鷺娘」を観てきた。やす香の親友を誘った、やす香もきっと一緒に観ていたろう。はねて、千代田線で原宿へ、「南国酒家」で中華料理を食べてきた。いい小半日を過ごして、妻と池袋経由で帰ってきた。したたかに暑かった。
2010 7・27 106

* 颱風が西に迫っているという、東京へはまだ影響していないが、風がやや物音をさそい、心もち気温もしのぎよい。久しぶりに歌舞伎らしい歌舞伎、だといいが、新橋で楽しんでくる。今日は、夏休み。

* 新橋演舞場は海老蔵の凱旋公演、加えて新婚の夫人がロビーに初登場というおまけの華も付いて、いい雰囲気だった。三部制の納涼公演の第一部と第二部だけを成駒屋に席を頼んだ。第三部の「四谷怪談」はこの際、遠慮。

* 大いに楽しんだ。
座頭格は、中村福助。「暗闇の丑松」でチョー柄の悪い四郎兵衛女房お今と、すぐ引き続いて「京鹿子娘道成寺」の白拍子花子。ふたつとも貫禄の上出来で、今や福助は若手ではない梨園の立て女形の地位へ着々にじり寄っている。
人気は、だれより市川海老蔵、これまた一段と大きくなり、科白の「白」には過剰な海老蔵ブシが先々の難課題になること請け合いだが、「科」即ちからだの働きは、目を見張るほど美しい。まだポーズの見映えに傾いて、動いている美しさは未完成と雖も、花道といい上手への引き込みといい、実の忠信と狐忠信の仕分けといい、また物凄い福助の鬼形を堂々と釣り鐘へ押し戻す大館左馬の器量といい、申し分なく花形歌舞伎の芯になる花形。「義経千本櫻」の鳥居前、道行初音旅、そして川漣法眼館から宙乗りで花吹雪に迎え取られて三階へ消えて行くまで先ずは圧倒的に愉快に面白く、かつ物哀れに孝行狐の情愛をみせて、妻もわたしもしっかり泣いた。
五月の「助六」で大いに場を確保して歌舞伎世代の有意義な推移を実感させた海老蔵。
わたしは躊躇なくこの美事な役者ぶりの贔屓になるだろう。
さしもの勘太郎義経が海老蔵の前で遠くちいさく見えた。勘太郎のために、これはいけない。あの義経は、ことに法眼館で忠信の詮議を命じる義経は、もっと或る意味甲高い強い存在で座頭の地位をみせつつ、狐への情を滲ませる結びへ行かねばならない。
さて静の七之助、先日赤坂での「鷺娘」不出来をしっかり取り戻す出来で、しかも花道芝居の美しさ、道行でのロマンチックな気分の開放気味など、ああ佳い女形になって行くなあという嬉しさを今日もしっかり魅せてくれた。よしよし。
猿弥の早見藤太、御苦労さん、いい役所を大切に演じていた。もう一人注目したのは、贔屓のしのぶ。とみに幅も豊かさも出来、並びの女中を先頭で率いる威勢がついてきた。もし中村屋の弟子筋なら、なつかしい「もしほ」などという名跡をもらって名題昇進してほしい。

* 第二部開幕の「暗闇の丑松」はたいした期待もなかったが、これは橋之助が柄に合い、台詞の難も目立たずに年相応の一途な気の良さと無分別とを、出映えのする美貌と大柄とで生一本に打ち出した。恋女房の扇雀お米を、兄貴と信じて委せた四郎兵衛弥十郎におもちゃにされ、悪所を売り廻され、あげく再会の場で悲歎の余り縊死して果てられた哀しみと怒りをぶっつける。その修羅場を表に出さず江戸時代の湯屋の楽屋裏をおもしろく、いたっておもしろく見せながら、巧みに収束した。
扇雀もあわれ、お今は物凄く、風呂屋の三助ぶりが出色だった。
一人湯をうめておくれと湯殿から半身を見せた女のしろい背中の色っぽさに、思わずゾクリ。あれはしのぶだったと妻は断言するが。
以前に一度見たときはいい芝居とは思わなかった。今日は、尻上がりによく見せたのは橋之助の御苦労甲斐であった。
そして「道成寺」は佳い演出で、福助の緩急自在、愛嬌ありお侠な花子ぶりは余裕綽々の楽しい所作、そこから一転して険相の鐘入りとなり、猛烈に物凄い鬼形と化しての舞台狭しののたうちは、みごとにコワかった。妻など怖い怖いと大騒ぎ。鳴り物や唄ものはいまいち盛り上がっていなかったけれど、福助の健闘は所作ゴトの嬉しさ楽しさを満喫させてくれた。ありがとう。

* 茜屋珈琲でマスターと三人だけで小一時間歓談、休息。染五郎が本に書いていてすてきにオムライスの美味い店というのがどこか知れなかったのを、マスターに教わり初見参。
いやあ、あんなに美しい美味いオムレツは、生まれて初めて、美術品のようでしかもとろける卵味のすばらしいこと、讃嘆三嘆。歌舞伎役者の愛しているお店らしく、中村屋、成田屋、松嶋屋らの色紙などが入り口にずらり。ちょっと惜しんで、店の名前も場所も書かない。
そして銀座一丁目から折良く来た西武線へ直通の有楽町線で帰宅。楽しい夏休暇だった。満たされてきたので帝国ホテルのクラブは割愛した。
2010 8・11 107

* 先日、赤坂で勘三郎としのぶとの「文七元結」でホロリと泣いてきたが、昨日の圓生では、娘お久のけなげで一途な親孝行ぶりに、また泣かずにおれなかった。こういう娘に育てたかったと云うのではないにしても、お久のように貧しい悲しい限りの日々を強いられていて、果ては身を売ってもそんな親父の道楽を諫め、母の苦境・窮境を救おうとするお久のように、もしあの娘・★★▲▲を育てていたなら、被告どころで済まなかったろうか。
同じ悲しい涙は、先日の「狐忠信」でも流れた。初音の鼓の皮二枚にされてしまった父狐母狐の子狐は、その両親を慕いに慕って忠信狐に化け、初音の鼓に逢いにくる。静の深い情けにも義経の温情にも恵まれて忠信狐は初音の鼓を賜り、驚喜乱舞して花吹雪を浴びながら天涯へ去って行く。どんな思いで父と母とが海老蔵芝居の花やぎの中で泣いていたか、証言席で「被告と実の親子に相違有りません」と肯定したあの原告・★★▲▲は、いったい何を考えていたのか。誠実ももののあはれも反省の表情も無かった。
2010 8・15 107

