* 疑問
秦様 湖の本を拝読し、日本の安全保障についての秦様のお考えをもう少し深く伺いたく存じました。日本の安全保障は現在、アメリカの軍事力に大きく依存しておりますが、秦様は日本をアメリカが見捨てる日が来ると予測されております。その際当然、日本が独自の抑止力としての軍事力を持たなければならないとも主張されております。すると当然のことながら、憲法を改正し、戦力の保持を明記し、同時に自衛権の保持を明記すべきと存じますが、この点についてはどうお考えでしょうか。
現行憲法のまま、解釈改憲で行くべきとお考えなのでしょうか。
米軍が撤退すれば、中国が尖閣諸島を奪う可能性は、フィリピンのドゥテルテ大統領が米軍を撤退させたと同時に中国が南沙諸島を奪ったことに鑑み、十分ありうることだと存じます。
一切の武力の保持を否定し、交戦権を放棄した憲法が中国に対してどれだけ抑止力としての機能を果たすのか、私は疑問を抱いております。持田拝
* 世界史的にもあきらかな、「外交」とは「悪意の算術」以外の何でもないと想います。ギリシャ・ローマも、中国全史もそれを明らかに見せつけている。久しかった鎖国日本は、その点で盲目のママ、明治、大正、昭和を過ごし、敗戦後日本の統治息のみ強い捕手政治家は「外交における聡明な悪意の算術」に零点をとり続けています。徹頭徹尾、かつ緊急に「悪意の算術」に日本の政治が刮目覚醒すべきが、先決。
戦争は負けたら惨憺。負けた国民のすべては身にしみている。日本は、昭和の敗戦の勝利国が足並みを乱していたおかげで、マッカーサー支配の緩さに助かったのでした、それでも「負けた国の」無残さは私のように少年だった者もよく覚えている。日本列島が、中・朝・韓、露の戦勝つ支配下に置かれたときの惨状は、かつては勝者国民としてしたい放題をやってきた記憶にさらに報復的に数倍百倍を覚悟せねば済まない。
七すべき備えは、憲法をあらためても必要なのは明瞭、「平和」は夢であるが、敗戦は悪夢ですら無くて、現実に,国土と国民ことに女性の悲惨と文化財の破壊や略奪、日本史の倒産を将来するは必至。寝ぼけていて、きがつけば、生き地獄に堕ちている。そう想うことで備うべく、世界史にも人間悪にも学ぶべきで有る。 私は、そう思うようになっている。
2022 1/10
* 子供の頃、「明治」は遠いむかしに属してみえた、蔚然とした秦の祖父鶴吉は明治二年に生まれていた。そしていま、私の生まれた「昭和」を少年らは遠いむかしに感じまた知識しているだろう。
わたくしは、幼少来「大正」よりはるかに「明治」に関心していた。本を読むなど「極道」と云う父より、口はきかないがたいへんな蔵書家であったその恩恵を、子供心に痛感していたのだ、そして「やそろく」」の翁と成っている今にしてなおである。「明治」に向かう関心はなおなお今もなお深まっていて、それは祖父の蔵書から生まれる。
* 「末は博士か大臣か」と明治の人は目標にしたという。おおなんと「令和」の今日「博士も大臣」も紙のように薄く軽い,吹けば飛んでなにふしぎもない虚名に近づいている。明治の夏目漱石は、「文学博士」になってくれと国に頼まれても「御免」と払いのけ、受けなかった。そういう明治人漱石を私は敬愛した。東工大教授に聘されたとき、いつなりと、何なりとけっこう、「博士」にすると大学の持ちかけるのを、私も「無用」のことと辞退した。さらに紙衣をまとうほど心寒くは無かった。
* 明治の人たちは「教養」に眞実飢えていて「勉強」に心から励む人がどの世間にもいた。秦の祖父は息子から「学者や」と謂われていたが、商売は「餅つき屋」で、芝居小屋の南座へ下ろす「かき餅」などを製していた人であった。本は読まない父にしても、芸妓舞子らの錺職から、一転して日本で初の「第一回ラジオ技術認定試験」に合格し「ラジオ屋」になった。昭和初年から戦時中の「ラジオ屋」は晴れがましい技術職としてなかなかの存在だったのである。私がそれを嗣がず、というより機械バカで嗣ぐにつげず歌を詠み文章を創作する方へ傾いたなど、ひとによれば「もったいない」「不心得」なことと想われていた。
このアトを書き続けて私の「明治」を論じてみたい意欲が、じつは、あるのだが、「寄り道するな」と戒める気もある。なににしても、またまた早起きしたことだ。
2022 1/15
* 予想の通りに、夜前のテレビは、フェルゼン伯爵との苦心惨憺秘密を防いだ熱愛の恋文紹介が主で。途中で、寝に立った。
ツワイクの『マリー・アントアネット』はまことに肌寒くもみごとに読ませてくれる。この、皇太子妃から王后へ、独りの恋人へ、繰り返された脱走の失敗、夫帝のギロチン死、皇子に依る窮地、苛烈な孤独と被告席へ、そして。
フランス革命には関心を寄せずにおれない世界史的爆発と捻転がある。ツワイクには、この革命のからくりを好きに回していた『フーシェ』を書いた労作も在り、もうナポレオンも差し迫って立ち現れている。イギリスの革命もアメリカの建国も興味深いけれど、フランス革命の事実上ヒロインの「生きもの」としての興味深さには、樂園を逐われたイヴなみに、心惹かれる。
2022 1/21
* 親友のテルさんから,「外交」は「悪意の算術」という私見に、ドイツのメルケル首相などを挙げながら、「首肯しにくい」とメールをもらった。
○ 湖の本152巻、153巻と長文のメール拝受。ありがとうございました。
恒平さんの最近のお考え、また諸兄姉からのお便りを読んでどういう気持ちであと短い命を生きるか、またあの世に渡るかを考えさせられました。
・秦さんの(外交は)「悪意の算術」論には納得のいかない気持ちがあります。
トランプやプーチン、習近平など自国の利害のみを言い立て他国の人々に配慮することをしない国際社会はまさに悪意に満ちているといえます。しかしこの世界に善意はないのでしょうか。メルケルさんの評伝(「メルケル」カティ・マートン著 文春刊)を読みました。ドイツの首相として16年間ドイツの復興とEUの危機に対峙した外交実績は自国の利害のみを優先したものではありませんでした。なかでも2015年中東からの難民100万人をドイツに受け入れた決断は「世界の良心」を世の中に示したと思います。
次元はちがいますが、私も仕事の関係で外国(アメリカ・中国・ヨーロッパなど)たびたび交渉を行いました。もちろん主張すべきは自企業の利害ですが相手会社の事情をよく聞き共存・共栄をめざすことが重要課題でした。悪意の算術だけでは外交は成り立ちません。
憲法の前文で「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して。我らの安全と生存を保持しようと決意した。」とあります。井上ひさしはこの解説で「二度と武器では戦わない。これは途方もない生き方ではないか。勇気のいるいきかたではないか。日本刀をかざして敵陣に斬りこむより、もっとずっと雄々しい生き方ではないか。度胸もいるし、智恵もいるし、とてもむずかしい生き方ではないか。」と語っています。(「子どもにつたえる日本国憲法」講談社刊)そのとうりと思いますが、日本には中村哲医師のようなひともいる。憲法九条をみんなでもっと大事にしていきたいです。。
・山県有朋の評伝は立派なお仕事だとは思いますが、私には違和感があります。
山県のの遺産とメンタリティーがその後の日本陸軍にどれだけ影響力を残したかは定かではありません。しかし暴力非人道の内部体制・中国への侵略戦・南京大虐殺・日独伊軍事同盟・日米開戦時の策動・玉砕の強要・沖縄戦の展開・敗戦時期の延伸(国体維持のためどれだけの貴重な人命が失われたか)どれをとっても旧陸軍が日本と人類に残した罪科は永久にきえることはありません。「椿山集」に残されたやさしい詩歌と旧陸軍の傲慢な所業の折り合いをつけるのは難しいことです。
山県の覚悟「戦争は安易にシテはならない。だがシカケられたらもっとよくない。負けたらお仕舞い」も当たり前のことで、軍の責任者の誰もが考えていることと思います。
西村明男
* 分かる。私も、妻も、メルケル首相への賛嘆と敬意とは,実に山のように送りづめだった。
井上医師の活躍なども感謝に堪えず心より賞讃する。が、外交は「政治」の概念であって、私的な善行や英雄的努力や奉仕とは混同できない。私は、そういう善意や活躍の話を外れて、国家が政治的に苦心惨憺する「外交」は、よくもあしくも「悪意の算術」になり、ソレへ徹していないと、いたずらな国家的危険や損害がでるということを云っている。そこの混同はこの際の議論の外にあること、まず指摘し断っておく。
問題を、世界の歴史、人間の歴史、の大きな様態にみて、つまり端的に世界史的に眺めて、「概して謂うを要する」とき、「外交」は、やはり「悪意の算術」として、遺憾にも殊に大国において歴々といつも強硬に用意され、訓練され、行使されつづけてきたと云うしかない。
メルケル女史の外交は、遺憾にも「稀な」ほどの少数例、希少例と謂わざるを得ないのではなかったか。ノーベル平和賞にも優に値いしただろう、だが、遺憾にもソレは「それだけ」で、すぐ、人間の歴史は「悪意の算術」へと駈け去って行く。
「悪意の算術」 それが善いと、良いと、是非にも然かあれよと、私は言わない。云いたくないのが本意である。けれど、エジプトであれ、ギリシャ、ローマであれ、中国であれ、印度であれ、近代の帝国主義に奔走した欧米各国であれ、遺憾にも「善意の算術」で礼を尽くし善意に花咲かせつづけた「外交例」は探しようもなく、有っても希少に過ぎるということ。そんな「人類史的事実」に基づいて各国・各国民は、余儀なく政治的に政治として思案し用意し、要心していないと、大変な国家国民の不利や危険を蒙ってしまう。屈辱の苦難が覆い被さって来る。事実わが日本国へも津波のように、蒙古まで遡らずともペリー以後繰りかえしそれは来ていた、あげく不平等条約に四苦八苦してき国よと、私は、言いも想いもせざるを得ないのです。
残念至極、メルケル風の外交配慮は、歴史上の結果として一過性に過ぎ、後継者がそれを嗣いで育てるかどうかは、どんな国のどんな国民の政権も、ほぼ百パーセント近く保証し確約などしてくれない、出来ない、のが遺憾にも「史的現実」に成っている。しかも「悪意の算術」が成功する保証も実は無い。
だから「善意」でか。
だからこそ「悪意の算術」に徹して長けて聡明であるべきなのか。
これは思案のしどころでしょう。
わたしは、「日本」という国と国民と国土とを、他国の支配や陵略には任せたくない、「世界平和」という言葉での幻惑に「日本の未来」を唯々として、易々として、委ねたくないと思っているのです。
* 山縣有朋等、近代日本の「軍」の、近隣諸国等へ為し続けた暴虐無道は、全く弁明の余地無く、「湖の本」に 一冊は山縣の歌集『椿山集』を紹介し、もう一冊では新聞人として山縣内相の悪辣に抵抗した文人成島柳北を採り上げたのでした。
繰りかえし云うていますように、「山縣有朋」を私は少年の昔から忌避し嫌悪していましたし、それでも、また軍人政治家としての「人」とも見、お互い「一人の人」としても見る視点が大切だとは、山縣にと限らず、いつも考えています。
日本の、明治以降昭和の敗戦に至るまでに、一山縣有朋の占めていた栄爵よりも、一日本人としての覚悟と資質と風雅とを、私は今も興味深く眺めます。また昭和天皇が「名将」と評価されていた意味も、やはり日本の「国と国土と国民」との上に重いなと感じています。彼の「主権線、利益線」といった支配と利益の思想はとてもやすやすとは肯定できませんが、しかも重い「示唆」ではあり、日本の明治から昭和を、西欧の帝国主義なみに懸命に山縣は学習していたのだなと感じます、肯定とか否認とかではなくて。
大切な、思考を再確認の刺激を呉れて、ありがとう。とても嬉しかった。
お元気に、感染の猖獗をくぐり抜け抜けお過ごしあれ。 お互いに やそろく翁
2022 1/24
* 一月が逝く。刻寒の二月、それも良し。十一日の、昔なら紀元節。神話は国民のひとつの夢で希望で共生の基盤。今は何と謂うているのか、紀元節でよいのに、善い云い方を吾から捨てたなど、敗戦ボケとしか謂いようが無い。国の紀元伝説、起源神話は、どんな国民にももてて幸せなこと。安価な理屈で国の紀元節を棄てたなど、私には、バッカじゃないのと思える。
雲に聳ゆる高千穂の 高嶺颪しに草も木も
靡き伏しけむ大御代を 祝ふ今日こそ嬉しけれ
天皇制の支配のと忌避したのなら、愚かしい。これは「神話」であり、「神話」の持てる国民はそれ自体に独自文化の淵源を得られている、ソレが分からなくては「国」の本性も国民の一体感も成りようが無い。
今日の日本と日本人のうすっぺらさは、国と国民との一帯一体の根源で眞につながり合うていないからである。政治も経済も社会も人間も、文化と歴史とを法的に近く見失っているのだ。政治家と自称の連中から、日本文化へのあいとほこれとが明晰に語られるのを聴いたことが無い。日本と日本人の劣化は、ここに発していて、気がつかない。紀元節へ信愛の寄せられないいわば無国籍人らのひからびて慾の深いだけの寄せ集め「日本」に堕落している。
2022 1/31
* 昨夜寝入る前に、ルイ十六世の王后マリー・アントアネットがパリ人環視の中で断頭台におさえこまれ、一瞬に血にまみれた首の落ちたのを読み取った。なんと「野蛮な文明」か。『モンテクリスト伯』でも、同じ斬首が公開の中で愉快げに「見物」の窓まで出来ていたのを、さすがに深いに何度も読んできたが。
内匠頭は庭先とはいえ、しつらえた場で、辞世の歌も書き、家来にも言葉をかけて、自ら切腹の瞬時に、練達介錯の剣が皮一枚のこして首打っていた。謂いようではあるが「文化」が感じられた。あの平安時代は、末期の保元平治の乱に到るまで斬首の刑は三百年余絶えて行われてなかった。武士の世になれば、死はむしろ儀式とさえ化している。平家物語には刑死の血の色はほぼ見られない。
東京裁判での死刑は、斬首でなく絞首刑であった。戦前、戦中には銃殺があった。戦中であったが、軍用の秘密裏に「まるた」と称し捕虜など生きながらの体を用いた細菌戦などのための実験が密かに為されていたのは、ナチでも日本でも、おそらく文明各国では公然の秘密に等しかったと想われる。そういう秘密が、戦後にも関係者の口で語られていた。一医学編集者の耳で私は、医学部教授の口から、事実「茶飲み話」のように聞いている。
コロナが世界的に蔓延のとき、どの国からとなく「第三次世界大戦」といわれていることに、私は遺憾にも、驚かなかった。「文明」の陰部が世界を駈けて行くのだ。
2022 2/2
* 『マリー・アントアネット』再読を終えた。「革命」という元来の中国語には「天命」の意義があった。しかし、いま革命の名目でなされた世界史上のいろんな「革命」を支えてきた人智は、時がたてば経つほど無残に人慾先行の臭みが抜けない。必要な革命はたしかに有ったが、心から同感して湛えたい革命は、一つとして見当たらない。天命抜きの人欲の争闘としてどの「革命」も、血みどろを敢えてしてきた。
2022 2/3
* アレクサンダー大王、秦始皇帝、エジプト王、フビライ、カエサル、ナポレオン、を多面的に検討し優劣を順位で決定していた番組、またたボンペイの考古学的発掘の現場報告など、面白く見入っていた。
世界史的視野をより正しく教わって持つのは、現代人にも必須の勉強と私は考え、努めてもきた。フビライが最高に識者らに評価されていたのも、なるほどと面白かった。
私は、日本のモノは古典、他は西欧と中国の史書か人物像を好んで読んでいる。小説を読むにも、海外モノが多く、日本語の文藝作からはかなり遠のいている。人や時代をつかむスケールにおいて日本の作はちいさいのである、私と手例外で無く忸怩たるものがある。
中国と中国人を知るには、漢文を苦にせず『史記列伝』にあふれかえっている「悪意の算術家」たちが絶好のモデル。そして「詩」が抜群に佳い。
西欧を識り味合うにはには、基督教という視野を下地に培っておきながら、個々の人間像やいろんな国情に歴史感覚で向き合うのが良い。
* 一日 何にうつつを抜かしていたのかと惘れながら機械の前を立つ。
2022 2/6
* 中国での陶器オリンピックは、間違いなく不当で悪意の政見から各種の妨害が起きるのは目に見えていたので、はなからテレビでも殆ど「無視」してきた。習政権は良識と遠慮に欠けた一種の悪ガキとみてきたし、善政より悪政が千萬倍してきた「永い中国史」が今なお尻尾を大きな顔で振っているにすぎない。
この中国政権今日のザマが恥知らずに居直り続けていられる一つの大きな病根を、私は指摘しよう。中国伝統の「詩」は冠たる精美にあふれていたが、もう遠い昔話でしか無い。そして、十八世紀以降の中国にすぐれた「現代文学」は成果をを得ていない。
ロシアはああいう国ではあるが、明治の日本へ来て、現代文学の健闘と達成によって日本も一流国たれと熱祷して呉れたラフカディオ・ハーン先生の言葉に在ったように、ロシアは久しく西欧世界の野蛮国と愚弄されていたのが、一朝、プーシキン、トルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、チェーホフらの輩出とその文学の輸出により、すぐれた「世界文化国家」と容認されたのを見よと。
中国には、あれほどの巨大国ながら、この三、四百年に、かろうじて魯迅の程度の何人を世界へ発信してきたか。その貧困が、習近平の高慢の表情に露わに見えている。
