ぜんぶ秦恒平文学の話

歴史を読む 2009~2013年

 

* 東大教授の竹内さん、かつて秦文学研究会を永く主宰して下さった人のメールに答えて。

 

 * 拝復

 わたくしは、この十数年来、バグワン・シュリ・ラジニーシに聴いています。いま、わたくしは、余生乏しくなった今、ほとんど「論じる」という営為の限界を遠のきたいと呻いています。

  ただ待っています。間に合うかしらんと思いながら。「静かなこころ」を。

 「悲」という文字を 「悲しむ」という言葉を 今昔物語は示唆豊かに用いていますね。わたしは毎晩欠かさずいま今昔物語を聴いています。

  今一つ、ジャン・ジャック・ルソーに躓き続けています。この人の言葉は、徹底してマインドで組み立てられながら、ハートの言葉であると僭称しているのでしょうか。理論家として周到で卓越していますが、偽善者のことばのように響くイヤな印象も。いま、いちばんひっかかっている好かないが気になる思想家です。

 旧約聖書をごく初期の文語文日本語訳で、エレミヤ記まで読み進んでいます。分からない。アラビアンナイトを全巻読み終えたときの方が晴れやかなよろこびに満たされました。

 とかくすると「歴史」を読み、学ぼうとしてしまう根底の姿勢に、ときどき途方に暮れます。モンタネッリの「ローマの歴史」を面白く二度目読んでいます。この三年に世界と日本の通史を、そして関連の史書を何万頁も楽しみました。しかし、これはこころを騒がせる役しかしません。

 それでも、いま現代がほんとうに歴史的に必要なのは、「中世を再び」の思いと、実践かと。

  万葉集を全部、古今集を全部 音読し、いま千載和歌集を二度目読み続けて、秀歌を選んでいます。これは心静まります。

  とりとめないことを申しました。 草々

 2009 1・6 88

 

 

☆  院   1999 11/15 「歴史」   

  * 聖帝とうたわれた村上天皇までは、崩御後にみな「天皇」とおくり名していたが、次の帝からはすべて「冷泉院」というふうに院号であった。後白河天皇とか後醍醐天皇と呼ぶようになったのは、大正時代に入ってからの話で、「天皇」のおくり名の復活したのは幕末に近い「光格天皇」以降仁孝、孝明、明治天皇と続いたのであり、光格天皇以前平安時代の村上天皇までは、ことごとく正式のおくり名は「院」であった。

 こういう史実をふっと記憶に呼び起こされることで、意外に新鮮な気分になり、身のまわりの「むちゃくちゃ」から微かにであるが逃避できる。息がつける。

 わたしは、「知識」に対しては、熱い共感を持っていない、知識は重荷になるとすら思っているが、時に、塩胡椒のようなぴりっとした「知識」がつらい気持ちに刺激を生んでくれるのも確かである。 「むかしの私」より

 2009 1。23 88

 

 

* 大久保房男さんから、日本史上、中世には最も興味稀薄でしたがと。ちょっと驚いた。西行、定家、道元、親鸞、一遍、日蓮、世阿弥、一休、兼好、雪舟、利休、永徳、等伯、光悦、宗達らを輩出し、武人にも個性は多かった。皇室や公家を在れども無きが如くにし得ていただけでも時代として大いに愉快な、岡見正雄先生のことばを借りればふくふくとあたたかな陽気な「室町ごころ」の時代であった。

 西洋の中世とは大いにちがう。日本の中世は、鎌倉・南北朝時代と室町・戦国時代を含んでいる。今度のわたしの本は南北朝から戦国・安土桃山時代を対象にしていて、社会史的にも文化史的にもじつに多彩に「陽気な」時代なのである。それが、大抵の人は「中世は陰気で暗い」と勘違いしているのはまったく西洋の中世の印象に引きずられている。

 能・連歌・茶の湯・俳諧そして一揆・戦争。一味同心、人が寄り合わねばどれも出来ない。人が寄って拠って、「我々」でなにかしようかとなれば、活気と陽気は当然渦巻いてくる。敵愾心も渦巻いてくる。それだけ民・百姓にも力がついてきている。「いま、再び」とわたしが「中世」を一冊にしたのは、「今日只今の現代」こそ「陰気に暗い」のを、陽気渦巻いた中世に一つでも二つでも学びかえしたいからだ。

 2009 2・3 89

 

 

☆  法然 秦氏 梅原猛さん  2000 1・31  「歴史」

  * 京都での梅原猛氏の文化勲章のお祝い会には、お祝い会費だけを早くに送って、失礼した。たいへんな人出であったろう、ご同慶に堪えない。 その梅原さんは、ここのところ「法然上人」について、東京の新聞に、書き続けておられる。法然は日本史上もっとも懐かしいお上人であり、理屈抜きに有り難い数少ないお一人である。

 じつに大勢が法然を語ってきたし、わたしも、法然と親鸞の「出会い」を日本史の大きな出会いの一つに数えて早くから語ってきた。梅原さんの法然論はもう暫く続いて行くだろう、また新聞紙上という性質から、いくらか評論・解説的にもなって行くのは仕方がない。

  * 今夕、梅原氏は、法然の出自に関連して、その両親がともに「秦氏」であったことを指摘されている。また父の漆間時国は押領使の職にあり、これは、いわゆる地方の土豪の「悪党」化して行く最短距離の職位であったとも指摘し、したがって抗争のあげく「夜討ち」に遭い一族の死に絶えるような可能性の高い環境・状況に彼は生きていたと言われている。新説でも何でもない、よく知られたことである。

 「悪党」必ずしも今日の悪党ではなかった、楠正成もそのような「悪党」の最たる一人であった。命を張って力づく生きていた、「時代の子」であり、品性の質は自ずから別のことであった。

 法然の父時国はよく己を知り、わが子を、遠く仏の国へ向かわせる思慮を持っていたと謂わねばならない。

   * 梅原さんは、筆を進めて、法然の母秦氏の「家」は手工藝の家で、もとより渡来系の氏族であり手工藝の家でもある「秦氏」は、歴史的に、二重に被差別の立場にいたであろう、それが法然の「信の芯」に強いエネルギーを送り込んだのではあるまいかと推量されている。

 微妙に嶮しい一つの難所であり、にわかに反対も賛成もしにくいが、親鸞にしても日蓮にしても、自身を、最もいやしき者の最たるものに見きわめて、そこから「信」を深いものにしていた。事実というよりも覚悟の表明である。

 法然はとくにそういう述懐をしてはいない。渡来系というならば、最澄も渡来系の家の人であった。そのことが最澄の佛教に特に大きく響いていたか、飛び抜けた条件であったようには思われない。

 身分低いと謂えば、行基にしても空海にしても空也にしても一遍にしても、恵まれた地位や社会から出てきた人ではない。法然の「信」を簡単に「秦氏」「渡来系」という出自からだけで左右するのは、やはりやや軽きに失するのではないか。

 親鸞は、仮にも藤原氏であった。だが明らかに同じ藤原氏の師慈円とはまったく異質・格下の人として、後には法然をいわば嗣いでいる。名僧知識の「信」の基盤を問うのは難しい。思いつきでは片づかない。

   * 一つには梅原氏の「秦氏」理解も、どんなものか。

 太田氏編の『氏姓大事典』のなかで明言されているように、「秦氏」は、世に謂う「源・平・藤・橘」の四大氏姓をも凌いで、最も多くの苗字に別れてきた。日本列島に広くひろがり、ある著書によれば「境界を持たない國」のようだとまでいわれている。大和にも山城にも近江にも秦氏の大根拠地があった、が、それしきではない。

 分布だけでなく、また担っていた職能の多彩も、大変なものであった。製糸・織布・鉱業・造船・土木・建造・造酒・木工・金工、製糸、牧畜、芸能。

 秦氏には、京都の宮廷社会で「五位」前後に地位を得ていた官吏の家系も多く、ことに騎馬を得意とした秦氏の群像で、一巻の国宝絵巻「随身庭騎絵巻」も出来ている。平安末期にいたって、なお、「秦氏」は渡来系だからなどという意識や評価は、色んな角度で「説話」群を読んでいても、例話にはめったにぶつからない。当たり前の話だと思う。

 「秦氏」は、ちょこちょこっと指先で摘むには、あまりに巨大な多面体であり、包括的な研究には、専門家すらもてあますほどの、ピンからキリに富んでいる。富みすぎているのである。

 今の人の意識には上らないが、世の神主さんに、「秦さん」は「小野さん」と並んで多い事実も面白い。京都で謂えば、稲荷も松尾も鴨もそうだった。そして「秦氏」がいわば長岡京、平安京を提供し得た「地主」のような存在であったことも忘れてはならないだろう。「太秦」の名はかりそめのものではなかった。嵯峨嵐山の歴史的景観の基本構図は「秦氏」が描いていたのである。

   * 法然の母の秦氏がどんな「工藝」に携わっていて蔑視されていたと梅原氏が謂われるのか分からない、が、「醍醐天皇の頃から差別を受け始めた」と氏は書いている。秦氏に限ったことでなく、律令世界構造が露骨に綻びはじめ、いわば「小さい政府」になろうとしてリストラしていったのが、非農業=工藝技藝部門からであったろうことは確かである。だが、布も糸も椀も鍬も箸も舟も傘も、世に無くてはならぬ品々は世の中が日々に求めたから、必ずしも生産者の誰も彼もが差別されたりはしなかった。それではこの國が成り行かない。

 むろん農民=公民感覚からすれば、非農民=職人は、ほとんど「國=公」の保護をアテに出来なくなっていった。だから差別されていたというのも、その限りでならそう言うことは出来る。多くの貴族や寺社に隷属していた例が多いからである。

 京都の、今は名高い色んな老舗など、ほとんどみなその末裔だと言ってもいい。いまだに京都で大寺社勢力が「市政を壟断」できるのも、その伝統に便乗しているようなモノだ。

   * ともあれ、醍醐朝以降被差別の海にいったん深く沈んだのは、むしろ「祝言藝」の人と、底辺の祭事に専従する「死と信仰」を担った人たちであった。そのシンボルが、例えば盲目の琵琶奏者「蝉丸」のような存在であった。以降、観阿弥・世阿弥の時代まで、彼らは時代の表面に人がましくは出てこられなかった、なかなか。

 法然の父は、「悪党」かどうかは知らず「押領使」という、ともあれ公職の人であった。法然の母の家のことは、わたしは、よく知らない。ただ梅原説は簡単過ぎる。

 先ず、十二世紀半ばの渡来系氏姓の名に、どれほど「渡来実感」が遺存していたかの検証・実証がない。「それ故に差別されていた」という検証が、法然の故郷近在で確認されているのかどうか、その時代に。それも分からない。

 私の知る限り、無数の苗字に変化して散開したおびただしい「秦氏」が、例えば薩摩と同じの「島津」と名乗る人が、おまえはもともと秦氏で渡来系だからと差別を受けたなど、あまり信じられない。

 もっとも今日でも、こういうことはある。かなり当てつけがましく、とくとくと「秦サンは向こうのお人の筋でんな」と、このわたしを焚き付けてきた人の苗字が、紛れもない代表的とも言える「秦氏」のものなので、「あなたもそうですよ」と丁寧に説明して上げると、実に困った顔をされ、気の毒になったこともある。これなどは、むしろ梅原さんの被差別説を補強し得ているようなものだが、そういう意識傾向の遺存していることは、やはり有るといえば有る。しかし作家井出孫六氏も、芝居をさせればたいへんな演技派だった桜田淳子ちゃんも「秦氏」で、薩摩の島津という苗字も、戦国大名の長曾我部もやはり「秦氏」だと聴いて、その人はかなり安心したから可笑しかった。世阿弥も「秦元清」と名乗っていたとは、あえて言わなかったが。

   * 梅原説でもっと大事な検討事項は、手工藝=職人差別が、法然の「信の芯」に真実かかわり得たことかどうか、だ。

 差別・被差別を謂うのは簡単かも知れないが、簡単に言ってはならないだろう。「秦氏」についても、差別問題についても、梅原さんの、より慎重な議論をこの先に大いに期待したい。

 わたしも、考えてみたい。  2000 1・31 「むかしの私」より

 2009 2・5 89

 

 

* 國の肇に神話のよこたわることをわたしは否定しない。今日を「建国記念日」と呼ぶことに実証の歴史学は承認を与えにくいだろう。その一方でそれはそれ、これはこれと頷いてよしとする気持ちをもつことを、嗤う気持ちも無い。持たない。ローマはロムルスの神話と共に歴史を歩み始めて、今日どうかをわたしは知らないがローマ市民は否定的に神話を嗤っているだろうか。

 2009 2・11 89

 

 

☆  頭を雲の上に出し  2001  10・28   「唱歌」

     *  いま書きながら、耳に聴いていた「海は広いな大きいな」の歌詞の中の、「行ってみたいなよその国」に、またしても耳がとまった。海外への旅をおもう、そんな歌詞とは、あの、わたしが国民学校でこの歌を習った頃は、ちがったのである。そこには南洋の島々があり、アジアの国々があり、世界があり、日本から外へ外へ領土や政治支配を拡大したい政策の要請がはっきり有っての歌詞であった。そのように仕向けられていた。そういう仕向けが空気のように身のまわりをとり包んでいた。いま聴くような無邪気な憧れとは質が違っていた。そういう子ども向けの唱歌や歌謡が数少なくなかった。

  たしかにメロディは純然と懐かしさを誘いはするが、忘れられない批判や批評は、体内に生きている。わたしは「行ってみたいなよその国」とはたいして思ってなかった。「何しに行くのン」と思っていた、世界地図の上に占領を示す日章旗がピンで刺され続ける日々にも。

     *  日本は狭い島国である。海外に領土を発展させねばならぬと、たとえば本多利明のような開明的な江戸時代の経済学者は真剣に論策した。その影響下で蝦夷地探検などが発起され、最上徳内のような民間から出た優れて先見的な探検家が活躍しはじめた。徳内が大きな成績を積み上げ、幕政の北拓展開に大きく寄与したのは、近藤重蔵や間宮林蔵らの活躍より遙かに先行していた。

 徳内は本多利明の最も優れた門弟であった。重蔵も林蔵も徳内のいわば後輩であり、徳内の先導や指導により、徳内の耕し拓いておいた道を辿って活動していたのである。

 日本全図をつくった伊能忠敬のような人達も、そういう意味では最上徳内の、また本多利明の、さらに謂えばさらに先駆して世界をしっかり見ていた新井白石の、後輩達なのである。

 こういう江戸時代の系譜を思うべきであろう。と同時に、彼らに働いていた「行ってみたいなよその国」の思いの延長上に、近代日本の拡大政策が出来ていった事実も忘れるわけに行かない。日本は狭い島国なのであった。今もそうだ。

 その事で最も早く苦労し若い命をすり削り果てたのが、北条時宗であった。時宗のつらさを知っていた戦国大名や天下布武の織田信長や豊臣秀吉は、部下に対して切り取り御免という領土拡大政策であたり、その結果が、秀吉に、朝鮮はおろか大明国までもという出征を思い立たせた。元寇の逆を行こうとした。それ以外にもう日本列島に恩賞の土地が無くなっていたのである。ここから近代の対半島・大陸侵略戦へはまっすぐ繋がる。

 「行ってみたいなよその国」とは、思えば、そら恐ろしい意図も託された無邪気そうな唱歌であったことを、海に囲まれた狭い日本の国民は、忘れきれないであろう。 

     *  「頭を雲の上に出し  四方の山をみおろして  雷様を下にきく  富士は日本一の山」と、いま、無邪気に唄っているのが機械の中から聞えるが、この歌なども無条件には好きになれなかった。子供心にべつの意図が隠されてあると気付いていたとは言わないが、すなおな自然賛美の歌とは思えぬ擬人化が察しられて、イヤぁな心地がした。独り勝ちを望む国は、人は、こういう表現が好きだろう。  2001  10・28

 2009 2・13 89

 

 

* さ、もう日付の変わるまでに一時間とない。とりまとめなくては。

 

☆  無条件降伏  戦後の昭和精神史  2000 7・1   「歴史」

   * 桶谷秀昭氏に頂戴した『昭和精神史 戦後篇』が、問題をはらんでいる。戦前編の大作はすでに読んでいる。戦前は、概ね、わたしのものごころつく以前の「歴史」であり、体験的に参加できた時代ではなかった。だが戦後は、少年ながらわたしも体感するところのあった同時代である。

 さて、日本国は「無条件降伏」であったか。

 われわれ国民一同は微細に関係史料の読める立場にはなかった。研究的に「敗戦」の条件を論策出来る立場になかったから、実感として「無条件降伏」という分かりのいい言葉の方を、「ポッダム宣言受諾」といった吟味のきかない言葉よりも、端的に、そのまま受け取らざるをえなかった。その意味では、後々の吟味や検証や議論でどうあろうとも、「無条件降伏」のつもりでいた心理的・情況的事実は、今さら動かしようがない。

 「無条件降伏」を全面に拡大的に「ポッダム宣言」を解釈し、したいように占領軍側の「謀略的作為」による占領政策が力づく行われていたと謂われれば、なるほどさもあろうと思うが、あの当時の「何をされても」の無条件の実感を打ち消すことは、今さら出来ない。戦後占領施策の、敗戦処理の、GHQ指令といわれる全てを、眉をしかめてでも致し方なき「無条件降伏」のツケであると、少なくも政治交渉の衝には遠く遠く置かれた国民が嘆息し受容していたのを、もはや「過ちであった」などと、悔悟の対象にばかりは為しがたい。「あれが敗戦」だったのだから。

 極東軍事裁判の法制的な不備や矛盾についても「その後」の吟味検証議論で多くを承知しているけれども、あの当時の段階では、余儀なく、議論の余地なく、ただ受け容れていたのが大方の反応だろう。

 わたしのように新制中学生になるならずの疎い少年には、どんな報道も、まずは「無条件降伏なんやし」と聞き入れるしかなかった。広田弘毅のような、子供ごころにも何故にと愕かされた死刑判決はあったけれど、その余の大方の判決を呑み込んで異議なかった国民が大半であったとして、それは「間違っている」などと言えるあの当時では有り得なかった。それもまた「無条件降伏」なるが故にと思っていたとして、仮にその誤謬を、あの時点に戻って実感の根底から書き直すわけには、とても行かないのである。その意味では、幾分かは、あれは占領軍が裁いていただけでなく、日本国民も裁いていた裁判なのであり、A級戦犯としてあの市ヶ谷法廷に引き出されていた殆どの元軍人たちの過去の所業に、「賛成」できた国民は、あの当時、極めて極めて数少なかった真実を、大事に見て取って良いのである。

 たしかにインドのパル裁判官の、東京裁判を全否定した見解は尊いけれども、そういう議論とは別に、国民が胸の内で裁いていた裁判では、やはりあの判決の大方は、不動の鉄槌なのであった。桶谷さんの論証には、そこが落ちている。

 あの軍事裁判が不当な論理の上に立った占領軍の偏見と誤謬のものであれ何であれ、それはそれ、その埒外で粛々と国民の胸中でも進行していた戦争犯罪人と思しき連中への怒りや恨みや批判は、それまた、厳然と動かぬ指弾であった。その事実まで黙過しては、いかにも「為」にする議論のための議論に陥り兼ねないのを、桶谷さんのためにも惜しみたい。

 

   * 天皇の人間宣言や新憲法問題でも、占領軍の政策的恫喝や策謀が働いていただろうことは、桶谷さんらの証明されるとおりだと思う。

 だが、だから天皇は人間になってはいけなかったのか、明治憲法が克服されたのは良くなかったのか。

 主権在民、象徴天皇は日本国を悪くしたか。

 わたしは、そうは考えていない。天皇を神であるなどとわたしは少年時代から、あれほど神話に親しみ日本国史に親しみながら、だからこそ、考えたこともなかった。天皇制は一つの文化的・政治的な仕掛け・工夫の一つであり、存続させた方が、愚かな権力志向者の暴虐をまねくよりよほど賢いとこそ思え、「天皇に支配されている国民」という図式になど、反感とまで謂わなくても違和感は禁じがたかった。天皇陛下万歳などと本気で叫んだことなどなく、そういうことの出来る人たちは歴史病患者で病膏肓に入っているとしか思わなかった。

 楠正成の勤王を理解しても、後醍醐天皇の誤謬もまたわたしは理解した。天皇が人間であると宣言したとき、「あったりまえやん」とわたしはハッキリ感じていた。理屈をいろいろつけて、それを嘆いた人たちの大袈裟な感覚には、ついて行けない。

 明治憲法の多くが克服滅却されたことは、後々までも、今でも、よかったと思っている。教育勅語も、根底の趣旨において全面否認。その上で、また取り入れるべき語句や趣旨もあるだろうと思うだけのことだ。

 明治憲法の文章文体の、どう荘重であろうが高雅であろうが、根本精神に「天皇中心の神の國」を「国体」とし、国民はそれに滅私奉公せよとの強烈な支配意図は、ひらに御免を蒙り、葬り去りたい。

 どんなに新憲法の文章・文体が、いまいまの、たとえ翻訳調であれ、それまた「素心平意」の理想を新たな国民の胸に届け得る程度であれば、言うまでもなく憲法のことは「中に盛り込まれてある」内容で以て評価したい。

 主権在民、象徴天皇・国際平和・国民参政権・基本的人権の確立・思想信条言論表現の自由などの多くが、歴史的に初めて得られた大きな変化であり、権利であることの大きさは、明治憲法が国体と共に存続していたのと比較すれば、数千万倍にあたる喜びであると、わたしは、新憲法を、とにかく喜びとしている。その上で現下の不備をよりよく改めて行くことに少しも反対しない。

 あの敗戦後の現況下にあって、わたしは、日本の古い体質や姿勢をもったままの一部政治家たちの手で、旧国体観や万世一系の天皇神権政治が温存されてしまわなかったことを、心から、「ああよかった」と思っている。感謝している。

 新憲法のああいう決定的な理想主義には、たしかに人為的で欺瞞めいたウソ情況が、方便としても必要だったと思う。それでもなお、明治憲法による天皇制支配の国体が打破されたことは、よろこばねばならない。

 桶谷さんの議論では、その辺があまりに曖昧で、詮索に行方が見えてこない。大筋明治憲法のまま、天皇の神の國でよかったと言われるのなら、そうハッキリ言われるべきであり、主権在民は否定したいと言われるのなら、それもそうハッキリ言われればよい。

 新憲法が、占領軍に強いられて成立したかどうか、強いられたろうとわたしもほぼ認めているが、だから、それが、明治憲法をあのまま容認する根拠になどならない。憲法まで強いられた、そういう戦争であり敗戦であったが、わるいものを強いられていないことに、いっそ、「よかった」という気がある。日本の政治家に任せていたら、旧態依然に相違なかったのだ。

 ましてや文章文体で憲法の内容を是非するなど、本末転倒も至れりで、唖然とする。新憲法は、少なくも現憲法のように、素心平意の口調で分かりよく起草された方がいい、たとえ一部を書き改めるにしても。

 

   * 國は守らねばならず、極東の近未来は危険に満ちている。戦争放棄・国際平和は原理的に保存しつつ、しかし、安保条約になにほどの期待も掛け得ないと知れば知るほど、自衛の姿勢は、まず思想からして確立すべきだと思う。が、軍備について明確に言う足場を持たない私は留保せざるを得ないが、近隣近国との間に生じる軍事的緊張のさほど遠からぬ事態には、備えをせねば、やはり、どうにもなるまいとは怖れている。

 

   * 桶谷さんの指摘にある「国語」にたいする悪しき戦後の干渉については、もっともっと諸方から声が挙がっていい。

 現にわたし自身も新かなづかいを用いているけれど、その意味で言行不一致の誹りは免れないけれど、新かなづかいなるもの、およそ不合理を極めているのは確かであり、日本語に浸透した自然で必然の文法に深く、蕪雑に、背いている。

 日本中が勇断と聡明にしたがい、若干の配慮を加えて旧かなに復すべき反省に立ちたい。二十世紀日本語に対する「国民の恥ずべきいじめ行為」であった。新聞が、決然と立ち向かわねばいけなかったのに、新聞が事態をわるくした。日本のマスコミの恥ずかしさは、新聞も、テレビも、出版も、極め付きの質の低さである。日本語への愛と敬意を最も欠いている世間がマスコミなのだ。

 

   * 桶谷さんの本は、なおなお慎重に丁寧に読んで行きたい。銘々に考えねばならない問題が、一貫して桶谷さんの判断で、取捨されてある。これだけで「昭和戦後の精神史」を尽くしていると思っては、誤る。自分の胸に、正しく問うことが必要だ。

 わたしも、もっともっと落ち着いて考えて行く。今は思ったままを、即座に書き込んだのである。

 2000 7・1 

 2009 2・21 89

 

 

* 湯船の中で、のびやかに『ガリア戦記』を読んでいた。

 二千数十年も昔のカエサルがすぐ間近で、広大なガッリア(フランス)や海をわたってブリターニア (イギリス)をかけまわって、なぜかしらいとも楽しげにと謂いたいほど、軽快に駆け回りながら、夥しい部族との駆け引きや支配や戦闘に日々従事しているのが、すぐ目の前に見えるよう。えもいわれず不思議である。

 「背教者ユリアヌス」は、ガリアで、戦士たちにより副帝から皇帝(アウグスッス)に推戴されている。ユリアヌスはこのカエサルの『ガリア戦記』を敬意を籠めて愛読し、これを凌ぐほどの『ガリア』を書こうとしている。そんなユリアヌスの日々も毎晩読んでいる。彼のさらに敬愛する皇帝マルクス・アウレリウスもその『瞑想録』も、またわたしは好きで、読み返したくなっている。

 『世界の歴史』このかた、ずうっと継続して「ローマ」に引っ張られているのが我ながらおもしろい。

 2009 3・26 90

 

 

☆  教育の問題 日本の伝統とは 2000 12・17  「歴史」

   * 教育基本法にかかわるテレビ討論を朝からやっていた。町村新文部大臣も出ていた。

 基本法は素晴らしい理想を佳い文章で表明した、世界にも誇れる法であり、その理想が十分に達成できていないのは惜しくもあり残念でもあるけれど、さらに法の精神に基づいて達成して行こうと思いを新たにするのこそ当然の姿勢ではないか。何を、どこを、変更するというのか。それが田島力氏らの法改定反対の論拠であった。

 それに対し変革会議の議長だか会長だかは、世界的に普遍の理想法であるにしても、それゆえに「日本」の顔が見えないから「日本の伝統」などを加味する必要があると反論していた。

 そのような運営上の工夫は、法自体を変更しなくても、技術的に十分可能なように道も付いてある、それなのに強いても法をいじろうというのは、「伝統」の名において復古反動への足場を得たいだけではないか、というのがさらに反論であり、これには、わたし自身の意見も加わっている。

 昨日もらったペン会員のメールにも、「日本文化の伝統」ということが言われていた。

 それ自体その言葉のかぎりでは、特に問題はない。もしこのわたしの経歴に多少のメリットがあったとするなら、大方が日本文化の伝統から得たものだと断言してもいい。ただ、わたしの念頭にある「文化」とか「伝統」というものと、法に不備を唱えて同じ言葉を用いている人たちとが、果たして同じモノを見ているかどうか、見方が同じかどうか、となると甚だ危うい落差が無いではなく想像される。なにしろ、ついこの間に「天皇中心の神の国」らしい教育が大事だと放言した森首相の内閣であり、その森派の知恵袋の一人である町村文部大臣なのである。

 

   * ちょっと一例をもってするが、よく日本の伝統文化というと「能」を挙げる人が多いのだが、以下にわたしの書いた一文をまた再録する。翁も伝統、天皇制も伝統、として、よりどちらが圧倒的大多数の日本人が心身に保有する伝統文化に膚接しているか。

 

   * 翁と天皇(原題は、能の天皇)   秦 恒平    

 天皇を中心にした神の国という国体観で、われわれの総理大臣は、厳かに、勇み足を踏んだ。踏んだと、わたしは思うが、思わない人もいるだろう。 能には、神能という殊に嬉しい遺産がある。「清まはる」という深いよろこびを、なにより神能は恵んでくれる。それでわたしは行くのである、能楽堂へ。神さまに触れに行くのである。

 神能に限ったことでなく、数ある能の大方が、いわば「神」の影向・変化としての「シテ」を演じている。そういう見方があっていいと思う。シテの大方は幽霊なのだし、たしかに世俗の人よりも、もう神異の側に身を寄せている。そしてふしぎにも、あれだけ諸国一見の僧が出て幽霊たちに仏果を得させているにかかわらず、幽霊が「ホトケ」になった印象は薄くて、みな「カミ」に立ち返って行く感じがある。みなあの「翁」の袖のかげへ帰って行く。その辺が、能の「根」の問題の大きな一つかと思うが、どんなものか。

 能には、神さまがご自身で大勢登場される。住吉も三輪も白髭も高良も杵築も木守も、武内の神も。また天津太玉神も。それどころか天照大神も、その御祖の二柱神までも登場される。能は「神」で保っているといって不都合のないほどだが、但し、いずれも「天皇」制の神ではない。それどころか、能では、いま名をあげた神々ですら、天皇にゆかりの神さまですら、それまた能の世界を統べている「翁」神の具体的に変化し顕われたもののように扱っている。イザナギ、イザナミやアマテラスが根源の神だとは、どうも考えていない。或いは考えないフリをしている。「翁」が在り、それで足るとしている。そうでなければ、歴代天皇がもっと神々しく「神」の顔をして登場しそうなものだが、だれが眺めても能舞台にそういう畏れ多い天皇さんは出て見えないのである。

 隠し藝のように、わたしは、歴代天皇を、第百代の後小松天皇までオチなく数え上げることが出来る。お風呂の湯の中で数を数えるかわりにとか、最寄り駅までの徒歩が退屈な時とか、今でもわたしは神武・緩靖から後亀山・後小松までを、繰り返し唱えるのだが、後小松天皇より先は、全然頭にない。出てもこない。少年時代の皇室好きも、南北朝統一の第百代までで、ぴたり興が尽きて、あとは群雄割拠の戦国大名に関心が移った。(現在は、百二十五代の平成今上まで、きちんと暗誦できる。)

 観阿弥や世阿弥の能は、この後小松天皇の前後で書かれていたはずだ、が、舞台の上に「シテ」で姿をみせる在位の天子は、たぶん「絃上」の村上天皇ぐらいで、ま、「鷺」にもという程度ではないか。崇徳も流されの上皇だし、後白河も法皇である。崇徳も安徳も「中心」を逐われた敗者であり、村上天皇ひとりがさすが龍神を従えた文化的な聖帝ではあるが、森首相のいうような統治の至尊でなく、いわば優れた藝術家の幽霊なのである。