* 松嶋屋から十月錦秋歌舞伎の案内が来た。我當も吉弥も出る。「近江源氏先陣館」それに三勝半七「艶姿女舞衣」とは有り難い。中幕に「どんつく」がある。夜の部だけで佳い。ゆっくり出掛けられる。
2010 8・16 107

* 秀山祭九月大歌舞伎の座席券が届いた。芝翫、藤十郎、富十郎の御大が立ち、大将連は二代目吉右衛門を要に、仁左衛門、梅玉。以下連名に従えば、魁春、左団次、段四郎、東蔵と渋いが、芝雀、福助、続いて歌六、歌昇と播磨屋組が復帰の顔見世。そして孝太郎、錦之助、松緑、それに染五郎が四役で、大トリの「引窓」で大役。
見ものは昼の「沼津」これを播磨やの三人と京屋、高麗屋という秀山初世吉右衛門の身内で競演する。それと三御大の所作事が昼のトリに山城屋、夜のひけ前に芝翫と富十郎。まだまだやるよという歌舞伎踊りを満喫したい。それと吉右衛門の「俊寛」だ。
「引窓」は大先輩力演の大トリをとって、染五郎、松緑、孝太郎といった若手が引き締めよく盛り上げるか、試金石。はい、楽しみです。こういうことを書いているとき腹具合の変など忘れていました。
十月錦秋には幸四郎の史劇「カエサル」が、我當も元気に「近江源氏」と「三勝半七」に出てきてくれる。この月は、松本紀保の出るらくだ工務店の公演「動かない生きもの」も有る。
2010 8・19 107

* 寝入る前に、圓生人情噺で一、二に好きな「中村仲蔵」を、一時間余じっくり聴いた。妻ももうひとかどの歌舞伎の通であるから、斧定九郎の舞台も目に見るように分かる。噺のなかへ分け入るようにして一席の噺が楽しめる。嬉しくなってくる。
2010 8・20 107

* 松たか子が来る正月にコクーンで「十二夜」をやると報せが来たので、すぐ座席を注文した。このまえ尾上菊之助がガラス張り舞台でやり、父菊五郎が役の上で盛んに嗤われていた。嗤っていた大将格に市川亀治郎がいた。面白かった。
松たか子の舞台がもう目に見えてくるようだ、なんと、片岡亀蔵や笹野高史に加えて串田和美まで出演するという、しかも端っこのほうでかな。出演は顔ぶれを揃え、ちょいと贅沢品だ、楽しみだ。
2010 8・21 107

* 明日は豪華版の「秀山祭」。楽しみ。涼しかれ。
2010 9・13 108

* 新橋演舞場の秀山祭。昼夜通しての一の感銘作、収穫は、染五郎が南方十次兵衛をたぶん初役で演じた「引窓」。染五郎近年の成長を決定的に安定して完成の域に近づけた好演に、拍手を送る。ベテランの何人もの芝居を繰り返し観てきたが、染は、何よりも役と年齢とが自然にマッチし、先輩を意識してムリに力んで逆らうことなく、もちまえの実と善意とを、素直に役に滲ませた。義母への孝心、女房への信愛、義母の実子濡髪長五郎へ敢えて躊躇いのない行き届いた配慮。すべて快くすべて感動へ繋いでムリがなかった。ムリがないという好演には、「素直な感動」という観客からの好意を引き出す最大のサービスがある。役者の仕事には、一つにはこれが有って大きい。染五郎の芝居にそれが有った。ニンに合っていたと思わせる自然さに、懸命の努力と勉強が生きていた。今月第一の褒美・賞美である。
所作事の多い演目のなかで、昼の藤十郎「壽梅鉢萬歳」夜の芝翫「鐘ヶ岬」富十郎「うかれ坊主」は、さすがに舞・踊りのよろしさを満喫させてくれた。殊に今日は芝翫の美しい舞いざまに感嘆。
また昼の開幕、梅玉・魁春兄弟の業平と小町の所作も、夜の開幕、梅玉・松緑の猩々に芝雀の女酒売りの所作も、楽しい見ものであった。
所作事五つの演し物がみな宜しかった。

* 期待した昼の「沼津」は、いまいち。歌六が初役の平作、懸命に懸命を尽くしていたが、「懸命」を超えて出て行く「自然な熱演」には、ムリもない、距離があった。吉右衛門の出の剽げた感じが過ぎていたので、先を追うほどに舵取り修整が観ていてしんどくなった。一つには名作と言われながら、筋の展開に自然の必然味が動揺しているのだ。
我當の平作を観たときは泣いたのに、今日は涙が少しも湧かなかった。

* 真山青果の「荒川の佐吉」は駄作であった。展開にも演出にもムダが多すぎ、感傷過剰で、仁左衛門の熱演が勿体なかった。台本が悪いと、こんなに間が抜けるという見本のような舞台で、退屈し、眠気におそわれ、涙とも縁がなかった。

* 流石に夜の「俊寛」と「引窓」には畳み込んでくる筋書きの展開に、「沼津」ですらなかった「ぬきさしならない緊張感と速度感」がある。吉右衛門の俊寛はさすがの完成度で、加えて大敵の段四郎、座頭格の仁左衛門が贅沢な存在感で芝居の重みをがっちり支えた。吉右衛門が安心して俊寛に打ち込んでいたから、感度は、凄いほど。胸が震えて、そして静謐な激情のまま幕になった。
「引窓」東蔵の母親、殊に孝太郎の女房お早が出色、いい女形に成ってきた。父仁左衛門も頼もしいことだろう。

* 大ギリの「引窓」があんまり好かったので、高麗屋の番頭さんに帰りがけ駆け寄るように妻もわたしも声をかけて来た。旧歌舞伎座の傍で興奮のまま冷たい飲み物を飲んできた。

