ぜんぶ秦恒平文学の話

歌舞伎 2012年

 

* 明日のうちに、いいところまで仕事を押し上げておいて、明後日は国立劇場の初春歌舞伎を楽しむ。
一月は諸検査を覚悟していたので、日程にカブリが来ないようにと、いろんな希望も予め見合わせておいた。
少なくも目下は十三日の金曜日に、午前と午後との科を替えての診察があり、二十七日には幸いにと言っておくがキャンセルがあってそこへ大腸の内視鏡検査が予定されている。この検査はマル一日がかりで相当消耗するので家人の付き添いが求められている。十三日の午後の外科診察では一昨日検査の精査を経た相談などもあるらしく、場合によれば手術の具体化が有るかも知れない。結果結論は、まだ確定はしていない。
十九日には恒例の初場所十二日目が見られるか、どうか。相撲茶屋から連絡が来るだろう。
二月にはぜひとも中村勘太郎改め六代目中村勘九郎襲名興行が覧たい、松嶋屋に座席を頼んである。
2012 1/7 124

* さ、明日は高麗屋父子と中村福助との、通し狂言「三人吉三巴白浪」など。
2012 1・8 124

* 国立劇場開場四十五周年祈念 初春歌舞伎公演は、高麗屋の当番で。
黙阿弥通し狂言『三人吉三巴白浪』は幸四郎の和尚、染五郎のお坊、福助のお嬢。手代十三郎に友右衛門、伝吉娘おとせに高麗蔵、土左衛門伝吉は松本錦吾、八百屋久兵衛は市川壽猿。
幸四郎はむしろ軽妙に若いお坊、お嬢につきあい、染五郎と福助の色の味もした出逢いから最期までがなかなかの情愛と凄艶、楽しめた。なにしろ難儀なほど絡んだ因果話、へたをすると陰々滅々の芝居に傾くのを、いわば指揮者の高麗屋は軽みの決めで、陰惨になるのを防いでいた。それで大詰の本郷火見櫓でのお坊、お嬢のいわば心中立てに哀れも愛も深まった。
双つ花道もはでやかに。
気分を大きく換え、二つめキリの芝居は、やはり黙阿弥の長く絶えていた『奴凧廓春風』を、たぶん染五郎の入念の注文を入れたのだろう、はんなり楽しい染の十郎祐成と福助の大磯の虎との舞鶴屋見世先でのアツアツや、高麗蔵の加わった軽快な所作事や、しっかり大きくなって懸命に巧みに凧揚げ熱心な金太郎と祖父幸四郎との喝采場や、染五郎奴凧の巧みな宙の演戯や、仰天したほど大きな猪と格闘する染高麗の奮闘など、場面をあやなしてくりひろげた洒脱な歌舞伎は、 肩の力も抜けてとても楽しく楽しめた。喝采できた。

* 高麗屋の夫人とも、かなり長々こころよく楽しく幕間に歓談できた。高麗屋の芝居の折りは奥さんとも出会って談笑できるのが、われわれ夫婦のいつもの楽しみで。今日は金太郎君のお母さんとも、にっこり。
国立劇場は舞台が広すぎてやや寒いのが難だけれど、各階ロビーの広さも、陳列の絵画の好さも、三階吹き抜けの天井の装飾なども、売店も、わたしは好き。
楽しかった。

* 都心へはむかわず、池袋に戻ってまた西武の「たん熊北店 熊はん」で、すっぽんの鍋と雑炊を芯に、刺身、ぐじの焼き物などで、この店の酒「熊彦純米」を二合、おいしく楽しんできた。ぐじの鱗揚げが絶品であるのを初めて教わった。気分も上々で帰宅。ほぼこれでお正月も、よかろうと。先のことは先のこと。
2012 1・9 124

* 二月の、勘九郎襲名は、昼も夜も、とてもわたしは観に行けないことになった。妻は建日子と行ってくれるだろう。建日子はぜひ歌舞伎の楽しめる、歌舞伎に学べる作者になって欲しい。いい機会を生かして欲しい。ああ、観たかった。
2012 1・20 124

* 入院前で時間にも体にも余裕のある二月前半に、必然行き損じてしまうことになる中村屋襲名狂言に入り込めないものかと、ねばり強く思案している。
三月になると、演舞場と平成中村座との案内が届いている。月の後半なら行けるか知らんと、念入りに思案している。
演舞場では昼の「荒川の佐吉」と、ことに「山科閑居」がぜひ観たい。山科閑居は好きな狂言で、過去のもみな良かったが、この三月は山城屋、音羽屋、成駒屋、萬屋、そして高麗屋の父子。観たい。
三月平成中村座はいうまでもない勘九郎襲名披露であり、我當君もしっかり重い役で出勤する。海老蔵、七之助と我當の「暫」、勘九郎、仁左衛門の一条大蔵譚、それに勘三郎と仁左衛門らでの所作事も。せめて両方、 昼の部だけでも観たいなあ。
そんなうまい話になるかどうか。なると信じよう。
2012 1・23 124

* 三月演舞場につづいて、二月入院前新橋演舞場の中村屋襲名興行、もう一度別途に座席を確保してもらえた。嬉しい。
2012 1・25 124

* 二月十日に追加で注文し手に入れていた演舞場昼夜通しの入場券、やはりインフルエンザに警戒自重して、急遽、映画の原知佐子に友達とでも観に行ってと進呈した。先に手に入れていて手術と入院でとても観られない昼夜二人分も、夜の部は息子が誰かと観に行ってくれる。
残念だが、やはり此処は自重するところだと思う。通院はやむを得ないが、他の日にそれも劇場にというのは、用心に越したことはない。

* 何やかやと事多い一日であったけれど、仕事も要事も捗ったのが何より。じりじりと日かずを数え重ねている。入院中の見舞いは堅く辞退している。
2012 2・3 125

* 演舞場の切符、つごう八枚、未練を残さぬようにと全部送りだした。三月には、幸四郎、菊五郎らの演舞場、平成中村座の勘九郎襲名、ぜひぜひ観たい。

* さ、湯に漬かってこよう。
2012 2・4 125

* 大腸内視鏡ではポリープを三つほど切除したが、幸い良性で此処は心配がないと、医師の電話診断で知れた、が、胆嚢の方は炎症を起こしやすく、それにより発熱などあると手術に差し支えるので大事にして欲しいとも念を押された。
明日の演舞場、勘九郎襲名も昼夜とも断念し、小林桂樹と共演した「黒い画集」の原知佐子が、連れを誘って観に行ってくれる。ホッとしている。
よくやすんで、明日も早起きして要事と仕事とに立ち向かう。
2012 2・9 125

* 四月花形歌舞伎「通し狂言 仮名手本忠臣蔵」では、市川染五郎が大きな役で昼夜活躍する。四段目では菊之助判官に対して由良之助、七段目の平右衛門松緑、おかる福助に対して由良之助、討ち入りでも由良之助。三月の「山科閑居」では父幸四郎と共演して力弥役の染五郎がとうどう大舞台で由良之助をやる。三月も予約してあり、 四月のこれも観ないでおれようか。励みになる。
そして八月には、幸四郎と松本紀保・松たか子との「ラ・マンチャの男」だ。何度観ても感銘ふかい幸四郎劇のエッセンス。帝劇の帰りには食べたいな、美味いものを。

* そうそう、いまごろ原知佐子は、新橋演舞場で、中村勘太郎が中村勘九郎に大化けするのを楽しんでいるだろうな。
三月の平成中村座。なんとしてもゆきたい。松嶋屋、気を入れて佳い平場の席を用意してくれている筈。
2012 2・10 125

* 松嶋屋の片岡我當が、演舞場出勤中にも病院へ顔を見にゆきたいと電話を呉れたが、恐縮して堅く辞退した。ありがとう。
お見舞いは辞退する。
2012 2・10 125

* 四月演舞場、八月帝劇を、あえて、座席お願いした。恢復へ、励みにしたい。
2012 2・11 125

* 十時前、高麗屋さんから畳み半畳もの大花盛りがお見舞いに送られてきた。感謝。ロスの池宮さん心づくしの虎屋の菓子も。感謝。
2012 3・6 126

* よろしくないのは全身の疲労で、歩行意欲がゼロに近いこと。わずかに階下からこの機械の前へ来れる程度。これは良くない。
十五日には聖路加へ受診しなくてはならず、十九日には高麗屋父子の「山科閑居」になんとか出掛けたいが。それどころか、三月には平成中村座の平場が昼夜とれている。
この体調、ありさま、甚だ危険信号である。

* 三時過ぎ頃かすかに寒気を感じ床に就いた。七度八分。八度過ぎると危険で病院へかけつけよと言われていたが、脱水も加わり吃逆がらみに水分をかなり吐き出している。氷枕等で冷やしているが。いい徴候でない。
2012 3・7 126

* 大勢の大勢のかたにご心配をかけ、更にご心配をかけている。かく不徳なれども、かくも「孤」でなく護られてあることを幸せと思わずにいられない。
ようやくメールを在るべき場所に整理し保管した。
ここ当分の大事な用事は、無事の通院(感染症内科、糖尿病内科、泌尿器科、消化器外科)で、要所は、腎機能と前立腺炎であるかに想像される。次いでは下巻発送のための準備あらまし。目下は妻もわたしも力仕事に堪えないので、ゆっくりゆっくり進める。
そして願わくは演舞場で若手の通し狂言「仮名手本忠臣蔵」を昼夜に分けてぜひ観に行きたいし、五月馬琴原作の「椿説弓張月」もぜひ観たい。ホンモノの杖と、楽しみという杖とを両手に、かなりシンドイ仕事も何とか凌いで行きたい。
2012 3・27 126

* ほんとうに久しぶり、新橋演舞場の花形通し狂言「仮名手本忠臣蔵」にでかけてみる。大序から楽しめる。動け動けの奨めに応じる気持ちと、インフルエンザも下火という安堵感と。疲労しないように願うのみ。

* ソニービル前から演舞場までタクシーを使った。歩くのは慣れてきているが、どういう加減か、すうっと血の気がひくように頭の中が白くなる。頭ヘまで血がまわらないのだろう。そんなとき、顔が乾いた紙の色をしている気がする。長続きはしないで、それもそうっと通り過ぎて行く。十分用心して人にぶつからないよう、ぶつかられないようにしている。杖が役に立っている。

* 前から四列、中央の角席をもらっていて、手に取るように舞台が楽しめた。一月の国立劇場以来だと、しみじみする。染五郎の番頭さんが筋書まで呉れ、ともあれ劇場に姿をみせたのをとても喜んでくれた。

