ぜんぶ秦恒平文学の話

湖の本 2007年

☆ 秦先生,ご無沙汰しております.東工大卒業生の*****です.
年末ギリギリの大晦日に東京に戻ってまいりました.
明々後日に、アメリカに発ちます.
本日,「湖の本」のお代を郵便局で入金させていただきました.これから発行される本の分をと思い,合わせて2万円を入金させていただきました.ご確認いただけましたら幸いです.
アメリカでの住所は以下の通りです.
割愛
東京の実家の住所は以下の通りです.
割愛
わざわざ海外にお送りいただくのも大変ですし,おそらく実家から定期的に宅急便を送ってもらうことになるかと思いますので,実家の方にお送りいただければと存じます.
4年半に亘る岡崎生活ですが,今まで東京を出た事のない私にとっては,色々な意味でカルチャーショックを受けました.
喜ばしいこともありましたし,辛いこともありました.
しかし,この選択は私にとって非常に意義あるものだった,と今振り返って思います.
岡崎が意外にも関西方面に近かったこともあり,関西へも気楽に出向くこともできましたし,東京にいる時にはまず行くことの無かった中部地方をあちこち出歩くことも出来ました.
これからのアメリカ生活は不安で一杯ですが,反面期待で満ち溢れています.
自分の持てる力の全てをぶつけてきたいと思います.
アメリカに参りましても,このメールアドレスは使えますので,何かございましたらこちらにご連絡いただけましたら幸いです.
では,行ってまいります. 雄

* 新たな門出を心より祝福する。日本の最高の研究機構で、もう永く最先端の研究に従事してきた。その蓄積と業績がアメリカの研究機構から期待されたのである、思い切り吹っ切って打ち込んできて欲しい。人の渦と、研究がらみの暗い仕掛に絡まれないでください。
やす香の医療のことで、とても親切にして貰った。あらためて心より御礼申し上げる。
卒業生諸君、着々と自身の世界を実力で切り開いている。嬉しく、心から声援を送る。大学にいたとき、こういう諸君の十年後十五年後がみたいと何度も思った。その夢が幸い叶っている。またそういう諸君が、どちらかといえば苦手に属するであろうようなわたしの「湖の本」を、逆に応援してくれる。幾重にも、感謝に堪えない。
2007 1・5 64

* 京の「わる口、批評語」を丹念に再校し再考している。自分の根を洗っている気がする。あのまま京都で暮らしていたらゼッタイに見えなかったろうものやことを、観ている。「引いて、入る」。批評や鑑賞のもっとも微妙なところか。
夜中に目覚め、この後自分は何がしたいだろう、と、闇の奧へ問いかけた。簡単に答は出てこなかった。そういうことを、自分は自分に問う気になってるんゃなあと想っていた。
2007 1・14 64

* いまなお引き続いて『かくのごとき、死』への感想がとぎれず届く。「ご不幸をこえて、新たな表現へと向かわれた御作と拝見」したと言われるのが有り難い。

☆ (前略)身近な人に死なれた時は、なまじっかなお悔みなど却って煩わしいものだとはよくよく存じておりますので、何も申し上げる言葉を持ちません、ただ重ね重ね不知不知(年賀状で)失礼を申し上げていましたことお許し頂くようお願い申上げます。『死なれて死なせて』も先度頂戴いたしましたときから、何度も拝読いたしましたが、「死なせた」という思いは、実は私はいつも当り前に存じておりました。今度の御本の二四九頁に 朝日新聞の方が、「意表をつかれた」とおっしゃったということに むしろ驚いております。
私の幼時に父が亡くなりましたとき祖母は、いきなり私を抱きしめて、あゝ、この子を父なし子にしてしまうた、この子の父親を死なしてしもうた、お祖母ちゃんをかんにんしてや、かんにんしてやと云って号泣しましたのを覚えております。(もちろん祖母と父の死とは何の関係もございません。)
知人がふたりの御子息を、特攻隊で亡くされた時も、その知人自身「あんな見たこともない離れ島で二人も死なしてしもうて……」と云い、祖母や母も「あこ (=あの家庭)は二人も戦争で死なしてはるもんなあ」と、云いあっておりました。
父が死にましたのは、私七歳の誕生日の数日後でございました。 最後に私の左手を強い力で握りしめましたので、ねじれた左の小指がひどく痛みましたが、私は何も云わずにこらえておりました。 私はこの春で七十八歳の誕生日を迎えます。実に七十年、私は、父に死なれたとは毛頭思わず、死なせたと思いもし、云いもして過してまいりました。七十年たった今も 左の小指は時々痛いと思います。
この話は、誰にもしたことはございませんし、書こうとも思っておりませんが、やす香さまをお話なさるときの話題にひょっとしたらして頂けるかしら、と存じてしたゝめました。
御平安をお祈り申上げます   かしこ  一月十七日   エッセイスト

* 有難う存じます。

* 「死なせた」という思いをわきまえることなく、いかなる愛と死との名作に接しても真価は読み取れない。人間の基本の素養として、そういうことを、わたしたちは子供の頃からいつ知れず身につけていた。人間の歴史、わけても戦争体験の歴史を、切に五体で「記憶」していた。そう、わが子達にも教えていたつもりだが。
2007 1・19 64

* 今晩は、文藝春秋の寺田さんが銀座で逢おう、食事をしよう、と。妻もいっしょに、やがて出掛ける。

* 六時半、銀座公詢社まえの料亭で、寺田英視さんと。久しぶりに。
よく出来た、正月のなごりもしのばせた佳い献立の八寸仕立てで、うまい料理を堪能した。佳いお酒もたっぷりいただいた。話題もおっとりと四方山、肩も凝らず楽しく。妻は、寺田さんとは二十年近いご無沙汰であったろう、話題の尽きることなく、いい気持ちで、わたしが沢山話した気がする。寺田さんは寡黙な聞き上手で、とはいえ、ただ相槌だけの人でない。まっすぐ向き合って話を聴いてくれる人だ、昔から。よくよくの親切、よくよくの遺漏と激励とであったのだと、感謝。
そして志木へ帰って行く寺田さんに、我々は保谷まで送ってもらった。なにもかも、ご馳走になった。

* 寺田さんのことを話し出せば、長い話になる。いっしよに仕事をしたことは少ないのに、仕事より大分前からずうっと親身に親切にしてもらった。ふしぎなぐらい編集者以上の知己であったし、今も、と。作品をよく読んでもらった。いつも言葉静かに激励された。
なにより有り難かったのは、最初数巻分の、前の印刷所があまりずさんな仕事で心底参っていたとき、見かねた寺田さんに凸版印刷を紹介してもらった、凸版は本当によくしてくれた。おかげで「湖の本」がいまの九十巻にも及んでいる。とても我一人の力でできてきた出版ではなかった。そして今宵のご馳走は、そんな久しい「湖の本」などの塵労をねぎらってもらったのだと、心から感謝している。
2007 1・19 64

* 劇団「昴」の上演舞台を久しきにわたりいつもご招待戴いてきた。拠点の三百人劇場でだけでなく、数え切れない舞台の感銘が深く印象づけられてある。その三百人劇場がほんとうに幕を閉じた。しかも楽しみにしていた最後の『八月の鯨』を、我々夫婦は「去年バテ」の煽りをくらって観のがしてしまった、招かれていながら劇場に行けなかった。痛嘆、また申し訳なさのきわみであった。
福田恆存先生と初対面をよろこんだのも此の劇場でであった。開口一声「ああ、想ってたような方でした」と云われ頬が熱くなった。そして「湖の本」に云うに尽くせない応援をしてくださり、今も奥さんの大きなお力添えを戴いている。
ご子息の逸さんには一度お目にかかった、また谷崎歌舞伎を演出された歌舞伎座で「お国と五平」も観た。本拠の三百人劇場では何度も優れた日本語訳と演出との舞台にいつも夫婦で接してきた。
劇団「昴」が無くなるわけではない。だから芝居は観て行けるだろうが、三百人劇場はもう無くなった。
わたしが初めて三百人劇場に入ったのは、演劇の観客としてではなく、橋本敏江さんの平曲演奏の前解説を引き受けたときであった。彼女はみごとに「小宰相」を語り、その感銘がわたしの小説の『初恋』や長編『風の奏で』に生きた。忘れ去るにはあまりに惜しい想い出となる。
2007 1・20 64

☆ 秦 さま 2007年も20日が過ぎました。なんとなくご無沙汰いたしております。
お元気ですかとも、いかがお過ごしですかとも問えず、それこそなんとなく思い出をたどっております。
今年は本当に暖かいですね。寒いのが苦手の私は助かりますが乾燥芋作りは、寒風に晒されずに出来具合が良くないというので、贈り物がずれたままになって焦ります。
ほとほと疲れると仰ったけれど、それはそれなりに一段と思索が深まり案外お元気なのではと思ったりしております。またそのように思いたい気分です。
水戸の弘道館の蝋梅が咲き出し、香りを放っています。今年は梅も早いようです。
程なく節分、やっと前年から抜け出せますね。  久慈川

* もう忘れてしまっているが、よほどわたしに何かつらいことのあったときだ、この読者はわたしのため、「茶断ち」しています、と告げてくれたことがある。もう二十年になるだろう。軌道に載るまで、湖の本をひとりで二十冊ずつ買って呉れもした人だ。そういう人達にわたしは助けてもらってきた。
2007 1・21 64

* 新しい湖の本の用意もはじめている。あわてることではない。
2007 1・25 64

* 『かくのごとき、死』の公刊を、わたしは、踏み込んで是認している。ホームページの片々としたその日その日の日記では、部分的な刺戟感だけ印象にのこり、大事に連携している事態を、読み落としてしまう。
一冊の、それも大冊に、読みやすく纏まれば、さながら経緯は統一体となり、全巻に拠って経緯の如何も真情の拠りどころも、冷静に過不足なく読み取れ、判断も理解もできる。やす香入院以来、惜しい永逝に至る経緯の中に、娘らの名誉を傷つけるような僻事を、曲事を、わたしは本当に公言していたろうか。していない。
死なせた悲しみに自責の念の混じるのは人として当たり前で、無い方が訝しい。それなのに唐突に四十年にもわたる父の「ハラスメント」を言い立てて訴訟に及ぼうなど、信じられぬ暴挙だった。父であるわたし一人の名誉毀損で済まない、妻にも息子にも被害は及んでくる。その不当で無道なことを社会的にも証する全容が、あの本一冊で確然公になったことは、些末な「法」の云々以上に、遙かに大事な決断であった。
2007 1・28 64

* スキャナーが幸い働いたので、何はともあれ本一冊を一気にスキャンした。これで新しい「湖の本」入稿の希望がもてる。一気にというが、火事場の馬鹿力に類した。
通算で第九十巻になる。この本を選んだには理由がある。
『逆らひてこそ、父』にせよ『かくのごとき、死』にせよ、「世間」には、違和感を感じ顔をそむけた人もいたに違いない。予想よりうんと少なかったけれど、「湖の本」をもうやめると言ってきた数人も有った。もっと有ると予測していた。やめないまでも、こんな本は出さないほうがいいと思った人は、多年の読者にすら何人かいたに違いない。気持ちはわからぬでない。
だが、わたしは覚悟を決めていた。腹をくくってわたしは「本」にした。「分かったか」と大喝したのだ。次の「湖の本」は、そんな「世間」への、わたしの「答え」になる。この本を数年かけて用意し書き下ろしていたとき、頭には間断なく誰より娘と息子とがあった。これがおまえたちの父の「声」だよと。「思い」だよと。柔らかいハートで聴いてほしい、受け取っておくれと。去年の夏も秋も同じ思いでいた。
出版に際して此の本に「あとがき」を書いたのは、娘が結婚した当日だった。
2007 1・30 64

* 「湖の本」スキャン原稿の校正も着々進めている。この作業を突破して入稿にメドが立つと、視野が明るくなる。
今日はこれで、よしとしよう。
2007 1・31 64

* ひたすらスキャン原稿の校正・構成に。眼精疲労にほとほと悩みながら、間断なく、というほどでないが、集中している。
こう書けばただの一、二行だが、作業量は内容も分量も、とても重い。体調は悪いわけでないが、つい家に閉じこもっていて視野が晴れ晴れしくない。自転車で走りたい気持ちと、なにとなく危険も、感じている。晴れた日に電車にのってぼんやり窓外を眺めたい。
家の中に、書き物机を置いて一人になれる場所がどこにも無い。昔むかしも、わたしは喧噪の喫茶店を「書く」場にしていた、勤務との関係で、余儀なく。立って書くわけには行かない。主には書籍と、執筆のために莫大に保存してきた資料、これを思い切って大量に「処分する」ことを急がねばならない。
2007 2・4 65

* 辛抱よく取り組んだ新刊「湖の本」の入稿用意ができた。あいにく郵送には土日がからむが、ここまでくれば、それはいい。創作とエッセイを通算すると、第九十巻、卒寿を迎える。記念号、量的には二分冊にしたいところだが、一冊でまとめる覚悟も出来た。送り出せばしばらく息がつける。
2007 2・9 65

* 今日は建日子の作・演出『月の子供』を下北沢へ見にゆく。「超満員」だそうだ。劇場が一気にぐんと大きくなったので案じていたが。よかった。
初演の時は、待ち合わせて、やす香と一緒に観た。役者のからだがよく動く芝居で、楽しんだ。これは財産になるよ、練り上げるといいねと作者に告げたのも思い出す。
行きがけに新しい湖の本の組見本原稿とディスクとを投函する。原稿はファイルで送っておく。これで明日から街歩きの余裕もできた。
2007 2・10 65

* 湖の本新刊分が組み上がってきた。またも刊行への臨戦態勢に入る。
2007 2・18 65

* 出前の鮨を奢って妻とふたりきりやす香を偲んだ。それから松たか子に、と言うよりお母さんの藤間さんにもらった、竹内まりやが作詞作曲して松たか子が歌っている『みんなひとり』という音盤を聴いた。ほかに松たか子が作詞作曲し歌っている「幸せの呪文」「now and then」も。 『かくのごとき、死』を高麗屋へ送ったら、すぐ何も言葉はなくこれが贈られてきた。有り難かった。
いま、となりの部屋で妻はビアノ曲「月光」のあたまを繰り返し弾いている。
2007 2・25 65

* 一日外へ出ていて、湖の本校正は一気にハカがいった。香味屋。紅白のグラスワインで鱸や牛肉の凝った食事を満喫して帰る。
2007 2・27 65

* すこぶる疲労した。B&Aが仕事をしている間に、そばで湖の本の校正をしていた。今夜も早寝したい。
2007 2・28 65

* 明日夕刻ひさしぶりに猪瀬直樹の顔をみる。言論表現委員会。そのまえに銀座辺で一気に校正を片づけてきたい。気安くくつろいで仕事も出来る新しい店を開拓したい。
2007 3・6 66

* 会議後、ひとり和食の「鈴木」に寄り、ミニ懐石で少し飲みながら、一気に次巻の「校正」を進めてきた。
委員会のまえに「ビッグカメラ」で先日のと同じMOドライヴを買っておいたのを、帰宅後に旧親機に接続してみた。なかなかうまくいかず諦めかけていたが、なんだか、なんとか成っていたようでもあって、画面を引っ張り出せた。旧親機と新本機とのLANがいっこううまくいっていないだけに、両方にMOが使えるようになったのは、手間のやや面倒なのを辛抱すれば、相互に大量バックアップして行けるわけで、3.5インチディスクもこまめに併用できるわけで、やや独力で環境を部厚に出来たような気がする。すこし一段落した気もする。
2007 3・7 66

* 「湖の本」の初校を大略手早く終えて、印刷所に送り返した。あとがきと表紙の入稿が残っている、が。土日の二日を跨ぎたくなく、一気に集中。自転車で宅急便を出しに行ったら間一髪間に合ったのもよかった。
録画しておいた『トラ・トラ・トラ』を観た。懐かしい顔が大勢。ひときわ田村高廣が、また三橋達也が。山村聡が、特殊撮影の完璧なのに驚嘆。
機械は十分ではないが、なんとか自力で少しずつよくしたい。旧親機と新本機とにMOドライヴが稼働したのは心強い。
旧親機が音声を出してくれない。「ME」をOSとして一万円支払い親機に入れたというのに、音声が出ないというのが分からない。「サウンドカード」を買ってこなくてはという話だった。さしこめば簡単なモノですという話で、ではと有楽町で買って帰ったら、組み立て機械をほどいて中で接続しなければ役に立たない。そんな真似は出来ないので、断念した。
なんとか旧親機でもホームページの書き込み転送が出来るようでありたい。コンポーザも用意したし、最新のホームページ内容もみな親機にコピーしたし、FFFTPも用意した。その三者が一つのトータルとして稼働してくれない限り、バラバラのままだ。

* メールアドレスがみな行方不明になったため、いまいちばん智慧を借りたいイチロー君とも、連絡がとれない。布谷君はもう海外青年協力隊に出かけていったはずだ。上尾君らとも、子松君とも会いたいのに、うまく巡り合わせがつかずにいる。
2007 3・8 66

* 湖の本通算九十巻の「あとがき」を書き終えた。今日メールで入稿しておく。
明日は「ペン電子文藝館」の委員会がめずらしく夕刻四時半から。
2007 3・11 66

* 湖の本の再校がもう出そろった。これは、仕事を追われる。来週は忙しい。
2007 3・16 66

* 校正が望外にはやく出来てきたので、あわただしくなってきた。発送用意に入って行く。九十巻。創刊当時、こうまで来れるとは、想えなかった。
2007 3・16 66

* 湖の本の初校赤字合わせを終えた。再校ゲラをどこへ持ち歩いても、仕事の出来る用意が出来た。やや厚めの単行本一冊を「湖の本」にうつすと、厚さがどうしても通例の二倍大近くになる。前冊『かくのごとき、死』は三倍大にもなっていた。分冊にして出血を少なくしたいところだが、やはり一冊に纏まった方がいい内容だと分冊という無粋なことはしにくい。頒価を、しかし二倍三倍にできるものでもない。湖の本でわたしはお金儲けをしようなどと考えていない。せめて出血の少ないのを願うのみ。
2007 3・18 66

* 東京発、京都着までびっしり校正。
2007 3・22 66

* 新幹線ではまたも校正に没頭。それでも富士川をわたったあたりで、もう夕霞む富士ヶ峰の興趣ゆたかな繪のようなすがたを眺めた。カメラをむけたがあの霞んだ空も富士も映しきれなかった。
おかげで行き帰りに「湖の本」の再校は大幅にすすんだ。重い荷物だったが持って行ってよかった。京都で、花にはまだ早かったが花粉のわずらいなく、ひとり、静かに取材にまた飲食に堪能できたのはなによりだった。
行くつど、京の街や町がよく変わっているとは、お世辞にも言いにくい。それでも、こっちにその気と備えとがあれば、しっとり落ち着いた気分になれる。その気分にしてくれる独り歩きの場所はいくらでも在る。ありがたい。
2007 3・23 66

* 日本ペンクラブ井上ひさし会長から、来期の理事選挙に当選しているので就任を受諾してほしいと郵便が届いた。半分がた落選を期待していたが、やはりアテがはずれた。落選後の「会長推薦」なら辞退と心を決していたが、まだ働けとの会員支持の当選を、我が儘にはねかえすほどわたしはエラクない。今度はやっと自分の頭の影を踏めると思ったが、また二年先へ影の方でにげた。もっとも、五月総会で正式にきまるまでは単なる内示に過ぎない。
思えば今度の「湖の本」は通算第九十巻、二年後には、我も驚く「百巻」達成も不可能ではない。そして二年後の三月には「金婚」も迎える。
どうなるか分からない、が、謙虚に、ゆっくり慎重に、とりあえずその二年も、妻と一緒に歩んで行きたい。
2007 3・24 66

* 晩飯を近くの「ケケデプレ」で。いまはもう一昨年のことか、やす香とみゆ希とを連れて行き、四人でこの店で食事した。そのテーブルはそのままそこにあり、孫二人はいない。まみいは、また泣いた。
いましも校了前の「湖の本」再校ゲラを妻に読ませ、案の定、妻は読んで泣きまた読んで泣いていた、やす香のことなど何も書いていないのに。
おそらく、読者の多くもほんとうに読み進められる方は、今度の本に感動の涙をたくさん流されることと想う。
いちばん読んで欲しいのは、今度こそは、建日子であり、夕日子である。
2007 3・24 66

* いい索引のついた本は有り難い。作ったことのない人には分からないが行き届いた索引をつくるのは、たいへんな労力。労力以上に、半端に投げ出さない誠意が必要だ。妻にてつだってもらって索引を正確にと、今日一日をかけた。頁数も全体に節約したいので、工夫が要る。
じりじりと発送作業も進む。
2007 3・25 66

* 出版記念会は結局不参。リュック・ベッソン監督の『2001年宇宙の旅』を聴きながら、作業。また下関から届いたホームレスと連帯した歌のディスクを聴いて、作業。また雑誌「ひとりから」の、憲法を守り抜こうというメッセージも聴いた。
2007 3・28 66

* 鶯谷の老舗の蕎麦処で蕎麦湯わりの焼酎をきゅっきゅっと引っかけて、上野公園の白っぽいもう九分咲のトンネルをまっすぐくぐり抜け、広小路からつうっと大江戸線で帰ってきた。眼がかすかに痒く、くしゃみと咳とを連発し始めたので、街に長居はむりだった。帰って直ぐ発送のための用意仕事にかかる。
2007 3・29 66

* 西棟の庭の桃の木が、溢れそうに花をつけて、まばゆい。木蓮も、しゃがも、あれもこれも咲いている。

* 湖の本の通算第90巻を「責了」で印刷所に送っておいて、妻をうしろの荷台に乗せた自転車で、田無、ひばりヶ丘の方へ「探花」のサイリング。
なるべく車のいない裏道をすり抜けていった。
うらうらと申し分ない好天。公園のわきの喫茶店で一休み。
名どころの花見のポイントで人だかりに揉まれるまでもなく、武蔵野ではいたるところで隠れた花盛りに出逢う。
裏道を行くと、お寺の経営しているらしい幼稚園が、日曜でもあり、春の開園は早くて明日であろうし、ひっそりかん。人一人の影もない運動場に、幾株も、途方もない大桜が、沸き返るように、松の緑を優しく抱いて、大満開。日の光、燦々。ああ、お酒があったらと。妻の写真を何枚も撮った。
すぐ近くの小さな遊園地にも人けなく、二連のぶらんこを並んで揺って、しばらく声をあげ興じてきた。デジカメでブランコの写真がいくらでも綺麗に撮れる。
ひばりヶ丘の団地の中に、長い距離のみごとな大桜満開の並木道があり、ゆっくりゆっくり妻を荷台にのせたまま、往って復って、往って復って花の盛りを、しまいには胸もつまりそうなほど、満腹・満足してきた。
大きくは迷わず、ひばりヶ丘駅の西踏切をわたって、家路についた。花粉に我慢の限界ごろに帰宅。佳い花見が出来た。ウーン、お酒欲しかった。
2007 4・1 67

* 一日冷え込んでいた、冷え冷えと雨も。留守居をして、のんびり。発送の作業をしたり、デジカメの写真を整理したり、録画した映画を観たり。今日は、若い若い美男子のシャルル・ボワイエと、ジーン・アーサーという忘れかけていた美女の、すこぶるつきロマンチックな恋物語『歴史は夜つくられる』を観た。全然ちがう物語を予想していたので大いに間が抜けたけれど、二昔どころでない昔々の上品なメロドラマを楽しんだ
2007 4・3 67

* 十三日の金曜に次巻が出来てくると、知らせ入る。
それまでに二度、歌舞伎座に。
まず妻の七十一の誕生日に夜の部を観る。仁左衛門が孫の千之助とご機嫌で演じるであろう『実盛物語』に次いで、あの中村錦之助に二代目「襲名の口上」がある。雀右衛門や吉右衛門や我當らが祝う。美男子の信二郎にはんなりと佳い名前がつく。
若い頃の錦之助はもうけっこうであったが、『子づれ狼」の拝一刀など晩年の萬屋錦之助は立派な俳優だった。その新・錦之助を富十郎や福助がささえる『角力場』そしてお待ちかね勘三郎、我當、時蔵、錦之助、勘太郎、七之助らの『魚屋宗五郎』。
数日ゆずって、昼の部には仁左衛門と勘三郎との『男女道成寺』を大きな楽しみに期待している。
2007 4・4 67

* 一週間後に発送が迫っている。用意にももう数日かかる。毎度ながら、ぎりぎりセーフか。
2007 4・6 67

* 作業がぐっと進んだ。あと五日かけて、全部とは行かないまでも九割がた発送用意は仕上がるだろう。
午前中作業の片手間に、デニス・クエイドの『ドラゴン伝説』を、午後は植木等のばかばかしい映画を聞き流しにし、つづいて、今も連続ドラマ「ER」に出ているインド人女優が主演の『ベッヵムに恋して』をちらちら観ていた。
晩には、イングリット・バーグマン、イヴ・モンタン、アンソニー・パーキンスという豪華版で、『さよならをもう一度』をとくと楽しんだ。画面で四十歳というバーグマンの美しい悩ましさ、愛の歓びと哀しみ。幸福であることの、女にも男にも共通の難しさ。なかなか綺麗につくっていた。
ゆっくり湯につかって、『宇宙誌』『世界の歴史』を楽しみ読んだ。
2007 4・7 67

* 用意は、まだまだ。根気仕事だけれど、じりじりと。午前中、ジェシカ・ラング、エリザベス・シューらの映画『従妹ペ゛ット』をちらちら観ていた。バルザックの原作にただただ驚嘆した遠い記憶がある、『従兄ポンス』もあった。「凄い」という感想が当たっている。映画はまだしも甘かった。
2007 4・8 67

* 今日は花粉。そして少し疲れた。寝床でのんびり本を読もう。週末からいよいよ、九十度めの発送。
2007 4・9 67

* 秒読みの碁を打っている気分。「湖の本」発送前は、だいたいそんなもの。
碁といえば、機械のなかの十段階にレベルをわけた「相手」の、もうよほど以前だが、「最強」と断ってある第十レベルにいきなり気軽に挑戦し、苦戦して一敗したのが、機械でいろいろ碁を打って敗戦した最初だった。ほかの囲碁ソフトでは六子まで置かせて一敗もしていなかった。この負けは刺激になった。
で、初心に返り第一レベルから打ち直しはじめたが、第九レベルの白番までお話にもならない勝ち勝負の連続で気抜けがした。第九レベルの白番ですら盤上に相手黒番の生きた石は一つもなくなった。よほど弱い。面白くもない。いよいよ、「最強」とことわってある「レベル十」に再度挑んでみよう。眠気覚ましには、ちょうど、いい。
そうはいってもわたしは勝負事が好きなのではない。機械を相手に麻雀もときには打つが、眠気覚まし以外の目的ではない。碁は一番、麻雀は半荘しかしない。
2007 4・11 67

* わたしの「湖(うみ)の本」創作・エッセイのシリーズが、それぞれ城景都氏のみごとな作画で表紙を飾られていることは、今では知る人が多い。今日久しぶりに氏に戴いた画集『花の形而上学』を開いてみて、決定的な確信でこの本から表紙画を選んだ二十余年前を思い出した。あれより何年か前に「藝術新潮」にミニァチュア絵画に関する原稿を依頼され、託された資料のなかで初めて城氏の作に眼を見張った。その体験が、ほとんど何の迷いもなく城景都作品を表紙にしたいと決意させた。上の本を、雑誌が出たあと著者から贈られていて、その画境にわたしはさらなる瞠目を強いられた。刺激的な画題であり、しかもその線はあくまで等質のなかに無機性を超越した豊饒な情感を湛えてしかも清潔であった。
その後も、城さんからたくさんな作品を頂戴してきた。いずれも優れてオリジナルな詩情と表現で、わたしをどきどきさせた。たいへんな「お宝」である。金銭に評価するのではない、まぎれもないユニークに優れた藝術が此処には在る。今夜も、ひさびさにわたしはどきどきし、その新鮮度はさらに増していた。それに感動した。

* 藝術のつぎにあまりに貧乏くさいはなしに思われるが、ま、しようがない。とにもかくにも書き机が身の回りに無い。狭くて置けない。
溜まり放題のあれこれを片づけようもなくダンボール函になげこみ、積み重ね、思い立ってその函四方の蓋を立て、四隅をガムテープで支えてみた。戸棚の棚板のあまった一枚を見つけ出し、これをその函の上に載せると、そこそこ机の代わりをすると見込んだ。見込みどおりでホクホクしている。ラジオの空き箱に風呂敷をかぶせて、卓袱台代わりに妻と三度の飯を食っていた新婚時代を思い出してしまう。なんだかあの頃に舞い戻ってきたみたいだ。
2007 4・11 67

* 「ノート」をだいぶ進めた。発送用意は、まだだいぶ残っている。もう今夜は一時だ、寝る。
2007 4・11 67

* 思い切って作業量を積み上げ、ほぼ九割九分がたの用意を終えた。明日から発送という肉体労働が始まる。
2007 4・12 67

* もう三十分ほどで本が届くだろう、運転手から連絡電話が、もうさっき届いていたから。発送の無事を願う。
2007 4・13 67

* さ、本が来るようだ。老人、がんばります。

* 夜の十一時半。奮励努力した。左上腕が力仕事でしびれている。一つ作業の手順をへらした。ビニール袋に一冊一冊入れていたが、この袋一つででも環境に響くところがあるので、ケースに本をハダカで入れることにした。作業時間もかなり節約できる。
2007 4・13 67

* 早起き。書庫の上で赤と黄色のチューリップが二十五も咲き、茎二つがもうボウズになっている。白い花、一つ。
すこし眠いが労作業にかかる。映画『息子』を繰り返し「聴き」ながら。ときどき涙が溢れてくる。

* 送り出している新刊は、「愛」が主題の詞華集だが、知名の、こんな企画では繰り返しとられている和歌などほぼ割愛し、それぞれ、身辺ではイザ知らず広い世間では名も知られていない歌人の現代短歌を中心に、現代の俳句、現代の詩を多く盛り込んでみた。和歌や歌謡も必要と思う最小限は漏らさなかった。厖大な作品群をつぶさに読んで選んだ。なぜ選んだかの鑑賞も過剰にならない範囲で適切に書き入れてある。専門の歌人俳人詩人の頭をとびこえて市民・私民の胸に感動豊かに届き響くに相違ない優れた作品を大事にえらんだつもり。
『詩歌日本の抒情』という講談社から出たこのシリーズは全八巻、その最初に大岡信氏編輯の「恋の歌」とわたしのこの「愛と友情の歌」が刊行された。四半世紀ちかくも以前で、わたしは「あとがき」を娘・夕日子の「華燭」当日に書いた。
シリーズには、ほかに馬場あき子、佐佐木幸綱氏ら六人が四季の歌や旅の歌や哀傷の歌、生活の歌などを編輯していた。わたしの担当した「愛と友情」は、ことに「愛」は広範囲に他に及んで行く。遠慮せずに大胆に愛ずらかな作を数多く採った。「男女の愛」はあっさりと序論ふうに、「夫婦の愛」「子への愛」「親への愛」「血縁の愛」「友との愛」「師弟の愛」とつづけて敢えて「さまざまな愛」で結んだ。作者別の索引もきっちり添えた。
常の二倍大ちかく頁は増えたが分冊しなかった。二千三百円、赤字出血も余儀ない。それよりも、読者にしみじみ味わって欲しくて一冊に編んだ。人生の節目に立つひとたちに贈り物としたい。自分はこの歌この句この詩が好きになったと、いちいち教えて下さると嬉しい。

* さ、発送作業を続けてくる。

* がっくり疲労。反映して血糖値も高い。夜十時だが、もうやすむ。
2007 4・14 67

* 「本」は重い。難しい意味ではない、ただ重量の意味、まるで石のように重い。新しい本はA5版224頁に表紙がついている。15冊一包みを四包み一度に持ち上げると息が出来ない。息をしないで玄関からキッチンまで一気に廊下を小走りに運ぶ。そういうことを繰り返す。左の上腕は悲鳴をあげ、右の肩は鋼鉄のように痛く張っている。今日も繰り返す。大山はもう越えて行く。明日はペンの理事会。現理事会と選挙された新理事会と、二つ続けて行いますと通知されている。できれば今日のうちにほぼ「肩の荷」をおろしておけるといいが。

* 一次の発送を終えた。随次の追加発送がまだあるが。ほっと一息。さ、読者にちゃんと届いていてくれますように。
2007 4・15 67

☆ ずっしりと重い新しいご本、『詞華集 愛、はるかに照せ』が届きました。
いつもありがとうございます。
大変な発送作業、お疲れがでませんよう。
植物園では花吹雪を浴び、鴨川べりの半木の道で可憐なべにしだれを愛でて、今年の桜も終わりです。
「愛の歌」ゆっくり楽しませていただきます。なかでも「親への愛」でいくつも心に響くことと思います。
ご予定もぎっしりのご様子、どうぞお元気でお過ごしください。 のばら 京の従妹
2007 4・15 67

* 郵便局へ航空便など送り出して、これでほぼ発送終了。あとは随時に追加して行く。身にこたえた、ことに両腕にこたえたが、能率はよかった。また当分、 (作業的には)平常の日々に戻れる。「鏡」をきれいに拭って、なるべく広く澄んだ青空だけを映していたい。そうも、とても、行くまいが。
午後は暗雲たれ込めて雨もよいのなか、理事会に出かける。夜分にいたる予定。
2007 4・16 67

