* 山陰の図書館に勤務されている読者から、滋賀県秦荘町の資料を頂戴した。メールで、そちらの方へ出張されたと知り、かねて興味も関心もある町のことなので、お願いしたのである。お手紙が添っていて、なかに嬉しいことが書かれていた。これは書き留めておきたい。こういう声が聞こえてくるような時機になっているのだと改めて思う。
* メールに書きもらしましたが『出版ニュース』にお書きになった原稿、秦さんのおっしゃる通りで、「湖の本」はオンデマンド出版のさきがけであったと私も思っています。おそらく今後はパッケージ系からデジタルへと出版の形態も変わってゆくことでしょうが、本という形態や紙のメディアは決してなくなるはずがない、と信じています。そういう意味でも、私はオンデマンド出版の理論的原点である「湖の本」を、心から愛し、敬服しております。そして「本」という形態での出版を継続されながら、一方でホームページで作品を公開していらっしゃる姿にも。これこそ現代作家、時代と斬り結ぶ作家の姿
ではないでしょうか。私も「本のみと心中するつもり」はありません。(以下、略)
* もっともっと他にだいじなことが書かれてある。図書館の電子化は当分のあいだ目も耳も放せない重要課題になるが、それが従来図書館の機能や長所を圧殺する形で進むのか、活かしながら協和して行くのかは、よく注意していなければならない。たしかにコンピュータで探していた本がみごとに早く探せるという利便と同時に、しかし書架に並んでいた探していた本の「その隣りの本」のもつメリットは失せてしまいがちになる。この、ノンフィクション作家佐野真一氏の指摘は、Nさんの手紙にあるように、鋭い示唆である。探していた本を見付けた「その隣の本」にこそ助けられたという体験は、私にも有る。現実の書架の強みである。これからこそ、もっと柔軟に、古くして良きものと新しい利便との折り合いを許容する人間社会である必要がある。
* そうはいえ、湖の本を構想した頃には、まだデジタルのことなど、ほとんどかけらも予測していなかったが、じりじりと歩をすすめ巻をかさねているうちに、ワープロ時代を乗り越えるようにパソコン時代のまん中へ、わたし自身が歩みだしていた。まだまだ鳥取のNさんの仰ることを「分かる」人自体が数少ないが、時代はぐんぐん進んでいて、人ののろい実践を置き去りにして行く勢いである。もう十年すれば、今使っているこの器械そのものが、形や機能の点でいい時代物になり、「書く」意味も方法も、「本」なるものと社会との関係も、びっくりするほど変化していよう。
2000 1・12 5
* 長編『寂しくても』を、元日以来「創作欄 3 」に欠かさず書き次いでいる。一太郎の印字幅の大きなフォントで書き、ある程度の量になるとホームページに貼り付ける方法を取ろうとしている。視力への負担を少しでも和らげるために。(そうか。この方法をどのページでも使えば、このネスケ・コンポーザの小さな字、狭い行間の長い一行に、付き合わなくても済むのだ、気付かなかった。)
恋愛小説でも家庭小説でもない、甚だ地味な、純然として「芸術家小説」である。この無名の芸術家=画家の、傾斜して行く内景を、愛情と批判とをもって現代に提供するのはわたしの務めの一つと思っている。書きなさいと命じてくる衝動がある。小説らしい小説にはなるまい、が、真率でありたい。
* 甥の黒川創が、新刊書き下ろしの『硫黄島』を贈ってくれた。弟の北澤猛がヨーロッパでの旅先、スペインのディエペから絵はがきを送ってきた。
* 新しい湖の本『死から死へ』の初校を戻した。今度は、三百ページに迫るかつてない大冊になる。途方もない赤字になるが、この一冊は作っておきたいと思った。一つの節目の巻であり、値上げはしないで、読者への感謝を示したい。
2000 1・22 5
* 新しい「湖の本」通算六十二冊めを、本文責了にもちこみ、発送の用意に読者の一人一人に挨拶を書いている。年に四、五度は繰り返す季節の行事だが、しんどい。
* 長編小説も、元日以来欠かさずに書き次いでいるが、根気のしごとでありじっと食らいつくようにして、焦らず慌てず気の乗りを失わぬように押して押して行っている。
2000 2・4 5
* 終日、本の発送の用意をしていた。器械の前に座るヒマが無かった。明日もう一日で、おおかた発送準備の作業は済むが、もう少し、不特定のアテドない作業でしかも欠かせない仕事が残っている。依頼送本とか趣旨送本と呼んでいる「新しい送り先」の検討で、正直のところこの頭の痛い作業を断念したりすれば、急速にこの刊行自体が細って行く。
しかし、ものの十四年も出版し続けてくると、アテズッポーの送り先など、殆どもう無くなっている。楠正成は、赤坂城で頑張って落城し、千早城に移ってまた頑張ったけれど結局城を捨てている。湖の本はあの千早の籠城期に今あり、いつ城を捨てねばならないかの判断を、わたし自身が、待っている。
だが、いつまででも長く、一冊でも多く、値段をどんなに上げてもいいから頑張ってくれと言われる読者だけに絞っても、それはそれで、わたしに気力が有りさえすれば、あと何年でも、何十冊でも続けようとすれば続く「基盤」は出来ている。規模と限度の問題が残るだけである。
潮時は、やはり、有るだろう。新世紀に入って、この仕事がどんな意味を添えて行くか、喪ってゆくかも、じっと見ていたい。
2000 2・12 5
* シンポジウムに出る前に、珍しく久方ぶりに玄関まで、原善君が来てくれた。三月十一日三時から五時半の「秦文学研究会公開読書会」用に、テキストになる小説『清経入水』を受け取りに来てくれた。駅まで自動車に乗せてもらった。ちょっと久しぶりの研究会だが、基盤が、専修大学から東京大学に移動し、新しいメンバーが大勢参加することになったらしい。発表者も、初めて、東大院の倫理学研究者と案内状にはある。そんなわけで、また新たな気分でと『清経入水』が選ばれたようだ。わたしは研究会には出ないが、終わる頃に顔を出して少し話し、学士会館分館での二次会には参加する。すべて面目一新の会になるらしく、感謝し、楽しみにしている。
2000 2・22 5
* 研究会のこと、もう少し詳しくと希望があり、原善上武大教授の方で用意した案内を、書き写しておく。
* 秦文学研究会公開読書会のご案内
しばらく休会しておりました秦文学研究会の活動を再開することになりましたので、その第一回を公開の読書会の形で行いたいと思います。記念すべき再スタートに相応しく、秦文学の出発となった『清経入水』を取り上げたいと思います。お誘い合わせの上、多くの皆様にご参加戴けるよう、ご案内申し上げます。
記
日時 三月十一日 土 三時ー五時半
場所 東京大学(本郷) 法文1号館 215ゼミ室
発表者 先崎彰容氏 (東京大学院・倫理学)
テキスト 「秦恒平湖の本1 清経入水」 (テキストがご入用の方は
下記事務局宛て、できればFAXにて、お申し込み下さい。)
なお読書会そのものには参加されませんが、とう゛つは秦恒平氏も参加されます。
また、六時から、秦氏も含めての懇親会が、学士会館分館(赤門横)で、予定されています。こちらにもお時間の許される限りご参加戴きたいと思います。
秦文学研究会事務局 原善 Tel/Fax 03-3385-5835
*この案内文には書かれていないので、これでいいのかも知れないが、たしか二次会の方は参加費を分担されていたように思う。念のために書き添えておく。
* あさってから新しい湖の本の発送になる。いつもの倍量以上の本で、ひとしお肉体的には疲労があるだろう。美しく出来てきてくれるといいが。今日は息子達が物置代わりに隣の階下に置き去りにしていった大きなソファベッドを、妻と二人で、二人ともフウフウ息を切らしながら、やっとこさ二階へ上げた。そうしないと、本も置けないのである。あすは病院に。帰りには丸善の売り出しを覗いてきたい。
ミマンの連載原稿がもう期日へ。たてつづけの原稿依頼や会議・会合の日程がきまるなど、三月は様変わりに忙しそうである。
2000 2・23 5
* そろそろ本の搬入の刻限。いつもの倍のかさになる。玄関に入りきるだろうかと心配。天気はいいが、しんしんと胃の腑まで冷えてきた。暫くは器械の前へ来られまい。
2000 2・24 5
* 発送の仕事は終えた。
江藤淳処決から兄北澤恒彦自決までの四ヶ月間を、わたしが、日々どのように生きていたかを、ホームページから切り出してみた。原稿用紙にして六百五十枚強になる。通常巻の二倍強になった。こういうことは、この機会以外に出来ることではなかった。いろんな意味で、我が平均値・日常性の読める分量であり、自然にわたし自身の「索引」のようなものが出来上がっているだろう。赴くままに、ずいぶんあちこちへ突き当たって、ご無礼も敢えてしているが、邪意はない、他意もない。いいと感じることはいいのだし、いやなものはイヤなのだ。
* 肉体労働が続いて、ほっこりしている。今夜はもうやすみたい。小説などの日課も済ませてある。昨日から今日へ、ビデオにとった「The Longest Day」を、二度続けて聴きながら観ながら、本を荷造りし続けていた。大味な戦闘場面だけの映画のように感じていたが、三時間余をきっちり追って行くと、構図のしっかりした、なかなかのさすが記念作であると分かる。ジョン・ウェインはじめ、好きな男優がどっさり顔を見せてくれ、懐かしい。同じ記念作としてなら、「風とともに去りぬ」より、わるくない。
2000 2・28 5
* ホームページの四ヶ月分が、こんな大冊になるのかと実感し、驚くばかりです。
私は、自分のPCのハードディスクに保存し、電話を切ってからディスプレイ上でじっくりと読んでいます。が、縦書きで製本されたものも、又、いい。寝そべって読むこともできる、外出先でもしかり。電子化と印刷、きっと共存していくことでしょう。
2000 3・1 5
* 新刊の『死から死へ』に、すばやい反響がまずメールで次々に届いてきている。この題は単純には、江藤淳の死から我が兄の死までのつもりだったが、頭のどこかには、和泉式部の名歌「暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月」や、そのもとになった経典の字句が、有った。それになぞらえ、たまたま二つの自殺にはさまれた我が四ヶ月を、一人生の「生くべき」縮図のようにながめながら、何かしらの加護を求めていたのかも知れない。
2000 3・2 5
* 偶然に町なかの薬局で出逢えた読者からの、メール。「本は本屋に、という思い込みがこんなにも欲しい本を手に入れ難くしていた事にびっくりしました」とあるのが、重い。
2000 3・2 5
* 『死から死へ』への反響の早いことと強いこととに吃驚している。四ヶ月分を切り出したいわば日記であり、大冊であり、こんなものをと叱られるかと心配していたが、読み始めるとどんどん一気に読まされると、もはや読了の感想を次々に戴いている。
20003・3 5
* ペンの三好徹さん、小中陽太郎さんから、『死から死へ』の嬉しいお便りを郵便で、またメールで頂戴した。?小平の「?」だけでなく、再校で付け加えた「唐外相」を「陶外相」に書いていた。いずれも校了前のわたしのミスだった。
「闇に言い置く」という物言いに三好さんが反応されていたのも、また志賀直哉への感想などでも、通い合ったものがあったようで。率直に、しかし隔意なく書くより「ものを書く」道は無かろうと思う。ペンの理事会の重い立場の二人から感想をもらえて、ほっとしている。日本ペン関連ではことさら遠慮なく書いているだけに。