  歴代天皇の総じて謂える大きな特徴は、この文化的で藝術家的な視野の優しさにあった。またそういうところへ実は権臣勢家の膂力により強引に位置づけられていた。その意味で、森総理の国体観は、意図してか無知でか、あまりに「戦前ないし明治以降」に偏していて、天皇の歴史的な象徴性をやはり見落としていると謂わねばならないだろう。

 総理の執務室に「翁」の佳い面を、だれか、贈ってはどうか。 (新・能楽ジャーナル創刊号 2000.9.1 所収)

 

   * 理屈をこねる必要はない。こういう世界観が、山や海や田畑や河川から、つまり日本の自然の中から生まれていて、国土安穏・五穀豊穣・皆楽成就の祈りを「翁」を頼んで得てきた「暮らし」があった。日本の文化はそれを基盤に生まれていたのであり、じつは天皇も天皇制もその所産の一つにすぎなかったのであると、「能」三百番は示唆している。

 「天皇を中心にした神の国」を下心に庶幾するばかりの伝統の理解が、極めて反日本的に偏したものであることを、先ず真っ先に政治や教育を弄くりまわそうという人たちに覚えていてもらいたい。純然と伝統文化を尊敬するなら、純然と子弟の未来を案じて教育の理想を充実させたいと願うのなら、なおさら天皇中心の「教育勅語」的日本の復古と復活を根から清算して取り組んで欲しいのである。教育勅語の文言を部分に切り出して是非をい

うのは言辞のトリックであり、勅語という語彙も明示している如く、あれは徹頭徹尾「汝臣民」は「天皇」によく仕えよ、そのために斯く教育せよとの上意下達以外の何ものでもない。

 それでは民主主義は守れない。民主主義はやめ、強権支配の国民教育を都合良く進展したいと思う下心があるから、教育勅語の部分部分を切り出して見せて、こんな良いものなのだからとインチキを平気で言いだし兼ねない教育改革など、物騒千万なのである。 

  心からの善意で日本の文化のすばらしさを子ども達に教育して欲しいと願う人は多いだろうし、わたしもそれに反対などするわけがない。沢山なことは出来ないだろうが、たとえば日本美術のいいものを見る機会があればとは思う。民話やお伽噺に親しませ、また各地方言と祭りの存在意義を良い意味で理解させたいと思う。

 だが、実は、政権の中枢にある人たちは、そんなことは余り本気で考えていない。改革会議の人たちの総意とも、本音の処は深刻にずれているだろうと思う。諮問しておいて実は都合良く「政権による国民支配」の道を地固めしたいのであろうと、ほぼ、わたしは断定的に推測している。ペンが公表した「憂慮」の声明もそこを案じているのである。

 

   * しかし、あの「憂慮」声明は読めば読むほど、あれで人を説得する力はない。ま、文藝の冴えがない。あんな短文では説得しきれないと言えば、その通りであろう。梅原猛会長(=

この当時会長)は、改革会議の座長を挑発するなら、文章のような自分の側の土俵へでなく、例えば「公開質問状」または「公開討論會」を挑まれるべきであった。教育問題はなにも「文筆にたずさわる」我々だけの関心事でなく、広く国民一般の課題なのだから、後楽園のドームを満員にしてそこで、梅原さんと向こうの座長とが直接討論し、我々も参加して意見を戦わすぐらいな大きな戦略を持たなければ、この戦には勝てないのではないか。何かというと「声明」と記者会見とでお茶を濁してきたが、それはもう自家中毒であり、やらないよりはマシ程度のものになっている。その証拠に、あの「憂慮」声明を全文掲載した新聞などの報道媒体は「無きにちかい」のではないか。

 

   * 中国に旅行して、中国国家の、美術品レプリカ製作にかける意欲の深さに感心したことがある。名作は、そのものは、その一点、それ以外に無い。国土の広さからしてその一点に直接出逢える機会は当然稀である。だから極度に精巧なレプリカを各地の施設に送り込むのだと。

 わたしは、日本の誇る国宝のうち、せめて三十点を選びに選び抜いて見事にレプリカを創作し、各府県の公立美術館に、必ずそのための一室を用意させるようにして欲しいと前から願ってきた。言ってきた。

 また、主要な国公立美術館ならびに寺社の拝観を、高校生三年間に限り無料にすべきだとも言ってきた。

 「伝統文化を」とそうまで言うのなら、それだけをするのでも、素晴らしいではないか。法律を弄くる必要はない。それに、狂言はまだしも、能などを少年少女に強いてみても始まらない。

 歌舞伎や人形浄瑠璃ならばまだしも面白いだろうが、能楽堂では、手だれの批評家でも寝入っている。なみの客の八割がうとうと寝ている。そういうものなのだ。 2000 12・17

 2009 4・9 91

 

 

* 沼正三=天野哲夫の自伝が、彫り深く、あらけないようで時に精微。虫眼鏡で足もと手もとを覗くかと思えば、端倪スベからざる精緻な遠眼鏡で世界史に切り込んで行く。

 夜前は、ヒトラーがなぜああまでドイツに立ち、なぜああまでドイツ人の大半が挙って彼の前に直立して従ったかを、ヴェルサイユ条約以降の途方もない列強の強盗ぶりを描写し説明しながら、的確に語っていた。沼=天野の観察、わたしにも、正確と見える。世界史、近代史を読んだとき、第一次戦争後のヴェルサイユ条約以降の苛烈な経緯に、今日只今の波瀾にも到る、ものすごい強毒と強欲とを感じとり、悪寒に肌寒くなったのを思い出す。

 2009 6 28 93

 

 

* 東おとこに京おんなと謂うが、「京おんな」と真実京都が自慢にしていい第一人者は、祇園の茶屋の藝妓・舞子のたぐいでも、市中のギャルでもおばさんでもなかった。

 近代以降で、ほんとうに京都が自慢にしていい京おんなとは、岸田俊子として市内の呉服屋に生まれ、中島湘烟(煙)として三十九歳で死んだ人である。

 日本の女性がいましも抱えている政治的権利は、人間的尊厳は、この天才少女と瞠目され幼くして宮中で皇后らに漢学を進講し文事御用をつとめた、だが敢然転じて自由民権ことに女権確立へ第一声を廣く市井に放って、終生「明治」の朝野に尊敬を得て活躍した人である。姓が変わっているのは、自由党副総裁から初代衆議院議長に任じた中島信行夫人となったからで。 

 

* 湘烟日記を知って、読んで、はじめてこの人に見参したのは、これも講談社から買い続けた文学全集の中の一巻からであった。何度も「岸田俊=中島俊子」のことを書いてきたし、「e-文藝館=湖(umi)」にもすぐ招待した。遅れて「ペン電子文藝館」を開いてからも、すぐ掲載した。

 いま「e-文藝館=湖(umi)」では、俊の獄中詩も、「同胞姉妹に告ぐ」も、「女學雑誌年頭社説」も、さらにまさに最期の湘烟日記も「招待」してある。終生、真実凛とした人であった。鱗を濯うに絶好の清流であった。

 2009 7・20 94

 

 

* 金婚でかしこまった夫妻の写真を撮らせたけれど、型のような結婚式はしないでわたしたち東京へ出てくるまぎわ、東山の校祖新島襄の墓の前で、なみいる高弟たち(の墓)を立ち合いに二人だけの結婚式をしてきた。

 熱心な同窓にくらべればわたしも妻もキリスト教徒でなく、とくべつ同志社に思い入れが深いわけではない。が、ときとして、建学の頃の新島や基督教のことを「日本」の問題として考えることはある。

 

* 新島はアメリカの或る基督教機関から日本への派遣宣教師であったと聞いている。聞いているだけで穿鑿したことはないが、さもあったろう。

 明治の日本の基督教には、いろんな派があった、が、総じていつも二つの踏み絵を時代と政治から突きつけられていた。「戦争」と「教育」である。

 日本の文明開化は戦争・好戦との相乗りだった。内村鑑三もふくめて基督教の人たちは、非戦の「建前」と開戦・好戦の「時好」との間で見苦しいほど右往左往した。また、明治の政治は富国強兵と天皇を利した好戦政治への傾斜の反動として、天皇よりも神でありたいとする基督教による教育への弾圧傾向を強めていた。

 幸か不幸か、この二つの傾向が過酷なまで強まる直前に新島襄は亡くなった。生きていたらどうであったかとは、問う人たちはよく問うて問題にしてきた。新島はそれに答えず亡くなった。新島は敬虔な基督者であった。しかも武家に生まれて熱い愛国主義者でもあったのだ。

 新島の後を嗣いだ人たちは難路と難関に直面した。金森通倫は空しく去り、横井時雄は倒れ、海老名弾正は自由神学に事実上背いた、国民主義・帝国主義の熱情において思想界に獅子吼した。敬神愛国。海老名は常日頃から熱心な戦争論者で日露戦争の前からさかんに開戦を叫び、韓国の併合を説き、軍備拡張を求めた。海老名の地金は武士道であり、基督教はその薄化粧にほかならないと、当時木下尚江らは見抜いていた。     

 

* 戦争と政治とがとほうもない圧力になってくるとき、宗教は、まちがいなくだらしなくなる。むき出しの好戦思想を暴露するか、それに媚びて保身をはかる。結果として無辜の余りに多くが命を落とした。

 2009 8・5 95

 

 

* 一九四五年、満十歳に四ヶ月余をあましていた。敗戦後の開始。暑いがからっと空の青い真夏だった。

 

* 今日昼過ぎ、あの真夏敗戦から二年ほどの「日本」を、克明に証言してくれる人たちの話を聴き、いろんな映像を観ながら、何度も何度も何度も声がつまり涙溢れた。証言している人たちのおよそ下限齢にわたしも妻も当たっている。およそどんな話も場面も実感とともに観も聴きも出来る。

 わたしたちが観るだけでなく、子供達に孫達に曾孫達に見せたい聴かせたい証言だった、映像だった。惨憺、悽愴、無念。敗戦後のあの日本を二度と再現したくない。しかも、ある懐かしいほどの価値も「あの空気」は秘めもって、その「空気」を六十四年の内に我々は、日本と日本人とは、無残に見失ってきたというべつの無念も甦る。くやしく甦る。

 二度とイヤだ、だが今日只今はそんなに素晴らしいかと顧みるのさえ悲しく、人も國もじつは衰えている。

 

* 娘よ、息子よ、孫よ、若い友どちよ。手放しに生きてはいけないと思うよ。

 2009 8・16 95

 

 

* 文化の日とは。シックリこない名付け。明治節が良いとは云わないが、「明治節」でいいという気がある。明治天皇にはとらわれないで、「明治維新という近代へ」の、よくも悪しくも大きかった意義に思い当たる姿勢は、今にしてなお喪われない方がよい。

 2009 11・3 98

 

 

* ベルリンの壁が無くなって、二十年。東ドイツのまだ少女だったウルリケ大統領が、こころからの謝辞を当時のソ連大統領ゴルバチョフ氏にささげていた。感慨深い。ワレサ氏の一押しで長大な、あれは将棋倒しとでもいうのかパフォーマンスが。

 極東の我々には当時でも遠い遠い異国のことといいながら、とうとう…という感慨があった。「二十年後」の感慨は、観ようによれば「二十年前」よりもズシンと胸に残る。あの9.11のテロも凄かったが、匹敵するベルリンの壁崩壊だったと思い当たる。

 

* 「ドクトル・ジバゴ」また「上海の伯爵夫人」と昨日は祖國と世界との激動に揉まれながら見出されて行く人間愛の劇をしみじみと観た。つらい映画だったが、どんなに心救われていたことか。ジュリア・ロバーツが美術の教師として、超級保守名門女子校で、爽やかな独特の授業を続けて生徒達の親愛をかちえながら、決然と学校を去って行く映画も二三日前に観た。自立そして自由。大切。

 2009 11・10 98

 

 

 ☆ 天皇制について

 秦さま 今まで遠慮していたのですが、天皇制というのは「身分差別」ですよね。秦さんに一度お尋ねしたことがありますが、見ていると天皇制を認めておられるように見えます。なぜ在位二十周年を祝ったりするのでしょう?  某氏

 

* 某 様

 私は、天皇制の「存在してきた」ことを「識っている」のです。

 わたしは「生まれつき高い地位や権勢を持った存在」は、戦中少年の昔から「認めたくない」人でした。「認めさせられてきた」から、そのような制度の存在を、自分はたんに「識っている、学習を強いられてきた」と思っているのです。

 天皇という文化が、制度が、日本国に実在してきた歴史を、少なくも「制度としては否定する大きな機会」を一度見失ったと思っています。

 同時に、わたしをも含めてですが「日本人の愚かさ」からすると、天皇制に変わる人民支配の権力機構ははてしなく危険を帯びるとも感じています。

 天皇制と関係なく、というリクツは説明不可能ですけれども、いまの天皇夫妻に対する人間的な親愛感は個人的に否定できないのです。伊藤博文このかたのどの総理大臣にも滴ほども感じられなかった、「平和な親愛」が持てるのです。たぶん同時代を同世代とし

て七十四年生きてきたという、一つの「シンボルとして」でしょう。美空ひばりなみなのです。或いはわたしのいう濯鱗清流の「一清流」にあたっていたという評価と好みの問題です。天皇制を肯定する、認知するのとは全然異なります。

 制度として無くて済むならどんなにいいかと、いつも思う。しかし制度のない社会はあり得ないから、べつの制度が現れたときに、はたして何が現れるのでしょうね。信頼しにくい。

 そういう、その程度のバランスにおいてわたしは「日本の國の天皇制の存在を識っている」だけです。「在位二十周年」といった制度的祝賀の気持ちはまったく、ゼロ。

 わたしとほぼ同じく腰が曲がり、白髪と皺とのふえたお二人の健康にたいし、お元気でと呟くだけのことです。秦 恒平

 2009 11・15 98

 

 

* 二三日まえ、秦さんは「天皇制」支持ですかと問うてきた批評家がいた。返辞を書いたのは此処にも言い置いてある。

 この國では、けっしてさほど昔でなく、とにかくも「天皇陛下」をもちだされたら「ハナシは、それでおしまい」という「時代」が、百年余も続いた。だらけて喋っていても、ひとたび「テンノ」とでも耳にし「ゥヘイカ」ともなればザザッと靴で砂や土を蹴って直立不動しないと張り飛ばされる時代が百年の内の最期の十年ほどはたしかにあった。どの学校にも二宮金太郎の像が有った以上に、両陛下の「御真影」を捧持した「奉安殿」という小建築がいかめしく義務的に常設されていたのを覚えている人、もう数少ないが、「後期高齢」などといわれる年寄りなら朧に記憶がある。こんな原稿がのこってある。以下は前半部。

 

 

   思い出すことがある。わたしより若い人は、体験的に知るよしない。もっと年上の人もその場にいなかった。「学童」にだけ記憶にある体験だ。「大詔奉戴日」というのがあった。毎月「八日」であった。「十二月八日」の真珠湾奇襲の日を「開戦」記念日とみて、天皇の「開戦の詔勅」を民草が奉戴し戦意を涵養する大事な月例日であった。

 この日、わたしの通った国民学校=小学校(むろん例外でなく、どの学校でも大事の恒例であった。京都市内でも、疎開先の山村の国民学校でも。)では、全校生徒が整列して運動場に道を開いて粛然と向き合い、整列し、その間を、フロックコートに正装した校長先生が、西下手からまっすぐ運動場の東正面に在る「奉安殿」へ向かって、しずしずと歩み行く。

 奉安殿の扉を開き、中から天皇陛下の「御神影」と「勅語」とを盆の上にもちだし、高く捧げ持って、またしずしずと戻ってゆき、講堂に入って壇上に祭るのである。

 講堂に入った教員と生徒は、式次第にしたがい、君が代斉唱に始まり海ゆかば斉唱に終るまでを、校長による教育勅語の朗読と訓辞を聴き、黙祷し、バンザイし、決まり切った手順をすべて費やして「大詔奉戴日」の趣意をいやが上に心身に刷り込むのだった。そしてまた運動場に整列した間を厳かに校長は奉安殿に御神影と勅語を返納する。生徒は直立不動の姿勢でその首尾を見守る。

 ああ、それだけで済めばよかったが、我が校では、次があった。また生徒は整列し、校門を出て、「歩調を取」ったり「軍歌」を歌ったりしながら、三十分ほどの東山にある「護国神社」に参拝しなければならなかった。これが苦痛であった。

 

* 懐かしいなどとは、とても思えない。

 2009 11・18 98

 

 

* 「親兄弟が死にかけていても、それでも(両陛下の)御真影を先にお守りすべきなのです、分かりましたか」と、学校で教えられた。ほんとだ。もう戦争には負けると、顕著どころか必至のころ、昭和十九にも二十年にもそうであった。

 しかしその一方、二・二六事件で北一輝は、いましも刑死のとき、弟子の西田税が陛下の万歳をと言いかけると「いや、私はやめます、茶番はよしましょう」と言ったのが事実であったそうだ。彼の愛国と、権勢による醜い愛国とのあいだには大差が在った。北一輝は早くから一貫して美濃部達吉よりもいっそう徹底した天皇機関説者だった。皇室財産をすべて国有にするなどを骨子とした『日本改造法案』の提唱者でもあった。そんな一輝だから、二・二六のときとばっちりに都合良く処分されたのだった。

 行為ではなく思想の故に銃殺されたのだ。

 2009 11・24 98

 

 

* 昭和十一年、二・二六事件の連累で死刑された北一輝の『日本改造法案』は、或る意味当時農村の悲境に同情し、つよい関心を寄せた結果といえる。

 北の案には、二十五歳以上の男子全員への選挙権、皇室の土地・山林、株券の国庫への還付、貴族院の廃止、大企業や大地主の資産制限、労働者の八時間労働、日曜祝日は有給休暇、少年労働の禁止、婦人労働の制限、労働者の経営参加、年二回のボーナス、六十歳以上の老人や障害者の国家扶養、五歳から十五歳までの教育を受ける権利、刑事被告の適正な扱いと無罪の場合の損害補償などなどが盛られていて、その正当性は際だっていて、蹶起した兵士らをはげしく揺さぶった。

 侍従武官長だった本庄繁の『本庄日記』には、二・二六事件にかかわる昭和天皇のことばとして、「将校ら、殊に下士卒に最も近いものが農村の悲境に同情し、関心を持するは止むを得ずとするも」と誌している。だが、「之に趣味をもちすぐる時は、却って害あり」と天皇は憂慮を示し、その憂慮ゆえに北一輝は粛清された。兵らはあくまで「天皇のための日本」を思って立ったであろうが、北は、「日本のための、国家に附随した天皇」を考えていたようだ。昭和天皇がただただ軍の言うままであったなどいうのは、思いすぎである。

 2010 1・11 100

 

 

* 小松茂美さんの『利休の死』力の入った論究であった、とりあげられた書資料の数々に、素人の識別や審議判断はとても力及ばないが、そこは小松茂美という人の力量を信じるまで。

 あたかも小説仕立てのようで、小松さんの筆にもそういう気負いが感じられる、が、冷徹に資料の読みと積み上げとが指さすところを表現して、足りていると思う。いずれにしても、「橋立の茶壺」にかかわる書資料は貴重。伊達政宗のことは、主題につよく触れてくるか来ぬかは、やや、逸れた感じ。

 もともと、利休木像を大徳寺三門に挙げたこと、利休娘(宗安後家)へ秀吉横恋慕のこと、利休売僧のこと、そして讒言沙汰のことなどは従来云われてきた。

 わたしは、上のような事柄のもっと深い根に、秀吉の「土=農民」性、利休の「藝=非農民」性の出自の対立、また利休の「中世」性、秀吉の「近世」性のやみがたく両立しがたい対立・衝突を、歴史の「数」そのものから掴み取る「必要」を考えてきた。

 利休を語りかつ論じてきた人は多いが、利休と秀吉との対立・対抗を、上のような史的展望から結論した人は無かったのである。

 2010 5・12 104

 

 

* 長崎の横手一彦教授からいい本を戴いている。

 

* 『長崎・そのときの被爆少女 六五年目の石田雅子著「雅子斃れず」』で。時事通信社から出た。

 今の姓で柳川雅子さんは、女学生の時、長崎原爆爆心地近くの工場で魚雷製造に従事し、被爆。『雅子斃れず』は病牀で書かれた。被爆体験記はそのつど東京に住む兄へ送られ、兄は、家族や親族の回覧紙「石田新聞」に上の題をつけ連載した。結果として原爆投下から「最も早い時期に記録された」のだが、連合軍最高司令官総司令部(GHQなど)の検閲や干渉を受けていたのを、今回、元々の回覧紙版に基づいて復元された。雅子さんは十四歳であった。

 この本は六五年ぶりに復元された文章を中軸に、「原爆投下、そのときの長崎」や「『雅子斃れず』の周辺」などが横手さん等の尽力でしっかり傍証されていて、さきに同じ横手さんに戴いた被爆崩壊した『浦上天主堂』の写真集とともに、たいそう貴重な出版となった。嬉しいことに、爆心のごくまぢかで被爆しながら、奇跡というしかない石田雅子さんは、のちに柳川雅子さんとなり健在なのである。なんという有り難いことだろう。

 1945年8月9日、長崎原爆投下。その日から65年目になる。

 横手教授のこうした活動には、敗戦後の占領軍による「検閲」研究というひと筋が強靱なバネをなしている。敬服する。 

 2010 8・9 107

 

 

*  あの日、丹波、南桑田郡樫田村字杉生で天皇の放送を聴いた。秦の祖父と母とわたしとで隠居を借りていた長沢市之助宅。その前庭にラジオが持ち出され、部落の人が何人も取り巻いていた。真夏の照りは容赦なかった。負けた・勝ったではなく、戦争が済んだ、よしッという昂ぶりで国民学校四年生のわたしは庭をぐるぐる駆け回った。

 あの年の二月末の晩もおそく、雪の凍てた杉生部落の街道十字路にかつがつ着いた秦の一家は、山の家の大きなあばら屋から、街道ちかくの豊かな長沢家へ転居していた。

 

* 昨日も妻と話していたが、脆弱かったわたしが曲がりなりに体の基礎体力を付け得たのは、あの二年足らず、山なかでの疎開生活のおかげだったと、つくづく思う。山一つ峠を越えて隣の田能部落にある国民学校に通わねばならなかった、村の子等と一緒に。教科書の鞄すら重さに堪えかねてしまう疲労を日々に凌いで通学した。都会もんの疎開もんは上級生にもよく撲られた。挙手の敬礼を怠ったと教師にもいたるところで張り飛ばされた。そういう時代だった。

 

* ま、思い出しているとまた本が書けてしまう。あれから六十五年。わたしの記憶力は、古い昔ほどまだかなり鮮明で。

 2010 8・15 107

 

 

* 「夫」を指さして「夫」と云う人に出会ったのは、筑摩書房の親しかった担当編集者が最初だった。

 昔の小説で、「宅は」という夫の呼び方を何度も読んだ覚えがあるが、日常対話的には「うちの人」が多かった。が、もっと多いのは断然「主人」で、最近はどういう風の吹き回しかインテリ女性のなかにも、「さん」でも「さま」でもない「旦那」「だんな」と呼ぶ人も増えている。これは、わたしなど、聞くも読むもイヤな方だ。「主人」「あるじ」には、まだしも一家を代表する者の意味があるが、「旦那」は高位からの支配者めき、時には囲われの女が囲っている男を尊称しているようで、一瞬顔を顰める。そして依然、夫を「夫」と口にする人とは、めったに出会わない。アメリカに住む友人は夫のことを「名」で呼んでいる。日本でも、「秦は」「恒平は」という工合に姓や名でいう例が、タマに有る。愛称で呼ぶ例はもつと増えているようだ。

 

* ところで、「ニッポン」では、男は、女を、いつもひどく下目に見て愚弄し軽蔑し支配し虐待しているとまで、一般論できめつけられるとは考えていない。せいぜい「概して」その気味が見受けられやすいということ、必ずしも一般論にしてしまえる実感は、男にも女にも、実はそう手ひどくないであろうと想っている。

 わたしは「女文化」という言葉を、自身の造語として最も早く初めて使用したと自覚していて、反証に、まだ出会った事がない。

 その「女文化論者」の私にして、平安時代の「女文化」を、女の、女による、男のための文化と「定義」してきた。訂正する気はないのである。

 だがしかし、人生や生活のディテールにおいて、敬意に値する女に対して昔男たちは、払いうる敬意を、深切を、特に惜しんではいないとも眺めている。それとても、大きな支配・被支配の枠内での行儀礼儀に属したものに過ぎぬとは、概ね謂えるのであるが、概念観念でなく、生活・日常の感覚にまでたち入れば、降り立てば、必ずしも女は男の力にいつもいじめられていたとは言い難い文化が実在していた。

 時代が降っても、江戸の町くらしの、また農村ぐらしの女たちが、みな男の圧制と虐待に喘いでいたとは謂えない反証は山のように積みうる。公家貴族の男は、存外に賢い女に依存してもいたし、庶民の男も、女の協力なしに思う侭に生きがたかった事例は、例えば落語や笑話にもやはり山積みされている。性風俗においてすら、必ずしも男だけが女を悪用・利用していただけといえないものが有る。問題は、武家の世間・生活・建前であったろう。

 

* 社会学が見なければならぬ「人間の孤と群衆」との基本の在り方は、微妙な心理的・性格的な「位取り」でも規定されていやすく、力関係が男女の仲でも日々に逆転また逆転しながら「微妙に協働」していたし、今日でも少しも変わらない。

 社会学が一概に視点を固定して、ある種の結論めくところから視野を特殊に設定してモノを云いすぎると、たとえば「不幸」向きだけの辛口を装った議論となり、いわば「幸福」の一面は、故意か故意でないかは別として、敢えて見落とされやすく、しかし、そのまた逆も大いに在り易い。それでは議論が、ときに、タメにするような偏った癖をもってしまいかねない。

 2010 10・13 109

 

 

*  韓流ブームになど苦々しいほどの思いでいたのに、いつ知れず韓国ドラマ「イ・サン」を見つづけている。概念的な、筋書き通りという運びではあるが、宮廷風俗の珍しさと、主人公である「王さま」の気高く創られた人格、幼少いらいの友である、ソン・ソンヨンやパク・テスの人柄の美しさに、今一人パク・ウネという女優の演じる若い王妃の気品などに、贔屓の心を誘われている。

 宮廷や後宮の権謀術数ぶりは大昔藤氏の北家をしのぐあくどさだが、それだけに中心を成している王や王妃やソンヨンたちの清潔感がとても引き立っていて、この国の文化力を肯わせる説得力もある。

 いやなにもそんな理屈を言わなくてもいい、このところこんな純潔な愛や求愛のシーンを本でも映像でも観たことがないので、引き寄せられている。それと、この調子では益々厖大に混乱の劇が待ち受けていて、その必然の行方にも引き寄せられている。

 日本のドラマでなく、韓国の宮廷通俗ドラマに思いを寄せるとは思わなかったが、毎日曜の晩の九時を楽しみにしている。

 それにつけても、自分が隣国の韓国・朝鮮史に疎いことを、少し恥じている。分厚い上下の二冊で韓国史が買ってあるというのに。

 2010 10・24 109

 

 

 ☆ お元気ですか、風。

 内政も外交も、問題が山積みなのは、日本だけではないですね。

 世界って、こんなにも問題だらけだったのかあ、と、頭を抱えます。

 近隣の国々、遠い国々、それぞれと交渉してきた先人たちのことを想います。

 中国に対し「日出づる処の天子」と大きく出た聖徳太子みたいな人が、今いたらなあ、と、思います。

 先日、英会話の授業中、「ポルトガルからオランダに貿易国を変更したのは、賢かったね」と、先生(オランダ人)に言われました。

「キリスト教の布教と政治的軍事的支配はセットだよ。日本があのままポルトガルと交易していたら、ラテン・アメリカみたいに蹂躙されて、今、あなたは存在していなかったかもね」と。

 花は、風の『親指のマリア』をしみじみ思い出しました。

 つまるところ、人、ですね。人材。

 これまで、窮地の日本には、人がいたなあ、と思います。

 今日はファンヒーターを出しました。

 ソファに敷くホットマットも。これを花は「魔法の絨毯」と呼んでいます。眠気を誘うから。

 風邪を引かないで、花は元気。風、お元気ですか。

 

* 明治はまこと大時代であった、あのときに小泉・安倍だの麻生・鳩山だの菅だのしかいなかったら、日本のかかえた世界的不平等条約は今日にまでも拡大され固定化して、四分五裂の隷属国になっていたかもしれぬ。

 明治政府は苛斂誅求の稀に見る圧制の悪政も恣にしたけれど、わるい政治家にも大物がいて、国家的な危機を捌きながら、富国強兵の道を剛直に切り開く欲の強さを持っていた。必ずしも国民は幸福でなかったが、外国の奴隷化に甘んじる不幸からは救われた。ときにそれにわたしは感謝もする。

 蹂躙されたというラテンアメリカに土着の文化が無かったのではない。しかし、日本の文化とは質がちがっていた。日本人は相当早くから「神仏の神秘的な力を日常生活のレベルで見限って」いた。つまり都合のいい建前の信心・信仰を祭り持ち、たとえ神風は口にしても、四季自然の連鎖を体感できていた大勢は、颱風の季節をよく知っていたことも、ロシア人が冬将軍を見方にナポレオンを撃退したのと同様であった。

 日本の文化の基盤には、幸いにも近世ヨーロッパと同じく、かなり質のいい「文」の文化が、随分末端では矮小化され歪形化されていても、ヒューマニズムふうの人間利己主義を育て活かしていたから、いかに神懸かりで西欧のキリスト教と軍事力とが襲ってきても、それを素早く学んで逆用しながら、欲に絡め絡め国の破滅を回避する「我意の強さ」をうまく育んだ、指導者層が我と我が身内に育んでいたのである。

 ま、まだ勝たなくてもしようがない、が、負けず潰されない道をさぐることでは、独活の大木の中国よりも日本の明治政治家達は賢明であり、いまとなればそれが聡明に光ってさえ見えるのである。

 

* ポルトガルもイスパニアも、西欧では神懸かりに自らのしかかることで実は自滅していった。イギリスはオランダと並んで現実的に慾の深さに心性の価値と産出力とを信じていた。ま、儲かる間は儲けて日本を利用したかっただけで、悪辣なことではイギリス近代のの帝国主義がじつによく示している。フランスもドイツも跡を追って狂奔した。中国やインドやアフリカを彼らが蚕食している隙間に明治政府はその手口を必至で学習してきた、そのおかげで窮地を助かったとみていい。 

 2010 10・30 109

 

 

* 想った通りに日本の総理と中国の主席は、短時間ながら会談した。せずに済まなかったのは、むしろ中国の弱みである。胡主席のこわ張った表情は、強くて、ではない、精一杯の位取りのつもりだろうが、大人の風格からはかなり遠い、人物たる内容の乏しさを暴露していた。