* 花形歌舞伎とあるのは、若い役者たちががんばる舞台という意味であり、初手から大名題何十年の藝歴にこの日は出会わないという興行を意味している。
今回も座頭格が中村福助であり、市川染五郎である。福助のお軽は前にも観てきたが、染五郎本格の大星由良之助は初めて、松緑の高師直も初めて、菊之助の塩冶判官も、獅童の若狭之助も、亀治郎の勘平も初めてと「初役」がいっぱい。つまりは、 これらの役は、今後の歌舞伎で諸君こそが充実させねばいけませんよという舞台なのである。だから劇場へ足を運ぶには物足りないと思う人もあろうが、だからわたしは楽しみにし、どうかして観にゆきたかった。
花形とは「見込みあり」の意味であり、花形興行とは彼らが「第二の出発点を用意した」という意味であって、その勉強ぶりを楽しむのも歌舞伎の楽しみ、先々の見物にもいっそうの楽しみが出来るのだ、あれ以来どう満ち満ちてきただろうかと。今日出掛けていって「仕上がった舞台」が観られるか、それは、ムリなのである。歌舞伎はそんな手薄い藝ではない。花形と脚光を浴びている誰もがそれなりに俊英であり、いつも楽しませてもらってきた。が、「初役」は、過去のそれらとは質がちがい段がちがう。
尾上松緑にしてその高師直は、憎体の表現に間延びのゆるみあらわで、斬りつけられて当然とは見えなかった。あれは誰であったか舞台に駆け上ってなぐりたいほど憎々しい師直をわたしたちはすでに観ている。科白の「間」、つまり身動きと言葉との重層して白熱する「間」が松緑にまだ出来ていない。大名たちを抜きんでた一の勢力の高師直のいやがらせとはとても見えず、つまりは吉良上野介の低俗をしらずしらず松緑はやってしまっていたというしかない。
菊之助の刃傷にしても、一度は平伏して詫びを入れてから刃傷におよぶまでの、あの数瞬ほどのやりとりで師直に必然斬りつける演技的な説得力はまるで無かった。
市川亀治郎は、六月には猿之助を襲名する人気の達者なのだが、道行の勘平は、こわばって、道中ゴマの蝿が化けた侍のようにゴツゴツしていた。踊りの達者が、終始もたもた。勘平という男は、後段の粗忽にも露わなように、この「道行」もいわば色恋ゆえのしくじりからの逃避行なのであり、人間がすこし甘くて抜けている。それが亀治郎の道行勘平にはまるで表現できてなくて、科白も顔面にこわばりが出て武張ってばかり。福助お軽の、若い燕でもない、まるでがちがちの山鴉のようだった。

* むろんわたしの一の関心は染五郎の由良之助。先月は「山科閑居」で父幸四郎の息子力弥を演じていた染五郎が、一転して大役も大役の由良之助をどう演じてくれるか。大甘の期待はしないが、そこそこどうか立派に演じて欲しかった。そしてその限りでは市川染五郎、ブログでは、ふうふうと荒い息をはいてはいたが、 間違いなく、そこそこ立派な気概の大星をそれらしく演じ通してくれたとわたしたちは拍手を惜しまなかった。
来週の夜の部では、彼がかつて寺岡平右衛門を懸命に演じた茶屋場で、難役の難役と言われる大星由良之助をやるのだ、観たいと切に思う。染五郎が、いつか由良を、松王丸を、熊谷をやるのを観たい、それまで長生きしたいと思っていた、その一つまた一つが実現して行くのはなんという嬉しさか。わたしは花形が眞に花も実もある絶妙の歌舞伎役者に「成ってゆく」さまを観ていたい。その意味でこそ、松緑にも亀治郎にも菊之助にもいつも大きな期待をよせている。

* さすがに、しかし、疲れた。道行ではねて席をたったとき、一瞬地に沈んで失神するかと全身が揺れた。頭の芯が白くぬけて感じられた、が、大過なく立ち直り、夕方ちかい演舞場の外へ出て、ふうっと酸素が体内に流れて来た気がした。そして「歩こう」と妻に言い、ゆっくりゆっくりと木挽町から昭和通りも越えた。なんは、ビールが飲みたくなった。銀座四丁目の「ライオン」に妻を誘い、妻の一日遅れの誕生日祝いに、ソーセージや牡蠣や生ハムなどでビールの一番小さいのを注文して、 乾杯した。ビールも飲めた、少し残したが。ソーセージも生ハムも牡蠣も食べた。美味かった。
食べると、血が、消えた胃のあたりに集まって、それで頭の中が白くなるのでしょうと妻は解説した。そうかもしれない。
ゆらゆらと銀座一丁目へ歩いて、有楽町線で帰ってきた。幸い保谷駅で待つほどもなくタクシーに乗れた。今日一日は、 或る意味の冒険であり挑戦でもあったが、歌舞伎も楽しんでこれた。嬉しかった。
2012 4・6 127

* 二時までに、発送すべきをほぼし終えて、新橋演舞場へ。
夜の部、「仮名手本忠臣蔵」五、六段目勘平の粗忽と腹切り。七段目「茶屋場」そして討ち入りから炭部屋本懐まで。討ち入りは不要にするわけに行かないけれど、蛇足。これは仕方なし。
しかしその前は作劇が充実していて見応えある舞台に成る。獅童の斧定九郎が無難。亀治郎の勘平は、科白が強くなると口の上が歪む悪い癖がついて気になるが、熱演は認めねばならない。身のこなしにキレがあり、それが上手いとまではいえないのだが素質の好さは感じさせる。根が思慮に欠けた粗忽の下級武士という勘平の「抜けた」味わいが、どうしても亀治郎の気張った芝居では表現できない、その不満に目をつむるなら、とにかくも熱心に役を創っていた。
流石に慣れたもので、福助のお軽は若い花形相手に悠々上手に芝居を進めてゆく。貫禄すらある。夫婦別れ六段目のお軽は恋女房のけなげさがあわれであり、七段目のお軽は今なお勘平いのちの純真さが涙をさそう。六代目歌右衛門をよほど勉強してであろう口跡も昔の人を髣髴とさせる。
急の代役の一文字屋お才を、中村亀鶴が、ほほうという女形ぶりで、存在感豊かな、めっけものであった。むしろ竹三郎の老母おかやが、もう少しもう少しではなかったか、歌江らのうまいのを観ているが竹三郎にも期待していただけに、すこし残念。芝居と実感との間に隙間があった。
七段目「茶屋場」の染五郎由良之助は、なんとも致し方なく総じて小ぶりなのは、今彼に求めてみても、父幸四郎にも叔父吉右衛門にも、また片岡仁左衛門にもなれるワケがない、若くてヒレがないのだからそれは仕方がない。それを差し引けば、年相応の由良之助が、そこそこしっかり腹も据わって出来ていたのは、こころよく、けっこうでした。それ以上を望んで父世代とおなじ貫禄をもとめても今はまだ無い物ねだり。こうして初役体験を芯に入れ、これから繰り返し工夫も発見もして大きくなる。成って欲しいと願う。
松緑の寺岡平右衛門は、大きな声、大きな顔での科白が一本調子に淡泊で、期待はずれ。福助のお軽があわれ深く繊細にいじらしいのにくらべ、やたらドスンと不器用に大きすぎる平右衛門だった。
いずれにせよ、勘平の腹切り、茶屋場の兄と妹、それぞれに充実した劇的構成であり、由良之助の腹を割った真率に染五郎のニンはよく適応していて、昼の部よりも面白かった。満足した。

* 花道芝居にもまぢかな、前から五列中央の角席は、しみじみ芝居に溶け込めて有り難かった。感謝。感謝。ようやっと心地よく歌舞伎が観られ、嬉しかった。こののちも、体力のゆるす限り月々のいろんな芝居を楽しむことでも、命、 励まされたい。
はねてみると、木挽町は雨。日比谷のクラブへと願っていたがあきらめ、木挽町から一路タクシーで保谷の家に帰ってきた。それも、よし。
驚くのは、尿意のこと。わたしはどんな芝居でも幕間に三度トイレに入っておくほど神経質だったのに、まったくそれが無くなって、頻尿どころか、三時間半も四時間も平気。ラクになった。これも、たいそう、よし。
2012 4・13 127

* 「塀の中の中学校」という好いドラマの中で、「先生」役の若い刑務官が、その役を嫌いながら実は自信のある「写真家」として世に出たい熱望に悶えていたという話を前にも紹介した。コンクールに出した自信作が、最終銓衡の五人のうちに残りながら、真っ先に彼の作と名とが銓衡から外され、残りの四人で熱心に選者達は議論したという内情を聞き知った彼は、どうにもこうにも合点ゆかず、事務方責任者である編集長に、ま、問詰に出向いた。なかなか答えて貰えなかったが、ついに編集長は只一言彼の作の真っ先に割愛された理由を、「花がないから」と。技術はとにかくも「花がない」からと。

* 陰気・陽気という。陰気はだれにも分かる。難しいのは陽気で、この語彙があまりに普通語に化しているからだろう。「陰の気」に対して「陽の気」とそこへ戻したうえで「陽気」の意義や魅力がとらえられねばならない。陽気とは賑やかにはしゃいだり、あっけらかんと無防備だったりすることではない。しかも「陰気」に咲く花は無い、いかにささやかにものに隠れたように咲いている花でさえ。上の「花がない」という編集長から伝わった選者たちの批判は、いいかえれば創作されるものには必須の「陽の気」が欠けているという真意であったのだろう。
話はとぶが、高校生の昔に幸運に南座の顔見世がみられて、初世吉右衛門はじめ、後の六代目歌右衛門や当時もしほの後の勘三郎、染五郎の幸四郎たちと出会った。ついで、市川壽海や、のちに仁左衛門や三津五郎や延若らに成って行く関西の役者たちとも出会ったのだが、そんな歌舞伎体験のなかでわたしは心幼いながらに「花」「陽気」という言葉の感じを体感した。たとえば「もしほ」今の勘三郎のお父さん、また「我當」今の我當・秀太郎・仁左衛門らのお父さん、そして「延次郎」のちの延若らの芝居を、「花やなあ」「陽気やなあ」と愛したのだった。河豚に中って死んだ「蓑助」のちの三津五郎もそうだった。みな当時の「花形」だった。
花の、陽気の魅力を、実の花や実のお天気よりも、わたしは歌舞伎役者たちから教わっていたのやと、感慨深い。
「花」も「陽気」もけっして大声で話さない。しかし黙っているのでもない。自身をけっして寡黙になど抑え込んでいない。静かに静かにたくさんなことを話しかけていて、しかし押しつけてもこない。静かに匂って明るい。
若い刑務官の「先生」は、不幸にして読み書きも出来ない受刑者を教育する役など不当で不要だと内心に見捨てていた。ただもうレンズを通して技術的に物を再現していた。写されるモノも死んでいた、写す自分も陰気に凍えていたのだ。