払い込み通知書が郵便局から届くと、そこにも、沢山な読者からの有り難い声が添えられてくる。一冊一冊を送るたびに、こうしていろんな人たちの「声」に励まされ鞭撻される。こういう冥加に頻々とあずかっている作家は、やはり、少ないであろうと思う。
藤村は『破戒』も『春』も自ら「緑蔭叢書」となづけて自費出版していた。出版社へ、なにかしら信頼し難き隔意を藤村は持っていたと自身で書いている。私の場合、隔意は持たないが、逆に持たれているらしい。もともと、出した本の直ぐ品切れになるのに閉口した、それが動機だった。簡単に増し刷りできるものでないのを出版社にいたわたしはよく知っていた。版元に無理なことを、作者が肩代わりしてあげたのだが、「反逆」呼ばわりまでされた。ちと心外な気持ちだ。
* 京都の角田文衛博士から電話で、『能の平家物語』をもらっていたのに、無くなった、もう一冊欲しいがと。嬉しいこと、すぐに送った。
2000 3・4 5
* 倉持さんも、『死から死へ』がただの日記でなく、なにかしら江藤さんの死から兄の死までを繋いで、或る意味で重い必然の「生」がいろいろに展開され、一つの主題を追うかのように感じ取れたのがよかったといった感想を漏らしてくれた。知己の弁に、頭をさげた。
2000 3・4 5
* ぞくぞくと『死から死へ』反響が届いている。鶴見俊輔さんから、はがき一枚だが、じつに簡潔に要点・要所をおさえた賞讃の言葉が届いていて、感激した。松永伍一さんや元日大病院長の馬場一雄先生からも佳いお手紙を留守中にもらっていた
2000 3・7 5
* 湖の本の『中世と中世人2 日本史との出会い』に追加注文が続いている。中学生のために書いた歴史の本多が、大人の人、それもインテリの人たちに愛読されている。思想家として名を成して亡くなった安田武が、「こういう教科書で小さいときに日本史を習っていたら、どんなによかったか」と推賛してくれた児童書が、「湖の本」で大人のモノとして復活しているのが面白い。今日もまた二冊送った。
2000 3・8 5
* 東大法文二号館215ゼミ教室で、『清経入水』の「読み」の一通り終る三十分前ぐらいに教室に入った。口の字型に机と椅子が並んで、びっしり。六十人近くは出席していたか。わたしは、一通り済んでから、少しだけ原作への気持ちを話した。
引き続いて学士会館二階へ移り、懇親会。東大と専修大との倫理額研究の院生や院卒業生、東京芸大学生、原善君関係の国文学研究者、そして湖の本の読者でもある高田欣一氏や阿見拓男氏、また精神女子大の名誉教授和田町子さんらが見えていた。高田さんは佐倉から、阿見さんは栃木から。ありがたい。他にもわたしの気付かなかった研究会参加者が何人もあったろう。
さらに三次会が地下鉄本郷三丁目の近くであり、まだ大勢が残っていた。酒の呑めないわたしは、ほどほどに失礼してきた。
* 自分の書いた小説が大勢の研究者や学者・学生たちによって、より思想的に、倫理思想的に深く読みとられようとしている会合に参加するのは、有り難いはむろんであるが、かなりな圧力も受ける。困惑すらある。読書会では、ある程度余儀なく一作品に集中して読まれ、それ以前、ことにそれ以後の、わたしの歩みや創作は、加齢や体験は、変化や成熟は、とりあえず問題外にされやすい。作者であるわたしが、読書の現場には参加しないで二次会から加わるのはそのためである。『清経入水』のように、わたしの文壇的処女作ともなると、発表からでも三十年余が経過していて、わたしの頭には三十余年がどっと甦る。あれはああ成り、これはこう成り、どこへどう移動し変形し成長していったかが分かっている。しかし、そういうことは、むしろ避けた方がいいのである。高田さんが指摘されていたように、作品の「言葉」「文章」「文体」に即してその表裏行間から読みとって欲しいと思える仕掛けを、こつこつと発見しながら思想を汲んでもらえるなら、それで有り難いのである。
* 国文学の人は文章を、倫理学の人は思想を、と、「読み」の姿勢がすこしちがう。その辺で、わたしの行くまでには相当な議論があったのだろう。有り難いことである。
なによりも、わたし自身がよく読み直しながら、力をもっと得なければいけない。顔ぶれの大きく新たになった中に、もう年久しい知己の懐かしい顔も幾つも幾つも見てきた。のべにして十数年になろう、こんな研究会を続けてもらっている作家は極めて少ないのであり、わたしは幸せである。
原善教授が書いてくれた事典のわたしの項目のコピーをもらったが、さすがに、的確に簡潔に要領を得ていたのも嬉しいことであった。原君は、よく、わたしを不遇だと慰めてくれるけれど、わたしはかなり恵まれていると思っている。
2000 3・11 5
* 『死から死へ』はかなりな大冊だが、一気に読んだという人が多いのに驚く。論旨に九分九厘同感したとベテランの編集者から手紙が来ていた。年配の人にやはり訴求力があったようだ。
2000 3・14 5
* 俳優加藤剛の鄭重な手紙をもらった。湖の本への謝辞であり、わ妻とわたしへの見舞いであった。東大教授の上野千鶴子さんからも。同志社の河野仁昭さんからも。そして佐高信氏からは『死から死へ』のお返しに新著『葬送記』が、加島祥造氏からは『寄友』と題した思い入れの深い詩集が贈られてきた。
「われ何ものにも属さず」という気持ちで暮らしている、それゆえにこそ良き知己や友に恵まれるのである。
2000 3・16 5
* 自伝という構えた気分でなく、幼少の頃の自分を生かしていた「環境」「心象風景」を、なるべくそのまま記述しておきたいとは、大学をもう退官する少し前からの希望だった。一つには「親たちと私」のことをよかれあしかれ納得し感謝し記念したかった。「こんな私でした」と素直に人にも語って置きたかった。妻は「なんで、そんなことが、したいのかなあ」と半ばは呆れているが、うまく言えないが「安心」して「通過」してしまいたい気分なのである。よかれあしかれ、そこを通ってきたから「作家」になった。そこを通ってきたから今の「私」になった。「作家」も一面、「私」も一面。その両面をわたし自身がほんとにきちっと見て来たろうかと、不満足というより不安を感じ始めていた。どうせ捨てて落としてしまう「わたし」にしても、落とすべき己が全体が分からないでは不安が残る、といえば説明になるのだろうか。心許ない。余計なことだとも思うが、内心の欲求は浅くなかった。果たしてしまいたかった。
伝記でもなく、小説につくろうともしていない。
小さい頃にわたしが口にしたことばを、直接話法的にはほとんど記憶していない。親やよその大人や子供たちの直接話法も、ありありとは記憶していない。小説なら、そこで「斯く在るべかりし」会話も創作するだろう、話も場面も創るだろう、容易いことだ。だが、それはすまいと思った。客観性をいくらか純主観の直流から守保すべく、わたし自身の氏名や差し障り在る場合の氏名を仮称に替えているけれど、それ自体は邪魔に感じなかった。ウソはつくまいとだけを考えて、ことさらにハナシにしよう、面白く書こうなどとしなかった。
自分を証言することで時代を証言しようといった気負いも持たないようにした、結果から何かが浮かび上がるにせよ沈み込むにせよ。作家秦恒平としては、「読める文章」で書きたい、それだけが望みだ、それが出来れば「文学」になる。
* 『死から死へ』を横書きの、ホームページのイージーな版面で読んで下さっていた人たちが、「湖の本」になった同じ文章を、べつもののように新鮮にほとんど一気に読み通して下さっている事実にこそ、わたしは励まされる。それが願いだった。ホームページは、いまのところ、コンテンツ自体の「展示」であり「所蔵」であり、それらが装いを変えて「湖の本」になるとき、わたしの「文芸・文学」を示現してくれればよい。
筋書きや面白い表現で小説に創る文学・文芸ももとより大切にして行くが、純粋に文章の力で読んでもらいたい非小説も大事にしたい。
2000 3・24 5
* 身のほどを思ひつづくる夕暮の荻の上葉に風わたるなり 新古今集 秋上
Memento mori (汝は死すべき身なることを忘るる勿れ)
貴族作家がただで自然から取ったものを、雑階級の作家は、青春という代価を
払って買っています。
この青年がどんなふうに一滴一滴自分の体から奴隷の血をしぼり出し、どんな
ふうにある朝ふっと眼ざめて、自分の血管を流れる血がもはや奴隷の血ではなく、 本当の人間の血だと感じるかを、一つ書いてごらんなさい。 チェーホフ
2000 3・25 5
* 『華厳』は、井上靖夫妻や辻邦生さんらと中国に旅したとき、大同の上・下華厳寺や雲崗石窟や深い炭坑を一日訪れた感銘から出来た。帰国後に書いたが、旅行中、ずっと着想を胸に育んでいた。戦後一般の日本人が大同に足を踏み入れたわれわれが最初の客であった。雲のような群衆に取り巻かれ見られた稀有の体験をした。華厳寺の壮麗な壁画への批評から着想が動き始めた。画家を主人公にし、時代を明のほろびて清に動いた時期に設けた。
発表後に、伊藤桂一さんに「ぼくらだと、もっとおもしろく読みやすくと話をつくってゆくところですが」と感想を述べられた。井上さんには、炭坑をつかいましたねと云われた。硬質、緊密のつくりになっていて、一字一句ゆるがせにしない態度で書いた、一つの我が代表作のつもりだ、こういう作をひっそりと読み返し涙を流して下さる知己を有り難いと思う。革命の激動と波瀾を背後に、美への執念と、執念の落ちて行く末までを眺めていた気がする。
中国に招かれての小説を幾つか見てきたが、大方は見聞に即した今日に取材のものだった。『華厳』のような本格のものはじつは少なく、その意味では井上靖の創作意欲には感心する
2000 3・31 5
* 小説の書き込みを続けている。流行作家のように人を雇って書き込みを精力的に代わってもらうわけに行かない、また、その気もない。わたしは頼朝型の政治家ではなく、戦下手ながらだいたい義経型におおかた自分でやってきた、これからも、そうだ。「湖の本」既刊だけで六十三冊になろうとしているが、一冊二冊を新たに器械に書き込むのにも大層時間が掛かることだろう。のろい亀さんである。生まれて初めて学芸会に出たときが、「好きやん」の兎さんとかけっこする亀さん役だった。象徴的ではないか。
* はるかに見知らぬ、名も知らぬ人のこんなメールが入ってきた。
* 正月は静かだった。心に触れてくるものがみな寂びしい色にみえた。今年こそはとも去年はとも思わず、年越えに降りやまぬ雪の景色を二階の窓から飽かず眺めた。・・・・
初めて読んだときと同じように、震える思いでホームページでも作品を拝見しています。
私の小さな人生の中で最も近く、最も遠いところにある作品です。
私の柩にはあの美しい「集英社文庫」の本を入れてもらおうと思っています。
* わたしの「湖」はひろくはないが、深い。これで、よい。静かなのが、何より、よい。
2000 4・3 5
* 湖の本の最初からの読者である、お目に掛かったことのない年配の男性読者から、鄭重な初めてのお手紙をいただいた。去年の『能の平家物語』そして今度の『死から死へ』に感銘をうけたので初めて便りがしたくなりましたと長文であった。忝ないことである。
耳にした話だと、わたしも妻も高く評価し、感激して繰り返し観てきたテレビ映画「阿部一族」は、数年間も局でお蔵入りしていて、有名監督への遠慮で渋々のように放映された作品だったという。視聴率もふつうは11か12パーセント取らねばならぬところが3パーセントだったという。わたしなどの感覚では、その3パーセントの観客は優れた鑑賞眼の持ち主たちであったに違いなく、それでいいではないかという話になる。この作品以上と思われるテレビドラマになど、何十年のうちに何回あり得ただろう。優れた作品は、何にせよ数値だけでははかれない。すこし負け惜しみもあるけれど、ま、本音である。どたばたの主婦もの殺人劇よりは、息子にも「阿部一族」を超えた感銘作を望みたい。小説でもいい、舞台でもいい。孫もほしいが、優れた作者になってくれる方がいい。
