ぜんぶ秦恒平文学の話

歌舞伎 2021年

* 高麗屋二代松本白鸚さんの 牛を墨畫の賀状を目の前に置いている。まいとし、実に簡潔に美しい干支を自畫の賀状を戴く。ことに珍重している。きのうは、十代目幸四郎さんの誕生日でもあった。もうまるまる一年舞台が観られていない。寂しい極み。致しようも無く。
2021 1/9 230

* 歌舞伎座初春興行の玉三郎の踊り、高麗矢三代での「車引」また愛之助、松助らでの「らくだ」などをテレビで楽しんだ。十代目松本幸四郎の誕生日は秦建日子のと同じ一月八日、お祝いのメールを送っておいた。
歌舞伎の舞台に、コロナ禍の及ばぬ事を切に願っている。なにしろ、代わりが、ちょっくらちょいとはいない、出来ない、世間なのだ。藤十郎が亡くなり、片 岡我当が健康を害したまま永く舞台へでられずにいる。白鸚、菊五郎、秀太郎、吉右衛門、梅玉らに何としても歌舞伎の大時代を次へ豊かに繋いでもらいたい。
2021 1/10 230

* 昨夜、十七世中村勘三郎追憶の歌舞伎座映像で、孫の勘九郎と曾孫勘太郎とのそれはそれは美しく見事な「連獅子」の要所を観せてくれて、賞賛と 感激の涙にくれた。涙の内にはあの懐かしい十八世勘三郎への恋しいほどの思い出も溢れていた。勘九郎が立派に美しく成人してわが子を舞台で鍛えるさまに、 ああよかったよかったと手を拍った。染五郎時期の今の幸四郎が息子の当時金太郎とみごとに踊った「連獅子」も思い出した。すばらしい舞台だった。金太郎 は、今、市川染五郎で活躍し、お父さんは十代目松本幸四郎として重きを成している。

* コロナ禍で、もう一年余も歌舞伎座へ行けていない。劇場は対策していても、そこへ行き帰りのバス、電車、地下鉄、タクシーなどがとてもまだ油断成らな い。歩ける元気のあるうちに、何としてももう一度歌舞伎座へ行きたいと、昨夜のテレビ前で妻と嘆いた。「袖萩祭文」の貞任といい勘九郎の内外ともなっての みごとに美しい成熟、勘太郎の覇気に溢れた童顔。叔父の女形七之助もとうから存在感の大きさ美しさで人気に光っており、「中村屋時代」が来つつあるなと頼 もしい。

* 勘三郎と謂うと 思い出は果てないが、なかでも、平成中村座で、宙乗りの若くて元気な勘三郎法界坊が桟敷のうえを回遊し、妻のペットボトルを空からかすめ取って喉をうるおし笑い抜けていったたのが、今もありあり目にある。
三十三回忌の十七世でも懐かしく心親しい思い出がある。あのころ仲良くしていた今は亡い藤間由子に誘われ、第一列中央席に二人で並んだ。あれは、若旦那 の勘当が赦りためでたい上方芝居の最後で、例の手ぬぐいを舞台から客席へ景気よく投げるとき、主役の大中村屋は、とことこと我々の目の前へ来て、笑顔でポ イと、手渡すように手ぬぐいを呉れた。由子への挨拶だったのだろう、が、あの中村勘三郎の親しい笑顔、忘れられない。
この十七世が、まだ「もしほ」と名乗っていた頃、京都南座の顔見世へ、初世の吉右衛門と東京から来て、その舞台を観たのが、高校一年生の私が「歌舞伎」 を観た、いの一の初体験であった。初代の亡き白鸚、その以前は八代目松本幸四郎であったのも、当時はまだ市川染五郎で、その顔見世へまさしく「もしほ」と 並んで出演、人気上昇中のころだった。立女形は、なんと、のちにあの中村歌右衛門を襲名した超美形であった。

