* 第11回京都美術文化賞の授賞式と財団理事会・懇親会に、五月二六日、京都へ。
授賞式は都ホテルで。洋画の芝田耕、陶芸の山田光、染織の渋谷和子各氏を選んだ。梅原猛氏が選者を代表して祝辞、例年どおり。
この賞も十一年、とくべつ悪口も聞かず順調に続いた一番の理由は、情実を極力排してきたから。
こういっては悪いが美術の世界のこの手の賞では、情実に走ったあまり感心できない噂を、聞かぬ方が少ない。その点、たとえば清水九兵衛氏が「彫刻」の畑でノミネートされてきた彫刻家を是非されて、すこしも私的に偏った印象の発言がない。安心し信頼して聴けることを言われる。他の選者も同じで、むろん意見の違うことはあっても、後味のわるい思いをしたことは一度もなかった。
後味という点でいえば、スポンサーの財団母体を通して、なにかしら「雑音」が入ってこなくはないのが、気になる。よく抑制してくれている方だとは思っているが、せっかくの選考純度を落とさないように、母体も誇りをもってくれるといいと思う。真実藝術作品の作れる作家を選んでいるのであり、絵で言えば、甘ったるい説明的な売り絵の受けのよさを授賞対象などにあやまって一度してしまえば、もう、落とした品格は元へ戻せなくなる。
選者が自ら受賞するようなことも絶対に避けるべきで、二度三度それに類する希望をスポンサーが口にされたのは情けなかった。熟れた実を、そんなところから腐らせては「元も子もなくなる」と、母体は金融機関である、「最良の喩え」と思って分かってほしい。こういう堅いことを、だが当然な事を、ハッキリ言うのが、わたしの役どころ。いやがられているかもな。
* 石本正氏も選者、この希有の日本画家と逢って歓談できるのも、会合に出向く嬉しい余禄。今回は、キワどくてここにあからさまに言えないけれど、興味津々のエロチックな藝術談が聴けた。あまつさえ、その「桜貝」のような「牡丹」のような作品を、一つずつ、梅原猛と私とに呉れるというのだから楽しみだ。なんともいえぬ至妙の藝術家で、世俗にまみれて汚れない毅くて柔らかい魂と、とほうもないエロスの魅惑を失わない。
* 今日は国立近代美術館で「浅井忠展」 これがすばらしかった。数ある日本の洋画家のなかで、とりわけて浅井をわたしは小説に書いている、書いて良かったと嬉しくなった。
訪欧期とそれ以前の油絵、京都での図案と水彩。画家の息づかいが生きていた。生彩とはいい言葉だと思った、浅井の魅力・描写力はそれに尽きた。毅然とした男を感じる。京都へ来て最良の収穫だった。
神宮道の顔なじみ星野画廊でも、浅井忠展をみてきた。京都どころではない、日本中でも屈指の個性的で力のある画廊だ、夫妻で頑張っている。文化賞ものの仕事を続けている。梅原龍三郎のいいスケッチがあり、欲しかったが売ってくれなかった。
1998 5・27 2
* 今は昔、本郷台に勤めていて、東大の安田講堂攻防の日に出会った。催涙ガスがまかれ、本郷通りは祇園祭の宵宮なみに人で埋まり興奮した。
わたしも興奮したが、思い切って本郷を離れ、駿河台の西のビルの高いところにある、小さな美術館に行った。そこで、明の美しい赤絵の鉢に出逢った。その静かさは、優に本郷台の歴史的な大興奮を相対化し、ついに消し去ってしまう威力をもっていた。
こういう判断には異論がいくらも出せる。わたしも特に強調はしないが、至福の時がたしかに存在した。そういう至福への回避を現実からの遁走逃避だという説も在ろう。遁走するしないではない、そういう時と品とに出逢ったという真実、そういう真実を、もっともっといろいろ蓄えたい貪欲もわたしは抱いている。
1998 10・15 2
* 火曜には、浜大津まで電車で行き、妻は船で行きたいというのを時間の都合で湖西からタクシーで走り、堅田の琵琶湖大橋を東に越えて、佐川美術館に佐藤忠良の彫刻をみにいった。
いや驚いた、すばらしい美術館で、ちょっと類がない。設計者というほどの人のいない、竹中工務店と美術館関係者の談合で出来ていった建物というが、実にいい空間を生み出していて、それ自体が鑑賞に堪えて静謐清寂、たっぷりと水を用いたのもよく、それに佐藤の清純で的確な把握の彫刻が、よく似合っていた。平山郁夫のスケッチやタブローもあったが、これは例によって絵葉書なみで感心しなかった。佐藤と高山辰雄とでも揃っていたらなあ、日本一だがなどと思った。佐藤の「帽子の像」は有名で、売店で妻に帽子をみつけた。着ていた服にうまく合ってよかった。
湖東の湖岸の道をタクシーで走り、石山寺に寄った。紅葉には早かったけれど、石段を上がっての多宝塔の美しかったことは。久しぶりの石山で、また、久しい再会をはたした嬉しさに感激した。本堂の風情も落ち着いて安らぎ、二人してついた鐘の音色も温かであった。
* 今朝は小雨の洛北を精華大学まで走って、棟方志功の肉筆画展をゆっくりと楽しんできた。鞍馬行きの電車は私の最も愛する乗り物の一つで、岩倉辺の風光は雨でも晴れでも雪でも、朝でも夕方でも、しんから安らぐことができる。
棟方志功の書いていた蓮如のことばに、幾重にも念仏で身をまとおうとも信がなければ成仏することは出来ぬという意味のことが書かれていて、親鸞と蓮如の微妙な落差を感じてきた。雨の洛北でまた一つ問題を負うてきた。
1998 10・21 2
* かろうじて最終日のジョルジュ・ブラック展に間に合った。間に合ってよかった。ピカソのような攻撃性の批評家でも思想家でもないブラックは、徹
してアーチストでありプロフェショナルであり、生涯のあらゆる時点で極めて積極的な「絵画」そのものを的確に見せてくれる。プロの実力が見る目をひ
きつけて放さない。どのような工夫にもオリジナルを駆けぬいた人の豊かな新しさで、唸らせる。安井曾太郎が好きだが、もうすぐそこに安井を思わせ
るような籠に入った果実の絵などみると、驚嘆の念に親しみが添う。日曜の渋谷はぞっとしない煩雑乱雑の巷だが、文化村の美術館は概して企画負
けしない佳い展示で楽しませてくれる。
1998 10・25 2
* 忙しさも忙しさだが、原稿の締切もあれば、例えば美術展の期限も来る。今日はそういう催しの多い日だったが、根津美術館の尾形光琳「燕子花図屏風」は、例年観ていてもなお一年一度の機会をのがしたくなかった。今日が展示の期限だった。えいと腹を決めて妻と飛びだした。
行った甲斐はあった。今年はひとしお力強く、美しく、揺るぎなく生き生きと燕子花の紫と緑とが、金地のうえで光り輝いていた。立ち去りがたく、二人とも熱心に見入った。伊勢物語に取材した物語絵が、光琳だけでなく酒井抱一のもみな温和にまた大胆に、構図の妙と優美な境地をみせていたが、やはりそれらとは次元を異にした光琳孤心に燃え立つ芸術的陽気が、かきつばたの屏風には決然と表現されていた。
箱根にある「紅白梅図屏風」とこの「燕子花図屏風」の二点だけしか光琳に作品が無くても、彼は超弩級の天才を誇るに足りる。京都養源院の「松図襖絵」も加えたい。この三点を胸に納めてイメージするつど、私はこの日本の国を祝福し、心から愛したくなる。
常設展の方で珠光所持と伝える南宋の磁器茶碗銘「遅桜」にも感銘を覚えた。つくろいもあり罅も入り茶渋にもおそらく汚れているのであろう、一見こぎたない夏茶碗ふうの浅いこぶりの茶碗であるが、まぎれもない唐物であり秘蔵自愛の当時逸品であったろう。こういうひねた唐物から和ものの侘びた茶碗へ趣味が動いていった、それが実感できて嬉しかった。
1999 5・9 3
* 表参道の画廊で橋本博英氏、青木敏郎氏らのグループ展、オープニングレセプションに行った。展覧会は予想通りのものだつた。美術評論家の瀧悌三が挨拶したが、いい加減なものであった。乾杯に、もと朝日記者の米倉守氏が出てきておやおやと思った。久闊を叙した。細川弘司が来ていなくてがっかりしたが、上杉氏、四ヶ浦氏らに会った。出掛けていった目当ての青木敏郎とも話せた。安定した力の人たちの展示ではあったが、穏やかに分を守って出ずという雰囲気だつた。その気になれば、どれも楽しめる繪であった。橋本さんの風景がやはり落ち着いていてよかった。青木氏のものも期待通りだった。他は、ま、どうでもよかつた。
1999 6・21 3
* 暑さに、出不精がひどくなる。千葉の甲斐荘楠音展にと思うが、はるばる観に行って心涼しくなる繪ではない。池袋に「小野竹喬展」の来ているのを観に行きたい。竹喬なら涼しい風が吹いている。
1999 7。28 3
* 竹喬さんの懐かしい繪をたっぷり観た。国画創作協会の創立メンバーのなかで、唯一人だけ長命されて、わたしの小説『墨牡丹』を読み、佳いお手紙を下さった方である。
竹喬芸術について論考したこともある。初期から晩年まで、じつに澄み切った境涯を至純に維持しながら、大胆に画風を展開して滞ることが無かった。俗気のみじんも画境を汚すことのない、しかも温かい画風。清寂のなかにはんなりとした静かな諦念をにじませた繪を描き続けられた。夕映え、夕雲など夕暮れ時のはなやかな残照を、寂しい木立や梢やさざ波の美しさとともに、みごとに構成された。
見終えて、いつものことであるが、「気持ちの佳い、ほんとに気持ちの佳い展覧会だね」と喜び合えた。胸の内が清められた。空いてもいた、閉館時間が近づいていたのだ。そういう時間帯がむしろ繪を観るにはいい。たまたま通りかかって、あ、竹喬さんだ、観て行こうと入ったのが正解だった。あとの食事がひとしおうまかった。
* 画家を「論じて」みることが、無いではない。わたしの、此の夏の松園論もそうだし、けっこう大勢の画家を論じてきた方だと思うけれど、結局は作品である「繪」を観なければ始まらない。繪を観るうえで繪がますます興味深く観られるような画家の論じ方でなければ、たいした役には立たない。
文学の場合も、わたしは作品論が好きで、作家についてどう議論をひねりまわしても、論者の意気込みや気張りようはうかがえても、そんなのは作品を面白く読むのにあまり役に立たない。
作品は魅力的に迫ってくるが、作品ならぬ作家をとやかく言い続けた文章など、そうは多くは教わらない。味気もない。作家についての終始人間論だけでは退屈してしまうだけでなく、つい、それがどうしたと言いたくなる。
1999 8・3 4
* ある親しい人、画家、から、べつの尊敬する先輩画家に関して話され、その談話を活字にしたものを、戴いた。ぜんぶは読んでいないが、マチスの言葉として「画家は、まず舌を切れ」と挙げてあるのだけ、目に留まった。
もう何十年も以前から、マチスほどの体験に裏打ちされていたわけではないにせよ、同じことを感じてきた。あまりに凡俗な例ではあるが、読むに堪えない観念的な美辞麗句で「個展」の趣意をみずから作文した案内を、それはそれはたくさん受け取ってきた。また、とてつもなく凝って文学的な、いや観念的な、いやまた説明的な「題」の繪にも、いやほど出会ってきた。あれは恥ずかしい、読むだけでも気恥ずかしく、繪と突きあわせて、見れば、見るほど恥ずかしい。
そんなのでなくても、あたかも、繪を描くよりも理論や理屈や蘊蓄を傾けている方がよほど楽しいらしい、そのわりに繪の出来ない人もいるようだ。わたしの、このホームページに書き込んでいる長編小説『寂しくても』の画家の不幸も、そこにある。描いていさえすれば無条件に画家でございといくわけではないが、理屈のために描けないのでは本末は転倒してしまう。この描かない画家は、このさき、かなり厳しい批判を作中で受けねばならないだろう。
1999 9・4 4
* タクシーで横浜美術館前まで戻った。時間が余っていたので、ごく近くの高いタワービルの下の方で、セルフサービスのコーヒーとジュースを飲んだ。横浜には、てんと馴染みが無く、昔、フェリス女学院に講演に行ったあと、中華街で接待されたこと、横浜埠頭から船でナホトカ経由、ソ連作家同盟の招待旅行に出かけたとき、大学生だった娘に埠頭で見送ってもらったこと、新横浜駅の近くのビルで二度講演したこと、ぐらいしか記憶がない。街を歩いたことは何れの機会にもなかった。
だが、小学校六年生の夏休み前に、上海だか天津だかから敗戦帰国し転入していた同じ学年の少女が、好きだったその少女が、急遽京都から横浜へ引っ越していくという、初めての「別れ」体験をして以来、「ヨコハマ」はある種のトラウマになっていた。好んでは近寄ろうとしない都市になっていた、そんな気がする。今日は、あっさりとそのタブーを破った。セザンヌの魅力のなせるワザであったろう、これは仕方がない。
* さ、そのセザンヌ展。ウーン、よかった。一つ一つの繪の前で動きたくなかった。風景、人物、静物、そして名だたる水浴もの、さらに多くのデッサン。ここで今すぐセザンヌ論は出来ないが、風景の「大きな樹」「松」「マンシー川」をはじめサン・ヴィクトワール山のある風景や家屋のある風景など、すばらしいコンポジションと造形の美に息詰まる嬉しさを味わい続けた。人物では「カード遊びをする人たち」や「アルルカン」のような馴染みの名作・佳作もさりながら、妻も驚嘆したセザンヌの親友の某氏を描いた肖像の、豊かな把握と表現の面白さには舌を巻いて佇立し、何度も何度も繪の前に立ち戻って感嘆した。静物になるとまた魅力は横溢し、持って帰りたいような「青い皿」の果物、「リンゴとオレンジ」の幸福感を沸き立たせてやまない、これぞ静物画の頂点としか思われない傑作の数々に、ただもう胸を喜びに満たされ、敬服した。ウーン、ウーンと唸ってばかりいた。
