* 年賀状をたくさん戴いたが、大方は湖の本で一年の内に繰り返しご挨拶を重ねているので、返礼もその際にとおゆるし願って、今年はのうのうとラクをさせて戴いている。
建日子が、バーボンのとびっきり、ブラントンを持ってきてくれたのを昨夜から今夜まで、ほぼ半ば、ストレートで楽しませてもらった。
暮れは、頂戴したたくさんな日本酒を、もののみごとにみな平らげてしまった。毒だなどと勿体ないことは思わなかった。
* かくて平成二十年の元旦も過ぎてゆく。今夜は、早く床について、ゆっくり眠りこけたい。
2008 1・1 76
* 地下鉄丸ノ内線に「茗荷谷」という駅がある。ずいぶん、いろいろな思い出がある。
降りて直ぐ、茗渓会館というのがあった。
医学書院をやめたあの年の春闘は物凄い荒れようだった、オイルショックもあった。強硬な労組ストライキに社屋を占拠され、数十名の管理職は都内を転々し、その日暮らしだった。
ある日は茗渓会館の広いティールームを借り切って管理職一同が退避し仕事をしていたところへ、労組が察知し急襲。蜘蛛の子を散らすように管理職は次なる退避場所へ路上を四散遁走したが、三四人が組合員たちに捕まって社屋へ拉致され、一昼夜烈しい吊し上げを食った。逃げのびた連中は、たしかホテル・ニュー・ジャパンの一室へ集まったと覚えている。あのころは金原専務も長谷川泉編集長も健在だった。
こんな記事を読んでも理解できない、想像もつかない人が今は多かろう。わたしの三部作小説『迷走』は、今では信じられないであろう激越な当時の「労使紛争」をありあり、まざまざと同時期に書き留めている。その一九七四年八月末日にわたしは医学書院を退社し、九月一日、作家として独立。当日に、旧版の季刊誌「昴 すばる」巻頭に三百枚の『墨牡丹』を一挙掲載され、また新潮社の新鋭書き下ろしシリーズに、衆目の代表作と観るらしい『みごもりの湖』を出版した。
* 大学の集まっている場所で、茗渓会館がどこに所属の会館か詳しいことは知らないが、近所にはもと教育大があり、駅のすぐ先にお茶の水女子大や付属の学校がかたまっている。私立の女子大もある。
朝日子が高校からお茶の水に通い、わたしは一年間高校のPTA会長を仰せつけられたので、私自身も何度か茗荷谷駅で下車したのである。朝日子は七年間、大学を出るまでこの駅で乗り降りしていたことになる。
* この駅近くに、歌人でペン会員の篠塚純子さんが住んでいる、たぶん今も、と思う。
この人の歌集『線描の魚』を自在に利用させてもらって、小説『四度の瀧』を書いたことから、駅の近くの喫茶店で、何度か篠塚さんと話しこんだこともある。歌人であるが、日本の古典にも海外文学にもくわしい人で、最近までたしかどこか私大の教授もしていた人、あの頃は近在の高校の先生であったようだ。文学での議論や対話では、よく噛み合って手応えのある、優れた話し相手であった。わたしの文学もよく理解してくれた。
茗荷谷駅からも篠塚さんの家のある小日向台からも、江戸のむかしの「切支丹牢」跡が近く、新聞の朝刊小説『親指のマリア』でシドッチ神父と新井白石の対決を書くためにも、茗荷谷駅は、その当時下車の機会が少なくなかった。
そして、東工大時代に教授室や教室でわたしを手助けをしに通ってくれた名古屋市大の谷口さんも、またお茶の水の院を出て、優秀な国文学の研究者・指導者としてますます世に知られてゆくだろう、大岡山の大学からの帰りに、『山の音』をめぐって話し合った日など、今も懐かしい。
* 寒い街なかではあったけれど、出歩いてみると、街には街の刺激がある。つい出渋って家に籠もりきりだけれど。
2008 1・18 76
☆ 今日は陽射し明るくさしていましたが、厳しい寒さに震えました。
湖はお出かけされましたか。冷えていないとよいのですが。
「湖の本」を確かに頂戴致しました。お手数をおかけしました。お言葉と共に、「湖の本」抱きしめました。
若い頃には夢中になって読んでいた本ですが、大学受験の時に本を読んでしまって勉強が進まず、最後の手段と泣く泣く「本絶ち」を決意し、勉強に集中しました。合格発表を見た帰り道、本屋に寄って心ゆくまで本を買い込みました。でも、久しぶりに読み始めた本は、なかなかすっと入ってこなくて、「なに、これ、、」と呆然としました。
内容というよりも、集中の仕方のような、本との距離感を感じたようでした。本に読ませてもらえない、可笑しいですが、そんな風に思ったのです。 勤務についてからは、専門書を読むことがどんどん増えて、余程の本でないと私の「眠さ」に負けてゆきました。
最近は、逃げ込むように読んでます。あの受験直後ほどではありませんが、ゆっくりしたペースで、入ってくるまで待って読み進めています。本への集中は、私に穏やかな時をもたらし、違う世界に運んでくれます。
これから暫くは、頂戴した「湖の本」を楽しみます。この本は、紛れもなくその出版された時からやってきた、著者自身から頂戴した玉手箱のような贈り物でしょう。20 年前後、その書棚にあったことを思うと、よくぞ我家へ、、と不思議で有難く思います。
大事に、読ませて頂きます。ありがとうございました。
明日は、夜には雪との予報。 どうぞ足元にはお気をつけ下さい。湖。
猫は炬燵で丸くなる、、さて湖は。。。 お大事に。 珠
2008 1・19 76
* 帰宅。懐かしい賀来敦子さんが主演の映画、原作者の一色次郎さんも懐かしい、『青幻記』後半を観た。
賀来さんとは、惜しくも亡くなってしまうまで、ずうっと「湖の本」を介して親しくしていた。すばらしい感性の演技者だったが、すっぱり引退された。一色さんは太宰賞での先輩受賞者。いわばご近所ずまいで、尋ねていって二人で関町辺のサウナへ行ったりした。だいぶ年かさで、早くに亡くなられた。
2008 1・29 76
* 録画しておいた『青幻記』を全編、観なおした。何度も泣いた。
一色次郎さんはこういう小説を書くべき故郷・故旧を胸に抱いておられた。
賀来敦子さんは、こういう女、こういう母親を映画の中で生きるべく真摯であられた。
そしてやはり亡くなるまで「湖の本」を受け取り文通して下さった田村高廣さんもまた、このように母を恋い慕う息子の人生を、映画の中で体験しておられた。
懐かしまずにおれようか。
2008 1・29 76
* ようやく次の「湖の本」の編輯にかかった。原稿のスキャンに集中。校正がたいへんな作業になる。
2008 1・31 76
* もう校正にかかった。しっとりと落ち着いた風情の一冊に仕立てたい。
2008 1・31 76
* 湖の本。ひどいスキャン原稿からこつこつと校正、校正。
内容がおっとりしているので、その世界に「旅」していれば済む。
2008 2・2 77
* 終日、入稿原稿づくり。
2008 2・3 77
* 北海道のある大学から、「湖の本」の創作とエッセイとを全部揃えて購入したいがと、問い合わせのメールが入った、春のことぶれのようで、有り難い、嬉しい。
2008 2・5 77
* 夕方、どうにもならず機械から離れて床に就いた。九時半まで寝ていた。紙袋に頭をつっこんだ感じか。いろんな勘定が逸れて、湖の本、編輯に手間取っている。からだを動かさないので頭の中がヘンにつまっているのだろう。
わたしは昔から電車に乗っているといろんな着想に恵まれた。いわば「のりもの」(から生まれた)小説が幾つもある。
家に閉じこもっているのが、季節ゆえ余儀ないとはいえ、停滞させている。もっと身軽気軽に外へ出ないと弱ってしまう。
2008 2・5 77
* どうやら、骨子が落ち着いた。スキャンも終えた。いろいろ迷ってかえってハッキリしたのは、わたしたちがツブレないかぎり「湖の本」の百巻編輯は問題なくできるということ。
新作の小説も可能になってくるだろう。作品の方は問題ない。体力・健康という貯金の方がもつかどうか、だ。
このあいだ、耕治人さん私小説の映画化をみた。雪村いずみが奥さん役で桂春團治が耕さんを演じていて、おもしろがっては観ていられなかった。途中で退散した。
鶴見俊輔さんが、もし条件が揃っていたらあの人も「湖の本」をつくりたかったでしょうとわたしに話されたことがある。映画の中の耕さんの年齢がいまのわたしとどうであったかは分からなかった。
作品も本にする技術も必要だが、この年になると体力が最大の要件になり、しかもわたしだけでは保たない。妻の健康をいたわらねばならない。
2008 2・6 77
* スキャン原稿の校正は順調に、思いのほか楽しく進んでいる。入稿してしまえば順調に進むだろう、いま、ごく一部に、関連の短い原稿を挿入したいと思っている。連載で見開き都合四頁ずつのはずが、何か勘違いしたらしく一ヶ月だけ三頁で終えている。書き終えていて内容的には問題ないのだが、気になるので補綴できないかと。それも明日。ひどく冷えてきたと思ったら、煖房しないまま何時間も仕事していた。
2008 2・7 77
* スキャン原稿の校正を続けている。いい感じの一冊が出来そうだ。終日かかり切っていた。明日には一冊分がほぼ纏まりそう。
2008 2・8 77
* 手がけてきた新刊「湖の本」の入稿原稿づくりが、一段落した。酒や花のことを、こころよく思うさま書いていた昔を思い出した。今少し細部の用意を整えてから、連休明けの前に入稿する。
2008 2・9 77
* 新しい湖の本のための入稿を終えた。
2008 2・10 77
* 今日が「建国記念日」といわれても実感がない。
「紀元節」だったころは有ったか。祭日という感じはたしかに有った。「紀元節」という文字面に、身を寄せるとも寄せないとも無い、そこはかとした象徴美はあった。「建国」といわれると、「無理」を感じてたじろぐ。
応神・仁徳以前に実在否認されていない天皇は只一人もいない。応神もどうか。仁徳もどうだか。大陸で「倭の五王」と文献に認識されていた中で、やっと五人目の「雄略」天皇がほぼ間違いなく「大王武」として確認できる。彼は歴世二十一番目の天皇だが、小説『三輪山』で書いたように、赤猪子伝説と倶に登場の雄略天皇は、まだ、半身を神の世界に包まれたように印象されている。
2008 2・11 77
* 偶然だが、中国のものを、二冊併読している。
一つは興膳宏さんに戴いた『中国名文選』で、序章「中国の文章を読む」についで先ず「孟子」次ぎに「荘子」今は「史記」を読んでいる。ほんの抄読で物足りないが、とりまとめ全十二章でいわゆる中国「文言」の推移には、適切にふれることが出来る。面白いし、有り難い。
もう一つは現代中国を語る『新中国人』。
夫妻であるアメリカ人ジャーナリストのN.クリストフ S.ウーダンの共著で、原題は『CHINA WAKES─ THE STRUGGLE FOR THE SOUL OF A RISING POWER』とある。一九八三年七月頃からの体験・見聞・取材に基づいている。この日付は、まだ若き法律学徒だった夫クリストフが、ウーダンとの出会いより早く、英国留学から米国へ帰郷途次に、モンゴル経由の汽車から中国朔北の古都「大同」に、初めて途中下車した時を示している。
「大同」とあるのに、わたしは先ず感慨を得た。わたしが井上靖夫妻、巌谷大四、伊藤桂一、清岡卓行、辻邦生、大岡信氏ら、また日中文化交流協会の白土吾夫・佐藤純子理事らと、中国政府の招きで訪中し、北京到着数日の滞在後に、夜行列車で、戦後初の日本人一行として向かった先が、雲崗石窟で名高い「大同」であった。一九七六年、昭和五十一年十二月初め、酷寒、だった。
あの折の感動は忘れない。そして、唯一の訪中国記念の小説『華厳』は、この大同を舞台に書いた。華厳寺の大壁画に取材した明滅亡の歴史小説であった。手だれの読み手達ほど、諸手をあげて称賛してくれた。
何度も書いてきたが、此の訪中時、中国全土の壁という壁は「大字報」つまり糾弾ステッカーで覆い隠されていた。熱烈歓迎されて宿泊した北京飯店では「昨日も」ここで「武闘」があったと聞かされた。文化大革命に猛威をふるったという「四人組」が逮捕追放されて間がなく、周恩来首相が亡くなって間がなく、遺体はまだ公然安置されてわれわれも対面した。人民大会堂では国会議長格の周氏夫人が我々を迎えた。主席は若い華国鋒だった。いたるところで高らかに国歌が放送されていた。北京だけでなく、北の大同ですらそうだった、南の杭州、紹興、蘇州、上海、みな同じで、紹興の秋槿烈士の碑の前では、一行の車に投石すらあった。我々は咄嗟に下車して碑前に黙祷し、車を進めることが出来た。
* その六年半後に、この『新中国人』の一人の著者が大同の土を初めて踏んで「中国」に接していたのだ、わたしは、わたしの初訪中後の中国史が読みたかったのである。幸いにも『文化大革命』を回顧し総括した実録ものをわたしは一冊だけ読んで、あらましを承知しているがその後のことは知らない。
二十年後の訪中では、別の国へ来たかと思うほど中国はもう変容・変貌して見えた。
驚くほど大冊だが、読み始めた印象では「中国」の中国人にとって問題点と、例えば我々日本人らにとって中国や中国人の何であるかという問題点とを、近未来向けにかなり適確に観察し予想しているように思う。しっかり読みたい。
2008 2・11 77
* どの眼鏡も役に立たなくなり、霞む中で乱視の裸眼のまま、顔をしかめしかめ機械に向かっている。
遊んでいるように思われそうだが、いま、夢にもわたしを支配しているのは、「小説」を書いているということ。美しいことも大切だが、爆裂するような人間の性根を、真新しく、書こうと。
『畜生塚』や『慈子』のままを期待しないで欲しい。しかし町子や慈子が死んでしまったのではない。いつまでも若くないだけ。
2008 2・11 77
* 一つの店が同じ場所で二十年以上「営業」している例は幾らもあるが、姿を消している例はもっと多い。
そう思うと、わたしの「湖の本」が、創刊満二十二年に成ろうとしているのは、奇跡のようだ。十巻出せるだろうかと思っていた。九十数巻になった。百巻、夢ではない。ただし「営業」とはとても。出血を堪えて「維持」「継続」というのが本当。だから「奇跡」のよう、なのである。
「湖の本」は、例外なく、すべてわたしの創作・著作・文章に限られている。一字一字、わたしの書いた文章だけで出来ている。いや妻の書いた『姑』という一作だけが何処かに含まれている。
九十数巻中の大半は、過去に、市中の有名出版社から出版され「本」になっているが、新作・新輯のも「湖の本」シリーズに何巻か含まれている。今後に予定の新作・新輯を勘定に入れると、妻とわたしの健康、気力が保てる限り、少なくももう二十巻は、百十数巻までは、出版して行けるだろう。原稿用紙でおよそ三万二三千枚ほど、たいした量ではない。すでに原稿料を稼いである未刊原稿がほかにもう一万二三千枚は在るはずだ。
三十数年の平均原稿料は、確かなところ、一枚五千円前後。出版本約百冊分の印税、そして講演、テレビ・ラジオ、対談・座談会その他出演など含めて、わたしのように、量より質(クオリティ)をいつも大切にしてきた地味な物書き生涯の稼ぎは、簡単にはじき出せる。
この数年、わたしは稼ぎ仕事から、ほぼ本気で手を引いている。蒙御免。独り、好き勝手を楽しんでいる。親の恩、家族の協力、過去の頑張り、そして、時代の幸運。おかげで、ほぼ無理なく今の暮らしが出来ている。感謝する。
但し云うまでもない上のそれらは、みな、まともな「買い手」のあった仕事である。ふつうは、幾ら書き散らしても、「買い手」はいない、のである。物書きで遣って行こう・行けると気楽に考えている人たちには、ふつうは、「およしなさい」としか云いようがない。
* 小説へ小説へ気が向いている。ながく成りそう。
2008 2・18 77
* 新しい「湖の本」の初校が、出そろった。また仕事に追いかけられる時期が来た。この寒い日々、先に、春よ来いよと願う。
三月は、早々に「憲法」について、集会へ出て話さねばならない。わたしのことだ、まともに憲法の話せるワケがない。ないならないで、少しは問題提起ができるといいが。
次いで、京都美術文化賞の選考で、そろそろ呼び出しのかかる季節になっている。二十余年。六人の選者の、一人が病気で退任され、一人が亡くなられた。一人補充されて五人になっているが、今度もう一人が補充されるのではないか。
2008 2・19 77
* 校正に余念無い一日を、多く戸外で過ごした。好天で気持ちよかった。
大きな会合には気が乗らなかった。
何が今日のわたしを捉えていたか。昨夜の映画『抱擁』と、床に就いてから読み、今日も戸外で読み継いだ小説『蕨野行』と、書き継いでいる小説と。
随分思案したが、今度の小説は、京都でなく、東京を舞台にしている。しようとしている、まだ確定できないが。京都だと、だれをどの辺に暮らさせても何の苦もない、が、東京に五十年暮らしてきても、いざとなると東京を知らない。まして近郊はまるで分からない。分からないままでは困る。
ロケーションというと聞こえはよいが、とにかく知らないところを歩いてくる、観てくる、しかない。京都なら、何一つそんな手は、いや足は、使わなくて済むのに、と、どうしても此処に迷いが出る。弱る。
2008 2・21 77
* 歌舞伎座へ行くと売店で綺麗な鈴を買ってくる。鈴の音色が好きで、つい買う。自転車のハンドルに吊している。お連れがあるようで気が晴れる。この機械の目の前に赤、白、緑の花柄で包んだような大きめの鈴がつるしてある。ときどきつついて鳴らしている。昨日はセーターの胸にくっつけ、猫の気分で家の中を歩いていた。黒いマゴもむろん鈴をつけている。
今朝はよく晴れて明るい。書庫の屋根庭で梅が花をたくさんつけてきた。物干しに鎮座してマゴは梅見のお行儀。わたしの眼は、朝からの機械原稿の点検や湖の本の校正で、霞みに霞んでいる。
2008 2・29 77
* 「湖の本」新刊の初校を終えた。これからが気ぜわしくなる。
「美術京都」対談の方も、ほぼ仕上がった。高齢の対談者だった、予定した社長でなく会長が出てみえて、うまく応答を引き出せなくて困惑した。仕方がないので、質問や独語のかたちで問題点を付け加えて、それだけは伝えようと手入れした。先方で、若い人たちがその問題提起に少しずつ応じ書きくわえてくれて、サマになった。よくなった。これも上がり。
憲法のはなしは、雑誌の方でも運動体の方ででも、活字にするというので、原稿を渡した。これも終わり。
やがて美術賞選考会の通知が来るだろう。明日は、また糖尿病の定期検診。出かける日のお天気がいいと気も晴れるが。
三月四月五月、春はいろいろある。色々の中には、昨年八月以来の「仮処分審尋」がいまだに続いていて、成り行きが、見えているとも見えてこないとも。ペン会員牧野二郎さんの法律事務所にお任せしてある。
2008 3・5 78
* あたまもからだも、ゆるゆると働いている。機械を走らせる手も、ゆっくり。
* 「湖の本」の新刊分、跋文を入稿した。
2008 3・12 78
* 湖の本の再校もツキモノもみな出そろった。タイヘン、発送用意がまだまったく発進していない。春の陣、恐慌。
2008 3・15 78
* お母さん先生は忙しい。
わたしも、波のひたひたという感じで忙しくなってきた。十八日には、また歯医者、そして近用専用の眼鏡を受け取りに青山へ。太左衛さんお招きの「偲ぶ会」も、目前の楽しみ。そしてすぐ、「美術文化賞」の選考のために京都へ行く。往き帰りの切符も予め。
連日、湖の本新刊の発送のためにも、いろいろ。からだを動かすのはいいこと。
2008 3・15 78
* 作品『墨牡丹』を読み終えたと、ありがたい感想メールが来ていた。作者には作を読んで下さったというご挨拶がやはり一番嬉しい。気を入れて書いている。気を汲んで下さるのだもの、たとえ酷評されたにしても有り難い。
☆ 墨牡丹 珠
こんばんは。暖かい春爛漫の週末、湖はいかがお過ごしでしたか。
私はこの二日間、家を一歩も出ず、静かに過ごしました。困ったことに、持って帰った仕事も手をつけぬまま、ですが。
「墨牡丹」を読み終えました。何とも清浄な、気分です。
村上華岳の絵を、また「何必館」の翳る静けさを、想い出しています。
静かですが熱くもあるので、感想を字にしてみました。作者に感想を送るなど、実は初めてです。ご容赦下さい。
*
絵を描くことを生業とせず、真の藝術を求めたそれは、息子として、夫として、父として、日々生きながら、身の中心にある小さな焔を見失わないように、目を凝らし身を削るような、修行の旅。
そんな「村上震一」を「村上華岳」にまでしたのは、「妻」だったように思います。
若かりし頃の小花や、久遠の女性であった成子は、華岳にとって、求める美しい「線」のように、瞬間身の中心の焔をゆらす風であって。けして、きつい風となって吹き消すようでなく、それでも燃えようによっては「欲」となって焔を消したであろうと思うような、愛しい女性二人。
そんな女性の気配を「妻」も感じ、すねて、ふくれて、夫にとって自分がそういう女性ではなく「妻」であることをもの哀しくも思えて、切なく。それでも共に在る生活に、華岳の体調を細々気遣う「妻」は、いつもそばにいて 描くことに苦しむ夫を陰ながら見護るという役を確かにしてゆきます。
それゆえの牡丹画になったのではないでしょうか。気がつかぬうちに、「妻」の好きな牡丹に、丹精し手間かけなくては花開かぬ牡丹に、手をかけてもらって吾の中心にある焔をそっと押し開き描いたのではないかと。
華岳の妻であればよろしいといってくれる「妻」、泣き、呻き、こもって苦しんだ華岳により添つた「妻」、なればこそ、最期ちかく、画室という清浄な空間に妻を愛することで、二人咲かせた「牡丹」を倶に味わったように思えてなりません。
もう一人、成子の最期に、華岳は自分こそがと、聴いて、すべてを受けいれ、そしてその哀しさに小さな焔をわけあたへるよう、温めた、それは、はなむけだったのでしょうか。
華岳は成子からの前年11月8日付の手紙を受けとった11月11日、自語へ鞭をあて、「この一年」への覚悟と大事なとき、を記しています。そして翌年、 11月11日に逝く。
ここまできて思うのは、成子は、華岳にとって、焔をゆらす風だけでなく、焔そのものであったのかもしれないということ。成子の生命尽き、華岳の焔も消える。華岳「震一」は、清浄なる「神知」となって、静かに穏やかに、その観音さんの画に、なるように思えます。
もう一つ、「妻」のいれるお茶、おいしいお茶を所望する夫、華岳に絵筆をおかせる場面すらあるお茶、生活感とまでは言いませんが、華岳に欠かせない大切なお茶こそ、日々を清く潤しながらその身を家におかせた大切なものだったように思えてなりません。
いつも其処にある。何かのときには、手元にある。読んでいて、お茶を飲みたくなって立つこと、何度もありました。「湖の本」この墨牡丹執筆中、作者も奥様のお茶に潤されたのでしょうか。上巻の献辞「妻に」へ、そんな日々を見たようでした。
華岳は今の時代に生きていたらどんな画を描いていたでしょう。
世を儚んで早死にしたかもしれません。筆を折って、山を歩いたでしょうか。
それとも描きつづけ、やはり真の美を求めたのでしょうか。
あぁ、でも、あの時代、だからこその村上華岳にちがひなく。
若い妻を喪った石川利治、その清貧さと画はどうなっていったのかと。
精神に集中乏しいのは、無駄についた肉のような生活全般のせいでしょうか。時代は動き、「求めない」ことすら「求め」なくてはいられないようになっていて。
ただ、単純に、静かに、お茶を淹れて飲むようで、在りたい。。。
読ませて頂き、ありがとうございました。
ながながと、失礼しました。
明日から少々きつい仕事です。この清んだなか、臨めることが、うれしい。
お気をつけて。花粉がねらっていますから。
では。おやすみなさい。
* この作を書いた頃、知己であった河北倫明さんも、小野竹喬さんも、立原正秋さんもお元気であったが。NHK日曜美術館がスタートして五回目に「村上華岳」がとりあげられて、わたしが出演した。あれ以来、國画創作協会の画家というとわたしが呼び出され、出演したり講演したりした。
恥ずかしいことを白状すると、わたしが初めて美術の雑誌から「華岳」について原稿を頼まれたとき、わたしは華岳画をまったく識らなかった。かなり弱った。だが駆け出しの若い物書きは、依頼された仕事を断る勇気が無かった。俄かな僅かな大急ぎの見聞だけで依頼原稿を書いたがひやひやものであった。
しかしわたしは一度で華岳の藝術に魅了され、それから、一克に、熱中して勉強した。そして二足草鞋を脱ぐ記念作として三百枚余の『墨牡丹』を「すばる」巻頭に発表して、会社勤めから退いた。時同じくして新潮社の書下ろし作品に『みごもりの湖』を出した。四十歳にもう少し間があった。
『墨牡丹』は、後年に「湖の本」にしたとき、百枚ほどを書き足して完成させたのである。
* 話題変わって此処に書きたいと思うことが有るが、他に気のせく用事が波立つように迫っていて落ち着かない。やはり、そちらへ気を向けたい。
2008 3・17 78
* めずらしく「二つ」併行している小説を、ジリジリと進めている。
一つは、懐かしいほどの手法で、むかしからの或る疑問に答えようとしながら、土中にめりこんだ土竜のように暗闇を、ちょっと華やかに、進んでいる。
もう一つは、あまりこれまでに例のない素材の扱い方で、一種容赦ない愛の物語になるのかも知れない。
仕上がるか、いつ仕上がるか、いまは言えないが、気は、しっかり繋いでいる。
2008 3・24 78
* 印刷所の事情から湖の本の校了、四月に入ってからでよくなり、気分らくに。
2008 3・26 78
* 発送の用意、着々。明日は眼科の検査を受けに行く。花粉で花がくすぐったくなる。眼よりはラクだ。
2008 3・30 78
* 「湖の本」新刊分を、責了紙にととのえ宅急便で送った。自転車のその足で、妻をうしろに乗せて、一転晴朗の空の下、近隣の櫻をたずねて一時間ほどゆっくり走った。何カ所でも大きな櫻満開を眼におさめて嘆声ひとしきり、家に落ち着いた
2008 3・31 78
* 発送の用意をほぼ仕上げたが、まだ二、三日分作業が残る。
2008 4・5 79
* 三時近くまで発送の用意に集中し、そこで打ち切り、着替えて、快晴のもと妻と出かける。鶯谷駅からタクシーで言問通りを西浅草のひさご通りまで。賑やかな人出のなかを浅草寺境内をゆるゆると歩き、参拝し、そしてまた言問通りへ戻って、鮨の「高勢」へ五時に。
2008 4・5 79
* 発送用意を最低必要な限りを仕上げてしまう。あとは任意にプラス。しかしこのプラス作業がなかなかの大事。
2008 4・5 79
* 黒いマゴに六時に起こされ、そのまま起きた。血糖値、105。正常値。ニュースのあと、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーの気取ったアクション映画の後半を独り観ながら、発送のための追加作業をし、機械の前へ。
早起きすると一日が長くなる。疲労や睡魔が襲わない限り、いいこと。
* 明後日、新刊の本が出来てくる。随分、間を開けてしまったけれど、それもよし。束の間の今日明日は息抜き。
2008 4・12 79
* さて、明日から新しい「湖の本」を発送する。明日に続く二日は理事会など所用で途切れるので、今週いっぱいはラクにかかりそうだ。
2008 4・13 79
* 午まえ、新しい「湖の本」搬入、午後から発送作業。九十何回目になるか。
2008 4・14 79
* 発送作業、好調に始めた。宝生流の能シテ方より週末のお誘いがあり、「加茂物狂」とあるから観たいは山々だが、やはりやりくり難しいとお断りに及んだ。何とか成るかなあという気がして、惜しい気持ち。
* 荷造りしながら、二つ、映画を「聴い」ていた。ひとつは『キー・ラーゴ』ハンフリー・ボガードと、ローレン・バコール、もう一人名のある懐かしい顔の女優も。もう一つはヒットしたという『日本沈没』。映画としては甚だ通俗かつ不出来極まるけれど、柴咲コウとかいう地味な演技派に興味を持った。
* いまから、湯につかって疲れを取る。今朝は六時前に黒いマゴに起こされ、「又寝」したが、本の搬入前に起きていた。
明日の午後はペンの理事会。午前中に作業をつづける。
2008 4・14 79
* 朝から作業。そして理事会に出かける前に機械を開いた。
2008 4・15 79
* 往きに、新刊の「湖の本」の前半をわれながら面白くまた読んで楽しんだ。
「酒が好き したみ酒古典の味はひ」
こういうのを気持ちよく書いていたときは、機嫌も上乗であった。佐々木久子さんが編集長の「酒」であった。古典にも触れながら自分の「酒」をここちよく吐露していた。
ペンの事務局に何冊か置いてきた。
日比谷のクラブで、ブランデー二杯、ウイスキー一杯、卵二つのオムレツとサラダ、エスカルゴ。機嫌良く「酒」の話を読んでいたが、帰り際に置いてきた。帰り道、『伊藤整氏の生活と意見』にクスクス笑えてきながら、保谷駅まで読み耽る。
2008 4・15 79
* 発送は一昨日に頑張ったのと昨日の発送分も用意していたので、気が楽になっている。もう今日辺り、早い人からは到着の便りがあるかも知れない。
2008 4・16 79
☆ ご本とどきました。 08.04.16 20:38 花
お忙しくお過ごしになっていたことと想います。
お元気ですか、風。
新しい湖の本(エッセイ43)、ありがとうございます。短いトピックがたくさん収められていますね。
花は、いまエッセイ4『茶ノ道廃ルベシ』を、おもしろく読んでいるところです。
連載されていた「淡交」って、茶道の世界の人たちが読んでいた雑誌でしょう。風、かなり厳しいことをお書きになっていますね。ほんとのことばかりですけど。
創作の推敲と、評論の準備読書はコツコツつづけています。
気分転換は、嵐の大野君の出演舞台のDVD鑑賞です。
普段の大野君は、穏やかにポヨンとしているのですが、お芝居のとき、豹変するところが魅力です。大野君に与えられるのは、起伏の激しい感情表現を必要とされる、極限状態にいる役柄ばかりなので(そういう役で大野君が活きると思われているのでしょう)、普段とのギャップが、とても大きいのです。
人間の魅力って、いい意味でギャップのあることかなあ、と思います。
さてさて、風は継続して発送準備がおありになるのでしょうか。
明日、花は美容院へ行きます。美容師さんが、うまくカットしてくれるといいなあ。さっぱりした髪を、いちど風に見てもらえるといいんですが。
ではでは。
* 本が届き始めたらしい。「嵐の大野君」というのが、さっぱり分からない。
2008 4・16 79
* 数十年前、医学書院の編集者だったわたしの最初の守備範囲は、看護婦、助産婦さんらの仕事であった。大勢の指導的なナースたちと付き合いがあった。そのご苦労もたくさん聞き識っている。そしていまもその頃の看護婦さん助産婦さんが何人も「湖の本」を読んでいて下さる。
2008 4・16 79
* 昼打ち出しの合間に、茜屋珈琲へ。妻は紅茶のストレートがおいしいと満悦。わたしは珍しいみごとなカップでのコーヒーに、満足。マスターに、いつものように新刊進呈。
2008 4・16 79
☆ 臘梅に再会 雀
本日ご本拝受。
なにかの記事ゆえ友人が知らせてよこした「サライ」が、「臘梅」の号でした。知らずにいたらよかったと(連載を見遁していたことに=)打ちひしがれたことをおぼえています。まさかのアリガタヤマ。嬉しいです。
夜になって一段と雨音が強くなってきました。おかわりございませんか。
昨晩から冷たい雨が手荒なまでに、散り花を打ちたたいています。いっそきれいさっぱり気も迷わず、好きな空模様です。今年は寒さがいつまでも芯に残って、雪の五個荘行き以降、ちんまりとこもりきり。晩秋、遅れに遅れた韓流の風が雀をうち、いまだそれが影響しています。
1622年に廃された朝鮮王光海君のテレビドラマ「西宮」で、たまたまモーニングショウから点け放していた画面に、「壬辰倭乱のあとこのかた」という字幕が映し出されたものですから、なんのドラマかと目を向け、毎朝努力して、そして楽しみに見続けました。
両班、册封、事大慕華、儒教国家内での差別、僧の位置、義兵など、風俗も含めて、活字だけではわからなかったことにずいぶんヒントを得ましたし、女性が文字を書く場面がほとんどなかったことから、ハングルについて知る機会にもなりました。
そして数年前に熱中して見ていた台湾製のテレビドラマが、徽宗と寵妃のストーリィだったこともわかって、日本と朝鮮が漢人王朝や非漢人王朝とどうつきあい、互いにどうしてきたのかと歴史の切り方つなぎ方を教わって、あれからこれへ、それからこれへと調べ始めたら、「世界史」のお勉強のまるでやり直し。いまもまだそれにひたりきりなのです。
こころのうちで話しかけているばかりで、ごめんなさい。
なにかとイギリスが、ナポレオンがかかわってくることと、西郷の征韓論が通っていたらどうなっていたかというのが、気になってきています。ひとまず近況のおしらせ。 囀雀
* 雀さんは、健在。この旺盛な関心と好奇心と探求心。知り合った初め頃には、こういう精神性のつよい人とは想像できなかった。あきらかにお見逸れしていた。この人の「おっかけ」精神はまっすぐ伸びて、いつも清新。いつまでも持続。敬服する。
☆ ありがとうございます 2008 年04月17日 23時18分 淳
ご本、本日届きました。
お心配りくださいまして、ありがとうございます。
最近加藤周一さんの文章を読んでいて、「桜」の日記と同じような趣旨のものを見つけました。
わたしなどが「同じ」などと言っては、加藤氏に失礼でしょうが、
氏の文章によると「論語」の中にも同じようなことが記されてあるようです。
読書の悦びというのは、私よりもずっとずっと大きな方々と、細い紐帯であれ、つながることができるところにありますね。
同時代の湖さんへと架かる実際の橋があることは、私には大きな喜びです。
大切に読ませていただきます。ありがとうございました。
歌舞伎座の観劇記録も拝見しました。
熊野はやはり能なのでしょうか。
最近は玉さまの思い(理想)と、受容体としての客席との間に、意識のずれが出てきてしまうのでは、と思ったりします。(僭越ながら)
勧進帳、見たかったです!
楽しく拝読いたしました。
こちらもありがとうございます。
それではおやすみなさい。
お体おいといください。
* 「熊野」が観たかったのに都合で行けなかったと残念がっておられた。代わりに観てきましょうと云ってあった。「玉さま」へのかすかな懸念は懸念としても、旺盛な演劇人である玉三郎の探求意欲は、冷めないでほしい。
しかし、今のうちに玉三郎の「歌舞伎」を観ておきたいという欲は深いのである、わたしには。たぶん多くのフアンも同じだろう。
☆ 湖の本 春
本日、楽しみに待っていたご本頂戴しました。
「エッセイ」に括られていますけれど、小説として読みたいような味わいの、不思議な魅力を湛えて、まさに秦恒平の世界です。浅学非才の身に少し教養も高まりそうですし……。これからじっくり味わいたいと思います。
夜だから一杯、といってもお酒に弱いのでショットグラスにほんとに一杯だけ飲みながら、幸せのひとときを過ごしましょう。
ありがとうございました。
2008 4・17 79
☆ 「観劇の記」,ありがとうございます。 麗
伯母の葬儀のために上京した際,3月公演・昼の部を見る機会を得ました。「藤十郎と団十郎夢の初競演」を,大阪と東京,2ヶ所で見るという,得難い機会を得たわけです。
それよりも,その場で知った4月公演の『勧進帳』の方に,心惹かれました。しかし,最果て住まいではそれも叶わず,その場で諦めました。
ところが,思わぬところで臨場感あふれる観劇の記を拝読することができました。重ねて感謝申し上げます。仁左衛門の弁慶に玉三郎の義経,そして,勘三郎の富樫など,意外性は大当たりだったようですね。嬉しくも残念。
ところで,出講している札幌市内の短大で,研究図書を購入してくれるというので,『湖の本』をお願いしたところ,70冊以上購入していただけました。今年はことに出講が楽しみです。
* ありがとうございます。「湖の本」刊行維持もなかなか容易ならぬおりから、嬉しいおはからい、感謝申します。 湖
* 今日の発送分をいま送り出したところ。
☆ 秦(=恒平)さんの私語の刻を読んで 2008年04月18日17:01 玄
今日、湖(うみ)の本エッセイ43『酒が好き・花が好き』が届いた。
本文を読む前に、巻末の「私語の刻」に目を通して,日本国の現状を憂える秦さんの真情が心に沁みた。この優れた「憲法論」をできるだけ多くの人に読んで欲しいと思う。(この本は、「湖の本」で検索してアクセスすれば、手がかりが得られます)。
2008 4・18 79
☆ 湖の本エッセイ42 拝受いたしました。有難うございます。
興味をそそられる内容のよう、楽しみに読ませていただきます。
毎日 追われておわれて生活しております。絵のほうも追われる毎日で生活の中心にはしていますが、以前のような長い時間取り組めません。すぐ疲れてしまいます。これが年齢なのですね。この年齢にならないとわからないことも都度都度ございます。
時にはおばあさんもしなければならず 娘にもならねばならず 悪妻はまいにちですし、自分のからだをいたわりながらの生活をしています。
体調はいかがでございましょうか? ご健康を祈っております。 郁
☆ 京都 のばら です。
新しい「湖の本」届きました。いつもありがとうございます。
「花が好き」、早速いちばんに、薔薇、次に椿を。
先日、平岡八幡宮を訪れました。境内は二百種もの椿が咲き、花の天井の特別拝観もされていました。宮司さんのお話も趣きがあって、よい時間を過ごしてきました。
地蔵院の散り椿も今年は満開に出会えました。
桜の影でひっそりと咲いている赤い藪椿も好きです。
今日は美容院で髪を染め、すっきりとカットしてきました。
又、肌寒くなりました。
お元気でお過ごしくださいますよう。 従妹
2008 4・18 79
☆ ご著書拝受 東大教授
秦恒平様 ご無沙汰しております。
このたびは「湖の本」をどうも有り難うございました。下戸のわたくしには羨ましいことばかりで……(笑)。
それにしましても、一時お体を悪くされたような噂を聞きましたが、お元気なご様子で、安堵いたしております。
一言御礼のみにて。 拝
☆ 秦さんへ こんばんわ 笠 chiba e-OLD
ごぶさたしております。秦さんのページは拝見しているので、こちらはさほどにも思わずに過ぎてしまいます。相変わらずのお元気振りによろこんでおります。
湖の本 エッセイ43 『酒が好き・花が好き』うれしく拝掌しました。酒飲みがうらやましいです。
さえない話ですが「八手」の思い出: セルロイドの下敷きの角にキリで穴をあけ、八手の実を一つとってその茎? を穴に通してひっばると、丸い頭がとれて遠くへ飛んで行きます。国民学校の頃授業中にそれをやったら、先生にひっぱたかれて廊下に立たされたのを思い出しました。
今日は、ほんのお礼? に作品? をひとつご覧ください。「瑛」さんのおかげで出来たものです。
http: //www.cc.rim.or.jp/%7Ekatsuta/a/a.html
ほんとにいい季節になりましたね。たのしみですね。
なるべく元気に暮らしましょう。勝田拝
* 「笠」さんの「アイヌの舟」と題した動画が、すてき。心より感謝。
2008 4・19 79
* 昨日は疲れもしていてぼう然と暮らしたが、今日はもう少し発送の仕事をつづける。
2008 4・20 79
* よく晴れて。息抜きに、日盛りの下を歩いてみたくなる。
☆ 秦先生 「湖の本」拝受。 英 新聞記者
ありがとうございます。
日曜のきのうも仕事、きょうもくたくたになって先ほど帰ってきましたが、いただいた本を手にすると、うれしくて、かなり元気がでました。
「酒が好き・花が好き」の「酒」の字につられて、さっそく、表紙をめくった次第…。
「ちろり」といえば、
すぐに思い浮かんだのが林芙美子の絶筆になった「めし」の中に出てくる、
「錫のチロリ」。
なぜ、
そんなことを思い出したかといいますと、このちろりの出てくる場面が、道頓堀の「くいだおれ」の店内なのです。
東京でも報道されているかどうか、60年の歴史を持ち、紅白の衣装をつけた人形で知られる、この「くいだおれ」が7月8日に閉店するというので、
関西ではけっこうな話題になっているのです。
下世話なことですみません。
なにか、
このようなことを書いていたら、肩の凝りも少しましになったような気もします。
いい香りがしそうな先生の本を脇に置いて、ほんわかとした心持ちでパソコンに向かっているためかもしれません。
まずは取り急ぎ、御礼まで。
* 妻と、道頓堀松竹座へ、まえの鴈治郎を観に出かけた日に「くいだおれ」に入ったように思う。阪神が優勝すると此処からフアンが堀に跳び込むという橋もそのとき見たか。それから御堂筋を歩いたか、と、うろ覚えなほどわたしは大阪をあまり知らないが、あの日の道頓堀の印象はのこっていて、「くいだおれ」が無くなるらしいと言う報道にもかるく目をむいた。
2008 4・22 79
* 新刊の、湖の本に、梅原猛さん、馬場一雄先生、松尾敏男さん、高田衛さん、小山内美江子さん、坂本忠雄さんら、そのほか大勢から、どっとお便りが届いて、紹介しきれない。金澤の金田さんからは、お酒「能登誉」を頂戴。恐縮、感謝。
大岡信さんからエッセイ集『人類最古の文明の詩』を、三好徹さんから幕末長崎物語『侍たちの異境の夢』を、今井清一さんからは「日本の百年」シリーズから、担当された5『成金天下』6『震災にゆらぐ』二冊を、頂戴した。
三好さんの本と今井さんの本と、以前に色川大吉さんに戴いた自分史『若者が主役だった 一九六○年代』とは、一流れに、日本の近代現代史になる。さまざまに色を塗り重ねるように、繰り返し、目を、思いを、そそぎたい歴史が此処に在る。
* さて酒の好きな人、花の好きな人、いろいろ。茶が好き、繪が好き、人が好き。エッセイ集から溢れて山盛りになっている文章で、まだ何冊も楽しんで編めるが、その間に、小説の新作が併行してじりじり進んで行く。
そろそろ、年譜も。年譜だけで何冊にもなる。まずは「作家以前」を用意している。
* ほとんどわたしは世離れて暮らしているが、さりとて隠遁はしていない。隠れも遁れもせず、世離れたまま精神は活動し活躍していたい。
酒を飲んで花を愛でて、世を歎いてなにか役立とうと思う。
自分がそうしようと、そうしているのであり。人にも世にもなにも強いられていない。
2008 4・23 79
* 参議院議長の江田五月さん、日共中央委学術文化員会、もと「群像」編集長で作家の大久保房男さん、東大教授上野千鶴子さん、代議士で俳優でペン理事の中村敦夫さん、染色・陶藝の三浦景生さん、ハードボイルド作家の中島信也さんら、大勢が新刊の「酒が好き、花が好き」に和んで一息をついて下さりながら、「あとがき」に入れた憲法感想にも満腔の共感と賛同を寄せて下さる。
この二年ほど、厳しい緊張と一歩もひかない姿勢を保ったまま「湖の本」を編み続け、みなさんにもある種の疲労を強いていた。支持と激励とはありがたいことに少しも絶えない退かない中で、今度のふたつの連載エッセイは、ひとも、われも、思い安らかにあれたということ。
緊迫も強迫もじつは引き続いている、が、わたしにできることは「今・此処」に一期一会をやすやすと生きることでしかない。
ありがたいことに、次の一冊も経費的にまた出版可能になった。
* 熊本県の知事が月給から百万円を削減したという報道。手取り収入は月額十万円を割り込むとご本人が話していた。蓄えを取り崩して生活します、と、この人は最近まで東大法学部の教授であったそうだ。
わたしの月収入も、もう二年まえから十万円を割り込んでいる。蓄えを取り崩して生活している。金になる仕事をしようとしないからだ。しようしないから、来なくもなる。日限にせまられる文債をかかえなくて済む。幸いこれまで受給の年金を手つかずに置いていたし、また東工大教授四年半の給料にも手をつけずに来られた。もうそろそろその辺から取り崩しつつ余生を過ごさねばならぬ。大丈夫。
湖の本は、一冊出せば次の一冊を可能にしてくれる。剰余は無いが、必要もない。赤字幅さえ大きくならなければ、出し続けられる。作品はあるのか。ありがたいことに、その心配はない。心配は、わたしと妻との体力や気力の少しずつ落ちて行くこと。防ぎようがない。
出版して、購読の読者や、また上記のような知己に励まされる冥利のよろこび。新しいもののまだ生まれてくる筆力、それらが、わたしの力である。
多年の読者の中にでも今度の「酒」の連載は見遁していた、知らなかったという人がたくさんいて、そういう新しい出逢いをまだ読者と作品との間に創り出すことが出来る。わたしにもまだ「チャタレイ夫人の恋人」のような、「抱擁」に似たような世界が書けないわけではない。ハハハ
2008 4・25 79
☆ 鴉、お元気ですか。 鳶
聖火は長野へ搬送中、テレビのニュースを耳にして、それから・・ついつい一時間半ほどNHK.BS.HIでヨーヨー・マとシルクロード・アンサンブルに関する番組が再放送されているのに気づいて、今まで見ていました。
音楽は、わたしは楽器演奏ができないので、ああ、せめて何か一つでも楽器を奏でられたらと、これはもうため息だけ、思うだけ
で、ひたすら音楽は聴くに徹します。
音楽は直接人間の内部に迫ってきます、内部に音楽に呼応するものがあります。音楽に揺さぶられて身体も動きます。
先週末、「湖の本」が届きました。「酒は好き」は初めて読むもの、「花が好き」は雑誌を何度か手にして立ち読みしていました。いずれも古典と関連して趣き溢れるものばかり。書かれた時から十余年、その年月の分だけ鴉は枯れていますか?
