* 「秦恒平 湖の本」は、「創刊以来38年」 「第166巻」出来本が此の「令和六年一月十一日」に入品され、数日掛けすべて夫婦して送本し、「終結」とする.老夫婦の健康や体力・腕力からして、適切な判断と思っている。
その後は「その後」で良い.
私のことだから、また何か仕肇めるかも。両手をひろげ空むいて寝転がるかも。それもいい。それがいい。永らく『湖の本』を育てて下さった皆様に心よりお礼申します。
* 少しずつ少しずつ新作の尻を押している。心急いては居ない、ゆっくり馴染んで、と思いながら。
2024 1/7
* 昨日はじつに十八時間寝入っていた勘定になる。体調の如何、全く判らぬまま、たしかに草臥れている。十一日からの最期の『湖の本』送達の実務には怺えて乗り越えたい。その先の視野が、々晴れるか、曇るのか。歩み続けるまで。
2024 1/8
○ 初メールありがとうございます。
やそはち兄上さま 新しい年が明けましたね。
迪っちゃんの手術もうまくいって、今年は穏やかな毎日を送られますようにと願っています。
でも明日(=今日)からはお二人で、最後の「湖の本」の発送作業をされるとか、どうぞご無理のないように、ゆっくり作業をしてくださいね。
38年間も頑張ってこられたのは すばらしいことです!
これからもっと自由に、ご自分の生活を楽しまれて下さい。
応援しています! いもうと 琉
* ありがとう。 琉っちゃんの繪も詩も より輝かしく表現されつづきますよう。 やそはち
○ 迎春 令和六年
秦さんの新春メールを頂けて嬉しいです
今年もよろしくお願い申し上げます
火の用心
ほんとに ホットしております
浅草の頃 近くで火事が出ると 親父に自転車の荷台に乗せられて現場に行き「よく見ておくんだ」と言われました 消し止められたあとでもものすごい臭いがしました
「秦恒平 湖の本」38年分 全部 本棚に揃っております 全部もう一度読めるといいなと考えてます 最初の方の20冊位は「まだあるかなあ」と考えてお願いできた記憶があります 全部 また読める人は「そうはいねぇだろう」などと思っています
戦時疎開
あの頃の 秦さんのお話をもっと伺いたいです
「あの母、あの疎開のころが生涯で一になつかしい、良かった
と 九十六までの長い生涯に私によく洩らした」
何をおっしゃっておられたのでしょうか
私のおふくろは「進駐軍に帯を売ってきた」などと言ってたことがありました
あの頃の 2〜3年 場所 で「経験がまるで違う」のでほんとにはひとに話しても通じないとおもいます(話したこともありません)
国民学校3年時に4年になったら 学童集団疎開が 東北の方に決まった際 父が「そこへこいつをやったら死んじゃう」と言って 縁故疎開の方法をとり 母兄妹で暖かい湯河原(農家地帯)へ行かせてくれました
すっかり田舎っ平になりました
秦さん コロナ・インフルエンザまだまだです(老人ホームは今だに」です)
ほんとに 人のことなどいえませんが お怪我のないように 火の用心 どうかくれぐれもお気をつけください
本年もよろしくお願い申し上げます e-old 勝田拝
* 勝田さんが、一、弍歳の兄さん。顔が合い,敗戦前後の「往時」を語り合えば、何昼夜もとぎれまいなあ。どうか、お元気で。**
○ 新年早々のメール 有難う存じます
御文中「創刊38年を経て 第166巻に及んだ『湖の本』を終結させる」との由拝見 小生はその「終刊を惜しむに増し」て 「166巻に到つた継続に奇跡を感じ」ざるを得ませんでした
毎々頂戴する度に そこに籠められた努力の尊さと文藝への熱情に頭を垂れてゐたのです
今は思ふ様 解放感を味つて下さい と申上げても既に新しい道を見つけてをられるでせうが
何よりも奥様共々 健康に御留意下さることを念じをる次第です 寺田生 前・文藝春秋専務 作家・思想家
* 太宰治文学賞このかた、一貫して交際、掛け替えない友誼を保ってこれた嬉しさを、いま,しみじみ味わう。
有難う御座います。ご健筆、ご健勝を心より願います。
* さ、もうほどもなく、『湖の本 166』が出来てくる。
* 九時十五分、予期通り『秦恒平 湖の本』第166最終巻『蛇行 或る左道變 老蚕作繭』が出来て 玄関に山と積まれた。
太宰賞作家・秦恒平・私史の一つの大事なけじめである。
これから、ゆっくり手を掛けて妻と最終の発送に日にちを掛けるつもり。何を急ぐことも無い。
◎ 『秦恒平・湖(うみ)の本』全166巻
「結び」の あとがき
一九八六年 桜桃忌に「創刊」、此の、明治以降の日本文学・文藝の世界に、希有、各巻すべて世上の単行図書に相当量での『秦恒平・湖(うみ)の本』全・百六十六巻」を、二〇二三年十二月二十一日、滿八十八歳「米寿」の日を期しての「最終刊」とする。本は書き続けられるが、もう読者千数百のみなさんへ「発送」の労力が、若い誰一人の手も借りない、同歳,漸く病みがちの老夫婦には「足りなく」なった。自然な成行きと謂える。
秦は、加えて、今巻末にも一覧の、吾ながら美しく創った『秦恒平選集 全三十三巻』の各大冊仕上がっていて読者のみなさんに喜んでいただいた。想えば、私は弱年時の自覚とうらはらに、まこと「多作の作家」であったようだが、添削と推敲の手を緩めて投げ出した一作もないと思い、,恥じていない。
みな「終わった」のではない。「もういいかい」と、先だち逝きし天上の故舊らの「もういいかい」の誘いには、遠慮がち小声にも「まあだだよ」といつも返辞はしているが。 過ぎし今夏、或る,熟睡の夜であった、深夜、寝室のドアを少し曳きあけ男とも女とも知れぬソレは柔らかな声で「コーヘイさん」と二た声も呼んだ呼ばれた気がして目覚めた。そのまま何事もなかったが、「コーヘイさん」という小声は静かに優しく、いかにも「誘い呼ぶ」と聞こえた。
誰と、まるで判らない、が、とうに,還暦前にも浮世の縁の薄いまま、「,此の世で只二人、実父と生母とを倶にした兄と弟」でありながら、五十過ぎ「自死」し果てた実兄「北澤恒彦」なのか。それとも、私を「コーヘイさん」と新制中学いらい独り呼び慣れてくれたまま,三十になる成らず、海外の暮らしで「自死」を遂げたという「田中勉」君からはいつもこう呼んでいたあの「ツトムさん」であったのか。
ああ否や、あの柔らかな声音は、私、中学二年生以来の吾が生涯に、最も慕わしく最高最唖の「眞の身内」と慕ってやまなかった、一年上級の「姉さん・梶川芳江」の、やはりもう先立ち逝ってしまってた人の「もういいの」のと天の呼び聲であったのやも。
応える「まあだだよ」も、もう本当に永くはないでしょう、眞に私を此の世に呼び止められるのは、最愛の「妻」が独りだけ。元気にいておくれ。
求婚・婚約しての一等最初の「きみ」の私への贈りものは、同じ母校同志社の目の前、あの静謐宏壮な京都御苑の白紗を踏みながらの、「先に逝かして上げる」であった。心底、感謝した。、いらい七十余年の「今」さらに、しみじみと感謝を深めている。
私の「文學・文藝」の謂わば成育の歴史だが。私は夫妻として同居のはずの「実父母の存在をハナから喪失していて、生まれながら何軒かを廻り持ちに生育され、経路など識るよし無いまま、あげく、実父かた祖父が「京都府視学」の任にあった手づるの「さきっちょ」から、何の縁もゆかりも無かった「秦長治郎・たか」夫妻の「もらい子」として、京都市東山区、浄土宗總本山知恩院の「新門前通り・中之町」に、昭和十年台前半にはまだハイカラな「ハタラジオ店」の「独りっ子」に成ったのだが、この「秦家」という一家は、「作家・秦恒平」の誕生をまるで保証していたほど「栄養価豊かな藝術文藝土壌」であった。
私は生来の「機械バカ」で、養父・長治郎の稼業「ラジオ・電器」技術とは相容れなかったが、他方此の父は京観世の舞台に「地謡」で出演を命じられるほど実に日ごろも美しく謳って、幼少來の私を感嘆させたが、,加えて、父が所持・所蔵した三百冊に及ぶ「謡本」世界や表現は、当然至極にも甚大に文学少年「恒平」を啓発した、が、それにも予備の下地があった。
長治郎の妹、ついに結婚しなかった叔母「つる」は、幼少私に添い寝し寝かしてくれた昔に、「和歌」は五・七・五・七・七音の上下句、「俳句」は五・七・五音などと知恵を付けてくれ、家に在ったいわゆる『小倉百人一首』の、雅に自在な風貌と衣裳で描かれた男女像色彩歌留多は、正月と限らない年百年中、独り遊びの私の友人達に成った。祖父鶴吉の蔵書『百人一首一夕話』もあり、和歌と人とはみな覚えて逸話等々を早くから愛読していた。
叔母つるからの感化は、さらに大きかった。叔母は夙に御幸遠州流生け花の幹部級師匠(華名・玉月)であり、また裏千家茶道師範教授(茶名・宗陽)であり、それぞれに数十人の弟子を抱え「會」を率いていた。稽古日には「きれいなお姉ちゃん・おばちゃん」がひっきり無し、私は中でも茶の湯を学びに学び叔母の代稽古が出来るまでにって中学高校では茶道部を創設指導し、、高校卒業時には裏千家茶名「宗遠・教授」を許されていた。
私は、此の環境で何よりも何よりも「日本文化」は「女文化」と見極めながら「歴史」に没入、また山紫水明の「京都」の懐に深く抱き抱えられた。大学では「美学藝術學」を専攻した。
だが、これでは、まだまだ大きな「秦家の恩恵」を云い洩らしている。若い頃、南座など劇場や演藝場へ餅、かき餅、煎餅などを卸していたという祖父・秦鶴吉の、まるまる、悉く、あたかも「私・恒平」の爲に遺されたかと錯覚してしまう「大事典・大辞典・字統・仏教語事典、漢和辞典、老子・莊子・孟子・韓非子、詩経・十八史略、史記列伝等々、さらに大小の唐詩選、白楽天詩集、古文眞寶等々の「蔵書」、まだ在る、「源氏物語」季吟の大注釈、筺収め四十数冊の水戸版『参考源平盛衰記やまた『神皇正統記』『通俗日本外史』『歌舞伎概論』また山縣有朋歌集や成島柳北らの視し詞華集等々また、浩瀚に行き届いた名著『明治維新』など、他にも当時当世風の『日曜百科寶典』『日本汽車旅行』等々挙げてキリがないが、これら祖父・秦鶴吉遺藏書たちの全部が、此の「ハタラジオ店のもらひ子・私・秦恒平」をどんなに涵養してくれたかは、もう、云うまでも無い。そして先ずそれらの中の、文庫本ほどの大きさ、袖に入れ愛玩愛読の袖珍本『選註 白楽天詩集』の中から敗戦後の四年生少年・私は、就中(なかんづく)巻末近い中のいわば「反戦厭戰」の七言古詩『新豊折臂翁』につよくつよく惹かれて、それが、のちのち「作家・秦恒平」のまさしき「処女作」小説『或る折臂翁』と結晶したのだった、「湖の本 164」に久々に再掲し、嬉しい好評を得ていたのが、記憶に新しい。
さて、向後の「湖の本」をどう別途継続展開するかは一思案だが、勉めて読者の皆さんとのお付合いを、善い工夫で持続したい。
ともあれ三十八年ものご支援に感謝申上げます。 秦 恒平
* 諸般の用意遅れで、在来予定の「謹呈者(事実は、しばらく以前から、全送付先に「呈上」してきたが。)」へは送り出せたが、「読者」「高校」「大學」への送付がアトへ続かねばならない。ともあれ、一月下旬は一切に片付くよう、残さぬようにと願っている。
とにもかくも、「最終送付本」は予定通り全巻出来て届いていて、慌てずに送り出せば、それで「38年」続けて来た『秦恒平 湖の本』事業の、一切が、済む。