2000 4・6 5
* 「創作欄 10 」に連日小刻みに書き込み連載中の『慈子』という小説は、このようにして古典と近代と現代とをあやなす「恋」物語に成っていった。作家以前の書下ろし長編で、舞台は京都の泉涌寺内、来迎院。高校時代に教室を抜けてはこの含翠庭前の書院の縁に時を忘れていた。こんな家に「好きな人を置いて通いたい」と想っていた、それが『慈子』に成っていった。
「短編選 1 」に小刻みに毎日書き込み連載中の幻想の太宰賞作品『清経入水』とともに、それぞれの趣を楽しんで下さる方があるといいが。
2000 4・12 5
* 作品『慈子』について、ちょっと気になる以下の真新しいメールが届いていた。同時にこれは『清経入水』や『冬祭り』や『四度の瀧』など、また『みごもりの湖』や『風の奏で』や『初恋』にも及ぶ、この人なりの批評としても届けられていると読める。鋭くも迫っているし、或る意味では作者の思い通りに幻惑され術中にはまってくれているとも謂える。そこが面白いし、有り難い。
* 今、なぜ『慈子(あつこ)』をお書きになられたのかということを考えております。(母に)死なれて生まれた「慈子」は、作者の思いの底を深く流れる心情的なものとしてはどこかで「蛇」と通うものがありましょうけれど、やはり「蛇」ではない者として「慈子」を書かれたということに、意味がある気がいたします。
蛇との出合い 蛇の誘惑 ・・・ 執拗に蛇への思いを数々の作品に様々な形で表されていますね。
この世で唯一の現身の方と出あわれ、東京へ出ていらっしゃいました。朝日子様もお生まれになり、出版社での生活は、決して心楽しいものではなくても幸せな日々が続いていらっしゃったものと思われます。
ある時、「磬子」(さまざまな別の名で別の作品にも登場しますが)と出会われ、「良子」(これも、さまざまな名で繰り返し登場します)には死なれていたことを突然、知らされることとなります。これこそが、もの狂おしく「作品をかく」という「動機」になられたのではないでしょうか。
いくつかの作品では、この二人がヒロインになっていると思えます。一連の「蛇」の作品のことでございます。
けれども小説『慈子」の中では、「良子」はほんの淡い影にすぎなく、「磬子」も、「慈子」より心劣りする存在として描かれております。
『慈子』を通して、蛇と無縁な、蛇を超えた世界を描かれたかったのではないか、あらゆる理想と幻想によって創られた女性それが「慈子」だったのではないか・・・。
「慈子」は、現身の「現実」の方とは作中で対峙する存在でございますが、実はその姿の中に現身の方も描き込まれているのではないか・・・、作品が真に対峙していたのは、「蛇」の世界とでもあったのではないか、そんな気持ちで読ませていただいております。
まだ、十分読み切っておらず、私の勘違いの部分もあるかとは存じます。作者の先生に、このようなことを真っ向から申し上げる大胆さにも身の縮む思いがいたします。あくまでも、未熟な私のささやかな感想としてお読みいただければと思っております。
* 「蛇」と書かれてあるが、むろんただ生身の蛇の意味に限定されていない、もっと歴史的で社会的・政治的で、また民俗学的・神話的な内容を指さしている。作者に於いてはそうなのである。それだけを付記しておく。たしかに『慈子』は我が作品歴の中で『畜生塚』とならんで、特殊でむしろ孤独なな位置を占めている。概ね貴賎の賤を、蛇の世界を書いていながら、『慈子』は貴賎の貴、高貴の容態に描かれて、またそれゆえに読者の愛を集めたとも謂えるだろう。さ、その先は、そうは簡単ではあるまいと思う。
2000 4・17 5
* 医学書院に立ち寄り、西川統君に会って、湖の本への送金を謝してきた。かつて一年先輩の彼が、現在会社の何役かは知らない、専務か副社長ぐらいをやっているのだろうか、在籍していた頃も殆ど無縁の総務系の人物だった。べつに他に会って行きたい人もなく、一言だけ礼をいい辞してきた。受付辺で懐かしそうに声を掛けてくれた女性の名が思い出せなかったが、顔はよく覚えていた。わたしのいた時分はまだ少女だった人のような気がする。我が人生の歩みには大事な寄与をしてくれた会社だが、所詮はやめるためにいた会社だった。やめて、ほんとによかった会社だった。だから深く感謝している、あまり懐かしみはしないが。
2000 4・26 5
* 『清経入水』のホームページへの書き込みが順調に進み、ヒロインと語り手が東京池袋のレストランで、今、再会している。太宰賞選者の唐木順三先生が大真面目に作者に肉薄されたのが、ここの会話で、たとえ他の全てはフィクションであろうとも、ただ一箇所ここの会話場面だけは「事実」を書いただろう、いや、きみが何と言っても、ここは事実を書いたに相違ないとわたしを問いただされた、ご機嫌のお酒の最中に。なつかしい。
今の私が見ても、この会話は微妙に烈しく書けている気がする。
『慈子』の方も保津川嵐峡館に憩う二人を描いて、浴室の場面になる。世にも美しい小説を書いてみせると覚悟して書いた長編だ。書き写していて、静かに満たされる嬉しさがある。ある読者から、女の方から誘っているのは何故でしょう、初めて読んだとき、思わず胸が騒いだと告白されている。よく深く考えて書いていたとは思うが、説明できない。
この二作、ずいぶん肌合いの違う作品と、作者も思っていたが、根の深いところで通うもの、毒のようなもの、を持ち合っていることに今しも気がつく。ほんとうに書きたいものを、ちからいっぱい書いていたと思う。 2000 5・8 6
* もと筑摩書房の原田奈翁雄さんから、『死から死へ』に懇切なお手紙をいただいた。原田さんは今「ひとりから」という雑誌を共同編集されている。言うまでもなく径書房を起こして軌道に載せた名編集者だ。この人とも昔はよく飲んだ。ご馳走になった。往時渺茫ではあるが、いまもきちっと仕事をされており、いつも励まされている。
2000 5・9 6
* 「湖の本」の通算第六十三巻めを校了にした。発送の用意がまだ全く出来ていない内の責了で、天を仰いでいる。順調な発送は望めそうになく、いまから漸く用意に取りかかる。いつもならもう、ア・カ・サ行までは読者一人一人への挨拶を書きおえているのに、一人にもまだ書けていない。
* 書籍取次の最大手の一つが経営不振で大きくぐらついているという。
「湖の本」をはじめたときには楠正成が赤坂城に籠もるの気概であったが、取次は、鎌倉幕府でこそなくても六波羅探題ぐらいに感じていたし、あの辺が、ぐらついてくる時代が来るというより、来ないといけないと思っていた。だが、とうてい鎌倉・六波羅の勢いの前には「湖の本」程度の小城は陥落必至と覚悟の上で、それでも、じりじりと刊行し維持し続けてきた。そしてたとえ退いたかも知れぬにせよ、千早城はまだ落城はしていない。それなのに大手取次という東か西か六波羅探題の今しも崩れ落ちそうな日が、遂に遂に来ているとは。
* 「湖の本」に関しては、外から見る目が、いろいろに変わってきたのが面白い。
初めの内は、どうせ続くまいと嘲笑う人と、だから応援してやろうという親切な人とが、何となく拮抗した。応援して下さる人は永く実質的に応援して下さった。冷笑していた人たちは、その後あまりに着々と刊行の進むのが不思議でもあり、その頃から、事業の規模について、つまり「発行部数」について尋ねてくる外の人が、ぐんと増えた。誰に対しても答えてこなかった。
それでだろう、今では、どうせ問題にするに値しない極零細な同好会かのようにわざと見て、ことさら無視しようとするムキが強くなっている、が、それでも相変わらず確実に出続けるのが不思議で仕様がないらしい、秦はよほど金持ちなのかとまで言う人が出てきた。赤川次郎じゃあるまいし、わたしに金などあったら、その方がよほど不思議ではないか。
なににしても「湖の本」は次々に新刊が出続けて、最大手の取次の方が危なそうな今は時代なのである。電子書籍コンソーシアムも、前触れの意図を変じて、わたしたちの予想通り、全く「マンガ出版」的馬脚をすでに露わし、成績も延びていそうにない。オンデマンド出版もよほど厳しそうな按配に、遠目にも見える。
思えば、いまやいちばん効率のいい「オン・デマンド・タイプ」の出版は、わが「湖の本」であろうと言える。「一億総表現者の時代に、ネット社会でどう自分を表現できるか」という問いかけに、現在、いちばん真面目に、実績そのものによって答えられるのは、わたしかも知れないのだ。スティイーヴン・キングの異様な例は、日本の地道な文学者には何の参考にもならないのである。
2000 5・14 6
* やっと、第五回太宰治賞受賞作で「湖の本創刊第一巻」の『清経入水』を、この「文庫=アーカイヴ」に書き込んだ。まだミスタッチの訂正が必要だが、わたしのためには画期的な作業が緒に着いた、「電子版・湖の本」の新発足である。課金はしない。このまま読まれてもよく、もし縦書き・紙の本の完備した「湖の本」で読もうと思われる方には、そっちをお買いあげいただく。横書きのテキストより、ずっと読みやすく美しい「本」になっている。旅の友に佳いと評判されている。
この反リアリズムの奇しき幻想作品は、1969年当時、他に殆ど例がなかった、同類作品がなかった。此の世の「事実」「現実」に束縛された当時の先輩作家たちによりも、もっと自由にクレバーな一般読者たちの方に、この異色の創作は喜び迎えられた、多数にとは言い難いが。版も重ね、新版も出た。今では、ことに映画映像作品などには、此の世ならぬ存在と現世の存在との共生するハナシなど、ザラにあって人気を得ていたりする。小説に書かれてもさほど異色とはもう誰も感じないだろう。だが、この作品の出た当時は、まだリアリズム全盛であった。
言うまでもない、幻想的な怪奇な小説であるが、わたし自身の根の哀しみや寂しさに着床したもので、空想の作り物語りではない。この一作では見えなかったモノが、他の作品を発表して行くにつれ見えてきたと、よく言われた。秦文学研究会が東京大学倫理学研究室を中心に再編再開された最近にも、躊躇なく再び三度びこの『清経入水』が取り上げられたのも、そういう意味合いだろう。
2000 5・18 6
* 書き込みをはじめた『蝶の皿』にも反応があった。まだほんの少ししか書き込んでいない段階であり、小説というのは「こういうふうに」読み始められて行くのかと、無理からぬ読み違いに、思わず微笑んだ。しばらくすれば、順当に正解されて行く。作者は、無論そういうことも勘定に入れて書いている。文字通り「小刻み」連載だからこそ、「読み」の現在進行形がヴィヴィッドに伝えられてくる。
2000 5・21 6
* いきなりの真夏日で、二階にあがると蒸すようだ。
湖の本新刊「挨拶」をひととおり書き終えたが、もう少し。全国の大学への挨拶状もまだ出来ていない。堅い書籍用封筒に、一つ一つ差出印を捺す必要もあり、その全てに宛名印刷シールを貼り込み、間違えぬように「挨拶」と払い込み用紙とを前もってさし込んで置かねばならない。それだけはして置かないとあとの作業が辛い。
だが雑誌「ミマン」次の連載分督促が待ったなしで今日飛び込んできたし、締め切り緊急の原稿がもう一つ残っている。週末までに親友原知佐子らの舞台、また友枝昭世の能「松風」の招待があり、太宰賞の授賞式にもひさしぶりに顔を出す気でいると、息が詰まりそうなスケジュール。そうそう、息子の書いたテレビドラマもあるという。
