* 冊子本「秦恒平・湖(うみ)の本」がどんなふうに編輯されているか、なるべく実物に近いモデルとして、最新刊のエッセイ21『日本語にっぽん事情』を、ホームページ「湖の本エッセイ」第7頁に掲載した。目次から跋に至る全頁を校閲済みであるが、もとより、軽装で表紙も美しいA5版「冊子本」縦組みで読まれることをお薦めする、どんなに読みやすいか知れない。また旅のお伴にも最適と喜ばれつづけて来た。新しい、次の通算第66巻をいましも編輯中である。
2001 1・4 8
* 湖の本の通算第66巻を入稿した。肩の荷が、ひとまず少し軽くなった。
2001 1・9 8
* 昨晩には、湖の本最新刊がBSテレビで紹介されたはずだが、うちでは見られないので、これもヨソゴトのようでしかない。
2001 1・14 8
* 長田渚左さんが、佐高信氏らとともに『日本語にっぽん事情』をBSテレビのブックレビューで親切に紹介してくれている番組ビデオを、友人に送ってもらい初めて観た。うまく問題点や力点に、三人の評者も、司会の木野花さんも、正確に触れてくれていて、著者として有り難かった。書店に置いてないので視聴者からの注文は数冊に止まっているが、それは構わない。拾う神があって親切に拾ってもらえたことが嬉しい。城景都氏の表紙絵がとても美しく見えたのもよかったが、わたしの顔写真がブラウン管いっぱいに映ったのには閉口した。
2001 1・19 8
* 今朝嬉しいことも有った。心したしいペン会員のお一人からメールをもらった。気分直しに、ここに書き写させていただこう、嬉しかった。
* 『親指のマリア』とくと楽しませていただきました。
とても一言では形容しがたく、いずれ、感想を。闇の中から浮かび上がる心象のマリア像を、網膜に焼き付けました。父(パードレ)のおよび(親指)をはみだす、あおの聖衣は、間違いなく、シチリアの母(マードレ)なるアズッロ(紺碧と藍)の海と直感しました。
殉教の章「彼は、見た目はぼろぼろに衰えながら、胸の底の一点だけは清々しく洗いあげて、ほうっと芯から明るんだ長助の目に心ひかれた。魂にも色がある。その色が似ているからか、容貌も体格もまるで別でいてヨワンと長助に通いあうもの、優しい感じ、があった。」
美しい、じつに美しい「生まれ清まはる」ような、はっと胸をうつ言葉です。白石、ヨワン、長助のトリニダードを、読みての私に仮託、具現した一瞬かと、錯覚したほどです。
時代考証はもとより、正確、懇切丁寧で、歴史観・歴史認識、東西の文明交流など、作者と種々のテーマを有難く共有することができました。
今冬はことのほか冷えます。御身大切に。
次は『最上徳内』を読んでみます。
* 『親指のマリア』は、実際に読んで下さった方からは、概して、こういう読後感を得て満足していただいている。立場的な信仰を固守しているたとえばカソリックの人からは、またプロテスタントの人からは、一部不承の声も聞いたけれど、わたしの造形した新井白石、シドッチ神父の「魂の色」を重ね合わせた東西の知性と精神の対話に、かつて見なかった批評を読みとって下さった人も少なくなかった。例えば京都の清水九兵衛さんは世界的な彫刻家だが、顔が合うとよく言われる、「ぼくは『親指のマリア』が好きですよ、よかったなあ」と。
残念ながら、だが、わたしの読者達は「いい読者」であるがゆえに、数多いとは言えない。数多い読者を得られないのは作品の責任であるという議論の建て方の有るのも承知しているから、わたしは、黙って、今のような生き方を続けているのである。それでも、こうした嬉しい朝にも恵まれるのである。
2001 1・23 8
* 一日、校正に明け暮れた。一冊分の初校には精力がいる。句読点の一つでさえより良くと願うからだ。印刷所に渡した原稿から、最低二度の校正でさらにずいぶん手が入る。すでに単行本として出版済みの作品にでもなおそれだけの気は入れる。推敲や添削はやりすぎて殺してしまう恐ろしさと、やればやるほど良くなる不思議とが備わっている。添削や推敲は才能の大きな部分を占めていると気が付かないと、いつもザラザラしたやりっぱなしの仕事になってしまう。
* 推敲や添削、非常にきつい仕事である。単なる校正とは同日に語れない。その校正もまた大変な労作である。集中し注意の限りを尽くさねばならず、それでも不注意にミスを残す。一度の校正で完璧というようなことは、本一冊分ともなればあり得ないと言える。わたしの「湖の本」にも無数の誤植があるだろう。自分の書いた文章を自分で読んでは校正はダメなのだが、致し方ない。六十六巻めをやっているが、たいていの作家なら、まず、この校正という作業でへたばるだろう。
* 千葉の勝田さんに、また、『閨秀』などのスキャン原稿を送っていただいた。
2001 1・27 8
* 夕方、広末涼子と小林薫の映画「秘密」を、中途から見始めて、したたか泣かされてしまった。この映画は、出来た頃のキャッチフレーズをみて、すぐ、ねらいを理解していた。広末はその当時早稲田通学問題であまり評判が良くなかったけれど、奇妙に気になる、好きになれないのに気になる女優であったため、さて、この子にこういう微妙な役が出来るのだろうか、出来るとして配役されているのなら、相当評価されている演技者なんだなあと遠くで思っていた。好んで映画館へ見に行こうとは考えなかった。
最近、彼女が役所宏司とのビールのコマーシャルのなかで、泡の膨らむジョッキをみながら、「きれい。コマーシャルみたい」と言うせりふのさりげない旨さに、感心していた。コマーシャル写真の中で、役所の手でうまくつがれたビールの琥珀色と泡とを、「コマーシャルみたい」と口にして極めて自然というのは、たやすい芸当ではない。が、こともなく広末涼子は呟いていた。
その広末の「秘密」がテレビで見られるとは、思いがけなかった。
母娘で交通事故に遭い、母は死んだものの、生き延びた娘の肉体に魂として生き移り、娘の存在が実質失せて夫と暮らしてゆくのである。見た目は娘のまま、妻の心と言葉をもって夫との生活をはじめるのだ、なかなか巧みな物語を、ベテラン小林と若い広末とは、悩ましくも緊密にうまく演じていた。そして、不思議の日々は「現実」の前にいろいろに揺れ動く。
* 数年前に「死者たちの夏」といったか、同じ傾向の佳いドラマがあり、舞台でも、すまけい主演のやはり死者と生者との交感の芝居が好評だった。
こういうのを見ると、わたしは、今昔の感を覚えざるをえない。幽明境を異にしながら、生者と死者とがおなじ次元おなじ地平で心も暮らしもともにするという創作を、わたしは、現代の創作者としては、最も早くに肇めていた。『清経入水』で太宰賞をとったとき、このような作柄の小説も舞台も、むろん真面目な文学や演劇としてはまるで世間に存在していなかった。「化け物小説」「妖怪小説」とも揶揄され、「秦氏は生の世界と死の世界とを自在に往来できる人」と批評家奥野健男は書いた。たしかに「初恋」「北の時代」「冬祭り」「四度の瀧」「秋萩帖」「鷺」「修羅」そして多くの掌説作品など、みな、尋常のリアリズム作品ではない。生者と死者とが緊密に共生しつつ物語は展開する。
わたしの世に出た頃はもとより、その後も十数年、めったにこの種の不思議を現実のなかへ普通感覚で持ち込んだ作柄には、お目にかかれなかった。わたしより以前でも、それこそ、泉鏡花にまで溯らないと、まともな仕事はなかった。そしてその前は、上田秋成か。
それからすれば、最近は、「秘密」のような作品は、むしろ趣向としてもそれが人気を得ている。バーチャル感覚に慣れたとも言えるが、生死の感性に、不思議を許容する欲求が根ざしてきたとも言えようか。若い人たちの小劇場での舞台づくりにも、ごく自然にその傾向と表現とが見えている。ひとつには「宇宙戦艦ヤマト」その他のSF感覚がその辺の間口を広げたと言えるが、だが、「秘密」や「死者たちの夏」などは、やはりそういうものではなく、むしろ、わたしの創作・作風の後続・展開だという感じがもてる。生と死との問題なのだから、モチーフ自体が。わたしは、何となくほっとして、そして感銘をうけるのだ、こういう作品に出逢うと。
2001 1・27 8
* ホームページ経由の冊子版「湖の本」の注文が、少しずつだが、有る。有り難い。
2001 2・2 8
* 新しい「湖の本」の三校が出そろって、凸版に追いまくられている。わたしも仕事は遅いほうではないが、凸版さんも早い。妻はよく「いい勝負ね」とわらう。今回は完全に追い込まれている。
2001 2・17 8
* 午後出かけようかと思っていたが、やはり家で作業を続けることにした。順調にいってもう一週間は発送のための挨拶書きにかけねばならない。その他にも発送のために、搬入された本を置く場所をつくったり、まだ各大学研究室への寄贈の挨拶を書いてコピーしたり、いろいろ用事が残っている。対談ゲラの最後の手入れものこっているし、今日にも催促されそうな約束原稿があり、次回原稿お願いというのがどさりと届く頃でもある。
2001 2・21 8
* 谷崎戯曲の最後の大作「顔世」を昨夜読み上げた。五幕ある。それだけでも大作だが、ト書きの隅々、舞台設計まで気を入れて書いてある。舌なめずりするように絶世の美女で人妻である顔世つけねらう高師直の惑溺と暴悪とを書いている。舞台に実現したい意欲満々の作劇であることは容易に理解できるが、作者の興奮しているほど見ていても興奮するかは分からない。顔世その人は、最後の最期に自害して果てた死骸としてしか登場せず、終始チラリズムに徹している。陰翳礼讃の時代で谷崎の好みであるが、効果のほどは分かりかねる。ただ、例えば「法成寺物語」などに比べてもざっくり書かれてあり、読む戯曲という以上に演出や演技のための台本の傾向がつよくなっている。よく書けているし、幕ごとに事態が移り動いて悲劇的に終え、顔世のいわば聖性や超越的な美しさは感じられる。陵辱されなかった永遠の美を谷崎ははっきりすくい取っている。女への敬意と拝跪とがハッキリ出ているところ、大正時代の谷崎とは大違いである。昭和八年は、『春琴抄』が書かれ『陰翳礼讃』の書かれた昭和初年の絶頂期であり、根津松子との同棲が公然と始まっている。すでに形ばかりの二人の結婚式が営まれる昭和十年一月には間がない。ついでに笑い話を添えて置くが、わたしは昭和十年十二月に生まれた。水上勉さんが、筑摩の編集者に、秦さんは谷崎と松子さんの隠し子かいと小声の真顔で尋ねられたというのである。わたしの「谷崎愛」は、そんなナイショ話にまで熟していたかと思うと、正直、嬉しかったものだ。
谷崎は、「顔世」を最後に最期までもう戯曲は書かなかった。何故か、それも一つの解答があっていい課題の一つである。
2001 2・21 8
* 暖かい一日だった。湖の本を、表紙などももろとも責了にもちこんだ。電メ研報告書も、とにかくも仕上げた。コラムも連載原稿も送った。仕事の山が三分の一は低くなったが、来週末には新たな書き下ろし本の仕事が来る。病院行きや会議が続いてゆく。
2001 2・22 8
* 『最上徳内=北の時代』、上巻読み終えました。
はなから、著者の誘導・誘惑にうなることしきり。膝をうち、ひとりごちするばかりで、とんと先へ進みません。あげく、脱線につぐ脱線。時間をかけてじっくり賞鑑するしかありません。
まず、冒頭の導入部の巧みさに感心し、プロットの心地よさに先へ進みかけては、タイミングよく挿入されるエピソード・アネクドートに引き戻され、ゆきつもどりつ、これは実にちぢに心を乱される「問題書」であります。
たとえば、楯岡(村山)は、むかし、体を鍛えていたころ、居合道の始祖・林崎甚助神社にお参りしたとか、友人の結婚式に呼ばれて、筍狩りをしたとか、思い出が蘇ります。松前については、以前読みかけた明治期の地方(じかた)文書をひっぱりだすとか。
私淑する森銑三先生、太田直次郎とか、『傷寒論』がでれば、トクホン本舗の祖にして、現代中医研究家から評価を受けている永田徳本の『傷寒論』に想いを馳せるとか、でるわでるわ、とつおいつ、縦横に楽しく思い悩んでおります。
誘導の主因は、飽かず「車窓」を楽しめる、駅弁を楽しめる鈍行の各駅停車、そして時に高速のタイムスリップの旅の企画と旅程管理の面白さ。車中で靴をぬぎ痒いところをボリボリ掻ける、といった感じもたまりません。
もう一つ。誘導の手並みは、やはり、言文一致の「方法」の妙ではないかと、つらつら考えます。江戸の言葉が、庄内弁が、まったく生きているようです。とくに、江戸弁がいい。そして、語り部(ナレーター)のいまようの憑依の語り口が。そして、この時代に、果たして「普通語」(共通語)がどのようにありえたのか、あったのか。武家、公家、知識階級の共通語たる、主にリテラシイ(読み書き)を中心にした文語と、その延長線上のフォーマルな口語というべき「みやこ言葉とそのボキャブラリ」とは別に、地方には地方の口語(いま、謂うところの方言)があり、江戸には江戸弁があり、それが渾然と「はなしことばの日本語」を成していたのか?想像は尽きません。
中、下の巻に進む前に、一言感想を申し上げました。読後、あらためて一筆したためます。
まずは、「二人同行」の御案内方、御礼を。
ホームページの大字のフォント、だいぶ読みやすくなりました。拡充、慶賀に存じます。
* 最上徳内を、わたしは最も優れた日本人の一人と数えてきた。文藝・藝術の人をべつにすれば、徳川三百年のうちにわたしの小説に書いた人物は、敬愛した人物は新井白石と最上徳内の二人。むろん書き方(方法)はまったくべつべつの二つの長編小説であるが、精神は、白石から徳内へとしっかり繋いだ。日本の近代の幕開きに、この二人の果たした役割はすこぶる大きい。
最上徳内とわたしは、自在に連れ合って話し合って、むかしの蝦夷地をゆっくり旅して回る。そして日本の「北」の問題を江戸時代と現代との両面から考え合いながら、わたしにはわたしの旅の恋などが展開してゆく。徳内さんには徳内さんの波乱に満ちた半生と、人語を絶した幕吏初の蝦夷地・奥蝦夷探検の、その後に繰り返された蝦夷地政策における活躍があった。そういう、広大な問題を広大な北海道を舞台に書いていった。岩波書店の雑誌「世界」にほぼ二年ほども書いたか。書かせてもらえたのは、ほんのわずかなキッカケからだった。寛容に企画にして貰った高本邦彦氏に今も深甚の感謝を捧げている。大勢の人のご厚意に助けられた。その中には弥栄中学の昔からご縁の遠藤夫妻もおられた。早稲田大学図書館に勤務されていて、文献のことなどで何度も助けていただいた。
* 徳内とわたしとは、しばしば自在に「部屋」と称する場所で出逢い話し合っている。徳内さんだけではない、その「部屋」へ入って、わたしがふすまの向こうへ呼びかければ、後白河院であれ紫式部であれ、どなたでも気軽に姿現れてわたしと膝をつき合わせて話し相手をしてくださる。そういう「部屋」をわたしは持っている。わたしのほかには誰も入れない「部屋」である。上の小説はこの「部屋」から自在に時空を超えて出て広がって行くのである。
* 秦恒平の世界を、『畜生塚』『慈子』『みごもりの湖』の系列でみてきた読者がいた。また『風の奏で』『親指のマリア』『最上徳内』の系列で読み進めた読者もいた。その中間に『清経入水』『初恋』『冬祭り』『秋萩帖』『四度の瀧』などの幻想世界を愛してくれた読者も多かった。もう一つ『閨秀』『墨牡丹』『糸瓜と木魚』『あやつり春風馬堤曲』などの藝術家小説があり、『廬山』『華厳』『加賀少納言』も加えうるかも知れない。百には満たないが「掌説」世界もある。自伝的な『猿』『客愁』三部作や『罪はわが前に』や、実録の『迷走』三部作もあった。戯曲『こころ』もあった。歌集『少年』も編んだ。なんだ、こんなものかと、主なところを数え上げて我ながらあっけなくも思うけれど、まずは力の限りの仕事をしてきたのだし、致し方ない。
一作一作、ちがう方法を実験するようにわたしは書いてきた、それだけは満足している。方法的な意欲が失せたとき藝術家はおしまいである。あとはうまみだけの惰性であり、惰性でするほどの仕事とは思っていない。創作とはいえないからだ。「創」という文字にはある攻撃的な武器的な性格が籠められてある。創意を欠いた創作では撞着甚だしいといわねばならぬ。
2001 3・6 8
* 新しい本が届いた。きれいに出来あがった。発送にかかる。
2001 3・10 8
* 終日荷造りし、一便を送り出した。申し訳ないが、子松君たちのコンサートへは行けなかった。晩も、シガニー・ウィーバーの「エーリアン 3」を見つつ聴きつつ作業した。シリーズの最後になるのだろう、おそろしく映像は気持ち悪いのに、なぜかこのシリーズをわたしは評価してきた。前の二つも、一度となく見ている。シガニー・ウィーバーはわたしの好みから逸れる女優なのだが、「エーリアン」シリーズに関する限り、これが逆の効果になるのか、敢闘ぶりに驚嘆し共感するのである。映像の不気味さも、よく出来たものだという肯定に繋がっている。極限状況の設定こそ映画の最大の武器だが、徹底しているところがいい。
* 発送も、妻が手伝ってくれなければ、三倍の時間と体力を要するだろう。だが、妻は疲れる。映画の時は、さきに休んでいた。六月の桜桃忌で創刊から満十五年、おもえば二人三脚で遠くまできたものだ。今回が、創作とエッセイとの通算六十六巻め。日本中で自分の作品集を六十六巻いつも在庫をかかえて読者の要望に応じられるような作家は一人としていないだろう。文庫本でも絶版のはやいことを誰も嘆いている、売れっ子ですらも。どこもかしこも「出版」は、変なのである。湖の本をはじめた十五年前に気づいていたことに、今頃やつと気づいてきた作家がいるのだ、驚いてしまう。
2001 3・10 8
* 今日も終日発送作業と、送り出し。晩も、引き続き。午前、田原総一朗の番組では、致し方もなく石原都知事の歯切れのいい論評に聴くしかない、他の国会議員の没人間的なうじうじした物言いに、ただ、落胆するばかり。保守党の野田幹事長というのは、なんてイヤな政治屋だろう。このごろしきりに顔を出す自民党森派の高市なんとかという女議員も気色の悪い、人柄を感じさせない、いやな女ぶり。うんざり。
* そのせいか、作業の疲れか、歯の根が浮いて気分が悪い。仕方がない、こういうときは用事をひたすら先へ送り出して肩の荷を下ろすしかないのだ。
2001 3・11 8
* 今回の『能の平家物語・能 死生の藝』は、製本がきれいに出来ていて、煩うことなく能率良く送本作業をほぼ終え得た。本が綺麗に出来てくるとらくで、表紙の背筋が汚れたり歪んだり皺よっていたりすると、一人一人の読者のために一冊一冊本を吟味しながら荷造りしなければならず、これには神経を痛めてしまう。職人の腕前なのか心がけなのか分からないが、ときどき泣きたいほど出来の悪いことがあった。初期にはひどかった。今は凸版のお世話になっているが、その前の最初の四冊は、恵友社という会社が印刷製本していた。だが、その製本の杜撰で乱暴なことは目を覆いたいほどであった。ほとほと泣かされ、堪りかねて、文藝春秋寺田英視氏厚意の紹介で凸版印刷を頼むことにした。職人が自分の手仕事に誇りをもっていないとき、どんなものが出来上がってくるかをわたしはしみじみと体験してきた。
いま、凸版で面倒を見て貰っている人の親切は筆紙に尽くせず、維持継続のほんとうに大きな支えであった。心から感謝している。仕事の速くて的確なことにもいつも敬意を覚えている。
創刊満十五年、通算第六十七巻を、どう編成するかを、もう早速考えねばならない。
2001 3・12 8
* 昨日思いがけず、ポストに湖の本の届いているのを見つけました。前のメールで申し上げましたように、私は読書によって家族を飢えさせる名人ですので、本の読み方に注意しています。とくに、秦先生のご本はいけません。ですから、湖の本はあえて継続して申し込みというかたちは避けておりました。
先生の「私語の刻」で新しいご本を発送という記述を目にして、密かに「どんなご本かしら?」と羨ましくてしようがありませんでした。昨年末お送りいただいた湖の本六冊は一度目を読み終わったところですし、秦先生のファンとしては新しい本を読みたいという欲求を抑えるのは大変なことです。しかし、家庭の平和のために次の申し込みは五月の連休のころまで我慢しなくてはと思っておりました。
ところが、湖の本の新刊が届いたのですね。これは私の願望が先生の無意識に届いたのか? ただ先生のお間違えか、それとも先生の家庭崩壊の企みか?(笑)とにかく私は嬉しくてなりませんでした。『能の平家物語』という題名だけで、本の頁をめくった先に広がる世界が想像されて、秦文学の世界に酔いしれる気分です。
「清い」と「静か」と、それが能の、また日本の美の真髄であると感じていた──。
本のはじめにあるたった一行の文に魅せられました。数年前にドイツ滞在時の経験をもとにして、三百枚ほどの書簡体小説のような、エッセイのようなドイツ文化論を書いてみたことがあります。ドイツの姿を描くことで、同時に日本の姿も書けたらと、身のほど知らずにも思いました。ドイツの一面を描くことはできたかもしれませんが、日本の真髄に言葉を届かせることは難しいのでした。それを先生の天才はひと言で見事に、美しく表現なさってしまいます。ため息がでました。「清い」「清まはる」というのはたしかに、日本を日本たらしめる、得がたい美質です。ドイツは静寂の国ではありますが、それは「静か」とはずいぶん違います。ドイツの静寂の底にあるのは、硬質な、骨の髄まで人を蝕む孤独ですが、日本の「静か」はにじむようなやさしい、さびしい色合いをしています。
先生のすべての作品のなかに「清い」「静か」な日本の美が流れていて、だからこそこんなにも私の心をひきつけるのでしょう。『能の平家物語』、この死なれ、死なせた人たちの不思議な稀有の世界に誘われていきたいと思います。
この度は、ご送本いただき本当にありがとうございました。
* ごめんなさい、ありがとうと、こころからの礼を言った。
湖の本の維持はきわめて難しい。代金の回収は二の次にしてもただただ送り続けていないと、決して自然に増えてゆくことはなく、やすやすと自然に減ってゆく。出版の継続とはそういうもので、こころを鬼にしてでも自前の些少の理屈をつけては、ひたすら撒くように送れる先へ送ってきた。当然、おおかたは代金回収が出来ない、が、本はだれかの手と目とに触れたことであろうとそれだけに心を慰めて、いわばタダで随分な数を撒いてきた。だが、だから十五年を維持できたのでもある。送ってくるなと叱られ怒られたことは数知れない。が、叱り怒った人が、そのまま長い年数の継続読者になって下さっている例も数え切れないのである。出逢いだと思う。叱られても怒られても、それが当然だと頭を下げつつ、しかし送れる先のあることをくじけずに求め続けてきた。それなしにとても続く仕事ではなかった。「ごめんなさい、ありがとう」と心から申し上げる。
2001 3・14 8
* ご本をありがとうございます。
一度に読んでしまうのが惜しくて、一篇づつ、たのしみたのしみ拝読しました『能の平家物語』でございましたが、こたびはもう一篇の「死生の藝」というタイトルに、と胸をつかれました。
「蝉丸・逆髪」、いつもながら先生の「読み」に、魂のどこかが、ざわめき、「清経」の「あああの清経に自分が化ってみたい」に、わたくしにもあった「化ってみたかった」ひとを久しぶりに思い出したりしました。恒平少年とは大ちがい、子ども子どもした焦がれの対象でございましたが……。
二日ほど前、こちらは春の風花が舞いました。早春のひかりにきらめいて、ダイヤモンド・ダストという雪は、こんなかしらと見とれました。
松篁さまが逝かれましたね。松柏美術館にゆきましたときのことを思い出します。 おさびしく、偲んでおいででございましょう。
木の芽どきは、気持ちがふらふらしがちで、しっかりしないと、歌舞伎座も、鑑真和上にも、逢いそびれてしまいそうで。
* hatakさん。 湖の本66巻、新住所の方へ無事到着しました。発送作業のお忙しいときに住所変更をして、お手を煩わせてしまいましたね。
あとがき「私語の刻」で、一度は諦めたカラー版口絵写真、「十六」にしばらく見入りました。学会誌にカラー図版を一枚載せると掲載料がいくら跳ね上るか経験しておりますので、大サービスにただただ感謝あるのみです。
三月三日『桃の節句』に、新築の四階へ転宅しました。窓からは職場が見え、古いサイロが見え、また札幌の街の灯も見えます。旧居の一階は半地下の駐車場でしたが、雪が積もると車が入らなくなって、雪かきに難儀しました。新居も同様な構造ですが、こちらは床が路面より僅かに高く造られていて、どんなに雪が降っても車はスムーズに出し入れで
