* 故橋本博英画伯の奥さんから、求龍堂刊の立派な画集を頂戴した。とても重い。
橋本さんのことはこれまで何度も書いてきた。知己という二字のまともに嵌る有り難い知己だった。出逢いは銀座の「菊鮨」で。カウンターで隣り合い、初対面なのにいろいろ話した。同じカウンターに、まだ児太郎だった今の中村福助がフィアンセと来ていた。そんな二人に背を向けたまま橋本さんのお酒は小気味よかった。少し巻き舌に、だが言葉の中身は酔っていなかった。仙骨の画人だった。
それから長くお付き合いが続いた。深く読んで下さる有り難い読者でもあったが、惜しいことに亡くなられた。死なれた思いにかなり滅入った。そして奥さんが、読者であることを夫君から引き継いで下さった。
* 清明な画風で、油彩を煩わしいものにしないで小気味よく構成した風景を描かれた。画集を拝見し、懐かしい懐かしい気持ちで胸の奧が濡れた。しおれた。
画集には詳細な瀧悌三氏の一代記風紹介があり、画風にも触れてある。広らかな風景も林間のおぐらい風景も、心もちの静かな美しさを湛えて抜群のデッサン力を想わせる。ぜひ大きな回顧展がひらかれて作品の多くにじかに触れたいと願う。
2007 1・23 64
* ドレ画の「ドン・キホーテ」を読み終えたので、大作の本編に入った。地ならしが出来ているので、面白く読める。
また新しく、ル・グゥインの河出版の新作小説も読み始めた。
一昨夜、昨夜と、夜更けまで橋本博英画伯の全作品画集をじっくり拝見した。瀧氏の一代記と批評とも全部読んだ。しっかり身にしみて画伯の全容を抱きしめた心地がする。
* ねむくてガマンできない。
2007 1・25 64
* 亡くなった画家金谷朱尾子さんの画集に、「慈子の風景」と題した大作が二点あるのを、岡山の有元毅さんに教えて頂いた。教えて頂いていたのを機械の復旧で知ったが、画集もおくってくださり、感慨深し。
2007 2・3 65
* 「TVタックル」を聴いていても、情けないばかり。
* 郵便物の仲から「茶道の研究」二月号をとりあげ巻頭の茶碗の写真に一瞬声が出た。一瞥、魅された。観ると、当然だ、大きな窯割れ、金繕いがみごとな景色に化けた本阿弥光悦作、赤楽の「雪峰」ではないか、光悦茶碗でわたしの一二に好きな、まろやかな一碗。理屈も何もない、それも写真にすぎないのだが、ジーッと観ていると目頭が熱くなる。
安倍総理だの柳沢大臣だの桝添代議士だのという不快なモノを拭うように忘れた、残念ながらしばらくの間だが。
たった一度だけ、鷹峯の光悦会に叔母にくっついていき、茶席で、光悦の黒茶碗で一服戴いた。上気していたがお茶はおいしく、茶碗の器量は莫大であった。茶碗に負けていると思い、その思いを大事に思った。茶碗の銘をそのまま忘れた。銘という名前を通して大切なものが逆に忘れられてしまいそうなのを畏れた。
光悦寺。鷹峯。光悦会や洛趣会。懐かしい。
自転車に光悦籠と魔法瓶とを積み、新門前から鷹峯へ走って、入り口の竹筒に十円玉を落としてひっそと庭に入り、紙屋川の瀬音のきこえる山の斜面、数ある中の一つの茶室の板戸をあけ、畳に腰掛け、鷲と鷹とのまろやかな山容を「感じ」また「眺め」ながら、一服、二服のお茶を点てて喫んだ。嵯峨といい北山といい、ああいうことが高校生、大学生のわたしに出来た街であった、京都は。
妻とも行った。娘夕日子も連れて行った。
2007 2・5 65
* 診察の結果は、従来にない最悪。計測血糖値はさほどでない低いぐらいなのに、何とやらいう数字がひどくわるくなっていると。この分では、近いうちに糖尿病合併症は必至で、目か、骨か、心筋梗塞か、予測は出来ないが「ある日突然にドカン」と現れると医師は切言する。ある日まで自覚的な病状は無くてドカンとくるそうだ。だから食うな飲むな体重を減らせと言われる。ドカンは恐ろしいが、どんなドカンなのだろう。
診察前の待ち時間に院内食堂で「ノート」を書き、診察後、銀座松屋で日吉ヶ丘の後輩で、最近総理大臣賞を得た岡村倫行展に立ち寄った。おりよく画家もいたので繪を観ながら歓談。繪はいわゆるスケッチ、素描を、高校時代の習作もふくめならべ、楽しい画展だった。
わたしより十ほど若い。とうに授賞したと思っていた。日吉ヶ丘では勝田哲さんの最晩年の弟子にあたっている。
2007 2・16 65
* 愛蔵の秦テルオのしみじみと冴えた「出町雪景」をだしておいても、この二月ばかりは画趣がまるで生きない妙な陽気の冬であった。厳寒はつらいけれど、一日も雪をみない真冬も異様だ。やがて夏の暑さが、思いやられるどころか怖くなる。
2007 2・25 65
* 午後、東京會舘と銀座泰明画廊に走って、故橋本博英画伯の遺作展を観てきた。
2007 3・2 66
* 兼好法師に多くを聴いて育ったわたしは、家や部屋にものの溜まるのをいやしいと感じてきたのだが、いかにも抗するすべなく、本をはじめとし、ま、本は商売道具でもあるのだが、他に、貰ったり買ったりしてきた絵や工藝だけでもたくさんになり、自然と溢れていて必ずしも適切に遇せていない。申し訳ない。
せめて季節と場所をえらんでこまめに掛けかえるといいのだが、年々歳々の無精がつのりはびこり恥ずかしきていたらく。きのう衝動買いしたシャガールもどこで適切にひきたつのか、少し頭が痛い。痛いけれど楽しみだ。
カレンダーはたいてい美術ものをつかうので、その月々がすぎたあと、つい棄てるに忍びず作品だけがそのへんにふわふわ残される。竹内栖鳳の繪は、蛙でも猫でも、とてもすてるに忍びない。「お父さん」が描いてくれた繪もついいつも眺めていたく、狭い部屋の壁面を占めている。俳人荻原井泉水米壽の朱印も美しい「花 風」の二字額もわたしの身辺には欠かせない。「秦恒平雅兄一餐 井泉水」と添えてある。
2007 3・15 66
* 三時半から「京都美術文化賞」の選考會。清水九兵衛さんを欠いて淋しい。
梅原猛さん、石本正さん、三浦景生さん、それに新任の元京都近代美術館館長の内山武夫さんと五人で。
