ぜんぶ秦恒平文学の話

美術 2011年

 

* 電子メールで、新春初の賀状をいただいた。去年までは年が変わるとアドレスの分かる数百人に一斉に電子の賀状を発送していた。その返信が津波のように押し寄せたものだが、今年からは、それをやめにした。少しずつ少しずつ世間の儀礼から遠のいてゆく。ほんとうに大事と思う人づきあいなら、自然にのこる。そう思っている。

* 賀状のなかで群をぬいてみごとなは、城景都氏の兎。さすが。
もう一枚ある。松本幸四郎丈の、四把、線で描いた兎。目に紅を点じてある。高麗屋の一句が欲しいところ。

松立てて卯の春の憂はおもはざれ    遠
2011 1・2 112

* 直哉が、相当長篇の『稲村雑談』で広津和郎らを聞き手に面白いことを言うていて、ああ同じ事を感じてきたなと思い当たるところがあった。
直哉は京都や奈良で暮らしてから、「美術になる一つ前の美しさを楽しむ事を覚えた」というのだ、「美術品でも何でもなく、その一つ手前のものだが、その美しさに気がつくと、 殆ど美術品同様にそれを楽しむ事が出来る事を大変面白く思つてゐる」と。直哉は、坂本繁二郎が空気に溶け入りそうに砥石二つだけを描いていたのから、こういう発見に至ったらしい。「茶の方の井戸茶碗とか、古伊賀の花生とか、古備前のあるものなど、その美が発見された時に、或ひは発見した人にだけ美術品であつて、さうでない者にとつては、きたない物と云つていいやうなものだ。」「( 坂本の) 砥石と同様、美術の一つ手前のもので、これを最初に発見した昔の茶人は坂本君同様、美に対し進んだ感覚を持つてゐたわけだ。」
直哉は砥石の或る美しさに気付いてしまうと、 所望して砥石を譲り受けて書斎に置いている。武者小路が「石」を愛したのもそれに類するだろう、わたしもなにげない物が美しく見えて見えて心を囚われたという覚えを何度も持っている。これは何かだと思っていたが直哉に美味く説明してもらえた。「かういふ美しさも、一度示されると、難解な美ではなく、 誰にでも案外分りいい美であつて、教えられてからさういふものが分るといつて得意がる程のものではないと思ふ」と云う。直哉の親友柳宗悦の「民藝美」などもそういう美だ。
直哉には、当初は計り知れなかったほど、美や美術のことで教えられたり気が合ったりする。

* 谷崎は美術品や美について語ることはむしろ少ないが、たとえば今読んでいる『蓼喰ふ蟲』での妻実佐子の着物や着こなしなどの表現は実に濃やかに美しい。こういう趣味のよさが、文学の味としてかすれて乾上がってきている。三島由紀夫でも、そういうことになると造花のようにカサカサしていた。
2011 1・6 112

* 「色の日本」と題して有楽町の朝日ホールで講演してからちょうど二十五年になる。往時は茫々というほどでなく記憶している。
その講演では、だが、よう触れなかった「色」のはなし。
それは、歌舞伎座など歌舞伎公演ではお馴染みの、あの定式幕の三色、柿色、 青色、 黒色。
試みに「定式幕」を検索しても、江戸の各座使用の僅かな差異、しかし根本はみな同じこの三色の使われてある理由は一切書かれていないように見受ける。この色、歌舞伎世間の発明であるのか、何かの理由で、こう在らねばならなかったのか。
もう指摘していいだろう、この三色は、柿色も、青緑も、黒も、いわば被差別色として、古代末期から中世、近世を通じ、実に多くの史料や事件や人や図絵に見られる。中世庶民の被差別研究を旺盛に盛り上げた近年の歴史学者達の論文にも、発言や座談会にも、この色に触れた証言はたくさんある。だが、定式幕の色に固定されていることを指摘した人はいないようである。
これまた、今日なんら顧慮に値しない堂々たる一伝統であり、たえ初発の時点では制度に強いられたかも知れぬにせよ、この美しい配色の籠めた自己主張には、かがやくような歌舞伎ものたちの強い自負と意思と愛着がうかがえる。わたしは何時も心から讃嘆して眺めている。
2011 1・7 112

* 江戸の頃以降のわれわれ庶民が日々の「お寶」に「銭」「金」を思っていたのは自然なことであったが、そのほかに「寶」「寶物」と謂ってモノと限らず「子寶」のようにヒトも謂ってきたし、得も謂われぬ貴き値の何かを心中に抱いていたこともある。むしろ子供の頃はそういう寶モノを身にも心にも抱いていた。最近では人気のテレビ番組に感化されて、書画骨董を「おたから」と観じて価値の鑑定を求めるヒトが少なくないし、奇妙でもなく価値はいつも金額で鑑定される。ホンモノですという段階でとどまるのを物足りないと誰もが思っているからだ。ムリもないが嬉しくもない。「ナンボにしましょ」と司会の紳助はまず当事者に吐かせる。「ナンボ」時代であるなと思う。

* 書画骨董を粗末には思わないが掛け替えのない「寶」とも思っていない、いまぶん私には始末を考えねばならぬ、むしろある種負担でさえある。すべて真贋を確言できるわたしに眼も知識も無い。それにホンモノであるかどうかより、それを自分が愛せるかどうかを、いつもより大切にしている。気に入らぬホンモノはつまり宝の持ち腐れと思うし、好きな物はニセモノでも平気である。
それよりもだ、もっともっともっと大事にしたい「寶」を、自分は、今、持ったり観じたりしているだろうか、わたしは。否定しないが此処へは何も書くまい。

* 司馬温公の箴言がある。漢字だけで書いては読みにくいだろう。
「金を積んで以て子孫に遺すも子孫未だ必ずしも能く守らず。 書を積んで以て子孫に遺すも子孫未だ必ずしも能く読まず。如かず陰徳を冥冥の中に積んで以て子孫長久の計となすに。」
とても陰徳の士でなく、積んだ金も無い。積んだといえるほどの書も持たないが、聚めた書籍の殆ど何物も受け継いでくれる子を持てなかったのが心残りだ。金は喜捨も蕩尽も可能だが、書物は棄てたくない。しかしいまどき嵩張る本を欲しい人などいない。二束三文にもならなくていいのだから、古書の業者を呼ぶしかないだろう。