* 電車では『愛、はるかに照せ』を念のために読んでいたが、自分で言うのもおかしいが、ずんずん読めて、同感する。あたりまえか。読んで欲しいなあと願われる。
タクシーに何人も並んでいたが、いつになくさっささっさと来てくれて、雨にもひどく濡れることなく帰宅。
2007 4・16 67

* 本が届き始めたようで、届かないでいる先もまだまだ有るだろうが、もうたくさんメールが来ている。

☆ 雨ですね。  大変な発送作業が一段落なさったようでほっといたしました。こちらにはまだ届いていませんが、とても楽しみにしています。
腰の具合は(家の模様替えのあと)まだすっきりしません。もう二週間以上も湿布を貼り続けているので、腰から下の肌がかぶれて真っ赤。赤いお尻なんて最低ですね。
四月はじめにどうしても出かけなければならない用事で四谷の土手を通りました。雨が降ったりやんだりのお天気でしたが、車を降りて少し歩いて写真を撮りました。ちょうど染井吉野と同じ桜色の着物を着ていたのですが、通りがかりの人が写真撮ってあげましょうかと声をかけてくれました。一人で撮られてもしかたないのでお断りしましたけれど、雨の中を着物で一人歩いているなんて「変な女」に思われたでしょう。
下手な写真ですが、花の写真プレゼントします。   春

* 赤いお尻までご披露いただいて恐縮。華やかです。桜の写真はよく撮れている。同じなら通りがかりの人にご本人を撮って貰ったのが欲しかった。もっとも顔を知らないから貰えるメールなのかなあ。それもよし。

☆ 気温差が激しく、今日は冷雨。発送を終えられた様子、お疲れさんでした。
知的作業はまだまだ余裕でしょうが、気力だけでは追いつかない肉体作業は、歳と共に辛くなるでしょう、お大事に。
初夏並の気温だった一昨日、夜、床に就くと寝付けない程に腕が重く、思い起すと、気になりながら放ってあった雑草タイジに、数時間精を出したのが原因でした。ムリが利きませんね。
早いでしょ、(孫が)幼稚園に通い出しました。バアバにもやや時間の余裕が出来ました。 泉

☆ 秦さま「湖の本・エッセイ40」『愛、はるかに照せ 愛の、詞華集』本日落掌。有難うございます。「秦恒平・湖の本」卆寿、おめでとうございます。「詩歌・詞」は、ゆきつ戻りつ、寝しなに楽しもうかと、さまざま愛に触れ。
索引の充実、有難く重宝します。諸先生、先輩の御名も懐かしいですね。御代は明日振り込みます。御身お大切に。落手のご返事まで。 秀

☆ 湖の本、ただいま拝受いたしました。 まだパラパラとですが 重みのある 興味をそそられる内容のご本のようです。楽しみに しっかりと読ませていただきます。送金もできるだけはやくさせていただきます。有難うございました。
ついついご無沙汰いたしてしまいます。 すみません。 やっと昨日水彩展の支部展のほうが終わりまして 今度は油絵のほうを描かねばなりません。 60 号ですが これからかかります。 水彩のほうはおかげさまで好評で、今までの作品からすこし飛躍してきたといわれましたが 自分ではまだまだです。 むずかしいです。どうぞまたよろしくご指導くださいませ。
ご心配いただいております 母もすこしずつよわってきてまして 来週あたりまたいってこようかと思っています。 白馬の妹からのメールで、蓼科のペンションの恒平先生の同窓生の方が、切久保館で八日から泊まられたそうです 四泊とか。 世間は狭いですね。 ではまた、ごきげんよう!  郁

☆ 校歌   雀
大きな地震のあとはなぜだか雨になりますわ。今朝から冷たい雨が降りしきっています。
ご本拝受しました。活動的に、エネルギッシュにお過ごしのようでよろこんでいます。
一時は「湖の本」が届くたび、今回で終わりにしますという一冊ではと、びくびくしてあけていましたから。
書き手と読み手は違う、別のはたらき、と正剛さんが書いてらしたのにほっとして、創作や文藝に携わるご苦労について、わからないことはそのまま
おくことにいたしまして、なにごとも神のみ手と思わされ、光を感じ、そちらに面を向ける状態にいることをありがたく思っています。
「京都検定」をもじったKBS京都制作の番組が、三重の民放で放映されていまして、先週は、祇園白川に関する出題でした。
白川橋道標、光秀首塚、餅寅、行者橋、辰巳大明神、吉井勇の歌碑、骨董通、なすありの径、高山彦九郎皇居望拝の像などが紹介され、
「135年の歴史を閉じた有済小(学校)の望楼には半鐘と、もうひとつあるものが置かれています。さてそれはなんでしょう?」
「今から50年ほど前、工事をしていた白川の川底からあるものが出てきました。それは地元の方々によって今も大切にまもられています。それはいったいなんでしょう?」
という問題の、ふたつとも、雀は当てましたよ。地元の梶原慶三さんという方が「たえてしのべばなすありとォ♪」とお歌いになって、お地蔵さんを紹介なさいましときは、どきどきしました。
さて、昨日もよりの神社にでかけたのは、能面を見てみたかったからなのです。
雅楽奉納が終わったのか、ちょうど仕舞奉納が始まったところでした。観阿弥創座の地、名張。すべて観世流かと思いきや金剛流の人もいるそうです。
丹羽長秀三男に初まった名張藤堂家から寄贈された室町時代中期の黒色尉、また延命冠者、江戸時代後期までの能狂言面45面が展示されていて、たのしみましたよ。
参道の石垣がコンクリートでがちがちに固められて新品の石灯籠がずらりと並んでいるのが、なんだか白々として風情がなくなったなぁとがっかりしたのですが、帰るときになってようやく、安全上の理由から古い灯籠を全部取り払ってコンクリートで固めたのだとわかりました。それがあの地震の二十分前のことです。  囀雀

☆ 発送終わりましたか。 お疲れになっていませんように。
岡崎(の姑の家)に来ています。もう本が(留守の)家に届いているかと気になります。以前から時折読み返している詩歌集ですよ。複雑な思いで読みますが。水曜日家に戻ります。  播磨

☆ 湖様  波
今日 ずっしりと分厚い『愛、はるかに照らせ』を拝受いたしました。「夫婦の愛」「子への愛」「親への愛」「血縁の愛」・・・身内への愛が静かに語られていますね・・・。やす香さんへの追悼歌集として、湖の思いを凝縮した詞華集として、じっくりと じっくりと読ませていただきます。
勝部祐子さんのうたが一首載っていますね。懐かしい思いです。
相変わらず仕事上手とは言えず、ただただ忙しく過ごしています。こんな生活のゴールは、8年先。あとわずかです。
新宿南口界隈もずいぶんと様変わりしましたが、まだまだ工事は続いています。
お体に十分気をつけて、佳い日々を過ごされますよう。

☆ 湖の本、卆壽おめでとうございます。
この度の作品はことに楽しみにしておりました。
ゆっくり読ませていただきます。
私事ですが、一昨日愚息が初シテの舞台を勤めました。いっぱいいっぱいでしたが、若さの漲った舞い振りで これからの能楽師としての長い修行の道のりの出発点として、いい記念になりました。
やはり親馬鹿でございますね。
天候不順の折、くれぐれも御自愛下さい。 東

* ご子息の門出、心よりお喜び申し上げます。息子がシャンとしてくれますことほど、父親によろこばしいことはありません。安堵がありむろん心配がなくなるわけでなく、そしてそれが嬉しいのですからね。
我よりも長く生きなむこの樹よと幹に触れつつたのしみて居り  斎藤 史
* 或る意図のもとに一貫して選した詞華集であり鑑賞にことよせた述懐であって、だから、やはり読者によっては「複雑な思い」も強いるかも知れないなと、いま、思い当たることもある。

☆ 秦 恒平様   巌  従弟
夕刻 「豆」の集荷を宅配業者に依頼
業者の車が止まり 引取りに来てくれたかと思ったら こちらへの便
「湖の本」霊前にと
母 父の事を思い出しながら よませていただきます
姉にも頂いた事を伝え
「秦さん ずっと母のことを覚えてくださって とても嬉しい」と返信あり
ありがとうございます
集荷を依頼していた中に そちらへの押しかけ送付分も含まれてあり 17日中には届くかと思います
2007 4・16 67

☆ 湖さん  ご本、お送りいただき、感激です。
手にとったら、湖さんとの距離が近くなったようで 不思議な安心感と新たな感動が、ぽっと心を暖かくしてくれました。
大切に読ませていただいて、添えていただいたメッセージにお返事差し上げたいと思います。本当にありがとうございます。
まずはメールで失礼かと存じますが、お礼まで…
追伸
友人から届いた、湖さんのご著書、『慈子(あつこ)』、『みごもりの湖』、『秘色』など ここのところ何度も何度も読み返している日々です。
馴染み深い地名、ふだん使い慣れた言葉で交わされる作中の会話、すっかり惹きこまれ、何度も同じところを読み返したりしています。
ネットで公開されているものも、時間をかけてゆっくり拝読させていただきますね。
今日は、日差しは暖かいけれど こちら滋賀県は風と空気の冷たい日です。
まだまだ気候が不安定です。お身体、くれぐれもご自愛くださいませ。  毬

☆ ご本届きました。 昨夕ポストに入っていたようです。ありがとうございました。
楽しんで読むつもりでしたが、数頁進んだところで早くも一つ一つの詩歌の「愛」の重さに、打ちのめされるようで呻いています。愛は、ほんとうに重たい。
それにしましても、なんとシンドイ、血のにじむお仕事をし遂げられましたこと。命を削られたお仕事と思います。文藝に思いをこめた人の、凄まじいまでの文藝愛。襟を正して読ませていただきます。
好きな歌をわたくしの思いで選んでみたいと思います。その上で感想をあらためて送らせていただきます。読み終えたら、幾多の愛の輝きに火傷して、気弱に寝込んでしまいそうですが。
お元気で、みづうみ。おやすみなさい。お疲れでませんように。  猿女
2007 4・17 67

* 湖の本 一斉に手元へ届きだしたようだ、メールも手紙も払い込み欄の感想も、どうっと来始めた。許して頂けるほんの少しだけを書き写す。

☆ 『愛、はるかに照せ』を有難うございました。「愛」の表現を敬愛と共感をこめ採り集めたと「あとがき」に。よくこれだけ沢山な愛の詩歌を蒐集されましたことと、驚くと同時に、涙にあふれております。これだけの名著のご完成は生涯の何よりの宝物で、拝むような心地で読みついでおります。人間にとって「愛」とは何か、しみじみ心打たれます。今まで「湖の本」をそのつど楽しんでまいりましたが、今回のは「愛」のいろいろに心の底から触れえまして、よろこびで胸が一杯です。
数多い本の中で、これほど感激に触れたことは数少なく、繰り返し御礼申し上げます。  元東京大学教授 歴史学

☆ 「湖の本』通算九十巻、卆壽、心よりお祝い申し上げます。
それにしても恐らくは天文学的な数であろう古今の詩歌をお読みになり、そのテーマ、質を見極めた上で選出し、さらにご自身の解釈と鑑賞を加える、というご苦労を考えると、いささか呆然といたしました。
「過度にわたるまい」と心がけられたという解釈や鑑賞は実に見事なバランスで、単に内容を理解させてくれるだけでなく、その詩歌の新たな魅力、解釈をそっと教えてくれる素晴らしいガイドになっていまるように思われます。
何より、これだけのご労作を完成された上での、「表現や技巧に不満はあっても、テーマの『愛』に即し、心に触れて『うったえ』てくるものが有ればす、つとめて採った。それが『詩歌=うた』というものだ」という一文には、この上ない重みを感じました。秦先生の詩歌、文学に対する姿勢としてはもちろんですが、この当然の理をついつい忘れがちな我々編集者に対する戒めとしても拝読いたしました。
本当にありがとうございました。   文藝編集者

☆ 「愛」は・・・。    福
これまで、あまりにも馴れ慣れしく愛、愛と、「愛」用していたように思います。
「愛」は「愛」などという言葉ひとつで始末をつけて終えない、人の尊い感情、行動(活動)だと思います。
それに、「愛」は、私にとっては、この私が「愛」する、ということが第一義で どんなに誰かに愛されても、この私は、その人の「愛」ではなく、その人を
「愛」して、いるか。
愛とか愛しているとか、言うのも聞くのももういい。
愛とか愛しているとか言わない「愛」がイイ。 私はソレがあるから、朝起きて夜寝るし、笑う。
「湖の本」は腐るものでもないので、ずーっと側にあって読みたい時には読める本です。
「さ、本が来るようだ」
「老人、がんばります」
拍手。
ありがとうございます。

* 愛は、難い。言う言わぬにかぎらず、愛は或る意味で「諸悪の根源」「迷惑の極み」なのです。
「自分」が愛する愛さぬ、などむしろ妄執。
静かにいい空気、清い空気を呼吸するように、それが愛かもしれない佳い何かが、いつも、いたるところで呼吸できる、か、どうか。それが、人間を生きるに価値ある何かに、たしかな何かに、するかしないか、の「岐れ」なのかも知れません。  湖
しづかなる悲哀のごときものあれどわれをかかるものの餌食となさず  石川不二子

☆ 御本ありがとうございました。
十年ほど前、新聞に「私の好きな歌」として窪田空穂の二首を紹介された秦さんの文章を読んで、自分の傲慢に気づき、目が覚める思いをしました。そして突然の手紙をさしあげてしまったむことを思い出します。
来月末には次男も結婚の予定でいよいよ二人切りです。先の歌もさらに意味深いものになりそうです。 竹

* 空穂の二首とは、こうだった。

たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその片おもひ    窪田空穂

☆ 一気に拝読、大いに刺激を受けました…。 和歌山大学教授

☆  卆壽の湖   香
お届けくださいましてありがたうございます。
「湖の本」の卆壽をおよろこび申しあげます。
わたくしには特別の思ひのあるご本でございます。『愛と友情の歌』に、出たばかりの拙歌集から一首、採つてくださいました。もう、原稿は出来てゐるけれど、とおつしやりながら。、
なつかしいおもひで、気儘にそちこち、ページを繰る一方で、初めて読むかの思ひにおどろいてもゐます。これが再読、再々読の醍醐味でありませう。
けれど「師弟の愛」の冒頭、崇徳院のうたの項には、どきつとしました。実は、崇徳院のことを書きましたとき、このうたにも触れたのですが、先生のこの論のこと、頭からすつと抜けてゐました。大切なノートのことを忘れてテストを受けてしまつたやうな。
でも、思ひ出してゐたら、書くのにとても苦しんだかも知れない。あの鑑賞、あの論評にうたれて、手も足も出ないことなつてしまひ……。
講談社版の扉に華岳の繪をかざられたお心をおもひ、湖の本版に、夭折のいとしい乙女子へのうたを記されたお心をお思ひ申してをります。

☆ 『愛、はるかに照せ』届きました。ありがとうございます。
さっそくですが、
「夢の逢ひは苦しかりけりおどろきて掻き探れども手にも触れねば」と、
偶々見つけた
「やるまいぞやるまいぞとて泣くばかり」を、とりあえず、挙げておきます。
古典は苦手なので、うまく理解できませんが、雰囲気と電子辞書とで好きな作を選んでいきたいと思います。
本の発送、ありがとうございました。  昴

* 今度の本はどこでも拾い読みが可能だが、配列にもかなり気をつかっており、順に読んで行くと、時空・人生の流れが見えてくるようになっている。「読まれれば」「読まれるほど」編者で筆者であるわたしの思いをはるかに越え、読者お一人一人のうちに何かが静かに、激しく、熱く芽吹いてくるだろう。

☆ 花粉症は相変わらずですが、ここ数日雨なので、少しラクです。
お元気ですか、風。発送作業は、落ち着かれましたか。ご本が新居に無事届きました。今週中か、来週頭には振り込みしますね。
わたしの評論ですが、頓挫中です。
文献を引いていくうちに、当初の予想とは違う方向へ論旨が進んでしまったからです。
はじめからわかりきったことをまとめていくより、思いがけない論旨が立ち上がってきたのはいいことだと思っていますが、全体に一貫した流れを持たせるのが難しくなってしまいました。
ここはふんばりどころだと思っています。
お天気は、今日も、あまりよくないようですね。冷えるかもしれません。どうぞ、あったかくしていてくださいね。  花
2007 4・18 67

* 雨はやんでいる。暖かくはない。

☆ ◎(愛は)「諸悪の根源」「迷惑の極み」に、おぉ、はじめ仰天。
でも、「愛」について、そう言ってのける秦さんに不動の信念があるから、根源、極みと…。
私は調子に乗って、改めて唱えてみると、そうかもしれない。
痛快に近い気持になりました。
◎「自分」が…など、むしろ妄執。
そうだったのか。
いかにもキッチリ自分を据え置いて、
そんなフリは、私の思いっきり勘違い、でした。
いつも「ここで、一度正して考えなければ」と
ズっーと、私はそういう習慣、癖を崩さないよう…。
私のそれが、私の思うものとは真反対のものだったようで。
「妄執」、何かストンと楽になり、とても気持ちスッキリしました。
◎キーワード
静かに。
いつも、
いたるところで。
今回もまた、秦さんには惜しげもなく染み入ることば(思い)を届けて頂き感謝します。
そういう人がいる、秦さんがいるというのは 「私の幸せ」なことです。
ありがとうございます。  福

* たいそうなことを言ってのけたワケではなかった。愛執、愛着、愛染。こうならべて、つまり執着に染まりやすい最たる一つは「愛」と認めているだけのこと。慈・悲とはことなる愛を、われわれは愛と思いこんでいる。だから人間が「おもしろい」モノになっている。「おかしい」モノと、謂うてもよい。
2007 4・19 67

☆ お元気ですか? 湖の本第90巻,届きました.ありがとうございました.また,通勤時の楽しみが増えました.本日代金をお送りしましたので納めください.
私の方は元気にしています.実は,マタニティー生活を送っています.おなかの中でぐるんぐるんと元気に動き回る命を毎日感じながら相変わらずの生活を送っています.これまでトラブルもなくこれまで通り,仕事をさせてくれているおなかの子に毎日感謝です!
働きながらの子育てはいろいろな面でのサポートが充実してきてはいますが,やはり,まだまだ難しい点もたくさんあります.覚悟をきめて,でも,肩肘張らずに助けてもらえるところはお願いして,私なりに頑張っていこうと思います.
初夏に,無事出産を終えましたら改めてご報告いたします.
それでは,また.   紀  東京大学

* 階段教室での講義を終え、みながめいめいに「あいさつ」を提出し終えた頃、ひょいひょいと教壇に寄ってきて、「先生、歌舞伎をみせてください」と言ってきた。同じ希望の仲間もいた。「よしよし」と夏休み中に歌舞伎座で『白浪五人男』の通し狂言を、劇場のどまんなか、前から数列の所で横に並んで楽しんだ。その気のいい学生が、いまは立派になった。たしか飛び級で院にすすんだ。相談されたとき、一年得をしたと思ってはいけない、学部四年生の一年を損して院生になるのだから、それだけ気を入れてがんばれよと励ましたのを覚えている。

☆ 花冷えですね   ゆめ
近くの大きな山桜の木は、1週間ほど前に満開を迎え、今日はただひたすら散っています。先生お変わりなくお過ごしでしょうか。
新刊の湖の本戴きました。例によって、巻末から読み始め、仕事の昼休みのひととき、小さな公園のベンチに座って、少しずつ大切に読み進めています。
2007 4・19 67

* 梅原猛さん、高田衛さんほか、『愛、はるかに照せ』への手紙がたくさん届く。払込票にも書き込まれてくる。高田さん、「美しい湧水のように流れ出る御文章にはいつも感銘」と言ってくださる。こういうとき、物書きは嬉しい。元・文藝誌編集長のこんなのも混じる。

☆ ここ何年も詩歌に接しなかったものですから、久しぶりに詩歌に接することが出来て、数日楽しませてねらひました。有難うございました。「湖の本」も九十巻になった由、誠におめでたうございました。葉書で失礼いたします。

* 若い友人で、日頃寡黙な或る文学研究者からのこんな感想が、わたしの襟を正させる。

☆ <私>を語ることの難しさを感じます。それと同時に<私>を語ることなく<他者>を語ることもあり得ぬだろうと存じます。ここ一連の『湖の本』は“重い”。その本“重い”という感触が、現在の文学状況への反論たり得ているように思われるのは私一人なのかしらん。益々のご健筆を。  米沢

☆ 歌に対する深いご理解と見事な鑑賞にあらためて驚いております。歌人・秦恒平ならではの一冊と存じます。  歌人・文芸批評家
2007 4・20 67

* 今回発送を一段落した。肩が凝った。右脚のきつい攣縮あとが痛み、庇って歩くので両脚も腰も痛む。
相当重い、石のように重い本の束包みを、多いときは四包みも息をつめて持ち上げ、搬入された玄関から作業場のキッチンへ、そしてまた搬出・発送のため玄関へ、一度の発送で幾十往復もするうち、上腕が堅くなり、痺れてくる。それでも能率よく早く進んでくれる方が結果として、ラク。
今度の本は、予期どおり反応が良い。前巻がすこぶる重い本であっただけに、関連しつつ今回の詞華集は心和んでしかも多くをみなさんに想わせ、思い出させているようだ。言うまでもない、書き散らしの雑文のようには書いていない。これが文学だという気持ちで書いたものだ。推敲に推敲し、自分の鑑賞・述懐の文もひとつの詩歌であり得てほしいと思い思い書いていたし、校正していた。
人にあげたいのでと追加注文してくださる人も。 ありがたい。
2007 4・21 67

☆ 秦先生 湖の本、お送り頂きましてありがとうございました。
ゆっくりと考え考え読むことのできる本に出会う喜びは何ものにもまさります。
味わい深い本ですので、先生に申し上げたい気持ちがたくさん浮かんでくるのですが、すべて書くのも長過ぎますので、中で今の私だからこそ思う感想を一つ。
緑子の欠(あく)びの口の美しき  武玉川
男の視線、と書かれていますが、私は間違いなく二人目以降の子を持った母の視線のような気がします。
この「美しき口」、おそらく歯が生えていないのでは。
歯のない歯ぐきだけのやわらかな口もと。乳を含んで強く噛みしめても噛まれた母はそれほど痛い思いをしない、そしてそのなめらかな歯ぐきで一生懸命に乳を吸い、無心な笑顔を見せる、そういう口もとを思わせます。
そう思うのは、歯が生え始めた頃、二人目の子を連れ歩くたびに多くのお友達のママから、「あら、歯が生えちゃったのね」と言われた経験から。「歯のない歯ぐきだけの口って本当にかわいいのよね」と。
この裏には「歯が生えると噛まれてしまうし」という含みもありますが、それより何より歯の生えていない今だけの笑顔を楽しむという母親の心の余裕があります。
最初の子どもだと、歯が生えた、という成長の方が嬉しくて「万緑の中や…(吾子の歯生えそむる 中村草田男)」という気持ちになるものですが、二人目以降になると、子どもの「今」を楽しんでゆく心持ちになります。子どもとともに歩んでいくことに慣れてきた、とでもいうのでしょうか。
歯のない緑子のあくびを「美しき」と思うのは、一人目を育てて、自分も「母」に育った母親の視線ではないでしょうか。
十五年待つにもあらず恋ひをりき今吾に来てみごもる命よ  長崎津矢子
先生のご紹介下さる歌には何度も涙してきましたが、この歌でも、また目頭が熱くなりました。私もなかなか来てくれない吾子を一年ほど待ったことがあります。一年だけでも随分と辛かったことを思えば、この「母」はどれほどの思いをしたことでしょう。「吾に来て」の一言に、待ったことのある親は、強く共振するのではないか と。
力のある歌ですね。
こうして書いていくとまた長くなりそうですので、このあたりにさせていただきますね。
この一年、家にいて私も「母」として育つことができたように思っています。あとひと月ちょっとですが、一日一日が珠玉のような日々でした。(高松塚など)古墳壁画の周辺が強烈に動いていくこのまっただ中で、これほど長くの休みを許可してくれた上司や同僚に、本当に感謝しています。
既に復帰後のスケジュールが決まり始めているほどギリギリの中でのお休みでしたが、おそらく二度とこれほど真珠色の日々は送ることはできないような予感がしています。
先生におかれましても、よい日々が続いていかれますよう。  馨

* ほんもののお母さんの言、まちがいない。ありがとう。
嬰児のあくびの口にまだ歯がないのよという「美しさ」の発見、さすがに母親。
この江戸川柳にわたしが感銘をうけたのも、馨さんとそうちがった感覚ではなかったけれど、それを男親の視線でよろこんで、思わずそう書いたのだ。
バグワンはいつも言う、男という人間はいない、女という人間もいない、男にも女が生きている、女にも男が生きている、だからトータルな人間なんだと。生物学的にも謂えることなのだろうと思うし、こういう句をこころから「うつくし」み思うのは、わたしのなかの女要素が働いていたのかな。

☆ 今、前二作の後、またこの歳になって読んでこそ見えてきたこと、沁みてきた歌も多く、有難い出合いでした。お礼申しあげます。ご自愛を念じます。 元・文藝誌編集長
2007 4・21 67

☆ 夕暮れに『風の奏で』上下届きました。早速にありがとうございました。新刊のご本の発送でお忙しくお疲れですのに申し訳ありません。
吉川英治の「新平家物語」は昔に読み、今、「平家物語」は手元に置いて、行きつ戻りつ少しずつですが読んでいます。
詞華集うれしく読ませて頂いています。
○ ひたぶるに人を恋ほしみ日の夕べ萩ひとむらに火を放ちゆく 岡野 弘彦
二十歳の昔が思い出され、胸を揺すられ涙があふれました。
○ 少女のわれが合わせかねたる貝合 会はざればいよようつくしかりき 斎藤 史
凜としたいい歌ですね。
○ 海みゆる窓べを吾にゆづりつつ旅の日も言葉すくなし夫は  岩上 とわ子 これは「わぁ~いいなあ」が感想。我が家とは正反対、窓べに座り、口数は多い主人(笑) それでも特に不満もなく、穏やかな毎日をすごしています。
又読み進みましたら、メールさせていただきます。
二、三日前の肌寒さが一転、今日は初夏のような陽気でした。
ご無理されませんよう、お元気でいてください。  のばら 従妹
2007 4・21 67

* 『愛、はるかに照せ』を、『逆らひてこそ、父』『かくのごとき、死』との「絶妙」の関わりにおいて「好題」と賛意を示してくださる読者。払込票に書き込みが多い。有り難い。よく読まれている様子がうかがわれて嬉しい。

☆ 卆寿を迎えられた「湖の本」を御恵送くださいまして、誠に有難うございました。創刊二十一年に及ばれる御営為に対しまして、私の想像力の及ぶ限りでも実に稀有の御快挙と拝察致し、心から敬意を表し、お慶び申上げます。献呈歌はこれこそ「うったえ」と胸を突かれました。全編じっくりと楽しませていただきおりますが、「索引」で『俳人仲間』の瀧井(孝作)先生の、「妻の肌乳張ってゐる」をまず開き、実に健やかなエロティシズムと感銘致しました。『私語の刻』にはすでに長い創作を進められていることを存じ上げ、御健筆と御健康とを併せて衷心よりお祈り申し上げます。本日は取り急ぎ御礼まで一筆啓上致しました。    元文藝誌編集長

* 瀧井先生の句は二つ頂戴した。
妻の肌乳張つてゐる冴返る
しぐれ行く山が墓石のすぐうしろ
後の句は谷崎先生の法然院のお墓にまいられた折りの句。谷崎先生からは和歌三首、松子夫人のも一首頂戴した。いずれも心に残る。
思いようではあるが、これほど多くの人たちのこれほど多くの優れた詩歌がいつも身内にしまわれていて、おりごとにわたしの感懐を代弁してくれるという豊かさ。感謝、限りない。「文学」とは、「感動」とは、こういうこと。言葉の冷めた達者な駆使など、何ほどのことでもない。紀貫之のむかしから詩歌は人の心を動かしてこそ、なのである。ただ此処で誤解しやすいのは、表現した表現された「詩歌・文学」が終点ではないのだと謂うこと。それらが指さしたさきのもの (真如の月)を、人が、作者も読者も、深く望んで心を無にし静かにして憧れ想うということ。「指月」である。

☆ 建日子です。 詩歌集、ありがとうございました。少しずつ読んでいます。
文藝家協会から入会案内が届いたのですが、父上の段取りでしょうか。入った方がいいでしょうか。
『宇宙誌』読みたいです。貸していただくことは可能ですか。
そういうジャンルの本であれば、ホーキングの『宇宙のすべてを語る』という本も、父上の心を揺さぶるかもしれません。特に最後の「人間主義」というやつが。
今度保谷に行くときにお持ちしましょう。
2007 4・23 67

* めずらしく人間国宝である江里佐代子さんがメールをくれた。京都美術文化賞をうけてもらったし、対談もした。高校のずっと後輩でもある。事実ではないが、わたしの小説『畜生塚』のモデルだと信じ切っている人も世間にはある。
仏師であるご主人をたすけながら、「截金」という精緻な伝統藝を活かし、みごと意欲的な現代風を創作し続けている。「湖の本」の、もう久しい読者でも。
心うれしく、お許し願って、書き込んでおく。
2007 4・24 67

* あいかわらず、冷え冷え。小雨、曇り。気も寒々。「シトシトピッチャン」と『子連れ狼』の音楽が聞こえてくると、妙に悲愴なここちに襲われる。

☆ 愛の詞華集 誠にありがとうございました。
何ともすごい御労作。採り上げられた詩歌胸を打ちます。私も今でも曲りなりにも短歌も詩もツクリつづけていますので、たいへんな勉強になります。
熟読しています。  大阪 ペン会員

* 暫く音信の途絶えていた東京の「小闇」が「元気です。前払い!」と、「湖の本」に三万円も送ってきてくれた。お金より何よりも「元気」こそ何より。  追いかけるように、やはりしばらく連絡できなかった卒業生からメール。ナント!

☆ ご無沙汰しています、**です。おかわりありませんか。
お孫さんのご冥福をお祈りいたします。お母さんのこともおじいちゃんのこともとても愛していたら悲しむと思うので、争わないでくださいね。私の場合も、親子でも、なかなか相手のことは、理解できないものだなあ、と思う今日この頃であります。
昨年一年は激動で、何処までご連絡していたか忘れてしまいました。
昨年4月末に結婚しました。今***に住んでいます。(正確には引っ越した後で出会ったのですが。)相手は知り合いの紹介で出会った、七つも年下のやさしくてかわいい人です。
苗字は**になりました。
7月に妊娠し、この4月17日に、かわいい女の子が産まれました! 2日程前に退院し、母が「湖の本」を持って、手伝いに来てくれた次第です。
(優しい顔で寝入っている赤ちゃんの写真付き)
新住所は以下です。 (割愛)
取り急ぎご連絡します。  佳

* あんたはビックリさせますなあ、いつも。よかった、おめでとう。結婚と出産とのおめでとうを一度に言わせてくれるなど、親切といおうか、薄情といおうか。でも、おめでとう、と、二度分言います。なんだか一度に、ヒトなみに、一人前になりましたねえ。
育児にとうぶん手をとられ気苦労もできます。落ち着いて過ごされるように。勤務から母親へ。家庭へ。なにもかも目先の世界が色を変えたと思います。フラメンコは当分お預けですね。
翠子の欠(あく)びの口の美しき   古川柳
正直言ってこれから、甘くはない。気を引き締めてまず赤ちゃんとの聡明な共存を。ときどき近況をお聞かせあれ。わたしの近況は例によっていつも、HPの「闇に言い置く 私語」に。
『愛、はるかに照せ』愛読してください。  湖

☆ 湖様!!!!!!!!   光
実家から連絡があり、本が届きました(*>∀<*)!!!!!!
すごくうれしいです。早く帰って読みたいです。
日本にかえるのがますます楽しみになりました。
有難うございます!!!!!
最近は学校がとても忙しく毎日とても充実しています。
先週まで雪が降るくらい寒かったのに
ここ2、3日は水着で出歩いてる人が居るほどあっついです。
春通り過ぎというか、ぶっとばして、夏がやってきたみたいです。
暑いの好きですがここまでぶっとばされると、どうなの(´Д`;)?!って感じです。
湖様は毎日お元気ですか??