今回は日本画、洋画、染色から三人を選考した。わたしは、すこし年配ではあるが入江波光の子息酉一郎さんを推して、みなの賛同をえた。清水さんの後任にだれかを決めねばならず、梅原さんの意向に任せた。
2007 3・22 66
* 会議のあと、かねて計画通りすぐタクシーで清水坂にむかった。三年坂のうえ、経書堂で下車、あいにくの雨におそれをなしてすぐ土産物店で傘を買ったが、すぐやんで、荷物になってしまった。
丹念に、なめるように界隈をさぐって写真をたくさんとった。清水寺の真下までいったが、本堂へは上がらなかった。
三年坂で、甘味がほしくなり、昔からある古い甘党の店でぜんざいと、おはぎ付きの抹茶を、おいしく。「糖尿病とちがいますかあ」と図星をさして呆れられた。
この店に、色遣いの懐かしいパステルの舞子繪があった。つるた・げんたろう。優しい小品。写真を撮らせて貰った。
「永年お店してましても、繪ぇ観てもの言うておくれやすお人て、ほんま、いやはらへんの」と女将は歎くが、三年坂、清水道に殺到している若い人たち、外国語の人たちをみていたら、そうやろな。
花にはまだ早いが、清水寺楼門前にも、興正寺参道にも、こころもち早咲きの桜を観てきた。とにもかくにも今度の京都はこの界隈で全部の時間を費やしてもいいと思っていたので、暮れて行く清水道をゆっくりゆっくり高台寺のほうへくだり、そこまで行かずに途中の辻を西へ折れ、旧竹内栖鳳宅の前へ抜け出ていった。ここも佳い路で。
そしてとっぷり暮れた人けない石塀小路へ入り、ただ通り過ぎる気でいたが、「サバティーニ」がひっそりと高級そうな店を出しているのみつけて、入る気になった。ピカソの署名入りリトグラフを階下にも二階の食堂にもふんだんに飾った、それだけでもご馳走の、行儀のいい店だった。シェリーと白ワインとで凝ったパスタもついたコース料理を、本を読みながらとっくりと堪能した。
正直の所、「銀座レカン」や「京都萬養軒」のフランス料理ほどはいかない単調な料理であったけれど、ひれ肉の炭火焼きがじつに食べやすく美味かった。赤ワインも欲しかったが、少し遠慮した。気持ちの良い店であった。
下河原へ出てみるとそこにはなじみの「浜作」があるのだし、なにより「美濃幸」のような料亭もある、此処で食べても良かったなあなどと贅沢を思いながら、ご神灯のあかあかとした八坂神社にお参りし、宵明かりの四条大通へ降りていった。
ちと思案して東山線からもとのすみかの新門前へ向かったのは、「mixi」で知り合った店が、我が家の筋向かい辺にあると知っていたから、だが、惜しくも店は開いてなかった。足裏もふくらはぎももう疲れて痛んでいたので、思いきってホテルまで車をつかった。部屋で缶ビールをのみながら、湯もつかわず、「K19」というハリソン・フォードの映画を一本観て、そのまま部屋の灯も消さずに寝入っていた。
2007 3・22 66
* 京で歩き疲れてきたか、本を読み終えて寝入り、ま、熟睡、少し朝寝坊した。
買い求めたシャガールの『天使の湾』が届いた。無用のモノのはみ出して落ち着きのない玄関だが、会津八一の額装した「學規」のあった位置がいちばんよろしく、掛けてみた。ぴたりとはまった。美しい。好きだ。
「學規」はこの機械部屋に、井泉水の「花・風」の大字と向き合わせに高い位置に掛けよう。
和風の家だが、居間には、ダリの署名入り、綺麗な青い細い線の疾風なす回旋描き、馬上の二騎士が真っ向長槍をかざして激突する、大ぶりの繪が掛けてある。キッチンにはキューバの風景画。
2007 3・24 66
* 梅原猛さんと二人で編集顧問をつとめている雑誌「美術京都」がようやくNO.38を出した。この号の巻頭で、梅原さんが陶藝作家秋山陽を迎えての対談『<土>とは何であるか』がとても佳い。面白い。
この村上華岳の墨の繪を表紙に置いた年二冊の雑誌は、巻頭対談と、六、七十枚も量をさしあげる長い論考一作とで、構成している。その方が意を尽くせるからだ。この号の論考は、京都工藝繊維大学大学院教授である並木誠士氏の、『中近世絵画史における扇絵』。これも面白い。
団扇絵についても誰かに書いて貰おう。
2007 3・28 66
* 女流陶藝展の審査をしたことがある。京都の市美術館での大きな展覧会で、開会まえに床にならんだ夥しい作品から各種の受賞作を選んでいった。備前の川井明子さんと泉涌寺の松井明子さんとに最高賞がいった。河北倫明さんがまだお元気で審査委員長だった。温厚の長者だった。あの先生にもずいぶん引き立てていただいた。
受賞した松井さんに後日頂戴した陶藝小品に、肩のすこしへこんだ、赤白黄色緑色の紙風船がある。吹き込み口がそのまま一輪挿しにつかえるし、そのままでもはんなりと佳い趣味の置物につかえる。いま、それが布谷智君つくってくれた機械の上を明快に飾っている。
松井さんの夫君が日吉ヶ丘でわたしと同期生であったことなど、のちのちに知った。
備前の川井さんには文部大臣賞受賞作と同じ手の大きな壺を後に頂戴した。煎茶セットや佳い鶴首の花瓶をを買ったこともある。花瓶はいま息子の仕事場に在る。
そういえば同じ時に別の賞をとった姫路の永田隆子さんは、瓢箪から駒のあんばいで、わたしのために、金銀日月のすばらしい骨壺を創って下さった。いまは花瓶につかったり、そのまま飾ったりしている。あの大きさならわたしの骨は全身全部入るかもしれんなあと書庫のカウンターの骨壺を日頃眺めている。
* わたしの「湖(うみ)の本」創作・エッセイのシリーズが、それぞれ城景都氏のみごとな作画で表紙を飾られていることは、今では知る人が多い。今日久しぶりに氏に戴いた画集『花の形而上学』を開いてみて、決定的な確信でこの本から表紙画を選んだ二十余年前を思い出した。あれより何年か前に「藝術新潮」にミニァチュア絵画に関する原稿を依頼され、託された資料のなかで初めて城氏の作に眼を見張った。その体験が、ほとんど何の迷いもなく城景都作品を表紙にしたいと決意させた。上の本を、雑誌が出たあと著者から贈られていて、その画境にわたしはさらなる瞠目を強いられた。刺激的な画題であり、しかもその線はあくまで等質のなかに無機性を超越した豊饒な情感を湛えてしかも清潔であった。
