* 三ヶ日の雑煮を夫婦だけで祝い終えながら、作家五木寛之に「怨歌」と適切に聴きわけられたあの歌手藤圭子のウソのない生涯映像を、濃い共感と理解と共に見 通し聴き通した。正月気分にふさわしくないか、いやいや、真実感で徹底した若い歌人生の儚い成功と終結からは、凡百の創作を紙屑のように蹴散らす真実が痛々しく聴き取れた。感服した。
極めて短かった藤圭子の「怨歌全盛期」を、またそのリアルな生涯をわたしはよく知ってきたワケでない。美空ひばりの百の一も識らなかった。
しかも、不動の、或る切な 共感と理解とがその昔から生きていた。藤圭子の歌は、あの菊池章子の絶唱「星の流れに身をうらなって 何処を塒の」の、「こんな女に誰がした」の、あれを直に受けることで「敗戦後日 本」の地を這う呻きを「歴史的に伝えた歌手だ、と、そう、私は久しく理解し受け容れてそれを忘れなかった。
今朝の「映像と語り」を観て聴いていて、紛れもなくあの「こんな女に」と藤圭子の「新宿の女」「夢は夜ひらく」などが、当の藤圭子自身のことばで切にバトンタッチされてたと確認できたこと に、わたしは感銘し深く納得した。私は、「日本の敗戦」と「敗戦後日本の根底」を、斯く二人の歌手と代表歌とを結び繋いで、今もなお、胸の内をかぐらくも重くもしている。「戦争に負けた苦痛と無残」を背負うたのは、天皇でも戦犯でも陸海軍でも男でもなくて、「女」だったのだと。
丹波山奥の戦時疎開先から京都の繁華へ帰ってきて、小学校、中学を終えて行きながら、わたしは胸のいっと う奥で、「こんな女に誰がした」と呻く乾ききった「女」の強いられた変容を、怖いとまで眺めていたのだ。一部の女の話をわたしはしていない、日本の女のはなしをしている。
そして、いま「令和日本」の女も男もこの機会にボケ金にボケた「精神壊滅」のアリサマは。
2020 1/3 218
* まだ九時半だが、とても睡い。今日の私は、おおかた十三世紀「承久の変」前夜をさまよい歩いていた。不快に気の重いという彷徨ではないが、しんから疲れた。そのうち十二世紀へ、さらには奈良時代から平安初期への道をそぞろぎ歩くことになる。我ながらヘンである。
2020 1/6 218
* 『チャイムが鳴って更級日記』なんていう面白い小説も書いていたんだ、これはもう朝日子が中学生の頃の作だが、書きように、処女作時代の「承久前夜」 をのめり込むように物語っていた『初稿・雲居寺跡』とも、時を隔て呼応している。わたしはよほど「歴史・国史」に惹かれるタチなのだ、ちっちゃかった昔か ら。「歴史」にまるまる触れ合ってない自作小説は、とっさに思い出しにくいほど数少ない、今更に気づいてビックリしている。
2020 1/15 218
☆ 過日は
『湖の本』149 「流雲吐月(三)」お送りいただきありがとうございました。
読んでいて、八十五ページに私の名前が出てきて、びっくりしましたが。恐々謹言
庚子三月廿二日 静岡市 小和田哲男 歴史学者
* 2007.8.3日日付の項に、こんなふうに書いていた。
* あまりたくさんな『閑吟集』へのお手紙で、感謝してバンザイの体だが、歴史学の小和田哲男さんから、「戦国武将、信長、秀吉、家康の時代を勉強して いる者として、一一八から九ページのあたりの記述にハッとさせられました。自分なりにとらえ直さなければと思った次第です」とあるのに、感謝した。いちば ん戴きたかった指摘であった。わたしはそこでこう書いている。
* 十五世紀の百年は、足利義政による応仁文明の乱をまんなかに抱きこんで、いわゆる東山時代なる禅趣味貴族文化を、破産に導いて行きます。前にあげた 宗祇、珠光、雪舟といった人材の独創は、明らかに東山文化の似而非ぶりへ、内から外からつきつけた厳しい反措定としての、ほんものの性根をもっています。 三人に先行して反骨一休の禅をおいてみればもっとよく頷けるところです。
さきに、この時代、自然な趣向をうるに好環境だったかどうかの判断がむずかしいと私が言いましたのは、一般の説とはかけちがうかも知れないのですが、い わゆるまやかしの東山文化なるものと、雪舟、宗祇、珠光らが精神の重みをかけて求めたものとの、拮抗と隔差に、この時代の創造的環境としての意味や評価を 見なければならぬと思うからです。
一つの見当として、あの申楽の能の天才世阿弥の存在が、十六世紀へと近づいてくると、さすがに変容変質を強いられて、能の中に、傾(かぶ)きの要素が近 づき浸透してくる。それ自体は積極的な「趣向」要因なのですが、世阿弥が理想とした幽玄な〝花〟の美しさが、彼の直接の後進の手でより深められたとばかり は言うわけに行かず、むしろ雪舟、宗祇、珠光らの方が世阿弥の高邁と深玄そして優美とを、それぞれの分野で承け嗣いだ感がある。
世阿弥を世阿弥として消化も吸収もできなかった体質として、私は反庶民的な禅趣味に終った東山文化を否定的に考えています。さらに言えば東山文化と闘っ た雪舟の藝術は、狩野派がこれを受けとってやがて官僚的画風へ変質させ空洞化させます。宗祇の藝術は『閑吟集』という異色の子をなして、その後は、俳諧の 芽がそして芭蕉の新芽が芽ぶくまでのあいだ、立ち枯れを余儀なくされます。幸い珠光の茶だけが利休の茶へ大きく育つのですが、しかもそこで躓いた。利休は 秀吉の手で裁断され、後継者は茶の道を容易に立て通せなかった。あげく頽廃の繁栄へと今日にまで導いた。
この三様の挫折。それは信長、秀吉、家康の成功と当然に表裏していました。武家の側からみれば、十六世紀の戦国大名時代そして安土桃山時代は上昇そして 勝利の時代でしょう。が、民衆の側からみれば、全く同じ時代が雪舟、宗祇、珠光らの余儀ない変容変質へと下降そして敗亡した時代でした。
安土桃山時代は、実は、私の表現を用いれば、〝黄金色(きんいろ)の暗転期〟にほかならなかったのです。 2007 8・3
* いまも、およそそう考えている。
* 最近の優秀な日本史学者ほど、「日本国」号の歴史的成立以前に「日本人」はいなかったと強調する。いつ成立したか、推古天皇のとき小野妹子が唐へ渡 り、則天武后のまえに「日いづる國の天子」からの親書を呈し、受け容れられて以来だという。厳格な議論ではそうなのだろう、が、あまり拘泥するのも妙な気 がする。辛うじて聖徳太子らが「日本人」の第一号かも知れないが、父帝用明天皇は日本人でなかったとぜひ決め付けねばならないのか。万葉集巻頭をかざった 人たちは日本人とよんでは間違いなのか。古事記の神話を「日本神話」と呼称するのは間違いなのか。理は理会するが理に落ちて歴史の血の温かさを蔑ろにして も当然とは私は思わない。
私は「神話」を担いで神国日本などとバカなことは一切謂わないが、民族がおのづからな「神話」を持って親愛しているのは、日本人と限らず世界中に例があり、床しいこととさえ思い、嗤う気は無い。むしろ投げ出して顧みない乾燥した心情を病的に脆弱に思う。神話に囚われてもいけない、が、厳密に過ぎて議論先行「神話」軽侮・無視の「国号・日本」観にも感心しない。
* 十一時。もう休もう。
2020 3/23 220
* 羽鳥の整理進行、晴恵医師の揺るがぬコメント、そもそも玉川の徹底取材と建言でもっとも信頼できる番組が、「ノーベル賞学者ら」や国立医科歯科大前学 長の真っ向の苦言や提言をとりあげていたのは、遅きに失しつつも有難く、ど素人なみの政府や国会も耳を傾け態度も対策もぜひ適切に緊急改変し推進してもら いたい。
わたしは、安倍総理の「発出」を誇ったような緊急宣言のその時から、小池都知事の懸命の訴えを聴いたその時から、いやいや、所詮はバス・電車等の交通機 関の思い切った遮断や停止なしに事態を攻撃的に改善する道はなかろうと感じていた。乃至、総理をふくむ政治決定や、インフラの必要人員と医療人員以外の全 国民が一定期間、一ヶ月の余も自宅等に「籠居」をつづければコロナウィルスは音をあげてくれようと考えていた。それを今日、そもそも玉川氏らも口にしてい た。十万の大軍に囲まれながら赤坂・千早の小城に籠もってこらえた楠木正成をわたしは懐かしいほど想い浮かべていた。
* 同時に、一ヶ月半も以前に「私語」に漏らしていた以下の呟きももう一度ここへもち出しておく。
* (二〇二〇)三月一日 日 当然出て来べき証言が 出ていた。政府・厚労省が執拗に検査データ等を隠蔽し独占している。戦前・戦中來の、陸軍による感染症データの軍事的意図的独占と戦略的活用への強硬な 専有意志が、令和の今日にもなお生きていて、それがコロナ検査の民間実施を強硬に「データ独占意嚮」のもとに阻んでいるとの、証言と抗議とが出ている。こ れは、往年のいまわしい生体実験の実例などとも重なっていて、本命は軍事作戦上のデータ収集ないし秘匿の絶えざる継続なのである。
私は医学書院編集者の当時にも、上記の軍国的な実験等の秘話を九州の某大学解剖学の著者先生との茶飲み話のなかで耳に留めていて、あの伝統が、いまも厚 生省、厚労省に引き継がれていないかと秘かに先日来案じていた。今朝のテレビ放送でこれに抗議する医師・研究者の発言を聴き、私の危惧はあやまたず今に生 きていると実感した。感染症研究は、即、軍事作戦効果と結びつくとは、誰にも察しがつくだろう。
すれば出来る検査が不当に出来ないでいる暗い背後には、少なくも「数字でのデータを隠蔽し秘密に独占する」という、いまなお戦前戦中の「悪意」が生き延びているからと「読める」のは慨嘆に堪えない。生体実験を背後の意図に孕んでいた戦中医学の怖さを忘れてはならない。
* 小池都知事が賢くも動きはじめた時に、「都市封鎖 ロックダウン」を仄めかしてしかも即、繰り返しそれは無いと表明していた。おそらく政府筋の強い横 槍に負けたフリでやや身を退いたのだろうが、それに即した手早い措置は「バス・電車等」タクシーも含めての手痛い停止・禁止しかないのは私にも察し得られ ていた。早く遁れて安堵へ手をかけるにはそれしか無い、ないし最少の必要な機能は含まないが、全国民あるいは全都民・全首都圏・都市圏等の「てってい籠 居」。
文春の辺から伝わっている、アレ・アキレた物見遊山などとんでもない。とんでもないのですよ安倍総理。
2020 4/16 221
* 昨日、隣から、手近へ持ち帰った文庫本の中に、『論語』があった。「有朋自遠方來 不亦樂乎」「友あり遠方より来たる また楽しからずや」と。このところ深いお付き合いの、あの山縣有朋の名告りの基が、こんなところにあった。
「学而時習う之 不亦説乎」「学びて時に之を習ふ また説(よろこば)しからずや」は分かる。私のいいかただと「歴史に問い 今日を傷む」もそれだ。
但し、しかし、「人不知而不慍 不亦君子乎」「人知らずして慍(う ら)みず また君子ならずや」「人がわかってくれなくても気にかけない、いかにも君子だね」という孔子先生にの曰くのままには賛成しない。子供のむかし に、「分かる人には分かるの、わからへん人にはなんぼ言うてもわからへんのえ」と教えてくれた人の方が、君子然とおさまるよりも納得できた。安倍総理らに「人知らずして慍(うら)みず」などと「君子」がられるのは、蒙御免。
2020 4/16 221