それ以上の難しいことは言わない。昔、どこかの社の西洋美術全集に作家たちが思い思いのエッセイを分担したとき、わたしに預けられた画家はセザンヌだった、嬉しかった。喜々として原稿を書いた。
その原稿で「白樺」の人たちのセザンヌ受容にもふれたが、今ちょうど『志賀直哉全集』の第十巻を読み進めているときに「セザンヌ展」のこれほど纏まった佳い展覧会に横浜まで行くことが出来、会場で、「白樺」誌上に掲載されている何点も何点ものセザンヌ画の写真図版も観る事ができ、満足した。
1999 9・10 4
* すこし早起きし、妻と、名古屋へ行った。京都の美術文化賞で一緒に選者をしている小倉忠夫さんが新館長で、新建設されオープンした名古屋ボストン美術館の印象派展が観たかった。金山の総合駅で降りた直ぐ目の前にすばらしい美術館が出来ていた。小倉さんには逢わず、名刺だけを受付に預けて置いて、すぐに展示場に入った。
入って直ぐの、コローの風景、ルソーの風景に、もう釘付けにされてしまった。呼吸するのを忘れてしまったような按配で、妻も私も、大勢の客のあるのも意識から白濁後退させてしまって、ただもう、深呼吸を精一杯取り戻すようにしながら一作一作に魅せられ観入って、時を忘れていた。
こまごまと書いていられないので、言い切ってしまえば、この入って早々のコローらの風景と、もう出口に近い真っ赤な壁面に一点架けられたゴッホの風景とが、頂点だった。だが他は尋常かといえばとんでもなくて、どの一点を持って出てもなみの展覧会なら優に「目玉」になるほどの作品が目白押しに並んでいて、呼吸困難を感じ続けるほど、どの繪のまえででも時間を喪い、じいっと観入った。モネとルノワール、ピサロとシスレー、セザンヌとゴーギャン。その他にもミレーやボナールや忘れられない佳い画家の佳い作品が、特徴的に大作ぬきに、とても見やすい大きさの物ばかり、巧みに並べられていた。量ももう十分という程良さで、極めて高品質、良好な展覧会であった。
一度最後まで観て、いつもの通り逆に戻りながら観て行き、さらに最初のコローから見直していったが、ゴッホまで来て見終わると、妻は、もう胸がキュウッとつまって息が出来ないからと言い、再入場出来ないのも承知で外へ出た。心臓の調子が狂ったかと心配したが、そうではなくて、あまりに繪がよくて、胸がつまってしまった、もう危ないと思ったと言う、分かる気がした。
ゴッホが、ほんとうに素晴らしい異能の画家で、天才的に不安な作品で感動させるということを、わたしたちは、初めてほんものの作品で、作品二点で、心から確認できた。ああいう繪の魅力迫力は、写真版では絶対に掴み取れない。
こんな佳いものに出逢ってしまって、どうしよう、といった気分だった。日本にゴッホを本当にもたらしたのは武者小路実篤だが、あらためて眼識に敬意を捧げた。
* 体力がまだあると言い、その妻の望みで、併設のエジプトとエーゲ海の美術展も観たが、これがこれで本展の印象派展に勝るとも劣らない陳列だった。大いに楽しんだ。紀元前の数千年もの昔の容器や用具などの精緻な造り、斬新な造形やデザインなど、今に初めての感銘ではないけれど、観れば観たで、深く魂を揺すられる。ギリシャの赤像式、黒像式の土器の、朱といい黒といいまた繊細で毅い線の人物や神話の繪のみごとさなど、しかもそれらの装飾性をはるかに上回る器体造形の完璧な美しい仕上がりなど、堪らんなあと、恥ずかしながら思わず本当に涎を垂れてしまった。
目元を彩り飾るという緑の染料をすりおろすための、ま、硯なみの玉か石か、それが魚や亀などの形をしていて、それが現代の似顔絵道場の秀作者たちもマッサオなほどの秀逸なデザインなのだ、見飽かなかった。
1999 9・14 4
* 山種美術館が贈ってくれているカレンダーの今月の繪は、小林古径の「菓子」で、林檎五つと青みの洋梨二つ、すばらしく清潔で、佳い香りのする静かな画面である。背景も下地もまったくない、ただ果物が無造作に。それでいてコンポジションの確かなこと、無垢に熟れて初々しい林檎の肌といい洋梨の生彩といい、そして背後の深い無の世界といい、目を吸い寄せてやまない。写真でこれだもの、実の繪をいますぐにも山種へ行って観せて見せて欲しいと思ってしまう。むさくるしいいろんな思いに煩わされていても、この「菓子」に見入れば、すうっと「清まはる」から、嬉しい。
藝術というものは、どんなに荒々しい、どんなに烈しい、どんなに暗く重い苦痛を仮に描いていても、それが真に藝術であるならば、観た後に、読んだ後に、この「菓子」の繪を観た後と同じ清くて深くて静かな感動をのこす。魅惑をのこす。のこさないものは、藝術としていまだしと謂うしかない。果物こそ「菓子」の文字にふさわしい。草冠が生きていた時代の表記である。利休の頃の茶会記にも「菓子」として果物がよく出てくる。
1999 9・26 4
* 松園展のレセプションに、松篁さんの姿がなく寂しかった。少し遅れて、ちょうど京都近代美術館の内山氏が乾杯の挨拶をするところへ行った。レセプション自体には興味が無く、十分間もメトロポリタンホテルでの会場にいないで、上村淳之氏にお祝いを言うただけで、すぐ目の前の東武美術館に戻った。五時頃までゆっくり展示を見た。「娘深雪」が来ていないのに落胆したが、「天保歌妓」は展示されていて満たされた。「母子」「青眉」などが欲しかったが、ま、よしとする。「人生の花」「はなざかり」など初期作品が比較的集められていた。
ま、松園の昭和十年までの繪にはことにパタンができていて、停滞期は永かったが、そんななかにも、ぽつんぽつんとめざましい仕事がある。全期をつうじて「草紙洗小町」「砧」のような能に取材の佳い繪も出ていた。売り繪かなという、ちんまり固まった仕事もあるけれど、とにかく品位が高いので観ていて気持ちが佳い。
* 展示室で西山松之助さんに逢った。来年は八十八のお祝いに三越で八十八本の茶杓展をなさるという。佳い茶杓を自削なさる。一本頂戴している。西山さんと鼎談したもうお一人の下村寅太郎先生はとうに亡くなられた。なつかしい。元の山種美術館の草薙奈津子さんや日中文化交流協会の木村美智子さんとも顔があった。「秦恒平・(うみ)湖の本」をひところ十二冊ずつ毎度買って下さっていた読者の梅田万沙子さんとも、ぱったり出会った。
1999 10・28 4
* 穏やかな秋日和に誘われて、池袋の東武美術館でまた松園展を、妻と観た。「天保歌妓」はめったに出ないし、妻は観たことがないので、観せたかった。何度観ても清爽の感にうたれる。屏風絵の「娘」の左隻の座像も優しくて。「砧」「草紙洗小町」また「晴日」「鴛鴦髷」それから、鼓を打っている座像など、とにかくも気持ちの佳い画境であり、ひさしいご縁にもひかれて堪能した。
「甍」で、ワインをデカンタでとり、日本料理を昼食に。とびきり旨いということもないが、馴染んでいる店で、行儀もいいので落ち着く。
妻は疲れ気味であったけれど、食事が入って元気が出たか、上野まで付き合うというので、大寄せの日展はとりやめ、西洋美術館の「オルセー美術館展」へ入った。幸い国立系の主な美術館へはパスを頂戴しており、有り難く利用させて貰う。ただこの展覧会は、やや雑然としていて、身にしみて訴えてくる作品が少なかった。画題によって分類してあるのだが、やや時代を異にして同じ画題の異なる画風のものを観て行くと、どうもちぐはぐでうちこめない。時代の「画風」というか「繪ごころ」の差異を飛び越え、ただ「画題」で纏めては、混雑感が否めない。幾ら仏画だと言っても平安仏画と鎌倉時代の仏画ですら、いっときに接するとぎくしゃくするものだ。「時代の流れ」というのは意外に強烈な枠組み支配の力を持っている。同じ群像でも、時代が違えば描き方が違い、一緒くたに観せられると落ち着かない。佳いなと思ったのはゴッホの「星降る夜、アルル」など、ま、十数点か。セザンヌもルノワールもモンドリアンもロートレックも、珍しい作品が目に付いて、それは良かった。
* もう限界かなと妻を心配したが、国立博物館の敷地内に、平成の即位記念の新館が出来たそうで、それを覗いて行きましょうと妻が言い、そんなことは頭になかったので半信半疑で、公園の噴水などを眺めながらゆっくり博物館まで歩いてみた。本館の左奥に、なるほど新築の建物が見え、名も「平成館」だというので、ここもパスを利用して入ってみた。「金と銀」展だという中身はさすがに豪華な特級の日本古美術展で、一点一点のすばらしさに目をみはった。佳い選択で、おおかた観たことのある名品逸品ばかりだが、何度観ても堪らない魅力に、妻も疲労に堪え、よく観て歩いた。三十三間堂から千手観音像が数体来ていて、いきなり音楽のように鳴り響いて目に入った、気分は高く舞いあがった。興奮した。どれがこれがと一々挙げていられない。そんな中でも浄瑠璃寺の「広目天像」、光琳の「風神雷神図」と表裏の、抱一画「夏秋草図屏風」、禅林寺の「山越阿弥陀図」、「金剛界曼陀羅」、光悦の「八橋蒔絵硯箱」、「平家納経」等々、すべてすべて、うっとりとさせられた。もっともっともっと挙げなければならないが、足もはやめねばならなかった。
池袋のデパートで晩の食べものを買って帰り、カンビールを二本あけた。西武池袋線ではふたりとも少し寝た。佳い半日であった。
1999 11・19 4
* 豊田美術館で仕事をしている女性読者から、館で開催している「村上華岳展」の充実した図録を親切に贈ってもらった。代表作の殆どを含む素晴らしい展覧会である。図録を見ているだけでも感じるものが、華岳の場合真作に触れると百倍するほどの、深さであり高さである。よく知っている。六十四年の人生で華岳と出逢ったことは谷崎や鏡花と出逢ったのに相当する、わたしの実感では。
あと二日の会期、妻はぜひ豊田まで行ってらっしゃいと言ってくれる。原稿書きが迫っているので断念の他無い、が、読者の好意には心から感謝。
1999 12・3 3
* きみのメールに、「空間」という言葉が十二回書かれています、が、「時間」はゼロ。これは顕著な事実ですが、感想は。理由は。
文学は絵画よりも、より本質的に音楽にちかい。これは分かるでしょう。しかし絵画性がゼロのものでもない。日本文学は象形文字を中心に幾つもの文字を併用しますし、文字面でだけでなく、「想像力」に意味を持って働きかけるのですから、「像」とは無縁であるわけがない。むろんその「像」は絵画的であり、しかし言葉による以上、音楽的経過と効果とが必然問われます。
ところで、ギターの演奏家でもあったきみは、音楽が時間的な表現だと分かりながら、音楽の空間性を知らないわけはないでしょう。
建築は空間の構築に相違ないけれど、時間の要素を無視できる建築空間など、存在すら出来ない。君の言うようにその空間は、意味や意義をもちながら機能して行くけれど、その意味や意義は、これは玄関でこれはキッチンでといっただけの意味や意義でなく、人間が、そこで、動き回り、見て回り、触れて回り、使って回ることと、不可分に結びついた空間的意味や意義でしょう。それを、時間的な意味や意義であると言い替えても成り立つのは、当然のことです。
優れた建築物を、わたしでも、幾つも見知っていて、その空間に身を置いて感じられる魅力とは時間的な魅力であったと強弁することも、決して不可能ではない。佳い建築空間には、音楽のはらんだ空間性の魅力と甚だ近い快適感があるものです、釈迦に説法なれども。
こんな分かり切ったことを蒸し返しながら、君の「時間」欠如を指摘しなければならんとは、「天才」君に対し、いっそ失礼な気がするなあ。
ひどいことを言ってのければ、要するに弛んでおるか、現状に「かないタガッテ安住しておる」のかもしれんぞウ。「かなふは佳し、かなひたがるは悪しし。」
建築や部屋を表現している「間」は、まさか六畳間とか茶の間とかいう空間的な間であるだけでなく、間がいい、間をつなぐ、間がのびる、間がわるい等の時間的な間でもある筈。この間が、建築のダイナミズムも生み、エレガンシイも生み、同時に、書の美も、仏像の美も、また物語言語や和歌言語の美も生んできました。一方的な偏りに身を任せすぎると、一切を傾けて失いかねなくなると、心配もし考慮もされたい。
はい。これが咄嗟の秦サンの反応です。取捨されよ。
2000 1・4 5
* ホテルを出て、三條高倉の文化博物館へゆっくり歩いた。イノダ本店でコーヒーをと思っていたが、改築中だった。中京の町中を歩くのもわたしには懐かしい。
第十二回京都美術文化賞の受賞者作品展で、選者の一人としてこれを会期中に観るのは仕事のうちである。このために、わざわざ来たのであるが、展覧会は、いまいち落ち着かないものだった。選者としてこれは恥じ入ることであるが、心配していたとおり日本画が良くなかった。「きたない」という批評は、昔、土田麦僊が甲斐荘楠音の繪に投げつけた問題の批評語であるが、そして甲斐荘絵画はそう言われてもなお跳ね返す力強い画境を守っていたが、今日の会場の日本画受賞者の作品は、わたしには力無くただ「きたない」だけで、何の感銘も受けなかった。選考会で強く推された石本画伯にわたしも最後には従ったけれど、だからこんなことは言っては成らないことかも知れないが、不安が的中した。異様にいやな繪であった。
