ぜんぶ秦恒平文学の話

湖の本 2010年

 

* 年賀状でアドレスを逐一照合して確認したり訂正したりしておく。この作業を怠るとあとで困る。かなり手が掛かる。じっと堪え、やってしまう。
平成二十二年正月の手づくり繪で断然美しかった賀状一枚は、作家・川浪春香さんの「娘道成寺」です。
2010 1・3 100

* スキャン原稿の大きな一編を校正し終えた。もう一編用意してあり、さらにもう少し加えて編成したい。小説『花がたみ』の次を考えているが、慌ててし損じたくない。
2010 1・11 100

* 昭和五十二年という年に、わたしは、一人の姉、三人の兄、二人の妹、実父、何人もの伯父伯母やいとこたち、また甥や姪達、また沢山な親族に、せっせと身を働かせ一気に出会った。私的には激動の一年だった。
川崎で父に会い鮨を食ったときも、だが、わたしは終始「取材」と我が身に釘を刺していた。血縁に相違なくても、わたしのいわゆる「身内」という思いは淡かった。
2010 1・11 100

* 寒い、それに強風。

* 夜前、十数冊の本を読んでいったあと、亡兄恒彦の、昭和五十二、三年の書簡三十通ほどを通読した。実の両親に関わる情報も、感想や見解もほとんどゼロだった。
千代姉の手紙では関連の情報が豊富であった。姉の文面は終始日常の実意に満ち、平明な挨拶や同情や共感にのせて具体的に書ける限りの情報をわたしに手渡そうという意図がはっきりしていた。むろんわたしからも尋ねていたのに相違ないが、そのわたしから姉に、どんな問い合わせや消息が行っていたかに関係なくといえるほど、姉の文面には判読に困ずるところがなかった。分かりよかった。
兄の手紙は、なにかしら書き送ったであろうわたしからの手紙に記憶が抜けていて、兄の返信や反応の文面ばかりであるので、とまどうほど、謂われている具体的な中味・情報が判読できない。わかりづらい。送った著書や文章への批評や感想も断片的で飛躍に富んでいて、推測は推測、断定は断定のままあまりに個性的すぎる「恒彦語」で書かれている。情報や状況が書きこまれてても理解が届きにくい。その点物書きでない姉は一般語で平明に具体的に情報を伝えてくれる。兄は私的とすら云える飛躍語で抽象的に語る。おもしろいけれど、わかりづらい。

* 当時、北沢恒彦と秦恒平とが「事情のある実の兄弟」と世間に知れていって、兄の周辺では「兄弟論」が盛んだと兄は伝えている。桑原武夫さんや鶴見俊輔さんらの名前が出てくる。そういう「京都事情」は東京住まいのわたしには見当がつかない。兄弟への好奇心は当然のように「京都で瀰漫」化していたようだが、東京のわたしは、筑摩書房筋からの細い噂しか耳にしていなかった。また我ながら呆れるほどあの当時のわたしは活躍・活動し続け、べらぼうに忙しく過ごしていた。
作家代表団で井上靖さん等と四人組追放直後の中国へ行って帰り、また同じく高橋たか子さんらとソ連へも出かけていた。講演や取材の旅やテレビ・ラジオも頻繁だった。その事では、千代姉や周辺の「血縁」達をかなり楽しませていたらしく、父方の血縁へも同様だったようだ。
兄は、とても、わたしに心遣いしてくれ、いつも親切で、優しかったと思う。娘をはじめ、わたしの家族へも、こまやかに気遣いを必ず手紙に書き込んでいたし、恒(いまの黒川創)のようすなども報せて、わたしの方へ方へ息子を押し出してくれていた。結果、わたしたち夫婦は、兄恒彦よりずっと頻繁に親密に、甥の恒(黒川創)を受け容れていた。

* 兄・北沢恒彦に関しては、ほとんど「何も識らない」のだということを、今にして確かめている気がする。兄が「ベ平連」で大いに活動した人だとは「事典」レベルで知っていても、具体的には何一つ知らないし調べたことも聴いてまわったことも無い。だから彼の莫大なといえるらしい広い人脈に関しても、百の一も知らない。
他の誰とも分かち合うことのない絶対的な事実は、つまり「両親を共にした兄と弟」であることに尽きている。兄弟の出逢いと親愛・協力を、誰よりも生母・ふくが生前に切望し、実父・恒も同じで、兄は、両親の意向に誠実といえるほど自ら身も心も言葉も働かせてわたしに接近してきた。わたしは四十余年ものあいだ、そんなことは希望もしなかった、拒んでさえいた。そういうことが、それぞれに明瞭になってくる。

* その微妙な齟齬に、それと意識はしないまま、兄は、わたしが『四度の瀧』という五十賀の豪華限定本への礼状に、はからずも手強く触れていた「事」が有る。わたしもそれに返事した内容を大方記憶していて、そしてその後まもなく、わたしは「湖の本」の方へ方へといわば文壇から決然「出家」してしまう。わたしの生涯を象徴した大事だったと、今にして更に明瞭にわたしは気付いている。兄の指摘、わたしの意思、あの辺が、ひとつの分水嶺だったなと思う。
顧みて、微妙なポイント、ポイントにおいてわたしをわたし自身にしていたのは、「血縁」であるよりも、はるか鞏固・はるか痛切に「いい読者」をふくむ真の「身内」という考えだった。今も、絶対的にそうだ。
2010 1・13 100

* 手近に、平成七年(1995)四月十六日 朝日新聞読書欄に、平凡社から出た『青春短歌大学』の「著者紹介」として、「秦恒平さん(59)」の大きな笑顔と共に出た記事のコピーがあった。むろんインタビューの記者が書いたものである。わたしはわたしの思うままの教授道を「幸福」に歩いていた。「幸福を追わぬも卑怯のひとつ 大島史洋」という歌が、学生とわたしとのいわば合い言葉になって教室も教授室も働いていた。小谷野さんの案じる「不幸」からは方角違いに逸れていた。学生もそう思っていて呉れたか、その結論は出すのが早かろう。この記事ではとても尽くせていないけれど、『青春短歌大学』はよく売れて、一気に、全国の大学や高校や中学の教室で、また新聞雑誌で、同様の「虫食い詩歌」が教材にされたりクイズにされたりし始めたのも、微笑ものの、思い出。
本は、今は一冊分増補された「湖の本エッセイ」で読めます。

☆ 『青春短歌大学』 著者紹介 秦恒平さん(59) 朝日新聞読書欄
『清経入水】で一九六九年に太宰治賞。以来、独特の文体で王朝文学に通じるような物語を紡いできたが、この三年余、小脱の筆を断っている。「今やっていることに熱中するたちだから」。東京工業大学教授として文学の講座を持つ。「宮仕えは肌に合わない。けれども、これまで疎遠だった理工系の若者たちへの興味にひかれた。そんな大学生活をほうふつさせる長編エッセイだ。
表題の「青春短歌大学」は「学生を退屈させない」試みのひとつ。講義の冒頭、現代短歌を中心に取り上げ、その一部を伏せ字にして、穴埋めをさせる。例えば<ほそぼそと心恃(だの)みに願ふもの地( )などありて時にあはれに-畔上知時>。学生たちは、虫食い部分に適当と考えた漢字一字をあて、注釈をつけなければならない。原作では(位)だが、ほかに所、価、面、道、裁など、いろいろ出る。また、二文字を抜いた<生きているだから逃げては卑怯とぞ( )( )を追わぬも卑怯のひとつ-大島史洋>。原歌では(幸)(福)だが、二兎、卑怯、明日、現在、過去、自分など、「いやはや、多彩」。
本論はむろん、文学の話である。「前期は漱石、後期は谷崎潤一郎。だから、このクイズみたいなのは、つきだし。学生には授業を聴きながら書きなさい、と。一方で私は『こころ』とか『春琴抄』について話す。でも穴埋め問題との関連はあるのです」。
「とにかく純粋テクノロジーの分野の彼らに、自分の言葉を探して培う習慣を持って楽しんでほしかった」という。自分の言葉で自らに問い、答えよ。そのあかしが答案で出席表だ、と。「真剣な自問自答の跡がみえるものは、その瞬間詩人になれていたと思われる回答は、原作とちがっていても、十分に正解。点はあげます」。
一字一語が、短歌の表現を左石する一種の創作体験は歓迎されたようだ。九百九十七人(学年の八割強)が受講を申告した学期もある。一-三年生を対象に講義に臨んだこの三年間に、秦さんの手元には原稿用紙にして二万八千枚もの学生の文章がたまった。文庫本大の一枚一枚の表裏が、米粒みたいな文字で埋まっている。
「【学生が何を考えているのかさっぱり分からない。彼らは自分を語らない】というあきらめの声を教授会で何度も聞いた。私の体験では、それはうそ」。学生の文章に「彼らなりの人生観」を透かし見る。「時に告解を受けてるみたいな印象を持つんです。あるいはディスクジョッキーへの投書かな。たくさんの投書がくる、あれに似てる」 「教師経験なしの私の実り多き無免許運転、小説家のありがたい楽しい道草です」。  (平凡社・一六八〇円)
2010 1・25 100

* いましがた、湖の本の「通算・102」を入稿した。この数日、集中してここへ漕ぎ着けた。興趣の一冊になったと手応えを感じている。
2010 1・25 100

* 最も敬愛するお一人から、『凶器』へ、このようなお手紙を戴いた。

☆ 拝啓 新年のご挨拶も失礼したまま、お詫びの申し上げようもないご無沙汰を重ねております。常にかわらず『湖の本』の御恵投にあずかり、恐縮しております。
『湖の本』が百巻を超え、通し番号の百一巻からの新規のご出発は、お祝いの言葉を申し上げるのも白々しいほどの大きなお仕事と存じますが、それに加えて、そのご出発が『凶器』という、重く厚い内容の作品であったことに圧倒されております。
実は以前から時折、そして赴任生活を始めてからはほぼ定期的に『週刊**』に目を通しており、今回、作中で取り上げておられる記事にも目を通して、心を痛めておりました。
しかし、『凶器』では、「清家次郎」のいわば遺書としての「陳述書」という、私などには思いもよらなかった強烈な形式を編み出され、正月休みに一気に読了いたしました。思えば、それに先立つ『華燭』でなんども漱石の『こころ』への言及があったことからすれば、著者には早くからの構想であったのか、と一人合点をして、納得しようとしている次第です。
裁判に、あるいは司法に、文学で立ち向かうということ、表面的な勝ち負けの争いではなく、物を書くということの根源的なエネルギーを形にして見せる行為、副題にお付けになった 「言論表現」 という行為の究極に近い形が作品に結実しているように感じました。
作品内の文脈から切り離して考えてみますと、裁判という世俗の形を採用しての「飽海」氏の対応も、自覚、意識されない深い深いところでは、「清家次郎」の持つ「言論表現」という力への絶望的な嫉妬と恐れと敗北感の所産であるのかもしれません。
(中略)
寒中くれぐれもご自愛ください。  敬具。
一月二十三日
秦 恒平先生 自署 (名誉教授・研究機構館長)

* この出版に与えられた読者の反応の九割がたを、このお手紙は「総括」して下さっていて、創作者として有り難く、感謝に堪えない。
2010 1・27 100

* 「畜生塚」という早い早い頃の作で、能「羽衣」にふれて「町子」という若い人が感想を述べている。その個所は読者の胸によく届いたとみえ、それが御縁でいまにも親しくしている方がある。
天女は漁師白龍に羽衣を返してと乞い、若者は天人の舞をみたいという。天女は羽衣が無くてはと言い、漁師は返せばそのまま天上するだろうと疑う。
天女は即座に「疑ひは人間にあり。天にいつはり無きものを」と答えると、漁師白龍は「あら恥ずかし」と即座に羽衣を天女の手に戻すのだった。町子は、それに感動すると宏に告げる。日本橋三越に、あのおおきな天女像ができて、二人はそれを観にきたのだった。

* 夜前の読書で志賀直哉の全集を読んでいると、まさしく上の場面、上の感想と、そっくり同じことを書いて、直哉は「羽衣」能のその場面では、泣きたいほどに感動すると、的確に。原稿用紙なら二枚にも足りない観能の感想であった。
直哉を読んでいると、時折このような共感の記事や叙事に遭遇し、感動する。嬉しくなる。

* 「畜生塚」の町子は、三越の天女像造像に「截金きりがね」の技で参加していた師匠の苦心を観に、昔のクラスメートの宏を誘ったのだった。
この町子と、ほぼ同じ道を歩んで、截金の技で国際的に名を馳せながら、若くして海外に客死したのが、人間国宝江里佐代子だった。
江里さんとはクラスメートでなく、わたしよりだいぶ若い同じ高校の後輩であった。この小説をわたしが「新潮」に発表したとき、江里さんはまだ無名だった。双方でなにも知らなかった。小説のモデルでは全然なかったわけだが、後々になって、両方でびっくりしたほど、小説の截金少女は江里さんに似ていた。
わたしは雑誌「美術京都」に、夫君の仏師江里康慧さんと夫人の二人を招いて鼎談し、その後、佐代子さんは選者のわたしの推薦で京都美術文化賞を受賞した。文化財指定は数年後であった。

* 小説のようなことも、やはり此の世にはある。
2010 1・28 100

* この厖大な父手記の類にもやはりザットは目を通しておきたいが、そんな時間が、わたしに与えられているだろうか。
入稿した原稿が。もう明日には初稿組上で届くという。ウーン。マジかよ。
2010 1・28 100

* この正月の「私語」を整えて移すさきは、「ファイル100」。一九九八年三月に「闇に言い置」きはじめて、十三年ちかい。「湖の本」100巻とならんでいる。
「湖の本102」が、早や組み上がってきた。
2010 1・29 100

* ゲラの校正ははかどっているが、近用の眼鏡なく、裸眼で読み続けるのが、やや苦痛。
2010 1・31 100

* 校正、順調にすすめている。進行早いだろう、が、すこし戸外へ持ち出して気分を変えてきたい。関連して少し思案もある。
2010 2・3 101

* ま、いまは「湖102の責了」へ、発送用意へと、地道に手順を踏んで行かねば。「作業禅」の気で、落ち着いて。
2010 2・3 101

* 厚着して出て、往きは汗ばんだが帰りは寒かった。ゆうべに、余り気味のミルクの冷たいのをたっぷり呑んだのが響いて、出がけから腹の中が不穏だった。西武の五階はきれいな手洗いが空いているのを覚えていて、ゆっくり使った。
街と乗り物で校正。池袋に戻るとあいにく西武線に人身事故があり待たされて、七時半に帰宅。持って出ていた亡父のノート一冊も読んできた。胸に穴の剔れる心地である。
2010 2・5 101

* 寒風の吹きすさぶ中、歯医者のあと、脚を青山までのばし、出来ていると連絡のあった「眼鏡」を受け取ってきた。この一週間、不十分な遠用眼鏡が一つしかなく、機械に向かうのも、本やノートや新聞を読むのにも、とても不便で閉口した。
新しい遠用、レンズだけ替えた仕事用、読書用、サングラスと、一度に四つ眼鏡を替えた。保谷眼鏡の近くで街履きのラフな靴を二足買った。
強い寒風、空は爽快な晴れ。ノッコノッコと歩いて行ってきた。

* 帰り、原宿駅前までタクシーをつかい、「南国酒家」で中華料理を楽しんだ。多年のうち、ときどき、この店をつかう。店の空気も気に入っているのだ、いいメニュで満足させる。紹興酒もよかった。大きい月餅を三つ買ってきた。
歯医者から、靴屋から、保谷眼鏡から、南国酒家から、帰宅まで、ずうっと校正をつづけていた。それにしても、冷えた。

* ゆうべも、二時頃まで。本を読み、父の遺していたノートを読んだり。
冷え込む一夜で、煖房が消せなかった。糖尿のセイらしい、足先が氷の用に冷え切って痛いほどだったり、カッカと熱く火照ったりする。きのうは、右も左もときどき脚が攣って、堪えてはやり過ごしていた。症状のおさめかたをやっと覚え、以前のようには攣るのを懼れていないが、自転車の時は怖い。

* 今晩は、食事をおさえた。校正の仕上げをほぼ果たした。発送用意をあらかじめ早めにしておかないと、ゲラの進行に追いまくられてしまう。
2010 2・6 101

☆ 湖へ 珠
お元気ですか。ご無沙汰しています。
立春の頃になって雪が降り、身を切るような風の寒い毎日です、ね。
年明けて、新春を初釜で味わいながら、あっという間に日常です。
今年は「湖の本」を少しずつですが整えてゆきたいと思っています。
今回は、まず以下「湖の本」をお送り頂きたく、お忙しいところお手数ですが、どうぞよろしくお願い致します。
創作シリーズ
1 清経入水
3 秘色
4 糸瓜と木魚
6 廬山・華厳・マウドガリヤーヤナの旅
11 畜生塚・初恋
12 閨秀・絵巻
13 春蚓秋蛇
エッセイシリーズ
1 蘇我殿幻想・消えたかタケル
3  手さぐり日本
以上9冊です。私語から印刷したりして拝読していたのですが、ふと気になったときに近く手に取れるように、やはり「湖の本」として手元に置きたいと思います。なかでも「糸瓜と木魚」は、昨年来、子規について友といろいろ話していたので待ち遠しいです。
ただ私のこと、急ぎではありませんので、くれぐれも体調次第に、お願いします。
仕事では、新年明けて少しインフルエンザも減ってきたかな…と思うと立て続けに…という有様なので、終熄を願いながら淡々と過ごす毎日です。私は、更年期というとどうも悪い表現に使われるようですが、更に年を重ねるための時期と解釈して、変化するからだの軋みをじっくりと味わっています。からだの様々な箇所から、日々小さなメンテナンスを要求する気配を感じます。バランスを保ってからだを操縦することは、今までに増して手のかかる仕事になると実感。
だからでしょうか、
‘老’のもたらす状態を受け容れ更に…と元気に生きる年上の方々に、頭の下がる想い一入です。
亡くなった祖母がよく口にした、「60には60の、70には70の、その歳にならなけりゃ分からんことがあるよ」という言葉を思い出します。その歳になった人にしか分からないこと、そういう小説も読んでみたいと思います。
春も近し、ですが、くれぐれも温かく、ご自愛下さいね。
私語の刻に日々を追い重ねて、祈っています。
どうぞお大事に。湖。気をつけて。   珠

* 感謝、感謝。 湖
2010 2・7 101

* 初校を印刷所へ戻した。こう書けば簡単だが、本一冊分を二百頁ちかくにわたり句読点一つ、難漢字一字に到るまで結着を付け、改行・改頁や、一行アキや、行のオイコミ等々の結着を確認して送り出すので、かなりの作業量がある。文字を読んで校正している方があるいはラクである。想えば人生の大半を類似の作業をしながら過ごしてきたなあと思う。

* そして今月はまた法廷がある。
2010 2・8 101

* 「あとがき」の初稿を、うんうん云いながら、とにかく、書いた。入稿までにもう一度二度読み直し、粗忽無く、書き上げたい。きょときょとその辺を見廻してみて、今日一日、これにだけかかっていたんだと、惘れ気味に納得したところ。軽い仕事ではなかった。
2010 2・9 101

* 不可欠のこまかな煩雑用をおおかた終えて、三月上旬の「湖102」新刊は、まず可能になった。
2010 2・12 101

* 注文されていた九冊の湖の本に、全部識語と宛名署名して、漸く送れた。こんなに遅れた一因は、なにしろ百冊に余る既刊分を押し入れに小出ししてやみくもに積んである、そういう幾重もの山積みから、目指す第何巻を一冊ずつ見つけ出すのがなかなか大変なので。この頃は目が見えなくて、メガネも幾つもかけ直さないと背表紙の字や巻数字が読めない。それでも無事に送りだせ、ほっとした。注文はどんどん来て欲しい。
待ちわびたか、チョコレートと甘酒とが送られてきた。恐縮して頂戴した。

* 発送の用意と、父遺文への付き合いと、で寒々とした一日が終える。ずっしり疲れている。
2010 2・15 101

* 湖102の再校が出そろい、また、メガネの直しが出来ていると通知があった。メガネ屋は明日が休みの日。校正をもち、午後出かけよう。
2010 2・17 101

* なにも考えない。目の前の仕事をきちんと。

* 小谷野敦氏の本に、光明皇后、孝謙・称徳天皇、恵美押勝らを書いた本がずいぶん遅くまで出なかったと、人の本が紹介されていた。わたしは七十四年に新潮社から、新鋭書き下ろし作品として『みごもりの湖』を書いている。わたしの知る限り、それより早く、この辺を専ら書いたすぐれた歴史小説は知らない。
ただ私のは例によって、千何百年の時空を越えた現代の物語と古代の悲劇との、かなり激しい一元小説。泉鏡花賞候補として最有力視されながら森茉莉さんに先を越されたが、読み比べれば分かる。「名作」といわれ、いまでも代表作の一に挙げてくれる読者が多い。久しく読み返したことがないなあ。
そういえば、わたし、あまり人の知らない書かない歴史的な素材を書いてきた。大目健連の「マウドガリヤーヤナの旅」 恵遠法師の「廬山」 白詩の「或る折臂翁」 赤猪子の「三輪山」 常陸風土記の「四度の瀧」 蛇の「冬祭り」 十市皇女らと壬申の乱の「秘色」 「なよたけのかぐやひめ」 道風や大輔の「秋萩帖」 紫式部の「加賀少納言」 源典侍の「ある雲隠れ考」 待賢門院や西行らの「絵巻」 平家の公達「清経入水」 建礼門院等の「風の奏で」 兼好の恋の「慈子」 明清革命の「華厳」 松屋肩付の「鷺」 源資時女の「初恋」 明智の浪人「懸想猿」 シドツチと白石の「親指のマリア」 最上徳内らの「北の時代」 好色蕪村の「あやつり春風馬堤曲」 上田秋成の「けい子」 子規と浅井忠の「糸瓜と木魚」 祇園井得と上村松園の「閨秀」 国画創作協会と村上華岳らの「墨牡丹」等々。
あまり他の書き手の手を出していなかった畑で、入念な造りを「実験」してみるのが、文学作家わたしの、作柄。
はやくに文壇や出版界から気儘に「出家」したので、自分で云わないと、よほど愛読者以外に大勢の人は知ってくれません。それで、ときどき自前で喋るわけです。みな、ちゃんとした版元からちゃんとした本で出た作品で、きっちり美しく書いているつもりです。許されよ。
2010 2・19 101

* 仕事しながら藤田まことの最新の「剣客商売」と、映画「明日への遺言」を耳に聴いていた。惜しみて余りある。

* つねだと、校了する際に、この進度は此処までは来ていないといけないという迄を、今日の内に通過した。校正はまだ当分日数を必要としている。
その一方、父の遺文は重く、テキパキとは整理が附かない。
昭和三十年頃から四十八年までに、仔細に読み取ると、三度も、わたしの見る限り理不尽なほど身柄拘束的な入院を強いられている。なぜだろう。誰が、どういう理由で敢えてしたのか、できたのか。やっと成人したばかりの二人の娘に出来たとは思いにくい。
名文とは云わないが、厖大量の父の行文は、文字はこっちが恥ずかしいほど正しく美しいし、行文は理性的・思索的で、説得力に満ちているとは云わないけれど、理路はそれなりに立っていて、支離滅裂なところは無い。一時的に「躁」に走る気味があったのかどうか、むしろ癇癪持ちであったのか、だが概して紳士の域をはみ出ていない。はみ出せないタチだからかえって爆発はあるのかも知れぬが。サンタンたる紳士。どうもそういう印象が大ハズレとは思えないでいる。
2010 2・19 101

* 「湖の本」の入稿や校正往来等も、すべてパソコンで、そしてメールファイル等で可能になってからは、ウソのように万事スピーデイで間違い少なく、安全に進行する。頁数少なくてどうしても入稿から刊行まで三ヶ月はかかった作業が、その気なら半分で出来る。
昔の印刷所といえば、裸電球の下で、文選から植字・下版まで繪に描いたような煩雑な手仕事の工場であったが、今は職人さんの銘々がパソコンを机に、職場がじつにすっきり機械的に明るい。
2010 2・20 101

* 二月が、三日もいつもより少ない・短いのを計算し忘れていて、すこし、責了作業、アワを食っている。一つには頁は決してむちゃに多くないのに、内容がぎっしりで、再校の「読み」に時間がかかっている。その時時にリキを入れて書いていた原稿を読み直すのが、おもしろくもあるが、けっこうな力わざで。煽られている。「読み」に集中しなくては。
2010 2・21 101

* 今度の本は実質的に「盛り沢山」で、再校ゲラを読み進むうち、ふうッと満腹してくる。大盃になみなみと酒をつがれて、「ある、ある」と声を上げるあんな感じ。速度に身を載せ、書きに書いていた時期の筆致でもある。
2010 2・22 101

* 疲れか肩凝りか、歯が浮いている。今日は歯医者の日。女先生の眼下で阿呆口をあいて、観念してくる。

* 絶好のお天気。これが嬉しい。
歯医者の帰り、妻とバスを一駅歩いて、真言宗の東福寺という徳川吉宗鷹狩りの膳所でもあったらしいお寺をのぞいてきた。それから「リオン」に寄り、ゆっくり昼食。食事もワインもデザートも旨かった。
江古田の銀行から、歌舞伎などの観劇料金をみな支払い済みにしてきた。三月、四月、楽しみ。

* 湖の本の校正をはかどらせ、また、亡実父のくわしい遺文目録を仕上げた。相変わらず歯が浮いている。今日こそ早めに寝ようとと思うが、もう十一時。
此処へ書いているヒマがなく、もっぱら「mixi」に久しい「私語」のエッセンスを抜き書きしている。「足あと」が、足ばやにどんどん増えて行く。
2010 2・23 101

* さて、校了への最後のふんばりへ、機械の前から離れる。

* あとがきを残して、表紙以下全頁を責了にし終えた。残る発送用意を、大学・短大・進学高校への寄贈を含めて着実に進めたい。
2010 2・24 101

* 跋文も、責了便で送った。発送の用意を万全に近づけたい。大丈夫。
2010 2・25 101

* また一段落して、すぐ次の手作業へ移動する。

* 肩がきつく張っている。今晩はすこしラクをしたい。
2010 2・27 101

* 妻の留守番にまわり、終日、作業にうちこむ。能率良し。映画「インデペンデンスデイ」を面白く観た。三組の男女愛や親子愛を巧みに綯い交ぜて、破天荒のSFドラマニ仕立てていたのが成功していた。ウイル・スミスらのサッパリとした好演が利いた
2010 2・28 101

* 明日に本が出来て届いても、送り出すべき大方が送れるところまで用意した、が、わたしの気持ちとしては、まだ半分。いつもの気の重たい仕事が残っている。

* わたしは、実の父からも生みの母からも手紙を受け取っていない。母からは一通有ったかもしれない。父にはわたしはやや重苦しい相手であったらしい、父は、わたしの妻に宛てて手紙を三通書いていた。
奈良にいた頃の母に関して、母と御縁のあったドクターから、都合四通の、「母」を語ってくれている手紙をわたしは貰っている。堅い記憶の所が語られていて、有り難い。母の人柄や性格や対人関係にも率直に触れられていて、有り難い。
父の手紙も、岡谷実医師の手紙も書き写して機械に保管した。

* まだ読まねばならない母方、父方からの書簡類が、諸方から沢山届いている。おおかた、わたしから問い合わせたのへの返信であり、適切な問い合わせ先を把握するのにも苦労した。
その点でも上の岡谷医師は親切で、何人もの人の名と住所とを教えてもらっている。
わたしのような仕事の者には、人の名と住所とはどんなときも「お宝」で、うかとも捨てたり廃棄したりしない。思えば、通信のあった「読者の住所録」が手もとに無かったら、「湖の本」の刊行など方途をもたなかった。ありがたい「いい読者」たちの住所が真実頼りで肇められた「仕事」であった。何冊も何冊も、上京以来半世紀を過ぎても住所録をわたしは捨てていない。名刺も捨てていない。手紙もメールも捨てていない。そこにわたしの「歴史」が籠もっているからだ。無用の過去ではない、それもまた現在「いま・ここ」のわたしに関わってわたしの「仕事」を刺戟しうるからだ。
「歴史」とは「いま・ここ」のアマルガムである。
2010 3・2 102

* 晴れて明るい。
夜前そして今朝、作業しながらステイーブン・セガールの三流映画二本を観るともなく「聴いて」いた。セガールの顔に馴染めない。ときにマシな映画があり、ハートのある俳優だと思っているが、昨日今日のはつまらない。ただ、馴染みのない印象的な女優が一人ずつ(アグニェシュカ・バグネル、アンナ・ルイーズ・プローマン)出ていた。それだけでも映画は観ていられる。映像の誘惑だ。発送の用意、またかなり進んだ。

2010 3・3 102

* さきがけの発送分『からだ言葉の日本』『こころ言葉の日本』を夕食後に、用意した。大学研究室、短大、進学高校へ既刊のものを寄贈しつづけている、その一部が用意できた。
2010 3・3 102

* 亡兄・北沢恒彦の、受験浪人の頃に生母・阿部福に宛てたやや長い封書の二通、また昭和五十三年にわたしに呉れていた原稿用紙五枚もの書簡を、書き写していた。同じ頃の封書とハガキが、もう一通ずつ見付かっている。
さらには遡って、昭和四十年元旦日付の年賀状があるのは、あるいは一等早い時期にわたしに呉れたハガキではないか。兄は京都左京区吉田から発信し、わたしはまだ北多摩郡保谷町山合2275の医学書院社宅時代。前年十一月末に、第一冊目の私家版『畜生塚 此の世』を、わたしから、初めて兄宛に贈呈したのへの禮だった。懐かしや、よく見れば徳力富吉郎描く木版画「先斗町」の繪で。下に、(中略)とした個所には、意味深長な記事が、問わず語りに入っている。
ここにいう小説『畜生塚』は、後に「新潮」に発表し、単行本にも収めてあるものの三倍近いほど量がある。「新潮」編集部は最初からこの作品を認めてくれていて、それだけにまた、わたしは徹底的に推敲し、そんなにもと思われるほど短く刈り上げて公表したのだった。兄の批評が頭にあったかは記憶にないが、名人級の編集者小嶋喜久江さんの鞭撻を素直に受け容れつつ、また自発的に推敲に推敲したのだった。
想えば太宰賞の決定していた『清経入水』も「展望」掲載前の一夜を利して、徹底的に推敲させてもらった。その「校異」は、原善君が作製してくれて、「湖の本」創刊第一巻に入れてある。『畜生塚』も『斎王譜(=慈子)』も、それ以上の推敲で削ぎに削いで姿を整えてあり、「校異」も遺しておきたいなと思うようになっている、が。

☆ 秦 恒平様 年賀 昭和四十年元旦  北沢恒彦
「畜生塚、此の世」ありがとう。 (中略)
「畜生塚」の書簡の部分は圧倒的でした。 作者があまり生の顔を出す部分は感心しませんでした。私の雑文を別郵にてお送りします。
2010 3・7 102

* 湖の本新刊「102」は、十一日午前中に届くと知らせがあった。心ゆく発送のできますように。
2010 3・8 102

* 明後日からは本の発送。その前に楽しんでくる。
2010 3・9 102

* 座席まで、高麗屋の奥さんが笑顔で挨拶に見え、それもいつもながら楽しい気の弾みであった。昨日でなくてよかったですかわと。昨日は終日寒い雨と雪であった。今日は寒さもゆるみ、傘いらず。「茜屋」の珈琲もうまかった。

* さ、明日から、新刊の発送。こんやは、もう休もう。
2010 3・10 102

* 晴れやか。有り難し。
八時半に、刷りだしの一部抜き届き、九時前に出来本、搬入。すぐ、作業にかかる。

* 能率良く、二度集荷に来てくれたので、夕刻までに思いの外はかどった。ありがたい。
2010 3・11 102

* 夜九時半、ともあれ今日の作業を切り上げた。よく働いた。
2010 3・11 102

* 段取りよく。発送作業は、もう夕過ぎて、今晩の内に、先が見えてくる。重い本の荷を扱う筋肉労働で、腰の痛みは必至だが、凌いで凌いで済ませて行く。
昨日の夜中、一時間余りきつい腹痛に呻いた。温かい湯と、胃薬と痛み止めで凌いだが、労働が響き、またなにかしら腹が冷え込んだか。一時間ほどの苦悶のあと、緩むように痛みが退いていってくれた。今夜も用心しないと。

* 九時。今日も奮闘。ぎっくり腰気味の妻も、よく働いてくれた。感謝。もう読者のもとへ、届き始めている。

* 今日は、もう、なにも出来ない。明日から、まだ仕残しの大事な作業を一踏ん張りしないと。
2010 3・12 102

☆ 湖の本ありがとうございました。  波
ミモザの花が金色に光り、春の訪れを感じます。
このたびは『宗遠、茶を語る』をお送りいただきまして、本当にありがとうございました。
「一期一会」「かなひたがるは悪しし」
改めて心に置きながら、ゆっくり読み進めています。
わたくしのほうは、相変わらず仕事が忙しく、特に人事の関連に心騒ぐことの多い毎日です。
いつ どのようにして 後継者にわたすか、あるいは M&A という形で より大きい企業に譲るか、考えなければならないときになりました。
財をなしたわけでもなく、日々を不自由ない程度に過ごしています。
お体のお具合はいかがでしょうか?
心静かに、日々過ごされますよう心からお祈りいたします。

☆ 湖の本 ありがとうございます。  晴
102号 金曜日に届きました。早々に送って頂きありがとうございます。
以前の厚い封筒の包装で送って頂き、ご本美しく届きました。
厚いので、たくさんの部数で重さがお身体にこたえておられるのではないかと案じています。
土曜日曜と外出いたしましたので、早速持って出かけました。
狭くて雑駁な大江戸線の中でも心静かにお茶の世界を、心を覗かせていただくことが出来ました。
まだまだ全部は読み通せていないのですが、私は以前から「一座建立」の言葉が腑に落ちると申しますか、納得がいく言葉でした。その場に居合わせる者としての配慮が必要なのではないかと、ちょっとしゃちほこばって思っていました。
ご本の「言葉あり」の章で、「独坐観念」の言葉を書かれていました。
『一会の茶事は、終てた。
亭主は自服の茶に、静かに静かに深まる時のうつろいを味わう。至淳の「時」である。主と客とが一座を建立してあればこそ、そののちの「独坐観念」の充実が光ってくる。』
そして私語の刻で、
『惜しみ、愛しみ、そして愛しみ哀しみ「寂」へ極まってゆく、なごりの美。』
を読み、命のなごりを思いました。
どうかして、充実した「独坐観念」の一服がもてますように。
読み方がまだまだ不十分ですが、しばらくそばに置いて読み返したく思っています。
先週は京都の行き返りに『絵巻』を読ませていただいていました。ありがとうございました
気候の変わり目です。どうぞどうぞ迪子様もともにお身体お大切にお労わりお過ごし下さい。
2010 3・14 102

☆ ちらほらと早咲きの桜の便りが聞かれる頃となりました。
「湖の本」届きました。
いつもありがとうございます。
お身体のお具合はいかがですか。
発送などのお疲れなど出ませんよう願っています。
お茶のこと、大変興味深くて、楽しみに読ませて頂きます。
奥様共々、お身体お大切にお過ごしくださいますよう。  京 のばら

* 重い、やや重苦しい仕事が続いていたので、茶の道の二冊目を取り纏め、すこし息を入れて頂くことにした。

* 湖の本102『宗遠、茶を語る』 跋「私語の刻」より

年賀状をたくさん頂戴しながら、今年は失礼した。例年、元旦を迎えるとすぐ電子メールで数百もの方に送り出していた「同報」の年賀状もとりやめた。旧臘、単にホームページの日録にこう書き出すにとどめた。

百福具臻  平成二十一年(2009) 大晦日
當寅歳のご平安を祈ります。    秦 恒平・七十四叟
来る年を迎へに立てば底やみにまぼろしの橋を踏みてあしおと
歳といふ奇妙の友の手をひきて渡るこの橋に彼岸はあるか

さて。今回、たいそうな表題を置いたが、「宗遠=そうえん」は、裏千家十四代淡々斎宗匠より頂戴した私の「茶名」で。「遠」は、慣例を践んで私から願い出た一字。老子「有物混成章第二十五」に、「道」を名付けて大、逝、遠、反としてあるのから撰した。「物有リ混成ス。天地ニ先ンデテ生ズ。寂タリ寥タリ。独リ立チ而モ改メズ、周行シテ殆(あやう)カラズ、以テ天下ノ母タルベシ。吾レ其ノ名ヲ知ラズ、字(なづ)ケテ道と曰(い)フ。強ヒテ之ガ名ヲ為(つく) ツテ大ト曰ヒ、大ヲ逝ト曰ヒ、逝ヲ遠ト曰ヒ、遠ヲ反ト曰フ。故ニ道ハ大。天モ大なり、地モ大ナリ、王モ亦大ナリ。域中ニ四大有リ而シテ王ハ一ニ處(を) ル。人ハ地ニ法(のつ)トリ、地ハ天ニ法トリ、天ハ道ニ法トリ、道ハ自然ニ法トル」と。
「入門必携」記載のわが茶歴によると、昭和三十一年(1956)三月一日に「茶名」と「準教授」の許しを得ている。二十歳にまだ間があり、大学二年生を終える頃に当たっている。「必携」巻頭には淡々斎の手蹟で「わけいればこころの奥に月ぞすむまことの道を得とれ人々」とあり、茶道裏千家淡交会・会員證には「終身会員」と証されている
裏千家の出している雑誌「淡交」に『茶ノ道廃ルベシ』を連載したのは二十年後、昭和五十一年(1976)。北洋社で本になりよく読まれて版もずんずん重ねたが、講談社が引き継ぐとすぐ絶版になった。いまは「湖の本エッセイ」十八年前の第四巻に収録、とぎれなく今もよく読まれている。
小説にも、茶の場面はいろいろに書いてきた。特色の一つのように思って下さる読者も少なくないので、ひさしぶりに『宗遠、茶を語る』の題で許して頂こうと思う。説明不用、発語・発言にほぼ一貫した流れを汲んで頂ける。先の『茶ノ道廃ルベシ』と合わせ、私の「茶への思い」はほぼ纏まったと思う。「まことの道」を得たなどと言挙げはしかねるが、率直に語っている。

茶の湯は、叔母・秦宗陽に習った。裏千家教授であった。正式に裏千家に「入門」したのは記録によれば昭和二十七年三月とあり高校二年生直前だが、小学校六年生ころから習い始めており、中学三年では学校の茶道部で万端部員の稽古を見ていた。高校でも茶道部を創って、最初から私が指導した。茶会もした。学校に来客があると、茶室や、校長室の立礼(りゅうれい)の設えを用い、茶をたててもてなした。京都市立日吉ヶ丘高校には「雲岫(うんしゅう)」席という設計も命名もりっぱな茶室が広い和室の一角に造られていて、さながら自室のように私は親しんだ。卒業後も、頼まれて指導に通った。家では、叔母の稽古場で、早くからずうっと代稽古にも励んだ。当時の生徒や叔母の社中さんたちと、大勢、いまも親しくしている。
叔母ツルは、加えて御幸(みゆき)遠州流生け花の師範もしていた。茶名は宗陽、花名を玉月。なんと大らかな佳い名であったろう。玉月…。この名受け嗣いで、このさき、玉月宗遠の境涯にいたいといま私は願っている。
生け花師匠である叔母の身の回りには、稽古花とはいえ四季おりおりの花が咲いていた。半世紀もの先生稼業で、茶道具も花器も所持していた。釜や、書や繪の軸もの、陶磁器・漆器・蒔絵はじめ、木や竹や金の工藝など、叔母は私が諸道具にしたしく手を触れるのを放任同様許してくれていた。この感化は大きかった。
もう一つ、父・秦長治郎が観世流の謡曲をよくした。素人ながら時には師匠の命で大江能楽堂地謡の前列に並んでいたりした。父の謡は、私が幼な思いに胸に抱いた「美しいもの」の豊かな一つであった。流儀の稽古本に出ている曲の梗概は、私が潜った古典世界への貴重な入り口の一つだった。茶の湯とちがい途中で棒は折ったけれど、それでも「鶴亀」「東北(とうぼく)」「花筐(はながたみ)」の三曲を父の口うつしに教わっている。謡曲、仕舞、能。そして茶の湯。私の「中世」好きは、わりと自然に培われていた。

順不同で恐れ入るが、一つ、「竹取翁なごりの茶をたつる記(ふみ)」を此処へ再録したのを、お断りしたい。
「なごり」と謂えば「つきない」「はてしない」と、演歌はせつせつと歌った。だが「なごり」は、余波にせよ、余韻にせよ、余情にせよ、つまりは尽きも果てもする。これが最後という意味もある。ただし尽きて果てて、なにも残らないというのではない。「なごり」には、これが形見という意味合いもあり、ものの譬えにも「口切り」このかたの茶壺がもう残り少ない、惜しい…という愛着の気持ちは、強調すれば「いと愛(惜)しさ」となる。それでも所詮は尽きて果てて、愛惜の思いが清いけむりのように残る。
もし天来のかぐやひめが、帝を正客に、竹取の翁らを客に、月かげを負うて「なごり」の茶をすすめに来るとあらば、どんな茶になるだろう。そんなことをよく想像した。あるいは須磨の浦へ、みずから身をさすらわせる決意の光君に、都にのこる紫上がもちまえの優しさで「なごり」の茶を夫にすすめるとあらば、どんな場になるだろう。
足柄の山中、天に澄みのぼる遊女の清い歌声に聞き惚れながら篝火のもとで、もし、更級日記の著者が「なごり」の茶をたてていたなら…。永久(とわ)の別れを胸にひめて、南へ北へ、流されゆく師の御坊法然と弟子親鸞との最期の場が「なごり」の茶であったのなら…。日野の草庵で、深み行く秋と鳥獣とを客に、方丈記の著者が「なごり」の一碗をたてているとしたら…。
そのような「もしも」ならば、湧くように、私の脳裏を幾場面もが去来した。茶の湯という「かたち」がまだ生まれない前にも、「茶」のある人の世が、春夏秋冬、まぎれなく実在していたと思う。そして必然、茶の湯は生まれたのであると。
惜しみ愛(いと)しみ、そして愛(お)しみ哀しみ、「寂」へ極まってゆく、なごりの美。この寂の境涯を、どう趣向しどう表現するか。より寂しくか、むしろ華やかにか、で、「なごりの茶」は左右される。避けがたい季のかわりめを、風情のとじめと読むかはじめと読みとるか、どんな主と客とでその思いを分けあうのか、で、決まってくる。
「なごり」とは、なにかとの別れに耐える思いだが、「別れ」を「分かれ」と想ってみるゆとりがあれば、そのまま、新たな出逢いを予感する気の弾みにも近いであろう。「惜しむ」にも「愛しむ」にも、いつもその両面がほの見えていればこそ、「なごり」は、いかにも人を優しく美しくする。
「なさけ」は「かける」でも「かけられる」でもない。「なさけ」は「知る」ものであることを、「なごりの茶」とかぎらず常平生創造したいものだと思ってきた。そういう気持ちで、再録を敢えてした。

話題を急に逸らせるが、少し苦しい告白とお願いを今回はしなければならない。
この「湖の本」出版という仕事が、支障なく二十四年つづいて通算百巻を遂げ、さらに百一巻も既に刊行できたのは私には言い尽くせぬ有り難いことであったが、言い替えれば、そんなにも長期、そんなにも沢山の「湖の本」に、読者は付き合い支援してくださったのである。出版史上、一人の作家の私的なかかる敢為に、かかる緊密な読者の支援は稀有で、類例はまず無い話である。どういう差し障りでかこれに真直ぐ触れて謂う人はいないが、個々には「継続の力」にしんから驚いて応援してくださっている。
さはさりながら、「百ないし百一」という大きな「通過点」で、さすがに読者の数は減った。「もういいでしょう」ということだろう、むろん「もっともっと続けるように」といって下さる人は遙かに数多く感謝にたえない、だが、維持はさらに苦しくなる。
思い出す、四半世紀前創刊の『清経入水』初版は、総頁が百八頁、千三百円だった。通算第百巻の『濯鱗清流』下巻は二百頁、二千三百円、百一巻『凶器』は三倍大の三百十六頁、臨時に二千八百円頂戴した。このところの一冊平均頁は百八十頁ほどで、今回も百八十四頁。以前は簡単に「分冊」していたのを、なんとか「一冊」で編輯し、読者の負担を無用に増やすまいと努めてきたのである。お察し頂けるように、甚だしい値上げは避け、むしろ内輪にお願いしてきたつもり。参考までにA5版9ポ46×20組の百八十四頁は、当節では市販単行本の一冊半に当たるほど、随分と容量多いのである。
それでも、やはり「百」代以降の出版維持はラクでない。ラクをしたい気は毛頭ないが、しかし大きな出血の儘ではこの仕事自体が却って高慢で悲愴なものになってしまう。そういう無理な姿勢は避けたい。で、このところの頒価にどうか二百円載せ、「一冊・二千五百円」を許して頂きたい。
読者のお一人が、もうお一人ずつ有難い「いい読者」をご紹介頂ければ、苦境はたちまちに免れる。維持できて刊行が続けられるなら私の願いはそれで足りる。蔵を建てる気など全く無い。 (以下略)
2010 3・15 102