* 往き帰りの車中は、校正。雨になり、保谷駅前でタクシーを待つ行列に並んだ。
2010 9・14 108

* 十一月の歌舞伎顔見世、十二月の国立劇場の案内がきた。
顔見世は、昼に「天衣紛上野初花」の通しで、幸四郎の宗俊、菊五郎の直次郎、三千歳は時蔵。「通し」が有り難い。
夜はまず「逆櫓」の樋口に幸四郎、畠山重忠に富十郎というのが嬉しく、芝翫の所作を挟んで、大ギリに黙阿弥作、花子惣太の「都鳥廓白浪」の通し、菊五郎と菊之助それに時蔵。期待に心浮き立つ。
師走の国立は「仮名手本忠臣蔵」の三段目、四段目、道行、七段目、そして討ち入りから引き揚げ。師走ならでは。幸四郎と染五郎
が芯をかため、福助の顔世とおかるが楽しめよう。七十五歳を祝って貰おう。
2010 9・18 108

* 十月の歌舞伎も、松嶋屋から好席が届いた。「近江源氏先陣館」は盛綱陣屋。仁左衛門、團十郎に、我當、秀太郎と松嶋屋が勢揃いする。中幕「どんつく」は團十郎、富十郎、仁左衛門、三津五郎、梅玉、左団次らおお賑わい。
夜の大切りは「艶姿女舞衣」の酒屋。福助がお園と半七、孝太郎が三勝、それを我當が宗岸で締める。錦秋の楽しみ、新橋演舞場。 2010 9・21 108

* 忙しい極みながら、それでも今日は新橋演舞場で、年来の友片岡我當出勤の「近江源氏」やとりわけ楽しみな三勝半七「酒屋」の宗岸を観に行く。仁左衛門、團十郎、梅玉、三津五郎、福助、秀太郎、魁春、左団次と、賑やか。左団次が不調から回復していてくれるといい。
我當の出ない昼の方は、「頼朝の死」や「加賀鳶」で、こちら失敬。
2010 10・7 109

* 新橋へ出る直前に、有元さんお心入れの「御前酒で鯖寿司を」の贈りものが届いた。お酒と寿司と。このご馳走をお芝居に持参しないなんて。
早速お酒も小さめの瓶に移し、寿司には切りを入れて適した器に入れ直して。ひときれ早速頂戴した鯖のうまいこと、驚嘆。

* 舞台は断然、「盛綱陣屋」がよく、仁左衛門は立派。團十郎の和田兵衛はちょいと異色。我當の北条時政は多年の貫禄、しっかり座をおさえて結構でした。
なにはさて、この舞台では三老女の一人母微妙の秀太郎が美しく丈高くて。
孝太郎が盛綱妻の早瀬なら、めずらしく進之介まで出てきて、松嶋屋が一つ舞台に居並んだのは盛観であった。
盛綱妻篝火が魁春。注進二人の信楽太郎が三津五郎、伊吹藤太が錦之助。どちらも所作なかなか秀逸。
だが何と謂おうか、小四郎役の子役の、こわいほど巧かったこと、したたか泣かされました。同じ「陣屋」では、わたし、熊谷よりも盛綱陣屋が好きである。楽しんだし感動もあった。松嶋屋の三兄弟が揃って同時に一つ舞台に立つと京都が匂い立つのは、わたしの勝手な感傷であるが。

* 幕間に、妻と、御前酒を味わいながら、美味しい鯖寿司を嬉しく御馳走になった。吉備びと有元さん、有難う御座いました。

* 二つめの「どんたく」は七、八、九世の三津五郎追善の演し物で、当代と息子の巳之助をなかに大勢役者が揃って所作を付き合うが、ま、三津五郎の踊りの確かさを楽しんだだけのもの。

* 大切りは「艶容女舞衣」の酒屋。これは人形浄瑠璃の飛び抜けた名曲、それを歌舞伎役者が演じると、終始一貫の愁嘆場になる。福助演じるお園のチョボ芝居はなかなかのものだが、泣きの涙に終始するので必ずしも客受けしない。しかし我當の父宗岸と福助の娘お園の花道も、酒屋に入って姑の吉弥も舅の竹三郎も、力のある役者たちの力演で、やはり名作であった。舞台が動いて孝太郎の三勝と半七の出に変わる、と、お園変じて半七の福助、その風情がめずらしかった。

* 往復ともに、朝に届いた下巻の再校ゲラを読み耽って。この仕事、とても楽しい。
2010 10・7 109

* 明日は国立劇場で、吉右衛門の真山歌舞伎「天保遊侠録」と「将軍江戸を去る」。後者では山岡鐵太郎を染五郎がやる。

* 今日、十一月演舞場の顔見世興行の通し座席券が届いた。昼に通し狂言「天衣紛上野初花」で幸四郎の河内山と菊五郎の直侍が競演。夜は「逆櫓」で樋口次郎兼光を幸四郎が、「都鳥廓白浪」で忍ぶの惣太を菊五郎が主演し、中幕で例の子供衆を引きつれた芝翫らの所作がある。「逆櫓」では富十郎が畠山重忠をやる。秀太郎、魁春、時蔵そして菊之助ら女形も充実、楽しみ。
師走の国立では仮名手本の「祇園一力茶屋」など、父の由良之助に息子の染五郎が寺岡平右衛門でぶつかるのが楽しみ。わたしは師走のその日、七十五歳になる。
2010 10・19 109

* 小雨のなか、永田町から三宅坂の国立大劇場に入る。
萬屋の歌六、歌昇兄弟が播磨屋に復帰して、御大の吉右衛門を囲んでの敢闘公演は、ご趣向の真山青果新歌舞伎。
はじめに「天保遊侠録」は海舟勝麟太郎の父小吉の芝居で、麟太郎は凛々しい美少年の姿でひとかどの役をする。小吉は吉右衛門が洒々落々と演じ、芝雀の藝者八重次が色を添えた。染五郎がおもしろい役で律儀に付き合っていた。
青果の芝居は、熱血に富むと同時にどこかに、ン? と思わせる何かを孕んでいる。この芝居、しっかりと面白く纏まっているが、年若い麟太郎が伯母中臈阿茶局にで駕籠で御殿勤めへもっていかれるところは、分かったような分からない様な理屈になる。ま、いいかという気分で幕になる。吉右衛門、わるくはない、なかなかいいが、一にも二にも次の芝居への筋道をつけた格好。わるくはない。ま、いい。