きます。一年暮らして雪に降られ、北の家造りの工夫を知りました。引越代が良い授業料になりました。
週末からフィリピンへ、調査に出かけます。ミンダナオ島の奥地へ入ります。夜灯があれば「能の平家物語」読んでみましょう。 maokat
* 「平家物語」は、誰にでも「自分にとっての『平家』」のある作品のような気がします。好みの人物、好みの逸話、好みの台詞・・・目玉焼きの食べ方と同じで、誰でも一言は自分なりの意見を言いたくなる話ですね。
私個人としては、知盛のファンです。
「見るべきほどのものをば見つ」
この台詞は、読む本によって異なることが多いですね。「見るべきものは見つ」や「見るべきほどのものは見つ」など。浅学のため、信頼すべきものがどれなのか存じませんが・・・人は、いつでもどんなときでも、「見るべきほどのもの」を「見」終えているような気がしてなりません。人生に恵まれている私の感傷かもしれませんが。
毎日、「よく生きさせてもらった」という思いがどこかでたゆとうています。
先週あたりから、家の裏で鶯が鳴きはじめました。
まだきれいに「ほーほけきょ」と声が出ず「けきょ、ほけきょ」などとやっています。もうすぐ春本番ですね。わが家の食卓にも、新若布やあおやぎなどが登場しています。
桜が咲けば、杉花粉も少しはおさまると思います。どうぞご自愛下さいませ。
* わたしなど、とても、まだまだなにほども見終えていない気がする。何も見終えられないで果ててしまいそうな気がしている。
2001 3・15 8
* 続々と新刊の湖の本に手紙が届く。なかに、「悪筆家元」と朱印のあるはがきにおどろいた。小西甚一さんである。わたしの最も尊敬する碩学のお一人である。
* このたびは『平家物語』を基底とする御本なので、わたくしの「知つてゐながら通じなかつた」点を多く学ぶことができまして、狭い眼界を拡げていだきました。周知の事実を採りあげながらも、それらのもつ「本当の意味」へ掘り下げてゆかれる鮮やかさ──感歎のほかありません。
* こんなように言ってもらうと、かえって至らなさに身が縮む。杉本苑子さん、木島始氏、馬場一雄先生ら、また大学の研究室や図書館からも手紙が来るし、払い込みをしていただく読者の通信にも、心嬉しいものがどっと溢れる。メールもとぎれなく届く。きのうはの晩には、亡き村上一郎の奥さんであった歌人小平栄美さんの電話ももらった。
木島始さん、病床に、とうかがい心配している。
2001 3・16 8
* 湖の本の新刊お送りくださいましてありがとうございます。まだ読みはじめですが、興味深くて。
平家物語は、中学の古典の教科書にあった部分を読んだ程度ですが、傍系には多少なりとも触れていたと思います。
高校生のときに読んだ三島由紀夫の「近代能楽集」に確か「熊野」があって、同じ頃、NHKで歌舞伎の熊野を見ました。当代の歌右衛門さんだったと思います。当時のわたしは物語の表面だけ受け止めていたなあと思い出しました。今は、というと、秦さんのエッセイの熊野のくだりを読んで、深く頷いた次第です。物語は見方によるなあと。
例えば「ローマの休日」。
秦さんも映画がお好きなようですが、わたしがこの映画を初めて見たのは中学二年生のときでした。友人から、見せてあげると言われて。そのときわたしは「ローマの休日」はもちろん、オードリー・ヘップバーンさえも知りませんでした。なんだかわからない映画をむりやり見せられて、正直言って筋も頭に入りませんでした。しかし、人気のある映画ですので、テレビ放映も多く、何度か見ているうちに、今ではすかっりお気に入りの映画のひとつとなっています。なぜ多くの人の支持を得ているのか理解できます。自分が変わっているせいなんだろうなと思います。
源氏と平氏の物語の全体を知らなくとも、源平の合戦にまつわるあれこれは、小さいときから絵本やドラマ、ときには教訓めいた話の中で聞いたものです。牛若丸と弁慶、富士川の戦い、義経の八艘飛び、壇ノ浦の戦い、など、ぽつぽつと思い起こすことができます。
能は実はあまり興味を持てないでいますが、歌舞伎は好きで、そうなると、勧進帳をはじめ、義経千本桜、俊寛、熊谷陣屋、船弁慶などありますから、平家物語はわたしにとってきっとおもしろい読み物になるのではと思います。古典を読むと、時代や習慣は違えども、人の気持ちの変わらないのに感慨を覚えます。今回、秦さんのエッセイをよすがに平家物語を読んでみようと思いました。また、お能も然りです。
湖の本ですが、継続して購読したいと思います。過去のものも、リストを見て追々注文させていただこうと思っています。
* このようにして魂の色の似た人たちとの出逢いに恵まれる。湖が、すこしずつ広くも深くもなってゆく。本を出版して売れることだけがわたしの「湖の本」ではない。魂の色の似た人に出逢いたいのである。それが創作者の「生きる」という意味であるのかと感じている。
* 今号は、なんと、能尽くし。うれしく楽しく拝読いたしました。
・女面について、小面のツレに恋をしてしまったとのお話。まさに私も同様の思いをした経験があります。「松風」で、妹の村雨が新しい真白な小面で現われ、古い面をかけた姉に比べて、あまりに初々しく清らかでしたので、「ぼくなら妹をとるよ」などと不謹慎な思いをもって観ていたような次第です。
・「清経」の「清」の字へのあこがれのことですが、今から10年ほど前、京都観世能楽堂で、清和師の「清経」を観たことがありました。お幕から、音もなく、いと涼しげに出て来た時、思わず息をのみました。その袖から出た手の指先の、武士のそれではない、極めて貴族的なほっそりとした清い美しさにうたれたのでした。「清経は清和に限る」などと思って観ていました。
・今年の「翁」は、銕仙会でした。三番三は山本則直師。農耕的にどっしりとしていて、いかにも地の霊を鎮めるという重心のしっかりかかった舞でした。うれしくて、思わず涙ぐんでしまったほどです。最近の若い狂言師の、気負いすぎてバッタのように飛び跳ねる鈴の段など論外です。
・「玉鬘」は、ちゃん付けで呼びたいほど好きな人です。
・・・・などなど、秦先生のお好みのお話に、つい膝を乗り出してしまいました。おゆるしください。
「e-文庫」へのお誘い、誠にありがとうございます。拙作のうち、捨て難いと思う愛しい掌編がございます。ご批評のほどよろしくお願い申し上げます。
* 五月の文楽は「一谷嫩軍記」の通し。
花粉症は出ますか? お健やかにお過ごしでしょうか。
「十六」のお写真を見つめていると、暗がりで、刃をかざし、その光で、血の色が映える喉の白さを、のけぞらせて見てみたい気持ちになり、すぐ頁を繰ってしまうの。いけない大人の世界を覗き見た、思春期の胸の轟きが、痛みと共に蘇った気がしました。
明け方の波打ち際で、美しい彼に、覆い被さってくちづける、秦さんのお姿が浮かび、<自分の視線は、共犯の目>と思うと、その官能に搦め捕られました。知ってしまった秘密のエロティシズムに、心は震え、これからそれを抱えて生きていくのですわ。
* どんな請求書が届くかと心配しているが、「十六」をカラーの口絵写真で駆け込むように付け足したのが、やはり大勢の読者に喜ばれている。なにしろ「十六」は普通にみていれば肉付きの佳い少年の丸顔にすぎないのに、鈴木氏の撮影した、この角度でぜひ撮ってとわたしの切望した写真は、凄艶な女そのものに変貌しているのだ、このメールの人
が興奮状態なのも分かる。
2001 3・18 8
* 能のことはまったく判りませんが、口絵の「十六」という能面の写真には驚かされました。能面の写真は何度か見たことがあります。しかし、このような角度、照明での写真は記憶になく、なにかご本のただならぬ内容を暗示しているようで、一気に拝読しました。
平家物語とは、異本群のいわば総称であるというご指摘も興味深く思います。浅学の故でもありますが、平家物語はひとつとばかり思っていました。そういう文学・芸能を受け継ぐ下地がわが同胞にはあったのかと、改めて感じ入っている次第です。能・歌舞伎が延々と続いている今日を考えれば、それは当然の見方かもしれませんが、それすらも忘れかけている現実の生活に恥じ入るばかりです。四十の手習いならぬ五十の手習いになりますが、ご本に刺激されて勉強してみようという気になっています。和歌もよく知らずに育った世代で、どこまで源平の世界を理解できるか心もとないところはありますが、日本人の精神の故里も知らずにものの書けるわけがない、とも思うようになってきました。
* こういう便りをいただくと、嬉しい。
2001 3・25 8
* こんな嬉しいメールをもらった。身の幸せ、有り難く、お許しを得て書き込ませていただく。
* 桜と雪がいっしょに舞った日に、お送りいただきました『湖の本』エッセイ22「能の平家物語」を読みおわりました。ためいきと共に。
ずっと遠ざかっていた、というよりは正しくは一度もきちんと対峙したことのない世界に呼びいれていただき、心の底に沈んでいた無数の小石の間にじわっときれいな水がしみいった気がしました。「十六」の面の写真の見事なこと! 面といえば、中学生のときに演劇コンクールで岡本綺堂『修善寺物語』を出すにあたり、面をつくる仕事場を訪ねたことを思い出しました。私は妹のかえでの役を演じたのです。
そんな他愛もない個人的な思い出をふいに浮かびあがらせてくれたのは、エッセイ全体に流れる筆者の息遣いでしょう。小督や巴に再会できたのも嬉しいことでした。
「私語の刻」で、ほっと息をつき、『pain』について触れられているのが、ことのほか嬉しく、ああ、このように書けるのだと感じいりました。舞台は好きで、脈絡なく観ていますが、なかで『pain』は忘れられないものを残してくれています。
数日前にフィレンツェ歌劇場の『トゥランドット』を観て、次にチケットを買ってあるのが山海塾であり黒テントです。
来週は17年ごしで自宅近くのコミュニティ会館に演奏家をおよびして開いてきた「タウンコンサート」で、今回は田口真理子さんという若いピアニストの演奏です。900円で本格的な(こういう言葉は好きではありませんが)リサイタルを地元で聴いてもらおうというもの。こういう流れに身をまかせていると『湖の本』は、確かなもの、絶対に必要なものへの憧憬を思い起こさせてくれます。
ありがとうございました。
* 心豊かに生きている嬉しさを、このようにして、身に抱いていたいと思う。
* いま湖の本の十五年記念に原稿を用意している小説は、未発表の作で、心祝いには、だが、いくらか深刻に推移していて、心配もしている。いまいまに俄に書いたものでなく、しつに長い間、躊躇うようにこれまた身に抱いていた。さ、どうなるか。
2001 4・3 9
* 倉持光雄さんとサンキエームで食事のとき、今度の「能の平家物語」もさりながら、後段のエッセイ十数編「能・死生の藝」がとてもよかったと誉めてくださったのは嬉しかった。多年の勉強や鑑賞体験をかなりコンデンスしえたものと密かに自負していた。
2001 4・8 9
* 本を続けて二度読む。時間がたっぷりあった子供の頃でさえしてこなかったし、今はもっと、時間を家事を言い訳にしています。「清経入水」は、読み終わってすぐもう一度読みたい本ですの。再確認したい、読み戻りたい、世界に浸っていたい。言葉のひとつひとつが、独善的でなく選びぬかれ、伸びやかで、気爽やかな透明感と重量感の並立は、今なかなかお目にかかれません。謎解きを確認するだけの二度読みとは、明らかに違いますの。構造がしっかりと巧みな、読めば読むほど心が奪われる幻。覚めたくない夢です。
* ありがたい読者だ、が、読者の好みに繰り返し添おうとするのは、避けている。ある意味で、そういう読者の好みからどう身を逃れてゆくかが、創作者の志ではないかと思ってきた。これは売りたい売れるようにとばかり願っている作家や出版人の常識とは正反対であるが、わたしは、創作とは、方法の発見と実験だと思ってきた。一冊の本に五つの作品を入れるときに、五つがまるで別人の作かのように方法を異にしながらも、なお紛れなくモチーフにおいて一つの強い根から生え出ているとしか言いようのない創作でありたい。安物の繪の展覧会のように、同じ手口で似た「おはなし」を並べてみたくはない。だが、このように読んでくれる読者のありがたさは紛れもない。「清経入水」もさりながら、要点は「二度」に、ある。
2001 4・11 9
* もう「湖」新巻の初校が出そろった。一字ずつ植字していた活版の昔が千里も遠のき、フロッピーディスクで入稿すれば、驚くほど速く仕事が進む。だが、つまり、それほど人間の暮らしが器械のスピードに追い立てられるのであり、器械は器械、わたしはわたしと、時には知らんフリして自分のペースへ仕事を引き戻すことも必要だ。わたしは、器械が稼いでくれた時間を自分の時間的余裕として貰い受け、トクをするよう心がけている。 2001 4・17 9
* 山口大学で「みごもりの湖」を教材に用いたいと、上中下三巻を各三十二冊の注文が入り、荷造りに一汗かいた。有り難い。明日の祝辞も心用意し、また二十七日のペン理事会、総会の報告書も作成して事務局に送った。全国大学国語・国文学会シンポ用のレジュメを求められているし、仏教誌からの少し長めの原稿締め切りも近づいているし、三省堂からの、また春秋社の依頼仕事もある、が、すべては明日のお祝いを通り過ぎてからだ。湖の本新刊の、というよりも創刊満十五年の記念刊行用の用意も、こまごまといろいろ、手順良く運んで置かねばならない。落ち着いて少しけじめのつくあとがきも書きたい。
2001 4・21 9
* 「みごもりの湖」上中下が山口大学の教室で教科書につかわれることになった。本も届け、入金もあった。ありがたい。作者からいえば遙か昔の創作が、現在の感興と批評とで若い文学専攻の人たちに読まれるというのは冥利である。
2001 5・16 9
* 初めての人から『風の奏で』上下と『能の平家物語』の注文が来ていた。ぽつぽつと、このようにして新しい読者が湖を訪れてくれる。
2001 5・26 9
昨日、新刊湖の本『ディアコノス=寒いテラス」の一部抜きが届いていた。責了ゲラと照合していたら、わかり良いようにと最終段階でわざわざ差し込んだ元号に対する西暦の年紀が、まんまと大間違い、わたしのトンチンカンである。湖の本をはじめたのが一九七四年になっていたが、八六年の間違い。七四年は会社勤めをやめた「迷走」の年。この年のことは、やはり印象濃くすりこまれているらしい、頭に。
本は、五日には搬入されるが、発送の用意が間に合わず、かなりてこずるだろう。桜桃忌までには、だが、十分間に合う。創刊して十五年、通算して第六十七巻めである。汗が噴き出る。
2001 6・1 9
* 終日、遅れていた発送用意の作業にかかっていたが、耳では「時宗」も聴いていた。関白基平が亀山天皇の面前で割腹し、六波羅探題南方の北条時輔がその場で介錯する場面には驚いた。つづいて映画も聴いていた。優秀な頭脳の凶悪死刑囚ひとりが息子の命を救えるドナーであると分かっての一父親刑事のドラマは、仕立てに魅力があり、ドナーの俳優がなかなかの好演だったように思う。以前に一度観ていたようだが、飽きないで見聞きしていた。封筒に宛名を貼り込むような作業の時は、そういう余興の有る方がいい。
2001 6・3 9
* ようやく第一段階の発送用意は出来た。頭を使い気も使う「依頼送本」「趣旨送本」先の選定をのこしているが、これには頭のハゲル思いがする。難しい。明日の午前には本が届くと通知されている。午後にはしばらくぶりに電メ研がある。電メ研のあとは、青山で、亡き橋本博英画伯の追悼展を見て帰る。 2001 6・4 9
「湖の本」満十五年の第六十七巻めが、明日できあがって来るという今日に、こういう話の舞い込んでくるとは、十五年前には予想できなかったことだ。だが、この事業が時代を批評するに違いないとは信じていた。「湖の本」が明らかに時代と交差し、結果的に、わが文学と表現の実践活動として認められてきた。当然だ。
2001 6・4 9
* 新刊『ディアコノス=寒いテラス ・ 無明』が無事に出来て家に届いた。発送は明日から。今日は午後、乃木坂で電メ研。
2001 6・5 9
* 午後、妻の定期受診で留守中、昼飯前にと試みに血糖値をはかったら 95 だった。すこぶる良好。今日も、昨日とほぼ同量の荷造りをして夕過ぎに発送した。ひどい雨で難渋した。やはり独りの作業は手間が二倍で疲れる。妻が帰宅して手伝ってくれてから荷造りの能率、ぐいと上がった。
2001 6・7 9
* 今送り出している湖の本の、長いめの新発表小説には「ディアコノス=寒いテラス」と題をつけた。「=」で繋いだが意味が同じなのではない。「ディアコノス」は「奉仕する」意味のギリシア語であり、「ディアコニッセ」は神に仕え病苦業苦の人を献身的に世話する女たちのことである。むろん、そういう女たちを書いた歴史的な物語ではない、「愛ははたして可能なのかを」を問いかけた、現代の家庭の物語である。多くの、とは言わぬが、たいへん難儀な問題を提起している。ご批判を得たい。
2001 6・7 9
* 九割がた発送の作業を終えた。今回は十五年の記念でもあり、送り先をいろいろ考えている。手伝いで妻も疲れたので、今夜はワインと取り寄せのピザで夕食にかえた。
2001 6・9 9
* 「ディアコノス=寒いテラス」に早くも反響があった、北陸のある都市から。真摯に重い重いお考えであり、頭を垂れて拝見した。微塵の修飾もない意見であり感想である。さらなる討議の率直に真面目にかわされることを期待したい。メールに有るように、関連性の想われる事件が実際に多発している。「世論」なるものへも、「正義」なるものへも、また「愛はどう可能か」といった深みへも思い及んで考えたいと想いつつ、容易に到達できなかった。それが、十数年も結局発表をためらった作品になった。
* 寒いテラス 昨日届き、昨夜から今朝にかけて一気に読み、もう一度読み直しています。
「妙子」の様子が手に取るように 目に浮かぶように伝わってきました。「節子」とその家族の当惑も。教育的配慮というより、ただ楽だからと、安直に「妙子ちゃん係り」にさせられ、「ディアコノス」にさせられた節子を、どうして責められましょう。今は、このようなお子様を普通学級に入れる場合、公的に担当する人員を補充したり<、家族の負担で私的サービスによる人を同行させています。1年生の節子ひとりで背負うには、はるかに重い「係り」だったのです。
私の通った小学校には、場面緘黙症の「* * 子ちゃん」がいました。「* * 子ちゃん係り」を自発的に行う女子生徒がいて、なんとなく私たちは彼女が「* * 子ちゃん係り」のように思っていました。彼女は押さないと歩かないし、ひとこともしゃべらず、教室で不可解な笑いを浮かべてただすわっていました。時に押してあげると、ざっくり切ったおかっぱの後ろ髪がゆらゆらゆれていたのを思い出します。彼女の場合家庭では話すことができ、結婚して子どもを産み、そのあと亡くなったということです。担任の先生とは2年おきのクラス会であいますが、「ぼくとして、もっと何かできなかったかという思いがつねにあるなあ」とおっしゃいます。しかし60人のクラス、みんなであたたかく「* * 子ちゃん」を6年の卒業の日まで見守れたと言うことでよかったのではと思っています。
困ったのは、その後、「結婚したい」「一緒に死にたい」という対象に「節子」がなっていったことですね。
結論から言えば、今回の大阪の付属小学校の地獄のような事件、パンダのぼうしの男の事件・・・などもふくめて、重大事件を起こしたような精神障害者を、治療施設に入所させるべきではないかと思うのです。「人権侵害」にあたる、精神障害者の差別にあたるとして、この問題は、浮上しては消えてきたようです。
「心身喪失と判断されれば不起訴 無罪」という現在の法律によれば、上記の男たちが再び社会に出てきて、しかし適応できるわけではなく、悲惨な犯罪を繰り返す可能性があります。むしろ、必要な収容をしないばかりに、未来ある命が奪われ・・・。節子の場合も、家族の配慮がなければ、いずれは力づくで死への旅への同行者にされていたにちがいありません・・・それが、収容の必要のない精神障害者への差別にも、かえって、つながると思うのです。真の平等は精神障害者であっても罪を犯したものは罰し、罪を犯さなくても社会に適応できず、他の人に迷惑を及ぼす場合は・・・対象が1人であっても・・・ ケアの施設に入所できる体制を作るべきだと思うのです。
妙子ちゃんの家族も、どんなにか困り果て、最後には疲れ果てていたことかと思います。ケアの施設があり、入所させ得られていれば、どんなに安心できたでしょう。
ケアの施設はばら色のものであって欲しい。精神障害のある人の心が和むものであって欲しい。鉄格子の着いた薬臭い病院ではなくて、光や音楽やそのほか美しいもののあふれた施設であって欲しい。その中で生き甲斐となる作業の行えるような・・・。
私は、精神障害者を差別していません。精神障害者や精神障害者を持つ家族の真の幸せについて真剣に考えている者です。
私の娘は精神障害者でした。人に危害を及ぼす精神障害者ではなく常に外界を恐れる障害者でした。クラシックや文学を好み、自然破壊を憂慮するほんとうに優しい娘でした。そして誰をまきこむこともなく「たくさんの楽しいおもいでをありがとう」のことばを家族全員に言い残して、「これでらくになれます」と23歳で自死しました。
家族だけでは、支えきれなかった。ばら色のケアの施設があれば、もっと生きながらえたかもしれないと無念の思いでいっぱいです。
追加します。 ケアの施設は現在もないわけではありませんし、一口でばら色の施設と言っても、従事者の立場から考えればなかなか難しいものでしょう。むしろ通所施設であっても良いと思うのです。「寒いテラス」の「妙子」や、私の娘の場合は、通所施設で十分だったと思います。
「がんで死にました」は人の同情をうけます。ハンセン氏病がやっと偏見の呪縛から抜け出したことに大きな拍手を送っています。エイズについては偏見をなくす方向で運動が進められていますし、遺伝もありません。しかし心の病については、よく知られていないのが実情です。
2001 6・10 9
* ディアゴノス=寒いテラス 過去に、知的障害者が地域で普通に生活する、その援助者「世話人」という仕事をした経験をふまえて。
…もし今後も今日のような現れかたをしたら、「絶対に」お家には入れないで下さい、上へはあげないでドアを閉めて下さい。…大きい声で叱って下さるのが一番利きますので、どうぞ。…
聞きようによっては、そんなにしなくてもと思われますが、けっしてそうではありません。障害の度合いにもよりますが、会話も言葉も一見、普通に感じとられるのが、彼女や彼らの「不幸」といえましょう。一度めはよくて、なぜ二度目はだめなのか?それがわからないのです。ダメなことは、ダメなことと、それを通すことで、体験的に覚えてもらう。言い聞かせて、その場は納得しても、その納得は叱られないでいるための納得であり、生きていくため、身を守るための術なのです。「笑って」ゆるせば、その甘さを敏感に感じとってしまいます。行動を起こして相手の反応を見ているようなところもあります。声高に威嚇して相手が怯めば、その力関係は継続され、脅してきます。力に屈しない態度でいれば、こちらの言うことをきいてくれます。
本心からか、うわべだけのものか、相手を見ぬく力量は本当にすごいと思いました。個対個の付き合いが重要であり、人格を認めたうえでの叱咤が必要なのです。
今日は出来ても、明日はわかりません。積み重ねは大切ですが、それを過信すれば落とし穴に落ちます。日々が新たなのであり、一日(朝、昼、夜)が新たなのです。そのことに気付くのに半年かかりました。悩み悩んでの半年でもありました。書き文字では言い表すことができないもどかしさを、はがゆく思います。
「淡路」一家の、「妙子ちゃん」に対する哀れみと甘さが生んだ悲劇。
ホームページで読ませてもらっていたので、題名を見たときに、「きっとそうかもしれないわ」と思っていましたの。でも「奥様」の言葉で語られている、この御本のほうがより考えさせられます。
何を基準にして「普通」と言うのか。「かわいそう」と言わせる自分のなかに差別はないか?