2000 5・23 6
* 当分はこの「私語の刻」よりは小説の書き込みに力を入れ、間をあけないように努める。努めると言うよりも、書き写すのが楽しいのである。『清経入水』の校正もしている。自作を丁寧に克明に二度読み返すことになるが、ざっと通読するよりよっぽど興味深く、わたし自身のタメになる。いまは『慈子』『蝶の皿』と三つが同時進行しているが、これらは、間違いなくわたしの、わたしにしか書けない、わたしの世界であったと思う。
2000 5・24 6
* 終日の作業で、ふとアクビが出るほど疲れた。明日、もう一押しで一応発送を終えられそうだ。今度は、『丹波』についで「客愁第一部・幼少時代」の「二」に、『もらひ子』を纏めた。「もらひ子」はわたしの人生を決定づけた原点であり、これを措いて「作家」秦恒平は在り得べくもなかった。いわば、我がモチーフの奥の院のようなもの、書い
ておかずにはおれない我が「索引」のようなもの、とも謂えるだろう。国民学校三年生を終了するところまで、丹波へ戦時疎開するまで、を「純文章」として書き示した。時間的には『丹波』以前を書いた。肩の荷をひとつ下ろすことが出来た。
2000 6・1 6
* 息子にも書いた。
* 本 届いたと思います。
「もらひ子」は、わたしの人生を決定したキーでしたが、それから「どう自由になるか」が、生きて行くに必要な指針でもあった。
新門前の大人たちは、十二分にわたしを愛育してくれたと感謝しています。『丹波』『もらひ子』そしてもう一冊『早春』の幼少時代三部作は、自分の根を、身のほどを、美化せず卑下せず闇に言い置くものです。こういうふうに育ってきた父が「ここにいる」と感じていて下さい。他人には面白くも何ともないものですが。遠からず、いやでもわたしの著作を読まずに済まない時が来るだろう、が、そんなときに、これらは、ある程度まで適切な「索引」の役をするでしょう。
わたしの血は、まだまだ若く、熱い。率直で、人なつかしい。それは、ホームページの「私語」が明かしている。わたしには「逢いたい人がいつでもいる」のです。
あすの「ショカツ」を、観ます。元気で。 2000 6・5 6
* 新刊の『もらひ子』の稿を調えて、新たに「創作欄 6」に収めた。今日、払い込み通知第一日目に、百二十七人分の入金と、沢山の手紙が一度に届いた。一日で一気に読み通したという読者が何人もあったのに驚いた。嬉しかった。一つには縦書きの「紙の本」がいかに読みやすいかの、厳然とした証拠がこうして上がっているのだ。そうであろう、わたしも、我がホームページの莫大な量の創作やエッセイや私語を、横書きのまま液晶画面で読むのは、つらい。横書きの印象と、縦書きの「本」になったものとの間にある、「凄いほどの」差を、誰より先ず作者のわたしがいつも予想してきたのだ。予想は明確に的中している。現に、ホームページで見当だけをつけて、別に「湖の本」の「刊本」を注文されてくる読者が次々に現れ始めている。
本は持ち歩けるが、機械のままでもプリントしてみても読みづらいのは明白だ、たとえ「縦書き」で読める手だてをしてみても。
ホームページと湖の本とが、予期した以上に連動し機能し始めている。「湖の本型ブック・オン・デマンド」は、先行基盤として、「本」そのものが相当部数先ず売れていて、その上の「オン・デマンド」追加需要になっているところが、著者として極めて有り難い。ここ三冊続けた『丹波』『死から死へ』『もらひ子』など、現在の出版事情のなかでは、既成の出版社で本にするのは到底難しい地味な作品だが、「湖の本」はわたしのためにも読者のためにも、それを立派に可能にしてくれている。好評すら得ている。現に『死から死へ』は、ここ三年のうちで一二の好成績をあげた。しかも上の三冊とも、完全に「新作の新刊」である。ヒマだからホームページで遊んでいるのだろうと若いヘボ作家やヘボ編集者に露骨にあてこすられることもあるけれど、私の場合、要するに既成出版に距離を置いて、「自由に」やって「成績」を挙げているだけの話である。それで仕事がちゃんと出来ている。そういう「時代」にもう成っているのだよ。
2000 6・7 6
* あっというまに『もらひ子』は読んでしまいましたという手紙が、次から次へ届いている。いわば純然の私事を、ごく淡泊に、小説らしくなど一切しないで記述したのだから、私以外の人に読ませようというのが厚顔なくらいの「純文章」だと分かっている。それを、「文学・文芸」として読んでもらえるというのは、作家冥利に尽きる。石川近代文学館の井口館長も、こういう文章に接するとほんとうに「ほっとします」と手紙を寄越された。「もらひ子」の境遇に身につまされ「泣いてしまった」という読者も有るのは、これは大勢の中だから自然そうあることかも知れない、が、こう書きたい、書いておきたいという著者の気持ちは「とてもよく分かる」と言ってくれる同世代の人の多いことも、同じく自然の勢いだろう。そういう「年齢」だと言ってしまって済むことかも知れない、たしかに、これは十年前でも書けないし、書く気にもまたなりっこなかったのである。そういう「純文章」なのである。相当の仕事を積み上げ得てきたからこそ、自信を持ってこういう「幼少時代」が語れるのだと思う、羨ましいことですとも、便りが来ている。有り難い理解であり、じつは、その通りだと自分でも思っていた。故意に飾ることも卑下することも何の必要も無かった。「読める」文章で思いのままに、静かに、書き切っておきたかった。
2000 6・8 6
* 目の前で鉄線花が咲いている、奥村土牛の繪だが。もひとつ迫力がない、美しさも。『清経入水』では、この花や仏桑華を、すこし気味わるげに活かして書いた。蔓の花も木も、わたしは気味がわるい。松の木の肌も、にがて。
2000 6・8 6
* 機械でキイを叩くと「井伊直弼」と出る。これを手書きすると「井伊」か「伊井」か往々惑う。今度の湖の本ではうかと「伊井」になっていた。「井伊」の間違いではと指摘してもらい、それでも、エート、ドッチだったっけと、迷ってしまう。
「俺たちに明日はない」の女優フェイ・ダナウェイを、ダナ・フェアウェイにしてしまっているらしい。これは完全に誤記の記憶違いだった。いろいろ間違えると、以前は恥じ入って気が腐ったが、この頃は御指摘に感謝し、けれど腐らなくなった。間違えるのも生きている内だと感じられるようになった。負け惜しみではない。ラクになっているのだ。
* 強い雨風で始まった一日だったが、雨も風もおさまって、いいメールも来たし、それどころか中学時代の恩師から、「湖の本」にお手紙と上等のお茶を頂戴したり、元東大法学部長の福田歓一先生からもていねいな御感想を戴いたり、佳い一日になった。
2000 6・9 6
* 梅雨入り早々の梅雨冷え、一日中冷え込んだ。二台の機械の間を往来して、少しでも仕事に差し支えまいよう、按配にあけくれの一日だった。草臥れた。彫刻家清水九兵衛氏、東大教授上野千鶴子さん、ジャーナリスト野村進氏から、有り難いお手紙をもらった。ま
たこのホームページを通して「秦恒平・湖(うみ)の本」ことを知った飛騨高山の読者が、創作とエッセイの各創刊第一冊を注文一読後、全巻を揃え持ちたい、最新刊の『もらひ子』は三冊を、と注文してこられた。素人の下手な荷造りながら、今日六十四冊を揃えて、大きな二箱包みで宅急便に託した。こういうことも、有り難いことに、時々ある。
2000 6・12 6
* 横須賀に住む年長の従兄から、『もらひ子』の「読中感」がメールで届いた。一度ぐらい顔を合わせているのかも知れないが、覚えていない。湖の本は、だが、おおかた読んでもらっている。
実父に年かさの姉が三人いた、そのどれかの姉の子ということだ、かなり年長と想像されるが年齢も知らない。そんなぐあいの従兄が父方伯母の子で三人以上はいるらしい、そのうち二人と交際がある。一人がこの横須賀の従兄で、経歴は知らない。もう一人、日銀理事で大阪支店長を経、顧問になり退職している昭和二年生まれの従兄が、練馬区に暮らしている。この人の弟らしいのが、綜合研究大学院大学の副学長か学長かを務め、平成四年に難しい研究で学士院賞を受けている。ハーバード大学の理学博士らしく、わたしの勤めた東工大とも縁のある人と風の便りには聞いていた。接触はなかった。
父方親族には、他にも理系で有力者がいるらしく、実父が戦後の一時期「理研」に勤めたというにも少し関係があるかも知れないが、わたしの東工大「作家」教授就任にこういう遠景は一切無縁であった。
無音に打ち過ごし失礼いたしました。
御本を途中まで読み、恒平さんの昔の記憶の克明で正確なのに、驚嘆しています。
一つ昔の事を想い出しました。
昭和十三年の秋でした、私は当尾(現・京都府相楽郡加茂町)の祖父の家を訪ねました。驚いたことに祖母が男の子の世話をしていました。年恰好四歳くらいで、目がパッチリしており、紺の絣の着物を着ていました。恵子ちゃん(叔母に当たりますが、私より五つほど年下)に弟ができたのかと思いました。確認はできなかった。京都市内の親の家に帰って母に報告し、質問しましたが、何かはぐらかされたように記憶しています。
あの時、当尾の祖父の家には、チョコレート色の毛並みの老いた雌犬がいまして、ちょうど子犬が二、三3匹産まれたところでした。その子犬たちの始末(捨て犬)を祖父に安請けあいして、子犬を捕まえにかかったら、玄関前の大きな松の根元にあった細い排水用土管の中に逃げ込まれ、捕獲に大いに難渋した事を覚えています。
多分翌昭和十四年になって、当尾で見たあの子供が、誠叔父の子と私にもわかる事件が起きたのだったと思います。恒叔父が精神病院に強制入院させられました。実の父親(私からいえば祖父)に乱暴狼藉を働く乱心者ということで、「平常心に戻らない限り病院に入れっぱなしにする」と親族会議で決めたらしい。「病院を出たければ父親の言うことに異を唱えるな、母子と縁を切れ」と言った成り行きであったと思われます。病院の病室まで入り込んで膝詰め談判をしたのは、恒叔父からいえば義兄にあたる私の父だったようです。「兄貴は、これを認めない限り絶対に病院を出してやらんと言いよったが、フェアじゃないよね」と甥の私に同調を求める言葉を、何回か叔父の口から聞いたことがあります。私はいつも曖昧な返事しかしませんでした。
今にして思えば、道徳律が違っていたんですね、そう、気付きます。
先に兄上の恒彦さんがなくなられたとお聞きした時、当尾で昔会ったのは、恒彦さんか恒平さんかどっちだったんだろうと思いました。今回の御本で恒平さんに違いないと確信しました。
私などは記憶力が悪い上に、他人のことに遠慮しすぎるというか、見ざる―聞かざる―言わざるの気分が強すぎると思うのですが、とにかく過去の記憶がぼんやりしすぎています。芳賀昭子君(=恒平異母妹、川崎市在住)いわく、”昔のことを幹兄ちゃんに聞こうとしても何も知らんのね!”と酷評されています。御本に出てくる、私の過去とも絡みあう部分、大変に面白く読ませていただいています。
今後ともますますのご清栄、ご発展を祈ります。
* 二人まで男の子を産んだ父と母との間柄は、なみたいていなモノでなかった。すでに寡婦であった母には四人の子女があり、二人が出逢ったとき、兄恒彦とわたしの父になる人は、母になる人の娘、亡夫との間にできた長女と、同年の学生だった。