* 次は「将軍江戸を去る」。これぞ、青果歌舞伎の代表作と挙げていい出来映え、いきなり品川の官軍陣営で大西郷と幕府の勝安房との江戸城明け渡しの談判。歌昇の西郷吉之助が大変な熱演で、沈着でシッカリ大きい歌六の勝安房との対峙と腹藝とは、播磨屋へ復帰を記念し、優秀な好場面を盛り上げた。以前にも観ている芝居だが、はるかに今回が宜敷く、盛んな拍手も何度も劇場に沸いて小気味良かった。
上野の山彰義隊門前を経過して、将軍慶喜と山岡鐵太郎の対面と激論の場が、これぞ吉右衛門、これぞ染五郎の真剣勝負で感動させた。品川といいこの場面といい、日本の命運を分けて行く難路であった。厚く涙も煮えた。
そして大喜利は千住大橋、まさしく将軍江戸を去り、日本に近代の幕があがる記念の一と足を踏み出す場面。吉右衛門はりっぱであった。見送る染五郎も堅固に役をつとめた。
滋味溢れるといっておこう、真山青果という作者の不動の位置が在ったことを、喜ばしく実感できた国立劇場の半日、大いに楽しんだ。前から三列、しかも前の二席がたまたま空席であったので、さながらの特等絶好席で、吉右衛門とも染五郎とも、もうそこに触れあうように芝居に混じって来れた。高麗屋の番頭さんに礼をのべて劇場をあとに。

* 地下鉄でふたつめ、有楽町の帝劇モール鰻の静かな「きく川」で。うまいうな重、菊正二合。そしてモールで妻にちょいと面白い服をみつけて買い、一気に保谷へ帰ってきた。
ちょっと怪我をしている黒いマゴが留守をしてくれた。いい芝居、いい休息だった。
2010 10・20 109

* 音羽屋につてがなく、音羽屋が芯になる舞台の予約がしにくい。師走の日生劇場は、菊五郎・菊之助で演じる「攝州合邦辻」と松緑・時蔵で演じる「達陀」が観たくて、妻が電話で奮戦努力、ま、佳い席が取れたという。よしよし。楽しみ。妻は松緑贔屓、わたしは菊之助が観たいし「達陀」のダンスも大好き。前には菊五郎が大汗で奮闘好演してくれた。今度は元気な松緑だ、家の藝だ。
日生劇場が先で、今年のおお締めには、国立劇場で幸四郎と染五郎がガチンとぶつかる仮名手本の「祇園一力茶屋」そして「討ち入り」とは、なかなか。とても楽しみ。そして年が明けると、鬼が笑うが松たか子の芝居が待っている。
いやいやその前に十一月の「顔見世」がもう直ぐそこで手招きしてくれる。その前に、おおかた湖の本の下巻が送りだせるだろう。
2010 10・31 109

* 新橋演舞場に終日。
昼の部は通し狂言「天衣紛上野初花」で、河内山は高麗屋、直侍は音羽屋、三千歳は萬屋、当代の適役。松江公を演じた錦之助の出色の力演を褒めたい。團蔵の暗闇の丑松、田之助の按摩丈賀が芝居のしどころを得、役者も客もよろこばしく。友右衛門にそろそろもっと活躍のきく役をさせたい。
河内山は、見慣れている。幸四郎が楽しそうな程に役に遊んで、しかも克明な芝居であった。三千歳の時蔵は実のある情け芝居が身に沁み、好感好感。清元連中の浄瑠璃「忍逢春雪解」がいい、延壽太夫以下で十分聴かせてくれた。四幕目の入谷村蕎麦屋、大口屋寮の場、相思相愛の美男美女の純情、気持ちがいい。いかに人間が悪党であっても身内の思いをしかと重ねた男女の相愛は、身に沁みる。男と男とでも、大詰め池の端河内山妾宅の場の河内山と直侍との、気っ風のいい思い澄ましての心中の決意、気持ちがいい。「俺たちに明日はない」の映画が、河内山と直次郎と三千歳に想われたりするから面白かった。

* 芝居は、しかし、夜の部が断然面白かった。
幸四郎、段四郎、魁春、高麗蔵そして富十郎の『ひらがな盛衰記 逆櫓』が、圧倒の舞台になった。高麗屋の船頭松右衛門実は樋口次郎兼光の堅固に機敏な、しかも情の深いサマ変わりの大きさは、名品。だがだが、この舞台でぶわと熱い涙を噴いたのは幸四郎にでも段四郎にでもなく、ちっちゃいちっちゃい金太郎君の「さらば樋口」の鶴の一声。思わず腰が浮き、涙が噴いて出た。あらすじを話さねば人には分からないが、とにかく肝を奪われた。感動した。涙を溜めたまま、幕になるとロビーに出て高麗屋の女房殿と話しに行った。奥さん曰く、つい先日、あの小澤征爾氏が観に来て、まったく同じに「金太郎君の一声で泣いた」と。さもあろう。今日随一の名セリフであった。
中央前から三列目の通路際は、終始松右衛門また樋口と真正面に顔の合う絶好席。ひしと顔を観、眼を観て芝居に入り込める面白さ嬉しさは言い尽くせない。

* その嬉しさは大切りの『都鳥廓白浪 傾城花子・忍ぶの惣太』でも。
これはもうお目当ては、菊之助に極まり。傾城であれ、盗賊であれ、若君であれ、ぞっこん惚れてしまって、しまつのわるいほど輝く美しさ。玉三郎も抜いたであろう、いまや美貌では並ぶ女形はいない。その菊之助とひたと視線があって動かないそういう席にわたしは座っていた。それだけで恍惚としたが、その菊之助がめまぐるしく舞台の上で変化し活躍する。
黙阿弥劇のこれでもかこれでもかというけれんの波を縫うように芝居が展開する。ときには笑ってしまうぐらい。あまりの驚きに、近い座席で大声をあげる小父さん達もいたのが愉快であった。
この芝居でも贔屓の團蔵がいい役を生き生きと演じ、歌舞伎味をしっかり濃くしてくれていたのが嬉しかった。

* 大満足で九時半に演舞場を出て、近くの中華料理の店で紹興酒を500ml。海鮮野菜のラーメンがうまかった。銀座から、幸い保谷まで座って帰れた。楽しい一日で、スッキリ。
2010 11・9 110

* 夜前は、歌舞伎界の便利帳のような本を買ってきたのを、読み耽っていた。夜中の読書は血糖値を下げるのか、三時頃ふと違和を覚え計ってみると、67。調整して、寝た。
2010 11・10 110