 お家の、いやお国の事情はけっしてラクでないのだ。国の安楽は経済だけでは決まらない。「お国柄」自体が歴史的にみて不安材料そのものなのである、中国は。根底に、「程よさ」を知ろうとしない貪欲を秘めている。あれほど広大な国土から、いわば森林や原野をおおかた喪ってしまった、つまりみんなで食い荒らした国だ。いまの中国が躍起になって「海」へ出たがっているのは、海の外で、海の向こうで、武力も厭わず強引にでも手に入れなくては済まぬ「もの」が、中国という、やたら広いだけの荒蕪国には、目に見えず、いや目に見えてもたくさんたくさん出来ているからだ。間違いない。

 だが、永くて三百年とは同じ国体を保てなかった国だ、数千年、政権と人心とはだいたい乖離したまま、人権や福祉を遮二無二抑圧し得た間だけ栄えて、必然、革命が来る。

 世界史的にはあまりに時世遅れの、未だに「絶対王政」でしか「国」が護れぬ国だ。ノーベル平和賞などとは、まるで袖触れあう大度など持たない。為政者はいやでも強張った強がりの表情で「一言堂」の高みに棒立ちでいるしかスベがない。

 毛澤東、周恩来、そして鄧小平からすると、いま中国には大人の風格と内容のある政治家は払底している。ますます小粒の商売人が次々に出てくるだろう。

 

* APECは終わる。民主党政権は平常心にかえって、大胆に歩み出すべきだ、最初のマニフェストを、安易に変えていいとは思わない。マニフェストなんで変えてもいいんただよ変えてもいいんだよという、タメにする狡い声にかなりたぶらかされ、右往左往したのがよくなかった。

 2010 11・14 110

 

 

 ☆ お元気ですか。

 

 『中世の非人と遊女』が、地元図書館にあるようです。今度行ったら借りてきます。

 私語を拝見しますと、とても興味深い内容に思われます。

 私の大学の卒論は、近代における歌舞伎に対する認識の変化について考えようとしたものでした。

 民族や階級差別の数多くある中で、藝能はどうして差別から脱却できたのかを(脱却できた、は言いすぎかも知れませんが)。

 神事にまつわるところから発生した藝能が、近世の身分制度で最下層に組み入れられ、近代以降、国策もあり引き上げられ、映画やテレビが登場してからは蔑視されることが少なくなったと感じます。

 藝能は、ほかの被差別層と異なり、独自の変遷を辿っているようにも見えます。

 近世の藝人差別は、身分制度上のことであって、たとえば歌舞伎役者は、実際には錦絵が売れ、やんやと大向こうのかかる大衆のスターだったからなのでしょうか。

 私の卒論は、思い返せば、とてもとても論文なんてものではありませんでした。

 卒論は、やり残した宿題のように、いつも引っかかっています。  花

 

* せっかくのメールに、いま話題沸騰の海老蔵暴行事件が触れられていないのは、物足りない。

 こういう問題に一等必要なのは、徹して地道な通史の勉強だろうと思う。一例にして、「河原」とは、「河原で生きる」とは何事であり、何によりそれが強いられたり、可能であったりしたのか。簡単には言い切れぬ途方もない奥行きがある。そしてそんな穿鑿が今必要なのかという問題もある。

 海老蔵個人の「思い上がり」を咎める声はすでに出始めている、が、海老蔵「個人の問題」ではない。彼は藝能全容を代表する一象徴的存在として、ほぼ確信的に叩きのめされたと思えるフシがある。もしそうなら、それは何故かを、海老蔵に代表される仲間内広範囲の人達も、その人達を過剰なまでに甘やかし持ち上げてきた国民も、この際、考えてみたが好いと、わたしは感じている。

 

* いま、能役者の能装束の豪華な美しさに感嘆しない人はいないが、あのような現実を超えた華美の衣裳の定着しはじめた慣例は、能よりも遙かに古い。大事なお使いなどの、駄賃というにはあまりであるが、なにかといえば女の衣裳を使者にあたえて酒を飲ませ、使者は衣裳を頭にかぶって一舞いして帰っていた源氏物語の頃の風習までは仮に言わぬまでも、南北朝以降の能役者達を「褒美」した何よりの授けものは、派手な装束や衣裳である事が多く、役者はその戴き物を身に纏うて御礼に舞ったり、それを身につけて新たな曲を創ったりもした。

 すばらしい栄誉のようでもある、が、むやみと豪華に装わせる習慣は、貴族や武将達が下級の家来達にさせる一種「差別」の見せつけですらあったのだ。バサラの行列で、珍奇な装束をつけて行列の先を払うのは、そういう下級の家来連中であった。はでな能装束も、極端に言えば、その手のあてがい扶持の「御恩」に類していた。演ずる藝は「奉公」であったとも謂える。

 そういうバサラが横行し始めたのも、十四世紀の中世末期であった。それらの褒美自体が権勢による卑賎視にほかならなかった。「千両役者」も、いわば政治的に黙認された「権勢自体の安全装置」であったといえる。いわゆる世界的に行われている「3S(ショウ・スポーツ・セックス)政策」なんぞと、なんにも異なりはしなかった。目を向く「榮爵藝人」も、根底では政治的にも社会的にも卑賎視されていた。

 それが、今日では、卑賎視が幸い稀薄になり、藝の力を認めるところへやっと伝統の力で近づいてきたのだ。海老蔵暴行事件は一つ間違うと、藝を台無しに元も子も無くしてしてしまい、さらには「藝能職能人卑賎視時代へ自ら逆行して行く」ことになると、それにまるで「気付いていない」のが、つまり浅はかな梨園御曹司中の御曹司の「思い上がり」なのである。

 

* それにしても「近代における歌舞伎に対する認識の変化について」は、容易ならぬ大研究の主題である。

 そもそも「近代」とはどういう時代規定で、そのなかに何期を分かたねばならないか、から始まらねばならない。役者だけでなく歌舞伎界は、座と小屋の基礎的構成から、関係する人的参加者の広範囲に大勢なこと、など、目次を展開するだけで厖大で、しかもそれを「外」の社会や制度や人達が「認識」し、それが変移・変質して行くのを、たとえばテレビ「以前」と「以後」とで正確に観測し論攷して行くにしても、むしろ畢生の大仕事に部類される。まだ誰一人として大がかりにはやれた学者も批評家もいないのではないか。だからこそ海老蔵暴行事件が「象徴の意味」を持つのではないか。 これを徹底的に一生仕事にすることも出来る。ウーン。

 2010 12・3 111

 

 

 ☆ 旅する女達

 旅する女たち!! あまり深くそのテーマで考えたことはありませんでした。各地にある小野小町の伝説、更科日記の都上り、阿佛尼の鎌倉への旅、後深草院二条『とはずかたり』などこれまで読んできたものの中にあります。

 現代のわたしたちが想像する以上に昔の人、昔の女たちも旅を、移動をしていたのだと記述から知らされることがあります。

 鴉の指摘の、「中国人女性の古代中世の一人旅、また西欧古代中世での女性の一人旅の著名な例など」を即座に示せる知識は今のわたしにはありませんが、課題として受け止めます。高貴の身分の女の一人旅はまずないでしょうし、たとえば十字軍遠征には兵士の家族・女子供たちの集団が従っていました、ただし一人旅ではありません。

 記録として残された一人旅となると具体的には極端に限定されるでしょうが、さて、どんなでしょうね。とにかく旅は観光どころか危険に満ち溢れ命がけの旅だったのですから。

 旅する女たち!! 女が何故旅するかという問いから深くそのテーマを考えたことはありませんでした。わたしに限って言えば、むしろ旅の道程、出会う人やものへの好奇心・関心があまりに強く先行してきたからでしょう。他者の事例に目を向けることで、同時に自分の旅を追及することも可能、確かにそのように考えられるでしょう。しかし、わたしの旅程度では本当に旅したといえるほどの旅

ではないと客観的に思われます。歩き続けた昔の旅と異なり、飛行機などの手段で気軽に移動でき、しかもツアーなど「保障された安楽なお仕着せの旅」も含めての話ですから。現在、女一人で外国を旅しているのを見かけるのは決して珍しいことではありません。

 「そしてなにより鳶の旅を性格づけている根源は何かです。」

 これが実は一番厳しい問いです。改めて考えるまでもなく、未知への関心と同時に、自身の内部の更なる切迫した衝動があったはずです。それを説明することはあまりむずかしいことではないでしょう。が、あえて触れないでおこうというのが正直な気持ちです。

 ごく幼い頃、小学生の頃から異国への憧れはありました。異国とまでいかなくとも知らない土地に好奇心はありました。何処かに行きたい、行きたい、と。癖という言葉で逃げ切れるものではありませんが、癖に辟易しながら、やはり癖。逃避、脱出への願望、日常生活の期限付き否定・・そしてそこに見出せる高揚、爆発。旅に限らず、故郷という根っこから離れることも、その後のさまざまな住所への変遷も、あるいは、むしろ孤立無援を願うようなところも旅への希求と同じ理由によるものでしょう。

 こうして書いていると、どんなにいい加減で世に拗ねた人間かと思われそうですが、当人は到って平穏な平凡な人間。少々枠が外れて既成価値判断能力が欠如しているくらいではないでしょうか。

 たとい言葉を尽くしてもこの衝動を表現できないと思います。

 あまり書くと鴉と対極的に思われて、悲しい気分になります。いずれ細密な点検をしなければいけなくなるでしょう。自由に動けるだけの健康がどのくらいの年月残されているか、時間との闘いでもありますから。

 とりとめなく際限なく個人的なことを書いてしまいそうになります・・。

 志賀直哉の若い頃からの友人への思いを書いた短編、そして今日の随想、いずれも深い感想をもちました。

 この年末年始は多忙を極めそうで、今から戦々兢々。せめてそれまで暫らくの間、楽しいことをしたいと思っています。

 風邪ひきませんよう、よき日々でありますよう。   鳶

 

* むかし『風の奏で』と題して長い複雑な話を小説にしたとき、この題を「旅」と名づけてもいい「歴史」の意味と考えていた。人生も旅だが、人生などとまだ考えつかない少年の昔から「歴史は旅」だと想っていて、歴史に心惹かれた。「風」が歴史的なら「奏で」は歴史の歌声、あの場合は藝能が念頭にあった。

 「女の旅」は今の仕事の関心ととても重なり合い、ひとつのヒントに「後深草院二条」の旅がいつも念頭にある。

 この人は大納言の娘であり、母は後深草院に少年の性を手ほどきした添い臥しの貴女、いわば後深草天皇の性的な初恋の人であった。その娘と生まれた二条は生まれてまもなくから後深草に育てられ、後深草により女にされた。

 その後深草のはからいで宮廷の何人もの皇族貴族たちとの男女関係を強いられたあげく、その後深草院により宮廷から追放された。その後、この人は、諸国を「旅」の境涯に流離い歩いた。

 後深草院二条は貴族の女。だが、その私小説『とはずかたり』を読めば、彼女が貴族的であったかと読めるのは、遊女達の宿、宿を縫い歩いていた後半生であり、宮廷にいて天皇に寵愛され玩弄され貴族らの相手をしていた時期の方が、むしろ遊女のようであった。そして遊女が貴族的であり得た歴史は、日本では決して短くなかった。天皇や貴族の子を産んで、教養豊かに勅撰和歌集にも和歌を採られた遊女は珍しくない。教養素養だけでいえば江戸の花魁がそうであったではないか。女の旅といえば、奈良時代既に遊行女婦がいた。小野小町も和泉式部も遊女とよばれた「うかれめ」であり、小町や和泉にとどまらず清少納言にも遍歴の伝説がある。

 

* 旅する女達にはよかれあしかれ遊女の魂が宿っていた、日本の歴史だけで観れば。

 今日、女の一人旅はグローバルな範囲で珍しくないが、いまもなお当然かのように危険もともなうと報道が繰り返される。日本の過去では、女一人の旅を男の襲うことは「めとり」と呼ばれて禁じられながら黙認ないし公認されていた。さればこそ女の旅には実に工夫と防備と覚悟が必要だった。後深草院二条の旅は奇蹟を縫い取るほどの難しい、而も自由闊達で誇り高い旅だった。希有も希有な象徴的な旅人。

 2010 12・15 111

 

 

* 電車でも「リオン」でも、つい読みたくなるのが、持って出た『中世の民衆と藝能』で。前半に序章、中世「民衆」への視点と中世「被差別民」への視点と、十九編の「職能」論攷、後半に筆者達の座談会、「中世被差別民史への視点」という構成、曾てはこういう本がどんなに欲しくても、読みたくても、手に入らず読めなかった。この本は一九八七年一月の三刷本を買っておいて、取って置きに書架に入れていたのを、十数年もして読もうというのだ、つまり次々手にしてきた類書を先に先に読んでいて、最新が網野善彦の『中世の非人と遊女』だった。

 十数年の内にこの方面の研究はめざましく進んでいる。今日読み始めた十数年前のこの本は文字通り魁の一冊であるが、それより以前に手にした、法政から出た『河原巻物』なども熟読して多くを学んだ。創作の色々に役だった。もう「役に立てる」という意識は強くないけれど、必然役に立つのだろうと感謝しながら頁を繰っている。早く読みたいという気が沸いている。

 ちなみに取り上げられている各論の題目は、「清目」「田楽一」「田楽二」「山水河原者」「千秋万歳」「犬神人」「傀儡」「皮づくり」「猿楽」「葬送」「松囃子」「犬狩」「声聞師」「曲舞」「壁塗」「狩人」「節季候」「陰陽師」「癩者」。錚々たる当時気鋭中堅の歴史学研究者達が筆を振るい熱弁で語っている。恐らく、あっという間に読んでしまうだろう。

 

* 「女文化」という新しい言葉を用いて「十二世紀」をわたしが語ったのは、一九七三年の、書き下ろし美術論でだった。「裏文化」「裏社会」の存在に目を向けない歴史記述の大きな片手落ちを衝いたのは、六九年に受賞してまもなく、「消えたかタケル」を書いた頃だ。少年達のために『日本史との出会い』を書き、中世の表裏を、裏を、語って、「こういう歴史をこどものころに習うべきであった」と大勢の知識人からも云われたのが、もう幾昔も前になる。ようやくそんな頃から、歴史家たちも本格の民衆史研究へ立ち向かい、歴史学の表情がすっかり変わってきた。「タブー」をむしろ力強く解禁していったのも、現代の民衆だった。上に云う本の編集主体は、「京都部落史研究所」である。そうあるべき時機が来ていた。

 この方面への私の関心は、京生まれ京育ち、少年の昔からほとんど揺るがなかった。ことに、この本が帯の背に大きく書いている「今、なぜ芸能か」は、戦後少年の私には目を逸らすことのできない命題の一つだった。長篇『風の奏で』(文藝春秋)『初恋 雲居寺跡』(講談社)などが明かしている。そして。

 同じ関心は少しも失せていない。

 

* 志賀直哉の「シンガポール陥落」は昭和十七年二月十七日にラジオ放送され、よく三月の「文藝」巻頭に同題の谷崎潤一郎の文と並んで掲げられた。編集後記には「両氏の心からの喜びの言葉を得た」とあるが、全集に初めて取り上げられたのは昭和三十一年十月。ぎりぎりいっぱいの一文、是が時代との微妙な交点であった。内村鑑三の精神の弟子である直哉は戦争は大嫌い。終戦に導いた最後の総理『鈴木貫太郎』への一文にも、「終戦」を期待して日々に情報を求めた直哉の日常が露骨なまで現れている。戦争真っ最中の『『嵐ヶ丘」に就いて』(十七年二月 東京日々新聞)、幕末の川路聖を称讃した『わが欲する書』(十九年八月 日本読書新聞)、確信を語って縦横の観ある『美術雑談』(二十年三月 美術)などに、人物志賀直哉の内面世界の健康さと落ち着きと大きさが紛れもない。いささかも時代の乱暴に直面して血迷っていない。見苦しかった文化人達は多かったのに。

 特に敗戦直後の二十年十二月十六日に朝日新聞に書かれた『特攻隊再教育』そして翌三月の「改造」に発表された『鈴木貫太郎』は、議論も有ろうけれど、立派な達識と平生心とで揺らぎなく、敬服した。わたしは殊に政府の無思慮を攻めた前者での、青年と未来日本への愛と当然の憂慮とに打たれた。直哉の憂慮は、のちにわたしも共有しつつ、不幸にも時勢を大きく歪ませた真因の一つを衝いている。優秀であったろうあまりに大勢の若い人たちを無謀極まる死なせ方をした。敗戦直後に攻めても打つべき手を打たなかったのは明白に日本政府の咎であった。

 

* 松本清張の『小説日本藝譚』で例えば世阿弥を読んでいても、遅くも平安末から鎌倉時代を通じての呪師と猿楽者との分け持ってきた伝統やその「きよめ」という藝の性質や、それにともなう差別と賎視の差異や実際などには、ほとんど知識も観察も及んでいない。ただもう藝術と将軍権力いう視点からだけ世阿弥とその徒との運命が語られるに止まっている。歴史に踏み込むことの他の作家より本格であった清張にして、そうであり、味わいは薄い。

 

* 『中世の民衆と芸能』後半の座談会、頗る面白い。

 2010 12・18 111

 

 

 

 

* 「一遍聖繪」等の絵巻その他に中世ないし近世の庶民の姿がいろんな風体で登場している。下記は初期洛中洛外図に見える二組の「節季候(せきぞろ)」たちで、頭上に裏白をかぶり面上に白い布を垂らして目だけを出している。師走の二十日、二十一日から都に現れて「せきぞろござれやハァせきぞろめでたいめでたい」と唱え家々を訪ねて喜捨を乞うた。江戸時代には太鼓やささらを鳴らすこともあった。節季は歳末をいうことばで、歳末に出て祝言をとなえては給付を求めた時期限定の「祝い芸人」たちであった。正月にはいると、白布が赤になり、「敲きの与次郎」と呼ばれようが変わったとという説もある。二人ないし数人で連れ立ち、必ず一人が肩から袋を提げているのは喜捨の米などを入れたもの。かぶった裏白には呪祝呪能の意味があったろう。広い意味での日本の「藝能人」の祖型の一つが特徴的に観られる。脚絆を巻いているが素足なのは、必ずしも彼らのキマリというのでなく、中世庶民の絵図の中での素足は師走正月をとわず多かったようだ。

 

 

 

 もとより暮れと正月とは限られた期間で、節季候がそれだけで糊口を得ていたわけはなく、他の時節には他の芸能・職能で口に糊していた。

 覆面はいかにも異類異形の体で、卑賎視された者のきまりのようである、が、鎌倉末期にはこの覆面が世間に流行り、流行が廃れた後もそれの固定的に残存した階層があって、異類異形のゆえの卑賎視のシンボルまたそのまま強いられた容態となった。節季候だけの風体とは限らない。

 

* この上に表紙カバーをかかげた本「中世の民衆と芸能」は、題名どおりの優れた編著で、じつに多くを教えてくれる一冊。目次と専門の歴史学者達の名に保証されて、多くの呼称と実態への示唆とが読みうかがえる。

 ことに後ろの半分以上を用いた座談会は、いまなお多くの示唆を現代意識にあびせかけ、なお研究途上にある課題も少なくないと思われる。たとえば遊女も乞食も抜けているが、かれらも中世には芸人であり職人であった。この本など、かりにも日本の「藝能」の太い遠い根を本気で識ろう語ろうというなら、誰しもが成心を排して素直に読んで識っていい基盤の一つだと思う。根底だと思う。これらは職能であり藝能であった。

 同時に、大事なのは「歴史」に内在する「変」「大変」である。藝能史はいままさに「大変」を践んでいる。

 

  目次

 

中世・民衆・芸能-序に代えて- 横井 清

 

はじめに……………6

中世「民衆」 への視点……………8

中世「被差別民」 への視点……………12

 

中世被差別民の生活と仕事

 

清目きよめ  穢れをはらいきよめ、そして担う  丹生谷哲一……………19

 

田楽でんがく一  田植をいろどる楽  山路興造……………25

 

田楽でんがく二  社寺の祭礼をいろどる楽  山路興造……………31

 

山水河原者せんずいかわらもの  竜安寺の庭石に刻まれた「小太良」「清二良」  川嶋将生……………36

 

千秋万歳せんずまんざい  初春の主家の祝福から、やがて門付芸能へ  山路興造……………42

 

大神人いぬじにん  畏敬と差別と-誇り高き祭礼のきよめ役  河田光夫……………48

 

傀儡くぐつ  人形をつかい、流行歌を舞い歌い、したたかに生きた芸能民  山路興造……………54

 

皮づくり  牛や鹿の皮剥から加工まで、生産の場は河原であった  源城政好……………59

 

猿楽さるがく  能楽のルーツは、庶民的な風刺のパントマイムであった  山路興造……………65

 

葬送そうそう  貴族や寺社の葬儀を生活の糧とする  田良島哲……………71

 

松囃子まつばやし  松を手に、正月の家々を祝福して歩く  山路興造……………77

 

犬狩いぬかり  都市生活の発達と充実が生み出した野犬の捕獲  横井 清……………84

 

声聞師しようもんじ  声聞一揆にみる雑芸者集団の力  川嶋将生……………90

 

曲舞くせまい  室町期、都に流行した舞いの担い手は農村出身の賎民  川嶋将生…………96

 

壁塗かべぬり  土をこね、土をねる所作にも、自然界に宿る霊への祈りがあった  吉村 亨…………102

 

狩人かりうど  神になった狩人-「狩場明神像」にみる青衣と柿衣の謎  河田光夫……………109

 

節季候せきぞろ  来る年の福と新年を迎えるまでの無事を祈る門付芸  川嶋将生……………115

 

陰陽師おんみようじ  消えた声聞師=陰陽師村の謎  山本尚友……………121

 

癩者らいじや  死と再生の輪廻を信じて、非人宿に生命の火を燃やした人びと  横井 清……………128

 

中世被差別民史への視点(座談会)……………133

 

  出席者 河田光夫 川嶋将生 丹生谷哲一

      山路興造 横井 清 吉村 亨

    司会 山本尚友

 

道の芸能から手の芸能へ137  差別と賎視のちがい115  

芸能のテリトリー153  芸能者への差別158  狂物と異装164

祝福芸と賎民芸能169  鬼の社会史的位置をめぐって178

芸能のなかの呪術性と賎捜民182  きよめの呪能者としての賎民191  

きよめの構造の全体性へむかって200  装いと差別208

言葉の両義性と色216  庭者・猿楽者にとっての近世社会226

被差別民衆像の豊饒化へむけて234

参考文献………240

 2011 1ー12 112

 

 

* 『中世の民衆と芸能』を読み終えた。よく、ここまで書き出してくれたと感謝する。関連の研究書も手に入れてあり、読み積んで行きたい。大勢の共著であるメリットを感じた。研究がますます進んで欲しい。  

 

  ☆ お元気ですか、風。

 「一遍聖繪」は、網野さんの本でも資料として言及されていましたね。

 そして、『中世の民衆と芸能』は、風の挙げてくださった「目次」を見ますと、とてもわかりやすく各種芸能を分類し解説されているようで、興味が湧きます。

 海老蔵の事件のとき、風が「テレビ以前」「テレビ後」という視点を提起なさっていましたよね。

 コ・サンジュンさんとおっしゃいましたか、日曜美術館の司会の方、あの方も報道番組で海老蔵事件について「メディア」に言及し、風と似た意見を発言していました。

 先日、「アンナ・カレーニナ」と一緒に、「スマップ ウォッチング」という本を借りてみました。精神分析家の人が、スマップというエンターテイメントグループの各方面への影響を、フロイトやマックス・ウェーバーなども引きながら分析した本でした。2003年出版なので、今と状況は違いますが、スマップの好きな花は、当時を思い出し、共感するところがありました。

 そして、このような本に、藝能史の視点をも持ち込んだらどうだろう、と考えました。

 花は藝能史をまだろくに学んでいないので漠然としていますが、古代の芸能が「神」を介在させたものだったとすれば、performing artと呼べるのではないか、現在の藝能は、「神」を介在させず、直接観衆を楽しませる、entertainment の要素の方が強くなっているのではないかなあと思いました。

 アメリカでは、映画や音楽のスターを社会学的に研究することが学問として確立されているというようなことを、「スマップ ウォッチング」の著者が書いていました。アメリカはショウビジネスがとても盛んですし、映画や音楽といったものをプロパガンダ的に統制するくらい、ショウビズの影響力を社会が認知していますね。

 日本には日本の藝能史があり、図書館では「スマップ ウォッチング」と同じ棚に、ぶ暑い「日本藝能史」がドーンと七巻くらい並んでい、迫力がありました。

 キリスト教の「神」と、日本の「カミ」の違いは、それぞれの社会の違いを形成していますが、藝能の上にも例外ではないと思われます。

 日本人の「カミ」の思想についても、学ばなければ。

 藝能とはどんなものであろうか・・いろいろと、考えさせられます。

 ではでは。週末は冷え込むとか。風、お体、お大切になさってください。

 元気な花は、いつも風に学んで勉強しています。

 

 

* 芸能の起源を「カミ」と掴もうとすると、宗教や信仰の儀礼や典礼や荘厳や祭式に引っ張られて行き、上澄みを掬ってしまう。「カミ」でも「神」でもなく、それ以前に「死」「死者」「死骸」を直視し手を触れるところから芸能は観なくては。おそらくこれは日本だけでなくグローバルな第一義だとわたしは考えている。とうぜん、それには誰が関わったかということになり、

人間社会の根源に存在し潜在した差別・被差別そしてケガレとキヨメとを直視しなければ、何も分からないだろう。   

 2011 1・14 112

 

 

 

* 大相撲にまた激震が来ている。八百長の実態がケイタイの記録などから見えてきた。幕下と十両との大きな格差に起因した彼らのいわば「互助的寄合」、きわめて即物的な八百長だ。

 そして相変わらず政府・文科省の大げさな出方で、協会も世論もかきまわされている。

 政治家の金の穢さからすれば、いかにもありえそうな心理的所産の八百長ではないか、いまさらに起きたことでなど有る筈がない。江戸から近代へ「ごっつぁん相撲」の無かった時期などなかったろう、現にこういう言葉が辞典にさえ載っていかねない。それが国技大相撲を芯から食い荒らすと想うのも大げさすぎる。

 すこしそれについて云う。

 

* そもそも、国技だ神事だ高潔だなどというが、相撲じたい、もともと「神意を推しはかる賭け事」であった。「勝負事」には本来、神意を伺うという働きがあった。闘鶏、闘牛、競馬もそうであった、相撲も例外でなかった。勝負それ自体に「賭ける」という人意や人為の参加も当然のようにあった。

 賭博、博奕、博徒は、藝能・神事の一種、神人の一種であり、無くては済まない「神まわり職能」の一つだった。日本の勝負事には根源にそれがある、繰り返して云う、相撲も例外でない。それどころか国技に祭り上げられた意味は、それほどまでに律令世界の中で正当な呪能の位置を相撲が与えられていたということ。遠い遠い由来を践んでいて、実は律令世界よりまだはるかに古い「賭けごと神事の勝負事」であった。

 わかりよく云えば、東が勝つか西が勝つか吉凶を占っていた。祭事祭礼にも同類は幾らも各地にある。勝負や博奕は占いであった。はやい話、力士と博徒とはけっしてそう遠い存在でなく、博徒もまた今日のいわゆる悪党ではなかった。そして吉凶を占う勝負には言葉は適切でないが、余儀ない「八百長」もときに必要だった。八百長はありませんと言い張る方が、ヘンなのである。相撲で云えばときどき有った「預かり」という勝負判定も、明白に八百長の価値付けであった。

 

* ただ、今回の八百長は、そういう博奕ほど高尚でない。いわば給料の出ない可哀想な若者達の「必死の地位保全互助行為」であった。可哀想にとさえ想う。

 誉めた話では勿論ないが、大相撲の法人資格を没収するの何のなどと、関係官庁は大人げなく居丈高で、彼らこそ権力行使欲にかられた見苦しいバカ者である。

 

* 今回関係者の解雇か除名は致し方ない。しかし官憲や国権がえらそうな顔でしゃしゃり出て脅しにかかるのはみっともない以上に腹立たしく、蹴飛ばしてやりたいのはそっちの方だ。国民のこっちは、国技館どころか、国会議事堂や官邸の方を「没収」してしまいたいぐらい、政治屋達の根城を取り上げてしまいたいぐらい、ジリジリしているのだ、気が付かないか。

 若い相撲取り達の八百長ほどにも必死の政治をしていないのは、政治家諸公ではないか。

 

* 大相撲問題は、愚の骨頂へ展開している。大阪場所は中止だという。

 またまた石原都知事の口を借りねばならないのにウンザリするが、彼は、当然だろう、事態を嗤いとばしている。大昔から有ったことで、誰一人無かったことなどと思っていないと。大げさな騒ぎ方だと。たしかに、おおげさ過ぎる。

 

 場所を中止して何になるのか。何ヶ月掛けて真相究明して何が出てくるか。問題は八百長の真相ではない、「相撲という行事の深層」こそが問題なのだ。

 

 近代スポーツにしたいのなら、ふんどし担ぎのような関取への隷従をやめ、プロ野球のように上下二リーグ制をとり、きちんと給与も支払うべきだ。

 いまの制度をよしとし「伝統」視している以上は、相撲はスポーツ以前の格闘技の見せ物であり、昔ながらの興行ものである。ばくち打ち、勝負事の一種であり、ばくち・勝負事はもともと神意をうかがう「神事」のうちであった。勝ち負けの「はからい」も超法規的にあった。

 

 かれらの今回の八百長はいじけたズルの一種でしかなく処分は当然であるが、場所を中止するような問題では全然無い。名前の出た連中を即座に仮に出場停止にし、調べたければ存分に調べればいい、「相撲界の全体に及ぼすほどの事件」では、ない。国会の中枢にある予算委員会の委員長席で委員長がケイタイをいじっているような情けなさとは、かなり性質が違う。可哀想な浅知恵であり、ようするに給料が欲しい、ふんどし担ぎはイヤだという互助組合のようなものだ。

 褒められない。クビにしてもいいと思う。だが、そこまでだ。国家天下の一大事みたいな顔をしているなど、コッケイで、迷惑で、ことをややこしくするばかりだ。「当事者」は協会と件の相撲取りであり、フアンが待望している土俵での勝負は別ではないのか。

 

* 放駒理事長は「神事」としての「相撲の伝統」といっている。しかも、近代現代のスポーツの気分で「神事」を裁こうとしている。その混同が根本の誤解だ。

 

「スポーツ」として再出発するなら「神事」からは訣別すべきだ。あくまで「神事」で行く気なら、八百長をすら許容し得た勝負の賭、神意を問うた賭の伝統を忘れていてはコッケイなことになる。

 

