* いまわたしは、専ら「文庫本を」という原則を逸れて、今井清一さんからの『浜口雄幸伝』とゆりはじめさんからの『太宰治』という分厚い単行本をも併行して読み進んでいる。前者は全二巻の大著、後者は一冊のやはり大著であるが、なによりも内容が大いに異なる。
ゆりさんは文学者であり、太宰治の人と時代とを堀立て彫り起こすように多極的に書かれている。太宰その人がまさに「文学」そのものでありしかも「時代」と激突しさながら玉砕して行くことは、太宰治への礼としても敬意からも批評的に多くを読んで識っている。
今井さんは歴史学の人である。浜口雄幸という政治家のいわば最期だけは知っているけれど、その人と経歴についてわたしは甚だ疎い。じつは今井さんの関連の文献や資料を編み上げながら浜口の人と信念とを書き上げて行く内容に、(まだ上巻半ばながら)深く驚かされている。昔風に云うまさしく生真面目な「大秀才」、わたしの子供の頃までは代の大人達はこぞって師弟に斯く在れ、斯く育てよ励めよと教えていた絵に描いたような信念と思慮に満ちあふれた「人格」なのである。太宰治は、ある意味で鼻持ちならぬ「人間」を背負い込んだ小説家で、かつ「死にたがり」であった。最期の情死までに少なくも数度の自殺を試み、一度は若い女だけを死なせていた。十分褒めた気で云えば壮絶な無頼の人格破産者だった。浜口雄幸については伝記的な経歴を、総理大臣そして暴徒に襲われたとしか知らない。読んでいる限り、いま浜口はたしか若槻礼次郎だか加藤高明だか大臣のもとで逓信次官にまで達している。結論的な感想を言うには早すぎる。
* ゆりさんの『太宰治 生と死』は、太宰治を読み切ることを通し、文字どおり「歴史を読み込んだ」秀作である。作家であり文壇人であり一人の人ないし男として太宰を語った何冊もを知っている。ゆりさんの著は異色なのではない、述作としても論攷としても実に正統の正格を践んでいる。敬服する。歴史を書く以上に「歴史を深くより正しく、読む」ことが大切と、この間に新刊の『歴史・人・日常』でわたしは書いた。
2014 1/4 147
* 『凱旋門』のラヴィック医師はガチガチの信心看護婦に言うている、
「もう何一つ神聖なものがなくなってしまうと、こんどはまたあらゆるものが、もっと人間的に、神聖なものになってくるんだよ。みみずの中にさえ脈搏っていて、ときどき光をもとめて地上に出てこそせる生命の火花を尊敬するんだ。」 「信仰は容易にひとを狂信的にするよ。だから、あらゆる宗教はあんなにたくさん血を流しているんだ。」
旅券も査証もなくナチスから逃亡している彼はパリですらアパートを借りもまともなホテルに入るも成らない。ひどい安宿にひそんでいるが、それでも「天国だよ、ドイツの強制収容所とくらべたらね」とも。すべてはただ彼が「ナチでないというためだけ」なのだ。
椎名麟三の小説でも、「アカ」の嫌疑でとらわれた若い女性が、恥部に棒をつきたてつきたてされながら取り調べられたと嘆いていた。同様の証言はべつの人のべつの本でも読んでいる。戦時日本の特高や憲兵が、国中を「ドイツの強制収容所」なみにしていたことを忘れてはならない。しかも島国日本の場合は、ラヴィックらのようにヨーロッパの国境という国境を越えて逃亡する道は無いのだ。 2014 1・23 147
* 新井白石を書いたので、彼が六代将軍に仕えたときの富士山大噴火の様子は、かなり知っている。新たに大噴火したときの被害や避難についておおまかな推定や懸念が提示されていた。大噴火には地震もともなう。心配は大きい。幸い徴候は無いように言ってあるが東南海大地震や都の直下大地震と同時化したりすれば、予想の危険範囲や程度を大きく超すだろうと心配する。
2014 2・6 148
* ところで今回湖の本119の巻頭でわたしは所属している日本ペンクラブ会長浅田次郎氏の正月三日東京新聞コラム一文への不審を明らかにし、大方のご思案をも請うた。幾らかの反響が既に上のように見られるが、それには触れない。ただ一つ、言い添えておいていいと思うのは、明治から昭和初期へかけて日本國と日本国民に苦汁を飲ませた点で、象徴的にも代表的にも迷惑した法は「欽定明治憲法」であると確言しておいた真意である。わたしは明治憲法に関わる莫大な学者その他の研究や発言や議論に触れながら上のことを確言したのではない、そんな仔細に関してはわたしは門外の一私民に過ぎない。しかもなお上のように確言し断定した根拠は、明治憲法の第一条が天皇の神聖と大権について明記していること、その天皇という「玉」を政治家達や軍人達が恣にころがしながら、国民を弾圧し支配し、結果として不幸な戦争へ國と国民を導いて原爆の被害をはじめとする言語に絶した不幸を実現してしまったその思想的・政治的基盤にあったという事実だけは、絶対にごまかせないと肌身に覚えて知っているからである。民主主義・主権在民・基本的人権、好戦思想の放棄を旨とした敗戦後の日本憲法とは、絶対的に根本で相容れないのを確信の上で、さきのように明瞭に確言したのである。わたしの立場からの発言としてはそれで明瞭に足りている。
明治憲法に関して仔細にわたしに教えようとして下さる人もあろう、それはそれで知識として頂戴はするが、そういう憲法学の知識からものを言う必要はわたしには無い。「天皇神聖」を絶対とした国民支配に道をつけてしまったような憲法は容認しないという、一私民の直観を、認識を、わたしは翻す気はない。軍国主義、好戦政治、開戦、敗戦、厖大な国内外の人間の死。その基として悪用された憲法こそ最悪の非道法だと言いきることにわたしは憚らない。これだけは言っておく。
2014 3・27 149
* もう一つ。韓国歴史劇の大長編、いろんな編輯で三度目の「イ・サン」最終回を見終えた。十八世紀に没した国王と、幼なじみのソン・ソンヨン、パク・テスと三人の優れて親密・誠実ないわば「真の身内」としてドラマでもあり、聖帝と称えられた「イ・サン」の優れた資質が理想的に丹念に描かれていた。これほどの帝王ものは希有であり、日本では残念ながら一人の天皇もこうは描かれていない。
この大河劇に弾かれて、三度までわが家では愛し続け、きょうもなお深く感激した。同時にわたしは、こうも思い当たっていた。