* このところ圓生についで、就眠の前に、文楽、志ん生、小さん、三木助、可楽、柳昇、金馬などの噺を聴いていた。優れた文章に「文体」があるように、うまい落語には鮮明に「話体」の興奮がある。圓生の精緻な想像力と話術に迫るほどのはいないが、それぞれに一国一城を堅固に守って秀逸。ただ、すべてが故人となっている。

* 高座への出囃子を、関東のどの噺家ももっている。それもいいが、ま、短くて、記号か符丁か合図の程度。
ところが圓生百席は、噺の始終に出囃子とはちがう音曲や囃子や唄をたんまり聴かせてくれ、中には圓生自身がすばらしい喉を聴かせてくれる。痺れる嬉しさだが、こういう面白い音楽がいっつたい今やどこへ散佚し消滅したのだろうと思いもする。
明治の初めに、この手の音楽の妙味を、国是かのように追放してしまい、音楽といえば西洋音楽や声楽に強引に限られた。よほど狭く限られた狭斜の巷か花柳界か歌舞伎等の舞台でしか聴かれなくなった。少なくも一般社会からは消え失せ、大の音楽好きな若者達も、誰も、長唄も清元も常磐津も新内も浄瑠璃にも自ら口を出すことがない。端唄も小唄も地唄もやらない。都々逸の楽しみすらない。是は奇妙に不思議な話で。面白くないなら仕方がない、が、面白いのである。唄も面白いが、楽器のアンサンブルも途方もなく面白く豊かに美しいのである。わたしも妻も、テレビからそういう音楽が聞こえると、おやとそっちへ顔も耳も向ける。引き寄せられる。
昨夜も藝能花舞台で福助がおもしろい新内に合わせ、さすが惹き寄せる踊りを見せていたが、福助の藝にだけではない、音曲のおもしろさにふと用事の手をとめて聴き惚れたのである。
現代とのコラボレーションとして津軽三味線だけはときどき登場しているが、我が友、望月太左衛が懸命に努力し公演しているような近世音曲・音楽の現代的な再現が、もっと世に迎えられて活躍すると佳いのにと思う。

* 日本舞踊はけっこう普及しているが、これは歌舞伎舞踊とは質が違い、武原はんや井上八千代級の名人ものはべつだが、概して歌舞伎役者のそれよりうんとずっと水っぽく、観ていられない。
昨日の藝能花舞台でも、またいつもの舞踊家の出演かと見過ごす気で一瞥し、お、と思った。ちがうのだ歌舞伎役者の踊りそのものが。ありゃら、福助じゃないか、と忽ち惹き込まれた。
女形の踊りは女性の舞踊と、根本、タチがちがう。濃厚で充実していて美しい。踊る技術にプラスして実にふんだんに、女性舞踊家のそれよりも表現が「べつの栄養分」を湛えている。福助なら福助の占めている時空支配の質が、ただの女性舞踊家のそれとはまるで異なる。魅力に溢れる。或る意味、踊りの技の冴えからすれば福助よりも玉三郎よりも菊之助よりも上手な舞踊家のいるだろうことは認めている、承知している、が、しかも時空の活躍する面白さが、歌舞伎役者の舞踊はまるで別だ。タチがちがう。
女が女をどう美しく舞い踊ってくれても水っぽく、その上に妙にムズムズする気味の悪ささえ時に感じてしまう。「性」としての女を感じてしまうらしい。歌舞伎役者の「女」にもむろん性的に誘惑されるけれど、その女ぶりはカッコつきに「女」と謂うしかない、とてつもない副作用の効いた魅力に満ちている。福助だと気付く前にその「女」にわたしは取り付かれていた、そして面白い音曲の妙にも。
2010 11・15 110

 

* 当たる卯歳正月は、歌舞伎の高麗屋も松嶋屋も大阪松竹座へ出勤で。かわりに、俳優座が、記念の「リア王」に招んでくれている。松たか子の芝居も予約が出来ている。晴れ晴れと年を迎えたい。
2010 11・16 110

* 人気の市川海老蔵が大怪我と、騒がしい。おそらく海老蔵だからの確信犯の仕業であろう。これもまた日本の歪みの一つの現状であり、「藝能跋扈」「榮爵藝人」への、底辺からの近親憎悪に近い嫉視や憤懣や激怒が爆発し、象徴的に梨園成田屋の御曹司に惨劇をもたらしたと観られる。基本的に祝言藝を伝統の職能としながら、普通私民より「上」に立つ下意識がその社会性に歪み捻れを暴露していたのが、激しく揺り戻しの感じで咎められたものと想われる。蛮行は許されない。だが海老蔵にも反省が必要だ。伝統藝能を
深く愛し贔屓に想いつづけてきたわたしだから、海老蔵の進境にも喝采してきたわたしだから、敢えて苦言も呈する。

* 師走には、音羽屋の菊五郎・菊之助父子で「攝州合邦辻」、松緑・時蔵で「達陀」があり、高麗屋の幸四郎・染五郎父子で「仮名手本忠臣蔵」がある。心より待ち望んでいる。
もしこんな時に、海老蔵が一役も二役も持っていて怪我で休演となればどんなに落胆するだろう、だが現に他の劇場で、京は南座の顔見世のような大舞台で大穴をあけ代役の救演を仰いでいる。よく親の死に目にもあわず舞台を勤めたと美談のように報じられるというのに、深夜に泥酔してまちがっても喧嘩沙汰になり、財産である役者の顔に深傷を負うなど、論外の愚行でしかない。
2010 11・30 110