☆ 春めいて来ました。  沙
「湖の本」102 宗遠、茶を語る。ひさしぶりに身構えることなく読みました。息を楽に、安心して。
ところで表紙は、101だけ特別なのでしたっけ。
年相応ていどに元気ですが、記憶に自信がなくて、それを認めてますます自信がなくなって、こわいです。

* 101は変わり映えも求めて表紙繪を思い切り換えたが、これからは、小説とエッセイとか、批評と小説とか、いろいろにバラエティをつけて行きたく、内容次第で在来の三種類の表紙を取り替え取り替えして行きます。あの大胆なヌードで『宗遠、茶を語る』となると、人様を驚かせすぎるかもと。
物忘れは日々イヤほど体験している。今の今そう書こうと頭にあった人の氏名が、次の瞬間には出てこない。そんなこと、しょっちゅう。それをどれほどの時間掛けてまた思い出せるかを、ゲームのように追いかけている。
相応に老人になっているわけだと、物忘れしても、目が霞んでも、腰が痛くても、順調に年よりらしくなっているんだと、むしろ、受け容れている。怖がっていては、やってられません、老人など。
2010 3・15 102

☆ 湖の本  杏
昨夜の飛行機の機長のお名前は秦さんでした。帰宅して、ポストに湖の新刊無事届いておりました。
今回も大冊です。大変な作業でいらっしゃいましたね。
せっかくの新刊ですのに、手にしてみますと、ふと、あと何冊湖の本の新刊を読ませていただけるのだろうかと、ひどく悲しくなりました。
作品はまだまだたくさんおありなのは承知していますが、お眼の負担、書物の持ち運びの重労働をいつまでお続けになれるだろうかと案じます。読者の希望とご健康を天秤にかければ答は自明のこと。
ことに百号を越えての一冊一冊は以前にもまして、貴重なものに思われます。ご本を手にしているだけで、指先からみづうみのお覚悟と焔の気迫が伝わるように感じます。命を削るようにして届いた一冊、あだやおろそかには読めません。抱きしめ永く愛しんで読ませていただきます。ありがとうございました。
このようなことを申し上げてよいのかと迷いつつ、どうぞ茶寿、皇寿の「湖の本」のお祝いをさせていただけますようお祈りしています。
「百福具臻」 読み方と意味をお教えいただけますか。同じような方がいらっしゃるのではと、代表して質問させていただきました。
お元気ですか、みづうみ。ずっとお元気でありますように。
花粉の季節をしのいでお過ごしくださいませ。

* 仕事と健康とが、必ずしも均衡するとはいえず、併走は容易でないが、なにをしても容易なことなどもう一つもない。成ることを、成すだけ。

* 百福具臻 ひゃくふく つぶさにいたる と訓んでいる。漢の文帝や孔子ら古聖賢の遺訓に服して行うなら、という前文・前提はあるが、それはそれとして祝儀・祝言・祈願の文句として流用したまで。
2010 3・16 102

☆ 『宗遠、茶を語る』を嬉しく拝受いたしました。早くに夫を失った母は茶と花を教えて五人の子供を育ててくれました。母が生きていれば読ませたかった本です。
『湖の本』第二世紀、これからも長い道が続いています。呉々もお身体お大切に。3/15 和 ペンクラブ会員

☆ 寒暖の差の激しい昨今ですが ご体調いかがでしょうか。
いつも 湖の本、楽しみに拝読致しております。
今回「代金すでに頂戴しております。次回 預り金あります」とのお知らせでしたが、そんなはずはありません。過日ご送金申し上げたのは「100冊」お祝いのささやかなしるしです。 大変ご面倒とは存じますが そのように会計処理していただければ ありがたく存じます。 したがいまして今回(102冊目) 分は近日中に振込させていただきますのでご了承下さい。
どうかこれからもご健筆を。  大学学長

* 冥利に尽きる。感謝。
2010 3・16 102

* 真っ直ぐ帰ってきた。新刊の湖の本へ、どっと反響。あすから、もうすこし、押し出しの仕事をする。腹痛が続かないといいが。 2010 3・17 102

* 昨日一日で「湖の本」へどうっと反応があった。福田恆存先生夫人をはじめ、追加のご注文もあって有り難い。
いつも払込票に大方の人がいろいろに書いてきて下さる。ここへは到底紹介しきれないが、励み、喜び。二十数年前のわたしの茶の本を読んでお稽古を初め、今も、という大学教授もおられた。有り難い。応援のお気持ちもたくさん賜った。御礼申し上げる。

☆ 前略「湖の本」102誠に有難く拝受。  文藝誌編集長
学生の時、茶人の息子が友達で茶を習ひ、学徒出陣に野点の道具を荷物に忍ばせて行きましたが、軍隊は茶など点てられる処ではありませんでした。昔をしのび、茶のこと少し勉強させていただきます。
巻頭の一期一会に 三十年ほど前、江南を旅した時、尖った感じのツアイチエンしか耳にしなかったのに、若い娘がツアイホエと言ったから 日本語のさよならのやうに柔らかかったので、それから再会と言って旅を続けました。そのこと思ひ出しました。
葉書で失礼ですが、御礼まで  不一

☆ 秦先生 「湖の本」(102)ありがとうございます。  新聞記者
毎回、「本」を拝受するたびにせめて御礼のメールと思いつつも、失礼しております。申し訳ございません。
今回、掲載されている「わが一期一会」は僕が初めて先生にお願いした原稿ですね。もう12年も前です。
東京のホテルでお会いして、写真を撮らせていただいたのが、ずいぶん前のような気がします。
でもあのときのことは自分の中で、意識的にも無意識にも反芻していたせいか。ホテルのティールームの雰囲気、曇り気味だった天気のことなどをよく覚えております。
お食事に誘っていただいたのに、めったに上京しないので、後の予定がつまっており、ご一緒できなかったのがいまだに残念です。
「メディア」は今、環境の激変で大きな変化を求められています。
当然のことながら弊社も例外であろうはずもなく、「変えていいもの」「変えるべきもの」「変えてはいけないもの」などの“仕分け”に
迫られております。
しかし、「知」や「意」が正当であったとしても「情」までが従うとは限らないのが人の常。「変えたくない」「変わりたくない」という「情」を「知」もどき、「意」もどきで正当化しようという力もあって、それもまた間違いともいえず混沌としているような状況です。
抽象的な話で申し訳ありません。
僕としては今年が正念場だと肝に命じて、公私にわたり色々な動きをしています。簡単には表現しようがないことも含めて、具体的には言えない話ばかりです。
インターネットが席巻し始めたころ、「リンク」「フラット」「シェア」という理念が念仏のようにとなえられていましたけど、今ではもう「リンク」「シェア」は空気のような常識になりました。
これからは社会全体が「フラット」「フリー」「スマート」への流れをさらに加速していくと見当をつけつつ2,3年後を想定して行動しています。
さらに3年前から始めたトロンボーンも面白くて、時間がいくらあっても足りない状態で、去年の秋の初めから午前4時起床という生活をして時間を捻出しています。
また先生のお知恵を拝借できる機会があればと祈念しております。
関係ない話ですが、この間、NHKで新島八重に取材した番組の再放送を見ました。
新島襄先生よりも面白い、と思いました。
その番組のなかで「茶道」を「ちゃどう」とアナウンスしていたので、調べてみたら、八重が習い教えた裏千家では、そう発音するんですね。恥ずかしながら全く知りませんでした。色々なところで恥をかいていた、と赤面しました。
ではシャワーを浴びて朝ごはんを食べてから出勤します。
とりとめないメールで失礼します。
ご容赦いただければ幸いです。

☆ 湖へ 珠です。お元気ですか。
春、慌しくはありますが、珠は元気に過ごしています。
旅先から戻ったら、心待ちの「湖の本」が届いていました。茶について、、味わいながら読ませて戴きます。
先週後半、数十年ぶりに奈良を訪れました。
仕覆の師からの紹介で、東大寺二月堂の修二会を近く拝見できることになってのこと。わくわくして出かけました。
お陰様で、大松明の夜、ハ゛チハ゛チと燃え上がる篭松明の、その熱さを肌に感じながら、階段を昇ってゆくさまを拝見。舞台欄干に上がった大松明からは、舞い落ちる火の粉を受けて、思わず合掌。
「お水取り」とよばれるこの修二会、実は14日間に亘って、 選ばれた連行衆が国家国民の平安を祈る法行であること、初めて知りました。
大松明の真夜中に井戸から汲みあげる‘御香水’、毎夜二月堂に登る練行衆を先導する松明の火、1200年間止むことなく続いてきた自然の大いなる力と共にある、祈り。
入堂された練行衆の唱えるお声明は、深い闇から響いてくる穏やかな音楽のようでした。ありがたい事に、今回お堂に入らせて頂けたので、暗闇で声明に耳を傾けながら、灯芯のゆらめきに映る‘糊こぼし’の椿(造花)の赤、段々に積み上げられたお供え餅の白さに魅せられて、異界にいるような心地で 真夜中まで過ごしてきました。

奈良には、これまでなかなか足が向かなかったのですが、久しぶりにゆっくり過ごてみると、何か不器用な土地のように感じました。京都にいるような都の緊張感もないせいか、素朴で心休まります。
そんな奈良らしいお酒をお送りしたくて、なんと10種類をチビチビ、、
美味しいお酒もいろいろと思うので、今回は、私が旅で感じた奈良のイメージを味に求めました。10種類から2本まではすぐだったのですが、2本から1本に決めるのに少し迷って。最後、二月堂の暗闇に響く声明を耳に聴き、決めました。
そろそろ届く頃と思います。大きな瓶しかないお酒だったので、くれぐれも飲みすぎませんように。奈良の気配、舌に感じて頂ければ嬉しいです。
私はご本を、ご相伴させて頂きます。
三寒四温の字のまま、冷える日があります。
くれぐれも気をつけて下さい。湖。お大事に。  珠

* 濾過しないで袋搾りの「梅の宿」は原酒の感じ、きゅーうっ、きゅーうっと漆の片口を傾け、小弁慶なみに、冷やで綺麗に飲み干して行く美味さ。仕事棚上げ。
チビチビ…なんてのは、ダメ。うまい酒ほど、痛切にきゅーうっと呑む。
昨日妻と出向いた百花園。あの静かさのなかで、こんな酒を瓢にでも持参なら、団子も肴も要らないなあ。
しかし、仕事が溜まってしまうなあ。
2010 3・18 102

☆ 横浜本牧の三渓園に出掛け帰って来たところに御著が届いていたので、偶然の一致に驚きました。原三渓の庭園と茶室とを思い浮かべながら御著を手に取り、早速数篇拝読いたしました。『鉢の木」の一文、秦様の古典に対する洞察力の深さ、鋭さに改めて敬服致しました。また茶道についてのご造詣の深さにもびっくりいたしました。
天心の「茶の本」を読んで以来茶道には関心を持ち続けてまいりました。また、母方の祖父の後妻から昔の茶會の話をよく聞かされましたので、茶会には二、三度出ただけのまったくの素人ですが、茶道には何となく親しみを抱いてまいりました。御著を座右の書として、今後、茶道について勉強しようと存じております。 敬具    歌人
2010 3・18 102

* グレン・グールドのゴールドベルクを聴きながら、新しい宛名を三十ほど書いた。
編輯者の昔から、どれほど多くわたしは宛名住所を封筒に書いてきただろう。昔は人の名前も住所や電話番号もよく覚えた。それが商売であった。
今は、まず三人分と記憶できない。その代わり、よく記録する。記録する根気、歴史家のそれは力だ。
2010 3・18 102

* 昨日、郵便局のミスで、当然届かねばならぬ大事な郵便物が届かなくて、今日は昨日のに続く分が届いた、一日分が行方不明になり郵便本局に抗議したが今日の所ではラチが明かなかった。困惑、しっかり調べて貰いたい。

* また宛名書く。
2010 3・19 102

☆ 秦さんへ湖の本御礼  e-OLD 千葉
相変わらずお元気で、食べて歩いて…何より、何より…とホームページを拝見しています。
湖の本、ありがとうございました。
むかし、秦さんはお若い時から、歌も詠むし、お茶も教えていたし……みやこのしとは違うなあと思ったのですが、それからも「湖の本」を沢山よんで、なんべんもそう思っていました。おじさん? にはどこまでわかるのかわかりませんが、読みましょう。
ついに「後期高齢者」のレッテルを貼られました。「なんの!」と思ったのですが認めざるを得ません。からだじゅう「おじいさん」だらけです。
こぶしの花が咲き、田んぼに水が入り、桜の蕾もふくらんでいます。元気を出そうと思っています。
「春が参るよい」
どうかお大切にしてください。 勝田

* 春在枝頭すでに十分。春は来ている。勝田さんのメールの春馥郁の予感やよし、嬉し。お互い、よちよちと子供の歩みに戻ろうとも、培ってきた元気で翁さびの日々を楽しみましょう。
2010 3・20 102

* 京都の梅原猛さん、上越市光明寺の黄色瑞華さんから、「湖の本」へ鄭重なご挨拶を戴いた。全国の各大学・高校の研究室や図書館からも、続々。書店の販売網を一切、一冊といえどもわたしの「湖の本」は通していない。支持し購読してくださる有り難い「いい読者」には直接配本し、そのほかに、文学活動として、各方面へ私の思いを添え、送り出している。

* 今回は根気よく、気長く作業して、今日、最後の発送を終えた。いつもはもう草臥れて諦めるふうに作業を投げるのだが、今回は日数をかけてもと、粘った。
2010 3・21 102

☆ このたびの「湖の本」  「宗遠」さんが登場されて、あの日吉ヶ丘の茶道部のことが思い起こされました。懐かしい!! 思いでございます。
楽しんで読ませていただきます。  郁
2010 3・21 102

* 阿川弘之さん、逸翁美術館の伊井春樹さん、前石川文学館の井口哲郎さんらのご挨拶を戴いている。阿川さんには、直哉全集を熱心によんでいるのへ、「僕から御礼申すのは、半分はヘンですけど─、」と「厚く御礼」を言われ、恐縮している。

☆ (前略) 毎日、飲茶をしながらも、いわゆる「茶の道」には馴染んでこなかった小生ですが、「茶に言葉あり」は興味深く拝見しました。殊に「作」は、小説家=作家の解釈が面白く、「清める」から始まる「扱う」「置く」「かざる」「すわる」から「のむ」「好む」「結ぶ」と動詞形で具体的にやさしく解く、お説に魅せられました。いつもいつも御配慮に預り深謝申し上げます。不一  出版社役員

* ここをこう観て下さったのは嬉しい。ちなみに、「作」をどう書いていたか、『宗遠、茶を語る』を買って下さった読者には少し申し訳ないが、挙げてみる。

☆ 作  (茶に言葉あり より)   秦 恒平
たいがいの場合、私の肩書きは「作家」とされる。小説を作る(書く)からである。絵を作る(描く)人は「画家」と呼ばれ、書を作る(書く)人は「書家」と呼ばれる。作ることにおいてはみな同じなのだから、小説家だけを作家とはちょっとおかしいのだが、難しい議論をしようというのではなく、「作」という言葉ないし文字について、いささか考えてみたい。
「お茶杓のお作は」
と問うのは、茶室での挨拶のつねである。茶杓を作った(削った)方はどなたですか…と問われているのであり、ここは然るべき人の名をあげて答える。
だが、作者の意味の「作」というよりも、茶の湯の場合はもっと作意の意味の「作」や作用・作法の意味の「作」を私は問題にしたい。いやさらに言うならば、「随処ニ主トナレバ、立処ミナ真ナリ」などという、その「主トナレバ」の「ナレバ」が「作レバ」の訓みであることを念頭に、「作」を私は問題にしたいと思う。茶の湯という、創意工夫を、心入れや思い入れのかたちで表現して行くことに妙味も趣味もある藝能では、ただに、茶杓を作ったのは誰で、掛けものの字を書いたのは誰でなどという「作」の意識では、ダメなのだ。
そもそも「作者」「作家」という場合の「作」も、けっして作った人、その氏名、をあげて事足ると思ってはなるまい。作るという一事に籠めて、全精神の微妙に具体的な構想や構築が揺るぎなく実現して行く、ないし実現している、そういう「作」の在りようを面白いとあるいは見て取りあるいは読み取り、そのうえでそれほど見事に作った人なり名前なりに関心が湧いて、
「お作は」
と質問せずにおれぬというのが、やはり本来なのであろう。手前みそになるが人生の諸相を複雑は複雑なりに、微妙は微妙なりに書き表して行く小説のばあい、ことにこういう意味の「作」が、作意や作法が特徴的にものを言う。だから「作家」なのである。
だからといって、例えば茶杓を削るくらいにそんな「作」などあるものか…などと言っていては、所詮、「随処ニ主」も「立処ミナ真」もありえない。いわば長編小説の一つや二つもに匹敵する人生や思索から、あたかも生えて出たようにして一本の茶杓が清らかにかろがろと削りだされて居るのかもしれない、そこを「作」の不思議とも面白さともしっかり眺めながら、その物へも、その物を作り出した人へも、敬意と興味とを持つようでありたいし、そうであるべきだろうと私は思う。「作者」とは、もともとそういう性質の敬意や興味を持たれていい人のことだ。
一席の「茶の湯」が、もっとも佳い意味の「お作」となるように願って茶室に臨んでいる亭主や客が、どれほどいるか。
「作者」は自分自身と、そう思い入れて佳い「茶」を作りたい。

* わたしは、かねて「作」と「作品」とはべつのことと考えている。しいて謂えば前者は行為で、後者は評価であると。人品、画品、文品、品位といったもの謂いから推しても、われわれは対象としての「作」を読む・観るとともに、そこに「作品」の有無如何を問いかつ求めて、味わっている。これが、見落とされ見遁されていると、優れた批評は成り立たない。

* 文でも画でも、また人であっても、その「作」に、まぎれなく品のある、ない、がある。高い、低いがある。
同時に、ややこしく紛れやすいのは、いわゆる「俗語」と化してしまっている「上品」「下品」という感触の介入で、用心しないとコトをまちがえる。「お上品」「お下品」とまでいわれれば、むしろ付き合わずに見捨ててしまえるが、俗にいうふつう現代語としての「上品・下品」は、むしろ批評語としては拒絶し無視した方がよいとすらわたしは考えている。上品といわれるがゆえに作品の弱いもの、下品と見捨てられる中に、ある高質の品位というのがある、こともある。

* 井口さんには、利休の「正座」画像の写真を戴いた。但し、たぶん近代の画作であろうか。
正座画像が美術史的にも普通にあらわれ始める元禄以前では、数点存する利休の座像で正座のモノはやはり見当たらない。元禄期に、三千家の祖である利休孫千宗旦に、はっきり正座画像が出来ている。
女性では、描かれた時期は確認できないが確か信長の妹お市の方画像に、正座とみえる一点があったと思う。
ごく稀に阿弥陀の脇侍などに正座に近似した、跪座かそれに近い座像がある。白州や閻魔の前での土下座例は、すべて正座と同じすわり方である。
元禄以降には、それ以前の歴史的人物であれ、むしろ普通に正座像で描かれ造られている例は多い。

☆ ご本の御礼  作家
秦さま、湖(うみ)の本、新刊102「宗遠、茶を語る」をご恵贈たまわりうれしく、ありがとうございます。
日ごろ、茶を喫するゆとりもない暮らしぶりですが、ご本に書かれた利休の、前後の「茶」にまつわる時代のことなど関心もあり、外の勤めの昼休みに番茶を呑みながら、ゆっくり大人しく読み進めます。
ありがとうございました。どうぞご健勝にてお過ごし下さい。

☆ ありがとうございました。  出版社役員
寒暖差の激しい日々が続いておりますが、秦先生にはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
先日はご高著『宗遠、茶を語る』をお送りいただき誠にありがとうございました。いつもながらのお心遣いに心より御礼申し上げます。茶人として茶道に精通していらっしゃることにも驚きましたが、何より「茶」というひとつのテーマで、これほど縦横無尽に語ることができるのだ、という事実に感嘆いたしました。発表された媒体が多岐に渡っているため、その媒体特性にあわせたエッセイをお書きになっていることもあるとは思いますが、換言すれば、「茶」というものがそれだけ、さまざまな切り口で語ることのできる奥深さを持っているということなのでしょう。何よりその「奥深さ」を秦先生が深く理解していらっしゃるからこそのご労作なのだと、感じ入るばかりでした。重ねて御礼申し上げます。
引き続きご指導を賜りますよう、御願い申し上げます。
メールで御礼申し上げる失礼をお許しください。
不順な天候が続きます。お忙しい毎日、くれぐれもご自愛ください。
2010 3・23 102

☆ 秦様  湖の本の102巻をお送りいただき有難う御座いました。  正
今回の御本『宗遠、茶を語る』の「お茶」について詳しくは存じませんが、見せて頂いて奥の深いお話のいずれにも、秦様が色濃く出ていると感じました。
拝読していますと、中心にお茶や様々な道具などの具体的なものがあり、それを巡り絵画や書や文学があり、さらにその外側にお茶を含め色々なものを味わう人間がいるという、三重の構造を感じました。その構造は同一平面ではなく、歴史上の人物から今の人々まで積み重なり、その一番新しいところに私たちがいることになります。そこに登場する人間に尽きせぬ興味があります。
なお「碁石茶など」という文章がありましたが、そこには固定的な思考の枠を取り払いお茶を歴史的にも地理的にも大きくとらえるという御主張があり共感しました。
些少ながらお役に立てばと5千円を振り込みました。
ホームページを拝見し秦様のお暮らしぶりの一端は伺っていますが、どうぞご自愛ください。

* 有難う存じます。 遠

* またはるばる広島の藤田理史くんに、玉箒二種を選んで送ってもらった。ありがとう。

* 新刊を出すつど、メールや手紙の他にも、払込票を通してたくさんな感想や激励や叱咤を戴いている。冥加に尽きる。
ところで、死の床にいながら、わたしの生母・阿部鏡(筆名)は、遂に遂に、『わが旅大和路のうた』一冊を出版し、諸方に送って、さまざまに励まされ、新聞報道すらされていた。大きな紙袋に入れ、近江八幡の親戚「中村穣先生」宛てに、「お捨て下さってもよい」と表に墨書して預けられていたそのたくさんな手紙やはがきを、今夜初めて、全部通読した。
来信は、大きく分けて著名人、図書館等、そして知己・知人・親戚から届いている。著名人としてわたしに識別できるのは、順不同に、佐多稲子、丹羽文雄、平林たい子、板垣直子、八木保太郎、前川佐美雄、簗雅子、橋本忍、稲垣浩、二月堂の狭川明俊、奈良県知事の奥田良三、代議士の向井長年氏らの名が見付かり、いずれも文面に実があり、見舞いの金子も含まれていたりする。
正直、おどろくべき親切な反響であるとともに、本に収められてある著者病床の写真はまさに死に瀕して見えている。校正や発送その他は援助する人達の文字通りの好意でなされていたようだが、原稿はむろん、だれにどう送るかまで当人が指示していたようで、必死の、渾身執念の出版であったことがよく分かる。短歌の数も、わたしの歌集『少年』より遙かに数多く、さらに散文や日記が相当な量、ほぼ半々と言えるほど含まれてある。
母は、最後の最期にこの一冊を堂々出版へ漕ぎ着けることで、苦闘の人生を締めくくった。一冊の歌や散文を支える伝記的な情報も資料も、ほぼわたしの手元に十分に揃った。強烈に生き、天晴れというほかない頑強な人生に、恰好の締めくくりを付けて死んだ人であった。後半生は、ひたすら健康的にも環境的にも弱い少年や病者たちのために、誰かが書いていたが、人の二の足を踏む世間へ躊躇なく入っていって働いた。その実質はあるいは半端であるいは貧しく不充分なところも有ったであろうが、志は徹そうとして大方徹してきた。脱帽する。
2010 3・24 102

☆ 東京は櫻が開き始めました。お変りございませんか。「湖の本」第百二巻をお送り下さり、まことにありがとうございました。
水母や木耳などでなくても、パソコンのせいで、書けない字が本当に増えてきました。反省しきりです。  参議院議長

* ご多忙の中でいつもご挨拶いただき恐縮し感謝しています。「水母木耳」は巻頭一編に示した歌人の短歌一首にふれておられる。すなわち、
読むときは自然に読めど書くときは考へさせられる水母・木耳   吉野昌夫
ここから「わが一期一會」に説き及んでいる。
2010 3・25 102

* 朝は快晴、冷えているが。『宗遠、茶を語る』にアメリカから、五冊も注文してくださり、寄贈先国内の三人の方にご挨拶を書いた。寄贈なさる本には寄贈先の氏名と識語・署名して送り出している。ロサンゼルスへもそうして送り出す。
「茶」を語っても私の場合、いわゆる「茶の湯」や「茶道」に限らない。
「茶」は茶室での茶の湯でなければ表現できない楽しめないという偏頗な思想をわたしは持たない。思いと、成しようと、そして相手によって、さまざまな場で、さまざまに「茶」の気持ちも楽しさも実現できる。茶祖珠光の以前にも、あるいは栄西禅師の以前にも、「茶」に準じた飲みものを多彩に味わってきた日本人であれば、それにともなう寄合の心映えや作法のようなものは芽ぶいていた。それらをも含めた気持ちでわたしはこの本で「茶」を語っている。幸い、予期していたより拾い力強い好評で読者に迎えられている。感謝。

☆ お茶の本、空を飛んで届きました、待ってました、ありがとうございます。以前の『茶も、ありげに』も時々出して再読してゐます。楽しいです。クスクス笑ったり、そーや、ソーヤと一人で頷いて居ります。
最近一人こちら(ロサンゼルス)に居る日本人ですが 茶室が出来たので来て欲しいと 早速お招ばれして来ました。四畳半と八畳を造り、露地もそれなりに アメリカ式の家を上手に利用して良いお茶室が出来てゐました。小寄せの方が好きと言って、私の社中と三人だけで行って来ました。良い勉強が出来ました。 ホントに少ないですが、こういふ人も居ます。
私は多分に 今つくづく思ふのに 私のお茶は宗遠さんの影響が大だと思います。沢山 ありがとうございました。(ホームページで観て)カブキの方も 水もしたたる玉三郎や染五郎 目の前に観るように思い浮かべて居ります。
うちの藤の木が今年は満開 それはそれは美しいです。今年はこちらも不順で雨もよく降ったので、大きな椿がバラのように咲いてゐます、いまだに。櫻はこっちは育たないそうであまり見ません。
これからはそちらは美しいですね。四月は京都は満員なので、今年は多分飽きに行けると思います。
お二方様へ どうぞ呉々もお身体お大切に。お元気でね。  宗千

* 満開の藤の大樹。写真ででも、びっくり。

☆ 「宗遠、茶を語る」は、私にも思うところの多々ある対象について語っておられるので、感想を述べさせて頂きます。
この*月、いささか関わりのある****という観世流の中堅の能楽師の「鉢木」を観る機会を得ました。
キビキビした、*十代の方が舞う、はつらつとした能だったのですが、一個所とても気になったところがありました。それはシテの登場の際の「あゝ、降ったる雪かな」と語る場面を、余りにも凛々と謡いすぎていたことです。こゝをそんな風に語ってしまうと、そのあとの「それ雪は鵝毛に似て飛んで散乱し」以下のところのイメージが全く湧かなくなってしまうのです。あそこの語りは「鉢木」の急所なので、佐野源左衛門常世は、あそこで自分の全人生を語っている、人生の侘しさを全力で謡っているという感じは出ないのです。
能楽師の理解はその程度なのだなと思った次第ですが、ご文を読んで、釈然といたしました。
「鉢木」の雪の夜の源左衛門の旅の僧へのもてなしが、茶における一期一会の具現であり、翌日又別の旅の僧が訪れて来れば、常世は又同じようにもてなすであろうというご指摘はみごとで、「鉢木」はアチャラカ芝居になっている中入後と、前段は、別に演じられなければならないというご卓説は、秀抜だと思った次第です。
「鉢木」前半が、利休が代表する中世であり、後半の御家人参集の鎌倉が、秀吉が代表する近世であり、それが中世を圧殺したという論旨も明快であり、よい論を読ませていたゞいたと感謝しております。
実は、私も謡を少々、茶も少々たしなませていたゞいておりますが、謡も茶も本当は心から好きになれないのです。それはあの「正座」というのが、大変苦手なせいです。茶席もせいざして待つのが耐え難く、謡も、声を出すのは昔ワセダで演劇をやっていたので少しもいやではないのですが、何時間も板の間に正座するのが何よりもおそろしくて逃げ回っています。ご文で「正座」について、「正座は正しいか」と利休の時代の座り方について書いておられることに、やや意を強くしました。  (略)
どうか今後とも、ご健筆を。
できれば、すばらしい恋愛小説を書いて下さい。 敬具   文藝批評家

* 今度は、もう久しく文通も絶えてときどき本を送っていた昔の読者が、名古屋から、久々にいい手紙といっしょに、『茶を語る』を、知人二人に二冊、自分の手元へは三冊送って欲しいと言ってきて呉れた。嬉しい。
書をしていた人で、美しい字と、すこし独特な仮名遣いの手紙は、昔と変わらない。懐かしい。

☆ 拝呈、例年に比べ雨が多く、櫻の満開が待たるゝ昨日、今日でござゐます  お変りなく、お過ごしの事と拝します。いつも「湖の本」有難ふござゐます。
私も、六十三、歳を重ねまして、孫も四人(一人娘が頑張りました)。日々、有難く、暮らさせて戴いて居ります。
数年前から、再び「お茶」のおけいこを始めました。今回の「宗遠、茶を語る」まことに心に響き、「そうよ、そうそう」と、普段、腑におちなひ事等が、胸がすーとした、と申しませうか、楽しく拝読致しました。是非、知人に送りたく、御文差し上げました。きっと先生の語りが、私同様、嬉こんで戴けると存ぢます。
秦先生、「歳、七十四、病みがちに気の衰へた私は」と最後にありましたが、いつまでも多くの読者、恒平フアンにお応へ下さいませ。とまどひ乍ら人生を送ってゆく、我々、幾多の人々の「道しるべ」なのですから、いつまでも秦節を届けて下さいませ。
お身お大切に、フアン一同願って居ります    壽

* 恐縮。
2010 3・27 102

* 「序章」に、四つの異なる断層をみせる短文群を併置した。自ずから大きな「見だし」の役をするだろう。
2010 3・28 102

* 山を越えて行くのに、両脚に鉄亜鈴をひきずって登るだろうか。民主党政権は、三党連立のためそれに似た悪歩行をあえてしている。すっきりと自己責任で歩けなくて閣内不統一というよたよたばかりが目につき、内閣「支持率」を下げる方へ方へ藻掻いている。

* ところで「支持」ということに関連し、すこし「私事」に触れるが、いましも「湖の本」102が「茶」の本で幸い賑わっている。
さはさりながら、「百ないし百一」という大きな「通過点」で、さすがに読者の数は減った。「もういいでしょう」ということだろう、むろん「もっともっと続けるように」といって下さる人は遙かに数多く感謝にたえない、だが、維持はさらに苦しくなる。
思い出す、四半世紀前創刊の『清経入水』初版は、総頁が百八頁、千三百円だった。通算第百巻の『濯鱗清流』下巻は二百頁、二千三百円、百一巻『凶器』は三倍大の三百十六頁、臨時に二千八百円頂戴した。このところの一冊平均頁は百八十頁ほどで、今回も百八十四頁。以前は簡単に「分冊」していたのを、なんとか「一冊」で編輯し、読者の負担を無用に増やすまいと努めてきたのである。お察し頂けるように、甚だしい値上げは避け、むしろ内輪にお願いしてきたつもり。参考までにA5版9ポ46×20組の百八十四頁は、当節では市販単行本の一冊半に当たるほど、随分と容量多いのである。
それでも、やはり「百」代以降の出版維持はラクでない。ラクをしたい気は毛頭ないが、しかし大きな出血の儘ではこの仕事自体が却って高慢で悲愴なものになってしまう。そういう無理な姿勢は避けたい。で、このところの頒価にどうか二百円載せ、「一冊・二千五百円」を許しを願った。受け容れて戴き、さらにいろいろに応援の手を添えて下さる方も多くあり、感謝に堪えない
読者のお一人が、もうお一人ずつ有難い「いい読者」をご紹介頂ければ、苦境はたちまちに免れる。維持できて刊行が続けられるなら私の願いはそれで足りる。蔵を建てる気など無い。

* ところで、一つ、『宗遠、茶を語る』が、多くの読者をじつはほっと明るい気持ちにさせたのは、本の内容が、例の娘達がらみの事件から離れたからであり、二つ、ここへ来て購読部数が減ったというなら、それは、やはり娘達がらみで書かれたらしき巻が目立ったからでしょう、と、率直に指摘して下さる人が、一人二人三人ぐらい有った。
わたしも、もとより自覚していて、「102」の企画を久しぶり「茶を語る」方へ振り向けたのも、「編集者」としての見当であること、言うまでもない。指摘も自覚も当然の処に立地している。

* 私自身の問題は、その先にある。
私生活のいわば紛糾部分を、秦さん、出さない方がいいでしょう、書かない方がいいでしょう、と、もしなったなら、私はどうするか。
躊躇なく、私は、どちらも書く、どちらも「湖の本」にする、何の迷いもない。

* 娘夫婦の「被告」の位置に置かれて以来、わたしは、精一杯対応してきた。法廷でやすむ間なく攻撃されている立場は、生易しいことでない。「四年」になろうという歳月、何をして楽しんでいようと、瞬時もこの件からわたしも妻も安らかになど解放されてこなかったのである。だが此のイヤな事にわたしはいつも真っ直ぐ突き当たり、ひるまなかった。融通の利かないバカだと思っている人も有ろう。しかし「いま・ここ」の稀な題材に目を背け、書くべきを書かなかったら、わたしは作家とは云えぬ。

* では、自分に反省すべき点は無いか。永い期間、わたしは胸に手を当ててきた。

* はっきりしておく。
私が、もし「作家」でなく、したがって作家としての「精神・思想と表現との自由」を大切にする「気」も「必要」も無かったなら、何も書かず、表現せず、婿や娘に何を言われてもされても、謂われなく無難に頭を下げたり、無い金をムリに工面して与えたりなど、姑息にその場その場をやり過ごして済ませたであろう。それが「大人の常識」だ、「親なら当たりだ」とすら言う人も、世間には多数、大多数いるのをよくよく承知しているのである。
その上で、そういうことは、しないと、いまも私は胸に手を当てている。尺度の曖昧な、正しいか正しくなかったかの問題とは、この価値判断は明瞭に異なっている。

* 「島崎藤村が姪の駒子に子まで生ませたことを、私小説と読まれる新聞小説『新生』であからさまそのまま書いたことは、名誉毀損に当たると思うか。」
そう問われれば、「思う」とわたしは答える。
駒子の側に書かれても仕方ない叔父藤村への、なにらの悪意も害意も無かった、むしろ純情が有ったのは明らかだから。
「問題になった***や三島由紀夫らの小説の場合はどうか」と問われれば、上に同じ、名誉毀損が成り立っているとわたしは答える。書かれた人物と書いた作者との間に、謂わば相討ちの対立が無く、一方的・一面的・描写的に書かれ、書いた側は何も傷ついていないのだから。
それでも、書かずにおれないなら、覚悟をして書くしかないでしょうというのが「書き手」の一人としてわたしの思いである。だが、望ましいことでないのは、明瞭。

* ところで、このわたしが、ホームページや、フイクションの上で、大学教授である婿に関連して批評や批判・非難を書いたのは、「名誉毀損に相当すると自覚し自認しているか。」
そう問われたなら、わたしは、ハッキリ否定する。藤村や三島らの例とは真っ逆さま、書いても当然な、それだけの被害を、わたしは先に受けている。婿の妻である娘も、「夫の暴発」「夫の無礼」、最初から認めていた。婿から舅姑へ、凄いまで悪意と害意が加えられたのに対し、十分に間をおいてから、匿名でなく、すべて文責明瞭なかたちでわたしから「逆批判」したのである。名誉毀損は、逆方向に先行していた。
しかも、このようなことは「裁判」にする問題でなく、書いて非難される以前に、潔く「話し合い」すれば解決は何でもなかった。しかし、いかなる話し合いの場へも、「ルソー学者」であるこの婿は一度たりと姿を現さなかった。ことは、礼譲の問題で、権利や裁判の問題とは思わない。名誉毀損というなら、逆様である。

* 娘に関連しても、すべては孫・やす香の重篤の病と可哀想な癌死とを傷む、祖父母の眞情に出ている。誰の入れ知恵か、裁判の場へ持ち出して実の父を被告席に置き、「名誉毀損等を以て多額の損害賠償金を求める」そのような性質の事件では、はなから無かった。一つには死んだ孫の霊も傷つけ、二つには広義の教育に携わる原告夫妻の、親として子としての知識人・公人たる「良識」を疑わせる、見当違いに「恥ずかしい」ことと謂わねばならない。よく胸に手を当ててもらいたい。

* わたしは、ものに隠れて発言したりしない。文責を公開し、誰からも公正な判断を求める姿勢でものを書いてきた。それが二十・二十一世紀の「IT時代」の作法であり、物書きの立場であると信じている。

* せめて、孫・やす香の不幸な死の直後にこそ、冷静に話し合いたかった。話し合おうと求め、その為にも余儀なく「民事調停」も望んだが、却って作家・秦恒平の「ブログ全破壊」など、著作者に対する最も悪質な攻撃と被害を婿と娘から受けただけで、どうにもならなかった。自分自身に、また家族としても、いまも残念で遺憾だと思うのは、そのこと。
もう一つの自戒かつ後悔は、あの病苦を「mixi」に書き続けていた孫・やす香の現状を、ムリを押してでも、母親(=娘)に告げ知らせ善処を求めればよかった…ということ。
だが、孫娘二人は堅く両親に秘したままわれわれ祖父母のもとを訪れ濃やかに交歓していたし、それを無に帰することは孫達のためにも祖父母の喜びからも、とても仕辛かった。ましてやまさかに「癌」「肉腫」などとは、夢にも思い及べなかったのが、致し方もなく、しかし、しかし…と残念至極。

* 作家に、「あれは書かず、これは書いて」は、気持ちは分かるが、ムリと分かって欲しい。
人生はフクザツに推移し、しかも作家には必然、青年の作風と老境の作風は変わる。
上田秋成に先ず「春雨物語」を書き老いて「雨月物語」を書くことは、難しい以上に不可能であった。「レイタースタイル」は、一人一人の書き手の人生苦楽に伴い、必然来る。
2010 3・29 102

* 「序章」にもう一層を添えてみた。「五つ」の断層を践んだ姿勢で、不退転の検討を我が身に加えてみることになるか。
2010 3・31 102

☆ 桜も咲きはじめたというのに、寒さが身にしみます。   作家
先日は、百二巻目のご著書をご送付いただきまして、ありがとうございました。茶道の嗜みでもあれば、もっと興味深く読めただろうにと、少々残念でございます。      母は「宗月」という名で、花とお茶を教えておりましたが、このバカ娘はドストエフスキーに読みふけるばかり。生きているあいだに、もっと学んでおけばよかったと、いまごろ後悔しております。
お身内の想い出とともに、「病みがちに気の衰えた私は、いま、地崩れのようにこれら亡き肉親たちの呼び声に……」 という末尾、時間があればドクター・ショッピングを続けている折りから、胸に迫りました。
くれぐれもご自愛のうえ、二百巻を目指してくださいますよう。

* 「ドストエフスキーに読みふけ」っていたとあるのに、少し驚いた。

☆ 前略 思いがけず恒平様よりの贈りもの 嬉しく存じました。
もう兄も姉もみんな亡くなってしまいました。
あなた様は、母方のたった一人の血のつながった いとこなのですね。
なぜかお話ししたい事が 次から次へと頭に浮かんで参りますが、私は、来年九十才になります。出来ることなら、七十五才まで逆もどりをしたいと思いますがもう残念ながら出来そうにもありません。
さて、ふく叔母様のことですが、娘ごころに与謝野晶子の様な方と思ってをりました。今となっては、その頃私が与謝野晶子の私生活までどれだけ知識があったかは、覚えもありませんが 何となくそうイメージしていたようです。
思へば あの頃の時代だったから 色々冷めたい風に当てられ、それでも女性としての思ひを貫かれた方と思ってをります。
千代さんも年賀状に何時も一首を添へて下さいました。
気どらない それでいて心にしみる温かいお歌でした。
ふく叔母上の姉に当る”高”叔母様は娘時代のお写真に 髪は、昔の何とかいう髪形で 袴に、そしてあみあげの靴、小脇にバヨリン、 そんな素適なお写真を見た事があります。そして間もなく三重県の資産家の旧家に嫁がれたのですが、こんな田舎には きたくなかった、 都会で学者のような人のところへゆきたかったと云ってをられたとか! 末子の私は皆が話しをしているのをよく聞いていたようです。なぜか覚えて居ります 貧乏でもよい 自分らしく生きたかったのでしょうね。
その頃から世の中の女性が欧州流の考へ方に目ざめかけてきたのでしょう。 その後 市川房枝の名が浮かんできますが、女性が、だんだん強くなって、強くなりすぎて来たように思はれます。
扨て、私はお茶に夢中になっていた頃もありましたが 今はすっかりわすれてしまいましたが お抹茶は大好きで家にかゝした事はありません この辺では先代頃までは、植木屋さんにもお抹茶で一ぷくしてもらいました。主人も出勤前必ずお抹茶を飲んでゆきました。
お茶の先生も多く、そういう土地柄のようです。
扨て、私はその後謡曲を習ひ 七十才頃 小袖曽我の能、の母役、七十五才で能巻絹のシテをさせて頂きました。本当によひ思い出になりました。名古屋の能楽堂は、お城の前にあり櫻がとても美しくその頃毎年師の梅田先生の能がありますが もう元気がなく、行く事が出来ません。 七十五才の頃は未だ未だ体力がありましたが八十五才を過ぎると全身が弱ってきた事をひしひしと感じ身辺整理を毎日して居ります。 ”湖” 少し読ませて頂きましたが字が小さく私には少々むつかしく感じましたがちょこちょこ読ませて頂かうとは思ってをります。でも本当に嬉しうございました。どうか御身呉々お大切に未だ未だご活躍を心からお祈り申上げて居ります。ありがとうこざいました。 かしこ。 豊  八十九の母方従姉

* ずうっと以前二三度文通した。わたしがテレビに出たりするのを喜ばれて、必ず知らせて欲しいなどと言われていた。建日子のことをまだ話していない。バトンタッチしたいところ。
わたしの母(叔母)を「与謝野晶子」のように想っていたとは、初の証言で、しかも意味するところは分かりやすい。この「いとこ」は母の一等上の姉(伯母)の「末子」にあたるらしい。こんど『宗遠、茶を語る』を送ってみた中には、この人の能登川の実家からも、千葉の従姉方からも、父方有馬の叔母からも宛先不明等で戻ってきた。母方で「たった一人のいとこ」と。愛知県まで、いまのうちに会いに行きたくなった。九十前とあるが、ペンの文字は明瞭に美しく書かれていて感じ入った。
それだけでなく、一葉の写真も頂戴した。親世代は一人もいないが、姉の千代もともに、上の伯母(阿部本家)方「いとこ」たちの一族が集って、何かの記念写真らしい。親切に誰が誰か写真を透かした裏面に続柄が書かれてある。
本代二千五百円も払い込んで下さった。ありがとう存じます。