プラトンの「国家」は理想的な国家の何たるを問うた超大作記であるが、わかりよく云って、かれは理想的な国家の政体を民主主義とは考えていない、その相対的なヨロ示唆は評価しているのだけれど。プラトンは、最も理想的な政体は、往々にして無残な失望に陥るおそれのあまりに多いものながら、真に優れた哲学と徳とをそなえて優秀で慈愛と誠実と正義感に富んだ帝王国家を望ましいとしている。
わたしは、少年の頃の洗礼をうけて主権在民の民主国家を望ましいと言いもし望みもしてきたが、議会制度の腐蝕と多数を頼んだ権力独裁政治へ流れやすい疎ましさをも、イヤほど味わい続けてきて、いまやその嫌悪・厭悪の極度に達している不快さに日々堪えきれない癇癪を起こしている。
「イ・サン」の聖帝思想とその飽くなく根気良い実践と達成とをみていると、おそらく、こんなふうに「治められて」みたい人は想像を絶して多いのではないかとさえ思える。
かつて、田中角栄の意気盛んだった頃、「角」を将棋に見立てて、むりやりな「王」よりは躊躇いなくわたしは「角」を頼むとコラムに書いていたのである。いま、安倍「違憲」内閣の権道に虫酸を奔らせているわたしは、「イ・サン」に感じ入った反射もあって、ハルカギリシアの哲人が考えていたような国家・政体もやはり在るのかなあ等と思いもする。
だか゜゛待て。人類の歴史でそんな理想的な帝王が、ないし神がいた国も時代もじつはゼロに等しいのである。インドの古代のアショカ王がわずかに伝説の聖国家を言い伝えているが、西欧にも中東にも中国にも日本にも「聖帝」は繪に描いた餅ほどの痕跡すら残していない。
生きがたい人の世。その歎きばかりが、何時の代にも現実そのものだった。征服王は数々実在したが聖帝は名ばかりで実を挙げた例は絶無である。
やはり真に聡明で勇気ある民主主義を確立するしかない。そのためには、「違憲」政権は一日も早くどうかして潰さねばならない。 2014 6・26 152
* 今朝まで、韓国の連続歴史劇「根の深い樹」を見続け、最終回を見終えた。「日本のかな文字」に似て、はるかに徹底した人造文字の生誕と公布までの烈しいドラマだった。たんに文字作りの経緯が烈しかったのではない、「王政」と、密本(ミルボン)と名告る秘密の階層、ずばり宰相総裁政」との激闘でもあった。王の世宗は民衆にも読める文字の創成を大願とし、密本の主宰は、これを徹底阻止しようと暗躍し続けていた。
新生文字についてわたしは適確にものが言えない、何も知らないのだから、だが、わずか二十数字で言語の表記をかのうにするという発明の努力には讃嘆すら覚える。
同時に「王政①」と「宰相総裁政②」との対決は、まことに興味深い人間の歴史ないし国家論にかかわる基本問題であったことは、世界史が照明している。これに「民主政③」を加えれば、まず、この三者が世界史を動かしてきたと言い切れるだろう。いまや「王政」国家は少なく、「宰相総裁」国家が「民主主義」の擬制の体で圧倒的に多く、少なくも「日本」は、三権分立をいいながら行政の長である「宰相・総理」のしたい放題国家になっている。じつは日本の総理大臣は、けっして大統領でも国家主席でもないのに、そういう横風な権力で好き勝手な横車を押しているのだ。
優れた名君としての王政が望ましいとする国民は少なくないのだが、その王制がいかに簡単に腐敗し弱体化して最悪の利用に身を委ねやすいか、これまた誰もが知っている。日本は天皇制だが、天皇が賢明な善政を有効に布いていた期間は、実は無いに等しかった。蘇我、藤原、源氏、平家、北条、足利、徳川、みなまさに「宰相」として国事を総裁していた。新憲法では民主主義と唱えていても、事実われわれの憲法の理解通りに「民主」であったことは、無いではないか。そもそも中国語で「民主」とは即ち「皇帝・王・民の朱である支配者」の意味なのである。
それへ「文字」という宝物が絡まった。まことに希有に難しいしかし考えさせられる興味深いドラマだった。日本の演劇・ドラマでこういう問題を「文化と政治」の肝要として取り上げた例をわたしは知らない。
2014 10・9 156
* 日本酒は奈良で誕生したと、理・優夫妻から頂いた奈良のお酒に醸造元「ももたろう」のチラシがついていた。すこし虚をつかれた感じだが、なるほどなと合点できる。自然発生の濁酒は列島の各地に生まれる可能性はあったにせよ、清酒の誕生には寺院の僧たちの知恵が働いたろう、奈良は濃い可能性を持っていた。室町時代に濾して澄んださけが「奈良酒」といわれ、そういえばあのわたしが子供の頃から好きな「奈良漬」もあるではないか。
酒の名産地は水に恵まれた日本中にある。もう一つは、米。奈良の酒は、おなじ各地の清酒とくらべて独特の「味わい」をもっている。寺の門前には肉類や酒の入山を禁じた制札がよく立っているが、つまりはそれらが寺内に入っていた事実をまさに裏書きしている。娘道成寺で所化たちが鐘供養を談義のさいにも。ちゃっかり酒と肴を袖に忍ばせたのが歓迎されているように、「奈良酒」には古来坊さんが手塩に掛けてきた「味わい」が添うている。清酒はっ発祥は奈良「正暦寺」とちらしにはあった。
2014 10・29 156
* 1941年の今日、日本海軍の真珠湾攻撃が報じられた。わたしはその日も園のバスの送り迎えで京、東山区馬町の京都幼稚園(京都女子大付属)に通っていた。對米英戦争の幕が切って落とされたと分かった。奇襲の戦果が大きく報じられ戦争への不安はほとんど語られはしなかった。次の春四月には国民学校一年生に進み、素朴に、世界地図上どんなに戦果を示す小さな日章旗が点々と針刺されていても、彼我の国土の対比を指さして口にしたとたん、教師の平手で職員室外の廊下の壁へ張り飛ばされた。あのとき、わたしは小さな日本が世界一国土の広いロシアや清国支那に勝ってきた歴史を知らなかったのではない。明治のあのころ、飛行機のまだ飛ばなかったことを識っていた。飛行機と軍艦。それはもはや戦略や技術を上越す物量の戦争になると感じていた。勝てたら不思議と感じていた。むしろ政治的な国情の暗さなど識らなかった。帝国主義・軍国主義・思想的な弾圧の激しさなどもきるで識らなかった。
学童疎開が始まり街区の破壊的な疎開も始まりも食物をはじめとする生活物資の不足は、ただちに日々を悩ませた。三年生を終えた真冬には我が家でも丹波の山奥へ戦禍を逃れて行った。大阪が大空襲にあうと京都でも丹波の山奥でも空は昼間も暗闇に覆われた。一筋の明かりをすら戸外に漏らすのは国賊行為とされた。とうの昔から白米の飯など夢のようになった。