* 昨日家を出がけに、とうどう秋石の長軸を巻いた。はるかに喬い松樹に用いた色に堪らない魅力があり、もう巻かなくてはと思いつつ惜しみ続けていた。
代わりに、宗旦の「水仙の文」と極めのある消息文を思い切って掛けてみた。表千家の誰かの箱書のある、付属文書も函底にありそうな曰く付きだが、わたしには読めない。宗旦の紛れない花押が文末にみえる。総じて渇筆、かなりの速筆と見える。甚だ侘びている。鑑定を求めたこともない、間違いなく古門前の林から出ている。来歴はどうでもいい、掛け物としてわたしは愛している。万が一ほんものなら、こういうものは相当な施設なり家元筋へお返しした方が佳い。ニセモノなら悦んで我がタカラモノに愛玩する。
2011 1・28 112

* 帰って、節分の豆撒きを勤めた。宝船、来るかな。寶船は裏千家圓能齋が描き、波と海老とは嗣子淡々齋が若宗匠宗叔と花押して描き添えている。二つの朱印が千家の由緒伝来を証している。裏千家にお返ししてもいいい画跡なのだが。
2011 2・3 113

* 贔屓の歌舞伎役者にお茶碗を贈りたいと、ずうっと心に置いていたが、これだと思う佳い作を選べた。
平成から先を担って行く人だ、骨董ではいけない、新世紀に壽命長い優れた藝術品をと選んだ。むろん気に入られるかどうかは分からない。楽屋でお茶をたてて喫むという人なので、さぁ、ちょっと気になる点もありはするが、五十年も稽古に日用に、じつは今日までも愛用してきた黒楽茶碗も、できればバトンタッチして貰いたくて上に添えることにした。
公演中でもあり、手渡しはしないし、顔を合わせたり話したりはじつは苦手なので、楽屋へも通らない。明日、番頭さんに預ける。なんとなく気持ちもウキウキする。

* 骨董や、ことに茶道具は、あとへ遺さない。愛用するには斯道への素養がいる。素養のない人には無用の品、使いようがない。繪や繪軸は装飾的に建日子にでも愛用できる。欲しがるモノはみな遣る。出来れば深い趣味の力を進んで養って愛好してくれるならどんなに安心か知れないのだが、そういう気も力も今はまるで持ち合わせていない。それが書いたり創ったりしている仕事に浮薄に露呈されている。少しも早く、いい眼を創ってほしい。
真贋はあげつらわないが、わたしの気に入っている消息や墨跡や書軸は趣味のある人に贈ってしまいたい。道具屋に売る気は、ほとんど無い。甥の黒川創がもっと再々姿を見せてくれればと願うのだが。彼はとにもかくにも「若冲」を書いて世に出た作家だ。姪の街子も繪の描ける子だ。美しい良いものには心惹かれることだろうが。

* 節分も過ぎたので、寶船も、また宗旦の水仙の文もしまい、玄関に、「画所預従五位下土佐守藤原光貞」と細字である、じつに品位の佳い雛の繪軸を掛けてみた。大きめの蛤貝のなかに、御所風の雛一対が描かれ、その蛤二つといい背後の柳の枝葉といい、たいした写実の技が美麗。叔母が古門前の林から預かってきて、この「光貞」をどう思うかと聞かれた。美学など学んでいた咎のようなものだったが、わたしは叔母に買っておくように強くすすめた。学生の昔のことだ。もうあまり露わに外へ晒さない方がいい華奢な繪であるが、雛祭りにはよく掛けていたから、朝日子は観れば懐かしいだろう。
2011 2・9 113

* 雛祭り。冷え込んでいる。

 

画所預従五位下土佐守藤原光貞・朱印 雛の絵軸

* 画品を愛してきた。
2011 3・3 114

* 何年も願い出てきた辞意が認められて、この三月選考を最後に京都美術文化賞の選者と理事とを退くことが出来る。京都には仕事ででなく、好きなときにはんなりと好きに出掛けたいと思ってきた。よかった。なにしろ勤続二十五年近い。幸いわたしのあとへ信頼する樂吉左衛門君に加わってもらえる。第三回頃であったか推薦して授賞したほんものの藝術家。願ってもないことだ。
何といっても清水九兵衛さんが亡くなってガタンと寂しくなっていた。選者ではないが、財団創設以来の理事仲間だった橋田二朗先生も亡くなられた。主宰格の梅原猛さんは健在だが。
2011 3・4 114

* 櫻にはやや早い寒さだが、玄関から土佐光貞の雛の繪をおろして、森川曽文の櫻に雉の繪軸をゆったり掛けた。
2011 3・8 114

* 余震はやまず、福島原発は予測通りまたの爆発を繰り返し、なんら安心の状況に無い。

* 中信理事長様
専務理事様
美術奨励基金事務局 御中
前略 未曾有の東北激甚災害は鎮静せず、余震は首都圏でもなお頻々、加えて福島の原発爆発も相次いで今後が憂慮されています。放射能被害が首都圏に及ぶことも考慮すべき途方もない事態です。

地震源も東北沖から関東沖へ、また日本海信越地方にも拡大して、相当大きな余震の確率は75パーセントという警告も繰り返されています。当初東京ですら揺れの烈しさ、生涯初めてのものでした。

さらに今日からは計画停電が予告ないし実施されていて、一、二ヶ月ないし数ヶ月に及ぶとされています。未曾有の国難といえる現状に、首都圏も帰宅難民状況をはじめ、JRや私鉄の機能麻痺による大混乱も今朝から続いています。

私も、今日、五十二回目の結婚記念の祝いなどすべてとりやめ、明日からの都心での会議や行事への参加をとりやめました。
一つには妻の病弱とさしせまっている検査手術への精神的な安定も必要で、日に二度にもおよぶ永い停電の中で独り家人を家に置くことには大きな不安がありますし、わたくし自身も帰宅難民の苦境に耐える体力がありません。