* マインド人間は、容易にさわやかに匂わない。陽の気に自身をゆだねられない。分別を重んじすぎ、分別くさく陰気をかかえこみ外へも陰気を滲ませている。マインドという「心」に毒されるのだ。解き放てないモノをかかえこみ、いつしれずそんなものを後生大事な自分の本領かのようにしがみつく。「心無 礙 無 礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想」の「 礙」、これこそが陰気の因となり花の匂うのを抑圧する。
2012 4・19 127

* 抗癌剤の強い副作用はのみはじめて十日から二週間ぐらいで出てくると。それで、二週間過ぎた十五日に診察を受けることになっている。まだ服薬、満五日。なにごとも無い。明日は感染症内科に、明後日は眼科に。十一日は歯科に。 十二日は演舞場夜の部、通し狂言・三島由紀夫作「椿説弓張月」。鎮西八郎為朝、そろそろ大河ドラマ「清盛」に登場して来るだろう。
2012 5・6 128

* さて。午后にはロスから帰来の池宮さんに会う。約束の「 四海皆茶人」の一軸を贈るために。圓能齋の雄渾の書に淡々齋の懇切で美しい極めの書状も付いている。海を越えて「四海皆茶人」の志が生きると思うと、わたしも嬉しい。なにか、もう一品加えようかと思っている。
そのあと、妻と、新橋演舞場の「椿説弓張月」を楽しむ。三島由紀夫の脚色演出。それも楽しみにしている。体調が安定していてくれますよう。
2012 5・12 128

* 五月十三日 日   母の日

 

宮澤賢治・詩  徳力富吉郎・版

 

* 神業ほど強弓で畏怖された「鎮西( ちんぜい) 八郎為朝」が主人公の「椿説弓張月」である、題の読みは「ちんせつ」ではなく「ちんぜい」が正しいのではあるまいか。残念ながら馬琴の原作に、久しく焦がれながら接していない。三島さんの脚色に関しても、何一つ予備知識はない。どこかで「ちんぜい・ゆみはりづき」とされているか「ちんせつ」と極まっているのか、知らない。
しかしおそろしい博学のおそろしい趣向家馬琴である、原作者は。あの西国に武勇の名を馳せた鎮西八郎為朝の「ちんぜい」を念頭に置いた表題であったろう、まして弓の為朝を称えた「弓張月」ともある。それならば、当然に「椿説」は「ちんぜい」と読んでいただろう。読んで欲しかったろう。
「鎮西・ちんぜい・椿説」 十分自然である。選挙「遊説」を「ゆうせつ」とは謂わない、「ゆうぜい」である。
多年愛用の手近な新潮国語辞典第四刷(1972.02)に「珍説」はあるが「椿説」は無い。もっと新しい「大辞林」には、「珍説・椿説」が一括りにしてある。「椿」には、「めったにない、珍しい、破天荒な」原意があるので、「椿説」はあり得ておかしくない熟語である、ただ、馬琴ほどの作者がこのようなおそらく初出となるような語彙を創出したとき、読みは、必ずや源為朝の「ちんぜい八郎」をふまえて「椿説=ちんぜい」の読みを趣向していたであろうと、わたしは確信する。三島由紀夫は気付いていたろうか。

* 染五郎・為朝の「椿説弓張月」は、期待したとおりいかにも三島歌舞伎で、終始楽しめた。三島さんが「歌舞伎」をいかように理解し愛好し取り込もうとしていたかが、いろんな場面で肯けて面白かった。骨太に豪華な造花のような文学作家であった人に「カブキ・歌舞伎」はまことふさわしく身に合っている。当節の他の脚色者の新作なら失敬して観なかったか、染五郎主演だものやはり観に出かけたかは別として、はなから「通し狂言の三島脚色・演出」という触れだしに、一も二もなかった。観たかった。
染五郎丈、祖父・父の伝統を襲って懸命にかつ楽しげに演じ、伝説の英雄の内面の哀情を幕を追うごとによく滲ませて立派であった。初役ならではのさまざまな「科= 動き」と「白= 言葉」との興趣を初々しく面白く伝えてくれた。
白馬にまたがって、天空の弓張月とともに、また一つ、「再演」という大きな期待をわたしの胸に置いて行った。

* 手術や入院をへだてて久しぶりの七之助の、科白の上達に瞠目した。立派な女形に生き生きと成長している。学芸会のような「鷺娘」を観たむかしからすると、この成長ぶりは特筆に値する。完璧にまさに花形の女形。小さい頃から好きで目をかけていた期待が酬われてきた。この舞台ではまた松也の充実ぶりにも目を剥いた。先月の判官奥方顔世をぐいと抜きんでて、男役・女形の一体的な表現に歌舞伎演技ならではの不気味の美の力が漲った。
こういう感想も、一つには、いやいや実に大きく、与えられた好座席が幸いしている。前五列、花道ぎわの角席に妻と並んでいた。花道芝居が豊富なんだなと座席番号を知ったときから胸轟かせていたが、その通りで。加えて舞台の主役・為朝に、あだかも我々に真向かう姿勢の芝居が多く、ま、これは芝居好きな観客達の大勢が内心に独り抱いている稚気にちかい満足なのであるが、それでもそれでも絶妙の座席を貰っているという嬉しさは興奮を深めるのである。感謝。

* 「くすり」はどうしても飲まねばならない、そのためには食べねばならないが弁当飯はほとんど腹におさまらなかった。「クスリ」はのんだ。幸い、なにごともなく。
幕間に高麗屋の若い奥さんが座席へ挨拶に見え、しばらく立ち話した。若夫人と口を利くのはほぼ初めてのこと、行儀良く自然な声と口調でお見舞いなど言われて恐縮した。
はねて。演舞場の外はすこし風もあって冷えていたが、元気に、銀座一丁目の有楽町線まで歩いた。空腹のほうが、かえって心地は落ち着いていた。だいたい、いつも、そうだが、食べないわけには行かないし。

* 帰宅して、十一時前。もう、なにもしないで、やすんだ。
2012 5・13 128

☆ 秦恒平さま
メールありがとうございます。
ご無沙汰お許し下さいませ。
HPを拝見し、手術後のご回復の様子をはらはらしながら拝読しております。
私どもは家族三人は元気に忙しく暮らしております。
文章は、”てんと”書けなくなっています。
絵の方も行き詰まりというか、気力が減ったというか—
でも、折しも息子の仲間とやっていたミュージカル公演活動の周辺をドキュメンタリー映画に撮ってくれる監督さんと出会い 震災の少し前に撮影は完了しました。
しかし配給ルートなどないので、自主上映会をすることになり、乗りかけた船、そのメンバーとして昨秋から忙しくしています。
お陰様で都内各所、厚木市、そして去る5 月4 日には広島で気持ちのある人々に見ていただくことが出来ました。
駅前からの道案内、チケットのもぎり、会場へのご案内 上映後のご挨拶まで、なんでもこなして頑張っています。
夫は今週はモスクワで、WANOというチェルノブイリ事故後に出来た 安全のために原発技術情報を交換する国際組織の会合に出席しています。
どうかお大事になさって下さいませ。
追伸 先のメールに書きましたように、5 月3 、4 ,5 日の広島に居ました。
着いてすぐ平和公園へ行きました。フラワーフェスティバルで賑わっていました。
広島は20年振りでしたが、まず街路樹が大きくなったなあ、と思いました。
平和公園の木々の幹もすっかり太くなっていて、文字通り植えられてからの年輪を感じました。
幼かったけれど、原爆投下の直後、もう広島には100 年は草木は生えぬ、人は住めぬ と言われたのを憶えています。
きっとそれは最悪の場合の予想だったのでしょう。
でも、その予想は当たらなかった。
広島城には、原爆に耐えたユーカリの大木がありました。
広島はこんなに美しく生きている— とてもいとおしく感じました。
2012/5/14     藤

☆ re: 椿説弓張月
メールありがとうございます
お芝居お出掛け下さり何より嬉しい事です
弓張月のお話しも御丁寧にいただき、さらに興味深く拝読しました。
博多座での「ラマンチャの男」も、さらに素敵な舞台に仕上がっています
手前味噌ですが、幸四郎さんの声がまたまた冴え渡り、たか子さんも素敵なアルドンザになっています
今回は紀保もアントニアで再度参加し、頑張っています
8月お楽しみに。
奥様に呉々もよろしくおつたえください
梅雨時にはいりますのでご体調どうぞ気を付けられます様に    藤間

* 今度でわたしは四度目か五度目を観るが、何度観ても演出の努力が生き、退屈したことがない。楽しみ。
2012 5・15 128

* 三代目市川猿之助襲名七月興行を、松嶋屋を介して予約した。ひさしぶりに名作「黒塚」が観られる。映画俳優である香川照之の市川中車襲名というおまけもある。
八月は「ラ・マンチャの男」に加えて、松本幸四郎喜寿の松鸚会がある。
2012 6・2 129

* 松嶋屋の番頭さんから、七月二十日、まさに入院二日前という、ぎりぎりの新橋演舞場夜の部の入場券二枚が届いた。花道寄り、前四列めという絶好席。いま眼がよくないので前の席がことに有り難く、久々に、まこと久々に新猿之助による「黒塚」が観られる。新猿翁が猿之助を襲名したときに観た。その前の初代猿翁の「黒塚」も観ている。歌舞伎としてはむしろ新作なのだが、語弊もあるが感嘆に傾いて技癢をいたく覚えた記憶がある。こういう歌舞伎が書きたいものだと痛切に感じたのを忘れられない。今度の襲名興行でも売り物の「ヤマトタケル」より「黒塚」が観たくて頼んだ。中車らの「口上」も聴いてみたかった。 彼の「山岡鐵太郎」 役にも声援を送ってやりたい。
暫くぶりに歌舞伎が観られる、嬉しい。
とはいえこの日は午前中に眼科の診察がある。済んだアト、四時まで昼間どこかで時間待機しなくてはならない。映画が観られるかも知れない。ただボンヤリでは身体がもつまいと懼れる。
2012 6・25 129

* 機械の前に来たが、部屋に暑熱がこもっていて、家の中で熱中症をやりそうだと怖くなった。それでも、そのまま仕事をした。この疲弊と苦痛と無力感は「仕事」で押し返すしか道がない。
夕食は、強飯、桃、生八つ橋ぐらいしか食べられず、そのまま今期最後の「ts1」を飲み終えた。明日から二週間は休薬になる。その二週間がけっこう忙しい。十七日に歯科、十八日感染症内科、二十日に眼科と、新橋演舞場、二十二日に入院、翌日午后に右眼の黄斑前膜、白内障の手術。二十五日からまた第三期四週間の抗癌剤連用が始まる。
八月、海老蔵の「伊達の十役」か福助の「櫻姫東文章」のどっちかが観られるといいが。むりかなあ。
幸四郎父娘らの「ら・マンチャの男」そして月末には二日続き「松鸚会」の舞踊を楽しむ予定。なんとかなんとかなんとか七月を無事乗り切りたい。
2012 7・10 130