* 読者と寄贈先とへ「湖の本」最終第166巻を送り終えた、なお「高校・大學等」への寄贈草本が済めば、それらを以て、38年の『秦恒平・湖の本時代』が「収束」される。『作家・秦恒平』の時代はまだ途絶えない。
* 明日は、寝室等の設えをすこしく模様替えする。
○ 秦先生
メール嬉しく拝受いたしました。ありがとうございます。
大変な年明けとなりましたが、先生、奥様恙なく新年をお迎えのご様子、お慶び申し上げます。
「湖の本」166巻で終結とのこと。さみしさは当然ですが、38年という長きにわたり刊行を継続なされたことに、畏敬の想いを禁じることができません。
「文章の音感、音鎖を意識していたし、今も大切にソレを感じている。
句読点のはたらきをとても大事に意識している。」
秦先生のお作に接し、真っ先に感じたこともそのことでした。
そうか、ここで読点を打つとこのように変わるのか、と幾度息をのんだかしれません。
「文楽(ぶんがく)」と仰る、まさにその通りの作品世界に浸かることは、この先も変わらず私の幸せで大切な時間でございます。
寒さ厳しい折、風邪など召されぬよう、どうぞ、佳い日々をお過ごしくださいませ。 I・YAMAN
* 感謝申します。 秦生
2024 1/11
* 『秦恒平 湖の本』終刊・終結の『第166巻 蛇行(だこう)或る左道變 老蠶作繭』を、無事、全国の寄贈者、読者に宛て発送し終え、余すは「全国高校・大學等の施設」へ送り届けて、まさしく「大団円」となる。
「創刊から38,年」の感慨は、いずれいろいろに胸に湧くだろう。
こういう「,独り」の作家、その個人の「創作と本と」が、きちっと纏まった編成編てき輯により、多年文壇や学校や識者・読者に「寄贈・送達」されてた事例は、明治以降の日本の文界に無く、世界にも知らない。
* 相応の資財が有ったのだろうと想う人も居る。どっこい、わたくに歯丁度100冊ほどの単行著書が有るが世に謂う私は居たって「ベストセラー作家」ではない。資産家に育ったのだろうとも。とんでもない、私を人手から「もらひ子」した秦の父は小さな「ラジオ屋」,祖父は小さな「餅屋」、嫁がなかった叔母は終生「お茶・お花」の先生をしていた。私は大学で奨学金を貰い、すべて返却し、就職した初任給、最初三ヶ月の支給は12000円の8割、新婚の妻は無職で家をまもっていた。私の財布には、会社の援助で昼食の白飯一碗と味噌汁とが買える「15円」しか入ってなかった。
しかし、年に二回のボーナスに私たちは一銭の手も付けず無条件に「貯蓄」した。これが、徐々に利いてきた。とにかく茂繪に描いたようなスカンピンの新婚夫婦として何年もを平然とすごしていた。貯金以外に先途は無い、が、必ずそれが利いてくると確信していた。事実、そうなっていった。
作家になっても、出版社に泣きつくような真似はしなかった。それよりも、かのになれば自分の手と資金とで堂堂と「出版」すればいい。幸いに私出版社の編集製作で15年半鍛えられた管理職の一員にも成り、『編輯・製作』本づくりの巨細まで学習していた。いま一例が,誰もの感嘆してほめてくれる大冊『秦恒平選集』33巻は、まさしく私の謂わば「手づくり」全集、むろん166巻もの『秦恒平・湖の本』も皆、然り。
* もう早や一年の「卆寿」へ、人生の、ゆるやかな収束へと、私は、妻と共にゆっくり歩いて行く。
○ 秦先生
メール嬉しく拝受いたしました。ありがとうございます。
大変な年明けとなりましたが、先生、奥様恙なく新年をお迎えのご様子、お慶び申し上げます。
「湖の本」166巻で「終結」とのこと。さみしさは当然ですが、38年という長きにわたり刊行を持続・継続なされたことに、畏敬の想いを禁じることができません。
「文章の音感、音鎖を意識していたし、今も大切にソレを感じている。句読点のはたらきをとても大事に意識している。」
秦先生のお作に接し、真っ先に感じたこともそのことでした。
そうか、ここで読点を打つとこのように変わるのか、と幾度息をのんだかしれません。
「文楽(ぶんがく)」と仰る、まさにその通りの作品世界に浸かることは、この先も変わらず私の幸せで大切な時間でございます。
寒さ厳しい折、風邪など召されぬよう、どうぞ、佳い日々をお過ごしくださいませ。 I・YAMAN
2024 1/12
* 必要があり職人が室内で工作する。なにしろ狭いのだから、場を広げ置くのに深夜に起き,独り こつこつと力しごとで場を用意しながら、機械の前へ来ていた。六時をやや過ぎた。暖房を忘れていたので寒かった。
もう今日にも「湖の本 166」の一便は、寄贈者・読者へ届き始めるだろう。私にすれば大きな私史の一郭がまた相貌を替えて行く。
2024 1/13
○ 秦恒平様 野路です。
『湖の本166』終刊を、ありがとうございました。
長い間 お疲れさまでした。
* 永らくお付き合い下さり、感謝します。
2024 1/15
○ 市川の歌を有難うございます。
市川へ、7日に戻ってまいりました。少し厄介な校正を終わらせたところです。お正月明けにバタバタしたせいか、右頬がぷっくりするほどに歯茎が腫れてしまい、鎮痛剤とアイスノンのお世話になってました。
少し軽快してきた今日は、北風の強い中、市内にある東山魁夷記念館に行き、絵を眺め、珈琲を飲み、『京洛四季』を買って来たところです。明日の授業では、東山魁夷の描いた絵を見て川端が書いた掌の小説「地」を取り上げますので、学生にも記念館の話などしてみようと思っています。
「湖の本」最終巻の発刊ご準備は順調でしょうか。
寒さもひとしお厳しくなってまいります。
くれぐれもお体をお大切になさってください。 市川 晴美
*些かの残務はあろうと、本日『秦 恒平 湖(うみ)の本』全166巻、1986年に「創刊」。38年間の「送付」作業を終えた。完結とは謂わない「集結」。私には大きな「一時代」を越えたと、感慨は、それまで。要は、作家として私の当然の「仕事」であった。この仕事が済んでも、当たり前に「次ぎ」がある。用意もある。
○ 38年を経て、「湖の本166 集結巻」の巻頭『蛇行~或る左道變』は<秦ワールド>全開ですね。『みごもりの湖』の変奏のような 歴史好きの主人公のしつこさがそれこそ蛇のようでした。言葉と体が分断された歴史にあって 秦さんの中で合体された新たな歴史が 感情備えて現代恋愛小説に照和されていく過程は とてもエロティックでした。
水戸版『参考源平盛衰記』の現代語訳は是非やって欲しいです。七五調のリズミカルな現代文が読みたいです。
説明文だらけの意味のある読み言葉より、詠みあげて心に響く文章が欲しいです。 野路
* 有難いご批評です。感謝申し上げます。秦生
○ 寒中のお見舞を申し上げます。
「湖の本」終刊のお知らせまことに淋しく存じますが,一、二年来の先生のお体のお辛そうな御様子を推察いたしますと,已むを得ず むしろ大きなお仕事を成し遂げられた先生に心からお祝いを申しあげげたく存じます。長い年月 御本を読む樂しさ喜びをお届け下さいまして まことにまことに有難うございました。
新しい年が先生と奥様にとりお健やかで穏やかなよい日々でありますように お祈り申しあげます。
一月十五日 松井由紀子
2024 1/17
○ 最終の『湖の本』思い深く受け取りました。これまでの秦文学を凝縮したかのような作品かと思います。好きです。漸く70ページまで辿り着きました。
還来さん、藤原旅子、産子、井上皇后などなど。西院に行ったことなど思い出します。
それにしても蛇は鴉の心中にあまりに深い意味を蔵しています…。
短かなメールですみません。孫二人、娘一人、順番に風邪で寝込んでいるのです。
どうぞ寒さ厳しい折り、風邪引かぬよう、お身体大事になさってください。 尾張の鳶 冨子
* 尾張の鳶よ。永く長く応援して下さり。有難う。心より感謝していますよ。 東都の鴉
○ 本166目出度く刊行なされ、おめでとうございます[祝]
秦様のご執筆も、さる事ながら、ずーっと支えてこられた迪子様にもおめでとう [くす玉]
お疲れ様でございます。
166冊ものご本の執筆、出版送本〓偉大さに、ただただ頭が下がります。 (=此の166冊は「湖の本」という形を借り手のしゅっぱん。余に謂う「単行本」は00冊余、行簡本の『秦恒平選集』然33巻が別に在ります。)
今回新作での、能舞台、弱法師との活字が眩しく、嬉しく、しっかりと読み込ませて頂きたいと。ワクワクしながら、先ずは、御本を頂きましたお礼と、お疲れをねぎらいたいと。迪子さん。どうぞ秦様にも感謝をお伝えくださいますように。
まだまだ、新作をご執筆なさる事と楽しみにしています。
くれぐれもご夫妻共にお身体お大切にお過ごしくださいますよ うに。
お目もじの機会ある事をも願っています。練馬 持田晴美
* 迪子と一緒に尼崎に「モッチャン尋ねたのは迪子が四年生、渡しが韻一年のときでした、なんという久しいことでしょう。その間に、いつしかに助言を入れて下さり謡曲と仕舞との世界に学ばれてじつに立派にせいちょうされました。わたくしは、それを何より余廬混で今も応援しています。おきばりやっしゃ。
○ お元気ですか、みづうみ。
湖の本166巻、最終巻『蛇行 或る左道變』頂戴いたしました。ありがとうございます。
そして、米寿を迎えて「湖の本」出版の「ご卒業」おめでとうございます。誰にもできない文業、偉業のご達成を 心よりお慶び申し上げます。素晴らしいフィナーレ、貴重なお仕事の完結に深い感銘をおぼえています。
最終巻になりましたが、読者にとっては、「これからが始まり」です。生ある限り傍らに置いて、いつでも手に取って読み続けていきます。読んでも読んでも読み尽くせない作品の数々です。私の人生に「湖の本」が共にありましたことに深く深く感謝し、読者の一人でれたことを誇りに思います。ほんとうにしあわせです。
大きなお仕事を終えられ、さらに次のステージが待っています。みづうみの「創作を含む書き仕事」はさらにさらに豊饒な実りとなっていくことでしょう。「まあだだよ」と、どうか永く書き続けてくださいますように。しぶとくお元気に、まずは卒寿、白寿めざしてください。 春は、あけぼの
* 心身の健康を心がけます。感謝
○ 秦先生、こんにちは。
湖の本、そして直筆のお手紙をありがとうございました。
とてもびっくりし、またじんわりと嬉しさが込み上げました。
読ませていただき、「最後の」とありましたので淋しく思いましたが、長い間おつかれ様でした。
能登半島での大きな地震がありました。
こちらは無事で変わり無く過ごさせて頂いております。
犠牲となった方々への慰霊を胸に、今日も生かされていることに感謝です。
大寒の候、お身体ご自愛くださいませ。 金澤 戸水小夜子
* 兎にも角にも 疲労困憊、顔を伏せて生きている。s
2024 1/18
* 何度も夜中に目覚めて、あれやこれと思案していた。終えた『湖の本』に次いで、好い感じの「新書版」で「小説」のための本を作りつづけるのはどうだろう、など、と。「励み」にも為るのでは、と。
2024 1/19
○ あけましておめでとうございます。
今年こそは,少しは良い年になるよう祈らざるをえません。