林康夫氏のダマシ繪風の彫塑も、感動的なものではなかった。図録の写真でみている方が面白い。
服部峻昇氏の蒔絵も、派手に豪奢な金銀や螺鈿象嵌がほとんどで、元気いっぱいだが、会場は澄んで静かとはいかず、ぎらぎらしていた。ま、大変な力業ではあるが、どの一点も「欲しい」ほどのものではなかった。ま、しかし来会の市民には服部氏の作品が、一番の見ものであろう、か。
審査員の石本正さんの日本画「馬」のね本絵と下絵とが対比して並べられたのは面白かった。つよい繪ではなかった。清水九兵衛さんの彫刻、三浦景生さんの染色作品も、普通作だった。
十二年も続けてくると、すこしはゆるみも出るのかな、心しなければなと思った。
* 高島屋で、財団理事の三尾公三氏が二人の女弟子に囲まれた恰好で「三人展」を開いていて、最終日に間に合った。
こっちの方がずっと佳い展覧会で、三尾さんの定評ある幻影画の面白さと確かさとはもとより、二人の女性もそれぞれに力作を出していた。感動させるとまでは行かなかったが。
一人の人のも、どうやら人に死なれた陰を引きずっての作画らしい、蓮や水の大作は、なかなか力に満ちていた。けれども、一方で、構図は写真に得ていることの明白に見て取れる作品なのが、気になった。仕上がりが良ければいいではないかとも言える。しかし写真機に構図する役を引き受けさせてでは、画家の「何か」が放棄されては居ないか、大いに気になる。気になるなあと思いつつ、折悪しくその画家だけが不在だった。三尾さんともう一人の画家には挨拶して会場を離れ、予定より一時間早い「のぞみ」で十二時十分には京都を離れた。
車中で、十分に原稿が読めた。液晶画面では少し掴みづらい細部まで読みとれて、概ね思い通りに進みつつあるらしいと感じた。もっとも全体の三分の一も読んでいないのだから前途は遼遠。
2000 1・25 5
* 幸い雨にならずに、三四分咲きの上野の夜櫻をまぢかに見上げてきた。すこし冷え込んでいたが、もう大勢のグループが思い思いに花の下に席を占め、賑やかなのも静かなのも、とりどりに浮かれていた。
* 東京藝大の美術館で、所蔵の名品を中心に「日本画の100年」レセプションがあった。妻と出かけた。
会場の入り口で、主催者側の竹内順一教授に声を掛けられた。以前は五島美術館におられ、豪快で緻密な企画展をつぎつぎに成功させながら、図録など纏めの仕事で成果をあげられ藝大教授に転じた人、「湖の本」の有り難い読者の一人でもある。もっと以前に、NHKテレビで、千利休と山崎の待庵などの茶室、また朝鮮半島とのかかわりで、少しセンセーショナルな討論会の司会をしたことがあるが、竹内さんはその際のパネラーの一人であった。学芸員という仕事を、当然であるのだが、最も学問にちかづけて行った人である。
* 三室に展示された絵画は、全体として観疲れるほどの多数ではないが、さすがに精選されていた。たいては一度ならず観ているけれど、それで印象の古びてしまうことはない。櫻谷「しぐれ」観山「大原御幸」春草「四季山水」紫紅「熱國之朝」芳文「小雨ふる吉野」玉堂「行く春」大観「作右衛門の家」麦僊「湯女」華岳「日高河清姫図」百穂「荒磯」五雲「日照雨」蓬春「市場」松園「序の舞」遊亀「浴女」清方「一葉」靫彦「黄瀬川陣」魁夷「残照」竹喬「雨の海」平八郎「雨」神泉「富士山」又造「春秋波濤」関出「窓」千住博「回帰の街」などが印象深く、松園、清方、華岳、麦僊、蓬春、遊亀、神泉らの作がとりわけ優れて面白く見えた。レセプションには気がなく、ゆっくり、何度も繪の前に戻って堪能した。新しい時代の日本画が概して薄く淋しく、そして美しさに欠けていた。現代の大家達はひとしなみに繪に力を感じなかった。
2000 4・3 5
* わたしと妻とは、今日は日本橋高島屋に、青木敏郎を中心にした六人の「想の会」を観にでかけた。最も今注目している個性であり、超絶技巧のしたたかな描写力を確かめ、また楽しみに行った。期待は叶えられ、青木はわずか数点ながら静物も風景も力作を並べ、最新作の静物は、私も妻もあわや買おうかと決心しかけたほど魅力的な仕上がりだった。辛うじて踏みとどまったのは、三百六十万円だったからではない。わたしは、ひょっとして倍近い価格をすら考えていたぐらいだから。
ただ、妻も言い、わたしも拘ったのは、繪の中心になる花の描かれように今ひとつの固さが感じられたことと、もっと本質的には、この絵には案外飽きが来るかも知れないと怖れたからだ。完璧に近い描写だが、繪に置ける完璧とは何ほどのもので在りうるか。展覧会の鑑賞者としては十二分に満足しながら、所有するには深い部分で躊躇われる何か、そう、ハートに響くものと言おうか、ファシネーションと言おうか、真実したたり落ちる嬉しいうまみ、心を洗いつづけて尽きないうまみ、が無かった。青木敏郎という天才的な画家のそこが問題になっている、私の中で。私の小説の中でも。
* 画廊の主任が、同じ店内での足立美術館名品展の入場券を二枚呉れたので、八階に上がった。山陰の名高い美術館で、横山大観をたくさんもっているが、大観だけでなく凄いばかりに近代の優れた画家の名作傑作を取りそろえている。妻もわたしも思いがけない余録に大喜びした。橋本関雪の「唐犬図屏風」一双の芸術的に丈高い品位に敬礼した。竹内栖鳳「宿鴨宿烏図」の、吸い込まれそうな破墨と省筆の美しい水辺心象。榊原紫峰が國画創作協会発足の年に描いた、「青梅図」一双の、高雅で新鮮な把握と表現。村上華岳の「樹下禅那」如来の深々と温かい精神性。土田麦僊「黄蜀葵」の清冽な色彩。上村松園の悠々の気品と優美さ溢れる「待月」、そして山元春挙の思い切った大作もあった。ことに栖鳳と関雪との上の二作には、夫婦して息をのまれ感嘆した。ちょっと繪の前から動けなかった。関東の画会・画系の作品に、いまひとつ「ほんもの」の深みが乏しかったと言ったら叱られるかな。
2000 4・29 5
食事しながら、いま観てきた油絵と日本画とを話題に二人でたくさん話しあい、やはり青木の繪に最期まで誘惑されずに済ませたのは正解だったと結論した。真に佳い繪には、技術の完璧の上に、言うに言われぬ瞬間風速のすばらしい突出が感じられる。それは、優しくもあり温かくもあり深くもあり豊かでもあるが、一言で言えば、行き止まりのない佳い匂いのようなファシネーションだ。ハートだ。青木敏郎の繪にそれが出てくるか、楽しみにしたい。
2000 4・29 5
* スキャナを使って、書き込み中の『慈子』(創作欄10)と『清経入水』(短編選1)の冒頭部に、マチスのすばらしいデッサンを入れてみた。大きく出してみて、みごとである。マチスほど線を生かして神業のような画家は少ない。色彩画は量を食うので避けたいが、佳いデッサンがあれば入れてみようと思う。日本ペンクラブのホームページ表紙とペン憲章との背景は、わたしが選んでレイアウトしたものだが、あの関戸本古今和歌集のひらがなも大好きだ。
2000 5・2 6
* 口縁の外むきに開花したように反った碗型を、「ハタの反りたる」と古いものに形容してある。会記などで見かける。そういう塗碗が手に入った、と。姿がよくてわたしも好きである。いまも湯飲みと酒の用とに、掌におさまるほどの白磁を用いているが、「ハタの反りたる」もので、気に入っている。『秘色(ひそく)』という小説で、青磁の盃をめぐって天智・天武の争うことを書いたが、あれも「ハタの反りたる」優美な盞であった。
2000 5・5 6
* 目の前に、スペインを旅している人の送ってきた、「星」という名の山村修道院の回廊の写真がある。陰翳ゆたかに、心が静まる。
2000 5・22 6
* 『能の平家物語』共著の写真家でもある保谷在住の堀上謙氏が、息子さん夫妻のプレゼントのパソコンで、初のメールを返してきた。昨日、電話がきてそんなことも聞いていたので、わたしから先ずメールを送った。
* メールありがとう。
昨日から箱根に一泊の旅に出ていまして、ただ今帰ってまいりました。早速メールを開きまして拝見いたしました。ご配慮多謝。
10年ぶりに彫刻の森の美術館にいってきました。展示品が大分増えていまして、見ごたえがありました。
ルーマニアの彫刻家C.ブランクーシーの、「単純さが芸術の目的ではないにしても、ものの本質に迫っていけば、われ知らず単純さに行き着いてしまうのだ」という、創作メモが印象に残りました。
* 良珠不彫。好きなことばである。この頃は、殊に。
2000 6・27 6
* 国立西洋美術館で、「レンブラント、フェルメールら十七世紀オランダ絵画展」の内覧レセプションに招かれたので、妻と出席し、繪を観てきた。予想通り、展覧内容は珍しいものであるが大方は二流品が出揃っていて、しかも看板の二人の作は数も極めて少なく、ま、もひとつの催しだった。外国から来る展覧会でも、抜群に充実したのもあれば、看板に偽りの羊頭狗肉の類にも、屡々出逢う。「只今本国ではレンブラント・フェルメールらの作品を網羅して歴史的な大展覧会を開いています」と向こうから来賓が挨拶しているのだから、すこしヒドイ気がする。
聖パオロに扮したレンブラント自画像は、柔軟な画面に生彩があり、深みがあり、さすがレンブラントだった。オリエンタルに装った男の肖像も力作で、妻が感嘆していた。
だが抜群に面白かったのが、展示作の中で最も画面の小さい、ヴォイスの「陽気なバイオリン弾き」で、粗野な表情に的確に生命観が把握・発揮され、極く小品ながら他の凡百を圧する名作だった。妻と、「盗んで帰りたいほど」という評価も完全に一致した。わずか二十数センチ四方の小品だが、三百万円ぐらいなら直ぐ買いたいと思った。十九世紀までは人気の高かった画家だそうだが、二十世紀になってほとんど無名に近く沈下しているので、存外の安値がつくかも知れないが、それは冗談としても、そういう思いのする繪に出逢えると、興奮する。残念ながら、そんな繪は他になかった。学生たちにも言っていた、どれでもいい、一点と限定、一点だけはお帰りに好きな作品をお持ちになってようございますと言われると思い、観るといい、と。こういう言い方がいちばん早い。理屈や知識はあとから勝手についてくる。はなから、理屈で観てもいけないし、関連の知識のないのを卑屈に嘆いて観ることもない、と。
常設展示の方の、カルロ・ドルチ「悲しみのマリア」が、親指だけでない両手首を全部見せた新しい繪で、それも面白く興深く観てきた。
* 接待の席で、ワインを数杯、小さいサンドイッチやクッキーを十ばかり、注射抜きで御馳走になった。文壇人の姿は高橋睦郎を見かけただけだったが、美術方面の知人とはあたりまえだが大勢顔があった。倉敷の館長で京都の美術賞選者仲間の小倉忠夫さんも見えていて、妻も挨拶した。
2000 7・3 6
* 京都の菩提寺から、上野平成館での「平等院展」の招待券が送られていた。会期も迫ってきたので、見に行った。もっとも、平等院の宝物で何を見せるのだろう、古書籍や古文書で貴重なものの多いのは承知しているが、満員の客が首をつっこみ合って観るものではない。大和絵の古作はあるが、実物を運んでくるのは容易でなく、また素人が鑑賞するには傷みがはげしい。ご本尊の、定朝作阿弥陀如来像が来るというなら、これは、ミロのヴィーナスが来たのに匹敵するが、そんな冒険をあえてしなくても京都の宇治まで行けば簡単に観られるのだから、まずは鳳凰堂内の雲中供養仏が並んでいるのだろうと想った、その通りであった。客は押し掛けていた。つまり書籍や史料は観ておれなかったし、他にはさして足をとめる展示物はなかった。本尊の如来座像は大きな大きな写真パネルで展示されていた。企画の無理の露呈した、美術展としてもご開帳としても失敗の企画ではないか。
* 「平等院展」の低調を帳消しにすべく、「平成の贈り物」として、百数十家の寄贈美術品展が協賛していた。これは、雑多な展示品ではありながら、寄贈者の名前と作品とを見比べながら、妙に頷けたりするおまけもあり、面白かった。土田麦僊作「明粧」が出ていたのには感動した。安井曽太郎作「深江氏像」もよかった。なにも近代の作品ばかりではない、中國の古書画も多かった。日本の古美術も、繪や書だけでなく、鎧や装束や蒔絵や陶磁器も、アイヌの厚司も茶道具もあった。雑多なため図抜けて目を惹く印象的なものが目にとまりにくく、これはひどいというものも殆ど無かった。ずいぶん思案の上の寄贈品だと想ってみていると、心理やドラマも透けて見え、それもまた一興の、渋い好企画だった。
* せっかくまた上野に来たのだからと、レンブラント、フェルメールらの「十七世紀オランダ絵画展」を、もう一度ゆっくり観た。内覧会の日とはうってかわって空いていた。印象は、内覧の日と変わらない。これまた看板に偽りというにちかい低調な展覧会で、みな、その辺がよく知れているのか、客足は少なかった。レンブラントといえば、「ダナエ」一点で博物館を客で満たしたことがある。あれには興奮した。一級の力作名作大作を、一点だけでいいのだ、奮発して運んできてくれなくては物足りない。
2000 7・6 6
* 奥村土牛の「鳴門」が七、八月のカレンダーを飾っている。階下は加山又造と中島千波で、これは両方とも好きでない。加山は巧みな絵描きだが芸術的な感動は与えて貰ったことが少ない。図案であり、模様であり、それでも生動する気凛の清質あれば胸に迫るのだろうが、何も無い。画境がいやしい。同じことは千波にも言える。志低くほとんど先人の涎を嘗めている。平然と売り繪を描く。