* こんな思い出に耽っていたら、とうていキリがない。
2021 3/29 231

* 歌舞伎座で、公演後に中村吉右衛門が仆れたという。大事なきを拙に願う。兄松本白鸚と並んで、いまや掛け替えのない立役者。踏ん張って持ち直し、またの舞台での対面を切望する。代役に甥の松本幸四郎と。飛躍へのシカとした踏台にして欲しい。
2021 3/29 231

* もう六月の歌舞伎座案内が来た、が、出かけられまい。それどころか、そのころには五輪開催をどう左右するか難中の難題になっていようかも。
播磨屋が仆れたという。高麗屋に、ムリして欲しくない、要心願いたい。
学校友達の、松嶋屋を統べている片岡我當が久しく顔を見せていない、心配していますよ。
2021 4/6 232

 

ポストへ、かなりの嵩と数の郵便物を入れに、自転車で。片岡我當くんに、戦前の文豪、大作家ら自筆の短冊を原色刷りした見栄えの一冊を贈った。元気な我當の舞台にはやくまた会いたい。
下駄履き自転車の、往きは下り坂あっと云うまに用は足りたが、帰りは真っ向の強風をうけ、呻いた。
十一時半。眼がふさがりそう。
2021 5/16 233

* 松嶋屋の片岡秀太郎(我當の次弟)がT亡くなった。我當と私は同年。秀太郎は女形ぶり懐かしくまだ元気と思い、洒脱かつ愛想のおおらかな藝風を愛していたのに、惜しい。
今朝方も、中村屋兄弟の話から、勘九郎と勘太郎父子の「連獅子」に泣かされながら、勘三郎のあんまり若かった他界を惜しんでいた。歌右衛門、白鸚、勘三郎、猿翁、鴈治郎、富十郎、三津五郎、団十郎、若い三津五郎、そして若い勘三郎等々たくさんな役者に死なれてきた。
藤十郎、二代白鸚、梅玉、左団次、仁左衛門、とりわけて玉三郎、健在でいて欲しい。 2021 5/27 233

* 伊藤鶴松著『歌舞伎と近代劇概論』という、京都の下長者町にあった文献書院からの本が、昔むかしから、幼かった私のほぼ手の届く範囲にいつも実在した。秦の祖父や父が手にしていたのは一度も見ていない、手にするのは小学校、中学生の私だけだった。難しそうな「序説」や「内外演劇史概観」などは、また「近代劇概論」や世界の「現代自然主義作家と其思想」などはハナから敬遠したが、それでも「近代劇の先駆イブセンと其思想」「『人形の家』と近代婦人問題」とある章へは果敢に踏み込んでいた。が、何というても関心も興味も「歌舞伎」にあった。「近松の劇と人生」「近松以降の浄瑠璃作者と其代表作」「近世期の江戸脚本作者と其代表作」「江戸歌舞伎の集大成者河竹黙阿弥」の各章には、さまざまに代表的な歌舞伎劇のあらすじやなセリフ等々を含めて、私は実の舞台に接するまでにたくさんな歌舞伎知識を手に入れていた。南座の顔見世を初めて観せてもらえたのは高校に入ってからだった。期末試験の予習もしながらの師走顔見世、最初に出逢ったのは初世中村吉右衛門とまだ福助だった後の中村歌右衛門との「籠釣瓶」が印象的だった。のちの中村勘三郎がまた「もしほ」、のちの松本幸四郎(初世白鸚)がまだ市川染五郎の時代だった。だが、高校以前に私はこの『歌舞伎と近代劇概論』と親しみ、有名な芝居のあらすじはかなりの数、覚えていた。

* 本は、大正十三年師走半ばに刊行されていて、祖父は明治二年、父は明治三十一年生まれだからどっちが読んでいても不思議はないが、祖父は莫大に堅い堅い本の蔵書家だったが父が読書の姿は見覚えがない。祖父の家業はいわゆる「お餅屋さん」京風には「かき餅屋さん」だったそうで、南座へ卸していたりしたという。そういえば父は、若い時分に松嶋屋(片岡仁左衛門)の筋から弟子にと、実否はしらない、声がかかったなど耳にしたことがある。若い頃の写真を見ると父は、和服でも洋服でも軍服でも男前だった。