さて、此の度は「湖の本 166」を堪りましてありがとうございました。八十八歳の「米壽」を期して、この巻で「最終刊」とするとのこと。とううとうその日が来てしまったのかという淋しさと、四十年近くも続けてくださっていたということへの深い深い感謝の念が交錯し、何とも感慨深い思いで一杯です。本当に本当にありがとうごさいました。いついつまでも大切にし、心に沁みるお作を読み返していいきたいと思っております。
先生には、どうぞいついつまでもお元気でいらっしゃいますよう、お祈り申し上げております。
ありがとうございました。不一 一月十七日
都 国立市北 安井 恭一
* 心より感謝申し上げます。 秦 恒平
○ 謹んで申し上げます。「湖の本166」をありがとうございます。「あとがき」を拝読し、さみしい記もいたしましたが、まだまだ秦様の作品や御言葉が心奥に残っており,それらを心して読ませて戴き味わい続けさせて戴きます.本当に勉強になります。老いても必要と判っております、深謝。
岩佐 なを拝 造形作家
* 御礼申し上げます。 秦 恒平
○ 拝啓 (前略)
扨て このたびは「湖の本 166」ご恵投ありがたく、また 同時に大きなショックを承けました。
「湖の本」を千何百人もの読者へ送り出する労力が,秦様ご夫妻(=二人とも八十八歳)の手に余るようになつたという事情、重々拝察いたしておりますが、市役所のシルバーセンターのパートの手を借りてでも何とか続けられないものでしょうか。その費用は読者一人あたり「十円(=千円?)」くらいの負担ということにすれば,何とか継続していただけるのではないかと愚考しております。
とにかく老後の大きな愉しみの一つであった「湖の本」がきえてしまうこと、何とも残念でなりません。いつかはこの日が来ることは予期しておりましたが、その日が今目前にやってくるとはまったく思っておりませんでした。
秦様の精力的なご活動は,老いつつある私にとって大きな力であり見事なお手本でありました。残念至極という以外,言葉がありません。
再刊を心から祈っております。これに付け加えるべき言葉が私にはありません。 敬具
令和六年一月十七日 鋼一 作家 歌人 編集者
秦 恒平先生 玉案下
* 感謝に堪えません,有難う存じます。可能な思案の生まれることも私自身期待しましょう。「筆を止める」気は毛頭有りません。久しいご厚意に心から御礼申します。秦生
○ 拝啓
いつも「湖の本」をお送り下さりありがとうございます。
あとがきで 米壽を期して最終巻と知り、申し訳なく、またありがたく、お礼の筆を執りました。
最近の出版事情や文學の途方に暮れる毎日を送っておりましたが、いつも、「湖の本」の秦さんの意気とご清励ぶりに身のひき締る思いで尊敬と慰藉される念を覚えておりました。
気がつけば 私も古稀に成りになりました。老け込むことを潔しとせずに,もう少し頑張ってみます。
「湖の本」 おつかれ様です。有難うございました。敬具
久間十義 (芥川賞作家)
* 瀧井孝作、井上靖、辻邦生ほどむかしの先達以外に、同業の方を私はほとんどぞんじあげず、面談の折りも得ないが、久間さんとは、ペンか協会での会議で同席し、あと別れ際まで話しながら 歩いた懐かしい記憶がある。まだ,如何にもお若い好いお人柄を感じた。お元気に お気張り下さい。
○ 湖の本 166巻をお送りいただきありがとうございます。まだまだ続いていくものと思っておりましたが「最終刊」と知り、寂しい気もちですが。 今まで 本当にお疲れ様でございます。 実は 毎回 先生に何を送らせていただくか 悩みながらも いろいろ考えるのも楽しみでした。 私は1960年生まれで 失礼ながら勝手に できの悪いむすめのような気もちになって選んでいます 今回は 前に 実に美味しいと言っていただいた 日本酒『寒山水』の一升瓶を鞍手いただきます。奥様と 一区切りの お疲れ様の 乾杯になれば幸いです。でも 奥様のためにも 私たちのためにも 「まだ まだ まあだだよ」の返辞は なにとぞお願い致します
埼玉県所沢市 藤森佐貴子 (お父上は,故)
* 嬉しく,懐かしく,御状頂戴しました。
○ 私も米壽を迎えましたが ご本はいつも座右に置き 励みにして参ります。長らく まことに永らく ありがとうございました。 大阪府松原市 岸田準二
* まことに久しく久しく有難うございました。お付き合いがこれで絶えるわけではなく。いつまでも。
○ 秦恒平先生 あけましておめでとうございます。
『湖(うみ)の本』を拝受し、「帰去来」を告げる裏表紙の刻印に粛然としました。
日本ペンクラブの理事会で謦咳に接し、鎧袖一触の舌鋒に聞く者の心胆を寒からしめ、また『湖(うみ)の本』ご恵送の栄に浴して第百六十六巻に至ったこと、人との出会いのありがたさ、美濃市早稲を感じております。
この38年で166巻、毎年季節の変わり目よりも頻繁に届いた雅音、慣れ親しんだ表紙の美女の貴賓ある陶質の肌、「謹呈」印を押された厚紙の封筒、……これ此が書棚の一角をふさぎ続けてきました。
今年は新年早々、能登半島の海鳴りに胸塞ぐ日々が続く中、親しい人の肉声を聞く機会もろっきりへってしまいました。阿刀田さんとはたまに会って酒を酌み交わしますが、その都度話題になるのが秦先生のご健筆ぶりでした。再びご鳳声に接する日をお待ちします。
この度は拙訳『主演女優』(現代中国文学)にお目を止めて戴き、過分のお言葉をかけていただきましたこと、こころから御礼お礼申し上げます。
聞くたびにめづらしければ郭公(ほととぎす)
いつも初音のここちこそすれ (金葉集)
ありがとうございました。
菱沼彬晁 日本ペンクラブ理事
* 恐れ入ります。益々のご健筆をと願いつつ。
○ 泰 恒平先生 寒中 お見舞い申しあげます。<湖の本166> ありがたく読ませていただきます。
北九州市 後藤みな子
* こま方 作家かと思ってたが、誤認か。
2024 1/19
○ 『湖の本 百六十六巻 蛇行 或る左道變』ご恵送賜り、慎にありがとうございました。「最終の一巻」とあり 驚きました。というりは、ここまでの百六十六巻という質量にきょうたんしていたのですが、何事も終わりは来るのだと、かみしめる思いです。
これまでの長い間、本当にありがとうございました。あらためて御礼申し上げます。近刊の拙著一冊(『熊谷直実』ミネルヴァ書房)ご笑覧賜ることがあれば幸いです。
ご健康とごたこうをお祈り申し上げます。 敬具
二○二四年一月十七日
佐伯真一 青山学院大学名誉教授
秦恒平先生
* 恐れ入ります。深く感謝し、興味深い御著も喜んで拝読します。
2024 1/20
* まだ暗い六時すぎ。雨の音か。床を起つまえ、最新のやや長い自作し『蛇行(だこう) 或る左道變』を拾い読みした。「湖の本」最終166の巻頭にこれが置けたのを少しく自負している。読み返させてくれる一種の「気負ひ」で米壽の人生を結び終えたのを喜んで、さらに此の先へと気負い無く思わせてくれるのが有難い。
* 実は『秦恒平 湖の本』を嗣いで 岩波新書等の「新書版」で新作や私語を追おうかと思っていた、が、「本つくり」に精力を費やすよりも、「創る」「書く」にソレを用い、読者の皆様へは、とうせつのことではあり、パソコン内の「ホームページ」設営により電送する方が老境を労れるのではと。但し私には、以にかなり華やいで設営し得ていたような「ホームページ」を自作はできない。以前のは、東工大当時院の一年生であった学生君が、我が家まで来て呉れ,目の前でチャカチャカとすぐさま設計して呉れたのだった、前世紀の末であった。あの彼は、いまや大会社で重い地位にあるだろう。
誰か、今の東工大院生でパソコンの天才君を紹介してくれないかと夢見ている、が。 2024 1/21
○ 御礼 秦先生
『湖の本 第166巻』をご恵贈賜りまことにありがとうございます。
この最終刊で「全166巻の完結」という偉業を達成されたことをこころよりお慶び申しあげます。
・第一巻『清経入水』は、私が広島で単身赴任をしていたときで、1986年6月27日にいただいております。
そして今、本棚に全166巻が燦然と並んでいるのは壮観です。
これからゆっくりとじっくりと、新ためて、各巻のページを繰って行きたいと考えております。
私は相変わらず蟄居を続けておりますが、これからも折に触れメールを送信させていただく所存です。
厳しい寒さが続きます。お体おいといくださいますようお祈り申しあげます。
p.s. 私の郷里栃木の銘酒「杉並木」をご送付いたしました。
私の高校、大学の先輩の酒造会社のお酒です。ご笑味いただけましたら幸いです。 篠崎仁
* 妻の歯科通いに江古田二丁目まで同行し,私はレスラン「ガスト」で『モンテクリスト伯』に読み耽って待ち、あと江古田駅近くへ戻って「中華家族」で昼食、メニュ宜しく美味かった。久々、久々に池袋へでたかったが、やめて、帰宅。
郵便での有難い好いお便りが何通も。だが苦闘の施設からも。書き写せる量で無く,順不同に記録だけを。
○ 天野敬子さん(講談社 求「群像」編集長等歴任)
横浜市の、蓑輪進一さん(手作りの美しい便箋に、十二単の美女も手描きで。。此の一月六日に、88歳。多年、学校の先生、マリンバ奏者でも。)京都鳴滝の川浪春香さん(いつも馥郁の香包みを添えて、しみじみと。「心ばかり」と一万円まで添えられて。感謝。)出田興生さん(元・平凡社「太陽」などの編集者で、長路の旅も何度か倶にした、親友でも。毎回一万円を応援して下さってきた。感謝。)俳優座女優の美苗さん。神戸の芝田進さん(神戸外大に社会人入学されて、三回生。英文学のゼミにも、の、e-OLD。) 聖教新聞社の原山祐一さん(いつも実に丁寧に作や文に身を寄せ読んで下さる。「最終刊」心の凝ります、と。)かつての内閣総理大臣菅直人さんからも。
大學や施設等から何通ものハガキも、たくさん。
2024 1/22
○ 恒平先生、ご本、お送りいただき有難うございました。
「九十爺さん(=クソ爺さん)」失礼いたしましたが、「九十九歳(=クソクサイ)」までは考えが及びませんでした。
落語の「四徳斎」や「雲谷斎」を想い出して、笑ってしまいました。
小学生の頃の夏に、私の住んでいた弁財天町(=有済小学区、秦の育った新門前通り仲之町からは、白川を距てて一筋北寄りの通り)と向かいの元吉町の小学生十数人が、
ユカタを着て五人くらいが横一列に並び、前に提灯を吊るした竹の棒を持って 大声で歌を歌いながら、八坂神社(=祇園会の本社)まで「歩く」という行事がありました。先生はご存じでしょうか?
歌は次のような二つの歌です。
サーノヤーノ、イトざくら。
盆にはどこも忙しや。
東のお茶屋の門口で、アカマエダレにシュスの帯。
ちょっと寄らんせ入りゃんせ。
キンチャクに銭がない、
のうてもだんない入り’ゃんせ。
オーシンキ、コーシンキ
ヨーイサッサ、ヨイッサッサ。
これから八丁、十八丁。
八丁目のコウグリは、コウグリにくいコウグリで。
頭ののてっぺんすりむいて。
一貫膏薬、二貫膏薬。
それで治らにゃ、一生の病ひじゃ。
七十年前だったので、間違っているかもしれません。
八坂神社の南鳥居のそばの「二軒茶屋」で、ラムネやジュ ースを貰って帰りました。 京・桂 服部
* オーゥ!! なんと懐かしい!!