「してあげている」ことの優越感から生じるものは?自分に問いかけ、問いかけての答えは…。
あるがままに、気負わず自然体で。ようやく肩の力が抜けました。
* 少し息をのんでメールに触れた。また、べつの角度からも意見や感想が届けば有り難い。
2001 6・10 9
* 混同されがちな、精神障害と知的障害。前者は投薬・治療で病状はよくなることもありますが、後者は、教育・訓練で、知能の発達や運動機能が身についたとしても、生まれながらの染色体の数を増やすことは出来ないのです。ただ、この言葉は好きではないのですが、「普通」といわれるひとにも出来ないことってありますよね。金銭感覚がないとか、通常の道理が通らない、常識がないこと、仕事を怠けるなど。傍目でみるかぎり、そう差はないようなことをしていても「障害者」のレッテル(このいいかたも嫌いですが)を貼られたばかりに差別を受けています。好きなこと、興味のあることには一途で、スポーツや文芸・絵画・職能に才能を花開かせる人もいます。「妙子ちゃん」が一途に思いさだめたのが「節子」だったのでしょう。時間の経過は、十分後、1時間後、一日後、1週間、…と比較して理解しますよね。積み重ねることができなければ、比較もできない。十日後も、一年後も昨日となんら、変わることはないのです。痴呆症であった(亡)母の世界がそうであったように。そのことを納得したうえで、付き合わなければ振り回されてしまいます。常識では計り知れない行動をすることを念頭に置かねばなりませんでした。
職場から、(世話をしていた当人が)遅刻をするとの連絡がはいり、職員のかたと相談して、自転車の彼に付き添うてバイクを走らせ、数週間通ったことも。慣れたと思って安心して気をぬくと、もとに戻ってしまいます。腕時計をして時間をみているからわかっている・いるかといえば、そうじゃない。わかる人もいます。遅れないようにきちんと行ける人もいます。個々の人格がそうであるように、障害も十人十色なのです。世間では一様にとらまえて批判をしますが、それは大きな誤りだということを知って欲しいと。
「ゆうても、ゆうても、きかんのよ。出来んのよ」と、愚痴る世話人さんもいましたが、履き違えていませんか?
「それが出来るんだったら世話人や、いらんでぇ、出来んからいるんとちがうん?」。
そうですよね。
* 実地に苦労し体験してきた人の声はつよい。書いているときには、こういうことすら、なかなか聞えてこなかった。
2001 6・11 9
* 満15年、おめでとうございます!
「ディアコノス」読みました。…正直、キツかったです。「淡路」家がマスコミに叩かれるラストが、あまりにも生々しくて。小説としての面白さに惹き込まれたものの、「面白かった」ではすまされない重さが、まず残りました。「生活と意見」に載っていた読者の方々の意見を読み、ますます重さが募りました。どうすればいいのか…考えることはできても、言葉にすると安直な物言いに成り下がってしまいそうで…。今は、ただ読み、深く息をついています。
個人的に印象に残ったのが、「節子」でした。ちょっとごてごてした理屈っぽさと、まるで相反するような不安定さ。自身に跳ね返ってくるところが多くあり、身近に感じました。身近といってもあまりいい意味でなく、むしろ「痛いところを突かれたな」という感覚です。それこそ自分をかこつのはやけに達者なのに、いざとなると周りがまるで見えなくなり、自分独りの不幸不安と思い込んでしまう。ここからして顧るところがありました。
作中にあった通り、第三者からの批判とは、あくまで第三者のものに過ぎず、当事者にしてみれば時に腹立たしくさえあるものだと思います。「誰かを批判するのであれば、自分も血を流さなければならない」と言っていた人がいました。
「絶対に無害で安全な場所からの発言」…一番したくない行為の一つです。しかし、今までやってこなかったと言えるかどうか。僕自身、血を流さずには許されないことを、重ねてきたような気がします。
「精神障害者を差別しない」と言い切ることは、僕にはできません。実際に触れ合ったことがないというのもありますが、例えば罪を犯し報道された人物を見て、単純に「ああいう人でなくてよかった」と思うからです。(ただ、精神障害者も同じように罰するべきだという意味では、けっして差別しない考えです)。五体満足で精神も健康である自分の幸せを改めて実感することはあっても、そうではない人たちの幸せについて考えることは、確かにあまりしてきませんでした。
もし実際に関わることになった時、「あるがままに、自然体で」接することなどできるのだろうか…。まず自分自身、あるがままに自然体に生きているとは言いがたく、甘えも媚びも下心も絶えてなくなるということがありません。いやだなあと思う一方、我が身可愛さも背中合わせに潜んでいます。だから、僕は表立ってボランティアだとか平等だとか、怖くて言えないです。そんなことを言う前に自分はどうなんだと。そして、例えば今日「ディアコノス」を読み、読者の意見を読み、ますます自分の恥ずかしさを感じるばかりです。
…少し長くなってしまいました。今回の「ディアコノス」では、いろいろと考えました。実は、秦さんの短編作品について、ちょっと書こうと思っていたのです。だけど今日は「ディアコノス」に完全に寄り切られてしまったようです。秦さんのおっしゃっていた「時代と切り結ぶ批評」、ひしひしと伝わりました。小説を書きたいという願望はあっても、何を書こうという動機はそもそも根づいているのか。時間をかけて自分に問いかけたいと思います。
予想していたよりもずっと気分よく、じっくりと毎日を過ごしています。余計に増える知人関係との付き合いが減ったかわり、秦さんの言葉や文章に前よりもわりと近く接しているような気がします。また大好きな「慈子」「罪はわが前に」「みごもりの湖」にも逢いたくなってきました。ゆっくりのんびり読み返してみようかな。迪子さんともどもお元気なようで、僕もなんとなく嬉しいです。それではまた。
* 二十歳にまだまだ間のある青年の、こういう感想に触れると、書いて置いて、公表して、やはり良かったかなと胸をなで下ろす思い。この作品をわたしの作風からは、世界からは、異色すぎると感じる人、もうわたしの読者には少なかろうと思う。「清経入水」このかた、わたしの動機には不当な差別への批評が続いている。「風の奏で」「初恋」などは芸能の、「冬祭り」では葬祭への、「北の時代」ではアイヌや朝鮮半島人への、「親指のマリア」では信仰上の、と、他にもいろんな差別感情に触れた小説を意図して書き続けてきた。叙情的に美しいだけの小説を書いてきたとは思わないのである。根底には、人は、人と、どう生きてゆくのだろうという漱石の「心」や藤村の「家」や谷崎の「細雪」や直哉の「暗夜行路」などに学んだ体験が息づき生き続けていた。さらに前には、親も知らず「もらひ子」の歳月を独り噛みしめて暮らした体験が根づいていたのだろう。
2001 6・12 9
* 日本でのいわば公的な「ディアゴノス=奉仕・世話」の実情に関して、こんなメッセージも戴いている。なかなか言葉だけでは伝えにくいものも有ろうけれど、こういうことは知っていたく、感謝してここに書き込ませてもらう。
* 元勤務先は、先生がたのいらっしゃる大きな「施設」ではなく、(世話を受ける)人たちが外部で仕事を得て、その収入と年金で暮らす「通勤寮」と、そこから地域に居を構え、数人が一緒に暮らす「グループホーム」でした。障害は重複している人もいましたが、軽度のうちにはいると思います。ただここに入寮できる人の人数は限られていて、養護学校や施設からの希望で、体験学習を経てからになります。スポーツや旅行などの行事を通じて交流するときには、仕事に支障をきたさない限り、全員が集います。百人近くにもなるでしょうか。障害(の種類や程度も)もそれだけ異なっていたということです。ダウン症も、自閉症も、言語障害、身体に障害ある人も、障害者同士で結婚した人もいますし、子供を持った人もいます。親も障害者で庇護を受けられなかったり、捨てられた人もいます。
熱心に子供たちの将来を心配している親たちの団体もあります。本当に、本人を取り巻く環境も千差万別なのです。
ノーマライゼーションがいいだされてから、全国的な「世話人会議」も開催されました。そこで、「世話人」の待遇の悪さも問題にされました。交替要員がいなくて休みが取れないとか、世話人が同居で、家族全員で丸抱えの状態にあるとか。社会保険の完備されていないところもあり、行政からの援助、補助も、その県により、大差がありました。障害者の高齢化と、世話人の高齢化も大きな問題でした。本人の高齢化にともなって、働けなくなったときの収入も心配されます。不景気は、一番に弱者を切り捨てていきます。そのために小規模作業所や、パン製造販売や、それに類する仕事場を作り、将来にそなえているようです。
2001 6・13 9
* 元「新潮」編集長の坂本忠雄氏から、「掌説・無明」を途中まで読んで、「星空」など、「深みを湛えた名掌編と存じました」とハガキをもらった。気に入った一編で、嬉しく読んだ。
2001 6・14 9
* 懐かしい御本を有難う御座いました。
お懐かしい秦先生の字をポストに見つけまして、えっ!湖の本だわ!と大変驚きました。
15周年記念本当におめでとう御座います。「湖の本」の出版についてお話をお聞きしましたのも、15年前の事でしたのね。
途中長い事中断しておりました。これからはまた購読申込みさせていただきます。
この間は本当にいろんなことが御座いました。私自身入院や苦しい抗癌剤との闘い、死をも覚悟した時期も御座いました。
明るく前向きに考える事によって、其の時は其の時に考えようビクビクしない事に決めました。
何気ない日常の景色がこれほどもありがたく、いとおしく新鮮な思いで見られたことはございませんでした。
桜の花に迎えられる様な時に退院致しましたので直ぐに、「細雪」の桜の場面を思い出しまして、初めてその大切さ、くりかえしの素晴らしい事を教えて下さいました秦先生の言葉を思い出しておりました。それからは”一期一会”の言葉が実感できる様になりました。
又24年間も尊敬し、我が師と崇め慕って教えを受けておりました**先生との永遠の別れが2年前にありました。お子様のいらしゃらなかった先生を最後まで看取らせて頂いて、この時ほど”死なれて”しまったと哀しい、かなしい心持でむなしく空をながめたことはございませんでした。秦先生の素晴らしさを心をこめて教えてくださったのも**先生でした。隠れた秦先生のファンでした。古事記、日本書紀、万葉集、源氏物語、和泉式部日記、紫式部日記、平家物語、伊勢物語、徒然草、奥の細道、と随分教えていただき導いてくださいました。
その先生を失いまして、路頭に迷っております。
唯一つ読書会だけは今も自分たちだけで続けております.
こんな私事を永く書いてしまいまして先生にメールいたしますことお許しくださいませ。
長雨の”ながむこころのロマン”を思いつつこの季節を過ごしていきます。どうぞお大切にお過ごし下さいませ。
話が出来まして感激でございます。早速のご返信ありがとうございました。
お便りをしておりました時も、即お返事くださいましたので、いつもお仕事のお邪魔をしているのではと、心にかかっておりました。とても筆まめでいらしゃいましたのに・・・
本当にメールですとお手紙よりも気楽にお便りできてしまいますので、度々気軽に先生にお便りさせていただきそうで、よりご迷惑をお掛けするかもしれません。
「ディアコノス=寒いテラス」を頂いて直ぐに読みました。どう言う意味かしら?と思いまして、引きずり込まれる様に一気に読みました。ずうっと心に引っかかってしまって、どの様に対したら良いのでしょう、と、重い宿題のように感じております。又感想はゆっくりと書いてみたいと思います。多くの人と話し合っても見るつもりで御座います。私の中でも抱えてまいります。
* 長かった時間を取り戻すようにこういう親しい旧知との再会のあるのも、読者と作者との冥利である。こういう人たちに支えられてきたのだ。
2001 6・14 9
* 降りますね。「十五年」も昔、近くの小学校の生け垣から、「ごめんね」と無断で頂戴して挿し木した二種類の紫陽花が、今では狭い庭を占領して、この雨に満足そうです。梅雨時は、この花が咲いてこそ鬱陶しさも緩和されます。毎年梅雨が明けると一度は…と思い、でもやっぱり根こそぎにするのは踏み留まっています。
物識りの友人から、水揚げの悪い切り花は、すっぽりと水に一日浸けるといいのよ、と聴き、今は部屋の中でも、活き活きと咲いています。紫陽花の花言葉は戴けませんが、好きな花の一つです。明日も雨です。
そう、「湖の本」を発行するおはなしを聴いたのは、「こころ」上演の頃でしたでしょうか。「十五年」と一口に言っても、赤ちゃんが十五歳の少年にまで成長するのと置き換えますと、それはそれは永い年月です。立派な事業です。ご苦労様でした。今後も元気で、持ち前の意欲、満々と、次の節目を目出度く迎えられますように。
昨日の井戸端ならぬ、喫茶会議でのお仲間の話。
友人は小泉総理のホームページマガジンに登録すると言い、今日のニュースでは、八十七万人が登録したとか。登録しましたか。明るい話題だけれども、私はそれ程入り込めません。
鬱なんて本当は大嫌い。昔から、鬱状態の人は嫌いだった。陽気で明るいのが好き。
* 鬱はいけない、鬱々はもっといけない、すばやく元気にかわさないと。この人のように友人があり話したり遊べたりする老境が望ましいのだが。
2001 6・14 9
* どうしても、お許しを願ってこのメールをここに書き込ませて戴きたい。「批判して欲しい」とお願いしてあった。少しくご事情を伺っていたからである。
* 寒いテラス・読後に
秦恒平様、湖の本お送りいただき有難うございます。
早速に「寒いテラス」を読みました。批判するどころではなく、身につまされ、考えさせられてしまいました。
ご承知頂いて居ますように私にとっては決して珍しくないテーマであるが故に、主人公「淡路」家の方達のやるせなさも、「妙子ちゃん」の両親の立場も良くわかり、そう言う意味でとても冷静な読者ではあり得ません。
異常な体験をした家族の物語として読めば、とても良く描かれていて人の心の不気味さが迫って参ります。また障害者の受容という”正義”の前に、人々が言いにくくなってしまっているものを、よくぞ書いてくださった、という感想もあります。また”統合教育こそ理想の姿”と言われる中にひそむ問題点、これも言いにくい事を言って下さったと。
ある人が統合教育における学級の障害児は「教室の金魚」状態になりやすいと言ったのを思い出しました。「節子」さんの役目は「金魚係」。一見スムーズに運営されているクラス。薫先生。美しいノーマライゼーションの眺め。
その他、自閉症と思われる「妙子ちゃん」への対応は適切だったのか、とか、小説というよりも、障害児への受容や対応を学ぶ症例、としての読み方もあると思いました。
しかし、私にとってショックだったのは、私自身が、自分の知らぬところで”淡路さん一家”を作っているのではないか?という恐怖感に襲われたことです。
私の物語—を聞いて下さいませ。
私方の息子はあるファミリーレストランの洗い場で、もう8年以上働かせて頂いております。法定雇用率・納付金制度に後押しされ、レストラン本社の障害者雇用への熱心な取り組みのお陰です。店長は本社人事から教育を受けて積極的に知的障害者の理解に努め、それは店長自身の人事評価にも繋がっています。
けれども実際に洗い場で毎日息子と顔を合わし仕事を教えてくれたのは、パートのおばさんなのです。このおばさん達にしてみれば、どうして自分がその役を振られたか納得出来ているとは言い難く、不満があり、それももっともな事と、私だって思います。
息子に仕事を教えてくれたAさんは、とても仕事の出来る”職人肌”のパートさんで、このおばさんの”しごき”のお陰で、息子は何とか使い物になるレベルまで仕事をおぼえられたのだと、私達は感謝しています。
けれども、Aさんにとっては、いつまでたっても息子を好きにはなれない、いくら言っても覚えが悪いくせにいっぱしの口答えをする、ボロクソにしかっても、さしてこたえた様子でもなく、「僕はこの仕事が大好きです」と言って、しかられても、しかられても翌日は元気に仕事場に現れる。
仕事場へ行けばいやな相手と働かねばならず、かといっておばさんには生活がかかっているから、そんな理由でやめるわけには勿論行かない。店長は(障害者雇用の推進側だから)言っても取り合ってくれない。
そこでおばさんは、1年に一度位(何故か冬の寒い時期に)”大爆発!” 苦情電話を我が家へかけてくる。そこで延々と電話で私がしかられる。「お母さんはわかって居るんですか!」って。
Aさんの苦情にもいちいちもっともなところもあるのですが、理不尽な部分もあります。いずれにしても、そこが知的障害の障害たるところでもあり「申し訳ありません。お世話かけます。」と謝るしか言いようがありません。そこで親が遠慮して店を辞めさせでもしてしまったら、本人の働きたい気持ちはどうなる。これまでの努力はどうなる。あやまったり、主張したり、本社に、店長に、言ってくれと逃げたり。
ぐったりくたびれ、がっくり落ち込んで—–でも、毎日もっとボロクソにいわれても、私達に訴えることもしないでいる息子の事を思うと、「なんのこれしき」って元気が出てくる。はたの人から見れば、開き直りに見えるかもしれません。
障害者と一般社会の接点では、いろいろな難しさがあります。
私達障害者の親サイドには、このくらいは大目に見て貰って当然、の甘えが生じやすく、また健常者といわれる人達は、傍観者でいられる間は、正義の味方、弱者にやさしくといえても、実際毎日のように接するとなれば、生理的にいや、嫌いという感情を持つこともあり、それを無理に抑えることも難しいでしょう。障害者とでなくとも、そういうのってありますもの。
障害者の親同士だって、他家の障害児を好きになれないことはあります。
障害児はみんな”かわいい”なんてことはありません。”かわいげのない奴”もいます。いろんな性格があって当然だのに、障害者なら、かわいいはず、正直なはず、素直なはず、それは健常者といわれる人達のまちがった思い込みです。
息子と「妙子ちゃん」が違うところは、息子もAさんが苦手で、今日はAさんが休みだという日は、いつにもまして機嫌良く出勤して行くので、苦笑してしまいます。職場に自分と合う人合わぬ人がいるのは普通のことだし、店長や他の人とはうまくいっているようなので、こうして長く続いているのだとは思います。
でも、Aさんにとってはどうなんだろう? それは私達一家の責任かなのか? 「寒いテラス」を読んで、急に気になってしまった、という次第です。
息子が一方的に、お店で働いている女性に好意を持った事もありました。既婚で子供さんもあることを知っても「デートしたい」と言うところは、やっぱり—という感じ。「行く場所も知らない貴男には、無理でしょう」くらいの忠告で諦められる淡さで、ほっとしました。テレビの長嶋美奈さんとか、ゴルフの不動有理さんを「可愛い—-」って言っている分にはご愛敬で。
でも知的障害の人が一方的に誰かを好きになり妄想の世界に入る事はそう珍しくなく、火事と一緒で、初期消火を誤ると面倒になるようです。
次に、秦さんがこの作品の発表を20年もためらわれたことについて考えました。その結果がどうのこうのでなく、その間の、知的障害者を取り囲む環境の変化を思い起こしました。丁度日本の障害者施策や障害者観の転換ポイントと言われている「国際障害者年からの20年」と重なっています。20年前に発表されるよりも、今の方が、作品のテーマを正しく理解できる人が増えていると思います。統合教育も、あの当時よりかなり定着し成熟しています。
むしろそれ故、各地に”薫先生”や”節子さん”は沢山出現していますし、”淡路家”も存在していると思います。当時よりは、そのような困った事態への対処の知恵も蓄積されているやもしれません、が、おそらく今もって新しい問題点でしょう。入所施設近辺では、開所当初は入所者も落ち着かず、施設を出て近隣の家に上がり込む例が多いそうです、よりにもよって施設建設に最後まで反対だった家に上がり込む、と話して下さった施設長は、笑っていました。地域の人も不慣れで、この珍客に困惑しながらもねお菓子をだしたり—-そのうちに地域の人も対処方法に慣れて、良い形で地域との共存が出来てくるようになってくるのですが。
栃木県に在るある有名な施設の初期の頃、近隣の農家に上がり込み勝手に飲食するのはざら、あげく納屋に火をつけ燃やしてしまったこともあったそうです。この挿話を、創設者(この世界ではビッグな人です)が、”にこやかに”話されると、私などでも、やはり釈然としません。近くに住んでいる人にとってはすごい恐怖だったろうと思います。
障害者をありのまま受容するために、周囲はどこまでのリスクを受容しなければならないのか—-。折しも池田の附属小での殺傷事件が起こり、今、社会全体で同じような問題が関心を集めています。
本質的ではないことなのですが、用語についてね秦さんの意図をお訊ねします。
現在「精神薄弱・精薄」は法律用語を除いては使わない風潮にあり、「白痴」も余程のことがないと使わなくなっています。20年前お書きになった時には、まだ、それ程用語は批判の対象になっていなかったと思いますが。意図して(薫先生や節子さんの母親の障害者観を現すものとして)お使いなのか、単に当時の用語そのままになっているのか—–、僭越ですが、ふと気になりました。
思いがこみ上げるままに書き連ね、一体何が言いたいのか、感想にも批判にもまとまりが着いていませんが、お許し下さい。もっと、もっと、いろいろあるのですが—-今日はこのくらいに致します。 2001/6/14 雨の日に
* 答えようにも答えの出る道が見えず、割り切ろうにもとても割り切れはせず、こんなことは書かない方がいいのではないかと思いつつ書いて、しかし、二十年前にこれを公表するのはためらわれた。このメールのお母さんのような方をさらに嘆かせたくないという斟酌がやはりいちばん強かった。その一方で、問題はそこにだけ有るわけはないと分かっていた。問題の解きようが見えてこず、自分で解けない問題を世間へ向けて投げかけるのは、あまりに乱暴だというような尻込みすらわたしはしたのだ。だが、だからこそ発表すべきだという考えにようやく昨今落ち着いてきた。だが、その落ち着いた筋道をうまく説明することは出来ない。
そんなことがあって、概念的な理屈を言うよりは、情況がありありと伝わるように書こう、しかし視点をきっちり絞るためには「母親」一人の思い、限界も歪みも含んで、率直なような婉曲なような「女」の言葉で、じわじわと(平和な家庭の普通の主婦らしい、母親らしい)本音を吐かせてみようと考えた。特別の主張を述べ立てずに、控えめな憤懣、ぶつけどころのない憤懣というものを「書かせ」てみようと考えた。そのおかげで、作品の表現が、父親ならばもっと概念的になったかも知れぬものが、比較的具体的な描写の連続を得て、小説の出来としては救われた。だが、なにもかもが割り切れないまま残った。少し、急過ぎるかなと思いつつ「薫」先生をターゲットにした。
