*湖の本の通算第七十巻記念に何を選ぶか、悩ましい。候補作をスキャンするのも、この時点では大仕事だ。スキャンは間断ない注意力と持続集中力なしには出来ない。一時間半も続けているとふらふらっとする。その間、他のことは出来ない。
2002 1・22 12
* もう「湖の本」の再校が出揃い、一部を「抜き念校」にだし表紙も入稿したが、またしても発送用意が追いつかない。これから、大わらわな日々がまたまた続く。次の作品は、大方の人の、目にしたことのない珍しいものである。
2002 3/6 12
* 急遽「湖の本」発送用意へ姿勢を振り向けねばならず、とりあえず舵をそっちへ切った。根気仕事だ。
2002 3・6 12
* 電子版「湖の本」創作シリーズを、各巻、巻数別に整理しようと、ホームページのその頁を五十頁に増やし、まだ校正出来ていないスキャン原稿を、当該頁にともあれ配分し始めた。増頁そのものは出来、転送も出来ている。ところが、インデックスの表欄の巻数字がうまくリンク出来ていなくて、クリックしても開かない。数字のリンクについてノートにメモが二箇所あるのだが、どつちも書き方が半端なため手順として有効でない。試行錯誤を繰り返しているがうまく行かないまま二三日になる。
2002 3・8 12
* 「湖の本」の再校ゲラをもっていたので、帰り、食事しながら、前後半ある前半の三分の二ほどを、通読してきた。能率良かった。もう煮物に茄子が出て、辟易した。手を着けなかったのを気の毒がってか、食後に、アイスクリームをサービスしてくれた。忙しい中で美しい人が美しい笑顔で見送ってくれた。
2002 3・8 12
* ホームページの増頁作業が軌道に載った。布谷君に最後段階の指導を乞う一方で、朝から粘りに粘って、試行錯誤のあげく、なんとか思い通りに事が運びかけた。やれ嬉しやと思っているところへ布谷君から懇切な示教のメールが届いた。見ると、ちょうど今し方到達したと全く同じように書かれていて、バンザイした。
「電子版・湖の本」を創作・エッセイともファイルを増やして、刊行順に、少なくも一ファイル一巻とした。創作シリーズはいま第四十六巻を進行中だし、エッセイシリーズは第二十四巻まで出ている。都合七十巻出ているが、第百巻までも可能なように増頁した。その他のジャンルのファイルも余裕を見込んでたっぷり増ペイジしたし、作業の方法も細かくメモしたから、この先の作業は見通しが明るい。
一巻に一ファイル用意したから、勝田貞夫さんに戴いているスキャン原稿をそれぞれの箇所へ仮に保存して、随時に校正してゆくこともしやすくなった。校正は気が遠くなるほどたいへんだが、少しずつやっていればいつかはカタがつく。アルバイトを頼むほどの贅沢はとてもできない。
ともあれ、かなり胸のつかえになっていた難関を一つくぐり抜けて、わたしは機嫌がいい。
2002 3・12 12
* ホームページのインデックスに、「電子版・湖の本」の全容を整列させた。「紙の本版」で既刊のものを「電子版」として整備してゆくという表明で、スキャン原稿も、勝田さんのご尽力でかなり揃っている。戴いたまままだ開いていない作品も幾つもあり、おいおいに、ともあれ巻数相当のファイルに収容しておく。校正は校正で、少しずつ。この整備がすすめば、また新しい別途の意欲が動いてくる。「紙の本」版はいずれは消失してしまうかも知れない。「電子の本」は、誰かの手元で遺りうるし、いずれは、国家的な事業等が大がかりな「保存・収容」を考える日が来る。「紙の本」では場所をとるが、「電子の本」は場所を塞がないので可能性がある。 2002 3・13 12
* 湖の本を責了送付にまで漕ぎ着けた。半日、発送作業に懸かる。
2002 3・16 12
* 湖の本の通算七十巻を責了にした。月末には本が届くだろう。発送用意の作業に当分追われる。昨日今日と根を詰め、少し予定に追いついた。責了の日には此処まで出来ていないとという目安がある。それに近づいた。 2002 3・17 12
* ぽつんぽつんと書いてきたものの掲載誌が溜まっている。「出版ニュース」三月中旬号には表紙に目立って大きく「電子文藝館への招待」が掲示されている。これは後々にも電子文藝館創立の記念の稿になるだろう。「泉鏡花研究会会報」17号のトップに、「蛇の鏡花」と題したエッセイが載っている。鏡花わたしとのこれまでの関わりを軽く纏めて回顧している。この手の原稿もバカにならず山積まれてある。むかしなら、すぐ纏めて本にしてしまうことを自分からも求めたけれど、この頃は、そういうことも、面倒という以上に拘泥しないようになっている。六月には「湖の本」が創刊満十六年になり、通算七十一巻に達する。「はんなり」と京都のものを纏めてみようか、堅い仕事を送り出そうか、ほろ酔うように楽しみ始めている。それだけ「湖の本」への久しい愛着がわたしの中で深まっている。なまじな単行本が出来るよりも気が浮き立つこともある。
2002 3・23 12
* 宛名印刷を終え、封筒にハンコをおし、宛名を貼り込み、間違えぬように挨拶のスリットを払い込み用紙と一緒に封筒に差し入れて置く。これをやっておくと、荷造りの時の能率がとてもいい。今日はおおかたそういう仕事に宛てたが、一気にやるより、分けて三日ほど掛けてするほうがラクで能率もいい。十六年もやっていると、ノウハウが身に付いている。久間氏の小説を読んだり、寄稿会員の原稿を整理したり、晩には地球上各地の信じられないほど美しい自然の写真を堪能したりしながら、作業を捗らせていった。
夜、息子がすこしだけ「関わった」けれど、だから「脚本」として名前も出るけれど、実際は「ほとんど触っていない」というテレビドラマをみかけた、が、すぐ映画「ダイハード」3に、切り替えた。「お気楽主婦」三人のドタバタぶりは、視聴者もそうだが、女性そのものをバカにしていないかと懼れるほど、例の浅野ゆう子らの薄さ、軽さ。「ダイハード」もこのバージョンは、1や2にくらべるとあまり気乗りしないものと分かっていたので、途中で退散して、それより久間氏の小説を読み継いだ。
2002 3・29 12
* 一日中を費やして、およそ九割八九分まで発送用意が出来た。もう刷り上がって「一部抜き」も届いている。今日は温かい一日だった。明日はまた冷えて雨とか。
先日の保谷野散策時の桜の写真が出来てきた。佳いのが何枚も撮れていて、アルバムに貼られたのを三枚続きで見ると、満開の大樹が白雲の青空へ湧き上がるように花を噴いていた。
2002 3・30 12
* 湖の本の通算第七十巻が届く。単行本でもそれ以上各種出版してきたが、「湖(うみ)の本」で七十册も出し続けられるとは、さすがに当初は夢にも見なかった。一年もてばいいと云われた。それが十六年。これも夢にも見ないことだった。ひとえに読者、関係者のおかげである。その七十冊目がこの今日届く予定、この待っている気持ちはいつものことで、すこし息詰まる。妻が午後は病院に行く日なので、わたし一人で迎え入れ一人で発送を始めることになる。今回の作は、これまでにせいぜい百人ほどの人しか見ていない。或る意味、動かし難い「処女作」である。
2002 4・1 13
* それでも黒い少年マゴが、障子にちちっと爪をかけるふりをして、早朝にわたしを起こす。おしっこに行くから戸外へ出せという合図である、やれやれ。
で、そのまま起きて、今日は終日、夜遅くまで発送の作業を続けた。創作シリーズの第四十六巻は『懸想猿』正続。凄いようなシナリオである。むろん「凄い」を、わたしはこの頃の若い人達の連発してそれしか知らないのではと苦笑してしまう、あんな称賛の意味で用いてはいない。「凄い」とはふつうは「凄惨」と熟してつかう言葉であり、一種荒廃した心事をいうのが本来だ。この処女作は、読みにくくは少しもないが、心凄いことで心萎れるところのシロモノである。
だが、これを講評してくれた当時の松竹専務も高名な批評家も、口を揃えて「小説」をお書きなさいと示唆し奨励してくれた。わたしは二十七歳半であった。いまその作を、湖の本の「創作とエッセイと通算」第七十册めに発送している。それも、明日には一応予定したところまで済む。
明後日には、中村松江が「魁春」襲名興行昼の部を見に、歌舞伎座へ。そして夜は友枝昭世の能「忠度」を観る。万作・萬斎父子の狂言もある。
2002 4・3 13
* うれしいことがございました。 『春は、あけぼの』が手に入ったのです。古本屋さんからですが、きれいなご本です。
おいしいお菓子を惜しみ惜しみいただくように、ゆっくりゆっくり、時に音読したりして、たのしみたのしみ、ご本に向きあっております。
このご本、装幀もうつくしうございますね。「枕草子繪巻」。『女文化の終焉』の「平家納経」を思い出します。
『女文化の終焉』をさきごろ、読み直していて、「今様」にある「藤原伊通伊実父子」の名にはっとしました。小侍従の夫とその父――。このご本、何度か読んでいますのに、見落としておりました。伊実が笛に堪能だったとは、『今鏡』にありますが、今様はどの程度だったのでしょう。歌うたひと深い仲になっていたと後白河院が書き残している。そう、ご本にはありましたけれど。
再読、再々読こそ、というようなことをおっしゃってでしたし、わたくしも、じっくり落ち着いて読める再読が、とおもっておりますけれど、再々読しましても、固有名詞すら、きちんと読んでいなかったとは、なさけなくなってしまいます。『梁塵秘抄』の「口伝」を再読してみようとおもいます。小侍従周辺のひとたちが思わぬ横顔を見せてくれるかも知れません
新しい「湖の本」をお届けくださいました。ありがとうございます。今度は、初めてのお作とか。『春は、あけぼの』がなかばですので、ちらととおもったのですが、魔物に捉えられてしまいました。
正篇の「エンド・マークがダヴる」まで、一気に、そう、何かに憑かれたように読んだ、いえ、読まされていました。
こわいお作――。
それは主要登場人物がみな、血まみれになって焉(おわ)っているというだけではなく、彼ら――新十郎はべつですが――の持てる業、性(さが)といったものは、わたくしにもある。ただ、危ういところまで行っても、極限状態に立ち至らぬ前に、ずるがしこく、あるいは臆病に、気づかぬふりをしたり、逃げてしまったりして、やり過ごして来ただけ。そのことに改めて気づかされた――。
続篇は、ちょっと、続けては読めません。
今日、東京へゆくバスから見た、土手に散り敷いた櫻のうすべに色が、なぜか、目に浮かんで来ます。 四日
* 『湖の本』通巻70巻は大快挙です!心よりお慶び申し上げます。ほんとに映画のように読みました。昭和三十九年にもう出来ていたのですね。年表にも、昭和三十九年/8・20/懸想猿(正・続)/シナリオ/私家版/菅原万佐一〇〇部とありますね。
インターネットブラウザ用の秦恒平著作年表(自昭和二十二年至昭和五十九年分)が出来ました。下記ページの下方をクリックしてご覧ください。せめてものお祝いの気持ちです。ページのソースをコピーして秦さんのページに移していただけるといいと思います。
幸田露伴の「幻談」、森鴎外の「冬の王」いいですねぇ。やっぱり文豪です。電子文藝館のこうゆう素の文書(プレーンテキスト)は受け取った人が縦書きにしたり、本来のふりがなにしたり、好きにして楽しめます。あらためてご尽力いただいた方々に感謝申し上げます。花乱れの春、くれぐれもお大事に。
* 最初の私家謄写版『懸想猿』、どれほどの部数造ったか、ま、150部が限度だったと思い、そう今度の湖の本あとがきにも書いていたかも知れない。勝田さんのメールで、ああ100部だったんだと分かった。何万と支払ったのはたしかで、その当時としては我が家では気絶しそうな出費であったが、妻は、一言も苦情を言わなかった、今も心から感謝している。
2002 4・5 13
* 「懸想猿」にメールがつぎつぎ届き始めている。
2002 4・7 13
* 「懸想猿」が秦さんの出発点であると知って早速拝読しました。歴史や風土への姿勢、人間の情念のとらえ方、まぎれもなく秦さんの作品ですね。〈正・続〉そろったシナリオで一層よくわかります。シーンごとの描写は小説的興趣をよびおこし、40年前にお会いしたらやはり小説を書いて戴きたいと言った気がします。70册目、おめでとうございます。
* これは、小説読みのプロの中のプロ編集者に戴いた、メール。此の道を来てよかったと感慨深い。以下にも幾つか。
* ご高著『湖の本』46をいただき、ありがとうございました。
年齢は関係ないのかもしれませんが、27歳の折のシナリオということで驚いています。その若さでえんや芳の心境を描けるという驚きです。
また、シナリオ作家にならずに、あくまでも小説の勉強として、という点、それを今でも貫いていることに敬服します。1963年ならば、シナリオ作家の地位が固まりつつある時期と思いますが、それを選ばなかったところに、秦さんの秦さんたる所以があるのかな、などとも思っています。
信一に「もらひ子」の原型を見た思いです。それにしても人間の業の深さを思わずにはいられません。文学の究極のところを拝見しました。かなわないまでも、私の血肉とさせていただきます。
* 「湖の本」(懸想猿)拝受。ありがとうございます。通算七十巻上梓、大慶に存じます。それにしても、奥、幅、域ともに深く広きこと、感服しております。
* 「懸想猿」を有り難うございました。隣家の新妻ほど食欲をそそるものはなく、逆に自分が新妻を持てば立場は逆転、これはまさに世界的な主題ですね。しかもこれは中身も時空配分も大変複雑な結構のドラマのようで、演じるほうも大変でしょうね。
2002 4・8 13
* 春の旅終えて hatakさん
大阪の千里、堺で春の学会。桜の散り際とタイガースの熱狂と、湯木美術館の静寂を楽しんで一昨日札幌に帰りました。ポストで私を待っていてくれたのはhatakさんの処女作。「懸想猿」とはどんなお話しでしょう。
三月から締切に追われる日々。今は論文・雑誌原稿を四つ抱えています。催促の電話が鳴ると逃げ出したい気分。作家・秦恒平氏はいったい幾つの原稿を抱えていたのか、片手で音を上げている私には想像もつきません。
さて、目下の仕事を仕上げて、連休までには御本を開くことにしましょう。
楽しみにしています。ありがとうございました。 maokat
* 今日は蒸々する一日でございました。昨晩は読書に過ごされて睡眠不足ではございませんか。どうぞお身体お大切に……。
本日湖の本二冊分の振込みをさせていただきました。プレゼントした『谷崎潤一郎を読む』は先方に大変喜ばれまして、もう一度谷崎を読み直してみるとはりきっていらっしゃいます。
また昨日はポストに新刊『懸想猿』を見つけ、嬉しくなりました。とても楽しみに待っておりました。処女作には、その作家のエッセンスがちりばめられていると思います。『懸想猿』は手にとりましただけで、本からの気迫を感じてしまいました。しばらくの間、家庭を忘れて読み耽ってしまうことでございましょう。ありがとうございました。
* 作品には品位から来るカタルシスが必要だが、「懸想猿」には、読む人を暗澹と歎息させる暗さが、カタルシスの悦びや安堵を与えないだろう。それで、最初の百部(が正しいらしい)だけで、外へ出さなかった何十年も。今も心配している、こんなものを持ち出すなという声も届くのではないか。
2002 4・9 13
* 今日燕の囀りを聴きました。
ペンクラブの会館が完成とのこと。さぞお忙しくお過ごしのことと存じます。どうか、おからだくれぐれもお大切に。一層のご活躍をお祈りいたします。
ご本、読み終えました。思いが交錯しています。さまざまに。それは、マイナスではなく、いつもの複雑さと、秦さんらしい強引さに、どこか、敗北を嬉しがってのもの。そして今回は、それに増して、真っ直ぐに放られた重く苦いエネルギーを受け止められない自分の力不足に、今後の不安を感じました。
* メールよりも数多く、手紙やハガキや、払い込み用紙の通信欄に、夥しい数の感想が送られてくる。これが、湖の本の作者の冥利冥加なのである。
2002 4・10 13
* 懸想猿 八重歯のある信一は作者そのものです。お芳にじゃれて甘える猿も。お芳は・・母。
そう思いながらまた読み返し、作者の非凡な物語世界に引き込まれ、私の平凡な言葉では語れぬほどの思いに打ちのめされています。五葉松を草刈鎌で八つ裂きにした激しさにも。
2002 4・10 13
* 「懸想猿」正編では、フランソワ・トリュフォーの「隣の女」という映画を思い出しました。
小説を書くためのシナリオ修行だったというこの作品を読んで、劇・映画のためのシナリオと、小説の違いを、なんとなく感じました。ですから、「懸想猿」にあった「小説を書くといい」という講評は、さもありなん、です。
先日、たらの芽のてんぷらを食べました。やわらかくておいしいこと!近所のおばさんが、採れたてを両掌いっぱいに持って来てくれたのだそうです。
春は、あと、ふきのとうもたのしみです。どこかから戴けるのをあてにして、ですが。
家の前の土手を臨めば、左にソメイヨシノ、右に花桃が、路に沿ってずらっと並んでいます。ソメイヨシノはすっかり散ってしまいましたが、花桃は、濃い色の花弁をつけて、まだ頑張っています。
東京の劇場へは遠いけれど、山の暮らしもなかなかです。
ころころと気温の差の激しい毎日ですが、風邪など引かぬよう、お気をつけください。
* 庭といえるほどの庭ではないが、横長に二軒続きの細長いところに、もさもさと木や草が生えていて、いちばん大きくなっているのが、西(イリ)の、桃の木。食べた種を放り込んで置いたのが芽を吹いて、どんどん、という程ではないが小屋根より随分上へ行っている。お隣へも枝をはるのが気兼ねである。けっこう、という程でもないが、花をつける。先に育っていた木蓮より大きくなっている。
わたしたちは東の棟に暮らしているが、こっちの細長い庭には細長い書庫が建っていて、庭はその屋上。昔帝国ホテルの総支配人をしていた読者から、よく歳暮にもらっていた盆栽の梅なども、面倒が見続けられないので、日当たりのする此処の土へおろしてしまい、大きくはならないが根付いて、季節には満開の花を咲かせる。
今は色とりどりのチューリツプなどがいっぱい咲いて、雪柳も。金雀児はあまりはびこったので抜いた。狭い幅の細長い屋上庭園で、足元をふさいで危なくもあるので。とにもかくにも半端な庭だが、季節ごとに、ちょっとカメラを持ちたくなることもある。だが、わたしは、たいていそれも忘却している。
* 左利きの私は、鎌が嫌い。右で持っても要領が掴めず、左でなんとかやってみてもどうにもならず、そのうち指をざっくり切ってオシマイ。ハサミ、包丁、ナイフ、カッター、彫刻刀…刃物で、気分良く何かをしおおせた記憶がありません。ストレスとケガだけ。脳が反転しそうになります。
あの(懸想猿の信一の)ように振り回して、物を切って。どんな手応えと、気持ちがするでしょう。
鎌…鎌首への連想?