そして原子爆弾が二発、ヒロシマとナガサキを壊滅させた。東京都は見わたす限りの廃墟のようであった。京都へは、わたしの通った幼稚園の運動場にのみ一発の不発爆弾が落ちただけで済んだ。たまたま丹波から帰っていた一夜の空襲だった。京都は戦火は浴びなかったが、道路という道路は拡げられ、町通りも耕されて貧しい収穫が期待されていた。
* これ以上は、書くまい。
2014 12・8 158
☆ 秦先生 あけまして おめでとうございます。
ずいぶんとご無沙汰しております。
先生のご本のお礼のメールも書いておきながら途中で送りそびれておりましたのを今見つけたくらいです。
申し訳ありません。
昨年は仕事の上で、初恋の人と再会したようなよい年でした。
初心に返るという言葉を身に沁みて感じましたが、この年になってきますと、日々に流される雑事が多く、また、新しいことも次々と広がっていくのですが、それを深める時間と気力を確保するのが難しいことも痛感しています。
HPで鳥獣戯画の修復をされた方との繋がりを書かれていらっしゃいました。
あちらはまさに私が頻々と出入りしている「仕事場」の一つで、「どなたのことかしら」と少し気になっています。お若い方のようですが。
昨年、「初心に返」ったことの一つに京都に、より深くお付き合いするようになったことがあります。
多いときは月に5、6回行くこともありました。
(文化財修復の=)仕事を始めてからずっとお付き合いしてきた土地ですが、向こうの人達とまた一つ深いおつきあいをするようになりました。
その中で、先生にお伺いしたいな、とかねがね思っていたことがあります。
中京の町衆というような、町と文化が根深く醸成されたような文化というのは東京にもあるのでしょうか。
たとえば、大晦日におけら火を祇園さんから頂いてくる、伏見人形丹嘉さんの布袋さんを毎年一つずつ買って揃えていく(不幸があるとお焚き上げにするから揃っていることに価値がある)といった文化はお江戸にもあったはずと思うのですが、身の回りではあまり聞いたことがありません。
私の交際範囲がそういう範囲なだけであって、本当は東京にもそういう文化があるはず、と思うのですが…。
やはり戦争で焼けたことで一度リセットされてしまったのかも、とも。
それとも京都の地層にも似た積み重なった文化は京都独自のものなのでしょうか。
先生の「京のひる寝」をお正月に読み返しながら、そんなことを考えていました。
京都は私の初恋相手で、たぶん一生心が離れることはないのですが、そんな憧れの相手とお付き合いできるようになり、相手のイヤなところの方を先に随分見たり、でもどうしてもやっぱり好きで、…そしてまたもう一歩深くおつきあいできて…というような昨年でした。
今は大雪だそうですが。
昨年も先生の存在を心に置きつつ、いろいろなことを考えておりました。
いつまでもご健勝で。
本年も佳い一年となりますよう。 典 東工大卒業生
* この人は在学中から確乎とした希望と意志とで文化財保護の実際と研究の世界へ飛びこんでいった。結婚していい子たちも。
* ことに京の上層町衆のセンスには、公家の伝統や教養知識が指導的に浸透し醸成されていったという、歴史的に無視できない一面がある。併走してまた、花街の女文化的・質的な繁昌が、また上方藝能の多彩な展開が、様式をも伴った美意識やかぶいた行儀とともに、町衆文化を意識的に強め深めて行った。
但し或る意味では、上方の上層町衆には、中世以来芽生えていた庶民農民の政治的エネルギーを、代償的に武家支配に売り渡すことで得た平安と繁栄という、暗転とも裏切りに近いともとれる繁栄の入手という傾向が強かった。
大なり小なり、江戸の上層町人にも同様の傾向があったことは否定できない。都では公家が果たした役は、御家人クラスの下級武家の趣味や嗜好がかすかにも指導性をもち、乗りかかるように富裕町人等は経済力で江戸前の文化を拡大しかつ満喫していった。江戸ならではの独特な創作が目立ち、文学にも演劇・舞踊・音曲にも、浮世絵にみられる美意識・好みにも、俳諧・狂歌・川柳の繁昌等にも、技工にも、そして無論のこと花街や悪所の女文化をむさぼる「祭り」好きな男意気にも、町人層の江戸っ子がる文化は実質を持った、間違いなく。そして継承もされた。
2015 1・4 159
☆ 秦先生 ご教示
ありがとうございました。
やはり江戸にも醸成された文化があったはずなのですね。
ただ、それはやはり現代には繋がっていないもののような気がしてなりません。
どこかで脈々と続いているのでしょうか。
今の東京には新しいものを取り入れる文化はあっても、伝統的な行事を町衆が担っている姿はお祭りくらいでしか見かけられず、京 都のように日々にしっかり食い込んでいる様子を見つけられずにいます。
先生でしたらご存知かな、と思ってはいるのですが…。
早いもので、子ども達はこの春から中3、小3、小1となります。
末の子がようやく入学で、長い長い朝の送り(14年間!)もこれで終わりになります。
HPの上で面映い紹介をして頂いておりますが、確固とした意志を持ってこの仕事に就いたわけではなく、流されるままにここまで来てしまっただけですので、大変恐縮しております。 典
* 荻生徂徠のむかし、つまりは赤穂浪士のむかし、そりころよりとうの昔に江戸は「旅宿の境涯」であった。新開地の江戸に数百年も以上の土着民はすくなく、むしろ開拓された新都市の江戸よりかなりの郊外に人は暮らしていた。八犬伝はよほど大昔の今日東京都域を舞台にしているが、今日の二十三区の終焉地域に人は多く暮らしていた。そういう地域には、むしろ根生いの生活習慣や手工業があった。それが江戸の周縁部に流れ込んで、浅草、上野、谷中、深川、新橋等々から、やがて日本橋や神田、また新宿などへ町人の地力が移住。成熟していった。
わたしの感想では、音曲、舞踊、囃子、歌謡の世界が根強くかなり広く厚くまだ東京の足もとに敷き込まれていると見えている。
造庭、菓子、和食、和服となると東京はとうてい京都に遠く及ばない。
2015 1/6 159