* 「そめいろ」染五郎から九月秀山(初世吉右衛門)祭の案内が来た。昼の部に「寺子屋」染五郎が松王丸、吉右衛門が武部源蔵という、これは「そめいろ」大激励の配役、観たい。もう一つは吉右衛門お手の物の「河内山」。夜の部は「時今也桔梗旗揚」の本格を吉右衛門の武智光秀、染五郎の小田春永という対決。おお切りは、亡き芝翫を偲んで福助の「京鹿子娘道成寺」を鐘供養より押戻しまでとある。
わたしの予想される体調で通しはムリ。二日に分けてでも両方観たい本格歌舞伎。さ、どうするどうする。
こんな事を思っているときは、重苦しい体違和を忘れていられる。

* それにしても病院通いは、とことん、疲れます。
2012 7・12 130

* 九月秀山祭は、昼夜分け、診療に障り無い土曜日をえらんで「染五郎そめいろ」の番頭さんに予約を入れた。承知と返事もきた。 2012 7・15 130

* 明日は聖路加眼科で、二十三日手術前の「硝子体」などの検査や診察を受ける。
そのあと、新橋演舞場で、猿翁・猿之助・市川中車の襲名、市川團子初舞台を楽しみに行く。目が見えていますように。我當君の番頭さんが、いい席を手配してくれたようで感謝しています。
何が楽しみか。むろん「黒塚」と「 口上」です。
「将軍江戸を去る」での新中車・俳優香川照之の奮励をしかと観たい。大切りの「楼門五三桐」で、病をおして新猿翁が、市川海老蔵の石川五右衛門を圧倒する真柴久吉を演じてくれるかどうかも、胸を鳴らす。
目の手術という不幸を、この興行が大いに大いに励まし慰めてくれる。楽しみたい、終日の病み疲れにも何とか耐え抜いて。
2012 7・19 130

* 病中の三代目猿之助が二代猿翁に、甥の亀治郎が三代目猿之助に、新猿翁の実子で女優浜木綿子の子、映画俳優としてすでに名を成していた香川照之が、この度歌舞伎役者に転進精進を誓って新たに九代目市川中車を襲名、さらに新中車の長男が五代目市川團子として初舞台を踏む。昨日新橋演舞場での興行は、そういう目出度い仕儀であった。
昼の部は、「ヤマトタケル」でこれは遠慮した。夜の部が観たかった。

* 夜の部の開幕は真山青果の傑作「将軍江戸を去る」で、歌舞伎科白のイントネーションにまだ慣れない新中車のために選ばれた演目であろう、少し声は潰しかけていたが懸命の力演、まずはめでたいと観た。団十郎の、朝廷に恭順の意を示して将軍職を退いた徳川慶喜が立派だった。團十郎がこんなに円熟してきたかと嬉しかった。高橋伊勢守を演じた海老蔵もよく役どころを践んでなかなかの役者ぶりであった。わたしは青果歌舞伎ではこの「将軍江戸を去る」がことに好きで、新中車のためにも喜んでいた。

* 次いで「口上」これも楽しみにしていた。長大な列座にせず、襲名する三人、猿之助、中車、團子への餞役として市川宗家の團十郎と海老蔵父子とが出て、みな爽やかに意気をこめた佳い口上であり、拍手喝采が祝意を盛り上げた。病猿翁が列座しなかったのは致し方ない。

* 次いで新猿之助の「黒塚」 これこそわたしが待ち望んだ舞台で、また期待を裏切らぬ猿之助の優れた力演であった、妻も大満足していた。
この舞台はいつも凄惨の風情を簡素に美しく創りだしている。そして今回脇をかためて團十郎が阿闍梨祐慶を演じてくれたのは大成功、じつに立派であった。山伏大和坊の門之助、讃岐坊の右近も、凛々として立派で見惚れがした。儲け役の強力太郎吾を演じた猿弥が嵌り役を面白くみせて呉れた。
この芝居は、舞よく、音曲すばらしく、にくらしいほど良く出来た舞台で、猿之助は、中幕のながい複雑微妙な老女岩手じつは安達ヶ原の鬼女の心境を切ないほど美しく巧みに舞って呉れた。なんともはや、嬉しい限りであった。初めての若き亀治郎の舞台を観たときから、これは踊れる役者だなと将来に望みを持ったのは正解であった。概して達者達者に演じて客をよろこばせる術に長けている役者だが、これからは、ケレン味無い堂々の澤潟屋一門の棟梁としての藝道を遂げて欲しい。

* 大喜利は「楼門五三桐」で、この舞台へ真柴久吉として新猿翁が十八年ぶりの舞台を見せて呉れた感激に劇場は燃え上がりそう。主役海老蔵の石川五右衛門も堂々たる「絶景かな」「萬萬両」で、おお、 大きくなったなと喜ばせて呉れた。
カーテンコールまであって、新中車が、久吉役父猿翁の黒子として出、父みずからが押し出して挨拶させためでたさにも皆が湧いた。

* 嬉しく楽しい歌舞伎の一夜。割り込みのお願いに、松嶋屋の番頭さん、四列目の中央角席を用意してくれたのに、感謝し感激した。ありがとう。小雨が来て、タクシーで帰ろうかとも思ったが、すこし歩きたいと木挽町「茜屋珈琲」に久しぶりに立ち寄り、マスターと歓談。銀座一丁目駅まで歩いて有楽町線一本で帰ってきた。
2012 7・21 130

* 今日、高麗屋から十月公演の案内があって、昼夜に勧進帳をと。
昼は団十郎弁慶、幸四郎富樫、義経染五郎と。夜は幸四郎弁慶、団十郎富樫、なんと義経に坂田藤十郎と。
これは昼夜当日にともに観たいとすぐ注文したが、どうもメールが発信できたのかどうか確認できず、悩ましい。
2012 8・6 131

* 昨夜から、メールの発信が出来ない。「発信」しても飛んでいった形跡が全くない。高麗屋への発信も、今書いた平凡社あてのあとがきも、いくら「発信」しても、出来ていない。
スキャナーやプリンターも従来親機に繋がっているので、此の機械からは受け付けてくれない。これは大ピンチ。
もうすぐ、家を出て病院へ向かわねば。
成るように成ると思っていよう。
2012 8・7 131

* 九月二十六日の「藤間会」初日の夜を「そめいろ」番頭さんに、十一月の国立大劇場、四世鶴屋南北「浮世柄比翼稲妻」を高麗屋夫人にお願いした。藤間会は驚嘆の面々がずらーっと顔を揃える。もうS席は無いかも知れない、そのときは諦めるが。
2012 8・11 131

* 四時から五時まで、松本幸四郎の「ラ・マンチャの男」千二百回上演を記念した密着番組を妻と観た。舞台の感激を下敷きに、さらに沢山の感動の涙を流しつづけた。いい番組であるとともに、ほんとうに見事な舞台であったこと、幸四郎の豊かな強さをしみじみ実感し、心から敬服した。
松たか子も松本紀保も、娘として俳優としてとても佳い証言や思いを語ってくれた。
幸四郎は優れた歌舞伎俳優であり、世界を把握した名優である。彼の演劇としての歌舞伎にも、勧進帳や熊谷や松王丸や由良之助等々にも、わたしは全身を寄せた贔屓であるとともに、「ラ・マンチャの男」はじめ数々の歌舞伎でない芝居も、わたしは、いつも妻とともに、心底楽しんで拍手してきた。幸四郎も高麗屋の女房さんも松たか子も、贔屓のあまりに日本ペンクラブに推薦し入会してもらった。そうすることがわたしにはとても嬉しかったのである。
いい企画番組に出逢えて、嬉しかった。再放映があれば録画したい。
そうそう、夜前夜中に起きて夢うつつの歌を書き留めていた。

在るとみえて否や此の世は空蝉の夢に似たりとラ・マンチャの男
在るとみえて今ここの世ぞ空蝉のあてどなけれとラ・マンチャの男

* ちりんと鈴 鳴らして在り処(ど)おしえつつ黒いマゴはわれを隠れんぼの鬼に

* なんとなく歌の「やうなもの」がのどもとへ顔だして苦笑ひしてをるじややら
2012 8・26 131

* 夕方、国立大劇場での松鸚会に出かけた。五列目花道に近い角席という絶好席をももらっている、その目の前で、開幕小一時間のうちに、悲しむべき危険事故が起きた、らしい。幕が降り、今夜の催しは「中止」と告げられた。ここにあやふやな推量は書かないが。心より案じている。心配でならない。どうか無事、ないし軽い事故で終えていて欲しい。

* 夜のこと抗癌剤を飲む必要から麹町までタクシーを使い、角の、佳い中華料理店「登龍」に入った。北京ダック四本、すっぽんのスープ、紹興酒一合を注文した。気は晴れず、酒は少し残したが、北京ダックとスープの美味いことに驚喜した。その足で帰ってきた。駅で桃四顆と花林糖とを買ってきた。

* 明日もう一日の催しは行われるだろう。真昼間に、行ってくる。なんでもない笑い話でぜひあってほしいが。
2012 8・27 131

* 朝、父幸四郎の染五郎三メートルの奈落へ転落事故につき、テレビで挨拶あり。意識は失せず、憂慮したより症状は軽いと。今日の松鸚会第二日には休演とも。何より何より早い回復を心より願う。九月の秀山祭公演の松王丸を楽しみに待っていた。
第二日の昼の部にわたしは出向く。
2012 8・28 131

* 今、幸四郎事務所から電話があり、本日の会も中止と。昨夜おそくに御見舞と心配と回復の早かれと藤間さんにメールしておいたが。どうか軽度の怪我を治すというような事であってほしい。心よりそう願う。
2012 8・28 131

* 九月秀山祭も染五郎は休演と通知が来た。彼のみごとな快復を願い、キャンセルなどせず昼夜通して観ます。松王丸、演目を換えたりせずしかるべき代役、海老蔵などにバトンを渡して欲しいもの。
どうか十月には富樫や義経ですばらしい勧進帳を聴聞したいもの。
2012 8・28 131

* 今日松本幸四郎丈より、子息染五郎の現状を伝えながらのご挨拶があった。命にかかわるほど手ひどい様子ではないらしいのが、何よりの安堵で在る。はやく治って舞台に復帰してくれますように。
2012 9・3 132