* 丹波に疎開して一番に心をとらえて手に持ち、変身したように感じたのは「鎌」であった。山村の農家には鎌も鉈も常備されていた。鉈は重く、鎌はかたちにも惹かれた。鎌首への連想があったかというこの読者の推察は厳しい。わたしの初期作品のなかで凶器になるのは、鎌か鉈か、蛇だから。
* 黄砂を含んだ春の雨が降っています。汚染された物質が飛来しているらしいとのニュースに、恵みの雨が生物に影響を及ぼしはしないかと、そんな心配をしています。
お昼時の時計代わりにしているテレビで、新ドラマの紹介を、出演者がしていたことを思い出して「ビッグマネー」を見ていました。植木等さんの演技に最後まで惹きつけられたまま。建日子さんの脚本だったのですね。(秦注=これは、知らない。)
幼児虐待・性的虐待・不倫・夫婦間の愛憎殺人・いじめ・捨て子・近親相姦…。ここ数年の、いとも簡単に命を奪ってしまうニュースのなんと多いことでしょう。三十八年も前に書かれた作品「懸想猿」だというのに、このシナリオには、現代の病む部分が凝縮されている気がして、とても怖いです。
愛情の欠落?…、欲しても得られぬものならば拒絶?…、トラウマは?…。
頭の中で映像化してみようと試みても、顔が浮かんできません。「慈子(あつこ)」であれば、この配役はあの人に、などと思い描くことができますのに。
なんだか取りとめなく書いてしまい、申しわけございません。あまりに重くて、うまく言えないのが情けないです。日を置いて再読、再々読すればもう少し要領を得ることができるかも知れませんけれど、続けては辛いです。ごめんなさい。
* NHKの昼下がりに「ホームズ」をやっていますが、本でも映像でも、いつだって、最後の種明かしで、「あぁ?! もいっぺん最初から見なくちゃ」。おマヌケな、私。
丹波、もらひ子、早春の3部作を読んだときに、あぁ、なるほど、と思いましたが、今回のお作を読んだときより、ずっとずっと、おキラクな気持ちだったこと、白状します。これまでのご本を読み返したくなる力がとても強い「懸想猿」。読後、一番に「少女」を思いました。
辻村寿三郎に長年惚れている友人が、「仏サマを創り出した頃は、心配でたまらなかったけど、そのあと『源氏物語』に行ったのでほっとした」と言います。今回のご本。彼女と同じ気持ちになれそう。
* 「少女」は、「懸想猿」より前に会社の組合新聞か何かに言われて書いたものの、出さずに終って置いた処女短編。きみのわるい老犬と、その老犬と気の合うらしいきみのわるい少女に引き込まれる、平凡なサラリーマンを書いている。シナリオを処女作とあえて銘打っているが、それより以前に兵役忌避を書いた「折臂翁の死」「少女」そして「祇園の子」などがある。「折臂翁の死」も、同じ丹波の風土を舞台に想像していた。ここで「鎌」を使った。「清経入水」にも「四度の瀧」の中でも、同じ丹波を舞台にした。
永井龍男先生に、「祇園の子」のような作品を二十ほども書けばすばらしい、と言われていた。が、わたしは、その方向へ行かずに、「懸想猿」でシナリオを卒業後、「身内」観の追究と「絵空事の真実味」を追い、「畜生塚」「慈子」「或る雲隠れ考」「蝶の皿」そして太宰賞を招き寄せた「清経入水」へ奔走していった。「廬山」へ必死で登ってかなり鎮められたように思われる。
2002 4・13 13
* 宮沢賢治の詩集「春と修羅」から掉尾の二作と、「手帳」に書き留められていた遺作を数編、「招待席」のために起稿した。葉山嘉樹短編の代表作「淫売婦」はスキャンした。二つとも云うこと無しの作品である。
2002 4・13 13
* 湖の本『懸想猿』大きな期待をもって読み、濃厚な美酒を飲んだ気分になりました。(私はお酒に強くないのですが、海外生活でいろいろ飲み、ヨーロッパ一おいしいというお酒まで試したので、味はわかります)二作ともに、一種殺気だったエロスの感じられる凄い作品でした。このような言いかたは品がないかもしれませんが、「女」の私が読むと強烈に「男」を感じました。このような世界はどうあがいても女には描けないなあと、読み終えて思わず溜め息がでました。すっかり酔わされてふらふらになっております。かなり毒のある火酒でしたから……。処女作の段階から、いかに大きな可能性を孕み、なおかつ完成されていたかが痛感されます。
また、これはどなたもご指摘になられていないようですが、二作の梗概の見事さには舌を巻きました。梗概はこれほど書きにくいものもないと思うのですが、先生はなんと簡潔に美しく書かれていることか。小説を書けとすすめられたのは当然のことで、「簡潔に書けるのは才能です」という先生のお言葉を思い出しました。
テレビも新聞も見たくないほど政治絡みの不愉快なニュースばかりの昨今ですが、魅力的な本さえ手にしていれば生きている喜びが感じられます。次回の湖の本は何を読ませていただけますでしょうか。この世の深さと美しさを、先生の作品のなかに見つけに行こうと楽しみにしています。
* 明らかに過褒という類だが、何十年前の作のこと、ありがたく頂戴しておく。書く動機というか、火熱が燃えていた。それがないと、書けるモノでなく、それなしに書いたものはつまりはツクリものに過ぎない。プロの書き手は生活のためにツクリものしか書かないという例もいっぱいある。一生に一つ書けば、あとはつくりものだと言った人もいたように思い出す。
2002 4・23 13
* 湖の本70巻を祝す 「懸想猿」正・続は湖の本で出版され 多くの読者からの感嘆の文面をホームページで次々と拝見しています。当地地方紙(別送致します)に 恩田雅和氏が今月の一冊として紹介しています。私も着本後すぐに再読、のちに小説になった「猿」は疎開生活という惨めな体験を思い出して強く印象に残った作品でした。「清経入水」や、「マウドガリヤーヤナの旅」とも重なって感銘を新たに致しました。* * * *さんからもすぐに拝読した事を知らせてくれました。
「根来寺の能面」展があり 招待日にゆっくりと観て来ました。「小面」や、「孫次郎」と共に 紀伊徳川家伝来の「満媚」という初めて知った名の古い能面、頬が引き締まり、口角も下がり気味で媚びたところがなく、上品な女性を表した面で「小面」より少し年長のようですが飽かず見ほれてきました。
「美術京都」のご鼎談を拝読しながら、先日の京都創画展のことをあれこれ思い浮かべています。美術は美しいもの、という単純な理解があります。会員外の作品の多くは、私には美しいと感じ取れない。鑑賞眼の低さでしょうが、どういう見方をしたら良いのかと強く思います。 パソコン やっとやっとです。
* 朋あり遠方より。そういえば「美術京都」での「日本画」鼎談ももう刊行されていた。まずまずか。
2002 4・29 13
* 晩春。春昼微雨とも、この前の「湖の本」の挨拶に添え書きした。鴉が飛んで鳴き交わしている。
2002 4・30 13
* 「歌人のイメージが強かったものですから」「シナリオ研究所に通われ、シナリオをお書きになられていたとはまったく存じ上げませんでした。おどろきました。電子メディアといい、まったく多彩ですね」と、ペン理事の一人から手紙をもらった。歌集「少年」から出発していたのだから、また短歌に関して発言し続けてきたのだから、そういうことも、有るわけだ。
そのシナリオ「懸想猿」を、「和歌山新報」紙上で写真入りで大きく紹介してくれているのを、三宅貞雄さんが送って下さった。親切な紹介で有り難い。
2002 5・2 13
* 科学者で作家でもある人から、「ようやく連休で少し時間ができたので、『懸想猿』を一気に拝読いたしました。ふかく心を打たれたことを申し上げなくてはなりません」というメールをもらった。
* はじめは、「若い頃書かれたはずなのに、さすがに地の文といい、台詞といい、言葉の選び方もみごとなものだなあ」などと思いつつ頁をめくっておりましたが、いつしかグイグイと作品世界に引き込まれていきました。たいへんな筆力に脱帽です。
冥い、怖い、そして哀しい世界ですね。土と血のにおいがツーンと漂ってくるようです。高度成長後、こういう日本はどこかに行ってしまったようですが、実はわれわれの身体の奧深くに潜んでいるのでしょう(パソコンやネットワークの陰で、人間の情念は相変わらず蠢いているはずです。
* もっと長いメールだが。遠い昔の話だが、また、今の今にも私の中に息づいている。ありがたいメールであった。
2002 5・6 13
* 湖の本の入稿が大幅に遅れているのを回復しようと懸命に頑張っているうち、一時半になった。この数日、みるから危険なウイルス性のメールが日に数本ずつ入ってくる。みな弾き出しているし、防御ソフトも防御有効と報じている。気を緩めてヘンなのを開かぬこと。
2002 5・8 13
* やっと湖の本新刊分の入稿が出来た、完全にではないが。頁数がうまく読めなくて、量感が測れないまま、少な目に入れてみた。ディスクを郵送するまでは少し胃が痛かった。普通でいえば一ヶ月ほど遅れていた。創刊満十六年目の桜桃忌に出せるか、かなり懸念される。
メールのかなり多くが、親機の故障でほんものの闇へ運ばれてしまい、予定だの約束だのの怪しくなりかけているのが、幾つか。今も、講演の依頼が五月だったか六月だったか気になり、かろうじて子機の方で確認できた。機械を二台、すぐそばで連結もして使っているのは、助かることが多い。
2002 5・9 13
* 冷える。妻が病院へ薬のカルテをもらいに行っている留守に、ホームページへの「湖の本」スキャン原稿の書き込みを進めていった。小説の方は、おおかた何とかなりそうだ。「みごもりの湖」三巻も入った。
2002 5・16 13
* 「電子版・湖の本創作」は、第40・41巻「迷走」上下および最新刊分以外の四十四巻すべてを、ともあれ「原稿掲載」した。多くはスキャン原稿のままの未校正ではあるが。同じく「電子版・湖の本エッセイ」は全二十四巻を漏れなく掲載した。こういうことの、此処まで出来たのはすべて千葉の勝田貞夫さんの親切なご支援による。心よりお礼申し上げます。幾重にもバックアップをとった。これで「冊子版」と「電子版」とが形の上でも並列した。東工大の教授室でさかんに夢想した空想が、おおむね正確に実現した。「E-文庫・湖」という予想になかったものも軌道に乗り、その体験から必然「ペン電子文藝館」も可能と確信し、一気に実現させた。この「保谷のe-OLD」は、技術的には未熟も甚だしいが、パソコンという機械の可能性は、わたしなりによく利用してきた、引き出してきたと自画自賛させてもらおう。ホームページで走り出したとき、いわゆるホームページの常識的な形をあまりに逸脱していると、親切にブレーキをかけてくれる人もいたが、機械の方で量的に負けると音を上げるのならともかく、わたしのような素人にでも「50MB」までを予期してホームページを開かせてくれている以上、機械から文句の出ない以上は思うままやってやろうと思った。機械の重くなるのに途中往生したが、それもADSLの導入で、大いに助けられた。「40MB」まで申請してあるが、今、きりきり「30MB」に達するまで使用している。四年と二ヶ月足らずで、単純にいえば、漢字とひらがな「1500万」字を埋めたことになる。電子化してあるがホームページには入ってない原稿も、「500万」字ほどはあろうか。よく書かせてくれた、それも、雪の降り積むように、いつの間にか。
2002 5・17 13
* 湖の本初校が出たのはいいが、デイスクで入稿しても、思ったようにゲラが出ないことでは、凸版印刷ですら同じ按配で、おかげで建頁が読み出せず、次の作業に差し支えるので、ともあれ出た分を一気に校正した。追加が必要なのは分かっていたが、どれほど追加すべきかが、わかりにくい。
ま、やるかと、追加分のスキャンを数十枚。忽ちに真夜中となって、まだだいぶ今日のうちに済ませたい用事が残っている。
2002 5・18 13
* 昨日出た初校はツキモノも添えて再校にもどし、追加分の原稿づくりにも大わらわ。大わらわだけれど中身は面白く、いやではない。面白がっていると作業が進まない。
2002 5・19 13
* 顧みて、講演という仕事を、なかば余儀なくだが想像より多く引き受けてきた。活字にしてきた講演録も少なくない。現代文学を語ったことも、古典を語ったことも、少なくない。茶の湯や絵画・陶藝や能狂言や日本語についても、また京都や、歴史的な時代に関しても、何度も語ってきた。話し言葉で話すことに比較的向いているのかも知れない。いま、その中で連続三回かけて一つの主題を、名古屋、京都、東京で語り継いだものを、本一冊分にちかいが、スキャンした原稿で校正している。これはわたしの仕事である。さ、どういう効果になるか、湖の本にまとまるのが楽しみになってきた。
2002 5・20 13
* 湖の本は今度で通算七十一巻めになる。そのうち単行本の復刊でなく、新刊・新編集の巻がどれくらいあるか、知らぬうちに随分新しい本が出来ている。出版社から出せばそれぞれ立派に単行本になったろうが、幾分は面倒で、そう働きかけること、売り込むことをしなかった。もともと売り込むぐらいなら自分でやるという、わたしはそういうタチだ。ものぐさになっていたこともあるが、湖の本への愛着が増し、こっちで出す方が気が晴れた。
2002 5・21 13
* 気がかりの原稿も、書いて送った。一つ一つボールを投げ返して、軽く、そう軽く一息ついている。
千葉の勝田さんのご厚意で、「電子版・湖の本」が、創作もエッセイも通して、全巻内容を所定頁に書き込むことが出来た。ながいあいだ願ってきたのが、やっとその段階まで。あとは、気を入れた落ち着いた校正を。しばらくは、このまま、温存しておく。
2002 5・21 13
* 湖の本の、追加入稿分はまだだが、戻した初校分の再校が出てきた。全部もう読んだ。150頁を越すだろう、またまた経費の負担は重くなる一方だが、仕上がりの満足は得られるだろうし、読者にも喜んでもらえると思う。
2002 5・24 13
* 入浴、朝食、どこへもまわらず京都駅へ。のぞみ満席で一台待ち、その間駅前の都ホテルで今度の湖の本を念校した。十時六分、のぞみに乗り込んでからも、あれで横浜まぢかまで、ぶっ続けに校正したり、また持参した幾つかのコピー論文を読んで過ごした。往きは二時間ほど眠っていったが、帰りはいたく勤勉に過ごした。そして寄り道せずに帰宅。
留守に湖の本追加分の校正が出ていたので、建頁を建て、すぐ跋文を用意した。百五十二頁の大冊になる。やれやれ、出血だ。だがとても気に入った嬉しい一冊になる。
2002 5・29 13
* フランスとウルグワイの猛烈なサッカー白兵戦に昂奮しながら、発送の用意を思いのほか前へ運べた。時間に縛られていて、間断なく手作業を続けていたおげで、少し見通しが立ってきた。本の出来てきた日までにこの用意が出来ていないと、玄関に積み上げてしまうことになり、プレッシャーが大きい。なんとか間に合わせておきたい。今日、表紙やあとがきも、すべて責了に持ち込んだ。
2002 6・6 13
* 日本と韓国とのサッカー試合が昼間に晩に二つもあり、そのおかげで、テレビの近くで相当な手作業がはかどり、幸いに、明日に本が出来てきても発送の用意が調った。ほっとした。入稿からここまで、ほぼ一ヶ月で今回は此処まで運んだ。集中して仕事できる意欲も力もまだはっきり残っている。
発送そのものは肉体労働で、時間と体力の仕事。残るは、三省堂の本のために書下ろす原稿であるが、飛び込みで出てきた対談の主題が「染色」で、この勉強が容易でない。「色を染める」という上古来の作業ないし創作は、多岐にわたり文字通り多彩で、ちっとやそっとの知識では追いつかない。二週間で俄かに勉強するのであり、同じ二週間のうちに本の発送も原稿書きも含まれる。「ペン電子文藝館」の起稿も校正も含まれる。さらには秦建日子の芝居の公演もある。わくわくする。すべて成るように成るモノだ、成ろうと成るまいと、どうということではない。五百時間も過ぎれば、あらかたはきれいに通り過ぎているし、何かが残ったとしても、それはそれだ。
2002 6・14 13
* ようやく「湖の本」新刊までに発送用意が追いついたので、今日は気が抜けている。ドイツが辛勝したパラグアイ戦もすかっとしたゲームではなかった。
2002 6・15 13
* 午前に前ぶれなく「湖の本」新刊の出来て届いたのには驚いた。独り家にいたので、受け入れに少し慌てた。ついでに腰を痛めた。幸か不幸か腰の真後ろに痛みが走り、片方に寄っているよりラクだ。問題なく午後はペンの理事会に出かけた。梅原さんが今月も休み、すると、ちっとも会議が面白くない。数度、あれこれと発言したが、特別のこともなく、次いでの例会もなにごともなく、さっさと帰った。
2002 6・17 13
* 発送の第一便を託した。緒についた。慌てずに。
2002 6・18 13
* かぐやひめの掌説を読んで以来、聴くことは叶わなくても、せめて読むことだけでも、と、ずっと願っていた「竹取」。嬉しい!