☆ 櫻がほころび始めたとともに真冬の寒さ 花と一緒に縮こまっています。
湖の本102『宗遠、茶を語る』 ぼつぼつと読み味わって居ります。
この三月は雑事にむやみと忙しく過すことになり 昨日ようやっとあいた時間に竹橋まで行って来ました。生誕120年小野竹喬展に心洗われ、沢山のことを学ばせてもらい、工芸館で、清水卯一さんの作品に五條坂をしのび、少し早い櫻を眺めて皇居の中も少し、櫻だけでなく草むらのスミレ、タンポポ、クラスエンドウ、レンゲなどなど子供時代を思い起す春の一日でした。
このとおり(絵葉書の、比叡山から眺めた小野竹喬画「京の灯」)の景色の見える比叡のホテルは私のお気に入りです。  藤
2010 4・1 103

* 2005年の「全私語」を分類して貰ったのが、今日、いま現在で、もう34項目分送られてきている。気の遠くなるような難作業を続けて戴き、感謝するばかり。
1998年三月に書き起こし始めた「私語」である、その総量とほうもない。すべて三十余項に内容を分けて編成して下さる、その私の活用価値は測り知れない。
わたしの「私語」は、いわゆる家常の日記とはかなり異なり、いわば「論」や「観」や「感」や「記録」や「批評」や「エッセイ」を成している。文藝作である。
すでに1998から2000まで前世紀三年分の「私語」から編んだ「湖の本」が、『濯鱗清流』上下巻、四百頁ある。幸いにこれがよく読まれた、おもしろいと。
ところが、新世紀に入った「2001年分」からまた新たに編もうとすると、よほど削ぎ落としても、一年分だけで、先の上下巻分の二倍、つまり「四巻」分になると既に分かっている。全量の三分の二程度で編輯したとして、「日録分だけ」でも、二百頁級の「湖の本」が優に四十数巻分すでに書き上がっているわけだ。しかも日を追って年々に増えて行く。わたし自身の手でこれが出版できるかどうか、ま、夢かと思う。
2010 4・2 103

* たくさんスキャンし、たくさん校正し、その間も頭痛のしそうなほど、あれこれと思案にくれ、休むに似たりと苦笑いしながら、じっと粘っている。
2010 4・14 103

☆ 前略 先日は御鄭重にも「湖の本102」をお恵送下さいましたのに、御礼が甚しく遅くなりまして、誠に申訳けありませんでした。頼まれ仕事の連続で慌しくしておりましたが、本日一段落致し、「私語の刻」をまず拝読致しました。
幼時から親しまれた「茶の湯」については「なごりの茶」をめぐるお気持ちが実に心中深く沁み通って参りました。「宗遠、茶を語る」をまず最初に拝読致したく存じました。
又 最後の「肉親たち」のおびただしい手記や日記を読み耽っていらっしゃる御心事を想いますと、「鬼気迫る」ものが確実に伝わって参ります。元編集者として率直に申し上げるなら、「この「呼び声」を申すまでもなく真摯に受けとめられ、どんな形であれ、その精髄を表現されるべきではないでしょうか。呉々も御体調に留意されつつ、御健筆をお祈り致して止みません。 右遅くなりましたが、御礼まで。 不一

* 名編集長とうたわれた人の有り難い鞭撻である。
ともすると頽れよう、投げだそうとする気力を励まし、観るべきを見抜いて、少しずつ書き探り探りつづけたい。
ありがとう存じます。
2010 4・15 103

* そういえば、やはり四国愛媛の難関校の国語科の先生たちから、「湖の本」寄贈への鄭重な礼状が届いていて、恐縮した。
2010 4・16 103

* 気がかりな先の仕事がチラチラしているが、やはり目の前の仕事に一段落が欲しく、あらかたの用意は出来ているので、好いシマリをつけねばならない。編輯仕事にもなる。四月の内に余裕を持ってメドを付けてしまいたい。なにより頭の中の交通整理が必要。
明日一日、晴れてやや暖かいとか。
2010 4・18 103

* 朝、はやめに起きて、仕上げまぢかな仕事に必要な編輯作業を試み、これでいいかなと思えたあと、晴れた空のもと、街へ出ていった。
2010 4・19 103

* 編輯をさらに前に進めた。仕上げ(と云っても、大きな大きなものの最初の一段階であるが)の一章に暫く取り組む。焦るまい。
2010 4・20 103

* ほぼ終日、じりじりと、「私」の壁に穴を穿ち、爆薬を仕込んで、一途に突破を策していた。ときどきアタマが痺れてくる。もう、いまは、それしか無いような毎日になっている。
いつか夜になり…あたかも推理小説かのように、遠い昔の暗闇に推理の縄をなげこみなげこみ、ときどき途方に暮れていた。
2010 4・21 103

* さ、また仕事に戻る。ものすごいような検討で、アタマは沸騰している。断乎乗り超えねばならない。こんなとき、娘も一緒なら、もっと緻密な追究があり得たかも知れない。ベストセラー『推理小説』作者の建日子なら、どう「読んで」行くだろう。あくまで事実または事実性を精緻に追認できる箇条に則って検討されねば、恣になる。恣は避けねば。
2010 4・22 103

* 難儀な難儀な山へようやく登ったが、息切れして四方の景色も未だ見えないという按配。これから、さらにさらに読み直す。あっというまに、日付が変わる。スキャナをつかいプリンタも使い、パソコンを遣っていればこそ出来る煩瑣な煩瑣な仕事の整頓。
創作も、その実験も難しくなっている、却って。
2010 4・23 103

* 昨晩来、寝ていた。夜中、床の上で泳げるほど発汗、おかげで一旦はすっきりしたが、すぐまた熱を持った痛みで全身強張り、また寝入った。時間の感覚が掴みにくくなり、昼前に起きて機械の前へ来たが、茫然としていて。
暖かい昼食をとり、また機械の前へ。ま、峠は越したろう…か。

* また不安感兆し、午後も床に入っていたが、夕食後、思い切って機械の前で大きな仕掛けの仕事をちからづく前に押し出した。こころもち分厚いが、端折ることも難しい。
明日、観劇の予定があり厳しい体調だがあえて入浴し…て、パッと寝るというのはどうか。体熱は有る。おでこ火照っている。しかし仕事を四月中に押し切った、印刷所に送れたぶん気持ちいい。
2010 4・26 103

* 昨日おそく、疲労を押し切って「入稿」したのが、体力はともかく「気分」を軽くした。いらいらしなくて済む。のこる四月の四日間で、講演の下準備が大体できるだろう、あとは按配して納得すれば済む。この「四日間」を、なんとか残しておきたかった。
2010 4・27 103

* 体を励ましながら、本九冊から十数編を必要に応じてスキャンした。これを校正して頭に入れ、そして按配しなければならない。
2010 4・28 103

* たくさんなスキャン原稿の校正もひととおり終えて、腹案ができるだろう。もし、うまくゆけば、明日には百数十の高校あて、寄贈の湖の本も送り出したい、晩にその用意を半分済ませた。明日もう半分。
2010 5・4 104

* 出来るといいがとぼんやり願っていた本の発送も、幸い順調に終えた。やれ、よしと小さな缶ビール一つで睡魔はわたしをたやすく占領し、機械の前でたわいなく舟を漕いでいた。一気に夏が来た暑さ。なんだい、これは。昼寝がいいようだ。
2010 5・5 104

* 連休は、型どおりには今日で終わる。まだ数日、公認で会社が休みというようなところも有るらしい。
明日は、わたしたち、後楽園で、勘三郎らの小芝居をたのしんでくる。これから月末へ、楽しみもあるけれど、緊張の高まってくる日々がつづく。校正が出揃ってくると、これとの格闘はなまやさしくない。約束の講演に、久しぶりに乗り物に乗らねばならぬ。
2010 5・5 104

* 印刷所から、「湖103」が組み上がってきた。急にきりきりと胃が痛むのに参った。「珠」さんにいただいた諏訪の酒をすこし味わい味わい送り込んで痛みを逸らせた。さて、こうなるともうわたしの連休は完全に終え、この先、激しい緊張の日々が七月の盆まで連続する。
楽しく躱し躱し乗りきってゆかねば。
ものの用意も、やれることから手際よくつぎつぎ積んでゆかねばならぬ。
先ずは慎重な校正。併行して、講演の用意。娘と婿との「被告」席に立つ心用意。さらに次から次への作の用意と進行。
2010 5・7 104

* 資料やゲラを読みに出掛けなければ。どうしても机のある階下へおりても、目の前でテレビが鳴っていては思案も何も。なんであんなにテレビを付けっぱなしでないと暮らせないのだろう。
来週は月曜歯医者、それに演舞場歌舞伎がある。、次週は夏場所、次いで俳優座があり、そして講演旅行。それらの間に、「湖103」を、桜桃忌メドにうまく進めないと、これが遅れると、七月法廷の心用意に障ってくる。忙しい老人だこと。
2010 5・7 104

* さ、気持ちの上では寸暇もゆるがせにせず、「いま・ここ」にうちこむこと。怠けているとよけいに身を苦しめるのは体験からも明らか。また暫く、「mixi」はワキに措くか。
2010 5・8 104

* 校正、気合いを入れずんずん進めている。今度の本の題は、一字。『私』である。けっこう大冊。一路、レイタースタイルを追って行く。
2010 5・8 104

* 一気に百二十頁ほど初校し、要再校で印刷所へ戻せるほど整えたが、もう百頁分近く、難しい処が残っている。文字校正だけでは済まない。
併行して発送用意の作業にもかかる必要がある。うまく交通整理して、時間のロスを出さぬようにしたい。明日、この前半に目次と短い序も添え、そこだけでも先に戻せるように進めたい。明日日曜、家での仕事をできるだけ進める。
2010 5・8 104

* 夜前は、おそくからある人の文章を読み読み、「e-文藝館=湖(umi)」へ組み入れる工夫をしていて、床につくのが遅くなった。それから何冊もの本を手にし、さらに今回作の要所のアタマを検討し思案してから、三時半頃電灯を消した。やや夜寒を感じながら浅い眠りのまま七時に目が覚めた。そのまま起きた。
目次を調整し、序文を書き、これで、三分の二近くは印刷所へ「要再校」で送れる。のこりは落ち着いて読み込まねばならぬ。

* なんとか八頁、頁数を削ぎたく、苦心惨憺。編輯という仕事はこういうこともやってのけねばならない、事業仕分けよりもシンドい。欲しい内容を強いて殺ぐのである、読みに読んで推敲して文章の冗を省いても、きちきちの一冊から「八頁落とす」のは身を切るよう。しかし、一冊二百頁は限度として守らないと、みすみす出血で本体を痛めてしまう。もうここで手放して要再校をとる気でいたのに、呻いて奮発、終日費やして、メドをつけた。疲れた。
これで、明日の一日を頑張れば、次の段階へ、アレにもコレにも手をのばして行ける。家の外へ出て、アタマへ空気を送り込みながら、むだなく日程を睨んでからだをラクにしたい。今日も二度、胃の痛みに襲われ、一度は痛み止めと入浴とで散らし、一度はぬくめたミルクをゆっくり胃に送り込んで宥めた。
2010 5・9 104

* あまり静かな心持ちではない。シュンシュン沸騰するものを冷淡そうに眺めるフリをして、落ち着こうと。
一種老人の遊び心なのであろう。
妻は歯医者へ。わたしは、遠い昔の、「母の敗戦」を、今の今のように痛々しく見つめている。

* 前半を「要再校」で送り返した。後半、腹痛を用心しながら読み進んでいる。発送の用意も始めた。今何をすればよく、次には何、この先用意の必要なことは何…と、丁寧に考え考え時間を送り迎えている。
2010 5・10 104

* 雨。血糖値95。たいへん、けっこう。六時間は寝た。出掛けたかった。仕事のため必要でもあり、気持ち安静のためにも楽しみにしていたが、雨。
仕事の進行状況からも今日明日集注しておくと、いい段取りになる。昨夜、ひととおり読書のあと、取り組んでいるゲラ後半を、一通り読み終えた。風変わりな一編の新機軸を、醗酵と純熟へ、一字ずつ一句ずつでも近づけたい。そして、跋も。
演舞場の花形歌舞伎が、近づいている。楽しみ大きく、入れ込むぶん心地よく疲れもするだろう。外歩きとあれこれ思案を兼ねた楽しみは、その後日に。そうこうするうち、講演の日が近くなる。あらまし用意したが、よりよい形へよく整えておかねば。

* 雨やまない。仕事は進んでいる。
2010 5・11 104

* 幸い家に籠もって、後半を読み終え、手も入れた。跋文も書いた。だが、初校が向こうへ戻ってしまうと、この先の段取りは印刷所の主導で、追いまくられるだろう。できれば再校が来週末までに出るなら、それまでに講演の具体的なこころづもりと、発送用意とを併行して進めておきたい。桜桃忌前後には発送を終わらせ、すると、七月法廷の用意や打合せに余裕が出来る。
2010 5・11 104

* 跋文電送し、本ゲラ後半分は今日「要再校」で送り返す。快調。再校の出てくるまでに、ゆったり息を入れて歌舞伎や街歩きを楽しみながら、講演用意と、発送用意とに、力を。心身のバランスを大切に、調子を保ちたい、「いま・ここ」にやすやすといながら。

* なんと! 物置から、大きなタンボール函にぎっしり、亡き実父の遺品が現れた。
妹から送られていて、わたしが見ないものだから妻が、「お父様遺品」と上書きして仕舞っておいてくれた、それを二人とも忘れていた。
手記類は、以前に調べた風呂敷包みに数十冊・束ものノート、原稿用紙の形で書庫の棚の上に載せてあった。今度のは物置の中に仕舞われていた。
急遽調べてみると、今回の新刊作のためには、決定的な「父方祖父の父に宛てた手紙」が見付かった。天佑というか。数頁増頁しても作に「締まり」をつけたい。
その他にも、見遁せない書簡類や父の手記がたくさん有ったし、父の勤務時代や病状を証言する資料が山のように溢れた。
わたしに対し、父が「怒り」をぶちまけている手記も見つけた。
兄とちがい、わたしは父にも母にも、ことに父に対して永く親しむはおろか非難に近い気持ちをもちつづけ、接触を拒み続けながら小説やエッセイを書いていたので、父にすれば「何様のつもりか」という気があってムリはない。
今回は、父よりもいわば「母の闘い」を主にしていたので、そういう父の思いには触れなかったが、いつかは、向き合うことになる。父は、母もそうであったと想われるが、わたしが実父母に親しもうとしないのは養家の秦の育て方が悪いと見ていたようだ。秦の親が恒平実父母に対する「良識」を与えないからだと。
これは明らかにちがう。秦の親達は、そういう態度も言葉もまつたく私に向けたことがない。すべてわたし自身の態度が「決定」していて替わらなかったに過ぎない。
さて、遺品の山の中から一等期待した、われわれの生母から父への書簡、また兄恒彦から実父への書簡は、残念だが一通も見当たらなかった。
しかし母ふくの若い頃の、おそらく父と出会った頃、兄を生むまえ頃の上半身の写真が写真立てに入って見付かった。無言の、いわば父からのメッセージのようで胸を衝かれた。
2010 5・12 104

* 明日、湖103前半分の再校が届くと。講演の旅がじりじり迫る。時間が沸騰してくる。
2010 5・14 104

* 晴れ。気持ちよく熟睡して目覚めた。印刷所から、はや前半の再校ゲラ届いて。待ったなしに仕事が追ってくる。

* 今朝届いた再校ゲラは、すべて入念に読み上げ、いつでも責了に出来るところまで。問題は、後半にある。後半が届くまでに、発送用意を進めて置かなくては。
2010 5・15 104

* 二階で、階下で、また二階で、階下でと作業を反復し、ときどき機械の前でうとうとする。煖房していたような部屋が、今日は冷房に切り替えたいほど。あいだに挟んで父が父の妻子にあてた手紙や当尾の叔父が父に宛てた手紙などを読んでいる。
2010 5・16 104

* 明日、後半問題部分の再校ゲラが届くと。四頁分の補充を入れ、その部分の要念校と跋文要再校とを戻せば、うまくすれば月内、京都へ行ってくる前にも「全部責了」に出来るかも知れない、それなら桜桃忌前にも発送可能かも知れない。気を抜かずいろいろに集注したい。
こういうときが、わたし、けっこう楽しいらしい。
2010 5・17 104

* 火炎瓶ないし火炎瓶闘争は、戦後一時期を象徴するモノ・コトであった。
わたしはそのころ高校生だった。大学に進んだ頃はもう火炎瓶は下火になっていたろうか、よく知らない。官憲や公権にむかい火炎瓶を投擲する大学生や一部高校生たちの行為を新聞等で伝聞しながら、必ずしも顔をゆがめることは無かったが、身を挺して加わろうとも思わなかった。
一部高校生の中に、実の兄と仄聞してきた当時京都府立鴨沂高校の北沢恒彦の名が上がっていたのが、わたしの密かな注目を誘っていたのはムリもない。
しかし、事の経緯等については全く分からなかった。伝わってくる情報も情報の道もなかった。
今度手にした父の遺品のなかに、その鴨沂高で兄の担任だった先生が、相応に詳しい経緯を、なぜか実父吉岡恒宛に下さっていた。
なぜ、昭和二十七年秋当時に、養子縁組も成っていた「北沢」恒彦のことで、東京住まいの実父「吉岡」恒と高校の担任との間に対面もあれば文通もあり得たのか。分からないが、およそ事件の経緯がはじめてわたしにも知れた。兄の姿勢も見えた。
知ってみたかったアレコレが、次々に見えてくる。しかし父も兄も母も係累の大勢ももうみな亡くなっている。今頃になって知れても遅いということは一応言えるが、わたしは、それがよかった、ありがたかったと思える。

* わたしは、若い自分から、「私小説」など若い内に書くべきでないと自分にも言い聞かせ、書いても来た。年寄りになったら私小説も書きましょうと。そのおかげで、若い間に小説らしい小説をとにもかくにも力こめて書くことが出来た。それらがあるから、今わたしは私小説に少しもひるまない。
私小説にもいろんな書き方があり作り方がありうる。その工夫や実験のできる「材料」が天の計らいのように今頃になって手元に溢れてきている。
ふしぎなことだ。これで、いいのだ。

* 後半の再校ゲラが届き、入念に読んでいる。余念無く気を入れ、焦らず読むことがいい収束に繋がるはず。特段、外からの連絡もない。また階下へ。

* しっかり進行している。今日のうちにも片づけられることは片づけたい。仕事の山場で、気分集注。一つには、それが体調のためにも気分のためにもいいから。スリ足してワキをかためハズにかかって仕事を土俵の外へ押し出そうという気構え。結句それが精神衛生に好い。ゆるんでいると、くさる。
仕事は、手や腕で小さく囲ってひとりでヒソヒソとすすめるのでなく、ワイワイ喋ってというワケに行かなくても、それほどの気分で何か外からのヒントも掴み取ることが大事。ひとりきりでする仕事は、どうしてもちいさく縮みがちになる。むちゃくちゃクササレても、そうして大きくて広い場所を見つけること。架空の文学仲間を自分で創り出して、適宜にいつも呼び出すように。

* よしという処まで、仕事進めた。あしたは体を動かすことも出来るだろう。
2010 5・18 104

* 念を入れ、要念校ゲラを見なおして送り出す用意を終えた。自転車で近隣での用を幾つか足してきた。これでまた、講演の用意と発送の用意が出来る。
2010 5・19 104

☆ 雨降り   播磨の鳶
お腹のしくしく、いかがですか?
今日は(眼の術語を労り=)暗い部屋で過ごしています。
「少し変わった作品」と書かれていますが、それこそ皆が長く待ち望んだテーマでしょうか。テーマなどと、そう書いてしまってはとても済まないのですが、丹念にHPを追い、時に危惧し、またそれ以上に応援してきました。
わたしはこれまでに折に触れて(ソレと=)「向き合うこと」を提言していただけに、重く重く受け止めています。
何より残され手渡された多くの手紙や日記などの存在がありがたく、そして敢然と、ようやっと向き合ってくださった鴉の勇気を改めて思います。向き合うことが書くことに繋がり、私小説を書く時期について昨日HPにも書かれていましたね。
書くことと切り離して考えても、それは生涯の課題だったのだと感想をもちます。
既にご自身での理解に及ばれていることと思います。
すべては、計らいなのです、ね。
思うこと多く、ただし外面的には何の変化もなく、暮らしています。大いに問題あり!!の鳶です。一年前のギリシアと格闘?しています。現実の現時点のギリシアも注視しています。
スペイン、ポルトガル、イタリア、鳶の飛んで行きたい国は、みな深刻な問題を抱えているようです。もっともこの日本だって問題山積であります!
久しぶりのメールは僭越なメールになってしまいました。お許しあれ!

* 実父母たちの遺したモノに手を触れ目を当てた最初は、旧臘、師走一日であった。今日で、半年とは経っていない。そして、まだまだ目も通せぬうちに、またどっさり「父の遺品」が一山も二た山も加わった。
それなのに、来月桜桃忌には関聨の一冊を出すところへ、もう来ているというのは、むろん第一投にしても「一種の離れ業」を演じるのであり、粗忽を咎められるかも知れないのである。入稿から校了までに一ヶ月というフルスピードも、大きな欠陥に繋がるかも知れない。それでもわたしは敢行した。赦して戴きたいとは云わない。ご覧下さいと云う。
2010 5・19 104

* じりじりと、幾手にも「いま・ここ」の集注力を分けながら、前へ前へ向いている。すると気持ちも少しずつ緩やかに和らぐ。安心するのである。
2010 5・20 104

* 雨は帰りの保谷駅から家まで。二十分順番を待って、タクシーに。ほかには、傘要らず。二時間ほど遅れて一人で家を出た分、途中で幾らかの再校三校が出来たし、京都へ発つ前日切符も用意できた。なにもかも、手順よし。
それでも、いまも、腹がシクシクと。おちついて、今夜はもうこのまま、休息を。
2010 5・20 104

* さ、また、昨日に次ぐ今日。
講演の用意、入念に仕上げた。あとは、時間内にうまく話せるか、どうか。成るようになる。これで「湖の本」新刊に集注できる。ほぼ余裕もって、桜桃忌前にも送りだせるだろう。
2010 5・21 104

* 発送のための作業をしながらジョン・トラボルタの低級な映画を聞いていた。何の楽しさもなかった。これなら先夜観たクリント・イーストウッドの『許されざる者』は優れていた。画面はしばしばまっ暗に近かったが、西部曠野の夕焼けなど、繪も美しかった。
2010 5・22 104

* 終日小雨、あす、もっとひどく降るのか。校正の出そろう週前半にもふらっと街へ出てみたいが。
2010 5・23 104

* 楽しくお相撲が観られて私たちも嬉しかったですよ、お相伴ありがとうございました。
過分のお心遣いを賜り、恐縮の上に恐縮して身が縮みました。とにもかくにも、「湖の本」維持のためにと、深く頭を下げてお預かり致します。
家で、鵬雲斎の若い頃の「自作」茶杓を見つけました。みるから粗杓ですが、銘の「和」と筒の花押、箱蓋にも自署があり、茶杓自体にも鵬雲斎自身の削り跡がはっきり出ているようなので、うまくすれば、ロスにお帰りの時分にはお家に届いているかと、航空便で謹呈しておきました。どの季節にも使える銘なのが便利と思われますので、気軽にお使い下さい。木の箱が潰れないといいがと案じていますが。
古いけれど紛れない淡々斎の短冊「萬事如意」(万事・意のまま=何事にもこだわりなく、自由自在)の四字は結構な、めでたいものと思います。字も花押もすっきりと、鵬雲斎よりよほど上手で綺麗です。
時代ものの大棗「秋の野」は、利休ものの「写し」であるらしく、塗も時代ですが、大柄にいかにも豊かなところが新しい持ち主のあなたに似合っています、ご愛用あれ。出処はたぶんいろんな理由から、藤田男爵家あたりだろうと想ってきました。いい箱をあてがって上げて下さい、そして気楽にお使い下さい。
「茶ノ道廃ルベシ」「宗遠、茶を語る」の追加 有難う存じます。すぐ送ります。
大関魁皇が堂々と一千勝を勝ち取り、喝采しました。横綱白鵬の二場所連続全勝も流石で、よい責任を果たしてくれました。この本場所をご一緒に観ました。いいご縁を重ねました。
今度六月に送ります新刊は、題も『私=随筆で書いた私小説』です。大半は読みやすく、かなり楽しんで頂けるだろうと。
では、エデイさんともども睦まじくどうぞどうぞご健康にお過ごしなさいますように。
家内からも、お大切にお元気でと。 遠
2010 5・24 104

* このところ根をつめにつめてきたので、芯から心身凝っていたとみえ、何時頃からだろう寝入っていた。はつと気が付くと窓の外が白んでいると。違った。好いの七時少し前。妻はピアノの前へ、わたしは独りで夕食。
明日は晴れ間があるだろうか。後半のゲラを持ち、『水滸伝』をもち、グルグルと電車に乗ってこよう。そして少し食べて。
2010 5・24 104

* 一にも二にも校正が主、校正には電車の中か喫茶店。今日はバカに暑く、肌着は汗みずく、風もあり、日照りを歩く元気は失せ、体調はうまいものを食べる呑むという方でなく。ここぞという食い物店にも飲み物店にも立ち寄らぬママ、カンカン照りの保谷へ早めに帰ってきた。
たぶん、明日の内に校正はみな終えて、明後日には校了にし、散髪に行けるだろう。心おきなく京都へ発ち、名残無くとんぼ返しに帰ってこれるだろう。
講演会場は、一般にも開放されているらしいが、聴衆は少なければ少ない方が有り難い。大勢になるとどうしても散漫になる。
2010 5・25 104

* 一にも二にも校正が主、校正には電車の中か喫茶店。今日はバカに暑く、肌着は汗みずく、風もあり、日照りを歩く元気は失せ、体調はうまいものを食べる呑むという方でなく。ここぞという食い物店にも飲み物店にも立ち寄らぬママ、カンカン照りの保谷へ早めに帰ってきた。
たぶん、明日の内に校正はみな終えて、明後日には校了にし、散髪に行けるだろう。心おきなく京都へ発ち、名残無くとんぼ返しに帰ってこれるだろう。
講演会場は、一般にも開放されているらしいが、聴衆は少なければ少ない方が有り難い。大勢になるとどうしても散漫になる。
2010 5・25 104

* 湖の本103 『私─随筆で書いた私小説』 を責了にした。
2010 5・26 104

* 新宿、紀伊国屋ホールでの、俳優座公演『沈黙亭のあかり』を観てきた。一言で言って、ダメ。凡作。
作の意図も、観念が先行し、持ってまわってキレわるく、作意を伝える説得の妙も表現の妙もなく、さらに演出に創意も切れ味も何も感じ取れなく、俳優たちはほとんど手探りでもてあましていた。退屈して何度も居眠りが出た。テレビの間延びした二時間ドラマと同じ、一時間できゅっと引き締めて創れる材料ではないか。客はよく入っていて、笑いも洩れ終幕に拍手も出ていたが、私、冷え冷えとして面白くなかった。

* それより何より別に嬉しかったのは、亡き演出家増見利清さんの夫人で女優の野村昭子さんと劇場の中で会えたこと。妻もともども、しばらく親しく立ち話できた。シェイクスピア劇の演出で著名であった増見さんの充分お元気だった昔から、なにかにつけご厚意を戴き、最も古くは、玉三郎とそのころ片岡孝夫 (現・仁左衛門)とで演出された『天守物語』に、夫婦して招待されたのが有り難かった。妻ははじめてこの芝居で、「演出」に感銘を受け、以来どんな芝居にも親しむようになった。
俳優座と加藤剛のために漱石原作『心 わが愛』をわたしが脚色したときにも、なにかと増見さんに助言を戴いた。
「湖の本」刊行このかた言い尽くしがたく支援して下さり、増見さんが亡くなったあとも夫人の野村さんの「湖の本」への支持は実に手厚く、ほんとうに愛読し続けて下さっている。
野村さんにはこれまで一度も御礼を申し上げる機会がなかった、今日の親しい初対面、何より嬉しかった。
2010 5・26 104

* 一気に校了にして、此処まで来ると、たしかに、疲れたなあという実感がある。先月二十六日に入稿、今日二十六日に責了、こんな「一ヶ月仕事」という集注はかつて一度もなかった。何かの「功」ではない。そう、「心遊んだ」のである、定めた目論見のままに、遅滞も遺漏もなく、遊んだだけのこと。それでも草臥れはした。
一と休息して、明日は散髪。
卆寿をはるかに越えられた染色家三浦景生さんは、会うと白い蓬髪を噴き上げたようで。この数日のわたしは、そんな三浦さんにちょっと似ている。
2010 5・26 104

* 今日明日はすこし落ち着ける。発送用意を少しずつ進めるかたわら、むしろこの機械の操作にへこたれていた。いつもの通りに扱って転送するのに転送できない。五度も六度も繰り返したが出来ない。ま、機械も暫くしたらこっちを素直に向いてくれるだろう。
チャーリー・シーン主演の「ホットショット2」とかいうお遊びのアクションものを観たり聴いたりしていたが、映画はたわいないが、すてきに色気の美しい女優が出ていて、名前はとても覚えられなかったが、久しぶりに少なからず熱くなった。もうひとり結局は敵役で似た女優がいたが、似ていても、色気のタチと品とが違っていた。
2010 5・27 104

* やっぱり航空便で茶杓を送ったのは軽率であったかもしれない。途中で箱ごと圧しつぶされたか、小さい荷のためどこかへ紛れてしまったかも。追っかけて送った本二冊も、郵便局でクチャクチャとモノ云いをつけられたので心配。これまで二十年、問題なくそのままで扱われてきたものが、なぜ急に文句がつくのか分からない。
2010 5・27 104

* 瑞穂の間、満員。
京都女子大同窓会総会での講演は、一般にも開放。京都の学校友達や、また南山城から父方の親族が老若そろって何人も見えていたりして。
演題は「京ことばと日本と」
時間きっちり、予定していた話題もきっちりみな話し終えて、ま、無事に済んだ。大分笑ってももらったし、ま、これはわたしの話しやすい、また聴衆の九割九分老若のご婦人たちにも、聞きやすくて分かりやすい話題。

* 話し終えて、アトをひくのもちょっと気が重いので、すうっと抜け出るようにホテルを離れて、京都駅前の新都ホテルで一人おそい昼食をとり、予定の一時間早めに新幹線切符を替えてもらって、帰ってきた。
車中、ずうっと「水滸伝」。もう全十冊の第十冊目の半分まで来ていて、残り惜しくて堪らない。

* つぎは、新刊の発送用意をしっかり仕上げて。
2010 5・30 104

* 五月は、いつ節句があったとも記憶がないほど気ぜわしい一と月だった。
A5版二百頁を越す本の(昨今、ナミの単行本なら一冊半に当たるだろう。)入稿から校了に一ヶ月、それでも半分は三校までしたのだから、打ち込んでいなければ出来る仕事ではなかった。ミスがないといいのだが。入稿までにも、構想にヒラメキが来るまで、かなり悩んでいた。
2010 5・31 104

* さて発送用意に、とにもかくにも、終日。
2010 5・31 104

* 朝から、ひたすら作業。妻が歯医者への留守、昼食は梅干しを入れた白粥。このごろ、半ば常食のように粥を食している。さ、また作業へ戻る。封筒に住所印などを捺すのもかなり手が痛い。

* 夕食までに力仕事を進め、妻にも手伝って貰って、もう二日もすればほぼ発送用意は出来る。本が出来てくるのは、十四日午後と連絡が来た。すこし気を落ち着けて待てるし、次の用への姿勢も取れる。きつくはないが、ゆらーりゆらーりと慢性に腹痛がくる。ありがたくない。
2010 6・1 105

* ただ人惑(にんわく)を受くること莫(なか)れ

* 神、佛にも拘らないという、それって、凡夫には容易でない。拘らないと謂うことにも拘らないでいるように。思いをひろびろと遊ばせて過ごすように。

* もうよほど以前からわたしは、いわゆる世間づきあいを、絶っているとまでは謂わぬが、それに近い日々を送っている。わたしから世の中へ開いた窓は「湖の本ぐらいといってよく、それで、幸せとともに苦楽も感じている。余のことは、ヒト、モノ、コトともに、触れあうにしても極く稀薄に過ごしている。
それでも、まさか善意ではあるまい、判読不明の怪文書は、やはりメールとして舞い込んでくる。
「人惑」とは、佛や祖師に拘泥するのを戒めた言葉だが、常平生の暮らしにも、わけのわからない正体不明の「人惑」はどうしても避けることが出来ないし、そういう悪意の迷惑は、みな「文責」不明の怪文書として届く。情けない人達(複数か、複数を装った一人二人か不明だが。)である。
今朝も、メールが舞い込み、おそらくここ当分しつこく増えることだろう。メール、は宛先のアドレをは正確に書かねば届かないが、発信元のアドレスはデタラメが効くらしいので、悪戯はし放題、判明しない。判明しないという隠れ蓑に隠れてやる行為は汚いし、性根・心根はもっと汚い。ひとごとながら、恥ずかしい。しかも、これらはみな文面そのものも、とうてい日本語として判読できない化け物なみのデタラメばかりで、ムダな労力ではないか。正確なのは、わたしのメールアドレスへ向けて届いてくること、それのみ。
「mixi」のでも、奇妙な二三人グループが、いやらしく「足あと」をつけてくる。ごくろうなコトだ。

* こういうとき、水滸伝の豪傑たちが懐かしい。宋江、呉用、関勝、秦明、花榮、魯智深、武松、張清、戴宗、李逵、石秀、燕清等々。彼らには礼譲あり信義ありつねにまっすぐ清明であった。
2010 6・2 105

* 永年のあいだには、住所表示なども変更になり、従来届いていた郵便物が戻って来たりする。知人を介して電話で問い合わせたりするうち、メールアドレスが知れたりして思いがけないこともある。「四十年余りも同じ此処に気持ちよく暮らしていますよ」などと人を経由して知らされたりする。統合でまるで新しい市名に変わっていたりもする。東近江市だの、木津川市だの。

* なんとなく気勢があがらぬまま、じりり、じりりと仕事をすすめ、夜になる。
2010 6・2 105

* 奇妙な夢をしつこく見つづけていて、七時前に床を出た。まだまだ発送の用意は残っている。発送より用意の方にものすごく手と時間がかかる。一期一冊。いつももうこれで最期になるかもと思いながら取り組んできた。この仕事から手を放したら、ラクになるのだろうか。
2010 6・3 105

* 昨日の怖いような頻脈と狭心症ふう胸痛の余響でもあるか、終日からだに活気がもどらなかった。そっとやり過ごすように眺めている。幸い十三日まで、わたしはやや休息気味に本の出来を待てる。第三週は、週末まで発送という力仕事が来て、そのあとは、新しい別の用字へまた踏み出して行く。
2010 6・5 105

* この辺でほぼいいかというところまで発送用意した。

* 「湖の本」の刊行は、売り上げて利潤を追う仕事では、幸か不幸か、ない。ことに近年は、わたしの「文学活動」として、出来本の大方を大学、高校、また敬愛し信愛する学術・藝術・藝能の知人に贈っている。数十年現役社会人・作家として稼いだ貯えを、惜しみなく資金として投じるのに、これほどわたしにピタリの仕事は無い。背後には出版社から出版してきた百にあまる著書があり、その上になお書きためた創作・著述の仕事がまだ十分在る。
創刊以来「湖の本」は満二十四年を経過し、百三巻めが来週出来てくる。百三巻の中には、市販の絶版品切れ本の復刻だけでなく、新作書下ろしの小説を含む、新編輯の新作本が、少なくも二十数巻含まれている。出版社を全く頼んでいない、編輯から刊行まで全てを、老妻に手伝って貰いながら二人で出し続けているのは、シンドイかぎりであるが「自由」の嬉しさ素晴らしさは言い尽くせない。ま、病み崩れるまで、この道は続くだろう。
泉鏡花は五百の愛読者を持っているということで、自然主義派の作家たちに「憎悪」されたというが、そういう鏡花をわたしはこの四半世紀いつも念頭に祭ってきた。どれほど、この仕事が或いは「憎悪」もされているかどうか「知らんフリ」しているが、羨ましいと感じている文筆家たちの少なくないことも洩れ聴いている。
作品の質と量と、編輯し刊行する技術と、手伝ってくれる家族と、そして何よりも作の出版をいつも温かく待っていて下さる「いい読者」とが、わたしには、在る。この四つ、この仕事では絶対に不可欠。どの一つを欠いても、四半世紀、百冊を超してなお継続が可能と謂うこの「仕事」は出来ない。文学の神様に、叱咤激励してくれた優れた先達の文学者たちに、心よりの感謝を書きとどめておく。
もうすぐ、また桜桃忌だ。作家として世に立ち「四十一歳」になる。
2010 6・6 105

* さて不愉快仕事の第二段階を、今日で通過したい。
もう今朝は、「湖の本」新刊の刷り出しが届いている。月曜には出来本が届いて、すぐ「発送」という筋肉労働になる。
もう三日、出来るところまで不愉快仕事と付き合う。愉快ではないけれど、すこし観点と姿勢とをかえれば、あたかも「不愉快コンチェルト」という創作性の濃い楽曲を自ら構成している気もする。コレって、コレも創作の「実験」みたいだと思えてくる。
このファイルが重くなるので、七月から九月分までは暫定「iken0-5.html」に一括移転した。十月には、★★夫妻によるわたしの「ホームページ壊滅工作」が以後一ヶ月近くにわたり実現した。法廷命令により「回復」され、しかし直ちにわたしはサーバーを見限って息子の配慮下にホームページを移転した。
この問題は、実に社会的にも重大で「反響」も凄いほどだった。わたしは作家であり、思想信条・言論表現の自由と権利、著作する人格権のもとに多年活動してきた。ましてホームページには著名な著作者達を含む多数作品の掲載されて「e-文藝館=湖(umi)」も含まれていたのが容赦なく悉く「消去」されてしまったのだ。
その問題の大きさに鑑みて、当時のわたしの日録から要所を此処に部分再録しておくのである。
2010 6・11 105

* 新しいパソコンが、ニッチもサッチも行かない。そもそも東工大の昔、機械の使い始めから、変わりなくNECの機械に慣れきっていて、他社の機械だと手も足も出ない。しかし、今度のソニーは使いにくいというのでなく、ハナから使えない。機械にどんなソフトが内蔵されているのかも分からない。建日子の電話ではなんでもOFFICEというのを使うそうだが、わたしの今の機械でも、かつてOFFICEに手を出したことがない。お手上げ。前夜、日付が変わってからいろいろに触れてみたが、ダメ。
そのせいか、寝苦しくて四時半に目が覚めてしまった。眠れない人のメールが来ていて苦笑した。

☆  睡眠薬をのんでから。 砂
真夜中に、メールというのもよろしくないのですが。星野画廊に、石原薫さんの絵が、そろってあるそうです。機会がありましたら、ご覧になってください。若いころに観たきりなので、いま観たらドンナかなと、思っています。亡くなった麻田浩さんと、同じ頃の人ですが、この方もはやくに亡くなりました。存命なら、どんな絵になっているかな。
南アフリカでの、ワールドカップの試合もみました。日本では考えられない熱気です。もう寝ます。おやすみなさい。

* 眠くなってきた。

* 眠っていられなかった。新刊受け入れには隣家の玄関に積んだ本の山、荷物の山を片づけておかねばならない。取りかかると忽ち腰に激痛が来る。堪えていられる僅かな時間しか作業はムリ。ゆっくりやらない、堪えていられる短時間に一気に決めただけの力仕事をやってしまう。
それからまた機械へ戻って不愉快仕事を一段落まで、やってのける。何のためにこんなこんなことをやってるんだと半ば思い、面白い晩年だともやせ我慢でなく思う。

☆ 忠義水滸伝より
青鬱鬱として山峰は緑を畳(かさ)ね
緑依依として桑柘(そうしゃ)は雲を堆(つ)む。
四辺の流水は孤村を繞り、
幾処の疎篁は小径に沿う。
茅(わら)の簷(のき)は澗(たに)に傍(そ)い、
古き木は林を成す。
籬外には高く酒を沽(う)る旆(はた)を懸け、
柳陰には閑かに魚を釣る船を繋ぐ。     15-88
2010 6・12 105

* 午後に、新刊『私──随筆で書いた私小説』204頁が届く。すぐ、発送に取り組む用意は出来ている。
2010 6・14 105

* 十一時半、小雨のなか新刊本が届き、以降六時間、ぶっ続けの荷造り、そして最初の発送を今しがた終えて、痛烈にいま腹痛最中。湯に漬かって胃を温めようと思う。それでも、今日にはこの辺までと予定した全部を送りだせ、満足している。
漠然と、桜桃忌には「次」が送りだせるかなあと思いつつ一冊の編成に手を付けたときにはとてもムリと思っていた。思いながら、機をはずすと裁判の日程が迫って「湖の本」は夏遅くになってしまうが、そうはしたくなかった。
まだ若かった編集者時代にも、物書きで月に十数種の依頼原稿と長編の進行をこなしていたときも、わたしは時に相当な集中力を用いることが、ま、出来た。この後期高齢者と謂われかけている今回も、ちょっと意想外に難儀な仕事と作業とをうまく竪繋ぎ出来た。出来ていなかったら、ホントに胃に穴が空いていたかも知れない。
十九日の桜桃忌には、創刊して二十四年めの当日には、ほぼ第百三巻発送を終えようとしているだろう。そしてもう頭にあるのは、法廷のことではない、次の新しい「小説」をどう心ゆくまで実験できるか、だ。
2010 6・14 105

☆ この頃  珪
先生に語りかけたいと思うこと、しばしばあります。
事実は小説より奇なり、先生ほどの人生があるのだろうかと、よく思います。

* 今度の本で、また一層そんな思いをさせてしまいそうだ。
2010 6・14 105

* 昨日は晩までで作業をやめ、入浴し食事をし、上腹部に膨満痛が来た。横になり、、軽快したかなと起きたところへ、和歌山の親しい読者から電話が来て、話している内に腹痛が満潮のように襲い、電話を切ったアト激しい悪寒をともなう発作が起こり苦悶状態になった。狭心症様の苦痛と腹部の苦痛とをこらえたままニトロと降圧剤と精神安定剤とを間隔を置いて呑み、苦痛は一時間に及んだが、そのまま寝入ったらしく、今朝まで。
痛みはぬけているが脱力して活気なく、コクーンへ勘三郎を観に出掛ける前に立て直せるかどうか。左の肩がきつく張って痛んでいる。
これが現状。
お天気は回復し、戸外は明るいようだ。肩の上に巌を負うたような痛みがある。散髪屋がイツモビックリするほどわたしの肩も背も石のように硬い。
2010 6・15 105

☆ 早い早い。 花
湖新刊が、今日届きました。
ありがとうございます。
キツい体調で、頑張って発送してくださったのですね。
> 今は何よりも体調の管理が優先します
その通りです。
気持ちのくつろげるときが、早くきますように。
風、お元気ですか。

* 渋谷への地下鉄で、新刊をあたまから読み直していて、不覚にも涙が溢れてきた。出来映えに自愛の涙ではない。こんな風に生きてきたのは、なにも珍しいことでないが、わたしに起きた他に、例がないのをふと気づいてしまい。
2010 6・15 105

* 七時半に起き、発送の作業をゆっくり始めた。脱力感とかすかな体熱とで、まともな体調とは謂えないが、ゆっくりゆっくりなら体の方を馴らして行ける。

☆ 体調、すこしはよくなられましたか。大事に、もっとだいじにおすごしになられますように。烏が、2羽でないています。暗いのに目が見えるのかしらん。よーく、ご無事におやすみになられますように。 03:47
* 機械の前で沈み込むように寐てしまう。なさけないヤツ。

* 午前の作業を終えた。午後の作業は適量に抑え、明日に繋ぐ。体疲労を、昼食後すこし寐て回復させよう。

* 二時間寐つぶれたあと、発送の作業を孜孜つづけ、すこしアイサツのコピーを刷り増さないといけなくなって二階へ上がってきた。ひどい暑さと体疲労とでボウとしてるが。

☆ 本のこと   播磨の鳶
湖の本が届き、それからずっと他のものが世界から消えてしまったようで、没頭して読みました。
特に序、基点、序章、補章、私語の刻・・「本章が抜けてしまっているよ!」とご批判を受け止めますが・・呆然と読みました。さまざまな人の思いが幾重にも重なり、しかし紛れもなくあなたへの愛が存在したことを思います。
随筆に対するお考えも、わたしなりに以前からの疑問のいくつかが解けたように感じました。(随筆を軽んじると誤解されるようなことを書いて、叱られたことがありましたっけ。)
頭クラクラしながら、何かを伝えたく、ただ伝えたく。
どうぞお体大切に大切になさってください。