さすがに土牛には、出来不出来あろうとも、境涯の純なるものがある。カレンダーながら、「鳴門」は佳い。ときどき仕事の手をとめて無心に眺めている。海が深い。
2000 7・7 6
* 高校の後輩から、一緒に繪を観に行きませんかと、メールで誘われた。同じ後輩が銀座四丁目で個展をひらく、そのレセプションにというお誘いだが、あいにく、その画家の繪を、わたしは平山郁夫亜流の綺麗ごととしか観られないので、断った。
ああ華岳のような、麦僊のような、紫峰のような、また曾太郎のような、国太郎のような画家は現れないのか。
2000 7・9 6
* 村居正之展を和光で観てきた。村居君に「どうでしょう」と聞かれたが、とても佳い返事は出来なかった。「だめですね」と返事した。いま日本中でいちばん高価に売れているのは平山郁夫だろうが、いま日本中の売れている画家でいちばんツマラナイのも平山郁夫。その平山の亜流のような絵葉書を描いていてどうなるのかと言った。指で押したら穴の空きそうなパルテノンの神殿の列柱や基盤など、いくらうわべ綺麗に描いてみても、その軽さは、皮膚だけあって骨肉も血潮もないハリボテではないかと言った。
* 草々会の展覧会も観てきたが、一流の日本画家たちが、揃いも揃って義理か厄介の繪を出して親睦会を演じていた。ほとんど、頭に来た。シェモアで食べて、すこし機嫌が直った。
* 夕べの新宿よりは銀座の方が落ち着いたが、それを目的に観に行ったそれが良くなくては、話にならない。
行き帰りの車中で『チャタレー夫人の恋人』に引き込まれ、森の小屋で、はじめて男爵夫人のコニーが森番のメラーズに抱かれる場面の優しさに触れえたのが、何よりであった。ここのところ、美術展は軒並み「文学」に負けている。
2000 7・13 6
* 聖路加病院へ、血糖値検査の不足してきた用具を保険で出してもらいに、出かけてきた。診察は今月は無い。
例の「聖路加弁当」とも思ったが、せっかく時間の余裕のある外出なので、有楽町へ戻り、帝劇下の「香味屋」で、ハウスワインで当店自慢の洋食をゆっくり。
銀座も毎度のことではと、千代田線で湯島まで行き、上野の街をゆっくり通り抜けて、ひっそり閑とした国立博物館を、今日は一点一点舐めるように見て回った。大方は見知ったものだが、『女文化の終焉 十二世紀の美術論』や『中世の美術と美学』の著者として、迂闊と誹られて仕方のない、初めての、びっくりする見学が出来た。高幡不動の所蔵らしい、巨大な、真黒い、「コンガラ・セイタカ」二童子の彫像で、遠くからはどう眺めても近代現代の、それも頗る斬新なフォルムの躍動したものと見えた。それがなんと十二世紀作品としてあるのだ、初めて見た。仰天したというよりも、動転した。よかった。
もう一つ、幕府所蔵の、ブラウの「大世界地図」に、あらためて感動した。もし「世界宝」というものが指定されるなら、この地図は値する至宝である。リーフデ(慈愛)号の船尾を遙々飾ってきた「エラスムス像」の顔の立派なのにも、新ためて感動した。芸術のシェイクスピアに匹敵する、思想の巨人エラスムス。真のヒューマニズムの淵源であったエラスムス。
感動の余りというのは、やや言い過ぎだが、上野駅の上の食堂へ上がって禁断の大ジョッキを、あまり宜しくないつまみもので、グウイッとやってから夕飯に帰った。和歌山のすさみ「大五」が送ってきてくれたカマスの干物で、夕飯も勿論食った。寝る前の血糖値がちょっと気になるが。また降り出した雨で、食後の自転車坂へは、今日はお休み。
2000 7・25 6
* 昨日の夜遅く、一人で、吸い込まれそうに観た、「小倉遊亀百二歳の梅」の、繪を描く遊亀の眼の毅さ、視線の深い輝きに、惚れ惚れした。絵筆の先の、じいっと空にとまって顫動しつつ画面にひたと真向かっている、美しさ、烈しさ。もっとも、小説を書くのは、必ずしもああいう集中とは同じでない。あれとこれとを一緒くたにしたためのお粗末な議論が、石川九楊氏の「書と文学」との混線混同であった。
もっとも、繪を描く人もピンからキリで、中尾彬というタレントが、一枚の小さな画を十五分くらいで描いて、そんなのが一点十万円で右から左へ売れて行くなどと吹くのは、たぶん事実なのだろうが、優れた画家の営為とそんなのとを一緒くたには絶対に出来ない。純然芸術的に仕上げられた小説と、通俗で低俗な読み物との違いに等しい。中尾はとくとくと人の目の前で「彫ってあげる」と篆刻のまねごとをして見せてもいたが、大道芸よりも程度のひどい、がさつを極めた「刀」の使いようで、彫り汚さ、おはなしにならない。印は、ただ実用のハンコではない。線の冴えに命を籠める藝であり技巧なのだ。こういう手合いが安直に芸術を語り人生相談に励む。ま、それもこれも「芝居」なのだと思えば、芝居の巧いヘタは兎も角、見過ごすことが出来る。しかし、通俗低俗なものを尊ぶ気にはなれない。
昨日観た芝居も、一夕の「娯楽」として楽しんだけれど、それだけのもの、それ以上には何も感じない。娯楽もむろん必要なのである。だが、娯楽は娯楽。通俗は通俗。
だがまた、演技者には、与えられた台本をどう演じるかというべつの課題があり、それが務めであるから、わたしは、山田五十鈴や淡島千景や三橋達也らの老練を、それなりに「藝」として評価する。寺島信子のような端役でもじつにうまい役者がいると、拍手を惜しまない。そういう「演技はただの娯楽ではない」から、お安い芝居でもまた楽しんで観ていられるのだ。歌舞伎でもそうだ。
2000 7・30 6
* 一水会の堤彧子さんから、スペインで描いてきた水彩画小品を、額に入れて、戴いた。高校以来の親友で後輩である。もともと図案を勉強し、商品にもなったいろんなイラストを世に送ってきたが、三十年ほど前から油絵を始め、また水彩も始めて、個展も、グループ展も、何度か開いている。わたしからは、まだ何度も褒められていないけれど、誠実に歩み続けている。好もしいことである。
大作は、貰っても掛ける場所がない。いつ知れずいろんな方から頂戴した繪は多くなり、繪手紙の元祖格で名を上げた小池邦夫さんの繪も、メキシコで大いに名を高くした島田政治さんの繪も、『親指のマリア』の挿し絵を描いてもらった瑶邨画伯の孫の池田良規さんの裸婦図も、高齢でなくなった徳力富吉郎さんの鮎図も、もう故人であるが俳優嵯峨善兵さんの遺作も、愛蔵している。日中文化交流協会理事長だった宮川「杜良」先生の洒脱な繪も、巻いた繪のまま在る。天才少年と謳われた細川弘司君のみごとなデッサン数点も大事にしているし、なにより、叔母の遺してくれた古画、また、栖鳳、五雲、竹喬、印象らの軸物も大事に愛している。
繪を掛ける、掛け替えるのは、とても楽しい。作品にふさわしいほどゆとりある壁面でも家屋でもないのが気の毒だが、それだけは致し方ない。
2000 8・5 6
* 燃えるような陽ざしに負けず、日本橋高島屋の、五代目・六代目清水六兵衛展に先ず出向いた。ちょうど午どきだったので、向かいの丸善に勤めている友人の娘さんに、あまっている入場券を上げて行こうと寄ってみたが、休暇をとっていた。
七代目六兵衛さん=彫刻家清水九兵衛さんとは、一緒に京都美術文化賞の選者を勤めているが、先代、先々代のお道具にも、叔母の持ち物や茶会の記憶を通して親しんできた。育てられた家の数軒東、梅本町には、清水さんの別邸もあった。この展覧会も九兵衛さんからの御案内であった。
五代目も、六代目も、その陶芸は選の太い重厚な造形である。「重」兵衛さんと謂いたいほどだ。わたしは、七代目の現代味ゆたかな斬新な造形美を敬愛している。七代目は、最近六兵衛の名跡を子息に譲って本来の造形・彫刻家清水九兵衛に戻られた。ご健康を祈る。
* 銀座へ移動して、読者の娘さんの個展を見た。全然感心しなかった。広い画廊に、小品が小窓のように上下二列に並んでいたが、画額が、ぴしっと物差しを当てたように、水平垂直、清潔に整列せず、ゆらゆらと傾いたり揺れたりしていて、画家の、個展に賭ける誠実な気迫が伝わってこない。繪も、把握のよわさが感じられ、同じイタリアの川を、執着して繰り返し時刻を変え描いているのだが、追求が甘く、途中で妥協したという繪が多かった。落胆した。
2000 9・10 7
* 上野駅で待ち合わせて上尾敬彦君と国立西洋美術館で、またレンブラントとフェルメールらの展覧会を観、ついで都美術館で院展を観た。院展では数点佳作があった程度で、数点もあったのだからヨシとしなければならない。瞬間風速の吹き付けてくるような魅力のある繪には、ほとんどお目にかかれない。田淵俊夫がよかった。小倉遊亀の遺作が異様
に光って美しく感じた。
西洋美術館の方は、だれか若いアヴェックの女性の方が「どれも気の晴れる繪ではないのね」と言っているのが耳に入った。つまり、大方の作品に、ファシネーションが無い、力がないと言っているのだ、その通りだ。
* 精養軒のグリルでゆっくり、すこし贅沢におそい昼食をし、のんびりと話し合った。それから、上野の山をまちへ下りて、秋葉原電気街まで散歩した。電気街に上尾君をのこして、総武線でお茶の水へ。
2000 9・13 7
* 織田一磨展の招待が未亡人から届いた。むかし、長い論考を発表したことがあり吉祥寺のお宅にも何度か取材にいった。石版画の詩人、魅力的な画家であった。町田での内覧会が、次の対談の前日だというのが、少し辛い。
2000 9・26 7
* 三時前から妻を誘って近くの練馬美術館まで「麻田鷹司展」を観に行った。麻田浩の奥さんから券が送られて来た。浩は、すばらしい画家であった、若く病魔に魅入られて惜しくも亡くなった。鷹司は兄、麻田弁自が父上ではなかったか。三人とも優れた画家であったが、ひときわ、わたしは、浩が好きだった。第二回の京都美術文化賞にわたしは推した。受賞してもらった。芸術家であった、真に。
鷹司の作品を纏めてみるのは初めてだが、やはり佳い境地をもっていた人だ、展覧会は心静かに豊かな一刻を恵んでくれた。好きな作品が数点以上も有ったのは嬉しい。
帰路、中村橋から富士見台駅まで見知らぬ町中を妻とゆっくり歩いて戻って、また西武池袋線で保谷へ帰った。夕刻前の静かな散策で、落ち着いた。
2000 10・8 7
* 国立東京博物館へ伝毛松「猿図」を見に行ってきました。
秦さん あれは、後白河院ですね。
「清盛は、その頃、後白河院に対して優位な気分であった。一計を案じ、院の似顔絵を猿と共に、毛松に届けた。毛松は、清盛の意を汲み、はるばる送られてきた日本猿とその似顔絵を併せて、描いた。」ってぇのはどうでしょうか。
改めて感謝しております。 お大切に。
* すてきな意見である。後白河院の佳い肖像画が在る、それは見ようによると「猿図」に似ていなくもないのである。おもしろい。有り難い。
2000 10・10 7
* 星野画廊に戻ったら店が開いていた。この画廊は、全国の画廊でも際だって志の丈高い優れた画廊で、得難い作品を、誠意を込めて掘り出し蒐めてくれている。まず何時きても期待を裏切らないし、美術史的に貴重な貢献をしてくれている。「対談」したこともあり、また「湖の本」の久しい読者でもある。気骨というなら、星野画廊主にはそれがあり、その骨は太く直い。
以前に、亡くなった麻田浩に助言してもらってここで一点風景画を買ったが、今日もわたしの気に入った「柿の実」の繪を、妻の耳打ちで買って来た。牧渓の柿にもやや似た、画境の深い静謐な柿四つの繪で、わたしは一目で佳いと観た。妻ははじめ、くらいわと言ったが、観ているうちに良さをつよく感じ取ったらしく、星野さんもこの選択に賛成だった。こういうときに無茶売りはしない人だと分かっているので、今日は麻田浩のような卓越した画家の目利きに助けて貰えなかったけれど、安心して買うと決めた。粟田の秋大祭を、また今度の満ち足りた佳い旅を、のちのちまで記念したい気もあった。たしかに、こんなに充実した京の二泊三日は、過去にもそうザラにはなかった。
2000 10・14 7
* 橋田二朗作「秋色草花譜」は、この秋の創画展の最優秀・最誠実な美しい日本画であった。加山又造はうまいけれど写真画にすぎず、石本正もうまいけれど淫して下品である。ヌードの尻に割れ目など描いて、それが何だと云うのか。
橋田画とともに最も美しく深い把握は、秋野不矩のインドに取材の繪であった。酔うほどにすばらしい色彩。新会員に推された津田一江の「連鎖と残影の自画像」は線の清潔な鋭さと優しさに異色の美を帯びさせ、納得した。坂口麻沙子の「三人の踊り妓たち」が印象的で好感がもてた。秋野さんは別格とすれば、今度は橋田作と坂口作を双璧と観よう。
西洋美術館の展覧会「死の舞踏」展は、苦手で、ただ通り過ぎた。常設展の方は「西美をうたう」とか、現代歌人たちが西洋絵画に「歌賛」しているのだが、どれもこれも絵画の説明的なオマージュで、胸に響くポエムの「うたごえ」はどれ一つとして聴けなかった。なさけなく、辟易した。絵画作品からひきはなしてしまえば、もう、たちまちに何のことやら分からないうわこと歌ばかり、歌人たちよ、恥ずかしくはないかと思う。繪は、いつものように佳いものが並んでいて、美術の秋をという客の希望に応えてくれていた。
そして西洋美術館のレストランは、いい雰囲気。三千円の最上のコース料理が、スープも肉も、なかなか、いや、とても旨かった。妻と、ふっと思い立ちわざわざ出かけて行って、よかった。