最後のご挨拶にと、選考会にぜひ出る気で用意していましたが、かかる時期に不用意に長途家を離れるのは賢明でないと思われ、欠席させて頂きます。この際の判断をご理解下さい。宿の予約等もお取り消し置き願います。
理事辞表はさきに郵送しておきました。
梅原先生らには私から別途にご挨拶の機会があると思います。

美術賞の選考や雑誌の刊行等に関しては、私自身 選者として、理事として、何一つ思い残す悔いはありません、推すべき人を公正に推し、また微力ながら多年雑誌の編集にも尽力して、無事に後任に引き継げたと思っています。感謝の思いで満たされています。有難う存じます。

清水九兵衛さんのご逝去、また橋田先生とのお別れ、寂しいことでした。
四半世紀近く、それでも喜ばしいいい経験を重ね得ました。
亡き人も思い起こしつつ、理事長、専務理事さんはじめ、御社のご親切に、心より御礼申します。
平成二十三年三月十四日   秦恒平
2011 3・14 114

* 京都美術文化賞に推薦して受けてもらった写真家井上隆雄さんの新刊『光りのくにへ 親鸞聖人の足跡を訪ねて』を戴いた。「合掌 井上隆雄」と毛筆の署名がある。繊細・尖鋭、しかも大きな自然を自然法爾で抱き取る写真では右に出る人がない。懐かしい一冊に仕上がっていて、しみじみする。
2011 3・21 114

☆ 秦先生 山梨に藝術家の村がありました。
こんにちは、作日は久々に寒さを感じました。いかがお過ごしでしょうか。
先日、山梨県北杜市というところに花見に行ってきました。南アルプスを背景に満開の桜を楽しむことができました。
その後、清春藝術村というところへ行って来ました。ここは『白樺』に関連する藝術家の作品、図書が集まっているところで、武者小路実篤さんの自画像や、梅原龍三郎さん、ロダンの作品が集まっていました。中でもルオーの絵画、版画、ステンドグラスが多くありました。ルオー礼拝堂という小さな教会もありました。
ルオーを見て、以前先生が褒められていたのを思い出しました。暖かい人物画もあるのですが、不気味な雰囲気のものが多いですね。人間の奥底に潜むドス黒さを感じる作品だと思います。個人的にはあまりに好きになれない作品でした。
北杜市は山梨の奥の方ですが、立派な美術館やアトリエがあって驚きました。自然の中ですがすがしく藝術を楽しめる場所でした。
そして、一人ではなく、一緒に楽しく歩ける人と行けたのが良かったです。
またご連絡いたします。
寒さの戻りもありますので、お体を大事にされて下さい。  松 卒業生

* 朗報と読んだ。
武者小路や志賀直哉ら白樺派の文学者たちは、ロダン、ゴッホ、セザンヌ、そしてルオーも熱心に日本に輸入し紹介して近代西欧絵画への道を拓いてくれた。向こうの美術家たちとも直に交渉をもち、ロダンやルオーから作品を貰ったりもしている。直哉はルオーを敬愛していた。同じように村上華岳も敬愛していた。梅原龍三郎との生涯の親交と互いの敬愛はすばらしく、榊原紫峰や小林古徑や安井曾太郎らとも親交が厚かった。中国や日本の古典造形美術への審美眼は個性的で揺るぎなかった。
2011 4・26 115

* 「 e-文藝館= 湖 (umi)」 の詞華集に給田みどり歌集『夕明かり』を掲載し、弥栄中学時代同僚教諭であられた創画会会員橋田二朗画伯の美しい扇面画「富貴草」を添えた。原歌集の巻頭を飾っていた繪である。
なにとも言えず、よろこばしい。お二人とも亡くなりはしたが、忘れることはない、決して。
2011 4・27 115

* 連休も半ば、過ぎたらしい。

* いつ、どこで、何があってと皆目憶えていないが、赤樂ふうの茶碗がわたしの手元に、半世紀の余も、ま、大事に仕舞われていた。前にもすこし書いたが、弥栄中学の若い元気な先生が、四人で寄せ書きされ、茶碗屋が焼いたものである。それを戴いた。五十年愛用してきた黒樂を、楽屋で気楽に使ってと、最近、役者の市川染五郎君にあげたあと、この赤茶碗を思いだし、これは茶碗としてたいした物でないが、先生方の思い出は懐かしく、日々の喫茶に用いている。

 

橋田二朗画伯 青年の頃の樂描き

四人の先生のうちお二人とはさほど縁がなかったけれど、お二人、橋田二朗先生と西池季昭先生とは、図画の橋田先生が去年、数学の西池先生は十年近く前に亡くなるまで、筆紙につくせず可愛がっていただいた。西池先生は「死生命在リ」と書いて署名されている。お二人とも、まだ勉学中でもあるほどの二十歳代半ばか前半であったろう。
橋田先生の速筆の裸婦、おもしろい。今月掲げてある扇面でもわかるように、花卉や鳥類をこまやかにじつに美しく描かれる方であったが、青年の向こう意気のうかがえる骨太なこの、裸婦、好きだ。
2011 5・3 116

☆ 秦先生
湖の本を頂戴し、京都人の生態の面白味や凄み、歴史的な背景など、私も東京に来たからこそ強く認識しますし、より京都をいとおしくなります。
先程、メールのチェックをしていましたところ、迷惑メールのカテゴリーに先生からのお便りが届いており、大変驚き、大変嬉しく思うとともにこんなにご連絡が遅れて申し訳ない気持ちでいっぱいです。ご無礼いたしました。
上村松園先生は永遠の憧れですし、竹内浩一先生は大学の恩師。堀泰明先生は日展やNEXT展でご一緒させて頂きましたし、江里先生ご夫妻の工房には見学に寄せていただいたりしました! 何もかもものすごく近く感じます。京都美術文化賞の選をされていたなんて。。。おそれ多いです!
実は個展は今月15日( 日) まで、成城で開催しております。もし会期中お時間許されましたらお運び戴けるとこれ以上の喜びはございません。
またお仕事でも以外でも、京都の事について等お話できる機会が持てれば幸いです!  由