* 体重65.1kg 血圧101-57(69) 血糖値 93   体重65.1kg 朝、バナナ一本 葡萄ルビーロマン二粒 ミルク半カップだけ 服薬
心気は普通 体感は脆弱。白髪茫茫、鏡中の幽霊は誰そ。
今日は二時半ごろから歯科治療に出かけねばならぬ。日射のすこしでも陰るのを願う。
本発送の用意は進まない。仕方が無い、ゆるゆると。もう一週間もすると出来本が届きそう。とまれ、成るままに成ればよし。天下の急務ではない。
それより週末十五日の新橋演舞場の昼夜通しの観劇を楽しく迎えたい。染五郎代役に建部源三予定だった吉右衛門が松王丸を演じる。これが前評判すばらしいと聴いている。建部は梅玉が立つと。これも楽しみ。吉右衛門は河内山宗俊と夜の武智光秀の三役ご苦労さま。梅玉も昼夜に三役、期待している。なによりも休薬明け、十四日からまた抗癌剤の入るその翌日の昼夜の観劇、はたして体力如何。それも舞台の映えに依る。父芝翫を偲ぶ福助の大切り「道成寺」に注目したい。
明後日十二日は上村淳之傘寿の祝賀がある。記念展の高島屋で。傘寿まではわたしはもう三年。妻とお祝いかたがたあやかりに行こうかと。
十八日に眼科診療、その翌日には保谷市のホールへ来る坂東三津五郎独り芝居が晩にある。
二十四日には、糖尿病と感染症二科の診察を受けにゆき、二十六日夜には舞踊の藤間会に妻と出かける。顔ぶれが多彩な祝賀ムード。染五郎の出ないのが一抹寂しいが。その日、歯科治療も受ける。
ま、からだでの勝負を挑んでいるような過密スケジュール、大事を起こさぬようにしたい。
2012 9・10 132

* 松たか子の十月「ジェーン・エア」の日が決まったと事務所の通知が来た。
十月には、昼夜に幸四郎と、団十郎の「勧進帳」弁慶の競演があり、こんな企画にはめったに出逢えない。幸四郎弁慶に染五郎富樫が向き合えそうにないのが残念だが。怪我した彼、その後幸い順調に快復へ向かっているとも事務所は知らせてくれている。よしよし。
2012 9 10 132

☆ この度は
大変お騒がせを致し申し訳ございません
現在は入院中にてリハビリを開始しております
幸いに後遺症に兆候もなく順調に回復に向けトレーニングしております
自分のミスにより多大なご迷惑をおかけしていることに猛反省をして
今後の仕事に対して様々考えております
少しずつ前向きに歩き始めております
乱文なままですみません
改めてご連絡致します 市川染五郎

* ほっとしている。
2012 9・14 132

* 明日は多少冒険だが新橋演舞場の秀山祭昼夜通しで楽しんでくる予定。染五郎東京ではたぶん初役の「寺子屋」松王丸を楽しみにしていたが。楽しみが先に伸びたのもまたよしと、明日は二代目吉右衛門の名演をしっかり楽しませて貰う。
2012 9・14 132

* 体重65.5kg 血圧111-55(51) 血糖値 88   朝、葡萄 卵に振掛け飯一膳 服薬 十一時開演の新橋演舞場へ 弁当場で笹巻き寿司一人前を妻と半分け 昼の服薬や点眼等 昼の部と夜の部との間に劇場真向かいの喫茶店でバニラアイスクリームとジャックダニエルのシングルストレートを「美味い」と 晩食はとくに取らず餡菓子三つだけで 抗癌剤服用 夜の部果てて大江戸線で練馬経由帰宅 歌舞伎を昼夜通しで大いに楽しんだためか、疲労は疲労として、心身むしろ健常 帰宅して葡萄五粒桃ひとつ食す

* 秀山(初世中村吉右衛門)祭は昼夜とも嗣子( =孫・松本白鸚次男) 吉右衛門の熱演で盛り上がり、「寺子屋」の松王丸は福助の千代、梅玉の建部、芝雀の戸浪らの好助演を得て、一代の名演かと想わせた。舞台半ばから涙こみ上げ、いつになく声も漏れそうに泣かされた。今まで観た誰の松王丸より丈高く立派だった。
二つ目の吉右衛門、河内山宗俊はいかにも手に入った悠々のうちに気合い満ちて、松江侯玄関先での「とんだところへ、来た=北村大膳」も、居直りも、哄笑も、花道からの「馬鹿め」も、爽快だった。してやられた松江侯の梅玉、沈着な家老の又五郎も、可憐な浪路の米吉も、よく舞台の充実感に寄与していた。

* 夜の部は鶴屋南北の「時今也桔梗旗揚」げ、武智光秀蹶起反逆の次第を吉右衛門が、凄いほどの堪忍と爆発の気持ちを、饗応、本能寺馬盥、愛宕山連歌の三場で、怪我の染五郎に代わった歌六の重厚しかも癇性の小田春永の凌畧をはね返す覚悟で、よく表現した。妻は魁春、妹は芝雀、最後の最初に四王天但馬守で登場の梅玉らが、吉右衛門の大きな演技を緊密に支えた。歌六も懸命の迫力を絞り出していた。
そして大喜利は、父・七世芝翫を偲ぶ中村福助の成駒屋を背負っての「京鹿子娘道成寺」がじつに楽しかった。
福助は近年とみに充実し自信に満ちて踊りの手ごとを悠々と楽しむように遊ぶように、しかも手ごとも間も魅惑も適確に出してあやまらない。とてもとても美しい踊りが楽しかった。
「聞いたか坊主達」も松江を先導に宗之助や亀寿らがおもしろく演じ、花四天の活躍も堅実。最後の最期には押し戻しに荒事の大館左馬五郎があらわれ、鬼と化した清姫と花道から舞台にかけはげしく争うのも見ものだった。大喜利にふさわしく大満足。
昼夜ともに、大作を二番ずつ。老体の病体には優しい番組で、疲労は疲労としても心身はやすらかであった。有難かった。
2012 9・15 132

* 明日午前中に、「湖の本113」が出来てくる。午後にはまた聖路加の眼科へ。雨でもいい。涼しくあれ。
明後日は午まえに歯科、夕刻後に保谷の市庁ホールで坂東三津五郎の、なにを演るのか、独演会。妻が入場券を予約していた。
本の発送は、二十日から手がける。今日も発送用意に余念無く。 2012 9・17 132

* 二十六日夕刻からは妻と藤間會の初日を見にゆく。歌舞伎役者が続々現れて踊る藝を楽しませてくれるだろう。
十月には団十郎 幸四郎が昼夜で勧進帳の弁慶と富樫を代わりあい、藤十郎が昼夜義経を演じてくれる。おそらく当代一のいわば最高の熱演になるだろう。六日の通し。ともに絶好席をすでに貰っている。
十三日にはル・テアトルで松たか子の「ジェーン・エア」再演を楽しむ。やはり絶好席をもらっている・いま私の眼はどうしようも無く視力停頓、舞台に近くないと楽しみづらい。
二十日には梅若橘香會に招待が有り、万三郎の「鉢木」が観られる。先代万三郎の「鉢木」を楽しんで以来、何年、何十年が経ったろう。これも最前列真ん中の席をもう貰っている。ぜひからだを労りながら観にゆく。能舞台にまみえるのは久しぶりです。
2012 9・22 132

* 明日の夕刻から国立大劇場の「藤間會」初日に妻と出かけ、帰りには、間に合えばまた麹町の中華料理店で北京ダックとスッポンのスープをと願っている。寺田さんを呼び出すには、ちょっと時間が遅い。 お気持ち、感謝。
2012 9・25 132

* 国立大劇場の「藤間会」初日に出かける。
吉右衞門、菊五郎、梅玉の三人翁、面箱に七之助、千歳に時蔵、そして三番叟に藤間勘十郎の「壽式三番叟」弓矢立合が立派だった。吉右衞門の悠々、時蔵の品格、七之助の奮励、とりわけて勘十郎の三番叟の見事な格調に感嘆した。
次いでは何と言おうと玉三郎の「竹」を賛美し親愛の「此の君」が、胸をさわがすほど絶品の美しさだった。玉三郎に会うのは久しぶりだった、嬉しかった。
あと。「出雲梅」を舞った藤間綾がとびきり上手だった。藤間香花の「鏡獅子」は前シテの弥生が長くてやや退屈したが、後シテの獅子はまことに立派で、前シテの分を帳消しにした。「豊後道成寺」の藤間利弥も長い舞いを悠々と達者に舞った。
贔屓の坂東亀三郎、亀寿兄弟が男伊達で、女伊達の藤間勘壽々につきあった「女伊達」が綺麗にしっかり纏まった。勘壽々は老女であろうが、悠然と崩れなかった。相当な達者にちがいない。大喜利の「雨乞其角」は賑やかしに過ぎなかった。
四時間半を大いに大いに楽しんだ。
麹町「登龍」でおそい晩食、マオタイが効いた。妻は北京ダックとすっぽんスープのほかに八宝菜を食べていた。美味そうに見えたがわたしには食べられなかった。店が、アイスクリームを最後にサービスしてくれたのに、わたしは半分と食べられなかった。苦いのだ、なにもかも。
十時半過ぎて帰宅。
2012 9・26 132

* 十一月の国立劇場、幸四郎、福助、錦之助らの出演、鶴屋南北の通し狂言「浮世柄比翼稲妻」を予約。さらに松本紀保や上条恒彦らの出る、師走 クリスマススペシャルコンサートも予約した。
十一月の顔見世歌舞伎も、せめて夜は観たいのだが。十月、十一月には能舞台の梅若万三郎「鉢木」 友枝昭世の「海人」にも招かれている。やがて松たか子の「ジェーン・エア」も開幕だ。よろよろでも、ふらふらでも、楽しむのは妙薬と思って出かける。
2012 9・30 132

* 十一月の顔見世歌舞伎、夜の部を、松嶋屋の番頭さんにお願いした。
2012 10・2 133

* まぶしくて機械に向き合えない。早く適切な眼鏡が新調できますように。
バグワンに聴いていた。その言葉をここに書いてみるということが、目のギラギラゆえに出来ない。ドライアイが機械の前で進行するのかも。

* 眩くて涙に溢れて仕事にならない。ドライを浴室で潤して、今夜はもう機械から撤退する。
明日は楽しみにしてきた、勧進帳が昼夜にあるという好企画。昼は團十郎、夜は幸四郎が弁慶で、富樫も昼夜とも二人で交代する。義経は昼夜ともに藤十郎。これは当代、これ以外に無い名舞台になるだろう、成ってほしい。昼夜の通し、明日が楽しみ。
いつかは、吉右衞門と仁左衛門とで同じ企画を願いたい。その際の義経は勘三郎であって欲しい。さらに先々では、海老蔵と染五郎とで演じ分けて欲しい。義経にはラヴリン愛之助でどうだろう。
2012 10・5 133