* 書いて本にして、よかったと思う。こんなことは秘め隠しておくモノだと嗤う人もありましょうけれど。

* 夕食までの予定をし終えて送り出し、夕食もーを軽く済ませた。
手洗いへ入っても機械の前でもとめどなくうたた寝している。このまままた少しやすもう。今夜と明日とで九分九厘終えるだろう。 2010 6・16 105

☆ 湖へ
昨夜帰宅すると、新しい「湖の本」が届いていました。
ワクワクして頁を繰り始めたらつい途中から読み始めてしまい、最初に戻らないと、、、などなど思いながら読み進んでいます。
お蔭さまです。ありがとうございました。
今日は父の36回目の命日で、36年を経ても、あの苦く重い感じを思い出す日です。それでも今宵、美しい三日月だけでなく「湖の本」も共に在り、あっという間に時間が過ぎてゆきました。
ありがたく、有難く。感謝しています。
これからもお元気で「湖の本」を送り出して頂きたいのです。くれぐれも、大事にして下さい。
降圧剤とニトロ舌下が度々ある様子、自己判断は危険です。一度受診して、どうぞ検査など受けて下さい。
是非に、お願いします。
湖、お大事に。お気をつけて。  珠

☆ 秦先生  珪
昨日新しい「湖の本」が届きました。
前半に据えられた、過去に触れた文章の調子がとても懐かしく、内容とは別に、不思議と暖かく穏やかな気持ちになります。
自分も含め日々着実な老いを目の当たりにしながら、一見完全に枯れているのにここ数年ちゃんと花をつける鉢植え、たまたま今年初めていただいたミニのトマトと茄子の苗木の奇跡のような伸びを、楽しんでいます。

* 午後の発送を終え、少し別口を郵便局へ運べば、今回作業一応終了する。作業場から玄関までも荷を小分けして運び、玄関で宅配用の籠に詰めるという仕方などで、労力を細分化して、妻に随分働いてもらった。わたしは半ばぼうーっとして荷づめをしていた。
いま郵便局へ妻を後ろに乗せて自転車で用事に行ったが、帰りの坂がかつてなく登り切るのに精一杯だった。よほど体力が一時的に落ちていると見える。
しかし、ま、終えた。
この先は、いやおうなく、裁判所へ出廷のこころづもりをする。虚しい時間潰しだが、沢山の資料を点検しておく。それ以前の九日に、聖路加の糖尿診察がある。八日、建日子作・演出の、なにやら時代劇が俳優座劇場であり観にゆく。

*夕方も早いうち、つねより少なめに鮨を出前させたが、一人前が食べきれなかった。舌にいい味がなかった。湯に入ろうと用意を頼んだまま、床に横になり、そのまま十時すぎまで熟睡していた。もう朝かと思った。

☆ 京の のばらです。
新しい湖のご本届きました。
いつもありがとうございます。
ご体調の悪いなかでの執筆や発送作業など、お疲れで酷くなりませんよう、くれぐれもお大事になさってくださいますように。
長い年月、秦の伯父さん、叔母さんにも言うに言われぬ心の葛藤があったことと、今更ながらですが胸に堪える思いがします。
大切に読ませて頂きます。
どうぞ、お身体お大切にお過ごしくださいますよう。   従妹
2010 6・17 105

* 幸い、湖の本103 『 私──随筆で書いた私小説』の用は済んだ。京の従妹のいうように、なにより秦の両親や叔母への気持ちをこう表せてよかった。播磨の「鳶」さんがいちはやく、「呆然と読みました。さまざまな人の思いが幾重にも重なり、しかし紛れもなくあなたへの愛が存在したことを思います。」という言葉を噛みしめた。
ほぼわたしの年齢を追って書かれてある「三十二編の随筆」を、今回限りはどうか順番に読んで下さらば、私の思いや理解の変遷もまた文体・文章の変遷も看て取って下されよう。
「序」をここへ挙げておく。

秦 恒平・湖の本103『 私──随筆で書いた私小説』  序

この、例のないスタイルで編成した「私」小説は、三十二編の「随筆」と「補章・母の敗戦」とでバランスされている。いま七十半ばに年老い、私はこの小説を通して、じつに生まれて初めて「生みの母」と、真面(まおもて)に向き合うハメに立ち至った。

この母は「日本の敗戦」を背に負い、昭和二十二、三年(一九四七、八)私が小学校六年生から新制中学にあがる直前、この「私」のため、或る闘いを闘っていた。
私は、まったく気づかなかった。大人たちはみな私のために秘していた。六十余年を経、昨平成二十一年(二◯◯九)師走、初めてあらましを識ったのである。
迂闊であったとも必然とも言(こと)わけは避けるが、ただ私のための其の「母の闘い」を仮にそっくり記録し表現してみても、私の思いはそこを大きく逸れて、自ずともう一人の「私」があの時あそこに生きていた、あの後も永く生きて来たとの長嘆息を禁じ得ない。年齢と年輪を追った三十二編の随筆がそれをありありと表している。
「いま・ここ」で私の実感を謂うならば、生みの母や実の父への思いは思いとして、より大きく深くは、こんな私を、のびのびと育ててくれた秦の両親や叔母への熱い感謝、あまりにあまりに遅すぎた深い感謝である。なんという「私」であったことか。
2010 6・17 105

* 汗になり、肌着を一度取り替えたあとは、めずらしく安眠、八時半になっていた。
発送の作業が済めば、たとえよろよろとでも羽を広げて歩きに出たかったが、妻が歯医者を予約してしまい、しかしそれも、気より、からだが頼りなくて、失礼しようと思う。暑いが、冷房すると違和感が来る。
四日の人間国宝の會から二週間、途中十五日のコクーンでも不調に陥り、いずれも名演・快演のちからに助けられて苦境を凌いだが、連夜夜中の苦痛がつづいたなかで、力仕事の発送を完遂した。完遂は喜びだが、力を使い果たした気味もあり、体力回復のためここ三日は心を解いて休息し、月曜、弁護士との打合せに備えたい。度外れた暑さが難敵として加わってくる。

祝融は南より来りて火龍を鞭うち
火旗は燄燄と天を焼いて紅なり
日輪は午に当りて凝りて去らず
万国は紅爐の中に在るが如し
五岳の翠は乾きて雲彩(くも)は滅(き)え
陽侯は海底にて波の竭(か)るるを愁う
何(い)つか当(まさ)に一夕金風(あきかぜ)の起こりて
我が為めに天下の熱を掃除せん

ことを、水滸伝に借りて願いたい。

* 昼食後、三時間近く寝入っていた。寐て回復しているのか、生気を喪っているのか、分からない。必要なのは、喜ばしい、嬉しいという「栄養」だが、どう探せばいいのか。
2010 6・18 105

* 私的なパンドラの箱の蓋を開けたのである。もう、絵空事の本来へ帰るしかない。書き残した小説を幾つか書き置いて。

* 巻頭に置いた随筆は、もともと随筆として書いたのでなく、私家版『畜生塚・此の世』の小説「畜生塚」のために書いた。昭和三十八年だった。二十八歳。後年「新潮」に発表の時、 割愛した。露わに書きすぎたと感じ、容赦なく削った。他にも、バサバサとたくさん削って作品は成功した。桶谷秀昭さんや立原正秋さんに、「新潮」の小島喜久江さんにも、褒めてもらった。
その割愛したアタマの方の一部を今回此処へ、巻頭随筆の第一番目に置き直した。意図としては此処がふさわしい。筆致も懐かしい。思いも懐かしい。
ここへ帰ろうと思う。もう少し早く帰ってもよかった。
題は、今回附したのである。
島に立つ夢

時は涯なく流れ、生涯は短かい。人との出逢いはさらにはかない。水の泡にひとしいその出逢いが時として珠の輝きをひらめかせたまま、とび去ってゆくことがある。燃焼させたものの美しい残光なのだろうか、底暗いものの限りない拡がりの中をのぞきみて、その光に執する想いは無明に近い。幸せを追っているとも、不幸を培っているともいえる。
畢竟、別れのない出逢いはないと知った上で、成ろうならかずかずの出逢いにさめやすい夢の美しさを注ぎいれたかった。親にはなれて育つよりなかった私の精一杯の生きのよすがは、絵空事こそ真実と思いきめ、血も肉もつながっていない他人の心へ愛という無意味な墓標をうちこみつづけることだった。
私の中に私を呼びさまそうとする声があった。背きがたいひびき、背けばたちまち罰しようと脅かし容赦なく信を迫る声があった。

はかないことを夢もうではないか。
そうして、事物のうつくしい愚かしさについて思いめぐらそうではないか」
開いたまま膝に伏せた本をとりあげ、もう一度この言葉をきいた。岡倉天心の『茶の本』(浅野晃訳)は第一章をこの言葉で終っていた。そこまで読んで私は焦らだちから我にかえった。

はかないことを夢みる。事物の美しい愚かしさについて思いめぐらす。哲人の詩心が茶の湯を通して言わせた逆説と釈るべきではない。確信だ。夢を払おうとするのはかまわないが、払いさったと思うことがそのまままた夢であると知るなら、真実は一つ、夢を蔑んではならず、すすんでその中に生きのよすがを打ち樹てることでしかない。茶の湯の遊びはそう誘っている。出逢いと別れとを一期一会に凝集させ、ひたむきに美に触れようという茶の湯とは、「われわれが人生として知っているこの不可能なもののうちに、なにか可能なものを成就しようとする柔和な企て(同前)」なのである。
何が可能なものなのだろうか、はたして。
叔母宗陽の助けで少年のころからこの柔和な企てをつづけ、成就したい何かを胸奥から離さなかった。あの声は、その時から私に呼びかけはじめていた。

今にして驚くのだが、私が自分の名前に気づいたというか、ああこれが自分の名だと思い当ったのは、京都市東山区の新門前通にある秦家に連れられてきた最初の正月、祖父、両親、叔母と一緒に新年の膳についた時が初めてだった。何歳頃だったかももう思い寄らないのだが、四つより年上ということはない。私の名は箸紙に「浩一」と書いてあった。叔母がひろかずと読み、こういちとも読めるぇなあ、となりの孝一ちゃんといっしょやなと言ったのを覚えている。
名前は、奇異なよそよそしさを感じさせた。生まれながら呼び親しまれたこれが自分の名であったかしらと、落着きはらった漢字二つをみるにつけ、あまりに疎遠だった。そぐわない焦らだちは、この馴染まない家と家族への漠然とした不信、不安にかようものであった。
私には元来名前などなかったのではないか。そう思う。記憶がない。浩一というまんざらでもない呼び名にお目にかかったのはもちろん、耳にしたのも初めてで、はっきりと、へえこんな名になったんやと思ったくらいだった。
だが、それより古い想い出も、幾らかはもっている。
あかるい蒼い空、風にそよぐ稲穂。ひろい庭と小さな門。門のわきにも背の低い長屋があって、入り口は半坪くらいの板敷の内と外とを白障紙がへだてていた。主屋は大きく、外庭と内庭の堺は生け垣になっていた。内に築山や松の樹があった。家の裏には鶏小屋が場所をとっていて、わりと大きい犬が一匹庭から庭へ走っていた。お爺さんに叱られて松の根っこに縛られたような記憶は、後々までものこっていたし、お祭りか或いは珍らしい客の来た日でもあったか、夏の宵を兄さんと姉さんとのみている前ではしゃいで庭をぐるぐるかけたこと、犬もあとを追っていたことも。
今となっては、ひょっとしてまるで夢であるのかもしれぬ。お爺さんもお婆さんも兄さんも姉さんもいたが、顔からだともに、かきけす影としか想い出せない。何処であったのか、その人たちがどんな人だったのか何も知らず、知らされていない。後々まで、あああんなこともと想い出した松に縛られた事件なども、私をその家の子として入籍するのを拒んだといわれる老祖父の折檻であったかもしれぬ。

ある日、秋も半ばのよく晴れた坂みちを、稲田のかげから二人づれの客が門の方へやってきた。ついぞみぬ街の人らしい二人づれが笑いながらきた。私は門の内へとびこんだ。裏の方で鶏がけたたましく鳴いていた。
二人づれは、私の父と母親だとひきあわされた。へええと思った、それだけだった。いやににこにこした女の人は、みたこともない大きな木製の飛行機をとりだし組み立ててくれた。もう晩方になっていたか、赤っぽい暗い電球がまぶしくて、女の人がほうれブーンと木の飛行機のとぶ真似をしてみせる。へんに狭っ苦しい部屋、ひょっとして廊下だったかもしれないが、みんなが突っ立ったまま話しているのが落着かない。
この人たち何なのか、何をしに来て、どうして私にチヤホヤするのか。犬も鶏も、いつもよく晴れた空の色も、広い庭もすうっと暗やみにあとじさりして行きそで、私はうつむいた。
は…と気がついた時は、京の新門前へ、ハタラヂオ店へ連れて来られ、家に入るのをいやがり表のショウウィンドウの柱に抱きついたまま、ビショビショとズボンの裾をぬらし泣いていた。ウインドウの灯に浮きあがり、私の目に宵やみばかりがなさけなく暗かった。
あの時の二人づれが秦の父と母とであったかは確信がない。木の飛行機はかなり後日まで家にあった。図体ばかりでかいそれを私は殆ど愛玩しなかったから、翼と胴体とをはずして、久しく二階の箪笥のうしろに放りこんであった。あんな気のきかないものを呉れたなど、やはり今の父と母であったのだろう。
どんなふうに新門前の家に連れてこられたか、覚えがない。とにかく、気がついた時は泣いていた。どうしても馴染まず、いくらお入りといわれても、頑固に家の外にうずくまり、夜おそくまで泣いてねばったらしい。もう四半世紀にもなるが家の構えはぽっちりも変っていない。しがみついていた抱き柱も今もそのままあって、それに自分史の一起点を私は感じる。泣いてすねて小便をたれる男の児のあてど無さが、私、人生の出発点だった。

ほんとうは、何と命名されていたのだろう。名を、もたなかったかもしれぬ児。新門前の家より以前の私は存在しなかったのと同じで、時間の背後に隠されていたのか。すべては、新門前のあの薄暗い家の中から芽生えたか。
だが、私はあの二人づれのやって来た日の空の蒼さ、世界の広さをかすかになつかしむ。新門前へ来た時も、つづく想い出も、あれらは全部が「晩」ではなかったか。太陽の光をもたないいわば電灯のうす暗さの中へ、たった一人で来てしまったことに、幼い私はすでに宿命的なあきらめをもたなかったか。それを想って今も寂びしい。
もらひ子の境涯から自由になるために、血縁なるものを仮りの約束ごと偶然の結ばれとして拒絶し、真実の身内を、他人と呼ばれる人たちの中に見出そう、そう考えようと幼かった私は自分に強いた。父母未生以前本来孤独と思うことで自分を鍛錬した。

心のうちに一枚の絵がある。涯ない海原だ。人一人がやっと立てるだけの島に一人ずつ人が立っている。島から島へ架かる橋はなかった。架けようとすると島と島とは遠のいてしまう。孤絶の表情をして顔と顔とは容易に向きあうこともならぬ。海は広く島の数も限りなく多いのに、何とものすごい静寂だろう。寂びしさに耐えずむなしく呼ぶ声が地獄の物音のようにひびく。
このように、ああ、自分たちは世界に投げ出されている。孤独が絶対なのは疑いようもない。だからこそ愛の呼びかけも、また永遠。成就するはずのない愛はただ孤独の歎声の同義語。一つの島に二人で立つことは永劫許されない。だが、真実互いに身内と許し合えるなら、ほんとうにそうなら、一人しか立てぬはずの私の島に私以外の人も立つことになる。解きがたい撞着…。少年の孤独と愛は撞着のまま輪廻してやまない……。
身内は絶対に許されないか。愛の不可能を可能とする企ては在り得ないか。はかない夢と思いながら、この、はかない夢という言葉に惹かれた。はかない夢から早く醒めよと教える人は多いが、夢から醒めたその時に、夢のはかなさにまさるどれほどの確かさがあろうとも思えないのが本心だった。夢のまた夢で人間の生涯が果ててゆくのなら、すすんで夢の中に美しいもの、願わしいものをはかなく夢むのがいいのではないか。成就したい何かを可能にする企ては夢に遊んで夢を拒まないことにある。無明という言葉を知ったとき、それでいいではないかと思った。愛染無明をすすんで受けとれば、無明も無くまた無明の尽きることもないところに存外近くいるかしれない。
あの声は、呼んでいた。夢から醒めるな、夢の中に価値を樹てよ、美しく夢みよと。夢が夢であることを知った上でむしろ夢にむかえと。
畢竟すべては否定されてある。身内を願うことも、身内を得たと思うことも、私の島に人と並び立ったと思う幸福惑も。歎くな。夢ではないか。

気がつくと、いつも広い野に一人佇っていた。足もとから広漠とひろがる野にはさやさや鳴る乾いた草が一面にどこまでもつづいた。熱気のない薄暮に似た淡い光が野づらをしずかに蔽い、遥か遠く、もの言わぬ山なみの影があって、そこにも淡い光はあった。私は考えるでも、また祈るでもなく足さきに草野を感じながら黙って黙って佇っていた。前にも後にも私を導いて行く道はなかった。千年もの昔からそうしていたように、ただそこに佇ち尽した、寂びしいよりも安らかな、ああ、静かさの中に。
広野は私の本然の世界だった。遠山に日のあたりたる枯野かなと虚子に教えられた時から、私は夢の現実世界の一段下に、本然の自分の世界の広がっているのを目にみることが出来た。水爆実験があり、汚職があり、人種差別があり、船が走り、颱風が襲い、運動会があり、飲み屋があり、暴行があり、生き別れがあり、結婚があり、就職試験があり、おべっかがある世界にいて、はかなく夢みながら愚かしい美しさについて思いめぐらすのはなかなかむずかしく、疲れやすい。むなしくなると私はとことこと広野へ下りていった。佇んだ。愛などという絵空事に魅せられようためには孤独と親しむことが必要なのだった。
海の中の島の繪のそばに、遠山に日のあたりたる枯野原の繪をならべる。二枚の繪をみていると、殊更に醒めやすい夢であった。夢みることに不断の努力が必要にさえなった。信を迫るあの声に催され、無明こそ真実と私は自分に言いきかせねばならなかった。
(昭和三十八年九月起稿『畜生塚』より。「新潮」では割愛。)

☆ 湖の本 103 拝受。
表紙を拝見するなり どっきり でした。美しい表紙です。緑の色も美しい!! 裸婦でありながらいやらしさがなくて藝術品です。
さきほど入金させていただきました。  有り難うございました。
今年は暑い夏の制作から解放されます。
大作の制作もだんだんつらくなってきました。 これが年齢というものでしょうね。
6月26日に京都で美工の同窓会があります。 行こうかと思いましたがやはり諦めることにしました。
私にとっても京都がだんだん遠くなってきました。  どうぞご機嫌よろしく。     郁

*つぎの大きな仕事へのアイデアがホッと点灯した。そのためには、大きな一つ手続き・礼儀を践まねばならない。そしてまた、甚だしい心身の苦痛にまみれねば、とても書けそうにない。「母の敗戦」を今回書いた。母へはそれでもシンパシイが動きやすい。父には動きにくいのだが、それでも、今回「私」を書く形で母を書きながら、じつのところわたしは父の身に負うた、いや父が身に負わされたものの過酷さを、怒り、憎む思いを忘れていることが出来なかった。書ければ、それを書く。そのためには、或る医学者・文学者の教えを請わねばならない。
2010 6・18 105

* 桜桃忌。山形の芦野さんより、すばらしい輝きの「桜桃」を、たっぷり祝って頂く。例年のお心入れ、嬉しく、心より御礼申し上げます。両親等の位牌の前にそなえ、一粒、おさがりを頂戴した。

☆ 湖の本103巻ありがとうございます。

私ー随筆で書いた私小説
もう前に届いております。お礼が遅くなりました。
題を見て目次を見て、序を、基点を読みました。
秦さんの以前のお腹の重い痛みが、移ったかのようにずっしりと響いて、先へと読み進むことができません。辛いです。重いです。
せめて序章をと読みかけますが、無理です。
目次ばかり眺めています。家事の合間、車中の読書とはまいりません。
お身体への重荷を課せられて送っていただくご本 申訳ない気持ちです。ありがとうございます。
ご本発刊が済めば、お身体の調子が快くなられるようにと願っていましたが、この2・3日の服薬のご様子では、一層痛みや苦しみが増しておられる様。
どうぞどうぞ、身体が発しているサインに忠実にゆっくりお過ごしください。  靜

* もう払い込みが届いているが、読者を「絶句」させている。時期が早いほど「宗遠、茶を語る」にはたくさんな書き入れが在った。苦痛の分をたくさんな随筆に元気に和らげて欲しかったのだが。
2010 6・19 105

☆ これまで背負っておいでになった重いおもいものを、はっきり形あるものになさった、あるいはしなければならなかった秦さんの心のうちを推しはかっています。
湖の本のなかでもこの103号は、父から息子への最高の贈り物と思います。ご無事をお祈りしています。  毅

☆ 湖様
『私』戴きました。
昨日、ポストに「湖の本」の届いていることを確認し、早速拝読いたしました。お送りいただきありがとうございます。
今日 土曜日もNPOの仕事があり、やっと一週間の疲れを癒しています。
今日は桜桃忌ですね。
「桜桃忌のころ」の最後の二行 「ひょっとして私はあの人の疲れた耳に少年の愛を聴かせたく、それで軒下に佇みうたいつづけたのかも知れない。」が、心に沁みました。
「産みのよろこび」では、当時の最先端を行く『新生児研究』の研究書を、学士会館に40人もの専門家を呼んで編集会議を開いて企画されたこと、すばらしい業績を挙げられたことに感動しました。
まだ、すべてに目を通してはおりません。特にお母様の遺稿の部分はじっくりと読ませていただきたいと思っています。
テレビではサッカーの中継放送が流れています。これから二階の娘一家が一緒に観戦しに参ります。
精一杯働きながら、なんとか元気にしております。
湖様 お体に気をつけて 日々お元気にお過ごしくださいますよう。   波

☆ 6.19 御礼
秦さま、新刊「湖の本103 私――随筆で書いた私小説」 ご上梓おめでとうございます。ありがたくご恵贈たまわりました。  とつおいつ、ゆきつ戻りつ、幾重にも楽しませていただきます。長い夏に入りました。どうぞお健やかにここちよくお過ごし下さい。 作家

* サッカーは観なかった。吉右衛門と、岩下志摩・梶芽以子の、つねなら観ない「鬼平犯科帳」をぼんやり観ていた。もうやがて、日付が変わる。
2010 6・19 105

* このようにして、外の世間へ素肌をさらして劇場型に生きているかぎり、夥しい黒いピンがわたしを刺す。無惨に目に見えるピンがあり、まるで目に見えぬ無数のピンがある。避けるわけに行かぬが、それらに傷つかないほどわたしは強くも放胆でもない。とても無条件に清くも爽やかにもおれない。律儀すぎるほど傷つく。
だがこのようにして生きている限り、幾らか「お互い様」であるのだろう。わたしのあずかり知らぬ世間で、あずかり知らぬどんな「黒いピン」がわたしのために悪意善意で生産されていようと、わたしは知らない。手の打ちようも関係もない。
はっきり「言い置く」が、わたしは世間へ出て大勢とせっせと会い、さまざまな会話対話のなかで他人の上へ悪声を放ってきたり毒饅頭を転がしてきたりは、決してしない。そんな陰湿で卑怯な真似は決してしない。
批評はする。みな文責を明かして「書いて」いる。明かす必要のない実名には十分斟酌も考慮もして、しかし「かげぐち」はしない。唯一といえる我が「外向きの仕事場」、ウエブの『作家・秦 恒平の文学と生活』に拠り、ぜんぶに責任を持って、「書いて」示している。
たとえばこの一年で云っても、文壇の同僚のほとんど只一人ともわたしは会っていない。ペンや協会の活動とも一切遠のいている。むろんそうではないが、厭人・嫌人癖かのように人と顔を合わす機会をもたず・求めずに暮らしている。プライベートにも、あまりにあまりに人と会っていない。
隅田川の橋も一人で渡る、タマに妻と渡る。
せいぜい劇場や能楽堂でやあやあと知人に声を掛け合う程度で、高麗屋の藤間さんが、われわれ夫婦とも、心はずんで立ち話をかわしている唯一ペンの同僚会員である。

* それでも、「湖の本」をお送りしてきた各界人・教育機関・遠い近い知人そして読者が、わたしには有る。十分ではないか。
もし、わたし自身の「劇場」と謂うなら、それは「湖の本」と、「闇に言い置く 私語の刻」を日録としたホームページ、そして「mixi」のほかに絶えて無い。ここへ飛んでくる黒い針なら、わたしは黙って受ける。時に反応するが、ほとんどは黙って避けるだけ。
このところ、わたしからのメールを受け取る人はめったにいないはず。
人生の幕を引こうというのでは、ない。来るメールは感謝して受け、返信は日録のうえですることも返信することもある。しかし自然間遠に去る人を追いはしない。歳々年々人不同とは、人生の教訓。
今朝の新聞に岡井隆氏が当時七十歳歌人の歌を挙げていた。

わけの分らぬ言(こと)を時々放つのみ
よき人さかしき人にまじりて    土屋文明

二行に分けたが、こう読まれるのが普通だろう、だが、ふと、こうもわたしは読み取った。

わけの分らぬ言(こと)を時々放つのみ よき人(は)。
さかしき人にまじりて    土屋文明

ともあれ、「わけの分らぬ言」にこそ「真実がある」と文明は「言い放った」という岡井さんの読みに、喜びと励ましとを覚える。まちがっても、「さかしき人」に近づきたくない。

☆ 御礼   作家
秦先生   *****です。
その後お変りなくご健筆を振るわれておられるご様子、
お慶び申し上げます。
この度は「湖の本103」をご恵贈くださいまして誠に有難うございました。心よりお礼申し上げます。
先生が私小説の新たな試みを始められたことに驚きと喜びを感じ、まだ**歳になったくらいでへたばっていてはいけないな、
と反省いたしました。
先日、歴史・時代作家の集まりに顔を出したのですが、
60歳を越える皆さんが年間15冊出した、20冊書いた、と話されているのを横で聞き、
大いに刺激になったところに、先生の「湖の本」を賜り、これは天がもっと書け、と私に命じているのだな、 と勝手に思うことにいたしました。
出版界は日に日に私の知っている世界ではないものに変容していますが、
書きたいものがあり、書き続ける限り、作家として生きていけると信じております。
今後とも宜しく、ご指導と、ご鞭撻のほど、お願いいたします。
お礼のみにて失礼いたします。 拝

* ただ、おどろく、ばかり。

* ありがとうございました。
本の発送など、終えました。
お変わりなくご機嫌よくお過ごしのこととお慶び申します。
頂戴した 翡翠のように照ったマスカットも、すばらしく熟して美味しい限りを戴きました。
いつもながらのお心入れに感謝申し上げます。
今度の本もまた、私事のパンドラの箱をぶちまけてしまい、ガクリと気落ちして居ます。
首にも背にものいたことのない巌のような硬い重いものを七十余年背負うてきましたが、我が事に有らずと思いつつ、重いモノは重いなあと苦笑いが唇に凍り付きます。
さ、参議院選挙はどうでしょうか、心ゆく結果が生まれればいいがと願っています。どうぞ日々お大切に。 秦 恒平

* こんどの『私』は、私の成長年齢の順とも気付かず(或いは気づきながら)、目次にずらりとならんだ三十二の「随筆」の題に、楽しい読み物とまず受け容れてくれた(或いはそのフリをされている)読者が多い。著者の作戦というか意図はまず前線のところで成功している。問題は、それから、ですが。やっぱりはらのシクシクはおさまらない。
2010 6・20 105

☆  御礼   莉
湖の本103巻、頂戴致しました。
ありがとうございます。
日付が変わってしまいましたが、父の日でした。お身体を大切になさって、おじい様の元気なお顔をこれからも見せて下さいませ。
先日、やっと『暗夜行路』を読み終わりました。
私にとっては重い小説でしたが、最後には清々しさを感じました。
最後の、謙作が山で自然と一体となる場面は、私も一緒に何か壁を乗り越えたという印象を受けました。
謙作がそのまま溶けて消えてしまうのではないかと思いましたが、彼の心の中にあった冷えた部分が消えていく感じは温かかったです。
この場面はすんなりと心で理解でき、謙作のこれまでの葛藤を私も少し感じることができました。それまでは謙作の行動を理解するのは難しかったのですが、この場面は謙作の心に少し近づけました。ここが一番好きなところであり、共感できたところです。

おじい様、また大きなことが目前に迫ってまいりましたね。
法の力で裁くということが、私には未だに納得できません。
おじい様はありのままの姿で、やす香ママの前に立って下さい。
永遠に、おじい様はやす香の愛する優しいおじいやんです。
だから、まっすぐ立っていて下さい。
私はいつもおじい様の後姿を見つめています。
私も、おじい様おばあ様が大好きです。
体調のお悪い時に、おばあ様にお背中さすっていただいて、一番の治療薬ですね。
いくらおばあ様の優しい魔法の手がおありでも、お疲れになったらご無理をなさらず、ゆっくりお身体休めて下さいませ。

☆ 湖の本
ご連絡遅れましたが無事届いています。本日振込も済ませました。ご体調不良の中、大変重たい一冊を発行なさいましたこと、しっかり受け止めています。
少しずつ読み進めています。まだ半分ほどですが、随筆の一篇一篇が小説の一章のように読めて、純度の高い私小説を味わっています。以前にみづうみが、エッセイは小説の中で使えるように書くと書いていらしたことを思い出しました。これは今まで私の考えたこともないことでしたから、非常に印象に残っていました。随筆として書かれたものが小説に組み入れられてしぜんであり必然であるように感じられるのは、みづうみのこのようなエッセイの書き方によるものかと思います。

巻頭の「島に立つ夢」を読みまして、畜生塚にこの文章を読んだおぼえがないと首をひねっていました。削った部分と知り、驚きました。わたくしでしたら、これほど素晴らしく書けたものは到底棄てられません。削れません。みづうみの才能の豊饒には恐れ入ります。比較にはなりませんが、凡女の自分の書くものは八割削ってもまだ削り足りないと肝に銘じました。
このみづうみにしか書けない不思議な創作を読みながら、なぜこのひとはこんなにさびしいのだろう、かなしいのだろうと心が痛くなるのをなんとか奮い立たせて、読み終えたいと存じます。

弁護士さんとの打ち合わせはお疲れになったことでしょう。創作者の人生は途方もない道でお辛いでしょうけれど、レンブラントやマーラーの惨憺たる生涯を考えますと、まだまだ真実イヤになってよい段階には至っておられない。裁判の一つや二つ、作家の勲章のようなものでは。
小説のお仕事、どうか思いのままに完成されますよう切にお祈りし続けてまいります。

編集作業は、二〇〇六年の七月(=この二十七日にやす香十九歳の癌死)です。読んでいるだけでダメージが強くてやりきれません。今のみづうみのお苦しみもここから始まりました。みづうみの人生の色も、わたくしの人生の色までもすっかり変わってしまいました。

お元気ですか、みづうみ。どうかお元気でいらしてください。
今年の夏はあまり暑さ厳しくないことを願っています。  紫陽花
2010 6・21 105

* 心して御礼など申すべき先々へ、幾らもご無礼のまま打ちすぎているのを、身を縮めて気に懸けている。

* 向島長命寺に参拝の前に名物の「桜餅」を食ってきた。名物にうまいもの無しというが、いいえ、櫻葉の香も品よく添って絶佳と云おう。あまり美味く、もう一つ追加した。二つめの茶代は不要、ちゃんと引いてあったのも気持ちよかった。
くるりと裏へ、見番通りへまわって、長命寺、弘福寺に参拝。そこが遊郭向島の見番なのだろう墨堤会館の前を通って行く。お茶屋らしい家が幾つも目立ち、料亭なども。
長命寺とともにいささか憧れていた三圍神社にも参り、奥の庭もそぞろに歩いてきた。もう一度も二度もこのへんをもっと遊びの気分で散策してみたい。ちょっと、鮨を摘んでから、言問橋を西へ渡った。押上に建設中のスカイツリーが、どでかく太いこと、高いこと、いっそ立派な貫禄だ。それでもまだ三分の二ほどで、完成は再来年の春と、タクシーの運転手は教えてくれた。フーン‥。

* 愉快でない用事のための予習をと鞄の中へ入れていたものの、そんな氣にならず。で、倚子が在れば倚子の店で、乗り物で、電車で、書き下ろしと随筆との『私』に、読み耽ってきた。いま、ひしと身に添って読み返せる。
「序」「基点」そして「序章」「本章」の随筆群から「補章」へ入ると、ほとんど過激に世界が動く。変わる。筆致も変わる。もうそこまで読み進まれた読者が増えて、頂く感想に「はり」が出てくるのが嬉しい。

☆ 冠省 御本拝受
小生も新聞や雑誌に書いたエッセイはかなりあるのですが、こういう形で自分の生き方を書きおくという稀有のスタイルには思い及びませんでした 全く敬服します。
変な陽気、健康にはどうかご留意を。  先輩作家

☆ 湖の本103 誠に有難うございました。
「序」と「私語の刻」をまず拝読致しました。
七十半ばで「実の母」に「ついにつき当った」という御言葉には、私には想像のつかぬ世界がここに展開されていることを感じ取り、異様な感銘を覚えております。又、「辞世にもちかい思い」のこめられた色紙に書かれた(母の=)歌の「羽音ゆるく肩によらなむ」の実に独自の表現の深さにも心打たれました。
これはじっくりと拝読致さねばなりませんが、取り急ぎの御礼まで一筆啓上致しました。
私は四月*日生まれですから、一足お先に「後期高齢者」なるものにさせられましたが、どうぞ呉々も御体調にご留意され、さらなる御健筆をお祈り致して止みません。 不一   文藝誌元編集長

☆ 紫陽花が美しく咲きはじめました。
今回の『私──随筆で書いた私小説』は、事実にもとづいた手紙などの資料をとりまとめ、一般の『私小説』とは違った味があり、ぐいぐいと読ませる作品ですね。
以前に、仲間の勉強会で、皆で秦様の歌集『少年』を読みました。京都風の詠みぶりで、若々しい感性に心惹かれました。あの作品の奥には、こうした背景があったのだと、あらためて思いました。そして秦様が何故歌人ではなく小説家になられたのかも納得いたしました。どうぞ今後もお元気で、御母堂様と「心の会話」をなさって下さいませ。   ペン会員 歌人

☆ 湖の本103 拝受致しました。
実のご尊父、ご母堂への古希を過ぎてからの深いご関心に 改めて秦様の作家「魂」を感じました。自分がどこから来て、どこへ行くのか、人生の出発点が謎に包まれていたというご境遇が、運命的に秦様を作家へと導いたのだと、いささか平凡な感想ですが、改めて強く感じた次第です。これからのご活躍が愉しみです。草々   批評家

* こういう嬉しいお便りも舞い込み、力づけられている。感謝します。

☆ 突然のメールで失礼いたします。
もう10年くらい前から、インターネットで検索していて偶々知った『湖の本』の中から、惹かれる時代、奈良、平安時代を描いた先生の作品を幾つかプリントアウトして拝読させていただいていました。自分が探し求めてきた時代と不思議に重なり合う、秦先生の作品にときめいたものです。
例えば、紫式部の時代と後白河法皇の時代との不思議なつながりなど・・・先生の世界に浸った余韻も頂いて、
一昨年は未熟ながら紫式部の又従姉妹で、花山天皇の伊勢斎宮に卜定されなが廃斎宮となった姫宮(済子女王)のことを書き上げ上梓しました。
それ以来、気が抜けて、読書らしい読書もせず、またせいぜい短い随筆を書くぐらいでしたのに、ふと、『湖の本』が浮かび、『女文化の終焉』をまた読み返したくなりました。
今度は自宅でプリントアウトしたものでなく、製本されたものをゆっくり読みたいと思います。
その外、「秘色」「閨秀」「加賀少納言」「みごもりの湖」なども入手可能でしょうか。誌代は今も変わらないのでしょうか。 また今後出される『湖の本』『湖の本エッセー』の定期読者になるためにはどうしたらよろしいのでしょうか。
アドレスがこれしか解らなかったので、こちらにお尋ねさせていただきました。  尾張の人

* 「湖の本」既刊の全て、現在、在庫。ご自由にご注文下さい。すぐ揃えてお届け出来ます。継続して定期の配本を予約する・希望すると仰って頂くだけで、出版のつど、きちんとお届けしています。送り先ご住所と電話番号、可能ならメールアドレスもお教え下さいますよう。この方も、住所・電話番号をメールで同時に戴いている。
2010 6・22 105

* 『私』について、梅原猛さん、ご自身にふれて率直に述懐されながら、「深い共感をもって読みたいと思います」と自筆のハガキを頂戴した。

☆ 「湖の本」103有り難く拝受。
この度の編集はおもしろい巧みなものに思はれました。私は文学部に進み、同人雑誌などもやつたのに、小説を書かねばと思ふといつも、お前のやうな凡な境遇の者には小説は書けんのだ、といふ声が聞えて来ました。丹羽(文雄)さんとか高見(順)さんのことがアタマに浮んで来るのです。今度の「湖の本」を拝見すると小説家にならざるを得ぬ御境遇に思へて来ますが、私が同じやうな境遇なら、ちがつた言訳を考へ出すにちがひないでせうが。 不一   文藝誌元編集長 作家

☆ 湖の本103
『私  随筆で書いた私小説』感銘を受けました。
なるべくして作家になられた方と改めて納得しています。
これからもご健筆をと祈念いたします。(湖の本代金とともに。)   文藝出版部元部長

☆ 『私  随筆で書いた私小説』拝受。
先の『凶器』同様 いっきに読ませて頂きました。数奇なる出生、人生を、小説・文学として昇華されている。このエネルギー・執念に感嘆・敬服致しております。本当に有難うございました。ご自愛下さい。  ペン会員 作家

☆ 『私』拝受

先生のお作の「うら」が、「おもて」と重ねて提示され、その覚悟の徹底に文藝の女神も、そして読者識者諸氏もあらためて打たれることでしょう。美事なる徹底!   ペン会員 大学教授
2010 6・23 105

☆ 天候不順ご自愛くださいませ。   大学教授
全巻読み終え、身の引きしまる思いがいたしました。私の中の私小説観に強くかかわる一書と存じます。ありがとうございました。心から御禮申しあげます。合掌

☆  拝啓 梅雨の候、
秦先生には、ますますご清祥にてご活躍のこととお慶び申し上げます。
このたびは、五月に引き続いて本校に御著書「湖(うみ)の本エッセイ」 ニ冊をご寄贈賜り、厚くお礼申し上げます。
最新刊の『私──随筆で書いた私小説』は先生のお人柄や歩まれた道を伝える内容で、大変興味深く拝見いたしました。
寄贈いただいた御本は、国語科担当教員が活用させていただき、さらに読書好きの多くの生徒たちのために、今後は本校図書館の蔵書として大切に保管いたします。いつも温かいお心遣いをいただき、深く感謝申し上げます。
なお、今後とも本校の教育活動に、格段のご支援、ご協力をくださいますようお願い申し上げますとともに、先生のご健勝とご活躍を心よりお祈り申し上げ、お礼のご挨拶といたします。   敬白
六月二十四日
**県立**高等学校     校長先生

☆ 103巻とは。すごいですね。  作家

☆ 「私」小説の中でも 秦先生の御幼少の頃の鮮明な御記憶を興味深く拝読しております。  文学館学藝員
2010 6・25 105

* 真新しく「湖の本」の継続読者になって、まず十二冊を一度に注文して下さった人のいち早い感想が届いたのも、作者として、とても嬉しい。

☆ 秘色
秦先生、サッカーのことはすっかり忘れ『秘色』拝読。
幻想の世界にさ迷いました。
昨秋、紅葉にはまだ早い頃、続けて2度、琵琶湖を訪れる機会がありました。近江神宮は初めて。義仲寺、堅田、夕日に包まれた浮御堂では「鳰の海」の名の如く、水面一杯の群れ鳥・・・
入り日をみつめながら改めて、琵琶湖は藤原仲麻呂、木曽義仲の最期の地だと感慨深いものがありました。
義仲の最期は「木曽」「木曽」と呼び捨てにしていた『平家』の語り部が「木曽殿」と呼ぶ。義仲寺では、持参した『平家』の「木曽最期」の部分を、人気のないのを幸い、墓前で声に出して読み、供香に替えました。
『秘色』を読み終えてそんなことまで思い出しました。
堅田が、あの「紫の匂へる妹」「茜さす紫野行き標野行き」の歌の生まれた蒲生野なのでしょうか。
先生の作品は、私の中で、混沌としたまま、無限の広がりを続けていくようです。
中大兄、大海人、どちらもとても気になる存在。
『秘色』で十市皇女の印象もかわりました。何か玉の冷たい美しさを想像していたのですが。そうですね。彼女は、両親の血を受けて、母・額田以上に巫女的な資質があったかもしれない。
高市と十市。穂積と但馬。大伯と大津。
天武天皇の子供達は、同母・異母ながら恋愛感情が交錯する。
乾涸らびていた感性が、ゆるゆると潤いを取り戻していけるような・・・・ 野宮

* 燦爛とした乱反射の世界と批評したベテランの読み手のいた『秘色』、井上靖の『額田姫王』よりいいですよ、自信を持ってと筑摩でない他社の担当編集者が褒めてくれた『秘色』、秦さん「秘色」は名作よと励ましてくれた歌人の馬場あき子。これが事実上の太宰賞受賞後第一作であった。創作の中へ引くときは母なる「湖国」と題を呼び替えていた。わたしの初期作風を決定した。
2010 6・25 105

* 帰りにコレも久々になる「リオン」でうまい昼食、ワインも。ほんとうの常連になって、なんだかマスターが甥かなんぞのように。湖の本をよろこんで読んでくれる。「むずかしい字を覚えます」なんか云っちゃって。

* 恆存先生の夫人から、「いつものように二冊追加」して送ってと。有難う存じます。

* 東大の上野千鶴子教授、「今号の表紙(繪)は大へんエロティックで、思わずぞくりと致しました。お元気で、」と。感謝。
観れば観るほど美しいヌードで、誰かも褒めてくれていたように、城景都氏会心の「藝術」で。いやらしさ微塵もなく、豊かに美しい。未見の方に、ぜひ観て欲しいなあ。寄贈している高校でも大学でも学生・生徒諸君が、先生もまた、歓迎の声が上がっているとか。「上野先生のお墨付きも貰いました、とっても佳いのです。」
2010 6・26 105

☆ 秦先生   讃岐
湖の本、ありがとうございました。
通勤鞄の中に入れるのにちょうどよい装幀ですので お送りいただくと必ずもって歩くのですが 表紙(の繪)に少し困るのがこのところ難儀です。 でも、それほどに時間もかからず拝読いたしました。
早いもので私ももう今年で38になります。 不惑の年が近づいてきていることに先日気がついたのですが 子持ちで下の子らが年が近くてまだ幼いという、ちょっと厳しい育児をしていますと、毎日毎日惑う暇もない、というのが現時点の状況で 惑ったあとに確立する「不惑」など、ほど遠いように感じています。
朝、食事やお弁当、下の子たちの保育園の準備など ほとんど鏡をのぞくこともなく最低限に身なりを整えるとすぐに 子どもを連れて家を出る生活をしているほど 「女」を忘れて生活している私ですが、先日そんな「女」のシャッターを開けようとする人が現れました。

仕事先で会った人なのですが、あまりにもあからさまに 私への好意を言動に表すので、目上の方達もいる現場仕事の中で 本当に対処に困りました。
一人だけ、先方をご存知の先輩にこっそり打ち明けてみると もっと前から気がついていたと言われ 自分自身の女感度がもとから低い上に、さらに鈍っていたことに 改めて気がつきました。
こんなに「女」の欠損していた人間のどこがよくて拾ったのか 向こうの気持ちは到底想像つきません。

