ぜんぶ秦恒平文学の話

美術 2012年

 

* カレンダーが一斉に新しい。仕事をするこの機械部屋には山種美術館からの、河合玉堂「松上双鶴」。この部屋に入る明るい二階廊下には上村淳之画伯に戴いた、花鳥画に書家杉岡華邨の家持元日の万葉秀歌

新たしき 年の始めの 初春の けふ降る雪の いやしけ吉事

が春を競っている。居間・食堂には凸版印刷特製、小野竹喬集からの「宿雪」、相撲協会からのの表紙は愛くるしいほどの青年横綱白鵬が餅をつく像、妻が惜しんで表紙を捨てなかった。正月は、四大関で、稀勢之里が間に合っていない。さらに写真家井上隆雄さんの「曙光」、鳥山玲さんの花鳥をこもごも要所に掛け、手洗いにも、例年どおり新日鐵制作の動物たちの愛らしい写真。お正月には皇帝ペンギンの親子が厳粛に新年を祝して挨拶を交わしている。

* 初詣の写真を建日子が撮ってくれた。妻は元気、わたしはすこし弱り気味か。
2012 1/2 124

* 昨夜、床に就くまえにロサンゼルスへ送ったメールが、なぜか不通で戻ってきた。早く伝えたかったもので、あるいは此の場の方が向こうで目に留まるかも知れず、転載しておく。私の気持ちとして伝わっていて欲しい。

☆ 親愛なる**さん   恒平

先だってはお電話でお見舞い下さり有難う存じました。日々のことは、おおかたホームページの日記のとおりです。ご安心下さいともご心配下さいとも言えない、いまぶん従来とたいして変わりません。あと何度か検査通院がありまして、二月には入院し手術、尋常にすめば三週間ほどで退院と聞いています。

そんなことは、そんなこと。私も、たいてい忘れているようにしています。

それより、下記に添付のように、**宗千先生に「謹呈」の一行ものが用意してあります。郵便で破損などあってもつまりませんので、次回日本へお帰りの時に、元気なら私から、弱っていれば家内からお手渡しします。ご遠慮無くご笑納下さい。

海を越えて茶の湯のためにはるばる参るのに、「四海皆茶人」という字句は最適の、またいかなる時にも場所にも本席掛けして恥ずかしくない、堂々として見事な円能齋の書蹟です。お楽しみのためにあえて写真を添えません。

ことにこの軸・一行もの、は、円能齋自筆のしっかりした蓋裏の箱書きに加えて、淡々齋による蓋表に自筆の極め箱書きが付いており、そればかりか、この軸がどういう時と機会に贈り先「林楽庵」に淡々齋家元から「贈呈」されたか、美しい継色紙の「千宗室 今日庵」書簡が付属しています。明らかに亡き円能齋を記念した楽庵の茶会に家元から感謝の鄭重な礼状であり、家元と楽庵との親交もよく知れて、この手紙そのものを美しく表具することも貴重で可能と思います。虫食っていましても、封筒もぜひ大切に保管され、表具されるならぜひとも封筒・本紙ともども京都の表具屋でなさるように奨めます。
今の家元、前の家元、また裏千家の高弟たち、誰が観られても、「これは」と感じ入るであろうこと請け合い、大いばりでご愛蔵なさいますように。

とにもかくにも、またお帰りになる機会を私ども楽しみに待っています。

裏千家十三世円能齋筆一行「四海皆茶人」控え

軸箱
蓋表 「円能齋筆一行もの 四海皆茶人とあり 宗淑淡」
(宗叔=十四世淡々齋の若宗匠時代の茶名)
蓋裏 「自筆一行 四海皆茶人 円能宗室 花押」
(蓋裏 上桟落ち)

本軸 「四海皆茶人 円能齋花押書中にあり 和敬清寂朱印」わび表具
(書 堂々の大字 軸 悠々長)

付き物 書簡巻紙 青地白地の継紙 一通 虫食いなれど
封表 「市内古門前 林楽庵様 御直披」西陣 13.10.1 午后発 参銭切手消印
封裏 「〆 小川( 以下虫食いで判読不能)  千宗室 十月一日」

本紙
拝啓
昨日は久方振りの暁会
御招きに預り特に故先代
円能齋の為に御追悼之
意を以て御道具萬事
萬端之御心尽しにて 一入
感慨無量に奉存候
定めし地下の故人も満足
に思居る事と存候 右厚く
御禮申上候 猶今後
一増御後援賜り度く伏し
て願上候 先以右 御礼
かたがた 御願ひ迄
敬具
拾月一日  今日庵 (昭和十三年かと。大正十三年も否定できないが。)
林 楽庵雅主

(円能齋からの贈り物でなく、嗣子淡々齋の謹呈一軸であることは、蓋表の淡々齋箱書で明瞭。軸はそれ以前から今日庵に所持されていたものを特に感謝の意を添えて林楽庵に献呈したものと。林楽庵は、古門前一帯に一族蟠踞した当時茶道具骨董を商う富裕の豪商でした。箱脇の札は「楽庵」所持の控え番号。) 平成二十四年一月二十一日  秦宗遠記

なお、お道具のことなどますます楽しまれる上で、淡交社刊『原色茶道大辞典』はお楽しみになれる必需の一冊。おついでの折に京都のお友達から送って貰われますように。

お二方のご健康を心より願っていますよ。  恒平・宗遠

* 可能ならゆうひつがきでたとえあつたとしても書簡は侘びた表具をされておくと宜しく、また軸箱の蓋の表にも裏にも二代の家元の箱書きがあって時代がついてきている。二重箱をこしらえて当代か先代かの箱書きをもらっておくと、ものが裏千家内の相承ではあり、流儀の人には感銘を与えるに違いない。
2012 1・30 124

* 夜前は、疲労というか何というか、とにかくも床に就き、幸い七時まで起きなかった。大事を取りもう一度寝入って十時頃まで。妻が電話で話しているらしかつた。ロサンゼルスかららしかった。連絡が付いて、よかった。

* わたしが叔母宗陽から引き継いだ茶道具を人さまに手渡しているのは、真実差し上げているのであり、売る気など毛頭無い。売るならその筋の商人に売る。売る気は、全然無いことを明記しておく。すこしも気遣いなくまさに笑納願いたい。願いはただただそれが茶の湯の場で生きてくれること、それのみ。
この世界のヘンなのは、流儀の埒のきついことで、どんなに佳い道具でもたとえば表千家のものを、例えば裏千家教授であった叔母が茶会で用いると、多少の悪声を聞かねばならなかった。ヘンな話だ。叔母は表の道具も他流のもすこしは蔵っていたが、流儀モノとしてはやはり裏のものが多い。ところが東京での比較的身辺の茶の湯人には表を習ってきた人が多い。やれやれ、である。      今一つ美術骨董には愛好者にはその人なりのクセも好みもあり、関心のうすいひとには、あまり好まれない。流儀を離れた繪や書でも、同じ事。それで、必要以上に気遣いしてしまい、ときには落胆もする。
2012 1・31 124