* このごろでは珍しく、ふたつもメールが来ていた。竹内君、堀君とも高校の後輩。俊秀竹内君には早くに美術賞を受けてもらい、幼なじみの堀君には新聞小説『冬祭り』の挿絵を描いて貰った。江里夫妻もやはり高校の後輩で、截金の人間国宝佐代子さんは惜しくも亡くなったが、夫君とは先日も銀座の和光展で話してきた。「由」さんは、さらにずうっと若い後輩。
先日癌でうしなった堤 子さんも同じ高校の後輩だった。
わたしは日吉ヶ丘の普通コースだったが、彼らはみんな美術コースにいた。いまは京都市立銅駝美術高校になっている。昔の美校の後身。
2011 5・4 116

* 海外で、写楽の「肉筆」画が見付かったことから、従来四分五裂できかなかった写楽実像が探索可能となり、一等早くから文献的に名の出ていた阿波藩の能役者斎藤十郎兵衛とほぼ決定に到った筋道をテレビ番組が、説得力豊かに明かしてくれたのは面白かった。出版者が、天才作家を、たった十ヶ月、売らんカナのみすぼらしい商策で磨り潰してしまうなど、いつの時代も情けない。
2011 5・8 116

* 今朝は早起きして目先大事の大仕事に取組み、片づけ、余勢でさらにあれこれ捗らせた上で佳い映画も観たのは儲けものであった。明日明後日も気を入れておけば、月曜の東博平成館の「写楽」特別内覧、火曜夜の明治座歌舞伎が楽しめる。
2011 5・13 116

* 昨日、手紙をもらった。妻と芝居のあと寄ったときか、日比谷のザ・クラブでアルバイトしている若い日本画家に会った。京都の藝大で竹内浩一君などに教えられてきた新進。世田谷で個展をと聞いていたが、世田谷はまるで不案内なところで、いろいろ他用も輻輳したので、会期中に行って上げられなかった。外務省買い上げなど何度かあり、日展で経歴のある人、佳い花の繪などを持っている。京都で生まれ、いまは東京でがんばっているという。
2011 5・14 116

* 「写楽」展に招待されている。平日よりむしろ混むのが「内覧」の常だけれど、ま、出掛けてみる。
浮世絵版画にはどんな作にも必然大きさの限界がある。写楽の大首ものなど、丈を三メートルぐらいに拡大しても見せてくれると凄みが爆発しないだろうか。むろん最高度技術で写真化して欲しいが。そういう展覧会でもあってくれると楽しめるだろう。
2011 5・16 116

* 上野東博の平成館で「写楽」展を妻と観てきた。
上野駅から博物館へ向かうとき、科学博物館からのお帰りという天皇さんの乗用車通過をごく間近で見送った。前後に警備その他の自動車が数台、だが質素な護衛であった。天皇さんは左座席のあいた窓から笑顔で手を振られていた。

* 写楽。摺り繪で作柄の小さいのは当たり前、大勢の招待客が並ぶと一々は鑑賞しにくい、覚悟の上だったが、その通りだった。それでも写楽も、参考の歌麿その他も、けっこう面白く、但し点数が多すぎて草臥れた。
魚と肉、うまい洋食で満腹して帰ってきた。
2011 5・16 116

* 志賀直哉の日記にはときどき胸ぐらを掴まれるような驚きを覚える。野放図なほどズカとものを云う。
昭和三十三年二月二十七日、わたしが学部を卒業して四月から院に進もうという頃だが、直哉はこの日、文藝春秋に頼まれ「私の空想美術館」四回の連載を書いていた初めの二回分を編集者に渡し、日記に、特に最初の「マンテニアの方は自分でもよく書けたと思つた。キリスト教に対する七八年前から考へてゐる事も僅か三枚の文章の中に書けたやうな気がした、」と誌しているが、そのあとに驚いた。
「要するにキリスト教は繪そら事の上に出来上つてゐ、そのルイ積がサン・ピエトロのカトリックだと思ふ。」と。
キリスト教という世界宗教を、かくも手短に「要」約し喝破した例をわたしは知らない。志賀直哉にしか出来ない所行であり、わたしは直哉の見解に同調する。
参考までに直哉自賛の一文を引用させていただきます。

☆ 志賀直哉 私の空想美術館   キリストの納棺     昭和三十三年二月

ミラノのブレラ美術館にある、アンドレーア・マンテニヤ(一四三一~一五〇六)の「キリストの納棺」の絵は複製版画では青年の頃からよく知つてゐたが、何んだかグロテスクで、キリストの顔にも崇高な所がなく厭やな絵だと思つてゐた。
七八年前、欧羅巴(ヨーロッパ)に行く時、誰れであつたか、ミラノでは忘れず、この絵を見るやうにと云はれ、新しい好奇心を持つて見に行つたが、実にいい絵で、非常に感動した。私が欧羅巴で見た最もいい絵の五指を屈する中に入れるべき絵だと思つた。
この死体は明らかに大工出身のイエス・キリストの遺骸である。画面の隅で泣いてゐる年寄つた母マリヤは、これまた大工ヨセフのおかみさんだ。死骸の顎の骨が張つて、喉仏の出た顔は通俗な意味では決して上品な顔ではない。何年かの苦難に満ちた生涯をそのまま、こけた頬や眉間の皺に現はしてゐるが、それも過ぎ去つた事で、今は只の死骸として横たはつてゐる。前へ投出された無骨な足は明らかに労働者の足である。大釘を抜かれた両手両足の傷跡はさういふ傷が或る時日を経て、血も出なくなつた状態を不思議な迫真力を以つて描いてゐる。
縦、二尺二寸五分、横、二尺八寸七分の小さな画面に殆ど等身大の死体を少しも欠ける所なく、足を手前に、向うに真直ぐに寝てゐるところが描いてある。この大胆な構図は非常に冒険的な且つ野心的なものと云つていい。この不恰好な大きな足は、厭やでも見ないわけにはゆかないやうに描いてある。そして左上隅の僅かな場所に母マリヤともう一人の人物が描いてある。このマリヤは若い時は美しかつたかも知れないと思はれるやうな五十余りの女で、息子の非業の死を悲しんでゐる表情は自然に見る者の涙を誘ふ。私はもう少しで貰ひ泣きをしさうになつた。ハンケチで涙を拭ふマリヤの手は矢張り田舎女の男のやうな大きな手である。
マンテニヤはどういふ気持でかういふ絵を描いたか。写実に徹したといふ事までは分るが、それ以上の事は私には分らない。然し、兎に角、偶像破壊の意図を以つて、かういふキリストを描いたのでない事は確かである。上眼使ひをして、両手の指先を軽く合はせた美男のキリストを沢山見て来た私はこの絵を見て、かういふイエス・キリストならば嘗(か)つて此世に実際にゐただらうと思つた。神に憑かれ、常態を逸脱し、自ら神の一人子と信じ、何年か非常の熱情をもつて真理を説き、遂に殺されたイエス・キリストといふのは正に此人だと思つた。
複製版画では本統の色は分らない。
複製では真黒に見えるバックも緑がかつた淡い色で、見てゐて何か静かな気特に誘ひ込まれる。色からいつても、これは実に美しい絵として頭に残つてゐる。
この文章を書く為めに此の絵の複版画を手元に置いて見てゐるうちに私はキリストの顔を段々立派な顔だと思ふやうになつた。