花を選ぶ、その基準は何でしたか、必ずしもお好きでない花についても書かれているので、(例えば菫)ふっとお聞きしたいなと思いました。、
酒は好きなのに体質的には到底酒を飲めないわたしには、酒が好きで飲める人が羨ましい限り。一昨日久しぶりに街に出て友人と食事をしたのですが、彼女は酒に強い人で、夜は居酒屋になる、その店にある焼酎の銘柄を目ざとく吟味していました。その中に
「百年の孤独」というのがあり、ガルシア・マルケスを連想しました。
南米の作家にとても興味を引かれることがあります。ホームページの「薔薇は薔薇であり薔薇である」に引かれて、ボルヘスの「薔薇」という詩を送ります。
* *
ブエノスアイレスの熱情 ホルへ・ルイス・ボルヘス初期詩集成 p49より
薔薇
薔薇よ、
歌うわれを逃れる不滅の薔薇よ、
重さも香りも持つ薔薇よ、
夜更けの暗い園に咲く薔薇よ、
どこかの園に、いつかの黄昏に咲く薔薇よ、
吹けば飛ぶ灰のなかから
錬金術で蘇る薔薇よ、
ペルシア人やアリオストが歌った薔薇よ、
つねに変らず孤独な薔薇よ
薔薇のなかの薔薇でありつづける薔薇よ、
プラトンの説く老いを知らぬ薔薇よ、
歌うわれを逃れる、思慮もなく燃え上がる薔薇よ、
到達しえぬ薔薇よ。
バイアットの「抱擁」の本、まだ入手していません。今週末また本屋さんに行ってみます。想像通り、かなりの長編で、それを支えるには著者のさまざまな力量がなければ成り立ち得ない作品なのでしょう。そして読み、読み、読むと書かれた程の牽引力があるのでしょう。
ここ暫く機械が不調で、再インストールしたのですが、まだ問題がありそうです。このメールがスムーズに届くといいのですが。
連休が近づいています。庭の藤は早や花房を伸ばし咲き始めました。牡丹も山吹も咲いています。
良い季節を大いに楽しんでください。お身体くれぐれも大切になさってください。
* ボルヘスの詩は、原語で読めば独特の「隠喩」が音楽(うた)になって、切実に受け取れるだろう。日本語では、生きてこない。
あの連載で、花はおおかた自分で選んだが、ときどき編集室からの注文があった。よく覚えていない。
エッセイにもむろん文体ははたらく。話体の取り方で文体も動いてみてとれるが、音楽性はかわらない。
酒の方はぶっきらぼうに書いているし、花の方は穏和に語りかけている、が、雑誌という場のちがいを考慮した戦略差に過ぎない。酒には酒の香と酒好きの本音が出れば宜しく、花には、一種異性への情愛のような気味が働けばいいと思っていた。「酒」という雑誌と「サライ」という雑誌との付き合い方を生かしたかった。
2008 4・25 79
☆ 読むとは生きること 瑛 e-OLD川崎
送られてきた「湖」さんの本の題を読んで榊 莫山の筆と絵を連想した。
もしこの本を読む力量が中学か高校生のときにあり、形が違ってもそのような「場」があったら、僕は文系を志望していただろう。大学も伝統のある学校と駅弁大学ができたばかりの学問の府は、新しい時代に入ったばかりであった。
湖の本 エッセイ43『酒が好き・花が好き』。
「酒が好き したみ酒古典の味わい」の書き出しになんとも艶があり、酒を嗜むといった品格がさり気なく書かれている。露伴翁を思わせる。莫山が「莫山書話」の大和八景に吉野川清流の写真付きで書いている数行を思いだす。
「紙漉ク女(ヒト)は 裳裾ヲ濡ラシ 流レル水ヲ 神トイウ」。
本は、文章は、数文字でも、また一行でも連想へのヒントを与えてくれる。
竹西寛子著『言葉を恃む』の表紙の帯には、
「言葉によって生きることこそ自分の在り方を 知ること・・・」とある。
柳田邦男の著書の題名に『読むとは生きること』というのがありますが、静かに腹の底に響く晩鐘の響きがあります。勇気づけられる。
* 「このところ全く余裕なく過ごしており、(今度の湖の本を手にし=)ホッとしています」と江田参議院議長は葉書に達筆で書かれている。「ホッと」してもらえれば、嬉しい。
あとがきには「憲法」にふれて書いたが、これにも数多い「共感」「賛同」「感服」の反響が多くて、心強い。
* 「読む」という営為・行為は、だが過剰に評価されない方がいい。読むのが楽しい、どまりでいいのではないか。「読むとは生きること」と云ってしまうと「生きる」とは何だと難儀な問を生み、答え得ざる質問の前でいたずらな論がただ山積みになる。
2008 4・25 79
* 夕方、銀座へ出て、人と会った。とくべつの用事はなかった、前に会って酒を飲みながら難しい話をして以来、十余年。
和食をという希望で、松屋の「つる家」にあがり、ゆっくり時節の話題で笑ったり怒ったり。有楽町駅までの喫茶店でもう少し話を次いでから、別れてきた。
地下鉄有楽町線でうまく座れたので、ゆっくり『酒が好き』を楽しんで、おしまいまで読んだ。笑ってしまう
2008 4・25 79
* 京都文化博物館の上平館長、前ペン副会長の三好徹さんや、懐かしい知人達からも「湖の本」に手紙が。
払込票の通信欄にも数え切れない有り難い便りが、ぞくぞくと。
ラボ教育センターからは『なよたけのかぐやひめ』に今も印税が振り込まれてきた。
舞踊家で美女の西川瑞扇さんからは、電話と郵便とで、わたしの作詞した荻江の「松の段」をまた舞わせてもらうのでぜひ夫妻でおいでをと。セルリアンタワー能楽堂は椅子席がひろやかで、いつも「金田中」酒肴の接待がつく。
日中文化交流協会からは中国出版代表団の来日歓迎の宴においでをと招状が来ている。山梨県立文学館からは芥川竜之介の特集展に招いてきていて、久しぶりに甲府への電車旅もいいなという気持ち。
2008 4・26 79
* 芥川龍之介は漱石年少の愛弟子であったといってよい。漱石という名伯楽に励まされ、駿馬は空をかけた。
東大総長になる恒藤恭は芥川の親友であった。
芥川といえばまた菊池寛と双璧であった。
芥川らの雑誌「新思潮」の先輩には谷崎潤一郎らがいて、此の二人は芥川の死に至るまぎわ、文学史に名高い論争を繰り返していた。わたしなど、断然潤一郎の論調にくみしていた。芥川の言説はやせ細っていた。そして自殺した。
書簡を中心にした甲府の山梨文学館の芥川と恒藤との展覧会は興趣に溢れる好企画である。
三浦雅士さんから、岩波新書最新刊の『漱石 母に愛されなかった子』を戴いた。漱石論は文字通り汗牛充棟でありながら、なお新たな視点から論究が展開される。人気もさりながらそれだけ有意義な余地が、襞が、まだ漱石に在るということ。その点でもさすが弟子の芥川を格別に抜いている。
芥川は時代に屈し、漱石は時代のハートを突き抜いて頭上へ出た。
* 書簡というものが、この人達の時代には文化財かのように遺った。パソコンの時代はいかにも味気ない。わたしなど悪筆ゆえに、筆技のあとへ遺らないパソコン時代をじつは歓迎して、めったに肉筆で手紙など書かないようにしているが、味気なさは免れない。
* そうはいえ、「湖の本」九十数巻、発送に当たっては読者の皆さんにわたしは自筆で宛名を書き「四文字」で述懐して、なおお一人お一人の平安を願っている。体調を著しく損じていた二回ほどを除いて欠かしたことがない。
2008 4・27 79
☆ 酒・花・憲法 慧
秦さま
とても気持ちがつらくて、久しくご無沙汰してしまいました。おゆるしください。平家物語で迷子になっていらっしゃるとか。何の知識も知恵もありませんが、思い出していただいた嬉しさに、勇気をかき集めてメールしています。
迷い道をご一緒させていただけたら、どんなに楽しいことでしょう。
新刊の「湖の本」 艶な酒、美しい花、そして締めくくりは憲法でした。不調法な私は「憲法」に反応しています。
*
憲法97条には、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」とあります。
そして、12条は、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」と言ってます。私の好きな部分です。
もうひとつ、13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。」は、二年ほど前の自民党の新憲法草案で、「公益及び公の秩序に反しない限り」と書き換えられていました。
「公共の福祉」もあいまいな概念ですが、公益などにされてしまうと、国がこれが公益だ! と言いさえすれば、徴兵でも財産没収でもどんな権利侵害でもできてしまうんではないかと、ぞっとしたものです。改憲圧力は今は少し遠のいた感じですが、防衛庁が国民的議論もなく、あっという間に防衛省になってしまったりするんですから、油断できません。
*
私は戦後生まれですが、学校で憲法の授業を受けた記憶はありません。徳育だの言う前に、学校できちんと憲法と人権尊重の教育をすればいいのに、そうすればイジメも自殺も少しは減るのではないかと思います。
ドイツは素晴らしい憲法をもっていたのに、ナチスの人権侵害を止めることができなかった・・・一国内ではそうした暴走を阻止できなかったという反省のもとに、国際的な枠組みのなかで、人権侵害を監視し、人権を守っていくために「世界人権規約」がつくられたと聞いています。「社会権規約」と「自由権規約」がありますが、締結国が数年に一度、自国の人権実現状況を報告し、人権規約委員会が審査して、見解を出すという仕組みです。
日本も締結国であり、自由権規約について第5回政府報告を提出しており、今年10月に審査が行なわれる予定です。民間からも政府報告に対するカウンターレポートを寄せることができ、私たちは、大阪市がホームレスの人たちに行なってきた人権侵害、自由権規約違反を報告したいと思っているところです。
*
ほんとうに「国民の、国民による、国民のための」憲法・法律であってほしいと願っています。 大阪・松尾美恵子より
* こういう声々がうねる輪になり波になり不屈の民意として広がりますように。
昨日の山口県補選の自民惨敗はまさしく直近の「民意」であるが、自民や公明は「そんなの関係ねぇ」という態度で硬直している。
民意を受け容れない主権在民では、看板に偽りありというしかない。「天の声にも変な声がある」とは現福田総理の父・元総理の「変な声」であったのをわたしは忘れない。
こういう硬直した手前勝手しかいわなくなれば、ものごとは変わりようがない。情況に慣れて、いや狎れてしまって、国民は腰が抜けたたまま立てなくなっている。
セックス、スポーツそしてまたスクリーンやショウやソングと謂った幾様もの「S」強毒に痺れきった私民は、政治への関心と手段を、権勢にやすやすと奪い去られてきた、その結果がこうなっている。しかし昨日の選挙結果は、また前回参院選挙によるねじれ国会を実現させた民意は、ようやくにやっとやっと起ち上がって、自民の失政や暴政を是正したい意向を示し始めたとわたしは思いたい。
こういう声々がうねる輪になり波になり不屈の民意として広がりますように。
* 松尾さん 好いメールを下さいました。嬉しい限りです。
年々に衰えがちな「湖」ですが、「今・此処」の気力の持続をと願っています。
平家物語では、陵辱されたひとりの「人」の行方をミステリアスに尋ねているのですが。力及ばず藻掻いています。もう少しもう少しと掻き探りながら、弱音も出ています。いずれお知恵を借りに参ります。
どうか、お元気にお過ごしあれ。 秦
2008 4・28 79
* 自分自分の暮らしの「今・此処」に、気負わず立ち向かってさらりとしていられること、どんなに大事だろう。
一、二ヶ月前の月初めの「述懐」に、
寒ければ 寒いと云って 立ち向かふ
という妙な自句を挙げておいたのに、湖の本の払込票に幾つも反応があった、好きな句ですと。嬉しかった。
2008 4・28 79
* 早起きなりの仕事や用事をいろいろこなしたが、眠い。これではうっかり自転車も乗りにくいと、腹をきめて機械の前に。
文藝春秋の寺田英視さんの電話。しばらく雑談。寺田さんと仲良しの明野潔さん、定年退職されたとお知らせがあった。そういえば日中文化交流協会理事、一緒に中国へ旅した佐藤純子さんも。
「作家には定年はありませんからね」と寺田さんにいつものように釘をさされた。
むかしむかし医学書院で新米編集者だった頃、日赤本部産院のセンセイで呑み友達だった山本笑子さんからも「湖の本」に例の電話が来て、目をまるくした。山本さんの結婚退職以来、何十年も経っているが、もしかしてお元気かと、本が本、『酒が好き』とあってはと送っておいたのが、引っ越しもされず不幸もなく無事届いていたのが、めでたい。
医学書院の同期同僚でフェリス大学から明治大学へ転じた粂川光樹教授からもハガキが来た。少し後輩だが、物書きでは先輩の小鷹信光くんも懐かしい手紙をくれた。
今度の本はだいたい誰の目にも無難に親しんでもらえるので、転居や何かでの返送も気に掛けず、たくさん送り出した。北海道釧路でリハビリ療養中の「昴」さんの新しい宛先にはうまく届かなくて、宅急便は戻ってきたが、郵便切手に貼り替えて今日送り直したのがうまく着くだろうか、心配。
2008 5・2 80
* 今度の「湖の本」は、ま、総じて受け容れてもらいやすい本なので、昔なじみにもかなり贈った。大阪府で人権擁護委員をしている人からも絵手紙の自著にそえて手紙をもらった。東京霞ヶ関法務省での会議に出た写真も添っていた。それはそれでよろしい。
が、わたしが日本ペンクラブ理事であるのを、そこまで「のぼりつめられて」と手紙で慶祝されているのには、正直のところ閉口した。イヤな気分であった。
肩書を評価し、ましてそんなものを「のぼりつめた」地位かのように本気で祝われては、居心地わるいこと夥しい。そんな価値観から人の「人権」がどう扱われるのか。肌寒かった。
2008 5・5 80
☆ ロシアの風景 2008年05月06日22:46 淳
またまたテレビの話で恐縮ですが、日曜美術館で東山魁夷の展覧会についてやっていましたね。
魁夷は青を貴重とした作品(の多さ)で知られていますが、その青い作品のうち、北欧を旅した直後に描いた風景画が印象的でした。
以前にもその絵を見たことはあったのですが、「北欧の白夜」についての解説を聞きつつ、テレビ画面に映るその風景画を眺めていて、ふと私は思い出したのです。
異国の風景を。
*
10年ほど前のことですが、ロシアを経由してドイツへ行ったことがありました。アエロフロートのひどくせまい座席に運ばれる長旅。
トランスファーというのか、モスクワで一旦飛行機を降り、そこで一泊して、翌朝再び飛行機に乗り込む。
当時ロシアは民主化の第一歩を踏み出したばかりでした。
空港で4時間以上待たされ、連れて行かれたホテルはずいぶんひどいところだった。壁紙はところどころ剥がれ落ち、浴室のシャワー口からは赤錆びた水がじょろじょろといつまでも流れました。
3人分の料金を払っていたのにも関わらず、私たちの部屋にベッドは二つしかなかった。(英語があまり通じず、面倒くさくてそのまま寝た。)
翌朝の朝食も、出されたティーカップにだれのものとも知れぬ口紅がべったりついていたり、ハムの一部はもはやカビているのかとも見まがわれる様相。
土地を包む雰囲気がずいぶん空疎で古びている印象で、「えらいところだなぁ」と感じたように記憶しています。
眠れない夜の客室に横たわりながら、外を走る車のタイヤの響きを長いこと聞いていました。
翌朝。
6時ごろだったか、7時すぎていたか、とにかくそう早くもない朝のロシアを窓ガラス越しに眺めて、私は遠い切なさを覚えました。
その時目にした風景は、魁夷の風景画のような静謐さと青白さによって、私に訴えたのです。
まさに異国の空気。
一日はすでに始まっているのに、時間は止まっているかのように感じられました。
遠くに広がる森林を包む、もやのような青白い空気は、私の知らない幻想の世界のようにも見えた。
朝はゆっくりと明けていきました。
*
ま、ただそれだけの話でございます。
* このお話しは、わたしにも、はるかに遠い物思いをさせる。
ホテルのひどさは想像がつく、が、わたし自身の実経験はこうまではなかった。それどころか、モスクワでもレニングラードでもグルジアのトビリシでも、招待客だからか、いつも豪華に落ち着いたホテルで、三人の連れが一部屋ずつ用意されていた。
わたしが感じるのは、ここに書かれたロシアの「風景」である。じつにこういう「感じ」だったと、いまも思う。わたしも、作家の高橋たか子さんらと三人で旅したのだが、帰国してすぐ持ち上がった初の新聞小説に、ためらいなくこのロシア旅行を、全面的に取り込んだ。わたしの旅のよろこびも、ものあわれも、あまさず表現されている。しかも民俗学や神話を駆使し、日本列島とシベリア・ロシアの秋を。千年の時空に溶かし込んでしかも現代の愛しい幽霊との「畢生(これは講談社の惹句)の切ない恋を書いた。『冬祭り』である。一箇所も一人称を用いなかった。
2008 5・6 80
* フランス在住、演奏家の夫君と音楽活動している人の「mixi」メッセージをもらっていた。インターネットが安定して働かないので返信しかねていたのを、今朝、いま、やっと返信。
「足あと」のあった若い男性の日記に、ブラマンクへのいい言及を読んで、共感のコメントも送った。昔々『畜生塚』で、ヒロイン「町子」が倉敷で出会った画家の「青」への深い共感を書き込んだのが、わたしが作品の中で具体的な画家と作品に触れた最初だった、と思う。
2008 5・7 80
* 中西進さん、葉山修平さんらから『酒が好き・花が好き』にいいお手紙をもらった。
2008 5・9 80
☆ ご無沙汰しています。相変わらず海外中心の生活が続いているものですから。戻りましたら「湖の本」、『酒が好き、花が好き』が届いていました。あまりに楽しく、かつ納得させられること多く、一気に読み終えました。しかも、花と酒の間に巧みに「女性が好き」というエッセイも加えられているようで、一人合点ばかりしていました。
先生のご好意で、いつも只読みばかりでしたが、どうか次回から定期購読者リストに加えていただければ幸いです。
これからの2年間、日本ペンには獅子奮迅の活躍が期待されています。私自身は全くの門外漢ですが、何とかして海外における日本のスペースを拡大すべく努力するつもりですので、今後とも相変わらぬご指導をお願いする次第です。
総会でお会いすることを楽しみにしています。 ペン理事
☆ いつも恐縮です。
大兄は書くことの可能な限りを尽くし行く作家のように思いました。 ペン理事
☆ 万緑の五月。
お健かにご活躍のご様子、大慶に存じます。<湖の本>『酒が好き・花が好き』の御投恵に深謝します。先の『梁塵秘抄』『閑吟集』にも感心しましたが、このたびのものにも心を打たれました。古典への造詣が深いことはよく存じ上げておりましたが、加えて自在な思いが盛り込まれ、しばしば恍惚とさせてくれる世界でした。よい御本、ありがとうございました。 作家
☆ お元気でいらっしゃるでしょうか。
「湖の本」エッセイ43ありがとうございました。ゆっくり、ていねいに読んでおります。いつも、いかに、私は何もしっていないのだろうと思わせます。そしてこのように深く、しっかりとみつめた時に、何かが生まれるのだと思うのです。一つ、一つは、とても興味深く、考えさせられ、そして、おもしろいです! まだ半分ほどなのですが、秦様の本は、ゆっくり、じっくりよむものと思っています。 詩人
* 一日、機械をあやつって「書いて」いた。目が疲れた。
2008 5・11 80
☆ 秦さま メールありがとうございました。思いやりのあるお言葉に、しばらくあったかな思いで過ごしました。
(あの古典の物語で=)陵辱された「人」って、どなたのことでしょう。(創作に=)興味津々です。
大好きな『梁塵秘抄』を、また読んでいます。
いいなあと思いながら読んでいるとき、「私は(このウタが=)好きです」とすっと書いてあったりすると、わけもなく嬉しくなります。
いままで違った読み方をしていたのが、「ふたつ」ありました。
ひとつは341番。
吾主は情けなや 妾が在らじとも棲まじとも言わばこそ憎からめ 父や母の離けたまふ仲なれば 切るとも刻むとも世にもあらじ
このうたを私は、あいそづかしをした女が未練がましく迫ってくる男に、父母の反対を口実にして絶縁を言い渡したうただと思っていました。「あんたは、情けないわね。私が一緒になるのがイヤだと言っているなら憎らしいでしょうけど、両親が反対してるんだもの、仕方がないじゃないの。切られても刻まれても一緒にはならないわよ。」と。
もうひとつは、426番
聖を立てじはや 袈裟を掛けじはや 数珠を持たじはや 年の若き折 戯れせん
「聖を立てないものか、袈裟を掛けないものか、数珠を持たないものか。でも、それは年をとってからのことで、若いうちはせいぜい、戯れをしようぜ」と。
これだと、「はや」じゃなくて、「やは」になっているでしょうか。「はや」は「早く」かも。
あるいは、「聖を立てないのはさ、袈裟を掛けないのはさ、数珠を持たないのはさ、年の若いうちに遊んでおこうと思ってさ」でしょうか。信心は、年をとってからすればいいというニュアンスがあるように思います。
こんな読み方はダメでしょうか。
12世紀は魅力的・・・。人間は平等だと、人間はどうして知るのでしょうか。目に見える世界は全然平等ではないのに。法然は、すべての人が平等に救われなければならないから、阿弥陀仏は誰でもできる口称念仏を正定の業としたと言っています。あの疫病、飢饉、地震、戦争の時代に日本の平等思想が醸成されたということ、不思議でなりません。どうお考えでしょうか。
福田首相が環境問題サミット用に何年後かにCО2の60%~80%削減を目標にすると、すごいことを言ってました。これって、たぶんクリーンエネルギー原発の推進とセットになってるんでしょうね。水力や風力・潮力発電ではムリでしょうね。
ほんとは、どっちが目的なんだか・・・イヤーな感じがしました。 大阪・まつお
* 梁塵秘抄から、先ず。わたしは自分の本でこう読んでいる。
* 三四一番。
★ 吾主は情なや 妾が在らじとも棲まじとも言はばこそ憎からめ 父や母の離けたまふ仲なれば 切るとも刻むとも世にもあらじ
「わぬし」は女言葉でしょうか、あなた、ですね。「わらは」は女言葉です、わたし。
あなた、情ないこと言わないでちょうだい。このわたしが別れましょとか、一緒に住まないとか言い 出したのなら、そりゃ憎いでしょうよ。でも、そうじゃないのよ。お父さんやお母さんが仲を裂こう となさってるだけ。わたしは、身を切られても刻まれても、あなたから離されたら、生きてなんかい ないわよ ──。
こう読めば、時代を超えた、これで、今どきの歌謡曲の歌詞にも巧くするとなりそうなくらいですね。
「わぬし」「わらは」と、この辺は、もうぎりぎりいっぱい「個人」が顔を出してきていて、私的な述懐を、私小説ふうに歌詞に表現しているのが巧い。「情無や」「憎からめ」「世にもあらじ」などと、この若い同棲者たち、どこか、ナウく、そして純情に、あなたは感じませんか。
* 親の反対を口実にしたあいそづかしの「だまし」とは読まなかった。「父や母のさけたまふ仲なれば」を挿入句に、これに多くの事情を籠め、男からの歎き節を和らげ、一貫してゆるがぬ女の優情と真情を酌んで無垢の感銘を得た、わたしは得ようとした。甘いか、な。どっちの女が好きか。わたしの場合、それで、決まる。いっしょに死ねるほどの人をわたしは小さい頃から求めていた。
歌舞伎の舞台にも、よしない「あいそづかし」ゆえに、妖刀の籠釣瓶に斬られる花魁始め、何人もがあえない惨劇を招いていた。意地悪は男であれ女であれ、感動に結びつかない。「謡ひ」「謡ふ」嬉しさに、あまり似合わない。
* 四二六番。
★ 聖を立てじはや 袈裟を掛けじはや 数珠を持たじはや 年の若き折 戯(たわ)れせん
歌っている中身は、むしろ簡単なんです。聖をとくに修験者と限ることもないでしょう。ともあれ禁欲の聖ぐらしをとおすことなんてするもんか、袈裟なんて着るもんか、数珠も持つものか、年の若いうちはさんざ色恋を楽しみたいよ、という宣言。
この歌を、あの「鵜飼は可憐(いとほ)しや」という「うた」の、「現世は斯くても在りぬべし、後生我身を如何にせん」という嘆きと一対にして眺めたい。「遊ぶ子どもの声聴けば我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」と幼な子の姿に涙をためた大人、親、老いたる古代に対して、あの嬉々と遊んでいた無邪気な子ども、新しい時代、中世は、もうはや、こんな「うた」を歌う若者にまで成長してきて、さらに、古き過ぎゆく世代をはらはらさせたことでしょう。そう思って読み直しますと、いかにも若い世代の声ですね、これは。
聖を立てじはや 袈裟を掛けじはや 数珠を持たじはや 年の若き折 戯れせん
「はや」という舌打ちとも嘆息とも非難とも聞こえてくる言葉にならない言葉の、批評!
* これらの「はや」は、「~なんかするもんか」という激意の表白、すてぜりふともなる意思表示の接尾語と理解している。後の閑吟集に至って、「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」と極まる思いの前蹤と受け取っていた。
「湖の本」版 梁塵秘抄、閑吟集がさらに世に浸透してくれると嬉しいのだが。
「まつお」さん、ありがとう。
* 「あの疫病、飢饉、地震、戦争の時代に日本の平等思想が醸成されたということ、不思議でなりません。どうお考えでしょうか。」
* わたしには「当然」に思われるが。下降史観を強いられ続けた日本で、それが極限へ来れば、恨みがち、歎きがちに切望されるのは「なぜ平等ではないのか」という呻きに裏打ちされた革命志向になる。しかし政治的に革命のエネルギーを持たない日本の人たちには、信仰という「抱き柱」は、それしかない幻想として魅惑の吸引力をもった。安定して幸福な人は、平等など意識もしないで我が世を謳歌するのが人の世の「常」なのでは。「無常」の思いは多くの場合極度の不幸の自覚にひきがねを引かれてきたように思う。
* 福田総理のCO2 削減案でサミットをリードしたいという魂胆の根には、かなりしぶとい「だまし」のからくりがすでに用意されていると、わたしも疑っている。ただの大風呂敷でなく、ほかに大きな犠牲や負担やひずみを強いながらの表面づくろいである、と。
2008 5・12 80
* 国際ペンの堀さんにも、明大名誉教授でむかしの同僚粂川君にも、その他何人もの読者からもいわれた、今回のエッセイ『酒が好き・花が好き』には、はからずも中に「女が好き」の風情や情緒が匂い出ていると。ただしハッキリ云える、「女は嫌い」でもある。自分自身は、もっと「嫌い」である。無条件に人間が「好き」と思えたこともない。ただしこれもハッキリ言える。人間は好き嫌いに関わりなく「おもしろい」「興味深い」と。
2008 5・13 80
* 政治家や役人や企業の責任者たちが、マイクをむけられて、「その件は只今係争中なので、コメントを差し控えます」と答えるのを何度も聴かされている。あれを聴いて、もっともだと思った人は少ないだろう、大方は体の良い逃げ口上に使っているのが「見え見え」である。
そもそも、係争中のことにコメントしたり発言したりしてはいけない、どんな正当な理由が在ろう。
むろん管掌大臣や総理や政党幹部や大団体の管理者などに無造作に「口を挟」まれては困る、が、ふつう、裁判所が、一般のそれに「左右される」など考えられないし、係争中の事案に対し関係者が情理を言い立てて明瞭に発言してきた例は、有る。
いま、わたしや妻がおもしろく読んでいる『伊藤整氏の生活と意見』は、あの有名な「チャタレイ裁判」の真っ最中に「一被告」として書いて公に「連載」されていた。裁判の経過に対し、関係者や弁護人、検事等の実名もあげて、発言も表情も感想も、ことこまかに書き記されていたりする。辛辣に戯画化もされている。「猥褻文書の公布」という罪状で起訴されている伊藤被告当人に、何の負い目もなく信念あればこそ、言いたいこと、言うべきことは言うているのである。係争中だから言ってはいけない、法的・道義的な制約があるとは思われない。
* 確かに先にも云う「係争中のことなのでコメントしない」ことが、影響上・責任上ぜひ必要な立場の人は、必ず、いる。
しかし、一私民である当事者が、自身の信念を口にしものに書いて、何の悪影響があり得よう、また何恥じることがあろう、それの出来ない方がよほどおかしいのではないか。
* わたしは、「mixi」の自身の登録プロフィールの中から、娘の実名と婿の実名とを、当人達の裁判所を通じての強い希望で、「●●●」「★★★」と、は置き換えた。
強い希望の理由が、だが、正直わたしには理解できない。どう部分的に伏せてみても、法律的にも行政的にも戸籍的にも、娘・朝日子はわたしの娘であり、娘の夫はわたしの孫達の父である。結婚披露宴で大勢にそう披露もしたではないか、当人達も。娘から何度も聞いたわが家の笑い話であるが、この婿殿、なにかというと「作家の秦恒平の婿です」と、聞かれもしないのに自ら名乗っていたというではないか。
公人でもある立場上、親戚に至るまで関係者の氏名を問われる例は、いろいろ有った。これからも有る。部分的に伏せ字などして何の役に立つのだろう。何故そんなことを、して欲しいのか。
つまりは、「検索」で引っかかるのが具合い悪いのだと言う。
昨今はコマーシャルにもポスター広告にも、よく「検索」が出てくる。インテリも学生も主婦も子どもも誰も彼もインターネット」の「検索」に夢中である。便利でもある。実の父や実の舅から、「損害賠償」をとろうという裁判の、夫婦揃って原告」であるなんて、あまり名誉なこととは見られないだろう。
わたしは、彼らの「被告」にされても、なんら恥じ入ってなどいない。
わたしには「係争中であるからと」警戒したり懼れたりする何の理由もない。
* それはそれ、そもそも「仮処分審尋」中に、わたしが数多く示した「自発的な配慮」は、いうまでもなく「本訴」といった愚な事態を避けるためであった。構わず「本訴」に入るなら、「原状にすべて復帰」した上で逐一検討し「争う」というのが当然だろう。多大の配慮に関わらず「本訴」に★★夫妻が踏み切ったのは、わたしの気持ちを一方的に踏みにじったに等しい。
* 現在、わたしの「私語の刻」では、朝日子婚家の姓・夫★★★の姓名は、ことごとく懇望を入れて「★★★」「★★」「●」の「伏せ字」にしてある。何故の懇望かは措いて、せっかくの希望にわたしが応じておいたのも、親子で、被告・原告といった不穏で不適当な事態を避けたかったからである。
「本訴」になるなら、「すべて元に戻します」とは、代理人にも繰り返し申し伝えてきた。
* 「書かれた」から名誉毀損と言うが、此のわたしにウエブ上で何かを「書かれた」のが気に入らないなら、法廷の法的技術上はともあれ、道義において「なぜそう書かれたか」を、先ず婿として子として謙虚に反省すべきであろう。よく気をつけて、一行としてわたしは捏造などしていないのである。物証は、ことこまかに揃っている。
* 「著作権侵害」でも、わたしは婿の書いたわが家への「手紙」以外のいかなる公的な文章も、一行として読んだことがない。
娘の書いた素人小説を、激励し褒めてもやって、喜んで自分の編輯している「e-magazine 湖(umi)」に、甘い親父とし、いそいそと掲載してやっただけである。娘は自称・女流作家としてそれを「著作権侵害」などと本気で父に「賠償」を求めるのだろうか。人は吹き出し失笑するであろう。
また、不幸な「肉腫」で、あえなく死なせた孫・やす香の、苦悩に溢れた孤独な「mixi」日記を、わたしが、自分の著作に引用し紹介しているのは、やす香のいわば遺志を、祖父として、「mixi」のはなからのマイミクとして、彼女のために心配してくれた大勢の世界へ、心籠めて「伝えた」のである。
やす香は、全面的に祖父母を信頼し愛してくれていた。傍証は、はっきりしている。やす香も、妹のみゆ希も、両親に堅く秘して、あしかけ三年に亘り祖父母との交歓の日々を喜んでいた。その動かない事実を、両親は、やす香の入院によって、初めて「mixi」やケイタイから、「機械」的に知って、慌てたのだ。
やす香の「mixi」日記等のよしない「消滅」をおそれて、「白血病」入院と知るとわたしは、妻も協力して、すぐさま「全文保存」した。その厖大な量の中から、わたしが最終的に、日記文藝『かくのごとき、死』に引用しているのは、最少の必要な限度であり、もしそれをしていなかったら、あの★★やす香の、孤独だった苦悩の極みの「死」の事情は、むざさむざと、くらやみに埋没していたのである。
* 繰り返して言う、湖の本エッセイ39『かくのごとき、死』が読み直されて欲しい。
「仮処分」がもし悪しく定まれば、今後、同題同書の出版・販売は禁じられるかも知れない。わたしはそんないわれないことも承服できないのだが、ともあれ、在庫残部(送料共、2300円)は多くない。
* ともあれ婿と娘達が父を「被告」にし「本訴」に入るというなら、此までの自発的なわたしの配慮は、すべて無意味になった。八十ファイルに及ぶ十年来の日録からまた伏せ字をみな元へ戻すのはいかにも不毛の作業であるが、本訴の裁判時にはすべて「原状」に戻っているだろう。
むろん終始一貫わたしのために代理人として万全を尽くして下さっている、ペン会員で弁護士牧野二郎氏主宰の事務所の良き指導を受け、よくよく相談しながら前途に適切に処したいと、わたしはもとより、妻も息子も、望んでいる。よろしくお願いします。
* チャタレー裁判には文壇からも錚々たる顔ぶれの弁護人が出た。もちろん専門の弁護士も。その一人の環昌一さんはもう亡くなったが、「湖の本」継続の有り難い愛読者であった。わたしの良き理解者であり、当時は最高裁か高裁かの判事であられたと記憶している。
2008 5・20 80
* また次の「湖の本」の起稿にせまられている。一冊分、スキャンに相当な手間をかけねばならない。機械のデスクトップは予定の仕事のロゴで満員。昨日、ついに「mixi」にとられる時間を省くべく、ロゴをデスクトップから遠ざけた。「mixi」日記から、省くべきは省き、アクセスも「友人=マイミク」に限定した。
省力。それは、だいじなこと。
2008 5・22 80
* 建日子が、自分も小説家、「裁判」沙汰の小説を、いつか書くつもりと書いていた。
『かくのごとき、死』にひきつづく「民事調停」から「仮処分審尋、本訴移行」へ流れこむ推移の容赦ない小説化なら、材料も理解も、用意万端もうできている。周到なフィクションによる経緯の再現と事件の批評を通した、愛孫の死を見据えた人間苦・世界苦を弛みなく表現することにも、当然ぬきさしならぬ「文藝価値」は有る。ひわひわした通俗読み物にはしない。やるからは文学として光るモノが書きたいし、書ける素材である。
「本訴」の愚を強行しないなら書くまでも有るまいと思っていたが、すでに裁判所に訴状を提出したとこちらの弁護士からは報告を受けている。一両日ないし数日の内に届くのだろう。
小説家は内なる激情の奔出をいつも待っている。
2008 5・24 80
* 婿であり娘である夫妻が、「債権者」として審尋法廷に提出し、同時に「原告」として「本訴」を求めて裁判所に提出していたらしい書類が、どさり、この九日の「審尋内容の報告」メールと前後して、郵送されてきた。様子が見えてきた。
次回審尋は、六月二十七日と。本訴状の送達は、まだ先のことらしい。
* まだ何も詳しく読んでいない、ハンパでない書類の嵩であるが、問題は、おおかた私の『かくのごとき、死』であるらしい。
この日記文学の一冊が、では、どう書かれたか。後日の証に、明らかにしておく。
* 湖の本エッセイ39『かくのごとき、死』は、わたしの日録「闇に言い置く 私語の刻」の、平成十八年六月二十二日より八月十三日に至る個所を編輯し、「死なれて 死なせて」と副題した。
その六月二十二日には、十九歳の孫・★★やす香(当時法政大学在学)が、「MIXI」日記に自身の「白血病」を公表し、北里病院に入院したことをひろく友人に告げた。(記事の文章が、やす香自身のものかどうかは、少し不審がある。)
七月に入り北里大学病院は慎重に「肉腫」と診断を替え、すぐさま緩和ケアに入った。
そして七月二十七日に、やす香は「輸血停止」されたと想える経緯(証言あり)を経て、逝去。「成人」に届かなかった。
上の日記は、祖父母その他大勢の、やす香を思う悲しみと、病況の推移とを、知りうる限り記録しつつ、発病後のやす香が苦痛に呻き続けた六ヶ月間の、また入院後の手記やメールも適切に引用して、痛ましい死への推移を日々表現しており、表現一切の焦点が、「やす香の病苦と死」への「思い・傷み」であることは、誰もが例外なく、正しく読み取ってきた。いや、そうでなかった、そう読めなかった例外は、やす香の両親だけであった。
彼らはこの一巻を、自分たちを悪し様に中傷し、理由なく攻撃した「名誉毀損」の一書であるとし、私の著書目録からの抹殺を、今も「仮処分」法廷に、さらに損害賠償の本訴法廷にまで訴え出ているのである。
* 忘れもしない、やす香逝去の二十七から数日後、涙も乾かぬ一昨年八月一日に、突如、やす香の両親・★★★(青山学院大国際政経・教授)朝日子(わたしの長女・東京都町田市主任児童委員)は、舅であり父親である私・秦恒平(作家・日本ペンクラブ理事)を、民事刑事ともに告訴し訴訟する、また、わたしの関係団体や知人に対し誹謗内容の文書を配布すると「警告(脅迫)」し、いやなら広い範囲にわたり「謝罪せよ」と要求してきた。仰天、寝耳に水であった。
理由の最たるは、わたしがウエブの日録で、やす香を「死なせた」と表記しているのは、両親であるわれわれを指さし「殺人者」だというもので、赦さないと。
失笑した。わたしは、夙に『死なれて・死なせて』という、版を重ね広く読まれた著書の著者である。また日常の言葉づかいとして「死なせた」は、日々のマスコミからも普通に聞こえてくる。なによりも、その「死なせた」という「自責の苦痛」は、だれよりも祖父母である私たち夫婦が真っ先に痛感し死者に詫びていたことで、それは大人として当然で自然の真情であった。
そもそもあらゆる経過と事情とから推して、やす香の死は、我々関係者全員にとり、たんに受け身に「死なれた」といって済ませられることではなかった。まぎれもなく「死なせて」しまったのである。
やす香は、六ヶ月にわたり、「mixi」日記に赤裸々に病苦を告げていた。大勢の友人にも知らぬものは無かった。むろん祖父母も。そんな切ない情況が「六ヶ月」続いていて、やす香両親は、六月下旬ちかい入院当日まで、まるで「知らなかった」かのように此の娘から全く「眼をはなし」たままであったことが、追い追いに知れてきた。母親自身のブログ日記その他からも、ほぼ確実に証明されてきた。あたかも「見殺し」に近い状態であったとたとえ人に指摘されても、此の両親に、弁解の道は絶たれているも同じなのである。むろん祖父母にもそれが言える。明らかに「死なせて」しまったのである。
* ★★両親の二人の娘達が、親とは「確執」ある祖父母の家に、数年も親しみ続け、孫と祖父とが「mixi」のマイミク同士であったことも、やす香の両親は、「白血病」告知の当日まで、夢にも気づいていなかった。やす香の行動には、はっきりと親への「批評」があった。
それにもかかわらず、八月一日以後、★★夫妻の父母に対する脅迫・威嚇はエスカレートし、ついには第三者も予告・予想し警戒していたように、娘・朝日子は、二十年間ないし四十年間にわたり父の「性的虐待」を含む「ハラスメント」を受け続けてきたとまで「mixi」のブログで言い募り始めた。
そんな無根の捏造は、此の日録の此のファイル末尾に掲示されてある、多年数々の仲良き写真や、婦人雑誌特集の旅の同行や、海外からの親密な交信等により全く否定され、本人もそんな「mixi」記事を自ら撤回したことを、とうに法廷にも報告している。
* 断っておくが、しかし、見られるとおり『かくのごとき、死』は、私が★★夫妻を「攻撃目的」で書いたモノでは「全く」ない。そんなことは、六月二十二日「白血病」告白から七月二十七日の逝去当日に至るどの一行を読んでも、明瞭である筈。ひたすら愛する孫娘の「かくのごとき、死」を凝視する文学者の、逸らさない眼だけが働いている。
こう編んだ意図の一つには、「電子化時代の文藝」表現として、久しい日本の私小説表現からぬけだし、「私」「私事」の場がインターネットを通って世界大に拡がり行くことを、一つの際だった事実例で報告することにもあった。新しい一つの「日記文学の提出」でありたかった。この作ではひとつの虚構もかまえていないのである。
* さ。また、新たな法廷に向けても、用意を余儀なくされる。只の義務をこなすようにでなく、作家としてさらに何が出来るかも考え考え、人生晩景のいささか特異であるのを、ただ、受け取ろう一枚の鏡のように。
2008 6・11 81
* 新しい湖の本の入稿を終えた。すこしガタついて遅れたが。桜桃忌には出したかったが。ま、それは仕方ないしたいしたことではない。読み直していて、懐かしく十分楽しめたのがよかった。
2008 6・17 81
* 京都の星野画廊が「岡本神草展」のためのすばらしい図録を送ってきて呉れた。感嘆。声も、しばらく喪って見入っていた。飛んで行きたいほど。
伊勢崎で描いている友人の画家が、京都まで車でいっしょに観に行きませんか、安全に運転しますからと誘ってくれたが、自動車の旅にはあまり気がない。窮屈。
ながいながいながい自動車での取材の旅を何日も重ねた経験がある。九州の窯場という窯場を山の奥までかきわけて走り回ったし、弘法大師のあしあとを尋ねて四国や近畿を山奥までも走り回った。有り難い旅であったけれど、自動車はけっしてラクでなかった。
汽車、電車の車窓に身をまかせた旅も、長すぎるとつらい。
京都駅発、鹿児島の終点指宿駅まで、「各駅停車」でなどというのは言語道断の苦痛で、熊本駅で音をあげて途中下車したような、わたしは生来トンチン漢であるが、概して車窓の旅は楽しい。
いま、息子とふたりで、二三日でもそんな旅がしたいなあと夢見ているが、彼の方はあまりに忙しい。