* 上村淳之さんから、春季創画展の招待が来ていた。気が晴れる。
2012 2・10 125

* 鴨祐為卿の「花祭り」繪賛の軸を引き、堂本印象の菖蒲の繪を玄関にかけ替えた。ぱあっと五月になった。茶の間には徳力富吉郎画伯に頂戴した美しい「鮎数尾」の大軸繪に掛け替えた。徳力さんの趣味のきわみの表具もすばらしい。もう暫くすると同じ印象画伯の長軸で、天空をふるわせて囀り翔ぶ「ほととぎす」の繪が嵌ってくる。それから伝義政の蛍を詠んだ古歌短冊が、また岸連山の祇園社御手洗い場の墨絵が、さらに呉景文の瀟洒な水辺の花鳥が出を待っている。

* 手持ちのそういう繪や軸ものを、わたしは、少しずつ人様に、また少しずつ開眼しつつありげな息子にも、贈るようにしている。
最近わたしは二度三度も聖路加病院で命拾いしたのだが、こころばかりのお礼に、三点四点、油絵や軸物を持参した。美しいもちものを無意味に死蔵するのでなく、喜んで貰ってもらえれば何よりと、わたしも、またそれら作物のためにも、喜んでいる。われら夫婦して愛してきたシャガールの版画も、孫娘に与えるのとかわりない熱い思いで、新婚の、そしてみごと就職を果たしたやす香のお友達に心から「おめでとう」と贈りものにした。胸の内が明るくなった。
もうやがてアメリカから懐かしい茶友が帰省してくる。佳い( と信じている) お土産がもう用意してある。その人の茶室でどんなにそれが晴れするかと想ってみるのが楽しい。
2012 5・1 128

* いま、空腹気味で体感自然、なにの違和も無い。仕事に熱中していたからだと思う。
昼間、歩けるときは歩き、寝て差し支えないときは遠慮無く寝る。夢中で仕事する。それが体違和を、退治まではできなくても忘れてられることに繋がる。
これでわが家に広さという余裕が有れば、所蔵の美しいものを、玩物喪志になど陥りはしない、もっともっと身近に観て楽しむのだが。
2012 5・4 128

* 玄関に、「晴日」と題された堂本印象画伯の、色も姿も晴れやかなあやめの大輪を掛け、茶の間には、徳力富吉郎画伯に頂戴した墨絵「鮎」の大幅を掛けた。中国の名だたる名墨を手に入れられ、欣然と筆をとられたことのよく分かる清冽な鮎が三尾。
建日子が感嘆して観入って行った。
2012 5・8 128

* さて。午后にはロスから帰来の池宮さんに会う。約束の「 四海皆茶人」の一軸を贈るために。圓能齋の雄渾の書に淡々齋の懇切で美しい極めの書状も付いている。海を越えて「四海皆茶人」の志が生きると思うと、わたしも嬉しい。なにか、もう一品加えようかと思っている。
そのあと、妻と、新橋演舞場の「椿説弓張月」を楽しむ。三島由紀夫の脚色演出。それも楽しみにしている。体調が安定していてくれますよう。

* 裏千家十三世円能齋筆一行「四海皆茶人」控え

軸箱
蓋表 「円能齋筆一行もの 四海皆茶人とあり 宗淑淡」
(宗叔=十四世淡々齋の若宗匠時代の茶名)
蓋裏 「自筆一行 四海皆茶人 円能宗室 花押」
(蓋裏 上桟落ち)

本軸 「四海皆茶人 円能齋花押書中にあり 和敬清寂朱印」わび表具
(書 堂々の大字 軸 悠々長)

付き物 書簡巻紙 青地白地の継紙 一通 虫食いなれど
封表 「市内古門前 林楽庵様 御直披」西陣 13.10.1 午后発 参銭切手消印
封裏 「〆 小川( 以下虫食いで判読不能)  千宗室 十月一日」

本紙
拝啓
昨日は久方振りの暁会
御招きに預り特に故先代
円能齋の為に御追悼之
意を以て御道具萬事
萬端之御心尽しにて 一入
感慨無量に奉存候
定めし地下の故人も満足
に思居る事と存候 右厚く
御禮申上候 猶今後
一増御後援賜り度く伏し
て願上候 先以右 御礼
かたがた 御願ひ迄
敬具
拾月一日  今日庵 (昭和十三年かと。大正十三年も否定できないが。)
林 楽庵雅主

(円能齋からの贈り物でなく、嗣子淡々齋からの謹呈一軸であることは、蓋表の淡々齋箱書で明瞭。軸はそれ以前から今日庵に所持されていたものを特に感謝の意を添えて林楽庵に献呈したものと。林楽庵は、古門前一帯に一族蟠踞した当時茶道具骨董を商う富裕の豪商。箱脇の札は「楽庵」所持の控え番号。) 平成二十四年一月二十一日  宗遠記

* 虫食いの巻紙の手紙は、風炉先としてでも表具されれば、「四海皆茶人」の床掛けと共映えして茶席を豊かにするだろう。
加えて、梅模様のしっかりした仕覆付き、肩衝茶入も進上した。かすかに、しかし、美しい翠釉が一刷けしたように流れている。箱は見付からず、はだかで鞄へ突っ込んで行った。あやうく渡し忘れそうになった。
いずれもいずれも活きて愛されてほしい。
2012 5・12 128

* 昨日の母の日に、徳力さんの版画にお出まし願った。むろんこの「西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ」一枚だけが徳力作なのではない、詩の全容が何枚にも版にされているが、京の姉小路の嵩山堂であったか、そこで出逢って一揃え買うほどの懐工合でなかった、で、この一枚を買って帰った、何十年の昔のことか。京都で老父が入院すれば、わたしの妻は東京から付き添いに京都へ帰っていた。わたしも何かに付け両親や叔母を見舞った。妻の循環器はそうした往来の最中に壊れ始めた。そして、ついには父も母も叔母もひっくるめて東京へ引き取った。育ての父は九十一、同じく叔母は九十三、同じく母は九十六歳まで東京で長生きした。妻は、三人ともいろいろに看取ってあの世へも見送ってくれた。
今年は春から、ま、バタバタして、煽りでその妻にたいへんな過労を強いた。病室に閉じ籠もってわたしは迷惑のかけづめだったが、いつものように建日子が多くを「負」って助けてくれた。朝日子もいてくれたらどんなに心強いかと、母親は思っていたろう。朝日子もみゆ希も町田市で元気にしているのだろうか。
2012 5・14 128