その後も、城さんからたくさんな作品を頂戴してきた。いずれも優れてオリジナルな詩情と表現で、わたしをどきどきさせた。たいへんな「お宝」である。金銭に評価するのではない、まぎれもないユニークに優れた藝術が此処には在る。今夜も、ひさびさにわたしはどきどきし、その新鮮度はさらに増していた。それに感動した。
2007 4・11 67
* 雨には聴く嬉しさがある。曇り日は好まない。講演を聴きに来ないかと誘われていたが大儀で。
銀座に観たい墨画の個展がある。もう二三日余裕があるので晴れるのを待とうかと。
自転車で、地元まわりの用を済ませてきた。花粉か、くしゃみ連発、洟ぐずつく。なんとなしに気だるい。
2007 4・24 67
* 先日ある雑誌を見ていたら、美術批評では研究者なみに知られた名の人が、「祇園井得」にめずらしげに触れていて、この幕末の画家のことは、大きな事典にも出ていない、文献もほとんどない、誰も名も知らない絵も知らないような、しかし優れた画家だと特筆していた。
特筆は嬉しいが、この認識は、今日では時代おくれである。土居次義先生のかなり詳しい論考が出たのは大昔のこと、わたしですら小説『閨秀』で、井得と、松園女史の画業とに繰り返し縁の深かったことを証言しているし、テレビでも話しているし、大きな図録にも長いエッセイで触れている。
雀さんの謂うその『美人図』こそ、松園の名作『天保歌妓』の原作かのように、繰り返し勉強されていた間違いない井得画であり、彼の展覧会もちゃんと開かれていた。{「ぎをん」というさほどでない広告雑誌だから甘く見ていたか、事実案内不足なのか知らないが、筆者の名前を見ておやおやと思った、著名な専門家だ。ただしこういうおやおやは、自分でも、人に何度もさせていることだろう。
これなどましな方で。
ある文藝関連誌の表紙に、國の大きな顕彰をうけて世にときめいている人の、小説の書き出し原稿用紙が、綺麗に写真で出ていた。字もちゃんと読める。で、半枚も読んでみた。小説だから読んだ、随筆ならわざわざ読まなかった。読んでおどろいた。
書き始めの一行から、先へ何行すすんでも、みな、手あかだらけ、慣用句だらけの、こっちが恥ずかしいほどの俗文字。
これだからなあ。
思い上がっているのか、思い上がらせているのか。
2007 4・29 67
* 星野さん お志のええお茶たまわりました、恐れ入ります。ありがたく頂戴いたします。
不染鉄は、野さんの「三塁打」ですね。よくまあ。
いま東京藝大の学生が古美術めぐりで一斉に京都奈良で勉強しています。そのなかにわたしの東工大での教え子がいます。院を出て大企業に入り、一転藝大の油絵をめざして受験、三年目に合格していま二年生の女性。
もし京都で自由時間が出来たら星野画廊さんを探してゆきなさいと勧めてあります。顔を出したら、いいものを見せてやって下さい。
六月また蹴上での美術文化賞授賞式に出向きます。
ご活躍を。
絵を入れる余裕はないんですが、図版のいらない絵画論を、ペンの電子文藝館に出稿してくれませんか。奥さんも入会されませんか。 湖
2007 5・12 68
* 今日特筆すべき、一つ。会議場のあった東京會舘ギャラリーで、上村松篁の絵を一点即座に買ってきた。福井良之助の雪景もいい絵であったけれど、三百万円はちと高い。ハハハ。
2007 5・30 68
* 掛け軸はいくらかあるが、やはり額が使いよい。松篁さんの「白鷺」親子三羽は画面がほどよい大きさで、即座に心惹かれた。見過ごしたら手に入らないと思い、すぐカードで支払った。静かな心で向き合いたい。美しいダリを建日子に譲り、我が家でいちばんひろい壁に掛けたい、到来が待たれる。
東京會舘の連絡で、明日には届くそうだ。
2007 5・31 68
* 東京會舘ギャラリーから上村松篁画『鷺』無事に届いた。昨日、はじめの理事会に十五分ほど間があるうちに、ギャラリーを観て、躊躇なく買った。まわりの映りから、玄関にかけて美しく嵌った。白鷺三羽。「雪」風情ともみえる鳥だが、夏場にもしみじみと佳い涼味を想わせるはず。
絵の右わきに、少し高く能の「小面(こおもて)」がかけてある。そして小学館版日本古典文学全集が全冊、松篁画や能面と照応して我が家の「関心」を示している。
居間には、署名のあるダリのリトグラフ、冴えた藍青線画の大作で、事実はそうでないが何となしにドン・キホーテが勇戦の図とわたしは観ている。そしてシャガールの澄んだ朱色の印象的な、人と風景との鮮烈なリトグラフ。
和室なのに、西洋のシュールな色彩がぴたっと似合ってくれる。
松篁画、電子文藝館にみずからピリオドを打った佳い記念になった。自分で自分にだした美味い具合のご褒美になった。
2007 6・1 69
* マイミクの二人に、美術の話題が出ていて、つい一服がわりにコメントさせてもらった。また上野の博物館か東洋館か表慶館か。人の少ないところをぽつりぽつりと見て回りたい
2007 6・3 69
☆ オハヨ ちょっと時間がかかったけど、足、順調に回復してよかった! これからもお気をつけて。
栗の花、匂い始めました。華やかな額紫陽花と素朴な山紫陽花が満開で、爽やかな朝です。
年寄りの型通り、就寝、起床時間が早く、もう洗濯も済ませて一服です。
『墨牡丹』、以前に読んだ頃は、まだ華岳の作品を何点も観ていなかったと記憶します。その後、竹橋(近美)で華岳展を観せて戴いたのでは。上野博物館等でも何点も、意識して。当時と「読む」姿勢が違います。
初っ端、円山公園の矢場や馬場、あったあったと懐かしく、フイクションなのに、場面は目の当たりに、懐かしい。朝の楽しみに。
最近は快調でバドミントンのポイント上々、今日も元気に汗かいてきます。 古稀女
* 白状すると、「華岳」について原稿を頼んできた最初は「美術手帖」だったろうか、わたしは画家の名すらろくに知らなかった。原稿依頼を断る勇気のまったくない駆け出しの新人作家は、要するに臆病から執筆を引き受け、村上華岳に初見参したのだった。