* 今日もハーバードにいる若い友人(東工大時代の学生クン=ciona)の日記が、寒さから一足飛びに夏の暑さになったと悲鳴をあげていましたよ。季候の変化、お大切に。
「光」さんのことを想いながら、或いはこういう学校か知らんと想像しつつ、つい一両日前「フェイム」という藝術学校のまぶしいほど颯爽とした活気溢れる映画を楽しみました。理にかなったいい指導をしているとなと観ました。なにより生徒たちのみなが、溌剌として健康でした。見当違いをしていたらごめんなさい。「光」さんは元気かなあと、よく思っていますよ。心ゆくまで努め、しかも楽しんできてください。
ではまた。
京都では ほな、また。元気にしといや と言います。  湖
2007 4・25 67

☆ 本日「湖の本」拝受いたしました。 ありがとう存じます。
秦様のmixiの『愛、はるかに照せ』を拝読し、メッセージを送信したいけれど、どうしようか? と、実は、思い悩んでおりました。
私はもともとご子息の秦建日子様のドラマに感銘した身。ご縁で秦様と「マイミク」にさせて頂きましたが、私なんぞが、でしゃばってはイカン!!と、思い、遠慮しておりました。
今後とも宜しくお願い申し上げます。
「湖の本」卆寿、おめでとうございます。
御代は明日振り込みます。どうぞ健康に。   輝

* こちらこそ 感謝   湖
「輝」さん ありがとう存じます。「鴉」のことなど、日記も、いつも読んで楽しんでいます。わたし、マイミクの古い友人「鳶」とは、「鴉」と名乗って話し交わしています。ハハハ お玄関先に迷い込みましたときはどうぞご救済ください。
感性豊かな方です、こんどの新刊にはお気に入りの詩歌が幾つも見つかるのではなかろうかと期待しています。
また息子のことはご斟酌なく、いつでも何でも心ゆくままにお声を届けてください。 湖・秦 恒平
まだすこし冷えます。お大切に。
2007 4・25 67

* 詞華集『愛、はるかに照せ』は次から次へ追加分を送って欲しい、ここへ、あそこへ送って欲しいの希望があり、維持の上でも助かる。

☆ 先日いただいたお孫さんの記録は重い思いでうけとめましたが、今度はうってかわって喜びに満ちているように思えます。日本の詞華集、こんなにも豊かなのですね。喜びを分け合って下さってありがとうございます。  東京大学大学院教授

☆ ページをめくるたびに 涙していました 絶唱という語がありますが、いずれもそんな詩歌でした でもこれは絶評といえましょう
あと三冊ちゅうもんさせていただきます。  劇作家

* わからへん人にはなんぼ言うてもわからへんの。わかる人には言わんでもわかるのえ。
むかし上級生にそう諭された。真実だと思う、けれど、それでも表現はしてみたい。気持ちは伝えたい。喜び分け合いたい。
2007 4・27 67

☆ 昨日の自転車事故、その後お加減はいかがでしょうか。  透 卒業生
不幸中の幸いで、骨などに異常は無かったようですが、それでも何かとご不便かと思います。念のためにも、一度、きちんとした検査を受けられた方が良いかと存じます。
小田実さんのこと、驚くと共に残念です。もう少し気づかれるのが早ければと、残念でなりません。
先生が『宇宙誌』に夢中になられているとのこと、大変興味深く思いました。確か著者の松井孝典先生は、「ニュートン」の編集長などもつとめられた、竹内均先生のお弟子に当たるのではないでしょうか。
私は中学生の頃、竹内先生の本を読んで、科学者になることを志しました。
と同時に、先生ほどの年齢になられても(というのは大変失礼な言い方で、お詫びしなければなりません)、こうしたことに好奇心をお持ちというのは驚異です。
ガンジーの
‘Live as if you will die tomorrow.  Learn as if you will live forever.’
という言葉を思い出します。
自分自身を顧みると、専門書以外に手をのばす機会もめっきり減っており、恥ずかしい限りです。
御本、少しずつ、読ませて頂いています。濃厚すぎて、少しずつでないと読み進むことができません。
しかしながら、もうそれなりに長い年月を生きてきたにも関わらず、未だに「愛」については、一向に自分の中に、成長の跡が見られません。自分の最も至らない点の一つであると自覚しています。
何度も何度も、同じ過ちを繰り返している自分が愚かに思えます。
これは、「男女の愛」に限ったことではなく、「親への愛」や「友人への愛」、「血縁への愛」などが、自分には希薄なのでしょうね。
そして、独りよがりに自分の都合ばかりを追い求めてしまうのだと思います。だから、その報いとして、本当に自分が愛する人からは、愛されないのかもしれません。
また、この本で多くの頁を割かれている、「夫婦の愛」と「子への愛」は、この歳まで生きてきても、残念ながら、私にとっては全く未知の領域です。
それらを知ることで、人間としての幅も広がることでしょうが、そういう機会が得られないのは悲しいことです。
この本は、実は私にとって、非常にタイムリーでした。
今、私はある人に強い恋愛感情を持っています。
冷静な自分が、「どうせ振られるのだから、やめておけば良いのに」と声をかけ、
もう一人の自分が、「でも好きなのだから、振られる覚悟でぶつかるしかないだろう」と声をかけます。
つい声を聞きたくなって電話をかけたりメールをしたくなりますが、自分のしたいままに行動することで相手に負担をかけるべきではないという思いもあり、少なからず葛藤しては、なんとも苦しい日々を過ごしています。
ただ、数年前にひどい思いをして以来、ほとんど人を好きになることがなく、なんとなく打算で結婚を考えたりしては自己嫌悪に陥り、自分はもう、人を本当に好きになることはないのかもしれないなあと思っていましたし、
精神的に歳を取ってしまったのかもしれないとも思っていましたので、まだ自分がこんなに人を好きになることができたというのは驚きでもあり、嬉しくもあります。
取りとめも無いメールで失礼しました。
もう少し読み進めてから、内容についてはまたメールさせて頂けたら幸いです。
御本、有難うございました。

* 敦厚の感に溢れた佳い手紙で、こんなふうに自身をひらくことの出来る人の魅力を、身いっぱいに聡明にうけとれる配偶者候補の出現を、わたしは年久しく願ってきた。
『愛、はるかに照せ』の二つめの章「夫婦の愛」は、こう書き初めてある。

男女の愛があって、結婚し、夫婦になる。そして子が生まれる。子を持って知る親心。あまりに尋常なようではあるが、このサイクル、当分変わるまい。では、ものの初めに「求婚の広告」という詩から読んでみよう。山之口貘の『思弁の苑』(昭和十三年刊)から引く。佐藤春夫が序詩に、貘の詩を、「枝に鳴る風見たいに自然だ しみじみと生活の季節を示し 単純で深味のあるものと思ふ 誰か女房になつてやる奴はゐないか」と書いているのも、この詩を受けてのものだろう。

★ 一日もはやく私は結婚したいのです
結婚さへすれば
私は人一倍生きてゐたくなるでせう
かやうに私は面白い男であると私もおもふのです
面白い男と面白く暮したくなつて
私ををつとにしたくなつて
せんちめんたるになつてゐる女はそこらにゐませんか
さつさと来て呉れませんか女よ
見えもしない風を見てゐるかのやうに
どの女があなたであるかは知らないが
あなたを
私は待ち佗びてゐるのです 山之口 貘

「若しも女を掴んだら」というケッサクな詩もこの詩人にはあり、表現の軽みの底にたゆたう時代の重い嘆きは昏いのだが、貘の詩は持ち前の「正直で愛するに足る青年」(春夫)の詩情で読ませる。独特の「考えかたのおもしろさ」(金子光晴)に、詩がある。

* 電子メールやケイタイ電話の氾濫で、恋がかえって育っていない。恋でなく「つきあい」だとお互いに軽くかつ身構えて、「恋」「愛」に到達しない。到達するための表白も表現も思い切りヘタになっている。どっちもが心の底で「つきあい」レベルに躊躇している。いっそ、上の詩など、代弁してくれないか。

* 何度も何度も書いてきた。
佐々木邦のユーモア小説を初めて古本屋で立ち読みしたのは、まだ小学生だったか。漱石に、『心』という小説のあることをわたしは知らなかった。
立ち読みした邦の小説の、わが記憶に焼き付いているその場面で、やはりある青年が本屋の立ち読みをしていた。立ち読みが目的ではない、帳場に座っている娘さんに恋していたのだ。だが奥にはこわい親爺がいる。娘は青年の気持ちを察しているが、ためらっている。彼はどうやら立ち読みの風情で日参しているらしい。
そして青年、意を決して一冊の「本」を書架からぬきとり娘の目の前へ差し出した、が、渡さない。彼は娘に示して、「本」の題をしきりに指さす。「本」の題は「心」。
彼はそれを繰り返す。娘も察したのである、ついに。青年の恋は「本」「心」だと。
そんなにうまいこと『心』やなんかいう本があるやろかと、立ち読みの少年私は心幼くも小説家の手際に疑心も抱きながら、恋ごころの表現は難しいモノだと覚えた。
うまく言えない。かわりに万葉集の歌番号をもちいて「恋心」を伝えた年配の体験者はすくなくなかろう。
わたしが『閑吟集』の鑑賞本を出版する、と、すぐ、「307」とひそかに伝えてきた人がいた。番号が示していた室町小歌は、端的、
「泣くは我 涙の主はそなたぞ」 とは、ウソ。
こういうふうに気持ちを伝え合う大人も昔はいただろう。ケイタイ時代の恋はあまりにウジャジャケていて、本人すらなにが本気やら、まして受け取る側ははなから本気をさぐりもしないのかもしれない。本気で誠実に伝えるすべ、それが難しかったのは古今東西、同じだ。だから可憐な、
あまり言葉のかけたさに あれ見さいなう 空行く雲の早さよ   閑吟集
といった懸命の「手」が、無数に発明された。とはいえ、結論はきまっている。愛の難さに屈せぬ、誠実な本気だ。

* 思いがけない心嬉しい便りを手にするということ、ときとして、突然、有る。突然だから嬉しさも、どうしたんだという気持ちも、ある。
2007 4・27 67

* シンシンと脚が冷える。塞栓症状なのだろう。
血糖値のために服用再開の「アクトス」が、やはり前回と同様両脚にむくみをもたらしている。むくんだら服用をやめるよう言われている。もう一つの「メデット」に限定し、食前にインシュリンを注射し、食後に錠剤「メデット」。
左上腕背面に、左肘関節にも、屈伸のつど痛みが走る。これは、転倒事故とは関係ない。もともと敗戦直後丹波の小学校でこの肘はフクザツ骨折している。完全には回復しなかった。後遺症の痛みとも思っていない。本の発送で、重い荷を、腰を庇い、腕力だけで持ち運びしたのが響いている。脚にも響いていただろう。幸い骨の痛みは無い。
* 緊急を要するのは、眼鏡を全部、ことに機械近用を、完全に作り直すこと。鼻梁と眼鏡との間に、中指の先端をさしこむと字が読める。抜くと、霞む。東国原宮崎県知事のような眼鏡の使い方はできない。
就寝前の読書は、すべて裸眼。乱視がなければ、そのうち機械も裸眼で使い出すかも。緑内障でこわい視野狭窄は幸いさほど自覚しない。ほぼ水平に左右が視野にある。勝手な思いこみかもしれない。「私」という機械の性能が目に見え落ちてきている。母の九十六歳まで二十五年、保ちそうにない。金婚と百巻に、あと二年。二つともわたし一人では出来ない。
2007 5・1 68

* 故福田歓一さん(東大名誉教授・法学部長)の夫人からこれまでの「湖の本」を永く愛読しておりました、今度の本を霊前にお届け頂き、早速供えましたと丁重なご挨拶があった。
そういえば、わたしも七十一を半年過ぎている。知己の人たちがいわばみな「名誉教授」なのも当然すぎるほどになった。現役の大学教授ともまだたくさんおつきあいがあるが、歳月の摩滅のはやいことよ。
2007 5・4 68

* 「かぐや」と名のあるネズミが、世界のトップ科学誌に論文として登場するとはね。
雄君も、かぐやひめの話が現代の今日にもまだもてはやされていることに奇異の眼をまんまるくしているのも、この私には、異様な刺激である。わたしの「湖の本」には『なよたけのかぐやひめ』一巻が含まれているのだもの。
この戯曲化した和英対訳の美しい絵本は、語学のラボ教育センターが出版し、いまも滞りなく印税がを届けてくれる。この絵本には英語での、日本語でのふたつのテープも、語ってくれるのは外人も、日本人も大塚道子ら一流の俳優さんたち。わたしの三つの講演録もふくむ手厚い解説本もついていて、このワンセットは、しばしば政府要人等が海外首脳へのおみやげとして利用されていると聞いている。またラボの全国支部ではいまもこの台本でこどもたちが大勢英語劇としても日本語劇としても演じていることが、読者からの便りで分かっている。
かぐやひめ伝説はグローバルな根と広がりとを持っていて、バリエーションは莫大な数にのぼる。雄君が必死であらすじを友人科学者に伝えようとしてくれたご苦労に感謝する。
2007 5・5 68

☆ 近況  叡
秦先生 前回の湖の本はとても重くて、私はまだ途中までしか読んでいないのですが、とても辛く哀しく、しかし死の問題は私にとって重要なので(7年も経つ父の死、父の喪失を、私は今も引きずっています。)、送って下さった事、感謝しています。やす香さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
最新の湖の本もありがとうございました。
GW明け、奈良と京都に古美術の旅にちょっと永く行って参ります。京都ご出身だったと記憶していますが、京都奈良でお勧めの場所はありますか? わたわたと忙しく、荷物のパッキングもまだなのです。土門拳の「古寺巡礼」を図書館で借りてきたのですが、想像以上の大判写真と重さ、しかも5冊組み、ということでまだ予習が済んでいません。
制作の方はといいますと、去年の秋ほどから前兆はあったのですが、今年に入りとうとう筆が止まり、全く絵を描いていません。美術館には行けますし、外に出ることは活発にしていますが、とにかく自分で何かを作り出すことが出来ないのです。スランプ、と言ってしまうのはあまりにも簡単で、いやなんです。でも、そういうものかもしれません。混迷の極致。本当にやりたいのが何なのかもわかりません。日本画の方が顔料の色がきれいだと、近代美術館の常設を見るたび思いますし。でも、それも逃げのような気もします。
とにかく創作意欲がわかず何も出来ない状態の中で、ひとつだけ熱心に取り組めたテーマがあります。5年以上心の中に封印していたテーマを思い出したのです。
それは、「インターネットによって得られたものももちろん沢山あるが、失われたものもある」「インターネットはコワイ」「インターネットの罪」といった事柄です。上司にこの話をしたところ、「だって機会は広がったでしょう? 何の悪いことがあるの?」と全く理解をされなかったので、これは駄目だと、
そのまま心の奥にしまいこんでいたのです。
今更何を、といったテーマかもしれません。でも私が言っているのは、いわゆる個人情報の流出問題やネット犯罪の増加、あるいは、情報リテラシーの教育で既に言われていることではありません。もっと人間の成長と思考に関する問題です。既にこのテーマで何人かの方々に突撃インタビューを行いました。
秦先生にももしお時間があればお願いしたいのですが、何しろ5月はてんてこ舞い、6月はグループ展を予定しておりどうなるかわからず、という感じでして。
先生はお時間ありますか? 最短で1時間頂ければ何とかなります。本当はもっと深い話をしたいのでその場合はそれより時間がかかるでしょう。
こういった少し社会的な問題を、では藝術で表現するにはどうしたらいいのか、という視点で向き合っています。答えは自分で見つけるものですが、少し、ヒントになりそうな意見ももらうことが出来ました。でも、いまは目の前の古美術の旅をいかに充実したものにするかで頭が一杯です。
1/21に放送された、「Google革命の衝撃」というNHKスペシャルはご覧になりましたか? 私は見逃したので友人にDVDを焼いてもらいました。今の私の問題意識に関連する内容で、タイムリーでした。
先生はインターネットを活用されて執筆活動をしていらっしゃるので、もしかして、このテーマはご興味が沸かないかもしれませんね。私の以前の友人の中にも、この話をした途端、アレルギー症状を示した人もいます。私の言っていることは全部主観だし、新興宗教の人の議論のようないかがわしさを感じる、というわけです。でも私はインターネットをやめろとも、TVを見るなとも、携帯電話を使うな、とも言う気はありません。ただ、そこに潜む問題を追及したいだけです。
長くなりました。おとなしく絵を描いていればいいのかもしれませんが、そうもいかないのでいまはこれに取り組むしかないのです。よろしくお願いいたします。
このところ暑いので体調崩されぬよう。私も体調管理に気をつけて行ってきます。ではまた。
2007 5・6 68

* ハワイへ嫁いだ人の大阪の家族から、「湖の本」に払い込みがあり、ビックリ。感謝。
2007 5・6 68

☆ 秦さん、 脚の具合が良くないご様子で心配しております。ずっと出歩かない訳にも行かないとは思いますが、どうぞご無理なさらないようにお過ごし下さい。
『愛、はるかに照せ』を送って下さり有り難うございました。
今現在気持ちを寄せて共感できるもの、まだ実感の湧かないもの、かつての感覚として記憶しているものと、様々で、まるで博物館のようだなと、一つ一つ楽しみながら読み進めています。
イギリスから帰国以来ずっと、仕事に追われる感覚が抜けない毎日です。身体的にも精神的にも。夜中2時3時に帰宅する日が続くと、知れず知れずに一本足でバランスの悪い自分になってしまうものですね。
メールを書きかけては消してを繰り返していました。今回は、中途半端ですけれどお送りしてしまいます。またゆっくり書きたいと思います。
ご都合の良い折がありましたら、またお目にかかりたいです。
くれぐれもお体をお大事になさって下さい。  敬
2007 5・7 68

* 次なる卒業生クンの「愛」論という「愛」観は、ちょっと風変わりではなかろうか。

☆ 秦先生 臻
21日以降のお誘い、ありがとうございます。楽しみです。できれば、なるべく早い時期が助かります。27 (日)午後(三時ごろ)はいかがでしょうか? いつも先生のPC、気にかかっていましたが…また不調だったようですね。お役に立てるかどうかはともかく、またPCを拝見できればと思っています。
近況ですが、、去年から、我が家全員、常に誰かの調子が悪い状態が続いています。治りかかっては無理して、また病気をもらって、の繰り返し。先日の連休も、疲れが残る中、目一杯体を使ってしまい、後半は家族全員、寝込んでしまいました。典型的な貧乏性家族です…。
遅ればせのご挨拶ながら、ご本、ありがとうございました。
短歌・俳句は、大学の授業のときから、何がどう際立っているのか分からず、字面から離れない平凡なものにしか受け取れないことばかりでした。
が、今回のご本の一つ一つの歌への解説…とくに、言葉の選定に気が配られているものとそうではないものの解説をいくつも読み比べていくうち(作品ではなく、解説です。)、「なぜその表現にするのか」を、自分でも考えられるようになってきました。すると「青春短歌大学」にもあった句や歌が、途端に深みをもって浮かんできます。
私には、ようやく出逢えた「学習の本」になっております。
では、実際の私の生活の中での「愛」はどうなの? となると…、感じません。と書くと穏やかではありませんが…、日々「する」ことに終始しており、その「行為」に愛があるとは思えません。こどもと遊ぶにしても、愛のある遊び方なんていうものはないと思います。子供の体力と運動能力と体調と気分に応じ、自分も子供も楽しむ。自己満足に陥らないように翌日は必ず「振り返り」をする。そこまでが「遊び方」です。
時々子供と二人で遊びに行ったときの写真を見返すと、何度でも見たくなる写真があり、ここに愛があった、と言ってもいいかな、と感じます。その愛? は、「思想」というか「信条」というか、「行為の裏打ち」になっているものです。
愛は現在進行形で感ずることはできず、「過去形」として気づくもの。
だから皆さん、短歌や俳句にして気づいているんではなかろうか、と思います。

* 詩歌への感受性といい、愛への思いといい、よほどわたしの思いから逸れている。詩歌も愛も、このように、ハートならぬマインドで「分別」し「学習」し「振り返り=過去認識」していて、生き生きと喜びが心身に融け込むのだろうか。
篠塚純子の 産みしより一時間ののち対面せるわが子はもすでに一人の他人  という歌のはらんだ理性からは、刻々の「今・此処」を子と共生してゆ現在愛が感じ取れるが。「愛は現在進行形で感ずることはできず、「過去形」として気づくもの」とは、なんと、お気の毒。「過去形」で恋愛していたのかな。
他の方の、ちょっと感想が聞いてみたい。
2007 5・12 68

☆ お久しぶりです、湖。  珠
メール嬉しく、苦しい私の声が聞こえたかと驚きました。
穏やかな日々に、心の天秤が揺れ動きます。愛の詩華集は、愛の色々を映し出し、我が身に切り刻むように読んでいます。心の中で、愛はいとも簡単に素直に語られ、またむごく苦しく蠢きます。
私は、相手の思うだろう自分になりたくて、なれなくて、若い時のように、自分と戦っています。ありのままの自分を、、、などというのはいくつになっても有り得ぬ事と思います。変わりゆきたいという思いが灯るのは、恋も人生も同じなのでしょう。これが、今此処に在る私だと、生きている事だと信じ、満つるべく苦しみを見ています。
湖の足が心配です。その足、何か言いたい事があるのではないでしょうか。冷たく澄んだ湖の奥底で火照る其処、耳をすましてそっと聴いてみて下さい。
珠は静かに湖を、その足を見ています。

* 感謝します
2007 5・14 68

* 臻クンが家まで来てくれる。月末の楽しみ。脚のことを気に掛けてくれたのだろう、ありがとう。長いメールは、読ませる。

☆ 秦先生 27(日)は午後から時間の都合がつきました。差し出がましいとは思いますが、この機会に先生の新PCを見たいと思い、予定の一つに入れていただけないでしょうか。
>今日のきみのメール、詩歌のことも愛のこともわたしには理解の届かないところ多く、首をひねりました。こんど教えてください。
今度の話のネタを減らすつもりはないのですが、そんなに驚かれるとは思いませんでした。
以下、ちょっと長くなりましたが、、、   臻

詩歌のことについて言うと、
乳房吸ふそれぞれの持つ癖のあり母のみが知る五人のわが子
うさぎ当番に行きていつまで帰り来ぬ子は遊べるか兎とともに
この二首。
前者には、クスリとしました。これは、最近の私の生活に近い内容なので、多少想像できた例です。子供への視線のほかに、お乳をやめると乳房は小さくなる、もしかして、そういう若さへの懐かしさもあるかもしれない…くらいに想像しました。
この一首への解説は、「いわばこれだけの事」「多くの母の思いを代弁しえていようが、『うったえ』の力は意外に弱い。多く、一般の歌はこの辺で力がとまりがちであるとの感想もふくめて、敢えて挙げておく。」とあります。
読んだときは、驚きました。
たしかに言われてみればそのとおり、とも思います。読むほうの私も知らぬ間に、クスリで留まっていたと気づかされたのかも。と、頭で理解しました。
そして、後者。
これを読んでも、ピンと来ません。そもそも、子供の頃、動物当番はなかったなぁ…そこ止まりの想像。
ところが解説では「これは一見、只事歌の見本のように読める。が、『子は遊べるか兎とともに』には考えさせる。『当番』の義務にかかずらわっているという風には見ない。」と始まります。
ここで「え?」と驚きます。
そして「『兎』は、学問とも仕事とも恋人とも取れてくる」。
読む方の、単純な言葉の置き換えではない、想像の膨らまし方。
こうやって読み替えてみると、なるほど、確かにこの歌は、読み替えによって兎小屋がどこまでも広がっていく。面白い。
こうなると、前者が、これだけの事、というのも強くうなづけます。
ようやく、解説がすんなり読めるようになってきました。
で、前者がつまらなくなり、後者が面白くなるのかというと、そんなことはありません。後者のような歌の、謎が解けだす面白さが加わったのです。

今回のご本を読んでいて、初見は大半が「クスリ」か「只事歌」にしか見えません。私には、分別以前なんです。
解説を通じて、広がっていくのが、実に愉快です。しかも、「いわばこれだけの事」という歌や、無駄な言葉との評のある歌の解説を読む毎に、(結果として)解説を、理解しやすくなっていきます。
いきなりワールドカップサッカーを見ても感動なく、その後日本のサッカーリーグを見て、ワールドカップの凄さが分かった時に似ています。
解説のような想像の広げ方を、自分だけでやろうとすると、簡単にはいきません。何度も解説を読んでいくうちに、コツが少しずつつかめているように思っています。
ジャンルは全く異なりますが、「こころ」の先生の年齢も、私はめちゃくちゃに答えた口でした。いまだにあのエッセイは読み返します。そして次第に、小説の行間に書き込まれたものや、あるいは、でたらめに、気づくようになって、小説を読むのが実に楽しい毎日です。
「想像」する、ということを、ただ思いついた脈絡のないものを呼び覚ますだけにしか捉えていなかったことを、今回のご本で改めて気づかされました。

さて続いて、「遊び」ですが、「反省」は、失敗を記録するためのものです。
以下は「平均的」な、ある「パパの日」の「遊び」の例です。先々週、近場の楽チンコースです。
まず自転車で20分。らくだ公園で砂場遊び。気の済むまで。息子は延々と電車を埋めては掘り起こす。もう百回以上やられてるので、私は片手間に相手。気づくと私はとてつもない砂山を。息子に踏み潰されました。
次に昼食のため隣の公園に移動。自転車で5分。高い木々に覆われ、適度に木漏れ日があります。木の葉ずれの音を聞いているだけでも新緑が見えそう。ベンチでピクニック。パパと二人の定番はメロンパンor焼きそばパン。
息子はパンを適当にかじると石の滑り台へ。幅1m、高さ2m。これが私も息子も一番のお気に入り。ここで、飽きるまで。最初は一人、上から、下から、スピードをつけ、ゆっくりと。そのうち二人で手を繋いで助走して、上ったり、上れず途中ですべり落ちたり。大笑い。
続いて息子にウソをついて、さらに別の公園へ。自転車で5分。最近は提案への口ごたえが多いので、現場を見せて判断させます。
「あれ?ここ、新しい公園?」そこには人工的な小川に池。その日は夏日。前日も水遊びに夢中でした。もう行く気満々。
人工池があります。直径10m、澄んではいますが妙な泡が沢山浮いています。こういう池は、夏に向けて6月下旬ごろ清掃されると、泡がなくなります。つまり今はきれいではないハズ。その池のふちに、やもりのようにはいつくばった小学生の男女5人。息子もあっという間に仲間入り。
アイスのカップを持った小学三年生くらいの子が「おたまじゃくし取れるんです」。水面の薄皮のすぐ下に、卵が全て孵ったのかというくらい、無数のおたまじゃくし。私はおたまじゃくしをみた記憶がありません。くろぐろとして思ったより大きく、目がはっきり見えます。表情まで見えそう。
「やる!」という息子に「難しいよ」というと、すかさず近くの子が「コケの栄養を食べに来ているから、下からすくうようにして取ると、簡単に取れます。」
何度かやらせます。予想通り三歳児の手は短く、コケまで届きません。池におっこちそう。私がやってみました。おたまじゃくしを触るのも、人生でこれが初。子供といるとそういうことばかり。緊張します。
何度も失敗し、ようやく一匹すくうと、息子の掌の中へ。プルプル動くおたまじゃくしをつぶしそうなくらい触ってから、みんなが集めているたらいに入れました。
しばらく続けていると、小学生達は母親達に呼ばれ、私達二人、広い公園に取り残されました。その後はなぜか泥んこ遊び。土をほじって、池の水をかけ、ぐじゃぐじゃにして、草むらに投げ込む。理解を超えた遊びにパパ呆然。息子は黙々。せいぜい「うまく掘れないのはどうしてかな?」などとアドバイスをする程度。
その後公園を離れ、通りすがりに初めて見つけた古民家を覗き、再びらくだ公園にもどり、パパとの定番ごっこ(そこにある遊具でごっこ遊び。鉄棒の上をカニ歩きだとか、雲のブランコで電車に乗っている酔っ払いごっこをするとか。)を一通りやって、帰宅。

この日の失敗は3点。
一つ目は、よくあることですが、自転車のルート選定振り返り。最低でも40分、長いときは2時間、自転車で走ります。予定外の場所を通ることがあり、後に用事が控えていたり、疲れていると、つい楽な道を選び、結果、一方通行(自転車除外)の逆送とか、交通の激しい道を通ってしまいます。単なる反省ではなく、どういう代替道があるのかの確認。
二つ目は季節モノ。息子は翌日から目やにが異様に出るようになりました。最終的には、近所で同じ症状があり、流行していた病気と分かったのですが、一年振りの水遊びについ手拭がおろそかになっていました。水遊び直後の手洗い励行。
最後は、石の滑り台を上りやすく、と裸足にしていました。思い返すと、滑り台付近には弁当ガラだとか、卑猥な落書きがあり、推察するに、ガラスの破片がおちていてもおかしくありません。(遊んでいるときは、私もつい夢中になって思いが至りませんでした。)とはいえ、息子が自力で登るためには、裸足でないと。ミニ箒持参することにしました。
これが楽チンコースですから、自然とパパと二人きりになります。最初からこうしようとしたわけではありません。片っ端から公園を回る中で、二人の関係がこういうコースを作り上げました。公園については(なぜ遠い公園、なぜ回る)話すとキリがないので省きます。

毎週こんな感じです。ただでさえ仕事して風呂入って寝る生活の上、最近は息子が早起きで、慢性的に睡眠不足。楽チンコースでも正直しんどいです。こうやって書くと楽しそうですが、遊んでいる最中、楽しいことは確かですが、親としてあと一歩引いて考える余裕がありません。目に見える危険に「イケナイ」「ダメ」を言う程度。自転車のひとこぎひとこぎにこめるのは愛ではなく、早く移動したいという一念。それが、危険なルートを走らせます。
やりすぎかな、息子の楽しむ顔見たさのエゴかな、と思うこともありますが、妻にその日の様子を話し、写真やビデオを見せると、意外な一面を目にするらしく、うらやましがられます。私も息子の成長に一役買えたか、と満足し家族で一番早く眠りに就きます。で、数日後、ふと、妻の評の言葉の中に愛情を感ずることがあります。
ですが、無理があるのは確か。自己満足で事故を起こしては元も子もないので、反省で戒めています。

> きみは奥さんと「過去形」として気づいてゆく恋愛をしていましたか。まさか。
そうですね。私もまさか、と思います。
ただ、このような様子の毎日で、「今」、が大きすぎ、思い出せない、というのが、(ふざけているわけでもなく)本当のところです。「今」のトップランナーである私の息子に追いつくのが、我々夫婦には精一杯です。 ではまた。

* 久しぶりの「アイサツ」を受け、フムフムと楽しんだ。

* 「臻」君 ありがとう。二十七日、昼飯はこっちで用意しますから、正午をすぎてもちっともかまいません、楽しみに待っています。
詩歌のこと 遊びのことなど、ずいぶん理解が進みました。
詩歌に触れていってくれること、とっても嬉しいです。ものが見えてくるとは、まさしくそういう熟し方なんですからね。
逢えるの、楽しみです。機械見て頂けるのも嬉しい。組み立て機械の方、音声が全然出ないし、LANは利かないし、機械間の移送もできないし、スキャナもプリンタも二台の機械の片方ずつにしかつながっていません。そして一台のインターネットはアウトです。
それでも曲がりなりに仕事に使っています。
元気に来てください。ゆっくり時間を抱いてきてください、話したいものね。 秦
2007 5・14 68

* おかげで次の「湖(うみ)の本」のための大きな用意が出来た。これから原稿に作り上げる。
いま浅井奈穂子の圧倒的なベートーベン『熱情』を聴きながら、作業していた。浅井の演奏は力感にあふれ、情があつい。グレン・グールドもいい、ホロヴィッツいい。浅井の熱情は巨匠に比しても、強い個性だ。激動のなかでピアノが澄んで珠のように鳴っている。いま、アンコール曲を弾き始めた、バッハのコラール、主よ、人の望みの喜びよ。
2007 5・21 68

* 夕刻前に帰宅したら、いいメールがさしあたり二つ届いていた。その一つは、『愛、はるかに照せ』への熱・情こもった有りがたい批評でもあった。わたしが言ってはおかしいが、ちからづよく、まっすぐ核心部へ肉薄されていた。敬服した。

☆ おみ足のご様子、心配していました。「私語」を拝見しながら、毎日「早く病院に行きなさい!」とヤキモキしていました。
糖尿病はささいな傷でも悪化しやすく、しかも痛みをあまり感じなくて手遅れになりやすいとか。どうせおせっかいナースの言うことなどお聞きにならないでしょうが、本当に「過信」「油断」は禁物です。強引に「歩いて治そう」なんて何たるバーバリズム! 通院を続けて早く治してくださいね。
私は腰がいつまでたっても治らないのでうんざりしています。病院にも行きましたが、今のところ効果がありません。パソコンの前に長時間座ることができません。掃除も手抜きし、猫の毛舞う家の汚れを見て見ぬふりをする努力をしています。(それは望むところでしょと、ツッコミは入れないでください。)
少しずつ書き進めるしかなくて遅くなりましたが、『愛、はるかに照らせ』の感想を書きましたので送らせていただきます。読者の自由で、好きに書き散らして、失礼の程お許しくださいませ。お手空きの折にでもご一読いただければ幸いです。

『愛、はるかに照らせ』は、私にとって感想を書くのが難しい本です。
まず、「愛」という人生根幹のテーマでじつにじつに重い本だったことがあげられますが、初読した時、ある種違和感がつきまといました。
このようなことを書くと叱られるかもしれませんが、取り上げられている短歌より、秦恒平の批評のほうが文藝として素晴らしいと思えることが多々ありました。私の鑑賞力の足りなさだけではないでしょう。たしかによく選ばれた佳い歌なのに、明らかに秦恒平の「読み」のほうが面白い、あるいはより詩的であると思える詩歌を前に、私は頭を抱えていました。たとえば、(以下 秦恒平の地の文は『 』で囲みます。)

いねがたき我に気付きて声かくる父にいらへしてさびしきものを  相坂 一郎

『「ねむれないのか……」襖ごしにでもあろう、父は子を気づかってくれる夜ふけ。多少のいらだちも抑えて、「えぇ」と答えたのか「いいえ」と返事したか。ここまではごく分りよく、そして「さびしきものを」に無限の情が籠もる。この父は自身衰老の坂をはや下りつつあるのやも知れぬ。この子は、たとえばせつない恋を失った直後であるのやも知れぬ。失意とも不安ともつかぬ日々の夜の底で、言葉にもならない声を父と子はかけ合いながら、縁のきづなを手さぐりして、しかもそのように生きつぐ寂しさに生きの命の重さをおし量っているのだろう。子は父の健康を、父は子の幸福を。しかも父であり子であることの測り知れぬどんよりとした、くらさ。』