* 老子、荘子、孔子、孟子はよく知られていても、孫子はどんなものか。この人はいわば兵法哲学者のような人だった、戦・闘に必須の心がけなどを説いてい た。さんな人の『孫子講話』がなんで秦の祖父鶴吉の蔵書に入っていたか、私もそれを処分せず東京の住まいへもたらしていたか。読んで面白かったから。この 塚原渋柿園講述、東京京橋区の文泉堂書房と東京日本橋区服部書店で発行された明治四十三年一月初版 二月には再版て定 価金七十五銭の一冊は、『孫子講話』という主題の上に「處世應用」の角書きが付いていた、つまり孫子の兵法を「四民」の生き方に折角応用しようとの趣意で 書かれていた。祖父が気を入れて「応用」したかは判別しがたいが、人それぞれの人生には、生き方には、なるほど「戦・闘」の気味は免れない。面白いところ を見たいかにも明治人らしい勘所を衝いたのだろう。この本の出た頃私の秦の父長治郎は十二、三歳だったから、当然祖父鶴吉の蓄えた蔵書にちがいなかった。 ま、そんな詮議はみの際、もう意味もなく、あとは私の読み方になる。
渋柿園さんの高説にみちびかれながら、孫子の原文を少し引いてみる。
「始計第一」とある。いわば第一章、端的に 初めに大事なのは「はかりごと 計略・謀(はかりごと)」と。頷ける。
孫子曰く 兵は國の大事にして、死生の地、存亡の道なり。察せざるべからざる也。
むろん原文は漢文。「兵」は個々の兵隊さんでなく、いわば「兵事」即ち戦争。
故に之を経(はか)るに五事を以てし、之を校(くらぶ)るに計を以てし、而して其の情を索(もと)む。
「経」といい「五事」といい「校」といい「計」といい「索」といい「其情」といい、全て一字一字の漢字が明確に深い意義を体している。しかしもう一歩は前へ出て孫子に聴こう、先ず「五事」とは何。
一に曰く、道。二に曰く天。三に曰く、地。四に曰く、將。五に曰く、法。
道 天 地 將 法 孫子は孔子でも老子でもない、「道」をはじめとし五事みな「兵」を説いている。俄然、面白くも興深くも分かり良くもなる、が、 子供の昔に返って兵隊ごっこの戦争で、どう相手と闘うのかと、この「五事」いや「五文字」を考えてみなされというのがこの本である。たしかに、よく思案す るとアテズッポウにも孫子の曰くに近い感触は得られる。最初の「道」だけを書き写しておく。
道とは、民を令(し)て、上(かみ)と意を同じくして、之と死すべく、之と生くべく、而して 畏れ危ぶまざらしむる也。
おう、これぞ明治徴兵制から昭和敗戦にいたる日本国軍の基本の指導だったではないか、私がこのところねっしんに関わってきた山縣有朋元帥らの理想と謂う に大過ないだろう。断っておく、私はかかる「五事」を体して一兵卒とも大将にとも望まない児童だった。だが、孫子の曰く、まことによく謂えているのに感じ 入り、面白いなと読み進めてきたのだった。「一に曰く、道。二に曰く天。三に曰く、地。四に曰く、將。五 に曰く、法。」 軍事の戦争・戦闘と限らず、企業や商賈や人事や政局の各場面にもあり得て済まぬ心得事であるぞよというのが、著者渋柿園先生の目の付け所 であったに違いない。明治の鶴吉祖父がどう思惟し研覈したかは知らないが、令和の私は「おもしろいナ」と今も思っている。機会を得てはすこしずつでも孫子 の兵法、著者の処世応用の実をここにも書き出してみようよ。
2020 4/24 221
* 国民の一人に十万円ずつという政府配布金の受取り方が所帯主の口座へ家族分一括振り込みとは、ああ相変わらずと、政権による市民権理解の謬った偏頗が なさけなくなる。日本ではまだ市民権は所帯の主(九割九分が男性)だけのものと、如実。これは往年の「兵役」に応じうる男性だけに「市民権」を認めてい た、西欧社会でも一般であった「歴史的偏狭・偏見の生き残り」なのである。そんなことを学びたければ、一例、上野千鶴子さんの『生き延びるための思想』を 読まれると良い。
たとえそれを今は措いても、「一人十万円」支給の家族五人分が独りの所帯主男性に振り込まれて、はたして穏当に家庭の成員のみなに利益するように遣われ るのだろうか。日本列島の東西南北で、事実上の市民権を持たぬ妻子老父母らと、独りの父・夫・息子との衝突が花火のようにパチバチと音たてておきるのでは ないか。
国民は例外なく平等に「市民権」を与えられているのでは「ない」という現実を、ことに女性そして子弟は心して知っておき、本来闘いとらねばならぬ市民権なのだと思い当たるべきだ。
* 昨夜に触れていた「孫子」の、もうちょっと先、せいぜい「五事」のつづき「天・地・將・法」だけでも、腹に一物を抱いて言い及んでおきたい。一の 「道」のことはもう書いた。「而してそれを畏れ危ぶまさらしむる也」と、兵隊や子弟や労役の従者らに「主君・上將・使用者」の命に心を一つに随わせるのが ゼッタイに肝要と、怖いことを、理においては分からぬでないことを言い切っていた。この「分からぬでない」ところに「処世応用」を『孫子講話』著者は目を つけているのだが、それは今、さい措いて。
天とは、陰陽、寒暑、時制なり。
織田信長が桶狭間に今川義元の頸をあげたあの襲撃などを念頭に思惟すれば分かりは早い。要するに「時機」の決断。
地とは、遠近、険易、廣狭、死生なり。
遠地、近地、険地、易地、廣地、狭地を見計らいそこが「死地」なのか「生地」なのかを覚悟して闘えと謂うのであろう、楠木正成の赤坂・千早城は「生地」だったが湊川は「死地」になった。処世としての商売や事業にも通じて肝要の判断になるはず。
さて、次なる「将」とは。これはもう「アレ・アキレ」たでは済まない。
将とは、智、信、仁、勇、厳なり。
あの「もりとも・かけ・はなみ・アベノマスク・とらんぷのワン、朝令暮改・棒読み、決まり文句の無内容、お友達と取り巻きのただただ支持稼ぎの 政治」等々の「アレ・アキレたアベノリスク」総理には悉く欠損した徳目「智、信、仁、勇、己れに厳」ではあるまいか。とても「将」の器でない。
では、「法」とは。
法とは、曲制、官道、主用なり。
幾多の法があるとして、主眼は憲法、これを安易に私物化して改変を事とするのは最も戒めねばならない。曲制とは、いわば官僚(兵隊)を適確な部局に組み 分け備えを立てて正確な政治(戦闘)をさせること。 軍では五人を伍とし伍長が先立ち、十伍を隊とし隊長が上に立つ。二隊をもとは曲と謂ったそうだがさし づめ中隊とか、部隊とか、聯隊とかになり、これは官界でも会社でもおなじ事。そこに官道という、一兵卒から大将・元帥に至る階級がそれぞれに機能する。任 命責任者の不徳や無能で官道が乱れれば安倍内閣の大臣答弁のひどさや更迭の多発、リスクが増しに増す。
主用とは、軍では弾薬、糧食、衣服、武器器機の確保と補給だが、政治では予算と使用の適切であり、これまた安倍内閣は、米国の古物化した武器兵器の購入 に「税金」を垂れ流しつつ、コロナ感染症に怯える国民には使い物にならないマスクをたったの二枚ずつ各家へ配布して何かの対策が立つような愚を重ねてくれ る。
以上「孫子」の「五事 道・天・地・将・法」をおよそ顧み読んで、いままさに「コロナ戦争」さなかのいささかの反省とも愚痴ともしたのであります、これも秦の祖父鶴吉の遺徳と感謝感謝。
2020 4/25 221
* さきに纏めた「歴史に問い、今日を傷む」湖の本で、今世紀のはじめの日付で私は、今後の世界の脅威は「中国」と確言している。それが現実になりかけて きた。まっさきに武漢にコロナ感染の災禍を起こして、これが複雑な変容を経つつ世界に及んだころ、中国は少なくも一時期の「武漢被害」をほぼ克服したとい う。いまや感染猖獗の炎は、「コロナなど風邪程度」と放言していたトランプ・アメリカで燃え盛り、いまや西太平洋に配されてきた航空母艦四隻を「コロナ」 は侵しているという。中国は、久しく太平洋への海路・開路を事実上ふさがれた観があったのを、今ぞ好機と航空母艦を太平洋へ押し出そうとしている。火花こ そ散ってなくとも新たな「太平洋戦争」の兆しとも憂慮される。「日本」は、こんな際に、どう外交し対応すべきか、コロナがある、仕方ないでは済まない。
2020 5/3 222
* 今朝もテレビ朝日のコロナ検討を見聞きしていて、ぽつんと気になったこと。
検査等に全国の「大学の協力」を要請しそれには「國の予算措置」による下支えが必須というのは言うまでもない。すでにアクティヴに働こうとしている大学があるとも語られていた。
その中に、或る地方大学の名が上がっていた。
その大学が、旧戦時にかかえていた国家的な研究使命は実は容易ならぬモノを孕んでいたのを、今もそれとなく記憶している老人はおられるだろう。私は医学編集者時代に「その大学」の医学部古参教授の経験談として聴き、耳を疑ったほど驚いたのを憶えている。
ウイルスや細菌は、ことに感染力のきついそれらは、容易ならぬ「武器」と認識され、軍事的にひそかに研究が続いていた。あるいは、ひそかに今も続いてい るか、それは識らない、が、ウイルス細菌には常にその「恐ろしい威力」がある。米国と中国とが今しも、WHOをもはさんで「コロナ禍」であからさまに啀み 合っている事実と底意にも、そのような近代史的暗部が陰を引いている。愚かしい大統領が斟酌もなくあからさまに口に出したのは、或る意味でおおきな証言・ 告発に類したのかも。細菌やウィルスを軍事的な秘密兵器と意識する「近代」の衝動は、おそらく「人類の滅亡のとき」まで続くのだろうなと私は想っている。 今回も、日本政府のつねにいささか「及び腰」のままに疫学的「数値」の明言公開等を渋ったりする時、いかにもいかにも「それ」を想わせ、寒けがしていた。
2020 5/20 222
* 今夜の「プライムニュース」の、中国海軍力の増強と、日米安保のこころぼそさへ関わる米国からのレホートをめぐる討議ないし解説はめったになく分かりよく分かりやすく胸に落ちて私自身の多年の思慮に食い違うなにひとつも無かったのが、おそろしくもあった。
子供の頃からわたしは、日清日露の戦いに小さな島国の日本が勝った、少なくも負けなかった事実をいくらか不思議に、いくらか奇妙に感じていた。それゆえ にこそ米英を相手に開戦したころ、国民学校の一年か二年生になるまえごろ、相手國の国土の広さを世界地図で見て勝てるわけがないと口にしたため先生に廊下 の壁へ張り倒されたりした。
日清日露の闘いを取り仕切って少なくも優位の講和へ迄ことを運んだのが元勲といわれた山縣有朋だったが、彼の考えはただただ軍備と軍力の増強による積極 的な海外進展ないし侵掠であり、それなしに島国日本の安寧や発展はないという確信であったように思われる。その可否や是非を私が今論究はならないが、山縣 有朋の懐いていたろう不安やその克服のための国策は理解できる。もし彼が今にして健在に思慮を働かせるとしてどう言いどう動くか、目に見えている気がす る。すくなくも、今の日本の政治が真剣無比に有効な「自衛」を考えているとは見えない、思えないと、おそらく激怒に近く批評するだろうと思う。國が危ない ということにおいて、明治の日本と令和今日の日本とどったが危ないか。比較はしにくいが、「危ない」ことに疑いはない。「常勝日本軍」という錯覚に浮き足 立った不幸も不幸であったが、日米安保などという裏書きのない証文頼りのいまの国防は、あまりに浮薄なのではと、それは思い至っていた方がいい。
2020 6/4 223
* ふと開いた『椿山集』の大正六年元旦に山縣有朋は
戦のことな忘れそ我國は朝日のとけく年のたてとも