* 『親指のマリア』が、まろやかにスムーズに読みすすめられることにホッとしている。この京都新聞朝刊小説は、わたしの作の中ではむしろマットウな書き方に属しており、いわゆる著者・作者ないし準じた語り手が作中へ割り込んでいるいる形跡を持たない、つまり客観叙述に終始している。「小説」とはふつうこうであって、「或る折臂翁」「蝶の皿」「廬山」「閨秀」「墨牡丹」「マウドガリヤーヤナの旅」「華厳」なども私小説ふうの語り口からはっきり離れている。紫式部集に取材した『加賀少納言』、俊成・西行・定家を通して勅撰和歌・晴れの和歌を説いた『月の定家』また上田秋成の晩年を怪談にした『於菊』などもそうで、ま、手堅い書き方に属している。
語り口に「趣向」をもちこんでいっそ方法的な実験をわたしはもともと好んでおり、「清経入水」「秘色」「みごもりの湖」「風の奏で」「雲居寺跡」「冬祭り」その他多くは、たとえ人物や歴史や伝奇にふれても、手が込んでいる。「最上徳内」のような歴史の日本人を検証し顕彰て行く創作でも、わたし自身類を見ない実験を叙述にも表現にも展開にも推し進めている。
白石と徳内とはわたくしの近世理解・近代観測の太い軸芯を成しているつもりだが、その書き方は、はっきり意図して、客観叙述と主観趣向とを際だたせてみたのだった。しかもともに主題の核心部には人間性への合理的な愛と人間・弱者差別への憎しみとが置いてある。書いた順序は先後したが、白石のシドッチ審問こそは日本の近代への幕開きを告げており、徳内の蝦夷地での活躍や成果は近代へ向かう歴史のつよい推進力であった、二人とも、海の道を認識し世界の広さへ揺るがぬ視線を向けていたのである。
2015 5・30 162
* 物識り小父さんが、フジテレビで、「韓国」の不思議を盛んに講釈していて聴いていた、が、なんとなく、聞き苦しい気持ちになった。なにかしら、わるく煽っているようなイヤな空気にならないといいと思う。難しい関わりを大昔からしてきた両国。ことさらに「嫌い」感情を煽ってはなるまいに、両国ともに。
わたしは韓国朝鮮半島の歴史にきわめてうとかった。せいぜい陶器くらいにしか関心がなかった、が、それではいけないと思い、随分以前に意図して買っておいた「韓国古代史」前後巻を読み始めたところだ。著者は韓国の碩学、古代史の第一人者。興味深い。叙述も確かで信頼がおける。
2015 6・5 163
* また、百枚足らずの原稿束を見つけた。原稿とともに、いろんな覚え書きが挟まっていて、冒頭には「俊成と建礼門院右京大夫」との関わりを意図するらしい六箇条のメモが先立ち、しかし二枚目からの断続した原稿五枚は、あきらかに、後年「月の定家」の「さだいへ」の章を導いたらしい内容である。
次いで、レポート用紙五枚の裏に、 「嘉応元年(一一六九)十一月。 大嘗会屏風筆者に 伊経(と朝方)」に始まり、「天福元年(一i に三三)七月十三日 尊円阿闍梨 老躯をおして来訪 新勅撰集への撰入を頼む。 亡父俊成の追憶から 千載集 撰の頃の思い出など話す。この時、右京大夫のことも話題となる。」の記事以下 明らかに藤原定家の日記への心覚え箇条抄録らしきが「十一月二十五日」付けまで、続いている。
藤原定家を「小説」にまたは「評論」にと心がけていたと察しられる。講談社にいた鷲尾君から新書への書き下ろしを頼まれていた記憶があるが。相性悪くて放置し、書くなら小説でと思っていただろう。
さらに八枚に渡って、鎌倉初期の大勢の系譜や関連をふまえて実に大勢の人名や感地位官職等がさまざまに列挙ないし図譜化されていて、それを見ていくと、私の関心が、俄然として「雲居寺跡」または「資時出家」の方へ傾いていたらしいことが推察できる。かなり詳細に及んだ時制の流れへの作者なりの認識をも書き留めている。そのあとへ、小説原稿として書き進めつつも、関連の人名を系図・系譜化したものが多々交じり、渡しが何を思い何を書いて行こうとしていたかが、詳細に見えてくる。すでに書き写した中断原稿「原稿・雲居寺跡」に先行してであろうか、相当量の草稿が残されてある。とうぜんに、まだ書き写していない「資時出家」や、後年に書き上げ選集にも入れたあの「風の奏で」へ到る私の探索や構想やまた挫折のあとなども読み取れるだろう。
とても今の視力で、この全部を電子化しておくことは出来ないが、あたう限りやっておこう。
* 映画「キングダム オブ ヘプン」を何度目か、また面白く観た。十字軍という西欧の発起にほとんど共感を覚えないわたしには、秀作というに値する映画だった。
2015 6・12 163
* 戦後保守の革新に対する長期戦略は、 ① まず国会に三分の一を死守する「社会党」を殲滅すること、その成就を見て(現に実現している。)次で、② 「朝日新聞」を初めとする民主意識を先登姿勢にした「新聞・マスコミ」を殲滅すること、にあるとは、私の久しい観測であり、危惧であったが、その微塵外れない露骨な状況が、昨日の自民党、安倍追従の露骨な青年部会が、「作家」と自称する百田某を呼び寄せての集会であった。殆どの新聞・マスコミがこの暴挙を報じたが、読売新聞は見過ごし聞き流す姿勢に出ていた。
* なんと! 自分で驚いてみせる強調。ほとんど、うそくさい。
まさに! 安倍を筆頭に政治家どもの、無意味にひとしい強調。まったく、うそくさい。
スゴイ! 日本中に蔓延した白痴的賛美・称讃の強調。「すごい」の原意が、凄惨、凄絶、目をそむけるほどの腐敗や恐怖にあるのを忘れ果ててのバンザイ三唱。うそくさい極み。
いま日本人がつかう日本語の、ウソクササの臭う三珍。
2015 6・27 163
* ポール・ニューマンとエヴァ・マリー・セイントらの映画「栄光への脱出」後編を固唾を呑んで観た。イスラエルとイスラムとの共存と平和を願いあいながら、戦闘と殺戮とテロとに終始せざるをえない軋轢、その背景に支配国であった英国の、その背後の米国の、また英国が撤収を決めたあとへユダヤ殲滅の意図をもって介入してくるドイツと。なんとも謂いようのない複雑な悲しみと怒りと怨讐の念とのみが画面に停滞したまま悲劇の極を味わいながら映画は終えたが、エルサレムの現実はガンとして残る。ポール・ニューマンの最期の弔辞はみごとに美しいけれど、また限りなく力弱いまま終わるのだ。
さして、いまや、ISテロの残虐な展開。神の愛と崇高とをどう信じればいいというのか。
もっともっと繰り返し観たい映画、次の機会の放映を待望する。
2015 6・28 163
