ぜんぶ秦恒平文学の話

湖の本 2004年

 

* 湖の本、味わいつつ拝読しております。長くなりますが、拝読しつつ思った雑感を書かせて頂きます。お時間のある時にでもお読み流し下さい。

四谷怪談の「岩」と「花」。

先生の解釈に膝を打つ思いでした。

歌舞伎好きの割に四谷怪談は見たことがなく、あの話の主人公が「お岩」と「お花」であると知ったのは本で読んだ時でしたが、その時に、日本人の考える女性の典型例はやはり「岩」と「花」に大別されるんだなぁ、と、実は、古事記を思い浮かべていたのです。

木花咲耶姫は、私の大好きな登場人物で、(これは恐らく女としてちやほやされ損ねてきた人生の裏返しだろうと思うのですが)子どもの名前を考えたとき、なんとかこの中の字を盛り込めないか、と悩んだこともあります。

「さく」の部分が「咲」の他に「開」「佐久」と、本によっていろいろありますが、開子と書いて「さきこ」と読ませようか・・・など。

結局、字画を少し気にしてこれは諦めて「*子」となりました。(三年経つのに子どもの名前はお伝えしていなかった気がします。)これは字画がよかったことの他に、字の雰囲気が気に入ったこと、そして山本周五郎の小説にこの名の凛とした武家の令嬢が登場した記憶があること、などがありました。

そして、子どもが生まれて暫くして、暇つぶしにもう一度、同じような作業で字を探していた時、期せずして同じ字画で気に入った字を見つけました。なぜ、名付ける時に見つけなかったのか不思議ですが、もしそのときに見つけていたらどちらを採用するか相当に迷っていたでしょう。

ですが、長女を名付ける時に「*子」しか目に入らなかったことを考えると、この子は最初から「*絢子」と名付けられるべく生まれてきたのだな、と少しばかり運命論者な思いがしました。

もう一つ見つけた名前は「*子」です。

実は、この二つの字を気に入った自分というものに、ふと「やっぱりな」とかすかに苦笑するものがあります。

覚えていらっしゃるでしょうか、私が日本の染めや織りをやりたくて高分子を志したこと。結局、染めや織りそのものではなく、それらの近傍で有機質文化財を扱う身ですが、底流に流れているのは、たおやかな有機的文化を生んだ日本への思いです。

有機物と無機物の違いは、炭素と酸素と水素と窒素が主体なのが有機物で・・・などと先生のアタマをくらくらさせるのはやめましょう。

端的に言えば、燃やして二酸化炭素と水蒸気になってしまうようなものが有機物です。石とか焼き物とか宝石とかの類いは無機物です。

有機物とは名の通りで、使われる元素が限られているため、物質の性質を決めるのが「その中でどのよう元素が組織(結合)されているか」に左右されますが、無機物の方は、様々な元素を持つものがあり、「どのような元素で作られているか」がその性質上、ある程度重要になります。

海外へ行くたびに、特にヨーロッパへ行く度に、街を歩いている時、私は妙に息苦しくなります。

なぜだろう、なぜだろう、と思ってきたのですが、ふと先日思い当たりました。街が無機質でできているのです。向こうは石の文化圏です。煉瓦、大理石など、街を構成するのがひたすらに石です。すべてがフィックスし、積み上げたものは崩れません。ゆえに、論理の積み上げもでき、科学も発展し、キリスト教が契約の概念で、と、これは既にあちこちで言われている文化論ですね。

ただ、私としては、自分としては息苦しくなるほど無機物的文化に対して違和感があるのだ、という発見が重要でした。

私の日本への思いは、不可分に有機物を専攻したことに結びついていたのです。

ここで冒頭の話に戻ります。

私は木花咲耶姫が子どもの頃から大好きなのです。

仲のよい先輩に*屋さん=鉱物学出身の人がおりますが、彼から冗談まじりに「有機物は劣化するからいや!」と言われる度に「変わっていくから面白いの」と言い返します。彼は星を見るのが趣味で、顔料(要するに鉱物です)について彼の右に出るものはいません。彼とは日本への深い愛が共通している癖に、彼は「変わらないもの」が好きです。

私にとって、花-有機物-日本、は同一線上に乗っているため、あれほど日本文化を愛している先輩が、岩-無機物-日本、というラインを作っているのを面白く思っています。一度ゆっくりこの点を語り合いたいな、と思っていますが。

そう、天孫に木花咲耶姫と岩長姫を対でめあわせようとした父神オオヤマツミは、この世が有機物と無機物で構成されていることを示していたのだと思います。

そして私は木花咲耶姫が好きなのです。意外にも彼女の芯は強く、タフに一人で子どもを産むなどするあたりも私が気に入っている所以です。

有機物は意外に丈夫なんですよ、日本の木造建造物、よく残っているではないですか。古い文書も。

そして有機的日本に思い入れのある私は、期せずして子どもの名前に「*子」と「*子」を選んでいました。

まだわからないのですが、今秋あたりもう一人の「*子」の顔を見られるかもしれません。

寒さがまだまだ厳しい折り、先生もどうぞお体を大切に。

 

* こういう嬉しいメールが一番に届いていると、ほうっと顔がほころぶ。いいおめでたの重なりますように。底荷の豊かな知性だということが、よく分かる。航海のやすらかさは、豊かな舟の底荷がきめてくる。

2004 1・10 28

 

 

*「本文」要再校の用意は出来た。跋文だけは京都から帰って入稿する。京都女子駅伝は好きな見物の一つ。京の風光がきらきら伝わってくる。見ながら聞きながら少し面倒な作業を仕上げた。

2004 1・11 28

 

 

* きちんと湖の本の初校ゲラも返送した。

2004 1・12 28

 

 

* こんばんは 秦さま。御挨拶のお手紙も差し上げないで、勝手に(お酒を)お送り致しまして、失礼致しました。

ご丁重なお言葉、かえって恥ずかしく思います。本当に色々とお気遣い感謝しております。

そして、お送り戴いたご本は、今はエッセイを拝読しております。文藝館のほうは「清経入水」のような夢幻的な雰囲気が。私は好きです。

「慈子」は、拝読中です。独特な、奥深い情緒がじわじわと辺りに漂う感じで、騒がしい日常生活から遊離し浮遊しながら、不思議にも、自分自身を顧みるという感情が湧きます。どうしてでしょう。

いままで、好みのままに乱読して参りました。それが、すうーっと、浄化されるような、浄められて落ち着くような、妙な表現ですが、新たな世界に身を置いている気分になります。「慈子」を読み進む内に、詩においても、何かが生まれたらという期待も持たせられる、面白い現象を体験させて戴いております。ありがとうございます。

また、(ペンの)例会にはまだ出席したことはございません。なんとなく、遠慮する気持ちがあります。でも、秦さんともお会いして、お礼も申し上げたいし、お話もお聞きしたいしで、都合がつけば、初めて出席してみようかしらと思っております。

ぐんとお寒い日々が続きますね。くれぐれも御身御大切に、お風邪など召さずにお元気で。お医者様に行かれたとメールにございましたので。これからも、よろしくお願い申し上げます。  品川区

2004 1・23 28

 

 

*「秦テルヲの魔界浄土」を「講演録 3」に収録した。スライドをつかっているので、文字だけでは分かりにくいところも有ろうけれど、大体、とおるだろうと思う。

2004 1・27 28

 

 

* 朝一番に、京都の星野画廊から、秦テルヲの絵が届いた。湖の本のあとがきゲラも来た。

2004 1・28 28

 

 

* あすはまた歯医者。あすの帰りは、どこへ向かおうか。校正をもって出るので、落ち着いて明るい店を見つけたい。あたたかいといい、風邪はひきたくない。

五日には、久しぶりの電メ研が茅場町で、三時から五時。帰りにはクラブへまわれる。

2004 1・28 28

 

 

* 本日「初恋」頂戴致しました。

「墨牡丹」息つく間なく読ませて頂きました。「国画創作協会」はあのような形で立ち上っていったのですね。文展に抗う発起人の中に秦先生も連座しておられるような情熱・息吹を感じつつ読みました。どの頁も画家の画か゜眼裏に浮かび楽しゅうございました。麦僊の「春」に心揺らす佳子夫人、評する華岳。次々とドラマを見せてもらい、小花さん、相良成子の哀切の人生も華岳の筆に生きて画に映されているのを知りました。何必館も何度か訪ね、一昨年は知人が「鉄齋堂に華岳の観音さんが゛出ているから拝みに行きましょう」と誘ってくれて、手を合わせる想いで拝見して来ました。終生、初心を貫く華岳の姿勢とその悩みは六甲の山並の墨の色かとも思います。

終章、波光との対話の中、秦テルヲの悲しみも読み取れて同情しました。改めて秦テルヲ図録を読み返し、最後まで、武田五一教授、中井教授、波光、華岳、紫峰さんが推されているのを知り、秦テルヲの藝術の力を知りました。誠に多才、京洛帖、畑之婆の闊歩の有様目に残ります。絵日記も驚きです。

秦先生のこと友人に申しましたら、その人先生のフアンでして、早速「慈子」とNo42「丹波」を届けてくれまして、先生の生いたちの記も拝読させて頂きました。

寒波が居座っているようですが、ガラス越しの日射しは明るく、先生のお書き下さいました「春在枝頭」を感じつつ、お作を読ませて頂くことの幸せを感謝して居ります。  本当に有難うございました。

時節柄 御自愛遊しますように。  かしこ     京都市深草

 

* 先日の講演会場で声をかけられ「墨牡丹」上下巻を注文され、ひきつづき「畜生塚・初恋」の注文もあった。不況にも煽られて悪戦苦闘の「湖の本」にこうして新たな読者との出逢いがあると、嬉しい。わたしには宣伝の手段もないので、こういうお便りを借用するのも、一人でも二人でも自分も読んでみようかと思ってくださる人と出会いたいからである。

2004 1・30 28

 

 

*「古典愛読」下巻校了の用意は出来た。明日にも凸版印刷に送れるが、それに伴って進行してなくてはならない作業が、一日半、ほど遅れている。帯同して進めていないと、本が出来てきたとき送れる用意が完備していないことになる。今夜は、左奧の歯も浮いて痛み始め、少ししんどいけれど、映画を聴きながら、出来るところまで追いかけたい。

2004 2・3 29

 

 

* 背の高い脚の長いケリー・マクギリスの「危険な女」を聴きながら、やっとナ行の読者まで、発送のアイサツ書きを終えた。堪えて、ジリジリと前進するしかない。

真夜中、バグワンを読み、「総角」巻を読み進み、それからまた機械の前に来て、米田利昭の「子規の従軍」を校正し、業者に送った。今日は眼がかすんで、今は芯まで痛い。二時半。寝に行こう。

2004 2・8 29

 

 

* 余裕があるかなと期待したが、無いわけではないが、二十日の本の出来に滑り込むようにして発送の用意が出来そう。土曜に家に客があり、日曜に式能を見に行き、月曜は理事会と例会、火曜は木挽町の楽しみがある。用意に宛てうる日はもう四日分しかなく、四日あれば出来る分の作業量が残っている。うまくすると、うち一日原稿を読みにまた出歩けるだろうか。この世間、所詮あしもとのない虚仮の綱渡り。

2004 2・10 29

 

 

* 野の人の長編批評を抄録でなくやはり全編残そうと、スキャンした。校正しなくては。瀧田樗陰の原稿も読んだ。面白い。だがプリントの状態はかなりひどい。スキャン出来るだろうか、ムリのように思う。ウーム。

湖の本の方は、一つの段階に達したが、あす半日、その補充が必要。そして封筒にハンコを押し、宛名をはり、宛名を確かめながら、必要なものを差し込んでおかねばならない。それから、また大学の研究室その他に大して同じ作業を繰り返さねばならない。あと四日のこっている。一日も手をぬくことは出来ない。まだ眠れない。

2004 2・11 29

 

 

* 発送用の封筒に住所印を捺す。今夜にはそれを終えておきたい。明日は理事会のあと、懇親会もある。理事会では五人の新会員を推薦する。電子文藝館の新委員を独り追加申請する。親睦の例会では新井満氏が話すらしい、最近評判だった外国の詩一編にふれて。

そして明後日は、木挽町に一日籠もる。

水曜木曜で、宛名の貼り込みその他用意の仕上げをする。これがかなりシンドイ仕事。金曜二十日には新しい本が出来てくる。次週水曜頃まで作業をひきずるだろう。その間の月曜二十三日には、「ペン電子文藝館」の委員会が、三時から兜町のペン本館で。早めに家を出て、昼頃からまた少しでもどこかで原稿を読もうと思う。

2004 2・15 29

 

 

* 好天が続く。ふりあおぐ青空と白い雲。流れる風の音。まひかりの心地よいまぶしさ。ことしの冬は、天気に恵まれている。いちばん寒い頃なのに、この数日、温かい。

 

* 今日明日は、封筒に宛名を貼ったりいろんな仕上げの用事で。連絡によれば、明後二十日の午前中に間違いなく搬入される。と、即座に発送に取り組む。

2004 2・18 29

 

 

* かろうじて、滑り込みで作業は概ね済んだ。明日の午ごろから新しい本が送り出せる。

2004 2・19 29

 

 

* 本の出来てくる直前は、何とも言えず胸苦しい。本の顔をみて荷造りを始めるまで、落ち着かない。

2004 2・19 29

 

 

* 朝九時に新刊の本が届く。例より三時間ほどはやい到着で、仰天。けれど、この早く始められる作業時間分は、恵みでもある。仕事がはかどる。

2004 2・20 29

 

 

* 朝の十時に始めて、夜の十一時きっかりに今日の仕事をやめた。途中、昼食時にメールで文藝館等の用件を捌いた。昼食も夕食も簡単に。 妻は、疲れてしまい、もうやすんでいる。

 

*  作業の傍で、昼間は映画「ベン・ハー」のビデオが英語で流れていた。聴いたりちらちら見たりして、単調な作業能率をあげていた。

明日も同じような一日になり、はかどるにつれ少しずつ疲労が加わるけれど、気分は軽くなる。

2004 2・20 29

 

 

* よほど片づいて、先が見えた。ありがたい。今夜に荷造りしたものは、明日が日曜で郵送できないが、荷造りだけ済ませておく。「ペン電子文藝館」の出稿が三人四人と溜まっている。みな来週以降の仕事になる。

晩にも、しっかり作業して、幸いに、ほぼ終えた。三時間早く届いただけで、めざましい能率だった。それだけ疲れたけれども。昨日の発送分、もう届いている先もある。これで二月末週三月初週がラクになった。

2004 2・21 29

 

 

* 土曜日の贈り物  ポストを開けると湖の本 届いていました。

明日は休日。これから早速読ませていただきます。こころ豊かに過ごせる週末をお送りいただき、ありがとうございます。  神奈川県

2004 2・21 29

 

 

* 湖の本いただきました。読み始めたばかりですが、濃厚で素晴らしい文藝のお仕事です。(私はホメ殺しなどしません。ホメ殺されるようなそんなヤワな方ではありませんし、私は当然のことを言っているだけのこと。)

……良い文学、良い藝術、すぐれた思想とは、結局のところ、自身をただ被害者の立場に置くだけでなくて、あらゆる意味で自身を加害者の立場に曝し、その罪責を敢て負担する痛苦に耐え抜く意志を、根とも幹ともしている文学、藝術、思想なのだと思う。

身に痛く読みました。私にもせめてそう志すくらいの力があればと切に願います。

 

* 夜に入って風つよく雨も降っている。春の嵐。それも自然、それも受け容れねば。

 

* 「蕪村」の句にふれて。  「湖の本」拝受。 画、絵の世界に例えれば 「一本の道」のように、文章の清明を感じます。色んな「話題と意見と感動」を読ませて頂いております。 ありがとうございました。

2004 2・22 29

 

 

*『湖の本エッセイ31』拝受いたしました。ありがとうございます。

さっそく巻末の「私語の刻」から拝読。

図書館と著作者に関するご意見をうかがい、作家にも、三田(誠広)氏のような意見ばかりでなく、「読者」の視点から図書館問題を考えている方がいることを知って、ホッとするとともに、秦さんのご意見に意を強くした次第です。

日頃の編集業務が学術専門書や大学教科書なので、文藝作家の方とおつき合いすることがなく、日本文藝家協会と日本ペンクラブの活動を混同することしょっちゅうです。

ただ、編集者として、知識の流通にかかわる中で、著作はいずれ「公共財」となっていくべきものと思っています。

出版人の中で、図書館を敵とする見方が横行しており、その傾向を恥じています。

私が新人の頃は、編集者仲間が呑んでいる席で、「売れる売れない」などと話題にできるような雰囲気ではありませんでした。

ところが今は、貧すれば鈍するとはよく言ったもので、出版不況が続く中で、編集者が集まれば、話すことの中心は本の売れ行きです。

 

*「公共財」とはつまり「パブリックドメイン」のこと。わたしは、著作は、或る段階からパブリックドメインとして国民的に愛蔵されて良いと早くから考えており、アメリカのように、ある種の特定企業と国家財政とが結託した形で、異様なまでに没後著作権保護の期間が延長される傾向に、完全に反対意見をもっている。日本での五十年の現行規定、十二分ではなかろうか。

こういうご意見が、出版の一角から届いてくることに、わたしは、意をつよくしている。

2004 2・23 29

 

 

* 昨日、朝は深い霧、そして、夜は一夜はげしい風でした。夢の中にも風が音を立てていました。

「湖の本」をありがとうございました。失礼ながら、ベッドに持ちこんで拝読いたしました。「古典独歩」を、まず。

わたくしの愛読書のひとつ、先生の『秋萩帖』を読んでいるときの、迷路を辿る、陶酔? にも似た感覚をおもいながら、「秋萩帖の道風」をたのしみました。作家の工房を、ほんのすこし(たぶん)、帷のひまから見せていただいたような。

床に入ったのが、三時過ぎ、さすがに目がくたびれていて、ゆうべは「大輔さん」だけにいたしました。

今日、東京へのバスの中での読書に、このご本を持ってまいります。『和漢朗詠集』は、小侍従を読むにあたって、よく、ひらいた一冊でございました。 外は、まだ、風の音がしています。

 

*「湖の本」エッセイ(31)古典愛読(下)他、落手いたしました。本書を中公新書で読ませていただいたのは、まだ在職中で、女性ばかりの「古典の会」に黒一点として参加していた時でした。今はもう故人であるご指導の先生と、奈良大和路や京都を現地学習で訪問した多くの思い出が甦ってきます。

大阪の友人に贈っていただいた「死なせて・死なれて」と併せて4千円を振り込ませて頂きます。お世話になりました。大阪の友人も、49日の法要を済ませて、少しづつ日常のペースを取り戻している様子です。3月には上阪の用事があり一年ぶりに逢う予定です。

くれぐれもご自愛下さい。   香川県

2004 2・23 29

 

 

* 今を生きる  新しい古典「拾遺」のご本ありがとうございます。

昨夜、久しぶりにロビン・ウイリアムス主演の「今を生きる」(原題は:DEAD POETS SOCIETY=死せる詩人の会)を観ました。だいぶ重たげな話なので、「グッドウイル・ハンティング」の方が好きなのですが、生徒に、ポエムを質量で数式評価する陳腐な教科書を破り棄てさせ、古典文藝・演劇の本当の楽しみを身をもって教えていくシーンは、秦さまになぜかダブります。

力強く繰り返す言葉は「今を生きよ」(Seize the day)。「青春短歌大学」もそうですが、「断絶平家」に書かれた「乾いた読み」への対極のまなざしには、秦世界へと奥深くいざなわれます。古典のなりたちと伝わり方に思いをはせ、今を生きる、今を楽しむ自分の観賞の道こそが大事なのですね、あらためて。『今昔物語集』を説教本(談義本)と喝破されましたが、この通りかと。

秦さん、ほんとによきものをたくさん書いてこられましたね。ありがとうございます。 東京都

 

* 拝復:湖の本、拝受致しました。さすがですね。新聞社の仕事はかなりきつい日ではありましたが、喫煙を兼ねて暇をつくり、秦先生の本を味わいました。

一言、勉強になりました。

まだ3分の1程度ですが、凄い分析、思索を経た上での流麗な文章にはこころより感服致しました。私には先生のような素晴らしい文体は当面できそうにありません。

代金振込みました。

また、エッセイ一覧を見ていましたら秘色(ひそく)・三輪山がありました。これを購入致します。

実は大神神社に27日に一泊で家内と詣でることを決めたところでした。やはり、渡来系名門の秦さんですね。楽しみにしています。   大阪府

 

* あいかわらず、よどみにうかぶうたかたです。盲亀の浮木でもありますが。付け馬も大事な用向き、数時間待たされて利息のごく一部しかとれないこともあります。生活がかかっていますので今しばらく辛抱、辛抱。

先日、久しぶりに、東大史料編纂所へ行きました。仁和寺記録精写本の閲覧が目的でしたが、「群書類従」も役に立ちました。中学生のころ、父に案内され国学院近くの「塙保己一記念館」を見学した記憶がよみがえってきました。めしいの検校の強記こそ成し得た奇跡としか言いようがありません。学恩深く、春まぢか。

父が晩年、癌をも和す気持ちで一気に書き下ろした唯一の小説に、私がモデルで登場します。仮名は太平(ヨミはオオヒラでなく、タヘイ?)。作中、宣長の養子を擬したことは後に知りました。いま、宣長が晩年近くまで端座し書き続けた端正な稿本を見ていると目頭があつくなります。

最近は、あいかわらず、お宝さがし、謎解きをララバイとしております。ま、胡散臭い、まねごとばかりですが。いただいた新しいご本のあとがきにある「事は小さいが人の眼には、狂を発して奔走している」がいたく共感しえました。ありがとうございます。私は花粉での眼は大丈夫ですが、ときおり目頭や顔がかゆくなります。お大事に。いずれ拝眉の上。   多摩

2004 2・24 29

 

 

* 雪嵐の後に、湖の本届きました。

まず、私語の刻を読み、ぱらぱらと頁を繰るうちに目に留まった「竹芝寺跡不審」を楽しんでおります。坂東の風に直柄(ひたえ)のひさごが靡いて揺れて、酒壺にふれ、乾いた音がコン! と鳴るなどと思いだして。

「リッチとフェイマス」のお話、「研究」にもそのまま当てはまります。

ちょうど昨日面白い催しがありまして。広告代理店、ベンチャービジネスコンサルタント、弁理士、マスコミからなる専門家集団が、わが研究所をどうやって売り込むか、シミュレーションをしてくれたのです。耳障りのよいキャッチコピーと、自然派ハンバーガーショップ風のきれいな写真広告。こうしたらベンチャー起こせる金になるのアドバイス。ふむふむと楽しく聞きましたが、私も、他に参加していた研究者も、「ちょっと違うなー」という感じでした。農学系独立行政法人に来る研究者は、リッチになりたいとは思ってない。むしろフェイマスでありたいと。だから特許獲らずに論文書いちゃうんですよね。

半蔵の馬籠宿から中山道の宿場を六つ上った村で生まれ、庄屋の娘として育った母が、今は一人多摩・栗平に住んでおります。近頃七十の手習いで五行詩をはじめました。

 

老いが立ちはだかり

希望が遠のく

手さぐれば

輝く物があった

それは勇気

真岡八重

 

歳半ばの息子にはとても輝く勇気などなく、敗戦を乗り越えてきた世代は強いなぁとおもいます。

花開く不審の前に、鼻に不審の季節、ご自愛の程。 maokat@札幌

 

* 今度の「湖の本エッセイ」30 31『古典愛読(中公新書版)・古典独歩(エッセイ20篇)』は、「古典」といきなり題に出るので辟易する人も有るか知れないが、「一つの自叙伝」という仕立てで、読み始めると、ちょっとクセになり引きずられる語り口になっているようである。妻もめずらしく今度の版に読みふけっているようだし、わたしも電車の中でなど、翻訳物のミステリーやサスペンスより自分の本の方に引き込まれる。いい気なモノであるが事実だからしようがない。

2004 2・24 29

 

 

*『古典愛読』下は、私にしては大変楽しみに読ませていただいています。 宏一(ひろかず)さんの生い立ちとあわせて書かれておりますところが、ここかしこにあるようにおもわれまして。

しっかりと意識をもって読めば、ほんとうに読み応えのあるご本ですね。

ご立派です。 有難うございます。

 

* 宏一は、わたしの幼名。覚えている人は、もう数えるほどしかない。

2004 2・25 29

 

 

* 湖の本は、いま、全国の大学研究室や図書館に寄贈している。その受領の返信が、回を追って数増えている。シリーズとして肯定的に受け容れられていることが、書き添えられてくる関係者の肉筆謝辞等に伺われる。古典出版社の編集室を迂回して研究者達のいい評価が伝言されてくることも有る。

 

* 春の気配を感じ始めたところに「湖の本」31が届きました。推理小説にも似た秦流古典学につい魅かれて頁をめくってしまいます。「『ちろり』管見」などの小品も楽しい。目からウロコが何枚も落ちます。「私語の刻」厳しいですね。

 

* 敬愛する文藝編集者からのはがきである。「『ちろり』管見」とは、下記の、こういう一文である。誰にでも批議の可能な、門外漢からの平易な異見の提出である。「竹芝寺跡不審」も、「後撰集の大輔」も、やはり一門外漢の異見提示であるが、最新の権威ある古典文学全集も、これを脚注や頭注にすでに採り入れている。

 

*「ちろり」管見   秦  恒平

最近、室町時代の歌謡をあつめた『閑吟集』を、市販の注釈書も坐右に、ていねいに読みかえす機会があった。『閑吟集』は、十二世紀に成った古代の『梁塵秘抄』とならぶ、中世歌謡集として群を抜いて面白いもの。成立の時期が十六世紀はじめ(一五一八年)と近いだけに、近代のセンスでよく読める歌詞がたいへん多く、大半がいわゆる小歌で、含蓄に富み、しかも親しみぶかい。短いものでは、

 

何せうぞ くすんで 一期は夢よ たゞ狂へ   (第五五番)

人の心は知られずや 真実 心は知られずや   (第二五五番)

籠がな 籠がな 浮名漏らさぬ 籠がななう   (第三一一番)

 

などと、十五・六世紀から二十世紀への時代差はあれ、それなりに、現代の我々が現代を生きる日々の感情なり思索なりにからめとって、そのまま読める面白さや味わいがある。

そんな中でもよく知られた小歌の一つに、こういうのが含まれている。

 

世間はちろりに過ぐる ちろりちろり  (第四九番)

 

「世間」の二字を、研究者はほほ例外なく「よのなか」と訓んでおり、これは『閑吟集』に他に内証も見られ、十分うなずける。文字どおり歌謡は、黙読に先立って口調第一に唱歌されたもの。おそらく編者も、これが「よのなか」と訓まれることに疑念はもたなかっただろう。しかも「せけん」の意味も、この二字が体していたこと言うまでもない。そしてここからこの一編の二重構造、趣向の面白さが真実湧き出すのだが、ところが私の見たかぎり、「よのなか」と訓んだ研究者たちが、口をそろえて「せけん」の意味でしか、この「世間」の面白さを汲んでいないのには、おどろいた。

以下私の素人読みを、或る条件つきで、披露させてもらって読者の批正を乞いたい。

或る本で、この小歌に現代語訳をつけている。「世の中は、またたくまに過ぎてゆく(別例。時の間に過ぎゆく)、ちろりちろりと」と。この理解が、大方の本に定着している。あたかも光陰矢の如く世は無常迅速との感懐であって、その限りで異存はないのだが、私にすれば、それはいわばこの小歌の遠景・背景として最後に到り着くところの、理解。先ずは、現前の情景をどう読みとくかが大事だろう。そもそも「ちろり」とは、時間経過の速かさを唯一の意味に指さした表現だろうか。本当に「ちらッと」「時の間」「またたくま」で済ませていいのだろうか。

私のような酒呑みは、そして長崎や薩摩のあの美しいガラスや切子の「ちろり」を嘆賞してきた者は、松村英一氏や藤田徳太郎氏が示唆していたように、先ず酒器の「銚釐」即ち「ちろり」を想う。錫など、筒型で把手のある金属性のものが、多く、また古い。それとダブるようにして秋野にすだく虫の音、虫の仇名としての「ちんちろり」などを想い出す。どっちが先か後か、酒器の「ちろり」と虫の「ちんちろり」は、共にその鳴り出し鳴き出す音色や声音に御縁があろう。むろん、ちろりと早く燗がつく気味も汲みとれよう。

一方、「世のなか」とは、世界、世間、社会の意味以前に、何より、男と女との仲を指す物謂いだった。日本語、和語として世の「なか」とは、古代このかた、「仲」と書きたい男女の関係を正しく指さして来た。用例もたくさん挙げられる。『閑吟集』のこの小歌で、「世間」をことさら「よのなか」と訓む以上は、必ずやこの場合、おアトの愉しみに間近で酒に燗をつけながらしっぽりと床を倶にし、夢うつつの性愛に物狂うた男と女との「世の仲」を想い描くのでなければ、お話になるまい。かくしてその相愛の営みが、わずか「ちろり」の鳴りはじめるまでの、酒に燗がつくまでの寸時に過ぎてしまう、果ててしまう、そのはかなさを惜しみ、呆れ、なげき、そして男女ともどもに酒の方へ這い寄って行く、そんな、やや醒めてうつろな睦まじさとして読むのが、面白い。松村、藤田氏らもここまでは読まれていない。

言うまでもなく、世間万事無常迅速と嘆じる態度か、すぐあとへ、いや中景としていかにおアツイ男女の仲も、そうながくはないものという諦念をはさんだあとへ、遠景として重なって来るのは順当なはなしだ。かかる感慨が、かかる男女の愛のまっただ中から、ふつふつと二重底、三重底をつきあげ湧き上がってくる真実感には、説得力がある。『閑吟集』が愛欲と孤心との交錯する、或る意味ですぐれてポルノグラフィックな歌謡歌詞の集成でもあることを考えれば、この小歌など、必ずこう読まれねば、説法くさくて水っぽいものに終わる。

四方赤良(太田南畝)の狂歌に、

 

よのなかはさてもせはしき酒の燗ちろりのはかま着たり脱いだり

 

とある。「はかま」が徳利やちろりやビール瓶にさえ用いるあれのこととさえ知っていれば、狂歌の意味するエロスは、誰にでも読みとれよう。この作者が、『閑吟集』の「ちろりちろり」を踏まえていたと断定してもいいくらいに、先の私の読みは、この狂歌に的確に声援されている。「ちろりに過ぐる」とは、ちろりを用いた酒に燗がつく、たったそれほどの時の間に、アツアツの「世の仲」が事果ててしまう、済んでしまうと嘆息し苦笑しているのだ。私はそう読んでこの小歌に、臨場感ゆたかなイメージを添えてみたい。第一、「ちろりに」と「ちらっと」では語感が逸れる。

問題は、酒器としての「ちろり」の用例が「物」として「語」としてどの辺まで時代を溯って見出せるか、だ。この点、私には確かなことが言えない。江戸時代の早くには、もうガラスや切子の技術で「ちろり」の珍品が新たに造られていたこと、「ちろり」という物謂いが、ふたしかな形容動詞よりいかにも『閑吟集』世界になじんだ、仇名めく名辞として思えること、といった我田引水を言い立てるしかない。

それにしても、ここの「ちろり」を、酒器のちろりや赤良狂歌のごく早い先蹤とも使用例とも見ることが可能なら、この小歌の面白さは、現行の、定着というより固着した浅い読みより奥行きを何膚倍にもひろげて、あえて「世間」を「よのなか」と訓んだ効果も俄然あがるはずだと思うが、どんなものか。

守武独吟千句の、「桜花など光陰を知らざらん春こそちろりちろりなりけれ 暁の明星露われ出でて」なども、「ちろり」ちらッと説を支持する材料というより、これまた今一度よく読み直されていい一例ではないのかと、向こう見ずに、一人の文士が提言しておきたい。但し分かりやすい解ゆえ、すべてすでに先人に説があったやも知れない。管見と断っておく所以である。      「毎日新聞」夕刊 一九八二年九月二十五日

2004 2・26 29

 

 

* 午前3時前、夜勤を終えて深夜帰宅。ほっと一息ついてソファに体を沈めたとき、テーブルに、家族が置いた、秦様から早速送付していただいた「秘色(ひそく)・三輪山」が目に留まり、一時間ほど読みました。私の場合、読書は、長くて十五分で打ち切り、他の本に切り替えるとか、ほかの雑務に取り掛かるという習慣があります。

一時間も読んだのは、久しぶりです。三輪山が中心ですが、大変、学ぶところが多かったです。二十八日、一泊、家内を伴って大神(おおみわ)神社に参拝することは先日お伝えした通りですが、楽しみが増えました。

とりあえず、代金を週明け送付いたします。  大阪府

 

* 三輪山をしかも隠すか雲だにもこころあらなも隠さふべしや  額田姫王

 

* ただし、わたしの「三輪山」は額田姫王を書いたのではなく、雄略天皇と引田の赤猪子とを書きながら、わたしの「母恋い」にふれた。雑誌「太陽」のあれは「織物」の特集小説であった。小説で、何をどう織るか。夕暮れ、妻と保谷野を散歩しながらはっと思いついた。この作品は府県別文学全集の奈良県の巻に収録された。

額田姫王はむしろもう一つの「秘色(ひそく)」に書かれている。姫王と後の天武天皇とのなかに生まれた十市皇女がいわばヒロイン、だがそれもわたしの根の悲しみに触れた現代の幻想小説になっている。「故国」または「湖国」と題してもよかった。これも同じく滋賀県の巻に収録されている。近江京を守った崇福寺址が幻想の舞台になっている。

ああいう手のかかった組み立ての小説は、体力勝負でもある。

「秘色」取材にはどうしても崇福寺址へ行く必要があった。近江神宮や三井寺を経て長等の山にひとり分け入ったあの日、わたしは源氏物語も毎日一帖ずつ読み進んでいた。太宰治賞選考の日まで心さわぐのを静めていた。そして「秘色」は、事実上の受賞第一作として「展望」に発表できた。第一著作集の表題にもなった。「ひそく」とは、渡来の美しい青磁を意味している。それが幻想の芯であった。

2004 2・27 29

 

 

* 新刊の「秦恒平・湖(うみ)の本」エッセイ31『古典愛読 下・古典独歩 二』の跋文「私語の刻」を此処に書き写しておく。

 

* 私語の刻

清泉泓泓   平成十六年 元旦

よきひとのよき酒くれて春ながのいのち生きよと寿ぎたまふ

ふつうに一夜をすごし、ふつうに朝を迎えました。   六八叟

 

前回の私語でふれていた島崎藤村の『夜明け前』が終盤に来ている。青山半蔵に、狂を発した振舞が見えそめ、日増しに、いたましい。由緒久しい木曽馬籠宿の本陣、問屋、庄屋三職を明治維新で喪い、無私の尽力を官の恣意に咎められて戸長役も免職。懊悩と焦燥を頭の芯に凝らした半蔵は、妻子を故郷に置いたまま東京へ出て行く。そして思いがけぬ衝動から、天皇御輦(ぎょれん)に憂国の歌一首を投扇直訴の挙に奔ってしまう。咄嗟の場面、つよく読者の胸に来る。「ご一新」との根深い違和に堪りかねてゆく純真なこの人の失望と懊悩に、わたしは、おそれとともに共感し、錐(きり)刺すほどの苦痛を覚える。

わたしなども、事は小さいが人の眼には、狂を発して奔走していると嗤われてきた。もう少し如才なくやればいいのにと露骨に言われたことも、一度や二度ではない。

幸か不幸かわたしが半蔵のようには、たぶん、ならずに済むのではないかと思うのは、この数年、半蔵に於ける篤胤だの復古だの神の御心だのといった、有りとしもなき「抱き柱」は、我からみな喪った、いや喪おう、離れてすっぱり捨ててしまおう、としているからだ。

一心にうちこむことも、している。気に染まない何一つに見向きもせず見送ることもしている。しかしそのどっちも、大方わたしには意義を失っていて、だからこそ、したいことは一心にやり、したくないことはしないが、分別し、選択して、そうする・しないのとは、違う。どうでもいいことと思うから、するもしないも同じく楽しむし、楽しめば元気でいられる。それだけのこと。所詮、夢。虚仮(こけ)。苦しくても楽しくても、一(いち)の大事は、虚仮の夢が覚めるか、覚め得られるか、それだけのこと。強いて覚めようと、さて、何もしていない。努めていない。ただ待っている、ふッと目覚める瞬時を。「間に合って良かった」と言えるだろうか、分からない。

人は、われ一人しか立てない小島に立ったまま広い海原に投じられた存在であり、どう呼び交わしても、無数の島から島へ橋は架からない。ところが、そんな狭い孤島に、二人で、三人で、五人十人で立っていると実感するときがある。おそろしくも貴重な「錯覚」であるが、その錯覚ゆえに人は孤独の地獄を免れる。真の「身内」とはそれほどの錯覚を共有しあえる同士のことであり、血縁も地縁も俗縁も、それらは何の「身内」をも保証しない。むろんそれも夢であり錯覚に過ぎないが、貴重な錯覚であり、唯一(ゆいいつ)今もわたしが抱いている「抱き柱」があるとすれば、この錯覚一つだろう。わたしは半蔵のようには狂わない。

 

話変って、図書館と著作者とが、へんに角突き合って二年以上になる。わたしも所属している日本ペンクラブが、平成十四年、一昨年、であったが図書館にもの申す声明文を公にした。図書館は無料貸本屋である、また人気の同じ本を多数冊買い込み貸し出すので著作者達の権利が多大に侵害されている、といったモノで、過剰な推測であってはまずいと、わたしは性急な声明を出すことに賛成しなかった。一年経って、またシンポジウムをやるというので、わたしは、今は両者激突の時機ではないと言い、シンポジウムの題に「著作者・読者・図書館」と、「読者」の二字をあえて挟んでもらい、読者棚上げの子供っぽい議論に視野をひろげてもらった。

だいじなキーワードの一つなのに、多くの作家からも出版からも洩れているのは、「読者」である。読者層の市場調査ということはウルサク云うけれど、市場の「買い手」としての「頭数」調査であり、「読み手」の「頭の中」を探索し感謝したり配慮したりは、二の次にも三の次にも無く、無くて当然、のようなことになっていたのが、日本の「本」をダメにしてきた。わたしは、そう思っている。大量に買わせる目的一つで、読めるレベルを探るものだから、どうしても、マンガや推理や浅い読み物になる。紙屑出版といわれるワケである。

キャンディス・バーゲンとジャクリーヌ・ビセットとが仲良く映画で喧嘩した、邦題「ベストフレンズ」の原題は、「リッチとフェイマス」であった。

キャンディスは売れに売れる読み物作者として大金持ちになり、ジャクリーヌは寡作でも優秀な藝術文学によって名を高くし、敬愛されている。そういう題だ。

この場合の「リッチ」は、精神ぬきのお金持ち、お金だけは有り余るという意味で使われ、この場合の「フェイマス」は日本語でいう有名・知名人の意味でなくて、作品そのものの価値高さや内容の豊かさゆえによく識られている、という意味に使われている。あまりお金儲けはできていそうにない。

日本の出版が、リッチな作家を多くもつことで経営的に安定出来るという大事さ、これは否定しないし、否定出来ることではない。しかし日本の出版や編集者のあやまりは、リッチをフェイマスと錯覚して、真のフェイマスを置き去りに見捨てて行く経済利得感情の優先傾向にある。

昔はそうでなかった。それがそうなりはじめ、近時ますますそうなってきたのは、フェイマスな作者も少なく乏しくなり過ぎているのだろうが、それだけではない。と云うより、フェイマスを敬遠というよりむしろ目を背け、リッチにばかり走りすぎた結果として、売れる読み物作家の団体が圧力団体かのように世にも訝しいことを平気で主張したり要求したりするようになってきた。背後に、有力な、しかし経営不安の出てきた大出版の有ること、誰でも知っている。フェイマスだった文筆家団体も、そういうリッチ感覚に今や追従の気味がつよい。

井上ひさし氏が新会長になり、報道人たちと懇談した場所で、「直木賞作家に成りたい人は日本ペンクラブに入会されるといい、日本ペンの役員や理事には直木賞作家が五人もいます」とジョウダンを云っていたが、そういう意識である。そういえば井上氏は歴代会長の中で、初の直木賞作家である。賞創設以来の会長では、第一回芥川賞の石川達三、以来、井上靖、遠藤周作が芥川賞作家であり、先の受賞者も含め、川端康成や中村光夫らは芥川賞の選者であった。フェイマスがともあれ柱になっていたように見受けられるが、リッチ傾向に転じていることは、理事会の話題の多くが「金稼ぎ」に傾きやすいこの五年六年を体験しただけで、言い切れる。