と詠っている。おそらく幕末の長州下級武士の身で奔走しつつ西欧列強の軍艦からの猛爆にあえなく撃たれ屈した体験から歩み始めていた山縣の生涯は、小国日 本の世界に伍して被支配にまみれまい為には軍事に於いて世界に引けを取らぬ以外に途なしという切なる確信そのものだった。確信を形に、力にし得たから日本 は「朝日のどけく年」を経て行けているのだと。
わたしは、子供の頃、この小さな島国日本があの大きな支那に勝ちロシアに勝ったのが不思議な奇蹟のようにおどろきとともに思わずにおれなかった。日本は 闘えば必ず勝つという確たる思いは持ちにくいまま、昭和の大戦争になった。当時の日本は「戦のこと」を忘れては居なかったが、「闘 えば必ず勝つ」という必勝意識に中毒していたのだ、その意味では山縣の心底諫めていた「戦のことな別れそ」の真の意義を忘れていたのだ。「悪意の算術」と 私の常に謂う「外交」と表裏の「軍備」を山縣は生涯忘れなかったようだ。昭和の「軍」はその双方で遅れをとりながら、必勝信仰だけは持っていたようだ、そ れでも山本五十六ら海軍には闘っても短期間と見通しを持っていた。
* 令和のいま、山縣の歌一首はぶきみなほど近未来日本の「曇る朝日」を想えと指さしている。そう想われる。日米安保の空証文であったならどうするのかという山縣の問いであろう、嶮しい問いである。
2020 6/5 223
* 僥倖というか配剤というか、こんなことが有るのだと、昨夜就寝直前の偶然の出会いに思わず天を仰いで驚嘆した。いきなりこへ書くのが惜しい気さえする。
* 秦の祖父鶴吉が市井の一小商人にしてはたいそうな蔵書家であったとは繰り返し語ってきた。現に出版したばかりの「湖の本 150」 山縣有朋の『椿山集』を読んだのも、明治の祖父の旧蔵書一冊に令和の私なりに日の目を見せたのだった。
ところで、それとは全然無関係に寝床のわきほ持ち出していた百何十年の埃の垢のようにこびりついた和装本の大冊、分厚さが七、八センチもの和綴じ和紙・ 和活字・和装の一冊を、特別の関心もなくなく、というより軽い面白半分の気まぐれで寝たまま手にしたのである。和紙の本は、大きさよりも軽いので仰向きに 持ってももてるだった。
何の本か。無残に禿げ禿げのしかし、和装のママシッカリした大冊の表紙題簽には『増補明治作文三千題』とあり「文法詳解」と二行に割った角書きがある。 「ナンジャ、これは」と思うだろう、だれでも。「明治四十四年三月求之」と奥付の上に毛筆、祖父の手跡と見える。本の発行は「明治二十四年三月二十九日出 版」「明治三十年十月増補出版」「同十一月訂正再版」とある。著作者は「伊良子晴州」増補者が「川原梶三郎」発行者は大阪市東区安土町四丁目三十八番屋 敷」の「花井卯助」発売者は大阪市、福岡県、広島県の『積善館本店・支店』とある。東京本ではない。
それにしても、ざっくりした、しかし多彩に多様多用な「編輯」で、そもそも「総目次」がなく、組みようも頁に三段二段 字の大小も、その区分されたそれ ぞれの内容も目が舞うほど色々に異なってある。ちなみに第一頁を見ると、上段に『論文門』と大きく「○学問論」と題した文章が「天地ノ間一モ恃ム可キ無シ 矣」と書き出してある。中間には細い段があり「類語日用文の部」として先ず「○時代の風俗にて無是非候」「○無御遠慮御申附被下度候」などと細字で居並ん でいる。下段はやや丈高くて、「明治作文三千題巻之壱 伊良子晴州編述」と総題らしく、ついで「日用文之部」と掲げ、「◎揮毫を頼む文」と例題し、即、 「粛啓然は拙者故郷の者京都本願寺へ参詣いたし立寄候処先生の御高名承り居今度是非御揮毫度願紹介の義依頼せられ候就而は近頃甚だ願上兼候へども右は需に 応じ被降度即ち料紙為持上候間御領収の上御一揮可被下候先は御願まで筆余は拝跪を期し候頓首再拝」とある。こんなのが延々と、次は「◎烟草の商況を報ずる 文」また「◎雑誌を贈る文」等々と大量に頁を追って行くが、実は大題の項目は他にいろいろあり、先に『論 文門』というのがあったが、類似に何種もあって、いささか様子も表情を変えて二段組みの下段に丈高く『◎文門』とかかげた頁がある。上段には『和歌和文 録』と構えてまず「和歌の部」がはじまり、高崎清風、福羽美静など私でも承知の有名人の作が以下並ぶらしい、で、その下段『文門』の初ッ端をみつけて私、 思わず起きあがった。
西南ノ役征討参軍トナリ総督ヲ輔翼シ参籌戦闘敵ヲ破リ平定ノ効ヲ奏ス
と表題され、次行に、『◎熊本陣中私(ヒソカ)ニ西郷氏ニ贈ル文」とあるではないか。紛れもない山縣有朋が西郷隆盛を案じて私「ひそか」に送った親書が此 処に上がっていると見えた。「おおう」と私は唸った、実は、この二人の間にこういう往来があったのでは、きっとあったとろうと予測しながらとても確かめる 方途がなかった。「湖の本 150}の65頁に、「明治十年西南の役参軍として肥後の国にくだりしとき」以下の三首和歌に私は何度も立ち止まっていた。こ とに
薩摩の國大口に戦ひけるとき
ともすれば仇まもる身のおこたりをいさめかほにもなく郭公
に切ない心地で立ち止まりモノを思った。「仇(あだ=敵)まもる身のおこたり」とは。「まもる」には「見守る」意味に「護る」心地も重なりやすい。「郭公 ほととぎす」は死に近縁を詠われることの多い鳥である。西郷の最期へひしひしと迫る山縣のかなしみがここで歌われているなと、傍証をもたぬまま私はむしろ 山縣の苦衷を察し、または感じていた。
そこへ「明治作文三千題」などいう珍な大冊の中、山縣の、苦境西郷隆盛に送っていた衷心の長書状を目にし手にしたのだ、唸ったのである。そうそうに此処へ書き写すことは出来ない、ほとんど漢文なのである、が、胸に響く。書き写しておく。
こんなのに目をふれたことこれまた「秦のおじいちゃん」の遺徳と感謝し、『椿山集』を今度は「論攷する仕事」にもしなくてはと思い至っている。
* 上に、「征討参軍トナリ総督ヲ輔翼シ参籌戦闘敵ヲ破リ」ちあった。「参軍」とはよく謂う参謀であり、「参 籌」もまた戦闘の謀りごとを能くする意味である。山縣有朋の軍歴ではこの「参謀」「参謀長」「参謀本部長」「参謀総長」という一線が目立ち、いわば智慧す るどい「いくさ上手」であったようだ。軍事にかかわりながら国家の安寧と戦略的外交に能力をそそぎ、そこから國の「主権線」「利益線」を世界地図上に敷い て行くべくこと思い至った太のであろう。事の是非は問わず、そういう方針為しに世界列強との海を航海はならないと山縣はだれよりも恐れかつ備えていたということか。
現下の日本には、戦争戦闘体験者はもう一人も実在しないまま、国防の防衛のと構えているが、真剣で有効な「参籌」 能力は、山縣級の眼からはゼロに近いのではないか。肌寒いほどの現実である。戦争は、シテはいけない。もう一つ、シカケられてもゼッタイにいけない。この 後者の備えが「日米安保」では、限りなく頼りない。トランプ型のアメリカは、すこしの損でもすたこらと日本など棄てて立ち退く、これ、間違いない。
2020 6/10 223
* 寝てしまうより無事の手もなく。熱中症などでなく、ただもう消耗、疲労困憊。宵の七時まで寝ていて、いま八時過ぎだが、また寝入りたい。
昨日、熊本の 陣より山縣有朋が西郷隆盛に送った長文の一部を書き写して、続きをと思うが、それも今はしんどい。それにしても『文法詳解 増補明治作文三千題』なる大冊、まこと に妙なモンでありまして、その議論、教訓、雑学、もの言い等々の多彩と煩褥と珍奇には、感心のあまり呆れてしまう。
「明治」という時代と人とはよほど「勉強」への意欲に燃えていたらしい。処世応用、「本を読んでエラクなれよ」と「時代」が「人」に懇切なまで教え強い ていたのだ。余翳は昭和十年生まれの私ぐらいにまでも及んでいたのだろう。「平成・令和」の「スマホ遊狂」と較べてみても意味ないが、もはやこういう「本」の 出版されるワケがない。
しかしまた『椿山集』の歌にこんなのもありましたナ。
何事も学べばよしと教へけむ書(ふみ)読む人のうはの空なる
2020 6/11 223
* 熊本陣より私かに西郷隆盛に送った山縣有朋の書簡切々の衷情に胸打たれた、西郷は黙したまま割腹とた果てたが。勝海舟と山縣とは西南戦争のおきる前、 海軍卿と陸軍卿に任じていて、ともに征韓論には慎重にむしろ蚊帳の外におかれていた。あの勝が、「いい男だ」と評したという山縣には、備えなく無謀に挑む 闘いの無事でありえないのが分かっていた。識っていた。山縣は奇兵隊の狂介時代から日露戦争の参謀総長まで、もっぱら「参籌・策戦」に長けた知謀の将軍 だった。
或る時期、永そうなドラマで「西郷隆盛」劇を遣っていたのは聞き知っていたが、一度も見なかった。少年の昔から、西南戦争、西郷を担いだ壮士らの蹶起を、征韓論もふくめ、無謀な私計にちかいと感じていたから。
2020 6/13 223
* 劣化して行くような体感を荷のように負いながら、せっかく取り組んだのだからもう少し「山縣有朋」の時代を見返しておこうかと。史書はこの多年のうち に繰り返し読んでいて、人と時代とを大きくは見間違ってはこなかったと思いつつ、そこにまた、多く激筆により指弾され続けている山縣有朋にかかる『椿山 集』や詩歌のあるに触れていた論者には、ついに出会わなかったのである。元勲、元帥、公爵の山縣がほぼ徹しての民権迫害者であり他国への侵略という形での 國の「利益線」拡張も思い詰めていたことも、それを少年来嫌い憎み疎んじてきた自身の思いも知っている。ただ、その間の八十余年というもの、私は秦の祖父 の蔵書に『椿山集』あるを知りつつ、山縣有朋の家集としてただ一度の通読も卆読も果たしていなかった、そして今は、その少なからぬ作をおさめた一巻を尽く 自身の手と機械とで透き写し読み通している。この「新たな視野・展望」を慎重に熟読してみるのは確かに「悪くない一仕事」だと思って「湖の本 150」と いう中仕切りへの到達の記念ともしたのである。少なくも日本の詩歌に久しいよろこびを感じて触れてきた一人として、いまこの一巻の美しい家集を介し山縣有 朋なる史上の人となりをそれなりに読みかえしても必ずしも不当な無駄骨と私は思わない。所詮は「鬼の目になみだ」であれど鬼は鬼という評価はそうは動くま い、私はそれを理解している。私は長州出の山縣を以て同じ長州出の安倍某を揶揄してみたが、日本の近・現代史に徴してみれば、所詮は比較にならぬほど山縣 は巨魁であった、優れて有能な軍人であったが、反民権の鬼でもあった。それに比すれば今日の総理の安座然たる無能など、良くも悪しくもとうてい比べものに ならないのだ。
それでも、私は秦の「お祖父ちゃん」がかかる『椿山集』をまるで私の為かのように遺しおいてくれた恩を喜んでいる。私の眼は、この一巻に惹かれともあれパッと光ったのだから。
2020 6/15 223
* 「戦争と平和」にはいよいよナポレオンが登場。ロシアという國は、劣勢を押し返してかつてはフランスを敗走せしめナチスドイツをも防いだ。「冬将軍」 も威力を見せた。ロシアは真にたいこくであったし、早くに日本にも「北の時代」をもって迫っていた。わたしは、明治の日本軍が清国や韓国とともあれ闘い 勝っていたのを認めるが、あのロシアによくも優位の講和が出来た者と、肌寒い危ういものを今も覚える。時しもあれロシア皇国にはソビエト革命が起き成功し た。あれが無かったら、ロシアはバルチック艦隊を喪っても、旅順を喪っても反抗の余力は持っていたのでは、識らないけれども。山縣有朋は日露戦争の参謀総 長だった。かれの軍人としての生涯は終始「参謀」としの実力発揮だった。彼は、ロシアとの少なくも優位な講和に臨み、その功績に明治天皇は最高に酬いてい た。山縣の奈何ではない、わたしは、日露戦争は当時の日本の国力として限界を敢えて行った、行くしかない決断だったろうと思うのだが。