2000 10・22 7
* 寝起きはよくなかったが、いやなモノはきれいに始末しておき、西銀座へ。
すどう美術館での和泉奏平作品展のぎりぎり最終日であった。亡くなって七年、面識はなかったが、千葉県下の成東にアトリエを持った画家で、それは熱心な「湖の本」の読者でもあった。亡くなってからも奥さんは遺志をつぐように、ずうっといい有り難い読者であったし、子息は演劇青年で、佳い舞台に参加していたのを銀座小劇場で妻と観たこともある。もう以前、新宿での小さい遺作展に妻と出かけて、手厚い、ちからある「駝鳥」の繪を買ったこともある。鳥や動物は綺麗事になりがちな難しい題材だが、この画家はじつに深々と大きな生物画を「世界」さながらに実存的に描ける力があった。経歴を詳しく知っていたわけではないが、下館市の第一回紫峰展大賞を獲ていた。
今日の展覧会には、しんから感心した。「野生の陣」は狼の群像であるが傑作といって憚らない。こんな凄いほど力のある繪にはめったなことでお目にかかれない。全部で大小二十点ほどのうち、大きな繪の全部が力作であり完成された把握と表現で気圧されるほどだった。鳥を描いても、まるい豊かな胸の内で「世界」が呼吸しているような深みのある画面で、犀も牛も豪快にして緻密な画面の創りであった。明るい色彩など殆ど使っていないのに、美しくて深々と落ち着いていた。こういう個展には、百度行っても一度二度も出逢えればいい方だ、感動した。下らない寝起きの不快も拭ったように失せていた。会期は今日でおしまいだった、間にあって良かった。有り難かった。
2000 11・5 7
* 七代目清水六兵衛さんから、なまめかしい深い乳白地に、淡く部分的に紅をはいたお茶碗を頂戴した。以前に戴いたのとは地色と柔らかみとがぐっと様変わりし、また独特に美しい現代の茶碗で、対照的。嬉しい。こんなのを貰ってもいいのだろうか。
* 「人生適意」と発送の挨拶に書いている。そうありたい、お互いにという気持ちがある。
2000 11・16 7
* この正月三日に、だが、わたしも、ボールペンで繪を一枚描いてみたのである。階下の机のまえに坐ると、澤口靖子のデビューして余り間もない頃の初々しい顔写真が掛かっている、それを、ふと、描き写してみたくなり、裏白の紙をもちだして、まず額髪のきわの線から描いていった。たいがいなら投げ出すだろうに、何となく何となく描きすすんで、当人が見たら必ず泣き出すのではないかと想う気の毒な顔になって行ったけれど、諦めずに、顔かたちも、髪も、襟元から肩先から胸元まで、ざっと描いてしまったのだから、我ながら、えらいぞと思った。この前に「繪」らしきものを描いたのは、五十年も昔、新制中学での図画の時間にであり、以来、繪を描くなんて、大嫌いな茄子を口にするか、おそろしい蛇に目をむけるか、と変わりないほどあり得ぬ仕儀であった。それなのに、曲がりなりに一心に描いたのだから、びっくりした。妻もびっくりした。日付を書き入れて署名しろと言った。澤口靖子は承知しないと思うので、ただの「女の繪」と思うことにし、2001年1月3日と、日付だけを書いたが、やはりこれは処分する気でいる。ふしぎと、味わったことのない、だが、いい気分であった。靖子ちゃんに感謝している。またトライするかも知れない。
2001 1・6 8
* 目の前に、年賀状として届いたある歌人からの、風景写真がある。ながく洋画家浅井忠の「写生」を論じている人で、風景はグレーの河畔。浅井は此処で生涯の名作といいたい洗濯場その他のすばらしい繪を描き遺している。河畔のこういう風景は、自然な河川でなら、日本の中ででもいくらも挙げられるだろう、どう眺めても日本の風景に甚だまぢかい、優しく繊細な植生に縁取られた川の流れが撮影されているに過ぎない、のに、眼をとらえて放さない。
* これは画家の鈴木奈緒さんからの賀状で、お手の物の能の女のスケッチに、濃淡で紅いろが施してある。「西王母」で、三千年に一度実るという桃の花を、祝福のために捧げ持っている。これも、佳い。
2001 1・24 8
* 校正と発送の用意に明け暮れた。だが、午前の日曜美術館でモーリス・ユトリロの母スザンヌ・バラドンの絵の観られたのには、感激した。つづいて聴いた田原総一朗番組での与党三党の幹事長たちには、ゲンナリした。
2001 2・18 8
* 病院の前に、湖の本の装丁をしてくれた堤?子さんの出品しているグループ展を、日本橋で覗いて行った。例年よりも一段と佳い絵を描いていて安心した。一つ、玉上さんという人の作品が、あざやかに他に図抜けていた。画廊を探し回って汗をかいた甲斐があり、よかった。予約の時間に間に合おうとタクシーで病院へ走った。
2001 2・27 8
* 上村松篁氏の訃に接し、共同通信の依頼でただちに悼む記を寄せた。BSテレビでの長時間のインタビューをはじめ、公私にわたり何度もお目にかかってきた。松園を小説に書いた「閨秀」の縁で、はじめてご夫妻のご挨拶を受けたのが、恩師園頼三先生ご葬送の日であった。京都へかけつけた日であった。淳之氏の弟がわたしと同じ専攻にいて、園先生のお世話になっていた。
松篁さんの絵は、晩年の初期とでもいおうか丹頂の「鶴」の頃からが円熟期であり、さらに意欲的に「白い鷹」に挑まれていた頃、気迫も気品も最高であったと個人的に思っている。腰の低い懐かしい人であった。気稟の清質最も尊ぶべき芸術家至純の境地に達しておられたと、哀悼とともに最大の尊敬を捧げる。
2001 3・11 8
* 東京、京都、奈良の国立博物館の三年パスがまた贈られてきた。有り難い。贈り物の中でも一等有り難いものの一つである。
2001 4・16 9
* 夕刻より出て、銀座三越前で細川弘司君と逢う。「やす幸」でおでんを食べて話し、それから「クラブ」で飲みながら話した。昔、安宅コレクションという有名な、すばらしい世界的なコレクションがあった。そのコレクターの安宅氏から才能を認められ、北陸から京都へ西洋画の勉強に出てきたのが細川君で、当時画壇の重鎮であった人たちにも評価され、新聞などに「天才少年」として大きく報道されるような才能だった。わたしと同じ新制中学に転入してきたのである。
数奇なと謂っていい人生を経てきた。一時はイラストレーターとして業界内で声名高く大きな賞を繰り返し取っていたが、病弱でもあった。そういうことをわたしは何一つ知らないまま、中学時代の天才画家を捜し求めていた、そして近年にまったく偶然に恵まれて再会したのである。
その彼が、北陸へ帰って行くことになった。理由はいろいろあるが、家庭の事情といえる。激励したくてわたしから呼び出したのである。
よく話せた。楽しいと言うよりは幾らかもの悲しくあり、言葉と思いとを尽くして激励し、いっそうの奮起と再起とを期待した。私の目から見ても、才能は失せてなどいない、ただ悲運の連続であった。
別れたくないようであった、そして、或る地下の喫茶店で細川君は手ずからセルフサービスのコーヒーをテーブルに運んでくれ、そして、持参の古い古いスケッチブックの、あいた紙三枚にわたしのボールペンをつかって、わたしをスケッチしてくれた。彼は、空間を描くことで人物でもモノでも深々と捉えて行く。三枚のスケッチは、いかにもわたしをとらえながら、わたしの存在し呼吸している空間を尖鋭な線で彫琢し尽くしていた。しみじみとした感動のままに喫茶店の前で、右と左とに別れてきた。
たかが北陸と東京であり、再会を期することはやすい。だが、身内にこたえる「別れ」であった。おそらく、数年前にわたしたちが再会して以後、彼が心をひらいてものを語った、語り合えたのは、わたし一人であったろうと思われる。それほど彼の藝術家としての孤独はいたましかった。そのいたましい彼を、わたしは、貪欲なほどに観察し考察し仮構して、まるでべつの人物として組み立て続けてきたのだ、むごいことだが、また、それほどの愛情もまた無いのである。
2001 5・2 9
* 俳優で滝田栄と謂っただろうか、このごろ、名前を正確に覚えられなくなったが、その俳優さんが大和の秋篠寺を訪れるテレビ番組を、たまたま、一両日前に途中から見た。何年も昔だが、あやめ池の女子大に講演に呼ばれて、妻も一緒に大和入りし、秋篠にも詣でてきた。美しい伎藝天のおわすことで知られているし、わたしたちの目あてもひとつは伎藝天との出逢いにあったが、この寺にはまた秘匿された大元像のあるのも知っていた。見せてもらえぬ事も知っていた。
テレビで「秋篠」と聞いたときから、もしかしてと期待した。期待どおりその大元像が開帳され、わたしたちは、聞きしにまさる凄い像を、テレビでだが、初めて見せてもらえた。テレビだからこそ肉眼でよりもっとあらたかに拝し得たともいえるのであり、昨今これほどテレビを有り難いと思ったことはない。
全身に大小の蛇を纏わらせた、真言秘密のというよりも、うちつけに、神秘の呪術根源の大王像である。膚に泡立つ物がしばらくはゾクゾクして退かなかった。神威も蛇も生々しく生きて躍動していた。像の筋骨肉体は隆々と、じつに大きな男性美を湛えていて、それへの喜悦も感動も深かった。
秋篠寺境内は優美に静かで、秋萩寺といいたいほど萩のくさむらも美しい。そんな環境に、あれほど美しくおおらかな伎藝天とともに、あれほど畏怖の二字のぴったりくる魁偉な男性美極致の像の秘蔵されてある事の、さすがに奥ゆかしく、また行ってみたいとしみじみ思ったことであった。それにしてもあの大元秘密の巨像のまえで、即座のナレートを強いられていた俳優さん、気の毒だった。人間の口の吐き出す言葉の浅く薄く軽いことは、わたしも含めて恥じ入るばかりだ。夥しい「私語」を日々に吐いてインターネットの暗闇に放ち続けているが、なかなか稲妻のようには光っていないだろうと、恥ずかしい。
小林秀雄の書いた長い「感想」を、新潮社にもらったムックで読んでいて感じるのは、なんでも書けばいいというものではないぞということだ。つまらぬものなら書かないでいる抑制の大切なことだ。
2001 5・4 9
* 細川弘司君の描いてくれたわたしのプロィールを、機械で再現してみて、たいへんな力作・秀作であることを認識した。わたし以上の、と謂うのもヘンだが、陰翳ひとつつけないただボールペンの鋭い線のめまぐるしいほどの回旋のなかに、確実にわたしが生きた視線をもち、しっかり確立し生動している。空気をはらみ立体的に存在して微動もしていない。
いま電話で話して、かれは今度は酒ぬきで描きたいと言うのだが、いやいや酒の勢いも幸いしていたかとすら想像される。力のある画家というのは凄いというしかない魔力をもっている。
2001 5・15 9
* 昨日のお宝鑑定団で狩野常信のぼろぼろの屏風が出ていたが、一見して間違いなく見えた。こんなものが土佐の国に今も隠れていたかと驚嘆した。絵も落款も、一目見て凛々と紛いようのない秀作だった。鑑定を聴く前から確信できて、よそながら嬉しかった。むろん鑑定も真作と認めた。あの番組にはこういう喜びがついてまわる。
もう一点、梅逸のとても佳い作品が出て、これも一目で優れていると分かった。下村観山の真作とみられたものが、わたしには、そう読みとれなかった。
* 日本美術の現代作で、これはと舌をまく経験を、しばらくしていない。よろしくない。
2001 5・23 9
* ホテルで着替え、まず四条河原町の高島屋で、堀泰明君から知らせてきていた「NEXT」展を観た。中堅以上の日本画家たちの「横の会」を継承したようなグループ展で、六階の小品展を先に見た。安田育代の一点だけがすっきりしていて、箱崎睦昌の一点がまずまず、他は陳腐だった。竹内浩一君が加わっていなかった。堀君の絵は左上の青葉楓と女の持った白い団扇が無用だった。そんな調子づけなしに力を見せてほしい。七階の、本展は、大作ぞろいだったが、おおむね空疎、感銘作はなく、ここでもやはり安田育代の線の清潔さだけが印象的であった。堀君のもただの風俗画であった。感動を欠いた技術の見本市のような展覧会では真の「NEXT」は狙えまいと落胆した。
* 蹴上の都ホテルで第14回京都美術文化賞の授賞式。洋画の渡辺恂三、彫刻の木代喜司、染色の福本繁樹氏ら三名に授賞、梅原猛氏が選者を代表して選考理由を、小倉忠夫氏が同じく乾杯の発声を。三人の受賞の挨拶もそれぞれに聴かせたが、スポンサーの京都中央信用金庫の理事長が、日本中で一銭の不良債権も持たない金融機関は当行のみ、日本一の信用金庫であるとともに日本一の優良金融機関だと胸が張れると挨拶したのには、感服した。こういうことの言える銀行の他に無いのは確実で、ここは、今年初めに他の不良信用金庫を二つも救済吸収して、なお、こう言い切っているのである。しっかりしたはる。
しっかりしたはるのは、それだけではなかった。寺町御池の角の支店に隣接して、新たに美術ギャラリーを開設したのは前回に京都へ帰ってもう見知っていたが、いま、事実上のオープニング展をやっていたので、受賞者たちとの記念撮影の後、石本正さんと車で見に行った。三浦景生さんも渡辺恂三夫妻も追いかけるように見えた。
で、何の展覧会かというと、歴代受賞者に「ご寄贈願った」作品展なのである。賞金の二百万円では追いつかない力作もかなり並んでいて、前期展についで後期展ももう予定されていた。