* 時代が古いことでは、もうすぐ掛けようと思っている「義政」の「海上蛍」と題した歌短冊が手元にあり、さすがに半信半疑だが豪奢な表具が気に入っている。「表具の値段や思て買おとおきやす」と出入りの道具屋に叔母が薦められれていたのを覚えている。わたしも賛成した。短冊そのものも古色を保って高雅で、書も捨てたものでない。将軍というより趣味者であった足利義政を想像しながら例年、 季節になると持ち出している。
じつは、それよりはるかに気に掛けている物に、大徳寺「江月宗玩」自筆の梅繪に賛という一軸があり、「伝来を証した書簡」と古筆了以の「極め」が附随している。江月は、大徳寺住持で後水尾天皇より大梁興宗禅師の号を勅賜されている。信長や秀吉に仕えた堺の大商人で大茶人であった津田宗及の子であり、堺の南宗寺住持でもあった。
書をみるのは何より好き。厚かましくも岡倉天心、幸田露伴から會津八一や魯山人ら名だたる十八人の名前をならべた井上靖監修古美術読本「書蹟」巻を編集(光文社 知恵の森文庫)してもいるのだが、「古筆」の鑑定はとても出来ない。しかし、何となくわたしは此の江月繪賛に真蹟の匂いをかいでいる。遺墨は比較的多く伝存し珍重されていると『原色茶道大辞典』にもある。古筆研究の小松茂美さんがお元気な間に鑑て貰っておきたかった。
同じく千家茶道の祖である、利休の孫、千宗旦の消息を仕立てた、いかにも時代の一軸も手元にある。およその読みも利いて、これまた茶掛けとして風雅な感触に満ちていて、大事にしている。
義政の短冊はともあれ、江月も宗旦も、真蹟と知れればわたしなどが握りしめているより、しかるべき施設に寄付していいとも思っている。
なににしても思い屈するようなとき、美しさも奥行き深い書や工藝の数々に目をふれては、励まされ癒やされる。なかなか家常の什物としては扱いにくい物もあるが、軸や額は掛けて楽しめる。
2012 6・2 129

☆ 拝啓
落ち着かない状況の中で、時だけがつれなく過ぎていきます。
ご体調いかがでございましょうか。
このたびは『湖の本』112の御恵投にあづかり、また御自筆のお言葉を賜り、ありがとうございました。
今年は国文学研究資料館創立四十周年に当たると同時に、『方丈記』成立八〇〇年ということで、ただ今、(鴨長明とその時代 『方丈記』) という展示を開催しております。例によって文献中心の地味な展示ですが、図録を作成いたしましたのでお送り申し上げます。ご一見いただければ幸甚に存じます。
夏に向かう季節にて、くれぐれもご自愛くださいますよう。敬具  六月十四日
秦恒平先生    今西祐一郎(館長)

* 頂戴した図録のいきなりに、鴨長明、飯尾宗祇、藤原俊成、兼好法師、牡丹花肖柏、西行法師ら肖像のいならぶ「先賢図押絵貼屏風」一隻に嘆声。銘々に、長明は方丈記の書き出し、俊成は、「千載集えらび侍けるときふるき人びとのうたをみて 行末はわれをもしのぶ人やあらむ昔をおもふこゝろならひに」などと、述懐の言葉が像の上に書かれてあるのも実に嬉しい。
だが、それ以上に喫驚したのは、次頁に、法界寺蔵、木造の愛らしいまでこぶりな「鴨長明座像」が出ていて、「鴨祐為作」とあること。ついこの間まで、わが家は玄関にこの祐為の花祭り墨画を掛けていた。
上の解説は、こうある。長明にも祐為にもひとしおの親愛を覚える。
今西さん、有難う存じます。

☆ 鴨長明座像一躯
江戸時代後期 鴨祐為作 木造
像高一八・〇 厨子高二八・〇
法界寺歳

端座した長明の木像。鑿の跡が生々しい素朴なもので、底裏の署名から鴨祐為(元文五年(一七四〇)生まれ、享和元年(一八〇一)没)の作であると知られる。祐為は下賀茂神社祠官鴨祐之の孫で、早吟を得意とする歌人として活躍した。また若くして西川祐信に絵を学び、浮世絵師としての一面も持つ。厨子の背には天保十四年(一人四三)に田村長基が記した由緒書が見られ、それによると長らく日野恵福寺の堂の床下に放置されていたこの座像を、醍醐寺三宝院門跡高演准三后が発見し、家臣の長基に厨子と畳を作らせて、それに収めて法界寺の本堂に安置した経緯がわかる。頭部に恵福寺の時代にこうむったものか、多少の破損が見られる。損壊の跡は痛々しいが、作者の愛情が感じられる小ぶりの愛らしい木像である。  (小林健二)
2012 6・15 129

* 三月の再入院からようやく退院できる少し前に病室で書いた怱卒ではあるが実感のまま早書きの短文を、ここに記録しておく。
原稿のまま放ってあったが、「入院時の所感」として電子化しておこうと思った。

* 古径「罌粟図」をよろこぶ    秦恒平

思いがけず聖路加病院の病室から、二月十五日、二十重(はたえ)の高層ビル群を眺めるはめになり、しかも三月三日( 平成二十四年) に退院しながら、三月十五日にまた再入院して今日に到っている。今日は、思い違いでなければ三月二十三日。妻も今日、わが家地元の病院で急遽、心臓冠動脈二度目の拡張手術を受けていた。幸い、無事成功しましたと立会ってくれた息子秦建日子から報せが有った。 心配は尽きなかった。嬉しい安堵は、思わず息子の報せを聴く胸を熱くつまらせた。
胃全摘、胆嚢切除の八時間手術と入院生活、さらに相次いでひどい脱水に加わった術後全身への大腸菌感染など腎や前立腺炎にも及ぶ難儀となり、西東京市から中央区明石町へ一時間半の妻の介護通勤は、荷重苛酷であった。遂に、家を出て、不幸中の幸いであったがまだ近所のうちに、ニトロの頓服を要する急変に遭ってしまった。妻には返す返す気の毒で申訳が無い。幸い緊急の地元病院配慮で、今回二度めの冠動脈拡張手術を受けることが叶い、明朝にも退院可能とは、ともあれ天恵であった。妻にはほかに全身また腰の執拗な痛みがあり、ロキソニンと胃腸薬とを日日薬(ひにちぐすり)にしている有様で、ほとんど謂うに言葉無いきつい現状なのである。
私の方は治療への主力が、消化器外科から古川内科部長らの配慮下に転じて感染病状の徹底退治に抗生物質何種かの点滴が日夜続けられ、幸い奏功し、点滴は此の週末迄、以後は投薬と通院受診が相当と決せられた。今日は金曜、週明け月曜には「退院」とほぼ許可された。消化器外科柵瀬主治医も問題なく退院に賛同して下さっている。この先へのまだ不安は払拭されていないけれど、退院の「潮どき」を迎えたといわれる以上、新たな覚悟で立ち向かう。当然だろう。