* マンテニヤのこの絵への同じ感想は、比較的永かった欧州の旅の途中でも、帰ってからも直哉は書いていた。こと美術に関して直哉の審美眼はただ成らぬ深さをもっていたことを、わたしはしばしば彼の筆談に実感してきた。
だが、ここでわたしが年代にして驚嘆を隠さないのは「キリスト教 カトリック」への断乎とした独自の洞察である。
2011 5・22 116

* 不愉快極まる政局の不信任案をめぐるかけひきにむかっ腹が立ち、幸いに、画家モジリアニと恋人ジャンヌとのドキュメンタリーに出逢って、没頭、感動した。
断然の「絵画」達成の美しさ、どの絵にもどの絵にもどの絵にも息をのむ天才の完成が感じられて、しまいには絵を見てわたしは泣いていた。絵を見て泣いたという覚えは、かつてあったろうか。
また一人の娘をモジリアニとの間に生んでいた弟子のジャンヌの才能の高さにも、正直仰天した。モジリアニが結核で死ぬと二日後にはジャンヌも自殺してアトを追った。死ぬ間際に描いていた四枚の水彩画を観てまたわたしは涙をこらえられなかった。
西欧社会での自殺はわれわれ日本人の想像に絶した大事で、遺族はおおきな打撃を蒙ったようだが、お腹に二人目の子を宿していたまま決然としてモジリアニに殉愛をささげたジャンヌの気持ちに、わたしは、強く打たれた。たしかにジャンヌの天才もまた、ロダンにおけるクローデールを凌駕したかも知れぬほどで、だから堪らなく惜しまれるが、それでも微塵のためらいなく自殺して愛する死者へひしとして追いついていったジャンヌという人にわたしは感動を隠さない。藝術か、愛か。むろん愛である。死なずに活かせた愛の可能性もわたしは否定しないが、ジャンヌは死を選んだ。

* そういう感銘を得たのを幸い、不信任案の国会など観たくも聞きたくも無くて、わたしは傘をさして、駅まで歩いて、腰も痛んだが街へ午後から出掛けていった。かなり煮たってきているカポーティーの『冷血』と自分の『バグワンと私』上巻とだけをもち、とにかくも腰さえ掛けていれば腰の痛みは無いので。最後には、馴染んだカウンターの鮨で、「三田村」を二合のんで、夕食にしてきた。シャリをぐっと小さく握らせ、好きな肴ばかりを十一、二ほど。
それから日比谷のクラブへ、タクシーで。そのタクシーの運転手が、不信任案大差で否決というのを教えてくれた。いいともわるいとも言わない、全く当たり前の結果が出たに過ぎないが、何十人と言われた小沢派は、愚かしい二人だけが野党提出の不信任案に賛成し、小沢一郎は卑怯にも欠席して姿を議場にみせなかったと。「なれの果て」であろう。
クラブでは、エスカルゴとパンで、変わり種のブランデー、1978都市もののカルバドスをゆっくり味わい、口を切ってなかった日本産のウイスキー「宮城野」も明け、文庫本の続きを読んだり、人と話したり。すこしお腹に余裕があり、木の椀の稲庭うどんを追加した。珈琲も二杯のみ、機嫌宜しく帰ってきた。小雨が来ていたが、傘の必要もなく、保谷駅からはタクシーで。
家で、不信任否決劇のあらましを妻から縷々話して貰った。
2011 6・2 117

* 食卓に向かい手作業をつづけながら、晩、「太陽」について感嘆に堪えざる驚異の映像をたっぷり見せて貰つた。太陽が地球の気象にやはり重大な影響を持つことを、太陽の磁波と地球の雲との密接な関わりとして、実験的に縷々解説してもらった。はああ、はああと嘆声を挙げ続けながら、なにとなく興奮した。この齢になって始めて知ることがまだまだ無数にあるのを素直に肯う。知識欲ではない。無心のよろこびである。
その前に、東大寺の南大門の枯れて貴いほどの建築美にも目を奪われた。多くの仏像よりも眼にしみて懐かしかった。すばらしいことも、ものも、たくさん在る。目を向ける素直さが大切だなと思う。
2011 6・7 117

* 今夜も日付が変わりそうだ。おもしろい、興味深い作業を追っている。頭にかぶる大きな拡大レンズもこの頃大事に使っている。
それでも休息もする。わたしはワイシャツの胸ポケットに入るほどのカメラをもうよほど前から使っていて、撮った写真は夥しい。美術も建物も庭園も樹木も旅写真も。なかでもかなり自慢は年々の季節ごとの花の写真で、千枚はある。生彩に富んだ花の無数の表情に見入っていると、美しさに酔うほどだ。それと、空と雲と大きな樹木。流れる風を写したいと思うのだ。きれいな女性の姿態も、町で拾ったりいい写真を取り込んだりして機械の中へしまっている。

* 暑い。暑い。
2011 7・5 118

* 世界的な絵本作家でもある染色の田島征彦さんに贈ってきてもらった祇園会、菊水鉾の繪手拭いを、もう始まっている祇園会を遠く想って、わたしのすぐ背中の高いところへ懸けた。玄関には、岸連山描く祇園社御手水場の涼しい繪軸を掛けよう。
2011 7・9 118