おとといの晩、くっきりとした輪郭の、白く輝く半月に、見惚れました。
2002 6・20 13
* 最後の荷を送りだして、「湖の本」創作シリーズの第四十七巻『なよたけのかぐやひめ』は全国の読者に届けられた。ラボ教育センターでもう十年あまり前に制作した和英対訳繪本・和英朗唱テープの、日本語版及び三連続の講演「竹取物語」を中心に、古文で書かれた一連の「竹取翁なごりの茶会記」を中に組み入れた。日本語朗唱には鈴木瑞穂や大塚道子といったベテランが揃って出演し、音楽も録音もよかった。市販はされなかった。聴くところでは、海外へ皇室や政府要人が訪問時の相手国への土産としてもよく持参されるとか。
2002 6・22 13
* つねひらさま はだのつねひらと本名がそのままぴったり古典的に決まってしまうのは、何と素敵なことでしょう! 今し方、「なよたけのかぐやひめ」と「茶会記」まで読みました。本が届いたのは金曜日でしたのに、わたしには珍しいことですが忙殺されるほどの数日が続いて、本が読めなかったのです。
文章がしみこんでくるのを感じながら読みました。
茶会記は、この種のものは、本当につねひらさまでなくて誰が書けましょうか! 姿あらわしたかぐやひめが夜更けて消えていくなど・・これは、そのまま、能のようにも感じられました。
愛は逢いであり、哀であるともわたしは理解しています。
まだ疲れを感じていますが、今日は改めて読み直し、講演集もこれから読みます。
* 来るべき人から、間髪を入れず便りが来る。湖の本の冥利である。
* 梅雨の時雨 今夜は雨降り予報。月が満ちてゆきます。
肌寒いほどの気候が続くのを幸い、ぽくぽくと、考え考え、振りかえり、立ち止まりしながら、ご本を読み進んでいます。
宙を見つめる。紙面に戻る。ぶつぶつ言う。涙を拭ったり、微笑んだり、時に吹き出したり…怪しいにんまり雀。
* 『湖の本』「なよたけのかぐやひめ・他」ありがとうございます。
「竹取物語」は親しい古典です。だいぶ以前に、皇室の竹の名称・呼称のかかわりが気になって、竹中生誕譚について調べかけたことがありましたが、奥が深く手にあまり、断念しました。ご本の箇所、少し読みましたが、大変すぐれた考察であるとすぐに分かりました。
さきおととい、ひょんなことから藤田嗣治の日本画を買い求めることとなり、おととい、その絵を某コレクターのところへ持参しました。名品所蔵にふさわしいコレクション環境のなかで、フジタ等の油絵の逸品をたっぷり鑑賞できました。美術倉庫から出して架けておいてくれました。「眼福」。いいものはいい。名があるすぐれものは、さらにいい。秦さんのお好きな村上華岳にも話が及びました。帰ったら、太宰治ファンのカミさんに、近くの喫茶店の奥さんからサクランボウが届いておりました。2日遅れの桜桃忌。
きのうは、3日遅れの、ふたりの「桜桃忌」となりました。カミさんにせがまれて、重たいリュックをかついでくれるというので、都心からの帰り三鷹で下車、禅林寺をおとないました。墓前には、19日午後の5分の法要の名残があり、おおぶりのサクランボがまだみずみずしくそなえられていました。近くには、墓参者が食べたであろうサクランボの種に蟻んこが行列をしていました。
墓参のあと、三鷹駅裏で銭湯を見つけ、疲れた体を癒しました。珍しく先にあがったカミさんは、見知らぬおばあさんとなごやかに話をしていた。カミさんのペンキファッションのジーパンをいいとほめてくれたとか。80過ぎの女性で若い女性のファッションやしぐさに好意的なひとは少ない。絵描きのご主人を亡くされ、猫5匹の世話にかまけて遠出も出来ないと笑っていたとか。目がきらきら輝いていた、とカミさんは素直に感想をもらした。
昨夜は床のなかで、反古のなかからみつけた、筆者がまだ分からない明治35年の20丁ばかりの稿本を一気に読んだ。「月の初瀬」など和歌をまじえた数編の随筆で、とても美しく哀しい文章でした。離れた実兄を恋う背徳の女心が切々と伝わってくる。女手の水茎がもの哀しい。名がなくてもいいものはいい。
秦さんのご本の後記にある「いいものはいい、よくないものはつまらない」をかみしめております。が、なかなかに書けない。
私のフジタの絵は新しい持ち主に落ち着きそうです。私にはまだもったいない。ふさわしくない。たった一泊二日のフジタ。これもいい。三日遅れの桜桃忌、これもこれでよし。
今日は、一ヶ月ぶりに、奥多摩の「気」に触れてまいります。車中でご本を読ませていただきます。
「いいもの」は一気に読めるでしょう。まずは、御礼に代えて一筆。ご自愛ください。
2002 6・24 13
* 心はずむ日で、いろいろ対応しているうちに、もう一時になった。
はじめて、近江能登川の甥にあたる、とはいえもう五十過ぎた、姉の子息芳治氏のメールをもらった。
生母の長女の千代姉は、もうずいぶん以前に亡くなったが、生前に一度だけ、能登川を訪れて逢った。母の感化か、歌をつくる人で、亡くなるまで繁くわたしたちは文通した。作品もたくさん読んだ。この甥とはまだ逢ったことがない。『なよたけのかぐやひめ』を贈ったのである。
* かぐやひめの話は、小さい頃、母親に何度もしてもらったことを、うっすらと覚えています。私も今年で55歳になるわけですから、もう50年近く昔のことになりますが。
でも、小さい頃のことは、結構よく覚えているものですね。今回本をいただいたということにより、話をしてもらったなということを、思い出すのですから。
ご活躍のご様子、いろいろと伺っております。どうぞお体に気を付けて、引き続いてご活躍下さい。
2002 6・25 13
* 湖の本『なよたけのかぐやひめ』を頂戴しました。ありがとうございます。
その昔、まだ本を読みはじめたばかりの少女だった私は、かぐやひめとアンデルセンの人魚姫が一番のお気に入りでした。この二つの物語と出逢わなければ、私は本好きにはならなかったような気がします。どちらの物語もハッピーエンドにはならないのに、ほかのどんな楽しい物語よりも子供の心を惹きつけたのが不思議でなりません。かぐやひめや人魚姫のように、人生には避けがたい悲しい別れがあることを、幼いながらも漠然と予感していたのでしょうか。先生の「かぐやひめ」の音楽のような日本語をうっとり味わいながら、すっかり忘れていた少女の日々を思い出しておりました。
掌編「遠い遠いあなた」は、以前にも読ませていただいた、美しい散文詩のような作品ですが、私はこの「遠い遠いあなた」という短い題名に感嘆してしまいました。この言葉だけでストーリーがいくつもうかんできそうです。
自分のもとめる誰かは、いつも遠い遠いところにいる。たとえ恋人どうしになっても、夫婦になっても近づけば近づくほど、「あなた」はどこかでますます遠くなっていく存在です。「遠い遠いあなた」は、先生の使われる「一瞬の好機」のように、簡潔ななかに人生の真実をきりとっている凄い言葉です。やはり先生は類まれな文学者でいらっしゃいます。
私語の刻で先生宛のメールの数々を拝見するたびに、先生にはすばらしい読者がたくさんいらっしゃるのだと、感動してしまいます。先生はもっとも幸福な作家のおひとりかもしれません。謙遜ではなく、私は知性教養の点でもっとも末席にいる読者ですが、先生のご本を読むたびに新しい視界が開けて旅する喜びを味わっています。
最近の先生は、エネルギーを消耗するようなお仕事に明け暮れていらっしゃるようで、ご案じ申しあげております。ご無理なさらず、どうぞご自愛くださいませ。
追伸 芹沢光治良ファンの友人に、先日の先生の大変印象的なご講演を印刷してプレゼントしたいのですが、eーmagazineの18頁で見つけることができません。これは私のコンピューターの具合のせいなのでしょうか?