この歌は秦恒平の解説、とくに最後の数行によってより美しく「詩」として完成すると感じられてなりませんでした。こういう例は、他にいくつも見受けられました。
詩はあらゆる文藝の精髄ですから、詩以上に詩的な批評というのはあまり見かけません。それがこのご本ではアンソロジーには不釣り合いな、ねじれ、逆転現象がおきています。私は自分のこの違和感の原因がわからず、最後まで首をかしげながら読んでいました。
ところが、もう一度読み始めてすぐに、自分が「愛の、詞華集」という副題に惑わされていたことに気づきました。『私の解説や鑑賞が、作品を新鮮に読む喜びを読者から奪うほど過度にわたるまいとも、心がけた』という作者の表明を鵜呑みにしてはいけないのでした。
初読時、私は愛についての短歌や詩を味わい、当代きっての読み手の鑑賞、解説を読む、あるいは優れた文藝評論を読むような心構えでこの本を読んでいたのです。それはたしかに間違えではないのでしょうが、作者の真意とはずれていたと思います。

『「父」「死」「愛」。作家であり父である私のモラルは此処に、肉声で具体的に示してある。娘・夕日子も息子建日子もそんな父、こんな父に見守られ慈しまれていた。もうとうにいい大人の彼女や彼がどう生きて行くかは、本人それぞれの責任である。巻中、清水房雄氏の短歌にも聴きながら、「長き苦しみ」を生きた「父」のこの一冊は、死後におよんで変わらぬ、二人へのまた親しんだ若人たちへの「遺書」と思ってくれていい。』

つまり、『愛、はるかに照らせ』は愛についての詞華集の体裁をとった、独特の「作品」でした。選歌という一つの「創作」があり、その後に批評とエッセイの境界線を跨いで、全体としては湖の、愛についての思想を述べた一種の「小説に近い」作品。創作的に選ばれたアンソロジーと批評的エッセイの合体。文藝評論的エッセイ。アンソロジーフィクション? とにかく今までの文学のジャンルに色分けされない新しい「形」の「創作」なのです。
そう読むと、疑問が氷解して、俄然面白くなってきました。
以前にロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』をお読みになったことがあるかとお訊きしたことがありました。ああいう形式なら、秦恒平という文学者のほうがもっと美しく書くのではないかと、そんなことを愛読者として勝手に想像をふくらませてしまったのです。
この一冊は私のその「願い」にかなうものでした。作者が意識的にそう書いたのかどうかはわかりませんが、そう読むと納得できると思いました。少なくとも、私の感じた違和感は、この読みで解決の糸口が一つ見つかったのでした。
『愛、はるかに照らせ』は「私語」に似た一種の断片の文藝。断片が全体を凌駕する秦恒平独特の創作形式ではないかと、そんな風に私は読みたいと思います。多くの愛の短歌や詩を利用して、秦恒平は、自身の愛の世界を表現したのだと思います。
私は和歌短歌の魅力を深く愛するものですが、この文学形式には限界も感じてきました。紫式部がなぜ優れた歌が詠めるのに歌人におさまらず、「源氏物語」を書いたのか。和歌だけでは紫式部には不充分だった、和歌で表現しきれないものがあったのだろうと容易に推測できます。
同じことは谷崎にも秦恒平にも言えて、その気になればいくらでも佳い歌が詠めるのに歌人にならなかったのには作者の資質と理由があるのです。
『愛、はるかに照らせ』は短歌の魅力と限界を知り尽くした秦恒平が、短歌の魅力を最大限に引き出しながら、その限界を補い新しい可能性を付加する試みの作品とも読めるのではないでしょうか。批評的「歌」についての物語としても読めて、じつに盛り沢山に豊かに味わうことができます。
適切な譬えかどうかわかりませんが、イタリアのラベンナの有名なモザイク美術のような一冊です。秀逸な俳句論、短歌論、歌人や俳人論、秦恒平の人生観などがモザイクのようにちりばめられて、全体をみると詩歌の諸相が色とりどりに反射し、きらきら輝いて見えてくるのです。
順不同に心惹かれた批評の一部をいくつか書いてみます。

『 恋を歌った近代詩は、藤村以後の方が、佐藤春夫にせよ北原白秋にせよ室生犀星にせよ、むしろ過剰な感傷と修辞に酔い気味であったのかも知れぬ。国民的に愛誦されてきた恋の名詩をその後ほとんど持たない詩史…に、日本と日本語の不幸があるといえば、詩人たちは何と応えるのだろう。

この作者には「手」をうたった歌がひときわ多い。無神論者啄木でも何か不思議な力が信じたい、こういう切羽つまった時こそは殊にそうだったろう。啄木はそういう時「ぢつと手を見る」人だった。「死児のひたひにまたも手をやる」手当てびとだった。くやしい、せつない愛の「手」だった。「手」を信じ「手」に失望した詩人。

俳譜は眼だなと思わせられる。

子規のえらさは「歌」にせよ「句」にせよ生かして使いこなす、文字どおりの生活感にある。ものともせず意を尽くしてしまう。「写生」意識のなかに、紛れない「写意」感覚もある。「趣向」や「趣味」もある。面白くする工夫をいやしいなどとは夢にも考えていない。この大らかさが今日もっと回復されていい。

臨終の母をかくも壮大に歌いあげた歌人の、詩集と「うたごえ」の力づよさに私はおどろく。短歌の感動はここに極まっている。言葉の斡旋だけを歌と心得て得意顔の歌人は恥じよ。茂吉の歌は、さながらの大噴火である。あかい炎に岩も灰も混じって、それすらも噴火(歌)ならではの魅力となる。

短歌表現とルビの問題はもっと検討されてよい。

どう技巧的にうまくても、この「うったえ」の力ない歌は心に残らない。

友情を歌った「歌」もなにも、日本の国には、雪月花を三つの風雅の友に見立てたりする美意識がありながら、人間同士の「友」としての信頼や愛情を主題にした「表現」が実に少ない。……よくも悪しくも「血縁」に重く、「他人」のなかから真実の「身内」つまりは真実の「友」を見出すのがへたな民族らしい。いわゆるフレンドシップは、日本では今も育ち切っていない。 』

拾いだしたのは、書き写すのに時間のかからないほんの一部ですが、簡潔にして見事というしかない批評です。さらに、批評の間にちりばめられた作者の述懐は、時に取り上げられた詩歌以上の、散文「詩」として読むべきではないかと思います。

『 人として生まれてもっとも不思議な選択と決意とを示した人間的な行為は、結婚である。
どう老いようとも「母」には母の領分が厳然と在る。それを認めてなお「母」を見守らねばならない子の視線もある。 「老」は親だけが負う重荷でなく、子もすでに負うている。「親」への深いため息のような愛は、すでに自身への苦しい吐息でもあらねばならない、それほど「子」として生きるのもまた寂しいつとめなのだ。

親のまだ元気な人には分からない。五十になり六十になっても、まだ「親」が生きていてくれるのは無類に嬉しく頼もしいものだ。海山を越えて生きて来た豪のものでさえも、いざ親に死なれてみるとすぽっと頭の上が寒く心細くなる。

わが親の、子へ、まぎれないこの自分へ傾けてくれた愛は、みんな親から子への「片思ひ」だったか。いや、子の我の心なさで、力ずくその海山の愛を「片思ひ」と同じ結果に終わらせたのではなかったか。作者は親として、父として、今、その「片思ひ」をしていればこそ、痛切に亡き親たちの心が分かるのだ。世にありとある親はそう思い、世にありとある子も、いつかきっとそれに気づく。人間のすることは、いつも、なにかから、一歩も二歩も遅れている。

「家族」の愛は清いものと限らず、修羅と相剋の渦に毒気を煮詰めている場合も少なくない。

師とは全人格、全生涯をかけての師であり、弟子もそうなのである。そして何度も何度も出会い直し出会い重ねて行く。

夢の夢である儚い価値に気づかなくて、どうして現実の価値が見えようか。 』

一行一行が筆者秦恒平の命の滴のようで、飲みほすと純度の高い美酒の味わいに陶然としますが、いささか酔いがきつい読書だったかもしれません。一つ一つの愛の歌が心に重く痛く、秦恒平の「遺書」というほどの創作がずしりと胸底に沈みました。
最後に、『愛、はるかに照らせ』は愛の詩歌をとりあげて愛の諸相について語りながら、詰まるところ秦恒平の究極の文藝愛を歌いあげている一冊と申し上げたいと思います。
一体どれほど膨大な読書がこの一冊を創りあげたことでしょう。秦恒平以外何人もなし得ない文学愛の集大成でした。私は読んでいて作者の文学に対する渾身の愛に胸が熱くなったのです。秦恒平は「文藝愛の作家」と呼べるかもしれません。たとえ恋愛小説のかたちをしていても、文藝への愛に貫かれていない作品はないのです。
「今・此処」に、大いなる愛の一冊をお届けいただき本当に感謝いたします。

さて、以下は、あくまで個人的な好き嫌いの感想です。そしてとてもプライベートなことを書きます。ものの価値を決める判断基準の一つは「好き嫌い」でもありますから許してください。
好きな歌を二十選んでというお言葉でしたが、少し難題でした。どうしても自分の価値観が秦恒平の「読み」に影響を受けてしまうからです。そこで、文学としての価値を抜きにした好き嫌いを「一つ」だけ書きます。

これやこの一期のいのち炎立ちせよと迫りし吾妹よ吾妹
真命の極みに堪へてししむらを敢てゆだねしわぎも子あはれ   吉野 秀雄

吉野秀雄の一連の歌が『日本短歌史上、卓越した成果』であり、吉野秀雄が『萬葉の昔から現代までを通じ最もすぐれた挽歌の詠み手』であるという湖の評価はまったくその通りでありましょう。凄まじい慟哭の歌に思わず身震いします。
しかし、名歌と感動しながら、私にはここに描かれる愛が、夫婦愛の極み、とは思えないのです。夫である吉野秀雄は妻を愛していた。これは真実でしょう。でも死にゆく妻の愛はこのようなかたちであっていいのでしょうか。私はこの妻の愛の痛ましさに胸うたれますが、共感できないのです。
自分に死が迫っていると感じていたなら、このように夫を愛するのは酷です。なぜなら、湖の言うように、「死なれる」というのは『もっとも苦しい受身』だから。激しい愛の絶頂の記憶は、遺される夫の長い人生を嘆き苛ませるでしょう。「死なれ」た後の夫と子どもの人生を幸せに導くのが、若く死に選ばれたものの愛だと、少なくとも私はそう思います。
ここに歌われている妻に夫への愛はあったけれど、それは「小我の愛」にすぎない。だから、この歌の感動は茂吉の臨終の母を詠んだ歌の感動には及ばないのです、私には。

ずっと以前にテレビで西部劇を観ました。
題名も忘れてしまいましたし、名作とも思いませんでしたが、ストーリーが強く印象に残りました。
余命いくばくもないと医者に言われた妻が、夫に新しい妻、子どもたちに新しい母となる女を必死で探し歩くのです。あの当時の西部は女の数が少ない上に、子だくさんの、過酷な労働を強いられる農家だったか酪農家では、後添いに来てくれる女を見つけるのは容易ではありません。
やっと承諾をとったまじめそうな女を夫の元に連れていくと、もともと妻を愛していた夫は絶対いやだと拒否。妻が女手なしには一日だって夫も、乳飲み子を含む子どもたちも生きていけない切羽詰まった現実を説ききかせると、夫は後添えを迎えることを渋々承諾したものの、妻の連れてきた女はいやだといいます。妻がなぜだめなのかと問い詰めると金輪際「抱く気持ちになれない女」だからと。そこで後添え探しは振り出しに戻ります。
あちこち出かけ万策つきた妻は、道中たまたま出会った美しいけれど酒場の娼婦に「私の夫と結婚して」と頼むことになります。自分の生活に嫌気がさしていた娼婦はしばらく躊躇してからいいわよと答えます。女を連れ帰ると、夫は「娼婦じゃないか。正気か」とあきれたものの、前の女とどちらを選ぶかと迫られてしかたなく女を受け入れることとなり、夫と妻と娼婦との奇妙な同居生活が始まります。
妻は子どものおしめの替えかたからはじめて、家事労働を娼婦に仕込みますが日々病状は悪化し、ついにベッドから起き上がることもできなくなります。
そんなある夜、妻が死ぬことに堪えられなくなった夫が庭でひとり泣いていると、娼婦がやってきて慰めます。そして二人は結ばれます。
翌朝そのことを知った妻は娼婦に、夫とのセックスはどうだったかと訊ねます。妻は自分は夫との性に満足していたけれど、何しろ夫しか男を知らないから、そう言うと、娼婦は今まで経験したなかでも夫とのセックスはよかったと答えるのです。妻は満足そうににっこりして、そして数日後に亡くなります。
映画の結末はよくおぼえていません。たぶん、長い歳月が経って仕事に成功した夫とすっかりエレガントになった娼婦がとても幸せに暮らしているところで終わったように記憶していますが、定かではありません。私の関心は妻の死までしかなかったのでしょう。

「愛の最もむごき部分」は、妻が夫や子どもたちの記憶からさえ死んでゆくことを決めた、正真正銘「捨身の選択」にあるのでしょう。
自分が死ぬ前にどうか愛してほしい、忘れないでほしい、抱いてほしいと夫に願う、あるいは自分が夫をこんなに愛していると訴える……それはたとえ「愛」に変わりはないにしても、自己愛に近い小さな愛。映画のなかの妻が、生の証でもある性の情熱を、自身の最後の日々に夫と燃焼させる道を選ばなかったのは、「大我の愛」だと思います。
抱いてくれと頼めばひしと抱きしめてくれる夫を、悲しみに後追いしかねない夫をあえて突き放して、新しい愛の可能性に譲る。自分など忘れられていいと、妻は徹して自分を捨てた。身を引いて自分の愛するものをすべて手放した。ただ、これから長い人生のある夫と子どもの幸せのみを願った。私にはこれが人間の最高の愛のかたちであろうと感銘を受けました。(映画そのものは芸術的高みに達しているものではありませんでしたが)

吉野秀雄の歌は生と性と情熱の讃歌。悲劇的であっても、人生の幸福の瞬間を描いた歌です。その意味で圧倒的な名歌と讃えたい。しかし、真実の愛はもっと「美しくない情景」にひそんでいる気がしてなりません。私は、むごい愛をむしろこちらの歌に感じます。

病む人をぬぐふと絞る手拭に夫の臭ひのして哀しけれ     脇 須美

この歌は歌の格として吉野秀雄作品に到底及ばないと思いますが、愛の格でいえばこちらのほうが高いと思いました。
高村光太郎の詩の一節に「愛はぢみな熱情だから」とありました。
愛する人のため火の中に飛び込んでいくことと、手拭いに臭いのつくほど長く長く患う人への介護のどちらがより困難かと考えると、それは後者のほうだろうと思います。
華やかなもの、楽しいもの、晴れがましいものなど一切なくなって尚、黙々と単調で過酷で地味な介護を続けるのはやはり愛。燃え上がるもののなくなった中からとろ火を絶やさないのが「不屈の愛」でありましょう。
私は「夫の臭ひ」の一言の中に長い結婚生活の中の妻の苦い体験なども感じます。世の中に夫に裏切られたことのある妻がどのくらいいるのかわかりませんが、この「臭ひ」の使い方は微妙な嫌悪を含み、幸せなばかりの妻ではなかったろうという想像を抱かせます。
この夫は病んでやっと妻の元に戻ってきた夫かもしれない。若く健康な時代を妻一筋には捧げなかった夫が、老いて病んで妻の支えしかなくなったさまに、妻の万感こもった「哀しけれ」があると読むと、これは苦しくて真実哀しい愛の一面です。そういう想像を誘うという点で、私には共感できるものがありました。文学的価値とはちがうものですけれど。
もう一つ付け加えるとしたら、私は吉野秀雄の歌に「無意識の嫉妬」を感じるのかもしれません。あのような『一瞬に金無垢の炎と燃え上がれる』性の悦びは私には決して得られない世界だからです。未知の世界なのです。無縁なのです。もし、性のエクスタシーが男への愛に不可欠だとしたら、私の女としての人生は惨憺たる失敗です。
井上靖の『不在』を取り上げてくださって、少し救われる気持ちがしました。「神の打った終止符」を清々しく受け入れるのも愛としたら、私にも可能な愛でありましょう。

『 真に人間的な「愛」とは、親子も夫婦も含めて本当は「友」としての愛であるのが正しいのでは、なかろうか。私は、かねがね、そう思って来たのだが…。』

女として欠落した私ですが、せめてこの友としての愛を与え・受ける、そう生きられたらどんなに幸福だろうと思いました。
一つ一つの詩歌に、さまざまな想い……後悔や断念や羨望や感謝が入り乱れ、ある意味呻くような苦しい読書でした。喉元に剣を突きつけられるように、愛について問われ続けるご本でした。これからも湖のお声を聴くように繰り返し読み続けることでしょう。
湖、お元気ですか。お幸せですか。どうぞ脚を早く治してください。

追伸 糖尿病に鍼灸治療はいけないのですか? 全身の血流をよくするという点でとても効果のある療法ですから、もし可能なら、きちんとした病院ではじめてみたらいかがでしょう。  聖

* 著者冥利とはこういう、きちんと書かれて批評的な「愛読の記」をもらうことだ。好意的にかなり甘い点数だが、著者自身の意図をここまで汲んで頂ければ、書いて良かったと心ゆくものがある。吉野さんの有名な一連の作に対する批評も、これは吉野短歌にというより、秦恒平の或る「不十分」への批判であるだろうと、有りがたく読んだ。
世の中が真っ暗になっても、こういう読者を持ったという思いが道の先を励まし照らしてくれるに違いない。書き手は、多くのとは言わない、たった一人でもいい真実読み込んでくれる読者をもちたいが本音であり、そんな本音を「かつて知らない」「知らなくて済む」ような安い書き手にはなりたくなかった、わたしは。一度としてなりたくなかった。
2007 5・23 68

☆ 泣きました  バルセロナ 京
恒平さん 泣きました。故国への往路は「夫婦の愛」に、帰路は「親への愛」に。
読み進むごと涙が嗚咽に変わりそうになり、幾度も幾度もご本を閉じて、目を瞑らねばなりませんでした。
愛ある夫婦がこうも普通に存在することに、私はほとんど驚愕しました。
自身の伴侶に回り逢うまで、私にとって「夫婦」とは、いがみ合い、貶し合い、互いに磨り減ってゆくものでしたから。
「**ちゃんの親はいつも一緒に出掛ける」とか、「**の両親は一緒に風呂に入る」とか。(十八にして、一緒に風呂に入る夫婦のあることを知り、仰天しました。)そんな話は実感の伴わない虚構の世界でしかなく、私にとって「夫婦」とは、あくまで私の両親だったのです。
「夫婦の愛」を読みながら、この幸せを知り得た人間が、今の私だけではなかったことに、大きな大きな安堵を、そして感動を覚えていました。
私にとってもうひとつ意外だったのは、夫の、妻を歌った歌の多いことです。

内職の終り待ちゐし夜の床に寒い寒いと妻が入りくる
湯上りの匂いさせつつ売り残りの饅頭を持ちて妻が寝に来る
しまひ湯をながくたのしみゐし妻が湯槽に蓋を置く音がする

常々、男の妻への愛など、あるのかないのか分からぬほどに聞こえてはこないもの、と思い込んでいましたから、こんな健やかな愛が聞こえて、とても嬉しくなりました。男の人って、こんなに優しく静かに妻を愛するのですね。

たすからぬ病と知りしひと夜経てわれよりも妻の十年老いたり
思ひきり生きてみよとぞ聴く哀し春の墓辺のきみは風にて

自らを重ねやすいものほど、喉元に込み上げるものを鎮めるのに苦労します。

膝にごはんをこぼすと言って叱った母が
今では老いて自分がぼろぼろごはんをこぼす

母のしつけで決してごはんをこぼさない私も
やがて老いてぼろぼろとこぼすやうになるのだらう

そのときは母はゐないだらう
そのとき私を哀れがる子供が私にはゐない

老いた母は母のしつけを私が伝えねばならぬ子供のゐないため
私の子供の代りにぼろぼろとごはんをこぼす  高見 順

「病む父」 伊藤整より
父は何でも知り
何でも我意をとほす筈だつたではないか。
身体ばかりは伸びても 心の幼い兄弟が
人の中に出てする仕事を立派だと安心してゐたり
私たちの言ふ薬は
なぜすぐ飲んで見たりするやうになったのだらう。

「父」を「母」に換えて、私の母への愛は上の二歌に言い尽くされている気がします。
あつかましく われ其の孫に なれたなら   京

* 一人のいつも思いあまっていた卒業生に、こういうメールを書いてもらえただけでも、『愛、はるかに照せ』を湖の本にしてよかった。すこしだけ、親をゆるしてあげなさい。あなた自身が幸せに。それでいいのです。
2007 5・26 68

* これで、当面、創作と湖の本とに気を集められる。
2007 5・27 68

* 『愛、はるかに照せ』をとても気に入ってくれたご近所から、洋菓子を添えて、グループでの歌作の記録本を三冊いただいた。ひばりヶ丘の「ティファニー」のマスターもこの本をとても喜んでくれた。詩歌を自分でも創ってみたい、創っている、創りかけている人たちには、この本はすこぶる愛されているようだ。一つには、耳に聞き慣れ、目に見慣れた著名人の著名作ばかりで詩歌への見当をつけてきた人たちには、こういう身近な世間と題材と表現が有ることに、目から鱗を落とされている方が多い。それこそがわたしの願いであった。

* 雷雨。
2007 5・31 68

* 湖の本の入稿も出来た。経済的な維持でいうと、二冊分冊にしたいがやまやまだが、読者に負担をあまりかけたくない。とても面白い一冊になるので、楽しんでもらえればいいとする。本が厚くて重いと脚腰にどう障るだろうと発想が気になる。昨日・今日とずいぶん痛みはひいているけれど。とんでもないムリで刺激しなければ少しずつ落ち着くかな。しかしムリしないで済む日常に恵まれようなんて、ムリか。

* 何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
2007 6・3 69

* 土曜をのんびり過ごし、家で校正し、原稿を書き進めた。「ペン電子文藝館」の気がかりな入稿原稿は、目を通した後、いったん著者にまわした。念を入れた方が良いだろう。
2007 6・16 69

* 去年の今日までは、平常…であった。明日、六月二十二日に孫のやす香は「mixi」に自身の「白血病」を公開し、それも診断違いで、やがて最悪の「肉腫」と判明し、七月二十七日に亡くなった。わたしたちの世界は明らかに色を変えた。
今日、わたしは、ふらりと家を出る。たぶん帰ってくるが泊まってくるかも、泊まりを重ねてくるかも知れない。泊まり歩くということにわたしの希望はない。外を歩いて日頃見知らぬ凡山凡水に視野を染めてこようというだけ。またそれが運動にもなる。

* 幸い、校正という差し迫った用があり、作業場として空いた列車内が最適なので、うまくすれば今日のうちに済し終えてくるかも知れない。そうなれば家に帰り、印刷所にもどす用意をし、ボールを向こうに回しておいてすぐ発送用意にかかることになる。通算して九十一巻めを造るのである。九十巻代は、おそらく最後の坂道になる。ゆっくり行く。
2007 6・21 69

* 土曜日曜は閑散としている。こういう日にいいメールが届いたりすると、ニッコライなのだが。
のんびりしながら、湖の本の初校をおおかた終えた。もう少し、そして跋を書いてしまう。印刷所に戻してしまえば、発送への用意に追われ始める。
2007 6・23 69

* いま、一番の急務は「湖の本」新刊の初校を、いいかたちで印刷所へ戻すこと。
2007 6・24 69

* 湖の本の初校を戻した。発送前の臨戦態勢に入る。
2007 6・25 69

* 「湖の本」の再校がもう出てきた。良いあとがきを添えたい。 2007 6・29 69

* 新冊の跋も、印刷所に送った。着々と。
2007 6・30 69

* 発送用意の中でも気の重い仕事を昨夜から只今までに、スムーズに終えた。肩がすこしほぐれている。磬を打って心楽しむ。
2007 7・1 70

☆ 今年の山一番は  巌
三十六年ぶりに蘆刈山だそうですね。
先日のメールに書きました ご近所さん 当方の開店初日にお祝いも頂き コーヒー豆もよく買って頂いているのですが 先程
「本、もう少し貸しておいて ゆきつもどりつしながら ああか こうか と楽しませてもらってる」
と仰ってました。
お弟子さん達にも読ませてみようとの様子もあり そのご近所さんの「宗静」さんに贈りものとしてしたく
『茶ノ道廃ルベシ』
『死なれて・死なせて』
の2冊を 加茂の私の住所に送って頂けるよう御願い致します。
「湖の本」の送金先としては郵便口座のみで 銀行の口座はお使いではないのでしょうか 昼間なかなか店を閉めては出歩きにくいので もし銀行振り込みで許して貰えるのであれば 御願いしたいのですが。

* 「山一番」とは、祇園会巡行の、籤の順。鉾では長刀鉾が籤とらずの先頭を行く。籤引きは今ではなにか安っぽい福引き並みに思うか知れないが、神意を問う大昔はたいへん重い方法として、他国にも例は少なくない。
「宗静」さんというお茶名では、秦の叔母の友達で千家十職袱紗の徳斎ゆかりの方が、梶原宗静さんといいこの方も金沢宗推さんの同門だった。叔母が生きていたら百十歳前後、梶原さんも同年配であったから、もう他界されているだろう。わたしの愛用した何枚もの茶袱紗はみな梶原さんに戴いた。わたしの点てるお茶がおいしいと、よく所望された。いまも梶原さんから手に入れた茶通箱や盆点や臺天目など、ゆるしもの専用の佳い袱紗が手元にある。
2007 7・5 70

* めったにない長い跋文の初校ゲラが出て来た。原稿用紙にすれば三十枚近い。
2007 7・6 70

* 『マーキュリー・ライジング』はたいそうな題だが。感覚のきわめて鋭敏な自閉症のマイコ少年が国家保安局自慢の秘密兵器でもある超難解な暗号をたやすく解読してしまった尖鋭なサスペンス・ドラマ。ブルース・ウィリスが持ち前のタフネスを活かして熱演する一級の面白さ。
ジェニファ・アンダーソンの『ママは美人警官』はたわいないお色気もの。ただしこのママ、相当な魅力。
雷蔵の『剣鬼』は読み物原作の駄作。不運な役者であったなと雷蔵が可愛そうになる。映画を聞き流し、流し見しながら発送の用意を進めてゆく。
2007 7・6 70

* 校正をどんどんすすめてもう責了へもっていってもいいところへ来ている。校正をはかどらせるには、また電車に乗りに出かけるしかないか。どうしても家でははかどらない。校正だけはテレビのそばでは出来ないが、そこにしかわたしの机が無いというありさま。あらゆる場所を本が占領しているので。フウ。
2007 7・8 70

* マキリップのあと、さらに校正をつづけて、二時半過ぎに寝て、六時半に起き発送の作業を進めていた。
2007 7・11 70

* 雨を厭うていては 幾つかみすごしてしまうものもある。堤彧子さんの繪や、上村淳之さんらの繪など観てこようと思う。校正をもって出れば、一区切りまで行くだろう。
明後日は糖尿病の診察日。そして新・言論表現委員会。
2007 7・11 70

* 小雨のなか有楽町へ。東京會舘のギャラリーから案内が来ていた。ピカソ、ブラック、ローランサン。ローランサンには惹かれないが、ちょっと覗いてみたかった。リトグラフのピカソに一点とても気に入ったのがあり、買った。これはたぶん妻が大喜びするだろう。息子に貰ったティーシャツ一枚で雨に濡れて平気という格好だったから画廊のお姉さんに「おみそれしてしまいました」と。
いつもは理事会や総会の日にしか東京會舘へは行かないのだから、いますこしかしこまった格好だということ。ぼくはこれが普通だからと言っておいた。
傘もめんどうで雨にぬれたまま銀座の「御蔵」に入り、京の田舎料理を殊勝にお酒ぬきで。七品の盆の主菜に、京のまるい加茂茄子がデンと出てきてしまい、閉口した。オクラだとか、豆乳の湯葉豆腐鍋とか、目刺しとか、鴨とか。それでも校正しながらゆっくり食べて満腹した。
目当てのミキモトの画廊が閉まっていた。上村淳之から案内の草草会展では松尾敏男や竹内浩一らも展観していたが、竹内の「狐」の繪のほかは全体に低調でビビッとこなかった。もう一つ、堤さんの出している水彩画展は、水彩らしい美点の生きた小品に何点か出逢ったものの、なんとなく全体に雑然としていた。堤さんの花の繪も感心できなかった。
結局ピカソ、ブラック、ローランサンが版画・リトグラフとはいえ、それも小品とはいえ見応えがした。
然林庵という喫茶店で美味い珈琲を二杯お代わりして、アテにして持って出た校正をぜんぶ済ませてきた。ひどい雨にならず、暑くもなく、気楽な格好で銀座をさらりと歩いて帰ってきた。
2007 7・11 70

* 新しい「湖の本」を、凸版印刷の催促を受ける前に、責了にした。
2007 7・12 70

* 思いだしたように城景都の大判の画集『花の形而上学』を眺めている。
言うまでもない、この一冊の中から、「湖の本」創作シリーズの表紙繪を、城さんに戴いた。エッセイシリーズも城さんの作品、これが湖の本の印象を決定づけている。
一目見て「線」の繪だが、なみの線ではない。仏画でいう鉄線描、琴弦描の線で、肥痩なく動感を抹消してある。それにより画面に神秘・崇高感と高度の抽象性とがあらわれる。
表紙に戴いた二点は、城景都藝術のなかでは異色に属するほど清和温順。おおかたは度肝を抜かれそうに烈しい思い切った画面である、が、今も謂う線の静かな働きで神秘の面持ちを得て、絵画の方から我々の方が観察されてしまう。天才の世界。
この一冊の他にも画集や原作、版画などを沢山貰って愛蔵している。

* 用意ははかどっている。あと一週間あれば余裕でほぼ仕上がる。祇園会のあと祭りには送り出し始められ、参議院選挙には身軽に出かけたい。結果を見守りたい。
2007 7・14 70

* 発送用意、追い込みに。もう十日ほどで参議院選挙。つまりもう十日ほどで発送が終わっていて欲しいが。
2007 7・18 70

* ゆうべマキリップを思いの外長く読み、それからまた『ゲド戦記む』第一巻も読み進んだので、寝たのは明け方。そして七時半に起きた。血糖値、118。まずまず。そのまま作業に入った。
一日宛名ラベルを封筒に貼っていた。その間に、メル・ギブソンの『パトリオツト』を観ていた。アメリカ独立前の英本国と植民地十三州との激戦。メル・ギブソンには秀作『ブレイヴ・ハート』もあるが、歴史感覚と自由な人権の主張に敏感な、これも彼らしい優れた意図の感銘作。凄絶な展開の中にハートの熱がみなぎった。
2007 7・18 70

* はやく起きていたので、かなり疲労している。明日もう一日根をつめると、とりあえず、いつ本が届いても大方の発送には間に合う。次の本の用意にももうかかっている。今夜はもうやすんでもいいだろう。
あさっては俳優座の稽古場芝居がある。来週末にはもう一度眼科検診があり、三百人劇場を出て初の、劇団昴公演にも招待されている。八月の勘三郎等の歌舞伎座、そして松たか子の『ロマンス』の座席券も、嬉しいことにもう届いている。
2007 7・18 70

* 新刊の搬入が二十八日土曜と決まったので、八月初めまで発送が食い込むことになった。ま、そうなればなったで仕方がないと腹をくくり、落ち着いて捌くことに。おかげで来週前半がすぽっと明いた
2007 7・19 70

* 心身がうまく回転していない。流されていてイインダという感覚と、違和は調整しなくちゃという感覚が、両方からつついてくる。ま、好きにしろよ。本の発送前は、いつもこんな感じさ。
機械まで、少し違和感を告げてきている。
2007 7・24 70

* 一日一仕事というか、今日のように外出してくると、あとは休みたくなる。老いの自然なのだろうか。明日は晩に、三百人劇場をはなれて東京で初の劇団「昴」公演がある。やす香を偲びつつ、妻と観てくる。きっといい芝居だと思う。
明後日、新しい「湖の本」が出来てくる。ところでその二十八日には浅草の花火、望月太左衛さんから招きがあった。去年はやす香の告別の晩だった。やす香は花火の夜空を舞いながら「おじいやん、泣かないで」と泣いていた。
本の発送は少し延び延びになってもいいではないか。八月に入ってしばらくして松たか子の『ロマンス』という芝居があり、翌日に言論表現委員会が予定された。その頃までに送り終えていればいいので、せかせかと慌てて暑苦しいのはよそうと思う。のんびりするということを、少しは楽しまねばいけない。
2007 7・26 70

* さ、新刊が何時頃に届くのか、届くまで落ち着かないのがいつものこと。夜前は、二時頃に階下におり、それから例の本を九種類全部読み、一度灯を消してからまたつけて、英語のマキリップの続きを読んだりした。七時に起きた。少し眠いが。血糖値、116。落ち着いている。
2007 7・28 70