* 秋山駿さんから『「生」の日ばかり』を頂戴。「日ばかり」とは「日計り」の意味か。茶碗に「火ばかり」がある。成形もなにもかも他所でして焼くだけは日本の薩摩で焼いた、つまり「火だけ」は日本という意味だったと思う。「御本の立ち鶴」という茶碗をもっているが、あれは「火ばかり」と聞いた気がするが。間違っているかも。
2011 7・9 118

* バグワンに聴こう  『存在の詩』より。
スワミ・プレム・ブラフ゛ッダサンの訳に拠り。

「空」は何ものも頼まず

もしそこに何かがあるのならば
それは頼みにするものを必要とする
しかし何もない空であれば
どんな支えの必要もない
そして我々の実在が非実在であるというこのことは
あらゆる知者たちの最も深い認識だ

そもそもそれを実在と言うそのことからしておかしい
それは何かではないのだから
それは何かあるものなんかじゃないのだから
それは何でもないものとでも言うべきものだ

どんな境界も持たない広大な虚空
それはアナートマ(anatma),無自己だ
それは「内なる自己」などというものでもない

あらゆる自己感覚はすべて虚構だ
「私はこれであり,私はあれである」というような
あらゆる自己同化はすべて虚構だ

究極なるものに行きつくとき
時分の最も深い核に行きあたるとき
突如としておまえは
自分がこれでもなくあれでもないということを知る
おまえは一個の自我(エゴ)なんじゃない
おまえはひとつの巨大な空であるばかりなのだ

ときとして静かに坐ることがあったら
目を閉じて感じてごらん
自分が誰であり,どこにいるのかを──
深く進んでごらん
すると不安になるかもしれない

なぜなら,深く進めば進むはど
おまえは自分が誰でもなく
ひとつの無であるにすぎないのをより深く感ずるからだ
みんながあんなにも瞑想を恐れるのはそのためだ
それは死なのだ
それは自我(エゴ)の死なのだ
そして,その自我(エゴ)というもの自体
ただの虚構の概念であるにすぎない

いまや物理学着たちは
彼らの科学的探求を通じて
物質の領域への深化を通じて
その同じ真理に行きあたった
仏陀が
ティロパが
ボーディダルマが
彼らの内観を通じてたどり着いたものを
科学は外側の世界にもまた発見したのだ
いまや彼らは言う
物質的実在などというものは無い,と
〈物質〉というのは〈自己〉と平行する概念だ

一塊の岩が存在する
おまえはそれがとても堅固な実質を持ったものだと感ずる
おまえはそれで誰かの頭を殴ることもできる
すると血が出て来るだろう
その人間が死ぬことさえあるかもしれない
それはとても堅固な実体だ
しかし物理学者に聞いてごらん
彼らはそれは非物質だと言う
その中には何もありはしない
彼らはそれはただのエネルギー現象にすぎないのだと言う
この岩において交錯しているたくさんのエネルギーの流れが
それに実体感を与えているのだ
ちょうど,紙の上に多くの交錯した線を引くのと同じように──

たくさんの線が交差するところには
ひとつの点が現われる
その点はそこにあるわけじゃなかった
二本の線が交わる
するとそこにひとつの点が現われる
たくさんの線が交わる
すると大きな点が現われる
その点は本当にそこにあるのだろうか?
それともただ交わった何本もの線が
そこにひとつの点があるかのような錯覚を与えているだけなのだろうか?

物理学者たちは
いくつもの交錯したエネルギーの流れが物質をつくり出すと言う
そしてそれらのエネルギー流とは何かと言えば
それは物質的なものではないのだ
それらは重量を持たない
それは非物質的なのだ
いくつもの交錯した非物質的な線が
一塊の岩のように
とても堅固な実体をもった物質的なものであるかのような錯覚を与える

仏陀はアインシュタインから遡ること25世紀前に
内側には誰もいないのだというこの解明に到達した
ただの交錯した何本ものエネルギーの線が
おまえに<自己>という感覚を与える

仏陀はいつも自己というものは玉ネギにそっくりだと言っていた

* もう十年になるか。友であり優れた画家である細川弘司は、わたしを見ながら一枚の画用紙に、ボールペンでぐるぐるぐるぐる線を書き捲っていた、ものの三分間ほど。
見せてくれると、そこにわたしが、自分でも観たことのない、いかにも「わたし」でしかない、自分でも一寸好きになってしまう「わたしの顔」が、虚空から浮かび上がっていた。それは線の奔放に走った集積でしかないとも謂えたが、「わたしの顔」だった。これでもずいぶん何度もカメラマンに顔を撮影されてきたが、細川の走らせた線の塊のように浮かんで出た「わたしの顔」ほど、自分で言うのもナンだが慥かな「もの」はなかった。小説『お父さん、繪を描いてください』下巻のうしろのほうにわたしはその「顔」を挿絵として入れた。

* バグワンの曰くが、落ち着いて納得できる。この実感をより慥かにしたい。
2011 7・16 118

十世柏叟宗室「閑事」 永楽和全「玉取獅子鉢」河濱支流

* 七月の逝くを送りながら、心静かに身近を新たにした。
裏千家認得齋の「閑事」二字は、いまの私にはもっとも貴い。由緒伝来のあれこれあったらしく軸装に傷みもないでないが、上下の金彩はまぶしいほど美しく、わびた表装がなつかしい。嗣子玄々齋に恵まれ、妻も弟子も子女も優れた茶人として知られた。
永楽十二代和全は名手父保全をもしのぐ歴代中の名人。模呉須赤繪の塙いで精緻な「玉取嗣子鉢」は七十二翁としての代表作で、紀州藩より贈られた金印「河濱支流」が刻されてある。
いま、私を静かに静かに励ましてこの上のものは無い。 観音像は妻の父母より伝えてきた持仏。下棚には古典全集と志賀直哉全集。
2011 7・31 118