* こういうことを言ってくださると、わたしは、心して、少し受け入れの扉を狭めて聴く。甘えてはならないから。講演は、わたしが、転送を忘れていたために、サイトに送り出せていなかった。高史明さんに申し訳ないことをしていた。このメールのお陰で気がついた。感謝。
2002 6・27 13
* 『なよたけのかぐやひめ』をいただき、ありがとうございまし
た。「竹取物語」も秦さんの手にかかるとこうなるのかと驚いている次第です。私のかすかな記憶の中では、「5つの難問」というものはありませんでした。実在した貴人が登場するというのもおもしろいし、世界各国に類似の説話があるというのも興味深いことです。それらの中で「竹取物語」は泉のような清冽さを持つというご主張にも賛同。不二山の由来にも瞠目させられました。かぐや姫のその後とも言える「遠い遠いあなた」もおもしろいですね。男の、ある意味での馬鹿さ加減と、かぐや姫の本音が表れて、これで一作の小説になりそうだなと思いました。
苦手な古典を親しく読ませていただいたという思いもしています。古典に限らず、本の読み方に規則はないのだというお教えは、文学を専門としてこなかった私には救われた思いです。私の専門分野である化学工学も実は同じと思います。解るところを少しずつ増やしていくしかないのです。文学も工学も基本は同じ。まったく同感です。
秦さんの著作が本箱の中で少しづつ少しづつ増えていき、ニンマリと眺めています。ありがとうございました。
* やなせさんが、つぶ餡好きなので、「アンパンマン」のアンはつぶ餡なのだそうです。「彼の脳細胞は餡だから、ボコボコしているほうがいい」とのことですが、雀は、言われるまで、こしか、つぶか、なンて、考えもしませんでした。
竹取物語が成立したのはいつか、作者は誰か、また、竹取の翁の意味は、など、雀は、アンパンマンのアンのときと同じショックを受けました。
2002 6・29 13
* 水無月の名越の祓えに茅の輪をくぐった、この私のためにもと聴くと、うち捨てておけない。厳粛である。
* 二十九日のことでございます。通りかかったお宮さんに、みどりうつくしく大きな茅の輪がしつらえられていました。
水無月祓には一日、早かったのですが、「水無月の夏越の祓へするひとは千歳のいのち延ぶといふなり」と唱えながら、しっとり雨に濡れている茅の輪をくぐりました。秦先生の分でございますと、神さまに申しあげて、先生の分もくぐらせていただきました。
お具合、よろしくなられたようでございますが、おたいせつになさいますよう。
いらっしゃった永観堂、青もみじがうつくしくて、と、うかがいますと、そのみどりが映っている見返り阿弥陀さまのおん顔がおもわれます。あり得ないことでしょうに。
『なよたけのかぐやひめ』を読み始めて、すぐ、音読すべき、と、おもい、最初から声で読みました。うつくしくて、めりはりがあって、読むのがとても心地ようございました。
読み終って、ほうとしています。
わたくしが最初に読んだ「かぐやひめ」は、五人の求婚者のところが省略されていました。帝も求婚者としてではなく、姫を連れてゆかれぬよう、武士を派遣した、地上の王者という役割にとどまっていたように覚えています。築地塀の上に弓に矢をつがえた武者が描かれていて、かぐやひめは、さあ、どう描かれていましたやら。
『竹取物語』は、ずっとあとになってからでした。それから加藤道夫の『なよたけ』、そして今、『なよたけのかぐやひめ』。
これから、「竹取翁なごりの茶を點つる記」を、やはり、音読しようとおもいます。
擬古文というのでしょうか、うつくしいうつくしい、やまとことば。
『源氏物語繪巻』に、侍女の読む物語を聞きながら繪を見ている浮舟を描いたものがありましたが、浮舟の聞いていたのも、こうしたうつくしいやまとことばだったのでしよう。彼女が、見、聴いていたのは、『竹取物語』だったのかも知れない――。
水無月三十日は母の命日でした。ベランダに咲かせた紅花と、終りちかくて色も薄く花もちいさい都忘れを手向けました。
先生がベッドの母君のお写真をご覧になるのを避けられたお気持ちを、お思い申しております。わたくしは母の衰え、壊れてゆくさまを、見ざるを得ない立場におりました。生命維持装置というのでしょうか、幾本かの管を抜きたい、抜いて苦しみを終らせてやりたいとおもいつつ、とうとうそれもせず、不徹底なことでございました。
齋藤史先生には、ご容態がかんばしくないとうかがってからは、お目にかかるのを差し控えました。逝かれる三ヶ月前にお逢いした折の、薄化粧をしていらっしゃって、おうつくしかった姿を心にとどめておきたい――。わがままをとおしました。悔いはありません。
先生の母君へのお思いとは、べつ、較ぶべくもなく、また、較べられるものでもありませんが、お母さまのお写真のお話から、思い出したことども、ずらずらとつらねてしまいました。
湿度がたかくてすっきりしない日でございます。お風邪のあと、お大事にお過ごしなされますよう。
* 「竹取翁なごりの茶会記」は、いわば戯文の一種であるが、本気で古文で書き表してある。そういう逸文の伝来し消滅しかけていたのを、かろうじて平成の「秦のつねひら」が写しとどめたという趣向になっている。源氏より少し後れ、讃岐典侍日記よりは溯るかという辺りの言葉遣いを試みたが、それはともかく、古文になじまない読者には気の毒であったし、ラクに読める人には好評をえているようだ。いちように「はたさんらしい」とか「はたさんならでは」と言ってくださるが、語法や句法に見る人が見れば滑稽な過ちも混じっているだろう、そういうことも教わりたいものである。
それとても、ただ技術的な興味から書いたモノではない。やはり竹取物語への情愛がさせた戯れ書きであろうか。
* このところは、まして、毎日『なよたけのかぐやひめ』への全国からの払い込みが届く。それがまた作者への数多い親書の山を成すので、お金のことなどより、わたしはそれが楽しみである。そのなかに、「遠い遠いあなた」という「掌説」にふれて、目にピカッときた一通があった。この掌説は以前掌説集に別の題で入れていた。だからというわけではなく、しかも、これだけは「この木なからましかば」と覚えました、と。徒然草の言葉であり、昔、高校へ入って、国語ですぐ習った。記憶にある人も多かろう。風情のいい山里のとある家の庭にみごとに実のなる大きな木が生えていて、ああいなと思うと、根回りが人を寄せ付けず、厳しくかこってある。興ざめしたのである。「この木なからましかば」と兼好さんは吐き捨てていた。この授業を聴いたその時間のこともありありと覚えている。
「遠い遠いあなた」だけが「かぐやひめ」を描いて峻烈なのである。姫は天上の「ひとでなし」として永劫牢のなかにあり、地球の男を待っている。そんなものすごいことを僅か計四枚、前半有り後半ある掌説にしてある。だれかが、これから一編の小説が書けるなどと言っていたが、もう書けるだけは書き切ったと思っている。これを入れると「ぶちこわしじゃなあ」と思いつつ、しかしこの一冊に「かぐやひめ」原稿を皆入れておこうと欲をだした。それが咎められた。参りました。
咎めてきたのは、京都の新制中学時代、一年下に転入してきた女子で、高校も一緒だったが、わたしの一年後に、東大に受かったと聞いていた。本郷台の医学書院に勤めていた頃、この人と、東大構内でパタッと出逢ったことが一度あった。中学時代には口もきいたことのない人だったが、こっちは上級生で生徒会長なんぞしていたし、向こうは「天才」だという噂の主ゆえ、双方で覚えていたのである。彼女はまだ院にでもいたのだろう。
湖の本には、創刊以来激励し支援してもらってきた。フランス語等の翻訳書が何冊かあり上手なエッセイも書く人である。そういう人の「この木なからましかば」は、真っ向を打たせてしかも快いものであった。
2002 7・1 14
* ラボ教育センターの三沢氏から「なよたけのかぐやひめ」の注文が入った。絵本、希望者には特別に販売するようだ。
2002 7・8 14
* 新しい湖の本を一冊分、ファイルにして電送入稿した。スキャナーとメールとワープロソフトのおかげで、快適に作業が進んだ。ちょっと面白い、読みやすいが持ち重りのする一冊になるのではないか。
2002 7・29 14
* あとがきだけが残ったが、表紙も本紙も「湖の本エッセイ25」を今日責了にした。
2002 8・28 14
* ダスティン・ホフマン、アン・バンクロフト、そしてキャサリン・ロスの「卒業」を楽しんで「聴き」ながら仕事した。さらにはメル・ギブソンとソフィー・マルソーの「ブレイヴ・ハート」も感銘深く見直した。このような歴史映画が好きで。
「卒業」のキャサリン・ロスの感じよいこと、それにくらべてダスティン・ホフマンにはなかなか馴染めない。挿入されている音楽の楽しめるのも嬉しい作品で。湖の本の発送用意の作業期にはこういうビデオ撮りしておいた海外映画がとても役に立ってくれる。仕事のお守りをしてくれる。
2002 8・31 14
* 映画「オペラ座の怪人」に、例によってしたたかに心を動かされながら、一気に作業を一山二山片づけた。あとは、封筒にハンコを押し、宛名ラベルを貼り付けて、一つ一つに異なるアイサツを入れておく仕事、全国の大学研究室や各界への寄贈アイサツをプリントし、カットし、今回分の新しい寄贈先を思案する用事が残っている。この仕事は商売にはならない、むしろ寄贈の形で文藝活動の実際を適切にひろく知らせることの方へ傾いている。原稿料や印税の収入が限りなくゼロに近づいていて、そのなかで、この事業を維持してゆくのは相当に厳しい。製本した分がかつがつ回収できればそれでいいのだが。
2002 9・1 14
* 午前に届くはずの「湖の本エッセイ25」、二時になったが届かない。と思っていたところへ、運転手の電話があり、もう到着するだろう。午前中に「湘烟日記」の校正もよく進み、別に物故会員長谷川巳之吉(第一書房創設者)の遺文、また新会員一人の俳句百句を入稿した。
* これから数日、力仕事になる。
* 夕刻過ぎて最初の発送。その後も「007」を耳に聞きながら、かなり頑張った。切り上げて、幾つものメールを読んだ。胸に残るものも有った。
それからまた「湘烟日記」の校正を楽しみながら、終えた。楽しむというのは言葉づかいが宜しくない。なにしろ五日後に逝去した、三十九歳の日記である。迫ってくるものがある。筆者自身よりも、こちらの方が筆者の死期を承知している。むろん当人も百も覚悟しているが、正確に何時のこととは分かっていない。絶筆の日記は、こう結ばれてある。
2002 9・11 14
* 終日の発送作業。途中に、ジュリア・ロバーツとヒュー・ハワードの「ノッティングヒルの恋人」を聴いていただけで、他には、させることなし。
2002 9・12 14
* 立教大の田島泰彦教授から、さっそく新しい「湖の本」に懇篤のメールを戴いた。有り難いこと。
2002 9・13 14
* 幸いに順調に発送作業はすすんでいる。 2002 9・14 14
* 新刊の「湖の本エッセイ25=『私の私他』」の跋文「私語の刻」を、思い有って此処へ、ことさら書き写しておきたい。賛否両論あろうかと。反論有れば、聴きたい。
長い文脈の中でわたしの切に言いたかったところを先に抄しておく。念頭に置いて欲しいからだ。「わたし」と「私」とを正しく読み分けて欲しい。
即ち、
「私」にとって、法や規則など、破られるために存在しているとすら思うことがある。「私」は法や規則に本質的に縛られない立場を主権者として持っている。「国民による国民のための」法は、国民にはひとつの原則であるが、拘束はされていない。法を手直しする権利は「私」にある。法に対し、法から真に拘束され、法を誓って遵守すべきは、本来「公」なのである。それが主権在民の本則だとわたしは考えている。それなのに、いつのまにか、法という法が、いつも「政権による政権のための」ものになっているとしたら、憲法の根幹が崩れているというしかない。事実、この国の「公」を代表する総理大臣や東京都知事が、率先して憲法軽視を「我が事」かのようにこれ努めている。ずいぶんヒドイ国に、日本国民は納税していることになる。
わたしたちの「私」が保護され擁護され幸福で安全で自由であらねば、何の「公」に存在の理由があろうか。国民という名の「私」をただもう支配し拘束し統制し服従させようと躍起になってくる「公」を、何のために「私」は支える義務が有ろうか。
* 湖の本エッセイ25あとがき ほんとうに「国民による国民のための」個人情報保護法なら、欲しい。ほんとうに「国民による国民のための」人権擁護法も欲しい。どんな法律も、ほんとうに「国民による国民のための」法なら、法治国家に住む一人として遵守するにやぶさかではない。日本国憲法も、少なくも「日本国民のための」憲法だと信じるので、誇りにこそ思え軽視する気などないのである、わたしは。
アメリカでは、「憲法」に手を置いて重大な誓言をしている、大統領でも国民でも。恥ずかしいことに、例えば日本の総理大臣も東京都知事も、率先尊重し忠実であるべき「憲法」を、時に公然と、平然と、侮蔑さえして得意げである。
日本の法律は、往々にして、表題は美しく、内実は逆向きに作られてゆく。「保護」と称して実は露骨に「収奪・管理・統制」であろうとするのが、この秋にも強硬可決のもくろまれている個人情報保護法案であり、関連した住民基本台帳ネット法である。人権の「擁護」と称する法案も、じつは「抑圧と統制」への底意を秘めている。「公」という名のお上が、国民のものである「私」にのっぴきならぬ11桁の焼印をおしつけ、いずれは財布の中の小銭の枚数まで把握しようという、そんな法律づくりが、次から次へ小渕内閣、小泉内閣と続いてきた。どの法律も「政権による政権のための」立法であり、本音は「国民による国民のための」とは逆に逆を重ねて行く。法の名前ばかりが「保護」の「擁護」のと一見もっともらしく美しいが、正体は、政権や与党政治屋の醜行や犯罪の「保護」「擁護」に流れようとしている。鈴木宗男の事案のように自分も暴かれては堪らんという本音であろう。本音にとって邪魔なモノなら田中真紀子でも、辻元清美でも、スカートを後ろで踏むどころか、むりやり脱がしてしまうほど、露骨にあくどくなっている。
聖人君子でもなく善人ですらないわたしは、一個人として無徳にちいさな悪も重ねてきていると思う。そんなわたしがいえば、おかしいであろうか、「私」にとって、法や規則など破られるために存在しているとすら思うことがある。「私」は法や規則に本質的に縛られない立場を主権者として持っている。「国民による国民のための」法は、国民にはひとつの原則であるが拘束はされていない。法を手直しする権利は「私」にある。法に対し、法から真に拘束され法を誓って遵守すべきは、本来「公」なのである。それが主権在民の本則だとわたしは考えている。それなのに、いつのまにか、法という法が、いつも「政権による政権のための」ものになっているとしたら、憲法の根幹が崩れているというしかない。事実、もとへ戻るが、この国の「公」を代表する総理大臣や東京都知事が、率先して憲法軽視を「我が事」かのようにこれ努めている。ずいぶんヒドイ国に、日本国民は納税していることになる。
わたしたちの「私」が保護され擁護され幸福で安全で自由であらねば、何の「公」に存在の理由があろうか。国民という名の「私」をただもう支配し拘束し統制し服従させようと躍起になってくる「公」を、何のために「私」は支える義務が有ろうか。
すべての立法に、法律の名に、「国民による国民のための」という小さな「角書き」を付けることをぜひ制度化したいという「夢」を私はながく持ってきた。権力支配の露骨なこの法案は、この条文は、「国民による国民のための」という「主権在民」不動の前提に反しているではないかという抗議が有効にできるようにしたいのだ。ど素人の意見で、弁護士達ですら冷笑するような夢想で希望であるが、それほど、日本の「私」は、今、全身麻痺に陥りつつある。そして政府の中核には、やがて往年の「内務省」が復活し、徴兵が行われ、新華族等の特権化も再現されるだろう。「サイバーポリス」はハイテク駆使の憲兵隊と化して陰険な思想統制と新しい「アカ」狩りを始めるだろう。学生はますます無力化し、労働者は結束をますます寸断され、知識人は自分自身を軽蔑しつつ「公」の代弁人として卑屈に生き延びようとするだろう、いつかのように。
今回の「湖の本」には、五つの「講演録」を選んだ。ひろくいえば文藝講演であるが、わたしの文藝講演は、竹取物語、源氏物語、枕草子、平家物語等の古典を語り、谷崎潤一郎や夏目漱石の作品を語り、川端康成や泉鏡花を論じ、さらに短歌や和歌や歌謡について語ったモノが多かった。茶の湯や能や美術の講演も数え切れない。だがこの五つの講演は、それらとは、少し毛色がちがっている。公や国や社会や歴史や制度に向かって、まっすぐ、強く発言している、そういうのを選んでみた。
三十数年の作家生活で、数十度のテレビ・ラジオ出演を除いても、講演というのを、苦手にかかわらず百度ほど引き受けている。対談や座談会より多い。
一つには「話体」の文藝、文体、文章表現に比較的好奇心が有ったからで、「仕事」としてのこせるものの多いのにも惹かれた。だから講演の場合も、出たとこ勝負に話してくるようなことは、しなかった。心用意はいつもきちんとし、おもしろおかしく笑って貰おうというようなサービスは二の次にした。
『私の私』は、金沢市で国語の先生方に「院と女院」と題し平家物語について話した翌日、金沢大学付属高校の講堂で、高校生諸君を聴き手に、こころもち「敢えて」ぶつけてみた講演であった。その頃、早大文芸科に請われて、学生たちの書いてくる小説を読んでいた。それがゼミであった。その作品にも少しふれながら、「手」「私」「外」という三つの言葉を順に関連させながら、やや挑発気味に話した。生徒諸君の優秀であるのが分かっていたから、安心して、まっすぐにモノを言った。
『マスコミと文学』は、芸術至上主義文芸学会に招かれてした講演で、いくらか歴史的な証言性のある内容になっている。なぜか。この時、まだコンピュータに指一本ふれたことがなく、聴き手の学会員も同じだった。徹頭徹尾「紙の本」時代のマスコミと文学にのみ触れて、わたしの言説はかなり険しく厳しい。「紙の本」時代の最末期へ移行しようという時節での、「マスコミ」批判は、すでに「湖の本」を五、六冊刊行していた者として、実感をともない切迫していた。やがて東京工業大学教授になる日など、夢の夢にも現れていなかった。