ああしかしながら、日本は、とも思い直さねばならぬ。私、あの敗戦までの日本の文学家は健闘して下されたと誇らしく思う。戦後は、ボツポツとごく少数の名はきこえても、やや貧寒の度を温め得ているとは謂いにくいのでは。
その症例がないし証例が、やはり政治家たちの日本語に露骨に痩せ痩せて貧寒に露呈されている。吉田茂、田中角栄、中曽根康弘、小泉純一郎総理らにかすかに感じていた日本語のちからが、麻生、野田、安部、菅、串田と来てはその言葉の貧しさと無意味さとに「恥じらい」も無い。
しかし、それも一つは「国語」「日本語」「文学・文化」への「政治による自殺的な蔑視軽視に原因」するところ大きい。それを為さしめ続けてきた「現代日本文学」の力無さも大いに恥じ入らねばならない。
2022 2/9
* 中国オリンピックでの不可解に近い判定上の昏迷が案の定、次から次へ露呈。こうなることは、時期は中国と決まった瞬間から私は予期し懸念していたが、掌を指すように現実となっている。正不正にお構いなく「悪意の算術」を売り込みに回って百家争鳴くり上古来、清濁あわせ呑むという触れ込みの儘、好き勝手な我を張って里立場とを我が物に師弟のが中国と中国人のお家藝なのだ.習近平中国は何でもやらかす。平気で、当然の顔でやる。それと心得て付き合うか付き合わないか、だ。
私は中国文化文明の大いさ素晴らしさを承知し敬愛しているので、あまりに露骨に我勝手な「福・禄・壽」大事に生きている国と国民と承知の上であれ、真っ向敵対はしたくない、して欲しくないと思っている。初戦は愉快に向き合える相手ではないのだけれど。
2022 2/11
* 広大無辺の中国を、始めて全国統一した秦の始皇帝は、謂うまでも無い、紀元前の人。その始皇帝の統一支配が成る以前の長期間、分散し割拠していた多くの小国が在り、それらの国々にむかい、制覇政略や軍略や人事について「説いて」まわる賢しい連中がわいわいと世にあふれ横行していた、そんな彼ら「策士たちの弁論や立ち回り」は文字通り私の言う「悪意の算術」に満ちあふれたの百家争鳴で。
『史記列伝』はその個々の策士らや王家らの有様を簡潔に書き継いでおり、漢文ながら、まことに興味深くもおもしろく、また呆れさせてくれる。「外交」とは「悪意の算術」だという私の理解はこの読書から多く示唆されている。今日の我々が「四文字熟語」として記憶している多くも随所に面白くかつ適切に見付けられる。
中国という国と国民を理解したいなら、『史記』の昔から識るのが「早わかり」と私はいささか乱暴ながら、やや自信を持っている。
2022 2/12
* 『参考源平盛衰記』の氏用地用的な指導理念は「剣」。武家時代の到来を象徴的な源家家重代の名剣「髭切」「膝丸」の運命的な推移と改名変容とで語って行く。明敏な活眼による歴史記述なのだと解る。明らかに読み物であるより歴史認識に指導されつつ関連参考資料が蓄積されて行く。たいしたものだ。
2022 2/18
* プーチン・ロシアが、ウクライナ東の一部を独立国と承認し軍を派兵。欧米の反応は「聲」ばかり。このところバイデン・アメリカはじめ諸国は言葉にもならない「聲」ばかりでフーチンは嘗めてかかっているのでは。
ウクライナはかつてはソ連領、ソビエト解体でソ連以前へ復帰独立したが、ロシアは取り返したくてたまらず、西欧側の陣営に入れたくない。
私がソ連作家同盟の招待で訪れた頃は、魅力的な訪問先にグルジア(ジョージア)となによりウクライナ首都のキエフを加えて欲しかった。結果は、グルジ首都のトビリシにとなった。トビリシも素晴らしく今も懐かしいが、此処ものちにロシアに攻められて、おせわになった政治家ノネシビリさん等が亡くなっている。親しくこころこめて諸方を案内してくれた、日本文化・文学が好きで卒論に西鶴を論じたというエレーナさんも、なにやら政変がらみに「ソ連」が「ロシア」と変わって後に、亡くなっていると聞いている。
ウクライナのキエフは、京都・パリ・ローマに類した素晴らしい首都と聞いて「見果てぬ夢」となっていた。ウクライナの聡明で温和な安定を願う。
2022 2/23
* ウクライナ事情は、現状、ロシアのプーチン意志ないし意思の全面独走に近い。彼はジョージアを食い切りクリミアを噛みきり、こんどはウクライナの少なくも小さくない一部を事実上占領して動くまい。西欧ないし欧米は愚昧の逡巡を歴史により叩かれるだろう。同様の窃盗行為が他の世界にも続発する恐れを日本国は持たねばならぬ。
麻生も安部も菅もひどい日本語だったが、岸田現総理の日本語・政治語もお話にならない中身なしの空語である。
昨日だったか、天皇さんは、雅子皇后さんと並んで、見事に意を尽くして美しい日本語で国民に「談話」されていた。天皇制は 一つの「文化」そのものだが「日本の政権」語は、まさしく、愚の骨頂。
2022 2/24
* 確かに予測して外れぬとは言いにくいが、核兵器を持つとということは核兵器に襲われるということ、これは確かと心得たい。
* 「オキュパイド ジャパン 占領された日本」。間違いなく、その時期・時節は有った。今の若い人たちは、全く其の史実を知らないか、忘れたか、「他国の兵と武器とに日常を占領干渉される」意味を覚悟していない。ウクライナに思いを馳せる下地に、日本の戦時敗戦後をも「我が事」と学び返したいものだ。市街には「進駐軍」と「パンパン 兵隊向き売笑婦」と「ジープ」が主なる景色となり、ラジオは毎日毎晩「尋ね人」をさがしまわっていた。それでも、ま、米兵の進駐はまだしも穏やかであった。
2022 3/2
* 立憲民主の福山哲郎君 ツイッターでの発言など物足りません
ウクライナ支援に関わるアメリカの腰の引け具合、米ロの,また戦線の拡大を恐れてでしょうが、其の理屈はやがての日米安保にも持ち出されて、ロシアの北方四島から北海道への侵攻、ほぼ必然かと観ていますが、その時は、ウクライナへとほぼ同様の逃げ腰でアメリカは逃げ出す恐れあり。
日本の「北の時代」ははやく江戸時代の「最上徳内」時代から物騒の気配でしたが、樺太を取り千島を取り、北方四島にロシア人口を優先的に増やそうとしている現ロシアの、久しい北海道への野望に、日本の政治は、国防は、日米同盟のさらなる緊密化等々は「恐るべき」足下の課題の筈。
ウクライナの二の舞を踏む恐れは いま世界中で日本が第一という認識で、しかと勉強し用意して要心して欲しい、高見の見物の時機では無いでしょう。 やそろく翁
* 福山君は大学の後輩 発言の素早さや着眼に期待してきた。
いま日本はまこと危険な下り坂にかかっていると覚悟し、よそ事もともあれ、我が事、国防の用意要心を忘れていては物騒きわまりない。前の大戦争でロシアのアジアへの参戦と侵攻ののけぞるほど速かったことなど、政治が、いま、忘れていては落第で済むまいぞ。
2022 3/13
* 朝の「私語」が出ない。世界は既に三次の大戦を予感以上に体感しつつある。しかもわが国会議員諸氏の呟きの「ちっちゃく」て「うすい」ことはどうだ。中学高校の生徒達の「メール遊び」の水従名で「吾が為にのみ。小旗を振っているよ.日本中にかの「真珠湾」同等の危地を抱えているのに、いつ「ニイタカヤマノボレ」の号令一下の奇襲が同時に何ヶ所にも起きる。それはもう世界史的必然として近づいてるのを、のーんびり実感できない見識無き政治家達の迂愚のもと、日本人は、今のウクライナの人々と同じ目をみるよと、私はもうあやふやな危惧よりも覚悟に近い逼迫を覚えている。昭和天皇をして「名将」山縣有朋の無きをなげかせ、むざむざ山本五十六を早死にさせた、あの大戦。その何層倍の無残さで日本列島は放射能焦土と化し、労力は国外へ拉致され、背水にも冠たる部下剤はことごとく破棄されるか持ち去られるであろう。「ウクライナ」の人たちに今しも重々学ぶべきである。
* ブッシュとチェイニー時期のアメリカがいかに「抜け作」で、外交という「悪意の算術」に零点連続というばかさ加減だった。あんなのを選んでいたアメリカ国民の以後の「」支払い超過」はプーチンをしてますます侵略と制圧の軍事政権化に口実を与え続けた、それが今にも禍し、アメリカはプーチン算術の前でバイデン以下うじうじしている。アメリカが動かないならnatoも「ふて寝」を決める。日本などすべて内幕のうしろへ出されてその場凌ぎの「おバカぶり」へ棚上げの体。だれも本気で相手にしてくれない、それの浸透と定着とをプーチン・ロシアは爪を研いで日本の北へジワジワと寄り切ってくる.何をいつ頃から言い出されるか、日本の外交は所詮算術の棚上げか放棄になって行く。ミーンナ阿呆づらをのんきに晒して官僚の作文を間違えなく読むだけがエライ人とうぬぼれている。
2022 3/16
* 幸い、本は読める。今も床に就いたまま「ジョゼフ・フーシエ」というフランス革命を淫靡に陰険に厚かましくも生きてさまざまな顔を取り替え取り替え誰より長くいろいろに演じ尽くした男の伝記を読み返している。「マリーアントアネット」の伝記を書いた同じツワイクの本。歴史はひどいものをも平然と生む。
2022 3/20
* プーチン・ロアの悪辣な侵略と惨逆、言葉を見失う。
コロン゛ょうきょうへの単に慣れ馴れにあまえた放置に近い逃げ腰が、さらなる決定的悪事態を呼び込みはせぬか、案じられる。個々人が自重して手綱を手放してはならぬ。此処ではただただ東京都ないし関東近隣をのみ念頭に謂うている。
◎ Re: 福山哲郎くん・辻元清美さん 日本の北があまりに危ない
目先の大事は当然としても、先、せいぜい一年半以内を凝視の、「列島と国民との安全」をこそ、より聡く早く大胆に考慮し、備えてください。
少なくも田沼意次の時代へまでさかのぼり、当時幕吏としても実学者としても探検家としても傑出していた「北世界人」「最上徳内」(蝦夷千島樺太そしてロシアへの正確な実見と他の誰よりも先だって「探索・接触を介し」て、日本の「北の時代」の扉を明瞭に最先駆者として押し開いていた人物。あのシーボルトが最も畏敬した日本人)などの懸命の勉強、ことに「ロシア」の、日本の北へ向けていた野心の歴史をも、より具体的に識ってて下さい。私の著『最上徳内 北の時代』や『親指のマリア 新井白石とシドッチ』などで、今日日本の問題の根を、近世へ遡りよく掘り下げ識りながら、今日近未来の日本の大事を思案し論策して下さい。 作家・元東工大教授・元日本ペンクラブ理事
2022 4/4
* 大河ドラマと銘打った『鎌倉殿の13人』は面白く進んでいるが 鎌倉殿つまり源頼朝ひとりに関われば、平家を滅ぼし義経や平泉をほろぼし、征夷大将軍として守護や地頭の制で全国支配に至るけれど、身は、二度の上洛こそあれ「鎌倉」を出ない生涯だった。その不慮の死にも疑念が絡むが、ようするに頼朝を継ぐ頼家も実朝も、いわば歯は北条政子をも含めて北条氏、要は小四郎義時のはからいに潰され殺されて鎌倉時代はつまり「北条時代」に定まって行く。「鎌倉殿の13人」の義時を覗くほぼ全員が北条に屈し族滅されてしまう、足利と新田とをみのがしたのが、北条氏の末路を用意し、南北朝につぐ足利時代そして群雄割拠時代が開けて行く。まだ私が国民学校の一-三年生の昔、秦の家に通信教育の教科書らしき「日本国史」いっさつがあり、緯編三度の上も裁ち暗誦するほど日本史の推移を覚えた。「鎌倉殿の十三人」とはまことに美味い狙いの的と興深い。昔の教科書に頼朝の女好きなどは書かれてなかったので、政子はじめいろいろへ初見参も愉しい。
2022 4/6
* 夜に見た「源平」合戦史が興味深く、教えられた。日本史の「花」は何と謂うても「源平」やなあと思う。連続劇『頼朝の十三人』も楽しんでいる。
2022 4/9
* 今世紀も極くの初めから、私は警告し続けてきた、日本はロシア、北朝鮮、中国からの包囲的な軍事圧に必ず遭遇し、最悪の防衛ないし応戦を強いられて敗北、被占領、国土の分け取りに遭うおそれは明白至極ぞと警告しつづけてきた。「湖の本」で山縣有朋や成島柳北を相次いで取り上げたのも、彼等が実体験を通して確信に達していた「闘わざる限り、決して負けては成らない、それは国土と国民の壊滅的不幸を意味するという懸念をしかと思い起こして置きたかったからだ。
もとより平和は願われる最上のものであるが、「悪意の算術」で仕掛けられる軍事侵攻を甘んじて受けるとは国家民族の自滅をまねくにすぎず、日米安保の保証といえど脆弱、絶対に過信ならないと心得てなければならない。
ウクライナへ攻撃したロシアは、北方の占拠諸島にすでに軍を増派し軍事訓練とともに日本の漁業を圧迫している。さらには日本海で砲撃用の爆弾実験を為し、北朝鮮は再々に日本海へのミサイル実験とみせつつ空爆等の脅威を突きつけ続けている。
ロシアや北朝鮮の意図ないし意志は那辺にか、問うまでも無く、明らかなのは日本の政治外交防衛のあんかんにちかい無防備にある。非戦を誓う平和憲法を尊重してくれるロシアの侵略意欲かどうか、ウクライナの悲劇は猛火と婿の国民の惨死の山と共に明白に過ぎている。観念のきれい事では國土と国民は決して守れない、何よりも「悪意の算術」にほかならぬ必至の外交努力が日々に満たされていなければならないのに、政府・与党も、野党の叡智もそれへ向けてはまるで働いていないも同然の暢気さ。ウクライナ国土などと異なり日本列島はただ細長く湖に囲まれ、海辺防備、成島少年がつとに著し説いて求めた「海警」の実は、あまりに今日頼りない。敵性の潜水艦は、大阪、東京のすぐ足下へも自在に入ってこれるのではないか、海外の諸島嶼など、あっというまに選挙されてしまうだろ繪う、其処に本土攻撃のミサイル拠点がなれば、殆ど一週間と日本国土は打ち砕かれかねない。然し日本の政治外交防衛対策は安閑とも見えて脆弱に過ぎている。
* 過剰に不安を言い過ぎなのかどうか、その点検よりも、より手早い防衛のチカラと備えとの備えへ國も国民も安閑の痴呆をしかし顧慮し革新せねば危ないぞ。危ないぞ。
2022 4/16
* 藤原不比等を語りあう、お馴染みの歴史談義が興味ふかく、も前の知識や理会をさらに整備できて宜しかった。いまわたしは、不比等からは「孫世代」の宮廷を想い描きつつある。さ、じりじりと前へ押して行かねば。
2022 4/27
* 昭和のむかしは「天長節」とも謂うた日だ、しかし、天皇さんわ否認はしていないのに「天長節」という三字を私は大仰に感じていた。敗戦後のいつ頃からか「天皇誕生日」と変わった。国民学校時代は、「今日のよき日は大君のーぉ 生まれたまひし吉き日なり」また「み光りのーぉ」などと講堂で全生徒歌ったが、イヤミな歌詞に感じていた。「陛下」という物言いも好きで無かった。敗戦後、私は私の勝手で「天皇さん」「皇后さん」と口にしたり書いたりした。「象徴」は判り難く、天皇制は「日本の文化」と認識し続けてきた。
2022 4/29
* 西欧のウ・ロ戦争が暗雲を極東ヘまで遠慮なげに広げてきている。つまりは勝手次第にさせて受け入れているだけの世界事情が、ますます病状を広げるか、快方へ向かうかに、この私の居も指一本も[働いて]」いない。「働け」ないままに「し続け」ている何もかも意味も意義も喪おうとしている。
ドラマ『頼朝の十三人』は、相当に持っている気の知識を裏打ちするように、凄い。日本史上の最悪と謂うに足る死闘の日常を、頼朝の時代、北条の台頭の時代は「血と生首」とで地固めし、「政子、義時」で手に入れ「泰時」で北条鎌胊時代を成り立たせた。蒙古来週に辛うじて間に合った。「義時、泰時」という父子は、日本史上傑出し力量発揮の具体的な政治家父子であった。鎌足・不比等も及ばない。「家康、秀忠」父子は何としても三代家光で仕上げられた。
2022 5/1
* 朝、左胸一点、軽く押される感じあり。七時二十分。機械好調の出でない、今日もまた苦闘か。天恵も過ぎてか、朦朧と心身の芯で睡い。ウクライナ事情、心身ゲッソリする。
ご近所の奥さんがもう前に亡くなっていたと。仰天。
何をして日々生き延びているのか分からなくなってきた。こういうとき、逃亡先は歴史かフィクション。まだ待ちへ出歩く気も元気も無い。
2022 5/2
* ウクライナでのプーチン・ロシアの蛮行・愚行といいコロナ禍の延々継続といい、どうしようも無く地球のこんにちはガタカセタし続けて、人はみな、安泰の歩みも得られない。ほとほと迷惑、まるまるマスクを顔からはずさず、旅はオロカ街歩きもしない二年半になる。あの戦時下でも、幸い京都は空襲も九割九分免れたし、丹波へ疎開しても半年未満で敗戦集結した。列島に空爆を浴び始めて敗戦までと同じ長期間をなんと一感染症に祟られ行動と暮らしを束縛されていて、先はまだ不透明。命を縮めている点で戦争と変わりない。
十連休にも用心を云われていながら、京都など嵯峨嵐山も清水寺も文字通り満杯に人出で溢れていた。その上に外国からの入国を水際で緩めると。
「愚や愚や ナンヂを如何にせん」
* こんな際に岩波文庫で『旧唐書倭国日本伝 宋史日本伝 元史日本伝』を書架から抜いてきて、禍何時をも愉しみ読みながら簡潔をきわめた古史の本文をフンフンと読み始める。興味深く、憂き世離れもして、いっそ風流めく。風流の愉しめる性と才とを、生み・育ての親に感謝する。
2022 5/10
* 韓国ドラマの『トン・イ』を観終えた。『イ・サン』とならび、日本勢のどれよりも感銘ゆたかに賞讃を惜しまない。さて今今の『頼朝の13人』対抗できるか。歴史の主役は謂うまでも無い頼朝でも義経でも無かった、姉の北条政子と緊密に組んだ弟の北条小四郎義時であり、次の泰時だった。承久の変で後鳥羽らを辺境へ流し遷して北条の執権幕府を主宰のママあの蒙古襲来に立ち向かう。かかる国難に真っ向闘い抜いたのは明治の近代まで、ひとり「北条」であった、秀吉の無謀な負け戦の明・朝鮮征伐以外には。