祇園会には もとは、鴨川での神輿洗いに四角、六角、八角の御神輿が練った。担ぎを担当の町内も伝統で定まっていたが、若竹若松が担ぐ四角いのが他より図抜けて「途方もなく重いお神輿」と聞いている、これは三条裏の若松町・若竹町の若い衆が担ぐと決まっていた。松と竹と、実に此処があの大会社「松竹」の出處である。有済小学校には松竹が寄贈の大きな楽器などいろいろなものが仕舞われていたのを生徒として見知っている。
神輿で謂うと、私が高校から大学への頃か、金ピカに美しい「子供神輿」が新しく創られ、子供達が担いで行列を練った、私は出張らなかったけれど。「御旅所」には古野子供神輿も美しく飾られる。
* 夏の燃えそうにド暑い、冬のド寒い底冷えが自慢のような京都では、祇園会の頃にはげしい夕立がするのも馴染みだった。御神輿の黄金色がひときわ耀いた。懐かしい。服部さんのおかげで、いろいろ想い出した。
2024 1/23
○ 秦 恒平 君
年が改まりました。
お変わりなくお過ごしのご様子、何よりです。
令和六年、初の「湖の本」、嬉しく、又恭しく、拝受致しました。楽しみに読ませて頂きます。
有り難う!、心から。
どうかお元気で。 半田 久 拝 (大學一年先輩)
2024 1/23
* 戴く手紙で、ハガキでのお便りが 胸を温める。
手を痛めて、手描きに変身しづらいのが.詫びしくも、申し訳なくも。メールの文字史いかにも情け薄く侘びしいが、かつがつお返事は書ける、が…。石川県能美市の久しい友、井口哲郎さんは、毀れてさし上げた400字「秦用箋」でお便りを下さる。能登大地震のお見舞いすら差上げていなかった、井口さんは「機械」ニガテなのだった。
○ 三日おきに,体に感じる手渡の微震が続いています。奥様にお見舞をいただきましたが 藏の漆喰がはがれたくらいでは「被害」とはいえません。能登は「こわれて」います。
『湖の本』166をいただきました。最終巻になったのですね。そこに艶のある力作「蛇行」が巻頭にあって衰えぬ筆力はさすが。私の知る秦恒平の作品です。の「あとがき」も一篇のエッセイと読みました。
居室にある巾一間六段の書架の大半は秦作品です。全集、単行本、「湖の本」をどう並べようかと考えていたところです。
昭和五十四年七月二十四日、(東京新宿の=)紀伊國屋でお会いして以来四十五年、頭と心の洗濯をしていただきました。ありがとうございました。これが「終り」ではないと思いますが、この間の奥様のお手助けはいかにと思いやっています。私の場合こうしてお手紙を書いている間にも、小用に立つ家内の(手助け)に、ペンを置かねばならないのです。私に秦作品をを與えてくれた裏に、奥様の大きな後押しがあったことに、心から敬意を表します。
ただ一つ、『四度の瀧』と「湖の本」に掲載された「自筆年譜」がおいつかなかったことが残念です。「単行本書誌」や「全著作年表」は後に充たしてくれる人があっても「自筆年譜」は本人ずっと続けて書き置いてください。いろんな思いを込めて「最終巻」を読み返させていただきます。
何もかもキリになさらないでください。秦恒平の気力,体力の続くことを願っています。
奥様もその後いかがでしょうか。ご養生をお祈りしています。
今日は金曜日です。この手紙を郵便局へ出しに行く五、六分間、家内がじっとしていてくれるか--など思っています。今日のおだやかな日のように。 お大事に。受け取まで、
一月十九日 井口哲郎 元・石川近代文学館館長
敬愛する 秦 恒平様
* 人の人から戴ける至極の貴信と再読拝読した。久しい畏友と奥様とのぜひにもご健勝をと、妻ともともどもお祈りしている。居室私の頭上には井口さんとのお知り合いも早々に頂戴した、みごとな彫りの「悠然南山を観る」淵明詩句の板額が掛けてある。対話せぬ日が無い。
○ 前略
「湖の本 166」を拝受し まずは表紙、そして見返しの鮮やかな朱の紙をめくったら「最終の一巻」という文字が目に飛びこんできて,暫し呆然、それから「あとがき」(最後の!
)を読み,本巻が,新創作がずっしりと掲載されている、本当に「湖の本」に相応しい大尾であることを 知りました。
淋しいけれど、お祝いを申しあげます。
いつかは終刊の日を迎えることがあるにしても、昨日今日とは思ってもいませんでした。とりわけ,私語の刻はいつまでも続くと読んでいました。やはり淋しいです。
新作を拝読してからお礼を申しあげるべきなのですが、まずはとり急ぎ、本巻のみならず,何一つお役に立てたことのない 当方にまでいただいたこれまでのご厚誼に,深く深く感謝申しあげます。
本当に 長い間 ありがとうございました。 草々
二○二四年 一月十八日 天野 敬子
講談社 元「群像」編集長等 歴任
* 天野さんの激励、どんなに心細い綱渡りのはげましになったことかと、感謝申しあげる。
2024 1/24
○ 敬復 湖の本百六十六巻をご恵贈 まことにありがとうございました。 四十年もの間の御活躍・御創作は、驚異的でございます。頂戴致しました各巻まいかい、茶の湯や尾能の世界の発見がございました。どれだけ感銘を受けたか知れません。とりわけ小説『蝶の皿』を拝見したときの布畏は忘れ得ぬものでございます
昔、ペンクラブ京都例会で奥様とお話したこともなつかしく想い出されます。
どうぞお身体お大切にお過ごし下さいませ。
心ばかり かしこ
一月十七日 京 鳴滝 川浪春香 作家
* 謂うまでも無く、私、いわゆる『引退・隠退』作家になるのではない、ただ『秦恒平 湖の本』と謂う「発表の式」を終えただけ、また何を考えるか何も考えずに無鉄砲を撃ちまくるかは、これから先のこと、と。思えば何もかもこの勝手調子一つでやってきた。出版社や編集者に多くを頼まないままで「驚異的」といわれる多作を、毀誉褒貶の外で、好き勝手に送り出して来た。来れた。悔いるよりも、感謝して喜んでいる。
○ 湖の本 第166巻ご送本 ありがとうございます。是れで最後……次の言葉がなかなか出て参りません。
清經入水に始まり 秘色 三輪山 墨牡丹 慈子 月皓く 閨秀 みごもりの湖 罪はわが前に、猿の遠景 等々 長年読み親しんだ作品が目の前を過ぎります。
湖(うみ)の本で、長年に渡り貴重で豊かな読書体験をさせていただきました。改めて、ありがとうございました。
今は書架に並んでいる166冊の「湖(うみ)の本」觀、すごいなーと呟いています。
体調を崩しやすい季節です。お体に気をつけてお過ごしください.。 木村年孝 愛媛県今治市波方町 元・図書館長*
* 今治の春祭りを華やかに色どる「継獅子」の葉書に。久しい久しいお付き合い、一度は下保谷の我が家までもゴアイサツにお見え下さったのを忘れない。お元気で。
○ 湖の本の最終巻ありがとうございました 秦 恒平 様 大変ご無沙汰いたしております。この度は、湖の本の第166巻をお送り賜り、まことにありがとうございました。
本巻が最終刊とのこと、 長い間、御本をお届け下さり、まことにありがとうございました。
私にとっては、遠方の知人から無事を知らせてきてくれるお便りのようなものであると同時に、お前も仕事を続けなくてはいけないぞと、毎月叱咤される諫状のようなものでもありました。
本が到着する度に、目を通しながらしばらく心安まる時間を持つことが、もう出来なくなるのは残念ですが、今後は湖の本166巻と、秦恒平選集33巻の中から、任意にそういう時間を探していきたいと思います。
38年にわたる刊行は、まさに一大事業の貫徹といってもよく、馬琴の八犬伝の刊行が28年、宣長の古事記伝執筆が35年ですから、それらを越えていることになります。大事業のめでたい完結に対し、心からお慶びを申し上げる次第です。
今後もますますお元気で、筆硯の幸あらんことをお祈り申し上げます。 長島 弘明 東京大学名誉教授 秋成研究
* 東大五月祭に「講演」依頼にみえ、本郷通りの喫茶店で初対面のたしか院生だった長島さん、若々しい好青年だった、上田秋成についても話題に花咲いた。懐かしく忘れない、以来の年久しい厚誼、感慨無量も無量。
○ お見舞い有り難うございます。普段どうりにすごしております。有り難うございます。
勿論、毎日のように車にはのっております。ときどきは泳ぎもいたします。
人並みにクリニックにも 定期的にも 真面目に通っております。
いつでもお出かけ下さい。 下司 良子 茨城 那珂
* 残念ながら もう、どこへも独り旅は、ムリかなあ。さ、なに構うことなく、目は労りながらもラストの濫読期を謳歌するかなあ。ちっちゃいカメラも買って貰ったし、「眺める」楽しみも真新しく覚えたいナ。
どうしても勢い「追憶」姿勢になりやすかろう、好奇心で見ることも忘れたくない。よもやまの話し相手が居ないなあ。やはり「追憶」「想い出」になるかなあ。
2024 1/24
* 「湖の本」を終えたと「伝えた」以降の在りように予定も計画も無いことに やや うろたえてないとは謂えぬ。シャッキリ考えて迷いなく処して行きたい、が。
○ 「湖の本」最終巻有難うございます。
そして、このような形での、まさに前人未到のご編集・ご発刊・ご発送を、長きに亘り 本当にお疲れ様でした。
「最終巻の発刊ご準備は順調でしょうか。」とメールをお送りした翌日、まるで木魂するかのように手元に届きました。
二〇日締め切りの書評も、月末締め切りの論文もありましたが、「私語の刻」(私のメールも載せていただいておりましたね)を読み、来月に取っておこうと思っていた『蛇行』までも、熱海へ移動する日の未明に、とうとう読み通してしまいました。
随分前にお伺いしていた「花筐」の、そして蛇の物語。
恵美押勝など多少馴染みの人物もいましたが、系図を整理しながら(歴史的人物は全てが実在人物でしたでしょうか?)、近江の地図等も確かめながら再読したいと思いますが、今は、こうして「作家として書き始めた」のだと改めて聞かせて頂いた心持ちです。
最終巻のための新たな創作としてぴったりと思うと同時に、「湖の本」が本当に終りなのかなあと淋しくも感じています。
一六六巻の編集も終えられていた今年のお正月は、熱海のお酒もゆったりとお召し上がりになられたでしょうか。
今、熱海糸川は熱海桜の花盛りですが、今日の午後は山の方から雪雲がかかり、浜辺にも海にもさあっと雪が舞いました。
この冬一番の寒気が降りてきているようです。
大仕事を成し遂げられた後ですから、しっかり体を休めて下さい。
そしてまた、新たな創作や歌などが生まれましたら、是非読ませていただけたらとも願っています。
どうぞお元気で。 深澤晴美 国文学者 大学教授
* 今の 私の感懐に寄り添うようなメールを貰った心地。感謝。大勢の方々の親愛に励まされてきた「秦恒平 湖(うみ)の本」であったよとしみじみと首肯く。三十八年前に第一巻「清經入水」を刊行したとき、十巻もとうていムリと笑った人も居た編集者のなかには。いつしかに百六十六巻へ来ていた。その気なら二百巻も難儀で無かったが。心神とも相談しての.潮時と決意した。どんな形でも仕事は続けられる。
* 自身の現状を認識把握して仕事しなければ。それが、ラクでない。
* なにもかもよく判って把握しているというワケに行かない。それが当たり前と心得ながら勉めるべし。
2024 1/25
○ 拝復 「湖の本」166『蛇行 或る左道變』 をご恵送いただき、慎に有難うございました。書き下ろしの新作を樂しく読みました。積年の”蛇”のテーマを主軸に据え、能楽・・中世史、さらには森鷗外まで、幅広い分野が共鳴し、「みごもりの湖」まで登場する破格の小説に驚かされました。その外枠に”京都の私学”で出会った3人の男女の関係が配されるので、個人的にもいっそう引き入れられました。石の筺-小筺-蠱筺、蛇の遣われ方。私は學部生時代に学生組織の中世文学研究会に所属して、小門の里井陸郎先生のお世話になったので、つく忠の中井先生にその面影をかんじてしまいます。片山慶次郎さんは丹精な能楽師で、ファンでした。