* 昨今の単行本の巻末に、著者と関わりない書籍の広告が入る例は少ないないし稀であるが、明治大正の本はそうでなく、しかも今今の目にはその広告が面白いとは前にも述懐した。この『歌舞伎と近代劇概論』なる堅い本の巻末にも三頁分(少ない方だ)広告があり、本の主題からして関連の濃い、一頁めには近松以降の戯曲、劇、脚本等著作の広告、二頁めにはラム原著全訳の『セキスピヤ劇二十篇が「新刊」として広告されている。歌舞伎や演劇の本として、ごく尋常、何の逸脱もない。そして三頁めには、中等学術協会編なる『明治文學選釈』成る一冊が広告されていて、おうおうと声が出る。「中等学校上級生の自修書、又上級學校入学志望者の準備書」と売り言葉があり、「内容大要」としてあるのへ、末代の一作家として目が向く。
「評論文」として、樗牛、作太郎、天随、子規、粱川、祝、逍遙、露伴、蘇峰、知泉、毅、有朋「等の作」と揚げてある。識らない名が一二まじり、「毅」「有朋」は政治家、軍人ではないのか。「作太郎」は国文学、天随は漢学の学者、今日にも聞こえて「文学」の人としては樗牛、子規、逍遙、露伴か。
では「参考文」としては、逍遙、粱川、作太郎、八束、潮風、鐵腸、樗牛、桂月、麗水、泣菫、二葉亭、露伴「等の作」と揚げてある。詩人もありジャーナリストもある。近代文学史の筆頭と聞こえた二葉亭が顔を出しているが、藤村も漱石もまだ現れない。次いで「参考・趣味」として挙がっているのが、露伴、作太郎、漱石、樗牛、虚子、蘆花、藤村、荷風、独歩、鏡花、武郎、節「等の作」と列んでいる。
いないなあと思う、一葉、鴎外、紅葉、茂吉、晶子など。直哉も潤一郎も、芥川もまだ若いのか。
昔昔の本の巻末広告は、ときに切り口を光らせて意外に批評的な時世の推移を頷かせてくれるのです。
2021 6/7 234

* 伊藤鶴松著『歌舞伎と近代劇概論』をみると、随所に、一段と小活字で、名だたる歌舞伎演目の「あらすじ」が語られていて、実際の舞台に観入るよりはるか以前、明らかに幼少の昔に、近松作(だけでも53作の題があげてある。)の「心中天網島」「冥土の飛脚」「夕霧阿波鳴戸」などのほか、時代を追って「寺子屋」を芯に「菅原伝授手習鑑」の大要や、「伊賀越道中双六」の「沼津」や、紀海音の「八百屋お七」、また並木宗輔の「刈萱桑門」 並木五瓶の「五大力恋緘」「鈴ヶ森」、また四世鶴屋南北のおっそろしい「四谷怪談」等々、ことこまかに読ませてくれて、恐がりの私には字で読むだに怖い恐ろしい舞台の筋書きや役者などが、まこと親切に紹介されていた。もう明治へも手の届いてくる黙阿弥劇の「鼠小僧」「十六夜清心」「三人吉三廓初買い」「弁天小僧女男白浪」「切られお富」等々、かぞえきれないほど多くのあらすじが巧みに小活字で語られていて、いわば小説や講談をこのお堅いつくりの一冊で、一杯読めるのと同じだった。
高校生になって初めて南座で顔見世の芝居を観るよりはるかに早く、疎開前の国民学校、疎開先から帰京しての戦後小学校、新制中学の内に、贅沢なほどたくさんな芝居の筋や役者らの名を、たとえ朧ろにも。実に面白くも怖くも、私はもう覚えていた。
これもまた、祖父か父かと限らない「秦家」に「もらひ子」されての天与の耳ならぬ目での学問だった。どう感謝してもあまりある恩恵だった。私自身は祖父にせよ秦の父や叔母や嫁いできていた母にせよしこしこと読書している図は皆目覚えがない、のに、間違いなく「寶」と呼びたい本が、少年の目に無数に近く蓄えられていた。
叔母(宗陽・玉月)は「茶の湯」と「生け花」とを私に教え、「和歌」「俳句」という歌の作り方を寝物語にも教えてくれた。父は観世流「謡曲と能舞台」への道をつけてくれた。
その有り難さを、私は八五年もかけて、今、しみじみと感謝している。
2021 6/10 234