* 海老蔵の騒ぎにマスコミは狂奔しているが、マスコミからもコメンテーターからも「問題点・現代に藝能と藝能人とは何であるのか」への洞察が少しも出てこない。

* いまや日本列島に跋扈している最大のものは、不出来な政治家や器量のない実業家たちだけでなく、やすもののタレントや予備軍をかかえながらの「ゲーノー人」である。この気運は謂うまでもない戦後に出現した家電「テレビ」が用意した。「現代日本」は、これを論究しないでは解説できない。そしてこれを真実解説するには、歴史への深い視野があらためて必要になる。
上古から、ほぼ十四世紀までの「藝能」という「職能」の世に在り方は、中世後期といわれる鎌倉末から南北朝の頃を大きな回転期に、物凄く変容した。
わかりよくいえば、それ「以前」には、天皇や神仏のちからを背景に、むしろ普通人とは異なって、畏怖にあたる或る力・異能の持ち主たちとして「藝能という職能人たち」は、一種奇妙に選別こそされていたが、卑賎視は承けていなかった。遊女も天皇の子を産んでいたし、勅撰和歌集に秀歌がとられてもいた。牛や馬に日々触れていても、その牛や馬じたいがある種聖別されていて、そんな牛や馬の扱える人間も、むしろ公や勢威権門からの免除特権などを得ていた。
ところが十四世紀頃を境に、牛や馬も四つ足の畜生視されるようになり、それらとともに日頃在る車借・馬借の徒たちも、従来の強いて謂わば「聖別」から「人別へ、差別へ」卑賎視されはじめた。多くの職人・職能がそのように社会的な低落の坂を滑り落ち、それは或る面で、天皇や古い公家方権門の衰退と歩調をみごとに合わせていたのだった。
職能人・藝能人の聖別から差別への文化的な大転換期が十四世紀にあったと、網野善彦氏をはじめ多くの学者たちがはっきり認めている。その変換の荒波は、江戸時代を通じ、いくらか個別の復権や社会化はみせながらも、基本的に変わらなかった。団十郎であれ能役者であれ、同じであった。一匹扱いだった。明治になり大正になり、昭和になっても概ね同じで、西欧文化の輸入により西欧風の美術や音楽や服飾などには世間の向ける視線もちがったが、子弟が日本型藝能の世界へ迷い込むのを悲しまぬ普通の家庭はなかった。
文学でもそうであった。小説を書くなどということがいかに忌まわしい恥ずべき真似であったか、官界に出ようと謂うような子弟にとってどんなに唾棄される極道であったかは、たとえば芹沢光治良の雄大な『人間の運命』にも事細かに明確に証言されている。「白樺」の御曹司達は、持ち前の向こう意気と教養とで、西欧文化をかついで出て、「父兄」の反対を乗り越えた例外だが、大方は三文文士の乞食なみに見る世間と闘っていた。狭苦しい文壇と私小説とでやりくりするのが関の山であった。
映画や舞台の女優、踊り子、俳優たち、歌手たち。それがどのような扱いを受けていたかは、遊女なみに所持を強いられた鑑札にも明らかで、わたし自身じかに、優れた歌手であった淡谷のり子の口から座談会の中でそういうことを告白されていた。まさか今はそうではあるまい。

* 先ずは、すこぶる「いいこと」とわたしなどは、だから、芸能人の社会化を歓迎し声援したのである、そういう藝能と藝能職能人らの久しく強いられた身の桎梏から、やっと昭和戦後に到って、はじめて晴れやかに解放されてきた、解放されていった「時勢」の大きな事実を。
わたしは京都の街なかで育ち、わたしには何の能も無かったし縁もなかったけれど、少年以来根底に「問題視」して今も手放さないのは、「差別」「人間差別」そのなかでも分かりよくいえば「藝能差別への、不当だという怒りであった。例えば『風の奏で』『初恋』や『日本史との出会い』など、差別を強く咎めるモチーフに触れた自作は、わたしの仕事の大半を占めている。

*  だからこそ、また、わたしは続発する藝能スターたちの痲薬犯罪などに怒り、また今回海老蔵の無思慮な思い上がりに顰蹙する。これら犯罪や蛮行を必然世に送った根底のモノは、「藝能跋扈」「榮爵藝人」という、どこか、かなり、行き過ぎて図にも乗った時代の潮だと、わたしは、思う。同時に真の批評家や学者・批評家たちが、十四世紀以降にまた劇的に起きている今日の「文化的な大転換」の歴史的意義を、社会史としても文化史としても鋭く動的に論究してくれることだ。
だが、気をつけて見て聴いていても、そういう気配すら無い。海老蔵のことも、ただの「事件」の一つとしてしか見られていない。

* 天皇家をはじめ皇室に関わる時代の意識が、にわかに反転逆行して、マスコミや政治家どもが率先へんな「おべっか」をつかいはじめると、またぞろ日本は「大変」期に迫られる。新井白石は歴史の流れを、幾つもの「変」の連続として観測し、批評し、把握した。
なんだかイヤな「変」が、それも古くさい「変」が身に迫る気がする。きつく御免蒙る。
2010 12・2 111

* 夜半来、物凄いように雨降り、遠雷も。八時に床を出た。雨はやんでいた。
* 朝からテレビは海老蔵漬け。やり過ぎ。人気者だからという気だろう、気が付けばそこに、ある種、藝能という職能への「別」扱いがある。昔の人別扱いではないが、今の特別扱いである。褒美とばかりは謂えぬ過剰な別扱いである。芸能人で儲けているテレビマスコミや赤新聞なみマスコミの無思慮な別扱いである。だれよりそれに藝能人が気付かねばならぬし、気付いている人もいて、そういう人の行儀は行き届いている。
2010 12・3 111

☆ お元気ですか。

『中世の非人と遊女』が、地元図書館にあるようです。今度行ったら借りてきます。
私語を拝見しますと、とても興味深い内容に思われます。
私の大学の卒論は、近代における歌舞伎に対する認識の変化について考えようとしたものでした。
民族や階級差別の数多くある中で、藝能はどうして差別から脱却できたのかを(脱却できた、は言いすぎかも知れませんが)。
神事にまつわるところから発生した藝能が、近世の身分制度で最下層に組み入れられ、近代以降、国策もあり引き上げられ、映画やテレビが登場してからは蔑視されることが少なくなったと感じます。
藝能は、ほかの被差別層と異なり、独自の変遷を辿っているようにも見えます。
近世の藝人差別は、身分制度上のことであって、たとえば歌舞伎役者は、実際には錦絵が売れ、やんやと大向こうのかかる大衆のスターだったからなのでしょうか。
私の卒論は、思い返せば、とてもとても論文なんてものではありませんでした。
卒論は、やり残した宿題のように、いつも引っかかっています。  花

* せっかくのメールに、いま話題沸騰の海老蔵暴行事件が触れられていないのは、物足りない。
こういう問題に一等必要なのは、徹して地道な通史の勉強だろうと思う。一例にして、「河原」とは、「河原で生きる」とは何事であり、何によりそれが強いられたり、可能であったりしたのか。簡単には言い切れぬ途方もない奥行きがある。そしてそんな穿鑿が今必要なのかという問題もある。
海老蔵個人の「思い上がり」を咎める声はすでに出始めている、が、海老蔵「個人の問題」ではない。彼は藝能全容を代表する一象徴的存在として、ほぼ確信的に叩きのめされたと思えるフシがある。もしそうなら、それは何故かを、海老蔵に代表される仲間内広範囲の人達も、その人達を過剰なまでに甘やかし持ち上げてきた国民も、この際、考えてみたが好いと、わたしは感じている。