すこし元気をなくしていた小学生の息子を、日光中禅寺湖畔の宿まで連れ出して、ボートに乗ったり、借りた自転車で走ったり、裏見の滝を観に歩いたりした。
あれは『蘇我殿幻想』取材の一人旅に建日子をともない、橿原神宮を起点に当麻寺から竹内峠を歩いて越えた。京都で一泊し東寺などみた後、タクシーを使って近江湖東をひたはしりに、能登川でわたしの生母の歌碑を観たり、母の長女を、初めて会う父のちがう姉を訪ねあてたり、そして五個荘の石馬寺や知友の家を訪ねたりして、最後に東海道新幹線の終電に米原から飛び乗ったりしたこともある。
墓参りに京都へ行き、見返り阿弥陀の永観堂で静かに座り込んだり、天竜寺の庭先でわたしは疲れて畳に寝込んでしまい、しかし息子は起こしもしないでじっと待っていてくれたのも忘れない。
2008 6・18 81
* 二度目の誕生日、三十九歳になった。めぐりあわせで、太宰治の墓のある三鷹禅林寺でなく、聖路加病院に心臓の受診。ま、それもよし。ゆっくりした気分で、妻の久しい主治医、わたしもずいぶん永く観てもらっていた先生の顔を見にゆく。
雨が降らないといい。長く待っても読む本はあるし、築地は幾らでも散歩が利く。
2008 6・19 81
☆ とうどう 花
本訴なんて、ちっともよくないけれど、一つ前に進んだことで、見通しがついて、ホッ。
トントンと進みますように。
今日の花は、朝寝坊。
オリーブの鉢植えがしんなり枝を垂れてしまっていたので、雨避けのあるところへ移しました。
山椒の実の夢、おもしろいですね。
『神と玩具との間』を読み終えました。
風がそのままそこにある感じがして、その感じがあまりに強すぎて、以前は「谷崎論」として素直に読めなかったのです。今回は、「谷崎論」として読めましたし、論者である風の投影も、過剰も不足もなく受け取れたと、感じています。
「湖の本」の次は、順序をとばし、エッセイ33『谷崎潤一郎の文学』を読みます。
ではでは。
2008 6・21 81
* わァ驚いた、入稿した新しい「湖の本」のゲラがもう出そろってきた。
目次を観ても、スッキリ編輯できている、嬉しくなる。ただのエッセイ集ではない、かなり重い批評、おもしろい批評の一冊として歓迎されるだろう。
ものの一冊半分近くも音読してて校正したが、原稿を入念につくっておいたから、このまま責了に出来そうなほどキレイな酌み上がりだ。前冊の『酒が好き・花が好き』とはまた趣を変え、興味有る面白い一冊になったと自負出来る。だが、読んで、「いやいや、これだもの、秦さんは」とアキレて慨嘆されるお人も、あろうかなあ。
それにしても、この繁忙煩雑のさなか、また神経も体力も使う発送の準備がドカーンと積み重なる。
通算して第九十五巻になり、新作の小説も手元ですこしずつ進んでいる。そのまま本に出来る長編も書けている。健康さえ維持できれば「百巻到達」は軽い。もっともっと仕事が出来る。可能である。★★夫婦とちがい、わたしは裁判が趣味のようなヒトじゃない。わたしは「書く人」である。バカげた裁判沙汰に邪魔されなければ、健康の許す限りまだまだ、大事ないい読者に新しい作品が届けられる。★★も五十半ば、人生の働き盛りではないか。定年はすぐ来るというのに。一枚一枚の身を削った原稿料でひとり生きてきた舅作家の懐に厚かましい手を突っ込むような貧しい裁判沙汰などやめて、お父上以来尊敬してきたのだろうジャン・ジャック・ルソーのように時代を動かす充実したオリジナルな思想家に成ればいいのに。成れるならば、だが。
2008 6・24 81
☆ 暗がりに汝(な)が呼ぶみれば唯一人
ミシンを負ひて嫁ぎ来にけり 遠藤 貞巳 朝の一服より
おぅと声が出た。
破顔一笑。快い笑みに祝福の思いが湧く。
「呼ぶ」のがいい、声が聞こえるようだ。いじけた声ではない、貧しくとも心豊かに健康に、若い生活を倶に支え合って行こうという、気迫に溢れた「汝」の声だ。
女の、「ミシン」ひとつの愛と活気と決意とを受けて、迎える青年にも思わず一歩を力強く踏み出す気概が湧いたであろう。これが結婚だ。
「暗がり」を、人目を恥じてとは読むまい。決意して即刻に今夜から、と私は読む。そこに、「夫婦」の出発点がある。宵から朝へ。
原始の暦はそのように数えられていた。 「国民文学」昭和二六年四月号から採った。
* 件名無し、正体不明のメールが昨日から続いている。即座に廃棄。ムダである。
* 「珠」さんが京都で拾ってきましたと以前に送ってくれた木の種を、庭の土にもどしてやった。
* 私の「いい読者」たちにお願いしておきます。
* 私のこのホームページを、またも無道に全棄却されてしまわないうちに、全保存可能の方は、どうぞお手元に、しかるべく遺して下さい。「闇に言い置く私語」は、文章の改竄さえなければ、いかようにお手元で編輯して保存されてもけっこうです。原版は手元に保存しています。
残念ながら「電子版・湖の本」は、入稿時校正のままのものもあります。多くは勝田貞夫さんのご尽力で、紙の本版からスキャンされていますが、それとても校正未了がまだ多いのです。「紙の本版・湖の本」に拠って校正を全うしておきたいのですが、余力がありません。手伝ってくだされる方、よろしくお願いします。
* 私の「全文業」は、機械を実質使い始めたこの十年来のものは、ほとんど漏れなくこまかに分類し、保存されています。なるべくデータを副え、引き出しやすいように整理しています。
前世紀・平成初年・昭和期のものの主要な大方は、幸い殆どが百冊余の単行本・出版物になっていて、主なモノは、だいたい「湖の本約百巻」にも再録・収録されています。
初出本や雑誌・新聞も、ほぼ全部がたぶん漏れなく保管されていますが、一部古い新聞原稿や書評などは薄れて行きます。電子化しておきたいのですが、余力がありません。
* 蔵書は、図書館のキャパシティーに問題があり、寄贈が無になりやすく不安定なので、欲しい方にさしあげ、あとは思い切って全廃棄もやむなしと考えています。りっぱな全集やセットもの、辞典・事典類はもったいなく苦慮します。私の読者や研究者で、秦の手元にこういう本や作品(秦でない著者のもの。)はないかと問い合わせて下さり、うまく有れば、悦んで差し上げます。
* 書画骨董・茶道具は、同好の友もあり、機会をみつけて残らず差し上げて行く予定。すべて整頓し、いましばらく愛玩して処分します。読者のの方、こういう道具があるかと具体的に問い合わせて下さい。有れば、いいですね。
* わたしの著書類も、多年の必要に応じて余分に買い置いたモノがあります。ぜひ欲しいという本、幸い余裕があればよろこんで記念にさしあげます、署名はご勘弁下さい。
* けさ、また、信頼できる久しい関わりの出版人から、親切な助言と、何らかの支援を言ってきて下さった。感謝します。
* わたしは自分に「徳」があると想ったことがない。世界史的用語としてはとにかく、日本人の用いる「徳」の字を、むしろハッキリ嫌ってきた。「損はいや徳と道づれ」の処世が不快なのである。
「徳は孤ならず」という。誰の言葉であったかも覚えていない。わたしは、何度も何度も書いてきた、自分は、「不徳なれども孤ではない」と。わたしが極めつきの少数派であることは、どの世間に出てもほぼ明白だが、わたしの詩と真実は「不徳」にある。これは覚えていていただきたい。
「徳」の「不孤」とは、わたしからみれば、利益で大勢が「つるんで」いるだけ。日本では「徳」とは「損でない」「得」の意味であることは、中世の「徳政」をみれば一目瞭然、莫迦げている。
きわめて数少ないだろうが、わたしの「不徳」をかえりみず親切と情義とを尽くして下さる方、わたしの謂うそういう人たちこそ、「身内」と謂うに近い。その点は、わたしに数多くの著作がある。
* 婿・★★★の謂うように、親子だから舅婿だから夫婦だから当然「身内」じゃないか、などと、わたしは成人以来思ったことがない。そんな薄っぺらい理解はない。婿の考えていたそんなことなら、子が親を、婿が舅を法廷に引きずり出し、金をよこせと裁判沙汰は起こせまい。家族内で「話せば済む」ことだ。もしそんなことなら子が親を、親が子を、夫婦がお互いに殺し合うか。しかし世間はそんな惨虐例に満ちてきている。この青山の大学教授は、ハナからすでに自己矛盾を犯している。
このルソー学徒、十数年前の「暴発」事件の時も、仲人さん一緒の話し合いに、只の一度も顔を出さず、「叔父様」にぜんぶマル投げで、面と向かい一言も話し合えない弱虫の大人であった。わたしと妻とは、一度も欠かさず事態改善のために汗みずく渾身努力したのだが、三十半ばの健康な「学者」自称の男が、「叔父様」の袴の下に隠れっぱなしだった。なんだ、こいつ。わたしは何度も苦々しく嗤わずにおれなかった。
姻戚は「身内」なら、自分で出てきて自分たちの手と思いで解決に努力すればよい。あそこで、すでに彼は間違っていた。それでいてわたしに向かい、『エミール』を読めの、自分は「リベラルな教育環境で育った」のと、ごタイソーな。論語読みの論語知らずではないか。漏れ聞いたある東大教授が、言下に舅への「嫉妬ですね」と切り捨てたという話を思い出す。
2008 6・28 81
* わたしの著書には、「死」の字を表題に孕んだものが幾つかあるのに気がつく。処女作の小説は初め『折臂翁の死』だったのを出版のさいに『或る折臂翁』と替えたのだった。エッセイでは『死なれて・死なせて』があり『死から死へ』があり『死なれることと生きること』があり、最近の『かくのごとき、死』がある。小説や評論の主なる事件や主題が死であった作は数え切れないだろう。わたしは、子供の頃からいつ来てもおかしくない死と一緒に歩んできたし、いまも、むろんそうだ。死に憧れるなどという不健康な思いでは全然ない。死は生の裏打ちであり、生は死への表現だと感じている。「死から死へ」生きている。
『死から死へ』は湖の本エッセイが第二十巻を迎えた記念の一冊になったが、同時に、江藤淳の自殺から、わたしと同じ血をわけた兄・北澤恒彦の自殺へ、数ヶ月の日々をそのまま記録したのである。表題は大勢の読者を動かした。
いましがた、巻頭の江藤淳の死を悲しんだ一日の日記を読み返した。フシギに胸は水を打って澄み切った。そのまま一片のエツセイになっていた。「日記」は文藝である。下手な小説よりもはるかに純な文藝であり創作であることを、『かくのごとき、死』でもわたしは言いたい。
2008 6・30 81
* 七月には「秦恒平・湖(うみ)の本」の新刊がまた送り出せる。通算、第九十五巻。創刊から二十二年を越えている。気息奄々、体力消耗だが、一冊無事に出ればほぼ次の一冊がまた出せる。作品は、まだたっぷり在るが、わたしも妻も疲れ切っている。これぞ「一期一冊」なので。
発送用意にもうかかっている。一気には出来ない、日数をかけて間違いなく用意して行けば、発送そのものは「労働」で済む、労働は生易しくないが。
2008 7・1 82
* 早稲田大学文藝科でわたしのゼミを一年受けた、妻の曰く「あなたの一等昔の学生さん」である平澤信一君が、もう「君」でもない立派な先生だが、『宮沢賢治 <遷移>の詩学』という研究成果一冊をはるばる贈ってきてくれた。思わず雀躍りするほど嬉しかった。教室で出逢った最初の印象も講義後の会話もわたしは忘れない。ウワァ大変、こんな連中のメンドーをみるのかと、外部のわたしをそんな教室にウムを言わさず引きずり込んだ此処の主任教授を恨めしがったほど、平澤君の舌鋒は鋭かった。新米の作家講師をつるすぐらいの勢いだった。ま、わたしはそうカンタンに吊されないが。
あの年は、息子秦建日子が早大法科に推薦入学し、わたしは「秦 恒平・湖の本」を創刊した一九八六年で、平澤君はたしか三年生だった。
あれからずうっと彼の仕事にも消息にも触れていたし、なにより彼は有り難い真摯な「湖の本」継続読者でいてくれる、今も。彼の研究は、よほど一途に宮沢賢治に集中し、新知見を出すことも度々あった。
この早稲田でのわたしの文藝科ゼミからは作家は角田光代さんを送り出せたし、評論では平澤君がこうして励んでいる。松島政一君のようなたいへんユニークな編輯と評論の活動を続けている人もいる。もっといるだろうと思う。たった二年間、手伝ったに過ぎないゼミであったが、ムダではなかった。
* 御著上梓心より祝します。 秦 恒平
平澤君 よかったなあ、めでたいことです、大きな佳い一歩が踏み出されました。多年研鑽とか執心出精ということばがこの本にこそ燃え立つように輝いている。どの一編にも君の息づかいと体温がある、それがホンモノの証拠ですよ。
折角健康を労りつつ、次の一歩へもう踏み出されていると信じます。着実に、時に大胆無比にも歩んで進んで行かれますよう、都の西北から祝意と激励とを送ります。ありがとうと申し上げる。 秦 恒平
2008 7・2 82
* 発送用意しながら、美空ひばり生涯の歌を全身で聴いていた。
2008 7・3 82
* 今日も仕事進めた。少しずつ、少しずつでいい、腰が引けずに半歩前へ。
2008 7・3 82
* 昼過ぎまで睡眠を取った。起きてみるとインターネットがアウト。それならと発送のための作業に。
ブルース・ウィリスの『キッド』を聞いていた。彼には『シックス・センス』とか謂った秀作があった。その系統の佳作であった。ブルース・ウィリスは子供が好きなのかほかにも胸に染みるいい映画があった。こういう映画も撮るんだと思う、意外な、だがしみじみと良い作であった。
2008 7・5 82
* 映画『博士の愛した数式』をとても面白く観ながら、発送の用意を続けていた。素晴らしい映画で、うまいはうまいが浅丘ルリ子の義姉だけはやや重苦しかった。深津枝理など主役の三人、子役も含めて上出来の佳い画面が、佳いストーリィが十分楽しめた。
ありのままの身内がありのままに数学のエッセンスを把握し咀嚼して水ももらさない。八時間以上は記憶の保てない博士役が自然にやった。若い数学教師吉岡秀隆も嵌り役になった。数のセンスに富んだ家政婦役深津が、魅力イッパイの知性と愛とを発散した。数も数式も美しかったが、人間も美しかった、それが嬉しい。
2008 7・7 82
* 雨であっても今日は出かけようと思っていたところへ、幸便に湖の本の再校が出そろってきた。校正ゲラがあれば、わたしは何処ででも幾らでも仕事が出来る。乗り物にいようと、食ったり呑んだりしていようと、すうっと没入できる。退屈ということは全くない。待ってましたと持って出た。大きい鞄に入れ替えたので、デジカメは忘れていったが、そうそう写真は撮らない。どんどん読めた。直しのほとんど無いいいゲラでありがたい。わたしの仕事も早いが、印刷所の担当さんもいい勝負で仕事はテキパキと早い。妻が、「ほんとうに、お互いうってつけのコンビね」とわらうほど。
* 今日は銀座へ帰って、三笠会館のイタリアンで、少し贅沢に前菜そしてパスタのハーフを三皿。なかなか名の覚えられない、シェリー風のつよいイタリア酒と、生ビール。パスタがそれぞれに、断然の味覚と風合いちがいで、美味しかった。
2008 7・8 82
☆ 湖の本、届きました。ありがとうございました。 鳳 秦先生 「鳳」です。
大学内郵便業務のため日数がかかり、ご心配をおかけいたしました。さきほど、送っていただいた湖の本を手にいたしました。先生ご自身で本を出していらっしゃることに驚きつつ、大変うれしく頂戴いたしました。お忙しいく、またお疲れのところを早速お送りくださいまして、本当にありがとうございました。
昼休みにさっそく本を開きましたところ、「肌色」のクレヨンの短歌に目がとまりました。これぞ彼が、私に秦先生の授業の思い出のひとつとして語った短歌でした。ほかならぬその短歌を一番に記憶していた彼の思いを思った日のこと、思い出します。
3冊の本、大切にして参りますね。
向暑の季節、どうぞご自愛くださいませ。とりいそぎ、お礼まで。
* 覚えていますよ、彼。 湖
「鳳」さん その学生君をわたしはよく記憶しています。教室の一番前によく腰掛けて熱心に聞いてくれました。症状のことも率直に話してくれました。きちんと佳いアイサツを書く人でした。うろっと記憶していて正確な名前を忘れているのですが、表情まで覚えています。なつかしい。
彼はどうしてるかなあと思い浮かべる彼らは沢山いますが、この人もその一人です。
なつかしい。
「湖(うみ)の本」は、エッセイの四十四巻めがもう近日に出来て、老夫婦二人で発送します。出血しごとですが、愛読者がきっちり支えてくださり、文学史にも例のない、長寿継続の「作家の出版」になっています。また見てやってください。 秦
2008 7・8 82
* 妻の手をひっぱるように銀座に移動して、並木和光店の七階で、蒔絵の服部峻昇展を観る。絢爛のバイタリティ。もう何年前になるか、わたしが推薦し、京都美術文化賞の授賞を選考会できめた。力量は有り余る。絢爛豪華な作に静謐に香る露がしっとりおりてくる日々が先に待たれる。いい展覧会であった。
ついて松屋で、田島征彦・周吾父子展を観てきた。おやじの田島さんが不在なのは残念だったが、はじめて周吾君に会ってきた。
* 松屋のなかで、銀座アスターの中華料理をおいしく食べて、有楽町線一本で幸便に帰ってきた。紹興酒の二合に気持ちよく酔った。それでも持って出た校正は進めた。
2008 7・9 82
* 発送の用意が、高い一段めを越した。
2008 7・11 82
* 夢 小説「清経入水」 序章 湖の本創刊
夢であることを知っていた。それどころか、同じこの夢をつづけて何度も見ていた。夢の中では一本筋の山道を上っていた。
道の奥に、門があった。仰々しくない木の門は上ってきた坂道のためにだけあるように、鎮まって左右に開かれていた。
門の中へ入ると、植木も何もない一面の青芝の真中に、一棟の、平屋だけれど床の高い家が建っていた。庭芝があんまりまぶしくて、家のかたちが浮きたつ船のように大きく見えた。
家の内も隈なく明るかった。日の光は襖にも床の間にも、鎮まっていた。
家の中に人影を見なかった。気はいは漂っているのに、闖入を訝しみ咎める姿がなかった。
はじめのうちここで眼ざめ、肌にのこるふしぎな暖かさを惜しいと思った。
夢の数を重ねるにつれ襖の直ぐ向うで、何人かの人声のするのを聴き馴染むようになった。優しい女の声も快活な童子の声も、訳知りらしく落ちついた年寄りの声もあった。顔を寄せ合い、日だまりにいてたのしそうに、しかしいかにも物静かに何か話しているらしい声音(こわね)を、襖のこちらで聴いた。明るさの底を揺るがす美しい波立ちが色やさしくさも流れるように、憧れ心地で僕はあたりを見まわした。
耐らず声をかけて襖をあけると、そこは、何変わることのないもう一つの明るい空ろな部屋であった。話し声は一つ向うの襖のかげにすこしも変わらず聴こえていた。かけ寄って襖をひきあけても、声はまた一つ奥から聴こえて人の姿はなかった。
笑いをまじえたたのしそうな声音はいつもすぐそこに聴こえた。あけてもあけても襖の向うは人のいない部屋だった。光が溢れていた。哀しかった。耳の底にたちまようそれは僕の存在も憧れも寂しみも何一つ関わることのならぬ、あけひろげな、談笑の幻でしかなかった。
夢はいつも虚しく佇ちすくんだままで醒めた。
2008 7・11 82
* 午後いっぱいそして宵まで猛烈にがんばり、いつもは二日半も掛ける仕事を、一日で片づけ、手順の先行きを明るくした。仕事に熱中していると不愉快なことは忘れているし、疲れず活力があった。なんだか東京都心には雷雨もあったとか、そんなことも知らなかった。汗ぐっしょりで、いま、一息ついている。妻がピアノで遊んでいる間に汗を流してくる。
仕事しながら、つい最近放映していた『ゲド戦記』を観て聴いていた。
テルーという名の主人公の少女が、アニメだが、目をパッチリの佳い顔、可愛く描けていた。宮崎父子によるアニメ化は成功した秀作とはいえないが、ま、真面目に原作に迫ろうとしていた姿勢だけは汲んであげたい。しかし読みは深くない。脚色もよろしいとは言えない。
それよりもこの一両日でいえば、、熊井啓監督、黒澤明脚本の『海は見ていた』は、清水美砂と遠野凪子ほかの女優陣も、永瀬、吉岡、奥田、石橋ら男優陣も、それぞれにたしかな人間像を彫みながら、海に近い辰巳の岡場所と台風の凄さを生かし、見応えのする映画であったし、また、
吉田喜重監督の『人間の約束』が、老耄と死と介護とをめぐって凄いほど彫り込んだ秀作であった。名品とすら謂いたいが、観ていて辛かった。三国連太郎、村瀬幸子の老夫婦、河原崎長一郎、佐藤オリエの若夫婦とも演技賞ものの徹底した好演で、堪らない感銘を覚えた。
2008 7・12 72
* 静かな心のために 二
夏目漱石作の小説『こころ』で「先生」の「奥さん=お嬢さん」は、作中ただ一人実の名を「静」「静」と夫から呼ばれている。「先生」にも「私」にも「K」にも名は書き込まれていない。あれだけよく読まれよく語られた小説なのに、この不思議な事実に言い及んだ人が少なかった。
不思議には両面がある。他の主要な登場人物が揃って「名」無しという一面と、それなのに、「奥さん」ひとりが「静」さんである一面、である。
実の名前には、IDともいわれるように、インディビデュアルな、それ以上分割不能に特定する働きがある。代名詞ではない、固有の所有である。「奥さん」「お嬢さん」など呼ぶのと「静さん」と呼ぶのとでは、印象もつよく局限されてくる。作者漱石が、一つには「先生」「K」「私」などと記号化し「普通」の存在として読者に親しみやすく働かせる一方で、「お嬢さん=奥さん」には或る特別の意義をもたせたかった、だから只一人「静」と名付けたのであろう、と、そう想わせる。
これまでの論者には、作中にも書かれている乃木大将夫妻の殉死に関係づけて「静」は乃木夫人静子に通わせたと説く人も二人三人ではなかったけれど、それを謂うなら「先生」にも希典とは謂わずともそれらしい実名をもたせることは出来た。乃木夫妻に関係づけるならその方が有効だし、漱石は自身に相当する作中人物に「ソウスケ=宗助」と名付けていたこともある。
だが『こころ』で漱石は自決する「先生」に実の名を与えていないし、「静=奥さん」は、乃木夫人静子のように夫とともに自決などしていない。
夏目漱石は、『心』を岩波書店の開店第一冊として初版の際、(この初版本には、本の、函や表紙や背表紙や扉などで「心」と「こゝろ」とを無造作なほど題名として混用してある。)広告用にと、こう書いて書店に与えていた、作者は人間の「心」を研究し「心」とは何かを究めたと。このことには後に触れるであろう。
また、希望して自身でこの本を自ら「装幀」していた。読書人なら『漱石全集』のあああれかと独特な装本を思い出すだろう、が、じつは『こころ』に限って他の作品のそれとは異なったところが在る。
表紙に、四角い窓を設け、中国の事典が載せた荀子「心」の説を「解蔽篇」から抽いてはめ込んだのである。これに初めて言い及んだのは、わたしの東工大先任教授であった江藤淳であった。彼は、だが、そう指摘しておいて先へは踏み込まなかった。
「解蔽」とは、襤褸を脱ぐ意味である。人間の心はむやみに襤褸に蔽われ本真を喪っている。襤褸は剥がねばならないと荀子は説くのであるが、その「心」の説の核心は、「虚」を説き「壱」を説き、そして「静」に至るに在った。 06.2.16
* やはりわたしは、此処から話し始めた。安心だった。
* 朝六時十五分の血糖値、96。たいへんケッコウ。
* 戯曲 こころ(夏目漱石・原作 秦恒平・脚色) 開幕冒頭部 湖の本第二巻
書き下ろし 昭和六十一年八月
以下のように場面を作る。随時、舞台に適切・印象的なシンボル・
ボードを上下させて、場所と季節を指示する。装置は極く簡素に、
各場面は流れるように推移する。
A・1 大正二年、秋。「先生の奥さん=静」が、お手伝いと二人
で暮している。小日向台町の静かな家。
A・2 1と同じ家。明治四十年代。「先生と静」夫婦とお手伝い
が暮している。
A・3 1、2と同じ家。明治三十三、四年頃に、「先生」夫婦と
「奥さん=静の母」とで引越して来た家。
B 小石川源覚寺裏の坂上の家。明治三十年過ぎた頃。「奥さん」
と「お嬢さん=静」との家。
C 「先生」の故郷新潟の家。叔父一家が住んでいる。
* 他に随時、戸外の場面が季節感のあるシンボル・ボードを添え
て挿入される。
第一幕
* 音楽…。
* 幕、あがり…舞台中央の闇に、下手へ斜めに机に向かう「先生」の、静かな姿が浮きあがる。奥を隔てて、障子二枚、真正面に立てる。
年齢四十にやや老けた感じ。白無垢 にちかいかすりの単に、素足。九月とはいえ夏の名残りの遠い物音など……。
* 舞台上手に正座して…斜めに、「先生」を無表情に正視している「K」の姿、および下手にやはり正座して解き難い微笑をうかべ、但しこれは「先生」にうち背いた格好の妻「静」の姿も浮かびあがっている。「K」は年齢不詳、質素な濃い影じみた着物姿。「静」は夏ものながら、幾らかはんなりした(外出着めく)姿で、三十にやや若い感じ。
* 「先生」…書きつぎ…また書きついで…ちいさく息してペンを置く。 目読ー。
(「先生」の声) 『…私は今、自分で自分の心臓を破って、その血を、何千万といる日本人のうちで、ただ…あなた一人の顔に浴せかけようとしているのです。さよう……この手紙が、あなたの手に落ちる頃には、私は…もうこの世にはいないでしょう…。妻は、十日ばかり前から…(この辺で舞台の「先生」は先に読み終え、書いたものをすべて机の上にきちんと揃え…文鎮を置き、一呼吸…静かに起ち…、障子をあけ…奥へ入る。照明が追う。…声は、その間も…)…市谷の叔母の所へ清(きよ)やもつれて病気見舞いに行っています。私が勧めて行かせたのです。そしてその留守に、この…長い書き置きをおおかた書きあげました。時々妻が帰ってくると、私はすぐ…隠しました。妻には、…そうです妻には何も、知らせたくないからです。あなたにはこうして話してあげた私の過去を、妻には知られたくない。知られたく…ないのです』
* 「声」がにわかに衰える…と、短い…が、すさまじい叫びとともに障子に飛ぶ血しぶき…。瞬時にうち重ねて、無表情だった「K」はくわッと目をみひらき…、「静」は笑みをひそめて水のように無表情……。
* 切っておとしたように…闇。突如…大地の底から湧く物音……と聴こえて、無量無数、言葉にならない人間の声が暗闇を大きく噴きあげる。
* ぷつりと、静謐。間髪を容れず緩急と大小ととりまぜて、ものの雫する音。その雫に乗るように、さまざまな人の声が、降るようにエコーする。エコーの間に闇は静かに薄らいで行く。
(声々)……「心」…「心根」「心意気」「心づくし」(間)…「心ひそかに」「心に余る」「心が動く」 (間)…「心がはずむ」「男心」「女心」「親心」…「恋心」 (間) 「人心」 (間) 「心が通う」「心をひらく」「心をとざす」「心…移り」「心…変り」「心にも、なく」「心を鬼に、する」(… 間…)「心…せよ」「心ない」「心の…奥」「、心残り…」「心寂しく」「心、しおれて…」 (間) 「心から」「心から…」「夏目漱石作…『こ」ろ』…… から」(舞台さらに明るんで…)
* 下手舞台の袖に「私」登場。二十七、八歳。服装は簡素。だが若々しくすこし改まった表情で、観客席へ…
私 …私は、「その人」を、いつも…「先生」と、呼んでいました…。だから、ここでもただ…先生…と言うだけにしましょう。それが…そう…自然だから、です。その先生が…、ご自分の切ない過去を私ひとりに書き置いて、…自殺なさったのです…(この間に舞台小日向台町の家になる。かなめ垣の小庭。
奥は木深い。大正二年の秋九月末、一面にコスモスの花。夕暮れて…)
* 「私」、そのまま舞台に入り、仏壇の前へ。香華。灯を入れる。黙然。
* 未亡人「静」、喪服のままねぎらいの茶を運んで来る。丁寧な、改まった挨拶。
静 おかげさまで…無事、一周忌をさせていただきましたわ…
私 いいご法事でした。思わず泣けて……。市谷の叔母さんも…ずいぷんお年齢(とし)をとられましたね。
静 はい。もとからそう丈夫な方でない人でしたけど…うちの母より長生きしましたわ。
私 ……。清やは、(家の内をうかがうように…)いつまで暇をやったのですか。
静 いいんですの、近いのですもの。使いをやったら、すぐ帰って来ますわ。
私 疲れませんか…お着替えになったらいいでしょう……
静 疲れちゃいませんけど…そうしましょうか。…私……ご相談したいこと、あるの。
私 そうですか。私も…お話ししたい事があるから、
静 じゃ…(立ちかけて)失礼して…
私 (思わず口にする…)五年…いや、六年…(茶の方へ手を出す)
静 (行きかけていたのが…)え…。なにか…おっしゃって…
私 いぇ…、先生のお留守に初めて、ここへ…うかがったでしょう。もう六年になります、ちょうど…。最初も、二度めうかがった時も、めったに出られない先生がお留守だった…
静 ご縁ですわ…
私 あなたに、雑司ヶ谷へお墓参りに出られたとお聞きして…それで追ッかけました…
静 ええ…。元気な書生さんでしたわ。
私 高等学校でした…まだ。二年の秋でしたから…二十二位か……
(注 明治四十年頃の学制による)
静 …じゃ、やっぱり…ちょいと着替えて来ますね。このままだっていいんですけどね。
*「静」去る。私、仏壇の方へ向き直る。暗くなり、燈明が揺れる。
(「私」の声)(追いすがる)『先生…』(若々しい)
(「先生」の声)(ギョッとしている)『どうして……どうして…。アトを付けて来たのですか。……』
*いちょうの樹々の墓地。シンポル・ボードが高くあがって…そこだけ明るい…。
*「先生の声」の間に、「私」は旧制高等学校の生徒に変り、墓地へ来ている。舞台明るみ…、「先生」棒立ちで私を迎えている…。
私 (ほがらかに)いいえ。、お宅へうかがったんです。お留守だったもので、奥さんにこちらへと、私が聞いて、来たのです…
先生 誰の墓へ参りに行ったか、妻(さい)がその人の名を言いましたか。
私 いいえ。
先生 …そう。言う筈がありませんね、初めて会ったあなたに。…
私 (けろりとして…)どなたのお墓があるんですか。ご親類のですか…
先生 ……(渋い顔で)友達の…です…
* この戯曲は、登場人物の綿密な年齢証明にもとづいて、それまで漠然としていた人間関係を、ほとんど「革命的」に理解し直した作として、あらわには「私」と「静」との関わりにおいて、騒然と議論を巻き起こした。この長編のレーゼドラマ(読む戯曲)から舞台用の台本をまた創って、俳優座が、加藤剛・香野百合子・立花一男らで『心 わが愛』を上演、連日超満員だった。主演の加藤さんが、たしか大きな賞を受けたのではなかったか。その記念パーティにわたしは欠席し、大いに叱られた。そういうパーティが苦手で億劫でもあったけれど、ありようはひとごとか茶飯事のように思っていた、今思うと気の毒であった。
主演の加藤剛が、進んで受け容れてくれた脚色主調は、わたしの「島の思想 わたしの身内観」であった。あの「先生」は彼の受けた遺産を、「身内」の名で私消した叔父一家を、生涯ゆるさない人だった。なにを「ゆるさず」なにを「ゆるす」か。『こころ』とはそういう文学でもある。
* 午前午後をぶちぬきに仕事して、さ、もう一時間ほどで、一つ山をまた越える。
2008 7・13 82
* 終日がんばって作業は、大きな山を越えた。湖の本、本紙を校了にすれば、そのあとにもうすこし大事な用がある。八月の夏休みを楽しみに、七月は敢闘する月だ。
2008 7・13 82
☆ お便りありがとうございます。 陽
お心遣い、ありがとうございます。
昨日、大阪松竹座へ、仁左衛門様を見に行ってきました。(奥様もロビーにずっと出ておられました)
”先代萩”の「八汐」と「仁木弾正」の二役でした。
「関西・歌舞伎を愛する会」会員の友人が取ってくれた席が、なんと、花道横の、舞台に向かって左側の最前列。
目の前で、見得を切ってくれる場所ですが、あいにく、ほとんど後ろ姿。
巻物をくわえたネズミがスッポンから消えて、すぐその後煙とともに弾正が現れました。
舞台の幕は閉まって、花道で、弾正無言でにらむ場面。
孝夫さん(このほうが言いやすくていいです)の右のえくぼが見える、黒い口の中も。袴の脇から手を入れて持ち上げるときの絹ずれ(麻?)の音・・。暗がりの中、しーんと静まりかえった客席。せりふは何もないのに、この緊張感、存在感。
私たち3人のおばさん、ぽかんと口開けて見とれていました。
籐十郎の政岡、見上げると、ぽたぽた雫が落ちているので、「汗やね」と言い合っていたら、こっちを向いたとき、間違いとわかりました。涙でした。
その日は中日のようでしたが、両脇の席はすべて、舞妓さん、藝妓さん。都踊りみたいでした。
菊之助、孝太郎、愛之助・・・若い人はみんな美しい。
夜の部の一幕だけ、幕見席で見ることができました。
”熊谷陣屋”。今度は、最上階の最後尾の席。この違いのおかしさに笑ってしまいました。
今度は熊谷の役。
わが子を討って敦盛を助ける、父として、武士としての複雑な心の描写に、私の斜め前にいた男の人が眼鏡を外してハンカチで、目を拭いているのが見えました。
私は泣きませんでした。
というのも、ストーリーがもう一つよくのみこめていなかったからです。
その一つが「弥陀六」なる人物。
「義経が『宗清』と言っていたけど・・・・え~と、これは・・・?」というような所がいろいろあって、考えているうちにストーリーは進展していって、没入する前に混乱していました。
帰りの新幹線の中で、 『能の平家物語』(湖の本エッセイ22) を読んで納得したところがありました。
『舟弁慶』で奥様が「可哀想で可哀想で」と泣き出されたというところがありました。私の今日の『熊谷~』とは大違いでした。
「敦盛」「通盛」「千手」「正尊」「舟弁慶」「小原御幸」と、改めて、そうだったのか~、私もそう思うだろうなあと思いながら夢中で読み返しました。
おかげで、岡山で乗り換え便をひとつ乗り遅れてしまったというおまけまでありました。
その、「景清」に、『突如として現れる弥陀六実は弥平兵衛宗清(悪七兵衛景清のモジリ)』とあるのに出合って、謎が解けたような気持ちになりました。
『逃げ上手』、『生き上手』の景清のこと、こんな所に出てきても、「ま、いっか」となって、いろんなことがほぐれていきました。このご本『能の平家物語』、読めば読むほど、おもしろい発見や解釈があって、興味は尽きません。
また、大河ドラマの昔、菊五郎の『源義経』の中の教経、私も『すばらしくカッコよかった』と思っていました。王城一の強弓の教経の名が、多くの平氏一族の中でもとくに印象深く、あの俳優の姿とだぶって思い出されています。
でも、私も名前が思い出せません。思い出したら、お知らせします。
* あの精悍無比の教経役は、滝田栄でしたね。『能の平家物語 死生の藝』は会心の書き下ろしでした、暑い暑い一夏かけて書きました。
2008 7・14 82
* 秘色(ひそく) 「展望」昭和四十五年三月号 冒頭
一
この四月五日、急にO大医学部の平沼教授より、丹精の著書も無事出版されたのでいささか祝盃を挙げたいが、来ないかというお誘いを受けた。版元としては恐縮の体で、むろん社命で急ぎ招きの席へ出向いたのだが、その新幹線で、私は四十にすこし前かという和服の婦人と隣り合わせた。
婦人は京都で下り、大津へ戻って滋賀里(しがのさと)まで帰るという。乗りものの中ではいつも黙って過ごすので、この時も自分からとかく話しかける事は控えていたし、相手も幸いといわゆるお喋りでなく、大津へ戻って、も挨拶代りのつつましい感じで言われたに過ぎなかった。
そのまま、私は例の半醒半酔といった心地で腕組みしていた。が、何となく、となりの人の帰って行く先が、大津といい、殊にも滋賀里といい、麗々(うらうら)と、だがどこか物憂く山なみにけぶりあった湖と重なり、穏やかな、優しい心地を誘うのだった。
京都育ちの私は奈良もさほどでなく、大阪はまして物とも思わないが、東京暮しに馴れてからも琵琶湖は流石に幼なじみでなつかしい。
もっとも今の新幹線は、南湖の端というより、もはや瀬田川の上を駆け抜けるだけで、車窓に見うるのは琵琶の鹿茸(ろくじょう)の、まだその外れの、極く限られた湖面に過ぎない。
この南湖の中ほどにある浜大津から、小さな汽船がたっぷり一時間半以上も北へ向かい、漸(ようよ)う堅田港の向うに巨大な琵琶湖大橋の橋桁を見上げる事ができ、橋の下を潜(くぐ)ったすぐ左が真野(まの)という水泳場になっている。琵琶の本体に相当する大湖はといえば、この真野の先北へ北へ南湖のおよそ十五、六倍もの広さで丹後、若狭に接しているので、大昔はこれを「遠つ淡海(あふみ)」と呼んで、琵琶の柄に当たる「近つ淡海」と区別していたらしい。
しかし、平安遷都の百三十年以前、天智天皇の六年(六六七)春、にわかに飛鳥を去って近江に都を遷(うつ)し、やがて七年の空位・称制をやめ、はじめてこの地で中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が即位の礼をあげ得たという事には、広大な湖辺の実景を求めたとか、水産の豊富に魅せられたのではなかったばかりか、大化のクーデター以来のやみがたい不安動揺が底籠もっていたらしく、しかもこのいわゆる大津京も同じ天智の十年(六七一)十二月、急に天皇の死に遭うと忽ち壬申(じんしん)の乱を迎え、わずか五年の短命の廃都と化している。
まして千三百年もの歳月を経てみれば、大津京とか志賀の都といっても、湖岸の何処に、どんな建物を具えて設営されていたのか、正確な位置も規模も実はそうはっきりしていない。何でも浜大津から湖の西岸に沿って北へ、京阪電車で終点坂本まで行く途中の、要するに今隣り合わせている人が住むらしい滋賀里や南滋賀辺がその大津京趾かと推定されているが、京域(けいいき)の四至が確認できた訳でなく、大極殿(たいごくでん)の跡さえ不明なのだから、わずか五年余で滅びた宮都が復元できるものか頭からむりと思う人も多いのである。
「いえもう、どんどんと家が建てこんで参りましてね」
「それじゃ大津廃京などと言っても」
「はい、さほどの関心もなくて。近江神宮で御婚礼を挙げる若い方も、どなたを祠ったお宮と、知らずになさる方があるそうでございますから」
「そんなものでしょうかね。――あの梵釈寺趾ってのは、あれで近江神宮からはどの辺だったでしょう」
「北の方へ三、四丁、いえもうちょっとございましょうか、たしか南滋賀町廃寺趾と書いてあったかと存じます。昔は竹薮が多うございましてね。こどもの頃でたしかにも覚えませんが、掘り返しておいでだった時分からみますと、あの台地の上にも、周りにも、嘘のように家が建っております」
「はあ。それじゃまだあそこが確かな梵釈寺の跡かどうか確認できていないのですね」
「多分、あの辺の人も梵釈寺というような呼び方はしていないかと存じますよ。ちょうどあそこには正興寺というお寺もありまして、何となく昔の都にゆかりの跡かぐらいで。県の方でも梵釈寺趾とはっきり言い切っていないようでございます」
「あそこがそうなら、これはまちがいなくあの一帯が大津京趾という訳なんでしょうが。天智天皇の霊をなぐさめるため殊さら旧都の真中に建てたといいますから」
「はい。それにしてもほんとうにもうすっかりそんなふうの面影もないようで、思えば、呆気ないくらいでございます」
「そう言えば、志賀峠の方の崇福寺(すうふくじ)の跡など、この頃ではどうなっているのでしょう」
「崇福寺――」と息を切ってその人は顔を見せながら「お精(くわ)しくっていらっしゃいますね」
どの辺からであったか、多分もう富士山も見て過ぎた頃から、何となく声をかけてしまっていた。その人も、世ばなれた話題を厭うふうはなかった。
梵釈寺といい崇福寺といい、京都にいた頃、むろんまだ結婚前の妻と、何げなしに大学での勉強を失敬してむりな山中(やまなか)越えに東山をのり越えてみたある日、思い寄らずそんな廃寺の跡へ迷い出て以来の久しい因縁なのだ。もっとも当時から「日本後紀」に弘仁六年(八一五)の四月、「嵯峨天皇韓崎(からさき)ニ幸シ途ニ崇福寺ヲ過ギ給フ、梵釈寺別当永忠、護命等之ヲ門前ニ迎フ」という記事は頭にあった。卒業論文に須恵器をとりあげる積りの私としては、嵯峨天皇らが梵釈寺で詩会を催し、大僧都(だいそうず)の永忠が手ずから茶を煎じて進めたその際、さしあたりどんな茶碗を使ったか、くらいな関心は持っていたのである。
崇福寺に就いても、梵釈寺に就いても当時まだその上の事は大して知らなかった。それより何より甘い恋に浸っていた我々は、何でもいい何処でもいい、山があれば山を上る、崖があれば崖を下りるという具合に、二人でならどうにでもどんどんやってみる時だったので、春先の、比叡おろしがまだ冷たい、かんかん晴れ上がった日、私は手ぶらで、妻の方は辞書やクセジュか何ぞと兼帯の、いかにも構わない学生らしいレザーバッグひとつ肩にかけた恰好で、いきなり白川沿いに身代不動院の辺から山の中へ踏み入ったのだった――。
名古屋を発つと隣の人は会釈して席を立ち、前をすり抜けて車室を出て行った。私はぬくもりの残ったらしい座席を見やりまた網棚の上を見あげた。どういう旅をしてきた人かよく分からない。小型の、ベージュに藍でふちをとったスーツケースが一つと、四角く結んだ風呂敷包みがもう一つ、それだけで、ワイシャツ一枚を着がえの私の荷物と並べて、棚には余裕があった。
それにしても、琵琶湖や大津の事を話しかけたのは、折から春日遅々の、ただ和やかな気分からであっただろうか。波と光と、靉靆(あいたい)たる湖上の微風とが心のうちをよぎっていたのだろうか。
近江の海 夕浪千鳥
汝(な)が鳴けば 心もしぬに
いにしへ思ほゆ
こんな歌も口に想い浮かべてみながら、私は別な事を考えていた。
二
堅田の当来寺を訪ねたのは二月末の或る夕暮れであった。所詮は宿をとる気で腹を決めてしまうと、折から琵琶湖を染めた夕日が刻々と薄墨色に溶き流され、沖へ沖へ夕やみの拡がる景色にも眼が離せなかった。雁こそ渡らないが、伊吹山、三上山、沖の島が波の涯てに影をならべ、顧みに比良の峯が大きさを増して、はだら雪がまぶしかった。