 そもそも賭博は金銭ずくの遊び以前には、神意を推し測る藝能の一つであった。

 どの地方でも神まわりに博徒・博党がたむろしがちであった事実を問うだけで、察しても観よ、そんなことは分かるでないか。彼らは、相撲と起源を同じくするほど昔からの呪祝の職能人だった。ヤクザになっていったのは近世になってからと観て良い。

 

 今回の幕下・十両級のやっていたことは、神事としての賭け事とは程遠いもので、ただ欲得の金銭取引という不正行為なのであり、理事会は、たいそうな理屈をならべているヒマに、取り敢えず名前の出た連中を出場停止にし、大阪場所は問題ない力士達で立派な相撲を客に、フアンにみせるのが興行の責任者として本筋だろう。

 理事会はモノが見えていない。不甲斐ないうろたえようである。政治家も識者達もご大層な居丈高で、ただ大相撲いじめの愉快を貪っていないか。

 お客様が神様ではないのか、そういう「神事」ではないのか。

 2011 2・6 113

 

 

* カレンダーの今日の数字が赤い。むかしの紀元節だと思い出した。どの国にも建国神話がある。二月十一日が正しいとか正しくないとか云うてみても始まらない。大昔の日本人はこんな日に寄せて「建国」などとは思いもしなかった、明治後の附会だというのはその通りであろう、国家や国旗が欲しかったように「建国の日」も世界に伍して行く日本に欲しいし必要だと明治の政治家は考えたのだろう。そうと創ったからは、利用もしたわけだ。利用の仕方がよかったとは、やはり、思えない。 

 2011 2・11 113

 

 

* 鈴木京香が駆け出しの脚本家として憤死しそうな役を演じた、「ラジオ放送」だったか、は、結局のところ度が過ぎて感銘がクリアに残らなかった。わたしはあれより前に、三谷幸喜作であったか「検閲」を扱った芝居を見掛けてこれは面白そうと期待したのに、その後に全体を観る機会を得なかった。なぜ期待したか。谷崎の大正十年十月に『検閲官』という小説があり、なんともかとも憤激させられていたからだ、むろん検閲官として憤激したのでなく、この場合の作中では劇作家として、要するに作者としてアタマによほど血が上ったのだ。  

 発禁という措置は明治以前にも、当局の忌避にあって手鎖にかけられた有力な書き手はいたし、お上へ相当な遠慮を要したこともあった。仮名手本忠臣蔵など、赤穂浪士と吉良上野の実話が、南北朝太平記の時代へ移転して書かれていた。それが無難だった。

 明治になれば発禁という官憲の措置を食らった雑誌や新聞や書き手は少なくなかった、谷崎も例外でなかった。時局が窮屈になればなるほど発禁や検閲は猛威をふるったのだから、谷崎のこの「二人劇」ふうの問題作は、やむにやまれぬ谷崎らしからぬ官憲への不快と抵抗意識に染め上げられてある。半端に短い作ですらない。腰を据えて読み直すに値することでは、彼の名作、『小さな王国』に負けていない。これまた、凄い。

 

* 公権力による「創作の検閲」とは何だろう。敗戦後にGHQがさまざまに検閲し発禁も強いたことは横手一彦さんの克明な研究が教えて呉れるが、日本国が「国」の名と強制により創作をねじ曲げ、思想表現や言論の封殺をはかったことは目に余るモノがあった。 2011 2・14 113

 

 

 ☆ バグワンに聴く。

  世の中の生死の道につれはなし

      たださびしくも独死独來    一休道歌

 関係の世界にウチ耽り過ぎてはいけない。なぜなら、すべての関係は、人間関係であれ何の関係であれ、夢だから。自分は完全に独りだということを覚えていなさい。

 

* バグワンは厳しいが真実を思い出させてくれる、いつも。 

 

* 悪魔論=デモノロギアの面白くもあり、世界史の理解に有意義であること、底知れない。わたしはそもそも西欧世界への視線は新制中学のころに学校で引率されて観た映画『ジャンヌ・ダルク』であるから、ハナから西欧の王制やカソリックの偽善的教権ないし強権に批判的なのである。

 魔女狩りの歴史的な意義が知りたかったし、知る前から見当は付けていて見当はずれはなかったのである。山内昶さんの『もののけ』下巻は徹底的に異端=ウイッチ狩りの全容に近いものを展開解説してくれていて、肌に粟立ちながら、奮然とも唖然とも呆然ともしている。

 無数の魔物やサタンを政策的に捏造製作した現況はカソリック教会であったと断定するよりない。その教義にも祭儀にもじつに露骨に魔の仕組みが忍び込ませてある。わがジャンヌ・ダルクがスケープゴートであったことは、歴然としていた。

 もう暫くわたしは、西欧の暗黒史を目いっぱい覗き込ませてもらう。

 バグワンもまた、実によく観ている。

 2011 3・3 114

 

 

* 角田文衛博士の「一条天皇」を原著からスキャンした。

 いま源氏物語を「花宴」まで読み、また栄花物語を、清少納言が敬愛して仕えた定子皇后の死、詮子女院の病弱のヘンまで読み進んでいるとき、一条天皇の時代こそ、まさしく現世の背景になっている。いわば名作や才媛や道長ら権力者をさながら載せた掌の持ち主が一条天皇であった。

 校正を終えて「 e-文藝館= 湖(umi)」に招待・展示する。源氏や枕に関心の深い方ほど一読して欲しい。

 2011 3・13 114

 

 

* この頃、放送大学というチャンネルで、たまたま出逢って気が向くと、講師の講義を傾聴している。講師によってはおもしろい話題がいっそう面白かったり、逆だったりする。今朝は中国文明

を「東アジア文明」と捉え直してゆく大学院レベルの講義が面白く、同じ講師の秦始皇の講話も興味深かった。身を乗り出すようにし、妻と二人で聴いた。やはりというか、概して歴史そして美術史に惹かれる。

 2011 3・15 114

 

 

* 『名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか』という、えらく長い題の小谷野敦氏の本を貰った、と思うまに妻が病院へ持っていき、入院中に面白がって読み終えてきた。目次を見ただけで何が書いてあるか分かり、実際に読んでみても新たに教わるものはなかった。知識欲のある優等生は、たいがい昔からこういうことに関心を持つ。うちの息子の小学校は、小学生なのに「卒論」のようなことをやらせ、息子は気張って「名前」を論じ? た。それも『ゲド戦記』その他、「名」の持つ神秘性に触れながら、日本の有力氏族の名字に関心を持ち、せっせと書いていた。

 諱や諡や号や通称や、武家名など、名前への興味の持ち方には選択肢がたくさんあり、歴史好きの子供ならなおさら興味をそそられる。わたしの育った京都では、近辺根生いの家などでは、奥さんにも女中にも「替名」がついていた。名を替えるという行儀に子供の頃から馴染んでいたのである。

 そういえば「 ペン電子文藝館」 を創設の頃、同僚委員の森秀樹さんは、「百姓名を読む」という論攷を呈示されていた。

 

* 小谷野さんの本でガッカリしたのは、「秦」「漢」氏らに、ことにわたしの縁あって称している日本列島での「秦氏」に、まるで触れてないこと。日本の秦氏は、べらぼうに多数の苗字を派出して、ま、昔から有名であり、法然上人も、長曽我部という大名も「秦氏やで」と、昔、秦の父に教えられた。島津も桜田も井出も和田もなどと聞いたことがあり、井出孫六さんに電話をもらって「同族ばなし」に花が咲いたりしたこともある。

 真偽を調べるまでの興味はないが、それよりも、名前に関しては、大津父とか馬子とか不比等とか家持いった「古代な名前」の時代に、どんな幼名や通称があったのか無かったのか、或る時期から急に、なぜきっぱりした良房とか道長とか義家とか時宗とか家康とか吉宗とか隆盛とかいう諱ができたのか、それでいて、天皇の諡など、桓武だの清和だの光孝だの難しげだったのが、なぜ急に一条だの堀河だの鳥羽だのとくだけていったのか、上流下層とも女の子には名付けたのか名付けなくても済んでいたのか、遊女や花魁の名はどんな変遷をしてきたかなど、興味は尽きないのであるが、「武家名」に関心を絞ったらしい小谷野さんはほとんど触れていない。ほんとうは「名乗る」「名を問う」ということ等にも踏み込んで小谷野説が欲しかった。そこには名の本質の不思議があるし、名分論や「無名」の意義も湧いて出るだろう。署名・無署名の問題も小さくない。

 また「丸」名乗りにも、小谷野さんの「糞」説だけでなく、もっと深刻な背景があるだろう。犬や牛馬にも船にも丸がつき、仮名手本の松王丸、梅王丸、櫻丸もある。

 

* 中宮が先で皇后があと、とあるが、后、妃、夫人の制より先に「中宮」があったか。光明子は中宮と呼ばれたか。円融帝のときが始めではなかったか、中宮の制は。

 

* ま、それほど名前はポピュラーでもあり神秘でもある。

 2011 4・3 115

 

 

* 戦後の日本国憲法が、日本政府と占領軍・GHQとのどのような折衝で成立したかは、曖昧な「押しつけられた」言説を通過して、最近では詳細な経緯が読み取れるようになっている。わたしは猪瀬直樹著『ジミーの誕生日』等に教わり、近くは白州次郎を描いたドラマでも教えられた。「ああやはり押しつけられたのだ」と納得し、その一方で、日本政府の案とGHQ案とを見比べれば、正直なところ「よくぞ押しつけてくれた」と感謝の気持ちを強く持ったのを告白せざるをえぬ。

 当時の日本政府案があのまま通っていれば新生日本のために良い点は何一つ無かったろう、明治の欽定憲法を多くは脱皮しきれなかった。悪案に過ぎなかった。GHQ案は結果的に最善案であった。最善の憲法を「押しつけられて良かった」と思うのである。

 むしろ最善の性質を、その後の日本が矯め歪めてきたことを遺憾とするが、またあれから七十年ちかく推移して、日本の置かれてある国際状況の危険でイヤな変容にも注目はしなければ済まなくなってきている、それも懼れている。

 直すべきは直し、是非守りきるべきは守らねば。わたしは九条以上に、前文を尊重する。 

 2011 5・3 116

 

 

* 一度は落飾し、その後にも入内して内親王を産んだという皇后は、たぶん他になかったろう、一条天皇の定子皇后への愛は、他と比べにくいほど深かった。皇后の方からもそうであったと疑えない。

 中関白道隆歿後の一族の落ち目は、主には跡目をついだ伊周や弟隆家らの思い上がり故に無残であった。栄花物語はかれらの流罪、それにともなう母貴子の目も当てられない狼狽や悲惨を、また定子皇后の悲歎と不安を描いて余すところがない。そんな中で、たしかに『枕草子』はよく成った。

 2011 6・18 117

 

 

* 「脱北」し日本で苦闘し、呻きながら歩一歩を前向きに気張ってはる人たち、支援し続けている人達の「生き抜く」葛藤の至難とかすかすな希望と、もっともっと必要な「日本」という國と人からの手助けや施策・対策。それなくしては実は拉致被害者の救出・受け入れさえも出来ないのではないかという懸念の底暗さを見せつけたドキュメンタリーを見せてもらった。

 「謙」クン、ありがとう。                                               

 

* わたし自身の反省であるが、西欧の歴史も、中国の歴史も相応に興味も関心ももって勉強し立ち向かってきたのに、朝鮮半島と人達のことには、あまりに意識が薄く届いていなかった。「三韓」というぐらいしか知らず知ろうとせず、高麗、百済、新羅の位置関係は分かっていたも、それ以下のレベルでは都市の名も地名も社会構造も、まず全然というほど知りも知ろうともしてこなかった。だから「イ・サン」という宮廷劇を観ていても、じつはどの時代のどの國のドラマとすら的確に言えなかった。時代物には好奇心を満たす何かがあるが、現代ドラマや現代映画には見向きもしていない。現代の朝鮮半島人の文化や技術や政治にも知識をまるで求めてこなかった。

 恥ずかしいことだと思いかけていて、兎に角も朝鮮半島史を現代まで通読の機会が欲しいと思いつつ、いい機会をもてていない。なにしろ著明な朝鮮半島の史上人の名前をと問われても、明確には、一人も言えないわたしである。近代へ来て、大統領クラスの名前がやつと数人。芸術家も文化人も学者も知らない。最近では二三の俳優や女優の名を記憶したばかり。ハン・ジミン。パク、ウネ。もうあとは出ない。

 わたしが例外に属するのだとしたら恥ずかしいし、一般だとしても恥ずかしい。それでいて、わたしは愛しいヒロインの名で長篇の『北の時代 最上徳内』に「キム・ヤンジァ 金楊子」を書いている。わたしの書いてきたヒロインたちの中でもキム・ヤンジァへの愛はただごとではない。

 2011 7・13 118

 

 

* 「主婦」とは近代の概念だろうか。

 主婦という言葉はともかく、主婦相当のはたらきが古くからあったのは間違いないだろう。

 家刀自という呼称や名乗り、奈良・平安の交期ごろには記憶がある。蜻蛉日記の筆者である女主人公は、正妻ではないけれど夫兼家の要望に添いながら家事に類する奉仕の才覚があり、采配をふるっている。源氏物語の紫上にも、髯黒大将の妻になった玉鬘にも、また夜の寝覚の中君にも、家刀自らしい采配は見えている。

 それどころか大体、女の商人や金貸しの歴史は、想像以上に古くから在り、古代から中世半ばに及んでいる。近代主婦の無賃労働とはちがう実力が認められている。

 『蕨野行』などでもそうだが、役に立たなくなって捨てられると同然になる以前には、庶民の家でのオバアちゃん、かあちゃん、の存在感も家内の位置もバカにならない大きさ重さであったのではないか、農家などでは。

 2011 8・3 119

 

 

* 日記『竹むきが記」の筆者「日野名子」を語って現代歌人井上美地さんの筆致は、きびきびと足早に、あの持明院統と大覚寺統佚立のけわしさを読み切っている。南北朝対抗となると、さ

らに世は太平どころか陰惨にさえ移りゆく。名子は日野家に生まれ西園寺公宗の妻となり、その夫を後醍醐・光厳のあいつぐ重祚のどさくさに煽られ、いわば南朝の手で処刑死している。そのとき名子の腹には公宗の子が宿っていた。これが後に嗣子実俊として西園寺家を復興する。母名子の筆は、南朝・吉野朝の動静にふれては頑強に働かない、用いない。それが『竹むきが記』の態度であり個性であり特徴であり、ひいては名子日野氏の怨念ともいえるのを、井上さんの筆は随処に捉えて放さない。しかしまた、それ故にも『竹むきが記』は、南朝正閏を奉じてきた近代現代に冷視白眼視されてきたとは、かなり頷ける。

 わたしの少年時代など、「 嗚呼忠臣楠氏」と謳い慣れて、正成・ 正行らはもとより、護良親王にはじまり新田・菊池・ 名和また北畠父子等にばかり目と同情が向き、足利尊氏などは憎き逆賊として、明治維新のドサクサに尊氏の肖像が冒され晒し者にもされた。わたしとて例外でない南朝贔屓だった。

 だが、徐々にわたしの胸に批評のきざしが動き出すと、だれよりも後醍醐天皇への批判の気持ちが先ずあらわれ、南朝武将達のひ弱さにも目が行った。「あかんやつ」という批評がつぎつぎに胸に動いた。北朝天皇に同情と謂うことは無いなりに、井上さん

に持明院統の天子には文化度の高い人が多かったと謂われると、その通りだ伏見、花園、光厳といった人たちわたしもに知らず知らず敬意を覚えていたことが自覚された。

 この本の、はっきり「 竹むきが記」を正題にしなかったのは惜しい。『我だに人のおもかげを』だけでは文献としての重みがちがってくる、いかに「乱世の告発者日野名子」と副題してあっても。惜しいと思う。しかし佳い本を世に送り出してもらえた。

 

* 日本史に目が向いていると、つい、その方面へ気がうごく。わたくしの「T博士」こと亡き角田文衛さん卆壽記念「御挨拶」が二通封じられてある大冊の『二条の后藤原高子 業平との恋』を読み始めた。そこはそれ角田博士の本である、徹底した史料博捜による研究成果であり、凝った美文ではないのが有り難く、ざくざく・ずいずいと読んで行ける。歯に衣きせない文章家で、爆走する大車のように精微な論証で押し進んでゆくから、途中でなかなか已められない、いっそそれが難かのように面白く読める論攷である。

 高子の「あやなくの恋」についで、八人もの「平安朝の女たち」の章があり、加えて「紫式部そして清少納言」への博士のどうやら断乎たる批評が二章分用意されてある。戴いていながら、角田先生からの戴き本は大冊がたくさんあり、この面白い本、初読。分厚くて本の重いのがしんどいが、夜更かしがまた加わりそうである。  21011 10・30 121

 

 

* 大河ドラマの「江」を続けて観ている。一つには、江の三度目の夫徳川秀忠が出てくるから。

 家康と三代家光とは昔からもてはやされたが、二代秀忠は、いろんな理由もあるが、あまり賑々しくは持て囃されなかった。しかし徳川三百年を堅固にかためたのは秀忠であり、明らかに「秀忠の時代」という認識で近世の視野をもたねばならない面が有る。わたしのそれは久しい見解であったから、秀忠夫人「江」が主役のドラマにも注目したし、以前にもあった大河ドラマの「葵三代」記にも注目していた。

 以前の秀忠と今回の秀忠役とは、天地ほども印象がちがう。どっちがどうとドラマの秀忠を論評はしないが、昔に書いた『秀忠の時代 近世の視野』をなんとなくここに再録しておきたくなった。

 

 ☆  秀忠の時代  (近世の視野)  秦恒平     

 

  近世の視野

 

   一

 

 慶長八年(一六〇三)二月、徳川家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きました。「江戸時代」の開幕です。外様大名の参覲交代がはじまり、江戸下町一帯の建設が急ピッチで進みます。四月、出雲の巫女お国が京都で歌舞伎踊りを演じはじめ、また、東海道五十三次の起点となった日本橋が架けられたのと時を同じくして、遠く九州に長崎奉行が置かれ、貿易と外交との用心ぶかい窓が開かれます。家康の孫の千姫が、命運危い大坂城の豊臣秀頼のもとへ嫁いだのも、同じこの年の初秋でした。

 そして慶応三年(一八六七)十二月八日、十五代将軍徳川慶喜の大政奉還で、江戸時代という名の旧き「近世」は幕をおろし、明治維新という名の新たな「近代」が騒然と幕をあけました。

 この間の二百六十余年を要領よく手短かに話すのは、難しい。軽はずみが、大きな誤解のもとになりかねない。時代の内容はもはや格段に多岐かつ複雑化の度を深めているからです。評価を定めるになお時代が若い、ということです。

 中世の末から安土桃山時代へかけ、日本人はかつて仏教に出あったのと匹敵する、まったく新しい「出あい」を体験しています。例えば天文十二年(一五四三)八月、ポルトガル船が種子島に来てはじめて鉄砲を伝えた。のちに織田信長が天下布武の最有力者へ急成長しえたのは、結局はこの鉄砲を戦術面で活用したためと言えるほど、この新兵器は戦国時代の行方を大きく定めたのです。

 また天文十八年(一五四九)七月、有名なフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来て、はじめて日本にキリスト教をもたらしました。鉄砲は戦国時代を収束へ導き、キリスト教は安土桃山時代から江戸初期へかけて武家政治の根幹を、よほど大きく揺り動かしたと言えるでしょう。いわゆるキリシタンを、織田信長はもの珍しさもあってほぼ黙認し、豊臣秀吉は途中から厳しい忌避に転じ、徳川家は家康、秀忠、家光とつづく将軍三代の圧力で、徹底的に禁じたあげく、ついに島原の乱(寛永十四・五年 一六三七・八)を契機に日本を「鎖国」の壁で厳重に囲いこんでしまった(寛永十六年・一六三九)。

 鎖国──それこそ封建(幕藩)体制と並ぶ我が「近世」最大の一面でした。信長、秀吉以来、そして最初の鎖国令(寛永三年)以後もわずかにオランダ船だけを長崎へ入港させていたごく短い期間まで、西洋の文明は末梢的にではあれ相当量の舶来品の形で日本に持ち込まれましたが、南蛮風俗や嗜好はともかく、概してキリシタン信仰を除いてとくに深刻な感化というものを具体的には残さなかった。ただ「世界」は広い、ということが朧ろに印象づけられたのが、のちのち本当に尾を引いて、結局「日本」は「世界」の前に「開国」か「鎖国」かの決断を迫られ、開国を選ぶという形で「近世」は「近代」へバトンを渡したのです。むろん「世界」は即ち「西洋」を意味していたのです。

「鎖国」から「開国」へ──この流れの中でつい忘れてしまいがちな何人か特色ある人物を、顧ておきたい。

 千々石ミゲル、十三歳。原マルチノ、十三歳。中浦ジュリアン、十四歳。そして豊後領主大友義鎮(宗麟)の甥の伊東マンショ十三歳を正使に、はるばるローマをめざす少年使節団の四人が天正十年(一五八二)一月、長崎を船出しました。当時すでに十五万人といわれた日本人キリシタンを代表してローマ法王に会おうというのです。それは信長と家康の連合軍が甲斐(山梨県)の武田勝頼と決戦、鉄砲の威力が信長側を大勝利に導いた、ちょうどその直前の話です。

 大友、大村、有馬といった九州キリシタン大名の期待を担った少年たちは、じつに三年余の歳月を費やしてとうとう熱狂するローマ市民に迎えられたといいます。法王グレゴリー十三世がサラ・レジア(国王の間)へ招じ入れて歓迎しますと、ローマ市も負けじと四人に市民権を与えてその上貴族として恭々しく待遇する。むろんそれなりの宣伝効果を狙ったのですが、一方、日本人としてヨーロッパの土を踏み、キリスト教文明の聖地を親しく訪れた最初の、信じられないような偉業であったわけです。二十世紀にロケットが月へ飛ぶよりもっと難しいことを、それも年若い少年たちがやってのけたのです。

 不幸にもしかし彼らのあまりにも貴重な体験は、まったく日本の国のために生かされることなく、やっと帰国した天正十八年(一五九〇)六月には、もう豊臣秀吉はキリシタンを烈しく弾圧しはじめていました。寛永十年(一六三三)徳川幕府は奉書船(幕府の許可書を所持した船)以外の海外渡航を禁止、また在外五年以上の日本人の帰国を禁止、西洋との貿易を制限しキリシタン取締の法令を発して、この時遣欧使節の一人だった中浦ジュリアンは、ポルトガル人の宣教師とともに逆さ吊りの極刑、壮烈な殉教を強いられてしまう。彼はその最期に「自分はこの目でローマを見た中浦ジュリアンである」と叫び、誇り高く昇天したといわれます。「鎖国」を選んだ「近世」の、目を蔽いたい残酷な一場面です。

 次に顧たいのは、新井白石とシドッチの出あいです。宝永五年(一七〇八)秋、九州の屋久島にシドッチと名乗る宣教師が漂着しました。江戸へ送られ法に依って監禁されたこの碧眼の宣教師に会いたい、ものを訊ねたいと考えたのが、おりから六代将軍家宣に重く用いられた大学者で政治家の、新井白石でした。

 むろん言葉は通じあわないが、その不自由さをしのぐひたすらな互いの熱意と芽生えた信頼や敬意に助けられ、二人は驚くべく多くを伝えあい知りあうことに成功しました。その感動と好奇心に満ちた一部始終をのちに新井白石は『西洋紀聞』ほかの本にまとめています。白石はシドッチの人物を評価し、何とか国外追放のていで助けたいと考えたのですが、国禁という原則は破れず、そのままシドッチは江戸の一隅で不如意な生涯を終えました。( 湖の本37 38 39『親指のマリア』「京都新聞朝刊」連載をご覧下さい。)

 白石ほどの政治家のこうした西洋への関心は「鎖国」政策への見直しを迫ることとなり、皮肉にも正徳の治といわれた白石政治のことごとくを否認するていで登場した、八代将軍吉宗によって、ひそかにその志が承け継がれました。吉宗は、蛮書を読むことをさえ厳禁していた従来の態度をやわらげ、幕吏に命じてその蒐集管理と吟味検討をはじめさせる、重要な方向転換をはかった将軍です。大岡越前守を町奉行に用いた、それもいいでしょうが、徳川歴代でもことに有名な将軍吉宗の名においてはじめて「鎖国」の壁にかすかに窓が開かれた事実を、しかと記憶していたいものです。

 もう一人、ぜひ挙げたい人物がいます。その名は最上徳内。彼は同じ西洋は西洋ですが南でなく、北から、北海道や国後・択捉島や樺太を通じて、ロシアという強大国が南進してくるのを本気で憂えた、また真に対処した史上初の日本人でした。算学、天文、測量をはじめ和漢に通じた学者でじつに大胆な探険家でもあったこの最上徳内は、人徳と才能とで山形出の百姓から一途に幕府上級の役人へと出世した人材です。

 徳内は、あの間宮林蔵より遙かに早く未踏の北海道北端から荒海を幾度も渡って、クナシリやエトロフや樺太の事情を詳しく自ら調査し探査しています。大陸へも渡っています。それに今日でも差別に苦しむアイヌ人に対し深い愛情と理解とを終始示した稀にみる篤実なヒューマニストでもありました。今しもソ連に奪われた北方領土返還は日本の悲厳になっていますが、近藤重蔵らとともにエトロフ島北端に最上徳内が「大日本恵登呂府」という標木を打ち樹てたのは、すでに寛政十年(一七九八)七月のことでした。

 徳内の緻密で正確な北方への知識は、名高いシーボルトほどの学者に、多くの日本人の中で、誰にも優る熱い尊敬と友情とを抱かせるに十分値していました。樺太が大陸の半島でないことを、島であることを世界中で一等早く知っていた学者も最上徳内でしたし、江戸市中でシーボルトと連夜額を合わせて編んだ『蝦夷語辞典』は、今も世界的に貴重な文化遺産となっています。名著『蝦夷草紙』とともに、忘れてはならぬ近世第一流の人物の一人でしょう。( 湖の本32 33 34『北の時代最上徳内』「世界」連載をご覧下さい。)

 

   二

 

 「鎖国」から「開国」へ、日本の歴史は必然動いて行ったと言えます。

 さて、近世を揺すった今一つの選択は、明治維新前夜に日本中にこだました「佐幕」か「勤皇」か、つまりは「武家」と「公家」との烈しい争いでした。江戸時代を通じて封建制の維持を願う徳川幕府の対皇室、対公家、対京都、対律令制の施策は、「鎖国」とならぶ無視できない太い柱の一本でした。その太さが先すぼまりに細って弱って、ついに大政奉還になったという理解も、あながちむりでない。その意味から、その細り弱まった末期現象よりは、一等太くて堅固だった幕府建業の時期、つまり「武」が「公」を強硬に圧倒した江戸初期へ眼を向けておくのが、あとあとへの察しをよくします。その時期を端的に、私は「秀忠の時代」と呼んでいます。

 徳川秀忠が二代将軍の任に就くのは慶長十年(一六〇五)四月で、三代家光にその職を譲ったのは元和九年(一六二三)七月のことです。その死は寛永九年(一六三二)五十四歳の時であり、徳川幕府の対朝廷、対京都の強硬策にわずかな弛みが見えだすのは、ようやくこれより後のことに限られます。

 一方、徳川家康が死ぬのは元和二年(一六一六)四月のことで、この大御所在世中をさして、正確に秀忠治世とは言いにくい。事実、前年の「武家諸法度」はともかく「禁中並公家諸法度」の如きにも、大御所家康に将軍秀忠が並ぶかたちで朝廷側の関白二条昭実と連署しています。家康の没後といえども、秀忠政治一切の基本は父大御所の敷いた路線の、あまりに忠実な、むしろ相当に強引な、踏襲以外の何ものでもありませんでした。

「法を以て理を破るも、理を以て法を破らざれ」と元和の「武家諸法度」の第三条にいう言句こそ、秀忠一代に堅く嵌められた施政、とりわけ対京都つまり朝廷と公家に対する鉄則でした。

 秀忠はむろんこの高飛車な言句を、彼自身が拡充した寛永六年(一六二九)の法度にもためらいなく用いています。ところがこれに対し、三代将軍家光はさらに寛永十二年(一六三五)父秀忠歿後の再度の改訂の際にためらいなくこの文言を法度から削除しているのです。秀忠から家光へ、そこには法度の無理強いから理にもかなった法制化へ、という踏み出された一歩が確かに見えます。

 しかし、朝幕関係に限っていえば、何ごとかがそこで質的に変化ないし回復されたというふうに取っては、早合点が過ぎましょう。要は秀忠一代で成すべきは成しとげ、もう少々の弛みを幕府側が見せたにせよ、それに応じて決起してくる反発力など、京都側にはまず完全に失せていたというに過ぎないのです。

 徳川家康における子の秀忠が、藤原鎌足における子の不比等と、北条時政における子の義時とを兼ねたような人物であったことはどうやら事実で、朝廷はまったく歯が立たなかった。彼らたいした二代目には、良くも悪しくも初代に過ぎた冷徹の気概、いや賢い意地悪さがありました。またそれ以外に大きく歴史のうねりを超えて行けないむずかしい立場にいたわけで、成功した二代目は例外なく、野球での熟練の二番打者以上に政治というものをよく知っていたのです。

 鎌倉時代はまだ公武の二元世界でした。だから百五十年しかもたず、一度は後醍醐天皇の親政にも引き戻されました。室町時代はもはや公武二元とも言えませんが、天下布武というには少くも戦国の世を経験して、織田信長まで待たねばならなかった。むろん信長や豊臣秀吉の時代とても、真に天下布武の武家征覇が果されたと言えるかどうか、右大臣や関白という天皇補弼の官職を受けていささかでも勒皇の志を表現し忘れなかったこの二人と、徳川家康や秀忠とでは、公武対決の考え方がよはど違っていました。秀忠など、明らかに北条義時の堅固な武士精神をより政治的に承け嗣いだ人物と言えるほどで、表面は奥方に弱くてちゃらんぽらん風であったにしても、家康亡き後の徳川秀忠は父家康以上に武家四百年の悲願・幕藩の武家封建制度を頑強に遂げていったのです。それは幾分無自覚の、またそれゆえに徹底的な追求でした。勢いこの将軍秀忠は、だれよりも先ず朝廷と公家にとって難中の難敵となりました。秀忠ほど幾分は無自覚に、それゆえに徹底的にこの敵役を演じ切るものがなかったら、江戸時代はやはり鎌倉時代なみの短命に終ったろうと、私は考えています。そして明治維新という名のただ「近世」の延長があったろう、とも考えています。

 徳川三百年といわれるかなりの長さが、辛うじて明治を「近代」の名で呼ぶに足るものにした、と言っても、ちょっと言葉が足りないかもしれない。日本の「近世」とは膿み潰れたのであって、半途についえたのではない。そこまでの長命を約束したのは、秀忠のクールと呼びたいほど幾分無自覚を伴った蛮勇でした。「法を以て理を破るも、理を以て法を破らざれ」の一句とそれを固守する態度とに、その蛮勇は凝り固まっていたのです。