だがその原稿を書いてから先の、感動と勉強とで、わたしは村上華岳という、近代で一という人もいた画家に、心血を注いでいった。そして長編『墨牡丹』を大判時代の「すばる」巻頭に一挙掲載の一九七四年九月、二足のわらじを脱いで独り立ちした。「NHK日曜美術館」が始まった第五回目「村上華岳」に出演し、あれで、多くの人がこの優れた画家に初めて出会われた。中央公論社の画集をはじめ何度も解説やエッセイを書いたし、その縁で福田恆存、梅原猛、立原正秋らと識りあった。国画創作協会の創立メンバーのうち、日曜美術館では、華岳についで、土田麦僊、入江波光にもわたしが出演した。その波光の子息酉一郎さんを今年の京都美術文化賞にわたしが推し選者一致で授賞を決めた。ご縁が深い。竹喬さんや紫峰さんのことも何度も書いた。いうまでもない華岳の繪に心底讃嘆したからのご縁だが、最初の原稿依頼で逃げ出さなくてよかったと、今では蛮勇の出逢いに大感謝している。
上のメールに「竹橋で」とあるのは、近代美術館で大回顧展のあったとき、特別講演を引き受けたのであった。会場で、奈良からわざわざ見えた歌人の東淳子さん、熱狂の愛読者だった横須賀の小林志津さんと出会っている。東さんにはみごとな香を頂戴したのも懐かしく、今も「湖の本」を支えてもらっている。
なぜそんなわたしに華岳原稿の依頼が来たか。たぶんそのときにはもう、『閨秀』で上村松園を書いていたのだ、吉田健一さんが「朝日」の時評でその一作をあげて賞賛して下さったのが大きかったのだろう。梅原さんと一緒に美術賞の選者や雑誌「美術京都」の巻頭対談をもう二十年余もつとめているのも、有りがたいご縁の一つ。
* 五月の「私語」をファイル68に一括した。
2007 6・6 69
* 柔らかい色々の朱の小珠、十三、四の紅花が手洗いに咲きそろって、とてものことに便所という気がしないほどわたしを喜ばせる。花ってなんて佳いものなんだろう、美術展にいっても花を観るときのようにどきどきさせる作品にはなかなかお目にかかれない。名もない小花でも道脇の花でも、花は例外なくわたしを惹きつけてやまない。
2007 6・24 69
* 今朝嬉しかったのは、すこし早いが山種美術館のカレンダーを七月にめくった途端、西村五雲の愛らしい金魚の繪があらわれたこと、題の「金鱗」は重いが、繪は清冽、軽妙、爽快。受け網にさらっと掬われた三四尾、体躯は短くふっくらと尾鰭のひらきようが美しい。観た瞬時、わたしの身内に
どんなに莫大に幼年のころへの懐かしさがのこっているかが感じられ、涙ぐみそうになった。泉水に游がせていた金魚たちは、こういう姿でなかったし、ちいさい川魚もいたが、わたしの夏はいつもかれらといっしょだった。笹竹がそよいでいた。奥の四畳半の押入には仏壇がおさまり、その前での食事には祖父がいて両親がいて叔母もいた。ガラス障子を夏向きに葭簀のに替えて開け放ち、黒い昔の扇風機がまわり、縁側に向いてわたしのちっちゃな勉強机があった。風鈴が鳴った。
故山入夢…。
2007 6・28 69
* 山種美術館の今年のカレンダーは、主題が「愛らしきもの」。表紙に竹内栖鳳の重文「斑猫」だった。たぶん水温む三月四月だったろう、やはり栖鳳の蛙を描いた「緑池」がすばらしく、この二枚はめくったあとも捨てがたくて、置いてある。
いま七月八月分に西村五雲の金魚の「金鱗」また絶妙。
狭いながらも我が家でも草花や木の花を四季とりどりに愛して、わたしはよく写真に撮る。めいめいのデジカメで撮って、たいていわたしの方が好く撮れていると妻は悔しがる。妻は地面に目をくっつけて、いろんなものを見つけている。
2007 7・8 70
* 雨を厭うていては 幾つかみすごしてしまうものもある。堤彧子さんの繪や、上村淳之さんらの繪など観てこようと思う。校正をもって出れば、一区切りまで行くだろう。
明後日は糖尿病の診察日。そして新・言論表現委員会。
2007 7・11 70
* 小雨のなか有楽町へ。東京會舘のギャラリーから案内が来ていた。ピカソ、ブラック、ローランサン。ローランサンには惹かれないが、ちょっと覗いてみたかった。リトグラフのピカソに一点とても気に入ったのがあり、買った。これはたぶん妻が大喜びするだろう。息子に貰ったティーシャツ一枚で雨に濡れて平気という格好だったから画廊のお姉さんに「おみそれしてしまいました」と。
いつもは理事会や総会の日にしか東京會舘へは行かないのだから、いますこしかしこまった格好だということ。ぼくはこれが普通だからと言っておいた。
傘もめんどうで雨にぬれたまま銀座の「御蔵」に入り、京の田舎料理を殊勝にお酒ぬきで。七品の盆の主菜に、京のまるい加茂茄子がデンと出てきてしまい、閉口した。オクラだとか、豆乳の湯葉豆腐鍋とか、目刺しとか、鴨とか。それでも校正しながらゆっくり食べて満腹した。
目当てのミキモトの画廊が閉まっていた。上村淳之から案内の草草会展では松尾敏男や竹内浩一らも展観していたが、竹内の「狐」の繪のほかは全体に低調でビビッとこなかった。もう一つ、堤さんの出している水彩画展は、水彩らしい美点の生きた小品に何点か出逢ったものの、なんとなく全体に雑然としていた。堤さんの花の繪も感心できなかった。
結局ピカソ、ブラック、ローランサンが版画・リトグラフとはいえ、それも小品とはいえ見応えがした。
然林庵という喫茶店で美味い珈琲を二杯お代わりして、アテにして持って出た校正をぜんぶ済ませてきた。ひどい雨にならず、暑くもなく、気楽な格好で銀座をさらりと歩いて帰ってきた。
2007 7・11 70
☆ 疏水沿いの散策 瑛 川崎市
京の五条大橋から鴨川の土手を歩いて、岡崎へ。琵琶湖疏水の豊富な躍動の流れを岡崎の仁王門通りで見る。ここまでは朝の通勤時間、通学時間滞の人の流れ流れをさおさしながら、五条大橋から一時間の足。疏水と、緑陰の近代美術館と、能楽堂の観世会館を見たかった。最近はやりのガラス建築に対峙する、古いが重厚な京都市美術館の姿も確認する。