* 歌舞伎の本を観ていると、芝居のあらすじも覚えたが、なにより要所での名セリフを我勝手に節づけて唱えるのも面白かった。

月も朧に白魚の 霞も霞む春の空、冷めてえ風もほろ酔いに心持ちよくうかうかと、浮かれ鴉のただ一羽、塒へ帰る川端で、棹の雫か濡れ手で粟、思いがけなく手に入る百両ーーほんに今夜は節分か、西の海より川の中、落ちた夜鷹は厄落とし、豆沢山に一文の銭とちがって金包み、こいつぁ春から演技はいいわえ」

舞台を観たことがないのに、声を張り上げていた。近松の「心中天網島」を「てんもうとう」と読んで大人達に笑われてもいた。「いきな黒塀見越しの松」の家に囲われたお富さんにせまる斬られ与三のせりふも覚えていた。まだ戦争中だった、のちのち戦後の盆踊りが大流行になると、「いきな黒塀見越しの松ぁつにあだな姿のお富さん」へ居直る与三郎を想いながら、夜更けまで盆踊りの輪を楽しんだりした。
面白い少年、少年前、時代であった。
2021 6/11 234

* 八月納涼歌舞伎の案内がきたが、とても、この半年のコロナ禍、なおなお油断ならない。出歩きは諦めている。
2021 6/12 234

* 昨日 高麗屋から、今朝は京都「シグナレス」の森野公之さんから、それぞれに珍しいお菓子を戴いた。感謝。
2021 6/30 234

* いちばん願っていた横綱白鵬の、四十五回目、願ってもない「全勝」優勝の大相撲が観られた。もう百年二百年待っても、四十五回も優勝できる横綱はもう絶対に現れないと私は言い切る。勝ち相撲の激昂の表情に最高の美しい「男」を観た。解説のチビ男などが何をケチつけようとも、要は土俵上での「手」を尽くした「勝ち相撲」の15連続だった。偉業と頌え、私は、そんな横綱と時代をともにした嬉しさを満喫する。
負けはしたが大関照乃富士の大健闘にも心からの賞賛を贈る。彼が勝っていても私は賞賛を惜しまなかった。

* 美空ひばり、板東玉三郎、に加えて横綱白鵬、こんな完成された天才と世紀をともに生き得たのを私は喜んでいる。哲学と藝術の畑で、これほどの人らと出会えないままで死ぬるかと、寂しい。
2021 7/18 235

* 市川猿之助がコロナ要請と報じられ、歌舞伎座にも病害がせまってきた。俳優座からも、大の贔屓の松本紀保また松たか子からも秋のお誘いがあるが、まだワクチン接種も一回だけの身では、身動きの自由も安全も図れない、残念至極だが、タカをくくる危険は避けたい。
2021 8/7 236

* 白鸚さんから、もう歌舞伎座顔見世の案内があった。やはり三部制。昔から給金直しの顔見世興行は、江戸で十一月、京都は師走ときまっている。残念だが、まだ、観劇へ踏み出す元気はない、要心大事と思う。しかし明後日に予約の聖路加内分泌科へは行く気でいる。
2021 9/8 237

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