金は大切なものでわたしも軽視はしていないが、文学・文藝となると、やはりフェイマスが懐かしい。固定した熱愛読者が「五百人」いるといって他の作家から羨望され、ときに憎悪もされたという泉鏡花の伝説は極端であるにしても、フェイマスとはそれであった。リッチな文豪や天才になどお目にかかったことがない。

 

* 昨日のメールに、「私語の刻」は「厳しいですね」とあった。今日の払込票の通信欄には、「全く同感」と書かれていた元出版社社長の言葉もあった。前半の藤村「夜明け前」に触れての感想もあれば、後半に触れて、厳しい、同感等の感想もあった。後半のこういうことを言っている限り、まともにこの同業世間に身をやすく置ける余地の無いのは知れた話である。

2004 2・27 29

 

 

* 今日、「湖の本」創作編を、ほぼ全巻、一時に注文し払い込んでくれた沖縄の読者があった。売れるという有り難さよりも、そういう人の登場が嬉しい。時折、こういう事がある。数冊ずつを順繰りに買い増して行ってくれる読者のほうが、やや数多い。これは励まされるし、嬉しい。

2004 2・28 29

 

 

* 祖父秦鶴吉は、閏の昭和二十一年二月二十九日になくなり、三月一日から、敗戦後「平価」切り替えで、「新円」が流通した。わたしは、たまたま丹波の疎開先から一時京都に帰っており、小学校とのどういう親の折衝があったのか知らないが、京都に帰っている間はもとの母校に通うことが出来た。あの日も、有済校の四年生教室にいた。小使いが呼び出しに来て、そそくさと早引けした。時ならず校門から古門前通りへ出て行ったひっそりした「感じ」を、よく覚えている。祖父が死んだ。

父が、葬儀屋への支払いに「旧円」を使わせて貰う難儀な交渉をしていた苦労など、何も知らなかった。「新円」は一家にどれだけと額枠を決め、支給されていた、いきなり葬儀代をそれで支払うのは余りに辛かったであろう。

 

* 通夜から葬儀。あれが一連の「文化的複合」であることを、わたしは子供ごころに興味深く体験できた。近所の人達がきて「ご詠歌」をうたったりした。常日頃何のつきあいもなげな人の顔も当然のようにまじるのが異様であった。葬儀屋の手にかかり狭い家の中がくるくるくると模様替えされてゆく魔術的な手際におどろいた。

祖父に死なれた悲しみをわたしは思い出せない。こわいこわい難儀にむずかしい「学者」(=父の弁)のおじいちゃんであったから、わたしにはよそごとの死であるかのように、ただもう「行事」が済んでいった。そしてまた母とわたしとは丹波の疎開先へ戻っていった。丹波には、戦時中の半年にくらべて、戦後ほぼ一年何ヶ月かをわたしと母とは丹波にいたのである。京都の母校の成績表は五年生の二学期から出ているが、腎臓を患いついて二学期はほんの少ししか出ていなかった筈。

あの頃のことは記憶が混雑している。その混雑のなにかしら哀歓をわたしは後に「清経入水」に書き込んでいた。太宰治賞をもらったこの私には大事な文壇処女作は、平家の昔の公達清経を主人公に、現代の丹波や京都や東京を舞台にした一編の「怪奇小説(選者河上徹太郎の感想)」であると読まれていた。わたしはホラーでスタートしたも言えるのだが、むろん、そんなものではなかったことは、次々の作品が明かしていった。

「清経入水」だけは「湖の本」で三刷りしているが、それも残り少なくなっている。これと「蝶の皿」とは、現実にもう本が無くなって行くだろう。もう増し刷りも出来まいか。

2004 2・29 29

 

 

*「お花きれいだね。」という息子の言葉に、春の訪れとともに息子の成長を感じております。

秦様はお変わりないでしょうか。

御礼が遅れてしまいましたが、「湖の本」の配本ありがとうございます。

古典はなかなか手ごわく、本来原作を読んだ状態で、「湖の本」に共感あるいは新たな発見をすべきなのでしょうが、なかなかそうもいきません。

自分の手に届くのは「徒然草」、「源氏物語」、「枕草子」程度で、上田秋成が怖い話を書いているくらいの知識では、御本がもったいないとは思うものの、それでも楽しみながら読みました。

いつになるかわからない約束をするようですが、秦様の御本を読みつつ「平家物語」と「細雪」くらいは読んでおきたいと感じております。

こっそり「闇」をのぞいたりしておりますが、先日頂いた「こころ」のなかで、「K」に告白させている「身内」の話が、ちらと出ていたりすると、「ちゃんと本読んでいるのか」と聞かれているようです(「私語の刻」にもありましたね。)。

今「墨牡丹」を読み始めたところです。

感想なんぞをメールでお送りできるほど十分に「読め」てはいないのですが、だんだん、秦ワールドというのか、秦様の空気を感じ取れるようになっていればと期待します。

次回の配本も楽しみにお待ちしております。    卒業生

 

* 最初の一行がすばらしい。幸福の美しい一つの顔が見える。父や母の幸福とは、こういうこと、こういう気持ではあるまいか。

2004 2・29 29

 

 

* だが人の世は良き価値あるものを正しく見抜くことに、屡々躓くものでもある。書き込ませて頂く次の手紙は、思わずわたしを唸らせた。知る人は知るであろう。

 

* 前略 湖の本第七十八冊、ありがたく頂戴いたしました。今回の御本では「秋成生母の死と京の袋町」の章は私にとって痛切な文章です。生母の死についてはおそらく御説の通りと思います。これらの問題についてはなお考えてゆきたいと思っています。

もう半世紀近くも前の小著『上田秋成年譜考説』は、実は刊行の一年半前に完稿していました。しかし、どこの国文学出版社からも、自費出版を申し出たに拘らず拒否されました。原稿を風呂敷に包んで持ち歩いたのですが、預ってさえくれなかったのです。門前払いでした。貴重なものはお預りできないと各社で口を揃えました。そういう時代だったのですね。出版してくれた明善堂さんは実は侠気の古書店です。費用は私の持ち、取り次ぎ屋とコネがないので、私がチラシを作って、お一人お一人に売り歩いたのです。百部売るのに三年かかりました。その後の重刷のお誘いはおことわりしています。これが小著の運命だと思います。

 

* この『上田秋成年譜考説』という大著は、国文学研究の成果を十選べば一つに入っていい画期的な名著で労著なのである。秋成研究がここから急角度に上向きに大展開していった、それだけではない、「年譜」なるものの方法論と実践において、これほど徹底して実験的な成果はそれ以前には皆無の、おそらく以後にも数少ない成果であり、わたしはその革命的な価値に心底驚嘆し、感化され、学ばせてもらった。著者は云うまでもないが都立大学名誉教授の高田衛さんである。すばらしい先生である。まさかあの方のあの記念碑的名著がそんなありさまで世に形を得たのかと想うと、暗澹としてしまう。「運命」と呻かれる高田さんのお気持ちが胸に痛くて、それは今日一日の、心にささった棘であった。くやしい。

2004 3・2 30

 

 

* 久しぶりに古典読み解きの豊かさを堪能しました。もっともっと古典にのめり込んで醍醐味を示してください。だれでもはできないのですから。 京都 学士院会員

 

* 御近刊の『湖の本』何時も乍ら恐縮このことに存じます。やりかけた仕事が校正の段階に入り版元と往復する合間を縫って何よりの楽しみとして拝見、「一知半解」まで読み進み、国文学の面白さに、半世紀以上たって受験勉強時代には全く気付いていなかつたことも思い知らされているのを感じます。私も昨年八十に達し体力気力ともにひどく衰えているのを痛感いたしておりますが、それでも何か書いたものをお目に掛けたいという望みはすてかねております。

戦後に新制中学から学ばれた貴下の御壮健を心から祈り取りあえず御礼まで申し上げます。此上とも御自愛下さい。 ○四、三、三  東京 東大名誉教授

 

* 拝啓 今年もはや三月の声を聴こうと致しております。先生には、お変りもなくお過しの御趣と存じ上げます。この度は「湖の本」エッセイ31ご恵与下さいまして有難うございました。冒頭の「断絶平家』思わず引き込まれ、興味深く読ませて頂きました。浅春の砌、お身体お大切に念じ上げます。 二十八日 敬白  千葉 前A大学学長

 

* たまたま今日、お揃いで戴いた。励まして戴いた。

2004 3・4 30

 

 

* 電子タグに関するレポートに多大なご評価を賜り、誠に恐縮です。

貴サイトでも広くお知らせいただけるとのこと、私としては願ってもないことですので、どうぞご自由にご掲載下さい。改めてウィルスチェック済みの word文書を添付します。(前日の項に湯浅さんの新しいファイル文章が入っています。秦)

『湖の本』エッセイ31を拝受、いつもながらに、あまりに博識な上に文体のセンスの良さに参ります。秦さんの文章を読むと、私ももっともっと学ばしていただこうという気になります。

2004 3・5 30

 

 

* そして、和歌山県から、こんなお便りが届いた。

 

* 拝啓 春を一枝 たしかにお受けとり致しました。ありがとうございます。

早いもので「湖の本」も十八年、読者にとりましても深い思いを感じます。

欲しい本が読めない――昨今はとくにそうした傾向も強まり、出版された時に入手しておかないと……という思いにかられ、毎日の新聞、果ては読書新聞でのチェックにと、記事を読むのではなく広告を追いかけています。

しかし昨年七月、残る左眼を眼底出血、視力を失ないました。いろいろと病院をあたりましたがはかばかしくなく、奈良まで出向いて診察を受けましたところ、手術ができるかも分からないと大阪大学付属病院を紹介して下さり、十月入院致しました。

そして十一月網膜を人工的に剥離させ、黄斑を移動させるという手術を二回にわたって行い、去る二十日退院して来ました。

そうしましたところ「湖の本」が届き、先生より「贈一枝春」の文字が。本当に春を一枝贈られたようでうれしく拝見致しました。

紀州路は今、梅の花が満開。長い病院生活でしたが、気持も新たに今近づく春の息吹きを感じています。

おかげで眼の方は、斜視が残りましたが以前に近い程見えるようになり、退院して来たその日から活字をむさぼっています。

斜視の方も十度前後で、この程度なら自然に脳が調整してくれるとのこと、本を読んだりするにはさしつかえありません。

それにつけましても、読みたい本があり、好きなように読めるというのは実に幸福なことです。入院中はともかくも、好きな作家の好きな作品を抱きしめている時の喜び、家内からはばかにされますが、人生においてまさに至福の時といえるかもしれません。

そうした中、着々と築かれていく「湖の本」の秦恒平全集……その一冊一冊が日々私にとりましてかけがえのない財産となっています。そしてその喜びをいつの間にか十八年も共有できたということ、ただただ感謝申し上げます。

この先三十年は生きる覚悟でおりますが、枕頭の「湖の本」を愛読したということ、必ず誇りに思う時が来るように思っています。厳しい状況が続くやも知れませんが、ぜひとも”完結”させて頂きたく思います。ありがとうございました。  敬具

 

* 二月二十日に退院され、二十三日には書かれていたお手紙である。心からの感謝をささげるのは、私。やはりわたし自身の書いたものでこの励ましに酬いたいと、つくづく思う。

2004 3・6 30

 

 

* 郵便受け   弥生の昨日、雪がひと荒れしたあと、首をすくめて郵便を取りにいきましたら、葉書が一枚届いていました。眩いような桃の花の写真に、お揃いの切手。睦月は永源寺の雪景色に、雪に埋もれた北山の切手。如月には山家の脇に点で描かれた緑の効いた絵葉書に「春と書くだけで何だかウキウキします。」と。メールの日々に、ひょこっとこういう便りを寄越す友が、数人います。

黄土色のかたい封筒をポストに認めると、今度の漢字四文字はなにかしらとドキドキ。「贈一枝春」の嬉しさ。

2004 3・7 30

 

 

* 同僚理事の新井満氏からは、「リッチとフェイマスのお話おもしろく拝見いたしました」と「湖の本」新刊への礼があった。阪大伊井春樹教授からは本文への支持と共に、「文化の保存維持という点」から巻末の「図書館」問題への「同感」が伝えられていた。

 

* 島尾伸三氏より「東京~奄美損なわれた時を求めて」の旅と写真の一冊を贈られた。言うまでもない、島尾敏雄・ミホさんの子息、作家で写真家で旅人である。わたしが「ミセス」に「蘇我殿幻想」を連載した一年、編集担当の田辺兵昭氏(今は探検家)といっしょに写真の旅をした。家へもよく見えた。酒好きで、飲むとこんなに話題のおもしろい人と、他に出会ったことがない。とってもスケベイでもあったが、それがまた天真爛漫で下品でなかった。飲まないときはほんとうに静かな青年であった。懐かしいという言葉の似合う友人である。あれ以来、いい仕事を活溌につづけて、奥さんも娘さんも活躍。四半世紀にいちどしか再会していないのに、著書のやりとりはつづき、気持は通っている。「湖の本」を時に思いがけず吹聴していて貰ったりする。

2004 3・10 30

 

 

* 春や昔  秦先生 あたたかな日が続いております。春ですね。今年の桜は早いとか。

残念ながら、ちょうど開花と予想される頃、私は日本を一週間ほど離れなければなりません。

以前にも同じようなことがありましたが、そのときはやや桜が遅れ帰国時に満開の段葛が迎えてくれました。期せずしてポトマック川の桜と、鎌倉の桜、両方を楽しめましたが、今回ばかりはどうもうまくいきそうにありません。

訪問先は初めてのローマ。桜はどのくらいあるのでしょう。本当に残念です。

春になると、たくさんのことを思い出します。

本当は、春になると、ではなく、季節が巡ると、なのかもしれませんが。

昨日は久しぶりに京都に泊まりました。巽橋のそばのおしゃれな小料理屋さんで「中京のぼん」に奢ってもらう、という「おいしい思い」をしてきました。

彼に言わせると、町家を改造して小料理屋にする場合、成功するのは東京資本や名古屋資本だそうです。京都の方は? と尋ねると「壊し方が中途半端」とのことでした。伝統は守るなら徹底的に守る。壊すならとことん壊す。そう語る彼自身は前者なのですが。

姪の事があり、先生のご本を幾册も読み返しました。

京都で数日時間がとれるようなことがあれば、大原まで歩いてみたい、と思うようになりました。大原は鎮魂の地のような気がします。

今回の件からなかなか立ち直れず、先生のご本を読みながら涙することが多い今日この頃です。

お父様 ほんとは一番愛されたと姉妹はそれぞれ思っています  (利根川洋子)  の 作者はどういう方なのでしょう。いえ、お教え頂かずに自分で少しずつ解きほぐしていくのも楽しみというものかもしれません。

この歌を読んだ時、電車の中で涙が止まらなくなりました。

なんという素晴らしい父上なのでしょうか。片方だけ愛している、と周囲に思わせるどころか、どちらも愛されていない、と思わせてこの世を去る父が多い中で、二人の娘に「それぞれ」「一番愛された」と思わせる父性。ただそのことだけで、その父上の人生は十分すぎるほど大成功ではないでしょうか。そしてそれを感じ取れる娘二人の豊かさ。父の贈った愛が娘の人生へのはなむけならば、娘のこの歌は父へのはなむけですね。

この歌からは「はなむけ」という言葉が浮き上がります。

ところで、お手数おかけいたしますが、

先生のご本を送って頂けませんか、「秋萩帖」上下と「慈子」上下を。

「死なせた」思いがどれだけ自分というものを掘り下げていくか、いま噛みしめています。

おそらくローマへは、先生のご本と「こころ」を持参していくことになると思います。

姉妹のように育った姪はたくさんのものを私に贈ってくれていたことに、今さらながら気がつきつつありますが、最後に大きなものを贈ってくれました。

ニ度と死のうと思わない、という気持ちを。

先生もどうぞお体を大切に。「祈ることしかできない」という言葉を、本当に実感を持って痛感しています。

 

* 著者として、そしてこの人との場合には「教授」として、こういうメールを受け取るとしみじみとする。おそらく路上ですれちがっても私からこの人の顔はもう見分けられないかも知れない。教授室で顔を合わせた数少ない機会の他には大教室の学生の顔は覚えられるものでない。にもかかわらず、十年かその余も、われわれは、何と無く一緒に生きてきた気がする。それを「結」んでしっかり繋いでくれるのが、此処にも挙げられているような、数々の短歌や俳句や井上靖の詩であったことを、その余韻が弱まるよりも蘇るように少しずつつよく浸透して生きいきしていることに、わたしは感動する。それこそが私の願いであった、時間が経ってなお力をもつもの、それは優れた「詩歌」である。

利根川洋子の短歌は虫食いにはしにくかったが、この人がこう感じ取っているその通りの優れた表出である。ああ、ちゃんと通っていたのだ、胸奧の宝にしてくれていたのだ、と嬉しい。

 

* もう以前に、「青春短歌大学」下巻を送り出したとき、こんなメールを、大切な読み手の一人に頂戴したことがある。わたしの願いを、的確に代弁してくださっていた。褒めちぎられていた部分は引かないが、こんな言及があった。

 

* 先生が『青春短歌大学』でなさろうとしたことは、日本の詩歌を、若者のみずみずしい心に直接届けること、そして彼等の人生に新しい色を加えることだったのでございましょう。先生の「学生諸君の内奥を、真実挑発し刺激する」ことはきっと成功なさいました。

工学部のキャンパスは私の知る限りにおいてどこか実験室の殺伐とした雰囲気が漂います。先生の授業を受けた生徒さんたちは灰色の映像の世界から生き生きした彩色の世界に飛び込んだような衝撃を受けたであろうと思われてなりません。先生は多くの学生さんの視野をさっと拡げてしまわれました。

さらに、『青春短歌大学』は私のような中年読者の胸をも疼かせ滾らせてくれました。この中の詩歌は十代、二十代の新鮮な感性で触れるだけではあまりに勿体ないものです。私も大学生の頃にこんな授業が受けられたらよかったのにと羨ましくなりましたが、当時の私には理解も実感もできなかったろう多くの歌句と先生の解釈は「猫に小判」であったにちがいありません。

私が二十代であったら、切々と胸に迫ることはなかったであろうという歌句はたとえば次のようなものです。

雪女郎おそろし父の恋恐ろし 中村草田男

捨てかねる人をも身をもえにしだの茂み地に付しなほ花咲くに 斉藤史

東工大で先生の授業を受けられた学生さんには、この本を是非繰り返し読んでほしいと思いました。学生さんたちが、先生の本当の大きさ凄さをわかるのはこれから四十代、五十代、六十代になってからだろうと推察しつつ、私も先生の『青春短歌大学』などのご本とともに少しでも成長してゆけたらと願っております。

「彼や彼女たちの未来が楽しみなために、一年でもわたしは長生きがしたい」というお言葉にある先生の身にしみる人間愛に、私は胸が熱くなりました。「教えるということは希望をともに語ること」という言葉のように、先生は若い魂と希望をともに語ることのできる数少ないかたです。

『青春短歌大学』は久しぶりの感動的な読書となりました。ありがとうございました。

あとがきにペンクラブ電子文藝館の事業を「良い樹を一本一本植えて行く」仕事と表現されていますが、この荒れ地に一つ一つ希望を植えて行く地道な営為を「知の巨人」の仕事と言わずして何と言えばよろしいのでしょう。

「知の巨人」というのは立花隆さんによく使われる形容ですが、本当の知性というのは立花隆さんのような難しいことを理解し説明する能力のことでしょうか。先生のように明日を担う世代を励まし希望を与えることこそ真の知性だと私は捉えています。ですから、私は秦先生のような方こそ「知の巨人」と言う表現にふさわしいと思うのです。(きっと先生はそんなことはないとご謙遜なさいますでしょうが。)

 

* わたしはそのような「巨人」でなんか、ない。過褒も過ぎたものだ、ただ、わたしの授業から、もし卒業生の中に佳い芽がふくとしたら、それは何年も何年も経った頃だというこの人の指摘はその通りで、それがそのままわたしの願いであった。たとえ少しの人数にでも、そのようにわたしの思いが生き延びて行くのであれば、わたしは「講義」など「概論」などしないで、とりとめなく話す中から、可能ならばキラキラと砂金の粒を拾って覚えていて欲しいと思っていた。だから私自身の言葉よりも、もっと多く強く、優れた作者達の「表現」を手渡し伝え、またその表現を若い人達に分かち持って欲しくて、あんな「虫食い」をつくり、学生諸君に呈しかつ挑発し続けたのである。

 

* ローマへ旅立とうとする今日のメールの卒業生は、文の末に、一句を書き添えていた。

君知らぬ木蓮ほころび二七日   典子

姉妹のように育ち、死なれた人へのおもいであろう。はつはつと春を生きづく木蓮。「君知らぬ」とは喪失感の直叙であろう。この亡くなった若いひとはこの世で生ける甲斐ある恋をして逝ったのであろうかと、ふと思う。初句が「恋知って」だといいになどと不謹慎に祈ってしまう。「二七日」は、あえて「にしちにち」と読んでよく、「ふたなぬか」もいい。二十七日の意味ではなかろう、「ふたなぬか」とは意義が逸れる。

恋知って木蓮咲いてふたなぬか もあり得ようか。

2004 3・17 30

 

 

* 朝一番にこんなレターが機械に忍び込んでいた。

 

* あやつり春風馬堤曲

今夜、新しい作品の完成なさいましたこと、ほんとうにおめでとうございます。心より嬉しく。

つたない感想ですが、数日前に書いていたものをお送りします。

読み直しません。読み直すと送れなくなりますので。笑って読み流してください。

『あやつり春風馬堤曲』読み終えました。

もう四半世紀も前にこんなおそろしい作品を書いていたなんて……心底怖かった。混乱しているのできちんとした感想にはなりませんが、読んですぐの新鮮な気持ちをお伝えしたくて。

まず、この作品を一度でも読んでしまえば、蕪村の春風馬堤曲についての他の解釈はできなくなるでしょう。春琴自傷説や「心」の読みと同じです。蕪村を勉強したことはありませんが、蕪村の句に酔うように惹かれていた私は、とにかく夢中になって嬉しかった。この点については……。

しかし、「先生」が「朋子」に「蕪村」の春風馬堤曲の謎ときをさせながら、誘惑していく。それだけの話に私は震えてしまった。読んだ人の人生に深く関わるような小説が書きたいと仰言っていましたが、ああ、私は客観的な読者でいられなくなりました。

>> 先生は御自分の自由を最大限度だいじになさるお方です。勝手なお方とも申せます。その自由の器のなかへ私を放りこみ、思うまま動き回らせたいお気持ちを、べつにとやかく言おう気はありません。それより私も私なりに先生の世界で生きて変身してみたいと願ってまいりました。

>> わが影法師の頭を、踏もうとすれば先へ先へにげて行きますように、先生という方が私には掴まえきれません──。

>> 先生もけっこう本音をお隠しになる方です。

たとえばこんな文章を読むと、これは読者の胸のなかにあるものを「朋子」に託して言葉になさったとしか思えなくなります。

蕪村の秘密を解きあかすという体裁をとりながら、読者はじつは「先生」の文学世界に導かれていきます。蕪村を語ってじつは「秦恒平」も描かれている。蕪村と秦恒平は水脈を同じにする芸術家なのです。

>> そういう絶妙のウソつきなんですわ、蕪村は。実地に則してものを言っているように思わせておいて、とんでもない真実や秘密を暗示している人。

>> 私は、そんな蕪村がそうイヤでなくなってきましたの。何としてもあの「夜色楼台雪万家図」の寒さと淋しさが、胸に沈みこんで動かないからです。あの絵を描いた、描けた人だものと思い、その人を、そのほんとうの孤独を信じるからです。

>> あれほど母を恋うる思いの蕪村ですもの、女人への渇望は蕪村には若くから根の哀しみでありますばかりか、創造力や想像力のそれこそが源ではなかったでしょうか。

こんな部分を読むと、これはご自身のこととしか思えません。

『海からきた蕪村』の第二部、第三部はすでに書かれているのでしょうか。それとももう書かれるおつもりはないのでしょうか。ため息の出るような素晴らしい作品です。このままでも。でも渇くように続きが読みたい。そしてますます怖くなる。

「先生」と呼ばれることをお嫌いになる理由が、この作品を読んでわかる気がいたしました。三部作の最後は「朋子」をあやつっていたと見える「先生の遺書」になる、と後書きにあるのを読んで確信しました。「先生」というと、きっと『心』の先生がこの作者にはあるのです。そして、「朱雀先生」がいて、この「先生」……。死んでゆく人ばかり。作者が生き続けるためには、「先生」と呼ばれる人の悲劇をなんとしても避けなければならない。作者の本心はいつも「先生たち」のいる他界・別世界に魅了されているのですから、この誘いに打ち勝つのは大変なことです。現実に「先生」などと呼ばれることは、あの世に誘う声のように響くのにちがいありません。

私の勝手な思い込み──でしょうか。でも、この先生はいつも「あちら」に誘われている人。私はこの作者をそこに行かせたくありません。

 

* これで、あの作品を書き置いた「想い」は、満たされたと謂える。ありがたいこと。

 

* つよい風雨のあと、今日はよく晴れて、東京の花は盛りをこころもち過ぎ、なお満を持して美しいと。

2004 4・3 31

 

 

* 湖の本創作シリーズの第四十八・九巻に小説を入稿した。

 

* 「ペン電子文藝館」わたしの第三作には、「閨秀」を入れる。ほんとうの意味での「出世作」で、この作品で文壇に定位置を確保したと上田三四二さんが文庫本に解説していた。展望に発表したとき、朝日新聞の文芸時評全面を用いて、吉田健一さんが絶賛してくれた。あの日は喜多節世の結婚式で、祝辞を述べていた。済んで帰り際、浜松町の駅から言えに電話して、妻に教えられた。すぐその場で新聞を買い、あんなに嬉しかったことはそうそうあるものではなかった。

この作品には、神が手伝ったかと思われるほどいろんな奇跡的なことが重なった。その話は書けば際限がない。「湖の本12」には吉田健一の批評もそのまま再録してある。「ペン電子文藝館」に、わたし自身は、少しでも自負の作品を載せたい。精魂を込めている者として当然の意気である。

妻が校正してくれた。わたしがもう一度読んでから入稿したい。あまり恥ずかしい誤植はなしにしたいもの。

2004 4・7 31

 

 

* 嬉しいことに未知の読者から「湖の本」を今後継続送ってと注文があった。取りあえずは創刊の「清経入水」と「青春短歌大学」を送って欲しいと。一人また一人でいい、こうして進んで読んでくださる読者の便りが入るとき、わたしは胸を鳴らす。

2004 4・12 31

 

 

* 暖かく、なんとなくほうッとして一日を過ごした。瀧田樗陰の文章を校正したり、機械に三子おかせて「参りました」といわせてみたり。その辺を片づけたり。どうしているかなあと人の上を想ったり。そんなこともしていられない、もう次の「湖の本」初校がどさりと朝一番に届いている。気力を奮い起こして対応しないと今回のはしんどい。

2004 4・17 31

 

 

* 新しい「湖の本」48のために跋文を書いた。ツキモノを添えて、明日には上巻の初校とともに送り出せるだろう。下巻49の本文も、今夜か明日にも読み上げられる。

2004 5・4 32

 

 

* 新刊のための「挨拶」を、従来のワープロでなく此の機械で刷ってみている。あまり良い格好ではないが、試行錯誤。少しでも作業をラクにと。

2004 5・8 32

 

 

* 昨日すでに下巻の本文初校を戻し、今朝一番にはもう上巻の再校が出揃ってきた。煽られるなあ。赤字あわせの後のきれいな原稿を、妻に通読してもらう。校正は難漢字のルビが必要と一個所だけ。非常に読みやすいと、信じられない早さで一冊分の通読が済んでいた。またしても、発送の用意に追いまくられることになる。挨拶を早く刷っておいたのにも軽率な手違いがあり、あれやこれや。今日はよほど昂奮していたか手違いが多すぎた。マイッタ。

2004 5・13 32

 

 

* ペンの秋尾事務局長より電話連絡があった。専務理事がお目に掛かりたいそうです、連絡があるでしょうからよろしくとの事であった。念のためか、阿刀田さんの電話番号も教えられた。何用かは分からない。

これから京都対談の用意や、なにより「湖の本」通算八十巻発送のややこしい用意が必要なので、緊急でない限りそのあと気持ちゆっくりが望ましいが、ま、連絡があるのだろう。それはそれ、そのときのこと。場合によれば副委員長の一人に加わってもらうのがいいかも知れないが、それも話題次第のこと。わたしの方ではこれという希望も問題も無い。

 

* 公私ともに連絡を下さる人は少なくないが、まずは当面上巻の校了を急ぎ、例のアイサツをどんどん書いて行かなくてはならない。我が家が戦場となる時期である。あと一月で桜桃忌。只今もひたすらわたしは「ペン電子文藝館」のために過去の秀作からスキャンしたひどい原稿を原作に突き合わせ合わせ、校正している。また幾つもの委員校正を手元の原作に照合して、句読点の一つ一つまで点検して業者に訂正の依頼を出している。わたしがするしかないのである、原稿や原作が私の手元にしか無いのだから。委員には「常識校正=通読」してもらうしかなく、しかしそれでヨシとしてはとても厳格な校正にはならない。

2004 5・18 32

 

 

* 米原さんにゆっくり返事し、再校ゲラを数十頁読んで責了紙に調え、宅配便につくり近くの酒屋へ持ち込んだ。おかげでどこへも出ないで家にいる。下巻のあとがき、再校、上巻の発送用意、そして依頼原稿の幾つか。ちかづく美術京都の対談の心づもり。

栃木から贈られてきたすばらしい西瓜幾顆ものお礼も申し後れている。

文藝館の原稿が溜まっている。スキャンしたいのも、校正にかかれるのも。会員原稿も、何点か来ている。今日も郵便で一つ届いたが、なかみは短歌五首。これには困惑。会員としての経歴を自己証明する、少なくも百首は並べて欲しい。作者が「自分で読み返すのもイヤ」な小説とか、たった五首の短歌とか。審査は一切しない約束とはいえ、これではつらい。堪らない。だが、親切に一人一人にわたしは応対している。

 

* 酒屋で目に入ったので紹興酒を一瓶買ってしまった。妻が聖路加の留守、、お茶を飲むようにくいくい呑んでいい気分になった。ほんとうは、十九、二十、または二十、二十一と出掛ける予定であった。それが三日つづけて出掛けないことになった。発送の用意がその分はかどる。

天資か、三十日まで、すっぽりカレンダーが白い。

2004 5・20 32

 

 

* もう下巻の再校も出揃ってきた。左の頚の真横のあたりがひりひり痛む。怒濤のように二巻分の作業が真っ向ふりかかってきた。毎度ながら緊迫。この上下巻が無事に送り出せると、わたしの「湖の本」は、創作とエッセイと通算して創刊十八年、八十巻に達する。今回の長編は書下し新作である。

2004 5・21 32

 

 

* 上巻責了。六月三日過ぎには出来てくるだろう。下巻も追いかけて責了へ運びたく、あとがきやツキモノを送った。本の方はごく順調だが、発送の用意は格別に後れをとっている。例の如く歯の根が浮き肩や首が痛んできた。こういうところを、みな通り抜けて行き、必ずラクになる日はくる。八十回も繰り返せばカラダが覚えている。

2004 5・23 32

 

 

* 六月七日ごろに上巻が出来るよう打ち合わせた。二週間ほど後れで下巻も作ってしまう。今度は発送手順が難しい。混乱したら大変。

2004 5・24 32

 

 

* 頚左側の電気痛の連続でへばっている。肩凝り。痛み止めでは十分回復しない。やがてまた歯へ来そう。六月の桜桃忌まで持ちこたえられれば直ると思うが。神経が頚に集中し、ものが考えられない。一ヶ月で二冊発送することになるのは初体験。修羅場になってきた。気持ちよく息抜きができるといいが。ともあれ郵便局へでも。

2004 5・25 32

 

 

* 一日中、よく頑張った。明日には、下巻分責了紙も印刷所に送り出せる。上巻は六月七日に、十日ほども遅れて下巻が出来るだろう。桜桃忌には、ほぼ間違いなく「通算第八十巻、創刊十八年」を達成する。書下し長編小説でこの記念の関を通過できそうなのが、夢かと想われ、嬉しい。

想えば建日子が早稲田大学法学部に新一年生として入学し、わたしが早稲田の文学部文藝科へ二年間の約束で「創作ゼミ」指導に通い始めた、その桜桃忌六月十九日に、創刊第一巻『定本・清経入水』を刊行した。コケの一念の道楽といわれれば、ま、そんなものだ。わたしは根が道楽者なのである。極道かも知れない。小さいとき、借り物の本に読みふけっていると、秦の父は「極道」とわたしを窘めた。あそこから一筋道を歩んできた気がする。

息子の秦建日子は、六月一日から自作「5」を、下北沢の「小劇場」で一週間ほど上演するというし、夏にはまた作脚本の連続ドラマが放映になるというし、なんだか依頼された小説も書いているという。十八年前には夢想もしなかった。

わたしの十八年も、やはり夢想もしなかったほど多彩に多岐に及んでいた。おもしろいことだ。

幸い、上巻の発送用意も、なんとか、本の出来てくるまでに調いそう。問題は下巻で、これは上巻の入金があった人からばらばらに送り出すことになり、かつてない辛抱の作業になる。ま、それも仕方がない。宅配だと、一冊でも二冊でも送料が同額なので、すでに余納されている読者には下巻が出来てから一緒に発送させて貰うことになる。

 

* 入念に校正したつもり。この校正は気が入り、また読み直せてこれも楽しかった。いまの出版社の手に合うような作品ではない、「湖の本」として最適。隅から隅までまがうこと無き、秦恒平の作品に成った。毀誉褒貶はあまんじて受けよう。

 

* 月がかわると、はやい内に京都で、京都美術文化賞の授賞式、財団理事会、「美術京都」巻頭対談がある。大急ぎでトンボ返しに帰ると、電子メディア、電子文藝館の委員会がつづき、万三郎の「天鼓」があり、橋之助と扇雀の「鳴神」があり、ペンの理事会があり、桜桃忌が来る。そして、新海老蔵の襲名六月興行は昼夜通しの好席がとれている。嬉しくないのは、どんじりに眼科の視野検査がまたある。こういう中へ、湖の本の二冊発送という力業がねじ込んでくる。まだ何か忘れている予定がありそうだ、幾つかある、ある。六月が、活気に満ちてやってくる。慈雨の季であって欲しい。

2004 5・30 32

 

 

* ダイニング・キッチンに、特注しておいた円卓が、椅子二脚といっしょに届いた。このダイニングでの、三つめのテーブルになる。円いのは初めて。

相変わらず風は吹いているが空模様は尋常。外の気温は高い。下巻を揃えて責了した。肩の荷を、一つおろした。

2004 5・31 32

 

 

* 『お父さん、繪を描いてください』七日に上巻が、十四日には下巻が届く。下巻は上巻の払い込みを見ながら送るので、だらだらの作業がだいぶ長引く。

2004 6・3 33

 

 

* 最低限の上巻発送用意が出来た。あと三日は、連日の外出だが、その合間合間に手間の掛かる念入りの作業がまだ必要。辛抱して、じりじり進めるだけのこと。

2004 6・3 33

 

 

* 帰宅早々、またお仕事漬けの一日でいらしたのでしょうね。「湖の本」で新作が読める読者は誇らしいし最高に幸せですが、力仕事と雑用をさせてしまう日本の貧しい出版事情が情けなく悲しくて……。

どうぞお身体痛めませんように。あまり夜ふかしなさらずにおやすみください。東京

 

*  むしろ、これは秦の生き方でしょう、志のひくい出版に屈従したくないだけのことです。そういう、おばかです。

2004 6・3 33

 

 

* 通算して七十九巻めの湖の本が、刷り出せてきた。八十巻めも一週間遅れで出来、書き下ろし長編小説の上下巻が揃う。

創刊以来、十八年。夢をみているようだ。今回は美術関係、各方面に多く送る。

2004 6・4 33

 

 

* 秦建日子より、ぜひ公演中の芝居を観てくれないかと云ってきた。明日の晩でラクだという。ラクよりも今夜がいいよと云うが、万三郎の能「天鼓」が三時前に終え、七時の芝居では長いアキ時間がつらい。ラクは混むのは知れており席の確保にさぞ困るだろうが、結局、明日昼に国立劇場で「鳴神」を観たあと、その足で下北沢へ行くことにきめた。

明後日午前には「湖の本」が届く。その翌日、電子文藝館の委員会。週明けの十四日には、もう下巻が出来てくる。ごった煮の修羅場になる。しかもその間にも、俳優座の「タルチュフ」あり、ペン理事会があり、太宰賞授賞パーティもあり、そして三十五回目のわが桜桃忌がくる。

桜桃忌の日にはもう作業もあらかた捗り、身軽な気持ちでうまい桜桃が食べられるか、まだまだ汗みどろか、予断がならない。

そのあとに新海老蔵の襲名狂言が楽しみ。二十五日の眼科検診日の夕方にはホテルオークラで新潮社の、二十九日には「NHKブックス」四十年の記念の宴があり、月末にはシェイクスピアの「コリオレイナス」が待っている。

スケジュールを正確に頭に入れ、ユッタリした気分で、楽しみは楽しみ、仕事はまちがいなく済ませたい。十三日京都での同窓会日帰りは、ほぼ断念、体力的に。

2004 6・5 33

 

 

* 雨は上がっていた。渋谷から池袋へまわり、パルコの船橋屋でおそい食事を美味しく食べてから保谷へ帰った。 さて、明日には湖の本の上巻がまず届く。なにもかも見切り発車ではあるが、落ち着いて作業したい。

2004 6・6 33

 

 

* 昼過ぎに、「湖(うみ)の本」の通算第七十九巻(創作の第四十八巻)が出来てきた。すぐさま、発送の作業にとりかかり、夕過ぎて第一便を送り出し、夕食後も十一時前までかけて、少しキツイかなと思っていた今日の予定分を、すべて終えた。汗を流し、メールの処理などしているうち、いましも日付が変わってしまう。

2004 6・7 33

 

 

* 電子文藝館の会議 やはり疲れた。帰りにどこへ立ち寄ろうという気も萎えていたので、さっさと帰った。一つには出来てきた上巻を読んでいて、電車を乗り継ぎ乗り継ぎさきを読みたくて、どんどん帰って行った。

メールで、今朝から四人注文が来ている。有り難い。

2004 6・8 33

 

 

* 創刊十八年・通算八十巻記念のご本を拝受いたしました。

漱石の「草枕」には絵を描かない画家が登場し俳句の世界に遊びます。森敦は小説を書かない小説家でありながら、女性の編集者の執拗な業ともいえる薦めで、国電を乗り回しながら原稿を書いて「月山」を世に出したことなど思い出しました。

小説の登場人物が昭和を生きて来て出会った方々をまじかに思い出させてくれ、僕の仮想自叙伝として読む楽しみがあります。

映画でいえば白黒の映像に忘れかけている美を新たにし、絵画でいえば墨絵に「見えない物を観る」といった期待を持って読んでみたいと思っています。

読みはじめたばかりですが。

発送などのお手数を有り難うございました。   川崎市 E-OLD

 

* もう読者の手元に届き始めたらしい。『お父さん、繪を描いてください』上巻。メールでの注文も少しずつ入ってきた。下巻は週明けの十四日に出来てくる。来週は、上下巻揃えての発送もかなり数あり、我が家はてんてこ舞いする。

2004 6・9 33

 

 

* 西東京市の***です。

東京もいよいよ梅雨入りし、桜桃忌も間近になって参りましたね。前は久我山におりましたのでよく玉川上水沿いに井の頭公園を通り、山本有三記念館や三鷹の街まで出かけたものです。

本日新刊届きました。ありがとうございました。これからゆっくり読ませていただきます。上・下刊代金四千円は新宿の郵便局より振り込みました。

友人の朗読グループは今年は「小熊秀雄」作品に取り組んでおり、本日児童館の子ども達や先生たちの前で初演の運びとなりました。私は勤務がありますので、なかなか参加できないのですが、土曜日や日曜日に稽古があるときのみ行っております。

主婦や高校の教師、それに六〇歳代・七〇歳代のメンバーもおり、本当に熱心でユニークなグループです。

六〇代・七〇代の方達が茨木のり子氏の詩などを朗読すると、これはもう私たちにはとても勝てない味を感じさせてくれます。(ちなみに私はもう二世代ほど若い生まれです。)

昨年は出雲弁による昔話・不肖私の作を児童館で数回演じる機会がありました。読書で新しい作品に出会うことは、本当に新しい友人を得るのに似て、うれしいものですね。

寒かったり、暑かったりで、まったく気候が安定しませんが、どうか健康第一にご自愛くださいませ。そして、ますますの創造を。まずはお礼まで。

 

* 新しい読者に恵まれて作品を介した出逢いがはじまるのは「湖の本」ならではの嬉しい功徳である。

2004 6・9 33

 

 

* もう下巻M刷り上がったと通知が来た。さ、十四日には出来本が到着するかどうか。絵が一枚入っている。予期したより、半ば諦めていたよりは、うまく刷れている。原画の半分ほどなので効果も半減するかと恐れていた。まずまず、安堵。

2004 6・10 33

 

 

* ご本、上巻をよみました。読みやすく、興味深く。下巻が待ちどうしいです。  大阪府

 

* 画家からこういう反応のメールが早々届くと、さすがに嬉しい。もう上巻の払い込みが着実に入ってきている。下巻が出来次第、先ず上下巻「揃えて送る」べき人から送り出す。美術関係、大学の研究室など寄贈も多い。少しでも多く発送荷造りの用意を本の出来てくる前にしておきたい。上巻分の払い込まれた人たちの荷造り用意をして行かねばならない。作業を間違えると厄介である。

2004 6・10 33

 

 

* 実は、週末に部屋を片付けておりましたところ、以前お送りいただいた「湖の本」の未払いの振込み票が出てまいりました。本当に申し訳ございません。お送りいただいて、長くなった通勤時間拝読させていただきながら、すっかり忘れておりました.