京都の岡崎は「文化ゾーン」といわれている。湖さんの日記で星野画廊と秦テルヲの回顧展が取り上げられたことがあるが、星野画廊にも寄ってみたい。画廊はここからそう遠くはないだろう。
平安神宮の丹(に)色を左にして、東は朝の山気日佳の懐が大きい。
この地の、昔からの見聞は心の「積分」となり、今の見聞は「微分」でありましょうか。ターレスの言葉かも知れないと思いながら、哲学の道へ歩いて行きました。過去の多くの先人、先人を慕った同僚や後輩が、京都というこの地を歩いていると目に浮かびます。かたい口調の日記でありますが。読んでください。
* あの平安神宮の丹朱の大鳥居のまえ、疏水に架かったあかい橋。あの橋が、新制中学の頃のわたしたちの飛び込み台でした。真下の深い早い疏水へとびこんで游いでいました、水泳パンツでなく、褌でした。
危険な水泳で、ときどきあの疏水では事故がおきました。
あの橋をわたり、三条通へまっすぐ広道を戻って行き、三条へ出るすぐ手前の東側に「星野画廊」があります。ちいさな画廊ですが、この画廊の内懐は深く厚く、おどろくべき収集文化財でつまっています。機会があれば立ち寄って下さい。
此処で、気に入ったのを三点買っています。その一つが秦テルオのしんしんと降り積んだ雪景色でした。京の出町、我が家の菩提寺が描きこまれています。
能楽堂のまぢか、疏水から白川が南へ流れ出て町屋のなかを流れている辺、とても風情があります。あの岡崎一帯に壮大に六勝寺が建ちならんで栄華を誇った白河法皇時代の、その白川の顔が、三条通へ出るまで、昔ながらに見られます。ちょっとした秘処です。 湖
2007 7・12 70
* 思いだしたように城景都の大判の画集『花の形而上学』を眺めている。
言うまでもない、この一冊の中から、「湖の本」創作シリーズの表紙繪を、城さんに戴いた。エッセイシリーズも城さんの作品、これが湖の本の印象を決定づけている。
一目見て「線」の繪だが、なみの線ではない。仏画でいう鉄線描、琴弦描の線で、肥痩なく動感を抹消してある。それにより画面に神秘・崇高感と高度の抽象性とがあらわれる。
表紙に戴いた二点は、城景都藝術のなかでは異色に属するほど清和温順。おおかたは度肝を抜かれそうに烈しい思い切った画面である、が、今も謂う線の静かな働きで神秘の面持ちを得て、絵画の方から我々の方が観察されてしまう。天才の世界。
この一冊の他にも画集や原作、版画などを沢山貰って愛蔵している。
2007 7・14 70
* 日付の変わる間際に、妻の親友からいいメールをもらった。
☆ 星野画廊さん 晴
祇園祭の山鉾巡行を見に行きました。一度は見たいと思いつつも、京都の夏は暑い、人が一杯と敬遠していましたが、何時までも先送りできないと、桟敷席が確保されているとのツアーに乗りました。
翌日は貴船の川床料理。目とお腹のお正月!
本来の目的より心に残りましたのは、星野画廊さんのことでした。
何度か秦さんのHPで星野画廊の星野さんのことを誉めておられた記事を読ませていただいていましたので、山鉾巡行を見た午後の自由散策の時間に、星野画廊を訪ねたいと思い、主人を道先案内にして知恩院より粟田口を通り、三条どおりへと行きました。
ありました。見つけた嬉しさに二人してためらうことなく入り口を開けて中に入り、絵を見ていました。
たくさんの花の絵に魅入られるようにして眺めつくしていて、美術館と錯覚を起こしそうでした。
画廊に入ることはこの年で初体験でした。銀座の画廊を外から覗き見ることはあっても、絵を買う事とは無縁と思い、入ることはありませんでした。でもこの画廊は入り口から人を迎え入れてくれる温かさがありました。
『石を磨く』の本の前で秦さんの帯を見ながら、やっと場違いの二人の説明をご当主と思われる方に致しました。「秦さんが常々この画廊のことを誉めておられるHPを読んでやってまいりました」と。
星野さんもHPを読んでおられるとの事。「秦さんはがんばりすぎですね。美味しいものも食べすぎ」と、こもごも健康を心配して話が弾み、お茶をご馳走になり、展示されている絵の話などもしていただき、今期の展示の図録まで頂戴して帰りました。秦さんの名を語り、いい目をさせていただいたはめになりました。ゴメンナサイ。ありがとうございます。
求めた『石を磨く』の本を、帰りの新幹線の中で夢中に読ませていただきました。1点1点の作品に、作家に対しての愛情や思い入れに、強く打たれました。作家が絵に思いを託すこと以上に、それらを集めて系統立てられることで星野さんの構想が人を打つ展示になる事を教えられました。
画家を育てる人たちの出入りする遠い世界と画廊のことは思い込んでおりました。このような良いお仕事をされている画廊をまた訪ねたいと思いますが、京都の遠さが恨めしいです。
目に焼きついた何点かの絵や陶器を反芻しながら、近くを流れる疏水に行き着き、おまけに観世会館も訪ねました。
先週の記事で疏水に沿って歩く「秘所」を読み、書き写していた文どおりに、町屋の風情も楽しませていただきました。
雨にも降られず日照りにもあわず、目と心の贅沢のできた良い旅でした。台風や地震の災害に遭われている方々には申し訳ないと思いつつ楽しんでまいりました。いろいろのことを教えられ感謝しております。
梅雨明けの暑さが思いやられます。どうぞ迪子様ともどもお体をお大事になさってください。
* 京都でええとこと聞かれると、人様にもよるけれど星野画廊に寄ってきたらとすすめる。取り澄ました美術館とはまったくちがう生きて呼吸している繪がみられる。但し広い広い店とはちがう。もっとこぎれいな画廊なら京都に掃いて捨てるほど有るが、そこに集まってくる作品は、ちょっと、そんじょそこらの売り繪とはモノがちがう。
よく立ち寄ってこられたなあと嬉しくなる。わたしもまた行きたくなったが、行くと欲しい繪が待っていて、これだけは懐とのきつい苦しい相談になる。このごろ繪の買い癖がつきそうで警戒している。