すっかり忘れきっていた感覚だったので 日常生活に着地するのに数週間かかりました。
地に足がつかないというのはこういう感覚だった、と 遠い昔の記憶が呼び覚まされたり…。
でも、その後小さな会合へマニキュアをしていく気になったり 何年もしていなかったイヤリングを出してみたり ちょっと艶やかな気持ちになっていたのは否めません。

ここから先は先生にお書きするのは大変失礼にあたるかと 悩んだのですが、地方の一読者のたわごとと思ってお許しください。

40歳前後というこの年齢、先生のお母様がお父様とお会いになられた頃ではないでしょうか。
育児に終われ、生活に追われているこの年齢の女が 自分から恋愛にスイッチを切り替えることはほとんどないような気がいたします。
先生はご両親の間に、いえ、はっきり申し上げればお父様の方に恋愛感情があったのか、という思いがたゆたっていらっしゃるよう
にお見受けしますが この年の女は、向こうからシャッターを開けて来なければ 開かないものなのではないでしょうか。
少なくとも、先に見つめたのはお父様の方では、と この年になり、先日の経験があり、肌で感じられるようになりました。
もちろん、先生はそこから先の深い感情について、お母様の方に思い入れがおありなのだとは思いますが ただ、どちらが先に、ということであればまぎれもなく男性側でしょう、と 読者の私は身をもって思います。 そこから先、流れ出る感情の強さ深さは 人生経験が多いだけに年上の女の方が大きいのかもしれませんが…。

私の場合は向こうが三人子持ちの同世代、 全くそういう関係にはならないと思いますし 私自身は仕事相手以上の感情は持ちようがないのですが それでも、長らく忘れていた回路に一気に電流が流れていく感覚は かなり制御しにくいものでした。
まだ自分が「女」たり得るのだ、という感覚。
普段は会わない遠い人、しかもお互い家庭持ちにも関わらず 着地するのにひと月近くかかりました。
ふゆさん(=新刊での著者生母)の場合、家の中にいてずっと年下、どれだけの感情が波だっていたことか、と思います。
そして唐突に姿を消した幼子二人…。
この件りを拝読するときは、なかなか正視できず なんども途中で本を閉じました。
どれだけ辛く探し求めたでしょう。先生が思い入れ深く書かれていることもあり どうしてもお母様のお話は共鳴してしまいます。いえ、共鳴する年齢になってきました、私も。

そんなこんなを思いながら、先生のご本を拝読しましたことを ご報告したくて「メールにて…」と払込票にお書きしました。
失礼、お許しください。

梅雨空で、ご体調を崩しやすいかと思います。
気ぶっせいな作業もお持ちでしょうが、どうぞお体もお心も おいたわりください。
我が家の裁判沙汰もまだ続いております。
能力のない人には何を言っても何をしてもとうてい伝わらないのだ という無力感と、そこに気を持っていかないということでしかこちらは心を守れない、という諦めを、親世代ももち始めているようです。もう2年になります。
ただ、我が家の場合は、相手を憎んでも捨て去っても惜しくない関係であるという部分だけが 最後には救われるところかもしれません。
お辛さ、お察しいたします。
先生もどうぞどうぞ、お大切になさって下さいませ。  讃岐女

栗の花や 強き視線に酔ひし夜は 着地せむとて手を伸べてゐる
黒から白 白から黒にかわりゐて髪ひとすじほどのわが女かな

* 久しく、うろとした耳聞きから、生母と実父の出会ったとき、若い父はまだ彦根高商の書生で、もう寡婦であった母は父より倍ほどの年齢と覚えていたが、当たらずとも遠からずとはいえ、十六歳ほどの年上であった。わたしの生まれた昭和十年の師走に母は四十をわづかに超えていたか。父はもう学生でなく、二人の住まいも彦根から京都へ移っていたが、一年半ほど前に兄を身籠もった頃までは、まだ彦根の母の家に父は下宿していたのかもしれない、京都から彦根へ通っていたのかもしれない。書生時代に母の家に父が下宿していたのはたぶん確かなことであったろう。
父はごく幼くに生母に死なれていた。わたしの生母はおもざしが父の母によく似ていたと漏れ聞いている。「讃岐」さんも察しているように父の「思慕」が母を先ず動かしたのであろう、母の方に青年の思慕を受け容れる素地があったのも確かだと思う。
ただ寡婦の母には、すでに二十歳前後の長女をはじめ息子達が三人いた。長男(わたしには父の違う長兄)は「戸主」であった。末の三兄も、母の産んだわたしの実兄恒彦を背負って「おもり」をしたこともあったと、生前のご本人に聞いている。

* わたしの父は、母との出逢いから別離までを、時に「失敗」と云い、時に「恋」と謂い、驚くことに時には「結婚」と二三度モノに書きつけている。自分は生涯に「二度結婚」したとも書いている。法制度上の結婚は異母妹二人の母と一度だけだ。
だが、いまのところ、仲を裂かれて別離後の母からも、父からも、互いを漫罵する様な一言も観て取れない。そのことに、わたしは、思い和む。
* 「讃岐」の読者の述懐は、身に染みる。歌ふたつ微妙に胸たゆたひ、措辞のゆらぎを超えて佳い「うた」になっている。
2010 6・27 105

☆ 慈子
秦先生、こちらは降りみ降らずみの一日。まだ梅雨明けには間があるのに、時折、雷鳴が轟き・・・
すべて放棄して、久しぶりにひたすら小説世界に浸りきっています。
読み終えたばかりで、まとまりもなく、なにか申し上げるのは失礼な気もいたしますが、『慈子』上、今読み終わりました。
雨の名残の中、人気の少ない泉涌寺の凛とした懐かしいたたずまいを想い浮かべつつ。
伽羅の甘く上品な香りというより羅国の、甘みを取り去った深とした高貴な香りが、追風用意のように漂っている作品です・・・
『徒然草』、読み返したくなりました。
『慈子』の原題が『斎王譜』だったとは・・・、私がこの小説にのめり込んでいくのは必然だと勝手に信じ込んでおります。
「有楽流のお茶」、「御家元」が文中に出てきて、先生は「有楽流」の茶道をなさっていらしたのかと。
当地にも有楽流の御家元がいらして、16代家元の織田宗澄先生には偶々、有楽流には無縁ながら知遇を得る機会があり親しくさせて頂きました。(私はごく普通のサラリーマンの妻、慎ましく暮らしておりますが。) 織田先生は残念ながら昨年ご逝去(85歳だったと思います)、今はお嬢様が跡をお継ぎになっていらっしゃいます。有楽流も幾つかに分かれているようで、『慈子』の中の有楽流かさだかではありませんが。織田宗澄先生のご主人先代家元は大学教授、宗澄先生ご自身も絵や刺繍にも造詣の深い方でした。伊藤博文の娘婿で、『源氏物語』を英訳した末松謙澄の孫というようなお話しを伺ったことがありました。
先生がご存命なら、『慈子』のお話しをするときっと喜ばれたのにと残念です。文学や歴史がお好きな先生でいらっしゃいましたから。お元気なときにもっといろいろお話しを伺っておくべきでした。
何かの折に「お稽古事は実力よ。お茶であれお香であれ、だまって、ひたすら稽古を積むのよ。どんなお稽古でもそうなのよ」そうおっしゃったのが印象的でした。
いよいよ『慈子』中、物語は佳境に入りますね。  野宮

* 『慈子(あつこ)』という小説は「齋王譜」の初題で私家版の三冊目にしたときは、数百枚の長編であったが、のちに筑摩から書き下ろし単行本として出したとき、削ぎに削いで270枚、あるいはもっと短くしたかもしれず、この時、改題した。出るとすぐ、吉永小百合さん、桂三枝さんが、べつべつに、ディスクジョッキーのなかで取り上げていたと耳にし、驚いたことがある。出版した最初の筑摩本は『秘色(ひそく)』だったが、ここでついた女性読者が、『慈子』でみな離れてしまい、代わりに熱い男性の固定読者がしっかりついたようだと担当編集者に言われた。ヒロインが女性に妬かれているのではと担当者は笑っていたが、そうでもなくて、結局女性の読者に、難しい難しいと歎かれながら、永く愛された作として落ち着いた。こんどの『私』の中の随筆に「好きな人を置いて通いたい」という高校生の頃のいつわらぬ気持ちを書いた一編がある。その気持ちが『慈子』に結晶したのだった。
2010 6・27 105

☆ 感謝多謝    慧
山形は今、さくらんぼの最盛期に突入しており、私も毎日果樹園に繰り出して、さくらんぼの葉摘みに精を出しております。
炎天下のビニールハウス内での作業は事のほか堪(こた)え、家事育児に差支えがきている状況なのですが、寝る前にお送りいただいた湖の本に目を通すことを楽しみに、どうにかこうにか乗り切っております。
興味深い本をお送りくださり、ありがとうございます。
今日もこれから小学校で絵本の読み聞かせボランティアをした後、農作業です。
近々、いいところをみつくろって初夏の山形の味を送ります。
日毎暑さに向かいますが何卒ご自愛くださいませ。
私も、自身の心より体に耳を傾けて、頑張ります!

☆ 湖の本で、    孝  編集者
「私」へさかのぼる旅をはじめられたのかと思いました。
それぞれの人の立場にたって読みました。
中でも「母上」の時代とのかかわりを、女性史を学ぶものとして、痛み多く読ませていただきました。事の是否とは別のことですが。
2010 6・28 105

☆ 『私』 読み終えました。   青天

読み終えて言葉を失う、そういう月並みな言い方は申し訳ないのですが、そうとしか表現出来ない読書でした。
みづうみの読者ならおなじみでもある、前半の美しい随筆文藝の部分と、後半「母の敗戦 養子縁組始末」に明かされる過去。とても乱暴な言い方をしてしまえば、花と泥という二つの世界の極端な落差に何度深い吐息のもれたことか。
作者の本意ではないかもしれませんが、「母の敗戦」の中で語られるふゆ(=生母)の数々の手紙から垣間見える人生の凄まじさに愕然とし、本来味わうべき秦恒平の随筆文藝の魅力が吹っ飛んでしまうような印象なのでした。読み終えて、苛烈に闘いぬいた女の一生のノンフィクションのような読後感なのです。みづうみのような表現力がないのでこの部分を「泥」と書いてしまいましたが、「泥」とは、みづうみが今まであえて題材としてこなかったご両親にまつわる「現実のドロドロの人間関係」の意味で、私はそこに異様な感動、強烈な印象を受けたと申し上げます。
一日経ってなんとか少し頭を冷やしてみますと、この作品ほど少年恒平がどのように作家秦恒平になったかを証明するものはないということに思い至りました。「基点 私の原戸籍」に始まり「母の敗戦 養子縁組始末」まで見事な「私」を告白した小説であるなあと。
つまり「はかないことを夢む」ことなしに生き続けられなかった、文藝という繪空事の真実に生きざるを得ない秦恒平という一人の作家の誕生の理由、動機が、これほど明らかに描かれた作品はないからです。

> 親にはなれて育つよりなかった私の精一杯の生きのよすがは、繪空事こそ真実と思いきめ、血も肉もつながっていない他人への心へ愛という無意味な墓標をうちこみつづけることだった。

> 夢のまた夢で人間の生涯が果ててゆくのなら、すすんで夢の中に美しいもの、願わしいものをはかなく夢むのがいいのではないか。

このような作家の世界観は、冒頭に掲げられた異様な原戸籍を「世間」から与えられた時点で宿命づけられました。
酷い戸籍でした。その家に生まれてはいけなかった子どもである烙印を押すようなものです。家の戸籍に入れない、家族の一員にはしない、断固はじき出すというのは、悪しき「家」制度としかいいようがなく、生まれた子どもにはなんの責任もないこと。
子の幸福を一顧だにしないこんな仕打ちは人として到底許されるものではなく、この非道を認めた戦前の戸籍制度を心底憎みます。
(脱線しますが──そもそも戸籍は必要なものでしょうか。フランスには、日本の戸籍のようなものはありません。家制度に立脚した登録簿ではなく、個人を単位とする登録(身分(エタ・)証書(シヴイル))があり、個々がそれぞれ独立した身分証書を持つため、家系および家族構成の全体を把握することはできないようです。親子関係や家族関係は、原則的に個々人の問題としてとらえられていて、○○家に入る入らないなど問題にならないのですから、もしみづうみがフランスに出生していたら、こんな所業はあり得ないことでした。)

「母の敗戦」に描かれたお母上の孤軍奮闘と無惨でもある結果の数々は、一人の作家の原点でした。大人たちの、「世間」の、良識という偽善にもがき苦しみ押しつぶされ泥底に沈められたご両親を根としたからこそ、それは猛愛の根であったからこそ、秦恒平の作品の数々はまさに天上の蓮の花のように美しく咲いたことがよくわかるのです。
ご自身の特異な出生事情から距離をおき、無関心を保つことで育まれたようにみえていた作品は、じつはふゆという女性の命がけの何か(単純に恋愛などとは呼びたくありません)を何よりの豊かな土壌として生まれたのでした。『私──随筆で書いた私小説』は、この真実が初めて作家自身によってあかされたという意味でも、貴重な作品です。

考えれば考えるほど、文学者として繪空事の真実でバランスしなければ、到底生き延びることが出来ないほど傷深い境涯は涙を禁じえません。しかし、繪空事の真実で、身内への渇望で、天涯孤独の中をしたたかに幸せに生き延びることに成功したのですから、この恒平少年は、虐待を生き延びた人間の尊称である「サバイバー」ともいうべき、大した、凄い人間であったというほかありません。
再読する時は、後半の「母の敗戦」を先に読み、後に随筆で書いた私小説部分を読みたいと思っています。そのほうが私の読み方が際立つように思えて。

みづうみは「書く」ことによって、秦の義理あるお三人にも、実のご両親にも、これ以上ないかたちで孝行なさったと思うのはわたくしだけではございませんでしょう。

お元気ですか、みづうみ。もうじき七月ですね。
あれから四度目の夏です。みづうみはよくぞ生き延びてくださいました。あの夏を。
どうぞこの夏の法廷も駆け抜けて生き延びてくださいますように。   青天

* 「「書く」ことによって、秦の義理あるお三人にも、実のご両親にも、これ以上ないかたちで孝行なさったと思うのはわたくしだけではございませんでしょう。」と読んで、ほろりと泣いた。感謝。
2010 6・28 105

☆ 「湖の本」第103号を
御恵送下さいまして、有難う存じます。「随筆で書く私小説」  なるほど、こんなにも入り組んだ事柄は、小説になど、とてもとても。小説を何十篇も書かなくては追いつかない、と感じます。随筆を沢山お書きになり、それをまとめられて、今こそ、こういうスタイルで(湖の本を=)刊行しつづけた事も良かったと思っていらっしゃるのではないでしょうか。沢山の記録が残っていたということが、実に珍しい事、いつかは、世に出る、と定まっていたように思います。御礼のみにて。かしこ。  文藝誌元編集者

* こういう編集者に育てて貰ってきた。不充分な間に合わせの作であるが、こうも読んで頂けて、やはり新人の頃のように嬉しい。
2010 6・29 105

☆ 慈子、閨秀、絵巻
秦先生、 『慈子』下、『閨秀』、『絵巻』読み終えました。
慈子を読み終え、少し時間を置くべきかしら、とも思ったのですが、心が急いて、急いて、読み続けました。
『慈子』の終り方の唐突さに、あまりにも『慈子』が可哀相です。いずれはそうなるとも思うのですが、あの美しく生まれ、美しく育った慈子・・・美しく齢を重ねるでしょうが、あまりにも可哀相。 この後、二人はどうなったのか・・・
『閨秀』、華麗なる上村松園の世界。先生が「作品の後に」に書いていらっしゃるように、これはまさに秦恒平の「松園論」というか、美術論が優れた小説になったという感じで読みました。 上村松園という美貌の画家の、艶やかな話を切り捨てた、画伯・上村松園の美術史・作家論が、絢爛たる世界で語られて目が覚める思いでした。
何よりも、面白く拝読したのが『絵巻』です。自分自身が、かつて同人誌に偃息図『小柴垣草子』を題材に作品を書いたことがあったので、まさに自分の興味のある時代、人々が登場するので、途中で休むこともできず読み通しました。小柴垣草子の制作者は後白河法皇であるという伝説を素に書いた作品です。それを書きながら後白河法皇が絵画や絵巻物に非常に関心を寄せていたのは、母・待賢門院や曾祖父・白河法皇の影響ではなかったかと、思ったものです。
白河法皇は自分を光源氏に擬え、璋子をある時は若紫に、またある時は藤壷に、そして崇徳を冷泉帝に擬えて、崇徳即位を強行した自分の行為を正当化する準拠が『源氏物語』だったのではなかったか。だから待賢門院・白河法皇という強大なパトロンの許、『源氏物語絵巻』が制作されたのではないかと思って、書きました。
『絵巻』の、『源氏物語絵巻』誕生の過程にはどきどきし、世に言う白河法皇と待賢門院璋子との関係とは全く別な解釈がなされ、璋子に対する先生の思いやりの深さに感じ入りました。
「醜聞にまみれた歴史的な美女を清々しく掬いあげたいとう愛があった。松園に対しても、それが、あった。そういう甘さが、私は嫌いではない」とおっしゃるとおり、読者も「そういう甘さ」に救われ、感動いたします。
感謝、そして潤いをありがとうございました。  野宮

* これらの作から、わたしは、四十一年の作家生活を歩みつづけて、いま、『私──随筆で書いた私小説』を世に問うている。
わたしのレイタースクールは歴然としている。譬えるのはおおけなく厚かましいが、「雨月物語」から「春雨物語」へ歩んできた。歩もうとして歩んだとは云うまい。作家としての運命が歩ませた。その意味でも必然をわたしは背負ってきた。
2010 6・29 105

* 藤原道長を同時代の宮廷にいて終始徹底批判して止まなかった右大臣藤原実資と紫式部とに「交通」のあった足跡がかすかにうかがえる。十二分、記憶に値する。

* 紫式部集は式部の家集、式部の実像研究では紫式部日記と並んでかけがえない文化財であるが、この家集を締めくくって歌うのは、極めて異例な、紫式部自身でなく「加賀少納言」という女房あるいは女性である。しかし、これほど源氏物語研究が不二の山ほど積まれていても、「加賀少納言」とは誰と、まったく見極められていない。奇跡の存在と言わねばならず、これに明瞭な回答を与えたのは、わたしの短編小説『加賀少納言』をおいて一編の著作も、実は無い、と言い切れる。
この作に目を留めたのは、ロシアの日本文学愛好家たちであった。小説『加賀少納言』はロシア語に翻訳されている。わたしにロシア語は読めないので何ともその上は云いかねるが、この関心の向け方は、あの国の日本古典への傾倒の深さを優に明かしている。
2010 7・2 106

* アメリカから、湖の本代、二万円も送金されてきて、びっくり。なにか美味しいものを食べて下さいと。ビックリしてにっこり。
2010 7・3 106

☆ ご丁寧な、おやさしいお便りありがとうございました。
ご本の代金早くと思いながら、遅くなっていました。申し訳ございませんでした。
実は、『当尾の石仏めぐり』をお送りするのが主たる目的でした。
古典の会の実地研修旅行の下見に、今年3月に京都南部を訪れました。
長岡京市(光明寺)と、木津川市(以仁王墓・浄瑠璃寺)です。
浄瑠璃寺の駐車場に着くとすぐ目に入った案内板があり、この地が先生のお作にでてくる「当尾」と知りました。
以前に2回ほど訪れたことがあるのですが、先生のお作に出会う前でしたので、土地の名前は記憶に残っていませんでした。
「当尾」を漠然と、嵐山の奥、亀岡の方のように思っていました。
ですので、浄瑠璃寺でこの文字に出合ったときは、旧知の人に思いがけない場所で会ったような驚きとうれしさを感じました。
3月に行ったときは、拝観時間を過ぎていて、お庭だけしか見られませんでしたので、 5月の本番では拝観時間や法話のお願いもきちんとして行き有名な九体仏を間近くで拝み、和尚様の深遠なお話を聞き、お土産も買うことができました。
(よく慣れた猫が数匹いて、しっかりなでさせてもらいました)
そのお土産の一つが「当尾の石仏」です。
あとで、もう一度訪れたいとそのときは思ったのですが、先生の最近号の最初の部分にある戸籍の地が、まさにこの石仏の里だとわかり、僭越とは思いつつ、お送りしたようなわけです。お読みくださっているとのメールにほっとしながら、うれしく思っております。
野菜のほうは、付録です。
道の駅や産直の店が好きなのでしょっちゅう行っては、季節の野菜や、珍しい野山の幸を求めています。
農家のおじさん、おばあさんが畑や庭先から運んできた、素朴さが取り柄の野菜たちで、お近くのスーパーで簡単によい品がお手に入るとは思ったのですが、季節の彩りをお送りしたくて詰め込みました。
ヤハズススキ(矢筈薄)(または、ホタルガヤとも呼んでいます)大事にしていただいてありがとうございます。
秋に、ナンバンギセルがにょっきり生えてきますように…。
では、時節柄、お身体お大切に。    丘
2010 7・5 106

☆ 今年は寒さ暑さが激しく体力的にずい分こたえました。
『湖の本』いつもご恵贈ありがとうございます。半分棺桶に足をつっこんだような状態で過していますので、
いつも、強い刺激をいただいています。
それにしても強く美しい文章ですね。    作家

* 娘がお茶の水女子大に入学した春、今は亡い尾崎秀樹さんに、いっしょに中国へ行こうよと誘われた。仕事の障りがあり、代わりに娘を連れていって欲しいと頼んだ。入学祝いに恰好だと思った。尾崎さんの娘さんらお連れもあって、娘は、老作家や若い書き手や編集者や美術史家たち大人に混じって、大学の方をサボッて、おおはしゃぎ大喜びで出掛けていった。上の手紙の作家も、一行のお一人だった。お元気になられますように。
中国から帰ってきたときの、娘の、跳ねっ返るような大興奮ぶりはたいへんなものだった。
そういえばお茶の水女子高を卒業したときにも、銀座の「きよ田」の鮨で祝ってやった。こんど、文藝家協会の会長になった当時小学館の篠さんとたまたまカウンターで並んだのを思い出す。娘はご機嫌だった。
「きよ田」へは、辻邦生さんに最初連れて行ってもらった。山本健吉さんと二人の晩もあった。文壇人には知られたそれは佳い店だったが、もう無くなっている。妻も何度も連れて行った。懐かしい店。
2010 7・5  106

* 「湖山夢に入る」と題したメモのファイルを持っている。昨二十一年年師走二日に、こう書いていた。

七時に起き、生母ふくの手紙を解読しつつ電子化しているが、いま十時、朝から最初の一通がまだ写し切れない。
しかもいろんな事が新たに見えてくる。察していたことばかりだが、あらためて母自身の口からいろいろ慨嘆され哀訴されてみると、そもそもまだごく幼い小さい兄やわたしの「処分」の仕方にどうもその場凌ぎの中途半端があり、そのために幼い兄弟も、兄弟をそれぞれ預けられた北沢家も秦家も、十年にわたりじつに気味のよくない宙ぶらりんの気分に悩まされてきたし、母も、無意味に「我が子」二人を手の届かぬ場所へ隠されていた哀しみを持ち続けていた。「処分」に際し仲に立って半端に暫定の処置だけを施したいわば第三者を、母は「ブローカー」という際どい言葉をつかって、今回(=昭和二十二年から三年)の法的な養子縁組に際してはそういう第三者の好き勝手にはされたくないという意思を強く打ち出している。背景に戦後の新民法があり、母の発言権を後押ししているのも分かる。
およそは察していた。裏付けされてきた。
この頃、小学校五年から六年生へ向かおうとしていた自分の記録は、湖の本44『早春』に残している。

* まだ、手にした資料をどう出来るともわたしは思い到っていなかった、ただもう生母の遺した手紙を機械に書き写していた。「湖の本103」の着想は、毛筋も頭に無かった。

* 午前、午後、夕方まで、気を集注して「一つこと」の理解と整頓に費やした。疲れると一服がわりに山中裕さんの『源氏物語の史的研究』を読む。元服、加冠、添臥、新枕、三日夜餅、露顕などなどを源氏物語の各所の本文をひき読みながら理解して行く。それからまた「わたし被告」の法廷に立ち戻る。おもしろいでしょう。

* 頭の奥には、だが、本命の問題として「実父」のことが、在る。これはすぐに次の「湖の本」には間に合わないが、「おやじのこと」という感じで主題化が進行している。膨大な父資料・父遺文を読んでいて、これはと胸の疼く大事件がおやじには生じていた。そこへ肉薄しなければと思う。そのためにも、いま目の前の不愉快な法廷のことなど、早く「飛んで行け」と思っている。この裁判は娘と婿の持ち出したこと、わたしは実は被告でなく「被害を蒙っているだけの父親」である。ま、いい。
わたしのタッグを組むのは、今度は「わたしの父親」とだ。
2010 7・6 106

* 今日、ある遠方の女性造形家からはるばる『私』への礼信があった。その文言に、
「今回の表紙は、一段と官能的ですね。そして、今回のテーマは「私」だったので、官能的私小説…? という印象で、ちょっとドキッとさせられました。
以前にも少し書いていらっしゃいましたが、興味深い生い立ちでいらっしゃいるのですね。」と。

* なるほど、「興味深い生い立ち」かと苦笑した。
むかし、あるアマチュアで小説を書いていた年かさの女性と対話したとき、会話の中にひっきりなしに「ちゃんとした育ち」「ちゃんとした普通の」という物言いが頻発するのに、いささかげんなりした記憶がある。
今度の作にも書いているが、就職の最終面接の席で社長が、わざわざ、「君は此の戸籍の記事を気にしているかも知れないが、ボクは気にしていないからね」と言われてビックリした。わたしは、むろん自分の原戸籍を読んで知っていたけれど、社長のわざわざの思いやりにビックリしてしまうほど、まるで念頭に無かったのだ、「そういうもんなのか」と初めて学んだ気がした。
「ちゃんとした」にも「興味深い」も、参りはしないけれど、軽く胸をおされる。
時任謙作の参るははるかに深刻であったろう。実の父上とながいあいだ不和でうまく行かなかった直哉の気持ちを思って読んでいた。
2010 7・7 106

☆ バルト海の入り日に   晴

白夜の季節といわれている北欧に6月末から7月初めにかけてデンマークのコペンハーゲンを出発し、ドイツのキール・スエーデンのストックホルム・エストニアのタリン・ロシアのサンクトペテルブルグとクルージングをしてまいりました。
船中での楽しみの一つは普段読みきれない本を持ち込み、ぼーと海風に当たりながら読書できることでしょうか。
先日山形を旅行しています際に、最上徳内さんの育った土地とかの案内を聞きました。
お墓は確か東京の駒込にあり、蝦夷地探検にあたりアイヌの人を差別することなく、理解しようと務めたた人ぐらいにしか覚えていませんでした。
確か、秦さんの「湖の本 32 33 34・北の時代=最上徳内」で書かれていた人だと。送っていただいたときには残念ながら読みきれていなかったので、船の楽しみに。
夜9時を過ぎても、海はまだ明るくサンセットが待ち遠しい毎日です。
「北の時代」の上巻終わり近く、作者が徳内さんの通った跡を追って、陸奥湾を船で渡られる場面で
『西日まぶしい左舷へまわると、秀でて美しい大千軒岳からまるでお神渡り、身幅にあまって金色の光の帯が胸もとへ、眼へ、くわっと奔って来る』に、出会いました。
作者は『強い期待に頬を染めて、じっと夕日にうたれていたー。』
繰り返し読みながら、徳内氏や作者の熱い喜びに満たされた抱負を感じつつ、私も同じ海の入日を眺めながら本を読める幸せを感じました。
上手な写真ではありませんが、バルト海の入日の写真を添付致します。

* 世界を観たかった徳内さん、ロシアへ入りたかった徳内さん、バルト海へ旅の友にしてもらい、大喜びであろう、感謝。
2010 7・7 106

☆ 秦 恒平 様ご無沙汰いたしております。  ココ
ご無沙汰いたしております。
お変わりございませんか?
いつも 「湖の本」 ありがとうございます。
私は 変わらず元気に勤めております。
こちらに来て 9年目を迎えます。
指折り数えてみると まだ9年ですが もっと長いような気がします。
中三でこちらに来た息子も 今年無事に就職し 親の務めも なんとか終えることが出来ました。
50を過ぎて 今さらながら、自分自身をみつめなくてはと思っています。
私の軸は 何なんだろう
私のミッションは 何なんだろう
私は 何がしたいのだろう などなど。。。
定年まで あと6年余り
そのあとの道のりを 私らしく生きるために
自分と向き合っていこうと思います。
梅雨が明ければ 夏本番
ますます暑い日が続きます。
くれぐれも ご自愛ください。
ありがとうございます。
2010 7・13 106

☆ 秦先生、ホッと致しました。
日記がずっとそのままでしたので、体調を崩されたのかと案じておりました。ご連絡を頂き、安心いたしました。
『加賀少納言・或る雲隠れ考』『源氏物語の本筋』『みごもりの湖』読み終えました。静謐な湖の畔にたちつくしているような気分です。
一番楽しみにしていた『中世の美術と美学』がなかなか読み進めません。私には難し過ぎるのか、でも大切な一文一文を味わい、頁を行きつ戻りつ、読んでおります。
30代、40代にこれらの膨大な作品群に出逢いたかった。あの頃は、立原正秋さんの作品に夢中でした。もう62歳です。でも、良い作品に出逢うことは、遅すぎることはないと、そう思い返してきょうも、読ませて頂きます。
そして自分も書きたくなり、昔書いたものなど読み返してみたりしております。先生の作品から、何か潤いと美しさと、言葉にならない気配を頂いているのですね。美しい主人公達から。 野宮

* いい読者に出逢う有り難さ。
2010 7・14 106

* 秦さんの「書いて」こられた「すべて」が秦さん自身を保証しています。信じています。外の雑音などわたくしたちにとっては、何でもありません、と、お便りがたくさんつづく。ありがたい。読者だけではない。大学、各界からも、さりげなく、力づよく。

* 『かくのごとき、死』を読み返していますという読者が多い。その人達は気づかれていよう。
孫・やす香逝去の平成四十八年七月二十七「前日」に「輸血停止」されたらしいことには、確度高い証言がある。それにより起きた結果は、七月二十七日の「永眠」(母親による「mixi」告知)だった。奇しくも(と、云っておく。)「母親の誕生日」であった。この偶然らしき符合に、いろんな甘やかな解釈をした人たちも多かっただろう。

* 事実を追ってみると、
二十五日火曜日に、やす香と病室で会った友人は、やす香の好きな音楽のディスクをプレゼントし、「たくさん聴くね」と、やす香の曇りない痛切な感謝の言葉を聴いている。
その前日、二十四日月曜日には、われわれ祖父母と叔父建日子とが、病室で、やす香と対話していた。
ところが、この晩かつて無いことにやす香の父親からわが家へ電話が来た。「医師と話し合ったが、ここ二三日の寿命と思われるので病院近くに宿を取っては」と伝えられた。医師と…。何なんだそれは。仰天した。 (すべて、その時の記録がある。)
その二日後、七月二十六日水曜日にやす香を親しく見舞って病室に出入りしていたという或る親友は、なお「土曜日にもまた見舞いに来る」つもりだった。ところがこの水曜の二十六日に、なんと「輸血停止」されてしまったと、迷いなくこの人は、正確にはこの親子は「断言」している。「mixi」にきちんと出ていて、保管してある。
★★★は週刊誌の記者に「そのフランソアさん」ならよく知っていると云っているが、わたしもそんな人は知らないし、この証言、この記録とは無関係である。

* 造血機能の完全に破壊されているのが「肉腫」である、輸血停止とは「死」の決定以外の何物でもない。法廷で原告弁護士はわたしに、どんな意味かと問うていたが、わかりよく云えば「生命維持装置の停止」に、効果として同じいと教えると、絶句して質問を替えていた。
かくて必然、「母親の誕生日」に、十九の娘は「命終」の日を迎えたのである。

* ところで、この数日自作の新聞小説『冬祭り』をはからずも読み返していて、改めて、おどろいた。
熟読してこられた読者は、ドンな作者よりとうに早く気づいてられたかも知れないが、さ、それが「偶然の奇遇」とみるか、「意識された契合」とみるか、「不思議な」と云っておこう、不思議な叙事・展開に遭遇して、やす香の死が母の誕生日と同じだったことに、えもいわれず、ぞぞっとくる愕きにとらわれた。
何なんだ、これは。この「はからい」の感触は。

* 我々の娘は、当時の秦朝日子は、二十余年前、父と親しい神学者・野呂芳男氏を訪ねた際に、「わたくし、『冬祭り』の「加賀法子」なんです」と興奮して告げていたらしい。野呂さんの電話で聴いた妻から間接に伝聞しただけだが、あの娘の、例のフワフワした興奮・昂揚の一例のようにしか感じなくて、聞き捨てに、一度もその後顧みたことがなかった。
たまたま今度また『冬祭り』を読んでみようと読み直していって、そんな大昔の「聞き捨て」をふと思い出し、妻に確かめると、そんなことを確かに野呂さんが笑いながら話されていたわよと云う。
『冬祭り』を読んで欲しいのでいま詳しくは書かないが、「加賀法子」とは、ソ連作家同盟との交流目的で、「訪ソ」の旅に、他の作家たちと出かけた作中人物「私」に、横浜埠頭のナホトカ号上から、つかずはなれずモスクワまで絡みついてくる若い女性だった。「私」は、モスクワに「逢いたい人」を待たせていたが、その人妻である「冬子」は、かつて此の世に「二日半」だけ生きた「娘」を、死なせていた。「法子」はどうやら、その二日半だけ生きて死んだ娘、じつは「私」の娘、であるのかもしれないのだった。むろんこれは「、秦文学・畢生の恋物語」と本の帯に書かれていた、大きな構想で動いた全然のフィクション小説であった。

* わたしたちの娘・朝日子は、じつに、この父に絡みつく「娘・加賀法子」と自分とを、幻想だか妄想だかで「一体化」していたらしいというのが、『冬祭り』を「名作」と新聞書評していた野呂牧師からの情報、かつて他に聞いたことのない、「唯一の」情報だった。「冬子と法子」とは、『清経入水』の「紀子と和子母子」の後身であると、批評した野呂さんは書かれている。そしてこの現世の「私」を愛してまといつく二代の不思議の母子は、ともにとうに「ほぼ同日に死んでいた」のである。

* さて、もう一度、念のため、ハッキリしておく。

* 「朝日子」という、わたしたちの娘は、もう思い出の中にしか、いなくなった。今後は「夕日子」などという気味の悪いマーキングはやめ、今日(七月十三日の法廷。正式に改名の通告があった。)より以前の「わたしたちの娘」を語るときは、生まれながらわたしたちが命名した「朝日子」と呼んで懐かしもう。あの法廷の日より以後、もう、わたしたちに「朝日子」という「娘はいない」。
この「私語」の中でも、今日より以前の気味のわるい「夕日子」というマーキングは、凡て親の名付けた元の美しい名の「朝日子」に戻す。
本人が決意してもう変名・改名したと裁判所の法廷で正式に証言しているのだから、「朝日子」はもはや原告★★★の妻の名ではなくなった。「秦朝日子」の思い出は「秦の親の所有」であり、「★★朝日子」もすでに「存在しない」。「朝日子」という名は、秦の家族の所有に確実に帰している。「朝日子」は自分だなどとは言わせない。
かくも、わたしの思いは一面、感傷的である。だいじなものを無残に足蹴にされた怒りもある。改名は「親不孝」と一喝した理由である。新刊の、『私  随筆で書いた私小説』に一九七七年「家庭画報」十月号に書いた「ぼくの子育て」が出ている。どんな思いで「朝日子」と娘に名付けたかを書いている。
長い一文だが、ほんの書き出しを再録しておく、昔の娘よ、読むがいい。

☆ ぼくの子育て  冒頭の一部

ゆらゆらと朝日子あかくひむがしの海に生れてゐたりけるかも
たたなづく青山の秀(ほ)に朝日子の美(うづ)のひかりはさしそめにけり

こんな歌を斎藤茂吉の自選歌集『朝の螢』に見つけた昔、いつの日か生れるわが子の名前は「朝日子」と決めた。歌集は昭和二十一年十一月に出ている弐拾円の新装版だが、私が古本屋で参拾円で買ったのは二十七年暮だった。茂吉に教えられたままを、「笹はらに露散りはてず朝日子のななめにとどく渓に来にけり」とうたった自作の一首が、翌二十八年二月、高校二年生三学期の歌稿に残っている。
茂吉は「朝日子」という文字とことばを愛したらしく、『赤光』『あらたま』の二歌集からえらんだ『朝の螢』三百五十余首のうち四首に用いており、モーニング・サン・シャインか、美しいことばがあるものだと感じ入ったのを私は忘れない。
その娘・朝日子が、いま高校二年生の夏休みを待っている。男女いずれにもいいと思っていたが、女の子の名前になってみると親はその方がよかったと思うし、当人も気に入っているらしい。ただし呼びようで「アサヒコ」君に聞こえてしまう咎は私が負うしかない。
梅さきぬ
高き梢に

梅さきぬ
朝日子に

花三四
的皪(てきれき)と

蘂(しべ)は黄に
香はほのか
とうたい出され、さらにながくつづいてまた、
的皪と
蘂は黄に

花三四
香はほのか

梅さきぬ
朝日子に
とうたいおさめた三好達治の詩「梅さきぬ」と出逢ったのは、娘がもう幼稚園の頃だった。弟の「建日子」はまだ生れていなかった。
姉の場合より、もっと弟の命名で親は、というよりもっぱら父親の私は、重い咎を負うことになる。日本の土俗タケルの、勇気に満ちて熱くたけった活力をと願って名づけた建日子が、誕生の早々、産院の書類に「次女」と記入され、大慌てで取り消してもらわねばならなかった。まことに申し訳ないが、それでも私は朝日子にまさる名前と思っているし、当人もいやでないらしいのは何よりだ。.
親と子の間に権利や義務が、有るという人も無いという人も居よう。私はこの、生れ来たわが子に名前を付けてやる、少くもそれだけが親から子への権利であり義務だと思っている。親はわが子への最初の愛情をそこに添える。籠める。
人の名前と限らず、私は久しく生き抜いて来た、すべて物の名前、というものに関心をもつ。それを、その物を、その事を、その土地や山や川や木や草を、人が何と名づけ、呼び馴れて来たか、そこに生きた語感を注意深く受けとることから、私は私の感受性をつとめて大事に育ててきた。
語感とは、ことばのただ意味のことではない。ことばの生命感でなければならない。物や事の名前は、多くの人がそこに見出しえたそれぞれの生命感をながの歳月かけて秘蔵し、豊かな秘密や魅力を表現しえていることを、私は信じている。姓名判断のようないたずらに観念的な思弁は私の好まないところだが、その時代、その土地、そこで生きて暮した人々に一つ一つの物や事がどう名づけられ呼ばれていたかを知ることで、実に多くのことが正しく判ってくる。そう思っている。なぜなら人は自分の使うことばにこそ具体的な愛を籠め批評を籠め、願望も理想も、また忌避の念も縮めていたはずと思うからだ。ことばは「心の苗」と思うからだ。
そんなわけで私は、他の何をおいても、自分の娘に親が「朝日子」と命名した一切を心して受けとめて欲しい。また同じことを「建日子」にも望んでいる。というより、それだけを望めば十分なのだ。

* さ、すこし、心身をやすめたい。
2010 7・17 106

☆ いつも「湖の本」をお贈りいただき有難うございます。楽しみに拝読させて頂いておりますが、よく次々とこれだけ御執筆なされることに驚いております。
横須賀でお会いして以来、いつも美しい文と内容とに感激し、嬉しく読ませていただいております。今回の『私 随筆で書いた私小説』は、また、とくに清らかな文で、長い御文筆生活の結果が、ほのぼのし表現されております。そして幼い頃からの御生活まで明瞭に書かれており、只々感嘆致しております。心から御禮申上げます。  元東大教授

☆ 暑中お見舞申上げます。   神戸大学教授
お変りなくお過しのことと存じます。「湖の本103 私 随筆で書いた私小説」をご恵贈賜わり恐縮に存じます。三十二編の「随筆」と「補章」で構成された「私」小説は、どれだけ先生の思いをうけとめられたかわかりませんが、「京都はいつもこんなふうに僕に何かしら厄介なものを背負いこませる」と書かれてから、今日まで創作活動をつづけながら「母」と再会されたことの意味をユックリ考えてみたいとおもいます。
2010 7・20 106

* 朝、光明皇后と新薬師寺復元とをからめた天平の偉容と動乱をテレビでかいま見せてもらった。まさにわたしの『みごもりの湖』の時代だ。大概の自作は読み直しているのに、この記念作である長編はほとんど読み直した覚えがない。確かめなくても書けているという気概にあの作は護られている。
『秘色(ひそく)』では大化の改新から壬申の乱のころを書いた。
『蘇我殿幻想』では同じくその乱後までを、いや昭和までを書いた。いずれも歴史を現代と同居させて書いた。それがわたししの作風だった。
こんどの『私 随筆で書いた私小説』で初めて「母」を書いたのではなかった。『秘色』でも『みごもりの湖』でもすでに母は書いていた。亡き兄恒彦は、わたしが『廬山』で父と母とをともに書いたと読んでいた。老残の父は、『廬山』の載った「展望」を260円支払って買っていた。父は大きな出逢いを体験した。不如意だった父の生涯でもそれは、まこと、よろこばしい出逢いだった。その父をわたしは書こうとしている。
2010 7・21 106

☆ 秦先生、暑中お見舞い申し上げます。
『中世の美術と美学中』に漸く入りました。なかなか進まず、暫し休息。漸く再び、先生の世界に入っております。この人は、小説家なのか、学者なのかと。
先生の世界は、素晴らしい知識、学術的に裏打ちされているのに、驚くような独自の歴史観で、とても、こうだと形で、大きさでくくれない。小説を読んでも、随筆を読んでも。

八年前、八月四日も酷暑でした。
日大名誉教授の田村豊幸博士が、西大寺の一角に建立された「この里は継ぎて霜や置く 夏の野に我が見し草はもみぢたりけり」という孝謙天皇の万葉歌碑の除幕式にも出ました。
万葉集にも目を通していましたのに、内侍の佐佐貴山君が、女帝にその「さわひよどり草」を捧げ持っていたことも詞書でわかっていたのに、佐佐貴山君についてはそれ以上何も感じませんでした。それなのに、あの壮大な『みごもりの湖』という作品が生まれるとは・・・
厳島の宝物も、「平家納経」も「平泉」も、ちゃらちゃらと、お上りさんの観光客の目でしか見ることの出来なかった、狭い小さな世界で生きてきた読者は、先生の世界の入口に佇み、ただ圧倒されております。六十代に入って、老後の慎ましい暮らしをせねば、と半ば人生に諦めを言い聞かせていますが、今頃になって、見るべきもの(読むべきもの)に出逢えてよかったと、長いこと忘れていた読書三昧の幸せ、読書の間は物語世界に生きる華やぎも味わっております。
「湖の本」の作家に深謝。
酷暑の折、くれぐれも御身大切に。  野宮

 

☆  北の海の入日に最上徳内を 舟
(バルト海)クルージングの楽しみに、持っていった本。何冊かのうち
北の時代ー最上徳内』上・中・下
秦恒平著 湖の本 32.33.34 を読んでいた。

最上徳内が国後島へと蝦夷の地を歩いたように跡を訪ねていく作家が、徳内ゆかりの地の野辺地港から、函館へとフェリーに乗る。
船の中から見た陸奥湾の入日を描写した箇所がある。

「秀でて美しい大千軒岳からまるでお神(み)渡り、身幅にあまって金色の光の帯が胸もとへ、眼へ、くわっと奔って来る。」

午後の10時を過ぎてもまだ明るい北の海。ずっと読む本を手にしたまま、バルコニーで遠くの海の入日を眺めていた。だんだんと太陽が大きく下へと。海の向こうから赤い日の光りが船まで続いた。
徳内氏の蝦夷への大きな思い。作家が描こうとする熱い思い。この光の帯が、神渡りのように希望の光に思えたのだろうと感無量だった。
最上徳内は読み進むに連れ、多方面に偉業をなした中々魅力的な人だったと、始めて知ることが多い。
お墓は、都内駒込辺りのお寺ににあるとか。