アメリカとの敗戦は、国土・国力・戦力そして孤立で負けていた。国民学校二年生の幼少の私でも、「勝てへん」と世界地図の前で呟き、先生に張り飛ばされ ていた。衒ったのでも何でもない正直な感想だった。戦果にも拍手したが、玉砕にはやっぱしと思った。兵隊さんには何の憧れもなかった。勝てばまだしも負け たなら、占領されたなら、悲惨だと想像できた。想像通りだった。明治天皇の時代に、よく日本旗占領されなくてほんとうに良かったと感謝していた。
現下 極東の日本はまことに危うい。トランプのようなアメリカが護ってくれると本気で思い込んでるなら、底知れず危ない。「山縣有朋」ほどの「参謀役」 がいようなど、とても想像も出来ない。日本国の国防の大将は、なんと、あの安倍サンなのであるよ。戦争はしてはならぬ。しかし仕掛けられては危ない。退い ては更に危ない。「外交」という名の「悪意の算術」 それが、山縣が生涯「時事有感」と持しつづけていた謂わば「参謀」力なのであったろう。分かっている のかねと問いたいが、誰に問うのか。
2020 6/19 223
* 倒幕維新の原動力になった「薩長」両藩に、共通して、特徴的な苦い一大体験のあったことは、ともすれば忘れられがちだが、西欧列強の軍艦に、鹿児島 を、下関を、強烈に砲撃され、なに為す術なく屈服した過去があった。どうお侍たちが槍や刀を振り回し弓を引いてもお話しにならず、奇兵隊の隊長山縣狂介も あえなく手ひどい負傷を体験している。軍人山縣有朋にとって此の体験こそは決定的な認識になったろうこと、察し得て余りがある。
外国に、戦争を仕掛けては、いけない。しかし、外国から戦争を仕掛けられては絶対ならず、仕掛けられた以上、国土と国民のためにも絶対に負けられない。が、負けぬ為にはどうあらねばならないか。
山縣有朋の生涯は、この一点を「不動の基に堅い信念」となって築き上げられただろうと思われる。徴兵制、軍人勅諭、強力な陸軍(海軍)の創設と構築と強化、列強に対峙できるだけの不断の軍拡に国家として費用を掛けても「備え」続けること。
これらを、即、山縣有朋の「悪」「欲」と決まり文句に決め付けてばかりで、当たっていたのだろうか。軍艦からの砲撃に縮み上がったまま、相変わらず二本 差しのお侍たちに国防を任せ得たろうか。朝鮮、清国、ロシアとの紛争や戦争に日本がともあれ負けなかった、征服されずに、むしろ勝ったとも謂える優位の講 和が出来たどの場面でも、山縣有朋は外交をも含む終始知謀の参謀であり、事実上の最高指揮にいつも当たっていた。
この点のみに就いて云うなら、「時代」という問題もふくめて、山縣のおそらく真意とよめる辺へ、ただただ無批判な批判を加えるだけで済むのかナと、私は、『椿山集』の詩歌ともしっかり触れ合うて、しばし、立ち止まった。考えてみた。
「戦争はしなくていい」と山縣は、征韓論にも西南戦争にも慎重であった。しかし「外国から戦争を仕掛けられたなら、日本は、決して「敗北」してはなら ぬ、国体と国土と国民を「占領」されてはならぬ、それには日本国の自力で備えねばならぬが、「備える」とは何を謂うのかと、闘い勝てる力とは、軍の統率・規律であるとともに相応に強力な防備と戦闘力の用意・蓄えであったろうとは、常に常に山縣は考えて確信していたろう、そう、私は ぼんやりとでも、今は、山縣有朋という人を少しく想い直すのである、「反民権」等々の、真っ向責めたい、責められて当然な「悪」項目の、他にも幾らも有ることはよくよく承知 し認識しての上で。
2020 6/24 223
* 倒幕維新の原動力になった「薩長」両藩に、共通して、特徴的な苦い一大体験のあったことは、ともすれば忘れられがちだが、西欧列強の軍艦に、鹿児島 を、下関を、強烈に砲撃され、なに為す術なく屈服した過去があった。どうお侍たちが槍や刀を振り回し弓を引いてもお話しにならず、奇兵隊の隊長山縣狂介も あえなく手ひどい負傷を体験している。軍人山縣有朋にとって此の体験こそは決定的な認識になったろうこと、察し得て余りがある。
外国に、戦争を仕掛けては、いけない。しかし、外国から戦争を仕掛けられては絶対ならず、仕掛けられた以上、国土と国民のためにも絶対に負けられない。が、負けぬ為にはどうあらねばならないか。
山縣有朋の生涯は、この一点を「不動の基に堅い信念」となって築き上げられただろうと思われる。徴兵制、軍人勅諭、強力な陸軍(海軍)の創設と構築と強化、列強に対峙できるだけの不断の軍拡に国家として費用を掛けても「備え」続けること。
これらを、即、山縣有朋の「悪」「欲」と決まり文句に決め付けてばかりで、当たっていたのだろうか。軍艦からの砲撃に縮み上がったまま、相変わらず二本 差しのお侍たちに国防を任せ得たろうか。朝鮮、清国、ロシアとの紛争や戦争に日本がともあれ負けなかった、征服されずに、むしろ勝ったとも謂える優位の講 和が出来たどの場面でも、山縣有朋は外交をも含む終始知謀の参謀であり、事実上の最高指揮にいつも当たっていた。
この点のみに就いて云うなら、「時代」という問題もふくめて、山縣のおそらく真意とよめる辺へ、ただただ無批判な批判を加えるだけで済むのかナと、私は、『椿山集』の詩歌ともしっかり触れ合うて、しばし、立ち止まった。考えてみた。
「戦争はしなくていい」と山縣は、征韓論にも西南戦争にも慎重であった。しかし「外国から戦争を仕掛けられたなら、日本は、決して「敗北」してはなら ぬ、国体と国土と国民を「占領」されてはならぬ、それには日本国の自力で備えねばならぬが、「備える」とは何を謂うのかと、闘い勝てる力とは、軍の統率・規律であるとともに相応に強力な防備と戦闘力の用意・蓄えであったろうとは、常に常に山縣は考えて確信していたろう、そう、私は ぼんやりとでも、今は、山縣有朋という人を少しく想い直すのである、「反民権」等々の、真っ向責めたい、責められて当然な「悪」項目の、他にも幾らも有ることはよくよく承知 し認識しての上で。
加えて謂う、どうか思いのある人には思い出して欲しい、大政奉還からのち、伏見の闘いなどあって徳川慶喜は大阪から船で江戸へのがれ、京都では朝敵討つ べしと錦旗をかかげて各道から江戸への大軍を送った。この時であった、幕府は西欧国の支援や介入の申し出を「はっきり謝絶」した、江戸を征討の朝廷政府も また西欧列強の支援を截然と謝絶していた。京都と江戸とに、この点の申し合わせは一切無かったのだ。しかも両者とも明確に手出しを謝絶した。既に不平等条 約を押しつけられていながら、きっぱり無用の介入を断ったのだ、維新以後の日本の歴史を顧みて、後世が真実当時に心から感謝を覚えていいのは、何よりこの 一点であったろう、深く頭を下げたいと思う。
何故であったか。説明が必要か。維新の「元勲」たちは、その人格や経歴を多彩に異にしていて、なお「日本」を「日本人」の手でこそ守らねばと信念を侍し ていた、そう思いたい。それなくて、以降、韓国朝鮮や清国やロシアや、欧米列強との思惑や軋轢や戦争をどう小さな島口日本が対処し得たろうか。戦争はしな いのが良い、しかし戦争を仕掛けられたら負けない対策がなければならぬ。三百年の鎖国を体験してきた日本は、世界の一後進小国に過ぎなかったのだ、幕末 も、維新後も、大正時代になっても、なお。山縣有朋はそんな時代の日本を護るべき地位に、、その中枢に、先頭に位置していた。『椿山集』を読んで、心新た にそんなことへも気づいたといえば、私は迂闊であったとも、ものが見えてないとも謂われよう、か。
2020 6/25 223
* 中国に招かれて行き、人民大会堂で、周恩來夫人(いわば国会議長)と会ってきた旅の帰り際に、向こうのある人から、大岡信と私の二人に、この国には、「一言堂」という言葉があると話しかけて来た。
いま習近平の中国はまさしく彼の一言が、右といえば誰もが「右」に、左にといえばひとり残らす「左」に向き、自身の名に一言も言わずに随う。共産主義ど ころか、まして民主主義どころか、近皇国なのだ、あのプーチンのロシアも金正恩の北鮮もまた苛烈な「一言堂」のはず。よほど日本は聡明に向き合い対処し、 絶対に気をゆるめまた弱気になってはならない。トランプの米国は「一言堂」ではなかろうが、親身にたすけてくれる國だなどと甘えていては根こそぎ國を失う だろう。
私の言葉では「外交とは悪意の算術」であり、この算術にかけては日本の外交は、ことにあの敗戦後はからきしの落第。高度な算術にたけた聡明に悪意を発揮できる誰かを、国民はしっかりえらばねば、半世紀と日本の平和はもつまいぞ。
* 九時過ぎて行く。
2020 7/3 224
* 朝早に床を出て「マ・ア」と、キッチンに坐り込んでテレビをつけると、びっくり、文化庁がつくった『日本遺産」とい う連作の早朝番組で「奈須野」を解説の途中だった。先日「詠」さんから慨嘆の手紙をもらっていた関連の内容が美しい映像とともに紹介され、女優の斎藤由貴 が訪ねていた。山水と大農園の美しさはたしかに目をうばうものがあり、間違いなく時の総理大臣山縣有朋のおそらく首唱にしたがい、まさしく日本の農村離れ のした整然広大の農園が、みるからに美しい生鮮野菜やみごとな果物を栽培していて、その種類・品質と生産高とは想像を超えていた。しかも「山縣有朋記念 館」には、五代の子孫にあたる山縣有徳氏が来客の斎藤由貴を和やかにもてなしていた。建物のありようはまさしく瀟洒に美麗の西洋風で、まさしく「日本離 れ」がしていた。
那須高原のかかる整然たる開発を、番組では「明治貴族」の発想と尽力で成ったと解説していて、詠さんが名をあげていた乃木希典の、勲章をたくさん胸にし た軍服姿も、係わっていた一人として写されていた。ほかの顔写真まで記憶しきれなかったが、最後に、そんな「明治貴族たち」を束ねる態に、第二次山県内閣 の総理大臣有朋像が大きく映し出されていた。詠さんの書かれていた「事」はいわば「史実」であった。史実をどう読んで評価するかは私の荷にあまるが、一例 が、敗戦後吉田茂のワンマン大磯道路などと比して、那須の「山縣農場」ほかとの行政価値はどう較べられるか、あの奈須高原のみごとに広大で整然ととした大 農園には、比較にならぬ大きな「明治貴族」の特権行使でこそ成し遂げ得た大開発であったのだろう、それはそのまま今日の大規模農業の現実としてひきつがれ ているのだった。「農」に「根」の思いのある人と『椿山集』を読み終え即座に感触していた私の想いとは齟齬はしていないのである、が。
2020 7/12 224
* フィンランドという國のみごとさをテレビで具体的に教わった。聡明な國だ。そのまえにトランプの大写しの顔を見せられていた。その違い、清水と汚泥のよう。日本を愛している気の私にして、比較されては恥じいる。情けなくなる。
わたしは思いつきでなく、政治は聡明な「女」に任せたいともう何十年も思い、ときに口にしてきたが。問題は「聡明な女性」とは、だ。上皇后さんのような 方であればと願うのだけれど。分からない。無理じゃなあ。北條政子や日野冨子ではマッピラ願い下げ。日本の歴史ですばらしい政治をリードできそうだった女 性を一人も思い付かない。与謝野晶子??