今号が「最終の一巻」とされるとのこと、長い間、本当に本当に有難うございました。大部数の発送を奥様とおふたりだけでされていたとは知りませんでした。私は昨年3月に退職(=同志社大学文学部名誉教授)したばかりで、71歳。(=秦は88
歳) 「湖の本」とはおわかれですが、メールその他で、今後もおつきあいください。 草々 2024/01/19 田中 励儀
* ご縁の田中さんに、「湖の本」じだいを適切に締め括って戴けた。感謝感謝。
○ 拝復 湖の本166拝受致しました。有難うございます。
扉に「最終の一巻」とあり、感慨深くよみはじめております。八十八歳慎におめでとうございます。御草間とみーもどもお元気でお見事と申すほかございません。
『蛇行 或る左道變』は、何か先生方の大学時代の京文化の香りがふんだんに薫きしめられているようで、その味わいを感じながら心してゆっくり拝読しております。お心遣い、厚く御礼申し上げます。 紅書房主 菊池洋子 一月二十一日
* 「昨夏七十歳をむかえ」た浦安の島野雅子さんからも来信。このお若い方、何十年も昔、地下鉄銀座線のつり革に掴まっていた眼の下で、なんと、私の著書によみふけってられた。そういう「読者との出会い」はけうの此のいちどだけ。懐かしくも久しいお付き合いをねがってきたと感慨深い。
○ 冬の鴉に
鴉は草臥れて寝ていますとメールに。読書だけでは鴉の内奥の騒ぎは収まらないのだと気に懸かります。何かに向かっていたい、書くことに、自然体で書くことに向かってください。勿論疲れた時は思い切り怠惰に安楽になさってください。
寝てばかりいると脚力が衰えてしまいます。京都に帰れそうにないと書かれていた、分かったとしても、それは衝撃的な事です。
寒い日が続いています。一昨日は雪が積もり、今日もまだ冷たい風が吹いています。
先のメールで 家族に胃腸風邪やらコロナに罹ったことを書きましたが、漸く落ち着きました。鳶は、風邪もひかず元気です。怠け鳶を自任していますので。が、まだまだ用心ですね。
賑やかが良いことばかりとは限りません。家族の中での行き違いや葛藤もあります。或る距離を保つことも大切で、「三食作るのも一休み」と自分で納得しました。ガラにもなく豪快楽観的なゴッドマザーになって明るく過ごしています・・が。
イラン旅行の後、旅への衝動が不思議なほど消失しています。イランの旅はまだ未消化のままです。
ツアーのパンフレットは頻繁に配達されますが、ツアーではない旅をいつかしようと思うだけで 心は動きません。関心ある所を辿るには、そして自分の体力気力を考えれば、自ずと答えが出てくるでしょう。鴉のように「行かない」ということもあり得るのです。
鴉、実在を感じてください。
鳶は実在し、人を愛し生きています。
くれぐれも、くれぐれもお身体大切に、書いて生きてください。 尾張の鳶
* 鳶 ありがとう。
* 寒の極まるか。肌身が痛い。
○ 秦 兄 寒中お見舞い申し上げます
一昨日から昨日にかけて久しぶりに雪景色になりました。圓通寺の雪の中庭を写真
に、と思ったのですが家族から
転んだら大変やから止めて、とドクターストップがかかり諦めました。全く風情のない老いぼれになったものです。
それよりも能登半島の地震が心配です。10年前に輪島市の無形文化財の短詩型文芸「段駄羅」同好会の会員になり隔月の投句を愉しんでいますが 会長をはじめ役員や事務局など20名ほどの地元会員と連絡が取れず案じています。
一月十日〆切の自由句と しりとり句を昨年暮れに投句したのですが、肝心の事務局もそれどころではないてしょう。
ちなみに、二句は、しりとり句
大ゲンカ 一度(いちど)限(かぎ)りの / 意
(い)地(ぢ)とか義理(ぎり)の 渡世人(とせいにん)
自由句 お前だよ 唐(とう)変(へん)木(ぼく)は / 答
弁(とうべん)、僕(ぼく)は 無実です
そんなことで 昨年暮れから年初にかけて何かと不慮の出来事が重なり お礼のメールが遅くなり申し訳ありません。
気休めに音楽でも と手あたり次第に聴いていたら 懐かしい唱歌に出会いました。兄も歌ったことがあるでしょう。
この時代から 柑橘類はビタミンCの効用(もちろん当時は科学的効果は未知ですが)から「左近の桜 右近の橘」と重宝されて紫宸殿の前に植えられたのでしょう。
とにかくビタミンCの効用は絶大で副作用は食品ゆえ害はありま んから、どんどん飲んでください。
寒さはまだ当分続きます。どうか十分ご自愛の上、日々平穏にお過ごしください。 2024-1-26 京・洛北 森下辰男
* たくさんな懐かしい童謡が、土曜日の朝ごとに歌われると時に声を放って泣いてしまう、「もらひ子」幼少時の孤独な悲しみが今にも胸に生きのびている。
* 肉親や、家族からも、「命がけ」で逃げて廻る夢に魘される。孤立、孤独.お前にはソレしか無いのだよと夢に脅される。
* 寝入るつど魂も凍るようなコワイ、いや恐ろしい不快な夢に襲われる。已にして「生き地獄」がはじまっているのか。
2024 1/27
* 昨日 久しい四期十六年の京都市長を退いた門川大作さんの「深く敬意を表」して「今後ますますの」活躍を願うとの私信を戴いた。昨年三月に文化庁が京都似移転し「文化首都」たる重要性、必要性が「より一層高まって」いますと。京都市には「京都文學賞」も新設されているとあり、受賞の三冊ほどが送られても来た。1人の作者は1998年生まれと、仰天もし、成るほどナアとも肯いた。
○ 睦月も
はや終ろうとしています。
「湖の本」最終巻への反響も、各地から多数届いていることでしょう。
長年のお疲れ、少しは取れたでしょうか。
ぽかぽか陽気でしたので、伊豆山(土石流の後、だいぶ復興してきました)の先の高台のお店でお昼を食べて、海を見たり、畑の直売所でみかんを買ったりしながら、湯河原まで下り道を歩いてきました。
熱海での休日も終わって、明日から二月半ば過ぎ頃まで、また市川です。
(まだまだ、寒いのでしょうね。)
またいつか、ご一緒出来るといいですね。
ご体調も落ち着いてお天気もよろしい時に、お声がけください。
お風邪など召しませぬよう、どうぞお元気で。 快晴
* 熱海での休日などと 夢のような羨ましいおハナシ。
私は一度だけ、獨り思い立って「こたま」乗り、人気のない浜辺道をあるいたあと、駅へ戻って、駅前のちっちゃな肴屋さんの所帯じみた食堂に立ち寄った話しは、何度も書いている。あのとき、チマチマした定食などの案内が手もとにも壁にもあったが、瞬時、爆けたような感覚で、店の小母さんに、大きな伊勢海老を一尾そのままと、立派な鯛を、片側は焼いて、片側は刺身でと注文した。表構えは小さくとも生き生きした魚屋さんに見えていたので、なんとかしてくれようと、期待に違わなかった、私は「熱海」の粋を貪るように時間をたっぷり掛け、大きな伊勢海老と堂々の鯛とを満喫した、独りだから、若かったからできた乱暴な豪遊だった。
も一度行きたいなと夢見ながら果たさない。「新幹線」にのるまでがもうなんぎやからなあ。
2024 1/30
* 私仕事の一部である「湖の本」を 38年、166巻も世に送り出したのを終結・収束したまでで、昨夏としての「読み・書き・創作」は死ぬまで続く、かな。ま、いろいろにお便りやお気持ちを日々頂戴している。忝いことです。
2024 2/2
○ 如月ですね
今年度最後の授業も終えて、昨日は出張、、、と言っても、万世橋の千代田区区民館まで。
二時からでしたが、淡路公園近くで早めのランチをとった後、ニコライ堂を眺め、聖橋を渡って湯島聖堂、神田明神にお参りしてから(この辺り、コへさんは懐かしいでしょう)。
千代田区内のミュージアムが集まって「ミュージアムフォーラム」という組織を作っているのですが、我が硯友社文庫も今年からその仲間に入れてもらい、昨日がその第一回目の連絡会議でした。
加盟しているのは全部で34館。国立美術館、出光美術館、東京ステーションギャラリー、静嘉堂文庫美術館、三菱一号館美術館といった美術館の他、科学技術館、衆議院憲政記念館、国立公文書館、日本カメラ博物館や日比谷図書文化館、明治大学等の大学博物館、日枝神社や靖国神社等の宝物館等々、、といった面々です。
新規参加館としてご挨拶して、様々な連携事業の実施報告や今後の計画等の話の後、森ビルの森美術館の方による「ミュージアムの魅力を伝えるためのSNS利用」の講義も聴きました。
今までの研究とは異なった世界。時間を作って、こうしたミュージアムにも足を向けようと思います。
それと並行して、今年は二冊目の単著の準備を進めて行くつもりです。
先月末の「私語の刻」、読ませてくださいまして有難うございます。
「湖の本」が終刊して、淋しく感じている読者が多いことでしょう。
前にもご提案があったようですが、元東工大生の方にでもデータを毎日もしくは数日分送信して、HPかそれに近いものに代理でアップして頂けるといいなと思います。
基本は文字データでしょうから、アップする過程で変になることもあまりないでしょうし、アップした後に万一気になるところがあれば、修正もできるかと思いますが、いかがでしょう。
来週の週明けには、都心でも雪の予報が出ています。
どうぞ暖かくしてお過ごしください。 快晴
* 創意・開発と充実の新たな「単著」の成るのを声援しています、眼力と眼光とで未開拓の新境地を確保漸進・前進されますように。
2024 2/4
* 京・山科の、詩人あきとし じゅん さんから、懇篤長文の感想と激励のお手紙、とびきりの一升を頂戴している。
あれで新制中学一年か二年になっていたか、叔母宗陽につれられ近江の湖ベの大きな公園での、裏千家園遊会につれてもらい、そこで盃に一と口舐めたのが清酒の初体験だった。秦の父がからきしお酒はダメで、機会は無かったが、結婚後は相当な大酒家になっていった。抑えているが、いまも一升入る黒丹波の佳い壺から、久保田の、獺祭のと、小杓子呑みで、頂戴している名だたるお酒を次々に飲み干している。悪酔いすること、無い。
2024 2/5
○ 睦月も過ぎ去って
メールを戴きながら、PCを開くこともせずに日々過ごしていました。大変失礼致しました。湖の本166も貴重に拝読させていただきました。
気付けば、
二月も今日は長男顕の誕生日。孫の次女のお宮参りの写真などを嬉し気にスマホで送ってきました。
その長男が生まれた折、上京なさる前日?のお二人に実家まで訪ねて来ていただき
祝っていただいたことなど思い出していました。
能楽へとの道を開いてくださったこと改めて感謝です。
今回の作品の中で「定家」とよめば 謡本取り出して読んだり、謡ってみたり。 雑駁な日々の中でのうるおいです。どの謡が好きかよりは、時々のお稽古の謡に追われてもいます。
また来月 師匠の25周年の会で、「葛城」の大和舞を舞わせていただきますので、
今はそちらに懸命です。矢来の舞台です。
迪子さまのその後の調子はいかがかと気にもなりながら、ご無沙汰ごめんなさい。
寒暖差の激しい日々ですが、どうぞどうぞお二人ともお身体の休養一にお過ごしくださいますように。 晴
2024 2/7
* それと、大きな残生の「楽しみ方」をわたしは見つけた、『秦恒平 湖(うみ)の本』全166巻を第一巻『清経入水』から、「一読者」のように「読み通そう」と。著作者以外の誰にも出会えない「境遇」に、もぐり込めそう。私の「湖の本」一冊量は、孰れも、世に通行の「単行単著の一冊分」にほぼ相当している。166冊の自著単行本をみな読み返そうと。いま、真似の出来る誰一人も無いだろう。
* などと呟きながら、要するに、ナアンにもしないで知日を休んだ気分。八日の「私語の刻」 すつぽかされている。やれやれ。
2024 2/9
○ メールありがとうございました。
先生の作品との出会いは、京都人の意識構造に関する雑文を書いていたころに、『京のわるくち』、『京あすあさって』などの随筆を拝読したのが最初です。
『秋萩帖』小説については、正直に申しますと購入に至りませんでした。あらためて府立図書館で借りて拝読いたしました。(「全集」、「湖の本」に収録は承知しています)