「紙の本」から「電子の本」への過渡期の曖昧さを、この講演は微塵も含んでいない。含みようがなかったのだ、それだけ、あの頃の「マスコミと文学」事情が、けざやかに浮き上がっている。
そのわたしが、今、日本ペンクラブの電子メデイア委員会を率い、「ペン電子文藝館」の主幹として、開館満一年を前に、二百に近い人と作品を日々に世界中へ送り出し続けているのである、目を瞠るそのコントラストをも読み解き、ものを感じて戴ければと思う。
『蛇と公園』は、茨城大学での比較文学会東京部会に招かれての講演で、同趣旨で、アジア太平洋ペン国際会議へも提題し「差別」部会で演説した。東工大での定年退官が近づいていた。「公園で撃たれし蛇の( )意味さよ」という中村草田男の句から入っている。
「心は、頼れるか」は、群馬県立図書館での講演で、なにかといえば、世の無責任な識者たちが、安易に軽薄に「心」をふりまわす風潮への、あきたりぬ思いから話しはじめている。「心」にこそ生涯苦しめられた漱石の思いと共に、老境へ向かうわたしの、これは安心、無心への道程かとも。
最後の『知識人の言葉と責任』は、「なぜ、今、芹沢光治良の『死者との対話』か」を、芹沢第五代ペン会長のご遺族や愛読者に問われて応えた講演で、同時に、わたしが「ペン電子文藝館」に何んな思いで臨んできたかの吐露でもある。前半に『死者との対話』を、後半に第六代中村光夫会長の優れた論考『知識階級』を連携させながら、この昨今の難儀に難儀な日本国にあって、それでも知識人として責任をもたざるを得ない者達の「言葉」の駆使について、つくづくと語ってきた。今年六月の上旬であった。ホームページに掲載した此の講演録には、おどろくほど若い知性たちの反響があったことも付け加えておきたい。
国会では、与党は与党にしか通じない言葉をあやつり野党もしかり。官僚は官僚同士で通じればいいという言葉で行政し、法律家の世間もまたしかり。哲学と宗教はすっかり影うすく、善知識も大徳もたえて広い世間には聞こえてこない。言葉のちからが衰え、世間の壁を貫いて通れない。その弘通(ぐつう)性のない衰弱を言いつくろうために「専門」という門があるのだとでも言いたげである。素人の耳に届かない専門の言葉に、どれほどの意味をもたせようというのか。そこに独善の黴がはえて錆び付いたとき、えたりやおうと、権力は「私」を一網打尽に支配する。今が今、まさにその危険な時機ではないかと、わたしはこの一冊を敢えて編んでみた。「湖の本」での、これも、新刊である。
2002 9・15 14
* 「エッセイ25」、昨日届き、早速「私語の刻」、ついで今「知識人の言葉と責任」を拝読しているところです。
芹沢光治良さんの『死者との対話』は読んだことがなかったのですが、とても引きつけられる内容です。他の文章も順に読んでいくつもりです。どうも有難うございました。
また、秦さんのこのような「湖の本」シリーズの試み、とても貴重で刺激されました。これからは商業出版に頼ることなく、物書きが自らこうしていくべきかもしれないと感じました。 小生も検討して見るつもりです。
* メールを下さり感謝します。ご関心にお応えしておきたいと思います。
私の湖の本は、七十二巻、十六年半になりますが、ポイントは、フルネーム住所付きの読者を事前に大勢確保していること、全国規模で継続購買読者が得られていること、出し続けるに足る作品をバラエティー豊かに大量に持っていること、読者が歓迎し支持しつづけてくれること、再刊だけでなく新刊も出し続けうること、何よりも家族の協力が得られること、でした。
これで蔵を建てることは考えられません、が、出血がヒドクてはとても維持し続けられなかったでしょう。経費は確実に九割九分回収しないと、とても多年は続けられません。読者の支持が有れば、経費は回収できます。次回分刊行経費さえ回収確保できれば、作品の有る限り続くわけです。これで儲けたいという気はなく、所詮無理なこと。
この仕事で有り難いのは、自著の在庫をいつでも確保できて、購入の要望が有れば即日送り出せることです。
手間もいろいろに掛かりますが、編集者・製作者としての能力が、絶対必要です。楽な仕事ではありません。断念の多い仕事です。赤坂城に籠もるほどの覚悟が必要です。
2002 9・18 14
* NHKがなんだか難しそうな話題で取材したいという話。ま、話を聴いてからと。わたしのホームページを見て、「個人のホームページとは思えない充実振りですね。たいへん参考になります」とメールを貰っている。
* ドナルド・キーン氏「第七十二巻に達したことに驚きました。大変なお仕事ですね」と。或る大手出版社の人から、「知識人として真向から事に処し責任をとられるご様子には感服いたしておりました。(今度の本で)その根を学びたいと思います。秦さんのホームページ、「ペン電子文藝館」よく覗いています。ご労苦も多いことと存じますが、呉々もお身体お大事に」と。また同じく「弘通性のない衰弱を打破せんとされた五つの講演録と存じ上げましたが、これはなまなかな文士には出来ぬことと存じます」と。
俳人の倉橋羊村氏からは「漱石の『心』の読み方など改めて教えられることが多く」と。
松永伍一氏からは今回本の受け取りに添えて前回本の「なよたけのかぐやひめ」に「近ごろ、こんな豊かな読書はありませんでした」と懇ろに。
永六輔氏からも。芹沢光治良ご息女の岡玲子さんや福田恆存先生の奥さんからは追加の注文があった。
今度の講演集、反響がとても強い。
2002 9・19 14
* 銀座 空也の最中が、何年ぶりかで手に入りました。大事に大事に、ひとつを半分に分け、午前と午後に食べています。
包装も中身も変わンないなァと、何気なく「しおり」を手に取り、店の地図を見て唖然としました。周りが海外有名ブランドの店ばかりになってるンですもの。
移転かしら、閉店かしら。
銀座の一等地。同じ場所で、同じものを、常に商いとして続けるのは難しいことでしょう。
あの通りのあの店に、いつもあれがある。そして買える。それが、どれほど貴重なことかと、気付かされました。
湖の本が続くことを、心から熱望します。
* これはなかなか味なラブレターである。わたしも空也の最中大好きだが。「あの通りのあの店に、いつもあれがある。そして買える。それが、どれほど貴重なことか」と来て、湖の本をやめないで続けよとは、少なからず胸が熱くなる。ありがとう。
* 『湖の本』をお送りいただきまして、ありがとうございました。一気に読みました。「私の私」は1989年の講演とのことですが、まさに今、議論にのぼらせるべきことですね。住基ネットや、国会で立法されようとしている悪法の向こうに、「内」の人々の姿が見えます。今は「内」に居ると思っていても、いつ「外」の立場になるかわからないのに、つまり、「内」なんて無いだろうと思うのですが。
どの章も、時節にからんで、大いに共感をおぼえます。考えることはいろいろありすぎて、まとまりませんが、また日本の戦争をする事態は避けねばと、強く思います。そんな危惧を抱いてしまうような方向へ、日本の政治は向いています。おまけにブッシュ政権の、世界に対する独善的な態度、どうかしていますね。
日本と北朝鮮との会談にしても、中東で起こっている悲惨な戦いや、アメリカのイラクへの戦争準備にしても、懸念の問題ばかりです。地球環境の保護についての国際会議は遅々として進まないようですし、この先、世の中はどうなってしまうのだろうと不安になります。世界全体の、暗く被われている気がしてしまいます。
* 北朝鮮に拉致されたと思われる人の健在な生活を伝える手紙などが、ニュースで流れたときに、こんなことが話題になって大丈夫なのかな、向こうで抹殺されてしまわないかなと案じたものであったが、本当にそういうことになっていたかと、疑いの濃厚な悲劇が現実になっている。子までなした男女二人の拉致邦人が、その手紙から二ヶ月後の同日に死んでいたなんて、あまりに、むごい。
2002 9・19 14
* 芹沢光治良作「死者との対話」に登場し、人間魚雷回天で死ぬ学生と友人であったという方から、秘話と思える、興味深いお手紙を戴いた。編集者として大きい存在であった方である。
回天は爆死でなく、戦闘練習中の事故で浮上できなかったという。戦後に引き上げられた艇から手記が発見されたとも。学生と師である芹沢さんとの間には、微妙な時局観の差があった。志願して人間魚雷回天に搭乗するような純真無垢にして秀才ゆえのひたむきな学徒兵の行動と、軍や戦争に対して批判的な平和主義者の芹沢さんと、には。そういう差異を超えて「死者との対話」は書かれていた。
* 今度の本には五つの講演録を入れたが、「私の私」「蛇と公園」「心は、頼れるか」「知識人の言葉と責任」の四つに、均等して共感の言葉が寄せられてくる。残る一つの「マスコミと文学」に関連しては、NHKが関心を寄せてきてくれるようだ。おそらくディジタルな著作権に関連しての取材があるだろう。
講演というところでつなぎ目はありながら、前回の「なよたけのかぐやひめ」と今回の「私の私。知識人の言葉責任他」は、変り映えして、新鮮に受け取られているようだ。
2002 9・20 14
* 文学的には尊敬するが、政治・思想的には「とまどいを禁じ得ません」と、新しい湖の本をみて、高校時代の同期生から手紙が来た。講演「私の私」とか跋文「私語の刻」とかがひっかかったのかも知れない。「心」を振り回す識者への嫌悪感をあらわにした講演「心は、頼れるか」もそうかもしれない。
そもそもわたしは、誰の眼にも世間を狭く暮らしている、超級の少数派であるから、同様に感じている人はさぞ多かろうと思っている。
2002 9・21 14
* 『湖の本』エッセイ25をありがとうございました。今回は「公や国や社会や歴史や制度に向かって、まっすぐ、強く発言している」ものを選んだと「私語の刻」にありましたけれど、まさに時機を得たご出版と思いました。
「私の私」高校生相手とは思えない、いや、高校生だからこそ敏感に感じ取ってもらえるという内容なのかもしれません。最後に高校生との質疑応答が載っていますが、これが高校生かと思わせるほどの質問内容で、こういう高校生を前に講演できた秦さんは幸せだったなと思います。
この中で私が一番感動したのは「外」の章です。短歌結社や歌壇を例に出して、「外」の人間に歌壇内部のことは判るはずがないという非難に対し、痛烈に逆批判していますが、これは、いわゆる詩壇にも通じる話で、詩壇の内外という観念を捨てないかぎり詩の復権はあり得ないと感じました。
「マスコミと文学」1986年というと、私がPC8001かPC8801を扱っていた頃で、やっとオーディオテープに記録したワープロプログラムで文書を書いていた時期ですから、一般に「電子の本」で出てくるはるか前のことで、現在の電子本の時代から見ると、確かに隔世の感がありますけれど、マスコミの本質は変っていないなと思います。
中に、泉鏡花の固定読者が500人だったという話が出てきますね。これには正直なところ驚きました。何万、何十万と売れる本がある現在を考えると、信じられない数字ですが、案外そんなものなのかもしれません。詩集なんて500部も売れば立派な方です。そうか、500人を相手にすればいいのかと変な安心感も覚えました。
「蛇と公園」は夏目漱石の「心」の読み方が圧巻と思います。作品の裏にある登場人物の年齢を、時代背景から解明し、その視点から作品を読み直すという実証的な手法に圧倒されます。そこから従来言われている作品鑑賞とは違う、深い感動が発生しました。読書とは何かまで考えさせられる講演録と思います。
「心は、頼れるか」は、「からだ言葉・こころ言葉」に言及し、ここでも漱石の「心」を引用して、心とは何かを解き明かしていますが、漱石に即して言えば「静かな心」が究極ではないか、それが主人公の奥さん「静」の名にも表出しているという視点は示唆に富んでいると思います。
「知識人の言葉と責任」は、講演なさることを私も知っていました。しかし内容までは知りませんでしたから、どんな話だったかと興味津々でした。
日本ペンクラブ電子文藝館にも載せた芹沢光治良の「死者との対話」を中心に話していて、人間魚雷回天で特攻に向う青年に、時の西田哲学が「死の覚悟」すらも伝えられなかったと続きますが、本質は知識人と国民と乖離でしょうか。国民を無学の者と見る知識人と、知識人を何の解決も示せない者と見る国民。この乖離は現代にも通じていて、根の深い問題です。その根のひとつに前出「私と私」の〝外〟の意識があると私は感じました。
* 懇篤に読んでさり有り難い。ま、タイミングを少し考えて、今、だなと思った。話すように書いて読んでもらうと、難しそうな議論が、ただ耳で聴くよりも、またただ文章語で読むよりも、よく通るらしいのは、おもしろい。
2002 9・21 14
* 東大名誉教授福田歓一氏、前の西洋美術館館長高階秀爾氏から、講演集、とくに「知識人の言葉と責任」「蛇と公園」に関して、佳いお手紙を戴いた。
福田さんは、先日の大久保房男さんとおなじく、「死者との対話」に登場の学生と友人であられ、強烈に亡き人を思い出されたという。懇切なおたよりてあった。高階さんは草田男や六林男俳句を通して、わたしの小説「冬祭り」にまで及び、これまた親切を極めていた。感謝。
2002 9・24 14
* お変わりございませんか。湖の本をご送付いただき、ありがとうございました。毎回どのような作品を読ませていただけるか、とても楽しみなのですが、今回の講演集も読みごたえのある充実した一冊でございました。今の時期にこの内容のご本を出された理由を、ひしひしと感じておりました。
「知識人の言葉と責任」は私語の刻でも読ませていただいておりましたが、「私の私」とともに、政治性のある力強いメッセージを受けとめました。愛する日本の国への、心底からの憂いと批判に、震えるようでした。
「マスコミと文学」のなかの、「文学」が文学らしくあればあるほど、ひょっとして「マス・セール」とは縁を持ちたくても持てない疎遠なものを本来抱き込んでいるのかも知れない、という一文に、先生の姿勢の一端がうかがえました。先生はご自身を少数派に属するとお考えですが、まさに文学者が多数派に属することなどあり得ない話のように思います。世の中の大多数が好むと好まざるとにかかわらず、富と権力につかえるように動いているのに、真実の芸術家は一途に精神の自由につかえるのですから、孤独は宿命のようなものかもしれません。しかし、だからこそ多くの、私のようなどっちつかずの平凡な人間は、芸術家に熱い尊敬と憧れと共感を抱くのです。どうぞ今のまま、この世界の深さと美しさを思う存分自由に強く生きていかれますことを。
話はかわりますが、以前先生にお話した母の本が仕上がりました。近いうちにお送りさせていただきたく存じます。
9月に入りましてからも、相変わらず気の滅入るニュースばかり、その上急に涼しくなりまして、風邪をひいているかたが増えています。どうぞお身体大切にお過ごしくださいませ。
うっすらと悲しみがはりついてどうしようもないとき、私は澄んだ秋風のなかでお気に入りの一冊に読み耽る、夢見心地のようなバレエのビデオに酔う、モーツァルトの恋の音楽を涙ながらに聴く、この季節ならではの栗のお菓子、栗蒸し羊羹やモンブランの濃厚な甘さを味わう、そんなことで、ささやかな幸せを取り戻しています。
* メールを下さるのは、言うまでもないわたしではない別の人であるが、ホームページの訪問客には、何処のどなたの文章とは分からぬまま転載させてもらうと、その内容が、そのままわたし自身の日々の生活に加わって、わたし一人では思い及ばないひろがりや厚みや楽しみに展開する。わたしは、そういうことを、いつも考えている。わたし自身にも「うっすらと悲しみがはりついてどうしようもないとき」がある。だがわたし自身は本に読みふけることはあっても「夢見心地のようなバレエのビデオに酔う、モーツァルトの恋の音楽を涙ながらに聴く、この季節ならではの栗のお菓子、栗蒸し羊羹やモンブランの濃厚な甘さを味わう」わけではない。だが、それをこう書きうつしてみると、わたしの日々にそれが加わって、加わったものがそのまま読者のほうへ展開する。こういうメールの人とも話し合っているわたしの日々が立ち現れる。わたしの言葉とわたしの行動だけでは漏れ落ちてしまうものが、わたしに付け加わって、生き始めるのだ。自分のことだけを書いている日記では、こういう膨らみが出ない。小説という文学には、今謂う是に近い機能がある。だから読んでいて体験が増したように感じる。
わたしの脚は二本しかなく、動ける範囲は知れている。わたしの言葉もそうである。行為もそうである。思いもそうである。この「私語」のなかに他者の言葉や行為が追加されながら、それもまたわたしの言葉や行為に連なってくると、少なくもわたしは、わたし自身ではなかったわたしを、わたしに対し付け加えられる。これもまたコンピュータやインターネットの働きであるだろう。
2002 9・24 14
* 今度の講演集は、予想以上に力強い支持を得ている。こういうのは危ないかなあと思わぬではなかったけれど、案外に、まともな支持や評価や注文を受けている。もっとも、それが文壇人からではないところが面白い。文壇外の錚々たる人から手紙が来る。またそういう読者達から来る。
東工大の元の学生達にはけっこう幅広く送ってみた。彼等は文系の本には弱いからもともとアテにしにくいが、有り難いことに継続して購読してくれる人がずいぶん多く固定してきた。助けられている。ダメな人はてんでダメだけど。
2002 9・25 14
或る大学の図書館から、湖の本の既刊分を「全冊」揃えて送るようにと注文が入り、明日は荷造りをしなければ。素人にはこれが容易でないが、有り難い。売れるのは嬉しいが、それ以上に「必要」として注文の来るのが嬉しい。年老いてゆくいつの日か、在庫のぜんぶ無くなる日が来て欲しい。家が狭い。
2002 9・28 14
