* 階下へおり、何という題のともしらず、大老井伊掃部のお籠廻りにいて雪の桜田門外にいて主君を討たれ腹を切り損じた武士(中井貴一)が、討手の只一人の生 き残りへ復讐すべく明治維新後も追い求め、他方は車引きに身を落として潜み隠れている、その二人の出会いと終末とを描いて秀逸のテレビ映画劇の後半を堪能 した。あの「阿部一族」にも次ぐかと思うほどの秀作で、立ってテレビに貼り付くように見終えた。気持ちがすかーっとした、まさしく作に「品」があり、中 井、阿部らの演技も上乗というにちかかった。最終、エンドマークになる直前に今一つの工夫が欲しかった、惜しまれた。
明治維新は大変だった、安易に明治を賛美はならない、が、平成「末期」の今日が教えられて佳い政治の熱も国民の熱も有ったのだ。できれば、もう一度観た いが、後半だけでも十二分に作意も展開も煮つめもあり、満足した。此のような「作品」への「満足」が、いちばん今は願わしい。いささか気を取り直した。
2018 4/16 197
* また書庫へ入っていた。今日もかなり傷みながら珍しい古本を何冊も見つけた中には『椿山集』という和装本があった。いわば歌文集、まさかと思い誰か画 家てではなかっかなどとアテズッポウでみすごしてきたの、その「まさか」であった、ひの「椿山」はあの明治の元勲、公爵山県有朋のことであった、うッ ふェー。わたしは永らく日本を軍国主義、陸軍主導の國に仕立てた根本の犯罪政治家と見切ってきたので、こんな雅な詩歌文集があろうとは信じられず、で、お ぼろには察しつつまさかと見捨ててきた一冊であった。
そう判ってみると読んでみたく、読み終えたらこの手の、というか文藝系の和書類とともに国文学研究資料館にゆだねて処分を任せようと思っている。
2018 5/6 198
* 今もそうか、書店と縁を切ったような暮らしで知れないが、昔は本や雑誌を買うと「付録」が附いていて、本体の方は失せ果てても付録だけ残ったというこ とは、幾つか在る。これはのちのち「参考」に使えると思うと捨てがたいそういう「付録」は、ものの下や間にでも捨てずに記憶に置いていた。いま手にしてい るのは旺文社の「歌に見る近代世相史」とある小冊子で「懐しの明治・大正・昭和歌謡集」とある。敗戦後の昭和三十五年までの年表が附いているから、わたし たちが新宿河田町に住み長女朝日子が生まれた年まで、「皇孫ご誕生」とは今の皇太子さんのこと。「ハガチー事件でアイク訪日中止」は、安保闘争の激化を思 い出させる。社会党委員長浅沼稲次郎が暴漢に刺殺されたが、暴漢を祀る動きもあり、米日保守の左派撲滅への動きが露呈してきた頃に当たる。この冊子は東京 で手に入れ、わたしは「小説を書こう」としてすでに反戦の「或る折臂翁」と向きあっていた。
* この歌謡集にはあの「りんごの歌」を最後に「昭和時代 戦後」の歌は出ていない。明治の最初は「宮さん宮さんお馬の前に」の「トンヤレ節」である。歌 は世に連れ、或る面では一級の史的証言を成す、こういうのは、時勢を読むのにとても有効な好資料いや史料として参看できる。今も頁を繰ってそして目を閉じ てモノ思うことがある。わたしは徹して軍歌、国威発揚歌が嫌いで通してきた。しかも時に急激に口に甦ってきて暗然とする。「わがおほきみに召されたる い のち栄えある」だの「父よあなたは強かった」だの、不快であった。
2018 6/6 199
* 午前中、テーブル仕事をしながら、テレビで、何故敗戦直前の日本国土に過酷をきわめた無差別絨毯爆撃が敢行されたか、当時邊は米国陸軍に属していた空 軍将官たちの空軍自立を渇望する余りの理性を欠いた強烈極悪の意嚮が平然強行された凶悪こういであったことの証言が、べいこくで畝残されていた多数の公式 証言録からも明らかになった事実を、肌に粟立つ思いで見もし聴き入りもしていた。
そのような米国の人道に背いた凶悪な没義道に対し、日本は今以て謝罪も得ていないし、米国の安全保障政策に追い使われて今以て敗戦国のと待遇を免れぬ莫 大な出費と犠牲を強いられている。強いられているのは、明白に敗戦後日本の「保守」政治であり、その度合いは悪化しつつ今日の安倍政権に到っている。
若い人たちよ。兵役の義務化が平和より戦役のために復活してくるまで、日本と自身の運命に目も心もとじて甘えて暮らす気か。わたしは心より若い世代と家庭のおぞましい近未来を案じている。
2018 7/19 200
* 丸山真男の『日本の思想』 歴研編の『日本現代史』に、呻くほど胸痛くも悔しくも多く多くを今時分「復習」している。一九五九年二月末に上京しその日から妻と暮らし初め、六〇年七月の今日朝日子が生まれた。六〇年代、七〇年代、八〇年代の昭和を経て、九〇年代から平成へ入った。代々の保守政権とよぎない付き合いを続けてきたのだが、「付き合い」の性根の意味を、まことに朧にしか察し切れていなかったと舌を噛む心地がする。池 田勇人の「所得倍増」という看板を貧しかったわたしも歓迎気味に眺めながらの日々があった。おもえば政治に国民の経済が真面に係わりだした初めだった、ア レまでの日本は、政治は天皇制と統治のためにあった。所得倍増という「経済」政策へ國の保守政治が舵を切ったのを甘く受けいれたときから大企業と政権の公 然たる癒着は濃厚となり、「国民の」経済という観点は棚上げされ、対米追従の貿易経済が日本の政治、国民支配の原則となってしまった。経済、経済、経済が 国民の首をしめ政治的な権利も基本的人権も窒息を強いられ続けてきた。わたしの大人としての生涯は、そんな「所得倍増」の掛け声に踊らされたままだった。 分かってきてはいた、わたしとても。しかし判り方があまりに足らず甘かった。
2018 7/27 200
☆ 台風13号
台風が犬吠埼を掠めてゆっくり北上している様子。西東京は如何でしょうか。
こちらは先日の台風12号の時も何故か殆ど雨は降らず、暦の上では既に立秋ですけれど、連日38,39,40度など暑く、外に出ると皮膚感覚の違い、灼 かれる感じがします。今日も空は真っ青、39度の予想です。室内でひたすら過ごします。あまりに暑い日が続くので朝夕水撒きしているのですが、庭の樹木の 葉が落ちたり、小さなものは枯れ始めてしまいました。
普段二時間の番組などは殆ど見ないのですが、映画『日本のいちばん長い日』、NHKのドキュメンタリー・ドラマで『華族・最後の戦い』を続けて見ました。
終戦前後のことは実体験として捉えることは出来ませんが、漠然とした知識や理解以上のものを欲しい・・と思います。憲法や天皇制、或いは中国や韓国朝鮮 問題など考える時にどうしても必要なこと。昭和史の発掘には目を逸らせませんし、毎夏、この時期には戦争に関係した番組が多いので、重い気持ちになります が 意識して見ます。
カナダに住む友人は、シリアからの青年をこの一年住まいに引き受けました。その間のことを「4人の青年との生活は一言でいえば 「oncein a lifetime experience。・・物書きだったら、風刺喜劇が書けます!」と述べています。
さまざまな国で相変わらず不幸な出来事が続いています。シリア青年の背後には大きな悲劇がありますが、この一年の彼女を巻き込んだ風刺喜劇、その重みも軽さも現実なのだと思います。
家に引きこもっているので絵の方もほぼ一段落し、本を読む時間が増えました。
読み返すと以前には分からなかったことがフッと鮮明になることもあります。
原善さんの著作の解釈もその一例でした。折口信夫に関する『執深くあれ』もそうでした。かなり以前に読んだ本についても同じ感想がありました。
HPにあった八坂神社から見る四条の夜景の写真を思い起こします。
夏を乗り切って清々しく秋を迎えたいとしきりに思う毎日です。
どうぞ元気にお過ごしください。くれぐれも大切に。 尾張の鳶
* わたしも、こころして、リメーク映画『日本のいちばん長い日』を姿勢を正しながら妻と観た。もっくんが昭和天皇を、役所広司が阿南陸相を演 じていて、以前の同題映画とは場面の演出がそうとう違っていてほとんどの役者が早口に言語不明晰だったが、こういう空気感の出し方もあると同感も共感も喪 わず観続けた。八月にこういう映像に触れるのは、同じ危機を幼い(十歳)ながら友に越えてきた身には務めのような気がしてしまう。それとともに、切実に思 うのである、実感するのである、
戦争に負けてよかつたとは思はねど
勝たなくてよかつたとも思ふわびしさ 恒平
軍国主義の「建前」になってしまう天皇制を、「国体」として悪用し続ける國になっては、絶対にいけない。悪しく歪んだ陸軍を強硬に傲慢に育てたのは、長州の山県有朋総理元帥であった。忘れてはならぬ。
NHKのドキュメンタリー・ドラマで『華族・最後の戦い』というのには気づかなかった。華族の復活は厳 格に阻止しなくては、だが今に大きな「持ち出し」として日本の保守政治はおもむろに自身を飾り立てたがるに相違ないとは、もう、すくなくも三十、四十年前 にわたしの予測し危惧し嫌悪してきたこと。新しく立たれる次の天皇さんの、憲法とともに在る決意と叡智を期待して已まない。いまの「皇太子」さんを、わた しは、いまの天皇ご夫妻の良き後嗣として信愛している。だが、とかく周囲がうごめきやすいのが皇室の難。美智子皇后さんの存在は、「平成」の国民には有り 難くいつも心和んだ。その感化が、賢く、ただしく新時代に承け継がれますように。政権との適切な距離は正確に保たれますように。
2018 8/9 201
* 六十一年前になるか、まだ大学生の昔の今日、秋晴れの大文字山へ一つ下の妻と登った。山頂を、すこし東側へ隠れた草の斜面から、大きな大きな 比叡山を仰向きに並んで寝ころんだまま眺めていた。それだけで、また山を下りた。紅葉の十一月二十六日には二人で鞍馬山へのぼり貴船へ降りた。求婚したの はその歳の師走十日だった。妻はまだ三年生だった。翌春わたしは院へ進み、けれど妻の学部卒業と合わせて院をやめ、京をはなれ東京に職を得て二月末に上 京、即、結婚して市谷河田町に暮らし、東大赤門まえの医学書院で働きはじめた。六畳一間の家賃が五千円、初任給は一万二千円(肇の三ヶ月は八割支給)、わ たしの財布はいつもカラだった。(妻には両親からの遺産が残っていたし、わたしは院の奨学金と京での蔵書を処分してきた蓄えはあったが、会社のボーナスも 含めて、将来のためにと手を付けなかった。)社の食堂では十五円で丼飯とみそ汁が買えた。みそ汁を飯にかけての昼飯でほぼ二年間過ごした。二年目の七月二 十七日に朝日子が生まれ、郊外の保谷社宅に入れた三年目の七月末から、突如、小説(短篇「少女」と長篇「或る折臂翁」)を書き始め、以降一日も、元日も病 気でも途切らせず、決然、貯金を使って私家版本を四冊つくった。上京結婚から十年め、書き始めて七年目、思いもよらなかった太宰治賞受賞の日を迎えた。昭 和四十四年(一九六九)の桜桃忌であった。八十三歳の来年は「作家生活五十年」になる。「秦 恒平選集」は三十三巻完結に近づき、「秦 恒平・湖の本」は百四十五巻には達しよう、加えて五十年を記念の新作長編(願わくは、中編も)が成って呉れるか、心して日々を元気にと願う、なによりも妻 が無事の健康を心より祈る思いで、願う。
* わたしは少年の昔から「歴史」好きだった。自身の生きようにも「歴史」を創って行くという意志・意欲 が昔からあった。その意味ではわたしは佳い意味での無心には成りにくい性質をもっている。生活を、人生を構造物のように思うことで自身をむしろ励ましてき た。以前。東工大で「結婚」を「学」に譬えてみよと挨拶を入れたとき、多くの返事のなかで「建築学」と応えてきたのに同感していた自分をいまも記憶してい る。が、さて…、この先をどう構築する気なのか、もう卒業して成るように成って行きたいのか。
この「私語」の上の方へ掲げた仙厓画「お月様いくつ 十三七つ」にそえ、わたしは数年前の自句、「柿の木にに柿の実がなり それでよし」と書き添えている。はて。はて。
2018 10/16 203
* 朝食時 下劣で愚昧な品格最低トランプ大統領の言語を絶した醜悪を憎んでいた。へたをすると人類滅亡の時期をこの男の我が儘一途が早めてしまう。「ア メリカ史」を初めて学んだときの印象はハツラツとした健康さだった。わたしの未熟な誤解も加わるにせよ、いま、トランプのアメリカは不健康極まる狂態に在 る。
なればこそ、厭悪のあまり、藝術の力と美しさに思いはひたぶる向かう。
2018 11/11 204
* 今日は、なんとなく ぼんやりと やすんでいる。九時にもならないのに、ヘトヘトに疲れている。ためらわず、もうやすもう。わたしがやすむとは、階下へ降り、床に坐って校正し、横になって本を読む、という意味で。
このところ感じ入っている岩波文庫は、わずか十九歳の高橋貞樹の驚異の労作『被差別部落一千年史』のうち、「徳川時代における穢多・非人の制度(上・ 下)」で。その執筆の気概の正しさ、行文と把握の精緻に驚嘆する。多くの類著には接してきたが、モチベーションの熾烈にして健常なことは、まこと推讃に値 する。なんたる非道の歴史ぞ、心底恥じざるをえない。
* 昨日だかの東京新聞「大波小波」に三田誠広が、源氏物語を反体制の作と言っていると称賛気味の論旨であったが、そんなことは、何十年も前にわたしは、 源氏物語が、藤原氏の摂関専権に暗に否認姿勢の「源氏」物語であり「院政」を予兆するものと読み切っている。おそろしく古くさい証文を持ち出されて感じ 入っているなど、著者・筆者らの不勉強を露呈したに過ぎない。
全体に、コンに田の批評傾向には、歴史的な勉強と体得とが甚だ欠けていて、薄くてウソクサイと言うしかない。そもそも源氏物語は一度や二度の読みで云々するにはもじどおりに凄い闇をはらんでいるのだ、古典は舐めてかかってはいけない。
2018 11/17 204
* 津川雅彦と朝丘雪路夫妻への告別の会で、奥田瑛二という俳優が、弔辞で、生前津川に「藝術至上主義」を語りかけて痛罵され、「エンターテイメント 人を喜ばせる」のこそが俳優の天職だと叩かれたと語っていた。
これはまこと考慮と反省とに値する問題点で、津川の認識は、天の岩戸前のウヅメの舞遊びこのかた「遊藝者」たちが処世の鉄則なのであった。またそのゆえ にこそ遊藝者たちは神代このかたついこの戦前まで、優に二千年を人外視の痛烈な迫害と侮蔑・差別に地獄の苦しみを負い続けてきたのだった。それが日本の歴 史の「倫理に悖る」過酷な一面なのであった。理解できない人はわたしの著『日本史との出会い』ちくま少年図書館の一冊その他関聨の論著を読まれたい。
「人を喜ばせる」とは、じつに単純に分かりやすそうで、歴史的にはじつに複雑を極めた人間社会の負荷・負担の一面でもあったのである。「遊藝・藝能」の 人がまさしく地に這う境涯から、あたかも貴族・華族かのようなめざましい転換を体験し実現し得てきた「人間の、日本人の歴史」の或る意味凄まじさは、静か に心深く顧みられ、いかなる意味ででも「人間の人間による人間差別」は切に非難し解消されねばいけない。いまや社会の強者然と高慢化しつつある、その実た いした「藝も能もない喧しいだけの自称藝能人たち」にもそれは逆に言わねばならぬのである。
「藝術至上主義」などという名目が、いまもかすかにでも世渡りしている現実は、苦笑に値するとわたしは思っている。この人間社会に、「至上」などという 価値観をばらまくことほど罪なものは有るまい。「アメリカ・ファースト」などと蛮声を張りあげるバカな大統領がその醜くも露骨な実例である。
驕るなかれ。ほんとうに「人を喜ばせる」とはじつにじつに難しいことと心得て、むろん小説家も含む藝能・遊藝の人は、恥ずかしくない「藝・能」を渾身磨 かねばならぬ。亡き津川雅彦は、よくガンバッたなとわたしは眺めていた。惜しんで余りあるあの美空ひばり、中村勘三郎を思い出す。
万葉歌人たちや、紫式部、和泉式部、西行、兼好らこのかた、文学・文藝の歴史とて別でなく、西鶴、近松、芭蕉、秋成、蕪村らを経て迎えた、明治大正昭和の文豪達の「藝術」にわたしは感謝を忘れない。真実「喜ばせ」てもらったからである。
藝能人が浅い感覚から「藝術」をはねのけて驕ってしまっては大きく間違うのだとも、よく優れた先達に学んで欲しいと思う。
2018 11/22 204
* 小塚原での腑分けに息弾ませて集う良澤、玄白ら蘭学・西医への意識と意欲、『蘭学事始』読んでいて熱くなる。西欧への新井白石の関心、それに応え幾分の窓 を西向きに開いた将軍吉宗、長崎通詞らの多年の地ならし、本草・博物の知識に燃えた源内、徳内らの発明と発掘、そして洋書・辞書に依拠しつつ実見の眼を開 いていった「蘭学事始」。近世の近代化してゆく道筋。
真実により近い歴史をこそ少年達に学ばせたい。
2019 1/30 206
* 平成天皇の皇太子時代、ことに英国エリザベス女王の戴冠式へ向かわれた時のいろいろを観て、感動した。日本の皇太子訪英に反対する英国多くの声の前で チャーチル首相がはからいまた語った言葉に感動した。反射的に、今の日本の安倍総理の、「下品」で「軽薄」を極め「素養に欠け」た言葉や表情や態度を日々 に国会の中で見なければならぬ日本国民の情けない不幸な現状に、思わず泣いた。
2019 3/3 208