そういえば、この土曜で会期が終えると、有楽町の画廊から小品ながらピカソが送られてくる。お宝のつもりではない、掛けて楽しむのである。すでに和室ながら違和感なくダリの大作、そして息子も一目で欲しがったシャガールがあり、ピカソも思い切って同じ部屋に掛けようと思う。急に嬉しくなってきた。
2007 7・19 70
* 忘れていた。きのう画廊から、買っておいたピカソが届いた。小品で画面は黒い一色で描かれてあるが、「椅子にすわった女」が繊細な線と美しい表現でピカソそのもののアブストラクトを実現している。眼に映じる印象は黒いのに美しく光っている。佳い選択だと、ちょっと鼻先が蠢いたからおかしい。ダイニングの棚に飾ってみた。落ち着いている。嬉しい。
2007 7・26 70
* 夜中、雷鳴轟いていた。
* 清水九兵衛さんの一周忌がすぎ、ご遺族より記念の品を、朝一番に戴いた。九兵衛さんの意匠のままに当代の六兵衛さんが制作された、一対のみごとな汲み出し碗。掌にのせてしっとりと心地よく持ち重りする淡青・端正な品。俤を目のあたたりに。合掌。
2007 7・31 70
* 美術館の食堂では、上野の西洋美術館の「すいれん」が、うまいまずいの問題でなく席によってとても落ち着く。しかし、食い気より先ず、一人であれ二人三人であれ美しいものに立ち向かうには、黙々と立ち向かうには、博物館の本館、東洋館がはずれがなくて、わたしは好き。企画の特集展では、やや観る物を先から強いられるが、常設展だとこっちで選んで観ているぶん、作品へ自分の好み一つで乗ってゆきやすい。目慣れたものにまたまた出逢うのも嬉しいし、初めての出逢いに声の出るほど胸の騒ぐこともある。初めてではないのに新鮮に観勝る作に出逢えるのも常設展の静かな功徳・収穫である。
* そんなあと、浅草というのも賑やかすぎる。根岸うぐいす通りの「香味屋」は、よそが昼休み中でも此処は店をあけている。すこぶる静か。雰囲気佳し。お安くなく、メニュは香味屋ふうに確実にうまい。壁の絵は藤田嗣治とビュフェだし。
* 一段落はついている発送の、まだ途中ではあるけれど、今日は骨休めときめてひとりでぶらぶら。
2007 7・31 70
☆ 鴉、お元気に 鳶
気の張る依頼原稿からとにかく「放免」で、よかったです。つらすぎましたね。
抜歯はいつですか。たかが抜歯ではなく、やはり人体の中枢部に近い所に、歯も目も耳もあるのです、十分注意が必要です。
メールに、脱水症状と消耗・・転倒して杖を使われていると。当日より痛みが激しくなっていませんように。打ち身や筋肉疲労など後になって響いてきますから、当面用事のほかはひたすら養生です。
建日子さんの存在がどれほど心強く頼もしいか、本当にありがたいことです。彼の知名度や影響力が、事態に対し一定の力を与えてくれるだろうと思えるのも。大変でしょうが壮年期の力があります、そして表現者としての譲れない姿勢もあります。良い方向に進まれることを切に切に願っています。
昨日は思い立って京都に行き、麻田浩展を見ました。今回のようにまとまったものを見たのは初めてで、圧倒されました。殊にフランス滞在から京都に戻って藝大教授をしながら製作した作品群は、ぐいぐいと力ずくで引き込まれていく凄みがありました。自分には絶対到達できないものには、圧倒されるしかありません。
体はまだ今ひとつ冴えませんが、少し涼しくなってきたので徐々に元気になるでしょう。海外で生活を築いて行く長女は、昨日でこちらの会社をやめました。十月から次女は一人で暮らすので目下新しい住まいを探しています。地震のことなど考えれば、もっと西の方にといっていたのですが、慣れ
た地域がいいのでしょうか、職場に近く通勤が楽なところがいいようです。
鳶はシャンとしています。
* 麻田浩は、声も出ないようなすばらしい画家であった、早く亡くなったのは日本の損失であった。京都美術文化賞のたぶん二回目だったか、強く推して、問題なく選考会で授賞を決めた。親しい交際がそれからあった、亡くなった後々まで奥さんとも。その奥さんも亡くなられた。
ちょっと日本人離れのした画面を、優れて繊細で新鮮な日本人のセンスで、創造された。鳶さんが圧倒されたのは、圧倒されて正解だ。
麻田さんは友人たちのグループの指導的な人であったらしく、この展覧会に是非と誘われていたのに。行けるかな、期間中に。
「美術京都」の巻頭対談に、今度は至文閣の田中周二会長とと計画している。田中さんは、紳助主宰の「お宝鑑定団」の日本の古美術鑑定に活躍している田中社長の父君である。九月か十月には対談を京都で実現したく、麻田さんの繪も観られるといいのだが。
2007 8・30 71
* 九時半開場の展覧会には三十分の間があり、渓流橋の上から、深いところで藻の流れている疏水をしばらくのぞき込んでいた。橋下の水べりに、作り物のように細い鷺が一羽、凝然と佇立、滅多なことでみじろぎもしない。しんぼうよく観ていて、むろん生きた鳥であるのを確かめてから、神宮道を、三条までゆっくり往復。東山から西向きに伏流、たぶん白川に流れ入る幅三尺とない小溝川に目をとめたり、家のあわいから真西へ奥深くきれこんだ迷路のような抜け路地を見つけたり。
鳥居下の疏水まで戻ると、まだ鷺は同じ場所に佇ち尽くしていた。
* 国立京都近代美術館の『麻田浩展』に。
* おそろしい画境であった。
此の世界を、ちょうど一皮引っぺがした「向こうの世界」を画家は凝視しているのだが、凄惨というしかない。一切の物音を惨殺した地獄の静寂。人間は殆ど存在しないが、たとえば乱雑に崩れてデコボコの敷石の下に人の手足などが圧し潰されていたり、影とも灰ともなく文字の意味通りに頽廃した残骸のようであったり、それすらめったに見えず、あらゆる世界が荒廃のなかに死の静寂を「モノ」のように存在させている。
乾いてはいない、苦悩の泪のように浅田浩は美しい露をいろいろに置き、また「状況」のなかに多くの円い小窓をあけてさらに遠い光景や風景を描いている。