* いま、堅めの本は別に、小説は、ゲーテ「親和力」、トルストイ「イワン・イリッチの死」、トールキン「指輪物語」、ホーガン「星を継ぐもの」、馬琴「南総里見八犬伝」、辻邦生「夏の砦」を毎晩読んでいる。とてもいい按配で、敬意も充分に、楽しめる。
堅めの本は、ゲーテ「イタリア紀行」、チェーホフ「妻への書簡集」、プレハーノフ「歴史における個人の役割」 「和泉式部集」「和泉式部集全釈」、「古今著聞集」、谷崎潤一郎「文章読本」、折口信夫「藝能論集」 「丹後の宮津」 そして「バグワン」。
これらまた、それぞれに面白く興趣に溢れている。
すべて「病苦をやわらげてくれる妙薬」になっている。

* もう一つの妙薬は、観劇。今日は新橋演舞場に全身をゆだねて楽しんでくる。
2012 10・6 133

* 昨日の歌舞伎。まさに満喫。
勧進帳昼夜に二番。断然、夜の幸四郎弁慶の、こういう表現はまずいが、昼の團十郎弁慶に圧勝、さすが千数十回弁慶を演じづけてきた幸四郎の体験は、五十回に満たない團十郎の追いつけるところでなかった。團十郎弁慶の演技はザクザクと大味で、悪癖でもある台詞の割れや罅が耳に障りすぎた。身の働きも大味で、舞いの技倆もザクザクしていた。なにより気になったのは、富樫役で弁慶一行に追いすがり一献をすすめたとき、幸四郎の演技を終始團十郎は彼本人のなまの視線でみつめ、時にかすかに感服ぎみに頷いていたのはいけなかった。昼の部で富樫を演じた幸四郎の着座は端厳そのもの、視線を動かすようなことは全くなかった。
幸四郎の弁慶は、彼の言った詞でもあるが、科・白の双方を「彫刻的に」みごとに彫り上げ構築し得ていて、双方に美しい階調美を成し遂げていた。完璧だった。所作の全てが知性と剛勇とをともににじませ、弁慶の人間があたかも舞台の上に「実在」して、観客の胸を打った。妻も私も、最高の満足を得て帰宅できた。
昼夜に義経を演じた藤十郎のやわらかい気品と威厳とにも、惚れ惚れした。
勧進帳のみどころである四天王の「詰め寄り」も、幸四郎組の友右衛門、高麗蔵、翫雀、錦吾の決死の結束が、昼の四人より迫力に満ちた。金太郎クンの太刀持ちも可愛らしく凜々しかった。
幸四郎夫人とも、立ち話で病気を労られ、また染五郎への心配に、礼も。彼はもう退院し、懸命にリハビリと治癒待ち。存外に復活復帰、早いかも。よかった。
昼夜の勧進帳のほかは、昼の部、近松門左衛門事実上のデビュー作「国性爺合戦」で、松緑の和唐内、錦祥女には芝雀、甘輝に梅玉、そして老一官には歌六、妻渚に秀太郎と、まずは堅牢堅実な配役で充分楽しませた。
松緑に、彼独自、台詞の奇妙な良くない意味での散文散文した単調さがあり、あれは何とか克服し直してもらいたい。
歌六の静かな貫禄と台詞の確かさはわたしの好み。
秀太郎の存在感とうまみも、いつもながら出色。
梅玉甘輝の沈着も佳い味わい、夜の部の御所五郎蔵よりも実感があった。
夜の「曽我綉侠御所染 そがもようたてしのごしょぞめ」御所五郎蔵は、黙阿弥の作、はからずも近松門左衛門の作と張り合う格好であったが、近松の実感と風格に、世話の黙阿弥及んでいない。通しで分かりよく展開はするのだが、どこかに無駄も在り不足もある。腹切りにいたるところは退屈し、愛想づかしの場面はいまいち物足りない。
芝雀の皐月も五郎蔵の梅玉もがんばってはいた、わるいと言っては気の毒な間違いになる。作の問題だろう。ここでも、星影土右衛門の松緑の発声が物足りなかった。科白の科と白とがつろくしないのだ。

* まあ、楽しかったこと。三列目の真、中央という絶好席。夜は、高麗屋弁慶の視線が直に届いてくる迫力満点。配慮、ありがたく。感謝、感謝。
2012 10・7 133

* 松嶋屋に十一月顔見世の夜を頼んだところ、頼んだ日付けは同じでこの十月分夜二席の絶好席を送ってきてくれた。単純な思い違いだったろう、これ幸いと幸四郎弁慶を観せてやりたく入場券二枚は建日子にまわした。願っても無い最高の幸四郎「勧進帳」を息子も観たがったのは、何より。十一月の顔見世はあらためて松嶋屋に頼んだ。
妻はもうすっかり歌舞伎に親しんでいる。息子も、そのようであって彼の創作に感性に役立ってくれるだろう。
2012 10・10 133

* 染五郎の挨拶状が来た。よかった。テレビでも記者会見していた。顔をみるかぎり元気は回復して一段と男前であった。顔に傷が付かなかったのは奇跡的な喜びである。十二月からテレビ、来春二月には歌舞伎舞台に復帰とも予告されたけれど、こういう怪我には微妙なブリ返しが無くも無いだろう、完治への気の余裕ももち、万全を期して欲しい。よかった、よかった。
『京のわる口』で、上方の「もの言い」の微妙さなど腹に蓄えて下さい。

☆ 拝啓
秋麗の候となりました。
この度はお心のこもったお手紙を賜り、誠にありがとうございました。
お陰様で九月十九日無事に退院してまいりました。
完治までにはまだ少しお時間をいただきますが、一日も早い復帰を目指して治療とリハビリに専念致します。
あたたかい励ましに心から感謝申し上げます。  敬具
平成二十四年十月吉日    市川染五郎
2012 10・17 133

* そうそう、今夜は建日子たちに、演舞場での幸四郎が名演の「勧進帳」を観せてやりたく夜の部の座席を送ってやった。たしか前から二列中央角席という絶好席を松嶋屋が送ってきてくれた。

☆ 勧進帳
歌舞伎今観おわりました!
素晴らしかったです
ありがとうございました! 建日子
2012 10・19 133

* 松嶋屋我當君の番頭さんから十一月江戸の顔見世夜の部座席券二枚を送ってもらった。今回は最前列の中央。目がわるくても見落とさずに済みます。仁左衛門、左團次、魁春、秀太郎、梅玉の「熊谷陣屋」 坂田藤十郎と中村翫雀父子の「汐汲」 そして尾上菊五郎以下、時蔵、松緑、菊之助、團蔵、東蔵、彦三郎、左團次、梅玉ら大勢が出る黙阿弥作の「四千両小判梅葉」通し狂言は初見のご馳走。山城屋と成駒屋の父子三人が出そろうのも珍しい。我當も出て呉れていれば松嶋屋三兄弟も揃ったが。久し振り仁左衛門
の「熊谷」も楽しみ。番頭さんに感謝。
2012 10・30 133

* 今月は能楽堂をはじめ、国立大劇場、新橋演舞場、そして妻ももろとも招待されている福田恆存劇の「明暗」を、息子の秦建日子も加わって三人で観る楽しみが待っている。その頃までになんとか少しでも安定した眼鏡が出来て欲しいが。眼鏡自体に動揺があれば何度でも作り直す気でいる。この闘いは苦戦し難渋するに相違ないが、根気よく執拗に押し返したい。
2012 11・9 134

* 高麗屋が不破伴左衛門と鈴ヶ森の幡隋院長兵衛を演じた南北作の通し狂言「浮世束比翼稲妻」は、福助や錦之助の好助演もあって、高麗屋らしい剛強で端正な芝居が楽しめた。高麗蔵の白井権八もかれのニンに合ってそれなりに見せた。
もともと、通し狂言として再々は上演されない芝居には、それなりに理由が有り、多くは人の真情にせまって感動させるものは少なく、南北作でいえば、四谷怪談や東文章のような感銘作と、今日の狂言では、段が違っている。作り立てた芝居だが人情からは離れて面白づくに作られてある。いかに幸四郎といえども精一杯の好演を以てして多くは胸に沸きたたない。通し狂言の復元や再演は国立劇場のいわば約束のようになっていて、半ば賛成しているが、出来ればより慎重に狂言を精選して、ほうこんな一品が埋もれていたのかと観客を喜ばせて欲しい。それでこそ藝に優れた役者達もより以上に気が励むだろう。
幕間に、ロビーで向こうから高麗屋夫人が早足に寄ってみえ、いつもより長く歓談できたは何より。文化功労者に選任されたのを祝い、わたしは親しく病状をいたわり励まされた。
新年の二月日生劇場で、父幸四郎や中村福助とともに染五郎の再起公演が予定されている。「奇跡的な回復」「それあってこその…」と母夫人は今日も声をつまらせていた。よかった、よかった。染五郎の自愛、そして熱演を期待する。むろん観たい。幸四郎の「口上」がまずあり、次いで「義経千本桜 吉野山」染五郎と福助、河竹黙阿弥没後百二十年を記念の通し狂言「新皿屋舗月雨暈 弁天堂・お蔦殺し・魚屋宗五郎」に幸四郎、福助、染五郎が出揃う。

* 終演後はもうどこへ立ち寄る体力なく一路帰宅した。どの電車にのっても席を譲って下さる人がある。ご親切にいつも深く頭を垂れてくる。
2012 11・10 134

* こう書いているうちにも目が霞んでくる。右目の負担が健常な左眼に懸かってくるからです、いっそ眼帯で右眼を伏せてください」とナガノ店主は言った。現にわたしもそう思い至って眼帯で右眼をふさいで読書も観劇もこういう仕事もしてきたが、気持ちは悪い。要するに休むしかない。昨日の歌舞伎も半ば以上片掌で右眼を塞いで観ていた。わたしたちがどこの席にいるか分かっている高麗屋は、怪訝に感じただろう。
2012 11・11 134