* 湖の本新刊の搬入が十時。三時過ぎまで五時間、発送の作業に奮闘、一便を送り出しておいて、招かれていた浅草の花火に。
2007 7・28 70

* 明日は真っ先に参院選の投票に行く。そして終日発送に取り組む。二倍大の重い本を腕力で持ち運びするのだから、腰の痛み、脚の負担は避けられない。
2007 7・28 70

* まっさきに投票してきた。そのあとは発送作業。夕方、また一山、送り出した。晩にも作業は続くが、開票速報も気になる。
2007 7・29 70

* 夜まで発送作業しながら、参院選、野党の圧勝、安倍政権与党の惨敗に、乾杯。
2007 7・29 70

* 幸い、発送は順調に大きな山を越えた。
2007 7・30 70

* 本の発送も大方片づいたので、あすは、前から約束の人に逢いかたがた、美しいものなど観てきたい。雨が降ってても涼しいのはありがたい。
2007 7・30 70

* 最新の「湖の本」には『閑吟集 孤心と恋愛の歌謡』を送り出した。最愛の歌謡集である。

☆ ご無沙汰いたしております。
過日 金沢の「ふるさと偉人館」に立ち寄りましたら 館長さんが個人的に出していらっしゃるという小冊子が置いてあり 中に 御著作のことが 書いてありました。
すでに お読みかもしれませんし あるいは 館長さんとお知り合いでいらっしゃるのかなとも思うのですが (同館の企画展 北方心泉展や 細野燕台展は 初めて知ることばかりで 面白く) 御名前を目にして 嬉しい思いがいたしましたので 一応同封させていただきます。

☆ 先月から今月にかけて読んだ本 (左葉子通信14 平成十九年五月二十日発行 左葉子こと松田章一より抜粋)
『愛、はるかに照せ』秦 恒平・湖の本エッセイ40
「秦恒平湖の本」は昭和61年以来21年間に九十冊の小説とエッセイの個人出版である。まだまだ続くようだ。
これは講談社の「日本の抒情」シリーズの一冊として刊行されたものである。原題は『愛と友情の歌 詩歌日本の抒情』という。
男女の愛)、夫婦の愛、子への愛、親への愛、血縁の愛、師弟の愛、さまざまな愛、の各分野にわかれ、それぞれの歌への筆者の思いが短く書かれている。
朝日新聞の「折々の歌」と同一ではない。また単なる秀歌集でもない。「うた」は「うったえ」であるとして、まさに肺腑をえぐる賛嘆と感動と慟哭が書き綴られているのだ。
心濯われる書に接して二百ページ読みおわるのが惜しい一冊であった。絶唱という語があるが、これは「絶評」というべき一冊であった。

* 毛筆の美しい手紙を下さったのは文藝春秋老練の編集者で、いつもいつもこういうご厚意を戴いている。また「ふるさと偉人館」の館長さんも久しい「湖の本」の心強い読者の一人であり友人である。しかし「少知庵」さん、こんな洒落た通信を始められていたのは初めて拝見した。
お二方に、感謝します。
2007 7・31 70

* 今日の東山ほどの山稜、樹木の間々に壮烈に石の大仏像が、来迎仏のように横にいならぶ夢を観て、目覚めた。

☆ 葉月 露も明け  碧
湖さん  ようやく関東も梅雨明けだそうですね。これからのひと月、どれほど暑いことでしょう、ご用心なさってください。
昨日『閑吟集』届きました。NHKブックスで開くよりずっと開け易く、「ながく便利に愛読・愛蔵」と仰る通りになりそうです。ありがとうございます。通信欄にも書いたことですが(下関まで一度)「逢いに行きたい」とお書きくださったこと、嬉しく勿体なく、けれどもそれに相応しくない自身で、恥かしくなります。
七月は御本の中から主にエッセイを、谷崎・中世・美術など読んでいました。買ったままにしていた(ごめんなさい!)『顔と首』や『美の回廊』なども取り出して。一度読み出すと次々関連して読み返したくなります。まさに阿片・・・。
今月は『親指のマリア』『墨牡丹』など読み返すつもりです。
並行して古典も、と想いながらこちらはなかなか進みません。そこで思い切って『太平記』を毎日一巻(=句)ずつ、と決めました。『谷崎源氏』は「若菜」の途中です。
マキリップの三部作、翻訳のハヤカワ文庫は現在、第一部しか発売していません。でも読み進むうち続きがどうしても読みたくなって(地元図書館にもなかったのです)、ネット古書店で探して手に入れました。第三部は品薄、みつけるのに時間がかかり値も三倍になっていました。原書も思い切ってアマゾンで注文したら、三部合本の特別版が届きました。
ご命日の前後は、眼の不調と週末の教会行事のために用心してパソコンは開けませんでした。わざと、だったかもしれません。怖い気持ちがありました。
隅田川の花火を「去年のように息くるしく胸くるしいことはない、が、一緒に観る気持ちは同じ」と書いていらっしゃるのを読んで、少しほっとした気持ちになりました。もちろんお寂しいのは、もっと尚のことでいらっしゃるでしょう。それでも一年を無事に(多少の難儀はあっても)お過ごしになった、喪の仕事を大切になさったのだと感じました。
先日、「巌」さんからマイミクのお申し出があり、嬉しくお受けしました。色々なことを教えてくださり有難く想っています。
今度の台風はまた厄介な風向きで、クモは益々低く木陰ごとに、巣を張っています。
それではどうぞお大切に、くれぐれもご用心お願いいたします。
迪子さんにも、よい日々でありますように。

* 気の遠くなるほど久しいご縁。下関は二度三度通過したことはあるが、下車していない。いろいろ在るはずの下関だが、先ず思い出すのは「碧」さんの名前と「ふく」で。お顔は存じ上げないが久しい読者は、みなさん親類のように感じている。
マキリップ『イルスの竪琴』を和英本揃えてを手に入れられたのが嬉しい。あまり評判にはならなかったが、ル・グゥインの『ゲド戦記』とも深く呼応する構成力抜群のフィクションで、魅力満点。
『太平記』の一節一節を語り物の平曲なみに「句」と呼ぶかどうかさだかでない。「太平記語り」というように、語られたには違いないが、太平記読みともいう。読み本の性格も濃い。一節がずいぶん長いのもあります。源氏物語の「若菜」上下ほどではないけれども。
「巌」くんとマイミクとのこと、よかった。奥の深い従弟です。

☆ 秦 恒平 様 梅雨はまだ明けないといいながら、今日はきびしい暑さとなりました。
このたびはまたまた『湖の本 エッセイ41』をご恵投たまわり、まことにありがとうございました。
つつしんで拝読させていただきます。
気候不順のおり、ご自愛を祈りあげます。   東大教授

☆ ようやく梅雨明け  ゆめ
私は暑さに弱いので、実は夏は少々苦手なのです!
新刊の湖の本戴きました。NHKブックスの『閑吟集』は書き込みや線、付箋でいっぱいなので、これは綺麗な予備ということに…。家族の寝静まった夜更け、ぱらぱら頁を開いてたのしんでいます。
さらさらさやけき夏の朝早く、朝顔の鉢に水をあげるのが日課になりました。

☆ 秦さん、あいかわらずお達者ですね。
面白い「新茶の若立ち」本が届きました。ニヤリ、元気と色気を有難く頂戴します。
「男歌女歌みなエロスなく身を焦がしえず独り寝の夏」
ずいぶん昔、馬場あきこさんに採っていただいた、当節の短歌について詠んだ腰折れ(少しうろ覚え)ですが、馬場さんから、お師匠さんの話にも触れ共感するとの評をいただきました。
いままで断片的に鑑賞しただけの「閑吟集」の「小歌」を、粋で熱い言の葉紡ぎを、これから涼しげに楽しみましょう。
どうぞ快適に夏をお過ごし下さい。  俊

* もう少しずつ追加して送本をつづける。
2007 8・1 71

* 秦恒平・湖の本エッセイ41 『閑吟集 孤心と恋愛の歌謡』の跋
好色古典の第一等に西鶴の『好色一代男』を挙げられて異存はない。元禄の世之介が恋の手習いについわたしも見習い、思えば想えば空恐ろしいほど「恋の手管」を学びましたといえばむろんウソであるが、日本の古典全集につねに加えられる、すてきに粋にポルノグラフィクな室町小歌の『閑吟集』からは、もっと深く、もっと懐かしく、「恋愛の孤心」を悩ましく教わったのは決してウソでない。愛読して真実面白い歌謡の集では閑吟集の右に出るものは無い。
よほど心嬉しく繰り返し書いてきたが、どうしてももう一度書きたい思い出がある。
医学書院の頃の上司で殊に鷗外研究者として名高かった長谷川泉と、作家のわたしを、名古屋大学の小児科教授であられた鈴木栄先生が定年退官の記念に、わざわざ、伊勢桑名の「船津屋」に一夜招待して下さった。船津屋は泉鏡花の名作『歌行燈』の舞台になった料理旅館で、そのころ名古屋の老舗「中村」が経営していたが、鈴木先生の招待に終始付き添って賑やかに晴れやかに宴をとりもって呉れたのは「中村」の若女将であった。鏡花の作から抜け出てきたような美女であった。美女はみずから襷がけ勇壮に大太鼓まで堂々と打って聴かせ、一夜明けた翌日は千本松原へ案内してくれた。木曽、揖斐、長良の大河が一つに落ち合う窓外の見晴らしもみごとなそれは佳い宿であったが、美しい人の面影はもっと魅力深く胸にのこった。
わたしは東京へ帰ると、簡略ながら葉書で中村の若女将にも礼状を書いた。そしてその奥に、ただ「三六」という数字を添えたのである。
折り返しやはり葉書できちんとした返事があり、これにも「一二三」とただ添えてあった。
その暫く前にわたしは「NHKブックス」で『閑吟集─孤心と恋愛』を出版しており、それが宴席で話題になっていた。閑吟集は「思無邪」の詩経にならい三百十一の歌謡歌詞をを聚め、市販のテキストはみな番号を振っている、即ち三六も一二三も言わず語らず閑吟集の小歌を示していた。

さて何とせうぞ 一目見し面影が身をはなれぬ    三六

何となるみの果てやらむ しほにより候 片し貝  一二三

この相聞こえの応酬は、イヤ間違いなくわたしはきれいにフラレたのであるが、この返辞の妙にすこし説明を加えないと読者は理解されないであろう。「船津屋」で歓待にこれ努めてくれた若女将の実名が「なるみ」さんであった。またそれは愛知県の鳴海という女将の地縁をも意味していた。むろん「あなたの仰せにしたがえば、末はなんと成る身でございましょう、片想いのままで堪えさせて下さいまし」と謂う仕儀に相成る。真に一流の女将はこういう聡い藝と才と美貌とを兼ね持っていたのである。惜しいことに、天魔も魅入られたか「なるみ」さんは、若くして天涯の鬼籍に奪い去られ、逢えない人になってしまったと、もう、とうに風の便りに。
こういうこともあった、何人かから寄せられた本の感想の中で、便箋裏の隅の隅にいと小さく算用数字で、307 と。走り書きに。うそかまことか。

泣くは我 涙の主はそなたぞ   三○七

小説につかってもいいなと思った。
閑吟集とは、こういう、今日ただ今のセンスでもとても面白く受け取れる室町小歌でいっぱいである。オウと、おもわず声を放つほどアケスケな性(セックス)の表現にも溢れていて、しかも読み解けば解くほど小気味よく、表現は清潔で純情、纏綿の情趣と風雅に満たされている。そして全編の奥底を流れて、

ただ人は情あれ 槿(あさがほ)の花の上なる露の世に            九六

世間(よのなか)は霰よなう 笹の葉の上の さらさらさつと ふるよなう  二三一

といった感懐がある。みごとにある。閑吟集の真価は、背景にある「中世」を豊かに批評しながら、その次元も超えた男女の愛、人間愛に満たされていること。わたしは、それを縦横無尽に心をいれて読みほぐしてみた。わたしの読み・解きに拘泥される必要はない。またそれだけに、この本では前冊『愛、はるかに照せ』とちがい、思うさま自由自在に読んで悔いをのこしていない。文字通り閑吟集はわが座右最愛の愛読書であり、気恥ずかしいほど一体化している。願わくはそれがこの本でプラスに成っていて欲しいものである。
作者は「不詳」としておくしかない。連歌師宗長の擬されたこともあること、何の確証もないことのみ言い置くにとどめるが、小説家の恣に別世界を思い描き、ひとり楽しんでいることもある。
よくよく性にあっているのか、わたし自身のもの思いをこんなに代弁してくれて多彩な詞華集はほかにない。ひとつには、閑吟集の置かれている時代、中世というよりその後半分、かつては、あるいは今でも「暗黒」などといわれかねずにいる室町時代に、わたしは、不思議と子供の頃から、つまり国史を愛読し始めた頃から、暗黒どころか「花ごころ」のような明るみや希望やぬくみを感じていた。むしろ鎌倉時代や江戸時代の方に息がつまったのである。この本の中でも繰り返し書いているが、わたしは、日本の中世を、室町時代を、武家封建制度の「確立してゆく」経過とは評価してこなかった。ちょうど逆様に、武家封建制度の成り立ってゆくのを「渾身の力で妨げ続けた」時代と読んできた。そこに京都と公家と擡頭する民衆の力との「合作」を感じ「花」を感じ、可能性や希望を感じ取ってきたのである。わたしが、日本の「藝能」とそれを担い歩いた人たちへの共感や興味を持ち続けてきたのと、そういう時代の「読み」とは、いつも表裏を為しまた成していた。
梁塵秘抄を書き平曲を書き能を書き閑吟集を書き茶の湯を書き、そしてタケルや赤猪子にはじまる敗北者や、蝉丸らに始まる藝人や、切支丹やアイヌや朝鮮人や、また葬制にはじまる被差別への観察と批判とを書き続けた強い催しもまた中世と京都に集約された貴賤都鄙の軋轢や葛藤にあり、民衆・平民の希望と鬱屈とにあった。その思いの行きつくところは、所詮、安土桃山時代を指さして「黄金の暗転期」と憎むほどの歴史観になる。鎌倉時代、南北朝時代、将軍の時代、守護大名の時代、戦国大名の時代を通じてあんなに武家封建制度の成るのを懸命に妨げ続けた希望を見捨てた者たち、特権の富ゆえに政治的エネルギーを武家に売り渡し民衆の時代を裏切った特権町衆。彼らの手で「中世」は「近世」武家封建制度の贄とし差し出され、さながら黄金色の繁栄がきたかのようであったけれど、実は黄金色の暗転期を招いたのだと、わたしは嘆いた。おそらく閑吟集の著者も、「桑門」にして「狂客」であった彼の胸裏にもまったく同じ歎きが忍び寄っていただろうと、わたしは共感措くあたわざるものにより胸奥を濡らすのである。
「四度の瀧」「三輪山」「冬祭り」「みごもりの湖」「秋萩帖」「古典愛読」「加賀少納言」「或る雲隠れ考」「花と風」「梁塵秘抄」「清経入水」「女文化の終焉」「趣向と自然」「初恋(雲居寺跡)」「日本史との出会い」「風の奏で」「能の平家物語」「慈子」「閑吟集」「茶ノ道廃ルベシ」「親指のマリア」「最上徳内 北の時代」などのわたしの仕事は、およそそういう感懐に膚接して創られてきた。そうありたしと願ってきたのである。
高校の頃、国語の先生であった碩学岡見正雄先生の名著に『室町ごころ』がある。わたしはそれをかなり年がいってから読んだが、いうに言われないはんなりと柔らかな歴史観であった。精到隈なき軍記や藝能研究者であられた、亡くなるまでよく読んで気遣い引き立てて下さった。作家になってからもわたしは先生に答案を出し続けていたのである。小心な生徒であったわたしも、はや七十余。
なお壮年の詩人杜甫は、日々の務め帰りに曲江のほとりで酒に憂さを晴らし、酒手の借りの尽きぬのを侘びつつ人生七十古来希と放歌したのは、いまのうちに心ゆくまで酔いしれたいということであった。同じ言葉で閑吟集の著者が、いや同時代を生きた閑吟集中の民衆も挙って感じていたのは、

何ともなやなう 何ともなやなう 浮世は風波の一葉よ   五○

何ともなやなう 何ともなやなう 人生七十古来希なり 五一

であった。「何ともなやなう」をこう繰り返すのは、歎きか居直りか絶望か希望か。全く同じ表現で二十一世紀のわたしは日々呻いて、歎き、居直り、絶望し、だが希望も捨てまいと足掻いている。藻掻いている。みなさんは、どうであろうか。
いずれ引き続いて、同様十二世紀の『梁塵秘抄』もお届けする。『閑吟集』ともども、安価に手に入れておいでの方の多いのは存じているが、どうか重ねて「湖の本」でもご支援下さらばとても助かります。出血止めに、分冊にしたいともよほど考えたが余分のご負担かけたくなく、ながく便利に愛読・愛蔵していただくには一冊がよいと決めました。
いま新ためてこの一冊を編み、繰り返し読み返して気づくのは、まるで自分で自分を出し抜くかのように、閑吟集をダシにして、隠れ蓑のようにして、わたし自身をアケスケに、あまりにアッケラカンと暴露してしまっていることだ。誰の感化だろう、昔男か、光源氏か、世之介か。もう遅すぎる。
ところで「湖の本」は、さしあたり白壽、百壽を数えあげたいとながい歩みを少しも止めずに来たが、このところ、右脚を事故で傷めたこともふくめ、糖尿病の悪影響が、緑内障にも白内障にも皮膚神経にも腎臓にも露表し、体力的によほど覚束なくなってきた。そんな中、今年、また日本ペンクラブの理事改選があり、選挙された。十年務めてきた。落選したらたとえ会長推薦があってもやめると決めていた。だが会員の意向はもう二年やれと。京都美術文化賞の方の理事もまた二年の任期延長が決まったようだし選者もつづけよということらしい。しかし「電子文藝館」からは自身で退いた。十分やった。作業を続けるには視力は衰え、句読点がまるで読めない、魯魚の見錯りも防ぎようがない。せめてわずかな視力は自身のために大事にしたい。
もう二年で金婚。「湖の本」もうまくすると九十九巻ぐらいに到達するか知れない。頑張ってみるかねと決めた矢先、運動がわりの自転車で怪我してしまった、見通しのない坂と坂の底で自転車同士衝突、奇跡的に双方がゆっくり起きあがり、わたしは右脚を傷めただけで済んだが、いつまでたっても歩行に痛みが脱けない。脚が腐り始めている気がする。
うかつなことだがそうなって、ハタと気がつく。なんてちっぽけな世間に跼蹐して十年もああよこうよと働いてきたか。文藝家協会やペンクラブの会員であることすらてんで意識になかったむかし、わたしはもっとひろびろと生きていた。教授でも理事でも、なまじ頼むと言われると精一杯打ち込んで、あげく、いやがられる。損な性質なのである。
最近も、つくづく述懐している、賢い人は嗤うだろうと。おまえはあまりに矛盾していると。
例えば一方で小田実さんの『百二十八頁の新聞』を心から電子文藝館に推奨し、掲載し、また言論表現委員や電子メディア委員をつとめて発言し提案し、小泉や安倍政権を非難し、野党ぶりを批判し、現代史や世界史の読書に熱中し、私生活でもガンとしてガンコに暮らしている。
が、その一方で「静かな心」を求め、バグワンや鈴木大拙に無心を聴き、心=マインドという分別・理屈を嫌い、言葉の虚妄にしばしば飽いて「闇」に沈透 (しず)く沈黙と静安を好み、観劇と読書と、時にこころよい飲食に安らいでいる。そしてすべては夢と、ほぼ信じている。
おかしいよおまえ、と、面と向かって言う人もいた。どっちかがウソだと。それならいっそどっちもウソだと言うがいい。所詮は、夢。
自分が、いわば乱れた麻糸を神の掌でまるめられたような存在であるのを、身のそばにおいた一葉の肖像画を見ていて感じる。わたしの小説『お父さん、繪を描いてください』を手近に置いている人なら、下巻の百四十二頁の繪をみてください。自殺した「お父さん」が有楽町地下道のラーメン屋でものの二三分とかけずに描き遺してくれた顔だ。あらゆるモノはこういうすけすけの無にひとしい存在なのだと「お父さん」は教えていった。
おつに澄まして山の中で隠者のように生きていたいと思わない。十牛図の第十の境はヒマラヤではなく、人の行き交う街市の雑踏なのである。
その雑踏にいて、何といってもわたしを励ますのは文学だが、その「文学」というものが、すっかり変わって来た。ひとつこんな時代の証言をお耳に、いやお目にかけよう。
わたしの文学修行の一端が、講談社版『日本現代文学全集』百何巻かを毎月一冊ずつ書架に揃えてゆくことであったことは、何度も書いた。第一回配本が谷崎潤一郎集であったから買い始めたのである、谷崎と藤村と漱石とは二巻を配本の予定だった。一人一巻には明治このかたの錚々たる作家が並んでいたし、詩歌も評論も戯曲も随筆も緻密に収録され、さながらに「近代文学史」であった。
わたしは作品も読んだが、数百人の著作者たちの「年譜」を繰り返し繰り返し熟読した。作品に対し先入観を過剰に持たずに、作者へのいい理解が得られた。よく書かれた年譜は最高度の研究成果に等しいのである。
こういう大全集の最終配本はふつう「現代名作選」ということになる。鷗外や露伴や漱石や藤村や潤一郎や志賀直哉らからみれば、まだ遙か下界に近いところで頭を擡げてきた若い有力な作者たちの作品がそこに揃う。講談社版の「現代名作選」は上下二冊、第百五・百六巻に用意されていた。二の方が最も新しい作家たちである。
いま手近にその最終巻を持ち出していたので、目次をご覧に入れる。年配の方には懐かしく、若い人には最後の最後に大江さんの名前など見て驚かれるだろう。
阿川弘之『年年歳歳』金達壽『塵芥』大田洋子『屍の街』山代巴『機織り』島尾敏雄『夢の中の日常』耕治人『指紋』埴谷雄高『虚空』井上光晴『書かれざる一章』三浦朱門『冥府山水図』西野辰吉『米系日人』杉浦明平『ノリソダ騒動記』長谷川四郎『張徳義』小島信夫『小銃』安岡章太郎『悪い仲間』吉行淳之介『驟雨』霜多正次『軍作業』松本清張『笛壺』有吉佐和子『地唄』石原慎太郎『処刑の部屋』小林勝『フォード・一九二七年』深沢七郎『楢山節考』大江健三郎『死者の奢り』開高健『パニック』城山三郎『神武崩れ』福永武彦『飛ぶ男』大原富枝『鬼のくに』で一巻が編んである。
前巻の最後が芝木好子の『青果の市』だった、昭和十六年下半期の芥川賞作品。つまり前の一冊は明治の嵯峨廼屋御室いらい太平洋戦争までの忘れがたい文藝秀作を盛り込んでいた。
そう思って後の一冊を見ると、水上勉も曾野綾子も瀬戸内晴美の名前もない。直木賞作家はたぶん一人も入っていない。それが文学不動の常識だった、読物作家、エンターテイメント作家、推理作家などは此処に全く「文学作家」たる市民権を得ていない。本巻に吉川英治も直木三十五も山本周五郎も当然脱けている。ただ一人井伏鱒二の直木賞というのは、誰の思いにも見当はずれの授賞だった。
この最終巻の発刊は昭和四十四年六月、この年この月にわたしは小説『清経入水』で第五回太宰治賞をもらっている。選者は石川淳、井伏鱒二、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫の満票であった。作家として登録されたちょうどその頃の、上の人たちがなお新人作家であったことになる。むろん、わたしはこれら全編を読んで鼓舞された。そこに「文学」があった。
たまたま手近な同じ第九十二巻を手に取ると、河上徹太郎、中村光夫、吉田健一、亀井勝一郎、山本健吉の五人で一冊。批評家五人、すばらしい顔ぶれだ、熟読し勉強した。いま河上先生の『私の詩と真実』巻頭の一文を読み返しても、清水を顔にあびるよう、凛乎とする。批評が文学になってる。
もう最期を予感されていたころの中村真一郎さんが、ある人に、一点を凝視し、「こんな世の中になっちゃあ、文学はもう終わりですね」と溜息とともに吐き捨てて去っていったという文章を読んだところだが、わたしが十年間日本ペンクラブ理事会に出ていて感じ続けたのが、それであった。文学はめったに話題にもならない。
そんな評価は時代後れのアナクロだという議論もあろう。だが文学をダメにしたのは時代後れのせいか、ミソもクソも読物もやみくもに儲けの種にし、文学はお払い箱にしたせいか、答えは明らか。
加えて電子メディアの猛毒にあてられ、ますますことはひどくなっている。「くだらない雑文ですが」読んでくれというメッセージを最近も「mixi」でもらった。「くだらない雑文には、興味も、割く時間もありません」と断った。遜っているつもりにしても、そういう姿勢は気持ち悪い。
ペンクラブに電子メディア委員会を企画し創設したときから、わたしには以下の根本的危惧があった。
一つは、市民使用のインターネットは遠からず国家権力の忌避するところとなり、陰に陽に個人のインターネット運営は、監視や警戒の対象として法規制が強化されてゆくに違いないこと。
もう一つは、似而非の文学・文藝が氾濫し、「文学・文藝」の真価がもう問われることもなく無惨に崩潰し、立ち直りには想像を超えた長期間を要するだろうとこと。
さらにもう一つは、放埒な自己表現の麻痺薬にアテられ、若い世代の精神に多大の毒がまわってしまい、未来の日本は幾世代にもわたり軽薄きわまりなく頽廃してゆくだろうこと。
そしてさらに、(きわめて陰険な)サイバー・ポリスと(きわめて広範囲な)サイバー・テロとの死闘の時代が、もうはじまっているが、いっそう熾烈になり人間の精神的環境と機械的環境とを不可逆に汚染・荒廃させてゆくだろうこと。
あえてもう一つ、インターネットに限らずパソコンは、概していえば老人のための「電子の杖」としては甚だ有用だが、自堕落に若い人たちに広がっていいツールではなかろうというのが、早くからの私の大きな危惧であった。のみこむには毒があまりに強いのである。
と、まあ 毎日、溢れるようにわたしは書いている。ことばが湧いて奔出を求めてくる。「今・此処」に生きている、その証のようにことばが波になって攻め寄せる。変な譬えだが若い母親の乳が張って吹き出してくるように。疼くように。すこし意図してこのことばを「演出」してやれば小説、私小説は積み重ねられる、が、そうしない。原料のまま自身をただたんに順序も秩序も演出もなしに此処に置いておく。いわゆる「原稿」に置き換え「仕事」にするといった欲はもう持たない。そんなことにたいした意味はない。「闇に言い置く私語」そのまま。それでよろしい。自身で創った「作品」は小説も評論も詩歌もエッセイももう百冊以上積み上げてある。「私語」は無秩序に原料のまま此処に積んでおく。わたしがやがていなくなっても、映画のように誰かが死後もう暫くのあいだ此処に「わたし」を見ていてくれるだろう、そしてその人たちもいずれ消え失せる。ぞっとしない話だが、今の人間たちみんなが一斉に消え失せるかもしれないのだ。
荀子は「解蔽篇」で、人は文化に生き、もろもろの「蔽」つまり襤褸を着込んでゆく。脱がねば純真も静かな心もないと教えている。漱石は『心』を書くとき、荀子の解蔽篇を識っていた。そして岩波本の第一号にあたる『心』を、望んで自装し、表紙にわざわざ窓枠を入れて荀子の心の説を掲げた。それに初めて言及したのは、東工大でわたしの先任教授であった亡き江藤淳である。
謂うまでもない「襤褸にひとしい言葉」を物書きは書いている。書いている。書いている。商売だと居直って書いている。誇りをもって書く者も誇りなどかなぐりすてて書く者もいる。襤褸は日々に厚い。
一期は夢よ。無秩序の自由や自在にわたしはみな、明け渡す。「抱き柱」は、要らない。
2007 8・1 71

* 秦恒平・湖の本エッセイ41 『閑吟集 孤心と恋愛の歌謡』の跋
好色古典の第一等に西鶴の『好色一代男』を挙げられて異存はない。元禄の世之介が恋の手習いについわたしも見習い、思えば想えば空恐ろしいほど「恋の手管」を学びましたといえばむろんウソであるが、日本の古典全集につねに加えられる、すてきに粋にポルノグラフィクな室町小歌の『閑吟集』からは、もっと深く、もっと懐かしく、「恋愛の孤心」を悩ましく教わったのは決してウソでない。愛読して真実面白い歌謡の集では閑吟集の右に出るものは無い。
よほど心嬉しく繰り返し書いてきたが、どうしてももう一度書きたい思い出がある。
医学書院の頃の上司で殊に鷗外研究者として名高かった長谷川泉と、作家のわたしを、名古屋大学の小児科教授であられた鈴木栄先生が定年退官の記念に、わざわざ、伊勢桑名の「船津屋」に一夜招待して下さった。船津屋は泉鏡花の名作『歌行燈』の舞台になった料理旅館で、そのころ名古屋の老舗「中村」が経営していたが、鈴木先生の招待に終始付き添って賑やかに晴れやかに宴をとりもって呉れたのは「中村」の若女将であった。鏡花の作から抜け出てきたような美女であった。美女はみずから襷がけ勇壮に大太鼓まで堂々と打って聴かせ、一夜明けた翌日は千本松原へ案内してくれた。木曽、揖斐、長良の大河が一つに落ち合う窓外の見晴らしもみごとなそれは佳い宿であったが、美しい人の面影はもっと魅力深く胸にのこった。
わたしは東京へ帰ると、簡略ながら葉書で中村の若女将にも礼状を書いた。そしてその奥に、ただ「三六」という数字を添えたのである。
折り返しやはり葉書できちんとした返事があり、これにも「一二三」とただ添えてあった。
その暫く前にわたしは「NHKブックス」で『閑吟集─孤心と恋愛』を出版しており、それが宴席で話題になっていた。閑吟集は「思無邪」の詩経にならい三百十一の歌謡歌詞をを聚め、市販のテキストはみな番号を振っている、即ち三六も一二三も言わず語らず閑吟集の小歌を示していた。

さて何とせうぞ 一目見し面影が身をはなれぬ    三六

何となるみの果てやらむ しほにより候 片し貝  一二三

この相聞こえの応酬は、イヤ間違いなくわたしはきれいにフラレたのであるが、この返辞の妙にすこし説明を加えないと読者は理解されないであろう。「船津屋」で歓待にこれ努めてくれた若女将の実名が「なるみ」さんであった。またそれは愛知県の鳴海という女将の地縁をも意味していた。むろん「あなたの仰せにしたがえば、末はなんと成る身でございましょう、片想いのままで堪えさせて下さいまし」と謂う仕儀に相成る。真に一流の女将はこういう聡い藝と才と美貌とを兼ね持っていたのである。惜しいことに、天魔も魅入られたか「なるみ」さんは、若くして天涯の鬼籍に奪い去られ、逢えない人になってしまったと、もう、とうに風の便りに。
こういうこともあった、何人かから寄せられた本の感想の中で、便箋裏の隅の隅にいと小さく算用数字で、307 と。走り書きに。うそかまことか。

泣くは我 涙の主はそなたぞ   三○七

小説につかってもいいなと思った。
閑吟集とは、こういう、今日ただ今のセンスでもとても面白く受け取れる室町小歌でいっぱいである。オウと、おもわず声を放つほどアケスケな性(セックス)の表現にも溢れていて、しかも読み解けば解くほど小気味よく、表現は清潔で純情、纏綿の情趣と風雅に満たされている。そして全編の奥底を流れて、