麻田浩の作品をたまたま一つ二つだけ観ていては、こんな怖ろしい真相は分からない。しかし、このように、悲劇の終焉までに積み上げられた沢山な見事な画業をつぶさに観て行けば、顔を覆って、「ああ、麻田さん‥」と声がつまる。こんな世界を見続け、その表現に没頭しているという画境涯は、誰も謂うまいが、これではもしわたしなら発狂しない方がふしぎだ。そこに凄惨の美はあるが、絶対に画家の魂の健康な救済はあり得ない。「ああ、お気の毒に」とわたしはほとんど震えながら、繰り返し会場を歩んで圧倒され、悲哀の思いに堪えがたかった。
* おそらく『麻田浩論』は、まだ、だれもまともに真っ向から書けていないだろう。書くに忍びがたく、深い悲しみに圧しひしがれてしまう。こんな厳しい、こんな美しい、こんな辛い「地獄変」をわたしは観たことがないのである。
あの「秦テルオ」にはもののみごとに実在した「救われ」が、麻田さんの刻々と死へ時を刻んでいた遺作の数々には、無いのである。
しかも繪は見事というしかない。ああ、どうすればいいのか、わたしは‥‥。
* 上の階で観てきた麻田辨自、麻田鷹思その他の作は目にも入らなかった。
* 三度めにみた渓流橋の上から、もう鷺は見えなかった。あれは麻田浩がわたしを出迎えに来ていたのか。
2007 9・14 72
* フェルメールの内覧とレセプションの招待が来ている。新国立美術館など、「新」とついた施設には行くヒマがなかった。このところよく一緒に頑張った妻と、一息つきに、出かけてみようか。六本木というのも、気が晴れるか。ただ内覧とレセプションというとむやみに混雑し、何を観ているのか分からないときも有る。レセプションの方を失礼する気でピークを外すのがコツだが。
「真珠の耳飾りの女」と謂うたか、前に妻と池袋で観たフェルメールの映画を、昨日NHKが放映した。録画した。
2007 9・25 72
* 思い切って六本木へ出かけた。新しい国立美術館も観ておきたかった。
案の定フェルメールは『牛乳を注ぐ女』だけ、あとはエピゴーネン。この手の西洋絵画展が常套になっているのは、日本の受け容れ手に毅然とした見識や交渉力がないからだろう。フェルメールのその絵が、小品でありながら、世界史的な大作の風格を湛えた名画中の名画であるからガマンするものの、他の追随者達の絵は無残に程度がわるい。残念だ。
しかし『牛乳を注ぐ女』は、言葉もない名画。レセプションがあり、図録までもらって、その限りではずいぶんワリのいい招待を受けた気がしたほど、妻も私も、フェルメールの只一点には帰依し降参した。どれだけ長い時間、人山に埋もれながらその作の前に佇立してきたことか。
妙な建物の美術館だ、落ち着きはよくない。しかし珍しくて楽しんだ。レセプションでは、ホルスタインの牛乳が旨かった。
* もう本当に久しい馴染みの喫茶室「クローヴァ」でゆっくり一休みし、お腹もくちくて、まっすぐ帰ってきた。レセプションのワインがきいて、喫茶室ではわたしは眠かったが、往き帰りの大江戸線では「湖の本」の校正を。放ってはおけない。追いかけて校正をすすめねば。
それにしても十四日から昨日、今日まで、わたしは不毛にめげず自身をよく激励し続けた。
2007 9・25 72
* 「截金」の人間国宝江里佐代子さんが、海外で急の客死、と。惜しみて余りある。これからの人だった。
以前はほんの小範囲でだけ、識られていた。「截金」という古代からの技法自体がほんとうに地味なモノであった。
わたしは、江里佐代子を識るよりよっぽど昔に、『畜生塚』という小説で、「截金」の厳しい修業のなかから、この技術に新しい現代の息吹を、意匠や着想の面から吹き込んで行く「繪屋町子」という少女との恋物語を書いた。桶谷秀昭氏が称賛してくれた作であり、町子と宏とは、「日吉ヶ丘高校」の生徒であった。町子は「美術コース」で日本画を専攻していた。
のちのちに、江里佐代子の仕事と経歴とをみつけた。まるで「繪屋町子」のモデルその人に思われるぐらい、してきたことが、そっくりだった。ただ繪屋町子や宏よりだいぶん若い。江里さんは、たんに「截金」を仏像・仏具の装飾にだけ用いるのでなく、思い切り縦横に多くの器具の意匠や装飾に活かしていた。小説の中でヒロイン「町子」がそうしていたのと、そっくりに。
そして『畜生塚』を介し、わたしたちは知り合った。作者と読者との間柄になるだけでなく、わたしは、彼女と、仏師であるご主人とを、雑誌『美術京都』の巻頭の鼎談に引っ張り出し、丁寧にインタビューした。好評だった。他の選者達の江利佐代子を識る機縁ともなり、梅原猛さんも感歎してくれた。
ほどなく、江利佐代子はわたしたちの選考する「京都美術文化賞」を、選者一致、工藝部門で授賞した。展覧会活動等も大きく認められ、やがて「人間国宝」にも認定された。みごとな展開になった、それはそれは嬉しい成り行きであった。
銀座「和光」で繰り返し展覧会があると、ひょいと顔を見にいったりした。展覧会の案内はいつもきちんきちんと丁寧であったし、「湖の本」のとてもいい読者であった。海外での仕事や発展があると、嬉しそうに様子を知らせてくれた。
海外で、客死。信じられない。信じられない。残念。夫君も、片手をもがれた心地でおられよう、心よりお悔やみ申し上げる。ご夫婦とも、私の日吉ヶ丘高校のずっと後輩にあたっている。
「截金」という優れた表現技法の伝統に、停滞無かれとも心より切に願う。佳い後継者が育てられていたろうか。
2007 10・4 73
* ようやく「校正」の大山を越えた。歴史的仮名遣いでせいぜい正しくルビをふろうとすると、たいへん神経を労し眼精を疲れさせる。もう一息で、初校を遂げる。今日も午後へかけて外出する中で、この宿題も果たさないといけない。著作権の没後保護の年限延長などよりも、当面の仕事を大事に正確にしたい。
ムンク展も観てきたいのだが。
梅若万三郎の「卒塔婆小町」を観て欲しいと招待があった。萬三郎さんにご不幸があったと漏れ聞いている。お悔やみ申し上げる。