* 一昨日來の、遠い昔からの友「テルさん」とのメール交換にふれて、しみじみ思うことは、わたしが、人類社会の前途や人間の善意や信念に、ほぼ、今、希望を 喪いないし諦め、絶望の方を受け容れているという自覚である。毎月、この日録の冒頭にわたしは自身現在の「述懐」を托して幾つかの詩句を借用しているが、 今月のそれをわたし自身で顧みても、肌寒いまでに自分が明るくて望ましい人間の未来を見捨てているかがハッキリしている。そしてそれを今、深く訝しむ、否 定する、拒むという気が涌かないのである。
ししむらゆ滲みいずるごときかなしみを
脱ぎてねむらむ一と日ははてつ 田井安曇
身のはてを知らず思はず今日もまた
人の心の薄氷(うすらひ)を踏む 石上露子
これやこの往きて帰らぬ人の世の
つきぬ怨みの夢見なるらむ 遠
人も押しわれも押すなる空(むな)ぐるま
何しにわれらかくもやまざる 遠
あすありとたがたのむなるゆめのよや
まなこに沈透(しず)くやみのみづうみ 遠
* わたしはこれらを通してほぼ現代にも未来にも幻想は持たない、持てないと、諦めて表白している。
* テルさんから、もう一度の存念が伝えられているらしく、まだメールを開いていない。とにかく、読んでみよう。
☆ 秦さん
私の拙文に対し丁寧な返事を2度にわたった頂き、恐縮しています。
何度も読み1日考え、以下返信することにしました。
・「絶望の虚妄なるは希望に相同じい」とは魯迅の言葉ですが、私はこの言葉にずいぶん励まされてきました。いまの日本に比べてもはるかに絶望が社会を覆っていた時代でした。秦さんの絶望は大きくて深いものだと理解します。でもその中に希望はないのでしょうか。
是非聞かせていただきたい。
・「悪意の算術」が人類の歴史を支配してきた、とのお説ですが確かにそういう時代がありました。単純に考えて悪意は他人を押しのけて自分だけが得をする、生き残る、ヒトラーやトランプのあからさまな作動です。
このような人たちが人間の悪意を利用し、国民を扇動し、歴史を支配したことは否定できません。
すこし話が変わりますが、我々ホモサピエンスは共生の遺伝子を持っており、そのことでコムニティをつくり、言葉を紡ぎ、文字を持つてきたということを聞 いたことがあります。「悪意の算術」に対抗できるのは「共生の算術」と思います。人権宣言やワイマール憲法や日本国憲法は人類の共生の思いを体現していま す。
今は確かに「悪意の算術」がすこし優勢な時代かもしれませんが、悪意はそう長続きはしないと思います。
人類は必ず核戦争による絶滅を避け、生き残る道を見つけるに違いありません。
・「憲法9条は抱き柱」とのお説ですが、納得出来ません。
私は「憲法9条は灯台」だと思っています。この灯台の光は少し陰りはありますが、日本だけでなく、世界のひとたちの心をてらしています。そしてこの灯を消してはいけない!!「安倍9条改憲」を成功させてはいけないし、成功しないと思います。
以上偉そうなことを書き恐縮ですが、ほかの方のご意見も伺いたいです。 てるさん より
* 素晴らしい、羨ましいほどの意欲と肯定のテルさんの言葉で、真実敬服する。じつに、まことに斯くありたいものと願う。
それでも、わたしは、望みは望みとしてその望みの実現性を、「人間が人間であればこそ」絵空事に近い、同じいと、楽観できないでいる。
プラトン(ソクラテス)が人間の築く「国家」を精緻に論じ尽くしたが、その実、その最良・理想としたような国家ないし支配者を、絶えて人類は、人間は、 (極言とは承知で謂う)ほぼ一度も一例も持ち得てなどこなかったし、悪しき支配者と悪しき政治と悪しく果てない人間の強慾と怠慢とが、日々に日々に濃厚に 醜悪に地球を冒しつづけ、良くなってきたと思えるほとんど何ものをも喪いきり見失い続けているのを、わたしは悲しくも予感、いやもはや実感している。極論 すれば、「文明」の悪と便利とが「文化」の精美で優秀な無用性を損ない続けて行く年々歳々と情けなく見ている。
「人間支配の悪意」こそ歴史を蔽って来続けたが、「人間本然の善意」はただ寶玉に似て、日々の人間生活を堅固に永続的に支え切れて来なかった。歴史は、 おおむね人間が惹き起こす「悪しき事変と争乱」とで、結果、より不幸な「人間支配の度」を増し続けてきた。 トランプ、プーチン、習近平、金正恩その他世 界中の強権悪政者たち、そして安倍晋三ら、彼らの欲に根を生やした支配意図こそがますます増殖されて行き、私民はほぼ禁獄にちかい被支配にこそ喘ぎ続け る。歴史は、その「逆」を示したことは稀に稀にまれに過ぎている。
日本國憲法が素晴らしいのは、実は非道の政治家でさえ知っている。国民も知っている。しかし「知っているだけ」のハナシにされている。「抱き柱」と謂うわたしの譬喩は泣きの涙とともに、そこに生じている。
闘うなら、勝たねば。勝つには真の智慧と手段が要る。今日の世界で、虐げられた弱者の闘いに
、遺憾にも智慧も手段も無いにひとしいと、誰よりも悪しき支配者どもが大嗤いして知っている。希望は持ちたい。しかし希望は、ただ持っているだけでは、縋り付くだけのか細い「抱き柱」に過ぎない。
* もう一度、さきに挙げたわたくし「述懐」の歌を、わたし自身、読み返す。悲しい実感である。
* 友どちよ、きみらの考えを聞かせて欲しい。
2019 3/30 208
* 明日には新元号が鳴り物入りで公表されると謂うが、わたしには別段の関心がない、単に一つの歴史的な決め事の一つに過ぎず、好き嫌いは余儀なく自然に涌くだろうが。慣れてしまうだけのこと。
わたしは、わたし自身の名前を「恒久平和」と呼んで自身の元号に心得ている。そうあれかしと願うのみ、しかし人間という(私も含めて)難儀な「神の所 産」は、人類史はじまってこのかた、「恒平」という理想など、よう守っては来れなかった。do not でなく can notであった。他の生き物には 観られない「文明」も「文化」も、だから生まれたのである。幸せであったのか不幸せにおわるのか、結論はもう遠からずおりそうに思う。神に代わって地球が 判決することであろう。
* 後鳥羽院に関しては、厳しい、ときに厭悪すらまじえた言葉をわたしは投げかけてきた。島流しに死なせるなどは東国武士の野蛮な乱暴と思っているし、後 鳥羽院の和歌の才能にも推服しているけれど。一つには、法然や親鸞に対する斟酌をかいた追放などを、歴史的な配慮に欠けた粗暴とわたしは厭わしく感じてき た。
しかし、後白河という法皇贔屓はさまざまにこれまでに仕事に表してきた。にもかかわらず、後白河院が法然上人に帰依し一乗円開新堂主人授かり「往生要 集」を講じさせ、法然真影を似絵の達人隆信に写させて院の私の宝庫である名高い蓮華王院の宝蔵に収めていたのを『今物語』語釈のなかで確認できたのは嬉し かった。法然と摂政兼実や、法然と慈円の関わりは懐かしく印象にあったが、後白河と法然との仲らいは、ついつい忘失しがちであった。
2019 3/31 208
* もう一時間半もすると、安倍晋三内閣が制定する新元号が公表される。どんな文字・言葉の元号であろうと、わたしの関心事ではない。
あえて謂えば、この五月一日からは、わたしはわたし自身の名「恒平」を、「恒久平和を願う」わたし自身の新元号と思って生きようと思う、何年続くか分からないけれど。毎日、毎月、毎年を深切に迎えかつ見送りたい。
* 新元号が「令和」と決して内閣が発表した。万葉集からと自画自賛しているが、ごくふつうには、こう書かれた二字は、「和令(し)む」「和せ令(し)む」 「和ま令(し)む」以外に訓みようがない。
「令(し)む」「令(せし)む」はまさしく「せよ」「させる」の指令、命令、訓令にほかならず、「和をもつて尚しとなす」の訓えは聖徳太子の昔からあるが、おうおうに、時々の政治は「和」の名において追従、追伏、あしき賛同を国民に「強い」てきた。「令」は、「法 令「律令」の意味でもあり、それは、よかれあしかれ人に「強いる」「せしめる」意味を第一義に帯びている。「和」は。そのような意味合いにより、つねに「令」の前に傷つけられ強いられ命じられやすい、ないしは甚だ 悪用もされやすい一字であることを、人は歴史的に繰り返し繰り返し体験しつづけてきた。
令和
の二字は、音も、わるくかたく冷たく、聡明な叡智が見出した二字とは、とても考えにくい。
やっぱりこんなことかと、「平成」と示されたあの日あの時の思わず完爾と笑みの漏れた記憶からは、はなはだ「劣って」「悪用され易い」二字とわたしは読み取る。万葉集との関わりを酌むには余程も遠回しなコジツケを必要とする。
「和」を、文字どおりに、司「令」し、命「令」し、訓「令」して、国民に従順たれと謂いかねない「敗戦後統治型保守政権」の本音も露わな元号になってし まったと、「日本の未来」をかえって肌寒く危ぶんでしまうのが、わたしの誤解であったという先々の成り行きであって欲しいものだ、が、期待しにくい。
* わたしはわたしの、「恒平」元年を迎える。元号は、国民に「強いない」と法定されているのだから。
2019 4/1 209
* 神武から平成への125代は、わたくしの、恰好の「諳誦もの」であった。これからも、光格、仁孝、孝明、明治、大正、昭和、平成とつづく、のびやかな 音調を愛して、ここでわたしの歴代諳誦は停止する。たとえ「和」が穏和、平和であろうと、指令、訓令、号令、命令されるのはイヤ。まして悪政や偽政への 「唱和」「賛同」「和談」「賛成」を「法令・制令」化し強制しかねない時代の趨勢には、追従しない。万葉集も妙なお役に立てられたモノだが、誰がそんなオ ハナシを、いつまで記憶しているものか。国民のアタマにこびりつくのはなによりも「令」一字でしかないだろう。
* 「令」の字義は、文化勲章もうけられたと思う、白川静博士の比類無い名著『字統』に学ぶべきだろう、「みことのり(勅令)」「いいつけ(命令)」 「(上輩にとって)よい」「せしめる(訓令、指令、法令)」を意味し、「礼冠を着けて、跪いて神意を聞く神職を象形した文字」であった。字形のママに「命 (命じる)」としても用い、「したがふ」意味に通じた。まさしく「政令を発する」意に通じ、「謹み跪いて上意を聞く」形を体している。「命」「令」はまさ しく同意義を有して、もとまぎれない同義の「一字」であった。「命令」の意より「官長や使役の義となり、敬称としては「令閨」「令嗣」「令夫人」など云う が、要するに「命・令」のむ「威令」に類していて、「しむ」「せしむ」「せよ」の義が本体になっている。
海外の評判でいちはやく「命令」の「令」と指摘されたのは当然で、政府や外務省がどう糊塗・強弁しようとしても「令」は「強いる」意味にはっきり繋がる。おそらく、過去の元号でどれだけどのような意義で「令」が用いられているか、調べてみると良い。
2019 4/3 209
* 昨晩 永田澄雄さんから頂いた新元号批判の品田氏論攷は「著作物」であり、かつ品田氏ご本人は未知の方でもあり、一夜掲載を経た今朝、感謝しつつ此処からは割愛しておいた。
* 永田澄雄さん ありがとうございました。新年号【令和】について
こじつけ の見本のような 安倍総理 「令和 万葉集典拠」の辨でしたね。
いつも ご支援 嬉しく感謝しています。
品田さんの論攷 要はそこに尽きていますが、ま、長屋王らと藤原氏との抗争の陰惨こそ、その後の日本史を永く決定したモノでした。
明らかに品田さんの「著作」なので、一夜だけ拝借しておいて、今朝、この私的な日乗からは省きました。
私は 十年がかりの長編を一つ仕上げ、同様にもう一つの長編に日々組み付いています。病院各科へも通い詰めですけれど。
食が極度に薄く、飲み物でばかり熱を摂っているような日々ですが、気は、幸いシャンとしています。
冷え冷えと雨の音がしています。 日々お元気にお大切になさってください。 秦 恒平
2019 4/10 209
* 『和歌職原鈔』(平凡社 東洋文庫) 古典や日本古代中世史に関心のある人に、ぜひぜひ勧めたい。物語にも 官位が付いての人の登場は、男女ともに夥しく、官位などただくっついているモノと読み捨てにしがちなのだが、職原鈔 に接していると、まことに多彩に人間関係の微妙が見えてきて、場面がさらに豊かに微妙に面白く見えてくる。「四部配当」と謂う。長官(かみ)次官(すけ) 判官(ぜう)主典(さかん)の配置は組織の要点になる。さきの maokatn のメールをよむといわば組織の「すけ」の地位に就かれたらしい。
古典でも史書でも盛んに「省」名が人の名乗りとしてすら多出する。今日の政府でも同じでことで。
昔、 の八省は 中務。式部民部に。治部兵部。刑部大蔵。宮内八省 であるが、これらにも微妙に軽重の差異が通用していた。同じ「長官(かみ)」でも省により上下歴然。この八省より上になお、神祇官、太政官が乗っかっていた。
上の八省でも中務省は断然高位にあり、「此省の官人は余の七省のよりはみな位も一階づゝ長官次官判官主典ともに高き也」と註釈されている。女でも、あの紫「式部」より、歌人で知られた「中務」の方が、より誇らしい召名であったらしいと分かる。
* 記憶力の落ち衰えて行くのは、余儀ない老いのさまではある、が、心さびしくもある。
2019 4/10 209
* 正岡子規のそばに、年嵩の内藤鳴雪翁がいたことは、ずっと以前にも此処に触れた。この翁に『鳴雪俳話』と題した好著がある。明治四十年十一月廿八日に日本 橋の博文館から定価貳拾八銭で刊行されている。秦の祖父の蔵書であったが、わたしが永く座辺に置いてきた。引かれてある俳句に佳いのが多く楽しめるととも に、いくらかわたしの頑なかもしれぬ俳句感覚を養われてきた一册である。この人は俳句はもと「滑稽」であったとハッキリ正解し、しかも芭蕉の正風により優 れた肉親を俳句は得た、だが俳句の良き滑稽は生きているし生かさねばならないと本筋を確かに掴んでいる、それをわたしは尚美している。
蕉風なる滑稽美 これの容易でないことをわたしは思うゆえに安易に俳句に手出ししてこなかった。佳句をもとめて読んで楽しむに止まってきた。『鳴雪俳話』は私のために今も古びていない。
「平成」から歴史のうごく五月が近付いている。
湖の水まさりけり五月あめ 去来
胸のふくらむような懐かしさで読む。
* もう一冊を今朝は手にした。大和田建樹編 東京 博文館蔵版の通俗作文全書の一冊『日記文範』である。やはり明治四十年八月十三日発行、定価は参拾五 銭。秦の祖父鶴吉は明治貳年生まれだった。三十代も終えて行く頃の好学心であったろう、これらはまだ軽い感じの書籍で、鶴吉の遺してくれた漢籍や和書や事 典・辞典は家に余る大量であった。
この『日記文範』目次は、誘引に富んでいる。時代差など無視して並んでいる「菅家日記」「文化二年日記」「水蓼」「後の岡部日記」「春の錦」「家長日 記」「藤垣内翁終焉の記」「中務内侍日記」「故郷日記」「待たぬ青葉」「御蔭まうで日記」「蜻蛉日記」「忘れがたみ」「小木曽日記」「日記の内」「相馬日 記」「本のしづく」「讃岐典侍日記」等々々、まだまだ、まさに雑多に列べてあり、通常では出会いかねる珍しいものがたくさん混じって、とても貴重で有り難 い。
明治人は、まだまだこういう感性で往時往年の行文に親しもう学ぼう習おうという気があった。「中務内侍日記」には、「宮内卿藤原永経の女にて。亀山後宇 多の両朝より。伏見天皇の御代にかけて。禁中に奉仕せし人」としてあり、普通ではいまやこんな文献に出会うことも難儀になっている。ま、この内容の混在ぶ り面白い。中味も、面白い。いまどきこんなに便利に遠い歴史の広範囲へアタマのつっこめる手近な本、見つかるまい。
まさに古書だが、棄てがたくやはり身のそばに置いている。時に、どれとなく目に附いたのを読んでいる。
* 自身、雑食型読書家と書くときもあるが、実は、雑食の「雑」などたいしたことなく、むしろかなり偏った好みの偏屈型読書家と改称すべきだろう。ガンと して読まない世間、それと、読もうにも読む力のない広範囲な世界の書籍世界がある。たいしたことのない読書家だと 思い知っている。
* 持田鋼一郎氏 「米欧亞回覧の会」編になる『岩倉使節団と日本近代一五○年 歴史のなかに未来が見える』と題した、盛大そうな、シンポジウムか学会よ うの集会での持田氏「発言」を含む一冊を送って下さった。不平等条約にぎりぎりに縛られた明治政府のよく踏み込んでの苦闘につぐ苦闘を想ってみた。
いまの、厚かましいほどの敗戦後統治型保守政権の、さあ、いらっしゃい、不平等ケッコウとでも言い続けて米国の支配にひれ伏すように従属して盛んに故障する古物武器や飛行機や軍艦を買いまくってる安倍晋三等にこそよくよく考えさせたい。情けないワン オブ アメリカ め。
2019 4/18 209
* 真実 時代の変換を思うなら、天皇さんの交替より、総理大臣の交代をこそ日本国のために真剣に考えねばならぬ機と、わたしは思う。退位される天皇さんご夫 妻には、ご苦労頂いた感謝と敬意とを惜しまない。新しい天皇さんには右顧左眄せず、ご両親の姿勢をそのまま謙虚にかつ毅然として継承願いたい。願わくは先 帝ら新帝らともに十二分にご健康にご長命でありますよう。
2019 4/27 209
* 和歌、和する歌と云い、相聞、相ひ聞こえと云い、むかしのインテリとさえ限らず、思いを詩歌に創って言い交わすことができた。
いま、日本人のおおかたはそんな能力の全部をうしない、メ-ルや、よく知らないがラインとか呟き(ツイート)とかで交歓し会話していて、血肉をおびてふ れあう人間関係は干上がり、それはただセックという「つきあい」でしかまかなわれていないかに見える。人間の精神的・心情的・美的劣化の進み工合は甚だし い。