 皇室や公家にとってその「法」は、先ずは慶長十八年(一六一三)六月に京都所司代板倉勝重を通して発布された、五箇条の「公家衆法度」として突きつけられました。

  一、公家衆、家々之学問、昼夜無油断様、可被仰付事。

にはじまって、老若によらず公家が不行儀に振舞ったり、勤務をおろそかにしたり、威儀を正して出仕しなかったり、昼夜ともに用もなく町の小路を徘徊したり、勝負事にふけったりする者は、その軽重に応じ流罪その他にあてるとして、あまつさえ右の五箇条に触れる公家衆は、「従武家可行沙汰者也」と決めつけた点は、まったく前代未聞のことでした。家康の名において秀忠将軍の手で京都側に突きつけられたこれが最初の「法」でした。もはやそれは慣行でも不文律でもない厳然たる「法度」に他ならなかったのです。

 しかも二の矢はすぐにつがれました。元和元年七月「武家諸法度」と並んで策定された「禁中並公家諸法度」の十七箇条は、天皇、親王、摂家、門跡などのすべて公的な行動全般を武家政権の圧力において規制する、驚天動地のまさに革命の名に値する「法」になりました。

  一、天子諸藝能之事、第一御学問也。

 たしかに天皇の政治的権威は、一時の例外を除き藤原氏、平氏、源氏、北条氏、足利氏、織田氏、豊臣氏らのもとで脆弱を極めていました。が、かりにも天皇の行動を法令で、しかも武家が一方的に規定したなど空前の椿事でした。

 天皇に対してもそうである以上、武家の干渉は朝廷の官位任免、席次、衣服などにまでこと細かに及び、たとえ摂家に生れようが人物に器量が伴わねば摂政関白はおろか大臣にもさせない、ましてそれより以下の公家はむろん、といった規制も、一見理の当然かのようであって、公家社会の千年の慣習や意向をあえて無視することに力点がかかっていたのです。

 徳川幕府はおよそこの法度により、かつていかなる武家政権も露骨には手をつけられないで来た朝廷の権限にことごとく制約を加え、しかも断乎空文化させまい監督をかなり機械的なまで周到に行いつづけた。その強圧をほぼまともに受けた、とくに後陽成、後水尾二代の天皇はほとほと砂を噛むほどの屈辱を味わいとおさねばならなかった。その名目かつ実質の加害者は、終始変らぬ徳川秀忠であって他の何者でもありませんでした。

 朝廷の領地は幕府のはじめに一万石、元和九年(一六二三)に秀忠が上洛汚した機会に二万石になっています。家康を祀る日光東照宮の一万石と比較してもいかに恵まれなかったか分るでしょう。まして公家の暮しむきは、中級下級の旗本にさえ劣っていました。

 しかしまた、それしきの待遇の中で例えば京都の修学院離宮などがどうしてああも豪勢に造営できたのか、また東福門院和子(秀忠の娘)入内前後の京都の文化が光悦の書、宗達の画、仁清の陶、宗和の茶、光琳の画、乾山の陶などとどうして続々とああまで優雅に華麗に開花しえたのか、という疑念もきざして来ます。

 この結論は急がないのが賢明でしょう。むしろ再び三度びここは「天皇制」の不思議さをまたも問い返してみるところです。少くも後白河ないし後鳥羽院このかた、後醍醐天皇を経て来た、いわゆる公家の潜勢実力を、中世そして近世初頭という興味津々の時世相の中で、相当慎重にかつ多面的に再評価してみる努力が必要なのです。

 日本で一等久しい、そして烈しい闘いは、「神」と「仏」とのそれですが、十二世紀以来の「公」と「武」との闘いは、それに次ぐものです。

 しかし、忘れてならない少くも今一つの闘いがあった。江戸時代を通じてあった。「神仏」でも「公武」でもなく、後水尾院が秀忠に悩まされれつづけていたちょうど時を同じゅうして、隠微に、強硬に遂行されつづけていた近世身分政策の、抜きさしならない固定化。人の下に人外の人を強硬につくり、人と人とを憎み合わせて、その力の均衡の上に文字どおり人の上の人「天皇」を建前に捧げ持った政治。人間に「貴賤」を分かつ政治。あの秀吉も、家康、秀忠も、天皇という最尊貴の対極に最卑賤の身分化を強行して政権の安定をはかった、やはり「天皇制」国体の奴にほかならなかったのです。

 寛永の花咲く文化の肥料にされて喘いだ最下層賤民の、あまりに無念な悲鳴を正しく聴きとめねばなりません。その同じ悲鳴が、近世、近代を経た最現代の日本にもまだ消え失せてなどいないという胸の痛む現実から、二十世紀の日本人は、決して顔や耳をそむけてはなりません。

 

   三

 

「排仏毀釈」ということばがあります。明治維新の直後に突風のように吹き荒れた暴挙でした。お寺や仏像を群衆が破壊してまわったのです。被害は大きく、そして短期間に鎮静はしましたが、このような暴発の背景には、例の、久しく久しい「神」と「仏」との闘いがありました。

 近世、「キリスト教」は表面弾圧されて姿を隠しましたが、これに代って孔子孟子の教えを説く「儒教」が幕府の支持で栄え、仏教の方はよほど力を落としながら、それでも浄土真宗や時宗、また禅の曹洞宗などは広く庶民生活、都市より農山村、に浸透しつづけていた。実はその浸透じたいにも隠された差別支配の無道は隠されていたのです。

 ともあれ、この「儒」と「仏」の教えの空隙を衝いておこったのが「国学」でした。日本の古典、とくに古事記、日本書紀や、万葉集、古今集や、源氏物語などへの熱烈な研究意欲でした。自然、日本の精神・心情の復古・懐古的な探求ともなり、古の「神」の心へ敬虔な思いをはせて行く。これが、「公」と「武」の対決を批評的に眺める歴史観や思想と触れるにつれて、或る政治的な立場や主義を多くの人に自覚させる働きをしました。「尊皇」「勤皇」あるいは「討幕」「攘夷」などという態度がそれだった。そして結局、ここから生じた保守的でもあるエネルギーと、西洋の文明に眼を遠く向けた近世自然科学の開明的なエネルギーとが好都合に絡み合って、幕藩封建体制を激しく揺さぶるようになったのが、いわば「近代」の到来を早めたのです。

 日本の「神」はそのような働きを近世社会の中で回復し、「仏」には、もうその力がなかった。それどころか浄土真宗の如きは、親鸞の絶対平等の人間愛を侮辱するかのように、庶民教化の枠外で、被差別の生地獄に喘ぐ人々を「人外」扱いで本願寺とは別系列の特設の寺院に支配させ、彼らの墓石には俗名の上に「畜男」「畜女」などと断然許すことのできない文字を冠せるような、およそ信じられない非道にまで堕落していたのでした。国学も儒教も、こぞって仏教のもはや無力であることを衝き、その余勢が明治政府の政策の一時の混乱に乗じて「排仏毀釈」という行き過ぎた暴発を招いた、とは言えるでしょう。

 さて、「近世」「江戸時代」を支えた何本かの柱に就て、およそ話し終えた気がしています。最後に、その「近世」が「近代」へと移り動いた最も大事な時期を、はっきり指摘して置きたい。むろん一年二年の特定の時点を指さすことはできない。また一つ二つの特定の事件から指さすこともできない。

 私は、十八世紀の後半分の五十年間を、「近代」へ向かう真に注目すべき胎動期、始動期、充実期と考えています。この五十年間を言い尽すのに、おそらく五百頁の本を二十冊書いてもまだ足らないでしょう。しかし、およそのことを察してもらうすべはある。それは、この五十年間の間を生きて仕事をした人物の名前を、ただ列挙してみることです。それを試みてみましょう。

 一七五一年は「宝暦」と元号の改まった年です。これは記憶に値する元号の一つです。この年、八代将軍吉宗と大岡越前守忠相とが相次いで死んでいる。時代の転機を思わせます。「近世」がここで明らかに一つの大きな峠を越えたのです。

 しかし思い出して下さい。

 徳川吉宗は西洋へ顔をむけるちいさな窓を後世のためにあけておいてくれた将軍でもありました。同じこの年、松前藩の加藤嘉兵衛は不十分ながらはじめて北海道という未開の領土を探険しています。十八世紀後半は幕府の眼が先ずは否応なく「北方」へも向けられずに済まなくなった時でした。

 一七五四年、医師山脇東洋らは日本ではじめて人体解剖を試みています。近代医学への第一歩です。

 一七五五年、哲学者安藤昌益が『自然真営道』を著しています。独立で究めた彼の論理には画期的な、いわば日本風の共産思想も展開されており、ことに日本の政治風土に対して鋭くすぐれた下からの視線を備えて、批評に富んでいます。

 一七五七年には江戸で平賀源内が目立った活躍をみせはじめます。源内は、近世が生んだ最も近代的で多才な博物学着でありユニークな藝術家です。その実像がもっと豊かに彫りこまれていい人物です。

 同じころ、川柳の名をおこした柄井川柳の活躍も見られます。

 一七五九年には山県大弐が『柳子新論』を著して尊皇思想の第一声をあげ、やがて幕府の忌避に触れ、安政大獄に至る幕府の弾圧政策を喚び起こします。調子の高い名文で書かれています。

 一七六○年には賀茂真淵の『万葉考』が出来ました。荷田春満、釈契沖、賀茂真淵を経て本居宣長、平田篤胤とつづく国学の五大家は、たしかに或る面で近世の流れを早めた熱烈な愛国者たちでした。この真淵に宣長が感激の入門を果した名高い「松坂の出逢い」は、一七六三年五月のことです。

 一七六八年には上田秋成の『雨月物語』が書かれています。近代小説の祖というべき天成の作家であり、国学者としても侮りがたい一方の雄でした。本居宣長との烈しい論争があります。雨月とともに『春雨物語』も読まずにはすまぬ名作です。

 一七六九年には甘藷先生の青木昆陽が、翌年には浮世絵の鈴木春信が、死んでいます。それぞれに忘れがたい業績を遺した人物です。

 一七七一年には小塚原刑場での腑分けがあって、杉田玄白、前野良沢らの有名な『解体新書』翻訳開始の契機となりました。同年、万葉調歌人で名君といわれた田安宗武が亡くなっています。この人の子がのちに寛政改革の主役を演じた老中松平定信です。

 一七七三年には医学革新に大いに力のあった吉益東洞が死に、翌年には『解体新書』が刊行され、さらに次の年には長久保赤水の「日本輿地路程全図」つまり一応の日本地図ができています。着々と自然科学の成果が上がって行くのが分るでしょう。

 一七七六年には文人画の第一人者池大雅が五十四歳で亡くなります。この年はあの平賀源内が、エレキテルつまり発電機の製作に成功した年でもありました。

 一七七九年にはその源内が死に、盲人の大学者塙保己一が『群書類従』といういわば大百科事典の独力の編集に着手しています。日本史研究の宝というほどの成果に仕上がって行きます。

 一七八二年、幕府は天文台を浅草に設けました。そしてこの翌年、工藤平助という町人学者が書いた『赤蝦夷風説考』が、ついに幕府の重い腰を北方領土の開発へとあげさせます。老中田沼意次の意欲で実現した最初の幕府探険隊には、あの最上徳内が、測量の竿取り奴という身分で初めから加わっていたのです。

 徳内の人物と力量を見こんでわざと策をめぐらし、自分の身代りに彼をこの探険隊に送りこんだのが師の本多利明でした。その明快で説得力に富んだ重商主義風のいわば国富論は、田沼意次の政策に照応しながら、時代を超えた或る近代性を十分備えていました。個性豊かな、顕彰に値する学者であり、意気盛んな経世家でした。

 同じこの一七八三年、芭蕉をしのぐ俳人であり大雅にも劣らぬ画家であった与謝蕪村が亡くなっています。『春風馬堤曲』などの清新な俳体詩も書いてよく知られています。( 湖の本35『あやつり春風馬堤曲』書下ろし をご覧下さい。)

 一七八六年には手島堵庵が六十九歳で亡くなっています。「心学」と呼ばれる独特の、平易で実践的な町人倫理学をみごとに普及させ、近世哲学に説得力豊かな異色を輝かせた人物です。

 この年林子平の『海国兵談』が書かれ、高らかに海辺防備の警鐘は鳴りひびきました。幕府はその影響を恐れ、鎖国の厚い壁はしかし年々に朽ち崩れようとしていたのです。この本の刊行は五年後です。

 一七八七年には本居宣長の主著の一つ『玉くしげ』が完成しています。彼の偉大な研究なくして、古事記や源氏物語を語ることはとても出来ない。

 一七八九年はフランス革命の年です。この年、日本のカントとも呼ぶべき克明な哲学者三浦梅園が亡くなりました。安藤昌益や本多利明らと並んで忘れてはならない思想家でした。

 一七九一年、洒落本の作家山東京伝が幕府の対策になじまず手鎖の刑に処せられ、翌年には『海国兵談』の林子平も蟄居を命じられています。なにかにつけて幕府の施策に焦りやいら立ちが見られ、鎖国下の経済も行きづまって、幕藩体制の根は財政的にも朽ち崩れつつありました。翌年林子平は刑死、子平や蒲生君平(御陵を尋ね歩いた尊皇家)と並んで寛政の三奇人と称された高山彦九郎が、教皇と憂国の情を抱いたまま自殺を遂げています。

 一七九五年、近代日本画の有力な源流ともなった写生画の巨匠円山応挙が亡くなっています。彼の弟子には四条派を開いた呉春や、師匠をしのぐ天才肌の長沢蘆雪がいました。伊東若冲や曽我蕭白の名も、この時期の大きな画才として忘れられません。

 一七九六年には石井恒右衛門が『波留麻和解』つまり日本で最初の蘭和辞典を完成させているのが、とくに注目されます。その意義深さは言うまでもないでしょう。

 一七九八年には本居宣長畢世の大著『古事記伝』が完成し、本多利明の『西域物語』や『経世秘策』も出来ました。翌年にはすぐれた洋風画家として、平賀源内とともに名高い司馬江漢の『西洋画論』が刊行されています。

 そして一八〇〇年、寛政十二年には伊能忠敬が蝦夷地をはじめ日本全土の測量に従事しはじめ、江戸では湯島聖堂(昌平坂学問所)が新たに落成、はじめて諸士の入学を許しています。学問、それも実学へ、「近世」を乗り超えて行くこれも顕著に近代的な一歩でした。

 十八世紀後半に盛んに活躍した人物はむろんもっと多いのです。暦学の志筑忠雄、薬学の小野蘭山、『東海道中膝栗毛』の十返舎一九、経世家山片蟠桃、書と教学の慈雲尊者、浮世絵の喜多川歌麿、葛飾北斎、写楽、安藤広重、そして鳥居清長、『南総里見八犬伝』の滝沢馬琴、私塾経営の大学者広瀬淡窓、世界ではじめて麻酔剤を用い乳癌手術に成功した華岡青洲、歌舞伎作者の並木五瓶、大名茶人の松平不昧、歌人の良寛、文人画の浦上玉堂、名君上杉鷹山、洋画の亜欧堂田善、水戸学を支え本多利明や最上徳内の活躍も支持した儒学の立原翠軒、そして大風流文人大田蜀山人等々が、すぐ思い出せます。

 でも、もう十分でしょう。これら人物の業績は二十世紀を生きる私たちの昨日今日に、日常生活に、殆どもう直かに触れて来ています。そのどれ一つ、どの一人をとっても、もう徳川幕府の「支配」をどこか大きく脱け出た個性と実力に特徴づけられている。日本の行方を「近世」から「近代」に手渡そうとつとめて最も有効な働きをしたこれらの人物、これらの業績を慎重に評価すれば、いずれ日本人の心の中で、おのずと克服されるべき「江戸時代」という陰画が、複雑な輪郭をより正確にあらわして来るでしょう。      

 江戸時代はまさに封建時代でした。「鎖国と開国」「尊皇と佐幕」「漢ごころと大和ごころ」「京都と江戸」そして「天皇と賎民」といった対立の共通分母として、武家封建体制があった。諸悪諸善のそれが、 根太板であったのです。

 しかしそれは、かかる江戸時代の真の主人公が、「武家」であったということを、そのまま意味するのでは決してない。いまも挙げた数多くの近代に先がけた人物たちから、どれだけの武士が拾えるでしょう。大方は武士でも公家でもない、町人や農民から出た、文字どおりの「民衆」だったのです。

                                「秀忠の時代」( 小学館) 一九七九年八月 に加筆書下ろし   

 2011 11・11  122

 

 

* 「秀忠の時代」から「近世の視野」に及んで再録しておいたのが、ちょうど大河ドラマ「江」の進行と共鳴して、自分だけの何というか「始末」がついた感じ。

 徳川家の名字は「家」だが、十五代の将軍でこの字を襲っていない秀忠、吉宗、慶喜の三人が、それぞれの個性的な役割を歴史に負うていた。ことに秀忠への批評と理解とが、じつに大切なわりに、大御所家康と三代家光にはさまれてつい影うすく扱われて居なかったかという反省がわたしに有った。

 秀忠をほめるのではない。京都への身贔屓からすればけっして褒められないが、褒めたくはない其処に秀忠諸法度の「くそ」のつくほどの重みがあって「近世支配」に力を持った。持ちすぎたとすら口惜しいほどに思う。

 2011 11 14・122 

 

 

* 放送大学の講義を、話題によるが、聞いている。聞きながら手作業も出来るから。

 天皇と天皇制について御厨さんという先生が話されていて、聞きながら発送のための手作業をしていた。昭和天皇について。一つ一つ胸に響いてくる。わたしは昭和十年の歳末に、妻は十一年春に生まれた。まったくの「昭和人」だ、そして「平成」という二字をテレビで観てから、もう二十三年も経っている。

 天皇さんも皇后さんも、むりもない、体違和に悩まれながら言語に絶する国事輻輳にも努められている。退位させてあげたい。どうにかならないのか。 

 2011 11・16 122

 

 

* 世界はめまぐるしく動いているが、今に限ったことではない。世界中に物騒ないろんな事件が起き、いつしれず推移し重点も転移している。歴史とは、そのように展開してきた。「歴史は繰り返す」とは、おおよそそういう意味である。

 しかしまた、人類の歴史ともいえ国家の歴史ではとも限定できるが、「未曾有の事件」に見舞われてしまうことがある。アメリカの9.11テロとか、我が国での3.11の大地震・大津波とかが直ぐ思い起こされるが、テロも震災もなにも未曾有の事件ではなかった。

 しかし「原発の爆発と放射能危害の広域浸潤」とは、チェルノブイリ以前に人類の歴史には絶無の事だった。日本人だけが体験した、その前にヒロシマ・ナガサキとがあった、あれも古今未曾有の、しかも神ならぬ人間の引き起こしたまぎれもない大犯罪であった。

 こと原子力や放射能にかかわる大事は、どう割り引いて眺めても、日本国史には未曾有の、しかも絶対に繰り返したくない、繰り返してはならない事件である、だれがそれを否定できるだろう。

 だが、ほかでもない日本人自身が、ヒロシマ・ナガサキをなお記憶していながら、まるで同じことを繰り返したのであり、なおなお今後も繰り返して行こうとしている、それ、今日只今の「原発温存」ないし「原発推進」の政治的・利権的意向への追随や黙認であり、「脱・原発」「反・原発」の議論すらも、経済と利権独占志向の政治団体と電力独占機構により、平然とかつ露骨に抑圧・妨害され続けている。あの菅内閣が潰されたのも、総理一人の無能や無見識ゆえにと云うより、明白に彼が「脱・原発」を近未来に志向し指向し明言したからだ、歴史の評価は自然に下されるだろう。明瞭なのは「脱・原発」志向を潰しにかかったのが、間違いなく東電・電力・経済団体そしてそれにおもねり寄食してきた政治家や御用学者達の無責任と無反省とである。間違いない。

                             

* 原発等による放射能危害は、少なくも何十年の永きに及ぶのであり、放射能物質の有効除洗には百兆もの資金が必要といわれているが、疑いない真実であろう。

 日本列島の国土としての美点は、他国もうらやむ植生の豊富な自然環境にあるが、こと放射能物質の飛散はまさしく日本の植生を恰好の宿りとして日々に堆積して行く。屋根瓦を水圧で吹きとばしている図を眺めるに付け、残念ながら下手な掃除以外のなにものでもなく、有害物ただ単に他所へ、枝葉豊かな植生やまた地下水路へ、あるいは単に近隣へ移動させているだけに過ぎない。狭い範囲内で観れば、しないよりマシという程度の有効は認められても、町や村や県や地方や国土としてみれば、なんら有効を確言できない目に余るその場しのぎに過ぎない。かくて、やがて農作物や、河川や海の幸がみな不幸の烙印をおされ、日本人の食生活を危うく破壊しつづけかねない。

 

* 呆れかえる、いまだに企業の責任が明瞭にされていない。それどころか、賠償や補償に対する電力・原発の態度は住民・国民に対し悪質である。除洗し処分したい屋根や庭や近隣・学校等の悪害ある放射能物質は、いまや住民銘々の「もちもの」なのだ

から、銘々の責任と負担で対応してくれるべきだといった鉄面皮な東電の言い分までが、マスコミで報じられている。とほうもない悪意の無責任と謂うしかない。これに象徴さいる「企業無責任」゜を、政治がまた無責任に放」置したままでは、国民じ赦ない。まして増税になど応じられる物でない。

 

* TPPにあたかも全力をそそいでいるフリを野田政権はみせている。けれど、こういういわば昔から何度も構想されてきた世界的な「ブロック経済」などは、所詮はいつのまにかグズグズと実情に見合う体質変更に逼られる。いわば、乗り込んだ満員電車のなかで乗客がやがて顔の向きやからだの向きを、それなりに無難に落ち着けて行くように、所詮落ち着くところへ落ち着く。

 しかし、我々の当面している原子能の猛威からの身の落ち着けようは、歴史的に初体験であり、ことに四方を海に包まれ逃げだし場のない狭小な日本列島では、その無難な解決は素人が眺めていても容易でないどころか、不可能なのではないか。深刻な危機感を誤魔化さず第一義的に対策することこそが、国家の正常な反応と思われる。TPPが国難なのではない。また極東での孤立や他国の経済伸張が即国難なのではない。そんな程度のことは歴史的に体験もしてきたし、歴史にとっては茶飯事かのようにそんな問題はいつしれず落ち着きたければ落ち着くように出来ている。

 

* しかし、原発爆発の危害は、純然初体験であり、このものすごい出血や貧血に、今のところ有効な手がキチンキチンと打てていない。最も大きな障壁は、電力企業の無責任な強欲と利己主義とにあり、それに寄食した政治の素質のわるさにある。

 国民は、ここへ集中して目覚め、かつ起たねばいけないだろう。

 今朝のテレビ座談会でも、佐高信氏らは、「責任」をとっていない東電の現状を端的に衝いていた。また同席のジャーナリストは、真実除洗のためには百兆円が必要と知って、恐怖に怯えながら政治家達は必死にその数字を内輪に言い立てようと震えあがっていますと証言していた。

 覚えていなくてはならない、これはまだ福島原発だけの話である。

 もう一つも二つも同じ危害が起きないどころか起きる蓋然性の遙かに高い日本列島地震国の現実を想うべし。「脱廃・原発」こそ「国是」であらねばならぬ。それないし「日本の存立」は無い。

 2011 11・20 122

 

 

* ゲーテの生家は今ではドイツ名物の一つだと星野慎一著、人と思想『ゲーテ』に聴いた。いま、「日本」名物の一つとして列島中の日本人が意識しているそんな或る「一人」の「生家」が、有るだろうか。

 星野氏の叙述に聴いておく。深夜に読んでいてわたしは胸にせまるものを熱く感じていた。                         

 

 ☆ ゲーテの生家は一七三一年に父方祖母が買い取って移った家で、祖母の死後改築された。ゲーテの父は一七八二年五月七二歳で没した。父の没後一三年間ゲーテの母が一人で住んでいた。だがようやく老境に入った彼女は大きな家を一人では持てあまし、息子ゲーテと相談した結果、息子のすすめに従い一七九五年七月人手に売りわたした。今日風に言うならば、広い家を売り払って便利なマンションに移ったようなものである。家具類はいっさい競売に付された。ゲーテの父が長年かかって蒐集した書籍や絵画のた

 ぐいも四散した。

 ゲーテの生家はレーシング家の所有となった。ところがゲーテの文名があがるにつれて、文豪の生家を一目見ようとして訪れる人びとが年々外国からもあとをたたなくなり、困りはてた同家はしまいに受付の訪問帳までおく始末になったが、その後腐朽がひどくなり、一八六〇年ころには改築の必要に迫られ、原形を保つことが困難な状態に立ちいたった。これをきいたオットー= フォーゲラーは、とりあえず私財を投じてゲーテの生家を買い取り、広く募金をして復旧につとめた。単に原形をとどめるばかりでなく、ゲーテ家の昔の家具、書籍、絵画類をもできるだけ買いもどそうとする運動の端緒がここに始まったのである。

 オットー=フォーゲラーは一八五九年フランクフルトに「ドイツ自由中央研究所」(Das Freie Deutsche Hochstift)という一種の民間の総合文化研究所を独力で創設した人である。ドイツの科学研究所は一七世紀中葉以来すべて王侯によって設立されたものばかりであったのにたいして、これは初めての民間の機関であり、かつ封建的な枠をとりはらった、自由な、全ドイツの総合的視野に立ったものであった。当時にあっては全く斬新な卓見と言わねばならない。彼のおかげでゲーテの生家は研究所の財産となり、今日のように公開されるにいたったのである。

  一九二五年一〇月、オットー=ホイア一教授のあとをついでエルソスト= ボイトラーがDas Freie Deutsche Hochhstift  の三代目の所長となり、一九六〇年病いに倒れるまでその職にあった。彼はゲーテの生家を今日の形にとりもどすためにあらゆる困難な努力をかたむけたばかりでなく、第二次大戦における危険を天才的に予感し、開戦前にいち早く家具いっさいを疎開させたばかりでなく、万一の日の再建にそなえて、あらかじめ建築物その他の寸法を精密に記録させておいたのである。一九四四年三月二二日の深夜ーー奇しくもその日はゲーテの命日であったがーー烈しい空襲によってフランクフルトの旧市街とともにゲーテの生家も記念館も跡方もなく壊滅したのである。今日世界の人たちがゲーテの生家をまのあたり見ることができるのは、まったくエルンスト= ボイトラーの功績であると言ってよい。戦後あらゆる苦難な条件のなかでフランクフルト市会が、「ゲーテ・ハウス」再建を復興事業第一番の仕事として議決したという小さな新聞報道を、私(星野慎一氏)は今もあざやかに記憶している。

 

* ただに家屋が完璧に再建されたのでなく、第二次大戦の惨害さなかにも、ゲーテの当時の家具調度や美術品等までがほぼ万全に保存された。後生にそれまでの動機を遺したのは、ゲーテの人と思想と、とりわけ偉大な世界文学であった。ドイツは、ゲーテを魂の太い支柱とも敬愛しているということ。

 もとよりわたしはソ連時代のソ連をソ連作家連盟の招待で訪問したおりに、トルストイやドストエフスキーやチェーホフらの遺蹟を何カ所も訪れ、保存のこまやかさに感動したし、中共中国を作家代表団として公式に訪問したときにも、魯迅や孫文の故居に案内されていたが、それが国と国民との「名物」的な魂の支柱とまでは思わなかった。

 日本にも作家を記念した文学館や生家は多く存在するが、ドイツにおけるゲーテへの思いとはやはり径庭がある。

 ゲーテは「ドイツ人の富士山」のような讃仰の存在なのだ。匹敵するのは英国のシェイクスピアしかいないだろう。

 

* 星野氏は、一九四五年、ドイツが全面降伏した翌月六月初旬にアメリカの国会図書館でトーマス・マンのした講演「ドイツとドイツ人」に触れ。マンが、ドイツ的な特色をもっともよく表した三人として「ルター、ゲーテ、ビスマルク」を挙げたと叙している。 「ドイツ人的性格のなかでもっともきわだっているのは、音楽的なことと、ロマン主義的なことである。そしてこの二つの傾向は、ドイツ人の著名な本質である「内向性」と深い結びつきを持っている。ドイツ民族は世界の文化にたいしてたくさんのかがやかしい貢献を果たしながら、一面においてたび重なる戦争を引きおこしては大きな迷惑をかけてきた。そのこと自身がドイツ的性格と深いかかわりがあると、トーマス=マンは見ている」と。

 この「迷惑」云々に関して、マンも星野氏も、宗教家マルティン・ルターと政治家ビスマルクとをあげ、対照的に文学者ゲーテの偉大さをそうした点の少しもない健全な世界性に認めて、称讃している。

 ビスマルクは措いて、今はルターについて書いて置くが、星野氏は書いている、「マルチィン= ルターは言うまでもなくドイツ的本質を具現した偉大な人間像である。彼は宗教改革を遂行し、聖書の翻訳によって現代ドイツ語の基礎をきずいた。信仰のみが神の恩寵にあづかる唯一の道であると説いて、スコラ哲学のわずらわしい束縛から人びとを解放した。良心を神に直結することにより、研究、批判、哲学的思索等の自由を、飛躍的に拡大した。彼の偉大さにたいしてトーマス=マンはいささかの異議もさしはさむつもりはない。にもかかわらず、マンはルターが好きになれない。なぜなら、ルターにはドイツ的長所と欠点が同居しており、その恐しい欠点の面がドイツ人の歴史の上にくりかえしあらわれ、禍いをふりまいたからである」と。

 トーマス・マンのルター批判は、ゲーテの抱いていた痛切なルター批判に根ざしていた。それはわたしのルターへの関心にも強く響いて頗る興味深いが、今は、 これ以上に及ぼさない。ゲーテの眞の「師表」性をおおよそ示唆できうれば足るとしよう。  

 2011 11・23 122

 

 

* いま、就寝前に十四冊の本を読んでいる中で、重い本なのに手に取るとなかなか置けないのが、角田文衛先生の「平安時代の女たち」を精微に論攷された記念の論文集。きのうまで、歴代皇妃のうち最も華麗に多幸であったといわれる「建春門院滋子平氏」の生涯を読んでいた。後白河院は、頽廃には陥ることのないしかし好色の帝王であったが、上西門院に仕えていた滋子平氏を知って以降、他に人なきがごとく滋子を鍾愛され、熊野詣でにも、はては厳島詣でにも、さらには有馬温泉への湯治にまでも同行、女院の亡くなるまで行幸また御幸をともにされたこと数限りなかった。よほど美しく、それ以上に聡明で気概にも恵まれたすばらしい国母であった。高倉天皇の母女院への孝行もうるわしかった。定家卿の姉・建寿御前= 建春門院中納言の日記『たまきはる』はさながら女院滋子の讃美歌かと思われるほど、ありありと、生き生きと、この高倉母后の輝く魅力を後生に語り伝えて光っている。『建礼門院右京大夫集』の死なれた哀しみに満ちあふれているのと大違いである。