上のメールのお母さんも、とても、こんなものでは治まらない苦渋を噛みしめておられると思う。少しでも、こうした知情意の交流から「何か」が見えて、掴み取れるようにありたいと、わたしは願っている。
用語については、ぜんたいが、「淡路」家主婦で母親の日常性を背負った直接話法であり、この母親のと限らず、当時の通念と鈍感と不作法のまま口にさせて置く方が、表現として自然であろうかと考慮していた、と思う。今度校正しながらもそう考えていた。
2001 6・14 9
* 私のような母親を悲しませたくなくて—-とのお気持ちが発表をためらわせたとありますが、そんなご心配は要りません。親と言っても我が子が迷惑至極に思われるときもあり、そんなに立派に生きているわけではありません。障害者にとって親はすでに社会の一端、差別も偏見も、生まれてすぐに親から始まっています。
親は確かに心の奥に悲しみの固まりを沈めているようなところはありますけれど、普段はあっけらかんと普通にくらしていることが多いので、周囲から腫れ物にさわられるようにいたわられるのも、ひねくれているようですが、気持ち悪いものです。
それに”障害児の親”といっても、千差万別。大概は、その子を持つまでは”普通の人”だったのですから。社会の中である日突然別のグループに席替えさせられたようなもの、当事者にしてみれば「殆どの部分で昨日までの私と何も変わっていないのに、どうして障害児の親らしく変わることを求められるの?」という居心地の悪さがあります。
同じく障害児を持って、もともと障害者に偏見のあった人ほど「自分は差別される」と心配し、逆に障害者に違和感がなかった人は「どうにかなるさ」と楽観的なのは、興味深いところです。
だから、社会全体の障害者観の底上げが大切ですし、そのためにはきれいごと、美談の世界から、当事者も一般の人も共に、真実自分の心の底まで見つめる必要があるのです。それ故このような辛口の物語は必要なのだ、と私は思います。
もっと面白い話をいたしましょう。
秦さんが女性の慇懃な語り口を用いられたのは大成功だと思います。
知的障害のあるひとにとって、持って回った丁寧な物言いほど、わかりにくく、混乱するものはありません。この女性の対応は、きっと「妙子ちゃん」を混乱させ、事態がちっとも解決しなかった原因になったと言えます。何故かというと—
夕べ、はたと! 思い出しました。
私の母は京都で「ええおひと」「ええとこのおくさん」と言われ、またそうあることこそ正しい自分のあり方と思っていた人なので、京都式の、まず自分を安全な場所に置いて婉曲に意見・希望を述べるという会話の達人でした。もう、そのような物言いしか出来ない人。
私も夫も京都育ちだから、そんなもんやと思ってええかげんに聞いて、エッセンスをくみ取る術を持っているのですが、孫達はそうはいきません。なかでも、知恵遅れの息子には”理解しがたい言いよう”なのです。
例えば、何々をしては困る、というのに、母は「私はかまへんけど、したらあかん」と言うわけです。子どもにしてみれば、かまうのか、かまわないのか、してよいのか、悪いのか—-結局この注意は何の効果も発揮しません。そこで母は私に「いうてもきかへんから、あんたからおこって」と、こう来る。
でも”お巡りさんにおこられるから駄目”式のしかり方は私はやりたくないし、第一、知恵遅れの子どもは現行犯でその場で言われた事・人でないと理解が出来ません。よく母子で言い争いました。それこそ、私は切なかったです。
京都式の持って回ったいい方は、さすがは千年の都のいいまわし、高度な文化、かなり知的水準が高くないと理解するのは無理です。
そんな京都のややこしさがきらいで、きらいで東京に住み着いた私ですが、やっぱり京都が好き。もう一度住もうとは思わないけれど恋しい。死んだらお墓は絶対京都や!と夫と言っています。幸い私の引き継いだ墓が円山公園の横、絶妙の地にあるのでそこにしようと。でも、正面に”* *家代々の墓”と書いてあるのを何としよう!! お寺さん(例の弥栄中の* *先生です)は南無阿弥陀仏にすればよい、と教えてくださいましたけれど。
お陰様で夫は元気に相変わらず* * *の仕事をしています。
「私語の刻」に何か反響がでるか、これからも楽しみにしながらのぞかせていただきます。いつも脱線を重ねるメールですみません。
* この久しい友人のメールの何と歯切れのいいことだろう、こういう表現がメールの上で難なくらくらくと実現していることに、わたしは将来の電子文藝への希望をもつ。嬉しくなる。母上の京ことばに思わず笑ってしまう。われわれの家庭でもこういうことが繰り返し積み重ねられて、わたしの「京ことば・日本語」論や「京都・日本」論に展開していった。
こういうメールをもらえただけでも、書いてよかったなとほっとしている。感謝。
2001 6・15 9
* 福田恆存先生の奥様からお手紙をいただいた。有り難い「湖の本」の第一巻からの継続読者で、先生の亡くなられた後も引き続きご親切にいろいろ応援して戴いている。「故人が創刊のお気持に共感、感銘致し、続けて頂戴しようと申しましたのもつい此の間のやうに存ぜられますのに 十五年とは、夢のやう」と仰有っている。ああ、そのような会話がお二人の間に有ったのかと、身にしみじみと嬉しく懐かしい。世間をせまくせまく生きてゆこうとする偏屈な若い作家を、いたわって下さったのであろう、同じような先生方が、だが寂しいことに次々に亡くなって行かれた。
* 東大の法学部長であられた福田歓一氏からも、「この非道い出版界の中での見事な志のお仕事に改めて感嘆」とお手紙を戴いた。お送りするたびに必ずお手紙を下さる方である。そして、わたしの小さな誤植や誤解をみつけて訂正してくださるのもこの方である。今回は「ああ昨日(きぞ)のその場しのぎの優しさが深夜電話に化けてまた響(な)る」の作者を島田修三としてあるのは島田修二ではと。紛らわしいし、「コスモス」の修二氏がやや著名なのだが、これは別人で「まひる野」の修三氏が正しい作者、ほっとしたが、こういうご親切はまた身にしみて嬉しいものである。
* 八十九歳の西山松之助氏も丁寧なお手紙を下さっている。有り難いことに「掌説・無明」に触れて、「この無明の短編はすごい筆力です 私は(最初の)「電話」から(読み)はじめましたが どれも皆 秦さんはだんだんすごくなると思いました 「墓参」りの最後なんか、すごいです。見えるようです」と、「杖を頼りにやっと歩ける」ご病身でありながら、力強い大きなペンの文字で書いてくださっている。「それにつけても『湖の本』は人生の御手本」とまでいわれると肩から縮むけれど。今度の本で「掌説20編・無明」のことは、投げ出すほどの居直りで収録したものの、その一方、こういう掌編はわたしにしか書けないという自負ももっている。ペンの理事会へ行く途中の有楽町線で、また、時間があったので帝劇モールの「きく川」で鰻を食べていた間にも、二十編ぜんぶ読み直してみた。西山先生のつかわれる「すごい」という言葉は、わたしは、普通「すさまじい」の負の意味で用いているのだが、ま、負の意味もふくめて、徹して書いているという感じは改めて持てた。初期の掌説よりぐっとキツク、キビシク吐き出している。文章も表現も、これならいいとすら思われたのは自分に点が甘いか。それにしても、「きく川」の鰻が幸せなほど旨かった。あの店は期待はずれしたことが無い。
* メールに。 レストランの洗い場で働かれている息子さん。指導されるパートのAさん。状況が目にみえます。まだこの息子さんは途中で帰宅することはないようですね。
受け持っていた(夫婦二組、二軒のグループホーム)、Kさんは突然帰宅することがありました。聞けば、「もう、帰り(なさい)」と言われた、とか。会社に連絡を入れると、奥さんが、「いわれたように仕事をせずに、納品の時間に間が会わないと、段取りをしているBさんが怒ったようで、怒られたことに腹立てて帰ったようです。」
Kさんは「わしが仕事しよんのに、邪魔ばっかりするんじゃ」と。
話を聞き、文句を言う彼に、「仕事を教えてくれているのだからBさんは先生なんよ。先生のゆうことはちゃんと聞かないかんよ。」と言い聞かせ、翌日は付き添ってあやまりに。
体格もあり、力の強い彼は、仏壇製作所で梱包の荷解きと、簡単な初期の組み立てをしていました。そのときは、荷を解き、本体と台座を組み合わせていく仕事だったようです。ところが彼は、荷解きばかりしていたようで、Bさんが何度言っても聞かないので、叱ったらしいのです。それを彼は、自分が仕事をしているのに邪魔をした、というのです。
ここも、息子さんの勤務先と同じで、社長や奥さんは理解してくれていましたが、従業員の方々には不満があったようです。差別を言うわけではないのですが、「あの子は普通と違うのだから」と、奥さんはよく従業員のかたに言っていたようです。そうしないと錯覚してしまうほど、彼は、わたしたちとかわらないのでした、理解と判断ができない以外は。
彼女や彼らが起こす出来事や不始末には、事件がらみもあります。夜中まで走り回り、警察に引き取りに行った世話
人さんもいました。ただ、他人に殺傷などの危害を加えての事件ではないのが救いでしたけれど。
母体である援助支援センターとの連携も重要なことでした。全国大会などへの参加や、グループホームへホームステイに来られる方々との交流は、色んな苦労や事情を分かち合えて、「自分たちだけ」の枠を取り払ってくれました。
退職後(私)は一切の連絡は絶っています。支援センターとか、元同僚たちとは交流はありますが。
或る前任者が、「(自分は仕事を)辞めて(から)も、なんでも相談にのるから」と、お別れ会のときに言っていたようで、それを眞に受けた本人たちは、頻繁に電話したり、(退職者の)家に(訪ねて)行ったようです。迷惑を感じた前任者から突然私の宅へ電話が入り、「もう電話せんように言ってください。迷惑していますので」と。その方とは面識もありませんでした。迷惑ならば、自分が本人たちに直接言えばいいものをと思いました。そんな経過がありましたので、冷たいようですが、(私の退職するときはいろんな経緯も)ズバッと切り離しました。それでもときおり訪ねてきたときがありましたが、玄関外での応対で家に入れることはありませんでした。冷たいようでも、厳しく線を引くことがお互いにベストなのではと思っています。
* そぞろ恥ずかしく、なにも知らずよく調べずに書いていたものだ。二十年前にも同じようなディアコノスの環境は出来ていたのだろうか。当時は分からなかった。分からなかったから、一つの「家」の中だけに絞って書けたとも言えるが。
2001 6・15 9
* 「無明・ディアコノス=寒いテラス」拝読しました。これは、つらい、です。仰有るように、答えは、出ない、と思います。たとえ、上手に論考しても、取り返しはつきません。もしも、「淡路一家」の人たちが目の前に現れて、相談されたら、これからの事を考えることにする、と思います。この国のどこかで、世界中でおきていると思います。つらい、です。
梅雨冷えで、炬燵をつけたりしています。益々ご多忙のご様子、くれぐれもご自愛ください。
* 知人の家庭にも障害のある子がいて、その母親が自殺したということもメールの一通で聞いた。つらい。
2001 6・16 9
* 秦恒平様 小説「デイアコノス=寒いテラス」を読みました。簡単に感想を書きます。私には、どうしても秦さんの小説に、迪っちゃんの家族が重なってしまって、普通には読めないのです。これは以前からそうなんですが、今回も勝手に感情移入があって、かなり辛い小説でした。
でもこの小説は、(語り手に迪っちゃん的な立場の主婦が出てくる、そういう家族の状況をのぞけば、)非常に引き込まれる力のある小説でした。
どこにも悪意というものがないのに、身障者というほんの少しの非日常がごく普通の少女を、その家庭を巻き込んでいく様子が、見事に描かれていると思いました。語り手を通して、インテリ家庭らしい用心深さや、正義感や、本来の優しさが、その率直なリアリティを通して伝わってきます。
世の中には様々な恐怖というものがあると思うのですが、この場合も理不尽と思える底のない恐怖が、読者にも伝わってきました。(何故か夢にも恐怖感が出てきました。) 「愛」というオールマイティのはずの言葉が、観念の上をすべっていく感覚、「愛とは何か」をひとりひとりの心に問いかけてくる小説でもあると思いました。「妙子ちゃん」は、とにかく無垢に「愛」しているわけですよね。
また一体「普通とは何か」という問題も提供しています。語り手と同一線上に立つ私は自分を健常者ととらえていることそのものが、ひとつの差別なのかも知れないと思ったりしました。
一方、もし私が身障者側の家族だったら、この小説を読んでどのように感じるのだろうかとも考えさせられました。私にも身障者の友人がいるのですが、私はいつも彼女に何故か「申し訳ない」という気持ちを持っていて、その気持ちが重くのしかかるのです。つまりは、相手が私に何もしていないのに、その存在だけで、私は勝手に「被害者」になってしまうのです。つまり大袈裟に言えば、「お前は、ディアコニツセにならねばならぬ」という圧迫を無言のうちに感じてしまうのですね。
身障者とは、それほどまでに力を持つ存在なのだと、いつも思います。(それがこちらの勝手な思い込みだとしても……)
私にとっては、そういう様々な諸々を感じさせてくれる小説でした。
余り上手に感想を述べられなかったように思いますが、非常にインパクトの強い小説であることは確かだと思います。簡単ですが、お許し下さい。どうぞお身体を大切に、これからもいい作品を書いていかれますように。 * * 子
* これは力有るいい批評で、作品の問題点を、簡潔に、全部といえるほど押さえてくれている。むずかしいことだなあという慨嘆をまたも深いところで感じる。二十年前に、出したいと言えば、どこかの出版社は出してくれていたと思うが、こんな湖の本とはちがう場所で公にしていたとして、どんな反響を引き起こし得ただろう。上の友人の言葉にもあるが、そして間違っているとも感じるのだが、「何故か『申し訳ない』という気持ちを持っていて、その気持ちが重くのしかかるのです。つまりは、相手が私に何もしていないのに、その存在だけで、私は勝手に『被害者』になってしまうのです。つまり大袈裟に言えば、『お前は、ディアコニツセにならねばならぬ』という圧迫を無言のうちに感じてしまうのですね」という辺が、わたしに公刊を躊躇させたのだった。こういう姿勢にこそいちばん根深い差別感が出ていたのではないかと痛いほど感じているが。
* 湖の本十五年の如何ともしがたい重い体験は「死」だ。数え切れない大勢のいい読者に死なれ続けてきた。藤田理史君のような若くて稀有の例外はあるが、わたしの作品は読み巧者な経験をつんだインテリジェントな読者に好まれてきたと思う。そう言われてもいる。自然高齢の方が多く、創刊から十五年となれば亡くなる人も比較的多い道理なのかも知れぬ。しかし、高齢という年齢でなく人生半ばに痛ましく病気で亡くなった人も多いのである、泣くに泣けない思いのしたことが何度も何度もあった。有り難いことに、そのように夫を失った夫人が、さも遺志を継ぐようにして大事に湖の本を継続してくださっている例も多い。多ければ多いほど、また心寂しい。滋賀県の小田敬美さんの熱い愛読者であった夫君が亡くなられて十三年、敬美さんはずうっと便りを欠かすことなく湖の本を支えてくださった。亡き人の好きであった食べ物やお酒を折りごとには私にも送ってきて下さった。十三回忌に、ことに愛飲した清酒「桃川」をと一本が届いている。忝ないことである。
創刊十五年目の桜桃忌が明日に。山形から、みごとな桜桃が今年ももう贈られてきた。栃木から、茨城から、これもすばらしいメロンが合わせて二十顆も贈られてきた。狭いながらも我が家は死者にも生者にも見守られて暖かい。有り難い。
2001 6・18 9
* 有り難いことだ、作品への力の入った批評が次ぎ次ぎにメールで届く。私有していいものでなく、どなたにも、自分がもし渦中にいたらと考えて戴きたい。
* 『ディアコノス=寒いテラス』を読んで
「私語の刻」へむけて、多くの方々が、『ディアコノス』へのずしりと重たい感想が寄せられております。大変共感する部分もあり、新しい発見もございました。今さら僣越ではございますが、こんな読み方をした読者もいるということで、感想を書かせていただきたいと存じます。
『ディアコノス』はこれまでの秦先生の世界とは少し異なる題材を扱っていますが、素晴らしい完成度をもった作品で、取り憑かれたように一気に読んでしまいました。
実を申しますと、私はこの作品に登場する「妙子ちゃん」の知的障害にさほど重きをおかずに読んでおりました。知的障害を世の中に存在する多くの「異常性」の一例と捉えたのです。知的障害を精神障害や痴呆や他の身体的障害におき変えても、この作品の根幹は充分に成り立つと考えました。『ディアコノス』は、何かが大きく欠落した人間との関わりを余儀なくされて、破綻に向かう一家の物語と読めるのです。
『ディアコノス』は侵入者への、しだいに増殖していく恐怖を描いた物語として、類稀な名品だと思いました。母親の一人称で、書簡体形式という限定された視点で描かれることによって、崖っぷちに追いつめられていく淡路一家の状況が息もつけないように迫ってきました。読み進むにつれて、正直私は震えあがってしまいました。
この作品を読んで、私が感じたと同じような恐怖や嫌悪を追体験する読者は多いと確信します。簡単に言うと「妙子ちゃん」は知的障害の衣をまとったストーカーでしょうか。人は誰でも程度の差こそあれストーカーに出会います。作家にはストーカーがつきやすいという話を聞いたことがございますが、先生がこの作品を書かれたきっかけも、先生なり身近なかたの経験が反映しているようにも感じられます。それほど『ディアコノス』の恐怖は生々しいものでした。
小説を自分の個人的体験と引き比べて読むのは邪道だとは思うのですが、『ディアコノス』に限ってはそういう読み方をせずにはいられませんでした。ある意味で私はこの作品に対する偏った読者と言えます。どうしても「妙子ちゃん」やその家族の立場には立てませんでした。私には『ディアコノス』は他人ごとの物語ではないのです。個人的なことを申し上げるのは恐縮ですが、私自身もこの設定にどこか似通う異常性との関わり、二回のストーカー体験がございました。
最初は小学校の四年生のときで、相手は五年生の男の子でした。当時はもちろんストーカーという言葉すら存在していませんでしたが、彼がしていたことは今振り返っても立派なストーカーでした。仲良しの女の子の近所に住んでいた男の子から、突然好きだと言われたその日から悪夢が始まりました。
学校の休み時間のたびに、五年生の教室から四年生の私のクラスに現れる。トイレの前で待ち伏せる。帰り道についてくるなどさんざんつきまとわれました。いじめられたというのならば、教師や親に訴えるという方法もあったのでしょうが、好きだと迫るだけで指一本触れてこない相手を排除する方法が、十歳の少女にはわかりませんでした。拒絶しても無視してもつきまとう男の子を前にして、ただ途方にくれていました。
リカちゃん人形でおままごとをしていた平凡な少女は、一学年しかちがわないとはいえずっと大柄な男の子に「好きだ」と言われるたびに、得体のしれない恐怖感に胸がしめつけられるようでした。「好きだ」という言葉の見返りに彼が求めているものが何かはわかりませんでしたが、それが忌まわしいものであることは子供であっても本能的に知っていました。節子が妙子ちゃんに「一緒に寝たい」と言われて感じたであろう鳥肌の立つような怯えに近いものに苛まれたのだと思います。
幸いなことに、次の学期に私の一家は引っ越しをして転校することができ、私はようやく彼から解放されました。その後私は私立の女子校に進学しましたが、男の子につきまとわれる心配のない環境がどんなに嬉しいものだったかは言うまでもありません。
今ではその男の子の顔すら思い出すことはできません。ただ『ディアコノス』を読んでいるうちに、ふと彼の口元、もっと正確に言うと好きだと言ったときの唇だけが映像として甦ってきて、背筋が寒くなりました。
二度めのストーカーは、まだ記憶に新しい最近のことです。相手は女性なのですが、これは処置なしのストーカーでした。異性のストーカーより同性のストーカーの方がずっと不気味だということを骨身にしみて悟りました。男のストーカーが女に求めるものは相手の肉体とか命といったもので、これはこれで当然怖いのですが、行動を予測できないこともありません。しかし、女のストーカーが対象の女に望むものは、ひと言で言えば相手の「不幸」とか「不幸への苦しみの過程」でしょうか。
彼女はある難病を患っていまして、いつ死ぬかわからないと訴えながら迫ってきました。自分は病気なのだから、自分の言うことをすべてきいて欲しい。愛してほしい。私の幸福を投げ出して、自分と同じように不幸になってほしい。誠に身勝手な要求なのですが、彼女は執拗でした。毎日のように投函される支離滅裂の長い手紙。そのうちの何通かは消印がなく、明らかに自分の手でわが家のポストに入れたものでした。彼女がすぐ近くまで来ているというのは、耐えがたい恐怖を呼び起こしました。
それでも、彼女の異常さにたいしてなかなかとどめのひと言が言えなかったのは、難病を楯にされたからだと思います。妙子ちゃんの知的障害ゆえに、厳しい対応がとれなかった淡路家と同様に、私は気の毒な病人に反撃することが困難でした。男のストーカーであれば警察沙汰にもできるのでしょうが、女で病人のストーカーを取り締まるすべはありません。彼女が私に与えているのは心理的圧迫だけなのです。ですから私が彼女を拒絶すれば、世間は私が弱いものいじめをしたとしか思わないでしょう。
なまじ変な想像力があるために、手紙に毒が塗られていないかとか、盗聴器の心配をしたり、小包を警戒したり、一歩玄関を出るたびに周囲を見回したりする日々が半年ほど続きました。疲れはてたときに、見かねて間に入ってくれた方がいまして相当烈しい怒り方をしてくださいました。そのおかげで、今のところ私はストーカーから解放されて安らかな日常生活にもどることができています。多分このまま落ち着くだろうとは思います。それでも頭の片隅に彼女の影がちらついて眠れぬ夜を過ごすこともあるのです。
長々とつまらぬことを書いてしまいましたが、『ディアコノス』は私にとりまして現在進行形の恐怖の物語であることを、先生に知っていただきたく思いました。先生の意図とはかけ離れた読み方なのかもしれませんが、『ディアコノス』は私のような経験のある読者には、非常に恐ろしい作品なのです。
『ディアコノス』は長い間公表を差し控えられた作品とのことですが、とても今日的な社会の病理をえぐり出しているとも言えるのではないでしょうか。私はこの作品から、理不尽な存在に向き合わされた淡路一家の悲鳴を聞くのです。
『ディアコノス』には知的障害者が登場する作品につきものの偽善がありません。障害などの異常性の問題を突きつめていけば、必ず立ちはだかる容赦のない真実が、大変衝撃的なかたちで描かれています。解決のつかない問題が読者の喉元に突きつけられます。