* 夕刻まで睡れてよかった。入浴と睡眠とは、これもわたしの味方。
今日明日明後日と家におれる。珍しいこと。
近々の金曜には「反原発」を下に秘めた俳優座公演。 次いで日曜には、期待と不安の、新しい眼鏡が出来ている筈。そして月曜の歌舞伎は、江戸以来の顔見世興行。
松嶋屋仁左衛門の「熊谷」休演と聞いているのが残念至極、とはいえ代役に、音羽屋松緑とは、期待も大いに大いにあって、楽しみ。妻は「松緑」襲名の弁慶いらい大の贔屓。
「汐汲」の山城屋藤十郎は言うに及ばない、彼が扇雀・鶴之助の花形上方芝居で大いに鳴らした頃から、そして鴈治郎時代も通してのわれわれ大の贔屓。
大切り「四千両小判梅葉」の前評判も高い。音羽屋菊五郎御大以下、大勢の役者が勢揃いの賑やかな黙阿弥芝居が楽しめます。元気に観てきたいです。
その翌日は歯科に通い、その後は、二十九日に、これも期待に胸も熱くなる福田恆存作・嗣子福田逸演出、夫婦ともお招きの大作「明暗」が、建日子もふくめ、われわれを待ち受けている。
ようやく通院ラッシュからも徐々に抜け出して行けそうな気配で、有難い。
何でもいい、楽しめる限りは何でも楽しみにし、病苦と懸命に対峙し克服しなくては。
本音をいえば、「喜壽」の祝いに、師走の休薬期に三泊ほど京都へ出かけられないかと、半ば本気で願っている。こころおきなく京都に身を置いて京都の山川を眺め、空気を吸ってきたいのだ、墓参もしたいし、顔を見たい人もいる。新幹線は坐ってさえいれば、たとえ寝ていても済むし、京都はタクシーの使い道が東京とは段違いに好適なんだし。
無理で無ければ、出来れば建日子も一緒に行ければ最高なんだが。彼はいまもべらぼうに忙しそうだから。ムリかなあ。
主治医と相談すれば、止めるより奨めてくれそうな気がする。
2012 11・13 134

* 八、九、十月の外出よりは減ると思っていた十一月も、十三回の外出、になる。ただ今日の、ボジョレーヌーボー予約のワインを受け取りに保谷駅まで出るのは、明日の俳優座観劇の帰りにと省略した。
十二月は、さすがに外出予定も減っていて、病院の診察や歯科眼科が若干加わってくるだろうが、加えて京都行きがあれば、楽しくもあり疲労も出ようか。
十日には尾上菊之助が花魁八ツ橋を演じる「籠釣瓶花街酔醒」が楽しみで。二十日には松本紀保らのミュージカル公演があり、出来れば喜壽当日には国立劇場での通し狂言、吉右衞門以下、華やかな顔ぶれの「鬼一法眼三略巻」が観られないだろうかと尋ねないし高麗屋にお願いしている。明けて二月の染五郎復帰、日生劇場の公演はもう確保できている。
着々と新歌舞伎座のこけら落としが近づいてくる。何としても観に行きたいなあと、そんな願いをも闘病の力にしている。
2012 11・15 134

* 十二月喜壽の日に、国立大劇場での中村吉右衛門らの通し狂言、座席がとれると高麗屋の返事をもらった。梅玉、魁春、東蔵、歌六、芝雀、又五郎、錦之助、高麗蔵らの華やかな芝居になる。清盛館、菊畑、檜垣、そして一条大蔵卿の奥殿まで。有難し。

2012 11・16 134

* 正月初春歌舞伎の案内が来た。昼は同級生の片岡我當が三番叟の「翁」でめでたく新年の幕を開けてくれるという。彼に座席を頼み、夜には幸四郎の「逆櫓」が楽しみで、高麗屋へ、別の日にとお願いした。
二月には、日生劇場で染五郎が復帰の舞台を勤める。
三月だか四月だかには新歌舞伎座の「こけら落とし」興行があろうと期待している。ぜひにと願っている。
新年の、はんなりした楽しみに励まされたい。五月一日から服用し始めた抗癌剤での闘病、あと半年つづく。もっともっと続くだろう、いろいろに。頑張る。
2012 11・17 134

* 十二月は夫婦の祝い月でもあり、十日は五十五年めの婚約の日、演舞場で菊之助の花魁八つ橋が観られる。松嶋屋の配慮で、今夜は最前列、師走十日は二列目中央の角席を用意してもらった。十二月二十一日は七十七の誕生日。高麗屋のお世話で、国立劇場吉右衞門の大芝居が楽しめる。
歌舞伎は何十百度観てもこころ寛ぐ。

* 新橋演舞場の「顔見世」歌舞伎、夜の部に出かける。
松緑代役おそらく初役に近い「熊谷陣屋」 これは期待以上に柄の大きい歌舞伎を松緑が創りだしていた。彼はこういう大歌舞伎のごつい役で真価を磨いて行くのだろう、妻の相模魁春、藤ノ方秀太郎、義経梅玉、弥陀六左団次、いずれもベテランが脇を引き締めたなかでの松緑熊谷は、或る意味今日の歌舞伎の可能性を示唆している。
もうほんとうの大名題は坂田藤十郎一人、雀右衛門も芝翫も冨十郎も亡くなった。高齢という意味ではわたしの友である片岡我當、弟秀太郎、松本幸四郎、尾上菊五郎、市川猿翁、中村吉右衛門、片岡仁左衛門、坂東玉三郎、市川段四郎、中村梅玉、中村魁春、中村時蔵、市川左団次、市川團十郎らが、今日未来の「歌舞伎」引き締めてゆかねばならず、最も魅力的な役者中村勘三郎の病気がことに心配される。
新しいどんな歌舞伎の演技が構想されてゆくにせよ、坂東三津五郎、中村芝雀、中村翫雀らを牽引車に、市川染五郎や尾上松緑や市川海老蔵らに頑張ってもらわねば済まない。今日の松緑熊谷に、わたしは希望をさらに持った。
ついで坂田藤十郎と嗣子中村翫雀の「汐汲」はさすがに父子の所作事が悠々と美しく運ばれて、楽しんだ。もう機会あるごとに藤十郎の天才に触れつづけて行きたい。
さて菊五郎ら大勢の「四千両小判梅葉」。黙阿弥という作者は「筋」は存分に書けるが、人間の感動を表現するのはむしろ下手ではないのか。「熊谷陣屋」「寺子屋」「勧進帳」など何度観てもしたたか泣かされる人間劇だが、今夜の黙阿弥も、作の狙い・趣向はけっこうだが、人間はしみじみと描けていない。菊五郎、梅玉がお気の毒なような、しかし、好奇心からすればなかなか観られないような面白い舞台が創られていて、はい、分かりました、ありがとうさんという程度の芝居であった。菊五郎にこんなことばかり遣らせていてはいけなかろう。

* はねて、日比谷のクラブで休んで行こうかと帝国ホテルの前まで往きながら、食欲無く酒にも気が無く、 Uターンして保谷へ帰った。明日はまた歯医者に行く。
2012 11・19 134

☆ 秦恒平様
色づいた木々の葉も散り始め木枯らしの中、冬支度の季節となりました。
お健やかにお過ごしの事と存じます。扨、私事このたび文化功労者顕彰を賜りましたところ早速にご懇意なるご祝意を戴き、喜びとともに暖かいご芳情に厚く御礼を申し上げる次第でございます。
俳優として人生を過ごしてまいりまして六十七年、その間永年に亘り頂戴いたしました御厚情、御支援を思いますと感激で胸一杯の思いでございます。
この慶事に際しあらためて、苦しみを勇気に悲しみを希望にそしてお客様お一人お一人に夢と感動をお与えする事が俳優としての自分の生涯の勤めと決意を新たに致しました。
重ねて御礼申し上げますと共に、益々の御健勝とご多幸をお祈り申し上げます。

ありがとうございました。
平成二十四年十一月吉日
松本幸四郎

☆ 秦恒平様
晩秋の候、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
8 月未の事故以東、約3 ヶ月が経ちょした。ご迷惑とご心配をおかけ致し、心から反省の日々を送って参りました。とても長く感じる日々でしたが、その間にも温かいお励ましが支えとなって、リハビリと治療に専念することが出来ました。そして先日病院から「完治」という言葉をいただき、感謝の思いを込めてご報告させていただきます。
11月未より役者としての仕事再開を許され、まずは映像から復帰させていただき、來年2 月には、日生劇場にて歌舞伎公演に出演させていただくこととなりょした。
再び歩み始めることに感謝と喜びを感じ、懸命に藝道に精進して参ります。
この後ともにご指導、ご鞭撻の程よろしくお願い致します。
市川染五郎

* よかったなと思う。ますますの健勝と前進とを言祝ぎます。
2012 11・25 134

* 帰りの池袋西武では、完全に食べ損ねてきたが、目に付いたとても温かそうな白いカーディガンを見つけて、買って帰った。十二月十日の演舞場歌舞伎、菊五郎菊之助父子で演じる「籠釣瓶花街酔醒」の日に着て行こうと。
手さきも足の裏も痺れて感覚鈍く、しかも冷たい。貧血のせいか。温かい手袋をし、まふらーを頸にしっかり巻き、杖ついてよたよた歩いている爺は、よほどに人様には見えるかして、電車では親切に席を譲って下さるお人が多い。嬉しく有りがたく、座り込むと目をかたく閉じ、杖に顔を伏せ、はあっはあっと重い息を吐いている。
だが、頭の中では、創作を思案し、仕事のあれこれを予定もふくめ考え、また、たくさんな、あまり巧くもない歌や句を按じていたりする。残念だが眩しい戸外で本は読めない、が、そういうわたしは少しも病人でない。「仕事」は前へ前へ進んでいる。
ただ、うまく、おいしく、苦くなく食べたい。ある程度量を食べていないと、体重が落ちて行くのがわかる。64、5キロのレベルをなんとか維持しないと、抗癌剤を減らされてしまう。どんなに重苦しくても抗癌剤はしっかり服し続けたい。

* まだ九時だが今夜はからだを休ませてやろう。
2012 11・27 134

* 中村勘三郎死すと。嗚呼 なんたる悲報。天才であった。あんなにわたしたちを心底楽しませ嬉しがらせ幸せにしてくれた、いつもいつもそうであった歌舞伎役者はかつていなかった。もう一度で良いから帰ってきて、舞台からわたしたちをあの笑顔で観てほしい。平成中村座は偉業であった。あの平場にすわってわたしたちはどんなに喝采し笑いまた怖がり、そして何度もビックリ仰天したことであったろう。妻の頭の上へ降ってきて、妻のペットボトルをひょいと取り上げた勘三郎の幽霊よ。もういちど、ああいう舞台も、また鏡獅子の弥生のような美貌も、息子二人をしたがえて毛振りした獅子の偉容も、見せて欲しい。嗚呼 泣けてくる。

* 殆ど一日中中村屋追悼の映像に、泣けてやまず。わたしよりまるまる二十若い。泣かずにおれぬ。病の激しさを思う。だれもだれも、どうか病に陥るな。
2012 12・5 135