* 拝啓 ますますお元気なご様子心強いばかりです。『私の私・知識人の言葉と責任』かたじけなく拝受早速読ませていただきました。どの講演でもつねに変らぬ貴兄の凛とした心の姿勢がうかがえ、文字通り心打たれました。文藝評論家にせよ研究者にせよ仲間内の言葉ジャーゴンを連らねて事足れりとしている始末 (これは日本ばかりのことではありません)。小生も、世を、ことに人を憂えています。たぶん貴兄とはちがって私は「大衆」というものを信じていません。御礼まで 匆々
* もう久しく文通のある、敬愛する或る名誉教授のお手紙である。適当なことを言うような人ではない。そしてこの手紙では、最後の、「大衆」というものを自分は信じていないと言われる点に、一つの問題が呈されている。
信じる信じないはひとまず措くとして、どうしようもないほどの「大衆」のあることを、むろん識っている。付和雷同し暴徒としても凶徒としてもいささかも恥じなきものになれる人達がいる。老若男女を問わずである。否定は出来ない。こういう「大衆」の判断や言動を「信じられず」思うことでは、わたしも例外ではない。
だが、それも一概には謂えない。餅は餅屋のような、凄みのきいた個別の措信の芯を、どんな人も抱いていないではない。政治的な判断はボロボロでも、人情あつく、正直な大衆もいる。とても及ばないと頭を垂れてしまう自然人もいる。
それに、こういうことが、ある。
もし判断を求めるなら、人は、概して、大衆に限らず知識人であろうとも、単に習慣に従っているだけでしかもそれに気付かず、概ね他者の判断を待って自身では決断出来ないという人が、あまりに多いのである。いや、実のところそういう人ばかりで、人の世の中は出来ている。
人は、自身に問うてみるべきである、自分はおおかた単に過去来の習慣に従って身を処してきただけでは無かろうか、自分は自分から事を決断して怖れることなく生きて来たろうか、と。さよう、そう問うてみるべきだろう。そのような問いの前には、実は「大衆」も「知識人」も差はないようなものだと、すぐ分かる。
* とは言え、同時に、健全で中正で「信じる」に足る多くの「大衆」の在ることをも、わたしは信じている。なみの「知識人」よりも人間としてバランスのとれた、屈強で自然な知者が「大衆」として現存している。もし知識人なるものが、そういう信ずるに足る「大衆」と別に在るのだと思うているなら、そんな思いは歪んでいる。良き「知識人」とは、そういう信ずるに足る「大衆」のゆるやかな核となり、内側から牽引車の役をしなければならないだろう、いや、望ましい知識人とは、今謂うこの良き「大衆」に溶け込んだ存在として、その「大衆」の輪と和とを内側から押し広げうる人達でありたいと思う。
あまり信じにくい「大衆」をして、少しでも自身信じるに足る「大衆」に誘い込めるだけの度量が、必要と思う。
わたしは、自分が知識人ではないなどとラチもない卑下や謙遜で責任逃れはしたくないし、自分はだから「大衆」ではない別物であるとも全く考えない。少なくも「大衆」にいろいろある事実に、わたしはむしろ希望を置いている。わたしが大衆なのである。
2002 10・2 15
* 長い間、湖の本の新刊原稿はプリントで入稿していた。それをディスクで入れるようにしてから、製作日数は著しく短縮。入稿してしまうと校了までかなり早い。入稿の用意がいちばん気重な肩の凝る作業となり、じっとしているとずるずる遅れる。一番の作業が、ま、一冊分のスキャンと校正になる。すこし危機感に襲われ、とにかくも今日はそのスキャンに取りかかり、一気に八十枚ほどをスキャナーにかけた。一冊必要量の半分ほど用意でき、残りのまた半分ほどはディスクでの用意が既にある。
2002 10・6 15
* 朝の内に、湖の本新刊分を、一太郎のファイルで入稿した。機械の便利さにアタマがさがるが、さて、またこの機械が多くの厄介をも「人」社会にもたらすのだから難しい。 2002 10・10 15
* 七時半になり、空腹。美しい人のいる店に行って、お銚子を三本と佳い肴、静かなテーブルにひろげて、湖の本の校正ゲラをゆっくり、たっぷり、読んだ。仕事をしている間は放って置いてくれるし、このところ家の中に機械は動いていても仕事机の無いも同然なとき、大きなゲラをひろげて読める机つきの酒の席は有り難い。ときどきお酌に来てくれる。それで、けっこう。他に望みは何もない。料理がうまければいい。
2002 10・25 15
* 秦先生 ずいぶんとご無沙汰をしているように思います。
前回の「湖の本」を頂いて、その中の「私の私」を読み始めてから、何か書かなくては、と言う思いをずうっと持っていましたが、なかなか時間が許さず、こんなに日が経ってしまいました。
何より、私の“読み”違いがあるかもしれないと思いつつ、また、先生と私との根本的な認識は同じである、という思いを持ちつつ、私の考えた事を、淡々と書いてみました。
ご批判、ご意見があるのは重々承知しておりますが、私の考えも先生にご理解頂きたいと思いメールにて送付致します。
* 以下は一読に値する、本質への議論をふくんだ一石である。筆者は国家公務員とだけ紹介しておく。理解の便があろうから。いろんな場所で、世代をこえ立場をこえて、議論の弾むことが望まれる。
* 私の私について
最初、私は、先生の講演録を読んだ際、「私の私」の前後の“私”の区別を明確に認識できなかった。だから、文脈自体に違和感を覚えた。「私」という言葉を使われている文章を読むと、「何か違うんじゃないか」という感覚。でも、その周辺を読み進むと、私の心にスッと入ってくる。「私の私」の前後の“私”の区別が明確に、自分の心の中に定まっていないから、でしょう。今でも、はっきりしません。この文章中でも、こんがらがってしまうかも知れませんが、お許し下さい。
この際、過去がどうであったかは、また別の話として議論すれば良いとするならば、私は「公」と「私」との関係を、そんなにキッチリと対峙するものとして認識はしていませんでした。
言われるとおり、「公」は「私」無くしてはありえないから、「私」が集まった者が「公」であると思っているから、「公」と「私」をそんなに分け隔てて思考しなければならない理由が、私には思い当たらない。
もっと言えば、「公」と「私」を別のものとして考えれば考えるほど、「公」に対する批判が高まるのは、当然と言えば当然。でも、「公」は実は“私”が作り出しているものだという認識を、もっと私達は持たなくてはいけないのではないのでしょうか。
“私”と書いたのは、「私の私」の前の「私」と後の「私」のどちらななのか、自分でもはっきりと判別が付かないから。
だから、「私」の充実は「公」の充実でもあり、「公」の充実は「私」の充実でもあると思います。
日本は「公」は豊かだけれど、「私」は豊かではないのでしょうか。私は全然そうは思いません。日本の「公」の豊かさは、本当の意味での豊かさには、ほど遠いのではないでしょうか。何が、と言われると、明確には答えられませんが。「私」もまた同じでしょう。つまり、日本は、いずれにしてもまだまだ豊かさにはほど遠いのではないでしょうか。
私は、今が(あるいは、これからが)、転換期では? と思っています。
「公」と「私」を対峙するものとして、一部の特権階級のみが「私」に「公」の衣をかぶせて、あたかも「私」の無い「公」かのように振る舞ってきた過去があるのは事実でしょう。しかし、今は「私」はいつでも「公」の一員であり(それが民主主義だと先生も書かれています)、だからこそ、「私」の誰もが「公」に対する責任を負うべきだと思います。
少しづつ、「公」と「私」の境は、本来無いものだという認識が、広がってきている様に思います。世界は、グローバル化していると同時に、住民参加の地域密着型の積極的な活動が至る所で息吹始めています。何が「公」で、何が「私」かという事を意識しながら、この様な様々なレベルの行政活動に参加していくことが出来るほど、私は適応能力は高くありません。恐らく、私には、全てが一様であると思い、全てに同等の責任感を持って、対処するしか無い、と思っています。
「外」と「内」についても、同じような事を思いました。どちらが「外」で、どちらが「内」かという議論ほど、むなしいものは無い、と私は考えます。どんなに頑張って日本の「外」と「内」を議論したところで、国際社会から見れば、そんな事はどうでも良い話。常に、動いている世の中を考えれば、いつかは地球自体を「内」として認識しなければ、生きていけない日が来るかも知れませんしね。
誤解を恐れずに言えば、やはり、10年以上前に話された内容だと言うことでしょう。 最近の「公」と「私」の関係は、否、一時代前の一部特権階級としての「公」の存在は、確実に縮小していると思います。また、『「私」の無い「公」など存在しないんだ』という「私」の存在は、確実に拡大していると思います。
2002 10・28 15
* 日一日と忙しくなっているだろうに、佳いメールをもらって喜んでいます。「私の私」に関して、これはあなたから何か一言なくちぁと、暗に期待し願っていましたよ。ありがとう。いろんな意見が練り上げられるといいなと、新たな期待もかけています。
晴と褻というでしょ。公と私とは、必ずしも国家・政府・官庁との関わりだけでなく、例えば普通のサラリーマンには、会社と家庭といったのも公・私の別でしょうね。「家庭」すら構成員の一人一人に対しては「公的」に働くのは誰しも覚えがあります。
いま拉致被害者は、銘々の「私」の上に、家庭や、家族会や自治体や、外務省や、政府や、さらには北朝鮮国家という「公」を、こもごも圧倒的な重圧として対決しているのだろうなと、想像を絶した同情を禁じ得ません。しかも、彼等一人一人の「私」に、どう「公」が役に立つのかを、いま、公は試されてもいる。今日からの日朝交渉はひとり政府だけの仕事ではないと思っています。その意味ではこのわたしもまた「日本人」という一つの「公」的存在として、この拉致問題に、ある責任も持って関与しているというべきでしょう。
「私の私」と、講演上、曖昧な日本語であえて重ねてものを言ったのは、「趣向」でもありました、が、英語で言い分けるとどうなりますか、ね、分かりよいかもね。
公・私と向き合わせたときの「私」は、むろん個人である自分の意味つまり「一人称のわたし・僕・俺=自分」のことではありません。公的性格に向き合う私的性格。万人がともに分かち持っている現実の基盤です。これに比べると、公は、一種の契約・約束により成り立った、かなり観念的で抽象的な「機関」のようですね。
アイヌのように国家や政府といった「公」を持たなかった民族もありました、そしてそれは彼等を「強い・安定した存在」にはしなかった、不幸にして。
「公」は「私」が創りだした機能であり、その機能の「預かり手」が、そのまま自分自身を「公そのもの」と錯覚するときに、常に社会的不正義が生じてくる危険にさらされます。
過去と現在 歴史的に批評し、今の公・私が、昔の公・私とを「比較してどうこう」だけでなく、「現在只今の公・私」は、これはこれで「幸せな良き均衡を真実得ているかどうか」の批評へと、直進もしなければなりません。さ、その評価はどうかと、そこが「問題点」になりそうですね。
よく考えてみましょう。
予算前でたいへんなんでしょう。息抜きがしたくなったら、いつでも声を掛けて下さい。
* 秦先生 早速のご返事ありがとうございます。
先生の言われる事、その通りだと思います。公は私が創り出した機能でしかありません。公は、人間が複数集まれば、何かしら、創り出さざるを得ない機能では無いか、とまで思います。そういう意味で言えば、「家族」という形態も、一種「公的」なものなのでは無いかとも思います。
今の公・私は、幸せな良き均衡を得ているのかどうか。難しいですね。こういったものは「相対的」にしかありえず、あるいは、相対的に考えた方が理解し易いのですが、私自身にとってどうなのか、「絶対的な」感覚を持たないと、強い意志となって、外に表現することは難しいとも思います。が、少なくとも、今の私には、未だ「絶対的な」ものとして、公・私を捉える事は難しいようです。
年末までは、バタバタした日が続きます。また、落ち着いたらご連絡致します。
* 「公務員」氏の「公・私」論、早速一読しました。この論調でいいのだろうか、それも踏まえ、感想をまとめ、早めにレスポンスしたいと思います。
* これも、卒業生。いろんな意見が出て欲しい。
2002 10・29 15
* 新しい「湖の本」発送への準備は、順調にスタート。去年の暮れは、誕生日が過ぎても仕事が残って歳末はてんやわんやであった。今年は、きれいに締めくくってゆきたい。
2002 11・10 15
* 刊行した「湖の本」新刊講演集『私の私・知識人の言葉と責任他』への、ドカーンと響くような言説が、メールで届いた。ちなみにこの講演集の内容は、「私の私」「マスコミと文学」「蛇と公園」「心は、頼れるか」「知識人の言葉と責任」の五つを収めている。
東工大の教室で、「アイサツ」という形式でわたしと「対話」していたのを記憶している諸君は、銘々の生活の場で、少し、この新たな起稿者に付き合って欲しい。ものすごいまで忙しくしている中で、こう腰を据えてアイサツを返してくれた人に、感謝します。
* さきに、この「闇に言い置く 私語の刻」に、「私の私」を題材にした感想・意見が書かれていました。
それに関連して、返答ないし感想を、私も、講演集『私の私・知識人の言葉と責任他』を題材にし、書きたいと思います。
「湖の本エッセイ25」は講演録集ということもあってか、秦先生の編集能力が遺憾なく発揮されている一冊となっている、と感じました。
これは私が自身の「表現活動」において、表現としての「編集」を発見したことによるのかもしれません。例えば制度に対する講演録を編むということ自体も、編集であるばかりでなく、五つの講演を集めながら内の二つをタイトルに用い、また、「私の私」のみに質疑応答が収めてあることにおいても、表現の場に触れた明白な編集意思を感じます。新しい小説やエッセイを創るのと同等の創造行為に類するものだと確信しています。「編集」に関するこの上の考えはまたの機会に譲るとして、少なくもこの「編集を読み」落とすと、この本に埋め込まれた大きな流れを読み落とすような気がします。
「私の私」は「3部+質疑応答」という構成をとっています。これは重要なことだと思います。「手」があり、「私」があり、「外」が話の展開をします。そして「黒い影」の話が、ポンッと投出されたまま終わります。そのあとへ、この講演録でのみ聴衆(高校生)との質疑応答が載せらたことによって、より具体的に秦先生の思いが語られます。
まず、第一印象から述べます。
さきの「投稿」での「私の私」に関する議論で、私は、あの「仮面」のことを思い出しました。
大学の頃、秦先生の教室で、「仮面」について問われ、それへのアイサツに、「私は仮面をかぶっていない」と書きました。あれから十年経て、「仮面」に対する自分の考えは変わりました。
私は、仮面をかぶっています。仮面をかぶらない私は存在しない、という考えになりました。つまり、「仮面をかぶっている私」という考え方が暗に前提している「仮面をかぶってない素のままの私」なんてものは、いないのではないかと今では考えているのです。
これは、「仮面をかぶっていない私」と謂うのと、同じようでいて、まったく違うところに自分が来たな、という感想を持ちます。「仮面をかぶってない素のままの私」が全ての状況に対処していく・いけるという考えと、それぞれの環境・状況に対して、それぞれの私=「仮面をかぶっている私」が対処していくというアプローチでは、180度違からです。この考え方をすると、現実に起こる事象には統一性があるわけではないので、環境(時間・空間)の差異によって、秦先生の言葉に借りて言えば、”位置取り””立ち位置”により対処が変わり、一個の私の中に矛盾が生じます。しかしこれは避けられない現実、もしくは受け入れるべき現実、なのではないでしょうか。
(離れた議論になるので突っ込みませんが、この「現実」と「受け入れ方」によって、多様性が生まれてくると思います。)
このような「仮面」に対する考え方から、「私」とは、矛盾を常にはらんでいる「曖昧な全体」を形成しているものなのではないか、そういう「おぼろげな全体が一個人なのではないか」と感じ始めています。
例えば関係を距離と大小によって切り分けたとします。
「対他の関係の大小」によって曖昧な「私」の形は、関係の強くある方向の一部は大きく成長し、逆に関係の小さなところは収縮していきます。そのような、他の世界との距離の取り方で、出っ張りや引っ込みが作られます。そのような関係の中で生ずる「私」の中の矛盾は、矛盾する要素同士で距離を取ろうとするでしょう。それによって対他・対自関係の両面によって、異常なほど不思議な全体が作られるでしょう。
イメージで謂うと「こんぺいとう」のような突起のある不定形な全体というか、アメーバのように全体の形を変えるものです。その変形した形を「仮面」と感じることがあるのだと思います。
こういった考えを下敷きに、前提に、「私の私」を考えてみると、(前のメールで説かれていたような)「私」の延長上に「公、つまり私の私」が存在するという考え方は、適当でない、のではないかと感じます。
逆に、最奥にある「私」、譬えて謂うなら、玉ねぎの皮をむききった中に残る芯としての私=「仮面をかぶってない素のままの私」、と「公」を対(つい)にして考えることも可能で妥当ではありましょうが、その対概念は、「私」が持っている「関係」の中の一つであると考えたい。
先述したように、集団の中の私は、集団という錯綜する「関係」の中に置かれます。当然その中での自分の位置取り、立ち位置は重要なものとなります。これは「単体」として在る時の私にはまったくありえない状況です。これを考えただけでも、単純に、私の集団化による公は、私の欲望の先にあるとはいえないでしょう。
つまり、他の何者も措いて、「私だけ」があるという考え方に対し一番違和感を感じるのは、「私」に対する絶対的な信頼です。つまり、対概念として公と私を考えるときに、「そんなことはないんだ、私だけがあるんだ」というのは、私を単純化しすぎていて、問題を曖昧にしているのではないかと感じるのです。
重要だと感じるのは、先ほど書いたような、アメーバのように伸びちじみする「私」が、どのようにして対他(対多)関係を作っていき、単体のアメーバとして「私」を束ねていけるのか、ということだと感じます。