* 頼朝の何人であろうが、北条小四郎は、梶原景時も和田義盛も 残り無く関東武者の大方を滅ぼしてしまう。源氏の将軍三代頼朝も頼家も実朝も、北条との暗闘に敗れ去ったと読み取れる。日本の古代「平安」を中世「鎌倉」へ表札を替えたのが、北条政子と弟義時・その子泰時の恐るべき賢さであった。「信じる」という大度に欠けた源頼朝も、ただ戦上手な源義経も、脆弱の源家将軍頼家、実朝も、京の朝廷と公家に立ち向かう鎌倉武士の時代を膂力でかき寄せ得た「初期の北条」にはとても太刀打ち成らなかったのだ。
2022 5/11
* 「頼朝の13人」の行く末は、ほぼあまさず承知している。三谷幸喜、よく描いている。西田敏行の後白河法皇が佳い。平家がほろび 義経がほろび 奥州がほろび、頼朝がほろび、源氏がほろび、新田と足利を漏らして関東武者達の多くがほろび、後鳥羽院がほろんで、北条氏の鎌倉時代になり、元寇を迎える。南北朝で北条がほろび、難聴もほろんで、足利路街時代が来る。痛いほどの必然が軸をなしている。
* わたしは、いま、それよりも遙かな昔を眺めている。書いて、描いている。
* 好きなヘンリー・フォンダ、リチャード・ウィドマークらの、やや異色の西部劇映画「ワーロック」を観た。もう独りの印象的な男の名が思い出せない。ヘンリー・フォンダとは先頃、ヘップバーンとの「戦争と平和」で逢った。ロック・ハドソンとジェニファ・ジョーンズの「武器よさらば」は途中で見捨てた。
2022 5/15
* 昨夜寝入る前に希代の狡猾冷血『ジョセフ・フーシェ』をツワイクのみごとな筆誅で読み上げた。おなじツワイクの名作『マリー・アントワネット』への筆遣いの鮮やかな差に賛同する。かの華やかな、華やかに過ぎた、けれど理性と知性を静かに回復していった王后は この冷血動物の手で、夫王を追って、同じギロチンに頸を千切られたのである。
フランス革命を、学問としてではないが、流れとして識りたくば岩波文庫の此の二冊に頼んで良い。
* 『頼朝の13人』は、奥州での九郎義経覚悟の敗死に「もののあはれ」を極めた。いかに理由づけようと頼朝の源氏の命運もきわまったのであり、すでに北条義時の聡明と武断とが姉政子と意思通じ合い「鎌倉時代」を手に入れて行く。大河ドラマの主人公は小四朗義時なのだ。小説「雲居寺跡」はその流れに沿うて承久の変を迎える。
2022 5/22
*「頼朝の13人」 九郎義経の最期があわれであった。頼朝、義時という超級の策士の前で、戦上手なだけの義経はもろい好人物、判官贔屓という物言いが伝わって当然だった。吉野や安宅などの九郎判官場面をもう少し観たかった。
2022 5/23
* 明治三十年四月に第三版を出している『明治歴史』の著者坪谷善四郎「自叙」に、「何をか徳川氏の祖宗が子孫に胎したる政策にして衰亡の原因を爲せりと云ふか左の諸件是れなり」と斯く列挙している、
一 京都の權を抑ゆ
二 親藩の權を養ふ
三 諸侯の力を弱らす
四 門閥格式の制を嚴にす
五 外国の交渉を避く
六 天下の富を江戸に集む
此の六種の政策は實に徳川氏の祖宗が子孫百世の大計として定められたるものなり鎌倉幕府以来の覇権を保持して皇室の威權を抑え三百諸侯を制御して毫も喙を施政の上に容れしめす天下を挙げて樂しんで太平を謳歌せしめたるは此の政策に由るなり然りと雖ども此の政策を行ひしが爲に後年に至り君民上下の憤怨みを招き遂に滅亡に就くに至れり今其然る所以を略述すべし
と。この要約で実に多くがたちどころに理解できてくる。もとより、これへ大きく加えてペリーの来航、外交折衝の強要に近い切迫があったこと云うまでも無い。明治はかくて必然多大の苦悶と開明・開花の時機を得たのだった。著者の、上下巻1200頁に逼る大著『明治歴史』は描かれ書かれて行く。私は是を、秦の祖父鶴吉が遺蔵の書物のヤマから抜き取って初めて読もうというのである。予備運動のように私はすでに同じく祖父旧蔵の山縣有朋『椿山集』および『(成島)柳北全集』に学んで二巻の著を成して置いた。明治は四十五年、鎖国を一転して世界の一流國であらんと富国強兵に腐心し奮起してきた。私は遠くなりし「明治」に大きな興味と関心を覚えながらも、通俗の概説教科書をしか読んでこなかった。いよいよ、その「同時代」視野と言葉とで書かれた論著を、何としても読了したいというのである。それをどう生かすというに足る残年も得られなかろうに、である。酔狂と嗤われるだろうか。
2022 5/31
* 疲労困憊のママ、あの不幸な戦争へ『開戦まで』の内閣総理、陸海軍 天皇 そして米国側の 緊迫と迷走と開戦へ押し流された趨勢を映像で見ていて、ほとほと疲労を増した。またまた原爆へ、そして八月十五日、「日本の最も長かった」敗戦の一日を懺悔のように顧みねば済まなくなる。
戦争に負けて良かったとは思はねど
勝たなくて良かったとも思ふわびしさ 恒平
2022 6/1
* 英国エリザベス女王在位70年を国を挙げて祝っている。「象徴」の最たる存在理由を見せてくれる。ロシアにかかる君臨在らばあの狂気・残虐のプーチンもたぶん在り得まいに。ただし昭和の日本の軍は天皇制を悪用した。悪用の懼れは在るのである、それも忘れてはならぬ。
2022 6/3
* 徳川氏の祖宗が子孫に胎した政策にしてまた衰亡の原因を爲したのは、
一 京都の権を抑ゆ
二 親藩の權を養う
三 諸侯の力を弱らす
四 門閥格式の制を嚴にす
五 外国との交渉を避く
六 天下の富を江戸に集む
と断じた『明治歴史』著者坪谷善四郎の冒頭の掲示は、数百枚を擁したであろう「徳川」政治の表面の長、本性の短を洞察し喝破して、十二分なことに驚嘆する。感嘆する。まだたった7頁しか繰っていないのだ。
それはそれ、本の表紙には著者坪谷の氏名に先立って「従二位東久世通譆伯題辭」と麗々しいのは明治の本では「お定まり」のようで、少年以来しばしば目にした。あれで中学の頃、行きつけの古本屋に部厚い『明治大帝』が比較的廉く売っていたのを私は気張って買った。明治天皇にはさしたる興味は無く、その本の大半を占めて明治に華族制が出来て公侯伯子男の爵位者全員の頁大顔写真と行跡が略述されてあるのが「便利」と買ったのだった。公家華族に加えて新華族ができ、明治時代を制覇していた連中の顔と名とを見知っておくのは「歴史好き」には必需の知識だ、と考えたのである。そのために、まことに子とのあれこれに纏わり携わった連中の名を昭和の少年ながら私は多く記憶していた。訳にはたったのである雑知識の人的支えとして。
2022 6/11
◎ 若し禍機の導火を誘ふもの無んば朝廷も諸侯も志士も皆未だ起つ能はず 幸か将た不幸か外交の難問題起り幕府之が處置を誤りし爲に朝廷諸侯志士皆其の失政を責め攘夷の二字を以て幕府を苦しむるの唯一武器と爲し勤王の二字は幕府に抗する者の標章と爲りこの標章と此の武器を以て遂に幕府を倒したり 幕府滅亡の遠因は具さに備はりたるも近因たる外交の事起らざれば未だ遠因をして發表せしむるに至らざりしなり 『明治歴史』
* 明瞭の指摘と承諾する。
「外交は、悪意の算術」という私の認識は人間の個人的、集団的、国家的折衝において為され成され続けてきた不可避の営為であった。そう心得ない者は、人も、団体も国家も他に蹴落とされた。例外は無いであろう。
2022 6/12
◎ 明治二十六年刊 『明治歴史』上巻 抄 坪谷善四郎著
◎ 夫れ外交は實に幕府を倒ほす革命の導火たりき而して外交が明治維新の以前に於ける作用は單に幕府を倒ほすの政變を誘ふに過ぎざりしも局面一轉して明治の新舞臺を出現してより彼の制度、風俗、文學、美術、宗教、教育、交通、運輸、商業、生産等の事を擧げて盡く其舊面目改めしめたるものは皆外交の影響なり外交の二字が我近世史に向つて如何に至大の影響を被むらしめたるか
* 明治の外交は幕末西欧諸国との不平等条約の重荷を懸命に緩和しつつも各般に新生近代国家へと面目を新たにし続けた努力には感謝せざるを得ない。それにひして、この敗戦後日本政府の外交上のトンマ振りは嗤うに笑えず「外交とは、悪意の算術」で在らざるを得ない基本の姿勢がまるで成ってなかったし、いまも成ってない。
2022 6/14
◎ 明治二十六年刊 『明治歴史』上巻 抄 坪谷善四郎著
◎ 抑そも歐羅巴諸国の我國に交通することは固より嘉永癸丑の米艦来航に始まりしにあらず足利氏のに西班牙、葡萄牙の二國人が来朝して種ヶ島の鐵砲を傳へし頃に始まり織
田豊臣氏の頃にも之を禁ぜず一斑に南蠻と称し織田信長の如きは彼等を延いて帷幕の内に参せしめたることあり徳川家康も亦た之を拒まず英吉利、葡萄牙、西班牙の各國に對し全国随意入港の朱印を與へたることあり會たま将軍家光の時代に島原の亂ありて外交の内亂に關係を有することを悟り俄かに鎖港の主義を執り寛永中異国船の近海に出没するあらば直ちに打拂ふべきの命令を發したり
* 朝鮮半島の南端に日本が任那府なる拠点を保っていたのはまことに遠い古であり、新羅からの本州への来寇こそ確認できないが、島嶼をめぐっては確執はあり、むしろ日本は百済とちかく新羅との紛糾を、高麗へまでも出征はあったと記録されている。蒙古からは明らかに侵略意図の来寇であたし、日本の海賊は彬瓶と朝鮮や中国の沿岸を荒らしていた。そういう歴史をやはり年頭に、この二十一世紀の禁獄との外交は聡明にして堅固な外交「悪意の算術」を磨いていべきは無論と思う。人類が地球上に拡散し盤踞してこの方のこれは常識の宇智野採用の常識で在り続けてきた。平和が新に必須の願望なればこそこれは忘れていては危険きわまりないのである。増長我慢は拙の拙に自ら陥るが、平和ボケは國と国民とに向かい単に無責任という以外に無い。平和憲法が國をくれるのではない。価値あるその「表札」を護るべくは責任を持ってきっちり心構えして備うべきはしかと備えねばあやういこと、久しい人類史も今日の世界事情もあかあかと教訓している。
2022 6/15
◎ 明治二十六年刊 『明治歴史』上巻 抄 坪谷善四郎著
◎ 抑も井伊直弼は其の施設の政策當時正義の士に憎くまれ天下の怨を買ふて非命に斃ほれたるも其人の才幹機略は幕府の政務を一身に擔ひ斃るヽまでは止まざるの気概を有し頗ぶる政治家として見るべきものあり不幸にして此人斃ほれ幕府又一人の大難の衝に當るに足る者なく益ます天下の望を失へり。
元来幕府の舊制諸侯にして匹夫の爲に首を非命に喪ふが如きあれば其封土を奪ふの例なりしかば彦根藩士は皆主家の滅亡を憂へ大に騒がんとする色ありければ幕府は事の穏便を謀る爲に故らに死去と認めず負傷の届出を爲さしめ數回慰問の使者を送り首級は浪士の手に奪はれたるに尚ほ見舞として鯛の味噌漬氷砂糖等を贈りて以て其の騒擾を制し四月七日に至りて喪を發し其子に本領安堵を命せしかば天下皆其の事の児戯に類するを笑ひ益ます幕府の威信を減じたり (頁78 79)
○ 委曲を尽くして精は精、略また機微に触れて詳しく、名著かなと嘆賞を隠さない。
2022 6/17
◎ 明治二十六年刊 『明治歴史』上巻 抄 坪谷善四郎著
◎ 説者或は水戸前中納言(斉彬)は世界の大勢に暗らし彼我の形成を量らず攘夷の無謀なるを悟らずして強ひて之を實行せんとする者と爲し若し其の説をして不幸にも行はれしめば社稷の存亡知る可らさりしと称す是れ未だ老公を見るの淺きものなり老公亦攘夷の終に行ふ可らず開港の遂に免かる可らざるを知る然れども若し此の如く戰ふの決心なくして和せば彼れの要求する所得て知る可らず一歩を譲り二歩を譲りて際限なく我歩を譲るに隨ふて益ます彼をして傲らしむ此の如くんば實に社稷の存亡を知る可らず老公能く之を知る故に先づ戰の意を決せしめて全国の士気を振起せしめんと欲するなり見るべし嘉永六年七月十日老公より閣老阿部伊勢守に與へたる海防愚存の中に言へるあり曰く
太平打續き候へば當世の態にては戰は難く和は易くへば 和を主と遊ばし萬々一戰に相成候節は當時の有様にては如何とも被遊候様無之候得ば 此度は實に御打拂の思召にて號令いたされたく 拙策御用ひに相成事も候はヾ和の一字は封じ候て海防掛ばかり而已に(防衛傍線厳重)致し度事に候右故本文には和の字は一切不認候
と之に因て察すれば老公は無謀の攘夷論者にはあらず寧ろ前後の思慮なく条約に調印したる井伊大老の開国政策に比すれば遙に思想の緻密なるを見る
然れども其の性執拗にして自身の念厚く 完全無瑕の人にあらず 又 疎放無謀の人にもあらざるを察すべし
2022 6/18
◎ 明治二十六年刊 『明治歴史』上巻 抄 坪谷善四郎著
◎ 其頃京師にても幕府にても又浪士の間にも征夷大将軍と云ふ官職の上に一大誤謬を抱きたり 征夷の二字は本來西洋諸國の人を制するの意にあらさりしに今は圖らず外国人を称して夷狄と爲し 既に征夷大将軍の職を奉ずる上は須らく攘夷の實を擧げざる可らずとは京師の廟議にして天下の志士は之に和し幕府又之に對して一言の辯解を爲さずして承服したるぞ不思議なれ
攘夷黨は必ずしも眞に攘夷を行はんと欲するが爲にあらず實は攘夷の二字を運動の標識として幕府に迫り 他年幕府を倒すの翌日より亦一人の攘夷を唱ふるもの無きによりて知るべし 然らば幕府が何が故に斯かる憎悪の念を一事に激發せしかと原ぬるに近く外交の事起りて以來 一事和して戰備を整ひ然る後に攘夷を實行すと称し而して遂に攘夷の事を企つるの念なく 之が爲に朝廷怒り諸侯憤ほり志士奮ふて幕府の亡狀を責むるや捕へて盡とく嚴刑 其反對は發して浪士の暴行と爲り井伊大老を斃し安藤閣老を傷つけ尚ほ止まず今は幕府を倒さヾれば止まざるの勢 京師を以て攘夷黨の本營 攘夷の二字は實に幕府を倒すの旗章として利用せられたり
2022 6/19
* 今、幕末・明治を顧みるのは現下日本の安閑気味の外交・防衛を深く懼れるからである。なによりも、緊急の要事は我が国が幕末來なお危急をはらんだ「北の時代」にあるという現実。私はすでにはやく『最上徳内 北の時代』を書いて余の自覚を求めたが、時機やや早かったのだろうか。「北」といえば大方派一つ覚えのように徳内の命で樺太へ代行した程度の「間宮林蔵」探検行でお茶を濁しているが、よくよく心して「老中田沼意次」希世の北方開明の探検家「最上徳内」の活躍に視線を据えよと重ねて云うておく。
2022 6/19
◎ 明治二十六年刊 『明治歴史』上巻 抄 坪谷善四郎著
◎ 時に當り長藩(=山口縣)士に長井雅歌なる者あり蚤とに天下の形勢を達観し又た海外各国の事情にも通じ方今の計は皇武合躰ならずんば國家の危急を救ふ可らず開國の勇氣有りて始めて鎖港も行はるべく鎖港の勇気あらば開國も恐るヽに足らず唯だ一國の内二論行はれ互に他を陥擠せんと欲し氷炭相容れざるが如きあらば開も真の開にあらず鎖も真の鎖にあらず故に今日の計先づ皇武合躰國論を一二するにあり而して之を爲すには朝廷は攘夷の論を棄て幕府は尊王の實表し以て内を固めて外に對するにありと論じ 藩主に容れられ 京師 嵯峨大納言實愛に徒来て善とせらる元來佐幕と勤王及び開國と鎖港は二個の異りたる問題なるも京師にては鎖港主義を執り幕府は開國主義を奉じたれば佐幕開港は一となり鎖港勤王亦一となりたり長井雅楽は之を分解して佐幕鎖港の二項を消滅せしめ開國勤王の二項を存して以て朝廷幕府の一和せんことを謀りたるなり
2022 6/20
◎ 明治二十六年刊 『明治歴史』上巻 抄 坪谷善四郎著
◎ 永井雅楽(開国勤王=)の意見f京師に於て嵯峨大納言より上覧に供し嘉納あらせ給ふと傳聞するや長州侯は雅楽を率ゐい(文久元年)十月十三日不時に江戸へ出府し十二月十六日を以て具さに皇武合躰の議を建て更に翌文久二年三月十五日登城して閣老に面し論ずる所ありしかば幕府は固より望む所なるを以て其議を容れ更に永井雅楽を召して其説を聞き遂に京都周旋の事を託し同廿二日御目附淺野一學と共に江戸を發して京都に赴かしむ然れども此頃は京都の議論前年に比して一層激烈なる攘夷説に傾き加之長州よりも久坂儀助寺島忠三郎等の徒藩を脱して京都に來り頻りに攘夷を唱ひ永井雅楽が長藩士にして幕府の爲に奔走するをと論じ遂に之を誣ひて永井は閣老久世大和守の家臣杉山耐軒と親しき爲に其委嘱を受けて皇武合躰の爲に力を盡くし事成らば重く用いらるヽの密約ありと論じて之を中傷し會たま此際島津和泉守も上京して天下勤王の志士は夥多しく京畿の間に集り過激の徒は直ちに島津公を推して主將と爲し錦旗を捧げて倒幕の師を起さんと欲し其の勢ほひ頗る盛んなりしかば今は永井の盡力も盡とく畫餅に帰し幕府の委嘱を空しくし長藩の面目をも損するに至れり而して長藩も亦漸く勤王攘夷を唱ふる者多数を占め藩論此に定りしかば雅楽は益すます志を失ひ終に藩論を亂る者と爲し自裁を命せらるヽに至りしは惜むべし
* 尊王と謂うも攘夷と謂うも佐幕と謂うも 国内政権のとりあいにすぎなかったことは、明治政権が露骨にあらわしていた。開港も鎖港も本義からみれば政権争いの二の次で諸国との『外交』が國の存亡を賭するほどの「悪意の算術」たるを朝廷も幕府も志士と自称の連中もまだ目が開いていない。海外、世界を実地に見ないままの憶測では対策できない事に気づくのは、結句、自信で海を渡った少数、またその知見を受け容れた少ない聴衆だけ。所詮は大政奉還の、明治新政府のという関心、俗慾のまま徳川時代は終えて、所詮はまだ、西欧との誣いられた不平等条約という大荷物を担いだままに、やとこさ髷を切って断髪し、日本の刀を腰からはずした、ま、それぐらいな明治早々の態であった。永井雅楽の見解に比して薩長等の浪士・志士たちの乱暴狼藉は、だれもが懼れてくちにしなかったとしても、押し込み強盗なみの政権争奪に過ぎない。そしてその悪弊が今日の、ことに永井雅楽に自裁を強いて殺した「長州」感覚あのアレ・アキレた安部晋三らが政治を我が物顔しているという始末なのである。そういうチャチな「維新」感覚で旗を振っているのもいるから嗤えるしやりきれない。