後年,先生にペンクラブにご推薦いただいてから、何かとご高配賜り、全集、湖(うみ)の本の謹呈本を拝受し、恐縮するばかりです。ご厚情には感謝申し上げます。
山科は 私宅裏から、疏水を東へ 天智天皇陵→安祥寺→安朱橋(毘沙門堂)→諸羽神社→(一灯園→四宮駅)→徳林庵・十禅寺へは よく散歩するコース。
さて、『秋萩帖』「八の帖」で幸田が人康親王にゆかりの山科四宮の泉水町あたりの子どもの頃の記憶をたどるというくだりには、たいへん興味深いものがあり、なにかご縁を感じます。
作家の目と感性と旺盛な想像力の飛翔に心を奪われました。
先生が創作のために「京の田舎」の山科四宮を探訪されていたことを噛みしめて、これからはじっくり歩いてみたいとおもいます。
万全ではない体調をコントロールしながらのメールを頂戴し案じております。さぞお辛いこと お察します。
それゆえ,ご体調に負担をかけないようにと存じますので、メールは差し控えさせていただきます。なにとぞご養生専一につとめられますようお願い申し上げます。とりいそぎお礼まで あきとし じゅん(馬場俊明) 詩人 国語学者
2024 2/12
○ 新しい年の初日が 思いかけぬ大きな 心いたむわざわいの日となりました。
其後 お変りございませんか。
いつも貴重な本を お送り頂き有難うございます
しかも今回をもってペンを置かれるとの事
長い間の御執筆に心より敬意を表し 重ねて厚く
御禮申し上げます。
何のお返しも出来ませず 申し訳けない限りです。
どうか これからも お身体には充分御留意下さいまして
今迄以上に 日々を大切 楽しくお通り下さいませ かしこ
京都 山科 早樫てる子
* 弥栄中学の、一年下で優等生のころの姓を採っておいたが。一年下には、他に、もう二人の女子優等生が居並んでいて男子を遙かに圧倒していたらしい。わたくしは一學年上で全校生徒会を仕切っていたから、委員会などで、早樫さん、八木さん遠藤さんらとも顔なじみであった。残念ながら同学年女子には眩しいような一人もいなかったなあ。
いま、上の三人とも と『湖の本』を介しての文通がある。遠藤さんは東京で長く暮らしている。
今にして思うが「一学年下の優等生女子」というのは、妙に眩しく見える存在であったのだなあ、と。夜目 遠目 傘の内のたぐいか。親しい口など利き合うたこと無かった、が、なつかしいよ。三人とも健在なのも、いい。
早樫さんはごく近隣、わたしが新門前通り、向こうは古門前通りに暮らしていたような。一つ。「湖の本」という形の刊行はヤメたが、ペンは置きません。」
2024 2/14
○ 秦恒平様、迪子様
雪が溶けて、陽射しの温かさにホッとします。湖の本ご発送のお疲れはとれましたでしようか?
第一巻より、ずっと送っていただき、読ませていただきありがとうございました。心豊かに過ごさせていただきました。感謝致します。
完了のお祝いの気持ちに、お疲れをとつていただけますようにと、ココファムより、ワインを送らせていただきました。
どうぞどうぞ、お疲れをとっていただきますように。
新たな作品を読ませていただくこと楽しみにしています。
梅いちりん一輪ほどのあたたかさ を期待して。 晴
■ 晴 様
ワインが届きました。紅白二本、湖の本「終結」のお祝いとおっしゃって頂いて恐れいります。お花にお菓子にこうして重ね重ねのプレゼント、なんとお礼を申しましょう!ありがとうございます!
秦は気が抜けたのか 寝てばかり。幸いNHKではじまったドラマ、紫式部のドラマが気に入って楽しんでいます。
ありがとうございました。ミチコ〓
○ 迪子様のお疲れ休みに
赤〓なら、少しは飲んでいただけたらと。気持ちばかりです。
秦様のHPを月毎に送っていただき読ませてもらって有り難く感謝しています。
今日は少し暖かくなってホッとしています。どうぞごゆっくり日々お過ごしくださいますように。 晴
* 私・秦恒平の「日本」「故郷・京都」への基礎認識は
『女文化』の女世間
と謂うに尽くせる。
大學より以前から、「男はキライ 女バカ」が私の変更の無い「日本人」認識だった。「女バカ」は最上の賛辞・共感と謂うに尽きている。
京都の「祇園花街」にまぢかく育ち、幼時から秦の叔母ツル(遠州流・玉月 裏千家・宗陽)の花と茶の稽古場で成人し「宗遠」と茶名も承けている私には、「男」とは社交と競合の相手、「女」は懐かしみ親しむ相手と、人間觀がほぼ固定固着していた。「それで八十八(やそはち)までも生きて」きたのだ、どうしようも、どうしたくも無いのです。
2024 2/14
* 寒いを避けようと着る内でこのごろは上着の方に、弥栄中、日吉ヶ丘高などにいた「渡辺節子」がつい半年も前か、まさしく何十年ぶりに「突」として「手編み緑色の毛糸のジヤケット」を贈ってきてくれたのを着ている。軽くて暖かくもののうえに重ね着できてありがたいのだ。何故に突如として京の山科から贈ってきてくれたか、判らない。学校時代にもヽクラスに居合ったた事も、ろくに口を利き合う他記憶もまるでない「お澄まし屋」であった。隣の組の学級委員をしていたから生徒」会の委員会では出会っていたけれど、隣校「粟田(小学校)出」の「三節 渡辺節子 中村節子 安藤節子」の中では苦手のほうだった、なにしろ講堂の大きなピアノを時々「独り」で弾いているようなまるで無縁な女生徒だったのだ。そのまま何十年も何の接点も無かったが、たまたま当時の名簿と住所録を「紙くずの中から見つけて、ナンにかの旧友等に『湖の本』を宣伝に送呈したのだった、たぶん綠の毛糸編みのジャケットはそのお返しであったろう。人生不思議の遙かに遙かな「再会」であったのだ。わたしが「物書き」に成っているぐらいは聴き知ってくれてのだろう。
毛糸のジャケット、今も冷えた機械前の仕事場で着ている。
2024 2/15
* 昨日戴いた作家、歴史家の相原精次さんのお手紙が胸に熱く響いて感謝している。長文なので措くが、私の近作『蛇行』ほかへも深切の批評・感慨を寄せて戴いていた。
* 夜の不通の常識として作家・作者は出版社・編集者の「判断」にまかせて仕事を買い上げてもらって「本」にも成り、雑誌等にも載せてもらえる。わたくしの場合も初期はそうであったが、「作家」と世に認められた些少は「私家版本」巻頭に載せてお他『清経入水』が、全く与り知らぬうちに与り知らない選者先生達により『第五回太宰治文學賞』に選出されていたのだった。以降も、多くの読者はご承知のように、私は、自作のほぼ全てを自身の手で書籍にし世に送り出してきた。(とは云え、出版と編集者」の手で作られた単行書籍も、数えてみると大小百冊を二三越すほど在り、しかし自身の手で作り送り出した浩瀚な『秦恒平選集』は三十三巻、『秦恒平・湖(うみ)の本』は百六十六巻に及んでいて、「湖の本」一巻分の原稿容量は世間に小売りの単行本一冊にほぼ全て「相当」している。総量は、我ながら愕くばかりの数え切れない原稿枚数に成っている。世界にも禮は尠い、そういう生涯出版を、私はほぼ『自分自身』の手で進め、進め得てきた。懸けた全費用は、全て私と妻との協力で、スカンピンの新婚以来に蓄えた貯金を宛てている。「頒価」を附けていた時期も長かった、が、近年はすべて「呈上」に切り替えて、千を少し超す冊数を餘ニ送り出していた。書いた創作で儲かる・儲けようという気は希薄だった。
* 私・秦恒平とは、そういう「作家」なのであって、そういう後続の「作家」が跡を継いで出て来ないらしいのが、当然なのか、歯痒いのか、判断がついてない。
私はこれを、いわば「日本近代文学史」の史実と自覚して書き置いている。ご批評・ご批判も得たいと願う。
2024 2/16
○ 秦先生 なんだかんだと年明けのバタバタで、もう2月が終わりそうです。
湖の本 最終巻労いの会の件は、また、秦先生と関連のあった学生のリストなど、 いかがでしょうか。
こういう会はお嫌いそうだな、と思いつつ、1か月待ってしまいましたが。
メールで前に進まないようであれば、
明日にでも、ご自宅にお伺いして、お話させていただければと思います。それが礼儀でしたか。 櫻小次郎
* ありがとう。しかし、この新年來 心身の調和を欠いて、日々混濁の疲労に半ば潰れています。よき営為へと鋭意勉強の気はアリながら とかく疲労と違和に負けて、寝に寝入って睡り続けているような連日です。
「湖の本」は、このかたちをたまたま「終結」しただけで、「読・書き・創作」の姿勢にも勉強にも変更も沈下もありませんので、それは安心してて下さい。ただただ疲労が濃いのは、もう致し方なく。極力、心労・身老・色んな應接の負担を避けて、省いて、ひたすら「やすみやすみ」老妻と二人で老殘の「坂道を下って」行きます。
ねぎらって下さる会合、来訪も、感謝して辞退させて下さい。学生君達のリストへも、とても手がまわりません。ただもう、疲れれば寝入っています、好きな本を枕もとに積んだまま。
お友達にも、こんな容態だと、おおげさにでなく、お知らせ起き下さい。私と話したくなったら、既刊の「湖の本」を手にして下さい。または、メールで。
お元気で。翼一杯に高く飛翔んで下さい。 秦 恒平
2024 2/22
*「湖の本」の終結は、私が読み書き添え作を終結したのでなく、単に,従來版の「本」をもう従來の条件で業者が「宅配」してくれなくなったこと、千にかなり數越す部数を妻と二人で「発送」するのは作業として無理と自明なので「終結」ときめたというに過ぎない。「潮時」が来たと謂う事で、別儀は何も無い。
2024 2/23
○ 秦先生 今日は
長い間ご無沙汰してしまい申し訳ございません 一月十七日 湖の本No166拝受しました。いつもお心遣いありがとうございます
「完了(終結)」の文字を複雑な気持で受け取りました
蛇行 或る左道變 老蚕作繭 (=最新作)
一文字 一文字 追いながら 数十年前
『みごもりの湖』を(桐生の=)讀書會で話し合った当時の様子とだぶり感無量です
秦先生らしい作品ですね
年を重ね理解力が落ち(昔もそうでしたが)思っていたより時間が掛かりました
いろいろな作品の場面が頭の中を駆け巡り 想い出に耽ってしまいました
一六六冊 すごい仕事量でした
迪子様と云う良き配偶者と巡り合い 二人三脚で頑張って来られました
これからも無理のない範囲で異見を発信して下さい
お話ししたいことが沢山ありすぎて 今は整理ができません
奥様ともどもお身体お大切になさって下さい
長い間ありがとうございました
感謝の気持ちでいっぱいです
令和六年二月二十二日
桐生(市) 住吉(一江)
* 「湖の本」一六六巻の作家・秦恒平として、また内助の妻として、頂戴できたこの温かなお手紙、嬉しいこれぞ数十年へ、久しい読者の皆々さんからの「勲章」よと、感謝して胸に飾ります。
2024 2/28
○ 2月の「私語の刻」嬉しく拝受、拝読いたしました。
ありがとうございました。
昔々の同級生さんから贈られた手編みのジャケットにほっこり胸があたたまり、新潟の藤田(少年)のお名前に、ああ、となつかしさを覚え・・・。
皆様のさまざまなお便りに、時のたつのを忘れました。
わけても、2月1日付けの「春は、あけぼの」さんのお便りは大変印象深く、繰り返し拝読しました。
先生は、ちょっとお疲れのごようすでしょうか? 寒暖差の激しい日々、どうぞ、おからだを大切にお過ごしくださいますように、奥様も。 I・YAMANAKA
* 疲れ気味ですが。持ち堪えて、脚を先へ運んで参りたく。
○ 「湖の本 作家 秦恒平 文学と生活」
うれしいです
大きい表紙 すばらしいです
モニターの横に もすこし小さくして貼らせて戴ききます
「うつつあらぬ…」
鳴きしきって貰えるうちですね
「元気 元気…」と元気を出して かんばります
秦さん くれぐれもお大事に お大切に されてください
私は家の中で歩く練習をしております よろけ注意中です
三月 櫻の咲く時分… いい月でありますように
千葉 勝田 拝