父の父吉岡誠一郎は京都府視学に任じていた人で、父の異母弟吉岡守も、のちに府立木津高校などの校長を歴任した。そういう家柄であるが、それだからこそか、一族が挙って「母子と縁を切れ」と強権を発動、生木を裂いた。教育監督の上長の家が精神病院までを強引に利用したわけだ。「老いた雌犬」なみの母親はもちろん、生まれた小さな子たちも、あだかも「捨て犬」のように吉岡の戸籍から閉め出した。凄いことだ、生まれ落ちて直ちにわたしにはわたし一人の単立戸籍原簿がつくられ、区長は明晰に「父母の戸籍に入るを得ざるにより」と立証していたのである。
従兄の証言で、昭和十年末の生まれのわたしが、少なくも十三、四年頃には当尾の祖父の家で祖母の手に預けられていたことは、だが、分かった。
断って置くが、と、今の今わたしはこれを「史実」のようにしか感じなくて、興味こそあれ、怨念のようなものはもう持たないでおれる。卒業してしまっている。だから『もらひ子』を書いて、落としたのである。わたしの知ったことでは、すべて、無いのだ。
2000 6・13 6
* ホームページの『清経入水』校正を、一応終えた。電子版「秦恒平・湖(うみ)の本」の創刊第一作である。太宰治賞受賞以来ちょうど三十一年目の桜桃忌が、目前に。印字本「湖の本」創刊満十四年を、かくて、記念したい。
わたしのホームページでは「ふりがな」などの出来ないだけが、我が作品の場合ややハンデキャップになる。広範囲な読者のためにはルビを振って上げたいのがヤマヤマだが。むろん、きちんとして読みやすい紙の本版「湖の本」は常時在庫の用意がある。送料ともで『清経入水』は、二千百円。併せ御読み戴きたい。
2000 6・17 6
* やはり昨日、五十代半ばの夫を死なせて一年がようやく過ぎた読者から電話があり、まだ沈鬱だった電話の声が、二、三十分話している内に晴れ間が見えてきた。よかった。
死なれ死なせて嘆く知人が、こっちの年齢がそうだから自然増えてくるのはやむを得ないが、ますます増えてくる。「湖の本」創刊最初の十年ほどは、さほどでなかった。この数年、永い間の愛読者で亡くなられた人があまりに多い。『風の奏で』の「M」教授こと目崎徳衛先生も亡くなってしまわれた。結局一度もお目にかかれる機会を得ずじまいだったが、「湖の本」は亡くなる間際の今度の『もらひ子』まで欠かさず継続しすべて買って下さっていた。早稲田の梶原教授も同じように莫大に力を添えて下さり、そして亡くなられた。愛読者で、もう何人に死なれたことか数え切れない。有り難いことに、その人が亡くなってのち、奥さんが、またご主人が、ひきついで「湖の本」は支えますと続けて読んでいて下さる例も、多い。ありがたい話である。こういう生き方をしている作家、出来る作家が、現代、他にいるとは思われない。聞いたこともない。
2000 6・19 6
* 国民学校二年生の担任だったのが上野寿美子せんせいだっことを、わたしは母の残して置いてくれた通知簿がなければ思い出せなかった。同級だった今村豊君が、上野先生は「確か伏見街道二ノ橋に近いお醤油やの娘さんだったと思います」と教えてきてくれた。「今心は新門前ハタラジオ店の辺りを徘徊しています」と、のなか・ともぞうのラジオの繪のイラスト葉書に書いてある。「もらひ子」の幼少を、「お気持ちはよく理解できます」が、「少々”いい子”になりすぎている気がします」という同世代の或る大学教授の感想も来ている。「われらは昭和の子ならずや」と謳ってある。冷えた傍観者の場所に退がり過ぎていると見られたのだろうか。それなら実はあまり”いい子”でなく、冷たいいやな子であっただけかも知れない。
* (前略)先輩の「湖の本」はいつもむつかしく 最後迄読むのは私にとって大変でしたが、今回の『もらひ子』はのめりこむ様に読ませてもらいました。日吉(が丘高校)時代 市電通学してましたが、茶道部の練習の後?に乗り、先輩は祇園(石段下)で下車され、窓からくいいる様に姿を追うのですが、アッという間に 消えられました。一度 友と一緒に祇園でとびおり、後をおいかけましたが やはり雲のようにきえてしまわれ、二人でとても不思議がったものです。『もらひ子』では、くわしすぎる程そのご実家の様子が書かれていますが、その家は今はないとして やはり先輩は私にとりましては まぼろしの人です。ご子息様の名前をTVで時々拝見しうれしく存じます。
「もらひ子」では私も同じ立場です。小さい時から囲りの大人たちがいつも目くばせしたり、口ごもったり、私も これは聞いてはならない事と、何となく思い、生みの両親 育ての両親の 共に亡くなるまでずっと複雑な気持ちのままでした。
その分、無理に明るくふるまって生きて来た様にも思います。今、自由な立場になって、結婚してL.A(=ロサンジェルス、か。)にいる娘にもやっと話しました。私にとってはそんな重大なことではなかったのに、初めて聞いた娘や息子はとても重大事件に受けとめた様です。
やはり長い年月 いつも人の顔色や言葉に気をつかいながら生きてた私と、最初からかくし事なしの子供たちとの、考え方の違いでしょうか。
いつも明るくやさしく、陽気でいられる私、人前で涙をみせない私。いつの間にか自分を生きやすくする為に、そういう性格を作ったんだと、最近、思うようになりました。
先輩の『もらひ子』を 読みおえて 感じた事々です。
* 点前作法を教えていた後輩の一人で、特設の美術科だったので、市内の学区域外から通学していた。茶道部にも、わたしの卒業後も長く熱心に在部し、稽古をしていた。わたしの後を追って電車から飛び降りたりしていたことなど、全く気づいていなかった。お互いに還暦を幾つも過ぎてしまった。このひとが「もらひ子」の境遇だったとも知らなかった。境遇から作り上げた後天的な性格は異なっていると思うけれど、「自分を生きやすくする為に」生きたことは変わりない。こんなふうにして気づかなかった「身内」が、ここにも一人潜んでいたのかと、胸を打たれた。もう孫のいる女性から「先輩」「先輩」と呼びかけられる不思議な気分をほろにがく反芻している。
2000 6・19 6
* 『丹波』『もらひ子』に、わが愛読者から、こういうメールが届いている。文学の「問題」として、これは今抱えている大事な通過点で、なおざりに出来ない。
* 以前、詳しい年表を作られたとき、「死ぬ気か」と騒ぎにもなった由、以前読みましたが。あれは50歳頃でしたかしら。今回は、たくさんの温かい反応が多いようですね。
これまで、<事実と見える創作>にいろいろ浸ってきたので、<何も足さない事実です>と言われての続けざま3冊は、読み手のわたしの心には重く、<小説でしょう ? >といえる逃げ場がない。IRABU か NOMO の豪速球を受けるようです。
美しく怖い刃を和紙で包み、見せてきた多くの創作。
今回は、剥き出しで見せられた刃。その魅力にひかれたのは確かで、つい触ってざっくり切れ、無理に押さえていた想いが、いくつも噴き出してきました・・・。
* フルネームで、顔こそ見合うことは出来ないが住所も電話番号も存じ上げている読者を、全国各都道府県にもっている。「湖の本版元」十五年、六十五冊刊行が確実に可能なまでになった。いろんな感想を今度の『客愁』シリーズや『死から死へ』にお持ちのことと想う。
一つ言えるのは、やはり、わたしの年齢であろうと思う。今年の暮れに六十五歳になり「湖の本」も六十五巻に達するだろう。その誕生日師走二十一日を、わが学年暦での二学期終了としたい。その学期末レポートのようにわたしは自身をハダカで省みている。ただ省みるだけでなく、「読める」文章として呈示したいと考えた。「事実に見える創作」にしていけなかったのではないが、小説ではない文学・文芸にも心惹かれていたのは確かである。想像力が渇いてきたろうかと自問しなかったのではない、そして、想像力に対し、堪える・耐える気持ちが身内に涌いていた。谷崎のような大きな小説家にも、「つくった小説」「あまりに小説らしい小説」に鼻じらんだ時期があった。それに近く、それとも違うもう少し積極的に「非小説」という「文学」を試みたい実感があった。その年齢になっていたかと、ま、その辺まで「闇に言い置く」心地でいる。
2000 6・24 6
* 二三日休んでいた『慈(あつこ)子』と『蝶の皿』とをホームページにまた小刻みに書き込んで、暫く前から気が付いていたことに、改めて、また気づいた。
この両作は、たしかに相接近した時期に、とくべつ何のアテもなく、ただひたすらに書き下ろされている。作家以前の、同じ私家版本におさめている。だが、作柄はずいぶんちがう。そう思っていた。
長編の方はのちに大幅に思い切った削除などして、筑摩書房から最初の書下ろし単行本になり、その後二度新版が出た。豪華限定本もよく売れたし、集英社文庫が森田曠平の美しい装画で売り出された。桶谷秀昭氏が『畜生塚』に次いでとても佳い書評を、のちには小森陽一氏もみごとな解説を、書いてくれた。短編『蝶の皿』は『清経入水』などとともに筑摩からの処女単行本に入り、後に角川文庫にも入った。
先も謂うように二作は、ずいぶん別々の作の印象がある。作者のわたしも、そう思いこんでいたし、人に言われたこともなかったと思う。
ところが、一字一字書き写していると、おかしいほど、似たところがある。『慈子』の物語の山場の一つが長い「お利根さんの話」になっていて、『蝶の皿』は、全体が手紙の体のやはり長い「話」なのである。中身にも、不思議というも当たるまい、当たり前のように、どこか似ている。明らかに、一頃の私はこういう「話」を一つの内景に抱き込んで生きていたらしい。学者は、一作者ののがれがたい作の上で共通の特色を拾っては研究などするようだから、珍しいことではない。わたし自身が気づかず、全然の別世界と思い込んで書いていたのに、なかなか、どうして、そうではなかった。
* ついでに、もう一つ。最近の『慈子』の愛読者が、漱石の『心』の「先生」「私」を無意識に作者は、このわたしは、「朱雀先生」と「宏」とに置き換えているのではないかと指摘してきた。これはもう、さもあろうことであり、しかも作者は自覚していなかった、露骨には。指摘され、ウーンと唸った。頷く以外にない、それほどの『心』であったことは、もっともっと時間的にあとのわたしの「仕事」「文章」が告白し尽くしている。その時も、だが『慈子』に思い及んではなかった。
だが、「慈子」という、わたしにとって理想的なこの少女を書かせた活力は、どこから、誰から、得ていたのだろう。一人か。いや大切な複数の存在をそれはそれは大切に汲み取っていて、すぐには誰それとは言えない。この、言えないことが、今もわたしの深い底力になっている。そんな力が幸いに残っているとしたならば。
2000 6・29 6
* 人工的に育てて咲かせるのであろう、妻が月々に楽しみに買っている中に、桔梗の一鉢があった。その咲き残りの一輪が、手洗いの初期伊万里の徳利に挿されてあるのが、色こそやや淡いけれど、姿かたちの佳いこと、青葉との釣り合いが美しく、堪らない。むかし『桔梗』という愛らしい短編を書いたのを想い出しながら、しばし手洗いを出たくないほど落ち着く。桔梗とか都忘れとかいう花が好ましい。
雑誌「サライ」に、花のいろいろをエッセイで連載していたことがあった。担当のおばさんが毎月押しつけるように花を選んで、これで書けと命じられるばかりで、途中で気折れしてやめてしまったが、好きに選ばせ好きに書かせていてくれたなら、ずいぶん筆者としては楽しんだろう。
もう二十年は前になろうか、安達瞳子さんの安達流挿花の機関誌「花藝」に、四年間も連続で、好きにエッセイを書き、月々好きに美術写真をえらんで、文と、美術の花とで妍を競わせたことがあった。繪の花、陶磁器の花、衣裳の花、そして「秘したる花」を選んでいった。