今回の上下巻も、注文いたします。振込み先が同じであれば、未払いの振込み票で今回の分(4000円)と合わせて6000円振り込みいたします。よろしいでしょうか? なお私の住所は変わっておりません。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。どうぞよろしくお願いします。

新しい職場で一年経とうとしています。やっとここでのスケジュールが把握でき、やるべきことは具体化してきているのですが、自分の力不足に落ち込む日々が多々あります。

現在の研究室では、アイディア豊富な教授と意欲的な学生とともに、海中での**のでき方にヒントを得た微粒子の作成方法や、体の中で動く燃料**の開発といったチャレンジングなテーマに自分達のフィールドからのアプローチを試みています。なかなか刺激的な日々ですが、その分、自分の力を試される場面が非常に増えています。

また、ご連絡いたします。どうぞ、お体に気をつけて。   卒業生 教職

 

* わたしが東工大に教授室を持っていたころ、学生の男女比は13人に1人ぐらいであったと聞いた。一学年1300人はとてもいなかった。つまり一学年に女子は100人いなかった。或る年のわたしの文学概論受講登録者が、千人に三人ほど少なかった時など、女子学生を根こそぎ持って行ったと謂われた。優秀な大勢の女子学生を事実よく覚えている。この人は、いずれ教授になってゆく人で、少なくもそういう女性研究者が「湖の本」の読者に二人いる。小気味よく人柄も勉学も優れていた。思い出すだけでも気持ちがすかっとする。

 

* 湖の本 通算第80巻 誠におめでとうございます。 興味をそそられるすばらしい内容のご配本を有り難うございます。楽しみに心をいれて読ませていただきます。18年の長きにわたり 途絶えることなくお続けになられ ご立派そのものでございます。心ばかり、振り込ませていただきます。 彧

 

* プロの画家である。いろいろに励まされてきた。

2004 6・10 33

 

 

* 雨風は大丈夫でしたか。  お気楽雀も、体調を保つのにまごつくこのところの気候です。

ひとつひとつの作業を篤実になさる秦さんのこと。長雨から暑さに向かう時節、お疲れを残されませんよう、おからだ案じます。ご本が少々とどこおっても、お元気でいてくださることが、一番の大事。お仕事調整なさって、どうか毎日お健やかにいらしてください。

* 感謝。とはいえ、これは新刊の督促でもあろうか。じつは今回に限り相次いで上下巻を造ったので、代金を前もって予納してくださっている方々には上下一包で同時に送らせてもらうことにしたのである。本来先に送られるべきが下巻の出来を待っている。手間も省け送料もじつは大きく省けるので、たださえ厳しい版元として、少し息が付ける。二冊一度に送りつけても苦情のでない人にもそうさせてもらっているが、つまりはまだ上巻すら届いていない。下巻は週明けの月曜に出来る。

今日明日は、その上下巻一緒の発送先への予備的な作業をしておくことで、万一にも間違いのでないようにしたい。その用意が出来ると思いついたので、今から取り組む。結句、それが私たちのからだのラクにつながる。あすの京都の同窓会は断念。

 

* 大変ごぶさたしております。湖の本、お送りくださいましてありがとうございました。まことに勝手ながら、振込みは月曜にさせていただきたく、よろしくお願い致します。母がバスで転び骨折しまして、ばたばたしておりました。

私もいろいろありましたが、知人の紹介で転職しました。区の役所が運営している、**サニーホールというところで働いています。お芝居や落語やコンサートのお手伝いをしています。

いろいろご心配をおかけしましたが、これでなんとかやっていけそうです。ありがとうございました。 田園調布

 

* 朗報。旅行業社の勤務は時間的にも過剰で、この人には向かないであろうと案じていた。お母上の骨折はまさに痛い事態だが、母一人子一人で長くやってきて、しかも現在家庭内にこじれた問題を抱えていると聞いてきた。そういう人が意外に少なくないのではないか。この人もそんななかで創作を続けている。

2004 6・12 33

 

 

* 作業に集中しているアッという間に、夕過ぎてきた。あともう一日有り、発送前にかなり手を尽くしておける。もっとも「ペン電子文藝館」の方はほぼ完全にストップしている。

2004 6・12 33

 

 

* 元気です。秦先生。連絡せず、申し訳ありません。僕は元気にやっています。

4月に先生に言われたことを糧に、自分改造計画実施中です。面白い自分へ。

それは、2-3月に先生に言われたこと、「相手に誠意を尽くし、自分にも誠意尽くす。」という言葉を基に、さらには「心ではなく、身体で」という言葉を基に、生活を組み立てるということになると思います。

仕事も多忙を極めておりますが、驚くほど順調で、自分が仕事できる(と、思える)環境が急激に整いつつあります。昨年来喧嘩ばかりだった上司も私の能力を認めつつあり、ほとんど任せきりの状態になっております。昨年後半がウソのようです。(笑)

今思えば、何かが完全に狂っていたのでしょう。

悔やむことはありませんが、生きていくということはわからないなぁ、とつくづく思います。

そう、ホントに悔いてはいません。たまに「なぜ?」と、思い気分が重くなりますが、なぜという理由もないのだと思い始めています。

それは、過去に向かって「なぜ」と問いかけることが無意味なのではないか、と感じているからかもしれません。

「なぜ?」は現在に向かって問わねばなりません。刻一刻と変わる現在に問いつづけることしか意味がないと感じ始めています。

とすれば、なぜと問うことは、答えを未来に見つけることに他ならないのではないでしょうか。

先生の言われたように、僕は多くのことを学んだのかもしれません。

あとは面白い、穏やかなパートナーに早くめぐり会いたいですなぁ。

話は変わりますが、先生の長編ものすごく楽しみにしています。以前、先生と○と話をしたときに、「退官されたら小説を書くとおっしゃっていたのに、実行されていない。是非、長編を書いてほしい」と、先生に伝えたことがあります。

そのとき、先生は「これから長編を書くなら傑作以外書く意味がない。」と、おっしゃってました。僕はその時、言葉を理解できませんでした。今でも「本当にそうだろうか」と、考えています。

確かに傑作を創る気がなければどんな場合もダメだと思います。しかし、それでも「今、ここ」にいる、先生や私の表現はされるべきではないか、と思います。

その疑問に応えるように、こうやって長編を先生は書かれたのですから、小説の中に答えがあるのだと思います。

その答えとはなんなのか、これを知りたい。

小説という「作品」と、秦恒平という「小説家」の独立した二つの事柄及び、その関係という点で、非常に興味深い読み物と期待しております。

では。

 

* ウーム と唸っています。答を「未来」に求めるかどうかは措くが、『「なぜ?」は現在に向かって問わねばなりません。刻一刻と変わる現在に問いつづけることしか意味がないと感じ始めています。』はいい帰結であると思われる。歴史に学ぶのはいいが、自身の過去に問う姿勢は危うい。自身は「今・此処」に在る。

2004 6・12 33

 

 

* 明日からの用意に、やはり今日めいっぱいかかりそう。今週、どんなアンバイにことが運ぶか、見当が付かない。明日何時に本が届くか、それが関ヶ原だ。早めに来てくれると有り難い、明後日昼過ぎまでしっかり時間を掛けられれば、見通しがたちそう。いい製本で届くことも大事な鍵。明日以降、月、火、水、木、土、月、火といろんな予定が並んでいる。会議が二つ、会合が二つ、いわば祝日が一日、そして歌舞伎座と俳優座。合間を縫い取るこんな発送作業は、全八十巻に、過去例が思い出せない。

 

* 新作長編小説の上巻を拝受、お礼申し上げます。主人公の妻が逝くなったあたりを読んでいます。人生の一番辛い場面です。後半と下巻の小説の展開をはらはらしながら楽しみにしています。

春の創画展に橋田二朗先生の作品が無く、係りの人に尋ねましたが、ご体調優れないのでは、こんな事ははじめてです、と。すぐ、ハガキでお尋ねさせていただきました。気にかかっていながら其の後はご無礼のままです。お元気に秋期展のご創作に掛かっておられるのかと改めてご健勝を念じております。

私語の刻 毎日楽しみに拝読させて頂いています。6月9日以降、今日はもう3回開いていますが止まったままになっています。私のパソコンの不具合かと、或いは先生の機械の具合か、など、気になります。思いきってお問い合わせする次第です。

梅雨の晴間、今日は快適な一日になっています。ご無理なさいませぬようお大切にお過ごしください。 和歌山

 

 

* 「湖の本」ご発送におおわらわのことと 拝察 ご苦労さまでございます。 お送り頂きました『お父さん、絵を描いてください』 早速読ませていただきました。

すばらしい。ずらしく一気に読みました。なんと内容のある! 即座に何カ所も私、ノートに書きとめました。レベルの高い 読みごたえのあるすばらしいものでした。 文才のない私が申し上げるのです。

共鳴するところも沢山でてきたようでした。 嬉しくもあり励まされたりもあり 心が透きとうるようでした。画家に一度でもいい お会いしたくもなりました。 一人で暖かく胸に大事にしまっておきたい! そんな今の心境です。

こんなにすばらしい、期待以上のご配本を、心から感謝いたします。  横浜市

2004 6・13 33

 

 

* 漸く、ここまではと予定したところまでの用意が出来た。夕食は近所の小さなフランス料理の店へ出た。こぢんまりとして気の置けない美味しい実質的な店で、赤いワインのデキャンタがよく効いた。デザートまでも、実意満点のしかもスリッパ履きの普段着で行けるのが有り難い。鬚もじゃ。しかし元気が出て、夕食後に一気に残り仕事を捗らせた。

さあ、あした。

2004 6・13 33

 

 

*  先週の日曜日は、雨の世田谷文学館に行ってまいりました。

そこで行われた大学の同窓生の小さな会合で、「湖の本」について少し紹介させていただいたところ、注文がありました。どうぞよろしくお願い申し上げます。

27「誘惑」   代金は私のほうにご請求ください。

実は六月九日、娘に赤ちゃんが生まれ、昨日退院。先方のご両親もいらして、大騒ぎです。改めてゆっくりメールします。  川崎市

 

* おばあちゃんの誕生。おめでとう。

2004 6・13 33

 

 

* 「江戸文学」三十号が贈られてきて、ああもうこんなになるかと驚いている。「湖の本」が八十巻、十八年。われながら信じられない。この午前中にも出来て我が家に届く予定。それからが、我が家は戦場。

2004 6・14 33

 

 

* ぬけるような青空が広がっています。

ベランダに這わそうと蒔いたゴーヤの種に本葉が出ました。こちらでもたくさん採れるようなので、成長が楽しみです。

”遠いので「来て!」っていうのじゃなく「元気よ」と知らせたかったの。関東方面にお知り合いがありましたらご連絡くださるとありがたいのですが、よろしくネ。”

お友達の田所米子さんからいただいた、東京・銀座で開かれる個展の案内状の添え書きです。五十八歳から三十年間描いてこられた作品(絵)の一部を展示される由。彼女とは新聞の投稿欄が縁でのお付き合いですが、まだ一度もお目にかかったことがないの。卯建の町並みで有名な、阿波・脇町に在住。

スケジュール過密な週に重なっていますけれど、もしお近くを通りすがりにでも、お時間がゆるされますならばお立ち寄りいただければ、米子さんも励みになることと思い、ご案内させていただきました。

「寂しくても」が画面から消えて久しく、それこそ「寂しく」思っていましたけれど、「お父さん…」で再会できるんですね。どのように推敲されているのか、それも楽しみの一つですの。待ちわびて過ごすのも嬉しいもの。  花籠

2004 6・14 33

 

 

* 本は午後一時過ぎて届いた。息もつかず、夕刻過ぎまでに二度にわたり発送し、明日に備えて夕刻後も、めいっぱい頑張って、予定の処まで、かなりきつかったがし遂げて、やっと今し方汗を流してきた。明日の午前中さらに続行、なにしろ一包みに上下巻を間違いなく封入しなくてはならぬ荷が多く、そのために昨日と一昨日の用意が誠に効果的だった。封筒に、予めビニ袋入りの上巻と挨拶などを封入しておいたので、それへ下巻を追加すればよく、間違えるという心配がきれいに解消していた。ちょっとした工夫が能率をあげる。そんなことは勤務の昔、いつも工夫していた。そうして自分の時間を産み出していた。昔は「時は金」と思っていたが、今は、「時は体力」だとつくづく思う。本はほんとに重い。

 

* 明日は午後が理事会。一時過ぎまでは家で作業出来る。

 

* キッチンに、作業机を兼ねて両袖の引き出せる、常は円い食卓を特注しておいたのが、今回の発送から大いに役立ってくれた。大方は「やまと」が運んでいったが、荷造りして郵便局からのもある。それは明日理事会へ出がけに郵便局に寄って渡してゆく。

2004 6・14 33

 

 

* 上巻の支払い通知が、もうどんどん届いている。来た分からすぐ下巻を送ってゆく作業も、ことに一日に数多く殺到するここ十日ほどが、なかなか大変だ。久しぶりの書き下ろし長編小説ということで、喜んで貰っているとともに、かなり様変わりの「藝術家小説」で「創作の具体と生活」とが厳しく綯い交ぜられながら出てくるなど、珍しがられてもいる。『慈子』や『秘色』や『みごもりの湖』とはよほど作風も作柄も様変わりがしている。ま、おなじようなことは書かなかったというコトで、満足はしているのである。払込票に書き込まれてくる感想もちからづよく、下巻が待ち遠しいというほど、夜通しも厭わず上巻を読んでしまいましたと行ってくる読者も何人もある。

有り難い。

2004 6・14 33

 

 

* 午過ぎまで奮励努力。各界寄贈分を全部送り出した。

2004 6・15 33

 

 

* ご本が届きました。ひさびさの、小説。しかも、書き下ろし。それに、よほど推敲なさったご様子。

もっとはやい時刻に届いたのですが、読み始めたら引き込まれてしまって…いつも、届けられるご本に、秦さんの体温、血肉を感じるのですが、今回は、特に。東寺の梵天&帝釈天の、腕の感じがいたしました。

 

* この梵天帝釈の謎かけはむずかしい。ん ? わからない。

 

* こんばんは。河村です。少々遅くなってしまいましたが、本日4000円入金いたしました。

現在上巻を読み進めております。確かに私の胸に響くところあり、毎日少しずつ楽しみに読んでいます。

さて、来週末(6月25日)に引っ越すことになりました。実は、先生のお住まいの保谷のご近所です。

また、先生には大変ご心配をおかけしておりましたが、結婚することとなりました。改めて正式にご報告させていただきます。

最近、真夏のような陽気など、気温の変化が激しく、お身体にはお気をつけください。

 

* 青葉うつ音もかぐはし慈雨の季(とき)   遠  おめでとう。

 

* 合気道のチャンピオンであった河村浩一君は、スペイン遊学の成果を生かして、今は、特定非営利活動(NPO)法人 スペイン文化交流センターサラマンカ の理事長である。教室の頃から真に頼もしい人だった。

メール:npo.salamanca@mail-box.jp

HP:http://www3.to/salamanca/

2004 6・15 33

 

 

* 発送、会議とお忙しく。 肩凝り少しよくなりましたでしょうか。五十肩はお産より痛いという人もいるくらいですから、本当に痛めてしまう前に対策をとって、どうぞ大切になさってください。

湖の本、昼頃届いていました。ありがとうございます。

上下巻を見ただけでずしりとしていました。読む前から本の重さにうちのめされそうに感じました。

本は不思議なもので、本相のようなものがありますね。学術書であれ小説であれ佳い本にはオーラのようなものがあります。外観を見ただけでもわかるのです。凄い作品を書かれたことに頭をたれました。

すぐに読み初めて、夜の十一時頃読了しました。ご本をこのように早く読むのはいけないことなのですが、ついつい止まらなくて一気に最後まで読んで、今は深いため息をついています。かなりまいっています。

感想はまだまとまりませんが、何度も読み返してそのうちお送りします。

とりあえずこの重厚な作品、ほんものの作品、に対する讃辞を捧げ、作品と関係のない部分でのミーハーな感想を。

下巻に挿入された肖像、挿絵にしても佳さが失われていません。感動しました。作品を読み続けて最後の最後にそのデッサンを見るとたまらずに泣けてきます……。

お写真一枚持っていませんし持ってはいけないように感じますが、秘かに、いつもこのデッサンを眺めていくのでしょうね。この繪のような人が大好きです。

すこし寂しいメールになりました。原題は「寂しくても」でしたからいたしかたありません。お許しください。

今夜はいつもよりお酒をたくさん飲まないと眠れそうにありません。色々な思考で心乱れています。とりあえず、おやすみなさい。  東京都

2004 6・15 33

 

 

* 昨日、「湖(うみ)の本」48・49を拝受いたしました。ありがとうございます。

日本ペンの論議の方が先に眼に止まり、読ませていただきました。深くこころに沁みるものを感じました。本当に大変な時代になったものです。思考回路の短絡した政治家たちは、このままではきっと日本を、又アジアを巻き添えにしていよいよ深い末法の世を氾濫させることでしょう。

何もできない者が、ただ共感しているだけで恥ずかしいかぎりですが、大いな力を頂いていることがお知らせしたくてメールしています。どうぞ大切になさって、さらなる力を賜りますよう、こころから念じています。 合掌  東京都

 

* 昨日午後、本が届きました。少しずつゆっくり読みます。以前「早や読み?」して叱られましたからね。

絵が、本の最後に載せられて・・・

作品に関してはもう既に多くの方が書かれていることでしょう。リヒターのことなど書かれ、懐かしく嬉しいことです・・。

土曜日は教室に出かけた以外、このところ毎日篭ってばかりです。今日は斑鳩寺に絵を描きに行きます。今年は絵画部の係りになって否応なく責任がかかってきましたので・・半ば義務なのですが。

どうぞ健やかにお過ごしください。  兵庫県

 

*『お父うさん、繪を描いてください』 確かに拝受いたしました。ずっしりと 上下巻 手ごたえのあるもので、「寂しくても」で拝見していた終わりのころのページをめくり、上巻に戻りました。

「寂しくても」をお書きになっていたころは、私にとっても「湖の本」との出会いがあり、思い出深いころです。

いずれ未熟な画家であるイタリアの娘にも送りたいと思っています。ありがとうございました。  川崎市

 

* ありがとうございます! 『お父さん、繪を描いてください』

学生とディスカッションでやりあって、へとへとになって帰ってきたところに届いていた、2冊。すぐに読もうかとも思いましたが、”一気に読んでしまいました”という感想が多数寄せられていましたので、我慢して今朝の通勤電車の中から読み始めました。

これでしばらく私の苦痛(=通勤)は軽減されます。乗り過ごさないように気をつけます...。

また,ご連絡申し上げます。ひとまずお礼まで。 大田区              2004 6・16 33

 

 

* すっかり暑くなりましたね。まだ湿気が少ないので過ごし易いけれど。

ご本、届きました。ありがとうございました。ゆっくり読ませていただきます。

お忙しい最中のようですが、へとへとになっていませんように。  愛知県

2004 6・16 33

 

 

* 「湖の本」大記念、書下ろし長編小説上下巻、上梓おめでとうございます。毎々お送りいただきありがとうございます。じっくり、長尺の絵巻をひもとくように、引首、本紙、跋まで、あるいは手鑑のように、コラージュのように鑑賞いたします。

まず一時間ほど速読してみました。事実も、虚実も、仮託も、実名、仮名もいりまじり、、、、懐かしい先亡の名前も散見します。これからじっくり読ませていただきます、読みかけ、読まぬまま積んであるたくさんの藝術、美術論、美術関連の翻訳小説、評論などに先きんじて読みたい衝動に駆られております。実は、読みたくて、書きたくて、描きたくて、歌いたくてうずうずしておりました。

毎々お送りいただき恐縮しており、いずれまとめてと思っておりますが、お手間のわずかにでもと送金しました。お恥ずかしい限りですが、ご査収ください。

昨夜の思い立っての「蛍見物」ははずれでしたが、二人そろい、湧水に足を浸し、顔を洗い晴れ晴れと清まりました。今宵は、二人そろい実に半年ぶりに六時台にありあわせの夕餉をとりました。妻は用向きで出かけ、私は一仕事、帰って、終えて寝しなの一杯です。西瓜の残りの即席漬け、芽かぶの酢のもの、みょうがとしょうがを刻み入れ、ともに冷蔵庫に冷やしてあります。

たまに冷酒といきますか。「蛍の宿は川端柳、、、、」。久々に、続けて、短夜のゆたかな心もちです。ありがとうございました。ご自愛ください。  西多摩

 

* さて夕食後は、今日届いた払い込み分の挨拶を書き、宛名を封筒に貼って、明日には送り出せるように。それに十一時半までかかった。芝居の感想もそれから書いた。疲れて、肩から首筋が盛り上がるように凝っている。風の柔らかな日の当たりたる枯れ野に沈んできたい。さっきから、シク、シクっ、と歯に痛みが来ている。

明日からはひろく大学や図書館や研究室への寄贈本の発送も始める。もう、とうに日付は変わり二時に成ろうとしている。深夜遅くに隣棟に建日子が帰ってくるというが、わたしは眠ろう。

2004 6・16 33

 

 

* 五時半、寄贈本の発送を終えた。終えてみて、順調に送れたことに少し我ながら驚いている。用意がよかった。じつは読者へは下巻の未送が残っているが、これはむしろ或る程度上巻との間隔を開けた方がイイ人達なので、追々に送って行けば事は足りる。

建日子が夜前のうちに隣へ帰っていて、昼飯を一緒にし、晩飯も済ませてから仕事場へ戻ると言っている。今夕は太宰治賞の授賞式とパーティなのだが、ま、息子と付き合って、彼は車の運転があるから呑まないが、わたしは木田安彦にもらったワインか、萬歳楽の純米古酒かで気分をよくしよう。妻は桜桃もちょっと仕入れてきてくれたらしい。これで肩の凝りも少しずつ退散してくれるだろう。

上巻をもう五度も繰り返し読んだという、画家の便りが来ている。鑑賞家とは違い、ほんとうの描き手には今度の本は刺激的であるにちがいない。

2004 6・17 33

 

 

* 十時前 作業は現在進行形に追いついた。あとは成り行きに自然について送って行けば済む。ジャッキー・チェンの映画は少しばかばかしく、テレビの前を離れてきた。とても眠い。昏睡しそう。

でも、いよいよ日常の仕事と「ペン電子文藝館」とに戻って行く。

2004 6・17 33

 

 

* 発送はお済みになりましたか。ゆっくり肩凝りをほぐされますように。

『お父さん、繪を描いてください』の山名の妻や、『聖家族』の婿など異様な人との格闘を、私ほど共感を持って納得している読者は、そう多くないでしょう。私は啓子や吉村ふうの人間に苦しみぬいてきました。

啓子が死んでも解放されなかった画家山名の悲劇は、今の私の状況と似ていなくもありません。

ある作家の方が「寅さん」の映画を観ることができないと書いていました。笑うどころか、家族に問題を起こす人物と思うだけで震え上がってしまうと。こういう人が一人いるだけで、周囲をめちゃちゃにします。人生によくあることと言えばそれまでですが。   それでもいつも大きな幸福の中に自分はいると思っています。半端でない苦しみも、愛と幸福の一部です。  東京都

 

* ふうと肩で息をしながら、十日余の奮闘からようやく解放された気で居る。それでいて、なにの衝撃波に打たれているのか、からっぽになった胃の腑にどっとモノが殺到しているように、いま、わたしは少々落ち着かないでいる。

或る意味で危険な、「バケツ、ぶッちゃけ」衝動に近い。なにもかもぶッちゃけてカラッポになりたいと思うのである。西行が可愛い娘を床下へ蹴ッころがして出家したという話を思い出すと、西行さんに失礼ながら、バケツをぶッちゃけたかと想ったものだ。

とにかく胃の腑がビリビリしている。ながいながい坂道をへとへとに駆け上ってきて意外と平凡な峠の景色をふと見てしまった「悔い」のようなものが有るのだろうか。

なにも、そんなたいそうなハナシではないだろう。出来るだろうかと思っていたことが出来てしまった解放の反動に、心身が小刻みに揺れて船酔いに似た気分なのだろう。何であれ、今は衝動的に「バケツ、ぶっちゃけ」をやらかしかねない。あぶないのは、メール。何を書くかわからんという気分。変調メールが舞い込んだら、秦はいま狂っていると想ってください。

2004 6・18 33

 

 

* 明石の鈴木和明君に手紙を添えて、新刊の上下を送った。十三日の高校同窓会で新刊が話題になり、読みたいと、西村肇氏を介し注文があった。西村氏は創刊以来の有り難い継続読者で、染織の「千総」の重役。粟田小学校を出、わたしとは新制中学と高校で同窓だった。とても親切な気配りの温かい友人。

鈴木君は幼稚園、小学校、中学、高校、大学までずうっと一緒だった。その後、音信不通であったが、忘れがたい恩のある幼なじみ。わたしの読書暦を繙くときにこの君の自宅の部屋は、さながらわたしには宝庫であった。見たこともない児童文学の揃い物などが書棚にざっと収容されていた。

三条大通りに面した、度量衡機器のあれは問屋なのかなんだか、間口の広い大きな大きな家の息子で、彼の私室は、うろ覚えながらかなり高い三階か四階の上の方にあった。高い梯子段をのぼって行った。

わたしはだいたいよその家にあがりこむタチではなかったが、本があると知れば遠慮しなかった。いや遠慮も何もなかったと謂うべきか。借りて帰れない本であれば、主人公はそっちのけで読みふけり、読みきるとくるりと元へ戻って二度読まないと返さなかった。夕餉の時刻で鈴木君が階下から食事に呼ばれようが、お構いなくと気にもせず、彼の部屋に残って読みふけってから、さよならした。わたしはそういう有り難くない押しかけの客であった。鈴木君の部屋でわたしは初めて山本有三や小川未明の作品を覚えたのである。本はハードカバーの堅い手触りと印象とを強いたけれども、そんな本の存在も知らなかった小学生のわたしには、カルチャーショックも新鮮であった。

そういう遥かに遠い遠い昔の友人から、湖の本創刊十八年・八十巻への初注文が届いたのである。

 

* 先日、水道橋の宝生能楽堂で「蝉丸」を演じた藤原治代さんから電話が来て、暫く話した。たしか仏文系出版社の社長夫人ではなかったか、以前、竹取物語を話しに京の嵯峨へ行き、渡月橋畔の大きな旅館でラボ講演した日の懇親会でも、たいへんお世話になった。この人も「湖の本」の当初来の有り難い継続読者のお一人である。

 

* 湖の本48,49頂きました。有難う存じます。

絵、および画家とは小生もかなり付き合いがあり、面白く拝読できそうな予感があります。

HPも興味深く拝見しています。小泉(総理)への思いなぞ全く賛成です。お礼まで。   東京都

 

* 画家と作家については、ある事柄や人物を、角度をすこしかえて、書かれていると感じ、その両方から、透けてくるのは、生きつづける苦味です。エールは、作家健在、まだまだ次が期待できそうと。  大阪府

 

* この画家には、もう少し踏み込んだ批評や感想が欲しかった。

 

* 秦恒平様

『お父さん、繪を描いてください』を一気に読ませて頂きました。

私の場合、自分が日頃繪を描いている人間として、色々様々な思いが頭の中をかけ巡る小説でした。それは、ある意味で、美を求める人間の共通の悩み苦しみが書かれているからであり、そしてまた、自分自身の生き方を改めて問う小説でもあると感じましたから。そういう意味で、よく書かれている本ではないかと思いました。(小説のことには門外漢ですが。)

手紙文ということで、文章が平易であり分かりやすい。そして、画家の繪が具体的にどのようなものであるかが、非常にイメージしやすく書かれていて感心しました。ドローイングの説明なども、目に浮かんできます。絵画界のことなども、実際にその世界に身を置いた人でないと分からないことまで書かれている感じがあり、そして、また実際のボールペンの繪が素晴らしい! 絵が入っているとは思いも寄らなかったので、その驚きはひとしおのものでしたよ。特に私は秦さんを知っているので、余計この繪の凄さが分かると思います。

また、ヒロインの伏線は面白かった。

ジャコメッティ、カラヴァジオ、フェルメール、ド・ラトゥール……など私の好きな作家がならんでいたので、嬉しかったです。バッハは大好きです。グールドも時に聞きますが、この画家のように理解は出来ない段階にいます。

ここから少し勝手な感想を述べさせて下さい。的はずれであることを承知でお許し下さいね。

ひとつは、繪を描くにしても小説を書くにしても、人生の様々な苦しい体験は、ただ邪魔なだけのものでは決してないはずだと思うのですが、この画家の家庭の不幸が、それを昇華するところまでいかずに彼が死んでしまうことです。寂しくても……「生きる」というのが、藝術家としての孤独の意味ではないでしょうか。たとえ繪を描かなくとも、彼がその苦しみを外からの意識ではなく、胸に抱き取る形で受け入れ、超越できる心境までいって欲しいでしたが。 (でもこの問題は、きっと最後の切り札であって、死で締め括ったという潔ぎよさもあるのかも知れないですね。門外漢の私には難しい問題です。)

もうひとつ私が深く疑問に思ったのは、繪の技法や繪に向かう態度です。これは、小説の中の幸田氏と山名氏の考えに対する私の考えですから、別に小説が良いとか悪いとかの問題とは別問題ですが、ちょっと書いてみます。

例えば、17世紀のスペインリアリズムの繪を、ただ技法のみで見るのはどうでしょうか。これはやはり宗教との関係で生まれた写実であって、神の存在をすべての細部に見るひとつの方法だと思うのです。私のやっている北方ルネッサンスのファン・アイクやメムリンクなどが使っている技法もそうですが、これらは全て宗教画から発しています、現代の私達がその技法を使う意味は、そういう細密の表現を使って表現したいものを持っているから使うのであって、抽象で表現したいものを持っている人は、その表現方法を使うのだと思うのです。

私の場合は、私の繪を祭壇画というふうに考えて静物画を描いています。何故祭壇に惹かれるかは、やばり親を亡くしていることが大きく関わっています。

しかし、この作中画家の発想は、自分の内なる表現したいものをさしおいて技法に拘わっているように感じられる。これは逆ではないでしょうか。創作する者は、もごもごとして表現したいものを内に抱えていて出口を探しています。その内なるものを明確にしていく過程をより重点的に見つめることが、技法を決,定するのだと思うのです。秦さんの場合はその出口を「言葉」に見出し、その中でも「小説」の部門を選択した訳ではないでしょうか。

でも確かに繪を描くということは、体力も場所も材料費もかかります。しかし、スプーン1本を描いても素晴らしい繪を描くことも出来る世界なのです。〈誰の繪か忘れました。) そこには技法を超えた世界がある、と思います。勿論、技術が上手であることは大いに助けにはなりますが、「上手」であるが故に繪に魅力がなくなる.場合もあるわけで、作中の赤井画伯はその例でしょう。最も重要なのは、内面であり、また繪に写真を使ったとしても、それはその表現方法で自分を表現している「繪」なのだと思います。ただ内なるものを表現する意図を失っている空疎な繪が多いことも確かですが。 (こんな大きなことを言っ) て、「お前の絵は何だ!」と言われそうですね。批評は、確かに双刃の剣です。この言葉の使い方はあっていますか?)

もうひとつ、これは冗談だと思って下さい。

「お父さん、繪を描いてください」のタイトル、私なら「闇への供物――或る幻の画家の慟哭」としてみたい。ちょっと大げさですね。すみません。

以上、勝手なことを書き連ねましたが、どうぞお許し下さい。

どうぞますますお元気で、創造の道を歩まれ.ますように、心からお祈りしています。 2004・6・17

 

* 詩集のある詩人であり、また画家でもある義妹の、妻の妹の、こうあらたまった批評をもらったのは、これが初めてだと思う。ちなみに彼女らの兄は、あの大流行した「おじいさんの大きな古時計」の訳詞を書いた、亡き保富庚午である。

この批評、なかなか的をついている。

作中画家が家庭の苦悩を藝術家の動機として昇華させえず、技法への思索に深入りして自己破産して行く悲劇の意義は、ちゃんと見ている。この画家は、言葉で「考え」ることに力を振り絞って、創作の手が縮かんだ。頭がよすぎたと、作中の大パトロンは寸鉄の批評を下している。

むろんこの主人公画家はただ技法だけのために過去の美術史を学んでいたとは思わない。みずからも「宗教画的」な、優れて趣味の佳い祭壇画ふうの、しかもあざとくそれを感じさせない巧緻で透徹した繪をも、作中で描いていた。作者のわたしは、忘れずに書き込んだ。

義妹のあげている、あの美術史世代の絵画と信仰(キリスト教)との関わりは、通説でならそれに近いかも知れないが、また、まるで反対側から、別の批評も可能ではなかろうか。

「17世紀のスペインリアリズムの繪を、ただ技法のみで見るのはどうでしょうか。これはやはり宗教との関係で生まれた写実であって、神の存在をすべての細部に見るひとつの方法だと思うのです。私のやっている北方ルネッサンスのファン・アイクやメムリンクなどが使っている技法もそうですが、これらは全て宗教画から発しています、」とも確かに言いうるが、その半面、実はこの時代から、ことにものを透視し凝視する「眼の画家」達は、明らかに、神と教会への、人間的な対抗の自覚、批評の意欲、を持ち始めていたが、その効果なり過程なり結果なりとしての、あの「写真的な再現技術」の深化がはじまった、とも見られるのである。

造化の神の、秘蹟の皮を剥いでみせるほどの写真的肉薄と再現意欲とは、「近代」を予兆する、また新たな一つの「バベルの塔」に似た、あれよりも周到な科学的勘定を取り込んだ「倨傲の意欲」でもあった、という読みが可能なのではないか、と、それがわたしの理解である。

じつは、この作中画家が大切に名を挙げている(義妹も挙げている)多くの十七世紀以降の優れた画家達は、かつてルネサンス以前のジョットオらのようには、敬虔に信仰深い篤実のキリスト教徒たちではなかった、むしろ教会世界へ辛辣な批評を秘めた人間主義者か、皮肉な神への挑戦者であった要素が見て取れる、それほどに教会は堕落していた。彼等は持てる絵画性と絵筆とで、むしろ「神と張り合っていた」と謂えないか、むしろ科学への信仰こそがこの時代の優れた画家たちにほど、芽生え、そして発熱していた。

但し、その行き過ぎた結果として、いつしか、「技術はもの凄い」が「内面は凡庸」なエピゴーネン(追随者)等多くのいわばテクのマジシャンたちは、逆に、感動に値する人間味はも捉えきれず、わりとはやく次の歴史的な勢いの前に席を譲ってしまわねばならなかった。

だが譲られていった前期印象派の画家達も、本期の画家達も、みな思いの外にテクニシャンに終始し、彼等の人間理解が、深い意義を湛えて時代を盛り上げたというほどの実例は残せなかった。

つまりはこうである。ルネサンス以降の絵画史は、いわば「科学的な勘定の付け方」を、専ら「光と闇とのかねあい」による色彩主義で決着をはかった。セザンヌだけが例外であった。思いの外に彼等の関心は絵画表現の擬似科学に偏し、必ずしも、上に義妹の切言しているほどは、絵画自体が信仰的由来でも表現でもなく、さりとて優れて人間的であったともいいにくいほど、浅い薄い皮膚で掩われていたのである、と、わたしはその流れを理解している。

文学と絵画とを単純に較べれば、それはもう比較にならず絵画は精妙な技術であり、そのために絵画のプロほど、技術のはらんだトリックに自縄自縛されやすい。

今度の小説の主人公が、オイオイ、ヨセヨと言いたいほどの「藝大」人間であることは、その辺を日本風に象徴して余りあるかも知れない。画家山名の悲劇の根底は、じつは「東京藝大風画学」への拘りなのだと、作者のわたしは眺めていた。

義妹の、「写真画」に対する甘い肯定など、わたしは受け容れない。それはデッサンが出来ない、放棄していることを意味する。

また、繪画はたとえスプン一本を描いただけでも人を感動させるうる、それは真実であり、でも、何故なのかと説明しにくいのも事実である。「感動」に「技術」がどう関与してくるのか、とて割り切れたも説はが可能も思われない。しかしセザンヌのただ果物の繪や、安井曾太郎のただバラの繪に、わたしは感動する。だがなぜわたしを感動させるのか、分析は難しいしじつは必要だとは、少なくも美学という学問をエイヤと抛擲してしまったわたしは、考えようともしないのである。大事なのは、「感動できる、わたし自身の実在」である。

その「わたし自身」の思いから、この小説で、作者のわたしは、誠実な一人の作中画家を、死の渕へと無残に追いつめてしまった。

 

* 義妹は、とてもいい感想で、私の少し書いておきたかったことに、きっかけを呉れた。ありがとう。

 

* 福田恆存先生の奥さんから、また文藝春秋総務局長に転じた寺田英視さんから、手紙をもらっている。また画家の烏頭尾精氏からも。いずれも新刊の湖の本への声援。そして福田夫人は「古典愛読」蕪村の詩句中の「ハケ」に触れられ、「拝読しながらふと思ひ出しました事、戦後間もなく発表された大岡昇平さんの「武蔵野夫人」、あの女主人公の家のあるあたりを土地の人々は「はけ」と呼んで居た、と、そして大岡さんらしい克明な筆致で地形の描写をなさつていらしたやうな気が致します。遠い昔の記憶ですが……」と。この方にはこの様にしていろいろ教えて頂いている。

また寺田さんは「ペンの電子文藝館初めてのぞいてみました。氣の遠くなるやうな作業だつたと思ひます。お体特に眼を大切になさつて下さい」と。感謝。

 

* ず…ん、とくる肖像画ですわ。湿り気のある男の肌に、しとっと触れ添われた感じ。作品も、「わたし」でも「山名」でもなく「秦さん」がまるごと迫ってきました。吐き出しているとも、晒しているとも…バカね、と言われそうなほどに。ま、それは、これまでもずっとそうでしたけれど。正直で、いのちを思いやるあまりに、どうかしてしまいやしないか、シンパイになる。   奈良県

 

* 絵のことも、理論のことも、知識が乏しく、よくわからなくて、はっきりしたイメージを描きながら読むということができなくて残念ですが、引きずられるように上巻読みました。こんな手記を宛てて書ける相手がいるということは幸せだと思います。下巻を楽しみにしています。

「闇に言い置く」はいつも拝見しています。圧倒的なお仕事量、活動量、読書量、観劇・観映画、会議、おつきあいetc.etc...わたしの五~六倍の長さの一日を過ごしていらっしゃると感嘆しています。

また、新しい小説を書き始めてしまいました。書いていないと、不安で苦しくてたまりません。これはもう、依存症でしょうか。   大阪府

2004 6・18 33

 

 

* 本を出した当座は、メールも自然に賑わう。「ペン電子文藝館」に手がつけられなかったこの十日ほどに、仕事は溜まりに溜まってきた。

2004 6・18 33

 

 

* 朝一番に、山形の「あらき蕎麦」芦野又三さんから、輝くように照った桜桃を、たくさん贈っていただいた。太宰賞以来三十五年めの桜桃忌である。二度目の誕生日である。

この三十五年が小説家秦恒平のうえにどのようなものであったかは、まだ言うべき時ではない。無事にといっても多難にといっても真実に少しずつ逸れるだろう。心から言えることは、その半ば以上をわたしは「湖の本」作家でもあった、ありえたということ。十八年、八十巻の本を刊行し続けられた、そして記念の結び目に書き下ろしの長編小説を今しもおおかた送り出して、思い凪いで湖の空は晴れている。言うとすれば、わたしは幸せに過ごしてきた、自由に生きてきた、という二つだ。

 

* 以前は三鷹禅林寺での太宰治の会にも出たし、人山とカメラの放列に包まれて太宰治の墓参もしていた。今はもうひとりで、妻とふたりで、心入れの「さくらんぼ」を戴くだけでよい。