これは見応えがあった。懐かしい麻田浩の絵にいきなり出会えた。なまじな展覧会よりも自負自薦の作品展であり、しかも見学無料である。企業の文化事業の、これは普通の道になりつつある。しっかりしたはるのである。
2001 5・28 9
* 青山エモリ画廊のヴェルヴ展を観にいった。橋本博英さんの大きな風景を盛り立てるように二十点ほどのスケッチが陳列されていた。署名がないだけで、いずれも完成された小品で、清冽の詩情にみたされ心地よい風が画面をわたっていた。他に独りの客も無かったのは寂しかったが、追悼のための他作家の出品作が、あらかたすでにいつか観たことのある作品のようなのは物足りなかった。そしてそれらには作品として胸を打つものがほとんどゼロであった。橋本さんの絵は、別格の品位を得ていたのだと今にして思う。
* 千代田線で日比谷へ、久しぶりにクラブに入って、マーテルを少しずつ飲みながら、山折さんとの「対談」原稿をゆっくり読んだ。いい気分で帰宅。
2001 6・5 9
* 十一時に妻と家を出て、定時の診察を受けに聖路加病院へ。案外はやばやと終え、可もなく不可もなく、心配は何もなくて会計をすますと、築地をぶらぶら、更科蕎麦の蕎麦懐石で、おそめの昼食。料理はすべてヘルシー。蕎麦掻きの味噌田楽がうまかった。
銀座へ出て、和光で服部峻昇の蒔絵展。京都美術文化賞に推して授賞した日吉ヶ丘の後輩作家で、絢爛豪華な螺鈿の飾り箱や、端正な棗や棚をつくる。六年前に和光で初見、何度も激励し注文し、一昨年だったか受賞した。綺麗の極みの絢爛が作風だが、技術の精巧がなくてはとても難しい制作。お高くてとても手のでない贅沢品であるが、あたりを払う存在感が作品にある。見ていて少し疲れてくる。流線の意匠が多く、さらに微妙な凹凸もあり、ダイナミックの魅力に溢れた工芸の冴えだが、静かではない。たまに直線をきかせた静的な意匠の作があると、ほっとする。力みなぎっていると言っておく。夫婦で見に行ったのを、わたしより七つ若い作者夫妻も、とても喜んでくれた。おみやげに服部氏作のお盆をもらってきた。
銀ぶらの一日になった。画廊を幾つも覗いた。日動画廊では、福井良之助のいい絵を三点みた。小林和作、里見勝三のもわるくなかった。地主悌一の個展も見た。「石」を描いた作にいいのがあった。武者小路実篤の「馬鹿一」を思い出していた。
画廊「為永」でヴラマンクの佳い作品が数点見られたのは嬉しかった。半分ノビかけていた妻が、道の向こう側のウインドウに見つけて、わざわざ後戻りして横断歩道を渡って見に行った。ピカソやキスリングなど面白いものがあったが、二人ともヴラマンクに魅されていた。晩年の花が二点、どう見てもフォーヴのヴラマンクであり、しかも底光りして美しかった。それはもう美しかった。ちなみに七千万円。
「オルゴール」という店の、高い二階の窓辺で休息した。ガーリックパンをあてに、妻は、不思議な味のカクテルを飲み、わたしはマーティニーのロック。出がけに届いていた岡本衣代という人の歌集を読んだ。妻はあれこれ話しかけていた。足の疲れのとれるまでのんびりした。
もうクラブまで足をのばすのも面倒で、銀座をぶらついた足任せに、これまで入ったことのない「すし嘉」の店明きに飛び込んで、そこそこの鮨と桜桃忌おめで鯛の刺身を食った。お銚子は二本。これで、もう満腹してできあがり、どこへも寄らずに、有楽町線で少しうたたねして保谷に着いたのが、八時前か。雨の降りかけを用心し、駅前からタクシーで帰った。
家には、黒い少年のマゴが待ちかねていたし、光り輝く佐藤錦の桜桃がまだ山のように。メロンはもう一日二日熟れさせようと、お心入れの清酒「桃川」を大杯になみなみと一杯だけ、心ゆくまで味わいながら、甲賀の小田さんの、また大勢の読者の、日々平安を祈った。
太宰治賞から満三十二年、湖の本創刊から満十五年。とても高い評価は出来ないが、自分の道を逸れずに歩いてきた。
2001 6・19 9
* 京都でなく、奈良から誘われている。上村松篁画伯が亡くなり、遺作展が松伯美術館であり、オープニングが七月九日、夕刻から淳之氏の講演と小宴が大阪の都ホテルである。招待されていて、行きたい思いも強く、さてどうかと。
2001 6・20 9
* おそろしく早起きして、いろんな用事を旅の前にとどんどん片づけてしまい、郵便物なども送り出せたので、思い切って気になっていた「北野天神絵巻」のいろいろを見に、昼前から上野の平成館へ行ってきた。比較的空いていた。天神さんはすごい底ぢからで、びっくりするほど豊穣に絵巻を産出されている。裕福なんだ。総じて仕事の丁寧なのにも、制作年度が近世期に多く及んでいることにも感心した。
仏像にも、書跡にも数点印象ふかいものが在ったが、いまは時間がなく何も書かない。 本館へわたり、これまた丁寧にほぼ全室みてまわり、足の裏も痛く空腹であったけれど、東洋館へも久しぶりで入ってきた。歩き疲れで足の裏まで痛くはあったが、いい気の保養になった。天気もほどよく、さほど汗もかかなかった。三館を一度にみんな歩きまわったのは初めてだ。
精養軒でうまい昼飯を食い、赤のワインを二杯。
2001 8・19
* 「梅原猛と33人のアーチスト」というイベントが、展覧会が、各地の高島屋で開かれる。京都美術文化賞の選者仲間である清水九兵衛さん、三浦景生さん、また授賞した面屋庄甫さん、井上隆生さんからも相次いで案内が来ているし、井上さんからは佳い図録も頂戴した。石本正さんからも必ず届く。さすがに梅原さん、充実して新鮮な印象の、佳い33人を選ばれているし、一人一人への「寸観」というか紹介と称賛の弁がまた要領を得ている。それだけではない、梅原猛という「哲学者」の「芸術家」観が具体的に良く読みとれて興味深く面白い。この企画、オーガナイザーとしての梅原さんの能力がよく出ている。見応えのある藝術家群像であり、京都ないし関西からの強烈な発信である。33人の3人はわれわれの仲間の選者であり、受賞者も何人も入っている。その筆頭は秋野不矩。第一回の選考でわたしが真っ先に推した。以降のぼりつめて文化勲章まで。来野月乙、小清水漸、中野弘彦、野崎一良、服部峻昇、藤平伸、三尾公三、面屋庄甫、吉原英雄、渡邊恂三など、思い出せる限りみな京都美術文化賞で選んだ作家であり、横尾忠則、前田常作、下保昭、山本容子などの人気作家も加わっている。裏返せば梅原猛という元京都芸大学長の人脈であると同時に、氏の審美眼というか好みが表されていて興味津々の顔ぶれ。
たとえば日本ペンクラブのような文筆家団体の人たちは、この方面の梅原さんには、具体的には、かなり疎い。こういう梅原猛の原点にあるのが、全著作から確信をもってわたしの選んだ「闇のパトス」なのである。若い人に、青春に蹉跌しそうに苦しんでいる人たちに、読んでほしい。
2001 8・30 10
* 眼科がながびき、十時半になったが、有楽町経由で、上野の都美術館で一水会展を観てきた。フロアが三つ、たいへんな数であり、一階と三階だけしか時間的・体力的に観ていられなかった。観て欲しいと頼まれていた、或る室内を描いた作品は、展示も優遇されていて、一見してわるくなかった。数多くの中で、わるくなかった。だが、とくに良くも感じなかったのは、終始コンポジションで作り上げた繪で、作者の、ヴィヴィッドな、何かに弾んで生き生きしたいい顔が見えてこなかったから。繪にすることに苦心惨憺してあるが、この繪を描くことが嬉しくて堪らないという顔を、繪が、していなかった。微妙だが、観ていて、作者にじかに触れて行けるような喜びが持てないのは、作者が繪を「作る」ことにだけにかまけているからだ。それではファシネーションは輝いてこない。
2001 10・2 10
* こういう朝には、こんなメールがいちばん胸に深く来る。
* 逢ってきました。華岳と薫に。
目がよくないのに、京都へゆく用があり、何必館の予定を見ましたら、華岳と薫、それに魯山人。
朝、シャッターの開くのを待ってとびこみました。
なんと、しあわせで贅沢な時間――。だーれもいない。
じーんと何かが染みこんでくるような、わたくしというものが透明になって失せてゆくような。
目をつむっても感じられる気がしました、繪の放っているものが。こまかな震えに襲われました。
五階の楓は、ほんのわずか、朱の色を帯び初めている枝がありました。
楓に目をあずけているうち、震えはしずかにひいてゆきました。
お目の具合がおもわしくないご様子、どうぞおたいせつに。
目がよくなったら、一番に、「墨牡丹」と「美の回廊」を、読み直してみたいとおもっております。
* 梶川芳友のあの美術館は、すみずみまで、胸にあり目にある。まして村上華岳、山口薫、北大路魯山人は、梶川の原点、何必館創立の原点作家、である。「だーれもいない」美術館は珍しいのか珍しくないのか、しかし館主の方で客を特別期待しない、そのために何とも入りにくい雰囲気の入り口をもつ美術館というのは、珍しいだろう。入ってみると、たしかに別世界なのである。オープンニングの少し前に、楓のある最上階の茶室で、今は亡き山口蓬春画伯、そして梅原猛氏、私とが招かれて、秘蔵愛蔵の華岳作「太子樹下禅那図」の前でお茶のご馳走になった。この難しい時節によく維持していると、梶川の健闘と健康とを祈っている。
この世界に帰りたい、とびこみたいと、わたしも切望しているが、心はなれているわけではない。いつも胸奥の一点に「静」の極として在る。だから今の私も在りうる。
2001 10・8
* とうどう創画展へかけこんだ。なんという寂しい展覧会になったものか、松篁さんも秋野不矩さんも亡くなって追悼の遺作が並んでいた、ほかにもう三人四人も会員作に黒いリボンがついていた。松篁さんの一代の傑作と言える「丹頂」一双が出ていて、ほろっとした。松篁さんをしんそこ尊敬し得た作品だ。不矩さんのも代表作が出ればよかった。
創画会はいきおい石本正、加山又造の肩に掛かってくる。加山さんは富士の雪景にあたる胸から上だけを、清潔な線と淡泊に冴えた色とで纏めていた。写真を描いているように見える。石本さんは、なんといつもの裸婦を、炭塗りにくろぐろと描いたのはどういう心境か、ぎょっとした。しかし二人の裸婦の肉体は分厚く正確に描けていて美しいのである、さすがであった。だが、仰天した。絵そのもので先輩作家達に弔意の喪章をつけたみたい。
お目当ての橋田二朗先生が秀作で、優作で、今までよりも図抜けて美しく丈高い草花の「白い秋」これには大満足。去年もよかったが、今年はさらに素晴らしい画境と画品とで、またしても随一と言いたい。嬉しくなった。めぼしいお目当ての画家の絵が同じ一室に集中していたので、もう他は見る気にならなかった。通り抜けてきたどの部屋のどの作品にも目を惹くほどのものが一つもなかったからである。
* その足で銀座へ出て、松坂屋の裏の方の小画廊で、知った人の娘さんの個展を見に行った。イタリアのアルノ川のほぼ決まったアスペクトの風景を、小さい繪に幾つも描き、二三のやや大きい絵もあった。絵から吹き付けてくる気迫がほとんど感じ取れなかった。河畔の建物が愛らしくは捉えてあるのだが、おとぎの国の蜃気楼のようにひ弱くて人間の生活空間といった見方はしていない。把握が弱いために表現も弱い。弱々しく、掴んだら壊れそうな筆致で、きれいごとに片づけてある。一二、これならと思えるのは、建物をみな、霧や闇の奥に溶かし込んで、濛々と川の風情が空や雲と馴染み合った中に、確かに川の流れの感じ取れる作品であった、が、だが上出来とは言えなかった。迫力。そう、それは画法の迫力と謂うこともあるが、情念の燃焼した、やむにやまれぬ表現の迫力、それが無い。動機として出ていない。個展をひらくまえに、たった一作の名作をもとめて、自分自身の内奥を孤独に旅すべきであろうと思った。デッサン、スケッチ、そういう基本に苦心惨憺したことのない趣味的な絵にとどまっている。
* で、もうどこへもよらず、有楽町線でまっすぐ帰宅。
2001 10・29 11
* 和光で江里康慧・佐代子夫妻の展覧会があり、覗いてみた。今回は夫君の仏像も大小かなりの点数が出品され、夫人の創作範囲も格別展開してた。
仏像は「肱を張って」もいけなかろうが、そこに力無くても例えば不動像など弱くなる、むずかしそうだなあと思った。夫人の「花」と題した棗が、目立たない展示なりに華やかに優美であった、色も意匠も。以前から作品を一点さしあげたいが、どれがいいかと云われている。どうも展示会場でそういう話題になるのは恐縮の度が過ぎるので、そうっと抜け出してきた。
* 銀座で吉原英雄氏も京都から出てきて版画の展覧会をされていたのを、次いで見に行った。
銀座でも、昼飯時には八百円、一人前半なら千円というような寿司屋があるのでおどろいた。しばらくぶりに遅い昼飯にやすい鮨を食べてみた、一人前半。お銚子を一本つけたのが効果あり、味噌汁がうまかった。
ゆらゆらゆらゆらと歩きまわって、心地よく疲れた。気持ちよかった。
2001 11・6 11