* 王朝が雅趣の社会を反映し精選した一つの試み、結果を、小倉百人一首と見立てて、そこには天皇や親王・内親王が百人中十人ほど、納言から大臣、摂政・ 関白が二十余人、女性が二十人近く、その余半数ほども、すべて位階をもつ官僚か知識人(大学人に相当)としての僧かである。市民庶民は含まないが、彼らも 類似の才覚を持っていたことは万葉集や説話に多数見えて、この伝統は明治に到るまで、衰微しつつも維持されていた。
今日、天皇皇后さんらにその伝統の立派に生きていることは、みなが知っている。が、安倍総理、麻生副総理らの日本語水準の雑駁は蔽いようが無く、大臣級も同列で時に醜悪なことは目に余っている。
そしてそういう連中が、日本の文化から「文」を抹消し減殺し教育の場から外そうなどと、信じがたいバカを計画している。万葉集に花を得たと胸を張って新元号を定めながら、まったくバカげた日本語や日本文学の圧殺を計画しおろかしい体現をさえ成している。
なさけないことに、日本文藝家協会も日本ペンクラブも、また作家・劇作家・詩歌人、文学研究家や教育家からも、この日本語文化絞殺死の危機にむかい、ほとんど何の有効な反論の運動も起きて見えない。
2019 4/28 209
* 時代が変わる動くなどと、今更思わない。自身最期への「常の日々」が始まるだけ。その意味で、「平成」の果てる明日以降を、わたしは「恒平」元年の開始と思おう。
* なんとなし、グジャグジャと過ごしていたようだが、交通整理にしたがい視野は明るみ、進むべき仕事はきっちり進んでいる。
新聞雑誌は今の視力ではまったく読めない。テレビも、顔より聴き慣れた声で誰それと分かる按配で、大きなテレビ画面に貼り付かないと「観て」は楽しめない。このところ耳に届く話題は一辺倒、あれやこれや面白づくの穿鑿に興味なし。
明日には、今上両陛下に「ごくろうさまでございました」と敬意と感謝ささげ、御健勝を願うだけのこと。新しい天皇さんたちのことは、さきざきに俟つだけ、いま何かと口を出すのは遠慮が行儀であろう。
2019 4/29 209
* 時代が変わる動くなどと、惑わない。私自身最期への「常の日々」が始まるだけ。続くだけ。
その意味で、「平成」の果てた今日以降を 私の 「恒平」元年が始まったと思おう。
* 新天皇の即位述懐の弁は穏当であった。政権の跳梁と傲慢に屈せず、しかと存立願いたい。
* 昭和は永かった。戦前・戦時・戦後と 空気の色を変えた。平成は戦争を知らず過ごせた。稀有の時代だった。お世辞にも善政はなかったが、上皇ご夫妻は懸 命に堅固に平和憲法と共に生きられた。容易でない聡い生きように徹しられた。わたしたちは終始敬意と親愛を惜しまなかった。
新天皇もはっきり憲法に触れて即位の言葉を語られていた。
憲法を率先して冒し守らない自民政府の猛省の機ともなるべく、七月の選挙では国民もよくよく考えた票を投じたい。
2019 5/1 210
* 天野哲夫の(正しくは)『禁じられた青春』を読み進み、彼は昭和十九年か二十年、満州から故国九州へ帰って徴兵試験に甲種合格する。一世代早く早く彼 は昭和の日本を歩いて行く、わたし自身はまだ京都の国民学校で三年生だったろう、敗戦の年の雪の丹波へ二月末三月初には秦の祖父と母と三人で疎開した。縁 故という縁故もなくてご近所の紹介一つではるばる亀岡から二里ほどの樫田村字杉生のまっくらな山上の空き家に入った。四月から一四年生、八月には天皇の声 をラジオで聴いた。杉生には敗戦後もふくめ一年半いて、大怪我もし大病もして、辛うじて京都へ帰った。勇断連れかえってくれた秦の母の大恩は忘れたことが ない。
わたしは今、あの昭和二十年の敗戦から戦後を現在の日本よりも切に思い起こしもの思いつづけている。映画『日本のいちばん長かった日』八月十五日、それに先だった廣島と長崎の原爆での壊滅。
いま、全代議士は あの戦争と敗戦とに直かに学び返して欲しい。
それは新天皇夫妻にも秋篠宮家にも、切に願うことである。
平成天皇ご夫妻は、まことにご立派だった。
2019 6/26 211
* 朝起きて、世界の断片的だけれどいろんなニュースに耳と目とを寄せる。多くは、悲惨。力つよきものが力なきものを労りなく虐待する世界。
日本は、あれ以来、日本のいちばん長かった日以来、今もなお屈辱の米属国である。守られたのは日本の統治強権型の戦後保守政権だけ、国民は、若い魂は生きながら老弊し、見るべきを見ず聴くべきを聴かず、正確な日本語を忘れ果てている。
2019 7/10 212
☆ 白楽天の詩句に聴く
隋年減歡笑 年に隋ひて歡笑減じ
逐日添衰疾 日を逐うて衰疾添ふ
且遣花下歌 且(しばら)く花下の歌を遣(し)て
送此杯中物 此の杯中の物を送らしむ(=酒の肴にしよう)
* 國やぶれて山河ぱあれど あの敗戦の日。「断末魔の日の空は青かった」と『禁じられた青春』の著者は謂う。
遠い思い 出と重なるが、あの当日のわたしは、国民学校夏休み中の四年生、しかも丹波の山奥にいた。上の本の著者は私より十歳年長で、この「日本のいちばん長かった 日」には船にも乗らない海軍の「水長」とかであった。十日もせず、日本国の軍隊は失せて、彼はしこたま手に入れた荷を背負って故郷の家族のもとへ「復員兵」として帰宅 した。
それからが、あの、わたしにも記憶の日々に濃くなる「敗戦後」が始まる。
この本の著者の故郷は九州博多辺。私の丹波や京都との差異はあるが「敗戦の実 感」には濃密な共感がある。
「暑い夏、酷熱の夏」「日本人が皆死んだら陛下は」「断末魔の日の空は青かった」「原爆投下へ至複雑な迷路」「玉音放送の意味せるもの」「昭和は死んじ まった」「鍋墨か化粧品か、日本人女性の貞操の危機」「いい奴は死ぬ、屑が残る」「敗戦の屈辱はコキュの嘆き」「パンパン、どぶねずみ、巷が野性に返る 時」「戦争孤児たちよ、騙せ、盗め、かっ払え!」「敗戦の惨苦を口にし得る資格はありや」「物こそ神様、神々の流離譚」「あとがき」
天野哲夫の『禁じられた青春』のあの断末魔の夏以降の「目次」表記を書き出してみた。
むろん全部を記憶と意志とに響かせて熟読し、著者の言句に「異」を唱え たい何一条もなく、わたしは、とかく忘れそうにも忘れたくもなる、しかし決して忘れてはならない「敗戦後」少年の体験を心身に刻みなおした。
よく書き置い てくれたと感謝し胸の震うほどしっかり読んだ。
* それが、「敗戦の八月十五日」を一月後に迎えねばならぬわたしの、文字どおり「記念」の思いである。
歯噛みするほど残念だが わたしは 今の日本、ことにその政治と経済と外交と教育と文学とを、信頼できない。
隋年減歡笑 年に隋ひて歡笑減じ
逐日添衰疾 日を逐うて衰疾添ふ
読み書きの出来るうちは
且遣花下歌 且(しばら)く花下の歌を遣(し)て
送此杯中物 此の杯中の物を送らしむ(=酒の肴にしよう)
2019 7/15 212
* あの敗戦後の何年ものあいだに、天皇制の不要・廃止の議論は当然のように 涌いて出ていた。中学高校のわたくしもそれを自身の問題としたし、落ち着いた思いは、今が天皇制廃止の間違いなく時機ではあるが、日本人の政治感覚。統治 感覚からすると、随時に権力を握った有象無象の好き勝手が横行しかねない、いや確実に賢愚をとわず統制や操縦の利かない政体が生まれて被治者はは底知れぬ メイワクを強いられる。日本人の性格として、概して聡明な賢明なもののあはれ識った政客は存在したことがない、ただかろうじて「万世一系」の血脈信仰を奉 じることで、世の混乱を最低限に避け得てきた。これからも避けうるかどうかは分からないが、権力欲の馬の骨に暴走されるのは防いだ方がいいと感じた。国民 学校の二三年から「日本国史」にのめり込んできた少年の思いであった。
ほんとうに男系万世一系が守られ得ていたか、継体天皇以前は確認も難しいが、少なくも聖徳太子のころ以降は、神経質なほど男系の一系は、女帝が続出の奈 良時代にも遵守されていたが、孝謙=称徳女帝の時は、藤原仲麻呂や僧道鏡の介入で一系の男系は危なくゆらいだ、だからこそ紙幣の顔にも登場した「忠臣」の 大芝居も起きた。以来、皇室と支配階級は江戸時代まで女帝を擁するのを嫌忌した。源平藤橘も徳川も、外戚に執してその先へ出かけたのは足利義満ぐらいで あった。
男系の万世一系に、一人間として特別の価値など感じないが、天皇制が一部の思惑でグチャグチャになってしかも君臨されるのはもっと難儀で不快で無価値・ 無意味である。勝手と謂えば勝手以外の何物でもないが「皇室典範」の現規定は、ま、苦し紛れでもある、しかし、一と工夫なのである。この工夫をほぼ守りぬ いてきた少なくも二千年ちかい事実があり、つまりそれが日本の「歴史」の芯というものであった。浅知恵で弄くり廻して、いわば非皇室の擬似天皇制でその地 位を奪い合うのか、とんでもないかつて未体験の共和国になるというのか、想像するだに忽ちに「日本」は他国の餌に過ぎなくなろう。「歴史」というのは途方 もなく、いいわるいともに、重い、重苦しいもの。小賢しく選択の利くモノでは絶対に無いものと心得ていたい。
マッカーサーは天皇制の重さを賢く占領と統治に利した。あのとき天皇制が押しつぶされて排除廃止されていたら、日本、どうなっていたと思う。大統領選 挙? 聡明で慈愛に溢れた大統領を日本人は選べるの? トランプ? プーチン? 金正恩? 北朝鮮は万世一系皇朝をいまやまたまた制度化しかけているよう にも見える。
* 今上天皇夫妻の上皇夫妻に学んだ毅然たる理性と慈愛とを切に願う。
皇族と自覚している人たちの聡明をも願っておく。
* はっきりいってわたしは現代日本人の聡明と英気とを、信用したくても、出来ない。
2019 7/18 212
* 昨夜おそく、もう寝る前に、機嫌のわるかったラジオが音楽を聴かせて呉れたが、それが「父よあなたは強かった」などの戦中唱歌で、むかついた。敗戦後の歌には身につまされて泣ける作があるが、真実感に徹底して欠けた作為的・国策強要の戦中戦歌には、子供ごころにもただ眉を顰めた。菊池章子の「星の流れに」やあの「異国の丘」などをこそ徹底的に記憶し保存したい。
2019 7/20 212
* 八月十五日 木
戦争は負けてし終ふと告ぐるらし
ま澄みの天(そら)に陛下は見えず
2019 8/15 213
☆ 『日本への遺言 福田恆存語録』(抄)に聴く
仲間うち 日本人のことを、よく秘密ずきだとか、表現が下手だとかいひますが、けつしてそんなことはありません。元来、日本人は開放的で、秘密がない。みんな仲間内 なのです。ですから表現が下手なのではなく、表現の必要がなかつたのです。つまり島国で異民族と接触する機会がほとんどなかつたといふことになります。封 建的といふことばひとつでかたはつきません。
同胞が仲間うちである集団生活に、他人を自己の敵と見なす外国の生きかたがはひつてきたとき、すなはち、自分で自分を守るか、さもなければ権利義務とい ふ契約によつて自分を守るか、さういふ西洋の「仲間そと」の対人関係を押しつけられたとき、明治の日本人が、それによつて利益を得るよりは、失ふところの はうが多かつたのは当然でありませう。これは不可避の歴史的な運命だつたと私はおもふ。私たちはどうしてもそこを通らざるをえなかつたのです。が、そのさ い起つた混乱の原因を、すべて日本人の劣等性にのみ帰してしまふのはまちがひではないでせうか。
制度や法律をいぢくるひとたちの眼には、それが一般民衆のうへに絶大な力をふるつてをり、それなくしては民衆の生活は成りたゝぬやうにみえます。が、仲間うちの生活に馴れ、争ふことを好まぬ日本人の大部分は、生涯、法律の条文ととかゝはりなく暮らしてゐるのです。
* 権威や権力に強いられてセンチに赴いた日本兵は、海外の他国内でこそかなりに強く、はげしく闘ったといえようが、万一、この日本国土内を襲われて闘わ ざるをえなくなった場合、「仲間うち」感覚の日本国民は結束して死守激闘できるのかどうか、なにより当節の都会型若者を眺めている限り、その自立自発性は 予感もしにくい。戦闘(コンバット)は、ベースボールやサッカー・ラグビー等の対戦とは異なりしかも「仲間うち」意識の大観衆はいわば傍観者に過ぎない。
敗戦で占領された当日ないし後日の日本と日本人の大人しさは世界をむしろ驚嘆させた。沖縄の人たちはもはや必然の死を賭して「仲間うち」として無残に討たれたが、本土日本人の「仲間うち」意識は今も沖縄は「仲間そと」のように傍観している。
* あの敗戦直後、丹波の山奥の寥々たる寒村でも、もし刀剣を所持と知られれば沖縄へ連れて行かれ「重労働」と口々におそれ、ある日、ジープの一台が姿を みせるや忽ちに広場の蓆のうえに何十という刀剣類が供出された。秦の母も、箪笥から二振の大小を持ち出したものだ。日本の「仲間うち」は闘わないのだと子 供心(国民学校四年生の夏休み中)に感じた。マッカーサーの米占領軍はあれで比較的穏和に占領していたかとも思われるが、とてもとても「次」は恐怖に突き 落とされるだろう。中国本土へ拉致されたときの恐怖と絶望とが明瞭に知れていればこそ「香港」の人たちは「仲間うち」の力をいま結集している。日本では、 あの安保闘争このかた「仲間うち」結束の力を体験していない。
アメリカは伝統的に「仲間そと」を敵同然に見なしてきた自国本位の国家。そんな国家と「仲間うち」の安全保障を買い取ろうと日本の政権は「仲間うち」からの税金を、古物兵器の買い取りや駐留愚のご接待に尾を振り続けているとみえるが、如何。
2019 8/18 213
☆ 『日本への遺言 福田恆存語録』(抄)に聴く
歴史 小林秀雄が荻生徂徠に学んで学問は歴史に極ると考へるのは至極当然である。吾々は歴史が在る様にしか、歴史が書かれる様にしか生きられないからだ。吾々の人格は吾々の過
去にょつて成立つ。吾々は吾々の過去であり、吾々の過去以外に吾々は存在しない。その吾々はまた歴史の中に生れて来るのである。確かに吾々自身の過去や歴 史が無ければ、吾々は存在しないのだが、その過去や歴史は既に在るからといつて吾々の所有には成らない。無為にして放つて置いたのでは、吾々は禽獣と同じ 様に唯瞬間的現在しか所有出来ない。それは何も所有しないといふ事である。吾々は己れを空しくして過去を、歴史を自分のものにしようと努めなければなら ぬ。それは今日の歴史学が好んでさうする様に現在の自分を正当化するのに好都合な資料の集成を意味しない。歴史を追体験し、それを生きる事、さうする事 にょつてしか、吾々は吾々の過去や歴史を自分の所有と化する事は出来ないのである。そして、過去や歴史を所有出来なければ、人格が成立しないとすれば、歴 史とは人間の本性であるといふ小林秀雄の言葉は充分に納得出来ようし、学問は歴史に極り、学問は人倫の学だといふ考へ方も極く当り前の事に思へて来る筈で ある。
* この八月という月は、痛いほど「現代日本の歴史体験」を想わせる。わたしは求めても原爆体験や八月十四、五日の「記憶を新たにしていたい」一人である。
2019 8/19 213
* 「マ・ア」に起こされたまま、床に坐って中公新書「続・照葉樹林文化」を、ちょっと貪り気味に読んでいた。もっと早くに勉強しておきたかったことがま だまだ幾らもあり、悩ましいほど。幸い、アタマはまだ貪欲なほど敏感に反応してくれる。国民学校に入ってもうすぐわたしは大人のとうに打ち捨てていた通信 教育の教科書「国史」にむしゃぶりつくように繰り返し予も耽った。「歴史」への思いの根は深く遠くへ潜って、いまも時となく露表する。まだまだ生きている ぞと思う。悟り済ましたような老人になるより少年の敏感すぎた敏感をまだまだ持ち運んでいたい。
2019 8/19 213
☆ 「天野哲夫著『禁じられた青春』下巻に聴く」
さきの大戦開戦前夜 全員が非常識を常識と信じ切っている時代に、本当の常識が通用するはずがなかった。走っている列車の車内では、走っているのは列 車ではなくそとの風景のほうだと見える。これが常識だとする世を挙げての非常識は、常識のほうをかえって非常識だと見なしてしまいがちである。
山本五十六ならずとも、手段としての開戦であり、目的は戦争そのものではなく妥協と和睦にこそあるのであった。目標はあくまで有利な講和条約の締結にあった、それが当然の常識であったのに。
* 亡き天野哲夫はもと新潮社の編集者であり、かつ一世を震撼した『家畜人ヤプー』の作者沼正三の本名であった。わたしは、天野哲夫の「批評」を、今でも優れた高みに感じて受け容れている。その幾分かを「今日」にも伝えたいと思う。
2019 10/1 215
* 少し、感じの出たみじかい一節を適所に追加で挿めた。納得がいった。
視力のために大きな字で書き続けてきたので、さて入稿の10級にもどすと、少なくも25頁分ほどは減っていた。「湖の本」の、平均ほぼ一巻分にはなっている。1000枚の長編『オイノ・セクスアリス 或る寓話』に次いで、また長編といえる<最新作>を続けざま送りだせるのは小説作家としての身の幸と思う。感謝する。
2019 10/1 215
☆ 「天野哲夫著『禁じられた青春』下巻に聴く」
〝蒋介石を相手とせず″と言い放って江兆銘(精衛)の南京政権を画策した日本ではあったが、その裏では常に重慶の蒋介石とは連絡路線がいくつもつなげられていて、日本の本音では、江兆銘ではなく、やはり蒋介石との手打ち式がやりたくて、その裏交渉の掛引きに腐心したのである。