2007 10・12 73
* 有楽町のビッグカメラは、あんまり店が大きすぎて、かえってテキトーに用が足せない。
銀座三笠会館でまたシシリーの強い酒をちびちびやりながら、イタリアン。
校正、すべて一応がカタがついた。ムンク展は人山で敬遠。
2007 10・12 73
☆ 今日は休業 巌
先週末は 木津川市加茂まつり ”恭仁京~当尾の里” という商工会の催し物があり その間は なるたけ営業していて欲しいと商工会からの意向を受けて 定休日(日、月)は返上。
土曜日はあいにくの雨だったが 日曜日はよく晴れ 海住山寺 浄瑠璃寺 岩船寺 などで特別展もあり ウォーキングで廻られる方も多く 町全体が賑わっていた。
定休日の代わりに 今日は午前中を休業にして 京都国立博物館で開催されている「狩野永徳展」へ。
会館前にたどり着けたおかげで 洛中洛外図 唐獅子図 檜図 の三屏風は、込み合う前に観る事ができた。
この時代の工芸品・美術品は 制作依頼者の意思が強く反映されている。
鉄砲伝来の年に生まれた永徳の活躍した30数年間の時代の空気の濃密さに、圧しつぶされそうになる。
* 永徳はほんとうに豪放・剛健。
ただ、内へ溜めた力であるよりも、外へ外へ漲る力だと思います。
大学の日本美術史の講義はいつも寺社の実物の前に座らされて聴きましたが、永徳の鳴り響くような魅力に先ず打たれました。
そのうち、長谷川等伯の、内面へ充実して行く沈潜の魅力と相俟ってはじめて、安土桃山の永徳なんだなと思うようになりました。
ま、わたしは安土桃山時代を、時代としては「黄金色の暗転期」と観てきたので、永徳らの金碧障壁畫に心から感嘆しながらも、やはり草庵小間の茶の湯よりに想いを預けがちです。佇み眺める時間の長さでいうと、等伯に、より深く惹かれますが、しかし永徳展、観たいな。 湖
2007 10・30 73
☆ 「何が秦さんをささえているのでしょう」 晨
私に、見えるのは、生きていて受容したものを、言葉にして伝えたいという、もう、生きているその事のようなぶれない、妥協しない姿勢です。ご本人に言ってみてもね。
麻田浩さんが亡くなる少し前の、高島屋での個展で、胸をつかれた絵がありました。こんな孤独の中に居ると、突然、なにかに気が付き涙がでました。絵をみて、涙が出たのははじめてです。
麻田さんには、なにも言いませんでした。手のすいた麻田さんが律儀に、全部の作品について話してくれました。とりとめのない話。この二つの黒は、どうちがうか、といったような。その絵については、あたらしいところへいける気がする、と。
私は、違うと思っていました。
個展の作品のなかの、2点ほどのなかに、新しいきざしを、かすかに感じていました。どれがいい、ときかれたときの、答えはそのなかの1点をいいました。
健康が優れず、美禰さんが、こまかく気をくばっていました。地下で、うなぎの、安売りをしているよ、なんていう夕食の献立のおしゃべりもしたりして。のうてんき。
先日、その絵をみました。しずかにみられました。
* わたしは「すごい」という批評語は嫌って避けていますが、ときどきはっきり意識してつかいます。麻田の世界は、凄かった。あれでは俗世的な意味での精神の平衡は保てない。次元をかえていえば、麻田は平安に、あの夥しい「あそこ」へ身を置いていたのだと想うけれど。だから「痛ましい」というばかりの同情はしないのだけれど。しかし必然生きてはいられないはずだと胸に落ちました。
人は絵画としての技法や工夫に驚嘆するかもしれないが、幸か不幸かわたしにはそんなことは、聞いても分からないし深い興味はもてない。それよりもまっすぐ絵画の中へ、奥へ、入って行く。そうして画家の声なきことばを、呼吸を、喜怒哀楽を聴き取ろうとします。
あの展覧会を、がらんがらんの会場で一人っきりで観たのを、せめても今も有り難かったと思い、引き込まれるように図録をときどき開いています。どの繪が好きだったのか、教えて下さい。
2007 11・19 74
☆ 今年も鱒の鮨を ゆめ
お送りしました。1週間以内にお届けできると思いますので、どうかお楽しみに。いつも喜んでくださって私も嬉しいです!(お礼状など、どうかご心配いただきませんように)
「フェルメール展」来週で終わりとのことで、六本木の国立新美術館まで初めていってきました。他の風俗画はサッと通り過ぎ、お目当ての「牛乳を注ぐ女」のフェルメールブルーに逢ってきました。オランダ・デルフトに行って他の作品もぜひ見たいものです!!
かつて防衛庁のあったあのあたり、瀟洒なビルが建ち並び、陽が落ちるにつれてクリスマスイルミネーションがきらきら・・。久しぶりに六本木の夕暮れを楽しんで散歩してきました。
最後は先生もお気に入りの「六本木CLOVER」でお茶を。広々と静かで上品なあのお店、私が中学生だった頃からあの場所にあったんですよ。シュークリームやケーキが美味しいと評判でした。
そうそう、交差点角の誠志堂書店がなくなっていたのは残念でした。あそこの長女と私、同じクラスで、学校帰りにはよくあの書店に立ち寄ったものでしたから。(まあ、あの立地では書店をしているより、貸しビルにした方が利益があがるのでしょうね・・・)
今年は新しい仕事について気持ちも落ち着かず、また次々つまらないトラブル(階上住居からの水漏れ騒ぎとか・・・)に巻き込まれたり、以前の手術後はじまった「腰痛」がぶり返したり、と、もうひとつパッとしない一年でした。来年はもう少し気持ちに余裕をもってすすみたいなと思っています。
先生もどうか暖かくして、美味しいものを召し上がって、お元気にお過ごしくださいね。
* フェルメールの「牛乳を注ぐ女」には感歎した。生涯に何点とは出逢えない名品だった。比較的まぢかに住んでいても、なかなか「ゆめ」とも出逢えないが、新宿でいちど能登の料理をご馳走になったのは、春、花のころであった、何年も前だ。
元気に大きな声で、はきはきと話す人だった。
2007 12・12 75