教えられた道を辿って、山手の、水の音もする小路を登りながら、私は、当来寺が本当にあるらしい事がふしぎでならなかった。
* 三十八年前になる。この作を書いていた頃、わたしは「客愁」ということを頻りに思っていた。この世へ客として旅してきたモノの底知れない寂びしみを思っていた。そんな題さえ考えた。のちのちまでもこの作を激賞してくれたのはわが友・馬場あき子さんだった。
2008 7・14 82
* 今日、妻に頼んですばやく湖の本の責了紙を印刷所に送れたこと、それあって、そのあとの脂汗の滲む仕事にもよく堪えられた。しっかり足を踏みしめて、明日への今・此処に瞑想しよう。
2008 7・14 82
* 三輪山 「太陽」昭和四十九年十二月号 冒頭
京都の秦家に貰われてきたのは三つか四つの頃だという。元の姓は忘れて久しく知らぬままだったが、曳田と書いてひけたと訓むのが生みの母の姓で、父は朝倉と、高校時代に人に聴いて知った。教えたのは同じ町内のいい年をした大人で、その男は当時何かわが家と大揉めの最中だったらしく、私が実は貰ひ子と暴いて親の方を困らせる算段だったが、噂する者ならどこにもいて、幼稚園の時分にはもう「おまえ、貰ひ子」と近所の子に囁かれ囁かれて知っていた。
曳田と朝倉は分ったが、自分がどちらの姓を名告っていたか、多分向うも知らなかったのだろう、それで、ある日親と些細な口論の際、唐突に、すこし意地わるく、自分がこの家へくる以前の苗字はどちらだったか教えてくれと切口上で喋ってしまった。両親とも顔色を動かし、父は観念したように「ひけたや」と答えた。母は涙をこぼした。私はいっそ陽気にその場を切りあげ、その後わが家の空気にとくに変化はなかった。
曳田は変だ。朝倉の方がすっきり響きもいい。それに父でなく母の姓を私が名告ったことや親二人が別々の苗字でいたことに、陰気な疑問は感じた。但しその種の不審は押し殺すすべも、幼稚園の昔から覚えていた。「二人ともとっくにお死にやしたんやさかいに」という弁解がましい母の呟きも、そう信じておく方がいいと私は分別した。
京都をはなれ、結婚し就職して東京で暮すことになってからは、幾分秦家への遠慮もなく、すると組合で出している年四回の機関誌に、わざと曳田の姓を使って短歌をのせて貰うことも度重なり、はじめは「ひけた」とルビをふっていたのも追々不用になって、「曳田さん」と戯談(じょうだん)に呼ぶ社の人もできた。気に入っていた朝倉姓の父は何でもなく、かりそめに曳田を名告っているうち、時として胸の底の一点を絞られそうに私は記憶にない母のことを想像した。
「あたし、すこしなら知ってるのよ」
妻は京都の母に聴いている貰ひ子の事情を喋ろうとする、のを私は頑なに口を封じて話させなかった。
「知らぬが仏さ」
そう私はうそぶき、「そうね」とあっさり相槌を打たれてもそれはそれでふと寂しい。社宅暮しに娘も一人できて、私はいよいよ熱中して歌をつくった。「曳田さん、今度も頼みますよ」と雑誌の責任者に声をかけられるほど、私は勤め先でひとかどの歌よみとされていた。高等な医学書をこつこつ出している出版社だ、毎日が地味で静かで、大声で電話に出るような編集者は一人もいない。次第上がりの管理職になっても私は誰にも咎められず組合雑誌に短歌をのせていた。
「おたのしみが有って、いいわ」
謄写刷の本ができてくると妻は微笑(わら)い、ささやかな自愛に私はてれる。誰に倣うのでもない、少年の頃から歌は吾一人の口ずさみにすぎぬ。「きみにだって、つくれるよ」「いえいえ。お気づかいなく」と、いつも同じことを言いあい、そして時はゆっくりと、余りにゆっくりと廻(めぐ)った。
この春になって、私の課に三輪君という新人が配属された。入社早々の連中と並んで自己紹介の短文を組合誌に書いているのを見ると、他のはまじめにもふまじめにも年々歳々人相応な中に、三輪君のは歌が一首きりで、それも「三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや」は誰でも知っている額田姫王(ぬかたのおおきみ)だか天智天皇だか、何にしても上古の作だ。
「ふざけた奴だなあ」
課長会議では本気で怒っている人もいたが、歌の意味と三輪君の姓を掛け合せて、新入社員昂然の述懐と取れるというのが編集長の説だった。気の利いた新人じゃないか。おおかた笑い声も混って、三輪君の点数は低くなかった。が、私にはかるい反感が残っていた。三輪君が国立癌センターの三輪部長の甥か遠縁かといった申し次ぎも気重だった。三輪先生を責任編者に据え、癌に対する放射線治療の効果を最高の研究水準で多面的に再検討する本を、私はかなり熱心に計画していた。三輪君はよその課へまわして貰いたかった。
総務課長立合いで会議室で初対面の印象は良かった。小柄なところ、優しい眼をしているところ。あれ、と思うほど三輪君の表情は生真面目で、はきはきと背筋を伸ばして私に挨拶した。他の奴らよりずっといい。私はあっさり先入主を放棄して三輪君の色白な額の、子どもっぽいかすかなそぱかすを眺めていた。
「課長さん。今日、昼飯ご一緒していただけませんか」と、その朝のうちに三輪君は私の傍へきて言い、「さん」はよせと念を押し、笑って承知した。言われずともその気だった。どんな私生活上の懸念をもっていないと限らないし、それにあの「三輪山をしかも隠すか」も歌ではあり、それなら同じ号に載った私の作品に、何か感想があるかお世辞の一つも言うかと楽しみだった。それほど誰も私の歌には反応してくれなくて、我から「あれは埋草ですよ」と逆に誘う水を流す始末だった。
「ごちそうになっていいですか」
三輪君は品書き片手にそう訊く。頷き返すとあっさり一番安い握りと言うのに、笑えて私も倣った。醤油や山椒と一緒に油壷ほどの赤絵の一輪ざしが卓にのって、都忘れのちいさな紫に三輪君はかるく指先をふれる。
「課長のことはよく知ってます」
三輪君は、曳田正雄というのは秦課長のことでしょうと言い、その無邪気に得意そうなのが可笑しく、
「へえ、よく知ってるね。誰かに訊いてきたね」と私は恍(とぼ)けた。
「いえ、誰にも訊きませんけどね」
「──」
「曳田──ご存じですか曳田神社」
「いや知らない。──どこにあるの」
「僕の、元の家の近くにあります。えらく荒れてますが、むかしはちゃんとしたお宮だったんです」
三輪君は名大の文学部出で、親の家も名古屋市内だった。字を確かめても曳田神社で、やはり「ひけた」と訓む、が、但し名古屋でなく奈良県桜井市にあると言う。三輪君の祖父母は文字どおりの三輪山の麓、大神(おおみわ)神社の鳥居前から山ぞいに県道を南へ下った金屋という村に健在だった。私が住んでいる都下の保谷(ほうや)市にも保谷さんが多いように、三輪山界隈にも三輪姓の家が多いのだろうし、それなら「情(こころ)あらなも隠さふべしや」は単身就職上京してきた三輪君の気もちを巧みに代弁していて、編集長が解釈したほど息込んだものでもなく、素直な懐郷にちょっぴりお国自慢をこめたものと合点がいった。
私は三輪君に延喜式の式内社だったという曳田神社のことを尋ねた。彼はちいさい頃、夏休みになるとそのお宮へよく蝉や鍬形を取りに行ったが、それ以上に曳田神社で想いだすのは一面の大きな栗林だと言う。
* 「小説の書き出し」にはいつも苦心がいる。作品の「空気」はそれで決まる。「空気」を見定めるのに苦心惨憺。
この数日、戯曲をふくめ受賞作など四つの旧作の冒頭部を、校正かたがた書き出してみた。人さまに見せようと謂うより、自分自身の「呼吸」をさぐっている、今今の創作仕事のためにも。とにかく間違いなく「わたし」といえるものを原稿用紙に刻みつけてきたと思う。
文体の創出、それが作家のIDだ。ゴールは無い。さらにさらに深まり行かねばならない。
2008 7・15 82
* 慈(あつこ)子 昭和四十七年書き下ろし 筑摩書房刊 導入部
序 章
一
正月は静かだった。心に触れてくるものがみな寂しい色にみえた。今年こそはとも去年はとも思わず、年越えに降りやまぬ雪の景色を二階の窓から飽かず眺めた。時に妻がきて横に坐り、また娘がきて膝にのぼった。妻とは老父母のことを語り、娘には雪の積むさまをあれこれと話させた。
三日、雪はなおこまかに舞っていた。初詣での足も例年になく少いとニュースは伝えていた。東山の峯々ははだらに白を重ね、山の色が黝ずんで透けてみえた。隣家の土蔵(くら)の大きな鬼瓦も厚ぼったく雪をかぶって、時おり眩しく迫ってくる。娘も、はや雪に飽いたふうであった。私はすこし遅い祝い雑煮をすませ、東福寺へ出かけた。市電もがらんとしていた。
正月三日の東福寺大機院では院主主宰の雲岫会(うんしゅうかい)が毎年定(き)まっての歌会で、初釜を兼ねてある。院主が歌詠みの仲間を集め、奥さんの社中初釜に便乗して喫茶喫飯の余禄にあずかろうという、欠かしたことのない催しであった。子供の時分から叔母の茶の湯の縁につながって時々出入りするうち、私も歌を詠むと知れて、高校時代から院主の招きを受けるようになっていた。特に喜び勇んで出かけたい場所でもないが、かといって、東京でのかすかすした日常から歌詠み茶喫みというすさびをなつかしむ想いには時として抗しきれぬものがあって、実はこの日も、私の方から詠草まで先に届け、久々の参会を申し出てあった。
高校への通学道がこの東福寺の境内をよぎっていた。毘盧宝殿(ひるほうでん)の森閑とした禅座、金色(こんじき)眩ゆくふり仰いだ正面の尊像、山門楼上の迦陵頻伽(かりょうびんが)たち、夕暮れに翳った僧堂、くずれがちにつづく土塀――。いささか広漠として、寂びしく荒れた寺内の静かさは、当時すさみがちだった少年の気もちをいつもいたわり迎えるふうであった。殊に、来迎院(らいごういん)の人をまだ知らなかったうちは、この大機院へよく立ち寄っていたのである。
歌はいずれも平凡だった。作品は一応披露されていたが、点を入れることはしないでただ感想を述べた。感想に世間ばなしがまじり、酒盃が往来し、一盞また一盞で陽気になる。院主の小謡(こうたい)が乞われぬままとび出す頃は、歌会もおひらきに近かった。もとより席中の若輩であり、ともすると一別来の、殊に駆け落ち同然に古都を逐電(ちくてん)した一件が肴にされがちで難渋した。
先刻来、茶室脇の広間には綺羅を重ねた人の出入りがうかがわれる。炉中に炭を活け、奥さんの濃茶点前(こいちゃでまえ)に社中が続いて薄茶(うすちゃ) を点(た)てまわしたあと懐石一巡というつねの手順であろう、歌の連中は、茶事佳境に達する頃のこの懐石料理を我が方にもさらえこもうというのであった。
歌はとりとめなく、談は馴染まない。
水屋の方へ抜けて出たが誰もいなくて、今喫(の)んだらしい濃茶の味を問うている奥さんの陽気な声が洩れきこえた。
茶室に入ってみた。三畳の小間で、下座床(げざどこ)に宗旦(そうたん)の水仙絵入りの文(ふみ)を掛け、花はない。にじり口をすこし開け、苔で名のあるこの寺のその苔のふくよかな碧(みどり)を雪の下にはなやかにふと想い描いた。
呼ばれて広間へ通った。道喜(どうき)の花びら餅が運ばれた。淡い蒔絵の縁高(ふちだか)が正月らしく花やいでみえた。
慶入(けいにゅう)の茶碗で茶が出た。さして古碗(こわん)ではないがやや小ぶりな手ざわりに漆黒の美しさが照っている。軽く興奮していた私は、行儀のいい話ではないが楽茶碗からなかなか手が放せなかった。
実をいうと妙に落ちつかないのだった。心の内を何かしら流れるものがある――。
はて…と思い直した時「岩田さん」と奥さんは呼んだ。「もう一服差上げとおくれやす」ときこえて、私は点前の人を真直ぐみた。その人も私をみて、そして替(かえ)の茶碗をとり、型通りに湯を汲み入れた。
* 原題は「斎王譜」であった、筑摩から出す何年か前に書き上げ、菅原万佐という筆名で、私家版の三冊目になっていた。妻が装幀してくれた。この本が新潮社のエライ人を通して「新潮」編集部に届き、突如として酒井健次郎編集長に呼び出されたのだから愕いた。いきなり「本名で書きなさい」と言われた。従った。
いまおもうに、この本の場合は、たぶん円地文子さんの配慮にあずかっていたと思われる。円地さんは当時順天堂で循環器の北村和夫先生にかかっておられ、北村先生とは医学書院編集者として大きな企画をいっしょにしていた。
ある日北村先生からすぐいらっしゃいと電話があり、出かけると目の前で円地さんに紹介して下さった。『なまみこ物語』をおもしろく読んでいて間がなかった。谷崎先生のことなど話し合い、『少将滋幹の母』が好きだと話したように思う。おそらく私家版の『斎王譜』はその後にお宅に送っていたのだろう。
太宰賞の受賞パーティにも円地さんは瀬戸内晴美さんといっしょに見えて、「いいところでお目にかかるわね」と祝って下さった。あれ以来であった。
人生、謙虚に努めていると、いろんなことが有るものである。四冊目の私家版『清経入水』は、小林秀雄さんから太宰章選者の中村光夫先生に渡っていた。そしていきなり授賞した。なにも知らなかった。
2008 7・16 82
* 蝶 の 皿 秦 恒平 「新潮」昭和四十四年九月号新人賞受賞者特別号 導入部
呼びもどそうにもお名前も聴かいで、あのように夕暮れ過ぎた時雨の道へお見送り、もう何を待つあてもないと、つくづく気落ちしてしまいました。法然院から裏山越えにくる風と雨が心凄う、よう寝られずに割れた皿の残る一かけらを夜一夜ながめあかしますうち、いつか、庭一面の月かげに惹かれて、泉水のきわまでも立ちまようたようでございました。何より先この蝶の皿にお眼をとめられたのがおなつかしく、とは申せ、今はこの部屋に、ゆうべ二人きり時を過ごしたのも何か夢うつつ、無かった事かと思われるのでございます。が、この皿の虧け、たしかに二つに割って片はしをお持ちになりましたもの、そればかりは繪文様のすみまでよう覚えています。二度とお逢いできるあてもすべもなく、ただあの片割れ一つが残る縁かと心乱れて、読まれもすまい手紙を物狂おしくこうして書きはじめました。お顔の遠うけぶって参ります魂消ゆるような寂しさも御存じなく、今どこに、どのようにいらっしゃるのでしょうか、この山ぐらい侘びた住まいのかげから、そんな跡ない詮索に胸がふさぎます……。
この豆彩蝶文の盤が真半に割れて、半ばは影も無うなっておりましたのをすぐにお見咎めなさいました。頑なに口を噤んでおりましたのも、その訳を申し上げてしまえば、もうまさかにあのような夕山道へひとりはお帰しならなかったからでございます――。
蝶の皿を手に入れましたのは七、八年前の事、柄にも無うやきものに魅入られましたはじめは、三嶋、伊羅保、熊川(こもがい)などの肌に手荒い高麗茶碗からで。祖母について茶の湯を好みました幼いからの、すこし生意気な佗び好みでございましたでしょうか、が、そのような土物の親しさも、きんと張りつめた中国の磁器の味わいには及ばぬのでございました。幸せな事に、ホノルルの美術館から参っておりました古月軒の梅花文碗を観られたのが眼のあいたはじめでした。古月軒は清朝精磁中の絶品で、精魂を尽したこれ以上みごとな磁器はないと評されているようでございますが、この梅花文碗と申しますのが、差しわたし五寸足らず、高さは二寸ほどで内は白無地、裏に上繪の藍で大清雍正年製の銘をもち、清純な粉彩の梅花文が白玉の滑らかさに浮きたつばかり芳しい匂いを放っておりました。清朝もののお嫌いな方もずい分ございますが、まあこの時ばかりは碗の清らかさに打たれ、それはもう魂を奪われてからだ中が萎えたのでございます。狩野や等伯、友松の梅ではございません、紛れない中国の梅樹、梅花の鋭いあでやかさに、また無比の仕上りに、堂々とした高台のかたちに眼を瞠きました。それ以来でございます、のらくらと遊び、親兄妹のいい迷惑者になりながら、私は憑かれたように清朝ものの白磁を蒐めはじめました。愚かな者の心萎えた思い上りで世に背いて人のお金を異国のやきものに替えるばかりの、そんなばかげた生きようは、思うさえも無慚な事でございました。
で、そのように致しましても、さて逸品となりますと至って数少ないもので。とは申せ身分相応のものを狙っていては面白みがございません。背伸びをし、ありたけの手を伸ばし、それでも届かなかったら踏台をしてまで高いもの、またその上の高いものと手を出さないと気はすまぬもので、蒐めました中どころの三品四品をより佳い一品に替えては上へすすみます。父に叱られ、兄に叱られ、ただ祖母と母とのふびんをいい事に無理算段も何とか叶いましたのは、幼いからの見るめも痛々しいひよわさが、我慢な、心傲った、世にすねた私を押し包んだなり、他人様の眼に、殊にも祖母や母には哀れな、生涯どうにも世に出て生きるすべない片端者と映るようでございましたからで。茶の湯、活け花、歌舞音曲の果てが分けてお金のかかる骨董道楽と、二十過ぎた頃には新聞一つ読もうとせぬとろりとした遊び人のまま、嫁とりもものぐさな気後れで、静かに、けれどよほどひねくれて、ひとり大きな家の離れに暮しました。その離れの軒に、美濃の窯師に緑釉に猜軒と刻して焼かせた瓦を懸けました。親兄妹がどう呆れ憎みましたやらもよう知らいで……。
或る日も日本橋壺中居のあの重い扉を押してみました。漢緑釉の耳盃、荊州窯の白磁茶碗、宋の柿天目や鉄繪、青磁の劃花文碗など観せられましたが眼はあらぬ方を見つめ出していました。ちょうどいつものでない店の人で私の好みを知らずに応対していたのでございましょう、そぶりに気がついて、お気に召しましたら、どうぞ。でも、力のない声は私の若さと品物の高価さを秘かに見比べた感じでございました。ふっと血が湧きました。いったい殊に色白に生まれつきましたのが時には青白いばかりの細面、それへ血ののぼりますのはめったでなく、それが女のように美しいと子供の頃からよう笑われ、長じては里の女たちに妙な世辞を言われて参りました。店の人は恥じらったと思ったのでしょう親切に飾り棚から出して手にもたせてくれました。それが、この豆彩蝶文盤でございます。差しわたしが八、九寸、可憐なお皿の色どりの美しさは言いあらわしようもございません。豆彩のつねで、ろうたけた白磁の上に繪具がすこし盛り上っておりますが、赤、黄、緑の単純な色かずに染付の青が心にくいまでに配され、ふしぎに色と色とが映え合ってはっと瞬くように光ります。中央の牡丹花を囲んで蘭菊梅竹、ほかにもとりどりの花が目も彩に咲き散る中を、大小の蝶が群れ遊ぶさまが清朝ものお得意の筆の優しさで叮嚀に描かれております。とりわけ心を惹かれましたのは、親の蝶らしいのが右の翅で子蝶をかこんでそっとかばうような恰好をしている容子でございました。その翅の描き方が、右翅を細うしなわせて先をちょっと繪具を含ませて止めてあるのです。親蝶の子を想う情のいかにも清らかなのが、私のようなすねた者の気もちにも美しく映ったのでございます。蛾のようなのが一つ、存分に翅をひろげ足をのべていました。王様なのではないか、すると左右から向かい合っている蝶は侍女かも知れませいで、どこか媚を含んだ優しさにも見られました。お皿の裏には高台を大きくとってございましたので、細い、すこし立ち上がった環(わ)なりに、見込みと同じく花と蝶が描かれて、画面こそ違えやはり蝶の想いのとりどりな晴れやかさ寂しさが花の匂いを静かに舞い誘うようでございました。高台の内は染付の二重円に大清雍正年製と、あの古月軒の梅花文碗に変らぬ文字が厳めしく書かれてありました。
この蝶の舞い遊ぶ花園の風情に私は魅入られました。みごとな白磁の肌に温かくにじみ出たお皿の作者の情のあつさを感じました。それから何かしら王昭君や虞美人など、幸い薄い美女の運命のようなものを想いました。ふしぎな事でございました。何の苦もなく祖母や親兄妹に甘えてこられた自分に、その時私はほっと安堵の息をつきました。かぶさるように胸底をひたひた揺すったあの言いようない寂しみ。今想い起こしてなつかしく哀しく、それ以来その寂しみのまま夢うつつに過ごして参ったのか、と思い当るのでございます。
さて箱を作ってもらうため壺中居に暫く預けまして、いよいよでき上って家へ持ち帰り包みを解いてみますと、大清雍正豆彩蝶文盤と、思いがけない立派な箱書がしてございます。紛うことない広田不孤斎老の筆蹟、この方の視線が止まればそのやきものは値があがると言われておりますほどで、箱書などやすやす引き受けてくれるお方ではございません。さすがに上気致しまして、すぐにも御礼に上りました。壺中居主人はしっと私の顔を御覧になって、あんたの物だから箱書したんじゃない、中身が立派だから書いたんだよと、ふいと向うをむいて仕舞われました。
* この作を此処に発表したとき、雑誌を手にして、沈み込むようにガックリした。阿部昭、黒井千次、坂上弘等々他の七八人、どれもこれもみな、私小説ふう。わたしのような作柄は独りもなく、完全な孤立。これではこの文壇という世間で長生きできそうにないと、文字通りヘキエキした。
おまけに先月「展望」に太宰賞受賞作を発表して受賞第一作は「展望」にというのが不文律らしかったのに、そんなことはツユ知らないもので、筑摩書房にえらく叱られた。よけいガックリした。
だが「蝶の皿」は思いの外に熱心な手練れの読み手たちに恵まれ、気持ちを取り直すことが出来た。
私小説は、老境の文学でよいという考えだった。私小説風を思い切り活かしてフィクションを書こうというのが、『清経入水』も、そうだった。
現代の怪奇小説と選者にいわれていたが、それほど、幽霊の出てくる小説などその時代にはまだ鉦と太鼓で探しても、わたしの他にそんな作者はいなかった。半身はあの世に隠している作家などと評する批評家もいた。この作風は、小説よりもドラマや演劇の方でよほど遅れてポツポツ追随者があらわれた。井上ひさしの舞台『父と暮らして』のような作が今では少しもふしぎでなく流行るが、『清経入水』や『蝶の皿』のころは「変わった小説を書く人」にされていた。
2008 7・19 82
* ディアコノス=寒いテラス 秦 恒平
湖の本創刊十五年記念 一九八一年九月八日より二十日書下し 導入部
一
薫先生、ごていねいなお見舞いのお便り、恐れ入ります。あのような記事のお目にとまったこと、何より気が重うございます。夫も、私も、まだ半ばうつつなく暗い顔を伏せたまま閉じこもって居ります。幸い節子もその後小康を得まして、最悪の事態はせきとめたかとお医者様にも励ましていただいて居りますが、心配――と申しますさえ(小沢様のことを思いましても)、身もすくみ心が凍ります。
薫先生に、幾度これまでもお手紙が書きたかったことでございましょう。お縋りして……と思い、詮ないことと思いとどまり、さてお手紙を差上げようにもその後のお住まいを存じ上げないのでございました。そんな、越後湯沢などという遠くへ、ご実家へ、お帰りとは存じもよらず、道理で一度二度あったクラス会も間遠のはずでございましたのね。連絡がとれないのと節子も時々申しておりました。
当然でもございましょうね。娘たちが薫先生に担任していただいたのは、小学校、一、二、三年生の三年間。その節子がもう大学の三年生ですもの。母親としては若い方でございました私なども、あの時分に生まれました節子の弟が中学の二年生にもなって、時折り、白髪さえ気になるくらいでございます。
薫先生。ご記憶でいらっしゃいますでしょうか。娘の節子の入学式がございました十二年前の四月、夫の母がまだ達者で(今では願っても叶わぬ年齢になっておりますが)、京都から孫娘の晴れの一年生ぶりが見たいとわざわざ東京へ出て来てくれました。当日は、姑 (はは) と嫁でそろってお式へも。お教室へも。嬉しゅうございました。へたな写真をルバムで眺めましても、まぎれなくあの日の、ちょうど夜来の雨が朝にあがって、繪に描いたような校庭の桜や、プールのわきのチューリップなど、それは美しかったことが、今も胸ふくらむように思い出されます。
あの日、家に帰りまして、むろん夫の帰宅を待って、心づくしのお祝いをと思っておりました。その用意のさなか、せまい台所の立ち話でございましたか、姑が、耳うちぎみに申しました、それが、申しわけのない、あの小沢妙子ちゃんのことでございましたの。
「なンやしらん、一人、ウロぉッとしてるお子がいやはったンやないか。新入生の弟(おとと)か妹(いもと)かいなァ思て見てましたンやが……おンなじ一年生……やろかしらんテ。ちょっと…妙どしたえ」
鈍な私は気がついてませんで、「まァ、そうでしたか」と、そんなぐあいでございました。むろん母の申したとおりのことが娘のクラス、薫先生ご担任の一年二組の現に事実でしたこと、そのお子が妙子ちゃんでしたことは、その週のうちにも知れたことでございました。
初の父母会に、薫先生、あなたは妙子ちゃんについて早速私たち親同士の切なる理解と協力とをお求めになりました。ご覧になったように、精神薄弱ではないが自閉症ぎみの新入生が一人いて、親御さんもお医者様もどうかして小学校での共同生活をふつうにさせたい、改善の見込みも十分あるとの強いご希望で、学校側は受け入れられるかどうか議論も迷いもなかったとは言わないけれど、自分が(と、薫先生は仰言いました)引き受けました。どうか学校やわたくしの意のあるところを汲んで下さり、生徒はもとよりクラス父母の何とかお力添えを願います……と、そう言ずくなの内にもベテランの学年主任らしい、お気持ちの徹した仰言りようで頭をお下げくださったのでした。誰ひとり異存を申し上げた保護者もなかったことを、はっきり憶えておりますの。そして初めての授業参観での妙子ちゃんがどんなだったかは、これはまたおかしいくらいに記憶がございませんの……。
正直のところ私どもでは、その、妙子ちゃんの件をとくべつ意識も致しませんでした。迷惑に思うなどとも協力しようとも、そもそもピカピカの一年生、節子の毎日にいささかの翳もさすわけがないと、いえ、そんなことさえ思いも致しませんでした。朝には節子が一列に並んで集団登校致します。ご近所の同じお母様がたと見送って、ちょっと立ち話を楽しみまして、(姑もまた京都へ帰ってしまいますと)もう一歩家に入ればすっかり自分の時間でございましたし、……弟の貞夫をちょうど身籠もった時分でもございました。幸せで…… で、節子の帰って参る刻限ともなれば、今日はどんなことがあった、何をして何が楽しくて何で泣いて、誰と仲良くしたか、薫先生に叱られはしなかったかなどと問わず語りに、憶えていらっしゃいましょうか、ちょっとおしゃまでございました節子のお喋りに相槌をうつのが楽しみでした。そしてそんな時にも、とくべつ妙子ちゃんのことを、節子の口から聞いたということはなかったのでございます。
梅雨に入っていましたでしょうか、一年生の。もう節子も、なかなか一人前の小学生らしいもの慣れたようすで、もともと学校が大好きなたちでございましたから、毎日のじとじとした長雨にも屈託なく通学しておりました或る日の下校時刻……ご近所の方が微笑まれますぐらい、十メートルも先の路上からいつもの「ただ今ァ」が前ぶれで勝手口へかけこんで参ります。
「ママ。あたしね。妙子ちゃん係りになったのよォ。薫先生がそう仰言って、きまったの。妙子ちゃん係りよ」
「係り…なんテ。なにをするの」
「席が隣りでね。なんでもお世話をするわけ……妙子ちゃんテ、時間中もじっとしてないでしょ。出てったりもするし、すぐお手洗いに行くし、行ったら帰ってこないし、時々、キェキェキェなァんて笑い出して、起って一人で唱い出したり人のこと怒ったりするんだもン」
「……で、どうするの節ちゃんが」
「妙子ちゃん、あたしの言うこと、ちょっとは、きいてくれるのよ。いッとき静かになるの。薫先生が仰有ってもだめなことを、あたしが<タ・エ・コちゃん。だめでしょ>って言うとね。ちょっとのま、あたしの顔見て、それから温和しくするの。ホンの暫くですけどね」
「それで、係りかァ。オマエさんに、そんなこと出来るとはねぇ」
「へッ。恐れ入ったでしょ、ママ」
そんなことを暢気に喋り合いまして、また、そのまま私は気にかけませんでした。娘の、そんな「係り」などに関心をもつのが、なぜか親御さんにもわるいという気がございましたのでしょう、節子から言い出さない限りは何を訊ねることも致さずじまいでした。節子もとくべつそれまでと変わった話題を持ち帰りもしません。たぶん、大なり小なり妙子ちゃん係りめいたお役目は、もうすこし早い時分から薫先生のおめがねで節子に預けられていた、ということでございましたのでしょう……。
娘は最初のお通知簿をいただいた時から、母親の申しますのも面映ゆいことですが、当の薫先生に申上げるのでモトが知れております、有難い良い評点をいただいて、親には何不足のないちょっと優等生すぎるくらいの娘でございました。からだも大きく、わりと物もはきはき申しましたから、一年生二年生、いいえ小学校時分、市立の中学へ進みましても何となくよそ様のお子たちより落着いて見える、本人にも何でもマカセといてという大人びたところがあったように存じます。
私どもでは、かしこい子にありがちな、へんに意地のわるいさかしら立った娘にはしたくありませんでした。夫も日頃からうるさく躾けておりましたし、幸い節子にそういうところは、今も、すこしもございません。でも、あの時分夫はたまに私にこんなふうに申しました、「外むき、とくに先生むきの優等生にさせるなよ」と。
夫はあの頃は、ご記憶かどうかまだ外資系の化粧品会社の宣伝部勤めでございました。娘や息子の育て方はだいたいに私まかせで、それでも、あれほど忙しくしていてよく見てることと、ちょっと胆が冷えますくらい子どもたちの部屋の片づきようやら、お帳面の書き方、教科書へのいたずら書きなどもちゃんと見つけてすべき注意はするというふうでした。娘の図画や綴り方も、見せますとよろこんで眺めたり読んだり、晩酌のお肴がわりに批評らしいことも言って機嫌ようしてくれて居りました。
その主人に、いわゆる「いい子」にならせるなと言われていましたこと、当座はハイハイと返事しておりましたし、夫も気軽に注意しておくくらいでおりましたでしょうに、節子のためには本当はとても大事なところへ触れていたのだな、と、今さらに思い知らされております……。
憶えていらっしゃいますか小沢妙子ちゃんを。華奢というではない、ちょっと小ぶとりの色の白いお子でございましたわね。
「力、つよいのよぅ」と節子の申しますのも道理な、二の腕などがっしりした体格で、髪の毛のふさふさと黒い、それよりももっと黒い大きな瞳(め)とちょっとゆるんだ口もとと、かなり内輪に重そうに脚を運んで行く歩きようとが、やがて、あああれが妙子ちゃんと登下校の途上で遠くから、近くから、承知致しました頃の印象でございました。
* 途方もなくだいじな作品をわたしは書いていたのだと、いまさら気が付く。わたしたちの娘と家庭の雰囲気がそのまま出ている。実話を背景にこの作は悲劇的に展開して行くが、作の途中、少し上の学校に通っていた頃の娘が母親に語りかけている。
「ディアコノス(仕える人)というギリシア語が聖書に出てくるらしいのね。その趣旨からね、ナポレオン戦争後にフリートナーというドイツ人の牧師さんが、道ばたで死んで行くような人をみな担ぎこんで、病院を作ったの。<母の家>っていうの。その<母の家>に入って生涯神の他に嫁がず、病人や廃人を介抱し続ける人が<奉仕女(ディアコニッセ)>。そういう人、日本にもいて、売春禁止法のあと、施設で介護の必要な、もと売春婦たちのお世話なんかしてるんですって。生涯お嫁に行かないでよ」
「……」
「ある宗教学者なんか、もし奉仕女の生を生きることが出来ないとしたら、ぼく自身の生を生きることだって出来ないじゃないかと言ってた」
「で、その人はそうしてるの」
「いえ。もちろんぼくが廃人の世話をするというようなことは、とても出来ませんがという但し書きがついてるの」
「なァんだァ」
「でも実際献身的に何十年やってる方もあるのよ。その深津さんて牧師さんが、さっきの宗教学者との対談で、こう言ってらした。まあ誰も損はしたくない。誰も重い荷物は持ちたくない。そして宗教といおうが教会といおうが、みな本質をすりかえて、自分の利益になるように立ち回っている。その中でたった一人、ほんとうにその気で損をしたヤツがいたら、そりゃやっぱり見事だろうと思うッて」
「その方はそうなさってるンだから……一言もないわね。あたしたちは見事にサカサマね」
「でもママ。そのあとでね。深津さん仰有ってるの。しかし、それが見事でなくなる時が来なけりゃいけないテ。
* 容易ならぬ主題で、「愛は可能か」ということを考え、親しかった牧師で神学者であった野呂さんに先ず読んでもらったのを思い出す。こういう小説を書いたことが無かった。「いいものです、大事なお仕事になりました。本になさるべきです」と野呂さんはすすめてくれた。それでも永く躊躇っていた。
2008 7・20 82
* 夕食後に、妻とすばやく池袋に出、「さくらや」で、破損してしまったマウスを二つ買ってきた。妻のマウスを借りて仕事をしていた。用事のあと、となりの服部珈琲舎で美味いコーヒーを楽しみ、帰りの電車では別々に坐ってわたしは相変わらず『伊藤整氏の生活と意見』を読んだ。
珈琲舎で妻は、「服部」をどうして「はっとり」と読むんでしょうと聞いた。「服部」は、「はとり・べ」のこと、律令制以来の職掌由来だよと答えた。「はとり」は「機織り」からと書いた辞書が多いだろうが、絹布を糸にといてゆくのを「はつる」「はつり」と謂ったのとも関わるだろう。
2008 7・20 82
* なにかとウロウロさせられてきたが、発送の用意が残っているのに数日集中したい。
2008 7・20 82
☆ 湖さんへ
こんばんは。
先日、『みごもりの湖』と竹西(寛子)さんとの対談の載った小冊子を読み終えました。
『最上徳内』がこの作品の延長にあるということが、感じられました。『魚服記』のような雰囲気も感じ、大変面白くお読みしました。
太宰賞を取った作品はどのような手法で書かれ、どのような雰囲気を持った作品なのか、今まで気にはなっていたのですが、より興味をそそられました。いずれ、ご注文したいと思います。
読み甲斐のある作品を有難うございます。 昴
* ありがとう。『清経入水』は送りましょう。静養も、どうぞお大切に。
* 集中できた。かなりの用をかたづけた。
2008 7・21 82
* 畜生塚 秦 恒平 「新潮」昭和四十五年二月号 導入部
一、夢の中
空は明るかったが富士はみえなかった。
疲れてくると本を膝の上に伏せて私はうとうとものを想った。汽車は西へ走りつづけていた。
根岸守信の『耳袋』巻之二の中に「賤妓発明にて加護ある事」という一条がある。「浜町河岸(がし)箱崎近辺の河岸へ、船(ふな)まんじうとて船にて売女する者あり。至って下賤の娼婦也」とあり、風狂の酔漢が興余の戯れに立ち寄って、舟中雲雨の交りを致すらしく、あらましは、客の一人が忘れていった大金を後日持主へつつがなく戻してやってその男の嫁に望まれたという話なのだが、嫁に云々は私にはどうでもよい。ただ「船まんじう」の呼び名が頭にあったところへ、数日前にオトギヤロということばを覚えた。
これも売春舟のことだけれど、茶の湯の裏千家で出している「淡交」誌上に小田という人が書いていたことで、いかがわしい話ではない。ここにいうオトギヤロとは、その売春舟と形こそ似ているが茶の湯でつかう青磁の或る型物香合(こうごう)の蔑称なので、「笹舟に丸屋根の覆いがしてあって人間が一人、舟の艫(とも)の方にうずくまっているものだから、道具屋は、これをオトギヤロと呼んで、あまりその価値を認めない」のに憤慨した或る数寄者(すきしや)の逸話が、この耳馴れないことばの出所であった。
数寄者はこの香合の図柄を、売春舟どころか、千古に高風をうたわれた王子猷(おうしゆう)が親友戴安道を訪ねる故事と取った。とするとあまりに違い方がはなはだしい。蔑称にしてももうすこし言い方があろうというので、道具屋仲間の入札のときには、わざわざ「青磁戴安道香合」と呼び歩いたあげくに、自分の手もとへ高額で落札した。そうまでして香合の名誉挽回を策したのに「オトギヤロは訂正されず、その数寄者が戴安道さんと呼ばれるようになってしまった」というのである。
はなしは面白いし、この型物香合が子猷訪戴の故事に由来するらしいことも間違いなさそうに思われる。笹舟に丸屋根の覆いがしてあって舟の艫に人がうずくまっているという説明は、蕪村が描いた絵の、また狩野元信が描いた絵の中の小舟、エン渓(えんけい)に住む友人戴安道の門前まで来ながら逢わずに舟を元に戻す王子猷をのせた小舟にそっくりである。王の言い分はこうであった。自分は興にのって出かけた。興が尽きたので帰った。何も戴に逢わねばならんということはない。
この故事に、自分をひきくらべてみるのはまるで見当ちがいであったけれど、それでも、忙しすぎるほど忙しい職場を離れ、妻や娘を家にのこしてまで慌しく汽車にのりこんだ私自身について考えこませる、恰好のはなしではあったのだ。私を催して、なぜ、なぜと執拗(しつこ)く迫ってくる想いがある。その想いを強引にねじ伏せねじ伏せして来たのだったが、「オトギヤロ」や「船まんじう」のことも、ねじ伏せられた意識がふと誘い出した幻像にちがいなかった。
汽車は、すこし前から、あの規則的に繰返す音をやめていた。ヒュルル……と流れて飛ぶものの印象を与えていた。運ばれてゆくという感じの方へ私は馴染んでいった。
七月上旬の朝、突然速達のお便りを受けとって以来、御無沙汰のうちもう九月の声、夜風のつめたさに秋のおとずれを感じます。
皆様にはおさわりもなくお過しでいらっしゃいますか。迪子様随分おわるかった御様子其の後如何でございましょうか。さぞ大変だったろうとお手紙いただいた時は本当にびっくり致しました。
あの時の”また彷徨の旅路かとも想いながら”の文字通り八月はじめから山口県秋芳洞をふりだしに尾道、生口(いくち)島、仙酔島、倉敷、鷲羽山など瀬戸内海と山陽路の旅を六日間ほどの旅程で遊んできました。
内海の凪いだ静けさに、たゆとう波の面、心ばかり淡くなった陽のきらめきなど、独身生活の最後の旅という想いもひとしお言いようのない心の中(うち)でございました。
あなたには新しい生活をふみ出してからお知らせしようと思い決めて今日まで何もお話ししなかったのですけれど……私、十月六日に結婚することにしました。もう、余程の時が与えられない限りあなたともお逢い出来ないと思います。
あの博物館での散策が最後でしたかしら……。
閉ぢし眼を何に開かむ歩みこし道にふたつの影ながきかも
どうかくれぐれも、お体お大切に。
町子
宏様
九月十日夜更けて
讃岐町子の手紙は総務課から直接私のデスクヘ届けられた。見覚えのある手漉きの細い封書は、校正刷や原稿類の傍におかれるといっそ不似合な静かさだった。親展という町子の人なみ秀れたペン字さえもが他でもない私だけにものをいう風情で、雑誌の校了間際のちょっとしたいざこざから、激しい調子で印刷所との電話にかかっていた私は、ふいに胸さきをかるく押されたような心地で受話器をおいてしまった。
三日間の休暇願は課長の顔を思いきり渋くさせた。
妻を納得させるのはもっと難かしかった。
妻は、讃岐町子を知らない。逢っていないとか詳しく知らないというのでなく、町子の存在さえ知っていない。
妻だけでなく、両親も、友だちも、私が年久しく町子と親しいことを毛すじほども知らない。出逢いのはじめから今日まで、世間に曝(さら)されることを、これほどまで拒みつづけてきた本当の理由は、私にもよくわからない。来てほしい、そう町子が呼んでいるかどうかも詮索する気はさらになかった。岐(わか)れゆく日が早く来すぎたとも思わない。おめでとう、お幸せにと手紙に書いてそれまでということだけが夢にもあり得ようと思えなかった。讃岐町子に逢わねぱならぬことはない、と言ってはならなかった。
「はかないことを夢もうではないか、そうして、事物のうつくしい愚かしさについて思いめぐらそうではないか。」
開いたまま膝に伏せた本をとりあげて、もう一度この言葉をきいた。岡倉天心の『茶の本(浅野晃訳)』は第一章をこの言葉で終っていた。
ほのかな明るさをたたえて空は瞑(く)れかけていた。汽車は木曾川の上を音たかく走りぬけようとしていた。
* 「私の」と謂える最初の小説、この小説と歌集「少年」ゆえに、わたしは初の私家版を思い立った。
医学雑誌と同じB5版の8ポ二段組み、八十頁ほどのまるで雑誌大だった。
妻が表紙の繪を描いてくれた。
「新潮」の小島さんは私家版のこの作を最初から気に掛けてくれ、わたしは大薙刀をふるって推敲した。「新潮」に出たとき、桶谷秀昭さんが「文藝」で一頁文藝批評の全部を用い、称賛してくれた。グイと前へ押し出してもらった。立原正秋さんも褒めていたよと人づてに聞いた。褒めて貰うということの嬉しさと怖さとを、ゾワゾワっと肌身に覚えた。
* そのころまだ「不倫小説」といったことばは公用語でなかった。「怪奇幽霊小説」でもいわゆる不倫主題と読める小説でも、わたしは、人のしないことをし始めていた。「妻のいる男と夫のない女との出会い」を書き続けていったのだから。
「美と倫理の」作家という呼び方で、また「異端」の作家という呼ばれ方でわたしは、おそるおそる文壇に足を載せていた。
2008 7・23 82
* さ、明日一日やすんで明後日は眼科の検診、そして「湖の本」むむの発送が始まる。もう少しもう少し用意がし足りない。気長に送り出そう。
2008 7・26 82
* 冬祭り 秦 恒平
湖(うみ)の本 22・23・24 東京新聞・中日新聞・北海道新聞・西日本新聞・河北新聞・神戸新聞 夕刊
昭和五十五年五月九日(金)一五十六年二月二十八日(土)二百四十一回連載 講談社刊
第一章 ロシアヘ 第二章 バイカル号で 第三章 津軽の海を 第四章 ナホトカから 第五章 ハバロフスク経由 第六章 雨のモスクワ 第七章 ルサールカ 第八章 再会 第九章 そして一週間 第十章 黄金の秋 第十一章 冬のことぶれ 第十二章 提案 第十三章 ひまつりの山へ 第十四章 みごもりの湖へ 第十五章 愛(かな)しい日々 第十六章 冬祭り
第一章 ロシアヘ
蝉籠(せみかご)に山葡萄(やまぶどう)と河原撫子(なでしこ)を挿した。床わきの明りとりへ幾重(いくえ)にも青もみじが繁って、真夏の日ざしは、うわ葉に照り、した葉に透ききらきら炎(も)える。すこし太ったすはだに甚平をゆるく着て、机へもどりながら、妻の足音を聴いた。