蒋介石は米英を恫喝して、支那に対しての援助をもっと 強化せよ、ビルマからの援蒋ルートを活発化せよ、米英ソの三国だけではなく、支那をも入れた四大国を同列に扱えと、ごねにごね通しで後にカイロ会談をも開 かせ、国際的地位を米英ソと同格に確保した。もし、支那を軽く扱うなら、支那は連合国側から抜け出て勝手に日本と手を結ぶがよろしいか、という含みを持た せて蒋介石はスゴミをきかせたという。それはそれなりの、対日ルートの窓口がいくつもあったからである。
こうしてみてみると、フリードリヒ・ハックの忠告や中野正剛にまつまでもなく、長期戦、百年戦争を覚悟せよと国民には云いながら、軍指導層は、開戦当初 から停戦和睦のいい潮どきを模索していたのである。永びけば馬脚が現われることを、いちばんよく知っていたのは軍部であったのかもしれない。
* 中国の久しい歴史が示してきたのは、どの時代のどの国とても「外交」上手でなくては生き延びられなかったと云うこと。わたしの小さかった頃、まだ「国民学 校一年生」早々の子供までが鼻歌然と侮蔑の的として悪態をつき誰も当然に思い顔でいたのは、アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、そ して「支那」の蒋介石だった。「ソ連」のスターリンのことは子供の知見のまだ範囲外であった。それにしてもカイロ会談やボッダム宣言に支那の蒋介石まで顔 を並べているのには子供心にも奇異でかつ驚きであった。
わたしは昭和十七年(一九四二)四月から尋常小学校入りであったが、この春から小学校は「国民学校」と名をあらためていた。太平洋戦争(大東亜戦争)は 前年暮れの八日の真珠湾「トラトラトラ」奇襲の日に始まっていたが「支那」との戦争はもっと早くから膠着同然につづいていた。「戦争」は昭和二十年、一九 四五年、わたしの十歳半四年生の夏休み中に丹波の疎開先で「敗戦」した。だれもが「終戦」と謂うていた。国民学校はもとの小学校に戻った。紙を畳んだだけ の教科書のいたるところに墨で抹消の指示が出た。先生も、上級生も、ぴたりと、生徒を、下級生を、殴らなくなった。
* こういう現代の史実も、あれから七十数年、作家と称しているわたしの息子ですら、しかと心得ているかどうか覚束ない。物書きは「歴史と人間と」から普段に深く学ぶしかないとわたしは感じてきた。
2019 10/2 215
☆ 「天野哲夫著『禁じられた青春』下巻に聴く」
昭和十七年一月一日、宮中の年賀の式典に前総理で重臣の近衛文麿が参内したところ、わらわらと枢密顧問官の老人たちが彼を取り巻くように寄ってきて、口々に興奮しきった子供のような取り
のぼせ方で言いたてた。
「近衛さん、実に惜しかったですね。あなたがもうちょっと総理をつとめていたら、今回のような大戦果の栄誉は東条(秀樹・当時首相)ではなくあなたの上に輝いたんですから、惜しいことでしたな」
代わる代わる、口々に上気した顔で挨拶をしてくる、これには、近衛も答えようがなく、苦笑するばかりであった。
枢密顧問官といえば、天皇の諮詢(しじゅん)にこたえるための枢密院を構成する、勅任官という上級官吏の中でも、特に天皇の親任によつて叙任される最高 官吏で、主として、文官がこれを占める。例えば宮中顧問官、元老院議官、諸大臣に大審院長、東大をはじめとする帝国大学総長、帝国学士院長などの経験者中 から天皇によって親任される。いわゆる制服組ではない。文民の超一流をなす人々である。昨日までは戦争を危惧し眉をひそめていた人々である。その日本の知 性を代表すべき老人たちが、今、鬼の首をでも取ったように興奮して、この手柄は東条でなく近衛さんに取らせたかった、惜しいことをしたと、言いたてるので ある。
制服組は外見こそ尊大で倨傲に見えたかもしれぬが、直接の責任を負う立場から、思わぬ緒戦(真珠湾奇襲等)の勝利に喜びはしたものの、だからなお、この先が大変だ、の自覚があった。ところが文民たちは、文学者も画家もその他芸術家もマスコミも、あげてもう単純にこのままの(対米英中)勝利を信じて熱狂したのである。
* こんにち、政権に追従して最も憂慮される一つは、上級裁判所かもしれぬ。下級審の良い判決を往々にして平然と覆し、怪訝をきわめる「行政の後追い」をしていないか。 2019 10/3 215
* どうあがいても とり返しつかぬ事がある。生まれてきたということ。
* さすがに、それでも少し寛いでいる。
仕事というのは、終えるのが妙薬である。「剣客商売」を観てきた。酒が美味し。
2019 10/3 215
☆ 「天野哲夫著『禁じられた青春』下巻に聴く」
昭和十七年の『中央公論』新年号の画期的な大座談会『総力戦の哲学』は、『中央公論』の総力をあげて取り組んだ大企画で、京都哲学の四俊とうたわれる第一線の哲学者四人、高坂正顕、鈴木成高、高山岩男、西谷啓次を配して縦横に「戦争」を論じさせたものである。
高坂が口火を切り、「戦争は歴史の現実を分析する鋭い顧微鏡のようなもの、戦争はわれわれに歴史の動力学を教えてくれる」といえば、鈴木は、「戦争は歴 史を掘り下げますね、高坂さんの〝戦争の形而上学〟もそうだが、戦争は哲学を要求する性質があって、そこに総力戦の意味がある、哲学的戦争ですね」と応じ て、いわゆる戦術史的な戦争観を超克することを提唱する。「近代が行き詰って総力戦がある、つまり総力戦とは近代の超克なんです」
高山岩男が発言する。
「史観というものが必要だ。ルーデンドルフが前大戦から定義づけた全体戦とも非常に違うね。宣
戦布告で戦争が始まり講和談判で終って平和が戻る、こんな理解で今度の戦争を考えると危険だ
ね。(真珠湾奇襲の=)十 二月八日に大戦が始まったんじゃなく、支那事変とか経済封鎖というときに既に始まってるんだ、それが、今までのように講和談判で終るという形はとるまい。 一方で戦争しながら一方で東亜共栄圏の建設をやる。こうしていけば絶対不敗で、そのうちにはこの共栄圏を、新秩序というものを認めざるを得なくなる、この ときが終りだ。これは世界観転換の問題なんだ」
鈴木「よく解るね」
(私<=著者・天野>などにはなんにも分らない)
西谷「倫理や世界観といっても、それは平時のもので、戦争では一時逸脱する。同時に、平時とか戦時とかの区別を超えた歴史のもっと深い底から戦争は盛り上ってくる……戦争自身の中に建設
があるので、そこを見なければなるまい」
高山「それが皇戦、当然皇戦にならざるを得ない」
西谷「単に戦いというものを超えてね、歴史的なものだ」
鈴木「その、戦時と平時の区別をなくす、僕も賛成したい……ブルクハルトは最も真剣に戦争を
考えつめた歴史家だが、同じような考えだね。……戦争は惨害だというだけでは済ませない、戦争
は歴史の真理を発掘してくれるものだ」
高山「大乗的な指導の立場、日本には実に高い立場から指導するという精神が流れている。平和
主義の空虚な観念は現実的ではない、本当に大きい和、〝大和〟だ、これを指導できない……」
以上は、大座談のごく一部である。軍部に対する人文主義の最高の叡智と仰がれる哲学界の俊秀が、いったい何をしゃべりあっているのか、延々六十ページにわたる大特集のどこを読んでも分り
はしないのである。分らないどころか、当時でもマンガのようにオカシイのである。
* 「哲学者という名のスノップども」と題された一章のごく一部だあるが、私も天野の憫笑に同調する。「哲学」という美名は、世界史の近代、現代を経過す るに連れ、ほとんと「戯言たわごと・譫言うわごと」と化して、「スノッブどものスノッブ」に他ならなくなった。現代、宗教とともに、それ以上に「哲学は機 能していない」というのが私の久しい実感である。「信仰」はまだしも人を支えうるが、「哲学する」のは容易でなくただ哲学史を講義する「哲学学」だけが、 教室にだけ残っている。
「戦争」を「どう考える」か、それこそは、老若男女、人一人一人の「権利と実感」であるのかも。
2019 10/4 215
☆ 「天野哲夫著『禁じられた青春』下巻に聴く」
かっぱらいがいてスリがいて、アヘンを日常に吸っていて、十歳やそこらの少女が売春をしたり妾になったり、一夫多妻の妻妾同居が珍しいことでは なく、纏足の風習がまだ残っており公然と人身売買があり、手洟をかみ人前でも平気で野糞をたれ、風呂にも入らず垢だらけで虱をわかし、ニンニクの臭いと いっしょくたの悪臭を放ち、義務教育の励行も行われぬので文盲が多く、広大な国土、厖大な人口、悠久の歴史文化を持ちながら実際はその国土も四分五裂、地 方軍閥に土豪に政商がバラバラに割拠して私兵を養い、香港、廈門、澳門を外国に占拠されて公然と麻薬や賭博場のメッカとなり、上海、杭州、蘇州、漢口、沙 市、天津、福州、重慶など手当たり次第に「租界」という名の特殊地域を外国に献上し、「犬と支那人は入るべからず」の立て札を立てられても唯々諾々として 謝謝と叩 頭せんばかりの愛想笑いを浮かべながら面従腹背、嘘八百並べるのもこれも身についた生活の知恵、東三省と呼ばれる東北・満洲の地は、ロシア、日本に権益。 えられ、それなくしても奉天の軍閥、匪賊によって、これさえ本国からは手も出せぬ治外法権の場となっていての勝手放題、こんな国、こんな国民・民族なん て全く考えられない末期的様相であったのである。
思えば、こうした祖国の状況を憂うるあまりの革命行動が頂点に達しての辛亥革命は明治四十四
年十月、湖北省・武昌で烽火をあげ、三民主義(民族、民権、民生)を唱える孫文を臨時大総統として南京に中華民国を成立させたのは明治四十五年一月、その 翌二月に、清朝最後の幼帝、宣統帝、溥儀(三歳)の退位によって、秦の始皇帝以来の二千年にわたる支那王朝の幕は閉じられたのである。
* 書き写すも鬱陶しいが、私が幼少期をようやく抜けて行く昭和十五年(一九四○)ころの隣国支那にかかわる耳学問のほぼありのままが、ここに証言されている。こういう時代を生きてきて、では、もはや無縁の過ぎし歴史か。
そうは思われない、現下のわが日本は首都の空をすら米国に占領されており、そして横浜には「租界」化の懼れも濃厚な「カジノ」を開こうという、国土と国 民の腐敗への誘惑に、政府も横浜市行政も警戒の自覚をもはや抛擲しつつある。どんな客を期待しているのか、「爆買い」の記憶も新たな中国からの旅行者も勘 定に入れているのだろう、あの「支那」といわれた中国はいまや帝国主義的にもアメリカと世界一を争おうという富裕国とも、凄まじい貧富差の國ともみられて いる。
日本は敗戦から七十数年、いまなおアメリカ支配の敗戦国義務をわれからも背負い込んで、国土を分かち古道具並みの武器を大量に税金で買い込んで恥じない 政治が居坐り続けている。かつての「支那」同然の日本国が見たい、支配したいと願望している近隣国は機会を露骨に狙い始めているのではないか、やがて死ん で行くものとして、子孫、弱小の世代にどうか日本の国土と文化を守り抜いてと遺言したい。
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☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』作者)著『禁じられた青春』の下巻に聴く」
まだ、支那事変も始まらぬ以前、特に九州の中等学校の修学旅行においては、旅順、大連とか、上海、蘇州とかへの、海を渡っての大陸旅行が普通であった。
洋車を乗り回した日本の修学旅行の生徒らは、群集心理的な仲間意識と若気からくる客気にはやり、車代を値切りに値切り、ついには一銭も払わず、これに抗議する車夫を四、五人で袋叩きにする、こうしたことは、その夜の宿における自慢たらたらの手柄話となるのであった。
こちらは日本人である、あちらはチャンコロである。この相互の、優越と従属の関係は、自然法
のように当り前な日本人一般の常識と化していたのである。
旅の恥はかき捨て、これがもっと野放図に解放されると、欧米流でいうトローペンコレルToropenkoller、いわゆる熱帯性嗜虐症といわれる圧倒 的に支配的優越感を発現させることになるのである。本国では紳士淑女でも、これが植民地において現地人に宗主国人として臨む時には、時に残酷な圧制者に一 変する。そうした欧米流の植民地支配感覚の、これは疑似体験といったようなものであるのかもしれない。
* わたしの幼い記憶では、つまりは京都市内のただ一角に暮らしていたに過ぎないのだが、幸い敗戦後の「占領軍」(だれもかもが進駐軍としか謂わなかった が。)や私服の「外人」に、上のようなあくどい「メ」に日本の大人や子供が遭っていたということを聞かずにすんでいた。しかし、往昔の日本人には中国の人 を「チャンコロ」呼ばわりしていのは蔽いがたい史実であり、このての史実は世界史的にさまざまに繰り返されているという。
いまだに被占領国土で米追従を陰に陽 に強いられている現実にも目を蔽えないが、いつの日にか不幸にして近隣国の占領支配に遭うときがどんなものかは、想像に余ると覚悟していて然るべきだろ う。そういう「メ」に遭わずに済む真に聡明な日本国政治であって欲しいが、ソクラテスの謂う最悪「僣主独裁統治」強行の現総理のもとでは、いずれ「米国日本州」へと陥落して行く道しか立ち行かなくなりかねぬ。
2019 10/6 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』作者)著『禁じられた青春』の下巻に聴く」
(あの大戦のさ中、昭和十七、八年ごろ) 人生二十五年と、あのころ、私たち青少年は誰もが口にした。実感はまだ痛切にそこまで至らずといえど、しかし、戦争の深まりと成行きを考えれば、私たちの未来に、二十五歳から先があるとは思えなくなっていた。
「今が、いちばん幸せなときだろうね」
と、父がみんなで一緒の夕飯の膳を囲む折に、しばしば口にしていたことを思い浮かべる。(ほどもなく一家は、戦争の煽りでちりぢりになってしまったと。)
あの頃、夏休み冬休みどころではなく、恒に勤労動員で農家の手伝い、飛行場建設の土方作業、松根油採取用の松の根っこ掘り……等々に従事し、その間に軍 事教練があり、(中等学校)五年生になると新兵として実地に全員が(近隣の)四十六部隊に入隊しての兵営宿泊訓練が、少なくとも一週間は義務づけられてい た。
* 天野氏は不運にして私より幾らか年長であった。私は真珠湾奇襲を幼稚園の歳で聞いた。空爆の大戦果よりも私の胸を襲った痛みは、人間魚雷、九軍神爆死 の喧伝だった。その当時から、この私は、「人生二十年」かと思いついていた。米機の爆撃は烈しく、「兵隊さん」に取られることは絶対に避けられないと思っ ていた。すでに私は祖父の蔵書「白楽天詩集」により「新豊の折臂翁」の長詩を読んで胸に抱いていた。自分で自身の腕を折ってでも兵役を避けうるものだろう か。この思いこそが小説家・私の処女作「或る折臂翁」に実った。「人生二十年」かという幼い諦めを打ち消してくれたのは「祖国の敗戦」であった。
* だが、今度戦禍に巻かれる時は、青年天野の体験もあったものでなく、いきなり日本列島は「廣島」「長崎」となりかねぬ。「人生」など敢えなく雲散し霧消しかねない。若い人たちの生き甲斐ある未来は、若い人たち自身の、今が今の、自覚と行動でしか護れない。
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* 以下にことさらに紹介するのは、挙げた文意への賛同とは程遠い批評のためであり、著者の真意も謂うまでもなくそこにある。こういう時代時世心情に、老いも若きも日々引き摺られて無残な国運を懸命に健康に押しとどめる術も力も当時の日本人は持てなかった。
果たして現今は如何。それが問いたい若い人たちに。
「禁じられた青春」とは何であったか。今日、ほんとうの意味で「禁じられてはいない」と云うのか。衆愚政治のまんまと餌食にされてただ痴呆化しているのではないのか、と。
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
茨城県友部町の郊外。そこには、これから大陸へ雄飛しようという青少年のための訓練所があった。主宰者というか指導者というか、加藤完治という農本主義の教育者が所長であった。
友部の訓練所は、農業ではなく一般事業に従事する中卒以上の青少年を訓練する所で、大陸の気候風土にあらかじめ慣れること、そして日本精神涵養の仕上 げ、再確認のための精神教育をやる訓練所であった。この友部や内原あたりは、内陸性気候というか、気候状況が満洲に似ているというのである。九州育ちの私 は、生れて初めて、雫下十度近い寒さ冷たさを体験した。
時折は、朝礼の壇上に加藤完治自身が立つ。彼は、国士として、神道を基礎にした農本主義の実
践的な教育者として名の高い人であった。
「君たちは、ここで、今まで身につけてきた日本精神の総仕上げを行い、勇躍満蒙の地へ旅立つのである。どこへ行こうと、日本精神はアジアの最高原理であり、その実践と、現地民への普(あまね)き教化こそ、君たちに課せられた大使命であることを忘れてはならない。
(一)帰一惟神(かんながら)の原理 我が国土のすべては神の産みなせるもの、この精神は、天地開闢(かいびゃく)の古よりこの国に充ちあふれておる。