しかしその冷徹な展開に耐えられず、なまぬるい解決を求めるのが現在の日本の公式見解のように思います。未だに出版社が『五体不満足』のようなかたちでしか障害を扱うことができないとしたら、障害と差別の問題は改善される見込みはなく、空虚な正論だけが一人歩きすることになります。 私の読み方は特殊としても、先生が『ディアコノス』に込められた覚悟と誠意ある問題提起は重く受けとめなくてはなりません。
大きく欠落した人間の受容が可能なのは、先生が作品のなかで語られる奉仕女ディアコニッセの愛だけでしょうが、そのような愛はほとんどの人間には不可能なものです。
薫先生、今こそあなたにこう申します。節子に愛がなく私どもに
愛が無かった。あなたにはそれが有る、と仰有いますかと。
この小説の最後の一文は痛烈な一撃です。私を含めた「愛のない」人間、「愛のない」ことさえ気づかなかった鈍感な人間は反論の余地もなく、深い溜め息とともにこの本を閉じるしかないでしょう。
掌説『無明』は先生の独壇場で、詩を読むように魅惑の時間を味わうものでした。前の手紙に、先生のご本のなかに
は、この世の美しいものすべてがあると書きましたが、外国のある詩人の言葉を少し変えてこう言ったほうが正しいかも
しれません。
秦恒平のような真の作家が選んだもの、書きしるしたものだけが、美しいものとしていつまでも生き続ける。
片隅の読者ではございますが、湖の本の世界がさらに清らかに澄んでいかれますことを心よりお祈り申し上げます。
先生が桜桃忌の定期検診を無事終えられ、お好きなものを充分召し上がることができますことも、切にお祈りいたしております。
* 作者にふれていわれていることは面はゆいけれど、作品にふれて率直に差し込まれた視線の強さにはビリビリ響く力がある。一つにはくっきりと輪郭の濃い文章の力だろうが実感の深さでもある。実感は人によりさまざまだから、むろん、まるで別の実感から相互に批判し合うといった余地も多くの読者には残される。そういう感想が、かりに書かなくても話し合われたりしてどこかへ具体的に深まっていけばいいがと、作者は切望している。メールで書いてきてくださる方々に心よりありがとうと申し上げる。毎日の払込票でもまた手紙でもたくさんな感想が降るように届いているが、残念ながら手書きのものを書き込ませてもらうのは、とても追いつかない。 2001 6・18 9
* 晴れ。二度目の誕生日、秦恒平・湖(うみ)の本が創刊満十五年の誕生日。宝玉のような桜桃が、清水のような清酒が、盛り上がるような勢いのメロンが、大勢の身内が、読者が、祝ってくれる。体重減り、血糖値低く、よろしい。
2001 6・19 9
* 言論表現委員会同僚の五十嵐二葉弁護士から、「ディアコノス」について、「ハードな結末にもなる題材をやわらかく仕上げられ、この辺りが『秦文学』のフアンの多いところなのでしょうと感服しました」と、手紙をもらった。俳優の田村高広廣氏からも忙しい中、封書の礼状が来ていた。
2001 6・20 9
* 『湖(うみ)の本』45を拝見して、満ち足りた気分でいます。正確には、文学的には満ち足りているが生活者としては考え込んでいる、というところでしょうか。6/10にいただきましたが、今日まで読めないでいました。ある予感があって、じっくり読める日を待っていました。大変なことが書かれているに違いないという予感は、当っていました。
「無明」の、書けないときでもご自分に義務付けてお書きなったとの件りは、プロの作家としては当然かもしれませんが、原稿用紙4枚にきっちり収めて書くことなど、なかなかできないことだと思います。それはそれで魅力ある作品が多いのですが、やはり私は「ディアコノス=寒いテラス」に胸を打たれました。
おだやかな、敬語をきちんと使える女性という設定も、書簡という形式も、この作品では成功していると思います。そして、教育とは何か、奉仕とは何か、正義とは何か、心障者をどう受けとめて行動するのがよいのか、非常に問題の多い小説だとも思います。秦さんは20年前にこの作品を書き上げ、上梓を勧められてもいたようですが、結局、今になって湖(うみ)の本で発表したとのことですね。20年前に発表してもよかったのではないかと今だにお迷いのようですけど、私はこの時代でよかったと思っています。ようやく総合的なモノの見方が出来つつある今でなければ、この作品の価値は埋もれてしまったかもしれません。
私にもこの作品に近い経験があります。小・中学校を同じにした軽度の知恵遅れの同級生がいて、いじめに遭った時に庇ったのを機に近づいてきました。私がバスケット部の主将をやった時に、一緒に試合に出たいと入部してきました。運動神経はよかった方です。中卒で大工になって、私の家を建てたいと言っていました。私が家を離れて就職したあとも、私の実家には出入りしていたようでした。20年ぶりぐらいで同窓会で会った時、もう一度昔の仲間とバスケットをやりたい、と言っていました。おお、やるか!と応えましたが、その1年後に屋根から落ちて死んだと知らされました。もちろん御作とは似て非なることですが、彼に接した私の態度は、今だに信用できないものがあると思っています。御作を拝見して、その思いをさらに強くしているところです。
心障者とは何か、と私には明確に答えられる知識も感性もありません。この作品を人文学的・医学的にも応えられる術も持ちません。それでもなおかつ、人間とはなんだろうと考え込んでしまいます。文学的には誰も書いていない分野を書いているという羨望はあります。しかし、そんな羨望は自分の小ささを曝け出しているだけだと思います。作家の本来の力を感じるだけで、人間の理不尽・不可解さを考えて小さくなっています。
2001 6・20 9
* 「初手から妖しの美世界へ引きずり込まれるようで、日暮れに気付きませなんだ。
梅雨の日の暮れ、 ぶどうの房と 伏目の美女と。 」と、川柳の時実新子さんのハガキも。
2001 6・22 9
* お元気ですか。湖の本十五周年おめでとうございます。
「ディアコノス」について、私語の刻にたくさんの感想が紹介されていますので、今さら申し上げることなどないのですが、普段、障害者と接することのほとんど無い者の考えとして、ひとつお聞きいただければと存じます。
まず、よくお書きになったなあ、ということです。発表を躊躇われたのも頷けます。それほどデリケートな問題です。日本人のほとんどが、差別はいけないと言いながら、いざ自分が関わらざるをえなくなると差別をしてしまうそうです。偽善の姿、と思います。
わたしは偽善に陥りたくありません。かといって偽善から解き放たれているという自信はありません、情けなくも。うわべだけの”ディアコニッセ”になりたくなく、福祉などとは距離を置いてしまっています。
差別は、未解放部落、女性、在日外国人、など悔しいほど多々存在します。それぞれの歴史があり、事情も異なるので一口にどうと言えない複雑な、やりきれない問題です。
「ディアコノス」に描かれているのは、やはり特有の問題をはらむ障害者差別についてですが、作品は、障害者差別に限らず、差別の根っこのところにある闇を、真正面から捉えているなと思いました。偽善、同情、憐れみは、もっとも排すべきと思っています。
学生のとき、差別問題を考える演習の授業を履修したことがありました。そこで、自分の無知と、「自分ならどうする」などという次元で差別問題を考えているだけでは、先へ進まないことを知りました。授業中、ある女生徒の言った、「自分が何者であるのかわからないと、生きて行くのが難しい」という言葉を、今でも忘れられません。彼女は、日本人でも、韓国人でもない、在日韓国人でした。
差別問題と向かい合うとき、偽善の仮面をかぶっていないか、いつも自分自身に問いかけています。答えはなかなか出せません。やりきれない、まとまらないわたしの思いに似たものを、よくぞ書いてくださった、という思いでいっぱいです。
また、「無明」は、むむ、なるほど、と唸りながらたのしく読みました。
* 一つの姿勢であろう。
2001 6・22 9
* 「英語を外国語として理解している多くの読者にもよく分かるように、(本とコンピュータ)の英文は平明を旨とします。すると分かりやすくなるのですが、原文の持っていた迫力がそがれるようなことがあります。できるだけそうならないように、秦さんの英文の翻訳・編集は、最後までこちらで議論して手直しをしました。英文に直したときは、変化球より直球の方が、外国の読者には理解されます。秦さんの今回の文章は、剛速球なので多くの人に理解され歓迎されると思います。ありがとうございました」と編集長からアイサツが入っていた。どんなことを書いたか、少し露わにものを言っているが、「エッセイ」欄にも、(本とコ)で許してくれるなら「e-文庫・湖」第九頁の「英文」欄にも掲載しておきたい。
関連討議は、http://www.honco.net/100day/03/2001-0622-hata-j.html から展開して読んで欲しい。
* ネットの時代へ、作家として編集者として 秦 恒平
わたしは「書き手=小説家」だ。批評もエッセイも書いてきた。どのように作家として出発し、現にどのようにこの議論との接点をもっているか、それを知ってもらうのが、議論の趣旨にいちばん適う気がする。なぜか。
エプスタイン氏に始まり加藤敬事氏らの対話に到る議論が、ほとんど「書き手=作家・著作者」を、「出版」の問題にしていない。「読者」への評価もまるで無い。こと「出版」を語って、作者と読者への視野や評価を欠いた議論というのは、何なのか。久しく作者を出版の「非常勤雇い」として?使し、読者から「いい本」を取り上げて多くの泡をくわせ、待ちぼうけを食わせてきた、出版社主導ないし独善の「出版」なるものが、いま自己破産に瀕しているのは、けだし当然のように見受けられる。新世紀は、そういう作者や読者から、旧出版へ反撃の時代とも位置づけられる。反撃を可能にするのが、デジタルテクノロジーであることは、言うまでもない。「出版」抜きの出版、作者と読者とで直接交しあう出版が、今日、可能になっている。わたしはそれを、十五年、成功させてきた。出版よ変われと願い孤軍奮闘してきた。その実践を人は楠木正成の赤坂城に喩えてくれる。愚かしい真似であったか、意義があったかはみなさんの判断に委ね、他人のことでなく、あえて自分のことをこの場で語ろう。
1960年代、創作を職業にする以前に、出版社に頼らず、私家版を少部数ずつ作って、ごく少数の読者に作品を手渡していた。その四冊目の表題作が、作者の知らぬうちに太宰治文学賞の最終候補に推されていて、受賞した。1969年である。文学賞は、この業界からの「雇い入れ」招待状になった。
以後、年に四冊から六冊ほど、毎年本を出版し続けた。折り合える限りを出版社・編集者と折り合い、勤勉に書いて書いて著書を積み上げていった。一年に書く二千枚の原稿のほぼ全部が右から左へ単行本になって行くほど、この新人作家は出版に恵まれた。十数年といわぬうちに各種六十冊を越えていた。ただし、どの一冊もベストセラーにならなかった。わたしには出版が大事なのでなく、心ゆく創作や執筆、その自由と発表の場が大事であった。「いい読者」が大事だった。少数だが熱い読者に常に支持されていると、編集者も出版社も本を出しつづけてくれ、蔵は建たなかったが、職業としての作家業は、受賞以来五年の二足わらじを脱いでからも、十数年、二十年、なお十分成り立った。原稿料・印税その他で、一流企業の友人たちよりもわたしは当時稼いでいた。
ところが、お付き合いの濃かった人文書出版社が、つぎつぎ具合悪くなった。筑摩書房、平凡社、最近では中央公論社。意外とは思わなかった。優秀なバックリストに満たされての破局は、エプスタイン氏の批判に言い尽くされているのかも知れない。龍澤氏の反省がまるで当時機能していなかったのは明白である。
痛みとともに想い出すが、すでに1970年代前半にして、わたしが勤めてきた出版社の企画会議・管理職会議での合い言葉は、強圧は、「前年同期プラス何十パーセント」という機械的な生産高設定であった。医学専門書の出版社でそうであったし、読者確保の利く専門書であるがゆえに高価格設定でそれもなんとかなったけれど、龍沢氏のいわれる「幅」のある、それだけ見通しの利かない人文書出版社で、生産高本位の「前年同期プラス」に歯止めなく走り始めれば、そんなバブルが、うたかたと潰えるのは目前であった。作家として独り立ちしてからの7-8-90年代を通じ、わたしは「出版」の自己崩壊または異様な変質は、あまりに当たり前のことと眺めていた。良識ある編集者の発言力が社内で通用せず、むしろ進んで変質し、「売れる本を書いて欲しい」としか著作者に言わなくなっていたのだ。龍沢氏は言われる、「書籍編集者は年間出版点数を倍に増やさなければ売上げを確保できず、企画は次第に画一化されてゆく。その過程で編集者・出版社は、かつて強力な流通網の向こう側に確実に実在していたはずの、ある『幅』をもった多様な人文書の読み手であった『読者階層』の姿を急速に見失ってしまったのである。企画の画一化は、結局のところ画一的な読者を生む以外にないのである」と。この通りであった。「編集者」はいなくなった。原稿もろくに読まない・読めない「出版社員」だけが下請けを追い使って生産高を競った。
そんな中で、作家・著作者とは、バブル化する出版資本のかなりみっともない「非常勤雇い」に過ぎないとわたしは自覚し、イヤ気もさして、このままでは、百冊の本を出しても、売り物としては半年から二年未満の寿命に過ぎないし、読みたい本が手に入らないという「いい読者」たちの悲鳴に出版が見向きもしない以上、作者である自分に「できる」ことは何だろうと、考えに考えた。
そして、1986年に創刊に踏み切ったのが、絶版品切れの自分の全著作を、自身の編集・制作により復刊・販売・発送し、作品を、作者から読者へ直接手渡すという、稀有の私家版シリーズ「秦恒平・湖(うみ)の本」であった。辛うじて自分の「いい読者」を見失うまいと手を伸ばしたのだ、詳しく話していられないが、今年の桜桃忌(太宰治の忌日)までに、満十五年、六十七巻の著作を簡素に美しい単行書として、自力で出版し続け、百巻も可能な見通しで、なお継続できる「文学環境」が確保できているのである。読者の質は高く、支持は堅く、代金は一ヶ月でほぼ回収している。復刊だけではない、新刊も躊躇なく刊行し、ただし実作業はわたしと老妻との二人で全て支えてきた。苦労そのものであったが、読者という「身内」に恵まれ幸せであった。「本が売れないって。泣き言を言うな。自分で売るさ」と、実に自由であった。むろん市販の本も、各社から二十冊ほど増やした。忙しかった。
大事なのは、ここからだ。かつて菊池寛が文藝春秋を創立したとき、作家が出版社経営に手を出すのかと中央公論社長らに大いに憎まれ、喧嘩沙汰もあった。菊池寛のような政治家ではないたった独りの純文学作家・秦恒平の自力出版が、五年しても十年しても着々続いていては、陰に陽に凄い圧力がかかる。文壇人としては野たれ死ぬかな、ま、赤坂城のあとには千早城があるさと粘っているうちに、1993年、東京工業大学の「文学」教授に、太宰賞の時と同じく突如指名された。大学教授の方はとにかく、理系の優秀校、コンピュータが使えるようになるぞと、わたしは、牢獄を脱走するエドモン・ダンテスのような気分になった。紙の本で得てきた創作者の自由を、電子の本でさらに拡充し、紙と電子の両輪を用いて、「いい読者」たちとの「文学環境」をもっと豊かにもっと効果的にインターネットで楽しもうと、奮いたったのである。
定年で退任したいま「作家秦恒平の文学と生活 http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/」は、その途上にある。途上とはいえ、文学・文藝のアーカイブに徹して、コンテンツはすでに600万字に達し、電子版「湖の本」の他に、新たな創作もエッセイや批評や講演録も多彩に取り込んでいる。課金しないから、読者は自由にすべてが読めるし、気が向けば印刷版
の「湖の本」へ自然に注文が入る。紙の本の魅力はまだまだ当分失せはしないのである。
わが「湖」は必ずしも広くはなっていない、が、深まっている。その証拠ともあえて言おう、わたしのホームページは、さらにその中に「e-literary magazine文庫・湖umi」を抱き込み、わたしが責任編輯して、弁慶の刀狩りではないが千人・千編の各種の文学文藝を掲載発信すべく、すでに創刊半年で、百数十人の作品に満たされているが、書き手の大方が「湖の本」の読者であり、大半は立派に知名の書き手なのである。その水準の高さに惹かれ励まされて若い無名の書き手も次々に参加してきている。原稿料は出さず、掲載料もとらず、ただわたしの「編集と取捨」とに委ねられている。実はわたしは、作家以前に、弁慶のような「編集者」として牛若丸の「書き手」を追いかけ回し、そして最後には勝たせてあげていた。その「体験」が、わたしの「作家」三十数年を支えてきたのだ、ここが、もっとも肝要な「これからの編集者」論ということになる。龍沢氏の文中にもある「編集者・出版社」という一括はもう崩れていい。「作家・編集者」という根源のチームに立ち帰らねば「編集という本質」は瓦解するのだ。
もし、力ある作家と編集者とが、小さく緊密に、コッテージ・インダストリーふうに紙とデジタルで信頼の手を組めば、そういう「新出版」が各処に渦巻き働き始めれば、老朽した「旧出版」という北条政権は、遂には傾くだろう。インターネットに、読者と作者を引き裂く「中間」存在など無用なのだから。
この場合に必要なのは、作家自身の誠実な自己批評の能力、編集力、だ。作家自身も、それをサポートできる編集者にも、何よりもつまりは良きものを求めて「読んで」見つけだす力が必要なだけだ。インターネットで文学環境を築こうとすれば、作家自らが誠実な意欲的な編集者になれるかどうか、その結果時代が真に新しくなるかどうか、が、鍵になる。弁慶と牛若丸のように、今こそ編集者は作家と、作家は編集者と組んで「旧出版社」から脱出せよと言いたい。その際、力ある「いい読者」たちの存在をけっして無視してはならないのである。 2001.6.17
* 優れた編集者は、まだ、大勢が苦闘している。ひやかしでなく、真正面からの反響の届くことを期待している。
* 「ディアコノス」などと難しい題が付いて、どんな内容だろうと思っていました。すぐ読んでしまったのですが、感想なんてとても言えないと思いました。
多動で精神発達遅滞というのでしょうか、そんな人に関わって、何かを得たのか失ったのか、主人公はいったい誰なのか等、精神障害児に対する考え方や扱いのまずさがよく描かれているなと感じました。語り手の、話の宛先が少女たちの「担任教師」であるところに、問題を隠してあるのでしょうか?
* ふつうの読者のふつうの反応だと思われる。一応の批評をこえてその先までとなると手に負えない問題だということか。
2001 6・23 9
* いま生のままもたらされる情報のなかで、おそろしさも麻痺し、白けてゆく日常です。
『ディアコノス=寒いテラス』は、怕い小説ですけれど、力みとか断じたりする嫌みがなくて、読者に性急な答を促さず、迷路の彼方をあけてあり、考えさせてくれます。たとえば、湖の底から人知れず湧き上がる清冽な湧水のような、読者のこころの泥を洗ってくれるような──。十五年、六十七冊、ほんとうにありがとうございます。
* さいたま市の、久しい有り難い読者からの声が届いた。
2001 6・23 9
* 「ディアコノス=寒いテラス」に寄せられた意見は、次のメールで、ほぼ各方面からでつくしたのだろうか。「いやな小説とは思いつつ読まされて、考え込んでしまいました、少し間をあけて再読しさらに考えたい」という払込票への添え書きも今日届いていた。
* 創刊15年記念の輝かしい作品が、「ディアコノス」。感動でもあり、辛くも読ませていただきました。一気に。と言うより途中では恐ろしくて、読み止めることができませんでした。
作者のお気持ちしっかりと受け止めなければと思いますが、「ディアコノス」が、「妙子ちゃん」の昔の担任の「薫先生」宛てになっていて戸惑っています。テーマーが大きくなっていったこと、一「淡路家」の問題でない事、問いかけが世間へとなっていったこと、知的障害児の大勢の方と現に関わっている私自身の不遜さ、気付かない傲慢さが、どれだけの人を傷つけていったのかと、考えさせられます。自分自身の気持ちも、こと確かなものとはならない日を過ごしています。
息苦しいまま、作中語り手の「淡路家の奥様=節子さんのお母様」宛て、私が日々仕事から感じていることなどお話しし、聞いていただこうと、お手紙させていただきます。
「妙子ちゃん」の不意の出没からの数年間、どれほど心を痛められながら、日々をお過ごしでいらっしゃったたかとお察し致します。遅ればせながらお見舞いいたします。
一番に、貴女のご家庭の愛が、薫先生の愛より薄かったとは、決して思いません。
皆様が妙子ちゃんに良かれとどれだけのことを尽くされたか、それでも世間は承知できないのでしょうか。いえ、知らなさ過ぎるのではないでしょうか。
私は、(申せば塾経営の中で)知的障害を持っている子どもたちに、他の子どもたちと同じように学習して欲しい、する権利があると思い、個人別の学習をしています。世間では、彼らには知的学習は必要が無いとされる事も多々あります。その人なりのできるものを見つけ、根気よく続けることで、できるものが増えていきます。できる喜びを見出して、自分に自信をつけていき、生涯をより、豊かなものにできればと思っています。フランチャイズ式学習塾での1教室の限度はありますが。
その子どもたちに関わりだして20年余り。子どもたちの個性は強く、なまじの好意や指導者同士の体験からの事例交換だけで理解できないことが多くありました。確かな知識も欲しいと、放送大学で発達心理学など周辺事項を学び、卒論には、『母子分離不安が及ぼす言語障害』をテーマーにしました。話がそれますが、乳児の発達に母子相互作用が及ぼ
す影響の大きさを知っていく事は、私自身の出生、育ちを見つめ直す自己探求にも深く関わって、避けて通れないものでした。
子どもたちの生来の1次的障害に加えて、2次的障害が、障害を重くしていく事があります。それを多少なりとも防止したり、軽減できる事の一つに、母子関係を援助する事があると思います。子どもが何かできていく体験を、母親も遠慮することなく喜び合える事は、子どもの意欲を育て、心を安らかなものにしてくれると思いました。母親が安心して子どもと学習できる専門教室を希望しました。
商業ベースの塾のことですから、会社の良心にあたる部分をくすぐり『障害児指導は教育の原点である』などと実しやかなことを言い、又、私自身も信じて許可してもらいました。10年を経て、地域の父兄にも、公的な福祉関係者からも預かって欲しいと委託されるようになり、今、50人近い生徒と学習をしています。
誰でもが知りたい、勉強をしたい、大きくなりたい欲求は持っていると思います。それを叶えるためには、一人だけの大きな力が必要なのでなく、周りからの少しの支えと理解があれば、子供たちは伸びていく事ができます。そのために、少しづつ力を出し合って欲しいと願ってしまいます。少しでも子どもたちのことを知る人が周りに増えていけば、学習しやすくなり、認めてくれる人が増えれば、子どもたちの意欲を増す事ができると思っています。つい多くの人たちに協力を得る事で、知って欲しいと願ってしまいます。「薫先生」も同じだったと思うのです。