写真と対にした文章の仕事は、いろんな難しい条件に阻まれ、容易にあとで「本」にならない。『修羅』『春蚓秋蛇』は美しい単行本になったけれど、雑誌「清流」「サライ」そして「花藝」の連載は、そのままになっている。文章にも運不運がある。三十余年も仕事をしていると、いろんな運を体験する。それでいいのだ。
2000 6・30 6
* 名月ならぬ、暴風雨の七夕の、轟然と吹き降る夜ふけに、静かに『蝶の皿』を書き込み終えた。得も謂われぬふしぎな思いを、一字一句を追体験しながら、味わった。ただ耽美でもただ唯美でもない、果て知れない寂しみに触れたまま小説を書き始めていたことに、今さらに、また思い当たる。生涯に一度しか書けず、二度とは書いてはならぬ小説である。昭和四十一年七月二十一日から八月五日までかけて書き下ろし、溢れる「谷崎愛」のまま『吉野葛』の作者に捧げている。三十歳と半年。『清経入水』で第五回太宰治賞を受け、作家生活に入ったのは、なお三年の後であった。
これから、校正する。さて、次の「短編選」には、何を書き込むか。
2000 7・8 6
* 短編小説選の「2」に、新たに『廬山』を書き込みはじめた。昭和四十六年「展望」十二月号に発表し、すぐ芥川賞候補に挙げられ、瀧井孝作、永井龍男両先生に推された。永井先生は「美しい作品である。美しさに殉じた作品である」と選評の字句を単行本の帯にも下さった。代表作の一つとして文学全集にも重ねて採られており、作家入門のムックや名作紹介のムックなどにも繰り返し採られている。
「湖の本」の跋には書いているが、この小説では、手ひどく「新潮」編集部に絞られた。つまり文句がついて止めどなかった。たとえば「長男」を「太郎」と呼ぶのはおかしいといったことを繰り返しくどくど謂われた。中国ではそんなふうには謂わないだろう、などと首根っこを押さえるように言う。
この作品は、西行の偽撰といわれる『撰集抄』の説話によりながら、説話的な生彩と素朴を殺さないように、しかも私自身の述懐をだいじに思い思い書いたもの。我が国の浄土信仰や来迎美術の根を辿る、遠い目的も隠していた。中国の史実を書こうとはしていなかった、関心は日本人の方にあった。そんな意図は、三百話しても通じそうにないので、黙って引き下がって「展望」にまわしたら、すぐ掲載され、すぐ候補作に挙げられた。
作品の評価には、絶対がないようで、じつは有るとわたしは思っているが、しかも或るレベルでは評価は交錯するのが普通なのである。自信があるのなら、そんなレベルでビクついても卑屈・臆病になってもいけないのである。「新潮」の気持ちも分かるし「展望」の評価も妥当だった。同じ新潮社のベテランの編集者は、『廬山』は「名作」ですと、後日にきっぱり断言してくれていたが、そういう言葉にすら多くを頼んではいけないのであり、作者は、最終的には自分で自作を判断しなければならず、自己評価は十分十二分に厳しくなければならない。それが出来ないうちは、軽薄な自信など、もつのが間違いなのである。
2000 7・9 6
* 中学時代に英語を習った女先生から今日お手紙をもらったのが、毛筆で、見るから豊かに気高い、悠揚迫らぬ名筆なので、びっくりした。わたしは悪筆どころか筆ももてない無筆者だが、造形美術の中では「書」が好きで、観るぶんにはかなり経験をつんでいるつもりだが、本間伸子先生の消息の字は、かつて谷崎先生の松子奥様からいただいた、美しい巻紙に書かれた雅びな文字に匹敵する優れた手蹟で、失礼ながら、数十年前の教壇の先生からは想像がつかなかった。
文壇にも書の自慢の人は少なくないが、失礼ながら臭い濃すぎていやみなのも、まま、ある。本間先生の字にはいさかの匠気もなく、おおらかに、気稟の清質みなぎる静かさ、柄の大きさに心打たれる。こういうのは稀有のことで、半日、妙にほくほくと嬉しい。『丹波』と『もらひ子』とを初めて謹呈したのへ、御挨拶いただいた。
先生方もご高齢になられたが、記憶ではみなお若い。当たり前であり、若くなかった先生方は亡くなられている。そのことに、厳粛な気持になる。いま中学時代の先生では、男先生が二人、女先生が四人と連絡が取れる。みなさんに鞭撻し声援していただいている。あの頃の「生徒」のままのわたしが、いる。 2000 7・10 6
* こういう読み手のメールが入ると、深酔いする。照れる。ま、声援されていると思おう。
* 『蝶の皿』に続いて、『廬山』。<藤むら>の羊羹を思い出しますの。「?」でしょう ?
晒して晒してアクを抜いて、氷砂糖(ざらめかも知れない)を入れて、さらりとしていながら、薄くない甘さ。美しい紫色の漉し餡の羊羹ですわ。こんな喩えは”ボキャ貧”ですけれど。難しいのに、読めてしまう不思議。心地好い言葉の響きと字面の美しさ。易しいのに深い。綺麗で繊細で力強く、しなやかで頑固。職人であり芸術家でもあり、苦くて甘い。
2000 7・14 6
* 庭に桔梗が咲いています。その清々しいうす紫を見ながら、30余年の昔がよみがえってきました。
当時、恒平さんは「菅原万佐」の筆名で自費出版を続けていました。送られてきた私家版を何度も繰り返して読み、読後の感想を書き送りました。批評などといえる代物ではなかったと思いますが、いい加減に読みすごすことなど、とてもできない気持ちで読後感を書く方も一生懸命でした.
返信に恒平さんは次のように書いています。
「有難う。嬉しく拝見しました。よく、正しく読み取って下さろうとする御厚意がしみじみと伝わって参ります。この上ない励ましとくりかえし拝見しました。
『少女』のこと、私らしいと言ってもらえたこと、『桔梗』は童話というのではないのですが、散文の詩を感じていただけたこと、特に嬉しく思いました。この二篇にはかなり私の鍵が秘められてあると自覚していたものですから、大概の方が、短歌集『少年』、小説『畜生塚』『此の世』に即して御批判下さったのとは違った、何といっても古い友だちのふしぎな眼を感じました。」
続けて、こうも書いています。
「今日明日中に250枚くらいの長いもの、この一年中かかりきってきた重っ苦しい陰鬱な荷をおろせそうで、ただそのことが頭の中で渦巻いています。
むなしい行為といえばそれまでの、自由な感動にいつまで我が身をゆだねてやってゆけるか、それはまた苦しい闘いなのかもしれません。私らしい、ひねくれた執拗いやり方で、何かに背き背きやっていきたいのです。 昭和39年師走23日」
私は秦作品のすべてに目を通したわけではありませんが、業余の一枚一枚に精魂を傾けたあの時代にはじまり、常に自らを偽ることなく、妥協を排して粘り強く書き続けたひとりの作家の確かな軌跡が見えます。
数に限りはあろうとも、心をこめて作品に接してくれる読者をこれだけ持つ作家はしあわせです。一層のご健闘とご自愛を祈って。 カナダ 勉
* シナリオ『懸想猿・続懸想猿』を謄写版で一冊にし、初めて自費出版したのが昭和三十七か八年。すぐ次いで『畜生塚・此の世』を出した。それへの感想を中学時代の畏友から受け取った。その礼状が残っていたのだ、有り難い。書き下ろしたばかりらしい小説はきっと『或る「雲隠れ」考』だろう。
「何かに背き背きやっていきたい」とある一句に、一瞬茫然とした。わたしの生き方がまざまざと刻印されている。あの当時、何に背こうとしていただろう。呼び名の有る、ただ呼び名だけに空洞化し形骸化していたいわゆる人間関係に背いて、「身内」を考えていた時期だ。同時に、当時の文壇作品への軽蔑があったのも忘れない。そして、まだあの頃、ものに応募して世に出ようなどと全く考えていなかった。だから私家版へ動いた。わたしは、結局一度も同人雑誌や人への師事もなく、また新人賞などへの応募もしなかった。太宰賞も、私家版が人の目に留まって、『清経入水』を応募したことにしてくれないか、賞の最終選考に候補としてさし込みたいのでと、筑摩書房の希望だった。寝耳に水の招待だった。
吉川霊華という画家がいた。いまではむろんのこと、存命当時も表へはめったに派手に出てこない画家だったが、近代日本画で極めて特異な位置を確保した芸術性のじつに優れた表現者だった。わたしは、こういう人を敬愛してきた。世にときめくことは、わたしには無理だった。問題外であった。そういうことに「背き背きやって」きた。「客愁」を抱いていつも「退蔵」を庶幾し、しかも「一期一会」努めてきた。それが出来れば上等だと思ってきた。太宰賞も東工大教授もペン理事も美術賞の選者も、わたしから望んで手をだしたものは一つも無い。みな、向こうから舞い込んできた。望まれれば、応じても良く、断っても良い。創作者には好奇心がある。好奇心を水先案内に生きてきたかも知れないのだ。だが、根は「何か(俗悪なもの。権力で支配するもの。)に背き背きやって」きたつもりだ。
それももう、落としていい時期だ、やがて人生の二学期を終える。どんな三学期が可能か不可能か知らない。彼の世へ進学するために学年末試験や進学試験があるのかどうかも知らない。したいだけをして、しのこしたことに思いをのこさずに。静かに。そう、静かに終えて行きたい。そればかりを祈っている。
2000 7・15 6
* 明日も熱暑に負けず、日比谷公園の松本楼まで出かける。よい、実りある会合になればいいが。山折さんが春秋社で「春秋」の編集長だった頃、あれ以来の再会で、優に三十年。『清経入水』には、最初に山折さん、京都の杉本秀太郎さん、新潮社の宮脇修さんが、もう一人歌人の馬場あき子さんが、ほとんど同時に、すばらしく反応してくれた。わたしの作家生活へのスタートに大きな推力になった。そして山折さんが、新人の私に、エッセイの代表作の一つ『花と風』を「春秋」に連載させてくれたのだった。
2000 7・17 6
* 『廬山』 一気に読ませていただきました。人の業の深さにふれた恐ろしい話ですね。胸をえぐられ、鳥肌が立つ想いで読み続けました。どんな展開になるのか心待たれます。
* 書き込み始めて間のないホームページの小説『廬山』に、メールがきていた。書き込みの作業は一度に多くは捗らないが、こういう声に励まされる。純然の創作だが、作者の「思い」が濃厚に漉き込まれてある。本人が、びっくりしている。
2000 7・20 6
* 関西の読者から、なんとも複雑に照れくさい、しかし嬉しくないこともないメールが来た。いろんなホームページを探訪中に、面識も交渉もない人が、そのホームページで、わたしの作物を取り上げ、「文章も素晴らしく、なぜこの著者がもっともてはやされないのか不思議」とコメントしてあるのに、偶然出会いましたと。人シラズシテ、ウラミズ、と謂う。「分かる人には、言わんでも分かるのん」という懐かしい声がする。まるで知らないところで識ってくれているこういう人もあるのだ、素直に感謝したい。
* ホームページに書き写していて、『慈子』という長編と『廬山』という短編とにも、痛切に似通った動機の疼いていることに、まざまざ思い当たり、当の作者がビックリしている。慈子の生まれと、後に恵遠法師となる少年劉の生まれとに、まぎれもない相似がある。それぞれの作品を書いていたときには自覚していなかったろう、しかも自然必然に似るべきは似ていたのだ。
2000 7・22 6
* 『廬山』をクライマックスに近くまで書き込んできた。『慈子』の朱雀先生には、今日は、今では少し知る人は知ってくれている「畳目」や「湯に浮かんだ豆粒ほどの肌」を通しての、時空間論、歴史論を聴いた。「廬山」や「慈子」の頃に一心に考え手探りしていた死生観から、まだ自分がそう遠くは来ていないとつくづく思うと、心細いような、気の遠くなるような気がする。それにしても、何という憧れ心を抱いてわたしは創作していたかと、少年に返り青年に返って胸を轟かせることが、まだ、出来る。それが嬉しい。いつまでも「劉」少年の廬山にさまようように生きて行くしかないではないか。