2022 6/21
◎ 明治二十六年刊 『明治歴史』上巻 抄 坪谷善四郎著
◎ 此時薩州侯島津和泉守 方今の形勢を見て黙過すべからずと爲し皇武合體國論一致の目下に必要なるを悟り 自ら出府して大に力を盡くさんと欲し 藩中の俊秀を率ゐて (文久二年 1862)四月十日大坂に着す 時に京摂のに間に徘徊せる各藩脱走の志士は 夥多しと雖ども 畢竟烏合の衆に過ぎざるを以て雄藩の英主を得て盟主と爲さんと萬口一聲に望む所なりき故に島津の東上を聞き必ず之を擁立して大事を企てんと欲し天下の志士は靡然として大坂に集まる 薩藩士中亦蚤とに志を義徒に通じ急激に大事を擧げんとする者多し當時西郷吉之助の如き久光の命を奉じ暴徒鎮静の任に在りて却つて率先力を擧兵に盡したれば久光は其の亡状を攻めて大島へ流竄したりき形勢此の如くなるを以て久光は藩士中過激の徒は大坂に殘し 十六日京師に入る即夜勅して浪士鎮撫の命を蒙る
大坂に留りたる薩藩士及び各藩の浪士は遅疑して大事を誤らんことを恐れ 志士相携へて京師に入り 公武一致上下同心以て夷狄を掃攘すべし幕府若し命を奉ぜずんば直ちに違勅の罪を問ひ先づ倒幕の師を起すべしと軍粗ぼ定り 廿三日船に乗じて淀川を遡り伏見に上陸し旅館寺田屋に集りて結束す飛報此事を久光に傳ふ久光浪士の輕擧して天下の大事を誤らんことを慮り奈良原幸五郎等をして赴き制せしむ幸五郎等八人寺田屋に至り先づ薩藩士 を呼び君命を傳へて之を制す服せず 遂に激徒八人を斬る各藩の浪士皆起つ幸五郎 制して曰く我藩主見る所あり濫りに噪きて大事を誤るを慮り來り制す而して藩士中拒みて服せざる者あるを以て彼等を斬りたるのみ其他の人に對しては毫も他意あるにあらず請ふ静止して時機を待てと衆始めて止む世に之を伏見寺田屋の格闘と称す當時若し久光の浪士を制するなく其の爲す所を縦にせしめんか王室の威權未だ甚だ盛んならず幕府の勢力も未だ甚だ衰へず而して諸侯の幕府に對する敵意も深からず畢竟一擧して幕府を倒さんとするにはこと時機未だ熟せず故に若し一旦暴発せんか維新の大業は爲に敗れて主権を回復するの期なく或は承久の變亂を再演したるも知るべからず其隙に乗じ外国の侵畧吞噬を被るあらば社稷の存亡測る可らざりしなり幸に久光能く制して機の熟するを待たしむ其功大なりと謂ふべし
* それぞれの時機にそれぞれの人在って大事に対応在ってこそ國は穏当に維持出来る。目下日本はけっして安政ないし文久の昔に変わりない外寇の虞れを持っているが、政治の与野党ともに眞に対処具眼能動の人を得ているか、まこと、心許ない。
* プーチン・ロシアを「帝国シンドローム」という「居丈高」なる「劣等感」で説明しているロシア人の「劫を経た」報道系評論家の解説に頷いた。ツアー、皇帝、天皇と謂う君主なき似而非民主主義に起きやすい独裁独善政権の最も陥りやすいど壺に今日のロシアは墜ちいていて、これこそひとらー・ドイツらの悪しき洗礼を追う「ネオ・ナチ」にほかならない。笑いも凍り付く不幸と謂うしかない。ロシア国民の真正の開眼を望む。日本は未だ幸いにも天皇の「御前会議」で戦争終結、敗戦を受け容れて結果國と国民生活を救うことができた。「帝国シンドローム」で無意味に硬直していたら、ヒロシマ、ナガサキはさらに頻発しつつ、は結果敗戦後の占領政策は国土の分割占領、国民の国外労力化まで陥落していたに相違ない。作用の虞れががもはや消え失せた気でいるなら、嗤うに足るボケた錯覚に過ぎないと、誰より政治家と自称の諸公に自覚して欲しい。
2022 6/22
◎ 明治二十六年刊 『明治歴史』上巻 抄 坪谷善四郎著
◎ 京都の威權日に盛んなるを見て幕府は之に抗するの不利を察し先づ閣老久世大和守の上京を決し 且つ政務に非常の改革を行はんと欲し六月朔日在府の諸公を召し将軍自から上洛の事を達す是れ毛利大膳大夫の建議を容れたるもの當時大膳大夫は尚ほ公武合躰の説を持し京都に於て島津和泉(久光)周旋して公武合躰のことを行はんとするを聞くや事尚ほ爲すべしと爲し建議 幕府之を容れ将軍親しく大膳大夫を召見て建議の親切を謝し大膳大夫亦た大に公武の間に周旋せんことを期せり
京都にては幕府が 上京 發程の期 躊躇して浪士の暴擧 を慮かり島津和泉は勅使を江戸へ發し且つ自から之に従はんことを請ふ 萬一幕府其命を拒まば大に決する所あるべき大任なれば泉は隋行して其間に周旋せんと欲し 勅使は五月廿二日に發程 六月七日江戸に着す 當時の勅命は幕府若し命を拒むとはきは公武の間直に破裂を生ずべき大任なるを以て其勅書は最も愼重を加へ京都にて先づ在朝群臣に下問せらる
京都の百官皆な之を賛成し 勅使江戸に入り勅命を傅ふるや 之を奉じ七月八日大に政度を釐革 勅書の第一策をも遵奉して将軍上洛に決したり
長藩主松平大膳大夫は 江戸に在るときには公武合躰の穏和なる主義を取りたれども 京都に上りしに 公卿間には浪士斷へず出入し其意見は最とも急激なる攘夷論にして之を以て幕府に迫り若し命を拒まば直ちに倒幕の師を起さんと欲し其勢ほひ甚はだ猖獗にして亦公武合躰の姑息策を以て甘んぜず事に長藩士中の多数は既に世子毛利長門守を奉じて攘夷黨の牛耳を執るあり又公武合躰論を唱ふるは島津の糟粕を舐るの嫌あり此に於て今は長州全藩の意見を勤王攘夷に決し 大膳大夫の命を奉じて公武合躰論を公卿間に遊説したね永井雅楽に命じて自裁せしむ此に於て長藩は爾来天下急激黨の中堅となり 此等の事は後遂に薩長確執の大原因たるを免かれざりき
* 此の「薩長確執」ないし「長州閥の猖獗」こそが「維新の明治」のみならず「日本の今日」までをも「壟断」しているとも謂え、私はこれに頷かない。
2022 6/23
* 『史記列伝』は、先史期戦時に諸国の施政に顔を突っ込んで智恵や策を売り込んで歩くまさしく「策士」連中の成績集、簡潔に要点を捉え那賀に大きな史実・事実の芯をつかみ出している。私に政治外交しは「悪意の算術」と終えてくれた教科書のような文献。
2022 6/23
◎ 明治二十六年刊 『明治歴史』上巻 抄 坪谷善四郎著
◎ 抑そも諸侯をして参勤せしめ妻孥を江戸に留めしむるは萬一事あるの日に之を以て人質として其の離背を防ぐの目的に出でたる祖宗の大謀なり然るに會たま今事あらんとする之時に臨み之を放ち還し祖宗の遺制をして全たく効無らしむ 却つて諸侯浪士は益ます幕府を輕んじ其の暴横の力を増したり 幕府之實権既に此時に去れり 大政返上の事外面の儀式は慶應三年に至りて決行せれたりと雖ども實権は既に此時に移りたるものななり 憐れむべし幕府は 一時の安を偸んで無事を希ひ遂に甘じて其の實権を失ふたり 此時に既に王師と戰ふの覚悟を爲さば中興の業其成敗未だ知る可らさりしなり幕府の計此に出でざりしは幕府之爲に憫むべしと雖ども國家の爲には最とも慶すべきなり
2022 6/24
◎ 明治二十六年刊 『明治歴史』上巻 抄 坪谷善四郎著
◎ 實に當時京都に於て廟議は過激論の公卿によりて決し此等公卿の意見は浮浪の壮士によりて決したれば浪士の勢力は隠然廟議を左右し 殆んど無政府の観あり 浪士の暴行は益ます増長し遂に 等持院に入り従來安置する所の足利将軍三代の木像を斬り首を三條河原に梟し 暗に(徳川)将軍を威嚇するに至れり 守護職松平肥後守は 其徒を捕縛せしめ各之を刑したり
将軍家には斯かる紛擾の中へ三月四日に着京 公卿の待遇も甚だ禮を缺き 参内して以外の變あるを慮り一橋中納言先づ参内し 将軍をして天下の政務を掌とらしむること舊の如くなるの叡慮ならんには軍國のこと聰べて一人在らんことを請ふ 朝廷の上は頗る圓滑なるを得直ちに一橋中納言の奏請を嘉納あらせられ詔して大將軍職掌故の如く政事委任の旨を命ず因て将軍には三月七日参内せらる 斯く ありたれども 非難の聲は朝野に満ち無禮の事多かりければ将軍には速やかに東帰せんと 然れども守護職松平肥後守 一旦上洛せられながら其の主眼の目的たる公武合體の實効を見ずして早急に東帰せらるヽは得策にあらずと論じて之を止め僅かに滞京と決したり
是より前浪士の暴行は江戸へ蔓延し去年十二月十三日御殿山に新築せる外国公使館に日を放ちて焼失せしめたる者あり 同月十九日 英國より さきに生麥に於て島津三郎(薩摩藩主)の従士の爲めに其國人を斬り殺されたる談判の爲に軍艦を派遣し 三條の要求を呈出したり其一は英人を斬りたる島津三郎の家來を厳罰すること其二は幕府が外人保護の責を盡さヾりし償金として金十萬磅(凡そ我五拾萬円)を出すべきこと其三は死者の遺族扶助料として島津氏より一萬磅を出すべきことヽす而して幕府若し之を承諾せざれば直ちに兵力に訴へんとするの色を示して強迫せり江戸の幕府は將軍不在の故を以て回答の延期を請ひ急に使を飛ばして京都に報じ東西往復の飛使項背相望み江戸の市民は今にも戰争の始まるかと疑ひ皆恐怖して市外に遁れ去り關東の騒動甚だし
2022 6/25
◎ 明治二十六年刊 『明治歴史』上巻 抄 坪谷善四郎著
◎ 元来京都に於ては最も深く長州に依頼して攘夷實行を賞せさせ給へるに一朝其議を變じ るに至りしは畢竟薩(摩)會(津)諸藩志を幕府と合せ衆生の英明を蔽い奉り手私威を奏するものなれば須らく君側の姦を攘ふて車駕を戴き再び幕府に對して號令するの果斷を行はざる可らずとは當時長(州)藩の意見なりし故に 兵を率ゐて洛外に屯集し 陣して形勢甚だ穏かならずコレり前浮浪の徒の 長藩士にして姿を變へ京師に入る者甚だ多く將さに内外相應じて暴發せんとすしかして朗の首謀者は三條小橋の邉なる旅宿池田屋 に潜伏す幕府の有司課して之を知り六月五日の夜會津桑名及び新撰組の兵を以て圍みて之を襲ひ 其の京都に在る者は稍や一掃せられたりと雖ども多くは洛外に逃れて長藩の兵に投じ其の軍数千に上り勢ひ 京師を壓せんとす
朝議先づ 幕府も亦頻りに(其兵の)引拂を命ずるも従がはず七月に至り長州の世子長門守亦大兵を率ひて上京せんとするの方り此に於て幕府は彼の未だ發せざる先に打拂ふ可しと決し 遂に激戦を洛中に開き双方死傷夥多しく長人遂に退き久坂儀助寺島忠三郎久しく志士の間に牛耳を執りたるの徒多く此の役に戰死し長軍は皆本国へ遁れ帰る此時長州の世子長門守は大兵を率ゐて海路より上京し讃岐多度津まで來りけいしの敗報を聞き引返したり
此役京中の諸邸より市街に至るまで大半兵焚に罹り京洛の惨状は應仁以來曾て見ざる所其戰の激しき砲丸は御所中へ達し たることありしと云ふ
長軍の退きたる跡に藩主大膳大夫其の臣下に下したる軍令状を遺棄して幕府の士に得らる故を以て今度の一擧は明かに藩主の命を以て禁闕へ發砲したる責を免かるヽ能はざるの運に臨めり此に於て朝廷赫怒同月二十三日直ちに長州征伐の勅詔を下させ給ふ の後翌廿四日に至り長藩主父子の官位を褫奪して以て其罪を天下に鳴らし之と同時に幕府は三都に於ける長州の藩邸を毀ち盡く長防二州の士を追ひ令を諸侯に下して征長の師を起す
* 「明治」への道は未だ未だ斯く瓦礫を積んで愚かしく政権の与奪を闘い、「世界」への視線は細く視野は狭く、有為の滲出に待たざるを得なかったが、その彼等にして、結句は倒幕の薩長藩閥の「明治新政府」支配を引き寄せていたに過ぎない。西欧諸勢力の悪しき干渉や支配をなんとか凌いだ凌げたのは、僥倖というしかない。
* 『明治歴史』胸を衝かれてつい詳記してしまうが、能う限り原文ママに執着するとえらく時間をとられる。しかし仮名遣いはもとより。明治人の文体と佳い口気といい、わたしは秦の祖父明治の人鶴吉が多く蔵書の感化を過剰にも受けてきたと頭を搔く。
2022 6/26
◎ 明治二十六年刊 『明治歴史』上巻 抄 坪谷善四郎著
◎ 文久三年(一八六三)五月十日以後長州藩は攘夷を實行するが爲に下の關通行の英佛米蘭四ヶ國の船艦に砲撃しければ四國は之を詰りて談判を開きたるも 空しく一年を過ぎ今元治元年の夏に至るも其効を見ず當時の形勢幕府は既に天下縦まヽにすること能はざるの狀を呈したれバ四國は意を決し自ら軍艦を下ノ關に進めて長州の罪を問はんとす幕府は陽に之を止めたるも陰には却て悦び長州征伐の爲に一大應援を得たるを祝し四國が横濱を出征根據地と爲し英艦九艘佛艦三艘蘭艦三艘米艦一艘を以て艦隊を組織し七月下旬舳艪相喞み長州に向ふたるも幕府は手を拱して之を傍觀せり故に四國艦隊八月五日進んで下ノ關に迫り激しく砲撃したり此時長藩には去月十九日精兵既に京師に敗れて瘡未だ癒えず幕府は遠からず大軍を發して來り征せんとするに當り今亦外國軍艦の精を盡して來り襲ふに逢ひ百難一時に集り之を防ぐに堪へず故に下ノ關砲撃の軍に對しては能く敵愾の氣を鼓舞して防戦するも勞を以て逸に對し器械の鈍を以て鋭に當る勢ほひ抗すること能はず戰闘四日にして勢ほひ屈し九日和を請ひ遂に下ノ關海峡の通航を諾し償金三百万弗を渡すことを諾したり
此の一戰長藩は甚だしき敗を受けたりと雖ども之により外国兵鋒の強を知り攘夷の容易に行ふ可らず舊來り兵制は迂拙にして彼に抗する能はざるを知り急に兵制を銃隊に改め盛んに武を練りたれば後來其兵の強き幕府が天下の兵を集めて征するも勝つ克はざるの勢力を養ふに至りたり故に當時長藩は戰ひに負けたるも實際は勝ちたり之に反し幕府は外國軍して長藩を征せしめ自ら戰はずして征長の實を行ふたるの觀ありしと雖ども此一事を以て其の實権は全國を制すること能はず長防二州は自己の政權統治の外に在ることを示し以て外に對して其威權の微なるを表白し遂に後來外國をして幕府は眞の日本政府に非ることを思はしむるに至れり加之當時長藩は三百万弗の償金を約したるも終に之を幕府の手より支出するに至りたれば幕府は最も不利の地位に立ちたり故に外國軍の下ノ關砲撃は其敗長州にあらずして實は幕府之敗と爲れるものなり
* 外国艦の砲撃に傷ついて山縣有朋がめざめ、また終末期の幕閣に参じた成島柳北が愛想を尽かして江戸の市井に一身を捨てて隠れた経緯を見事に上の一文は説得してくれる。
云うまでもな、いましも日本列島は、幕末、四國列強の軍艦猛烈の砲撃にあえなく屈した下関、長州藩の為すなき惨状を他所のほかとは云い切れない世界事情下に置かれてある。そのじじつを無視したままの「平和」の要望ではあまりにたわいない。
この『明治歴史』抄記は、しかし、あすからは「湖の本」発送等に時間と体力を要するので、「四國連合軍艦の砲撃」と程もよく読み終えたので、少なくも一旦休止する。
『山縣有朋の「椿山集」』『山縣有朋と成島柳北』を「湖の本」にしかと加え得たのを喜びとする。
生母の生涯を抄して『湖山夢に入る』を、實父のそれを『父の敗戦 虚幻焚身』に竟に書き置けたことも、また、老境の大きな一歩であったよ。
2022 6/27
* 無茶に右肩が凝って痛む。なんで、と、思い当たった。夜前の寝入りばなに、ふと、目に付いた重い全集本のうちの『保元物語・平治物語・承久記』を寝床へ運んで、重い本を上へ、右へ、左へと持ち換え持ち替えながら『承久記』を読んで仕舞ったのだ、私の小説『資時出家』や『雲居寺跡』の背後にあった事変であり、史書である。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が、もう小四郎義時と後鳥羽院と承久の衝突へと立ち至っている。
私は昔から和歌の詠めない後白河院には惚れ、歌は巧いが後鳥羽院は嫌ってきた。軽蔑すらしていた。いまドラマの主役北条小四郎義時は、なかなかの、なかなかな、男なのだ、ドラマよく「表現」している。
承久の変は、初めて関東が京都をブッとばした政変であり、後鳥羽院は隠岐へ押し流される。天皇の配流は崇徳院に讃岐への前例があるが、隠岐の島へとはもの凄い。賢い義時はそれを敢行し、聡い泰時との二代の「執権」政治で「鎌倉・北条時代」を生んだ。時頼を経てあとへつづく北条時宗は、元寇、蒙古襲来を凌いでくれた。
が、此の本、興深く面白くても、寝て、手に捧げ持って読むには、重過ぎた、あまりに。
* 鎌倉殿「二代」頼家の問注所めく取巻きが、三、四人から、我も我も彼もと勢力睨みで「十三人」にも及んでゆく馬鹿らしさだか、京の後鳥羽院が輪を掛けた早とちりのお馬鹿で、一気に京と鎌倉との「ばか比べ」になるが、小四郎義時と御台所政子とが賢くリードし、武力の喧嘩にははるかに秀でた鎌倉方が、腕ぢからも無い京都側を もうまぢか、圧倒して行く。
2022 8/20
* 親分を失った「御家人達」が大騒動の「安部跡目の13人」を演じていると報道されている。嗤えて、笑えない。いっそ外のか内のか、ナントヤラ協会から「カマクラ殿」を招聘しさらに奉仕するのでは。抜群にじつは賢こかったあの北条小四郎義時は、自身は「執権」職に身を退いたまま、体のいい人質なみに京都から公家や皇子を「将軍」にと請け出してくるよ。
2022 7/22
*『遊仙窟』を愉しみに拾い読んで、いま疲れを休めている。どうも近年は、殊に「漢字」の國民と、「漢字」での表現や歴史とにまたひとしお惹かれる。『遊仙窟』だけでなく、いま、少しずつでいいからと手を出すのが『十八史略』と『史記列伝』。
日本の神話はなごやかな童話ふう易しさ懐かしさにも富むが、中国草創の神話と歴史はほとんど怪談のように自然と人間との秘密を教えられる。含蓄や示教の「凄み」よ。