子どもたちの思春期のエネルギーは、爆発的です。「妙子ちゃん」とて例外でなく、真っ直ぐなだけ、エネルギーは大きかったことでしょう。観念的な言葉を操れるだけに、周りは翻弄された事でしょう。
我田引水的に持っていけば、それまでに、エネルギーの配分ができるように、ストレスが発散できる術を持てるように、社会の人たちと共有できる趣味を持たせてやりたかった。絵本であり、スポーツであってよいのです。学習を継続させる事は辛抱を養い、コントロールする力をつけます。
「淡路家」がマスコミに叩かれますが、1部でも多く売らんがための商業誌の『世論の正義』は、容易に暴力に変わるのですね。「節子」さんのように理不尽な事で、世間から石礫を投げつけられることが起こらないためにも、多くの人が少しずつでよいのです、「妙子ちゃん」のことを知り、社会が、ご家庭を支えるすべを持つことができれば、と。障害を持った人たちが、成人して、自分の事を発表されるようになり、「妙子ちゃん」のような高次機能障害者の事も、ずいぶん分かってきました。
傷ついた「節子」さんを癒してくれるのは、支えてくれるのは、誰であり何であるのでしょう。世間が、障害を持った子どもたちを少しでも知っていること、が、「節子」さんの気持ちをも理解してくれる事になる、のではないでしょうか。まだ甘い淡い希望をもち続けていることは、私自身が被害者になっていないから言えることだとは思いますが。
そう。もう一つ。子どもたちが成長していくために、社会とは、「人々の幸せのための社会であるべき」では、ということが言いたいのです。反対に、社会のための人づくり、社会の枠の中に当てはめるための教育、はまずいと。特に弱者にとっては。自分の子育てだけでは気付けなかった、社会の、行政の、あり方や仕組み。教育の組織作りや、方向性。大人はなんと身勝手な状況を子供たちに押し付けているかと思います。
大変な状況に置かれたご家庭の苦しさを、何分の一も分からないで申し上げるのは辛いのですが。子どもたちが何か成し遂げたときの眼の輝きに、体全体で喜んでいる姿に、私は勇気付けられ励まされる事が多くあって、その喜びを多くの皆さんに知ってもらいたいと望んでしまうのです。
「節子」さんも、ご家族の皆様も、今までの事を決して後悔なさらないように。きっと「妙子ちゃん」の気持ちを満足させる事は多く有ったのでしょうから。
くどくどと、自分の事ばかり話してしまいゴメンなさい。「淡路家」ご家族の皆様のご健康を心よりお祈り致します。 2001年6月25日
* 問題がもう一度フリダシに戻った気もする。ずいぶんと、いろんな角度から声が届いたし、また仲介できた。気の重い、読んでいて答えの出せない、その意味でたいへん「いやな小説」を提出したが、外へ持ち出してみてわるくなかったと思えるのが有り難い。秦さんの小説はムズカシイと言われ続けてきたのは、文章や構想や手法のことが常であったが、その意味では今度の『ディアコノス=寒いテラス』ほど読みやすい作品はわたしには珍しい。どなたも読むこと自体に苦労はされていない、だが易しい作品ではなかった。
2001 6・25 9
* 『ディアコノス=寒いテラス』、感想が出尽くしたとは、決して思わないでください。百人百様の想いがありましょう。ご返事申し上げずにはおれないたかぶりとあわせ、言葉を綴れないもどかしさがございます。言葉にしたとて詮無い、という気持ちもございます。
一気に読んだあと、読後感をお寄せするとしたら、作者の万倍の言葉をもって批評・評論をモノすか、太田道灌の故事を真似。。。。腰折れ一首を添えて、懸崖に咲く野の白百合一輪を手折り、「妙子」に差し出すしかないと思いました。されど、かの凛とした野の白百合を誰が手折ることができましょう。それは、妙子こそが「野の白百合」にほかならないからです。あとは、妙子自身か、うちに「妙子」を寄生される人か、あるいはディアコニッセとしての妙子を実感・体験しうる人が、ご返事申し上げるのが、一番いいと思いました。私には、この三条件をほぼ共有・所有している非公開のプライヴァシーがあることだけを、こっそりお伝えしておきます。「マタイ伝6:5」にある、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくど述べてはならない」という一句が心境に近いともいえましょうか。
「私語の刻」に紹介されたうちでは、文学としてとらえた感想にやや共感を覚えましたが、『親指のマリア』登場の不確定な前触れ・予言であろうとも、それは、いわゆる「事後予言」であるやも知れず、20年の刻を待って顕らかにした作者の秘密メッセージを、作者の「文学思潮」として批評し、「作者の漂泊の旅路」を追跡しないのでは、片手落ちのような印象を持ちました。作者の万倍の言葉をもってしても、叶うかどうかは定かではありませんが。
揚言すれば、誰もが、程度の差、自覚の差こそあれ、ひとしく、うちなるディアコノスとディアコニッセで在るということではありましょうが、健常者対知的障害者、あるいは「差別問題」といった、ステロタイプ観念にはまりやすい、一方向の「奉仕」「被奉仕」ではなく、さわりがあっても、奉仕し奉仕される「あるがまま」にこそ、「人間」の業がある。いな、(とどのつまり)、妙子こそが「ディアコニッセ」、つまり「親指のマリア」であろうか、という大疑問符付きの、私自身の、これまた、ステロタイプの自問自答ではあります。
二十歳過ぎまで、自閉だの、足りないだの、変わり者だの、小学生の学力・国語力しかないと言われ続けてきた「うちの妙子」。どうしてか、過去、ただの一冊読破した?ヘッセの「車輪の下」がいいとだけ繰り返し、映画「べティブルー」「ポンヌフの恋人」やランボーの映画のことしか興味なかった「うちの妙子」。二十歳を過ぎて、ここ最近、小三国語ドリルから復習はじめ、英語を習いはじめ、猛烈に、太宰や、安吾、ドストエフスキー、漱石、トリイ・へイデン、聖書や、なにやらかにやら、濫読しはじめ、あげく毎日、毎夜、私に、レゾンデテール、アイデンテティ、死と生の対峙について、また、藝術とは何ぞや、という論戦をしかけてきてひるむことがない。「私の妙子」を受け止められれば、楽しき哉(セラヴィ)、また、教えられることが多い毎日でもあります。
「文学」に何かを気づかされた、というのでしょうか。「文学」「創作」のもとより秘めたる力に、われ知らず目覚めたのでしょうか。読むだけでなく、詩やらエッセイ、コラージュの絵日記やら、あかずモノしております。枕もとに詰まれた『湖の本』のことが気になるようで、秦恒平に触れるいい機会と思い『ディアコノス=寒いテラス』をすすめると、機嫌よく一晩で読んだようで、感想を尋ねると「流れるような文体で、すらすら読めた。面白かった」と言っておりました。
「うちの妙子」は自称・隠れ切支丹でもあるようで、夜な夜な、前述の「マタイ伝6:5」の次の言葉を、祈りの日課としております。なかば強制的に合掌につきあわされ、イエスの真実の言葉に最も近いとされるマタイ伝のロゴスが、何となく分るような気がしてまいりました。。。
「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。私たちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもお許しください。わたしたちを試みにあわせないで、悪しき者からお救いください。」(日本聖書協会・口語訳聖書)。
「うちの妙子」が作中の「その後の妙子」であるような気もいたしております。H.13.6.26 一読者より。
* 人生はまことに豊かである。
2001 6・26 9
* 以前の学生が、湖の本十五年にと、二万円も送金してきてくれ、胸をつかれて、感謝も感謝だが、それよりも驚いた。感謝した。
同じ今日、もう一人のもとの学生も、続けて読みたいとわざわざ言ってきた。読んでくれるだけで嬉しいとわたしは思う。大学にいる間には、わたしは一冊といえども学生に自著を売らなかった、自分では。上げてばっかり、いた。著作権者として風上には置けないようだ。
2001 6・28 9
* 新世紀の半年が駆け足で過ぎた。さしたる何事もなく、通算六十七巻を整備し、電子版「湖の本」として掲載した。蒸し暑い。通算六十八巻の用意に取りかかる。
2001 6・30 9
* なんと城景都氏から「お中元」に蟹缶詰が送られてきたのには、驚いた。恐縮もするが、ビックリというのが本音。この「湖の本」表紙繪の画家とは、なかなか連絡が取れず、送った本も宛先不明で返送されてきたことが何度もある。わたしの方の手違いばかりでもないのではないか、十五年間に再々そういう郵便の停滞は繰り返され、諦めかけていたほどだ。そこへ、城さんの方から贈り物で、妻と、感謝は感謝、仰天もした。城さんのあの繪をえらんで希望したのはわたしだが、あの繪だから『湖の本』は永く人に愛されたと想う。黒一色の鮮鋭で優美な線の魅力、ロマン。わたしは、いつでも、最良の選択であったと自負し感謝している。
2001 6・30 9
* 「無明」は、そのままを全て掲載なさいましたの?あとがきを読まなくても、かなり参ってらした様子が窺えて胸が潰れましたわ。モヤモヤ、イライラ、ヘトヘト、ドロドロを、多分、正直にお書きになってらっしゃる。
ですが、迸った、馬を思わせる荒々しい力任せの官能が、若々しくて、魅力的でしたの。 coolに洗練され、美的に抑制された、力強い陽のエロスと、深いところに沈んでいる、野性的な、整理しきれない陰の情熱とが相まっての、秦さんのセクシィさに、改めて惹かれ、「だからこそ」と目指してらっしゃる世界も、強く迫りましたの 読者。
* わたしの「掌説」が何編に達しているか百には間が有ろうけれど、かなりな数にはなっている。眉村卓氏が「日課」として三枚以上であったか書き続けているのをいつも貰っているが、一読して、お互いにまるでちがう世界をちがう手法で描いている。わたしは表現の文藝・藝術を心がけており、一字一句も、ゆるがせに置いていないつもりだ、すさまじい内容も、放埒な書き方はしていない。その辺を見ていてくれる有り難い読者に感謝したい。ただのお話を書いてはいない、わたしの掌説は、ずいぶんわたし自身の「索引」を成していると、自分で思い当たることがある。
2001 7・1 10
* こんな、手紙が届いていた。「妙子」と名乗ってある。わたしたちにとって、それは、いい了解である。「エッセイ」の寄稿かのように迎えることも不可能ではないが、さしあたり、ここへ入れておきたい。未知の知己である。
* 『死なれて・死なせて』
小さな宝物箱に、また一冊本が増えてしまい、苦しそうだ。
何かもう少し大きな箱はないかな?と思い家の中をうろうろしている。
その一冊の本が秦恒平さんの『死なれて・死なせて』のエッセイである。
物を整理整頓出来ない私は大切なものも、すぐに無くしてしまう。情けない事に、毎日無くした物探しを、している。
見るに見かねて、「本当に大切のものは、この箱の中にしまいなさい。」と、夫が黒い箱を私にくれた。私はそれを宝物箱と名づけ、力量のある作家が魂を削って書いた、生きている本をしまっている。
箱の中には聖書、太宰治単行本すべて、太宰治の写真集、ヘルマンヘッセ『車輪の下』、有島武郎『一房の葡萄』、夏目漱石『坊っちゃん』、『こころ』、秦恒平『死なれて・死なせて』である。
魂の宿っている本は、本を開いた瞬間に語り掛けてくる。本を読むと言うより、作者と読者の魂のキャッチボールをしている気分になる。
おだやかな魂のふれあい…私は、生きている本を心から愛している。『死なれて・死なせて』も、私にとって生きている本である。
このエッセイは私に、生きるものの生涯が、死なせてしまう側にもなるし、死なれる側にもなると優しく教えてくれた。そして二十歳で死んだ、従兄(お兄ちゃん)のことを鮮明に想い出した。幼い時から白痴と呼ばれ、いじめられていじめられたあげく、二十歳の時に、シャボン玉のように、パチッと消え、この世を去った。若くして死んだ事を、みな悲しみ「これからが人生だと言うのに、早すぎる。」と、言い涙していたことを覚えている。
でも私は違った。死んだ従兄に手を合わせ、心の中で「お兄ちゃん、よかったね、やっと死ねたね…」「神様、どうかお兄ちゃんを安らかに眠らせてあげてください…」と呪文のように何度も唱えた。
私には解っていた。お兄ちゃんがこの世で「生きにくい草」だと…、影が薄すぎた。人間は動物。強者と弱者がいる。純真無垢な子供の世界でも、強者が自然に嗅ぎ付けて、弱者をいじめる。いじめを見るたびに、残酷な動物の本能を感じる。
小学生の頃、金魚が好きだった私は、大きな水槽に、たくさんの金魚を飼っていた。一匹だけ、どうも弱そうで影が薄いなーと感じていたら、やはり強者の金魚にいつも突付かれ、どの金魚よりも早く死んでしまった。死んだ金魚の体には、無数に突付かれた跡があり、哀れな姿だった。その時初めて、幼いながら弱肉強食に、うっすらと触れた。
従兄は、二十年の人生は哀れに写ったかもしれないが、きっとそれだけではない…、友達が出来ずいじめられ続け、深すぎるほどの悲しみを知り、その悲しみが在るからこそ、普通の人は感じないような些細な事にきっと喜び涙したこともあったのだろう…、あの時私は「早すぎる」と語った人たちは、この世を生きぬく強い草で、きっと弱者の気持が理解できないのだと思った。無学で白痴と呼ばれ、人間関係では、必ずいじめに合ってしまう従兄が、これから先、どう生きていけようか?遺書さえ、残すことも出来なかったのに…、二十年の人生で80年分くらいの心の傷を負ったに違いない。
従兄と二度とあえなくなる悲しみはあったけど、この死は従兄にくれた神様の思いやりだと私は思った。これが私の中で一番心に残る、「死なれて死なせ」てである。
生きるものの生涯において、必ず、加害者にもなり被害者にもなり、「死なれて死なせて」があると思います。この純で、弱者の従兄でさえ加害者になりうる。勉強が出来ないため親を悩ませ、悪い子にお金をせびられ、親の金をこそこそ盗んでいた。どれだけ親を心配させたことか…そのあげくあっさり死んでしまった。
親や親族はもちろん「悲哀の仕事」をした。
しかし、芸術には、「死なれて死なせて」がない…作家が死んでも、魂の宿った芸術は生き続けているからです。
太宰治を読んだ時、本が魂を揺さぶることを肌で感じた。私の中で太宰は生きている。だって本が話しかけてくるんだから…
太宰をもっと知りたくなり、野原一夫『回想、太宰治』を読んだ時、最後に太宰の死にざまがリアルに書かれてあった。私は、わんわん声を立てて泣き、そして泣きじゃくった。今でも文章が生きているからこそ、太宰の死を完全に認めたくない…二度と、この本を読むまいと思い、ごみ箱に投げ捨てた。もう太宰に関して調べるのはよそう。きっと書簡集や作家の研究書は絶対に死に着いて触れているだろう…二度と触れまい…私の中でこの作品たちが生きているのだからそれでいい…。
心底愛せる作品しか、私の宝物箱に、けっして入れない。
秦さんの『死なれて・死なせて』は生きている本として宝物箱に入っています。これから何10回も何10回もこのエッセイを開くだろう…この本がぼろぼろになっても…。
生きている本との出会いをうれしく思っています。この作品との出会いの心の喜びを上手に伝えたいのですが、文章を余り書けない私はうまく伝えることが出来ません。もどかしい思いです。秦さん本当にありがとう。 妙子
* 妙子さん、ありがとう。日々、生き生きと過ごしてください、思うさま。
2001 7・8 10
* 暑い日が続きますが、お元気ですか?でもゆうべは、夜になって、ぐっと涼しくなりましたね。こちらは元気に過ごしています。楽しく、それなりに充実した毎日です。(職場全体では、かなり厳しい状況なのですが。。)ただ、社会人生活にも慣れてきたせいか、ともすると、日々がちょっと惰性になりがちかもしれません。
送って頂きました「ディアコノス=寒いテラス」、興味深く拝読しました。人と人との出逢いは、一歩間違うと、やはり怖いものだな、という考えが頭に浮かびました。時には人を大きく変え、良い方へ導くことも有れば、時には人を破滅へ導いてしまうこともある。インターネットで出会った末の殺人事件などをみても、いつもその裏腹な怖さを思っています。どんな人でも、その渦中に巻き込まれる可能性があるのだと、それも、被害者としてとは限らず、加害者としても。
節子や彼女の家族の対応には、はがゆさを感じてしまいました。障害者と健常者との関係ゆえの難しさ、拒絶への罪悪感、後ろめたさは、確かにあるのでしょう。ですが、それでも、やはり人間と人間とのことですし、相手が誰であれ、自分に照らしてどうしても許容できないことは、断固拒絶する正当な権利がある、のではないでしょうか。その上でも、やりきれなさ、後ろめたさは付きまとうのでしょうけれども。
きっと当時だと、合法的に妙子ちゃんの訪問を禁ずる手だてがなかったのでしょうね。今ならきっと、ストーカー防止法の適用がされそうです。
読後かなしく、考えさせられる作品でした。
またお時間のある時にぜひお会いしたいです!
* ストーカー防止? ちょっと、そこまでは、わたしは考えにくいけれど、これも歯がゆいところかな。難しさが強いてくるひとつの感想と見ておく。「読後かなしく、考えさせる作品」であったなと作者も、ほぼ結論の感想だが、だが、問題点がそこへ置き去りというのでは、よくない。しかるべき関係者や学者や官僚にぜひ検討して貰いたい。その点、わたしの人間関係からも、読んで欲しい関係者にこの本が届いていないということはある。あの人に、あの機関や役所の誰に、こんな学者や評論家に、と教えて頂ければ本を送りたい。
2001 7・8 10
* 社会的弱者という武器
例年より随分と早く、梅雨明けとか。ついこのまえに黒南風を見たばかりのような気がしますけれど。でも、これほどお天気つづきですと、改めて梅雨明けを実感するにはあまりにも拍子抜けですね。
「ディアコノス=寒いテラス」を、読ませて頂きました。最近、まとまった時間がなく、ようやく手にとることができ一気に読み上げてしまいました。もう山ほどの御感想をお受けしていらっしゃると思いますが、最近私の身に起こったことも考えあわせて、余分かもしれませんが少し感想を送らせて頂きます。
(中略)
先生、人間、何が卑怯と言って「死ぬ」あるいは「殺す」というほど卑怯なことはないと思いませんか?「死ぬ」と言われて何もしなければ、「ひどい人」「残酷な人」です。「死ぬ」とさえ言えば周りは言うことを聞いてくれます。こんな便利な台詞は他にないですよね。
(中略)
「妙子ちゃん」に甘く記事を書くマスコミに、私は現代のパラドックスを見ます。今、この時代、弱者であることは「武器」です。「弱者だから、何してもいい」が許される。この論理は、最近の痴漢ぬれぎぬでも現れていますね。社会的弱者であるはずの「女性」が訴えているのだからキミは犯人だ、と。これを逆手にとって、サラリーマンを弄ぶ少女が増えているそうですが。
「妙子ちゃん」を最後にならなければつきはなせなかった「淡路」一家も「弱者の武器」による被害者なのでしょう。「妙子ちゃん」という社会的弱者、加えて「死ぬ」「死のう」という脅し。これほどの脅威はありません。「強者」であることはそんなに罪ですか?私が「淡路」家の人間だったら、そうやって居直るでしょう。「強者」は「強者」であるために必死で戦って来た。少なくとも、私はそうでした。父も母も出戻りの姉も最近自殺しかけた姪も、みな鬱の我が家の中で、唯一逃げ出さずに、そして病まずに残った唯一人でした。言うのも口幅ったいことですが、そうなるまでに、たくさん悩んだし、たくさん考えたし、たくさん泣いた。それのどこが悪い、と、今会ったら、私は姪に言い返してしまうかもしれません。
もちろん、努力してもそうできない人もいます。「妙子ちゃん」も自分で望んで障害者に生まれたわけではないですから。姪も、豊かな感受性を持ちながらその制御の能力がない、という点で気の毒ではあるのです。
だからと言って、無条件に「弱者」を受け入れていいものでしょうか。
「社会的弱者」だから「言うことを聞いてあげねば」という論理がこのまま増長していけば、この国は、その論理によって自己崩壊を来たすでしょう。20年も前に、福祉拡充がようやく言われはじめたばかりの頃に、このパラドックスに気づいていらした先生のご慧眼に心服しております。
「弱者」がそれだけで力を持ち過ぎた現在、その規制を本気で考える時期なのではないでしょうか。それは、行政や法制度だけではなく、一人一人が、「弱者」への距離を考えなければできないことのように思えます。「『強者』であることはそんなに悪か?」という口惜しさを持って生きて来ている人たちは少なくないはず。現に、私の周りにもたくさんいますから。
個人的には、まず最初に、マスコミ(某新聞や某テレビ局を中心に)にね「弱者」であるというだけで持ち上げる姿勢を改めてほしいですけど。この姿勢が改まる、いえ、弱まるだけでも「淡路」家はあれほど悩み、苦しまなくてもよかったのではないでしょうか。
長い長いメールとなってしまいました。暑さの上にお忙しくていらっしゃるところへ、さらに暑苦しいメールで失礼いたしました。前半の私の家の話は、読み終わられましたら、単なる前ふりとしてどうぞお忘れ下さいませ。
少しお疲れのご様子。どうぞ、お身体をおいとい下さいませ。
* (中略)した箇所にはプライベートな機微が書かれていたので省いたが、先日の「ストーカー防止法」発言といい、このメールの表題といい、かなり激しい。ウーンとのけぞって、しばし瞑目してしまうが、こういう側面も「ディアコノス=寒いテラス」が抱えていることは否めない、そこがつらいが着実に行動しなければならぬ問題があるのを、ただ力で投げ出せるかどうか、一個人や位置家族で負いきれぬことはどうすればよいか、つんのめりそうに難しい。このメール、先日のメールと同年の元学生の中には、強度の鬱障害にくずおれてゆく友人、さほど、もともと親しかったとも謂えぬ友人の全生活を背負い込むような情況にはまりこみ、私財もなげうち、しかし手に負えなくなっている人も、現に、いる。共倒れは避けたい、思い切って離れよ忘れよと助言するのは、助言だけならたやすいが、同じ社会に生きる者としては、それだけで済ませにくいから、途方に暮れる。「慧眼」などと言われると身の縮むばかりである。
2001 7・11 10
* 「寒いテラス」であなたが一番言いたかったことは、明確なようでもあり・・でも読者として断言しきれないところもあります。ぐんぐん読めて、登場人物の設定など虚と現実をダブらせて、作者の掌中の手法。ホームページで既に多くの人が述べている感想はよくわかります。ストーカー行為こそ受けたことはありませんが、知恵遅れ・・そう言って適切かどうか・・の子に頼られたこともあります、身近でダウン症や自閉症の子を抱えている人も知っています。妹は大阪で養護学級や、精薄の学校で長年仕事してきました。昨年は高校生に突き倒されて怪我をしてかなりの期間仕事を休みました。が,今も頑張っています。
誰もが引っかかるものを意識の中に持っている問題だと思います。あなたがそれを小説に書くキッカケは何だったのでしょうか?