ただ人は情あれ 槿(あさがほ)の花の上なる露の世に            九六

世間(よのなか)は霰よなう 笹の葉の上の さらさらさつと ふるよなう  二三一

といった感懐がある。みごとにある。閑吟集の真価は、背景にある「中世」を豊かに批評しながら、その次元も超えた男女の愛、人間愛に満たされていること。わたしは、それを縦横無尽に心をいれて読みほぐしてみた。わたしの読み・解きに拘泥される必要はない。またそれだけに、この本では前冊『愛、はるかに照せ』とちがい、思うさま自由自在に読んで悔いをのこしていない。文字通り閑吟集はわが座右最愛の愛読書であり、気恥ずかしいほど一体化している。願わくはそれがこの本でプラスに成っていて欲しいものである。
作者は「不詳」としておくしかない。連歌師宗長の擬されたこともあること、何の確証もないことのみ言い置くにとどめるが、小説家の恣に別世界を思い描き、ひとり楽しんでいることもある。
よくよく性にあっているのか、わたし自身のもの思いをこんなに代弁してくれて多彩な詞華集はほかにない。ひとつには、閑吟集の置かれている時代、中世というよりその後半分、かつては、あるいは今でも「暗黒」などといわれかねずにいる室町時代に、わたしは、不思議と子供の頃から、つまり国史を愛読し始めた頃から、暗黒どころか「花ごころ」のような明るみや希望やぬくみを感じていた。むしろ鎌倉時代や江戸時代の方に息がつまったのである。この本の中でも繰り返し書いているが、わたしは、日本の中世を、室町時代を、武家封建制度の「確立してゆく」経過とは評価してこなかった。ちょうど逆様に、武家封建制度の成り立ってゆくのを「渾身の力で妨げ続けた」時代と読んできた。そこに京都と公家と擡頭する民衆の力との「合作」を感じ「花」を感じ、可能性や希望を感じ取ってきたのである。わたしが、日本の「藝能」とそれを担い歩いた人たちへの共感や興味を持ち続けてきたのと、そういう時代の「読み」とは、いつも表裏を為しまた成していた。
梁塵秘抄を書き平曲を書き能を書き閑吟集を書き茶の湯を書き、そしてタケルや赤猪子にはじまる敗北者や、蝉丸らに始まる藝人や、切支丹やアイヌや朝鮮人や、また葬制にはじまる被差別への観察と批判とを書き続けた強い催しもまた中世と京都に集約された貴賤都鄙の軋轢や葛藤にあり、民衆・平民の希望と鬱屈とにあった。その思いの行きつくところは、所詮、安土桃山時代を指さして「黄金の暗転期」と憎むほどの歴史観になる。鎌倉時代、南北朝時代、将軍の時代、守護大名の時代、戦国大名の時代を通じてあんなに武家封建制度の成るのを懸命に妨げ続けた希望を見捨てた者たち、特権の富ゆえに政治的エネルギーを武家に売り渡し民衆の時代を裏切った特権町衆。彼らの手で「中世」は「近世」武家封建制度の贄とし差し出され、さながら黄金色の繁栄がきたかのようであったけれど、実は黄金色の暗転期を招いたのだと、わたしは嘆いた。おそらく閑吟集の著者も、「桑門」にして「狂客」であった彼の胸裏にもまったく同じ歎きが忍び寄っていただろうと、わたしは共感措くあたわざるものにより胸奥を濡らすのである。
「四度の瀧」「三輪山」「冬祭り」「みごもりの湖」「秋萩帖」「古典愛読」「加賀少納言」「或る雲隠れ考」「花と風」「梁塵秘抄」「清経入水」「女文化の終焉」「趣向と自然」「初恋(雲居寺跡)」「日本史との出会い」「風の奏で」「能の平家物語」「慈子」「閑吟集」「茶ノ道廃ルベシ」「親指のマリア」「最上徳内 北の時代」などのわたしの仕事は、およそそういう感懐に膚接して創られてきた。そうありたしと願ってきたのである。
高校の頃、国語の先生であった碩学岡見正雄先生の名著に『室町ごころ』がある。わたしはそれをかなり年がいってから読んだが、いうに言われないはんなりと柔らかな歴史観であった。精到隈なき軍記や藝能研究者であられた、亡くなるまでよく読んで気遣い引き立てて下さった。作家になってからもわたしは先生に答案を出し続けていたのである。小心な生徒であったわたしも、はや七十余。
なお壮年の詩人杜甫は、日々の務め帰りに曲江のほとりで酒に憂さを晴らし、酒手の借りの尽きぬのを侘びつつ人生七十古来希と放歌したのは、いまのうちに心ゆくまで酔いしれたいということであった。同じ言葉で閑吟集の著者が、いや同時代を生きた閑吟集中の民衆も挙って感じていたのは、

何ともなやなう 何ともなやなう 浮世は風波の一葉よ   五○

何ともなやなう 何ともなやなう 人生七十古来希なり 五一

であった。「何ともなやなう」をこう繰り返すのは、歎きか居直りか絶望か希望か。全く同じ表現で二十一世紀のわたしは日々呻いて、歎き、居直り、絶望し、だが希望も捨てまいと足掻いている。藻掻いている。みなさんは、どうであろうか。
いずれ引き続いて、同様十二世紀の『梁塵秘抄』もお届けする。『閑吟集』ともども、安価に手に入れておいでの方の多いのは存じているが、どうか重ねて「湖の本」でもご支援下さらばとても助かります。出血止めに、分冊にしたいともよほど考えたが余分のご負担かけたくなく、ながく便利に愛読・愛蔵していただくには一冊がよいと決めました。
いま新ためてこの一冊を編み、繰り返し読み返して気づくのは、まるで自分で自分を出し抜くかのように、閑吟集をダシにして、隠れ蓑のようにして、わたし自身をアケスケに、あまりにアッケラカンと暴露してしまっていることだ。誰の感化だろう、昔男か、光源氏か、世之介か。もう遅すぎる。
ところで「湖の本」は、さしあたり白壽、百壽を数えあげたいとながい歩みを少しも止めずに来たが、このところ、右脚を事故で傷めたこともふくめ、糖尿病の悪影響が、緑内障にも白内障にも皮膚神経にも腎臓にも露表し、体力的によほど覚束なくなってきた。そんな中、今年、また日本ペンクラブの理事改選があり、選挙された。十年務めてきた。落選したらたとえ会長推薦があってもやめると決めていた。だが会員の意向はもう二年やれと。京都美術文化賞の方の理事もまた二年の任期延長が決まったようだし選者もつづけよということらしい。しかし「電子文藝館」からは自身で退いた。十分やった。作業を続けるには視力は衰え、句読点がまるで読めない、魯魚の見錯りも防ぎようがない。せめてわずかな視力は自身のために大事にしたい。
もう二年で金婚。「湖の本」もうまくすると九十九巻ぐらいに到達するか知れない。頑張ってみるかねと決めた矢先、運動がわりの自転車で怪我してしまった、見通しのない坂と坂の底で自転車同士衝突、奇跡的に双方がゆっくり起きあがり、わたしは右脚を傷めただけで済んだが、いつまでたっても歩行に痛みが脱けない。脚が腐り始めている気がする。
うかつなことだがそうなって、ハタと気がつく。なんてちっぽけな世間に跼蹐して十年もああよこうよと働いてきたか。文藝家協会やペンクラブの会員であることすらてんで意識になかったむかし、わたしはもっとひろびろと生きていた。教授でも理事でも、なまじ頼むと言われると精一杯打ち込んで、あげく、いやがられる。損な性質なのである。
最近も、つくづく述懐している、賢い人は嗤うだろうと。おまえはあまりに矛盾していると。
例えば一方で小田実さんの『百二十八頁の新聞』を心から電子文藝館に推奨し、掲載し、また言論表現委員や電子メディア委員をつとめて発言し提案し、小泉や安倍政権を非難し、野党ぶりを批判し、現代史や世界史の読書に熱中し、私生活でもガンとしてガンコに暮らしている。
が、その一方で「静かな心」を求め、バグワンや鈴木大拙に無心を聴き、心=マインドという分別・理屈を嫌い、言葉の虚妄にしばしば飽いて「闇」に沈透 (しず)く沈黙と静安を好み、観劇と読書と、時にこころよい飲食に安らいでいる。そしてすべては夢と、ほぼ信じている。
おかしいよおまえ、と、面と向かって言う人もいた。どっちかがウソだと。それならいっそどっちもウソだと言うがいい。所詮は、夢。
自分が、いわば乱れた麻糸を神の掌でまるめられたような存在であるのを、身のそばにおいた一葉の肖像画を見ていて感じる。わたしの小説『お父さん、繪を描いてください』を手近に置いている人なら、下巻の百四十二頁の繪をみてください。自殺した「お父さん」が有楽町地下道のラーメン屋でものの二三分とかけずに描き遺してくれた顔だ。あらゆるモノはこういうすけすけの無にひとしい存在なのだと「お父さん」は教えていった。
おつに澄まして山の中で隠者のように生きていたいと思わない。十牛図の第十の境はヒマラヤではなく、人の行き交う街市の雑踏なのである。
その雑踏にいて、何といってもわたしを励ますのは文学だが、その「文学」というものが、すっかり変わって来た。ひとつこんな時代の証言をお耳に、いやお目にかけよう。
わたしの文学修行の一端が、講談社版『日本現代文学全集』百何巻かを毎月一冊ずつ書架に揃えてゆくことであったことは、何度も書いた。第一回配本が谷崎潤一郎集であったから買い始めたのである、谷崎と藤村と漱石とは二巻を配本の予定だった。一人一巻には明治このかたの錚々たる作家が並んでいたし、詩歌も評論も戯曲も随筆も緻密に収録され、さながらに「近代文学史」であった。
わたしは作品も読んだが、数百人の著作者たちの「年譜」を繰り返し繰り返し熟読した。作品に対し先入観を過剰に持たずに、作者へのいい理解が得られた。よく書かれた年譜は最高度の研究成果に等しいのである。
こういう大全集の最終配本はふつう「現代名作選」ということになる。鷗外や露伴や漱石や藤村や潤一郎や志賀直哉らからみれば、まだ遙か下界に近いところで頭を擡げてきた若い有力な作者たちの作品がそこに揃う。講談社版の「現代名作選」は上下二冊、第百五・百六巻に用意されていた。二の方が最も新しい作家たちである。
いま手近にその最終巻を持ち出していたので、目次をご覧に入れる。年配の方には懐かしく、若い人には最後の最後に大江さんの名前など見て驚かれるだろう。
阿川弘之『年年歳歳』金達壽『塵芥』大田洋子『屍の街』山代巴『機織り』島尾敏雄『夢の中の日常』耕治人『指紋』埴谷雄高『虚空』井上光晴『書かれざる一章』三浦朱門『冥府山水図』西野辰吉『米系日人』杉浦明平『ノリソダ騒動記』長谷川四郎『張徳義』小島信夫『小銃』安岡章太郎『悪い仲間』吉行淳之介『驟雨』霜多正次『軍作業』松本清張『笛壺』有吉佐和子『地唄』石原慎太郎『処刑の部屋』小林勝『フォード・一九二七年』深沢七郎『楢山節考』大江健三郎『死者の奢り』開高健『パニック』城山三郎『神武崩れ』福永武彦『飛ぶ男』大原富枝『鬼のくに』で一巻が編んである。
前巻の最後が芝木好子の『青果の市』だった、昭和十六年下半期の芥川賞作品。つまり前の一冊は明治の嵯峨廼屋御室いらい太平洋戦争までの忘れがたい文藝秀作を盛り込んでいた。
そう思って後の一冊を見ると、水上勉も曾野綾子も瀬戸内晴美の名前もない。直木賞作家はたぶん一人も入っていない。それが文学不動の常識だった、読物作家、エンターテイメント作家、推理作家などは此処に全く「文学作家」たる市民権を得ていない。本巻に吉川英治も直木三十五も山本周五郎も当然脱けている。ただ一人井伏鱒二の直木賞というのは、誰の思いにも見当はずれの授賞だった。
この最終巻の発刊は昭和四十四年六月、この年この月にわたしは小説『清経入水』で第五回太宰治賞をもらっている。選者は石川淳、井伏鱒二、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫の満票であった。作家として登録されたちょうどその頃の、上の人たちがなお新人作家であったことになる。むろん、わたしはこれら全編を読んで鼓舞された。そこに「文学」があった。
たまたま手近な同じ第九十二巻を手に取ると、河上徹太郎、中村光夫、吉田健一、亀井勝一郎、山本健吉の五人で一冊。批評家五人、すばらしい顔ぶれだ、熟読し勉強した。いま河上先生の『私の詩と真実』巻頭の一文を読み返しても、清水を顔にあびるよう、凛乎とする。批評が文学になってる。
もう最期を予感されていたころの中村真一郎さんが、ある人に、一点を凝視し、「こんな世の中になっちゃあ、文学はもう終わりですね」と溜息とともに吐き捨てて去っていったという文章を読んだところだが、わたしが十年間日本ペンクラブ理事会に出ていて感じ続けたのが、それであった。文学はめったに話題にもならない。
そんな評価は時代後れのアナクロだという議論もあろう。だが文学をダメにしたのは時代後れのせいか、ミソもクソも読物もやみくもに儲けの種にし、文学はお払い箱にしたせいか、答えは明らか。
加えて電子メディアの猛毒にあてられ、ますますことはひどくなっている。「くだらない雑文ですが」読んでくれというメッセージを最近も「mixi」でもらった。「くだらない雑文には、興味も、割く時間もありません」と断った。遜っているつもりにしても、そういう姿勢は気持ち悪い。
ペンクラブに電子メディア委員会を企画し創設したときから、わたしには以下の根本的危惧があった。
一つは、市民使用のインターネットは遠からず国家権力の忌避するところとなり、陰に陽に個人のインターネット運営は、監視や警戒の対象として法規制が強化されてゆくに違いないこと。
もう一つは、似而非の文学・文藝が氾濫し、「文学・文藝」の真価がもう問われることもなく無惨に崩潰し、立ち直りには想像を超えた長期間を要するだろうとこと。
さらにもう一つは、放埒な自己表現の麻痺薬にアテられ、若い世代の精神に多大の毒がまわってしまい、未来の日本は幾世代にもわたり軽薄きわまりなく頽廃してゆくだろうこと。
そしてさらに、(きわめて陰険な)サイバー・ポリスと(きわめて広範囲な)サイバー・テロとの死闘の時代が、もうはじまっているが、いっそう熾烈になり人間の精神的環境と機械的環境とを不可逆に汚染・荒廃させてゆくだろうこと。
あえてもう一つ、インターネットに限らずパソコンは、概していえば老人のための「電子の杖」としては甚だ有用だが、自堕落に若い人たちに広がっていいツールではなかろうというのが、早くからの私の大きな危惧であった。のみこむには毒があまりに強いのである。
と、まあ 毎日、溢れるようにわたしは書いている。ことばが湧いて奔出を求めてくる。「今・此処」に生きている、その証のようにことばが波になって攻め寄せる。変な譬えだが若い母親の乳が張って吹き出してくるように。疼くように。すこし意図してこのことばを「演出」してやれば小説、私小説は積み重ねられる、が、そうしない。原料のまま自身をただたんに順序も秩序も演出もなしに此処に置いておく。いわゆる「原稿」に置き換え「仕事」にするといった欲はもう持たない。そんなことにたいした意味はない。「闇に言い置く私語」そのまま。それでよろしい。自身で創った「作品」は小説も評論も詩歌もエッセイももう百冊以上積み上げてある。「私語」は無秩序に原料のまま此処に積んでおく。わたしがやがていなくなっても、映画のように誰かが死後もう暫くのあいだ此処に「わたし」を見ていてくれるだろう、そしてその人たちもいずれ消え失せる。ぞっとしない話だが、今の人間たちみんなが一斉に消え失せるかもしれないのだ。
荀子は「解蔽篇」で、人は文化に生き、もろもろの「蔽」つまり襤褸を着込んでゆく。脱がねば純真も静かな心もないと教えている。漱石は『心』を書くとき、荀子の解蔽篇を識っていた。そして岩波本の第一号にあたる『心』を、望んで自装し、表紙にわざわざ窓枠を入れて荀子の心の説を掲げた。それに初めて言及したのは、東工大でわたしの先任教授であった亡き江藤淳である。
謂うまでもない「襤褸にひとしい言葉」を物書きは書いている。書いている。書いている。商売だと居直って書いている。誇りをもって書く者も誇りなどかなぐりすてて書く者もいる。襤褸は日々に厚い。
一期は夢よ。無秩序の自由や自在にわたしはみな、明け渡す。「抱き柱」は、要らない。
2007 8・1 71

☆ 閑吟集   玄
NHKラジオの文化シリーズで放送された「梁塵秘抄」を聴いたのが1977年、30年前のことでした。中世の歌謡の魅力にすっかり引き込まれてその後出版されたNHKブックスを何度も繰り返し読みました。
1982年に同じNHKブックスで「閑吟集」が出版されました。何百年経っても人の心は変わらないことを実感としてくみ取ることがでました。
今回「湖の本」を届けていただき、改めてページをめくっています。ありがとうございます。

☆ 閑吟集届きました。  夏
以前にどうしてもNHKブックスの「閑吟集」「梁塵秘抄」が欲しくて、古書を苦労して手に入れ、夢中で読んだことを思い出します。
これは大変な名著ですし、何より色っぽくて面白い。いつも手元においている愛読の一冊です。今回湖の本として甦って、新しいものが手に入りとても嬉しく思います。ありがとうございました。
「閑吟集」は秦恒平の文学だけでなく、人となりを理解するために最重要な、必須の、文藝評論と思っています。この一冊を読むことなしに秦恒平は語れない。わたくしはそう思います。
ですから、「文字通り閑吟集はわが座右最愛の愛読書であり、気恥ずかしいほど一体化している」「よくよく性にあっているのか、わたし自身のもの思いをこんなに代弁してくれて多彩な詞華集はほかにない」「閑吟集をダシにして、隠れ蓑のようにして、わたし自身をアケスケに、あまりにアッケラカンと暴露してしまっていることだ」というお言葉を読んで、やはりと納得いたしました。
それにしても、此の「閑吟集」はなんだか読んでいて疼くようにムラムラさせる作品。わたくしはすっかり涸れてしまっているので、こんな若い時代がとってもなつかしいです。
あとがきで一つ感想がございますが、それはまた後日に。
長かった梅雨も明けたということで、明日からの暑さが気になります。自転車にはよろしくないシーズンです。戸外で運動なさる場合は水分補給を充分に熱中症などご用心ください。

☆ おはようございます、風
台風が来ているらしいですね。西の空が暗いです。
お元気ですか、風。
昨日も走られたの。暑かったでしょう。
花は、今日こそ図書館に籠りたいです。でも、家でおとなしくしていたい気もします。
今度は『閑吟集』でしたね。
NHKブックスを持っているけれど、湖の本版は手を入れられたのかしらん。比べてみるのも、楽しみです。
いつか風にお逢いできるよう願っています。いつも元気にしている 花より。

☆ 月様   昨日、御本が届きました。月様(湖の本)とのご縁ができました、懐かしい本の、湖の本版ですね。忙しさが一段落する盆明けからじっくり読ませて頂こうと思っております。ありがとうございました。御身おいといくださいませ。 四国の花籠

☆ 新しいご本「閑吟集」届きました。  のばら
いつもありがとうございます。
「閑吟集」一冊に纏まったのははじめてですので楽しみに読ませていただきます。「湖の本」のお陰で未知の分野にも親しめて感謝しています。
木曜日は加茂の八百屋さんが来られる日です。船岡に居た頃はリヤカーに積んで、母がいつも冷たいお茶でもてなしていました。今は軽トラの荷台に採れたての野菜を満載して。今日はまん丸の加茂茄子を買いました。
お茄子お嫌いでしたね。私は牛乳が苦手な以外あまり好き嫌いはありません。
お盆には東京の娘達も帰って来ますので賑やかになります。
どうぞお身体も目もお大切にお過ごしくださいますよう。

* すこし機械の中を片づける。
2007 8・2 71

* 文化庁長官も務めた河合隼雄さんの功罪を想うことがある。
彼は、いわゆる猫も杓子も「こころ」「心」と騒ぎたてる時代の先頭に立った推進者であった。
だが、氏の謂う「心」とは、ほぼ終始「心理」というマインド=分別=思量の「心」であった。そのレベルで「心」をかたづけてしまうと、とても「静かな心=無心」に、「ハート」や「ソウル」に、至らないまま「心」が混濁してしまう、
事実河合さんの言説に踊り狂った人たちの「心の時代」「心の教育」など、現に目のあたりにするとおり、サンタンたる社会と人間との現状を生み出した。
「心は頼れるか」ということを、日本の「こころ言葉」の追究を通して、三十年余も追ってきたわたしには、河合さんはいつも反面教師の一人であった。氏には明恵の夢を説いた一書もある、が、「夢をもつ」という意味を、あまりに安易安直に説く人たちも、恐ろしい。「夢」という一語があまりに脆いからである。
心理のレベルで分析される夢には、おうおうに毒がひそむ。フロイドのレベルは、どんな深遠そうな理屈をつけても浅い心理のレベルに纏綿していて、しかも玉葱の皮を剥いているような理論から、結局何もしかとは生まれてこなかったではないか。
けっこう日本にも「夢」の文学・説話がある。うまく集成されていないけれども、適切に拾えば古事記にも日本書紀にも萬葉集にも興味深い「夢」事例は拾える。わたしの評論の第一作は、高校の頃に学校の新聞に書いた『更級日記の夢』であった。
いまは、
くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して
という室町小歌を耳の奥にひびかせながら、自身が「夢」の中で徘徊していること、それに気づきかけながら、まだ覚めきれないで迂愚に遊び惚けているなということを実感している。
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
この小歌、自棄の声でなく、あの一休と同時代の一人、『閑吟集』編者の「桑門」「狂客」が見定めた、端的な覚悟とも聞こえる。 2007 8・3 71

* あまりたくさんな『閑吟集』へのお手紙で、感謝してバンザイの体だが、歴史学の小和田哲男さんから、「戦国武将、信長、秀吉、家康の時代を勉強している者として、一一八から九ページのあたりの記述にハッとさせられました。自分なりにとらえ直さなければと思った次第です」とあるのに、感謝した。いちばん戴きたかった指摘であった。わたしはそこでこう書いている。

☆ 十五世紀の百年は、足利義政による応仁文明の乱をまんなかに抱きこんで、いわゆる東山時代なる禅趣味貴族文化を、破産に導いて行きます。前にあげた宗祇、珠光、雪舟といった人材の独創は、明らかに東山文化の似而非ぶりへ、内から外からつきつけた厳しい反措定としての、ほんものの性根をもっています。三人に先行して反骨一休の禅をおいてみればもっとよく頷けるところです。
さきに、この時代、自然な趣向をうるに好環境だったかどうかの判断がむずかしいと私が言いましたのは、一般の説とはかけちがうかも知れないのですが、いわゆるまやかしの東山文化なるものと、雪舟、宗祇、珠光らが精神の重みをかけて求めたものとの、拮抗と隔差に、この時代の創造的環境としての意味や評価を見なければならぬと思うからです。
一つの見当として、あの申楽の能の天才世阿弥の存在が、十六世紀へと近づいてくると、さすがに変容変質を強いられて、能の中に、傾(かぶ)きの要素が近づき浸透してくる。それ自体は積極的な「趣向」要因なのですが、世阿弥が理想とした幽玄な〝花〟の美しさが、彼の直接の後進の手でより深められたとばかりは言うわけに行かず、むしろ雪舟、宗祇、珠光らの方が世阿弥の高邁と深玄そして優美とを、それぞれの分野で承け嗣いだ感がある。
世阿弥を世阿弥として消化も吸収もできなかった体質として、私は反庶民的な禅趣味に終った東山文化を否定的に考えています。さらに言えば東山文化と闘った雪舟の藝術は、狩野派がこれを受けとってやがて官僚的画風へ変質させ空洞化させます。宗祇の藝術は『閑吟集』という異色の子をなして、その後は、俳諧の芽がそして芭蕉の新芽が芽ぶくまでのあいだ、立ち枯れを余儀なくされます。幸い珠光の茶だけが利休の茶へ大きく育つのですが、しかもそこで躓いた。利休は秀吉の手で裁断され、後継者は茶の道を容易に立て通せなかった。あげく頽廃の繁栄へと今日にまで導いた。
この三様の挫折。それは信長、秀吉、家康の成功と当然に表裏していました。武家の側からみれば、十六世紀の戦国大名時代そして安土桃山時代は上昇そして勝利の時代でしょう。が、民衆の側からみれば、全く同じ時代が雪舟、宗祇、珠光らの余儀ない変容変質へと下降そして敗亡した時代でした。
安土桃山時代は、実は、私の表現を用いれば、〝黄金の暗転期〟にほかならなかったのです
2007 8・3 71

* 花と湖  花は大好きだし、写真に撮るのも好きだけれど、花は「花」でよいと思っていて「名」を覚えようとしたことがない。
此処「mixi」にかかげた花の写真の、一つは、妻と散歩していて撮ったもの、「花にら」と教えてくれた。他の二つは、妻の育てているのを勝手に撮っただけで、名は聞いていない。美しければいい。
『ゲド戦記』風に謂えば、いずれどんな名も通称でしかなく、真の名ではなかろうし、などと思う。わたしの名にしてもおなじこと。だから「湖」で佳い。
この「湖」の、根のイメージは、少年の昔に見入った、お盆に仏壇に供える野菜などを乗せた、蓮の葉。さっと清水をふりまくと珠の露となり、たちまちに溜まって一つの小さな「みづうみ」にかわる。露の一つ一つを大勢の人と想えば、「みづうみ」はわたしの謂う「身内」のイメージ、ひとつの「世界」を意味するか。 湖
2007 8・3 71

* 岡山の鰆の味噌樽をいただいた。到着後三日は待てと指示がある。明日にはと生唾をのんでいるところへ、群馬と山口から清酒到来、香川からはすばらしい葡萄も頂戴した。息子は大きな車を借りて袋田へ瀧を見に行こうよと誘ってくれている。山形からはうまい蕎麦を食べに来ませんかと深p切にお誘いがある。来週には松たか子主演の『ロマンス』そして言論表現委員会。『閑吟集』の評判も上々で、梅原猛さんら大勢の便りがある。ぎらぎら照る暑さの中で、体調は体調としても生気みなぎっている。元気に過ごしたい。
2007 8・4 71

☆ お元気ですか  鳶
8.3  台風が宮崎に上陸して、こちらでも風が強く吹いていた夕方、本が届きました。今朝、台風は既に日本海に、とはいえ暴風警報が出されました。寝苦しい嵐の夜のあと、背中が胸に倒れこむように疲れています。(ヘンな表現ですが。)そして昼前漸くいくらか風がおさまりました。配達されるのを待っている郵便物があり気持ちが少し落ち着きません。
懐かしい『閑吟集』
手元にある『枕草子』の放送カセットテープを聴いていると、声のやや高いこと。これは声の若さでしょうか。そして、マイクに向かって語る、その時どんな表情やしぐさをなさっていたか、想像します。内部の叫びにも似たものを声に託す生身のあなたがいらっしゃるはず。
残念なことに『閑吟集』のラジオ放送は聴いていません。が、文字としてみる時と異なったものをきっと感じ取れるでしょう。・・テープの録音はお手元にありますか? 聴いてみたい。
8.4  最近、ザビエルに関するものをいくつか読んでいる時でもあり、閑吟集の15世紀という時代と重なって、わたしには嬉しい再々読書になっています。鴉の、壮年期の鴉の思いが籠められた大切な著作です。
ザビエルは日本での布教公認を求めるために堺から都に上ることを望みましたが、都の荒廃ぶり、無政府状態に銷沈して空しく九州に戻って行きました。当時室町幕府の権力が強く、都での布教が浸透していたら・・? ザビエルの日本滞在、僅か二年。その後の日本でのキリストの困難な歴史を思わずにはいられません。
三様の挫折と書かれていること、特に世阿弥の幽玄が、後に次第に変容変質を迫られ傾(かぶ)きの要素が浸透してくる、という指摘に関してこれまであまり思い至らなかったことに気づかせられました。激動の時代は、戦国時代はさまざまな可能性にみちていた、しかし指摘されているようにその先にあったのは安土桃山の黄金の暗転期だったのですね。以前、NHK日曜美術館に出演された際の主張でもありました。重ねて思い起こしました。
8.6  昨日の記載に、今の日本の重い課題として「世襲」に触れていました。先の三様の挫折とも深く関連すること。伝統文化の継承という名の下に構築されていった「世襲」にはいくらか譲歩するとしても、政治や医療など、露骨な言い方をすれば金銭や地位での格差を保持できる「世襲」が蔓延している社会は、やはり納得できません。
天皇制はもとより、と書かれてあり、その祭祀を司ることに由来する天皇は歴史的に連綿と存続し実に実に深く重い存在。天皇制に触れることはタブーに近く、普段あまり考えもしないのですが、やはり時折突き当たらずにはおれません。
こりゃ、なんじゃ?!
と「mixi」にコメントが早くにありましたが気づかずに、日が過ぎてしまいました。さりげなくわたしもコメントを書けばいいのですが、やや胸につかえたものが溶けませんのでそのままになってきました。どの部分に対して、なんじゃ、と思われたのか・・。
「書く姿勢を問われて、恥じらい、躊躇、立ち竦んでいるようでは失格です。」と指摘されても当然でしょう。が、それぞれの人の性格や感じ方なので「恥じらい・・」と感じているのは、わたしの謙遜でなく、ポーズでなく、ただ自然のわたし、わたしの自然なのです。
「小説になるかも、エッセイなのかも、書いている当人は厳格に考えていない。強いて書けば、小説になりたいけれどなれない文章か。純粋にエッセイとは思っていない。」
これもいささか「挑発的」? 開き直り? と感じられたのかもしれません。あれから書いていても、やはり小説と言い切れないのです。情けないけれど、それが実情。
そしてエッセイへの間違った態度・・。
たとい短い文章でも、書くことはすらすら書けるものでは決してないことを、痛く痛く知る日々です。

* 『閑吟集』はラジオ放送していない。先に出版していた『梁塵秘抄』がラジオ放送そのまま。それに倣うていで『閑吟集』を一気に書き下ろした。たぶん霞友会館でうまいカンヅメを喰いながら、窓の下の女子大・女子高のテニスコートの嬌声を一服がわりに聞きながら、おそろしい早さで書き下ろしたと思う。『枕草子』『梁塵秘抄』『中世の源流』『日本語で書くこと・話すこと』その他、わたしはラジオの録音室に一人とじこめられて話すのが性にあっていた。テレビにも日曜美術館はじめ二、三十度も出てきたが肩が凝る、が、ラジオは時間さえ狂わさねば気楽なもんであった。亡くなった吉村昭さんや伊馬春部さんらも聴いていて下さった。
わたしは話すように書くのが好きだ。
2007 8・6 71

☆ 湖へ   珠
いつも不思議なほど、息継ぎを必要とする頃にお声が届きます。湖の感触にちからがぬけます、ありがとう、珠は元気です。
6月から毎日人の心をノックするような仕事を抱え、緊張感と時間的な制約で通常業務は滞るばかり。。。おまけに休日・夜間に仕事をしていたら急に入った冷房にやられ、今年2度目のひどい風邪をひいてしまいました。元来のアレルギー体質からか、冷たい空気や埃に弱く、咳が止まらなくなり、商売道具の一つである声を使って相手と会話する状況もままならなくなり落ち込みました。プロとしての自己管理、自分の弱みが仕事上の大事な道具と重なる事、今更ながらよく判りました。仕事・私生活、振り子のように振れてバランスをとるにはまだまだですが、、でも少しずつ、と思いながら過ごしてます。
「湖」のご本、ありがとうございました。
熱き想いの表現にどきんとしながら読んでいます。「想い」の生々しさを語る多くの言葉・表現は、私の奥にある感情、今まで言葉にしていない「何か」を求める呪文か地図のように思えます。繰っては戻りまた進みと、ゆるゆる文字をたどり探っています。この夏の暑さ、本には汗を染み込ませ、私には本を染み込ませて。。。
まるで幽霊のようにぽっとでて消える私のmixiですね。
ディスプレイはまさに幽霊状態で、白がとんで、書いているうちに薄くなっていきます。そろそろ限界と言いながら、何ヶ月も働いてくれるので惜しくて。動かなくなるまではこのままと決めましたので、幽霊mixiお許し下さいね。
湖の「私語」は朝に夕に読んでます。湖はもてますね、女性がたくさん登場。届きそうで届かぬ奥深い湖、ひややかに透んだ湖は、まるで蛍が水をもとめるように寄りたくなるのかもしれない、ちょっとジェラシー。
お元気で、湖。
いつも、だから、湖。

* 液晶が消耗しきっているのでしょう。とりかえるしかないでしょう。この夏に風邪はよくない。

☆  ごぶさた致してをります。   香
突然、襲ひくるゆゑなき不安に悩まされ、精神安定剤でしのいでゐました。
おくすりの副作用でせうか、「まあ、どうなつてもいゝや」と、かなりなげやりになつてしまひました。さんざんぐだぐだしたあげく、かくてはならじと、お裁縫を始めましたら、間違へて、お袖を四枚、裁つてしまひ、あゝ、縫ひものもできなくなつたと、落ち込んだり。デスペレートにかたむいてゆく自分をもちあつかつてゐました。『閑吟集』をお送りくださいましたことにも気づかずをりました。
けれど、昨日一昨日あたりから、少し、落ちついてきました。
どうしやうもなく散らかつた机まはりを整理しはじめて、封を切つてない「湖の本」を見つけました。『閑吟集』。折りもよし、やつと、何か読みたいといふ気分になれたところでした。うれしい。
NHKブックではない新しいご本。気持新たに、なつかしい歌謡とそれを語る湖先生の世界にひたりませう。ありがたうございました。

* ほぼ今回最後の発送を終えた。月末約束の少し長い、しんどい原稿依頼に応えることになる。幾つか気になり手もかかる仕事も、前へ進めたい。
2007 8・10 71

☆ こんにちは   雪
秦さん こんにちは,ご無沙汰しております.**です.お元気ですか?
お送りいただきました湖の本,受け取りました.ありがとうございました.近日中に送金いたします.遅くなって申し訳ありません.
先月,無事男児を出産いたしました.
ちょっと大きめだったためか,ちょっと大変になってしまい,緊急帝王切開での出産となりましたが,無事わが子と対面することが出来ました.
只今実家で両親の助けを借りながら育児初心者奮闘中です.(昨日,こちらに訪ねてきた主人に湖の本を持ってきてもらったところなのと,まだ出掛ける機会がなかなかなくて送金に伺えないので、少しお待ちいただければと思います.)
まだまだ授乳の間隔が三、四4時間で,夜中も起きたりと少し大変ですが,少しずつ(お互い)慣れてきました.毎日が発見の連続で楽しんでいます.
暑さの厳しい折ですが,どうぞお体に気をつけてください.
また連絡いたします. **(**) 雪

* 北陸からの、心待ちにしていた朗報。博士課程を終えて、いまは東大の先生をしながらの、おめでたい出産。優れた研究者・妻で母で・この人には専門外の世界への視野も余裕もある。遠くから眺めていて「安心」がある。ご家族揃ってますます幸せでありますように。
2007 8・11 71