此の八階病棟の病室へ、結果私は二度入ったのだが、別部屋である二つのよく似た病室には、医療治療とは無縁に、いやそれも無縁と謂うのではないかも知れない双方ともに似た特徴が有った。先の八四◯室の壁には狩野探幽の「松櫻図」が掛かり、今回の八一二室には小林古径の「罌粟図」が、共に大色紙大の画面をより大きく白地で囲って清潔な額におさまっていた。
聖路加病院はおよそ全館が美術館ふうに夥しい大小の繪を掛けているが、個々の病室にも複製とはいえかかる美しい繪が用意され、日夜屈しがちな心事をこうまで慰めてもらえるとは予想外であった。敬服し感謝した。
殊に八一二室の「罌粟図」( 正しい題を今此処では覚えないが) は、端的につよく美しく私を激励してくれた。
三月二十一日深夜一時二十分、眠り難いまま、森閑と灯の多くを消した窓外の高層ビルたちを視野の外に、窓辺の倚子にいて、なかなかうまくまとまらないこんな一首を何とか、こんなふうに落着けた。

古径描く罌粟額(ぬか)の上に咲く病室(へや)ぞ
そが嬉し 命みなぎる葉むらよ

我ながら拙い物言いで困るけれど、気持ちでは言いたいところへ思いを届かせている。古径の繪、赤と白との花も莟も冴え冴えと、凛々と、美しい。人はおおかた花咲くみごとさに眼を惹かれ、額の辺を清く洗われたほどの感銘感謝とともに繪の前を離れることだろう。それで良い、むろんそれで良い。
ただ私は、病室という特別の場所で大袈裟ではなく日々呻吟してきたし、眠りもとかく浅く跡切れがちに、深夜などは孤独であった。
そうした事情心情から日夜ともすると視線を繪に預けてつい憩うている者の眼に、此の古径画伯の作画は、もう少し容子の、思いの、異なった繪に想われた。想われたは正確でない、私はこの秀でた画家は、罌粟の花より遙かに力づよい動機から、「葉むら」をこそ、真緑に命ましぶき沸き立つ「葉むら」の美しさ逞しさをこそ描こうとした傑作と「観た」のであった。
色紙大に或いはトリミングされている、或いはされていたにせよ、罌粟の花は画面上のほぼ天限を衝くほどに描かれてある。
旺盛な葉むらは、花、花より下方ほぼ全画面の八割がたに溢れて濃艶な緑色をまるでぶちまけている。もとより、粗放な緑いろの塊などでない。葉脈も茎も葉の美しい姿も精微に表わされ、まさしく「罌粟」という生命の沸騰し奔逸し躍動する美しさ強さが適確に描かれてあると、私は、些かの逡巡なく深い共感でそう「観た」のだ。想っただけではない。「そが嬉し……」それが私の感動だった。
花、というよりも花を美しく咲かせる漲る命の活動を画家は表わして呉れている。それに励まされている私自身が嬉しく、愛おしかった。
(平成二十四年三月二十三日 金曜 夜十時稿 聖路加国際病院病室にて)
2012 6・23 129

* 歯科診療の帰り、思い切って丸の内の三菱一号館ミュージアムへ足をのばし、ラファエロ前派の俊英バーン・ジョーンズ展を観てきた。此の派の主張や理想には藝術創作の本筋に逆行する見当違いも感じられるのだが、中で、バーン・ジョーンズだけは卓越した描写力・筆力と、深く湛えた個性の特異さがみえ、魅惑を発揮している。わたしは大きなジョーンズ展を二度目に観るのだが、期待は裏切られなかった。「運命の歯車」「眠り姫」等々の画面は、わたしの体調不良からか視野がくらく、よろついていたのに感銘を覚える把握と表現の美しさに満たされていた。
この画家の基底に「眠り」への愛と憧れとがある。かなり多くの画面に「眠り」が描かれていてその感情移入がじつに美しい。   2012 6・30 129

* 祇園会を迎える。八坂神社のお手洗場を、幕末岸派の岸連山が安政四年に描いた繪軸を掛けてみた。この年、幕府はハリスとの日米通商条約海底の交渉を始め、条約締結を孝明天皇の朝廷に伝えている。
伝足利義政筆の歌短冊「海上蛍 みつしほに入ぬるいそを行ほたるおのがおもひはかくれざりけり  義政」も。
2012 7・2 130

* しんどい中でも、路傍の小さな季節の花に眼が行くと、写真に撮る。朝顔も木槿も季節になってきた。青々と茂ったいろんな樹木にもしみじみ眼を惹かれるが写真には難しい。花はどんなにちいさくまた一輪だけでも、佳い。
2012 7・3 130

☆ 湖の本112 元気に老い、自然に死ぬ 受け取りました。
ありがとうございます。先週から、前に頂いた御本を取り出して再読致して居りました。元気のまゝ自然に死にたいものと思って居ります。
そちらはお暑くなってゐる様ですね。
毎日の闘病がんばってられますね。応援して居ります。
紫陽花の前での(妻の=)お写真いゝですね 赤いセーターが良くお似合いです うちの方(ロサンゼルス=)は あじさいは白 ブルー ピンク。むくげはピンク、紅、白 宗旦が今満開です。他に 水引 なでしこ 桔梗など 毎朝花を見て廻るのが楽しみです。そうそう、昨日までサボテンの真っ赤な花 こんな美しい花がどーしてあのトゲトゲの中から生れて来るのかしらと 毎年乍ら感心して居ります。
もうすぐ真白の月下美人(月見草ですか) つぼみがのびて来ました、楽しみです。
此方はそんなに暑くならないので 来月 お客様をしようと思ってゐます。
どうぞ呉々もお体お大事に。
(送られてきたテンカフン=)の後 ポンポンと使って下さい。
スミマセン (葉書に描かれた安田靫彦の繪が、わたしの苦手な=)おなすでした。   千  ロサンゼルス

* 茄子の煮たのは見るもイヤだが、そのままの茄子は美しいと思うし、掌に包み持つのも眺めるのも好き。茄子の花も大好き。むろん繪も。染色九十五翁の三浦景生さんに戴いた毛筆書簡に描きこまれた茄子の紫もあまりに美しく、表具に出し、茶の間に架けている。そんな次第で、茄子の漬け物もむしろ好きな方で。
ただ、煮たのはゼッタイだめ。紫からのあの穢い変色は堪えがたい。
2012 7・5 130