「ミスター当尾(とうの)宏ですって、本名よ。珍しいわね」
めったに手にしないエアメールだが、心待ちのそれと見てすぐ封を切った。差し出しK・の大文字が相違ない牧田欣一の名前を示している。うなづいて、手ざわりかるい四つ折りの洋箋二、三枚を、もう広げていた。大きなジェット機がとぶ緑っぽい切手の端に、ソビエト連邦を意味するCCCPという文字も目にたった。
拝復
貴信、七月十日に拝受、残念ながら、──
横罫に一行おきのつよい筆づかいで、貴兄のことは筆名しか、それも作品は知らないとまずことわってある。東京・鍛冶橋に事業本部のある商社の、牧田氏はモスクワ勤務だった。
ソビエト作家同盟との交換訪問のはなしは自分も以前から知っている。貴兄がその任に当たられたとはまたない好機、ぜひ思いたたれるようお勧めしますと、手紙は旅の参考書まで一、二あげ、たとえば「アルメニアのエレヴァンやグルジアのトビリシなどが、面白い。シルクロードヘは日数が不足でしょう。九月はよほど冷えこみます。厚手のセーターや下着を用意されると良い」など、懇切だった。
小生への連絡は同封の名刺で、到着後にお電話下さい。通じない時は自宅343ー2680の家人あて、ホテルのお部屋の電話番号をお伝え願います。十分にとは、いずれ望めぬことですが、作家同盟のアレンジならスムーズに行くでしょう。貴兄の今後にこの旅行の役だっよう、祈ります。敬白
読みかえすともなく、しばらく文面を眺めていた。モスクワに、一人なりと緊急に連絡のきく人がほしかった。出発はまずナホトカむけ横浜港を九月六日、同行の作家三人ときまっていて、ロシア語はだれもできない。新制高校の創立三十周年を祝う同窓会の会報で、「三回生」牧田欣一という見知らぬ先輩のはるばるの寄稿を見すごしていたら、そもそも訪問地をともあれソ連側に希望するにせよ、エレヴァンとかトビリシとか思いつくわけもない。
京都に住む会の幹事役に急いでモスクワの住所を調べてもらうと、旅だち前からもう恥のかき捨てに躊躇なく牧田氏に手紙を出した。その返事だった。おりよく、文藝家協会の世話で訪ソの三人が初対面の日でもあった。団長格が七十近いお年寄り、もう一人が少し年かさな女の作家と聞けば、広いソ連でどうなるかと危ぶむのは妻にしても同じ気持ち、手渡された便箋を封筒へもどす手つきがふと思案にあぐむと、つぎつぎに、返事のしようもないレニングラードやキエフの天気の、心配をしたり、帰りは、いっそ一人シベリア鉄道に乗せてもらったらなどと言いだす。
──チャイムが鳴り、妻は席を起った。
そろそろ着がえるか。赤青はでにふちどった封筒を、また見やって、話のたねに協会へ持参する気になった。そしてもろ手を机に、よいしょと、立ち腰から顔は手紙へ近寄せて、
「………」
右あがりにK・MAKITAと勢いいい大文字が並んで、殿(しんがり)の、Aの横棒がびゅっと飛びでた端に、ちょうど小さな十字を描くぐあいに、インクの汚れでない、たしかに鉛筆で、短い縦棒が書きくわえてある。
「冬(ふう)ちゃん……」
声をのんで、坐椅子へ尻から落ちた。
冬子にしか書けない、いささかあどけもないA+とは、安曇(あど)という彼女の旧姓を生かして、もう、おおむかし、人目を忍んだそのままの合図(サイン)だった。
(A+:本文通りの文字)
どんな状況で投函を頼まれたものか、ついでを求めてきわどく鉛筆を使ったか、とっさの判断に敏(さと)い冬子の瞬時をはしるような眉から眼もとが、息づかいもありあり蘇ってくると、苦しさとなつかしさとに衝きたてられ、縁側に出た。素足を置いた沓(くつ)ぬぎの石がほてっていた。蟻が二匹、せかせかと指を渡ってふくらはぎへ回りこむ──。
冬子が人妻であるのは致しかたなく、手の届かぬ処へ行ってそうな気はしていた。が、面倒見のいい順子にしても、姉が嫁いだ先の苗字すら洩らしてくれなかった。訊きもしなかったが。
同窓会の幹事から、牧田氏が当時軟式の野球部で名サードで鳴らした人と知った時も、そんなら吉(よッ)さんの先輩か──としばらく逢わぬ野尻吉男の、「冬(ふう)ちゃん」のこととなるとどんな□封じをされているのか、話をそらしてしまう小癪な顔を想いうかべた。だが彼のあの従妹が、まさか──「遠い露都よりのご挨拶」を母校へ送ってきた人の、妻、とは。
苦い気持ちでA+の十字を見つめていた。縦の棒が一本なのはどう翻訳してもよく、逢いたい、元気です、好き、賛成など、進むもひくももろもろ”共感”を伝えていた。二本にふやすと不機嫌です、いやですの意思表示に変わる。双方に連れのある不意の出逢いにとっさに指一本、ときに二本、を立てたこともあった。みな二た昔も前のはなしだった。
起って「鴨東(おうとう)」の同窓会報をものの下から引き抜いてきた。笑止なことに、「モスクワの四季」と題された四段組ちようど一べージ分の牧田氏の文章は、読んですらいなかった。末尾の括弧内に社名と、肩書が”モスクワ支店、支店長”とある、それだけ見て、即座に京都へ問いあわせを書いたのだ、それきり会報はしまいこんでいた。
立ったまま一度読み、坐ってもう一度読んだ。「妻も卒業生で」といった一行くらい有るかと危んだが、異郷の四季をただ描写して紙数は尽きていた。
書きだしに、開校三十周年ともなれば「親子で出席」の同窓生もあろうことと想像してあり、胸をつかれた。こちらは、娘をこの春大学に進ませている。結婚はいつだったのか、二つ若い冬子に年恰好の近い娘か息子がいても不思議なかった。轟(ごお)ッと、眼の底に白い風が立って、冬子の懸命な幼な顔が声かぎり呼ぶ。藍色にひとりうずたかい阿弥陀ケ峰が夕雲の空に浮かんで見えた。清閑寺境内のもみじというもみじがさながら虚空を染めて苦集滅道(くずめじ)を、西へ、安曇(あど)の家の方へ吹き流されて行く。その音がさらさら、さらさら耳の奥で鳴る──。
秋──は九月の初旬から忍び寄って来ます。春の訪れと同様、あっと思うまに紅葉というより大半が黄金(きん)色に変わる落葉樹、プーシキンをして「ザラターヤ・オーセニ(黄金の秋)」と歌わしめた見事な光景です。やがて来る冬将軍の斥候(せっこう)の役目を果たしているようです。紅に黄に燃えたつ枯れ木を早いうち折ってブケットにしておくと、冬のあいだ部屋のなかを飾ってくれます。
そんな部屋で、もう幾度めの秋を、冬子は迎えるというのか。手紙がじかに夫の手へ届いては、動じない彼女もさぞ胸を鳴らしただろう。
──勝手□での応対をすませた妻が、移る時刻を気にして、着がえの手伝いにもどって来た。ほとんど袖のないワンピースの色柄がさざ波立って淡い。
家のなかが静かだった。姉娘も、六年生の弟も遊びに出ていると妻は言い言い、
「よかったワ……」
露都の先輩のことをそう思うらしく、鸚鵡がえしに返事して、起ってグリグリッと両肩をうしろへねじた。躰(からだ)がかたい。
小鳥の声を追ってのっそり庭を渡りながら、白黒のぶちの猫が、母娘で、言いあわしたようにこっちを見る。たたきつけるような日照りだった。立っているだけで汗がふいた。
航空書簡をまた一、二通買っておくように言い、家を出た。
駅へ十数分、の途中大きな銀杏と欅(けやき)との杜(もり)を抜ける。蝉しぐれをしばらく身にあび、わけもなく「さて」「さて」と呟けた。冬子の手をへた封書は、二つ折りに胸にしまってきた。
用箋のうえへ漢字で刷った商社の名前に憶えはある。が、冬子の夫は、吉男らの口ぶりから転勤の多い、とにかく普通の銀行動めだった気がしている。どんな事情が重なるとそれがモスクワ駐在の商社マンになり変わるか見当もつかぬまま、ソ連などへ旅立つ煩わしさをつい忘れている自分に気づくと、笑えた。
駅の手前で電話ボックスの重いドアを引いた。
あてにしてなかった吉男が、いきなり電話口に出た。
「なァんだ。ヒマそうやないの」
「お前か」
吉男ははじけたように笑う。
「ごアイサツだな」
「わるいわるい。しかし、なんとなくお前はおかしィとこ有るからさ。ホント」
電話□のむこうでも思わず笑い声がしていた。ながく職場にいたし、不意の電話が奇妙におかしくてならない時のことも、わかる。
「ばァか。そィじゃ、もひとつ嬉しがらせるから、ヒマついでにあとで逢わんか」
「ヒマなもんですか。いいよ、でも」
九段にいる吉男とは、三番町の、ひっそりした外務省筋のホテルのバーでいつも逢う。六時ときめた。会合の場所からも、遠くない。
「モスクワヘ行くよ」
「そやってな」
「だれに聞いた」
「…新聞」
じゃ、あとでと電話を切った。
──吉男の家へは、幼かったむかし手習いに通った。
彼の母が変わった先生で、人の読みくだせない字など書かんでよろしと躾けられた。
手本なしに思ったとおりを、たとえば「来る途中建仁寺(けんねん)さんで、けつまづいてこけました。人が見てはった」などとまず書かされ、それを当座の話題にしながら朱を入れてもらう。そして同じ言葉を幾度も筆で書く。気が乗らねばなるべく短く言い、時にながなが書いた。型破りなためか生徒は、大人も小どももすくなかった。
安曇(あど)の姉妹も、馬町(うままち)の自宅から六波羅の野尻叔母の家へ、習字に通って来るようになった。冬子が女学校の二年生、妹はまだ小学校五年の髪はお河童だった。どの道を通っても、葉桜がはんなり紅い時候だった。
野尻で逢いはじめて間がない雨の日に、筆を立てて一心に冬子の書いた言葉は忘れない。
ゆうべ小松さんのお父さんがなくなりました。お気の毒です。おそう式はあしたです。死んだ人はしやわせです。
国家安康の釣鐘で名高い方広寺大仏の正面に住むその小松さんとは、たまたま名前が冬子、秋子とならんだのも手伝って、ことに仲良く、つと襲った親友の不幸を冬子がこう書くのは自然だったが、吉男の母が、「や」を「あ」と直した、死んだ人は「しあわせ」という思いようは、思わず人の□を封じた。
死なれた者はたまらない──つまり、そういうことを冬子は言いたかった、のか。
「そらそやわ。死んでもたもンは土にならはるだけで、何も感じィひんやろ。死なれた方は、かなん。ソラかなん。お嬢ちゃんようわかったはる」
居あわせた、心もちがらのわるい小母はんがそう相槌をうちうち帰って行ったあと、へんに、気がふさいだ。にがてな話題だった。
「まいにち、雨が降って、いやです」と、太い筆を畏れげなく使っていた五年生の順子が、卒然と異を立てた。人は死んだあとも此の世のことは「全部」見えている。残された者にはあの世が皆目わからない。比較して、だから死んだ人のほうが幸せ、なにもかも彼岸から見透かされて生きねばならぬことを、
「死なれたもンの生き恥いうのやテ、お母ちゃん、そう言うたはります……」
「そうかて、死んだらしまいや」と吉男は筆をおいたきり、意外に神経質に声を高めた。うなづけた。
だが冬子はかまわず「しあわせです」と書きつづけ、先生も黙っていた。ほっと血の色がさした冬子のかすかに窪んだ耳たぶから頸がうるんで白いのと、ふっさり髪の黒いのとが匂うように眺められた。初めて知る心ときめきであったやも知れず、死についてものを言うのもあの日が最初だった。幼い順子ですら日ごろそんなことを思いめぐらすらしいのに愕いていると、吉男の母が感想を求めた。
感想、というのではなかったが──幼稚園以前(よッちぇんまえ)やった思います、と幼い話をした。この野尻の家から坂道を東へ五分とかからない六道参りの珍皇寺で、地獄迎えの撞(つ)き鐘(がね)を、泣き喚くような熱気のなかで大勢で撞いたことがある。鐘は花頭窓一つの鐘楼(しゅろう)にかくれて見えず、丸い穴から撞木(しゅもく)を引く綱だけが出ていた。それへ蟻のように人がたかって引くと堂の内がゴーンと鳴った。鐘の下に地獄へかよう穴があいてある、と聴いた畏ろしさのまま、次には亡者たちが六道の責め苦におうている絵を、背を押され押され食いいるほど見つめるうち、とうとう泣いた。大東亜戦争になり、国民学校へあがってからも一人早く寝床へやられると、まっくらな天井の闇を見あげたなり、死ぬべく定められた命がおしまれ、こわくなって噴きあげるように泣いて大人をよくおどろかした──。
おどろいたのは、だが、そんなおさない自分の思い出話にではなかった。聴いていたやっぱり順子が、また無造作に異を立てたとたんカタッと筆を硯箱において、向きなおりざま、冬子が妹の頬を打った。膝が浮いた。
「死ぬのンて、うち、ぜんぜん怖いことあらへん」
順子は可愛らしいくらいいっそキョトンとした□ぶりで、そう言ったのだ。それを、姉の冬子がああまで赦さなかった真意を、彼女の叔母も従兄もなぜか声高に問いつめられなかった。その後も、あの折檻についてだけ、なぜかタブーのように、訊けずじまいだった。
あしたその「小松さん」の家のお葬式に行くかと訊かれた冬子は、日曜日でもあり親しい七、八人が担任の先生の引率でおまいりしますと、叔母に対してもはきはき返事する。梅雨寒むだった。まるい衿の、少女らしい白いブラウスに襞スカートよりすこし明るい紺色のカーディガンを重ね、冬子は、なにより話し方がはっきりしていた。しかも静かだった。
お葬いは、どんな時もしめやかやけれどと、いささか□ごもって、ほかに人もいなかったからか、吉男の母は古い話をして聴かせた。
「むかしのお葬礼(そうれん)いいますとな……」
野尻先生によれば、とにかくもそれは一つの「行列」だった。樒(しきみ)が通り花輪が通る。位牌も、白衣でしんみり鉦(かね)をうつ役人(二字傍点)も通る。
松原大橋から鴨川を東へ渡ってきたような枢(ひつぎ)は、白木のお駕に載せられゆらゆら揺られもってこの家の北の坂(松原通り)を上る。花屋があった。線香屋があり、葬祭具を現に造っている家もある。夕ぐれには、黒い土の道も、両側の瓦屋根や格子がはまった戸や窓も茜に染まる、急な坂だ。やがて六道さん(珍皇寺)の前の辻をくねくねとななめに、今いう東山線の五条末へ葬列は抜けて行った。
清水(きよみづ)坂も五条坂も、東へ行くほど明治の中ごろまでは一と側(かわ)だけの細々とした家並みで、清水寺門前は昔ながらの野らとかわらず、無縁の墓場に近かった。今の広い東大路が開かれ、市電の走りだしたのは明治四十四、五年からあとの話、それまではどこを通ってもこの松原通りより、ずっと狭い道ばかり。行列はそんな狭い道を通って馬町からまた渋谷(しぶたに)の坂を真東へ、焼き場へ上る。揃いの印絆纏(しるしばんてん)を着た駕や(一字傍点)が何人もで樒をもち、黄菊白菊の花輪をもち、駕をかつぐ。女は、忌中髷(きちわげ)にしごいた生漉(きずき)の紙を丸結びにかけ、また前髪に黒い元結(もっとい)をかけ、櫛笄(くしこうがい)はみなはずして、黒い着物で、足もとを見ながら歩く。道行く人は息をつめて見送る。子どもは、時にまだ親の達者な大人も、思わず死に目にあえぬことを畏れるまじないに、親指を拳にかたく握りしめた。その間を細長う長うかなしみの列は居流れながら、いつか坂の途中の土橋(どばし)まで辿りつく。
「橋のきわが、昔は柱も格子も黒塗りのごっっいお茶所(ちやじょ)になってたんえ。お供の人は、そこどまりでな。道より一段低う、川ぞいの土間に床几(しょうぎ)ぎょうさん置いて。しゅんしゅん茶釜に湯気たてて。みなさんお供養の山菓子だしてもうて一服してはる、そのうちにも、お駕はまだ先の道を行かんならん。樒がで花輪がで、一対ずつに減らして、ほん、身のもンだけついてお山へ、今もありますやろあの焼き場まで、上って行かはった…」
「今なら自動車でパッ、やのに」と、順子。
「そうやな。そやけど、ゆっくりゆっくりああ行列しもって、あれでお別れしといやした想うと、悲しい道行(みちゆき)やけど、さぞおなごりも惜しかったやろ」
「うちの前まで、鳩車いうのひいて来やはって、橋姫さんのまえで鳩はなさはる。そんなお葬式かてあったテ聴いてます」
「鳩……」
高校一年、男同士声のそろうのをほほえんで冬子は、放った鳩はまっすぐ鳥屋(とや)のある、駕や(一字傍点)、葬式や(一字傍点)へ、とんで帰ると言い、吉男の母も言葉をそえて、あれはたぶん放生(ほうじょう)ということを説明していたと思うのだが、もう憶えない。
それより馬町(うままち)の安曇(あど)の家が、ほかでもない旧音羽川に架かったその土橋の東と西のきわに在って、とうに無いその黒ずくめのお茶所というのも、かって冬子の生家で営んでいたと知ったおどろきは深かった。
稽古場には、一間半の床の間に先生のまた先生が書かれ、「力のあふれてゐる時は、自分のものが自然に出る。色も香も出る」という言葉が、一面、藤の枝垂(しだ)れを色美しく描いた余白にこぼれるほど、墨黒々と書いてあった。忘れられなかった。
野尻吉男はあの時分なかなかの哲学者だった。
「結局、人は死ぬため(二字傍点)に生きるのや。違(ちゃ)うやろか」
彼は、心もち声を落とさずにおれない顔つきだった。
先刻叩かれた順子は、今度ももの言いたげに姉の顔色をうかがっていたが、
「つまり死ぬまでは死なん、生きてるテことや」という従兄の念押しに、ころころ笑った。
だが先生も冬子も黙っていた。だから──黙っていた。
吉男があんなふうに手習いに出てきて、仲間らしい□をきいたのはあれが最後のほうだった。その後は軟式の野球部に入り、いつ見てもまっかな頬(ほ)っぺたをして、顔があうと、やたら磊落(らいらく)ぶって人のことを笑いものにしてばかりいた。
「ええ子やけンど、ちよっと変わってェへんか」
学校で、つい冬子のことを話題にしたくて水をむけても、「お前ほどやあらへんて」
吉男はわざとすげない顔をしてそう突き放す。冬子が好きでならなくなっていたのを、この、見かけより敏い幼なじみは察していたのだ。
野尻がどういう家か、ながいこと判らなかった。苗字が鳥辺野(一字傍点)の末、入口、ほどの意味らしいと想うばかりだった。
野尻吉男は同じ大学を出たあと、大阪での、広告会社の勤めが思わしくなくなると、六波羅の親も生家も七つ下の妹にみなゆだね、あっさり、東京へ移ってきた。東京へはこちらがひと足早かった眼で何をやるかと見るうち、居を変え仕事を換え、若い若い妻をやっと迎えた数年前から大手出版社の下請けで、熱中して企画を売り込んでいる。昼日なかデスクに居坐って電話に出られるほど、人手も揃ったということらしく、頼まれ原稿にも三度四度よろこんで応じてきたが、文士の筆をあしらいに、京の坪庭の写真を精巧な指図ももろとも豪華本に仕立てたりする思いつきなどに、育ちは出ていた。
吉男らの父親は背筋の伸びた、だが顔も躰つきも柔和な潤った声音で、丁寧に、言(こと)ずくなに子どもにも話しかける人だった。玄関での出あいがしら、上等そうな着物がしゃきっと似あっていたりする。かと思えば寸足らずな着古しのズボンに開襟シャツのまま、素足で庭先からあがってきて、「きょうのお言葉(二字傍点)は、ト」と、うしろからつたない作文をのぞいたりする。
草花を面白うたくさんに育てていて、床の間に花を置くのは主人の仕事とみえ、秋には水引、吾亦紅(われもこう)、黄花時鳥、雁来紅(かまつか)などと名を教えられ、春は花筏、華鬘草(けまんそう)、苧環(おだまき)それに浦島といった花も見覚えた。どれもひそやかな茶花ばかりのなかで都忘れは色優しく、冬子がそれと、苧環の名とを好んでいたのもなつかしい──。
あの年の四月には、占領軍を率いてきたマッカーサーが罷免された。横浜の、どこかの駅で国電が火災を起こした事件も、ややこしく尾をひくけはいだった。街には「風の噂のリル」を探して流行歌を口ずさむ人が多かった。
野尻へ行けば、そういう世間が、ぱたりと消えうせた。
吉男の父は、その正月創刊された歌誌が、まだ前の名の「くさふじ」時分からの同人だったが、息子の友だちが腰折れの歌を詠みならうと知っても、参加を強いたりしなかった。野尻へ習字にこない日は、家で、嫁(ゆ)きそびれていた伯母に茶の湯も習っていると聴くと即座に、書斎に用意の瓶掛(びんかけ)の前へ丸坊主の少年をひきすえ、ぎごちない盆手前で抹茶の味をお初に冬子らに覚えさせたのも、この吉男の父だった。
書斎そとの廊下には、衣裳棚のような二、三段に大小の陶片がとりどりに入れ分けてあった。今想えば「古清水(こきよみづ)」のものが多かった。
「清閑寺、知ったはるか」
そして清水焼の発祥地と教えられた。いい処だから、
「冬(ふう)ちゃん。いっぺん連れて行ッとあげ」など、長めの顎をち上っと引きぎみに、ふうわりふうわり喋るのがユーモラスな小父さんだった。
甲子園かどこか知らないが、軟式野球で京都府か市かの代表校に選ばれ、全国に覇をとなえようとまでもう心を動かしていた吉男には、彼の親たちとのこういう場面こそ、よく笑われた。むろん幼稚園以来の友情を無にすることはなかったけれど、両家は息子を取り換えるべきだと言って、歌をよみ茶をたて、そのうえ草花の名や陶器の色にまで心惹かれて行く幼なじみを、吉男は時にどぎつく揶揄(からか)った。
「嗤(わら)わしといたら、よろしのや」
夫婦して野尻の大人は支持してくれた。冬子は黙っでやりとりを聴いていた。
あれがかりに庭師──の家、というのでは、やはりなかった気がする。いっそ職人衆を出入りさせる檀那か親方棟梁の屋敷めいて、だがどの出入□を通ってもむき出しに職人道具らしい物はついぞ目立ったことがない。屋形は、大きく「日」の文字の形をして、庭を二つ抱きこんでいた。南の庭には紅梅、珍しいもち(二字傍点)の巨木のほかに、たくさんな草花が咲かせてあったし、北はまるう敷いた伊勢砂利の中央に蘇鉄が数株(すうしゅ)かたまっていた。蘇鉄たちの芯には、膝ほどもなく、夕霧御前というかぼそい名を伝えた、古い古い石塔婆がうずくまっていた。
それとて三十年前の話だった。行届いて目くばりのきく年頃でもなく、「野尻正男」とあるわきに、
「六道」とも、屋号か雅号かの添った表札こそ近在に根生いのぬし(二字傍点)のように眺めたものの、あっさり木目立った焼板壁に千本格子の窓を連ねた奥深い平屋のことは、ただ習字に通う「先生」の家としか感じていなかった。
それもいつか、そこへ行けば冬子と逢える家に変わっていた。どんな段取りでか、顔のあう刻限を両方で見はからい、おのずと「さいなら」を言いあう時刻までが申しあわしたように揃うてくると、なにやらよその大人にはおかしく「来(く)んのも帰んのも、ご一緒」とひやかすが、吉男の母は知らぬ顔、「おきばりや」と、いつもその一言で見送ってくれた。
「すぐ、帰らはる…の」
幼い順子が風邪をひいたかして休んだ日だった。帰りぎわ、くらい廊下を沓(くつ)ぬぎへ折れ曲がる辺で、冬子の低声(こごえ)がうしろから訊いた。え、とふりむき正面衝突しかけて、思わず髪の毛ごと抱きとる、のを、冬子は二の腕でやわらかに胸のまえを庇い、ほほえんでいた。
格子戸の、外がひっそり野尻小路。すぐ右をむくと、松原通りの坂道だ。
「清閑寺ィ…連れて、くれはるか」
訊くとも頼むともなく顔を見ると、冬子は嬉しそうに、髪が揺れるほどうなづいた。
いつもだと野尻の前で右、左に別れ、彼女は小路を南へ、中学校の塀に突き当たって東むきに姿をかくす。そして、やがて主典辻子(しゅてんのずし)という軒のせまった細道を、五条通りのほうへ、ななめに抜けて帰る。
祗園会はすぎ、八月八日からの六道参りまでに、いましばらくの油照りだった。
開襟シャツの汗くさいのを気にしながら、坂道を上るも下るも女の子とならんで歩くなど、ないことだった。だが冬子は花が咲いたように俄然「ここに」とか「あれは」とか元気に話しだす。道具はみな野尻にあずけた手ぶらで、素足に下駄だった。冬子もそうだ。あの時節、ふだんだれも靴など履いてなかった。下駄の花緒の、色の違いまでが照れくさかった。
東へ、ゆっくり五分も歩くと南北に市電の走る東山線、妙にいつも雑踏している清水道(きよみづみち)電停へ出る。京の東大路。松原通りはここで尽き、東山線より東は、清水坂と呼んだ。
昔、この清水坂から、事実松林におおわれていたという松原の坂を西へ下ってまっすぐ鴨川に架かっていたのが、五条の橋だった。渡れば西へ平安京の五条大路。現に橋ぎわに年若丸と弁慶の愛くるしい石の京人形を飾った昨今の五条大橋は、なにかの都合で六条坊門の東へ豊臣秀吉が架けかえたもの、あの広い大通りがもともとの五条ではなかった。
冬子のほうが、そんなことを知っていた。もっといろいろ知っていた。
野尻の屋敷(と、冬子はそう言った)から東へ、そして南へ、清水山(きよみづやま)、清閑寺歌の中山、六条山、阿弥陀ケ峰などの山はら、山すそは、一帯に往時鳥辺野の名で呼ばれた。墓所ですらなく、人は、そこへ屍(かばね)をただ棄てた。いまは嵯峨の鳥居本へ移っている念仏寺にしても、また今も在る西福寺や六波羅蜜寺にしても、そんな鳥辺野へさしかかる道のはてに建てられ、都の人はそこで、野尻や六道の辻で、死者と別れた。屍は野山に住む人手にゆだねた。そう古いことではなかった。
冬子は話してくれた。
この辺、もともと寺とは名ばかりの、地蔵堂や、阿弥陀堂や、素性(すじょう)しれない石仏の堂や祠(ほこら)が散在していた。じりじり時代が下って、西から東へ町地(まちぢ)に変わるにつれ、もと在った寺の名が小字名(こあざな)に残り、興禅野、珍皇寺、地蔵田、無量寿、日灯坊、施無畏塚(せむいづか)などとなって、それも家並みに埋もれた。野尻という小路名もその一つ。
いっそ笑顔で、言葉をえらび、「ホラ、そのそこの」と、冬子は話しつづけた。主典辻子(しゅてんのずし)に西面した、もと宝福寺というのが「南無地蔵さん」と人に慕われ、鳥辺野一円をあたかも管理下におさめる寺として、久しく四囲竹林(ちくりん)の中に荼毘処(だびしょ)、つまり焼き場も擁していたという。焼き場はいつか別所に移されたけれど、野尻家は、たしかに、いつ時代からかそんな宝福寺に代わるある力を持ったらしい。
「……なんで、そんなン知ってるの」
少なからず、あきれ声になっていた。
「大人の人の言うたはるの、よう聴いてるし……こんな話かて、知ってたら、なにか言われた時にでも、筋通した返事ができるし」
「筋テ…」と思わず聴きとがめ、ゆくえ知れぬ濃い霧の奥をのぞく気がしたものだ。冬子はかるく顔を見るふりで、ことこと笑いだし、人と土地の「歴史」という言葉におきかえた。
「言われるテ何を……」
「いろいろ。気にせェへんの、言わはったかて」
信号を見あげ、東山線を「それィ」と駆けて渡った。道はせばまり、坂は急になり、冬子は駆けた勢いで髪をくるくる振り、白い項(うなじ)をのけぞってみせて、こう暑いのも好きと言った。
「さっきの。主典辻子いうの、なに」
「四天。大きなお寺の四天王さんを彫刻しゃはる人なんかが、あの辺に住んではったかも知れへんの」
「轆轤町(ろくろちよう)、は」
野尻小路も含んだ、六波羅蜜寺の東一帯、訓(よ)めてみると面白い町内の名前だった。清水焼の職人町ででもあるかと想っていたが、それも冬子は、もと髑髏町(どくろちょう)らしいと言いかえる。
「まさか」
「掘りかえしたらようけ出た、言うて。江戸時代のはなしにしても……人の大勢暮してた都なら、暮してたと同じ人数だけ、死んで埋めたにきまったるやろ」
「火葬してたら」
「火力がちがうもン、骨は残ります。それに、焼いたテ限らへんのえ」
「………」
「あの辺だけを髑髏町や言うさかい、話ちごてしまうにゃん。うちのお兄ちゃんの受け売り言うけンど、古い地図見てみ、テよう言われます。山の東の山科(やましな)側は知らんけど、この東山区、山から鴨川まで、歴史的には例外なしいうくらい永い永いこと死体棄場やったやないか。そして、地区ごとに支配の芯になる、有名な大きなお寺やお宮がそれはうまいこと、ちゃんと建ってるテ」
気をかえるように冬子は道の左手を指さした。八坂五重の塔が見える。連子(れんじ)窓に葭簀(よしず)をつり、また硝子戸棚に帛紗(ふくさ)をしいて古い香合(こうごう)などかざった、小粒な家々が軒をふせて居ならぶ。そして三年坂のちょうど上までくると七味を調合する香りが、薬研(やげん)を挽く音に乗ってツンと鼻をついた。清水寺の門前へほどなく、土産物の店が右に左に急にふえる。
野尻では、お三時に西瓜をよばれてきた。その時だけ吉男のちいさな妹も顔をだして、暑くるしく冬子にくっついて坐った。吉男は、夏休み中も猛練習だった。
冬子が、従妹の悦ちゃんとならぶとひとかどの大人に見えたのを、想いだしだし、からかった。だれに途中出会うでなく、二人の口もすこしほぐれていた。
両足を揃え、かっかっと下駄を鳴らして冬子は一歩二歩跳んでみせた。やわらかな躰に情があふれてくるのを思わずそうして発散させるかのように、冬子ははんなり身を動かす。坂を下りてきた進駐軍の兵隊がホウホウとはやしていた。だれのことかと思ったら、二人がはやされていた。透けそうに赤いブラウスの、頬骨の立った、脚の長い日本人の女がいっしょだった。兵隊は三人。すっかり見なれてしまった取合せだ。観光という言葉も、まだなかった。敗戦から六年、清水寺などへ参るのは近所の年寄りかそれともアメリカ兵。MPの腕章もよく見た。兵隊づれは、きまって□紅のあかい女をつれていた。
足ばやに通りぬけた。背中へ、強くはないが小粒の石が追ってきた。
「酒、呑んどンにゃて。行き行き、はよ」
表に出ていた一人二人ステテコなりの店の大人に、眼顔や手つきで教えられた。
清水寺こそ二人には珍しげなかった。出入り自由の舞台に立ったにしても、日盛りにはだを灼かれ、むせるほど一面真緑の樹海をのぞきこむだけのこと、それよりもあの舞台下の面白い木組は、音羽の滝を流れでた川瀬を石づたいに遡り、こんもり繁った木の間越しに、高々と下から見あげるほうが迫力がある。
「この川下が」冬子の家のそばを、あの土橋のすぐ北側を流れ、やがてほぼ真西へ路面の下を走ってはまた露われて「小松さん」の家のわきから疏水にそそいでいた。
父親ににわかに死なれたという小松秋子の名は憶えていた。その人、どうしていると訊いた。山づたいに、夏空に炎を巻いたように見えるもう子安塔の奥を、日ざしを避けて清閑寺の方へ歩いていた。人ひとりの影もない山路に、けだるく油蝉が鳴きしきっていた。
冬子は、なぜかまともな返事を□ごもり、話をそらすぐあいに、以前、野尻の従兄が「人は死ぬために生きる」あるいは「死ぬまでは死なん。生きている」と言い放った、あれをどう聴いたかと反問した。
「それは、僕は……」と、緊張した。「僕は、人間テいうのは、死にながら生きるもんやて、思てる…死にながら生きるンや」
冬子は笑いだした。なぜ笑うと訊けばますます笑う。日が翳り、つと山壁を薙ぐように木昏(こぐら)い風が頭上に落ちた。路の先を背の青い長い蛇が誘う。東に見あげる木叢(こむら)にも、西に見おろす樹間にも久しい歳月に洗われて人の骨が石と化しているのを、知っているか。冬子はそう言い言い、笑いやんで黙って首をめぐらした。
蛇行する路のくびれでV字なりに渓がえぐれ、音もなく瀬の底を水の色が動く。あの、きらめくせせらぎも、もうそのそこの広い鳥辺山の墓波をくぐって先刻の音羽川に合流している。そうも冬子は呟き、遠くうるんだ京の街のほうを指さした。
せっかくの返事が宙を游(およ)いでいた。全然べつのことを冬子は想っているらしく、自分が小学校四年生の時、二人は出会っていたなどと言った。
「憶えたはる……」
首を横にふると冬子は、眼をほそめ、
「松原、けいさつ、しょ……」と可愛くあごをそった。
たしかに小学校六年の夏休みまえ、六年は男女二人、五年と四年生は代表が一人ずつつごう東山区内の十小学校から四十人が松原署に呼ばれ、二階の会議室で討論会があった。
冬子は笑いをかみころし、あの時さもいやそうに、指名があれぱしぶしぶ防犯活動だの男女交際だのについて返事するだけだったのが自分と、「宏ッちゃんと二人だけ」で、だから忘れていないと言う。
「そやったでしょ。ちがう」
「まァ、な」
「ほら。当たってた」
そして二、三歩先へ立って冬子は路なかでくるっと向きなおり、「ね、お墓て嫌いですか」とまた訊いた。
墓場、の意味だったろう。考えたこともなかった。好きなはずがなかった。のに、自分でもわかるほど眼を光らせて乱暴に叫んだ。
「嫌いやない。好きや。ぜったい好きや」
「そうや。そう言わはる、思てたもん。宏ッちゃんて、おもしろい人やなァ」と冬子もきらきらする眼で叫んだ。
「おいない」
駆けもどって、つと冬子の手が手を取りにくる、はっと芯から硬く熱くなり、地面が五、六寸もぐぐっと沈み、またぐぐっと浮かぶ。弓なりに、前も後も、左手(ゆんで)も翳をふくらませて、こんもり青い清水山(きよみづサン)。右に日の色に照った松むらが幾段にも見おろせて、西日に染められほそぼそと、山ひだのかげへ乾いた赤土の路がのびている。
それにしても冬子の身の軽かったこと、取った手を波のように揺って先へ先へ走るのが、虫を追い風お追いこだまに語りかけて領巾(ひれ)をふったという上古の処女(おとめ)さながら、なにかしら木魂(こだま)の囀(さえず)り呼ぶように冬子はよく透る声をあげ、右の、「清水山墓地」と標識のある脇道へ駆けこんで行った。
矢軍(やいくさ)のように日光が墓標に乱反射し、白い御影石の碑から碑へまるで無数の光る小鬼がいり乱れて嬉嬉とはしりまわっていた。南へ西へ、扇なりにやや茜色の漂う夕まぐれの墓地は静かに花やいで、寂しいなかに奇妙に心をはげます呼び声で満たされてもいた。
「人は、死んでから、生きるのぇ……ほんまぇ」
遠くへ、また近くへ、墓石から墓石へ見え隠(がく)れに広い輪を描きながら、きらめく小児たちのちいさな首領は、つと立ちどまり、念を押すように声高にそう呼びかけた。忌まわしいことを聴いたと思った。
「人は、死んでから、生きる」と冬子が言うには、理由があったろう。それにしても、にじむような夕焼けに染まり絢爛(けんらん)と照る墓、墓、墓波、のさなかで感じた奇妙な不満は、そうだった、三十年ちかい歳月を経て、十になる息子に、いっしょの湯につかりながら──この人生が「死」を待ってしばらく「休憩室」にいるのと同じなのかどうかと、記憶にもない『モンテ・クリスト伯』を引きあいに訊かれて、むっと黙りこんだあの思いに似ていた。
建日子(たけひこ)は、「休憩室」という名の人生観に対し、必ずしも好感は持たなかったらしい。生きることを、
「すこしバカにした言い方のように感じたな」と、念のため反問するとすぐそう答え、「でも、よく、わかんないけど」とも□ごもって今度は彼のほうが、生れる以前と死んで以後の底昏い闇の奥をのぞきこむような、一瞬こわい眼をした。なぜか慌てて話題を逸らさずにおれなかった。少年に、こだわったふうはすこしも無かったが。
──あの日も、冬子になまじなことを答えてはならぬ気が、した。無気味な死の幻像を冬子の言葉で描きだされるのも、これ以上は、場所がら歓迎しかねた。
それに先刻来、一面に甘酸っぱい匂いの漂っているのが、墓地の奥まった高みに重なりおうて白い花をいっぱい咲かせた山梔子(くちなし)の株らしいと気づいて、その方へ冬子を手招いてもいた。
どの墓石も比較的新しかった。
清水寺のかと思ったが、冬子は京都市の公営墓地だと言う。葬や墓とおおむかし寺とが無縁だった時期すらあった。墓詣りなど庶民の暮しにはよほど後代のこと、それが、墓地は当然もつものと一人一人、一軒一軒が思えば思うほど、寺だけでは賄いきれなくなる。ビルの中におびただしい抽出しを仕込んだ納骨堂、立体墓地がもうやがて出来ねばすまぬはず、墓地造成がたいした商売になる時世も遠くないと、大人の話を耳ざとく聞いていて、「そやさかい」と冬子はさらりと言ってのけた。
「日本人は、そやさかい、大昔ィ行くほど死体に執着せんと、とにかく、きまった場処へ重ね重ね埋(う)め棄てにしたもんなんやて」
「そやろ。今のもンが思てる以上に、人のとかぎらず死体の始末テだいじな仕事やったンやろな」
「そやのに、そういう仕事してくれる人のことはだいじにせんと……」
「坊さんとか」
「お坊さんだけやあらへん」
「………」
この清水山墓地も、その以前は安曇(あど)の家で差配していた。「清閑寺」「音羽」の銘印のある陶片がちようど「あの辺からも」出たと名子は言い、色変わりした紫陽花(あじさい)のむくむくと葉だくさんな崖の根かたを指さしたりした。
「冬(ふう)ちゃんの、庭やな。まるで」
いくぶん追従(ついしょう)じみなかった段ではないが、率直な、嘆賞に近い感想だった。冬子も、ふんとあっさりうなづき、「行こ」と、もとの山路へもどって行った。
「宏ッちゃん……」
冬子はやがてそう呼びかけて、「死にながら生きる」とは寿命を時間で勘定するということかと低声(こごえ)で訊いた。念々に死去しまた生れて瞬時も留まらない。時間は無視できないと答えた。時尽き、人は死ぬ。生はつまりは無に帰するのかと、また訊かれた。うなづいた。
「それやったら、お従兄(にい)ちゃんのと、おんなしやん」
振りほどくように、「あかん」と冬子は叫んだ。
路のわきに葛の裏葉の白々とうちかえした叢(くさむら)がつづく。と思うと、笹原の奥に思わぬ猿すべりの紅い花が目にたつ。が、真夏を制する濃い青や緑に、どんな色もかてない。石塚原を抱きしめて山という山の吐く青くさい息づかいは、夕方の気はいにいくらか涼しく安らいではいたけれど、そのかわり、ものの翳はどこかしことなく寂しさもましていた。
「あかん」と言い放ったなり、冬子は、議論をつづける気はなさそうだった。それどころか妙に.バツの悪い気弱な顔さえして、清閑寺は近いと告げた。
やがて家が三、四軒見えだした辺りから、かえって太い管の底を通るくらい喬(こだか)い木々におおわれ、そんなある一軒の表戸があいて出あいがしらに、髪を赤い布で三角に包んだエプロンがけの主婦が、冬子と見るとはっと黙礼した。冬子も頭をさげ、そんな時の彼女は野尻の叔母や従兄のまえで、黙って人の話すのを聴いている時と同じ顔をしていた。
と、遠い地の底からサイレンが聴こえ、まるで縄をなげてよこすように音だけぐーんと近づく。そしてやはり足もとをつうっと通りぬけ、唐突にやんだ。冬子の足もとまった。
清閑寺についてなにも知らなかった。黒田清輝という画家に清閑寺を舞台の面白い絵があると吉男の父に聴いていた。参詣の男女に語り僧が昔語りを聴かせている図とか、題も「昔語り」だそうだが、絵を観たわけではない。
やがて、木々のトンネルの遠くに、西日の照ったなだらかな山が、はなはなと朱い夕雲を浮かべていた。山路を左へ左へ巻いて、のっと出たところが風通しのいい岐れ道。右へ下りれば道より低く瓦屋根や仮屋根が重なりあい、左へ、路を上りにとろうとすると、手前に、「歌の中山清閑寺」の標石が立っている。崖の根には矢印を入れて「六条天皇陵高倉天皇陵」と二行に刻んだ碑も立っている。ガラスのコップ二つに孔雀草や小菊があふれて、祠に白い前垂れの石仏も祀ってある。
薄澄んで高い夕空が、ここへ来て存外広かった。静かだった。真南にうず高く西日をあびた阿弥陀ケ峰が、絵に描いた山よりも愛らしく、だが、東へ、六条山のほうへくびれた昏い谷かげには、焼き場がある。昨日も今日も何台の霊枢車が、あの山坂を上ったかと想う痛いようなある断念も、その山容は、しんみりと表現していた。からすが、時に黄金(きん)色にきらと光って三羽も四羽も舞っていた。
冬子は先刻のサイレンに思い当たるところが有るらしい。ふと小走りになり、それも思い直し、かえって前途をためらう様子が見えた。
「どゥしたん」
「…………」
佇んで冬子は眉をひそめ、手を握って、と頼むように片手をうしろへ伸ばしてきた。指がほそい、という、たったそれだけがあんなにも美しい触感を恵んでくれるとは、夢にも知らなかった。
「また……自殺や」
自殺と聴いてすくむのと、冬子が握った手を抜いて駆けだすのとが、同時だった。むろん、あとを追った。
あ──。
急角度に路が左へ折れて。
まるで花道だった。舞台正面のていに幅広い石段が夕まぐれに、くっきり七、八つ。玉垣に仕切られてまた急な段、段の奥に扉(と)を閉じた門や白壁の塀が厳(いか)めしく、そして、天を摩する青もみじのすごい枝ぶりが三方から打ち重なり重なって──思わず見あげる眼にこわいほど縞目なして、西日が、さながら黄金(きん)の矢を山ふところ深く無数に射かけていた。
これが──清閑寺。
「ちがう……」
冬子の眼がそうものを言った。六条帝か高倉帝か、ともかく御陵の正面を渡った、ちょうど上手(かみて)花道にあたる小高い丘の上から、見え隠れに石段を踏んで白衣の二人が、毛布でおおった担架をぞろぞろと担ぎおろしてくる。巡査と、竹箒を持った庭掃きのじいさんもあとについて、なにか早□に喋っている。石段を上りつめた辺にちいさな木戸があいて、遠い山形が透けて見える。
寺は、あの上か。だが堂の屋根ひとつ目につかない。冬子の前へ出て行こう、と、した。
「やめて」
低い声が背に突き立った。引きもどし、通せん坊のていに冬子は懇願とも命令ともつかぬ真顔で、今日はここからひとり帰ってと、うむを言わせなかった。
みすみす清閑寺を目の前に、夕過ぎた山路をもと来たほうへ駆けもどった。清水寺(きよみづでら)まで五分とかからなかった。むやみに寂しく、胸に穴があいたようだった。だが、冬子にさからえなかった。
「……なるほど」
野尻吉男は約束のホテルで、食事の手をやすめ、しんみりした。
「はじめてのデート、可もなく不可もなかったわけやな」
「暑い日だった。のに、ここが」と胸を指さした、「冷たかった、よ」
「夕立ちにでもあったか」
「いや、胸の底を白い雨が通って行った」
「キザだね」
「ああ、高一くらいの少年ほどキザなのはないんだよ。もう忘れたのか」
「お前は……変わらんね」
「あの日、歌ができたよ」
「やれやれ」
「山の辺は、夕ぐれすぎし時雨かと、かへりみがちに…人ぞ恋しき」
「きもち悪いね」
「そうかね」
「そうさ」
「冬(ふう)ちゃん、今いづく…だい」
案の定、吉男は□をつぐんだ。そして空いたグラスに赤い葡萄酒を一つ、二つと満たしておいて鉄板焼の肉に箸をだし、呟くように、
「このごろ、ハイネとは愛を語ってないのか」と訊いた。春を、夏を、秋を、「愛する人」がどう異るかを歌ったはやり唄の、ハイネの詩は中でも「秋」によそえられていて、吉男は小松「秋子」とのことを諷しているのだった。
「…語ってなんかいないさ。俺はもともとロシアの方を向いてきた。雪(ゆゥき)を溶(とォ)かす大地、ってのが好きでね。秋(一字傍点)、じゃない」