* 郵便局というのは身近に便利な施設であったが、この一年余、実に不快に不便になった。「湖の本」に払い込まれる読者からの代金を、印刷所等に支払いのため請け出すのにも、窓口で、行くたびに日替わりの文句がつく。勝手放題取扱規則の変更を唐突に持ち出される。二十年余何の問題もなく双方でしてきた慣行が、手順手続きが、一方的にややこしくされてしまい、思うまま用も足せない不快な請求や要求にさらされる。手続きの変更請求は事前に通知も当方の納得もあらばこそ、高飛車に突然言い出される。なにが「郵政改革」か、「改悪」されたとしか云いようがない。このごろは、郵便局の窓口へ行くのが不愉快で堪らない。
郵便局の事務改悪、言語道断なことになっている。
2007 8・13 71

* 『千夜一夜物語』が文庫本の十六冊めに入っている。十五冊めの辺と限らず、年老いても子を授からない王様立ちの歎きに歎いて不思議を招く物語の数多いことに驚く。
『世界の歴史』はフランスの二月革命、六月事件を読み越えて行った。
『萬葉集』は巻三の「譬喩歌」を読み継いでいる。悉く音読しているので、いいなと思うとつい二度ずつ読み返している。黒人の歌がよかった。人麻呂の長歌短歌もやはり大きい。
『閑吟集』についで『梁塵秘抄』の原稿作りも進めていて、やがて全六章の三章半ばに達する。『梁塵秘抄』はNHKラジオで語った口調のママに原稿が再現されている。『閑吟集』は倣うていの口話体で書き下ろしたのである。

* 気のせく仕事へ手が着かず、すこし弱っている。
2007 8・16 71

* 夜前、宮沢りえと原田芳雄との映画『父と暮らせば』を、ひたむきに観た。感銘深甚。小説なのか戯曲なのかも知らないが井上ひさし原作にも敬意を惜しまない。ヒロシマ、ナガサキの原爆を書いた作品は少なくない。なかでも、しみじみと胸にしみいる感銘作としてこれを、わたしも妻も、掛け値なく敬愛。
大好きな宮沢りえに、心奪われていた。原田も大の好演。たしか舞台では、すま・けいが佳い父親役を演じていた。

* 小説や演劇に「幽魂」がかたちを得てあらわれるのは、昨今ではちょくちょく在る、だが、わたしが『清経入水』で太宰賞をもらった昭和四四年ころは、まず、鉦と太鼓で捜しても例がなかった。選者の先生のお一人ははっきり、「現代の怪奇小説」と評しておられたし、先輩の吉村昭さんのように「事実」を重んじる作家からは、こういう行き方は「よく分からなかったよ」とのちのち苦笑されたほだ。むかし泉鏡花も、そのように、時代の大方を幽霊登場で戸惑わせていた。わたしの作では『蝶の皿』『秘色』『みごもりの湖』『初恋』『北の時代』『冬祭り』『四度の瀧』『秋萩帖』『鷺』など数多く、みな現代小説でありながら、自然に、ふつうに他界の人たちが登場してくる。
だが、今は此の映画や舞台もしかり、ほかにもドラマや映画にふつうの趣向として、よく「他界の存在」が現れ活躍している。リアリティは優に確保できると「時代」が理解してきたのだ。
2007 8・17 71

* 内藤昭一さん、宮脇修さん、但馬征彦さん、伊吹和子さん、持田鋼一郎さんら次々に大勢の方らの「閑吟集」へのお手紙を戴く。本は出せば出したで、蔵は建たんが、気は引き立つ。「梁塵秘抄」もまたとても面白い。

* 明日からまた歯医者に通う。
2007 8・17 71

☆ お礼と注文  元・大学教授
秦恒平 様  過日『閑吟集』、頂戴いたしました。ひさしぶりに硬質にしてつややかな秦文に魅惑され、日本古文の歌の調べにたゆたいました。有難うございました。ついては、1,2の友人に贈りたく、3部ご送付下さい。なお、代金につきましては、銀行口座の方が、インターネットにて便利に送金できますので、よろしければ、銀行口座をお知らせ下さい。
昨年、一、二自費出版にて公刊しましたが、恐るべし、出版社が勝手に増刷・販売をしていました。弁護士を立てて取りやめさせましたが(実際にはまだインターネット各販売店で売られています)、何ともたまりません。どうせ趣味ですから、向後は完全に自費出版で文藝世界を楽しもうと思っています。今年中には、2著とも再版しようと思っています。
その点一流作家(秦恒平)ともなれば「湖の本」で、いくらでも読者を振り向かせることができるのですから、当然のこととは言え、うらやましい限りです。私など、市販したいと思っていても、引退した身ではなかなか出版元ができず、これも自費出版してしまおうかなどと、今、あれやこれや思案中です。といって、現役中のように、名誉欲など不純な動機やせっぱ詰まった状況もないので、こんなこんだが、ハッピーリタイアなのかな、と行きつ戻りつを楽しんでいます。
それにしても、秦さんの文学論考諸作品は、かりそめには書けないものばかり。文学研究者で、近年、芥川研究に力を注いでいる友人の贈ってくれる論考物と比べながら、小説を書きながらよくぞここまでと感じ入っています。
ますますのご発展を祈念いたします。

* 「湖の本」という器を用意しておいたのは、自在な文学活動のいつも受け皿になってくれていて、たしかに有り難い。趣味ではない。営利活動でもない。命取りになるほどの出血はしないので、一冊出せば、次の一冊が可能になる。一冊一冊がわたしの「今・此処」になる。難しい時代になって行くのが目に見えていた。出版社に従属しなくて済む道は、仕事の質と量と、そして読者の支持。それだけであるが、それが容易でなければこそ、同じようにしてみたいという書き手はいても、この二十余年、「湖の本」に後続する今のところ誰一人も現れていない。
2007 8・18 71

* 沼津で、芹沢さんの『人間の運命』を読む会を立ち上げている仙台の方から、講演「知識人の言葉と責任」の入った湖の本エッセイを欲しいと注文があった。
2007 9・2 72

* いまアチュアンの地底の闇の大迷宮(ラビリンス)奥深くで、「闇に喰われしもの」である大巫女アルハと、魔法使いゲドとが、直面しようとしている。わたしは、その闇の濃さが懐かしい。うすっぺらな、ろくでもないものばかりを見せつけるような光よりも。

* この「掌説」は『七曜』に収められ、その前は新聞小説『冬祭り』のなかでだいじな証のように「木金土日月火水」の順に「掌説」として書き出されたうちの、「日」に当たっている。さらにその前は、昭和四十年九月に『掌説集・鯛』の中の一作として今少しながく書かれている。

* 日   秦 恒平

男は日と争った。日を罵り嘲った。
日は男を地獄へ蹴落とした。地獄の底を、男は無二無三に走った。走りながら日を憎んだ。
足もとに、いつか一条の光る細い道が闇を裂いて延びていた。道の両側に、数限りなく男を見つめる青白い顔があった。発光体のように、顔は闇からにじみ出ていた。端正で、無表情で、虚空にうかんで、微塵も動かぬマスクの、眼だけが生きて男を見つめていた。
男は走った。前にも後ろにも数えきれない自分の影が飛んでいた。
光る道の奥に、真黒い扉が見えた。扉は押すとも引くとも知れぬ一枚の厚い板にみえた。
扉ではなかった。暗黒のはじまる所だった。男は倒れこむように、頭から闇の底へ底へ落ちて行った。落ちながら、もがいて虚空を蹴った。
逆流する血が脳漿を潜りぬけ、足指の一本一本をぼってり脹れあがらせる。下半身が寒く、顔は生ま温かく、落体の恐ろしい速度に鼻をちぎられ、を引き裂かれて、男はやがて落ちる速さを、暗黒のただなかにふと忘れていた。
と、男は硬いよそよそしいものに支えられて、音もなく横たわった。
部屋ーーというのもあたらない厚ぼったい濃い闇が、男を隙間なくとりこめていたが、やがて、身ひとつをきっちり闇間に浮かばせて、物憂い微光が泥のような己れの姿を男の眼にみせた。
男を支えていたのは、無愛想に、冷たく堅苦しく、いっそ、ただの「場所」と呼んだほうがいい、そっけない、気味のわるい場所だった。
物惜しみするように男の身に触れて、まるで皮膚ほどにその場所は「在る」とみえたが、その先は濛々と昏闇に呑まれ、男は己れを泥のようにみたまま、闇黒の重さにひしがれて、ただ横たわっていた。
「暗いなあーー」
男ははじめて口をきいた。
どう追い求めても洩れる微光のふしぎなかたちが探れない。身を揉めばこぼれるようにものかげが揺れ、手をのべてまさぐると、いっとき、ほうっと光の粉をまいたように明るみ、またすぐ闇に沈む。
男はようやく起った。
やたらぐるぐる手を振った。歩きまわった。
すると、男の身に添っていたほの明るさが幾重にも闇ににじみあい、淡い色で流れ、そして、消える。
男はなにも考えず、ただただほんのすこしでも多く、すこしでも時間長く、身のそばに明るみをひきとめたいばかりに、一つ所を、輪を描いて、無二無三に手を振り足を躍らせ、走りはじめた。
息づかいのほか足音すら響かぬ闇黒地獄の底の底で、男は、そこから逃れ出たいとも考え忘れて、ひたすら、無限の円環を有限に返そうとでもするかのように、息を吐き、黙々と、無表情に一つ所をぐるぐると、それでも日の世界の傲慢を憎みながら、走りつづけていた。

* あの李白の孤独も底知れなかった。
もともと「孤・独」とは 「老いて子なく、幼くて父なき」を謂うたのであるが、詩人の抱えていたのは、ちがった。
独酌 孤影に勧め
閑飲 芳林に面す
2007 9・7 72

* 『梁塵秘抄』は読みごたえがする。とにかく原稿をきちっと校正してから入稿したい。もう一息、二息。
2007 9・7 72

* 帰ってからの何時間かインターネットが不調だったが、『梁塵秘抄』を熱心に校正しているうちに、ふと目をやると復旧していた。ありがたい。
2007 9・8 72

* 『梁塵秘抄』本文は読み終えた。京都の前に入稿して行けると肩の荷が軽くなる、が。さて、どうかなあ。
2007 9・9 72

* 二時に寝て六時に起き、気がかりな用を一つ、間に合っても合わなくても済ませ、ついで「湖の本」新刊の入稿原稿を、ともあれ仕上げた。また眼が霞んできた。
2007 9・12 72

* 妻がやすんでいる。気疲れもあり、体疲労もあろう。小さい旅でも旅のまえで、心配する。だが、なんでこう忙しいのだ。部屋にモノがいっぱいというのは恥ずかしいことだ。忙しいというのも、とても恥ずかしい。

* 恥ずかしがりながら、奮励して、湖の本新刊分の入稿を終えた。ひとまず肩の荷をおろして京都へ行ける。
が、それにしても!? 安倍総理の辞意?
2007 9・12 72

☆ 秦 恒平様
湖の本 つねに 敬意と興味を持ちつゝ 読んでいます。また お努力にも感嘆しております。
とくに詩歌集の評釈語には 教示されるのを覚えます
わが國では稀な仕事ですね。
とくに、(詩歌は=)学者のなぶりものになったあとなので こういう少数のよい感性で すこしづゝ 回復してゆくほかない。 しかしそれを受け容れる人々は絶えない、どこかにいる──これは あなたが私以上に実感されている事でしょう  匆々
九月   加島(祥造)拝

* いまもっとも興味深く具眼の境涯を表現し続けている、「伊那谷の老子」の、和紙に墨書のお手紙を頂戴した。詩集二冊頂戴した。
2007 9・16 72

* もう次の湖の本の校正が出そろった。ますます、ますます気忙しくなるが、幸せではないかと思う。
2007 9・21 72

* 思い切って六本木へ出かけた。新しい国立美術館も観ておきたかった。
案の定フェルメールは『牛乳を注ぐ女』だけ、あとはエピゴーネン。この手の西洋絵画展が常套になっているのは、日本の受け容れ手に毅然とした見識や交渉力がないからだろう。フェルメールのその絵が、小品でありながら、世界史的な大作の風格を湛えた名画中の名画であるからガマンするものの、他の追随者達の絵は無残に程度がわるい。残念だ。
しかし『牛乳を注ぐ女』は、言葉もない名画。レセプションがあり、図録までもらって、その限りではずいぶんワリのいい招待を受けた気がしたほど、妻も私も、フェルメールの只一点には帰依し降参した。どれだけ長い時間、人山に埋もれながらその作の前に佇立してきたことか。
妙な建物の美術館だ、落ち着きはよくない。しかし珍しくて楽しんだ。レセプションでは、ホルスタインの牛乳が旨かった。

* もう本当に久しい馴染みの喫茶室「クローヴァ」でゆっくり一休みし、お腹もくちくて、まっすぐ帰ってきた。レセプションのワインがきいて、喫茶室ではわたしは眠かったが、往き帰りの大江戸線では「湖の本」の校正を。放ってはおけない。追いかけて校正をすすめねば。
それにしても十四日から昨日、今日まで、わたしは不毛にめげず自身をよく激励し続けた。
2007 9・25 72

* 青山学院大の今の学長が、人情本などの研究で知られた武藤元昭氏ですよと人に聞いた。
十数年のお付き合いになる元の内藤昭一学長は、フランス文学者で能もお好き。梅若家のいまの跡取りが結婚披露宴の席で隣り合い歓談いらい、能楽堂でもときおり出逢う。毎夏韮山の別荘から、美しい立派な桃を下さる。「湖の本」をずうっと見ていて下さる。此処の教授ではもう二三人湖の本の定期の読者がある。
2007 10・2 73

☆ 秦様  今日郵便受けにお送り下さった御本が届いていました。わざわざ発送のお手間を掛けて御本をお送り下さったことに御礼を申し上げます。
それに加え、前便に書き漏らしましたが「本の姿を見て下さるだけで有り難く、寄せて頂いたご厚意やお励ましに、心より重ねてお礼
申し上げます。」とのお言葉に籠もる秦様の万感の思いに胸をうたれ、そのお言葉にも特に感謝を致します。
重い主題の御本、そして閑吟集と詞華集、清浄な気持ちで相対して読ませていただきます。
もの書くとは大変なこと、そして結局人は生きている限り自分とは何かをそれぞれのやり方で問う存在なのかもしれません。
ご健勝のほどお祈りしています。 ノルマンディ在
2007 10・7 73

* ようやく「校正」の大山を越えた。歴史的仮名遣いでせいぜい正しくルビをふろうとすると、たいへん神経を労し眼精を疲れさせる。もう一息で、初校を遂げる。今日も午後へかけて外出する中で、この宿題も果たさないといけない。著作権の没後保護の年限延長などよりも、当面の仕事を大事に正確にしたい。
ムンク展も観てきたいのだが。
梅若万三郎の「卒塔婆小町」を観て欲しいと招待があった。萬三郎さんにご不幸があったと漏れ聞いている。お悔やみ申し上げる。
2007 10・12 73

* 有楽町のビッグカメラは、あんまり店が大きすぎて、かえってテキトーに用が足せない。
銀座三笠会館でまたシシリーの強い酒をちびちびやりながら、イタリアン。
校正、すべて一応がカタがついた。ムンク展は人山で敬遠。
2007 10・12 73

* 湖の本の初校を戻した。短い追加分の入稿も終えた。すこし肩の荷がかるくなっているが、明日は理事会。
できれば午前中に眼科に行ってみたい。あさっては弁護士との打ち合わせ。以降土曜の歯科と萬三郎の『卒塔婆小町』まで、ずうっと続く。
2007 10・14 73

* 湖の本の新刊分再校出があると忙しくなる。発送の用意を手順良く進めておかないと、十、十一月がかなり窮屈になる。今回も頁数が多いのでラクではない。しかし閑吟集と梁塵秘抄が揃えば、私の肩の荷はすこし軽くなる。この二冊はとても大事に思ってきたから。
2007 10・18 73

* 「湖の本」の再校が出てきたので、にわかに忙しくなる。短い原稿を一本追加した。前巻『閑吟集』とそこそこ同じ頁になる。家では、校正は到底捗らない。ほかに気を引かれる仕事がいくらもあるので、そっちへ行ってしまうから。
で、校正できる場所を自転車で捜したが、近くの喫茶店も図書館も、ダメ。有資格者だなあと思い市の老人福祉館も覗いてみたが、これもムリ。仕方なく「ぺると」に行き、六章の一章を読んできた。
きれいに初校が直っていて大助かり。挨拶書きを急がねばならない。右腕のしつこい痛みが治ってくれないと、発送で、またもっと悪くしてしまいそうだ。
2007 10・23 73

* 自然、「父なるもの・父たること」が念頭にあって、東工大の教室でも、学生諸君の胸をついそれで叩いたものだ。いま、ふとその「本」に手が伸びたので、頁を開き彼らの「挨拶」をもう一度聞いてみたくなった。彼や彼女たちは、わたしの授業を聴きながら、それでもわたしから押し出した問にも「書いて」答えていたのである。

父へ ー父なるもの・父たることー   『東工大「作家」教授の幸福』より

☆ 大学生になって初めて故郷を立って長春に向かう時でした。生まれて18年間、親を離れたことのなかった私の初めての旅立ちに父も母もすごく心配そうでした。母が「お金がなくなったらすぐ手紙を書いてね」とか「食べものに絶対ケチしないでねー」とか言うのにくらべて、父は無口に黙っていました。列車が間もなく来る時に、父が「ゆでたまごを買ってくるから」と一言を言い残し、広場の向こうへ走って行きました。広場が混雑していて、父の前へトラックが来た。そのトラックの前に立ちとまった父の背影(うしろ姿)が小さく、弱く見えました。その一瞬、なぜか涙が溢れてしまいました。私のことを愛して心配してくれている父に、「安心して下さい」と言いたかった! その時、親に安心させるように立派に強く生きていくようにと決心したのです。今でも父のそのうしろ姿が忘れられません。 (中国人研究生 女子)

★ 夫君がドクターを修了直前の、小さい子のある奥さんが、わたしのところで一年間だけ、主として漱石周辺の勉強をしていた。学部の授業にもよく出て来て、みんなと一緒に書いたり考えたりしていた。大学は中国で卒業していた。卒論には漱石の文学を書いたそうだ。
東京へ単独で出て来て暮らしている学生たちの、ことに男子は、むろん女子も、お母さんには最敬礼にちかいのが、まず、一般的である。有り難みに日常の具体的なものがしみついている。
そこへ行くとお父さんとは、アンビバレントなものがある。その辺を、引き出してみたかった。
漱石作『こころ』の「私」が、しきりに「先生」と「父」とを比較している。中山明という若い歌人によれば「父島」という島は厳然と常に在り、しかし、息子も娘も、その島から遠ざかることも近寄ることもない距離をおいて、人生という海を航海したがっている。で、「父なるもの・父たること」について、問うてみた。 (秦)

☆ 率直に言うと、我が家はどちらかといえば貧乏である。衣食住に困っていることはないが、私を私大に入れるとか下宿させるとかいうことになると、さっとお金を出せるほどではない。家も大きくないし、車も隣の家の400万円の新車と比べると見劣りする。私はその事を思うたび父を恨んでいた。父は「世の中にはもっと貧しい人もいるのだ」と言って今の状態に満足し、上を見ようとしない。私は内心、「もっとばりばり働いてよ」と思っていた。
その父が脱サラした。二年程前のことである。
「上に命令されるばかりの仕事はもう嫌だ。自分なりに働きたい。働いてお金を稼げばいいってものではないんだ。」
これから受験もあるのに、我が家はもう終いだと私は絶望的になった。しかし家族で父の仕事を助けているうちに、働く父を見るのははじめてだなあと思い、今までになく頼り甲斐のある人に感じた。父に対する私の憤りや恨みは完全に消えた。そして私は東工大に入学し、生まれて初めてバイトをしている。予備校のアルバイトである。友人は、時給も安いし時間も拘束されるし、家庭教師の方がいいよ」と、さんざんなことを言った。昔の私だったら割りのいいバイトにさっさと変えていただろう。しかし今の私は違う。
「家庭教師は自分一人での孤独な仕事。私は、先輩がいて一年生がいて事務の人がいて、そういう中でわいわい仲よく仕事をするのが好きなの。」
父に言いたい。「お父さんがあのとき今までいた会社を辞めた理由が分かってきたよ。働くってことは、ただお金をもらうことでも、肩書きをつけることでもないんだってことが…。自分のしたい楽しいと思う仕事をするのが一番幸せなんだよね。」
ろくに口も利かず顔も合わせなかった父が、だんだん身近に感じられて、とても嬉しい。 (女子)

☆ 「十七にして親を許せ」ですか。ぞくッとしました。だんだん父に対する目が厳しく冷たくなっている自分に、はっと気付いて。また自分の傲慢に気付いて。
先日母が弟を叱っていた。そこへ父が帰って来て、「また同じことを言われてるのか、バカ野郎。何度言われたら分かるんだ、バカ野郎…」
僕はそれを聞いて、帰ってくるなり叱られてしゅんとしている弟に、バカ野郎、バカ野郎とえらそうに言う父に腹が立ち、
「バカ野郎しか言えねえのかよ。もうちょっと言い方を考えろよ、頭わるいんじゃねえのか」
父は黙った。僕は叱ってほしくなった。なぐってくれと思った。苦しかった。2日後、父に僕はあやまった。父の目を見れなかった。父はなにげない返事をした。父がどんなふうに考えていたか分からないが、つらい2日間だった。 (男子)

☆ 私にとっての父は、小学生の頃は絶対的なものだったのを覚えている。共に遊んでくれたり色々教えてくれたりしたけれど、さからえる人間ではなかった気がする。(暴君ともいえたかもしれない。)私が成長するにつれ、父も人間がかわった。よくなった。
中学から高校にかけて、私は父を否定していた。(父親を認めなかった。)父は憎悪と軽蔑の対象だった。(その背景には、まあ、いろいろあった訳だが。)その反面父を尊敬していたと思う。父の中にある天才性を感じていた。しかし、それを否定した。2つの相異なる感情が心をうごき、憎悪etc.が勝った。人を好きになるより嫌うほうが楽だったからかもしれない。
そのころ私は父とはほとんど話をしたことがない。話しかけられても、無視していた。自分が男なら、何度も、なぐりたい、と思ったことがあった。一度、父を挑発して、なぐりあいになりそうなこともあった。(母にとめられたが。)
今は、私たちの間にそういう溝はない。父も、私もかわったし、私のそういう状態は、父には、けっこう痛切に感じられるらしかった。(母曰く。)それに、これは何のいい結果ももたらしはしない。
父は決して太い大黒柱ではない。しかし、今思うと父親として失格ではなかったと思う。夫として失格であった。そこに様々な感情がうごめいていたのである。今、私は、憎悪より尊敬の念を持っていると思う。(軽蔑の念はまだ持っているかも。)しかし父親を尊敬するなんて、愚劣な事の1つだと思うが。どうであれ、私の成長の中に、大きな位置を占めたのは父であったことは確かだと思う。 (女子)

☆ 受験の済んだ今年の3月、東京へ出てくる前に父とキャッチボールをした。4、5年ぶりだった。その時、僕の思い切り投げた球を父は捕らずに避けた。同年代の中では非力な方の僕の球を、「見えない」と言ったとき、どうすればいいのか迷ってしまった。
「ドクターコースまで進むと、父の定年にひっかかるかも知れない」という事もその時初めて認識した。今まで父に対しては「おとなしい人だ」という思いだったが、それでも「強い父」を期待していたのだと気付いた。
父とじっくり話し合ったことがないので、この夏あたり広島に帰った時、酒でもくみかわそうと思っている。 (男子)

☆ 父は好きです。本当に何でもできる。小さい頃から遊んでくれたし、料理も上手。父の考え方も私は大かた同意ができます。父は8割ぐらいは理想的な父であったし、今もそれは変わらないと思います。だんだん私が大人になって、父を父としてだけでなく1人の人間としてみる様になって、(母の人間としてのおろかさと比べて)ますます父が立派に見える様になりました。母の、子供のような部分をどうしてあんなに寛大に許せるのか。とても父が大きく感じられます。
父は昔の日本の父のように無口で家族を支えるタイプではありませんし、家族にバカにされて、すねてしまう事もありますが、父の事を自慢できる位、私は父が好きです。友達はみんな父親なんて別に好きじゃないと言いますが、私は父と仲良しです。でも普段は気付きませんが、最近父が急に老いたように感じる瞬間があり、そういう時は非常に心細くなります。今まで私の上から私を見下ろしていた父が、だんだん私より小さくなって消えてしまう様な恐怖を感じます。そんな時は父が死んでからの事etc.を考えてしまうけど、父が死んでも平気なように強くならなくてはいけないと思っています。   「父。安心して死んで行けるようにするから、何も心配しないで、疲れたら死んでいいよ」と言える様になりたいです。 (女子)

☆ 別に感動させる話はありませんが、誠実なあの父に愛されていることが私は嬉しい。昔はケンカもしたし殴られたりしたけど、そのおかげで、いい父親と思えるようになった。祖父が頑固で、父はそれが嫌だったから、今、こうしていると思う。普段言えないので、ここで、父に、一言。
「少しは尊敬もしているんだからね。」 (男子)

☆ 昨年の夏、ほんのささいなことがきっかけで父とけんかをしました。その日以来、私は父と口をきかなくなりました。父の顔すら見るのも嫌でした。父に話しかけられても、私は何も答えようとしませんでした。
それから1か月後、この状態を見かねた母の仲介で、父と話しあうことになりました。
父はかなり頑固な性格で、決して自分の言い分を崩そうとしません。私はそれを崩したくて、必死であれこれと父に言い返しました。その最後に、私は、思わず、こんなとんでもないことを言ってしまったのです。
「お父さんは家にいても邪魔で、自分勝手なことばかり言って、私や母のペースをくずしているのだから、休日もゴルフにでも行ってしまった方がよっぽどマシだ」と。
その言葉を聞いた瞬間、父は急にこれまで有った勢いがなくなり、力の抜けた様子で、
「おまえ、ひどいこと言うなあ」とぼそっと言いました。その時、私は久しぶりに父の姿をまじまじ見たのです。白髪はいっそうふえ、なんだかやつれたように見えました。どっと後悔の念が私の中にこみあげてきました。一か月にもわたって父と口をきかなかったことに何の意味があったのでしょうか。とても自分が恥ずかしかったのを覚えています
。それ以来私と父はうまくいっていますが、まだまだ若いと思っていた父も、あと七、八年で定年になります。そして私もいずれは結婚などで父と別れて暮らすときが来るでしょう。父にはただ一人の娘である私にとって、将来の父の姿を考えると、ちょっと心配になってしまいます。 (女子)

☆ 僕の父は、父親に早く死なれているので、僕に、「おまえはお父さんがいて幸せなんだぞ」とよく言います。
小学生くらいまでは、父はなんでも知っていて、父のする事はなんでも正しい大きな存在でした。中学生、高校生の時は、父などというものは僕にとっては何をするにも障壁となり、敵でした。それは今でも変わりませんが、1~3年前から父が感情をあらわにするようになり、弱さを見せるようになったと感じています。
先日も父と2人でお酒を飲む機会があったときも、酔っぱらいながら、「今日は楽しかったなあ」と何度も言いました。その時、(父親=祖父に早く死なれて)お手本の無いまま、父が父として悩みながら僕を育ててくれたのだと思い当たりました。
今、僕はやっと父がいて幸せだったと感じはじめています。 (男子)

★ 読んでいて、感傷と笑われるだろうが、わたしは涙ぐんでいた。このお父さんの「今日は楽しかったなあ」が、しみじみと分かるからである。わたしの息子はもう社会に出ているが、まだ幼稚園だった昔から今まで、かわりなく息子の「存在」そのものにどんなに励まされ慰められてきただろう。そんなことを思うのも、わたしの「弱ってきている」証拠なのだとは分かっているが、わたし自身は、むかし、実の父のためにも育ての父のためにも、この学生のような、わが息子のような息子では全く無かった。それだけでもわたしは自分の人生を失敗であったと痛切に思う。  (秦)

☆ 父よ。現世からあなたと語り合おう。酒をくみかわしながら明るく楽しく語り合おう。現世から天国。天国から現世。このすれ違いは人の若さと老いとのすれ違いである。ただただ、未来について語り合おう。私とひざをつめて語り合おう。生きるとは何かを。 (男子)

☆ 私はものごころついたときから、父よりも母のほうが好きでした。父は私にはとても優しい人です。それでも私は彼が好きではありませんでした。おそらく自分自身が嫌いな部分が、父に似ているからでしょう。ふだんは私の奥底に隠れている激しさや他人への批判やもののい方、それらが、彼から受けついだものだということが、苦いほどによく分かるのです。彼のそんな部分を見るたびに私は彼を不快に思ってしまうのです。
けれどもこの春(進学し)私は家を出ることで、心の中に少しの変化が生じました。一人になって、考えや生活が私の裁断一つにかかったことで、私は自分を支えているものが彼からの影響を多大に受けていることに気づきました。それらは彼が言ったことそのものであったり、全く反対のものであったりしますが、彼あってこそのものであるのは確かです。そのことにまだ多少の苦々しさを感じはするものの、今までの私と彼との歴史を感じさせられ、胸にくるものがあります。
おそらく彼は私より先に死ぬことでしょう。私がそのとき何を思うかはよく分かりません。けれども、そのときこそ、私は彼にゆずられた全てのものを、苦さを感じることなく、誇りさえ感じられるときだと思います。 (女子)

★ まるで、わたしの娘が語っているような錯覚にとらわれる。いやいや、それはわたしがまだ甘い。せめてこうであってくれればいいがと、願うにとどめよう。  (秦)

☆ 私は父が嫌いでした。今は、そうではありません。酒を好み、ものに感動して涙など流す父。理不尽なことには心から怒る父。父への感謝をうまく表に出すことができません。
近づきもせず遠のきもせず、一定の距離を保ったまま。それでもじっと見守ってくれている父です。父が好きです。 (男子)

☆ 自分が成長するにつれ「絶対なる父」は崩れ去っていった。父の言葉にも疑問を持つようになり、父がそんなに強い人間でないと感じるようになったとき、私は悲しいような、寂しいような気がした。そんなふうに私に思われている父がかわいそうになった。父にだって弱いところがあって当然だ、が、父には常に強くあってほしいのだ。せめて私には弱いところを見せてほしくない。 (男子)

☆ 少し前、母から、私のまだ小さかった頃の話を聞きました。父は最初は会社勤めをしていましたが、業界の不調もあり、数々の会社を転々として非常に苦しい生活だったそうです。あげく祖父のやっていた店を継ぎたいと申し出ましたが、祖父と揉めて、ずいぶんひどいことも言われたそうです。それでも父の努力で商売は好調に推移し、今では一戸建ての家も持てるようになりました。
私の記憶にはそんな苦労を見せた父の姿はありません。私には見せたくなかったのです。ふだん陽気な父にそんな苦しい日々があったとは夢にも想像できなかった。私は父の雄大さをはじめて感じ、父が越えられるだろうかと思いました。越えたくも、越えられて欲しくなくも、あります。 (男子)

☆ 父の実家はとても複雑で、家中で裁判をやっている。親と子で。兄と弟で。兄と姉で。姉と弟で。父の実家には愛、家族愛などというものは存在しない。その裁判は今は20年以上にも及んでいる。私の生まれた頃から争っているのだ。
その反動であろうか、父は私たち家族を非常に大切にする。我が家は3人家族なのだが、いつも一家で行動する。両親を私は一番に愛している。今、東工大でこんな楽しい思いをしていられるのも、父の教育への理解があってこそだ。裁判のせいで、父の親、つまり私の祖父母は私の父の溜めていたお金や家を取りあげ、会社までくびにしたのだ。父は私と母とをかかえて、ひとりで一円からお金をためて、30歳にして新入社員(再就職)となって、初めからやり直して来たのだ。どんなにつらかったろう。どんなにお金をかけて私をこの大学まで入れてくれたろう。
父はよく私に、「自分のような思いはさせたくない」と言っていた。私を愛するあまり父は私の受験の終わるまで、自分の学歴さえ私に偽り生きてきたのだ。
大学生になって、幾つもの父の苦しい過去を知った。父はその間も私に「苦しい」の一言も漏らさなかった。なんと偉大なのだろう。私はこの年になり初めて父を尊敬している。
大学生になるまで、尊敬する人はと聞かれると、偽善で「両親」などと言っていたのだが、今では本当に尊敬している。 (女子)

☆ 父は船乗りなので私は人生の半分も父と一緒に生活してはいないし、これから先も一緒に暮らす機会は無さそうだ。そのせいかも知れない、私は父に嫌悪感など感じないが常に緊張する。幼い頃も休暇で帰ってくる父は、父という名の特別の客のような気がして、妹たちがするようには抱きついていけなかった。そういうふうに甘えるのはいけないんだという意識があった。あのときの父の気持ちはどんなだったろう…。今だに緊張は解けない。父と二人で話す時はとてもぎごちなく、かろうじて父にそれと感じさせないようにしている。なにかマニュアルに従って話しているようで、母とのようには喋れない。
しかし父は変わりつつある。年を取り、単身赴任するようになり、父は以前ほど厳しくなくなった。娘の機嫌をとるようになった。自分から家族に溶け込もうとするようになった。そして私は父のそういう変化が分かるようになった。
父と私の関係は、「これから」であると思う。 (女子)