* 「自然に死ぬ」には、葬式もしぜん関わってくる。
荘子のまさに死なんとしたとき、弟子達は手厚い葬式を考えていたが、 荘子はこう言ったと『荘子』の列禦寇篇にある。弟子達は粗末に葬ると先生が鴉や鳶に食べられてしまうと心配していた。荘子は、地下に入ってもどうせ螻蛄や蟻の餌食になるのさと構わなかった。

☆ 天地を棺桶とし、日月を対の璧とし、星辰を珠飾りとし、万物を齋物(お餞別)だと考えれば、わしの葬式道具に何ひとつ欠けるものはありゃせんじゃないか。この上いったい何をつけ加えようというのだ。

不公平な標準で物を公平にしようとすれば、その平は真の平ではない。また無心の感応によらず、さかしらの人為を弄して物に応じようとすれば、その応は真の応ではない。とかく明知を誇る人は、 自分の知(=マインド・分別)を働かすので、かえって物に働かされるが、神知の人は無心で物に感応随順していく。
愚かな人間どもはじぶんの知識見解をたのんで人為におちこむから、その功業はは外に馳せて内なる精神には何の益もない。かなしいことではないか。    荘子

* 「功業は外に馳せて内なる精神には何の益もない。」実例は世に蔓延こっている。

* 敬愛する画家村上華岳は名を震一といったが、父は彼をいつも「シンチ」と呼んでいた。華岳はこれを「神知」と受けとめて雅号の一つに用いていた。「神知の人は無心で物に感応随順していく。」村上華岳の仏や牡丹花や山の繪にわたしが打たれるのは、それだ。
2012 7・5 130

* 疲れるとバーン・ジョーンズの深々と眠っている女の繪に眼をあてて、「そうだ、寝ていればいいんだ」という気になる。    2012 7・5 130

* バーン・ジョーンズに「ピグマリオンと彫像」という四点組み代表作の一つがある。彫刻家のピグマリオンが自身の彫みあげた美しい彫像に恋をし、愛の女神にこのような妻をと祈ると女神のはからいで彫像に命が吹き込まれ、彼の願いが成就する。
若い頃ならこういう話に惹かれて似たような幻想小説に書こうとしたかも知れないが、齢七十六にもなると、ばかばかしい。しかしこの絵、とても魅力的ではある。
2012 7・6 130

* もうとうに亡くなったが知求会の吉田修三さんに戴いた「牡丹」の繪を居間にかけ、棚わきに長尺の義政「海上蛍」歌短冊をもってきた。
「湖の本」五十六人の追加発送を終えて、散らかっていた居間がようやく片付いた。次をまた送りだそうかと思っている。入稿の用意は出来ている。
2012 7・7 130

* 玄関に、岸連山が幕末に描いた、わたしの好きな墨画「祇園社御手洗場」をかけ、茶の間の奥には、足利義政の「義政」と名乗りのある「海上蛍」の歌短冊の長い軸を、晴れ場には友人にもらった「向日葵」の繪を飾った。下の棚には、高麗屋に戴いたブーゲンビリアの鉢とならべて、野澤利江さんに戴いた和久傳の鱧料理が涼しげに入れてあった竹編籠を、籠だけそのまま飾っている。竹籠のいさぎよい清々しさがえらくブーゲンビリアにも、向日葵の繪にも、白鶴象嵌の青磁の皿にも似合うのである。ナイス!
ダイニングには、読者である、NHKデイレクター夫人制作「白木槿」二輪の気持ちのいい額繪で飾ってある。
2012 7・18 130

* 家に届くのは来週の水曜というから、我が物として観られるのは先になるが、今日買って支払いもしてきたビュッフェのリトグラフは、洒落てすっきりと、美しい薔薇の花。いつか建日子がよろこんで持って行くだろう。かなりな奢りになったけれど、美しいモノを身の側に眺めるのは嬉しい贅沢の一つ。
2012 7・21 130

* 入院の九日間は、幸い抗癌剤の休薬期間だったので、日増しに元気になり、食べるのも、けっして美味しいのではないが頑張ってかなり三食や間食が食べられた。妻を見送って銀座・有楽町辺まで散策に出たり、聖路加病院の近在を独りで散歩もした。
先日銀座の画廊でビュッフェのビュッフェらしいリトグラフを衝動買いしたが、今日の退院前にも、院内画廊の繪を一点、北京で育ち日本で後藤純夫氏に師事して制作している中国人女性の小品を買ってきた。
家に帰り、郵便の始末をつけたあと、玄関に、ビュッフェの薔薇と、親友が呉れた好きな蔵王のスケッチ小品とを、並べて掛けてみた。素敵になった。中国人画家の木立の風景は、 茶の間に掛けた。美しいモノが佳い。嬉しくなる。

* だが今も、右眼はガーゼを重ね、ボッテリと眼帯。
2012 7・30 130

*  妻は、帝劇と隣り合った出光美術館の「白磁」を中心にした東洋陶磁展を観たがった。
すばらしい展示で、胸の内を清々と洗われた。白磁は宋のものが好きだが、遼や五代の昔から探求されてきた。みごとに清潔な遺品がたくさん出光には在る。
「文化ねえ。すばらしい文化」と妻は美しい白磁との出会いに、むしろ現世の現実を歎くかのように嘆声をもらしつづけた。

* 美しい善い見ものは、幸いその気になれば観て感激することが出来る。感激できるという素直さを、なによりも美しい創造にたいしてこそ持ち続けたい。
2012 8・17 131

* 朝の食事しながら雑誌「茶道の研究」九月号の口絵写真を眺めていた。「竹一重切花入れ」は十六世紀千利休の作、高さ31.6センチ、口径12.6センチ、堂々の貫禄で、今は永青文庫に在る。「これ以上ない簡素さ」と解説されてありその通りだが、筒内面の黒漆といい、正面大きな縦割れには黒の竹を埋めて鎹の修理がしてある、それすらが見どころになっていて、簡素を超えて出た美意識の参加が生きている。
こういう道具の美しさを、見落とすどころかしかと創りだし、かつ守り育ててきた日本の魂に感嘆する。

* もう一つ、国宝の孤篷庵蔵、大井戸茶碗、銘喜左衛門のいつ写真で見ても引き寄せられる真の安定美。柳宗悦は昭和六年に、河合寛次郎と共に大徳寺孤篷庵でこれを見て、「飾り気のない平々坦々たる姿」に感動し、「世にも簡単な茶碗」と絶賛した。この「簡単」誤り見てはならない。それはあらゆる堂々、本格をはらんだ大いさで、揺るぎなくそのそこに平然と在る。姿、色、景色とも「飾り気」なく「平々坦々美」に徹して最高度に美しい。「国宝」であることに喜びを覚える。
茶の湯の世間では、このような美の馳走・振舞にしばしば出逢える幸せがある。
2012 9・2 132