* 昼食後 あれれと思うまに三時半、だが一時から一時間は、欠かしたことのない韓國ドラマ「大王・世宗」に見入っていた。今まで見てきた韓国歴史劇の うち、「医師ホ・ジュン」と列ぶ感動と啓発の秀作。日本の歴史劇で、たえて、かほどの問題作に出逢えない。
日本では未だ、天皇を主役の歴史劇が一度も出来 ていない。比較的には、後白河院か。たいした個性の大物であったけれど、聖帝とは行かないナ。
なにより、日本の天皇で海外・他国との折衝や闘争が あったのは、明治天皇までは朝鮮出征、応神天皇(神宮皇后)、白村江で敗退の天智天皇、蒙古襲来の亀山天皇しか無い。その点、三韓・朝鮮の王たちは、歴世の中国に、威力と文明とで脅かされ、苦難を嘗めつづけたい へんだった。
2020 7/20 224
* はからずも書庫に永く死蔵の、明治本『文法詳解 増補明治作文三千題』を、やっと書架より救い執って、こは、それなりのすぐれ「本」 一種異色便利な 「事典」であるなと見直した。和紙・和装・和字の分厚な大冊を繙きかつは拾い読んでみると、じつに「明治時代」を驚き教わるいろいろに満ち充ちている。
表題に見える「文法」という二字には、あの敗戦直後の新制中学に進んで、真っ先「口語文法」の教科書に好奇の目を光らせ、主語・述語の、名詞、形容詞の と習って、大好きで得手で「文語文法」も得々と手に入れたが、此の手に執った「明治本」にいう表題「文法」の、また巻中「諸学科大意」篇冒頭に堂々たる 「文法學」は、よほど意気盛んにむしろ「文学」「文藝」を語って本格であるのに驚いた。令和の今日、疲弊かつ余計モノかのように政治経済から嫌われ者の 「文」「文学」と真っ向の真逆なのである。
この明治本は、さらに追って「修辞学及論理学」の解説も詳しく、次いでは「地理学」次いでは「歴史」、さらに「動物学」「植物学」「金石學」そして「化 学」と続き、「地質学」「星學」「生理学」「数学」に次いで、おお、私苦手な「簿記学」まで延々定義し解説されてある、そして、やっとこさ、「政治学」が 呼び出され、ビリっ尻を、「経済学」で結んである。「時代の容貌」がまこと露わにみえて、今日只今との差違に驚嘆する、が、ハテ、「明治は遠くなりにけ り」もう昔ばなしと「忘じ去って」本当に「済む」のかどうか。
2020 7/21 224
* 韓国歴史劇『聖王・世宗』の完結を見届けた。馴染まぬ他国の歴史劇でありながら、日本の『阿部一族』と拮抗した優秀な長い歴史劇で、ことに後半へ入っ ての二十数回ほどは感涙を誘い続けて立派だった。この王は、あの朝鮮独特のハングル文字をみずから創成して国民を文盲からすくい上げた人であった。世界史 の中でも冠たるの一例と讃えるに足る。
2020 7/24 224
* 烈暑といい猛烈な暴風雨といい散発ながら中部地方に連続している火山噴火といい、いまや三百年という異数の間隔をあけてマグマ満杯という富士山の無気 味さといい、日本列島の危機ないし鬼気せまるおそろしさ、この要心ないし心用意や物の用意は、看過ならない重大事と思われる。だれが次の総理かなどという 馬鹿げた政治屋ごっこに明け暮れていると、今にも、大地は割れ、大高波は人の世を飲み尽くしかねない。「原発」という過度に危険で尩弱な施設に海べりを囲 まれている列島は、火と水と風に加えて放射能で灼き尽くされ兼ねない。
過剰な不安と 誰が謂えよう。火山学の泰斗、京大の先生は、富士山の「三百年」ぶりの大噴火は今にも起きて不思議でないとテレビで語っていた。富士の噴火は千年以上もまえから規則的に百年間隔で繰り返されてきたのに、江戸時代(新井白石の頃)から三百年も異様に間隔が明いていて、溜まったマグマはもう溢れんばかりと。
コロナどころでない列島東北部に連結した火山活動の無気味な予兆は避け難くも無視できないと。これは日本列島の宿命であり、「経世済民治国平天下」の域 をはるかに超える。正直なところ、私は、頼む、もう暫くこらえてよとこの島国に頼みたい。どこへ遁れる体力も無いのだから。
2020 9/4 226
* 昨日 書庫からもちだした昔むかしの「文藝春秋」一冊の長い長い「特集」記事を深夜まで克明に読み通し、たいそう有難い収穫で興奮もし、寝そ びれて、かはたれの朝五時にひとり床を出て、猫の「ま・あ」にも気づかれず、二階へ来た。で、すぐ原稿を書き継ぎたいところ、やはりいささかボンヤリして いる。はれならと、もう一冊持ち出しておいた箱入り本から関心の知識を汲んでおこうと読んでいた。これは深夜に熟読してたよりは深妙に難しい資料でなく、 持ち合わせの予備知識でかなりを補い読み進めておれた。命に代えても断然復活は阻止するぞと決めてきた階級的特権族、乃ち明治二年六月十九日新制定の『華 族』を、あらためて追尋・追究・再確認しておきたかった。
明治維新が制度化した「華族」と伝統の歴史が謂う「華族」とは、ちがうといえばハッキリ違う。伝統の「華族」とは公家社会で最高級の「五摂家」に次ぐ「清華家」なる公家の家格をさし示した「別称」であった。
明治政府はそんな久しい慣習など忘れたかのように、旧公家と旧武家藩主層とをひっくるめて「華族」にしてしまい、公爵 侯爵 伯爵 子爵 男爵の五階位 を区別したのだった。孰れにし。ても庶民である「士族」「平民」からは隔絶して上にある「身分」の謂い・称呼がつまり「華族」となって、さらにそこへ、明 治御一新に功績有った士族らにも爵位を与えだした、それが「新華族」という存在であった。さんな身分制度が、昭和の敗戦までつづいて、そして撤廃された。 戦争に負けてよかった最良の華族制廃止であった、二度とそんなものを復活させては成らぬ。
2020 10/1 227
* これも秦の祖父が遺してくれた旧蔵書の一部だが、東京博文館蔵版明治四十一年一月十五日發行の「支那文学全書」第廿四編、城井壽章講述の『史記列傳講義」上下巻があり、上巻を「伯夷列伝第一」から読み進んでいる。
古来篤学の者は、學者・讀者みな信を六藝に、すなわち書経・詩経・易経・春秋・礼記・樂記に置いていたが残欠もあり、しかおなお虞夏の文に信倚してきた。それらを見るに、堯から舜へまた禹へ禅譲と謙遜との史実が深く尊崇されてある。
王位といい丞相の位といい、後世はひたすら手にした権柄にしがみつき、権位をただ私して手放さない。その見苦しさ汚さ。
昔には、天下の位を譲ろうと云われると、恥じて逃げ隠れして容易には受けなかった。史記列伝の第一に伯夷叔齋の兄弟が云われてあるのも、同じその類で あった。父孤竹君が我が子の弟叔齋に地位を譲る気で死し、兄伯夷有る弟は恥じて身を遁れ、弟の兄も父の遺志に添わぬ事と、やはり身をのがれた。余儀なく間 の子が継いだ。
伯夷叔齋ともに優れた人で、他国の主君に仕えて偉才を発揮したといわれる。
このような事を史記列伝第一の「伯夷」は簡潔に感動的に伝えてくれる。
* 永く地位にしがみついたのを在位新記録更新などと誇るも騒ぐもいかに見苦しく汚い心根か。堯も舜も禹も、真っ逆さまな「譲る」行いにより、最良の国 政・民生を実現したのだった。習近平に限らず、安倍も見苦しかった、トランブは下愚の骨頂をとくとくと演じている。恥無き者らよ。
2020 10/24 227
* 韓国一年ドラマの『大王世宗』最終回を見直し、したたかに胸打たれ泪した。最良最高溢美の大王だった。いくつも韓国の一年ドラマを見てきたが、王様も のでは『大王世宗』が、民間ものでは『心医ホ・ジュン』が頭抜けて感動編、日本の大河ドラマで、これらに匹敵した感動編はひとつも無い。この比較だけで は、日本のテレビ劇界は、韓国劇の遙か後塵を拝している。
真に民衆を、国民を、主人公とみる原点の人間思想が薄弱で、地位身分や武力武術の讃美にただ堕しているからだ。いくら「忠臣蔵」といえども所詮は「君 臣」の埒に跼蹐の劇であり、国民の幸福など考えられていない。平家物語も太平記、尊皇攘夷倒幕なども、所詮は「サムライ」ものに過ぎず、真の感銘、真の思 想とは結びつかない。
2020 10/25 227
* 昨夜も、また『史記列傳講義』の「伯夷列傳第一」を読み返していた。
上古の中国では、堯は舜に、舜は禹にと譲りつづけて聖代と頌えられ、その「譲國」ひいて譲権の習いこそが、一に尊敬の思いと共にひろく人間世間にもひろ がった。司馬遷が「史記列伝」の冒頭に「伯夷列伝」を据えたのも、最もそれが自然にして当然の高徳とみたからであろう。伯夷と叔齋とは諸侯の一人に生まれ た兄弟であった。父が末子叔齋に家督をと慮い謂いながら死去すると、叔齋は長兄の伯夷こそ継ぐべしと譲り、兄は父の遺志に背かんやと家督を恥じて他郷へ逃 げ去り、叔齋もまた恥じて遁れた。しかたなく臣民は強いて仲子に諸侯の地位を継がせた。伯夷と叔齋とは他国の王に仕えて善政著しい仲にも、それぞれの真価 を発揮しつつも権威を恥じて地位を「譲る」こと怠らなかった。卓越の史家司馬遷は絶世の大著『史記』の「列伝第一」をこの伯夷叔齋を以て書き起こしてい る。
* 見よ。いま中国主席は自身の権勢と地位とを任期・互選の制を蹴って退け、自分の死まで、死後は遺族が継ぐべくあからさまに画策しているという。
中国は、「恥づる人格」を蹴転がしに蹂躙して恥無き國に陥ろうとしている、すでにむざんに陥っている。
近くは、かの安倍晋三「総理」を廻っては、「譲る」どころか在位の長きに失するを以て誇りまた周囲も褒めそやしていた。「恥」を知らない連中は、堯舜禹や伯夷叔齋や司馬遷の故事と教訓にまこと無縁の屑の如きであったと見える。
* 秦の祖父が遺してくれた蔵書の山には、この『史記列傳講義』にならぶ各書が揃っていて、明治期の学者達が、それぞれに実に丁寧に私に読ませてくれる。感謝に堪えない。
2020 10/28 227
* 朝いちばんの歴史討議番組で「継体天皇」を。私も、歴代中 一、二の関心を寄せ興味を深めて小説にもと幾らかまで書き進めながら擱いていた。謡曲「花筐」 から書き進めていた。越前、近江、山城、大和はては九州ないし朝鮮半島におよぶ視野を具体化しなければならない、荷に余ったということ。今日の天皇家のも し直系の祖と謂うなら、これはもう継体天皇どまりとさえ謂える、それへも昔から関心を寄せていた。継体、天武持統、桓武、そして一条、後白河、後醍醐、後 陽成、明治、昭和天皇に日本史の「瘤」のような意味が有ると思ってきた。
2020 11/4 228
* 『論衡』を遺した漢の昔の王充は、端的に、「良い言葉と文章を用い得なかった國」は、人もろとも脆く頽れると、適切に例を挙げて語っている。
「昭和敗戦」後まではまだしも、「平成」以降の日本には、「良い言葉と文章」とは頽れ去り、久しい日本史をベースに認めて時代を代表する文学と作家とが まったく「國」の生活に姿を見せ得なかった。明治には、数え切れない優れた作家と作品があった。漱石、鴎外、藤村、露伴、紅葉、一様等々、「明治」に比べ 時期は短かった「大正」にも優れた作家と作品とが時代を印象づけた。鏡花、秋声、直哉、竜之介等々、「昭和」は長かった、そして大きな文藝の遺産は孜々と して績み紡ぎ続けられた。潤一郎、康成、太宰、三島らは先立つ誰とにもおとらない巨星たちだった。「平成」以降の日本語力の沈滞は、露骨に政権担当者等の 日本語に露わになり、総理大臣の安価に醜いでたらめ日本語が時代の顔を腐らせ出した。麻生、安部、菅とならんだ総理の日本語の安っぽい貧しさは、これほど 今日の「日本」のなさけなさを象徴するものはない、国民の前へ政権政策を語りに出て「カースー(菅)です」などと喋り出した総理大臣の時代にどんな日本語 が耀くかと哀しくなる、なればこそ、いま、文化・文学・文藝は渾身の実力で花咲いてこなくてはいけないのだ。政権や財界は、官僚は、日本の「文」の首を絞 めようと躍起になっていて、文学・文藝の側からの渾身の反抗と奮起の兆しもなく、文藝団体は偉大なリーダをもてずに、うろうろとさえも出来しいない。昔の 出版人なら絶対に奮起し先頭で頑張ったろうに、突出して発言し行為している出版社も見あたらない。