*六時過ぎから寝床のまま「徳内」そして短編集の校正をし、また本を読んでいた。朝、目覚めたときは、ものの縦線もまっすぐ見え、この一ッ時だけがクリアに快調なので、その時に少しでも仕事もしよう本も読もうと。
いま最も惹かれて勉強しているのは韓国のまだ伝説伝承に彩色されていた上古史。著者に信用のおける適確な叙述・斡旋に導かれて「韓」の由来までたいそう興味深く読み進んでいる。不勉強な無関心のまま久しく来て、わたしは「朝鮮」という名が「日向」「日本」「日立」などとすっぽりかぶってくる陽明・陽光の清潔を意味するとすら推量もしないできた。なにしろ「朝鮮」という言葉を口にするのすら差別的な感覚が先行し遠慮してきた。韓国というようになって、喉のつかえが外れたような便宜をさえ感じてきたのだ、何ということだ。彼の國の太古にあって「熊」が「神」に等しいつよい大きい意味をもっていたことも、初めて識った。中国大陸を背負い、日本列島を目前にした三面を生みに包まれた半島とは地図で諒解していて、高麗・新羅・百済また任那などに分かれていた程度は知識していても、とてもその先へは自発的に入ってみようと出来ないままだった。
その反省が、主にはアイヌのことを書いた「最上徳内=北の時代」に、伊藤楊子ならぬ「イ・ヤンジァ」という可憐なヒロインを呼び出すことに繋がった。それでもその後も、近年までわたしは朝鮮にほとんど知識も関心も深め得ていなかった。「い・さん」「トンイ」「ホジュン」「馬医」のような向こうの歴史ドラマをつとめて観るようにし、独特な朝鮮文字発明の物語劇にも心惹かれて、まともに韓国史を勉強してみようと思って、三十年も前に買っておいた上下巻の専門書に向かい始めたのである。おもしろい。もっと早くにこの最近国のせめて歴史は知っておくべきだった。
2015 6・29 163
* 作家百田某の口を借りてとうとう権力の本音が出て来た。「朝日と毎日と東京(新聞)を潰さねばならない」と。
「社会党」を潰したら「朝日新聞」を潰すというのが日本の戦後保守の陰険な戦略だと私は、言ってきた、早く早くから。保守はあらわにはそれを口にしなかったけれど、本音がそこにあり、それをこそ「保守絶対政治」と肚に巻いていたのは万々間違いない。負けてはならない。社会党の迂愚は気付かずに散々に負け続け、はためには自滅と見えたけれど、じつは保守引見の戦略がよう見抜かなかった自業自得であった。「朝日」「毎日」「中日・東京」よ、屈してはいけない。
2015 6・30 163
* 黒いマゴに輸液しながら、放送大学で「孫文」の五族協和や三民主義などの講義を聴いていた。孫文の大きな偉さをわたしは認めていると同時に、拭いがたい思想姿勢の限界、中華を誇り弱小他国の朝貢を暗に求める覇者への意嚮には疑念や反対の気持ち棄てることは出来なかった。その思いを今朝の講義からも再確認した。
2015 7・5 164
* 染五郎、勘九郎、七之助らの「アテルイ」 おもしろく観てきた。アテルイは坂上田村麿と烈しくたたかって屈し、都へ引致されたアイヌ族の英雄、平安初期の正史にも名前が出ている。それだけの正史をほとんどマンガチックに大脚色して活劇仕立てにした破天荒・放埒な作り話でありながら、批評の的をたくみに設定して、神ないし帝というまぼろしに操られ、ないし利用して闘いあう者らの、信頼し合う人間同士としての理解・自覚、それでも蹉跌し勝者・敗者の歴史が生まれてしまう悲喜劇を、なかなか巧みに脚色していた。すくなくもこの舞台、戦前・戦中なら作者も演出家も、役者達も、関係者全員が禁獄されたであろうほど露わな「帝・都」批判をおめず臆せず歌いあげていておどろかされた。
まだ三十年余のむかし、まだその頃、大きな総合雑誌の編集者から声ひそかに、「秦さん、天皇には触れない方がいいですよ」と注意されたことがあつた。今回「アテルイ」の舞台は、そんな幾昔か、といっても敗戦後年を経ていてなおかつ「天皇に触れた言説」が禁句めかされたのとくらべると、モーレツとさえ謂えた、そしてそれはわたしには首肯できる批判であり非難であり虞であった。そのような舞台を観られたのをわたしは喜ぶ。
わたしの江戸時代後半の「最上徳内」は、さながら舞台「アテルイ」で強引に創られた坂上田村麿の自然体に相当している。小説の造りは或る意味ベラボーでも、そこで描いたアイヌモシリの歴史は、とうてい軽視も無視も成らないもの。その意味では毫末も荒唐無稽な作り話はしなかったのである、
* 座席まで、愛らしい染五郎夫人が挨拶に見えた。若き高麗屋のアテルイ、真摯な熱演。中村屋兄弟の田村麻呂と鈴鹿(アラハパキ神)も大健闘で楽しませたし、いつもの歌舞伎座か武器とは大違い、萬次郎や弥十郎や亀蔵、宗之助、橘太郎らも破天荒の活躍でおおいに役者自身が楽しげでよかった。稽古が行き届いていて、場面がはげしく移動していっても弛み緩みみせずに小気味よく展開したのも演出のお手柄だった。
観客が照明具を配られていて、終幕のところで盛り上がりスタンディングオベーションも。
しかしおそらくアラブの混乱等も念頭に置いていたに違いない、神や帝をぬきに「人間と人間」とで争いをなくして行こうとの舞台からの念願や主張が、はて、しっかり受け取られていたろうか。それでも、こういう趣旨が「カブキ」として虞れげなく打ち出せている事実にわたしは拍手を惜しまない。
2015 7。13 164
* たいした何事もせず、気持ちは休息していた。思い立って目の前の書架から福田恆存飜訳全集の一巻を抜いて、シェイクスピアの「リチャード三世」を読み 始めた。重い本でもった手が草臥れるが、劇ははげしく進行する。わたしは英国王家の激しい葛藤が英国流の民主主義を導いたと思っていて、その道筋の理解に はいわゆる通史を読むよりもシェイクスピアの戯曲を読むのが早かろうと見当をつけてきた。沙翁はかなりの数の英王室に取材した戯曲を遺しているが、「リ チャード三世」はことに悪辣残忍な劇のはこびで知られている。新劇の舞台ではハムレットなど四悲劇やベニスの商人や十二夜や真夏の夜の夢などが多く演じら れるけれど、「リチャード三世」だけは二度舞台を見てきた。一度は蜷川演出の舞台を遠く大宮まで妻と足を運んで観た。とても面白かった、陰惨でありなが ら。英国王室の根深い葛藤と相克の歴史にこそ英国流の近代帝国主義の猛烈さ、えげつなさの源泉があったとわたしは観じてきた。