 建礼門院は高倉天皇の中宮であり、母后からは姪に当たっている。この悲運の女院の姿は、小説『風の奏で』に、かなり生き生きと書けたとわたしは自負している。

 わたしが、もともと後白河院に深い深い関心や親愛感を持っていたことは、「仕事」が証明している、『女文化の終焉』『初恋・雲居寺跡』『風の奏で』『冬祭り』『梁塵秘抄』そして『千載集』そしてまた「中世の源流」論など。この、 鎌倉の頼朝には稀代の大天狗とみえた後白河法皇は、いまの三十三間堂の一帯を広大に占めた法住寺御所にかなり多く起居され、まぢかに、信仰の余り迎えられた新日吉社も今熊野社も今なお在る。平家といえば六波羅だが、法皇や女院の生活された御所や神社と六波羅とは、ごく親密な地縁にあった。

 言うまでもなく、そうした地域の一帯全体がまたわたくしの育った京の東山の中心地区であった。国史好きに育ったわたしの後白河や平氏に関心の深まるのは、はなから約束されていたようなものだった。         

 

* まさしく同じその東山一帯の空気をもう一度現代の目で書き取ってみたいのが、さしあたり今わたしの重い課題になっている。果たせるかどうか、ぜひ果たしたい。

 2011 11・24 122

 

 

* 夜前もやはり角田先生「三条院」の論攷が興味深かった。この女院は鳥羽院の内親王、後白河院の異母妹であり、後白河皇子である二条天皇の中宮でもあった。早くに落飾された薄幸かつ数奇な生涯だった。

 この尼女院は、あの入道信西の子で海内一の能説( 説経上手) を謳われた大僧正澄憲の子を生まれ、さらに二人目の出産に際し不幸に産褥で亡くなっていた。公式には腹の腫瘍と烈しい下痢でといわれているが、真相は「知らぬ者のない」公然の秘密と、三条院につねに伺候し近侍していた九条兼実は日記『玉葉』に書いている。

 角田先生の学風は「人」において特色あり、それは近世学の森銑三先生の広大な探索に、結果として類似しているのかも知れない。この「人」好きは、わたしにも。

 もう往年というしかないが、小学館の編集者に、浩瀚な「人物日本の歴史」の企劃を勧め、多数の史上人物の選定にも協力し、自分でも佐々木道誉、山名宗全を担当して書いた。この「わたしの好み」に角田博士も森先生も、はなはだ有り難い先生方であった。自然と身近にお二人の撰集や著書を置いて再三再四目を通すことが多い。

 人には、体臭があり体温がある。歴史上の人物から独特の体臭や体温が感じ取れるようになると、「小説」や「批評」にも手を染めやすい、たとえ現代を各場合でも。 

 2011 11・26 122

 

 

* 昨日録画しておいた大河ドラマ「江」の最終回と韓国の「トンイ」とを観た。

 「江」はおおらかに、少し甘く締めくくった。最初の頃は眉を顰めていたが、勝家と市の最期あたりから、つまり三姉妹の運命が必然味を帯び始めてからは、そして秀忠が登場してからが、歴史自体の迫力に推されて面白く進んだ。一つには宮澤りえ、水川あさみ、そして「江」の上野樹理の三姉妹それぞれが役をしっかり把握していた上に、秀忠役が嵌った。どうなるか知らんと観て行く内に、父家康との心理的な葛藤をねばりづよく双方から解いていった勢いの中で、わたしの説いてきた「秀忠の時代」「近世の視野」が、 細切れの説明ながらも画面に現れてきた。前回から終回へ、ほぼ私の想い描いてきた( もう少し呵責ない批判も持っているが、) 秀忠像に近づいて、かなり納得した。十一月十一日の日乗に、その「秀忠の時代」を再掲しておいた。 

 2011 11・28 122

 

 

* あの日から七十年。あの日もわたしは送迎の園のバスで、馬町の京都幼稚園に行き、昼には給食の弁当を食べた。弁当箱のぎっしり詰まった箱が園に運び込まれるのを、たまたま見た。食べ物のにおいを今も覚えている気がする。すべての記憶の背景か素地かのように、 毎月の配本を待ちかねていた平和で温和なキンダーブック毎頁の繪が目に浮かぶようだ。対米英開戦の詔の出た日である。もはや現実に真珠湾が燃え上がっていたのだ。

 あれより以前も、むろん無かったのではない。しかしわたしの人生が「時代」とともに「動き」始めたのは、あの日以後のことだ。そして、七十年ーー。

 あの翌昭和十七年四月に国民学校に上がった。「幼稚園ぼ」の秦宏一( ひろかず) がその日から与り知らない「秦恒平」に変貌した。そそくさと三年生を終えると、トラックの家財といっしょに雪の凍てた丹波の山奥に疎開した。昭和二十年だった。夏には原爆がヒロシマとナガサキを破壊し、敗戦。突発した腎臓炎に手を引かれて山の暮らしから京都へ帰ったのが、翌年の秋だった。歳末にやっと退院した京の町中を「進駐軍」のジープが我が物顔に走って、けばけばしく身を売る女達が飛び跳ねるように歩いていた。静かな静かな新門前通りに、ダンスホールが出来た。小学校には外地から引き揚げてきた生徒や、戦災に追われてきた生徒達が大勢加わっていた。昭和二十二年春、六年生になり、全校で選挙されてわたしは初の生徒自治会長になった。家では叔母に茶の湯を習い始めていた。  2011 12・8 123

 

 

* 幕末尾張の殿様徳川慶勝の特集番組を、彼の写真家としての腕前なども通してたいそう興味深く観た。維新前の日本の危機を大きく救いえた見識。断行。配慮。あっぱれ大きな政治家であった。

 いまの政治家は、まったく情けない。 

 2011 12・22 123

 

 

* 天皇誕生日。新聞は、「時代にあった皇室」を求めていたが、おそらく、それをつよく言えば皇室の無くなれという声も湧いてこよう。久しくも久しく「時代をこえた皇室」を国民は抱き込んできた。象徴とはそういう意味であろう。時代とともに歩む皇室とは現実的な発想であるだけに、ふとしたことから存廃が議題化してくるだろう。

 正直の所、わたしは思いあぐむ。

 平成天皇夫妻をわたしは信愛してきたが、皇太子もそれなりに自覚のある人と信頼するが、その先のことは何とも言いがたい。あまりヘンテコに頼りなく時代に添って天皇制に歩き続けられては、困惑するかも。それくらいなら時代を超えていてもらうほうが静やかではあるまいか。  

 2011 12・23 123

 

 

 

 

* 以前に、勝海舟の父たしか小六の「御番入」から始まるような芝居を見た。吉右衛門が演じていて、御番入という旗本世間の悪習を目の当たりにし驚いた。小六はこれをいい加減に蹴飛ばしていたのだが。

 旗本のだれもかもが役についていたわけでない。無番無役で逼塞している連中が沢山居て、たまたま番役に推挙されたときに「御番入」と謂い、世話役や同役・関係者を酒食の席に接待する風があった。辻善之助が大正四年十月に巻頭の「例言」を書いた口授速記の名著『田沼時代』によると、これはもう新参へ先達たちの徹底した「いやがらせ」であり、それにかけた「御番入」諸経費はじつにこの大正四年当時に換算して「千円」もかかったという。今の千円ではない。大正四年よりもっと後年でさえ「五百円」あればそこそこの家一軒が建ったことは、別な方面でもわたしは事実として読んだ覚えがある。これが貧乏で無役の旗本、むかしふうに謂えば「無足御家人」の「就職」のための費えであった。かかる「御番入」の以前にも以後にもこういうばかげた費えはかかっていただろう。海舟勝安房の男っぽい父、あの小六の闘いは、まずまずは「御番入」から始まっていたのだった。「御番入」の愚かつ暴挙はすでに田沼時代にも禁令されていた。しかしこういう悪習なかなか直るものでない。小六の幕末でもなお同じようであった。

 

* 読めば読むほど辻さんの『田沼時代』は面白い。名著。テレビにあらわれる時代物の下に隠れた下層武士達の実情に思い当たりたければ、こんなに恰好の、実録としての読み物は無いだろう。確たる証跡や記録のない面白づくは一切書いていないと著者は明言されている。時代もの作者たちが必需のタネ本にしている形跡も読み取れ、それもまた面白い。

 ふいとこういう本に出会うのが読書子の幸福。

 2012 1/6 124

 

 

* 辻善之助の『田沼時代』をほぼ読み終えた。こんなに我が意をえた読書はめずらしい。

 著者は、徹して同時代の史料や文献や口碑の上に具体的に立ち、しかも自身の見識・見解を公正に無私に展開し、是は是と評価し非は非と指弾して、その全容から「田沼意次」という政治家を丸彫りに批評している。田沼時代の開明的な先進性と、施策の独自性・先見性をまちがいなく汲み取りつつ、その失政や失敗の根底をも指さして憚らない。

 読み心地、爽快。しかも学問に成っている。評論とは、批評とは、かく在りたい。

 2012 4・21 127

 

 

* 辻善之助『田沼時代』は、毅然とした名著であった。

 わたしが『最上徳内 北の時代』を「世界」に連載し、のちに筑摩書房から出版したとき、まだ辻さんの此の名著を読んでいなかった。しかしわたしは、最上徳内というすばらしい日本人の背後に終始田沼意次を想い描き、批評し、ときに称讃していた。徳のうすい政治家であったが、認識も判断も実行力も、多くの政治家に比べ遜色ないどころか、むしろ抜群と感じていた。工藤兵助の建白を容れ、地獄ほどもおそれられまた霧と闇の世界であった蝦夷地(北海道・千島・樺太)探険と開拓とにゴーサインを出し得た、他にどんな政治家があったろう、わずかに新井白石が世界地理的な観点から北地に関心を寄せていた。

 この新井白石と田沼意次( 最上徳内ら) との間に、わたしは、実線でつなぎうる近世の政治力を感じていた。だから白石とシドッチの一生の奇会を『親指のマリア』として書き、『北の時代 最上徳内』との連繋を究案したのだった。

 読み物の世界では、暴れん坊将軍などと八代将軍吉宗に人気があり、これがのちに田沼憎しと逐い落とした松平定信の改革政治に結ばれる。新井白石は吉宗に逐われ、田沼意次は定信に逐われた。しかし政治の可能性や文明の視点からいえば、享保の改革とうたわれた吉宗政治は、器量がちいさかった。好人物で行儀はよかったが、政治は小さく窮屈に固まっていた。時代は、のびやかな呼吸をおさえられ、明るくはじけなかった。辻善之助の吉宗批評も、これに尽きている。まして定信の寛政の改革は輪をかけて小さく窮屈ですぐに破綻した。

 白石の政治は此処では措くとして、田沼意次の政治は或る意味大胆に行き当たりばったりで、やぶれかぶれでもあったが、失政ばかりではなかった。何よりも問題の「田沼時代」にこそ、日本の文化文明は、じつに多くの天才大才たちの爆発的活躍を実現していた。わたしの謂う「十八世紀後半の五十年」に、どれほどの目映いほどの才能が、豊かに明るく先進的に藝術も学術も思想も推し広げていたか、年譜をくってみれば忽ち諒解できる。田沼が手を引いて育てたのでなくても、そういう「時代の気分」としてのお膳立ては田沼意次という老中が可能にしていた。着手と実行、開明、前進。そういう時代は田沼より昔にはめったになかった。

 田沼の蝦夷地一件は定信の手で押しつぶされ、功労者はみな失脚埋没した中で、最低の竿取り奴だった最上徳内ひとりが、卓越した冒険力と算学や測量技術や博物学への貢献により幕府内に永く生き延びて、後進、間宮林蔵らへの道を切り開いていた。択捉島の北端に「大日本択捉島」の標木を世界に先駆け立ててきたのも徳内だった。間宮にはるか先駆けて樺太が島であるらしいと実地の探査により推測したのも徳内であった。こういう人物の出現を可能にしたのが「田沼時代」であった。   

 2012 4・24 127

 

 

* 「図書」「波」「本」「春秋」「ちくま」など出版社の宣伝誌がある。出版社でない丸善の「学鐙」は最古のそれである。「春秋」には二年、「学鐙」には三年も連載して、『花と風』『一文字日本史』が出来た。企業宣伝誌は、カラフルな大判が多い。みな苦心の編輯で、読むヒマさえあればなかなか面白いだけでなく、資料的に有益な記事にもしばしば出会える。そういう出版物がこれほど世間から遠のいているわたしのもとへ今も途切れず送られてくる。使いようでは宝の山である。

 いまも吉川弘文館の「本郷」最近の一冊を手にしたら、藤井穣治氏の「参内しなかった信長」にいきなり出会った。この場合の「参内」は天皇と対面し三献の儀を伴う正式を謂うのだが、将軍儀昭も、秀吉も、家康も生涯に繰り返し参内しているのに、右大臣右大将にまでなった織田信長には一度も参内を証する史料がない。なぜか。

 天皇が会わなかったか。信長にその気がなかったか。どうも後者のようであるというのが藤田氏一文の主旨になっている。実質的に天皇より上位に信長は身も意識も置いていた形跡がつよく、そこに彼の独自の「政権構想」が推測できるようだと。そこまでで藤田氏の短文は終えている。

 ところで日本人は久しく閉塞された史観に支配されていた。政治的には天皇制があらゆる出世の頭を打ち、思想的には末法末世の到来という行き詰まりがあり、経済的には土地・領地・私有地に依存しながら海に囲まれて寸土の増加も期待できない。上昇史観の生まれる余地がなかった。

 信長は、その行き止まり史観を突き破り、はじめて西欧を含む「世界」に希望をもち、耶蘇天主教に目をひらいて仏教の末法意識を克服し、おそらくは秀吉に引き継がれた海外の土地占領と領土拡大へも展望を持ったに相違ないと思う。

 そういう史観革新を意図していた信長からすれば、ルイス・フロイスらに高言・広言していたように、「予が国王であり、内裏(天皇)である」という思いがあったのだろう。参内を敢えてしなかった真意は藤井氏の推測が当たっているとわたしも思う。

 2012 5・20 128

 

 

* 「平清盛」今日も結構であった。

 保元の乱後の平家方は叔父忠正一族、源氏方は父為儀子弟らの、清盛による、義朝による斬首の刑はまこと苛酷に過ぎたが、世を替えようと急ぐ信西入道の野心と後白河天皇の放胆とが何百年絶えていた死刑を強行させた。清盛と義朝とが結託して朝廷に背いていれば一気に武家の世になった可能性は有ったが、清盛にも義朝にもそこまでの決断は出来ない、それほどに今日の吾々には思い至れない朝廷と摂関貴族の律令・莊園という法と政経の実力はまだ余喘を保っていたのだ。

 だが、それももう永くはない。すぐ追いかけて平治の乱が起きる、起きねばすまない。平治の乱では平家と源氏との勢力争いがおまけのように付き従い、表向きは後白河・二条という父子上皇天皇の不仲、それに従う側近貴族らの地位争いが起きるのだが、結果としては清盛が義朝を追い落とし死なしめたのが歴史を大きく動かした。

 それにしても清盛役の松山ケンイチという俳優の「男」たる面構えが、回ごとに美しく強くなって、みごとだ。わたしは少年の昔から平家贔屓の清盛贔屓だからそう思うのだろうが、この面構えひとつでも今回の大河ドラマは当てている。視聴率の低いという噂が事実でも、このドラマの質の高さ、見識のまともさが表れているのだから、関係者みな胸を張って制作し、演技し続けて貰いたい。 

 2012 6・10 129

 

 

* 今夜の「平清盛」は平治の乱。保元の乱はあっという間の勝負で、血なまぐさい死刑などもあったが、要するに勝った負けたの結着は判りよく割り切れていた。平治の乱はくだらない動機で始まって終わったものの、及ぼしたあとあとへの影響は深刻だった。信頼などの愚かな公家の末路はお話しにならないが、源氏の義朝の浅慮はそのまま時代を、信西入道が計らおうとしていた方向とは違う方へ奔流させた。清盛とて、信西の野心を正しく読んでいたか心許ない。信西は間違っても武士の世を考えてなどいない、明らかに後白河上皇を頂いた公家政治を、摂関家の割り込みを排して実現すべく、清盛と平家の武力をそこそこに厚遇しつつ背後に備えようとしていた。義朝の野心は信西の眼にはちいさく田舎臭く映じていたろう。

 清盛は、その信西を義朝らに殺されてしまうと、行く先々の展望を切り替えるしかない。義朝の源氏と並び立っていては公家の犬のままになる。源氏を倒して、こんどは直に後白河院との間で前途を画策するよりない。摂関家も近臣公家ら公家社会は清盛の味方にはならない。

 来週のドラマがどう動くか、差し当たっては平氏が源氏を都から追い出す。捕らわれた頼朝の命乞いも始まるだろう。牛若など幼児をかかえた義朝寵愛の常盤は清盛に縋ることになろう。清盛はもう頼む信西を喪って前途を独りで考えるしかない。後白河院との親昵や競合や確執の時代へ動きながら、妻時子の妹滋子を後白河に提供する。史上もっとも幸せな皇后といわれた建春門院をあの好色な院は、他をすべて顧みないほど愛したのである。娘徳子、のちの建礼門院を、その滋子の生んだ高倉天皇妃にして外戚の権を得たというだけの清盛ではなかった。

 『猿の遠景』という著がわたしに在る。一点の名画を介し、清盛と後白河院との時代や折衝がおもしろく読み取れるはず。

 2012 7・1 130

 

 

* 『古今著聞集』は巻第四「文学」になって俄然面白い。「序」の文学の起源と効用の事」は、書経などに拠り、こう在る。

 

 伏羲氏(神話的三皇帝の一人)の天下に王としてはじめて書契( 文字) をつくりて、縄をむすびし政(まつりごと)にかへ給ひしより、文籍(書物)なれり。孔丘(孔子)の仁義礼智信をひろめしより、この道(文学)さかりなり。書に曰く、「玉琢(みが)かざれば、器に成らず。人学ばざれば、道を知らず」と。また云はく、「風(ふう)を弘め俗を導くに、文より尚(たふと)きは莫(な)く、教へを敷き民を訓ふるに、学より善きは莫し」と。文学の用たる、蓋(けだ)しかくのごとし。

                                               

 縄の結び方を公示することによって指示・通告などし、天下の政治を行っていた時代があったのだ。

 古めかしいようでも、現代がはるかに忘れ去っている貴重な願いがよく言い表されている。遙かに恥じ入らねばならぬのは、今日の政治であり文学である。

 この文学篇は、「百済からの漢籍の伝来に始まり、平安末鎌倉始めの治承文治の頃にいたるまでの、王朝貴族文化の精粋と言うべき漢詩漢文にかかわる説話三十五話を収め」ているのが魅力で、和漢朗詠集ともさながら気息を合しているかに楽しめる。

 例えば、高徳の 念上人は入唐のおり、本来橘直幹の秀句であった

 

 蒼波路遠雲千里

 白霧山深鳥一声

 

を「霞千里」「虫一声」と変改して自作として披露した。唐の人は聴いて読んで称賛のうえで、「佳句」なれど「おそらくは雲千里、鳥一声と侍らば、よかりなまし」と批評した。「さしもの上人の、いかにそらごとをばせられけるにか」と訝しんでいる。説話ははからずも多くを伝えてくれて面白い。好きである。いい漢詩や秀句を貪るように此処でも読める。

 2012 8・12 131

 

 

 * 折口信夫『「八島」語りの研究』に多くを教えられ、興趣尽きぬものあり、次いで「巫女と遊女と」という、わたしには関心も興趣も尽きない論考に立ち入った。久しく柳田国男全集の多くを垂涎の思いで愛読してきた。折口信夫の独特のひねた物言いに躓いて永くとびとびにしか読んでこなかったのが、今や惜しい。

 「( 江戸時代の=)昔の人は都会と郊外とを区別して、郊外に住む人は『江戸の町』に対して『江戸』といつた」というような微妙・微細なところへまで折口は言及してゆく。吉原などへ「大尽(=大神) と言はれる男が伴れてくるお伴をえどがみといひ、その土地で大尽を取り巻くものをぢがみと言ってゐる」といった言及は、日本の神と人との関わりの歴史を、遥かな昔にまでさかのぼって示唆している。たまらなく面白い。 

 

* 「内裏にて作文の折、高倉院御秀句の事」とある『古今著聞集』の一事に、その秀句「あに忘れんや一字の金に勝れる徳を」とあるのを、文士として大事に感銘した。

 また『丹後の宮津』という思いがけず愛読しつづけている本に、「弓の木城址」の由来を述べながら、足利時代二百四十年間の丹後守護としての一色氏の最期が略述されているのが興ふかく嬉しく、加えて「野田川」がかつての「倉梯川」であること、川の南に「倉梯山」のあったことを、古事記にさかのぼり哀惜されているのにも心惹かれた。此処には古代の悲恋物語の一場面が刻印されていたのである。

 昔ならたちまちに「小説に」と勇んだろう、今はそんな娑婆っ気はない。「想像して楽しむ」という「独り道」が在る。捨てがたい好い道である。

 2012 8・19 131

 

 

* 読み終えた『唐代伝奇集』二冊は、「太平広記」「文苑英華」「説郛」「顧氏文房小説」「唐宋伝奇集」「唐人小説」等を下地に参照して周到に編まれていた。前野貞彬氏の編訳で、達意の文である。巧みに和語化された詩に、原文があれば有難かったが。

 中国の、ことに古代では小説は詩や随筆に比して遙かに対等でも物の数でもなく軽蔑され貶められていた。

 この「伝奇集」はそんな小説というジャンルの中で、不可解・不思議な物語や断片が選録されていて、化け物や仙人や神々や霊魂が無数に現われて人間に接してくる。ふるいつきたい美女も数限りなく男の前に現れ出て、玄妙な経緯を生み出す。人間のためにはある種の教訓や警戒すべき機微が表されている。長編もあり断片に近いものもある。奇妙な不思議は人の世のためには善悪ともに前兆であり警告であり、運不運の予告である。

 そんな話柄の、ものの数百もをわたしは楽しんで読んだ。

 中国人は、こういう不思議に様々に感化された歴史を歩んできて、浪漫主義ではない、独自に頑固な現実主義を、現世の福禄寿思想を、意地づよく築き固めてきた。

 尖閣諸島の領有争いにも見受けられる、ああいう頑固さ、不作法さは、さんざんにお化けや奇怪な神々や妖しい獣たちのお話により獲得してきた人間欲の堅さ、頑なしさが表に出たのである。彼らは現実に都合の良いことにだけ化け物でも信仰するのだ、信じもせずに。

 日本の怪談や化け物や怨霊など、あまりに人間に憑き過ぎて、ばかばかしいほどの途方も無さをもっていない。中国の伝奇や怪談やロマンスには、桁違いな世界の広さがある。

 2012 8・25 131

 

 

* 栄花物語が「後三條天皇」の世にさしかかっていて、この異色の天子の異色ぶりをすこしは当惑ぎみに叙しているのが面白い。この天皇は平安王朝には珍しく藤原摂関家との外戚関係がなく、つまりは血縁遠く、摂関家等の露骨な干渉を受けなくて済んだ。顕著な一例が、摂関家とかかわりのない地位において低い公家の娘をみつけ、かの桐壺にも似て寵愛し皇子を産ませ、手厚い祝福の行事を何はばからず行っている。東宮には子があった。産まれた皇子はさながらに光君にも擬せられよう。その後が楽しめる。

 この天皇は、荘園にも管理の手をそめて改革意図の濃い人であった。わたしは昔から注目していた。

 神武に始まり百二十五代の平成天皇まで、わたしはものの三分間ほどで歴代を暗誦できる。退屈すると、たとえば待たされているときとか、歯医者でがりがり治療されているときとかに、指折り数えて時を稼ぐ。以前は海外の男女優の名や、赤穂浪士の名など数えて時間稼ぎしていたが今はまるでダメ。歴代天皇と百人一首の名や歌を数える程度。

 天皇歴代では、ちょうど十ないし十一にあたる天皇に注目している。神武、崇神、雄略、敏達、天武、持統、桓武、醍醐、後三條、後鳥羽、亀山、後小松などである。むろんこの回り合わせに当たらない後白河のような天皇もあり一概に言えないが、事跡を検討すると一種の日本史記述が出来上がるだろう。

 2012 8・31 131

 

 

* 平清盛は浄海入道となり今の神戸、福原の港を大きく修築し、孰れは平氏の構えた新都として遷都を考えた。結果的には成功しないが、彼の意図は、海を手中にして宋との交易利に基づいた新たな国作りを実現し、武士を頂に立たせようと。

 源氏の頼朝が武士の世を建てたのではなかった、平氏の清盛の構想を頼朝は、制度的に踏襲したのだ。彼には守護、地頭といった制度こそ武士支配の国土観から必至であったが、宋との交易などという、土地支配とは異質な発想は出来なかった。清盛には日本の土地は狭く限界は険しい。海に囲まれているからだ。清盛・浄海の眼には「海」の道が見えていた。

 国宝の「猿図」があり、それは宋の画家の作かと伝来されていた。ところがその猿は明瞭に日本猿であり、青森辺を北限に日本国にしか棲息しない。「この絵の猿は日本猿だよ」と指摘されて学者達を狼狽させたのは、今日平成の天皇が皇太子時代のエピソードであった。

 ところが、当時十二世紀半ばの日本の絵師たちに、現存する「猿図」の猿のような表現・繪心は実在しなかった。鳥獣戯画の猿のようにしか、猿を画面いっぱいに精緻に写実的には描けなかった。だが宋の画家にはそれらを得手とする著名な画家たちが実在し、だからこそ由緒書きの「伝」は、特定の宋画家の名を絵に添えてきた。だが宋時代の中国に「日本猿」はいなかった。皇太子の指摘をうけた学者達は、日本猿を宋に運んで描いて貰ったという説明を思いついた。

 これは嗤うべきこじつけか。

 いやいや、宋との往来は、平清盛らにとっては、ま、朝飯前。しかしわざわざ「猿図」を何でと思う人はあろうが、当時は日吉信仰の真っ盛り期だった。ことに後白河院。清盛が手配して日本猿を宋に送って作画を依頼し、その成果を後白河院に献じるなどは、なんの造作も無い。そううことが清盛には出来た。頼朝等はそんな真似はしなかった、出来なかった。

 上のエビソードを起点にわたしが東洋の『猿の遠景』を書いたのは、もう四半世紀も以前のことだ。

 2012 9・9 132

 

 

* 栄花物語は、ドラマ「平清盛」の冒頭に君臨した怪物法皇の白河天皇時代に入り、さしもの御堂関白道長の子女も頼通、教通、彰子らほとんど全部が死去した。この希有なる後宮史物語は、無数の貴族社会の誕生と死去を不動の縦軸にしていて、人間の自然死ないしあまりにもひ弱い無力死の実情を証言してあまりある。病めばあっというまに死んで行く。もう医心方などの文献も輸入されていたろうにあまりに医師は無力で、呪術や読経しか働いていない。光り輝くようであった平安王朝の無残な不健康と評さねばならぬ。

 2012 9・20 132

 

 

* マルクス主義を質的に確立したとされるプレハーノフの「歴史における個人の役割」は、彼の最も優れた業績の一つとして評価が高い。なんだか季節外れの読書のようではあるが、歴史には関心を持ち続けたい。読み出すのを楽しみにしている。

 こんな調子では、すこしも就寝前読書の冊数が減らない、出待ちの本がむしろ増えている。なかでもゲーテの「親和力」も早く読みたくて堪らぬ。

 2012 9・20 132

 

 

* 「平清盛」は今夜も面白く観た。福原の清盛、都の重盛、東国の流人頼朝と、三極の体が、いずれ重盛の逝去で二極化し、しかも源家の極がまた以仁王の宣旨により木曽義仲らの台頭を促すことになるが、もう少しの間が必要になる。徳子平氏が高倉天皇に入内してのちの安徳天皇が産まれるまでは、その後も暫く清盛の権勢、緩まない。それだけ後白河院や近臣、摂関家などの陰謀や暗躍が本気ではじまる。鹿ヶ谷の謀議など。ま、それも徳子平氏の入内が先行しなければならない。御産の平安を願って清盛が喜界が島の成経、康頼に赦免状を送り俊寛ひとりを赦さないのも、鹿ヶ谷の失敗を示している。この事件は小さい事でなく、平家の命運に罅入らせた大事であった。

 そんなことよりも今夜の場面では、やはり宋との国交とも謂える貿易協商が実現して行くのが興味深い。こういうことは、清盛ならではの敢行であり、公家や源氏の思いも及ばない独創であった。福原の都は短命に終わったものの、博多を都近くまで引きずり寄せた清盛の大望は、凄いとさえ言って良いのである。

 2012 9・23 132

 

 

* フローベールの『紋切型辞典』の「過ち」に、「それは罪よりも悪い」と断じたタレーランの言葉を添えている。

 「アルビオン」というイギリスの古名には、「常に『白い、不実なる、実際的な』といった形容詞がつく」とある。イギリスという国は、フローベールの頃にもすでに難儀な存在であった。

 「胃」には「あらゆる病気は胃に原因がある」と。そうなのかも知れない、胃をすっかり切除してしまった私に異存は申しがたい。みなさん、「胃」をぜひとも大事にして下さい。         2012 9・23 132

 

 

* 夜前、韓流時代劇の「イ・サン」を楽しんだが、この英明をうたわれたイ・サンの宮廷を別角度から描いている連続ドラマの途中の二回分を偶然夕食のあとで二時間近く観た。中国の清時代にならぶ朝鮮半島の「イ・サン」王政がどんなものであったか「歴史」として知ってみたい。

 2012 10・29 133

 

 

* 就寝前の読書書目にプーシキンの史劇『ボリス・ゴドゥノフ』 同じくロマン・ロランの史劇といえる『愛と死の戯れ』を、追加した。

 今、読んでいる本のうち最も堅い本は、プレハーノフ『歴史における個人の役割』だろうと思う。

 彼はそういう「個人」の果たした役割・功績。成果・達成等をそれとして必然絶対のものとは認めない。背後ないし基盤に「社会構造からする社会的要請や大勢」をほぼ絶対視する。たとえナポレオンがいなかった、早死したとしても、社会組織が、大勢が欲している限り、大きな変化無く、同じことが達成されるとしている。

 多くの事例に鑑みて思えば、プレハーノフの論旨は肯定できる。一人の卓越した個人の周辺、同時代には、それなりに同志。同能力の者が必ず存在して代替して歴史を動かして行く、と言う。ラファエロ、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチがたとえ志半ばに不在しても、その背後や周辺に歴史と社会の意思が働いている限り、大きくは違わない成り行きが成果なり方向を生み出して行くものだと。