* いま、能役者の能装束の豪華な美しさに感嘆しない人はいないが、あのような現実を超えた華美の衣裳の定着しはじめた慣例は、能よりも遙かに古い。大事なお使いなどの、駄賃というにはあまりであるが、なにかといえば女の衣裳を使者にあたえて酒を飲ませ、使者は衣裳を頭にかぶって一舞いして帰っていた源氏物語の頃の風習までは仮に言わぬまでも、南北朝以降の能役者達を「褒美」した何よりの授けものは、派手な装束や衣裳である事が多く、役者はその戴き物を身に纏うて御礼に舞ったり、それを身につけて新たな曲を創ったりもした。
すばらしい栄誉のようでもある、が、むやみと豪華に装わせる習慣は、貴族や武将達が下級の家来達にさせる一種「差別」の見せつけですらあったのだ。バサラの行列で、珍奇な装束をつけて行列の先を払うのは、そういう下級の家来連中であった。はでな能装束も、極端に言えば、その手のあてがい扶持の「御恩」に類していた。演ずる藝は「奉公」であったとも謂える。
そういうバサラが横行し始めたのも、十四世紀の中世末期であった。それらの褒美自体が権勢による卑賎視にほかならなかった。「千両役者」も、いわば政治的に黙認された「権勢自体の安全装置」であったといえる。いわゆる世界的に行われている「3S(ショウ・スポーツ・セックス)政策」なんぞと、なんにも異なりはしなかった。目を向く「榮爵藝人」も、根底では政治的にも社会的にも卑賎視されていた。
それが、今日では、卑賎視が幸い稀薄になり、藝の力を認めるところへやっと伝統の力で近づいてきたのだ。海老蔵暴行事件は一つ間違うと、藝を台無しに元も子も無くしてしてしまい、さらには「藝能職能人卑賎視時代へ自ら逆行して行く」ことになると、それにまるで「気付いていない」のが、つまり浅はかな梨園御曹司中の御曹司の「思い上がり」なのである。

* それにしても「近代における歌舞伎に対する認識の変化について」は、容易ならぬ大研究の主題である。
そもそも「近代」とはどういう時代規定で、そのなかに何期を分かたねばならないか、から始まらねばならない。役者だけでなく歌舞伎界は、座と小屋の基礎的構成から、関係する人的参加者の広範囲に大勢なこと、など、目次を展開するだけで厖大で、しかもそれを「外」の社会や制度や人達が「認識」し、それが変移・変質して行くのを、たとえばテレビ「以前」と「以後」とで正確に観測し論攷して行くにしても、むしろ畢生の大仕事に部類される。まだ誰一人として大がかりにはやれた学者も批評家もいないのではないか。だからこそ海老蔵暴行事件が「象徴の意味」を持つのではないか。 これを徹底的に一生仕事にすることも出来る。ウーン。
2010 12・3 111

* 日生劇場で、菊五郎、菊之助、東蔵、時蔵、團蔵、梅枝、右近、松緑らの『攝州合邦辻』玉手と俊徳丸、および、松緑、時蔵ほか総出の『達陀(だったん)』とを楽しんできた。妻は、先日買っておいたネクレスをして。
菊之助の玉手御前は期待を裏切らぬ力演で、もはや父菊五郎の名跡をはやく襲名して欲しいとわたしは願う。父を凌いで、玉三郎のあとをしっかり支えてのし上がれる、魅力の大立女形になること必定、颯爽の美形にふくらみと大いさとが確実に出来てきた。
だが、今日の舞台を真実味の濃やかなものにした立役者は、東蔵演じる母おとくであったろう、おとくに引っ張られた菊五郎の父合邦も、終幕、すばらしい父の味を舞台にしみこませ、したたか、わたしたちを泣かせた。
この場へ辿り着くまでの通し前半の場面場面は説明的にすうすうと経過しただけ。だが、それがあるから終幕の大きな場が満ち足りて生きた。満足させてくれた。
この芝居は、根が人形浄瑠璃で、上方に根を生うている。以前、藤十郎の玉手、我當の合邦、三津五郎の俊徳丸、秀太郎の羽曳野で見た豪勢な顔ぶれの上方風は、はるかにこってりと玉手の複雑な性根、継子俊徳への継母の恋慕を表現して濃厚だったが、菊五郎親子の合邦と玉手父娘は、一途にきっぱりしていて、の情愛も性根も「江戸前」に思われた。それはそれで、よろしい。なにしろ、菊之助は、そして菊五郎と東蔵とは、りっぱに彼らの「攝州合邦辻」を見せてくれた。ありがとう。

* 次いでの『達陀』は、大勢で豪壮な「舞踏」の魅力に尽きている。時蔵演じる「青衣の女人」と、松緑が家の藝をつぐ僧集慶との過去の因縁話などは、煩悩折伏へ盛り上がるための前提の夢幻。
なんといっても、若い役者たちが大勢で一糸乱れず踏みならす豪壮な群舞の魅力に尽きて、松緑は、名指揮者かのように轟然かつ一斉の群舞を導き導き、じつに気味よく颯爽と舞台を燃え立たせた。よかった。ありがとう。

* 銀座三笠会館の「榛名」で、二時間、フランス料理とワインでゆっくりした。
婚約この方「五十三年」の思い出がある。
こまやかに気の入ったメニューで、胸にも腹にももたれず、デザートまで、なにもかも、すてきに美味かった。もうクラブに寄るまでもないと、銀座一丁目から帰路へ。雨にも降られなかった。竦むほども寒くなかった。

* と、まあ云うものの、むずかしい要事も併走するように追ってくる。頑張るのは必ずしも好きじゃありませんが、生きている限りは頑張らねば済まぬ、ということはあるのです。
投げ出してしまって「いさぎよい」と思う人もいるのだろうが、わたしは、そんなウソくさい「いさぎよさ」は嫌い。

* 七時過ぎには帰宅していたのに、もう日付が変わる。この間、弁護士のわたしへの質問メールにみっしり答えていた。一言で言えばそれだけだ。楽あれば苦ありとは真実ですねえ。
2010 12・7 111