絶対的な「私」に信頼を置くより、相対的に変化している「私」に関心を集中しておいくことが、より正確な「関係」を造ることができると思うし、正確な「私」像を把握できるのではないでしょうか。そのとき初めて、豊かな「私」が作り出されていくのではないか、と考えます。
次に「外」に関して考えてみましょう。
「私」に関して先のように考えるこの私は、どんな人間関係においても線を引くことは好きではありません。アメーバのように変化する境界という意味でのみ、「線」はあるべきだと考えるからです。
しかし、一方で、私も、好むと好まざるとにかかわらず「線」を引き・また引かれてしまう場合が、多々あります。線を引くとは、すなわち、こちらとあちらを作り、内と外を形成することです。これは単体としての私だけを考えていたのでは理解できない事柄でしょう。さらには私(内部を持っている実体としての「私」を仮定すれば、特に)といった瞬間に「わたし」と「あなた」を切り分ける線を引いていることになっているのかもしれません。とすれば、好むと好まざるとにかかわらず、自分が直接的に関与するかはともかく、内と外とに線を引いているのです、現実に。そういうことが一つの「手」として存在する社会的ともいえる「つながり」の中に、「私たち」はいます。
ここでそれは、私の「手」ではない、私は「まっ黒い影」にはならないと言っただけでは済まされません。
つまり、私はいつのまにか、どちらかに「据えられている」のです。このどうしようもない事実に「意識」を据えなければならないのではないでしょうか。講演「知識人の言葉と責任」て使われている「知識階級」なるものを形成する(してしまう)人々は、特によく深く意識せねばなりません。知識階級の歩んだ道のりによって、いろいろな形で不可効力的に「線」は引かれてしまっている、引いてしまっている可能性が高いからです。
「線」は、様々な方法で引かれてしまいます。地形というわかりやすい方法もあれば、言葉という見えない境界によるものもあります。ですから、空間(物的空間・言語空間など)が作り出す世界、すなわち観念が形成する世界には、「世界の境界」には充分に十分な、過度なほどの注意が必要です。
最後に「黒い影」に関して。
「私の私」において、「手」「私」「外」という流れと、ある意味独立した形で、黒い「影」が存在していると思います。それは「手」「私」「外」という考えから生み出される得体の知れない恐怖として描かれている気がしてなりません。内と外とを作りだしてしまう「線を引く手」があり、それを引く力を「黒い影」が象徴している、と感じます。逆からいえば、手によって「私」が不用意に「線」を引き、不用意に「内と外」を作り出し、「外」の世界の暴走を見て見ぬフリをすることが、或る恐ろしい「黒い影」を育てることだと、語っているようです。
ここで象徴的だと感じるのは、「黒い影」が実体を持たない「影」として表現されてあることです。実体を持たないがゆえに「得体の知れない力」となって常に「私」に覆い被さってくるように感じます。その「影」はしかし、存在します。内と外という切り分けを飛び越えて、全ての「私=人=市民」の上に得体の知れぬ「力」を圧のように行使します。しかも、それは決して、いいえ容易には、誰にも掴み取れないモノのように。少しややこしく謂いますが、つまりこの「黒い影」は、内外を引き裂く線引きの結果に生まれてきてしまう、線を飛び越えてしまう見知らぬ「第三の存在(領域)」といえるのではないでしょうか。
外の世界の暴走による「得体の知れない第三の存在」を、どうすれば、作り出さずにいることができるのでしょうか。現実を見回してみると、実はこのような「黒い影」は、常に私たちの周りを徘徊しているのではないか、と恐怖感を覚えます。すでに、そういう切迫した状態におり、さらに加速させる社会へ走りだしているような気がしてなりません。
とても怖いです、この影が。
引かれてしまう「線、内・外」をどのように「無化」できるのか、そういう方法、見方を開発していく努力をしていかなければならないと感じています。その解の一つが、「仮面」との関係において書いたような、線を引かずに自分自身を常に変形させていくことなのではないか、と思います。それが「私の私」を、より認識し、線引きを無化する=私を大きくしていく方法のような気がするのです。
以上、思いだけが先行し、まとまりのない文章となっていかと思いますが、私の思いをつづりました。さらなる意見をいただければ光栄です。
* わたしが、東工大で、学生諸君に三万五千枚ものアイサツを書きに書かせたのは、彼等の内側から自分の「言葉と思い」とを自然に引っ張り出すためであったが、その趣旨は、良く生きた。さもなければ、だれがそんな厖大な手記を書き続けるものか。
上野千鶴子さんの本によると、東大の学生達のレポートを読んでいると、自分が講義した内容の巧みな「要約」ばっかりで、自分の言葉で自分の考えを書いてくる者の皆無に近いのに、驚いただけでなく怒り心頭に発して、何時間か、教壇から学生達に「吠えた」と書かれている。上野さんとは立場も違ったが、わたしが、「文学概論」といった講義をするひまに、学生諸君に書かせ書かせまた書かせ、さらに詩歌の虫食いを埋めさせ、さらに文学の機微を彼等のお得意な「論証」という誘惑で鑑賞させたのは、学生達が、引き出しかた次第では、蜘蛛が糸を吐くように自分の「思いと言葉」を見つけだすに違いないと確信していたからである。要は、引き出し方なのである。大学の先生方は、多くこういう方角から学生を誘発することに手薄、気乗り薄だと、わたしは感じていた。先生方から学生への信頼も薄かった、概して。
どっちみち、高校を出てきて、成人したかしないかの学部の学生たちである、が、何の、彼等はすでにして「研究者に準じた」自負と、知性をもっていた。それが言葉で綴られてたとえ幼稚で未熟であったとて、それ自体は問題でない。要領のいいそらぞらしいオウム返しでしか者が言えない書けないより、はるかにイイのである。
* 今日のこの「十年後」の元学生君が、社会人としての現場から投げ返してきた言葉が、たとえどうであろうとも、こういうふうに考えを纏められるのは、それはもう、すばらしいことである。会社に同居している大勢をみてごらんなさい、仕事から離れての言葉を、こう一心に紡げるなんて人は、なかなかいるものでない。田中耕一さんのようにノーベル賞を取るかどうかは別としても、こういう人達が、自分の言葉と思いと、願わくは今ひとつ行動とで、世の中を支えていってくれる。そう、頼りにしたい。
わたしもまた、この提言に応じてアイサツが返せるように考えてみたい。
* 人のサイトから引くのは気もひけるが、こういう「言葉」を紡いでいる人もいる、闇の奥へ。そこからひとすくい掌に受けてきたこういう文章も、紹介したい。
* (前略)少し迷ったがダウンジャケットを着た。部屋を出て階段を下り駐車場を横切る。思っていたよりも風が冷たく、空は相変わらず暗い。角を一つ曲がり、二つ曲がったところで白い何かがふわふわと降りてくる。
雪だ。足が止まる。11月上旬東京都心。通り過ぎる見知らぬ女性が「鳩の糞かと思った」とつぶやく。雪は1分ほどで止んだ。雲は高速で流され、ジャケットの胸元を結ばれた水滴が滑り降りてゆく。
もしかして、と私は思う。「生」とは、こういうことではないか。それは静かに天から降りてきて、刹那確かに存在し、そして跡形もなく消える。立ち会ったひとの記憶には残るが、それも新しい記憶によって葬られる。その場にいなかったひとにとっては聞き流すだけの物語。
すべての用事を済ませ帰路に着く頃にはすでに晴れた晩秋の夕方。東の空に拭き忘れたような雲が残っていた。帰宅しテレビで見た気象情報では、初雪は北関東で観測されただけだった。
2002 11・10 15
* あすは一人。妻は息子と芝居に。わたしは湖の本責了への校正など、も。
2002 11・13 15
* 思えば今年はもみぢを一度もそれらしく眺めていない。今日も、その気なら出て行きやすい日であったのに、終日、湖の本の校了のために机にいた。一人で昼飯もめんどうなので、出入りの寿司屋に出前を頼みついでに酒も運んでもらって、喰いかつ呑んで、仕事をしていた。黒いマゴがそばでお相伴していた。
2002 11・14 15
* 湖の本は責了紙を送った。
2002 11・15 15
* 電メ研、人数が少なかったけれど、目的は果たせた。帰路、少し食事に落ち着き、預かっている原稿二本の出がけにプリントして持っていたのを、ゆっくり読んだ。一つは小説、一つはエッセイ。良く書けていた。安心して読めた。もう一度吟味して、「e-文庫・湖」にもらいたい。さしあたりは本発送の準備作業をし遂げておかねば。
2002 11・15 15
* 『からだ言葉こころ言葉』 実に愉快なひとときを満喫させていただきました。著者ご自身もさぞかし楽しんでお書きになったにちがいない、そんな気配がいきいきと伝わってきます。それにしても「からだ」と「こころ」を故郷として成熟した文字どおりの熟語のなんという豊かさか、あらためて日本語の美しいエスプリに感銘をおぼえました。
* ハムレットやリア王の訳者に頂戴した。わたしより、少し年輩の英文学者である。もう一人、わたしより少し若い国文学研究者にも、こんな挨拶を戴いている。
* 拝啓 秋を飛び越して一気に冬になったような昨今ですが、お変わりなく御健勝のことと存じます。
先般来、「湖の本」エッセイ二十五、『からだ言葉・こころ言葉』をつぎつぎにお送りいただきながら、御礼状も差し上げず失礼をかさねております。
実は、御礼をかねて小生の書きましたものをお送り申し上げようと、その出来上がりを待っておりましたら、刊行の日付に大幅に遅れて出たりしたもので、今日に至ってしまいました。不精、怠慢のほど、何卒ご容赦下さい。
「湖の本」の「知識人の言葉と責任」、襟を正して拝読いたしました。お恥ずかしいことに、「芹沢光治良」の名は知れども、『死者との対話』なる作品はその存在すら知りませんでした。
そこに指摘されている西田哲学、さらにらは哲学研究への懐疑は私自身学生時代に、西田哲学の後継者田辺元の著作を多少かじりました経験からも、まさしくその通り、よくぞ言われたりと感動いたしました。
そして、その論旨は私たち文学部の教員が現在直面している卑近な問題に対しても、光明であり、心強い援軍でもあります。と申しますのは、哲学研究(の一部であることをきたいしますが)には、今日なおその弊害あり、哲学者仲間にだけ通用する生硬な言葉で語って事足れりとし、ほとんどの学生から見放されている、という現状があります。「考える」という意味での哲学の重要性を認めるのに人後に落ちる者ではありませんが、多くの哲学研究者が文学部をつまらなくしている事実は、文学部関係者のほぼ一致した認識ではないでしょうか。『死者との対話』を、哲学研究者に薦めなければなりません。
同封の拙文二篇のうち、とくに御批正を仰ぎたいのは、『伊勢物語』の方です。そのような読み方は許されるでしょうか。読みの名人秦先生の御意見を是非とも拝聴したいと念じております。
はなはだ時期を失しておりますが、御礼と御報告まで一言申しあげます。 敬具
* じつは、趣旨においてかなり通じる内容の、やはりある大学教授からの手紙を、さきごろ貰っていた。もっと激しく書かれ、慨嘆されていた。さきの手紙では哲学研究者と書かれているが、つまりわたしの謂う「哲学学」者の意味であろう。わたしが学んできた美学藝術学もまた哲学研究科の一支学であり、遺憾なことに、まったく同じ弊をいまなお引きずっている。
つい最近、岩波文庫でハイデッガーの『存在と時間』という世界的に名著とされ時代を変えたとすら評された哲学書にまた挑戦してみようと思った、だが、桑木某氏の翻訳された日本語に、わたしは吹き出しこそすれ、何の感銘も与えられそうになかった。こういう本は原書で読む方がまだしも読みよいことを、院のころ、カントの『判断力批判』にわたしはつくづく実感した。翻訳は無理。しかし日本語で書かれる日本の哲学学者の哲学は、もう少し琴線に触れてきてくれないものか。なんだか、われわれのような読者には分かって貰って堪るかというような尊大さを、多くの哲学や美学の論文に感じてきたし、最も残念なのは、学生がその悪しき伝統を模倣して得意を感じてしまうことなのである。あやうくわたしも、そこへ陥るところであったが、きわどく気付いて、哲学はやめ小説や短歌の表現に人生の軌道を修正した。
いまも母校の研究室から届く紀要を観ることがあるが、哲学学的に晦渋な論文のやっぱり多いことにおそれをなす。そういうことからすると、梅原猛さんの行き方はユニークである。ただし、最近の新聞エッセイなど、かなり雑駁な普通の「評論」ではないかと、物足りない。ああいう「哲学」の行き方であるなら、より一層、たとえ二三枚の原稿であれ、底光りのする感銘と真理のひらめきをみごとな言葉で見せて貰いたい。
* ところで「伊勢物語」について突きつけられたアイサツは相当に手強い。「是非とも拝聴したい」とはパンチなみの先制ジャブで、えらいプレッシャー。ま、ゆっくり物語を読み直してからのことにしたい。弱気である。楽しみでもある。
2002 11・20 15
* 幸いに、十時前には「湖の本」新刊が届いた。落ち着いて午後の講演に出て行ける。 2002 11・30 15
* あすから「湖の本エッセイ26」を発送し、今年を締めくくりたい、はやく。せめて一泊二泊でも、どこかへ冬の旅が出来たらいいのに。
2002 11・30 15
* 終日、本の荷造り。中途、風邪気味ですこしきつかった。晩は、ビートタケシの「BROTHER」という映画を観たが、何なんだ、あれは。むりやりリクツをつけてホメあげる連中が、いるのだろうか。
夕方に「ちいさな留学生」というルポルタージュをみたが、これには感動した。帳素という名の中国少女が、父母と一緒に二年間八王子に暮らした間の小学校生活を主に描いたモノだが、対象を追い続けるカメラの女性の愛ある意欲が良く伝わった。
2002 12・1 15
* ほぼ九割九分まで「湖の本エッセイ26」の発送を終えた。まるで祝って戴くように読者から純米の清酒を二升贈ってもらった。晩に、片口にとりわけて頂戴したが、総身に沁みるほどうまかった。木の片口に二杯、正味で二合ほどを、あっというまに吸うようにのみほした。清水のように、喉の奥まで澄んで光る気がする。感謝、感謝。
いまその人から、こんな、お心づかいも有り難い、嬉しいメールが届いた。谷崎先生もお口にされたお酒であろうか、身のわきから、わたしをいつもぐいと見据えておいでの写真にも、一杯差し上げたい。
2002 12・3 15
* 雨上がり 身内といっていいひとと、まねきの下で待ち合わせ、遅い昼食ののち、タクシーで清閑寺へ。
ドアが開いた瞬間、あぁ!と、ふたりとも、深い息を吐いた、浄(す)んだ空気。いいところですね…。雨が上がるとともに、温順だった日が、僅かずつ冷え込んでゆく夕まぐれ。
子安塔から茶わん坂、八坂の塔、圓徳院、そして真っ暗に暮れた参道の、大谷祖廟。
近鉄特急が丹波橋に停まるようになって、四条へは、とても便利になったンですよ。
ご本、届きました。ありがとうございます。お疲れが出ませんように。
* 清閑寺とは。あんなに懐かしいところは、いかに私でも、そうそうない。紅葉。御陵。阿弥陀ヶ峰。馬町。「冬祭り」へすうっと帰って行ける。「修羅」の一編にも書いた。
* 「湖」のご本、いただきました。ありがとうございます。
ひらいた一ページ目に、先日、お話くださった『伊勢物語』八十九段の登場人物の一人、藤原良房の名。この人をそういう役割を果たした人物として見る目が、わたくしには缺けていたと、どきっとする思いでございました。
「女文化」ということばに、『女文化の終焉』をおもいだしたりしながら、「平安女文化の素質」を読みました。
「女」に傾き「女」に身を寄せ「女」のもて遊びとして「男」が創意したもの……
平安の「女文化」とは男の掌の上で女の一切が開花した文化の意味である。
こうしたお考え、おことばに、息をのむ思いでございます。そして、その男たちの在りよう、そういう男たちに囲まれていた女たちの在りようを、さまざまおもいみて、かのときのかの女、かの男をおもうて、とりとめのないことでございます。
これから、おいしいお菓子を惜しみ惜しみいただくように、何度目かの「春は、あけぼの」を、たのしませていただきます。新たな発見、感動に逢うことでございましょう。
『伊勢物語』八十九段も、もっとよくかんがえてみとうございますし、小侍従も見ていただけるようにしたいと、こころばかりは急くのですけれど。
今、ゆらゆらとゆれました。とどこか遠くで地震かも知れません。柱に懸けてある明珍の火箸が涼しい音に鳴っています。
2002 12・5 15
* メールがたくさん。
* 昨日、「湖の本」エッセイ26の『春は、あけぼの・桐壺と中君』を受け取りました。ありがとうございます。本日、送金の予定です。
さて、このほどようやく吉岡実に関する「吉岡実の詩の世界」というサイトを開設いたしました。
http://members.jcom.home.ne.jp/ikoba/
「湖の本」の営為からは、いつも無言の鞭撻を(勝手ながら)感じておりますので、こうしたご報告ができるのも晴れがましい心持ちがいたします。
吉岡実さんの業績は、(全詩集は出たものの)全集が出ておらず、全貌が把握しにくいのが現状です。本サイトが「本文のない全集」といったものにでもなっていれば本望なのですが。
とりいそぎ、御礼とご報告を認めました。ますますのご活躍をお祈り申し上げます。
* 若い友で研究者である小林一郎氏の、心入れ深いサイトの公開、注目されますように。吉岡実はわたくしにも思い出のある優れた詩人であった。
* 一昨日、湖の本が届きました。春はあけぼの、ああ何と懐かしいと、思いました。
枕草子のNHKのカセットは昔買い求めて時折聴いていますので、今回のように文字になったものを改めて読むと、また違った印象を受けています。テープは九本ですから、もしそれを全部本にしたら、どれほどの長さになるのでしょうね。今回の本の続編で全部を活字化されたら、また面白いのではないでしょうか?!