王充は『論衡』の「超奇篇」 もっともすぐれた文章とは何か のなかで、「儒生」「通人」「文人」「鴻儒」などと語っているが、現代、「鴻儒」に値して 日本の「文」「文藝・文章」を先導してくれている文学者は、どなたであるか。総理大臣でも文部大臣でも、ない、のはあきらか。
あれだけ嫌われてきた軍人政治家山縣有朋にも、清雅な家集『椿山集』が在った。
2020 12/13 229
* 「平和」の二字が金科玉条となり、人間の心をひとしなみに「率い」ているかに想われる。
が、果たしてそうか。
「平和」と「戦争」とは有史この方、つねに同次元の一対で、「理想」には相違なかったが、ひとしなみの「世界平和」など実現されたことは、一度も無い。 つねに自国ないし同盟諸国の「平和」のために他の國ないし諸国、諸同盟国と、「戦争」してたんに均衡が揺らめく保ってきただけ。それが人間たちの「世界 史」であり、例外は、事実上「無」であった。
「平和」を願うだれもが、「自国ないし自国なみ同盟諸国の平和」であり、それを死守するためにも他国ないし他の同盟国と争って、烈しい「戦争」も避けなかった、避け得なかった。
「世界平和」が見果てぬ夢なのは明瞭な「人間の史実」であり、かつて「諸王・諸帝」が各地に併存はしたが、「世界王」による「世界平和」など、有史以来一度も無かった。有り得なかった。
この事実ないし現実を絶対的に克服できた「実例」を誰一人として挙げられない以上、「世界平和」はただ「美名」の域にとどまる「空想」なのである。
人類が、人間たちが望んできた「平和」とは、自身ないし自国・友好國の「平和」なのであり、その獲得や保持は、「戦争する」という「意思と力量」とにしか支えられていない。今日二十一世紀世界の世界中を見渡して、此の「私の理解」を否認できる「ただの一例」も無い。
いま、『史記列伝』に読み耽っていて、「伍子胥列伝」まで読み終え、つぎに「孔子」らの記事がはじまる。
中国の歴史時代が、「殷」にはじまり「聖帝」伝説を抱いたまま続く「周(春秋)期」にはもう「戦国」が続く。秦始皇帝の統一までの中原の葛藤ははげし く、「秦統一」時代は短期で「前漢」へ、さらに「新」を経て「後漢」ヘ転じ、以降、どの帝国も「戦争」を介して険しく交替しつつ、今日の「中共中国」に 到っている。「中国」という大国内にして、実は、慨ね途切れなくいつも四分五裂の「戦争と平和と」の闘いなのであった。
私は、「世界平和」という理想を否認しないが、当の「人間」こそが、それを動かしがたく拒絶し続けて例外なかった。「人類の史実」は世界平和を恰も拒絶し続けたと「確認」せざるを得ない。
言い換えれば乃、ち、「平和」とは極まるところ「自国の確かな防備」無しには保持できないという簡明な現実を、否定否認できないということ。前回、今回 も、「湖の本」で山縣有朋を、そして昭和天皇痛嘆の声をも採録した、それが、大きな理由と云うしかない。日本の久しい「鎖国」による平和は極東孤立の賜で あったが、いつの時代にも安穏と自立していたと思うのは錯覚である。強いていえばいつも狙われていた。防備に「海」が幸いしていたに過ぎない、が、もうと うにそれも不幸に転じたことを昭和の敗北は明証した。二十一世紀のあます八十年、「日本人」が平和と安穏を願うなら、「世界平和」とは久しい人類史の寝言 のように破れ続けた夢に過ぎぬと承知して油断なく「國」を護る気概が必要だ覚めた。私の「思い違いだ」と、さっぱりと教訓して下さる方に出会いたい。
2020 12/14 229
* 敗戦後の、七十余年で、世界的大事件には幾度もであったが、中共中国が建ち、ソ連がロシアになり、東西に分かれたベルリンが一つになり、ケネディが暗 殺され、ニューヨークの二つの塔ビルが飛行機で爆砕され、破天荒に乱暴陰険な大国指導者たちが君臨したことなど、もっともっと有ったが、心底おそれて阻止 せねばならないのは、原水爆での二度目の他国爆撃と、第三次世界戦争勃発。かつての日本のように、叡智の洞察を欠いた暴発國が高慢な火をつける、それをど うあっても押しとどめられる世界でありたい。
昭和天皇が、晩年の回想述懐で、あの戦争の敗因は、真にまた芯に叡智と洞察の「政治家」と「名将」とがいなかったと呻かれていたのを、いろいろに意味深く今も思う。
今日令和日本では、まさしくウソ八百の犯罪的行為の積み上げを、司法からも国会からも糾問され、ひら誤りしているのが、前総理であり、また現総理にもその手のボロがもう出てきている。
2020 12/26 229
* 「戦争してはいけない。」当たり前である。
が、ここで「もう言い終えた」と立ち止まってしまう危なさにも気づきたい。戦争を「しない」だけでない、「仕掛けられても」絶対にいけない。それを忘れて「昼寝」していて良い訳がない。
戦争は、「負けて」「蹂躙されて」はなにもかも「お仕舞い」なこと、「負けて勝った例」の世界史に稀なこと。立ち直るのに想像を絶した悲劇を体感しなくてはならない。
ドイツはメルケルに至るまでに母国をながく分断支配されていた。日本は占領軍の3S(スポーツ・ショウ・セックス)政策に浮かれながら、アメリカの傀儡 政治に近来ますます幼弱化し、借り物の民主主義をほぼボロボロの襤褸着に着込んで、気づいてもいない。若い十・二十歳世代の頽廃にちかい「その日暮らし」 に、それは露骨ではないか。
日本は、日本の国土と国民とは、いつも、少なくも千年來、近隣国の「食欲」をそそってきたのを、日本人と日本の政治外交は「鎖国ボケ」で忘れている。明 治以降、いわば先手に日本から「仕掛けた戦争」が手に入れてきた「不埒な所得」はとうに底をついていて、その「奪回」むをこそ近隣に迫られているのをまる で見ぬフリに、敗戦後の国内「統治」に偏った日本の保守政治は、まるで阿呆のように「保守すべき真義」を忘れている。あの北朝鮮の「日本人攫い」も、中国 の日本「領海」へ強引な接触も、韓国の強引な国際法違反の諸「要求」も、ロシアの「北方占拠や侵入」も、それに他ならない、分かり切ったこと、しっかり備 えて至当な日本の政治と国民との課題ではないか。
2021 1/17 230
* 機もよし、次回「湖(うみ)の本 151」のために昨日書いたばかりの「序」を いま、此処へ「予告」として置いてみる。
序 山縣有朋と成島柳北 この二人の明治維新
こと「明治維新」を書いて、語って、「汗牛充棟」はなんら誇張ではない。そこへもう一冊を加えようとは厚顔しいかと遠慮がある。それでもなおと云うには 言い古された陳腐は断然避けねばならない、「元勲・元老」山縣有朋はあまりにも識られた名であり、必ずしも当節なおなお歓迎される名ではない、だが前巻 『山縣有朋の「椿山集」を読む』は、よほど新鮮な感銘を読者に伝え得た。まこと珍らかな家集『椿山集』の、心静かに、なに高ぶらない風趣は、清新な驚きで 受け容れられ、一人として拒絶の読者は出なかった。秦の祖父鶴吉旧蔵の一冊が思いもよらぬ今日に思いもよらず静かに読み返されたのは、山縣有朋になに贔屓 の思いも寄らぬ私にも胸温まることであった。
その、度も過ぎて知名の山縣有朋に衝きあわせるように取り上げる「濹上隠士」成島柳北は、また、今日、忘れられ過ぎた明治「志士」の一人であり、頑なに 民権を忌避の内務卿山縣有朋ら維新の薩長藩閥政権に闘い挑んだ一人の「文豪」であった。有朋に一歳年長の柳北の人生は、あまりに惜しく短かったが、その経 歴は目を瞠る異色に彩られて、しかも江戸から東都へ生き直り稀なほどの風雅の気概に溢れていた。しかも彼自身が受け容れさえすれば、明治の元勲とも新華族 とも晴れやかに肩そびやかすことも出来た、だが成島柳北は幼、來つねに「家國」の安否を慮りながら山縣等の維新政権の「傲」と「妄」とを指弾し続けた。
この一巻は、そんな景況を背に、私なりの大胆な有朋再評価と柳北賛嘆とを、なんとか課題に満ちた対極として略畫したもの、ご批評を願います。
二○二一年 一月 コロナ禍の中で 秦 恒平
2021 1/29 230
* バイデン氏の大統領就任演説はちから有り、耳にも美しかった。
日本の菅総理の国会での、委員会での下書きをただボソボソと読み下す演説や答弁の、内容も言葉も貧相を極めて醜く聴きにくいことは、野党の女性議員が呆 れて指摘したのが正鵠を射ていた。「失礼」なのはガースー総理の方であり、日本語を書きかつ話すのは「選良=代議士」の國と国民に対する大きな義務なので ある。「国語」を護る磨くのは現代人の国史へ支払うべき努力なのである、フランス語の場合がそうと、子供の頃に聴いてよそながら感銘を受けたのを忘れな い。
☆ 「國を誇りに思う時は」と自問し、
「優れて美しい「国語・日本語」が目に耳に実感出来た時」と、かつて答えていた。。
少なくも明治・大正・昭和初期の「選良」を自負した大臣大将らの国語力は、いないな下級将校らでこそ子供が目を丸くするような号令日本語を平然口に出来 ていた。云うまでもない、従来悪名サクサクとして嫌われていた山縣有朋元帥には、清雅に美しい佳い詩歌の家集『椿山集』があり、私の「湖(うみ)の本 151」に収めて、読者を驚嘆させた。その日本語表現の静韻をほめた人は多く、拒絶した人は無かったのだ。
敗戦後でも 吉田茂はもとより石橋湛山や池田勇人ぐらいまでは堂々と演説した。中曽根でも、「日本列島は浮沈空母」などと愚な大言を弄しながらも、時に自作の俳句を披露したりした。
これはもう、あの安倍総理から、いやいや彼ですら、貧相な菅総理にくらべときに大きな声で紙のメモなしに答弁していた。日本語の不十分な「失礼」を謝る べきは菅総理自身の方であり、私は体調がよほど良くないのかと彼のために案じたほど。他の大臣達の答弁の軽と薄も目に耳にあまるもの多し。
2021 1/29 230
* 食事(鶏卵を一つ落とした味の濃めのスープと、ミルクをどうかしたスープの熱いの。)しながら「麒麟がくる」という明智光秀のドラマをちらと見たが、 おそらく『史記列伝』や「戦国策』かぶれの日本型「理」に溺れた小才策士の物哀れに破綻の人生、しょせん信長や秀吉や家康型の策士とは歯の立たない、せい ぜい足利末路将軍と肩をくんでドッコイ程度の人物と少年の昔から見極めており、「麒麟」ドラマも、その通りに情けない小粒な画面が続いた、途中で切った。 それにくらべれば、取り置いてある、一回ずつで見切りの「ネービー・サスペンス」に登場の、班長ギブス以下チームの誰もかもが、生き生きと一人一人の人生 を背負ったまま情け深く、まるで私自身の「身内」のように懐かしく生きてモノ言いかけてくる。
* 『列伝』には数え切れない「策士」の陰謀術策が蜘蛛の巣のように張り巡らされている、が、彼らの誰も天下を取れない。その他方に『大學』『中庸』「論 語』『孟子』のようなりけぞるほどの正論が横に並んで中国が誇る歴史を支え成している。凄いとしかいえないケッタイな大国ですなあ、中国は。
幸いに日本には驚嘆の策士が縦横することは無かった、その証拠のようにサマにならなかった小細工士を「麒麟」視して済ましている、澄ましている。
また老子荘子孔子孟子のように怪物めく深淵のような哲学・思想の大物も、たとえ弘法であれ法然親鸞日蓮であれ、「お拝みする」信仰がらみであった。それ なら物語の紫式部は断乎として中国や世界もものともしない。彼女よりは日本にほぼ限定されるが世阿弥・利休・芭蕉、近松、歌麿、南北は十分な敬愛と感謝と に足る。明治以降のことは云わない。
2021 1/30 230