* 昨日の菊之助玉手の悽愴な末期の芝居がよみがえって、すこし寝苦しかった。「達陀」にしても、あれだけ豪壮盛んな練行を持ってして抑え込まれる「煩悩」と闘う芝居と読むと、けっして軽やかなものではない。人間、ややこしいものである。
2010 12・8 111

* 例の海老蔵事件報道の過剰も極まり、さらに気になるのは、まるで「王子と乞食」にも類しそうな不公平報道の姿勢である。「元暴走族リーダー」というような呼び方に疑問を持たず、対比的に終始「海老蔵さん」という呼び方にも疑問を持たないでいるらしいマスコミの扱い方に、不審を覚える。事件の性質上、どちらにも今のところ被疑者の疑いがあり、ある種暴行の容疑がある。少なくも今のところ「一つ穴のむじな」とされて仕方なく、もっと冷静な報道であって然るべく感じる。
その一方での週刊誌の見出しなど、週刊誌自体の「やくざ」な顔を丸出しに、見るも恥ずかしいほど海老蔵らへの罵詈讒謗も尽くされている。情け無い。情けというモノが感じられない。ジャーナリズムにはそういうことが「ゆるされている」と錯覚しているのか、思い上がっているのは誰かと、そっちも詰問したくなる。
わたし自身を清廉といい潔白という思い上がりなど全く持たない、それどころかと忸怩とした日頃の実感にいつも苛まれていて、なおかつ敢えて、わたしはこういうことをハッキリ云うのである。
2010 12・12 111

* 建日子から明日夜遅くに帰るがいいか、明後日昼飯を一緒にと。残念。明晩は早く休み、明後日は朝が早い。
明後日、七十五歳になる、朝はやに出掛けて、国立劇場で幸四郎の初役という殿中の高師直を楽しみにしている。幸四郎、染五郎、福助の主な三人で、仮名手本忠臣蔵を、三段目刃傷から、四段目判官切腹・城明け渡し、浄瑠璃お軽勘平の道行を経て、七段目祇園一力茶屋、そして大切り十一段目討入りまで。左団次、彦三郎、友右衛門、錦之助、家橘、秀調、右之助、由次郎らが脇を固める。「大星由良之助本伝」と銘打ってある。
染五郎の重い三役、判官、勘平、寺岡平右衛門、殊に父幸四郎と真っ向ぶつかる平右衛門に大いに期待している。一舞台一舞台に大きくなってゆく「染高麗」を楽しみに。先日七日の「菊之助=玉手」に満たされてきた。負けないで欲しい。
2010 12・19 111

* 国立劇場  太鼓うって本懐祝ふ高麗屋

* 仮名手本忠臣蔵の刃傷の場は、幸四郎が初役の高師直を演じて染五郎の塩冶判官に斬りつけられるまで、見応えのある舞台だった。斬りつけられて尤もであると思わせる師直であらねばと演じられていた、歌舞伎のクゥオリティを崩すことなく。さすが高麗屋。判官も懸命に堪えかつ爆発した。染五郎、若々しく力演。
判官切腹の場では、左団次の石堂右馬之丞が行儀正しく、情味があって真っ直ぐの存在感であった。此の後、友右衛門の原郷右衛門がやはり行儀正しくきちっと演じていた。それらがあって幸四郎の大星由良之助の腹芝居が生きる。
七段目は、こざっぱりと中身を刈り込んで、福助の妹お軽と染五郎の兄寺岡平右衛門の場に重点をおくことで、遊興由良之助の苦渋と意気とを引き立てた。
討ち入り本懐、そして花水橋で義士一同と乗馬左団次石堂右馬之丞との出会いで晴れやかに大団円。総じてそつなくこの通し狂言に手が入っていて、キビキビとことが運んだ。昨夜はあまり眠れてなかったのに、気を入れて芝居を存分楽しめたのは有り難かった。
幕間、高麗屋の女房殿に声かけられ、誕生日を言祝いでもらった。妻とも、三人で、いつもよりながく四方山のはなしに興じて、ひとしお寛ぎ楽しんだ。あの日生劇場での「カエサル」奮闘の記憶も生々しい高麗屋、お疲れが溜まらないように願う。染五郎丈が益々充実してお父さんの持ち役を一つ一つ我が物にして行くまで、長生きしたい物だ。

* 四時半にハネて、タクシーで日比谷のホテルへ。ためらわず地下の「なだ万」へ。ホテル創業百二十年記念の料理、これが出てくる料理の一つ一つ洩れ零れなくみな、美味かった。こういう食事が出来ると溜らなく嬉しい。酒は八海山に。
あと、クラブへ席を替えると、シャンパンで誕生日を祝ってくれた。シャパンのあとキープしてある七十八年もの林檎ブランデーのカルバドスと、バーボンのブラントンを少しずつ楽しんだ。もうおなかは十分足りていたが、此処のエスカルゴは口当たりがいいので、妻と二人で分けた。妻が、新しい酒を買ってくれた。手は付けずに置いてきた。
ゆっくり、電車を乗り継いで保谷駅につくと、やっと予報されていた雨が降り出し、しかしタクシーがすぐ間に合って濡れずに帰り着いた。黒いマゴが驚喜して迎えてくれた。
2010 12・21 111

* 染高麗丈の舞台を観てきた先日、丈の番頭さんとちょっと話してきたのだが。
染五郎にことし贈られた四方山歌舞伎の本の中で、楽屋にあぐらで必ずお盆の茶を点てるという格好が写真で出ていた、まことに嬉しかった。ただ、どうもお茶碗がよくないなあと嘆息し、その時から彼、茶碗をもらってくれないかなあと思い続けていたが、さて、そういうことは簡単に言い出せない。なかなか難しくて、へたな真似は出来ない。
気軽に気楽に使えて、それも楽屋に備えた常什でなくては意味がない。置いておくのに気を使いすぎるような品では却って負担になる。あれかなあ、と、想い描いている品が在るが、さ、問題もある。そんなことを思い思い、しかし思っていただけであったが、貰ってくれるだろうかが真っ先の問題だった。で、先日、番頭さんを打診してみた。
今日、番頭さんから電話が来ました、貰ってくれるらしいのである。こう押し詰まっては、新年の何処かの好機にという事になるが、これがまた楽しみではないか。ああかこうかと思案に暮れて品さだめをしなくては。
ま、言い替えれば、わたし、染五郎が好きなのである。フフフ
2010 12・25 111

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