あの頃、本屋で注文して、何本ほどのテープかも、値段の確認もしていなかったので・・受け取りにいった時、近所の本屋さんが、高くて済みませんねと言ったことを、何故か鮮明に覚えています。確か2万円近かった。十分に楽しみ、何回も聴きましたから・・決して高いことはありませんでした。いくらか声が高く感じられるのは、録音というので幾分緊張されていたのか、或いは声の若さでしょうか、録音技術なのでしょうか?
「桐壷と中宮」は光源氏の系譜の正統の・・と非常に深い記述だと思います。血統、血筋、最近の言葉で言えば遺伝子やDNAということになり・・生みの母明石の上の存在の意味もまた問われなければならないでしょうが・・。
以前書いたことがありますが、わたしは朧月夜の内侍と宇治の中君が女としては好きです。朧月夜の華やかさや強さ?は自分にないものだから憧れ、中君は現実感覚も情感もたっぷりある智恵ある女性だから好きです。紫の上は理想的に描かれすぎて・・そして彼女は本当に幸せだったかと問えば、必ずしもそうではなかったと思えます。
今し方此処まで読みながら、暖かな今日の一日を楽しんでいます。
殆ど家に篭っていますので、昨日は思い立って映画を見に行きました。「ハリーポッター」水曜日のレデイースデイで千円で見られるのです。なんで女性だけ割り引くのと、これは逆差別だよ・・・若い子、男性がぼやいていましたっけ。
とても評判になった本で、本屋には山ほど積まれていますが、本はまだ読んでいません。本を読んでから映画を見るとガッカリすることが99パーセントですので。久しぶりに映画館で見るのは、画面の大きさも音響効果も、それなりに大いに、単純に楽しめました。が、書きたいことは・・・ハリーポッターが闘う怪物は、蜘、最終的には蛇、そしてその闘いに彼を誘いこみ、彼を利用して自分を生き返らせ「支配」しようとするのは過去の「亡霊、記憶」だということです。またしても蛇が登場するのは、さもあらんとあなたが意を得たりというところでしょう。
珍しく婦人雑誌も買ってみました。新年の記事が満載されています、意気込んで精いっぱい正月を迎える準備もしてみたいなど、ガラにもないことを考えたりしています。
本に挟まれた紙に書かれていた「文生於情」は心して現在のわたしの姿勢としていきたいと思います。本当に大切な言葉です。
目、肩、腕、大切に。心臓も、糖尿も気を付けて。大切に。
* 間に合いました。 明後日 早朝のバスで成田に向かい、老母と伯母とイタリアにいる娘を含め、9日間の女ばかり5人の家族旅行に出かけます。明日の朝までに終わる予定の旅の準備に「湖の本」が間に合いました。もちろん冬のプラハ ウィーンを、「湖の本」と共に旅してまいります。欧州の旧い街歩きと音楽に浸る日々、嫁ぐ娘が企画し、手配してくれたプレゼントを心行くまで楽しんできます。
* そして、もう三十数年も逢わない、医学書院時代の親しい友であった人が、今は山形の医療保健の大学で副学長をしているという、懐かしいメールも届いた。朋あり、まことに遠方より電子の声が届いてきた。なんと嬉しいことであろう。
2002 12・5 15
* この師走、ほんものの「師走」になろうとしている。からださえ保つなら楽しいことだが。
* 師走の街は華やいでいて心浮き立ちます。先日銀座を歩いていて嬉しい買物を二つしました。
一つは未読だった先生のご本です。あるデパートの前で行なわれていた青空古本市で見つけました。先生のご本は見つけたらかならず買うことにしていますし、初めて手にする『東工大「作家」教授の幸福』でしたので、喜んで購入いたしました。(新刊『からだ言葉・こころ言葉』はアマゾンで注文しています。)先生の小説を読んで文藝の至福を味わうというのとは少し趣を異にするご本ですが、私はとても愉しみました。
先生が優秀な編集者でいらしたことは容易に想像できますが、教育という分野におかれましても(中略)学生を見る目の温かさに胸うたれました。
自分の経験に照らすと、大学で先生方に教えていただいたことの意味がほんとうにわかるのは、卒業して何年も経ってからです。先生のご指導を受けた学生さんたちの心のなかは、年を重ねるごとに先生の言葉がじんわり滲みていくにちがいありません。
また、このご本は個人的にも大変懐かしさをおぼえました。私が学生時代に知っていた多くの東工大の友人たちの学生気質のようなものが、今でもあまり変化していないような気がいたしました。
二つ目の買物は伝説の名歌手の一枚のCDです。ヴンダーリヒというテノール歌手の名前は、今では知る人ぞ知る名前になってしまったかもしれません。生きていれば先生より少し年上という人ですが、三十六歳の若さで酔っぱらって階段を踏みはずして亡くなってしまったので、活躍したのは十年間だけのことでした。
ヴンダーリヒが死んだときには「時代がわたしたちにプレゼントしてくれた最高のテノール」を失ったと世界で嘆き悲しまれたそうです。私は小さな子供でしたので演奏を聴いた記憶はなく、母などから噂を聞くばかりでした。それが偶然昔の録音を現代の技術で復刻したCDを見つけました。
シューマンの「詩人の恋」を満足する演奏で聴くことはめったにないのですが、酔いしれてしまいました。バスやバリトンの声では絶対に味わえない、極上のテノールならではの心がとろけるようなやさしさ、蜜がしたたり落ちるような甘さに溢れています。しかもヴンダーリヒはドイツリートにかかせない、精神性、文学性もそなえていて、「一瞬の好機」で夭折してしまったことがほんとうに惜しまれる歌手です。
あまりお金を使わないで豊かな買物をして幸せに浸っておりましたところ、待望していました湖の本を頂戴しました。今回も読みごたえのある何ともおいしそうなご本で、なるべくゆっくり少しずつ味わいたいと願いつつ、きっと仕事を忘れて読み耽ってしまうでしょう。(中略)先生が京都という日本文化の要の街にお育ちになったのは決して偶然ではなく、神さまの特別のはからいだったとしか思えません。今回のご本も、やはり血のなかに京都を抱えた先生ならではの文藝の冴えと重厚な古典批評が堪能できますことでしょう。
あとがきに紹介されていました日本ペンクラブの「電子文藝館」については、おこがましいのですが、日本人の一人として、その素晴らしいお仕事に対して厚く御礼申し上げたいと存じます。そして、先生の地道な活動をお助けの奥さまにも心から感謝申し上げたく思います。
先生は文壇とか政府とかメディアの関心などというものを気にかけてはいらっしゃらないでしょう。しかし、これほど日本文化に貢献する有意義なお仕事が、ただ先生お一人の超人的読書量に支えられ、無報酬で、大々的に宣伝されることもなく行なわれていることに、私は愕然としてしまいます。
昨今の日本は、文化的なものの正しい評価がまるで出来ない嘆かわしい国になりました。小沢征爾がどんなに望んでも日本の音楽界に戻ってこられなかった、その一事をもってしても明白です。
しかし、チャップリンが映画で「時は偉大な作家である。常に正しい結末を書き記す」と言いましたように、後世の人は「ペン電子文藝館」に恩恵を受け、それが一人の文学者の独力でなされたことに深く頭をたれるにちがいありません。しつこいようですが、心からありがとうございますと申し上げます。
そして最後にわがままな愛読者としての希望を申し上げることをお許しください。
先生は以前の「私語の刻」に「しびれるような女の小説が書きたい、その方へと帰りたい。なにがいいといって、やっぱり女にいちばん心惹かれる。いい女を創りあげてみたい」と書かれていました。先生の頭のなかにあるいくつものストーリーをお一人だけでお愉しみにならず、新しい「しびれるような女の小説」を少しだけでも読ませてくださいますように。
久しぶりに先生にメールを書きまして何とも長くなってしまいました。駄文を読まれて目がお疲れになりましたら、ほんとうに申しわけなくひたすらお詫び申し上げます。
この冬はインフルエンザが大流行するとの予測もございます。どうかご無理をなさらず、お身体お大切に奥さまと静かな年末をお過ごしくださることをお祈りしております。
* あんまり恐縮な箇所を途中少し外させて貰った、それは私一人でひそかに頂戴しておく。「一瞬の好機」とある一句は、わたしが昔、そのように「死」を迎えたいと書いていたのをこの人は記憶されていたのだろう。いろいろ褒めて貰って言うのではないが、非常にレベルの高い「読み手」であり、また「書き手」でもある。こういう人たちとの全国的な数多い出逢いをもたらしただけでも、「湖の本」は心行く仕事になった。幸せであった。
おりしも必要あって「慈子」を読み返しているときなので、この慫慂は有り難くも心につよく響いてくる。「書きたい、書かずにいられないというのはやはり我執が、欲望が原動力にあること。しかし、その行き方だけでなく、淡々と受け止めて書かず語らずの境地もあるということ。書くという表現行為は、書かないという表現行為にいわば敬意を払わなければいけないということ。(死の間際まで)静かに読書していた妻を見るにつけ、自分ならどうしただろうと想像し、やはり書いている私を思い浮かべていました」と、いうメールを先日貰ったとき、この一節にわたしは静かに佇んでいた。そして「書く」ことを、思っていた。
2002 12・7 15
* こんばんは。そちらもお寒いことと存じます。
「湖の本」の新刊、ありがとうございました。少し前に届いていましたが、秦さんのパソコンの復旧してから連絡、と思っていました。ゆっくり読ませていただきます。振込は、近いうちにいたします。
討入りもまだなのに、今日は大雪ですね。昨日のうちにスタッドレスタイヤを買っておくべきでした。明日の朝、道路が凍っているかもしれないと考えると、憂鬱になります。勤務先は、かなり遠いので。
泉鏡花を読んでいた高校生の頃、雪の嬉しくて仕方のなかったことを想い出します。駅まで歩く傘の中で、落ちて来るひとひらの向こうに、鏡花の描いた金沢の積雪を望んでは、足跡を残すのがもったいなくなったりして。
「古今独歩の美しい幻想境を歩む一方、愛憎の念と共に日本の虚栄虚飾社会に批評の視線を鋭く刺し込」んでいると読み得る、体験も学習も、持っていませんでした。美男美女ばかり登場する物語に、ただあこがれていたのです。
今は、天守に棲み、そこからも追われた彼らのことを想います。「龍潭譚」を、また読みます。
佳いお年をお迎えください。
* 雪というと、二つのことを反射的に思い出す。一つは徒然草のなかで、ある雪の日、なにかを消息したさきの女から雪のことに一言もふれていないような情けない人の言うことがきけますかと、兼好サンやられていた。もう一つは、雪の話なんかしないで、雪なんて嫌い、こりごりよと嘆いた富山育ちの看護婦サンのこと。一概なことは言えないのだ、人の世は、と教わった。鏡花が北国の雪を本音ではどう眺めたり思い出したりしていたか、すぐには思い出せないが、雪景色は美しく書いている。鏡花が急に読みたくなった。「由縁の女」なんかが。
2002 12・9 15
* 湖の本26 読み始めるとやめられない面白さ、清少納言書記役説には説得力充分、確かにより理解が届きます。源氏の、二条院、六条院の筋にしても然り。すっきりと楽しく教えられました。
* 枕草子のところを読みました。平安時代のあのような女サロンのことなど、目からウロコ、とはこういうことかと思いました。
* 『春は、あけぼの』を拝読し、枕草子の成立ちの妙、サロンの情況までが楽しく想像できました。定子のサロンを構成する気品と教養を備えた女房たちが、遊戯を超えてその才智を競い、火花を散らせたのではないでしょうか。
定子の出題に対して、女房たちが創造力豊かに発したことばを積み上げ、批評し、または割愛し、最後に清少納言が執筆編集したものとして、あらためて枕草子を読み直したいと思います。
* たくさんなお手紙を戴いている。メールも、また払い込みのカードにも書き込まれてくる。著者冥利である。
2002 12・11 15