2022 7/22
* このところの「毎日読書」の数に加わってわたくしを惹きつけている一冊は岩波文庫の高橋貞樹著『被差別部落一千年史』と、元の蘆陵 曽先之の著に、日本の大谷留男が訓点し、明治二十九年十月五日、大阪の岡本偉業館蔵版になる『十八史略(片仮名附)』とで、ともに新古双璧の名著。
* ことに前者は、私より三十年早い一九○五年に生まれ、私が誕生の昭和十年(一九三五年)には亡くなっていた一青年が、それも弱冠「十九歳」でみごと書き上げているまこと瞠目の「一千年史」、全頁くまなく揺るぎない希代の「名著」なのである。
私の生まれ育った京都市には各所に散在して「被差別部落」余部地区が在り、小学校ででも中学高校ででもなんら気疎い事実でなかったが、大人の口から漏れ聴いてきたいわば「耳学問」での「差別」の伝承や実際はただただ凄まじモノに聴いて取れた。
それにしても「十九歳の著者高橋貞樹」のその「歴史的考察」といい「現状と水平運動」の精緻なまでの追求・考察・筆致といい、しかも参考著書論文の渉猟、舌を巻く見事さである。私は此の文庫本一冊を、なにかの関心や問題意識にかられるつど、繰り返し読んできたが、いわば「日本人」ならば誰しも必読必携、岩波文庫の一冊で容易に手に入る名著なのだからと、今も推して憚らない。一千年来の日本人ならば、ひとりとしてこの本の伝える歴史と無縁な人はいない筈。
* 漢土の『太古』 まず「天皇氏」が「木徳」を以て「王」となり「無為にして化」してる。兄弟が十二人、各「一萬八千歳」。
ついで「地皇氏」が「火徳」を以て樹った。やはり兄弟が十二人、各「一萬八千歳」。
ついで「人皇氏」は兄弟九人、國を「九州」に分かち、いらい「一百五十世」「四万五千六百年」。
「人皇」以後は「有巣氏」が、構えて「木を巣とし木の実を食と」した。また「燧人氏」が、初めて「燧をきり」人に「火食」を教えた。すべては「書契以前」文字で書き表す事の無かった史実で、年代も国都も解りようが無い、と。
それにしても「木」といい「火」といい人の暮らしように賢く連繋している。
そして「太古」は「三皇」の世へ移るが最初の、「燧人氏」に代わって出た「太昊伏羲氏」が「蛇身人首」と怖いよ。しかし為政は理にあい「書契」に道が付くなど、そして以下続々としてゾクゾクするような「炎帝神農氏」「黄帝軒轅氏」らの時代へ展開して行く、こういう中国の神話や歴史からみるとわが『古事記』のつたえる神話は、ままおとぎ話のように温かいお話ではある。
* 『十八史略』はむろん尽く漢文、それも大部。しかし優れて「知的」に感じられて「訓点」の深切に率いられ読み進めるのが頗る楽しみの、歴とした史書である。読み終えるには日時を多くひつようとするが、日々の愛読書に選んだ。謂うまでもない、これも秦の祖父「鶴吉」の旧蔵書の一冊である。「もういいかい」と呼ばれても「まあだだよ」と手は横に振る。
2022 7/25
* あっとうまに、正午まで寝入っていた。一時から、韓国連続ドラマの『花郎(ファラン)』を観ていた。蒙昔と謂えるが買い置いた『韓国古代史』上下巻のなかで「花郎」を説き語っているのを印象的に覚えていた。貴族社会でも見栄えのいい青年達を「花郎」と名づけ國力として組織していた。面白い発想だと思った。日本では出来まい。
2022 7/26
* 『剣客商売』の秋山小兵衛。藤田まことが、さきの大戦での「戦犯 被告」元陸軍中将を演じた『明日への遺言』に、しばし慟哭した。敗戦の日が近づくと私は「勤め」のようにこの類いの「戰争・敗戦」証言映像に心身を晒すのを「心がけ」としている。
目を覆う名古屋絨毯爆撃の米空軍兵が一部討たれて着地「捕虜」となり、日本軍に斬首されていた。その方面軍司令の岡本陸軍中將を裁いたのであり、国際法廷は緊迫に満ちてしかも被告の平静沈着な答弁は、見事な節度と決意とに充ち満ちていた。岡本は死刑を甘んじて受け容れたが、同じく部下数十名の死刑を救い、凡てが減刑された。深く頭を垂れて、熱く泣いた。
2022 7/27
* 疲れてか、ボケてか、なにやら茫然と。それでも、今し方階下で読んでいた『明治歴史』幕末の薩長が、尊王攘夷か公武合体かて対抗したり親和したり、勝安房や大久保市藏や西郷吉之助らの顔を出してくる辺り、惹き寄せられた。
「歴史」は、いつも学びたい第一義か。
2022 8/6
* 観ていた夢は、忘れた。思い出せそうで思い出せない。
敗戦の日。想い出は多々、疎開していた丹波の山奥へ走る。南桑田郡樫田村字杉王生。初めは山上の田村邸を借り、耐えがたく街道脇の長澤市之助邸の隠居を借りて母と二人で暮らした。多くを良く覚え忘れ得ない。敗戦の詔勅は長澤の前庭で、ラジオて聞き知った。飛行機のように手を広げて駆け回った。負けたことに何も負担は無く、京都へ帰れるかと胸を弾ませた。あれから、早や77年。いい意味での生きる緊張を忘れ得ない戦中の、また永い戦後の日々であったよ。
2022 8/15
* 昨日 もと専修大教授から戴いた『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を 読み解く』は、まさしく、凄い。新発見の「関東大震災絵巻」に拠っている。こういう本も出来るほど、昔話になったか、いや、ただ昔話であるまいよ。
こういうのを絵入りで見ていると、つい白行簡の『大樂賦』などへ眼を逸らしたくなる。これはもう、なつかしい。優しくも美しい。原文で読んでいれば何の遠慮も無く堪能も耽溺すらもできる。
2022 8/23
*坪谷善四郎の力作『明治歴史』の上巻は、井伊直弼やペリー来航の昔から、明治維新前夜の国情を実につまびらかに且つようりょうをおさえて丁寧に懇切に多くの文献や記録を引用しつつ詳細に解き明かして行く、じつに見事な論攷で有り史実の展開と彫琢を為し得ていてほとほと感じ入るが、維新の大業なり明治早々の五個条ご誓文にいたるまでの草創期国家大成の組上げ組立て職制と人材の配置等々の詳細をつぶさに明記していて呉れる。是までの明治維新への知識など、その詳細の①割にも遠く達していなかったと分かってほとほと「降参」の思いがしている。そして、うろ覚えながら私少年以来の感心にとどめていた人材の詳細を究めた政権への配置を見届けて、のけぞるほどに感じ入っている。ことに「大久保利通の遷都論の意義」の大いさなど、何ほども知らず関心もしてなかった事実の疎さに恥じ入ってしまう。
まだ上巻の半ば。下巻までを通して「明治」の意義を強かに、したたたかに、私は初めて教わることになる、胸が鳴るとは、これ。八十七歳になろうとして、私ほど「歴史」に重きを認め続けてきた読書人にして、かかる莫大に新鮮な知育にあずかるとは。まこと、最敬礼するほど祖父鶴吉「おじいちゃん」の知的遺産はすばらしい。感謝に堪えません。
2022 10/3
* 孔子の孟子のといえば古くさい代表のように言い慣れてきたひさしい歴史の尻ッぽに現代日本人はくっついているけれど、さて現題日本にどれほどの「哲学」が生まれて生きて人を導けているか、貧寒として無にひとしいのを自覚しているか。
「大学」の巻頭は、こう謂う、「大学の道」とは「明徳を明らかにするに在り、民を親しむに在り、至善に止まるに在り」と。更に継いで、「止まるを知りてのち、定まる有り、定まってのち能く静か。静かにしてのち能く安し、安くしてのち能く慮る、慮ってのち能く得る」。 國にも政治にも我一人にも言いえて、たがわない。
また言う。 物に「本末」有り、事に「終始」有り、「先後」するところを正しく知れば、即ち「道に近し」と。
さらに言う。 古え(人)の、明徳を天下に明らかにせんとせし者は、まづその國を治む、その國を治めんと欲する者は、まづその家を齋(とと)のふ、その家を齋ふと欲する者は、その身を脩(おさ)む、その身を脩めんと欲する者は、先ずその心を正(まさ)しくす、そのこころを正しくせんと欲する者は、先ずその意を誠にす、 その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す、知を致すは物を格(きた)すに在り。
物格(きた)して后(のち)知至る、知至つて后、意、誠なり、意、誠にして后、心正し、 心正しくして后、身脩まり、身脩まりて后、家齋(ととの)ひ、 家齋ひて后、國治まる。國治まり而して天下は平なり。
天子より以て庶人に至るまで、壱に是れみな身を脩むるを以て本と爲(な)す。其の本亂れて末治まる者 否(あら)ず。
* 簡明にして感銘を尽くしている。「修身・齋家・治国・平天下」とは、私など戦後の小学生の頃から、史上の偉人たちの行状と思い合わせながら「至難かな」と感嘆していた。二十一世紀の今にして、これら、啻(ただ)に陳腐な贅言であろうか。これらを超えた新たな哲学は、日本の何処にどう芽生えていたと認められるのか。孔子の「大學」とはかく簡明にして至難の教育なのであった。古くさいと、しんじつ此の先を言い切れるどんな「現代人」が何処にいるのか。
2022 10/4
* 四書五経 いまや顧みる人は少ない、無いに同じいかも知れぬ、が、今日の高校生が目指す大方派「大學」ではないか、『大學』は「四書」の筆頭であり、その概要に当たる字句を昨日、こに掲げておいた。其の旨は、何一つ古びるどころがこの二十一世紀に唱えられて毫も古びていない、古び於呂得て無自覚なのはいわゆる現代人と自称の実はたんなる「今日人」に過ぎない。
* 「ちゅうよう」という言葉を今日人もおもいのほか日常にしたり顔に用いているが、程ほどに中を採っておこうぐらいな意味を謂うている。が、始原の語は「四書・大學」の次なる「中庸」であるなど、もはや誰も意識も記憶すらもしていないと見える。
* 「天の命(めい)」之を「性」と謂う。「命」とは「本然」ほどに受け取っていいか。れはまた「本性」であり、今日の人の好きな「セックス」とは大きく超えたすべて「モノ・コト・ヒト」の本質をいうのであろう、それならは首肯定できる。
その「性」に「率(したが)」うて歩み生きる率土や本徒をすなわち「道」と『中庸』の教えは指さす。その「道」へ導き体得する、それが「教」という指導で在り会得に他ならないと。「道」は瞬時とても逸れていもので無く、逸れるはを即ち「非道」と。
現題のわれわれも「非道」ともちいており、より便宜には「ひどい」ヒト・もの、ことを指さしている。ひどくてはならぬ、と、それが「中庸」の教えのまさしく肝要なのである。そのどこにも古くさくていまや無意味・無価値と擲っていい物は無い。
今や当たり前のように「古くさい」代表のように忘れられた、これら「大學」「中庸』は実に孔子が「初」の発言・発語であった。覚えていて佳いではないか。
2022 10/6
* 書庫に入って座り込み、かなりな時間、本を並べ替えていた。読んで欲しいという声が鳴り響くよう。ごめんごめん。そんな中から坪谷善四郎著『明治歴史』下巻を手に持って,出た。文久二年(1862)生まれ。東京専門学校(現・早稲田大学)政治科に学びながら博文館に入社、編集局長を経て、取締役、著名な雑誌「太陽」を創刊初代の主筆,編集主幹、世辞かとして東京市会議員7期、東京市立図書館(現・日比谷図書館)を建設に尽くし、日本図書館協会会長という「実力」の人の主著のひとつが、この大著上下巻の『明治歴史』で、私はかなりに歴史書には触れてきたが此の博文館蔵版坪谷善四郎の『明治歴史』は、感嘆、第一級の名著にして充実と謂わねばならぬ。祖父鶴吉旧蔵遺産のなかでもこの書に出会えたのは、まことに有難かった。著者にも祖父にも敬意を惜しまない。
2022 10/12
* 坪谷善四郎の大著『明治歴史』の上巻・
第一編「維新前期 従米艦来航至政権返上」ほぼ300頁
維新の革命は開闢以来の大革新なり
維新革命の原因
我国の革命を促したる外国の形勢
嘉永癸丑米国使節の來朝
幕府外交談判の失擧
修交条約の締結、米使登営
養君治定並に井伊直弼の性行
安静戊午の大獄
井伊直弼の横死並に水戸烈公の性行
安藤對馬守の施政
薩長両藩の動静
勅使東下の始末
勅使再度の東下将軍上洛
長藩攘夷の開始並に英艦鹿児嶋襲撃
廟議變更七卿西竄始末
将軍再度の上洛
長藩の陳情
水戸藩の内訌
長藩士禁闕に砲撃す
四国連合軍下ノ關砲撃
長州征伐
外国軍艦兵庫入津、将軍辭表を呈す
薩長の秘密同盟
長藩處分長人梗命
長州再征討幕軍敗刔将軍薨去
幕吏郡縣制施行を謀り英佛二國日本を賭せんとす
一橋慶喜將軍宣下並に主上崩御
將軍慶喜の施政
倒幕密勅始末
三條岩倉兩公の合躰
大政返上始末
政権返上後關東に於ける諸藩の意見
* 第一編に、是だけの目次が出てある。これら本文は、もう読み終えて莫大に学んだ。
、
第二編「維新實記 従維新大號令発布 至外国公使始朝見」
王政維新の大號令
長藩兵士上京始末
徳川内府下阪の事情
徳川内府辭官納地の始末
幕府江戸の薩摩藩邸を襲撃す
伏見鳥羽戰争始末
大に政躰を更革す
維新當初の財政始末
諸外國公使の参朝並に癸丑以來の外交始末
維新に伴ふ宗教の變革
* ほぼ150頁、上の第二編を読み終えたところ。以下「上巻」の第参編「維新後記 」ほぼ120頁ほどへ読み継いで行く。
第二編「維新實記 従王師東征至廃藩置県」
王師東征、江戸城の軍議
徳川慶喜恭順罪を待つ
王師江戸城を攻む
上の戰争始末
東北戰争始末
箱館戦争始末
版籍奉還始末
諸藩石高並知事家禄表
廃藩置県始末
* 実に精緻に正確な記録・文書を収攬しつつ卓越の見識は「説得」の力と妙とに富んで,頗る歴史が面白く、かつ詳細に亘っていて興味津々尽きない。
さらにこれへ『下巻』が続いて、總千百頁を超えている。得も謂われない感動と教訓とに充ち満ちている。もっとも識りたい一つの「明治・前半史」が此処にある。祖父「鶴吉」遺産旧蔵諸本の中に実在している。感謝感謝。
* 『鎌倉殿の13人』が険悪化しつつ在り、小四郎義時北条氏の辛辣な支配意志が板東武者ばらを震撼し動揺反撥させて行く。鎌倉殿実朝は性的異様をそれとなく親愛気味の泰時に漏らしている。豪傑の和田義盛・巴夫妻、またいつも言を左右にしつつ小四郎の傍に居た三浦にも気分の差し引きが見えてきた。女たちは、揺れ動きながらだれがどう悩乱し始めるか。鎌倉の自壊が動くかその先に京都との大衝突になるか。
2022 10/16
* あの「習近平」は、まちがいなく中国に「清朝」以來の「王朝」を布いて長期に「王政」が世襲されるだろう、トランプもプーチンも彼の前には「メ」じゃないと、私は世紀の「初め」から予見し「私語」し置いていた。習近平は化け物であり、かつ日本に最大の脅威である。国会議員らよ、日本の青年壮年らよ、わかってるのかね、何か思案と対応の策は「お有り」なのかね。
今日の日本國に、あの明治維新を実現し構築し支持した一人の勝安房も大久保利通も伊藤博文も岩倉具視も、いない。なんという心細さよ。
今ほど若者らが、興国の意気に燃えた明治青年らの如く在らねばなるまい「危地」を踏んでいてその懸念も自覚も無いとは。危ないぞ。危ないぞ。
敗戦後の旧日本軍日本の海外兵士らは、多くがシベリアや中国で強制労働に追われて苦役し、年経てかろうじて「帰り船」で異国の丘や砂漠から日本へ帰れた、が、おそらくこのままノンビリした享楽日本人、ことに能生の薄い若者らがただ向こう見ずに怠けていたなら、今世紀も半ばするにつれ、故国の国土と歴史を喪い家庭と文化を喪い見も知らぬ異国の地や丘や谷間」に拉致さ移住を強いられ、ただの「労力」として追い使われかねないのだ、判っているのかねえ。習近平も、キム・ジョオウンも、プーチンも、すぐ目の前で露わに脅して来ているのに。 日米の協力…それは「おとぎ話」に過ぎません、さっさと退散しソッポを向くでしょう、あめりかサンは。私がアメリカ人なら、危ない日本には関わりたくないと思う。
2022 10/24
* 映画『パリは燃えているか』 日本人は故郷や国土を占領されて、幸いにもドイツがパリと市民とを拘略したようなメにほぼ遭わずに済んだが、一つには闘う日本人の強さや怖さを穏便な支配のために考慮したから。日本人はたしかに闘って強い国民であった。が、敗戦して八十年近い歳月にみたされた日本人にそんな「歴史的な」強さが消え失せているとしたらそうは遠からぬ将来に苦痛の被支配、被占領の事態が、無いとはとてもいい切れないことを案じる。
やっとこさ、最近になって「防衛」を口ににするように政府も国民も強いられはじめている。防衛の一の力は「武器武装」ではない「悪意の算術」に徹した「外交力」だ、が、じつにじつに心許ない。国民はしかと気づいてその空気を總がかりでつかみ強化しておかねば。其処へ気づいている議員や大臣を選びたい。
2022 10/27
* 平城宮祉で最古とみられる「倭歌」の木簡が見つかったと。
2022 11/2
* 坪谷善四郎の『明治歴史』は若い明治天皇が即位し改元の日まで読み進んできたが、その直前の、江戸城開城の以降、東北、北陸、奥州、北海道での征討官軍と幕府方対抗余勢との激闘、死闘、征服、戦後措置等々に斯くも精微なまで識りうるとは思わなかった。興奮もした。これらを尽く識ってはじめて「明治維新」の四文字にまともに向き合える。「明治維新」はただの標語でも表札でもなく熾烈なまでのさまざまな対抗の詳細そのもので成った本状最も巨大な政変史そのもの、其処には文化大革新密着していた。
さて、いよいよこれから表題の「明治歴史」がなお七、八百頁に亘り展開する。この晩年、「最大級の新たな読書」となる。