* 石本正展だけを観てきた。八重洲口の大丸ミュージアム。これはもう言うことなしの充実した石本さんらしい展覧会で、三度四度と繰り返し観て満足して帰ってきた。裸婦が、なんとなく今度のは光って充実していた。気が入っているなと感じた。会場へ入ってすぐ目の前の作品など、吸い込まれそうに良かった。石本さんの裸婦は、衣裳や絨毯などの背景も凝っているのだが、あくまでも女のからだの造形的に深々とした情感豊かな把握の確かさ、表現の確かさが魅力である。それで作品が決まってくる。裸婦だけで数十点、これはと気に入った作に手控えのシルシをつけていったら半分以上に○がついた。素晴らしいと言うしかない。二十代の末に描かれたという大作の馬もこころよい表現で、なるほどこれほどの下絵をと感心するほど佳い下絵が数十枚添えて展観されていた。石本さんには逢えなかったが、満たされてきた。
* 創画展での橋田二朗先生「白い秋」草花図もすばらしかった。京都の親しい人の力作で美術の秋には恵まれた。
2001 11・11 11
* 鼎談「日本画の問題」は九十分の予定を大幅にオーバーし、スムーズに、問題点もおおかた拾い採って、予想以上に好調に終えた。榊原氏の以前の論文は、「日本画」という言葉がいつから誰により使い始められたかの検討から、「描く」べきを「塗る」ことへ押し流された日本画を憂えていた。大須賀氏の今回の論文は、近代はじめの東京と京都の日本画感覚の差異を検証していた。
鼎談では、もともと「日本画」意識が日本の中にあったわけでなく古代以来、いつも、海外絵画との対比の中で「日本」が意識されてきた事情を、歴史的にわたしから提起し、いま、「日本画」を考えることが、今後へのどのような有効性をもつのか、二人の論点の重なりや異なりから語り合ってゆこうとした。
歴史的な推移と、「日本風」「和様」の認識や評価とを軸に、近代現代の日本画だけでなく、今後がどういうことになるかまで考えた。もう日本画と西洋画との対比以上に、これらを一つの「手で描く絵画」とひっくくり、「ディジタルな絵画」と相対する時代になろうとしているのではと、試みにわたしから発言して置いた。
2001 12・12 11
* 伊藤若冲の佳い放送があり、なかでも絢爛豪華にして緻密な写生様式を鳴り響かせた「動植綵繪」群に圧倒された。岸部一徳と山本学を使い、外国人コレクターを絡ませてドキュメンタリーともドラマともつかぬ仕立てで画面構成されていたが、その臭みなど少しも気にならず、ただもう、この凄みのある風の変わった画家の力の「太さ」に感動し続けていた。声にもならぬ声がノドから鼻から歯の間から漏れ出ているほど、感動して、観ていた。ひよっとして甥の黒川創も番組に絡んでいないかと期待していたが、それはなかった。恒は、どう過ごしているだろう、このところ、何も知らない。
* その前に、インターネットで村上華岳を見ていた。「裸婦図」がいきなり大きく目に入り、溜まらなく懐かしく、そのままあちこち見ていれば、当然ながら祇園の何必館にすぐ直面する。ひさしぶりに「太子樹下禅那図」と梶川芳友の文章に出逢い、大いに満足した。そのままメールを送って、この文章だけは佳い意味でちからがよく抜けていて、素晴らしいと褒めた。褒めたついでに半分は本気で、この繪と文を電子文藝館の「随筆欄」に欲しいなと思った。芳友も日本ペンクラブの会員なのである。
2002 1・2 12
* 地下鉄で銀座に移動し、古山康雄氏の二十七回めの個展を、松屋の裏の方で観た。二十七年欠かさずの個展はえらいが、たいへん意欲的に趣向心のある人で、興味深い展示を試みられる。いわばマントラ画風で宗教画に大別されるのかも知れないが、技量的確で、線のたしかな日本画家が、線を没して色彩を独特に微光の底から輝やかせている。
湖の本の早くからの継続購読者で、じつはわたしは、小説に志のある人とばかり思っていた。小説にも独自の世界をためらいなく書いて、「e-文庫・湖」にも作品を貰っているが、本来は画家なのである。初対面のつもりでいたが、古山さんの方はそうでもないようで、太りましたかと言われ、それではよっぽど昔のわたしをご存じといわねばならない。
古山さんその人も予想していた人とはかなりちがい、体格豊かな、会社社長といった風体の人であった。すこし、ゆっくり話してきた。
* 銀座松屋で、源氏物語にあてこんだ宮廷衣裳などの展観招待券を利用してきた。この手の展覧会としては親切によくモノをあつめた啓蒙性豊かな展示を、満員の人だかりにまぎれこみ、楽しんで観た。衣裳も想ったとおり美しいが、宮廷の日常が、模型で大きく展開されていたのは、リアルな理解には役立つおもしろさで、にこにこしながらゆっくり覗き込んできた。
2002 1・14 12
* 銀座のメルサ美術館で、京都の玉村咏の大きな染色衣裳の発表会があり、立ち寄ってきた。織りではない、まったくの染めで、相当な数出ていた。染色のよさをみる力はないので、玉村氏と言葉をかわしざっと見てから、千代田線へ移動して乃木坂へ。
2002 3/5 12
* 昼過ぎて、銀座一丁目の「シェモア」で静かな昼食。新宿区役所に結婚届を出して、四十三年が過ぎた。フランス料理にワイン。旨いし満腹も満足もしたが、濃厚、やや圧倒された。「よしのや」二階で見つけたハンドバッグがとても妻の気に入り、手持ちのを箱に入れてもらって、すぐ新しいそれを持ち、出光美術館まで歩いた。
* 長谷川等伯の国宝「松林図屏風」が出ているのを知っていた。等伯は他に「竹鶴図屏風」など四点、「松林図」といい「竹鶴図」といい、この画家はいわゆる絵描きの目ではない眼で、余人の見知り得ない世界を透視していたとしか謂いようがない。京都智積院の「桜楓図」もすばらしいが、あれは金碧障壁画。これは濃淡ただならぬ神韻縹渺の水墨画。甲乙はつけがたく、等伯が、美術史上の日本画の真の天才であり、変な云い方をするが、たぶん第一人者の一人であることだけを、今日、しみじみと納得してきた。松林図のまえを立ち去りかねた。竹鶴図にも心服した。
もとより尾形光琳の「紅白梅図」や「燕子花図」がある。俵屋宗達「風神雷神図」や「松図」「波濤図」がある。円山応挙の「雪松図」や「藤図」もある。如拙にも雪舟にも永徳にも山楽にも、また溯れば絵巻にも肖像にも仏画にも、すばらしい「第一人者ふう」の画跡はいくらもあるから、等伯一人に「第一人者」を独り占めさせてはおけないのだが、それでも等伯という画家には尊敬の思いを心から持つ、いつも。
参考に出ていたなかの、牧谿「平沙落雁図」にも感嘆を新たにした。吸い込まれるような魅力と敬意を覚え、繰り返し絵の前に立ち戻った。
焼き物では古唐津と箱の蓋に記したたっぷりと大柄な高麗茶碗にリクツ抜きに惹かれ、また銘「奈良」の井戸茶碗にもぐっと惹き寄せられた。いろいろあったけれど、焼き物では茶碗二枚に引きこまれた。もう一点、扇面法華経の下絵に濃厚な彩色男女の物語絵の描かれたのが、十二世紀末であろう、優れて美しいものであった。絵巻を描いていたのがなにかの事情で中断した。それへ写経供養したものであろうか、死なれた者の死んでいった者への思いがしみじみと美しく表現されていた。
もう十日ほど会期がある、この展覧会は、誰にも勧めたい。
2002 3・14 12
* 八時に出掛け、午後一時半には京都で、京都美術文化賞の選考会。そのあと墓参。そのあと田中勉君と会う。
* 選考会は、多くの時間は掛けずに決まった。日本画と彫刻と陶芸。石本正氏の強く推された日本画候補を、作品も、誰も知らなかった。創画展で受賞していた作があげられていたが、去年の創画展の受賞作で受賞していたなかに一つだけ納得したのがあったが、それが今日授賞と決まった人かどうか、覚えていない。去年の創画展では橋田二朗さんの絵がわたしは佳いと思った。しかし橋田さんを誰も推薦しないのでノミネートされていない。選者は推薦すべきではないとわたしは考えてきた、が、他の選者は推薦しているらしい。それもいい、が、それが過度になると、大勢の推薦依頼人からの推薦よりも、どうしても選者自身の推薦が、中心ないし優位の選考になる。それはどうかと、わたしは賞のために案じる。他の誰もが認識もしていない人に賞が決まるのはどうかという気持ちが否めない。ただ石本さんほどの人が熱心に推されたことと、四年間連続創画展で受賞して「会員」にきまった実績がものを言った。彫刻は清水九兵衛さんの強い推薦があった。それは他の選者も納得して決まった。陶芸は、曖昧なままに決着した印象をわたしはもっている。むかし、いい仕事をしていたのは間違いないが、ここ何年も作品を見ていない、創っているのかという不審のママに選考してしまったのは、少し釈然としない。
2002 3・20 12
* 絵の画面の未開拓なのが二つあると思ってきた。無設定球体の全表面、そして闇、である。闇の方は、だが、ネオンや花火ですこしだけだが試みられている、まだまだ極めて不十分で不安定で未熟であるが。球表面絵画は、理論的にも克服出来ていない。実作品は、神のツクリ給いし地球以外には、十分なモノは出来ていない。三十年ほど前に「芸術生活」に論考を発表以来、追試例もきかない。
しかし、無条件無設定の球体を、いまコンピュータのなかに創作して、無限定空間に浮かばせること、その全部を眺めうる位置を設置設営すること、も、不可能ではない筈だ。そういう球体を用意して、その全表面を「分割しない一画面」とした一つの絵画作品を、「CG」作品として創作し鑑賞させることがもし出来ると、絵画は、新たな表現の場をもつことになる。これは単に闇を画面にして絵画を描くのとは異なる試みである。あくまでも、完全な凸面である「球体の全表面」を活かせるかどうかだ、球面には上下左右がなく、遠近法の効かない面の性質を帯びている。平面と球表面とは面の性質が全然異なっているのである。
そんな話をして、だいぶ、田中君をそそのかしてみた。父上が画家でもあるのを知っているし、かれと一緒に西洋美術館に入ったときの絵画への向かい方をそれとなく見ていたからである。
とにもかくにも、料理も佳いが、話している方が楽しかった。よかった。東工大の卒業生諸君は、こういう話をわたしにいつも機嫌良くさせてくれる。なんという「秦さん孝行」な人達だろう。田中君は、だが、お酒がだめ。お店の美しい人も、わたしに、たくさんは召し上がるなといってお酌してくれるので、少なくした。
大江戸線の都庁前で田中君は本郷三丁目の方へ乗り換えた。九時だった。楽しかった。 2002 8・17 14
* 嵯峨厭離庵裏の藤原敏行君が、日本橋高島屋で日本画の個展を開いていて、惜しいことに画家はもう京都に帰っていたが、会議の前に見に行った。白い芙蓉の絵と白い牡丹の絵が清潔に優美に描けていた。全体におとなしい。すこしおとなしすぎるかも知れない。技は十分あるのだから、父上の孚石さんの画境のように、また家の藝の嵯峨面のように遊んでみても欲しい。白川の枝垂れ柳を描いたのなど、細い石橋も見えていて懐かしかったが、いますこし別の描き方はなかったろうか。
* 空腹だったので食堂で久しぶりに五目のラーメンを食べたのがうまく、野菜は少し残して、つゆを美味しく吸いきった。花彫の紹興酒もすてきにうまかった。
2002 9・10 14
* 歯の治療が終わった。三ヶ月かせめて半年ごとに来いと言われた。このまえは三年近く間をあけたようだ。歯がぐらつかなかったら、もつとサボっていただろう。四十万円ほどかかった。これは仕方がない。丁寧によく仕上げてもらった。
西洋美術館でのウインスロップ・コレクションのレセプションまで三時間半も間があった。鶯谷の駅前の馴染んだ蕎麦屋にはいり、特製のソバガキで酒を飲みながら、本の校正に余念無かった。そのうちに天麩羅とじで蕎麦が欲しくなり、また酒を頼んだ。この店は酒の徳利と猪口が染め付けで、なかなか佳いモノを出す。
蕎麦屋で酒というのが好きである。徳利が大きいのも、いやしいが、有り難い。それでも一時間あまりあまったので寛永寺の広い墓地の中を歩いたが、えらく豪勢な大きな墓の多いのにビックリした。国立博物館をぐるりとひとまわりし、ついでに東洋館に入り、それから西洋美術館に三時に入った。
バーン・ジョーンズやガヴリエル・ロセッティらのコレクションで、質はかなり佳い。絵は、人により好き嫌いがあるだろう。ギュスターヴ・モローがわたしは文句なく好きであり、ジョーンズやロセッティは、是々非々。丸谷才一氏と会った。他にも黙礼されたりしたが誰とも覚えがなかった。かなり完備した図録がおみやげに出て、これが目当てで出向いた。最近の図録はほとんど研究書ほどに詳細で大部。重い重い。レセプション会場で、赤いワインのグラスを三度ほど替えた。
2002 9・13 14
* さてまあ、その「待合室風景」の一つと言えようか、高校(東京)同窓会というのが、今日慶應プラザの高い高い所であった。だが残念ながらこういう催しに今のわたしは心を惹かれない。
それより先に、橋田先生や、石本正氏から案内されていた、上野での「創画展」を観てきた。上村松篁亡く、秋野不矩も亡い。石本さんの絵はモナリザを意識されたか、または本尊画のようにして、遠い山水を背景に半裸婦が真正面に大きく描かれていた。わるくはないが、いつもの絵でもあった。橋田さんの絵は品格ある草花の絵であるが、去年のよりおとなしく少し力よわい感じを受けた。わずか二、三、目に留まる作品があっただけで、例の如く、凡庸に騒がしい絵ばかりの並んだ雑駁な展覧会であった。
2002 10・19 15
