* 湖の本の作業を、どうしてもしなければならない。このホームページにも既刊の全部を紹介する作業は省けないではないか。
そんなとき、自分が、否応なく「役」を分担し、演じ分けていることに気づかされる。当然だ。作者でもあるが、編集者でも宣伝担当でもある。宣伝が必要なら大いに宣伝マンらしく作業しなければならない、が、宣伝してもらう作者としては照れくさい。おなじ自分がやっているなどと思うとやってられないから、つれなく「役」に徹している。「ようやるよ」ぐらいは思われても、仕方がないと断念断念。
* なぜ、作者が、こんな希有な仕事に手を出すのだろう、と、思われるなら、一般に「文学」「純文学」といわれる作品、通俗読み物でない文学作品が、出版のあと、いくほどもなく影も形も消え失せ、二度とお目にかかれない「現実」に思い当たっていただきたい。
「読みたいのに、書店に本がない。版元にももうない。お手持ちの本を分けて貰えませんか」と、何度頼まれてきただろう、見知らぬ読者から。
純文学の初刷は少ない。増刷は無いほうが普通である。読者にも作品にも気の毒、書いた作者も気の毒。だが版元に増刷を要求することのほぼ無理な事情が、永く出版社勤めしてきた私には、分かる。察しが付く。
ならば、作者が、作品と読者とに「責任」を取ろう、と思い立った。幸い、元編集者・制作者の私には、本造りの技術が、手にある。貧乏だけは身に付いた洋服のようなものだが、幸い根気も、やる気もある。
「読みたいときに読みたい本が、無い」ということが、少しでも無くなるように。それは、その本がいつも在って、どこかに備えられていることで、当面解決される。備えられるのはもはや「作者の手元」以外にないと分かったとき、無惨な出血になりかねないのは承知で、踏み切った。そういうことの現に出来る作家は、文壇には「私」しかいないと分かっていた。
なにも「作家」の従来イメージに心中立てする必要はない。利潤など金輪際あがらないけれど、作品と読者とには喜んでもらえる。バカな金遣いの遊びを、もともとして来なかった。赤字分は「遊んだお金」と思えばいいではないか。日々の文筆は、これまで通りにしていれば、幸い、夫婦二人は生活して行ける。金を溜めたり残したりする必要もない。
* そうやって、やがて十二年。
わたしもコケの一念で頑張ったものだが、読者もよろこんで支えて下さった。読者だけではない。編集者も出版者ですらも、さらには同業の大勢の方も、かげになり日向になり、声援して下さった。送料の足しにせよと、お金を下さる人も何人もあった。いやもう送料負担には参っていた。
だが出し続け、送り続けた喜びには、言葉にかえがたい、赤字にかえがたい深いものがあります。
湖の本は、闘いなんです。
1998 4・15 2
* 小説のなかで、「事実」にはあまり執着しない。自然でさえあるなら、弁慶に小野小町への懸想文を描かせてもいいと思っている。ルーベンスの筆力はすばらしく、彼が描けば、エンジェルの腹から腕が生えていても不自然には見えまいと謂われた。小説は、絵画のようには行かないかも知れないが、可能ならばそういうこともわたしは敢えてする。作品の力学を「作品外の事実レベル」からは批評しない。
1998 4/30 2
* ホームページで現在連載中の「掌説」は、平成七八年に、週一編と義務づけて書き次いでいた未発表作を公表しているもので、四半世紀以前に試みていた頃とくらべ、陰鬱でやりきれなくなり、二十篇でうち切ったもの。だいたい掌説は、何を書こうというアテを一切持たず、その日その日、さ…と自分を促してむりやりに即座の「泥」を吐かせるのであり、その一編が出来上がるまで自分を解放しない。苦しくて、苦し紛れに想像もしなかった「泥」を吐く。四十字×三八行という「約束」もけっして自分で自分に破らせないから、一種のサーカスになる。文章も世界もできるだけ彫りを確かにと願うと、簡単なことではない。「説明」しはじめたら、紙数はすぐ尽きてしまう。
インターネットの掲示板に「掌編」と称してたくさん投稿されているのを読んでみると、長さへの潔癖感が無く、説明だらけでダラケてしまっている。泥を吐いていなくて、デッチ上げに造っている。
それにしても、今度の我が二十篇、われながら、やりきれないものがある。また、新しく試みればべつの「泥」が出てくるだろうか。 1998 5・7 2
* 『死なれて・死なせて』を復刻した。桜桃忌から始めた発送を、今日終えた。創刊満十二年、干支一巡である。創作とエッセイとで、通巻五十五。よくまぁ、ここまで来たと思う。それだけの仕事をしてきた。原稿をたくさん書いて、稼いできたから出来る。さもなければ赤字の血の池に沈んで溺死していた。仕事をさせてくれた世の中に感謝をしよう。
* 優雅な仕事ですねと時々言われるが、血みどろである。
医学書院の最後の頃、昭和四十九年頃、一九七四年ごろ、私の管理職年収は六百五十万ぐらいであった。
数年前、国立東京工業大学の教授に呼ばれていたときの給与年収が、なにもかも合算してかつかつ千万に届きそうで届いてなかった。これは永年の一作家がにわかに就任したのだから、いわゆるベースになる「前職」がなかった。「作家」であったことなど「前職」とは認められなかった。
なにやかやで合算すると、じつは私ほど地味な作家でも「教授」と同程度にずっと稼いでいた。だが、原稿料で年に千万稼ぐということは、私ほど地味な作家では、不可能ではなかったが、血みどろの働きであった。なぜなら、おおかた原稿用紙の升目を一字一字うずめてゆく原稿料で稼ぐのである、ベストセラーの印税で稼いでいるわけではないのだから。
本の印税など、私ほど地味な作家では、たいしたものではない。二千円の本を五千部作ってもらい、一割じつは九分の印税をもらうと、九十万円。この頃ではなかなか純文学やエッセイで五千部は作ってくれない。一冊の本が出て、せいぜい六、七十万円の印税を受け取っているわけだが、しかも、いまどき年に一冊の本も出ないことがある。現に私は去年は三冊出したが、今年はまだ出ていない。何年も一冊の本も出せない作家が山ほど世間にはいるのである。優雅どころか。
そんな中で、私の原稿料は一枚が平均して五千円ぐらい。税金のことを考慮せず単純に計算すると、一千枚書かないと五百万円に達しない。昔は月に百五十枚平均書いて、一千八百枚の中から四冊平均が本になった。私の著書は「湖の本」を除いても、過去にほぼ百種類ほど一般の出版社から出ている。豪華本・限定本も何点も出た。原稿料はまだ安かったが、かなりの稼ぎで生活はできた。蓄えすら出来た。
今は体力が落ちている。出版事情は極端に悪い。本にならない分、原稿を多く書かねばならないが、稼ぎということだと注文原稿でなければ意味がない。注文が年収一千万円分あるというのは、たいへんな話なのだ、書くのもたいへんだ、優雅どころか。
しかも私は、老人三人を見送り、家族を養いつつ、この十二年、自力で湖の本を出し続ける資金も、原稿料だけで稼がねばならなかった。いまはそこまでは無理で、すべて過去に心して蓄えておいたものを宛てて出来ている。そして多年の読者に支えられている。
* 文学作家はラクではない。ラクだった時代は、無かった過去にも。誇りはあった。栄達も願わない。勲章もいらない。自分の言葉で「世界」を創り「思想」を鍛えて行きたい。やがてはのたれ死にするであろう、覚悟は出来ている。
1998 6/22 2