2022 11/2
* 昨日見た映画『ドクトル・ジバゴ』は文字通りに凄い境涯で、震え上がる心地がした。ツアー(皇帝)を銃殺したいわゆるソ連国家への「革命」を濃厚に下に敷いてジバゴの、家庭や家族や親族や恋人たちが悲惨を極めて刻寒のロシア大地を彷徨し逃亡し隠れ住んでなお虐げられる。國の警察力もレジスタンスの革命意識も 普通の家庭や人を安堵させない。そして流浪そして病や死やシベリヤへの放逐。
私は映像に竦みながらそれを「ドクトル・ジバゴたち」の物語とは見ていなかった、もしも、萬一とも最早謂えないもしも日本の国土と国民とが異国・異民族のつと支配とに屈服を強いられた「年々日々」を十二分に懼れて然るべき確たる危惧に、その方に、戦いていた。幸いにも、と思うが私たち老夫妻の生きてあるウチぐらいは保ってくれよう、が、朝日子や建日子らの、孫みゆ希らの時代に、日本国が、少なくもロシア、朝鮮、中国とどんな破壊的危機を迎えて「いる、いない」は薄紙一枚の表裏に過ぎまい。敗戦後に破れた日本兵は、シベリアや満州等々の「異国の丘」に強制労働の日々を過ごして、實に實に大勢が死んでいる。私は当時「ソ連」の作家同盟が招いてくれた折に、ハバロフスク近辺のものすごいほど宏大な「日本人兵士らの「墓地」と謂われる場所へも連れて行かれた。想うだに「凄惨」の感に想い屈した。
* いまの日本人は大方が忘れたか識らないでいるだけで、遠からぬ過去に、異国の民族民衆にあだかも君臨し、横暴をほしいままにしてきた形跡は、ましてその記憶を憎んでいる他国の人らが、歴然と処方に遺されいま生きてもいる。同じ「メ」に、日本が負けて屈して陥りかねぬ近未来を、国家国土国民国史文化財の確保・安寧のために「政治」はいま、どんな叡智や配慮・対策を為し得ているか、慄然とする。
* 現下の日本人は政治家たちを一に、国民もまさかに自分達が「ドクトル・ジバゴ」の境涯なんぞとは徹底無縁と感じている、と見える。
が。
脅すのでは無い、本気で私は思っている、危ないぞ。危ないぞ。ものすごく危ないぞ。
2022 11/4
* 明治維新最初の難関が版籍奉還であった意義をながいあいだ私は理会していなかった。そのこと、書き置きたいが、疲れていて。後に、と。 なんとはや、午過ぎて二時半と。やすみたい。
2022 11/4
* 大政有関して明治維新とは成っても 大なる旧態依然が居座っていた。幕府は、徳川は、紀伊も尾張も水戸も、薩摩、長州、仙台、會津、越前等々の諸侯は以前して何百、何十万石もを抱えていた。それでは維新政権は身動きも成らない。長州藩の木戸孝允は主君島津侯に膝詰めに説いて、率先「版籍奉還」を奨めて承諾させた。「版籍奉還」こそが維新の実質となり得たのである、夫れなしには政府予算も国家保持もなにより「経済 経世済民として成り立ちようが無かった田。木戸孝允の功績は感動的に絶大であった。『明治歴史』上巻をよみすすみ、漸くに漸くに江戸以北、東北、北陸、奥羽、北海道の旧幕府支持、反政権精力を苦心惨憺攻め落としても、この諸侯版籍がそのまま居座っていたなら、、維新の実行は忽ちにうやむや、なし崩しの後戻りになるのは必至だった。
幕末から明治維新までの歴史を詳細に顧み学んでいて。じつに燦然たる偉勲の人の力量や人間性が光っていたかに感動する。公家にも諸侯にも、その臣下にも幕臣にも、志士・壮士らにも、實に志気優れ知能も抜群の「政治家」たちが実在していた事実に感嘆する。拾遺の反感やあつりょくがあっても、成すべきは為し遂げようとした人たちである。徳川慶喜、水戸、會津。越前、長門、薩摩、土佐等々の諸侯も、井伊直弼以来 勝安房、山岡鐵太郎らにいたる少なからぬ幕臣も、木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛、坂本竜馬らほか少なからぬ陪臣の逸材、加えて三条実美、岩倉具視ら公家俊秀も大切に働いてくれた。諸外国の侵略の野望を躱しながら、日本は彼等の盡力に救われ、前へ歩めた。眞実、感謝する。
2022 11/5
* 『鎌倉殿の13人』が、京都の後鳥羽院の遠隔操作でガタついている。実朝はいわば生らの歌人と謂うにちかく、後鳥羽院にも藤原定家にも「京都」そのものにもむしろ心酔の体で、北条小四郎義時とは,断乎、かけ離れた個性。混乱を極めて行くが、実朝の命数はもはや永くない。亡き二代頼家の子公暁がどうコマとして北条に使われるか、承久の変、後鳥羽院の隠岐流しまで描く気なら、かなり此の先はバタバタしてしまうだろう。
2022 11/6
* 夕飯前後の体苦痛と不快とは尋常で無かった、這い入るように睡眠へ逃げ込んで、、七時半。覚めたまま、やはり『悪霊』そして『明治歴史 前巻』を今にも読み終えるところまで。「緯編三度び絶つ」というが、私の初読だけで、明治前期の刊本は、読み進むに従い頁が崩れ落ちてくる。だからなお読んで「あげたい」と思う。大政奉還から版籍奉還への決定的な明治初頭の足取りによく働いた元勲達の、当節の政治家と懸隔を絶した高い見識と深い聡明と果敢な判断力に感嘆し、かつ今もなお感謝する。
2022 11/10
* 昨晩遅くに独り『鎌倉殿の13人』を見直し、今朝も見直した。鎌倉に鎌倉殿志望の頼家子の僧公暁があらわれ、実朝は後鳥羽院の皇子を鎌倉殿に迎えて自身は大御所たらんと目算、義時は警戒し政子は実朝の安寧に心を置いている。京は鎌倉の糸を引いて操ろう都市、義時は警戒深く身構え、周辺にはややこしい者らが、男も女も野心づく蠢く。不思議なことに京都者の私はこの承久前夜では、京より鎌倉の動きに心寄せている。この時代陰険でない者の生きがたいとは承知で、どちらかという後鳥羽上皇や京の公家らの陰険を私は嫌ってきた。のちのち後鳥羽院ははるか隠岐へ流されるが、それをしも私は黙認してきた。むしろ北条義時の京都と闘う決断に、圧倒の意志に目を見開いてきた。政子の存在も小さくなかった。右大臣に浮かれた実朝の優弱はとても将軍家とは見えず、鶴ヶ岡の大銀杏に隠れた何者か、公暁なのか、義時の手の者か、に惨殺される成行に意外ななにも無かった。この師走には閉幕の気ならドラマはそこで終えるだろう、義時が見せるその後の強硬には理があり、武力で鎌倉の板東武者に勝てるなどとみた後鳥羽上皇の迂愚は、「京都」なる重みの爲には最悪の失敗だった。「アホ」かと思った。
2022 11/14
* 戰争は決して仕掛けは成らない、真珠湾で火ぶたを切ったようなことは迂愚の極。しかし、不用心に仕掛けられてもいけない、惨憺たるサマが目に浮かぶ。武力や兵器での備えよりも、平生の世界視野での「外交努力=悪意の算術」には長けて居ねば危ない。「悪意の」という表現に浅く向き合っては成らない。人間の世界史に「善意の外交」はありえた例は滅多に無い。識らない。しかし「悪意の算術」に秘技を尽くした例は、世界中で容易に過ぎてみつけられるたろう。日本国の国会、政府の諸公よ、算術を磨いて磨いて備えて呉れたまえ。
2022 11/14
◎ 令和四年(二○二二)十二月八日 木 真珠湾奇襲の日 戰争に負けてよかつたとは思はねど 勝たなくてよかつたとも思ふわびしさ
2022 12/8
* 西欧、東欧の抗争・戰闘常態は事に危険なまま、世界化しないで欲しいものだ。「日本」は今ぞ眞に聡くあらねばならい。国土国民の防衛と、戰闘のための再軍備とを「同じ」と錯覚してはならない。
*真珠湾奇襲を私は「京都幼稚園」生として識った。生きながら水雷に掴まり乗り船艦へ体当たりの「九軍神」の報道など、いつまで続くでもない無謀やないのかと子供心に案じたのを覚えている。世界地図があちこちで見られたが、真っ赤な日本列島と、緑のアメリカとみくらべて、内心に勝てるワケがない、勝ち続けるだけの「お金」が足りるのかと思った。翌年春、戦時国民学校に入学の頃は日本は戦果を伝える放送に酔っていたが、わたしは職員室外の廊下に張られた世界地図の前で、友達に向かい日米の国土の広さ一つから「勝てるわけない」と言うて仕舞ったのを通りがかりの男先生に、廊下の壁にブチ当たるほど顔を打たれた。「しもた」と思いつつも、「そやけど」と胸の内で同じことを自覚していたのも忘れない。成らずに済むなら将来兵隊さんには「成りと無い」ずうっと思ってた。思いの蔭に、祖父鶴吉蔵書の一部、小型の『選註 白楽天詩集』の中に強烈な反戦の七言古詩『新豊折臂翁』にいたく感銘を受けたことがある。この感化から、のちのち小説家としての処女作『或る折臂翁』が生まれている。
戰争にいたらぬように、國も国民も眞実そうめいに「悪意の算術」であるすぐれた外交と外交官をしかと維持したいもの、切望している。
* 真珠湾開戦や八月敗戦塔の日には、私、つとめて関連の映画を観て思いを新たにする。今日は、アメリカで製作しアカデミー賞の映画『トラ・トラ・トラ』を心して観た。
敗戦の日には『日本のいちばん長い日』で敗戦終戦を反芻・自覚する。ヒロシマ原爆の日には「黒い雨」を観る。沖縄と日本海軍の壊滅にも用意の映像がある。私は「歴史」を忘れたくない。
2022 12/8
◎ 八代集秀逸 (千載集 十首)
* 契り置きしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり 基 俊
* 世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる 俊 成
〇 基俊歌。 「事情」が歌の背後にある。官職官位を求めて今にもと約束されていた気で期待していたのに、「あはれ」また叶わず今秋も過ぎ往いてしまうのか、と。『百人一首一夕話』を祖父鶴吉が旧蔵の本で読み耽った小学生の頃にこれを識り、妙に雑然とした思い出感心できなかったのを、今に覚えている。一首で躓くの「させもが露を命」だが、「さ、せ」に上位・權者、関白ようの人物の、「ま、然(さ)用にも辛抱して(せ)次回好機を一心に待て、わしが何とかしようぞ」など言われていたのだ。
愚痴も失望も多い平安和歌のうちでも、露骨に俗事・俗情を直に歌って、いやはや、と思ってきた。恋にばかり嘆いていた人種では、やはり無いということ。
〇 俊成歌。 「世の中よ」「山の奥」の音柔らかな「ヤ行」効果に目も耳もとまる。同じことが「思ひ入る」「鳴くなる」の対似効果に謂えるがまこと効果ありとは感じず、むしろ不調和な「入る・なる」で俊成和歌の底へ硬い感じに当たっている気が、私は、する。ただ「世の中」とはしょせん恋も愛も男女また肉親でなっているぞ、たとえ里でアレ山奥でアレと。、千載集の選者が見識を露わにて見せているよう。「道こそなけれ」を所詮遁れようの無い道と釈るのは却ってあさく、「山の奥」゛すら真情を呼び交わして鹿も鳴くぞと、と、私は読む。それでこそ「俊成・千載」の本領と名とが生きる。
* 此の「八代集秀逸」は藤原定家の撰かと思われ、彼の作は見られない。成立には隠岐に流れている後鳥羽院の意向をうけているとも見られるらしい。トラマ『鎌倉殿の13人』で秀逸の後鳥羽院を歌舞伎の若手が演じていて、後鳥羽院とはこうかと頷かせるが、帝王としてより歌人としての眞実に惹かれる人だ。定家撰と伝える小倉百人一首には實に奈良期の天智・持統をのぞいても、陽成、光孝、三條、崇徳、後鳥羽、順徳と六人もの天皇の作が挙げられてある。「和歌」は平安時代を「物語」以上にさながらに光被していた文學藝術であるのを思えば、皇室の存在の意義は大きい。その伝統は今日なお御歌会初めに生きのびている。
2022 12/9
* 韓国劇の『華政』を、途中から時折見始めて最近に、モンゴル系満州閥の後金即ち清にに脅かされ屈服の余儀なかった経緯を、歴史の勉強利用に見守ってきた。よほど以前に朝鮮古代史を読んでいるが、中近世史が識りたいと思ってきつつ、適当な本が見つかっていない。世界史の文庫本で朝鮮史は一通りは識っているがもうすこし本格に識りたい。 2023 1/19
* 京都のことで新ためてビックリは『参考源平盛衰記』で出会った「将軍塚鳴動」のこと。将軍塚へは数え切れないほど東山を登っていて、「塚」の上まで挙がったりしていた。一人のことも友だちとのことも、時には中学の教室から、先生も一緒にみんなでワイワイと登って清水寺の方まで散策したり。で「将軍塚鳴動」なんてことは、祭神田村麻呂へささげ゛た「お世辞」ぐらいに感じていた何も調べなかった。相前後してのものすごい大地震が日本列島を奔走したように読み途中の参考『盛衰記』に教わった。識らないで来た「れきし」はまだまだ山ほど在るのだ。
2023 1/25
* 三十年前の「統一教会」への懸念や批判は、平静にかつ気を入れて「歴史を読む」でいれば自然と掴めるころ。そのような批評や懸念を私はいくつかの他の史実や事象にでも十年、二十年、三十年以前に表明してきた例は在る。「サイバーテロ」「サイバーポリス」もその一例。その撒頃にはまだ「スマホ」とか謂った機械も出来てなかったが、必ずやいずれは誰よりも青少年の「内崩壊」をきたすにちがいなく、十分、二十分にすら警戒と予防措置が大事と発言していた。ペンクラブの理事会でも発言していたか、私の「曰く」を理解する理事が太刀がほぼゼロであった。「歴史の先が読めないのだ」と、呆れてモノがいえなかった。
2023 1/25
* 若い天皇さんの誕生日。お元気でと祝う。
手もとへ、「反天皇」「反天皇制運動」「天皇誕生日奉祝反対」などのチラシが届いている。が、私は「天皇主権支配制」ならば断乎反対し抵抗するが、日本の「天皇制は独特な文化」の域をほぼ出たことが無かった、「天皇制」は「日本文化」であり「日本の政治制度」ではないと、ほぼ確信し認知し賛同している。
今日の天皇家に「血縁」として繋がるであろう祖先の先登は「継体天皇」と私は観ており、以降の天皇で「政権支配」意志を鮮明に「国民を抑圧」した天皇は、実は十指に充つとも見えていない。近江・奈良・平安・鎌倉・南北・室町、織豊・江戸時代を通じて、皇族間の跡目争いや貴族や武家統領との軋轢はともあれ、露骨に国民支配のために権力や武力を用いて専制支配した例はきわめて希薄ないし無く、むしろ籐橘・源平・北条・/足利・職豊、徳川の政権支配を「柔らかにさまたげる」役に起たれることが多かったか、ないし「文化と教養の装飾的権威すなわち文化的存在」であるのが常であった。この「天皇制」がもし日本国に無かったら、政権や俗權、支配欲の故に国民は「悪しき軛と服従」に喘ぎ続けたろう、ゼッタイに間違いない。藤原、平家、源氏、北条、足利、織田、豊臣、徳川、また明治の元勲ども、昭和の軍人ども、を想えば、露骨なまで「天皇制無き日本」は国民に無残な被支配と駆使とに喘ぎ続けたろう。
天皇家は元来が「祭祀の家」であった、歴史的に。祭祀もいろいろとはいえ、概してそれは武權よりは遙かに穏便に行われ、日々に国民を抑圧したりはしなかった。
「文化」としての「天皇・ないし天皇制」は日本国と日本人に、激痛よりは、おおむね慰撫と平和を恵んできた、それを「想う」べきである。後白河は平家と、後鳥羽・後醍醐は北条や足利と肘を突き合ったが、露骨な国民支配や搾取は念頭に無かった。むしろ天皇家は「勅撰」の名で和歌や文藝を支援し、祭儀を保ち、朝鮮や支那との接点として日本の存在意義を保ち続けていた。まさしく「文化適象徴」の天皇制であり、武權支配者では無かった、少なくも明治天皇、昭和天皇の外は。
誕生日を迎えた今の若い天皇さんを、わたしは親しいきもちで愛している。そう言うのを憚りも懼れもしない。深い考えもなく、ただスローガンのように「反天皇運動」などと云うている人の「落ち着いた」歴史認識や眞意をむしろ問いたい。
2023 2/23
○ 秦 兄
差別語に関しては、書き物をしている上で、「呆け・痴呆症」から「老人・徘徊」も差別語では、という出版社の校正係から指摘され、窮屈になったなと感じたのが発端で、兄のいう被差別(同和、これからしてややこしい)という差別問題に当面します。
少年のむかし「三条うら」近辺に住まっていたので 幼少來 学校の先生や両親から、今でいう同和教育を受けていた関係で 私は「三条うら」(=大将軍神社の氏子)の悪ガキ達とは自然体で付き合っていたように思います。
そんなガキの頃の思い出話を一つ。
悪ガキの一人と大ゲンカをした時に、悪ガキが兄を連れてきてボコボコにされたので、この卑怯者と悪ガキを又ボコボコにしたのですが、翌日に悪ガキから仲直りの印にと言って大きな牛肉の塊を貰ったことがありました。
当時は公然と行なわれていた彼我の差別でしたが、大人も子供も食べ物に全神経が集中していた時代で、結婚適齢期でもなければ、子供同士が親しくしていても親たちは普段は気にも留めず何も言わなかったのは、生きることに精一杯の「戦時下・敗戦後」という特殊な時代だったからかもしれません。
今は「衣食足りた平和呆け」が総コメンテーターになって言いたい放題の無責任時代だけに差別発言も活発化しているかと思われますが、それも他人事で、わが身、わが家庭に関わる場合は、きれいごとを言っていられるか、自問自答しても現実に直面しなければ結論は出せないと思います。
孫でも居れば、父方の曽祖父は農林省の役人で大正七年に流行ったスペイン風邪で曽祖父と祖父は他界 からはじまり、生母方の大伯父たちは近衛兵の軍人たちで云々と、我が家や親族のルーツなど書き残す作業もしたかもしれませんが、息子と娘の代で我が家系は途絶えるとなると、そんな書き残しも詮ないことと する気も起りません。