* 有り難いこと。
2010 7・21 106

☆ 秦 恒平 様    千葉大学教授
梅雨が明けたと思ったら、即座に猛暑に直結しました。
湖の本『私 随筆で書いた私小説』『宗園、茶を語る』お贈りいただき、誠にありがたく拝読させていただいています。随筆で書い
た私小説、私探究のまったく新しい文藝表現のジャンルと興味深く、「基点 私の原戸籍」 から 「母の敗戦 養子縁組」 にはさまれたそれらはいずれも秦文学の研究にかけがえのない資嚢と存じました。
また、私が茶の湯を習いだしたのは、……疎開先丹波で大病し、と読んだ印象を、もし中世の茶を 「男文化」 の達成とするなら、近世のそして近現代の茶はその 「女文化」 的な変容、という記述に響かせたりしました。
円地文子事典に玉稿いただけたこと、ありがたいことと慶んでおりました。円地文学─秦文学の連関に東京、京都の近現代文学の所縁を感じておりました。
さるにても、どうか、暑中お体ご大切におねがいします。

私は一夏の間の町の実にさびしくひつそりして居たことを思ひ
だして、この大暑を送らうとして居る (藤村「大暑」)

そんな夏もあったことをおもいつつ  草々    二〇一〇・七・二一
2010 7・22 106

* 瀬踏みではあるが新しい本のためのスキャンも始めた。半日掛けてスキャナを働かせ続け、その間は手順を集注して守らないと粗相をする。音楽を聴きながらが気持ちいいが、サギョウニウカと手落ちがあると、あとで困る。こまぎれに放心の時間のあるのを、も場通り静観の機会にしている。
「仕事」の山がまた目の前に三つ四つと並びはじめ、忙しい夏になる。誰のためにも誰のためにも、どんな熱暑であろうと、どうか平安な今年の夏でありますよう。
2010 7・29 106

* ものの二冊分も優にスキャンして、校正にもとりかかっている。いい編輯ができるといいが。
2010 8・1 107

* 一日、校正していた。校正とは、読み返すことでもあり、わるくない、おもしろい、時に嬉しく時にぐったりもくる自己批評になる。このところ、過剰になりがちに視力を使っている。もう少し、もう少し。仕事に欲が出ると、生理的には負担が増す。それがわたしの生活なのだから。
2010 8・4 107

* 歯医者の前に六時起き、せっせと仕事。帰ってきてからも休まずに仕事。もう一息で一つ大きい山を越える。

* ここ一週間ほど根をつめていた仕事がほぼ用意段階を終えた。明日には全体の形を整え、つづく仕事への路線をつかんでおいてから、「湖の本104」として入稿できるだろう。
2010 8・7 107

* いつでも入稿が可能なところまで用意した。今日、日曜のうちに送っておく。

* 午後七時、思い切って、送稿済み。また、創作の方へ戻る。
もう一つ、七月法廷の「証言」録が紙の形で届いた。弁護士事務所からは、こうせよ、そうせよと何も云われていない。
2010 8・8 107

* 市川市の矢口さんという読者から、湖の本103『私 随筆で書いた私小説』を読んで、私の「父」が勤務しまた近所に暮らしていた時期もある「理研」という会社、工場などの記憶を書いてきて下さった。むかしすぐ近くで暮らしておられたという。「父」は夥しく住まいを移動していた人立つと遺品から推量しているが、昭和十二年に就職し、兵役をはさんで二十年ほど勤め工場長の地位にも就いていた理研時代はいちばん永かったのではないか。ありがたいお手紙であった。この辺からも数奇な道を歩んで艱難の多かったらしい「父」へのアプローチが拓けると嬉しい。実の娘に悩まされているこの頃、もう無くなって久しいそんな「父」などが懐かしまれる。妙なことになっているモノだ。
2010 8・14 107

* 玄関に立つと、景文の「河骨と蜻蛉」の軸がしじつに嬉しい。窮屈なところのすこしもない、しかし、何一つ描きもらした間抜けも無い。だから見飽きない。
などと云うているまに「湖の本」新刊の初稿が出てきたら、またとびあがるほど忙しくなる。いまや一銭いや一円とて稼ぎのない稼がない文士だが、「仕事」で忙しいことは壮年時とちっとも変わらない。奇妙な七十五歳だ。

* さ、世間の夏休みも今日辺りで過ぎて行くのだろう。明日は大文字送り火だ。
2010 8・15 107

* ひとまず、当座の用を終えている。 自分の「父」へ戻れそう。もっとも、湖の本の校正がそろそろ来るだろう。
2010 8・16 107

☆ ご著書お願い
秦先生、残暑お見舞い申し上げます。
わが家の猫の額の、庭というより通路に置いた鉢植えの野牡丹。朝夕の水やりでも、暑さで悲鳴をあげています。夏の花は、白、青、紫、そして緑の葉と、決めていますが、この暑さではお花も可哀相。
「女文化の終焉」上まで読んで思考が働かず、ストップしてしまいました。私には難解過ぎかと。しばらく軽い本を読み、世の熟女より数年遅れで韓流に嵌って? DVDを借りてきては「善徳女王」というドラマを見続けました。
おかげで、全く知らなかった新羅の歴史が少し解り、同じ頃日本も皇極・斉明女帝朝だったこと、理解できました。その後、孫娘がふたり、滞在してお相手にぐったりしましたが、帰っていってからも彼女たちの言葉や仕草を思い出しては、ぎゅっと、抱きしめたい感情が拡がっていきます。
先生の御著書からはしばらく遠ざかっていましたが、「私語の刻」は私の日課のごとく毎日、何回も拝読してしていましたので、先生の肉親への深い愛情、またご無念、伝わってきます。どうぞ、くれぐれも御身大切に。
孫達を送り出し、静けさの戻ってきたわが家で、さぁ、「女文化・・」中 もう一度、読み直します。そして私自身何か書きたくなりそうです。
さて、そんな事情で、まだ「女文化の終焉」中、下、読み終えていませんが、御著書をお送り頂きたいのです。「清経入水」や「廬山」はインターネットで読み、感動しましたが、私はやはり印刷したもので読む方が大事です。もう一度、本で読みたい。
1, 清経入水

5, 蝶の皿、青井戸、隠沼

6, 廬山・華厳・マウドガリヤーヤナの旅

7, 黒牡丹上

8, 黒牡丹下

《エッセー》

1, 蘇我殿幻想・消えたかタケル

4, 茶ノ道廃ルベシ

以上7冊、お手数をおかけいたしますが、送料などもお知らせ下さいませ。  野宮

* 感謝。
2010 8・17 107

* H氏賞詩人の岩佐なを氏に「生き事」六号を貰った。数人の詩人たちの雑誌で今号も岩佐さんの「銅版画苦楽部」の10篇が巻頭に。みごとな銅版画10点とそれぞれ詩が見開きに置いてあり、どっちも楽しいし、ほろ苦いし、ほんもの。
なんだか、わたしもこんな詩人たちの仲間入りして掌説を書いてみたくなる。カナブンブンに描かれた沢山な人の顔繪表紙もケッサク。
岩佐さんも、はじめからの「湖の本」の人。「湖の本」の読者には門さん岩佐さんのような一人当千の優れた創作者や学者が今も大勢いて下さるのが嬉しいし、有り難い。
2010 8・17 107

* ふと目覚めたら午後五時だった。そのまままた十時まで寝ていた。体温がまだ八度ある。もっと寐ていた方がラクだ。湖の本を送らねばと用意していながら、荷造りができない。もう少しお待ち下さい
2010 8・18 107

* さ、今朝一番にいよいよ新刊の初校が出来てきた。思い通りに組み上がっていた。校正に精を出す番。その間にまた腹の痛くなりそうな不快仕事も混じるだろうが、それはそれ、凌いで行く。なんでもない。
2010 8・20 107

☆ 秦様
ご無沙汰をしています。6月半ばからノルマンディーの家にいて今週東京に戻ってきて溜まっている郵便物の中に、湖の本103を見つけました。御本をお送りいただき有難う御座いました。ご連絡が遅れたことをお詫びします。ホームページの「私語の刻」とも重ね合わせ少しずつ拝読しているところです。
思うのは、人はそれぞれの事情の中で行動をし、それが周囲の人の行動を引き出し、そしてそれがまた元の人に跳ね返りつつ、その波紋が広がっていくということ。当事者には色々なしがらみがあり思うところがあるでしょうが、それがこの世の人の営みであり、何を憚ることがあろうかと思っています。
それにつけても生きていればこそのこと。どうぞご自愛くださいますよう。
御代は今回分まであるとのことですが、2500円を払い込みました。  澤

* 感謝。
2010 8・20 107

* 今日はものが食べられたと思う。湯にも漬かった。少しずつ回復したい、今日は腹部の不快をほとんど感じなくて済んだ。校正、ほどほどに進められた。何がいま一等不自由か、それは起ち居。立つのと、低い位置へ腰を下ろすのとが、甚だ危ない。夜九時だが、もう機械から離れる。
2010 8・20 107

* 門玲子さんの復刊『江馬細香』が予告通り贈られてきて、手に取り感嘆している。
この人のことは、このホームページにある「e-文藝館=湖(umi)」の、門玲子「江戸女流文学に魅せられて」が分かりよい。
今回巻頭に収められた亡き吉川幸次郎の著者に宛てた絶賛書簡は「随筆」の秀でた一嶺。東の中野好夫、京の野間幸辰も吉川さんを枕頭に見舞い、三大家が寄り寄り「尊著礼讃の集い」になったと書いている。一高生の谷崎が荷風の絶賛を浴び一朝に文壇の寵児となったのに負けないありさまで、門さんはいまや江戸女流文藝研究の一人者。私より四つ年上で、創刊来の「湖の本」の読者。
この人の成功のポイントは、一つはご主人の理解と支援、一つは意欲的な勉強の展開、一つは興味の質を自身で深めて行ったことと思う。金沢大学文学部を出ていても、此の道でいわゆる先生も、ヒキも、もともと無かった。才質と努力。
吉川さんの絶賛の一つは、文章の確実さ。女流には珍しく、しかも女流でなければ書けぬあらゆる対象に対する「あたたかき同情」の筆。私に言わせれば、これが、「作」を、「作品ある」もの、にしている。
2010 8・21 107

* 今日も湖の本の校正を進めていたが。
もう一つ。嫁いだ先で、どんなに朝日子が苦しい立場にいたか、それでもたすけてやれなかったと。結婚、また親族という思考があまりに両家でちがっていた、と。
2010 8・21 107

* 湯に漬かりながら「唐茄子や」の後半を聞いた。この人情噺が好きで、若旦那の「唐なすや唐なす」の売り声にかぶって吉原の花魁との馴染み話。いつか圓生得意の美声で粋でしぶい音曲がひとつ聴ける。これが楽しみ。そこから浅草の裏長屋で不孝な浪人の内儀を救うところへ噺は美しいように推移する。ほろっとくる。
校正も、ほぼ半分近くを終えて。
2010 8・22 107

* 歯医者へ。江古田、よく照っていた。何処へも寄らず帰ってきた。往復の電車で校正もはかどった。
2010 8・28 107

* 湖の本新刊分の本文初校を終えた。ツキモノなど調整して、うまく明日に印刷所へ戻せているといいのだが。この要再校戻しという作業はそう簡単でなく、最新の注意が必要になる。今夜の内にも少しでも前へ進めておきたい。

* もう一押しで、要再校戻し、出来るまで。あとは明日。
明日で閉会の、京都博物館上田秋成展。とうどう行きそびれた。残念。
2010 8・28 107

* 湖の本104の初校を印刷所に戻し、表紙やツキモノも入稿した。これで、待ったなし発送用意へ追われ出す。九月には法廷もあり、日程はいろいろと立て込んでいる。暑いままの熱い九月になる。少し骨をやすめて置かねば。
2010 8・29 107

* 「湖105下巻」を追う仕事にも入った。
2010 8・29 107

* アタマがなかなか働かない。十日以上も不愉快仕事に熱中しなければならなかったし、湖の本の校正にも拍車をかけつづけていた。アタマに風が通らず草臥れきっているのだろう。
明日、葉月尽。
2010 8・30 107

* 東大の長島弘明教授に戴いている『秋成研究』を読もうと決めて読み始めた。京都博物館での展覧会に行けなかったのを惜しんで。
長島さんとの出逢いは久しい。彼は未だ東大の学生だった。五月祭の実行委員をしていて講演を頼みに見えた。記憶に残るような話は出来なかったが、長島さんとの出逢いは永く記憶に残って、久しいといえば最も久しい東京での知友である。ことに彼は上田秋成研究をめざましく推進し、先達の高田衛さんの研究を大いに補足しかつ前進させた。わたしは秋成小説を書ききれず未だに落第生であるが、高田さん、長島さんの知遇をたいへん大きな宝のように感謝している。長島さんには「湖の本」も最初からずうっと購読して頂き感謝に堪えない。
先に高田さんの大著『春雨物語論』を読了したが、長島さんの此の大著にもまた心新たに向かいたい。

* 読み出すとやめられない。赤いペンを片手に要点に傍線を入れながら。なにししろ秋成の伝記では高田さんにしっかり知恵をいただき、自分でも考えたり書いたりしてきたので、その何倍も精微な長島さんの追究にも、乗り出すように読み進められる。出不精な私が、まだ勤務を持っていたかも知れぬ昔に、金剛・葛城の麓の名柄や増(まし)へ、たしか二度は足を運んで庄屋の末吉家を訪れていた。あの界隈を元気にまかせ、かなりこまごまと歩き回りもしたのが懐かしい。
どうしても秋成というと他人に思われない。この人は父を知らず、母には四歳で別れ、辛うじて死に顔を看取っている。秋成のために大阪や郊外をこれでかなり歩き回りもして、みな、よう役に立てることが出来なかった。長島さんの『研究』の最初の章の補注の最初に私の名前が出ていたりして、頸をすくめた。
じつにおもしろい。徹して精緻な「研究」成果で、実に安心してして読めるのも嬉しい。
2010 8・31 107

☆ 蝶の皿
秦先生、
「女文化の終焉」どうしても読み終える事が出来ず、吾が頭脳、感性、情けないかぎりです。
ひとまず、時間をおくことにして、昨夜は「蝶の皿」一気に読みました。集中して、一気に読むのが、本の世界に入り込めて、私には一番体質的に良いようです。
谷崎潤一郎の作品はほとんど読んでいませんが、谷崎と松子夫人、「蘆刈」、「細雪」などが浮かぶのです。
ふと思いついて、今、巻末「作品の後に」を読んで、やはりと思った事です。
幻想的で不思議な作品。一晩寝ても、目の奥に、「蝶の皿」の場面がまるでドラマでも見たように浮かびます。
谷崎潤一郞といえば、先生が「私語の刻」で書いていらっしゃった、佐藤方哉氏の不幸な事故もつい最近の事でしたね。
「青井戸」も楽しみです。しばし、酷暑を忘れ、至福の時に。    野宮
2010 8・31 107

* 湖の本104の「跋」文を入稿した。ボールはぜんぶ印刷所に投げ返してある。再校出という返球を待つまでにも発送の用意にかかりながら、下巻の入稿のためにも沢山の仕事をしなくては。
2010 9・2 108

☆ 青井戸 隠沼
秦先生、
「青井戸」「隠沼」とても面白く読み終えました。
青井戸、お茶のお稽古から遠ざかって、数十年経ちますが、あの遙か昔のお稽古に通っていた日々を思い出しました。
でも、私のお稽古はあまりに浅く、薄っぺらで、ただの一通りに過ぎなかった。
読後に改めて、インターネットで、青井戸を検索してみたり、
・・・「青井戸」「隠沼」、凛とした空気が漂っておりました。
時折、珠子や、龍子に慈子の影が重なったり・・・先生は切なすぎる恋をしたのだろうかと、想像を膨らませたり・・・
でも、依田宗未は幸せな人ですね。素晴らしい師、御家元に巡り会えて。
深く磨き抜かれた芸道に出逢える、その道を学ぶことは無論素晴らしいことですが、それ以上に、その道で素晴らしい師に出逢えるとはなんという至福。
こうした伝統の世界は、「道」と称しながら、意外や、頂点に立つ人やその夫人たちの金品への凄まじい執着や穢らしさにうんざりしたり、嫌悪感をもったりすることがけっして珍しくありません。
でも、先生の作品に出てくる人々は、皆、真摯で、静謐、そして美しい。
「隠沼」のヒロインの名が「龍子」なのには、はじめ秦作品らしくない名前だとちょっと首をかしげましたが、龍文宋磁器が出てきて納得いたしました。
マジョリカの壷が真葛文夫で、宋磁の深鉢が龍子、と重なって思えます。
有り難うございました。  野宮

* 自作を「e -文藝館=湖(umi)」に投稿して下さると。ゆっくり読みましょう。
昨日も一編、別の投稿があり、読んだ。
2010 9・3 108

* もう再校が出そろった。下巻を入稿の用意も、ほぼ調った。入稿がすめば上巻の校了と発送用意に集中して手を掛け、継続している創作へも思いと姿勢を傾けねば。九月はとても忙しく、十月も、二度の関西行きを含め、輪を掛け忙しくなる。そんなことは常時で、とくべつ驚きも慌てもしない。「いま・ここ」に迂闊な遺漏の無いことを願うだけ。
下巻が、また、かなり頁がかさむ。赤字必至。だが、濯麟清流、私としてどうあっても纏めておきたい二冊。おのずと作家人生が浮き彫りになる。
2010 9・7 108

* 歯医者を出たときが土砂降りで。篠つく雨に傘が役立たず、ずぶ濡れ。道は川のように。かろうじて西武線の駅までタクシーにのった。駅のそばで、手もみのラーメンとギョウザを一皿。二人で千円におつりが。店内頭上からの冷房がきつく、濡れたからだが凍りそうだった。
電車では上巻「あとがき」の初校。小降りになっていた保谷駅からもタクシーを使った。
ロミー・シュナイダーのオーストリー皇妃シシーを観て、休息。

* 颱風はおだやかに往って欲しいが、久しぶりに傘を打つ雨音を聴いて、気温も穏やかであったのは、少々濡れても有り難かった。

* 下巻の入稿。大きな仕事から一つ手を放した。上巻の再校と、発送用意がこれからの根気仕事。慌てずに。
2010 9・8 108

* 九月十月のスケジュール、近来になく混んでいる。是へ、上巻が下巻が「発送」で割り込んでくると、相当バテるだろう。ま、いいでしょう。
2010 9・9 108

* 空気が爽やかで日照りの割に過ごしよい外歩きだった。歩くのでなく、校正を少しでも多く読むのが目的であったから、ものの始めに某デパート紳士ものの階の手洗いは綺麗で静かと知っているから、便意を安んじるまで、安心して個室に座り込んで、ゲラを読んでいたりした。
涼しいデパートには思いの外あちこちに倚子がある。動くのが億劫だとその辺に座り込み、三十分や小一時間はラクにものが読める。なまじの喫茶店に入るより安心して孤心のまま仕事が出来る。女房子供の買い物の間を待っている老亭主の顔をするまでもなく、誰も見とがめない。
街の移動には、タクシーを使う。広い河原沿いにも川風の流れる木蔭に座って仕事の出来る倚子は、存外気楽に見付かる。疲れればボヤーッと景色を眺めているし、腹が空けばその辺の小店に飛び込める。いかにも定職のない不良かつ浮浪じじいという恰好で出ているから、そばへ寄ってくるモノもなく、ゲラなどひろげて赤ペンを使っていると、よけい人は寄りつかない。櫻橋を往復して渡って、川上へ歩いて、疲れたら言問を車で鶯谷駅まで戻って池袋まで帰ってくる。
街飯も億劫で、電話すると食い物は有るというからまっすぐ帰ってしまう。校正を読むのがおもしろいから、何も苦にならない。場所のない家では、どうしても落ち着いて校正が読めない。
2010 9・10 108

* 七時前に起き、圓生の「江戸の夢」についで「鹿政談」を聴きながら、発送用意を少し。 一度床へ戻って、本を八冊続けて読んで。少し睡い。                        2010 9・13 108

* 往き帰りの車中は、校正。雨になり、保谷駅前でタクシーを待つ行列に並んだ。
2010 9・14 108

*昼前、昼過ぎに郵便封筒に「湖の本」の住所印を捺した。予約読者用と、寄贈のものとは分けて捺さねばならない、寄贈先には「謹呈」とも捺さねばならない。それから宛名を貼り込まねばならない。とにもかくにも、しなくて済まぬ事はしなくてはならぬ。つまるとか、つまらぬとか、言うても始まらない。
疲れて睡いが、国立劇場での大きな舞踊大会で、わたしの「松の段 細雪」が花柳春、西川瑞扇らで舞われるので、それだけでも観て帰ってこようと思う。少し涼しいので助かるが、からだの芯は抜けたようにバテている。
2010 9・15 108

* 栃木から新米を下さる。
印刷所は「下巻」の初校ゲラをもう組み上げてきた。
2010 9・16 108

* 一気に上巻を責了した。発送用意は、見る角度では遅れているが、まずまず本の出来てくるまでには調うと思う。下巻の初校を進めねばならぬ。
2010 9・16 108

* 懐かしい占魚さんの『瓢箪から駒』を機械の傍で愛読している。高濱虚子や桑原武夫を語った「『鮎』あとさき」、會津八一先生におしえられた「独自の歩みを」、白井晟一の設計になる「一火山房雑抄」など掬すべき滋味に溢れて、しみじみ懐かしい。懐かしい人はいくらでも。責了した今日の本では、谷崎松子夫人、瀧井孝作先生。出逢えたことそのものが宝だ。

* それにしても今日は涼しい。風邪引いてはならぬ。
2010 9・16 108

* いつもと、まるで異なった手順で発送用意している。なぜか、自分でも分からない。

☆ 廬山 華厳 マウドガリヤーヤナの旅
陽射しは強いけれど、爽やかな風。やっと秋麗の気配が感じられるようになりました。
『廬山・華厳・マウドガリヤーヤナの旅』、もっとゆっくり読むはずだったのに、結局、夜な夜な深夜まで読みふけりました。
明日、予定があるからと、解っていても止める事ができず、睡眠不足の顔で、皺がまた増えたようです!
難しいと思いながら、一方で頭の芯が麻痺するまで読み続けました。
廬山は昔同様、清冽な美しさ、健気さ。
華厳は、祖父の遺業を必死に護ろうとした楊徳領の愛と哀しみ、孤独。
マウドガリヤーヤナに対しても、頭を垂れるしかない思いです。
慈子、恵遠、楊徳領、マウドガリヤーヤナ・・・先生の作品の主人公たちは時空を超えた世界生きる、己を全うする人々。
「妻よ、いとしい姫舟よ翔ぶのだ。高く遙かに華厳の世界へ翔び行け」
仏教の事も解りませんが、俗世に塗れて生きるこの日常は、やはり、地獄を這う亡者か。
地獄を這うか、華厳の世界へ翔ぶか、また、何回も読み返す作品だと思いました。有り難うございました。
気候が良くなりましたが、くれぐれも御身大切に。   野宮

* 歩いてきた道に、一つ、一つ、また一つと作を置いて、ゆっくり歩いてきた。
2010 9・17 108

* 発送用意は、月内に余裕を持って済ませる。十月に入っての発送自体が沢山のスケジュールに取り囲まれ、難渋するかも知れぬ。成るように成ってそれで好いので、気を楽にしている。楽に楽に楽しいことをせいぜい想って、からだをラクに動かしたい。
2010 9・19 108

* 頭の中が、妙にドス黒い。下巻の校正をかかえて、秋晴れの空気を吸ってきたい。

☆ 秘色 三輪山
『秘色・三輪山』読了。すっかり古代史の世界に入りました。
先生の作品は、私にとって、小説を超えた歴史書、歴史を超えた小説というべきでしょうか。崇福寺のこと全く知りませんでした。
昨年の秋、三井寺から近江神宮(初めて訪れましたが、あまりに鮮明な丹の色にびっくりしました)、琵琶湖を廻る機会が2度続けてありました。
堅田も通りましたが・・・読み進みながら、大津京跡を訪ねればよかったと・・・
十市皇女と高市皇子の若い恋について読んだ事がありましたが、私にとって十市皇女の知らなかった面にぐいぐい惹きこまれていきました。
十市の死後、後年、高市の年若い異母妹であり妃の但馬皇女は、同じ天武の子、穂積皇子を愛し、
人言を繁み言痛み己が世にいまだ渡らぬ朝川渡る
の絶唱を残し、但馬の死後、晩年の穂積皇子は若い大伴坂上郎女を妻とした。
天武天皇の子供達のことへあれこれと思いが広がってゆきました。
ずいぶん昔、葛城の一言主神社辺りを歩いて、土蜘蛛の遺跡にも行き当たったことがあります。
その辺りの地名が高尾張と知り、尾張氏のルーツはここ! 尾張氏と土蜘蛛も無縁ではないと、ゾクゾクした記憶があります。
そう思って気をつけてみると名古屋には、素戔嗚尊や饒速日尊を祀った神社がおおいのです。
自宅周辺の、薮のようなところに小さな祠があって、こんなところにも、と思うような荒れた村社跡にも素戔嗚尊や饒速日尊の由来書があったり・・・
尾張と出雲族は深い縁があるかもしれないですね。熱田神宮の御神宝・草薙の剣はもともと天叢雲剣ですし。
いつもながら難しいけれど、とても面白かったです。ありがとうございました。  野宮
2010 9・20 108

* うまくすると、今日のうちに発送の挨拶書きが一段落するかもしれぬ。あとは、追加の寄贈者を文壇から多く選べばいい。となると重点は「下巻」進行へ振り向けながら、気を確かにし、どうしてもしておかねばならぬ心用意に、からだも一緒に動かさねば。
2010 9・22 108

* 案じたほどは午後になっても降らず、これなら上野の展覧会に行けたのだ。だが、まあ、少し休むもよし。家に用事は山と有る、有る。あと一週間で「湖の本」104の発送開始、開始してとたんに京都へ、とんぼ返し。十月はとほうもなくスケジュールが混んでいる。

* 書きたいこと山のようにあるが、自らに封じて、当分は機械の日録から離れた場所での仕事や用事にせいぜい専念する。とても時間が足りない。
2010 9・24 108

* 六時半に起きた。血糖値97。とても好い。インシュリン注射や服用する薬に助けられての話であるが。
上巻発送の用意はほぼ出来た。出来本の搬入へ一週間、この余裕をうまく使いたい。
2010 9・25 108

* 仕事や用事の交通整理を懸命に頭の中でしながら、嬉しい仕事や不快な用事や、秋場所やドラマ「イ、サン」などいろんな「見もの」にも眼を向けている。中には、腰が悲鳴をあげる肉体労働も加わる。本を運ぶのだ。重い本の包みを四十包み以上も隣家からこっちの仕事場へ運び込むと、顔が歪むほど腰が痛む。幸いに、しかし、休むと痛みはほぼ治まってくれる。やれやれ。
何はともあれ、とりあえず、下巻初校を印刷所に早く戻し、少し手を明けて、他へ振り向けたい。散髪にも行かねば。
2010 9・26 108

* 急の秋冷えにおじ、家にいて、下巻の初校を完遂した。うまくすれば明日の午前中に印刷所へ「要再校」で戻せるかも知れない。
2010 9・27 108

* 下巻の初校を戻せるところまで、荷造りもした。九月が逝こうとしている。十月は、好い意味では活気の秋。然し愉快も不快も入り交じる。久々に月前半二度も関西へ向かう、ただし行って帰ってくる、が。
2010 9・28 108

* あさって、湖の本105巻『秦 恒平が「文学」を読む』上巻、一、谷崎潤一郎以前 二、谷崎潤一郎 約四十編が出来てくる。
下巻は、三、谷崎潤一郎以降 四十編。もう再校出を待っている。
濯鱗清流の上下巻。論攷でもあり、わが文学生涯の一面の証しでもある。
さ、次はどこへ行くか。
東工大教授の定年退官から十五年になろうとしている。存外に少しも休まず働いてきたなあと、おどろいている。
この二冊本、出来るだけ文壇の、大学、機関の、広く多くに送り届けたい。その用意も、出来ている。ゼンマイの切れたような相手を向こうに回し、「陳述書」など書いているより、はるかに「湖の本」は創造的に楽しいし、嬉しい。
2010 9・30 108

* 八時十二分のバスに乗り、保谷駅へ。有楽町線に事故があり聖路加病院に思ったより遅くついた。院内の電子事情の故障で血液検査などもまた遅れた。
診察の方は、諸データ悪くなく。
昨夜も遅くまでイヤな用事をしていて、歯のいやみに浮く気分わるさ。それでも七時に起きた。今日は初手からアタマの空気の入れ換えだけを考えていた。湖の本104上巻の刷り出しを持っていたので、それを読むのがすてきに精神衛生になった。鴎外、紅葉、子規、漱石等々と読み継ぐにつれ頭の中がせいせいする。
うまい寿司を食い、久間十義さんにもらった本も読み進んで、だんだん興にのってきた。

* 明日朝のうちに上巻の出来本が届く。肉体労働が始まる。
2010 10・1 109

* 七時半に起き、八時過ぎから十時まで、湖の本エッセイのうち「日本を読む」上下を大学と高校の一部に寄贈のため荷造りし終えた。咄嗟の好判断、時間がうまく使えた。やがて新しい本が届けば、やはりエッセイの「猿の遠景・母の松園」と新刊とを合わせて、寄贈のための荷造りから始めるつもり。もうそろそろ出来本届いて欲しいと、心待ちに。
2010 10・2 109

* 朝八時過ぎから、昼食夕食の短時間をはさんで夜の九時過ぎまで、妻と二人で本の発送という肉体労働に集中従事した。かなり能率を上げたが、もうへとへと。なにものも五体にのこっていないという疲労過度の有様。余のすべて、明日のことにする
2010 10・2 109

* すぐ発送作業にかかり。いま、昼やすみに機械の前へ来たが何事もなし。昼食に呼ばれて、階下に。
* 三時過ぎまで、よくがんばった。京都へ行く用意をしておきたい。今度は車中の「仕事」が無い。下巻の再校は六日に来る。京の一泊と往復は、気楽な本でも手に入れて読んでこよう。とんぼ返しに東京へ帰ってくる。
2010 10・3 109

☆ 御前酒の鯖寿司セット   吉備人
辻本店から、次のようなメールが届きました。
「ここ勝山では10月19日・20日のお祭りに鯖寿司をあつらえる習慣があります。
お祭りは家庭にお客様を招いて,鯖寿司や煮しめなどでもてなします。もちろんそこには御前酒も登場するのですが、この鯖寿司とお酒の相性がとてもいいのです。
鯖寿司の鯖だけをちょっとお醤油につけて酒の肴にし、のこりの寿司飯の部分を最後に食べるのが通!
また、普通の鯖寿司の味に飽きてきたら、そのまま一切れずつトースターにいれて軽く焼きます。すると、鯖の皮が香ばしく焼けて,脂も溶けてなんともいえない美味しさに! ぜひお試し下さいね」
ついつい誘い文句にのせられて注文しましたので、7 日頃に届くと思います。田舎の食べ物でとてもお口に合いそうもありませんが、話の種に試食してください。

* 湖の本の新刊が届いたのを祝って下さるのだろう、感謝します。

☆ 御礼   朝
秦恒平先生
ご無沙汰しておりますが、その後、ご健勝のこととお慶び申し上げます。
苦しかった夏がやっと終わり秋らしくなってまいりました。わたしは花粉症に苦しんでいます。
さて、この度は『湖の本 秦恒平が「文学」を読む』をご恵贈下さいまして まことにありがとうございます。心から感謝いたします。
秦先生のご著作は何度も読み返し、読み返すたびに鋭いご指摘に気がついて唸らされるのですが、今回は谷崎を論じておられるので、こちらも威儀を正して拝読いたします。
こちらは相変わらず、口を糊するための仕事が多く、お見せできる本が出せません。
出版不況などと版元は他人事のように言ってますが、1980年代の終わり、町の小さな本屋さんが「ベストセラーをまわしてくれなくなった」と、こぼしていた時、同時に版元が何百冊も捌いてくれる大書店にだけ品物をまわしていた時から、目下の惨状は予想されていたことでしょうに・・・。
全盛時には四軒もあったのに、*町からはとうとう一軒の本屋さんも無くなってしまいました。**町に残ったのは雑誌と漫画の専門店一軒と、エロ本屋が一軒です。
アメリカのような文化の荒廃を目の当たりにして、これは断じてインターネットのせいなどではなく、出版界の怠慢と傲慢による当然の結果だと歯噛みしております。
それでも絶望はしておりません。
子どもたちが、本に、文学に親しんでくれはじめたからです。
大学二年の長男の愛読書はスタインベックです。昔から考えると、ちょっと頼りありませんが、アニメ絵のイラストで飾られたラノベでないだけ「諒」とすべきでしょう。
22歳の二女は、最近、町田康さんや花村萬月さんの作品に親しみだしました。
このような風潮が少しずつ20代の子どもたち全体に芽生えています。
明日に希望をつなぐのは、難しいですが、 大事なことですね。
とりとめのないことを書き散らしてしまいました。
まずは、御本のお礼まで。失礼いたします。  拝

* 大きなお子さんがおいでとは想ってなかった。ご指摘は、じつは、その通りなのである。その通りだと早くに気付いていたからわたしは「湖の本」へ切り替えたのだ。出版社から百冊も本を出したのだ、もう自分で「好きな本作り」をしてまた百冊出してもいいだろうと想い切ったのが、104巻になった。正直、30巻も出たらいい、出したいとわたしは思っていたが、身近な人達はよくて10巻どまりだよと云っていた。継続は、ちからなのである。

☆ 湖の本10
秦先生、 『秦恒平が「文学」を読む』上、届きました。有り難うございます。
10日ほど留守をしており、今日帰ったところです。数日中に入金いたします。
旅行へ出かけるのに、『墨牡丹』下 を持参。
クレムリン、エルミタージュ、ペテルブルク・・・一日千歩くらいしか歩かない日常から、一日一万五,六千歩も歩き回り、何が何だか解らなくなるほど膨大な油絵やイコンを見続け、食欲もなくなるほど。
夜になると、ホテルの部屋で『墨牡丹』を広げ、ひと掬い清泉の如くゆっくりと、私を潤してくれる・・・
モスクワ行きの機内で下巻を手にした時から、村上華岳と秦恒平が重なって行きました。久遠の女性像も、慈子が浮かび、重なって感じられ・・・私の中で、華岳の絵と秦恒平の文学が綾なす世界にひたりました。
これでもかこれでもかというような壁一杯の油絵を見ながら、モザイク壁画を仰ぎながら、これはこれ。
小品でも、墨の濃淡でも一歩も引くところない、日本の美を思ったことです。
『墨牡丹』は残念な事に、三日前に読み終えてしまい、『清経入水』か『蘇我殿幻想』も持ってくれば良かったと残念がることしきり。
他に持参したのは黒岩重吾の『道鏡』。この落差が私のちゃらんぽらんなところですが。孝謙女帝に興味があるのでこれはこれで楽しみました。
ロマノフ王朝の歴史は殆ど知らなかったので、ロシアに女帝が多いのにはびっくり。
また町を行く若い女性が、可憐で清楚なのにびっくりしました。日本も昔は可憐な野の花のような娘達が多かったと思うのは私も年をとったからかと笑ったり。
湖の本104、先生の「谷崎潤一郞の世界」楽しみでございます。  野宮

* ロシアとは懐かしい。新聞小説『冬祭り』はまさしくろしあの旅に拠ってこそ書けたロマンであった。「町を行く若い女性が、可憐で清楚なのにびっくりしました。」とあるのに、思わず微笑む。いやもうロシアの少女たち、娘さんたちの美しいのには、わたしも仰天したものだ、が、対照的に中年過ぎた女性たちのでっぷり太っているのにも仰天した。ウオツカの飲み過ぎなのですと「解説」されてそうなのかあと嘆息したのを昨日のように思い出す。
エルミタージュ、また夏宮殿、街中にのこっていたまだ生きていた正教会、イコンやイコノスタスの数々。懐かしい。

☆  秦 恒平様   靖
『秦恒平が「文学」を読む 上』を本日拝受しました。有難うございます。
花袋の作について、見解を変えられたことが述べられていました。
文学作品への見解(あるいは評価)は読む人の経験や知識あるいは感性の総合的な反応ですから、読む時期によって異なるのは当然で、なかなか決めつけることは出来ぬものと思います。まあ、小生などは浅学非才の身、どこかの首相ではありませんが 読むたびにコロコロ変わるのも致し方なしでしょうか。
このたびの御本に収録されている文章は、いくつか掲載時に拝読した覚えのあるものもあり、一種懐かしさを覚えます。
今後一層のご成功を祈念しております。  拝

* 本はもう京都へも届いていた。滞りなく次から次へと出版され続けるのを、「壮観ですね」と云ってくれる人も出てきている。しかし、量よりは質でありたく、作品に富んだ文学的な仕事でこそありたい。作だけではダメ、作品のある作にという自己規制の厳しさに負けてはならぬ。

☆ 秦様 湖の本104 届きました。  晴
「朝八時過ぎから、昼食夕食の短時間をはさんで夜の九時過ぎまで、妻と二人で本の発送という肉体労働に集中従事した。かなり能率を上げたが、もうへとへと。なにものも五体にのこっていないという疲労過度の有様。」
土曜日の日記を読んで申訳なく思いながら、それでいて届くのを楽しみに待っていました。月曜日には届きました。
以前の厚紙の封筒で損傷も無く。
この厚紙が、発送の労働を一層きついものにしているのでしょうが、より良いご本への配慮を感謝しています。
「文学」を読む 上 の、多大な論評に今更の如く驚き敬意を表します。今までに読ませて頂いた文章もありますが、これほど多くのしかも各方面に亘りご高説どおりの「作品」を発表されていたとは。
文学の香りを感じながら、じっくりと読ませていただきます。
幸い我が家の庭も、萩の花がこぼれ、金木犀が香りだし、やっと秋の風情が出てまいりました。読書浄土の世界です。
迪子様ともども発送のお疲れを癒してくださいませ。

* 感謝。とにもかくにも、「いま・ここ」に心籠めてと。

☆ 四時。
わ、お早いお帰りですね。風、お元気ですか。
上等の京料理だなんて、うらやましい。
今日など、ちょっと暑いくらいでしたが、秋っぽくカラッとしていましたでしょうか。
風の新刊、昨日届きましたよ。ありがとうございます。
ゆっくり読ませていただきます。
早速お仕事にかかってられるでしょうが、お体をやすめることも忘れないでくださいね。
ではでは。
花、元気です。

* 「わ」が、面白かった。 風

☆ 京都、のばらです。
新しい湖のご本届きました。
いつもありがとうございます。
もう京都からお戻りの頃でしょうか。
秋晴れの今日、よい一日をお過ごしになれましたか。
おかげさまでこちらは皆元気です。
いろいろとお忙しくお過ごしのご様子、くれぐれもお大切になさってくださいますよう願っています。

* 従妹の顔ぐらい見てくればよかったのにと、いつも東京へ帰ってきて思う。ごめん。
2010 10・5 109

* 「電子脳」の世界的な大家である東大坂村健教授から、「秦恒平先生」と思いがけない親しみの籠もった自筆のお手紙を戴いた。それだけでなく、中国お土産の一級の茶葉「美人茶」を一箱贈って頂いた。
坂村さんとは、ペンに推薦し入会して頂いて、さて有難しと、東大の研究室まで当時の事務局長と同道面会し、日本ペンクラブに初めてホームページをぜひ実現のための助言指導を願いに出向いた。結果、私が電子メディア委員会の責任者となり、日本ペンクラブにホームページが誕生した。
また、「ペン電子文藝館」を企画創設したときも、坂村さんのご紹介を得、技術面全面のお世話を願って、現在の「ペン電子文藝館」が発足した。わたしが初代の委員長に、そして梅原猛さんに次いで、井上ひさし会長から二代館長に指名された。
坂村さんには、電子メディア委員会の委員としてもいろいろご指導戴いたし、当時通産省系の文字コード委員会にペンを代表して私が委員参加したときにも、それは力強い後押しやらご指導・ご助言を坂村さんに戴いたのである。開発されてゆくいろんなソフトも幾らも頂戴した。わたしとしては、実にめずらしい方面の知己であった。十余年になるか。
湖の本を、いつもお送りしている。今日のお手紙は、新刊への思いがけない鄭重なご挨拶であった。嬉しいことであった。

* 作家で元中央公論編集長だった粕谷一希さん、元新潮の坂本編集長、歴史学の小和田哲男教授、笠間書院編集部の重光徹さんらからもお手紙を戴いた。
「スッキリした文学論をお送り頂き感謝に耐えません こうした時期こそ落着いて 文学、古典を読むべきでしょう 私も残り少ない時間をどう過ごすか 模索中です ご自愛下さい」と粕谷さん。
「『作品がある』とはの御指摘は大いに考えさせられました。私も現役時代から厖大な原稿を読んできましたが、『作品』は実に限られているなと改めて想起致しました。本文はそれぞれ題名が魅力的で、大いに楽しませていただきます。季候異変の今年、呉々も御体調に留意され、一層の御健筆、御発展をお祈り申し上げます」と坂本さん。
「齋藤茂吉『萬軍』についての御文はご発表より十五年経つ今なお一層の重みをもって小生の胸に迫ってまいりました」と重光さん。
「前の方に(子規と浅井忠のこと)南禅寺の塔頭金地院の話が出ていました。私も好きなところです」と小和田さん。

☆ そろそろストーブ  maokat
hatakさん
湖の本104巻今日届きました。御礼申し上げます。
帰宅が3時4時の生活をかれこれ一ヶ月、ついに疲れが出て寝込んでおります。2年前にも同じようなことをし、体力を過信して大変な思いをしましたので、今回は自重して大事に至る前に自宅で大人しくしております。
こういう時だけ、まわりの風景がよく目に映り、寝ながら窓越しに見た夕景の、白いビルに当たる夕日のオレンジ色が、とりわけ美しく感じられました。
編集者時代に(今もそうですが)、あんなに沢山の仕事を並行して進められていたのは、なにか秘訣があったのでしょうか?切り替えがうまかったのかなぁ。
私はマルチタスクがどうも苦手で要領が悪いのです。
食事にたとえれば、お向こうを食べてからでないと、椀ものの蓋を取れないし、香の物が出てからでないと、湯桶にいけないのです。この調子ですから、バイキングの皿にローストビーフもエビチリもサンドイッチも同時に載せて食べられる人と較べれば、時間がいくらあっても足りないのはあたりまえなのでしょう。
お向こうや椀ものの代わりに、特許の拒絶理由書、科研費の申請書、学会の開催準備と自分の講演要旨、学位論文の審査、などなどを枕辺に並べて一日を過ごしました。
再来週から国連の会議でインドネシアに出張します。行き帰りの飛行機の中で、今回の『秦恒平が「文学」を読む』か、前々作の『宗遠、茶を語る』を読めたらいいなぁ、と思っています。
暑かった今年ですが、札幌ではそろそろストーブを使い始めています。どうぞお元気でお過ごし下さい。

* 懐かしい、いいメールをありがとう。ハハハ。なんだか批評されちゃったかなあ。
何かしら一つ事にだけ根をつめていると、その仕事が絶対化されてしまいそうで、他のいろいろとの間で感覚的にも質的にも相対化しながら、同時に仕事の能率を挙げないと何も勉強できないほど自分が忙しいのを分かっていた。編集者の時、単行本企画だけでも常時百種かそれ以上を担当(自分で企画しパスしていたのだから当たり前であった。管理職の時はそのほかに月刊誌の定日発行責任を多いときは六冊分も抱えていて、そのほかに「作家・批評家」としての依頼原稿を抱えていたのだから。行儀良く順に茶懐石の馳走にあずかっているワケに行かなかった。
その流れで、わたしの仕事はとても「書く」だけで済まない、いつも「読んで」底荷を蓄えていなければならないのだから、本も一冊読み切ってから次をまた読むなどという真似はとても出来なかった。その鍛錬で、今でも毎日きまって多いときは十七、八冊を併行して読んで少しもこんぐらかることはない。但しまことにこう云うと、お行儀はわるく、雑駁に乱暴に騒々しく感じられる。それはむろん承知していたが、勤めていた頃のわたしの小説もエッセイも、勤務の時間を盗んで、喫茶店の相席であろうと、取材先の先生の教授室前の壁に凭れたままでも書き進めていたのであり、自分の書く文章がそれでも「静か」であるようにと気をつけていた。『畜生塚』も『慈子』も『蝶の皿』も『清経入水』も『みごもりの湖』も『墨牡丹』もすべてそういう場所、そういう勤務中に書いていた。家へ帰っては「書く」よりもむしろ「読む」仕込みに時を用いていた。なぜなら仕事場へ重い大きな本は持って歩けなかった。
ハハハ。言いわけしています。