* 今月の表紙にかかげた小林古径画は正しくは「菓子」という題。もともと果物を意味していた。桃山頃の茶会記にもよく「菓子」と出てくるが、今日で謂うお菓子、茶菓子とは異なっている。
それにしても何という佳い繪だろう。何という美しさか。こういう佳さ美しさに支えられている。ありがたい。

* 二階のみじかい廊下の奥に仕事場・機械場があり、木のドアと踏み込みを九十度角にはさんで襖戸がある。
外の木のドアに、今は上村淳之の花鳥小品と現代書家たちのかながきの歌など書いた書とが上下に入ったカレンダーを懸けている、が。その諸作の方にわたしはきつい不満をもっている。気随に漢字を万葉仮名ふうに用いながらの書の力、魅力がまるきり感じられない。「現代」書家がこんな読みづらい読めない、なにより美しさの感じられない貧相な仮名書きに自儘をしているのは、頭から読み手を無視しているのだ。読めるなら読んでみろといういやらしさ。
光文社の知恵の森文庫で「古美術読本」という何冊かが出ていて、わたしはその二冊目の『書蹟』巻を編輯している。岡倉天心、幸田露伴、会津八一ら十八氏の書への蘊蓄や謦咳の文を取りあつめた。それらの書に寄せた気概と実際の「現代書家」のひ弱な仮名書きとの落差が、あまりに寂しい。「古美術読本」は、陶磁(芝木好子)、書蹟(秦恒平)、庭園(竹西寛子)、建築(大庭みな子)、絵画(辻邦生)、仏像(大岡信)各編輯の六冊。すぐれた先人達の気合い鋭いまことのエッセイに多く出会われるだろう、興味を寄せて欲しい。
2012 9・7 132

* 体重65.1kg 血圧101-57(69) 血糖値 93   体重65.1kg 朝、バナナ一本 葡萄ルビーロマン二粒 ミルク半カップだけ 服薬
心気は普通 体感は脆弱。白髪茫茫、鏡中の幽霊は誰そ。
今日は二時半ごろから歯科治療に出かけねばならぬ。日射のすこしでも陰るのを願う。
本発送の用意は進まない。仕方が無い、ゆるゆると。もう一週間もすると出来本が届きそう。とまれ、成るままに成ればよし。天下の急務ではない。
それより週末十五日の新橋演舞場の昼夜通しの観劇を楽しく迎えたい。染五郎代役に建部源三予定だった吉右衛門が松王丸を演じる。これが前評判すばらしいと聴いている。建部は梅玉が立つと。これも楽しみ。吉右衛門は河内山宗俊と夜の武智光秀の三役ご苦労さま。梅玉も昼夜に三役、期待している。なによりも休薬明け、十四日からまた抗癌剤の入るその翌日の昼夜の観劇、はたして体力如何。それも舞台の映えに依る。父芝翫を偲ぶ福助の大切り「道成寺」に注目したい。
明後日十二日は上村淳之傘寿の祝賀がある。記念展の高島屋で。傘寿まではわたしはもう三年。妻とお祝いかたがたあやかりに行こうかと。
十八日に眼科診療、その翌日には保谷市のホールへ来る坂東三津五郎独り芝居が晩にある。
二十四日には、糖尿病と感染症二科の診察を受けにゆき、二十六日夜には舞踊の藤間会に妻と出かける。顔ぶれが多彩な祝賀ムード。染五郎の出ないのが一抹寂しいが。その日、歯科治療も受ける。
ま、からだでの勝負を挑んでいるような過密スケジュール、大事を起こさぬようにしたい。
2012 9・10 132

* 五時半に、妻と、日本橋高島屋の「傘寿記念上村淳之展」の会場に入った。上村さんの夫妻にまずお祝いを申し上げ、懇切な御見舞を戴いた。わたしは今年の暮れに喜寿、あやかって八十にまでも元気にありたい、そんなお祝い気持ちで参上しましたと。
淳之画伯自選の作品展で、気の入った納得の行く作品選定であり、会場は清潔な空気であった。
花鳥の時代はあるいは過ぎて行こうかとしている。しかし花鳥画は東洋画の不動の分野でなければならず、後継者の盛んな登場を願いたい。花鳥画の優秀な作品は、凜然と胸にひびいて静寂かつ強靱なのである。今の人にはその辺の価値判断があるいはしにくいかも知れないが、大事に盛り育てて欲しい。
画伯は気が優しい。それはいい。その上に花鳥の命に、より強靱な命の波動を表して下さると嬉しい。
別館の四階で祝賀の宴があった。文壇人の顔がみえず、千住真理子らと一緒に中国二度目の訪問旅行で団長を務めてもらった画家の松尾敏男さんと顔が合い、親しく久闊を叙した。上村さんにも松尾さんにも湖の本は見てもらっている。それにも丁重に挨拶があり恐縮した。うまく出逢えてよかった。この二人には前の歌舞伎座時代に、緞帳繪で幾たびも出逢ってはいたが。
妻は、いくらか、こういうレセプションが好きで、食べ物、飲み物も楽しんで戴く人だが、今晩はなにしろわたしが飲みも成らず食べも成らないまま、淳之さんに失礼の合図をすると、人をわけて礼に来られ、いたく恐縮した。握手して別れてきた。奥さんとも親しく立ち話をし、どうかどうかお大切にご養生の甲斐ありますようにと見舞われて、別れてきた。そういえば松尾さんも二十年も前に胃の切除手術をうけておられ、今はさぞお辛いでしょうが、大丈夫必ずそのうちにお元気に成られますと太鼓判をもらってきた。

* 先刻高島屋に入ってエレベーターに乗ろうとして、咄嗟に妻はイタリアの手細工の銀のネクレスに目をとめていた。宴を失礼して一階へおりると妻はその売り場へ向かい、目をつけた銀細工の繊細で美しい品を、よほど高価であったけれど、嬉嬉として買った。たしかに珍しい感じの気の入った彫りの手仕事にわたしも賛同した。
とても歩けない。車で銀座一丁目へ、そして地下鉄に麹町駅まで乗り、大通りの向かいの、このあいだ独り入った中華料理「登龍」へ。望みは先夜ひときわ美味しく食べられた北京ダックとすっぽんのスープ。紹興酒は先日残してきたので、今夜はマオタイがあるかと聞いた。最近マオタイを飲ませる店は無いとすらいえるが、さすが、ちゃんと出してくれた。
みんな美味かった。デザートの杏仁豆腐は半分妻に助けてもらった。満足。妻は先夜土産に持ち帰った料理がとても好きで、今夜も持ち帰り分を頼んでいた。この店をみつけたのは染五郎が、目の前で大怪我してなにもかも中止の帰路であった。あの晩はわたしも気落ちしてよほど調子わるかったのに、北京ダックとすっぽんスープに助けられたのだった。