 わたしは、この論攷を肯定する。程度や成績に、価値に、いくらかの不足が伴おうとも。フロイドもマルクスも進化論を説いた彼にしても、大なり小なり彼らが不在ないし挫折していても他の個人たちが大方を同様に推進しまた説いていただろうと思われる。

 ただ、一人一つだけプレハーノフ説に気がかりな「例外」となる個人がいたかも知れぬと、畏敬を隠せないのは、相対性理論のアインシュタインで。

 彼のあの理論的発見は、彼の同時代が待望しその達成に機構的に思想的に動的に地盤を、推力を用意していたと言い切れるのだろうか。わたしには分からない、が、どんなものだろう。

 プレハーノフ説にも例外的な「個人」がいて、人々の予想だにしなかった「歴史的役割」を確立することが在るのかも知れぬ。

 誰か意見のある人に聴きたい。

 2012 10・31 133

 

 

* プレハーノフのマルキストとしての最良論攷と声価の高い『歴史における個人の役割』の、訳者木原正雄氏の解説は、一編の論文を読むように明確で達筆で、すこし間をおいてもう一度も二度も本編を読み返したい気持ちを、力強く誘ってくれた。フレハーノフはマルキストに徹しきれず、亡命を余儀なくされて故国の事情から距離が空いたに連れメンシェヴィキに変節していった人である。木原さんによれば、つまり彼プレハーノフは、「レーニンとおなじく、ロシアの資本主義の発展をみとめ、革命運動における労働者階級の役割を評価しながらも、きたるべき革命の同盟者は、ブルジョアジーだと考えた」のである。

 日本での「転向」へ雪崩をうった主義者や、戦後の学生運動で「造反有理」を叫んでいた多くも、結局は「ブルジョアジー」という「経済信奉者」へと概ね変節していった。そして彼らは共産党の政権に完全に道を閉ざし、労働者に力点を置いていた「旧社会党」を徹底して政界から排除に努めた。なれのはてが今の「民社党」である。彼らは労働者には係わらずにただ「護憲」だけを旗印にしているが、護憲は絶対的に必要でありながら、それだけでは社民党に投票する気にだれも成らない。そもそも「社民党」の名のりはブルジョアジー経済偏重の「自民党」同様に、無策・無意味に滑稽である。

 2012 12・20 135

 

 

 

 

* 少年時代の祭日では今日の建国記念日に相当の紀元節が好きだった。建国記念日などとは些かも信じていなかったけれど、この季節のすがやかさ、冴え冴えとした感じが好きだった。朝早く町内のあちこちでどんど焼き( 焚き火) していて、そのあと町内なりの式事があった。熱い香ばしい大好きな粕汁が振舞われた。それから学校での全校儀式に出かけ、「雲にそびゆる高千穂の高嶺おろしに草も木も」と歌ったあと、紅白の菓子の配られた年もあった。

 わたしは、昭和二十年二月末に、国民学校三年生を終え直ぐ丹波の山奥へ、秦の母と祖父とで戦時疎開したので、行事・儀式としての紀元節は、二、三年生の二度しか体験していない。紅白饅頭の配られたのはおそらく昭和十八年の二月だけであったろう。

 この年二月一日、紀元節より十日前には、日本軍がガダルカナル島から撤退しはじめた。四月には元帥山本五十六がソロモン上空で戦死し、五月下旬には、アッツ島の日本守備隊が全滅していた。「玉砕」という言葉を覚えた。数え歳の九つだった、わたしは。

 冬も好き、夏も好きだった。父も母も叔母も、祖父でさえもまだ元気で、戸障子を開け放った家の内も、暑いなりに清々していた。わたしは金魚たちの小さな泉水の水換えが好きだった。盥での行水も。

 そんな間じゅうにも、日本軍はじりじりと敗色を深めていたのだ。学校で職員室の外廊下に貼られた世界地図をみながら、アメリカの大きさ、日本列島の小ささを見比べて「ほんまに勝てるんやろか」と友達に話しかけたとたん、通りがかりの男先生に廊下の壁へ張り倒された。あれも二年生のうちだったろう。 

 2013 2・11 137

 

 

 ☆ マルクス エンゲルス『共産党宣言』(岩波文庫) 

    大内兵衛・向坂逸郎訳に拠る抄録を今後断続しつつ紹介する。 (1)

 

 ・ 今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。

 ・ ブルジョア階級とは、近代(現代・今日)的資本家階級、すなわち、社会的生産の諸手段の所有者にして賃金労働者の雇用者である階級である。

 ・ プロレタリア階級とは、自分自身の生産手段をもたないので、生きるためには自分の労働力を売ることをしいられる近代(現代・今日の)賃金労働者階級を意味する。

 ・ 書かれた歴史に先行する社会組織 共同の土地所有をもつ村落共同体は、インドからアイルランドにいたる社会の原型であることが発見された。

 ・ この本源的な共同体の解体とともに、別々の、ついにはたがいに対立する諸階級への社会の分裂がはじまる。

 ・ 要するに圧政者と被圧制者はつねにたがいに対立して、ときには暗々のうちに、ときには公然と、不断の闘争をおこなってきた。この闘争はいつも、全社会の革命的改造をもって終るか、相闘う階級の共倒れをもって終った。

 (秦注・ ないしは、延々と一方的な制圧・支配の社会や国の体制が持続しつづけた。われらの日本国では、支配階層同士の葛藤や暗闘や戦闘は繰り返されたが、いまだかつてプロレタリア階級と目される者らの闘い勝ったためしは、かすかに短期間な一揆や反乱の成功を除けば、唯一、地下(ぢげ)に平伏し跪座した「侍」層が、公家(くげ)精力に拮抗し新支配層としての武家階級を確立したまでは、全く無かったのである。明治維新にしても支配層の横滑り交替が有ったに過ぎないし、軍が解体された第二次大戦敗戦後も、典型的なブルジョア支配の政治がおやみなく圧政を恣にしていること、日々に見る通りである。 )

 

* 歴史を、まざまざと眼に見る思いがする。今日の日本の不幸は、こういう学習が徹底的に欠け落ちている点にある。学生たちは意識を失い、労働者は臆病をきわめ、共にひたすら利己的に隘路をすりぬけよう、すりぬけられると儚い夢を見ている。

 2013 4・7 139

 

 

 ☆ マルクス エンゲルス『共産党宣言』(岩波文庫) 

    大内兵衛・向坂逸郎訳に拠る抄録を今後断続しつつ紹介する。 (2 )

 

 ・ 歴史の早い諸時期には、われわれは、ほとんどどこでも社会が種々の身分に、社会的地位のさまざまな段階に、完全にわかれているのを見出す。古ローマにおいては、都市貴族、騎兵、平民、奴隷に、中世においては、封建君主、家臣、ギルド組合員、職人、農奴にわかれていた。なおそのうえ、これらの階級の一つ一つのなかが、たいていまた別々の階層にわかれていた。

 ・ 封建社会の没落から生れた近代ブルジョア社会は、階級対立を廃止しなかった。この社会はただ、あたらしい階級を、圧制のあたらしい条件を、闘争のあたらしい形態を、旧いものとおきかえたにすぎない。

 ・ しかしわれわれの時代(=今日も含めて)、すなわちブルジョア階級の時代は、階級対立を単純にしたという特徴をもっている。

 ・ 全社会は、敵対する二大陣営、たがいに直接に対立する二大階級――ブルジョア階級とプロレタリア階級に、だんだんわかれていく。

 (秦注・ 今日の日本では、だがもはや<プロレタリア階級>という意識自体が雲散霧消し、<ブルジョア階級>と大きく対立する政治勢力は事実上存在していない。事実、<プロレタリア階級>を支持し守っていくはずの、曾てはまさにさように存在していた「社会党=社民党」が、今日もはや解党直前の死に体にひとしい現実が、それを示していて余りある。現在の日本社会では<プロレタリア階級>を結束させる指導団体(=<ブルジョア階級>のための経団連等に相当する)は、対立勢力の、顕著また隠微に猛烈な「政治的」攻勢を受け、すでに完全に壊滅している。

 それを以て謂えば、すくなくも日本において『共産党宣言』当時の時代把握は過去形と化しているというしかなく、もしもそれに自己責任を問うならば、すべて日本の<プロレタリア階級>が無自覚に自身の政治的権利を対立階級の前に抛ったこと、関係政党が自身の存在理由や根拠を無防備にみずから放擲したこと、対立勢力の攻勢意図を完全に見誤っていたこと、が挙げられる。政党は支持者を失えば国会での議席も失う。現実はまさにそれを暴露している。) 2013 4・8 139

 

 

 ☆ マルクス エンゲルス『共産党宣言』(岩波文庫) 

    大内兵衛・向坂逸郎訳に拠る抄録を今後断続しつつ紹介する。 (3 )

 

  ・ 中世の農奴から、初期の諸都市の城外市民(ブファールビュルガー)が生れ、ブルジョア階級の最初の要素が発展した。

 ・ アメリカの発見、アフリカの回航は、頭をもたげてきたブルジョア階級にあたらしい領域を作りだした。東インドとシナの市場、アメリカへの植民、諸植民地との貿易、交換手段やまた総じて商品の増大は、商業、航海、工業にこれまで知られなかったような飛躍をもたらし、それとともに、崩壊していく封建社会内の革命的要素に急激な発展をもたらした。

 ・ 封建的もしくはギルド的経営様式は 工場手工業(マニュファクチャ)がそれに代った。 個々の仕事場自身のなかの分業もあらわれた。 市場はますます増大し、需要はますます上昇した。工場手工業(マニュファクチャ)もそれには応じきれかった。

 ・ このとき蒸気と機械装置とが工業生産を革命した。 近代的(=現代・今日的)大工業があらわれ、 工業的百万(=何兆万)長者、全工業軍の司令官があらわれた、すなわち近代(=現代・今日の)ブルジョアである。

 (秦注・ 上の推移は、日本では、いままさに暴威をふるう東電はじめ特権独占超大工業の電力企業に、特徴的に達成されている。その政治的支持を、経産省ないしブルジョア内閣さらには同質の国会多数が担当している。そう観て、どこに誤解が有ろうか。)   2013 4・9 139

 

 

 ☆ マルクス エンゲルス『共産党宣言』(岩波文庫) 

    大内兵衛・向坂逸郎訳に拠る抄録を今後断続しつつ紹介する。 (4 )

 

  ・  大工業は、すでにアメリカの発見によって準備されていた世界市場を作りあげた。世界市場は、商業、航海、陸上交通にはかり知れない発展をもたらした。 ブルジョア階級は発展し、資本を増加させ、中世から受けついだすべての階級を歴史の背後におしやった。

 ・ 大工業と世界市場とが建設されて以来、ブルジョア階級は近代的(=現代・今日の)代議制国家において、ひとり占めの政治支配を闘いとった。近代的(=現代・今日日本の)国家権力は、単に、全ブルジョア階級の共通の事務をつかさどる委員会にすぎない。 (秦注・ 国家権力は、単に、全ブルジョア階級の共通の事務をつかさどる委員会にすぎない、とは、何という適確な指摘であることか。

 「全ブルジョア階級」といえば厖大な結集に想われやすい、が、まことに厖大なのは、彼らブルジョア階級が所持し私有する「資本と生産手段」と賃金を惜しんで使い捨てて行く「使用人」たち(=まさにいわゆる労働者・月給取り・非正規雇用者という名のプロレタリア階級意識を)のことなのであって、名実を備えた「ブルジョア階級」など、信じられぬほど数少ない。強いて日本でいえば経団連や経済同友会の会員たちとほぼ同じとみていいだろう。

 資本主義社会とは、そういう、えげつない社会である。そのえげつなさに、昨今の安倍「違憲」内閣や、内閣支配に屈服した日銀が専ら卑屈なほど奉仕しているのだと観測すること、すこしも不可能でない。

 原発爆発の危害が終熄せず、復興も賠償もそっちのけで、あの悪辣な東電はじめ電力企業などによかれよかれとばかり法制も行政も奉仕している。そう観て歎いている日本人はけっして少なくないはずである。

 しかも「最大多数」の日本人のあまりに多くが闘うべき階級意識を失い果て、無考えにブルジョア政権に投票し賛同しなにかしらおこぼれを期待しているのが、現況・実情ではないのだろうか。如何。) 

 2013 4・10 139

 

 

 ☆ マルクス エンゲルス『共産党宣言』(岩波文庫) 

    大内兵衛・向坂逸郎訳に拠る抄録を今後断続しつつ紹介する。 (5 )

 

  ・  ブルジョア階級は、歴史において、きわめて革命的な役割を演じた。

 ・ ブルジョア階級は、人間を血のつながったその長上者に結びつけていた色とりどりの封建的きずなをようしゃなく切断し、人間と人間とのあいだに、むきだしの利害以外の、つめたい「現金勘定」以外のどんなきずなをも残さなかった。

 ・ ブルジョア階級は人間の値打ちを交換価値に変えてしまい、お墨つきで許されて立派に自分のものとなっている無数の自由を、ただ一つの、良心をもたない商業(=経済・投機等)の自由と取り代えてしまった。

 ・ ブルジョア階級は、家族関係からその感動的な感傷のヴェールを取り去って、それを純粋な金銭関係に変えてしまった。

 ・ あからさまな、恥知らずな、直接的な、ひからびた搾取と取り代えたのであった。

 (秦注・ 現在の日本で、上の指摘をあまりにどぎつく傲岸に自身立証し、昨日も今日も明日もわれわれ国民を慨嘆させてやまないのが、福島第一原発をむざむざ人災で大爆発させ、数えきれぬ国民に被害・避難・別離の危害を加えて、しかも反省も賠償も事故の懸命な回復も怠り続けている「東電」の名と実状とを挙げるのが、適切そのものである。彼らに飼育されている悪徳「違憲」の代議士や官僚たちも、同類とみなしていい。

 家族親族との、ブルジョア階級に顕著な動向としては、上の指摘の露骨な転化・反映である、欲と得との「世襲」志向を挙げるべきであろう。)  

 2013 4・12 139

 

 

 

 ☆ マルクス エンゲルス『共産党宣言』(岩波文庫) 

    大内兵衛・向坂逸郎訳に拠る抄録を今後断続しつつ紹介する。 (6 )

 

  ・  生産のたえまない変革、あらゆる社会状態のやむことのない動揺、永遠の不安定と運動は、以前のあらゆる時代とちがうブルジョア時代の特色である。

 ・ いっさいの身分的なものや常在的なものは、煙のように消え、いっさいの神聖なものはけがされ、人々は、ついには自分の生活上の地位、自分たち相互の関係を、ひややかな眼で見ることを強いられる。

 ・ 自分の生産物の販路をつねにますます拡大しようという欲望にかりたてられて、ブルジョア階級は全地球をかけまわる。どんなところにも、かれらは巣を作り、どんなところをも開拓し、どんなところとも関係を結ばねばならない。

 (秦注・ ブルジョア階級にも、それぞれに背負った国家があり、強い国も弱い国もある。しぜん強い国の支配下で「平等という名目」だけかかげた、ありていに謂えば「ブロック経済圏」が地球上に画策される。かつても何度も試みられた。地球は四分・五分され、日本も、戦前にその一ブロクの盟主であった、即ち大東亜共栄圏。

 今日話題の「TPP」も、本質に於いて何ら変わりなく、この場合「アメリカが盟主国」であることは、安倍「違憲」内閣も頭を低くして阿諛追従のザマを見ていればわかる。だれも、ことに強国は、平等など胸懐に無く、自国の利益を最大に狙い撃とうとしている。日本は、経済的水準では米国に密接していようとも、政治・外交的には卑屈なまで「家来」同然であること、途方もなく不平等な「日米地位協定」という現実をみるだけでも、瞭然。

 わたしは久しく謂うてきた、外交とは「悪意の算術」だと。「戦後」日本はと、限定しても、日本ほど外交下手な先進国は無く、TPPの「悪意の渦の中」で、安倍「違憲」内閣の「交渉力」の弱さは、情けないまで眼に見えている。ああ危ういかな。) 

 22013 4・13 139

 

 

☆ マルクス エンゲルス『共産党宣言』(岩波文庫) 

    大内兵衛・向坂逸郎訳に拠る抄録を今後断続しつつ紹介する。 (8 )

 

  ・  (例にこと欠かない、あの)商業恐慌 それは周期的にくりかえしながら、ますます急迫的に全ブルジョア社会の存立をおびやかす。

 ・ 恐慌においては、以前のどんな時代にもとても起こるとは考えられなかったような社会的疫病――過剰生産という疫病が発生する。社会が突然、一瞬のあいだに未開状態に逆もどりしたようになる。

 ・ なぜそうなるのか? 社会に文明がありすぎ、生活手段が多すぎ、工業や商業が発達しすぎたからである。

 ・ (あげく)かれらブルジョア階級は、もっと全面的な、もっと強大な恐慌の準備をするのであり、そしてまた恐慌を予防する手段をいっそう少くする。

 ・ ブルジョア階級が、すなわち資本が発展するにつれて、同じだけプロレタリア階級、すなわち近代労働者の階級も拡大する。 かれらは、労働を見出すあいだだけ生き、かれらの労働が資本を増殖するあいだだけ労働を見出す。

 ・ この労働者は、自分の身を切り売りしなければならないのであるから、他のすべての売りものと同じく一つの商品であり、したがって、一様に競争のあらゆる変転に、市場のあらゆる動揺にさらされている。

 ・ プロレタリアの労働は、機械装置の拡張や分業によって、あらゆる独立的性格を、したがってまた、労働者にとってあらゆる魅力を失った。労働者は機械の単なる付属物となり、 だから、労働者のためについやされる費用は、ほとんど労働者が自分の生計と自分の種族の繁殖とに必要とする生活手段にのみ限られる。 

 (秦注・ 只1パーセントの富裕支配者(ブルジョア階級)の富裕に奉仕する経済施策にのみ嬉々として狂奔して行く安倍「違憲」内閣。「国民の最大不幸」をわたしが歎く理由は、上に明らかにされている。「国民」とは、まさしく、今や生活手段すら満足に持たざる「プロレタリア勤労者階層」を指している。)

 2013 4・26 139

 

 

☆ マルクス エンゲルス『共産党宣言』(岩波文庫) 

    大内兵衛・向坂逸郎訳に拠る抄録を今後断続しつつ紹介する。 (9 )

  ・  近代的工業は、家父長制的な親方の小さな仕事部屋を。工業資本家の大工場に変えた。

 ・ 工場のなかにつめこまれる労働者群は、兵隊と同じように組織される。かれらは下級の産業兵として、下士官(=主任・課長)や士官(=課長・部長)の完全な階級組織の監視のもとにおかれる。

 ・ 毎日毎時、機械によって、監督者によって。なかでも製造家たる個々のブルジョア自身によって奴僕化される。

 ・ この専制は、営利(=儲け)が自分の最後の目的だと明らさまに公言するようになればなるほど、ますますけちな、ますます意地きたない、ますます腹立たしいものとなる。

 (秦注・ まさにこの絵に描いたほどの適例を、いま、東電という特権営利主義企業の「会長・社長」らと、その最下層で放射線に身をさらして収奪されながら働く現場作業員たちとの構図に観て取れよう。しかも大ブルジョア企業の「内部留保」はそれこそもの凄い金高に天までも積まれて、けっしてとと謂えるほど労働者達には配分されない。)

 2013 4・27 139

 

 

* 参議院に代わりうる「老議院」の可能性も念頭に、60~80歳の全国的な「老人会議」の成立を提唱したい。十余年前、山折哲雄氏との対談『元気に老い 自然に死ぬ』(春秋社)のなかで初めて提起した。いまや老境日本人はただ庇護をもとめつつ社会から退いた存在、退いていい存在、退くべき存在とは謂えない。構想を纏めたい。

 

* 福島第一原発は、いまだに鼠たちに「安全」を脅かされ泣き言を並べている。嗤うに嗤えぬ脆弱な「原発」よ。日に日に、原発を構成している鉄鋼に科学の証明している「脆性」罅裂が進行していることは、専門家も、つとに指摘し危険を告げている。それはもう今日か明日かも知れないとも。破断すればどうなるか。国土の汚染と国民の疲弊。

 

* 安倍「違憲」総理の唱える「侵略の定義は定まっていない」という歴史を無視した強引で低級な我田引水の論に、世界のジャーナリズムが厳しい批判を浴びせ、こんなご都合論で往年の侵略を言い逃れようとしていては、「アベノミクス」どころでなく彼の「違憲」政治は早晩挫折するとまで非難している。安倍はいまや裸の皇帝を演じている。

 

* 同志社大の浜矩子経済学教授は、終始一貫傾聴すべき論調で、安倍「違憲」総理の経済政策を破綻必至のあざとい「カラクリ」仕立てと、真向批判し続けている。安倍「違憲」総理の物言いには、改憲にも国防軍にも公益秩序にもアベノミクスにも、意図的にねじまげたウソが多すぎる。どれもこれも国民から湧いた意向でなく、傲慢自尊の権の濫用なのである。

 

* わけの分からない、筋道の通らない、沖縄を切り捨ての「主権回復記念日」の式場に、強引に天皇・皇后を呼び寄せ、棚上げの飾り物に仕立てた安倍「違憲」政権は、あからさまに、露骨には初めてと謂える「天皇の政治利用」を暴行した。ゆゆしい未来への悪しい憲法違反であり、日本の歴史はまたも地獄へ滑落し始めたのである。

 

☆ マルクス エンゲルス『共産党宣言』(岩波文庫) 

    大内兵衛・向坂逸郎訳に拠る抄録を今後断続しつつ紹介する。 (10)

  ・  労働者が自分の労働賃金を現金でうけとって、(ブルジョア)工場主による労働者の搾取が終ると、そのとき、かれらには、他の部分のブルジョア階級がおそいかかる、すなわち、家主、小売商人、質屋等々が。

 ・ これまでの下層の中産階級、すなわち小工業者、商人および金利生活者、手工業者および農民、これらすべての階級はプロレタリア階級に転落する。

 ・ かれらの小資本が大工業の経営には足りず、  かれらの熟練があたらしい生産様式によって価値を奪われるからである。

 ・ こうして、プロレタリア階級は人口のあらゆる階級から補充される。

 (秦注・ 自分たちのまわりの、飲食業・手技製作業・小売販売業、下請け生産業等々を、また零細農家などを、その店構えや手仕事や製造作業等々とともに観てみるといい。手形を落とすだけに、資金を借り返すのに四苦八苦し倒産して行く業者達が、巷にのたうち続けている。ブルジョア大企業に奉仕するのを日本の政治と使命とのみ考えている保守政治やたちは、かかる困窮にまともに目もくれないのを、だれしも今は知っている。しかもそのような困窮者やその家族達が、選挙となると、わずか一パーセントの金持ちのための政治へ投票するのは何故か。自分だけはすり抜けられおこぼれにあずかれる「かもしれない」と勘定しているのだ、無意識にも。それは、あり得ない。ブルジョア政治のために「天皇」をも露骨に政治利用し始めた「違憲」政権のもとでは、真っ逆さまに益々の「最大不幸」へ転げ落ちる。防ぐには、聡明な、シビアな投票と抵抗しかありえない。)

 

* いまわたしが取り上げているのは、マルクス・エンゲルスによる『共産党宣言』のうち、第一章「ブルジョア階級とプロレタリア階級」であり、第二章以下の共産党の問題には踏み込まない。今日的な意義を読もうなら、第一章のいわば歴史的な展開・展望にこそ今日のわれわれがもう一度落ち着いて学び返すに足る現実味がある、是伝いにあると信じたからである。

 引用は、けっして難しくない。今日的な政治と経済とを批評的に観る目さえあれば、戦前の読書子よりも今日の読者の方がはるかに実感で補足できるのではないか。東電と現場作業員。その例示でかなり事足りてくる。

 マルクスのエンゲルスのに戦かず、共産党の名になど驚かず、派遣社員や非正規雇用者やいわゆる日雇いの感覚から、日本の今の政治と大企業とを見抜きたいとわたしは願うのである。

 そんなわたしが、日本の古典を愛読し日本の美術に魂を奪われ日本の伝統芸能に心酔し日本のすぐれた思想に敬意を持つからと云って何が可笑しいことであろう。それあるがゆえに、大きく過たずに悪政と搾取の深層へも真相へも立ち向かえるとわたしは信じている。

 

* 「天皇の政治利用」を強行することで、自分たちの悪政から国民の目を逸らさせようとしている安倍「違憲」内閣の悪辣な暴走を、何としても食い止めねば日本人の少なくも九割に平安な明日は無い。徴兵制がきっと来る。年金は相対的に削られ、消費税はみるみる二割を越えるだろう。「公益と秩序」の名において憲法が保障した「基本的人権」は屑と化し「治安維持法」の悪夢がありありと蘇ってくる。生きるよりいっそ死にたいと願うような国民大多数の明日が明後日が来てもいいのか。

 誠実なジャーナリストや文化人の、旗幟を鮮明にした「反原発」だけでなくいまや「反悪政」「反違憲」の大同が渇望される。

 2013 4・28 139

 

 

☆ マルクス エンゲルス『共産党宣言』(岩波文庫) 

    大内兵衛・向坂逸郎訳に拠る抄録を今後断続しつつ紹介する。 (11)

  ・  労働者のある程度多数の結集があっても、それはまだかれら自身の団結の結果ではなく、ブルジョア階級の団結の結果である。

 ・ ブルジョア階級は、自分自身の政治的目的を達成するためには全プロレタリア階級を動かさねばならず、当分はまだそれを動かすことができるからである。

 ・ この段階では、プロレタリアはその敵とではなく、その敵の敵と、すなわち絶対王政の残り滓、土地所有者、非工業的ブルジョア、小市民と闘う。

 ・ このようにして獲得される勝利は、いずれもみなブルジョア階級の勝利である。

 ・ 工業の発展とともに、プロレタリア階級は数を増すばかりではない。ますます大きな集団に寄せ集められ、

 ・ 機械装置がだんだんに労働の差異を消滅させ、賃金をほとんどどこにおいても一様の低い水準にひきさげるので、プロレタリア階級の内部における利害や生活状態はますます平均化される。

 ・ ブルジョア相互の競争が増大し、そこから商業恐慌が起るようになると、労働者の賃金はますます動揺する。

 ・ 労働者の全生活的立場はますます不安定になり、個々の労働者と個々のブルジョアとのあいだの争いは、ますます多く、二つの階級間の争いの性格をおびる。

 ・ こうして労働者は、ブルジョアに対抗する同盟を結びはじめる。

 (秦注・ この日本でも戦後の一時期には労働者と提携した政党が、ブルジョアと提携した政党との間で、かなり確実に三分の一の代議士を国会に送り得ていた。日本のブルジョアはこれを厭悪し忌避して徹底的に労働者の団結権や組合権を抹殺すべく、ほとんど国を挙げてことごとに着々と労働者の拠点を潰していった。その結果、労働者側の政党は国会勢力の三分の一から、いまや解党目前という大敗北を喫しつづけ、日本には労働者のための政治は地を払い、かれらの奴隷化を徹底するブルジョア大企業のための施策一辺倒になっている。労働組合の権利はあたかも罪悪視され、非正規社員の窮状は増強され、さらには正規社員といえども「解雇」自由というに等しい動静の前におびえている。「共産党宣言」の歴史的洞察はみごとであったけれど、現実には、とうの昔に共産主義は地球上からほぼ追い払われている。しかし主義の問題ではなく、生身の労働者の全生活問題と基本的人権は死守せねばならぬはず。どういう気でいるかと厳しく問われているのは、労働者自身と、連携すべき政党、社民党・共産党・生活の党・みなの党等々なのである。)

 

* もう何がなにやら世の中が情けなくて、自分自身も情けなくて、新聞もニュースもイヤになった。ほんとうに荷風晩年のあとを慕おうかと思ってしまう。

* もう何がなにやら世の中が情けなくて、自分自身も情けなくて、新聞もニュースもイヤになった。ほんとうに荷風晩年のあとを慕おうかと思ってしまう。

   ☆ 時運 の内   陶淵明

 斯の晨(あし)た 斯の夕べ  言(ここ)に其の廬(いほり)に息(いこ)ふ

 花薬 分列し  林竹 翳如(えいじょ)たり  

 清琴 牀に横はり  濁酒 壺に半ばあり

 黄唐は逮(およ)ぶ莫(な)し  慨き獨り余(われ)に在り   

    * 黄唐は古の聖帝  黄帝と唐堯 

 2013 5・4 140

 

 

* 「TVタックル」で、「従軍慰安婦」のことを盛んに論っていた。アメリカではこれをつとに「性奴隷」と公式に呼んでいる。

  古来戦陣に大なり小なりの性奴隷的な女性が、あるいは身売りのかたちで、あるいは徴集されて男達の性欲に、進んで、ないし不幸の極致として接してきた事実は「歴史的」に否認できない。ただ、それを近代日本国のように「慰安婦制度」などと表沙汰にしていた例はやはり希有であった、大概の諸国が「言わず語らず慣習ないし必要悪かのように黙認」していたのだろう。

 「戦争」「闘争」は、太古来、人種の混血を促進した無視しがたい側面をなしていた。戦利を「女」ないし「男の奴隷」と見立てた点は洋の東西無くあまりに普通で、女王クレオパトラすら敗者として性に繋がれた。

 わたしは、いかなる弁護人があらわれて陳弁これつとめようとも、日本の軍国主義に巣くった非人道を否認し庇おうという気になれない。少なくも朝鮮半島において、また中国においても、奴隷化の暴虐や残虐をしなかったとは「ゆめ思わない」し、かりに他国にもそれと同じ例があるからといって、罪悪・罪責の「割り引ける」わけは無いと信じている。

 論者達は、あまり文学書を読まないのではないか。慰安婦といういわぬのべつなく「性奴隷ふう陵辱の例証」は、すぐれた作品のなかでもしばしばよく読み取れる。さらに、一般家庭や家庭女性への「奴隷意識での乱暴例」など、怒りに震える例はグローバルに実例に溢れ、心ない米軍兵士らにより今日の沖縄や本土でさえしばしば起きている。これは範疇内これは範疇外などと厳密がっても意味はない。悪いことは絶対に悪いので、それを否定しよう、良いことのようにまた無かったことのように取り繕おうというのは「卑劣」というに極まる。

 維新の会の橋下代表の陳弁には表面的に聴くべきも含まれてはいた、が、問題は彼の基本の政治思想が、うさんくさく危険に右傾している点にある。彼は、釈明と称して重大なごまかしを言うている。その第一が「民主主義」大切と言いきった点。彼のこれまでに表明してきた「改憲」論は明らかに民主主義を打ち捨てた古びた国家主義と見えている。「維新の会」といった黴臭い旗印に露骨にそれが出ている。明治維新は真っ向国民主権を抑圧した国家主義へ直進した政体であった。橋下氏ら「維新の会」一党は、民主主義確立への姿勢とは真逆、民主主義憲法下の戦後日本を、またもや明治以降敗戦までの国家主義へ、まさに反動的に「再・維新」しようとしているとしか見えないのだ。石原慎太郎やあやしげな老耄らとくっついて必然自民党へすり寄ったていたらくも、それを紛れなく指さしている。