「でも、あそこの冬(一字傍点)は、いくら愛したってもう、きみの母親にはなれまいよ」と吉男も同じ歌をくちずさむ。
「仕方ないな。……根が心(こォころ)ひろき人さ」
またやれやれと、吉男は赤い酒を□にふくんで黙った。いつからか、ことさら彼が小松秋子の噂をするのに気づいていた。
「結局、俺は冬(ふう)ちゃんのあの頑固な秘密主義に、すべて咎(とが)ありとする説に、賛成だよ」
「それ、お前の説だろ」と反問しても、吉男は答えない。A+の合図が痛いほど眼の底で明滅した。
「で、……ロシアヘの相棒は二人なんだって。変わった顔ぶれだね」
「ああ。でも案外いいトリオになるかも知れんよ」
「むこうで、お役目があるのか」
「ない。それよか、土産をね、いくつか持たなきゃならん。何がいいだろ」
「軽いもの、だろ。ほら、二組にいた網田に頼めよ、金銀象嵌(ぞうがん)。あれなら京都らしい物だし外国人にも通用するよ」
「うまい。それだよ」
それからひとしきり商売の話につきあった。吉男は強気だった。それでもつくづく、出版はしんどいとこぼす。本音だろうと思うと、かえって声が出なかった。
「ご両親は。先生の脚の痛いの、その後どう」
「なんとか暮してるらしい」と、吉男。
「悦ちゃんが一緒で安心だね」
「俺よりしっかり者だしね。婿さんも」
「そうだってな」
「いやな相槌だな。みな年をとったな、順子ちゃんにしても」
「連絡あるかい」
「たまに。お前が京都へ来ても素通りする言うて。怒らすと、こわいぜ」
「嵐山は……遠いよ」
「電話があるじゃないか」と吉男は目の前に指を竪(た)てた。
「あるね、たしかに」
「なにがたしかにかね。あいつ、お前に言い寄ったことがあるだろ」
「……ないね」
「あるんだよ。本人がそう言うんだから。お前が鈍感で」
「鈍感も、時には悪くないさ」
「鈍感の、フリをするのはどうかな」
あと一年で中学を卒業するという男の子と二人、安曇(あど)順子は夫と別れて、名前は嵐山なんとかというもっと川下の、松尾神社に近いマンションに住んでいる。
「となりの住人と、一戦やったって」と水をむけた。
「知ってるのか。ものすごくレコード鳴らすらしいんだ。それで苦情を言って、逆(さか)ねじ食った。それからが順子ちゃんさ、たいぶ頑張ったらしい」
「延長戦なのか」
「いや、五階から八階へ、一番上へ、もうすぐ移るんだって」
「負けかい」
「いや、そうでもないらしいよ。結局はトクするんじゃないか彼女のことだから」
「だろうな」と、男二人たわいなく笑った。小松秋子がすこし川下の桂に独りで住んでいるのを、やっぱり吉男は知らぬらしい。
「な、お前。今でも……死ぬために生きてる気か」と訊ねた。
「背中に、砂時計がくっついてる感じでね。サラサラ、サラサラ砂の落ちる音がする」
「………」
「しかし死ぬまでは生きてるよ。こりゃ真理だね」と、吉男はなぜか俯いた。
「それは、事実さ」
「わるくない事実だと思うよ」
「ただし、アイマイな事実だね」
「冬(ふう)ちゃん……か。変わってたナあの子」
「俺ほどじゃない」と、うそぶいて、顔をそむけた。
「ロシア…気をつけて行ってこいよ」と、吉男も低声(こごえ)だった。 続く
* たまたま手にした『冬祭り』を一昨日から読み返して、余人は知らずこんなに面白く書いていたか、「小説は、自分が読みたくて堪らないモノを書くのが自分の願い」といつも心に決めているとおりのモノだった。
連載を始めたとき、亡くなった水上勉さんに、「あなた、新聞に、大胆きわまりないモノを書き出しましたね」と驚かれたのを思い出す。
当時中公の名編集者の一人だった青田吉正さんには、連載中には「秦さん、支離滅裂じゃない」と心配されながら、単行本になったときは「こんなに完成度高いものだったんですね」と褒められたのも懐かしい。本にするときも、ほとんど手を加えなかった、新聞連載のまま本にした。びりっとも動かしようなく書いた。一人称を一箇所も使わなかった。目次で分かるように訪ソ連の旅から日本の秋へ、しかも死の世界と現世とを臨在させ共存させて書いた。
本の帯には、秦文学畢生の恋という文字があった。もっともおそろしいものをもっともいとおしく書いた。
* 読み返し始めたときは、このところしているように冒頭部をただ紹介するだけしか考えていなかった。
ところが読み返しているうち、わたしは、ふと思い出した。
そんなこと、気にしたことがなかったが、忘れてもいなかった。妻に聞いた話だった。
我々の娘は、結婚直前に、わたしのごく大事な友人で優れて「いい読者」の一人である野呂芳男さんを尋ねていった。尋ねていろいろ恋愛の縺れなど相談してみたらと奨めたからだ。お宅へか大学へか娘は野呂さんに会いに行き、結婚より、アメリカに行きたいという話を持って帰ってきた。
目的(アテ)は何もなかった、行って探すという。
貧乏文士の父親にそんな漫然とした遊び金ない。勤め人の娘にも何らの用意もなかった。そんな昼寝の夢のような話はあぶくのように流れて、あれまといううちに娘は見合いして間なしの相手と結婚した。それはそれ。
* 妻は野呂さんとの電話ででも聞いていたか、氏のお宅で、娘が、「私はノリコなんです」と熱弁をふるったというのだ。「ノリコ」といえば野呂さんが書評して「名作」と褒めてくれていた『冬祭り』に登場のヒロインの娘「法子」のことだろう、ばからしくてわたしは気にもとめず、その後野呂さんに会ったときも話題にもあがらなかったと思うし、あがってても何とも感じなかったろう。
アメリカに行きたいという話も、例えば『慈子』は、妻子ある宏との愛を避けて親類の配慮でアメリカへの遊学を奨められている。
当時「魂の色の似た」男たちとの交際に行き悩んでいたかも知れぬ娘にも、また大の『慈子』好きな野呂さんにも、「アメリカへ行ってきたら」という着想は出やすかったろうし、娘にはただただ魅力であったろう。また『冬祭り』のことも野呂さんとなら話題にあがりやすかったろう、建日子流にいえば「おやじがめっちゃくちゃ好きな」娘が、作品にも登場している自身とヒロインの娘とを一重ねに「あたしはノリコなんです」ぐらいは盛んに言ったのかも知れない、娘にはそういう被感染のヘキが有るのは、母親も父親もよく知っていた。だから、わたしは聞いても気にもとめず忘れていた。
* だが読み直して行く内に、これって、ここ二年ほどの娘の言動と、かなり微妙に関わったことかもしれんぞと気が付いてきた。またまるでべつの小説へ展開して行きそうな発見なのかも知れない。
* 『冬祭り』の「法子」は、たしかヒロイン「冬子」の死んで生まれた娘の筈。しかも長い旅をする語り手の作家に、二十歳前後の娘になり変幻自在に絡みついてくる。久しい読者ならみなさんご存じ、『清経入水』ヒロイン「紀子」の「娘・鬼山和子」の再来になっている。和子も法子も、さんざんに「語り手である男」をいたぶりつづけるが、実は「父」としても深く愛している。法子の場合は、母の意を承けて愛の埒を美しく越えてさえ行く。
わたしは、「身内」「死なれて・死なせて」という文学の主題を物語世界に豊かに活かすために、『畜生塚』『或る雲隠れ考』『慈子』から『清経入水』に至るまでに、妻子ある青年と夫のない女との恋を書いて、女との間に死んで生まれた異界の「子」を置き、不思議の物語を書き続けるという大きな趣向を用意してきた。
『冬祭り』はその一つの仕上げを意図していた。わたしの娘は、そういうことをよく知っていて、父母の子としての自分自身と、小説の中で生きて生まれなかったヒロインの「子」との、謂うなれば一種の「共生」感覚を持ってみるというほどの「演戯」意志を或いは楽しんでいたのかも知れない、それが、「わたしはノリコなんです」という野呂さんへの一種の興奮した言挙げに露われたのかも知れない。
わたしは今にしてオヤオヤそんなこともあるのかなと気づく程度に、そんな娘の心事には無関心で来たが、じつは「それ」その事が或いは娘に「心外」な思いをさせつづけ、ひっくり返しての「ハラスメント」という訴えにワルク拗(こじ)れてきたのだろうか。そうとでも想ってみないと、あのいやらしい父への捏造の中傷は、なんでああなのか、到底理解できないのである。
* わたしは実の父も母も知らないまま成人したので、親へ倒錯の感情は全くない。また娘や息子への倒錯の感情も全然無い。わたしは実にまっとうにフツーの「女好き」で、強いて謂えば「美しい女」好きである。健康そのもの。ロリータ趣味もない。三十代、むしろ四十代の健康な女性がいちばん輝いて見えるという好みである。
だから逆に『蝶の皿』のような不思議に美しい倒錯の世界がためらいなく書き表せる。『家畜人ヤフー』の著者やその他の何人もが秦さんは真性の何かであるかと想ってエールを送ってきてくれたほど、実は真っ逆さま、わたしにはそういう趣味が全然ない。娘、トンデモナイ。
* なににしても、とてもとても楽しみに『冬祭り』を読み返し始めた。日記など書くのやめて、ここにもう一度『冬祭り』連載してみたくさえなった。この「私語」の愛読者らしい娘も、久しぶりに懐かしく「法子」に逢いたいかも知れない。読者にも、熱烈な『冬祭り』好きが大勢いる。遺跡を尋ね歩いている人までいる。「なつかしい」しかしこれは「おそろしい」小説である。
2008 7・27 82
* 七時半の血糖値、115。まずよし。聖路加へ。視野検査等と、診察。留守中には湖の本が出来てくる。急いで帰って、数日は修羅場。創作とエッセイを通算して、第九十五巻めだったか。
2008 7・28 82
* フウ、戸外の暑いこと、本の入った鞄をもって駅まで歩くと、苦痛で顔が歪むほど後ろ腰が痛むのを、なだめなだめ行く。新富町まで坐って行けて助かる。
予約よりずいぶん早くついて検査は、予約時間十時半には、もう済んでいた。
視野検査はほんと苦手。両眼で小一時間はただただ光の点滅を把捉してボタンを押し続ける。しっかり疲れる。疲れるのはまだしも、そのアトの診察の順番待ちがあまりといえばあまり、二時間以上もまたされた。予約時間から一時間半も遅れていた、しかも担当医師が退職していて、別医師のドンジリまで待たされた。
いらいらしながら待てたのは、『冬祭り』のおかげ、夢中で上巻を読み終え、用意よく中巻も持って出ていたので、没入できた。待ち時間を忘れていた。
* 津軽海峡からナホトカへ、そしてハバロフスク経由雨のモスクワに入って、ドストエフスキー誕生の建物を観たり、トルストイ伯爵邸だったソ連作家同盟で食事したり、ザゴルスクの三位一体教会を訪れたりする内にも、旅の「私」は、今はモスクワに住む「冬子」ともう電話で話し、明日早朝にはジェルジンスキー公園で逢おうと約束が出来ていた。二十数年ぶりの「再会」だ。
ひとは本気で笑うだろうが、わたしは読みながら、胸のつまるほど本気でわくわくしていた。その幸福のために、つまり、わたし自身が読みたくてそして嬉しくも懐かしくもなりたいために、わたしはわたしのすべての小説を書いてきた。読者のために書いてきたのでは、申し訳ないが、ないのである。「わたしの批評」に適うほどの作をわたしがわたしのために書いてきた。わたしの作中人物は、現実のだれかれよりもインパクトつよく豊かに美しく、みな真正の「わたしの身内」だ。ことにこの作品の「冬子=ふうちゃん」は、すべての「現実」と均衡して優にあまりあるヒロインの一人、唯の一人。
* 再会の朝、その直前で惜しんでペイジを伏せ、日盛りの保谷をタクシーで家に着くと、もう即座に、搬入されていた新刊「湖の本」の発送作業にかかり、十一時までぶっつづけ。もっとも手作業のあいだ、野茂英雄投手、大リーグでの優れた足跡を特集フィルムで十二分感動し、また、好きなシャロン・ストーンの『マイ・ビュウティフル・ジョー』を楽しんで観て、聴いてもいた。二時前から九時間、猛烈に頑張った。
集中のちからは、まだそう衰えていない。仕事というのはよく用意しておいて一気にさあっと手早くやるのが、いちばん躰もラクなのである。
2008 7・28 82
* 二時半に読書の灯を消し、三時過ぎに蚊の声で床を離れ、そのまま黙々と小厄介な発送の仕事を独りつづけて、いま八時半。幸い、すこし鬱陶しい塊のような手作業を一気に通過したので、肩の荷がかるくなった。綿のように眠気が来る。少しやすんでから今日の作業を再開する。
* 『冬祭り』の空気が、うねるように脳裏に甦ってくる。迫ってくる。呼んでくる。
じつに簡単なことだ、呼び声に答えてそこへ入っていき、後ろ手に現世の戸をしめ鍵をチョンとおろせばいい。むかし、『桔梗』という作でそれに失敗し、独り現世に帰ってきてしまった。三十年生き延び、いろんなことがあった。
* 九時半から正午までやすみ、以降、いままで作業を継続。今晩もまだ頑張る。
*いい線まで到達。明日一日掛けて念入りの補充。
2008 7・29 82
* 一時半まで読んでいた。バグワン、万葉集。そして南北朝混戦の太平記は、残る一冊になった。
『冬祭り』が読みたくて、その三冊でやめた。
モスクワのオスタンキノホテルに旅宿の早朝、近くのジェルジンスキー公園でわたしはモスクワに今は暮らす冬子と逢った。深い夢を見るような一刻を、ホフマンの『黄金宝壺』が伴奏。わたしを「アンゼルムス」と冬子は呼んで、繁ってかすかに揺れる枝葉のおくから「セルペンティナ」を招いた……。ま、そんなことはいい。
読み進んでいて、血の気が引いた。こわくてではない。懐かしさと、おそれとで。
☆ 冬祭り 八章「再会」から一部分
「なら、その国民経済成果博覧会とかいうソ連の万博は、遠慮するよ。かりに話すことがもう無くったって、ここでこう、さっきも言ったけど、二人でいたい。せっかくならね」
「ありがとう。でもソ連も、たくさん見て帰りたいンでしょ」
「ぼくのは、ソ連でないと、という旅じゃないんだ。冬(ふう)ちゃんが呼んでいる、だから来た。来たかった。たわいないか知れないが、それが…ぼくの、生きてるって意味(こと)でね」
いかにもたわいなかった。浅々しいそんな言いぐさに頬朱らむのを自覚した。だが冬子が呼べば冬子のもとへかけ寄るそれ以外の、そんなたわいなさ以外のどんな生きる意味を抱きかかえてきたと言えるのか。政治、ちがう。文学、ちがう。肉親、……ちがう。夫婦だけだ。ほかはどれも百万年の記憶に耐ええない。冬子は、だが永劫(えいごう)の一閃(いっせん)──。
あたりは尋常な西洋庭園の風情だった。白い幾何学模様の浅い浴槽(ゆぶね)ににた池や、池に通じる太い鎖状の水路や、物指をあてたような大小の敷き砂利が、まぶしい芝の緑にひき映えている。空気も、しっとり潤って感じられる。噴水のまだ出ていないのがかえってありがたく、ひっそり池の端に腰かけ、内側へ一つ段が造ってあるのに足をあずけて内向きに冬子とならんだ。日の光が頭、背、膝を、足先までを黄色く包みこみ、池水は雲のかげをうかべ、時おり小波をひろげてはまた静まりかえる。
「あなた(三字傍点)の……こと」と、冬子ははじめての呼びようで、間を、ちょっとおいた。「ずっと……永いこと見てましたの。考えてたの」
「………」
「あなたは、遺書を書くぐあいに小説や随筆をいつも書いてらっしゃるのね。いつでも、もうこの仕事が最後と思って、待っていらっしゃる」
「待つ…」
「そうよ。なるべく不意にそれ(二字傍点)の来るのをね。で、それで、なにかに対し、頭をさげたことにしたがってるみたい。でも、……それ(二字傍点)は卑怯だわ」
「そう。卑怯だね。…帳尻をあわすみたいで」
「あたしが言うとおりのこと、でも、思ってらっしゃるでしよ」
「………」
「ですからお逢いしたかったの。一度、早いことお逢いしなきゃ、と思うようになりましたの」
「ありがと。あれ(二字傍点)をネ、例の牧田さんの手紙。あれを見たとき、やっと…と、思った。肩の荷がおりたというんじゃむろんないが」
「へんな言い方しますけど、つまり、退場する権利を手にいれた……」
思わず微笑(わら)えた。退場する権利、か。うなづいた。
「するとこれは、今度のご旅行は、花道かなんかのおつもりですの、舞台を下りる」
「そりゃ今度に限らない。この数年、いつも、なにをする時もその気だった。あなたが見抜いていたとおりさ。ただし死は自分で決めることじゃない。不意に決まってくれる。それを待っている。それはほんとだ」
「宏ッちゃんに、あたし、提案があるの一つ」
「なに…」
「まだ、言わない。でも近いうちにきっと言うわ。だから、なるべく受入れていただきたいの」
なにに拠って冬子が「遺書」の一語をひきだす忖度(そんたく)をしたか。察しに錯(あや)まりがないだけ興味を逆にもった。冬子は、即座の一例に、「絶筆」というエッセイをあげた。離婚したばかりの順子(=冬子の妹)と京都で逢ってきた、あの年の霜月すえか、師走はじめに書いていた。
──伊豆の山に浄土房という僧がいた。寺は弟子にゆずり、山ぎわに庵室をかまえて後世菩提(ごせぼだい)を願ったが、長雨に山がくずれて、庵室もろとも埋められてしまった。惨状、ほどこすすべもなく、せめて師の遺骸をえたいと弟子が土を掘りのけてみると、庵室は跡形ないなかに師の御房(ごぼう)はつつがなかった。みな嬉し泣きしたが、当の浄土房ひとり浮かぬ顔で、「あさましき損を取りたるぞや」と愚痴っぽい。
損とは庵室のことか、本尊などを失ったことかといぶかしむ弟子に、浄土房は首を横にふった。自分は如来観音を念じて災厄をまぬがれると思い馴れてきたので、此度もとっさに「南無観音」ととなえてしまった。だが、そのひと声をとなえた同じひまに「南無阿弥陀仏」ととなえて極楽往生をこそとげるべきだった。つまらぬ命拾いして、「うき世にながらへんこと、本当(まめやか)に損をとりたる心地す」と、浄土房はさも□惜しげに涙を流した。聴く者もみなもの哀れに思った──。
なにげなく古い本で拾い読んだ話だが、理屈ぬきに同感、も言いすぎだろうが、同情できた。ああもっともだと思った。いい話だなといった価値判断ではない。自分が浄土房であっても、同じことを思ったろう。そればかりか、即刻只今、浄土房と同然のはめに陥ったとして、願わくは現世利益(りやく)の観音でなく、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の南無阿弥陀仏をとなえて往生したいと思うと、わかっていたからだ。弥陀の本願まことならば、といった条件をつけてではない。また死を望むのでもない。
死は「一瞬の好機」であり、すばやく果すべきものという気がある。これは自殺とはもっとも遠い観念だ。好機は稀に恵まれる。浄土房が一瞬の逸機を「損」と思う悔いの痛みは、だから一層重く、尊い。
多少の気はずかしさに抗(あらが)って、「念々死去」の四字がいつも頭にある。好機にたしかに逢おうと思うからで、これも、進んでは死を望まない意思表示であるつもり、浄土房のような山崩れの下敷きになりたいとか、交通事故に遭いたいとか、重病に罹りたいなどというのではない。逆だ。
──と、そんなことを枕に、正岡子規や尾崎紅葉らの絶筆に対する感想を書いたのだった。
「……考えることは変わってないが。この数年、気もちはずっとなさけなく、濁ってきてる。よごれてきてる」
冬子は、すこし潤んだ眼で見かえすように視線をとめ、黙然と、膝においていた手をとりすり寄って、顔を、胸へ埋めてきた。
「ぼくが、どれくらいいいかげんな男か……子どもが死んだと聴いた先刻も、即座に、牧田さんの子どもだと思った…」
「…でも」
「あのセルぺンチナ。そうさ。奇蹟みたいなあの綺麗な小蛇にさっき逢わせてもらった。そして冬(ふう)ちゃんの口遊(ずさ)みに誘われて、ぼくは……原作にない、〈娘よ〉と、つい口走っていた」
「ええ」
「きみは…、ぼくの子を産んだのか」
「いいえ、死なせたのよ。あたし……あの子を、抱いてもあげられなかった」
「あの……一度で、か」
夢にも幾度想い描いたかしれぬ罪咎の始終をうつつに聴きながら、実感とほど遠い心地で、顫えやまぬ冬子を日の光のさなかに抱いていた。
「ぼくたちの子。……どれだけ、生きられたの」
「二日、半」と冬子は顔をおおった。
* 「卑怯よ」と言われたあの瞬間に血糖値が急降下し始めたのだろう、この日ごろぼんやり思い、執拗に抱いてもいる気持ちを、突然、作中二十余年ぶりに再会したモスクワの冬子の口が、突き刺すようにわたしを咎めてきた。いま、いちばん聴きたかった言葉を「冬子」が口にし、現実のわたしに爪を立てた。その瞬間まで忘れていたそんな冬子の言葉にのけぞった。目の前が、薄青いいろに変じていた。
* いま一つ。
「二日、半」しか生きなかった「ぼくたちの子」が、横浜の埠頭でバイカル号に乗船いらい、わたしにつきまとい続けていたではないか、「加賀法子」と名乗って。
* 一時半まで読んでいた。バグワン、万葉集。そして南北朝混戦の太平記は、残る一冊になった。
『冬祭り』が読みたくて、その三冊でやめた。
モスクワのオスタンキノホテルに旅宿の早朝、近くのジェルジンスキー公園でわたしはモスクワに今は暮らす冬子と逢った。深い夢を見るような一刻を、ホフマンの『黄金宝壺』が伴奏。わたしを「アンゼルムス」と冬子は呼んで、繁ってかすかに揺れる枝葉のおくから「セルペンティナ」を招いた……。ま、そんなことはいい。
読み進んでいて、血の気が引いた。こわくてではない。懐かしさと、おそれとで。
☆ 冬祭り 八章「再会」から一部分
「なら、その国民経済成果博覧会とかいうソ連の万博は、遠慮するよ。かりに話すことがもう無くったって、ここでこう、さっきも言ったけど、二人でいたい。せっかくならね」
「ありがとう。でもソ連も、たくさん見て帰りたいンでしょ」
「ぼくのは、ソ連でないと、という旅じゃないんだ。冬(ふう)ちゃんが呼んでいる、だから来た。来たかった。たわいないか知れないが、それが…ぼくの、生きてるって意味(こと)でね」
いかにもたわいなかった。浅々しいそんな言いぐさに頬朱らむのを自覚した。だが冬子が呼べば冬子のもとへかけ寄るそれ以外の、そんなたわいなさ以外のどんな生きる意味を抱きかかえてきたと言えるのか。政治、ちがう。文学、ちがう。肉親、……ちがう。夫婦だけだ。ほかはどれも百万年の記憶に耐ええない。冬子は、だが永劫(えいごう)の一閃(いっせん)──。
あたりは尋常な西洋庭園の風情だった。白い幾何学模様の浅い浴槽(ゆぶね)ににた池や、池に通じる太い鎖状の水路や、物指をあてたような大小の敷き砂利が、まぶしい芝の緑にひき映えている。空気も、しっとり潤って感じられる。噴水のまだ出ていないのがかえってありがたく、ひっそり池の端に腰かけ、内側へ一つ段が造ってあるのに足をあずけて内向きに冬子とならんだ。日の光が頭、背、膝を、足先までを黄色く包みこみ、池水は雲のかげをうかべ、時おり小波をひろげてはまた静まりかえる。
「あなた(三字傍点)の……こと」と、冬子ははじめての呼びようで、間を、ちょっとおいた。「ずっと……永いこと見てましたの。考えてたの」
「………」
「あなたは、遺書を書くぐあいに小説や随筆をいつも書いてらっしゃるのね。いつでも、もうこの仕事が最後と思って、待っていらっしゃる」
「待つ…」
「そうよ。なるべく不意にそれ(二字傍点)の来るのをね。で、それで、なにかに対し、頭をさげたことにしたがってるみたい。でも、……それ(二字傍点)は卑怯だわ」
「そう。卑怯だね。…帳尻をあわすみたいで」
「あたしが言うとおりのこと、でも、思ってらっしゃるでしよ」
「………」
「ですからお逢いしたかったの。一度、早いことお逢いしなきゃ、と思うようになりましたの」
「ありがと。あれ(二字傍点)をネ、例の牧田さんの手紙。あれを見たとき、やっと…と、思った。肩の荷がおりたというんじゃむろんないが」
「へんな言い方しますけど、つまり、退場する権利を手にいれた……」
思わず微笑(わら)えた。退場する権利、か。うなづいた。
「するとこれは、今度のご旅行は、花道かなんかのおつもりですの、舞台を下りる」
「そりゃ今度に限らない。この数年、いつも、なにをする時もその気だった。あなたが見抜いていたとおりさ。ただし死は自分で決めることじゃない。不意に決まってくれる。それを待っている。それはほんとだ」
「宏ッちゃんに、あたし、提案があるの一つ」
「なに…」
「まだ、言わない。でも近いうちにきっと言うわ。だから、なるべく受入れていただきたいの」
なにに拠って冬子が「遺書」の一語をひきだす忖度(そんたく)をしたか。察しに錯(あや)まりがないだけ興味を逆にもった。冬子は、即座の一例に、「絶筆」というエッセイをあげた。離婚したばかりの順子(=冬子の妹)と京都で逢ってきた、あの年の霜月すえか、師走はじめに書いていた。
──伊豆の山に浄土房という僧がいた。寺は弟子にゆずり、山ぎわに庵室をかまえて後世菩提(ごせぼだい)を願ったが、長雨に山がくずれて、庵室もろとも埋められてしまった。惨状、ほどこすすべもなく、せめて師の遺骸をえたいと弟子が土を掘りのけてみると、庵室は跡形ないなかに師の御房(ごぼう)はつつがなかった。みな嬉し泣きしたが、当の浄土房ひとり浮かぬ顔で、「あさましき損を取りたるぞや」と愚痴っぽい。
損とは庵室のことか、本尊などを失ったことかといぶかしむ弟子に、浄土房は首を横にふった。自分は如来観音を念じて災厄をまぬがれると思い馴れてきたので、此度もとっさに「南無観音」ととなえてしまった。だが、そのひと声をとなえた同じひまに「南無阿弥陀仏」ととなえて極楽往生をこそとげるべきだった。つまらぬ命拾いして、「うき世にながらへんこと、本当(まめやか)に損をとりたる心地す」と、浄土房はさも□惜しげに涙を流した。聴く者もみなもの哀れに思った──。
なにげなく古い本で拾い読んだ話だが、理屈ぬきに同感、も言いすぎだろうが、同情できた。ああもっともだと思った。いい話だなといった価値判断ではない。自分が浄土房であっても、同じことを思ったろう。そればかりか、即刻只今、浄土房と同然のはめに陥ったとして、願わくは現世利益(りやく)の観音でなく、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の南無阿弥陀仏をとなえて往生したいと思うと、わかっていたからだ。弥陀の本願まことならば、といった条件をつけてではない。また死を望むのでもない。
死は「一瞬の好機」であり、すばやく果すべきものという気がある。これは自殺とはもっとも遠い観念だ。好機は稀に恵まれる。浄土房が一瞬の逸機を「損」と思う悔いの痛みは、だから一層重く、尊い。
多少の気はずかしさに抗(あらが)って、「念々死去」の四字がいつも頭にある。好機にたしかに逢おうと思うからで、これも、進んでは死を望まない意思表示であるつもり、浄土房のような山崩れの下敷きになりたいとか、交通事故に遭いたいとか、重病に罹りたいなどというのではない。逆だ。
──と、そんなことを枕に、正岡子規や尾崎紅葉らの絶筆に対する感想を書いたのだった。
「……考えることは変わってないが。この数年、気もちはずっとなさけなく、濁ってきてる。よごれてきてる」
冬子は、すこし潤んだ眼で見かえすように視線をとめ、黙然と、膝においていた手をとりすり寄って、顔を、胸へ埋めてきた。
「ぼくが、どれくらいいいかげんな男か……子どもが死んだと聴いた先刻も、即座に、牧田さんの子どもだと思った…」
「…でも」
「あのセルぺンチナ。そうさ。奇蹟みたいなあの綺麗な小蛇にさっき逢わせてもらった。そして冬(ふう)ちゃんの口遊(ずさ)みに誘われて、ぼくは……原作にない、〈娘よ〉と、つい口走っていた」
「ええ」
「きみは…、ぼくの子を産んだのか」
「いいえ、死なせたのよ。あたし……あの子を、抱いてもあげられなかった」
「あの……一度で、か」
夢にも幾度想い描いたかしれぬ罪咎の始終をうつつに聴きながら、実感とほど遠い心地で、顫えやまぬ冬子を日の光のさなかに抱いていた。
「ぼくたちの子。……どれだけ、生きられたの」
「二日、半」と冬子は顔をおおった。
* 「卑怯よ」と言われたあの瞬間に血糖値が急降下し始めたのだろう、この日ごろぼんやり思い、執拗に抱いてもいる気持ちを、突然、作中二十余年ぶりに再会したモスクワの冬子の口が、突き刺すようにわたしを咎めてきた。いま、いちばん聴きたかった言葉を「冬子」が口にし、現実のわたしに爪を立てた。その瞬間まで忘れていたそんな冬子の言葉にのけぞった。目の前が、薄青いいろに変じていた。
* いま一つ。
「二日、半」しか生きなかった「ぼくたちの子」が、横浜の埠頭でバイカル号に乗船いらい、わたしにつきまとい続けていたではないか、「加賀法子」と名乗って。
2008 7・31 82
☆ 明日から八月
心痛察します。メールではできる限りこのことには触れないようにしてきましたが。
何故、何故? と問いたい。
『かくのごとき、死』を繰り返し読みつつ、一番驚き衝撃なのは、四十九日どころか初七日まえの八月初めに、すでに娘さん夫婦から今回の裁判に連なる事柄が起き、開始されていることでした。
あり得ない! と叫びそうになります。力失って、光失ってじっと呆然として時間が過ぎること、それさえ苦痛で耐えられない、そんな日々に親に向かい「告発云々」の手紙を書くなど、到底考えられません。
先方さんの「夫婦」であることがまず一番、「子供もいること」だから・・と何度も秦さんは書かれていますが、考えようによっては、夫は代替できる人でもあります。たとえどんな親子であれ、親子という事実は変更できません、代替できません。娘さんは、冬日子さんは、夫よりも秦さんたちと家族でいたかったのかもしれないと、ふと思ってしまったこともあります。娘さんは夫と本当に「魂の色」の「似た」、或いは「同じ」人なのでしょうか。こうまでご夫婦して魂の色がゆがみ黒ずむのは悲しいことです。すでに下のお孫さんも大きく成長され状況を理解できるでしょう、どのようなことも認めてくれるでしょう・・。
ただし現在、そのようなことは僭越な、架空の机上の論議ならぬ、わたしひとりの思いに過ぎないこと、十分分かっています。これは自分の人生を振り返っても、いくらか複雑な思いです。それにも拘らず書いてしまうのは、何よりも秦さんに、エネルギーの消耗や経済的負担を強いる事態が口惜しくてならないからです。そして一日も早く冬日子さんに、しかと目覚めてほしいのです。
思わず書いてしまいました。送信しないほうがいいのですが、お叱りは、憤慨は、想定しつつ、読み返さずに、とにかくエールをこめて送信します。
暑さ、乗り切って。
昨日の夕食は かつおのお造りにオオバと葱たくさん、すずこ(いくら)、牛肉野菜炒め、冷奴、納豆。
今日は・・午後から不安定な空模様とか、夕食の買い物にいけるかどうかで献立が変わりそうです。 一読者主婦
* 「リベラルな教育環境で育った」と、わたしを罵倒した手紙のなかにトクトクと語っていた娘婿の「リベラル」とは、何なのだろう。劇症の病苦にうち呻いていた我が子やす香を半年も顧みず、輸血停止で死なせた葬儀の三日後には、孫と愛し合っていた祖父(母)にむかい「改悛」を強い、刑事民事の「提訴」で脅してくるような心事の、どこに「リベラルな教育環境」の顔が覗けるだろう。
やす香の父の発想か、やす香の母の発想か、夫婦の共謀だったか。知るよしなく、二年。彼らの「提訴」はついに現実となった。ヨクヨクのことと思う人もあろうけれど、わたしは、もうまるで別のことを考えている。
名誉毀損の主要ターゲットは、「孫の死を書いて実の娘に訴えられた」と週刊誌がはやしたてた「湖の本エッセイ」39『かくのごとき、死』と、長編小説後半部の下書きである「聖家族」とを、人の目から葬り去ることであるらしい。その前に、多くの人に『かくのごとき、死』を読んでもらいたいと願う。「仮処分」の結論は一年経っても何も出ていない。本も、在庫がある。ウエブでも簡単に読める。そして「聖家族」も、もはや消去しておく意味は無くなっている。「和解するから消してくれ」との条件は、先方が恣意的に流してしまったのだから。これも「読める」ようにする。大学の関係者にも、学生諸君にも、おちついて読んでもらいたい。
2008 7・31 82
☆ 興味津々 陽
ご丁寧なメールをいただきありがとうございました。また先日は、奥様からも、やさしいメールをいただいております。ありがとうございました。
磬石の音楽お聞きくださいました由、たいへんうれしく存じます。大正8年生まれの母が、ぼけもせずまずまず健康でいられるのも、この石に打ち込んでいるおかげだろうと思っています。
「能の平家」繰り返し読んでいます。
須磨・藤戸への史跡訪問の折には、下見の段階から携帯し、みなさんにも予習用にコピーして紹介し、しっかり勉強してから現地に乗り込みました。
現地では、どちらもボランティアガイドがついてくれたのですが、おかげで、説明がよくわかったと、喜ばれました。とくに、敦盛の、「十六」の面の写真のアングルの箇所には、みんな驚いていました。
だから、どこの団体よりもうちの会の理解が深いことだろうと内心自負しております。
「祇王」・「小督」もこれを携えて訪ねたいと思っています。
昨日、「京味津々」届きました。ほんと、興味津々です。
京ことばにちりばめられた敬意の段階のすごい分析、よ~ォわかりました。
これこそ千年の年月と、都の文化が醸し続けてきた味と見識であると改めて思いました。緑陰読書を楽しませていただきます。ありがとうございます。
次は歌舞伎の本がいいなあ!
☆ 湖の本 郁
エッセイ44 拝受いたしました。有難うございます。 京都のお話興味がわきます。 楽しみに読ませていただきます。
猛暑の毎日ですがお元気でしょうか? 湖の本暑いさなか お送りいただき恐縮のかぎりでございます。 週刊誌のこともかなり詳しくかかれておりじっくりと読ませていただきます。 それにつけても恐ろしい婿どのですね。いまだに信じられない事です。 考えられない事です。 ご心境をお察しもうしあげます。
私はこの猛暑のなか100号の制作で悪戦苦闘をつづけております。 なかなか思うようにいかないので毎日が気の休まらないすごしかたをしています。絵以外にはなにも手につかず 家事も最小限にしながらですが中々進みません。 毎年のことながらこの暑い時期にふーふーいいながら
絵を描いています。 孫たちともゆっくりとお遊びもできずに。 それであの程度でございます。
先日二紀会の田家はるみさんとお会いして絵の大変さをかたりあいました。 日吉の後輩です。ご存知でしょうか? 彼女も頑張ってられますので励ましあっています。 ではツタナイメールですがお許しのほどを。
☆ 心配 鳶
何と今回は京都特集ではありませんか! 新聞や雑誌に掲載されて、これまでわたしが読んでいないものも含まれているようで、早速読み始めました。他の事は少し後まわし。
夕方6時現在、HPを見ようとしましたが、HPの内容が読めません。心配しています。
2008 7・31 82
☆ お元気ですか みづうみ
あれから作業にかかりきりでした。ご無沙汰お許しください。まず第一に申し上げたいのは、お元気ですか、みづうみ、と。
今日は朝早く出かけて夕方帰宅しました。ただいまホームページ経由でメールなどお送りしようとしましたら、消えています。驚きの事態になっているようで愕然としています。こんなに悲しいことはありません。みづうみのお気持ちお察ししていますので、このことについてはこれ以上書けません。一日も早い復旧をお祈りするばかりです。
この二十日あまり、明けても暮れても膨大な私語を読み続け、すっかり眼がおかしくなりました。パソコンの画面が紙の本に負けるのは、量を読む場合ということを痛感いたしました。
でも、心から幸せな時間でした。みづうみと深く一体になっている感覚でした。日本と日本語と日本の文学のためにしてくださったお仕事の数々について、日本人の一人として深く深く感謝していることをお伝えします。同時代に生きて愛読者であれたことを何より誇りに思います。
湖の本は無事届いています。今回も大冊ですね。少し眼を休ませてから、じっくり読みます。みづうみの京都がなければ、京都は観光都市の一つに過ぎなかったかもしれません。
みづうみ、ありがとうございました。
* なんだか、尋常でない、ホームページが。理由は分からない。消えたのでなく、操作すれば必要なファイルは開けるようであるが詳しく見てみないと。見ても分からないが。
2008 7・31 82
☆ 悟り 慈
子規の言葉。 「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きている事であつた。」
* 『糸瓜と木魚』で子規をを書いていて出逢った。胸に、深くおさめた言葉。
2008 8・1 83
☆ 悟り 慈
子規の言葉。 「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きている事であつた。」
* 『糸瓜と木魚』で子規をを書いていて出逢った。胸に、深くおさめた言葉。
2008 8・1 83
☆ 拝啓 豪
このところ涼しい日が続いていますが、先生には如何お過ごしでしょうか。
さて。
本日、御著『きのう京あした』を拝受しました。 いつも有難うございます。心よりお礼申し上げます。
偶然ですが、この二ヶ月ほど、わたしも京都づいてました。不思議に京都に縁のある事柄が続き、本日、「とどめ」という感じで先生の御本が届いた次第です。
読み出したら、まさに「京味津々」、止まらなくなりました。
特にマーロン・ブランドが知恩院近くの石橋に感動したという話はとても面白かったです。ブランドは「欲望と言う名の電車」「蛇の皮の服を着た男」のテネシー・ウィリアムズ原作映画、「乱暴者」のような暴力的な青春映画、さらに「ラスト・タンゴ・イン・パリ」のような官能をテーマにした映画と、アメリカのセックス・アピールの権化と呼ばれた俳優だっただけに、ギラギラしたイメージの彼が白川にかかった古い石橋を愛したと言うエピソードは、ブランドが役者として本物の感性を有していたのだなあ、と感服しました。話は変わりますが、私は近頃、ハンフリー・ボガートの古い映画をコツコツ集めて楽しんでいます。
「協会」の月報によりますと、winny泥棒サイト問題も本格的に文藝家協会が警視庁・総務省と協力して動いてくれはじめたようですね。
これから本格的に暑くなりますが、どうか、夏風邪などひかれませんようご自愛ください。
まずはお礼のみにて失礼します。
2008 8・1 83
* 「慈」さんは子規の言葉を、いま、新ためて贈ってくれた、
「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きている事であつた」と。
わたしの頭にも染み通っていた言葉だが、「いま・ここ」できっちり心新たに聴こう。
* 『冬祭り』の冬子も、死のう死のうと生きるのは「卑怯よ」とモスクワの朝の公園でわたしを窘めた。それもまた、いま、心新たに聴いた。
ソ連を旅してグルジアまで行ってきたわたしは、モスクワにまた戻った晩、高校の先輩牧田氏の家に招かれた。約束だった。冬子は牧田氏の、妻。
「来て。モスクワへ来て」と夫牧田氏からの手紙に、その横文字の署名に鉛筆で、わたしたちにしか判読できない約束の暗号を添えてきたのは冬子だった。
レニングラードへ、そしてグルジアへ発つまえは、二日続けて、モスクワのジェルジンスキー公園で早朝のデートももう重ねていた。
とうとう、牧田家へ訪問のときがきた。晩景のモスクワを、ソビエツカヤ・ホテルへ迎えに来た牧田氏の車で、郊外のアパートへ走った…。会った。
* 手練れの読み手である当時中公の文藝編集者だった青田吉正氏が、「こんなに完成度の高い作だったんですね」とおどろいてくれた賛辞を、わたしは、いまあらためて素直に感謝いっぱい受け取る。
そこまで読んだ、そこまで読んで、いま、手を入れたい、削りたい、まずいと思う一箇所も認めなかった。なにか大変なモノに手を惹かれて書いていたようだ。一字だけ湖の本に誤植を見付けた。
* 谷崎潤一郎も書いていた、晩年は自分の書いたモノを読み返して過ごしたいと。
そう知った頃のわたしはまだ少年か青年だったが、さもあろうなと思った。彼の『吉野葛』を読んで、これは作者自身がいちばん読んでみたかった小説にちがいないと思った。
他の誰も書いてくれない以上自分で「書く」しかない。わたしは、まだ書き始めてもいない中学高校生だったが、「書く」なら人に喜んでもらうまえに、自分で「読みたくてたまらない」ような小説こそ「書きたい」ものだと思った。
自分の書いてきたたくさんな作品の中で、そうでなく書かれたモノは、在ってもごく少ない。あれもこれもそれも、みなわたし「自身が読みたくて、いつでも読み返したくて」書いた。死んでからも読みたい。
2008 8・2 83
☆ こんばんは! 琳
おじいちゃまのメールとっても嬉しかったです!
お礼が遅くなりましたが、湖の本頂戴いたしました。
ありがとうございます。
丁度お礼のメールを、と思っていた時でした。
向こうは朝と晩にとても冷え込むそうです。
先生に伺ったところ、今向こうでは湯たんぽを使っているとか・・・
風邪をひかないように気を付けます。
携帯と、ノートパソコンを持って行きます。多分使えると思うのですが、1%程心配・・・使えるようになったら、すぐ連絡します。
今日はbunkamuraで映画を観てきました。パトリス・ルコント監督の『ぼくの大切なともだち』という映画です。中年おじさんの友人探しの話です。コメディタッチで展開を予想出来るのですが、描き方がとてもいいのです!
主役のダニエル・オートュイユさん、味があっていい俳優です。
荷物はほとんど詰め終わりました。
気持ちもほとんど向こうに向かっています。
とにかくいろんなものを、いっぱい自分の目で見てきます。
学校の寮のご飯は美味しくないそうなので、近くのスーパーで買出しするつもりです。
とにかくいろんな事を体験する1か月にしたいと思っています。
たくさんたくさんお土産話を持って帰ってきます。
おじい様おばあ様お身体に気をつけて、この夏をお過ごし下さいませ。
ではでは、元気に行ってまいります!!!
☆ おじいちゃまからもメール頂いたのです!
嬉しいサプライズです☆
益々勇気100倍で出発出来ます!