(二)天皇の原理 君臣の名分は、国初より厳として確立されておる。大義苟(いやし)くも紊(みだ)るることがあってはならぬ。
(三)八紘為宇(はっこういう)の原理 家は皇国の単元であり、皇室を宗家とする家族国家である。この原理を以て異族をも包含し、皇化融合に努め誠を尽さねばならぬ。
(四)皇道文化の原理 皇国の文化、経済、産業等、また等しく神の産みなせるもの、この道義に則り、広く異国の生成にも実をあげねばならぬ。
(五)無窮弥栄(いやさか)の原理 皇統連綿として存するは万古不易の厳然たる事実であり、
脈々として而(しか)もいよいよ溌剌(はつらつ)、天壌(あめつち)と共に窮(きわま)るところなきを胆に命ずること。
以上、五つの原理を忘れてはならない」
加藤完治は、名物の顎髭しごきつつ、職員の挙手の礼を受け、ゆっくりと壇上から下りた。
ここ、友部の訓練所は、いずれも十七、八歳以上、最低、中等学校卒以上の、いわば当時のセミ・
インテリ層である。
* 二度あることは三度ある 三度目の(正直ならぬ)地獄を、なんら備えずバカ笑いして待つ愚かさとは、付き合えない。
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☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
汽車は安東に三十分はど停車したあと出発した。荒茫千里の大満洲にあって、これから五時間の奉天(瀋陽)までの安奉線は、珍しくトンネルまたトン ネルの難所となっている。何しろ今もって虎が住むという長白山系をかいくぐる二百七十四キロである。難所であって当然であろう。明治四十三年十一月の全面 的開通以前は、奉天ー安東間は旅程三百六十キロ、野越え山越えの旅に十日間を要したというのだから、これをわずか五時間で突破できる安奉線の恩恵は測りがたく思われる。
本来、この線は、ロシアの圧力によるカシニー条約という密約により、当時、清の北京政府がロシアにその敷設権を与えていたものである。それを日露戟争の結果日本が引き継ぐ形になった。ロシアの土木工事はまだ半ばであった。
日本は日支共同組織による用地の補償と、新たな土地購入に手を染め、まずそれまでの土地所有者への弁償、新たに加えて六百二十二万七千二百八坪を購入し たという。その費用、九十七万千六百七十五円、その他に、墓所の土饅頭などの移転埋葬料、風致に美観を添えるべく沿線の寺院を修築、老木名樹を保護、道路 の改修、水流の整備等の間接投資に二百万円、それぞれを投ずる。
それに、本工事の三千万円を合すれば、はぼ三千三百万円もの大金が投下されたことになる。明
治四十三年当時、うどん、そば一杯「三銭五厘」である。それを昭和六十三年に換算すればほぼ一万分の一、当時の三千三百万は、昭和末年にあっては三千三百 億円となろう。これだけが、この局地的な僻遠の人外境に短期間に投じられたことにより、この沿線はいちどきに活況を呈し、一帯は富裕な村落に変貌すること になる。
* 上記引用を読んでこれぞ恩恵に満ちあふれたすばらしい事業と思うかも知れぬが、まさしく、ここに見えるロシアの意図、それを引き継いだ日本の魂胆こ そ、いわゆる弱小國に不動の支配力を意図した典型的な「帝国主義」の発露ないし成果というものであった。利を与えるとみせかけて、根元の利権を他の強国が 握りしめて弱小国に以降永く鑑賞し遂に支配する。満州はその典型であり、衰退の中国はまさに随所に列強の帝国主義支配を許したことで、永く永く苦難の抵抗 闘争を強いられた。蒋介石も毛沢東も、それを闘った。
* 「帝国主義」という強国の暴利支配意図は、英仏米露和メキシコらを歴史的に栄えさせて、日本は鎖国そして明治政府のガンバリで免れ、上記国の仲間入り して、あげく米英と衝突、第二次世界戦争へ拡大した。「帝国主義」を、今もロシアは、中国も、露骨に実践している。云うまでもないアメリカも。日本の保守 政権政府さえも、と、見きわめる眼は必要なのである。
2019 10/9 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
昭和十七年の東京空襲時の経験談を、朴翔龍は詳しく話tてくれ、その印象も強く残っている。
昭和十七年の四月十八日未明、東京の東方千五百キロの海上で、日本の小さな哨戒船第二十三日東丸は英雄的な最期を遂げた。日東丸は洋上に、二隻のアメリカ 空母と一隻の巡洋艦を発見し、急遽、東京へ打電し、巡洋艦ナッシュヴィルの集中砲火九百発を浴びて沈没する。これは、かつての日本海海戦時、行き先不明の バルチック艦隊を南方洋上に発見し、進行方向は津軽海峡でなく
対馬海峡であることを確認する決め手となった仮装巡洋艦・信濃丸の英雄的な第一報に劣らぬ意味合いを持つ。
空母エンタープライズ上の米ウィリアム・ハルゼー海軍中将は、日東丸の最後の打電に神経をと
がらし、猶予はならじと僚船ホーネットに緊急指令を発する。数分後に、ジェームズ・ドーリットル陸軍大佐率いるB25十六機がホーネットを発進する。
飛行距離にぐんと厳しい制約のあった当時の航空機からすれば、この発進は計算に合わないもの
であった。もう五百キロは日本に近づいておかねばならぬところを、計画に狂いが生じ、発進した飛行隊の続制も乱れ、各機がバラバラの状態で本土上空に突っ込んだのである。
十六機のうち、十機はともかくドーリットル自身が指拝し、各機隊形のとりようもなく東京上空に達し、新橋駅周辺に二千ポンドの焼夷弾投下をはじめとして 港湾地帯、製油所、北部下町の鉄鋼工場などを攻撃、日本戦闘機に追われた数機は搭載爆弾を投げ捨てて逃亡にかかるが、捨てられた
爆弾が中学校や病院などに命中し、無差別爆撃の非難を浴びることになる。
B25k三機は横浜の工場、石油タンクを襲い、二機は名古屋を、一機は神戸の川崎航空機工場に
少なからぬ損害を与える。
被爆工場九十、巨大ガスタンク六が破壊され二百名余の負傷者を出したとはいうものの、死者五
名、日本側の損害は軽微にすんだわけである。この結果は、日東丸によって引き起こされたアメリ
カ側の狼狽ぶりによることが大きく、日東丸の功績はもっとたたえられてしかるべきだとされる。
アメリカ軍も一種の決死隊の如く、その結末は惨たるものに終る。
* 日本国土の空襲初体験であったか。やがてこういう惨事は十八年ともなれば度を増し回数を増して、二十年真夏の敗戦まで二度の原爆もふくめ無差別住宅爆撃が各都市を襲い続けた。
もうそんなことはあるまいと、思っているのか。中曽根康宏という鈍感な、何でも「先送り」が得手の総理は日本列島を「不沈空母」と嘯いていた。
なにが不沈空母なものか原発を三基もねらい撃てば日本列島は地獄ぞ
原爆出来る潜水艦は東京湾の奥へまでも忍び寄れる時代なのだ。
2019 10/10 215
天皇(昭和)の怒りは、一つは日本の神聖な空域を犯した神聖冒涜にある。今一つは、天皇がひそかに模索し、打診していた和平交渉に手痛いシッペ返しを食わされた ことである。シンガポール陥落は一つの重要な転機となるはずであった。海軍や外務畑や元老や、天皇の母堂である貞明皇太后をはじめ、中野正剛ら右翼の一部 にすら提唱されていた停戦論を待つまでもなく、この最も有利な時機に米英と交渉の場を持つことは、まさに日本にとって、願ってもない良きタイミングであっ た。この時期、友邦ドイツは欧洲と北アフリカの覇者であり西太平洋と東アジアの覇者は日本であった。アメリカのルーズヴェルト政権の政敵、経済界との不協和音の軋(きしみ)にどうはずみをつけてやるか、事の次第によっては停戦交渉の条件づくりも全くの絵空 事とはいいきれない。ベルン、マドリッド、テヘラン、リオデジャネイロ、ヴァチカンにモスコウでの工作に、木戸幸一も近衛文麿も腐心したものである。
米CIAの前身であるOSS(米戦略局)欧州本部長アレン・ダレスらとのベルンでの接触が模索され、蒋介石との秘密交渉ルートの打診が行われつづけてい たのだ。日本は、進撃を停止するばかりでなく、最小限の支那駐兵と満洲国の承認とボルネオの石油をはじめとする日本に不可欠な資源の保証さえあれば、それ 以外の占領地からは撤兵しよう、ルーズヴェルトや蒋介石のメンツが立つように工夫をしよう、こうした腹づもりを持っての打診である。
期待された反応は何一つなかった。その代りに、いきなりドーリットルの東京奇襲を受けたのである。これがアメリカの回答である。
(二十数万人非戦闘員農民の殺害を伴ったの日本軍の昭和十七年五月より八月にかけ、四ヶ月にわたった)浙江作戦は、仕返しと見せしめのための懲罰作戟ではあるが、同時に、神州不可侵体制を確固としたものに固めあげる重要な意味をも含めていた。
* 一度起きた戦闘行為の戦争は、はかりがたい何から破滅的に拡大していくか知れない。開戦は概ねそのように起きたことを憂慮し配慮しなければ。
* グレン・グールドのゴールドベルク変奏曲、男性的なピアノの底深さに聴き入りながら、あぶない歴史を反芻している、わたし。やれやれ。
2019 10/11 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
北太平洋のど真ん中に、併せて四平方キロにも満たない、ミッドウエー。ここまで来ればハワイ諸島はねう近い。ハワイの前衛でもあるこの島は、日本側の動 向を探る無線盗聴と偵察機の警報線形作る触覚。これをもぎ取り、逆にこれをアメリカ西海岸へ向け変えることは、日本にとり、これ以上の重大な作戦は無いと 見えた。
山本五十六が編成した艦隊は、陸においてヒトラーの大機械化軍団三百万、おそらく史上最強の軍団といわるるに対し、これは海における最強最大の大艦隊であった。
作戦に遺漏はなかった。長官・山本五十六は、かつての三笠艦上で指揮を執る東郷平八郎さながら、世界最強の大戦艦大和の艦橋から号令する。
だが、勝つべき戦いに山本艦隊は負け、負けるべき戦いにニミッツ艦隊は勝利したのである。山本五十六は戦死した。
* 日本海軍の戦力は半分以下に落ちた。次に待っていたのは「アッツ島の玉砕」「ガダルカナルの地獄」であった。戦意を失したのでなく、経済戦争において、とうてい日本はアメリカに太刀打ち成らなかった。
2019 10/12 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
(満州では)日本人であるということが、それ自体で既に特権者である。私は特権階級の一員として遇されていた。日本人に准じ、日本人待遇という 扱いが朝鮮人。現地の本国人である満人にシナ人は更にその下である。つまり、その土地の者が一番下で、よそ者の朝鮮人がその上、更によそ者の日本人が一番 上にあって、私など、ポッと出の青二才が月給一百塊円(ほぼ日本の円といっしょ、百円 内地では大卒以上で)、そんな私・日本人が将校とたとえれば、どう優秀であれ年輩であれ 朝鮮人は下士官か古参兵あたり、その下で兵隊なみの満人、シナ人の不満はもっともで、鮮人を怨み、鮮人は満人・シナ人を軽蔑した。しかも日本が謳いあげていた建前「満州」の旗 印は、「人種平等・日鮮同盟・五族協和」で、なんともそらぞらしいことであった。
* 支配する國と国民、支配される國と国民の、さもさも当たり前のような「図」が、今日ですら、世界中に見受けられる。トランブが将校なら安倍晋三は、中国はおろか北朝鮮以下の兵隊のように「ヘイコラ」と屈服し奉仕していると見えているのだが、如何。
2019 10/13 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
シナは、日本にとっては常に仰ぐべき師表であり、学を、道を、倫理を、仏を求むべき母胎であ
り続けた。そのシナが、(あの満州建国の時代)なぜあの ように零落しきってしまったのであろう。文字の国といわれながら、現状は民衆の九割もが文盲といわれる。煙草とアヘンとセックスと堕胎は大人だけではなく 子供にとっても日常化した風俗となり、人身売買が横行し泥棒に野盗山賊に私兵を養う地方地方の豪族大地主は幾十幾百の奴隷を畜(か)い、そして纏足に宦官 という奇習で知名度高い老残の國、老残の民族、世界の侮蔑を一身に受け、鉄道鉱山をはじめとする基幹的権益を諸外国に分け捕りされ、しかも主要都市に外国 租界というシナ特有の治外法権の地区を許し、〝イヌとシナ人は入るべからず″の立札など立てられていかんとも出来得ずにいるこの民族は、それを現実におい て目のあたりに見るとき、私たちが歴史的に教えられてきた栄光あるシナ民族とは、どうしても一つのものとして重なることができないのである。西欧列強が腐 肉に群がるようにこの病める大陸を争ってむさぼり食うあさましさは、見るに耐えなかった。人間は、このことにおいては、ハゲタカやハイエナをそしることは できないのである。隣人としてこれを坐視するを得ず、なおこれを放置すれば明日は同じく我が身に降りかかる災いであるから、アジア防衛の義を以て立った日 本ではあったが、その理想主義はいつしか現実には西欧列強に劣らぬ(帝国主義的な)利権漁りにと変貌して餓狼の如き貪婪さを発揮する。
その大きな誘因は、あの当時シナ人の卑屈な「没法子(メイファーズ)」という言葉に露われていた。「泣く子と地頭には勝てぬ」「長いものには巻かれろ」であった。
* 今日只今の我が国日本の政治に、そのケは無いと言い切れますか、安倍サン。
2019 10/14 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
戟局は日々悪化の気配であった。ヨーロッパのドイツ軍は、あらゆる戦線で敗色を濃くし、北仏ノルマンディに連合軍の上陸を許し、その後二ヶ月余りの戦いの末パリは解放された。
ちょうどこの時期、日本のサイパン守備隊二万と民間人一万人以上が全滅する。新聞用語では玉砕とあるだけで全滅とは書かなかった。玉砕より全滅のほうが 切実感があってより強く我々の決意を新たにさせるものがあるのであるが、こうした言葉の言い換え、スリ換えが頻発して怪しまれない時期とはなっていたので ある。
* 子供心にも 子供の目にも ありありとあの「玉砕」二字は記憶にあり、わたしは、この美しそうな言葉の故に前途への悲観をしかと覚えた。
よく覚えている、わたしは国民学校二年生で、教員室の廊下に張り出されていた世界地図に、日本軍が戦果をあげたらしい各所に小さな日の丸が挿してあるの を友達と見入りながら、日本は「負ける。この日本列島の、アメリカ国土とくらべて問題にならん小っちゃさを観て分かるやんか」と口にしたとたん、通りか かった男先生に、廊下の壁に叩きつけるほど殴られた。昭和十八年の新学期だった。サイパン島での全滅は一年余もして、昭和十九年七月七日の悲惨であった。 わたしは生来の悲観少年だったか。先生にぶっトバされた時も、そうは思わなかった。理は理だと思っていた。
2019 10/15 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
当時十八歳の(天野)少年の目からしても、(太平洋)戦争の勝利はおぼつかなく思えた。じゃ、負けるのかというと、奇妙なことに敗戟の実感もな かった。人生二十五年と口で言い、二十五歳まで生きられれば充分だと思い定めつつ、本音のところの実感はなかった。天皇の醜(しこ)の御楯(みたて)とし て二十五歳を限りに死ぬんだの意識は最初からなかった。天皇のためと心底燃え立つが如くに覚悟できていた壮年(の日本人)が、果して何人いたかは覚束ない ことである。建前ではそうはいっても、それは抗いがたい運命のために、運命に捕まった諦念の如きものでの二十五歳を受容していたまでのことである。天皇と は、私たちの、強制的な運命として存在したのである。土下座をして、恐懼感涙にむせびつつ拝むべき運命そのものであった。
「天皇陛下バンザイ!」と叫んで日本兵は喜んで戟死をするという神話を、当時、本当に信じる者
は少なかった。死ぬ時は、「お母さん!」と叫ぶ、誰もそのはうが納得できる話であった。それをし
も、「天皇陛下バンザイ」を信じていなければならないのである。それは天災の如き運命として抗す
べくもなく信じねばならないのである。信じることに慣らされるうちに、天災にさえも、それを天の恵みとして感謝する、第二の天性が育つものである。それが 運命というものであった。その運命という磐石の重石の下からでも、しかし天皇の名にかえてお母さん! の叫びを消し去ることはできなかったのではなかろう か、建前がいかにあろうとも。
勝つとは思えないが、負けるとも考えられない、正直、それが大多数の実感であったろう。勝ちはしないが負けもしない、じゃ、どうなるのか、それが分らない。あるのは一日一日だけが確実に経過していく事実だけであった。
* 天野さんの十八歳頃、わたしは八、九歳へ歩んでいて、ここまでハッキリはしないが、地図だけ観ても国力の差、日本は勝てないだろうと口に出し、先生に壁へ叩き付けられていた。
だが 私の今の思いは、万一、次に戦争が起きた時は、戦場で「お母さん」と呼んで死ぬどころか、みんな一緒に瞬時にアウトという、廣島、長崎どころでない威力の下で灼 けて蒸発する確率の高さなのである。それを念頭に現実の日々を実感で把握していなければ、と。