* 帝劇のモール、例の「菊川」で遅い昼食を終えたのが三時半廻っていた。鰻、しっかり値上がりしていた。この店の瓶の菊正が大好き、二合をくいと呑んできた。おなじみのおねえさんのサービスもよかった。
さて、となりの静かな出光美術館で、「明清陶磁の名品」展をゆっくりゆっくり夫婦で堪能した。漢族の王朝と朝鮮満州族の王朝の肌合いの差異が窺えながら、後続した清陶磁のしっかり明文化に学ぼう超えようとした意気も、またほの見えて面白くも美しい名品展、妻も私も清々しく満たされた。清の超絶技巧より、明の洪武・永楽また成化・嘉靖の頃の洗練のきいた磁器の多くについつい嘆声がもれたが、清の雍正の青花釉裏紅ものや小説「蝶の皿」で書いた豆彩ものにも特色を覚えた何点もが目立ち、満足した。
客のいたって少ないもう閉館の時刻の逼っていた出光美術館の、本展に添った贅沢なおまけのルオー、ムンクの数点も、茶室の飾り付けも、目映く照った皇居の眺望も、とても心地よく目に染みた。
妻がソーラーの腕時計修繕を頼んだビックカメラにもう一度たち戻ってから、地下の有楽町線で一気に保谷へ帰った。パンを買って、ぱらぱら来始めた小雨をかいくぐり車で玄関まで。黒いまごが、そろりと出迎えてくれた。
2011 8・4 119

* 日乗を開くと、「方丈」二字が凛とあらわれ、わたしを励ます。美しい毅い二字。そしてわたしの京都が見えてくる。
2011 8・19 119

* 茄子は幼来大の苦手の苦手だが、姿も色も花や葉も好きである。九十五翁の三浦さんはときどきこういう心清しい繊麗なお便りを下さる。これはことに妻が景仰やまず、あえて略装した。 新展開かつバックアップのための新サイトを、雅に飾って貰った。いずれ公開する。
谷崎松子夫人の巻紙を美しく仕立てたいが、東京では表具のツテがなかなか無い。
2011 9・14 120

* 永楽和全が七十余歳での造、「河濱支流」印のある赤繪呉須の「珠取獅子」盂を楽しんだあと、裏千家淡々齋の箱書された、何代だろう三浦竹泉の造「祥瑞写捻」の美しい水指を柏叟筆「閑事」の軸前に出してみた。手の佳い造りで胴より下を豪快に捻ってある。共蓋で、しっかりと大ぶり。いまの竹泉さんは大学の先輩で、ずうっと「湖(うみ)の本」 を支援して下さっている。お尋ねすれば何代さんの造であるかはすぐ分かる。「竹泉」は磁器、そしてきわめて華麗ないい仕事をみせてくれる。やはり何代と記憶しないが豪奢に丈高い瓶花生も家にあるはず。
こういう美術品は、ただ箱に入れて雑然と死蔵されてしまってはモノに対し申し訳ない。建日子が、趣味と眼とを養いながら、収蔵もし観賞も出来る、設えのいい家を持ってくれると何よりなのだが。
2011 10・19 121

* 柏叟の書「閑事」が居間の壁に佳くもよく嵌っていて、目をそこへ向けるのが嬉しくて仕方ない。閑事……。佳い。
2011 11・3 122

* 裏千家十三世圓能齋の書になる細長軸「紅葉舞秋風」を、叔母の社中で、わたしも六十年來つきあってきた方に、今日謹呈した。
十四世淡々齋家元の箱書がある。古門前の林樂庵に宛て「又拙庵」が贈りものにした熨斗書きもついていて、由緒伝来の明瞭な品である。
叔母宗陽が終焉まで永く永く社中として出精し、叔母亡きあともわたしの「湖の本」を欠かさず購読しつづけてくれた、いわばわたしにとっても、少なくも五、六歳姉弟子に当たる有り難い人。何十年も顔を合わしていない人。
2011 11・17 122

* むかし淡交社の呉れた『原色茶道大辞典』は愛読書の一冊で、見開き二頁に、多い場合五つほども原色写真が出ている、 その記事を読んで行くだけで、なんとも趣味のいい楽しみになる。
「昨夢軒」などと茶席もある。
染井吉野、山椿あるいは桜鏡など花の写真や花生も観られる。
「櫻川釜」などと釜の写真も、むろん名碗や墨跡や菓子・干菓子の写真も出ているから見飽きることがない。
辞典を読むなど索漠とした印象のようで、これは少しもそうでない。じつに珍しい物にも出会える。
今は圓能齋好みの「猿臂棚」を観ていた。客付のハシラ一本に竹が用いられ、弓張りの透かしがあって、運び水指が入る。中棚に薄茶器、天板に羽帚と香合、あるいは柄杓と蓋置を莊る。
大振りな時代ものの源氏車蒔絵平棗を莊ってみたい。水指にはいまも毎日観ている華麗な竹泉造祥瑞の捻がそのままぴったりだろう。そういう想像も楽しめる
2011 11・20 122

* 古備前、矢筈口の耳付水指で、銘「餓鬼腹」という豪快なのを探し当てた。「閑事」の軸前に置くと、威風あたりを払う堂々とした品。備前焼でも秀作によく出会う特色有る「垂れ耳」もおもしろく、華麗な石もの竹泉の祥瑞捻水指とは趣変わって、しかも立派。竹泉と並べると対象の妙と同様の貫禄とで、目にゆたかな協奏曲すらきこえてくる。
茶道具の中でも水指はおおものに属していて、嵩高く重たくもあるが、床の間とともに、茶席一座の印象を決定づける。もう数点も在ると記憶しているので、部屋の片づいている内にしかと目にしておきたい。
2011 11・29 122

* 電灯を消したのは一時半だった、二度手洗いに立ち、二度目はまだほの暗い六時過ぎだった、八時半には朝が来るなと思い、もう一度床に入ってからながい夢を見ていて、あまり息苦しくて起きたとき、午まえになっていた。
いくらでも寝られる、それはいいが夢は見ないで寝たい。大勢での、乗り物に乗ったり歩いたり遠足感覚の夢で、なにの不快な出来事もないのに不安感が波立っていた。もがくように目を明いた。
今日明日までかかると想っていた本の発送がこころもち早く済み、それだけ疲労は濃いか。
柏叟の二字「閑事」の軸をかけていらい、これを公案のように見つめているが、はるかにまだ霞んでしか読めない。胸奥にこの境涯が沈んでいないのだ。まだまだむしろ「 多事」や「他事」がとぐろを巻いているということ。黯然とする。
* 堂本印象描く一軸、寂寞として朱い「木守り」の柿一つを観ている。題には「澄秋」とあるが師走へかけて十日頃までは佳いだろう。寂しいが花なりの命が虚空に澄んでいる。
2011 11・30 122