おりしも颱風は南海を北上していると。この季節にはそれもまた自然なこと。季節から受ける挨拶としては巨大に過ぎようとも、悪政から受ける被害の深刻にくらべれば、無心の戒めとして注意深く迎えるべきであろう。

2004 6・19 33

 

 

* ハッピーバースディ。  南洋から先駆けの風が吹いています。 「山更幽」の焼き印もこうばしい、末富の麩焼き煎餅でお薄をいただいたところです。

客愁三部作のとき、また「死から死へ」のとき、どないしはってんやろ、なんかあったんかしら? とドキドキして、日々、秦さんのご無事ばかり案じていたことがございました。

今回は、湖更幽と信じられる、ご本ですわ。

発送でへたってらしても、愛読者の方へ応えるのに、夜が朝になってらっしゃるのではございませんか。くれぐれもお大切に。 お幸せなお誕生日となりますようお祈りいたします。

 

*「末富」の麩焼き煎餅というのは逸品で、いつも京都で仕事をすると、お土産にスポンサーはこれを呉れる。簡素な缶につめられ、軽くて量があり、口に歩の甘くて歯触りやさしく、申し分のない京干菓子の名品である。

 

* 昨日の午後、ご本が海を渡って届きました。今日、三冊分の送金をいたしました。ありがとうございます。

いつからか、先生の文書とお言葉は自分の生きて行くため心の栄養となり、眠れない夜はいつも先生の「闇に言い置く」を拝読しました。「栄養」というよりも「糧」そのものになっているんだなあと、今回先生のご本を手にとってそう思っておりました。あらためて先生と出会え、先生の学生になれたことを感謝しています。

今日は大学で前期の中間テストをしました。残りの時間で「論語」の漢文を提示し、学生さんに文書を書かせました。今整理中で、近日またHPに載せるつもりでいます。第二外国語としての中国語語学の教育法を模索しながら授業を進めているのですが、私にとってもう一つの楽しみは、漢文を含む中国の文化を介して、学生たちと交流をはかることです。

東工大の大教室で先生の講義で「挨拶」などの課題を苦吟していた記憶が、まだ鮮明に心にやきついています、いろいろと真剣に考えさせられました。これから、できれば自分も学生たちと一緒に考えさせられるような質のよい学び場を作れたらいいなあと思っております。

強い台風六号がもうそこまで迫っています、沖縄本島は明日から明後日にかけて暴風域に入る予定です。

台風に見舞われる間、全身全霊、先生のご本に投入するつもりでおります。 かしこ

* 三十五年おめでとうございます。健康でありますように。

今日、こちらは曇りです。颱風のせいかも。

作業が山場を越えたのですね。これまで、ずっと気が張っていらしたのでしょう。緊張の糸がゆるんだとき、わたしは風邪などを引き易くなります。気をつけて下さいね。

 

* 今日の要発送分をもう送り出し、あまいおいしい桜桃に眼を細くしてよろこび、沢山の手紙を読み、うまい「口吉川」を越前の杯でこくこく呑んでいる。

阿川弘之さんから佳いお手紙と、新刊『亡き母や』を頂戴した。「久しぶりの新作私小説」と書かれていて、志賀直哉や瀧井孝作先生のお顔が思い浮かんで、懐かしく、嬉しかった。

東大名誉教授久保田淳さんからも、国文学を背景に『野あるき花ものがたり』の美しいエッセイ集を頂戴した。

また京都の造型美大教授で昔佳いインタビューをして下さった羽生清(きよ)さんかも、コスチュームと文学・文学者との関わりを描いた興味深い面白い新刊『装うこと生きること』を頂戴した。

ドナルド・キーンさん、彫刻家の清水九兵衛さん、作家の森詠さん、近藤富枝さん、中村義一さんらからもお便りを戴いた。「ご多用の日々の中、このような長編小説を書きつがれていたことに頭が下がります。『藝術家小説』は秦さんの真骨頂」と、もと講談社出版部長の天野敬子さんに言ってもらい、ほっと息をついた。

 

* もう一つ、この小説の核心にふれた重要な手紙が届いていて、それについては、もう少し適切な時間をおいてから此処にも書こうと思う。その手紙が手に届いてやっとこの仕事は「完結」と謂えると思っていた。それがこの記念の桜桃忌当日に速達でずしりと重く届いたことに、わたしは感慨を禁じ得ない。妻は読んで、感動し泣いた。

* 夕近くから二時間ほどソファで寝入っていた。この十日余り、本を手で扱い続け、重い荷にして玄関と台所との間を数限りなく往復した。まだ肩は堅いし腰にも痛みがある。急な斜面に仰臥してつるさがり、重みで突っ込んだ骨盤や背骨を牽引し延ばしてやりたいけれど。それでも今日は、ほっこりと気も休まった。穏和な一日になった。

2004 6・19 33

 

 

* このたびは、大変力のこもったご高著『お父さん、繪を描いてください』をご恵投たまわり、深謝のほかはございません。まず、お忙しいのにもかかわらず、なぜこれほど集中した作品ができるのかと、呆然といたしました。

先生の御作のなかでは比較的入りやすい導入のように見えますが、内容的にはずっしり重いもののような気がしてなりません。いわゆるヘビー級の本格小説ではないでしょうか。これからじっくり拝読させていただきます。いずれ感想など申し上げる機会があれば幸いです。

近況報告をいたしますと、こちらは4月の国立大学法人化をめぐり、恐ろしく忙しい日々が続いております。それもただ忙しいだけでなく、大学を企業化するような風潮が強く、営利活動よりも大切なものを求めて脱サラしたわたくしには納得のゆかぬことばかりです。

そのようななかで、専門研究では届かぬところを、少しずつ創作しております。いま、一冊、書き下ろした小説のゲラ待ちの段階で、秋口までには刊行のはずです。テーマは、平たく言えば「米帝国主義批判」ということになるでしょうが、「日本人のうちなるアメリカ」の一端を描ければと思いました。拙いものですが、刊行され次第お送りさせていただきます。

今後ともご指導のほど、よろしくお願いを申しあげます。   東京大学

2004 6・20 33

 

 

 

 

* 本日、「お父さん繪を描いて下さい」上下2巻を、折からの台風の雨音、風音の効果音? の中で読ませて頂きました。

「山名」氏は東京芸大、私は京都芸大、イラストレーターとテキスタイルデザイナー、実によく似た境遇で、私にとってはテーマが重く、何度も本を置きました。

ただ、幸いにも? 「山名」氏ほど芸術に対する執着はなかったので無事ですが、今回はこのテーマについては書きません。

「ホントのことですか」「そうです」

「フィクションでしょ」「あたりまえです」

と答えて読み手の好きに任せたい。

と書かれておられますが、京都で近所に住んでいて、同じ中学、高校を出たものにとっては、その部分が「ホント」だけに混乱してしまうのです。

でもこういう読み方は間違っているのでしょうね。

むしろ他の人より二倍楽しめる幸せをこそ喜ぶべきなのでしょう。

花見小路と新門前の角にあったビルは、おぼろげながら憶えておりますが、「檜さん」という家が本当にあったのかどうかは知るよしもありません。

ただ、あのあたりに住んでいた女の子の「ものいい」は懐かしく、お茶屋の「小野川」さん(本当は何という屋号なのか・・・)や鷺湯(これは本当ですね、家風呂が出来るまでこの風呂屋に通っていました)など、あのあたりの光景が目に浮かびました。(実は私の家は祇園甲部で三代続いたお茶屋でした。)

「山名」氏によるジャコメッティ風の、先生のデッサンは見事ですね。

誰が見てもまさに先生です。

おそらく最後に描き込まれたであろう左目の瞳の小さな○が、まさに画竜点睛。

描かれたのは「山名」氏ですか? とお聞きすると先生の術中に陥りそうなので、やめておきます。

京都  桂

最後の「山名」氏の通知簿の「学校長垣田五百次」を読んだとき、昨夜の晩飯のおかずも想い出せないのに、何故か白髪でチョビ髭の垣田校長の顔が浮かびました。人間の記憶はまったく不思議ですね。

 

* こういうメールを戴くと、想わずニコニコッとする。画伯もあの世でニコニコッとしているだろう。

 

* 読むほどに、数々の戦後同時代のある風景が目にちらつき、ゆっくりと道草食いながら、自分と重ねながら、仮想自叙伝を読んでいます。

その中でジャコメッテイ、ラ・トゥールの名前には驚きました。高校三年生の時に博多の美術館で「ルーブル展」があり、学校の授業のいっかんとして見に行きましたが、ラ・ツゥールの絵を初めて見ました。蝋燭の火と指の灯が素晴らしい印象に残り未だに僕の「炭火」として残っています。

絵を描かない画家。

多分絵を描かないのではなく、見えない「絵」をその画家は描いている。こころの奥底に。 川崎 E-OLD

 

* 下巻 しっかりと読ませていただきました。 有り難うございます。結末が意外でして、すこし落胆しております。山名画伯にぜひお会いしたかったのに。すばらしい大変なお力作で感動と敬意を強く感じました。  横浜

2004 6・21 33

 

 

* ご著書お送りいただき、有り難う御座いました。ちょうど『みごもりの湖』を読み終え『風の奏で』を開き始めたところでした。

『みごもりの湖』は、独特な重層的構成の新鮮さに驚き、その深みの底に隠水のようにありつづける、生も死も超えたいのちへの想いにひき込まれました。

身近な者を見送る度に、死の周辺は澄んだ鏡となってさまざまなものを映し出し。死はまたその人との新しい出逢いも見せてくれるように思っております。そのことを思いながら、お作の世界に浸らせていただいております。また、ことばへのこだわりにも惹かれます。この国には、こんなにも美しいひびきの言葉があったのだと噛みしめております。ありがとう御座いました。   さいたま市  作家

 

* 創刊満十八年に書下し長編を発表されましたことに、まず驚き、次いで「作品の後に」を拝読致しまして感動致しました。「小説でしかない小説」という御述懐とその実現は、小説家の究極的な志ではないかと拝察致しました。ペンクラブをめぐっての時務的な御発言などもこのような御実作の御精進があればこそ、現実的な説得力を帯びてこられることを確認致しました。御作の御完成に対し、心から敬服申上げお慶び申上げます。 編集者

 

* 福田歓一、大久保房男、坂本忠雄、馬場一雄氏らからいろいろに励ましを受けた。

 

* こんばんは。作品  一度読みとおしました。重いテーマがいくつも重なり、何度も胸が痛みました。心を病んだ人も身近にいただけに。なんども  なんども  読み返して行きたいと二冊のご本は枕元手の届くところにあります。今日はグレングールドのバッハを聴きながら休みます。遠い湖に想いを馳せながら。  北海道

 

* この日盛りに出ていくのに、日傘が行方不明、というより娘に取り違えて持って行かれたようです。もう!

とにかくこの天気のもと、あちこち元気で用を済ませてきます。クーラーの効いた歌舞伎座で優雅で贅沢な一日を過ごせるなんて、羨ましい。

*

歌舞伎は充分楽しまれたのでしょうね。どうぞ、連日のお出かけのお疲れがでませんように。

今日は暑さの中をあちこち歩いて、私はさすがに消耗しました。帰宅してしばらく寝込んでいたのです。おやすみなさい。みづうみのしずかにやさしい夢の中に入ります。       東京都

 

* 何であれ、肝腎なのは作品であり、作品を介して声がこう届いてくる。作品の質だけが読者の質も選んでくれるといえば、少しく傲慢の謗りを受けるだろうが、事実はそうなのである。その上澄みになって、ときおりこういう恋文の届くのは作者には心楽しい余録である。目に見えぬ一盞をかかげあうようなもの、絵空事はときに不壊のあたいをもつ。

 

* 幸いに、時は穏やかに流れている。すこしだけ「ペン電子文藝館」で「反戦作品」の意味をめぐって議論が起きかけているが、これは論議を重ねていいことの大事な一つ。

 

* 「お父さん、繪を描いてください」、私にはとても批評など無理です。でも感想なら書けそう、以下は文学にも繪にも素人の、私の感想です。

その一

この作品を読ませていただいた後からでは、あの「ひまわり」を私は書けなかったかもしれない、書いたとしても秦さんに見せる勇気が出なかったのではないか、と思いました。いずれにしても知らぬが佛で、有り難い巡り合わせでした。

その二

ホントの話かどうか、にはこだわらずに読みました。と言っても私も何処かで天才山名少年のそのような繪に出会っていたのではないか、「ひまわり」に出てくるスミコさんも当時関西美術院で繪を描いていたので”山名くん”に出会っていたのではないか、とか、ふと思いました。

とにかく私などとは比べものようなく、繪が上手、才能あった人のその後の人生の物語なので、辛く重い気持ちで読みました。

その三

高校生になって私が繪の道から逃避したのは、才能に自信がなかった他に、おぼろげにその道がとんでもない内面的に辛い人生に繋がっていそうな予感がしたからではないか、とも思います。

こちらならと踏み込んだ研究者志望の道も結局は同じ事で、繪ほど誰の目にも結果がはっきり見えはしないけれども、努力だけすればなんとかなる世界ではなかったのです。そこでまた私は逃避して、普通の暮らしに入りました。

結局自分はものごとを「まあ、こんなとこでええか」と済ましてしまえる”ええ加減な人間”で、それはそれで”才能”だったのかもしれません。だからその後に起こった困り事の中も、なんとなく泳いで行けたのかも。

山名氏も幸田氏も、ええ加減に出来ない人は、シンドイ人生しか営めないのだなあ、と–どういえば良いかわからないけれど–感じました。

その三

私は画家の若いときからの作品を一同に並べた展覧会をみるのが好きです。

まず思うのは、当たり前とは言え、子供の時からむちゃくちゃ繪がうまい、そしてものすごく練習というか努力して居られるなあ、と。

でも「作品」となるとその延長ではなく、突き抜けた世界が展開される。

その上、その世界を何度も崩して、新しい展開を見せている。

何という厳しい人生をこの人は選んでいるのだろう、すごいなあと恐ろしくなり、深く感じ入るのです。

そして、その恐ろしい世界に翻弄されたのが、この山名画伯なんだろうと思いました。

その四

山名画伯にとって京都は、日本人であることはどんな意味を持っていたのだろう。

私は美術の勉強はまるでしていないので、専門的なことはわかりません。

しかし、日本人にとって、最も西洋的な表現手段の油絵を描くと言うことは、どういうことだろうか。

20才代で私は幸運にもヨーロッパを旅することが出来ました。あこがれのパリも(たった2日間とは言え)歩きました。ルーブルもロンドンのナショナルギャラリーやテイトギャラリーも見ました。オランダではレンブラント、スペインではグレコ、ローマもバチカンも。

その時、もし自分が繪の勉強に来ていたのなら”描けなくなる”と思いました。

あまりにもそこは西洋で、東洋人の自分には簡単には入り込めない世界。そこへ油絵の具と筆を持って来て、自分はどうすれば良いのか——勿論勉強は出来る、沢山出来る、でも真似ではないヨーロッパ風でない自分の作品をどうやって描けばよいのかと、きっと悩むだろうなあと。

単なる旅行者である自分が、気楽に繪を見られる自分が、有り難かったのです。

その後そう言う目で日本の油絵画家の作品を見るようになりました。

どの作品からも、私が感じた悩みが伝わってくるし、それをきちんと越えてご自分の作品世界を創り出して居られて、さすが!と思うのです。あの小説にも出てくる須田先生の繪も、私にはそのように感じられます。

京都的なもの、山名画伯は京都に居たのは少しの期間ですから、これにとっつかまるより、むしろ、はじかれたのかも知れません。

”京都”を代表しているのが”幸田氏”や”京子さん”なのはよくわかりました。

その五

最後に意表をついてスケッチ画そのものが出てきて、嬉しいでした。

すごい趣向だと思いました。挿し絵ではなくて、これは本文なのだ。

繪で何が伝えられるか。沢山のことをこの絵が物語っていて、素晴らしいです。

その六

山名氏の家庭事情には、私はそれほど惹かれませんでした。

芸大を諦めた啓子さんの口惜しさは、わかるけれどもそれは珍しい話ではない。みんな沢山のものを諦めて、沢山のものにわずらわされて、生きているのです。みんな大変なのですが、何とかしている。それが生活というものでしょう。

何となく私は、小説では山名さんは死ぬが、モデルになった方はちゃんと生きている—-そんな気がする。そう思いたいのです。

ホントの話か、どうか—-こだわりは致しません。

以上がとりあえずの私の感想です。まだそれほど丁寧に読んだわけではないのです。正直、私には難しすぎる部分もありました。

でも、引きこまれてよみました。

この小説を読んでしまってから自分の繪を見ると、あまりにレベルの違う世界で「やれやれ、こんな繪描いててええのかいな」と情けなくもなりますが、それこそ、「まあ、ええやんか」と続けています。

2004/6/23      杉並区

 

* 待望していたメール。「挿し絵ではなくて、これは本文なのだ。」最高の批評でウムと大きく手をうち感謝した。さすがに、全面にわたり、自然体に率直に流露した感想、嬉しく読ませて貰った。

2004 6・23 33

 

 

* 慰霊の日   旅から戻り、手が切れそうに新しい御本二冊を郵便受けから取り出しました。力作、ゆっくり拝見します。

沖縄は慰霊の日。五十九年前沖縄本島で旧日本軍の組織的抵抗が終結した日です。今の首里城あたりでは、1平米当たり4-5発の砲弾が撃ち込まれた計算になるそうです。一人あたり52発の弾丸が飛んできたとも。その中を生き残ってきたおじい、おばあ達に長生きして欲しいと思います。そして、二度と砲弾を撃ち込まれない、また他国に撃ち込まない国であって欲しいと、思います。 maokat

 

* まことに。

 

* 『お父さん、繪を描いてください』の感想文を書いているのですが、読みやすいけれど、じつは読みの難しい作品ですね。そのうち支離滅裂な感想が届くと思いますが、どうぞお作の前で玉砕しているとお受け取りくださいますように。  東京都

2004 6・23 33

 

 

* 元東大教授山中裕さんから「『お父さん、繪を描いてください』、本当に美しい文章で、内容も豊富でしみじみと拝読しております。いつもこれだけのものを御執筆なさるのは大変なことと思われますが、さらに次の機会をも楽しみにお待ち致します。そのうち一度お目にかかりたいと思います」とお手紙を戴いた。この方にも、わたしは宿題をまだかかえている。書きたいこと、書かねばならんなあと抱え込んでいる主題が、まだ幾つも残っている。

和歌山の井領祥夫さんからも分厚いお手紙で励まして貰っている。

佐高信氏の「小泉純一郎を嗤う」また神坂次郎氏の新刊を頂戴した。神坂からは「湖の本」「脱帽あるのみです」と。また「ペン電子文藝館」の業績が理事会の「事業報告に漏れていたのは意外でした、ますますのご活躍を期待申し上げます」とも。

石川県の近代文学館長であった友人井口哲郎氏からも長い懇篤の手紙を戴いている。

2004 6・24 33

 

 

* 病院への時間が気になり五時に起きてしまった。三時間半ほどしか眠っていないが、機械へ来ると、以下の作品論が届いていてびっくりした。

この程度に読み込まれていれば、作者も、作中人物ももって瞑すべし。

筆者にしたがえば、二十枚ほどの長い批評であり感想であるが、よく把握されているからだろう、一行アキを生かして読みやすく分かりやすくコトが運ばれているのにも、推服した。「湖の本」の作者ならではの喜びである。

 

* お父さん、繪を描いてください

『お父さん、繪を描いてください』は面白くて一気に読んでしまいましたのに、その感動を言葉にするのはとても難しい小説かもしれません。

 

この藝術家小説の内容の濃さはもちろんのこと、後書きにもありますように、「小説らしからぬ書き方を敢えて採用し、ごつごつ、コブコブとエッセイのタッチで書いてみた」もので、「小説っぽい小説ではない、だが、小説でしかない小説」「エッセイのように、ノートに書かれる波瀾の小説」という新しい形式の試みであること、そして作者が以前書かれていらしたように、秦恒平が「創作的な批評家でも、批評家的な創作者でも」あること、などが複雑に関係しているためと思います。

 

『お父さん、繪を描いてください』は読後に打ちのめされるほど切実な作品であると同時に、優れて批評的な作品です。

 

腰を据えて評価するには、作者と角逐できる学識教養が不可欠で、当然私はその任にあらず、せめて感性頼りのことを申し上げようとしても、隔靴掻痒のものにしかならない歯がゆさに苦しんでしまう。

というわけで、とりとめない感想の羅列になりますが、どうぞ笑って読み流してくださいますように。

 

一読して、この作品には評論的部分と小説本来の物語の流れが縦糸と横糸のように織られていて、知的議論と濃厚な情念の格子模様を見せられているようです。秦恒平のそれこそ「レイタースタイルの表現」として、独特の魅力を感じます。

 

まず美術論、作家論、芸術家論として読める部分(とくに上巻ですが)は、刺戟に溢れ非常に面白かった。私の感歎した批評の数々は、この作品全体に宝石箱のようにきらきら散りばめられています。ごく一部ですが、そのいくつかの例をあげてみます。

 

美術論として大変共感したものは、たとえば次のような箇所です。

 

印象派だけを観ていると、大きな足跡を歴史上に置いたと敬服する。だが西欧の美術史を個々の作品を眺めながら流れを下って行くと、印象派が唐突に流れを変えてしまい、いささか唐突すぎた変質ではなかったかと、ふと戸惑う。……結果としては印象派が近代現代を窮屈な細道へあまりにはやく追い込んだと思われてならないときが、あった。

近代現代の変容は、個々に観ていると興味深く面白い。にもかかわらず巨視的に観ると、造型は魅力において痩せかじかみ、硬い小ささへ落ち込んでいないと言い切れない。

 

石膏デッサンは先ず物の見方、考え方、空間の認識の仕方という一面と同時に、組織的な技術の訓練であり、その両方ともが、繪画を考える場合、唯一「学習可能」な部分です。

 

第一の点では、子供らにはこの程度でよかろうなどと、決して、言ってもしてもならないと思います。初めから優れたものを見せ、また見たほうがよい。

 

セザンヌはキュビズムの先駆的役割を押しつけられていますが、キュビズムは、セザンヌを継承などしていないと私は思っていました。ピカソ、ブラックが肇めたキュビズムはセザンヌが目指していたものとは関係がない、彼らはセザンヌを担ぎ出し利用しただけだとその頃から思っていました。

 

「ところで私は、リヒターに有って他の画家にないもの、現代繪画がほとんど無視してきたか獲得できなかったものに、ファシネーション、魅惑、恍惚といった要素があると思うのです」

 

作家論、藝術家論として重要だと感じた部分は、たとえば以下の通り。

 

いつどんな結婚をしたか、いつ子供が産まれ、いつ親に死なれたか。そういったことが、ものを創る人間には、ただの私事でありえないのをわたしは知っている。

 

創作者の気分には、陽の勢いも、陰気に退屈しがちな一面も否定できない。迷いの出ているときもあり、もっと混濁した不平不満に自ら心を乱しているときもある。しつこい嫉妬や羨望に気が狂いそうなこともある。それだけ精神をむき出しにして生きているのであり、覆いをかけて防護していては観るべきものもまっすぐ見えなくなる。そんなときほど、仕事をしなくて済むほんの小さな理由を見つければ一目散にそこへ逃げ込む。逃げ込みたくなる。渇きのように睡くなり寝入ってしまい、目のさめるのが怖かったり辛かったりするのも、それだ。

 

生まれつき「晩年」を抱え込んだ創作者はいるのだ、太宰治のように。

 

書く前から批評が働きすぎると、しかし、だんだん書けなくなってしまう危険がある。

 

あなたはいつかのお便りで、「紳士の証明」だけのような作品はいやと書いていました。全く適切な譬えだと思います。私の恐れるのも、そのことです。「誠実ではあるが、耐えがたき凡庸」というものがあって、藝術にとっては最も無用の要素です。

 

やはり何より険しいのは、「売れる」ようにという願望だった。「売れ」なければいけないか、「売れ」なくても良いものは良いのか。ものを創ってプロといわれる者なら、此処へぶつからなかった人はいない。「売れない」のを「誇り」にした創作者がいたとは信じられない。「売れなく」ても「誇りを喪わなかった」藝術家がいただけだ。だが「売れなく」ても保てる誇りや自信とは、いったい何に支えられて在るのだろう。古来どんなに大勢がその点に苦慮し懊悩し、曖昧裡にこの世を寂しく去っていったことか。

どんなに寂しくても、問題は、だが、此処にあった。生活できるかという現実問題が貼りついていた。……

 

山名武史は現在美術史で公認された画家たちの他に、埋もれている価値ある画家を見つけ出すのが好きだと言い、……

 

本当の藝術家なら、一度ならず、こういうふうに夢想したはずだ。「時代」という「現在」に馴染めぬまま、受け入れられぬまま、不条理な熱塊に身も魂も灼かれてものを創っている者なら、凍える寂しさに怺え、「理想像」を身内に呼びこもうとする! おこがましいが、寂しいはなしだが、わたしも、そうだ。だから山名の気持ちがわかる気がしてならない。孤独な基盤。どんなに寂しくてもせめてその基盤は得たいと、だれが思わないでいられるだろう!

 

まだまだ書き写したい部分はたくさんあるのですが、このくらいにしておきます。

 

『お父さん、繪を描いてください』は、作者が、言葉と文字で書いた「自画像」であったようだ、と書いているように、秦恒平による藝術家秦恒平論とも謂えるかもしれません。一人の大きな文学者秦恒平を語る上で、落とすことのできない重要な作品であることは間違いないと思います。

 

批評的部分については、ボロがでないうちにこのへんでやめておくとして、さて、この批評的部分と交錯する小説本来の流れについて、その物語の部分を私がどう読んだか書いてみます。

 

色々な読み方が可能です。どう読めるかで読者の程度がわかってしまうので、とっても恥ずかしいのですが、ここで逃げては卑怯ですから続けます。

 

二十世紀や二十一世紀の藝術家(画家はもちろん作家や音楽家や舞踊家等々)が十九世紀のスタイルで創作するわけにはいかない、という極めて深刻な問題提起があります。しかし、それは私ごときには手に負えないことと棚上げして、まず、作者の、藝術を志して道半ばに倒れていった友人、山名武史への想いを主軸に読みたいと思いました。

 

幸田康之=作者の眼差しは共感、同情そして手厳しい批判も含めて、根底には一貫して温かい、やさしい、愛ある眼差しが流れています。批評的作品ですが、視線は決して冷たい批評家のものではありません。幸田は心から未生の傑作の出現を待っていたのです。

 

しかし、この才能がありながら描けなかった画家への愛惜の念は、感傷的に語られることはありません。山名の人生は手紙や手記の形で忍耐強く積み重ねられ、そして山名があれほど雄弁だったにもかかわらず、作者は最後の遺書で、山名にほとんど何も語らせずにこの小説を収束させてしまいました。読者は大きな謎の海に放り込まれ、そしてまた最初からこの小説の頁を繰るはめになるのです。なぜだろう、と。

 

作中画家が家庭の苦悩を藝術家の動機として昇華させえず、技法への思索に深入りして自己破産して行く悲劇……

 

この画家は、言葉で「考え」ることに力を振り絞って、創作の手が縮かんだ。頭がよすぎたと、作中の大パトロンは寸鉄の批評を下している。

 

私語の刻に書かれた作者の、この素晴らしい解説がほとんど語り尽くしているのかもしれませんが、さらに私が読んで考えたのは、藝術家であること、創作者であることと、現実の生活者で、夫であり父であることとの相剋、昔から藝術家が悶々と苦しんで解決できぬままに終わる問題、についてです。

 

作家として成功している藝術家幸田康之と画家になりきれずに失敗した藝術家山名武史、この二人の実生活は、幸福な結婚と悲劇的な結婚という対照を見せています。

しかし、二人の藝術家の内奥には質や程度にこそ大きな差があるとはいえ、容赦ない現実にさらされる結婚生活への癒しがたさが存在していると読めました。彼らの創作への息苦しさの一因は、彼らの生活の中にこそある。

 

現実生活が成り立たなければ創作は不可能ですが、幸福であっても不幸であっても、現実が創作活動を飲み込む力には凄まじいものがあり、そこからどう闘いぬいて、自分のここに在るという創作を達成できるか、藝術家の永遠の課題です。

 

幸田の結婚生活については、単純に読めば平穏で仲の良い夫婦という印象で、多く書きこまれてはいません。そして作品の中では無毒です。

 

「おーい。怪我するなよ」と机の前からやみくもに叫んだ。

「はーい。だいじょぶよ」

平凡すぎるやりとりに鼻白みながら、一度手に持った眼鏡をまた鼻の上に置いた。

 

それにしても、仕事中に人声ひとつ、物音──言葉ですらない!──が聴こえただけで手元の「表現」の歪んでしまう、途切れてしまうことは、有る! 有るけれども、人に信じてもらうのは容易でない。……

 

せいぜいこの程度の部分で、藝術と家庭生活の「ぬきさしならず入り交じって、ほぐしようがない」状態がわかるくらい。

 

しかし、夫婦とは、どんなに平和に暮らす夫婦でも、本質的に癒しがたい関係ではないかと、私はそう感じています。夫婦関係は、不幸であるか、幸福という名のもとの退屈であるかのどちらかでしかあり得ません。

 

幸田の安定した、しかし一種の停滞を抱きこんだ夫婦関係について、もう少し書きこまれていても、と考えました。

 

幸田の場合は、阿波野千繪という愛人がいたことが 現実の結婚生活ではどうしても満たされない藝術家の業や渇望を表しているのかもしれません。

 

他方、一種の人格障害の女と結婚した山名の挫折は、結婚生活に潰された才能として、痛ましく描かれています。この作品のもっとも感銘深い部分でした。

 

一人になると妻の悲しみを思い、涙が止まりませんでした。同時に、私は私自身に対して怖ろしい人生だった、悪夢だったと、嘆息し呟くことも抑えきれなかった。

 

山名の惨憺たる結婚生活の手記は、衝撃的で呻きたくなります。しかし、この山名の「力というか、能力、生産力、生活力といったものをことごとく吸い取って」死んで行った妻は、逆説的ではありますが、私には大変魅力あるキャラクターでした。

 

女から見た女の本性剥き出しの、生々しい生命力に惹かれるのでしょう。嫉妬、猜疑心、金銭欲、夫への攻撃など強烈なリアリティーがあります。

 

そして、山名の妻が五年近くの病苦の末に「お父さん、繪を描いてください」と言う、題名にもなったこの一言がふるえるほど素晴らしい。この言葉は狂妻ともいえる啓子の、一瞬の正気であり、じつは本人も気づかなかった夫への愛の正体なのではないか。私はこの一言に思わず涙が溢れました。山名は、あるいはこの妻をかけがえのない創作の肥やしにできたかもしれなかったと思いました。

 

「お父さん、繪を描いてください」という言葉は、しかし、核心を突くなんと恐ろしい言葉でしょう。「繪を描いてください」と、繪を描くことを妨げていたとしか思えない妻が云った。その刹那に、山名は気づくべきでした。自分の悲劇も失敗もその真の理由は、実は「描かなかった」自分自身にあるということに。

 

結婚という現実は創作者にとって桎梏ですが、それは藝術にとっての本質的な問題ではない。山名の不幸は私にそのことを教えてくれます。

 

レンブラントやゴッホやゴーギャンの人生が山名のそれよりらくだったはずはありません。彼らは生前は失敗した画家でのたれ死にしたようなものです。彼らにあって山名になかったものは、描いて描いて描き抜く覚悟でしょう。

 

狂人のような妻との結婚生活を全うして、最期まで看取った山名の人間性はやさしく好もしいものです。しかし、そのやさしさは弱さでもあった。山名は自分の一番欲しいもの、大切なものを得ようと死に物狂いになったことがあったのか。逃げていなかったか。

 

幸田と山名を扇の要のように結んでいた女、阿波野千繪こと三輪京子の存在が山名の人生に足りなかったものを象徴しているように思えてなりません。

 

幸田にとって千繪は「恋。そんなものではなかった」わけで、どちらかというとセックスフレンドの印象が強い。

 

「しおどき」だと思っていたし、また背筋を風に覗き込まれたような落ち着かない淋しさも感じていた。仕事をすればなんとか忘れられたし、これまでも、いつもいつも千繪を思って暮していたわけでは決してなかった。棚上げしたといった気持ち。セックスの魅力に溺れてしまうほどわたしは若くなかった。その辺はゆるやかに考えてきた。そういう相手には、その気になればまるで出会えないわけでもないのだった。

 

幸田はちょっとふてぶてしい男ですね。幸田にとって、魅力に溢れていてもその程度だった阿波野千繪は、「三輪京子」として、山名の人生の根幹に関わる重要人物です。

 

綺麗な唇をかるくきっと結び、瞳は真黒でした。生涯に見たいちばん佳い黒の色を私は、あの瞬間に見知ったのです。

 

ところが山名は恋すらしないまま逃げてしまった。そして、「富山へ逃げ帰った中学生の昔から、ほとんど一日も忘れなかった」のです。山名は浮気相手の傘の女からも「怖くなって私は逃げ出した」と書いています。

 

山名の人生はなんとも前向きではありません。山名にとって京子は、人生の節目節目に「引導を渡す」ような役が与えられていて、最後はとうとう山名の遺書の受け取り手となりました。

 

とびきりの才能に恵まれていた。人柄もやさしく愛してよく耐え忍んだ、しかし、寂しい寂しい山名の人生でした。読後に私は大きなため息をついて、落ち込んで、しばらく何をする気力もありませんでした。それだけの重い苦しいせつない作品でした。

 

山名がなぜ死んだのか。今はただしんしんとした寂しさを胸に抱いて受けとめたいと思いました。「バカになってバカバカ描く」ことのできなかった山名の不幸が悔やまれてなりません。

 

以上感想をやっと書き上げましたが、情けないことに、本筋に迫っている自信が全然ありません。

 

この作品には溢れるように多彩な色があります。一つの読み方として笑ってお許しくださいますように。そして将来、もう少し深い読み方ができることを願っています。

 

あなたの作品はいつも何度読んでも読み尽くせないし、秘密を解きあかすのも難しい。重厚で優れた作品であることだけが確かなことです。私は氷山の角砂糖分を齧ったくらい。お粗末な感想を少し並べただけで、もう玉砕しています。

 

以前から、秦恒平作品はよほど力のある人間が批評しない限り、批評した本人がズッコケてしまうと思ってきました。私がそのよい例で、幼稚な感想を長々二十枚近くも書いて、もののみごとズッコケてしまいました。誠に申し訳ございません。

 

おやすみなさい。明日の視野検査結果が良いことをお祈りしています。

 

* 作者はなにも付け加えない。このまま、「山名」に読ませてやりたかった。むろん論点は他にも多いはずであるが、いま各社の文藝出版編輯室に、この一人のたんに「愛読者」ほども作品の「読める」編集者がどれほどいるか、いや、いないか、をわたしは案じている。出ている作品を見れば察しが付く。私の手に「湖の本」がなければ、此の作品はほぼ絶対に読者の手には届けられなかったのである。

2004 6・25 33

 

 

* 六月の日記をある人から贈られて、それを紹介しようかと用意したが、ま、よそうと思い割愛した。今度の長編への感想が日を重ねて少しずついろいろに書かれていた。

2004 6・25 33

 

 

* 『お父さん、繪を描いてください』  芸術とは何か、文学とは何かを考えさせられましたが、それ以上に生きる意味を考えさせられました。

特に「誠実ではあるが、堪えがたき凡庸」というお言葉を考えています。

決して〝誠実〟とは思いませんが、「堪えがたき凡庸」は確かにあります。誠実であろうとしてきたこともありますが、「堪えがたき凡庸」までは考えが至らなかったと思います。

そもそも、その〝考える〟が一枚の絵に勝るわけがない。

そう思って読み進めて、最終場面では本当に驚きました。山名の一連の〝考え〟を見事に具現化した幸田の顔だと思います。

結局、作品で示すしかないのですが、やはり〝考え〟は捨て置けない。

ちょっと取り止めなくなりましたけど、読み応えのあった作品です。久しぶりにキチッとした小説を読んだ気になりました。ありがとうございました。 詩人  神奈川県

 

* 秦さんの「レイタースタイル」という感想が届いていた。その前夜、妻がそういうことを口にしていた。そうなんだと迂闊な作者は、今にして気付いていた。読まない人には意味も分からないだろうが、全く新しいスタイルでわたしは今度の長編小説を書いた。自己模倣をきらうわたしの願いは果たされている。それが今度の出版の大きな収穫だった。そして例えば「みごもりの湖」や「慈子」や「冬祭り」の時代を経て、晩景を行く現役作家としての新たな足跡をはっきり一つ残すことが出来た。糟糠を嘗めてはいけないと思っていた。ホームページで書き始めた頃は、人も我もこれはどうなる作品だろうと心許ないあてどなさに悩み続けていたが、諦めて投げ出さなかった。よかった。

また新しい仕事に根気よく取り組んで行ける。「小説、まだまだ書ける」とエールを呉れている人にも感謝して応えねば。

 

* 書き続ける、ということ。

こんにちは。『お父さん、繪を描いてください』昨日読み終えました。

梅雨ですね。福岡では例年の十分の一しか降っていないとか。なるほど、梅雨といいながら、雨の日は週に二日あれば多いほうというくらいです。このままいくと、八月は水不足だ節水だと騒がしくなるかもしれません(報道のやかましいわりに、福岡の都市部が水不足で悩まされたことはありませんが)。

雨はバイクの天敵です、ただ、気の持ちようだと思っています。雨の上がったあとは、ほどよく風が湿って、晴れた日とはまた別の気持ちよさがあります。でも、濡れた路面はブレーキがききにくいし、泥が跳ねてタイヤまわりが汚れるし、本当はよくないのですけれど。

バイクの自損事故ですが、ちょっとした奇跡が起きて、僕もバイクもほとんど怪我をせずすみました。

壁に正面からぶつかり、衝撃で体が宙を舞いました。腰から地面に落ちて強く打ちました。それで腰が数日痛んだだけ、外傷は一切なし。腰だったからよかったのです、頭から落ちていたら、おそらく命はありません。

バイクのほうは、前輪の泥除けにヒビが入って(間抜けなことにプラスチック製なのです)、ハンドルがねじれました。さらに、バイク屋に持っていったところ、「これはやばいですよ、フロントまわり全部交換せないかん。十万じゃきかないです」。

前輪とハンドルをつなぐ「骨」の部分が、衝突のせいで内側にめりこんでいるというのです。この「骨」、簡単にいうと三本あって、ひとつがやられたらすべて取り替えなければなりません。メーカーの小売価格は三本あわせて九万円。ハンドル交換、泥除けも交換、もちろん工賃が加わって、十五万円は覚悟していました。

ところが、整備士さんが「骨」とハンドルを組み立て直してみると、めりこみが修正できたというのです。「いやあ、僕けっこう事故車を相手にしてきましたけど、これはもうぶつかったところがよかったというしかないですねえ」。俺のバイクはプラモデルか! と突っ込みたくなりましたが、ともあれ、組み立て工賃と泥除け交換のみで、一万五千円也。

一週間で戻ってきて、今は元気に走っています。いやはや、奇跡でした。

 

さて、『お父さん、繪を描いてください』ですが…最初に思ったのは、秦さん、まだまだ引き出しをいっぱい隠し持っていそうだな、また小説を書いてほしいな、と。

西洋画について秦さんが書くとは、少なくとも父などは、意外に感じたようです。やはり秦さんといえば、華岳であり、松園であり、浅井忠(これは洋画家) であり…と。僕はたまたま『えとせとら論叢』(間違っていたらすみません)というエッセイ集を読んだことがあります。セザンヌのことなど、秦さんらしい切り口で書いてありました。だから、といってはなんですが、「意外」とまでは思わず、さすが秦さん、書くからにはとことん書くなあと、ため息が出ました。

いつも秦さんの小説を読むと、ヒロインより迪子さんに惹かれてしまうのですが、今回も京子さんよりは啓子さんに関心が向きました。山名さんが絵を描くこと、描き続けること。啓子さんにとって、それに勝る幸福はなかったろうと思います。

秦さんは、ひとたび「小説を書く」と心に決めてから、ずっと書き続けてこられましたね。そのことがいかに難儀なことか、しかし同時に藝術家に避けて通れないことであるか。今まで当たり前のように秦さんの作品を読んできましたが、自分がその「読者」であるということに、なにかずしっとした重みを感じています。

 

それにしても、福岡は梅雨というより、もう夏です。「バイク焼け」という言葉がありまして、サングラスのフレームをなぞるように、顔がこんがり焼けていきます。両腕も肘を境にしてがらっと肌の色が変わります。なぜか左腕が虫たちに好かれるようで、いつのまにか四ヶ所、腫れが出てきました。