幸い浩瀚かつ稠密な福田飜訳全集八巻の半ばはシェイクスピアを主として戯曲の飜訳であり、余みたい読みたいといつも願ってきた。小説の翻訳はかなり多く読 んできたが戯曲はまだ二、三。それに、今日はふっと手を付けた。シェイクスピア原作戯曲はみなずいぶんの長編である。踏み込んで読み抜かねば棒折れがして しまう。
2015 7・31 164
* 田原総一朗を最高齢世代に、各世代が集ってNHKWが「玉音放送」全文を仔細に読んで語っていたのは有り難いことであった。天皇の声と 言葉とに涙が噴きこぼれた。
今年の夏は、この種の番組に「アベ政治を許さない」必死の気組みがくみ取れる。
* 終戦を国民に告げられた昭和天皇のポツダム宣言受諾および国民の復興への邁進を願われた NHKラジオ放送にかかわるドキュメンタに近いテレビ映画を観た。感動した。いわゆる玉音放送の実現に到る下村宏、当時、鈴木貫太郎内閣の情報局総裁その 他の懸命かつ聡明な努力に深い感謝を覚えた。
こういう人達が、いま、暴走する安倍好戦内閣の近隣に、党内に、閣内にいないらしいことの情けない不幸を、哭き歎かずにおれない。そして、また、
戦争に負けてよかつたとは思はねど
勝たなくてよかつたとも思ふわびしさ みづうみ
の実感も濃い。東条内閣のまま、もし対欧米、対中国で勝っていたなら、日本の政治はどうなっていたか。おそらく天皇制なども紙屑のように劣化していたのではないか。欧米の帝国主義をはるかに凌ぐ軍政帝国主義が吹き荒れていたであろう。
* 平和憲法は、しみじみ有り難かった。よかった、ともなう瑕疵の幾らかが仮にあっても平和裡に憲法の定めに従いつつ改正可能であったろう。
* いまここに詔書全文は挙げて示さないが、わたしは、天皇の詔書の本旨において、戦争終結の万やむをえず、逸れなくして国家国土国民の存続が成しがたい という認識、それを決死の決意をもって為され成された一点において、感銘し感謝し感動するのであり、そのよの文言に多くは囚われたくないと思っている。聖 戦であったが衆寡敵せず負けたというような言い訳の部分には、文脈のひつぜんこそ認め得ても、必ずしも全面的に肯んじることはしない。
但し一点、「加之(しかのみならず)敵は新に残虐なる爆弾を使用して頻に無辜を殺傷し惨害の及ぶ所真に測るべからざるに至る而も尚交戦を継続せむか終に 我が民族の滅亡を招来するのみならず延(ひい)て人類の文明をも破却すべし」とある抗議表明に、わたしは、満腔の同意と謝意とを明らかにしておく。無辜の 市街の絨毯爆撃ももとより、原爆無惨非道の攻撃に対して、今日まで、日本政府は一言の正々堂々たる抗議も責任追及もしていない。ひとり昭和天皇の上のお言 葉が在るのみ。遺憾に堪えない。恥ずかしくすらある。
2015 8・1 165
* じつのところ、今、わたしをとらえている読書の最たる二つは、シェイクスピア、そして朝鮮有数の歴史学者に導かれている朝鮮上古史。相変わり無い英国 への関心、なにひとつ知らないで過ごしてきた一衣帯水隣国の歴史。歴史を大切に思うのは今日をすこしでも間違いなく生きたいからである。
そして、その余でいえば、自作の世界。そこへ息子が長編をかかえて飛びこんできた。衰えきった視力だが、読書に打ちこみたい。楽しみたい。
2015 8・1 165
* 「貴皇后」という韓国ドラマをときおり観ていたが、今夜総集編の第一屋を観た。元と高麗とにはげしい軋轢のあった頃の物語らしく、史実か虚構かも知ら ないが、秦漢の昔から中国の王朝の強い支配と感化とを受けながら独自の朝鮮半島を構成してきた世界であり、興亡と建国との歴史は日本のよりは輻輳を極めて 難解。だから興味ももてる。おもえばこの数年の内に、上古来、近世近代にもいたる韓国時代劇を意図的に観るようにしてきたが、歴史の学習には、それらから の導きも得られるだろう。
2015 8/9 265
☆ 猛暑
首都圏では時折雷雨などある様子、それにしても連日の暑さです。
数日前には校正と気晴らし? をかねて外出なさったことが書かれていました。くれぐれも暑さに消耗などしませんように。
わたしは娘家族が(=海外へ)帰った後、水回りの掃除や膨大な! 洗濯を済ませたまでは気が張っていました。が、疲れが噴出したようで、さすがに歳なのだと自覚しました。
三か月の孫は抱っこしてさえいればご機嫌で抱かれたままスヤスヤ眠ります。二歳間近の子は危なくないように絶えず気を配ります。意味こそ分からないことが多いのですが、単語が連なるようになって絶えず音声を発します。何を考えているのでしょうか。
育児を再体験、再学習・・遠い昔を思い出しながら一生の流れを痛切に思いました。わたしはどんな乳幼児だったのだろうなど、とりとめないことも思いました。
子を産むこと、孫をみること、それは自分の死を承認することでもあります。
一か月ほど殆どできなかった描くこと、読むこと、書くことを、始めました。
終戦の八月十五日を目前に多くの報道番組などに出会います。
硫黄島、広島、長崎、シベリア抑留などできる限り見ていますが、苦しい、そして忘れてはいけないと痛感します。
HPで触れていた終戦詔書に関して、鴉と鳶では年齢の違いから、育った時の教育が違い、微妙に受け取り方にも違いがあると思いました。
それにしても、それだけに最近の安倍内閣の横柄さには驚きます。支持率が徹底的に下がっても更なる強硬姿勢を押し通してしまう。
先の選挙で自民党に投票した人、次の選挙で再び自民党に投票しないでほしい。
現時点で有効な手段でどこまでわたしたちは反対行動ができるのか。
折しも昔読んだ小説を読み返していて、あとがきの日付が樺美智子さんが亡くなった3日後の、1960年6月18日とあるのを見て
、思わず言葉を失いました。
明日からお盆で、姑が滞在します。京都の大文字には今年も行けそうにありませんが、家で盆の支度をします。
どうぞ健やかに夏を乗り切ってください。 尾張の鳶
* しばらくぶりの鳶らしい構えないいいメールを嬉しく読んだ。この人はもわたしよりほぼ一世代若いはず。終戦の詔書を「玉音」のままに記憶は できていない。わたしは丹波の疎開先、農山村で、国民学校四年生だった、夏休みだった。ぎらぎらと照っていた。「玉音」はなにも聴き取れなかった。戦争に 負けたとだけ、察した。大人も察していたらしい。京都へ帰れると、それが実感だった。戦争に負けたという事実にはほとんど心を動かしていなかった。