☆ ご本を有難う御座いました。  正
秦様  湖の本をお届けいただき有難う御座いました。次回の代金の振込みを致しましたのでご確認ください。
今回のご本で、文章の巧拙と内容の良し悪しについて(尾崎)紅葉を素材に論じられているのを拝見し、まことにその通りと感じました。
その人の問題意識なり世界の切り取り方は、選ぶ題材に反映され、そこに書き手の品位が自ずと滲み出してきます。志賀直哉
のように。
文章自体を磨くことは大切ですが、それはあくまで技術論のような気がします。

* 文は人なりと謂われてきた。なかなかどうして、技術だけで文は磨けない。むしろ文を磨くのは気稟の清質であるだろう。瀧井孝作や吉田健一など、悪文と謂われる名文の事実在りえていたのは、その為、その証左なのである。かつての昔昔には美文と謂われた名文らしきものが盛行した時代があった。美文こそ技術の所産であったが、人間の感銘は籠もらなかった。

* 今度の新刊で、ちからをこめて書いた一つは、間違いなく「紅葉の文章」であった。それと、「あとがき」かなあ。
「漱石作『こころ』の先生は何歳で死んだか」や「斎藤茂吉の歌集『萬軍』」や「北原白秋の短歌にも、こんな」は、短いが刺激的な発言になっていると思う。
それにしても、わたしの文学生涯にいかに谷崎潤一郎が大きな存在であったかが、否応なく顕れたのも、一結果である。

* ところで、どおっと届いてきた新刊への反響の中には、こういう一文も含まれた。

☆ お嬢様と婿殿のこと、常にホームページで拝見しご心労をお察ししております。これは秦様の作家としての存在に深く関わることで、おろそかにすべきことではないでしょう。しかし僭越ながら敢えて申し上げれば、それはそろそろ水面下のことにしておいてもいい時期が来たようにも感じます。
秦様お二人にとって大きな問題であり、現実の訴訟に多くの時間と労力を取られることはわかりますが、その巨細を表現なさると、折角の明澄な水を湛えた「湖」が墨に汚されるような気がして、そのことに心を痛めるのです。そして何よりこのことはもっと別の形で高い調べの秦文学に昇華できるよう思っています。

私は家庭を捨て子供たちとは全く没交渉となっています。それぞれに十分以上の教育を受け、子供も授かっているようですが、やり取りはなく孫も見たことはありません。しかし子供といえ別人、それぞれが幸せであればそれで十分、そのことについて書く気持ちはありません。世の中にはもっと声を上げねばならないこと、すべきことがあると思うからです。

ご事情を知らぬまま勝手なことを申し上げることにお詫びします。お心に適わないときは一読者の妄言とお捨て置きください。

* まことに忝ない、ありがたいメールであり、先ず心より御礼申し上げます。その上で、落ち着いてやはり私として考えて見ねばならない。
前にも書き写した。直哉のこんな言葉。

☆  作者はどんなに変つたものを書いたつもりでも、真似でないかぎり、決して自分以外には出られない。安心してどんな事でもやつて見るがいい。

☆ 創作家の経験は普通、経験が多いと云つて、ほこつてゐる人間のやうな経験の仕方では仕方がない。経験そのものが希有な事だつたと云ふ事もそれだけでは価値がない。経験しかたの深さが問題だ。
「経験それ自身が既に藝術品である」といふやうな文句があるが、そんな事を自分で思つてゐるから、尚藝術品にならないのだと思つた。

* 「折角の明澄な水を湛えた「湖」が墨に汚されるような気がして、そのことに心を痛める」と言って下さる。「明澄な水」の①と「墨」の②との混合で「湖」が「汚される」というご心配のようだが、「湖」とは、もともと①と②とで出来ていて、表現方法の差であるだけ、所詮は「自分以外には出られない。安心してどんな事でもやつてみるがいい」と直哉の言うように、「いま・ここ」の視野にひたと目を向けて仕事をせざるを得ないしそれが創作者の正しい姿勢に思われるのです。
もとより②の方面と雖も「もっと別の形で高い調べの秦文学に昇華できるよう思って」下さるのは実に嬉しいし、実現の時機をぜひ得たいが、必ずしもそれが①のようであれば佳いとは限らない。
秋成の晩年にもう一度『春雨物語』でなくぜひ『雨月物語』をと望むのは自由だが、秋成の年齢と意識とはやはり『春雨』を必然とした。創作者の「次」にはどんなものが飛び出すかはほんとのところ読者にも作者本人にも分からないのである。
ただ、概して言えることは、読者からは今の②でなくて以前の①をになりやすい。
しかし作者の意識ではせいぜい「②の①のよう」で在りたいのかも知れぬのである。いずれにしても、むしろ①を①をに服従してしまってはかえって大きな間違いを犯しかねない。「墨」の世界を必然に歩みながら「明澄な水」に渇いていては自己矛盾に陥る。墨には墨の美と透徹を願えばよいし、そこでわるく藻掻けばおぼれ死ぬであろう。

* まして日録の「私語」について言うなら、「闇に言い置く私語」であり、現実から目を背けて光を仮象していては自他を偽ることになる。

* また御家庭の御事情については、一律のことは言えない。
人それぞれの最善が在るであろう、たまたま私の場合は一私民にも過ぎず、しかし作家・創作者でもある。それに私は「慈」という文字を「心あつきもの」と読み取りヒロインに「慈子=あつ子」と名付けたような男であるから、人一倍の熱をもつて人間と人間との関わりを大事に見ている。個性というものか。
だから「子供といえ別人、それぞれが幸せであればそれで十分、そのことについて書く気持ちはありません」とは言って済ます気はないのである。
私の場合、娘は明白に客観的に「不幸」であり、たぶんもう一人の「孫」もそうだと思って悲しんでいる。作家であり、かつそれを悲しみ心傷ついてそれを「書かない」というのは自己撞着である。書いて「悲しみ」をお互いに和らげて行けないだろうか、わたしの生きている内にムリでも、せめて死後にも機あつて娘が、あるいは孫が、父は、祖父はどう考えて生きていたろうと思って呉れるようなとき、よすがとなり足場や手がかりになるものは書いておきたい。それは、他の人にも奨めたり強いたりは決してしないし、わたしもまた強いられたくはない。
「世の中にはもっと声を上げねばならないこと、すべきことがある」のは仰せの通りだが、さて、人が人として最もせねば成らず、また声を上げておかねばならぬ事は、何であろうか。ひとにより異なるだろう、この方にとっては何か察しもつかないが、幸い自分のことは気が付いている。何をどんなに言うて見ても始まらない、ま、たわいない夢であるのは間違いないとして、それを承知で言うなら、するなら、「いま・ここ」で目前にあることに向かい誠実であることだ。
いま、政治も藝術も自然や人の美も大切だが、わたしは、その大切を、妻や息子や身内と思う人達や、また娘や孫娘から思いをわざとらしく逸らしたりしないで生き抜くことだと思い定めている。それらと別にわたしの「湖」が、また「文学」が、在るのでは無い。
2010 10・6 109

* やはり主題が「文学」のためか、文学の縁辺から反響や感想やお声が一斉に届いてくる。たった今も文藝春秋の寺田英視さんから電話でご挨拶があり、暫く歓談。このまえご馳走になったお店のはなしなども。現在は重い役員をされているが、まだ編集者時代の寺田さんに、「湖の本」のためにと、今の大きな印刷所そして優秀で親切な担当者を紹介していただいた。そのことなしにこの「作家の出版」という仕事ははやくに頓挫していただろう。このあいだ、百巻達成でしたのに、もう百四巻なんですねえと祝って頂いた。
本の絶版を歎いていると、文藝春秋の現社長の平尾さんに「秦さんのような道もある」と教わりました、「私もいずれと」と、澤地久枝さんの手紙も今朝届いていた。
「茂吉の『萬軍』についてのご指摘、「よくぞ書いていただけた」という感がいたします。岩波の全集はなぜか『萬軍』をいれていません」とは、歌人の持田鋼一郎さん、昔は筑摩書房の編集者だった。

落葉焚く煙の中の昨日今日  孝作

と紅葉の画で瀧井先生ご息女手作りのハガキでの礼状も。
「『読む』のはあくまで『文学』であることの一句、『作品』論、その品性について。一瞬目の覚める思いがいたしました。五十年に及ぶ私の文学研究を立ち止って検証したいと思います。『野ざらし紀行』の「ふかき心を起して」の一句が私の仕事の指針でした」とも、俳諧研究や一茶論で知られた黄色瑞華さん。
「着実なお仕事ぶりに感服致しております  吉村(昭)が亡くなって もう丸四年が経ちます」と、津村節子さんも。

* いまいまも批評やエッセイを現に書いている方たちからも、書かれたものも含めてたくさん頂いている。なかには重い病気と闘い克服して行かれながら、孜々として「文学」されている方も。凛とする。

* わたしが今も今不愉快で煩瑣で執拗な裁判沙汰に巻き込まれ苦吟していることが、いまでは、本当にひろく知られている。わたしがそんな中で書きかつ湖の本を出し続けているとももう知らぬ人の方が少なくなり、それとなく、またハッキリと激励して下さる。仕事をしていればこそと思う。
いやなことに関わっていると、世の中はなにもかもガチガチの法律づくめのように錯覚しがちだが、とても。そんなことは、ない。わたしには、文学もあり美術も歴史も、そしてまた大勢の人も、在る。誇りに感じている。

* 京都においでだった或る読者がこの夏に、亡くなっていて、娘さんからメールでご連絡頂いた。

* *****様 ご逝去の由、心よりお悔やみ申し上げます。 作家・秦 恒平
悲しいお知らせに、心傷ませております。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
ほんとうに長い間 **さんには「いい読者」としてお付き合いいただきました。親戚のお一人かのように私はお一人お一人の読者を、お名前もご住所も記憶して参りました。創刊から四半世紀というお付き合いでした。私も後期高齢者になろうとしています。悲しいお知らせに接することも多くなりました。寂しい極みです。忘れません。
仰せのように、お送りした本は、一冊2500円です。いつもいつもご送金頂いておりました。感謝申し上げます。
文学のお好きな**さんでした、「文学」の巻でお別れすることになりました。
有難う御座いました。 合掌

☆ 心温まるお言葉をありがとうございました。
秦 恒平様
早速のご丁寧なお返事、ありがとうございました。
先ほどのメールをお送りした後、昔一冊の「湖の本」を
「いつか読んでみ」と父から手渡されたことを思いだし、探しておりま した。
忙しさにかまけ、本棚に納めたままだったその一冊は
「死なれて・死なせて」でした。
遅ればせながら、読んでみようと思います。
104巻分は、近日中にご送金いたします。
長いおつきあいを、こちらこそ、ありがとうございました。
****子

☆ 京都 のばらです
こんばんは!
今回も慌ただしくお帰りになったのですね。
お疲れはありませんか。
恒平さんの京都が、心楽しめず、
人寂しい町に、故郷になっていると書かれていて、
なんとなく胸を衝かれる思いがしました。
新しいご本は「文学」の視野が広がるようで、ゆっくり読ませていただきます。
又お目にかかれる機会がありますように。
次回は心楽しめる京都でありますよう願っています。
お休みなさい。 みち (従妹)

* 井筒君
だいぶ季節も動いているのでしょうかね、錦秋の気配もやがて感じられることでしょう。
四日五日の京都ではまだ紅葉の気配はなく、紅萩と白萩との群れ咲いてうねるのを見て、とんぼ返しに帰宅しました。烏丸のホテルで、ああ、ここで井筒君とお茶を飲んだなあと思いながら、お向かいのサンケイ支局を眺めてきましたよ。

さて、十六日の心嬉しいご祝儀もいよいよ近づきました。

私は、二十日までに仕上げねばすまぬ仕事を持っていますので、十六日当日は、朝はやに東京を発ちます。十一時半頃に新神戸に着きますので、お式にも間に合うはずです。
宿泊のお心遣いはどうぞご無用に。それをお知らせして置きます。
お二方にお目に掛かるのを心より楽しみに、めでたくめでたく参上致します。  私へのお心遣いは一切ご無用に。
それよりも、どうぞお揃いで皆様元気に華燭の盛典をお迎えになられますよう願います。   秦 恒平
2010 10・7 109

* 昔、妻は「姑」一編を書き、参考までに湖の本にも入れたことがある。今度は晩年のわたしの母と最期までいろいろに付き合った断片の記録を日記帳から書き抜いてくれた。わたしの知らない秦の母が満載されているらしい。ありがたい。おそるおそる読み出すのが楽しみでもある。
2010 10・7 109

* 往復ともに、朝に届いた下巻の再校ゲラを読み耽って。この仕事、とても楽しい。

☆ 届きました。
お元気ですか、みづうみ。

ご連絡遅れましたが、湖の本届いています。ありがとうございました。
わたくしがみづうみを一言で表現するとすれば、「文藝愛」です。この一冊は、多くの作品を読んで読んで読み続けてきた文学者の、文藝愛の結晶です。文学者秦恒平がどのような文学をいのちの水として飲んできたのかという「索引」とも言えるかもしれません。この一冊はほんとうに読みたかったもの。これから楽しみです。
蛇足ながら、一つご本と関係ない感想。

谷崎が、運命の出逢いの最初にたまらなく惹かれたのは、そういう松子さんに貰った、おそらくは「玉章」の文字であったにちがいない。

ここを読みまして、自分の下手な字のことを恥ずかしく思いました。松子夫人と正反対で、字を見ただけで百年の恋も冷めるクチなんです。松子夫人はわが憧れの女人ですが、益々遠く仰ぎ見るお方になりました。
電子メールのある時代に生まれてよかったとしみじみ。もし手紙を書いていたなら、みづうみには読んでいただけなかったかもしれませんね。
メールをこちらからあまり書いてはいけないと自制して書かずにおりました。そうしたら、まあすっかり忘れられて! 情けないことです。時々思い出してくださいね。そしてメールでもいただけたらご機嫌です。よっぽど不愉快なことがおありなのだろうとひとり気を揉んでいたのです。
発送作業のお疲れでませんように。腹痛放置なさらず、是非病院に行かれますように。裁判ガンバレ。
では、歌舞伎の余韻のうちに、ゆっくりおやすみなさいませ。  砧
2010 10・7 109

* ほんとうに、時間が無い。それを感じるだけで腹痛する。不快な用事に、仕方なく、だが冷静にかかりきりでいる。           そんなときでも、幸い下巻の校正をはじめると、機嫌が治って行く。それほど今度の『秦恒平が「文学」を読む』は、心ゆく仕事になった。有り難い。

* 高田欣一さんと高田芳夫さんの永いお手紙をいただいているが、書き写す時間もない。お二人とも文学者である。

* 生方孝子さんとも、受賞以来の久しい厚誼を願っている。作家梅原稜子さんの友人で、この二人、温泉につかり、浮かべた徳利の酒を傾けながら、「秦さんの『蝶の皿』を絶賛し合ったんです」と出会って聴いたのが最初だった。二人とも、あれ以来ずうっと応援して下さる。生方さんは優れた編集・出版者。それも女性問題に強い照準を合わせた批評家でもあり、今度も新しくオーラル・ヒストリーの労作『橋浦家の女性たち』が一冊の本になった。贈って下さった。柳田国男の「民間伝承」の編集をしていた民俗学者で日本画家でもあった橋浦泰雄の娘泰子や姉妹たちから、五年掛けての「ききがき」。
さきに北村隆志氏の『反貧困の文学』をもらって、ここでも褒めて紹介した。志は、北村氏も生方さんも同じ方向を得ている。有り難いことだ。北村氏の本、出版記念会をするので出て欲しいと著者にも云われているが、そういう席はふつう遠慮している。
2010 10・8 109

* 重い病と闘っている堤彧子さん、病室から、新刊の湖の本着のハガキ。いつも、自画像の写真をひらいては、「がんばれよ」と呼びかけている。さぞつらいであろう、が。逆に励まされる気持ちで、わたしも、がんばらなくちゃ。
2010 10・9 109

* 小雨の中、下北沢の「劇」小劇場で原知佐子主演の「私だけのクラーク・ゲーブル」を観てきた。少し泣かされてきた。
いまどき、このドラマを我が事と身につまされて受け取る人、どんなに多いか知れない。
十年まえ夫に死なれた老妻と、姉妹の二人娘を芯に、若き日の夫、また初老の夫の幽霊が登場する。イザベル・ドゥ・トレドの作を中村まり子が訳し、中村は演出にも加わり、長女をも演じていた。巧みな脚本で、ほぼ間然するところ無く、我が友の原知佐子はニンにも年齢も合い、伊達にはこの世界で永く苦労していない余裕綽々の好演で、ああこんなに巧いんだと感じ入った。出会いの昔から相思相愛、それも互いに熱愛の夫婦であった、夫の死後も妻はいつも夫と話し合っていた。娘二人とよりも夫と話していたかった。娘たちは母を愛していた。いい家族であったが、それでも夫は十年前に死に、自殺であった。彼は愛用のブーツの中に遺書と装填したピストルを入れて遺していた。遺書には切々と愛妻にむかい、少しでも早く来て欲しいと書き置いてあった。妻は十年「遅刻」して、階段から落ちて、死んで行く。
娘たちは真相を知り、こもごもの感慨にふけるのを、妻を迎えにきた若い日の、また年老いた夫と、妻とが眺めている。
問題を含んだ芝居であったが、数年前に、愛する夫・実相寺昭雄に先立たれている原知佐子にすれば、「そのままにすればいい」芝居であり、優しく美しく演じていた。おみごと。

* 折しも我々の同学同期の友の重森埶氐(ゲーテ)に死なれたばかり。
はねたあと、ロビーで告げ、知佐子絶句。「代わりに少しでも永く元気に生きようよ」と知佐子は覚悟をまた新たにしたようで、握手して別れてきた。妻は、われわれの一期おくれの、やはり、美学。しんみりした。
雨が少し増していて。本多劇場の向かい、小劇場隣の「バー ボルザーノ」で佳いワインを選んで早めの夕食をしてきた。保谷まで戻って、幸いタクシーが一台待っていてくれた。
2010 10・9 109

☆ 「湖の本」毎巻御恵贈賜り有難うございます。 阿川弘之
特に今巻は志賀直哉先生に関しての御高著が三篇載ってをり感慨深く拝読致しました
右 略儀乍ら一と言御礼のみ申し上げます 草々不備  十月八日

* 東大の西垣通教授、メールで「文学論」を楽しみますと。坂村健教授とならんで、電子メディア委員会、また「ペン電子文藝館」でも、委員としてお世話になった。「ペン電子文藝館」を退くとき、この方にこそわたしは館長職に就いて欲しかった。東大教授であるとともに知られた作家であり。むろん電子メディアの社会性を極められた専門家である。「ペン電子文藝館」の責任は「文学」に実績があり同時に「電子メディア」に通じた人でなければならない。その辺の配慮がペンの現執行部に出来ていないのが、遺憾。

☆ 秦恒平先生 御礼 西垣通
ひどい暑さに参っていたのですが、あっという間に秋になってしまいました。
たいへんご無沙汰しております。いつもながら『湖の本』をありがとうございました。
拝受して、すぐ御礼を申し上げなくてはと思いつつ、「じっくり読んでからにしよう」と日をおくってしまう悪いくせがあり、申し訳ございません。
このたびはまた文学論ですね。ふたたび、先生の筆の冴えを楽しませていただきます。
御礼のみにて。

* やはり東大教授の上野千鶴子さんからも「御礼」のメモに添えて、新しい本が贈られてきた。なんと『女ぎらい』と来たモンだ、副題が「ニッポンのミソジニー」。「『性格悪い』系の本です(笑)」と。男の「女ぎらい」と女の「生きづらさ」を解剖したとある。「女ぎらい」は和らげた表現で、「ミソジニー」とは「蔑視」の意味でもある。これはまた上野さん、きついぞと身構えて頂戴した。

☆ 「文学」を読むの上巻、ありがたくいただきました。  山田太一
なんと丁度、渋谷の中村書店で「秦恒平の百人一首」をホクホク買って帰ったところでした。露伴の小説はあまり、、というところ、つまみ読み。私も正宗白鳥は大好きですが小説はあまり、です。下巻は買わせていただきます。ありがとうございました。で

* 石本隆一さん評論集の第十巻『続・短歌随感』は、最終巻。石本さん、かなり重いご病気の由、いろんな意味からもご負担であったろう、夫人の名で「謹呈」して戴いている。ご平安を祈る。

* 金八先生の小山内美江子さんには、ヒマラヤのピンク色した「塩」を一包み同封して「湖の本」礼状を頂戴した。精力的に海外救援活動を続けておられたが、「今年で大体卒業させてもらうべく、」「おそらく最後の遠征と思いますがネパールへ行ってまいりました」と。ほんとにピンク色した「塩」は調味料でなく「ガラスのきれいな瓶がございましたらば それに入れお机のはじにでも置いて頂ければ幸甚でございます もちろん 少々は舐めてヒマラヤを想像してくださいませ 東のはずれに学校をつくるつもりです」とも。嬉しいお手紙。

☆ 御恵与 恐縮に存じます。  早大教授
小生このところひとり辞典の追い込みでやっと息をしている始末。手がはなれ次第「志賀直哉の美しさ」や「細雪」関連の御文章を拝読いたしたく。庄野潤三、三浦哲郎と相次いで喪われ、昭和恋々の日々です。御礼まで。

* 京都の楽吉左衛門さんから、琵琶湖畔佐川美術館での「第二回吉左衛門X展」の招待をはじめ、「還暦記念展」や、「楽家の茶碗展」の招待状がどっさり来ていた。とりわけ佐川美術館はすばらしい明浄処で魅了される。そして楽さんの仕事がまたこの数年、鳴り響くように佳いのである。
京都美術文化賞で早くに推薦し受賞して貰ったが、今年からは選者としても加わって貰っている。今回の受賞者展の協賛出品作も、只一点の造形であったがそれは美事な力作であった。他の方の作が霞むかと見えた。
楽さんも、「湖の本」創刊以来応援して貰っている。
招待券を幾枚も頂戴している。ぜひにと云う方にはお裾分けしたいものだ。
12010 10・9 109

* 宮下襄さんから「石川三四郎と藤村」の載った「島崎藤村研究」題38号を戴いた。むかし学研にいてわたしの「泉鏡花」を担当して貰った。その後藤村に関連の研究を始められたので、ちょうど「島崎藤村学会」で講演してご縁が出来ていたので、宮下さんにこの学会に投稿されてはと奨めたように覚えている。その後は何度も研究を同誌に発表されつづけて、喜んでいる。
石川三四郎と言っても今知る人は少ないが、きわめて優れた、とびぬけて優れたアナーキストであった。臼井吉見先生の『安曇野』では石川三四郎の面目躍如としてチャーミングだった。宮下さんの新しい論攷を読んでみる。この人も「湖の本」をずうっと応援して下さる。
2010 10・9 109

☆ 湖様 波です。
「文学を読む 上」のご本、手元に届きました。ありがとうございます。
「風運清秋」の四文字、直筆の添え書き、このひとひらのお便りを手に取るのを心待ちにしておりました。今回は静かな美しい装画の表紙で、ずっしりと重いご本でした。谷崎潤一郎を中心に湖の視点から書かれた文学論、拝読させていただきます。
金木犀の香る静かな秋の季節に、ざわざわと落ち着かぬ気持ちを文学の世界に導いてくださることに感謝いたします。
心の状態は投薬でなんとかバランスをとっていますが、仕事について考え始めると言い知れぬ不安に襲われることもあります。ウイークデイの夜はなるべくパソコンに向かわず、入浴して早めに入眠するように努めています。
湖さま、どうぞお体に十分気をつけて、日々お過ごしくださいますようお祈りいたします。
多くの読者が「下」を待っていると思いますが、どうぞ目など酷使されませんように。

* アメリカの池宮さんから、電話をもらった。わたしのこの「私語」を、ハズバンドがいつもプリントアウトして夫人に手渡して下さるという。有り難いこと。
2010 10・10 109

 

* 連休明けで郵便物、どっと。時間に追われていて、ここには少しだけ。

☆ 「湖の本」104 誠に有り難く拝受 厚く御礼申し上げます。  大久保房男
谷崎氏と佐藤(春夫)氏のところ大変興味深く拝読、 四十五、六年前、『日本文壇史』のために、伊藤整氏を誘ひ一晩 谷崎佐藤両文豪の話を聴きましたが、残念なことに伊藤さんの文壇史はそこまで行かずに亡くなられてしまひました。佐藤さんが「和解」のうれしさにウヰスキーを飲み過ぎて倒れ、半身不随になる前の「おそろしい鋭さ」がどんなものだったか、谷崎氏がいかにそれを恐れてゐたかの話など 又、千代夫人が初めて  (以下、貴重すぎるので此処には秦が割愛します。)

* 小さいペンの字でたくさん書いて頂いている。谷崎愛の書き手としては、うかと披露するには貴重な、また憚りもある内容を含んでいて。お願いすれば、もっと沢山を読ませて下さるだろうと思う。書かせて頂けるなら書きたいが、あまりに文壇の遠くにわたしは現住しているしなあ。

☆ ご丹精の「作品」を拝読しながら   神戸大学教授
「文学」を読むことの深さと恐ろしさ感じています。秦先生の述べておられる「品隲」とは何か。勉強不足で根底のところで理解できたかどうかわかりません。「読書百遍 義自ら見る」と信じて読ませていただきます。秋涼が加速するこの時期お身体ご自愛下さい。

* 単に字義のみいえば「隲」は定める意、「品隲」は品定め。私が今回の跋で触れた意味にいわば金額的な価値などは含まれない。この際ゆえその個所「湖の本104」の跋文「私語の刻」の冒頭のみを、此処へ再録しておく。

☆ 「秦恒平が『文学』を読む」とはいばった表題と眉をしかめる人もあろう、が、言葉以外の特別な意味は何も持たせていない。文責を明らかにしたに過ぎない。と同時に「読む」のはあくまで「文学」であると。書き手の一人一人に、書かれた作の一篇一篇に「文学」がどう働いているか、働いていないかを「読み取り」たかったという意味である。
では私・秦恒平に「文学」とはどんな値打ちであるか、片言にでも申し上げておく必要がある。

志賀直哉の全集に今も読み耽っていて、『暗夜行路』でも『偶感』でも『濠端の住まひ』でも、もっとあれこれ例に出していいが、ああ、ここに「作品がある」と私は思う。手近な谷崎潤一郎の随筆『きのふけふ』に読み耽っても、ああここで「作品が読める」と思う。それらは只の「作」でも「作物」でもない。「作」と「作品」とは、まるで異なるモノと値打ちである。まっさきに、これを申したい。
私も、ずいぶん永く、創作者の創り出したモノを「作品」と呼んできた。おそらく今日の読書人、いや殆どぜんぶの日本人が、「作品」の二字を、以前の私と同様に用いて怪しんでいないだろう。
明瞭に、間違っている。それが私の「文学」観である。
曲がりなりにも創作されたモノは、即ち「作」である、「作物」である。その作・作物に真実「作品がある」かどうかは、読んであとの品隲に委ねねばならない。
人に「人品」があり、画に「画品」がある。自ずと「気稟(気品)の清質」の有無や高下が生じてくる。その見極めを人はつける。品隲である。品定めである。「作・作物」から人の受ける感銘の如何により、初めて、この作には「作品がある」、これは「作品である」、もしくはこの作には「作品がない」、「作品とは呼べない」という喜びや落胆があらわれる。「作品」は、受け手・読み手の魂の、さも扉をあけるようにあけて、その人のハートに棲みつく。ともに生きる。凡庸な作や作物には「作品」という命はちっとも棲んでいないのである。

* 亡くなられていた橋田二朗先生の奥さんからもお手紙を頂戴していた。

* 九十すぎた三浦景生さんからは、ニューオータニでの今季日展オープニングパーティに出ておいでと招待状も。

☆ 牧水の「幾山河」についての   伊藤一彦
御文章、改めて拝読し更に心に残りました。嬉しい御文章です。『ぼく、牧水!』お送り致します。御笑覧の機会をたまわれば幸甚です。
2010 10・12 109

* 最初の一山を越えたと思う。あとは思いを尽くして、要事を終局へ調え、必要な附録書証を用意する。二十日過ぎには、ともあれ代理人事務所へ提出できるようにしたい。
イヤでもオウでも、娘と婿の吐き出す言葉に向き合わねばならなかった日々が、三週間半ほど続いた。不快で、じつにキツかった。平穏にまともに事理を尽くし合う討論なら何でもない。が、もう、むちゃくちゃ。一息に、此処へなにもかもを掲載して裁判員ならぬ余の裁判員さんたちに読んでほしいとつくづく思う。

* もっと、しみじみ有り難いと思うのは、わたしが、今も休み無く文学や文学的・藝術的な世界に脚をおろし手を働かせて「仕事」をし「書き続けて」いること、それが大勢の人達の目に触れ、励ましや感謝の言葉すら頂戴できている、そのこと、だ。
どんなに理不尽な不快感に苦しめられていても、たとえば今しも出版して送り出した、今しも校正していてやがて出版できる「湖の本」の文章を読みはじめると、黒雲がたちまち晴れて青空にかえって行くように、わたしは静かな嬉しい気持ちに成れる。「仕事」を続けている有り難さだ。
2010 10・12 109

☆ 冠省   作家
どうにか落ち着いた天候になってきました、ご健勝のことと拝察。またご本を拝受、ありがとうございます。
それにしても谷崎に対する大兄の思念の深さに感じ入りました。
そういう対象のない小生としては羨ましくもあります。略儀ながら御礼まで。

☆ 冠省   **社元出版部長
「湖の本104 秦恒平が『文学』を読む 上」を賜わり、有難うございました。いつものことながら、継続刊行、心より御労苦、察し申上げます。
(一)では、「紅葉の文章」「子規の絵ごころ」「漱石『こころ』の先生は何歳で自殺したか」「志賀直哉の美しさ」「若山牧水の『幾山河』」を面白く拝見しましたが、「歌集『萬軍』と斎藤茂吉」には、痛切な指摘がなされていて、この歌集も含めて、実に意義深く、身に沁みました。(二)は「小田原事件」をめぐっての谷崎潤一郎と佐藤春夫との数章は出色で読みごたえがありました。就中、「添田とお雪」の「猫」的存在は興味深く拝読しました。佐藤氏急逝の「朝日」での谷崎の文章は、印象的で覚えています。「下巻」の数多い作家・作品論が待ち遠しく。

☆ 『秦恒平が『文学』を読む 上」が届きました。  **社元出版部長
「作品」という言葉の重さに深く頷き、谷崎らに再会しています。
不順な気候が続いています。どうぞお大切に。

☆ 「湖の本」一○四巻を頂きました。  元「新潮」編集者
キチンキチンと刊行され、おどろきです。
幅広い文学論として、どの篇も的を射ていると思いますが、やはり谷崎に関する篇は面白く、含蓄があります。ずっと前に読んだきりの谷崎を読み返したくなります。
これから初冬へかけて良い季節ですが、どうぞお大切におすごし下さいませ。御礼まで、草々

☆ 「湖の本104 秦恒平が『文学』を読む 上」を   山梨県立文学館
御恵贈くださり心より御礼申上げます 様々な作家について示唆をいただいておりますが 中でも 谷崎潤一郎についての御文章 たいへん興味深く拝読しております 下巻の刊行も楽しみにしております
秋冷の心地よい季節を迎えましたが 御自愛のうえうお過ごしくださいますようお祈り申し上げます。
☆ 拝啓  元「世界」編集者
十月に入っても平年よりは温ったかめ季候が続いていますが、先生にはお変りなくお暮しのことと存じます。
このたびの御恵投 寔に有難く厚く御礼申し上げます。本格的な文学作品の読み方を学ばせて頂き度、今から楽しみに致しております。 敬具

☆ 拝啓  周
金木犀の香るよき季節になりました。ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
「湖の本」104号まで拝読して参りまして、どれほど多くの恩恵をいただいたか計り知れません。
またホームページ上の時事問題に関する勇気あるご発言はいつも溜飲の下がる思いがして、励まされております。
今号の「歌集『萬軍』と斉藤茂吉」によって、「歴史観の狂った」茂吉について初めて知りました。
長い間短歌を続けて参りましたが、(私の不勉強にもよりますが)誰もこのような事実を明確にしてくれる歌人はおりませんでした。
同時代、荷風の「断腸寧日乗」にありますように、逸民作家を装いながら軍国主義日本を客観的に捉え批判していたことに比べると、同じ西洋帰りでも、「時代」の読み方がまったく異なることに驚かされます。
もうひとつ、茂吉の自選歌集「朝の蛍」をお求めになられたエピソードを書いておられます。私も、また或る友人も、この自選歌集を入手した時の喜びを書いたり詠ったりしています。そのことについて同人誌のなかに拙い文章を載せております。
やはり茂吉は一番好きな歌人です。
「e-文藝館=湖(umi)」に拙作「四重奏」の一作として新内作品「三囲三味線Jを掲載していただいておりますが、その後、正岡子規の「子規・のぼさん」、樋口一葉「一葉日記」などの詞章を作り、故岡本文弥師匠の後継者・岡本宮之助師によって何度も演奏公演しております。下町の文藝愛好家の域を脱せず、仲間と楽しんでいるだけというような次第です。
同人誌「YPSILONJ NO.23号をご照覧賜れば幸せです。
まずは御礼かたがた、ますますのご健勝をお祈り申し上げます。敬具

* 寄贈さきの大学、高校からも、いろいろに。感謝。
2010 10・13 109

☆ いつもお心におかけいただきまして   東大名誉教授
有難うございます。 今回は谷崎氏のものを一生懸命拝読致しております。とくに「谷崎文学の魅力」「潤一郎の戯曲」「細雪」「細雪の秘めた花心」などは、たいそう有り難く、興味深く拝読させていただきました。
それにまた年中行事や源氏物語などについても読まれて下さっているなど、恐縮でございます。お会い出来ればなどと思うばかりでございます。

☆ ごぶさたしています。  田島征彦
京都(=の、受賞者記念展)では(=余儀ない不参)大変失礼しました。しかし妻の*子が、先生はお元気そうでしたとのことで嬉しく思います。10月10日文博の展示を見てまあまあ今までの区切りができたと、新しい出発のことを考えています。今、後半の授業のために首里におります。
「湖の本」次つぎとお出しになり敬服しております。
お目にかかれることを願っています。沖縄にて。
2010 10・15 109

☆ 前略
いつもながらの力強く、そして知のご蓄積に彩られたご文章、口惜しいとは思いますが 一方でただ唖然としています。 谷崎潤一郎については どうも人格として近づきがたく、ほとんど読まずぎらいに終わってしまいました。若い頃は坂口安吾とかその手のモノを好きになり、友人は太宰治ほかが好きな人が多かったようですが、私としてはあの軟弱さがどうにもがまんならなかったのです。その程度の読み込みでしたので次第に文学の本筋から離れていき、ついには歴史の森に迷いこんでしまいました。といっても例の如く考えは浅いですが…
歴史の分野でも「日本の伝統」というようなことに自分勝手な興味を持つようになりました。となりますと、谷崎潤一郎は最も深く理解しなければならない人物の一人なのでしょうが、今さら不勉強を歎いても遅いですね。
それにつけても先生の深いご造詣、ただ慨嘆するばかりです。  歴史家
2010 10・17 109

* 六時前に起き、ネクタイぬきで式服を着てしまい、やはりゲラを持ち、用心の薬をたくさん持ち、六時台のバスに乗り、西武線から下巻の校正を開始。新神戸に着いたとき、ほとんど休み無く182頁の半分まで読み終えていた。
2010 10・16 109

* 六時四十五分の切符を六時十二分に切り上げて貰い、十時ちょっと過ぎ、無事帰宅。帰りの新幹線と西武線とで、下巻の校正182頁分きっちり完了、これが我ながらえらかった。三校したことになる。
新神戸まで日帰りし、部厚い湖の本の全一冊分を往き帰りに読み切ってきたのは、体力は費やしたに違いないが、気力旺盛の集中力でちょっと自分を見なおした。無事に、おめでたい、喜ばしい席へ出られ、怪我なく帰って来れたのが、いい。
2010 10・16 109

* 医学書院以来、ずうっと激励して頂きつづけた名古屋の名誉教授鈴木榮先生の訃報も、ご子息から届いた。綜説研究誌「小児医学」を企画創刊したとき、日大の馬場一雄教授、札幌医大の中尾亨教授、鹿児島大の寺脇保教授と名大の鈴木榮教授を編集委員にお願いした。四人ともわたししの文学の仕事を終始一貫応援して下さった。寺脇先生が早く、次いで中尾先生が亡くなり、去年馬場先生が、いままた鈴木先生が亡くなられた。みんな「死なれて」しまった。鈴木先生は今でも「湖の本」にいつも送金してきて下さった。退官されるとき恐縮ながら謝恩と称されて編集長長谷川泉さんと私とを、桑名の船津屋に一夜招待して下さった。わたしが泉鏡花の仕事をしているのを声援して下さったのである。船津屋は名作「歌行燈」の舞台になった料理旅館の老舗。名古屋の「中村」の若女将も同行してくれてそれは楽しい一夜であった。その女将も若くして亡くなったのは寂しかった。

* 今年はついつい亡くなった人達の名を指折り数えてしまう年になった。私…。わたくしは、小説の中では、去年の誕生日頃に死んだことに、今年の誕生日が一周忌ということになっている。
2010 10・18 109

* 発送用意のまだゼロのまま、下巻を責了することに。初の異例なれど。ま、成るように成る。
2010 10・19 109

* さて。重圧の肩の荷をひとまずおろしてボウッとしていたが、疲れは意想外に重く、だるく、もう一両日の休息の内に発送のための用意と軽作業を進めながら、ゆっくりまた仕掛けの創作のほうへ戻って行く。なにもかも体と相談しながら慌てずに。
2010 10・21 109

* よく分からないことが多すぎる。だから、おもしろいのか。下巻の発送用意を効率よく、ぐいぐい進めた。頭の使いようでどうにでもなる。しかしからだもよほど使ったので腰も背も痛んだ。十一月早々に、出来てくるが、読者には間隔が少し短いので、寄贈の作業を先にする。
2010 10・21 109

☆ ようやく秋めいてまいりました。   ペン会員
いつも「湖の本」を御恵贈いただき、ありがとうございます。
たまたま調査で宮崎の山奥へいくことが度々あり、その途中に牧水の旧家があります。久しぶりに歌にふれ、風景と共に思い出した次第です。
遅れましたが お孫さんのお話、胸にせまりました。
いつも本当にありがとうございます。
2010 10・22 109

* 今日は留守番をつとめていた。寄贈の宛名を調べて書いたりしていた。おおかたそれも捗った。本紙十一月一日に出来て来る。もう下巻分も送金して下さっている方と、寄贈の学校などを、先に送り出す。上巻との間隔がまだ短いので、すこし斟酌して、送り出す。
2010 10・23 109

* そして、晩年の大仕事の一つに、昭和千首とでも謂える詞華集を編んでみたくなっている。湖の本の『愛、はるかに照せ』もまた『梁塵秘抄』も『閑吟集』もねわたしの選と読みとは喜んで頂けた。あれらの一回り大規模な撰集を編んでおきたい気持ちがある。
2010 10・23 109

* 発送の用意しながら、篠原涼子主演の「金の豚」とかいう題のドラマの初めらしいのを観た。この女優は、息子の書いた女刑事の「雪平夏見」役で弾けて、抜群にイメージアツプされた。もっと昔から、ちょっと味わい有る女優だが脇役かなと気に掛けていたのが、雪平夏見で俄然生彩を発揮し、トップスターにのしあがり、魅力ますますのいい女に成った。コマーシャル写真を見ていても表情完熟、いつも目を惹く。是は観たいと思った。
うん、いい出来だった。会計検査院の検査員というのが新しい。
このあいだ、似た名前のもう一人売れっ子、米倉涼子の国税査察官もの「ナサケの女」も観て、ま、面白かったけれど、あれには今や懐かしいほどの宮本信子がご亭主の監督映画で大活躍した「マルサの女」という先行作がある。会計検査院の、しかも元刑事かと間違えられるような隠れ前科者という設定が、篠原涼子の味を引き立てていて、ちょいと身を乗り出して観ていた。
2010 10・27 109

*非常に強い颱風が沖縄を襲い、東北上して本州に突っかかるは必然、前哨の雨は此処にも降り、しかも寒い。気も晴れず、致し方なし。せめて週明けの本の搬入に雨の厄が通り過ぎていてほしい。
2010 10・28 109

* 強い颱風の過ぎるのを待ち、湖の本下巻の搬入を二日に延期して貰った。天佑と思い心身を寛がせたい。と、云いながら、一日延びた余裕を活かそうと、発送の前仕事を一気に沢山し終えた。大阪のお笑いのハマダ某のまことにまことに下らない検事ものに惘れ果て、撮り溜めの「刑事コロンボ」で口直しをしながら用を捗らせた。女検事達も多かったが、検事ものの秀作にはめったに出会わない。キムタクに松たか子を組み合わせた「ヒーロー」などマシな方であったが、今夜のハマダ某に大器とみているとびきりの女優を宛がっているのも「ヒーロー」の二番煎じ、見え見え。このお笑いさんも、そもそも脚本たるもの、まるで、ど素人が見よう見まねの落第作としか思われない。

* さ、日付が変わろうとしている。六代目圓生を聴いて夢を見よう。
2010 10・29 109

* 音羽屋につてがなく、音羽屋が芯になる舞台の予約がしにくい。師走の日生劇場は、菊五郎・菊之助で演じる「攝州合邦辻」と松緑・時蔵で演じる「達陀」が観たくて、妻が電話で奮戦努力、ま、佳い席が取れたという。よしよし。楽しみ。妻は松緑贔屓、わたしは菊之助が観たいし「達陀」のダンスも大好き。前には菊五郎が大汗で奮闘好演してくれた。今度は元気な松緑だ、家の藝だ。
日生劇場が先で、今年のおお締めには、国立劇場で幸四郎と染五郎がガチンとぶつかる仮名手本の「祇園一力茶屋」そして「討ち入り」とは、なかなか。とても楽しみ。そして年が明けると、鬼が笑うが松たか子の芝居が待っている。
いやいやその前に十一月の「顔見世」がもう直ぐそこで手招きしてくれる。その前に、おおかた湖の本の下巻が送りだせるだろう。
2010 10・31 109

* よく降っていたが、雨、通り過ぎたようで、やや明るし。今日の午前に出来本が届く約束だったが、颱風の余禍を用心し、明日に延ばしてもらってある。今日もう一日、心長閑に過ごしたい。上巻から一と月。すこしも先を急く気はない。
2010 11・1 110

* 朝八時過ぎ、新刊の「湖の本105」が届いた。早い早い。なにかとガタガタしたけれども、とにもかくにも予定に沿って発送が始まった。
ま、慌てない慌てない。体に堪えないように。

* 発送の作業をすすめながら、バーブラ・ストライサンドの「ハロー・ドーリー」を楽しく観た。バーブラの魅力の最高に発揮されたミュージカルで、ダンスはもとよりその歌声のじつに美しく練れて輝きのあることに惚れ惚れした。観ていて幸せであった。
2010 11・2 110

* 大学高校研究施設等々の予定の寄贈先へ、また、すでに送金してこられている読者にも、「下巻」を発送した。上巻に八割五分がたの入金を得てはいるが、上巻を送ってから、まる一と月経っていない。ご負担をつづけて懸けるのを遠慮し、様子を見ながらこの月のうちに少しずつ送り出すという、かつてない方法をとることにした。

* 七十五歳、そう何もかも今まで同様に続けていていいと思っていない。というより、何を残すか。
文学。当然のこと。
何を、では落とすか。それは決まっている。
2010 11・3 110