もともとひどく痩せているところに、顔が浅黒くなってきて、「おまえ、ベトナム人って感じがするで」と言われるほどです。女の子じゃあるまいし、焼けるときにはおもいきり焼けてやろうというつもりです。焼けたぶんだけ夏を楽しんだことになるでしょう。

先月、関門海峡に行って、本州の最西端をじっくり見てきました。この夏は、まだまだ僕の知らないたくさんの九州を見つけてこようと思います。健康と、そして何より事故に気をつけます。奇跡は何度も起こりませんからね。

大学のゼミのこと、好きな人のこと、いろいろ書きたいことが出てくるのですが、今日はここまでにします。何より秦さんの新作を読んだ、読むという幸せに出逢えた。これが一番です。素晴らしい作品を、ありがとうございました。

迪子さんともども、お身体に気をつけて、お元気で。またメールしますね。  福岡市

 

* バイクの怪我で奇蹟なんて。よかったが、また、とんでもないこと。

 

* この友人の感想の中で、「お父さん、繪を描いてください」という処にまた一つ問題点が出て来た。ある人はこれは究極山名の妻の「愛情」の発露と云い、ある人はそれを否認している。この青年はあっさりと「山名さんが絵を描くこと、描き続けること。啓子さんにとって、それに勝る幸福はなかったろうと思います」と読んでいる。この辺で、作品の懐がむずむずしているようだ。題の選定は少なくも的につよく触れているようだ。

小説家が書き続けることも難しく、画家が描き続けることも難しい。継続は力であるというが、継続とはいろんな意味でのエネルギーの持続であり、いわば火を継ぎ足し風を送り続けることが大切になる。気が絶えては続かない。「考え込む」ことがムダではないにしても「ヘタな考え休むに似て」くる事もたしかに有る。

「抽出し」にものを蔵ってあることでは、何の心配もないが、その抽出しを「明けてみる気力」が失せてしまえばどうにもならない。意欲というか気力というか、必然の動機というか。それがなくては蓄えも役に立たない。

 

* 人をギョッとさせるほどの動機や題材が生身の奧に疼いている、その自覚はあるが書き示せば済むというふうには思わない。やはりどう表現できるのかの自問自答は繰り返すよりないが、「へたな考え」に落ちこまないためには見切り発車の蛮勇も必要になる。ただ、わたしの年齢と体力からすれば、量的に多くを望まない。わたし自身から生え出てこざるをえないその呻きのようなモノを書き表せればそれでよい。短篇を幾つもということは、もうあまり考えていない。先のことは分からないけれど。

2004 6・26 33

 

 

* 以下の感想は、少なくとも一つこういう方面からの批評が来て当然だと期待していたものであり、来るならば此の卒業生がハッキリ書いてくれるだろうと予想していた。

これと似たことは筑摩書房の女性編集者からも聴いている。この人の夫だった人(藝大卒・油絵)が「山名」そっくりだった、どうしてもだから感情移入出来ないのですと。「(作家)先生」の方は「あれでいいのですが」とも。どう「いい」のかは電話では聞けなかったけれど、作中の「わたし」はあくまで作中の人で、作の外の秦サンとはちがうのである。以下の筆者も遠慮したか、作中の「小説家」に触れていない。敢えて、かな。

 

* 秦先生  「お父さん、絵を描いて下さい」お送り頂きましてありがとうございました。

前編も後編も、到着するなり一気に読み上げてしまいました。遠距離通勤もこういう時には役に立ちます。

頂いた時にもったいなくも「感想を楽しみにしています」というお言葉を頂いていたにもかかわらず、そして、すぐに読み上げてしまったにもかかわらず、今日までメールを書きあぐねておりました。

申し上げにくいことですが、先生のお書きになる本の主人公としては珍しく、いや、初めて、全く「山名」に感情移入できなかったからでした。

ご存知の通り、東工大の前身は「東京職工学校」ですが、今でも大学の気風として手を動かしてなんぼ、という雰囲気があります。実際に手を動かさない理論系の学部でも、やはり「論文」という出来上がり品を評価します。父も同じ大学にいた者であり、私の育ってきた環境には二重三重に「講釈はいいから手を動かしなさい」というものが濃厚に漂っていました。

私の義兄も絵描きです。芸大出ではなく、いわゆるその手の派閥とは無縁の出発ながら、今では一応の評価を得て絵だけで食っていかれるようになりました。義兄もやはり、どんなに辛い時でも手を動かす人です。手を動かすことで抜け出してきた人でした。

そんな私から見て、「山名」にはどうしても感情移入できませんでした。講釈している暇があるなら描けばいい。

本当に描く人は、どんなにしても描かずにはいられない。食わなくても、画材がなくても描いている人を、私は何人も知っています。そして描かずにいられない人こそが、本物なのだと思うのです。描かないで語ることですむのならば、そのひとにとって「描くこと」はその程度なのです。

イラストレーターとして世間的に評価を得ているのだし、経済的にも問題はないのだし、無理して描かなくてよかろう、それでも「描く」ということを標榜するのは、所詮「山名」のファッションに過ぎない、と、私はどうしても彼に同情できませんでした。

芸術論は大事かもしれない、でも、それも絵描きにとっては自分の絵の糧にするためでしょう。ひとかどの人間として大成するために必要なのは才能よりも継続力の気がします。運・根・鈍、と言いますが、より大事なのは後ろ二つだと考えています。

描かない人間は絵描きではない、という世間的な単純な図式を、今回ばかりは私は尊重したい。

そして、前編を読み終わった時点で、山名の妻のもたらした要因がよほどの正当性を持っていない限り、早晩、この自称絵描きは自死するしかないだろうな、という物語の力学が透けて見えました。結果的に、妻の存在を心のどこかで逃げ道にしていた「山名」は、それを自覚した時に自死してしまったわけですが。

ですが、「山名」の妻にもあまり同情が寄せられませんでした。これは身内に「山名」の妻と同じ傾向の人間を抱えて育ったものの近親憎悪なのですが。

「山名」がどうしても描きたかったならば、この妻に対する方法は一つしかなかったのです。妻を心理的に見捨てることです。看病するのはいい。でも、心までそこに吸い取られない。そうすればきっと彼は描くエネルギーを温存できたでしょう。

でも、それをするには「山名」はあまりにも優しすぎましたね。私は、見捨てました。見捨てることでしか私は自分を救えませんでしたし、そして私が抜け出ることで家族のうち一人だけは救いだせました、でも、一人だけでしたが。懺悔をこめて。

けれど、「山名」が優しすぎたせいで、子供まで自滅してしまった。「山名」が描けなくても、自死しても、子どもだけは守ってやるべきだった。介護にいくら経済的負担が増えても、子どもだけは解放してやるべきだった。

親は必ず間違えるものです。過ちを犯すものです。間違えたとしても、次の世代の時に、その過ちを正せれば、

その親は子育てに成功したのだと私は思っています。親が間違えたら子どもが正せばいい。そのシンプルな図式を、私自身、どこまで子どもにしてやれるか甚だ心もとないところはありますが、少なくとも今現在、娘がほとんど私に似ていないことに私は本当に安堵しています。自分の持つ知識や情報はできる限り伝えたいものですが、性格的に自分に似てほしいと思える部分はほとんどないものですから。

「山名」は本当に優しすぎましたね。優しさというのは酷なものです。

感情移入できなかった、などとおそろしく失礼なことを申し上げましたが、でも、やはり様々なことを考えさせられるのは先生のご本の常の通りでした。

先生から感想を、とお声をかけて頂いていながらこの程度の「感想文」しか書けないことを本当に申し訳なく思っております。

私自身は、ふと立ち止まることの多い最近です。気がつくといろいろなことに疲れておりました。このまままた走り出してよいものなのだろうか、と逡巡があります。でも結局、走り出さないまでも、近いうちに歩きはするような気がします。描かない人間は絵描きではない、と思っている限り。

気温の上下の激しい季節です。どうぞご自愛下さいませ。  卒業生 女性

 

* 明確に書いている。こう思う人も、こうは思わない人も、いるだろう。もう一人、自身繪を描いている女性からも短いが一つの立場が語り寄せられている。

 

* 描かなければと思うだけでは、絵描きではないという気がします。作品がなければ。多分。作品だけで評価されるのがよい、とおもっています。

「山名」が苛酷に生きて死んだといわれるのは、描こうとして、描けなかった事でしようか。同じ世代の人なら、貧しさは似たりよったり。絵の具の代わりになるものや、キャンバスになるものを、さがしていました。私のまわりの人にも、描いて苛酷に死んだと感じる人たちがいます。絵を、妻に断念させた人も。

絵を描く人には、色や、形、その組み合わせや、さらに手を動かしているといったようなことに、多かれ少なかれ魅入られているようです。

デッサンのこと、肖像のことはとくに、はなしにくいです。ご本は、一度早読みしたまま。この時点では。線は、1本しかないと思っています。   大阪府

 

* 描いている、書いている、だから絵描きであり小説家や詩歌人や脚本家である、ということになるのも、それは問題が多いという気がしている。自称画家の繪も、自称文藝家の文藝も、その大多数というか殆どがどう評価していいのかに困惑する現実もあるからである。作品で評価することになると、世の中にほんものの画家やほんものの文藝家はめったにいないというのが、実はわたしなどは実感している。幾万の凡な画作をのこした人と、数点の名画をのこした無名の人とを、どのように評価しわけるのか。「絵を描く人には、色や、形、その組み合わせや、さらに手を動かしているといったようなことに、多かれ少なかれ魅入られているようです」のは確かだろうけれど、それは「お絵描き」をただ楽しむレベルにもあり得る、むしろそういう人ほどそんなものであろう。「山名」は描いていないのではなく、無数に描いて満足できないほど苦しみ抜いているのだと、作中の「わたし」も作の外の私も、ほぼ察している。

 

* 「線は、1本しかないと思っています」という見解が、何に触れて云われているのか少し分かりにくいが、「肖像」への批評ないし批判であろうか。この辺はいろんな画家にも聴いてみたい。「山名」が「無限定空間」を意図していたこととも絡めて。「山名」のあのような洞察は、ただ考えて頭で思慮したものとはとても思いがたい、無数のスケッチやデッサンの誠実な体験が辿り着いた非凡な発明であろうと作者は考えている。この辺の物言いはいきおい甚だ微妙になるが、あの「肖像」が大勢の読者・識者に与えている衝動は、作者の予想を大きく上回っている。それを置いた場所が的確であったこともあるにせよ。「山名」のこの際に把握していた「線」への洞察は、よほどのものだと想われる。あれは「一本の線」で描くべきを、くちゃくちゃとかき混ぜ誤魔化して描いたといったシロモノでは、全然ないのだから。

ま、こんな見方も、あるには、ある。

 

* ちらと見るだけで、どきどきしております。血圧沸騰。心臓、破裂しそうです。

 

* 卒業生の男性から何を言ってきてくれるか、楽しみである。バルセロナの小闇へは船便だから当分届くまい。

2004 6・27 33

 

 

* 国立京都博物館館長、京都文化博物館館長から相次いで「お父さん、繪を描いてください」に懇篤の礼状が届いた。他に幾つもの中に、驚かされたのも有る。「自分」と育ててくれた父母を初め家庭・家族のことを小説に仕立ててもらえないだろうか、全面協力するから、妻ともよく話し合い「承知」しているから、と。動機など手紙にかなり詳しく、それはかなり私を動かすちからが有る。ただ、これもまた精力の多くを取材に注がねばならない、この人が東京近郊ではなくて相当の遠方に住んでいることも難しい障害になる。驚いている。たしかに身内にシュウシュウと反応の泡が意識の水面へもう沸き立ってきてはいる。落ち着いて考慮したい。

 

* 京博の館長興膳宏さんからは『古典中国からの眺め』というエッセイ集も戴いた。京大名誉教授であり、それでいて、私より一つお若い。ああはや、わたしはそういう年齢なのであるなと感慨深い。

たしかにひと頃は、こうたくさん揃った名前のなかで自分が一番若いといつも感じていたときがあった。それが何やらついつい推移して、わたしもそう若くないのだと知らされる。この頃では、いちばん年上と云うことも無いけれど、たいていの場合年齢だけはかなりの上の方へ名前が置かれている。気恥ずかしい。

この間、『野あるき花ものがたり』というとても佳い内容の新刊を贈って頂いた東大名誉教授久保田淳さんなど、相当私よりも高齢の先生と想っていたが、ほんのわずかお年上であった。驚いた。

自分で自分が少しも見えていない。わたしは、まだつい昨日には新制中学生であったように実感できるぐらい、「こどもこども」した気持ちで日々を暮らしている。だからああいう旧友「山名」くんが創り出せたのである。

2004 6・28 33

 

 

* ホームページを介して新刊に注文が入ってくる。今しも一人、東京西郊の未知の読者で、「先生の作品の大部分は WEB からダウンロードして読ませていただいていましたが、なにか盗み読みしているような後ろ暗い気分でした。それも、妻の介護が始まってモニターの前に坐る余裕がなくなり、慌ただしい日々に埋没して、自分のためのことは何一つできない状態へ押し流されてしまいました。そんな日常からやっと解放された、と思ったとき、無限孤独のただなかへ突き落とされている自身を発見し、そうか、こういうことだったのか、と、哀しさ・寂しさ・ということの意味をはじめて悟り、その極みを身にしみて味わっています。余計なことを書いてしまいました。世の中にはもっともっと悲惨な人たちが溢れている、というのに・・。おからだ、おいといください。」とある。今度の本はまたひとしお胸を押すのではないかと案じもするが、ご縁の開けることではあり、感謝している。

また今一人は、驚くまいか、わたしが医学書院に編集者生活の頃、ひとしおご縁の深かった人で、当時は優秀な内科のナースであった。今は或る県立の医療保健大学の副学長さんとある。数十年逢っていない、よくもまあ。とはいえ、実は「湖の本」の創刊以来の継続読者では、この人と同年配で、やはりそれぞれに都立の施設や日赤の研究施設で副学長なみの要職にある昔のナースが二人おられる。みな、わたしが上京就職し結婚してまもなくの勤務生活でおつき合いの生じていた「著者=先生」であった。当時からの「ドクター=著者先生」にも少なくも数人、継続読者でいてくださる方がある。

石川の井口さんに云われたことがある、「秦さんはとても丁寧に人とおつきあいをなさる」と。そういうことは、意図して意識してすることではないが、人にも嫌われやすい不徳人であるのだが、一面にそういう気味も幾らかはあるのだろう、ま、なるがままにこう生き延びてきたことの、有り難い余禄ということも有ろう。いやなに、わたくしの人間がただ厚かましいだけのことかも知れぬ。こういう嬉しいことが、思い出したようにひょくひょくと有る。

2004 6・28 33

 

 

* 「お父さん、絵を描いてください」、“下”を読み始めています。

秦先生に以前申し上げたとおり、僕は受験生の頃、国語の偏差値は38で、文学には全くと言っていいほど、縁がなかったのですが、漱石の「心」、そして、なぜか、今回の、秦先生の著作には、資格試験の勉強そっちのけで、むさぼるとまではいきませんが、僕の文学レベルで読んでいます、というか、“山名武史” の生き様をなぜか、追ってしまっている自分がいる事に気づくのです。

> 君のメールには、かっちりした意志も意識も判断もあらわれている。

本当にそう思われていらっしゃるのでしょうか?

ま、自分自身、学科試験一ヶ月切って、ようやく意識が芽生えたというのかもしれません。でも、先生は僕の事をよく思い過ぎていらっしゃると思います。自分自身かつて、つまり受験生、そして学生時代の頃と比べ、自分を律する能力が著しく衰えたことは否定できません。

ただ、今の自分自身を律する能力が衰えている事を否定できないからこそ、今まで、指導するのみの剣道に対し、自分自身の稽古する場を見出したのも事実ではあります。自分の為の稽古をしている時は、今の自分の正直情けない状況を全く忘れる事ができ、稽古そのものに没頭できるのです。

これが、今の僕にとって非常に大事なのかな、と思っています。

当然、周りの方々は僕の今の境遇は知る余地もありません。僕の心の中に葛藤が常にあるだけです。もちろん、資格試験の難関に挑む勉強は、自分自身の問題であり、現実の境遇をふっきって勉強に集中する中での葛藤が常にあります。主に場所は図書館ですが。

 

* 試験までに会いたいと。七月に入れば機会が出来る。「我を忘れて」の、難しさ。「我に取りつかれ」た、重さ。わたしには、ヘンなことかも知れないが「剣道」への信仰のようなものがある。希望の一つはそこへ託したい。

2004 6・29 33

 

 

* 「お父さん、繪を描いてください」の感想を。

わたしははじめから「創作の苦悩」として読みました。繪のことはわからないけれど、創作の根本にある「生みの苦しみ」という点には、繪と小説で共通するものがあるだろうと想像しています。ジャンルを問わず、あまねく創作活動の苦悩は、似たものなのではないでしょうか。山名さんも、音楽に寄せて創作を考えていましたね。小説家である秦さんは、絵描きである人の苦しみを書くことで、自身の創作の苦しみをも書いたのではないかと想いました。

今回、「お父さん、繪を描いてください」を読みまして、以前、ペン電子文藝館にある志賀直哉の「邦子」について、「書けないということについて書いている」というような感想を漏らしていらっしゃったのを思い出しました。多作の秦さんでさえ、「書けない」ことと格闘してこられたのだなあと。恣(ほしいまま)な想像をお許しください。

それと、これはやはり、或る「人」を克明に描き切った、愛情に溢れた作品です。わたしにもそういう人がいます。いつか、その人のことを書きたい。

すっかり夜が更けました。もう眠ってられるでしょうか。おやすみなさい。 弥富

 

* 端的に作者の動機にすらっと触れてきている。「邦子」のことなど、この「私語」に書いたことではあるが、誰も思い留めているなど想わなかった。ありがたい。

 

* 「お父さん、絵を書いてください 上」 拝読しました。

よくわからない京都、読んでいるうちに楽しいというか嬉しいというか、一小中学生の時のようでした。小説の真髄ではないでしようか。

画家を目指した私ですが、それとは別に一気に読みました。本好き早読みでしたが、このごろは一気に読むことが余りありません。上卷だけですが、芸術論より「生きる」方へ、わざとそらせて読んでいたかもしれません。 私をふくめ周りには多くいますから。

梅雨の湿度で潮の香りが強い日が続いています。

海の上は霧なのか、先ほどから灯台の霧笛が鳴っています。  銚子

2004 7・1 34

 

 

* 今度の本、持ち歩いて鉛筆で線を引いて読んでいます。際限がありません。

ホームページのさまざまな感想も参考にしています。先日送った文章でもわたしは感情移入して読んでしまったキライがありますが、感想を述べるのに有効な方法でもあると納得しています。複眼的な見方・・? 女の人の立場からさらに突っ込んだ指摘があるといいと思います・・。作者は、書くもののなかでは男の立場に徹していますが、妻、千繪、啓子など、厚みを増す要素はたくさん溢れています。

先に絵を描くことに関して、私自身、レコード一枚、芸術論一ページなくても絵は描けると描きましたが、そして同じような感想はいくつも読みましたが・・同時に「考える」力も必要、やたらに描いても、ただ楽しいだけでもだめ、と付け加えます。

真剣に芸術論を交わせる画家に身近で出会ったことがありません。そういう人に出会えたら嬉しい。

旅に出たい! 同時にささいな日常を充実させたいとも強く感じています。

夏痩せは残念ながらあまりしない体質です。もっと運動しないと駄目ですが・・。

これから外出しなければなりません。暑くなりそうです。 お体、大切に、大切に。

 

* 上巻を読み終わる。藝術論を語ろうとは思わない、と以前言われた。わたしには藝術を、藝術論を語る「資格」すらないだろう。が、改めて古典派、印象派、さらに以後のさまざまな「試み」を考えた。

これからの部分が問題だ。家族、伴侶とは……それらすべてに関わらず「繪を描くこと」その行為だけが画家を支えるはずだが……書名の「お父さん、絵を描いてください」が、題名の持つインパクトを既に十二分にもっている。たった一回振り絞るように口から出された言葉は、絶対の真実、愛情だろうが……またそのためにその言葉、叫びとも聞こえるその言葉が、読み方によれば……以前読んだときの感想を言えば……逆説として大いに、あまりに皮肉でもある。作品の題になったことによって、ある人は誤解をするだろう、「やはり家族なんですよ、妻の愛なんですよ。」と。

わたしは素直に、そのようには思えない。それでは堪らない、切ない。女の生き方として、わたしなりの彼女への批判も大いにある……。ここからが、読むのに重い。

こんな単なる感想が果たして作者に対して意味あるものかどうかは、全く判断しがたい。 主人公の優柔不断、性格の優しさ、それと対照的な妻の言動、家族というもののもつ意味、親子関係、天職と生活のための仕事、藝術に関する思索、……すべてすべてどこかで投げて唯描くことだ。エゴの遂行貫徹、内部の要請だけが必要なのだ。

千絵さんになって、千絵さんもどきになって、書いたら書けるんやろか。ようけい感想がとうに寄せられてるさかい、書かんでもいいか思ても、待ってはるんやろなあ……書けへんのかあと言われそ……やっぱり書かなあかん。

千絵さんは悲しい。幸田さんも山名さんも女を見る眼で、性的対象で千絵さんを見る。

わたしかて男はんをそのような眼で見ないとは言いまへん。けどそういうのんは人生の中で指折り数えるほどや、ほんの僅かのことや。恋、愛が人をかろうじてこの世に生かす力があるもんやと、そうならほんまにそう生きて欲しいわ。

山名はんは浮気した女について書いてはる、彼の気持ちの中で奥さんには家族としての愛情はあっても、伴侶への義務感さえある愛情はあっても、男女間の共鳴しあえる感情や愛情は失われてんのに、では「浮気」の相手への愛情が……欲望やのうて、わたしが言いたいのは情熱や愛情……あるかいうたら、やはりない。生きること、真摯な愛なくして、どれほどのものを一体生み出せるんやろ、どれほどの絵描けるんやろ。あの人は昔わたしが怖うて逃げたように、描くこと自体から、逃げたんや。

山名さんが本当に可哀相なのは、彼には『身内』がいないこと。たとい奥さんに「お父さん、絵を描いてください」と言われたとしても……奥さんは本当の身内だったのか、娘も息子も身内なのか……社会的な生物的な意味を振り落として本当の身内と言い切れるか……彼の富山での絶望と深い疲労が思いやられる。それでも自殺……自死と言おうが同じこと?……彼は死とバランスをとれなかった。死を見据えて対等に生きることができなかった。

藤江さんが、恐らくあまり意識されず、恐らく無意識に使われた「画伯」という言葉、それを山名氏は素直に受け止めるほどには単純ではないでしょう。女優と言うと、何やら女の優れた者、美しい人だから女優さんというような感じがするように、画伯という言葉、伯には伯爵……尊く貴い、何やら藝術信仰に支えられた偉いお人のようなものが感じられます。山名氏は自嘲に弱く苦笑いされるでしょうか、それとも峻拒されるでしょうか。

わたしは戦いきれなかったんだよ、優柔不断に、ここまで来てしまったんだ……とうに時間に追い越されてしまって、今現在を生きられず、茫然自失しているのがわたしなのだ。歳月は身体を老化させるだけではない、それ以上に心を、精神を疲弊、老化させてしまうのだ。過去の日々を何故わたしは肯定できないのか、たとい「油絵という藝術」からは外れていたにしても近い仕事をし、家族を養い精一杯生きてきた、そのことを何故悔やむのか。

何故、イラストで家族を養って経済的にも彼は夫、父親として果たしてきた……そのことに一つの安堵、自負を、誇りをもてないのだろうか。それで十分と思える人生だってある。そうでないならば違う生き方をすればよかった。家庭を壊さなくても可能だったいくらかの時間やエネルギーはあったはずだ……。きつい物言いだろうか? 内的な必然、狂いたくなるほどの奔出だって、内部に抱える鬼のようなほえ声だって……あるはずだ。藝術って何だろう???

レコード一枚、藝術論一ページなくても創作行為はあり得る。衣食足りて取り落としてしまうものがある……。骨身削って、ハングリー精神で、かろうじて成り立つ行為もある。藝術はそういう危うさを容赦なく求めるものかもしれない。藝大を出て、どれだけの人が最後まで創作に撤して生き切っただろうか。

レス・プロ……レッスンすること、教えることでプロである画家、そしてトーナメント・プロ、公募展に「勝ち」作品を売って生活できる画家、という言葉がある。レス・プロであれ、トーナメント・プロであれ、野垂れ死にするまで描くしかないじゃないか、描きたいならば。

ある人は、もっと早く一筋の道に入ればよかった、としみじみ語った。いくらか遅い選択だったけれども、彼にはまだ時間があった。もっとも彼の関係する仕事には経済的な支えや将来が見込まれていたが。それでも彼の思いは真剣だった。

「一応、正会員にもなって、製作は続けるけれど、わたしの天職はこれまでの仕事だった。作ること一筋では、その緊張感に負けて平凡な人間である自分は生きられなかっただろう。平凡が一番だと母親に言われたことが子供心に響いたのだろう……。」そう語った人もいた。私自身はこの人の考えにいささか異なり、素直にうなづけなかった。

同性の女の友人たちのほとんどは、わたしは結局怠け者で、ほどほどでこれでよかったのですと自分の位置を宥めすかしてみている。女は、だから駄目なんだ、生ぬるい、……そういう意見は耳に痛いけれど……そのような例は多い。その意見に真っ向から異議を申し立てられない。それでも、細々でも女たちは女の感性で描こうとしている……わたしもそうだ。いささかの弁明も込めて……。

以下の文章を読んで、わたしはそこに何を書き加えよう、また何に就いて反論しよう。 わたしは書くことを断念した方が良いと感じている。

「* 病院への時間が気になり五時に起きてしまった。三時間半ほどしか眠っていないが、機械へ来ると、以下の作品論が届いていてびっくりした。この程度に読み込まれていれば、作者も、作中人物ももって瞑すべし、酬われている。このまま「e-文庫・湖(umi)」の評論としてとりあげたいほどであり、もし万一にもさきざきこの小説を論じてくれる人が有れば、この此処に書き写しておく作品ないし作者への「論」や「観察」は聡明な案内者になるだろう。

筆者にしたがえば、二十枚ほどの長い批評であり感想であるが、よく把握されているからだろう、一行アキを生かして読みやすく分かりやすくコトが運ばれているのにも推服した。作者は心より深く感謝申し上げる。「湖の本」の作者ならではの喜びである。」

………文章のほとんど終わりに近い箇所だけを、敢えてコピーした。

創作者の私生活は作品と関係ないと考える評論家もいるが、わたしはそうは思えない。作品の中に表現されるものは現実を反映させているとも思う、そのまま、或いは逆を。………

「しかし、夫婦とは、どんなに平和に暮らす夫婦でも、本質的に癒しがたい関係ではないかと、私はそう感じています。夫婦関係は、不幸であるか、幸福という名のもとの退屈であるかのどちらかでしかあり得ません。」

………夫婦が本質的に癒しがたい関係ならば、癒すことが不可能ならば、なぜみなは結婚にこだわり、家族愛を強調し、家族がいたからこそ生きてこれたのだと「叫ぶ」のだろうか。「不幸は面白い、幸福は退屈だ」とトルストイも言っているが、絶対的な絆に結ばれている安らかな人たちだっているのかもしれない。………

「幸田の安定した、しかし一種の停滞を抱きこんだ夫婦関係について、もう少し書きこまれていても、と考えました。」

………幸田の停滞を抱き込んだ夫婦関係と書かれて、秦氏は苦笑されるのではないか。おいおい、僕たちはそういうふうに見えるらしいぜ、と。長い時間を伴侶として暮して深く愛していると彼は書いている。「性以外では、藤子は、欠点も有るけれども、わたしも同様であり、妻として、共同生活者として、かけがえない、一番安らかに幸せでいられる良き伴侶である。心から愛している。」………

「幸田の場合は、阿波野千繪という愛人がいたことが 現実の結婚生活ではどうしても満たされない藝術家の業や渇望を表しているのかもしれません。」

……… 「* 仮に、その余の生活を85点「満点」で私が過ごし得たにしても、決定的な「15点」分は決定的に欠いた夫婦生活を、少なくも私はしている。この事実の前では、たとえたとえ、仮に、わたしが家の外で性の渇きを癒してきたとて、その大事な15パーセント分のタシにはならないのである。」と、彼自身が書かれている。………

「他方、一種の人格障害の女と結婚した山名の挫折は、結婚生活に潰された才能として、痛ましく描かれています。この作品のもっとも感銘深い部分でした。

一人になると妻の悲しみを思い、涙が止まりませんでした。同時に、私は私自身に対して怖ろしい人生だった、悪夢だったと、嘆息し呟くことも抑えきれなかった。」

「山名の惨憺たる結婚生活の手記は、衝撃的で呻きたくなります。しかし、この山名の「力というか、能力、生産力、生活力といったものをことごとく吸い取って」死んで行った妻は、逆説的ではありますが、私には大変魅力あるキャラクターでした。」

………妻って何でしょうね、本当に。………

「女から見た女の本性剥き出しの、生々しい生命力に惹かれるのでしょう。嫉妬、猜疑心、金銭欲、夫への攻撃など強烈なリアリティーがありました。」

………嫉妬も、猜疑心も金銭欲も女の、女だけの本性でしょうか。わたしたち女自身が出来ることならもっと違う生き方をしたいと思っているし、現実として徐々にではあるけれど可能性を拡げてきているはずだとわたしは確信しています。………

「そして、山名の妻が五年近くの病苦の末に「お父さん、繪を描いてください」と言う、題名にもなったこの一言がふるえるほど素晴らしい。この言葉は狂妻ともいえる啓子の、一瞬の正気であり、じつは本人も気づかなかった夫への愛の正体なのではないか。私はこの一言に思わず涙が溢れました。山名は、あるいはこの妻をかけがえのない創作の肥やしにできたかもしれなかったと思いました。」

………あとの文章に関しても全くその通りだと思います。そして妻の存在の惨さ、皮肉、愛は、時に毒になってしまうとも。愛はいらないとも。………     兵庫県

 

* 問題が、ほぐれて、ひろがってきている。

2004 7・2 34

 

 

* また一つの角度鋭い批評が届いた。とりあえず紹介させて貰う。大阪の松尾恵美子さん、小説も書き、日本の古典も検討し、西洋の詩人達を論じてもいる。

 

* 「お父さん、繪を描いてください」の感想

ご本を読み終えて、まっさきに思ったことは、山名はなぜ、再び妻の絵を描かなかったのかということです。私が山名なら、妻を描きます。罵詈雑言に歪む表情を、痛みに捻じ曲がる手足を、そういうふうにしか生きられない人間の哀しみを、そんなふうにでも生きようとする生命を、そして、それを見詰める、そこに追いやった者としての自分の眼を。そこには描くに価するものがなかったのでしょうか。

でも、山名のテーマはそういうものではなかったのですね。山名のテーマは無限定空間を画面に現出すること。その情熱には余り共鳴しませんでした。共鳴の仕方がわかりませんでした。

作家と画家との、この人間関係は、友情とは違ったものですね。芸術家の生態観察をする芸術家と、観察されることによって芸術家となる(絵を描かなくとも)芸術家。相手が芸術家でなければ成り立たない人間関係ですね。相互依存。

画家の打ち明け相手となることによって、絵を描けなくしたのは、作家ではないでしょうか。人間は二人でいるとき、一人でいるときとは、少し違った者になる。集団のなかにいるときも、違った者になる。人間同士のアマルガム。個の輪郭もそれほどはっきりしたものではない。山名は作家とアマルガムをつくり、妻ともアマルガムをつくり、家族ともつくっている。会社組織もひとつのアマルガム。そうして、重なったり、ずれたりして、ひとりの人間を形づくっている。関係性への光のあて方でちがった相貌が浮かび上がってくる。

作家と山名の二眼レフ。

山名と妻との関係は半分影になっている。

京子さんは触媒のような不思議な、重みを感じさせない存在ですね。

芸術家って何だろう? ほかの諸行無常の人間の営みとどう違うのだろう? などと、いろいろ、いろいろ、考えさせられています。  大阪・松尾

 

* 絵筆を持つ画家に言葉をつかわせたのは、言葉で生きる作家であったのでは。画家が描けなくなったのは作家の存在・誘導によるのではないか。鋭い一つの指摘である。反駁も可能か知れないが、兎に角も一つのくっきりした指摘として、作者は耳を傾ける。

山名が、妻をなぜ描かないかという提言は、どうか。妻の死後に、けわしかった思い出を何故描かないかという指摘か、それとも、妻が存命闘病のさまを何故直視して描かないかという意味か。

この後者は、あまりに苛酷に過ぎるように思われる。観念の作家芥川の「地獄変」を思い出させる。岡本綺堂の伊豆の夜叉王も。批評的な観念としては言い得ても、実地に「描く」という「創作の現場」が、アトリエもない広くもない、介護以外に余力のない、しかも子供もそばにいるマンションでの、言語を絶した「看護・介護のさなか」では、物理的にムリであろう。重度リウマチのものすごさと来ては、身内であれば尚更、とても正視すらきつい。そんな場で成立するものが、「藝術」であるのか、それこそ「技術」だけの域を出ないのではないか。日誌のように字を書くならまだしも、絵筆で、妻の身をよじっての激痛苦悶のサマを直写できる「絵画」とは「創作」とは、やはり、わたしには思いにくい。

では、死後に。

さ、それはもはや「記憶」を再構築することになる。画家によりフクザツに変化する「姿勢の差」があるだろう。画家はどう想われるだろう。

 

* 湖の本には、画家である、繪を描いている、画に関心の深い、絵画以外の創作に打ち込まれているかなりの数の読者が居られる。現に大勢をわたしはペン会員に推薦してきた。

まだまだこの小説には、感想や、場合によれば議論すらありえそうに想われる。松尾さんは、「藝術家小説」を書いたという作者の立言に、真っ向目を向けて感想を下さった。この批評の目が、またべつの批評の目と、魅力的に光り合うことを作者は厚かましく心から希望している。

2004 7・3 34

 

 

* 「お父さん、繪を描いてください 上」を読みました。ゆっくりゆっくりと各駅停車の汽車の旅をしているように、窓外の眺めに遊び、停車時間の長い駅なら一旦下車してその町を見てまわり、気にいればそこの界隈を歩き回り一泊する、といった読み方で上巻を読みました。

主人公の読んだ中西利雄の水彩画の本も取り出し読んでみたり、ボニントンの軌跡と西洋絵画のきらびやかな画家達とも話をしながらです。

同じ年ごろの「山名」氏の選んだ画業の世界と、僕の選んだ理工系の世界の異質性に深く驚きながら、真摯な求道者の姿をまざまざと見たように、上巻を読了しました。

抽象から写実へと両極端でありながら、両者が本質的に同じものを持つという画論に、「繪の見方の幅」が広がったように思います。今までは僕は、繪があり、作品をただ見る側だけの視点から解釈し、悦に入っていましたが、繪に「人間の業」を見る事を、気付かせていただきました。

このことは小説作品の全集を読むことに通じるほどの重さがあることかも知れない。「山名」さんの繪は一点も見てはおりませんが、即興で無責任な想像をしますと、画風は違えども、鴨居 玲だろうか。  川崎 E-OLD

 

* こういう「感想」に接すると、思わず作者はにこにこし、にやにやして、嬉しくなる。「山名」サンは、実在するのだろうか、架空の画人なのだろうか。決着の付けられる人は、わたししかいない。呵々。

 

* 困ってしまうのは、ヒロインについても、いろいろいやみな忖度や邪推をされてしまうことで、書いた作者の自業自得ではあるけれど、お手柔らかに願いたい。創作された作品というものの秘儀をもう少し許容して貰いたい。作者はそんなところで現実と混線させるようなドジはしない。

一例で云えば、ヒロインは、作者の最も好ましい或る美徳を備えて敢えて書かれている。性的なきわどいあれやこれやではない、そんなことは、わたしはインターネットのエロサイトでいやほど「勉強」していて、不自由しない。

しかし、どんなときにも、テキパキとデートの場所や時間を決めて逡巡も遅滞もなく、また面倒がることもないヒロインは、わたしの願望のまさしき反映である。またこうるさい質問もしなければ、べたべたと自身を語りもしない。熱いときは火傷しそうに熱く、その余はさらりと乾いていて、鬱陶しく、ぶらさがってもたれかかっても来ない。まことに男からは勝手な好みでは有ろうが、ひょっとして自由な女性ほどそれが好みなのではないか。そう思って今度のヒロインは創った。

「山名」氏からすると当該のモデルは有ると言わねばなるまいが、作者からすると純然創作物である。無数のフラグメントが利用されてフィクションは出来上がるが、わたしは、「私」小説作家ではない。肖像があるのだから、実話ですねと今日会った卒業生クンは云っていたが、こんなふうにと頼めば「顔」を描いてくれる絵描きの友人は、当然、何人もいる。男にも女にもいる。

2004 7・6 34

 

 

* 「湖の本」を通して貴兄の活躍ぶりとおよその動勢については知りながら、当方からは全く音無しの一方通行の十八年でした。

去年六月をもって長かったサラリーマン生活を終えました。

かなしいもので、やめてしまえばタダの人。ウツロな一年でした。唯一、長年の宿願だった「源氏物語」にとり組み、ようやく「浮舟」まできたので、もうすぐ終点にとゞきそうです。古語辞典片手に原文を一言一句こまかく当り、同時に谷崎、円地両氏の現代語訳とつき合せながらの読みですので大変な時間と労力を要しますが、それなりの充実した読後感が残ります。

先月十三日の日吉ヶ丘同窓(同期)会、百名余りの出席で久しぶりに旧友達と楽しい時間をすごしました。たゞ三百名の卒業生の内すでに五十名あまりの物故者があると聞いて感無量でした。それ以上の「死なれた」人達がいることが思い合わされて。

席上貴兄の「湖の本」も回覧されていました。

先月から、「湖の本」の第一号(清経入水)からもう一度読みなおしをやっています。当時とはまた違った受け方を感じます。それと各巻に折り込まれた親切な栞の文字。これを読み返しながら、何と失礼な、無神経なことであったかと胸が痛みます。小説(13)「春蚓秋蛇」の中で「日吉ヶ丘の会でお目にかゝりたかったです。東京でぜひ一度逢いましょう。」同(15)「みごもりの湖(中)」の中で「一度電話を下さい、そして機会をえて(電話番号)。」多忙な中でこゝまでのメッセージをもらいながら、これをネグレクトしてやりすごした自分の姿が悲しい程おぞましく恥じ入ります。そのころ、私はたしかに東京に単身赴任していて、芝大門のマンションに住んでいました。(八九年から四年間) しかし当時はまさにバブルの真盛中で、東京駐在員としてまさにバブルのど真ん中をのたうち走りまわっていました。あまりにも違う世界にひたり切っている毎日から貴兄への接点も気おくれしたのでした。そのあともその後のあと始末

に数年間没頭せざるを得なかった。人の世の移り変わりの激しさ、苦しさを痛感すると同時に、やはり個人としては失われた時であったなとの思いが残ります。

幸い健康でこうしてやっと自由な時間を持てるようになれたので、これから古典の森の散歩やら その他再スタートを切ろうと思います。「源氏」も繰り返し音読、味読を続けたいと楽しみです。

そして貴兄のますのすの活躍を期待し、「湖の本」の続行を祈ります。「自画像」の小説も「肖像画」も味わい深く読み・視させてもらいました。

お元気で。    大阪府

 

* なんと心揺すられる手紙だろう。こういう昔の友の多くにもわたしはしっかり支えて貰ってきた。不徳なれども、決して、孤でない歳月であった。心からの感謝と、此の友、またあの友達の平安と長命を祈らずにおれない。

2004 7・6 34

 

 

* 前略 昨日の台風で草木が倒れ周囲は寂しい風景になってしまいました。

先生のお住まいの東京はいかがですか。何も無い事をお祈り致しております。

「湖の本」をお送り下さいまして誠にありがとうございました。先生はじめ皆様がお変わりなくお幸せでありますようお祈り申し上げております。

私は日々の生活も三人(両親、妹)を想う気持ちも変わりなく 相変わらずの哀しみと寂しさが続いております。

三月末から急に体調が変化し 高脂血症と高血圧治療との薬を飲み、通院しております。先日は膠原病の検査をし、今は結果待ちです。 妹も叔母も膠原病で、二人とも他界しております。

もし膠原病であったとしたら、より妹の気持が理解してやれると思いますので、心配していません。ただ 両親が生きていましたら私もなってしまったと とても悲しむかもしれませんが、出来るだけ勤務が続けられるように過ごしていこうと思っています。どうか先生もお疲れになりませんようお過ごし下さいませ。