 

* わたしがまだ小学生であった敗戦前後、養家の秦の押入れに、たくさんな名刺大、せいぜい手札大の写真を無造作に容れた紙箱があった。親や大人の目をはばかる必要もなく、退屈紛れにも幼かったわたしはそれら写真をよく手に取り眺めた。大方は秦家のいわば明治以降昭和に到る「生活史」「交際史」などを物語っていた。

 が、中に、十枚もあったろうか、異様な写真たちが混じっていた。日本ではない異国の広い街通りに、延々と、ある間隔をおいて行列した人、人の姿があった。一人残らずが地に膝をつき、後ろ手に縛られていた。一人一人の前には深そうな穴が掘られていた。抜剣した、あきらかに日本軍人の姿もあった。のちのちに刑場の知識として識ったいわば「土壇場」が、延々と街路を埋めて続いて見えていた。

 べつの写真では、斬首された死骸の列もまた延々と観てとれた。

 父は、応召の新二等兵として少なくも二年ほど中国へ出征し、帰国時には一等兵になっていた、らしい。実際の戦闘体験は無かったようで、父は射術で表彰されたり、上官の従兵役だったりした、らしい。兵隊として覚えてきたのは、ハヤシライスやカレーライスの作り方で、わたしが秦の家に貰われていったのは、父が本国へ帰還してさらにだいぶ年を経て以後のことだが、父は気が向くと自身流し場におりてそんな料理をつくってくれた。たいへんな楽しみだった。

 幼いわたしが、上にいうそんな写真を手にしても、父は何もいわなかった。この手の写真が、出征地ではよく兵舎内でも売り買いされてたんやと母には話していた。実否は知るよしなく、尋ねもしなかった。印象は強烈で、何度も同じ写真に見入った覚えは今も失せていない。 

 敗戦後に、疎開先から一年半ぶりに京都へ帰ってきたわたしは、以前に見た押入れの「例の写真」が、もう、どこにも無いのを知った。父も母もそれについては貝のように何も語らなかった、明らかに「急いで処分すべきもの」という判断であったのだろう、家の前を進駐米兵たちがひっきりなしに歩いていた。ジープも来た。あの写真の始末を、わたしも口に出して親に尋ねはしなかった。

 死者の人数の問題でない。写真一枚一枚の物語っていた情景の凄惨さは、否定しようがなかった。よその国の兵士達が他国に対ししていたことは、今は言わない。日本軍は「虐殺しなかった」という類の強弁には、拭いがたい恥ずかしさを覚えるというだけを、少年の一体験を足場にし、此処に証言しておく。それは慰安婦の問題とはちがうやないかと言う人が有れば、わたしは、黙ってその人の顔を見つめる。

 

* こういうときでないと言い出しにくいことを、もう一つ証言しておこう、類話はいろんな本や雑誌でなさけないほど知ってはいたが、まぢかに肉声で聴いた衝撃は、段ちがいだった。わたしはもう高校生だった、そのころ父は商売上の思惑で化二三人の仲間と「共同組合」ふうの設立を企てていた、らしい。その仲間の大人達が家にくると、果ては賑やかな、賑やかすぎる談笑の場となり、酒など出る家でなかったのに、酔ったように高声で喋りつづける一人二人が決まっていた。秦の父は概して寡黙な聞き役だった。狭い家の中で母もいればわたしもいた。はなしはイヤでも聞こえた。なにがイヤであったか。彼ら大人達の、まだ真珠湾よりよほど以前、朝鮮やシナでの兵隊生活、ことに現地女性らへの陵辱行為が、さながら勲章か手柄か、とほうもない楽しみかのように回顧されてやまぬ凄まじさ、それはもう耳を覆いたかった。「出征」とはこういうことか。わたしは、すでに愛読していた白楽天の厭戦長詩「新豊折臂翁」を思い、小説を書きたい書きたいと願っていた。処女作「或る折臂翁」に結実したときは、もう東京で安保闘争を闘っていた。

 2013 5・27 140

 

 

* 映画「ブーリン家の姉妹」はわたしの好きな歴史もの。妻が近くの病院に行った留守に観た。スカーレット・ヨハンソンの演じたメアリ・ブーリンと、ナタリー・ポートマンのアン・ブーリン。英王ヘンリーをめぐって、一族の男どもの欲と王の好色とが織りなした権謀と愛欲との歴史劇。四十五年の一代の栄華をむかえるエリザベス女帝が登場前夜の、血飛沫にまみれた暗い暗いドラマ。イギリスの歴史は繰り返しこういう陰惨な史劇を見た目華麗に描き出す。こういう惨劇を塗り重ねながら、しかも英国史は、ローマ法王庁のカソリックから離れ、また王の強権を牽制してマグナカルタを打ち立て、産業革命を遂げ、共産党宣言にすら場を貸してきた。イギリスこそ世界中の後進他国に対し徹して帝国主義を駆使しつづけたし、植民地支配の手口は常に非紳士的にえげつなかった。英国には多大の興味・関心・敬意をすらわたしはもち、しかし心底から好きになれなかった。それでいて英国の「歴史もの」と知ると放っておけない。

 2013 625 141

 

 

* 兄・北沢恒彦が掴みだそうと聞き役、また炙り出し役をしている『京都五条坂陶工物語』をどんどん読み進んでいて、一つ大きな問題点が抜け落ちているのに気づく。この表題からすれば一応問題外とみて差しつかえないのだが、わたし一人のかねて多大の関心からいえば、「五条坂」という看板でぜんぶ蔽ってある対談には、見逃せない大脱落がある。たしかに陶工世界に限定すれば「五条坂」かも知れないが、それでは「清水焼」という大看板との整合性はとれるのかということ。歴史的にながめれば、「五条坂」という地域名にくらべて「清水坂」の名と地域の問題性は百倍も大きくて深くて難しい物を抱えている。清水焼の伝統はせいぜい近世の半ば以降、それも粟田焼より遅れて地歩をひろげ固めた地場産業。それがに「五条坂」という云い方に集約して陶工達には把握されているというのが兄たちの本の足場・立場であろう。

 その一方、「清水坂」という名と史実と問題とは優に平安時代の奥深くにまで遡れる。奈良時代へも手がかかっているかも知れぬ。清水寺の存在は象徴的だが、創立は坂上田村麿に遡る。そしてこの境内下の坂、清水坂に巣くった者ら、「坂の者」らの「人世」は、想像を絶した複雑さと広さとをもって日本史において意味と意義を主張してきた。文字どおりに「清水坂」という命題が大きく存在した。兄たちの本では、その歴史への省察がばさりと棄てられて意識もされていない。陶工達には無関係だからか。そうも謂えるが「清水坂」の歴史には触れたくない気味が差し挟まれていたかも知れぬ。

 わたしが永くかけて書き継いでいる小説のひとつは、もし強いて題するなら「清水坂物語」でもあるのである。言うまでもない、わたしが清水坂に根ざした東山鳥部野などの世界に取材した小説は、長編『みごもりの湖』や『風の奏で』や『冬祭り』や『初恋 雲居寺跡』や『底冷え』等々に歴然としているが、それをもっと深刻に広大に世界をひろげ時空間をひろげて「表現」可能にならないかというのが、ま、苦心でもあり楽しみでもある「一仕事」なのだ。

 そういう眼でながめると、ことさらに「五条坂」に極言した視野の裁ち落としは惜しくもあり不備にも感じてしまう。ま、兄は「清水坂」の歴史には眼が届いていなかったのだろう、それがあれば、彼のことだ、清水焼陶工等の歴史をもっと深く追おうとしたにちがいない。無いものねだりは今さら無意味であり、バトンはわたしに手渡されているのだと思っている。

 2013 8・2 143

 

 

* 「殺す」ことは今日の日本で、なお希有に異様なことなのか、それとも、新聞記事によってもテレビニュースによってもドラマによっても、ま、当たり前に普通の事になっているのか、判断に戸惑う。なにかというと、人が、いかにも簡単そうに隠し持った物騒なナイフを握って他人を刺している。やはり異様なことだ。

 人が人を「殺す」歴史は久しい。それも政治の場で、権力の場で、目立つ。シーザーを「殺し」て以来、ケネディその他大統領たちを「殺し」てきた。

 最近の列車大脱線など、責任者の不用意な油断から無残に乗客や歩行者を「殺し」、また強慾と虚偽の結果として原発企業も無辜の住民を結果「殺し」続けている。

 地球上のさまざまな地域や時点での「虐殺」も否定のしようがなく史実と化している。

 「殺す」ことにも何か必然の理由があり得たのだろうか、多くは単に暴発なのか。

 戦争犯罪人を「殺す」のは当然のことと、誰もが確信しているか。当然の死刑は必要と人は誰もが受け入れているか。

 ああ、こんなややこしいことを言う気ではなかった。

 いま読んでいるアポロドーロスの「ギリシア神話」では、「殺す」という言葉と実例とが、土石流のように頁から頁を埋めている。これは何じゃと、ものをよく知らないわたしは唖然として読んでいる。

 ゼウスも、特にその子ヘーラクレースは、ま、殺す殺す殺す、殺し続ける神である。最強の殺傷英雄神である。どういうところからこんな神話を人間は必要としてきたのか解説して欲しいものだ。

 「神」は、まさしく「人」の生んだ威力のシンボルまたは幻想である。「神話」も、人の創作したファンタジイに類している。「魔」も、同じである。もうすこし拡大していえば、神も魔も、人と自然とで「合作した必要」であった。

 その「必要」が働き始めるときに、人と自然は、神や魔に向かい先ず「殺す」「殺し合う」「戦争する」ことを、あたかも指令したかのようである。すくなくも「ギリシア神話」はそういう神話かのように語り始められている。ミルトンの「失楽園」もそれを示している。

 日本の神話にもヘラクレスに相当の、須佐之男神が創られてある。

 2013 8・3 143

 

 

* 十訓抄からおもしろい和歌を書き出して、その読みは控えておいた。とても読み取れないと言うてくる人もいた。ま、ゆっくり翫味して下さればよい。

 毎晩、いまは「後拾遺和歌集」をあけて、ちょうど「雑五」の巻を読んでいる。まえに「千載和歌集」を読んで撰歌したのを「湖の本・千載和歌集と平安の女文化」上下巻として出版したが、千載集の歌に前詞・詞書のあるのはむしろ少数。後拾遺集では殆ど全歌にちかく前詞がついていて、作歌の事情とともにその当時の生活様式や感情や人間関係や交情・交際の機微が汲み取れる。わたしは撰歌のさいは概してこれら前詞は見捨てて和歌一首の美と真実とを汲むのだけれど、後拾遺集でそれを強行すると歌の妙や情が薄まってしまう。前詞のなかに強いて謂えば掛けが得ない時代の相と文化の質が見えてくるから。

 それにしても、もうかなり概念化している四季の歌にくらべ、恋そして雑の歌は面白い。まさに、王政ならぬ王朝藤原時代の肉声がとびかって聞こえる。

 何度もいうが、こうした勅撰和歌集の歌人達は、九割九分九厘が貴族の男女であり、政治家や行政官と地位において匹敵する女性達なのである。

 いまの時代、真似事ほどの俳句らしきを弄くる宰相の噂は聞いたこともあるが、明治大正昭和平成の政界人たちで詞華集を一冊となれば見窄らしい限りでとても成るまい。成らなくても恥じる必要は、ま、無いとする。しかし、かわりにどれほどの政治や行政で民を幸せにしてくれたか。あまりにあまりに貧しい。政治の舵はいましも地獄の駅へ向いて切られている。

 

* 昨日の外出で、いつにも増して多かったのが車中でのケイタイだかスマホだかに熱中している人たち。概して、若い。男も女も。

 中国人、といっても明治大正の昔の知識人であったが、明治の始め頃に日本へ来て、日本の若い人たちに接するにしたがい、その意気盛んに志の高いのに驚かされることが屡々であったと回顧していた。さもあろうと思う。

 ただし同じこの中国人が大正時代に入っての同様の経験見聞から、日本の若者の軟化し頽廃の気配を見せ始めているのにまた一驚したと述べていた。さもあったろうなと思った。

 以来歳月を多く重ねて、敗戦後から一九七〇年頃までは、まだ戦後気配が濃かった。そのころの若者にはそれ故に政治を海外をそして実生活の基盤についても、憂えも希望することも比較的真率だった。

 だが、そのころから日本の経済至上政治が激走しはじめ、それととともに、三S(セックス・スポーツ・ショウ)愚民化政治が暗々裏に隠微に展開され、スポーツや映画はともかくも、フリー・セックスの名においてジェンダーにめざめた元気な女性たちの活躍?が時世粧を主導するにいたって、若い男達もそれに引き摺られ軟派の極を自己演出しはじめた。男も女も恋愛不能・不感の「おつきあい=性関係」の安直を謳歌し横行し始めた。くわえてモ、バイルな電子機械が拍車をかけ、人と人とがきっちり向き合わないで済む、甚だヴァーチャルな人間関係欠損が、あたりまえになってきた。それが電車の中でも路上でも家庭内の私室ででも普通になり、便利だがチャチな機械化が人間を鈍磨し奴隷化して行くまさに「マトリックス現象」が、少なくも日本の青少年をへろへろに摩滅し腐蝕しつつある。「明治は遠くなりにけり」などと安易に「明治」をわたしは讃嘆しないけれど、この国は、まちがいなく今しも「地獄へ堕ちつつある」とわたしは観ている。悲しいかな。

 

* けさ、ばかばかしい「ガラケイ」がどうした「スマホ」がああしたといった風俗テレビをちらと見送ったあとで、幕末から近代へ生きて、現東芝の基盤を培っていた田中儀右衛門の、神技としかおもえないほど精密で美しい機械技術の達成を、ほとんど口もあんぐりと妻と二人で嘆賞し讃嘆した。その機械技術の精微・精確なこと、天才とは謂うもおろか、今日最先端最高級の学徒・専門家をしてたじたじさせ、唖然茫然とさせるていのものであった。

 

* 「迫る、国民の最大不幸」とわたしは一昔も前からこの日記「生活と意見」に予言しつづけ、いまは、安倍「違憲」政権の強権が狂犬化して行くのを批評し非難し憂え続けているが、政治を批判するだけで足りて居ようものか、その反面で、五十より若い、ことに四十よりも若い、いやいや三十よりもまだ若い、いやいやいや二十歳前後の若い日本人の志うすきていたらくに、とても希望をもちづらく感じているのも本音、これほどの不幸があっていいのだろうか。

 いま若者で立派に成績をあげ、敬愛を一身に集めているのは、おもにはスポーツ選手に局限されている、野茂、イチロー、ダルビッシュらの野球人、サッカー、レスリング、水泳等々の世界的プレイヤー、真央や沙羅や愛ちゃんやの努力と成果はすばらしい。

 この極限られた範囲の好成績を、その余の「若い日本の知性たち」は、いったい、どう理解しているのだろう。

 むろんわたしの知識乏しい科学世界にみごとな成果のあるであろうことは、時折の報道などで知り得て誇らしく喜んでもいる。

 しかし哲学・宗教・人文学にあって目をみはる結実や実践に驚いたことは、まことに数少ない。美術も文学も、藝術一般に、我ながら恥ずかしいことだが、爆発的に国民の宝として誇りたいさほどの成績にはお目に掛からない。聞こえても来ない。聞こえてきても、かなり見窄らしい。

 だから、どうだというのか、自分の問題としてどう受け容れて自分はどう生きてきたか、これからはどうかと、わたしは投げ出してしまっては居ない。問題は残年乏しいわたしのような老人のそれではあるまい。若い人たちの問題であるだろう、あって欲しい。地の塩として無名のママにも一角を懸命に守ればいい、名にも華々しくなくてもいい。しかしこの人間の世界をむげに「マトリックス」世界に、機械支配の世界にしてしまってはならないだろう。

 臆面もなく、ヒロシマの追悼の会で総理大臣が原発の推進を確言しているような歪んだ政治の空気の中で、健全に健康に知性も感性もゆたかに若い人たちが生活して行けるためには、何らかの誠実な噴出・奮起こそが期待される。期待している、わたしは。心から。 2013 8・8 143

 

 

* そんな中で池上彰の「憲法」講座を聴いていた。岸「戦犯」総理とその孫の安倍「違憲」内閣を結ぶ民主主義否定、無定見な権力主導による憲法改正路線の胡散臭さは鼻持ちならない。もし当時の戦後内閣が志向していた国体重視の明治憲法事実上の温存憲法などを奉じていたら、あれからの日本は旧態依然、天皇の名を全てに利して政権が放埒と強権の限りをつくす支配体制国家として歩むしかなかったろう。よくぞ、その最悪の方向を主権在民、基本的人権、戦争放棄の議会制民主主義へ振り向けてくれたと、わたしは芯から感謝している。絶対に安倍「違憲」総理の私的自尊の政治姿勢に国民は屈してはならない。いまのままでは奴隷化を強いられる国民の最大不幸は火を見るよりあきらかである。

 2013 8・16 143

 

 

* 毎朝八時過ぎに起きているのは、週日八時半から韓国の大河歴史劇「イ.サン」がはじまり土曜にはおなじく「トンイ」が始まるからで。「イ.サン」は朝鮮王朝の英君といわれた人、その祖父もまた立派な王であり、じつは波瀾を経て慧明の王妃となった「トンイ」の皇子であった。この縦軸が見えているので長大な歴史劇の芯の筋が分かりよい。彼の國の本にも文献にもはなはだ通じないわたしたちにはなかなかの読み物であり絵本なのである。この二つの絵巻を通じてわれわれもかなり韓国歴史劇の俳優や女優達をおぼえてきた。現代ものにはまったく手を出さないが、ほかにもけっこう幾つもの歴史劇を見ている。いまも「馬医」「ホジュン」のような医師ものの連続劇もことに妻は熱心に見ている。放送大学のあまり上手でない講義で聴くよりはるかに面白く具象的に勉強できる。

 それにしても、中国と比べても、ほんとに何にも知らぬまま過ごしてきた朝鮮半島なんだと我ながら恥ずかしく惘れている。

 

* レマルクの『汝の隣人を愛せ』で、うれしくなるような、やはり悲痛の味のするエピソードを読んだ。賢いつよい大人の避難民シュタイナーが、たまたま友人が手に入れてきた「国家社会主義党 ナチョナル ゾーチャリスティッシェス パールタイ」の徽章を上着の左の襟の下につけ、避難民いじめの男を訪問し、「徽章」の威力でみっちり油を絞っていた。

 徽章などわれわれ私民には疎遠なものだが、それでも勤務の頃は社章を、高校や大学でも校章をつけていた。弁護士も代議士もいかめしげに徽章をつけている。しかし、それらとてわるものを震え上がらせる威力はもっていまい。しかしいつかは上のような「党員徽章」がわるさをしたい放題する時機が来そうでイヤだ。人間の誠実や実力が、たかが徽章ひとつで圧しつぶされてしまうそんな時代の到来を決然阻まねばならぬ。

 2013 11・19 145

 

 

* 新宿紀伊国屋ホールで俳優座の「気骨の判決」を観てきた。実話を構成したドラマである。

 昭和十七年、いわゆる「翼賛選挙」での国を挙げての不正選挙にかかわり、不正を訴えた鹿児島県の原告申し出を、三年もかけ綿密に調べ尽くした上で、時の大審院第三民事部は、さきの選挙は「違憲」であり「選挙無効」であるとの「判決」をくだしたのである。第三部部長判事であった吉田久の、まさしく「気骨」の判決、法の立場からすれば、「当然な」判決であった。

 だが、世は、あの東条英機総理や軍の独裁的暴政の時機であった。いかに至難かつ身に危険な判決であったかは、平成の今日とはまるで環境がちがう。遁れがたくも「非国民」としての信じがたい「判決」であった。

 慎重に慎重に、そして遂に吉田らがその判決を下したのは、昭和二十年、あの米空軍による絨毯爆撃に東京市の全域が壊滅した直後だった。

 いかに大本営が必勝を叫び、破廉恥な偽の勝利情報に自ら酔いまた国民を誑かそうとしても、すでに日米彼我の戦力差は歴然としていた。

 こんなこともあった、東京大空襲の少し前には、こんどのわたしの『歴史・人・日常』にも書いているが、あの戦中に日本の海軍は、日米海戦での「大勝利」という「真っ赤な偽」報告により、天皇をも欺き、陸軍には対抗的な功名心を煽りたてていた。だが事実は、米海軍の被害はごく軽微、日本海軍の惨敗は目を覆わせるほどだった。しかも米海軍の敗亡という偽の事実を信頼した日本の陸軍は、軽率かつ果敢にフィリピンでの日米決戦に踏み切ってた。結果は、殲滅というに近い惨憺たる敗け戦だった。それらの敬意は今日では詳細に知られている。だが、当時の大本営は日本の勝勢を過大に報じつづけ、国民は信じて日本の必勝を信じていた。信じさせられていた。

 だが昭和二十年の東京大空襲は、果然、戦況の著しい劣勢を無残に国民の眼の前に曝した。例の違憲選挙の不正裁判に話を戻せば、それまでは吉田部長判事の「選挙無効」判決に当然のように抵抗し続けた民事部の他判事たちも、事ここにいたって軍と内閣の虚勢を見抜き、「大政翼賛という非政・悪政」への警鐘としても、「選挙を無効」とする判決にきっちり一致したのだった。ヒロシマ、ナガサキの原爆が、もう目の前に迫っていた。

 

* さて、竹内一郎作・川口啓史演出・俳優座公演の「気骨の判決」とは、そういう「裁判」物語を通しての、まず間違いないであろう今日の「違憲選挙」等を非難する「アピール」劇であった。

 

* だが残念ながら、舞台は低調、ただただ裁判経緯の「説明」にのみ推移して、そこに「演劇」のもつ本質の「劇」性が、「劇」表現の魅力が全然欠けていた。

 上にも謂うように、物語・事件じたいは「甚だ簡明」で、入場時にもらった筋書きや、前もって家にも送られていた「コメデアン」紙にも目を通していれば簡明しごくに分かりよくて、「分かりにくい事情」など、ちっともない。それでいて舞台は、こまぎれに繋いだいろんな小場面の只の連続で、まるで「紙芝居の絵解き」よろしく、ひたすら裁判沙汰を「説明」し続けるだけであった。俳優が、みな、絵解き人形のように使われてしまい、科白も、「ことがらの説明」のためにだけ味わい薄く耳に届いた。「劇」言語のもたらすべき感銘も興奮も、ゼロ。「劇」という文字の迫力、「ドラマ」に呑まれて行くいい意味の凄みなど、何も無かった。熱烈な共感の拍手は湧き起こらなかった。カーテンコールも全然無かった。

 吉田久を演じた加藤佳男は、はっきり言う、好演していた。だが、岩崎加根子や可知靖之らの手に汗する芝居を楽しみに期待していた身には拍子抜け、ただもう「科白付きの絵解き人形」をただ強いられていた俳優たちが気の毒だった。

 台本が、出来ていない。演出に悪戦苦闘の汗のにおいもなかった。お話をただ分かりよく聞かせてもらっただけ。

 

* 「吉田久」その人の「気骨の判決」には胸も熱く感動するし、いまの司法、いまの大審院ならぬ最高裁判事にも、心して見ならって欲しいと願うが、只それだけでは、お話の筋が、おかげでよくよく分かりましたと感謝するにとどまる。「演劇」を楽しみに劇場へ出向いた甲斐が無い。劇的感動は、まるで得られずじまい、舞台劇の余韻など滴ほどものこらず、ホールから出てしまう前に、もう舞台のことは頭から失せていた。吉田久という実在した裁判官達への深い敬意だけを持ち帰ったが、その敬意なら、「気骨の判決」に招待しますと俳優座から通知されたときに「十分」胸に湧いていた。俳優座劇団の舞台が、それにどれほどの「劇的感動」を積み上げてくれたかどうか、それが「演劇」であることの問題なのだ。

 盛り上がりの丸でない舞台だった、残念至極。

 2013 11・21 145

 

 

* 佐藤眼科で貰ってきた『フランク・オコナー短篇集』巻頭の「ぼくのエディプス・コンプレックス」を引きずり込まれて面白く読んだ。次いで訳者阿部安倍公彦さんの「解説」それも作品解説でなく、アイルランド略史がとても興味深かった。オフェイロンの論考『アイルランド』との相乗効果あり、わたしが、なぜこのところ半ば以上は偶然ながら、スコットの『アイヴァンホー』や『湖の麗人』を読み、またオフェイロンやオコナーに手を出したかが、分かる気がしてきた。

 わたしはイングランドやノルマンに対立して、アイルランドやスコットランド、ないしケルトの、ヨーロッパにおける特異性に関心を覚えていたのだ。その一つの表れは、いろんな映画でのアイルランド人の描かれようを挙げてもいい。

 例えば台は或いは憶え間違えているか知れないが「パトリオット」とか謂った、ハリソン・フォードが演じるアメリカの軍人夫妻が子連れでイギリスに旅していて、たまたまバッキンガム宮殿の真ん前でテロリストに襲われた英皇族を救うという出だしをもっていた。夫妻は「サー」「レディ」の称号をもらい栄誉に浴するが、襲撃に失敗しことにハリソンに撃ち殺された弟をもつ一人は徹底的に上の夫妻と子供の家庭を襲い続けることになる。スリリングな話の展開で、むろん夫妻家族の危険をおそれる映画作りの足場からすれば、復讐に命懸けのアイルランドテロリストは完全な「悪」になっている。そこにわたしは何度その映画を観ても立ち止まっていた。なぜ彼らはという動機を知りたかった。アイルランド女王アンとイングランド女王エリザベスの死闘を識っている。そこには英国プロテスタント国教とアイルランドのカトリックとの死闘も絡んでいる。そして身をもがくようにしてアイルランドは有名な「イースター蜂起」を機に独立を得ていったが、それでも両国に溶けないしこりは堅く硬く残っていた。

 2013 11・26 145

 

 

* こんどの『歴史・人・日常』わたし自身にも面白くて読み返し始めるとついついいつまでも読んでいる。文学も歴史も本当に好きで好きで今日まで来た。

 残念なことに、いま、味覚があまりに弱い。これは淋しい。「坐忘」に遠く未だし。

 2013 12・13 146

 

 

* 建日子が小学生の頃、とかく意気消沈していた時期があり、学校をやすませて一度、二度、旅に連れて出たことがある。一度は中禅寺湖へ。もう一度はわたしの『蘇我殿幻想』連載取材のために大和から河内へ京都へ近江へと長い旅行線を倶にした。ことに二度目の旅で当麻寺から竹内越えに河内へ歩いた徒歩行が懐かしい。当麻には、蹴速記念の土俵があり、建日子と相撲をとった。

 垂仁天皇の大昔のはなし、当麻蹴速は敵無しの相撲の強豪だった。で、朝廷はとおくから野見宿禰を呼び寄せ闘わせたところ野見宿禰の方が当麻蹴速を蹴仆し、蹴速は脇骨胸骨踏み挫かれ息絶えたという。この勝負後日のはからいは、別途になかなか複雑な話題を残してくれて面白いのだが、それはさておき、この当時の「 力(かもう)」は「足を抗げて相蹴ること」を旨としたらしい。とにかくも日本の朝廷はそんな昔昔のその昔から「相撲・角力」を大事に、神事とさえ敬愛した。とにかく諸国から強豪を呼び寄せては闘わせた。百官の間でも挑み合う機会があり、史上美男子をあらそえば一といって二と下るまい在原業平が、六歌仙の一人だっただけでなく、じつは、女とのではない、屈強の男同士の「角力に強い」をもってもよく知られていた。

 角力に最も強い男を「最手(ほて)」と呼び、いまの大関に相当した。つぎを腋手つまりは関脇、次いで助手(すけて)をつまりは小結とし、彼ら三役に抜きん出た番外に強いのを「抜手」すなわち後々の横綱伝授のともがらと尊称していた。

 角力に関してはまだまだ興味をそそる話題が多いが、そういう穿鑿の大の抜手・横綱級は、曲亭馬琴を措いて無い。ことこまかに彼は著述のなかで、里見八犬伝などのなかで、蘊蓄を傾け尽くしてくれる。たまたま長大な「角力」談義に遭遇して、あんまり面白いので受け売りしてみようとしたが、とても根気が及ばない。

 

* 馬琴という人は、いわゆる「物識り」という自負の上にどっしり鎮座していた。

 じつはここ数ヶ月ずうっと幸田露伴のものを読んでいるが、露伴先生また、文士としての性根は、要するに「博大な物識りさん」であり、それ以外でもそれ以上でもない。馬琴も露伴も、自負において、また他からの評判においても「物識り」の「学者さん」という、時代の産物であった。あの人はエライ人や、学者やでと京都ではよく人を褒めて評判していた。つまりは、戦後の「話の泉」のようなラジオ番組で大いに名を売ったのが、そういう「学者めく物識りさん」たちだった。視聴者達も、「話の泉」出演者には、「二十の扉」なんぞのそれより、数倍も数段も上の敬意を捧げていた。「なんでもよう識ったはるなあ」と。

 しかし、モノをたくさん識っていることの悪かろうわけはないけれど、存外に底の浅い、うすっぺらい、或いはややこしいものでもあるのだ、良く生きるために役立つ知識、善知識とは異質の、ただの蓄えに過ぎないのだ。それだけからは、ほんものの思想は産まれない。精神の創造性は産まれない。紫式部からは享け取れるものが、馬琴からは受け取りにくい。鴎外・漱石から受け取れるものが露伴からは受け取りにくい。

 2013 12・18 146

 

 

* 「パニック」という状態語の意味は知っていた。パンという神から、この神の陰気に怖ろしいありよう「PANIC TERROR」から来ているとは気づいたこともなかった。バンはパンアメリカなどの「汎」の意味を持ち、万有と自然の人格化された神称であるのは分かるが、光満ちた陽気の神ではなく、森の中の夜に歌うたうような、孤独な旅人らにはパニックに陥りそうなもの恐ろしげにコワーイ神さまとは感じてなかった。

 これとは見当こそ大いに異なり無関係だが、「腹ボテ」「ぼてっ腹」などいうのは、さっきの角力取りたち、とりわけ強い「最手・ホテ」の大きな腹から来ているそうな。馬琴の解説である。

 2013 12・18 146

 

 

* 中公版「日本の歴史」通読以来の今井清一横浜市大名誉教授に頂戴した『浜口雄幸伝』上下の大作も、従来のわたしには認識の手薄だった世間であり、新たな興趣に刺激されている。ありがとう存じます。

 2013 12・22 146

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