風水害も予防しきれない国内政治のママで、 他国で古道具化していかねない兵器買いに、うつけ顔で途方もない「円」を無駄遣いしている歴史・今日感覚で、よろしいんですかと、誰よりも若い人たちに未来を賭して発言 し行動して欲しい。そいう気がしています。
* 「フヽウ こいつ日本!」という感嘆詞で<「エラヒと賞美」の流行り言葉の流行った時期が江戸の末期にあったという。 いま、「こいつ日本!」と何に 感嘆出来るかなあ。国連で温暖化の危険を言を尽くして怒った他国の少女。あれぐらいを日本の若者が云うてくれれば、おおごえで「おお こいつ日本!」と叫 びたくなるのだが。
2019 10/16 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
「八路はな、ほんというと、匪賊じゃない。共産党の軍隊や。共産党って、知っとるか? うん、そりゃ詳しか話はでけんし、俺もホントのところは分らんが、大金持ばなくして、みんな公平に富を分かち合おうって、えらい理想的なことば目標にしとる。
でもな、俺は密雲ちゅう町の居酒屋で聞いちょったが、百姓たちが話しとるとたい。
〝シナ人は、どうしてこうも貧乏じゃろう?″
一人がいうと、一人が答える。
〝金がないからよ″
〝金、どこへ行っちまうのかよ″
〝日本人が持っていく。蒋介石が持っていく。あとは人民軍が持ってくんだよ″
どんな理想か知らんが、シナ人はな、本当は何も信じちゃいない、ただ思っとるのは、変化だけだよ、明日何かが変わってくれさえすればいいとね。何がどう 変ろうと、変りさえすれば、今日、現在より悪く変ることだけは絶対にないと思ってるからね。みんな、ホントは何も信じとらんのだ」
* 上の「シナ人」の代わりに思ってみたい、今日只今、あの敗戦から74年のわが「日本人」は、「何」を「信じ」て、または「信じない」で、「ど う」日々を暮らしているのだろう。「どう」という思いをまったく忘れ果てるか、そんな思議の「能」を喪い果てているのではないのか、ゾッとすることがあ る。
2019 10/17 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
男は死に際が肝心〟と言われた。〝往生際の悪い奴″は軽蔑された。死をも怖れぬ者は〝敵ながら天晴れ〟として相応の敬意が払われた。そして〝瓦となって全うするより玉となって砕けん〟が信条とされた。
乃木希典は夫妻ともども明治天皇に殉じて死んだが、殉死そのものというより、かねがね自分の
死に場所を、死のタイミングを捜しつつ生きていて、たまたま大帝崩御に絶好のその機会を発見し
たとも言われる。目的はかねがねの宿題であった〝死に場所捜し〟にあり、天皇の薨去はたまたまの方便的機縁にすぎなかったということである。その当否はい ずれにしても、ただ言えることは、当時の青少年に強く灼きつけられていた〝男の死に方″という重い命題である。〝天皇″信仰や〝護国の鬼″という心情ぐる みの理念は、もしかすれば、繰り返すようであるが、たまたまの方便的機縁ではなかろうかと考えたりもした。
平時には間遠に聞える海鳴りのようにしか死の音を聞くことはないが、戦時下の当時にあっては
〝死″は直接に岩壁に吼ゆる波浪の轟きの如くに目前に聞えたものである。戦時下とは、執行猶予付き引き伸ばされた時間ではなく、実刑判決の如き、凝縮され た時間であった。その時間に捕まり、その時間の中で凝縮的に生きるしかない運命しかないとしたら、そしてほかに選択の余地がない場所に追い込まれていたと したら、人はその立場を正当化するものである。正当化のための理論が正当化されるのである。あの当時敗色濃き戦時下の私たちは、大いに死を正当化し、その 正当化のための理論に傾倒し、心情的にも内省的にも死の理論に自らを馴致していったもののようである。
天皇と祖国は不可分のものであった。シャム双生児のように、それは同体のものであった。天皇
は即祖国という理念と信仰の体現者であり、祖国は天皇という国体を具現化する代理的表現とも
なっていた。天皇が祖国を表現する具現者ではなく、祖国のほうが天皇を表現するために代置せしろられているという形であった。そして、結果的に、その二つは一体のものであった。
それらの事情の深い検証を、当時の青少年は試みずにしまった。軍制化の弾圧体制という人為的
な機構上の制度によって抑え込まれていたことは、もちろん大きな原因の一つであろう。しかし、
それにもまして、私たちの心情の中には、〝恋を恋する″がように、〝死に場所、死に方″に恋をし
ていたという下準備が既にして整っていたことによるものとも思える。
私たちの耳には、大楠公のいわゆる七生報国ということは、つまりは、”お前は死ねるか!”という問題でしかなかった。
* 当時八、九歳の私にも、「お前は死ねるか」という無音の問いは心臓をかすかとすら言えず震わせていた。私のその場合の死とは、空爆死によるよりも、いずれ決して遁れ得ぬ「兵役」の代名詞のようであった。天皇の国体護持などという思いとは、かけ離れていた。
* 私は今 暫定・限定的に新憲法による「象徴天皇制」をむしろ前向きに受け容れている。その真意の大方は、さきの平成上皇・上皇后の真摯な在位期への敬 愛と心服にのみ拠っており、願わくは令和の御夫妻にも切に切に同じご努力を期待し希望している。私は、即位される新天皇さんを、皇太子さんの昔から人格的 に信愛している。
しかし、天皇制が、その将来において無価値な帝政の旧態へ退行し悪しき藩塀がまといついて民主主義と憲法を冒そうとでも動くなら、けっして許容しない。そんなもののなかで死に場所など求めてはならない。
2019 10/18 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
昭和十九年は実に駆足の如くにすぎていった。この年の六月--ローマの陥落、ノルマンディのいわゆる「史上最大の作戦」、七月--学童疎開の開始、サイパン島玉砕、東条内閣総辞職、八月--シナ南部からB29の北九州、南朝鮮、山陰地方への空襲、パリ陥落、九月--停戦交渉をなんとかソ連に仲介してもらおうと特派使節派遣を最高戦争指導会議で決定しながらモロトフ外相に拒否されるという醜態、ドイツのV2号ロケット弾は画期的傑作として威力を発揮したが時すでに遅しの憾み、そして十月-レイテ沖海戦、神風特別攻撃隊の初出撃、十一月-- 超弩級、幻の大空母『信濃』が竣工しながら、四国へ回航中、米潜水艦の魚雷四発であえなく沈没、わずか十日間の束の間の命、サイパン、テニアン、グァムの 飛行場からB29の東京大空襲の開始と入れ違いに、日本からは風任せ風頼りの風船爆弾九千三百個が大空に放たれる苦しまぎれの「ふ」号作戦開始--
* 私は九歳、この愉快ならぬ報道の殆どを、耳ラジオ、目新聞から受け取っていた。
「風船爆弾?」 さすがに口には出さなかったが、失笑し失望した。
疎開先の田舎、当時の京都府南桑田郡樫田村字杉生の農家には書籍をほぼ全く見なかった。むろん本屋もなかった。秦の父母はわたしのために本を買うなど一 切なかった、病気した時に「花は無桜木人は武士」という半漫画のようなのを買ってくれたのが只一度で、失笑するしかなかった。仕方なく母と叔母の婦人雑誌 の買い置き二册を繰り返し読んだし、京都にさえいれば祖父の漢籍や古典や辞書が山のようにあり飽きなかったけれど、疎開先へは持ち出していなかった。読む モノ無し、教科書と遅れ遅れの新聞だけ、ラジオは聴けた。京都へ早く帰りたかった。
2019 10/19 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
本当に米機の空襲が始まったのは昭和十九年の十月、シナ本土から北九州爆撃が最初。東京空襲も 同年、十一月二十四日をもってやっと初空襲が開始された、その目標も、製鉄所、飛行機工場、飛行場等に限られ、民間人は、まして地方の家々では、首を長 く、枕も高々と敵B29の編隊を仰ぎ見ながら、さながら渡り鳥の飛来を見るようにその美しさを嘆賞している余裕さえ見せていた。
大本営が、フィリッピンを決戦場と決したのは昭和十九年(一九四四)十月十八日、レイテ沖海戦は十月二十三日から二十五日にかけての一大海空戦であっ て、結局、巨艦武蔵の沈没をはじめとするわが連合艦隊滅亡の戦いとなった。敗北が決定的となっていた二十五日、神風特別攻撃隊が初出撃した。体当たりの自 爆機十三機に護衛機十三機を四隊に編成し、本居宣長の和歌にちなみ「敷島」「大和」「朝日」「山桜」の各隊とし、その指揮を弱冠二十四歳の関行夫大尉が とった。
二百五十キロの爆弾を抱えた零戦が、レイテ沖の米空母に体当りして自爆、一隻を撃沈、三隻を破壊。その壮烈なニュース報道、そしてニュース映画には確か に形容しがたい感動を与えられたものである。よしんば、当初からこの戦争に疑義を持ちつづけた人であっても、特攻隊は全く別次元の衝迫力で人の心をも揺さ ぶるものがあった。
「たまらない気がするね。とにかく(若者の命が)、惜しいね」
もうこれが最後という沖縄からの疎開船に乗って、幸運にも私の(満州からの)帰郷の直前に引き揚げて来ていた父が、代用食の夕食の膳を囲みながらつくづくと言ったものである。
* 私は目前に満九歳を控え、まだ京の祇園に近い自宅にいた。むろん特攻隊の壮烈死も新聞やラジオで知った。堪らなくイヤだった。臆病もむろんあったが、 それだけではなかった。しかも、私も空襲に向かうB29の機影を振り仰いでよそごとのように眺めていたのを想い出す。わがことにさし逼らねばモノを見よう としない、それがどんなに怖ろしい結果を引き寄せるか、令和を謳歌の若い人たちに考えて欲しい、せめていま香港の民衆を目に耳に胸に焼きつけて。
2019 10/20 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
後になって追懐されるとき、戦時下の日本列島を暗黒の黒一色に塗りつぶすことは一種の後知恵による時代印象の改竄である。三寒四温の気流のぅねりというものがあるのであり、 人それぞれの笑いや涙や団欒は、あの時代は時代のものとして、日々に営まれていたのである。そして一億一心の総力戦では確かにありながら、人されざれの置かれた幸不幸の差は、極端に不平等なものといえた。幸運なものは、空襲をされず、家を焼かれず、兵隊にとられることもなしに過すことができた。
その限り、その人たちは楽天的であった。そしてその範囲において、わが将士の奮戦ぶりに、沖縄のひめゆり部隊の壮絶な集団自決に、誰よりも熱く感動したのである。
* この指摘は、峻烈に正鵠を射ている。爆撃されなかった京都に育ち丹波の山奥へ疎開し、敗戦後も一年して傷つかず焼けもせず戦禍の何一つにも遭わぬ京都市内の家へ私は帰っていった。
幾度も幾度もこの幸運と、対比を絶していた同じ日本人やその家庭の不幸を思わずにおれなかった。その思いが熱ければ熱いほど私のうちに忸怩としたモノがぶすぶす燃えた。
* その思いに重なってくるいましも聴くジャズの名曲「St.James Infirmary」の17バンドの切々として独自の演奏に胸打たれ胸を塞がれている。盤をおくって呉れた森下君の解説によると、「私の好きなディキシーランド・ジャズの名曲St・James Infirmary「聖ジェームズ病院」を聴き比べて頂こうとおもいま す。売春婦の情夫が彼女の死を知って聖ジェームズ病院にやってくるところから歌の曲は始まりますが、それぞれの楽団が薄幸の女の死をもの悲しい旋律で紡ぎ 出しています」と。
わたしは敗戦後の無傷な京都市内でも夥しい「売春婦 パンパン」を日常に見知っていた。買い手の占領軍兵士であれ「情夫」であれ何の珍しさもなく、しか も私は「負ける」とはこれだこれだこれだとよく泣いた。私が戦後歌謡曲で他の何にも何百倍して今でさえあの、「星の流れに身をうらなって」と歌った菊池章子 の歌を思うのと、このジャズとは、痛いほど強烈に連携してくる。伴奏など似てる気さえする。
2019 10/21 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
限りなくゼロに近いといっても、我が高射砲が、時には彼ら(空襲の米機)を撃墜することもある にはあったのである。搭乗兵はパラシュートで脱出し、住民に生捕りにされる。こうしたことが、ごくたまにはあって、そして、私が目撃したアメリカ兵という のは、偶然にも、ごくまれにしかない、こうしたケースでのB29搭乗員だったようである。
付添いの日本の衛生兵が、担架の中にしゃがみ込み、万国赤十字精神にのっとるかのように両側に、横たわるアメリカ負傷兵の面倒に、細心の注意を払ってい るようであった。更にその両側を、殺気ばしった目つきの憲兵上等兵と伍長が、これはまた、いかめしくも剣付き鉄砲の銃身を右腕に水平にかまえ、必要とあら ば、発砲するも刺突するも如何ようにも即応する構えを群衆に見せている。憲兵は、アメリカ兵を群衆から守るために、必殺の気構えなのだ。
群がる地元民は、在郷軍人や警防団や国防婦人会や、雑多な組合せながら、いずれも手に手に
竹槍を持ち、それは地元工場の挺身隊に動員されてきているらしい、若い女子学生とて同様であっ
た。教員もいたろうし工員もいる、農民もいる、主婦もいる、子供もいた。
「たたっ殺せ! 刺し殺せ!」の怒号は、彼と彼女らが一団となって発する喚き声であった。
思うに、見るも無残なアメリカ兵の様相というのも、パラシュート脱出降下時の負傷というより、
それが軍当局に通報され憲兵が逮捕・護送のため駆けつける小一時間ばかりの間に、それを生捕りにした地元民間人たちのリンチによるものだったようである。
憲兵とは、怖い存在である。特高と憲兵が衝突すると、どちらが勝つだろうか、やっぱり、いくら特高でも憲兵に勝つことはできまい、憲兵とは、それほどに威力的で、怖ろしい存在であった。
ところが、私は、憲兵より怖ろしいものを見た。それは、一般民衆というものであった。普通はごく優しくて親切な小父さんたちであろうと思える人達が、時と 場合によっては、凶暴な集団に一変してしまう。野獣のような人間というが、野獣は、最低限、食うためだけの殺しをしかしない、腹満ちてあれば、ライオンで すら目を細めて通りすぎる兎を優しく見送るというではないか。
「たたっ殺せ、刺し殺せ!}
衆をたのんでトコトン傷めつけてやろうとする歯止めのはずれたサディズムの快感。
* 分からないでない、が、分かってはならない。
2019 10/22 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
「モハヤワレワレハ敵ノ空母ノ数ノ優勢ヲ在来ノ攻撃方法ニヨッテハ覆スコト能ハズ。ワレハ体当リ戦術ヲ実行スル特殊攻撃隊ノ即時ノ組織化ヲ主張スル。(軍需省の大西瀧治郎海軍中将宛 空母「千代田」發電報)
この作戦は、大いなる誘惑であった。安上りな一とただ一人の命と引換えに大艦を沈め、数千人を殺傷できるとなれば実に有利な取引といえる。そして機能的な安上りの日本の飛行機は、使い捨てにもってこいの条件を備えていた。ただ突っ込めばいいのである。
神風特別攻撃隊の最初の出撃はサイパン玉砕戦から四ヶ月後の昭和十九年十月二十五日、レイテ沖海戦の折敢行された。出撃機は四機、隊員六名。直接の責任者・大西中将は折から次々と輩出していた志願者の中から選ばれた六名を前に訓示を与えた。
諸子は今や神である。諸子は体当りの結果を知ることはない。しかし、それは決して無駄なものでないことを確信してほしい。本官は、及ばずながら諸子の英 雄的行動を最後まで見届け、これを、畏くも大元帥陛下にご報告し奉ることを約束する。諸子は既にして靖国の神である。安んじて往かれんことを。最善を尽さ れんことを要望する。
特攻機第一陣は、ただの四機四人の自爆と引替えに、三隻の敵空母を大破、一隻を撃沈、数百名を殺傷したのである。特攻機は飛び続け若い兵士は戦死し続けた。だが敗色の払拭には遠く及ばなかった。
* 未来へも積み重ねる人類の戦争史でも、二度と繰り返されることのあるまい凄惨な作戦であった。
* 今上天皇の即位式が成された。ご夫妻ともども心身のご健康を願う。即位のお言葉はご立派であった。現憲法をぜひご尊重あっての象徴あられたい。
2019 10/23 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
ヵーティス・ルメー少将が、
日本人の多くは、日本の敗戦を信じなかった。神州不滅が信仰的確信であった。戦後、合衆国戦略爆撃調査団が、日本人は、いつごろから敗戦を自覚し始めたかを、世論調査した時、サイパン島全滅直前の昭和十九年(一九四四)六月時点でも、わずかに「2」パーセントであることが分った。これが、急に敗戦を自覚し始めたのは昭和二十年三月十日の東京大空襲に至ってのことである。マリアナの司令官カーティス・ルメー少将が、ワシントンに「これから目ざましいショーをご覧にいれます」と打電して開始された一大殺戮劇、広島の被爆死者を五百名上回る八万名弱の日本人を焼き殺した一大ページェントに至って、やっと敗戦の可能性を信じ始めたのである。それもしかし、十九パーセントにすぎない。