本日は郵便局に行かず、「湖の本」代金を同封させていただきました。手指が痛いので、文字が書けずにいて、大変申し訳ございませんでした。

ここまで書いていまして なかなか出せずにいまして申し訳ございませんでした。昨日の病院結果は膠原症でないとの事で ほっとしました。右手親指に何かがあり他の病院(整形外科)に行くようすすめられました。

除草のため手を使いすぎたのがどうかわかりませんので もう少し様子をみようと思っております。

暑いです。 どうか呉々もお体ご自愛なされますように、ご多幸をお祈り申し上げております。  渋川市

 

* 愛する家族を険しい病気で喪いつづけるなかで、つよい親族からの苛酷な圧迫に喘ぎ続けてきた孤独な人である。わたしよりずっと若い、けなげに必死な生活者であるが、わたしは何の助けにもなってあげられない、かえってこうしていつも手紙で励まされ、見舞われ、さらに土地のお土産などを季節ごとに贈ってきてくださる。わたしは、ただ嘆きの声にじっと耳を傾けているだけ。それも、つらいことである。

2004 7・7 34

 

 

* ここへ来て、『お父さん、繪を描いてください』の「阿波野千繪」の受けとり方で、声が届く。前にも少し読者間で応酬があり、作者の介入することではなかったが。

妻のある男の、妻でない他の女への向き合い方を、わたしは、処女作に近い「畜生塚」以降「或る雲隠れ考」「慈子」「清経入水」「みごもりの湖」「誘惑」「四度の瀧」等々、はなから「必須の設定」として書き継いできた。今の言葉でいうと「不倫」であるが、ところがそういう設定の作品群が、いつも「美と倫理」の名において批評されてきた。「身内とは」という特異な問いかけから、揺れ動く人間関係を追い続けていたからだ。

それは今度の「お父さん、繪を描いてください」にも引き継がれていた。

今回はしかし、動機や主題が他に明確であったから、「阿波野千繪」という女を「性」の極限の場面につよく引き絞ることで印象づけるよう意図した。やや挑発・挑戦的な便法であった。たぶん読者はかなりいずまいわるく気になって仕方がない、さりとて無視し難い、そういう存在であることで、この設定された女阿波野千繪は「役割」を果たしてくれた。同じ一人の女を二人(千繪と京子)に分割してみせた、闇の底の光のようにして。

ま、好き嫌いはあるだろう、この女は「嫌い」と確言する読者もあり、黙っている人の中には、男女ともつよい羨望や自己同化さえしてしまう人もいたか知れない。着飾って取り澄ましている美人もいるだろうが、こういう極限の魅力と美をそなえた女人も、居て欲しいではないか、男でも女でも、そう思わないだろうか。

ところで、この「女」をきちんとして極くまともな「妻」と置き並べて考えねばならなくなると、そこでかなりの波紋が起きる。起きよと思って書いているから、作者の手の内ではあるが、解釈を大きく分けて、妻に足りないものを阿波野千繪で「埋め合わせ」ているという「読み」と、その読みをわらって軽く退ける読みとが、対立する。

最初期の作品からの久しい読者ほど、作者に於ける「もう一人の女」の持たされている意義を、むしろ重く汲まれる。「性」の問題なんかでなく、むしろ「人間」が内在的に持っている二つの「世界」の問題として読むのである。

(もう少しあとを書くが、午前中に済ましたい用事が出来た。)

読み直してみると、とくに書き足すこともない。まだ紙の段階で読んで貰った文藝春秋の寺田英視さんは、「作家」側の私生活部分をもっと割愛してもという感想だったし、筑摩書房の中川美智子さんは「作家」側はとても佳いと思うが、此の「画家」はとても好きになれないという感想だった。失礼ながらどっちも壺に嵌った的確な感想とは思われなかったので、湖の本の読者に委ねようと決心したのだった。

2004 7・8 34

 

 

* 高田欣一さんから今度の作への興趣に富んだ感想を頂いた。感謝します。これも冥界の「友」山名くんに早速読ませてやりたい。

 

* 秦恒平様 御作を拝読しました

「お父さん、繪を描いてください」読了しました。というより、第一回の通読を終えたというべきかも知れません。

じつは、読んだあと、わたくしは言葉を失っているので、最低限の感想だけお伝えしたく存じます。

読みながら、この「山名武史」という画家は、実在の人物なのか、それとも作家秦恒平が生み出した幻なのだろう

かと、つねに考えました。

E.W.サイードという、秦さんがふだん使われる人名語彙の中にはない人の名や、その絵画、特にデッサン論

をみると実在の人のようだし、何よりの証拠は、下巻の「見事な」幸田さんの肖像です。

しかし、読み終ったあとに、やはり、これは幻にちがいないと、思い出したのは、藝術家(作る者)が強いられる、現代における「孤独」の相が、「幸田さん」と「山名さん」には通じるものが強すぎることで、これは、間違いなく秦さんの自画像にちがいないと思った次第です。

ポオの「ウィリアム・ウィルスン」という作品を思い出しました。お作の唐突ともいうべき主人公の消し方には、ポオ

の作品のドッペルゲンゲルの消し方に通じるものがあるようです。

ただ、わたくしが気になるのは、幸田の「阿波野千繪」との、やや造りものめいた関係、幸田にとっての千繪が、山名の「檜さんの娘」三輪京子であることが下巻で明かされてゆく過程、山名の死を幸田に伝えるのが彼女であることなど、この作品を「小説」にするための手立てが、逆にサイードの「レイター・スタイル」というキーワードが重要な意味を持つ、現代における作家のあり方という強烈なメッセージを、薄めてしまうのではないかということです。秦さんは、その出発点からレイター・スタイルの作家であることを認めるに吝かではありません。私見では太宰治はレイター・スタイルの作家ではありません。彼はやはり青春の物語作家です。

月並みなことをいえば、やはり西行、芭蕉というのがそうでしょうか。近代では誰がここに入るか、考えてみるのも

一興かもしれません。(意外と誰も入らなかったりして)。

ただ、わたくしは現代の「孤独」に対する受け止め方に、いささか違和と不満を感じます。現代人は(わたくしも含めて)、孤独を必要以上に有難がる傾向があるのではないでしょうか。

西行の晩年は、わたくしたちが考えるほど孤独ではなかったのではないかと思っています。それは「友」の存在です。

もうひとつは、孤独な心(ハート)を支える詞という躰(ボディ)への信頼が、いまよりずっと厚かったからだと思います。

現代人は「友」を失うとともに「詞」を失っている。

「友」というのは、小林秀雄と河上徹太郎、志賀直哉と武者小路実篤のように、異質性を持ちながら、根底に於いて相互信頼を貫ける存在です。彼らを結びつけたのは詞に対する信頼でした。

あるいは、西行における藤原俊成もまた、「友」かもしれませんね。また森鴎外と渋江抽斎も、この世では決して

会うことのなかった「無二の友」なのでしょう。

どうも要らざることを書きました。

ご健筆をお祈りいたします。

エッセイ通信三十五 西行をめぐって(三)は、まもなくお届けできると存じます。

七月十日                 高田欣一

 

* 一つ二つだけ、E-OLDの会に出掛ける前に「私語」しておこう。

 

* 高田さんの 、「現代人は(わたくしも含めて)、孤独を必要以上に有難がる傾向があるのではないでしょうか。」という観測が、何に基づくのかはよく分からないが、わたしは異なる見解をもっている。

東工大等での、今も続いているかなり大勢の、それも生活の状況ではむしろ恵まれてある「若い人達」の、じつは「孤独」を有り難がるどころか、寒々と恐れている、むしろ恐れ過ぎている実情を、わたしはありあり思い出す。

大学内にいて、孤独・病気・兵役・貧乏の順が示す通りに、彼等は深刻に「孤独」を恐れていた。わたしは驚愕したが予期もしていた。彼等が社会に出て七八年、その度はむしろ進んでいる。

東工大より数年早くに接していた、早稲田大学で文学の「創作や批評」に勤しむ学生達の、書いて来る作品等にも、同じ傾きは露骨なほど強烈で、彼等は、孤独感を恐れつつ、その実は孤立感に恐怖していた。寒い風のように、いや冷えた黴のようにそれが文章をこわばらせていた。彼等は「友」を大勢持つようで、実はほとんどお互いに深いところで信頼し得ない様子が、あまりに多く、いつも、作品に窺えた。特徴的には、友情よりも「付き合い」で成り立っている人間関係であったからは、これも当然だわと感じとれるものが多々あった。

学生たちや若い人達だけではない。わたしの知る限りではあるが、わたしに通信してくる多くの大人の読者たちにも、「友」らしき付き合いはいくらもありながら「孤独」に「孤立」に怯えている人、少なくない。多いと云いたい。

「孤独」をもし有り難がっているような「現代」ならば、おさない子供達同士にまで、あのような犯罪や凶行が及んでいる意味を、どう掴めば良いのか。わたしには掴めない。その意味で、「友」のもつ意義や観点は、深いし、重い。

日本の社会では、「友」との関係があまりに軽薄すぎることは、むしろ常識であった、伝統的に。友情の信頼はいつの時代にも例が少なすぎる。秋成が雨月物語に書いたような信頼の「友」「友情」は、一般には意識すらも希薄で、古川柳など、明らかに、「親の闇 ただ友達が友達が」とすり替えた。友達とはむしろ社会的には「悪影響」の源泉かのように思い入れる世の中。「友情」という言葉の成立基盤を大きく元々欠いていた日本ではなかったかと思わせる。

まして、今では世を挙げて「付き合い」社会にしてしまった。その実情も、男女の公然当然な性的関係を容認する意味に、拡大希釈されている。だから「友」たる或る意味で最良の「恋」が、若い人達に成立しにくく、幸福をもたらさず、男女の相互不信がもたらす「結婚出来ない症候群」の蔓延と孤立・孤独感は、深刻に深いのである。

高田さんの「孤独」理解は、いささか「文藝的」に過ぎないだろうか。

 

* 今一つ、要注意なのは、「詞」への信頼、という鍵の表明。「ことば」でも「言葉」でもなく、「詞」と書かれている点をどう吟味するかはともあれ、あげられている良い「友」同士の「詞」の信頼は、もっと基盤深くで、彼等が、そもそも「ことば」なる魂めくツールが如何に頼り切るに値してくれないかの、深い絶望体験に基づいていることを、見忘れてはならないだろう。

ことばは頼りになるモノだとやすやすと本気で思っているような文学者は、むしろニセモノに近い。無条件に頼れる詞であるなら、それと格闘し、苦吟し、苦闘する必要はなく、「表現」に命を削る必要も薄い。頼りたくても頼れないと真実分かっていて、しかも駆使し表現する以外に「命生き難し」と思えばこそ、まともな文学者は悪戦し苦闘する。それを投げ出した書き手達が世に時めくのは、彼等の相手が、「ことば」へのほぼ無意識の安直信頼者たちだからであり、つまり安直読み物にしかならないのである。事実は示している。

高田さんが挙げているような人達は、「詞」への姿勢の厳しさや嘆息の深さにおいて、辛うじて、お互いにお互いが「分かり合える」という稀有の幸福の意味であろう。

2004 7・10 34

 

 

* 恒平さん ご本ありがとうございます。

ポストに郵便局からの知らせを見つけた時は、一瞬不審に思って、次の瞬間、これしかない、と、どきどきしながら受け取りに行きました。

「畜生塚」、町子が好きです。そして「祇園の子」。

町子の截金(きりかね)には、傍(かたわ)らで見る宏のように、何度読んでも吸いつけられます。

紺の宙をとぶ清姫が手にしかと般若の面をささげ、天の川に見立てた金の琴糸が紺の闇に消えてゆく、それだけでもう溜息が出るのに、二匹の仔猿に、くりぬいた窓の左右から瓢の内に流れるものの音を聴かせたり、四方盆の端縁にぶんぶんをとまらせたり。

この遊び心溢れる美しい意匠は、一体どこから。

町子の、恒平さんの、意匠が、自分のものであるかのように、ひとり興奮しました。

恒平さんの小説に出てくる(藝術)作品は、いつも夢のようであり、それでいて具体的だから不思議。登場人物も。

私の中で、もう一度「身内」を考え直さねばならぬ時点にいます。

これについては、是非追って書きます。

待っていると、お礼がどんどん遅くなりそうなので(すっかり遅くなってしまいましたが)。

次のご本がとてもとても楽しみです。  小闇@バルセロナ

 

* そうかそうか、船便で送っている「お父さん、繪を描いてください」はまだ届いていないののだ、バルセロナには。その前に航空便にした何冊かの分が届いたらしい。小説らしい小説を書いた「畜生塚」は事実上の処女作かも知れない、私家版第一冊の表題作である。截金(きりかね)という伝統工藝をはじめて知った感動が動機になり、また身内に生えていた強い動機に催されて無心に書いた作品であった。上の意匠も、むろんわたし自身の好みから創った意匠であった。日本橋の三越百貨店本店に豪奢な「天女像」が出来た、あれを観たのも、タイムリーであった。

受賞後に「新潮」に発表したこの作品は、桶谷秀昭さんに強く称讃され、また亡くなった立原正秋にも人づてに讃辞を送られて、文壇になど出渋っていたわたしの尻を痛いほど叩いてもらった。

あんなもの、幾らでも書ける。しかし似たものを幾ら書いてみても始まらない。そう本当に思っている。

2004 7・13 34

 

 

* 梅雨明け。  二日間ほど新しい記載がなかったので心配していました、今朝、ほっとしました。そして例のごとくホームページの記載に少し傷ついていました。さまざまな恋文メールに嫉妬したのかなあ!?

この暑さにバテ気味ですが、クーラーつけて暮しています。書いたものを見せなさいと言われていますが、以前にも書いたように整理、推敲できていない状態で読んでくださいといったら甘えになるでしょう? 「失礼です」とおっしゃったことがあります・・日記の続きとして読んでくださるだけでいいのですが、それはやはり甘えですね。

明日はこの町での小品展の展示や当番をして、(わたしは白牡丹の絵を出します。)16日は京都の祇園祭宵山に行く予定です。宵山に出かけるのは久しぶり・・暑さだけは耐え難いけれど。その後は娘の所に行ったり・・。

以下は電子文藝館に関係されている詩人村山精二氏のホームページの文章です。文藝館の詩から村山氏のホームページに入って見つけたものです。

………

6,18

上下2巻で送られてきました。現在はイラストレーターとして生活している山名武史と作家・幸田康之は戦後の一時期、京都市立祇園中学で同級生だった。中学2年の山名は、小学生の頃から富山県の県展で入賞するほどの天才的な絵描き。山名は祇園中学の先生方が「まっさお」になるほどの絵を見せ、その帰りに初めて幸田と口を交わす。それから40年ほど二人の交流は無いが、幸田がある画廊で山名の絵を見たことから二人の交流が始まる…。

小説は、山名が幸田に送った手紙を中心に進んでいきますが、山名と幸田の藝術論が語られるというのが眼目でしょう。創作に携わる者なら一度は、いや何度でも訪れる〝藝術とは何か〟という命題がテーマになっています。それも堅苦しい藝術論ではなく、ミステリー仕立てと謂えば大仰でしょうが、そんな興味でも読み進められます。

山名の手紙の中でおもしろい箇所がありましたので紹介しておきましょう。

>>  あなたはいつかのお便りで、「紳士の証明」だけのような作品はいやと書いていました。全く適切な譬えと思います。私の恐れるのも、そのことです。「誠実ではあるが、堪えがたき凡庸」というものがあって、藝術にとっては最も無用の要素です。私はしばしばそこへ落ち込む危険を感じ、身を避けたいと願う。その積もりは無いけれども、気がつくとそこにいる、そういうことは是非避けたい。それが一番怖ろしい。>>

この一文を紹介しただけでも、この小説の凄さがお判りいただけるのではないかと思います。まだ上巻を読んだだけですが、この先も何の苦もなく読み進められそうです。

*

上下2巻の長い小説を読み終えました。この小説は秦さんのHPで「寂しくても」と題して連載されていたようですから、そっちでお読みになった方がいるかもしれませんね。

絵を描かずに幸田に長い手紙ばかりを送って〝考え〟続けていた山名は、妻が死んだあと神奈川の自宅を引き払って、生まれ故郷の富山に帰ります。考えてばかりいないで一枚の絵を描け、と憤っていた幸田は、二人だけの送別会で自分の顔を描いてくれと山名に頼みます。山名は持っていたノートにボールペンでさらさらと、ものの15分ほどで3枚の絵を描いて幸田に渡しました。その見事な出来映えに幸田は感心するのですが…。

あとは原作をお読みになるか、秦さんのHPでご覧になるのが良いでしょう。たぶんHPでの削除はしていないと思います。

驚いたことに、その3枚の絵のうちの1枚が載っていました。秦さんにそっくりで、今にも話し掛けてきそうです。秦さん自身は〝絵は描けない〟と書いていますから、言葉通りに信じれば実在の他者が描いたことになります。

山名が実在かどうかは小説の上では関係ありませんが、実にリアルな小説であることは付け加えておきましょう。映画やTVドラマの原作になってもおかしくない作品だとも付け加えておきます。

………

以下は、木島始詩集  新・日本現代詩文庫18 P122より引きます。

 

本にもまた鬼籍あり

それは読まれぬこと

本にはまた奇跡あり

それは縁結ぶこと

 

Souls gone before live on in books

But how to see them?

In books are miracles

Tied to destiny.          ホイットマン訳

 

books left unread...

a roll-call for the dead

books filled with wonder

bring things together.      マーガレット・満谷訳

 

あなたの本は、まさにそのように存在し、息しています。     兵庫県

 

* 親切で心優しいメール、励まされる。嬉しくなる。

2004 7・14 34

 

 

* 全く新たな中部地方の読者からの、湖の本注文がメールで入った。三ヶ月ほど前から「私語」を聴き続けて下さっているとか。感謝。

2004 7・14 34

 

 

* 急によみがえってきた昔の思い出について、つらつらと考えてしまったりするような小説がいいのです。菊屋太麻子。ライター -後略‐   とあります。

春、松園展から帰って「母の松園」を読み、「猿の遠景」から「秘色」「蘇我殿幻想」。くぎりをつけて「罪はわが前に」を積み上げ、(上)を、くすぐったい気持で読み進めていたところに、伊能忠敬展。帰り途で、断然“部屋”と楊子(ヤンジャ)さんが懐かしくなって。そのうちに、「新作」が届きましたでしょう。

こンな贅沢で心地好い悩みは、謎ときだけの「徹夜本」にはありませんわ。

「100冊の徹夜本」というリストが、何年か前にありました。始めたきりすぐ行きづまり、未送信のままひからびそうなメールが一通ありましたの。

先日、タウン誌をぱらぱらめくっていて、「あっちゃァ! 先、越されたぁ」という文をみつけましたので、以下に一部書き写します。

* よい小説とはどんな小説でしょうか。

人によって違うのでしょうが、私にとっては、なかなか読み進まない小説がそうです。思わず寄り道をしてしまうような……。おもしろくて一気に読んでしまう小説も悪くないのですが、少し読んでは本をひっくり返して置き、前に読んだ別の本と結びつけて考え――       囀雀

 

* 「湖の本」そのものが大勢の読者には単行本との二度買いなのである。それはその作家に「全集」が出来るときに、また「文庫本」になったりするときに自然そうなるのと変わらない。明らかに「湖の本」はいまでは著者自編の作品全集として進行している。

こういうケースは、かって皆無であったのではないか、これは趣味の出版でなく、ごく特異な市販本なのである。読者が維持して下さった本である。十八年続き八十巻に達したのは読者の皆さんから戴いた勲章にほかならない。わたしはよろこんで自讃したい。

2004 7・16 34

 

 

*「お父さん、繪を描いてください」という題から、子供向けの本かと思った。読み始めて内容の重さに驚いているという評論家からの、また暗く重い内容だが迫力に溢れた作品で一気に読み通したという大学教授からの手紙などが、今日も未だ届く。知人にぜひ読ませたいと、彫刻家の清水九兵衛さんから、上下各二冊送って欲しいと代金が届いたり、このところ日々に相次いで、人へ紹介(贈り物)のための注文がぽつぽつと続く。有り難い。

2004 7・21 34

 

 

* 「お父さん、繪を描いてください」を読みました。一回の読書ではなかなか読後感は書けませんが、それを承知で幼稚であろうとも新鮮な感想をお伝えいたします。

まずこの我々が今生きる現実世界の深遠な深い「闇」が主題だと思いました。源氏を知らない僕ですが「葵上」がいます。

この小説は「漱石の悩み」とある共通点がある。勿論100年前と時代が違いますが。この作品は浜辺に打ち上げられたいろいろな「貝」が光の加減でキラキラと光るものを持っている。その光とは哲学や彫刻や西洋絵画史や陶芸への誘いを感じうれしくなりました。  川崎市

2004 7・23 34

 

 

* 今日、やっと送り出すべき人の僅かに残っていた全部の読者に、「お父さん、繪を描いてください」の下巻を、送り届けた。なにもかも異例の発送になった。

 

* しおりをはさんで。  大きな空気の塊でくるまれている気分―。(下)半ばから(上)の、藝大時代へと戻り、(上)を読み終えたところです。

昨日、うんうん唸り、無闇に辞書を引き、格闘したあげく、うまく表せずにがっかりした駄文が、わずか二行で、すっきり書かれていて、腰が抜けました。最終頁、「同時代人と」以下の件です。

残る(下)後半を措いて、今日は新聞の芥川「河童」を読むことにいたします。

青い葉とばかり見えた田の、際(きわ)を歩いて、あっと背筋を伸ばしました。穂が、天をさして出ています。無事に垂穂=足穂となりますように。 雀

 

* 同時代人と「異なっ」た価値高い、何か。時代を逸れてかつ超えたモダンな、何か。価値ゆえに生き延びて古びない、現代への復活。

山名は、あらまほしき藝術家の、いや自分自身の願望をこめて抱き合っているのだ、チェッコ・デル・カラヴァジオと!  「お父さん、繪を描いてください」上巻末

2004 7・24 34

 

 

* 物理学のいまでは常識として、物質という物は存在しないことが分かっている。究極のところ物質として思われている物とは、無数に交錯する電気現象そのもので、その交錯自体が「物かのように」濃密な時空間を構成しているに過ぎないと。わが「山名」画伯が説く絵画とは「非限定空間」であったというのも、似ている。その実践であった「幸田」氏の肖像は、まさにそういう「物」かのように描かれていた。

2004 7・26 34

 

 

* 画期的日付の一つになったのかも知れない。秦建日子が「初めて」父親の小説を読んで批評してきたのである。

 

* 建日子です。暑い日が続きますね。

「お父さん、絵を描いてください」読了しました。

ガキの頃に、ちんぷんかんぷんなまま「清経」を斜め読みしたのを除けば、真剣に父さんの小説を読んだのはこれが初めてかもしれません。親不孝な話ですみません。

感想は―――書きにくいですね。今の私に一番興味深いテーマであり、また、細部にドキリとするリアリティがあって、非常に胸痛く読みました。

と同時に、しかし、共感・賛同できない部分も多く、複雑な思いにもとらわれました。

最近、私は、「俗な成功に何の意味があるのか」ということをよく考えます。

と同時に、「芸術家を目指すことに、何の意味があるのか」ということもよく考えます。

すべては、コインの裏表であり、人生が滑稽なものであることに変わりはないのではないかと。その滑稽さを甘んじて受け容れたうえで、人はどう生きていくべきなのか、と。

「お父さん、絵を描いてください」には、「俗な成功にはたいした意味がないが、芸術に身を捧げることには意味がある」という大前提で小説が紡がれているように思え、その「硬直さ」が、私の心に今ひとつ染みなかった一番の理由ではないかと思います。

私としては、あの画家に、小説家に、せめてそのどちらかひとりに、自分らが人生を捧げている「芸術」というものへの懐疑が少しでいいから欲しかった気がします。

また歳を経てもう一度読むと、違う感想を持つのかもしれませんが……

では、続きはまた保谷にうかがったときに。  建日子

 

* いい批評であり、建日子から出て来て十分頷ける視点である。

 

* 以前にも、ジャクリーヌ・ビセットとキャンディス・バーゲンの映画、題は「ベストフレンズ」だったか、に触れて、この映画か原作かの原題、「リッチとフェイマス」について、書いたり話したりしたことがある。

リッチとは、俗受けの、金と大量とにつながる成功者のことであり、キャンディス・バーゲンはそういう読み物作家として華麗に生活していた。フェイマスとは金にも大量にも容易に結びつかないが、敬愛される藝術家の意味で、ジャクリーヌ・ビセットはそういう小説家だった。ジャクリーヌは親友キャンディスが泣いて欲しがる評価高い「賞」の早くの受賞者であり、今は選者でもある。

どちらが良い悪いの問題ではない、人生の選択に過ぎない。

 

* 建日子がまだ中高校生だったある日、芥川賞を受けていた某作家が、或る夕刊新聞に、おっそろしいポルノを常連で書いているのを知り、「本人、恥ずかしくないのかなあ。家族は、さぞ、恥ずかしいだろうなあ」と言った。「あんなこと、よく書くなあ」とも。他にも、似たことをしている元純文学作家が、少なくも一人二人もいて、すでに著名なリッチであった。

わたしは、その人達の純文学上の仕事も少し知っていた。「事情」もあるのだろうし、出来ることをしているだけさと、他人のことであり「判断中止」していたが、建日子の率直な感想から、もし、父親であるわたしが同じようなことをして稼ぎ出したら、やはり息子として「恥ずかしい」と思うんだな、「そんなことしてくれるなよオヤジ」と言いたいのかなと、感じた。ま、そうは思わせてやりたくなかった。

リッチな仕事に走り出すか出さないかの意志決定には、わたしの場合なら、それを「will not」だけでなく、「can not」の場合もあるのを認めめねばならない。たぶん、わたしには「出来ない」藝当だろう。

だが、長い作家生活の間に、もし二者択一せよとあらば、躊躇なくフェイマスを志望し、どっちにしても「恥ずかしい」ようなリッチには、「can not」よりハッキリと、「will not」だった。

むろん本は売れて欲しいし、読者も多いに越したことはない。今度の作品にも書いているが、それを考えない創作者はいないだろう。

その上で、わたしは自分の物書き人生を、願わくはフェイマスにと期し、かつ決心していた。というより、少年時代に、源氏物語や百人一首や漱石や藤村や潤一郎や茂吉や白秋を読んでいて、それ以外に考えようがなかった。

 

* だが、それは「我が事」であり、他人がリッチであれ、恥ずかしい垂れ流しをいくら書いていようと、その人達の身過ぎ世過ぎであり、わたしの知ったことではないとも思ってきた。尊敬しなかっただけのこと。

それに対し、真にフェイマスな創作者には、作風の違いなど度外視して「尊敬」し「信愛」した。その具体的な表れが、まちがいなく現在進行中の「ペン電子文藝館」、その「招待席作者」や「物故会員作品」へのわたしの深い敬愛に、如実に示されている。「湖の本」に見せてきた姿勢も、また、同じこと。

建日子はそういうオヤジの姿を、とにもかくにも見続け感じ続けて、いま、劇作や、テレビドラマ作家になっている。わたしが、彼に恥ずかしい思いをさせつづけて、わたしの日々をそれ故に軽蔑し慨嘆していたのなら、彼は創作への道には踏み込めなかったかも知れない。少なくも息子の反面教師としてわたしは或る意味頑固な存在であり得たかとやや自負している。違うかな。

 

* わたしが、リッチ系の作品にもたくさん触れてきて、いっぱいの「時間つぶし」にも熱中してきたことは、ゴマンと家に積まれた海外ミステリーやサスペンスの文庫本だけでも、証言している。映画なら、もっと露骨にわたしは二流三流の娯楽作品でも観てきた、建日子ですら呆れるぐらい。通俗ものには、それなりの効用のあることをわたしはよく知っているし、否定したこともない。小説家として、物書きとして、自分からはそれに手を染めないだけのことである。

 

* では「藝術」「藝術家」を高く評価して「懐疑心」をもたず、わたしはそれ故に「硬直」していたのだろうか。判断は人に委ねるしかないが、次の二つは言っておきたい。

 

* 七十年近く生きてきて、勝れた多くのジャンルでの「藝術作品」と出逢ってこなかったなら、わたしの人生、どんなに味気なかったろう。そんな勝れたものが、ほんとにそんなに沢山あるものかと反問されれば、日本のと限っても、かけがえのない藝術作品の実例を、多くのジャンルから、すぐさま百も百五十も挙げられる。何でもない。海外の文学からも美術からも、数多くの素晴らしい作品に出逢えた、魂を養ってもらった。その感激と感謝はジンジンと鳴るように今現在も身内に生きている。

 

* 建日子は、「藝術」「藝術家」に対して、おやじに一抹の「懐疑」はないのか、それを書いていないのが不満だと言って来ている。

昨日の「私語」の「誠実」云々にも関わってくるだろうが、それを措いても、こんな風に言える。

勝れた「藝術作品」への愛好や信頼は動かない。いわば持って生まれた生理のようなもので、懐疑以前のものだと。しかし、「懐疑したい」「拒絶したい」藝術への態度・姿勢というものが、一般論として厳に存在するとも、わたしは思っている。

あの「山名」画伯のように、「藝術」なる観念を尊ぶ余りに、「藝術」意識を概念的につつきまわして、あげくドツボに陥ちて行くのは、明らかに「硬直」であり、「懐疑」せざるを得ない。そういう非難・批判の気持ちが、わたしにはいつも有る。リクツで「藝術」をいじくり回すのはイヤだということ。わたしが「美学藝術学」という晦渋に過ぎた学問よりも、「書かずにおれないものを書きたい・藝術小説家」をめざして、大学を捨ててきた理由はそれだ。

 

* そして最後に、もう一つわたしの足場をさらけ出すなら、わたしは、人生も藝術も政治も、そして人類も、地球も、決定的な終末・絶滅の時を待って、そこへだんだん近づいているという、いわば科学的な理解も一応持っている。しかし、そんなことより、もっと決定的な「懐疑」と「諦念」とをわたしは、この現世一切に対し、持っている。

自分のしている一切が「夢」そのもので、そこから醒める瞬間を自分は渇くように待っている、ということ。つまりは、夢と知りつつ、だからこそ夢が夢である間を楽しんで、しかし「早く醒めたい」とその時を切望し待っている、ということ。ぜーんぶ、どうでもいいことと思っていつつ、演戯として、自分はこのまま藝術家を演じていようかな、と。それにすら特別の拘泥はしない、と。「今・此処」の生に自然でゆったりとした「楽しみ」有れよ、と。

それは、あの「お父さん、繪を描いてください」の作中「作家」の思想ではないかも知れない、が、作者である秦恒平の思想であり、その思想だって「夢」に過ぎない。そう、思いつづけている。

「闇」に言い置く、みーんな、花火のようなものさ、と。

 

* 建日子が保谷へ帰ってきたときの、また楽しみができた。

建日子は自作のどの一つ残らず、わたしに「観て」欲しいと言ってくる。残らず観てきたのである、わたしは。

しかし彼が告白しているように、全くとは思わないけれど、殆どわたしの書き物を彼は読んでいない。わたしが「清経入水」を書いたとき、建日子はまだ生まれて間なしであった。その後「父」として三十数年批評はして来ても、「小説家」秦恒平のことはまるで識らないできたのである。わたしの元気な間にこんな「批評」が貰えるとは、とうに諦めていた。

(昼の食事に呼ばれながら書き飛ばしていた。いま、少し文章として見直しておいた。) 2004 8・2 35

 

 

* 次の湖の本のスキャン始動。深夜に太宰治「裸川」の校正往来二つ終えた。ムローヴァのバイオリンがずうっと静かに鳴っている。チャイコフスキーとシベリウス。階下から、音楽が響きすぎると注意報。いつもより少し早いが階下ですこしくつろいで、早めに床に入る。

「ゲド戦記外伝」の収録作品はみな読み終えた。アースシー世界の解説が読み落とせない。田辺元・唐木順三の大冊往復書簡集は読み応え十二分。「浮舟」は、横川の僧都にねだって落飾した。この辺はすこしスリリング。近代小説の感じがする。「今昔物語」では、昨夜、あの、藁しべ長者の原話を読んだ。オウオウと声が出た。

では、おやすみ。

2004 8・2 35

 

 

* 風尚自遠   優れた藝術ないし優れた人は、深い思いでゆったり向き合っていたい、豊かな生を得たいと思わせる。出逢いたいなあ。

そういう気持ちでこの四字を読者の皆さんへの挨拶に書き込んでいた。もう一冊には、  同心如蘭   と書き添えていた。金蘭の交わり・契り と謂う。むかし娘は「魂の色が似ている人」と謂って、人を連れてきた。うまいことを謂うなあと思った。谷崎の「刺青」のなかにもたしか似た表現がある。金のように堅く蘭のように芳しい、そういう身内と、わたしは「湖」の人達を思っている。 2004 8・4 35

 

 

* 東京新聞に二週掲載された「『湖の本』18年・80巻」は、ま、もう、これぐらい言わせて貰っとこうという思い切った原稿になっている。いつ止めてもいいし、100巻続けることも強ち不可能ではない。出版文化とよく言われるが、作家による出版は一つの変わり種であり、しかし後続出現の可能性も無いではない。まして電子化時代とあればなおさらである。

2004 8・4 35

 

 

* (作中に用いられていた)外村繁の作品は「澪標」。あの辺りは三、四度ドライブをしています。

「湖」で読んでいた友人は、あの山が・・・と説明していました。近くの日野富子が籠もったと云われる「明王院」へは好きで二度行きました。

「みごもりの湖」は一等好きな作品なのです。

駅近くのヨーカ堂の中の本屋で眼に付き、パラパラと立ち読みしたのが、初版「昭和49年)の頃でしょうか。

子供を置いての里帰りが年に二度は出来る頃、京都の駸々堂で購入したのが、昭54年三刷のハードカバー。昼間はせいだい親孝行をして、夜は一人をいい事に、一気に読んだのを、昨日のように想い出します。

その後、そう多くの人にではありませんが、簡単に紹介する時は短編「慈子」を。

更に読書好きな人には、長編「みごもりの湖」を貸しました。

今日も、友人達と歩く道筋で、一人の仲良しの高校時代の恩師である中西進さんが、何かの話題で出て、それに繋がり、昔に「みごもり」を貸した相手だけに、しっかりと作者の名が出てきました、と、とたんに道中は一週間のブランクも溶けて失せて、あれこれと他愛ないおしゃべりをして埋めながら。もう二十五年以上続いた友人です。

これは余談ですが。

あれは作家になられての初期の頃の作品だと思いますが、何作目だったのでしょうか。その後に数多く書かれる小説のテーマのすべてが、凝縮されていると想うのです。書きたいものが、これもこれもと貪欲に、急流の勢いに乗るように書けたのではないか、と、生意気な云いかたですが、そんな筆致を感じました。

まあ、ワカランチン、そう簡単なもんやあらへん、と口を尖らせて頭をこずかれそうですが、私はそんな感じで読みました。

行きつ戻りつする程難解でなく、神隠しのように消えた人を追う話も、先に興味を持たせ、見知った京都のあちこちが描かれて、故郷恋しいその頃の私には、胸が締め付けられる程、嬉しい読み物でした。

身を入れなかったけれど、多分大マジメに通ったお茶のお稽古も、久々に想い出してとても親近感を覚えました。

「籤とらず」  これこそ、「京の昼寝」そのもの。こんな応答を読んでいる、と、なんだか面白い。

これからお風呂に入って、「ラスト・・・」を観ます。     大阪府

2004 8・4 35

 

 

* 湖の本新刊の本文スキャンをほぼ終えた。次の段階へ入って行ける。

2004 8・4 35

 

 

* 十字架とアナロジー

hatakさん  夏雲奇峯を仰ぎ見る風流も、とうに越してしまう程の暑さでしょうか。

札幌も今年は暑い夏ですが、今宵の風はひんやりとしています。

風邪を引いて物理的に体が動かせないときだけ、ゆっくりと本が読めるというのも、あまり良い話ではありませんが、『お父さん、繪を描いてください』先月上巻を、そして今日下巻を読みました。

日本という国の中で藝術に携わる人々にとって、「藝大」という看板または十字架を背負って行かねばならない重み、またそれを背負えなかったことから一生抜け出せない悲しみを強く感じました。それが、夫婦や親子の関係まで蝕む怖ろしさに、戦慄しました。

山名が藝大へ進まなかったら、また別の人生が待っていたような気がします。音楽で云えばグレン・グールドのように、ホールからスタジオへと内向して行くベクトルではなく、無冠の身軽さとでもいいましょうか、あの『ゴジラ』の生みの親・伊福部昭が、無名時代に北海道・厚岸の営林署員をしながら、『日本狂詩曲』をつくり、パリのチェレプニン賞を獲ったような、そういう生き方も出来たのではないかと思います。イラストでニューヨーク近代美術館へという選択も、若い頃の山名なら出来たはずですが、彼がそうしなかったのは、背負った十字架(=藝大卒)の重さ故、と私には思えます。

もう一つ感じたのは、藝術(家)と研究(者)のアナロジーです。でもこれは、私だけの感じ方かも知れません。以前ここに言い置かれた「闇の読者」は、「藝術家って何だろう? ほかの諸行無常の人間の営みとどう違うのだろう?」「同じ年ごろの『山名』氏の選んだ画業の世界と、僕の選んだ理工系の世界の異質性に深く驚きながら、・・・」と、藝術の特異性を強調されていますので。

私の周りには、少なくない数の、「書けない(あるいは書かない)」人々が存在しています。「書けない」のは「(論文が)書けない」です。いろいろなタイプがいますが、 A: 「実験は好きだが論文は書かない(書けない)」 B :「書くに値する(と自分が納得できる)論文しか書かない」に大別できます。書くべきデータも出せない人は、ここでは論外です。

私も少なからずAタイプに属しますので、これまで英文で書いた原著論文数報+学位論文を生むにあたっては、心身共に消耗しました。毛が抜け下痢になり精神の均衡を失い、「書けない」苦しさを我が身に体験しました。

『お父さん、繪を描いてください』には、山名のそしてたぶん幸田も体験したに違いない「描(書)けない」苦しさが、リアルに表現されています。描(書)けない言い訳やいつか描(書)かなくてはという焦りも、実にリアルです。そしてその苦しみは、藝術作品のみならず、学術論文でも、他の分野においても、人間が何かを「表現する」際の、共通した痛みのように思えます。

山名は、研究者で云えばBタイプです。そしてこのタイプには名門の看板を背負った重みから自由になれない人が多いのです。ですから、山名には、学閥が何の意味もなさない他分野や、海外で活路を見出して欲しかったと思います。彼は、「繪」という藝術より、背負った十字架に引きずられた寂しい生涯だった、とは言い過ぎでしょうか。あんなに素晴らしいスケッチが描けたのに・・・。  maokat

 

* 説得力に富んだ視点だと思う。 maokat さん、札幌に健在。請う、加盞。

 

* 建日子とも、昨日、ずいぶんこの作品について話し合えた。「山名」君を死なせたのがよろしくない、どう抜けだしどう立ち直ってくれるかが読者は読みたいのだと言っていたが。そう、あまくはないぞ、この苦しみはと。おもしろづくな、ストーリー・テールにはならない重い問題だ。

2004 8・9 35

 

 

* 『お父さん、繪を描いてください』にメールで届いた批評だけを、とり纏めてみた。四百字原稿用紙に換算すると、百四十枚分も有った。冥土の画家に供養してやりたい。

2004 8・10 35

 

 

* 次の「湖の本」が、おもしろく興味ある一冊になりそうな、期待がある。

2004 8・12 35

 

 

* 昭和二十年八月、敗戦の十五日を、秀樹は、京都でなく「丹波」の山の中で迎えた。ポツダム宣言を受諾の、天皇裕仁自らのあの玉音放送も、丹波の「田布施」で聴いた。祖父と母と三人で「隠居」を借りていた長山吉之助家の前庭に、あの日は、淡い記憶だが他にも何用かがたしか有って、人が寄っていた。式台に、ラヂオが持ち出されていた。学校は夏休みだった。

放送は、ほとんど聞き取れなかった。戦争に負けた。戦争は終わった。それだけが分かった。点ほどの終末感覚と、かるい明るい安堵感とが、揺れるように胸のうちで交叉した。興奮はすこしずつ増してゆき、ながい夕焼けの茜いろに染まりながら、ピョンピョンはねて走りまわって、わけの分からない声を秀樹はあげていた。国民学校の四年生だった。田布施へ疎開して来て、半年と経っていなかった。