山瀬ひとみさんの「ドイツエレジー」の文章は、文学に入るのでしょうが、微妙?ただし言いたいことは良く分かります。私自身似た体験もあります。が、理解の底がまだこれから、といった感もあります。ナチの問題はつらいし簡単に近付けない感じさえします。ドイツ人の潔癖さと一般的に言われますが、そんなに単純に言い切れませんし・・。ドイツ語を学びながら、本当に今は遠ざかりました。ドイツ的なものが自分には合わないのかもしれません。
説明が長すぎるとの編輯者の指摘も分かります。
最後のIch liebe Dichの解釈、理解は、キリスト教徒でない私には保留せざるを得ません。キリストの言う「愛」はそれだけでもう理解に余りますし・・。信ずるにはある種の飛躍を必要として、私には出来ません。宗教、信仰に対する姿勢はこれはあなたと同じです。バグワンにさえ一定の距離を置いている私です。中途半端な感想ですが許して下さい。書きたいことを書ききれません。
2001 7・19 10
* 昨日、文藝春秋の寺田さんの電話で、しばらく話した。先日にも電話をもらい、わたしが留守で妻が受けていた。初めて我が家に見えて以来、三十年ちかい。編集者と作家というより、身内のような気がわたしはしている。湖の本のこれほどの持続にもこの人の力添えが莫大に働いている。また新刊分の初校が出てきた。今年の秋口は多忙になりそうだ。今日が国民の休日であることもとんと忘れていた。何の日 ? 分からない。
2001 7・20 10
* 寒いテラス 『ディアコノス』、なんという重いテーマの作品を柔らかくお書きになったことか、という嘆息とともに、即座には出せなかった読後感をしたためさせていただきます。
読んでいる間にふつふつと心に湧くのは、登場する誰彼に似た自分の知り合いであり、ああ同じだと思い当たる自分の体験です。読者の多くはそのように作品に接することでしょう。その感覚が読後感をもっとも強く占めますが、この作品は、そのように読者に自己と重ね合わさせるものを非常に多く投げかけます。投げかけられた読者は、自分の体験をもう一度体験し、さて、どうしよう、どう考えたらいいのだろう、と悩みます。その深さと広さを満々とたたえた、この作品が、未発表であったということに肅然とした思いをもつのです。内容が時機にかなうかどうかということは、論じる必要はないでしょう。作者がお出しにならなかった、理由がなんであれ、その事実が、もうひとつの深さをこの作品に与えている気がします。
社会における弱者とはだれで、強者とはだれなのか。弱者といわれる身体的、精神的に「欠陥」がある人にも「強さ」はあるのか。さまざまな問いを投げかけられていますね。すごい作品だと思います。見事な人間設定がなされていると思います。もっとも印象深く残っているのは、
「どうか妙子ちゃんを叱ってあげないで下さいましね」と何度も申しました。
という部分です。この部分で、淡路夫人と淡路一家と妙子ちゃんと妙子ちゃんの両親のありようがくっきりとわかります。作者はなんという言葉を書くのだろうと思いました。
さて日本の社会は、いまどこまで成熟したでしょうか。たとえば身障者に石を投げるような残酷さはなくなったでしょう。でも身障者はお気の毒と考える段階からは逸していず、一方で、身障者に十分な保護を与えてもいない、といったところでしょうか。
知的あるいは身体的に障害のある人にはもっともっと保護を、そのうえで、身障者をかわいそうと思わず、まったく同等に、つまり身障者に危害を加えられたら何の遠慮もなく反駁する社会をつくりたいと思うばかりです。
どうかそういう論議をわかすうえでも、この作品が多くの人に読まれますように願っています。その意味では、いま世に問う御作品であると信じます。
ここから先はお笑いぐさのこぼれ話です。私がたまに参加する人権を問う集会には、よく右翼の人たちが妨害にきます。このごろは手がこんでいて、一般人と同じそぶりで一人また一人と会場にはいり、ある段階でひどい野次をとばして妨害します。そのなかに、車椅子の人がいることが最近、有名になりました。知らない主催者だと、車椅子ということで親切に押して会場にいれ、ゆったりとした場所をとってあげます。ところがその人が一番汚い言葉を投げ付けるのです。つい親切にしてしまう、その度合いが試されている段階かもしれませんね、日本は。
すごい御作品を読ませてくださってありがとうございました。これから娘にも廻すつもりです。
* 創作する人間には、独特の、至福に恵まれるときがある。
2001 7・24 10
* 会議室を一人で最後に出ることになった。それならばと、湖の本の校正刷りを読みたくて持って出ていたのを幸い、気の置けない、ものの旨い店を物色して、落ち着いてゲラを読んだ、うまい料理で満たされた。すこし残っていた興奮もすっかり落として、自分の仕事に没頭できた。その店では、わたしが、そういう仕事か本を読むか、とにかくよそみもしないほど静かな客だと覚えていて、しやすいように仕事をさせてくれる。ときどき、酒をつぎに来てくれる人がいる。
2001 7・27 10
* 「雁信」と「編輯者から」を整理・掲載した。
2001 8・17 10
* 歴史的にも、厖大な著述はのこしながら、出版という日の目をみなかった価値ある大業は、おどろくほど沢山あり、いまも埋もれて、文献としての劣化のおそれに瀕したり、すでに廃亡したりしている。紙の本のかたちで「出版できるだろうか」と、これが篤志の学者や創作者の無念の悩みであった。今は、ちがう。電子メディアにのこすことも公開することも出来る。あまりの便利さに、かえって追及の質が低く粗悪化することが心配される。だが、希望ももてる。
このわたしの「闇に言い置く・私語の刻」など、紙の帳面に書き次ぐ日録であつたら、まず確実に埋もれたまませいぜい伴侶か子か孫までが読んでみようかと思えばいい方だ。第一ひどい嵩になり保管も大変だ。だが、デジタル化してあるおかげで、またホームページで公開しているから、これでかなりの人の目にふれ、口コミにものり、わたしの感想や生活は生きて動いてくれている。もの惜しみなく、わたしはわたしの感想や意見や着想までもここに書き込むことで「生きて」いると言える。
歴史上の人物でパソコンを上げたいな、ホームページを作っていたらどうだったろうと思う人はあまりに多い。御堂関白記・権記・台記・玉葉・明月記などの著者。徒然草、折り焚く柴の記、鶉籠などの著者。兼好でも永井荷風でもパソコンでなら、必然記事はより豊富に長めになったろうと想像される。彼らには紙という嵩のある金のかかる貴重な財を消費しているという自覚があった。そうそう長くは書けないことで文藝が光り磨かれた事実は大きいし、貴重である。わたしなど、なにの遠慮もなく書くことで、まさに思いを「のべ」ている。短もあり長も必ずある。
2001 8・18 10
* 湖の本の三校を要請した。どうも行アキ指定がうまくいっていない。その間に、封筒にハンコをおし、宛名印刷して貼り込み、挨拶の挿入紙を十種類ほど用意してプリントコピーし、切断し、ひとり残らずに手書きで挨拶を書いて、宛名を張った封筒に間違いなく、支払い用紙と一緒に入れておく。そこまで出来ていれば、本が出来れば、入れられる。前途はほど遠いが、待ったなしに手を付けてゆかねば。
2001 8・27 10
* お忙しいなかを 私のために 署名までしていただきまして感激です。昨日着きまして 私の時間に、『秘色』からと、御本を開きました。書き出しの4月5日と読んだときの、私のひとりよがりなのですが、驚きというか、不思議さにまたまた舞いあがっています。私の誕生日なのです。
崇福寺跡には 7年ぐらい前に どうしても行きたくて一人で行きました。そのあと古典の旅でもたずねました。思い出しながら読ませて頂きます。手元に電子辞書をおきながらです。
* 一日の終りに、最近出逢った読者のメール。少しずつ湖の本を読み始めて、こんどは「秘色」「みごもりの湖」三冊「冬祭り」三冊を買ってくれた。近江京の崇福寺や近江神宮や堅田、五個荘の石馬寺や海津や永源寺、そして安曇川や比良。思い出すだけで五体に音楽が鳴り響き始める。いけないいけない、眠れなくなる。
2001 8・29 10
* 声高に警告されるあまりにいろんなことがあり、だが、そんなことが何であろうという別の醒めた思いは、いつもわたしにはある。その気になれば、わたしのこんなサイトなど、簡単にひねり潰せる悪意のテクニックの有ろうことは容易に察しられるが、潰せるのはサイトだけであり、わたし自身の心根には及ばない。どっちみち私が死ねばいくら四の五のと言うてみたところで何の意味もなく廃墟と化す営為であり、ロマンチックな永遠など、少しもわたしは信じていない。ここで、わたしが、一応真面目にとかく論説したり表白したりすることも、根底では幻影の破片にすぎず、一種の生きている演戯であること、間違いなく承知している。虚無的になっているわけでなく、はるかに大事なことに「気づいて」いるに過ぎない。その「気づき」からすれば、百万言の現世的な言も説も感も想も、夢幻泡影だということである。夢を見ていると気づいたまま夢を続行させているのであり、夢が不真面目であるのではない。だが、いかに真面目であろうと、夢は夢と知っている、気づいている、だけのことである。一瞬にそんなものの全部を投げ捨てられる。「なんじゃい」である。
* 中学の頃に、一学年下の女友達が、こう述懐した。複雑な家庭環境にいた子であり、それだけに、その言葉は忘れがたく、今にしてますます鮮明に甦る。
「あれもそれも、これもどれも、もう、むちゃくちゃにいろいろあるやろ。わかってくれるやろ。そゃけど、ある瞬間に、『それがなんじゃい』と思うときが有んのぇ。すとんと一段沈んでしまうの、ごちゃごちゃから。いっぺん『なんじゃい』と思てしもたら、もう、なんでもないのん。あほらしぃほど、なにもかも、なんでものうなるのぇ」と。
わたしは後年、この「なんじゃい」を「風景」にしたのが、高花虚子の句「遠山に日のあたりたる枯野かな」ではあるまいかと思い当たった。以来、わたしの中にも、「なんじゃい」という名の「他界」が、広やかに明るく静かに定着したのである。遠山に日のあたりたる枯野へ、いちど「すとん」と身を沈めれば、ハイジャックもテロも、ましてやウイルスもくそも余計な幻影に過ぎない。要するにそれらは悪意の攻撃なのであり、されるままに「それが、なんじゃい」という「本質的な反撃」がありうるのである。ペンクラブの、電子文藝館の、文字コードの、また湖の本だの、創作だの読書だの酒だの飯だの、ああだのこうだのとわたしが頗る打ち込んでいられるのは、根底に、「なんじゃい」という「気づき」を身に抱いているからである。
* その「湖の本」新刊の発送用意も、よく頑張って、九割がた出来ている。本が届いても、メインの作業は出来る。
カミュの「シジフォスの神話=不条理の哲学」を高校三年生の頃手にして、不条理の喩えに、シジフォスが巨石を坂の上にはこぶと、すぐさま神により転がし落とされてしまい、また押し上げてはまたまた転がし落とされ、その果てない繰り返しのさまの挙げてあるのを、読んだ。また、向こうへ飛ぼうとしている蠅だか虫だかが、透明なガラスに阻まれ、ガラスに突き当たったまま飛び続けようとしている、飛びやめれば落ちてしまう、のにも譬えられていたと思う。わたしたちのしていることは、大概これだが、「湖の本」など、可笑しいほどの好例である。へとへとになって飛び続けている、と謂うしかないが、それが「なんじゃい」と思っている。この「なんじゃい」は意地でも負け惜しみでもまったく無い。
2001 9・12 10
* 勝田貞夫さんの絶大のご助力で、既刊の湖の本がつぎつぎとスキャン原稿になっている。未校正のまま一冊また一冊とホームページに入っている分の、「校正」を手伝いましょうという親切な親身な申し出も受けている。『慈子』は終始そのように読者の手で校正されて、とにかくも掲載しえたものだった、あのころは、スキャンニングを知らなかったから、すべて手書きで書き込んでいたのだ、楽しく懐かしくもあったけれど。校正は骨の折れる仕事なので、簡単にお願いしますとは言えないが、申し入れは嬉しい。人を、だが、なるべく煩わせたくない。
2001 9・13 10
* 午前中に届くという本が、十一時過ぎて届かない。こういう待ち時間が落ち着かない。昨夜遅くに、インストールしたオンラインのウイルススキャンと、パーソナル・ファイアウォールが、旨く機能してくれるといいが。
2001 9・18 10
* 四時過ぎて本が届いた。通算第68巻。わるくない出来だと思う。読者にも歓迎されればいいが。
2001 9・18 10
* 発送作業しながら、午前にはシルベスタ・スタローンの「ロッキー ザ・ラスト」を、ビデオで、耳に聴きながらちらちら観ていた。久しぶりだが、シリーズの中でも好きな作。うまく作ったツクリモノであるが、スタローンのハートが、また妻子の役が適役で、うまく乗せられる。午後には、ビデオにとりながら、ポール・ニューマン、メラニー・メグリフィス、ブルース・ウィリスそれにジェシカ・タンディという豪華なキャストの「ノーバディース・フール」を感心して観た。渋い地味なつくりなのに、繰り返して観たくなる佳作で、どの役にも佳い味が出ていた。ポール・ニューマンのものでは一番佳いかも知れない。メラニー・グリフィスも幾つか観ているが、役の幅のある、美人ではないのに魅力を感じる女優で、忘れがたい。なんといってもジェシカ・タンディの実在感と落ち着いた品位がいい。映画そのものがジェシカに贈られていた。もう亡くなったか。
高校から大学の頃は断然日本映画の黄金期で、名作秀作がしのぎをけずって現われ、洋画などばからしいと思っていた。それが、すっかり日本映画は観なくなった。ときどき試写会に呼ばれるが、洋画のほうが胸にしみるもの多く、邦画は問題作だと認め得ても、今ひとつ深い体験になって残らないのは何故だろう。「御法度」でも「冤罪」でも。大評判の宮崎監督作品のまんが映画など、わたしは信服したことは無い。「もののけひめ」でも、あざといつくりの、感傷的に浅い啓蒙娯楽品としか受け取れないもので、材料のこなれはよくなかった。あんな程度でコロリとだまされるのかなあと、マンガ体験の質的な底の浅さに失望したのを覚えている。洋画に親しんでいるのは、無責任に、ただ娯楽と割り切って付き合っているだけのこと。いっそその方が、ほんものの佳いのに出逢うと、とてつもなく儲けたトクをしたという気になれる。
* さ、また発送作業に戻る。今日は、朝七時から始め、もう二度送り出して、このあと夜十時過ぎまでは頑張る。
2001 9・19 10
* 主要な大部分は今日中に送り出せる見通し。まだ、それでも、残り作業はかなりある。作業に戻る。
2001 9・20 10
* 今夕、わたしは、ある会合に出席すると伝えてあったらしく、百パーセント忘れ果てていて、今電話で、来ないのかと叱られた。会費を払えば一応済む程度の会合であったのでよかったが、講演の講師など引き受けていたら、えらいことであった。今日も朝の七時からついさっきまで仕事をし続けていた。へとへとが度を加えて、仕事しながら、とろとろっと寝入りそうになる。
2001 9・20 10
* 奮闘努力の甲斐あり、概ね発送の作業を終えた。みらくる会を完全に失念したために、一万四千円のペナルティーを支払った。だが、すこし肩の荷が下りた。今回は本を運ぶのに、いつもより「重い」と感じた。本は重い、たしかに。妻のかなりの手助けで、能率があがった。
2001 9・21 10
* 湖の本エッセイ23 『詩歌の体験 青春短歌大学』届きました。わくわくするほど楽しい本ですし、胸にじんとくるほど深い本ですね。ひとつひとつ味わっていきたいと思います。
* もう届き始めているらしい。かつての学生君たちは懐かしく思い出してくれるだろうか。多くの大人の読者たちは、一筋縄で行かない手強い「問いつめ」に、紅潮しながら、詩と人生とを今更のように思案されることであろう。甘やかな題だが塩辛い問題提起であり、しかも心洗われることと思う。取り上げた現代短歌の一つ一つを私は思いこめて選び、また問いかけている。自信があっても無くても、「試み」てほしい、それは、語の本来の意味での「心見」になるであろう。
2001 9・21 10
* 言論表現委員会の同僚委員である田島泰彦教授から「湖の本」新刊とわたしのホームページについて、嬉しいメールを戴き、恐縮した。少しずつ、少しずつ、少しずつ、見て、分かってくださる方が増えてゆけばよい。うち明けた話「湖の本」の維持は厳しい。
2001 9・23 10
* 『青春短歌大学』拝受。すこぶる知的刺激のご本をありがとうございます。数編、クイズにチャレンジしましたが、はずれもあって、それよりも「答え」を先に見る、見たい心の急(せ)きように、いまの自分の魂のふらつきがある気がしております。
テロが起きて、すぐ「報復やむなしと言っていたのに、いまはアフガンの子らが可哀そう、戦争はいけない、ってなあに」と、だいぶ年下の妻に一喝されました。妻は、はなから、暴力否定、戦争否定。ぐうの音もなし。反省しきり。乳飲み子としてかすかに体験した戦火の断片を、それも語り継がれただけのものを後生大事にひきずってきたのは、何だったのか?
それにしても、やりきれないのは、侵攻作戦のシミュレーションを得意げに熱っぽく語る評論家の多いこと。実戦経験のない、痛みを知らない彼らの発言に、とてつもなく怖さを憶える。
口先では何とでも言える。団体が出す声明もしかり。腹を据えて考え、何かをしなくてはならない。自戒を込めて。
* 「何かをしなくてはならない」と分かっていて何もできない、誰もかもの陥っているジレンマ、が、見え透いている。インターネット上で「声明」がまさにワールドワイドウェブとして広がることは、何かをするのに相当するだろう。これはよいと思えば、声明文を「同報」で自分の知人たちに飛ばすことだ、その連鎖が大きなことをする。この「私語」にも、二つの「声明」を載せてある。コピーして貼り付けてメールして欲しい。
2001 9・23 10
* 徳田秋聲の「或売笑婦の話」を読んだ。佳かった。淡々と出始めて、どきりと終わり、大げさでないのに劇的であり、純文学の優れた興趣をしっかり表わし得ている。うまく「つくった」話なのだが、散文に妙味と落ち着きとがあり、作り話だけどと思いつつ、ふうんと唸らされる。佳い文学に触れた嬉しい気持ちと、ほろ苦い生きる寂びしみとに胸打たれる。この胸打たれたのが響いたのだろうか。いまも、胸は安定しない。午後には美術館へなどと思っていたが、無理か。晩には一つ日比谷で会合がある。朝日子の披露宴会場と同じ場所で、フクザツな気分。
だが、こんな嬉しい便りもある。博士になった弓の射手さんである。
* さて、今回の湖の本はあの懐かしい「虫食い短歌」ではありませんか!嬉しくて、懐かしくて、主人にも読ませています。「自分が学生の時にこの授業があったら、きっと選択していたなぁ」などと申しておりました。(主人は私より6期先輩なのです。)
現在は、二人で楽しく「補習」を受けているところです。講義料、近々納入いたします。一人分で恐縮ですが…。
そういえば、この3月には* *さんも結婚して* *さんになりました。来年の1月には* *さんが結婚します。みな、名前が変わっても元気にしています。
夏はあんなに暑かったのに、ちゃんと季節は巡って秋がやってくるのだなぁ、と感心しながら風邪を引きかけています。先生は、どうぞお気を付けくださいませ。
2001 9・25 10
* 『青春短歌大学』は殊に読みたかった、有り難いと、ペン理事の関川夏央氏、術後をおして、ハガキを。嬉しいこと。馬場一雄先生、春名好重先生、巖谷大四氏、坂本忠雄氏ら、もういろいろに有り難い返信が届き始めている。だが、中には九十四歳の石久保豊さんが静岡の病院でほぼ寝たきりの暮らしになった、「さようなら」と、切ない便り。笠原伸夫氏も七十で日大が定年と。七十定年とは、さぞシンドイことであったろう。私立大学は定年を長くして教授陣の「名前」を引っ張り寄せているようだが、「大学」に活気と刺激の失せている大きな一原因でもあろう、実は。東工大は東大とともに唯二校だけ、六十歳定年だった、わたしのいたあの頃は。たった四年の勤務だったが、十分だ。
定年からもう六年近いが、メールで連絡が取れて気持ちの通うかつての学生が、今も七十人もいる。みな、娘や息子のようなもの、やがて孫たちの便りもますます増えるだろう。
2001 9・25 10
* 『青春短歌大学』ありがとうございました。ハードカバーでも持っていますが、湖の本で手にすると、また違った思いがします。封を切り、「青春短歌大学」の文字を見たときに、ああ、もうそんな昔のことなのか、と、思いました。
本日の私語の刻に、
言うて詮無いことは言わない方がいい。だが、それも、ものにより、ことにより、ひとによる。三猿で済まされぬこともある。言わずに済むことは言わない。潔い。ぜひ言いたいのなら黙らぬ方がいい。
とあるのを読みました。
最近、同じことを考えていました。ビジネスの現場はわかりませんが、いまだ、多くのシーンでは沈黙は金であろうと思います。でも、伝えたいことは言葉にしなくてはならない。土曜に見た芝居のテーマは、「語られなくなった言葉」でした。それもあって、口に「する/しない」言葉について、少し考えていました。
* いろんな場所でいろんな人が、若い人はことにこの問題に立ち止まらされる。京都のものは、なるべく口は利くな、肝心なことほどものを言うなと、暗黙に認め合っていて、わたしなどは、根からはみ出しものであった。「あんたは、非常識だ、口を慎しめ」と、婿殿をはじめ何度も言われてきたが、そういう相手が、たいがい鼻持ちのならない俗物ばかりであったのがナサケナイのである。
* 『青春短歌大学』を読みふけりました。こういう素晴らしいものを読ませていただけることを嬉しく思います。ありがとうございました。
それにしても私はとても「短歌大学」の単位はいただけそうになく、ときに悔しくて、あーっと声をあげたりしました。井上靖さんの詩の音読といい、「表現の完成」といい、なんという優れた授業をなさったのでしょう。また秦さんの解説がよくて、最後まで一気に(ではなく、実は穴が埋められなくてつっかえつっかえ)読みました。
面白い、ということのほかに、これしかない、という激しい一字が表れたときの肅然とした思い、これこそ詩人の魂だと感じる瞬間を幾度も経験できたのは本当に望外の幸せでした。
たとえば土岐善麿の「ひとりの(名)」。この強さ。(春の夜のともしび消してねむるときひとりの名をば母に告げたり)
面白くて笑ってしまったのは、たとえば柏木茂の、「悔いなく(君)を愛してしまへり」。「人」や「妻」「友」で、秦さんが、「なにを考えているのか」とおっしゃるのがおかしくて。(雲は夏あつけらかんとして空に浮いて悔いなく君を愛してしまへり)
日本語の奥の深さを改めて思うと同時に、言葉はたくさんあるようで、ときに、どうしてもこれでなくてはならないという場や状況があり、文学は、それを追求するものでもあろうか、と感じました。
* 井上靖は、薄暮とか黄昏とかいう言葉より、夕暮れとか夕方という言葉が好きだと言い、そうも書いていた。そのわりに井上さんは薄暮・黄昏ふうの漢語もふんだんに駆使した小説家で詩人であった。「言葉はたくさんあるようで、ときに、どうしてもこれでなくてはならないという場や状況があり、文学は、それを追求するものでもあろうか」が、その答えなのである。より適切な、出来る限りはもうそれ以外にない言葉の発見で、自分の表現を磨き上げてゆく営為。通俗小説には決定的にそれの欠けた例が多く、よほどの大家の作品でも、殆どがいいかげんである。多くの読者がそれに気づかない。
* 『青春短歌大学』拝読しております。
谷崎の娘の無心に応える歌が自作の「芦刈」よりも謡曲の「芦刈」をふまえているようで、その妙味に感心したり、毎日いろいろなところを開いては、クイズを楽しむように考えております。
人生の経験の中で、作者の心情をたどってゆけば、自然に解ける歌もあれば、それだけでは絶対に解けない歌もところどころにあり、そのたびに巖にぶち当ったような気がします。
(例) 起き出でて夜の便器を洗ふなり水冷えて人の( )を流せよ 斎藤史
どうしても解けず、答を見てそうかと思い、再び「作者」の名を見て、この人ならば、と思いました。
ゆっくりたのしませていただきます。
2001 9・25 10
* from札幌・hatakさん
先週は、前年より17日早く大雪山系に初冠雪、週末は峠にも雪が降りました。今日の札幌は快晴。空気の透明度が高く、スーッと陽が射しこんできます。モントリオール、エジンバラ、高緯度地域に位置する街は、ときおりこういう光景を見せてくれます。
三連休も、実験植物の世話で遠出もままならず、札幌で過ごしていましたが、小さなお茶の会によばれ、一〇三歳立花大亀翁のほのぼのとした横ものに見入ったり、峠越えのドライブで高原に半日を遊び、童心に還ったりしておりました。
『青春短歌大学』を玄関先で開封し、ぱらぱら立ち読みしていたら、そのまま小一時間経ってしまいました。時を忘れる本ですね。あぶないあぶない・・・。
湖の本、東工大の講義、このホームページ、そして電子文藝館。次から次へと湧きいずるアイディアと、それを実現される力にただ感嘆するばかり。オリジナリティー・プライオリティーが命の研究者としては、何を食べたらこういう発想が出るのかな?と羨んでしまいます(美味しそうなメニューが闇に言い置かれていることもありますが)。
「大規模経営(農・酪・漁)の中で行われている、病気が出ないようにする方法を聞くほうが、よほど食べる気が失せます。アメリカで農薬散布に待ったがかけられていますが、これで病気や害虫が発生して不作になれば、遺伝子操作が正当化されそう。薬品で燻蒸してても農薬漬けでもいい、大豆やとうもろこしを輸出してほしいと日本は言うことになるでしょうね。」との、ご意見。植物病理学研究者として傾聴しました。
一番安全な食品はやはり国産ですが、一億人の胃袋を養う農家のほとんどが、高齢者。この足腰の弱さでは、ヨーロッパなどで制度化されている有機栽培などできません。農業も一番大切なのは人づくりなのですがねぇ・・・。
お礼かたがた、近況お知らせしました。心臓に優しくしてあげてください。 maokat
* ありがとう。
* 野島善勝氏、佐伯彰一氏、鈴木栄先生らの便りがたくさん。中には、学部の頃からの恋をはぐくみ続けて、ちかぢかの結婚をよろこばしく告げてきてくれた女性も。二人とも、よく知っている。二人ともに会っているし、二人とも湖の本を買ってくれている。「結婚したら湖の本は二人でシェアすることになりますねえ」と書いている。けっこうですとも。結婚するときは必ず報せますと最後の授業の日のアイサツに書いてくれていた。
2001 9・26 10
* 『青春短歌大学』お送りいただきありがとうございました。ちょうど虫食い短歌の本が欲しいなあと思っていたところに届いた湖の本でした。秦さんの虫食い短歌のお蔭で、歌が身近なものになってきました。慌だしい毎日のさ中、立ち止まり、歌の空欄に入る語を思いめぐらして、切なかったり、悲しかったり、涙したり。
今日が終わると、また明日。時の経つのは早く、わたしは相変わらずです。進歩のない自分から目をそらすことはできず、ちょっとずつでも前へ進もうと、沈みがちな気持ちをなんとか奮い立たせています。歌が身にしみます。ゆっくり読んでいこうと思います。一語一語に向き合って。