しかし、差別問題に無関心ではないので 折に触れて語り合いましょう。
今日 から、文化庁が京都で業務をはじめます。地方政党の「京都党」の党首村山祥栄は上皇夫妻を京都御所へお帰り頂こうと言っていましたが、高齢になってからの移住は余程のことがない限り無理でしょう。皇室問題についても私見あり。
パソコンの件は私も機械音痴というより最近は面倒臭くなり 煩わしいことは避けているのですが、何かと便利な機器なので 少しずつ取り組んでいます。
明日は 娘と近くのドコモショップへ最新式の携帯電話を買いに行く予定です。 辰
* 要点を得て率直な感想がもらえ、教わることもあった。私の最晩年の大きな課題と化して現れるのが 京都の「差別被差別」を日本史の真相から汲み上げ、批評的に物語ることに成ろうかと、初動の姿勢にもう入っている気でいる。東山区新門前通りという、南側には(甲部…乙部 という苛酷な差別問題を内包している=)「祇園」という大きな遊郭を細い「抜けろーじ」只の二本で隔て、北寄りには、古門前通りが東西に厳しく隔ててその以北、三條大通りに到るまでの「寺裏・三條裏」といわれる相当に廣い往昔來の被差別地区が在る、浄土宗總本山知恩院の二筋の「(新・古)門前通り」が、實に大きな「遊郭」と「寺裏」とを南と北へ恰も拒むように「道」と謂える通路すら無しにガンと隔てていたのだ。
2023 3/28
* 今日は『昭和の日』とか。昭和生まれ(十年)の私らがちいさい頃、盛りの秋、十一月三日には「明治節」と謂うて、遠く遙かになっていた「明治」と「明治天皇」とをボーゼンと想ったものだ、それが此の晩春、「昭和」と「昭和天皇」とへ変わっている。
感、やはり無量。
2023 4/29
* 明治維新初政に強烈に素早かったのは、なにより「廃藩置県」で大小名の所領支配をを一気に廃止して知事を任命し、ついでは「議会制を建設」しつつ、すばやい廃刀令等についで国民適齢男子への「徴兵制」徹底による「帝国陸海軍の確立」であったろう。
明治政府は海外列強への警戒を肝に銘じつつ、朝鮮半島、支那への視野の確保をつよく意識していた。侵略される警戒を反抗的に、侵略への意図や意志で表現して行った。
* 昨今の民主主義日本は、平安か。太平洋をひろびろと見開きにしょゆうしたかの日本列島の極東での地図地形を見入れて、暗に領土欲をもたない國は、幕末の西欧列強のあからさまなにじり寄りに既に露骨だったが、いまはロシア、北朝鮮、中国、そしてアメリカでさえ垂涎の目当てにしているはず。
その日本領土へ外国の軍が足を入れてきたとして、日本政府に対応の実力は、無いとしか言えない。自衛隊にどれほどの人的勢力が在るのか、いま、政府も国民もあえてそれには目を瞑っている。いまの本にはロシアに徹底退校しているウクライナの「意志」も「抗戦力」も無いに近い。分かって居て、口を噤んでいるのは、いろいろ、さまざまに難しいからだが、放置しておける難題では無いだろう。官僚のつくったメモ答弁を俯いて読むしか能も責任感もうすい岸田現総理と自民政権の「國と国民支配」に、誰よりも潜在兵役・徴兵年齢に在る「潜在戦力と目されていよう青年ら」の覚悟、聴いてみたい。
2023 6/16
* 「秦」という家は、山背國に「京都」創設の平安時代開幕に建設的に篤く関わり、その京都を象徴した賀茂神社、松尾神社、稲荷神社をも氏神とも擦るほどに濃い関わりを持っていた。ソレよりも更に遠く夙くから「太秦」の広隆寺や蛇塚古墳や嵯峨の大堰建設等にも秦氏は中心的に関わっていた。
確かに、私が井上靖を団長の日本作家代表の一員として中国に招かれたおり、人民大会堂での当時副主席と会見で、「秦恒平(チン・ハンピン)先生は、お里帰りですね」と諧謔されたように、「秦」氏の「中國」での経歴は、紀元前を遙か遡って遠く久しい、しかし「日本」での「秦」氏も、藤原氏、源氏、平氏よりさらに舊く、時代を追って身分は低迷し平民へと溶け込んだ。一時期、「騎馬」専業のようにな武士に「秦」氏が多く繪に描かれていたりする。聞き知る限り、「根」を秦氏におるして様々の別の苗字を名乗った「秦氏」は日本中に夥しく、その数も「源平藤橘」氏らのそれを凌駕していると。「日本」は「秦氏」のおうこくであったと徳歴史家の著書も実在している。
* とか、ああ、なんて「ヒマ」そうな私であるか。
2023 8/3
* このところ見続けている韓国ドラマ『緑豆の花』で、日本と日本軍の強硬な支配欲にうちひしがれて行く朝鮮国家と人民の惨憺に目を掩うて居る。
「明治」という「維新」を「威信」と「支配欲」に敢えて変質させ、日本はひたすら先ずは主に「朝鮮の国土と人」とを貪り喰った。
朝鮮の古代史は読めていながら、その近世、近代に濃い関心をもちつつ、然るべき「通史」をすら手に入れていないのが、残念至極。「日本」と「日本人」との、「近代」における頌うべくもない「強欲と支配欲との歴史」を私はさらにさらに整理された認識や解説によっても教わりたいのだが。
「朝鮮半島との関わり」に於ける日本史は久しい、が、それにも幾山川があった。日本人はよく学び返して觀べきである。
近代日本と日本人とは、誇るにたる品位と知性とを、少なくも朝鮮、支那、東南アジア、南海諸島にたいしては、「保つ」より「かなぐり棄てて」いた。私は久しくそう感じていて、誤った感想とは思われない。
2023 8/4
* 午後一の韓国ドラマ、終盤へ向かう『緑豆の花』を心して観てきた。是まで幾つも観てきた韓国の歴史ドラマでは飛び抜けて近代の嵐をよくか描き上げてきた。日本内侍日本具との葛藤や苦闘が加わっていて、それは日本人で在るこんな知の私の膚へも手厳しく突き刺さってくる問題が回を追い露呈する。「朝鮮と朝鮮人」の苦渋と苦闘と悲哀が、「見聞の知識」から「凄惨な体験のかたちで画像化されている意義を、よく汲み取りたい。明治の西郷等が振りかざした「征韓論」の身勝手な欲求、やがては伊藤博文の客死へ大きな結び目の一つと鳴って現れ、日本の敗戦のまで失せない濁流を成したのだ、どま『緑豆の花』には日本人が今も学ぶべきだ。
2023 8/8
〇 秦さんへ
「太平洋戦争で戦局が悪化すると、当時枢密院議長だった鈴木貫太郎は、首相に推される。固辞したが、昭和天皇の大命により、やむなく第四十二代内閣総理大臣に就任、終戦工作に動く。広島、長崎に原子爆弾が落とされたとき、もはやここまでと、ポツダム宣言受諾の聖断を昭和天皇に仰いだのは貫太郎である。貫勘太郎の考えは、「天皇の名の下に起こった戦争を国民が納得するよう終わらせるには、天皇の聖断を賜るしかない」というものだった。
無謀な本土決戦を主張する軍部の強硬派を押さえ、日本を破滅から救い、戦争を終結に導いたのは貫太郎である。
八月十五日正午、天皇自身による終戦の詔勅がラジオ放送されると、勘太郎
は内閣を総辞職した。」
(「Chiba千葉チーバ」2019年10月3日初版 洋泉社
「日本を破滅から救った元関宿藩士の宰相」より)
秦さん
私は集団学童疎開(東北)を逃れて 暖かい南の温泉場にいました 土地の元気な子たちが川の隅に石を積んで水を溜め 泳いでいるのを眺めていました。
「天皇陛下の放送がある」と教えられて家に帰ったのを覚えております
こういう話を聞いてくれる人は だれもいなくなりました。お読みいただいてありがとうございます
秦さん ほんとにまだまだコロナが油断できません 諸々、くれぐれもお気をつけお大切にされてください 老人ホーム勤務も何とか頑張っております 千葉 勝田拝
* 敗戦=終戦の、あのカン照りに暑かった国民学校四年生八月夏休み中の「あの日」を、私も鮮明に記憶している。広島長崎が新式の大爆弾で壊滅したと報された日には、「これで、おしまい」と勘じた、その前に、小磯も鈴木も敗戦のための内閣総理と見えていた。「ご聖断」のラジオ放送も、隠居を母と借りていた大きな農家の前庭を、ただ両手ひろげて走り回りながら聞いた。「京都へ帰れる」と明るい希望を持った。
* もともと少年の私は、昭和十七年四月、真珠湾奇襲から半年して京都市立有済虚組学校に入学して間もない或る日、教員室の外に貼られた「世界地図」を友だちと眺めていた。地図には日本軍の戦果を示すらしい小さな日章旗があちこち刺してあった。それでも日本は「勝てへん」よ、「負けるよ」と私は口にして日本国の小さな「赤色」と比べアメリカの廣大な「緑色」を指さし見比べたその俊寛に通りかかった若い男先、生に、廊下の壁に叩きつける勢いで張り飛ばされていた。「しもた」と思いつつ「先生かて、よう地図観て見ィ」と思いながら、殴られから、ゆっくり起ち上がった。「シナ事変」は向こうが自壊し、「日露戰争」は幾つかの幸運に恵まれたとこの少学生はかなり耳や目で勉強していた。
2023 8/10
* 何かを書きついでいた気がするの゛が、アイマイに覚えない。韓国ドラマの「い・さん」で、韓国人ヒロインのビカ一「ソン・ソンヨン」だけ心寄せて観、ついで朝鮮立国の苦闘ドラマ『緑豆の花』最終回を観ていた。後者の持ち出して見せた問題は大きく深い。伊藤博文ハルビン駅頭の暗殺までやって欲しかったが。
「明治の日本」 今日の日本人にも大勉強・大批評の課題だろう、「維新」という複雑な歴史を践まねぎ済まないだけに、「昭和の日本」より難題。
2023 8/10
* 濃い敗色に掩われていったあの藻掻くような南湖の島々での日本兵惨敗の地獄苦なども、敢えて承知の務めかのようにテレビで見入った、昨日。例年の此の時期には意識し務めて往年のサンクを顧み自身その中へ混じる様にしている。忘れたいが、わすれてはならぬという自覚は失せない。国民学校一年坊主の私に既にソレしか無いと判りきっていた敗戦必至の戰争だった。先生や上級生に亡くくられようが蹴られようが、「買ったらフシギや」という、あの祖父旧蔵の白詩『新豊拙臂翁』に頷き聴き入っていた少年は、どう先生に殴りトバされ上級生に胸倉取られようが蹴倒されようが、「負けるしかない戦争」という至当の確信は脱けなかった。戰争は所詮「おかねのいくさ」鉄砲や弾や舟や飛行機の「數」で決まってくると私は感じ、それで、入学し立ての国民学校教員角牢から貼られた大きな世界地図の真っ赤い「日本列島」と宏大な真緑りのアメリカ国土を見比べ、「勝てるワケがないやん」と友だちに語った途端通りがかりの男先生に廊下の壁にたたきつけるほど顔を貼られた、ゼッタイに忘れないし、誤ったとも決して想わなかった。
「負けるに決まった戰争」を、どう、藻掻きながら相手の「上」へ出るかは、一にも二にも『悪意の算術』と私の名づけてきた「巧みな外交の技と力」なしには凌げない、どんな大昔からも、弱小国はそれでかつがつ切り抜けてきた。「歴史」が好きで学ぼうとしていた小学生私の、本能的なそれが確信だった、そしてそのまま「処女作小説」の『在る拙臂翁』へ表現されたのだった、最近「湖の本 164」に再掲し、相当な反応のあったことに首肯いている。
2023 8/14
* いけない。寒け。
* でも、心して務めて、往年敗戦への道を少年四年生の私もともに歩んだ持ちを新たにする報道や番組に顔も耳も向けた。あそこを通ってきて「今」なのだと。
2023 8/14
* 一九四五年 昭和二十年 の今日、盂蘭盆の日に「日本帝国」は米英等列国に「無条件降伏」した。私は、当時の京都府南桑田郡樫田村字杉生(すぎおふ)という細い街道一筋を八方から山々に囲まれた二十軒とない部落に母と戦時疎開し、険しい山を越えて樫田国民学校に通うくらしの、丁度夏休み最中であった。
敗戦して最も子供心を衝かれたのは、或る日、ジープで来た占領兵の命令で各戸「刀狩り」にあったこと、また夥しい數、何枚かのむしろの上へ供出されたこと。
母も、タンスの底から二ふりの大小を出した、朱鞘と黒い鞘と。農家の人が、出さずに山へ隠してきましょうと持ち去った。「みつかったら沖縄へ重労働」と云われていた。匿したとい我が家の日本刀はついに、そのまま、行方知れなかった。少年が「敗戦」の実感はアレがきつかったと、今も想う。
2023 8/15
* この八月なかば。原爆の思い出、そして開戦や敗戦・終戦「事情」にかかわるテレビ番組の幾つもを、例年のように心して見聞きした、務めかのように。『東条英機』と表題された一篇も、じいっと見つめた。あの「戰争」にかかわ見聞の何もかもを、忘れず、「向こう」へ持って行く気だ、美しく燃える「大文字」の夜景も倶に。
2023 8/20
〇 お元気ですか、 ご体調が突然上向きにということは想像しにくいのですが、それでも残暑厳しい毎日をご無事にお過ごしでありますようにと願っています。
何かの広告で、「自分を楽しんで」というコピーがありました。たしかに人生楽しんだもの勝ちです。
秦恒平は、わたくしの知る限りで 最も自分自身であることを楽しんでいるひとであり、自分が自分であるためにこれほど苦しみぬいてきたひともいないと、そんなことを思っています。それだけのことですが、メールを書いたことがなかったのでお伝えしました。
もし叶うなら、将来数ヵ月でもいいので 京都に住んでみたいなあと妄想します。お勧めの場所はどのあたりでしょう。京都の土地勘がまるでないので、まちがえそうです。友人たちはコロナ前から あまりの中国人観光客の多さと、中国資本に古い京町屋から新築豪華マンションまで大変な勢いで買い漁られている実態に嫌気がさし、京都の不動産を売り払ったそうですが……。
京都を京都として守ること益々難しくなっているのかもしれませんね。
気の晴れないこと書いてしまいましたが、もっとも京都らしい「京都」、日本らしい「日本」は秦恒平作品の中で生き続けるので心配無用です。
お元気でいらしてください。 白川
* 私は、ま、比較的に中国の古典を読んでいて十分な敬意も払っているが、中国人の根性を、容赦なく辛辣にも把握している気でいる。『十八史略』なども的を辛辣に射貫いて徹底して中国と中国人の本性や原像を剔抉しえた古典と愛読してきた。中国には孔孟や老荘の優れた哲学がありながら土足で蹴散らしても平気なド根性で万民は「歴史」を好き放題に塗りたくってきた。「理知」などお呼びで無い、徹底した「利致」「利害」そして現世謳歌の「福禄壽」本位で権勢の威嚇をほとんど無意味化してしまうほどの距離を巧みに確保し、「生・活」してきた、いざとなれば「理」は捨て「数」で抵抗した。世界へ散った華僑は「利己」に徹して中国の、支那と志那人の、ビカビカの利己主義者としてまさに「活躍」した。いまや「京都」など絶好の彼らの美味になっていよう。日本人のお行儀では、百パーセント食いつぶされて行く。汚染水を海へ流すなどむしろ古來海岸線の長い支那のお家芸だが、今は日本への「批判」という虚勢で、「利致」の妙を決めに懸かっている。
日本の政治など、逆立ちしても、ひっくり返るだけ。呵々、嗚呼。
2023 8/28
* 笠置シヅ子の「ブギウギ」は吾が昭和史敗戦の激変をことさらに陽気に刻印してくれて、大衆芸能の真価をはっきしたと評価できる。
紫式部の「光るのきみ」は、以来久しい日本男子の「紳士像」を提供したのだった、が、「日本男子史」はとうていよく応えられなかった。さすがに西鶴はよくその半面を男子ならぬ「男」として翻したが、嗣ぎ得た史家ないし紳士はいなかったよう。
2024 1/31
* 吾が屋ではもうもう以前から慨嘆しきぐしていたのが、日本国土や建築を、主として中国人等が競うように買い占めているのを、あまりに無神経・無思慮に日本国政府がただ眺めて何ら統制していない現実。「どうかしているよ」と、妻といつも憤慨していたが、やっと国会の委員会質疑で「北神圭朗」と謂う議員が政府へ詰むかい問していた、やっとやっとそういう声が出てきたか、余りに遅すぎるよと、また歎いた。
国土は、あくまで「国土」として日本国民が「所有」し「保有」すべき者と心得たいが。
2024 2/7
* 昨日だったか、今日、か。天皇誕生日。天皇制は、そく「日本の文化」の徽章のようなもの、此の帽子は、とほうもない国家の「安全弁」の役をしている。風に吹き飛ばされれば「日本」」の髪は乱れ放題に逆立ち騒ぐだろう。「天皇制」は、岸田の何の有象無象の自民党政権などの何万倍もの安全弁、お行儀のいい「日本の帽子」なのだ、若い人たちよ、よく日本史にも学んで、忘れないで欲しい。
2024 2/23
* 「光るの君へ」は紫式部を介して「道長」時代への道案内をしてる。いわゆる藤原摂関家の軋轢に辻廷内と判り難い。紫式部と道長とには曰わく謂いがたい接触があり古典文藝と摂関聖政権とのつかず離れずか、ある。摂関家の動向に通じていないと,判り難くなる。道長は摂政兼家三子の三男で,長兄に道隆、次兄に道兼がいた。この二人を超え越して行かねばならない道長は、それに成功して「「わが世とぞおもふ望月」の大権勢を確保し、その予行すら帯びて紫式部の源氏物語は「世界理古典」へと成長仕上がっていった。
これだけを承知していれば「光るの君へ」は判り良く、より面白くなる。この西紀千年のほぼ直前に位置した「藤・紫の物語」に親しむ事で私は「平安盛期」の日本史をとにもかくにも手に摑んでいったと,思っている、高校生の頃から。和歌、短歌へむしゃぶりつくほどの関心と興味と賞嘆とが 役に立った。私自身が「小説家」によりも世ほど早く先に「歌人」という自覚と作とを積んでいたのだ,高校生の頃から。
2024 2/27