山の中といえ農村に暮らすかぎりは、いわば暦にこびりついた「農繁期」「農閑期」と、秀樹でさえ何とはなし関わらねば済まなかった。「繁」と「閑」とがどんな按配に交替したかをもう秀樹はしかと覚えないが、二番三番もある稲田の草取りの時期が、夏が、農家にとって大変な忙しさであったことは忘れない。田植と草取とはタイミングを失しては大変なことになり、田布施ほど零細な部落でもいくらか農家同士で手伝いに出た。水田が主で、細い街道と那岐の小川に沿った田はほとんど稲の栽培だった。山坂にも僅かながら地を均して水田が作られていたが、二畝もあれば広いほうで、秀樹の目にもよう作らはるなと感心するほど、猫の額ほどの田畑が、家と家とのそばに耕されていた。野菜の畑作もむろん必要で、有ったは有ったけれど、農業組合を通じて売りに出せるほど作れていたのかどうか。茄子、胡瓜、白菜、きゃべつ、トマト、大豆、小豆、枝豆、隠元豆、ほうれん草など都会育ちの子にもごく普通の野菜ばかりで、西瓜や南瓜の大きなのが生ると部落の中で自慢げに噂がはしるというぐらいで、つまりはたいして畑作物に力が入っていたと思われない。   「丹波」より

 

* 正しくは、当時(今は大阪府高槻市)京都府南桑田郡樫田村字杉生に、長沢市之助家の「隠居」を借りて、わたしは母と二人の疎開生活だった。あの日の暑さ、明るさ、ラジオの音響、山の色、田の色、静かさ、はしるとんぼ、まざまざと蘇る。

 

* ときどき自分が書いた「丹波」「もらひ子」「早春」の三部の記録、『客愁』第一部を、ぱらぱらと読み返す。申し訳ないがこれは、読者の何十倍も、わたしのわたし自身のための書き物であった、記憶の失せる前のきわどい時期によく書き残しておいたと思う。読み返して、知る限り、多くは間違えていないと思うしよくまあ覚えていたが、もっと補足したいこともまだ思い出せる。書き置いて誰の何の役に立つものでもなかろうが、ま、これも一種の演戯。

2004 8・15 35

 

 

* 数えてみると、ずいぶん数多く「対談」ということもしてきた。ハッキリ言って得意でも好きでもないことは講演と同じだが、講演録も対談や鼎談の記録もかなり暈高く溜まっている。いちばん年輩の大先生を相手にしたのは、例えば数理哲学の下村寅太郎・歴史学の西山松之助両先生の胸を借りて「日本の文化と表現」を語り合ったのも、佛教美術の望月信成先生と「一編聖繪」を語ったのも、角田文衛さんと「京都」、鶴見俊輔さんと「京ことば」を語り合ったのも、大原富枝さんと「究極の恋」を語りあったのも、後進・後輩として嬉しい機会であった。前田常作さん、加賀乙彦さん、竹西寛子さん、松永伍一さんらとの対談も、踏み込んでよく話し合えた記憶がある。

そして、今は「美術京都」で、年に一度二度と巻頭対談を続けている。それだけで十数回、二十回近くなる。

うまく行く対談もあるが、相性が悪くて失敗に帰した対談もあった。評論家の田中美代子さんと「青春」をかたり、随筆家の杉本秀太郎さんと「洛中洛外」を話し合ったのも、妙にツッパラかって、気の毒なほどうまく行かなかった苦い思い出がある。

それはそれとしても、多年に亘りそれぞれのお相手の胸を借りて話し込んできた中身は、独りで書くエッセイとはかなり味わいが別様に濃くて、おもしろいものだと思う。今度の湖の本の一冊はかなり期待してもらっていいと思う。

2004 8・15 35

 

 

* 啓  湖の本十八年 おめでとうございます。

そちらは暑い暑いみたいですね。お元気でお過ごしの事と存じます。こちら(FOUNTAIN YALLEY)は大体(華氏)80~70位で四時以降は海からの風が涼しいです。

古典愛読を読みながら次は秋萩帖をもう一度読みたくなって、そしたら次は又「慈子」を再読したくなりして、もう忙しい事。でもやっと今頃、読むのが楽しくなって来ました。一寸おそいのですが……

ほんとに恒平ちゃんの御本は美しい美しい文章でホレボレしながら読んでいるのですが、たしかにむつかしい。何遍も何遍も読み直さないと解らない。でも一生懸命読んでゐます。

今度の新しい小説 今月の始めに受取り、先程読み終えました。今午后の二時、静かです。

体中が やはり悲しいですね。

それを寂しいと言ふのかしら。

あまり愛読者を悲しまさないで下さい。

肖像画は素適ですね。そのまゝ。

前に臼井(史朗)先生(裏千家)が「若いのに何でも識ってゐる人です」と言ってられましたが、ほんとにその一言ですね。(亡くなった)姉が横に居れば二人で、かしこいなあ ホンマにかしこいなあ と言い合ってゐると思います。

うちに今20歳の留学生がお茶のけい古に来てゐます。スマイルのそれはそれは可愛い人で、その上此の頃珍らしい 言葉遣いもよく出来、気が利くのです。ですから(稽古日の)土曜が楽しみなんです。でも私は何時も始めに良いところばかり見て喜んでゐるのですが、姉はその正反対でした。どちらが結果は良かったのか解りませんが。

此の可愛い人とももうすぐお別れです。寂しいです。昔、でも私もそうして来たのですね。

伊東の聚光院別院の襖絵、今度はそれを見に行きたいと思ってゐます。そして又美味しいものを食べたいと思ってゐます。

どうぞ呉々もお体お大切に。次の御本を楽しみに致して居ります。 八月十五日  千代子

ps  建日子さんの「共犯者」エディがとても楽しんで拝見しました。モチ私も。

追伸 「お父さん、繪を描いてください」を此の住所の友達に送って下さい。どうぞよろしく。GIFTにしたいので、代金は私の方から差し引いて下さい。

 

* 海の向こうで、古稀の友が繰り返し読んでくれている。わたしの方で妥協せず、読者の方で折り合い身を寄せてくれている。ありがたいと思う。

2004 8・19 35

 

 

* お祝いと発注です。  四国・丸亀の****です。大変遅くなり失礼しましたが、『湖の本』18周年・80冊発行の節目を迎えられ心よりお祝い申し上げます。私のような単なるお付き合いのみで18年を過してしまった者でも、大きな「湖(うみ)」の一滴の雫であり得たのかと自問しています。

思えば職場の女性ばかりの「古典研究会」に黒一点として参加し、『平家物語』を講読している最中の第1巻「清経入水」発刊でした。確か10冊ちかい注文をした記憶があります。あれから18年、当時のメンバーも全員退職し、現地研修で奈良大和路などを案内したことなどを懐かしく思い出します。

さて、その頃から多くの女性が短詩型文学に取り組んでいるなか、抜きん出た存在であった一人が、このほど歌集を出版しました。『関貞美歌集・赤埴の道』(短歌新聞社)です。地元新聞(四国新聞)歌壇選者や短歌教室講師などを務めたこともあるベテランの第一歌集です。以前、歌集『心宿』を贈らせていただいた真部照美さんと同様に、職業を持つ主婦の大変さが思われます。

そこで、お願いですが彼女あての贈り物として『青春短歌大学』上・下各1冊をお送り下さいますか。代金4千円は、以前のように次回配本の際、私あてに併せてご請求いただくということで、よろしいでしょうか。OKの場合、私からということで下記にご送付のほどを。

2004 8・21 35

 

 

* 今日も真夏日、ぎらぎらと暑い、防災の日。昼前にすこしユラユラきたのは気味が悪かった。穏やかな秋到来と願いたい。

 

* 届きました! ついに届きました! これで私も「お父さん、繪を描いてください」が読めます。ホームページの「寂しくても」がどのような本になったのか、かなり楽しみです。あれを読んだ時、最後は山名の死を暗示して終わるのではなかろうか、と思った覚えがありますが、皆さんのコメントから暗示だけで終わらなかったことが分かっています。恒平さんが、なぜ敢えてその道を選んだのか、興味あるところです。肖像画は、間違ってもその瞬間になる前に見ることないよう、下巻を開く時は、かなりどきどきしました。

明日から休暇に出かけます。戻ったら、感想を交えてメールします。  バルセロナ

 

* バルセロナへ船便だとこんなにかかる。地球は大きい。けれど着くとすぐの電子メールは、あっというまに此処へ届く。地球は小さくもなっている。

2004 9・1 36

 

 

* 湖の本の新刊分ゲラが出揃ってきた。さあまた臨戦態勢に入る。この校正は簡単そうで重量有り。あした、ゲラをもって街へ出よう。

2004 9・2 36

 

 

* こんばんは。いつぞやは、『お父さん、繪を描いてください』をお送りくださり有り難うございました。御著者直々にお送りいただけるなんて、嬉しさも二倍になりました。

読者の方々のそれぞれに立派な感想を拝読させていただくうち、何となく読後感をお送りするのに気後れを感じてしまいました。更に御小説の内容に似たことを身近で見聞きしていたために、やはりこういう小説もあるのだぁ、と深い感銘に囚われ、今さらながらにメールをさせていただいています。

名古屋は九月も中旬だというのに、いまだ30度ほどの気温が毎日続いています。私も東山沿線に住んでいます。過去に歴史本を購入されたという古本屋は、大観堂書店あたりかな、などと勝手に想像しています。

「現実そのものよりもっと完全な、もっと迫るような、もっと納得できるような人生の幻影」を与えてくれるノンフクション作品。素敵でしょうね。心に残るモーパサンの言葉をご教示いただきました。どうやったら、そのような文章が書けるようになるのか、自分にとっては一生のテーマです。今後もHPを楽しみにしています。 名古屋

 

* メールで注文頂いたのを覚えていた。感謝。この人もやはり「書いて」いるらしい。

2004 9・14 36

 

 

* きのうのあの困憊は、熱中症ででもあったのか。べつに日盛りをむちゃくちゃ歩いたわけでないのに。帰宅から結局今朝まで十数時間昏睡していた。からだが弱い弱いとふれこみの雀さんの、歳のほども分からないが、元気なことには降参する。

湖の本の再校が出来てきた。発送の用意は何一つ出来ていない。また手厳しい秋の陣になる。

夜前もバグワンと兼好さんとに、いろいろと、したたか叱られ続けた気がしている。

2004 9・18 36

 

 

* シリーズ4849上下ようやく読み終えました。

秋来ぬと目にはさやかにみえねども

風の音にぞ驚かれぬる

この歌が一番びったりくる季節になりました。

暑い暑い夏もようやく終わりに近づいたようで、ほっとしております。

送っていただいた「お父さん、繪を描いてください」上下、ようやく読み終えることができました。

いただいてすぐに目を通したのですが、なんだか妙に辛い気持ちがおこってきまして、すぐにはとりかかれず、一夏を、机の脇に積んだままワインのように熟成させて(?)しまいました。

一言でいえば、まったく「小説」の世界・ないしは「創作」であると、気持ちを切り離して考えることができなくて、いわば親しい友人の苦慮を、何もできず思い悩むような気持ちで、感情移入して読みました。

才能あふれる主人公の、それゆえに試される次々の試練、人柄もよく、でも人間としてはけっこう弱く、(男の人というのは、ぜったい女性より弱いですね。)全然気がついてないけれど、しばしば無神経。

生活と創作との間で揺れる気持ち、家族との確執など、つくづく人は重い荷を負って長い長い道をゆくのだな、と

思わされました。

けれど、この絵描きの主人公、小説家の友人、祇園の幼なじみの少女(女性)との因縁が、美しいロンドのように心を潤し、楽しめました。私が二番目に好きな先生の作品「風の奏で」にも似て。料理屋(楠亭)の繪の場面、二人がそれとは知らずすれ違うシーンには、ちょっとドキドキしてしまいました。

私は東京育ちなのですが、両親は富山県出身です。そんなわけで、私は母の里帰り先の富山・総曲輪で、雪降る1月4日に生まれています。

また私は以前、劇団協議会の事務局に長く勤務したのですが、そのときの上司が京都の方でした。(劇団「京芸」から出向されていました。)祇園(=正しくは知恩院の)「新門前仲の町」にお住いだった****さんです。ずいぶん目をかけていただき、いろいろな企画を任せていただいたことをなつかしく思いだしています。

それやこれやで、今回はいたくなつかしく心に残る作品となりました。

先日「ラストプレゼント」というテレビ番組を見ていましたら、「秦建日子」というお名前がふと目にはいりました。

たしが先生の息子さんでいらっしゃいますよね。ああ、それで京都の劇団の俳優を起用されているのかな、と妙に納得した次第です。(間違っていましたらごめんなさい。)

次回の作品を楽しみに待っております。    仙台市

 

* 感謝します。

たしかに、カタルシスを度外視したようなかなり苛酷な小説になっていた。読者を悲しませないで欲しいと書かれた反応がずいぶんあった。心を潤し、どきどき楽しめるような工夫もしておいてよかった。なにより、こういう小説は目下の所わたしにしか書けず、書かれもしない。わたしはそういう小説を書きたいのである。

平家物語と平曲とを現代小説として追い込んでいった『風の奏で』も、そういう小説だった。仙台の宿は、書いていてもそれは楽しかった。だが、この小説も、次第に熱中の愛読者に変貌していったものの、或る読者から、最初、あまりに歯が立たず口惜しくて、「壁に本を投げ付けました」と告白されたことがある。亡くなった安田武もそうだった、「秦さんの文学はアヘンなんだよ。いつかやめられなくなる」と。わたしが受けた称賛のあれは最たる一つであった。

2004 9・18 36

 

 

* 湖の本の発送作業には進度に目安がある。最大のものは、本紙を責了の時点で、読者への自筆の挨拶書きが少なくも「サ」行分までは済んでいないと、本の出来に追い越されてしまい恐慌に陥る。出来れば「タ」行に入っているとアトがラクになる。その「ア」行が昨夜寝る前に済んだ。ア行の読者は一番数多い。この一山を越す気シンドが大きい。封筒に「湖の本」の住所印を捺し、宛名印刷を貼り、名を正確に挨拶札と払込用紙とを順序正しく封入しておくと、発送自体は単純な力仕事になる。本が出来てくるまでの二週間以上に神経と気力とをつかう。ラクではない。

 

* 朝八時前。階下で、少し「カ行」へ入ってくる。それから街へ行く。

2004 9・24 36

 

 

* 湖の本を宅配便で「責了」したついでに、少し市内を自転車で走ってみたが、風が強く二度三度ハンドルをとられかけた。早々に後戻りし、「ぺると」のコーヒーを呑んで帰った。「e-文庫・湖(umi)」にどうしても原稿が送り込めないので、正しい手順を教わりたく、今晩お店が済んでから我が家に立ち寄ってもらうことにお願いした。

2004 9・30 36

 

 

* いつのまにかぐっと冷えてきた。「刻露清秀」の秋に踏み入った気配である。なにとなく、今日は「ペン電子文藝館」の仕事もしたし、発送の用意も進めている。挨拶も、ハ行を終えた。封筒に、住所印を捺したら、宛名を貼り込み、それに応じて挨拶を封入しておく。宛名印刷も終えている。

 

* いま、日付が変わった。土日は、なんとなし、ツマラナイ。もう寝よう。

2004 10・3 37

 

 

* 久しぶりに、加藤剛主演の俳優座公演「心 わが愛」をNHK藝術劇場が撮って放映したのを、ビデオで見た。いささか照れくさかったが懐かしくもあった。盛り上がってくると、少し泣いた。漱石の原作をダシにわたしの「心」論にしたような舞台であった。「身内」論でもあった。俳優座の公演はほぼ欠かさずに見せて貰っているが、あの公演ほど客が入って、階段通路にもどこかしこにも補助席がぎっしりだったのを、他にわたしは記憶がない。漱石で「心」で加藤剛でという三拍子が揃ったのだ、当然だった。

 

* サーフィンしている内に、思いがけず井上五郎さんが「慈子」について書いてられるのを見つけた。湖の本の久しい読者の一人で、どういう方かは知らなかった。河合塾で講師をされていての「この一冊」という欄に書かれていた。初めて知った。お許しを願って転記させていただく。有り難う存じます。

 

■この一冊  『慈子』秦 恒平 (筑摩書房、1975年) 選者 井上 五郎(河合塾講師)

文庫本が作家との最初の出会いで、結局全作品を読む羽目になったという経験は、何度かある。比較的新しい経験は秦恒平の場合で、私が手にしたのは『慈(あつこ)子』だった。集英社文庫版には森田曠平の絵がカバーに使われており、裏には次のようなコピーがある。

「現実の煩いから離れて愛だけを守るというのは絵空事なのである。絵空事には絵空事にしかない不壊の値があることを慈子が、私におしえた」 結婚という俗世の約束をこえた宿命的な愛の絆がありうるのだろうか? 高校のとき来迎院で出会った慈子と再会した私は、純粋な愛の世界にひかれていく。永劫の時の流れに晒された人間の愛と死の哀しさを描く。

残念だが、同じ文庫にあった『清経入水』(太宰治賞受賞作品)とともに絶版である。

*

正月は静かだった。心に触れてくるものがみな寂びしい色にみえた。今年こそはとも去年はとも思わず、年越えに降りやまぬ雪の景色を二階の窓から飽かず眺めた。時に妻がきて横に坐り、また娘がきて膝にのぼった。妻とは老父母のことを語り、娘には雪の積むさまをあれこれと話させた。

三日、雪はなおこまかに舞っていた。初詣での足も例年になく少いとニュースは伝えていた。東山の峯々ははだらに白を重ね、山の色が黝ずんで透けてみえた。隣家の土蔵の大きな鬼瓦も厚ぼったく雪をかぶって、時おり眩しく迫ってくる。娘もはや雪に飽いたふうであった。私はすこし遅い朝食をすませ、東福寺へ出かけた。市電もがらんとしていた。

『慈子』の書き出しはこんな風にして始まる。主人公の当尾(とおの)宏は、その妻迪子、娘朝日子たちが織りなすリアルな世界(現実の世界、約束事の世界)と朱雀慈子と交わるイデアルな世界(絵空事の世界)との緊張関係のなかにある。

*

私は気づいていた。妻と慈子とが対い合い、結婚生活と“来迎院”とが対い合っている。妻と家庭とは現実であり、慈子と来迎院とは世離れている。身内の想いは環のどの部分にもいきわたっているが、世俗の波を押し分けるには結婚という約束に依らねばならず、無碍の世界に住むためにはむしろ世離れて美しくあらねばならない――……

私は慈子とのたたかいの如きものを想像しなければならなかった。このたたかいには私だけが、慈子だけが克つということはない。二人が克ち抜くか、二人ながら消え失せるかしかない。

宏は、会社の同僚に慈子と一緒にいるところを見られることさえ自分たちの世界が汚されるように感じている。しかし慈子を抱き、慈子が流産することで、この世界にあやしい翳がさしはじめる。

『慈子』は不倫小説でもなければ、単純な恋愛小説でもない。

宏が「先生」と呼ぶ慈子の父朱雀光之が投げかける『徒然草』成立の謎の追究が物語をあやしく彩る。筆者は、人間のイデアルな世界を外から覗き見る「従者の目」から、イデアルな世界の中に入り込み浸り切って見る「魂の目」への兼好の移り行きを発見し、その追究が慈子との関係を展開させていく。

イデアルな世界といい、リアルな世界といっても、それは単純に「理想」と「現実」と言い換えることができない世界である。幾重にも仕掛けがあり、時空の交わりが絡み合う不思議な小説であり、是非一読して欲しい一冊である。

なお、単行本も文庫本も絶版になっているが、この小説は作家自らが刊行する「湖の本」9巻と10巻に収録されているだけでなく、また作家のホームページ(作家 秦恒平の文学と生活 http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/)でも読むことができる。

 

* この処女長編にもまちがいなく漱石「心」の影が落ちている。あの漱石の「先生」を知らなかったら、『慈子』の「朱雀先生」は創作できなかったろう。そしてヒロイン「慈子」には、『心』の「静」という名のお嬢さん=奥さんの影がかぶっている。その印象は俳優座で加藤剛先生の奥さんになった、同時に「K」を死なせたお嬢さん役もした香野百合子が美しくよく示唆し得ていた。久しぶりに今日香野さんの役をみていて、うまいへたの問題でなく彼女は、「慈子」をも演じてくれ得る女優さんだなと感じていた。

 

* さ、今夜は、今夜の内に寝てしまおうと思う。明日も雨らしい。

 

* 「心 わが愛」のキイワードは「身内」だった。身内とは。

バグワンは、ヘッドトリップとハートトリップということをよく言う。ヘッドトリップとは分別心、それでは人間関係のなかで信じたり疑ったりを反復し思議しているに過ぎない。まだ他人の間だ。だがハートトリップなら身内に近いといえる。

疑いは半欠け、信用も半欠け、それは同じことの表裏にすぎないとバグワンは言う。

幼な子は父親の手にすがり

彼の行くところならどこにでもついて行く

信ずるのでもなく、疑うでもなく――

これは「父よ」とただよんでみるだけで済む「子」の全的な信頼・帰依を示唆している。信じたり疑ったりの繰り返し、それを ヘッドトリップという。父と子との譬え、それをハートトリップという。恋は所詮ヘッドトリップ、身内は全的なハートトリップだろうと思う。「恋は罪悪です。しかし神聖にいたる道だ」と心の先生は私に向かって繰り返し言う。神聖とは「身内」の意味でもありうる。先生もKも、恋の心で心騒いで静を得られなかった。彼らは「身内」になりきれなかった。ヘッドトリップの人であった漱石は。それに自身も気付いていたから、則天去私を願った。願ったと言うことはそれに達したという証拠にはならない。先生も漱石も気の毒な人であった。むかしむかし、中学前に、息子の建日子は心をわたしに読んで聞かされて、「なんて可哀想な…K」と泣き出した。わたしは今は、やはり「先生」の淋しさを気の毒に感じる。

2004 10・4 37

 

 

* 終夜、強い雨に天が流れているかと思った。早起きして、発送の挨拶書きをともあれワ行の最後まで終えた。朝飯前の仕事になってよかった。まだ、雨音つよく家を取り込めている。

2004 10・5 37

 

 

* ペンクラブ事務局から、必要がありましてと、わたしの東工大教授退官の年月日を尋ねてきた。オッと、つまる。すぐは答えられないほどもう遠いことだ。本などで調べて、一九九六年三月三十一日付けで、当時六十歳定年という東工大の規定により退官した。前年末の十二月に満六十歳になっていた。想えばその十年前に「湖の本」を創刊していた。あの年、息子建日子が早稲田の法学部に入学し、わたしもあの春から二年間早稲田の文芸科に頼まれ「小説」創作のゼミを受け持ったのだった。

「湖の本」は今年で十八年・八十巻刊行を経過して、明後日には通算八十一巻めが出来てくる。また発送だ。そして息子はやがてまた脚本を引き受けた連続テレビドラマをオンエアするだろう、初春にはまた「作・演出」の舞台も用意しているという。年々歳々人はやはり同じ所にいないようである。

2004 10・13 37

 

 

* ゆっくりと気が沈んでいる。たった七日の一週間が、三日熱くて四日冷え込んだり、その逆だったり、茶碗の中に冷や飯と熱つ飯とがまじってよそわれたような、揺すられ揺すられ落ち着かない気分になっている。

あさって朝に新しい本が出来てきて、午后は理事会。夜には実は三つもの会合や催しの予定がひしめくが、三つともサボッて、一人でどこかで息を入れ、翌日からの肉体労働に備えようかなと。「山名」画伯の新作を飾っている割烹の店がある。それもいいし、クラブでもいい。

幸い本を送り出す用意は調っている。勢い、数日は荒い波にわが筏は波間を乱高下して流されることになる、今、マリリン・モンローとロバート・ミッチャムの「帰らざる河」で、そんな筏の闘いを、ぽつりぽつり一服の代わりにDVDで観ている。発送はたぶん十九日中には済むだろう、済ませたい。二十日はユックリ鴈治郎と我當の芝居を、妻と楽しみたい。妻の夏バテがまだ少し尾をひいているのを、うまく切り上げたいところ。二十二日の晩もいっしょにピアノリサイタルに招かれている。

その辺まで来れば、もういろんなアキラメがついてしまい、落ち着いているだろう。月末に、京都で美学藝術学の学会と親睦会とがあり、来ないかと誘いがあるが気乗りしていない。

2004 10・13 37

 

 

* 明日は午前中に湖の本の通算八十一巻が届く約束。受け取るだけ受け取っておいて、三時の兜町の理事会には間に合うだろう。来週の歌舞伎までにまる四日を使えるから、送り出せると思う。明日の晩、街で少しくつろいできてもよさそうだ。

2004 10・14 37

 

 

* 黄金(きん)色の秋の光を、今年初めて浴びた気がする。少し大きくなった黒いマゴが、書庫上の小庭で勢いづいてご近所の友達と吠えあっている。

夜通し、左のふくらはぎにしつこく残る攣縮の痛みと抗っていた。

はやく本が届いて欲しい。ペン理事会に遅刻したくないというより、少しでも早めに出かけて、有楽町・銀座辺を久しぶりに歩いてみたい。いま、九時。

2004 10・14 37

 

 

* 十一時過ぎて、まだ本が来ない。受け取るだけなら妻に任せていいようなものだが、本は重い。受け容れて次から次へ包みを積み上げるだけで、わたしでも息が上がりそうになる。午前中にはぜひ届いて欲しいが。

 

* 午まえに着。

小出楢重「洋画家の漫談雑談」を入稿しておいて、会議に出掛ける。

2004 10・14 37

 

 

* 銀座「笹や」へ寄ってきた。「山名」の風景画が観たかった。絵を観ながら、「生うに、赤貝」それに「鰈の焼き物」で酒二合。山名の絵をこの店に飾らせたという山名の旧友美谷氏夫妻と偶然出会わせて。おどろいた。

 

* 帰宅、即刻、本の発送作業にかかった。

2004 10・15 37

 

 

* さ、発送作業にかかる。

 

* 作業捗っていますように。肩痛まぬように、無理せぬように。良き日でありますように。 ことばを紡ぐのに苦しんでいます。  鳶

2004 10・16 37

 

 

* フルスピードで作業している。疲れが度を超すか、作業が先に済むか。作業のあいだ、少しでも疲れないために、昨日からつづけざま、アネット・ベニングとマイケル・ダグラスの「ザ・アメリカン・プレジデント」、エリザベス・テーラーに、スペンサー・トレーシとジョーン・ベネットの「花嫁の父」、エドワード・ノートンに、リチャード・ギアとローラ・リニーの「真実の行方」の三作を、聴いたり、ちらちら観たりしていた。三本とも永久保存に、ビデオの爪が折ってある。それぞれに素晴らしい。

2004 10・16 37

 

 

* 日本シリーズが、なんとなく索漠と。審判の不手際から五十分近く中断した。中日ドームで中日ドラゴンズは西武ライオンズの攻勢に目下萎縮。九時半すぎて、もう今日は休んだ方がいい。機械の前へ来ても、おもわず眼がとじてしまい、まどろみの夢をみてしまう。湯につかって、そして寝る。明日も作業。

2004 10・16 37

 

 

* 高名な歌人で、最初から湖の本を支えて下さっている方の、主宰誌にそえた私信を戴いた。

 

* 湖の本『お父さん、繪を描いてください』   苦しく苦しく のめり込んで拝読いたしました。 最後の最後の 肖像デッサンのページに至り 涙があふれて困りました。

湖の本は、私に緊張と至福のじかんを下さいます。  東京都

 

* 先日、銀座「笹や」でその山名画伯による「樹痕」という最新の風景画を、深呼吸して観てきた。その繪は、中学時代に職員室で図画の先生に見せて貰った奥深い緑陰の小径を描いた繪からひとすじに繋がってくる感銘を波動させていた。むろん、多年の彼の画境探索の成果として新鮮でありものの生成するときの根源の生彩と生動を湛えて美しかった。兼六公演の中の秘域に入って描いていた。

大胆不敵に、多彩に描いて欲しい、コケの一念のように喋っていないで。と、これは我と我が上に吐きかける独り言である。

2004 10・17 37

 

 

* 電子文藝館の校正と発送とが輻輳し、てんてんこまい。

 

* 五時。なんとか大方を終え、今夜の作業で、九分がた上がる。十八年余も八十一回も同じような作業をしてきたわけだ、この間に早稲田も東工大もペンクラブもあり、バブルの山も谷もあり、親たちも、兄も、みな死んだ。

 

* 大方の作業を終えた。明日の朝に郵便局へ運ぶべきを運んで、ひとまず終え、残りの作業はむプラスアルファ。それもバカには成らないが。

機械の前へ戻ってくると、とたんにすうっと息を引いて糸のように目が細くなり、すぐ夢を見はじめる。はっと目をあく。今夜はもうダメだ。

 

* けれど森銑三先生の長編「最上徳内」をじりじりと校正し、またテレビを聴きながら、さらに発送の為の作業をつづけて、やがて十一時。NHKスペシャルで「慈恵会医大青戸病院」泌尿器科の最悪の前立腺癌手術ミス事件を。いかに悪質に隠蔽糊塗とされようとしたか、いかに開明のメスが入ったかのレポートを、興味深く聴いた。

2004 10・17 37

 

 

* 行きつ戻りつ「お父さん、繪を描いてください」を、迂緩再読中。一気に通読するのに適さない――そんなの、勿体ない――秦さんのお作は、何回目か数えるよりも、みんな「再読」とだけでよろしいでしょ。

天に向かって枝葉を伸ばし、幹を太らせてきた、一本立ちの立派な木に寄せていただいて、雀は、若葉に撫で慰められ、緑陰に息をつき、風に翻る黄葉に囀り、枝に寒風を隔ててもらって生命得て、有り難いことと感謝のなかに過ごしております。が、己の卑小に縮こまったり、ちょびっとくらいは何かお力に、お気持の足しになっているかもと自惚れ、揺れ動いているのです。 囀雀

 

* 有り難く支えて貰っています。わたしの作品を一度ならず二度でも三度でも読んで楽しんでくれるほどの読者は、ウソ偽り無しにナミの力の読者でないことは知れている。たしかに一度は腹を立てて壁に投げ付けたいであろう程、歯ごたえキツク大概書かれている。わたしが言うのではない、読者が、それも玄人の読み手でもそう言う。逆に言うとわたしは自分の読者をこころから自慢できるのである。フワフワのポンのようなやわらかい読みやすいだけの読み物にしか手を出さない人達ではないと分かっているから、こういう声にも素直に励まされようとするのである。

2004 10・17 37

 

 

* 湖の本拝受しました。たった今、エッセイ32、届きました。いつもながら有難う存じます。エネルギーと持続力にただただ感嘆しております。

日記、毎日拝読しています。バグワンの項など、特に興味深く、一昨日でしたかの「神の愛」の話など、なるほどと思いました。

私は若いころインドに3度出かけ徘徊していた折、、バグワンの噂はずいぶん耳にして気になったのですが、遂にプーリは訪れずじまいになったのが今となっては残念です。   作家

2004 10・19 37

 

 

* 前略 御鄭重に湖の本エッセイ32『死なれることと生きること』を御恵送下さいまして誠に有難うございました。目次を拝見致しながら、永年にわたって実に多彩な人々と対談をなさっていた事を知りまして、秦さんの内蔵されている多様性を、通読し改めて感じ考え直したいと、その機会をお与え下さいましたことに重ねて深謝申し上げます。御礼まで一筆啓上致しました。御体調に御留意下さいますように。 不一  元文藝誌編集長

 

* おはようございます。

昨夜は歌舞伎からよい時間帯にご帰宅で、何よりでございました。

人指し指を怪我して、今キーを打つのが少し苦労ですが、新しい湖の本『死なれることと生きること』のつたない感想を書き並べます。

このご本の最大の魅力は、それぞれの対談が、秦恒平の文学と人間の、多彩で見事な解説になっているところだと思いました。このみづうみが、広く深く豊かな文藝の湖であることがよくわかります。また、対談相手の方々の角逐対峙する学識、感性、人間味なども、それぞれに心惹かれます。

 

竹西寛子さんとの対談

 

ご本の題名にもなりましたように、『死なれて生きること』というこの対談は、秦文学を貫くテーマを語る大変重要なものと感じます。

読者にとって手ごわい名作『みごもりの湖』理解へのとても優れたイントロダクションだなあと、感心しながら読みました。さすが竹西寛子さんで、作品の核心に迫りながら秦恒平の世界に肉薄していて、愛読者はもちろん、秦恒平の研究者に必読の対談であろうと思います。

自分の勉強のため、印象的な所を書き写します。ポイントを外していたらご容赦。

「何度も立ちどまって、繰り返して読みたい文章が到るところにあったということ」

「人は身内に死なれることによって初めて生き始める、という人間観、世界観」

「ことばに生命があるなら、よくえらばれた物や土地や人の名前というものにはすぐれたイメージが凝集されている。そのイメージを文章の中へ美しく引き出せればいいなと思うんです」

「ともあれ『みごもりの湖』全篇の登場人物が、いずれも銘々の立場から、自分の生きている此の世の意味を探そうとしている。作中小説の幸田康之は、本当に生きている人間とは、愛する人に死なれた存在として生きているのだ、つまり死なれたものの此の世だという。幸田の妻で、菊子の親友である迪子は、生まれてきた、was born という受け身の存在として人間の生きているのが此の世だという」

「精衛、海をうづむ」はまさに、愛する人に死なれた幸田の創作行為ともダブるんですね。そこが大変面白い」

「今日ではもう死語のようになりましたが「人の業」という言葉は、死者を葬ることをいったようです。『みごもりの湖』がしたのは、それなんです」

「いずれにしても他者の死によって生を見つめ直すというのは重いテーマで、そういう生へのアングルとしてのこの小説は、まだまだ未解決の問題をいっぱい孕んでいる。この世の量り難さ、うづめてもうづめきれない、人と人の間に横たわる海の広さ、深さに迫ろうとした、貴重な試みの小説だと思います」

『みごもりの湖』を読み直してみようと思います。魅了され惹きこまれながら、手に負えない重厚さに苦労もしていた作品が、以前より少し近づいたかもしれません。

 

長谷川泉さんとの対談

 

文学者秦恒平の評論に対する姿勢が明らかにされている部分が、私には一番興味深く感じられました。

「(興味の比重は)やはり、小説ですね。評論的な仕事というのは、私の場合にはもう小説と全く裏と表、両輪の関係をなしているというぐらいのつもりでいます」

「特に、私の評論の仕事は、『花と風』にしても、それから近頃の『手さぐり日本』にしてもそうですが、根本にあるのは、言葉に対する愛着というか、あるいは関心というか、言葉は生きているという実感が非常に強い」

「語感を広げるかたちで文学の世界を豊かにするということが、文章でものを書く、ものを創る者にとっては、絶対大事なことだ」

「私の場合の評論は、小説を書きながら言葉で触れてきたものの意味を、ストーリーを持たずに追求していくという関心でできていると言っていいと思うんです」

「できることならば、自分の思いをより美しく表現したい。やはり谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』というようなものにしても、あそこに書いてある論旨そのものだけでなくて、その論旨をああいう文体で書いたところに影響力があったし、感化力もあったはずだ。

自分もエッセイを書いていく時に、必ず論旨ということだけでなくて、その論旨を自分の文章なり言葉で書くことを、少なくとも最小限度の心掛けとはしなければならないというふうに、いつも思っているんですが」

いけ花に関する考察は他のご本でも読ませていただきましたが、日本文化論として素晴らしいものです。

あらあら、お稽古に出かける準備をしなくてはいけません。少し練習しないと。続きはまた後で書きます。

佳い一日でありますように。    東京都

 

* 普通の書き手はマスコミを介して注文された批評家や書評家が評判してくれる。わたしも昔はそのようにして盛んに批評して貰ったが、いまのわたしはそういう世間との交渉を降りてしまっている。そして代わりに、読者がこういうふうにモノを言ってきてくれる。どちらがいいかではなく、しかしわたしを今ささえていてくれるのが、読者であることだけは間違いない。読者の声や言葉を作者が臆面もなくとわらう人も有るか知れないが、これはわたしが自ら選んだ特殊性であり、読者が批評家であり批評家が読者なのである。こういう「闇」の書き手は、日本中にそう多くあるまい。

2004 10・21 37

 

 

* お稽古のあとに一つ用事を済ませて、四時頃帰宅しました。

台風一過という青空を期待していましたのに外はどんよりしていて。感想の続きを書きます。

 

大原富枝さんとの対談

 

まず、極限の恋という題がたいそう魅力的でした。人は恋の一文字に弱いし、そこに極限と形容されれば、絶対読んでみなくちゃと……。小説の題にしても、かならず手にとりたくなります。

深刻な恋の話ばかり、最初から最後まで痛切に感じながら読みましたが、感想を述べるのが一番難しい対談とも思いました。

幅広く極限の恋、つまり悲恋の諸相が語られていて、濃厚な味わい。著者の問題提起と大原さんの話題がどんどん広がって、一つ一つに考えさせられて立ち止まったり、ついていこうと懸命に追いかけることになりました。

悲恋といわれるのにふさわしくないのは、極限までいかない恋、中途半端な恋というご指摘は、かなり耳が痛かった。大原富枝さんの言葉のように、いわゆる悲恋なるものは「もう現代は姿を消した」わけで「手近な恋、手近な失恋」をして「悲恋というような極限には絶対たどりつけないような」「精神の衰弱した状態にある」ことは、そのまま力ある恋愛小説がなかなか生まれない現況とも一致しているのではないかと、そんな感想がまず大きく胸を占めています。

悲恋の考察、そのまま一冊のご本にしていただきたいほど。

「悲恋の美は空無の清さの中か、絶対故郷のなつかしさの中で、それそのものとして息づいている」

「……恋をした者の運命としてさすらっていく。さすらわなければいやせないものを彼女たちはもっているし、またさすらわなければ求められないものをもっていて、そして結局は求められないものを恋しているから、悲恋になっているんじゃないかと私は思うんです」

「……たとえば『道成寺』の花子にしても『葵上』の御息所にしても、人の胸を打つものをもっていて、打つものが美しさの形をとってあらわれている。そしてその美しさを一枚ひんめくってみれば、そこには永遠の女の極まり極まった悲しみがあると」

「ですから、御息所の場合にも清姫の場合にも、その段階では深い愛のようなものが悲しみを支えているところはちゃんと見ないといけない。そして極限まで徹底していることによって、彼女たちがそこから救われる道をわずかに認めているんじゃないかと思います。悟りに至るというと変でしょうけども、少なくとも悲しみに悲しみを極め重ねることによって、彼女たちはきっと救われるであろうという望みをわれわれにもたせるし、またわれわれがもしそういう形になったとき、悲しみの極限を通す形で、何かもう少し広くて明るい場所へ出られるであろう、また出なければいけないという気持をもたせる。それだけのものをもたせるのが悲恋ということになるんだろうと思いますね」

「そこで、どうしても死というものが大きな問題になってきて、そしてその死ないし死なれてしまう気持の向こう側に、やっと初めて本当に生きる気持のようなものが浮かんでくる。見えてくる。そこまでいって本当の悲恋になるということですね」

わたくしは、ビタミンというより必須アミノ酸としていつも文章に触れていて、それでこんな長い引用をただ自分のために書き写しています。鬱陶しく思われたら本当にごめんなさい。

この対談でも「死なれることと生きること」はテーマになっていること、身にしみています。

 

望月信成さんとの対談

 

これは感想をパス。一遍聖絵(いっぺんひじりゑ)の何たるかを知らないお粗末ですもの。ただ、絵巻についても、一遍とその信仰についても、とにかく何でもどんなことでもよくご存じの博覧強記でいらっしゃいますことに、ただただ敬服して……。

こんなつまらぬ幼稚な感想書いてもお喜びにはなりませんでしょうね。バカなこと書いています。読んでいただくのも申しわけないのかもしれません。頂戴したご本に対して「楽しみに読ませていただきます」という挨拶が嫌いなので、一所懸命読んで下手でも自分なりの感想を書きたいのです。今日はここまでに。続けるのはただご迷惑なだけかもしれないと、書いていてとても落ち込んできました。  東京都

 

* どういう発言が吸い込まれて行くかが分かり、有り難いと思っている。

2004 10・21 37

 

 

* 今日、国立劇場へ行ってまいりました。

電車やバスがちゃんとうごていてくれるか心配で、何と、八時に家を出ました。バスの中で、「オイディプス」を読んでいましたが、頭の中を重くしてはならないと、途中でやめました。

早く着き過ぎたので、演藝場の近くの、国立劇場に来たときはよく寄るコーヒー屋さんで、開場を待ちました。

お芝居はとてもよかった。「伊賀越道中双六」を通しで観たのははじめてでございますが、やはり、発端から観ますと、事のゆくたてがわかり、登場人物の心理にも納得がゆき、それだけに、あはれであはれで泣かされました。理不尽な、と、おもいつつ、あのひとに泣かされ、この場面で泣かされ……。