正直に言うと、わたしは天皇の終戦詔書を「全文」読んで自分で書き写してみたのは、今年が初めてである。終戦・敗戦の決定に至る関連の雑知識はいろいろ に蓄えているが、もともと戦争を起こした、あるいは承認し激励したのは、形式においても実質においても天皇の行為・決定と思っていてので、敗戦に至った天 皇の悔いの痛切と真摯は疑わないけれど、詔書は詔書であり、かなりに名文だがかなりに言い訳もしていると感じていた。
ただ、今年になって、やはり二発の原爆投下に対する天皇の思いは、汲み取りたいと思った。ヒロシマ、ながさきの残虐映像などに目を触れれば触れるほど、 天皇の立場では、怒りと怖れとで身動きも成らなかっただろうと察する。その部分にだけとはいわないが、とくに強く打たれた。同感した。戦争犯罪と謂うこと からすれば、東京裁判にモノを言わせるだけでは日本人の終戦になっていない。日本の宗教家、哲学者が、政治家たちが、トルーマンの原爆投下指令に対する根 底からの所感公開は、なかった。なぜ、日本の知識人たちは、たとえ模擬法廷ででも「トルーマン裁判」を真正面から試みないのか。同時に、若い知識人達はな ぜ合同していまあの戦争における「日本人」「日本国」としての「戦争犯罪模擬裁判」を行わないのか。
それをしていないから、あの安倍や追随者が、むちゃくちゃをしてしまうのだ。
2015 8/10 165
* 昨夜は眠りにくく、井上靖「風濤」を読んでいた。元の暴圧に屈し苦しむ高麗の惨たる国情を史料をはさみつつ歴史年表をひもとく風に書き継がれていて 「小説」には成っていない。漢文調の文章をとくにくにしなかったので初読みのときは史実の流れの過酷さに感銘したのだったが、今回、これを「小説」として 読むと、やや年表の上を滑っているようで物足りないが、それにしても元寇にいたる高麗と元との関係の惨状は目に余って胸をつく。
中国との関係は、一つまちがうと日本に対しても、こういう事になる。元寇は、北条時宗と西国・鎌倉武士たちの奮励、なによりも季節の颱風のおかげで惨禍 を免れたが、思うだにゾッとするし、けっして二度と起こらぬなどという問題ではないのだ。元は水軍に慣れていなかったが、現代の中国は元の百倍もの戦力と 覇権欲をもっている。鎌倉時代型の交戦対応では絶対に追いつかず、高度の世界平和外交に徹する以外にはない。安倍総理の時代錯誤、浅薄な認識、こどもじみ た独裁への陶酔。いけない。
2015 8/12 65
* 十三世紀後葉、六、七、八十年代の元と高麗との関係は、歴史認識として今日の日本の政治家は肝に銘じておくべき教訓だろう、二度の元寇は颱風という自 然の威力で奇跡的にクビライ蒙古の惨虐から免れたけれど、今一つには高麗における「三別抄」といわれた徹底反蒙抗戦が日本のために幸運に働いていた史実を 忘れがたい。井上靖「風濤」は元や高麗のいわば正史史料に専ら拠っていて、執拗に闘われた「三別抄」という高麗兵団の愛国的抵抗そして敗北には深くは触れ られていない。この朝鮮半島の歴史は、じつは元寇や秀吉の朝鮮征伐よりも、もっと現代的に深い問題が凝っている。わたしはそう感じている。「三別抄」の激 しい抵抗で、元寇は確実にほぼ十年遅れたのだった。十年も前では北条時宗はあまりに若く、国難への対応には想像を超えた混乱があり得た。屯田という方法 で、元兵、高麗兵が日本の各地に土着しつつ強烈な差別支配を強いたなら、日本列島と日本文化は廃絶していたかも知れない。「屯田」による侵略と支配の怖 さ、深く思い知っている必要がある。
九州のキリシタン大名が深厚と公益の利から領地を割いて教団に与えていた史実は、鎖国への強硬策へ防衛的に繋がった。
日本のたださえ狭い土地を、異国の資金に売り渡すことは、ぜひぜひ制禁して欲しいとわたしは思っている。
2015 8/14 165
* 井上靖『波濤』を今朝五時にめざめて、床の中で読み終えた。敢えて数少ない、元と高麗との基本史料に忠実に則って、書ききられている。謂うまでもな く、日本では元寇といった、その視点は全く取り外して、あくまでも元との関わりに苦汁を嘗め続けた高麗王二代の生き喘ぐと謂いたい歳月がほとんど年譜の読 み下ろしのように表現されている。あえて物語の体はとらず、史実を生きた王と臣と兵と国民の悲劇的な歳月が淡々と叙されてあった。その限りに於いて、初読 の昔の感銘と同じ感銘を得た、いや、加えて、恐怖に近く苦しいほどの思いにも苛まれた。往古の元は失せたが、覇権意志を露骨にし世界支配、世界帝国を企図 していると想像に難くない中国共産党国家の暴走気味は、いまや著くも著い。もう「神風」という名の奇跡はまったく無力。
「波濤」を書かれた親中国作家の第一人者だった井上さんの胸中に、中国への懼れというものは無かったのだろうか。無くて「波濤」は書かれたのだろうか。
2015 8/21 165
* 「旧満州で軍国主義の教育をシャワーのように浴びながら育った。中国の兵隊が殺されるのは当たり前だし朝鮮の娘さんが慰安婦になっていること は小学生の僕まで知っていて当たり前のように考えていた。あの恥ずべき差別意識を根底におぞましい国民感情をあおりたて戦争は始まる」(山田洋次・映画監 督)
前段で「当たり前」のように証言されている事実は、体験者も同様証言者も夥しい人数が実在するのを、いまや、多くが知っている。それだけに山田洋次氏ほ どの人には、その「先へ」の考えが聴きたい。少なくも中国、朝鮮(北、韓)との「日本の未来」どうありたいか、あるべきか。そういう大きな視点・視野で輿 論を喚起してほしいと願う。かつて日本人が「当たり前」としたことを、逆に「当たり前」と仕返されずに済む道・智慧・姿勢を持たねば、意味が薄いのだ。中 国は歴史的に観ても支配・覇権意志の強烈な国であり、朝鮮は「怨=ハン」を歴史的な国民性にしてきた。そういうことを棚に上げたまま過去を証言しているだ けでは、輿論をリードする知識人の場合は話にならない。 2015 8/24 165
* 韓国古代史研究では最高に信頼高いと定評の金丙燾氏の『韓国古代史』上下の大冊を、いま下巻六編「韓の新しい形勢 二、三世紀の韓諸国の動向」を興深 く熱心に読み進んでいる。之より前に高句麗のいろいろも学んだが、いまは百済の興起と馬韓の変遷に次いで、原始新羅と加羅諸国のことを勉強中。