* 一路保谷へ帰った。どの電車でもほぼ必ずのように座席を譲って下さる。ご親切まことに有難い。が、よほど幽霊のような顔をしているのだろうと情けない。
就寝前、例の十五冊をおもしろく読む。
2012 9・12 132

* 四季折々、多年撮りためた花の写真を、一枚一枚懐かしく見ている。人より花がいい。美しい。
2012 9・17 132

* 新しい写真の機械に入れようが分からず、九月の古径画を再度掲げる。大好きな、美しい美しい名画である。
2012 10・1 133

* 昨日は黒いマゴに「お留守番」を頼んでいた間に、美術展関連の招待や本の贈呈があったりした。

* 池田良則(遙邨さんの孫、わたしの朝刊小説『親指のマリア』の挿絵担当)さん、新刊本、ハガキ、日展招待券を戴いた。ハガキには池田さんのサインの入った「石榴」二顆の無彩画。白日会デッサン展が銀座で開かれる。中山忠彦以下46名46点が展覧されるなかに池田さんも入っている。
中山忠彦の現代美人に徹底した画蹟のなかで、わたしの贔屓の洋食店、根岸「香美屋」の店頭に、小品ながら印象的な一点のあるのを思い出した。池田さんには「裸婦」の無彩画を貰っていたのを、建日子が仕事場へ持ち帰った。

☆ やっと
秋らしい気配を感じる様な日々になって参りました。御著書御恵贈頂き有難うございます。
京都の秋を感じて頂ければと、本、同封させて頂きました。この(本の=)原画展、二月に大丸東京店で開催予定です。日展も始りますのでよろしければ。  池田良則 10/ 03

* 畠中光享氏からも、中島千波、中野嘉之、畠中光享の三人が主宰するアーチスト・グループ「風」による第一回公募展を都美術館で開くので、来てくれと案内があった。入場無料とある。

* 京都の杉田博明さんから「花政」の美しい寄せ花籠が贈られてきた。恐れ入ります。
杉田さんは京都新聞朝刊に連載『親指のマリア』を書かせてくれた当時の担当記者さん。感謝。
地元の陸川孝志さんからもお見舞いを戴いた。有難く。
2012 10・7 133

* 転送出来た気でいたが栖鳳の猫の繪は、送れていない。また試行錯誤になる。
2012 10・9 133

* 昨晩の九時過ぎから今朝は九時半まで十二時間余も寝ていた。涙が目やにになり両眼が明かないのをアイ浄綿で拭き取って朝の目薬をさした。
起きるか起きない間に、生駒の藤田理l史君から奈良名産の胡麻豆腐をいろいろ送ってきてくれた。優しい青年、いい恋をしているだろうか。有難う。朝飯にさっそく美味しく戴きましたよ。元気に、溌剌とお勤めあれ。
同時に高校の後輩、いまは群馬県伊勢崎の画家杉原氏が、みごとに描けた紫陽花の淡彩画を「お見舞い」と送ってきて呉れた。彼自身もいま病んでいる中で懸命に描いた作品で、できばえにはなんらの病影もにじんでいない、優しい気持ちが精彩に富んだ筆線・筆触にみごとに生きてあらわれ、観ていて心もち静まり嬉しくなる。
わたしは書いているとき病気を忘れている。きみも描いて描いて病気を忘れて創作のよろこびを妙薬としてほしい。よく描け、よく書ければ妙薬はひとしお効くはず。負けないで作画三昧境に生き抜いて下さい。わたしも頑張る。
2012 10・22 133

☆ フローベールに聴く  「紋切型辞典」小倉孝誠さんの訳に拠って。
「時代」とは「われらの時代即ち現代」のこと。「現代」に対しては常に「はげしく非難すること」「移行期、頽廃の時代と呼ぶべし!」「詩的な時代でないと嘆くべし」とフローベールの作中人物は叫ぶ。「現代」を謳歌するなど今の日本人にもまるで許されない。日本の「現代」は腐れている。
「実践」は「理論にまさる」と。
「写真」は「いずれ絵画にとって代わるだろう」と。ひところまでは一世を風靡した画家が同時代にいた。今はかなり心許ない、その原因の大きな一つに、画家が写真機を利用して撮影した写真から繪を描いているからだ、繪が弱く弱くなって行く。「写真画家」を絶対に容認してはならない。絵画と写真とは絶対にちがう。写真を繪にしている画家は、画家では無い。
「ああ自由よ、汝の名においてどれほど多くの罪が犯されることか!」とは、フランス革命でギロチン刑を受ける直前にロラン夫人が口にした。だが革命の自由をのろった人士も生前は「自由」の名で多々罪を犯していた。フローベールの言うように「われわれには必要な自由がすべてある」と仮にしても、必ずしもご同慶とは言いがたい。わたしは「自由」を願うが、非難したい我が儘勝手な自由もある。ごちゃ混ぜにはしない。
「醜悪」なことを「やってもいいが、口にしてはならない」と。人の行為のおおかたは良きにつけ悪しきにつけ「醜悪」に隣接し直接している。「口にしない」でやり過ごしているだけ。しかし政治や特権企業の醜悪は、はっきり口にして咎めるべし。
2012 11・4 134