戦争を悲惨なものとして呪詛する気分が生れたのは、実は敗戦五カ月前のその時に至ってようやっとのことであった。フィ リピンで沖縄で、どんな悲惨事が起こり、敵の来襲が本土のすぐ足元に迫って来つつあろうと、実際に、直接自分らの上に爆弾が落ち目前で家が焼け肉親の凄惨 な死を
目撃し、自ら恐怖の極みを体験することによってでなければ、戦争を呪詛する気分にはなれなかったのでる。だが、それでも、敗戦の自覚と戦争呪詛、戦争はショーでないことを覚った人々は十九パーセントにすぎなかった。
国際法の条約と議定書には、市民に対しての戦時規則があり制約がある、もはやそれが何らの意味をも為さなくなった。それまで、B29は、高空から特定の 目標に正確に爆弾を落す、軍事施設と軍需工場を破壊することが爆撃の目的であった。日本の荒鷲たちが長駆、重慶を昆明を爆撃したのも、同じである。三月十 日の米空軍による東京大空襲はそれを一変させた。「焼き尽せ、殺し尽せ」が目的となった。命中の正確さはもう必要ないこととなった。低空から、人口密集地 に焼夷弾をバラまけばよかったのである。
* アメリカは、事実に於いてこういうことをやる國であつた、そして仕上げかのように広島長崎へ原爆を落としたのだ。許せない。敗戦後の日本政府はこれに対し謝罪一つも正式には求めなかった。許せない。
2019 10/24 215
* いちばん、今、リアルに逼ってきて息苦しいのは、あの追いつめられた「敗戦」の思い出。二度とあんなことを経験してはならない、だれであろう と。それにしても、論外の殺戮絨毯爆撃と原爆を予告もなく投下したアメリカという國をわたしは憎いと思う。それに正面から批判をあびせ得ない出来た日本の 政権をなさけなく思う。
2019 10/24 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
民間人の大量自殺の悲劇で彩られたサイパン戦全滅は、昭 和十九年(一九四四)七月中旬であった。その後のレイテ島攻防戦で、日本軍は四千名の米兵を殺し、引換えに六万五千名の日本兵が死んだ。昭和二十年早々 からのフィリピン戦では、一万余の米兵が死んだが、日本兵は二十六万名弱が死んだ。二月から三月にかけての硫黄島で、七千名の米兵の命と引換えに二万一千 名の日本兵が灰となった。
硫黄島以後、米爆撃機B29にとり、日本内地の上空は好きなように開放されたレジャーランドとた。フラメンコでもジプシー・ダンスでも、お好みのま まに踊り狂って大騒ぎして帰ってくればいい、東京で八万、そしてほかに六十箇所にも及ばんとする日本各地方都市への連日空爆ショーで、二十万日本国民がバーベキュー に献ぜられた。三月十日の東京でのショーは、オリンピック開会式のようなハデなセレモニーとなった。〝我ら戦士、戦闘精神にのっとり、イエロー・モン キーどもを最後の一匹まで焼き殺すことを誓います″との選手宣誓を声高らかに大統領へ誓う米飛行士らの、はずむような声が聞こえてくるようであった。
沖縄決戦では、昭和二十年五月一日から六月二十二日にかけての二ヶ月足らずに十一万名の日本兵士が戦死、巻添えの中学生、女学生らを交えた民間人、約七万五千名が悲惨な死を遂げている。米兵一万三千名の命を奪ったこれがそのあまりにも高くついた代償である。
そして最後のイベントがヒロシマ・ナガサキで決行された。ショーのクライマックスはここにおいて極まり、同時にそれは科学兵器の大規模な人体実験であり、医学をはじめとするあらゆるデータ収集
の貴重な場を提供することにもなった。
戦争の責任問題が皇室に及ぶこと、日本の国体変革にそれが関わることを懸念し、善後策に日本
の上層部が真剣に頑を悩まし始めたサイパン島全滅以後に限っても、総計百万名になんなんとす
る日本人が凄惨な死を遂げた。それは単なる死でなく、どの屠殺場の牛や豚でももっと楽な安楽死を遂げたであろうに、これは引き伸ばされ、その苦痛が余計長びくように仕掛けられた屠殺行為による死というものであった。
* ゾッとする、が、やはり安易に記憶から消し去っては済まぬ取り返し付かぬ「闇黒・残酷時代」が此処に在る。何としても繰り返すまい。屈服や追従や忖度がその道ではあるまい。政治家に真の聡明と機略が望まれる。
2019 10/25 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
大多数の日本の軍人は、下層階級の出身であった。家貧しくしてその子優秀であれば、士官学 校が兵学校が門戸を開いてくれる。なおそのうえ、士官学校や兵学校では、皇族らの学友となれる特権をも得るのである。秩父宮が高松宮が三笠宮が、同期同窓 として学んだのである。日本は藩屏政治であり、結局は(天皇をとりまく貴族、重臣、名門らの)文官支配の政治であった。軍人は、東条秀樹とて、用済みとな ればいつでも首をすげ変えることのできる消耗品として使い捨てができたのである。天皇の意思を完全に無視して行動できる軍人など一人もいなかった。大御心 に添い奉ることこそが……という軍人の本領を踏み外す外道は一人もいなかった。
ここのところの確かな新しい見直しにおいて、アメリカは、一兵の損傷もなく、なお二百万もの武装兵が守備する日本本土の無血占領を果たし、その後の執拗 なゲリラ・テロの反抗を受けることもなく、かえって逆に頼り甲斐のある共産軍への優秀な番犬として「日本」を飼い慣らすことが出来た。これほど従順におと なしく自らの国土をすっからかんに明け渡した例が世界史上にあったろうか。
* 敗戦前、天皇制「日本」の異様なまでの特異が、つくづくと思われる。しかし、新憲法下の「象徴」昭和天皇は、神の威力を脱ぎ捨てた。そして平成、そして令和。おりしも即位式そしてパレードも。
歴史の評価は、難しい。
* こういう顧みをわたしは身に帯びた義務とも感じて今は亡き天野哲夫さんと「対話」している。生前晩年の天野さんとは二三度も文通はあったが、一度もお めには掛かっていない。私のような作家が(いろんな意味があったろうが、天野氏に)関心を持ってくれるのは不思議とも人に漏らされていたようだが、私には 私の「人と思想」を観る思いがあった。
2019 10/26 215
☆ お元気ですか。
エスカレーターでは、難を免れ何よりでした。転倒は怖いものです。後遺症が残って寝たきりになる場合も。これからはお荷物は必ずリュックにしてくださいますように。(=むろん、鳶さんからプレゼントの背負袋を背負っていて、右手に杖と、もう片手に、血糖値検査後の針などを大きな袋に入れ病院へ持参していた。)
話題変わります。
わたくしは、夕方五時から放送されている BS世界のドキュメンタリーシリーズを、料理しながら良く観ています。作業しながら流しているので肝心な部分を聞き逃していることも多いのですが、毎回驚 き呆れることが多くて 「ひどい」ではなく 「ひでェな」と行儀悪い言葉で憤ってしまうことが多いのですが、同時に世界には正義や真実を求めるこれほど多 くの報道関係者、作家やジャーナリストや監督たちがいることに感動も覚えるのです。
一昨日の、タイタニック号がなぜ沈んだか、というドキュメンタリーをご覧になっていたでしょうか。その場合は、読み流していただければと存じます。
偶然、百年以上前のタイタニック号の処女 航海出航時の写真アルバムが発見されたことから、「タイタニック号沈没の真相に迫る」という番組でした。本来衝突でも持ちこたえられる設計であるはずの巨 船が、氷山にぶつかっただけでなぜあれほど短時間に沈没したのか。長い間「謎」とされてきましたが、それにはたしかな理由があったのです。
結論から言うと、新発見の写真から、タイ タニック号は出航前から、船底の燃料貯蔵室で石炭火災が起きていたことがわかり、これが「沈没の主因」でした。会社はこの火災を把握していたにも関わら ず、経営上の問題で強引に出航し、船員たちには厳重な箝口令を布きました。乗船客は火事を知らされずに船旅を楽しんでいたのです。
船員たちは航行中も燃えた石炭を取り除くという作業を必死に続けましたが、大量の石炭を鎮火出来ず 火事は広がるばかりで 収拾できませんでした。
氷山が航路上にあることは分かっていましたが、石炭火災処理のため、航行のスピードを安全速度に落とすことが出来ず、氷山に衝突。千度にもなる石炭火災 により、本来浸水しても船が沈まないための防水隔壁が脆くなっていて一気に水が侵入し、沈没に至ったということが、現代科学で証明されたという話でした。
生きのびた乗組員の火災の証言があったに もかかわらず、この火災は、船舶会社の息のかかった事故調査委員会で「無視」され、「沈没の真相が明らかにされず責任者は罪を免れた」ということでした。 会社の経営優先の結果、千五百余名が海の藻屑となるまったく無惨な「ひでェ話」でした。
一連のドキュメンタリーシリーズを観ながら、いつも感じることは、「世間に流れている定説はすべて疑う必要がある」ということ、「庶民に決して真実は知らされない」ということ、「歴史は殆どが権力側の嘘で出来ている」ということです。
さらに、「わたくしたち日本人は、船底で 火事の起きていることを知らない、あるいは見ようとしない「タイタニック号の乗船客同然」であるかもしれない、という思いが拭えなくなりました。悪化する ばかりの経済然り、収束不可能な原発事故然り、瀕死の民主主義然り、「何か一つのきっかけ」で、「氷山程度のきっかけ」で、海底深く沈没する船に乗ってい る国民よと。
私語に毎日記載されている「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」を読んでいるせいでしょうか。強い危機 感を抱きながら、わたくしごときにも今・此処で何か出来ないかか、出来ることは本当にないのか、と、自分に問うています。
私語の頁に掲載されるさまざまなお写真を見ていると、みづうみが美しいものしか傍に置いていないことがわかります。花も絵も淡々斎好みの末広棗も志賀直哉全集も。
どうぞお元気にお過ごしください。 濁 老の頬に紅潮(さ)すや濁り酒 虚子
* デカプリオと、ケイト・ウィンスレット の「タイタニック」に胸を騒がせたのは何年まえか、昨日のように思えるのに、文字通り「凄い」ことを聴かされた。ちらと「隔壁」の話題を耳にしたと思う が、タイタニックのそんな凄惨な悲劇とは思い寄らず、二階へ戻っていた。何という、欲深い権勢の無責任な「殺人」か。日本人はいまそんなタイタニックの船 客ではという指摘と指弾は胸を震わせる。なんということか、なんということか。
* 「父よあなたは強かった」「暁に祈る」などという歌を流行らせた時代。いやだった。ほんとにいやだった。
そしてあげく、菊池章子は歌声せつせつと「星の流れに身をうらなって」泣いたのだ。敗戦とはあれに極まっていた。繰り返してはならぬ。そのためには國 は、政治は、国民は何を考え何うこころ励まして勤めねばならぬか。文学者達よ、何を考えているのか、言いたまえ。悪政・失政のために、きみの「言葉」をま た売るのか、空しくもウソくさく「父よあなたは強かった」などと又しても。
* 「明日はお立ちか」という小唄勝太郎の 唄った歌を、あなたは覚えているか。特攻へ立つ青小年兵を泪声で見送るおばさんの歌だ、ボロ飛行機とともに敵艦へ体当たりに散りに逝く子を見送る「母」の 歌と聞こえる。決行指揮官の大西中将は、特攻第一陣機の兵士らへこう語ったという。
「諸子は今や神である。諸子は体当りの結果を知ることはない。しかし、それは決して無駄なものでないことを確信してほしい。本官は、及ばずながら諸子の英 雄的行動を最後まで見届け、これを、畏くも大元帥陛下にご報告し奉ることを約束する。諸子は既にして靖国の神である。安んじて往かれんことを。最善を尽さ れんことを要望する。」
* なにかしら最期の命を削っているような心地がする。
2019 10/27 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
昭和二十年(一九四五)七月十七日、ドイツのポッダムにおいて歴史的会談が始められようとしていた朝早く、アメリカのトルーマン大統領は秘密の報告を耳にした。
「赤ちゃんは生れた」。
赤ちゃん誕生! ただの赤児ではなかった。その笑顔により、そのつぶらな瞳が輝くとき、世界は為に消滅するほどの、強大な悪魔の赤児であった。
怪物誕生の七月十六日午前五時三十分、アメリカはニューメキシコのアラモゴードの荒野に、巨
大なキノコ雲が万雷の轟きと共に幾つもの太陽の輝きを放ってその不吉な全容を現出した時、十七
キロ隔てた観測地点でこの瞬間を見つめていた一連の「マンハッタン計画」なるものの責任者、グ
ローブズ将軍はつぶやいた、「これで戦争は終った」と。
トルーマンは戦争早期終結へのはやりたつ気持ちを抑えかね、「第五○九混成部隊により、八月三日以降、天候が許し次第」この怪物は日本上空に放たるべきであるとの命令を下した。ポッダム宣言に先立つ二日前のことである。
* 肌に粟立つとはこれに越すものがあろうか。ヒロシマ・ナガサキの惨劇は、もう云いたくない。しかし忘れてはならぬ。「鬼」というモノの人間に棲む最悪例を世界史に示したのである。
2019 10/27 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
歴史は夜つくられる、歴史の設計図は、常に水面下の闇の中で描きあげられる。天皇を中心とする最高指導層の間では原爆を待つまでもなく、降伏意外に道がないことを確認しあっていたのである。
降伏に備え、その時のために天皇最側近の内大臣木戸幸一侯爵は、「日記」の一部の書き換えを始め、昭和十九年のひと夏をかけて、藤原氏の嫡流、五摂家筆頭の近衛文麿は「覚書」と「日記」の創作を秘書のファイルに綴りこむ作業にとりかかったといわれる。
その折の渉外要員保全のため、慌しく、文民中の親英米派、和平派なるメンバー吉田茂らを故意に逮捕させておいた。思 想犯として短期間逮捕されたというこの履歴書を彼等に与えることで、彼等が、日本の降伏の後、米・英との有利な窓口になるであろうとの深慮遠謀の一端をこ こに見る思いがする。いずれにしても、天皇とその藩屏の意図は、(原爆を浴びるより前に)とっくに降伏を決定づけていた。ただし皇祖皇宗の天皇制を守護 し、出来うる限りは日本列島のそのままの保全。
問題は、国民にその意図を示すタイミングとその方法で、タイミングを失し方法を誤れば、収拾のつかぬ混乱が生じ、あるいは騙されたとして国民の怒りは天 皇への憎しみへと一変する懼れもあった。高官の大多数は、軍人にでさえも、早くから降伏は避けられずとの認識は持ちながらも、明確な発言や、表立った行動 は凍結したまま、たがいに疑心暗鬼、腹の探り合い。彼らは、第一、勝利者の報復を恐れていた。ポツダム宣言に対し、笑止千万、来るなら来てみろどころか、 見苦しいことを通りこした一場の笑劇(ファルス)を演じていた。そして、原爆は投下された。惨害は想像に余った。
* 天野さんの本は上下巻で千頁余の大册、わたしはその下巻から、ごく僅かを拾い取っているだけ。わたしのような爺さんがでなく、『禁じられた青春』(葦書房 平成三年)とある表題を受け、日本の近未来を案じている青春・青年たちにこそ、こういう本は読んで欲しい。
2019 10/28 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
さかのぼる昭和二十年(一九四五)五月二十五日の夜、重大な意味を持つ空襲が敢行された。 三月十日に見るようにジャップを焼き殺せとばかりのそれまでの無差別爆撃は、それでも病院大学とそして皇居を除外する努力を示しつづけた、ところが、この 夜の空襲では、目標は下町の庶民たちではなく、宮城をはじめ支配層の貴族たちに向けられたのである。
藩屏を形成する日本の最上層の家族たちが住む九十一の邸が焼け、七人の皇族とその多くの侍従たちも家を捨て皇居の濠の内側に逃げ込んだ。しかし、そことてもはや聖域ではなかった。
陸軍省が焼けおちる間、炎と煙と、そこに秘されていた必勝のための数々の重要書類が火の粉と
なって空を舞い、皇居の屋根瓦に降りかかる。皇居防衛に動員された消防士、近衛兵は九千五百人、宮内省の鎮火だけは成功したが、隣接の建物はことごとく瓦 礫と化した、鳳凰の間も宴会場も、皇太子の別殿も、濠の外の赤坂離宮も焼け落ちた。この日の空襲で目標にされたのは、最も富裕な、軍人以上に隠然たる影響 力を持つ高級市民らの邸であった。米軍が、日本の権力構造の根幹を粉砕しにかかったことは明らかであった。この危機感が、このエリート階層の相互離反を招く代りに、逆に、いっそう強く彼らを皇位の周辺に結束させる結果を招いた。降伏は避けられぬ、しかし国体は護持せねばならぬと。
六月八日、最高御前会議で「基本政策」が確認された。要は、和平であり、しかし遷都はしない。天皇も政府も東京を離れないということは、徹底抗戦は取りやめたことを意味した。
国民はいっさいを知らされずにいた。連合艦隊を、神風をまだ信じていた。夢にも原爆が襲うなどとは知るよしなかった。
フランス近代詩の翻訳者で詩人でもあった堀口大学は、その頃、こんな詩を発表していた。
戦ひが、この戦ひが、/すめらぎのみ国の勝に/終るなら、終るためなら、/命なんぞ惜しくはないさ/よろこんで今にも死ぬさ、/につこり笑つて死ぬさ、/敗れたら!/生きてゐないさ!