* 米内光政を記念の番組をみた。こみあげるものがあった。戦中少年だった私は、陸軍東条が退き小磯国昭も早々に潰れ、海軍の米内光政が組閣したとき、な にと明瞭に謂えぬまま親愛と期待をもっていた米内という海軍さんの内閣が、陸軍の横紙破り(陸軍大臣辞任)で立ちゆかず総辞職した無残な思いを永く忘れて こなかった。
わたしは軍国主義者ではない「戦争も兵隊も嫌い」な臆病少年だった、それは処女作「或る折臂翁」で表現した。白楽天の厭戦兵役拒否の長詩「新豊折臂翁」を祖父の遺産で読んでひときわ感銘を受けたのは、国民学校三年生以前であった。
勝てない、負けると知れた戦へ国土と国民を引きずった帝国陸軍にわたしは子供心に「あかんわ」と思っていた。海軍のあの山本五十六連合艦隊司令長官がは やく戦死し、米内光政海軍大臣のでる幕出る幕をふさいだ「陸軍」の、昭和十九、二十年にしてなお「本土決戦で勝つ」などと無責任を言い放ち続けていたの が、心より疎ましかった。「負ける戦争」へ国土と国民、昔で謂うと「国体」までも強引に引きずって行く軍人。昭和の日本陸軍とはそういう、無策の組織で あった、らしい。あの山縣有朋は生涯の軍歴を、総理として以上に明快な参謀総長として際だっていて、ゆえにムダな戦争は避けて為さず、國危うくして闘った 大戦争のすべてに完勝した。「負ける戦争はしない、してはならない」姿勢は、幕末、列強の軍艦に痛い目に遭った体験、無謀な征韓論のあげく勝てるわけのな い西南戦争へ落ち込んだ西郷隆盛を、「悼む」思いを抱きつつ国軍参謀長として完全勝ち抜いた体験このかた、山縣有朋の少なくも軍政には、いつも一貫して眼 と智との参謀力が働いていた。昭和天皇が、しみじみと「山縣がいなかった」のも敗戦の因と呻かれたのが、痛いように思い出される。
2021 1/31 230
* いろいろと読んでいるが、いま一等の感嘆は『史記列伝』。 七十全編中の最要最佳といわれる「孟子荀卿列傳第十四」へまで到達した。何となく読み進んできたが、叙述簡明の筆に導かれてじつはヴィビッドに多く多く「戦国」を学んでいたと気づく。「簡潔に書く」凄いようなお手本である。
策士策士策士そして死と死骸の山を見続けてきたが、入れ替わって、「孟子」と出会う。
読み始める前は、続くかなと想っていたのが、誘われ惹かれて上巻五百頁の三七○頁まで来ていた。下巻へまで、信じられない、なんと「楽しみ」になってい る。城井壽章の講述に導かれながら、漢文が楽しめている、そして世界は戦国、ついに秦始皇帝が立ち二代までのまさしく合従連衡のドサクサ続きであった、こ こまでは。一度の決戦で何万何十万と「頸」斬られ殺され、八つ裂きにもされ、秦に至っては三十万人を一時に「坑殺」してもいる。日本史ではついぞ見聞に及 ばない惨虐の國であったのだ、中国は。だからこそまた、老子や荘子が、孔子や孟子が登場した。はて、今の中国に老荘・孔孟が現れれば忽ちに投獄ときに暗殺 されているのではと怖気ふるう。もう何十年かまえ、井上靖を団長に中国へ招かれた時は、毛沢東なく周恩来もなくなり、四人組が投獄された直後だった、が、 「孔子」の名を口外するのも禁じられた。大岡信と私とに配されていた自動車で、付き添いの一人が、「一言堂」という言葉を知ってますかと問いかけてきた 「オドロキ」を忘れない。中国での天下統一とは、即「一言堂」国家の確立を謂うのであるか、さもあらん。
2021 2/8 231
* 神があるとか無いとか信じるとか信じないとか、私は思って来なかった。ただなにかしら想っていたし今も想っている。古事記を読んで事実のように読んで きたのではない、こういうことが大切に伝わっていたのを良かったと喜び、日本人としての「神話」の歴史的に与えられてある事実を、優れて有り難い「文化」 と思う。神話を持たない民は根底の寂しさ物足りなさを無意識にも感じていると思う。日本の神話はどの国民のそれと比べても優れて美しいのである。
* 中国の元の曽先之が編次の『十八史略』は当然に中国「太古」の史実と観ての「神話」から語られている。
「太古」 (天皇氏) 木徳を以て王たり、歳を摂提より起こし、無為にして化す。兄弟十二人、各々一萬八千歳。地皇氏、火徳を以て王たり。兄弟十二 人、各々一萬八千歳。人皇氏、兄弟九人にして、分かって九州に長たり、凡そ一百五十世、合はせて四萬五千六百年。人皇の以後に有巣氏と曰ふ有り、木を構へ て巣を為し、木実を食らふ。燧人氏に至り、始めて燧を鑽り、人に火食事と歓談教ゆ。みな書契以前に在り、年代国都攷ふ可らず。
「三皇」 (太昊伏羲氏) 風姓。燧人氏に代つて、而して王たり。蛇身人首。始めて八卦を畫し、書契を造り、以て結縄之政に代ふ。嫁娶を制し、儷皮を以て禮と為す。網罟を結び、佃漁を教ゆ。犠牲を養ひ、庖厨を以てす、故に庖犠と曰ふ。龍瑞有り、龍を以て官に紀す。龍師と號す。木徳王、陳に都す。庖犠崩ず。女媧氏立つ、亦た風姓、木徳王たり。始めて笙簧を作る。
* 以下なかなか面白く 膨大な時世を経つつ「炎帝神農氏」「黄帝軒轅氏」と続いて次いでまた大きく『五帝』時代が来る。
これは根底から「歴史」であり「蛇身人首」などと奇怪であろうとも、どこかに人類史の生活的な展開も読み込まれている。
日本の古事記神話は、こんなではない、もっと「国土の自然」に接して神が語られている。まさしく「物語られ」ていて、八岐大蛇など現れるけれども、耳を傾けてお話の先が聴きたく、聴いて懐かしいのである。
、
* 紀元節という名の祝日は、天長節や地久節や明治節などより、「おはなし」の世界として親しむ気持ちがあった。「今日のよき日は大君の生まれたまひし良 き日なり」と歌うより、「雲に聳ゆる高千穂の」という古色の自然を目に浮かべるのが、身に沁みる二月の寒さや町内で炊き出される大好きな「粕汁」の香とと もに、とても印象的な一日だった。
* 「十八史」がドレドレかアタマにないが、手にしている「片仮名付き」原文のままの『十八史略』は漢文が読み良いし、興味津々、面白い。編者の曹先之は「元」の人、あの「太古」から「唐・宋・元」までの歴史が大略語られていそう。
いま、秦の祖父から頂戴の明治の漢籍本にはきまって「目次」が無い。これは、なんでやろ。
2021 2/11 231
* 若い天皇さんの誕生日というので、妻と、わらって赤飯を祝った。
天皇などという名前にひれ伏す気はないが、日本史に天皇の途絶えなく存在したことは、独特の「文化」として私は受け容れている。敗戦後に、無くても佳い のではと思った時期もある、が、日本人は、戦後がつづくうち、その中でも政治家という不逞かつ無学な悪徳権力者達が、天皇無ければさらにさらに横暴と我 欲・権力欲を極めるであろうコトが確実になるにつれ、せめても「文化」としての、かろうじて「安全弁」としての天皇制は保持したいと思うようになった、 が、それも一つには平成天皇ご夫妻、また令和のご子息天皇に誠実と聡明とを信頼した、するからである。政治悪にわるく利用されてはならぬ。その意味でも、 天皇が「象徴」に止まられるのが無事かとは思う。
しかし、年に、数回は、思い切った「お言葉」を国民のために、平和な安穏のために、「希望」また「苦言」として積極的に吐かれるのを、私一人はむしろ強く期待している。
☆ 神楽歌 閑野小菅(しづやのこすげ)
閑野(しづや)の小菅(こすげ)鎌もて苅らば
生(お)ひむや小菅
生ひむや生ひむや小菅
天(あめ)なる雲雀
寄り來(こ)や雲雀
富草(とみくさ)
富草持ちて
富草噉(く)ひて
あいし あいし
あいし
* こういう環境や感興を、神と親しむ思いで人は「文化」として抱いていた。そういう日本の末世にいま私たちは生きている、あまりに雑然と。
2021 2/23 231
* <大學>
大學の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しむに在り、至善に止まるに在り。
止まるを知りてのちに定まる在り、定まってのちに能く静なり。静にしてのちに能く安し、安くしてのちに能く慮る。慮ってのちに能く得(う)。
物、本末あり。事、終始あり。先後する所を知れば、則ち道に近し。
古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先づ其の國を治む。其の國を治めんと欲する者は、先づその家を斎(ととの)ふ。其の家を斎へんと欲する者は先づ其の身を脩(おさ)む。其の身を脩(おさ)めんと欲する者は、先づ其の心を正しくす。其の心を正しくせんと欲する者は、先づ其の意を誠にす。其の意を誠にせんと欲する者は、先づ其の知を致す。知を致すは物を格(きた)すに在り。
物を格してのちに、知至る。知至つてのちに、意誠なり。意誠にしてのち、心正し。心正しくして、りち、身脩まる。身脩まつてのちに、家斎ふ。家斎つてのちに、國治まる。國治まつて、而して天下太平。
* 息子に放題に悪をさせておき、親とは別人格と。この親総理、どんな「大學」に學んできたのか。修身斎家まさに落第、治国平天下など、とてもとても不適。落第。
* 近い時代に大きな存在であった 道教の老子 荘子 儒教の孔子 孟子 前二者と後二者とは 明らかに異なって、それぞれに近くて親しく見えている、が、前二者のあいだにも 後二者のあいだにも またよ ほど異なる風情があり実感がある。いずれにしても、仏教の祖師はふれど、こういう思想的な覚者は日本には現れなかった。輸入されたのであり、今日にも日本 にはすぐれて生き生きと日本人を育てた哲学は今なお実在しないと思われる。戦前の哲学も美学も、舌を噛みそうなひどい日本語をまきちらしたのが関の山で あった。戦後世代を構造と方法とを持って率いてくれた哲学も思想も、無いと謂うしかない。
* 中国の人民はじつに割りよい「福・禄・壽」信者とみえながら、権力ある指導者は、えてして摩訶不思議な自前の「思想」を鞭のようにふりまわす。日本の政治家たちは欲だけは深いが、不勉強の極みを競い合う不可思議人たちである。
* 殷に次ぐ、「周」という中国古代を今夜は床で読む。「フアウスト」「失楽園」のような巨大な創作を、「源氏物語」の美しさのほかにもてなかった不甲斐なさを覚えながら。ま、西鶴かなあ、かろうじて。明治以降では、漱石と藤村とを、やはり挙げたいが。 2021 2/23 231
* 中国は、この世界的なコロナ蔓延・猖獗は、いわば第三次世界大戦であり、中国は「勝つ」ないし「勝った」と明言しはじめた。
私は驚かない、去年の早い段階で、私は強感染のウイルス・細菌やワクチン対応は、まさしく戦略戦争の武器であり、中国にその糸が有ったとしてナニ不思議 もない、むしろ明らかにその威とを隠然かつ陰然として抱いている懼れあろうと指摘しておいた。なにも中国に限らない、そのようなことを考えるのが世界支配 に気のある強国の歴史的な姿勢であったし、「勝つ」ためにそんな手を隠し持つのは世界史的な事実だと観てきた。殺人に「毒殺」を考えるのは、政治権力者だ けでない、貴婦人にしてそんな犯罪を試みてきた例は、『モンテクリスト伯』を読んでもすぐ分かる。ウイルスや細菌はまさしくその「毒」なる精というに同じ く、権勢がそれを武器同様に駆使して世界戦争に勝ちたいと狙うのはあまりに当たり前なのである。日本軍にも当然そういう姿勢と研究への体制対策の存在した ことは、識るものは識っていた。医学書院の編集者として私も、それらをちらちら耳にする機会は、無かったでなく、在ったと知覚し淡く記憶している。
中国の姿勢が公にたしかになりつつあるのは、用意周到の戦闘的悪意と理解するのが、防衛に廻る他国の理の当然であろう。日本の代議士と称する無知な政治家たちの何人ほどが、この、中国の所謂「第三次世界大戦」に気づいているか、寒気がするほど頼りない。