☆ 子供の時、父は世界中で最も偉大な人でした。父を見る私の目にはいつも尊敬と畏怖の念がありました。父は私の行動や考えにいつも絶大な影響を与えました。そんな父を憎んだことも少なからずあります。いつも私の前を歩いていた父。しかし今は父への劣等感はかなり小さくなり、父の背中に手の届きそうなほど近づいているように感じられます。尊敬の念は残りましたが、畏怖の念は消え去りました。もはや完璧な支配者などではなく、欠点だって少なからずある一人の人間として見られるようになりました。
将来父と私は完全に横に並んで歩くことになるのでしょうか。どんどん成長するにつれて変わって行く「父」とは何なんでしょうか。自分が父になったら分かるのかな。それでも分からないのかも。
ともあれ「私」を一番よく知っている人間、それが「我が父」です。  (男子)

★ 「これから」という一語に、希望が光る。また、「我が父」と囲った気持ちが、びしっと胸に届く。
まだまだ、ある。
子供の病気に心を砕いた父親。死にかけてこどもにその命を必死で祈られた父親。学歴にこだわり、子供に「いい学校へ行ってくれ」と辛かった過去を切々と語る父親。
まだまだ、ある。全部をここへ挙げたいほど、いい文章がここに揃っている。
嫌われ、憎まれ、敬遠され、疎まれ、敵にされ、壁にされ、無視され、それでも子供達は「父親」を見捨ててはいない。安心した。むろん甘い気持ちでは居られないのが父親である。峻烈な父批判もある。憎悪の的にもなっている。
ただ、こういうことは、ある。
半年たち一年たったところで、そういう過酷な父への言葉を、静かに訂正して来る学生も、事実、いるのである。だから、あえてそのテの「過酷に過ぎる」乱暴な文章はここに拾わなかった。
学部の一般教育でも、「知識」を授けるのは主たる目的であろう。しかし東京工業大学での「文学」の教師を引き受けたわたしは、文学の知識をあたえるのを第一の仕事とはしない。
文学・芸術に接したとき、そこから「人生」を感じたり知ったり、また深く強く励まされたりできる為の、「自分の言葉」を紡ぎ出させることに力点をおいてきた。文学史なら読書でまかなえる。文学の研究方法は東工大の学生にほぼ無用である。篤志の者には教授室のドアがいつも開けてある。
アカデミックに文学を概論し講義せよという、大学側のらしい、声が聞こえて来ないでもない。お望みに応じるのは容易である、が、くみしない。
文学部でなら大事である。東工大でも数人になら可能だろう。わたしは、しかし、一人でも多くの「東工大」学生たちに、「文学」の面白さと、面白さの深さとを、己が感性と思索とにより発見し体験してほしいのだ。ただ五人や十人のために、作家生活の道草をくうのでは堪らない。わたしは、わたしにできる最善を、学生たちのためにしたい。故郷や親や友人についてしばしば学生に考えさせようとするのも、自身の「根」に、とらわれることなく、だが枯らさないで欲しい、それが二十歳の「文学的青春」を豊かにすると思うからである。
一読、なんと幼いのだろうと学生の手記を侮る人もあるかも知れないが、間違っている。これは高校生をやっと抜け出てきた世代の文章であり感慨である。述懐である。幼いのではない、真面目なのである。
この素直さは、現代がもっとも大切に見失わないでいたい希少価値だと言っておく。  (秦)

* 十数年ぶり、東工大の大教室に戻った懐かしさ。こういう「あいさつ」を、わたしは四年間に単行本の「百冊分」も学生達に書かせ書かせ書かせて、毎週一枚も余さず読んでいた。毎週毎週、突き刺すような質問を学生諸君につきつけ、唸らせつづけた。だが、だからこそ彼らはよく「書いた」のだ、希有な自問自答の体験として。
一枚も散佚させずそれらは今もわたしの身近に保存されている。結婚式の披露宴で久しぶりに披露してビックリさせたことも何度か。
2007 10・24 73

* ひばりヶ丘へ走って、目についたナントカいうチェーン喫茶店に自転車をとめ、揚げたポテトをパクつきながら「湖の本」の校正に勤しんできた。簡明に明るい店で若い人の出入りがあるが、それは気にならずに「読み」に読んできた。殺風景なのは構わない、集中すれば周囲は気にならない。綺麗なデスクとやすい飲み物か食べ物があればけっこう。こういう場所が見つかると、これからも大いに助かる。自転車でなら七、八分で行ける。

* さて、家ででなければ出来ない仕事も、ある。機械の前では出来ない仕事もある。そのかわり階下で映画を「聴き」ながらでも出来る。
ここしばらくは、そういう「家仕事」にも集中する。不安は右腕のしつこい痛みだ、本が出来てくると、たいていでない力仕事の連日になる。なにか工夫が必要になる。
2007 10・24 73

* 急ピッチに湖の本の仕事が進んできて、今日もひばりヶ丘の「モス・バーガー」へ責了紙づくりの校正に行ってきた。珈琲二杯で、昨日より沢山読んだ。揚げたポテトは油気で、腹もはるのでやめた。
明るいのが助かる。ふつうの喫茶店よりなにもかも事務的なのがかえって校正仕事には気楽で向いている。自転車なら片道七分で往来できるのも有り難い。

* 追加した原稿一本も初校が出て、要再校を送り返した。表紙ゲラに大きな字のミスがあり、すぐ送り返した。
新しい大仕事も来た。一気にまたも忙しくなったが、それはそれで構わない。昨日は去り明日は来ていない。「今・此処」の沸騰は、生きの証である。世阿弥のいう「初心」にもいろいろあるように、やがて七十二のわたしにもわたしの「今・此処」がある。壁はかなり崩れてきているが、雨風はしのげている。内なる空虚は天の空と同じ空で満たされている。
2007 10・25 73

* 幸い雨風はすこしおさまっていて、有楽町線の銀座一丁目駅まで、そう苦労せずに歩けた。座って帰れた。前の席に、練馬まで乗って、親子づれがいた。その四つか、五つにはなるまい元気のいい可愛い女の子が、どうみても昔のやす香によく似ていて、懐かしくて嬉しくて、妻も私も眼が離せなかった。それでも車中、「湖の本」の校正もしていた。もう本文は責了に出来る。
2007 10・27 73

* 理由は不明。久しぶりにまたインターネットが不調で、ADSLの機械が、上二つめの緑が点滅し、三つ目が消えていて、一番下が赤点灯。あなたまかせで、ただ待っているだけ。どうする手もないのだから。ホームページも「mixi」も使えない 。

* 晩になって復旧。その間に、湖の本の本文を責了にした。まだ一部分、し残しが残っているが。
2007 10・28 73

* 散髪。すっきり。湖の本、全部責了。秋晴れ。夜中、左下肢はげしく攣縮、回復に時間がかかった。痛みがのこっている。
2007 10・31 73

* 人と逢う予定だったが、事情で断念した。湖の本など日程が逼迫し、心身の調和を顧慮すれば、この一日は大きいと感じた。落ち着いて、身辺整理を急ぎたい。

* 思い出している。
以前、環さんといわれる最高裁判事がおられた。「湖の本」創刊からの継続の読者であった。お名前すら存じ上げないでいたが、あるときお手紙をくださり、お仕事柄を明かされながら、あなたのお作に「人と魂とのかがやき」を愛読していますと書き添えて下さっていた。こういう法律家もおられるのだなと、物静かなお人柄と筆づかいに感銘を覚えた。もう早うに亡くなられた。「死なれた」と思った。「いい読者」たちにたくさん死なれてきた。

* 新刊発送の用意、おおかた出来ている。

* 梁塵秘抄の人たちはまだしも後世や浄土への想いを抱いていた。

われらは何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ
今は西方極楽の 弥陀の誓ひを念ずべし

暁静かに寝覚めして  思へば涙ぞ抑へあへぬ
はかなく此の世を過ぐしては いつかは浄土へ参るべき

いまわたしに、こういう抱き柱はない。欲しいか。いいや。後世も来世も信じていない。
2007 11・6 74

* 瞬間風速を受けるようにわあっと仕事が殺到し、うろうろしながら気をひきしめて、一つ一つ片づけ片づけ、それが「用意」になって行く。用意がなければ仕事はどこかでくんずほぐれつ、固まってしまう。
ほっこりとした正月をいまから期待してしまうのだけれど、ほっこりどころでない、苛烈な不快な事態が予想され、予告・警告すらされている。倒れないようにしなくちゃ。
法廷を経由して、夕日子たちの作成した文書が届いているが、まだ見ていない。代理人からの出廷報告もまだ落ち着いて読めていない。それは、わたしにすれば、全く不毛の、単なる迷惑、単なる厄介。
それより「湖の本」の新刊を無事に送り出したい。また書き下ろしの仕事も仕上げてしまいたい。
2007 11・8 74

* どうしても必要な仕事に没頭。後四日が、集中のしどころ。それが過ぎると出来本の発送になる。いい本が出来てくると思う。
2007 11・9 74

* 明日の朝『梁塵秘抄』が出来てくると、発送に奮闘せねばならぬ。予約がしてあり、歌舞伎座も国立劇場も俳優座も日程にある。安閑と楽しむには、よほど器量がいる。しかし楽しんできたい。明日の夜は「山科閑居」で、幸四郎と吉右衛門との顔合わせ。
2007 11・13 74

* 湖の本の通算第九十二巻が出来てきた。前巻の『閑吟集』に次いでいる。発送を開始。
2007 11・14 74

* 朝七時から発送作業に没頭。ほかに書くこともない。
2007 11・15 74

☆ 百人一首幻の雪の歌  maokat
今日の札幌は、朝方の雨が昼前からちらちらと雪になり、夕にはけっこうな降りになりました。夜職場を出るときに気温はマイナス0.5度。今マイナス2度まで下がっています。こんな日は仕事などせず、早々と寝るに限ります。
さて、百人一首に詠まれた雪の歌は、四首。ところが、愛読している『好き嫌い百人一首』(湖の本 エッセイ36:27)には、
めぐり逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雪がくれにし 夜半の月かな (紫式部)
とあるではありませんか!
この歌の私判冒頭には、下の句の「月かな」について「後の世のたぶん誤写が定着したかと言われている。なかなかの誤写で、わるくない」とも。
こうしてみれば、「雪がくれにし夜半の月かな」もわるくありません。本歌「雲がくれ」は、あわただしく帰ってしまった幼友達を詠んだもの。さて、写し「雪がくれ」は、どう読まれるか。
私なら、さしずめ、寒い冬の明け方にみじかい逢瀬を惜しんで帰る男の背中を思い浮かべます。別れに、冴え渡る月影も曇って、いましも雪が降りはじめ、みるみる男の後ろ姿が、雪に紛れて白く消えていきます。そのはかないこと。
本歌の舞台は、黒いフェードアウトに終わりますが、写しでは白くフェードアウトします。こうして終わる方が、私は好きですね。

* ウッソーと大あわてで調べますと、目次代わりの百首一覧が、てっきりl「雪隠れにし」になっていました。
平謝り。ごめんなさい。
さいわい、本文の方は見出し歌「雲隠れにし」と正しく、かろうじて、ホッ。魯魚のあやまりで逃げ切れない不注意な校正ミスを犯しました。もういちど謝ります。
真さんの、親切なはからい、感謝します。
読者のみなさん、謝ります。  著者 秦 恒平・湖
2007 11・16 74

* 湖の本が届き始めた。

☆ 湖のご本   香
秦 先生  ありがたうございます。前回の『閑吟集』と合はせて「湖版」の二冊、器械のそばの机に置かせていただきます。器械に対ふのや考へに倦んだとき、つと手を伸ばせばとどくところ――。
どのページをひらいても、よき先達が待つてゐてくださり、中世の謡の世界に、中世のたましひにみちびいてくださる。
さりながら、よき先達の御目をはじめ、お身のつつがが案じられてなりません。

風戀ふればよるべなしやの たどきなしやの 北に南におちつきがたし

「この世は時雨よのう」さと過ぎて 濡るるもあれば 濡れて乾くも

してやられ またしてやられ堪へたりな 冬すすき 姥の痩髪

天命とならば素直に命終受けむ 素直ならずとも何としやうぞ

遊びをせむと招けば来る鬼族の彼はやさしき〈泣いた赤鬼〉

齋藤史先生の晩年の作品ですが、昭和の乱世を生き抜いたおひとに、『梁塵秘抄』『閑吟集』などの中世の謡ひものは、親しいものであつたのでせうか。亡くなられるほんの二月ほど前に、口述された最後のエッセイでも、
〈仏は常にいませども現ならぬぞあはれなる〉後白河法皇はどの様な節に「今様」
を謡われたものか。
と、謡ふものとしての『梁塵秘抄』をおもつていらつしやいました。ご存命でいらして、秦先生と、中世の謡ひものについてお話をなさつたら、と、かなはぬことをおもつてゐます。
「死んだふりしてる」などとふざけ半分に言つてゐますが、少々申しにくい身内の者の不祥事に巻き込まれて、ほとほと困じ果ててゐます。
MIXIも、アクセスできなくなつてしまひ、なにか、窓がひとつ、閉ざされた感じでございます。
ともだちが径二センチほどの豆独楽をくれました。まはしてあそんでをります。
2007 11・18 74

☆ こんばんは! 京都ののばらです。
新しいご本「梁塵秘抄」届きました。いつもありがとうございます。
体調のお悪いなかでこれだけのご本を完成され、発送の作業もお疲れのことでしたでしょう。
私語の刻を読んでは、はらはらと心配したり、お芝居を楽しまれている様子にほっと安堵したりしています。
こちらは昨日の小春日和が嘘のような、木枯らしの吹く寒い日になりました。
昨日は友人達と大津市坂本から安楽律院、飯室松禅院、西教寺と、時折きれいな琵琶湖を望みながら、のどかな山道を歩いてきました。
私はいつも元気にしています。
冷え込みも厳しくなる折から、くれぐれもお大事にお過ごしくださいますように。  母方従妹

* ありがとう。

☆ 湖の本  郁
本日拝受いたしました。有難うございました。お身体が不調でおられますのに、敬服いたします。私にはむずかしそうで理解にくるしみそうですが
ゆっくりと心に写しながら拝見させていただきます。
明日から榛名のほうへいきますので 帰り次第送金させていただきます。
母もだいぶ弱ってきているようですが、もともと丈夫な身体ですので なんとか寝込まずにはいるようですが、寂しいらしく来て欲しいとばかり電話があります。
何事もすぐ忘れてしまうようですので、明日いきましても またすぐに来て欲しいと懇願されます。切なく可哀想でなりませんがこうして人生の終焉をむかえるのでしょうね。自分のことにように身につまされてしまいます。ここまで長生きはしたくないなーと。おもいますが運命は決められているのでしょうね。
母はいつも寂しいのでしょうね。今は特別養護老人ホームにおりましてすべて至れり尽せりのようですが、やはり人間は愛情がなによりなんですね。
私なども 時折いろいろと考えてしまいます。恒平先生どうぞお元気でいらしてくださいませ。ご健勝をひたすらお祈りもうします。

* 「湖の本」を受け取り、「何が秦さんをささえているのでしょう」というメールも、もらった。何だろう。
2007 11・18 74

☆ ありがとうございました。 玲
「湖の本」に添えていただきました先生のお言葉で、再びマグノリアにお迎えさせて頂ける事と存じ上げました。
どの季節頃か、先生のスケジュールの中へお入れ願います。
奥様に『人間の運命』お読み頂いて「ありがとうございます」と、お伝え下さいますよう。
お寒くなってまいりましたので、お体クレグレもお大切にお頼み致します。
2007 11・19 74

☆ 湖の本
『梁塵秘抄』を頂戴いたしました。ありがとうございます。『閑吟集』とあわせて、「湖の本」として手元に置けますこと、しみじみ嬉しく思います。長いこと待っていました。
この二冊がどんなに素晴らしい名著であるかは今さら申しあげる必要もないことですけれど、この二冊は秦恒平文学を語る上で、必須の手引き書のような作品と思っています。繰り返し繰り返し読み、文学者秦恒平の思想と感性を自分の血肉とするまで読み込んでみたいと思います。
でも、なぜでしょうか。今回の『梁塵秘抄』を手にした時、涙がこぼれました。心身ともに極限の中を、鉄の意志でこの一冊を送り出してくださったお姿が浮かんでしまいました。まさに、お命を削る思いの配本でいらしたのではないかと、泣けてしまいました。
みづうみに「身内」とは思われていないわたくしですけれど、「真実の家族は本来の家へ帰った日に、はじめてわかる」のなら、その時「おかえり」「おかえりなさい、みづうみ」と元気に逢えますことを祈り続けます。  わたくし

* 人に指さすように、あなたは、きみは「身内」だなどと言うことは、極めて例外はありうるにしても、ま、ありえない。小説『畜生塚』の語り手が、ヒロインに告げていた「真実の家族は本来の家へ帰った日に、はじめてわかる」というのが本当だろうと想う、そういうことが、あり得るとして。

☆ 底冷え maokat
hatak さん 『梁塵秘抄』到着しました。
日中も零下の真冬日となり、本も底冷えの中、金属製のポストにコトリと納まっていました。
古代人の赤裸々な声、鋭い眼、つい目をとめてしまいます。「飽かで退く」など。
寒き夜を暖かくお過ごし下さい。御礼まで。

* 数多い今様の詞句から、発止と打つように「飽かで退(の)く」に目が留まる、さすが。そこにこの読み手の真実があり、あるいは葛藤もあるならんか。

☆ 「湖の本」送って頂き、ありがとうございました。  珠
昨夜手にしてから、ついあちこち読み始めてしまい、いえいえ最初からよ、、と 自分に言い聞かせて、今日は留守番に置いてゆきました。
私は一度に何冊もの本に手をつけることができません。
通勤では、座ると寝てしまって乗り過ごすし、立って読んでいるとこれまた駅を過ごしてしまうことが多く、最近は通勤中は我慢して読まないようにしています。
夜、帰宅後、最近はチクチク仕覆を縫って過ごしていますが、これからの寒い夜、早々にベッドにもぐり、「湖の本」を寝る前の愉しみにさせて頂こうと思います。
いろいろばかり、つぎつぎとでしょうが、どうぞいつもその中で、「颯爽」とあられますように。
大事にしてください、湖。  (インフルエンザ予防接種はお済みでしょうか。お忙しいでしょうが、これもぜひ。) 珠

* 注射はぜひ受けてきたい。毎年の例が、今回は少し遅れている、明日にでもと。
2007 11・19 74

☆ ドナルド・キーン氏 「御無沙汰いたしました。『梁塵秘抄』の御本を頂きましてありがとうございました。五、六十年前に、アーサ・ウエーリの英訳を読んで、その時までの日本の詩歌と全然違うと思いました。御本を読むときっといろいろ発見もできるでしょう。ウエーリ訳は一部分だけでした。またお目にかかることをたのしみにしています。十一月十七日」

☆ 『梁塵秘抄』拝受いたしました。
ご体調不良とのこと、長年にわたって言葉の重みを責任を持って荷い続けてこられたお疲れかとも拝察、早いご本復を祈念いたしております。  元・文藝誌編集長

☆ 前略 その後御無沙汰致しておりますが、御体調が悪いとのこと、お案じ申し上げております。先日は御鄭重にも「湖の本エッセイ42」を有難く拝受致しました。『梁塵秘抄』は「遊びをせんとや‥」を安吾が色紙で書いていたことしか、恥しながら知りませんので、「座右の友」として味読させていただきますことを心から深謝申上げます。「私語の刻」でペンクラブの「言論表現委員」の御辞意、又「仮処分審尋」のことにつき詳しい事情を知りましたが、どうぞ人間探求の文学者として、最後まで筋を通して下さいますよう、お願い申し上げます。併せて何をされるにせよ、健康が第一ですから、呉々も御養生、御慈愛のほどお祈り致して居ります。右、取急ぎの御礼まで一筆啓上致しました。不一    元・文藝誌編集長
2007 11・20 74

* 馬場一雄先生、島尾伸三氏の手紙あり。

* 馬場先生と初めてお目にかかったのは、医学書院に入社して二年目の中頃だった、わたしはまだ二十五歳だったし、先生もまだ東大小児科の助教授室に居られた。
娘・夕日子が生まれるというので、わたしは何かしら記念になる仕事をのこしたくて、ご相談に行ったのである。
そのころわたしは月刊雑誌を二冊担当の編集者で、書籍企画は義務でなかったが、義務でないから努めないという編集者ではなかった、未開拓で、越境が可能ならどんどん越境して、義務でもない企画書を書いて義務でない企画会議に出て行った。わたしは、何でもいい赤ちゃんの医学研究書を企画してみたかった。
幸いわたしは「助産婦雑誌」という月刊誌編集を命じられていたので産科の専門医や時に小児科医とも接触があり原稿依頼もしていた。
当時、生まれたての赤ちゃんを、産科医は新産児、小児科医は新生児と呼んでいて、産科医による『新産児』の臨床本は出ていたが『新生児』という本はまだ出ていなかった。なにより両科で赤ちゃんのいわば「取り合い」のような按配だった。これはマズイんじゃないと新米編集者は考えていた。じつは両科にもマズイと考えている医師がいた。馬場先生は小児科側の指導的なお一人であった。
東大で小児科と産科とが協力して『新生児研究』といった最新の研究成果を出し合う大規模な共著が出て、その気運からせめて「新生児研究会」といった「学会の一歩手前」のような全国組織が生まれ得ないものか。そう願って、馬場一雄先生の助教授室のドアをノックしたのだった。

* たいへんな経緯を経て、画期的な大共著の『新生児研究』が東大両科の高津忠夫、小林隆教授の監修、馬場先生と産科の広川統先生の編集で刊行になり、全国規模の「新生児研究会」も発足し、日本医学会の分科会としての「新生児学会」に成長していった。わたしにすれば、それこそは「夕日子」記念碑であった。
「湖の本」に、必ずお手紙をくださる馬場先生。わたしの体調にもご心配戴いた。

* 島尾伸三氏は、大先輩島尾敏雄さんの子息。ユニークという言葉はこの人のためにある。「湖の本」をいつも応援してくれる。

☆ ご本拝受   雀
驚きました。さぞご心痛のこととお察し申しあげます。奥さまの一日も早いご快癒をお祈りいたします。
おひとりで発送作業をなさってらしたのでしょうか。お疲れを残されませんよう切にご自愛をお願い申しあげます。こまめなうがい、そして手洗い。水分をとること。冷やさないこと。そうしてくれぐれもお怪我をなさいませんよう、どうかおからだお大切に。
“老妻”なンてお書きになるから。「湖の本」読者にはそういう表現はNGですよ。
瀞峡から奥瀞を回ってまいりました。やはり紅葉は遅れていますね。松上げをする川原や、子持ち鮎を漁る仕掛け“せぎ”(竹や木で関をつくり引き返す鮎を視て網を投げるのだそうです)、丸山千枚田など見てまいりました。
いよいよさんま寿司の季節。さんまやさばを美 味しい寿司に仕上げるのがウデ。尾鷲でおいしいお寿司にありつきました。
近鉄で松阪へ出て、尾鷲まで往路はJRを復路は国道を走る特急バスを利用。海浜に、車窓の景色の違いに、気持ちがのびました。 囀雀
2007 11・21 74

☆ こんばんは。 昴
『梁塵秘抄』、届きました。有り難うございます。口で伝えられるものと、書き写されて伝えられるものに最近、興味があるので、『梁塵秘抄』を読んで勉強していきたいと思います。
『愛、はるかに照らせ』は二十首以上印を付けている所で止まっています。落ち着いたら、まとめてみようと思います。
「健康大切に」という言葉、有り難うございます。
湖先生こそ、お体大切にしてください。

* 元気に健康を本当に回復して、夜空の昴が煌めくような、きらりと詩性に富んだ短い表現で、時としておどろかせるこの人の述懐を聴きたい。
2007 11・21 74

☆ 急に寒くなりました。   九州大学教授  国文学
名著『梁塵秘抄ー信仰と愛欲の歌謡』の「湖の本」版を賜りありがとうございました。
「私語の刻」によりますと、糖尿病をお煩いの由、ご苦労お察し申し上げます。
実は私も、家系的に糖尿の気があり、2年ほど前、ひどい喉の渇きを覚えましたので、これぞ平安貴族も煩った飲水病よと、大学病院で診察を受けたところ、ヘモグロビンA1Cの数値が12近くあり、以来食事を一日1800帰路カロリーに押さえ、平常値に戻しました。
食事制限は今も続いていますが、幸いアルコールは禁止されていませんので、それを慰めに日々過ごしております。
どうかくれぐれもご自愛下さい。
御本拝受の御礼かたがた、一言申し上げます。

* わたしは前回診察で、ヘモグロビン値が 6.5 まで下がっていてドクターをえらく喜ばせたが、8を少し越えたときは叱られた。12近かったとはおどろいているが、よく回復されたなあと敬服する。
わたしもこの難局をしのいで、また自転車で寒風をついて走らなくちゃ。わたしの運動はそれだけなんだから。
2007 11・22 74

* 昨日はどうしたことかと思うような、梅原猛さんの『梁塵秘抄』を受け取ったという自筆のはがきが届いたりして。
久間十義氏の、また小山内美江子さんの、温かいお手紙も、河出書房の小野寺優さんからの深切なお手紙もいただいた。
2007 11・25 74

* にじり寄るように、仕事のハカを行かせている。

* 昼前、西の棟で、せずに済まない力仕事に、玄関に山積みの本を二階へ上げた。息が弾んで苦しかったが、短時間に一気に済ませた。
2007 11・27 74

☆ 寒くなりました   藤
秦恒平様  急に寒くなり身も心もびっくり致しました。湖の本『梁塵秘抄』有り難く受け取りました。
秦様が身をけずるようにして作って下さって居る本なのに、それを十分に読みこなす力のない自分が申し訳なくて—ぱらぱらとページをめくっております。
祇園のドラマ珍しく夫と共に”熱心に”見ました。
京ことばが下手やしいらいらするわ、といちいちケチをつけ、踊りが下手や、着物に変なシワがある、とかと文句をつけ、そのくせやっぱり懐かしい京都、祇園界隈——-夫婦そろってがやがやとテレビを見ている今を幸せに思いました。
松本清張の「点と線」も見ました。
夫は出張の車中でよく清張の推理小説を読むようですが、私は秦様同様に登場人物がみんな”哀しい人”すぎて後味がつらくて
余り読みません。私の好みは哀しいのにどこかおかしい人たち。
昭和30年代が丁寧に再現されていてこちらも又懐かしかったけれど、「結核で療養している佳人」とか「夜行列車で20時間近くもかけての旅」とか今の視聴者には実感が伴わないでしょうねえ。
一つ違和感があったのは、「安田」がうなぎを食べる前に使ったおしぼりタオル。あの頃はあのような青緑の格子の入ったおしぼりはなかったと思う。白とか、白で端だけが薄青とかでないと—–
テレビ見て文句ばかりつけて、いやな婆さんになったなあって自己嫌悪(もうすぐ私も70才です)。
いろいろ、つぎつぎ、お身体の不調があるようで心配しています。
お大事になさって下さいませ。 2007/11/27
2007 11・27 74

* ある大学の古典担任の先生から、「閑吟集」と「梁塵秘抄」を贈って頂いてありがたく、こんなに分かりよく親切に書かれた古典の本はめったになく、できれば湖の本の、せめて古典関連の本をみな頂戴できないだろうかとお手紙があった。ありがたいお申し出である。すこし落ち着いたら用意して差し上げたい。
2007 11・28 74

☆ 越中五箇山  ゆめ
に旅してきました。
立山連峰はすっかり銀嶺となっていて、いつものように私を迎えてくれました。
ご本戴きました。再度じっくりと読ませて戴きますね。
こきりこは放下にもまるる、こきりこのふたつの竹の世々をかさねて、うちおさめたるみ代かな (閑吟集19)
2007 11・29 74

* 故福田恆存先生の奥様からお手紙を戴いた。ことに湖の本の『愛、はるかに照せ』を褒めて頂いていた。これはやす香を喪った悲しみの日録『かくのごとき、死』のあとへ送り出した一冊で、もともと、二十余年まえ、娘・朝日子が帝国ホテルで華燭の典を迎えた当日に「あとがき」を書いた、講談社からの刊本『愛と友情の歌』の復刊であった。
「絶唱」という言葉があるなら、この本でのわたしの撰歌と鑑賞とは「絶評」と称えたいと、劇作家の松田章一さんが手紙を下さったように、たいへん好評で、校正を手伝ってくれた妻など、今でも「あんなに感動して泣いた本は無い」と言ってくれる。福田夫人もまたそう告げてきて下さったし、贈り物にという追加の注文もとぎれなく来ている。
今日も禅家の方が贈り物にと注文してきて下さった。嬉しいことだ。

* やす香の死このかた、理不尽な苦しみに悩まされ続けてきたし、それなりにわたしも踏ん張るしか堪えようがなかったけれども、その中でわたしの根の立場をと表現すれば此の『愛、はるかに照せ』であった。これ有って、わたしは悔いなく迷い無く「いま・ここ」に立ち続けてこれた。それは、そう言い切れる。
2007 12・24 75

* 大きな帛紗バッグ型、干支の猪唐草とでも謂いたい珍裂のケースを誕生祝いに戴いていた。湖の本の『梁塵秘抄』『閑吟集』を対にして収めると、ぴたり。朱の題字が並んで映えて、有り難し。

* 手持ちの本を送ってさしあげたmaokat さんのメール、結びの部分を。

☆ お礼に添えて  maokat
今年は映画二十本、コンサート三回、そして読書は、歳末にやっと五冊だけでした。こんなに少ない年も珍しいです。
仕事は丸々一年を費やして、学会発表も論文書きもあきらめ、ひたすら日本中のサンプルを独力でかき集め、一種の告発のようなことをしてきました。
年押し迫った昨日、遂に法律に基づいて対処すべき証拠のデータを上司から農水省に提出してもらい、首脳への報告も済ませ、あとはお沙汰を、首を洗って待つだけです。さいの目がどちらに出るか、年明け頃には分かるはずです。
そんな中でも、明るい話があり、この仕事を一緒にやってくれている私よりやや若い同僚が、私が属している研究所群の中で、今年最も優れた研究成果をあげた一人として表彰されることになりました。私も共同研究者として、名前をあげてもらっていて、二人での受賞ということになりました。予算も協力も得られずに一年間苦しんできただけに、知らせを聞いた時は、嬉しいというよりも、「これで研究予算の心配をしなくて済むかも」とまず懐具合に気がとられ、同じようなことを考えていた同僚と二人で笑いました。
大仰に授賞式なども筑波でするそうですが、たまにはそういうものに出てみるのも良いかもしれません。
不思議なもので、茶の湯も頼まれるまま、春に流儀の支部茶会を男子で、今月は瑞峯院で濃茶まですることになろうとは、想像もつきませんでした。この分では来年もどうなることやら全く想像もつきません。
長々と書いてしまいました。今日の夜から、出張ですので、旅の行き帰りに石勝線の車中で、お送りいただいた御本を読ませていただくことにいたします。
年の内をお元気で、歳末の池袋買い出しなども、無理せずにご無事でお出かけ下さい。
御礼かたがた、ご報告まで。
2007 12・26 75

* 「心は頼れるか」とは久しいわたしの論題であった。言い直せばこれは「人は頼れるか」の意味にもなるが、「心は頼れない」けれど「人は、さまざま」というのが正しかろう。「人ほど頼れるものはない」と思うほどすばらしい「人」との出逢いがあり、その真っ逆さまもあるのが「人」である。
だからこそ「小説」とか「文学」が成り立つ。

* 人生とは「人づきあい」の連鎖である。独りでは生きて来れなかった。人づきあいは潮合いよりも、しかし、はかない。潮合いには規則正しいほどの繰り返しがあるが、人づきあいには無い。
人から「名刺」をもらいはじめたのは、半世紀前の就職以来。私の場合、結婚以来とも謂える。
編集者稼業は、人さまと出会ってナンボの仕事であり、著者だけでなく、出入りの業者たちともかわした名刺は山ほど残っている。その九割がたは顔も関わりも忘れかけている。
転じて作家になれば、これまた各社の編集者・記者、同業の人たち、そして読者たちとの接触が自然増えてゆく。増えていなければ、ものの譬えにも「湖の本」は出来ていない。人のフルネームと住所。その記憶がなければ成り立たなかったのが「湖の本」だ。湖の本で出逢った大勢と、出逢ったが縁で湖の本の読者になってもらえた人と、数え切れない。しかもそれにも消長あり推移あり、川のように流れ流れてもう行方知れない人数も、数え切れない。
文藝家協会に入り、ペンクラブに入り、委員や委員長や理事などを多年務めている内にも、多くの出会いがあった。地位と便宜とを念頭に近寄ってくる人も多い。だが人間的な交際でないその手の利用者は、委員を辞め、委員長をやめてしまうと、とたんに水の漏れるように、葉の落ちるように、ばらばらと消え失せる。消え失せるであろう顔も名も予測できて、掌を指さすように正確であるのがいっそおもしろい。人とは、そういうものである。だから頼みにならないし、だが、真っ逆さまの貴重な友人たちもたくさん残るのである。それは打算的な心=分別のつきあいではなく、もっとハートフルな共感による。魂の色がいつしれず似ていると互いに感じあえる人たちが必ずこの人間の世間には実在する。だから人は絶望もしないで生きていられる。
2007 12・29 75

上部へスクロール