とても嬉しかったです。
おじいちゃまのメールにも書きましたが、今日は映画を観てきました。パトリス・ルコントの『ぼくの大切なともだち』です。とっても良い映画でした。
おばあちゃまの蝶々のお話、心に染みました。
やっぱりあの蝶々は、やす香だったのかもしれませんね。
(一昨年七月=)25日、やす香の意識はありました。
スマップのCDを持って行ったら、ありがとう、いっぱい聴くねとはっきり言ってくれました。
それが最後の会話になりました。
心を震わせる言葉でした。
向こうに着いて、パソコンが使えるようになったら連絡いたします。
では、それまでご無沙汰いたします。
おじい様おばあ様まーごちゃん、夏バテなさいませんように。
お身体大切にお過ごし下さいませ。
行ってまいりま~す☆ 琳
* von voyage 楽しんでいらっしゃい。 平安あれ。充実あれ。
2008 8・2 83
☆ 前略 昨日も又 御鄭重にも『湖の本エッセイ44 京味津津(一)きのう京あした』を御恵贈にあずかりました、誠に有難うございました。頁を繰っておりまして「早来迎」に関心のある私は「ちおゐんさん」で立ち止まり、「早来迎」のこと、法然のことなど、御自身の幼時の思い出を交えながら叙述される名文に感銘致しました。「私語の刻」も続けて拝読致しましたが、「週刊新潮」の記事を目にしていましたので、記者の求めに応じて書かれた反論が具体的に非常に詳しく、一ち一ち説得力をそなえていることが納得できて、嬉しく存じた次第です。こういう事態の時には身心の御健康が何より大切と存じますが、呉々も酷暑のなか御自愛のほどお祈りいたします。右取あえず貴酬まで。 不一 元文藝誌編集長
☆ 京都の歴史 京都の奥深さを感じながら 京都学拝読しております。久しぶりに京都を訪れたくなりました。猛暑の折 御健康をお祈り申し上げます。 山梨県立文学館
☆ (前略)わかる人はいわなくてもわかる、わからない人はいくらいってもわからないと人に言われもし、自分でもそう思うことを重ねてきて、私は、それでも……(言うべきは言おう=)と思うので、理解の範囲ではありますが、しみじみと、読みながら思うことがあります。
後水尾天皇は、唐招提寺で掛軸でしたか、字を四十年近く前、見た時から、心ひかれる方でした。そして修学院離宮ですから、やはりすごいと思わざるを得ません。
短くはがきですむつもりでしたが、長くなりました。おかしな書き方で申し訳のないことです。
私は相変わらずのコンピューター音痴? で文明に落伍しています。
暑さの折りお大切におすごしくださいますよう、願い上げます。 歌人
☆ (前略) 思えば夫の友人である秦様の書かれるものに私が強くひかれるようになったのは”捨てるように京を出て” それ故か私も秦様と同じく”京へのおもいは強烈なアンビバレント(愛憎)に疼いていた” のに、どうその気持をあらわしてよいかわからないでいた時に、”代弁してもらっている” と強く感じたからにほかなりません。それがこうしてご縁となって続いていることを幸せに思って居ります。
「そうや そうや ほんまに…」とあいづち打ちながら楽しく拝読させていただきます。
同封のチラシは今開催中の麻田浩展(十月十三日まで。東京オペラシティアートギャラリー)の案内です。恐らく既にご存じとは思いましたが……。私は一昨日観て参りました。いろいろ……と感じました。秦様のホームページで京都での展示を知り、観たいものと思っていたので、東京展があってとてもうれしいでした。もしや私のような思いの方が秦様のお近くにも居られるかもと思い、お知らせする次第です。(中略)
いつもHPの秦様御夫妻のご健康状態にハラハラしています。どうかお身お大切にして下さいませ。 藤
2008 8・2 83
* 安城市の伊藤暢彦さんからは、スッキリしたデザイン、純白のマグカップを今朝戴いた。翡翠の粉末が練り込まれてあり、微妙な効果があるという。それもいいが、姿が好い。お茶にもビールにもミルクにも、ワインにもスープにも、あるいは花を挿すのにも使える。ボテッと重いところがなく、いい大きさなのに軽妙に軽いのもとても好い。取っ手の付きが上手で、不自然に傾く不安定がない。有難う存じます。
もう久しい、最初からの「湖の本」の読者。ていねいなお手紙も添えられていた。
* 秦さんの「書いて」こられたすべてが秦さん自身を保証しています。信じています。外の雑音などわたくしたちにとっては、何でもありません、と、お便りがたくさんつづく。ありがたい。読者だけではない。大学、各界からも、さりげなく、力づよく。
* 『かくのごとき、死』を読み返していますという読者が多い。その人達は気づかれていよう。
孫・やす香逝去の七月二十七「前日」に「輸血停止」されたらしいことには、確度高い証言がある。それにより起きた結果は、七月二十七日の「永眠」(母親による「mixi」告知)だった。奇しくも(と、云っておく。)「母親の誕生日」であった。この偶然らしき符合に、いろんな甘やかな解釈をした人たちも多かっただろう。
事実を追ってみると、
二十五日火曜日にやす香と病室で会った友人は、やす香の好きな音楽のディスクをプレゼントし、「たくさん聴くね」と、やす香の曇りない痛切な感謝の言葉を聴いている。
その前日、二十四日月曜日には、われわれ祖父母と叔父建日子とが、病室で、やす香と対話していた。
ところが、この晩かつて無いことにやす香の父親から家へ電話が来た。医師と話し合ったが、ここ二三日の寿命と思われるので病院近くに宿を取ってはと伝えられた。医師と…。何なんだそれは。仰天した。
その二日後、二十六日水曜日にやす香を親しく見舞って病室に出入りしていたという或る親友は、なお「土曜日にもまた見舞いに来る」つもりだった。ところがこの水曜の二十六日に、なんと「輸血停止」されてしまったと、迷いなくこの人は断言している。
* 造血機能が完全に破壊された「肉腫」である、輸血停止とは「死」の決定以外の何物でもない。かくて必然、「母親の誕生日」に十九の娘は「命終」の日を迎えたのである。
* ところで、この数日自作の新聞小説『冬祭り』をはからずも読み返していて、おどろいた。熟読してこられた読者は、ドンな作者よりとうに早く気づいてられたかも知れないが、さ、それが偶然の奇遇とみるか、意識された契合とみるか、「不思議な」と云っておこう、不思議な叙事・展開に遭遇して、やす香の死が母の誕生日と同じだったことに、えもいわれずぞぞっとくる愕きにとらわれた。何なんだ、これは。この「はからい」の感触は。
* 我々の娘は、二十余年前、父と親しい神学者・野呂芳男氏に、「わたくしは『冬祭り』の「加賀法子」なんです」と興奮して告げていたらしい。野呂さんの電話で聴いた妻から間接に伝聞していただけだが、あの娘の例のフワフワした興奮・昂揚の一例のようにしか感じなくて、聞き捨てに一度もその後顧みたことがなかった。
たまたま今度『冬祭り』を読んでみようと読み直していって、そんな大昔の聞き捨てをふと思い出し、妻に確かめると、そんなことを確かに野呂さんが笑いながら話されていたようよと云う。
詳しくは書かないが、「加賀法子」は、訪ソの旅に他の作家たちと出かけた私に、横浜埠頭のナホトカ号上から、つかずはなれずモスクワまで絡みついてくる若い女性だった。私は、モスクワに逢いたい人を待たせていたが、その人妻は、かつて此の世に「二日半」だけ生きた「娘」を死なせていた。「法子」はどうも、その二日半だけ生きて死んだ娘、じつは私の娘、であるのかもしれないのだった。
* わたしたちの娘・夕日子は、じつに、「加賀法子」と自分とを、幻想だか妄想だかで「一体化」していたらしいというのが、『冬祭り』を「名作」と新聞書評していた野呂牧師からの情報、かつて他に聞いたことのない「唯一の」情報だった。
野呂さんは、私の今後の作に、また繰り返し「法子」らの魅惑に富んだ復活をと、同じ書評の中で期待されていた。小説を読んで確かめて欲しいので、此処に『冬祭り』をくわしく語ることはしないが、成田へ帰国した場面を参考に引いておく。
同行した宮内寒弥さんはモスクワから単身ヨーロッパに向かわれた。わたしは高橋たか子さんと二人で成田空港へ帰ってきた。
「創作」された小説 (フィクション)なので、他の多くの作品同様、作中の「朝日子」は、当然、マスキングも仮名化もしない。現実の娘とはべつの、著作中のまるで別人と想って欲しい。
☆ 冬祭り 「冬のことぶれ」の章より
──Tさんが先ず朝日子を見つけた。見送りの日のまま、オレンジ色のワンピース姿で手をあげている。
と、──朝日子のすぐうしろから、竪(た)てた指一本を口にあて、ちいさく頷いて咄嵯に人波に沈んで行った、ジーパンの、赤いティシャツは──。
東京箱崎のターミナルビルまで空港のバスを利用し、Tさんともそこでいよいよ別れを告げてしまうと、自動車のにがてな娘にしんぼうさせ、タクシーに大きな荷を積みこんだ。
成田までもご苦労さん。留守中は変わりなかったか。出した手紙はみな届いているか。えらい暑さだが、母さんは夏バテしていないか。
やつぎばやに訊く一方だった、が、答えるほうはのんびりしていた。おやじが、無事に帰ってきたのだ、朝日子にしても連休初日の早起きで、ほっとして睡くもあるのだろう。そう思いつつ、明日ともいわず今日からもう始まるもとの暮しへの無事着陸も果したかった。
そんな、もと(二字傍点)の暮しなどという安直な考えが、日本の土を踏むとたちまち湧いて出るていどの旅だったではないか。つまらないやつだおまえは、と自分で自分が嗤(わら)えたが、その嗤いにしても一種気取りに類する、やはり、帰ってきた興奮なのであった。
「えーと。今日は…」
「日曜日。だから、けさお父さんの古典講座、八回めのラジオもちゃんとお母さん、聴いてたみたいよ。それと北の湖、また優勝」
「そうかい北の湖。そりゃいい。十七回め、か。新横綱はどうだったい。三重の海は」
「よく知らないけど、可もなし不可もなかったんじゃないですか」
「建日子(たけひこ)は」
「本気みたいよ、中学受験」
「へえ……」
「けさも、さっさと勉強に出かけてたし」
「代々木」
「いえ。二学期からは、同じN塾だけど、お茶の水にもあるんですって」
「で……おまえは。矢が、まともに飛ぶようになってるか」
朝日子の弓がどんな腕前か知らない。弓道部がそっくりどれかの流儀に属しているのは当然として、道場に、袴をつけた部員たちが正座して居並ぶわけだ。射手の矢が的を抜けば、すかさず「ヨツシャぁ(良射)」とはやし、逸れれば「ちよいやァ」と泣き、たまたま四射して四中しようなら、声をそろえ、「カイチュウ!(皆中)」とさけぶはなしは、いつか妻からまた聞きに聴いて大笑いした。二本に一本の率で当たれは「ハワケ(羽分け)」たなどともいうらしく、朝日子が、ハワケるまでとても行かないのはまだ半年たらずの稽古でしかたないが、いろいろある同好会のなかでなんで弓道部なのか、妙にくすぐったい気がしていた。
「お父さんこそ、どうなの。ソ連が、面白かったとかって。さっきから、すこしも言わないじゃないですか」
「そりゃ面白かったさ。家へ帰ったらいやほど喋るとも。聴き手は多いほうがハリアイもあるしラクだからな」
「お母さん…心配、してたわよゥ。まいンちうるさいくらい」
「どゥして」
「どしてってことはないですけどね。なンてっても、テキは、ソ連ですから」
「テキはないだろう。お父さん満足してちゃんと帰ってきてるんだからな。ソ連が厳重要注意だとは、やっぱり思ってるけどね。あそこは隅々にドジでドンで、能率の悪いとこが多いわりに、外をむけば、大号令の威力をめちゃに表わしそうだし。……もっとも、本気で日本に親切な大国なんか有るはずないと思う。……マ、隣国の島国からすると、奇妙に、どこもけんのんな大国ばかりサ」
「さかさまだと、安心なのにね」
「どういうことさ」
「日本みたいに、大号令は通らなくても、末端(はじ)は、なんとかテキパキしてる……」
娘は父親の凡庸な大国論を、ほとんど素知らぬ顔でそんなふうにやりすごすと、一言、
「ま、これからせいぜい勉強してね」とつけ加えた。それはそのとおりだった。分からんことは分からんとそれで済ます気はないにしても、見さかいなく通(つう)がるのは、はた迷惑だ──。
タクシーは目白を走っていた。
「仕事……来てそうか」
「暑苦しいくらい。お机に山積みよ」
「やっぱり。どこか涼しそうなトコを見てくるなんて話でも、ないかいな。それにしても、なァんて日本は暑いんだろ」
「取材旅行の話なら、ありましたよ。窯場を見てきてって」
「また…。どこの」
「お母さんが電話で聞いてたけど。山陰のほう…じゃない」
「萩……。出雲。それとも丹波かな。丹波だといいがな」
「どうして」
「立坑(たちくい)の、蛇窯って登り窯が見たいんだ」
「蛇…窯。恰好が」
「だろ。たぶん山坂をうねうね這うぐあいに窯が築(つ)いてある」
「丹波というと、京都府ね」
「兵庫県だよ、丹波焼の窯があるのはね。丹波は昔は丹後も、だぶん但馬も含んで、出雲勢力圏と山背(やましろ)、大和、伊勢とをつなぐ微妙な古代の道だった」
「四道将軍の一人は、丹波に派遣されてましたね」
「ああ。よく憶えてたナ」
「そうそ、パパ」と朝日子は幼い日の呼びようにもどって、
「ホラ蛇窯といえば、あの、Y女史の、蛇の古名〈カカ〉説だけど……」
「………」
「あれと、べつの説が出てたの、ご存じ」
「べつの説なら、幾らもあるんだよ、以前から。ヘビは、ハビ、フェビ、ハブ、ハバ、ビミ、ベミ、ハミ、チャミ、みな同根の名前だって。チ、ツチ、ツツ、カガチもそういうし、沖縄の青マタ赤マタのマタもそうだし、ほかにも、ナ、ナガ、ヌガ、ヌラ、ナワ、ナメ、ノジ、ヌシ、ノロシ、ナブサなどと、きりないね。
柳田国男は〈青大将の起源〉なんて論文を書いてるけど、日本中でそりゃ蛇はいろんな名で呼ばれてて、カカなんて、じつは未知数の新説なのさ。で、なんだって。どこで見たの。きみのその説は」
「中村さんて弓道部のお友だちに聞いたの。彼女は週刊誌で仕入れてギョッとしたんですって。でもお父さん知ってたのね。ナカ=蛇族説」
「……週刊誌はよく見てないんだけどね。柳田が拾った名前にも、ナ、ナガ、ヌガなど挙がってるしホレ、北九州志賀島(しかしま)で見つかった金印。漢に貢(みつぎ)する倭(わ)の奴(な)の国の王に対し漢王が与えたという金印さ。
この場合の〈奴(な)〉は自称か他称かわかンないが、あの辺は大昔アヅミ族の根元地で、シンボルは多分まちがいない、蛇。そして海人(あま)の原郷ともみられる中国江南語では蛇を〈ナ〉と呼んでる。もっと南のタイまでも行くと、頭に角の生えた密林の巨大な怪蛇を〈ナーク〉と呼び、実在が信じ怖れられているそうだし、インド語やマレー語の蛇神が〈ナガ〉……」
「ナークなんて、英語の、スネーク(四字傍点)にもつながりそうね」
「それでね。日本のことを豊葦原のナカツクニというじゃないの。この呼びかたはどうも上中下の中の意味じゃなく、茂った葦原に根づいた蛇族(ナカ)の国だろうという人もある。首領がナガ髄(すね)彦さ」
「中村さんをびっくりさせた週刊誌のK氏説が、そうなのよ」
「そりゃギョッとしたろうね。この、蛇をトーテムにする渡海種族が、それ以前の日本の、粟作と焼畑を主とした農耕生活に、新しく稲栽培を、米を、もちこんだらしいよ」
「じゃ、ヘビという言葉は」と、朝日子。
「これは朝鮮語なんだね。ビミ、ベミ。金思燁という学者は、耶馬台国の卑弥呼をさしてはっきり、蛇姫ないしは光明姫の意味だと言ってる。お父さんはこれは彼女らの自称じゃなく、様子を知った朝鮮、中国の人から見ての他称だろうと思うし、奴国(なのくに)と卑弥呼は、同じじゃないにしても、ナもヒミも蛇族の名のりである確率は高いと思うよ。あの金印の摘まみは蛇のかたちだしね」
「いやァね……」
「でも、それが日本さ。主に海から糧(かて)をえていた、漁(いさ)りをしていた漁夫(いざなぎ)、漁婦(いざなみ)がいて、アマ照ス日の神、月の神、海の神がいて、その子孫が、山の神の娘や海の神の娘と次々結婚したんだもの。日本の神話はおおかたアマの伝承に根づいていた。それを征服王朝である大和朝廷が、じつに上手に彼らの支配を妥当化すべく系譜化しちゃったんだなァ。
国生みの一等最初に出来た淡路島も、出雲国も、伊勢国も、難波(なにわ)も熊野も吉野も山背(やましろ)も、みなアヅミやハヤトらアマの根拠地だよ。その範囲は日本中の海ぞい、山なかにわたって断然広い。まさに葦原の蛇族(ナカ)の国といえる時期がなが(二字傍点)かった」
「そういえば、長虫ともいうわねェ」
「そもそも、なが(二字傍点)いという日本語の語源が、蛇(ナカ)だったとも思える」
「お父さん、おどろいちゃァだめよ。そのナカさんが家を訪ねてみえたのよ」
「えッ」
「ナカ・ノリコさん。ジーパンに赤いティシャツの美人。小説見てほしいって。読者よ。あたしはきのう弓道部で留守だったの。お母さんと建日子と、おそいお午の最中だったので、クロワッサンとスープとご馳走したんですってよ」
「どこの……人」
「よく聞いてませんけど」
「……ナカさん」
「ネコとノコとが、ぬッと例によって脚で障子あけて、右と左からお部屋に入ったの。その方ね、きやァとお座蒲団で、こう、ガードしたそうよ」
「かわいそうに…」
「ほんとね」と朝日子は笑うが、とても笑えなかった。
「写真たくさん撮れて」
「写真…。あ。禁止命令(ニエット)は一度もなかった。自制すべきは、したからね」
「税関で、ぜ-んぶ消されちゃうとか」
「それはぜったい無い。そういうことを、お互いに言ったり思ったりするのはいかんね」
「そうね。ごめんなさい」
娘は頭をさげた。タクシーはやがて西武鉄道を跨ぐ大きな陸橋へかかるだろう。ふっと黙りこんだ。
その、ノリコとかいう名の、中か、那珂か那賀か、名賀かもしれない「読者」が留守中家族に会って帰ったという話の、ほぼ決定的な冬子帰国のことぶれ(四字傍点)であるのを、信じた。カガ、法子──に違いないと思った。空港へわざと姿を見せた、あれも。
* わたしと娘とが話すときは、だいたい、ま、こんな調子だった、大学を出て谷崎夫人のお力添えでサントリー美術館に就職できたころまでは。
訪ソのときも、横浜埠頭へも成田空港へも、頼まなくてもこういうふうに見送りや出迎えに来てくれる娘だった。
そして後に、この場面にまた姿を現している「ノリコ」と自分とをなぜか「一体化」させ、空想だか幻想だか妄想のペルソナ(仮面・役)を「自身に配役」していたらしい。
* この加賀法子に遙かに先立っても、娘は「ノリコ」ちゃんには弱かった。小説『ディアコニス=寒いテラス』の背後に隠れていたのも本名「ノリコ」ちゃんであった。
* こういう追究をあえてしているのは、例の娘による「ハラスメント」という異様な申し立てが、いったいどんな心理的な背景を持っていたか、不思議でならなかったからだ。小説家として追究してみたかったからだ。なにかしら異様なモノとの「一体化」に娘は溺れていたのか。
* むかし、私がある種の成行に対する予測を語ろうとすると、娘は、よく金切り声で叫んで止めた、「パパが云うと、その通りになっちゃうから。云わないで!」と。
娘は、父に、どんな威力を感じていたのだろう。
* どうか。娘と、ふつうに話し合いたい。今起きている何もかもから離れて、上の小説の中でのように。あれやこれやを。それが今の願いだ。
* ★★★は、「秦氏は、私が義父(=秦)に向かって罵詈雑言を書いたという手紙の内容も公表していますが、あれは手紙の一部。前後があるのですが、そこは公表していません。裁判では全文が明らかにされるでしょうが、確かに私は手紙を書きました。おかげで秦家と断絶でき、それから以後、私の妻である秦氏の娘は平和で安穏な10数年間を送ることができたのです。私の妻が、実家と断絶したあとも、自分の父親を罵倒した私との結婚生活を長年つづけてきたのが、その証拠です。」と、週刊誌記者氏に語っている。
* 何をか云わん、「平和で安穏な10数年」どころか、「家庭の崩壊と離婚への足取り」は決定的で、幼い娘二人はいつも泣いて歎いていたことを、必死に堪えて絶望していたことを、やす香の親友ははっきり証言してくれている。どっちが信用できるかは明らかだ。やす香親友の言葉には、ピュアな真情がこもるが、上の★★★教授の言葉には、何が「証拠」で、どこが教授かと眼も耳も疑う、薄っぺらさが露呈している。
もし娘が、父を訴えた事情を本気でぜひ話したいなら、あの週刊誌記者にむかい、娘本人が出てきて率先話していただろう。それでこそ、記事表題通りに、「孫の死を書いて実の娘に訴えられた」といえるが、あの「週刊新潮」記事には、娘・夕日子の名も顔写真も、父を攻め立てる一言葉すらも出ていなかった。
出ていたのは、何処の馬の骨とも分からないように「仮名・高橋洋」を名乗っていた青山学院の★★★教授であった。
2008 8・4 83
☆ 湖様 波
土曜日に遅く帰りますと、湖の本がポストに入っていました。
「京味津津」きのう京あした
私語の刻 をまず拝見しました。
重い日々をお過ごしのことと思います。 どうぞお体を壊されませんように。
「島」には大勢のOLDやYOUNGが住み、湖を応援しています。
波は静かではありませんが、日々精一杯生きています。
2008 8・4 83
* 知己ほど有り難い二字はすくない。
☆ 秦 恒平様
冠省 湖の本エッセイ44、拝受致しました、いつもお心にとめて頂き、ありがたく、かつ恐縮致しております。(中略)
ところで、今回の本の「私語」、週刊誌の記事が出たときに感じた怒りを、改めて蘇らせてくれました。小生も同様な被害を受けたことがありますので、そのとき大兄あてに慰めの手紙を書こうかと思いましたが、ああいうバカげた記事に負ける人ではない、と考えて、やめました。 それはともかく、大兄の冷静な筆致に感銘を受けました。むろん、大兄の胸の奥の痛みは、第三者の言葉によって癒せるものではありませんが、どうか健康にだけはご留意下さい。小生も、今春、医師の注意を受け、原稿より健康だ、といい聞かせております。 敬白 先輩作家 ペン会員
☆ 秦 恒平様
燃えるような暑さが続いておりますが、お変わりございませんでしょうか。
平素のご無沙汰お許しください。
このたびは、ご高著『湖の本 きのう京あした 京味津津(-)』をご恵投いただき厚くお礼申し上げます。確か小生がお願いした「京の正月」を懐かしく再読し、往時に思いを馳せておりましたところ、ページを捲り、「私語の刻」に至り唖然といたしました。
世の中にはこんな理不尽な人の親とも思えぬ輩が存在することに驚嘆、愕然、言葉を失いました。今は、ただやす香様のご冥福を
お祈りするばかりでございます。早く安寧の日々を取り戻すことを切に願っております。
当方も加齢のせいか、テニスをやっても膝がいたんだり、自転車に乗れば傘を前輪に引っ掛けて転倒したりと、無様な生活を続けております。現在、朝日の新書を執筆中で、もうとっくに脱稿していなくてはならないのですが、難儀しております。刊行の暁には、必ず送らせていただきますので、ご叱正を頂戴いただければ幸いでございます。
取り急ぎ、お礼とご無沙汰のお詫びまで。猛暑がまだまだ続きます。
末筆ながらますますのご健筆とご健勝をお祈りしております。 草々 ペン会員
☆ 前略 早速拝読いたしております。「京の話術」、実に含蓄に富む内容で感嘆いたしました。「『京都』の人を分かりにくい、腹が知れないとソシッてきた『日本』の人が『世界』へ出て行くと、まったく同じことをみごとにそっくり言われて来る」とのご指摘、見事な文明批評と存じました。ご高著拝読に時間をとられ、急ぎの翻訳に支障を来しております。敬具 歌人・翻訳家
2008 8・5 83
☆ 暑中お見舞申し上げます。 元・文藝出版部長
「湖の本」エッセイ44届きました。
京味津々の秦さんも
私語の刻の秦さんも
ひっくるめて作家秦 恒平さんです。 お身体お大切に。
* 嬉しい。まさしくその通りに覚悟して、「今・此処」にわたしは在る。
☆ お礼 ペン会員
秦恒平 様
暮らし小旅行を愉しんで帰って参りました。御著への御礼、遅れました。お許し下さい。
「京味津津」、まさに、市井京都学、堪能できる味わいです。郵便番号に言寄せての損と徳との道連れなどなど、早速拾い読みし、京都人とつかず離れず寄り添いながら京都散策しているような気分に浸りました。時間を見付けて、ゆっくり味読したいと思っています。有難うございました。
これを一冊、友人に贈りたいと思います。1部お送り下さい。(送金はネット銀行を通じて行いたく、銀行口座番号を付記してください。送金手数料なし、行く手間かからず、よろしくお願いいたします。
お嬢様夫婦との確執、血が混じり合わない者が入ると、とんだゆき違いが出るもの、ご同情に耐えません。相手の人格・資質の問題もあり、誰かの言葉を思い出します。上は下が分かるが、下は上が分からず・・・。名言だと思いますが、君子危うきに近寄らずで事済まないところが、辛いところです。
かく言う私も今、非道なる組織を相手取って、野暮な訴訟を起こそうとしています。
ご執筆活動、支障なきこと、祈りおります。
☆ 京都論拝受 ペン会員
秦先生 よむのが辛い日記。それでも時々は眼を通さずにはいられません。いかにひどい仕打ちを受けても作家活動を続ける、その姿勢に感動します。
最新の京都論拝受。初出が30年ほど前のものからなのか、京都と京都人に対する辛辣すぎる表現に、少しの反発と大いなる共感を覚える自分がいます。
既に65年の歳月を愛する京都で過ごし、つくづく京都人に愛想を尽かし、なお京都の魅力にどっぷり浸かり、京都から離れるつもりなど一切なく、これからも京都から美の心を全国に発信していく決意の自分です。
開催中の「京都が誇るマルチタレントアーティスト・下村良之介展」会場で毎日、彼の鋭い批評精神とユーモアのセンスを楽しんでいます。並べている作品には作家から購入した作品は1点もなく、一人歩きをしているものを長い時間をかけて収集してきたもの。京都国立近代美術館で開催中の遺作展を補完して余りあるものとの評判です。
* 湖の本、ありがとうございました。 政
週刊誌の記事、見ていました。軽々に判断出来ることではなく、また、その週刊誌の記事が何を言わんとしているのか、何度読んでも判読出来ず、どうしたものかと思っていました。
送っていただいた湖の本の後書きで、経緯がよく分かりました。愛憎を、裁判という形に転化するという発想を持つなどということがあるのだな、と驚きました。あるいは、裁判とは、賠償金とは、いっもそのようなものなのか? と。
ちょうど、手伝った作品の上映が終わったところなのですが、その監督が「高橋洋」さん(★★★教授が仮名に使用)という方でした。そんな偶然にも苦笑しました。同封の『狂気の海』という映画がそれです。 余談ですが、井土紀州監督『ラザロ』の上映の際のトークゲストとして、角田光代さんにお会いする機会がありました。秦さんの教室に同じ時間を過ごし、こんなふうに再会する、ということもあるのだな、と。
残暑厳しい上に、狂ったような土砂降り、雷鳴…と何やら地球環境すら、風雲急を告げているような数日です。
お体お厭い下さい。
取り急ぎ、御礼まで。
2008 8・7 83
* 福田恆存先生の奥様より、いつものように「湖の本」追加のご注文を戴く。感謝。
2008 8・8 83
☆ こんばんは。
『京味津々』『清経入水』届きました。もう一冊送っていただきたいと、我が侭なことを言ってしまったので、発送に手間取っていらっしゃるのだろうと思っていました。番号を書いていらっしゃらなくて…という予想外でしたが。でも、無事に届きましたので、ご安心ください。送っていただき、ありがとうございます。
『京味~』の方は、内地の事、京の事がよく分からない私にとっては勉強になりそうで、今読んでいる『源氏物語』と平行して読んで行きたいと思います。
『清経~』の方は、篆刻印の話から始まって驚きました。ちょうど、篆刻の事が書写の教科書に載っているので、試しに石を彫って印を作った直後のお話だったので、湖の本に押されている刻印をキョロキョロと確認してしまいました。
また、校異を見ていると平家物語の写本等を見比べていた時の事を思い出しました。できるだけ早く読むようにしたいと思います。図書館に行くのもままならないので、送っていただき、本当に有難うございます。では、失礼します。
長崎に原爆が投下された日に 昴
☆ ご心痛はいかばかりかと、何の足しにもなりませんがはらはらしています。恒平さんの娘さんへの思いが、ひしひしと伝わってきて、涙が出ました。
新しいご本、もうもうどの場面にも父が登場してきます(笑)
京の正月では伯父さん、叔母さんに、新門前のラジオ店がありありと甦ってきます。
とても楽しんで読ませて頂いています。
いつもは朝6時と夕方5時に撞かれる金閣寺の鐘が、お盆なので公開されていて常時聞こえてきます。
立秋も過ぎましたが、猛暑はまだまだ続きそうです。
どうぞ、お大切にお過ごしくださいますよう。それでは、また… みち 従妹
☆ ついに東京も猛暑日だとか。 碧
どうぞお大切になさってください。
無理や無茶をなさいませんように。
『京味津津』は昨日読み終え、いまは『風の奏で』と『冬祭り』とを交互に読み返しています。新しい(他の方の)本も積みながら、一度手に取るとやめられない湖の本です。
☆ 御礼 靖
湖の本「京味津津①きのう京あした」拝受いたしました。
まさに興味津々、「京都学」とてなにやら難しそうでもありますがじっくりと読ませていただこうと思います。
酷暑の砌、くれぐれもお身体大切に。
来年の「金婚式」を華やかにお迎えになられますようお祈り申し上げます。
☆ 御本届きました 泉 e-OLD 白川
お元気そうで、何よりです。
今日は昨日よりほんの少し気温が下廻って、ラクに過ごせます、と、三十℃を越えた日にご挨拶なんて、なんていやな地球環境なんでしょう。
この高温多湿が原因のアレルギー性疾患をずるずると引きずり、大人しく過ごしています。つまりは、ここ三週間、電車での外出皆無です。
明日はオグシオが初戦に勝ち、せめて準決勝あたりまでの何回かのゲームを楽しませて欲しいもの。卓球もバドも、開催国の中国が強いからね。
選手達の鍛錬の成果、若いパワーで勝負にかける一途な姿を観るのは、チョー気持ちいい。
☆ 札幌も今年は暑いですが、それでも昨日あたりから日射しが急に秋っぽくなってきました。東京はまだまだ暑いようですが、体調はいかがでしょうか?
今月は、月末からイタリアとドイツへ国際学会のハシゴをするため、その準備に追われ、さらに、出発前に学会での発表内容を論文に書いて投稿してしまおうと、毎日論文の原稿書きに没頭しています。
お送り頂いた「湖の本」も開けず、オリンピックも余所事に感じます。(但し、開会式に出てきた船と、龍の巻きつく紅色の柱を見て、沖縄がかつては中国に属していたことをあらためて感じました。前者は琉球の進貢船と同じ、後者は首里城城の柱と全く同じです)。
前にお送り頂いた生形貴重著『茶心の背景』を、寝る前に一頁だけ読み、楽しみにしていますが、ついつい読み過ぎて、睡眠時間を削っています。茶の湯にも、歴史上常軌を逸した「数寄者」が登場しますが、そういう人々を生み出す背景に、歌道と歌詠みに執心する人々がいたとは、私にとっては大きな発見であり、数寄者の物狂いも妙に納得できるようになりました。まだ半分も読んでいませんが、この先が楽しみです。
しかしもうしばらくは、論文を書くことに集中する毎日です。相変わらず週末の私設植物ウイルス実験講座もあり、今日も夕方まで遺伝子断片を大腸菌に導入する実験を教えていました。そろそろ疲労が堆積し、体調も今一つで苦しいところですが、こういう生活が好きでこの道に入りましたので、研究者冥利に尽きるといえます。
お知らせ御礼かたがた近況ご報告まで。 maokat
2008 8・9 83
☆ 先日また水野さんと新しい湖の本のおはなしをしまして いい季節になったら水野さんと阿部さんと堤とでなんとか秦さんにおあいしたいね! と はなしました 秦さんからご丁寧なそえがきをいただいたと、とても喜んでられました。 かなえられますように!!
私は今またパニックになっています。お話するとながーくなりますが 結論からもうしますと思うように描けないでいるということです。100 号をもてあましているということです。
完成できなければ出品しなければいいのだと思うと気持ちがらくになりました。 少し休んでよく考えて 描けるようなら続けようとおもっています。
暑さのなか頭もおかしくなっているのでしょう? では、どうぞくれぐれもご自愛のほどを。 郁
☆ 残暑お見舞い申し上げます。 玄
湖の本エッセイ43『酒が好き・花が好き』を本当に楽しく読ませていただきました。
続いてエッセイ44の「私語の刻」については、物を書く人の意志の強さを思い知らされました。
天気予報を見ていると東京は比較的涼しいようですね。ここ岡山は猛暑と熱帯夜の連続でいささか閉口気味です。
残暑のお見舞にほんの少し岡山の桃をお届けします。桃は味にあたりはずれがあるので心配ですが、12日に届く予定になっています。
お大事にお過ごしください。
* 有難うございます。大好物です。
2008 8・11 83
* 大学へ寄贈本の新たな荷造りに手をつけたのが、勘定違いで一度に済まず、二度分けで送らねばならぬ。谷崎論四冊を贈る。
2008 8・19 83
* ちょっとした勘違いも、幸い手直しが早くできて、結局予定の二倍の作業を一気呵成にかたづけた。終えてビール。眠くなった。就寝前読書にまた『モンテクリスト伯』とトルストイの『復活』を加えた。
2008 8・19 83
* 卒業生の上尾君が二万円も湖の本に払い込んできてくれた、感謝。維持に窮しつつあるときで、正直とても有り難い。ありがとう。
富松麻紀さんからも佳い便りをもらった。健康をしかと維持して心ゆく日々を。
そうそう和田めぐさんからも、初めて会ったとき先生の三分の一だった年齢が、ちょうど半分になりましたと感慨深い便りも。ウーンそうか。こっちはなにもかも「自然減」の毎日になってきましたよ。
そろそろ青年隊で海外に出て行った布谷智君も、帰国する頃ではなかろうかなあ。
今日は「馨」さんや「雄」くんの佳い「mixi」日記も読みました。バルセロナの「京」は元気ですか。
と、書いていたところへメールが入る。
2008 8・21 83
☆ 秦先生へ
こんばんは、「松」です。
実は4日間北アルプスを登っていました。
天気は良くなかったのですが、一日だけ素晴らしい日がありました。またミクシィのページを見てください。
お忙しい中、本『死なれて 死なせて』をお送り頂きまして、ありがとうございました。
さっそく友人に送ります。
8月、9月はいろいろとありまして忙しいのですが、9月最終週以降 秦先生のご都合はいかがでしょうか。
久々にお会いできたらと思います。
9月14日に演奏するため、バッハのパルティータ1番という曲を練習しています。もし機会があれば先生のお宅で演奏したいと考えております。
まだまだ暑い日が続きますが、どうぞご自愛ください。
* 山と音楽と美術。子育てのかわりに、独身「松」君の日々はかなり文化的に磨きがかかってきた。このまま子育てもするともっと光ってくるだろう。
2008 8・21 83
* このところ「自然減」という言葉で自身の日々を納得しながら、励ましている。自然減はやむをえないと受け容れて、それでも日々新面目在りたいもの。
外の世間へわざわざ出て行かないから隠居といえば隠居に似ていても、精神的には活火・活火して、したいこと、すべきことの多さにときに吐息も出る。むかしとちがうのは、それらを求めて「金」に替えようとしていないこと。必要を感じない。自然減の限度はロンドン・オリンピックにまた出逢えるかどうかだ。
仕事も、また、たとえば観劇も食事も交際も、せいぜい楽しみたい。
どれもこれも「自然減」で推移するだろう。それでいい。「湖の本」百巻も、あと五冊、ゆだんなく暮らしていれば達成し、通過してゆくだろう。
2008 8・28 83
* 新しい湖の本の編輯にかかっている。幾つも実現したいプランがあって、舞い上がりそうなのを、早く一つに絞りたい。随分時間をかけたが、決心に至らず。明日に持ち越す。
2008 9・2 84
* 参議院議長の江田五月氏、『きのう京あした』の礼状戴く。
* 明治大学名誉教授の医学書院時代の旧友粂川光樹さんからも。
☆ 私も 生まれてから高校を出るまで、なか一年の疎開時以外は、京都(下鴨)で育ったので、まさに「興味津々」で拝読しました。
もっとも、私は両親が関東人であった上に、住居も「洛外」の、いわば無国籍な雑種文化の土地にあったので、京都人を名乗る資格はあまり無いのです。生粋の「洛中」人である秦さんにはとても敵わないと思いました。また秦さんの背景に仏教(知恩院)があるのに対して、私はどちらかと云えば神道(賀茂神社)である点も、違うところかと感じました。
そういう訳で、私の「京都指数」は比較的低いのですが、それでも貴著の中に、自分のことを言われているなあ、俺も京都人やなあ、と思い当るところは幾つかあったのです。その最たるものは、「違うのと違うやろか」のように、判断の責任を向こう側に委ねる態度の指摘(13ページ)であり、「京都人ほど自尊心がつよく、人に重く見られたがる手合いは無い」との指摘(56ページ)です。よく言えば外交官気質」とでも呼ぶべきもの、でも本質はかなり顰蹙に値する性質なのでしょう。
その他、貴著の歴史論ぶぶんからも、いろいろ教えられました。最上徳内への言及など、目配りを感じたところです。
以上、独語の印象を、二、三聞いていただきました。
* こんなふうに京都を共有していたとは、知らなかった。
2008 9・6 84
* 思い切った編輯で、中身の濃い新しい「湖の本」の用意ができた。土曜日だけれど、入稿。
2008 9・6 84
* もう「湖の本」新刊分の初校ゲラが出そろってきた。また新たに新発送へ向け、日々追われる。
2008 9・11 84
* 母の十三回忌が近づいてきた。この秋は、忙しい。新しい湖の本の校正も着々進めている。丁寧に、しかし、あまり時間は掛けたくない。来年の話をするとわらわれるが、来年中に「湖の本百巻」が成る、だろうか。
2008 9・12 84
* たったいま、こんな提案と激励がきた。面はゆいが、提案には心動かぬではない。栄誉や世評を追うのではない、どうかして遣い甲斐のある金の使い道がないかと思ってきた、ろくに金は無いけれど、ベストセラー作家の息子に遺す必要は無いようだし、娘は金輪際秦家と天をともに戴かない、名前も返上すると云っているのだから、これも論外になる。死ぬまでに遣い尽くしておいて誰も困らないなら、団体に寄付をと思っていたが、寄付行為というのは生来イヤラシイ気分で生きてきた。しかもバカげた賠償金など支払うぐらいなら、その前に「潔く」使い切れないかと、むしろ困惑していたのである。金が干上がってなおしぶとく生きていたら、喜んで秦建日子にすべて委ねる。子の世話を受けられるのは親の生活力であるというのが、わたしの思想であるから。もし断られたら、そのときこそ、文士の本懐である「野垂れ死に」がいいと。
☆ お元気ですか。ようやく秋の気配が感じられるようになりました。夏に比べて、眠りが深くなるのでわかります。
地球温暖化にヒートアイランド現象と、年々暑さ厳しく躰に堪えるようになっていますが、今年は夏バテしませんでした。食欲が落ちて三キロほど痩せ、面やつれした美女になる予定にしていたのですが、なんと新たな肉がついてしまいました。(こわくて体重計に乗れません)このままおいしいものの豊富な食欲の秋に突入するのかと思うと、つらいものがあります。
みづうみは相変わらず刻苦勉励の日々をお過ごしで、しかも次の「湖の本」のご準備も着々と進行しているごようす。以前「卒業生」の方が、よく働く二割のアリの話を書いていましたが、会社でもほんとうに働く二割の社員が、残り八割を養っているそうです。人間社会全体を見渡しても、みづうみのような勤勉有能な人間二割。残り八割は能力体力気力に劣り、働きがよろしくないといえますでしょう。わたくしが八割グループに属していることはいうまでもありません。
次はマジメなご提案です。
日経のコラムで、ある作家が、自分の作品を自費で英訳を依頼して冊子のような手軽な私家版を創り、海外の友人に配ることにしたと書いていました。外国で自分を「作家」と紹介しても、作品を知る人がいないのを不満に思っているからとのこと。日本語は翻訳されにくい言語ですから、たしかに日本の文学者は不遇です。
以前から何度か申し上げましたが、みづうみも海外を視野にいれるべきなのです。しかも、出来るだけ早くに。(翻訳の出来不出来を作者が確認するためにも。)
一冊でもよろしいので、是非英訳の「湖の本」を製作していただけないでしょうか。
建日子さんは海外におでかけになる機会も多いようにお見受けします。その時にあちらのお知り合いに何冊かずつでも配っていただけると、みづうみの作品が世界に認識されるきっかけになりましょう。もちろん、みづうみの海外読者のネットワークも活用なさることは言うまでもありません。
みづうみの作品の正当な評価はむしろ外国のほうが早いかもしれないと以前から感じていました。今の日本には藝術を評価するシステムがおそろしいほどに欠如しています。
将来に渡って色々な意味でみづうみの作品を守るために(裁判などからも)、是非戦略を立てていただきたいのです。世界の秦恒平になるのです。
とりあえず、翻訳しやすい短い作品として、わたくしは『ディアコノス・寒いテラス』をと思います。この題材は日本文化の素養がなくても読みやすく、世界共通の恐怖で読者を震え上がらせるでしょう。
そして、みづうみの出発点ともいうべき『畜生塚』がよいのではないかと思っています。どんなに素敵な英訳本になるでしょうか。もちろん仏語訳でも他の言語でもよろしいのですが……。
海外に読者を増やすことは、かならずみづうみのためになると信じています。
座して待っていても、日本語の作品の翻訳など進みません。どうか、この作家のように自ら英訳させて世界に打って出てください。日本で名が出ているというだけで、三流作家の作品が翻訳されて海外で評価を受けていると思うと無性に腹が立ってくるのです。どうかご検討くださいますように。
明日から三連休。みづうみはなんの日かなんておぼえてもいらっしゃらないでしょう。わたくしは三日間しっかり嫁稼業に精出す予定です。涼しくなると夏の疲れが一気に出ることもございますから、ご無理なさいませんように。 於菊
* そうか費用を負担して依頼するのか。しかし、その人の英語力や外国語力を信頼しなければならないし、云うまでもないが文学言語と商業英語や法律英語は天地ほど違う。せめて藝術的なセンスのある人に出会わないと。
これはもう他人様の好意有る情報やご紹介をまつしか手があるまい。海外にお住まいで、文学藝術にご自身も関心の深い方からお知恵を拝借できないだろうか。外国語を日本語に翻訳できる人は国内にも多いが、日本人の書く外国語がかなりあやしいことは、医学書院で編集者をしていて、えらいえらい先生方が、外国の雑誌に投稿されるとき四苦八苦の体であったのをわたしは沢山見知っているのである。
* それにしても『ディアコノス 寒いテラス』とはビックリしました。「於菊」は秋成老人をおどして雨月から現れ出た女の名。コワい。
* 息子の名が出ていたが、ことわたしの作品となると息子はほとんど読んでいないし、「湖の本」を助けてくれるような気持ちの余裕もない。何の助けにもならない。彼はいまは自分の仕事で、或る意味ではアプアプしているし或る意味では儲け仕事に手を出して行く物欲の時期、それもムリもない。自分の作品や舞台に父親達の批評はとても欲しがる、それがせめてもの親孝行、それでよいと思っている。
幸いわたしには「いい読者」がいる、そんなときは「一人当千」という古めかしい言葉を思いだしている。
2008 9・12 84
* 今日もたくさん仕事をして、前に進んだ。創作と読書と、「e-文藝館=湖(umi)」、「湖の本」、そして「闇に言い置く 私語」も。余儀なく裁判関係の用事も。夜は、映画『デイ アフター』を楽しんだ。機械から離れて、これから就寝前の本をたくさん読む。
2008 9・14 84
* 六時に起きて、「湖の本」の校正をすすめた。
今度の一冊、わたしの文学批評や論策の仕事の、或る意味で最良の一冊になるだろう。全編と言っていい、すべてわたし自身の言葉と責任とで語っている。「これが、わたしです」といえる一冊になっている。発送の用意に具体的に取りかかる。が、四時間半しか寝ていないので、少しやすんだ方がいい。
2008 9・15 84
* 作品を外国語に翻訳することを真剣に考えてみませんかと、何度も忠告されてきた。今度は、気が動いて、ここにもそれを書き、助言・助力が頂ければ有り難いと。
早速に、遙かな海外から、未知で面識もない方だが何度もの文通によりかねがね親愛し信頼してきた方の親切なメールを頂戴した。
具体的なことがちゃん書かれていて、とにかくも候補作品を選ぶことが第一着手になると。それなしには、当然だ、動き出せない。
かねて翻訳を奨めてくれてきた人は、手始めには『ディアコノス 寒いテラス』と『畜生塚』をと挙げている。『親指のマリア』はどうかという意見ももらっていて、魅力的だが、長編だ。
手持ちの「掌説」全部はどうかと身近な声も出ている。
暫く熟考したい。成る成らぬではない、わたしの本気の問題だ。放っておかない。
助言を下さっている方々に深くお礼申し上げる。また久しい読者のみなさんにさらにお声を給わりたい。
2008 9・18 84
* 朝一番に新刊発送のために絶対必要な手順を済ましてしまう。
一人一人の読者や大学・研究室等あてにはさみこむ共通の挨拶文を、書いて、刷って、一つ一つにカットしなくてはならない。それに新たに手書きで宛名を書き個人的なアイサツを書き添える。創刊以来、それをもう百回近く、体調を損じていた一、二回以外ほぼ励行してきた。季節感や、時に述懐をまず四漢字で書いている。言葉を選ぶのがしんどい。言葉はその気なら幾らもあるが、手書きで手早に書きやすい四文字えらびはラクでない。
だが、今日からそれを始める。少しずつ早く始められれば、永い日にちかけてもからだは、結句、ラク。十日の仕事に二週間用意するというのが、老境には健康法、差し迫られると辛い。
本文はいま、初校が戻してある。再校が出そろってきたとき、半分もすすんでいれば、発送前に少し余裕が持てる。そんなことも、頭より躰が覚えている。
今朝は寝ている間から、右肩そして腋へ痛みが強かった。起きて、食後ためらわずバフアリンで痛みをとめてしまう。痛みに耐えながら暮らすことはない。軽快させておいて、平常に気分良く生活するのがいい。ただし痛み止めは胃腸に響くので、その方の手当も同時に忘れないように。
2008 9・18 84
* 今日も突発にびっくりする事件があった。八月末の朝日新聞の文化欄に、兼好の「隠されていた恋」を洗い出したという本が出たと紹介されていて、これまで「誰も気づかなかった」とあるそうで、知人が、切り抜きを送ってくれた。
半世紀前にわたしは「徒然草執筆動機に隠れた恋愛」があったと論文を書き、それに基づいて小説『慈子』を書き下ろして、これは廣く読まれた。さらにのちに旺文社のために『兼好の思い妻』を書いて、徒然草論を纏めているし、単行本『春は、あけぼの』に収録している。みな昭和の仕事である。紹介された新聞記事では簡略すぎるが、それが要旨だとすると、全面的にわたしの仕事が先行している。
著者は日文研の准教授としてある。学者の仕事がそんなに行儀がわるくなったのかなあ。小説家ナミであるなあ。断っておくが、わたしが学んだ先達の学者研究者にも、兼好の恋らしきことに触れた人は何人もいたので、「誰も気づかなかったこと」なんかでは無かったのである。
わたしの『慈子(原題・斎王譜)』は、此のウエブの中で電子版・湖の本⑨⑩として簡単に読んで貰える。また四半世紀も前の旺文社の大きな叢書「日本歴史展望」第五巻に書いた『兼好の思い妻』も、いま充実中の「e-文藝館=湖(umi)」「論考」室におさめてある。すぐにも読んでいただける。
2008 9・18 84
* 驚くことは有るものだ。一枚のコピーが、日本の近代文学研究者で、久しいわたしの読者である人から送られてきた。
「どこかで見たような話ですが、ご存じの人ですか」と、さりげない。コピーは、つい最近、八月三十日土曜日の朝日新聞「文化」欄記事であるらしい。
わたくしの、お馴染みの読者の方々にも、ことに、『慈子』を愛読して下さった方には、改めて此処でもこの記事を読んで頂こう。紹介されている話題は、光田和伸氏の近著『恋の隠し方』(青草書房)のことである。なかなかそそる題であるが、記事を再掲させて貰う。
★ 光田和伸さん著「恋の隠し方」 朝日新聞 2008年(平成20年)8月30日 土曜日「文化」欄
徒然草に秘めた恋? (大見出し)
愛した女性と進展できず、やがて死別…(中見出し)
徒然草に吉田兼好は恋の思い出を隠した? そんな大胆な説を国際日本文化研究センター(日文研)の光田和伸・准教授(57)が著書『恋の隠し方』(青草善房)で発表した。
光田さんの専門は和歌、俳諧を中心とした日本古典文学。244段からなる徒然草を徹底的に読み込んだ結果、29、30、31、32、36、37、 104、105段に、兼好自らの恋を描いたことが判明したという。女性と恋に落ちたものの、うまく進展せず、そのうちに女性が重い病となり、永の別れとなる。そんな様子が浮かび上がると説く。第32段には「九月二十日の頃、ある人に誘はれたてまつりて明くるまで月見ありく」とある。新暦の11月末ごろの冷え込む京都で夜が明けるまで月を眺めて歩くほど恋に苦しみ、寝られない兼好の姿が分かるという。
なぜ兼好の恋愛の思い出が織り込まれていると、これまで気づかれなかったのか。光田さんは「徒然草は隠者の無常観の文学だ、という教科書的解釈の思い込みがあまりに強かった。それに、伝統的に関東の学界など、東びとの心で解釈されてきた影響ではないか」とみる。
「8つの段に兼好自らの経験」
「兼好は他人の恋の歌や恋文の代筆をしました。恋の味わいを解さぬ男は話が通じず、特上の杯に底がないようなものだとも書いています。しかし、武家文化の影響が強い東びとによる解釈は、上方のようには色事に好意的、許容的でなかった」
では、兼好がその恋を文章の中に隠したのはなぜなのだろうか。「平安以来、女性は恋した人との思い出を書いても良かったのです。『蜻蛉日紀』『和泉式部日記』のように、相手の男性のことを洗いざらい書いて発表することもできた。しかし、世間体のある男性にはそれは許されなかったからでしょう」
秋には俳人松尾芭蕉が「隠密」だったという説を紹介する著書を発表する予定だ。 (大村治郎)
* その本を「読んでいない」ので、或いは、わたしの過去の幾つかの仕事を「参照・引用」が明示して有るのかも知れず、それなら、問題無い。
しかし徒然草に「なぜ兼好の恋愛の思い出が織り込まれていると、これまで気づかれなかったのか」とある。これは困る。
半世紀近くも前に同じ内容をわたしは論文にしている。よく読まれた小説にも書いている。またわたしが勉強した先行の研究者にも、そのようなことを指摘していた学者は何人もいたのである。
* 此処に光田氏の挙げている「各段」を、すでに全てきちんと指摘し、「兼好の秘めた恋」を「徒然草の執筆動機」の大きな一つとしてわたしが論じたのは、はるか以前、まだ作家以前の昭和三十年代後半のことである。医学書院に編集者勤めの傍ら、東大文学部の研究室書庫に入れてもらい、徒然草文献を集中して読み、『徒然草の執筆動機について』論文を書き、母校の紀要「同志社美学」に送り、二回に分けて掲載されている。趣旨はまったく光田氏新刊の通りなのである。
しかし、それだけでは、光田氏の博捜にも漏れたのであろう。しかし、わたしのこの徒然草・兼好論は、最初の書下し小説となった『斎王譜』(昭和四十年)、のちには『慈子(あつこ)』(昭和四十六年)と改題して筑摩書房から書下し長編小説として二度版を変え、刷りも重ねていて、さらには集英社文庫にも収録された中に大きな範囲で相当詳細に使用されている。現代の愛の小説であると同時に「兼好」論とも読まれて、わたしの作品中もっとも廣く愛読されてきた一作なのである。刊行時より、注目してくれた研究者もいた。
わたしの徒然草ないし兼好の隠れた恋に関する執筆内容は、上に簡略に紹介されている光田氏の新説なるものに、ほぼ全面的に先駆しているだろうとは、紹介からでも、優に察しがつく。だからこそ、不審を覚えたべつの研究者は、朝日新聞のコピーをわざわざ届けて下さったと思う。
* さらにいえば、小説にまで目は配れないという点もあるかも知れぬ。
ところが、例えば旺文社から、瀬野精一郎氏の責任編集で刊行された大部の「日本歴史展望 第五巻」、南北朝を分担した『分裂と動乱の世紀』(昭和五十六年刊)という大版の准専門叢書の一冊に、乞われて、『兼好の思い妻』と題したかなり長い原稿を寄せている。この一文は、まさしく兼好の「隠した恋の伝記的事実を各方面から証明した論考であり、かように、光田氏のとりあげている徒然草各段の全部を検討しながら、わたしは、半世紀も昔から繰り返しモノにも書き、出版もしてきて、とにかくも「周知」と主張して問題ないのである。これを知らずに自身の新説とされるなら学者として杜撰であり、知って新説とされるなら剽窃のおそれがある。繰り返すが本を取り寄せて読み、問題ない場合はわたしはこの不審を撤回するに吝かでない。
むしろ問題を追試し確認されて大いに喜ぶ。まことこれまで「誰も気づかなかった」、的を射た真に新説であるならば、同好の一人としても愉快である。が、その様子が上の記事だけではうかがい知れない。
* 上の記事に、第32段がことに引いてあるが、わたしの半世紀前の論考でも、此処から大事に先ず問題点を引き出していて、井伊直弼の『一期一会』とも絡め、論文でも小説でも「眼目」を成している。ところでこの段は、紹介記事にあるように兼好自身が恋をして歩いていた内容ではない。主人筋の恋の探訪に「従者」として同行していたことは、本文により明らか。
そこから、わたしは主筋の堀川具守と兼好と延政門院一条との三角関係らしきも引きだし、「思い妻」なる「隠し妻」をあぶり出していったのである。それにすら先達の学者は何人も言及していたことで、「誰も気づかなかった」ことでは無い。いったい誰をどう指さして、「誰も気づかなかった」兼好の恋人とされているのか、注文した光田氏の本を早く読んでみたい。
* どうして、こういう本が、今になって「新説かの如く」持ち出されるのだろう。むろんその本を読んでいない現段階ではあるが、日文研といい青草書房といい、わたしのそういう著作を記憶されている何人ものセンセイ方が関与されている。ま、そんなことは知ったことでないのだろう、わたしもそれ以上は言わない。
ああ、ビックリしたとだけ特筆しておく。
不審の方は、わたしの湖の本⑨⑩『慈子(あつこ)』および旺文社の上記の『日本歴史展望第五巻』所収の論考「兼好の思い妻」を読んで頂きたい。
さらに博捜される向きは、半世紀前の「同志社美学」の第六・七巻あたりをお探し願いたい。「徒然草の執筆動機について」上下として、若書きのつたない論文を二回にわけて掲載している。「論文の目的」は、執筆動機の背景にある兼好の「隠れた恋」に他ならず、光田氏の謂われるとおりのモノである。以来ずうっと言い続け書き続けてきたのであり、「誰も気づかなかった」ことでは無い。
* 正直に言うと、わたしは光田氏の本に出会うのが「楽しみで、嬉しい」のである。
わたしは、自説のオリジナリテイなどを頑固に主張する気はさらさらない。学説も新説もパブリックドメインだと思っている。その上へ、先へ、研鑽が伸びてゆけばいいのである。わたしが少年以来の、「徒然草は隠れた恋ゆえに書き始められたのではないか」という不審が、新しい学徒のちからでさらに見事に前進し展開したのなら、それを喜びたい。
* ただ、学者の論説には学者だからふむ手順がある。わたしのような小説家はその辺はガサツで不行儀であり、好いことではないが。学問研究の場合は、先行の説にはしっかり配慮された方がいいと云うことをわたしは言っておきたいのである。
* 幸い『兼好の思い妻』一編は、「e-文藝館=湖(umi)」の「論考」室に掲載済みで、今すぐにも読んで頂ける。『慈子』も、このウエブサイトのなかに、「電子版・湖の本」第九・十巻としてすぐ取り出して読んでもらえる。
2008 9・18 84
* 十一時前。いま青草書房から光田和伸著『恋の隠し方』が届いた。
* この本、①わたしの仕事にも名前にも触れていないこと、②恋の相手をわたしの論考と同じく「延政門院一条」と挙げていること、扱っている徒然草の各段もほとんど全てわたしが、半世紀近く以前に、論証に用いたのと同じであること、が分かった。
一冊の単行本であるから、わたしの扱わなかった範囲に筆の及んでいるのは当然で、それはわたしの問題ではない。
朝日新聞文化欄が「売り」として扱った限り、「兼好の恋」を本の題としている限りに於いて、著者光田氏は、先行の兼好論に博捜の学者的義務と義理を欠いていたのは確実と言える。論旨の剽窃かという疑いをかけることも、事実が示している限り、暴論暴言にならないだろう。また「これれまで気づかれなかった」と主張しているのだから、参照・引用されている他の各氏の仕事からも、光田氏主張は「隠した恋」に関しては、何も汲み取っていないということになる。しかし遙か早くに「ほぼ結論の同じ論策」が実在して、その後にも繰り返し敷衍し公刊されていたことを、氏は、知らない、調べない、ままに新説を豪語していると謂うに等しい。
朝日新聞に紹介を書いた大村治郎氏をわたしは知らないが、感想を聞きたい。
青草書房編集室の意見を聞きたい。
私の個人的な歴史から謂うと、文壇処女作「清経入水」に、誰より早く第一番にフアンレターをくれた杉本秀太郎氏は、青草書房の創立に関わっておられるように仄聞するが、氏の見解も聞いてみたい。
日文研には私的にも親しくしてきた何人もの方が、光田准教授の上席に並んでおられる。機会あれば、感想を伺いたい。
* 一時 青草書房の、また問題の本の刊行責任者らしき民輪めぐみさんに電話、事情を告げて、論考「兼好の思い妻」をファイルで送ることを約束。そして送る。受け取ったと返辞があり、報告に、少し時間が欲しいと。
2008 9・19 84
* 湖の本のあとがきを書き、発送の方へ神経と時間とをつかわなくちゃ。
2008 9・19 84
* 湖の本新刊の「あとがき」十頁分を入稿した。
2008 9・22 84
* 湖の本にもう再校が出そろい、追われてきた。なにも急がねばならないわけではないが、印刷所の対応がすこぶる良いのを無にしては気の毒だ、頑張らねば。法事の前に下版できるといいが。
2008 9・23 84
* 夫の転勤に妻として転居した人が、その地で余暇を活かして一念発起、押しも押されもせぬ一流の人に成った例は、幾人も有るに違いないが、わたしはわが「湖の本」の久しい読者で、二人存じ上げている。
一人は、一方(いちかた)流の平曲奏者となり、現在も「二百句」を全部通して演奏公演し続けている、橋本敏江さん。すばらしい語りと琵琶とで平曲を演じる。
耳なし芳一というように「一」という字を名乗った人が伝統的に多く「一方流」と謂うが、現代、ほぼ唯一ともなってきた橋本さんは、大事な大事な余人に代え難い平家語りの継承者。
もう一人は、その秀麗な文章表現と共に、江戸時代の女流『江馬細香』に素晴らしい光明を添えて世に送り出した、門玲子さん。江戸時代の女流文学者研究を、積んで積んで積んで押しも押されもせぬ在野の研究者として、いまではその世間をひっぱっている。大きく顕彰もされている。
なによりも門さんは読ませる書き手である。推薦してペンクラブに入ってもらった。「e-文藝館=湖(umi)」にも書いてもらっているが、門さんの場合、出発が閨秀の漢詩人だった。気の毒にパソコンは「漢詩の再現」に漢字でも返り点などでも、いと弱し、で音をあげる。つい随筆風のものを頼んでしまうのが残念。
* 上の二人とも文字通りの一主婦から、すこしのきっかけを掴み意欲を注ぎ込んで大きく起ち上がってこられた。しかもなお主婦なのである。ひとつのことを続けて十年うちこめば実るが、十年意欲の「ガマン」が無い。広い意味で、創る人と楽しむ人との分かれができる道理。
2008 9・24 84
* 急ピッチで印刷所に追われている。フウー。
むかし、幾つもの印刷所や製版所や下請けを相手に出版社で仕事していた。わたしは、著者にも印刷所などにも催促上手な方だった。わたしが催促されるようなことはほとんど無かった。
だが、いま「湖の本」でお付き合いしている営業さんは、わたしより手回しがいつもすこし早くて、わたしは恐縮して一所懸命あとを追いかける。こういう人と「組む」のが嬉しい。きびきびした仕事が好き。けっくそれがラクである。追われるとシンドい。
* 人間工学ということばが謂われ出したころから、その意味など知らなかったけれど、大量の仕事を片づけるときは、腰掛ける位置や二本の手の使い方出し方も工夫して、流れのラクではやい道をいつも見付けていった。生来がナマケモノで、早くラクをしたい、ラクになりたいと思うから工夫するのだった。手抜きはしなかった。後悔したり、一からやり直しの手間をおもえば、仕事はカンペキに片づける方が能率がいいと分かっていた。
* そのわたしが、このところ毎日のように印刷所から届くゲラに気持ちよく追われている。一昨日も昨日も鞄には校正ゲラが入っていた。何処ででも、仕事が出来るならする。東京の乗り物は、窓の外がみものということがほとんど無いのだもの。
2008 9・27 84
* 新刊の出来がせまってくると、日程は、それ最優先になる。本が家に積み込まれたとき即座に送りだし作業が出来ないと、狭い上に家が狭く身動きしにくくなる。息がつまる。用意は早く初めて、ゆっくりやるを原則にしていても、気が緩むと追いかけられている。
2008 9・29 84
* 五時前に起きた。発送のための作業をひとしきり終え、機械の前に来た。九時過ぎている。
* やがて正午。さすがに疲れてきた。
2008 9・30 84
* 二時頃から三時間ほど寝入った。九月が逝く。十月は忙しい。秦の母の十三回忌。実質第一回の裁判がある。三越劇場、国立能楽堂、俳優座劇場、国立劇場、NHKホールとつづく。商業演劇、能、新劇、舞踊、歌舞伎。それに理事会と眼科検診がある。人にも逢うだろう。その間に湖の本新刊、通算九十六巻めの発送という力仕事がある。十一月へも同じ感じで流れ込むだろう。
2008 9・30 84
* 湖の本新刊、本紙責了の用意が出来た。
2008 10・3 85
* 無害だけれどしつこい夢を繰り返し観ながら、少し寝過ごした。秋晴れ。ご近所で新築の造作が続いている。もう仕上がり近いか、大きな烈しい物音だったのが、とんとんとやわらかに金槌をつかっている。鳩が啼いている。
* 目当ての万三郎能『木賊』は四時前始まり。湖の本の責了紙を宅急便に託しておいて出かける。あと十日ほどで発送用意をみな仕上げておきたい。少しずつ、少しずつ。
今日の外出は、能の他にアテがない。校正の必要もない。土曜日はどこも混んでいる。うまいものをちょっと食べて帰りたいが。
2008 10・4 85
* とにもかくにもコツコツと仕事している。体調のことは分からないが。
昨日は朝、やや心乱れて苦しいなと感じていた。不快に迫られているという実感で、いやだった。そして昨日か一昨日頃から、耳の奥で小さく柔らかくボタボタボタボタとつづく耳鳴りがときどきあり、間隔がゆるまって行って終熄する。ものの十秒くらいか。再々ではないが、昨日も今日もある。キューンという耳鳴りではない。
こころもち、心臓を指三本ほどで軽く抑えられているように感じている、今も。
* とにもかくにもこつこつと仕事をして、用の片づいて行くことが肝腎。「湖の本」を出し続けている限りは、周期的にこういうときがある。そして百巻へあと四冊五冊という今、予想していなかったストレスが来ている。出し続けられるかではない。抱えているモノの量から観て、また、し続けている仕事から観て、いったいこの「湖の本」は終えうるのだろうかと、なんだかコワクなってくる。
2008 10・5 85
* 「卑弥呼」とは。これ、やがて新刊の今度の湖の本でも繰り返し語っている。
2008 10・6 85
* 湖の本新刊発送のための最低限の用意が出来た。しかし、なお気の張る用意が加わらねばならない、自然科学ならぬ文学の各方面に、今回はさらに広く寄贈したいと願っている。わたしの肉声がそのまま届くような一冊になっていると思う。
2008 10・12 85
* 自身を省みて、はねのけがたい今・此処の「疲れ」を全身に着込んでいる気がする。そんな自分をただ「観察」している。やがての師走には、七十三。来年三月には結婚して五十年、つまり妻と上京して五十年。幸いに健康を維持してその年内に湖の本が「百巻」へ届くか、どうか。
分からない。未来に対しなにも夢はみない。
2008 10・14 85
* どうにか、明日には思い描いてきた範囲で湖の本発送の用意が出来そうだ。京都行きが三日もはさまり、それで、ぎりぎりいっぱいになった。かなり息づまり疲労した。一日でも休息してから発送にかかりたい。
今回を含めて五冊出すと「百巻」になる。夢見たことすらなかった。だが、このまま行くと来年中にも到達する。それにも息づまる。
2008 10・15 85
* ほぼ今日で、なんとか。用意がいいと発送という肉体労働自体は、スムーズに短縮される。
2008 10・16 85
* 明日には新刊の「湖の本」が出来てくる。通算して九十六巻になる。正直の所、かなり苦しい。体力・気力。財力。ところが作品はまだ有る。十分ある。並行して書きついでいる新しい小説も何作か有る。成ろうなら遺作にしたくない。
2008 10・17 85
* 心温かな世間もある。有り難いこと。
* さ、気を変えて、明日からの発送を。
2008 10・17 85
* 朝早に新刊がどっと届いて、玄関へ積み上げに一汗かいた。運んでくれた製本所からの若い運転手さんが、妻に、「あの『蘇我殿幻想』の秦恒平さんでしょうか」と聞いたと言う。お父上が亡くなったときその初版本を身のそばに遺されていたという。ありがたいことだ。
2008 10・18 85
* 五時半まで、一心に発送。夕食を済ませたので、一息入れて今晩ももう一押し二押し集中する。
なんだか今度の本が、ひどく重い。玄関の本をキッチンに運んで荷造り作業し、箱に纏めて玄関ヘ出す、その一箱一箱の重さが、冊数としては決して多くないのに、かつてなく重い。ふんばるためか足指にマメができ、太ももが痛い。幸い本の出来がきれいなためストレスがなく大いに助かる。
2008 10・18 85
* かなり効率よく送り出している。さすがに疲れている。今回は本がとても重く感じられる。
2008 10・19 85
* 秋晴れ、続く。ご近所のあちこちで、造作の物音が幾いろも絶えない。さ、今日一日で、一段落して、あと追加の作業を続けて行く。もうそろそろ本は届き始めているだろう。
2008 10・20 85
* ほぼ予定した全部を送り終えて、これから手の届いていなかった追加分を用意して送り出す。
☆ 能率良く 08.10.20 15:17 花
お仕事なさったようですね。
ご本、届きましたよ。うちの郵便は、夕方四時くらいに配達されていると思いましたが、正午くらいに来ていたときもありました今回のは、厚めですね。重かったでしょう。
楽しみに、読みます。
お元気ですか、風。
今度の土曜は、学生時代の友人の結婚披露パーティーが、新宿であります。日帰りする予定です。
十一月の最初の三連休は、夫のいとこの結婚式が横浜であるとかで、関西から義母が来ます。前日に、箱根で紅葉を見たい義母を連れて行きます。混雑しそう。
ではでは、風、腰をギックリしないように。花も気をつけます。
☆ 湖の本 郁
エッセイ45拝受いたしました。有難うございます。面白そうな内容ですしっかりと読ませていただきます。明日から留守にしますのでもうしわけございませんが入金がおくれますがご容赦くださいませ。
今朝ほど水野さんから電話をいただき 湖の本が届いたのを喜んでられました。そして阿部さんと連絡が取れたので秦恒平先生とお会いできれば幸せです。と申されていました。阿部さんもあちらこちらと旅行されておられるそうです。先生のご都合にあわせますのでとのことでした。
先生は超お忙しいかたなのでともうしておきましたが いかがでございましょうか?