* この頃、引き続いて往年の『ヴギウギ』笠置シヅ子を描いている毎朝に小刻みな連續ドラマを愉しんでいる。「役」を演じている小柄な女優をかつて見覚えないのだが、演技も歌もシッカリ見せ、また聴かせてくれる。何十年と久しぶりの『ジャングル・ブギ』も『買いものヴギ』懐かしく聴いた。少しく胸も疼いた。昭和十年(一九三五)の冬至に私は生まれ、京都幼稚園に送迎バスで通った十六年(一九四六)十二月八日に日本軍は真珠湾を奇襲、第二次世界大戦勃発、十七年(一九四七)四月七日に京都市立有済国民学校(=戦時中の「小学校」)に一年生入学し、二十年(一九五○)四月に、同年三月下旬以来の戦時疎開先(当時の「京都府南桑田郡樫田村字杉生」の農家長澤市之助家)から山越えに同村字田能の樫田「国民学校」四年生として転校入学し、同二十年(一九五○)八月十五日、学校夏休み中「日本國敗戦」のラジオ放送を同地同家の庭で聴いた。広島・長崎の相次いだ「原子爆弾」も同家で聞き知った。
敗戦後、樫田「小学校」四年生の秋十月、同地戦時疎開先で急性の腎炎「満月状容貌」になり、秦の母の機転で迷い無く京都市東山区に昵懇の「松原医院」に直接「運ばれ」て危機を脱し、以降そのま、敗戦早々二学期の内に秦が地元の市立「有済小学校」へ復帰した。
そして、まだ美空ひばりの影も無い敗戦後日本のラジオなどで少年の私はあの「笠置シヅ子」が叫び歌の『ヴギウギ』を聴きしったのだった。街には疾走するジープ、進駐軍の兵隊や、その腕にぶらさがるパーマネントの日本の女達を至る所で目にしたのだった。
* 私は、あの「敗戦直後頃の、京都も日本も」、あえて謂うならむしろ心親しい新鮮に励んだ心地で承入れ、眺めていた。今にして、私はあの頃をとても大事で懐かしくさえある体験期と思っている。あそこで、大きいとは謂わなくても明るい花の咲いている「時期・時代」を眺め感じていたと思う。やがて新制中学に入った頃の男先生達の叫ぶほどの激励は「自主性 社会性 民主性」だった、わたしはそれを獄当然に受け容れて生徒会活動も活発に、二年生の内にも「生徒会長」として、先生方より数多く講堂や運動場の「壇上」に立ってあたかも「指揮さえしていたのである。
2024 3/2
* もう『ヴギウギ』は終わるが、紫式部の『光る君へ』は先が永いはず、おおいに更に楽しめよう。紫の役も、道長の役もよく嵌って遣ってくれている。予備知識の時代・事件・人物達もかなりに心得ていて、怪訝に惑わず、楽しめている。コトに有難いのは謂うなら「舞台装置」に相應の家屋や衣裳や對話・会話、また官位や身分差から来る人間関係の様態など、身辺にも逼って分かり佳い。わたしには、源平盛衰や南北朝や、応仁の乱や大阪落城などより西暦一〇〇〇年前後が、遙かに懐かしく分かりいい。。
2024 3/25
* テレビでの『ブギウギ』は終わった。私のそれよりも関心と好みと問題意識とで觀続けているのは『光る君へ』の紫式部と藤原道長の出会いと環境と時代とで、日本史のうち、もっとも私の幼来馴染み親しんだ,親しもうと心がけた世間で在って。式部も道長も配役がいい。総じて私には「勉強」にもなってます。有難い。
2024 4/1
* 連續ドラマでの、紫式部と藤原道長を描いている『光る君へ』を愛して観つづけている。まさしく日本の十世紀末の絵図になっていて、私が年久しく日本史で最も親しみやすい十世紀待つかに十一世紀初の「歴史図絵」が゛愉しめている。大勢の男女が錯綜しつつ登場するが、幸いにして主上も藤原氏も源氏も、多く貴族男女らの名も系図もかなりに広く頭に入っているので、余慶に安心しつつ面白く観ていらる。
2024 4/14
* わたしは昭和十年の冬至に生まれ、昭和二十年八月十五日に、日本は「敗戦国」となった。わたしは国民学校(戦時の小学校)四年生夏休みに戦時疎開していた丹波の山なかで「終戦(敗戦)」を聞いた。五年生の二学期に大病して京都へ帰った。戦時中には軍歌こそあれ、歌謡曲などつくられていなかった、それが敗戦後の日本に,京都似も溢れ出汁、その頃の歌が最近にも屡々聴かれる。「歌」とは異様なまで不思議な生きものである。ミミにもクチにも,こびりついたように、七十年後の今にも残って居て、けっこう唱えももする。流行歌はさながらに時代時世を記憶のおんょうの用だ,今いまの歌など識りもしないのに、敗戦五の歌謡曲は、したたかに貴覚え唱い覚えている。
2024 4/15
* イスラエル・イランといい、ウクライナ・ロシアといい、遠い他所とはいえハラハラしている。日本列島とて、ロシアと、北朝鮮と、中国と、いつ、何が、起きるかは、知れないどころか今にも目に見えるように危ない気がかりは、ガンとして現に存在している。
はるかな歴史上にも、「日本列島」ほど近隣の国々から「美味しそうに見えるご馳走」は無かったのだ。忘れていては、ならない。危急の備えだけは、常に無くてはならない。
近隣のどの國からも日本列島は至近の「ド危ない」着弾距離に在る。まさか、などとボケてて済むまい危険のほどは、遠い国々ではとうに歴然といましも燃え盛っている。極東、海を隔てた日本列島は「安穏」などと寝ぼけている間に、どんな悪意がはぐくみ紡がれているか知れないとは「心して」いてほしい、尠くも政治家達には、そして若い人たち、には。
2024 4/16
* いま、午過ぎ 一時半。左翼の世界的先鋒を演じたロシアが、いまやプーチン大統領の「極右」勢力と変じて露骨な政治的軍事的侵略に勤しんでいる。寝ぼけていては、「國」も「国土」も奪われよう。表の欧州へは「声と言葉」で威嚇し、裏の日本へは「武と兵」とでたやすく北から荒い手を延ばして来よう。日本という國は、実は「世界中」に親密な力在る味方國を持てていない孤立國なのだと、へそくりの小遣い銭にうろめき、よろめく日本の自称だけの政治家・国会議員らは肌身に自覚でき認知できていないと見える。
「近未来の世界へ目を見開いて政治せよ」と委託したい。
* 私は自身の親近感から日本の十・十一世紀史に目を向けているが、今、最も学ばねばならぬ日本史は、「明治維新史」以降に極まると、身に痛く怕いいほど感じている。
「鉄砲と刀と」であれば 日本列島に攻め込まれても日本人は勝てる素質をもっているが、大きな飛道具と核での闘いにはひとたまりも在るまい。「世界地図」から「日本 japan」の文字が失せかねない近未来と子孫とに思い致して、聰明に、いまぞ「世界」と外交し親交して真摯な平和を保ってほしい。
2024 4/19
* テレビでは『剣客商売』をことに喜んで観ている。わたしは昔から「田沼意次という老中」が妙に贔屓なのだ。
江戸時代も 白石以前はうっとうしいが、白石以降の江戸時代には、いつ心寄せている。ガムシャラに気に入っている事や人や時代へ浸かってしまうことで、心身のとかく不調を払いのけたいけど。
2024 4/26
* 中国が、殺害兵器として「ボツリヌス菌」を養殖しているか、と。この大国は、こういうコトを平然とやりかねなくて、眞に一流文明・文化国として世界に敬愛されない。世界史を通じて、つねに「危ない」大国に他ならないまま数千年を自儘に自儘にと意図して他を廃そうと、功略の邪意を秘密に巧妙に腹に巻き続けてきた、しかも成功には常に不覚の拙を露呈して已むのだった。 私は、そう観てきた。
いやいや中国に限らない世界史が、嗤うべく次々に実在した。
2024 4/28
* 三時半。機械不調、いやいや私の運転が拙いか。烏衣にほしい画面が安定しない。
ま、それはそれ。『日本の歴史 4』の「十世紀末」を丹念に勉強した。次いで十一世紀初、紫式部や清少納言や藤原道長の時代、いま大河ドラマ『光るの君へ』に関わって、一つの好機に平安朝文藝・文華の最高潮をとくと游いでみたいのだ。日本史に幾つも在られるお山の最も美しい雅びな山と謂える。ちょうど今しも全四八冊長『参考源平盛衰記』を読んでいるが、それとはまったく対照のかがやきをもっていたの゛十一世紀初の文華、そして施政、と謂える。
2024 4/28
* 大河ドラマとやら、道長や紫式部の頃(一条天皇の頃)の宮廷社会を『光る君へ』が、テレビで描き続けている。ちょうどこの十一世紀玄初頃の歴史は、幼少の昔から多大の興味と関心で読み耽ってきたので、公家貴族宮女たちの入り組んだ系図的関わりも氏名もほぼアタマに入っていて、それでこそ「歴史」もろともに鑑賞できて、頗る有難くも面白い。
現代人の予期をうわまわって、この頃の「女たち」の存在意義も価値も活躍ぶりも、識って観ると観ないでは「歴史の読みや味わい」が天地ほど動く。一例、藤原兼家の女(むすめ)で、一条天皇皇后、以降三帝の母で、藤原道長ら歴代摂関藤原兄弟の姉妹に当たる「安子」の実在感の大いさなど、知ると知らぬとで「歴史を見守る視野」は大きく質的に変わる。
どんな本にも、だから、関連「系図」は繰り返し掲載され、これを諳記している・いないの落差は歴史の読みに大きく深いのである。「系図」はしかと見覚えるのが、実に有効、私は幼少來そう確信し勤めて記憶してきた。
2024 5/6
* 「酒は呑め呑め 呑むならば 日の本一のこの槍を 呑みとるほどに 呑むならば それぞまことの ***」の「***」を忘れている、「黒田武士」かナ。
岩見重太郎とか塙團右衛門とか猿飛佐助と謂った「乱世の豪傑達」の「誰」に扮してチャンバラを「遊ぶ」かと競った子供の昔を覚えている。
* 真珠湾から大東亜戦争が始まった昔、昭和十六年師走、わたしは「幼稚園ボ」。明けて十七年四月国民学校に進んだ春の運動場には櫻が咲いていた。
昭和二十年(一九四五)三月半ばに秦の祖父と母と三人で、丹波の山奥、樫田村杉生に戦時疎開し、四年生八月にはヒロシマ、ナガサキの「原爆」を新聞で見知り、盂蘭盆の八月十五日には、「無条件」で日本國は米英等連合軍に降伏した。負けた。樫田小学校の「夏休み中」だった。
天皇さんの降伏を国民に告げる声を、私は、親の借りていた丹波の農家の前庭で、大人達とラジオで聞き、どう浮かれたか「飛行機」に成って両手をひろげ駆け回り、「京都の家に帰れる」と喜んだ。
いま、西暦で二○二四年 あれから、七十九年。
2024 5/10
* 昨晩の『光る君へ』はことに関心と興味によく応えて呉れ呉れた。平安朝歴代の天皇・上皇で、矢を射かけられたのは花山院と小どの頃から知っていた.その場面が昨晩のお終いに現れた。道長はコレを利し咎めて政敵を逐うだろう。
秦の家の内で見つけた、「日本歴史」という「通信教育」用の質素に部厚い造本の教科書が、国民学校の三年生頃から私の最愛の本で、読みに読み、更に繰り替えし読み諳記するほどに愛読した。「歴史」に親しみ「念頭」にいつでも働いて呉れる知識、これが私を育てた。幸いに更に早くに「神代」と「神話」が諳記暗誦されていた。谷代えがたい私の財産であった。紫式部はともかくとして、藤原道長には最も早くに多大の関心と親愛感すら抱いていた。
「この世をば我が世とぞおもふ 望月の ×地付きのかけたることの無しとおもへば」などというアホラシイ歌とともに常に平然と語られる「摂政関白」を私は面白いと感じていた。紫式部との縁は、モッと後々になるまで識るわけもなかったが。
* 何しろ日本の歴史が覚えやすくもあり、識れば知るほどトクが大きかった。
2024 5/13
* ネタニヤフのイスラエルを、プーチンのロシアなみに厭悪ないし憎悪しかけている。
日本は、致し方なし、全力を用いてプーチン・ロシアの北からの脅威には絶対にそなえねばならぬ。田沼意次の時代の小説『最上徳内』を書いたとき私は『北の時代』とも題し、ロシアの「北からの侵寇」を憂慮していた、懸念は決して無くなっていない。北朝鮮の介入をも、当然に加え懸念し活シカと用意あるべし。ロシアは、大昔から日本列島に涎れたらたらで来たのを失念していてはならぬ。
2024 5/14
* 夜前遅くまで、今朝も早くから、床でんを読んでいた。殊に、十世紀最末頃、僧形の花山院が女に通って矢を射かけれる草堂など失笑もののていたらくに至る前後を、当時隠しの系図をしかと参照しつつ、なかば惘れ気味に、読み進んだり。人聲が聞こえてくる気さえする。平安京や東山北山の稜線がそらに浮かぶの眺めるだけで、京都へ帰っているように、心やすまる。
* 今朝は、『参考源平盛衰記』で、都へ、平家を逐いなだれ込んだ木曾の「山男」義仲の。宮廷儀礼を識らない珍妙を嘲笑し尽くしていた、可哀想に。わたしは昔から義仲には贔屓し居る。彼が起って平家に勝って、頼朝の先は開けたと謂えよう。同じ源氏で勝跡著し前途を広げた義仲・義経に酷であつた頼朝が昔から、私、好きでなかった。「守護地頭」を制度化して、狭苦しい日本の国土を、政権と武力とで抱え込んだ巧みに過ぎたやり口も憎らしかった。
2024 5/19
* いま惹き込まれているヒギンズ作のサスペンス『鷲は舞い降りた』は、ドイツの落下傘部隊による英国首相チャーチルの「誘拐」作戦を書いている。なによりもその「チャーチル」なる存在感の超級のおおきさに遠いはるかな日本人の私が感嘆してしまう。最近観た映画『ウインストン・チャーチル』の魅力にも真っ当に脱帽した。が、あの戦時中に国民学校のかきゅうせいであった私たち少年仲間では、米大統領「ルーズベルト」と英首相「チャーチル」とを悪口雑言で笑いものに敵視するのが「慣習」であったから、なんとも、ややこしい気分だが、むろん日本の少年には何も判ってなどいなかった。ヒットラーも判ってなかった。
安易には モノ、コト は判らない。
2024 7/15
* いま、零時五五分の二階。寝起きて来たのでは、ない。いまから、床に就く。盂蘭盆に相違ない、が、昭和二十年、あの 敗戦の日である。あの日、戦時疎開先、丹波樫田村杉生(すぎおふ)で、国民学校四年生の夏休み中であった。ラジオに天皇さんの声がしていた、「日本は米英に負けて、戰争は終わる。」わたしは「嬉しくも」心弾んで、隠居を借りていた大きな農家の前庭を両腕で「飛行機」になり,ぐるぐる駆けてまわった。「京都の家」に帰れる。それが嬉しかった。同じ八月のちょっと前にわたしは新聞とラジオでヒロシマ、ナガサキへ投下の「原子爆弾」なるニュースを聞き知っていた。子供心に「戰争は負けて終わる」と察していた。戰争を始めた翌る昭和十七年に京都で国民学校一年生になり、或る日職員室前廊下の世界地図の前で、赤い日本列島と真緑の広い大きなアメリカを見比べながら、そばの友だちに、日本は「負ける」と云うたとたん通りかかった若い男先生に廊下の壁へはり倒されていた。単ににただ、世界地図の上の「国土の大きい広いと、小さい狭い」とを見比べて云うたのだったが。
お盆には京都の家へ、きまって菩提寺常林寺のボンさんが自転車に乗ってお経を上げに、來はる……。わたしは仏壇の「お経」に、「願自在菩薩」の般若心経に好奇心を持っていた。自分でも声に出し覚えたかった。家の大人は、祖父も両親も叔母も、ただ黙っていた。
2024 8/15
* 太平洋戦争 開戦 大空襲被害 敗戦 敗戦後責任等処理 労使問題 戦後政治経済 経済発展 等々の流れを、近年の自民党政権うおうさうまで,概略テレビで復習していた。
* 戰争に負けてよかつたとは思はねど
勝たなくてよかつたと思ふ侘びしさ
たしか こんな風に 私は歌っていた。今も、心変り無い。
2024 8/15
* 「空気が燃える」と熱夏を実感した最初は 敗戦まえの夏休み。私は国民学校四年生、丹波の山奥の戦時縁故疎開先から、山また一つ越え、隣部落の学校へ夏期登校していた頃。
もう一度は熱暑厳寒で聞こえた生まれ故郷の京都市内、敗戦後の六三新制中学の生、夏休みには武徳會に入れて貰い水泳に通ったが、その往来の道は、三条京阪駅から北向きに鴨川と疏水との東に副い、アスフォルト道の燃え立つなかを、二条まで通った。喘ぐ口が炎を吐きそうな酷暑だった。クーラーなんてものはまだまだ世に無い時代、扇風機の風が、まるで「湯」のようだった。久しくあんな体験はしていない。
* あの「敗戦」という現実を迎え、体験した「日本のあの日・あの時」を編集し評論した適切な座談と邂逅番組を、頷き頷き、半ばは懐かしいとまで想い出に彩られ、観た。
○ 戰争に負けて善かつたとは想はねど 勝たなくて良かつたと思ふ侘びしさ
○ 沢山な たくさんな ことを ひしひしと 思ひ返して 「歴史」は重し
* あの敗戦後の少年私に一等身に痛いまで重かった現実の大きな一つが、「戦争犯罪人 戦犯裁判」であった。新聞に、噛みつくほどに見入って、沢山な 著名な 被告の名を憶えた、が、幸いと、多くは忘れている。憶えていたく無かった。
2024 8/20
* 「京都」の濃い闇を、テレビがしきりと語ろうとしていた、祇園会とうち重ねて。
「京都」は平安を願う死者達の、うち捨てられた巷、山林。東山も西山も北山も、そのままの「あの世」。無数の墓地・墓所が犇めく。墓地でも墓所でもなく見える山林に、涸れよと願われ、そのまま死者達はただ「置かれ」て「骨」と涸れ・枯れてきた。私は高校生の頃、教室の授業を抜け出してまで、鳥部野の林を、うち捨ての人や獣の骨を踏むようにかきわけ歩いて来たりした。「平安京」の平安とはそういう弔いと倶に「歴史」成して在った。
2024 8/29
* 午後から晩まで,三度も『光る君へ』を見直していた。
また 映画『ベン・ハー』も、さらに奥ヘまで観入っていた。
さらにまた夕方には、先の太平洋戰争へ「日本」が踏み込んでしまうまでの、内閣、陸海軍令部また宮内省、枢密院等々の右往左往、朝・中・東南アジアの、また米国等の情況を反芻するように回顧の映像で見聞きしていた。これは、私の半ば「きまり」めいて感覚を於いては見直し思い返す義務のような慣い。
2024 9/29