2024 2/28
○ 明日は、お雛様ですね。怖い雛のお話を思出しています。
メールを有難うございます。日々のご様子がうかがえて、嬉しくなりました。
東工大の卒業生のお力を借りて、また「ホームページ」がアップできるようになればと熱く願っています、が。
先月は成績評価(学生のレポート、一人、が一人に添削してコメントを返しました)も終えて、十日間ばかり熱海に滞在し、河津や下賀茂まで花見(河津桜)に出掛けたり、沼津へ「伊豆の踊子」の観劇に行ったり、少しのんびりしてきました。
市川に戻ってきて、昨日は三島由紀夫の研究をなさっている木谷真紀子さんとお昼をご一緒しました。木谷さんは同志社のご出身で、同学にお勤めになり、今は和洋女子大の隣の 東京医科歯科大(四月から東工大と合併)の教授です。
「湖の本」が二,三冊出た頃に、コへさんからお手紙を頂いたことがあると仰っていましたが、ご記憶でしょうか。
今は、二〇日締め切りの原稿「川端康成と軽井沢」を執筆中、その傍ら、六月に開催する市川市民対象の講座のテーマを検討しています。
市川市ゆかりの東山魁夷(市内に東山記念館もあります)と川端について話そうかなと、佐藤春夫編『詩文四季』など見直しているところです。佐藤の「序に代へてーわれらが四季」の肉筆原稿を巻頭に、朝日新聞PR版「四季」欄に発表された谷崎の一〇篇(絵・小倉遊亀・安田靫彦)や川端の一〇編(絵・東山。四篇は東山の絵の方が先行)も収録されていて、なかなか面白い本です。風土や四季の問題について、考えをめぐらしています。
四三寒四温温の春。どうぞお体お大切になさって下さい。 快晴 現在 大学教授
2024 3/2
* 作家の森詠さんから、有難いお手紙を戴いた。「廬山」を「繰り返し拝読し、なぜ授賞にならなかったのか不思議でなりませんでした」。これはその当時にもすこし囁き合われるような事情が選者のいちぶにあったと、漏れ聞いていた。
「166号をいただき、米壽を機に、、これを最終刊になさると識り驚きました。作家は死ぬまで現役です。今後もぜひ書き続けて下さい。読者の一人として、次の作をたのしみにしています」と。 感謝。
「湖の本」というカタチでの終結は、老妻と二人での千冊にあまる本の「発送作業」が行き届きかねると感じたため、他の「方法や手段」へ切り替えたいということでして、可能なな限り「死ぬまで」「書き続け」ます。
* 日本近代文学館からも『湖の本』終結を惜しみ、久しきに渉る寄贈への謝辞が届いていた。
* 仙台の遠藤恵子さんからは、妻に宛て、「いただいた「湖の本」再読三讀して楽しんでいます」と、さらにさらに「元気に生きて」と励ましがあつた。感謝感謝。
2024 3/4
* ワケ判らずに多くが機械から失せたり.捜せど見つからなかったり、無駄な時間をたくさん費やして,容易にサキも開けない.情けない。メール機能を全部見失って、書きも送りもならず、弱った事に過去の保存分がみな見当たらない、いわば「わが日々の歴史」が消え失せたよう。やれやれ。
* もう午後と感じていたのに、午前九時十五分にもなっていない。進級の機械と格闘しつつ何の結果も展開も掴めてい判っているのはメールが送れず、受け取れない、という機械世間での「孤立」状況、だけ。
みんな投げだし、讀書の森林へ身を置きに入って行くか、幸い、これは即座に可能。
* 午後三時過ぎ、「マコ」が家出したりし、連れ戻すのに疲れる。ドンヨリと心身鈍く重く、処置無しの態。弱くなったものだ。幸いに,逐われる用の無い身になっている。疲れれば寝る、の一手を遣えば宜しい。しかし、疲れる、草臥れている、グッタリというのは有難くない。
メール機能が使えないのも奇妙に「孤独」。やれやれ。自業自得の「機械バカ」な私です。床に就いて、本を読みます。「本」は家に溢れているし。自分で書いて市販の「単行本」になっているのが百数冊、『秦恒平・湖の本』が全百六十六巻。百まで生きても読み切れまい。ところが、他人(ひと)の書かれた論地や選集や全集は単行本が十数メートルに延びた書庫三面の書架に溢れている。建日子はどうするだろう…呵呵。
* どうすればメール機能が恢復出来るのか。見当もつかないとは,情けない。
* 寝てばかりいる。夢見ながらも、なにやら唱っている、らしい。
2024 3/16
* 冒頭箇所に お手持ち「欠巻」分「無料呈上」の広告を置いた。 ご遠慮なく お申し付け下さい。
2024 3/21
* なにと。事実、一日二十四時間の二十時間を床に就いていた。幾らでも睡れて、疲れはひしと身を咬む。
* 認知症が、アタマに来るほど、正確に肉薄してきている。忘れるはずのないコトが思い着かず、思い出せない。だからこそ、根気よく「私語原版」での『秦恒平・湖(うみ)の本』を継続このパソコン上に「発表」「送付」し続けたい。
2024 3/26
○ 前略・御高著『湖の本』(166)お贈りいただきありがとうございました。拝読してからお返辞をと思ったため御礼が遅くなり、いたく失礼いたしました。
「これにて「最後の一巻とされるとのこと、とても残念な気がしますが、お手ずから発送の労を執っていただいたものをうれしく頂戴していた身としましては、「続けて下さい」とおこがましくお願いする資格はないとも思います。これまでのご芳情にに、心より御礼申し上げます。
それとともに、ぶしつけなお願いですが、創作の方は少しずつでも続けていただければこれほどうれしいことはありません。薄ぺらくなってしまった現代文学の世界に、王朝古典の文学遺産を受け継ぐ秦さんのような重みのある作家が存在することが是非とも必要だと感じております。
どうか御身ご大切にお過ごし下さいますよう。
都 世田谷区上祖師谷 土方 洋一
* 厚く熱く 感謝。「湖の本」の終結通知に寄せられた沢山な読者の皆さんからのお便りをおおかた取り纏めたようにお書き下さっている。
* で、今、此処で取り纏め「作家の私・秦恒平の今後」を希望とともに展望しておきたい。
私は、相変わりなく「読み・書き・読書と、創作」の日々を続ける。その餘に、私の生きようは、無い。
「本」の形で「百六十六冊」刊行し続けた『湖(うみ)の本』は、以降「第二百巻」までを目途に、この『秦恒平 私語の刻』欄を基本取材の「場」とし、途絶えず、「すがた・かたち」も工夫し、日々書き継がれて在る「原作・原文を編輯・編成」して、いまも「此の此処」に、「掲載し続け」ます。「本のカタチ」で印刷・製本し発送するのは、やがて「卆歳」の夫婦の手には流石に余るからです。ご理解ご承知下さい。
メール便での送付は手安く、「それがいい」とお考えの方は「原稿送付先となるメール・アドレス」を「秦宛て」予めお教え置き下さいますよう、別途に私用、まして悪用する事はありませんので。
みづうみのうれひもなみの行くはてを
たれまつとなく 光るおほうみ 恒平
2024 3/27
* どうしょうかと思いつつ、やはり早起きした。猫チャンのアコもマコも喜ぶ。 寒い。
やはり第一義の仕事は途中の新創作を巻頭の要に追いつつ、いわば「私語の刻版」、『新・湖の本 第167巻』めを、もう郵送でなく、「メールで引続き<電送>の利く読者」宛て送り出せるよう着々「用意」「進行」する事。印刷所とも製本所とも縁が切れて、ますますの、本格の「パソコン作家に腰を据えてかかるのである。人生、弾むように推移する、永かった過去も、卆寿をまつ夫婦での最晩年の「仕事」も。
* と言い続けながら、私、いま大肝腎の「メール機能」を見失ったまま、唸っている。認知欠損気味に「卆 九十歳」へ滑り落ちて行く「生涯一作家」を、誰方か援けてと、やっと弱音になる。。
2024 3/29
○ 三月下旬の天候ですっかり遅れた桜の開花、そして一斉に桜開花宣言です。が、昨日はまだ開花の気配を感じられませんでした。そちらはいかがでしょうか。桜を精一杯楽しんで欲しいと心より願っています。
シンガポールに暮らす娘は桜の時期に出会うことなかったので、今年こそはと思っていたのですが、3月29日に帰って行きました。腕白クレイジーな孫たちも・・。急に静かになりました。山ほども家事、用事があり、わたしは「お疲れ」です。
でも何より気に懸かるのは、鴉 あなたのこと。気力確かに、うららかな日々であって欲しい。 尾張の鳶
* ぐったり 尾張の鳶へ
凸版印刷の担当者宛て たった今 送ったメールです。鴉の近情です。
在来の『秦恒平 湖の本』を百六十六巻で一先ず「休止」しましたのは、「卆寿ちかい夫婦」での「発送」作業がもう無理と感じられ、体制を替えねばと思ったからです。
結果として、尠くも第二百巻までは、私の「ホームページ」ないし日々の「私語の刻」の上ニ、毎回その「最新巻」に「『秦恒平・湖(うみ)の本』 (長短編小説) (秦恒平・私語の刻)」』という <従來通り>の大構成で{継続公開}し続けまjすとともに、すでに年久しい「メールアドレス読者の皆さん」には、全一巻ごと、全員「電送」でお届けをと「計画・予定』しています。
これですと、家内に負担掛けず、私の手慣れた日常「創作」過程の儘、私独りでの発信・送信作業で、みな「要」が足ります。
「第二百巻まで」「もう三十四巻」仕上げられれば、ま、わたくしの「作家人生」も もう いつ「綴じ終えても」宜しいか、と。「命」続くかの方が よほど案じられますが。 この一年・半年の,私 疲弊・疲労困憊は甚だしく、今日も、近くの病院通いでしたが。「栄養失調」に「相当」していると。酒よりも 蛋白質・脂肪を「食べよ」と 𠮟られてきました。
じつは いわゆる「新書版」で やはり「本」の形に創り続けたい気がありました、が、やはり「発送作業」の疲れは夫婦に及びますので、断念。「出来本」は、ホームページで観て戴き、メール可能な方々へは全て「電送」でさし上げると 覚悟しました。
以上、只今の存念です。ご懸念恐れ入ります。感謝申しあげます。今後とも、お見守り下さい。
秦恒平 「湖(うみ)の本」版元
2024 4/1
* 久しい勉強や文筆・私語の刻から「義務的」という麵からはすっかり解放されている気か、ホワーンとしてかなりに馬鹿げ、孤独である。メールも、在来保存のらいかんに「返信」のテイでしか送れず,新規には出来ない、らしい。従來とも新規にとも届くは届くのか。それもボンヤリしている。やれやれ。
* 大事なのは,信仰している長いめ小説の新作をハカどらせること、それを巻頭に、「私語」とも組み合わせの「秦恒平・湖の本」167巻めを仕上げて読者の方々へ電送すべく努めること、です。
2024 4/3
* 書庫に入ると、時の経つを忘れ、出て行くのを忘れる。書庫に、ひとの本を積み起てて、自分自身の百冊に剰る各出版社からの単行本も刊本も、「湖の本」166卷もすらも容れてない、収容してない、というトンチカンに気づいた。数多く、しかも「本は重たい」ので、隣り棟から「運んで」くるのは重労働に過ぎる。参るよ。
2024 5/9
* 藤森佐貴子さん、父の日とか、いつものようにお洒落れな「軽菓」を贈ってきて下さる。今は亡きお父上は優れた「源氏物語」がくしゃで、お親しくして戴いていた。感謝。
* 新刊の「湖の本」をお届けするというコトが無くなっており、追い追いに、各地の読者との通信や交際が減って行く、それはもう仕方ないと諦めているが。
2024 5/12
* 千も贈っていた「湖の本」を、もうコレまでと卆えたからは、親しいお人づきあいは、自然当然と減ってゆく。日の寂しさを慰めるのも、やはり「読み・書き・讀書と創作」こそ必至。自然通俗の娯楽本は割愛して、読んで置きたい名著好著を手探りにも拾いあて当て「老いの坂」を登りつ下りつするまでの事。
2024 5/14
○ 「秦恒平・湖の本」をお手持ちの方々へ広告
もし「秦恒平・湖(うみ)の本」お手持ち分に「欠巻」が在り、ご希望があれば在庫のかぎり何冊でも「無料」で「呈上」お送りします。ご遠慮無く「送り先」そえてお申しつけ下さい。 「極く初期本」は さすがに 不足かも知れませんが。
いつからか不明?