詩人は、國敗れても、死にはしなかった。詩の真実は何かとここで問うつもりはない
終戦の聖断なるものは、昭和二十年八月九日の天皇御前会議で下された、さらに十四日、再度下った。ヒロシマ、ナガサキの原爆惨禍はすでに起きていた。「いかに有利に敗けるか」の時間稼ぎの間に蒙った人類史初の悲痛の惨禍であった。
八月十五日 敗戦の日の空は 抜けるように青かった。
* 敗けてよかったなど、国民学校三年生 十歳の子供心にも思わなかったが、昭和二十年八月十五日、夏休みの抜ける青空、戦争が終えてよかったとはしみじみ思った、山奥の疎開地から京都へ「帰れる」と胸を躍らせた。
2019 10/29 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
敗戦して、即 天皇の義理の叔父、東久邇宮稔 彦王内閣の出現は、格別なことに思えた。(=満十歳に満たない私・秦も、丹波の山奥の疎開先で驚いた。)東久邇宮は、陸軍幼年学校、士官学校、そして陸軍大学 校を卒業し、三十一年間もの経歴を誇る現役の陸軍大将、生っ粋の軍人であった。三十三歳から四十歳の七年間にわたる壮年期、フランス駐在の情報将校として 働き、その間にフランス陸軍大学をまで卒業し、帰国するや第二師団長、陸軍航空本部長、シナ事変に当っては第二軍司令官として北支に兵を進め、大東亜戦争 時には防衛総司令官であった。この東久邇宮は、真珠湾攻撃のその時、「首相として内閣を組閣」のはずだった。「戦争がもし不首尾に至る時、皇室に累を及ぼすおそれあ り」と木戸幸一の進言で、代役に立てられたのが東条秀樹だった。
それが、敗戦の今や、「皇室の安泰、天皇の戦争責任からの回避」を最大の使命として総理大臣となり再登場した。内閣の顔ぶれをみればこれが敗戦内閣かとおどろく。 「陸軍大臣」も「海軍大臣」も「軍需大臣」も「大東亜大臣」もいた。子供の目にも奇異に映った。山崎巌という元警視総監で思想統制の元締にあったのが「内務大臣」という奇妙 さ、その山崎が、組閣後の十月三日、「政体の変革、特に天皇制の廃止を主張する者は、すべて共産主義者と見なし、治安維持法によって逮捕する」と英国人記 者に語った。これが、即、内閣の命取りとなり、GHQは、間髪を入れず、山崎発言のその翌四日、「政治犯の即時釈放、思想警察の廃止、山崎内相以下警察関係首脳の 罷免…等々」の指令を発し、東久邇内閣は翌五日、総退陣した。
* 「GHQ」の果断を、私は、今も評価し感謝する。「押しつけられた改革」などとは決して云わない。敗戦後の日本政府の内にも外にも、一つ間違えば、こと思想統制 では、東久邇内閣・山崎内相の姿勢のままで行きたかったと云わんばかりの「超反動感覚」が執拗に生き続けて、今でも、とさえ思われかねない。
2019 10/30 215
☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」
玉音放送を無視し、終戦の詔勅を耳にするや、あえて天皇に逆らうように沖縄に特攻出撃して 散華した司令長官がいる。海軍中将、第五航空艦隊司令長官・宇垣纏である。若い搭乗員十八名が進んで随伴し、九機の編隊で飛び立った。戦果のほどは分から ない、しかし目的は自決にあった。「驕敵を撃砕し能わざりし責任を詫びての打電を機上より発しての自殺行であるが、承詔必謹、大元帥陛下の至上命令遵守の 皇軍統帥大原則に背犯する違法をあえて犯しての特攻出撃は、裏を返せば、統帥部への、統帥権への身を挺しての抗議行為というものであった。死んでいった部 下たちが、それじゃ浮かばれませんという無念の思いをこめての、上御一人への抗議を意味するのである。
台湾に基地を持つ飛行第二十九戦闘隊の特攻隊長であった陸軍中尉・橘健康という二十三歳の若者がいた。一度二度と特攻出撃しながら、二度とも天候不良そ の他の事情で目的を果せなかった。三度目の正直をと、次の出撃にすべてを賭けていた時、八月十五日を迎えてしまった。本来なら、助かったと喜ぶべきであろ うに、彼は九月十六日、台湾の台中飛行場の愛機・疾風号の機上において拳銃自決を果した。懐中に、かねがね認めていた血染の遺書を所持していた。長文のも のであるが、その中の、二人の妹に宛てた文章の一部を抜き書きしてみよう。
……天下泰平、うまいもの食って立派な家に住んで、奇麗な着物をジャラジャラ着て、ただ遊びほうけてばかりの人間が溢れて、貧乏人がそれを怨む。貧乏人 でも、頭のいいすばしっこい奴がいて、金を儲けて倉を建て、立身出世したと思ったら三代目の孫が倉も屋敷も売っ払ってしまって、墓の下で悔し涙を流す。こ うした世の中をみんなぶっこわすための戦争であるはずだった。旧いもの、みんな一掃し、新しい明日をつくる、この革新のために我々は戦った。
もう繰り事はよす。すべては終った。兄はもう橘健康ではない。兄の死を知らされても、嘆いてなぞくれるな。……
天皇陛下万歳
神風特攻隊を編成した当の司令長官・大西瀧次郎中将は八月十六日、割腹自決を遂げた。
ーー善く戦いたり、深謝す。吾、ここに死を以て旧部下とご遺族にお詫び奉るーー
責任自決といえば、陸軍中将・篠塚義男の割腹自決はその典型の一つ。遺書に言う。
戦争開始に当り、軍事参議官として会議に列席、開戦を可と報告致し候。
此の信念は今も変らずといえども、国家の運命今日に至りし上は深く責任を感じ候。戦没者及び其の遺族、並びに国民各位に陳謝致し候。
語学に堪能で、その俘虜情報局長官時代。大国らしい紳士的な俘虜の処遇を主張して反対派と戦った陸軍中将・浜田平は、九月十七日、任地タイの宿舎で自決した。任地住民から思慕敬愛されたというのに。
碁にまけて眺むる狭庭(さにわ)花もなく
めくら判おいて閻魔と打ちにゆく。
遺筆はただこれだけであった。
責任感を痛感するほどの者はこうして死んでいった。軍人以上に戦争を賛美し、戦意昂揚を煽りたてた詩人・文人・哲学者らは掌返して口を拭った。軍部独裁というが、時局に便乗・迎合せし文民指導層の狡猾卑怯ぶりは、より一層度し難かった。
* 得も言われぬ重苦しい気持ちで十月尽を迎えた。昭和二十年の敗戦も今も息苦しいまで胸を重くするが、世に謂う「令和」元年とやらの現在日本はどうであ るのか。ただ「情けないなあ」と、瞑目してしまう。わがわずかな残年を自身でしかと数えるためにわたしは此の「老い老い私語の刻」日々の
日付を私自身の「恒平」の名で数えると決めている。
* 亡き天野哲夫さんに感謝しつつ、大部の『禁じられた青春』の我流の「読み」をここで一旦終える。天野さんはこの本のあとがきで、自身の時代への視線や批評に自負を明記されている。私は本書を読みながらおおむね氏の自負を肯定出来ていた。それを附記しておく。
2019 10/31 215
* 歴史の面白さは、信じられない話だが、追求していくと、ほとほと奇妙の視野を実感ゆたかにひろげてくれるところにもある。いくつかそういう小説を書か せてもらえ、いままた追いかけようかと。獲物へ手がとどくか、ファイトである。かなりの賭けでもある。邪道と本道のあいを須走りに駆け抜ける感じである。 私小説だけをリアリズムと思っている人には、出来ない。
2019 11/11 216
* わたしは、今日・現代の中国や朝鮮半島に特別の親和感を持っていないけれど、韓国製の歴史連続時代劇には、「イ・サン」「トンイ」「馬医」など長編を 一度ならず観覚えており、今は、月曜から金曜までの午前の、「オクニョ」「心医 ホ・ジュン」を異様に熱心に見続けている。時に録画分を再見してもいる。 日本の歴史連続時代劇で、これらほど緊迫感も豊かに面白い紙芝居をみせてもらったことがほとんど無い。
その理由のひとつは、京都に縁のある朝廷がらみの劇作になにらか遠慮があるのかと想う。「新平家物語」「平清盛」では後白河院、また「太平記」がらみに 後醍醐天皇の南北朝劇もあったが、この辺は作家達も取りつき慣れているが、源氏物語などはみな綺麗事で終え、どうも天皇さんを引き合いの劇作はタプーなの であるらしい。
その点、韓国の朝廷劇はもの凄い。剣も毒も陰謀も氾濫も色事も豊富にあらわれて紙芝居作りの手腕は必ずしも凡ではないのだ、惹きつける策と腕を磨いている。いまの「オクニョ」も「ホ・ジュン」も競い合うように人間劇でもある。
歴史ものと云わ、ず今、私を惹きつけてかならず見せるのはほぼ一つ大門未知子なる「ドクターX」のほかに見当たらない。ことに昨今、あまりにみなチャチ く、観客を下目にみて説明と間延び過剰に演出も芝居もヘタクソなのである。なにしろ売れているらしき俳優・女優がナマで顔を見せても、ほぼ必ず「スゴー イ」と宣う。「日本語をより美しく正しく愛していない俳優・女優」なんて者に、存在意義は無い。本当に疎ましくも「すごい」のは、國の政治現況だけ。「凄 い」とは「凄惨」「無残」「ムチャクチャ」の意味である、昔から。
* わたしは、あるときある社の編集者にそっと注意されながらも、日本の天皇さんにふれた小説を「三輪山」の雄略天皇、「秘色」や「蘇我殿幻想」で孝極、 斉明、天智、弘文、天武、持統天皇、「みごもりの湖」では聖武、孝謙、淳仁、称徳、光仁天皇、「秋萩帖」では宇多、醍醐、朱雀天皇ら、「絵巻」「風の奏 で」最新の「花方」では、白河、堀河、鳥羽、後白河、高倉、安徳天皇らを描いてきた。中国のポルノ小説を楽しんで学習された村上天皇にも触れている。天皇 さんがらみでの歴史時代劇はいくらでも話題があって「日本」の理解に有益なのに、遠慮が過ぎるのか、書き手に勉強がまるで出来てないのか、惜しいことだ。 わたしは、日々に、事ごとに、ボケ防止のためらも歴代天皇126人の諡を諳誦している。歌うようにすらすらと云える。時代時勢の変と事と流れが自然と絵巻 のようにあたまに甦るというトクがある。
2019 11/20 216
* 発送作業を、ほぼ終え得た。師走を少し心安く過ごせるか、そうだといいが。
* 作業しながら「心医 ホ・ジュン」という韓流歴史劇を観ていて、朝鮮では、明国の使者などくれば我々の今日で謂う「看護師 以前なら看護婦」を使者の 「夜伽」に提供するのが「習い」であったと識った。また「奴婢」は身分の高い官吏に「夜伽する」義務があったとも。連続劇「オクニョ」でもハッキリ出てい た。
朝鮮では、つまりは事実上の「慰安婦」が、「官妓」の名で、しかも知的・医学的介護技術者ですらある看護婦、看護師身分にまで公然平然と公認されていたのである、堂々の歴史劇の中で明瞭に何度か場面化されている。
寡聞にして日本で然様な例は聴いていない、「伊勢・枕・源氏」や「問うはずがたり」などみても、宮女、官女と身分高い公家や武家との自由恋愛は、古代・中世、つね平生の色模様であったけれども「官妓」なる制度があったとは、わたしは識らない。
ただ、高級官吏が地方へ出張の際に、現地で「夜伽女」を供した事実は決して少なくなかったらしい。しかしそういう際に、「看護婦」を提供するなんてことは、想像だに出来ない、なかったと思う。
海外からの権力者来日に「高級娼婦」を提供する態のことまでは、日本でもひそかに為されていたらしい事実までは推知できるのだけれども。
* 韓国政府は、例の「慰安婦像」なるものを日本大使館前にも設置し、近代過去の日本が朝鮮女性を慰安婦として徴募支配していたと抗議しており、抗議のシルシに麗々しい像をまで現に設置している。
「慰安婦」なる存在自体に、私は日本人としていささかの弁明も容認もせず、「女性」への不当の凌辱と観ている。あってならないことの一つと観てきた。
同時に、韓国人また韓国政府が、自国の一部同朋女性が、過去に「慰安婦」であった事実を「像」にまで仕立て、公衆の目に平然と晒す神経の奇怪さに、真実、愕いてもきた。
わたしは、今回、たとえ連続歴史ドラマのなかであるにせよ、「官妓」なる屈辱の「夜伽女」に、職業的な売春婦ならぬ、技術も知性も高い「医女(看護婦・看護師)」を敢えて用いていたという事実に、心底、驚愕した。知 らなかったのは迂闊なことであったかとも思うが、すさまじいと思った。のけぞった。いましも「ホ・ジュン」では明使の前へ、医女のなかでも最高度に能力あ る美貌の二人を差し出そうと用意し、一人は死のうとし、いましも二人ともなにかしらを決意している、と見える。これは決して彼女らの売色ではないのだ、ま さに公が私に強いた生け贄なのだ。
あの 平然当然のように自国現実の女性を「慰安婦像」として少女の容貌で公衆に晒せる手荒い神経は、「お国柄」というものかと、肌寒くすら感じてきた、かつての日本軍ないし横柄日本人らの他国での悪行為を微塵も私は容認しないが。
2019 11/28 216
* 太宰府観光番組で、天神さんに「牛」が出た妻と観ていて、「猪」の出てくる和気清麿呂へわたしから話題が動いた。謂うまでもない、称徳女帝のとき、深 く深く露骨なまで女帝に取り入っていた僧道鏡に、譲位がらみに彼の帝位簒奪意嚮が露われ、廷臣和気清麿呂がはるはる九州の宇佐八幡まで赴き「神意」を問う てくる役に当たった。
彼人麻呂は、僧道鏡の邪心を真っ向否認の「神託」なるものをもち帰り、皇統一系の血脈の「穢れ」を敢然妨げたのである。
「<女帝>の、そこがモンダイ だったのね」と、妻は簡潔に指摘した。
天皇制が、万世一系男帝の血統に執着してきたのは、女帝がワケの分からない男性を夫に迎えたり子を為したりしたとき、その(道鏡に類する)男が簒奪した り、その子孫が即位して皇統一系の乱脈に陥るのを憂慮警戒したからで、その是非や可否はともあれ、久しく久しい日本の天皇制は、一種壮麗なフィクション・ 夢物語(ロマン)を頑固なほどほぼ徹して護りぬいてきた世界に類のない「神がかりの国体構図」なのであって、これを取り崩し、地球上どこにも在るごく普通 不安定な「王様制度」へ転換した時は、それはもう「是非はともあれ」あの「大嘗祭等」の神秘を信じて来た「天皇制」では全然無くなる。
無くなってもいいではないかという議論は、これはもう、まったく別途の、ふつうの政体議論にすぎない。
あの藤原氏も源氏も平氏も徳川氏も、少なくも表向き「自家男系の血統で皇位を」とは動かなかった、あくまで女性を宮中に入れて「外戚」たるを望むに留めていた。
「女帝」には慎重であるか、「万世一系の天皇制」などに固執しない気か、日本国民は慎重でありたい、日本の未来史に堪え得ない軽率だけは自戒すべきだろう。
女帝モンダイが、なにやら週刊誌的に話題にされる。
思い切って謂う、根幹の論題は、こと皇室に関するかぎり、「側室」「一夫多妻」を超憲法の極限定制度として容れるかどうかに関わってきそうなのは、二千年の日本歴史が証言していてる、上皇后さん、現皇后さん、次々の皇后さんのためには、決してそう在っては欲しくないが。
わたしは、万一にも男系皇統が維持できないのなら、神懸かりのロマンチックな「天皇制」とはさよならしてもいいかと思うが、つぎに現れる「民主主義日 本」支配の低劣な惨状は、心あるモノになら、だれでも容易に想像でき、真実憂慮される。ソクラテスも謂うていた、民主主義には優れた資質が期待されるもの の、そんな民主主義ほど、簒奪独裁者のあくどい悪支配に人民は遁れ得ない歎きを負うのが成り行きだと。トランプ、ブーチン、習近平、金正恩、そして日本の 民主主義も、日増し日増しに一党独裁から一人独裁へと蠢いているではないか。
しんしんとさびしきときはなにをおもふ
おもひもえざるいのちなりけり 恒平
* 「女帝」論は、慎重であるべきだろう。
2019 12/28 217