☆ 鴉に
メールありがとうございます。優しいお心遣いを十分に感じとりました。ありがとう。
「半ば盲目のように暮らしながらめげずに」という力強い一節にこちらが励まされます。
先日「あなたは、これからの方が、もっと強くなりますよ。」と書かれていた「映画女優 知」は、大学時代からの友人かと察しますが如何でしょうか。彼女の名前を記憶したのはわたしがまだ小学生の頃だったと思います。中原淳一の大きな瞳の女の人が表紙になっていた雑誌『それいゆ』を姉が読んでいて、それに彼女が紹介されていたのです。
さまざまなお見舞いの言葉の中で彼女の言葉が深く迫ってきました。苦しいこと、厳しいこと山ほどを潜り抜け、めげたとしてもめげず、屈しても屈せず執念く強くなりますよう、願っています。あなたは、これからの方が、もっと強くなりますよ、と。
『指輪物語』を楽しまれたこと、よかったです。わたしはまず先に映画を観ています。これはハリーポッターについても同じ経緯で、CGを駆使して、以前だったら映像化不可能と思われたものが映画化され楽しめるのは嬉しい。映画館の大きなスクリーンと身体まで響いてくる音響の中で味わうのが好きです。『ナルニア国物語』も好きですが、これは本を先に読み、その印象が強かったこともあり、映画のミスキャストが気になってあまり評価できませんでした。
「個展」どころか・・・目下、山越え阿弥陀図の部分模写に近いことをしています。初めて絹に描く「練習」をしているのすが、細かすぎる線を骨描きできるかどうか。
絵に関して書きますと、昨日の「私語」の記載には、「写真」は「いずれ絵画にとって代わるだろう」とありました。既にかなり多くを写真がとって代わりつつあるのではないでしょうか。「ひところまでは一世を風靡した画家が同時代にいたもの。今はかなり心許ない、その原因の大きな一つに、画家が写真機を利用して撮影した写真から繪を描いているからだ、繪が弱く弱くなって行く。『写真画家』を絶対に容認してはならない。絵画と写真とは絶対にちがう。写真を繪にしている画家は、画家では無い。」と。
実に厳しく恐い。
指摘されている写真画家、これはもうほとんどの画家に当てはまる事柄ではないでしょうか。省みるまでもなくアマチュアのわたしもそれを否定できません。指摘されたことの深刻さを、描く人は改めて刻み込まなければいけないでしょう。絵と写真は違うものと。
自分でデッサン、スケッチをして、さて次の段階で大きな画面に本図にする時、プロジェクターを使用する人もあると聞きます。確かにその方が速い。わたしも使ってみたいと思うのです・・。
物の形を生動的躍動的に写し取るのは、たとい完成度は低い場合があるとしても、その場で物に対峙して描いたデッサンやスケッチです。日本画の下図と本画が並列して展示されている機会がありますが、下図の方がいいと感じることも多々あり、考えさせられてきました。
詩について書かれていたことも耳に痛く、目に痛い事柄でした。しかも無視しがたい重要なことでした。
「フローベールによれば『散文』は『韻文』よりも作るのが簡単」と。」けれど見回してみるまでもなく、韻文( 詩、短歌、俳句) は散文より「お手軽」に作られていることもあります。フランス人であるフローベルが「詩」は「まったく無用のもの」「その流行は廃れた」と言い切っているとしたら、詩( 短歌ではない) 、「韻」のとらえがたい日本の「現代詩」では一層の「無用」感に陥るしかありません。「詩作の多くは独り合点の独りよがりに近いと評され・・『日本人の詩作』には、確乎たる方法論が見当たらない、おのがじし好き勝手をしていて、文学的効果は低調なのである。」といわれる状況を、どう受け止めていくのか。わたし自身、極めて個人的なレベルですが、あまりに分からないことだらけで、立ちすくみ立ち止まっている状況です。
わたしは自分のために泣くことはまずありません。悲しくても悔しくても泣きません。泣けたら、あるいは人に話したら「楽になる」と言われますが、泣いたら話したら本当に楽になるでしょうか? 「つらければ泣け、来生を待つな」 これだけは、そのまま真に受け止めます。ありがとう、本当にありがとう。
急に寒くなりました。炬燵でもストーブでも何でもよろし、温まって甘やかして、絶対に風邪などひきませんように。  尾張の鳶

* この「十一月日録私語」のいわば表紙になっている、光琳が描いた「寒山図」 上村松篁が描いた「金魚図」 またとりわけて十月の小林古径が描いた「林檎図」や、奥の奥に残してある村上華岳が描いた「太子樹下禅那図」の、どの一点として、決して写真やプロジェクターなど用いない、一貫して自身の画筆で描き挙げている、だからこそ、と敢えて言う「名画」なのである。
2012 11・5 134

* 十五代樂吉左衛門展「フランスでの作陶」が日本橋の三越でと樂さんから案内があった。わたしはこの人を天才と感じている。初めて見て即座にそう思えた。京都美術文化賞に躊躇なく推したのはもう二十数年前。いまはわたしの辞任あと同じその賞の選者を務めてくれている。この人の展覧会は琵琶湖畔の佐川美術館でのことが多く、いつも招待があってもなかなか行けずにいるが、東京での展覧会には出かけている。楽しみ。
2012 11・10 134

* 衆議院選挙 都知事選挙 最高裁判事適否投票 行わる。 午前、建日子もともに投票を済ませた。投票所、かつてなく多数の有権者の二列行列が長く続いていたのに、一驚。
投票のあと建日子は「何でもお宝鑑定団」を半ばまで観て、愛車ボルボに乗って仕事の方へ戻っていった。「投票してくれて、ありがとう」と見送った。
玄関正面に松篁さんのリトグラフ「雪ー鷺」を、掛けかえた。気稟の清質に満ちた名品。正月の建日子誕生日の祝いにやると告げてある。美しい佳いものに身近に触れられるのは、創作者には有難い大事なことである。

* 選挙結果。「こういう国民」と、もう暫くは付き合わねばならないのだ。
わたしは沈黙する。恋は成らなかった。
あはれともいふべきひとは思ほえで身のいたづらになりぬべきかな  謙徳公
2012 12・16 135

* 第二十五回京都美術文化賞受賞記念展のオープニング式典の案内が届いた。一月十八日。まだまだ動けそうに想われない、欠席やむを得ぬ。
2012 12・16 135

* 京都の「清水六兵衛家」展の招待を六兵衛さんから戴いた。観たい。東京でなら飛んででも行くが、愛知県陶磁資料館では、やはり動けない。
「楽吉左衛門」展も招待されているが琵琶湖畔では、やはりどうにも今はならない。東京なら飛んで行く。残念。
2012 12・23 135

* 正月の用意は、大いに手抜きして、長閑にと。
玄関には上村松篁「雪 鷺図」を大きく好きな小品が二作を左右に配し、干支の小物のほかに高麗青磁象眼白鶴の皿が立ててあり、播磨の焼物師がわたしの骨壺をと頼んで焼いてくれた金銀彩の壺に妻が正月花を盛り上げている。玄関外には丹波で買ってきた大きな壺を置いている。
さて茶の間正面の壁には、「壽」の大字下に「たま」大きく描いた鵬雲斎の軸を掛け、大軸の下棚には、備前の川井明子が文部臣賞を得た大壺と、観世音菩薩像とが並んでいる。右の壁際に、これも好きな「花」の繪。
向き合っての壁際の棚には、城景都の秀作「双鳥図」と、一人で大いに気に入っている小壺や、まだ宗淑の頃の淡々斎好み、蓬莱松蒔絵「末広」の茶器が配してある。
その余は、新しいカレンダーを沢山もらっている。山種の竹内栖鳳ほかの名画集、速水御舟集、上村淳之の花鳥と現代書家たちとの競艶集、写真家隆雄氏の美しい作品集、動物の親子集、大相撲力士写真などで、狭い家がもう飾られている。
お正月さんが、もうはや、明日にはござる。今年と大違いな、心静かな新年でありたい。
2012 12・30 135

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