久しぶりに、(片岡)秀太郎がたっぷり佳い芝居を見せてくれて大満足、我當の平作はお父さん(先代仁左衛門)にそっくりで、どきっといたしました。

行家の妻を演った上村吉弥という役者、ふしぎな雰囲気のあるひとですのに、今まで、印象に残っていません。なんと、ボンクラな観客だったことか。

きのういらっしゃったのでございますね。「湖の部屋」、お芝居のことを書いていらっしゃったので、拝見しないで、すうと抜けました。拝見しましたら、影響されるのは必定でございますから。

帰ってきましたら、「湖の本」が待っていてくれました。

最初の竹西寛子さんとの対談、あれは、たしか、「みごもりの湖」の栞だったようにおぼえています。

あのご本が、あの対談が、「秦恒平」という作家を知った最初でございました。お相手が好きな作家のひとりで、とても感銘を受けた対談でした。久しぶりで再読、いや再々読でしょうか。

明日は道教の勉強でございます。道教のことが知りたくて、近くの大学に聴講に通っていますので。

これから、昨日と今日の、闇に置かれたおことばを拝読して、やすむことにいたします。 二十一日  茨城

 

* 吉弥というのは、中堅のワキ役ではピカ一、存在感も演技も位も美しさも満点の便利重宝な佳い役者、我當の門弟であるが、人気も高い。彼が出て来て不満だったことは一度もない中で、新之助と玉三郎の「海神別荘」に重い役で出て活躍していたのを見た佳い印象を大事にしている。

2004 10・22 37

 

 

* 瀬戸内寂聴さん、元群像編集長大久保房男さん、同天野敬子さん、ペンの高田芳夫さんや、各大学からも、「対談集」にお手紙をもらっている。「ペン電子文藝館」に二作目を送っていいかという会員の問い合わせも来ている。一年に一作、一年経てばまた一作の出稿は受け付けるということにしている。掲載されることを励みにも喜びにもされる会員があるのは、入会されている甲斐があるのであり、出稿していない人は出稿なさればいいだけのことで、不平等な扱いをしているわけではない。

2004 10・23 37

 

 

* 中日が逆転して一点リードのとき、妻はもう中日ねという口調であったが、わたしはそうとは思えないよと安心していなかった。強い中日なら一点リードでとまってしまうのがおかしい。

まんまと逆転されダメ押しされて負け。これで完全に勝負は五分となり、松坂はもう出せないが、追いついた勢いの中日と、地元であり松坂ほど怖い投手のいない西武相手に、川上も使おうと思えば使える投手陣充実の中日が、逆に堅くなり緒戦のような負け方をしないとも言えぬ。あすは、ややこしい。わたしの今夜の気分はよろしくない。

明日は月曜日だが上野の都美術館はあいているはず。石本さん、橋田さんらの創画展に行ってきたいが。湖の本をもう数十冊、追加で送り出しても置きたい。美学藝術学会の研究発表を聴きに京都へ行くよりも、足の便はいいのかわるいのか分からないが、笠間の「楽吉左衛門展」を観に、西でなく北の方へ出掛けてみたい。先ずは新劇「チェーホフ的気分」を観て、太左衛の「鼓楽」を聴いて。

北へ行けば、いくらか紅葉しかけているかも知れない。

2004 10・24 37

 

 

* すかっと晴れない。秋らしい秋を見ることすくなく、今年は冬来るあしどりのはやさが気になる。

 

* 水俣病の被害患者たちのために奔走尽力された石牟礼道子さん、俳優の田村高廣氏から湖の本へ佳いお手紙をもらっていた。

「すさまじい台風がこの列島を踏みしだいて通ったあとに、おおいなる鎮めのようなご高著がとどきました。<生前の死><死後の生>について、私もよく考えます。生き直すことの深さがぎっしりつまっているお言葉の数々、まことにありがたく存じます。大切に大切にいたします。かしこ」と石牟礼さん。ありがたいこと。

田村氏の手紙は折しもテレビ画面に氏が演技のさなかに私の手に届いた。「今の仕事が一段落しましたら先ず<京ことばの京と日本>から拝読しようと思っています。ご高著を通してふるさとの来しかた、街や人々をふりかえるのを楽しみに致しております。いつもいつもお心にかけて頂きまして厚くお礼を申し上げます。頓首」と。歌舞伎はともあれ、男優にはあまり興味のないわたしが惚れ込んだ懐かしいお一人である。

2004 10・25 37

 

 

* あれやこれや次々に用事をしているうち早くも一時を廻ってしまい、発送のモノを取りに来てくれるのを待っていると、今日もまた出掛けられない。そして明日は雨らしい。

2004 10・25 37

 

 

* こよひ、十日ほどの月が中天にかかり、いゆき早い雲に照り翳りしています。

災禍うちしきるこのごろ、やすらかな爽やかな秋になるのはいつ……と、なげかれます。

先日はメールをありがとうございました。うれしく拝見しました。

「吉弥は佳い役者」「舞台に位が立つ」、あ、ほんとうに、とおもいました。「湖」に、「海神別荘」のときの吉弥を書いておいででしたね。うかがって、あ、あの時の一の侍女、と思い出しました。秀太郎の女房といっしょに、よい雰囲気を漂わせていて――。

森銑三の「最上徳内」、たのしみでございます。森銑三を、わたくし、『砧』『木菟』二冊の随筆集で知っているだけでございます。鏡花のことが書かれていたのを覚えていますが、徳内はどうでしたかしら。先生の『北の時代』で、はじめて「最上徳内」という人を知ったという気がしているのですが。

『久保田万太郎全句集』を、インターネットの古本屋さんから手に入れました。読んだ形跡が感じられないきれいなご本でした。芝居の句がいっぱいあって、ちょっと書き抜いてみたい、そんな気がいたします。秋櫻子の芝居の句とはちがう――。時代のせいでしょうか。

『死なれることと生きること』を、おいしいお菓子を惜しみ惜しみいただくように、それに、幕間、といった感じに間をとりたくて、一章づつ、拝見しています。今夜は「祇園の街角から」でございます。

こんども、軽皇子と軽皇女を書きました。   二十四日  つくば

2004 10・26 37

 

 

* なんとかパソコン直りました。パソコン本体の故障というより、ネットに繋ぐルーターの不具合のようでした。このままならどうしようかと、落ち込んでいました。当然のことながら、機械というのは脆いものです。このパソコンもいつか壊れることを覚悟していなければなりませんね。

とりあえず、今はすっきり晴れやか。これから出かけます。昨日書いていた長いメールを一緒に付けて送ります。

あちらで台風、こちらで地震、またまた台風発生とご難続きの日本列島ですが、新しい週をお元気でお迎えでしょうか。相変わらず雑事の中を過ごしています。今週は佳いことがありますようにと願っています。

さて、『死なれることと生きること』の感想の続きをお送りします。

 

前田常作さんとの対談

 

以前にも読ませていただいたものですが、再読してあらためて真に才能溢れる藝術家どうしの対談という印象で、大きく触発されました。この対談集の中で唯一秦恒平が聴き手として、優れた批評家に徹しています。秦恒平でなければ決して引き出せなかったであろう画家の本質、魅力ある言葉の数々があり、おいしい御馳走のように味わうことができました。

> マンダラ平面の背後にあるのは空の表現だと思います。

> ……包摂する、この包摂する空間というのが、マンダラの精神だと思います。

> まさにマンダラを通してある世界へ参加ができるように、見えない人には見えないが、見える人には見える世界がある。マンダラとは、観念の空間藝術ではないでしょうか。

> それともう一つ、平等ということですね。これが徹しているから平面性になるのですね。たとえば、外国の聖像をみますと平等感がないですね。

> 無明は藝術の根源だと思います。私は闇瞑なんです。

> ネパールでもインドでも日本でも、おばあさんがお参りをしている姿は美しいですね。私はその祈りの行自体が藝術だと思うのです。……これが私の仕事をする源泉です。

> 私は華岳の仏画というのはすごいもんだと思います。まったくふしぎな透明な空気が漂っていますよ。……華岳はたまたま山水を描き、墨牡丹を描きますが、それはモチーフであって、モチーフの奥はすばらしい光に満ちた存在ですよ。……私は、藝術というのは、そういうすごい透明な存在であり、それが美しさだと思います。

> いえいえ、どうして、まだまだ不思議な存在の光があらわれてこなければ……。この光というのが大事なんです。いまや世界はインターナショナルになりましたけれども、ヨーロッパ人が考える光とわれわれが考える光はちがうと思います。われわれの考える光は、存在そのものが光り輝くのですよ。

久しぶりに尊敬するにふさわしい藝術家どうしの対話を読み直す幸福に恵まれ、心洗われます。前田常作さんのお仕事を観たいと強く思いました。

 

鶴見俊輔さんとの対談

 

これは個人的に一番面白く感動した対談です。対談ではありますが、対談を活字にし本にした意味がいかんなく発揮されていました。

まず「京ことば」という表記に心惹かれます。「言葉」という漢字を使わず、「ことば」とあえてひらがなで書かれたことは作家秦恒平の深い配慮によるものでしょう。「ことば」でなければならない理由が、この対談をよめば読むほど、じんわり理解され嬉しくなりました。

京都について京ことばについて、今までも多くのお作で読ませていただきましたが、それでも尽きることのない日本文化論の面白みがたっぷり詰まっていました。京都と京ことばを語らせたら秦恒平の独壇場で、右に出る者はいません。

> 京ことばを考えるには、単語レベルでなく、もの言い(語り口)のレベルで扱わなければ意味がない、これが出発点ですね。……京都は千年にわたる政治都市、文化都市です。政治も文化も心直ぐなるものじゃない。

> 京都が育てた古典語ないし日本語は、ものごとを明確化するもの言いをむしろ拒絶した、おぼろげに言うことによって、場合によっては上手にウソを言うことによって、真実通じ合うところがあった。

> もってまわったもの言いが京都の語り口の基本的なむしろ特色です。

> それが、もう一つの京ことばの特色である「位取り」へ来ますね。……つまり京都の人の気持ちのなかには「春は」「あけぼの」の枕草子以来、いいものやわるいものを選び出していわば順位のようなものをつけるところがある。これが基本の美学で、同時に基本の生き方になるんですよ。

> 結論、つまり答えを求める文化ではなく、「式」を出す文化。いろんな答えがあるけれども、その答えに行きつく式をどう立てるかということだと思う。

> 京都がほかの都市とはっきり違うのは、貴賤都鄙が集約されていることです。……そのタテヨコ十文字の座標のなかで自分がどこに位置しているかをたえず気にしていなければならない。しかもそれも絶対的な評価はできないから、たえずほかの人とのあいだで相対的に評価する。だから、ほかの人についての情報を知っていなければやっていけない。わけ知りということがだいじで、そのわけをどう表現するかで、語り口そのものが武器になるんです。

> 相手を逃げ道のないところへ追い詰めた場合には、こちらのケガも大きくなることを、それこそ千年かかって知っているわけです。

> まあ、京都の人は、わたしは得と道連れだと思う。その得は徳政一揆や有徳人の徳といっしょで、徳であると同時に得、ほとんど同じ。

> ストレートでなくカーブでないと人を傷つけ、自分も傷つくかもしれないと京都人は考える。

> 京都にはこのほかに(はんなり)ほとんどホメことばはありません。これ以外は「宜しおしたなア」「ええなア」という率直なもの位で、あとはホメことばに一瞬思えても、実はジワーッと批判が入っています。

> 京都文化とは習熟なんですね。

(京都人の語り口のなかに差別と闘う力はあるんでしょうか)

> 差別をかわす力はありますがね。でも京ことばそのものが位取り、差別を基本にしているかぎり、差別をなくすのは理屈の上で矛盾したことになる。相手に勝たないまでもけっして負けないようことばを武器として生きているわけで、これでは差別はなくなるわけがない。

> 京ことばは、自分を守ることばなんですね。それが限界で、同時に日本語の限界でしょうね。

> 昔の京都はさっきの話のように、上下の序列がガッチリ決まった社会でしたが、その序列を一瞬にしてはみ出られる道があった。坊主になることです。……わたしはひょっとするとそういう出家遁世の伝統にならったのかもしれない。私家版を自分で出し続けることによって、文学の既成の枠からすっと出てしまった。

> もの書きのする批評には、文章でする批評と同時に、やはり為す批評、する批評があると思う。

> そう、よけい者の系譜がある。自らを用なき者にしてしまうかたちでの反骨というか批評というか……。そういうことをわたしは、あまり大声を出さずに、こつこつとやりたい。ある意味じゃなんでもないことです。やるかやらないかだけのことなんです。

現代の西行や兼好法師みたいですね。京都と京ことばへのアンビバレンツの愛を堪能させていただきました。面白かったア。

さらに個人的に感想を述べますと、いつもわたくしは「もっさり」「鈍なことでした」ということばの使い方しかしていないなあと、ため息をついています。

頂戴するメールの上で、文化的、京都的なもの言いの真意が読めず、よくイライラしています。目の玉に指を突っ込むように、はっきり言ってくださいと怒りたくなることしばしば。「言わぬは言うにいやまさる」のが一面の真実としても、じつは、これが大嫌い。ヨーロッパのお芝居のように語って語り尽くしてください、と、いつもいつも思っているのです。おわかりですか? つくづく、骨の髄まで京都人だと思いますわ。あからさまに悪口はいわなくても、毎回ジワーッと批判されていますもの。

そうそう、「位取り」というご指摘で、わたくしは、自分のもの言いの「基本姿勢」を発見しました。

社宅生活が十年以上でしたので、自分がいつも相手より下であること、会話の仲間うちで最低の位置にいることを、必死で心がけていました。京都の人の逆の意味での「位取り」でしょうか。相手に絶対に負けていなければならない。うっかり勝てばひどい目にあう。社宅生活を「まし」に過ごすための智恵として、相手より下に下にと話していました。

でも、この下にいようとする姿勢こそ、鼻持ちならぬ姿と映っていたのかもしれないと、社宅から解放された今振り返って反省もします。無駄な努力でした。

わたくしには、「はんなり」というホメことばは縁のないもの。どうぞ「もっさり」も許してくださいませね。

お元気で、佳い一日をお過ごしください。  東京都

 

*「目の玉に指を突っ込むように」ハッキリ言いすぎて所詮京都に住んでいられなかったわたしの物言いでも、東京では、そうなんだ。あかんなあ。じつは京都で年に一度は京都の人と対談してきた実感が、かなり、この人のわたしへの口撃に似ている。いやもう、なかなか本音で喋ってくれず、汗をかいた覚え何度も何度も有った。いっそ奥ゆかしいゃないのと感じ入って、ガマンしたものだ、アハハ。

京ことばについては、藤江さんも生粋の京都の人。わたしとはまた角度のちがう「京ことば観」があるだろう。

要するに、語彙の問題ではない、物言いの微妙な調子がどんな放言でも大切な味になる。何しろ京ことばは千年の日本の古典を産み出し、その感化は市民生活のすみずみから、日本列島の遠くにまで顕著であった。そのことはもっと認識されていなければならない、政治にも社会にも文化にも。「京都学」を称する大きな目次も添った企画が持ち込まれてきたとき、どこにも「京ことば」を語る章も節も見当たらない笑止さに、参加を遠慮した記憶がある。論外という気分であった。

鶴見さんのインタビューは衝くところがさすがで、質問されて毎々おもわずニッコリしたものだ。ただ、東京と京都とを比較されるときの「東京」観が、やや飲み込めぬときがあったのも覚えている。おそらく鶴見さんの深くに仕舞われてある「東京愛」があるのかなと感じながら今回も校正をしていた。

2004 10・26 37

 

 

*「なつかしい対談をお収め下さった<湖の本>ありがとうございました。遥かな感じと、つい今しがたお話をうかがったような感じとがいっしょになってわれながら興深い時間でした。それにしても着実精力的なお仕事の累積に改めて敬意を表します。」と、竹西寛子さんのお手紙を戴いた。作家の神坂次郎さん、文藝春秋の寺田英視さんからはそれぞれ「一遍聖繪と一遍の信」に触れてお手紙をもらった。

 

* 特筆に値するのは『何でもみてやろう』のなどというと古証文過ぎると呵られるかも知れないが、小田実氏から、湖の本新刊への感想と激励と、その他あれこれのお手紙、また署名入り著書『随論日本人の精神』および電子文藝館への新原稿とを戴いた。著書には今月二十四日の日付と「敬愛の気持ちを込めて―」と私の名宛てに添えてある。手紙には、全編読んだ上でとくに鶴見俊輔さんとの対談「京ことばと京と日本」に強く触れられている。いまどき小田実にこんな長い自筆の手紙をもらう人はすくないのではあるまいか、わたしは初めてである。

 

* やっと自画像をしあげました。バックに凝りすぎた凝りすぎた絵になりました。自画像・黄昏自画像を描いた積もりですが、少し若かったようでもあり、人生に自信のない芯のとおっていない不安げな顔です。そのとうりなのですね。そのへんはズバリ! です。しっかり顔に表れています。そして絵としてはお呼びじゃない絵です。会場ではかたくて楽しめない、じーと見つめてしまうそんな絵です。

本当に自分がでますね。下手ながらもおそろしい感じがします。

全くのきれいごとを、今回は廃しました。仲間からはどうしたの? と質問されそう。すこし勇気がいりますが、美しく描いた薔薇の絵をやめにして、この自画像を搬入しようとおもっております。

お変わりございませんでしょうか? 湖の本も今回はすぐ読みました。 私でも興味のあるもの、あまりむずかしくないものなれば、早く読み終えることができます。長い積み重ね、勤勉さなのですね。ご尊敬申し上げる所以です。

ではごきげんよろしく。   横浜市

 

* 自分の顔を容赦なく描いて、視線をそらさないこと、飾らないこと。綺麗な絵をみせてもらうつど、そう注文してきた。楽しみだ。

2004 10・27 37

 

 

* あれから一年たったなあなどと思うことが、あるものだ。

三年ほど並列の日記を付けているような人は、よく簡単にそういうことを話題にする。我が家にもいるが、便利というより、おもしろいらしい。

年々歳々人の同じからぬことは年が行けば行くほどよく分かる。芥川の作にもあり、昔から大勢が同類のものを書いたのに「点鬼簿」がある。少年の頃は、なんでそんなと訝しかったけれど、昨今はそういうモノの書いておきたい誘惑にしばしば駆られる。沢山な厚意や激励をいただいたあまりに大勢が、ほとんどみな亡くなられた。わたしより年輩の遠い血縁ですらもう残り少ない。親たちも、兄たちも姉もことごとくもういない。そこそこの年になれば、珍しいことではない。何年の何月、命日はと記憶している例はまずない。もうどれくらいになるかしらんと天涯に眼と思いとを放つぐらいなものだ。

 

* 会者定離とは厳しい天命であるのか、自然の摂理であるのか、七十年近く生きてくればそれはさも当たり前のこととしか思われない。出逢った人のみんなと死ぬるまで長くいっしょとは行かない、家族ですら。わたしたち家族は、もう十数年も一人の娘の、建日子の姉の顔も見ることが出来ないでいる。ましていろんな人々の音信も掴めないが忘れがたい人はむやみとあるものだ。生々流転とはうまいことを言う。

 

* 幼稚園から大学までいっしょだった只一人がいる。いまもわたしの湖の本を講読してくれている。その男性に今度の対談集を送ったら、すぐ払い込みがあり、払込票に「下村寅太郎」は叔父です、びっくりした、と。わたしもびっくりした。そんなことは夢にも想像したことがなかった。こういう、人の縁もある。想えば、この鈴木和明君が今ではいちばん長期間の知人友人である。

たぶん前後して、幼い昔に顔を見知り昨今久しぶりに立ち現れてくれたのが、秦の母方従妹の服部道だろう。

小学校の友人で今も湖の本を支えてくれている友達が何人もある。みな男性で、あたりまえだが、みなわたしと同年だ、人生の前線をほぼ一様に退いてきている。ありがたいことに、同年代で死なれた例があまりない。高校時代にすでに死なれたのが何人かあるけれど。むろん知らないうちに亡くなっていて、風の便りに聞いた人もある。

2004 10・29 37

 

 

* 昨日は早速に、「冬祭り」三冊をお送りいただき、ありがとうございました。先生のご本は、小説もエッセイも別々のものではなく、エッセイのどれを拝読しましても、小説世界と先生のモチーフが網の目のように組み込まれており、理解の手がかりとなりますし、イメージが広がってゆくようで、大切に読ませていただいております。

「死なれることと生きること」は、対談のせいでしょうか明快に届いてまいりました。

「.死なれることと生きること」「極限の恋」「創作への姿勢と宗教」は、対談のお相手が私の好きな作家でもいらっしゃいましたので、とくに心にひびきましたし、「マンダラを描く」「京ことばの京と日本」も興味ぶかく読ませていただきました。

先日読み終えました「風の奏で」をはじめとして、千年の時空と現代が境界を越えて展開する小説には、いつも贅沢な気分を味あわせていただいております。学生のころに教わった歴史や古典文学は形が動かしがたく定まっておりましたのに、先生の世界ではその時代に生きた人々の関わり、心理、生きるすがたの陰影の奥が深く、のびやかで広がりがあり、私も誘い込まれてともに動いている錯覚を覚えさせていただきます。現代、とくにご家族も日常的に書き込まれていることで、観客が舞台を観ているのとは違い、私が今のままで入りこめるような気がいたします。もしかしたら、〈橋がかり〉のお役割なのでは、などとも思いました。

「.お父さん、繪を描いてください」は、それとは逆に、いつのまにか身辺ちかくに引き寄せて読んでおりました。繪画や小説など藝術への指向だけでなく、社会や人間のしがらみの中で願いとは異なる人生を生きた人も多く、その意味では人それぞれの自画像を見る思いがありました。とりわけ終わりの部分でのスケッチには胸を衝かれました。

十七年前、告知からわずか二月で逝った夫の車の中に、スケッチブックを見つけたときのことを思い出したのでした。そこには田舎や川辺の風景、花や木々のたたずまいが何枚も描かれていましたが、どれもスケッチのままでした。仕事とたび重なる転勤に追われ、尺八も謡も中断せざるを得なかった夫が、夢に色を塗ることのできる時間も遂に持ちえなかったことがいつまでも忘れられません。それに私は、「お父さん、繪を描いてください」と言えるほど、夫の願いを知りませんでした。

かつて自分の想いを、

曲がりたき道愛しみつつわがうちに関守石をいくつ抱ききし

と詠んだことがございましたが、これは夫にこそ相応しかったのかも知れないと今は思います。

女学校に入った頃から、私は古典文学にひかれ当然進学を希望しておりました。けれども当時****には、卒業証書がお嫁入り道具といった女子大しかなく、かといって**大には無理、ですから上京を望みましたが、家の門限にも煩い両親は**時間以上もかかる東京など許してくれるはずがなく、断念せざるを得ませんでした。そのかわりお茶やお花お琴などしたいことは何でもさせてくれましたけれど、本当の願いが消えることはありませんでした。夫の転勤の都度、そこでの古典講座にも通いましたが、味わいも深まりも感じられず、結局ひとりで声を出して読むということで浸っておりました。子育てが終わったら大学に行きたいという気持ちを夫も理解してくれていましたが、その頃急死し、その後は母を引き取って世話をしながら姉の看病に通い、没後は老いの極まった母を看とり見送り、その間に小説を書きはじめて、その陰にいつしか願いは影をひそめておりました。

先生の小説や古典愛読を拝読するようになって、私にはこれがあった、と身震いするほどに嬉しゅうございました。これからは先生のご本を手がかりに古典を味わっていきたいと、幸せな気持ちで一杯でございます。

ありがとうございます。今後ともよろしくお願い申し上げます。  十月二十七日   埼玉県

 

* 情味のふかい静かな世界を静かに書いて読ませるこの人は、いわば同業の小説家である。あるいはどこか魂の色に重なるところがあるのだろう、いい読者と作者とは、自然そういうものだけれども。

2004 10・29 37

 

 

* 高著『湖の本32--死なれることと生きること』をご恵投たまわり、まことにありがとうございました。

冒頭の竹西さんとのご対談からまず、語られる日本語のうつくしさに心を打たれました。なんとのびやかな言葉なのでしょうか……。仕事の関係でマスコミやインターネットの文章ばかりと接していて、小さな乾いた傷を無数に受けていたのですが、それがみるみる癒されていくような気がいたします。もの書きが文章表現に気を配るのは当然ですが、話すとなると、内容だけに神経がいってしまいがちです。普通に語って自然にうつくしい言葉が出てくる、それがまた内容を深める--脱帽し、しかも本当に嬉しくなりました。

いつもお役にたてない人間が勝手なことを申しあげましたが、なにとぞご寛恕ください。近々、ペンの集まりなどで拝顔するつもりでおります。御礼のみにて。 東大教授

 

* 嬉しいことを言ってくださる。

2004 10・31 37

 

 

* 御高著『湖の本』エッセイ32をいただき、ありがとうございます。

今号では特に鶴見俊輔氏との対談に注目しました。

京ことばは「式」だというご発言は、新しい発見なのではないかと思います。京の「位取り」も面白い見方で、京のことは何も知りませんが、少しは理解した気になっています。

加賀さんとのご対談も、他に比べて熱が入っているようで、こちらも少々熱くなりながら拝読しました。

今後も勉強させていただきます。ありがとうございました。   ペン会員

2004 10・31 37

 

 

* 恒平さん   小闇@バルセロナ

『お父さん、繪を描いてください』三回目を読んでいます。

読んでいるのに書かないのは、書きたいことがうまく書けないのではないか、と恐れているから、相変わらず。山名氏のようになってしまいそうで、いけませんね。

「誠実ではあるが、耐えがたき凡庸」

この言葉に、一番ぐっときました。

ここ二三年は、好みの変わり目とでも言いましょうか。偶に出かける美術館で、昔なら、あれが一番好き、とあまり迷いなく選んで帰れたのに、最近、それがはっきり定まらない。昔ならこれを好きと思っただろうに(今はつまらない)、、、とか、あれっ、これに惹かれるなんて意外、とか。疑問が残る。過度期にあるせいか、判断も不安定なのですね、きっと。こういう時は、人の影響を受けやすいものなのでしょうが、この初夏のこと。

友人の両親が、画廊で展覧会を開きました。全く違うタイプの繪を描く夫婦で、それまで妻のものを巧い、夫のものは「下手」と感じていたのですが、会場で妻の繪を前にした時、つまらないと思った。上手に綺麗に描けています。だから? という言葉が頭を過ぎりました。そこへ、知り合いのコメントが。

妻の繪は、器用に描けているけれど、写真に似せようとしていて面白くない。夫の繪は、うまくはないけれど、構図、色の把握に個性があり繪として面白い。写真でない「繪」であることの意味、面白さについて、話しているのが聞こえました。

突然、ポーンと思考のはじける音。なーんだ、繪は必ずしも写真のように描かなくたっていいんだ、と。 そんな風に考えていたつもりはなかったのに、分かりきっていたはずのことなのに、頭のどこかで、見た言われた通り忠実に従うのがよい、と考えていた自分に気づかされました。あの繪はきっと、誠実ではあるが耐えがたき凡庸、と呼べるでしょうし、何より私自身がこれまでそうだった。

読み進みながら、そして読み終えてからも、ずっと頭から離れなかったこと。

それは、山名氏こそ「誠実ではあるが、耐えがたき、、、」でなかったかと。彼の描く作品が、ではありません。彼の人となりが。山名の誠実さ善良さは、妻に子供にとって必要だったかもしれないけれど、決して有難くはなかった。山名が自分を犠牲にすればするほど、家族に尽くせば尽くすほど、彼らは苛々したに違いありません。自分たちが望んでいるのはそんなことではない、と。もしかすると、家族こそ山名の藝術

家としての可能性を山名以上に期待していたのかもしれません。少しでも、形(なり)振り構わず繪に夢中になっている姿を見せていたら、、、あの環境で、それを山名に望むのは酷でしょうか。

手堅いけれど、ファシネーションのない人生。問題に直面するのを避けた、逃げ腰の人生。山名の人生はそんな風に見えます。開きかけたファシネーションの蕾を、山名自身が摘み取っている。ああ、もったいないな、と思わせる何かを、この人はいつも背負ってきた気がします。

ちょっと、尻切れトンボのような気もしますが、今日はこの辺で。

その昔、恒平さんに二つのことを望んだのを憶えていらっしゃるでしょうか。

一つは、恒平さんと京都を歩くこと

もう一つは、恒平さんの、私の名を主人公にした小説を読むこと。

そうであったか偶然かはさして重要でない、ただ嬉しく思っていることをお伝えしておきます。

偶然なのは、京都東山(これは恒平さんもご存知のことですが)も楠亭も、私にとって思い出の場所であること。

 

* 多く寄せられた感想や批評で抜けていたかも知れない個所が、厳しく補完された。作品の人物が一人歩きしていて、十分な「批評」の対象と成っていた、成っているということだろう。

バルセロナはどんな「今・此処」だろう。この卒業生もほんとうにはるばると歩んでいる。遠いようでも近いようでもある。ともに京都を歩きたいという可愛らしい希望は、叶うのかどうか。

 

* このサイトが「濃密」に閉じられた時空間でありすぎ、気軽に入ってゆきにくいととも書かれたのを、サーフィンしていて、どこかで誰かが呟いているのを聞いたが、ほんとうにある種の濃密があるならば、わたしは此のサイトを公開はしないで秘めておく。「闇」に言い置くのではあれ、なに分け隔てなく(量と興味とから取捨はするけれど、)なんでも自然にとりこんでいるのは、おそらくこれほど濃密とは逆のありようはないだろう。密であっても、秘密でないからである。

むしろ此処ではかなり無遠慮に開放されてしまう、そっちの方で問題があるというのなら分かる。

2004 11・1 38

 

 

* ぬくまって。  天武・持統天皇の御陵が、ぽかぽかと秋の陽に照らされているのを右手に見て、本尊開扉中の栄山寺、菊薬師と小菊まつりの金剛寺、田村麻呂ゆかりの小嶋寺と巡ってまいりました。高取のまちの人も、五條の人も、涙が出そうなほどあたたかくて丁寧で親切で、観光案内所でおいしいお茶をいただいて、三勝・半七比翼塚や、お里・沢市墓へ参り、帰宅したところへ、おこころのこもった郵便が届いておりました。

嬉しくて、幸せな一日。  雀

 

* 新たに買い足していただいた「あやつり春風馬堤曲」だったかに、宛名識字署名してお送りしたまでである。まとめての発送時は、とても署名してられない修羅場だが、そうでない中間期に来る注文には、なるべくそんなサービスをしている。もう湖の本の刊行も長くはないだろう。買い足して下さる方、新規の方は、お心掛けていただきたい。

2004 11・2 38

 

 

* 明日は散髪し、明後日は自信のない診察を受けに行き、土曜には卒業生クンの結婚式で少し話すことになっている。日曜には友枝昭世師の能「柏崎」が楽しみ。「柏崎」という短編小説を書いて何年になるか。あの『修羅』のなかの一編、好きだった。

2004 11・3 38

 

 

* 世界的な絵本作家である田島征彦さんから、『お父さん、繪を描いてください』に手紙が来た。

 

* 大変興味深く読みました。画家のことを文学者が書かれると、どこか違うなと思うことが多いのですが、この作品は、山名武史が実在していると思われるほど、画家の方からもよく理解できました。

ただ、イラストレイションと絵画と、これほどまでにくべつしての考え方には、ちょっとぼくには違和感を持ちました。極端かも知れませんが、横尾忠則の仕事など、イラストと絵画とをどちらが上か下かを感じさせません。もちろん山名の仕事の中でも、イラストに持つ考え方もあるでしょうから、一概には云えません。

しかし山名の葛藤は良く描かれていると思いますし、ぼくにもよく理解できました。大変に引きこまれた作品でした。

それと中心の「美術京都」で(京都の瓦鍾馗について)対談されていた服部くんは、ぼくの美大の時の一年下の友人です。

 

* 米原万里さんからも湖の本に親切な挨拶が来ていた。

2004 11・6 38

 

 

* 元フェリス大学、また明治大学の文化史の教授だった粂川光樹君の手紙をもらった。わたしと動機で医学書院に入社し、社内で出逢った奥さんのシヅエさんを小わきに抱えて半年か小一年で退職していった。のちにわたしをフェリス大学へ講演に招いてくれて、初めて横浜中華街で講演後に御馳走になった。なにとなく久しぶりに新刊の湖の本を送ったのだ、それの返辞・返礼の丁寧な手紙であった。懐かしい。

2004 11・9 38

 

 

* この頃の対談だよ。そういわれても不思議でなく、(だから、最初に読んだとき、途中で何度も、切ない思いで伏せてしまったのですわ)、40才頃というのに驚きました。今も、同じようにお話しなさるのではと思いながら、辞書をひきひき、読み進んでおります。

お作も、体臭が立ち上ってくる感じがしたり、平均台に立ってらっしゃるようだったり、膏のおいしさを思わせたりといった具合いに、齢による違いは感じますけれど、わッかいわぁ、とか、ま、お年寄られて、ということがないのが、不思議。レイタースタイル…ってことかしら。  一読者

 

* いろんなことを云われるのは、作家の冥利であるが。ちくちくっと爪先の痛みがくることもある。

2004 11・21 38

 

 

* 露   「言葉なんて」の件を読んだとき、お芝居にある、腹かッ切って臓腑を手で掴み出して放る場面をおもいましたの。

ご自身で引き出す、痛みと鮮血のともなった言葉、また、対談で引き出された、浚われた言葉、そのどちらも、秦さんのほかでなく、喜びをもって読んでおります。  雀

 

* この「露」とは、露堂々というよりも、少し色っぽくいえば露顕の露。

 

* 潭   予期しない、瞬く間の連続である、「語り合い」のなかで、たっぷりのインテリジェンスを柔和の皮で包み、スマートに相手に差し出す優れた能力をおもちの一方、文は、ひとり、時間も手間も惜しまず、徹底的に仕上げることができるのに、赤裸にご自分を出しておしまいになる。HPならともかく、雀は活字になったところで接するものですから、お書きにならなければわからないのに、どうしてこう…と思いますの。

いえ、だからこそ秦さんなので、そこがいいンですけど。お若い頃から、ずっと、悶えて搾り出してうったえてらして、変わらずに。  雀

 

* 同じ「対談集」も、こう読んでくる人もある。たしかに。言うがつらいか、言わぬがつらいか。きたならしいが、わたしの書くのは、みな嘔吐である。幾ら吐いても楽にはならないが。

「言葉にして」示して欲しい人と、「言葉なんて」役に立たないという人とが、きっとこの世では二つに分かれていて、さ、どっちが多いか。

2004 11・22 38

 

 

* 湖の本、ありがとうございました。お礼が大変遅くなりまして申し訳ありませんでした。

今頃になって、ゆっくりと先生のご本を拝読しております。お礼だけでももっと早く申し上げるべきだった、と思っております。本当に失礼いたしました。

今回、絵についてのご対談を複数含めていらっしゃいますね。

この仕事も7年目になると、どうしてもそこのところに興味が捉われがちになります。特に絵巻物に絹本が少ないとのご指摘は、目から鱗が落ちるようでした。開いて閉じて、の実際の使用を考えると、確かに紙本の堅牢さが優位に立ちます。

では、なぜ、それでも絹本を使ったものがあるのだろう、と、しばし考えてしまいます。先生達はそれを「豪華な貴族趣味」とさらりと流してらっしゃいますけれど。

確かに一遍が絹本にされているのには、そういう面が非常に大きいような気がいたしますが、それよりも「名所絵巻物」というご指摘に「あっ」と思いました。

信貴山や伴大納言のような事実の伝達ではなく、名所の素晴らしさの伝達という目的ならば、絹本の色の美しさは実に効果的ですよね。絵描きがものを描く時の「いかに描くか」の一部に、必ず「どんな材料が効果的か」が含まれていると思います。

そういう意味で、材料屋から見る日本の文化は、本当に興味深い。

その材料屋が、最近興味を惹かれているのは、「豆糊」です。

ご存知かと思いますが、延喜式などに「糊料」として大豆が挙げられております。実際に平安期あたりまで文書の紙継ぎの部分に赤褐色の接着剤が使用されている例は多々あります。これが本当に豆で作られているかどうかはわからないのですが、鎌倉期の声を聞くと、この接着剤は雲散霧消します。全然見当たらなくなるのです。そしてそれ以降豆糊は復活せず、製法はわからないままなのです。

この突然の変化はなぜなのだろうか?

伝統的に文書修理に使われてきている小麦デンプンは、水を与えると剥がれやすいのですが、豆糊と言われている赤褐色の接着剤は何(どう)しても剥がれません。これがタンパク質、特に豆由来だと言われる所以なのですが。

こういう強固な接着力を持つものがどうして使われなくなったのだろう? やはり再修理が不可能だからだろうか。ならば、かわりに台頭してきた接着剤は小麦だろうか。

それは鎌倉の禅料理の影響があるのだろうか。お麩を取るようになれば小麦デンプンが大量に余るようになりますから・・・そして、この赤褐色の接着剤は本当に豆由来なんだろうか?

確かにその接着剤を分析するとタンパク質は存在しますが、実は小麦や米も精製が悪いと(昔はたいてい、精麦、精米は悪かったですよね)タンパク質が含まれます。それとどう違いを確認するのだろうか。

そして、それを確認するのに、現在のリッチな大豆をベースに実験してよいのだろうか。

などと、いろいろと手探りで進めている最中ですが、やはり日本の文化の小さな一側面を掌の中におさめようとする作業は私の中で大きな喜びです。

今まで他の糊料、小麦デンプン糊や古糊、そして海藻の布海苔(ふのり)など、伝統的な糊料を旅してきましたが、今、もう一つの山に登ろうとしています。いえ、正確には、登る準備をしています、というところかな。

珍しく研究の内容を長々とお話してしまいましたが、先生ならば面白がって下さるかな、と思いまして。

退屈でしたら申し訳ありません。

長い間、仕事と子育てとを秤にかけて、ともすれば子育てに分銅が落ちがちで「仕事を辞めよう」と、何かにつけて思っていたのですが、最近ふと、両輪ないとダメなんだ、と気づきました。

子どもといる優しい時間があるから、自分がやわらかく掘り起こされますし、仕事という山登りができるから子どもを自分の登山の道具にしないですんでいる、という事実。

平成12年12月12日生まれの娘は、もうすぐ4才になります。母親にあまり似ず、健やかに育っている姿を見て、逆にようやく自分を肯定できた私がいます。

紅葉が美しい時期ですが、明日あたりから寒さが強まるとのこと。

どうぞどうぞご自愛下さい。   鎌倉市

 

* ウーン、すばらしい。こういうメールに深く触れると、しんから温かく力強く嬉しくなる。「糊」の話は、以前にもこの東工大院卒の友人に聴いたことがある。いま、あらためて、対談集で望月信成先生と語り合っていた「一遍聖繪」という具体的な絹本絵巻の話題から触れ直され、ポイントがいろいろ指摘されてみると、興味津々。なみなみでない話題であり課題であり、前途にたのしい展望が期待できる。東工大生が電気や機械や建築や物理や数学だけの大学でないこと、今更に感じ入る。

この「卒業生=お母さん」のこんな「今・此処」にも、強靱に、しかも「ふつうのくらし」を成しえている好例をわたしは感じて、これが健康というものだ、と、感心する。斯くありたいと、と。

妻で母で主婦でありながら、家族や家庭に殉じるような生活へめりこんでいない。自分の世界とテーマとを仕事としても確保し、それ故にかえって両方渾然とした「ふつうのくらし」を築いている、築こうとしている、確立すべく。幸福な生き方である。

自分の心身の自由と健康を、家族や家庭にいけにえのように捧げて、それが尊いことかのように奔命している男の人もいれば、女の人もいるけれど、滅私奉公、えらいですねとは簡単に云えない。むしろ痛ましいと感じる場合も多い。

2004 11・27 38

 

 

* 怠けて湖の本の次が用意できていない。今月には入稿しておきたいが。プランが輻輳して気持ちが定まらないのである。

2004 12・3 39

 

 

* 起きがけに痛烈な攣縮が右足へ来て、怺えて壁によりかかるうち、左の腰から背中へねじくれるような痛みが襲い、立つに立っていられず座るに座り込めず、ヘキエキした。かろうじて攣れる右足をなだめ、左腰と背中の痛みは無視することにして苦痛のままで歩いたり坐ったりしてきた。気にかかる仕事があり、それへ気持ちを集中している間にも、左脚膝上から膝下へ深部をもぐらがはしるようにビクリビクリと痙攣を感じたり。無視して仕事をつづけたり。軽い昼食をはさんで午後三時十五分に、ひとまず肩の荷をおろした。必要なだけの原稿を、凸版印刷へ電送した。やれやれ。

2004 12・23 39

 

 

* 一冊分を構成し校正もしレイアウトして、入稿した。肩の荷を一つおろした。新しいカレンダーが連日送られてくる。新年へ新年へと背を押される心地がする。

気負い立つたなにも無い。来年は何をしようと思うよりも、何をしないでいられるだろう、と期待する。

2004 12・23 39

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