私はお会いしたいのはやまやまですが恥ずかしいです。 どうしてでしょうか?
やっと私ももとに戻りつつありまして コスモスなど描いたりしていますが。 小手先ばかりではないみとうしをつけねばと思っております。
どうぞくれぐれもご自愛くださいませ。
☆ 湖の本拝受 藤
秦恒平さま 湖の本、本日到着いたしました。ありがとうございます。
しおりにお書き添えいただいた「一篇お送り下さいませんか」にドキッと。
ずっと種切れ状態のようになっていて何も書けなかったのですが、ふとしたきっかけで、前々から気になっていた母の実家の思い出を添付のような文にまとめいたところでした。
読んでいただけばわかりますが、母の実家はすっかり形を失いました。母の弟妹も次々に他界してしまったた今、たまたま疎開という形で母の実家で数年を過ごした私のわずかな記憶も貴重になってしまいました。
没落してゆく家を書いた文学作品はいろいろあります。それらとは比べようもないささやかなものではありますが、失われて行ったものや人への哀惜の念には変わりない気がします。
書き始めたきっかけはテレビ番組ですが、途中で行き悩んでいました。この九月始め「南フランス・ミラノの旅」というツアーに参加して息子と共にとても楽しい経験をしたのですが、帰って来てから急に続きの筆が進みました。
未熟なものですが、声を掛けていただいたのに勇気を得て送らせていただきます。読んでいただければ光栄です。
2008 10・20 85
☆ 秋晴れが続きます。 泉
湖の本96巻目が届きました。お疲れ様。ご苦労様。
記念の100巻までは後少し、ガンバリヤさんだから、大丈夫!
志を聴いて、そして創刊からの二十年余りは、永い永い時間でありながら、送られてきた「湖の本」を手にして読むだけの私には、短くも思えます。
孫は幼稚園の遠足での時間延長をいい事に、秋晴れに惹かれ、娘と二人でのんびりと、すべて大江戸線を駆使して神宮外苑、絵画館周辺を歩きました。やんちゃ坊主がいないのは、こんなにもラクチンであるかを実感して。
新宿で昼食、久し振りに都庁の展望台に上り、我が家方面を確かめて、帰ってくる子をお迎えの時間だという娘と別れ、そこから一人で、御徒町から上野公園へ出ました。
やっと、気持ちよく歩ける体調になり、とても嬉しく、先ほど電話をしてきた弥・レ(=中学同窓のレディたちの一人の意味か)が、声のハリが違うと云います。
回復までに医者があきれる程長くかかりました。すべては終生悩まされるであろうアレルギー体質のせいですが、生きている証拠と思えば、なーんてこともないのとちがうやろか、ナーンテ。
本日の万歩計は約「二万歩」をさしていました。
明日も運動を楽しんできます。 ほな又
* 二万歩は「凄い」なあ。
2008 10・21 85
☆ hatakさん maokat
湖の本到着しました。「蛇」の文字に腰が一二寸退けましたが、そのまま読み始めました。それにしても重いですね。発送のご苦労を思いました。
前回は10巻分ほどまとめて振り込みましたが、今回はあまりプレッシャーにならぬ程度に振り込ませて頂きます(少し時間がかかります)。
次回上京は、12月に学位審査会があります。その翌日なら時間があります。ご予定あえば是非お目にかかりたく。
* 十二月のことはまだ何も決めていないが、うまく予定は合いそうだ。合えば「初対面」という意外な出来事となる。実際は十年ほどかも知れないが、三十年もお付き合いしてきた気がしている。
☆ お礼 閤
この度は「湖の本」『色の日本・蛇と世界』をご恵贈下さいましてまことに有難うございます。
グロテスクとアラベスクの人間のせいでしょうか、収録のご講演の中では「蛇と鏡花」に強く惹かれました。
そして、「鏡花文学の核心にわだかまるものは、端的に『蛇』へのアンビバレンツ」であり、「水神へのいわば畏れと帰依心だと思う」
とのご指摘に、わが意を得た思いがしました。
わたしがよって立つ幻想と怪奇の世界を英語ではhorrorと申しますが、このhorrorなる言葉を字面のまま「恐怖」と訳すことは以前から愚かと感じていました。
horrorとは「畏怖」つまり「恐れ」「敬う」感情に他ならないからです。「畏怖」なきhorrorなど、ただの「気持ちの悪い小説」「嫌な小説」でしかないと私は軽蔑しております。
残念ながら、現在の私は営業的な理由で幻想怪奇の短編集が出せなくていますが、それでも、先日お送りした「異形コレクション」のようなアンソロジーに飽かず室町幻想を書き続けております。
…などと、わたくしの話はどうでもいいことでして、秦先生の文章に接するたびに、叱られ、励まされている気がしてきます。
取り急ぎお礼のみにて失礼します。 拝
2008 10・22 85
* 送った本へのお手紙がつぎつぎに積まれて行く。また支払いの用紙にも読者はたくさん書き込んで下さる。きっちり十年前「漱石『心』の問題」から湖の本を購読し始めました、漱石のあの作品で「奥さん」と「私」はただごとでないと感じていたときで、ピタリと波長が合いましたなどと聞くと嬉しい
2008 10・23 85
☆ お礼遅れ申し訳ありません。
19日にご本が届いておりました。いつもながらあたたかいお励まし、ありがたくあつく感謝いたします。
後日あらためてお礼申し上げます。きょうはこれでおゆるしくださいませ。
一雨ごとに肌寒さがくわわります。くれぐれもご自愛のほど。 湖雀(うみすずめ)
2008 10・23 85
☆ 湖の本 晨
『色の日本・蛇と世界』頂戴しました。一昨日に届いていたのですが、母の病院に付き添い心配もし、疲労困憊でメール書く元気がなく御礼が遅くなり失礼しました。この状態しばらく続きそうです。
今回は大物作家とがっぷり取り組んだ充実の文学講演集ですね。たいそう分厚いご本です。重さに泣く力仕事でいらしたでしょうし、あの価格ではまた出血サービスではございませんか。とにかく、何度も一所懸命読むことで少しでもご恩返しいたしたく思います。
「科学」討論面白く拝見させていただいています。計算すればしょっちゅう一桁間違える極端な理数オンチのわたくしが口をはさむのはおこがましいので読み手に徹していますが、とりあえず一つ。
私は内容をよく理解出来たとは言い難いのですが、日本の科学の未来は明るいかもと、とても心強く嬉しく読んでいます。なぜなら、参加の皆様の理系知性プラス文系知性に惚れ惚れしているからです。
自分の考えをこのようにわかりやすい明晰な文章で表現できる方々にパソコンマニュアルを書いていただけたら、どんなに多くの人が助かることでしょう。
たまたま私の知っていた大学の先生、科学者とその卵たち(東工大や東大工学部の一つの科)だけで、理系学者を語ることなどできませんが、その限られた範囲内で感じていたことはいくつかあります。
まず、彼らは非常に能力の高い秀才集団で、人柄も好もしいのですが、欧米の工学部教授たちのような意味での知識人、教養人たるべき教育をどの時点においても受けていないようでした。専門以外の深い話はあまりできなかった。勉強に忙しすぎたのかもしれません。
それから彼らのもう一つの特徴は政治指向が非常に保守的だったこと。カーター前大統領を破ってレーガン新大統領が誕生した時、多くの学生達が大喜びしていたのにちょっと驚いたことを憶えています。
たとえばあの当時の文系東大生の場合、他国のこととはいえ、共和党支持と民主党支持は拮抗していたのではないでしょうか。私の卒業した大学も保守的な風土ではかなりのものですが、それでもあそこまで共和党支持の学生が多いなんてことはあり得ませんでした。
どんな政党を支持していても、科学者としての優劣に関係ないのは当たり前ですが、一抹の不安も抱きました。保守安定指向が研究においてプラスの面ばかりではないでしょうし、権力側に動かされるだけの有能な歯車にはならないでね、とそんなことを、遥かに能力の劣る私如きは心配したものでした。
ですから、みづうみの私語に登場する科学者の皆様が私にはとても新鮮でした。やっぱりいたではありませんか。文化、教養高き理系の頼もしき学者さんたちが。見るべきことを見て、批判すべきことを批判して、将来の展望も希望も創ることのできる上、良い文章がお書きになれる。素晴らしいです。益々意見活発にこれからも活躍していただきたいものです。チンプンカンプンながらご研究を応援しています。
思い切り、科学討論内容とずれましたが、とりあえず登場した役者さんたちが大好きというつたない感想申しあげました。
みづうみは発送作業のお疲れのでませんように。毎日お大切にお過ごしくださいませ。
* この読者がわたしの謂う「理系夫人」であるかどうか、どういうエリアの方か、何一つ、知らない。「討論」にエールを戴けて、感謝。ご病人をどうぞお大切に。
2008 10・23 85
* この一年余を家族に心配かけぬよう秘しながら「鬱」のためのクスリを服していますという便りをもらう。
「今回(湖の本新刊)の私語の刻、湖様の湖面のように澄んで落ち着いた気持ちが伝わってきた思いです。
私は、自分のある状況をありのままに受け入れながら、いま ここを大切に、日々生きていますのでご安心ください。言い訳がましい現状報告になりましたが、思い切って私の状態をお伝えしておきます」と。
鬱の孤愁から逃げ延びようと事業の手をひろげ過ぎていないかと案じていた。平安を祈ります。
☆ (前略)冒頭の「色の日本」まず拝読致しましたが、私が漠然と考えておりました「色」について、様々な、しかも最深への眼差しもあたえられて御考察に次々と啓発されました。例えば古代の青磁の色に魅かれての小説「秘色」、平安時代の色の飛躍、薫君と匂宮の「光」との関係、古事記の「花」と巌と、「いらう」が、「いろ」から発していること等々、目からウロコが落ちる想いが致しました。
又「私語の刻」のペンクラブにイヤ気がさしている内部事情も私なりに感得致しました。
本日も取り敢えずの御礼まで一筆啓上致しましたが、百巻御達成へ向って、さらに着々と歩を進められますよう、併せて祈り申し上げます。草々不一 元文藝誌編集長
☆ (前略) とりわけ「蛇と世界」という異色のテーマ、興味津々頁をくっております。有難うございます。いかにも秦文学の世界で感銘しております。鏡花、藤村と刺激的な主題でした。有難うございました。 元女子大学学長
* 日々続々いただく新刊湖の本へのお手紙、払い込みでのご挨拶など、とても日記には書ききれないが、「文学講演集」と添えて表紙に『色と日本・蛇と世界他』と題を出しておいたのが訴求果あったか。目次をそのまま掲げてくお。
目 次 文学講演集 (湖umiの本エッセイ45)
色の日本 ─日本人の色と色好み─(有楽町朝日ホール)
蛇と世界 ─アジア太平洋ペン会議・差別と文学分科会・演説─(京王ホテルプラザ)
蛇と鏡花 ─水の幻影・泉鏡花の誘いと畏れ─(石川県文教会館)
藤村『破戒』の背後 ─悩ましい実感の意味するもの─(明治学院大学)
島崎藤村文学と私 ─ペンクラブ、緑陰叢書、そして『嵐』─(馬籠藤村記念館)
川端康成の深い音 ─体覚の音楽─(近代文学館)
わたくしの谷崎愛 ─いま、谷崎文学を本気で読むために─(日大藝術学部)
お静かに ─漱石そして日本人の久しく美しき自覚─(ワタリウム美術館)
私語の刻 この時代に…私の絶望と希望…
* エッセイ25でもやはり講演集『私の私、知識人の言葉と責任他』を出している。他の巻にも分散してかなりの数の講演録が湖の本には含まれているし、平家物語等の古典や美術を語ったものなど多々まだ手元に残っている。
わたしは講演が好きなのではない。「話しかける」という仕方で「考え」を取り纏め一仕事として置くのが、好き。だから講演そのものはしなくて済めば有り難い、けれど、そういう訳にもゆかぬ。
先頃も或る若い国文学者の研究原稿をもらったとき、だれにとはなく、「語りかけるように書かれているとずいぶん興趣ある内容なのに惜しい」と申し上げたことがある。
2008 10・24 85
☆ 『湖の本 エッセイ45 色の日本・蛇と世界ほか(文学講演集)』昨日届きました。 ペン会員 兵庫県
ありがとうございます。
「島崎藤村文学と私―ペンクラブ、緑陰叢書そして『嵐』―」から読ませていただきました。
文藝出版においてなかなか増刷ができないしくみ、また図書館利用者である読者の意向を確かめようとしない出版社や著作者への批判など、興味深く読みました。
「私語の刻」にもペンクラブへの批判があります。
電子文藝館を企画し建設した責任者としての、秦さんの自負を感じ取りました。
今後ともますますのご活躍をお祈り申し上げます。
2008 10・25 85
* 勤めた会社で、むかし、「助産婦雑誌」の編輯を担当していたことがある。その前に「看護教室」そのあとで「看護学雑誌」も担当した。
助産婦さんでは、のちのち大学教授になられ定年後の今も帝京大学に出勤されている青木康子さんが、今も「湖の本」の最初からの継続読者。何十年もお目にかからないが、つい間近に心親しい。
はじめてこの先生に原稿依頼に行ったときは、渋谷の日赤本部産院にお勤めで、当時では珍しかった妊産婦への「保健指導」を実践されていた。雑誌編集委員をお願いしていた賛育会病院や都立築地産院の院長先生だった木下正一先生、竹内繁喜先生の示唆で青木さんに原稿を頼みにいった。わたしは新人の編集者でせいぜい二十五歳前の青年だったが、産院という外来ではあまり見かけない人種であった。幸いわたしはそんなことに臆する方ではなかったので、平気で外来にある指導室の部屋の前で来意を告げておいて、立って呼ばれるのを待っていた。
青木さんはわたしより心持ち年長であったとはいえ、若い助産婦さんであった。木下先生、竹内先生のお名前も出しながら保健指導室の問題で、具体的にしばらく連載できないかと頼んだところ、原稿依頼を受けるのは初体験であったようで、苦吟のすえの返辞が初々しく印象的だった、「家で母と相談しまして」と。
あれからもう半世紀近い。看護学では当時聖路加も日赤もせいぜい短大だった。東大に保健学科が出来たのは後年だった。あの当時青木さんのように初々しかった看護前線にいた人たちが、その後、ぞくぞくと「えらく」成ってゆき指導的地位について看護学を押し上げていった。今も親しく、やはり「湖の本」を支えていてくださる整形外科ナースだった当時徳永(金井)悦子さんも、やはり日赤系の大学教授に成っていった人。
東大に保健学科が出来、そこで助教授を務められていた木下安子先生は、わたしの最初の私家版、むろんタダでまいて頭さげて貰ってもらっていた一冊に、「五百円」を包んで下さった。むろんわたしは遙かまだ遠く「作家以前」であった。
そんなふうにわたしは、いまいう看護師さんたちにもお医者さん達にも励まされ励まされ毎日歩んでいた。
* つい横道に逸れたが、わたしが医学書院の編集者として占めていた領域は、主として小児科学、産科学を芯にしていた。ドクターともナースとも親密に付き合った。その体験からふと、昨今の医師・看護師「不足」問題に思いが行くと、ひどく胸痛む。
「助産院」が当時は当然のように定着していて、有力な指導的な在野のそういう人たちにもわたしは取材していた。いつのまにか助産師業がひどく立ちゆきにくく制度化されてゆくのも、遠い外野からなんとなく心ゆかぬ思いで観ていた。いま、もっと効果的に助産師資格の人たちを地域で活用できないのか、と、なにごころなく、わたしなど、期待するのだが。
2008 10・27 85
* 帰りの地下鉄で、初めて落ち着いて新刊の「湖の本エッセイ45」を、長い気の入ったあとがきや、馬籠での藤村講演や、国際ペンでの演説原稿など読んできた。出すべき機にきっちり出した一冊という自信をもった。
2008 10・27 85
* 喜多流シテ方の名手塩津哲生氏からは「毎々時間は掛けますが(湖の本)完読し藝の糧にさせて頂いております。厚く御礼」と。有り難いこと。
* 講談社の元役員から、「創刊22年になると知り、持続する志の高さに敬伏するのみです」と。最終章「私語の刻」で、大久保房男さんの『文士と編集者』について書かれたこと、両手を挙げて賛意を表します。ペンクラブ会長が日本文学を代表する『顔』の項の皮肉にはうなずき、大久保さんが『文学の鬼』として会長にふさわしいという所は笑い出し、会長選挙の◎印は名案と思いました」などとも。
* ペンでは、二年目ごとに、理事三十人を会員選挙する。会員名簿に、三十人分「○」印をつけて投票とし、当選した三十人理事で会長を互選してきた。
その互選方式が、なにとやら一種「禅譲」にちかい出来レース風になるのは宜しくない。ペンの会長は日本文学を代表して世界へだす「顔」に等しいのであるから、会員二千人にも、自分ならこの人が会長にふさわしいという「意思表示」の機会だけでも与えるべきだろうとわたしは繰り返し提案してきた。
方法はじつに簡単明瞭。三十人に「○印」をつけて事務局に送るときに、一人だけ「◎印」をつければ済む。但し「会長」という実務に「人気投票」だけではいけないのであり、この「◎」の集計は、理事での互選の際の参考にのみ止め、強制力は持たせないとも「注」をつけてきた。
しかし、理事会ではかつて誰一人としてこれに賛同する人はなかったのである。不思議でならなかった。わたしに向かい「会長になろうという気持ちなら、立候補されたら宜しかろう」などと滑稽な見当違いを言い散らす人までいて、おはなしにならなかった。
* わたしは梅原猛会長の推薦理事として理事会入りした。新会長は、上の三十人のほかに十人の理事を指名推薦できる決まりである。梅原さんはその十人にわたしを加えて新会長に就任された。
氏の顔を潰さないため、わたしは真面目に理事を勤めた。ペンの「ホームページ」をつくり、「電子メディア委員会」を起こし、「ペン電子文藝館」を創設し軌道に乗せた。超少数意見でも、思うところはいつも遠慮無く発言してきた。そして理事六期に及んでいる。が、会員選挙で当選しないときは、二度と「会長推薦の理事」は引き受けないと決めていた。
だれが会長になどなりたいものか。わたしが本音で願うレイタースタイル(晩年)は、宿題の仕残しなど気にしない、気儘な毎日だけ。そこで、途方もない非常識なモノを創りたい。
2008 10・28 85
☆ 届きました~ 昴
ありがとうございます。「湖の本」、届きました。そして、お礼のお返事が遅くなってしまい、申し訳ありません。
冊子小包を母が私に手渡す時、宛先の文字を見て、「達筆だねぇ!」とその一言だけ言いました。暫く小包を眺めてしまいました。もちろん、本の方も、じっくりお読みしています。
学生の頃から鏡花の蛇に対する感覚に興味があったので、ワクワクしながら読み進めています。
後半の方は自然主義になるようなので、学び直す気持ちで読んでいきたいと思います。
末に、恥を晒して申し訳ありませんが…
誰がために染めにし色と問はれけり 頬の凍れる冬の模様に
色があればと思う日々です。 昴
* 我が魂の色をみつめてごらんなさい。昴色をしているはず。
2008 10・28 85
☆ 『文学講演集』御恵送賜わり、ありがとうございました。はじめに「私語の刻」を読み、『三人姉妹』の読み方などに全く共感しました。若い頃 新劇に入れあげていた私としては、ご指摘のことがよく分ります。そして現実認識も(Now,Hereの)。
つづいて『川端康成の深い音』を読みました。ずいぶん、横道の多い、屈折したお話ですが、川端の文体にある体音、体覚の音楽というのも、よく分かりました。チェホフの通底音とは異質な川端の体音にも魅かれます。
ありがとうございました。 歴史学 名誉教授
* よく読んでいただけて。有り難いこと。
☆ 白秋の一じつ、ご著書有り難く拝読いたしました。日頃不勉強の身には一つ一つ身に浸むお話ばかり、特に神話と蛇と鏡花の繋がりは興味深く、僭越ながら共感をもって読み、今後の参考にさせていただこうと一人決めいたしました。
ありがとうございます。 ペン会員
* あれあれと、十月が消えてゆく。いやになるなあ。
2008 10・29 85
☆ おはようございます。 杜
秦先生 御本を送っていただきながら,ご挨拶おくれ失礼しました.
息子は5歳になりました.早いものです.私は変わらずの生活です.
先生のページは読んでいます.「司」くんの意見に反論があります.
また,私は研究とは縁遠い業務に従事していますが,だからか,皆さんの論調で違和感を感ずるところがあります.
私のおかれている状況をそのままお話できれば,少しは説得力も持てようものでしょうが,そうできない込み入った事情があります.
(しがらみではなく,個人的なものとも違います.)
で,具体的な話を濾過して文章を書いてみたところ,味がすっかり抜けてどこかで見たようなモノになってしまい,そのまま日が経っています.
またメールします.ではまた.
* 「杜」くんは、あの討論には加わってこないと予想していました。「杜」くんには、知性と感情との割り切りようのない、「人」たる坩堝がある。それが結局は多くを避けて通る、或いは人の通らない方へ黙って逸れると人から見られやすくて、じつはそんなことなく、「杜」くん風の筋がガンと通っていることになっているのでしょう。
わたしの教室に下見・下聴きに来て、終えたあと、まっすぐ、「ぼくは先生の授業には合わないと思います」と言いに来てくれたの、覚えていますか。しかもその後最も親密にわたしの教室や教授室や家にも来続けてくれて、今日があります。
この出逢いの、謂わば一種言い難い錯綜のなかで、「杜」くんは個性を創ってきた。「創」君と二人で芝居など始めたときもわたしは興味深く二人を「柿」の実のように眺めていました。
わたしは。わたしは「渋柿」かな。
2008 10・29 85
* 世の中が動揺し、金融不安も深まり、先行き消費税アップもあつかましく予告され、景気の刺激どころか、この先どうなるかとみんなが嘆いている。むろんモノは買い控えになる。
「湖の本」もここへ来て、元々深刻なのがもっと深刻、木の葉の枝をはなれるように読者が少しずつ散って行く。ま、百巻まではかつがつ何とかなるであろうけれど、運転資金の回収すら覚束なくなると、厳しい。厳しいのは承知でやっていることだけれども、ああ、時代がこうなって来ていると実感する。
ありがたいことに、2300円の払い込みにかなりの数の人たちが百円、二百円上乗せして送金して下さる。
たいへんなことだなあ、二十数年、百巻にも及ぶものを買い続け読み続けて下さる人が在り続けたというのは。感謝の頭をさげづめで歩いてきた。
* いろんなことをしてきた、今日も。
2008 10・31 85
* 筑紫哲也氏逝去。ジャーナリストのスターであった。コメンテーターをスターの仲間入りさせた魁であり、「時代」への批評・共感と危険発見の触覚を誠実にもちつづけた優なる一人であった。断言しないで、正確な感触で示唆するジャーナリストであったかも知れない。
* ジャーナリズムの世界にわたしはそう間近い存在でなかったけれども、筑紫氏とわたしは、年齢がちかい(わたしが一つ若い)だけでなく、仕事でも深い有り難い縁をもらっている。
氏が「朝日ジャーナル」の名編集長であったことは有名であるが、その時、同誌に『洛東巷談』という「京都」に対する真っ向批評を、ながく連載させてもらっている。
わたしの「京都」批評は、観光京都の紹介や評判でなく、貴賤都鄙の集約された都会に対する「京都以前」から「現代に至る歴史的に根こそぎの批評」ないし非難ですらあった。その線で「日本」を読んで行った。そういう仕事を朝日新聞社は、めぐりあわせというか旨いインターバルで繰り返しさせてくれたが、「朝日ジヤーナル」筑紫編集長時代の『洛東巷談』は、田島征彦氏の痛烈な挿絵もえて、最も心ゆく仕事の一つになった。
筑紫さんとのある日の立ち話で、彼はわたしの連載を、「ああいうふうに行かなくてはね。いいですよ、あれは」とにっこりしてくれた。個人的にはその一度の接触であったけれど、忘れがたい喜びと感謝が、そして深い哀悼が、いま、有る。
連載は、昭和六十年に朝日新聞社から単行本『洛東巷談 京とあした』になり、「湖の本エッセイ⑨⑩」上下巻として今も在る。
2008 11・7 86
* 次の湖の本をあらまし、予定する。内容のある、わたし自身の仕事として気の入った堅いものを纏めたい。
2008 11・8 86
* 家の中を暴力的にでも片づけないと、冬を迎える用意すら出来ない。手書きの生原稿の未整理なのがダンボール箱に何杯もみつかる。山積みにして物置などに入れようならそのまま死んでしまう。出しておけば生きる機会もあるだろうが、こっちの方で生きているかどうか。
湖の本は、入稿原稿を機械でつくり、機械で入稿する。初校ゲラが出て初校し、再校ゲラが出て再校、ときに部分的に念校する。その校正ゲラが残っている。機械で入稿した機械内原稿を、初校と再校・念校ゲラで照合して直しておかないといけないわけだが、その作業がじつはなかなか出来なくて放置される。機械の中で電子化されている湖の本が「未校了」とあるのは、直しゲラとの照合が出来ていない意味である。
湖の本のゲラはA3用紙で出るから嵩が高い。一校で三部ずつ出るから嵩は凄い。しかも実に重い。裏白の不要分を捨ててしまうのは、裏白の紙を貴重品として育ったわたしにはとてもし辛い。半切し気軽なA4用紙としてプリント用に使いたくなる。十分使える。校正ゲラだけは、機械との照合さえ済めば処分出来片づいて行くのに、それに手が出ないで、狭い部屋は漸々層々占領されて行く。手伝いますと言ってくれる人もいるが、バカに嵩高いモノをひっきりなしに郵送しなければならない。
* 本は、書籍は、諦めることにしている。何を諦めるか。片づけることも、処分して図書館などにまわすことも諦めるのである。どっちにしてもモノ凄い肉体労働になる。たちまち腰と胸に傷みが来る。書庫が書庫として機能しないほど通路にまで積んで積んである。体裁よく総ガラスで作った飾り窓も、ただただ山積みの本の置き場にしたまま、倒れたらどうなるか知らない。強い地震の逃げ場としても堅牢に作っておいた書庫だが、大人二人がたとえ逃げ込んでも、中で崩れてくる本の山が痛い凶器になる。ケセラセラ。
2008 11・9 86
* 作家の岩橋邦枝さんに講演録の『色の日本、蛇と世界ほか』を褒めてきてもらった。京都の三好閏三君からも話し言葉が読みやすかったと感想を貰った。難しい話もだれとやら話しかけるように書いて行くと読みやすい。講演するのは好きでないが、話すように書くのは好き。
2008 11・12 86
* たくさん校正した。まだしているが。朝に書いた、おばあさんの針捜し。日の当たる戸外で捜しているおばあさんに、どの辺で無くしたと想うかを聞くと、無くしたのは家の中でという返辞。失せモノ捜しを路上で手伝っていたみなは惘れて、「だったら、なんで家の中を捜さず、こんな外を捜しているんだ」
おばあさんの返辞はこうだった、と。
「みなさんがそんなにお賢いとは想いもよりませんでしたね。それならなぜあなた方はいつも外側ばかり探してるんですか。わたしはただ、あなた方の流儀に従ってみただけですのさ。もしそんなにモノが分かっておいでなら、なんであなた方はわたしにランブを借りてでも内側を探さないんですかね。そこが真っ暗なのをわたしはよく知っていますよ」と。
さ、この返辞に、何を聴けばいいのか。
2008 11・26 86
* ほぼ十二時間、今日は根をつめて一つコトに集中してきた。がんばって、疲れもした。日録に感想を連ねる根気がもう無い。やすみたい。
2008 11・27 86
* 「湖の本」通算第九十七巻を入稿した。日本国がこう弛みきった時にこそと、思いを深くして一巻を編んだ。来年は、わたしたちが上京して五十年の年。「湖の本」百巻が成れば、ほんとうに私たちらしい記念になる。
2008 11・30 86
* 文学講演集入稿時ディスクのうち、最初の四つ分、全体の約半分、を初校済みゲラから校正した。かなり労力がかかる。当然のように校正段階で、入稿時原稿にたくさん手が入る。それをディスクの上でも直しておかないと、いい形での「保存」にならない。しかし厖大な手間と時間がかかる。
「色の日本」についても「蛇と世界」についても、自分で今言える程度までは言っていると感じた。藤村の『破戒』についても、難しいことだが最後に「驢馬の話」を持って来れた。
嘲弄してくる「人」の子等へ、微妙なところだが、あの藤村が藤村流に切り返した「オオ、倅共か、今日は」という「驢馬」の挨拶が利いている。『破戒』のあの丑松から此の驢馬までの藤村の沈思黙考には、重い時間がかかっていると思えた。
さて、まだ半分在る。まだまだ、まだまだあるのだ。
それどころか、弁護士事務所から用事が届いている。印刷所は、もうはや次の本の初校が明日には届くと伝えてきている。このわたしが、食欲がないなどと、夕食の箸を途中で置いていてどうなるか。
2008 12・5 87
* 湖の本表紙絵の城景都氏から、額に入った肉筆原画が送られてきた。表紙装幀の堤さんから例年の信州林檎を戴いた。
2008 12・6 87
* 歯医者はまたわたしの歯を抜いた。十か十一、二からの久しい付き合いであった。帰りに「リオン」で昼食し、保谷からは妻と歩いて帰った。「湖の本」通算九十七巻の初校が届いていた。校正を始めねばならぬ。
2008 12・6 87
* 校正に精を出したい。
2008 12・12 87
* 電車の往き帰りにかなり校正をはかどにらせた。余儀なく電車の中は書斎になる。銀座で地下鉄を降り、地下廊を日比谷へ向かう途中に喫茶ルームがあり、そこでも三十分以上校正できた。あそこは時間の調整と仕事に好都合。帰りも、保谷駅までずうっと校正、校正。
2008 12・12 87
* 今日、なにをして過ごしたろうと思い出せないほど、いろんなことを、ほとんどこだわりなく、していたらしい。小説も書いていた。母の歌集を整理してもいた。「悠」さんの育児日記をよんでもいた。初春歌舞伎座のチラシに見入って嬉しくなっていた。メールも何通も読んだ。寒い階段に座り込んで本の整理もしたような、何も出来なかったような。それなのに家の中では「校正」ができない。校正だけは机が要るが、机のある場所にはテレビがある。人声を聞きながら校正はできない、ただし喫茶店や電車の車内の人声は邪魔にならない、聞こえもしない。
暖かいと外へ出たいのだが、今日は冷え込んだ。天気がいいと寒くても堪えられるが、曇天は好きでない。
* 湖の本エッセイ45の電子化版校正を、紙版の校正ゲラを用いて仕終えた。ちょいと苦労仕事だった。やがて百巻になる湖の本の電子化版を、みなこうして校正しておく(当然そうなくてはならないが。)となると、わたしはそのぶんも長生きしなくてはならんわけか。こりゃこりや。
* 電子化版・湖の本エッセイ45として『文学講演集 色の日本、蛇と世界ほか全八編』を此のウエブに掲載した。何方にもご自由に読んで貰える。表紙そして目次からお入り下さい。
目 次 文学講演集
色の日本 ─日本人の色と色好み─
蛇と世界 ─アジア太平洋ペン会議・差別と文学分科会・演説─
蛇と鏡花 ─水の幻影・泉鏡花の誘いと畏れ─
藤村『破戒』の背後 ─悩ましい実感の意味するもの─
島崎藤村文学と私 ─ペンクラブ、緑陰叢書そして『嵐』─
川端康成の深い音 ─体覚の音楽─
わたくしの谷崎愛 ─いま、谷崎文学を本気で読むために─
お静かに ─漱石そして日本人の久しく美しき自覚─
湖の本の事
私語の刻 この時代に……私の絶望と希望
2008 12・14 87
* 校正ゲラを持って街へ出た。眠気覚ましに池袋駅西口の喫茶店で二倍のエスプレッソを注文し、懸命に校正。それから、ぐるぐる脚まかせ。しかし、今日はすこし旨いモノを食べて帰るのも目的にしていたので、柳通りで洋食を。
前菜、スープ、貝の料理とフィレ肉。デザート、少し残した。ワインの赤。うまかった。
校正も、一応仕上げて。あとは、「要再校」のための調整に明日一日掛け、明後日は。師走の浅草へでも出歩いてこよう。
2008 12・19 87
* 幸いに、「湖の本」新刊、通算九十七巻めの初校を終え、明いた二頁に二つの一頁記事も補充し、あとがき以外の表紙もツキモノも揃えて印刷所に送った。さ、歳末に再校が来るか来ないかは微妙だが、まず順調に運んでいる。
2008 12・20 87
* 暮れの地元の用を、自転車でクルクル走って、みな済ませた。大晦日に池袋へ出て蛤を買い、江古田の「リヨン」に立ち寄って注文の品を持ち帰れば、済む。
今日は、妻を誘って池袋西武に出、京の雑煮味噌を二種類買い、わたしに必要な湖の本用のダイアリーを買い、そして中華料理を思うさま注文して食べてきた。のんびりした。帰りに、家に生けてきたのを補充しようかと、花もすこし買った。
カレンダーも掛け替えた。お飾りもした。妻は新しい湖の本のためのいろんな記帳用の用意に念を入れている。
2008 12・29 87
* さて明日と明後日、成るように成らせて、心穏やかに湖の本新刊作業を前へ進め、すこしばかりは身の回りも片づけよう。
今度の元旦は、たぶん、この五十年でもっとも静かに、久々に夫婦二人だけで迎えるかも知れない。
2008 12・29 87
* 湖の本の「あとがき」を書き上げておいた。
* もう発送作業の用意にとりかかった。どこも片づけていない。この機械部屋は触らない
2008 12・30 87