○ みどり美しい頃となりました。『湖の本 166・蛇行 或る左道變 老蚕作繭』 いつもながら精力的な筆に、感服しております。
どうぞ 心身 ご無理はなさいませんように。
心ばかりの支那を送らせていただきます。
どうぞ お元気で。 令和六・五/・九 直木和子
* 「直木さん」と見ると、はるかな昔、秦の叔母宗陽の久しいお友だちであった、東福寺大機院の直木さんが懐かしい。和子さんは娘さんで在ったか、私とも齢近い人であったと想っている。 感謝。
* そして。 同志社美学藝術学専攻での、すこし後輩か、羽生清(きよ)さん。
○ 『湖の本 一六六号』ありがとう ございました。
秦文學の秘密が隠されているという気がいたしまして
『蛇行 或る左道變』 心して読ませていただきました。
日本文化の古層に存在する、蛇、古來からの結婚制度がはらむ矛盾を、井上皇后の左道軸に、といいますか、それらを取りこんで、カメラマン岩方正夫、その妻宏子、妻の親友 花以應子(はなゑ・まさこ)の今日につながる……
更には 秦恒平作品が呈示されて、物語が動くという趣向……
存在していないかのような女性たち、
あるいは「花筺」の照日の前や「定家」の式子内親王そのままに男に翻弄される女たち……
能の世界では異、今日につながる言葉の中では、反發したくなります。
『草枕』の那美さんや『細雪』の四姉妹はそれぞれ魅力的でしたが、小説を楽しむためには、私が男の視線をもっことが要求されました、と、ここまで書いて、那美さんを男の視線で読んでいたのだろうかと疑問がわき、『草枕』を読みかえしてみました。
人物に魅せられて、ながく読んでまいりました。
読書の娯しみと人生の難しさを教えていただき ほんとうにありがとうございました。
急に暑くなったり ひんやりしたりの毎日でございます。
先生
奥様 くれぐれもお身体大切におすごし下さいますように。 羽生 清
秦 恒平先生
* わが「作家人生」へ、恰好の「あとがき」を副えて下さったと想う。有難う存じます。
2024 5/20
* 此の『作家・秦恒平の私語の刻』が、166巻で一息入れた『秦恒平・湖(うみ)の本』のあとを追う。巻頭にも居きったように私の『私語の刻』は「文藝の表現」をつよく意図しており、加えて、創作した「小説の新作」も効果的に工夫し「組み入れて」行く。大凡は「一ヶ月を三分する」どの分量で「秦恒平の私語の刻」にお付き合い戴く。メールを利用する、印刷して郵便では重労働に陥る。当分はなにかと「試みつつ」お届けしたい。むろん従來の儘に「無料呈上」のメールなので、お好きに処置して下さい。本然は、『私語』される「表現と内容と」に在ると、ご不要の方はお知らせ下さい。新たに「読み初め」たい方は「メール・アドレス」を御指定・ご通知下さい。決して濫用はいたしません。
* 「当分は不慣れで躓く」か知れませんが、半世紀を遙か超す「作家・編集者」新たな努力で、老耄と闘いながら、勤めてみましょう。笑って下さい。ご期待下さい。ナニ、「私語」を「お聞かせ」するだけのことです。 秦 恒平
2024 6/21
○ 新しい道順での「湖の本のメール」ご送付いただき、ありがとうございました。
相変わらず、PCから逃げ腰で過ごしていまして、秦様からのメールを発見いたしまして、息吹き替え返したようなPCです。
またお時間がある時に、ご送付くだされば嬉しく光栄です。
建日子さまのご本Change the World, And so tおhis is Xmasの二部作を図書館から借りて読ませいただいているタイミングに、迪子さまより三部作目を頂戴しまして、ありがとうございました。
未知の世界を小さい穴から覗き見ているようです。
デジタルの未来の世界? 分からない想像もつかない世界を少し覗かせていただいています。
謡曲の稽古の方は、「夕顔」の謡とお仕舞をしています。
先月師匠が矢来能楽堂で「山瑞乃伝」の小書きを出されました。
大変古い装束、と面(おもて)とで、たいそう立派でした。
入梅。酷暑と続くのでしょうが、どうぞ迪子さまともにお体大切にを一番にお過ごしくださいますように。 持田晴美
2024 6/29
○ カアカア鴉に
“生きたかりしに”を再読、今しがた読み了り、茫然。深く重く、生涯を思います。
同時に光のようなものを感じます。
暑さを避けて籠っています。
元気に過ごされますように。 尾張の鳶
* ありがとう。鳶も。空たかだかと舞いたまえ。
『生きたかりしに』か。「生ききりたかった」ろう生みの母の呻きが、今も聞こえてくる。
2024 7/6
* 膨大量の『各界・各氏 メール・アドレス』を、今朝から、氏名見出し五十音順に、とにかくも整理整頓し終えた。編集の現場で課員にこういう仕事をまわすと、きっと嫌われる。さっさと自分でやってしまえば、済むけれど、じつはそれも、また嫌われる。それにしても「作家としての生活と結果」も、やがて「六十年」「大選集」33巻、「湖の本」166巻 そして「文藝」としての膨大量の日々刻々『秦恒平・私語の刻』。記録を記録してのみ遺すのも容易くない。
パソコンという機械を、私は、国立東京工業大學(もう軈て「国立科学大学」に成り変わると謂う)の教授時期に生協で買い学生に教わり教わり手に振れ初め、はや四半世紀を越して行くが、生来自覚の「器械バカ」で、なかなか、てきぱきとは「遣いきれ」ない。
しかしパソコンが手近に遣えてこそ出来る仕事を今日も半日余、一つの「結果に」整理し終えた。弱い視力を遣い尽くしての、或る意味「暴挙めいた」けれども。モウ先ハ 短い、無いような日々、と見えてきている…。
2024 7/8
* 昭和十七年(一九四二)四月に開戦早々の京都市立「国民学校」に入学し、二十年四月四年生から当時京都府南桑田郡樫田村へ戦時疎開し、敗戦後の二十一年秋に重くも患って、もとの京都市立有済小学校五年生二学期末へ復帰し、早々、戦後を機の、初の「生徒会」「生徒大会」を提唱、立ち上げて六年生になり全校生選挙で初の「生徒会長」を勤め、翌年には戦後「六三三新制」第一回の中学へすすんで、生徒会を事実上芯で支え、三年生卒業まで「生徒会長」をつとめながら、校内に「茶道部」を起て、指導の先生が無いまま、幼来秦の叔母宗陽に習ってきたけんで部員生徒達に作法の手ほどきも指導も一人で引き受けた。
市立日吉ヶ丘高校では生徒会にはふれあわず、「雲岫」という佳い茶席のあるのを「占領」して「茶道部 雲岫會」を三年間、卒業後も暫く率い指導していた。嵯峨 嵐山 鷹峯などへ部員を連れて「野懸け」の茶も愉しんだ。教室の授業は兵器でサボっては「京都」の自然や歴史に親しみ始めた。大学出は講義を抜け出ては京都市内・郊外を「本」を読むように尋ねまわっていた。そして、妻と出会い、その学部卒を待ち、大学院を中退して「東京」へ出、本郷東大赤門前の出版社「医学書院」(金原一郎社長 長谷川泉編集長・国文学者・詩人」)に就職、小説を書き始めて第五回「太宰治文學賞」を選者満票で得、社長・編集長のアクティブな支持・支援も戴いて退社、作家・批評家として「自立」し、今日に到っている。一時期、四年間、新聞等に「名人事」と書かれ国立東京工業大学に「文學」教授として招聘され、さらに「大学院」教授として残って欲しいと望まれたが、辞退した。市販の著書は小説と批評など「百冊」に及んで、以降は私版『秦恒平・湖の本』に切り替えて「一六六巻」にまで到り、以降は、純然、私事としての「読み・書き・読書と創作」へ落ち着くこととした。
以上、「作家 秦恒平」の、「少年以降」ほぼ「著作生涯」をのみ「略述」しておいた。ウソは書いていない。
2024 8/10
* たまたま、初めて、しかも最終回、大石静の作、テレビ連續ドラマ『オードリー』を観て、感じ入った。図抜けた歓声と構想力とに拍手を惜しまなかった。長嶋一茂君渾身の気張りようにも、拍手。
大石静は、我々夫婦の殊に愛している『光る君へ』の作者でもあり、私のペンクラブ理事の昔から、会員同士として知っていた。『湖の本』も送っていた。
すぐれた作者と、すぐれた「作品」を介して、出逢うのは、嬉しい幸せである。
2024 9/22
* 私には、これまでに大判函入り33巻、美装の『秦恒平選集』があり、さらに『秦 恒平・湖(うみ)の本』全166巻が在り、各社で出版販売の「単行書・新書・文庫本等々」が、100冊余在る。これほどの著作本を数多く遺してきた近代日本の純文学・文藝・批評・評論・エッセイの「作者・作家」は、たぶん皆無かと想われる。そして、いまなお新しい創作や執筆 さらに莫大量の『秦恒平・私語の刻』を、あくまでも「文学」「文藝」を自覚して、コンピュータに、日々、眞実・眞剣に生真面目に遺し続けている。私の「生きる」である。
あれは高校生より少し前ででも在ったか、黒澤明監督初期の名作映画『生きる』に胸のわれるほど感動したおもいでがあり、「生きる」一語は以来特別な意味で私に宿り続けてきた。
2024 9/30