* 井口哲郎さんの、陶淵明南山詩を大きく刻し燦然金彩された板を、頂戴した。機械のある此の、一日で最も永く身を置いている書斎に掛ける。荻原井泉水さんの「風 花」二大字、秋艸道人の「学規」も此処に在る。気持ちの一等暖かになる、部屋。

* 『利休好み 釣瓶水指』 のあるのを確認した。函蓋内に「利休好み水指」「宗室判認(宗室という独特の二字は玄々齋筆かと思われるが、判認= この二字は別筆か)」「小兵衛」の作とある。函底裏にも「小兵衛」と署名し「小」の小判印。この指物師らしい作者名は直ぐには確認できない。割蓋の一枚裏にも彫り込み様に 丸印 がある。香りの残った檜の柾目造。
「釣瓶水指  武野紹鴎が井戸から汲上げたままの水を水屋に置くために、木地で好んだのが最初という。当時盛んに用いられている。利休好みは檜の柾目を用い、外法長さ上部で七寸一分半、横七寸、下で少し狭まり深さは内法五寸五分、鐵釘で止める。一文字の角の手付で二枚の割蓋が添うている。妙喜庵好みは松材。木地のもののほかに春慶塗のものなどもある。古くは用いるたびに新調したが、後年では伝来ものが尊重されるようになった。」(原色茶道大辞典)
「木地釣瓶  檜の木地を用いた水指。十分に水で濡らして使う。名水点といって周囲に注連を施すこともある。紹鴎が井戸から汲上げたままに水溜として置いておこうと、木地を好んだのが最初とされる。それを利休が小座敷に侘びて面白いと席中に用いた。利休在判のものや、玄々齋宗室の教歌直書のもの、淡々齋好みの竹張りのものなどがある。(原色茶道大辞典)」
大辞典の「利休好み」記載を忠実に満たしている。函内の底に紙袋に入れて叔母宗陽の用いたらしい注連が残されていて、桶の中には「名水点」作法などの解説された雑誌「淡交」一冊が巻いて入れてあった。
かすかな記憶だがわたしも一度だけこの水指での作法を稽古したように思う。いまのところ作者「小兵衛」が未確認だが、指物としては大辞典の記載にそのままの謹直な造りで面白い。 檜の香りがなつかしい。
2011 12・7 123

* 日生劇場前、帝国ホテルわきからタクシーで。なお秋色のこる静かな泉屋博古館分館の、住友コレクション展を観てきた。佳什少なからず、だが、さて目にやきついて離れぬほどの名品とも出会わず。
近くのホテルオークラで暫時腰掛けて休み、ふたたびタクシーで帝国ホテルにもどり、幸いタワー地下の中華料理「北京」が明いていたので、今日はと期待してきたご馳走を多彩に珍しいコースメニュで満腹した。この頃ではめったに出ないマオタイが飲めた、なんという美味さ。そして紹興酒二合。満喫。
その足で、五階のクラブへ。例年愛用のダイアリーを貰う、これが目当てで。コーヒーだけにするよと言いながら、バーボンのブラントンも少し楽しんだ。酔いにさそわれ、なんということ、妻をそばに置いたままわたしは暫くうたたねした。妻は本を読んでいたらしい、今夜土曜日のクラブはそれほど静かだった。
日比谷から、タクシーで帰宅。わたしは、その車内でもかなり長く寝入っていた。
2011 12・10 123

* 上野の森美術館、創画会。上村松篁さんなく、橋田二朗さんなく、この三十数年で、信じられないほど大勢の会員や会友が亡くなっている。
昨日も今日も好天で暖か。心地よく、ひさしぶり独りの外出で初冬の都心や上野の開放感を楽しんだ。鶯谷から根岸の方もあるいてみた。
2011 12・13 123

* 夕方、建日子、都内から自転車で来訪、夕食を倶にし、古備前の餓鬼腹や利休好み釣瓶水指や竹泉の名品など、また楽九代や大樋五代の名人藝の茶碗など観て、嘆賞久し。自転車で持ち帰られてはたいへんなので、平に容赦願う。
家狭くて。処分を急ぎたい。時折のこうした棚卸しで楽しんでいる。佳い物はいい。が、出すのもまた蔵うのにも気を使う。
2011 12・22 123

* 京都で育って東京で制作している日本画家に、和歌山のみごとな梅干しの樽を、東京で学んで東京で活躍している日本画家からは例年の自作の華麗なカレンダーを貰った。いずれも閨秀。
2011 12・24 123

* 画家の上村淳之さんに、彼の花鳥画と錚々十二人書家の万葉歌とが競作の佳いカレンダーを戴いた。凸版印刷の、山種美術館の、新日鐵の、画家鳥山冷さんの、国技館からの、写真家井上隆雄さんの、ラボセンターの、と、この冬はカレンダーの佳いのに恵まれている。どれをどこに掛けようかと迷うほど。
2011 12・28 123

* さてさて、この機械部屋など、結局片づけることすらなく越年しそうである。
玄関には、亡き出岡実画伯の「持幡童子」をわきに、正面に秋石画「蓬莱山」の長軸を用意している。古典文学全集の上へ、干支開運の龍を小さく置き、その背後に雲鶴文象嵌青磁の皿を立ててある。
居間には柏叟の「閑事」二字に年を越してもらい、その前に、唐物漆器の存星、赤漆地に鎗彩、錦華のように繊細に金で文様を描いた四方盆に、やはり唐物の青磁手付茶器を莊っている。
どうしてもこうしても狭い上にモノばっかりの家だ、これ以上掃除のし甲斐がない、それでよい、よい。四十余年もこの家に馴染んできた。垣根一重のとなりに、両親が買って京都から移り住んだ一棟のあるのが今は物置としてどんなに有り難いか、それなしに「 湖(うみ)の本」 を四半世紀余も出版し続けることは出来なかった。松壽院さん、心窓さん、香月さんのお蔭である。
2011 12・28 123

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