いかに朝鮮半島にかんして自分が無関心で冷淡で無知であったかを身の細るほど日々誡められている。楽郎とか帯方とか語彙としては記憶にあっても、それが 中国による覇権の強硬な前陣を成し朝鮮半島の北方、西方を政治的また文化的に威圧し支配していたこと、朝鮮国の成立がそれにどれほど苦しめられまた感化さ れつつ自立への抵抗を遂げてきたか、など、まことに曖昧な合点しか過去してきてなかったと知り、恥じ入った。いわば高句麗から百済が産み落とされたような 建国事情も知らなかった、ただもう百済は日本と和親の関係にあり、天智天皇の時、百済を救援して白村江の海戦で大敗してきたこと、「任那日本府」といった 出先機関を日本は半島の南端辺に有してたらしいと程度のボンヤリとしたことしか知らなかった。
わたしは従来、韓国製のドラマ人気が日本で沸騰して人気俳優を追いかけ回す日本の女たちをいささか毛嫌いし、韓国ドラマというとチャンネルを替えて続け ていたが、「い、さん」また「トンイ」といった時代劇の大作にふと目を向けたときから、半島の歴史と王制や官制や文化風俗や、三韓と中国との緊張関係な ど、これは「知りませんでした」で済まないものの在るのに、大いに気がついた。
そしてついに、三十五年ほどの昔に念のため買って書架にしまっていた上の金丙燾著『韓国古代史』上下を手にとったのだった。
韓国の原題ドラマは依然シャットアウトしているが、歴史劇らしきは、むしろ進んで画面からも学び取れるものは摂りたいと今も思っている。
2015 9/5 166
* 韓国の古代史は、いま五、六、七世紀頃を興味を覚えつつ読んでいる。中国の郡支配を受けていた時代から、かろうじてはねのけて高句麗が起ち、分かれる ように南西に百済が起ち、後れて南東に新羅が起ち、高句麗の北からの圧迫を済・羅同盟で凌ぎつつ、いつか新羅が強盛に転じて百済を押さえ高句麗領を南から 押し上げて行く。日本もこの三韓事情に海を越えて関与している。いまは概略を汲もうとだけ思っている。
2015 9/20 166
* 思いがけずジュリー・アンドリウスのあのよく出来たミュージカルな映画を観た。この映画には胸がつまる。音楽の美しさ優しさと、せまるナチス の時代の恐ろしさ。こういう時代へ、われわれの日本もあっというまに落ちこむという懼れを本気で私は感じている。それで映画の各場面に泣けて仕方ないの だ。祖国を失う懼れがいかに深いか、悲しいか。とりかえしがつかず、まぎれなく民族の、故国の地獄が現れる。いまのまま無反省に過ごしていれば確実にこの 五十年のうちに日本は蹂躙されてしまうだろう。
2015 10/11 167
* 上下巻で八百頁にあまる『韓国古代史』を、愛読と謂うておかしくないほど熱心に読んできて、もう残り少ない。固有名詞にふりがながしてあったらもっと 深く親しめたろう、韓国の名辞は字もいかにも世離れて馴染みが無く、訓めない。フリガナと索引がついていたら遙かに貴重な読書また蔵書となったろうに。そ れでも、まことに興味深く多くを教えられている。隣国とはいえ実地を践むことは無い、それだけに、韓国史の大綱はだいじに識っていたい。わたしのもってい た常識など、万の一にも当たらなかった。朝鮮、高句麗、百済、新羅の国としての、国民としての性格などもよく教わってきたし、渤海国にも興味をそそられて いる。日本は渤海との縁が濃いと日本史の側から万全と感じていたが、事実であった。
それにしても中国の詩には随分親しみ、小説も読んできたのに、韓国の詩歌も小説もまるで知らない。知りもしないで軽視してきたのだ。
韓国製の歴史ドラマをこの二三年つとめて観るようにしてきたなかで、あの独特の韓国文字の発明をめぐるもの、あれをもう一度観たいし、あの文字の実質と 利便とを頭に入れてみたい気がしている。苦手にし無意味に遠ざけてきた朝鮮なのだが、そんな無意味な狭量は恥じねばならない。
2015 10/21 167
* 金丙燾著「韓国古代史」上下巻を通読した。精読とは行かない字義のままの通読だが多くを教わった。願わくは三韓が新羅に統一され、統一新羅が潰えてま た三韓から今度は高麗が大きく起ちながらそれも潰えた以降の中世、近世の朝鮮半島史も読んでみたい。おかげで韓流の歴史ドラマにより親しい興味が持てるよ うになった。
同時に、中国でも朝鮮半島でもない、渤海や契丹などの歴史、日本海の北対岸の歴史も知りたくなった。
2015 11/12 168
*このところNHKが、世界の異様な戦争、戦闘、露骨で憎むに足る宣伝戦、悲惨な難民、支配と虐殺等々のフイルムを続々公開してくれている。地球上がさな がら生き地獄と化しつつある。それもこれもわたしの所謂強国による「悪意の算術」が貪欲に煽り立ててきたのであり、日本までがその尻馬に乗りたがって国民 をまるで他国の「醜(しこ)の御盾」に供出しようとしている。とほうもない悪政がまことしやかに画策を逞しくしている。
* 硫黄島玉砕なんてものは、そんな美しいモノではなかった、日米軍ともに地獄であり、無数の姿死体は辱められ、張り巡らされた地下道へは「蛆虫退治」と 叫びつつ凄まじく火炎放射されていた。憎しみは燃え上がる一方だったと。宣伝は、おおかたが意図された「やらせ」「虚構」「捏造」だった、日本だけではな い、アメリカのそれは倍々に輪を掛け金もかけて猛烈だったと、証言のフィルムがぞくぞくと現れ出ている。
2015 12/11 169
* も一つ、選集第十三巻に予定して既に再校ゲラを読んでいるもアタマの作『迷走 課長たちの第春闘・三部作』をきっちり、今日大晦日に読み上げた。往年 の体験をつぶさにありのままに思い起こして、まことに複雑な感慨に心身が揺れた。いまでも企業には労使があり向き合って交渉を持っているだろうが、この作 が三部に繰り広げた激越な闘争は、もはや跡を絶っているのかも知れない、が、いつかまた繰り返すのか、もう根絶されてしまうか、今日と未来とへ呈するのと てつもない記録がここに成り立っている。おもしろいといえば、「現代」を証言してこんなおもしろい記録はそうそう無いだろうと思っている。まぎれもなく私 自身の身を置いて心身をすりへらした世界が、生々しいまで露わに冷酷に書きとめられている。作家・秦 恒平は『みごもりの湖』や『慈子』の世界にだけ住んではいられなかったのである。
2015 12/31 169