* それにくらべて大河ドラマの家康といい淀殿といい、あんなのが、なにが羨ましろう。バカなやつらだ。せいぜい得たのは権力と栄華。そんなものは槿花一朝の夢にすぎない。劉に廬山があり、「私」に慈子があった、その方が万倍も幸せなのだ。
2000 7・30 6
* この「私語」にも批評はあろうけれど、我が「作品」のこれは大きな一つであり、量が莫大なので通読するのはたいへんだが、どこをどう拾われても、「作家秦恒平の生活と意見」で満ちている。この日録一つを、繰り返し愛読してくれる読者も現れることだろう。荷風の日記でも直哉の日記でもない。私の表現である。
2000 8・4 6
* 今日はまた病院に行き診察と指導を受ける。台風が逸れてよかった。長編の『慈子・あつこ』だけは、一字一字みずから書き込みつづけて、仕上げたい。この作品が、読まれているとだんだんに分かってきているのが励みになっている。
2000 8・15 6
* 本を発送の挨拶に、「風伝白秋」と書いている。本の届くのは九月ごく初めかも知れない、たとえ早く出来てきても、山折哲雄氏との「対談」第一回が済むまでは置いておくつもりだ。
2000 8・20 6
* とうどう『慈子=あつこ』全編をこのホームページに書き込み終えた。親切な人の協力で、校正もほぼ出来ている。
* 太宰賞を受賞して最初の頃、断然女性の読者が多いと編集者から言われていた。手紙などもらっても、事実そうであった。但し一等反応の早かった杉本秀太郎、宮脇修、山折哲雄の三氏は男性、馬場あき子さんが女性だった。受賞作を含む処女単行本『秘色』は女の人に多く読まれたらしいことは、昨日の愛知の読者の例からも察しられる。
筑摩からの二冊目が書き下ろしの『慈子』だった、がこれで、、ざあっと女の読者の波が退いて、どうっと男性の熱い読者が増えた。このヒロインは男性には憧れをもたれ、女性には嫉妬されますよと、編集者は「解説」してくれたが、それはともかく、語り手の男である青年、既婚の「私」に対する、世の掟からする猛烈な非難があった。事実、群馬県はじめ各地で著者を囲む会があると、女の会員から、『慈子』という作品にでなく、「私」なる男へ、ひいては作者へ、続々と非難の声が発せられて応接に汗をかいた。
一方、ラジオのディスクジョッキーで、時を同じくして女優の吉永小百合と、落語の桂三枝が『慈子』を語っていましたよと、何人かから聞いた。これには喜んだ。
それが幸いしたというのではないだろう、想うに、次々に作品を出して行くうちに、わたしの「身内」の考え方や「死なれた者」の思いなどが、じわじわと知られていったためだろうが、またも、強い実感として女性読者がどうっとこの『慈子』に戻ってきて、結果的にも最も多く愛された作品になっていった。
秦さんの世界へは『慈子』から入ったと告げてくれる読者が今も少なくない。しかし徒然草の「考察」が入っていて、時間は幾つにも「層」をなし、だれもが読めるやさしさではない。この作品の読める人なら、他の作品も苦もなく読みこなせる読者であった。わたしには「いい読者」であった。
その頃から今日まで、わたしの小説世界への多くの苦情は、一つだけ、「むずかしい」であった。言葉を顧みないで言えば「よく選ばれた読者」に熱く愛されてきた。「魂の色の似た」読者の数は、当然にも増えにくい。そのかわりお付き合いは実に長い。「湖の本」にわたしの作家生活の流れ込んでいったのは必然であった。
* 克明に作品を読み直して、理屈は何もない、慈子というヒロインをいとおしく思う。高校時代に泉涌寺の来迎院にしばしば授業を抜けては憩いに行った。すでに源氏物語の愛読者であったわたしは、こんなところに「好きな人を置いて通いたい」と夢見たが、夢を叶えたのである、小説の中で。
来迎院の意味、慈子の意味。それは人生の意味を問うのとひとしい問いなのである、わたしには。
他のことなど、なにほどでもありえない。
2000 8・25 6
* 明日「湖の本」の新刊が届く。思春期とも呼べない『早春』である。これで幼少時代が根かぎり書けた。小説仕立てをあえて避けて、克明に、坦々と、記憶のままに記憶を記録した。「作家」になって行く必然の「根」を、おおかた掘り当てたと思っている。
この仕事は避けて通れなかった。
2000 8・29 6
* 「湖の本」創作シリーズの第四十四巻『早春』が出来、午前、午後、夜も、発送作業にかかりきった。順調に進んだ。明後日の、日のある内にでも片づけばいいが。
2000 8・30 6
* 朝から、いま、深夜の零時半まで、ぶっ続けの作業や仕事で、目も心もギトギトしている。アンケートの整理を三人分追加し、四十四人に達した。もう、目が半分閉じている。草臥れた。
* バグワンを読み、『落窪物語』を楽しんで、今夜は早寝しよう。『早春』の発送作業は山を越した。
2000 8・31 6
* 午後、「湖(うみ)の本」通算大六十四巻『早春』の発送を、九分九厘終えた。予定通りにほぼ八月中に終え得て、よかった。
2000 9・1 7
* 夕方から「スペインを歌う」谷めぐみソプラノ独唱会に、半蔵門のFM 東京へ。会場に入る前に、久しい読者の山本道子さんがやっている、粋なレストラン「DOKAN」で、スパイスのよく利いた、豆を煮込みのチリとパンを食べていった。妻は初めて入る店で、味の良さに驚いていた。濃厚なのに、後味が、さらっと深い。コーヒーも旨かった。山本さん夫妻でやっているこのお店は、こぢんまりと洒落ていて清潔。徹して西洋の家庭料理を探究している彼女らの、完成された実験実践場でもある。本家本元はケーキで名高い老舗。
山本さんとは、十数年も昔に「フードピア金澤」で初めて逢った。数十人の講師をそれぞれ、いろんな料亭やレストランで囲んで全国からの「食」の客が、味と談話とを楽しむ大きなイベントだった。山本さんもわたしも、講師役で出かけていた。ちょっと類のないすかっとした魅力の人で、「悲しみよこんにちは」のジーン・セバーグを健全に健康にしたような、爽やかさ。
湖の本を始めると、すぐ、応援してくれた。有り難かった。以来、十冊分ずつぐらい先払いして、ずうっと継続講読して貰ってきた。
ほんとに、いろんな人に助けられている、わたしの「湖の本」は。
2000 9・1 6
* 『早春』の余録で、中学の頃の先生や職員全員の記念写真を大きく引き伸ばしたのが手に入った。大方はお名前も覚えている。そして大方は亡くなられている。よくまあ手に入った、嬉しい。
2000 9・5 7
* 『早春』で、思い出しても赤くなるようなことを書いている。小学校六年生の頃、四六時中或る女生徒に気をとられていて、それをからかわれ、ぼんやりしているところへ、「* *さん」とわざとその名で呼ばれ、「ハイ」と返事してしまった。
その昔の女の子が、手紙をくれた。中学一年生での同級以来、袖擦りあう縁も絶えてなかったのが、同窓会名簿が手に入ったので、『早春』を送っておいたのだ。
猛烈になつかしがって呉れていた。「例の件」は笑い話のタネになっていたとみえ、当人の耳にも届いていたのだという。
むかしから、そういうバカであった、わたしは。だが手紙は大いに嬉しく、わたしも懐かしかった。おまけに、本代を二千円頂戴した。有り難う。
2000 9・8 7
* 本日、御著書拝受。有り難くいただきます。時間を忘れて読みふけりました。
日記の中で、俵さんのところや、なぜカルチャーセンターの講師にならないか、名古屋の一日(私は名古屋郊外に住んでいます)、兵馬俑の「すさまじさ」…、直接お会いしたこともないのに目の前に現れたようで、頷きながら、楽しく読ませていただきました。
こうでなくてはいけません。自分の思いつきの日記が本当に恥ずかしく思いました。HP、続けて読ませていただきます。
* ペンの会員の『死から死へ』へのメールで、数人から、こういう便りをもらっている。「湖の本」の実践を、本そのものから識ってもらいたかった。
2000 9・9 7
* 東大法学部長だった福田歓一さんからも、いつものように鄭重な『早春』へのお手紙が来ていた。
2000 9・13 7
* 『早春』をすべて校正完了し、「創作欄 7」に収めた。
2000 9・19 7
* 湖の本版『神と玩具との間 – 昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』から、ホームページに収めて行く事にした。校正は未了のまま、勝田貞夫さんに助けていただいたスキャン原稿を頁に貼り付けた。
2000 10・19 7
* 妻の書いた『姑』をフロッピーディスクから復元し、湖の本の『丹波』に参考作品として入れていた最終稿と丁寧に校訂した。母を、ほんとうに、よく書いて置いてくれたと思う。わたしでは、こうは書けないと思うところを具体的に、過不足なく適切に表現して置いてくれたために、さながらに母に会う心地がする。無心に無欲に書いたのが、成功しているので、文芸春秋の寺田出版部長がすぐ褒めてきてくれたのが、ご挨拶ではなかったとわたしも納得している。
「e-magazine湖(umi)」の根雪の一つに置いてみたいと、一日、校訂していた。わたしのは、手近にあった中から「新潮」が文句無くとってくれて、担当の小島喜久江さんがもう少し長ければねえと惜しんでくれた『青井戸』を出しておこうと思う。気持ちの佳い作だと思っている。スキャンに、もう少しかかる。
* 電子版「湖の本エッセイ」の筆頭に、『神と玩具との間=昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』を入れ、スキャン原稿の校訂を開始した。読み物ではないが、面白い本である。よく出版させて貰ったものだと思う。松子夫人が、辛い気持ちを怺えて下さったお気持ちが今はひとしおよく分かり、頭を垂れて心から感謝申し上げている。「谷崎愛」の仕事だからこそ、関係者はみな堪えて下さった。さもなければ、訴えられていたかも知れぬほど深く谷崎の私生活に踏み込んでいる。百数十通もの私信を駆使しているのだ。
2000 10・21 7
* 話されていることが、朧ろに分かる。能というのは、どこか、深くこわいものである。いろんなことを連想的にもの思わせるところがある。能をみながら、まるでべつごとを頻りに思い直していることがよくある。こういうことは、メールだから話せることなのかも知れない。
『聖家族』はきついはなしであり、まだ仕上げたという思いをもてない途中の作である。
2000 10・22 7
* 原善君の「初恋」論を読むまでもなく、この小説、ストーカーの恋物語だといわれても余儀ない場面を重ねている。フィクションではある、が、つらい恋は、いくらかストーカーをつくりだすものだと改めて思う。病的に陥らない程度、その程度のストーカーになれないようでは、恋人に満足される恋人にもなれるものではない。わたしにもストーカーの熱はあったろうな、今だって無くなってゃしないはずだ、と思う。
恋だけではない。いろんな人生の場面で、ストーカーになれる才能はむしろ欲しいと思う。そうでなかった真の才能などあったためしがないだろう。追いつめられるのでなく、追いつめて行く気迫。一つ間違えばただの醜聞になる。滋賀県の学校教師が、成績の付け方などで弱い立場の女生徒を追い込んで行こうとしたのなど、最も卑劣なストーカー行為で、ただのセクハラを越えた明かな犯罪だが、好きな相手をある程度まで追いかけて行くのは、一般には、いっそ自然である。この自然がどこから不自然になるかの判断、その判断の付くか付かぬかが、人間の力の境界だろう。
2000 11・2 7