* 「美的事態の認識機制」という大層な題で、学部の卒論を書いた。80点戴いて卒業したものの、このものものしい題を反芻するにつけ、美学へのあきらめがにじみ出た。そして大学院を途中退散した。美しいとは何かを理屈として万・万人が一斉に納得することは、いかなる哲学の大家をもってしてもムリであったのは当たり前という気がする。せめて我流ででも美しいと実感したいし、それはまた万・万人が同様にではないが、ほぼ自前に果たしている。これは美しい、あれは美しいと、喜ばしい声と表情とで表明しまた実感している。普遍妥当性をはなから断念した、あるいは、異論が出てもかまわないという実感であり、「美」に関するそれが実状また実情。

* 今度出した本では、藝術的な創作とともあれ目されるすべてが、ひとまず、「作」「作物」ではあるが、必ずしも即時に「作品がある」「作品である」とすべきではないということを明言し、主張した。二十年ほども以前からの持論をまた表に出したに過ぎないが。
分かりよく言い替えてみれば、我々がひとしなみに「人」「人間」であるのは事実その通りとして、しかし、即時に「人品・気品」が保証できるものでない。それと同じである。

* 「美しい人」とは普通の名詞であるが、内容は雑多で、万・万人に即時に通用する物言いのようでいながら、人それぞれの好みが先立ってくる。漢語では美人かならずしも婦人に限らなかったようだが、今日「美人コンクール」は「ミス」に限り、「ミスター」が審査されている例はめったにない。その代わりに長島選手が「ミスター」と呼ばれていた按配に、いろいろ特定の社会で男性は「親分」「テンノー」「兄貴」などとして、やはり限定付きで顕彰されている。「ミス・ワールド」でも「ミス東京」でも同じ限定はついていて、やはり万・万人が一致承認しているわけではない。
妙な人を引き合いに出すが、志賀直哉は「ミス」コンクールの推薦者か選考者になったことがあり、体験をふんで「美しい人」論をかなり熱心にぶち挙げていたことがある。直哉の名を引っ張り出すのに、たいそうな枕を置いたものだから、あとをつづける元気が少し失せてしまった。
2010 11・4 110

☆ 久間十義です!
秦恒平さま
ご無沙汰を致しております。
いつも「湖の本」をご恵送いただき、ありがとうございます。
今日、105の『秦恒平が「文学」を文学を読む(下)』を有難く落手いたしました。
ところで、去年の暮れあたりから、昔の日活青春映画と韓流ドラマに凝りだし、ついに病膏肓に達して、Youtubeと連動させた〝60年代青春歌謡映画覚え書き〟のようなものを作ってみました。
酔狂ですが、一生懸命書いたつもりです。
冒頭に、覚え書きをつくるにいたった理由を述べてあります。
ご笑覧くだされば、有難く存じます。
ps: 現在、私は元気で、ただ怠け心と闘いながら暮らしております。

* ペンの言論表現委員会でながいあいだ同僚委員をつとめていた仲間で、若い三島賞作家。「ペン電子文藝館」に長編小説を寄稿して貰い、作に惚れ込んで全編を一気に掲載した懐かしい思い出もある。委員会が果てると帰りが途中まで一緒になることがあり、よく話しながら帰った。ルポルタージュ風の面白い読み物をこれまでに沢山もらって、みな読んできた。筆力のある人で、この「私語」でもときどき名前を書いてきた。
さて、この頂いた作を、とにかくも機械で文字だけは再現できるところまで処理したが、たくさんなURLサイトが開けるかどうか、試行錯誤の最中です。メールで話せるらしいのが心強い。嬉しい。

* 思いがけない人が第一番に「湖の本」下巻到着の声を届けてくれた。ピリッとした。
2010 11・4 110

☆ 御礼
秦恒平先生   ご無沙汰しています。
気がつけば今年も残すところひと月となってしまいましたが、お元気でお過ごしのこととお慶び申し上げます。
さて。
この度は『湖の本105 秦恒平が「文学」を読む 下』をご恵贈くださいまして誠にありがとうございます。
心よりお礼申し上げます。
未だ全然拝読しておりませんが、 沼正三の名を目次に見て、違和感と同時に「秦先生が沼正三をどのように批評するのか」と、いささかスリリングな思いに駆られました。
わたしのほうは目下の出版不況で、昔のような我がままな活動も出来ず、また幻想怪奇の世界も、すっかり心霊や虐待といったテレビのような話に浸食されて閉口しております。
そこで、まずは口を糊することに専念して、名前を変えて時代活劇を書いています。純粋に生活費稼ぎにはじめたのですが、皮肉なことに、こっちのほうが売れて大いにクサっております。
まあ、売れてクサることもないので、しばらくは活劇で子どもの学費を稼ごうと思います。
これから、いよいよ寒さが増してまいります。
どうぞ、風邪など召されませんようご自愛ください。
まずはお礼のみにて失礼いたします。    作家
2010 11・5 110

* さ、やすもう。昨日も今日も、少しずつ手に合う範囲で新刊を送りだした。もう暫くは続けねばならない。
2010 11・5 110

* 折口信夫の愛息春洋さんの戦死されたのは「硫黄島」であった。新刊の論攷で、「アッツ島」としたのは間違いで。折口先生の教え子である大久保房男さんに訂正して頂いた。感謝してお詫びします。ついでながらこの巻頭論攷「塩屋連鯯魚(しほやのむらじ・このしろ)──折口信夫=釈迢空」は、折口先生を知って頂く一つの入り口かと思う。読んで下さる方の多いのを願っている。

* 島尾伸三さんや市尾卓さんらからも手紙が届きはじめた。

* 各大学研究室、図書館また山梨文学館当の施設からも寄贈への挨拶が届きはじめ、読者からの送金も。感謝します。読者へは少しずつ送り出している。

☆ 秦 恒平様 拝受しました。  妻の従弟
『秦恒平が「文学」を読む 下』を昨日拝受しました。有難うございます。
小林秀雄に魅かれるのは、凡庸な読み手としてはその文章のリズムが与って力となっていると思っていましたが、
「その模索されつつある次の思想的概念的展開以上に、その以前の美しい表現に籠められている一種の呪術的な文章そのものの内面的なちから、内から膨れ上がって来て自ずと物の輪郭を極めて行くような凄みのあるちから、にこそ、真に「小林秀雄」の魅力が秘蔵されているらしいということだ。」という文章に触れ、深く首肯するところです。11/06/2010 拝

* わたしとも同年代。オッ、ここにも小林秀雄の愛読者がいたかと嬉しく。

☆ 本届きました。  泉
これだけのお仕事をこなせる気力体力に敬服。
小春日和の昨日、所用で娘と本駒込に出掛け、その脚で不忍通りを上野まで歩こうと娘の案内で歩き始めましたが、20分ばかりしてバスが反対方向に走っているのに気付き方向転換。珍しく娘の勘違い。
間違った分娘は帰宅時間を急ぐので、丁度来あわせた満員の都バスに飛び乗り、こんなルートを辿るのかと面白がり乍ら上野御徒町へ。
別れてからやはり東博本館へ脚が向きましたが、目当てのバーチャルリアリティコンテンツ「国宝聖徳太子絵伝」が満席で残念、出直したい。何度か他の作品を観ましたが、30分程の上映は休憩も兼ねて楽しめます。
因みにお散歩数は15000歩でした。

* この人も一つ若い元気なe-OLD。健脚ぶりは、十日に会う予定の玉井研一さんなみである。いつも娘さんと仲よく出歩いているようで、羨ましい。
2010 11・6 110

* 画家の松尾敏男さん、作家の澤地久枝さん、批評の高田欣一さん、青山学院大学のS教授、その他各地の大学から来信。

☆ 「ありがとうございます、静かな美しいご本ですね。長谷川泉さんを知りません、しかし、中野(重治)さんの『歌』にちなむ挿話、意外でした。『失笑』した若ものたちは、 今は詩の意味を理解しているのでは。いや、わかってほしいです。お礼にかえて──」と、澤地さん。「あれだけの著作を次々とお書きになる力強さと努力に本当に感心しております。今回の御本も楽しく読ませて頂いております。今年は冬も早いようですが、之から更に寒くなってまいります。呉々も御自愛の程祈り上げております。」と松尾さん。「比較的距離を置いた作家についてのご文に見るべきものが多く、特に『小林秀雄──「歴史」は「美しい」』の、「無常といふ事」へのご言及は、私とは全く違った立場からの御批評ですが、とても参考になりました。又巻末の阿部昭氏へのお言葉、私は好きな作家だったのですが、おもしろく読ませていただきました。気になること、二、三。芥川龍之介についてですが、少し点がからいように思います。(中略)太宰治にもそれがいえます。ただ近代ではこういう作家は必ず挫折します。(後略)」と高田さん。

☆ 湖へ  珠です。
こんにちは。
昨日「湖の本」、有難く頂戴しました。
‘秦恒平「文学」を読む ’上巻は、著名な方々の遺された作品を通して、今まさに此処に生きていらっしゃるかのように感じながら読みました。多くの方々と交わされた糸の、何と鮮やかな色でしょう。
下巻も愉しみ、ワクワクしています。
また、昨日は頂戴した券で国立近代美術館工藝館の「茶事をめぐって」にも行かせて頂きました。
思いがけず存じあげている方の作品もあり、その取り合わせに新しい可能性をみることができました。
最近、数寄の茶事をされる方が増えたようでしたが、作る方々もよく勉強されているようです。使う人と、作る人。使われてこそ生きる道具に違いなく、こちらも勉強しなければと。
作る方のなかで力強く引っ張ってらっしゃるのは、やはり楽(=当代・吉左衛門)さんと思いました。あのみなぎる力ある器をこの手に、一服さしあげたいと願ってきました。お陰で、開炉の気持ちあらたまるよい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。
ここ数年、この季節は咳のきつい日々があったように思います。
乾いた空気は咽喉によくないので、湿度にはくれぐれもお気をつけ下さい。
冷えてきました。湖。どうぞお大事に。   珠

* 東京での知人で、茶の湯に執心出精の人と感じているほぼ唯一の人。こういう人に、少しずつでも事実上死蔵している茶道具を差し上げて置きたいと、このところよく思っていた。だが、出会ったことも実は無い人である。まずは出会って手渡さないと、荷造りして送るというマネがウカツに出来ない。

☆ 心身重く、ものが美味しくないのは楽しみが減って悲しいですね。
体、サポートして、それでも少しずつ体動かして、食べ物が美味しく召し上がれるようにと願っています。
向島の百花園は何が見ごろでしょうか。菊や薔薇、そして紅葉でしょうか。今年の紅葉は余りよくないと聞きますが、秋の一日を存分に楽しまれますよう。
本のこと。『江馬細香』先日本屋で見かけて、まだ迷って買いませんでしたが、やはり読んでみようと思います。
わたしの濫読はひどいもので、図書館から借りた『蕪村へのタイムトンネル』司修、これは読み始めたら蕪村の句は確かに出てくるのですが、静岡焼津を舞台に始まる小説の類で、静岡新聞に連載されたとか。出てくる会話が静岡弁! 半ば笑い転げながら、改めて方言について考えさせられました。司氏は群馬県生まれ、どうして静岡弁がこれほどに書けるのかなど、つい思ってしまいました。わたしはあまり話せないし書けない、・・父や母の言葉を思い出しています。
その他『業平ものがたり』松本章男、『場所と産霊』安東礼二、これは近代日本思想史と副題があるのですが、ボルヘスやスウェーデンボルグ、折口信夫や西田幾多郎やら出てきて、なかなか読み進めません。あとはローマ史。アメリカで買ってきた二冊、ヘンリー・ソローやアフマートヴァの詩集も辞書を引いて読んでいます。それで理解できるものでもありませんから、楽しんで読んでいるとは言えません。
今日は暖かで家の用事をして汗をかいています。夏服の整理やらさまざまな片付け・・。
先のメールで書きましたが時差ぼけも今回はほとんどなく、というより唯々よく眠れて、その土地の時間に結果的には従っていたということ。鈍感になっているのか、適応性があるのか、どちらでしょうか。思い屈することあっても、どこかでサラッと受け流している自分の反映でしょうか。
どうぞお体大切に大切にお過ごしください。
今年は香港型インフルエンザが流行るのではないかと。風邪も引きませんよう。  播磨の鳶
2010 11・8 110

☆ 下巻
土曜に届いています。ありがとうございます。
お礼が遅くなってごめんなさい。
明日、代金を振り込みします。
風、お元気ですか。
上巻、読み終えました。
いろんなこと考え考えさせられ、じっくり読みました。
齋藤茂吉の章、強く印象に残りました。
「無言が美徳」の谷崎言も。
花は、英語を勉強していますが、英語は確かにツールとして比較的習得の容易な言語に感じられ(なかなか習得できませんが)、世界各地で重宝されるのがわかります。
言語は概念を表す記号ですが、文化によって表現方法に差異のあるのは、考え方の違いを絶妙に包含していることの表れだと思います。
英語が共通語として広まることは、もともとの英語圏の概念や思想が広まることであり、英語学習者自らによる植民地化と言っても過言ではないのでしょうか。
和歌や連歌のように、教養としてため込んだ先人の仕事を、即興アレンジで一部自身の感情を乗せ流露していくような日本の行き方は、とても高度で洗練されているけれど、個人主義とは真逆なもので、日本に「私」の根付きにくい原因について考えさせられました。
日本の風土に根付いたものと、舶来の思想と、どちらがどういいのか。
日本人ならではの個人主義というものがあるのかどうか。
花は、もっと英語を学び、ここぞというとき、日本人の美徳を外国人に主張できるようになりたいです。
それには、日本についてもっと学ばねばなりません。
外国語を学ぶことは、別のアングルから日本を学ぶことですね。
ではでは。明日はお出かけですね。お気をつけて。
花は元気よく過ごしています。

* 郵便やいろんなメールのことは、みな、明日以降に。明日の午后には、百花園に。
2010 11・9 110

* 夜前は、歌舞伎界の便利帳のような本を買ってきたのを、読み耽っていた。夜中の読書は血糖値を下げるのか、三時頃ふと違和を覚え計ってみると、67。調整して、寝た。

☆ 吉備ひと
湖の本105号をお届けいただき有り難う存じます。
最初に「長谷川泉 毅い弓」「硬玉 長谷川泉先生」を読みました。
残りもゆっくり味わいながら読ませていただきます。
お腹の調子がよくないとのことですがお大事になさってください。お大事にと言いながら矛盾するようですが鮒寿司を少しお届けしようと思います。召し上がっていただければ嬉しいのですが。

* 有難う存じます。 湖

* むかし中央公論の、粕谷一稀さん、むかし新潮の、小島喜久江さん、いま笠間書院の、重光徹さん、歴史学者の小和田哲男さん、作家の小沢正義さん、神戸大学の馬場俊明さん、エッセイストの榊弘子さん、そして諸大学、順不同ながら、昨日、ありがたいお手紙などいただいていた。「機会があったら閑談致しましょう」と粕谷さん、「幅広い御関心の御成果に瞠目致します」と小島さん。「何より読むのが愉しい『批評』です」と重光さん。
榊さん、多年秘蔵の雑誌を七十数冊差し上げたいというお便りもあり、お気持ち、頂戴することに。

* 劇団昴の例の歳末の案内、参与として関わってきた芸術至上主義文芸学会の案内、銕仙会の「清雪忌」へのご招待なども。
わたしの掌説「鯛」を朗読しますと、朗読フェスティバルの岸野さんから案内も。
賑々しい昨日であった。

* 今日は、千葉と川崎のお二人のe-OLDを誘い、向島の百花園に行ってみる。
送ってよい先へはもう九割九分、新刊の湖の本発送した。次の仕事へ切り換わって行きたい。
2010 11・10 110

☆ 冠省 湖、いただきました、  三好徹
ありがとうございます。ちょうど月刊誌の締切りで、しかし、目次を見て、何はともあれ井上靖さんのところは、読まずに机に戻るわけにはいきません、いつか大兄が84年のペン大会のテーマで、大岡昇平さんの電話のことを書いた小生の小文、熱い同意を下さったことを想起致しました。お互い、井上さんのエピソードを話しはじめたら徹夜になりますね。多謝多謝。締切りは何とか間に合いました。

* 小山内美江子さん、もと「世界」や『志賀直哉全集』担当編集者の高本邦彦さんからもありがたいお手紙を戴いていた。

* ロスから電話で。川端康成がむかし大好きだったと。小林秀雄の名も出た。そんな読書家だったと知れて嬉しくなる。

* 読んで下さる人により、読み始める作者や作品にいろいろあるのが、こういう本の本性なのだろう、立原正秋世界を追っかけ通していましたという読者の喜びの声も届いていた。
2010 11・11 110

☆ 秦 恒平様
暑い夏でした。そして急に寒くなり、もう年末が見えてきました。お変わりなく お過ごしのことと拝察します。
『湖の本』 三月に102巻を、そして以後今月の105巻まで、毎回ご恵与いただきながら、御礼を失礼してしまいました。お許しください。
底力、と申すべきか、地下のマグマの噴出のようなお仕事ぶりに、ただただ感嘆するばかりです。そんなマグマが地表に出、見る見る凝固して天然記念物になって行く、そういう瞬間に立ちあっている気分です。
最新刊におさめられた 長谷川泉氏に関する二篇、感慨無しには読めませんでした。長谷川さんには、本当にお世話になりながら、何のご恩返しもできずに終った、その心の痛みもあります。
当方、なんとか細々と生きています。娘の旦那が、***ワシントン支局の記者をしているので、家内は、七月から二ヶ月ばかり彼ら一家のところに行っていました。 私は居残って、相変らずの、読んだり書いたりの毎日でした。 今、並行して三種類ほどの著作に取り組んでいます。
とは言え、実は最近は、読み書きよりも、銅版画作りの方に のめりこんでいます。通っているのは藤沢市にある版画工房ですが、お遊びで、工房仲間の雑誌を編んだりしています。最近第2号を出したので、近況報告のつもりで、同封しました。「文章は苦手」という集団の落書き帖ですから、文学の香りはしませんが、ご一瞥いただければ嬉しいです。
では今日はこれにて。ご自愛ください。 2010年11月11日  粂川光樹

* フェリスや明治大学の教授をながく勤め上げた旧友、医学書院で、編集長の長谷川泉さんの同期の部下同士であった。氏の夫人も、同僚の先輩だった。つまり、永いといえば東京へ出てきて以来の、こちらでは最も永い期間の知己である。
もうひとり、新婚のアパートで隣室同士だった、画家の木下あづささんも久しいわが家の友で。やはり湖の本を支えていて下さる。

* 一茶研究の泰斗である黄色教授や、歌人の持田鋼一郎さんからも手紙を頂戴していた。
2010 11・12 110

* 都立大名誉教授の高田衛さん、東大大学院教授の上野千鶴子さん、四、五の大学等から湖の本の下巻に礼状があり、順調に読者の送金も届いて、払込票に前回今回たいへん感想や感謝の多いのが嬉しい。ほぼまんべんなく漏れなく取り上げた作家・批評家・詩人たちに「ご贔屓」の声のかかっているのも面白い。「文学」だなあと思う
2010 11・13 110

* 夜中に何度も覚め、そして朝寝。気楽な無職だ。
ゆっくり手をかけ、今日、問題のないほとんど全部の読者あて配本発送を終えた。もうすこし、寄贈さきを検討するが。
2010 11・14 110

* 快晴。秋冷。

* 角田先生の『日本の女性名』上、鎌倉時代までを読み終えた。地道な基礎研究の成果で、歴史の推移がまた別角度から如実に読み深められ、欣快の読書となった。しかもなお、角田先生にして、なお、この中世初頭の一人の、特異でかつ隠れもない名前に触れられなかったか、と、残念無念。ただし先生の意識や穿鑿から洩れている理由もじつは分かっている、察しがついている。さてこそ、わたしは自身の仕事を、小説をと謂うもよし、何と謂うても構わないのだが、前へ、進めねばならない。湖の本の今年の発送も終えたと云うてよく、気を入れて幾つも用意の「仕事」に向かう下旬。そうありたい。
2010 11・16 110

☆ 秋を通り越して   俳人
寒気の時季に入ったような今日この頃 ますますの御活躍 めでたく申上げます
湖の本毎回楽しく学ばせて頂いております いま「ご無礼 上村占魚さん」を読みなつかしくなりました 彼の『吟行歳時記』愛用していますので。

* 俳優座の川口敦子さんからも、礼の手紙。巡業中らしい。そういえば、作・演出・主演の芝居を観てもらい感謝しますと、やはり俳優座の女優美苗さんからも。
2010 11・17 110

☆ 「湖の本105」を   元「新潮」編集長
御恵贈下さいまして誠に有難うございました。いつものように「私語の刻」から拝読を始めましたが、親しくおつき合いなさった瀧井先生、小林先生、川端先生、山本先生などの「読み」を読み進めながら、教えられるところが数々あり、深謝申上げたく存じています。私は担当する機会がなかったのですが、常々畏敬していた唐木順三先生への「読み」は殊に出色で、「唐木先生への宿題」は作家の追悼文中最高の出来映えの一篇と感嘆致しました。
これだけの財産をお持ちですから、どうぞ呉々も御体調に留意され、マイペースの御健筆をお祈り致して止みません。敬具

* 『秦恒平が「文学」を読む』上下巻は、上巻の「一」に、森鷗外、尾崎紅葉、正岡子規、夏目漱石、田山花袋、樋口一葉、中島俊子、泉鏡花、永井荷風、齋藤茂吉、志賀直哉、北原白秋、若山牧水の十六篇を。「二」に、谷崎潤一郎、谷崎松子の十九篇を。そして下巻「三」には、折口信夫、芥川龍之介、瀧井孝作、芹沢光治良、中村光夫、川端康成、小林秀雄、唐木順三、山本健吉、井上靖、宮川寅雄、太宰治、齋藤史、長谷川泉、水上勉、上村占魚、辻邦生、梅原猛、沼正三、立原正秋、馬場あき子、阿部昭の四十篇を収めた。
下巻の跋にもいうように、みな「書く」機会があって書いたのであり、他に、書く機会には恵まれなかったけれど、もっともっと心親しく懐かしく敬愛する大勢の先輩・同輩の書き手が大勢おられた。福田恆存先生、永井龍男先生、円地文子先生、臼井吉見先生などと思う起こせば限りもない。
そしてこういう先生方とまともに向き合うためには、それ以上の「いい仕事」をする以外に道はなかった。
2010 11・19 110

☆ 御健勝大慶に存じます。 文藝春秋局長
「湖の本105」有難うございました。
小林秀雄や唐木順三や立原正秋や 現状からすると何ときらびやかな文学の世界だったのかと 嘆息するばかりです。多謝

* 回顧すれば、おおかた、そういうものだ。
2010 11・24 110

* 早大名誉教授の中村明さんから、湖の本への礼状に加えて、岩波書店新刊の1200頁ちかい『日本語 語感の辞典』を頂戴した。じつに面白い。「ことば」のエッセイ集かのようにも手当たり次第に読んで楽しめもする。ふつうの語彙辞典とは、趣も意図もちがう。単語というより、物言いがかもしだす雰囲気の意味が読み出してある。労作である。
眉村卓さんからは文庫本になった『ボクと妻の1778話』を頂戴した。
2010 11・26 110

☆ 『「文学」を読む』は、
ひとつひとつが入魂の批評で、考え考え、思い思い、読みましたよ。
下巻では、折口信夫と瀧井孝作が印象に残りました。
綺羅星のような先達に直に接し、いろいろ吸収なさったのですね。
勉強不足なので、常に勉強していたいです。特に花に不足している古典について勉強したいです。
寿命が二百年三百年あっても追いつかない古今東西のテクストの膨大さに、速読ができればなあ、なんて考えたことがありますが、いい本は、いろんなことを考え想像しながらじっくり読んでしまうので、無理、と思いました。

* 古典は
ひたすら「読む」しかありません。付いておれば研究者による「解説」も。訳に頼るのもいい。しかし、やはり原文の「感じ」を汲み取りながら、が、妙味です。
古事記。これは訳でもいい。原文も読み取りやすく、苦労しない。
物語は、一つなら源氏物語。古事記や万葉集を除いて、日本古典文学全ての基本です。和歌の文化も此処で十分掴めます。物語の中の和歌や引き歌が「面白い」と実感できてきたら、ホンモノです。先ず優れた現代語訳を繰り返し読んで、「面白いな」と納得してから、訳を参照しつつ原文の花(ファシネーション) を味わう。身を寄せて読む。注も読む。
他に必読モノは、平家物語。読みやすい。
徒然草。読みいいとは言えないが、日本人の思想が溶け込んでいて実に面白く、深く汲み取ること。
とはずがたり。最上流貴女が遊女の境涯を生きた赤裸々な私小説。糜爛した宮廷の、また中世日本の被差別と遍歴の旅の、現実味が、奇蹟ほど濃厚に溶け込んでいる。古典日本の「女」を独り全身全霊で体現した後深草院二条。
江戸時代では、西鶴の好色一代女、山本健吉の新潮文庫「芭蕉」上下、そして秋成の雨月物語、春雨物語。可能なら、馬琴の八犬伝。
できれば、佳い能舞台と人形浄瑠璃とを、すこしでも。また、近松もの、南北ものの舞台。そして、民俗学。
2010 11・27 110

* 「湖の本」を本の形で続けることが、不可能ではないが、難しいことは分かってきている。知恵を貸そう手を貸そうかという親切はいろいろに聞いているが、実際には有効なことと想われない。わたしと妻の手で始めた仕事は、わたしと妻の手でそう遠からず収束しなければならない。ただ、「出」を待っている作物はまだまだ在る。新しく出来ても来る。手を借りることは現実に難しいが、智慧は借りられるだろうか。

* 「書籍版」で体力が尽きたなら、此のホームページの中にいまも全巻存在しているように、「(電子版)秦恒平・湖(うみ)の本」としてなら、わたしの意識が明晰で気力もつづく限り、幾らでも書き遺しておける。そう思えば、なんと有り難い時代であることか。
ただ、そのためには、現在のホームページを、さらに歴史的な鑑賞と褒美に堪えるよう美しく便利に改造できるなら、「相当な費用」を掛けても、立派に再構築し整備したいと思う。良心と美意識と最良の技術を持ったまさに機械建築の「匠」の智慧をこそ借りたいと思う。空想でなく、期待している。
2010 11・27 110

☆ 冠省 御高著を頂戴して有難うございました。  元講談社出版部長
気になっていた阿部昭、立原正秋さんなど後ろから読みはじめ、途中から巻頭へ移りました。論じられる人と文学に、秦さんの文学観が筋目立って述べられて、美点を認めつつ、その特質が浮き上ってきて、とても清々しく拝見しました。瀧井孝作さんは小生も担当(「野趣」も受取り、先生の机の前で原稿を読み、直ちに感想を述べる緊張感、といって武張ってないので、安心感もあったのですが。)したので、懐しく思いました。いつも貴重な手造りの御本をいただき深謝申上げます。草々。

* 八王子の瀧井先生と差し向かいにいた昔が、静かに静かに甦る。
2010 11・30 110

* 晴れた青空をまぶしく見上げながら、歯医者へ。
このごろ交通機関に事故遅延や運航停止が多すぎる。時計を頼りに安心して外出がし難い。
途中、雲行きがまた悪しく、しかし治療終えて帰るときは、晴れやかな青い空と白い雲であった。
聖路加へ通っていても治療を受けているというより、検査データの変移を観察されている実感だが、歯医者だけはいつもみっちり治療されている。なにしろ当人がちっとも自分の歯の面倒をみないのだから、よほどヒドイのだろう。みっちり治療されたなあと傷んだり沁みたりするのを堪え、堪えきれないと随分麻酔されて、今日は女先生を長時間独り占め、ゆっくり口の中をさわりまくられた。どこやらの虫歯をどうにかして貰うらしく、金goldを使いますがと言われ、どうぞ宜しくと言ってきた。歌舞伎の好きな女先生も海老蔵事件に一言も二言もあった。
どこへも脚をのばさず帰ってきた。江古田で西武線に乗ると、目の前の席で「湖の本」を読んでいる人がいた。豊島園の方に住む、妻の昔からの親友だった。わたしのマイミクとも何人もマイミクになっている人で、先日百花園に半日を行楽してきた玉井さんは、会ったことはないがどこかの大学教授ですかと聞いていた。それほど、めざましいまで能も、美術も、文学にも、勉強家である。今度機会があったら老稚園の遠足にこの人も誘おうか。
2010 12・3 111

☆ 今年ももう後、一月となりましたが、お元気でいらっしゃいますか。
過日は、ご高書をお贈り頂きまして、ありがとうございました。
もう十年も前になりますが、「ラーゲリから来た遺書」に出演したときに、秦さんが、誉めて下さった文章を、昨日、探し出して読みました。
それでは、お元気で、良いお年をお迎え下さい。  劇団俳優座 女優
2010 12・3 111

☆ 奇遇に感謝です。   晴
電車の中でお声をかけられ驚きました。
湖の本は佳境に入ってきていて、『親指のマリア』中巻です。新井勘解由が切支丹屋敷の内へ一人で来て、裁きの範疇を越え、通詞三人を交えて真剣に世界を、信仰を話し合っています。長助もはるもひっそりと登場していました。
著者の方と話している気持ちになりながら、読みふけっていて、声が聞こえ、著者ご本人。恥ずかしいやら夢心地やらでした。
最近は「最上徳内」を読み、次は「新井白石」と、「湖の本」をボチボチ読み返しています。
若いときに読みましたのは、ただ活字を追うが如くでした。本を読んでいることが嬉しい。楽しい。だけ。
老境の今「湖の本」やこのHPの「私語の刻」で触発されて、もう少しじっくりと深く読みたいと勉強させていただけて感謝しています。
読書する時間はたっぷりあるようで、残された時間の少ないのが淋しいです。
迪子さんとご一緒だったら嬉しかったのにとチョッピリ残念と今頃思っています。
今日のように天候が荒れますと身体もストレスを受けます。お二人ともどうぞお身体お大切に。

* 最上徳内や新井白石はわたしには親身にみうちのような人物。その人物像に「湖の本」で親しんでくださる人がある、嬉しいことだ。
2010 12・3 111

* 冒頭に掲げてある能面は、「十六」と呼ばれている。
平家の敦盛や知章らが一ノ谷合戦で戦死した年の頃を謂うており、三井永青文庫に愛蔵されて在る。
淡交社の雑誌「なごみ」に毎月趣向の短編小説を書いていたとき、撮影した。能の曲と、美術品とを選んで、二つを掛け合わせた現代短編小説を書いていた。この作だけは、題を『敦盛』とせず『十六』とした。
依頼した写真家は、能面は真正面を撮ることが多いと言っていたが、苦心惨憺して角度をえらび、わたしが「これ」でと指定して撮って貰ったのが、この希有の写真。実の能面の真面(まおもて)は、慈童や喝食にちかく、ぼっちやりと少年に見えるのを受け容れず、このような表情を苦心に苦心してじつにいわば「偸み撮り」に撮影したのである。少年を処女の面持ちで撮りたかった。おそらく多くの人が此の写真を見て女面と観てきただろう。これも、わたしの「創作」であった。
なぜ、こう撮ったかは、短編集『修羅』のなかの一編を御覧下さい。十二編、それぞれに能の曲の題をとり、残念ながら美術品の写真では飾れなかったが、函の表は此の、わたしの「敦盛」像が飾っていて、百に余るわたしの著書でも、ひときわ美しい造本(筑摩書房)である。
2010 12・6 111

☆ 遠 様
しばらく振りです、お変わりありませんか?
明後日のお誕生日おめでとう御座います。
色々とご活躍、うれしく思って居ります。
時々「私語の刻」開けて居ります、特に歌舞伎の項に力が入ります。
私は、春より体調が悪かったのですが、今は、何とか無理をしない様にしております。
今年は特に紅葉が美しく、東山連山歩いて来ました。
懐かしい写真を送ります。
新しい年に向けてお互いに健康であります様に!
無茶せんと、お元気でね!   翔

* ありがとう。この人もわたしから初めて茶の湯の作法を習った下級生で、作法の姿・形のいいこと飛び抜けていた。お茶の先生をしているかとも伝え聞いていたがさだかでない。お子さんがあるとも孫があるとも知らない。わたしが東京へ出てきて以来、数十年顔をみないが、「湖の本」はずうっと応援してくれている。学校友達では、中高校時代の人がいまも数多く応援してくれる。
懐かしい写真、か。歌の中山紅葉の清閑寺、石段を登っての二脚門。この人が初めて連れて行ってくれた。後の後の後に、新聞小説『冬祭り』のラストーシーンにこのお寺を大事に使った。
そして紅葉の照った清水寺の舞台。懐かしい。いま、清水寺、清水坂にゆかりの小説を書いている。『能の平家物語』の「熊野」にささやかに予告がしてある。
2010 12・19 111

* ところで、余儀ない要事の一つともいえるが、『かくのごとき、死』を、打ち込んで丁寧に読み直し始めた。孫やす香を痛恨哀惜の「挽歌」として出版したが、わたしを被告として訴え出た娘と婿とは、執拗にの著作を攻撃してやまない。やす香両親への名誉毀損であり亡きやす香への侮辱であるという。販売も配布も再刊も許さないという。裁判所が斡旋の和解にも決して応じないと云うらしく報告が来ている。

* はたして、この日記文藝の、何が、何処が、娘や婿への名誉毀損で、愛しい孫の尊厳を傷つける侮辱であるのか、もう一度、自分の目で確かめたい。そして、もし、よろしければ、このホームページにアクセスし続けて下さる国内外の大勢の方にも、どうかもう一度、読み確かめて頂きたいと切望するのである。この一作は、作家秦恒平のやす香を記念するかけがえない「著作」「創作」であり、「文藝表現」である。これが許されなくて作家は、創作者には「何が在る」といえるのか。

* 口はばったいが、もう半ばを読み進んで来て、謂わば「孫娘の死と作家の一夏」を内容とする、文藝古来の此の「挽歌」、少しも恥ずかしくない日記文学に成っていると想う。
どうか原告に近くおられる青山学院大学や早稲田大学近縁の先生方、学生諸君達、またお茶の水女子大・高校の人達、また町田市民や教員委員会の人達、ご親族の方達に、ぜひ原告側に立って頂いてもよいので、心静かに読んで頂きたい。孫を愛し娘を労り想う祖父の、父の気持ちに、邪慳や悪意があるかどうか、忌憚なく呵責なく読んで頂きたい。ご意見を聞かせて頂きたい。
もう二三日のうちに、此処に、このファイルに、ほんの極く極く若干の修正も加えて、一挙、全掲載します。私語の日記は、ファイルを通例の移管先に移して、便宜、年内、書き継ぎたい。
2010 12・23 111

☆ 前略  蔵
このまえは『秦 恒平・湖の本』104105をご恵与下さりありがとうございます。まだ全部を読んだ訳ではありませんが、秦さんの日本文学への見識の広さ、とりわけ新鮮さに驚かされました。私は文学・文人の世界に無知な人間の一人ですが、定説を超えて作品と作家の本質に迫る秦さんのような姿勢が好きです。梅原猛さんとも通じ合うものがあるのもよく分かります。
先日。北澤街子さんのところの本をいくつか読んでいて、北澤恒彦さんの本の年譜に秦さんの項があり、ああ、ご兄弟なんだと知りました。
今回初めて秦作品を読み、お二人が随分違った道を歩まれたことにひととき感慨にふけりました。
なおご参考までに私が利用している最寄りの図書館のアドレスを記します。
我孫子市民図書館
どうぞ良いお年をお迎え下さい。

* 恐縮です。感謝。

* サンデーモーニングの話し合い番組を比較的健康で落ち着いたトークの故に信頼している。今朝の「特集」の話し合いには、つくづく身に迫るものがあった。
日本の、アメリカの、崩壊的な惨状。「豊か」と云うが物的充足と便利を求めるだけで、内なる深まりや安定とは関係なく、ひた走りに走ってきて、多くの人は孤立感に陥り、勝ち組意識の人達には福祉のセンスなく、家庭も家族も肉親も酷いほどバラついている。番組を聴いていて特徴的だったのは、愛、愛情という言葉が、誰からも一度も使われなかったことだ。

* 恋愛出来ずに、「付き合う」という言葉一つが即ち「性関係」の簡便な同義語となり、「付き合い」を求めるばかりの若者がうようよしはじめた頃から、へんな時代は加速してきた。いまや恋愛はおろか豊かに深みのある「性関係」すら払底しているのではないか、じつに簡単に付き合って別れ、また付き合って別れている。
愛情が人間的なものでなく、動物以下に生理的な一過性欲望だけに無化しているようだ、大学生達と接し始めたころ、わたしはしばしば彼らの恋の貧しさと不器用さに驚かされた。

* 滋賀県の久しい読者から、例年のように近江の名酒と、自家特製の梅干とを頂戴した。有り難い熱い読者であったご主人が、湖の本が始まってまだまだ早い内に病気で亡くなった。この人は、梅干しなどを漬け込む名人だった。奥さんはその遺志と技とを引き継いで、毎年丹精の梅干しを送ってきて下さる。「湖の本」も愛読し続けて下さっている。

* 社会にも家族や家庭の中にも人と人との繋がりが崩落し、孤立感と不安に苛まれている今日に、「湖の本」を介して、「仕事」を介して、おかげでわたしたちは、本当に豊かな気持ちに触れあって心豊かに日々過ごすことが出来ている。「湖」は広くはならない、狭まり続けているとも云わねばならないが「深く」なっている。感謝している。
「身内」という独特に意味づけたことばをわたしは文学的に久しく抱いてきた。書いてきた。創作や文章を介した「いい読者」「ありがたい読者」と「作者」の間柄こそ、「身内」というに一等近いという措信と愛とが、即ち「湖の本」という表現なのである、わたしにすればそれが渾身の「創作」であったのだ。
2010 12・26 111

* 短い物だから一編全部頂戴したいが、何故此処への意味がボヤけるかなと。やはりわたしの引用で摘録し、翫味したいと思ったが、途中割愛しにくかった。胸にぐっと来たところ、を太字にしてみようか。志賀先生ごめんなさい。

☆ 志賀直哉『若い文学者へ「文学行動」の同人への談話』 昭和二十四年十一月  より

僕達が白樺をやつた経験から云ふと、文学の仕事も一人で孤立してやつてゐるよりも親しい仲間で一緒にやつた方が、何か自然に盛りあがつて来るものがあつて、それが一つの力になつてお互に競り合つて進歩するやうに思ふ。 (略)   然しこれも単に文学上だけの仲間といふのではそれ程効果はないかも知れない。白樺でも仕事(=文学)の話ばかりしてゐたわけではなく、絶えず行き来してよく遊んでゐた。白樺は一つの運動のやうになつたが、一人々々皆別で、旗印を持つた仲間ではなかつた。皆自分自身の満足の出来るやうな仕事をやらうとしてゐた。
時代々々で、色々旗印をかかげた(文学=)運動があつたが、足跡を残したものは少い。矢張り中では自然主義運動などいい方だつた。いい作品が余りなかつたのは、少し淋しいけれど。
最近でも旗印のやうなものをそれぞれかかげてゐるやうだが、中には随分俗な考へを平気でいつてゐるのがある。四等国文学になつて来た。作家などでも俗な考へを臆面なく云ふし、面倒臭いからか、それをやつつけるやうな人もない。
批評家は批評家で色々な色眼鏡を工夫して、何か云つてゐる。藝術品として、その美しさを見ようとしない、全体として、そのままで、その作品を鑑賞しようとしない。作品は批評家の方から出向いて、虚心に見るべきで、作品を自分の方へ持つて来て、手製の物差しで、寸法を計つて、かれこれ云ふのはつまらぬ事だ。さう云ふ物差しも、ときどきの流行で随分変つた。四十年近くそれを見てゐると、自信のない為に、さう云ふもの(=批評)に引ぱられて自分の仕事の上で迷つてゐる人(=創作者)を見ると、まことに気の毒な感じがする。引つぱられずにしつかりしてゐることだ。さう云ふものに対しては頑固にやつて行く事だ。(創作者は=)何所までも自分自身の問題で、ものの考へ方に柔軟性を失はぬやうに心掛けて、自分の要求をどこまでも追求すべきだ。批評家の考へ方に引ぱり廻はされるのは却つて非常な廻り道になる。
それから、自分が創作家か、文筆業者かを明瞭りさして置く必要がある。かうジャーナリズムが盛んになると、その点が曖昧になる。かう云ふものを何枚位書いてくれと云はれて、(ジャーナリズムに注文されて=)無理にひねり出して書くのは文筆業者の仕事だが、僕でも断りにくくて、時に書く事があるが、なるべくやりたくない。そんなものは自分の仕事にならない。しかも専門の文筆業者のやうに手取り早くは書けず、創作する場合と同じ位の労力が要るのだから馬鹿々々しい事だ。
バルザックが親父に文学を仕事にしたいと云つたら、文筆業者になるといふ意味か、マスターになるつもりかと訊かれ、勿論マスターになるつもりだと云つて許されたといふ話がある。また(日本の声楽界の草分け=)柳兼子さんが.、ぺッツォールド夫人に歌うたひになつては駄目だ、藝術家にならなければいけない、と云はれた事があるさうだ。これから創作家をやらうとする人はこの点を矢張り明瞭りわけて考へてゐなければいけない。初めから文筆業者になるつもりなら、そんな事を考へなくともよい。創作家になるとすればジャーナリズムから自分を守る必要がある。金は食つて行けさへすればいい程度に取り、喜びを自分の仕事の中に求めるやうにすべきだと思ふ。いやに御説教になつたが、さう考へてゐる方が間違ひはない。創作で成金になり、贅沢をして、それが人生の幸福だと考へるやうな人があれば、それは藝術とは最も遠い人といっていい。かういふ堅苦しい考へ方をしてゐては食へなくなるかと云ふと、必ずしもさうではない。金は沢山入らないかも知れないが、食ふ事位はどうにかなるものだと思ふ。創作家は自分の仕事を尊敬して大事にする事だ。さうすれば自分の生活もきちんとバランスがとれる。
近頃よくアドルムなどを飲んだりして、滅茶苦茶な生活をしてゐる者もある。外国でもその様な人もある様だが、本統の藝術家は健康を大切にする人が多いのではないか。
詩人と云ふものは感情的で、生活を破壊してゆく傾向がある。ボードレール、ヴェルレーヌ、ランボー等。然し散文家の場合はそれでは駄目だ。此の間も広津君と話したが、同じ文学でも散文家と詩人とでは気質的に随分違ふ。今度の戦争でも詩や歌をやつてゐる人はさういふ意味の気質で引き込まれた人が多かつた。ところが俳句の方はそれが少かつた。詩歌は熱情が原動力のやうな所があり、俳句の方はもつと、客観的な所があり、その点、散文に近いもののやうだ。同じ詩でも散文詩の連中は今度の戦争でも割に冷静だったのではないかと思ふ。
田中英光の「野狐」を読んだが、もつと散文精神を持つてゐれば、あれでも相当な作品になり得たと惜しい気がした。経験してゐる事の中で、自分がキリキリ舞ひをしてゐる。よくは知らないが、詩ならそれでもいいかも知れないが、小説ではそれでは駄目だ。
田中英光には戦争中横浜で一度会つた事があるが、大きな図体をしながら甘つたれた男の印象を受けた。矢張りさうであつたらしい。文学的才能はあつた人だと思ふ。

* 時代後れだと、直哉も、直哉の言葉に人生半ばから聴いてきたわたしも、いまの人達には嗤われるであろう。ところで、わたしが、直哉とちがうのは、「仲間」を知らなかった、持たなかったこか。
喰うことぐらいはどうにかなると見通したときから、わたしは金のための仕事はしなくなった。「湖の本」もむろん儲け仕事には程遠い。余儀ない終刊も、もう遠くはあるまいが、体力があり気力があり飢えないうちは、「寄贈」により傾いた文学活動となっても、「仕事」として続けるだろう。これもまあ、形見分けのようなもす。「元気じゃありませんね」と、心配させるけれども。
2010 12・28 111

☆  ありがとうございました。
一首ずつていねいに解説がついており、しかも上代から現代まで網羅したものがあるとは思いませんでしたので、本当に嬉しく、感謝申し上げました。
寒さが急に厳しくなり、お体に堪えると存じますが、どうぞどうぞご自愛くださいませ。
秦先生がいらしてくださるおかげで、日常で忘れていても歌に戻って来られます。戻る場所のあるのは嬉しいものですね。
よいお年をお迎えくださいませ。   馨
2010 12・28 111

* 一冊分の「校正」を九分九厘終えた。編成により気を配って、うまく仕上げたいがそれは新年早々に。入稿しておいて、別の要事に立ち向かう。
2010 12・31 111

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