* 明日夕過ぎてから、唐津焼の「西岡小十と八人の会」のレセプションがある。世話人の一人が石川県鶴来の銘酒「万歳楽」醸造元の小堀甚九郎翁で、「湖の本」の久しい読者。この人が会に顔を出してくれと声を掛けてきた。賛助出品の八人の中には、茶杓削りで名高い西山松之助老先生も有れば、茶碗を自作する細川護煕氏も藪内の家元も加わっている。西岡老人は茶碗が佳い。唐津のごつい水指や花生けがそうは好きになれないが、この人の井戸や朝鮮唐津の茶碗には品格が感じられ、ま、高くて百五十万円ほどの売値は、それぞれ三分の二か半額が良心的なところだろうが、ま、三越だから、上乗せ分がキツイのは仕方ないか。
鶴来から出て見える小堀さんや、西山さんの顔を見に行こうと思っている。
2002 10・21 15
* 三越本店での「西岡小十と八人展」は、唐津の小十を中心に、長唄の今藤長十郎、学者の西山松之助、元総理の細川護煕、画家の小杉某、徳禅寺の住職とか藪内の家元とか、要するに「けっこう」な遊び人たちが、、絵付けしたり何をしたりの賛助出品。こういう組み立ての会は、お遊びとしてあちこちでよくやっていて、ほんとに「けっこう」な人達である。
小十の作品は、朝鮮唐津や粉引などの茶碗が格高く、絵唐津や井戸はボテッと重く、気に入らなかった。もともと、わたしは、重くて分厚い日本の土ものが、さして好きでない。ま、小十といえども最良とは思わない。だから見え透いたお世辞たらだらの画商や坊さんやフアンの長い挨拶には閉口した。タネのいい寿司をちょこちょこっと戴いておいて、さっと引き揚げた。展覧会だけで帰ろうとしたが、万歳楽の会長がどうでもレセプションまでいてくださいよと引き留めた。引き留められた御陰か、お土産に小十作のゴッツイ鯛の箸置きを一対貰った。これは佳い。
日本の国は平和で暢気である。細川元総理の暢気なこと、ともあれ世界中を飛び回っているカーター元大統領とはえらい違い。どっちがエライかは分からないが。
2002 10・22 15
* ウインスロップ・コレクションを二度観たが、わたしの注目したのはギュスターヴ・モローやビアズリーだけでなく、とても快い印象を得ていたのは、アルバート・ジョセフ・ムーアの三点だった。「花」「銀梅花」そして「ふたりづれ」はそれぞれリクツ抜きに「美しかった」のだ。画面から読みとらねばならない文学も伝説も神話も排除して、それらからの影響や侵略を避けて、ひたすら美しく描かれている。美に徹している。
ウインスロップは、モローといいバーン・ジョーンズといいロセッティといい、あるいはアングルの場合もそうだが、絵画がそのまま神話や伝説や文学・聖書に奉仕した例が多い。奉仕が語弊をうむなら、相互に余りに緊密なのである。それがかなり鬱陶しく、また画風も重い。モローの何点かは抜群に美しいが、画題の知識や図像学的な知識があるとないとで、絵解きには相当な差が出てしまう。出てしまうと思う分、よけいにそれに囚われる。
ムーアの絵の完璧な美しさもさりながら、彼の場合、画家がみずからそういう鬱陶しい負担を排してくれているぶん、素直に画面に陶酔できるのが、心安らかなのである。唯美主義といい美の信仰といい芸術至上主義などというと軽薄なように聞こえるが、ムーアの絵は、実に確かに構築されて魅力的である。「花」のすらりと丈高いギリシア風の女の白いロープ姿。「銀梅花」のヴィーナスを思わせるほど完璧に美しい半裸座像。そして「ふたりづれ」の見事な絵画的勝利。この三点を観るだけのためにも、もう一度出掛けても佳いなあと思う。
2002 10・29 15
* 九日から五島美術館が「名碗展」をひらく。今日、立派な図録と招待券を五枚贈ってきてくれた。五島美術館へはパスも貰っているので、この券は、よほどお茶碗に興味のある人に贈りたい。
2002 11・5 15
* スペインに勉強に行っていた卒業生が、一年余を経て帰国したと昨深夜に連絡があった。落ち着いたら私とも逢いたいと。どんな土産話があるだろう。
五島美術館の「名碗展」招待券を卒業生の二人からそれぞれに希望してきた。男性と女性と。
茶道具の中で、何といっても最も興味深いのは茶碗である。茶碗ほど微妙に「空間」を餌食に生きている道具は少ない。茶室という時空を、源点になって、支配してくる。展覧会の陳列棚では、嘆賞するには限界ありといえばその通り。五島でも出光でもサントリーでも、茶碗となるとガラスケースに陳列している。致し方ないが、茶碗の魅力は掌に抱いて唇をつけた時、最高に生きる。ま、ないものねだりしても仕方がない。
男の卒業生は、「先週末、お茶会に参加してきました。そんなに緊張するでもなく点前する事ができましたが、大盛況で、朝から夕方まで休む間なく、けっこうハードでした。良くもこれだけ人が集まるものだと感心してしまいました」と。たしか根津美術館の茶室をつかったようで、あそこの茶会は、いつも大寄せで賑わっている。
女の卒業生はいま心に傷を負うている。ひょっとして偶然に、国宝の青磁「馬蝗絆」や「満月」、木の葉天目や青井戸や、楽初代長次郎の「無一物」「大黒」などを、二人が偶然にならんで熱心にのぞきこむかも知れない。それぞれの思いに、無比の名椀がどう呼びかけるか、楽しみだ。明日が公開の初日である。
2002 11・8 15
* 機械の前から、椅子のママ左へ視線をややさげると、ファックスのわきに、一枚の絵はがきが立ててある。第九回日展(日本美術展覧会)の京都会場で、なけなしの小遣いで奮発して買った、おそらく生まれて初めてそんなのを買った、それほど感銘を受けた、絵だ。かちっとした、革らしいソファに素足で腰かけこっちを見ている、細面の理知的な女性像である。作者は、鶴甫。題は「寸憩」で、「特選・朝倉賞」を受賞している。この絵ほど「受賞」に納得した絵は、それ以降の莫大な絵画展体験でもめったにない。
日展の数え方が年一回展だったか、春秋二回あったか忘れているが、昭和二十三年の第四回展から「書」が加わった。以降年一度とすると、この絵に出逢ったのは昭和二十八年、高校三年生の春か秋かである。それより遅いと云うことはない。
そんな数十年もむかしの絵葉書が、なおわたしを惹きつける。把握のつよい、ゴマカシの微塵もない毅然としたフォルムと表現で、描かれている女性その人をすら、わたしは子供ごころに尊敬したぐらいであった。袖無しの白いヴラウスの、襟ぐり胸元でちいさく蝶結びにしてあり、結び目の下がブローチかのように素肌がのぞいている。上半身かすかにかすかに前掲しているのかも知れないが、胸はしっかり豊かで、スカートは淡泊なほどのブルー。右脚はスカートをはね膝から真っ直ぐ強く素足で前へ踏み出され、左脚は膝もろとも左へ、クイと開いている。スカートがながめで少しも行儀悪く感じない。視線も真っ直ぐ、強く、凛然。無造作にひきつめた髪は、だが豊かである。なんとなく、この絵を観ていると励まされるのである。
鶴甫という画家のことはくわしくは知らないが、ウェブサイトで検索可能な人のようである。
2002 11・18 15
* 最後の一枚になったカレンダー、松篁さんの「柿紅葉」の色好いこと。小枝の小鳥は頬白か、ひたきか。灰色の背景に淡い白のはだれが雪を予感させる。まだ十一月の風情もはなやかに、柿紅葉のされたあかみや黄色みの、目にも、思いにもほうっとあたたかいこと。卒業生達の、いろいろにメールをくれるつど、よそへやってある子供達の便りのように胸がことこと弾む。
2002 12・2 15
* 昼前に妻と出て、池袋「ほり川」の旨い寿司で昼食し、JRで目黒へ、東急で大岡山経由、上野毛の五島美術館へ「名碗展」を観に出掛けた。東工大にいた頃は何度も学生達を連れてきた。一人でも来た。今は芸大教授の竹内順一さんのはからいで、パスをもらっていて、学生を何人かは連れて入れた。今もおなじ特典を戴いている。保谷からはかなり遠いのだが、思えば等々力の東横短大まで一年間授業に出掛けたのだ、上野毛は等々力のすぐ並びである。
雨のあとの晴で、大きな木々がしっとり。晩秋ともいえない初冬の残紅残黄はやや色すがれながらも、かえって美しい。妻とは、はじめて。余り遠いのでよほど調子の良いときでないと誘いにくいが、期間も残り少なく、はるかな昔の婚約も記念する気で出掛けた。茶碗は、立派な図録が贈られてきて以来妻も観たがっていた。
* 期待にそむくわけもない、それはもうみごとな展観であった。展示室にはいるのに、十五分ほど行列待ちしたし中はもう数珠繋ぎに名碗の前からなかなか動かないような人、人ではあったけれど、それでも、観てきた。わたしが一人ならもう二倍は時間を掛けていただろうと思う、去りがたい佳さであった。
欲をいえば光悦は出ていない。
しかし砧青磁の名品「馬蝗絆」「雨龍」があり、天目は国宝もふくめ綺羅星のよう。井戸茶碗は「喜左衛門」以下、鳴り響くように銘碗が揃った。圧巻は楽初代の長次郎が「大黒」以下、これでもかというほど、かつて知らぬほど居並んでいて、めまいがしそうだった。伯庵ものも織部も志野も。一つ一つあふれるほど感想はあったが、、むしろ、言葉にはして置くまい、自然に言葉の感想は忘れて、眼に残った美しさ、つよさ、優しさを覚えていたい。
* 深くがけの下へ沈んでゆく、このへんの地勢に素直に馴染ませた紅葉の庭園をゆっくり散策してきた。やっと今年の残り紅葉に間に合った、それほど今年の秋は出掛けなかったと見える。
上野毛から二子玉川まで行き、駅の長ぁいホームから多摩川の下流を眺め上流を眺めて、妻も私も気が晴れ晴れした。お天気に恵まれた。昨日は寒いような雨であった。
ホームを換えて、半蔵門線に接続している東急電車にのりこみ、社中で妻は増強のくすりを服し、電車終点の水天宮まで乗っていった。
以前に、京都造形美術大学の東京でのお披露目があり、芳賀学長に呼び出されてこの近くのホテルでの宴会に出たことがある。市川猿之助が副学長だとかで、彼の歌舞伎談義をながなが聴いたあとさっさと抜け出して、水天宮に一人で参った。谷崎文学にもゆかりの地、気分が直ったので神社の床下のような寿司屋に入って、一人で旨い酒と肴をたくさん楽しんだ。その楽しかった記憶があり、電車の便宜を幸いに妻を誘ったのである。
水天宮さんは街より一段高く、まるで二階に浮かんだ風情がおもしろい。ま、安産を誰のために祈る折りではないけれど、お賽銭も入れてきた。
風情もよく珍しい店もちょくちょくの宵街をそぞろ歩いて、翠蓮という地下の中華料理に入った。そんなには食べられないわと言いながら、出てきた料理がみな口に合い、妻もほぼ一人前のコースを食べた。瓶出しの佳い紹興酒もたっぷり飲み、疲労も取れて、さらに人形町の方まで散歩してから、日比谷線で銀座へ、銀座から有楽町線の銀座一丁目まで銀ブラして、地下鉄にもうまく座れたを幸い、保谷まで一本道、ねむりを取りながら帰り着いた。玄関をあけると、黒いマゴが頚の鈴の音もかろやかに、嬉しそうに迎えに出て足許から離れない。
と、ま、久しぶりに、のーんびりとした楽しい遠足であった。観ものは名品、食べ物は旨く、上野毛、二子玉川から水天宮までと、予定もしなかった遠足が、心嬉しかった。
2002 12・5 15
* 新宿小田急の「上杉吉昭展」へ、絵に志のある人を連れて行った。なにかが掴めるのではないかと、少し余計なお節介をした。絵に志すのも、いろいろで、小さい頃から描き始めた人もあり、大人になり社会にも出てから、心新たにまた「芸大」を目指して勉強するという人もいる。この道も容易でない。
上杉さんは私と同年、芸大で小磯良平の教室にいた。温雅に清潔な風景をよくされる人で、基本のデッサンが隅々まで生きて堅固な把握が出来ており、すこしの動揺もなく、画面がしーんと奥深い。それが大きな魅力で、また一つの壁になっている。もう一つ突き抜いて欲しいものもある。何といっても観ていて思いが落ち着き、気持ちが優しくなる。癒し系という言葉がはやるが、たしかに癒される風景画である。そこに暖かい喜びと、その向うを庶幾したい見えない扉もある。
金沢へ帰った我が友細川君の消息も少し聴けて良かった。亡くなられた懐かしい橋本博英画伯の奥さんは、昨日来られたと。お目にかかりたかった。
2002 12・12 15
* 洋画家上杉吉昭氏から、『橋本博英追悼文集』を送って戴いた。懐かしい人。生涯の出逢いの中で、私には十指のうちに数えているほんとうに懐かしい優れた人であった。優れた画家であった。まだ東工大に出ていた頃だった。石川の万歳楽利き酒の会の流れで、人に連れてゆかれた銀座の鮨屋。そこで、たまたま、その一度だけ、その店で同席したに過ぎない。あとはせいせい三度ほど画会で顔を見合わせた。文通は多かったし、私の送る本をけれんみなく読んではよく褒めてくださった。いいかげんではなかった。作品が気に入ると、ご褒美のように新潟の名酒秘酒をよく送ってこられた。ながく足柄におられ、病気が進んでからは東大にちかい西片町に帰っておられたようだが、例の遠慮をするタチで、伺うこともしないうちに亡くなり、落胆した。
今も夫人は湖の本を買い続けてくださっている。
文集を読んでいると、思った通りの橋本さんが生き生きと立ち上がってくる。たまらなく懐かしい。
文学ではなく絵画の世界の追悼文が並んでいても、そこに文学のよく分かって愛していた画伯の気持ちが、汲み取れる。それと、実に厳しい、基本への愛。この人がどんなに石膏のデッサンのうまい人であったかは、いまなお芸大では語りぐさになっていると聴いている。その上で、彼は高雅な自然を暖かに確かに描いた。懐かしい人。俗なものを微塵ももたなかった、磊落で無私なお人であった。
2002 12・26 15