どうか、おからだを大切に。
2001 9・27 10
* 昨日今日の二日で、予定の三分の一近く、読者からの便りが来た。竹西寛子さんからも、白川正芳さんからも。九大の今西祐一郎さんはメールで。人によりいろんな出題歌を挙げて感想を書かれてある。それがいかにもその人らしいので嬉しくなり、うんうんと頷いている。冨小路禎子、前田夕暮、土岐善麿、斎藤史、野地千鶴、清水房雄、畔上知時、柏木茂、谷崎潤一郎、大西民子らの作の挙げて語られていたのが面白い。
2001 9・28 10
* 秦先生 「湖の本」お送りいただきまして、ありがとうございました。お礼が遅くなってしまいましたが、本の方は到着直後の夜に、お気に入りのスプマンテをちびちびやりながら、最後まで飲み干して・・・ではなく、読み干してしまいました。ハードでも買わせて頂いたのですけれど、やはりあの手軽なしなやかさが、アルコールと相性抜群だったようです。
授業では、見えなかったことが今さらながら見えてくる面白さをしみじみと味わわせて頂きました。あれから、もう9年も経つんですね。早いものです。
実は今日、自分の誕生日で、いよいよ三十路を目前とすることになります。今まで淡々と年齢の階段を上がってきましたが、29というこの年で初めて年齢というものに感慨を覚えました。年を取ることが嫌だとも思いませんけれど、ただ、自分に責任を持たなければ、という年ではありますね。もう無闇に「知らない」「できない」を叫べないな、と。歯を食いしばってでも知っているふり、できるふりをしなければならない場面も出てくるだろうな、と。
雲は夏あつけらかんとして空に浮いて悔いなく君を愛してしまへり 柏木茂
こういう瑞々しく若い歌を、昔は鮮やかに目に浮かぶ情景と共に好んでいました。それは、その時にはこういう情景を自分のものとして手に入れることが可能であったからだ、と、いま再びこの歌に出会って思うのです。
夫がいて、娘が生まれて、猫がいて。一生打ち込める仕事もある。今の自分は十分豊かな人生を与えられて、そして何よりあの頃よりも、人生を、自分でハンドリングできるような感触も掴み始めている。いよいよ生きることの醍醐味を味わえる予感がしています。
でも、この歌と再会して、確実にもう二度と手に入らないものを目の前におかれてしまった、という思いにとらわれました。「あつけらかん」とした「悔いのない」愛は、二度と私の目の前には現れないでしょう。私の手持ちの愛は、もっと密度の高い、ときに持ち重りすらする、けれど大事な大事なものです。
そして、もし万が一、今の愛が崩壊してしまって、もう一度夏の雲の下で恋愛することがあっても、それは「あつけらかん」とはしていないでしょう。今の手持ちの愛の記憶がある限り。
二度と出会えないものがある、という認識は、やはり29という自分の年を痛感するに十分でした。でも、そういうものがある、と認識することが、嫌なわけでは決してないのです。二度と会えないもの、二度と得られないものが存在する、という思いは人生を慎ましく、より豊かにするようにも感じるものですから。
金木犀が香りはじめましたね。
ロンドンにいる主人に、会社から緊急帰国命令が下りました。世の中は、日本にいて季節を楽しんでいられる私たちが感じているよりもずっと緊迫してきているようです。
長い間かかってこんなに繊細な言葉や文化が築かれた日本の行き先が迷走しないよう、願わずにはいられません。
先生も、お忙しいとは存じますが、どうぞおからだをおいたわり下さいませ。
* ありがとう。こういうメールが、わたしのホームページの、豊かな財産である。ここに、生きた言葉がある。こんなメールもいま飛び込んできた。
2001 9・29 10
* 『青春短歌大学』をありがとうございます。このご本が出版されたとき、わたくしも秦教授から出された問題に、一所懸命になってとりくんだものでございました。ことばに対する感覚を問われ、語彙の貧しさを問われたご本でございました。
けれど、せっかくの「湖の本」ですのに、目を傷めてしまって、まだ、拝見できません。
目が痛いのでお医者さんにゆきましたら、左の目に傷があるとかで、読書もパソコンも控えるようにと、わたくしにとっては、無理難題でしかないことを言われてしまいました。「e文庫・湖」の三原誠作「ぎしねらみ」も、縦書きにしてプリントさせていただいてありますのに、これもおあずけです。『青春短歌大学』も、以前、拝見したときを思い出しているだけで、もどかしくて。
目を休めるために、冷たい水を含ませたコットンを目に乗せて横になったりしています。グレン・グールドのゴールドベルグを聴きながら。
目を閉じていても、薄い墨流しのような、けむりのようなものが目先にちらついています。子供のときからそうでしたけれど、もしかしたら、わたくしには、ものがちゃんと見えていないのかもしれない――。近視に乱視、それも左右の視力がたいそうちがうそうで、人間関係でも、自分の感情でも、バランスをとるのがへたなのは、この目のせいかもしれません。
こんな状態ですのに、金沢に行く用があり、時間をつくって、鏡花記念館に行ってきました。
うつくしい装幀のご本、紅葉の朱が入っている原稿、それから、鏡花自身の推敲のあとが、こまかに残っている原稿……。目の状態のよいときに見たうございました。
記念館のすぐそば、「照葉狂言」の舞台になったお宮さんにお参りし、浅野川に出ました。先生もこの川面に目を放たれた――。街中の川ですのにきれいな川を、しばらくながめていました。
近代文学館にもゆきたかったのですが、時間がなくて。
一閑張の箱を買いました。おいしいお菓子も買いました。
帰ってきましたら、ベランダのすすきが、はらり、穂をほどいていました。そのうち、目もよくなりましょう。
* 早くよくなられるよう祈ります。わたしにもよそ事でなく、日に日に眼の状態のわるいのを自覚している。眼鏡を替えれば済むのか、よくないことが生じているのか。十月二日には聖路加で一年ぶりに眼科診察を受ける。それにしても、この「金沢」の懐かしいこと。そうそう鏡花の頼まれ原稿の締め切りが今日までであった。書き上げて仕舞わなくては。
2001 9・30 10
* 知り合い曰く「六十五歳を過ぎると、人間がくっと体力が落ちる」ということですので、失礼ながら御不調もあるいは、お年のせいもあるのかと存じます。(ごめんなさい)サラリーマンでしたら、定年を過ぎてのんびり暮らしているところですのに、宿命で、とても激しい働きかたをなさっているようにお見受けいたします。どうかご無理をなさらず、やさしい毎日をお過ごしくださいませ。
新しくお送りいただきました『青春短歌大学』に、数日、夢中になっておりました。私の親族はほとんどが短歌か俳句を趣味にしてよく作っておりますが、私はどちらもただの鑑賞者ですので、苦心惨憺いたしました。うまく言葉がはまるまでの謎解きは、時の経つのを忘れるほどで、挑戦しがいがありました。お選びになった短歌のなかで、私が昔から好きだった歌、「死の側より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずやも 斎藤史」を見つけたときは嬉しくて、得意な気がいたしました。ほんとうに素敵なご本をありがとうございました。
十月の新刊『元気に老い、自然に死ぬ』も書店に注文したいと思っております。
新しいもの、いくつか書いております。そのうちの一つは、七月に亡くなりました父への供養のために書きたいと思っています。絶世の美女と謳われ、その不吉なまでの美しさゆえに、波乱にみちた人生を送らざるを得なかった私の祖母にあたる人のことを、今、色々調べているところです。
少しまえに、お送りいただきました湖の本はまだ何冊もございますが、惜しみ惜しみ読んでいくつもりでございます。秋が深まるにつれて、読書の喜びも一入です。今晩も雨の音を聴きながら、赤ワインを少々味わいつつ、『青春短歌大学』の劣等生を挽回とばかりに、『歌って、何!』を読むのは、私には至福のひとときです。
* 少なからず照れてしまうが、作物が、読者のもとで歓迎されていると知るのは嬉しい。「年のせい」と言われてもわたしはべつだん「失礼」を感じない。「激しい働き方」をしているのは明白であり、そのことは自負するより羞じているが、拘泥しないで、激しかれと迫られれば激しく、静かにと内側から催すものが在れば、したがうまでである
2001 9・30 10
東大法学部長をされていた福田歓一さんから、『青春短歌大学』へ丁重なお手紙が届いていた。毎度必ずお手紙を下さる。時には誤植を教えて下さる。前回は、「島田修三」という歌人の名前が出ていますが「島田修二」では、と。これだけは、二人のべつの歌人であった。そう返事したのへも、今回謝辞が添っていた。
2001 10・2 10
* そういえば、今、わたしの身内でジンジンと何かをたぎらせているのは、三十四年も昔に書いた『清経入水』校閲の余韻のようだ。ほんとうの処女作ではないが文壇的にはまちがいなくこの一作でわたしは家の中から外へ踏み出した。その作柄は、たしかに世の常のものではない。だが、まぎれもなくわたしの創作する力が、若々しく漲っている。読み進むに連れて自分でも興奮してくるが、身の芯の深くに支えきれないほどの寂しいものも凝っている。「非在」のものに恋をしていた、わたしは。それこそが眞実在かも知れぬと心渇いて求めていた、それが、大嫌いな「蛇」のような「鬼」であろうとも。
2001 10・19 11
* 湖の本新刊分の原稿を作り上げた。一冊分をスキャンし、校正し、編成して、入稿できるようにフロッピーディスクに収めた。 2001 10・26 11
* 湖の本新刊のために原稿の補充作業で半日を費やした。少しでも面白い一冊にしたいと思って。
ミマンの読者から「青春短歌大学」にかなりの注文が入ったのは有り難かった。もっとも、あとへ続かないだろうけれど。それはそれで、いいのである。
2001 11・10 11
* 勝田貞夫さんのご好意で次々に仕上がってゆく「湖の本」のスキャン原稿を未校正のままだが、ホームページ「電子版・湖の本、湖の本エッセイ」として掲載して行っている。これらの校正はたいへんな作業になるが、少しずつ手を着けてゆく。エッセイの方は、頁が足りなくなっている。転送のための増頁作業もまた必要に成ってきた。
2001 11・26 11
* 湖の本の再校と、挨拶書きという体力と集中力を要する作業も急がねばならない。目の前が眩んでくるほど、難儀づくめで神経もギトギトしている。
2001 11・28 11
* 特許庁勤務の卒業生、フーン、こういう研修にも行くのか。いいことに思う。わたしの「湖の本」など、とても「売る」の「お金儲け」のといえる仕事ではない、十六年も続いているのが不思議なほどだが、「ものを作って」人様に「届ける」「送り出す」という点では、作品も作る、本も作る、一人一人に挨拶を添えて、手づから送り出すということでは、まさしく人と人の出逢いの「場」づくりである。「生み出したものを他の人に受け入れてもらう、認められる」嬉しさに満ちあふれているから続けられているので、価値観の違う人からみれば、愚の骨頂のような出血サービスだろうが、ものごとの有り難みは金勘定でだけ計れるものではない。こんどの新刊も、楽しまれるものになっていると思う。
卒業生たち、いろいろな社会に出てゆき、地の塩のように働いている。一月にはまた結婚式に招かれている。今度は女性。池波正太郎と歌舞伎の中村吉右衛門が好きだといっていた、美しい笑顔の、弓をひく、麗人である。難しいテーマをかかえた研究者でもある。 2001 12・6 11
* 討ち入りも済んでまだこの何日も先から、からだをつかう大仕事が控えていると思うと、かなり気が重い。六十五から六十六歳へ足掛け二年の送り出しで、「湖の本」の第六十九冊目を荷造りすることになる。
2001 12・16 11
* 真っ暗闇の内に跳び起きて、発送用の封筒に宛名はりしたり、一つ一つに挨拶の紙や払い込み用紙を入れていったり、絶対に欠かせない作業に午前中かけて、いま眠気覚ましの濃い茶をがぶ飲みし、ムカムカしている。やがて昼になる。午後も同じことを続ける。今夜のペンのシンポジウムには梅原さんはじめ、瀬戸内、加賀、井上ひさし、三好全副会長が勢揃いしての戦争と平和を考える会なので、出掛けたいのだけれど、本は刷了の一部抜きがもう届いていて、予定通り明後日朝に届くなら、何としても作業はし遂げてしまわないと難儀なことになる。
2001 12・18 11
* とうどう今晩のシンポジウムに出掛けられないまま、終日発送の用意にかかっていた。あすもまだ。この作業は、いつもそうだが、ここで終りというキチッとしたゴールがない。このへんでイイヤと断念してしめくくる。九時だが、とても眠い。それでももうすぐ妻の初校が済んだところで伊藤桂一さんの小説を念校しようか、久間氏の長篇を三分の一ほどプリントしたのをスキャンし始めようか、石川達三の「蒼氓」をまず全集本からプリントしようか、いっそ今晩は早く寝てしまおうかと迷っている。ぼんやり息子のホームページの彼の恋愛観を読んでいたが、いっそう眠くなった。
2001 12・18 11
* 明日朝には本が出来て届く約束。妻は定例で病院受診。ひとりで出来るだけ発送作業にうちこむ。
2001 12・19 11
* 朝一番の本が届かない、十一時半になっても。歳末だから、もうどこも仕事は押せ押せなのだろう。
2001 12・20 11
* 本の搬入は午後二時にと連絡があった。歳末の押せ押せで、予想しないではなかった。妻が聖路加へ行くので、独りで受け入れ独りで作業することになる。十五年半もこんなことをし続けてきた。いろいろあるものだ。 2001 12・20 11
* 一時半に本が届いた。妻はもう病院に。独りで受け入れてから、手順よろしく作業に入って、飲まず食わず。四時過ぎには妻も戻り、夕刻過ぎて業者に出来た分を渡してから食事した。食後も十時半まで作業。もつとも、八時から十時までは澤口靖子の「科捜研の女」最終回を耳にしながら。「泣きの靖子ちゃん」が二度ばかりいい泣き顔を見せ、とにかくきびきびと清潔に綺麗に役を仕上げた。
本は、思い通りにすっきり出来ていた。ひところは製本の仕上がりに難のあることが多くて発送にひどく困ったこともあったが、多年のお付き合いでこっちの気持もよく汲んでくれるようになり、不出来製本は滅多に無くなった。
2001 12・20 11
* 五年ごとの今年は節目の年であった。湖の本が創刊満十五年を迎え、電子文藝館を思い通りに企画創設できた。山折哲雄氏との対談『元気に老い自然に死ぬ』も出版した。そして、かつてはそれが決まりであった来年に脅える物書きとしての歳末の不安が、ぬぐい去ったように今のわたしには無い。有り難い。
また明日から、湖の本の発送にかかる。今日一冊持って出て初めの方のエッセイを読み返してみたが、編集意図どおりの効果を各編挙げている気がする。どう纏めるか、ずいぶん以前から考えあぐんでいたのが、一気に纏まった。
2001 12・21 11
* 昨夜はおそくまでかかって猪瀬直樹論考を整頓していた。メールできた原稿は、段落のところなど気をつけて整備しないと歪みが出ていたりする。面白い刺激的な原稿で、掲載が楽しみ。
そして今朝からはまた発送作業にうちこんでいる。堀上謙氏の電話で出版記念会発起人に名前を貸してと。お安いご用。出版記念会の好きな人が多い。
2001 12・22 11
* あすはクリスマスイヴ、たぶん、夕刻までにあらましの発送を終えるだろうが、郵便局扱いの分は月曜も天皇さんの誕生日なので、火曜日の発送になる。荷造りは明日のうちにできるだろう。
2001 12・22 11
* 発送作業はほぼ終えた。日曜に祭日がつづくので郵便発送分の一部最終便だけが二十五日に残る。凸版の製本がきれいに上がっていて作業の能率がことに良かった。
2001 12・23 11
* 『おもしろや焼物』が届きました。ありがとうございます。
巻頭の「面白や京焼」を読みました。読んでいますうちに、うたのことをかんがえていました。わがうたの在りようなどを。
「趣向」ということは、ほかのところ、たとえば『趣向と自然』などでもおっしゃってですけれど、むつかしうございます。
ぎりぎりのところで踏みとどまっているけれど、人目にはそうと見えず、ほどがよくて、なまぬるくなくて。かくあれかし、かくあらまほしと、「面白や京焼」を読みながら、身のほど知らずにおもったことでございます。
ペンクラブ。来年は書き溜めたものに手を入れて、見ていただけるようにしたいとおもっております。
友達がミニコミ紙というのでしようか、月刊で二十ページほどのものを発行しています。
「今年のイチオシ」というタイトルは好きでないのですが、みんなに勧めたいもの、推薦したいものといわれて、書物として、「日本ペンクラブ電子文藝館」のことを書きました。
それと、今年、一番の人に、「戦争反対」を訴えるTシャツを着て登校したアメリカの少女を挙げました。彼女はとうとう退学に追い込まれました。それを、ただ、見ているだけのわたくし。
風もやんで静かな夜更けになりました。どうぞ、おたいせつにお過ごしなされますよう。 降誕清夜
* 元講談社出版部長の天野敬子さんからも、湖の本にふれて手紙いただき、また「電子文藝館」に「画期的な事業」とねぎらいの言葉をもらった。
* 発送、終わりましたか?
来年への不安が、いつからか消えているとのこと、或る境地に達していらっしゃるということ、ですね。これは形容し難く、説明し難いことでしょう、しかし真実なのでしょう。「今、此処」の大きな肯定、ですね。
来年への不安は、私にもありません・・いつもありません・・違う意味で。したいことのほんの僅かしか実現できないことへの哀しさはいつも予測できるのですが・・そのように書くと、ああ、マインドの塊さん!と言われてしまいますがね・・でも、それが本来的な私の「良さ」でもあると思っています。弱いくせに常に好奇心も冒険心も大いに持ち合わせております。年齢の差だと言われたら・・それは部分的に肯定しますが。
目下、子供の出国が延びたり・・まだヴィザが取得できていません・・。年末は母の部屋の大掃除に**に行き、その後は**での年越しなど用事が詰まっています。怠け者の私は本が読めたら、それが最高なんですが。
しばらくメール書けませんが、どうぞ健やかに、静かに、良き年をお迎え下さい。NTTのアイモード携帯が3000万を越えた時期に、私の対応は遅れているかもしれませんが、まだ携帯も持っていません。どこでもメールが可能・・買いたい、ですね。
繰り返し、良い年を迎えますよう。大切に。
* なかなか怠け者どころではない人に想われるが、すこし気になるところありお節介ながら返事を書いた。書いておきたいことでもあったが。
* 明日は無い。
叔母の稽古場の欄間に、万葉仮名で「あすおこれ」と、お花の家元に書いてもらったという額が掲げてありました。「明日怒れ」だと叔母は訓んでくれました。「怒るな」という意味であろう、「明日」とは、決して来ない時間の意味だと思いました。
「好奇心」や「冒険心」はいいが、それを本当にたたき込めるのは、自分の足元の「今・此処」でしかあり得ない、「明日」「明後日」ではありえない。
日々の虚ろな空回りは、明日に冒険し明日に好奇心を満たそうとする姿勢に生じるのではないか。あなたとは謂わないが。
高校一年の漢文の時間に、「除夕よりはじめよ」と習ったときにも、「明日怒れ」と同じものを教わりました。ほんとうにしたい大事なことなら、今日が大晦日なら大晦日からすぐ始めればよい、新年からなどと言うな、と。新年という「明日」とは、永久に来ないものの意味だと。「今日」しかないと。裏千家が「今日庵」という意味もそうなのだと覚えました。
「俺たちに明日はない」という映画が感銘をもたらしたのにも、一つには、それがありましょう。
元気にいい新年を迎えるには、元気に、「今・此処」で自己実現しえてこそ、と。元気に新年を迎えましょう。 遠
2001 12・25 11
* 今回はどのようなご本かと楽しみにしておりましたら、焼物についてのエッセイでした。焼物についてもお詳しいのは当然のことなのですが、あらためて先生の守備範囲の広さに驚いております。女というものは日常的に器に触れているせいか、焼物の類が大好きです。それでもただ好きというだけでは、教養がついていきませんので、このエッセイを読んでもっと勉強したいと思いました。
先生のご本を読むたびに、私の心のなかに美しいものの増えていくのは、何よりの喜びでございます。素敵なご本をありがとうございました。先週から風邪のしつこい咳に悩まされて年末の大掃除を一日延ばしにしているのですが、もう一日風邪ということにして、一気に読んでしまいたいともくろんでおります。悪妻の極みですが、年末年始に御馳走を作るということで、家族に許してもらうつもりでございます。
「頑張って」というお励ましは「書いて」ということと解釈しており、粘り強く書き続けていきたいと切望しています。
今年も残すところわずかとなりました。どうぞよいお年をお迎えくださいませ。
2001 12・26 11
* なんだかとても愉快な心持ちで「焼き物」のご本を読んでいます。お気に入りな、心惹かれたものたちを手にニンマリとされてるお姿が思い浮かんでしまい、一人笑ってしまいますの。ほうっと、温かい想いが流れ込んでくるようで嬉しくなります。物言わぬものの物言いが聴こえているみたい。それが惹きつけられる要因かしら?
私にも、何度も行きつ戻りつしながら諦めて、それでも惹かれて、あともどりして買い求めたリュックがあります。ブランド品などでは勿論なく、ある施設で作っている「さをり織り」の製品でした。パッチワーク風に継ぎ合せられた織布片。色合いの全部が気に入るなんてことは滅多にありませんでしたから。
今日はとても暖かいようです。お布団を干して、部屋いっぱいの冬陽射しを身体に受けながら、行儀悪く寝そべっていますの。二時を過ぎると影に占領されてしまう、貴重な時間なんです。今年もあと少しですね。来年こそは明るい話題で包まれる、そんな年であることを祈ります。
よいお年をお迎えになられますように。ご自愛なされてくださいませ。美酒の誘惑にはくれぐれもご注意を(笑)。
* 『湖の本』「おもしろや焼物ほか一篇」お送りいただきましてありがとうございます。たずきとしがらみに何かと気ぜわしい年の瀬に、結構なお手前を頂戴した気分になって、眉間のたてじわが一つ消えたような。
まず「光悦の雪峯」は、過不足のないすばらしい一文。中世と近世のはざまにあった「本阿弥」と「光悦」の<光と影と>を見事に見抜いておられます。感服いたしました。前に「太陽」でも光悦論考を読んだ記憶がございます。
楽しみの「反古しらべ」はとんとご無沙汰ですが、今宵は所蔵の「法華教略義」一編を、久々に鑑てみたくなりました。光悦の手になると、勝手に思い込んでいる本ですが、あの時代の京と光悦の法華のことが、どこかにひっかかっております。
ホームページでご紹介のあった、加藤一夫の春秋社との事蹟、初めて知りました。
良いお年をお迎えください。多謝。
* 自転車で走り回ると今日あたりはひと際冷気を感じます。まだまだ新年に向けて気温が下がると長期予報をしていました。気が付いてみれば残すところ四日でした。この時期あっちもこっちもお掃除や整理をしておきたい気持ちはあるのに、又々やり過ごして大晦日を迎えてしまいます。まあいいか。
今年の行く年来る年で、知恩院の除夜の鐘の音が聴かれるらしいです。好きで、懐かしい場所。この秋も覗いてきました。この釣り鐘が落ちて下敷きになったらどうしよう、なんて想った可愛い子供の頃がありましたが、今でも行ってみるとそう思ってしまいます。
今日は取敢えず新年の必需食料品の買出しにあちこち走りました。
今回の焼き物のエッセー、お茶の先生が喜んでいました。湖の本、北海道の実家への道中に携えたりしてよく読んでいますと。携帯しやすい本という趣旨には、ぴったりですね。
」のご本を読んでいます。お気に入りな、心惹かれたものたちを手にニンマリとされてるお姿が思い浮かんでしまい、一人笑ってしまいますの。ほうっと、温かい想いが流れ込んでくるようで嬉しくなります。物言わぬものの物言いが聴こえているみたい。それが惹きつけられる要因かしら?
私にも、何度も行きつ戻りつしながら諦めて、それでも惹かれて、あともどりして買い求めたリュックがあります。ブランド品などでは勿論なく、ある施設で作っている「さをり織り」の製品でした。パッチワーク風に継ぎ合せられた織布片。色合いの全部が気に入るなんてことは滅多にありませんでしたから。
今日はとても暖かいようです。お布団を干して、部屋いっぱいの冬陽射しを身体に受けながら、行儀悪く寝そべっていますの。二時を過ぎると影に占領されてしまう、貴重な時間なんです。今年もあと少しですね。来年こそは明るい話題で包まれる、そんな年であることを祈ります。
よいお年をお迎えになられますように。ご自愛なされてくださいませ。美酒の誘惑にはくれぐれもご注意を(笑)。
* 『湖の本』「おもしろや焼物ほか一篇」お送りいただきましてありがとうございます。たずきとしがらみに何かと気ぜわしい年の瀬に、結構なお手前を頂戴した気分になって、眉間のたてじわが一つ消えたような。
まず「光悦の雪峯」は、過不足のないすばらしい一文。中世と近世のはざまにあった「本阿弥」と「光悦」の<光と影と>を見事に見抜いておられます。感服いたしました。前に「太陽」でも光悦論考を読んだ記憶がございます。
楽しみの「反古しらべ」はとんとご無沙汰ですが、今宵は所蔵の「法華教略義」一編を、久々に鑑てみたくなりました。光悦の手になると、勝手に思い込んでいる本ですが、あの時代の京と光悦の法華のことが、どこかにひっかかっております。
ホームページでご紹介のあった、加藤一夫の春秋社との事蹟、初めて知りました。
良いお年をお迎えください。多謝。
* 自転車で走り回ると今日あたりはひと際冷気を感じます。まだまだ新年に向けて気温が下がると長期予報をしていました。気が付いてみれば残すところ四日でした。この時期あっちもこっちもお掃除や整理をしておきたい気持ちはあるのに、又々やり過ごして大晦日を迎えてしまいます。まあいいか。
今年の行く年来る年で、知恩院の除夜の鐘の音が聴かれるらしいです。好きで、懐かしい場所。この秋も覗いてきました。この釣り鐘が落ちて下敷きになったらどうしよう、なんて想った可愛い子供の頃がありましたが、今でも行ってみるとそう思ってしまいます。
今日は取敢えず新年の必需食料品の買出しにあちこち走りました。
今回の焼き物のエッセー、お茶の先生が喜んでいました。湖の本、北海道の実家への道中に携えたりしてよく読んでいますと。携帯しやすい本という趣旨には、ぴったりですね。
2001 12・27 11
* 大岡信、高田衛、福田淳江(恆存先生夫人)、馬場一雄といった諸氏から「湖の本」にたくさんお手紙を戴いていた。焼き物はどうかなと心配していたが、幸い好評で、追加の送本依頼が何人も有った。前半にはんなりしたエッセイをならべて、後半へかたい長い議論を置いたのが好編集であったようだ。「日本語にっぽん事情」「能の平家物語」「青春短歌大学」「おもしろや焼物」と、巧まず変化がついていて、毎回新鮮に喜んでもらえる。そのあいに小説も交えてきた。次には何を、と考えることが私自身の楽しみでもある。
随分多くの方がわたしのこのホームページを見ていて下さるようだ、それだけインターネットが普及してきている。
2001 12・29 11