* 中国には儒教も道教も、仏教や禅も、びっくりするほど盛んに根付いたけれど、それは、事実に於いて「中国」なる「国」の、とほうもない策謀・暗躍・支 配欲のただに「影絵」に過ぎないのを、まして日本國と日本人はよく心得ていないと危ない。孔子でも孟子でも、都合次第に裏向けたり表向けたりして勝ちに利 するためのカードに過ぎない、過ぎなかった。
2021 2/25 231
* 『十八史略』と 『史記列伝』とを通して、中国の「春秋・戦国時代史」を読み進み、歴史は、或る程度的を絞って集中的に廣くも深くも読み込まねばなと思う。かたわらに『四書講義』も置いて いま「大學」を読んでいる。まだ「秦」の統一国家までたどり着いていない。
2021 3/3 232
* 「列伝」も、中国史も、春秋を終えて戦国の時代へ。孔子の時代から墨子の時代へ入って、興味津々。「十八史略」では、まだ「周」室の残映から春秋時代 へのあたりを、読み下しも講話も解説もなく原文のまま読み辿っている。中国は、おそろしいほど諸族諸国の闘争し続けてきた世界だ、が、諸王も人民もつまる ところ、「福禄壽」か。
2021 3/3 232
* 晩、日本國陸軍の一部将校らに依り経略されたあの「二・ 二六事件」への 当時「海軍による明細な秘密文書」にもとづいて、事件の意味が険しく鋭く恐ろしく証されて行く長時間映像に釘付けになった。明治以降 敗 戦までに起きた国家の中枢を巻き込む大事件は、一つは明治末の「大逆事件」であり、そして昭和の「五・一五事件」についで起きたこの「二・二六事件」がま さしく大事件だった。私はたったの一歳半の赤ん坊であったが、昭和二十年の「奉勅敗戦」時のやはり一部陸軍将校らの抵抗事件とともに最大級の関心を持ち続 けてきた、機会あればどんな放送にも映像にも目も耳も傾けてきた。まさしくそこに「昭和の歴史」が規模こそ大きくはないままに「日本」の運命が凝結してい た。ほんとうは、私のような「八五老」ではなく、せめて若い二十歳前後の男女子諸君に目を剥いて見入り聴き入ってほしい。
この手の「過去の国家的事件」のいろいろに私は目を背け得なかった、食いつくように見入り聴き入り自分の「生きかた」を顧みてきた。
* どんな段階の学校であれ、歴史といえば決まり切った「縄文式 弥生式」から始めるのでなく。そんなのはのちのち自分で本を読めば宜しく、それより何よ り明治維新、多くとも、ペリー来航以降昭和の敗戦、そして安保闘争、沖縄返還の頃までの「激動の歴史的視野」を重点的に培って貰いたいと願うのだが。
わたしは東工大で「文学」教授として学生諸君と大教室で出会っていた毎年、必ず明治の「大逆事件」の国家による「フレームアップ でっち上げ」を含め概 略を話しておくのを自分の義務のように決まりにしていた。源氏や枕も、漱石・藤村・谷崎らの文学も私は無類に尊重するが、それとともに、それ以上に、國の 運命と倶に生きて行くうえでの覚悟をも大事に考えていたし、今も変わらない。
わたしが時代遅れなのではない、それに気づかずにスマホなどにうつつを抜かしている方が真実「時代遅れ」なのだ。
* 十時になる。
2021 3/5 231
* 嘉永三年(一八五○)三月に、十三歳の秀才が書き残した『海警録』なる著述とその「自序」を今も読むことが出来る。日本列島は、曾ては「海」を警戒し 守備すれば列島が守れた。飛行機も潜水艦も長距離弾道弾も無かったから。だから明治日本の國軍は、軍艦の建設と保有と教練に特に力を入れた。結果として 紅海でも旅順でも日本海でも「海戦」して負けなかった。
それより遙か以前には日本は海戦で二度の手痛い敗北を経験していた、一つ天智天皇の日本水軍は朝鮮白村江の海戦で惨敗していた。一つは元寇、蒙古の来襲 だった。前の時は這々の体で逃げ帰った。後の時は颱風・暴風雨で向こうが退散してくれた、さもなければ西国、九州は惨害に遭ったろう。
三度目は西欧列強の、海からのまさしく戦艦の威嚇に遭った。攘夷どころか、かずかず不平等条約を強いられながら「開国」しつつ「尊皇倒幕」の成功裏にか ろうじて「維新政府」が起って、対外に堪えた。「富国」と「強兵」とは、文字通り余儀ない「国是」となり、それに日本はともあれ成功していった。それなけ れば、どうなっていたろう、昭和の敗戦よりも惨憺の隷従を欧米の、一国ないし数国に強いられなかったではないだろう、実例は洋の東西、世界中に多々みられ たではないか。
十三歳の『海警録』は、あるいは現在日本政府の優柔と躊躇を嗤うほど、的確に「時代」へむけ警告し激励している。こと、現在日本の問題は尖閣諸島問題に 限定されているのでなく、果てて対中国との「武力」衝突に及びかねないことにある。中国の主張と対策は、いわば明瞭率直で日本人にも分かり安い。ところ が、日本政府と国民との、少なくも対中国の意思や用意や決意は、まるで分からない。
「平和」はただ座談の種ではない、「護る決意」で現に起って確保すべき寶である。昭和の「戦時」そして「敗戦」の惨苦を思い出せる人が少なくなった。マスコミは、もっともっと映像や記録を掘り起こして提供して欲しい。
秦の父は口癖に云った、「戦争は 負けたら仕舞い」と。その通りだった。
2021 3/10 231
* 歴史調査研究所が、早くに、『「秦王国」と末裔たち』という「日本列島秦氏族史」という大著を出していて、浩瀚な目次内容の中に、「古代近江國愛知郡は、小さな『秦王国』」として、そこに「作家秦 恒平家の家系」なる項目が挙げてあり、今更にビックリした。
「秦氏」が古代以来巨大な名字であること、源平藤橘をも凌いで歴史的に古くまた分派の全国にひろいこと「秦王国」とまで謂われるほどなのは、ま、私も識っていた。
聖徳太子に信頼された「秦河勝」なる朝廷内実力者の余翳は、国内広範囲に散点し、彼を祀ったという京都でも名高い「広隆寺」 あの美しい弥勒菩薩像と倶 に記憶している人は多い。彼の墓礦、大和で著名な亀塚をさらに凌ぐ、全長八十メートル、石室十七メートルという巨大な京太秦の古墳「蛇塚」辺に河勝邸も 在ったという。私ごとを離れても、「秦氏」は中國の秦始皇帝をも抱き込んで、壮大に面白い内実を抱えている。私が、井上靖さんに連れられ中国に招かれた時 に、人民大会堂での会合の際に、出迎え側の主人役トウ・エイチョウ(国会議長格)女史から、「秦先生はお里帰りですね」と笑顔の諧謔があったのも、必ずしも故 なしとしないのである。
* そういう「秦氏」ものも書いてみたいと、上記のような本も手に入れていたのだったが、放ってもあった。なかなか面白く記録的に取材された大冊で、久し ぶりに手にしたわけ。建日子にこういう方面への開拓意欲もあるととわたしは楽しみにしたいが、もう諦めている。「秦」を棄ててしまった朝日子に期待しても 仕方なく。命あらば、短いものでも書いて置きたい。
たしか、もう一冊、書庫に「秦王国」の三字を表題に含んだ小冊の研究書もあったと覚えている。持ち出してみよう。
* 初めて読む気で読み始めた『「秦王国」と末裔たち 「日本列島秦氏族史」』 という大冊に向かい合って、その、読みやすさ・分かり良さ・調査の詳細・しかも整理整頓された具体的記述にいきなり惹きこまれている。なにも鵜呑みにはし ないが、「秦氏」を勘考する視野は十分に具体的に与えて貰えそうで、実は、オドロキながら共感し依頼する気になっている。
2021 3/11 231
* 春秋が過ぎ 戦国時代は「秦始皇帝」の壮大な(しかし永くはなかった)全国統一と支配の時期へおさまる。始皇帝の政治家としての気宇と政策と実行力は たしかに中国の永い歴史にあっても抜群なのに驚く。今日の中共中国も、始皇帝への他にはるか越えた敬意と評価を以てしている。焚書坑儒などのすさまじさも 凄まじいけれど、向き合ってみる価値ある卓越の歴史人には相違ない。
そして秦のアトへあの項羽と劉邦とが出てくると、ぐっと中国史が逸話の豊富で多彩になってくる、そして前漢の統一になる。
通史と並行して、『史記列伝』上半と『十八史略』も漢文のまま戦国末まで読みすすんでいる。なんとも柄の大きい、しかし京ことばでチクと云うと、「柄の わるい」歴史の永々しい國やなあ。秦の起ち秦の滅びたのも西紀以前のこと。日本史がほぼ我々の常識に接してくるのがやっと聖徳太子のころとすると、秦始皇 帝の立ったよりじつに七、八百年も後々のこと。そして源平争う十二世紀まで日本の政治は御公卿さんが京都で取り回していた、戦争ははるか遠地で単発してい ただけだった。古事記、日本書紀、風土記に比べても、奈良・平安の公的な史書の大方は、いつ、だれが、どんな官位官職に就いたかの記録で埋まっているばか り。
2021 3/13 231
☆ 范睢(はんすい)は魏の人也。字(あざな)は叔。諸侯に遊説して。魏の王に事(つか)へんと欲(ほっ)すも。家貧しく。以て自ら資する無く。乃ち先づ魏の中大夫の須買(しゅばい)に事(つか)ふ。須買、魏の昭王の為に齊に使ひす。范睢従ふ。數月留まって。未だ報(使としての効果)を得ず。
ときに齊の襄王、睢(すい)の辯口を聞いて。乃ち人をして睢に金十斤、及び牛酒を賜ふも。睢は辭謝して。敢て受けず。
須買之を知りて。大いに怒り。睢が持てる魏國の陰事を齊の為に告ぐるを以て。此の饋(賜金・賜酒食)を得しと。令睢をして受けし其の牛酒、其の金を還さしむ。
既に歸國の後も。(上使須買は)睢に怒る心あり。以て魏の相に告ぐ。魏相は。魏之諸公子(王族)にして名を魏齊と曰へり。魏齊大いに怒り。使舎人(家来)をして睢を笞撃たしめ。脅(肋骨)を折り摺齒を摺(けず)らしむ。睢、佯(いつは)り死せり。即、(死体を)簀を以て巻き。厠(かわや・便所)の中に置く。(公子魏齊の)賓客飲者ら酔ふて。更に睢に溺(でき=吐き且つ排尿便)せしむ。故(ことさら)に蓚辱(しうぢょく=汚し辱め)して以て懲しめ。此の後に匽言者(=隠し事為す者)無からしめんと。
睢(すい)は簀中より。守者に謂ひてう曰く。公(きみ)能く我を出せ。我必ず厚く公に謝礼せむと。守者乃ち請ふて簀中の「死人」を出して弃(棄て)たいと。(公子)魏齊は酔ひて曰へり。可焉(よし)と。范睢得出るを得たり。後に魏齊悔ひ。復た守者に之(范睢)を求(=探)させた。魏の人鄭安平が之を聞き。乃ち范睢は遂に見失ったとし。伏し匿し。姓名も更えて張祿と曰わせた。
* 二千数百年も昔、春秋戦国の世の中国には、かかる辯口を以て諸侯諸国に遊説して、あわよくは迎えられて「相」や「公」に成り上がっていった大 勢が働き歩いていた。それにしても、命がけであったし、身分高い「公子」と雖も云うこと為すことの激越も何ら稀有のことでは無かった。互いに騙し騙されて いた。
私が、いわゆる外交(交渉・折衝・協定)を指して「悪意の算術」と名付けてきたのは、良しも悪しもなくまことにその通りとしか云えぬ事、二千数百年後の 今日世界の「外交」も、斯く為し行われている。現に現代中国習近平外交は、それに極まっている。はて。今日の日本政府「外交」や如何と危ぶみ問わずにおれ ない。
* 上の「汚穢」漬けから辛うじてのがれた范睢(はんすい)は、以後も、延々とその辯口を以て奔命し続ける。
いや中国は、何もかも「凄い」のだ。
* 私の多年謂うてきた、國の「外交」とは 「悪意の算術」との認識を、前回の「湖(うみ)の本151」でとりあげた山縣有朋は風雅な家集『椿山集』の和歌のなかで、いしくも斯く強かに、冷静に歌っていた。
戦(たたかひ)のことな忘れそ我國は朝日のとけく年のたてとも
天地(あめつち)をくつかへしける戦のとよみはいつの世にか絶ゆべき
ひらけたる國と國とのましはりは空こと多きものとしらずや
友人の欧米に赴きけるに
かはりゆく世のありさまをつはらかに裏おもてより見てかへらなむ 元帥 山縣有朋
* 「喋り語り云う」だけの「平和」はたやすい、が、「護り備える平和」は、叡智の限りを尽くさねば、ただの空語となる。
2021 3/15 231