* キイに触れる指先が冷たくなってきている。遠くを、ヘリコプターが旋回している。湖の本を責了してしまうと、ものすごく作業が混んでくる。また肩凝り歯痛がはじまりそうだが乗り越えたい。六十五歳の六十五巻。語呂合わせになったが、そうわるくない一冊が仕上がるように思っている。
2000 11・10 7
* 通算六十五巻目を校了。今月中に本は確実に出来るだろうが、発送の用意は、十の一も出来ていない。一つには、パソコン原稿に切り替えてから、校正往来がはやく、しかも直しが少なく、その余の仕事が取り残されて追いつくのに追われてしまうのだ。有り難い悲鳴である。いずれにしても、歳末も早めに発送は終わるだろう。世紀最後の誕生日はわりとらくな気分で迎えられる見通しになった。もっとも、「いい気になるな、どんな怪我が有るか知れないぞ」と囁く内心の声が、ひょいひょいと浮かんでくる。何なのだ、これは。体調が下り坂なのだろうか。ただの疲労か。
2000 11・12 7
* すぐ発送の作業に入り、夕過ぎには第一便を送り出した。明日は終日荷づくりにかかり、一日でも早く終えてしまいたい。
2000 11・28 7
* ほぼ発送できた。今回の『日本語にっぽん事情』は、同題の単行本とべつの単行本『名作の戯れ』とから編成した。日本語「で」読む・書く・話す微妙な特質を具体的な体験も読みも交えて、多彩に語っている。話す調子で書いている。単行本で出したときにもそれぞれに面白く読めると反響の多かった作品である。
2000 12・1 7
* 初めて「新潮」編集長の酒井健次郎氏に会った頃、彼は気のはやる新人にはこう言うんだよと話してくれた。「原稿をね、見ないんだ。ぽんと、引き出しに放り込むの。二三ヶ月経ってから引き出しを開けるとね、プーンと匂うんだな、佳い原稿はね」と。(おかげで、わたしは、原稿を私家版にしてしまい、それが、そのまま太宰治賞を受けた。)この寓意の言をわたしは、なにがしかの驚きと共感とで聴いたものだ、新人にはキツイ言葉であったけれど。酒井さんはもうとうになくなってしまった。
このとき受賞した作品も、受賞直後に実は劇的な変貌の好機を与えられたのであった。「展望」の中島岑夫編集長は、活字になる前にもう一度目を通してみますかと一両日の余裕をくれた。わたしは、必死の力をふりしぼって、そのチャンスに私家版作品『清経入水』に徹底的な推敲を加えた。作品は面目を一新したと、今でも思う、確信している。事実上、べつの作品に成長したのではないか、「展望」にはそれが掲載されたのである。むろん、審査を受けて受賞した作品より「よくなっている」と選者の先生方も認めて下さった。よくまあ、あそこまで手直しが利いたと、直したわたし自身が信じられないほどだった。湖の本の創刊第一巻には、現在上武大学教授の原善君が、その間のきちっとした「校異」を付けてくれた。それを見れば、一夜にして作品が劇的に変貌を遂げた形跡がありありと見える。推敲の一つの事例として、相当の意義を見せている。関心の深い人は、残部少ない冊子本「湖の本」第一巻で見て欲しい。 2000 12・4 7
* 「湖の本」エッセイ21「日本語にっぽん事情」拝掌致しました。配送作業、お二人でさぞかし大変だろうなあと改めて敬意を表します。しかも65回も。十数年も。繰返し、続けて。これは、恐らく誰にも真似のできない、本当に、誇るべきこと、幸せなことだと思います。どうかお体に気を付けて、今後とも読者を楽しませてください。
佳箋「人生適意」、感謝。どうぞ良き65歳の誕生日と新世紀をお迎えください。
「創4・糸瓜と木魚.txt」「創5・隠沼.txt」「創6・華厳・マウドガリヤーヤナの旅.txt」(スキャン原稿) お送りします。
『糸瓜と木魚』では、根岸の人たちが、ぐっと身近になりました。千葉県立美術館に建っている、浅井忠の銅像に会いに行ってきました。
どれもいいのですが、『華厳』が大好きになりました。辞書を引き引き読みました。師の傳山や、程毅やアクタカはその後どうしたろうか?高仲雍に抱かれて南へ行った揚子昭はどう成長し何をしているのだろうか…?
人も世代を繰返し、華厳。
おまえの命天から授かる 天はおまえに何させる。
* 嬉しい嬉しいメールである。さんざんの苦労に耐えて「湖の本」を続けてきた疲労が溶けて行く。だが、実情はじつに厳しい、当たり前の話だが。
2000 12・4 7
* NHKから、出たばかりの『日本語にっぽん事情』をブックレビューで取り上げたいので本を送れと電話が来た。ペンクラブの同僚委員が推薦してくれたようで、有り難い。プロダクション扱いらしく、電話口で担当者が勝手の違う本に面食らっているらしいのが可笑しかった。私家版であるのか、本屋では買えないのか。私家版は普通は売るのが目的でなく、また売れもしない。湖の本は買って戴くのだからそういう意味では私家版ではない。湖の本版元の出版物であり、そうでなければ六十五巻も、十五年も、出し続けられるものではない。しかし出血出版であることは間違いないのだから、ま、私家版といわれていいのである。本屋には一冊も出していない。そんなものを本当に取り上げるのだろうか、半信半疑である。
この仕事は「出版文化」の一変種として意義づけられていると思う。脱線した変種か、正統性を帯びた芽生えなのか、評価はまだ先のことになるだろう。倉が建たなくても、意義は必ず建つ仕事である。
2000 12・6 7
* 映画監督の篠田正浩氏から、湖の本への熱いメッセージが届いていた。嬉しかった。言うまでもない、夫人が女優岩下志麻さん。お二人と話したこともある。書家の篠田桃紅さんも一緒だった。女優岩下は「バス通り裏」のデビューの頃から好きで、その頃すでにこの女優は大きくなるよと予言していた。みごと実現した。夫君も夫人も、フランキー堺らの「写楽」にたいへんな肝いりであったことは、映画を観て知っている。田名部昭氏のe-m湖umiのエッセイにもそれが書かれていた。
その篠田氏が、新世紀は「孤高」の仕事に光の添う時代になるでしょう、と。どうも孤高でも困るのだけれど、とにかくも意欲的に、静かに、打ち込んだ仕事がしたいと、心励まされている。
2000 12・8 7
* 『日本文藝の詩学』の小西甚一さんから、九大名誉教授の今井源衛さんから、東大教授の上野千鶴子さんから、俳人で理事仲間の倉橋羊村さんから、『日本語にっぽん事情』に佳いお手紙をもらった。
八十五歳の、当代の碩学小西先生は、著述千秋楽のつもりで鋭意執筆中の研究書主題に関連して、「御著に導かれる点も多く、ありがたい事」と書いて下さっている。ありがたいことである。
上野さんは「女文化と日本語の項を読んで一驚いたしました」と。「ウーム、とうなりました」と。「男の方がよくここまで言って下さったと感嘆しております」と。「今回は感激の余り、感想を一筆したためました」とも。そして新著『上野千鶴子が文学を社会学する』を頂戴した。「女文化」に真っ向から反応をえたのは、上野さんが最初ではなかろうか。いちばん触れて欲しいところへ、いちばん触れて欲しい人から触れてもらえて、とても嬉しい。
京都からは、人にぜひ読ませたいので十冊追加で送るよう注文が来たりしているし、ブックレビューで紹介すると、びっくりするほど注文が行きますよと、推薦してくれた人から予告されている。ちょっと戦く気分である。
2000 12・11 7
* 素晴らしい冬晴れ。午後は理事会に出て行く。晩に、一つパーティーの案内が来ている。今日からは昨日届いた叢書を最初から読んで行く。逢ひたい人がいつでもいるように、読みたい本がいつでもあるのは頼もしい。そういう本を書きたい。湖の本にはカバーなどつけません、汚れてもかまわない、いつでもどこへでもお連れに持ち歩くのですというメールを昨日もらった。それでもあまり本が傷んだのでと、補充の注文とともに。嬉しいこと、有り難いこと、だ。
2000 12・15 7
* 詩人村山精二さんから『日本語にっぽん事情』にメールを戴いた。村山さんホームページにも書き込まれている。お許しを願い有り難く転載させてもらう。
* 昨日、拝読いたしました。京言葉に代表される日本語の曖昧さ、その良さ、小説の読み方の基本など、お教えいただくことばかりで有意義な休日を過ごすことができました。
例によって勝手なことを書かせていただきました。お忙しい中、拙HPまでおいでいただくのも申し訳ないので下記に本文をお送りします。お目通しいただければうれしく存じます。
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「日本語にっぽん事情」という総タイトルが付けられていて、「日本語で『書く』こと『話す』こと」「いろは日本誌」「日本語で『読む』ということ-春琴と佐助-」「再び日本語で『読む』ということ-名作の戯れ-」「電子時代の作家の出版」などのエッセイが収められています。
秦さんの日本語への造詣の深さにはいつも感心していますが、今号もその思いを新たにしました。それに何と言っても今号は小説の読み方について考えさせられました。
「日本語で『読む』ということ-春琴と佐助-」では谷崎潤一郎の『春琴抄』を取り上げて、小説の読み方を間違ってはいけない、行間にある作者の本当の意図を読まないとダメだと教えられました。でも、それはそんなに難しいことではなくて、次のように述べています。
本文の流れに自然に乗って読む。普通の読書の、それが普通の姿勢であっていいでしょう(123頁)
書く側と読む側の双方の目を持った人の言葉だと思います。もちろんこれ以外にも重要な指摘はいっぱいあります。それを書き出すとキリがないのでやめますが、実はこの言葉は普遍的なものだと思っています。小説もそうですが、自然現象を扱う分野や私のような工場の技術屋にもあてはまる言葉なんです。普通の感覚がないと現象は理解できないし、間違った結論に陥ってしまいます。過言すれば人生も同じなんではないでしょうか。そこまで考えさせる言葉だと思います。
2000 12・19 7
* インターネットに深入りしないで、やはり従来のように出版社から本を出して行く作家活動がだいじなのではないか、今のままではアングラ作家になってしまわないかと、或る知人から手紙が来ていた。同じ思いの人が少なくないであろうと、重々承知している。
だが、そういう普通の作家でいたければ、わたしは「湖の本」もやらなかったでしょう。「売らんかな」出版社の「非常勤雇い」の作家風情ではいたくない、そんな情けない真似はもうしたくないと思って、或る意味で(この資本主義型の文壇に棲息するには)不利になる面はみな承知の上で、十五年、ここまで歩いてきた。地上だか地下だか知らないが、各出版社からの単行本などは軒並みに百冊近くももう好きなだけ出してきたのだし、今も好きなだけ「湖の本」で出せているのだし、なにより、既製の出版社に出してもらう単行本だから無上の値打ちがあるなどとは、ちっとも考えていないのである。向こうで望んでくればいくらでも原稿は上げるけれど、わたしから売りこむ気は、すこしも、もう無いのである。
そういう珍しい作家で、行けるところまで行って、果てはどういう成り行きになろうとも、「わたしは、わたし」の存在理由を喪うわけではない。世にときめこうが、ときめくまいが、一つ一つの小説にせよ批評にせよエッセイにせよ、誰のものと較べられても、わたしはわたしの独自の仕事をしてきたし、すこしもヒケはとらぬことをよく知っている。知っている人はちゃんと知っていてくれるとも知っている。それでいいのである。俗も非俗もないのだが、世間を如才なく人の顔色をうかがいうかがい小心に生きるなんて事は、もう六十五になって、ますます、したくない。ご心配は忝ないが知己の言ではない
2000 12・21 7