* 昨日の晩、池袋での仕事からそのまま自動車で建日子が回り道して来てくれた。わたしは熟睡していたが起きて、歓談。相変わらず小説、劇作・演出、小説、秦組の養成と忙しさの極みだが、それで此処まで来たのだから、体調と気力とが続いている限りはそのまま運転していていいだろうと、健康は案じながら眺めている。彼に、平成中村座を観せておいてよかった。勘三郎の舞台には建日子も多く深くを感じ取っていたようだ。よかった。幸四郎の弁慶も観ておかせた。これにも感動したようで、甲斐ががあった。あれこれ言っても歌舞伎はいまもなお他のジャンルを大圧倒する熱源を腹に胸に足腰に、そして魂に孕んでいる。大いにいいところを盗み取って活かして欲しい。
2012 12・8 135

* 勘三郎らの四国金平座の芝居を浮世絵を巧みに動画化しながら、面白く、懐かしく、涙もして観た。追悼番組はまだいろいろ続くだろう、希有のことである。
2012 12・8 135

* 晩には仕事も休み、ドラマ「平清盛」から。みごとな構成と迫力とで今回も唸らせた。清盛の「顔」の見事さ立派さは群を抜いている。こんなにも、演じられるのだと、感嘆。
次いで亡き勘三郎の「髪結新三」を満喫、手代に亡き芝翫、家主に亡き冨十郎という名優を配し、拐かされる娘は玉三郎、矢田五郎源七には仁左衛門、中剃りに染五郎という豪勢な花形を率いるていに、中村屋の小悪党新三は、めっぽう粋で格好よくてほれぼれした。録画した。
次いで「春興鏡獅子」も待ったなし録画。愛らしくも初々しい勘三郎弥生の美しい優しい所作を隅々まで堪能した。獅子は後刻に観るとして、次いで韓国の「イ・サン」を楽しんだ。
2012 12・9 135

新橋演舞場で待望の菊之助の花魁八つ橋を楽しんでくる。主役のあばた面の大尽佐野次郎左衛門は尾上菊五郎。敵役栄之丞は坂東三津五郎。この「籠釣瓶花街酔醒」は、わたしが初めて南座で顔見世歌舞伎を観た芝居。初世中村吉右衛門とのちの中村歌右門の八つ橋。魂を抜かれたほどに少年のわたしも痺れた。敵役は懐かしい守田勘弥で。
以来玉三郎や福助などで繰り返し楽しんできたが、菊之助の八つ橋、待ちに待ちかねていた。
2012 12・10 135

* 西銀座で見つけて、妻に、ちょっと様変わりの洒落た街着を買った。試着したまま帝国ホテルで昼食し、新橋演舞場へ。
菊之助の花魁八つ橋は、道中の花道がよく、愛想づかしは甲の声ですこし理詰めになったが、なんと美しいことか。「籠釣瓶はよく斬れる」と無念の次郎左衛門に斬り殺される直前の詫びを入れる八つ橋も、よかった。座敷に上がってからの御大尾上菊五郎の佐野熱演もなかなか丁寧な出来で、わたしは拍手した。三津五郎の栄之丞も、松緑の治六も、さすがさまになって花があった。若い役者を大勢使っていて、それだけ芝居のワキは甘くなっていたが、はんなりと、舞台は終始楽しめた。
三津五郎の「奴道成寺」は面替えの所作軽やかに、気持ちよく踊ってくれた。「娘道成寺」の優艶で濃厚な所作の美しさとは趣は大いに違うけれど、亡き勘三郎とは同年、踊れる男役者のそろそろ最右翼に三津五郎は立たねばならない、その気概が今夜の舞台にしんみりと感じ取れた。よかった。

* 一路帰ってきた。銀座から席を譲って貰い、ただもう瞑目していた。瞑目がいちばんラクなのだ。

* 晴れやかに、いい五十五年めであった。ともどもに、健やかでありたいもの、と

願へども晴れぬ病ひの身を起こし来新年も「いま・ここ」に生く

「念々死去・念々新生」のわがいのち安々と生き安々と行かめ
2012 12・10 135

* 新年、俳優座で山田太一作「心細い日のサングラス」の招待が来ており、昴劇団公演の「イノセント・ピープル」案内も届いている。後者は、原爆水爆製造に係わっていた人たちのドラマだと。両方とも見に行く気でいる。
一月の初春歌舞伎も、昼夜分けて楽しみにしている。友人片岡我當の「翁」を演じる「壽式三番叟」で新年が開ける。有難し。二つめに「車引」 三つめは幸四郎と福助の「戻橋」があり、切りに、吉右衛門をはじめ友右衛門、芝雀、歌六、東蔵らの「傾城反魂香」。
夜の部は幸四郎、福助、梅玉の「逆櫓」で幕が開き、團十郎、吉右衛門、芝雀で「仮名手本忠臣蔵 祇園一力茶屋の場」が続き、大喜利は、狂言物の「釣女」を三津五郎、又五郎、七之助らで。
やはり歌舞伎はこうして演目や役者の名を書き写しているだけで身も心も動いてくる。亡き勘三郎らが教えてくれた冥利である。

2012 12・16 135

* 明日は、中野で、クリスマスらしいミュージカルを楽しく観に聴きに行く。松本紀保が出演する。
明後日の七十七歳には、国立大劇場で、中村吉右衛門はじめ播磨屋一門を芯に、面白い歌舞伎らしい歌舞伎を気持ちよく楽しんでくる。
新歌舞伎座のこけら落とし興行のメドが立ったようだ、人気沸騰か。
2012 12・19 135

* 朝夕に贈られてきた「めで鯛」の姿焼き、「福」の「ふぐ一夜干し」を、帰宅後、明日誕生日の前夜の祝い膳にと妻が用意してくれた。ありがたくご馳走になった。「旨かった鯛と福」に感謝します。
晩に金沢から金田さん、能登風味詰め頂戴。ありがとう。
明日は、夕方から国立大劇場で、うって変わって歌舞伎の通し狂言『鬼一法眼三略巻』を楽しんでくる。「清盛館」がめずらしく、「菊畑」「檜垣」「奥殿」と続いて吉右衛門が一条大蔵卿の大芝居。はねるのが九時前なので、外での食事はあきらめねばならない、家でゆるりととりどりご馳走にあずかります。
2012 12・20 135

* 新歌舞伎座こけら落としの四、五、六月、各三部制の演目、番組が新聞に報道された。もし可能なら「全部観たい」と願っている。

* 昼過ぎから国立大劇場で中村吉右衛門の鬼一法眼・一条大蔵卿二役の通し狂言『鬼一法眼三略巻』四場を堪能してきた。前から五列、花道にまぢかい角という絶好席で、開幕の「清盛館」という珍しい場で、歌六の貫禄清盛に賛同、手練れ芝雀の皆鶴姫とまだ若い歌昇の笠原湛海との達引も微笑ましかった。ふつうは次の「菊畑」の場が馴染み。吉右衛門の鬼一法眼老いの弱みながら剛直の威力といい、掛け合う又五郎の奴智恵内こと実は法眼弟の吉岡鬼三太の実直といい、加えて梅玉の虎蔵実は牛若丸と皆鶴姫との色模様といい、湛海の三枚目といい、楽しめる一場。わたしは遠慮も半ば、半ばはあえてまぢかい舞台から一直線に来る吉右衛門の眼を、望遠鏡で覗きつづけていた。役者の覚悟は眼に光る。光らない役者はダメ。吉右衛門ほどになると、それを見せてもらえるのが特別の感興に成る。「檜垣」の場では、つくり阿呆の一条大蔵卿、あの牛若らの母常磐の前を今は妻として平家の清盛から預かっている公卿が門外に姿をみせ、常磐の家来であった鬼次郎・梅玉と妻お京・東蔵とが接触する。ここは一条卿の阿呆ぶりが見せ場で、吉右衛門の藝の眼を覗き込む楽しみも申し訳なさも一倍。そして大喜利「奥殿」での、魁春が演じる常磐の前の苦衷と告白、愛くるしいほどの阿呆ぶりと、口跡凛々、もとは源氏の身を鬼次郎夫妻に語り聴かせて、牛若に、機を待ち源氏再興に蹶起せよと伝える大蔵卿本気の風格、堪能できる佳い場面、とても気分良く楽しみました。抗癌剤だけは、劇場で服用。

* どこへ立ち寄る時間でなく、一路順調に帰宅。ご馳走での遅い晩食 服薬。そして何もせずにやすんだ。
今日という喜壽の日に、マヤ文明の暦が果てると聞かされていた。即ちまた真新しい暦が継続するのであり、壮大な繰り返しの新たな一歩が明日から始まる。よしよし。
2012 12・21 135

* 何故か分からないが、歌の切れっ端が頭にのこってしょっちゅう口をついて出てきて弱ることが、まま、ある。人様にもあるかは知らない。いまは、歌舞伎の蔭囃子というのか下座音曲というのか、吉原通いを唄った切れ端の、「通ひなれたる土手八丁ォ」というのと、コマーシャルに出てくる「佐藤の切り餅ィ 餅 餅 もっち 餅ィ」というのに憑かれて、離れてくれない。罪のない犯行ゆえ赦してはいるが、時に邪魔になる。

☆ 来る年のお幸せを、感謝とともに。
昨日、お祝いのメールと思い乍ら撮影で軽井沢に一日行ってまして、一日おくれになってしまい。あらためて喜寿おめでとうございます。
今年は秦先生にとっても大変な病との戦いでられたにもかかわらず、何時もにこやかにお芝居を御覧に来て下さり敬服しています。そして側には、いつも暖かい笑顔の奥様がいらして嬉しく感じています。
私共にとっても未だに思いもかけない(染五郎丈の)出来事でしたが、ほんとうに奇跡といっても過言ではないほど回復がはやく、有難く思っています。
幸四郎が文化功労者に顕彰されました事は、いままでの幸四郎の生き方を認めて下さったと存じ、応援して来て下さった方々が喜んで戴き、大変嬉しく、感謝でございます。
らいねんは歌舞伎座が愈々会場されます。平穏でいい年になります様、祈るばかりです。
どうぞよい年をお迎え下さいませ。  高麗屋夫人
2012 12・22 135

* 新歌舞伎座四、五、六月の「こけら落とし」興行は、予想通り観劇希望者の殺到らしく、願うままに座席が手に入りにくい状況ですと連絡が来ている。拘泥しない。可能な限りが可能になればで、よい。
三月に福助か初役で「女清玄」を国立劇場でやる。南北があの名作「桜姫東文章」より早くに書いていた作で、筋はなかなか面白いのを、これも出来れば観たいと手配を頼んだ。
2012 12ー22 135

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